白金燐子「夜光虫」back

白金燐子「夜光虫」


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 スマートフォンの時計には午前二時の表示。それを確認してから車の運転席に乗り込んで、バッグとスマホを助手席に放る。クラッチを踏み込んで、プッシュスタートを押し込んだ。
 セルの回る音が二度してから、エンジンに火が灯る。遠慮がちな排気音が夜半の冷たい空気を震わせた。
『1』の数字の辺りで微かに揺れるタコメーターを見つめながら、やっぱり寒いのは嫌いだ、とわたしは思う。
 季節は晩冬、二月の終わり。足元から身体の熱を奪っていく鋭い寒さも幾分和らいだとは言えども、夜中から明け方にかけては吐く息が真っ白に染め上げられる。手がかじかんでキーボードも思うように叩けないし、本当に寒いのは嫌いだ。
 それに、わたしにとって冬は別れの季節だ。
 一年前の今頃を思うと、今でもわたしの胸の中は色んな形がぐちゃぐちゃに混ざり合った気持ちで一杯になる。特に、温かな思い出が色濃く残る、この淡い青をしたスポーツハッチバックを運転している時は。
 それでもこの車に乗り続けているのだから、わたしもわたしでいつまでも未練がましい女だと思う。
 憂色のため息を吐き出す。それからシートベルトをして、わたしは家の車庫から車を出した。
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392: 以下、

 車の免許を取ったのは、二年前……大学一年生の春だった。
 いつか免許は取るだろうけど車を運転することは多分ないだろう。最初こそはそんな風に思っていた。その気持ちが変わったのは、あこちゃんと行ったゲームセンターでのことだった。
「りんりん、NFOのアーケードバージョンが出るんだって! やりに行こ!」
 そんな誘い文句に頷いて、二人で一緒にそれをプレイした。それから「一度やってみたかったんだ」とあこちゃんが言っていた、レースゲームで一緒に遊んだ。
 それは群馬最のお豆腐屋さんが主人公のゲームで、出てくる車の名前も全然分からなかったけど、それでもハンドルを握ってアクセルを踏み込むのが楽しかった。
 その時に初めて実際の車を動かしてみたいと思って、それからすぐに車の免許を取った。そして、「新しく車買うから、今あるやつは燐子の好きに使っていいぞ」と、お父さんが今まで乗っていた車を譲り受けることになった。
393: 以下、
 淡い青色をしたスポーツハッチバック。かつて日本で一番売れていた車の名前を冠しているそれは、スリーペダル……いわゆるMT、マニュアルトランスミッションだった。
 教習所では一応マニュアルで免許を取っていたから、道路交通法上は乗れる車。だけど流石に最初は怖かった。
「大丈夫だよ、今の技術はすごいから。この車はな、電子制御で発進のサポートとシフトチェンジ時の回転数を合わせてくれて……いやでもやっぱりそういうのは自分でやりたいっていうのもあるんだけどな? だけどやっぱりこういうのがあると楽だよ。だから大丈夫大丈夫」
 そんなことをお父さんは言っていたけど、免許を取りたてで、車の種類も未だによく分からないわたしには何を言っているのか理解できるはずもない。
 だから最初はお父さんに助手席に乗ってもらって運転していた。そうしてひと月も経つと、車の操作には慣れた。でもやっぱり公道はまだ少し怖かった。
394: 以下、
 そんな時にわたしのドライブに付き合ってくれたのが、紗夜さん――今は氷川さんと呼ぶべきか――だった。
「い、命の保証は出来ないけど……付き合ってください……」
「そんなものに私を巻き込むのね……」
 氷川さんはそう言って呆れたような顔をしていたけれど、わたしが頼めばいつだって助手席に乗ってくれた。
 わたしは運転席から眺める氷川さんのその横顔が好きだった。
 ありがとうございます、やっぱり優しいですね。そう言うと、いつも照れたように「別に」と助手席の窓へ顔を向ける仕草が愛おしかった。
 けれど、彼女がこの車に乗ることはきっともうないのだろう。
395: 以下、

 わたしは夜中の道路が好きだった。人も車も少ないそこをマイペースに走るのが好きだった。今日も今日とて、習慣になっている午前二時過ぎのドライブだ。
