千川ちひろ「竹芝物語」back

千川ちひろ「竹芝物語」


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 お城に迷い込んだ異国の兵士は、城主からの誘いを断りました。
「私の帰りを待つ人達の元へ、帰らなくてはなりません」
「では、私が道標となりましょう」
 お姫様は、頷きました。
「あなたが行かれる道を迷わず選択できるよう、明るく照らす星明かりとなって」
 兵士はお姫様の下を、永久に去りました。
 でもそれは、ちっとも寂しいことではありません。
 なぜって――。
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2: 以下、
 * * *
 とある部署の新人プロデューサーさんは、私の顔を見るなり泣きそうな顔をして狼狽しました。
「せ、千川さん、ごめんなさい。許してください……!」
 私の手には、彼が作成した活動経費に関する報告書があります。
 いくら電卓を叩いても金額が合わないので、事情を聞きたかっただけなのに。
 そんなに私、プロデューサーさん達から怖れられているのでしょうか。
「領収書の添付漏れですね?」
「は、はい……そう、だと思います……」
「よくある事です。でも、あんまり金額が大きいとね」
 彼が忘れたのは、営業先との交際費、つまり懇親会の領収書です。
 相手方にナメられてはいけないと、先輩からの入れ知恵で、結構お高いお店を使ったんだとか。
「会社のお金というのは、適正に管理されなければなりません。
 さらに言えば、我が社の活動を支援してくださる人達に対し、346プロダクションはその事実を説明する責任があります。
 それを証する書類を取りまとめ、上席に報告するのは、私達事務員の大切な仕事の一つなんです」
「はい……」
「領収書が無い活動経費を決算に計上してしまっては、経費の不適正利用を疑われてしまいます。
 346プロの信用の失墜にも繋がりかねません。分かりますね?」
3: 以下、
 新人プロデューサーさんは、すっかり体を縮こませ、小動物のように震えてしまっています。
 私は、ニコッと笑い、バッグからエナドリを一本取り出して彼のデスクの上に置きました。
「だから、次からは気をつけてくださいね♪」
「せ、千川さぁぁん……!」
 張り詰めた緊張の糸が切れたのでしょうか。
 安堵しきった彼は、男だてらに、とは言いませんが、すっかり泣き出してしまいました。
 あまりジロジロ見てしまっては失礼かなと思うので、そのまま会釈して彼の下を去ります。
4: 以下、
 私がいる346プロダクションは、自分で言うのもなんですが、芸能事務所の中でも大きな方の会社です。
 数ある部門の中でも、ここ数年になって特に力を入れているのが、アイドル事業。
 先ほどの彼は、年若い子が多いアイドル達の活動を導く、プロデューサーと呼ばれる人達の一人です。
 現状で我が社のプロデューサーは、一人当り概ね5人から10人程度のアイドル達を担当しています。
 それなりに潤沢な人材を擁する我が社ですが、所属するアイドル達もプロデューサーに輪をかけて多いのです。
 そんなプロデューサーさん達の活動を、庶務事務の面でサポートする私達事務員の仕事量も、生半なものではありません。
 だから、書類の円滑な処理のために、ある程度厳しい物言いになってしまうのは、どうか許して欲しいなぁと思っているのですが――。
 やはり、プロデューサーの人達からは、ちょっと煙たがられてしまいがちなようです。
 うーん、どうしたものかしら――。
「千川さん」
 後ろから声をかけられ、振り返ると、見上げるほどの大きな男の人がそこに立っていました。
5: 以下、
 彼は、シンデレラプロジェクトという346プロ肝入りのアイドル事業の主導を任された、通称CPさん。
 我が社の中でも、偉い人達から相応の期待を寄せられている、指折りの敏腕プロデューサーです。
 提出してくれる書類の不備も、彼の場合ほとんどありません。
「お疲れ様です。どうかされましたか?」
 返事をすると、なぜかCPさんは、気まずそうに首に手を回しました。
 困った時にする、彼の癖です。
「いえ……シンデレラプロジェクトの活動について、一つお尋ねしたい事がありましたので」
「? 私に、ですか?」
「はい」
 ご自身の担当されるプロジェクトについて、私に尋ねたい事?
 知らず、首を傾げてしまいます。
 そんな私の反応も、CPさんは織り込み済みだったのでしょう。
 小さく首肯して、その大きな体格からは不釣り合いに思えるほど、ひどく丁寧にお話を続けます。
「つかぬ事をお聞きするようで、恐縮です。
 もしお分かりになればで、結構なのですが……」
「はい」
「私以外のプロデューサーが、もう一人、サブで就くという話について、何かご存知でしょうか?」
6: 以下、
「……サブの、プロデューサー?」
「はい」
「シンデレラプロジェクトに、ですか?」
「そうです」
 私は顎に手を当て、傾げた首をますます捻りました。
「聞いたことありません。本当のお話なんですか?」
「今西部長から、先日、内々で私にお聞かせいただいたもので」
 今西部長というのは、彼をはじめとするプロデューサーさん達が所属するアイドル事業部の監督者です。
 その人がCPさんに対し、直々にそういうお話をするということは、まず間違いの無いことなのでしょう。
 でも――。
「随分と、急ですね」
 来期のプロジェクトが本格始動する予定の時期まで、もう1ヶ月を切っています。
 私がポツリと漏らした言葉に、彼は頷きました。
「今西部長にお聞きしても、経緯まではお話しいただけませんでした。
 その時の表情を見るに、特段の邪な事情があるものでは無いと、私なりに推察はしているのですが……」
7: 以下、
 CPさんは、鼻で小さくため息をつきました。
 仏頂面を崩さない――もとい、あまり負の感情を表に出さない彼には珍しい表情です。
 それだけ、この人なりに重圧だけでなく、不安や心配も抱えているのかも知れません。
「より管理側に近い千川さんの方で、何か情報をお持ちではないかと思い、呼び止めてしまいました。
 申し訳ございません」
「いえ、私こそお力になれず、ごめんなさい」
 彼の不安を少しでも解消しようと、私はバッグからエナドリを一本――。
 あ、無いっ!?
 しまった、さっき渡したのでもう――。
「ありがとうございます」
 バッグをゴソゴソ漁る手を止め、見上げると、CPさんは小さく笑っていました。
 エナドリを握った手を、顔の横で控えめに揺らして見せます。
「お陰様で、間に合っております」
「……アハハ、そうでしたか」
 常套手段を見破られ、すっかりバツが悪くなった私は、頭を抱えてしまいました。
8: 以下、
 十数名の候補生達からなるアイドル育成プロジェクト――それが、シンデレラプロジェクトです。
 先述の通り、346プロはこれを目玉事業として位置づけ、毎年候補生を募り、あるいはスカウトし、未来のトップアイドル達を排出していきます。
 事業の立ち上げは昨年からであり、今度CPさんが担当するのは第二期生です。
 一期生のアイドルさん達が作ってくれた勢いを衰退させることなく、安定軌道に載せるための今期は、前期と同じかそれ以上に大事なシーンです。
 そのプロジェクトに、サブのプロデューサーを配属させる――?
 なぜ、そんな大事な話が前もって決まっていなかったのでしょう?
 急に決まったのだとしたら、そうならざるを得なかった事情はなんだったのでしょう?
 外部からの圧力――? はたまた、お金――?
「……千川さん?」
「は、はいっ!?」
 ボーッとしていた所へ、先方の担当者さんから声をかけられ、ハッと我に返りました。
 久しぶりの出張、それも1対1の他社さんとの打合せ中に、まさか余計な考え事をしてしまうなんて――!
「す、すみませんっ!」
「あぁいえ、そんな……お持ちよりいただいた資料、大変分かりやすくて助かります」
9: 以下、
 打合せ先は、竹芝にある某イベントホールの管理会社さん。
 アイドル達のライブ会場として、346プロも贔屓にしている場所であり、来期の年間使用予定について摺り合わせをしていたところでした。
 他にも懇意にしている会場はあるのですが、今年は運悪く、施設の改修工事等による一時閉鎖や規模縮小が、どこも相次いでいます。
 今期、このイベントホールさんにはサマーフェスから終始お世話になる見込みであり、大事にしなきゃいけない相手方です。
 それなのに――お互い、気心の知れた仲ではありますが、打合せ中に上の空になるなんてもってのほかです。
 でも、担当者さんは笑って許してくれました。
「そんな、恐縮ですっ。私、とんだご無礼を……!」
「いえ、そんな畏まらないでください。
 珍しいですね、千川さんが物思いに耽るなんて。何かご心配な事でもあったのですか?」
「あ、いえ、その……アハハ、アハ……」
 弊社のお家事情をわざわざお話する気にもなれず、私はただただ閉口するしかありませんでした。
10: 以下、
 ううぅいけないいけない――!
 ただでさえ通常業務でテンテコ舞いなのに、余計なことで思い煩う暇なんて私にはありません。
 誰が呼んだか、346プロの屋台骨を影で支える“鬼の事務員”千川ちひろの名折れです。
 全然鬼でも悪魔でもないんですけど。
「あーもう……!」
 往来でつい、少し大きめの独り言を呟いてしまいました。
 慌てて咳払いして、辺りを恐る恐る見回します。
 都内でも有数の国際競争拠点である竹芝の、綺麗で大きなペデストリアンデッキは、今日も大勢の人々が行き交います。
 私一人が変な挙動をしたところで、誰も気に留める人などいません。
 ホッとしたような、一抹の寂しさを覚えたような――。
 いいえ、ここはポジティブに考えましょう。
 そうだっ。
 せっかくこんなオシャレな所に来ているんだし、どこか流行りのカフェにでも行ってみようかしら。
 ちょっと豪勢なスイーツを食べてから事務所に戻っても、普段の働きぶりを考えれば、きっとバチは当たりません。
 そうそう、この間テレビで観たゴージャスでセレブなプリンのお店が、ちょうど確かこの辺に――。
「……?」
11: 以下、
 大勢の人々が行き交う、竹芝のペデストリアンデッキ。
「こんな感じで、どうかな?」
 すれ違う人のことなど、誰も気にも留めないその場所で、明らかに異質な空間が、そこにはありました。
「……ご親切、感謝いたします」
 少なくとも、私にとっては。
 私の目の前にいたのは、紺色の着物を身に纏う、青みがかった髪色をした女の子。
 まるで、おとぎ話の世界から飛び出してきたかのような――それでいて、錯誤感を伴わないほどに自然な気品を感じさせる少女。
 そして、その子の前で膝をつき、履き物を履かせるスーツ姿の男性。
 大袈裟かも知れませんが――正しく、シンデレラの物語のクライマックスシーンをこの目で見ているかのようでした。
12: 以下、
「礼には及ばないよ。
 俺の方こそ、手間取ってしまってすまない」
「いえ……いただきました、貴方さまのハンカチ……必ず、お返しにあがります」
 男の人は立ち上がると、照れくさそうに顔の前で手を振りました。
「あぁいや、いいよ。良かったらもらってくれ。
 これからは気をつけてな」
「……ありがとうございます。このご恩は、忘れません」
 女の子は、深々と彼に頭を下げると、名残惜しそうに何度も振り返りながら、彼の下を去って行きました。
 男の人は、そんな彼女の姿が見えなくなるまで見届けると、ふぅっと息をついて、踵を返します。
 そして――。
「?」
「……あっ」
 ついボーッと、一部始終を眺めていた私と、目が合いました。
「あ、いえ、えぇと……」
13: 以下、
 何か悪いことをした気分になって、妙に据わりが悪くなってしまった私は、ドギマギとしてしまいます。
 どうにかして取り繕おうと、当たり障りの無い雑談を探さなくては――!
「あ、あの……さっきの子は?」
「あぁ。うーん、と……」
 そう聞くと、今度は男の人の方が、何となくバツが悪そうに頭を掻きました。
 余計なことを、聞いてしまったかしら――。
「履いていた下駄の鼻緒が切れちゃったみたいですね。
 困っていそうだったから、俺の」
 言いかけて、慌てて咳払いをして彼は言い直しました。
「私のハンカチを、こう……5円玉を通して引っかけて、鼻緒代わりにくっつけてあげたんです」
「へぇぇ、そんなやり方が……随分と器用ですね」
「あぁいえ」
 なぜか自嘲気味に笑いながら、大袈裟に手を振ります。
「あの子から教えてもらったんです。
 私はその、どこかその辺のコンビニでセロハンテープでも買ってこようかと思ったんですが」
「まぁ、ふふっ。
 だとすると……さっきの子もさすが、あの着こなしをしているだけあって、応急処置にも詳しいんですね」
「あの子も、彼女のプロデューサーから教えてもらったみたいですね」
14: 以下、
 彼が何と無しに答えたその言葉に、私の胸の奥が跳ねました。
 知らず凝視するような視線を向けてしまった私の表情を見て、彼は「あぁ」と、恐縮そうに頷きます。
「すみません。プロデューサーって何のことだ? って感じですよね。
 えぇと、プロデューサーというのは…」
「いえ、知っています」
 言葉を遮るように答えた私に対し、彼の方も少し驚いたような顔になりました。
「アイドルの活動を企画して、導く人……とすると、あの子もアイドルなのですね」
「……そうなります」
 一体何者なのか――そう聞きたいのは、私も彼も同じだったでしょう。
 私は、バッグに手を伸ばし、名刺ケースを取り出しました。
「申し遅れました。私、こういう者です」
 普段、決まった協議先しかいない私にとって、誰かに名刺を渡すのは、何気に久しぶりです。
「あなたが……」
「えっ?」
15: 以下、
 彼は、受け取ったそれをしばらく黙して見つめ、どういう訳か、感心ように息をつきました。
「まさか、こんな所で346プロの方にお会いできるとは思いませんでした」
「どういう意味ですか?」
「あぁ、すみません」
 コホン、と強めの咳払いをして、彼は今一度姿勢を正し、腰を折りました。
「来月から御社でお世話になりますプロデューサーです。
 どうかよろしくお願い致します」
「え?」
 忘れもしません。
 プロデューサーさんと私、ひいては346プロとの物語は、ここ竹芝で始まったのです。
16: 以下、
 * * *
「んもぅ!! サブチャン聞いて!
 李衣菜チャン、またみくの貸してあげた漫画の帯勝手に捨てたー!」
「す、捨ててないってば!
 ちょっと破れちゃって、そのまま返すのも悪いから取ってある、って言ってるじゃん!」
「ふーん、で、その帯はどこにあるの?」
「あ、えーっと……どこだろう、たぶん私の部屋のどこかにはあると思うんだけど」
「それ、世間一般的には取ってあるって言わないにゃ!!」
「何だよ! 捨てたわけじゃないでしょ!」
「アハハハ」
「アハハじゃなくて! サブチャンも笑うのやめるにゃ!」
 みくちゃんと李衣菜ちゃんは、今日も喧嘩の種が絶えないようです。
 彼のデスクの前で言い合いをする二人に対し、プロデューサーさんは困ったような顔をして笑いました。
17: 以下、
「まぁまぁ、李衣菜も悪気があった訳じゃないんだろ?」
「あ、当たり前です」
「何で一瞬言葉に詰まるにゃ」
「ううぅ?いちいちいちいち…!」
「やめろって。いいか?
 李衣菜はほんの少しそそっかしい所があるから、これからは気をつけるんだぞ。
 みくも、李衣菜はこれで反省してるんだし、あまり責めすぎないで大目に見てやってくれないか」
 彼がそう優しく諭すと、二人は並んで腕を組み、「うーん」と唸りました。
「まぁ、サブチャンがそう言うなら……」
「私も、悪いことをしたのは事実だし……」
「なっ? ほら、過ぎた事をいつまでも気にしてないで、レッスン行ってこい。
 もう皆、とっくに向かって行ったみたいだぞ」
「えっ、ウソ!?」
「やばっ! 急ごう、みくちゃん!」
 彼の言葉に、みくちゃんと李衣菜ちゃんは慌てて事務室を飛び出して行きました。
「お上手ですね、彼女達の相手」
 横に着けたデスクからそっと声をかけると、プロデューサーさんは笑いながら首を捻りました。
 急かすような言い方をしていましたが、確かシンデレラプロジェクトの子達のレッスンは、時間的にまだ余裕があったはずです。
18: 以下、
「上手というか……何だか、アイツらの愚痴とか雑談を聞かされてばかりですね」
「あの子達も、言いやすいんだと思います。
 プロデューサーさんの雰囲気がそうさせているんですよ、きっと」
「それならいいんですが……俺にできるのは、こんな事くらいですし」
 そう言って、彼はもう一度誘い笑いをしつつ、パソコンに向き直りました。
 先日私が指摘した書類の不備を、訂正してもらっているのです。
「ちひろさん、ここはどうすればいいですか?」
「えーと……あら、そもそも記入する所が間違ってますね」
「あ、あれっ!? すみません!」
 少しそそっかしいのは、李衣菜ちゃんもプロデューサーさんも一緒のようです。
 ふふっ♪
19: 以下、
 初めて会った時から、そんな予感はしていましたが――。
 彼こそが、シンデレラプロジェクトにサブで就くことになったプロデューサーでした。
 それとなく、346プロにやってきた経緯を聞いてみても、彼は何となく笑いながら鼻を掻き、はぐらかすばかりです。
「そういうのは、俺がどうこう言えるような話じゃないかなぁと」
「はぁ……」
「あ、でもっ、別に怪しいモンじゃないです! 本当ですよ!?」
「いえ、別に疑ってないですって」
 通常、一つのプロジェクトに複数のプロデューサーが就くことは、極めて異例です。
 少なくとも、346プロにおいては。
 監督者が二人もいると、アイドル達もどちらの話を聞くべきか迷ってしまいます。
 それに、もし方向性に違いが生じれば、プロジェクトそのものが立ちゆかなくなる事だって多分に考えられるでしょう。
 私もCPさんも、当初はそれを懸念していました。
20: 以下、
 加えて、年齢不詳、って言ったら失礼かも知れませんが――。
 彼が醸し出す雰囲気は、新人さんが出すそれではありませんでした。
 飄々としているようで、落ち着きのある立ち居振る舞い。
 先ほどのみくちゃん達の相手の仕方からもうかがえる、自分の立場を弁えた上での、年頃の女の子達に対する場慣れした対人能力。
 私もCPさんも、直感しました。
 普段一緒にお仕事をされているCPさんの方が、より強く確信しているようです。
 素人ではない――。
 この人は、以前どこかの事務所でプロデューサーを務めたことがある――。
 それなのに、経緯を尋ねても教えてくれない。
 まして、始動の直前に急遽シンデレラプロジェクトに就くことになった、前代未聞となるサブのプロデューサー――。
 疑っていない、とは言ったものの――不信感がまったく無いかと言われれば、ちょっと難しいです。
 それでも――。
「おっつかれー! サブサブいますかー!?」
 事務室のドアがガチャッ! と勢いよく開き、未央ちゃんがお部屋に入って来ました。
 栗色のハネッ毛と人懐こい大きな声がトレードマークの、シンデレラプロジェクトの元気印です。
21: 以下、
「んー? おぉ、どうした未央?」
「あ、いたいた! ねぇサブサブ、私達のユニット名、一緒に考えてくれない?」
「俺が? ていうか、その呼び名は何とかしてくれないか……」
 サブPと呼んでほしい、というのは彼自身の要望でした。
 誰に対しても楽しいあだ名を付けたがる未央ちゃんにとっては、据わりの悪い呼び名だったのでしょう。
「いいじゃん別に。
 ほらー、私達を見て何か思うことは無いのかねサブサブ??」
「ちょっと未央。サブP、困ってるでしょ」
「私達三人で考えていても、あんまり良いのが思い浮かばなくて……。
 サブPさん、手伝っていただけませんか?」
 未央ちゃんの後ろから、凜ちゃんと卯月ちゃんもやってきました。
 シンデレラプロジェクトにおいては、彼女達三人がユニットを組むことになったようです。
 プロデューサーさんは、卯月ちゃんから受け取ったメモ用紙を見ながら、いつものように優しく穏やかに笑いました。
「CPさんには相談したのか?」
「そりゃあ聞いたけどさ、全然相手にしてくれないのだよコレが。
 無表情のまんま「本田さん達の自主性を、尊重したいと考えます」って言われちゃって」
「アハハ、似てる似てる」
「でしょ?」
 彼が笑うと、未央ちゃんもどこか嬉しそうに顔を綻ばせます。
22: 以下、
「でも、こういうのはやっぱり、未央達が自分で考えて決めた方が良いと思うんだ」
 プロデューサーさんは、メモ用紙をそっとデスクにおいて、小さく頷きました。
「これからこの三人でアイドルをやっていく上で、そうして悩んだ経験も、いずれ大切な思い出になると思う。
 CPさんも、そういう意図があったから、君達にユニット名を任せたんじゃないかな」
「ふーん、そういうもんかなぁ?」
「そうだとも」
 そう言いきるプロデューサーさんの口調は、どこか誇らしげでした。
 おもむろに立ち上がり、未央ちゃん達三人を順番に見渡しながら、彼は続けます。
「CPさんのように、所属アイドル一人一人の活動計画を、あれだけ丁寧に、緻密に作り上げている人を、俺は見たことが無い。
 彼自身はあまり言っていないのかも知れないが、皆のデビュー時期とか、PRの仕方とか、君達の特性をよく考えながら企画している。
 この人は、君達アイドルとしっかり向き合っているんだなって、感心したよ」
「そうなんですか……」
「あの人、いつも「現在、企画検討中です」としか言わないから」
「ハハハ、凜も結構モノマネ上手いなぁ」
「ッ……そんなんじゃない」
 ニコリと、彼女達を勇気づけるように、プロデューサーさんは優しく語りかけます。
「そんな人が、君達に任せると言ったんだ。
 彼のことを信じ、安心して悩んでいいと俺は思う」
「安心して悩め、ってなんか矛盾してない?」
「それも一つの経験さ。大丈夫、君達はちゃんと上手くいくよ」
「そ、そうですね! えへへ」
 彼の諭すような語り口に、卯月ちゃんだけでなく、未央ちゃんや凜ちゃんも、どこか安心したように目配せしあったのでした。
23: 以下、
 彼がやってきてから、このようなやり取りは度々目にすることがありました。
 プロデューサーさんのデスクは、事務員である私達のスペースに設けられています。
 346プロの書類の作り方に不慣れな彼が、逐次私に見てもらいながら仕事ができるように――ということではなく。
 通常、346プロに所属するプロデューサーは、当然に専用のフロアにまとめてデスクを設けられます。
 CPさんのように、少し上の立場になると、個室を設けられることも。
 ただ、急遽配属された彼には、空いているデスクがこの事務員のスペースにしか無かったのです。
 当然に、CPさんのデスクからも離れています。
 それでも、プロデューサーさんのデスクには、シンデレラプロジェクトのアイドルの子達が、よく訪ねに来ていました。
 CPさんと比べて、物腰が柔らかで話しやすい雰囲気だというのも、多分にあったでしょう。
 他愛の無い世間話から、アイドルとしての活動に関わるお話まで、皆色々なことをプロデューサーさんに話しに来ます。
24: 以下、
 そう言った彼女達の話へのプロデューサーさんの対応には、一環していることが一つありました。
 それは、CPさんの姿勢を最大限尊重する、ということです。
 安易に自分の考えをアドバイスとして述べて、メインの担当であるCPさんのお株を奪うような事を、彼は決して行いませんでした。
 最後には必ず一言、「CPさんを信じろ」と言い添えるんです。
 仕事上はCPさんと対等な関係ではあるものの、サブとして、自分からは出しゃばりません。
 プロジェクトの皆がCPさんと良好な関係を保てるよう、彼は終始一歩身を引いて、場を取り持つことに徹しました。
 つまり、私やCPさんが当初抱いていた懸念――。
 チームに船頭が複数いた時の立ち回り方も、自身に求められる役割も、彼はよく心得ていたのです。
25: 以下、
「あの人には、いつも助けられています」
 先日、近況を聞いた時、CPさんはこう答えました。
 この人の性格を考えれば、決してお世辞ではないのだと思います。
 ちょっとカタいけれど冷静で着実な処理を行うCPさんと、ちょっとそそっかしくも穏やかかつ柔らかな物腰のプロデューサーさん。
 お互いに足りない部分を補い合えるお二人は、きっと噛み合っていたのでしょう。
「プロデュースの方針について、幾度か相談をしたことがありますが、出される答えはいずれも非常に的確で明瞭です。
 随所にうかがわせる豊富な経験量から、私のサブに甘んじる器では無いと思われます」
「それは、その……私に言われても、ですね?」
「す、すみません」
「あぁいえ」
 やんわりと制すると、CPさんは慌てて手を振り、それを首に回しました。
 この人がこれだけ熱を持って何かを語るということは、あまり記憶にありません。
 しかし――本当に、一体何者なんでしょう?
