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ドラえもん「のび太とノルウェイの森」


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1:
 風の音が強く鳴っていた。
 のび太は給水塔の手すりの上に腰掛け、街の灯りを眺めていた。
 先ほどまで傍にいたはずの蛍はどこかへと飛び去っていた。
 彼は目を閉じる。
 彼は、昔確かに存在していた日々を思い出そうとしていた。
7:
高校入学後、のび太は出木杉英才と仲良くなっていた。
そして、しずかちゃん出木杉、のび太は以前より更に絆を強めていた
ジャイアンは別の公立高校へ、そして、スネ夫は名門私立高校へと進学していた。
8:
しずか「私、出木杉さんと付き合うことになったの」
ある日しずかちゃんはのび太にそう告げた。
しずかちゃんの隣で出木杉くんは爽やかに微笑んでいた。
出木杉「ごめん、すぐに言い出せばよかったんだけど、でも遅くなっちゃって」
のび太「いつからなのさ?」
出木杉「一ヶ月前くらいだよ、僕から告白したんだ」
9:
のび太「そ、そうなんだ。おめでとう」
しずか&出木杉「ありがとう」
内心のび太の動揺はすさまじいものだったが、しかし彼はそれを何とかやり過ごした。
その日、のび太は二人の遊びの誘いを断り、そしてドラえもんの元へと急いだ。
のび太「ドラえもん!」
ドラえもん「なんだのび太くんか、どうしたんだい?」
のび太「かくかくしかじか」
10:
ドラえもん「おかしいな。ちょっと僕も調べて見るよ」
のび太「頼んだよ、未来が変わっちゃうなんてひどいや」
ドラえもんはのっそりとタイムマシンに乗り込んだ。
のび太はそれを見送ったのだが、しかし、ドラえもんは二度とのび太の元へと戻ってくることはなかった。
11:
一日ドラえもんが帰ってこないのに耐えかねたのび太が机の中を覗きこんだところ、タイムマシンへと入り口が途切れていた。
愕然としながら、彼は一週間の間待ち続けたものの、やはりドラえもんは帰ってこなかった。
やがてそれが一ヶ月になると、彼はもうほとんど諦めて、現実に向き合うことに決めた。
出木杉「最近話してない気がするな。大丈夫かい?」
のび太「ドラえもんが消えたんだ」
出木杉「ドラえもんが?」
のび太は頷いた。
13:
のび太は出木杉としずかちゃんを自室へと招き、そして使えなくなってしまったタイムマシンを示した。
出木杉「これはどういうことだろう」
しずか「多分未来に何かがあったのよ、だからドラちゃんは……」
慌てた様子の二人を前に、のび太は黙って考え込んでいた。
出木杉「のび太くんはどう思ってるんだい?」
のび太「僕は……」
14:
のび太「もう、ドラえもんは戻ってこないと思うんだ」
しずか「そんな! ドラちゃんは絶対戻ってくるわよ、私たちもできることを……」
出木杉「いや」
出木杉くんはしずかちゃんを遮って言った。
しずか「どうしてよ」
出木杉「僕はのび太くんの意志を尊重したい。多分、のび太くんにとってこれは意味のあることだと思うんだ。具体的に言えば、のび太くんは一人で頑張らなくちゃいけないってことなんだよ」
15:
しずか「そんな……」
しずかちゃんがのび太の方を縋るような目で見た。
しかしのび太は首を振った。
のび太「出木杉くんの言う通りだよ。僕は、もう一人でやってかなくちゃならないんだ」
しずか「でも……」
のび太「実際、僕らにできることは何もないよ。なんてったって、スペアポケットも何の手がかりもなく、ドラえもんは消えちゃったんだから」
18:
実際のところ、ドラえもんは全てのひみつ道具を持ったまま未来へと向かってしまったのだ。
だから、のび太には今道具を使った解決策は存在しなかったのである。