 国道を適当に北にのぼる。無心にクラッチを踏んでシフトを動かし、アクセルを踏み込む。窓の外を流れていく街灯や微かな家々の明かりを横目に、どこへ行くともなく、ただただ走り続ける。
 けれども赤信号に引っかかって手持ち無沙汰になると、どうしてもわたしの視線はがらんどうの助手席へ向いてしまう。
 そこにいるハズなんかないのに、それでももしかしたら、なんて愚かな期待を持ちながら、わたしの視線は左隣へたゆたう。だけどやっぱりそこには誰もいなくて、瞳には少し遠い助手席の窓の風景が映り込むだけ。
 かぶりを振って、努めてドライブのことだけを考えるようにする。
 いい加減今日の行き先を決めよう。そう思って、ナビのディスプレイをタッチした。
 その途端、いつかの冬の一日が脳裏に蘇る。
396: 以下、
 あれは海に向かって鳥居が立つ神社に朝日を見に行った時のことだ。
 あの日もいつものように氷川さんをわたしが迎えに行って、今日みたいに夜中の二時に出発して、茨城の大洗を目指した。
 氷川さんは「こんな夜更けに出かけるなんて、あまり良いことだとは言えないわね」なんて言っていた。だけど助手席の横顔は少し楽しそうで、それがすごく可愛いと思った。
 夜中の道路は空いていたから、わたしたちは午前五時前に目的地に着いてしまって、空が明るみ始めるまで駐車場でなんともない会話を交わした。エンジンは切っていたからどんどん車内の気温は下がるけど、家から持ってきておいた毛布にくるまって日の出を待っていた。
 ……あのまま時間が止まってくれていたならどんなに幸せだったろうか。
 寒い寒いと震えながら笑っていたことも、海に向かう鳥居にかかる鮮やかな朝日も、車に戻るとフロントガラスが凍っていたことも、その氷が溶けるまで肩を寄せ合っていたことも、今でも手を伸ばせば届く距離にあったならどれだけ幸せだったろうか。
397: 以下、
 ナビやシフトの操作。そのために忙しなく動くわたしの左手は、助手席の氷川さんの一番近くにあった。
 二人でナビと睨めっこしてはディスプレイに触れ、あるいは氷川さんがドリンクホルダーに手を伸ばした時にわたしがシフトを操作して、偶然重なる手と手。その時に感じられた、氷川さんの冷たかった右手の温もりが蘇ってしまう。
 だけど今のわたしは一人きり。寂れた冷たい街灯の下、夜の空気を震わせる車の中にそんな温もりなんてない。何度助手席を見たってそこはからっぽだ。
 考えないようにしていたのにまた氷川さんのことを考えてしまっている自分に自嘲とも落胆ともつかないため息を吐き出す。それから「今日は朝日でも見に行こう」と誰に聞かせるでもなく言葉にして、わたしは千葉に向かうことにした。
398: 以下、

 北にのぼり続けた国道を、荒川を超えた先の交差点で右に曲がり環状七号線に入る。それからしばらく道沿いに走り続け、国道14号線、船橋という青看板が見える側道に入り、東京湾を沿って千葉を目指した。
 東京を抜けるまではトラックやタクシーもそれなりに走っていたけど、千葉駅を超えて16号線へ入るころにはほとんどわたし以外の車は見当たらなくなった。
 そのまま内房に沿って南下し続けて、木更津金田ICから東京湾アクアラインに乗る。
 ETCレーンを通り抜け、3でアクセルを踏み込み、HUDの度表示が時80?になったところで6にシフトを入れる。右足の力を緩め、ほとんど惰性で走るように度を維持した。
 ナビのデジタル時計は午前五時だった。まだまだ朝日は遠くて、眼前に広がる西の空の低い場所には、少し欠けた丸い月が見える。
399: 以下、
 今日は朝日を見ようなんて思い立ったけど、わたしは朝が嫌いだ。習慣になっている夜中のドライブでは特にそう思う。
 東から明るみ始める空。徐々に増えていく交通量。
 夜が追い立てられて、わたしから離れていく。それを必死に追いかけようとしたところで、増えていく車のせいで思うように走れない。夜がどんどん遠くへ行ってしまう。どんなに手を伸ばしたって、懸命に走ったって、届かない場所へ行ってしまう。
 だから朝が嫌いだ。わたしはきっといつまでも夜が好きなんだ。ずっとずっと、あの冷たい温もりに浸されていたんだ。