26: 以下、
「……ちひろさん?」
「!? は、はいっ!?」
 声をかけられて、ハッと我に返りました。
 いつの間にか手を止めて、彼のデスクをボーッと眺めていたようです。
 最近、こんな事ばっかりです。
「す、すみません」
「いえ、こちらこそ……もう一度、この社内を案内してもらえたらと思ったんですが」
「社内を?」
「実際にアイドル達が使う施設を、もっと詳しく見ておきたいなぁと」
 346プロ事務所内の各施設については、もちろん、プロデューサーさんがやってきた日に、私がひと通り案内しています。
 ただ、彼が言うように、それらの一つ一つについて詳細に説明する時間はありませんでした。
「あぁいえ。ちひろさんもご自分の仕事があると思いますし、無理なら…」
「いえ、大丈夫です、よ……?」
 本当は、夕方までに片付けておきたい明細書とか決裁があったのですが、うーん――。
 と、人知れず悩みつつ、ふと廊下に目をやると、とある女の子の姿が目に留まりました。
27: 以下、
「美嘉ちゃん」
 声をかけると、彼女はピンク色の鮮やかなポニーテールを揺らして、クルリとこちらへ振り返ります。
 城ヶ崎美嘉ちゃん。
 シンデレラプロジェクトの1期生で、未央ちゃん達2期生の先輩にも当たる子。
 若年層を中心に、流行の最先端として多くのファンから絶大な支持を得る、346プロが誇る“カリスマギャル”です。
「あっ、ちひろさん、お疲れー★ 呼んだ?」
 美嘉ちゃんは、挨拶代わりのウインクをキメつつ、こちらに歩み寄ってくれます。
 チラリとプロデューサーさんの方を見ると、彼女の派手なビジュアルに少し圧倒されたのか、やや身じろぐのが見えました。
「新しく来られたプロデューサーさんに、社内を案内してもらえないかなーって。
 ほら、トレーニングルームとかスタジオとか。あまり時間をかけて紹介できなかったから」
「あぁ、そういうこと?
 オッケー。アタシで良ければ全然大丈夫だよ★」
 美嘉ちゃんにお願いしつつ、私はプロデューサーさんに向き直りました。
「こちら、346プロきっての稼ぎ頭、城ヶ崎美嘉ちゃんです」
「い、いえ、知っていますが……」
28: 以下、
「派手派手に見えちゃうかも知れませんが、心根が素直でとっても真面目な子です。
 親身に案内してくれると思いますよ。ねっ?」
 私が目配せするが早いか、美嘉ちゃんはプロデューサーさんの手をガシッと取りました。
「うぉっ!?」
「ホラホラ、プロデューサーがそんな遠慮なんかしちゃってどうすんの。
 ウチのアイドルの面倒見ていくんだし、もっと図々しくなんなよ。さっ、行こう!」
 そのままプロデューサーさんを文字通り引っ張って、美嘉ちゃんは事務室を後にしていきました。
 こういう時、美嘉ちゃんは本当に頼りになります。
 346プロだけでなく、アイドル業界のこともよく知っていて、実績も経験量も十分。
 アイドル達の先輩として、私達やプロデューサーにとっても、正しく痒い所に手が届く、ありがたい存在です。
 一方で――この日を境に、プロデューサーさんの行動にある変化が訪れました。
 デスクにいる時間が、目に見えて少なくなったんです。
29: 以下、
「ほら、杏。こことか良いんじゃないか?」
「うんうんっ! 杏ちゃんもぉ、ここなら安心してゆ?っくりお昼寝できるにぃ☆」
 倉庫へ備品を取りに、廊下を歩いていた時のことでした。
「そんな調子の良いこと言って、杏のこと騙そうとしないでくれるかなぁ」
 少し珍しい組み合わせだなと思いました。
 というか、この人達がここにいる事が何となく新鮮です。
 サウンドブースの前で、プロデューサーさんときらりちゃんが、何やら熱心に杏ちゃんに語りかけています。
 説得、しているような――?
「騙すとはなんだ。
 お前が昼寝をするのに適した静かな部屋を、俺ときらりでこうして提案してるんじゃないか」
「だってここ、歌とかラジオの収録やる部屋でしょ?
 うっかり誰か入ってきた時に杏が寝てたら、杏怒られるんじゃない?」
「うぇぇっ!?」
「ぐっ……まさかお前、知ってたのか?」
「いや、扉の上に【収録中】ってランプあるし」
「あ、あぁっ!?」
30: 以下、
「お、お疲れ様で?す……?」
 取り込み中らしき三人に、恐る恐る声をかけました。
 無視して通り過ぎることもできないですし。
「あぁ?! ちひろさん、おっすおっす☆」
「ちひろさん何とかしてよ。この二人が杏に仕事させようとしてくる」
「な、違……いや、違くないだろ。仕事しなきゃいけないのは何もおかしくないぞ」
「一体、どうしたんですか?」
 穏やかな物腰による調和を是とするプロデューサーさんとしては、らしくない雰囲気でした。
 先ほどの杏ちゃんの言いぶりからすれば、想像はつきますが――。
「……うーん、しょうがない、正直に言うか。
 杏の次の仕事がラジオ番組のゲスト出演だったので、彼女にバレないようブース入りさせるつもりだったんです」
「やっぱり」
「ちひろさん、気づいてたのぉ?」
「杏ちゃんには、よくある事だなぁって」
31: 以下、
「仕事をさせたいなら、素直にそう言ってくれりゃいいんだよ」
 杏ちゃんは、くたびれたウサギのようなお人形を抱きかかえながら、ぶっきらぼうにため息をつきました。
「素直に言った所で、お前が素直に聞いてくれるとは思わなかったんだよ」
 と、プロデューサーさんも珍しくムスッとした表情で返しますが、杏ちゃんは動じません。
「杏が一番イヤなのは、面倒なことなの。
 もちろん仕事なんかしないに越したこと無いしやりたくないけど、どうせやるしか無いんだったらサッサと済ませて帰る方が効率的でしょ。
 きらりもサブPも、慣れないウソっこきなんかしたってバレるに決まってるんだし、無駄な労力を二人が杏に仕向けるのは杏も面白くないって話」
 杏ちゃんの声色は、普段と同じでした。
 怒るでも非難するでもなく、いつものように何となく不満げにボヤいて、お腹をボリボリ掻きながら欠伸をかいて――。
 決して自分のペースを乱さない杏ちゃんの姿に、プロデューサーさんもきらりちゃんも、どこか感心していたように目を見開いています。
「だから、今度からはちゃんと言ってよ。
 CPの言うこと信じろって言ったのはサブPでしょ。
 CPに従う方が面倒くさくないと判断したら杏もそうするし、そうじゃないならそうしないからそういう事で」
「あ、あぁ……そうか」
 そのまま、杏ちゃんはウサギの耳をズルズルと引っ張って、自分からブースの中へと入って行ったのでした。
32: 以下、
「……アイツは大したタマだな」
 無事に杏ちゃんのお仕事が始まったのを見届けてから、プロデューサーさんが呟きました。
 隣に立つきらりちゃんが、嬉しそうにプロデューサーさんの顔を覗き込みます。
「杏ちゃんはぁ、いざって時はす?っごくスゴイんだにぃ☆
 どんなお仕事もぉ、ぶわわぁ??!! わきゃぁ??!! ってやっつけちゃうの」
「ハハハハ、そうかそうか」
 すっかりいつもの調子に戻ったプロデューサーさんが、きらりちゃんの言葉に穏やかに頷きました。
「担当アイドルのことを信じる……なかなかどうして、基本的な事がままならないものだな」
「サブPちゃん?」
「ん、いや」
 プロデューサーさんは組んでいた腕を解き、かぶりを振ります。
「俺も以前、一人で空回っていた時があってな……それを思い出しただけさ」
「ふ??ん……?」
 プロデューサーさんの目線に合わせ、ほんの少しだけ首を傾げ、不思議そうに見つめるきらりちゃん。
 肩をすくめ、彼はきらりちゃんと目配せしました。
「きらりは、杏やシンデレラプロジェクトの皆のこと、好きか?」
「もっちろん!
 皆みぃ?んな、きらりのことハピハピしてくれるし、きらりも皆のこと、もっともっとハピハピしたいなぁ☆」
33: 以下、
「きらりは偉いなぁ」
 そう言って、不意にプロデューサーさんはきらりちゃんの頭に手を伸ばし、優しく撫でました。
「ふぇっ!?」
 途端に、きらりちゃんの顔が真っ赤になりました。
 大きな体をキュッと縮こませ、どうしたら良いのか分からない様子で微動だにできないでいます。
「……!? う、うわっ! すまん!」
 なぜか、慌ててプロデューサーさんは手を引っ込めて、飛び退きました。
「つい、いつもの癖というか、そうしなきゃという感じがして……」
「う、ううん……えと……」
 きらりちゃんは、先ほどまで彼が撫でていた頭を擦りながら、モジモジと控えめに笑いました。
「きらり、おっきくて可愛くないかなって……頭、撫でられたり、っていう、女の子みたいなこと、あんまり無くて……」
「何を言ってんだ。きらりは十分女の子らしいし可愛いだろう」
「うぇぇっ!?」
 あっ、と声を漏らし、これ見よがしに咳払いをして、プロデューサーさんは続けました。
「世間一般的にというか、少なくともCPさんはそう思っているはずだ、という意味だ」
「……うぇへへへ、ありがとうサブPちゃん☆」
34: 以下、
「……いつもの癖?」
 思わず、先ほどの彼の言葉に反応してしまいました。
 プロデューサーさんがこちらを振り向いたのを見て、ようやく私自身がそう呟いた事に気がつきました。
「あぁ、いやその……」
 プロデューサーさんは、何となく笑いながら、鼻を掻きました。
 まるで、慌てて取り繕う言葉を探すかのように。 
「きらりに似た雰囲気の子を知っている、ってだけです。
 身長こそまるで正反対だけど、しっかり者で、健気で、仲間思いで」
「その子も、アイドルなんですか?」
 私がそう聞くと、彼はしばらく間を置いた後、首肯しました。
「まぁ、ね」
35: 以下、
 またある日のことでした。
 他部署の事務員さん達との会議を終えて、事務室に戻る際、私には密かにお気に入りのルートがあります。
 綺麗な噴水と、その周りを花壇で彩られた中庭――。
 ちょっと遠回りですけど、時の流れを感じられるこの景色が私は好きで、それを見ることのできる廊下をよく通るんです。
 その中庭で――。
「蘭子、すまん! もう一度そのスケッチブックを見せてくれ!」
「ぴぇっ!? き、気安く禁忌に触れてくれるなっ!」
「禁忌って、そんな物騒なものなのか!?」
 プロデューサーさんと蘭子ちゃんが、大騒ぎしていました。
 幸いにして、というべきかは分かりませんが――二人がいる中庭は、言うまでもなく屋外です。
 廊下にいる私の存在に、彼らは気づいておらず、気づく暇も無い様子でした。
 そぉっと影に隠れて、二人の様子を見守ってみることにしました。
「あ、分かった! スケッチブックじゃなくて、グリモワールだったな!」
「そういう意味じゃなくってぇ……!」
36: 以下、
 蘭子ちゃんは、意固地になって秘蔵のスケッチブックを両腕で抱きかかえ、涙目になって首を振っています。
 プロデューサーさんからも距離を取って――というより、ほとんど噴水の真反対側の位置を保つように逃げているようでした。
「ううむ、ま、まいったな……」
 プロデューサーさんも、ほとほと困った様子で頭を掻くことしかできないといった様子です。
 人当たりの良いプロデューサーさんが、これほどまでに蘭子ちゃんに拒絶されるなんて――。
 蘭子ちゃんも、ちょっと恥ずかしがり屋さんな面はあるものの、一体何があったというのでしょう。
「見せることが難しいというのなら、えぇと……ほら、これ!」
 プロデューサーさんは、手に持っていたファイルをゴソゴソと漁り、蘭子ちゃんに一枚の紙を見せました。
「!?!? へぇあっ!?」
 途端、蘭子ちゃんの顔が湯気が出そうなほどに赤くなりました。
 必死にそれを抑えるように両手を顔に当てますが、動揺が収まる様子はありません。
「こ?んな際どい衣装をお前が希望してたって、CPさんに進言してやるぞ! いいのか!?」
「じょ、冗談ではないわ!
 真理とかけ離れた偽りの偶像が、我が魂が行き着く先の覇道であるものか!」
「なら教えてくれ! お前の目指す道はなんだ!?」
「え……?」
37: 以下、
 プロデューサーさんは、掲げていた手をダラリと垂らしました。
 その手に持つ紙には――。
 んまっ! なんてあぶない水着。
「確かに、蘭子……君は言葉遣いが少し変わっているのかも知れない。
 自分の意志を、相手に伝えるのが苦手なのかも知れない。
 でも……CPさんも俺も、君自身の口から、企画についての話を聞きたいだけなんだ」
 ちょうど私は、プロデューサーさんと蘭子ちゃんが噴水を挟んで向かい合うのを、横から見ている形でした。
 少しトーンを下げ、蘭子ちゃんに語りかける彼の横顔は、普段より少しシリアスに見えます。
「すべては一歩の勇気から」
 プロデューサーさんのその一言には、なぜか、得も言われぬ凄みがありました。
 先ほどまで泣きわめかんとばかりだった蘭子ちゃんも、彼から目を離せずにいるようです。
 そして、私も。
「自分の内面を誰かに見せるというのは、とても勇気がいることだ。
 でも、CPさんや俺が本当の意味で君を理解するためには、俺達だけが歩み寄っていくだけではどうしても足りない。
 だから……君にも、その一歩を踏み出して欲しい」
「……我が友が、私を?」
38: 以下、
「約束する。CPさんも俺も、絶対に君を拒絶なんてしない」
「……!」
 プロデューサーさんの表情は、今回は、穏やかになることはありませんでした。
 彼女の目を真っ直ぐに見つめ、固く顎を引きながら続けます。
「個性が勝負の業界だ。
 俺達プロデューサーには、蘭子が見せる世界観が絶対的な武器になるという確信がある」
 気がつくと、プロデューサーさんと蘭子ちゃんは、手を伸ばせば届く位置にまで近づいていました。
 いつの間にか、彼は蘭子ちゃんの傍まで歩み寄っていたのです。
「お前の言う覇道、お前の望む通りに歩ませる心の用意は、俺達は既に出来ている。
 後はお前次第だ、蘭子」
 そう言って、プロデューサーさんは右手の小指を差し出し、指切りげんまんを蘭子ちゃんに促したのです。
39: 以下、
「サブP……」
 蘭子ちゃんは、モジモジと手を揉みながら、俯いてしまいました。
 プロデューサーさんの表情も、やや曇ってしまったように見えます。
 ですが――。
 意を決したように、蘭子ちゃんは顔を上げました。
「あ、あのっ、私…!」
 グゥゥゥゥ???ッ……。
 と、廊下にいる私にも聞こえてくるくらい、お腹の鳴る大きな音が聞こえました。
「……!?!?」
 慌てて蘭子ちゃんは、プロデューサーさんに背を向け、その場に屈み込みます。
 案の定、先ほどの音の主は、蘭子ちゃんのようです。
40: 以下、
「……ハッハッハッハッハ!」
 プロデューサーさんは、大きな声を上げて笑いました。
 私も、釣られて笑ってしまいそうになりますが――。
 すぐに涙目になって立ち上がった蘭子ちゃんに失礼な気がしたので、何とか堪えます。
「我が魂の慟哭を嘲笑うなっ!!」
「わ、悪い悪い……ハハハ、アハハハハ……!」
「ううぅぅっ……!!」
「そろそろ良い時間だし、メシでも食いに行こう。CPさんや他の子達も誘ってさ。
 蘭子の好きなもの、何でもいいぞ。何が食いたい?」
 そう言われた蘭子ちゃんは、やはり俯き加減ではあったものの、やがて気恥ずかしそうに彼に進言しました。
「……ハンバーグ」
41: 以下、
 またまたとあるその日。
 プロデューサーさんは346プロの中庭にあるカフェにいました。
 コーヒーを片手に、テーブルの上に広げた書類を難しそうに睨んでいます。
「あっ、ちひろさん」
 それでも、私と目が合うと、すぐに顔を綻ばせ、いつもの人懐こい笑顔を見せてくれます。
「さ、サボッているわけじゃないんです」
「見れば分かりますって」
 ニコリとこちらも笑顔を返して、向かいに座りました。
 彼が読んでいたものは――。
「……企画書、ですか?」
「えぇ」
 ただ、よく見てみると、どれも既に始動している企画のものでした。
 プロデューサーさんが新しく作成中のものとばかり思っていたのだけど――。
42: 以下、
「今の俺には、そこまでの裁量は346プロから与えられていません」
 まるで私の抱いた疑問をすぐに汲んだように、プロデューサーさんが口を開きました。
「あくまで俺はシンデレラプロジェクトのサブプロデューサー。
 ただ、新しくプロジェクトに加入したい子がいれば、その手助けをしてやりたい。
 そこで、この346プロでの成功事例を参考にしながら、CPさんに掛け合う手筈を目下検討中ってところです」
「へぇぇ……」
 何でも、自分の代わりにCPさんに企画してもらうための段取りを整えるのだとか。
 この人も大概、熱意のある人――いいえ、というよりも。
「力が有り余っているんですね」
 皮肉めいた言い方に聞こえたかも知れません、が――。
 プロデューサーさんは、サブとしてのご自身の本来業務をしっかりこなしています。
 その上で、自分からそれ以上の仕事を求めているのです。
43: 以下、
「うーん、有り余っている、というよりも……」
 彼は少し困ったように首を傾げながら、手に持っていた書類をテーブルに置きました。
「せっかく346プロに来たのだから、学べることは何でも学んで吸収しておきたいと言いますか」
「吸収……ですか?」
「……あぁ、いえ。ハハハ」
 ほんの少し気になる言葉があったので、そっと聞き返すと、途端に彼は言い淀みました。
 何となく笑いながら、鼻を掻く。
 この346プロに配属された経緯を聞いた時の、あのはぐらかし方と同じです。
 346プロから学んで吸収するという、どこか他人行儀な言い方が、胸に引っかかります。
 ともすればこの人は――346プロに長居する気が無い?
 ――さすがにそれは、早計かしら。
「あっ、ちひろさんっ!」
 声のした方を振り向くと、私の姿に気づいたメイドさんがパタパタと駆け寄ってくるのが見えました。
「菜々さん。私の分は、注文を取らなくて大丈夫ですよ」
「いえいえ。そんなこと言わずに、どうぞごゆっくりしていってくださいね」
44: 以下、
 安部菜々さん。
 プロダクションの敷地内にある『346カフェ』の看板娘です。
 専らバラエティ路線で活躍する子ですが、仕事が無い日はこうしてアルバイトとしてカフェのお仕事もする頑張り屋さん。
「じゃあ、ちひろさんの分は俺が出しますよ。
 この、346ハーブティーってヤツをください」
「あ、ちょっと」
「はーい♪」
 プロデューサーさんからの注文を受けた菜々さんは、意気揚々とホールの方へ戻っていきました。
「彼女も、近いうちにシンデレラプロジェクトへ引き入れたいと思っているアイドルの一人です」
「菜々さんが、ですか?」
「えぇ」
 何でも、このカフェを利用する中で菜々さんと会い、アイドル観を語り合ううちに、そういうお話が進んでいったんだとか。
45: 以下、
「確かに、菜々さんが抱くアイドルへの憧れと熱意は、目を見張るものがあります」
「そうでしょう? シンデレラプロジェクトに合流したら、他の子達にとっても良い刺激になると思うんです。
 菜々さん自身も、共に切磋琢磨し合う仲間がほしいと、このカフェでよく言っていましたし」
「へぇぇ」
 ただ、と言って、プロデューサーさんは手元の資料に目を落としました。
「言うまでもなく、シンデレラプロジェクトはCPさんが担当です。
 彼の意向を確認することなく、俺の勝手で話を進めることはできません」
「そうですね」
「お待たせしましたぁ?!」
 私が相槌を返すや否や、菜々さんが私の分の紅茶をトレイに載せて到着しました。
 え、早いっ。
「はいっ、ちひろさん。
 今朝摘んできた346ガーデン特製ハーブを贅沢に使ったハーブティーです。
 ナナ特製のウサミンクッキーも一緒にどうぞ♪」
「あら、ありがとうございます、菜々さん」
 良い香りのハーブティーの隣に置かれた、可愛らしいウサギさんの顔をしたバタークッキー。
 パッチリお目々にマツゲも描かれていて、芸が細かいです。
 お仕事には妥協を許さない菜々さんの性格がよく現れています。
46: 以下、
「菜々さんが作ったのか、これ。
 ほぅ……どことなく90年代の作風を思わせる、懐かしいデザインだ」
「ふ、古くさくなんて無いですよね?
 ていうかプロデューサーさん、ナナの事はさん付けじゃなくて、“ナナ”って呼んでくださいって言ってるじゃないですか!」
「うっ! す、すまない!