のび太「大丈夫、僕だってもう高校生なんだ。ドラえもんに頼りすぎてたくらいさ」
しずか「のび太さん……」
しずかは少し涙ぐみながらにのび太を見た。
出木杉が、少しだけ寂しそうに微笑んでいた。
出木杉「寂しくなるね、でも、これからはもっと三人で、そして、ジャイアンやスネ夫くんたちと頑張っていこう」
のび太&しずか「うん」
19:
そのようにして、多少の波乱はあったものの(事情を知らされたジャイアンが未来へ乗り込もうとごねた。どのみち不可能なことだった)、のび太の日常は戻ってきた。
何か現在の事情を変えれば、未来と現在との通路も開くのではないかと、のび太は考えてはいたが、実際に何かの行動を起こすことはなかった。
現実的に考えて、変化とは、つまり出木杉くんとしずかちゃんが付き合い始めたことが、変化らしい変化だった。
21:
ひょっとしたら二人が別れて、そして自分がしずかちゃんと交際を始めれば、未来と現在との通路が正常になるのではないか、と、そんな仮説も立てたが、彼は行動を避けた。
そして、のび太は高校二年生になっていた。
一年ほどが経っても、しずかちゃんと出木杉くんとの交際は順調で、そして、のび太はよく三人で遊びに出かけ、出木杉とも今まで通り付き合った。
そんなある日のことだった。
出木杉「のび太くん、午後の授業サボって、玉でも撞きにいかないかい」
23:
当然のことながら、のび太は驚いた。優等生の出木杉くんにしてはあまりにも珍しい発言だったのだ。
のび太「どうしたんだい一体、ビリヤードくらい放課後になってから三人でいきゃいいじゃないか」
出木杉「僕、今まで一度も学校の授業をサボったことないんだよ。付き合ってくれないかい?」
のび太「やれやれ」
結局、のび太は出木杉くんに付き合うことに決めた。
そして、その日がのび太が出木杉くんに顔を合わせた最後の日になった。
24:
出木杉くんのビリヤードの腕は中々のものだったが、しかしのび太の技量も出木杉くんに勝るとも劣らなかった。
しかし、出木杉くんのその日の集中力は、鬼神のごときものだった。
のび太は最初の一セットは取ったものの、後の三セットを圧倒され、そして、あえなくジュースを奢る羽目になった。
のび太「今日はやけに強いじゃないか」
出木杉「まあね」
その日の夜、出木杉は自宅の駐車場の赤いスポーツカーの中で自殺した。
25:
車の窓という窓の隙間をガムテープで塞ぎ、そして、排気パイプを延長し、窓の隙間から車内に入れ、エンジンを掛けたのである。
死ぬまでにどれくらいの時間が掛かったのかは分からないが、その日の夜、彼の家族が会食から戻った時には、彼はもう死んでいた。
しずかちゃんとのび太は出木杉の葬式に出席した。
しずかちゃんは葬式の場で涙を見せなかった。そして、のび太とも何一つ会話を交わさなかった。
学校では全校集会があり、出木杉の死について知らされた。
出木杉の机の上には、一ヶ月の間ずっと白い花の生けられた花瓶が置かれていた。
27:
事件はそれで終わった。
のび太も、しずかも、その間にほとんど会話を交わさなかった。
のび太の心には、何か空気の塊のようなものが残った。
28:
やがて、その事件を期に、のび太やしずかちゃん、そして、ジャイアンやスネ夫との繋がりは、希薄なものになっていった。
何故そうなったのか、のび太には分からなかった。しかし、出木杉の死はあまりにも重い事実だった。
そのような具合に、のび太は卒業までの一年余りを、ほとんど誰ともコミュニケーションを取らずに過ごした。
やがて、彼は東京の大学へと進学することに成功した。短期的に驚くべき集中力で成績は上昇していた。
29:
出木杉くんの事件から、一年あまりが経った。