 そんな子供みたいなわがままと未練を引きずって、わたしが操る車は海上道路を走る。
 時おり助手席に目をやると、誰もいない窓の向こうには真っ暗な海が彼方まで広がっていて、少しだけ怖くなった。
400: 以下、
 それを誤魔化すようにオーディオの音量を少し上げる。なんとはなしにつけていたFMラジオから、昔映画にされたらしい曲が流れてくる。意識してそれに耳を傾けて、歌詞を頭の中で咀嚼する。
 繰り返されていくゲーム。流れ落ちる赤い鼓動。心無きライオンがテレビの向こうで笑う。あんな風に子供のまんまで世界を動かせられるのなら、僕はどうして大人になりたいんだろう。
 そうしているうちに、道路の両脇に灯された光たちが次々と過ぎていく。明らかに度違反を取られるスピードで走るトラックが、右車線を駆け抜けていった。
 遠くなるそのナンバーを見送りながら、わたしもあれくらい急げば、もがけば、いつかまた届くのだろうか……と少しだけ考えた。
401: 以下、

 午前五時半前のパーキングエリアに人気は少なかった。二年くらい前に始まった改修工事も去年の春ごろにようやく終わって、東京湾のど真ん中に鎮座する五階建てのここには静寂が我が物顔でふんぞり返っている。
 わたしは車を降りると、パーキングエリアの中に入っているコンビニでカップのホットカフェラテを買った。それから四階の屋内休憩所の椅子に座って、東の方角をぼんやりと眺める。
 千葉方面に伸びる道路には白い灯りが煌々とさんざめいて、昔に遊んだ機械生命体とアンドロイドのゲームを思わせる。その仰々しさと機械的な外観が少し好きだった。
 そんな話を氷川さんに振ったら、彼女はなんと答えるだろうか。
「何事にも限度があるし、好きなのは知ってるけどやりすぎはよくないわ」と、少し呆れたような口調でわたしのゲーム好きを咎めるだろうか。
「白金さんが好きなゲームですか。少し興味があるわね」と、乗り気で話に付き合ってくれるだろうか。
「私はここより、川崎の工場夜景の方がそれに近いと思うわよ」と、まさかの既プレイ済みでそんなことを言ってくるだろうか。
402: 以下、
「ねぇ、どうですか……紗夜さん……」
 小さく呟いて、また左へ顔を向けた。静まり返った、誰もいない空間が瞳に映る。海を一望できるこの休憩所にはわたしひとりしかいなくて、返事なんてある訳がなかった。
 その現実を目の当たりにして、自分の心の中にあったのは諦観や寂寥、自嘲ともつかない曖昧な気持ちだった。
 もうわたしの左隣には、愛おしい彼女の姿はない。一年前の冬に他でもないあの人から別れを告げられた瞬間から、ずっとそうだった。
403: 以下、
 始まりはわたしから。終わりはあの人から。言葉にすれば簡潔明瞭で、一方通行の恋路が行き止まりにぶつかって途絶えたというだけのお話。世界中のそこかしこに溢れかえっている、ごく平凡なお話だ。
 そしてこのお話の中でのわたしは、さぞかし重たくて痛い女だろう。
 別れを告げられて、泣くでも縋るでもなくそれを受け入れて、一年経った今でも温かな思い出を捨てられずにいる。ただ彼女との日々を忘れないように何度も何度も繰り返しなぞり続けている。
404: 以下、
 わたしは夜が好きだ。夜は見たくないものを包み隠してくれる。
 痛みも後悔も、鏡に映る醜いわたしも、素知らぬ顔で隠してくれる。そして綺麗な光と温もりを持った思い出だけを際立たせてくれるから、より鮮明になった紗夜さんの残滓をわたしに感じさせてくれる。
 こんなことをしていたって何も変わらない。今じゃ疎遠な最愛の人に再び相見えることもない。そんな現実を忘れさせてくれて、仄暗い灯りをわたしに与えてくれる。
 だけどその灯りは朝日を前にするとあっという間に溶けていってしまうのだ。
 朝は嫌いだ。夜の残滓がくれた幻を余すことなく照らし上げては蹴散らして、わたしがひとりぼっちなことをこれ以上ないくらいに思い知らせてくる。
 いつまでも朝がやって来なければいいのに。そうすれば……わたしはずっと夜と寄り添い合って生きいけるのにな。
405: 以下、

 気が付いたら東の空が明るみ始めていた。
 知らぬうちにウトウトとしていたようだ。傍らに置いたカフェラテのカップに手をやると、半分ほど残っていた中身が随分冷えていた。