 ただ、どうしてだろう、なぜかそう呼ばなきゃっていう妙な使命感が……」
 胸にトレイを抱え、ムスッとほっぺを膨らませて見せたあと、すぐに菜々さんは「キャハッ☆」と私達にキメポーズをしてみせました。
 星マークがピョンっとウサギさんのように彼女の周りを飛ぶのが目に見えるような、可愛らしいピースサインです。
「サブPさんの評判は、シンデレラプロジェクトの子達からも聞いています。
 ナナのために、サブPさんが各方面に動いてくださっていることも」
 スカートを揺らし、その場でクルリと滑らかなターンを披露してみせて、菜々さんは和やかに手を振ります。
「いつかきっと、アイドルのナナを素敵なステージへと導いてってくださいね?
 楽しみにしていますっ」
 プロデューサーさんが頷くのを待たずして、菜々さんは他のテーブルの注文を取りにパタパタと駆けて行きました。
「……彼女はきっと、自分の行動が自分の思う通りに行かないことに慣れている」
「えっ?」
47: 以下、
「ここでバイトをしている彼女と初めて会った時に、何となくそんな気がしました」
 彼女が去って行った方へ視線を向けたまま、彼は続けます。
「今、「導いてくれ」と言った菜々さんは、俺の返事を聞かずに俺の元を去って行きました。
 たぶん彼女自身、サブのプロデューサーである俺にそれを叶えるのは難しいことを知っていて……。
 自分の希望を面と向かって否定されるのが、怖かったのかなって思うんです」
 プロデューサーさんは、おもむろに自分のカップを手に取りました。
「アイドルに対する憧れが人一倍強い分、そこへ至る道のりの厳しさも知っている。
 もしかしたら、これまでにも幾度か挫折を経験したことがあったのかも知れない。
 何より、彼女はとても優しくて控えめな性格です」
「アイドルには、向いていないと?」
 私が尋ねると、彼は「いいえ」と強い語気で否定しました。
「なりたいという夢を強く抱ける子が、アイドルに向いていないはずがありません。
 彼女達の夢を叶えるのは、プロデューサーの仕事です」
 プロデューサーさんはコーヒーを一口啜ると、改めて資料に向き直り、難しそうな表情に戻りました。
48: 以下、
 この人は、この仕事が好きなんだなぁ。
 やはり、この人が抱く自信と誇りには、虚栄や自惚れとは違う、確かな経験量から来る厚みを感じます。
 今の一言からも、それは明らかでした。
 私も、菜々さんのハーブティーを一口啜り――あっ、おいし。
 ふぅっと息をついて、資料に目を落とすプロデューサーさんに向き直りました。
 そう、今日はこの人に用があってここへ来たのです。
「勝手にできる裁量が、今の自分には無いと……そうプロデューサーさんは仰いました」
 彼は資料を持つ手をピクリと揺らし、顔を上げました。
 キョトンという擬音が聞こえてきそうな、少し間の抜けた表情です。
「もし、その裁量が与えられるとしたら、どうでしょう?」
 私がそう言った途端、彼の目が大きくなりました。
「まさか……俺がシンデレラプロジェクトのプロデューサーに?」
「いいえ、そうではないのですが……よいしょ」
 私はバッグを漁り、中から一冊のフラットファイルを取り出して彼の前に置きます。
49: 以下、
 不思議そうにそれに手を伸ばし、表紙をめくったプロデューサーさんの口から、「えっ」という声が漏れました。
「美嘉ちゃんには今、担当プロデューサーがいません。
 必要な時は、手の空いているプロデューサーさんに、自分から適宜協力を仰いではいるのですが」
「俺が、城ヶ崎美嘉の担当プロデューサーに?」
 私は頷きました。
 実は、私がCPさんを通じて、密かに上層部に掛け合ったのです。
 まさしくプロデューサーさんが、CPさんを通じて企画を通そうとしたのと同じように。
「前にも言った通り、美嘉ちゃんはキャリアが長いですし、ここでの仕事の仕方もよく知っています。
 多少分からない所があったとしても、彼女ならフォローしてくれるでしょうし、初めて担当する子として最適だと思いますよ」
 そして、346プロから何かを学び取りたいのなら――。
 それがどういう目的によるものかは、私には分かりません。
 ただ、彼の力量を量るには最適であろうと、CPさんもお話されていました。
 私自身、美嘉ちゃんとプロデューサーがどのように刺激し合うのか、興味が無いと言えば嘘になります。
 美嘉ちゃんもまた、彼に興味を持っているようで、内々で打診をした際にも「望むところだよっ★」と快諾してくれました。
「…………」
50: 以下、
 ジッと資料に目を落としたまま、まるで石像のようにプロデューサーさんは押し黙っています。
 何か、悩み事でしょうか?
「どうしても、俺が……」
「プロデューサーさん……?」
「……いえ」
 顔を上げたプロデューサーさんの眼差しは、これまで見たことがないほど、ある種の覚悟を帯びた真剣そのものでした。
「分かりました」
51: 以下、
 * * *
 気づくと、346プロダクションのサマーフェス開催まで、あと2ヶ月ほどになりました。
 毎年の定例開催であり、会場となる竹芝のホールさんにも、内容はよくご存知いただいています。
 イベント会社さんの応援も、機材の手配も既に終えたところでした。
 後は、アイドル事業部のプロデューサーさん達の動向を見ながら、当日の段取りについて詳細を詰めていくのですが――。
「おい、聞いたか」
 デスクから顔を上げ、声が聞こえた方へ目をやると、廊下で二人のプロデューサーの方達が立ち話をしているのが見えました。
「あぁ知ってる。城ヶ崎美嘉の話だろ」
52: 以下、
「歌番組、グラビア、イベントへの営業に加えて、スポーツ用品メーカーとのタイアップ……
 最近、目に見えて活動が活発になってきているな」
「新しく就いたプロデューサーが、ガンガン仕事を入れて売り込んでいるらしい」
 プロデューサーさんの話が聞こえ、知らず肩がピクリと揺れます。
「まぁ、元々オールラウンドに立ち回れる子だし、素質もキャリアも十分にある。
 誰が担当に就いても、それなりに活躍できていたとは思うけど……」
「敏腕、と言うのは容易いが……オーバーワークじゃないのか、アレは」
「やっぱ、お前もそう思うよな」
 彼らは事務員のデスクから背を向ける格好であり、こちらからでは表情が見えません。
 ですが、どうやらあまり良くない雰囲気のようです。
「大方、初めて担当したアイドルが金の卵だったんで、舞い上がってるんだろう。
 しかし、あのままじゃ彼女も潰れてしまう。早いうちに誰かが何とかしないとマズいぞ、たぶん」
「誰かって、誰だよ? 今西部長にでも進言するか?」
53: 以下、
「それがな……部長は、今の連中の状況を黙認しているらしい」
「はぁ!? アレを問題が無いとでも思っているのか?」
「今西部長、やたらとあのプロデューサーの肩を持つというか、信用しているみたいなんだよな。
 この間入ってきたばかりのクセに」
「へぇぇ??……ワケありなのかねぇ」
 その後、お二人は予定があったのか、時計を確認して、各々別の方へと歩いて行きました。
 ふと、隣のデスクに自然と視線が動きました。
 そこにはもう、プロデューサーさんはいません。
 美嘉ちゃんを担当することが決まってから、正式にプロデューサーさんは、専用のオフィスに自分のデスクを用意されたのです。
 ちょっと前までは、毎日のようにお話をしていたのですが、最近は顔を見ることも少なくなりました。
 もちろん、パッタリと会って、以前と変わらずに世間話をすることもあるのですが――。
54: 以下、
「ハァ、ハァ……くっ……!」
 いるかなと思い、そぉっとトレーニングルームの扉を開けて中を覗いてみます。
 ドアの隙間、狭い視界に写ったのは、大量の汗を流して両膝に手をつき、肩で息をしている美嘉ちゃん。
 そして――。
「美嘉、どうした! さっき休憩したばかりだぞ!」
 トレーナーさんの声ではありません。
 姿は直接見えませんが、男性の低い声――これは、プロデューサーさんの激です。
「お前の体力はそんなものか! それでよく練習量が人一倍などと言えたものだな!」
「ぐっ、う……何の! まだまだヤレるよアタシ!!」
 膝をバシンッと叩き、身体を起こした美嘉ちゃんは、ダンスレッスンを再開しました。
 私は言葉を失いました。
 ターンをした際、垣間見えた美嘉ちゃんの表情は、これまで見たことがないほど鬼気迫るものだったからです。
55: 以下、
「人が……変わった?」
「ちひろさんは、そう思わない?」
 たまたまその日、シンデレラプロジェクトの事務室にいたのが、きらりちゃんと杏ちゃんでした。
 346カフェに連れて行って近況を聞く傍ら、プロデューサーさんの事にも触れてみると、二人から意外な言葉が返ってきたのです。
「美嘉ちゃん、とぉっても頑張り屋さんで、皆の前ではクヨクヨ?ってしない、しっかり屋さんだにぃ。
 でも……」
「ありゃやり過ぎたよ。杏が同じことされたら、迷わず労基に訴えてるね」
「これまでもそういう、兆候というか……こうするかもなーっていう感じは、あの人にありましたか?」
 慎重に尋ねた私に対し、杏ちゃんは肩をすくめました。
「まぁ、言うほど杏達、そんなに深い仲でもなかったけどさ。
 人が変わったというより、サブPは元々ああいう人だったんじゃないの?
 知らないけど」
 きらりちゃんの言う通り、美嘉ちゃんは人前では絶対に弱音を吐かない、強い子です。
 それに、なまじポテンシャルも高いので、多少の無茶ができてしまうというのもあるのでしょう。
 だから、プロデューサーさんの無茶な要求にも応えることができてしまう――。
「美嘉ちゃん自身は、どのように思っているんでしょう?」
「未央がそれとなく調子を聞きに行ったみたいだけど……やっぱ、無理してそうだったって」
「そう……」
\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\
56: 以下、
「人が……変わった?」
「ちひろさんは、そう思わない?」
 たまたまその日、シンデレラプロジェクトの事務室にいたのが、きらりちゃんと杏ちゃんでした。
 346カフェに連れて行って近況を聞く傍ら、プロデューサーさんの事にも触れてみると、二人から意外な言葉が返ってきたのです。
「美嘉ちゃん、とぉっても頑張り屋さんで、皆の前ではクヨクヨ?ってしない、しっかり屋さんだにぃ。
 でも……」
「ありゃやり過ぎたよ。杏が同じことされたら、迷わず労基に訴えてるね」
「これまでもそういう、兆候というか……こうするかもなーっていう感じは、あの人にありましたか?」
 慎重に尋ねた私に対し、杏ちゃんは肩をすくめました。
「まぁ、言うほど杏達、そんなに深い仲でもなかったけどさ。
 人が変わったというより、サブPは元々ああいう人だったんじゃないの?
 知らないけど」
 きらりちゃんの言う通り、美嘉ちゃんは人前では絶対に弱音を吐かない、強い子です。
 それに、なまじポテンシャルも高いので、多少の無茶ができてしまうというのもあるのでしょう。
 だから、プロデューサーさんの無茶な要求にも応えることができてしまう――。
「美嘉ちゃん自身は、どのように思っているんでしょう?」
「未央がそれとなく調子を聞きに行ったみたいだけど……やっぱ、無理してそうだったって」
「そう……」
57: 以下、
>>55は誤りで、>>56が正です。
すみません。
58: 以下、
「ちひろさん」
 きらりちゃんは、悲痛そうな声色で私に呼びかけました。
「サブPちゃんはきっとぉ……美嘉ちゃんのこと、イジワルしたいって思ってやってないよぉ。
 美嘉ちゃんならやれるって、いっぱい信じてるから、いっぱいいっぱい頑張ってほしいんだにぃ」
「それで美嘉が潰されちゃったら元も子もないでしょ」
「あ、杏ちゃぁ??ん!!」
「おぅわっ!?」
 淡泊な横槍を入れられ、いきり立って杏ちゃんを思いきり高い高いするきらりちゃん。
 ワイワイと大騒ぎする彼女達の前で、私は一人思案に耽っていました。
 調和を是とするプロデューサーさんの、優しく穏やかな顔が脳裏に浮かびます。
 アイドルの子達に向けられたあの表情が、その場を取り繕うための偽りのものだったとは、私にはどうしても思えません。
 ただ――彼の本来の仕事ぶりを、私は見たことが無かったのも事実です。
 プロジェクトのサブではなく、アイドルの担当プロデューサーとしての彼の姿を。
 CPさんを立てて一歩引いていた彼は、本当は――担当アイドルを酷使するようなプロデュースを望んでいたのでしょうか?
「あ、あのぉ……」
59: 以下、
「あ、菜々さん」
 気づくと、菜々さんが気まずそうな顔をして、私達のテーブルの傍に来ていました。
「他のお客さんが怖がっちゃうので、あんまり暴れないでほしいのですが……」
 菜々さんは、二人をそぉっと遠慮がちに指差しました。
 飛行機のように両手を広げた杏ちゃんを、きらりちゃんは上に掲げてぶんぶんしています。
 ちょっと楽しそう。
「お騒がせしてごめんなさい。ところで、菜々さん」
「はい、何でしょう?」
「美嘉ちゃんとプロデューサーさん、最近ここに来ていたりしますか?」
 そう聞くと、菜々さんはますます表情を曇らせました。
「はい……よくお越しいただいています」
「二人は、どんな様子でしょうか?」
「ナナが勝手なことを言うのもアレですが……。
 あんまり、楽しそうな雰囲気には、見えないかなぁって……」
60: 以下、
 話によれば、このカフェには仕事の打合せで結構頻繁に来ているようです。
 ただ――その時のプロデューサーさんは、極めて冷淡であり、強い口調で美嘉ちゃんに迫る時もあるようでした。
 美嘉ちゃんも、ここで彼と笑って話している姿を見たことが無いそうです。
「サブPさんは、美嘉ちゃんのこと……あまり得意ではないのでしょうか?」
 菜々さんは、とても心配そうでした。
 自分のプロデュースについて親身に動いてくれていた彼を見ている菜々さんからすれば、不安に思うのも無理はありません。
 でも――プロデューサーさんが美嘉ちゃんのことを嫌っているとは、私には思えませんでした。
 ちょうどこのテーブルで、美嘉ちゃんの担当となったことを彼に告げた時の、気力漲るあの表情が思い出されます。
 一体、何があったというのでしょう――?
 その足で、私はCPさんに会いに行きました。
 ご出張の時も多いのですが、ちょうど事務室隣のデスクにてご在室だったようです。
61: 以下、
「? ……千川さん」
 ノックして中に入ると、CPさんは少し驚いたように顔を上げ、すぐに真剣な表情になりました。
 私の様子から、何を話しに来たのかを察したのでしょう。
「今西部長は、美嘉ちゃんとプロデューサーさんの件について、黙認されていると聞きました」
 前置きを抜きに、開口一番にそれを質すと、CPさんは椅子の背にもたれることの無いまま、首に手を回しました。
「そのようです」
「それは、どうしてでしょう?」
「今西部長として、城ヶ崎さん達の件を問題と捉えていないから……としか、今は言えないかと」
 実際、美嘉ちゃんもプロデューサーさんも、目に見える形で結果を示しています。
 確かに、部長の立場を考えれば、その成果を重んじるという判断は、決して不思議なことではないでしょう。
 それでも、二人の間に不和があるとするなら、容易に看過できることではありません。
「CPさんは、どのように思われますか?」
「…………」
「美嘉ちゃんとプロデューサーさん、お二人の間には笑顔が無いと、菜々さんも言っていました。
 自分自身で楽しくなれないアイドルが、どうしてファンの人達を楽しませることができるでしょうか」
62: 以下、
 ――つい、勢い任せに言ってしまい、我に返ります。
「すみません……こんな事、CPさんに言われても困っちゃいますよね」
「いえ。千川さんの仰ることは、もっともであると私も思います」
 そう言いながら、CPさんの表情は険しいままでした。
「ただ……どうしても腑に落ちないのです」
「何がですか?」
「あの人の、態度の変わりようについて……まるで別人のようである点もそうですが」
 別人――杏ちゃんやきらりちゃんも言っていたことでした。
「決して彼は、アイドルをいたずらに酷使しよう、冷たくあしらおうなどという人ではないと思います。
 私が知りうる彼の姿勢は、アイドルに対する深い敬愛を随所に感じられるものでした」
「敬愛……それはその、アイドルやプロデューサーとしてのお仕事が、好きであると?」
 そうでなくてはできない仕事とも言えますが、と彼はやや自嘲気味に言い添え、続けます。
「それゆえに、今のあの人の姿勢が、分かりかねております。
 言うなれば……非常に奇妙な言い方になりますが……」
「どうぞ」
「まるで、城ヶ崎さんへ意図的に、冷たく接しようとしているかのような……」
63: 以下、
 意図的に――美嘉ちゃんに、ぞんざいな扱いをしている?
 自分に与えられたもの以上の仕事をあれだけ探し回っていたプロデューサーさんが、いざ自身の担当ができた際に、その子を大切に扱わない。
 それも、意識的にそうしようとしている。
 状況から見て、一つの可能性として考えることに、納得はできます。
 ですが、理解ができません。
「それはとても……奇妙なことですね」
「申し訳ございません」
「い、いえ、CPさんが謝ることでは……」
 二人で首を捻っていると、突然、部屋の入口のドアがガチャッと開きました。
「あ、あのっ!」
 中に入ってきたのは、蘭子ちゃんでした。
 綺麗な色白の顔を真っ青にして、呼吸を整えるのも待たず、彼女は必死に私達に訴えます。
「ろ、廊下で……!」
64: 以下、
 混乱している蘭子ちゃんに言われるがまま、私とCPさんがついて行くと、廊下のベンチの前で蘭子ちゃんは立ち止まりました。
「えっ……あ、あれ……!?」
 困惑しきった顔でキョロキョロと辺りを見回し、今にも泣き出しそうです。
「わ、我が友……先刻まで、慈悲無き求道を突き進む、かの仲間が……」
「神崎さん、落ち着いてください。一体、何が起きたのでしょう?」
 CPさんに諭され、蘭子ちゃんはひぃ、ふぅと呼吸を整えると、ようやく彼女は少し落ち着きを取り戻したようでした。
「み、美嘉ちゃん……さっき、このベンチで倒れていて……」
 そろそろ陽が沈みそうな時間でした。
 私達がいた所は、別館の上階の端っこであり、その先にあるものはエステルームくらい。
 そのエステルームも、既に開いている時間は過ぎており、こちらの方へ人が通ることはほとんどありません。
「私、その……エステルームに忘れ物をして、取りに行こうとしたら……!」
「美嘉ちゃんが、ここで?」
「既に誰かが城ヶ崎さんを見つけ、医務室まで送り届けたのかも知れません」
 そう言って、CPさんは携帯電話を取り、医務室の番号へダイアルしました。
 でも――。
「……医務室には、来ていないとのことです」
65: 以下、
 美嘉ちゃんが、行方不明――彼女の状態を考えれば、楽観視できるものではありません。
 三人で手分けして探すことを決め、別館内を駆け回っていると、じきに蘭子ちゃんの叫ぶ声が聞こえました。
「美嘉ちゃんっ!」
 慌てて駆けつけた先は、階段の踊り場でした。
 蘭子ちゃんに介抱された彼女は、レッスン着姿で隅っこにうずくまり、荒い息を繰り返しています。
「だ、大丈夫だって……心配、しないで……」
「でも……!」
「大丈夫っつってんじゃん!!」
 美嘉ちゃんは、乱暴に蘭子ちゃんの手を払いました。
 ひぃっ、という蘭子ちゃんの小さな悲鳴が、踊り場にしぃん、とこだまします。
「ッ……ごめん……」
「美嘉ちゃん」
 ほどなくして、CPさんも到着したようでした。
 背後からの彼の足音を聞きながら、美嘉ちゃんに声をかけると、彼女はようやく私を視認したようです。
66: 以下、
「ちひろさん……え、へへ……」
 美嘉ちゃんは、私にニカッと笑いかけました。
 渾身の空元気を振り絞ったのであろうその表情は、普段のキメ顔とはかけ離れた、力の無いものでした。
「顔色が、良くないようです」
 CPさんが、彼女に歩み寄ります。
「アイドルは、身体が資本です。
 無理をすることなく、しっかり休んで回復に努めることも、プロとしての大切な仕事です、城ヶ崎さん」
「ずっと残業してばっかの……アンタに、言われたくない……ふふ……」
 精一杯の皮肉で答える美嘉ちゃんの顔には、生気が感じられません。
 今にも倒れてしまいそう――。
 いいえ、彼女は事実、先ほどまで倒れていたのです。
 蘭子ちゃんが私達を呼びに行っている間、たまたま目を覚ました美嘉ちゃんは、誰かに見つかる前にその場を離れたのでしょう。
 今の姿を誰かに見られたら、休めと言われる――それを彼女は恐れたのだと思われます。
 ですが、なぜ休みたくないのでしょうか? 
 なぜ、そうまでして身体を酷使するのか――思い当たる節は、一つしかありません。
「プロデューサーさんのせいですね?」
67: 以下、
 私の言葉に、美嘉ちゃんは肩をピクリと揺らしました。
「彼を、美嘉ちゃんの担当から外させましょう」
「……ちひろさんが?」
 美嘉ちゃんは首を傾げてみせます。
 一介の事務員に、どうしてそんな事ができるのかと言いたげの表情です。
 ところが、私にはそれができちゃうんです。
「元はといえば、私が進言したんです。CPさんを通じて、今西部長にね」
「! ……あの人を、私の担当にするよう、ちひろさんが……?」
「えぇ、そうよ」
 素性が分からない彼のことを、もっと知りたいと思った。
 だから、彼の力量を知るために、誰か担当を正式に就けることを思いついた。
 白羽の矢が立ったのが、彼女――そして、矢を立てるよう仕向けたのは何を隠そう、私です。
「今、美嘉ちゃんが苦しんでいるのだとしたら、プロデューサーさんだけでなく、私にも責任があります。
 私も、事務員の身ではありますが……アイドルが倒れてしまうほどに負担を強いるプロデュースが、健全とは思えません」
「……余計なこと、しないでよっ!」
 踊り場の手すりをガシッと握りしめ、美嘉ちゃんは身体を起こしました。
「アタシはまだ、あの人のこと……何も分かってない!」
68: 以下、
「美嘉ちゃん……?」
 急に激情を露わにした美嘉ちゃんに、私達は圧倒されました。
 一体、何がここまで彼女を――?