もはや、のび太としずかちゃん、あるいは他の幼なじみとの間には、一切のやりとりは存在していなかった。
SNSなどによる会話も、彼らにはなかった。
言葉を交わさずとも、彼らはお互いに会話を避けようと暗黙の内に誓い合っていた。
30:
「のび太さん?」
大学一年生の、夏の半ばのことだった。
電車を待つ為に佇んでいたホームの片隅で、見知った顔にのび太は出会った。
のび太「しずかちゃん」
しずか「久しぶり、のび太さん」
31:
しずかちゃんは、のび太が覚えていた姿よりもずっと大人びた印象になっていた。
ふくよかだった頬からはやや丸みが落ち、そして、全体的にシャープな体型になっていた。
のび太「ここはいつも使う駅なの?」
しずか「ううん、今日はたまたま……のび太さん、ちょっと食事でもしに行かない?」
のび太は一も二もなく同意した。彼らは電車に乗り、小さな居酒屋に入って、少しだけ酒を飲んだ。
32:
しずかちゃんは近況を話し、そして、のび太はのび太で大学での話をした。
出木杉くんについての話を二人は巧妙に避けた。そして、二人はその日連絡を取り合うことを誓い、別れた。
のび太は東京の国立大学に通っていたが、しかし仕送りには余裕がなく、寮の相部屋に暮らしていた。
寮友「やあのび太くん、おかえり」
のび太「ただいま」
のび太はその日、夕飯も取らずにぐっすりと眠った。
34:
一週間後、携帯にしずかちゃんからのメールが来ていた。
久しく見なかった彼女の名前をメールボックスから見つけ、のび太は純粋に喜びを覚えた。
そして、のび太はその週の日曜にしずかちゃんとデートをすることに決めた。
未来が戻り始めているのかもしれない、と一瞬彼は考え、次の瞬間には猛烈に否定していた。
35:
未来が戻ることなどありえなかった。出木杉くんはもうこの世にいないのだ。
37:
のび太「やあ、待った」
しずか「全然。さあ、行きましょ」
しずかちゃんは、二人が再開した小さな駅舎の前で、かつてと同じように微笑んでいた。
二人は、少し値の張るステーキハウスで食事をした後、駅前のレンタルショップで幾つかの映画とCDを借りた。
そして、二人はしずかちゃんの部屋へと向かった。
39:
二人はまず借りてきたCDを聞いた。
その内の一つは、ビートルズのベストアルバムだった。そして、彼らはそのアルバムに収録されていた『ノルウェイの森』を聞いた。
しずかちゃんは、ソファの上で、のび太から僅かに距離を置き座っていた。
のび太はそこに不自然な感覚を覚えていた。
41:
しずか「懐かしいね」
しずかちゃんの声に、のび太は眉を寄せた。
のび太「僕はこの曲聴くの初めてだけど、しずかちゃんはそうじゃないの?」
のび太がそう聞いた時、彼はハッと気付いた。
しずかちゃんの目はどこか遠くを見るような、空白を写していた。
のび太「ごめん、なんでもないよ」
42:
この曲を、しずかちゃんは知っていて、そして、のび太は知らなかった。
しずか「ごめん、ちょっとトイレ」
しずかちゃんはそれでも、のび太に「懐かしい」と口にしたのである。
つまり、しずかちゃんはのび太と他の誰かを――つまりは出木杉とを――、一時的に混同してしまったのだ。
43:
のび太は、浮足立った気持ちでしずかが戻ってくるのを待った。そしてその時、何を話すべきなのかを考えていた。
やがて、しずかちゃんは無言で帰ってきた。そして、無言でレンタルのDVDを、テレビラックの下にあるプレイヤーへと押し込んだ。
のび太は黙っていた。
恐ろしく長く思える時間が過ぎていった。
44:
のび太はふと時計を見た。そこには、そろそろ十二時を回ろうとする時計が見えた。
無言の時間がどれくらい続いたのかは分からなかったが、のび太は切り上げ時と見ていた。
のび太「ごめん、そろそろ電車も無くなっちゃうからさ」