 少しため息を吐き出して、カップを持って立ち上がる。そして近くの水道に中身を捨てて、空になった容器もゴミ箱に捨てた。少し申し訳ない気分になったけれど、今は冷たいものを飲む気力がなかった。
 わたしは屋内休憩所を出て、エスカレーターで五階へ向かう。
 五階は展望デッキと直に繋がっていて、エスカレーターを上りきると、早朝の海風が身を切った。首を竦めて小さく独りごちる。ああ、やっぱり寒いのは大嫌いだ。
 微かに白くなる息を吐き出しながら展望デッキに出て、右手側の東の海に面している方へ歩いて行く。
 何ものにも邪魔されない視界の先の彼方には、太陽が僅かに顔を出していた。
406: 以下、
 眩しいな、と呟きながら、展望デッキの最前列の手すりへと向かった。
 板張りの床には露が降りていた。手すりのすぐ後ろにはベンチがあったけど、恐らくそこも濡れているだろうから、わたしは手すりに寄りかかる。
 瞳を強く射してくる朝焼け。それを正面からただジッと見つめる。
 徐々に太陽がその姿を現す。海の向こうの半円がだんだん大きくなっていって、やがて円形に近付いていく。そしていつしか水平線と切り離され、ぷっくりとした橙色の陽光が揺れる海面を強く照らしだした。
 今日も夜が追い立てられた。そしてわたしが拒んだ朝がやってきた。
 燃える日輪の光に写るわたしはどんな色をしているんだろうか。きっと仄暗い灯りなんてとうに霞んで、影みたいな暗い色をしているんだろう。
「……ああ、綺麗だなぁ」
 朝が嫌いだ。でも、やっぱりあの朝焼けは好きだ。綺麗で、キラキラしていて、温かいから。
 わたしもいつかはあんな光になれるだろうか。不意によぎったその問いに対して、きっと無理だろうな、と思った。
407: 以下、
 朝焼けを眺めたあと、わたしは駐車場に戻って車に乗り込む。
 がらんどうの助手席が一番に目について、手にしていたスマートフォンとバッグを後部座席に放り込んだ。
 クラッチを踏み込んで、プッシュスタートを押し込む。すぐにエンジンがかかり、暖房が足元から噴き出してくる。
 車のフロントガラスは凍ってなんかいなくて、少しだけ曇っていた。エアコンの吹き出し口をデフロスターに切り替えると、すぐにそれもとれていった。
「……帰ろう」
 わたしは呟いて、シートベルトを締める。サイドブレーキを下ろして、クラッチを踏んでシフトレバーを手にする。1に入れてクラッチを繋ぐと、電子制御されたエンジンが少し回転数を上げた。
 FMラジオではパーソナリティが天気の話をしている。木曜の夜を超えたら今年も冬が終わるらしい。
 それくらいなら寒がりのわたしでもきっと我慢できそうだな。そう思いながら、朝焼けに照らされた二月の帰り道をひとりで辿った。
408: 以下、

 冬が過ぎると、あっという間に桜の季節になっていた。
 冬は寒くて大嫌いだけど、春は暖かいから好きだった。特に桜の木を見ると、氷川さんとの始まりのことを思い出して少しだけ胸が温かかくなる。
 わたしたちの始まりもちょうど三月の終わり、桜の蕾が開きだしたころだ。
 花咲川に沿った道にある少し大きな公園。そこの小高い丘のようになっている場所に、一本だけあるちょっと背の低い桜の木。そこでわたしは、氷川さんに募る思いの丈を打ち明けた。
 それになんて思われるか、なんて返されるかが怖くてしょうがなかったけど、高校卒業という一つの節目を前に、わたしはなけなしの勇気を振り絞ったのだった。
 その答えは嬉しいものだったし、それからの一年間は幸せな日々が続いた。……だからこそ、去年の冬に別れてからのわたしは暗澹たる気持ちを影のように引きずって歩き続けているのだけど。
409: 以下、
 けれど、もういい加減それも終わりにするべきだろう。
 いつまでもいつまでも、彼女の影を探して俯いたまま歩いているんじゃ、いつかきっと転んでしまう。もうわたしも前を見て進むべきなんだ。
 だから、始まりになったあの場所で、わたしは自分にケジメをつけようと思っていた。
 家を出て、今ではもう懐かしい花咲川女子学園に続く道を歩く。
 花咲川沿いの道にも桜がたくさん植えられていて、開きだした花弁を道行く人たちが見上げる。わたしはその中に紛れ、ただ目的の場所だけを目指して歩を進め続ける。