「そりゃあ……ちょっと、ムカつくこと言われたり、するけど……でも、まだ待ってよ。
 あの人、何だかおかしいんだ」
「おかしい?」
「無茶ぶりがすごい、って意味じゃなくてね……何だか、無理してるみたいでさ」
 ふふっ、と誘い笑いをしました。
 話しているうちに、少しずつ元気を取り戻しているようにも見えます。
「キツいこと言ったり、させたりするクセに……ふとした拍子に、ヘンに気遣ったり、支えてくれたり……
 たぶん、よく分かんないけど……あの人、アタシに自分の素を見せないようにしてる」
「それは、プロデューサーとアイドルという関係としての、一定の距離感を保とうとしている、と?」
「あぁ……距離感、か」
 CPさんの言葉に、美嘉ちゃんは頷きました。
「そうかもね……距離感……
 なんかさ……まるで、ワザとアタシに嫌われようとしてんのかな、って、思える……」
 その一言に、私はもとより、CPさんもハッと驚いたことでしょう。
 なぜなら、美嘉ちゃんの推察は、意図的に冷たくあしらっているという彼のそれと同じだったからです。
69: 以下、
「あの人、絶対、本音隠してる……本当はきっと、優しいはずなのに、アタシを一生懸命突き放してる。
 何でなんだろう、って……それが分かるまで、アタシはあの人に、ついて行きたいんだ。
 無茶をしてるのは、ぶっちゃけ、ゴメン……気をつけるからさ、皆には言わないで。
 言ったら、きっと、あの人アタシの担当を外されちゃう」
「あ、あの……」
 それまで黙って様子を見守っていた蘭子ちゃんが、恐る恐る手を上げました。
「私も……そう、思います」
「蘭子ちゃん……?」
「サブP、私のこと……一生懸命、いつも話、聞いてくれたから。
 私のやりたい事、引き出そうと、ずっと親身になってくれたんです」
「神崎さん」
 蘭子ちゃんの言葉に、CPさんは頷きました。
「あなたのプロデュースをするに辺り、彼には大変助けられました。
 私と神崎さんの橋渡しをしてくれただけでなく、神崎さんの思想を丁寧に言語化し、私に教えてもくれました。
 彼自身、きっと神崎さんのことを案じていたのだと思います」
70: 以下、
「私を……」
 蘭子ちゃんは、元来とても引っ込み思案で恥ずかしがり屋で、自分の気持ちを素直に伝える事が苦手だと、CPさんも彼も評していました。
 派手派手しい見た目や立ち居振る舞いも、そんなナイーブな内面を隠すためのポーズなのでしょう。
 そんな彼女の力になりたいと、プロデューサーさんは当初あれだけ拒絶されながらも、粘り強く接触しようと試みていたのでした。
「ずっと……私みたいな人を、助けようとしてくれたから、だから……
 私も、美嘉ちゃんと同じこと、思うんですっ」
「蘭子ちゃん」
 ハッと呼びかけられ、蘭子ちゃんは美嘉ちゃんの方を向きました。
 美嘉ちゃんは、ニカッといつものカリスマスマイルを見せ、握り拳を彼女に向けています。
「アタシに任せてよ★
 あの人のホンネを聞き出すまで、どこまでも食らいついてやるからさ。
 蘭子ちゃんとアタシが考えていたこと、本当なんだってのをこの目で見て、証明してやろうじゃん」
71: 以下、
「美嘉ちゃん……!」
「ほら、手」
「うんっ」
 蘭子ちゃんは、嬉しそうに握り拳を作り、美嘉ちゃんと突き合わせたのでした。
「……とはいえ、CPさん」
「はい」
「管理側として、今の状況を静観しているわけにもいきません」
 そう話す私に、美嘉ちゃんは「えっ?」と驚いた表情を向けました。
 CPさんは頷き返し、同意を示します。
「大丈夫です、美嘉ちゃん。悪いようにはしません」
 やはり、あの人自身の口から話を聞かないことには、彼の考えなど分からないですよね。
72: 以下、
 日はすっかり暮れてしまいました。
 アイドル達はほとんど残っていませんが、事務所のスタッフにとっては、むしろここからが本番な人もいます。
 とりわけ、プロデューサー達がいるオフィスフロアは、不夜城と揶揄されるほど、何時でも煌々と明かりが灯っています。
 346プロに所属するアイドル全員がオフシーズンに入ることはまず無いため、必ず誰かしら、遅くまで残業しているのです。
 かく言うプロデューサーさんも、当たり前のようにせっせとデスクワークをしていました。
「あっ、ちひろさん」
 私の姿を見留めると、彼はいつものように笑顔を私に見せてくれました。
 この笑顔が、この人の本当の姿――?
「お疲れ様です。精が出ますね」
 そう言いながら、挨拶代わりのエナドリをデスクに置きます。
「ちょうど良かった。探しものがあって……
 346プロ所属アイドル達の、過去のバラエティ方面の活動記録とかが一覧で整理されたものを見たいんですが、そういうのってありますか?」
73: 以下、
 話を聞くと、美嘉ちゃんを某スポーツバラエティ番組のゲスト枠に出演させるべく、オーディションを受けさせるつもりのようです。
 その戦略を練るために、過去の事例を参考にしたいのだとか。
 なおも新しい仕事。
 それも、見るからに体力勝負の仕事を、この人は美嘉ちゃんに――。
「……資料室に行けば、たぶんあると思いますよ。一緒に行きましょうか?」
「良いんですか? いやぁすみません、助かります」
 私は、嘘をつきました。
 資料室には、長い歴史を持つ346プロの、各部門の過去の活動期録が紙ベースで保管されています。
 ですが、アイドル部門はまだ創られて新しいものです。
 活動期録が電子データにてアーカイブ化するシステムがとっくに構築されてからの創設であり、それらは社員個人の端末から容易にアクセスし、閲覧できます。
 つまり、彼が求めるものを探しに、資料室へわざわざ足を運ぶ必要など無いのです。
74: 以下、
 資料室に連れられたプロデューサーさんは、その資料の量に圧倒されたようでした。
「う、うわあぁぁ……これは、全部目を通そうと思うと、気が遠くなりますね」
 彼を中に入れた後、私は後ろ手にドアを閉め、内側から鍵をかけます。
「おそらく、全てを把握している人は、たぶん社内にもほとんどいないんじゃないかと思いますよ」
 ハハハ、と彼は頷き、私に向き直りました。
「それで、アイドル部門の資料は、どこにあるのでしょうか?」
「ここにはありません」
 私は、ワザとあっけらかんと答えてみせました。
「こんな所に来なくとも、実は普通に個人のパソコンから電子で見れるんです」
 そう告げられたプロデューサーさんには、思いのほか、驚いた様子は見受けられませんでした。
「……俺に何か、用があると?」
75: 以下、
「美嘉ちゃんのことです」
 彼は表情を変えません。
 黙ることで、私に話の続きを促しています。
「皆、心配しています……。
 美嘉ちゃんが今日、廊下で倒れていたこと、プロデューサーさんはご存知ですか?」
「……美嘉が?」
「明らかに無茶をしているんです、美嘉ちゃん。
 でも、あの子は……あなたこそが無茶をしていると言います」
 急に私は、胸が苦しくなりました。
 それは、この資料室がロクに窓もついていない、閉塞された空間だからではありません。
 もしこの二人が、お互いに無茶をし合っているのだとしたら――。
「本当なんですか?」
「…………」
「どうして、美嘉ちゃんに対しては……いつもの優しいプロデューサーさんであろうとしないんですか?」
 なぜ、そんな苦しい思いをわざわざしなくてはならないのかと、やるせない気持ちでいっぱいです。
76: 以下、
「……好かれるべき人間ではないからです」
「えっ?」
 彼は、どこか寂しそうな笑顔を浮かべました。
「今西部長もきっと、俺の事情を汲んだ上で、見逃してくれているんだと思います」
「あの……それは一体、どういう……」
「今はまだ、詳しいことは言えません。すみません」
 プロデューサーさんはそう言って私に頭を下げ、出入口に向かおうとしました。
 慌てて私は身体を張って、彼の前に立ち塞がります。
「事情を話してくれるまで、ここを動きません」
 彼は、鼻をポリポリと掻きました。
 アハハ、と――何となく笑いながら。
「困ったな……」
「お話できないと言うのなら、せめてできない理由を聞かせてください」
「それ、もう答えになっちゃうので、どのみち言えないんですよ」
 鼻でため息をついた後、プロデューサ?さんは再度私に頭を下げました。
「俺も正直、悪いと思っています。
 不義理な行いだって……不信感を抱かせて、皆を困らせてるってことも。
 でも……どうか、分かってください」
77: 以下、
 なぜ頑なに、彼は秘匿するのでしょう?
 何がそこまで都合が悪いのでしょう?
「どうしても……言えないのですか?」
「……えぇ、申し訳ありませんが」
 今度は、この人のことが腹立たしくなりました。
 あんなに美嘉ちゃんが、プロデューサーさんに歩み寄ろうとしているのに――。
 蘭子ちゃんも菜々さんも、きらりちゃんも、皆が心配しているのに!
「……分かりました」
「お心遣い、ありがとうございます。鍵、開けてくれますか?」
「じゃあ、今度のサマーフェス、シンデレラプロジェクトが美嘉ちゃんに勝ったら、ちゃんと話してください」
「えっ?」
 実はここに来る直前、CPさんと内々で相談していた事でした。
 サマーフェスにおけるシンデレラプロジェクトの成績を、彼の経歴を引き出すための交換条件にする――。
 その事について、私は予めCPさんに了解を取ったのです。
「……どういう意味でしょうか?」
 さすがに困惑を隠しきれないプロデューサーさんに、私は解説をしてみせます。
78: 以下、
「サマーフェスは、当然に346プロの社内イベントであり、表向きには競争性はありません。
 ただ、346プロの非公式ファンサイトには、大規模な投票システムがあるのをご存知でしょうか?」
「い、いえ……って、まさかそれを使って勝敗を決めようってんじゃ……!?」
「非公式といえど、業界に非常に精通した管理人さんによる更新が頻繁に行われ、日毎のアクセス数も相当なものです。
 ネットニュースなどでも毎年取り上げられますし、業界人からの注目度も高い一大情報サイトなんですよ」
 もちろん、346プロとしても、このサイトによる情報を基とした事務所運営を行うなどということはありません。
 事務所のプロデューサーやアイドル達に対しても、これを無闇に閲覧し振り回されることが無いように、という触れ込みが成されています。
 ――建前上は。
 どれだけ注意していようとも、人の目や口には戸を立てられないというのが、昔からの世の常です。
 公言はされないものの、一部にはこのサイトから得られる情報を参考にする人もいるらしい、というのが現状です。
「俺は反対です」
 プロデューサーさんは、キッパリと反論しました。
「非公式のサイトによる投票結果を判断材料にする、という事についてもそうですが……
 そもそもプロデューサーが自分の都合のために、担当アイドルを賭け事の道具として扱うなんて、道理にかないません」
79: 以下、
 彼から明確に異を唱えられるのは、初めてでした。
 その険しい表情からは、私の提案に対する不満がありありと伝わってきます。
「第一、CPさんはそのことを承知しているんですか?」
 そしてやはり、CPさんへの尊重を忘れない――。
 私は、毅然と答えます。
「元はと言えば、プロデューサーさんが私達にちゃんと説明してくださらないからです」
「! ……ッ」
「もちろん、あなたの仰る通り、アイドルを内輪の勝負事に持ち出すことは、私達も決して本意ではありません。
 でも、正面切って尋ねてもお答えいただけないのであれば、こちらもそういう手段を取らざるを得ないんです。
 外法には外法を、と言っては失礼ですが……正論による交渉のテーブルを先に立ったのは、プロデューサーさんの方です」
「…………」
 実際のところ、CPさんからも非常に難色を示されたお話でした。
 事の経緯を明らかにするためだけに、そのような行いをするのであれば、触れずに黙っているままでも良いのではないか、と。
 ですが、どうしても私には我慢がならなかったのです。
 納得を得られないまま、苦しんでいる――美嘉ちゃんだけでなく、他ならぬ彼自身も。
 ずっとこのままで良いとは、私には思えません。
80: 以下、
「……分かりました」
 しばらく悩んだ末に、プロデューサーさんは首肯しました。
 逆に言えば、それだけ苦渋の選択であってもなお、彼は自身の経緯について秘匿することを選んだことになります。
「ちなみに、美嘉ちゃんにはこの事を話していません。シンデレラプロジェクトの子達にも」
「当たり前です」
 彼は腰に両手を当て、深いため息をつきました。
「たとえ事情を知っていようと、美嘉はワザと負けるために手を抜くような事はしません。
 それでも、混乱はするでしょうから……俺からも、言わないようにします」
 そう――彼への理解を深めたい美嘉ちゃんにとっては、この賭け事を知ったら、ワザと負ける事を選択する可能性も考えられます。
 でも、プロデューサーさんは――彼女はそんな事はしないと、明確に言い切ったのです。
「美嘉ちゃんのこと、信頼しているんですね」
 私がその場を退きながら聞くと、プロデューサーさんは俯いたままかぶりを振りました。
「信頼を押しつけているだけです……今はまだ」
 そう言って、彼は私に頭を下げ、ドアノブに手をかけて資料室を後にしていきました。
81: 以下、
「…………」
 一人残された資料室にて、先ほどのプロデューサーさんとのやり取りを反芻します。
 事情を話したくないプロデューサーさんが、自身の都合のために正論を振りかざし、賭けに乗ることを拒んだ――。
 見方によっては、そういう解釈もできますし、不自然とも言い切れません。
 ですが、賭け事を持ち出した時の、彼の真に迫った表情――私は、あれは本心なんだと思いました。
 CPさんの仰った、アイドルへの深い敬愛――。
 彼自身は、信頼の押しつけだと自嘲していましたが、私にもそれが分かりました。
 でも、だからこそ分かりません。
 プロデューサーさんにとっても不本意な、苦渋の決断をしてまでも、頑なに事情を話さないその理由は一体なんなのでしょう?
 誠実が彼の本質であるならば、今の彼はあまりにもチグハグで、不自然です。
 開催まであと2ヶ月を切ったサマーフェスが終われば、それが明らかになるのでしょうか?
 胸の奥がチクリと痛むのを感じながら、事務室へと戻る途中でした。
 我が社の代表である美城会長のご子息が、近くアイドル部門の常務取締役に就任されるという噂話を耳にしたのは。
85: 以下、
 * * *
 346プロのサマーフェスは、昨年までは国立公園の一画をお借りして開催していました。
 一方で、今年は先述の通り、初めて竹芝の屋内ホールにてセッティングしたのですが、それは我が社ながら英断だったようです。
 天候に左右されずに行えるというのは、運営側としてとても安心です。
 ただ、フェスやライブは、会場さえあれば良いというわけではなく、当然に主役となるアイドルの子達も必要です。
 サマーフェス当日。
 関東を直撃した爆弾低気圧による記録的な大雨と雷のために、各路線の電車が大規模な信号機トラブルに見舞われました。
 その影響で、一部の子達の到着が、大幅に遅れてしまったのです。
「アタシにやらせてください」
 開催を2時間後に控えた舞台裏で、プロデューサーさん達をはじめ、スタッフの皆でセットリストの見直しをしていた時のことでした。
「遅れる子達の出番を後に回して、誰かが場を繋げばいいんでしょ?
 莉嘉の『DOKIDOKIリズム』ならアタシ、莉嘉の練習に散々付き合ってあげたし、ちゃんとやれます」
 美嘉ちゃんが私達の輪に加わり、そう進言したのです。
86: 以下、
 到着が遅れてしまうのは、高垣楓さんに川島瑞樹さん、輿水幸子ちゃんや十時愛梨ちゃん――。
 シンデレラプロジェクトの1期生であり、我が社の看板でもあるシンデレラガールズの大半が、足留めを食らったのです。
 それに、シンデレラプロジェクトは『凸レーションズ』の3人――つまり、きらりちゃんとみりあちゃん、そして莉嘉ちゃんです。
 いずれも皆、午前中に別の場所でのお仕事を終えた後、こちらに向かう時に電車が止まったそうです。
 タクシーに切り替えたものの、乗り場が行列をなしていた上、どこの幹線道路も大渋滞となっているようで、こちらにいつ着けるのか、見通しすら立ちません。
「他の人達に応援を頼もうにも、どのみち会場に来れるか怪しいし。
 今いる人で何とかしようとしたら、アタシが動くのが一番良いですよね?」
「いや、そ、それであれば『NUDIE★』とか、美嘉さんの曲で繋ぐ方が…」
「たぶん音源用意してないでしょ?
 それ抜きにしても、莉嘉の曲とアタシの『TOKIMEKIエスカレート』は、えっと……
 対比? っていうのが良いトコもあるし、続けてやった方がいいと思います。
 きっと莉嘉も納得してくれます。やらせてください」
 美嘉ちゃんの言葉には、説得力、というよりも――スタッフさんの反論を許さないような気迫がありました。
 その場にいた皆は、ますますの躍進を遂げているカリスマギャルの提案を、無碍に扱う事ができません。
 結局のところ、美嘉ちゃんの提案通りに行う事となりました。
 しかし――。
87: 以下、
「美嘉」
 トイレに行くと言って外に出た美嘉ちゃんを、プロデューサーさんが廊下で呼び止めるのを見かけました。
 彼らが二人きりで話をするのを見るのは、初めてです。
「何?」
 振り返った美嘉ちゃんは、極めてフラットにプロデューサーさんに返事しました。
 何でもないかのように努めているようにも見えます。
「なぜあんな事を言ったんだ」
「あんな事って?」
「とぼけるな」
 少し大股になって、プロデューサーさんは彼女に歩み寄ります。
「お前の出番が2曲続いてしまうことになった。
 それに、『DOKIDOKIリズム』も『TOKIMEKIエスカレート』も、非常にダンサブルな曲だ。
 分かっているのか?」
「当たり前でしょ、アタシとアタシの妹の持ち歌だし」
「あんなセトリを無理に組む必要なんて無かったと言っているんだ。
 1曲歌うだけでも相当に体力を削られる。ましてインターバルも無しに2曲続けてやるなんて、並大抵のことじゃない」
88: 以下、
 ――それは、私も心配していたことでした。
 通常、セットリストは出演するアイドルの子達が順番に、あるいは交互に登場するように組みます。
 2曲続けて登場することも無くはないですが、その場合、パート分けのあるユニット曲かバラード等、体力的な負担が比較的少ないもので組むことが通例です。
 プロデューサーさんの言う通り、ソロで2曲続けて――しかも、どちらもアップテンポでダンサブルな曲です。
 フルで2曲歌い踊り続けるのは、美嘉ちゃんといえどかなりハードになるはずでした。
「プロデューサーがアタシを信じられなくてどうすんの?」
 美嘉ちゃんは、プロデューサーさんに毅然と答えました。
「ていうか、知らない?
 これまでもアタシ、そういうの何度かやった事あるんだよ。心配なんか要らないって」
「心配はしていない。
 俺もあの場で、お前の提案に反論や訂正もできなかったしな。でも」
 ちょっとぶっきらぼうに言う美嘉ちゃんに、プロデューサーさんはさらに問い質します。
「俺が聞いているのは、なぜお前があの場であんな事を言ったのかってことだ。
 スタッフさん達に対する、あの言い草……俺には、お前がどこかムキになっているように見えた」
89: 以下、
「……よく見てんじゃん」
 相手を評価する言葉とは裏腹に、美嘉ちゃんの顔が、少し不機嫌そうになってきています。
「でもそれ、ムキにさせてる側が言うことじゃなくない?」
 そう言われたプロデューサーさんは、一瞬言葉が詰まったように見えました。
「何の話だ」
「そっちこそとぼけないでよ。アタシ知ってるんだからね」
「何をだ、聞かせてくれ」
「賭けの話。
 シンデレラプロジェクトの子達がアタシに勝ったら、アンタが346プロに来た事情を聞き出せるって言うんでしょ?」
 美嘉ちゃんが言った事は、きっとプロデューサーさんには衝撃だったことでしょう。
 もちろん、私にとってもです。
90: 以下、
 ふと、プロデューサーさんと目が合いました。
 柱の陰に隠れて様子を見守っていた私に向けられた彼の視線は、一瞬でしたが、とても恨めしげでした。
 バラしたのか、とでもいいたげの――。
 当然、私には身に覚えが無いので、慌てて顔の前で手を振ります。
 それが彼に信じてもらえたのかは分かりません。
 小さくため息をつき、プロデューサーさんは美嘉ちゃんに向き直りました。
「仮にそうだとして、お前があそこであのように出しゃばる理由にはならない」
「なるよ」
「えっ?」
 そう言い切る美嘉ちゃんに、プロデューサーさんは明確に驚いた表情を見せました。
「勝負だってんなら負けてらんないじゃん。
 プロデューサーに今日まで育ててもらった以上、アタシにだって義理はあるでしょ?」
「義理なんか、感じる必要は無い」
「それはアタシが決めることでしょ。アタシの感情なんだし」
「あのな……」
 言い返す言葉を探すように頭をクシャクシャと掻いて、やがて観念したように彼はため息をつきました。
「まぁ、お前の考えている事が分かったよ。
 このフェスでの自分の活躍を観客に対して派手に印象づけて、得票数を稼ごうって腹か」
「そういうことっ★
 ま、ファンサイトでそんな投票イベントがあること自体アタシは知らなかったから、勝手は分かんないけどね」
91: 以下、
 プロデューサーさんの言った通りでした。
 私達の賭け事を知った美嘉ちゃんは、それでも自分が勝つことを選んだのです。
 いいえ。自分とプロデューサーさんが勝つことを。
「お前はつくづく強気なんだな」
「お客さんを楽しませようってアイドルが調子にノッてなきゃ話になんなくない?」
「詭弁だよそれは。でも」
 プロデューサーさんは、呆れたように――でも、小さく笑いました。
 それは、美嘉ちゃんを担当してから彼女に向けられた、初めての笑顔だったのかも知れません。
「すまない、お前には世話をかける。任されてくれるか?」
「トーゼン★ ねっ?」
 そう言って握り拳を突き出す美嘉ちゃんに、プロデューサーさんは頷き、それに応えたのでした。
92: 以下、
 その後、改めて開かれた直前のミーティングでは、再度セットリストの見直しが行われました。
 美嘉ちゃんの体力面を危惧したCPさんの提案により、美嘉ちゃんの『TOKIMEKIエスカレート』が3つほど繰り下がりそうになったのです。
 でも――。
「いえ、このままでやらせてください」
 そう強く主張したのは、言うまでもなくプロデューサーさんでした。
「確かに、ダンサブルな曲を続けて行わせることはリスキーですが、今の美嘉は気力も充実しています。
 むしろ、この土壇場でセットリストを組み直すことの方が、良い結果に結びつかなくなる可能性が高い。
 モチベーションの低下だけでなく、アイドル間でのイメージの共有にも支障が出ます。だから」
 彼はCPさんをはじめ、スタッフの皆さんに頭を下げました。
「お願いします。アイツを信じてやってください」
「……確かに、そうですね」
 沈黙を破ったのは、CPさんの一言でした。
 顔を上げたプロデューサーさんに、CPさんはニコリと頷き、皆を見渡します。
 CPさんもまた、プロデューサーさんに強い信頼を置いていることを思い出しました。
「城ヶ崎さんで行きましょう」
93: 以下、
「……ありがとうございました」
 ミーティングが終わった後、プロデューサーさんはCPさんに駆け寄り、改めて頭を下げました。
 CPさんも足を止め、彼に向けてかぶりを振ります。
「いえ。私の方こそ、出過ぎた事を言いました。
 申し訳ございません」
「そんな事は……」
「ただ」
 CPさんが、チラリと私の方へと視線をやりました。
 知らずドキリとしてしまいます。
「先ほど、千川さんからお聞きしました。
 城ヶ崎さんが、例の話について知っていたと」
「……ええ、そうなんです」
 二人の方へと歩み寄り、私は頭を下げます。
「黙って見ていて、すみません。でも…」
「分かっています。ちひろさんがバラしたわけではないんでしょ?」
「は、はい……」
「一体、城ヶ崎さんは誰からあの話を聞いたのでしょうか……」
94: 以下、
 アクシデントに見舞われた以上、実際私はもう、勝敗の行方は半分どうでも良くなってきていました。
 今望むことは、美嘉ちゃんをはじめ、アイドルの皆が無事にステージを完遂してくれることだけ。
 どのみち、美嘉ちゃんが期待通りのパフォーマンスを発揮すれば、このサマーフェスのMVPは自ずと彼女になるでしょう。
 ファンサイトの得票数も、きっと。
 だから、勝敗はもう見えたようなものなのです。
 何も起きなければ――。
 控え室を、そっと覗いてみます。
 かな子ちゃんが作ってくれたクッキーを囲んで、皆で本番前の談笑を楽しんでいる中に、美嘉ちゃんもいました。
 頼もしいことに皆、リラックスしているようにも見えます。
「美嘉ちゃん」
 ドアのそばからそっと呼びかけると、美嘉ちゃんは私の姿を見つけ、こちらに駆け寄ってくれました。
 廊下まで連れ出すと、二人きりです。
「美嘉ちゃんに、謝らなきゃって思って」
「何が?」
「さっき、プロデューサーさんに言っていた話……賭けの話というのは、元はと言えば、私が言ったことなの」
95: 以下、
 私は、事の顛末を打ち明けました。
 私が余計な事を言い出さなければ、美嘉ちゃんがこのサマーフェスで、無理をして気張る必要なんて無かったのです。
 アクシデントのせいにするのは簡単ですが――やはり、私の行いは外法だったのだと、認めない訳にはいきません。
「そうなんだ」
 美嘉ちゃんはボンヤリと呟きながら、ツインテールに整えた髪を手持ち無沙汰そうに弄りました。
 私は、美嘉ちゃんを今一度見つめ直します。
 自身の行いにより生じた事から、目を背けまいと。
「だから、美嘉ちゃんがもう無理をする必要は無いの。
 セットリストの組み替えは、今ならまだ間に合います。
 私の言い出した事で、美嘉ちゃんがこれ以上負担を強いられる必要なんて無いんです」
 我ながらひどい言い草だなぁって、嫌になります。
 直前のセットリストの組み替えは混乱の元だって、さっきプロデューサーさんが言っていたばかりなのに。
 今の私は、美嘉ちゃんを追い詰める原因を作っておきながら、彼女に対し、我が身可愛さの弁明をしているに過ぎません。
「だから、本当に……ごめんなさい、美嘉ちゃん……」
96: 以下、
「そうなれば、アタシもシンデレラプロジェクトに負けて、ちひろさんもあの人から事情を聞き出せるって?」
「えっ……」
「アハハ、ジョーダン★」
 一瞬言葉に詰まった私に、美嘉ちゃんは笑って手を振りました。
「ゴメン、ちひろさん。
 でも、アタシは別に負担だなんて思ってないよ。
 あの人にも言ったけど、これくらいの事は何度もあったし、慣れてるからヘーキ。それにさ」
 どこか照れ臭そうに、頬を指で掻きながら、美嘉ちゃんは続けます。
「あの人の言う通りだよ……アタシ、あの人にムキになってる。
 アタシはもっとやれるんだって。これくらいの事、何でも無いんだって、あの人に認めさせたいんだ。
 だから、これはアタシの問題。ちひろさんは、何も気にする必要無いってこと。いい?」
「美嘉ちゃん……」
「まぁ、アタシがコケたらそれはそれであの人の事情を聞けるらしいし、どっちに転んでもアタシにとってはオイシイ話、かな?