そうのび太が言うと、しずかちゃんは例の空っぽの瞳でのび太の方を見た。
二人は暫く見つめ合った。
45:
のび太は本能的に危険さを感じ取った。
何かが致命的に損なわれる予感を覚えた。
しずかちゃんの目から涙が零れた。
のび太は、彼女を抱きしめざるを得なかった。
46:
しずかちゃんは癇癪を起こしたかのように泣いた。
しずかちゃんの涙と体液で、のび太の服はすぐにべとべとになった。しかし、のび太はしずかちゃんの背中をさすり続けていた。
のび太は流れを押しとどめることができなかった。
47:
朝になって、のび太は置き手紙を残して、彼女の部屋を去った。
やはり、二人の間にはほとんど会話はなかった。
しずかちゃんはひどく痛がったが、のび太は時間を掛けることを厭わなかった。
聞くべきことがたくさんあったにも関わらず、背を向けてベッドに横たわるしずかちゃんは、何も語らなかった。
49:
『今日のことはまたいずれきちんと話そう。近い内にメール送ります』
 翌日になってメールを送った時、しずかちゃんの携帯は、着信拒否状態になってしまっていた。
50:
そして、一週間後になって彼女の部屋を訪れた時、その部屋がすでに引き払われていることにのび太は気付いた。
52:
のび太は、長い手紙を書いた。
それを、しずかちゃんの実家の住所に宛てて送った。
のび太「僕は間違ってしまったんだろうか」
のび太はそう自問した。
やがて、彼の元へと返信が届いた。しずかちゃんからのものだった。
53:
『こんにちは。お久しぶりです。
 長い間、手紙を書くことができない状態でした。結論から言うと、大学を休学することになりました。
 色々なことを、手付かずのまま放っておいたのですが、多分これが限界です。
 最後に、何があったとしても、それは私の責任です。のび太さんが後悔をする必要は全くありません。
 ではまたどこかで』
54:
のび太はその手紙を何百回となく読み返した。
そして、大学は夏季休暇を迎えることになった。
55:
寮友「寮の庭で、蛍を捕まえたんだ」
夏季休暇となり、寮の中で帰郷していないのはのび太と相部屋の寮友くらいのものだった。
寮友は、空っぽになったインスタントコーヒーの瓶に蛍と幾らかの草を詰め、のび太へと渡した。
寮友「女の子にでも見せなよ、きっと喜ぶからさ」
のび太「ありがとう」
56:
のび太は、寮友と別れ、そして寮の屋上に登った。
屋上の扉は施錠されていなかった。夏休み中ということもあり、屋上は開放状態になっていたのだ。
のび太は屋上の入り口の真上にある給水塔へと、梯子に手を掛けて登った。
そして、給水塔の、ペンキが剥げて錆びた手すりの上に腰掛け、街の方角を眺めた。
57:
ポケットに入れていた瓶を取り出し、そして、空気穴が幾つか空いたプラスチックの蓋を、のび太は開けた。
そして、暫くの間、のそのそと動き回る蛍の姿を彼は見守り、そして、指を瓶の中へと差し入れ、蛍が乗り移るのを待った。
60:
蛍は、暫くの間のび太の指の上を這い回っていた。少しだけくすぐったさを覚える。
蛍は自分の状況が分かっていないのか、あるいは、単に弱っているのか、ほとんど動こうとせず、のび太の指の上に留まっていた。
長い時間が流れた。
とても長い時間だった。やがて、蛍は羽を広げ、街の方向へと飛んだ。
そして、蛍は失われた時間を取り戻そうとするかのように、緑色の軌跡を宙に残した。
のび太はその軌跡を長い間眺めていた。
63:
のび太は大学院を卒業後、工学系の研究室に勤めることになった。
しかし二年ほど後になり、限界を覚えた彼は職を辞した。
しずかちゃんが、京都の療養施設で自殺したのを知って、五年後のことだった。
64:

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