 やがて目的の公園に辿り着いた。
 この近辺では比較的大きな広場と滑り台が一番に目に付く。その脇を通り抜けて、小高い丘のようになっている場所を目指す。
410: 以下、
 普段の運動不足が祟って少し息が上がりそうだったけど、新緑と桃色の花びらを鮮やかに照らすうらうらとした陽射しが気持ちよかった。
 やっぱり春は好きだ。温かくて、陽射しが気持ちよくて、またもう一度、新しくわたしを始められそうな予感を覚えさせてくれる。
 その新しいわたしの隣にはもう氷川さんの影も形もないのかもしれない。けれどそれでいいのかもしれない。前を向くということはきっとそういうことなんだと思う。
 でも、と少しだけ胸中で呟く。
(それでも、またどこかで紗夜さんと出会えたなら……素敵だな)
 もしもそうなったら、その時は笑おう。疎遠になったこともとても近くなったことも関係なく笑おう。何の後腐れもなかったように、無邪気に笑おう。今日つけにきたケジメは、多分そういう類のケジメだ。
 そんな決心を抱いたところで、丘を登りきる。
 そこには二年前の今日と同じように背の低い桜の木があって、色づき始めた枝を春の風がそよそよと揺らしていた。
411: 以下、
参考にしました
アンダーグラフ
『君の日、二月、帰り道』
『ユビサキから世界を』
https://youtu.be/3HKT-LyK0ts
りんりんの車
トヨタ カローラスポーツ
412: 以下、
氷川紗夜「燐光」
413: 以下、
 私には恋人がいた。その相手はかつて同じバンドでキーボードを担当していた白金燐子という女性で、高校を卒業する時に彼女から愛の告白をされた。
 目を瞑れば、今でもあの春の一幕を瞼の裏に鮮明に思い描ける。
 花咲川沿いの少し大きな公園の、小高い丘の上の、ちょっと背の低い桜の木の下。
 そこで、うつむき加減の顔を赤くさせた彼女から、静かな声をいつもより大きく震わせて、思いの丈を打ち明けられた。
 その告白を受けて、私に迷いがなかったと言えば嘘になるだろう。私と白金さんは女性同士だ。世間一般において、同性愛というのはまだまだ理解が及ばないものだという認識がある。
414: 以下、
 けれど、白金さんの懸命な言葉を受けて、私はネガティブな印象を抱くことがなかったのも事実だった。
 生徒会長と風紀委員長という関係。白金さんと私は、花咲川女子学園では大抵一緒にいたし、学校が終わっても同じバンドのメンバーとして共に行動することが多かった。
 その時間は私にとってとても心地のいいものであったし、そんな彼女ともっと深い関係になるということを想像すると、温かな想いが胸中に広がった。
 だから私は一生懸命な白金さんの言葉に頷いた。こんな私で良ければ、と。そうして私と白金さんはいわゆる恋人同士と呼ばれる関係になったのだった。
 その温かな関係は、去年の冬に終わりを告げた。
415: 以下、

「寒いわね……」
 大学の講義が終わって、駅へと向かう道すがら、私は巻いているマフラーに首をすぼめて小さく呟く。
 今日はこの冬一番の寒さだと朝のニュースで言っていた。それを聞いて、私は今でも彼女のことを考えてしまうのだからどうしようもないと思ったことを思い出す。
 別れを告げたのは私からなのに、事あるごとに、私は白金さんのことを脳裏に思い浮かべてしまう。今日みたいに冷たいビル風が吹き抜ける日なんかには、それが顕著だ。
「寒いの……本当に嫌いなんです……」と、静かな声が何をしていても頭によぎる。街中で見慣れた色と形の車を見かけるたびにそれを目で追って、そしていつまでも忘れられないナンバーとは違う数字をつけていることに気付いてため息を吐き出してしまう。
 こんなに面影を探してしまうなら別れ話なんてしなければよかったのに。追い出せそうにない思考を頭に浮かべたまま、私は雑踏に紛れて足を動かす。
416: 以下、

 私の脳裏に今でも特に強く根を張っている記憶があった。それは白金さんが乗っている淡い青色の車のことだとか、彼女と見た朝焼けだとか、そういう温かい記憶なんかじゃなく、私から別れを告げた日の記憶だ。
「もう、終わりにしませんか」