 なんてね、ふふっ★」
97: 以下、
 ――この子には、本当に頭が上がりません。
 私が勝手に抱いていたわだかまりも、不安も、アッサリと吹き飛ばしてくれます。
「……ありがとうございます、美嘉ちゃん」
 本当は、例の話を誰から聞いたのかについても、聞き出したかったのですが――それは、無粋だと思いました。
 今の私に、ここまで温かい言葉をくれた美嘉ちゃんから、それ以上を求める筋合いはありません。
 美嘉ちゃんもまた、自分からはその話を切り出しませんでした。
 話したくないのなら、それでいいんです。
 きっといずれ、分かることのような気がします。
98: 以下、
 セットリストは、最初に小日向美穂ちゃんや佐久間まゆちゃんといった先輩組が先陣を切ります。
 シンデレラプロジェクトの出番は、真ん中より少し後半。
 そして、美嘉ちゃんはその手前です。
 私の拙いアナウンスをもって本番が始まると、会場の熱気がすぐに舞台袖にも届いてきました。
 外が悪天候であることを忘れてしまうような歓声が、3000超もの席数を誇る竹芝のホールを埋め尽くしています。
 そうして順調にセットリストを消化していくうちに、遅れていたアイドルの子達も、到着見込みの連絡が続々と入ってきました。
「なぁんだ。この分だと、アタシが出しゃばる必要も無かったかな」
 楓さんや莉嘉ちゃん達が間もなく到着するとの連絡をプロデューサーさんから聞いた美嘉ちゃんは、腰に手を当て、首を捻りました。
「どのみち吐いた唾は飲めないぞ。
 それに、お前の心意気は無意味なんかじゃない」
「分かってるって」
 今は、堀裕子ちゃんの『ミラクルテレパシー』。
 その次に、星輝子ちゃんの『毒茸伝説』が入った後、美嘉ちゃんの出番です。
「美嘉」
99: 以下、
 プロデューサーさんは、普段にも増して神妙な面持ちで、改めて美嘉ちゃんに向き直りました。
「実は前にも、似たようなことがあったんだ……
 ライブの当日にトラブルがあって、ダンサブルな曲を一人に二曲続けて歌わせたことが」
「……前に担当していた子、とか?」
 美嘉ちゃんが慎重に聞くと、プロデューサーさんは小さく鼻を鳴らしました。
「未熟さ故の苦い思い出さ。
 だから、今日のお前の提案にも、ついムキになってしまった。すまない」
「ううん、いいって。その代わり」
 美嘉ちゃんはプロデューサーさんに向けてギャルピースをして、渾身のカリスマスマイルを見せました。
「そういう話、もっと後で詳しく聞かせてよね★」
「……もう一度言うけど、俺は何も心配をしていない」
 プロデューサーさんは苦笑しながら頭を掻き、その手を開いてみせます。
「頼んだぞ。全力を出しきってこい」
「うん!」
 パァンッ!
 と美嘉ちゃんが彼の手を叩き、輝子ちゃんが捌けた後のステージへと駆けて行きました。
100: 以下、
 結果から言えば、美嘉ちゃんも、その後のシンデレラプロジェクトのステージも、大成功と言えるものでした。
 ダンサブルな二曲――『DOKIDOKIリズム』と『TOKIMEKIエスカレート』を続けてこなした美嘉ちゃんは、その後のMCも器用にこなしてみせたのです。
 後に控える後輩達の見所とエールをしっかり伝え、彼女達の緊張を解きほぐしてステージを後にした美嘉ちゃんは、正しく今回のフェス成功の立役者でした。
 とはいえ、さすがに美嘉ちゃんも堪えたようです。
 舞台袖に戻るなり、彼女は目に見えて足がフラフラの状態になりました。
 お客さん達に疲れを見せないよう、ステージの上では無理をしていたのでしょう。
 プロデューサーさんが美嘉ちゃんの前に立つと、美嘉ちゃんは倒れ込むように彼の胸に身体を預けました。
「大丈夫か?」
「へへ……どーよ?」
「大丈夫かと聞いてるんだ、こっちは」
「逆に聞くけど……大丈夫そうに見える?」
 そう言われたプロデューサーさんは、美嘉ちゃんの頭を優しく撫でました。
「もう2、3曲はやれそうだな」
101: 以下、
「アハハ……ホント、スパルタだね、プロデューサー」
「お前が生意気な事ばかり言うからだ。
 ほら、もういいだろ、さっさと離れてくれ」
「えぇ?? いいじゃん、何、照れてんの?」
「馬鹿を言うな」
「ふふっ……!」
 そう言いながら、プロデューサーさんは愛おしそうに美嘉ちゃんの頭をクシャッと撫でていました。
 二人の姿を見て、ようやく確信できました。
 やはりプロデューサーさんは、優しい人です。
 シンデレラプロジェクトのサブをしていた時と変わらず、穏やかで柔らかくて。
 信頼の押しつけなんかじゃありません。
 彼の腕に抱かれる美嘉ちゃんは、とても嬉しそうでした。
 ――好かれるべき人間ではないからです。
102: 以下、
 不意に、彼の言葉が思い出されました。
 まだ不明のままなのです。
 プロデューサーさんが美嘉ちゃんに対し、冷たい態度を取っていた理由について。
 好かれたくないとするなら、今のあの二人の様子は、プロデューサーさんにとって望ましくないとでも言うのでしょうか?
 あんなに穏やかで、二人とも笑っていて、幸せそうなのに。
 悪天候にも関わらず、これまでにも類を見ないレベルの成功をもって幕を下ろした、346プロのサマーフェス。
 シンデレラプロジェクトをはじめとしたアイドルの子達も、これを足掛かりとして数多くの仕事が舞い込む事になります。
 ですが、先述の謎が明かされることの無いまま、プロデューサーさんは美嘉ちゃんの担当を降りることになりました。
 海外の支社から帰国し、新しくアイドル部門の統括重役に就任した、美城会長の一人娘――。
 美城常務が、継続しているアイドル事業の全てを白紙に戻すと宣言したからです。
103: 以下、
 * * *
「私は彼の事を信用していない」
 常務室に入り、真意を問い質した私に、美城常務は淡泊に答えました。
 ついこの間その席に就いたばかりとは思えないほど、その姿は泰然としており、言い知れぬ迫力を漲らせています。
「で、でも! いくらなんでも、少し急と言いますか……
 アイドルの子達の間にも混乱が広がっていますし、事実として彼女達はあの人の事を信用しています」
「それがどうした」
「どうした、って……!」
「君はどうなんだ?」
「えっ?」
 常務はデスクの上で手を組み、私を睨み上げました。
「聞いた話によれば、彼は君に、この346プロへ来た経緯について満足に説明できていないらしいな」
「……!」
「後ろ暗い事情でないのであれば、臆面も無く公明正大に話すことができるはずだ。
 混乱と君は言ったが、説明すべき事を秘匿し、混乱を助長させる人間を信用できると言うのか? 君は」
104: 以下、
「わ、私は……」
 常務の仰る通り、彼に対する疑念は、私の中で依然燻り続けたままです。
 でも、今この場でその事を持ち出したくありませんでした。
 それを認めたら、プロデューサーさんがもう、私達の下を離れていってしまう気がして――。
「彼には特定の担当アイドルを回さない代わりに、庶務事務を担当させることにする」
「えっ……」
「つまり、君の直属の部下だ。直接の指導は君に従うよう、彼には既に伝えてある。
 君には負担を強いることになるが、よろしく頼む」
 ――既に伝えてある?
 プロデューサーさんは、もうプロデュースをしないことを了解しているというのでしょうか?
 美城常務は席を立ちました。
「他に言いたい事が無いのなら、話は終わりだ。
 私にはこの事務所が持つポテンシャルを早急に、全て余さず把握する責務がある」
 そう言って、常務はカツカツと靴音を鳴らして常務室を出て行きました。
 事務所内の施設やシステムをこの目で確かめるのだと言います。
 私達の新たな上役は、随分とバイタリティに溢れた、主導性の強い方のようです。
105: 以下、
 彼のデスクは、再び私の隣に戻ってきました。
「ちひろさんすみません、この書類なんですけど」
 今日もプロデューサーさんは――いえ、正確にはもうプロデューサーじゃないのですが。
 私のチェックを請うために椅子を引いて相談に来られます。
 その表情は、こっちが拍子抜けするくらいに普通でした。
 まるで、ついこの間までプロデューサーであったことが嘘だったのかと思えるくらいに。
「……えぇと、うん。よく出来ています。
 ただ、このセルの端数処理がなっていないようなので、そこさえ修正してもらえれば大丈夫かと」
「あれ? そうですね、すみません。
 すぐに直します。ありがとうございます」
 黙々と備品購入に際する見積資料の作成を進める彼の姿を見て、私は何だか、この人の事が分からなくなってしまいました。
 遠く感じる、というか――。
 いくら常務の命令とはいえ、ここまで割り切ることができるものでしょうか?
106: 以下、
 美城常務が命じた解体の対象は、シンデレラプロジェクトも例外ではありませんでした。
 ただ、これについては、アイドル事業部の発足に携わった今西部長肝入りのプロジェクトでもあります。
 さらにCPさんも、常務が解体を言い渡した会議の場で即座に反意を示しました。
 結果として、プロジェクト解体の代替案――。
 端的に言えば、今のシンデレラプロジェクトの継続が即時的な成果をもたらすことを示す、企画書の作成を言い渡される事になりました。
 困難なお仕事ですが、問答無用で解体されるよりはマシであると、CPさんは前向きです。
 ですが、プロデューサーさんは、常務の決定に抵抗の意思を示しませんでした。
 美嘉ちゃんの担当プロデューサーを降りる事を、素直に受け入れたのです。
 一方で、美城常務自身が主導するアイドル事業が近く発足されるとの話が、私の耳にも聞こえてきました。
 別世界のような物語性とスター性という、346プロアイドル部門の新しいブランドイメージ確立のための新企画、『プロジェクトクローネ』。
 シンデレラプロジェクトの凜ちゃんやアーニャちゃんに加え――。
 美嘉ちゃんもまた、その企画のメンバー候補として名を連ねているとのことでした。
107: 以下、
「せっかく良い感じになってきたなぁって思ったのに……」
 346カフェの屋外テラスで、ついため息が出てしまいました。
 うだるような暑さはだんだんと和らぎ、中庭を通り抜ける乾いた風が秋の気配を感じさせます。
「常務が美嘉ちゃん達を自分のプロジェクトに組み入れようと、強引に解体させたようにも思えると言いますか…」
「サブPがそれで納得してるなら別に良くない?」
 向かいに座る杏ちゃんは、椅子の上にあぐらを組みながらぶっきらぼうに答えます。
 解体が言い渡されるに伴い、シンデレラプロジェクトの事務室は、地下の物置部屋への引っ越しを余儀なくされました。
 CPさんの企画が通るまでの間、当面はその部屋を活動の拠点にせざるを得ないようです。
 
 皆でお掃除をしたとのことでしたが、傍から見ると、お世辞にも良い環境とは言えません。
 これでも随分マシになったと智絵里ちゃんは言っていたので、お掃除する前の状態は推して知るべしです。
 そんな新しいシンデレラプロジェクトの事務室に顔を出したら、杏ちゃんと美波ちゃん、アーニャちゃんがいました。
 やはり、彼女達の近況が気になったのでカフェに誘うと、快くオーケーしてくれたのです。
 杏ちゃん以外は、ですが。
「サブPさんは、そんなに落ちこんでいる様子は無いのですか?」
 美波ちゃんの言葉に、私は持ちかけたカップを置き直し、首肯しました。
108: 以下、
「以前、あの人がこのカフェで言っていたんです。
 346プロで、学べるものは何でも学んで吸収したいんだ、って」
「アー……吸収、ですか?」
「勉強するとか、経験を得るって意味よ、アーニャちゃん」
 美波ちゃんが解説をしてあげても、アーニャちゃんは握り拳を顎に当て、首を捻っています。
「サブPが勉強したいこと、プロデュースのことでは、なかったですか?」
「うん……それに、ちひろさん。
 346プロから何かを学びたいっていうのは、サブPさん……
 あまり良くない言い方ですけど、346プロを何かの腰掛けというふうに考えているのでしょうか?」
「それなんですよねぇ?」
 ラブライカのお二人から核心に近いであろう部分を突かれ、私はもう一度嘆息しました。
「事務員としての所見ですが、細かな事務処理の仕方は会社によって様々であり、346プロには346プロのルールがあります。
 仮にあの人が、346プロから早々にどこかへの転職を考えていたとして、346の事務仕事の経験を満足に生かせる場なんて、そうは無いんじゃないかなぁって」
「転職?」
 それまでつまらなそうに話を聞いていた杏ちゃんが、急に身を乗り出してきました。
「サブP、転職すんの?」
「まだそうと決まったわけではないですよ」
「でもそれ、興味深いね」
「興味深い?」
109: 以下、
 オレンジジュースをストローで吸う杏ちゃんの顔を、美波ちゃんが不思議そうに横から覗き込みます。
「だって、あんなに仕事の虫になってた人だよ?
 シンデレラプロジェクトのサブやってた時も、美嘉の担当やってた時も、尋常じゃない熱の入れようだったじゃない。
 ちひろさんが言ったみたいに、事務仕事がスキルアップに繋がらない事をサブPも承知済みなんだとしたら」
 ずごごご、と飲み干したジュースを置いて、杏ちゃんはニヤリと笑いました。
「もうサブPはサブPなりに、346プロに見切りをつけて、そういう準備を進めてるのかもね。
 どこに行くつもりなんだろ? こんな大企業を辞めて、次の居場所で待遇が向上する算段があるのかなぁ」
「辞める、と言ったって……」
 まだあの人は、346プロに来てそろそろ半年、というくらいなのです。
 既に転職先を見つけているならば、入社したその日から転職活動をしていない限り、時間的に辻褄が合いません。
 それとも、転職先などない――?
 とにかくこの会社から逃げ出すことを第一に考えたくなるくらい、ここの仕事が嫌になった?
 いや、まさか。
「サブP、プロデューサーのお仕事、ヴィエースィラ……とても楽しそうでした」
110: 以下、
 テーブルの紅茶に視線を落としながら、アーニャちゃんがポツリと呟きました。
「アンズの言う通りです。
 サブPは、プロデューサーのお仕事の、アー、ムシ? ですか?
 とても一生懸命でした。きっと好きだから、一生懸命でした。
 アーニャは、そう思います」
「アーニャちゃん……そうね」
 美波ちゃんは、アーニャちゃんに優しく頷き、私の目を見ました。
「サブPさんがもう一度、誰かのプロデュースをするよう、進言してみるのはいかがでしょう?」
「進言、って……常務にですか!?」
「他に誰かいるんですか?」
 理知的に見えて、美波ちゃん、なかなか思い切ったことを言いますね――。
 それとも、他人事だと思っているのでしょうか?
 この間ちょっとお話をした時も、なかなかの迫力でしたし――。
 いくら私でも、あの常務に面と向かってこれ以上意見をするのは、ちょっと――。
 あっ。
「今西部長」
 私は、ポンッと手を打ちました。
「できない事は、無いかも知れません」
「本当ですか!?」
111: 以下、
 そうです。
 役職こそ美城常務の下ですが、今西部長は常務のお父様である美城会長とも旧知の間柄であり、社内でも強い影響力を持っています。
 かの常務も、昔は部長がお目付役をしていたらしく、私達部下の目に触れない場では、今西部長に敬語を使っているらしいと聞きます。
 今西部長の言うことなら、美城常務も聞き入れてくれる可能性は十分にあります。
「どのみちさ、まずはサブPの意向を聞かない事には話にならないでしょ」
 ちょっとだけ舞い上がっていた所へ、杏ちゃんに冷や水を浴びせられ、皆で思わず口をつぐみます。
 ぐぬぬ。その通りですが――まぁ、ともかく。
「では、私はプロデューサーさんにそれとなく打診をしてみます。
 美波ちゃん、悪いけれど、誰かプロデューサーさんの担当になりたい子がいないか、探してもらえるかしら?」
「全然悪くないですよ。お安いご用です」
「あっ、今のお話! ナナがっ!」
 方針が概ね決まり、席を立とうとしたところで、いつの間にか菜々さんが私達のそばに立って手をピョンッと伸ばしていました。
「ナナがそれに名乗りを上げてもいいですか?」
112: 以下、
「え、えぇもちろん……私達に決定権は無いですし」
「本当ですか!?」
 トレイを胸に抱えながら、菜々さんはうさぎさんのようにピョンピョンと飛び跳ねました。
「やったやったぁ!
 苦節幾数年、ナナもようやく担当プロデューサーさんの下でアイドル活動が……!」
「? クセツ……とても長いですか?」
「えっ!? あ、あぁぁアーニャちゃん、いえいえ、これは一種の比喩表現でして……!」
「ヒユ?」
 アーニャちゃんに無自覚のツッコミを入れられ、一人で動揺している菜々さん。
 何はともあれ、ようやく担当プロデューサーができるチャンスを得られた事が、彼女にとっては何よりも嬉しいようです。
「ちひろさん。ちなみに、人数は何人でも?」
「うーん、そうですね……5人までにしましょうか。クインテット」
 たぶん、美波ちゃんに声掛けをお願いしたら、シンデレラプロジェクトの子達から見繕う事になりそうです。
 あまり多すぎても、CPさんにご迷惑をおかけしちゃうかもですし。
 美波ちゃんに後は任せ、私は席を立ちました。
113: 以下、
「……いえ、ご心配には及びません」
 事務室に戻る途中、廊下で声が聞こえました。
 ピタリと足を止め、辺りを見回すと、廊下の奥。
 観葉植物と柱の影に隠れ、誰かと電話で話をしているらしい男の人が見えます。
「大丈夫です。社長のお手を煩わせるわけにも……はい、そうです……」
 案の定、その人はプロデューサーさんでした。
 デスクに備えてある会社の電話ではなく、わざわざ席を立ち、自分の携帯を使って話しているのです。
 同じフロアにいる私達には、あまり聞いてほしくないお話を、誰かとしているのだと――。
 ――説明すべき事を秘匿し、混乱を助長させる人間を信用できると言うのか? 君は。
「……ッ」
 美城常務の言葉が、嫌なタイミングで思い出され、胸が苦しくなりました。
「俺は十分に満足していますから……はい、はい……
 そうですね……苦労を掛けてすまなかったと、皆にも伝えてください……ありがとうございます。では……」
114: 以下、
 私は、事務室へと一目散に駆け出しました。
 他の同僚達がビックリしてこちらを見るのも厭わず、素早く着席し、呼吸を整えます。
 あたかもずっと前からそこにいたかのように。
 やがて、プロデューサーさんが戻ってきました。
「……あら? おかえりなさい、プロデューサーさん」
「俺はもうプロデューサーじゃないですって。
 しかし、それにしても……事務仕事って大変ですねぇ、目が回りますよ」
「いえいえ、もう半分以上も処理されているじゃないですか」
 肩を回しながら席に着いたプロデューサーさんに、私はニコリと微笑みかけ、エナドリを差し出します。
「こちらに就いて間もないのに、よくやってくださっています」
「このエナドリと、ちひろさんのご指導のおかげですよ」
「ふふっ、お上手ですね♪」
 ――この人は、この346プロに来てからずっと、そうだったのかも知れません。
 ずっと、自分を隠している。
 あるいは、それ以上にもっと大きな何かを、私やアイドルの子達に――。
115: 以下、
 辛くはないのでしょうか?