 そっけない私の言葉を聞いた白金さんは、一瞬でくしゃりと顔を歪ませて、それからまた何ともないような顔を必死に作ろうとしていた。そんな様子を見ていられずに、私は目を逸らした。
「……はい、分かり……ました」
 震えた声が私の鼓膜を揺らす。大好きな彼女の小さな声が、その時だけは絶対に聞きたくない音となって私を襲った。
 けれど、放ってしまった言葉は取り消せない。冗談です、とも言える訳がない。私とて、それなりの覚悟を持って彼女に別れを切り出したのだから。
417: 以下、
 私が二十歳になるひと月前にした別れ話は、さんざん悩んだ割にあっさりと終わった。私と彼女の関係も、ただの知人というものにあっけなく戻った。それだけの話。
 そう、ただそれだけの話のはずなのだ。それなのに、いつまでもいつまでも私の脳裏には白金さんの悲壮な表情と震えた声が張り付いている。
 自分の胸の深い場所まで潜れば、私の本当の気持ちというものが見えてくる。けれど、私はそれに蓋をして見て見ぬ振りを貫くことにした。
 何故ならこれは、この別れは、私たちに必要なものだったからだ。成人式を終えて、一つの節目として大人になった私たちには必要な別れだったんだ。
 私たちはいつまでも子供のままじゃいられない。好きなものを好きだと言うのはいいことだと思うけれど、それにだって限度がある。特に、世間様から認められないようなことは。
 だから白金さんをばっさりと振って、後腐れないように関係をなくす。彼女の傷付いた顔が私の胸を激しく切りつけたけど、これは必要な痛みなんだと自分に言い聞かせた。
 これでいいんだ、これが私たちのあるべき姿なんだ。
418: 以下、
 ……じゃあ、それからの私の行動はなんだろう。
 寒いという言葉、冬という言葉を聞く度に、静かな声が脳裏をかすめる。
 淡い青色の車を見かける度に、それを目で追い続ける。
 誕生日でもないのに彼女からもらったペンダントを、ほこりの一つも付かないよう後生大事に部屋に飾ってある。
 考えれば考えるほどに自分が愚かしくなるから、その行動の原理にも蓋をしておくことにした。
 私たちがあの頃描いていた未来。いつかの冬の日に、朝日を待って彼女の車の中でずっと喋っていたこと。毛布に包まりながら、大学を卒業したら、就職したら、二人でああしようこうしよう。
 そんなものは、もう二度と訪れることはないのだ。
419: 以下、

 季節は気付いたら移ろっているもので、三月初めの木曜日を超えてから、日ごとに気温は高くなっていった。
 私は寒いのも嫌いだけど、春もそこそこに苦手だった。
 春は始まりの季節、とはよく言うもので、忘れたくても忘れられないことが始まったこの季節を迎えると、自分の感情が上手に整理できなくなる。
 特に桜を見てしまうとダメだ。
 麗らかで柔らかい陽射しに映えるソメイヨシノは、かつての私たちの関係を如実にあらわす徒桜だ。せっかく綺麗に咲き誇ったのにすぐに散ってしまうその姿を自分に重ねると、胸がキュッとして泣きそうになる。私が見えないように蓋をしたものを、これでもかと目の前に突き付けてくる。
420: 以下、
 ……かつてはとても親しかった彼女。
 けれど、私は彼女の名前を一度だって呼んだことはなかった。
 いつでも名字に「さん」付け。私は名前で呼ばれているのに、どうしても私から同じように呼び返すことが出来なかった。
 それには照れも含まれていたけれど、結局のところ、私は彼女へ踏み込むのが怖かっただけなんだろう。
 約一年間の交際の中で、意図的に手を繋いだこともない。寒い季節は肩と肩が触れるくらい身を寄せ合ったこともあったけれど、それ以上身体的に接触したことはなかった。
 偶然の接触ならあった。彼女の運転する車の助手席に乗っている時、私がナビに触れたりドリンクホルダーの飲み物を取ろうとして、ちょうど白金さんの左手と私の右手がぶつかるというようなことだ。
 その時の手の温かさだとか柔らかさだとか、照れたようにはにかむ白金さんの横顔だとか、妙に熱を持ってしまう私の頬だとか、そういうことを思い出すと何とも言えない気持ちが心中に去来する。
421: 以下、
 いや、何とも言えないというのは私の臆病のせいか。
 私はきっと嬉しかったんだろう。けれど、それを認めてしまうと自分に歯止めが効かなくなるような気がした。