「そうだ、ちひろさん。
 この書類なんですけど、どれもフォーマット同じですし、一部代表的なものを決裁すれば後は省略、って処理の仕方はダメですか?
 その方が、俺達も上司の人達にとっても仕事を減らせるし、良いんじゃないかなって」
「あぁ?、それなんですけどねぇ……
 私も同じ事は思うんですけど、それ、ダメなんですよ」
「えぇ、ダメなんですか?」
「言うなれば『346ルール』みたいな、社内にはびこる暗黙の了解みたいな所がありまして」
「そうかー。大企業ともなると、やっぱり慣習ってあるんですねぇ」
「割を食うのは、いつだって私達みたいな下っ端ですけどねー」
「あーあ、そこはどこも同じなんですね、ハハハ」
「ふふっ♪」
 あなたの裏の姿を垣間見たことを隠して、上っ面な掛け合いをしてみせる私は――こんなにも苦しいのに。
「…………」
「? ちひろさん、どうかされましたか?」
「……プロデューサーさん」
「ハハハ、ちひろさん。だから俺はもうプロデューサーじゃ…」
 バシンッ!!
116: 以下、
「……!?」
 ビックリして身じろぐプロデューサーさんの姿が、視界の隅に写りました。
 おそらく、他の同僚達もそうだっただろうと思います。
 差し詰め、とうとう“鬼の事務員”千川ちひろが、癇癪を起こしたとでも思われたのかも知れません。
「はぁ、はぁ……!」
 デスクの上に叩きつけた書類は、来年度の予算編成に関する各部の要望書でした。
 あと2時間以内にはデータ入力を終えて集計し、資料として体裁をまとめて上司へ報告しなければならない、とても大事なものです。
 でも、そんなもの――今の私には、どうでも良くなってしまったのです。
「プロデューサーさん、ちょっと来てください」
「は、はい……」
117: 以下、
 彼を連れて出たのは、別館の屋上でした。
 少し前までは、タバコを吸う人達の喫煙スペースとして、よく利用されていた場所です。
 でも、世間の流れに従い、我が社でも禁煙の流れが加していくにつれ、次第に人が少なくなっていきました。
 非喫煙者の私にとっては、お昼休み、たまにここのベンチでお弁当を広げる機会も増えたのですが――それは置いといて。
「お話があります」
 今日も屋上は、私達以外誰もいません。
 秋が近づく空の陽は早くも傾きかけており、眼下に見える幹線道路には、下校途中と思われる近所の高校生達が歩いているのが見えます。
「あなたに、担当していただきたい子がいます。
 もう、打診はしていて……美城常務には、今西部長を通じて進言してみるつもりです」
 振り返り、彼の姿を見つめながら――ふと、何でこんな事をしているんだろうって、自問しました。
 一介の事務員が、この間来たばかりのプロデューサーのお仕事に、ここまで介入する筋合いなどありません。
 でも、どうしてでしょう。
 そうせざるにはいられなかったんです。
「もうプロデューサーではないと、あなたは言いますが……もう一度、プロデューサーになりませんか?」
118: 以下、
「……お気持ちは、ありがたいんですが」
「ッ!?」
 プロデューサーさんから返されたのは、遠回しで優しい語り口による、明確な拒絶でした。
「俺には、もうここでプロデューサーをする筋合いがありません」
「……たとえあなたには無くても、あなたを必要としている子がいます。
 安部菜々さんのこと、プロデューサーさんもずっと案じていたじゃないですか!」
「あぁ、菜々さんか……」
 彼は困ったように頭を掻き、遠くの方へと視線を投げ出しました。
「彼女にも悪いことをしたな……でも…」
「でもじゃありませんっ!」
 ズカズカと彼の元に歩み寄ります。いっそ胸ぐらを掴んでやりたいくらいの勢いです。
「理由は聞きませんよ。どうせ教えてくれないんでしょう?
 だったら美嘉ちゃんをもう一度担当するのはどうですか?
 あのサマーフェスで、あなたも美嘉ちゃんも本当に楽しそうでした。忘れたとは言わせません。
 あれだけ美嘉ちゃんのために骨身を削っていたあなたが、まさか美嘉ちゃんを担当したくないだなんて言わな…!」
「美嘉は難しいでしょう」
「えっ?」
 彼は肩をすくめ、自嘲気味に笑いました。
「たぶん美嘉も、もう俺が担当するのは嫌だって言うと思います」
119: 以下、
「なんで……?」
 私には、訳が分かりませんでした。
 都合の良いでまかせを言って、私を突っぱねようとしている――。
 そう思えたなら、どんなに楽だったでしょう。
 でも、違いました。
 まるで彼自身、それが嘘であってほしいと思っているかのように――彼の目は、本当に寂しそうでした。
「……確かめさせてください」
 そう言って私が踵を返そうとした時、プロデューサーさんの携帯が鳴りました。
「……ッ」
 携帯の画面を見た途端、彼は少し険しい表情をさせ、私の顔を覗うようにチラリと見ました。
 その様子から察するに、私には話の内容を聞かせたくない相手――先ほど廊下で話していた相手だと思われます。
120: 以下、
「……失礼」
 彼は私に小さく頭を下げ、私に背を向けてその電話に出ました。
 私もまた――彼の方を振り返ることなく歩き出し、携帯を取りました。
 こんなに穏やかならぬ気持ちになるのは久しぶりです。
 画面には、美波ちゃんからの着信通知が表示されています。
 彼の相手にムキになるあまり、全く気がつきませんでした。
 階段を降りながら美波ちゃんに折り返します。 
『……はい、新田です』
「千川です。美波ちゃんごめんなさい、電話に出られなくて」
『ちひろさん、その……一応、やりたいって人、集まったので……』
 一度、こっちに来てくれませんか――。
121: 以下、
 そう言われ、やってきたのは、シンデレラプロジェクトの事務室でした。
 中に入ってみると、およそプロジェクトのほぼ全員が集合しているように見えます。
 それと――あ、菜々さんも。
「お待ちしておりました、千川さん」
「!? わっ、CPさん」
 すぐ隣にCPさんが立っていたので、思わずビックリして飛び退いてしまいました。
 そうか、以前は別室だったけど、ここに来てからはアイドルの子達と同じお部屋なんですね。
「新田さんから、事情はお聞きしました。
 あの人に、もう一度アイドルの担当を依頼するというお話には、私も賛成です」
 元々、彼の手腕には一目も二目も置いていたCPさんです。
 アイドルのプロデュースを続けさせて、その仕事ぶりを観察したいという気持ちは強かったことでしょう。
「シンデレラプロジェクトとしましても、本件については協力を惜しみません。
 メンバーの皆さんにも、話は通してあります」
122: 以下、
「えぇ、ありがとうございます」
 しかし――。
「……さすがに、ここにいる全員が、という訳ではないですよね?」
「はい」
 頷いて、CPさんはメンバーの皆の方へと目配せをしました。
 ズラリと並んだシンデレラプロジェクトの子達のうち、私の前へと一歩歩み出たのは――。
「諸星さん、双葉さん、神崎さん、安部さん……以上の4名を、シンデレラプロジェクトから選出致しました」
「菜々さんは、プロジェクトのメンバーではないのでは?」
「あぅ……す、すみません、ナナ、年甲斐も無く出しゃばってしまい…!」
「あぁいえ、私の方こそつまらない事を……」
 年甲斐も無く、ね。
 幸いにしてツッコミを入れる子がいなかった事に内心ホッとしつつ、しかし――なるほど。
123: 以下、
 菜々さんは、以前からカフェでプロデューサーさんとの繋がりがありましたし、先ほども一番に名乗り出たほどです。
 今回のメンバーの中では、もっとも意欲がある子かも知れません。
「ククク……瞳を持つ者の心に今再び炎を灯し、その秘術を引き出すは我らの役目よ!」
 蘭子ちゃんも、親身に話を聞いてくれた経緯から、彼に対して恩義を感じる部分があったのでしょう。
 久々に見せる独特の調子から、彼女なりの気概を感じます。
 ただ――。
「ちょっと意外……ですね」
「別にやりたくてやる訳じゃないよ」
 これ見よがしに欠伸を掻く杏ちゃんを、きらりちゃんが宥めます。
「サブPちゃんと、もっともぉ?っとハピハピできるの、杏ちゃんも絶対楽しいにぃ☆」
「ほら、こうして半ば強制連行されてんの」
 きらりちゃんは、自分の持つ女の子らしさに、プロデューサーさんから自信を与えてもらえたと言っていました。
 ちょっと鬱陶しそうにしていますけど、杏ちゃんも彼の動向には興味を示していましたし、満更でもなさそうです。
「この4人ですか」
「いえ、もう一人います」
124: 以下、
「え?」
 私の言葉に訂正してみせた美波ちゃんでしたが、どうにも様子が変です。
 ちょっと、落ちこんでるような――。
 この中に、まだ名乗り出ていない子が?
 皆を見渡していると、怪訝そうな私の様子を斟酌したらしい未央ちゃんが、申し訳なさそうに手を振りました。
「いやいや、本当はこの未央ちゃんも隙あらば加わりたいなって思ってたんだよ?
 でも、気づいたら残るところ定員1名ってなっててさー」
「みりあもやりたかったんだけど、やっぱりここは、止めといた方がいいかなーって」
「うーし偉いぞみりあちゃん気ぃ遣いだなー、未央ちゃんがナデナデしちゃう、よぉしよしよし」
「えへへへ」
 みりあちゃんの頭をグリグリする未央ちゃんにクスリと微笑みながら、かな子ちゃんが補足してくれます。
「満場一致で、もう一人の子は最初から決まっていたんです。
 アイドルの中でも一番サブPさんのことを知っているし、きっと皆のリーダーになってくれるって」
 その話を聞いて、私はすぐに察しがつきました。
「美嘉ちゃん、ですね?」
 やっぱりそうでした。
 皆も、あの子に入ってもらった方が良いと考えていたんです。
 でも――なぜか皆、押し黙っています。
125: 以下、
「……?」
 否定されないというのは、きっと私の言った事は間違っていないのでしょう。
 ただ、この空気は一体――。
「お姉ちゃん……」
「……莉嘉ちゃん?」
 気づくと、美嘉ちゃんの妹の莉嘉ちゃんが、俯いて肩を震わせていました。
「やらない、って……アタシはもう、いいから、って……」
「……それは、どうして?」
「分からないよ!
 お姉ちゃん、何も話してくれないんだもん……何も……!」
 もう俺が担当するのは嫌だって言うと思う――そんなプロデューサーさんの言葉が、頭をよぎりました。
 まさか、本当にそうなの?
 しかも、その理由を言わないだなんて――まるで、プロデューサーさんです。
「なのに、一人でふさぎ込んで、機嫌悪そうで……
 アタシ、分かんないよ! なんであんなに悔しそうに……!」
「莉嘉ちゃん、落ち着いて」
126: 以下、
 どうやら、並々ならない事情があるようです。
 直接話を聞かない事には、お話になりません。
「城ヶ崎美嘉さんを本件のメンバーに加えるのは、ここにいる皆の総意です。
 代替案は考えておりません」
 CPさんは、そう言い切りました。
 普段なら、不足の事態に備えて二の手、三の手を講じる彼にしては、とても強気の姿勢と言えます。
 そして、皆がそれで了解しているというのなら、話は早いです。
 卯月ちゃんの話によると、美嘉ちゃんはトレーニングルームにいたとのことでした。
 脇目も振らず、一心不乱に自分を追い込んでいるようであり、とても声を掛けられる雰囲気では無かったようです。
 ですが、それは卯月ちゃんのような、心根の優しい穏やかな子であるが故です。
 鬼でも悪魔でもありませんが――不肖、千川ちひろが鬼となるべきシーンであるというのなら、ここは喜んで。
「皆は、ついて来ないでください。CPさんも。
 美嘉ちゃんと、1対1でお話をしてみます」
 私の提案に、皆は同意してくれました。
127: 以下、
 目的のお部屋へ向かう道すがら、私はずっと考え事をしていました。
 言うまでもなく、来年度の予算資料に関することではありません。
 プロデューサーさんと美嘉ちゃんの、これまでの経緯についてです。
 多少の衝突はあったそうですが、サマーフェスではあれだけ強い信頼関係を見せていた二人です。
 お互いに、思い入れが無いはずはありません。
 それなのに、プロデューサーさんは、自分が担当になるのは美嘉ちゃんも嫌だろうと推察し、現に美嘉ちゃんは断ったのです。
 莉嘉ちゃんの言う通り、もし美嘉ちゃんが本当に、プロデューサーさんの事を拒否しているというのなら――。
 考えられる理由は、おそらく二つです。
 一つは、美嘉ちゃんが彼の事を、本当に心の底から失望しているという理由。
 すなわち、プロデューサーさんが彼女に対し、すっかり幻滅させるような事を言ってしまった可能性。
 もう一つは、本当は一緒にお仕事をしたいけれど、それが敵わない何かしらの事情があるという説。
 気になるのは、美嘉ちゃん自身が「やらない」「もういい」と言っているという話です。
 一緒に「できない」のではなく――。
 美嘉ちゃんは、プロデューサーさんのことを嫌いになったのでしょうか?
 いずれにせよ、一つだけ言える確かな事があります。
128: 以下、
 トレーニングルームの扉をそぉっと開けて、中を覗いてみます。
 部屋の奥の、大鏡と窓際の壁に挟まれた隅っこの方――。
 虚空を見つめるような表情で、美嘉ちゃんは床に腰を下ろしていました。
 ペットボトルを手に、タオルを首に巻いて、休憩中のようです。
 すぅっと扉を開けて、中に入ると、美嘉ちゃんはボーッとした表情のまま、その顔を私の方へと向けました。
 汗はすっかり引いているように見えます。
 どのくらいその状態でいたのでしょう。
「……ちひろさん」
129: 以下、
 しばらく沈黙したのち、美嘉ちゃんは何がおかしいのか、フッと鼻で笑い、立ち上がりました。
「あの人のこと?」
「そうです」
「いい」
 言うまでもなくそれは、グッドではなく、ノーサンキューの方の「いい」でした。
 ある程度、覚悟はしていたはずですが――。
 先のプロデューサーさんと同様に、明確な拒絶を前にすると、結構堪えます。
「アタシはやらないから。
 ほら、その、なんだっけ……常務って人の、プロジェクトクローネとかいうヤツ?
 アレで忙しくなるだろうし、未央とか、もっと他にやりたい子いたんでしょ?
 その子が入れば……」
 ――急に、美嘉ちゃんは言葉をピタリと止め、俯いてしまいました。
130: 以下、
「……美嘉ちゃん?」
 自分ではなく、他にやりたい子にやらせればいい。
 おそらくそう言いたかったのでしょうし、それは一見、もっともであると思われます。
 ですが、なぜそこまで言って、言い淀むのでしょう?
 ここに来るまでの間に整理し、一つだけ得ることのできた確信を、彼女にぶつける時です。
「あの人の事について……何か、話を聞いたんですね?」
「……!」
 美嘉ちゃんの肩が、ピクリと揺れました。
「この346プロに配属された経緯や、彼が抱えている事情を……」
 ――何となくですが、検討はついています。
 いいえ。私自身、気づかないフリをしていただけなのかも知れません。
「近いうちに、プロデューサーさんは……346プロを去るつもりでいる、ということでしょうか」
「……ねぇ、ちひろさん」
131: 以下、
 美嘉ちゃんは俯いたまま、拳をギュッと握りしめました。
「前にさ、言ったよね?
 アタシをあの人に担当させるの、ちひろさんが偉い人達に進言してくれたからだ、って」
「正確には、CPさんを通じて、ですけどね」
「そのさ、えっと……もし、もしだよ?
 変なコト、言うけど……聞き流してくれて、いいけど、もしさ……」
 かぶりを振り、美嘉ちゃんは顔を上げました。
 それは、今にも泣き出しそうな、悲痛に満ちた笑顔でした。
「そういうの、他の事務所に対しても言えたり、する?」
「? ……どういう事ですか?」
「アハハ、ゴメンゴメン。
 意味分かんないよね……ホント、バカみたい……」
 美嘉ちゃんは、わざとらしく大きな声で笑い、頭をクシャクシャと掻きます。
 大袈裟な仕草になりすぎて、手を掻き上げた勢いで首に巻いていたタオルを引っかけ、床に落としてしまいました。
 それを見つめるように、彼女はまた、視線を床に落とします。
「だから、その……例えば、他の事務所の人に、ウチの人間になれ……とか?」
132: 以下、
「……プロデューサーさん、まさか」
「…………」
 美嘉ちゃんは、タオルを拾い上げ、元いた部屋の隅へとスタスタ歩き出しました。
 置いてあったバッグに荷物を押し込め、肩に背負って私に向き直ります。
「やっぱさ……聞き流してなんて、ムリ?」
「そこまで聞いてしまっては、ね」
「そっか」
「プロデューサーさん本人から、聞いたのですか?」
 美嘉ちゃんは俯いて、首を振りました。
「それじゃあ、今西部長……?」
 ――美嘉ちゃんは、俯いたまま答えません。
 そもそも、あの今西部長がわざわざ混乱を助長するような事をアイドルに伝えるとは思えませんでした。
 となると――。
「……美城常務、ですか」
 ――――。
133: 以下、
「ちひろさん、いるっ!?」
 突然、入口の扉がガチャッ!と開きました。
 慌てふためいた様子で中に入ってきたのは――。
「!? ……り、凜ちゃん?」
「……!?」
「はぁ、はぁ、はぁ……!」
 急いで走ってきたのか、凜ちゃんは肩で息をしていました。
 歳の割にとてもクールで冷静な彼女にしては、らしくもない、随分と慌てた様子です。
「どうしたんですか、凜ちゃん?」
「プロデューサー、やるって」
「えっ?」
「だから、美嘉達のプロデュース。常務が命令したみたい」
「……えっ!?」
134: 以下、
 まだ私からは、常務はおろか部長にさえ、何も話をしていません。
 凜ちゃんの話によれば、急にプロデューサーさんを呼び出し、その場でそれを命じたようです。
 まさに鶴の一声――というより、藪から棒どころか、手の平返しと言ってもいいくらいの急転直下です。
「私、クローネの用で常務の部屋に行って、その話をしたら……そういう話になった、って」
「何で……?」
 あまりに突然の事すぎて、頭が混乱しています。
 隣の美嘉ちゃんは、もっとでしょう。
 何か事情があったのは間違いないはずですが、常務にそれを質して素直に答えてくれるでしょうか?
 それとも、プロデューサーさんがプロデュースをしてくれるというのなら、何も聞かずにそれで良しとするべきでしょうか?
 結果的に、話は決して楽観できるものではありませんでした。
 そして、プロデューサーさんの急な人事の後、346プロ内でにわかに妙な噂が立ち始めたのです。
 346プロが、他の芸能事務所の買収を計画していると。
135: 以下、
 * * *
 プロデューサーさんのデスクは、再び専用のオフィスフロアに戻る――ことはなく。
 変わらず、私のデスクの隣に留まりました。
 それは、美城常務の指示であり、私が内心望んだことでもあり――。
 プロデューサーさんご自身の希望でもあったようです。
 美城常務がなぜ、そう指示したのかは分かりません。
 そもそも、プロデューサーさんの人事を急に変えた事の真意さえも、私にはまだ。
 でも、常務がプロデューサーさんの事を、厄介な存在だと捉えている事は明らかでした。
 ただでさえ異質な注目度を有する彼のデスクが、そのオフィスに舞い戻る事で、多少なり混乱が生じうると考えたのかも知れません。
 一方、私としては、やはり彼のことを間近で見守っておきたいという気持ちがありました。
 美嘉ちゃんの言葉から察するに、彼との別れは、きっと近いうちに訪れるのだと――今では、冷静に考えることが出来ています。
 ですがせめて、彼が何を求めにこの346プロへやって来たのかを知りたいのです。
 それまでは、もっとプロデューサーさんの事を――。
 ただ――。
「俺は、君達のプロデュースを行う事に同意していない」
136: 以下、
 きらりちゃん、杏ちゃん、蘭子ちゃん、菜々さん、そして美嘉ちゃん。
 トレーニングルームに集合した5人のアイドル達に向かって、プロデューサーさんは開口一番、そう言いました。
「で、でもぉ……常務からそう言われたんでしょぉ?」
 皆に動揺が広がります。
 きらりちゃんから恐る恐る尋ねられても、取りつく島も無いほどに、彼は冷徹な態度を崩しません。
「346プロ側から一方的に言い渡されたに過ぎない。
 仕方なく、こうして体裁こそ取り繕ってはいるが、実態の伴わないプロジェクトになるであろうことは予め覚悟してほしい」
 346プロ側――という他人行儀な言い方は、彼がこの事務所を離れようとしているという、私の中の疑念をますます強くさせます。
「じゃあさ、サブP。1コ質問」
 スッと手を上げたのは、杏ちゃんでした。
「あっ、今はサブPじゃないか」
「どうでもいいよ。好きに呼べばいい」
「じゃあ遠慮なく。サブPはさ、ここからどこかへ転職する予定があるの?」
 極めて端的で直球な杏ちゃんの質問に、皆がさらに驚きました。
 回りくどい事を嫌う彼女らしい言動ではありますが――。
 そんな中、プロデューサーさんは顔色一つ変えずに、小首を傾げてみせます。
「何の話だ?」
137: 以下、
「ここを辞めて、どこか他の事務所とか、違う業界に行ったりとかしないの?
 最近のサブPの奇行を見るに、てっきりここを出て行く算段がもうあるんだと思ってたけど」
「奇行とは心外だな。俺には転職をする予定なんて無いよ」
 肩をすくめ、鼻を鳴らして答えた彼の言葉に、杏ちゃんが「えっ」と声を漏らしました。
 それまで伏し目がちだった美嘉ちゃんも、思わず顔を上げます。
「サブP、辞めないの?」
「誰がどんな憶測でそんな事を言い出したのかは知らないが、346プロを辞めるなんてことは無い」
 杏ちゃんは、プロデューサーさんの顔をしばらくジッと見つめて、息をつきました。
「嘘じゃなさそうだね。
 サブP、嘘をつくの下手だから、見ればすぐ分かるはずなんだけど」
「それじゃあ……!」
「勘違いをしないでくれ」
 菜々さんの表情がパァッと明るくなったのも束の間、プロデューサーさんがピシャリと釘を刺しました。
「俺は皆のプロデュースをする気なんて無い。
 皆の方こそ、俺なんかに構う事など考えず、誰か他のプロデューサーに鞍替えするよう動いた方がいい。
 何なら、俺も斡旋には協力するし、シンデレラプロジェクトの所属だった子達は早々に元へ戻るべきだ」
138: 以下、
「どうして……?」
 蘭子ちゃんがポツリと呟き、やがてぶんぶんと頭を振って続けます。
「我が友は、我らと共に歩む気概が潰えたと言…」
「蘭子、君の言葉はよく分からない」
「! ……ッ」
 蘭子ちゃんは言葉を詰まらせました。
 目には涙がウルウルと溜まり、今にもこぼれ落ちそうです。
「な、ナナ達のこと、プロデューサーさんは嫌いになっちゃったんですか……?」
 それまで無表情を貫いていたプロデューサーさんの顔が、少しずつ曇ってきたように見えました。
「…………」
「プロデューサーさんがプロデュースをしたくない理由は、ナナ達にあるんですか?」
「…………」
139: 以下、
 とても苦しそうな彼の表情を見て、再確認しました。
 プロデューサーさんとしても、あのような露骨に冷たい態度を取ることは、決して本意では無いのです。
 嘘をつけないプロデューサーさんが、菜々さんの質問に答えられない事が、何よりの証拠でした。
「……そんなに俺にプロデュースしてほしいのか」
 深いため息をついて、プロデューサーさんが皆を見渡します。
 蘭子ちゃんは小さく頷き、他の子達も、真っ直ぐに彼のことを見つめ返しています。
「なら条件を出そう」
 そう言って、プロデューサーさんはきらりちゃんの方へ向き直りました。
 彼女の大きな身体がピンッと伸びます。
「きらり。君は『グラン・コレクト』のオーディションに合格してみせろ」
「……ふぇっ!?」
「彼らの眼鏡に適うトップモデルの仲間入りを果たせたなら、君のプロデュースをする」
 プロデューサーさんが言った『グラン・コレクト』とは、国内でも最高峰のファッション・ショーです。
 権威ある国内外のアーティストやモデルさんが勢揃いするものであり、346プロのモデル部門でさえ過去に出場できた人はいません。
140: 以下、
「杏は、そうだな……仕事をしてもらおうか。週七で」
「週七? え、休み無し?」
「内容は何でもいい。グラビアでも番組収録でも、地方の営業でも、好きにすればいい。
 ただ、自分で仕事を取ってくるんだ。他のアイドルのプロデューサーに頼み込んで、それに同行するでも良しとしよう」
「随分アバウトで乱暴な条件だね。労基に訴えるよ?」
 杏ちゃんが鼻を鳴らしても、プロデューサーは動じません
「好きにするんだな。条件が合わないというのなら、この話は終わりだ」
「…………」
「蘭子」
「は、はいっ……!」
 ひどく突拍子も無い言い草を続けるプロデューサーさんを前に、蘭子ちゃんは早くも不安そうです。
「君は『オールド・ホイッスル』に出演して、武田蒼一氏に実力を認めさせ、彼に曲を作ってもらえ」
「えっ……」
141: 以下、
 業界屈指の音楽プロデューサー、武田蒼一氏が監督する音楽番組――『オールド・ホイッスル』。
 その番組に出演するには、氏から直々のオファーを得る以外に無く、未だかつて、番組史上アイドルで出演を果たした人は唯一人しかいません。
 まして、曲を作ってもらった事がある人なんて――。
「菜々さん」
「な、ナナは……あの……」
 普段ならさん付けを注意する菜々さんですが、すっかりプロデューサーさんに気圧され、何も言い返せずにいます。
「『アイドルアルティメイト』で優勝してみせろ」
「……はっ!?」
 プロデューサーさんが提示したのは、国内トップクラスのアイドル達が勢揃いする一大フェスイベントです。
 アイドルなら誰もが夢見る大舞台こそが『アイドルアルティメイト』であり、出演するには相応の実績を摘まなくてはなりません。
 まだアイドルとして満足に活動できていない菜々さんには、あまりに酷な条件です。
142: 以下、
 そう――あまりにも無茶苦茶です。
 彼がプロデュースの条件として突きつけたものは、そもそもプロデューサー自身がそれに適うようアイドル達を導くべきもの。
 言わば、彼自身が行うべき仕事であり、彼自身が目指さなければならないものでもあるのです。
 自分の立場を棚に上げ、一方的にアイドル達に無理難題を押しつけるその姿は、横暴そのものでした。
 プロデューサーさんが、デスクを私の隣のままとなるよう望んだのは、アイドル達のためではありません。
 むしろ、彼女達から――プロデュースの現場から、少しでも遠ざかるためだったのです。
 そして、最後の一人へとプロデューサーさんは向き直ります。
「美嘉、君は…」
「玲音さんにライブイベントで勝つ」
「……何?」
 美嘉ちゃんは、真っ直ぐに彼を睨み上げました。
「どう? 文句ある?」
 プロデューサーさんが提示するより先に、美嘉ちゃんの方から条件を突きつけてみせたのです。
 しかし――。
「本気で言っているのか? 美嘉」
143: 以下、
 言うまでもなく、全てのアイドル達の頂点。
 史上唯一のオーバーランク・アイドル。
 遙か雲の上の存在とも言える玲音さんを相手に、ライブ対決での勝利を公言することの重みは、美嘉ちゃん自身が一番良く分かっているはずです。
「よく分かったよ。
 アンタは本当にアタシ達と、これっぽっちも付き合う気なんか無いんだってこと」
 美嘉ちゃんは、悔しそうに唇を噛み、肩を震わせました。
「でも……それでも、分からせてやるんだ。
 アンタの代わりが務まるプロデューサーなんて、どこにもいないんだって。
 どんなに無理だとしても、アタシ達は……アタシは、そんなの認めてないんだって」
 息をつき、美嘉ちゃんは顔を上げました。
 大きな瞳から涙を流すその姿に、誰もが息を飲みました。
「プロデュースをしたくない? つまんないウソを言わないでよ!
 百歩譲ってウソじゃないとしても、今に是が非でも担当したいって思わせてやるんだから!!
 アタシは……! 絶対に、諦めないから……!!」
144: 以下、
「……結果が全てだ、美嘉」
 美嘉ちゃんを諭すようなプロデューサーさんの語り口は、穏やかでしたが、およそ説得に足る内容ではありません。
「なぜお前がそうまでして俺にこだわるのか知らないが……
 俺は、お前達の過程の努力を評価するつもりは無い。
 いいか、無駄な努力はよすんだ。お前が一番分かっているはずだろう」
「うるっさい!!」
 美嘉ちゃんは悔しそうにかぶりを振りました。
「まるでアタシを……言うこと聞かない、子供みたいに……!!
 分からず屋なの、プロデューサーの方じゃんっ!! バカッ!!」
「み、美嘉ちゃん……!」
 溢れんばかりの激情を吐き出し、ボロボロと流れる涙を振りまいて、美嘉ちゃんは大股歩きで部屋から出て行ってしまいました。
「…………」
 プロデューサーさんは、頭をポリポリと掻き、両手に腰を当ててため息をつきます。
「皆……俺がさっき皆に言った事は、全て戯れ事だ。
 ふざけた条件に付き合い、無駄な労力を費やす必要なんてどこにも無い。いいな」
「サブPちゃん、あのね?」
145: 以下、
 皆の視線が、きらりちゃんに集まります。
 どういう訳か、とても楽しそうに笑っています。
「……ありがとにぃ☆ きらりにこぉ?んなおっきい目標をくれて♪」
「えっ?」
「出来るかどうか分かんないくらいおっきな夢の方が、たくさんきゅんきゅんパワーでハピハピできるゆぉ☆
 サブPちゃん、きらりから目、放せなくなっちゃうの、楽しみだなぁ?♪」
「何を言っ…」
「ククク……!」
 困惑するプロデューサーさんの言葉を、これ見よがしに忍ぶ蘭子ちゃんの笑い声が遮りました。
 案の定、彼女は額に手を当て、いかにもそれらしいポーズを決めています。
「覇道を突き進むは、このグリモワールにて既に定められし事!
 約束の地があるなら、たとえ那由多の果てにある茨の道も恐れる道理など無いわ!」
 ぶわっ! と雄々しく手を振り出し、蘭子ちゃんは見栄を切りました。
 彼女も、引くつもりは無さそうです。
 プロデューサーさんの目が、菜々さんの方へと向きます。
 彼女は、モジモジと身体の前で手を揉んだのち、顔を上げました。
「ナナも……やります」
 それは普段と比べ、あまり大きくはないけれど、力強い決意を滲ませる声色でした。
「ずっと、憧れていました、IU……アイドルアルティメイト。
 ナナがIUに出れるんだとしたら、こんなに嬉しいことはありません」
146: 以下、
「分かっているのか?
 IUに出場するには、業界関係者からの推薦以外では、IU予選大会あるいは特定のオーディションでの優勝が必要だ。
 その予選とかに出るのだって、相応の実績が評価されてからの話になる。
 つまり、君はスタートラインに立つ事すらできない。最初から話になっていないんだ」
「プロデューサーさんこそ、分かっていませんねぇ?」
 菜々さんは、含み笑いを浮かべながらチッチッと指を顔の前で振りました。
 なんかこのジェスチャー――古臭いとは言いませんが、まともに見たのは久しぶりのような気がします。
「ウサミンリサーチによれば、IUの出場条件は近年改正されて、新たに一つ追加されたんですよ」
「何だって?」
「それは、ファン投票。
 開催時期の数ヶ月前に開設される特設サイトの自由投票欄で、最多得票数を獲得したアイドルが一人、出場できるようになったんです。
 業界のコネや、ライブ等による優勝経験が無くても、ファンの人達からの知名度と熱い支持があれば、菜々にも可能性はあります!」
「いや、それは……第一、数ヶ月前ってもうそろそろ開かれ…」
「あるんです、可能性はっ!
 というわけでナナは、これから地方巡業の旅に出ます。
 協力してもらえる人を探して、たくさんの人達にウサミンって呼んでもらえるように、いっぱい顔を売ってきますねっ!」
147: 以下、
 プロデューサーさんは、頭を抱えてしまいました。
 よりにもよって、業界研究に余念が無いアイドルオタクとも言うべき菜々さんに、わずかでも可能性の芽を与えてしまった、という表情です。
「……まさか、お前まで付き合うだなんて言わないよな?」
 そして、まるで助けを求めるように、残る一人に向き直ります。
 プロデューサーさんが慎重に尋ねると、杏ちゃんは肩をすくめました。
「杏的にも残念だけど、サブPが想定してたようなWin-Winにはならないみたいだね」
「何だと?」
「まっ、この流れで杏だけ抗っても立場が無さそうだし。
 お仕事、何でもいいんでしょ? まぁ心配しないでよ。
 レギュレーションの編み目をかいくぐって最低限の努力をしてサボるのは、自慢じゃないけど杏得意だから」
「馬鹿な……!」
 ひどく困惑するプロデューサーさんを見て、杏ちゃんはニヤニヤと楽しそうに笑いました。
 あまり底意地のよろしくない所が、彼女にはあるようです。
 でも、口には出さなくとも、それは皆との調和を大事にしてこその言動であることは明らかでした。
「……勝手にしろ。俺は知らないからな」
 やっとの思いで絞り出すように、プロデューサーさんはそう吐き捨て、部屋を後にしていきました。
148: 以下、
 彼の言った言葉が、私はずっと胸に引っかかっています。
 346プロを辞めることは無い――。
 額面通り受け取るのなら、それはきっと喜ばしい事であるはずです。
 私が勝手に抱いていた疑念が晴れて、アイドルの子達も、まだあの人と一緒にいられることを意味する言葉なのだと。
 なぜ、そのように信じ切る事ができないかと言うと、美嘉ちゃんです。
 事情を一番理解しているはずの美嘉ちゃんの、あんなに悔しそうな姿――。
 そして、私はとある憶測にたどり着きました。
 346プロを辞めないことと、346プロを去ることが、矛盾しないのだとしたら?
 ――例えば、他の事務所の人に、ウチの人間になれ……とか?
149: 以下、
「他のプロダクションの買収騒ぎか」
 少し提出が遅れてしまった予算資料と一緒にお渡しした芸能雑誌を、美城常務はデスクの上に投げ置きました。
「まさか、君までこんな荒唐無稽な噂話を信じているなどとは言わないだろうな?」
「……火の無い所に、煙は立たないとも言います」
「信じられないな」
 美城常務は椅子をグルリと回転し、背面にあるガラス張りの眼下に広がる街並みへと視線を移しました。
「君はもう少し賢い人物だと思っていた。
 城を築き上げようという者達が、つまらん戯れ事にいちいち振り回されていては話にもならない」
「嘘だと仰るのなら……嘘だと、この場で否定していただきたいんです」
 私がそう言っても、常務はまるで素知らぬ振りです。
「私はアイドル部門の統括だ。
 346プロダクションという会社全体の運営そのものに関わる事を、自身の一存で決められる立場ではない。
 故に、私にはこんな事に口を挟む意思も権限も無い」
「ですが、常務は美城会長のご子息です」
 美城常務は背を向けたまま、顔を半分だけこちらに向け、私を睨みつけました。
150: 以下、
「常務が、プロデューサーさんをあまり快く思っておられなかった事は、存じ上げています。
 彼のことを、プロデュースの場から引き剥がし、346プロから追い出そうとしていた事も」
 それは、私の目にも明らかでした。
 なぜそうしなければならないのか、ずっと不思議でした。
「それは、あの人が……346プロの人間ではないからではないでしょうか?」
「…………」
「だから、美嘉ちゃんにも彼の素性について話をした。違いますか?」
「何?」
 美城常務の語気が、急に強くなりました。
 気圧されてはなるまいと、私も唾を飲み込み、顎をグッと引きます。
「彼の周囲に疑念と混乱を与えるために……
 私とあの人との賭け事について、美嘉ちゃんに話をしたのも、常務ではなかったでしょうか」
151: 以下、
「何の話だ」
 呆れるように息をついた常務は、改めて椅子に背を預け直しました。
「あのサマーフェスは、城ヶ崎美嘉を始め、アイドル達による危機意識が上手くプラスに働いた事で収めた成功だ。
 何を賭けたかは知らないが、仮に私がその賭け事とやらについて知っていたとして、わざわざそれを彼女に伝えても何一つ有益な事など無い」
「誰もサマーフェスの話だなんて、言っていません」
「……!」
 背を向けたまま、美城常務の身体が一瞬強張ったのを、私は見逃しませんでした。
 やっぱり、常務だったんだ――。
「彼はアイドルを自身の道具としか考えていない……そう思い込ませるために、常務は美嘉ちゃんに、賭け事の話を明かしました。
 でも、美嘉ちゃんはそれで失望するどころか、逆にそれをフェス成功に繋げるための気力に変えたんです。
 だから、もう一度美嘉ちゃんとプロデューサーさんを引き離すために、あなたは美嘉ちゃんに、彼の素性を明かした」
「……その賭け事を、私がいつ知ったと?」
 椅子をこちらに向け直し、美城常務は私を睨み上げました。
「公式ファンサイトにて、私の身に覚えのない管理者権限によるログイン履歴がありました」
152: 以下、
 資料室でその話をプロデューサーさんに持ち出した、あの日――。
 私はもう一つ、彼に嘘をつきました。
 賭け事の場として、私が提示した346プロのファンサイトは、非公式ではないのです。
 また、投票によりアイドルの優劣を競った事実も、過去にありません。
 ファンや有志の方々の手で編集できるページも、用意されてはいます。
 ですが、それらの更新は全て、346プロの情報システム担当である私の承認を経た上で反映される仕組みになっています。
 つまり、彼に説明した「業界に精通した管理人」とは、何を隠そう私のことです。
 ただ、事務所の社員には、これを無闇に閲覧してはならないというお触れがあるのは事実です。
 悪意のある二次情報が、私の監視の目をかいくぐって反映される可能性も無くはないからです。
 やっぱり、私一人で全て監視するというのも、荷が重いですし。
 そして、あの日の翌日、私は――。
 サイト設立以来初めての投票ページを作成し、サマーフェス終了時に更新されるよう、タイマーをセットしました。
 順当に行けば、そのページがアップされてしまうはずだったのです。
 ですが、そうはなりませんでした。
 私は、内心ホッとした一方で――当然、不思議に思いました。
153: 以下、
 管理者権限のログインIDとパスワードを付与されている者は、私の直属の課長と、今西部長と、美城常務だけ。
 課長は、すっかり私にそれらの更新を丸投げ、もとい一任しています。
 一度も触ったことすら無く、大方とっくにIDとパスワードも忘れていることでしょう。
 今西部長は、なおのことそうだと思われます。
 となると――。
 着任早々に、事務所の全てをこの目で確かめるという姿勢を見せていた、主導性の強い上役――。
「状況的に見て、あのページを削除した人物としては、美城常務が最も可能性が高いと思ったんです」
「……そのページを出力し、シンデレラプロジェクトのプロデューサーに、それを見せた」
 私は、ハッと息を呑みました。
「彼らとしても、決して本意ではなかったらしい事は、彼からの説明で理解したつもりだ」
 常務は椅子から立ち上がり、大きなデスクを回り込むように、私の方へと歩み寄ってきました。
「概ね、君の推察した通りだ。
 城ヶ崎美嘉をはじめ、我が事務所のアイドルとあのプロデューサーを引き合わせる事は、アイドルにとって有益ではない。
 そして、彼自身にとってもだ」
「それは……あの人が近いうちに、この346プロを去るからですか?」
154: 以下、
 私の声は、きっと震えていただろうと思います。
 それは、重役と間近に相対したからではありません。
「そうだ」
 常務の言葉に、私はなぜか、ひどく落ち着きました。
 暗澹とした諦めと言った方が正しいかも知れません。しかし――。
 すぐにそれは、無理やり晴らしました。
「ではなぜ、彼をもう一度美嘉ちゃん達の担当プロデューサーとなるよう命じたのですかっ!?」
 美城常務は、ほんの少しだけ押し黙ったのち、ため息をつきました。
「要請があったからだ」
「えっ?」
 要請――プロデューサーさんについての?
「それは一体、誰から……いいえ、どこからの」
「じきに分かるだろう。それともう一つ」
156: 以下、
 デスクの上にあった雑誌を手に取り、常務はそれを私に差し出しました。
「この噂は事実ではない。
 それはアイドル部門の統括として、そして会長の腹づもりを知る者として、明確に否定させてもらう。
 だが……当たらずとも遠からず、というべきか」
「……どういう事ですか?」
 雑誌を受け取った私は、心臓が嫌な高鳴りを続けるのを押さえることができません。
「我が346プロが組み入れようと考えたのは、事務所ではなかったということだ。
 もっとも、肝心の相手からは断られてしまったがな」
 ――気づくと美城常務は、入口のドアを開けて、そこに立っていました。
 私は、ほとんど放心状態のまま、しばらくその場に立ち尽くしていたようです。
「用が済んだのであれば帰りたまえ。
 混乱をさせてしまったなら、すまなかった」
157: 以下、
 プロデューサーさんが担当した5人のアイドル達は、1ヶ月も満たない間に、目覚ましい飛躍を遂げていきました。
 きらりちゃんは、その長身を活かしたモデル業を率先して行いました。
 圧倒的なプロポーションを持つ子ですし、個性の面で競合できる相手もいません。
 CPさんも全面的に協力し、それらの仕事を内々に斡旋していったことで、業界でもかなりの注目を浴びるようになりました。
「こういうのはぁ、ココをこうして……えいっ♪
 こんなワッペンを付けてあげると、すっごく可愛くなるんだにぃ☆」
 元々自分でも可愛らしいお洋服や小物を作る趣味を持っていた子です。
 トップモデルとして、等身大の女の子として、情報を発信し続けるきらりちゃんは、幅広い年齢層から多くの支持を受けるようになったのです。
 蘭子ちゃんは、なんと、武田蒼一氏と直に合う機会が得られたのです。
 これは、私の前で泣いてしまった新人プロデューサーさんから偶然にも活路が開かれたものでした。
 あの日、新人さんが懇親会を開いた相手方――その中に、武田氏とコンタクトを取れる人物がいたのです。
「蘭子ちゃんの未来がかかっています。
 先方へのご連絡とアポイントの獲得について、引き受けてくださいますね?」
「ひぃっ!? や、やります、やらせていただきますっ!!」
 瓢箪から駒というべきか。
 兎にも角にも、その新人さんのお尻を目一杯叩き、何とかマッチングの実現にこぎ着けました。
158: 以下、
 当日、蘭子ちゃんは大いに緊張したそうですが、武田氏の人柄に助けられ、次第に持ち前のキャラクターを発揮できるようになると、
「君、面白いね」
 と興味を持ってもらい、直々にボーカルトレーニングを受ける約束まで取りつけたそうです。
 菜々さんは、広報部の全面的なバックアップを得た上での地方営業に奔走しました。
 専用の動画配信チャンネルも設立し、現地での映像を逐次更新することで、その土地のファンを地道に獲得していったのです。
「こ、これはえぇと……アレですか、語尾に「なう」って言うヤツでしたっけ?」
 SNSの活用に慣れていない菜々さんを、現地での動画配信ができるようにするまで教育するのも、実は少し大変でした。
 でも、次第に動画のコメント欄には「次は○○に来てほしい」というフォロワーさんからのリクエストが多数寄せられるほどの人気チャンネルになったのでした。
 杏ちゃんはというと――あら?
 346カフェで、のんびりお茶しているようです。
159: 以下、
「お仕事、しなくていいんですか?」
 そう聞きながら、向かいの席に座ってみます。
 やはり、彼女はプロデューサーさんの出した条件に、付き合う気が無いのかしら。
「もう1?2分したら始めるよ、お仕事」
「えっ?」
 ニヤリと、明らかに確信犯っぽい含み笑いを見せた後、杏ちゃんは自分の目の前にタブレット端末を載せました。
「どれどれ……おっ、繋がった。菜々ちゃーん、聞こえる?」
『はいはーい! バッチリ届いてますよー杏ちゃーん!