 これは世間一般では認められない関係だから、あまり踏み込んではいけない関係だから、と何重にも自制かけていたのだ。
 そもそもの話、そんな風に思うのなら最初から告白を断ればよかったのだ。そうすればよかったのだ。それならきっと白金さんだってそんなに傷付かなかったかもしれないし、私だってこんなに彼女のことを――
422: 以下、
「はぁ……」
 行き過ぎた思考をため息で無理 矢理止める。それから思うのは、やっぱり春は苦手だ、ということ。
 今日は三月の終わり。二年前に、私が白金さんに告白をされた日だった。
 今日も今日とて空は快晴で、春の温かな陽射しが容赦なく私の部屋に差し込んできていた。その窓からの光に心全部を暴かれそうになるのだから嫌になる。
 もういっそ、全て白日の下に晒してしまおうか。
 ふと思い立ったその考えが妙にしっくりと自分の腑に落ちた。もしかしたらの話だけど、目を逸らし続けるから気になるのであって、いっそ思い出もかつて言えなかった言葉たちも太陽の光に晒してみれば、それですっきり忘れられるのかもしれない。
 そう思って、思索に耽っていた椅子から立ち上がり、私は部屋を出た。
423: 以下、

 特に行き場所は決めていなかった。
 朗らかな陽光を一身に受けて、まだ若干の冷たさが残るそよ風に吹かれながら、私は花咲川に沿って歩を進める。
 川沿いに植えられた桜たちも徐々に蕾をほころばせていて、それを見上げる人たちがそこそこいたけど、私は桜には目もくれずに歩き続ける。
 そうしながら、私の中で燻る記憶たちを開き直りにも近い形で取り出して、胸の中でじっくりと眺めてみる。
424: 以下、
 ある一つの記憶は桜色をしていた。
 花咲川沿いの少し大きな公園の、小高い丘の上の、ちょっと背の低い桜の木の下での思い出。あの時に私の胸中に一番に浮かんだ感情の名前は、喜びだった。
425: 以下、
 ある一つの記憶は淡い青色をしていた。
「い、命の保証は出来ないけど……付き合ってください……」と、私の大好きな静かな声が揺れる。免許を取って、父親に車を譲ってもらったけど、まだ一人で運転するのは怖いから……という言葉に続いた誘い文句だった。
 それに返した私の言葉は捻くれていたけど、その裏にあった気持ちは「彼女に信頼されているんだ」という嬉しさだった。
426: 以下、
 ある一つの記憶は橙色をしていた。
 真冬の真夜中に淡い青色の車が迎えに来てくれて、もはや私だけの指定席になっている助手席に身を置いて、茨城の大洗に日の出を見に行ったこと。早く着きすぎて、二人で未来の話をしたこと。肩を寄せ合って、鳥居にかかる綺麗な橙色の朝焼けを見たこと。
 その時の私は幸せで、ものすごく怖くなった。
427: 以下、
 ある一つの記憶は透き通った青色をしていた。
 まだ誕生日には早いですけど、去年の分です。そんな前置きとともに渡された、青水晶のペンダント。私は照れてしまって、とても優しく微笑む彼女の顔を直視することが出来なかった。
 そのペンダントは一度も身に着けることなく、今でも特別に大切な宝物として私の部屋に飾ってある。
428: 以下、
 ある一つの記憶は灰色をしていた。
 別れを切り出した建て前は、世間では認められないことだから。けれど私の奥底にあった本当の気持ちはなんだったろうか。
429: 以下、
 そうだ、私はただ怖かったのだ。
 白金さんとの日々はとても温かくて幸せで、ずっとこんな日々が続けばいいと、本当は心の底から願っていた。
 だけど、物事にはいつだって終わりがつきものだ。諸行無常、盛者必衰。どれだけ美しい花が咲けど、それはいつか枯れてしまうし、知らぬ間に踏みにじられてしまうかもしれない。
 それが怖くて怖くて仕方なかった。いつこの温もりが消えるとも分からないのが恐ろしかった。
 白金さんに愛想を尽かされたら、世間から誹りを受けたら、この関係はきっとすぐに霧散する。それは元々の関係に戻るというだけのことだけど、私はもう幸せを知ってしまっていた。この幸せが奪われることでどれだけ自分が傷付くのか、寒い思いをするのか知ってしまっていた。
430: 以下、
 だから私は私自身の手で、その関係に終止符を打ったのだ。せめて傷が深くならないように、不意を打たれて死ぬほど惨めな思いをしないように、と。