 皆さんも一緒に杏ちゃんにウサミン電波を届けましょう、いいですかせーの!!』
『ウッサミーン!!』
「いやうるさいって」
 笑いながら、杏ちゃんはタブレットの画面に向かって手を振ります。
160: 以下、
 そうです。
 杏ちゃんは菜々さんとタッグを組み、菜々さんの地方営業に同行していたのです。
 リモートで。
「レギュレーションには違反していないでしょ。これぞ流行りのリモートワーク、ってね」
「でもそれ、菜々さん一人が頑張っているんじゃ……」
「菜々ちゃんの広報活動は杏も一肌脱いでるから、お互い様の持ちつ持たれつ。Win-Winだよ」
 実際、菜々さんの動画配信チャンネルのコメント欄を見ると、杏ちゃんの存在も動画の名物になっているようです。
 時折しでかしてしまう菜々さんの天然ボケに、杏ちゃんがやんわりツッコんだり。
 あるいは、杏ちゃんの「仕事しない」キャラが、ある種の癒やしになっていたり。
 確かに、杏ちゃんは毎日仕事をしています。
 毎日、ほんのちょびっとずつでも菜々さんのチャンネルページを更新したり、一部ワイプで出演したりと、なかなかの働きぶりです。
 そして――。
『今のアタシなら、きっと誰が相手でも負けないって思います。
 ライブ対決に負けるような“カリスマギャル”なんて、ファンの皆も求めてないでしょ?』
161: 以下、
 渋谷のメインストリートにある大きな電光掲示板に、今日も美嘉ちゃんの姿がデカデカと表示されました。
 最近、ますますメディアへの露出を増やしています。
 それは、プロデューサーさんを通して行っている活動ではありません。
 彼女自身が多方面の取材に応じ、必ず決まって話すことが、ファンのみならず業界全体で大きな話題を呼んでいるのです。
『何なら、玲音さんにだって負けないよ、アタシ☆
 機会があるなら、いつだって挑戦させてほしいな。絶対に楽しいライブ対決にしてみせるから!』
 それはまさに、オーバーランクに対する宣戦布告と言っても良い内容でした。
162: 以下、
「どうしてアイツ、わざわざあんな事を……!」
 連日のように寄せられる問合せの電話を置き、プロデューサーさんは頭を抱えました。
 メディアはこぞって美嘉ちゃんと玲音さん、二人のライブ対決の実現を煽り立てました。
 ネット上では、二人の対決に期待を寄せる声と、美嘉ちゃんを傲岸不遜だと非難する声と、およそ半々といったところです。
 いずれにせよ、美嘉ちゃんの発言をもって、それは遠からず実現させなくてはならなくなりました。
 なぜなら、その話を耳にした玲音さん当人が、すっかり乗り気になってしまったからです。
 大手メディアに向けて「ぜひやろうよ」と、実に楽しそうに答えていた姿が、ますます業界を沸かせました。
 普段の美嘉ちゃんは、決して驕り高ぶった態度を取ることなんてありません。
 目上の人に対する礼節をしっかりと弁え、現場のスタッフさん達にだって一人一人に頭を下げ、挨拶を交わすような子です。
 まして、相手はかのオーバーランク。
 美嘉ちゃんが畏敬の念を抱いていないはずがありませんでした。
「ああして公然と啖呵を切ることで、自分を追い込んだんですね……」
 私がポツリと漏らした言葉に、プロデューサーさんはため息をつきました。
「馬鹿なことを……くそっ」
 拳をデスクに叩きつけた後、「俺もか」と、小さく呟くのが聞こえました。
163: 以下、
 美嘉ちゃんと玲音さんのライブ対決について、日程はアッサリと決まりました。
 玲音さんのスケジュールが過密すぎるので、逆に選択肢が無かったのです。
 ただ、その日にちょうど空いている会場が都合良くあるかというと――ありました。
「サマーフェスと同じ会場ですか」
「困った時の、最後の受け皿という存在ですね」
 快諾してくれた竹芝のイベントホールの管理会社さんに、二人でご挨拶に行きます。
 担当者さんは、プロデューサーさんを気に入ってくれたようです。
「346プロに現れた風雲児として、業界ではちょっとした有名人ですよ。
 例の城ヶ崎美嘉ちゃんや、最近賑わせている安部菜々ちゃんの担当プロデューサーもあなたでしょう?」
「は、はぁ……」
「エンタメ業界は近年不況が続いていますからね。
 今後も346プロさんの方で、何か景気の良い話題を提供してもらえると、我々としても助かりますよ」
「……そうですね」
 担当者さんの言葉に、プロデューサーさんは曖昧な返事を繰り返すことしかできていませんでした。
164: 以下、
 PRやチケット販売の段取りを確認し、その場はお開きとなりました。
 事務所に戻ったら、これらの仕事を大急ぎで進めなくてはなりません。
 11月下旬に急遽セッティングされたライブ対決本番まで、もう一ヶ月も無いのです。
 竹芝のペデストリアンデッキにも、寒風が吹きすさぶようになりました。
 そろそろ厚手のコートを着ていないと、外を歩くのが少々辛い時期です。
 二人並んで歩いていると、ふとプロデューサーさんが足を止めました。
「? ……どうかされましたか?」
「ここで会ったんでしたね、俺達」
 ――多くの人が行き交うデッキの、あの手すりの辺りだったでしょうか。
 紺色の着物を纏った女の子の前で膝をつき、履き物を履かせている男性の姿が鮮明に思い出されます。
「もう8ヶ月か……」
 プロデューサーさんは、物憂げに眺めたまま、立ち尽くすばかりでした。
「俺は346プロで、一体何ができたんだろうなぁ」
「たくさんやりました。やってくださいました」
 隣に立ち、彼の横顔を見上げます。
「それに、まだ終わっていないじゃないですか。振り返るのは早いですよ」
165: 以下、
 チラリとプロデューサーさんは視線を向け、フッと自嘲気味に鼻を鳴らしました。
「それはそうかも知れないけど……でも、彼女達を振り回してばかりだった」
 プロデューサーさんはかぶりを振り、空を見上げました。
 昨日までは秋晴れが続いていたのに、どんよりとスッキリしない曇り空です。
 この人はなぜ、負い目を感じているのでしょうか。
 何を一人で、勝手に――。
「美嘉ちゃんが玲音さんに負けたら、きっとプロデューサーさん、自分の責任だって言うつもりでしょう?」
 プロデューサーさんが、驚いた顔をして私の方を向きました。
「それは、しない方がいいと思います。
 美嘉ちゃんだけじゃありません。きらりちゃんも蘭子ちゃんも、菜々さん、あるいは杏ちゃんも……。
 プロデューサーさんが与えた条件を達成できなくても、下手にあの子達を慰めちゃいけないと思います」
「どうしてですか?」
 少し鼻息を荒くして身体ごと向き直った彼に、私もまたしっかり見つめ返して答えます。
「あの子達は、今まさに成長の最中です。
 自分で走った末にたどり着く結果を、自分で認めさせてあげてください。
 大人の都合で、責任だけをあの子達から掠め取るようなやり方は、きっとあの子達だって納得を得られません」
166: 以下、
「それには同意できません、ちひろさん」
 プロデューサーさんは、語気を強めました。
「俺が与えた無茶な要求に、あいつらは苦しみ、振り回されています。
 その結果に対して、俺が責任を取らなければ、誰が責任を取るっていうんです。
 そんなの、俺は……」
「……なるあなたに」
「えっ」
 私の顔を凝視するプロデューサーさんの姿が、みるみるうちに滲んでいきます。
 プロデューサーさんだけじゃありません。
 向こうの手すりも、デッキも、往来を歩く人々の姿、向こうのビル群やその先に広がる灰色の雲も私の頭の中も――。
 全部グチャグチャになって、もう、何が何だか分かりません。
 今さら何を一人で――勝手なこと――!
「どうせいなくなるあなたに、何の責任が取れるって言うんですかっ!!」
「……!」
167: 以下、
 都内でも有数の国際競争拠点である竹芝の、綺麗で大きなペデストリアンデッキは、今日も大勢の人々が行き交います。
 私一人が変な挙動をしたところで、誰も気に留める人などいません。
 だから――あなただって――!
「自己満足の……安い、慰めなんて……!!」
「ち、ちひろさん……」
「プロデューサーさんっ!」
 突如、彼を呼ぶ声が聞こえました。
 私達二人の間に流れる重苦しい空気を叩く、快活で、高くて、柔らかくて――どこか悲痛そうな女の子の声。
 声のした方を向いて、私は思わず目を見張りました。
 私だって業界人です。
 キャスケット帽と大きな黒縁眼鏡で変装していても、明らかにその子だと分かります。
 昨年度アイドルアワードを受賞した、765プロダクション所属アイドルの、不動のセンター。
「春香……!」
168: 以下、
 プロデューサーさんもまた、彼女を前に釘付けになっていました。
 まさかこんな所で会おうなどとは、考えもしていなかったのでしょう。
 天海春香さんは、キャスケット帽を取りました。
 トレードマークとも言える愛らしい赤のリボンが、デッキの風にあおられ、儚げに揺れます。
「プロデューサーさん……!」
 まるで、数年来の再会を果たす家族のように見えました。
 おそらく、それは彼らにとって、事実そうであったのだと直感したのです。
「ちひろさん……すみません」
 プロデューサーさんは、私に向けて頭を下げました。
 私もまた、何も聞かずに頷き返します。
「先に……駅の方へ行っていますね」
 彼らの間には、積もる話があるに違いありません。
 私が邪魔してもいけないと思い、彼に依頼されるまでもなく、私は場を外しました。
169: 以下、
 いよいよ覚悟を決める時が来た。
 先に駅へと辿りつき、改札の前で一人待つ私の胸中は、その気持ちに支配されていました。
 私はまだいいんです。
 美城常務からお聞きしていたことでしたし、予測もしていました。
 仕事も、元に戻るだけです。彼がいなかった時の状態に。
 ですが――。
「すみません」
 顔を上げると、プロデューサーさんがすぐそこまで駆けて来ていました。
 随分急いできたのか、肩で息をしています。
「俺は……」
「私は、いいんです。もう、大体分かっています。でも……」
 私は、プロデューサーさんの顔を直視することができませんでした。
「あの子達には……ちゃんと説明をしてあげてください。
 CPさんや、シンデレラプロジェクトの皆にも……」
 少し押し黙った後、「はい」という彼の短い返事が聞こえ、私は駅へと向かいました。
170: 以下、
 その日のうちにCPさんにお願いし、アイドルの子達をシンデレラプロジェクトの事務室に呼び集めました。
 何事なのか分からず、未央ちゃんのようにキョトンと首を傾げる子もいれば、薄々何かを勘づいてそうな子もいます。
 ドライエリアから差し込む夕陽に照らされ、彼女達の前に立ったプロデューサーさんが、口を開きました。
「皆……俺は、346プロの人間ではない」
「765プロから、派遣交流でこの事務所にやってきたプロデューサーなんだ。
 そして、年内をもって346プロでの配属を終え、俺は765プロに戻ることになる」
「今まで言うことができなくて、すまなかった」
171: 以下、
今日はここまで。
明日はお休みして、明後日の14時頃以降に残りを投下していければと思います。
172: 以下、
見てるぞ
ひとまず乙
176: 以下、
 * * *
「皆、今日は来てくれてありがとう!
 こんなに熱くステキな夜を分かち合うことができて、本当に嬉しいよ。
 それも、この機会を与えてくれた城ヶ崎と346プロさんのおかげだ。改めて、心から感謝と敬意を表したい」
「もちろん、楽に勝てる相手だと思ってはいなかったさ。
 だけど、城ヶ崎のパフォーマンスは、アタシの想像を遙かに超えていた。
 こんなに脅かされるなんて……フフフッ、勝負を終えた安心からか、喜びと同時にワクワクが止まらないな」
「この場で皆に約束しよう! 城ヶ崎からのリターンマッチは、最優先で受け付ける!
 アタシの最大のライバルとして、共に最高のステージを共有し合う友として、いつでもこの会場に呼んでほしい!
 それまでアタシも城ヶ崎も、今日以上に皆を楽しませられるようトレーニングを重ねることを誓うよ!
 また会おう、皆っ!!」
177: 以下、
「転職する予定も、346プロを辞めることも無い、か……」
 12月を間近に控え、346カフェの屋外テラスも、そろそろ閉鎖の時期です。
 それまで鮮やかな紅葉を楽しむことができた中庭も、すっかり葉が落ちきってしまいました。
「確かに、嘘じゃないよね。元々346プロの人間じゃないんだから」
 タブレット端末をつまらなそうに弄りながら、杏ちゃんは独り言のように呟いています。
 菜々さんの動画チャンネルも、依然として好評ではあるものの、一時期よりかは少し再生数が落ち着いてきたようです。
「皆の近況、って言ったっけ?
 意外と普通だよ。菜々ちゃんはこの通り、地道に活動を続けてる。
 きらりと蘭子ちゃんは、少なからずショックで沈んでた時期もあったけど、今じゃ平静を取り戻して結構元気」
 端末の操作を終えると、杏ちゃんは椅子の上であぐらを組み直し、天井を見上げて大欠伸を掻きました。
「まぁ、いざとなったら皆シンデレラプロジェクトに行けばいいんだし。
 あ、ちひろさん知ってたっけ? CPが出した企画書、常務も認めたんだってさ。だから一応、解体は回避できたって話。
 シンデレラプロジェクトの皆も、クローネと掛け持ちしてる子も、何だかんだ仕事が忙しくなってきたみたいだね。
 そんなに心配するほどでもないと思うけど」
178: 以下、
 杏ちゃんのお話に、私はひとまずホッとしました。
 決まった事を認められず、いつまでも塞ぎ込んだり、行き場の無い感情を周囲にぶつけてしまうような子は、どうやらいなさそうです。
 皆――大人なんだなって、思います。
「ちひろさんの方こそ、どう?」
「えっ?」
「サブPは元気そう?」
 私は、顎に手を当てて「うーん」と唸りつつ、彼の近況を振り返りました。
「……表面上は?」
「そういうの、一番面倒くさいパターンだよね」
「い、いえ。私の観察眼も、あまり当てにはならないと思いますし」
 慌てて取り繕いつつ、私は自分のカップを手に取りました。
 ハーブティー、ちょっと冷めてしまったみたいです。
「ただ、最近はなんだか、忙しそう。
 それはそうだと思います。元の事務所に戻られるのですから、あまりボーッとしてもいられないのかなって」
179: 以下、
「なら安心したよ」
 杏ちゃんはオレンジジュースをずごごご、っと飲み干し、テーブルに置きました。
「余計な心配をかけさせちゃってるかなって、きらりも蘭子ちゃんも心配してたからさ。
 向こうがこっちの心配をしてる余裕も無いって言うんなら、何よりだね」
 鼻を慣らして椅子の上からピョンッと飛び降り、杏ちゃんは私に後ろ手で手を振りました。
「ま、向こうに戻っても達者で、とかなんとか適当に言っといてよ。
 ……あ、これ杏じゃなくて、皆が言ってたってことで。それじゃ、後はお会計お願いします」
「待ってください」
 私は、杏ちゃんを呼び止めました。
 彼女も、思うところがあったのか、すぐにピタリと足を止めます。
「……美嘉ちゃんは、どうですか?」
 杏ちゃんは、こちらを振り返らないまま、ポツリと答えました。
「まぁ……一番面倒くさいパターンだよ」
180: 以下、
 事務室へ戻ると、驚くべき光景がありました。
「こぉら、莉嘉!
 みりあちゃんもかな子ちゃんも、智絵里ちゃんもさっさと自分の所に戻る!
 さっきスケジュール見たけど、アンタ達もこんな所で油売ってる場合じゃないでしょ?」
 プロデューサーさんのデスクの隣で、美嘉ちゃんが莉嘉ちゃん達に、何やらお説教をしているみたいです。
 彼は、少し狼狽えているようでした。
「で、でも、サブPさん忙しそうだし、せめてクッキーでもって…」
「心配しなくても、かな子ちゃんの気持ちは伝わってるって。
 そうでしょプロデューサー?」
「あ、あぁ……そうだな」
「ねっ?」
「みりあは、もっとサブPとお話したいな、って……」
 得意げにウインクをキメる美嘉ちゃんを前に、みりあちゃんが身体の前で手をモジモジさせながら呟きました。
「美嘉ちゃんも……そうでしょ? もっとサブPと一緒にいたいって、思うよね?」
「そうだよ!
 お姉ちゃん、ウチに帰ってからもずーっと自分の部屋に閉じ籠もってるじゃん!」
「なっ……ば、り、莉嘉! 何余計なこと……!」
「ごはんー! って呼んでも全然来ないし、絶対サブPくんのこと、何とかしたいって思ってるんでしょ!?」
181: 以下、
 美嘉ちゃんは「あーもう」と呆れ気味に頭をクシャクシャと掻いて、これ見よがしに大きなため息を吐きました。
「何とかって何よ。あのね、いーい?
 皆にとっては初めてのプロデューサーだから一大事なのかもしんないけど、アタシはとっくにそういうの経験してんの。
 よく考えなよ、学校の担任の先生が変わるのと同じだよこんなの。あ、こんなのって言ったら失礼だけど……でも!
 この先もプロデューサーが変わることはあるんだし、いちいちウジウジしてたらアイドルやってらんないでしょ?」
 美嘉ちゃんは腰に手を当て、莉嘉ちゃん達の顔を順番に見渡しながら、「うんっ」と大きく頷きました。
 誰に対するものでもなく、自分を納得させるための動作に見えます。
 そのまま、彼女はプロデューサーさんの方へと向き直りました。
「アタシがヘコんでるとでも思った?」
「えっ? あ、いや……」
「アハハ、そんなキョドんなくたっていいじゃん★」
 ケラケラと茶化すように笑って、彼女は続けます。
 どこまでも笑顔で。
「アタシ、玲音さんと対決して良かったよ。
 玲音さんも言ってくれたけど、ホントに楽しかったし、何より、思った以上に勝負になれたことが、嬉しくてさ……達成感はあるんだ。
 だから、次はもっとやってやるんだって、燃えてるよ! 落ちこんでるヒマなんか、アタシには無いって★」
182: 以下、
 美嘉ちゃんと玲音さんのライブ対決は、おおよその下馬評通り、玲音さんの勝利に終わりました。
 ですがそれは、身内の欲目を抜きにしても、惜敗と評価して良い内容だったと言えます。
 ライブ終了後、玲音さんが美嘉ちゃんをたくさん褒めてくれたこともそうですが、観客達による投票結果も、非常に肉薄していました。
 ライブ前は美嘉ちゃんに多く寄せられていた心ない誹謗中傷も、ライブ後には軒並み少なくなったことも、その証左です。
 敗れこそしたものの、あのライブ対決は美嘉ちゃんの株を大きく上げるものとなりました。
 美嘉ちゃんだけじゃありません。
 きらりちゃんは、依然として新進気鋭のアイドル兼モデルとして、その個性も手伝って今ではかなりの著名人です。
 蘭子ちゃんも、武田蒼一氏から直々のボーカルトレーニングを受けた事で、業界でも評判を集めるほど歌唱力が飛躍的に伸びました。
 菜々さんと杏ちゃんも、先述の通りSNSを活躍の場として、主に若年層の間で話題を呼び続けています。
 その勢いたるや、全国放送の大手ニュース番組でも取り上げられるほどです。
 つまり、プロデューサーさんが彼女達に課した条件によって、皆、アイドルとして大きな成長を遂げていったのです。
183: 以下、
「あの人の経歴には驚きましたが、大いに納得を得られるものでした」
 CPさんは自分のパソコンを操作して何かを印刷し、椅子から立ち上がりました。
 手に持った紙には、765プロダクションの活動実績が記されてあるようです。
「これは……」
「彼が赴任する前の765プロのアイドル達は、失礼ながら、お世辞にも満足な活動が出来ているとは言い難いものでした。
 ですが、赴任して一年足らずで所属アイドル達全てを高ランクへと成長させ、さらには“シアター”と呼ばれる新規プロジェクトも発足されるようです」
「極めつけは、アイドルアワードを受賞した、天海春香さん……」
「そうです」
 これら全てが、プロデューサーさん一人の手腕によるものだとしたら――。
 いいえ、アイドル達自身による非常な努力も、当然にあったことでしょう。
 それでも、彼が来たことで、765プロは確実に変わった。
 ですが、疑問は未だに残されたままです。
「彼は……プロデューサーさんは、どうして今まで黙っていたのでしょう」
184: 以下、
「これは、私の勝手な推察になりますが」
 資料から目を離すと、CPさんの真っ直ぐな瞳がありました。
 この人は、あまり器用な人ではないので、大事なお話をする時、中途半端に誤魔化して取り繕うということをしません。
「まず、自身の事を色眼鏡で見られる事を避けたかったのかも知れません」
「色眼鏡……なるほど」
 今日の765プロ隆盛の立役者として、業界でも知られるプロデューサーが来たとなれば、我が社の社員も気を遣うでしょう。
 それだけでなく、もし下品なメディアに嗅ぎつけられたら、根も葉もない事を言われかねません。
 でも――。
「それは……結果論かも知れませんが、アイドルの子達のためを思う行動だったとは、私には思えません」
 私に同意してくれたのでしょう。
 CPさんは、小さく頷きました。
「……それとは別に、より確度の高い理由がもう一つあります」
「何ですか?」
「記憶していた限りでは……自分は346プロのアイドル達と、親密な関係になるべきではないと、あの人は仰っていたかと」
「!」
 ――好かれるべき人間じゃないからです。
185: 以下、
「それは……いずれ765プロに戻る身だから?」
「……打ち明けるタイミングが遅ければ遅いほど、アイドル達からの心証は悪くなります」
 私は、地団駄を踏みたい気持ちになりました。
 なぜそんな、面倒になると分かっていることを望んで行う必要があるのでしょう。
「そんなの……最初から、こっちに来なければ良かった話じゃないですか。
 なんで、あの人……その先に何を期待したんだか、分からないですよ……!」
 悔しくて、たまりません。
 最初から来なければ、初めからアイドルの子達も、悲しんだり、振り回されたりしなくて済んだはずでした。
「どうして、346プロに来たんですか……!
 こんな、誰も幸せにならないようなことが、どうして起きたっていうんですか!?」
「美城常務曰く、「罪を背負った」のだと」
 CPさんの言葉に、私は顔を上げました。
「? ……罪、って?」
186: 以下、
「常務も、理解をされてはいないようです。
 ただ、346プロにやってきた経緯として、あの人がそう言っていたと……それともう一つ」
 CPさんは、手元の資料に目を落としました。
「あの人が346プロで、何かを学び取りたいと考えていたのは、真実だったのだと思います。
 ですが、アイドル達と親密になる事を恐れ、シンデレラプロジェクトのサブとして配属される事を望んだ……」
「……!」
「彼がなぜ346プロに来たのか、また、自ら望んでのことだったのかは、分かりません。
 ただ、彼はこの346プロで……良くない意味で、空気のような存在でありたかったのかも知れません。
 それが適わなくなり、身の振り方を考えた末に、いっそ憎まれ役となることを選んだのではと。
 親密な間柄となって、その後の別れが辛くなることよりも」
「で、でもあの人は自分からアイドル達を担当……!?」
 私は即座に反論しようとしました。
 でも、気づいてしまったのです。
187: 以下、
 彼は確かに、サブのプロデューサーとしての仕事以外の業務も、自分から率先して行っていました。
 ですが、それはあくまで自分に与えられた裁量の範囲内でのことでした。
 自分が望んだ範囲内での――。
 そうです。
 あの時の、CPさんを最大限尊重するという彼の姿勢は、CPさんのために自らが一歩引くという献身ではありませんでした。
 彼は、いつだって346プロのアイドル達に対し、一定の距離感を保ちたかったのです。
 CPさんとアイドルの橋渡しを行い、彼にそれを押しつけることで、逆に自分自身はアイドル達と距離を置く。
 そして、明確にそれを越える裁量を与えてしまったのは、私。
 美嘉ちゃんの担当プロデューサーとしての道を彼に提示したのは、他ならぬ私だったのです。
「わ、私が……」
 でも、親密になるのを避けようとして、ワザと冷たく当たって――結果として美嘉ちゃんも、自分自身も追い込んで――。
 挙げ句の果ては、5人のアイドル達を担当することに――それも、私が皆に――。
「私が……狂わせた……?」
188: 以下、

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