 ああ、と小さく口から漏れた呟き。自分を貶すための言葉が種々様々に混ざり合っていた呟きだから、その色は工業廃水を垂れ流したドブ川の色に似ていた。
 なんてことはない。結局、私は自分が傷付きたくなかったのだ。その為に世界で一番大好きな人をみだりに傷付けたんだ。
 一枚ずつ剥がしていった建て前。蓋を外した本当の気持ち。それを今さら直視して思うことは、なんて嫌な人間だという自己嫌悪。
 一見筋の通ったような理由を重ねて、最愛の彼女を傷付けてでも守りたかったのは、私自身だったんだ。
 そのくせ白金さんの面影を探し続けているんだから、本当にどうしようもない。
 少し涙が浮かんできたのは花粉のせいにして、私は目元を一度拭う。それから始まりの公園に足を向けた。
431: 以下、
 目的の公園に辿り着くと、この近辺では比較的大きな広場と滑り台が一番に目に付く。その脇を通り抜けて、小高い丘のようになっている場所を目指す。
 ここへ来た理由は、私自身に勇気と覚悟を持たせるため。今になってこんなことを思ったって遅すぎるのは分かっているけれど、それでも私は彼女に……今でも大好きなままの白金さんに、面と向かって謝りたかった。
 今まで自分本位な気持ちでいてごめんなさい。傷付くことを恐れて、あなたを傷付けてごめんなさい。
 これもただの自己満足だと思う。今では疎遠な関係の女に、今さらそんなことを言われたってきっと彼女は迷惑するだろう。だけど、これは私が白金さんに対してつけなければいけないケジメだ。
432: 以下、
 そんな決心を抱いて、坂を登りきる。
 小高い丘には誰の姿もなくて、辺り一面新緑の木々に囲まれた中に、ポツンと一本だけ桜の木があった。あそこが始まりの場所だ。
 私はその傍に歩み寄って行って、幹に手を置く。桜はまだ半分ほどしか咲いていなかった。
 三月の終わり。かつて、白金さんに想いを告白された日と同じ日付。あの日もまだ桜は満開ではなかったことを思い出す。
「…………」
 黙ったままその花弁を見上げる。そして、あの時に白金さんがどれだけ勇気を振り絞っていたかを想像する。
433: 以下、
 彼女は引っ込み思案で、いつも遠慮をする。生徒会長になって初めてやった全校集会の挨拶は散々な出来で、それでもそんな自分を変えようとひたむきに努力をしていた。そんな白金さんがここで告白に臨んだ覚悟や勇気というのは、私では到底及ばないほどに強く大きいものだったろう。
 私も彼女のようになれるだろうか。名前の通り、夜のように暗く惨めな私でも、彼女のように凛とした光を持つことが出来るだろうか。
 いや、そうならないとダメだ。ここに来て、彼女の大きな勇気に触れたのはそのためだ。どんなに惨めな思いをしようと、詰られようと、一生癒えない傷を負おうと、今度は私が白金さんに告白をするんだ。
 建て前を全部脱ぎ捨てた気持ちで、今までのことの謝罪と感謝を伝えるんだ。
 そして、もしも彼女がまだ僅かな慈悲を私に抱いてくれているのなら、その時は……
434: 以下、
(……燐子さん。今でも私は、あなたのことが大好きです)
 ……ようやく掴んで吐き出した自分の弱さの底の底にあるこの言葉を、いつかあなたに伝えられますように。
 春の風が吹き抜けた。五分咲きの桜の枝がそよそよと揺れる。それに紛れて、後ろから控えめな足音が聞こえた。きっと桜の見物客だろう。
 ケジメはもうつけた。この先のことは私の覚悟次第だ。
 木の幹から手を離す。見物の妨げになるだろうから、邪魔者はもう帰ろう。帰って、一年と少し振りに白金さんにメッセージを送ろう。
 そう思い、桜に背を向けて、私は一歩を踏み出した。
 おわり
435: 以下、
参考にしました
アンダーグラフ
『君の声』
https://youtu.be/uSPIuZiXFC8
まったく関係ありませんが、バンドリ2期最終回良かったです。新曲の発売日が待ち遠しいです。
元スレ
http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1544965078/
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