勇者「君こそが、僕を救ってくれるんだ」【中編】back

勇者「君こそが、僕を救ってくれるんだ」【中編】


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1:
14
久しぶりの船だ。大きな海が眼前に広がっている。
勇者の気分は海の底へ沈む錨のように落ち込んでいく。
入れ替わるように吐き気が込み上げてくる。
海はいいものだが、船はどうにも好きになれない。
甲板から海を眺めるのは決して悪くはない気分だった。
潮の匂いもどちらかというと好きなものだった。
大きな海は小さなことを忘れさせてくれる。でも吐き気だけは忘れさせてくれない。
遠くには海の他に、塔が見える。一度目に船に乗った時に見た塔だ。
海の真ん中の塔は、いったいなにを意図して建てられたのだろう。
そんな小さな思考は陽光を反射する波に攫われて、巨大な海に溶けていく。
412:
第一王国を発った勇者と僧侶は、真っ直ぐ大陸の西側の港町を目指した。
港町までは約二週間を要した。
途中には枯れた森があり、そこには大きな蟲が跋扈していたが、
どれも大した強さではなかった。森にも蟲にも、生命力がないのだ。
まるで滅んでしまった町を歩いているような気分だった。
あの森も病で滅んだのだろうか、と勇者は考える。
怪物が弱っているのはそれで説明が付くが、
森が枯れたことを考えると病は関係ないのでは、とも思う。
今更になって、吐き気といっしょに疑問が込み上げてくる。
第一王国は、ほんとうに病で滅んだのだろうか?
枯れた森と第一王国は、同じ理由で死んだように思える。
そう思い込みたいだけなのかもしれない。でも、そういうふうにしか考えられない。
どちらも病で滅んだのではなく、まるで生命力だけを何かに――
あるいは誰かに――ごっそり持っていかれたように思える。
ふたつが同じ理由で滅んだというのであると仮定した場合の仮説だったが、
勇者はそれが正解であると、確信に近い感情を持っていた。
そしてそれには魔王が関係している――そう確信した。
413:
「どしたの、ぼーっとして」と隣の僧侶が言う。
「いや、ちょっと考え事をしてたんだ」と勇者は言う。
「いったいなにが起こってるんだろうね。あの大陸に」
「そうだね。ちょっとおかしい。森も町もだめになるなんて、異常だ」
「それも大陸の西側だけ。でも港は大丈夫だった」
港町は静かで、でもたしかに賑わっていた。
以前に訪れた港町と、ほとんどなにも変わらない光景だった。
枯れた土地を抜けてそこを見たときは、
不安定だった心が内側に根を下ろしたように落ち着いた。
その時は改めて、自分たちが異常な空間にいたということを知った。
「西の大陸はどうなんだろうね」僧侶は海を眺める。
その目はどこかに想いを馳せるように淋しげなものに見える。
あるいは誰かに想いを馳せるような。
思えば南の大陸にも長居したものだ。すこし名残惜しくもある。
勇者はそう思うが、僧侶はすこし違った想いだった。
それは複雑で混沌としたもので、ある意味では破壊的な感情でもあった。
「西の大陸かあ」勇者はその言葉を噛みしめるように語尾を引き伸ばす。
「あんまり実感は湧かないけど、遠いところまで来たもんだね」
「ほんとうにね」
414:
西の大陸の港町に降り立ったのは、その日の夕方だった。
船から降りた勇者は、いつか感じた足元が揺れるような感覚に襲われる。
それは懐かしい感覚だった。踏ん張って辺りを見渡す。周りにあるのは木箱ばかりだ。
木箱の向こうには市場のような場所があり、その奥には階段が見える。
階段から右に視線をずらすと、たくましい灯台が見えた。
「大丈夫?」僧侶は勇者を支える。
「大丈夫じゃないかも」と勇者は答える。「船は苦手だ……」
「さっさと宿で休もうか」
「うん……」
415:
僧侶に肩を借りて、木箱の間を縫うように歩く。
以前なら彼女に支えられているだけでも心臓がはちきれそうになったのに、
今はなんとも思うことができない。良くも悪くも変わってしまったのだ、と勇者は思う。
どちらかというと、悪い方に傾いてしまった。
どちらにも大きな傷ができてしまった。それは決して埋まることのない深い傷だ。
ある程度は時間が癒してくれるが、それ以上は回復しないような傷だ。
そしてふたりはその傷の再生を待たずに、無理やり泥で埋めてしまった。
泥はもう固まっていて、取り除くことはできなくなってしまった。
泥を掻き出そうとするものなら、きっとさらに大きな傷ができてしまう。
傷は海のように深くて暗い。
でも、このまま進むしかない。仕方のない事なんだ。勇者は自分に言い聞かせる。
416:
宿は階段を登った先の広場にあった。
ふたりは迷わずにそこへ入り、部屋をひとつ借りた。
ふっくらとした体躯の老けた男はふたりを部屋に通すと、
「ごゆっくりどうぞ」と模範的な捨て台詞と、業務的な笑顔を残して去っていった。
しばらくすると夜が訪れる。月光が窓を通してふたりの身体を照らす。
そしてふたりは暗い部屋で身体を重ねる。躊躇も抵抗も拒絶もなく、
ふたりは当然のように簡単にそれを受け入れる。
交わることは、もはや呼吸と変わらなくなってしまっていた。
止めることで死んでしまう部分がある。お互いを感じることで前に進むことができる。
依存することで人間の姿を保つことができる。
これは脳を騙す薬のようなものだ、と理解していても、
止めることはできなかった。止めるつもりは微塵もなかった。
それは決して苦痛ではなかったからだった。
むしろ心地よく、天国に昇るような快楽をふたりにもたらした。
ふたりはその行為により、いくつもの傷を泥で埋め合った。
慰め合うようで、押し付け合うようでもあった。
心の底ではいつかこうなることを望んでいたのも事実だった。
勇者は、ずっと焦がれてきた彼女と交わることを、どこかで喜んでいた。
417:
勇者が果てると、僧侶はしばらく宙を見つめたあと、キスをしてから風呂へ向かう。
ベッドの上に取り残されるような形になった勇者は酷い罪悪感に苛まれる。
吐き出した精と入れ替わるように、黒々とした泥水のようなものが内に湧き上がる。
これでいいのだろうか、と勇者は思う。
彼女はほんとうに僕のことが好きだったのだろうか?
いいや、好きだったのは間違いない。僕と彼女の間には愛があった。
ただ、それはきっと兄弟愛や家族愛のようなものだった。
決して肉体を求めるようなものではなかったはずだ。
彼女は、ほんとうは戦士のことを異性として好いていたのではないか?
きっと僕は弟のようなものでしかなかった。でもあいつはいなくなった。
彼女の心の拠り所はなくなってしまった。
支えてくれる柱を失ってしまった。守ってくれる壁を失ってしまった。
だから僕は代わりに選ばれた。
彼女が見る僕の姿には、戦士の影が写っているということに、最近ようやく気がついた。
だから彼女は最初の日に、「きみにひどいことをする」と言った。
それはきっとそういうことなんだろう。
それでも構わない。彼女の力になれるのならもう、なんだって構わない。
418:
でも、僕と交わることで彼女は決して癒されない。
彼女もそれを理解している。それでも僕と身体を重ねる。
もしかすると、彼女は僕を慰めるためにこうしてくれているのだろうか?
でも、それなら「ひどいこと」にはならないはずだ。
すくなくとも、僕から見ればそれはひどいことではない。
彼女は僕にひどいことをしていると思っている。
「ひどいこと」の意味を説明せずに、僕を利用していると思い込んでいる。
つまり、そういうことだ。僕は彼女の最後の居場所ではない。
僕は彼女の終着点への階段のようなものだ。
それはとても悲しいことだと思う。でも、仕方ないとも思う。
僕は戦士のように力もないし、勇敢でもないし、泣き虫で赤面症だ。
勇者とは名ばかりだ。人間として欠落している部分があるようにも思える。
もしかすると、僕は怪物なのかもしれないな。どうだろう?
419:
「どしたの、ぼーっとして」風呂あがりの僧侶は言う。
タオルを巻いているが、なめらかな曲線を描く身体はくっきりと見える。
「なんでもない」と勇者は言う。手で周囲を探り、散らばった服を掴む。
「ちょっと頭がくらくらするんだ」
「わたしのせいかな?」
「かもしれない。君はすごいからね」
「喜んでいいのかよくわからない褒め言葉だね」僧侶は勇者の隣に腰掛ける。
小さなベッドが悲鳴を上げるように長く軋んだ音を吐く。
「わたしもくらくらするよ。君はすごいからね」
「そう言ってもらえると僕は嬉しいな」
「そっか」彼女は勇者の額に触れる。それ以上はなにも言わない。
420:
勇者は彼女の顔を見つめる。
彼女は優しい視線を落としながら、女神のように微笑む。
しばらくすると、何かを思い出したように表情は翳りを帯びる。
額に置かれた細い指が頬を這い、唇にぶつかる。
何かを忘れ去ろうとするように、ふたりはもう一度身体を重ねる。
それは数日間続く。その後ふたりは町を出て北上する。
421:

きみの内側の感情の波はぶつかり合い、大きな渦を作り出す、と影は言う。
今は内側にあるが、すぐにきみはその渦に飲み込まれてしまう。
いくつもの感情が混ざったその渦には境界線がない。
それらの混沌とした感情は、ひとつのものとして生まれ変わろうとしている。
そしてそれは近いうちに底知れない破壊衝動に姿を変える。
きみはそれを何かに、あるいは誰かにぶつけたい。できることなら私に。
それでいいんだ。自分だけを信じて進めばいい。
きみは勇者なんだから、魔王を討つことだけを考えていればいい。
私はきみを迎え入れる責任がある。私はきみを肥溜めのような世界に
送り出した原因のひとつであり、王であり、きみの中では魔王である。
きみは勇者ではなかったはずだ。そうだろう?
しかしもう、誰かの言葉はきみにとって本物になってしまった。
422:
きみは勇者で、私は魔王だ。
私たちの関係は太古から続く因縁のようなものであり、大きな流れの中にある規則だ。
隠された法則、それは必然として世界の中に存在する。運命というやつだ。
そして今、きみの渦はひとつの完成形になった。歪んだ欲望、真っ直ぐな殺意だ。
でもここは、まだ通過点のひとつなんだ。
それは完成されてはいるが、巨視的に見れば綺麗なものだ。
きみの渦はもっと黒く濁っていく。血と泥で汚れていく。
殺意なんて生易しいものでは終わらない。
破壊衝動の先にはきっときみの望んだものがある。
きみはどこまでも落ちていくことができる。
なにも心配することはない。近いうちにきみは私と出会う。
そういう運命なんだ。私はきみと会うのが楽しみだ。
すこし怖いけれどな。
423:
15
第二王国を発ったユーシャと魔法使いは、時間をかけて大陸西の港町に辿り着く。
奇妙な石像が印象的だったが、その他にはこれといったものはなかった。
強いて言うならば、複雑な構造をしている町だったということくらいだろう。
まるで蜂の巣か、蜘蛛の巣のようだった。
到着から一日開けて、船に乗り込む。船の旅は二日目に差し掛かっていた。
ユーシャはベッドに寝転びながら、青い顔で言う。
「だから、船はだめなんだって……」
「情けないわね」と、ベッドに腰掛けた魔法使いは呆れながら言う。
そして彼の額を撫でる。なんだか今にも死んでしまいそうな表情をしている。
ふたりは東の大陸行きの船の、小さな部屋でくつろいでいた。
部屋にはベッドと机と椅子と窓がひとつずつあるだけだ。
424:
円形の窓からは、うんざりするほどの広さの海が望める。
光を弾く波に混じって粒のように小さな泡がいくつもある。
海にはなにもない。海があるだけで、ほかにはあの塔しか見えない。
遠くに聳え立つ塔はここからだと小さく見えるが、かなり大きなもののようだ。
海の中心に立つ塔。五つのうちのひとつと言っていただろうか。
あれは空を支える柱で、その天辺には番人と呼ばれるようななにかがいる、と。
得体の知れないものに意味をこじつけたいという気持ちもわからなくはないが、
それにしても、もうすこしまともな意味を与えるべきではないのだろうか。
どう見てもあの塔は空まで届いていない。いや、それ以前の問題が多々ある。
そんな適当な御伽噺を信じろというのが無理な話だ。
ならば、結局あの塔にはどんな意味があるのだろう?
425:
「ねえ、あの塔って結局はなんだと思う?」と魔法使いは言った。
ユーシャはゆっくりと視線を窓の外に向ける。
「さあ、何なんだろうな。俺にはさっぱりわからん」
「だと思った」
「なんだよ。じゃあ、お前にはあれが何なのかがわかるのかよ」
「さっぱりわからん」と魔法使いは声を低くして言う。
「だと思ったよ」ユーシャは笑った。
426:
三日ぶりの揺れていない地面だ、とユーシャは安堵する。
でも足元は揺れているような感覚だ。いい加減にしてほしい、と地面を蹴る。
敷き詰められた石と擦れて、靴がきゅっきゅと間抜けな音で鳴く。
なんなんだ、これは。苛々する。
「なにしてんの?」と魔法使いは笑いをこらえて言う。
「足元がふらふらしてて、なんか落ち着かないんだよ」
「杖を貸してあげようか? おじいちゃん」
「いらない。なんでお前は平気なんだよ」
「あんたがおかしいのよ」魔法使いは杖をユーシャに投げる。
ユーシャはそれを反射的にキャッチする。
「反応がいいのね。おじいちゃん」と魔法使いは続けて、辺りを見渡す。
この港街も、今まで見てきたものと劇的に違うというようなものはない。
船に市場に大量の木箱。そして潮の香り。どこにいても大して変わらない。
でも、流れている空気は南の大陸と比べるとすこし冷たい。
それは自分たちが東の大陸に来たということを改めて確認させてくれる。
あまり実感はないが、随分と遠いところまで来たのだ。
427:
「どうする? もう宿でゆっくりする?」と魔法使いはユーシャの周りを回りながら言う。
空は赤く、夜が近づいてきているのを感じさせてくれる。
「できることなら今日はゆっくりしたい」とユーシャは杖に体重をかけて言う。
顔色はあまりよろしくない。「船はだめだ」
「なさけない」
魔法使いはふらふらと、ユーシャを笑顔で見守りながら歩き始める。
彼は杖を突いてそれに続く。
町はそれなりに大きなものだった。
木箱の間を縫い、停泊所から市場へ、市場から広場へ向かう。
どこにもひとが溢れている。心なしか、みんな楽しそうに見える。
そういうものを見ると、どうしても第一王国のことを思い出してしまう。
あの禿げた男は元気なのだろうか?
結局、見せたいものとはなんだったのだろう?
428:
広場をぐるぐると回っていると、宿屋は見つかった。小さな宿だ。
ほかに宿を探すのも面倒だったので、そこに入って部屋を借りた。
案内されたのは、二階にある小さな宿によく似合う小さな部屋だった。
窓と箪笥と本棚、それと椅子と机がひとつずつ配置されている。
ベッドはふたつある(ベッドがふたつある部屋を借りたのだから当たり前だ)。
船の中とあまり変わらないのではないかと思うが、それでもユーシャは満足げだった。
魔法使いは風呂で身体に染み付いた海の香りを落とし、
船旅で身体にできた錆を取り除く。湯船の中は温かくて、眠ってしまいそうになる。
瞼が完全に閉じきる前に風呂から出る。
箪笥から持ってきていたローブのような服を着る。
火照った身体に触れる夜の空気は冷たくて心地よい。
髪を後ろで縛ると首筋がひんやりとする。
また眠くなる。身体が重い。瞼が重い。
小さな部屋に戻る。ユーシャが椅子に座って何かを考えこんでいる。
彼は魔法使いになにかを言う。彼女にはほとんど聞こえない。
彼女は眠気に押し倒されるようにそのままベッドに潜る。
身体が温かい。彼の声が聞える。
満たされているというのは、きっとこういう感覚なんだろうな。
でも、すこしだけ足りない。あとひとり分の声が、足りない――
429:

ユーシャはベッドに潜る魔法使いをまじまじと見つめる。
呼びかけても反応はない。そのまま眠るつもり、
あるいはすでに眠ってしまったのかもしれない。
疲れてたんだろうな、とユーシャは微笑ましく思う。
女の子なんだし、仕方ないよな。
ローブの隙間から、綺麗な脚が見える。膨大な距離――大陸ひとつを横断した脚だ。
それは頼りないくらいに細い。薄っすらと傷が見える。色は白くて肌には潤いがある。
束ねられた栗色の髪の隙間からは、綺麗なうなじが見える。
今までに何度も見たような無防備な姿だったが、この日は
このまま彼女を眺めていると心臓がどうにかなってしまいそうだったので、
宿の外へ散歩しに行くことにした。
足元が揺れているような感覚は未だに残っている。厄介なもんだ。
430:
そっと戸を開け、廊下に出る。床は軋んだ音を、時間をかけて吐き出す。
部屋の空気よりも、すこしだけひんやりとしている。涼しくてちょうどいい。
できる限り音を鳴らさないように階段を下り
(それでも鳴るときは鳴る。致し方なし)、宿の外へ出る。
建物の壁に凭れ掛かり、視線を上げる。
細長い月が弱々しく海を照らしている。星は疎らだ。
町は眠っている。静寂に飲み込まれた町は、どこか寂しくも見える。
431:
海の方から象徴的な音と共に、風が吹いてくる。
涼しい潮風は頬を打ち、短い髪を撫でる。
それは西の大陸の港町で、初めて大剣使いと出会った時のことを回想させる。
波のように寄せてくる記憶を、頭を振って紛らわせた。
もう考える必要はない。信じていればいい。
だから、俺は自分の心配をしていればいい。
ユーシャは自分に言い聞かせる。
それでも思い出は湧き水のようにゆっくりと滲み出し、脳に染みていく。
ぼんやりと空を眺める。月と星は、黙ってユーシャを見つめ返す。
空で瞬くそれらは特に綺麗なわけでもなく、
ただ光を放っている物体としてしか捉えられない。
なんだか寂しくなるし、感傷的な気分になってくる。
やがて湧き水は脳を満たし、大きな思い出の湖を作り出す。
ユーシャは思考をそこに浸す。大剣使いのことを想う。
彼には得体の知れない魅力があった。恐ろしい魅力と言ってもいいくらいだと思う。
俺は、それに惹きつけられたのだろうか?
432:
彼との出会いは運命的でも、必然的でもなかったように思える。
よくわからない、適当な出会いだった。
とくべつ馬が合うわけでもなかったし、完全に信用できるわけでもなかった。
それでもいっしょに旅をした。旅は決して長いものではなかったが、
その短い時間の中で、更に彼の何かに惹きつけられることになった。
強くて可哀想で恐ろしい怪物。冷静で頼りになる優しい人間。
話を聞けば聞くほど訳がわからなくなった。
彼の中に飲み込まれていくような感覚に落ちたのを思い出す。
それはあんたが他人に感情移入しすぎなのよ、と魔法使いが頭の中で言う。
彼は――大剣使いは今、ここにはいない。
いなくても大したことはない、と言えばそれは大嘘になる。
元に戻っただけと考えても、胸の真ん中に穴が空いたみたいな、
どこか満たされない気分だった。
でも、今はすこし違う。ほんとうに少しずつ、胸の空洞は埋まろうとしている。
魔法使いの言葉は、まるで魔法のように傷を埋めてくれる。
だから今は、なんとか自分のことを考えることができる。
433:
蜘蛛の巣での一連の出来事を回想する。それはいやに鮮明に脳裏で再生される。
もう二度とあんな事を起こさないように、強くならなければならない。
理解はできている。でも、方法がわからない。
彼女を頼ってはいけない。無意識の内に彼女へ寄りかかって
依存するのは、そろそろ終わりにしなければならない。
ひとりで、それこそ勇者のように歩かなければならない。
しかし、どれだけ考えてもわからない。
ユーシャには昔から苦手なものが五つあった。
風呂と、ぶ厚い本と、文字の読み書きと、おとなしくしていることと、考えることだ
(旅で船が苦手という事実が発覚したので、今は六つだ)。
なので、おとなしく空を見上げながら
自分の事を考えるというのは、どうも上手くいかない。
434:
じっとしていても仕方ないので、適当に身体を動かすことにした。
広場を思いっきり駆け抜けたり、逆立ちしながら歩いたりして、
自分の身体に備わった運動能力をあらためて確かめる。
旅に出てから特にこれといった変化はない。
腕力も脚力も体力もとくべつ伸びたようには思えない。身長や体重だってそうだ。
でも、すこしだけ強くなったような気がする。
そう思いたいだけなのかもしれない。根拠は皆無なのだから。
なにがどう強くなったと訊かれたら、答えることはできない。
しばらくそうしていると、汗で服がべたついてきたので、
身体を横にして空を眺める。じっとしていると、冷たい夜風が身体を刺す。
汗が引くと、もう一度適当に身体を動かす。
いったい、どうしたら強くなれるだろう? 逆立ちしても答えは見えてこない。
そもそも、答えなどほんとうにあるのだろうか?
435:

目を覚ましたとき、まだ空は暗かった。朝が近いというわけではない。
寧ろ、今がいちばん暗いのではないかと思う。
それもその筈で、魔法使いが目を閉じてから、まだ一時間ほどしか経っていない。
魔法使いは重くて温かい身体を起こす。隣にユーシャはいない。
見渡しても、彼の姿は部屋の中に見当たらない。
風呂に入ってるのかな?
いいや、ありえない。あいつに限ってそれはない。だったら、どこに行ったんだろう?
436:
大きなあくびをしながら曇った窓をローブの袖で擦り、外を見る。
外は部屋以上に暗い(部屋には小さな蝋燭に火が灯っている)。
細長い月と微かな星だけが町を照らす。
広場を見下ろすと、そこを素早く横切る影があった。あれか? なにしてんだろ。
魔法使いはベッドから靴を履いて立ち上がり、部屋から出る。
廊下は冷たい空気と軋んだ音で彼女を迎える。
階段を下ると、外への扉はすぐ右側にある。それを押して外へ出る。
夜の外気はとても冷たい。身体もすぐに冷えてしまう。
でも、ひとりで部屋にいると、もっと寒く感じる。
歩きながら周囲を見渡すと、宿の横側の影になる場所で
逆立ちしているユーシャを見つけた。
437:
「なにしてんの?」と魔法使いはあくびを吐きながら訊ねる。
「逆立ち」とユーシャは逆立ちしたままで答える。
「なんで?」
彼はすこし考えてから、「お前のスカートの中を見る練習をしてるんだ」と答えた。
「ふうん」魔法使いは彼の腹を蹴ってやろうかと思ったが、止めた。「見えそうなの?」
「ぜんぜん」
「だと思った」
彼は逆立ちをやめて、その場に座り込む。「なにも見えないし、なにもわからない」
「ふうん」魔法使いは彼の隣に座る。「ほんとうはなにをしてたの?」
438:
「身体を動かしながら考え事をしてただけ」
「考え事、ねえ。どんな?」
「どうしたら強くなれるか、とか。でも、結局なにもわからない」
「あんたは考えるのが苦手だものね」
「そう。だからお前に頼ろうと思ったけど、それじゃだめなんだ」
「どうして?」
「このまま寄りかかってると、ほんとうにだめになりそうなんだ」
「べつにあんたはわたしに寄りかかっているわけではないと思うけど」
「いいや、たぶん寄りかかってる。俺は知らないうちにお前に甘えてるんだ」
「甘えればいいじゃないの。わたしがなんの為にあんたの隣にいると思ってるのよ」
「わからない」
「考えればわかるわよ」
「考えるのは苦手だ」
「知ってる」
439:
ユーシャは弱々しく微笑む。大きく息を吐き出し、空を見上げる。
魔法使いは言う。「甘えたいときは甘えればいいのよ。考えたいときは考えればいい。
でもひとりだと、なにをするにも時間が掛かりすぎる。ひとりだとすぐに限界が来る。
ふたりならちょっと違う。疲れたときや困ったときは、お互いに寄りかかることが出来る。
わたしはあんたに寄りかかって、あんたを支えるためにここにいるの」
そしてすこし間をあけてから、「たぶん。よくわからないけど」と付け足した。
「難しいこと考えてるんだな」とユーシャは頭を掻きながら言った。
魔法使いはその言葉には答えなかった。
いま言ったのは、すべて後付の理由でしかない。
彼の隣にいるほんとうの理由は、おそらくべつにある。
でも言わなかった。言う必要はない。
「じゃあ、凭れ掛かることにする」とユーシャは言う。「どうしたら強くなれると思う?」
「知らない」と魔法使いは間髪入れずに答えた。
「なんだそりゃ」
440:
「わかるわけないじゃないの。だからわたしといっしょに考えるんでしょ。
でも今は考えるときじゃないの。まずはお風呂に入って、ゆっくり寝て、
ご飯を食べて、それからよ。眠いとき、考え事はうまくいかない」
魔法使いは大きなあくびをした。
「そうか」ユーシャは立ち上がる。
「ずっと夜にひとりで考えてたけど、それじゃだめだったんだな」
「だめではない。ただ、もっと良いやり方があるってだけよ」
魔法使いも腰を持ち上げ、尻をはたく。ひんやりとしている。
「じゃあ、戻りましょう。まずは、あんたが嫌いなお風呂の時間よ」
441:

「ほら、さっさと入りなさいよ」と魔法使いは腕を組みながら言う。
「いや、そこに居られるとすごく入りにくいんだけど……」
ユーシャは頭を掻く。
ふたりは風呂場の前の脱衣所でぐだぐだと話し合っていた。
魔法使いは十分ほど、ユーシャに風呂の良さを語った。
彼はそれに納得した(うんざりした)ようで、しぶしぶ風呂に入ろうとした。
しかし彼女は脱衣所から出て行かなかった。
ほんとうに入るか確認するつもりらしい。
「大丈夫よ。あんたが服を脱ぎ始めたらどっかに行くから」
「服が脱ぎにくいんだけど」
「なんで」
「まあ……ちょっと」
「ちょっと?」
442:
「見られたくないというか、なんというか」
「なに女みたいなこと言ってんのよ」
「たぶん、俺が上を脱いだ瞬間に、お前は怒ると思うんだ」
「どうして」
「なんとなく」
魔法使いはため息を吐いた。
「怒らないから、さっさと風呂に入りなさいよ。きたない」
ユーシャは嫌々ながら服を脱ぎ始める。
露出した肌が目に入った瞬間、魔法使いは口を開く。
「なに、その傷」声には少々の怒気が含まれていた。
443:
彼の身体には小さな傷が無数にあった。
まだ新しいものもあるし、すでに塞がっているものもある。
命に関わるような大きな傷はないが、それでも見ていて気分のいいものではない。
青く腫れ上がった箇所もいくつか見える。
すべて、怪物と戦ったときに出来た傷なのだろう。
「もしかして、怒ってる?」と彼は訊ねる。
魔法使いは黙って頷く。
命に関わる傷ではなくても、もうすこし自分の身体を大事にしてほしいと思う。
どうしてもっと頼ってくれないのだろう。すこし悲しかった。
「ごめんなさい」と彼は控えめに頭を下げた。
「なんで傷のこと黙ってたの?」
「……前も言ったけど、いちいち癒やしの魔術で治してもらうのが、
なんか申し訳なくて。それに、道端の怪物と戦っただけでこんなになるなんて、
情けなくて言い出せなかった。でもちっちゃい傷ばっかりだし、大したことないって」
「その痣は?」魔法使いは彼の胸の辺りにある青あざに指を向ける。
出来てからあまり日が経っていないように見える。
「まだ痛いんじゃないの?」
「ちょっとだけな」と彼は弱々しく笑った。
444:
魔法使いは彼に歩み寄り、その痣の上に手を置いた。
ユーシャはどきりとする。柔らかい手のひらのぬくもりが伝わってくる。
そこに激しくなる心音が伝わっているのかと思うと、恥ずかしくなってくる。
しばらくはふたりとも、そのままで固まっていた。
気付いたときには痣のあった箇所の痛みは消えていた。
魔術というのはふしぎなものだと思う。とてもふしぎな、魅力の塊だ。
魔法使いは痣の上に置いた手をゆっくりと剥がす。
「……これで、ちょっとはマシになった?」
「うん」ユーシャは頷く。「ありがとう」
「べつにいいわよ、これくらい。だから、これからはちゃんと言って。
もっと自分の身体を大事にして」
「ごめん」
445:
「なんのための癒やしの魔術だと思ってるの。
あんたにできないことを出来るのがわたしなんだから、もっとわたしを頼って。
わたしにできないことを出来るのがあんたなんだから、わたしはあんたを頼る。
遠慮はしなくていい。わたしもしないから。
それに、いまさら申し訳なく思う必要もないでしょう?」
「ありがとう」
魔法使いは微笑む。「じゃあ、さっさとお風呂に入ってきなさい」
「うん。入るよ、入るけどさ」
「けど?」
「お前がそこにいると下が脱げない」
「……それもそうね」
魔法使いは仄かに頬を赤らめながら踵を返し、ベッドのある部屋に向かった。
冷たい夜は更けていく。身体は温かかった。
448:
16
小高い丘を撫でる風は、どこか温かく感じられた。
海の匂いと、むせ返るような緑の匂いが混ざっている。
それは僧侶の髪を優しく、緩やかに浮かせる。
空は赤い。太陽は地平線とひとつになろうとしている。
それを勇者たちに見せつけるように、広がっていた雲がそこで途切れている。
「世界の終わりみたいだ」と僧侶は言う。
「そうかな」と勇者は答える。「よくわからない」
「適当に言っただけだよ。でも、すごく綺麗」
449:
勇者は周囲に目を向ける。赤黄色に染まった草原は、風が吹くと波のように靡く。
遠くの海も、星を散りばめたように輝いている。
北には大きな石の城が見える。それも夕日で赤く染まっている。
たしかに綺麗だが、どこか儚さを感じる風景だった。
すこし感傷的な気分になってくる。
「世界の終わる瞬間って、綺麗なのかな」と勇者は言う。
「どうだろう」僧侶は太陽の眩しさに目を細める。「綺麗だったらいいのにね」
ふたりは丘を歩く。丘の天辺の部分には、一本の木が立っていた。
この辺りには、それ以外に木はない。
淋しげに、それでも存在感を放ちながら、そこに佇んでいる。
僧侶はそれに手を添える。壊れ物に触れるような、優しい手付きだった。
「今日はこの辺りで休もうか」と彼女は言う。
「そうしよう」と勇者は頷く。
450:
ふたりは木に凭れ掛かるように腰を下ろす。
夜に近づく空を見上げながら、ただ時間が過ぎるのを待つ。
まもなく夜がやってくる。綺麗な星空だった。
ほとんど隙間なく星が瞬いているのではないかと思うほどの数だ。
魔法みたいだと勇者は思った。
僧侶はその場に寝転んで言う。「綺麗だね」
「綺麗だね」と勇者も言い、隣に寝転がった。
旅に出てから七日目の夜を思い出す。
あのときは星よりも彼女のほうがずっと綺麗に見えた。
でも今は、またすこし違って見える。というよりも、まったく違って見える。
たしかに星の数が圧倒的に違うけれども、それは大した問題では無いように思える。
明らかに目が変化してしまった。それは見えるものも変わってしまったということになる。
立っている場所や、持っているものは劇的と言ってもいいほどに、悪い方へ変化した。
でも、立ち止まってはいけない。生きて、歩くんだ。
戦士がそう言っていた。それに、あの影も言っていた――
影? なんて言ってた?
451:
「あのさ」勇者は思い出したように言う。「最近、おかしな夢を見るんだ」
「おかしな夢」と僧侶は確認するように復唱する。「どんな?」
「うん。気付いたら真っ暗な場所――真っ黒な場所かな。そこに立ってるんだ。
右も左も足元も見えないんだけど、立ってるのはわかる。
しばらくは何も起こらないんだけれど、そのうちに影がどこかから湧き上がってくる。
影というか、真っ黒な煙みたいな感じでさ、それはひとの形になったり、
四本足の怪物の形になったり、綺麗な球体になったりするんだ。
真っ暗なのに、真っ黒の影が見えるんだよ。わけがわからない」
「たしかに」僧侶は笑う。
勇者も弱々しく微笑む。「それで、今度はその影が喋り出すんだ」
「なんて?」
「それが……思い出せないんだ。
何度も同じ夢を見ているはずなのに、細かいことはさっぱり覚えてない」
「ふうん……たしかにちょっと変わってるかもね」
「うん。まあ、ただの夢って言ってしまえばそれで終わりなんだけどね」
「それを言っちゃあおしまいだ」
452:
それっきりふたりは黙りこむ。
星はなにも変わらずに瞬いている。月がどこにあるのかがわからない。
勇者の右手に、僧侶の左手が触れる。
彼女は勇者の手を握る。ふたりはそのまま空を見上げる。
勇者は目を閉じる。星の残光が瞼に焼き付いている。
なにかが胸に引っかかっている。もやもやとした、黒い煙のようなものだ。
吐き出すことも出来ないし、消し去る方法もわからない。
そもそも、それの正体がわからない。
目を強く瞑る。波のように闇が歪み、視界を満たす。
意識は夜に飲み込まれる。まるで波に攫われて、海の底に沈むみたいに。
453:

きみは酷く曖昧で、完全に中立的な場所に立っている、と影は言う。
生と死、人間と怪物、大人と子供、勇者と魔王、現と虚、天国と地獄、
快楽と苦痛、崩壊と再生、破滅と創造、古い世界と新しい世界。
きみはそれぞれの隙間で、必死になってもがいている。
いくつもの線がきみの足元で交わっているんだ。
あるいは可能性という言葉として、きみの足元から伸びている。
しかしきみはそこで、責任という鎖に縛られている。
逃げることは出来る。でも逃げることは許されない。
きみはそこから動こうとはしない。きみ自身がそれを許さないし、
そこはとても居心地が良くて、魅力的な場所だからだ。
鎖が断ち切れたとき、きみはほんとうの意味で自由になる。
誰にも頼らず、ひとりでどこへでも行くことが出来る。
きみはそれに耐え切ることが出来るはずだ。
なんといっても、きみは勇者なんだからな。
そう、きみは勇者なんだ。きみの心には誰かの言葉が重くのしかかっている。
誰の言葉かなんてことは重要ではなくなってしまった。
きみはそれを声としてではなく、文字として記憶に留めている。
僕は勇者だ、と。
454:
好きなようにすればいい。信じたようにすればいい。
邪魔なものはすべて壊してやればいい。
きみにはそのための力が備わっているんだから。
氷の槍のように冷たくて鋭い、そして硬い芯を持っている。
そのままでいいんだ。正解や間違いなんてものは存在しない。
すべてきみの手で終わらせてやるんだ。
しかし終わりは近いようで、すこし遠い。
455:
17
「ようこそ、旅のひと。ここは呪術の村です」
薄い灰色のローブを着た青年は微笑んだ。
短い金色の髪によく似合う笑顔だった。顔立ちも整っている。
すこしだけ大剣使いの面影を感じる。でも、やっぱり違う。
彼の背後には、夕日を受けて濃い影を落とす歪な形をした大きな岩と、
いくつかの円錐型のものが見える。
円錐の高さは二、三メートルはある。おそらくあれが家か何かなのだろう。
「呪術の村」と魔法使いは眉を顰めながら呟く。
呪術という魔法が存在するのは聞いたことがあった。何かの書物で読んだこともある。
大破壊を実行したり、死者を蘇らせたりする魔法のことだと聞いた。
しかし、ほんとうにそんなことが出来るのか疑わしいものだ。
そんなことをするのに、いったいいくらのエネルギーを使うことになる?
「どうしました?」青年は薄っぺらい笑顔を浮かべて言う。
「いいえ、なんでもないわ」
456:
ユーシャと魔法使いは青年のあとに付き、村に足を踏み入れる。
村には灰や黒のローブを着た老若男女がいる。数はそれほど多くはない。
村自体がそれほど大きなものではないし、時間も遅いせいだろう。
円錐の間を抜けるようにしばらく歩くと、
ひときわ大きな円錐の前で青年は立ち止まった。
円錐の高さは四、五メートルはある。
青年は無言で垂れた幕のような布を捲り、
薄っぺらい笑みを浮かべたまま中に入れという具合のジェスチャーをする。
ユーシャと魔法使いはそれに従い、中にゆっくりと足を踏み入れる。
中は外よりはいくらか温かい。
それでも南の大陸の空気と比べるとかなり涼しい。
それは太陽や炎の熱による温度の上昇ではなく、
ひとの体温による微かな温度の変化だった。
円錐の底部分にあたる足元には、簡単な家具が円形に配置されている。
箪笥に、本棚に、ベッドに、テーブルに、椅子。どれも木製のもので、
かなり使い込まれている、あるいはかなりの時間が経っているようで、色が褪せている。
焦げていたり破損していたりするものも確認できた。
457:
正面には低い椅子があり、そこには若い女が腰掛けている。
ふくらはぎ辺りまで届きそうな長い髪が
首の辺りで束ねられているのが印象的だった。
今は座っているので、長い髪は床に垂れている。
ほかの村民と同じように、彼女も黒いローブを着込んでいた。
長袖の隙間からは細い色白の腕と、金のブレスレットが見える。
歳は二〇の前半くらいだろうと、ユーシャは推測する。
女の年齢を判断する自信が特にあるわけではないが、そうではないかと思った。
「ようこそ」と髪の長い女は口を開く。落ち着いた声だった。
「きみ達もどこかの王国からここに来るように頼まれたの?」
魔法使いは首を傾げた後、「いいえ」と答える。きみ達“も”?
「いったい何の話?」
「そう。違うのならいいんだけど。だったら、きみ達はどうしてここへ来たの?」
「たまたま通りかかったんで、ちょっと休ませてもらおうかと思って」とユーシャが言う。
「ふうん」髪の長い女は好奇心をむき出しにした目でユーシャを見つめる。
ユーシャはその大きく綺麗な目に惹きつけられるのを感じた。
ふしぎな感覚だったが、悪くはない感覚だった。顔がすこし熱くなる。
それを見て彼女は目をすこし細めて笑った。唇の間から舌が覗く。
ふたつの視線がぶつかっているのを横目で見ている魔法使いは、
すこし苛々し始める。気に食わない。なんだ、このババアは。色目使いやがって。
458:
しばらくすると手を叩きながら、
「まあ、あなたの言葉を信じるとしましょう」と髪の長い女は言った。
「好きなだけ休んでいってくださいな」そして魔法使いの方を見て続ける。
「見たところあなたは魔法使いのようですし、呪術を覚えていってみては?」
「考えておくわ」と魔法使いはぶっきらぼうに言う。
「そうですか」と髪の長い女は上品な笑みを浮かべた。
魔法使いは、それもまた気に入らなかった。
彼女が自分からいちばん遠いところにある存在のように見えたし、
それにユーシャがすこしでも惹きつけられたというのが腹立たしかった。
459:
髪の長い女のいた円錐から出てすぐに金髪の青年は言う。
「美人でしょう?」
あの女のことを言っているのだろう。
「そうだな」とユーシャは答える。
「あれでも五〇歳近いんですよ、彼女」
「五〇?」ユーシャは素っ頓狂な声を上げる。
まさかそこまで予想が外れているとは思わなかった。
「そんなふうには見えなかったけど」
「でも、もうすぐ五〇のはずです。そして、そろそろ亡くなります」
「亡くなる? 死ぬってこと?」魔法使いは思わず訊ねた。
「はい」と青年は頷く。「呪術とは、そういうものです」
「どういうこと?」
460:
「彼女は呪術により、あの若々しい姿を保っているのです。
呪術というのは莫大なエネルギーを使用するのです。
ときには命――所謂、寿命を削るなんてこともあります。
彼女はまさにそれです。寿命を削って若さを手に入れたのです」
「馬鹿げてる」と魔法使いは言う。それ以外に言うべき言葉は見つからなかった。
「ほんとうに馬鹿げてるわ」
「僕もそう思います」と青年は言う。
「でも、彼女の価値観では、若さというのはとても大事なものなのでしょう。
寿命を削ってまで手に入れたいものなのでしょうね。
僕には到底理解できません。だからこそ彼女は村の長になれたのかもしれない」
「ふうん。まあ、お偉いさんって変わり者が多いものね」
どこの国の王も、あるいは村の長も変人ばかりだ、と魔法使いは思う。
「その通り。あなたとは気が合いそうです」青年は微笑む。
「どうも」と魔法使いは素っ気ない返事をした。
なんとなく、好意のようなものが伝わってくる。
ユーシャはそれを見て既視感のようなものを覚える。
どことなく、大剣使いの面影をこのやりとりに感じる。
でも、なんだかこの青年は気に入らない。
461:
しばらく青年のあとに付いて歩くと、
彼は数ある円錐の中の小さなものの前で立ち止まった。
すでに空は暗色に染まり始めている。足元を照らす光はすこし心細い。
青年は振り返り、「ここでゆっくりしてください」と言う。
「ありがとう」と魔法使いは言い、中に入る。ユーシャもあとに続く。
中はお世辞にも綺麗であるとは言えなかったが、
くつろぐには十分な機能が備わっている。広さも十分だ。
家具は埃をかぶってはいるが、ちゃんと家具としての役割を遂行している。
ベッドもふたつある。ひとはいない。ここには元々、誰かが住んでいたのだろうか?
ふたりが適当に木の実をつまんだ後に、椅子に腰掛けながら
今後の予定についてだらだらと話し合っていると(今後の予定といっても、
次の目的地は東の王国ということを確認しただけで、ほかは雑談ばかりだった)、
村の長である髪の長い女が円錐の中に現れた。
462:
「ねえ、きみ。わたしの話し相手になってくれない?」と
髪の長い女――長はユーシャに言う。
魔法使いはあからさまに嫌そうな顔をしながら彼女を睨んだが、無視された。
「俺?」ユーシャは首を傾げる。「なんで俺?」
「興味があるから」と長は言い、微笑んだ。「きみにとても興味があるの」
「興味って」
「ちょっとこの子、借りていっていいかしら?」と長は魔法使いに言う。
魔法使いは苛立たしげな声で、「勝手にすれば」と返した。
「じゃあ、お言葉に甘えさせていただくわ」長はユーシャの腕を掴み、引っ張った。
「え、ええ? ちょっと……」
ユーシャはバランスを崩しそうになりながら、椅子から立ち上がる。
「いってらっしゃい」と魔法使いはふたりを見ずに言う。「ごゆっくりどうぞ」
「い、いや、ちょっと……」
どう見ても怒ってるし、拗ねている。
ユーシャの目には、彼女がそういうふうにしか映らない。
どうやって機嫌を直してもらおうかと考えている間に、円錐から外に出た。
463:
外はすでに夜の暗さに飲まれていた。
明かりは所々に固定された松明に、頼りない炎が灯っているだけだ。
ふたりは微睡みの町の中を黙々と歩く。ひとの姿はひとつもない。
まるで眠っているものを起こさないようにしているみたいに、口を閉ざす。
靴と草が擦れて、乾いた音が聞こえる。
しばらく歩くと、歪な形をした岩の下辺りで長は立ち止まった。
ユーシャも立ち止まる。そこは村の中でも一段と暗かった。
「そこに腰掛けてくださいな」と長は出っ張った石を指さして言う。
ユーシャは言われたとおりに腰掛ける。石はひんやりとしていた。空気も冷たい。
長は隣に座った。長い髪を首に巻き付けて垂れないようにした。
464:
「その髪、不便じゃないの?」とユーシャは素朴な疑問を口に出す。
「たしかに不便ね」と長は笑う。「でも綺麗でしょう?」
「たしかに綺麗だけど」
「綺麗ならいいのよ。それはわたしにとってもっとも重要なこと」
「ふうん」ユーシャは長を見る。
「五〇歳近いって聞いたけど、ほんとうなの?」
「ほんとうよ」長は微笑む。
「見えないなあ」
「ありがとう。嬉しいわ」
465:
「で、話ってなんなの?」とユーシャは言う。
さっさと戻らないと、魔法使いの機嫌が更に悪くなるような気がする。
「特にないわ」と長は微笑んだ。
「はい?」
「特にないわ」と長は繰り返す。「きみとふたりきりになりたかっただけよ」
「ふうん」ユーシャは彼女から目を背けて、頭を掻いた。「どうして?」
「持っていない欲しいものを手に入れたいと思うのは、自然なことなのよ」と彼女は言う。
「見たところ、きみは強くてたくましいみたいだし、ふしぎな魅力みたいなものがある」
「強くはないし、たくましくもない」とユーシャは否定する。
「魅力はある?」
「何回かそんな感じのことを言われたことがある。ふしぎな力とか言ってたかな」
「あの子に言われたの?」
ユーシャは頷く。「それと、もうひとり。そっちは男だけど」
466:
「好かれてるのね」
「どうだろう。頼りないやつと思われているかもしれない」
「そうかしら」
「わからない」とユーシャは言う。「だから強くなりたいんだ」
「ふうん。あの子に好かれたいから?」
「それもあると思う」
「どれくらい強くなりたい?」
ユーシャはすこし考えてから言う。「なにも失くさないくらい」
467:
「完璧になりたい?」
「たぶん」
長は長い息を吐き出す。首に巻きつけた髪がすこし揺れた。
「強さにもいろいろある。でも、きみの求める強さはつまらないものね。
持っていないものを求めるのはたしかに自然なことだけれど、
完璧というのは人間としては不完全なものよ」
「なんだっていい。とにかく今のままじゃだめなんだ」
「たとえば、自分の命を削ってでも強くなりたい?」
「たぶん」
「あの子はそれを望んでいる? きみが完璧になることを」
沈黙。たぶん、そんなことは望んでいないと思う。どうだろう?
468:
「きみがひとりでなんでも出来るようになったら、
あの子は寂しいんじゃないかしら?」と長は言う。
「どうかな……。なんか、全部わからなくなってきた」
「それでいいのよ。今のきみはとても魅力的よ」
「それもわからない」
「真っ白な紙なんてつまらないわ。ちょっと汚れているくらいのほうが味がある。
その汚れにもいろいろな色や形があるわ。たとえ紙全体が汚れていても、
それもまた個性のひとつでしょう。悪いことではない。それはいいことにもなり得る」
「余計にわからない」
「それでいいのよ」と長は言う。「そういうところがいいのよ」
469:
またすこし間が空き、夜の穏やかな沈黙がそれを埋める。
しばらくしてユーシャが言う。「結局、なんでふたりきりになりたかったの?」
長は微笑んだ。「持っていなくて欲しいものを手に入れたいと思うのは自然なこと」
「だから、それがわからない」
「あらあら、わからない子ね。彼女も苦労してるんじゃないの?」
「はあ」
「わたしはきみを求めている」
「はい?」
「わたしはきみを求めている」と長は繰り返す。「あらゆる意味で」
「求めてるって」
470:
「こういうことね」と長はユーシャに凭れ掛かりながら言い、
彼の服の中に手を滑り込ませる。それから、腹の辺りを優しく撫でる。
「わたしはきみの身体がほしいし、心もほしい」
「ちょ、ちょっと……」くすぐったい。心臓がべつの生き物のように暴れ始める。
彼女の手はユーシャの腹から胸を撫で回す。「あら、傷がたくさんあるのね」
「情けないことにな……」筋肉が強張る。身体がなかなか動かない。
「いいえ、それもわたしにとってはとても魅力的よ」
長の手はズボンの隙間から下腹部へ手を滑り込ませた。
「熱くなってるし、硬くなってる」
「やめてくれ」ユーシャはその手を振り払う。
「続きはいらない?」
「いらない」
「嫌だった?」
「嫌ではないけど……」
471:
「勃ってるものね」と長は笑った。
「わたしがそろそろ五〇だから気に入らなかった?」
「そういうのじゃなくて……その、怒られるから」
「誰に?」
「あいつに」
「あの子?」
ユーシャは頷く。「早く戻らないと怒られる」
長はすこし間を空けて言う。「きみはあの子としかこういうことはしない?」
「したこともない」
「でも、したい?」
ユーシャは彼女の細く緩やかに曲線を描く裸体を想像する。
すぐに顔が赤くなった。それからすこし考えて、「わからない」と答える。
どうなんだろう。あいつは俺のことをそういうふうに見てくれているのだろうか?
472:
「きみは古臭い考え方をしているのね」
「かもしれない」ユーシャはその場から立ち上がる。
「俺はめんどくさいやつなんだ。でも、あいつはずっといっしょにいてくれてる」
「あら、惚気話?」と長は微笑む。
「そうだよ」と言ってユーシャは来た道を引き返した。
「俺にはあいつが必要なんだ」
473:

苛々する。なんだあのババアは。それに、どうしてあいつは戻ってこない。
魔法使いは円錐の中で椅子に腰掛けながら、頭をかきむしっていた。
ユーシャが出ていってから三分も経っていないが、
彼女はもやもやと苛々で頭が沸騰しそうだった。
落ち着け、落ち着け。なにも起こらない。わたしは黙って待っていればいい。
魔法使いは大きく深呼吸をする。吐く息は空っぽの円錐の中に寂しく響く。
今度はため息がこぼれた。同じように響いて消える。
二七回の深呼吸を終えて、一六回目のため息を吐いた辺りで、
金髪の青年が円錐の中にやってきた。
彼は薄っぺらい笑顔を浮かべながら、「こんばんは」と言う。
魔法使いもいちおう頭を下げておいた。
474:
「なにか用?」と魔法使いは言う。
「ちょっとあなたと歩きながらお話しでもしたいなあ、と思いまして」と
青年は笑顔のままで言う。
「ふうん」
「お連れの方は?」青年は円錐の中を見渡す。
「さあ」
「いないのならべつにいいんですが。いっしょにどうですか?」
「そうね」魔法使いは椅子から立ち上がり、きょう一七回目のため息を吐いた。
「ちょうどいいかも」
475:
外には円錐の中よりも冷たい空気が流れていた。
魔法使いは汚いマントを羽織り、青年の隣を歩く。
彼の背は高い。魔法使いよりも頭ひとつ分高い。
「お話しするって、わたしからはなにも話すことはないわよ」と魔法使いは言う。
「僕はあなたに訊きたいことがいくつかあります」と青年は言う。
「ところで、お連れの方はほんとうにどこへ行かれたのでしょう?」
「あの髪の長い女に連れて行かれたわよ」
「長が」青年は目を丸くする。「へえ」
「わけがわからないわ」と魔法使いは吐き捨てるように言う。
「怒ってます?」と青年が訊くと、被せるようにして「怒ってない」という返事が来た。
どう好意的に捉えても声には怒気が含まれていた。
476:
「まあいいです」と青年は話をユーシャのことから逸らす。
「呪術のことをどう思いますか?」
「どう思うって、詳しく知らないのに、なんとも言えないわ」
「詳しく知らないからこそ、あなたに訊きたいです」
魔法使いは考えてから答える。「あまりいい印象はないわ。
簡単に言えば、寿命とエネルギーを交換するんでしょう?」
「簡単に言えばね。実際にはもっと複雑ですが、そういうことですね」
「なんでもいいわよ。どっちにしろ、こんな魔法は間違っているわ」
「僕もそう思います。やっぱり僕は間違ってはいなかった」
「呪術は必要のないものだと思う。今はね」
「今は、というと?」
「存在するんだから、なにか意味があるとわたしは思う。
昔のひとはそれだけの力が必要だったのかもしれない」
「こんなコントロールの効きにくい魔法、なにに使うんです?」
「たとえば」魔法使いは間を空けてから言う。「魔王を殺すためとか」
477:
「魔王」と青年は繰り返す。「御伽噺の?」
「そう」
「おもしろい仮説ですね」
「ありがとう」
青年はすこし考えてから言う。
「たぶんあなたの言ったとおり、呪術には正しい使い方があるんでしょうね。
大破壊を実行したり、死者を蘇らせたり、
怪物を操る術にも、なにか意味があるんでしょうね」
「え?」魔法使いは素っ頓狂な声を上げる。
いま彼はなんと言った? “怪物を操る術”?
「怪物を操る術なんてものがあるの?」
「はい」と青年は頷く。
「ふうん……」
478:
「……東の王国が、それを求めてここにやってきたことがあります。
だから長はあなた達に、“きみ達もどこかの王国から
ここに来るように頼まれたの?”と訊いたんです」
「東の王国」と魔法使いは繰り返す。
東の王国も怪物を操って、何かを企んでいるのだろうか?
どうする? この事を南の第二王国のあのふたりに話すべきなのだろうか?
研究は終わり、彼らは開放――されるのだろうか? なにが正しいのだろう?
「どうかしました?」
「ううん。なんでもない」話すにしても、それはずっと先の話だ、と魔法使いは思う。
旅が終わったら、とりあえずもう一度第二王国へ戻ろう。
第一王国にも行かなければならない。また来てくれって言われたし。
青年はすこし間を空けてから言う。
「それで、あなたにこれを受け取ってもらいたいんです。
これがひとつ目の用事です」
彼は懐から、ぶ厚い本を取り出した。
何かの動物の皮を鞣して作られた表紙には、何かの文字が書かれている。
479:
「これはなに?」と魔法使いは言う。
「呪術について記された書物です」
「そんなもの、わたしが受け取ったら拙いんじゃないの?」
「いいんです。あなたじゃないとだめなんです」
「大事なものなんでしょう?」
本の風貌はそういうふうにしか見えない。大事に保管されてきたようにしか。
「そうですね。でも、あなたに渡さなければいけないような気がするんです。
運命じみたなにかが僕に囁くんです。もしくは呪術的ななにかが。
あなたなら呪術の正しい使い方を見つけられる。
だから、あなたにこれを渡すべきだと」
「わたしじゃなくても、あなたなら見つけられるんじゃないの?」
「いいえ」と青年は首を振る。「僕はすこし呪術について詳しくなりすぎてしまった。
でも、僕の知識はおそらく間違った知識なんです。
簡単には消し去ることは出来ません。遺伝子のようなものです」
「よくわからないわ」
「それでいいんです」彼はぶ厚い本を魔法使いに差し出した。
「僕には呪術に意味があるなんてこと、思いつかなかった」
480:
彼女はそれを受け取る。見た目の通り、かなりの重さだった。
両手で抱え込むように持って、やっと足元が安定する。
「では、ふたつ目の用事です」と青年は言う。
「僕はあなたのことがとても気に入りました。恋に落ちたというやつです」
「はい?」
「ええと、好きです」
「そう。ありがとう」と魔法使いは素っ気ない返事をする。
「あなたがわたしを好いてくれているのは嬉しい。けれど」
「けれど」と青年は繰り返す。
「わたしには心に決めたひとがいるの」
481:
「そうですか」青年は微笑んだ。「そうだろうと思ったんですよ」
「ごめんなさいね」
「あのお連れの方でしょう?」
魔法使いは頷く。顔が熱くなる。
「あいつじゃないとだめみたい。わたしにはあいつが必要なの」
青年はすこし翳った笑みを浮かべた。
ふたりは軽い挨拶を済ませて、お互いのいるべき場所へと戻っていった。
482:

さあ、なんて謝ればいいだろう?
ユーシャは魔法使いがいる円錐の前で、腕を組みながら悩んでいた。
そもそも、俺はなにか悪いことをしただろうか?
していないとは思うけれど、あいつの機嫌が些か悪かった。
きっと俺があいつの気に障ることをしてしまったのだろう。
でも、それは何なのだろう? 原因がわからなければ謝りようもない。
どうしたものか。いっそこのまま玉砕覚悟で突撃するか……
「なにしてんの」と背後で声がした。
「ひっ」ユーシャは小さく身体を震わせ、ゆっくりと振り返った。
そこには重そうな本を、大事そうに抱えた魔法使いが立っていた。
483:
「なにそんなに驚いてるのよ」と魔法使いは笑いながら言う。
「あれ、怒ってない?」
「なに。あのババアといっしょに、わたしに怒られるようなことをしてきたの?」
「滅相もない」とユーシャはすぐに答えた。
「あやしい」魔法使いは彼を睨む。
鋭いやつだなあ、とユーシャは感心しながらも内心怯えていた。
やがて彼女は「まあいいわ」と言って、今日一八回目のため息を吐き出す。
「寒いからさっさと中に入りましょう」
「そうしましょう」と言い、ユーシャは円錐の中に足を踏み入れる。彼女も続く。
484:
魔法使いは中に入ってすぐ、机の上に重そうな本を置いた。それからベッドに腰掛けた。
「その本、どうしたんだ?」とユーシャはもうひとつのベッドに腰掛けながら訊ねる。
「貰った」と魔法使いは簡潔に答える。
「誰に」
「あの金髪の男のひと」
「もしかして、今までそいつといっしょにどっかに行ってた?」
「うん」
「ふうん……」やっぱり気に入らないやつだ、とユーシャは思う。
「好きだって言われた」
「はい?」
485:
「わたしのことが気に入ったって。恋に落ちたって」
「で?」
「で?」
「なんて答えたんだ?」
「さあ?」
「……」
「あんたはあのババアとなにを話してたのよ」
「好きだって言われた」
「はい?」
486:
「俺のことを求めてるって。身体も心もほしいって」
「で?」やっぱり気に食わないババアだ、と魔法使いは思う。
「で?」
「なんて答えたの?」
「……さあ?」
「なんて答えたの?」と彼女は声に力を込めて言う。
なんて答えたんだったか。ユーシャは必死になって回想する。
でもなんだか、記憶がひどく曖昧だった。はっきりと思い出せない。
はっきりと思い出してはいけない気がする。
「……なんて答えたのかは忘れたけど、そういうのはやめてくれって、
そんな感じのことを言った」とユーシャは言い、小さな声で「はず」と付け加えた。
「ふうん……」
「で?」
「で?」
「結局、お前はなんて答えたんだよ」
「嬉しいけれどお断りします、みたいなことを言った。はず」
487:
「ふうん……。嬉しかったんだ?」
「ひとから好かれて悪い気はしないわ」
「そうだな」長に好かれているとわかったときは、たしかに悪い気分ではなかった。
「ねえ。あんた、なんか怒ってない?」と魔法使いは言う。
「べつに怒ってなんかない」
「怒ってないとしても、随分機嫌が悪いみたいよ」
「かもしれない」
「なんで?」
「お前だって俺がここから出ていったとき、御機嫌斜めだったじゃないか」
「……だからなによ」
もしかすると、わたしと同じような理由で彼は機嫌が悪いのだろうか、と魔法使いは思う。
「……べつに」
もしかすると、俺と同じような理由で彼女は機嫌が悪かったのだろうか、とユーシャは思う。
488:
話は途切れ、沈黙がふたりの間を満たす。
冷たいようで温かいような、なんとも言えないぬるさの空気だった。
しばらくしてユーシャが言う。「寝ないのか?」
「うん」と魔法使いが答える。「あの本を読もうと思うの。あんたこそ寝ないの?」
「今日はなんだか眠れなさそうだ」
「どうして?」
「わからない」
「じゃあ、あの本を読むのに付き合ってよ」
魔法使いは机の上の本を手に取り、ふたたびベッドに腰掛けた。
「うん」
「こっち来て」
「はいよ」ユーシャはゆっくりと立ち上がり、魔法使いの隣に向かう。
489:
彼女はぶ厚い本を枕元に置き、ベッドの奥に寝そべった。
それから隣に空いたスペースをぽんぽんと叩きながら、「ここ」と言った。
「ここ?」ユーシャは彼女の指定した場所に腰掛ける。
「そう。で、寝転がる」
「狭くないか?」
「いいからさっさと寝転べ」
「はいよ」ユーシャはうつ伏せになり、上半身を腕と肘で支える。
同じ体勢で魔法使いも寝転がる。彼女の向こうには壁がある。
彼女は小さく口を動かし、小さな魔術の光を灯す。すこし温かい。
それからゆっくりと本のページを捲り始める。
びっしりとなにかの文字が書かれている。
見ているだけで頭がくらくらしてくる。
呪術に関することが記されているらしいが、
ユーシャにはなにがなんだかさっぱりだった。
所々に図解があったが、それでもさっぱりわからない。
彼はぶ厚い本と文字の読み書きが非常に苦手なのだ。
490:
難しい顔をしながら首を傾げているユーシャを横目に、
魔法使いはさっさとページを捲っていく。
五分の一ほどを彼女が読み進めたところで、ユーシャは眠くなってきた。
頭をがくりと落としては閉じかけた目をひらき、また眠気に襲われる。
魔法使いはそれを口元に笑みを浮かべながら見守っていた。
彼がこうやって眠るのはわかっていた。
故郷の村の図書館でも、彼はよく眠っていた。
眠っていた時間のほうが多いのではないかというくらい眠っていた。
やっぱりベッドの上で読んだのは正解だった、と微笑ましく思う。
やがてユーシャは頭を下ろして寝息を立て始める。
魔法使いはそのまま本を読み続ける。
なにかに憑かれたみたいに、黙々と手を動かす。
すべてを読み終える頃になると、外から鳥のさえずりが聞こえてきた。
朝が来たのだ。瞼が重いし、首が痛い。一眠りしたいところだったけれど、
あまりこの村には長居したくない。あのババアから彼を引き離したい。
なので、そのまま目を開いて彼が目覚めるのを待つことにした。
491:

ユーシャはゆっくりと目をひらく。かなり近くに、魔法使いの眠たそうな顔がある。
口が半開きで、瞼が小さく震えている。
彼女はユーシャが目覚めたのに気がつくと、「おはよう」と言った。
ユーシャも「おはよう」と返して、「眠そうだな」と続ける。
「眠くてたまらないわ……」
枕元に転がっている本を横目で見ながら、ユーシャは言う。
「一晩中読んでたのか? あの本」
「うん」
「読み終わったのか?」
「うん」
「すごいな」とユーシャは感心したように言う。到底真似できない。
「おもしろかった?」
「けっこう」
「そっか」
492:
魔法使いは大きくあくびを吐き出して言う。
「さあ……さっさと東の王国にいきましょう」
「もうちょっとゆっくりしてけばいいんじゃないのか?」
「だめ」
「なんで」
「だめなものはだめ」
「そうですかい」
「だから早く立って」
「はいはい」ユーシャは起き上がり、ベッドから降りる。
「おんぶ」と魔法使いは寝転がったまま手を伸ばして言う。
「なに?」
「おんぶ」と彼女はもう一度言う。「して。はやく」
493:
子どもみたいだ、とユーシャは思う。久しぶりに見た気がする。
「はいはい」と彼は言い、彼女の手を掴み、起き上がらせる。
それから彼女の腕を自身の首に巻き付ける。「ちゃんとつかまってろよ」
「うん」
すこしだけ巻きつける力が強くなった。ほんのすこしの差だ。
そうとう眠いのだろうと思う。
ユーシャは彼女の脚を持つ。ものすごく柔らかくて温かかった。
そのまま立ち上がる。彼女はとても軽い。
「すごくあったかくて、いい」と魔法使いは言う。「わたしはここで寝る」
「今から寝るのか? 怪物に襲われても知らないぞ」
「あんたが守ってくれるでしょ」
「もちろん」
「なら大丈夫」
494:
出入口に垂れた布を払いのけ、外に出る。空気は湿っぽくて、冷たい。
朝日は眩しかった。円錐や歪な岩が落とす影がくっきりと見える。
「いちおう挨拶だけしておいたほうがいいよな」とユーシャは言う。
「あの男のひとにだけ言えばいい」と魔法使いは言う。
「あのババアはいらない」
「呼びました?」と背後から男の声がした。
振り返ってもそこにあるのは今まで眠っていた円錐の出入口だけだ。
「どこだ?」とユーシャが訊くと、「ここです」とさっきと同じ場所から声が返ってきた。
もう一度円錐の方に前を向けると、円錐を回りこむように歩いてくる人影が見える。
あの金髪の青年だった。「おはようございます」と彼は言う。
「覗いてた?」とユーシャは眉を顰めながら訊ねる。
495:
「朝ごはんを持ってきただけですよ」と青年は苦笑いを浮かべながら言い、
パンが入った袋を差し出す。ユーシャはそれを受け取る。
「もう行っちゃうんですか?」と青年は言う。
「うん」と魔法使いはユーシャの肩に顔をのせて答える。
「本、ありがとう。なかなかおもしろかった」
「もう読み終わったんですか?」
「うん」
「すごい」
「ベッドの上に置いてあるから、要るのなら持っていって」
「わかりました」と青年は言い、ふたりをまじまじと見つめる。
「なに」とユーシャは言う。
「いいえ。べつに」青年は薄っぺらい笑みを浮かべる。
「ふたりとも嬉しそうな顔してるなあって思っただけですよ」
498:
18
西の王国の城下町は、これもまた大きな壁に覆われていて、
大きな門をくぐって中に入ることが出来る。
門のある部分だけが出っ張りになっている。
町には四つの門があるので、空から見ると、
歪な形をした胴体から不細工な短い足が伸びている、
四本足の奇妙な生物のように見える。かもしれない。
実際に見たことはないから、勇者にはなんとも言えなかった。
門をくぐった勇者は石畳を踏みつけて、周囲を見渡す。
門のすぐ前は上り階段で、その上は広場になっているようだ。
階段の両端には壁がある。
おかげで、いま勇者と僧侶が立っている場所は、昼の割にはすこし暗い。
階段を上がり、広場へ向かう。
町の玄関口だからなのか、広場にはかなりの数の商店が並んでいる。
宿も見える。外観はどれも似たような石造りで、どこか重々しい雰囲気を感じる。
広場にはいま上がってきた階段以外にも階段が見える。
正面には下り、右にも下り、左には上りがある。
499:
「階段ばっかりだ」と勇者は言う。「めんどくさそう」
「またややこしそうな町だねえ」と僧侶は笑う。
まだ空は明るいので、町をすこし散策してみることにした。
とりあえず左側の階段をのぼる。上りきった先には芝生の広場があった。
すこしの遊具と、必要なのかあやしいベンチが四つもある。
小さな子どもがはしゃぎ回る声が聞こえる。
そちらに目を向けると、やはり数人の子どもがはしゃぎまわっていた。
それは燦々と降り注ぐ陽光に負けないくらいに眩しい光景のように見えた。
勇者だとか、魔王だとか、聞き慣れた言葉が聞こえる。
昔は僕らもああだったのか、と勇者は懐かしく思う。
小さな頃は御伽噺の勇者になりきって、よくごっこ遊びをしたものだ。
500:
勇者は回想する。ごっこ遊びをするとき、戦士はいつも僕に勇者の役を譲ってくれた。
ずっと三人で遊んでいたので、いつも僕が勇者で、あいつが魔王で、
勇者が魔王を倒して彼女を救い出すとかいうよくわからないお話に沿って遊んでいた。
懐かしい。十年ほど前のことだ。僕らの歳が一桁だった頃だ。
ほんとうはあいつが勇者役をするべきだったんだ、と今の勇者は思う。
僕にはきっと魔王のほうが似合っている。
ほんとうは僕は勇者じゃなくて、あいつが勇者になるはずだったんだ。
きっとそうだ。きっと、なにかが間違っているんだ。
でも、仮にあいつが勇者だったとしても、僕はそれを引き継がなければならない。
彼はここにはいない。でも、まだなにも終わっていない。
“死ぬな、歩け”と影が言う。
501:
「平和だ」と僧侶は言い、ベンチに腰掛けながら長い息を吐いた。
そして空を見上げ、陽光に目を細めながら、
「ほんとうに魔王なんているのかな」と呟く。
「どうなんだろう」勇者も空を見上げる。
透き通るような青色をした、穏やかな空だった。小さな鳥が、地面に影を落とす。
「魔王がいなかったら、わたしはこの“もやもや”を何にぶつければいいんだろう?」
「東の国王にぶつければいいよ」
「そうする」と僧侶は言う。「ぐちゃぐちゃにしてやりたい」
勇者は微笑みながら長い息を吐き出して、
「もしも魔王がいたとして、それを倒したら僕らはどうなるんだろうか?」と言う。
僧侶はその問いかけには答えなかった。
代わりに、「きみは村に帰りたい?」と訊く。
「わからない」と勇者は正直に答えた。
502:
「わたしも、よくわからない。帰ってもいいのかな。あいつがいないのに。
わたし達の帰る場所って、どこなんだろう?
故郷の村? お父さんとお母さんのところ?
みんなわたし達の帰りを待ってくれているのかな?」
「わからない」
「わからないことばっかりだ。迷路で迷子になったみたいだね、わたし達」
「出口のない迷路だ」
「しかも、ぐにゃぐにゃで真っ暗だ。最悪だね」
「独りじゃなくてよかった」
「わたしもそう思う」僧侶は勇者の目を見つめながら続ける。
「ねえ、わたし達、どっかに逃げちゃおうか?」
503:
「逃げる?」勇者は彼女の目を見つめ返す。綺麗な目だった。
純粋であり、深いなにかの感情がそこにある。
彼女の言葉がどこまでほんとうなのか理解できない。「どこへ?」
「どこだっていい。隣にきみがいれば、どこでもいい。わたしにはきみしかいないの。
ぜんぶ忘れて、ふたりで幸せに暮らすんだよ。今なら、きっと間に合うよ」
「きみはそれでいいの?」と勇者は言う。たしかに悪い提案ではないと思う。
確かに心のどこかで、この重荷を捨てて逃げてしまいたいと思うことがあった。
でも、使命感と責任のようなものに魂を縛られていて、逃げ出すことができない。
“死ぬな、歩け”と影が言う。
「わからないよ」と僧侶は答える。それから、両手で顔を覆った。
「わたしは怖いの。きみまでいなくなったら、わたしはどうすればいいの……」
「僕は死なないよ」
「……わたしが死んだら、きみはどうする?」
「僕も死ぬかもしれない」
「さっき死なないって言ったじゃないの」
「きみが生きている間は死なない」と勇者は訂正する。
504:
僧侶は顔を上げて勇者を見据える。彼女の両目は潤んでいる。
「約束だよ。いなくなっちゃ嫌だからね」
「僕もきみがいなくなるのは嫌だ」
僧侶は微笑む。「魔王か東の王を殺したらわたし達、静かに生きていこうね。
なににも脅かされることのない、穏やかな時間を過ごすんだよ。
きみが危険な目に遭わなくて、誰にも責められることのない場所で――」
505:
ふたりは夕方になるまでその広場のベンチに腰掛けながら、子どもたちを眺めていた。
子どもたちも遠目でこちらを眺めていた。
見ない顔だから、めずらしく思われていたのだろう。
やがて陽が見えなくなる。ほとんど同時に子どもの姿も途絶えた。
「わたし達も宿に行こうか」と僧侶は言う。
ふたりは上って来た階段を下り、最初の広場にあった宿へ向かう。
そこで小さな部屋を借りて、ふたりは眠る。
身体は重ねない。意識は夢の中に落ちていく。
506:

きみにも名前があったはずだ、と影は言う。
でも、きみの名前を呼んでくれるのはもう彼女しかいない。
たとえばきみが魔王を倒して歴史に名を残すことになっても、
それはきみ自身としてではなく、勇者という容れ物に入った状態で
記録されるはずだ。そうして皆の記憶に残っていく。
ひとりの人間としてではなく、勇者としてのきみが永遠に記憶される。
それはある意味ではとても喜ばしいことなのかもしれない。
でも、きみの名前は勇者という名誉ある称号で塗りつぶされてしまうかもしれない。
十年も経ったら、魔王を倒したのは“きみ”ではなく、
“勇者”ということになるのかもしれない。
それはなにも間違いではない。でも、意味合いは大きく変わってくると思うんだ。
御伽噺の勇者の名前を誰もが知らないように、
きみの名前もまた“余計なもの”として歴史から除外されてしまうのかもしれない。
きみという個人は決して誰からも讃えられることはないのかもしれない。
偶然にもきみに“勇者としての力”が備わっていたから
魔王を討つことができたんだと、皆はそう思うかもしれない。
そいつらの頭の中では勇者が魔王を討つのは当然で、
勇者は負けないのが当たり前なんだ。
507:
でも、実際はどうだろう? ほんとうにそうだろうか?
きみがこうして苦しんで、それを必死になって乗り越えて、
“悪”を討つことが“できる”というのは当然なんだろうか?
きみはほんとうに魔王に勝つことが出来るのだろうか?
きみはそのことについてどう思う?
わからない、と勇者の影は答える。
わからないでは済まされないんだ、と影は言う。
きみは魔王とぶつからなければならない。
勝利した場合は、きみの物語は続くんだ。敗北した場合は終了だ。
勇者としての物語は勝ち負けに関係なくそこで完結する。
きみは自由になれるんだ。
そうしてゼロから始めることができる。きみ自身の物語をもう一度始めるんだ。
勇者という容れ物を捨てたきみを支えてくれるのは誰だ?
導いてくれるのは誰だ?
きみをその曖昧な場所から引きずり出してくれるのは誰だ?
きみには大事なひとがいるだろう? ふたりで静かに生きていくんだろう?
勝たなければならないんだろう? それとも、そこから逃げ出すのか?
508:
わからない、と勇者の影は答える。
わからないんだ。ほんとうに魔王を討ち滅ぼす必要はあるのか?
仮に魔王を殺したとして、世界にどんな変化がある?
たとえ偽りだったとしても、いまの世界は平和なんだ。
魔王に怯えている人間なんて、僕くらいしかいないんだよ。
僕はいますぐに逃げ出して、心置きなく彼女と身体を重ねたいんだ。
静かに深く愛し合いたいんだ。朝も昼も夜も忘れるくらいに、
それこそ獣のように交わって過ごしたい。
もうその感情は抑えきれないほどに身体中を迸っている。
ぶつける場所のない怒りと混じって、それは僕と彼の身体を満たしているんだ。
家へ帰りたい。でも、振り返っても道がない。
今まで歩いてきた道は、ぜんぶ焼け落ちていった。
もう彼は前に進むしかないんだ。
死ぬな、歩け、と頭のなかで影が言う。
でも、それからどうしたらいいのかがわからないんだ、と
勇者の影は言い残し、大きな黒い渦に飲み込まれる。
僕は進んで、なにをすればいい?
どうしたら家に帰れるんだろう?
彼は、どうして前に向かって歩いているんだろう?
509:

翌朝、勇者が目覚めると、僧侶は部屋の真ん中に置かれた
椅子に座りながら、机に頬杖を突いて難しい顔をしていた。
朝日を受けるその姿はとても美しかった。
まるで手の届かないところにある絵を眺めているような、ふしぎな気分になる。
勇者が「おはよう」と言うと、
彼女もこちらに振り返り、「おはよう」と言った。
「難しい顔してたね」と勇者はあくびを噛み殺しながら言う。
「ちょっと考え事をね。そろそろ覚悟を決めないとだめかなと思って」と彼女が言う。
「わたしは迷ってたんだけど、決めた。もう、くよくよしない」
その言葉には静かな決意のようなものが含まれていた。
「覚悟」と勇者はぽつりと言う。それから寝ぼけた頭で自身に問いかける。
果たしてここから先でなにが起ころうと、
僕には結果を受け止めるだけの覚悟があるのだろうか?
わからない、と影は言う。
510:
「気分をばっさり入れ替える」と彼女は言い、椅子から腰を上げる。
「だから、今日は買いものをしよう」
「買いもの?」
「そう、お買いもの」
勇者にはそのふたつの間になんの関係があるのかが理解できなかったが、
とりあえず「わかった」と言った。
「でも、なによりまずは腹ごしらえだよ。
お腹が減ってると、悲しい気分になるからね。
まずはお腹いっぱい食べることから始めよう。
いっぱい寝て、お腹いっぱいになってからが始まりだ。そこがゼロなんだよ」
「あんまり食べると太るよ」と勇者は笑う。
「太らない」と彼女は勇者を睨む。もう一度「太らない」と言ってから、
ふたりはゆっくりと宿の食堂へ向かう。
途中で彼女は「わたし達は、もう一回ゼロから始めるんだよ」と言った。
その言葉には静かな決意が含まれていた。
511:

町は小さな山のような形をしていて、天辺に城がある。
階段はその城に向かって、所々に広場を挟んで螺旋状に配置されている。
町の地下(山の内側に該当する部分)にも商店街や宿はあるらしいが、
あまり治安が良くないので、近寄らないことに越したことはないと宿の主人に言われた。
町の住民は、いま勇者たちがいる「外」の人間と、
地下にいる「内」の人間で構成されている。
その関係は所謂、裕福層と貧困層そのものだった。
ふたつの層の隙間には深すぎるといってもいいほどの溝がある。
そこに友好の橋が架かることは、
たとえ魔王が現れて皆が団結しなくてはならなくなってもあり得ないだろう。
高い場所に行けば行くほど裕福な人間が住んでいる。
たとえ低いところにいる人間でも、「内」の人間から見れば
それは十分に裕福な暮らしをしていると言える。
町の深いところには今日も飢えを凌げずに死んでいく子らがいる。
下水道の水で身体を洗うものがいるし、
飢えから共食いを始めるものだっているかもしれない。
しかし裕福層はそんなことを知る由はなかった。
彼らは「内」のものを人間としては見ていなかった。
もちろん勇者たちがそんなことを知るはずもなかった。
512:
「昨日は階段を上ったから、今日は下ることにしよう」と僧侶は言う。
理屈はよくわからなかったが、とりあえず勇者もそれに従って、
彼女を追う形で階段を下る。幅の広い石段に、足音が染みる。
下り終えたところにあるのは、また似たような広場だった。
ここにも大量の商店が並んでいる。
僧侶と勇者はそれを通り過ぎ、もうひとつ階段を下る。
結局、どこまで行っても似たような風景があるだけだった。
途中に住宅街と、また芝生の広場があった。
ほかは工房ばかりの広場だったり、歓楽のための如何わしい
建物の集合した小さな空間だったり、場所によって景色も様々だった。
ふたりは最初の広場まで、今度は階段を上る。
それだけでもかなりの時間がかかってしまう。
宿の前に戻ってくる頃には時刻はお昼を過ぎていた。
脚も棒になりかけていたので、もう一度腹ごしらえをして
ゆっくりと休んでから、階段を下りて商店へ向かう。
513:
僧侶が最初に向かったのは、武具を扱う店だった。
肌の焼けた筋骨隆々の男がカウンターの向こうで嬉しそうに頷いている。
歳は四〇かそこらだろう。切り揃えられた髭と、穏やかな顔が印象的だ。
できるだけそれを見ないようにして、「なにを買うの?」と勇者は僧侶に訊ねる。
「ナイフがほしいの」と彼女はそれなりに大きな声で答える。
「小さいやつだよ。護身用というか、お守りみたいな」
「ナイフが欲しいのかい、お嬢ちゃん」と筋骨隆々の男は嬉しげに言う。
「うん」と僧侶は答える。「自分の身は自分で守れるようにならなきゃね」
「うんうん」と彼は満足げに頷いた。「立派じゃないか」
「そんなに使う予定はないんだけどね」
「あるに越したことはない?」
「そう」
514:
「たしかに、いざという時にあるのとないのではやっぱり違うからな。
よくわかってるじゃないか、お嬢ちゃん。
きっと立派なトレジャーハンターになれる」
「どうしてトレジャーハンター? まあ、なんでもいいけど。
個人的には立派なお嫁さんになりたいところだね」
「お嫁さん? 彼の?」と男は勇者に微笑みかけながら言う。
「そう」と僧侶は答える。
「この子は泣き虫ですぐに赤くなるから心配なんだよ」
「泣き虫は治ったんだって……。それに、お、お嫁さんって……」
勇者は赤くなる。
「ほんとうだな」男は声を上げて笑った。
「でも夫婦って言うよりは、姉弟みたいだ。きみがお姉さんで、彼が弟だ」
「鋭いね、おじさん」僧侶は口元に笑みを浮かべた。「だいたいそんな感じだよ」
「俺の目と俺の作った剣ほど鋭いものは世の中にはなかなか無いからな」
「そういうの嫌いじゃないよ」
「気に入ってもらえたようでなによりだ」男は目を細めて笑う。
よく笑うひとだなあ、と勇者は思う。
細かい違いはあっても、表情はずっと笑っている。
515:
それから思い出したように、
「ああ、ナイフだったな。お嬢ちゃんに似合うのを探してこよう」と男は言った。
「お嫁さんっぽいのをお願い」と僧侶はからかうように言う。
「難しいことを言うね」男は背後にあった木箱を探る。
中にはナイフが大量に入っているらしい。
「ここで刃物を買うのはほとんど男だからなあ……」
「ほんとうはなんでもいいんだけどね」
「いいや。なんでもいいなんてことはない」
男はがちゃがちゃと箱をいじくりながら言う。
「ナイフに限った話じゃないが、剣だって、刃だけがすべてじゃない。
いくら切れ味が良くても手に馴染まなければ、それは剣のほんとうの姿じゃない。
まずは自分の手に馴染む柄を見つけないとな」
「ふうん。ナイフにもいろいろあるんだね」
516:
「うん。これはどうかな」と男は言うと、箱から一本のナイフを取り出した。
刃の長さは一五センチメートルほどで、柄には布が巻かれている。
続いて男は刃を収めるための鞘を取り出す。革製の鞘だ。
僧侶はそのナイフが手に馴染むか確かめるために、一度持ってみた。
しばらくそれを眺めた後、彼女はナイフを軽く振る。
「すごく軽い」と彼女は感心したように言う。
「なんといっても俺が作ったナイフだからな」男は自慢げに言う。
「どうだい? お嬢ちゃんの手にそいつは馴染むかな?」
「すごくいいと思う」彼女はナイフを空に向けて言う。
鈍色に輝く刃に、陽光が反射する。勇者は思わず目を細める。
「これがいい。これをもらうことにする」
「それでいいのか? ほかにもあるぞ?」
「ううん。これがいい。なんか、びびっと来たよ。こう、胸に雷が落ちたみたいな」
「そうか。うんうん、そういうのも大事だよな」男は革製の鞘を僧侶に差し出す。
「じゃあ、そのまま持っていってくれ。金はいらんから」
「いいの?」と僧侶は目を丸くする。
517:
「いいぞ」と男はまた笑う。「今日は美人さんと話せて気分がいいんだ。
兄ちゃんもなにか欲しいものがあるのなら持っていってくれ」
「僕?」と勇者は素っ頓狂な声を上げる。
「おう。兄ちゃんに馴染む剣もきっとあるぞ」
「ありがとう。でも、僕はいいよ。僕にはこの剣があるから」
勇者は腰に携えた剣の柄を撫でる。柄は随分と擦り切れていた。
思えばこいつとも長い付き合いだったのだと思う。
「随分と使い込んでるみたいだな。きっと剣も喜んでる」
「うん、大事な剣なんだ。貰い物なんだけれどね」
「ほう。誰から貰ったんだい?」
「僕の兄のようなひと」と勇者はすこし淋しげな目をしながら言う。
「ずっと昔に貰ったんだ」
「そうか。うんうん、剣に愛着が湧くのはいいことだ。
思い入れがあったってふしぎな事はない。
俺は兄ちゃんのことが気に入ったぞ」
「ありがとう」
518:
「剣を大事にするやつに悪いやつはいない」
男は自分の言葉を噛みしめるように頷く。
「悪いのは剣を道具としか思っていない輩だ。
剣はなにかを殺めるためだけの道具じゃあないんだ」
「そう」と僧侶は自分の髪を首の後ろ辺りで束ねながら言う。
左手で髪を縛り、右手にはナイフを持っている。
そして、「こんな使い方だってある」と続ける。
言い終えるのと同時に、彼女はナイフをうなじ辺りに持って行き、
縛った髪をナイフでばっさりと切り落とした。
それはまるで蟻を踏みつけて殺す子どものように迷いがなかった。
彼女は切り落とした髪の束を握りしめながら、左手を胸の前に持ってくる。
ナイフを持った右手は、力が抜けたみたいに重力に従っている。
「よく切れるね」と彼女は切り落とした髪を見ながら言う。
そしてその手をゆっくりと開く。
艶が失われつつある綺麗な黒髪は、指の隙間から花びらのようにこぼれ落ちていく。
それは綿毛のように、風に乗ってどこかへ飛んで行く。
519:
彼女は髪に付着した水滴を払うように頭を振る。
艶のある黒い髪はさらさらと揺れる。それはばっさりと首筋の辺りでなくなっている。
ほんとうに切り落としてしまったのだ。勇者は唖然としながらそれを見守る。
それでも彼女が綺麗であることに変わりはなかった。
その美しさは先程よりも増したようにさえ見える。
真っ直ぐな光が目に射している。太陽のようで、真っ黒な炎のような鋭い輝きだった。
形はどうであれ、彼女の決意の証明は終わった。彼女の心は決まったのだ。
「な、なにしてるの?」と勇者は目と口を丸くして言う。
目を丸くする男どもを気にせず、彼女はナイフを見つめながら言う。
「でも、これも自分を一度殺したようなものなのかな」
男は目を丸くしたまま小さく吹き出し、「男らしいな」と言う。
「綺麗な髪だったのに、もったいない」
「綺麗なものはもう必要ない。綺麗なものがあっても、強くはなれない。
でもわたしはこうすることで、強くなれる気がするの。
今まで引きずってた重荷をばっさり失くして、わたしは前に進む」
「難しいな」
520:
「とにかく、こうすることでわたしはすこしでも変われる気がするの」
僧侶はナイフを鞘に収めて言う。「ナイフ、ありがとう。大事にする」
「おう、大事にしてくれよ。詳しいことは知らないけど、負けちゃだめだ」
「ありがとう」と僧侶は微笑む。
「うんうん、若いってのは素晴らしい」男は頷く。
「勢いがあるってのはいいことだ。
慎重なのも悪くないけど、時には強引になるくらいがいい。
そういうのはびびっと来るね。こう、胸をナイフで貫かれたみたいな感じだ」
「ふふん」と僧侶は満足げに笑う。それから勇者の手を引いて、「行こう」と言う。
「う、うん」勇者の顔は熱くなる。誰かに見られていると、どうしてもそうなってしまう。
「若いってのは素晴らしい」と男はもう一度言う。
「やっぱり強引になるくらいがいいよな。兄ちゃんもそう思うだろう?」
勇者は彼女に手を引かれながら彼に言い訳をしようかと思ったが、
なにがなんだかわけがわからなくて、それどころではなかった。
521:

勇者は僧侶と手を繋ぎながら、昨日の芝生の広場へ向かう。
すれ違うひとの視線を感じるが、彼女は気に留めない。勇者もそうすることにした。
べつに男女がいちゃいちゃしてるから見ているわけではなく、
“よそ者”が歩いているということが彼らを不快にさせているのだろうと思う。
しかし、そんなことは知ったことではない。不快ならば追い出せばいい。
彼らは小さな敵へ立ち向かわずに、ただ通りすぎるのを待っている。
簡単に追い払える虫を、ただ不快な目線を送るだけで殺せると思い込んでいる。
あるいは誰かが殺してくれると。
そういう時だけ、個人個人は町とは無関係の人間のように振る舞う。
責任を押し付けあうことで、自分の身を危険に晒さないようにする。
それは決して間違った判断ではない。正しいと言い切ることもできない。
でも、ふたりにとってそんなことはどうでもよかった。
周囲にどう思われるよりも、彼女にどう思われているのかが大事だ、と勇者は思う。
僕の世界は彼女がいることで、かろうじて廻っている。
522:
「買いものは終わり?」と勇者が訊ねると、「そう。今日はおしまい」と彼女は言う。
「でも、髪を切るためのナイフを買っただけだよ?」
「わたしはそれでいいの。今日はおしまいだけど、明日は防寒具を買いに行こう。
北の大陸は寒いからね。きみはなにかほしいものがある?」
勇者はすこし考えてから、「特にないと思う」と答えた。
「お守りとかいらない?」
「どうかな。ちょっとほしいかも」
「じゃあ、これをあげよう」と彼女は言い、懐から金貨を一枚取り出して
勇者にそれを差し出す。「これをお守りだと思うように」
「わかった」勇者はそれを受け取って握りしめる。「ありがとう」
「それはわたしのお守りみたいなものだったけれど、わたしにはもう必要ない」と
彼女は笑う。「きみに持っていてほしい。きっとそれがきみを守ってくれる」
523:
芝生の広場には、昨日と同じように子どもたちがいた。
風景も気温も匂いも、昨日とほとんど変わらない。
違いといえば、強いていうならすこし風が強いくらいだった。
僧侶は昨日と同じようにベンチに腰掛ける。
勇者も隣に座り、ふたりは隠すようにして手を繋いだ。
「平和だ」と彼女ははしゃぐ子どもたちを見ながら微笑む。
「そうだね」と勇者は言う。それから彼女の横顔を眺める。
別人だ、と思う。たしかに、髪を切ったことによる見た目の変化もあるが、
もっと大きなものが変化したのは間違いなかった。
それはたしかに勇者の目に映っている。彼女の纏っている強くて柔らかいなにかが。
「なあに、じっと見て」と彼女は微笑みながら言う。
「いや」勇者は目を伏せる。「新しい髪型も似合ってるなあと思って」
「ありがとう。わたしも気に入ってる。涼しくて気持ちいいよ」
「そっか」と勇者は笑う。それから黙って子どもたちを眺める。
524:
しばらくして、唐突に彼女は「たとえば」と口を開く。
「たとえばだよ、わたし達の間に子どもが生まれたとしよう」
「え?」と勇者は言ってから、むせた。「子ども?」
「そう、赤ちゃん」と彼女はなんでもないみたいに言う。
「そしたらその子は、幸せになれるかな?」
すこし間を空けてから、「なれる」と勇者は言う。
それは確信というよりは希望だった。
「そっか」彼女は微笑む。「ねえ、きみはいま幸せ?」
「だと思う」
「わたしも、幸せだと思う」彼女は淋しげな目をしながら言う。
「ずっとこうやっていられたらいいのにね」
526:
19
「うん、やっぱり似合う」とユーシャは言った。
「そ、そうかな」魔法使いは言う。
「うん、魔女みたいだ」
「それって褒めてるの?」
「もちろん。ここまでその帽子が似合うやつはなかなかいないんじゃないかな」
ユーシャは魔法使いの頭に乗っかったとんがり帽子を眺める。
鍔の広い、黒い帽子だ。天に伸びる三角は先の方で折れ曲がっている。
彼はそれがとても気に入った。「すごくいいと思う」
「そ、そうかな……?」魔法使いは口元に込み上げる笑みをこらえて言う。
「これください」とユーシャはカウンターの向こうで
ふたりを見守っていた女(三〇代中頃に見える)に言う。
「若いっていいわねえ」女は頬杖を突きながら唇を尖らせた。「うらやましいよ」
「ありがとう」とユーシャが言い、代金を払うと、
女は弱々しく微笑みながら「まいどあり」とつまらなさそうに言った。
527:
洋服屋から出る頃には、時刻は昼を過ぎていた。
まだすこし過ぎただけのはずなのに、町は随分と暗い。
見上げると、鈍色の雲が青色を遮って空全体を埋めている。
風は強くて冷えている。町に叩きつけるような風が鼓膜を叩く。
「雨が降りそうだ」とユーシャは言う。「戻ろうか?」
「そうね」と魔法使いは帽子の鍔を掴んで言う。「帽子が濡れちゃ嫌だもの」
ふたりは宿に向かって歩き始める。やがてひとは疎らになる。
まもなく人混みと入れ替わるように雨が降ってくる。それからふたりは走り始める。
宿の部屋に戻ってくる頃には、雨はかなり激しくなっていた。
滝のように落ちてくる水は、この大陸をまるごと沈めてしまうのではないかと
すこし心配になるほどだった。
こうなる前に宿に戻ってこれて良かったのかもしれない、と魔法使いは思う。
それでも服は十分に水を吸っていた。
もちろん、さっき買ってもらった帽子もぐしょぐしょだった。
着衣したまま海を泳いだみたいに服は濡れている。
おかげで身体のラインがほとんど浮き出ている。
視線を感じるような気がするが、どうなのだろう。
とにかく、肌に張り付く布が重いし気持ち悪い。さっさと服を脱ぎたかった。
528:
とりあえず魔法使いは風呂で冷えた身体を温めた。
風呂から上がると箪笥に入っていたゆったりとした服を着て、ベッドに座り込む。
入れ替わるようにユーシャは風呂へ向かう。
「最近は風呂がいいもののように思えてきた」と彼は言う。
窓の外を眺める。雨粒が張り付いたガラスに、さらに激しい雨粒が叩きつける。
外の景色はほとんど見えない。水と灰色の世界が広がっているだけだ。
そのままベッドに身体を倒した。しばらく意味もなく天井を見つめる。
雨音と沈黙が部屋を満たす。それは彼女をとても寂しくさせた。
心なしか、部屋の温度がどんどん下がっていくような気がする。
体温も下がっていってるような感覚だ。とても寒い。しかし、この部屋に暖炉はない。
魔術の炎で身体を温めることはできるが、
おそらくそれでは満たされないような気がした。
今度は膝を抱えながらベッドに座り込んで足の指を眺めていると、
ユーシャは風呂から戻ってきた。
風呂がいいもののように見えてきたと言っても、
彼の入浴時間はカラスの水浴びといい勝負かもしれない。
529:
でも、それは彼女にとっては永遠のように感じられる時間だった。
魔法使いは彼が目に映った瞬間に、胸になにかが込み上げてくるのを感じた。
それは彼女が、彼に対して昔から抱いていた感情の延長線上にあるものだった。
そして今回のそれは、今まででいちばんの重みを持っていた。
昔はこの感情が湧き上がることに喜びを覚えたが、
蜘蛛の巣での一件以来、この感情が胸を満たす度に苦しくなる。
それでもその感情はどんどん強くなっていった。
隣に居たい、触れたい、身体を重ね合いたい、昔からそう思うことは何度もあった。
何年も前から、そういう関係になれたらどれだけいいだろうと思っていた。
でも彼女は正直にはなれなかった。恥ずかしくて仕方がなかった。
彼にどう思われているのかはなんとなくわかるが、完璧に理解できるわけではない。
嫌われるのだけは嫌だった。それは彼女にとっては死に等しいものだったからだ。
だから彼女はほんとうの自分を押し殺し続けた。
それでも彼の隣にいることは、とても満たされる時間であった。
530:
そうして仄かな想いは風船のようにゆっくりと膨らみ始める。
それはもう抑えきれないほどに達しようとしていた。はちきれる寸前だった。
隣にいるだけでは満足できなくなってしまった。
行き場のない怒りと同じように、それは彼女の心を焼き続けた。
彼に焦がれ続けた彼女の心は今、狂おしいほどに彼の心を求めている。
彼女の未熟な身体は彼の未熟な身体を求めている。
彼女は彼のすべてを求めている。
心臓は早鐘をうつ。燻っていた想いが煙となり、血液といっしょに身体中を満たす。
炎が灯ったように身体が熱くなる。それでも寒さは和らがない。
甘えたいときは甘えればいい、と過去の彼女は言う。
今がその時なのかもしれない、と彼女は思う。それから大きく深呼吸をした。
531:

ユーシャは風呂から上がって、ねずみ色の長袖のシャツと黒いズボンを身に付ける。
それらからは慣れない匂いがする。誰も使っていない服だ、とユーシャは思う。
誰も使っていないのに、匂いがする。喩えようのない匂いだ。
彼は独特なこの匂いがどうしても好きになれなかった。頭が痛くなるからだ。
匂いに顔を顰めながら、部屋へ戻る。
魔法使いはベッドの上に、膝を抱えてぽつりと座り込んでいた。
クリーム色をしたワンピースのようなものを纏っている。その姿はとても小さく見える。
窓の外は相変わらずの雨模様だった。
先程よりも雨脚が強くなっているようで、外はかろうじて見える程度だ。
「すごい雨だな」とユーシャは言い、魔法使いの隣に腰掛けた。
ベッドは軋んだ音を吐き出す。
彼女は大きく深呼吸をした後に、「そうね」と答えて、「最悪」と呟いた。
「町にいるときで良かったじゃないか」ユーシャは笑った。
もし、この町――東の王国の城下町に居るときの前後に、
窓の外の幻想的とも言えるほどの大雨に遭遇していたらと思うと、
微笑みは苦笑いに変わった。
窓の向こうの景色は、額縁に収まった灰色の絵みたいだ、と思う。
532:
「考えようによっては良かったとは思うけどね」彼女はため息を吐き出す。
「今回だけはそういうふうにはいかない」
「そんなに嫌なのか、雨」
「べつに」と彼女は頬をふくらませて言う。「帽子が濡れたのが気にいらないだけ」
それから窓の付近の椅子に引っ掛けられたとんがり帽子を眺める。
帽子からは水が滴っていた。
「そっか。帽子、気にいった?」
「そこそこ」
「よかった」ユーシャは笑う。「晴れたらすぐに乾くのになあ」
「でも、雨も悪くない」と彼女は言う。
「そうかな。晴れたら、またお前の好きな買いものに行けるんじゃないか?」
「もういいの。今日はこうしていたい」
「そっか」
533:
ふたりは窓を眺める。
ユーシャの目に映るのは、ほんのりと明るい部屋の景色だった。
しばらくそうしていると、とてもこの部屋と窓の向こう側が
繋がっているとは思えない気がしてくる。
空から海の底を見ているみたいな気分だ。
やがて魔法使いは言う。「さむい」
「寒い?」とユーシャは聞き返す。
言われてみると、すこし肌寒いかもしれない。
なんといっても、ここは大陸北の町で、
もう目の前に北の大陸があると言ってもいいほどだ。
「うん」彼女は頷いてから、ユーシャの顔を見る。「だから、“ぎゅっ”てして」
「ぎゅっ?」とユーシャは反復する。「ぎゅっ?」と、もう一度言う。
534:
「こんなふうに」と彼女は言ってから、ユーシャに抱きつく。
頭を彼のお腹辺りに押し付けて、手を腰にまわす。
「え?」彼はぽかんとしながら彼女を見下ろす。
彼女の甘い香りが鼻腔をくすぐる。「ど、どうした?」
「もう我慢できないの」
「な、なにが」
「察しろ」
「……もしかして、すごく疲れてないか?」
「それは、いまのわたしが子どもみたいに見えるってこと?」
彼女はユーシャの身体を強く締め付けながら言う。
「子どもじゃなくて、女として見てほしい。わたしだって、男のひとに甘えたい」
その言葉は今までなかったくらいに彼女の存在を彼に意識させる。
何度も彼女を異性として強く意識したことはあったが、
今回は今までのものとは比べ物にならないほど、彼の心臓を激しく揺さぶる。
魔法使いは言う。
「男のひとっていっても、誰でもいいってわけじゃない。あんたじゃないとだめなの」
535:
ユーシャは言うべき言葉を頭の中で探し始める。
でも、それはどうしても見つからない。
伝えたいことはたくさんあるはずなのに、それを的確に伝える方法がわからない。
雨音が沈黙を埋めながら、彼の頭蓋を叩く。
頭の中が撹拌されたみたいに、ごちゃごちゃとしている。身体が熱くなってくる。
「ずっとこうしたかった」と彼女は言う。
「ずっと」とユーシャはその言葉を噛みしめるように反復する。
「時間にすればたかが一〇年くらいかもしれないけど、
それはわたしにとって永遠のような時間だった」
「ごめん」ユーシャは彼女の頭に手を置く。
彼女は小さく首を振る。それは頭を彼の腹辺りになすりつける形になる。
「いいの。あんたの隣にいる時間は満たされた時間だったから。
でも、今は違う。隣にいるだけじゃだめになっちゃったの。
もうそれだけじゃ足りないの。わたしは今、すごく苦しい」
「顔を上げてくれ」とユーシャは言う。
彼女は顔を上げて、彼の目を見つめる。
ふたつの視線は互いの目に吸い込まれるように、一直線上でぶつかる。
腰に巻きつけていた手を離し、それを彼の肩に置いてから身体を起こす。
魔法使いの内側に、忘れかけていた羞恥心が込み上げてくる。顔が熱くなる。
536:
それからユーシャは彼女の細い身体を優しく抱きしめる。
「ごめんな。もっと早くこうしてればよかったのに」
「もっと強くして」と彼女は小さな声で言う。
ユーシャは腕にすこしだけ力を込める。
「もっと」と彼女は言う。
彼は彼女の身体を自分に押し付けるように、手に力を込める。
「もっと」と彼女は言う。「優しいのも好きだけど、今はもっと強くしてほしい」
彼は自分の息が苦しくなるほど、彼女の身体を自身に寄せる。
「これくらいがいい」と彼女は言う。「今は息が苦しくなるくらいがいい」
「ちょっとやり過ぎじゃないか?」ユーシャは微笑んだ。「俺も苦しい」
「……緩めてもいいけれど、離しちゃだめよ」
「わかってるって」ユーシャはすこしだけ力を抜く。「ごめんな」
「なにが」
537:
「ほんとうはこんなこと、俺から言うべきだったのに」
「そうよ。いつになったら言ってくれるのかって、ずっと待ってたのに」
「ごめん」
「ずっと我慢してた。でも、ときどき我慢できなくなるときがある」
「ときどき」とユーシャは言う。脳裏には第一王国の宿での出来事が蘇る。
「そう、ときどき。今みたいに」魔法使いは頷く。
そして第二王国で弱くなった彼を抱きしめたことを思い出す。
「でも、もうなにも我慢しない」
「そんなこと言われたら、俺も我慢できない」
ユーシャは魔法使いをベッドに押し付ける。
彼女は満面の笑みで彼を受け入れる。それを見て彼も微笑んだ。
ふたりは迷うことなく唇を重ね、舌を交える。
身体になにかが満ちて、頭の中が真っ白になっていく。
538:
そうしてふたりは交わる。
彼は緩やかな曲線を描く彼女の身体を貪るように求めた。
小さな胸も、細い指も、すこしだけ傷の見える脚も、
柔らかい唇も、ひとのぬくもりを持っていた。
手や舌で触れると、そのぬくもりといっしょに彼女の感情が伝わってくるような気がした。
触れるたび、彼女は小さな声を漏らす。その声は彼を昂らせる。
理性を焼ききるのは、剣で糸を切るよりも容易いことだった。
様々な角度で身体を重ね、内側を掻き回し、彼は彼女の内に精を注ぐ。
それは休むことなく何度か続く。
限界にまで昂った想いをすべて吐き出すのには、どうしても時間がかかってしまう。
ゆっくりと、満たされた時間が過ぎていく。
窓の外の雨は勢いを増す。
ふたりの存在をかき消してしまうかのように、轟音が部屋を満たす。
彼女は抑えきれずに何度も声を上げる。それは彼にしか聞こえない。
ふたりはお互いの身体で、熱い海に溺れる。それは何時間も続く。
539:
ユーシャは魔法使いの中で果てる。もう限界だった。
心臓が激しく鳴っていて、血管が破裂してしまいそうだ。視界が霞んでくる。
自分でしたって五回連続で果てるなんてことは一度もなかった。
彼は彼女の中から出て、ベッドに身を投げる。頭がずきずきと痛む。
しばらくして、「よかった?」と隣で一糸纏わぬ魔法使いが言った。
「すごくよかった」とユーシャは答えた。
それに対して、彼女は大きく息を吐き出して、「よかった」と答えて微笑んだ。
彼女も肩で息をするほどには感じてくれたらしい。
それはユーシャをとてもいい気分にさせる。
「ねえ、わたしは今すごくしあわせよ」と彼女は続ける。
540:
彼女の言葉は麻薬のようなものなのかもしれない、とユーシャは思う。
あるいは魔法のような。魔法だとしたら、それは呪術的なものなんだろう。
彼女が隣に居なければ、もうどこにも行けないような気がしてくる。
肉体も精神も、彼女と鎖で繋がれているようなイメージが脳裏を過る。
ふたつの魂は、ほとんどひとつになっている。
お互いを離れて生きていくことはできなくなっている。
でも、それは不自由であるとか、息苦しいというようなイメージではない。
その鎖が朽ちることはない、と彼は思った。その鎖は言葉であり、信念のようなものだ。
そして炎や雷雨や竜巻のようでもあり、愛やむき出しの欲望のようでもある。
それはとても自然なもので、決して無機質で
冷たいものではなく、生々しい熱を持って脈動している。
541:
「俺も幸せだけど、死ぬかと思った……」ユーシャは微笑みながら言った。
身体は満たされて潤っているのに、喉だけが乾いている。
「なんで」
「まさか五回も続くとは思わなかった……。血管と心臓が張り裂けそうになったよ」
魔法使いは恥ずかしげに頬を赤らめて笑う。「ちょっと休憩したら、もう一回したい」
「も、もう一回?」
「何度でも、何時間でもしたい」と彼女は訂正する。「いや?」
「い、嫌じゃないけど……ほんとうに死んじまうかも」
彼女はすこし考えてから言う。「だったら、明日は? 明日はもっとしたいな」
「明日」とユーシャは言ってから、窓の外を眺める。
なにかの災害みたいな雨の量だ。ときどき、雷が視界を白く染める。
止む気配は微塵もない。「わかった。明日も雨だったら、一日中こうしていよう」
「晴れたらいっしょに買いものに行きましょう。
北は寒いから、あったかい服を買わなくちゃね」彼女は微笑む。
それから、「明日も雨になりますように」と彼に身体を押し付けながら言った。
「なりますように」と彼も言った。
晴れるまでこうして身体を重ねあうのだろうか。それも悪くないかな、と思う。
542:
翌日は相変わらずの雨模様だった。
ふたりは朝から時間をかけて、浴槽の中でお互いの身体を締め付け合う。
そうしてベッドの上でふたたび、ゆっくりと、満たされた時間が過ぎていく。
543:
20
昔々、この世界の下には、この世界を支える三体の神様がいました。
ひとつは竜の頭を持つ巨大な魚。ひとつは蛇のように長い身体を持つ竜。
ひとつは大きな山のような身体を持つ竜、あるいは竜の頭を持つ山。
彼らはひっそりと世界を支えながら、なにかの声に耳を傾けていました。
ある日、彼らはその場所から引きずり出されてしまいます。
彼らを引きずり出したのは、魔王と呼ばれる怪物の王でした。
不思議なことに、魔王は彼らと仲良くなります。とても気が合ったのです。
しかし、彼らには世界を支えるという重大な役目がありました。
彼らがいないことには、世界に空が降ってきて、大地を押しつぶしてしまいます。
そこで魔王は、五本の塔を立てて空を支えることにしようと提案します。
そして、その上に私の友人を置いて、
なにかに耳を傾けるように言おう、と言いました。
彼らはとても喜びました。自由になることができたからです。
544:
やがて魔王は見返りとして、あるお願いをします。
しかし、彼らはそれを断りました。もちろん魔王は怒り狂います。
すると魔王は自らの力で、彼らの自由を奪ってしまいました。
彼らは門の向こうの黒い水溜りに閉じ込められてしまったのです。
しばらくして、勇者が魔王とぶつかり合います。
それは壮絶な戦いでした。時間や空間が歪んでしまったといわれるほどです。
両者は戦いの果てに死んだとも、
どこかで未だに戦い続けているとも言われています。
そうして何百年もの時間が過ぎました。
神様たちは、未だに囚われているのでしょうか。
塔の上には未だに魔王のいう友人が、世界に耳を傾けているのでしょうか。
545:

勇者は眼前に屹立する塔を見上げる。天辺は見えないほどに高い。
遠くから見ると小さく見えたものだが、近くで見るとまったく印象は変わった。
円筒状に積み上げられた煉瓦のような石が、ひとつの建物としてそこに立っている。
塔の太さは直径五〇メートルほどだろう。
色は灰色で(所々変色しているが、大部分は灰色だ)、
あちこちにツタが絡みついている。
窓や内部への入り口はどこにも見当たらない。
塔というよりは、巨大な柱と呼んだほうがしっくりきそうだ。
それからはどこか冷たい印象を受ける。空気が冷たいからなのかもしれない。
頬に叩きつける風は、もはや寒いを通り越して痛い。
いよいよ北の大陸が近づいてきたのだという事実が、勇者の身体を震わせる。
塔があるのは東西の大陸の北端と南端、
それと海のど真ん中で、この塔は西の大陸の北端にある塔だ。
向こうには大きな橋があって、その終着点には氷に閉ざされた大陸がある。
遥か北の空には、濃灰色の雲が見える。きっと、そこが橋の終着点なのだろう。
546:
象徴的な空を切る音と共に、強く冷たい風が辺りを薙ぐ。
草木は乾いた音を鳴らして、寒さに耐えている。
勇者は思わず身体を震わせた。
寒さと未知への恐怖が、まともな感覚を奪っていこうとしている。
僧侶は「風が強くなってきた」と言うと、マントの下で身体を震わせた。
彼女の鼻と頬は、寒さで赤くなっている。それとは対照的に呼気は白い。
「でも、もっと寒くなるんだよね」と彼女は続ける。「寒いのは好きじゃないなあ」
「きみは昔からそうだもんね」勇者は笑った。
それから、故郷の村にいたときのことを思い出す。
彼女は小さい頃、寒い時期になるといつも、もさもさとした服を着ていた。
赤い手袋と肌色のマフラーを欠かさず身につけていて、
マフラーのせいでいつも鼻から下が隠れていた。
それのおかげで、露出した赤い頬と閉じかけた目が印象的であった。
勇者は彼女のその姿が好きだったことを思い出す。
かわいらしい姿だったし、自分と同い年かそれ以下に見えることがあったからだ。
547:
でも今は違う。彼女は勇者のすこし先にいる。
昔のかわいらしい彼女は今と似ているようで、ぜんぜん違う。
今の彼女には、かわいいというよりも綺麗だとか強いだとか、そういう言葉が似合う。
でも、昔の彼女の髪の長さは今と同じように、首の辺りまでだった。
もしかすると、また昔のように戻ったのかもしれない。よくわからなくなる。
「でも、今は簡単に温まる方法があるもん」と僧侶は言う。
それから妖艶な笑みを勇者に向ける。「ね?」
やっぱり変わってしまった、と勇者は思った。
決してそれを悪いことのようには感じないが。
もしかすると、僕も変わってしまったのだろうか。わからない。
548:
塔を回り込んで、さらに北へ向かおうとした時だった。
一〇〇メートルほど先になにかが降ってきて、土煙を巻き上げた。
「なに?」と僧侶は訝しみながら、土煙に目を向ける。
勇者も目を凝らす。煙の向こうに歪な形をした影が見える。
ゆっくりと、こちらに近づいてくるそれは、ひとにも見えるし、蛇のようにも見える。
影の形は知っている生物のどれとも合致しない。
怪物だ、と勇者は思った。どこから降ってきた?
心当たりは背後にある塔しかない。
まさか空から降ってきたわけではないだろう。
あれに羽があるのなら話は変わってくるが。
やがて煙から出てきたのは、見たこともない異形の存在だった。
549:
まず目に飛び込んできたのは、巨大な眼だった。
胴体はほとんど猿のそれと変わらないが、
顔があるはずの場所には大きな眼球があるだけだ。
口や鼻は見当たらないが、尖った耳だけが眼球の両脇から飛び出している。
眼の大きさは肩幅の三倍ほどあった。
次に目を引いたのは、大きな腕だ。
怪物の背中からは羽ではなく、巨大な腕が一本生えている。
後からくっつけたみたいに、その腕には毛が生えていない。
巨大な人間の腕を背中に埋め込んだみたいな印象を受けた。
でも、あんな巨大な人間はいない。
それに、人間の腕に関節は五つもないし、指は六本もない。
怪物は六本の指で大地を掴み、五つの関節を折り曲げて、
器用に背中から生えた腕の上に座る。
大きな目で勇者たちを見据えると、瞼をすこし下ろした。
その仕草は笑っているように見えた。
550:
「こんにちは?」と怪物は言った。それはひどく耳障りな声だった。
高い音と低い音がいっしょになって聞こえる。
両耳のすぐ側で蚊と熊蜂が同時に飛んでるみたいだ。
そして彼は「勇者様?」と続けた。
「は?」と勇者は思わず声をこぼした。怪物が喋るなんて、聞いたことがない。
そもそも、口もないのにどうやって喋ってるんだろうか?
「なにあれ」僧侶はさらに訝しむような表情になる。
怪物は巨大な六本の指で地面を弾いて跳んだ。
そして勇者たちの一〇メートル手前に六本の指で着地する。
猿のように華奢な胴体が宙に揺れる。
腕とそれのどちらが本体なのか、わからなくなる。
個別の意思を持ったものなのだろうか。
あるいは寄生虫と宿主のような関係なのかもしれない。よくわからない。
勇者は剣を引き抜いた。僧侶も呪文をつぶやき、ふたりを“膜”で覆う。
551:
「あれ?」怪物は首を傾げる。眼球の重さで、そのまま首はがくりと折れ曲がる。
「勇者じゃない? あいつらじゃない? あの糞野郎どもはどうした?」
「なんの話?」と僧侶は言う。
「とぼけるなよ人間! さっさと勇者を連れて来い!」
怪物は目を見開いて怒鳴った。
「あの四人組、ふざけやがって……ぶっ殺してやる!」
勇者……。四人組?
「だから、なんの話なんだよ?」勇者が苛々しながら、強い語気で言う。
それはどこか怯えている自分を奮い立たせるためでもあった。
「ほんとうに知らないのか? ほんとうは知ってるんだろ?」
「知らない」と勇者は言った。
自分が勇者だと名乗って、彼を刺激するのは拙い気がする。
552:
怪物は瞼を半分だけ下ろし、勇者と僧侶を交互に睨む。
「だったら、お前たちは何故ここへ来た?」
「橋を渡りに来た」と僧侶が言った。「魔王を倒すために」
怪物は目を見開いた。「なに」
「わたし達は魔王を倒すの」と僧侶はもう一度言う。「彼が勇者だから」
怪物は「そうか」と言うと、大声で笑い出した。
首ががくがくと折れ曲がり、その都度眼球が地面に零れ落ちそうになる。
「そうか、お前があいつの代わりなのか!
そう言われると、お前はあいつに似ているかもなあ!
うははははは! 待ってたぞ、七〇〇年間ずっと待ってたんだ!
忘れるもんか! お前らみんな殺してやる、殺してやる! うははははは!」
僧侶は消えそうな声で「ごめん」と言った。
勇者は頷いて、剣を構える。
「大丈夫。遅かれ早かれ、こうなる気はしてた。これは、きっと避けては通れない壁だ」
「うん」僧侶は頷く。「きみなら大丈夫だ。こんな壁、すぐにぶち壊してやればいい」
「頼りにしてるよ」
「わたしも頼りにしてるよ、勇者様」
553:
「そう、それだよ!」と怪物は声を張り上げ、背後の巨大な手で地面を殴りつける。
足元が揺らぎ、怪物の立っている場所の地面に亀裂が走る。
「それが苛つくんだ! お前らそうやって余裕ぶっこきやがって!
七〇〇年前の四人組もそうだ! 男ふたり、女ふたりだ! 忘れるもんか!
あいつら、挙句の果てには俺を殺さずに進んでいきやがった! 舐めやがって!
そもそも、なんで俺がこんな塔で見張りをしなきゃいけないんだ!
あの餓鬼、なにが魔王だ! 糞!」
「ふうん。七〇〇年前は負けたんだ?」僧侶はため息を吐き出す。
「苛々するのは勝手だけど、それはわたし達には関係ないよね」
「黙れ! ぶっ殺してやる!」
怪物は絶叫に近い声を張り上げる。空気がびりびりと揺れた。
そして五つの関節を折り曲げた後、それを伸ばしてこちらに突進してきた。
まるでばねに弾かれたような動きに見えた。
ただ、勢いは真っ直ぐ飛んでくる矢のようだった。
どう見ても殺傷能力は矢の何百倍もあるように見える。
あの巨大な腕で押しつぶされたらどうなる?
そんなことは容易に想像できる。地面に真っ赤な花が咲くことだろう。
554:
矢のように向かってくる怪物を、勇者は身を屈めて躱す。
勢いは衰えることなく、怪物は勇者の後ろにいた僧侶に向かって飛ぶ。
僧侶は呪文を唱える。すると、怪物と彼女の間に、いくつもの氷の槍が現れた。
かなりの太さの槍だ。勇者のちっぽけなものとは比べ物にならない。
その内のひとつが、怪物の巨大な腕を貫いた。
怪物はつっかえて、首をがくりと折り曲げる。眼球が前に飛び出る。
それから怒りの滲んだ絶叫を上げる。
巨大な腕を振り回し、氷の槍をすべて砕いて、また十メートル向こうに戻る。
「進路を遮るだけのつもりだったんだけどなあ」と僧侶は意地悪そうに言う。
「飛んでる最中は腕を畳んだほうがいいんじゃないかな?」
555:
怪物はもはや言葉になっていない声で、なにかを叫び続ける。
かろうじて「殺す」という単語だけが聞き取れる。相当お怒りらしい。
「七〇〇年前の四人組とやらは優しい――もしくは
甘いひと達だったのかもしれないけど、わたし達はたぶん違うよ」
僧侶は頭上に直径五メートルほどの火球を作り出す。
「殺してやる」と彼女は呟く。「その眼球をぐちゃぐちゃにしてやる」
その声には混沌とした感情が含まれていた。
穏やかな川のような声の中には、激流のような感情が見え隠れしている。
まるで怪物の怒りが伝染したみたいに。
殺せ、と影は言う。
556:
彼女は手を鳴らす。それを合図に火球は弾かれたように怪物に飛んで行く。
勇者は火球の後ろに続く。“膜”のおかげで、熱さはかなりマシだ。
続けて彼女は怪物を氷の槍で囲んだ。
それは檻の鉄格子ように綺麗に並べられたものとは違い、歪な列をなしていた。
槍の先端はほとんど怪物の眼球に向けられている。
太さも長さもまちまちだが、先端はどれも眼に向かっている。
それは明確な殺意を持って、怪物の動きを止める。
動けば殺す、と彼女は声に出さずに言う。動けば殺す、と影は言う。殺してやる。
動かなくても殺す。絶対に殺してやる。ぶち殺してやる。
怪物は怒りに任せて腕をぶん回す。絶叫は続く。
氷の槍は派手な音を鳴らしながら粉々に砕け散り、辺りに小さな氷塊として転がる。
散った氷は雪花のように儚く艶やかであったが、
間違いなく多少の暴力性を持っていたはずだ。
しかし、怪物の眼には傷ひとつない。
どうやら、瞼を下ろすと眼球は守られるようだ。瞼は硬いのかもしれない。
あれだけ大きく目立つ弱点だから、守る機能があるのは当然か。
眼球自体を鍛えるのは、いくら怪物でも不可能なはずだ。
あれがまともな生物であると仮定した場合だが。
557:
怪物が氷の槍を掃除し終わると、休む間もなく火球が押し寄せる。
六本の指がある大きな手が、火球を受け止める。火球はその腕よりも数倍大きい。
怪物は絶叫を続ける。しばらくすると大きな手は地面に押し付けられ、
火球はまるで初めから存在していなかったみたいに消滅した。
残ったのは黒い煙と、土煙だけだ。
火球の後ろに付いていた勇者は跳び上がっていた。
地面に押さえつけられた巨大な手に向かい、剣を構える。
怪物は勢い良く眼球をこちらに向ける。なんとも間抜けな姿だ。
勇者は思わず口元に笑みを浮かべる。もう遅い。狙いはあの手か、眼しかない。
あれを潰せば、もう相手は戦いを続けることができなくなるだろう。狙わない手はない。
558:
怪物は咄嗟に反応しようとして瞼を下ろす。
それはシェルターのように、眼を守る。
しかし、逃げることはかなわなかった。
勇者は落下によるエネルギーで、膜が塗られた剣で太い指を二本、骨ごと断った。
真ん中の二本の指だ。それらは鮮血をまき散らして、冷たい土の上に転がる。
絶叫が耳を劈く。それは空気を揺らすどころか、空間を歪めてしまうような勢いだ。
しかし、歪むのは僧侶と勇者の表情だけだった。
「強くなった」と僧侶は言う。「きみはもう、誰にも負けないよ」
「きみには負ける」と勇者は言った。「それに、僕には悪い癖がある」
「でも、わたしがいる」僧侶は微笑んだ。
「わたしは唯一、きみの背中を守ることが出来る」
それから微笑んだまま怪物に言う。
「はやく立ちなよ。わたし達を殺すんでしょ?
指が二本なくなったくらいで、大げさなんだよ」
559:
勇者は横目で彼女を見る。彼女の表情には喜怒哀楽が混在している。
彼女は戦士の不在を哀しみ、怒りに任せて怪物を蹂躙することに喜びを覚え、
自分が優位にいることを楽しんでいる。
彼女はようやく混沌とした感情をぶつける対象を見つけたのだ。
壊れないおもちゃを手に入れた子どもと同じだ。
今、彼女の身体にはエネルギーが迸っている。
健全なものではないが、間違いなく強力なものだ。
それは波のように綺麗で穏やかなものではなく、
澱のように淀んでいて、滝のような勢いで外側に放出される。
いつの間にか怪物の絶叫は止んでいる。
欠落していた感情を取り戻したみたいに、冷静になったようだ。
560:
怪物は男性的な声と女性的な声で言う。
「ほんとうだな。お前らはあいつらとは違うみたいだ」
「ふふん」と僧侶はすこし誇らしげな顔をしながら言い、
「あいつらって、“四人組”?」と続ける。
「そう」と怪物は低い声だけで答えた。
「お前達はあいつらが持っていないものを持っている」
「でも、わたし達は彼らが持っていたものを持っていないと思うよ」
「かもしれないな」と怪物は眼を細めて言う。それは笑っているように見える。
「“ひと”として大事ななにかが欠落しているんじゃないか?」
「かもしれないね」と僧侶は目を細めて言う。それも笑っているように見える。
「あなたはとても“怪物”らしい。
わたしはときどき思うの。怪物みたいになれたらいいなって」
「ふうん」と怪物は満足そうに言う。
「怪物みたいになりたいって、たとえば? “怪物”になって、どうしたいんだ?」
561:
彼女は深呼吸をする。それは何かの決心をするように見えた。
「わたしはね、幸せそうなひとを見ると、なにかを壊したくてたまらなくなるの。
たぶん、わたしと同じように感じているひとはいないんだろうね。
でもわたしは、その幸せそうなひとをばらばらにしてやりたくなる。
でも、そうすることができないの。
たぶん、そうすることで大事なものを失くしちゃうからね。
それは絶対に失くしたくないものなの。わたしの命よりも大事なものかもしれない」
そう言ってから勇者をちらりと見て、また怪物に目をやる。
そして続ける。
「だからわたしは怪物になって、感情にまかせてなにかを壊したいの。
怪物になったわたしを脅かすものはなにもなくて、奪われるものも失うものもない。
それで、自由なわたしはなにかを壊し尽くすの。御伽噺の魔王みたいに。
なにかってのは、まあ、なんでもいいの。
それがおもちゃでも、食べ物でも、家でも、怪物でも、人間でも、壊したい。
とにかく視界を綺麗にしたい、真っ白にしたい――って、ときどき思うの」
562:
「そうできたら楽しいだろうな」と怪物は言った。
「わたしもそう思う」
「お前とは気が合いそうだ」
「わたしもそう思う」と僧侶はもう一度言う。
「だったらわたしがあなたをどうしたいか、わかるよね?」
「殺したい?」
「はんぶん正解。正解は、殺してからぐちゃぐちゃにしたい、だね」
彼女は口元を歪めて言う。「たぶん、それでも足りないだろうけど」
「お前と俺は同類だ」と怪物は嬉しげな高い声で言う。
それは赤ん坊の声みたいに、耳にこびりつく。
「俺もお前達を殺したくてたまらないんだ」
「ふふん」と僧侶は満足げに笑い、呪文を唱える。背後に小さな炎の球が七つ現れる。
「だったら手加減しなくていいわけだ。仕方ないよね。わたしは死にたくないもの。
生きるためにはあなたを殺さなくちゃだめなんだもんね?」
死ぬな、歩け、と影が言う。殺せ、と影は言う。
563:
「俺も手加減しないさ。どうだ、お前、今すごく楽しいだろう?」
「すごく楽しいかも。こんなのはじめて」
「俺も楽しいぞ。うはは、うははははは!」怪物は大声で笑った。
それにつられたみたいに、僧侶も声を上げて笑う。どこか狂気じみた笑みだ。
込み上げてくる笑みを堪えきれないらしく、彼女は笑い続ける。
彼女のかわいらしさの残る狂気的な声と、
完全な怪物の耳障りな声が空気を揺らし、耳を覆う。
勇者は半ば呆然としながら、僧侶に目を向ける。
彼の目に、笑い続ける彼女の姿は、悲しげでとても寂しい存在のように映る。
それはまるで、ひとりぼっちの怪物みたいだった。
差し伸べられた救いの手を食いちぎってしまうような、そんな憐れな怪物に見えた。
565:
21
東の大陸の北端の塔が薄っすらと見え始めた頃、
ユーシャと魔法使いは小さな村を見つけた。
質素な木造の家が立ち並び、そこらに小さな畑が見える。
なんだか、故郷の村を思わせる風景だった。よく似ている、とユーシャは思った。
故郷の村と違う点といえば、動物がすこし少ないくらいだろう。
「休ませてもらえるかしら」と魔法使いは村を眺めながら言う。
「どうだろう」とユーシャは言った。
小さな村は外の人間を嫌う傾向があるのはよくわかっているので、
あまり近づきたくはないところだが、ここらはすこし寒い。
いくら温かい服装(といってもマントを羽織っただけだが)でも、
そのまま外で眠るのは出来ることなら避けたい。
魔法使いも寒いらしく、小さく身体を震わせている。
ぼろマント(元はユーシャのもの。星見の丘で渡してから
彼女はそれをずっと羽織っている)の上に
もうひとつマントを羽織っているだけだから、
服装は膝下が露出しているスカートのままだ。
寒くて当然だろうと思う。
566:
村までの距離はまだすこしあるが、ここからでも
訝しむような目線がこちらに飛んできているのがわかる。
「よそ者が来た」と声を潜めて言い合っているのかもしれない。
あるいは「魔女が来た」とか(関係ないのかもしれないが、
彼女の姿は帽子のおかげでどこからどう見ても魔女にしか見えない)。
自分たちもそういうところに住んでいたから気持ちはわからなくもないが、
どうも同情する気にはなれない。
「とりあえず行ってみればいい」ユーシャは歩き始める。
魔法使いもそれに続く。
村は背の低い木の柵で囲まれていた。
まるで飼いならされた山羊みたいに、人々はその中でおとなしく暮らしているらしい。
自分たちもこうだったのかもしれない、とユーシャは思う。
当たり前だが、立つ場所が変わると、見え方も変わる。
村の入り口辺りまで歩くと、何人ものひとから露骨に、刺すような視線を向けられた。
さあ、どうしよう。なんて声をかけようか。……
567:
ユーシャが入り口でしばらく悩んでいると、目の前に小さな女の子が現れた。
首辺りまでの髪が、冷たい風でさらさらと揺れる。肌は陶器のように真っ白だ。
もさもさとした服(動物の毛が温かそうだ)を着て、
赤い手袋に肌色のマフラーをしている。
マフラーで顔の下半分ほどは隠れている。
赤い鼻と頬がかわいらしい少女だ。歳は一〇くらいだろうか。
「どうしたの?」とその少女はくぐもった声で言う。
すこし考えてからユーシャは、
「俺たち旅をしてるんだけどさ、ひと晩だけこの村で休んでいきたんだ」と言った。
「だめかな?」
「わかんない」と少女は答えた。
「だよな」ユーシャは思わず微笑んだ。かわいい女の子だな、と思った。
すこし考えてから少女は、「わたしの家で休む?」と言った。
「いいの?」
「わかんない」
「わからないんだ?」
「うん、わかんない」少女は目を細めて笑った。「お母さんに訊いてくる」
568:
「頼んだよ。この辺は寒くて、外で寝ると凍えそうなんだ」
「わたしも寒いのは苦手だよ」
「なんとなくわかる。すごい厚着だもんな」
少女はユーシャの全身を眺めて言う。「お兄さん、旅をしてるんだよね?」
「そう」とユーシャは答えて、背後をちらりと見る。
「あの魔女みたいなひとといっしょに」
「たのしい?」
「うん。たのしい。でも、時々すごくつらいことがある」
「そっかあ」少女は満足げに笑うと、踵を返して村の奥に向かう。
「訊いてくるから、待っててね」
「うん。待ってる」
ユーシャは小さく手を振った。少女も笑顔で手を振り返す。
569:
少女の姿が見えなくなると、隣に魔法使いがやってきた。
どこか“とげとげ”とした視線が彼女から飛んでくる。
ちいさな木の柵の向こうからも、村の人間の
“とげとげ”とした目線が矢のように飛んでくる。
ユーシャは隣に目を向ける。
そこには案の定、こちらに鋭い視線を送っている彼女の姿があった。
村の人間から飛んでくる棘のような目線に含まれているものはわかるが、
彼女がなぜこちらにそんな針の先のような目線を向けるのかがわからない。
「もしかして、怒ってる?」とユーシャは怯みながら訊ねる。
「べつに」と魔法使いは間髪入れずに答える。怒っていないにしても、
その態度はどう好意的に捉えても機嫌が悪いようにしか見えない。
「怒ってるよな?」
「怒ってない」と彼女はすぐさま言う。
「なんで怒ってるの?」
「だまれ」と彼女は言い、ユーシャの鳩尾に肘打ちを決めた。
彼は肺から勢い良く空気を吐き出し、腹を押さえながら呻く。
「なんで……」とユーシャは呟いたが、彼女はなにも答えず鼻を鳴らした。
570:
しばらく、お互い無言の時間が続いた。
やがて先ほどのちいさな女の子が戻ってきて、その沈黙を破る。
「どうしたの、お兄さん」と少女は首を傾げながら言った。「お腹、痛いの?」
「すごく痛い」とユーシャは腹を押さえたまま答えた。
「気にしなくてもいいわよ」魔法使いは言う。「このお兄さんは、よくこうなるの」
「ふうん。おもしろいね」
「そう、すごくおもしろいの」
「ひとが腹押さえて痛がってるのに、
最初に出てくる感想が“おもしろい”ってのはどうなんだ……」
571:
「感受性が豊かだからね」と少女は嬉しげに言う。
「なに?」
「感受性が豊か」と少女はもう一度言う。
「どういう意味?」とユーシャは訊ねる。
魔法使いは言う。
「気にしないで。ほっとけばいいわ。このお兄さん、ちょっと頭が悪いの」
「そうなの?」少女は首を傾げる。
「そう。このお兄さんは本を読むと眠くなるし、
チェスのポーンの動かし方も理解できないの」
「それは相当だね」少女は笑った。
それを聞いたユーシャはちょっと悲しくなった。
頭が悪いと言われるのは、いまさら大したことではなかったが、
初対面のちいさな女の子にそう言われると、
なんだか今までに感じたことのない中途半端な悲しさが込み上げてくる。
572:
「きみはチェスを知ってる?」と魔法使いは嬉しげに言う。
少女は「うん」と答えて、
「お兄さんはキングで、お姉さんはクイーンみたいだね」と続けた。
「ほかの駒がないから、どっちかが欠けるとゲームはお開きね」
「わたしはお兄さんとお姉さんの味方だよ」
「じゃあきみはポーンかな」
「ポーンだって頑張ればクイーンになれるよ。
わたしもいずれはお兄さんの隣に立つクイーンだね」
「お兄さんの隣にわたし以外のクイーンはいらないわ」
「どうして?」
魔法使いはすこし考えるふりをしてから、「どうしても」と言った。
「わかんない」少女は困ったように笑みを浮かべた。
573:
「俺もわからない」とユーシャは言う。
「俺を置いてふたりで盛り上がらないでくれよ。
わけがわからないし、なんか寂しいんだよ」
「キングはひとりぼっちが苦手なの」と魔法使いが言う。
「みたいだね」と少女が言った。
「クイーンが守ってあげなきゃね」
「ポーンもいるよ」
「もういいかな、その話」とユーシャは言い、
「結局、俺たちはここで休んでいけるの?」と訊ねる。
少女は「うん」と肯定する。
「でも、ちょっと手伝ってもらいたいことがあるの」
「なに?」
「掃除」と少女は微笑みながら言う。「馬小屋の」
574:
「だってさ」とユーシャは魔法使いを見て言った。
「頑張ってね」と魔法使いは言う。どうやら彼女にその気はないらしい。
「ルアーリングみたいなものと思えばいいわ。
あんたが頑張ることで、わたし達はあったかいベッドを手に入れるのよ」
「キングを犠牲にしちゃだめだよ」と少女は言ってから笑った。
「もういい。わかった」ユーシャは目を閉じて何度も頷く。
そして頭を抱えて言う。「掃除するから、その話をやめてくれ!」
575:
刺々しい視線を肌で感じながら、少女の後ろに付いて歩いた。
村の住民は薄汚れた服を纏っているものがほとんどだ。
それは故郷の村もユーシャ自身も同じなので、大して気にはならない。
ちいさな木の柵に沿ってしばらく歩くと、小屋に突き当たった。
「ここだよ」と少女は言った。小屋は木造で、ところどころ壁が腐っている。
すこし触ると、ぼろぼろと湿った木片が地面に落ちた。
随分と長い間、陽光と風雨に曝されてきたらしい。大丈夫なのか、この小屋。
回りこんで中を覗きこむと、二頭の馬が見えた。茶馬と黒馬だ。
その脇でふたりの男の子が顔を顰めながら床を竹箒で掃いている。
小柄な少年と、大柄な少年だ。どちらもあの少女と同じ一〇歳くらいだろうか。
そのふたりがどうして顔を顰めているのかはすぐにわかった。
魔法使いもすぐに理解して鼻をつまんだ。
そりゃあ掃除なんてしたくないだろうな、とユーシャは顔を顰めながら思った。
576:
ユーシャは少女に手を引かれて小屋に入る。
魔法使いはその場から動かず、それを見守る。
なんだか背後に刺すような視線を感じるが、
振り返るとめんどくさいことになりそうなので、
ユーシャはそのまま小屋に足を踏み入れる。
小屋に入るなり、「掃除、終わった?」と少女はふたりの少年に訊ねた。
「終わってるように見えるか?」と大柄な少年は下を向いたまま言った。
「見えない」と少女は答えた。
「どこに行ってたの?」と小柄な少年は下を向いたまま言った。
「村の入り口だよ」と少女は答える。
「それで、このお兄さんが掃除を手伝ってくれるって」
ふたりの少年は顔を上げて、きょとんとした面持ちでユーシャの顔を見る。
それを見たユーシャは微笑みながら「どうも」と言った。
577:
「誰?」と大柄な少年は首を傾げて訊ねる。
「村のひとじゃないよ。このお兄さんと外にいるお姉さんは旅をしてて、
この村でひと晩休んでいくんだって」
「それで掃除を手伝ってくれるの?」と小柄な少年は言う。
「ほんとうにいいの?」
「不本意ではあるけど仕方ないさ」ユーシャは言う。
「俺だってお姉さんに怒られたくないからな」
「じゃあ、わたしはお姉さんといっしょに外で待ってるね」と
少女は言い残し、小屋から出ていった。
しばらくの沈黙の後、ユーシャはぽつりと言う。
「いつでもどこでも、強いのは女なのかも」
578:

魔法使いは少女に手を引かれて村を歩く。
この村のひとといっしょに歩いているという安心感からなのか、
刺々しい視線は気にならない。
でも、隣にユーシャがいないのがすこし気に掛かる。
パズルのピースがひとつだけ足りないみたいなもどかしさを感じる。
それさえあれば完璧なのに。そう思ってもそれは現れない。だからもどかしい。
「どこに行くの?」と魔法使いは訊ねる。
「わたしの家」と少女は答えた。
馬小屋からしばらく歩いて、少女は足を止める。
魔法使いもその隣で立ち止まる。
目に入るのは、村に乱立する見慣れた建物だ。
そして目の前にあるのが少女の住む家のようだ。
すこし離れたところにちいさな畑があるが、野菜の姿は見当たらない。
収穫された後らしく、もぬけの殻だ。
「大きい家ね」と魔法使いは家を眺めて、感心したように言った。
この家も、村に乱立する木造のそれとほとんど
見た目は変わらないが、すこし大きく感じる。
目に見えてわかる違いは、玄関扉の前にステップがあることくらいだ。
579:
少女はそのステップをリズム良く上がって、玄関扉を開く。
それから、歌うように「ただいまー」と声を伸ばして言った。
その流れは染み付いた習慣のようだ。すこし微笑ましい。
「さっき言ってたお姉さんを連れてきたよ」と少女は家の奥に向かって言う。
「はあい」とすこし間の抜けた声が返ってくる。女性の声だ。
魔法使いは玄関扉からすこし離れたところで立ち尽くしていると、
少女に手を引かれながら、三〇代中頃の女性が現れた。
真っ直ぐ腰の辺りまで伸びた綺麗な髪が目を惹いた。綺麗だな、と思った。
彼女が少女のお母さんなのだろうと、魔法使いはすぐにぴんと来た。
どちらも、おっとりとした雰囲気を纏っている。
それはすこし間抜けでもあるが、多少の凛々しさを感じる。
お母さんは魔法使いを見るや否や、目を丸くして言う。「魔女?」
580:
「ちがうよ。お姉さんはクイーンだよ」少女は訂正する。
「それもちょっと違う」魔法使いは訂正する。
「わたしは旅をしてるただの魔法使いです。この帽子は、プレゼントみたいなもの。
たしかに魔女みたいな身なりだけど、わたしは魔女じゃないの」
「プレゼントって、お兄さんから貰ったの?」
魔法使いはすこし間を空けてから、「そう」と言った。
「似合ってるって言ってくれたの」
「たしかに似合ってる」お母さんは頷いた。
「ほんとうの魔女みたいだ。かわいいよ」
「ありがとう。あいつもそう言ってた」
「あいつって、“お兄さん”?」
「そう」
「そっかあ」とお母さんは満足げに言う。そして笑みを浮かべて、
「まあ、入りなさい。ここは寒いから、中でいっぱいお話ししましょう」と続ける。
「あったかいものでも飲みながら、あの子たちの掃除が終わるのを待つとしよう」
「ありがとう」と魔法使いは言い、ステップを上がった。
581:

ユーシャはふたりの少年から簡単な説明を聞いて、せっせと馬小屋を掃除していた。
しばらくそうしていると、寒かったはずなのに身体はすぐに温まってくる。
マントを外に放り投げて、またせっせと掃除を続けた。
でもほんの二〇分ほどで飽きが来てしまった。それはふたりの少年も同じようだった。
彼らは目の前の、よその人間が気になって仕方がなかった。
やがて三人は手を止め、口だけを動かし始める。
最初に口を開いたのは、大柄な少年だった。
「ねえ、お兄さん。旅をしてるって言ってたけど、どこから来たの?」と彼は言った。
「すごく遠いところ」とユーシャは答える。
「西の大陸だよ。地図の上だと、こことはちょうど反対側にある大陸だな」
「じゃあ、船に乗ってきたんだ?」
「そう。二回乗った」
「いいなあ。船どうだった? でかかった?」
「すごくでかい。でも、波のおかげでずっと揺れてるから、
乗ってると酔って吐きそうになる」
「そうなんだ」
「大丈夫なひとは大丈夫みたいだけど、俺はだめだ」ユーシャは笑った。
582:
「お兄さんは、お姉さんとふたりで旅をしてるの?」と小柄な少年は控えめに訊ねる。
「そうだよ」
「寂しくない?」
ユーシャはすこし考えてから、「寂しくないよ」と答える。
「お姉さんがいつも隣にいるからな」
「お兄さんはお姉さんのことが好き」と大柄な少年は
なにかを読み上げるみたいに淡々と言う。
「うん、好き。超好き」
「やっぱり」と大柄な少年は満足げに言い、「もっと旅の話が聞きたいな」と続ける。
583:
ユーシャは身振り手振りを混じえて、滔々と話し始める。
過去の出来事に改めて想いを馳せるのは、自身にとっても気持ちの整理になる。
話しながら、いろいろなことがあったもんだと思わずにはいられない。
遠くまで来たもんだ。
ふたりの少年は目を輝かせ、それにかじりつくように耳を傾ける。
まだ見ぬ外の世界に胸をはずませる姿は、ユーシャの気分を良くさせる。
なんだか昔の俺を見てるみたいだ、と彼は思った。
思わず話にも熱が入る。でも口しか動かしていないから身体が冷えてくる。
結局、馬小屋の掃除が終わったのは陽が沈む頃になってからだった。
584:

「どう? 旅ってたのしい?」とお母さんは訊ねる。
「たのしい」と魔法使いは答える。「でも、時々すごくつらいことがある」
「だよね」お母さんは腕を組んで頷いた。
「私は旅をしたことはないけど、つらいだろうと思うよ。
特にきみみたいな女の子となるとね」
「うん。すぐに脚が痛くなるわ」
「でしょうねえ。あとお風呂とか、なかなか入れないんじゃないの?」お母さんは笑う。
「チェック」
「そう。それがすごくつらい。あと、ベッドで眠れないのがつらい」
「ああ、そっか。いつも外で寝るんだ? 大変だ」
「ここらは寒くてどうにもならないの。凍え死にそう」
585:
お母さんは笑い、
「こんな女の子を連れ回す“お兄さん”って、どんなひとなの?」と笑顔で訊ねる。
「チェック」
魔法使いは首を振る。
「あいつがわたしを連れ回してるんじゃなくて、わたしがあいつに付いて行ってるの」
「そうなんだ?」
「うん。出発するとき、何度も
“無理して付いてこなくてもいいんだぞ”って言われたけど、わたしが付いてきた」
「どうして?」
「どうしても」
「どうしても離れたくなかった?」
魔法使いは控えめに頷く。顔が熱くなる。
「そっかあ。いいなあ。それで、“お兄さん”ってかっこいいのかしら?」と
お母さんは嬉しげに言う。「チェック」
586:
「かっこいいよ」と少女が言った。
「かっこいいんだ?」
「そうでもない」と魔法使いは言った。
「そうでもないんだ?」
「そうでもないの」
「でも好き?」
魔法使いは頷いた。
「どれくらい好き?」
「すごく」
「どういうとこが好き?」
魔法使いは考えるふりをしてから、「ぜんぶ」と答えた。
「そっかあ。いいなあ。うらやましいなあ」
お母さんは椅子の上で、身体を振り子のように左右に揺らした。「たまらないね」
魔法使いの顔は真っ赤になる。気を紛らわすために、熱いお茶をすすった。
587:
「お姉さんはクイーンで、お兄さんはキングなの」と少女は言う。
「じゃあ、きみがいないとお兄さんはすぐにやられちゃうね」
お母さんは、また笑う。「チェック」
「そうなの」と魔法使いは言う。
「でもキングがいないとわたしのゲームは始まらないわ」
「キングもそう思ってるんだろうね。クイーンがいないとゲームは始まらないって」
「うん」
「前に進むためにはお互いが必要なわけだ」とお母さんは言い、
「チェックメイト」と続ける。
588:
「あ」と魔法使いははっとして言う。「負けちゃった」
お母さんは魔法使いの白のキングを黒のクイーンで取った。
「でも、こんなふうにクイーンの目が届かない場所で、
きみのキングはべつのクイーンに食べられちゃうかもしれないね?」
「ね?」と少女は笑みを浮かべて言った。
「大丈夫」と魔法使いは言った。
それから、「あいつはナイトにもなれるから」と続け、白のナイトを適当に動かした。
「それは反則だ」とお母さんは笑みを浮かべて言った。
それから、「参ったね」と続け、黒のビショップでそのナイトを取った。
「いやあ、参ったよ」
589:

掃除を終えた三人は小屋をあとにする。
外は薄暗くなり始めていて、空気はかなりの冷たさだ。
吐き出した呼気は白く染まり、ふたりの少年の頬や鼻に健康的な赤みがさす。
ユーシャは放り投げていたマントを拾い上げ、
それにこびりついた湿った土を払ってから羽織る。
「手伝ってくれてありがとう」と小柄な少年は言った。
それに対して、ユーシャは「どういたしまして」と模範的な返事をする。
「お兄さん、どこで休んでくの?」と大柄な少年が訊ねる。
「さっきの女の子の家」とユーシャは言ってから、
さっきの女の子の家がどこにあるのかを聞いていないことに気付く。
「そういえば、あの子の家ってどこなんだ?」
590:
「聞いてないの?」
「うん」
「アホだ」大柄な少年はユーシャを指さして笑った。
「うるさい」とユーシャは言う。「きみらはあの子の家がどこか知ってる?」
「知ってるよ」と小柄な少年は答える。
「連れてって。頼むよ」
「しょうがないなあ」と大柄な少年は満足げに言った。
591:
ユーシャはふたりの少年の背後に付いて歩き始める。
目に入るのは、沈みかけた陽の光に曝される多数の似たような造りの家と、畑だけだ。
畑は寂しいものもあれば賑やかなものもある。でも家は古いものばかりだ。
廃村だと言われても納得できるような景色だ。
しかし、決してくたびれた雰囲気はない。ふしぎなものだとユーシャは思った。
時間が時間だからなのか、ひとの姿はほとんど見当たらない。
何度か畑をいじったりしているものの姿を見かけたが、
どれもこちらに刺々しい視線を向けることはなかった。
きっと周囲に味方がいないからだろうな、とユーシャは思った。
余所者になにかされたら、たまったもんじゃないからな。
その点に置いては彼らに同情できる。
ユーシャと少年たちはくだらない掛け合いをしながら歩く。
やがてふたりの少年はひとつの家の前で立ち止まる。
小柄な少年が「ここだよ」と言った。
592:
ユーシャは目の前の家をじろりと見る。大きな家だ、と思った。
大きいといっても、今まで見た家と比べて部屋がひとつかふたつ多いくらいだろう。
玄関扉の隣ではちいさな光が揺れている。
魔術なのかただの炎なのかの区別はつかない。
三人がしばらく漫然と家を眺めていると、背後から声をかけられた。
「うちになにか用かな?」と低い声で背後の人物は言う。
振り向くと、そこには穏やかな顔立ちの中年男性が立っていた。
「こんばんは、おじさん」と小柄な少年は言った。
おじさんも微笑みながら「こんばんは」と返した。
「彼は? ここの村のひとじゃないよな」
「このお兄さんは旅をしてるんだよ」と大柄な少年は自慢げに言った。
「ほほう」とおじさんは口を丸くして言った。
593:
「こんばんは」ユーシャは頭を下げた。
「こんばんは」おじさんも頭を下げる。
「旅人とはめずらしいな。若いのに立派なことだ。いいなあ、昔を思い出すよ。
まあいろいろ訊きたいことはあるけれど、ここは寒いからとりあえず僕らの家へおいで。
見たところ、悪いひとではないみたいだしな」
「お兄さんはいい人だよ。僕ら、馬小屋の掃除を手伝ってもらったんだ」
「そうかあ。よかったじゃないか」おじさんは笑った。
「お兄さんと離れたくないかもしれないけれど、
もう暗いからきみらは早く家に帰るんだよ」
「はあい」とふたりの少年は言う。それからユーシャに手を振って駈け出した。
「また明日お話しようね。お兄さん」
「うん。そうしよう」ユーシャも手を振り返した。
594:
おじさんはふたりを見送ると、のそのそとステップを上がって戸を開いた。
おじさんが低い声で「ただいま」と言うと、
「おかえりー」というすこし間の抜けた声が二重で返ってきた。
どちらも女性の声で、片方はあの少女の声だった。
となると、このおじさんはあの子のお父さんなのだろうか。
「きみも入ってくれよ」とおじさんは言った。
「ありがとう」とユーシャは言い、ステップを上がる。
家の中からなにかいい匂いがする。それは忘れていた空腹感を思い出させる。
家に入ると、身体は温かい空気に包まれる。
奥の部屋にあの少女の姿が見えた。
向こうもこちらに気付いたようで、笑みを浮かべた。
それから「お兄さん戻ってきたよ」と少女は言って、奥の部屋の更に奥に消える。
今度は魔法使いが部屋から現れる。後ろにあの少女と、髪の長い女のひとが続く。
腰辺りまで伸びた綺麗な長い黒髪が印象的だ。歳は三〇くらいだろうか。
あの女のひとは、あの子のお母さんだろう、とユーシャは思った。
雰囲気がとても似ている。
おじさんは魔法使いが視界に入った瞬間、目を丸くして言う。「魔女?」
595:
「ちがうよ。お姉さんだよ」と少女が言った。
「お兄さんといっしょに旅をしてる魔法使いさんで、お兄さんのことが好きなの」
「ほほう。お兄さんって彼のこと?」おじさんはユーシャに目を向ける。
「そうだよ」
お母さんは「きみが“お兄さん”か」とユーシャに言う。「かっこいいじゃないの」
「でしょう?」と少女は言った。
「いいなあ」お母さんは舐め回すような視線をユーシャの全身に送る。「すごくいいよ」
「ど、どうも」なんなんだ、このひと。ユーシャは半ば呆然としながら
魔法使いに助け舟を求めるような視線を送る
(彼女は微笑みながら視線を返してくれただけだった)と、
お母さんはなにかを思い出したように「あ」と言った。
「私はこの子のお母さんだよ。で、こっちのおじさんがお父さん。よろしく、お兄さん」
596:
「よ、よろしく」とユーシャは言った。「ほんとうに泊まっていっていいの?」
「いいよ」
「おじさんは何も聞いてないみたいだけど」
ユーシャがおじさんに申し訳なさそうに視線を送ると、おじさんは弱々しく微笑んだ。
「いいの」とお母さんは言う。「私がいいって言ってるんだからいいのよ」
「僕に有無をいう権利はないんだ」とおじさんは言った。
「だからと言ってきみを追い払ったりはしないよ。ぜひ泊まっていってくれ。
僕もきみの事がなんだか気に入ったからね。
僕も昔は旅をしたもんだよ。いろいろ話を聞きたいな」
「ちなみに言っておくと、きみらの分のベッドはひとつしかないよ。それでも構わない?」
「構わない。ありがとう」
「わたしもお兄さんお姉さんといっしょに寝る」と少女は言った。
「邪魔しちゃだめだよ」とお母さんは言う。
「ふたりの間にあんたが入り込めるような隙間はないよ。今日は私たちと寝よう」
そしてユーシャと魔法使いへ交互に視線を送り、
「夜はできるだけ静かにしてくれよ」と言って笑った。
背中を叩かれた。けっこう痛かった。
597:
その後は五人でテーブルを囲んで、夕食を取った。
夕食はなにかの肉と収穫された野菜を煮込んだ簡単な料理だったが、
ユーシャと魔法使いはそれがとても気に入った。
味もそうだが、なにより温かかった。身体に染みこんでいくようだった。
食事中はおじさん――あらためお父さんとお母さんが
いろいろな質問をふたりにぶつけてきた。
できるだけ答えるようにはしたが、お母さんからはときどき際どい疑問が飛んでくる。
そういうとき、魔法使いは顔を伏せる。
顔が赤くなってるからだろうな、とユーシャは思った。
その魔法使いを見てお母さんは満足そうに笑う。
そのお母さんを見てお父さんは笑う。少女はずっと笑っている。
楽しそうな家だ。うちはどうだっただろう、とユーシャはぼんやりと思う。
家には母も父もいなかったけど、祖母が居た。でも今は家には誰もいない。
すこし寂しかった。魔法使いがいてほんとうに良かった、と思う。
「僕も昔は旅をしていたんだ」とお父さんは上機嫌で言う。「懐かしいなあ」
お父さんは二〇代の頃この村に辿り着いて、お母さんを見つけたと言った。
それからこの村に住むようになったらしい。
「だからきみの気持ちはなんとなくわかる気がする」
598:
食事を終えて、魔法使いは少女といっしょに風呂に向かった。
ユーシャはお父さんと向かい合うように座りながら、ぼんやりと天井を見つめていた。
もうすぐ旅は終わるんだ、と彼は思う。終わったらどこへ行こうか?
村に帰るべきなのだろうか。俺を待ってるひとはいないけれども、
あいつを待っているひとはいるはずだ。
でも、故郷の村に住むのはあまり気が進まない。
どこか静かな場所で、ふたりだけで生きていきたい。
なににも脅かされることなく、静かに深く愛し合えるような場所。
どこにそんな場所があるのだろう? あいつはどう思っているんだろう?
「どうした少年」とお母さんが隣の椅子に座って言った。
「愛しのあの子がいないから寂しいのかい?」
「うん」とユーシャは天井を見つめたまま答えた。
「あらあら」とお母さんは満足げに言った。「たまらないね」
599:
「旅が終わったら、どこに行くかを考えてたんだ」とユーシャは訂正した。
「村に帰らないの?」
「帰るかもしれないけど、そこに住みたくはないかな」
「どうして?」お母さんはわざとらしく目を丸くする。
「ふたりだけで過ごしたいんだ。怪物も人間も、
俺たち以外には誰もいないような場所で、できることなら、ずっといっしょに」
「でも、どこならふたりだけで過ごせるかがわからない?」
「そう。それにあいつは村に帰りたいと思ってるかもしれない」
「でもきみは帰りたくない」
「あんまり」
600:
「あの子が村に帰るって言ったら、きみがあの子をかっさらって
どこかに連れてってやればいいじゃないの。きみの好きな場所に。
あの子も心の底では、それを望んでるんじゃないかな。
たぶん、あの子もきみも同じことを思ってるよ」
「同じこと」とユーシャは反復する。
「そう、同じこと。“ふたりだけで過ごしたい”」
「どうなんだろう。ほんとうにそうなのかな」ユーシャはため息を吐き出す。
「訊いてみればいい」とお母さんは言う。「ベッドの上で」
お父さんは静かに頷いた。「できるだけ静かにね」
601:

ベッドがあるのはちいさな部屋だった。
どうやら使われていない部屋らしく、机や椅子、棚は埃をかぶっている。
魔法使いはベッドに身を埋め、ユーシャはベッドの隣に椅子を引っ張ってきて座る。
静かな夜だ。風もほとんどない。しかし依然として空気は冷たい。
部屋は夜の暗闇に飲まれかけているが、
背後の窓から眩さを感じる月光が射している。
振り向いてガラス越しに空を見上げると、綺麗に球を描く月の輪郭が見える。
星はほとんど覗えない。
「旅が終わったらさ、どこか行きたい場所ないか?」とユーシャは訊ねる。
魔法使いはすこし考えてから、「一度村に帰りたいかな」と言った。
「そっか……。そうだよな」
「帰りたくないの?」と魔法使いは訊ねる。
「べつに帰りたくないってことはないけど、あそこに住むのはちょっと嫌かな」
602:
「ふうん」魔法使いはユーシャの目を覗きこむ。
「あんたはどこか行きたい場所あるの?」
「静かな場所」とユーシャは答えた。
「お前が隣に居て、俺たち以外に誰もいないような場所。ふたりきりで過ごしたい」
「そっか」魔法使いは満足げな笑みを浮かべた。
「じゃあ、わたしもそこに行きたいな」
「ありがとう」
「連れてってね」
「うん。約束する」
「私たちは静かな場所で、いっしょに暮らす。ぜったいにね」
「わかってるって」
「好き」
「うん、いきなりどうした?」
603:
「たぶん一度も言ってなかったと思う。好きって」
「うん。たぶん一度も言われてないし、俺も一度も言ってないと思う」
「言って。わたしにも聞かせて」
「好き」
「もう一回」
「好き。愛してる」
「わたしも好き。愛してる。ねえ、こっちに来て。すごく寒いの」
「俺も寒いからそっちに行きたかったところなんだ」
「キス」
「うん」
「もっと」
「ん」
604:
「胸、さわって。服の上からじゃなくて、直に」
「ちっちゃい」
「ちっちゃいのは嫌い?」
「ううん、俺は好きだよ。すごくいいと思う」
「よかった。ねえ、なんで腰引いてるの?」
「あたっちゃうから」
「あててもいいのよ」
「じゃあ失礼します」
「かたい」
「やわらかい」
605:
「そのままこすりつけてもいいし、挿れてもいいのよ。
出したいならぜんぶわたしの中に出してもいい」
「うん」
「手がいいのなら手で、足がいいのなら足で、口がいいのなら口でしてあげる。
好きなように言って。わたしはあんたのものなんだから、なんでもするわ」
「そ、そんなふうに言われると……」
「おおきくなった。出したい?」
「すごく出したいかも」
「どうやって出したいの?」
「中に挿れて出したいかも」
「いいのよ。きて。ぜんぶ頂戴。わたしもほしい」
「でも、あんまり大きな声は出しちゃだめだぞ」
「できるだけ我慢はするけど、ぜったいに大きな声を出さないって約束はできない」
「そういうところが好き」
「わたしも好き。大好き」
606:

「わたしもいっしょに寝たかったなあ」と少女は頬をふくらませて言った。
「だめだよ」とお母さんはなだめるように言う。
「どうして?」
「エッチなことをするからに決まってるじゃない」
「おいおい」とお父さんは言った。
「そうなの?」
「間違いないね」とお母さんは言った。「間違いないよ」
「ふうん。お兄さんがお姉さんのおっぱいをさわったりするの?」
「こらこら」とお父さんは言った。
607:
「もちろん。裸で抱き合ったり、うんと長いキスをしたりもするよ」
「じゃあやめとこう」と少女は言った。「明日の朝にもっとお話する」
「諦めがいいね。なんというか、さすがは私の娘だ。
でもまあ、そうだよね。あんたにはあの子たちがいるもんね」
「エッチなことはしないよ」
「でも好き?」
「うん」
「どっちが好き?」
少女は照れ隠しに笑みを浮かべて言う。「うーん。わたしはね――」
608:
22
「わたしはね――」僧侶は幼さを感じさせる口調で言う。
「ほんとうはこんなところにいるはずじゃなかったの」
目の前のひとつ眼の怪物は攻撃を止めて、
彼女の口から紡がれる言葉へ嬉しそうに耳を傾ける。
もう彼女の吐き出したい言葉を止めるものはなにもなかった。
それは誰かに聴かせるような口調ではなく、
ただ昂った感情をぶつけるような暴力的なものだった。
誰かに聞いてもらう必要はない。ただ吐き出したい。ただ叫びたかった。
彼女は言う。
「わたしは彼といっしょに、故郷の村で平和に暮らしているはずだったの」
“彼”というのは僕のことなのか、それともあいつのことなのだろうか。
ただわかるのは、彼女が思い描く幻想の中では、
ふたりのうちの片方は必要とされていないということだ。
そう考えると、自分が彼女の求めている人間ではないという気がしてたまらない。
勇者は思う。“自分は必要とされていない。彼女の求めている人間ではない”
609:
彼女は消えた炎の形を思い返している。
はっきりとした輪郭を捉えることはできないが、それはたしかに大きくて温かかった。
そしてなによりも強い。でもその炎は消えた。彼女を照らすものはなにもなくなった。
勇者は彼女の炎ではなかった。
「わたしはどうしてこんなところにいるんだろう? わたしが悪いのかな」
彼女はなにかを見ながら言った。あるいはなにも見ていなかったのかもしれない。
間接的に責められているような気分に陥る。
きっと彼女は無意識のうちに僕に言っているのだろう、と勇者は思った。
“僕が勇者として選ばれたことにより、
彼女の道は大きく歪んだ”と勇者は自身に言い聞かせる。
彼女の道は歪み、あいつの道は途切れた。付いてくると言ったのはあいつと彼女だが、
だからといって自分だけが責められるのは理不尽だとはどうしても言えなかった。
“だって、彼女はなにも悪く無い。弱い勇者が悪いんだ。
ひと一人すら救えない、きみが。あの時、きみが死ぬべきだったんだ。
それなら彼も彼女も想いを実らせて、幸せになれたんだよ”と影は言う。
“どうしてあいつじゃなくて、きみが彼女の隣を歩いてるんだろう?
それは僕にはわからないし、きみにもわからない。僕たちにはなにもわからない”
“きみは悪くないんだよ。悪いひとは誰もいない”と彼女の影は言った。
610:
「答えてよ」と彼女は中空を見て言う。「どうしてわたしはここにいるの?」
沈黙。
「答えてよ」と彼女はもう一度言った。
ほぼ同時に、地面から二本の炎――溶岩の槍を出現させた。
槍のように見えたそれは、視界に現れたとほとんど同時に頭を垂れる。
そして吹き出した溶岩は、意思を持った生物――
まるで蛇に見える――のようにうねり、怪物に襲いかかる。
怪物は巨大な腕に残された四本の指で地面を弾いて跳び上がった。
炎の蛇は怪物を追って曲がり、怪物の背中から生えた大きな手を焼いた。
怪物の絶叫が響く。
しかし致命傷は免れたらしく、腕は軽い火傷で済んだらしい。
皮膚が爛れただけだった。食欲を削ぐ香りが鼻腔を突く。
611:
怪物はこちらに視線とひらいた手を向けて落下してくる。
どうやら落下のエネルギーを利用して、こちらを潰してしまおうという算段らしい。
ばかなんじゃないかと勇者は思う。剣を構え、怪物の眼を睨む。
怪物の眼はぎらぎらと怪しい光を放っている。痒いほどには殺意が伝わってくる。
怪物との距離が数メートルになったとき、勇者は軽いステップで数メートル後退する。
呪文を唱え、先ほどまで立っていた場所から氷の槍を生やす。
それは怪物の大きな手のひらを貫く。怪物は絶叫し、その場で悶える。
「お前、ばかなんじゃないか?」と思わず勇者は言い、跳び上がる。
怪物は返事をせずに、ただ絶叫する。聞こえていないのかもしれない。
勇者は落下とともに、踏みつけるように剣へ力を込め、
ふたたび怪物の指を一本切り落とした。
同時に僧侶が宙に大きな氷の刃を作り出す。
蜘蛛の巣で見た大きな剣くらいの大きさだ。男性成人の身長ほどはある。
彼女が手を鳴らすと、それはギロチンのように勢いよく振り下ろされ、
怪物の指を一本、綺麗に切断する。
切断面からは得体のしれない黄色い液体と血が噴き出す。
それらは土に染み込み、黒ずんだ模様を作り出す。
汚い絵のようだ。気品の欠片も感じられない。糞と同じだ。
612:
「あと二本だ」と僧侶は花占いでもしてるみたいに言った。
怪物の指はあと二本。六本の指は両方の外側の一本ずつになった。
大きな眼や焼け爛れた皮膚と相まって、ひどくアンバランスな見た目だ。
怪物的な怪物だ。
彼女は続けて言う。「ねえ。魔王はこの先にいるんだよね?」
「いるさ」と怪物は耳障りな声で答える。どこか恐怖が滲んだ声だ。
「北の大陸の果てに廃村がある。かつては金鉱があって栄えた村だ。
その金鉱に、表へ続く門がある」
「表」と勇者は反復する。
「そう。こっちが裏で、向こうが表」
「ゴーストタウンのゴールドマイン。そこに表へ続く“門”がある」と僧侶は言う。
「ずいぶんべらべらと喋ってくれるんだね」
「俺は、お前の仲間だからな」と怪物は笑いをこらえながら言った。
613:
僧侶は怪物の言葉を無視して、「北の大陸にはひとが住んでたんだ?」と訊ねる。
「大昔はな」と怪物は答える。「でも、いまは北の果ての廃村に人間がいるぜ。
ひとりだけな。だいたい七年前から、ずっとあそこに居座っている」
「ふうん。今もひとがいるんだ」
「そいつはいまも村の真ん中の石に座って、
凍えそうになりながら門が開くのを待ってる。
ここからでもよく見える。人間のくせに、七年も待ってるだぜ?
ばかみたいだ。勇者が来ないと門は開かないのになあ?」
「そうなんだ。目がいいんだね」と僧侶は言った。
「なんでも見えるさ」怪物は東に目を向けて言う。
「お前達は知らないんだろうが、三日ほど前から
東の大陸と南の大陸の間で、二体の巨大な怪物が闘っているんだぜ」
「ほんとうに?」と勇者は訝しむように言い、東に目を向ける。
勇者にはなにも捉えることはできなかった。
614:
「大きな影がふたつある。見えないけどわかるよ」と僧侶は南東を向いて言う。
「三角形みたいな影と、丸い影。真っ黒な山と月みたいだ」
「分かるだろう? さすがだよ。やっぱりお前と俺は似てるんだ」
「そうかもね」僧侶は怪物に向き直る。「で、あれはなんなの?」
「神様だよ」と怪物は言った。「お前達が愛して止まない怪物さ」
「なに? 神様って言ったように聞こえたんだけど」
「そうさ。神様だよ」と怪物は笑いをこらえて言う。
「神が魔王に操られて、人間の所持物になってたってんだから、笑うしかないよなあ」
615:

東の大陸と南の大陸の中間に広がる海で、二体の巨大な怪物がぶつかっていた。
一方は竜の頭を持つ巨大な魚。
それは数日前まで、東の大陸の近海の底で眠っていた。
もう一方は大きな山のような身体を持つ竜、あるいは竜の頭を持つ山。
それは数日前まで、南の大陸の地形のひとつとして眠っていた。
どちらも体長は八〇〇メートル近くある。
巨大な魚は全身をびっしりと黒光りする鱗で覆われている。
爬虫類の皮膚を彷彿させる鱗には無数のちいさな穴が開いていて、
その中には魚群が屯している。しかし、魚の群れに見えるそれも、もちろん怪物だった。
それらは自身が魔術で作り上げた水の球体の中を泳いでいる。
水の球体は宙に浮いていて、直径は巨大な魚の二、三倍はある。
ひとつのちいさな星のような印象を受ける。
怪物がちいさな星の中を泳ぐその姿は優雅にも見えるし、
吐き気を催すほどの不快感を撒き散らしているようにも見える。
見るものによって捉え方は変わってくる。
616:
山のように巨大な身体を持つ竜は、海底を薙ぎ払いながらゆっくりと前進する。
そこらに張り巡らせた根からエネルギーを吸い上げ、それを生きるための力にしている。
しかし進むためには根を引きぬかなければならない。
その根は町や森の深部で、複雑に絡まっている。
南の第一王国と、その隣に広がる大きな森が、身体の一部になってしまっているのだ。
山のように巨大な身体を持つ竜が歩くたびに、南の大陸の地形が変化していく。
轟音と共に大地の崩壊が起き、ちいさないきものたちが
踏みにじられるように生涯に幕を下ろす。
たくさんのちいさな舞台上で演じられていたそれぞれの生き様は、
ドミノ倒しみたいに次々と終幕していく。
その中には人間だっているかもしれないし、怪物だっているかもしれない。
しかし大きな眼で見ると、どちらも小さないきものであることに変わりはない。
二体の怪物、あるいは神様がぶつかるたびに、
町ひとつを飲み込んでしまうような波が起きる。
その怪物どもは、あるものには邪悪な姿に映り、あるものには神々しいものに映る。
神々は見るものによって映る姿を変える。神は純粋で完全な意思の塊なのだ。
勇者と僧侶は、もちろんそんなことを知る由はなかった。
617:

「どういうことだ?」と勇者は訊ねる。
神様が魔王に操られて、人間の所持物になってた?
「そのままの意味さ」と怪物は楽しくて仕方がないみたいに言う。
「神が魔王に操られた。でもあの餓鬼は結局、“表”に神は必要ないと言った。
だから人間に“贈り物”として神を渡してやった。人間は大いに喜んださ。
でも人間は大事なことを知らなかったんだな。
あいつら、自分たちが神を操れると本気で思い込んでたんだ」
「操れないから、今その神様は暴れてるのか?
今までなにもなかったのに、どうして今?」
「操られてるんだよ」と怪物は言った。
「なにを言ってるの?」僧侶は言う。「操れないんじゃなかったの?」
「お前達も知っているだろ」
「なにを?」
「呪術だよ」と怪物は嬉しそうに言った。
618:
「呪術」と勇者はつぶやいた。
誰かの声が頭の中に響く。
“「ところで、呪術ってなんなんだ?」
「魔術よりも強大な魔法みたいなものです。
大破壊を実行したり、ひとを蘇生させたり、
怪物を意のままに操る術などがあったそうです。
第二王国はそれが怖かったのでしょう」”
それは懐かしい、ふたつの声だった。戦士と、魔術の村の少女の声だ。
怪物は笑う。「呪術なんてもの、人間ごときに扱える術じゃないのにな。
でも中には無数の犠牲を払ってまで、完全にはコントロール出来ないような
強大な力を手に入れたいと思う輩がいるんだ。欲深いってのは恐ろしいもんだよ。
王っていきものは、力こそが正義だと思ってやがるんだ。嫌いじゃないけどな」
怪物の言葉を無視し、僧侶が「で、その神様たちは誰に操られてるの?」と訊ねる。
「お前達の大好きな東の国王様と、南の第二王国の王だよ」と怪物は答える。
東の王国と第二王国が怪物を操っている。勇者の背筋に冷たいものが這う。
東の王国は“怪物”を操る呪術を手に入れた。
遅れて第二王国も“怪物”を操る呪術を手に入れた。
そして第二王国がその術が他国に知れるのを恐れて、呪術の村の人間を一掃した?
第二王国は、自分たちだけが強大な力を手に入れたと思い込んだ?
だから呪術の村は滅んだ?
619:
「どうしてそのふたりは、神様たちを操って闘ってるの?」
「私利私欲のために決まってるだろうが」怪物は声を上げて笑った。
勇者は怪物の耳障りな声に顔を顰めながら、
「神様って、結局なんなんだ?」と訊ねる。
「そんなものはお前達の頭の中にしかいないんだよ」と怪物は言った。
「あれは俺たちと同じ怪物だ! なにが神様だ! ばかじゃねえの!」
「よくわかった」と僧侶は言う。
「もういいよ。聞きたいことはある程度聞けたから殺す」
620:
彼女はふたたび溶岩の蛇を地面から召喚し、真っ直ぐ怪物の眼に突進させた。
怪物は咄嗟に巨大な手で地面を弾き、後退する。
追撃するように溶岩は眼に突き進む。勇者もあとに続く。
数メートル離れたところで怪物は後退を止め、溶岩の蛇に向けて手を構える。
どろどろとした蛇が巨大な手のひらの皮を焼き始めるほどに接近したとき、
怪物は地面を弾いて跳び上がった。
緩やかなアーチを描き、そのままこちらに向かってくるのが見える。
溶岩の蛇は土を焦がして消え去る。残るのは焦げ臭い匂いだけだ。
怪物は勇者の数メートル手前に、土埃を撒き上げて着地する。
こいつは、いったいなにがしたいんだ?
勇者は剣を握り締めながら半ば呆れ、半ば不安でいた。
なにか勝算があってこんな意味のない動きをしているのだろうか?
それとも、こいつはただの阿呆なのだろうか? わからない。
621:
勇者は正面の巨大な眼球目掛けて、剣を振るう。
怪物が瞼を下ろして、それをガードする。
剣と瞼がぶつかると、ぼん、と間抜けな音がなった。
手が痺れるような、鈍い痛みが手を覆う。
木の棒でゴムを叩いたような感触だった。
相当ぶ厚い瞼らしい。剣が弾かれてしまった。
ほんとうにこれは皮膚なのだろうか、と思う。
しかし、怪物の身体の構造など知るはずもない。べつに知りたくもない。
今はすこし自分の状況が不利になったということに視点を置くべきだ。
怪物は勇者が体勢を崩しかけているその隙を突いて、巨大な腕を振り下ろす。
しかしその攻撃は、脇から四五度ほどの角度で発生した氷の壁に阻まれてしまう。
彼女の魔術だ。鋭さと攻撃性を備えた、今の彼女の魔術だ。
それは生物の息の根を止めるのには最適なものだが、守るための力にもなり得る。
ぱん、とちいさく音が鳴った。
勇者の背後で、彼女が手を鳴らしたのだ。すぐにわかった。
それは彼女が魔術を扱う際、いつもなにかしらのアクションを起こす時の合図だ。
勇者はそのなにかしらのアクションに備え、目を細める。
その瞬間、勇者にぶ厚い“膜”が張られ、
勇者と怪物を隔てていた氷の壁は勢いよく砕け散った。
砕けた氷は無数の礫となって、敵味方構わず襲いかかる。
しかし勇者には膜が張られている。
氷の礫が飛んでこようと、刃の雨が降ってこようと、彼女の張る膜は壊れない。
それは彼女の決意のようなものであり、勇者が彼女に置く信頼のようでもある。
622:
勇者は怪物が氷で怯んでいる隙に跳び上がり、眼球の天辺を思い切り踏みつける。
眼球は大きく凹んだ。しかし手応えはあまりない。
今度は体重をかけて、勢いよく剣を突き刺す。
剣は半分ほど眼球に刺さる。今度は手応えがあった。
なにかの繊維を引き裂いているような感触が、手をひらを舐め回すように覆う。
その攻撃はかなり効果的だったらしく、怪物は奇妙な声で絶叫する。
何重にも重なった異常な音だ。赤ん坊の鳴き声から、怪物の断末魔のような声、
金属同士を擦り合わせたような不快音、息を吐くような音など、
様々な音が混ざり合い、ひとつの奇妙な声として怪物のどこかから吐き出される。
勇者は思わず顔を顰める。
そして脳天に突き刺さった剣を寸分の躊躇いもなく、力任せに蹴った。
ほとんど垂直に刺さっていた剣はすこし傾いた。その分の眼球は抉ったはずだ。
怪物は絶叫を続ける。
耳を劈くような轟音に耐え切れず、勇者は怪物と距離を置くように逃げる。
623:
「あなた、威勢がいい割にはすごく弱いのね」僧侶が言う。
「だからこんなところに追い払われたんじゃないの?
うるさいくせに大したことはできないから。誰にも必要とされないって悲しいよね」
怪物は身体を小刻みに震わせながら僧侶を睨めつける。
剣が突き刺さっても、眼はまだ機能しているらしい。
彼女は続ける。「わたしはなにも間違ってない。あなたは不必要なんだよ。
表でも裏でも。わかる? いてもいなくても変わらないの。わたしと同じだ」
「……そうだな」怪物は弱々しい声で答えた。
「七〇〇年も独りだと、何回かそういうことを考える時間はあったな。
でもべつにいいじゃねえか。やりたいようにやればいいだろうが。
遠くを眺めて、通りかかった人間にちょっかいかけて、
返り討ちにあって死ねばいいじゃねえか。
もううんざりなんだ。やるならさっさとやってくれよ。もう死にてえよ。
それとも俺は、また生き残っちまうのか?」
「いきなり弱気になったね。こんなふうに言われると、
すこし殺すのをためらっちゃうよね。……なんというか」
彼女はそこで言葉を区切り、すこし考えてから、「人間みたいだ」と言った。
624:
「人間も怪物も根っこの部分は変わらないさ。
根っこには破壊衝動があって、食欲や性欲があって、平穏への願望がある」
「でも例外はいる」彼女は怪物に憐れむような目を向ける。「わたしみたいに」
「その通り」怪物は笑う。
「命の炎を消すことをためらわないやつだっている」
「わたしみたいにね」と彼女は言い、
怪物の眼球を地面から発生した氷の槍で貫いた。
氷の槍を伝って、血が地面に流れ落ちていく。
血だまりは長い時間をかけて、ゆっくりと拡大していく。
彼女はちいさく手を鳴らす。
氷の槍は内側から破裂し、怪物の大きな眼球を吹き飛ばした。
肉片と血、よくわからない黄色い液体や
細い管のようなものが、地面に模様を作り上げる。
それは迷宮のように見える。汚れた彼女が歩く道のような、不吉なものだ。
625:
勇者は怪物の亡骸に歩み寄り、
赤黒い血だまりの中に沈もうとしていた剣を拾い上げる。
振り返って彼女の姿を見る。
彼女は返り血で真っ赤だった。目が虚ろで、血まみれの自分を眺めている。
やがて視線を上げ、勇者の視線に気付く。
それは彼女にとっては、悪夢に引きずり込まれるような光景だった。
“『彼』が今のわたしを見ている”。その事実は彼女の目からあらゆる色を奪う。
彼女はその場にへたり込んで、手で顔を覆った。
なにかを言ってあげるべきなんだ。血まみれの剣を握って、勇者は考える。
言ってあげるべきことはたくさんある。
でも、なにから伝えればいい? どうしたら僕の言葉が届く?
剣から滴る血が、血だまりに波紋を生み出す音だけが耳に響く。
風はほとんどなく、陽は地平線と同化する寸前だ。
目の前の凄惨な光景は、夜に飲まれようとしている。
626:
やがて彼女は口を開く。「ねえ」その声はすこし震えていた。
「なに?」と勇者は優しい声で答えた。
「今のわたしが何に見える?」と彼女は手で顔を覆ったまま訊ねる。
「僕の大事なひと」と勇者は答えた。「きみは、きみ以外の何ものでもない」
「これでも? 血まみれになっても、躊躇いなく怪物を殺しても、
……きみのことを愛していないって言っても、
きみはわたしのことを大事だと思ってるの?」
627:
「もちろん。……きみの根っこにはたしかに
そういう部分があるのかもしれないけど、僕はそれでも君のことが好きだ。
きみは優しくて強い。ぜんぶひっくるめて僕は君のことを愛してる。
なにかを壊したいなら僕の手でも腕でも足でも目でも
鼻でも耳でも、なんでも壊してくれていい。
きみは嫌がるかもしれないけど、これだけは知っていてほしい。
僕はずっときみの味方だよ」
「ありがとう……」
「僕とあいつは、ずっときみの味方だ」
「うん……」
「いてもいなくても変わらないなんてことはない。
誰にも必要とされていないなんてことはない。僕にはきみが必要なんだ」
彼女は何も答えなかった。
628:
“でもべつにいいじゃねえか。やりたいようにやればいいだろうが。
遠くを眺めて、通りかかった人間にちょっかいかけて、
返り討ちにあって死ねばいいじゃねえか。
もううんざりなんだ。やるならさっさとやってくれよ。もう死にてえよ”と影が言う。
“でも、ただでは死なないさ。覚えておくといいぜ、勇者様。
化け物ってのはな、最期まで何をするかわからないもんなんだ”
629:
怪物の亡骸はあまりにも貧相な二本の脚でのろのろと立ち上がり、
大きな手を勢いよく彼女の頭上に振りかざす。
それは見えない糸で操られているかのように不自然な動きだった。
勇者は自分の目を疑った。あれは、まだ死んでいない?
彼女は自分がどのような状況に置かれているのかに気付いていない。
自分がこれからどうなるのかもわかっていないし、
今の勇者がどんなふうに彼女を見ているのかも知らない。
勇者は彼女の名前を呼び、絶叫に近い声をあげる。
僧侶はゆっくりと顔をあげる。涙と鼻水でしわくちゃになった顔で、勇者を見据える。
そして自分のへたり込んでいる場所に影が落ちていることに気付く。
彼女は視線を上げる。きっと彼女の目に映ったのは、大きな手だっただろう。
指が二本しかない、不格好な巨大な手だ。救いの手ではなかった。
勇者は跳ねるように怪物に向かって突進した。
彼女は救いを求めるように、勇者の方に手を伸ばす。
630:
しかし、巨大な手は振り下ろされた。彼女の身体に、莫大な圧力が伸し掛かる。
彼女の身体は苦痛を感じる間もほとんどなく呆気無く潰れ、
肉片と血を辺りにまき散らした。長い臓器が地面を這い、
髪の毛のこびりついたピンク色の肉が勇者の顔目掛けて飛んでくる。
彼女の鮮血が地面を染める。それは地面に咲いた花のように見えた。
とても綺麗な花だ。この瞬間のためだけに彼女は生まれてきて、
そして死んでいくのだと思わせるような、圧倒的なものだ。
ただ、その場には不釣り合いなものが残っている。
勇者に向かって伸ばされた手だけが、そのままの形で残っているのだ。
細い指に鋭い爪、それを引き立たせるような真っ白な肌。
肘の辺りで捩じ切れたそれが、彼女の身体の一部であったとは思えない。
あの血の花が彼女で、これは――これは、いったいなんだ?
良い意味でも悪い意味でも、それは夢のような光景だった。
しかし、勇者に向けて伸ばされたその手だけが、いやに現実味を帯びていた
632:
くそ重いぜ…乙乙
633:
oh…
635:
23
東の王国から大陸北端に向かう途中で小さな村に立ち寄ったユーシャ達は、
村の少年少女に別れを告げて(もちろん少女のお母さんとお父さんにも言った)、
さらに北上を続ける。とは言っても、その小さな村はこの東の大陸のかなり北の方に
位置しているので、北の大陸は目と鼻の先と言ってもいいほどだ。
小さな村から数十日歩いたところで、巨大な塔が眼前に姿を見せる。
東の大陸の北端にある塔だ。
円筒状に積まれた灰色の石が、曇り空に向かって屹立している。
石はところどころに亀裂が入っていたり、割れていたりしている。
相当な時間ここに立っているのだろうと思う。
なにしろ御伽噺に登場するほどなのだ。当然といえば当然なのかもしれない。
川の真ん中に置き去りにされ、激流に身を削られた岩のように、その塔は風化している。
時間の流れに置き去りにされ、風雨に曝され身をすり減らし続けたそれは、
吹きすさぶ冷たい風で倒れてしまうのではないかと思うほどの頼りなさだ。
どれだけ見上げても、扉や窓は見当たらない。
636:
「これが塔?」ユーシャは目を細めながら塔を見上げて言った。
「塔というよりは柱みたいね」と魔法使いは言った。
御伽噺というのは理に適ったものなのかもしれない、と危うく信じてしまいそうになる。
遠くで見るのとはずいぶんと違って見えるが、思い返してみると
結局この柱だか塔だかは空までは届いていないのだ。
塔を回り込むと、五〇〇メートルほど先に大きな石橋がある。
この辺りにある人工物はそれらくらいしか見当たらない。
あとは土がむき出しになった道と、
ぽつりぽつりと一定の間隔を開けて生える木しかない。
道はひとの手が加えられているのではないかと思うほどまっすぐだ。
障害と呼べるようなものは何もないが、それがかえって不気味だった。
その光景は、橋の向こうの何かが自分たちを呼んでいるような気分にさせてくれる。
637:
「行こう」とユーシャは言って、隣に目を向ける。
しかし、さっきまでそこに居たはずの魔法使いの姿はない。
それどころか、辺りを見回しても彼女の姿は見当たらない。
彼女の名前を呼んでみても、返ってくる声はひとつもない。
もう一度名前を呼ぼうとしたとき、右頬に鈍い衝撃が走った。
痛みに顔を顰めて右に目を向けると、すぐ近くに魔法使いの姿があった。
どうなってるんだ? ユーシャは眉を顰めて魔法使いの顔を凝視する。
彼女の表情も似たようなものだった。それは理解不能なものを見るような表情だ。
「どうしたの、あんた。大丈夫?」と魔法使いは言った。
「ちょっとおかしいんじゃないの?」
「どこに行ってたんだよ」とユーシャは右頬をさすりながら言った。
「ずっとここに居たわよ」
「ほんとうに? 俺が見たときはいなかったぞ?
呼んでも返事してくれなかったし」
「したわよ。こんなに近くに居たのに、
あんたには聞こえてなかったみたいだけど。だから殴った」
638:
なるほど。頬の痛みはこいつのパンチのせいか。
ユーシャはひとりで納得するように頷いた。でも納得できないことは、まだいくつかある。
考えても仕方ないということは今までの経験からなんとなく理解できていたので、
「どうなってるんだ?」と思ったことをそのまま口にした。どうなってるんだ?
「わたしが訊きたいわよ」と魔法使いはユーシャの頬に手を添えて言う。
「殴ったことは悪いと思ってる。でもあんた、ほんとうに大丈夫なの?」
「俺がおかしいのかな」とユーシャは頭を掻いて言う。わけがわからない。
「もしくはわたしがおかしいかのどちらかね」
「たぶん俺がおかしいんだろうな」とユーシャは言って、橋の方に目を向ける。
今度は数十メートル先に、小さな女の子の姿が見える。
栗色の長い髪を首の辺りで束ねて、ぶかぶかの黒いローブを着ている女の子だ。
歳は九歳だ、とユーシャは確信する。
それは八年前の魔法使いの姿とまったく同じだったからだ。
あれは九歳の頃の彼女だ。俺が九歳の頃に、
いっしょに図書館で本を読んでいたあいつだ。
「間違いなく俺がおかしい」とユーシャはその女の子を眺めて続ける。
「今度はそこに女の子が見える」
639:
「女の子?」と魔法使いは訝しむようにいい、ユーシャの視線の先に目を向ける。
「誰も居ないじゃないの」
「よくわかった。俺がおかしいんだな」とユーシャは言った。
たぶん俺がおかしいんだろう。
「どんな女の子?」
「八年前の、九歳の頃のお前そのもの」
「あんたおかしいわ」と魔法使いは間髪入れずに言う。
「とりあえず今日はここで休みましょう」
「そうした方がいいかも」
ユーシャは頭を押さえてため息を吐く。吐いた息はいつもより熱い気がした。
それから彼は魔法使いに手を引かれて、塔の影になっている部分に向かい、
そこに腰を下ろす。彼女も隣に座る。
塔に凭れかかると、身が凍ってしまうような冷たさが背中を撫でた。
冷たい風が地面を転がる。それにはすこしだけ甘い匂いが混じっている。
頭がくらくらとするような匂いだ。いったい、なんの匂いなんだろう?
それは彼女の匂いとはまた違った甘さだった。
優しくて敵意のないものとは、すこし違う。
640:
彼女はユーシャの肩に手を添えて言う。「ちょっとゆっくりすれば治るわよ。
きっと北の大陸が近いから、緊張してへんなものを見てるだけよ。幻覚ってやつ」
「幻覚」とユーシャは呟く。
「そう。幻覚よ」
「でも、お前の声も聞こえなくなってたみたいだし、どうなってるんだろう」
「心配しなくてもいい。見えなくなっても聞こえなくなっても、
わたしはここにいるから。あんたのすぐ隣に、ずっと」
「うん」
「それに、頬を殴れば治るみたいだし、幻覚なんて大したことはないわよ」
魔法使いは微笑みながら、拳をユーシャの頬に押し付けて言った。
「もう殴られたくはないな」とユーシャは苦笑いを浮かべて言った。
くだらない話を何時間も続けて、ふたりはたっぷり身体を休める。
そして夜の帳が辺りに下りる頃、それは現れた。
641:

紺碧の空で、細長い月が地上に満遍なく弱い光を落としている。
星々は歌うように弱々しく点滅していて、
濃灰色の雲が風に煽られて、目に見えるさで流れていく。
頭の上にはどこまでも同じ景色が続いている。それはどこか淋しげな光景だった。
ユーシャは眼前の暗闇を睨みつける。
暗闇はユーシャを見つめ返し、いつか飲み込んでやろうと息を潜めている。
ぽつりぽつりと点在する木々の間に広がる巨大な闇は、底のない沼を思わせる。
それは手の届く位置にあって、踏み入れると
もう二度と戻ってくることができないような気にさせてくれる。
そしてそれは突然現れる。闇の中に、点滅する光の球が五つ現れた。
赤から黄色へ、黄色から緑へ、緑から青へ、青から紫へ、紫から赤へ、
それは次々と変色しながら、ゆっくりと、確実にこちらへ迫ってきている。
今度はまとわりつくような粘り気のある規則的な音が聞こえてくる。
ひとが歩いているような感じだ。ただ、足音がおかしい。肉を打ち付け合うような音だ。
642:
「またへんなものが見える」とユーシャは座ったまま、
魔法使いに寄りかかって言った。「へんな音も聞こえる」
「わたしにも見えるし聞こえる」と魔法使いは言い、立ち上がった。
ユーシャはバランスを崩して顔を地面に打ち付けそうになる。
なんとか持ちこたえて、立ち上がる。
「なにが見える?」とユーシャは訊ねた。
彼は自分の目に映っているものに、なんだか自信が持てなくなっていた。
「三年前の、一四歳の頃のあんた」と魔法使いは答えた。
「今度はわたしがおかしくなっちゃったみたい」
「俺には点滅するへんな光が見える」その光は確実に距離を詰めてきている。
「きっとそれが本物ね。今度はわたしがおかしくて、あんたがまともなんだと思う。
もしくはわたし達、どちらもおかしくなったとか」魔法使いは頭を押さえる。
ユーシャは夜の闇を通して光の球を見据える。
それは上下左右へ不規則に揺れながら、こちらに近づいてくる。
しばらくすると目が慣れて、彼はその光の球の正体を完全に捉える。
光の球の向こうに、歪な形をした生物が見えた。
しかし、その姿は今まで見聞きした数多くの生物と、ほとんど合致しない。
ほんとうに生きているのかと思うほどに、不気味な風貌だった。
643:
それの体長は三メートルほどで、
巨大化したカエルのような身体を持っていた。
爬虫類特有のぬめぬめとした皮膚が、
点滅する光で照らされて不気味に光っている。
身体はカエルだが、頭はワニのように見える。あるいは竜のような。
どちらにしろ、掴んだものを離さないような顎と、
刃物のように鋭い歯を持っているものだ。
しかしその強靭な顎は下顎しかなく、
上顎があるはずの部分は綺麗な赤い肉がむき出しになっている。
そこからはミミズのように細い管が五本伸びている。
管の先端には眼球のような球体が付いていて、何色にも変色しながら発光している。
光の正体はあれか、とユーシャは剣を引き抜きながら思う。
その怪物はさらに近づいてくる。
細部を見せつけるように、ゆっくりと嫌な音を響かせて歩く。
怪物の前足はカエルのものではなく、カマキリの鎌のようだった。
背中には大量のイボがあって、隙間に小さな羽がある。
それはコウモリの羽のように見える。
羽ばたくたびに、肉が打ち付け合うような湿っぽい音が聞こえてくる。
後ろ足はカエルのもののままだ。ただ、かなり筋肉が発達しているようだ。
跳ねるとかなりの距離を滑空することができそうだ。
怪物はこちらと五〇メートルほどの距離を開けて立ち止まり、
五つの目をぐるぐると回転させる。
644:
「お前にはなにが見える?」とユーシャは剣を握って訊ねる。
「さっきと同じ」と魔法使いは答えた。
「一四歳の頃のあんた。あんたにはなにが見えてるの?」
「すごく気持ち悪い怪物」
魔法使いは目を細めて、怪物を睨みつける。
彼女にはあれが、一四歳の頃のユーシャに見えているらしい。
「なにがどうなってるの?」と彼女は言った。
「幻覚ってやつ?」
「あんたの言う“すごく気持ち悪い怪物”がそうさせてるのかしら?」
「どうだろう」とユーシャは言い、
すこし間をあけて、「殴ったら治るかな?」と続ける。
「試してみて。思いっきり殴って頂戴。遠慮はいらない」
ユーシャはわりと力を込めて魔法使いの頬を殴った。「どう?」
「すごく痛い」と魔法使いは答えた。
「あとでお返しに鳩尾を蹴ってやるからそのときは覚悟しろこの阿呆が」
645:
「遠慮はいらないって言ったじゃないか」
「ふつう女の顔を思いっきり殴る? 肩とかにしてくれればいいのに」
「ごめん」とユーシャは言う。「それで、どうなんだ?」
「見えるわね。“すごく気持ち悪い怪物”が。なんなの、あれ」
魔法使いは顔を顰めて言う。
「いろんな動物の身体のパーツを切り取って、
カエルにくっつけたみたい。合成獣ってやつかしら」
「合成獣」とユーシャは目の前の怪物を見て言った。
「キメラとも言うわね。御伽噺にもいたと思う」と魔法使いは補足する。
「でもそんなことはどうでもいい」
646:
合成獣は喉から音の塊を吐き出した。
あらゆる動物の鳴き声を混ぜ合わせて、
その中にこの世に存在するありとあらゆる不快音をぶち込んだような音だ。
それは鳴き声とは呼べないような代物だ。
音が耳に響くというよりは、なにかの塊で頭を殴られるような感覚に陥る。
それは数十秒続く。
ユーシャと魔法使いは、それぞれ剣と杖を構える。
魔法使いは短く呪文を呟き、ふたりに魔術の障壁を纏わせる。
剣にも塗りたくるように壁を張る。
合成獣の音を吐く行為は唐突に終わる。
泣き叫んでいた子どもの首を切り落としたみたいにぴたりと止んだ。
怪物は発達した筋肉が付属した強靭な足で地面を力強く蹴る。
土埃を巻き上げ、放たれた矢のようにこちらにまっすぐ飛んでくる。
647:
ユーシャは魔法使いの前に出て、剣を構える。
怪物はかなりの度で向かってくるが、目で捉えられないということはない。
目を細めて狙いを付け、やがて怪物との距離がほとんどゼロになったとき、
そのぬめぬめとした胴体に向かって、
魔術の障壁が付与された剣で一閃をお見舞いする。
まったく手応えという手応えは感じなかったが、
怪物の身体は真っ二つに切断されて、冷たい地面に転げる。
赤い絵の具を薄めた水みたいな血が、宙に向かって噴水みたいに飛び出した。
それは趣味の悪いおもちゃの、趣味の悪い壊れ方みたいだった。
壊れてからも見るものを不快にさせるようなものだ。
なんだか、ばかにされているみたいに見える。
「なんだこいつ」とユーシャは眉を顰めて言った。
「なんだこいつは、わたしの台詞よ!」と魔法使いは怒鳴り、
「さっさと避けろ、ばか!」と続けてユーシャの横腹を蹴り飛ばした。
648:
ユーシャはわけもわからないまま、脇腹に走る
鋭い痛みに従うように身体を折り曲げる。
視界には頭上を通過する巨大な影が映る。
それは紛れも無く、先ほど切り裂いたはずの怪物の姿だった。
ちらりと窺い見た怪物の手に該当する鎌はかなりの切れ味を持っているらしく、
ぎらぎらと不気味な光を放っていた。
カマキリのそれというよりは完全な刃物に近い。
怪物はユーシャと魔法使いの背後、
数十メートル先の地面に激突し、土埃を巻き上げる。
「どうなってるんだ?」
ユーシャはバランスを崩してその場に尻もちをついた。どうなってるんだ?
「幻覚」と魔法使いはつぶやいた。「多分、あいつはそういう力を持っているのよ」
「だったら、俺がさっき真っ二つにしたのは偽物?」
649:
「あんたがなにを切ったのかは知らないけど」と魔法使いは言う。
「偽物というか、幻ね。わたしの目には、
あんたが空気を切ったようにしか見えなかった」
「俺は何も切ってないってことか?」
「そういうことね。わたしの頭がおかしくないのなら、そういうことになる」
「なるほど」とユーシャは言った。
あれは幻で、俺は何も切っていない。どうりで手応えがなかったわけだ。
「ほんとうにわかってるの?」
「わかってるよ」ユーシャは振り向いて、怪物を睨みつける。
「つまり俺たちは、今、すごく拙い立場にいるってことだろ」
魔法使いは横目で彼の顔を見てから、ため息を吐いて振り返る。
そして凄んだ目で怪物を睨みながら、
「そういうことでいい」とぶっきらぼうに言った。
650:
怪物はふたりから数十メートル離れた場所で、
背中を地面にこすり付けるみたいにもがいていた。
その姿はマタタビを与えられた猫を思わせる。
なんでそんなに嬉しそうなんだ? とユーシャは思う。
もしかすると、また俺は幻覚を見てるのか?
それとも、あの怪物が幻覚を見ているとか?
時々、怪物の上顎があるはずの辺りから音が聞こえる。
それは牙獣の唸り声みたいな音だったり、
黒雲の向こうから聞こえる雷音のような音だったり、
巨大なカエルの、腹のそこにずしりと来る鳴き声のような音だったりした。
とにかく、低く重みを持った音だ。
やがて怪物は二本の足で器用に起き上がり、ユーシャたちに五つの目を向ける。
五つの目は発光する。それを合図にしたように、
怪物の頭上に五つの青い炎の球が現れた。握りこぶしくらいの大きさだ。
「呪術?」と魔法使いは目を丸くして言った。
651:
「呪術?」とユーシャも眉を顰めて言った。「あの青い炎は呪術なのか?」
「わからない……。わたし達、ふたりとも幻覚を見ているのかもしれないわ。
でもあれが幻覚じゃないとしたら、呪術ってことになるけれど……」
「どうして?」
「青い炎はもっとも簡単な呪術のひとつなの」
魔法使いは呪術の村で読んだぶ厚い本の内容を思い出しながら、難しい顔をする。
「それでも術の使用者の身体にはかなりの負荷が掛かるわ。
多かれ少なかれ、文字通り命を削る攻撃になる。あれだけ高温の炎の塊を作るのに、
いったいどれだけのエネルギーが必要かというとね……って、
あんたに言ってもわからないか」
「わからん」
「素直でよろしい。とにかく、危ないから避けろってこと。
ぜったいに触っちゃだめよ。わかった?」
「わかった」
652:
怪物はカエルの鳴き声のような低い音を辺りに響かせる。
直後に五つの青い火球はその場から矢のように、
こちらに向かって真っ直ぐに放たれた。
怪物はその場に留まっている。今度は犬やら狼やらの遠吠えのような音が聞こえた。
魔法使いは咄嗟に、先ほど張った魔術の障壁に上塗りするように、
さらに強力な魔術の障壁を自分たちに纏わせる。青い炎が、真っ直ぐ迫ってきている。
彼女はそれを避けるために地面を蹴って、左に跳ぶ。ユーシャは右へ跳んだ。
ふたりは怪物を睨めつけ、前へ出る。
五つの青い炎の球は減し(それでもかなりの度が出ている)、
やがてふたりが立っていた場所で停止した。
それはひとつになり、景色を歪め、破裂し、空気を揺らす。
ユーシャと魔法使いの背中に、高温の爆風が叩きつける。
障壁はその風によって剥がされる。
魔法使いはその威力に唖然としながらも、即座に、
もう一度ふたりに障壁を張り、怪物に向かって炎の槍を放った。
653:
それを見た怪物は低く唸る。
すると、怪物の数メートル手前に泥水が噴き出した。
泥水は巨大な滝を思わせる勢いで吹き出てくる。滝の重力が反転したみたいに見える。
魔法使いの放った炎の槍はその泥水の壁に阻まれて消える。
泥水は噴き出すのを止め、すべて地面にぶちまけられた。残ったのは煙だけだ。
ユーシャは怪物との距離を詰めてから低く跳び、怪物の頭目掛けて剣を振り下ろす。
しかし、なにかに阻まれてしまう。それは見えない壁のようなものだった。
それには見覚えがある。魔術の障壁と同じだ、と彼は思う。
構わず剣に力を込めて障壁を壊そうと試みる。
障壁は雷のような、空間にひびが走るような、
そんな光を辺りにまき散らしながら紫色の光を帯びる。
ユーシャは力の限り、剣を押し付け続ける。
やがて障壁はぐにゃりと窪んだ。
それでも破れることはないし、剣が怪物に届くことはない。
障壁も、硬ければ硬いほど強いというわけではないのだ。
柔軟性も強さになる。そこには金属に通ずるところがある。
654:
怪物はいかれたウサギみたいな声で笑い、強靭な脚で地面を蹴った。
ユーシャは怪物の頭突き(というよりは、ほとんど突進みたいなものだ)によって、
数メートル吹き飛ばされる。
怪物は透かさず五つの青い炎の球を出現させ、彼に向けて飛ばした。
ユーシャは地面を数メートル転がった後、即座に体勢を立て直し、怪物を見据える。
しかし、ほとんど目前まで青い炎は迫ってきている。
反射的に、その青い炎に向かって障壁が張られた剣を振るう。
剣と炎がぶつかったところで、そこを中心に
周囲の空気は球形に歪み、ちいさな爆発が起こる。
視界は青く染まる。高温の爆風により、
やはり自身に張られた魔術の障壁は簡単に剥がれてしまった。
腕の皮膚が焼ける。耐え難い熱が身体中を覆う。吸い込んだ息は肺を焼く。
咳き込んで息を吐き出したところで、なにかに腕を掴まれて背後に倒される。
背中に鈍い痛みが走る。地面はひんやりとしている。
「大丈夫?」と声が聞こえた。魔法使いの声だ。
彼女はユーシャの脇に屈みこんでいた。
「お前は?」と彼が訊くと、彼女は「わたしは大丈夫」と答えた。
655:
「それならいいんだ」ユーシャはゆっくりと立ち上がる。
正面には頭を振りながら、相変わらず
いかれたウサギみたいな笑い声をまき散らす怪物が見える。
「ぜんぜんよくない」
魔法使いは仏頂面で癒やしの魔術を唱え、焼け爛れた彼の腕の皮や肉を治した。
火傷のあとはほとんど残らなかった。「幻覚じゃなかったのね」と彼女はつぶやく。
「みたいだな」とユーシャは言った。
魔法使いは呪文をつぶやく。ユーシャに張られていた障壁が再生する。
「無いよりはマシだと思う」と彼女は弱々しく微笑んだ。
魔術の障壁のことを言っているのだろう。
たしかに呪術を前にすると、無いよりはマシといった程度の耐久力だった。
彼女はもう一度、口をちいさく動かして呪文を詠唱する。
短い詠唱が終わるのと同時に、今度は彼女の両脇に四本の炎の槍が現れる。
怪物の笑い声は止む。今度はその場で子どもみたいに飛び跳ね始める。
それは楽しんでいるようにも、地団駄を踏みながら怒っているようにも見える。
上下に揺れる五つの球体が、また不気味な色に発光し始める。
656:
魔法使いは杖で地面を軽く突いて四本の炎の槍を放つ。
それは怪物とは見当違いの方向へ飛び、底なし沼のような闇に飲み込まれて消える。
その隙に、怪物は地面を蹴ってこちらに向かって跳んでくる。
闇の中でも、鎌が鈍色の光を放っている。
なにをしているんだ? とユーシャは思った。
そしてすぐに彼女が幻覚を見ているということに思い当たる。
すぐに彼女の肩を殴る。
彼女はよろけてユーシャを睨んだ。「なに?」
「幻覚」とだけユーシャは言って、前に飛び出した。
魔法使いはもう一度、炎の槍を放った方向に目を向ける。
そこには夜の闇だけが蠢いている。彼女は頬を掻きながら、「なるほど」と言った。
なるほどね。わたしは幻覚を見ていたと、そういうわけか。なるほど。糞が。
657:
前へ飛び出したユーシャ目掛けて、怪物は鎌を大きく振るう。
ユーシャはそれを躱して、ふたたび怪物の頭を狙って剣を振り下ろす。
しかし、それも先ほどと同じように障壁に阻まれてしまう。
急いで横に転がって、その場を離脱する。また頭突きを喰らうのはごめんだ。
魔法使いはそこへ、筒状の熱線を撃つ。太さは五メートルはあるように見える。
表面は波のようにうねっている。火炎放射ではなく、
水鉄砲から溶岩を打ち出したみたいな感じだ。
巨大な蛇を思わせるそれは地面を抉りながら、怪物の姿を飲み込んだ。
ユーシャは背中に熱を感じながら、その場から
走って遠ざかり、魔法使いの隣で立ち止まる。
「あたった?」と魔法使いは訊ねる。
「あたった」とユーシャは答えた。「すくなくとも俺にはあたったように見えた」
「あんたが幻覚を見ていないことを祈るわ」
658:
熱線はだんだんと細くなり、消えた。怪物は先ほどと同じ位置に立っている。
今度はすこしダメージを与えられたようだ。
腹の辺りから黒い煙が空に立ち上っている。
表皮からはすこしだけ水分が失われているように見える。
「障壁は剥がれたみたいね」と魔法使いは言った。
「でも多分、あいつも急いで障壁を貼り直したから、大したダメージにはならなかった」
「なるほど」とユーシャは言った。
怪物は奇声を発しながら、後ろ足で地面を何度も踏みつける。
踏みつけられた部分を中心に、放射状に亀裂が走る。相当お怒りのようだ。
まもなく怪物は冷静さを取り戻したらしく、こちらに五つの目を向ける。
それらは多色に点滅する。
「あれね」魔法使いはとんがり帽子の鍔を掴んで目の前まで引っ張った。
「なにが」とユーシャは怪物を見たまま訊ねる。
「たぶん、あれが幻覚を見せてるのよ。あの光が、というか、あの球体が」
「どういうこと?」
659:
「ぜんぶ推測だけど」と魔法使いは言う。
「あの球体が点滅した直後に、わたし達のどちらかが幻覚を見ているわ。
多分あの光が引き金なのよ。あの光を見ることで、わたし達は幻覚を見ちゃうのよ。
でも、同時にふたりに幻覚を見せることはできない」
「なるほど」とユーシャは言った。
言われてみると、たしかに幻覚を見たのは光の点滅の直後だった。
それに、ふたりは同時に幻覚を見ていないのもそうだ。
しかし、ひとつだけ気になることがある。
ユーシャは言う。「じゃあ、俺が最初に見た幻覚は、なんだったんだ?
あの、ちっちゃい頃のお前。あのときは怪物の姿は視界に入ってなかったのに……」
「言われてみるとそうね……」魔法使いは考えこむ。
しかし怪物は彼女の言葉を待たずに、こちらに突進してくる。
ユーシャは彼女を庇うように前に出る。
こいつの言うことがほんとうなら、俺は今、幻覚を見ているのかもしれない、と思う。
光の点滅を見てしまったからだ。
彼女は目を帽子の鍔で守ったが、ユーシャはそうではない。
むしろ直視してしまった。直視してから彼女は話し始めたのだ。
どうしてもっと早く言ってくれなかったんだ!
660:
そこでユーシャは咄嗟に思い付いて、自分の腕を軽く切った。
鋭い痛みが腕に走る。傷口から熱い体液が滴る。それは脳に訴えかける。
視界にノイズが走り、幻覚から目は醒める。もう一度前を向く。
怪物はこちらに向かってきていなかった。
その場に身体を左右に震わせて、とどまっていた。
やはり幻覚を見ていたのだ。そしてそこからは痛みによって脱出することができる。
「どうしたの?」と魔法使いは不安げな顔をして言った。
それから呪文をつぶやき、ユーシャの腕の切り傷を治す。
「幻覚を見てた」とユーシャは言った。
「お前の言う通り、あの光が幻覚を見せてるんだと思う」
「そう」と魔法使いは言う。
「それで、あんたが最初に見た幻覚のことだけど、
そのときになにか変わったことはなかった?」
「変わったこと」とユーシャは反復し、回想する。
変わったこと……なにがあっただろうか?
幻覚を見て、こいつに連れられて塔の影に座った。
そしたら冷たい風が吹いて、甘い香りがして……
「そうだ」と彼は言う。
「へんな匂いがしたんだ。甘い匂いが。お前の匂いとはちょっと違う甘い匂い」
661:
「……わたしの匂いは知らないけれど」と魔法使いは頬を赤らめて言う。
「それも幻覚を見せる引き金みたいなものなのかもしれないわね」
「かもしれない」
「ガスみたいなものなのかしら。だったら、
わたし達は障壁の中にいるから、それには気づかなかったのかも」
障壁といっても、それは壁――完全に隙間のない壁――というよりは、
フィルター――無数の目視が不可なほどの小さな穴が空いているフィルター――と
いったほうが適切なのかもしれない。つまりは不思議な壁だ、と魔法使いは思う。
魔術とはそういうものだ。
「なるほど」とユーシャは言った。
「じゃあ匂いは気にせず、あの光を見なけりゃいいわけだな」
「そう。それで、障壁を剥がして脚を落とせばいいのよ。
方法はどうであれ、わたしが障壁を剥がすから、
あんたが脚を落とす。もしくは心臓を貫く。
あとは煮るなり焼くなり、自由にすればいいわ。わかった?」
「わかった」とユーシャは頷く。「わかりやすくて助かるよ」
662:
怪物の五つの目は点滅する。ユーシャは手で目を覆う。
魔法使いも帽子の鍔で目が隠れるようにする。
何かが破裂するような音が聞こえた。怪物が地面を蹴った音だ。
ユーシャは剣を構え、怪物を見据える。怪物はこちらに向かってくる。
幻覚を見破っても、怪物にはまだ強靭かつ柔軟な障壁がある。
まずはそれを破らないことにはどうにもならない。
それを破るのは彼女の破壊的で母性的な魔術に任せることにする。
だから今は彼女を守りながら、その為の隙を作る。
ユーシャは脇に転がって、突進を躱す。そして怪物を見据える。
しかし怪物は鎌を地面に突き刺して、
そこを中心に半円を描くようにして身体の向きを変え、
ふたたび地面を蹴ってこちらに突進してきた。ユーシャは急いで横に跳んだが、
躱しきれずに怪物の巨体にぶつかって弾き飛ばされた。
肩辺りに鈍く重い痛みが走る。地面を数メートル転がったが、すぐに体勢を立て直す。
いったいどうすれば隙を作ることができるだろう? とユーシャはぼんやりと思う。
答えを見出す間もなく怪物は五つの青い炎の球をこちらに放った。
そのとき、背後から五つの赤い炎の球が飛んできた。
青い炎と赤い炎はぶつかって相殺された。
663:
魔法使いが怪物の周囲に氷の槍を発生させる。
それは檻のように怪物の動きを封じる。
しかしそれは仮設のものであり、大した拘束時間は期待できない。
ユーシャはもう一度怪物の方へ駆ける。怪物は氷の檻のなかに留まっている。
背後から、何かが地面にぶつかったような小さな音が聞こえた。
魔法使いが杖で地面を突いた音だ。
すぐさま身を屈めて、脇に数メートル転がった。
その瞬間に彼の背後から熱線が放たれる。
熱線はまっすぐに伸びた蛇のように、怪物の身体を飲み込んだ。
やがて熱線は徐々に炎の輝きを失いながら糸のように細くなり、途切れた。
怪物は何事もなかったかのようにその場に留まっているが、
身体からは黒煙が噴き出している。障壁は破れ、皮膚が焼けたのだ。
ユーシャにもそれを見て取ることができる。
破れた箇所の輪郭だけが、淡い緑の光を放っているのだ。
つまり、そこには攻撃が通る。
664:
ユーシャは怪物に突進し、破損した箇所に剣を差し込んで、障壁を裂いた。
何かの動物の皮を切り裂いているような感触が手のひらに伝わってくる。
剣を捨てて両手を伸ばし、五つの目を頭から引き抜いて地面に投げつけた。
これで幻覚を見ることはないし、怪物の視界そのものを奪うことができた。
根っこから吹き出した血は視界を奪おうとしているのか、目に飛んでくる。
構わずユーシャは頭にあるむき出しの肉だか脳だかを殴りつけた。
また血が噴き出す。怪物は音の塊を吐き出す。また血が噴き出す。
これほど近くで絶叫されると、たまったものではない。
視界を奪う赤い血を拭い、ユーシャは剣を拾って逃げ出した。
怪物の障壁がゆっくりと再生していく。それは凍っていく湖を思わせる。
魔法使いは小さな炎の球を作り、そこから小指ほどの太さの熱線を隙間に撃った。
熱線は障壁の隙間から怪物の肉を抉って焼いて貫く。
怪物はまた鳴いて、地面を強く踏みつけた。
その瞬間、怪物の立っている地点を中心に地面へ亀裂が走り、
あちこちから泥水が吹き出した。
どれも壊れた噴水のように無造作に泥をまき散らす。
ユーシャには何もかもが汚れて見えた。
自分も怪物も水も地面も、すべて汚れている。
この世界に平和で綺麗な場所など存在しない、そんなことを思わせる光景だった。
665:
「どう?」と魔法使いは彼に駆け寄って訊ねる。
「どうって、何が」とユーシャ。
「このまま押し切れそう?」
「いける」とユーシャは言った。「目を全部ちぎってやった」
「やるじゃないの」
「もうちょっとだ」
666:
その場で暴れまわる怪物を見据え、地面を蹴って前に出る。
怪物は視界を奪われたことにより、パニック状態に陥っているようだ。
泥水に注意しながら怪物に接近する。
しかし怪物はそこで、大量の青い炎の球を自身の周囲に間配らせた。
ほとんど間もなく青い炎の球は怪物を中心に、
放射状に拡散するようにその場から射出された。
魔法使いは咄嗟に身を屈めて、転がるようにして
噴き出した泥水の裏に逃げ込み、「泥水の裏!」と叫んだ。
それを聞いたユーシャも噴き出した泥水の裏に転がりこんで、炎をやり過ごす。
怪物に向かって放たれた極太の熱線が見えた。急いで泥水の噴水から飛び出す。
熱線は先ほどと同じように細くなって消える。怪物からは黒煙が上る。
障壁は再生しようとするが、先ほどと同じように剣を隙間に引っ掛けて、振り下ろした。
驚くほど簡単に障壁は裂けた。紙を切っているような感覚だ。
667:
裂けた隙間に剣を引っ掛け、さらに障壁を切り裂こうと力を込めた。
障壁は鋏で紙を切っているかのように
ぱっくりと口を広げ、やがて緑の光をばら撒いて砕けた。
すかさず脚に狙いを付け、剣を振った。
怪物の脚は大きな傷口を広げ、鮮血を噴き出した。
異臭が鼻腔を突き、耳元で絶叫が響く。
でも離れるわけにはいかない。これで終わらせる。
もう一度、今度は逆の脚を狙い、力の限り剣を振り下ろした。
皮膚を破る感触、繊維を引き裂く感触、骨を断つ感触、
それらは決して心地よい感覚ではない。
しかしその行為には慈悲も躊躇も恐怖もない。
冷たさと、静かな高揚が胸のなかに湧き上がるだけだ。
怪物の脚は付け根から切断され、重々しく血だまりのなかに落ちた。
傷口からは粘つく血と黄色い何かの筋が飛び出す。
668:
怪物の絶叫は続く。背後から、小指ほどの太さの熱線が飛んできて、怪物の喉を貫く。
絶叫は止み、代わりに空気の漏れる、ひゅうひゅう、という音が聞こえてくる。
怪物は血だまりのなかに転げた。
血が跳ねて、そこらじゅうに不気味な赤い模様を作り出す。
ユーシャは怪物の腕の付け根に剣を刺して、そのまま肉を引き裂いた。
腕は落ちて、傷口から足元の血だまりにさらに血が注がれる。
今度は胸の辺りに剣を突き刺した。引き抜いて、もう一度刺す。
怪物はちいさく身を震わせて、足元の血だまりに波紋を生み出す。
やがて波紋は消えた。
669:
ユーシャは怪物の亡骸から離れて座り込んだ。
あまり見たくない光景だったが、目を離すことが出来なかった。
冷たい夜風と静寂は平静を取り戻させる。間もなく吐き気が込み上げてくる。
そのまま胃の中身を地面にぶちまけた。吐き気が通り過ぎると手で顔を拭った。
手は真っ赤だった。力が抜けていく。身体が液体になっていってるみたいな感じだった。
顔を上げると、ゆっくりとこちらに歩いてくる魔法使いが見えた。
怯えたような表情を浮かべている。
いったい何を怯えているんだろう。俺があまりにも汚いから怖がってるのか?
魔法使いは隣に屈みこんで、背中をさすりながら「大丈夫?」と言った。
「お前は?」とユーシャは訊ねると、「わたしは大丈夫」と答えた。
「だったらいいんだ」
「よくない」と魔法使いは言った。「血まみれだけど、ほんとうに大丈夫なの?」
「大丈夫だよ。俺の血じゃない」とユーシャは言った。
その直後に、また吐き気が込み上げてくる。
もう一度地面に胃の中身を吐き出した。魔法使いは背中をさすってくれた。
670:
胃の中身が空っぽになると、「も、もう大丈夫……」とユーシャは言った。
「意外と繊細なのね」と魔法使いはすこし呆れて言った。
「あんな血の量は見たことない……」とユーシャは青い顔をして言った。
「わたしだってないわよ」
「よく平気でいられるな……」
「見なけりゃいいのに」魔法使いはユーシャに肩を貸して立ち上がった。
「さっさとここから離れましょう」
「そうしよう」魔法使いの肩に寄りかかって立ち上がる。
そのとき魔法使いの足元がすこしふらついた。
ユーシャは言う。「お前、ほんとうに大丈夫なのか?」
「大丈夫」と魔法使いは言って、弱々しく微笑んだ。「ちょっと疲れちゃったけど」
671:
魔法使いの肩を借りて、塔に向かって歩く。冷たく汚れた空気を吸い込む。
それでもいくらか気分はマシになった。
ふたりは塔に凭れ掛かるように座り込んだ。
ひとつのマントにふたりで包まって、身を寄せあって暖をとる。
魔法使いはユーシャの顔を拭い、キスをした。それから指で瞼を下ろした。
「おやすみ」と耳元で囁く声がした。「あんたは昔よりも、ずっと強くなった」
672:
24
僧侶をもの言わぬ肉塊に変貌させたひとつ眼の怪物の亡骸を跡形もなく切り裂いて、
呆然と座り込んでいた勇者は、やがて正気を取り戻し、
かつて僧侶だった肉片と骨片を拾い集める。辺りには夜の帳が降ってきていた。
彼女が羽織っていた血まみれのマントに彼女の欠片を包み、手で抱える。
とても軽いが、纏わりつくような湿り気がそこにはある。
彼女の生への執着が手を覆っているみたいな感覚だ。
そこにぬくもりは無い。彼は死を抱えている。
でも手の中にあるそれは紛れも無く彼女だった。
氷の槍で貫かれたみたいに、胸の真ん中にぽっかりと冷たい穴が開いている。
そこへ激しい喪失感と悲壮感、孤独感が同時に流れこんでくる。
それらは自己嫌悪や行き場のない怒りと混ざり合って、勇者の身体の内側で渦を巻く。
それでも涙が溢れるということはなかった。
憤怒の炎が身体を焼こうと、悲愴の氷が身体を貫こうと、
無感覚の空洞が胸の内側に生まれようと、
混沌の渦が生まれようと、涙だけは出てこなかった。
ただ吐き気だけが込み上げてくる。
673:
勇者はうずくまって、胃の中身をすべて吐き出した。
空っぽになっても吐き気が襲いかかってくる。
乾いた咳を吐き出して、それをやり過ごす。
内臓でも何でもぶちまけてやりたい、と勇者は思う。
それで楽になれるなら、胃でも肺でも腸でも心臓でも、
なんでも地面へこぼしたっていい。
やがて勇者はうつろな目で立ち上がり、ゆっくりと歩み始める。
操り人形のようにぎこちない歩みで
目の前に架かっている石橋を踏み、前へ進む。
足元からは情の欠片もない冷たさが込み上げてくる。
ほんの一〇〇メートルほど歩いたところで、
ちらちらと視界に白いものが映り込み始める。
雪だ。それは散っていく花のように儚く艶やかであった。
僕もこんなふうに、誰かの記憶に残るくらい
綺麗に散っていけたらいいのに、と彼は漫然と思う。
674:
歩きながら、彼女のことを想う。子供の頃の彼女、いっしょに旅をした彼女、
自分のことを愛してくれていなかった彼女、そして今の彼女――
身体を抉られるような感覚が全身にまとわり付いてくる。
手が痺れる。腕に伸し掛かる重みが増したようだ。
この手の中にある重みは、自分の犯した罪の重みのように感じられる。
救えたはずだった、と勇者は強く思う。
彼女はこんな目に遭わずに済んだはずだった。どうして救えなかったんだろう。
どうして救わなかったんだろう。僕が殺した。彼女もあいつも、僕が殺した。
どうして救えなかったんだろう。どうして救わなかったんだろう。
どうして僕は、未だに歩いているんだろう?
675:
「きみが弱いからだよ」と勇者の隣を歩く少女は言った。「きみが弱いからだ」
「そう、きみと僕が弱いからだ」と影が言う。
「きみは立ち止まることができないほど弱い。
僕たちは許されない罪を犯し、それに背中を押されている」
勇者は隣を歩く少女に目を向ける。
首で切り揃えられた髪、肌色のマフラー、赤い手袋。
白い吐息と好対照をなすような赤い鼻と頬。
それは紛れも無く、過去の“彼女”の姿だった。
しかし、これといった感情は湧いてこなかった。
景色のひとつとしてそれを捉えることしかできなかった。
少女はマフラーで顔の下半分を隠して言う。
「きみの根っこにも、わたしと同じものがあるんだよ。
なにかを壊したいと思う、破壊的な衝動みたいなものが。
髪を切ったくらいじゃ失くならない。それは遺伝子に刻み込まれてるんだよ」
「そうだね」と影は言う。
「行き場の無い怒りを溜め込むことや、
誰かに恋焦がれるのと同じように、それは自分の身を焼くんだ。
でも吐き出すことでそれをコントロールすることができる。ある程度はね」
676:
「わたしはきみと交わることで、すこしだけそれを和らげることができた」と
少女は、はずかしそうに頬を赤らめて言った。
「でもきみはどうだろう? きみはどうやってそれを吐き出すの?
わたしの中に吐き出すことは出来ないよ?」
「わからない」と勇者は言った。
「わからない」と少女は復唱する。
「きみはいつもそうだ。きみとわたしは、いつもそうだった」
影は言う。
「早いところ吐き出さないと、それは僕たちの身を焼き続けるんだ。
いずれはきみも僕のように真っ黒になってしまう。焼けたきみの身から立ち上る
煙のようなもの――それは行き場の無い破壊的な衝動とも言える――は、
自分に向かうことになるんだよ。それは間違いなく僕らを破滅に追い込む。
これは予言なんかじゃなく、規則なんだ。運命と同じだ。
絶望から自分で首をくくるようなものや、手首を切り裂くというような
自傷行為に興奮性を見出すものと、今のきみは何ら変わりないんだよ。
常識的な言い方をすると、きみは常軌を逸している。もちろん、僕もそうだ」
「でもきみには、常識という曖昧模糊とした言葉や定義のようなものが
何を指し示しているのか、それがわからない」と少女は言った。
勇者は頷く。
677:
「僕にはなにもわからない」と影は言う。
「ただ、今の彼にはひとつだけ渇望することがある」
「それはなに?」
「自分自身の破滅」と勇者は答えた。
「死んで逃げるんだ?」と少女は言った。
「きみはわたしとあいつの死を無駄にするんだね」
「それは違う」と影は答える。
「これは――破壊的な衝動は、ぶつけるべき対象を見つけたときに巨大な力になる。
ちょうどきみがあのひとつ眼の怪物を惨たらしく葬り去った時のように。
それはとても自然な力だ。竜巻や雷、津波なんかと同じだ。
止められるものはいないし、始まればいずれは終わりが来る」
「それはとても素敵だね」
「そう。それは素晴らしい力にもなり得る。
心置きなく破壊を楽しむことができるんだ。それはまるで御伽噺の――」
678:
影の言葉にかぶさるように、「なあ」と勇者は白い吐息を吐き出して言う。
「さわっていいかな」
「わたしを?」と少女は言った。
勇者は頷く。「きみにふれたいんだ」
「いいよ。どこでもさわって。さわれるものならね」
勇者は片方の手で彼女だったものを抱え、もう片方の手を少女へ伸ばす。
でも少女に触れることはできない。霧に手を伸ばしているのと同じだ。
彼女は実体を持たない幻影や幽霊のように、こちらから干渉することはできない。
「きみはいったい何なんだ?」と勇者は訊ねる。
679:
「わたしはわたしだよ」と少女は答えた。
「ねえ、きみは今もわたしのことを愛してる?」
「もちろん」
「その手に抱えている“それ”も愛してる?」
「愛してる」
「よかった」と少女は言う。「わたしはきみのことが好きだったよ」
「今は?」
「今は、きみのことを愛してる。きみはわたしを救ってくれたんだよ」
「救ってはいないよ」
「容れ物を救えなくても、きみはわたしの心を救った。
わたしの中の怪物を迷わず受け入れてくれた。それはとても難しいこと」
「わからない」
「それでもいいんだよ」と少女は言う。
「きみがわたしを救ったってことを知ってくれていればいい」
「……わかった」
680:
「じゃあね」少女は手を振りながら勇者から遠ざかっていく。「ありがとう」
「愛してる」と勇者は言った。
「行かないで……戻ってきてよ……。もうすこしだけここにいてほしい……。
今度はちゃんと守るから、もう一度だけ僕と歩いてほしいんだ……」
「わたしはずっときみの内側にいるよ。きみが望めば、
わたし達はいつでも出会うことができる」と少女は言った。
そして、「わたしも愛してるよ」と言い残すと、彼女の身体は
パズルのピースがひとつずつ欠けていくように、ゆっくりと分解されて消えていった。
彼女はいなくなった。その事実が勇者の足を止める。
腕には非情な冷たさがのしかかってくる。
自分が不甲斐ないせいで、彼女の炎を消してしまった。
でも、失われた灯火は、内側に微かな熱を残していった。
それは黒い渦の中心に居座ることになる。
681:
「死ぬな、歩け」と影は言う。
「きみの光は失われていない。
ちゃんと目を開けて、自分の周りをよく見てみるんだ。
あの女の子は幻影だ。彼女の紡いだ言葉は、
すべてきみの頭の中で思い描いた幻想でしかない。
いいか? 彼女は死んで、もう二度と戻ってこない。きみは独りなんだ。
彼女が死の間際に何を思っていたかなんて、僕たちには永遠にわからない。
長い夜が始まる。
それは海の底のように暗い、覚めることのない悪夢みたいな夜だ。
でも、僕らはそれに耐え切ることができるはずだ。
次に太陽を拝むとき、きっと僕らはまたひとつになれる。
きみは弱い僕のことを嫌っているのかもしれないけど、
もともと僕らはひとつだったわけだ。
僕らはあるべき姿に戻るべきなんだよ。そしたら、ゼロからやり直すんだ。
もう失うものも、僕らを脅かすものも、なにも失くなるんだ。
勇者なんて重荷を捨てて、僕らは文字通りのゼロになるわけだ。
さあ、いこうぜ。きみが灯りをともして、その長い夜を終わらせるんだ。
きみの崩壊が終わってしまう前に」
683:
25
橋の果てには、雪と針葉樹と沈黙に閉ざされた世界があった。
柔らかみを持った雪には足跡ひとつない。
足元の白銀と対を成すように、空は暗雲に覆われている。
橋を渡りきったユーシャと魔法使いは
刻みつけるように雪を踏み、北の大陸に入り込んだ。
「すごい」とユーシャは白い息を吐いて嬉しげに言う。
「これぜんぶ雪なのか?」
「みたいね」と魔法使いは言った。
故郷の村にも雪はちらほら降ることがあったが、
ここまでの積雪を見るのは初めての事だった。
内側に静かな高揚が湧き上がるのを感じる。
空気は無慈悲とも言いたくなるほど冷たく、とても澄んでいた。
それはここに人間がいないからなのかもしれない、と思った。
生物の発する悪意は空気を汚す。でもここに悪意はない。
純粋で穢れのない清らかな空気が漂っている。
空気が美味いと感じるのは初めての事だった。
「さあ、さっさと行きましょう」
「うん」ユーシャはうなずく。「どっちに?」
684:
周囲には雪と木があるだけで、道と呼べるようなものはない。
ここには白と茶と緑しかない。とてもシンプルで分かりやすいが、
その光景は退屈であるとも言えるかもしれない。
「西よ」と魔法使いは言い、歩き始める。
北の大陸は東西に細長い形をしており、今いるのは東の端のほうだ。
目指すとすれば、それは大陸の中央か、北端だ。魔法使いはそう確信していた。
ユーシャは魔法使いの隣を歩く。
魔法使いの鼻と頬はりんごみたいに赤く、吐く息は雪のように白い。
俺もこんな感じなのだろうか、と思う。
685:
西へ向かう。雪の上を歩くのは骨の折れる作業だった。
最初の頃は景色や音や感触を楽しめていたが、二、三時間もすれば嫌になってくる。
代わり映えしないというのはやはり退屈だった。進んでいるという実感がない。
ところどころに、動物や怪物の影が見えた。
犬や狼のような、全身を毛で覆われたものだ。
こちらに気付くことはあっても、襲い掛かってくるということはない。
ここに悪意はない。
ただ、純粋な食欲が彼らを突き動かした場合は襲われるかもしれない。
十時間ほど歩いたところで、凍りついたテントのような施設を発見した。
空は相変わらず暗雲に覆われていて、いまが昼なのか夜なのかは不明だが、
とりあえずその日はそこで身体を休めることにした。
テントのなかは決して広いとはいえなかった。
ふたりが横になれば足の踏み場はなくなる。
それでも冷たい風を凌げるのなら十分といえる設備だ。
北の大陸はあまりにも寒すぎるのだ。
ここの環境は人間が生きていくのには適さない。
まるで人間を拒絶するような冷たい空気が大気には漂っている。
しかしそこにも悪意はない。
686:
魔法使いはテントのなかに座り込む。ユーシャも隣に座る。
テントのなかには小さな鉄の鍋とカンテラ、
火打ち石と腐った木の枝、それと鉄の容器に入った油がある。
それらは希薄ではあるが、生活感を漂わせている。
「ここにもひとがいたんだな」
ユーシャはカンテラを掴んで、しげしげと眺めながら言った。
「こんなに寒いってのに」
「多分、そのひと達はこの大陸を探検してたんじゃないかしら」と魔法使いは言う。
「テントも仮設みたいな感じだし、本格的な器具もない。
ここは探検途中の拠点のひとつなのかも」
「こんなところを探検してどうするつもりだったんだろう」
「こんなところだからこそ探検なんじゃないの。
未開の地なんて、もしかすると大量の鉱物が眠っているかもしれないし、
貴重な木や動物が生息しているかもしれない」
687:
「なるほど」とユーシャはマントに包まって言う。「ご苦労なこった」
「たしかにね。わたしなら、頼まれてもこんなところには来ない」
「でも来てる」
「あんたが行くって言うから」
「ごめん」
「いいのよ」魔法使いはユーシャに凭れ掛かる。
「たとえあんたが付いてくるなって言っても、わたしは付いていくわ。
ぜったいに離れないからね」
「ありがとう」
ふたりはお互いの身体を締め付け合うようにして眠る。
十七歳の身体はすぐに火照り、熱くなる。
688:

翌日も同じように足跡を雪に刻みながら歩いた。
指先が凍ってしまいそうだったので、手を繋いで歩くことにする。
それでも寒いことには変わりはなかったが、気分的には楽になった。
しかしいつまで経っても代わり映えしない景色を見ていると不安になってくる。
どこまで歩いても空には黒雲があり、足もとに雪があり、
その間に雲を支えるように木が屹立している。
方向感覚が狂って、同じ所をぐるぐると回っているのではないかという不安に駆られる。
でもそんなことはなかったようで、しばらくすると森のような地帯は終わり、
雪原のように広々とした場所に出た。
689:
その日も十時間近く歩いたところで、仮設のテントのようなものを発見した。
なかにあるものは小さな鉄鍋とカンテラ、火打ち石に油と、
昨日見つけたテントとほとんど変わらない。
ただ、この地点にはテントが五つほどあった。
どこのテントにも似たようなものしか転がっていなかった。
小さな鉄鍋に雪を詰め込んで、魔術で火を付けて溶かし沸騰させた。
それを胃に流し込む。白湯は身体全体に染み渡るようだった。
かつてこれほどまで白湯に感謝することはなかった、とユーシャは思う。
身体が温まると、湧き水のように空腹感が現れる。
袋の木の実はまだ十分に残っているが、
それではなかなか満たされない。立ち上がり、テントの外へ向かう。
「どこに行くの?」と魔法使いが背中に声をかける。
「外」とユーシャは言う。「何か動物を捕まえてくる」
「わたしも行くわ」魔法使いはあとに続いた。
690:
外は夜よりも濃い闇に覆われているように思えた。
月も星もここを照らしてはくれない。
魔法使いは魔術の光で辺りを照らした。
あまりの眩しさに、すこし目が眩む。でもすぐに慣れた。
ユーシャはゆっくりと歩き始める。魔法使いも隣に付いて歩く。
歩き始めて十五分ほどが経った。
その辺りで、魔法使いは真っ白なウザギを見つけた。
雪のように白い毛のなかに、赤く輝く目がぽつりと見える。
それは鉱山に眠る宝石を思わせる輝きだった。“欲しい”と思わせる光だ。
魔法使いは呪文をつぶやき、ウサギの足を氷の槍で貫いた。
「何かいたのか?」
「あっちにウサギがいた」と魔法使いは答える。
「あんたが捕ってきて。足止めはしておいたから」
「分かった」とユーシャは言って、魔法使いが指差した方向へ向かった。
蜘蛛やら爬虫類やらには容赦無い魔法使いだが、
ウサギや犬猫といった動物を前にするとそうはいかない。
小動物を愛おしむ心があるのだろうか。
でもそういうのはあいつらしいところだ、とユーシャは思う。
ウサギの皮を剥いで肉だけを焼いて差し出すと嬉しそうにするのもあいつらしいところだ。
691:
足から血を滴らせていたウサギを捕まえて首の骨を折り、
魔法使いといっしょにテントに戻った。
テントの外でウサギの皮を剥いでいると、
塔の怪物の亡骸を思い出して、猛烈な吐き気に襲われる。
故郷の村でウサギやら熊やらの皮を剥いだことは何度もあったが、
それによって吐き気に苛まれるなんてことは一度もなかった。
いったい何がどうなってるんだ。俺はそんなに変わってしまったのだろうか?
たかが怪物一体の死体で。
胃の中身を吐き出して、咳き込んだ。
乾いた咳のあとに大きく息を吸い込むと、肺が凍りついてしまいそうだった。
692:
咳を聞いた魔法使いはテントから出てきた。
こちらに駆け寄って背中をさすりながら、「大丈夫?」と言う。
「もう大丈夫」とユーシャは咳き込んで言う。「ちょっと思い出しただけだよ」
「塔の怪物?」
「そう」ユーシャはウサギだった肉塊を眺めながら言う。
「あいつとこいつ、何が違うんだろうな」
693:
ウサギの解体が終わると、その肉を焼いて、噛みしめるように食べた。
久しぶりの肉は非常に美味だったが、完全な満腹感や満足感を得ることは出来なかった。
噛みちぎりにくい筋のようなものが、心のどこかに居座っている。
それをなかなか砕いて飲み込めない。
ふたりは再び、お互いの身体を締め付け合うようにして眠る。
ユーシャは魔法使いの寝顔を見つめる。口元には笑みが浮かんでいる。
力が漲ってくるのを、ひしひしと皮膚の下に感じた。そしてひとつの決心をした。
694:

そのようにして何十日も経った頃、ようやく景色に変化が現れた。
その日は吹雪だった。視界は決して良好とは言えず、足もとの雪も深みを増していた。
しかし、遠くに目を向けると、微かに大きな影のようなものが見える。
それは今までに見た仮設テントのようなシルエットではなく、もっと大きなものだ。
雲の切れ間から射す微かな陽光のような小さな希望が、胸の辺りを熱くする。
さらに近寄ってみると、それははっきりと目で捉えられるようになった。
木造の家屋だ。数はひとつやふたつではなく、十数はある。
家屋が並んでいるという光景は小さな村を思わせる。
ただ、家屋以外には何も見当たらない。
村というよりは、雪と木に囲まれた牢獄のように見える。
それでもそこに向かわないという考えはなかった。
695:
ユーシャは魔法使いと身体を引きずるように歩き、木造の家屋の前に立つ。
どこにも光は灯っていないし、窓を覗きこんでもひとの気配はない。
迷わずドアを押して転がるようになかに入って、急いでドアを閉めた。
強い雪と風が窓とドアを叩く音が響く。
外からは、べつの世界から吹いてきたような風の唸り声が聞こえる。
「助かった……」とユーシャは誰に言うわけでもなくこぼした。
「寒すぎて死にそう」魔法使いはマントにへばりついた雪を手で払った。
目の前の廊下を渡る。足元の木がしなり、軋んだ音を吐く。
廊下を渡りきった先には小さな部屋があった。
まず目に飛び込んできたのは、正面にある火のついていない暖炉だった。
前には何かの動物の皮が敷かれている。熊か何かの剥製だろう。
魔法使いは早足でそこへ向かい、隣に転がっていた薪を暖炉に投げ込んで火を付けた。
柔らかな光が部屋を覆う。改めて部屋を見渡すと、荒れているというのがよく分かった。
床は血が染み込んだように黒ずんでいて、家具はほとんど床に倒れている。
隅には白い石のようなものが見えた。その脇には破損したひとの頭骨が転がっていた。
今更そんなことは気にならない。暖炉に向かって歩く。
696:
魔法使いは暖炉の前に腰を下ろした。ユーシャも隣に座る。
しばらくはぱちぱちと音をたてる薪と炎を見つめた。頭がぼうっとしてくる。
疲れが噴き出したようで、身体が重みを増した。
それは魔法使いも同じようで、彼女は肩に頭を載せてきた。
「あったかい」と魔法使いは炎を見つめたまま言う。
ユーシャは黙って魔法使いに寄りかかった。
何かを言おうと思っても、うまく言葉で伝えることができない。
頭がまわっていない、と思う。疲れと安心感で、脳は眠りにつこうとしている。
「眠いの?」と魔法使いは訊ねる。
ユーシャは黙ってうなずく。そのまま魔法使いに覆いかぶさるようにして微睡んだ。
697:

翌日は、昨晩の吹雪が嘘だったみたいに止んでいた。
ただ、空には依然として黒々とした雲が漂っている。
ドアを開き外に出て、深い雪を踏む。
ちいさく息を吸い込んで吐き出す。そして辺りを見渡す。
木造の家屋は円を描くように並んでいて、
円の中心にはひとがひとり座れるほどの大きさの岩がぽつりとある。
歩きまわって家のなかを覗きこんでみても、ひとは一人もいない。
見た目は村なのだが、中身は廃村やゴーストタウンと呼ばれるようなものだ。
その中心の石からすこし北に進んだところからは、ほぼ垂直の壁のようになっている。
どうやらこの先は山になっているらしい。ここから北には向かうことはできない。
そしてそのほぼ垂直の壁には、縦横の幅が五メートルほどの洞窟が見える。
洞窟のなかに足を踏み入れる。
気温の変化はほとんどなかったが、何か異質な空気を感じた。
思わず足を止めた。とても嫌な空気だ。
698:
「どうしたの?」魔法使いは魔術の光をともした。
「なんか、すごく嫌な空気だ」とユーシャは言った。
「胸がむかむかして、気分が悪くなるような空気」
「戻ろうか?」
「いいや」ユーシャは歩く。「ちょっとだけ探検していこう」
洞窟はまっすぐ伸びていた。
両脇には炎の灯っていないカンテラやらランタンやらが、等間隔で吊るされている。
足元には二本のレールが敷かれていて、まっすぐ奥に伸びている。
しばらく歩くと、ひっくり返ったトロッコがあった。
脇には錆びたツルハシやスコップ、バケツなどが転がっていて、
それらに混じって、また人骨が転がっていた。
ここは何かの発掘現場とか、鉱山だったのだろうか。
しかし何らかの異常が起こったことにより、ひとが死んだ?
ほんとうのことは何もわからない。
699:
「なんだか、すごいところね」と魔法使いは言う。
「そうかな」
「うん。エネルギーに満ちてるわ、この洞窟。
もしかすると、たくさんの金があるのかも」
「金?」
「そう。前にも言ったじゃないの。金は魔術の威力を増幅させたりするって」
「言ってたっけ?」
「言ってなかったっけ?」
魔法使いは回想する。言った。間違いなく。
ただ、ユーシャには言っていなかったような気がしてきた。
もしかすると、大剣使いに言ったんだったか。自信が失くなってくる。
「もしかすると、言ってなかったかも」と魔法使いは言った。
700:
途中に細い脇道がいくつもあったが、まっすぐ歩いた。
十数分歩いたところで、行き止まりに突き当たる。
そこには切れ目があった。岩肌にではなく、空間を縦に裂くような切れ目が入っている。
切れ目は地面から一メートルほどの高さにあり、切れ目の大きさも一メートルほどだ。
それを中心に、周囲のさらに一メートルほどの空間が歪んで見える。
まるで見えない炎がそこにあるかのようだった。
魔法使いは訝しげにそれを凝視するが、
ユーシャにはそれが何なのか、すぐにぴんと来た。
鼓動が早くなり、皮膚が焼けるような感覚に襲われる。
吸い込んだ空気は、とても邪悪なもののように思える。
ユーシャは言う。「“門”だ」
701:
「“門”?」魔法使いはユーシャの顔を見てから、もう一度それを見る。
「これが? どうして分かるの?」
「分からないけど、分かるんだ」
「なにそれ。直感ってこと?」
「勇者の直感だ」
「なにそれ」魔法使いは呆れた。
「間違いない」とユーシャは真剣な眼差しで“門”を見据える。
「あの向こうに魔王がいて、俺はそこに行かなきゃだめなんだ」
魔法使いユーシャの目や雰囲気に思わず気圧される。
今までに見たことがない面だった。
それは魔法使いを不安にさせ、すこし恐怖させる。
「……ほんとうにあれが“門”なのね?」
ユーシャはうなずく。
「どうするの?」と魔法使いはそわそわと訊く。
「一度戻ろう」ユーシャは踵を返す。「準備がいるんだ」
「準備って、どんな?」
702:
「心の準備とか」とユーシャは言う。「まあ、他はあとで言うよ」
心のなかで、心に決めたことを確認する。
ほんとうに実行するのか? ほんとうに耐え切れるのか?
ほんとうに魔王を倒すことができるのか?
できる、と強く思う。もう決めたことだ。そのことに揺るぎはない。
身体のなかの湖には氷が張っている。
それは硬い決意のようなものだ。さざなみや波紋の揺らぎはない。
全てが終われば、元に戻るんだ。その時はもう一度、ゼロから始めるんだ。
ユーシャは自分に言い聞かせる。
だからそれまで、すこし離ればなれになるだけだ。ただ、それだけのことだ。
703:

暖炉の家に戻ってきた。
魔法使いは暖炉に火をともし、その前に座り込む。ユーシャも隣に座る。
しばらくはどちらも黙りこんでいた。
沈黙を埋めるようにぱちぱちと薪は弾け、空気を温める。
やがてユーシャは魔法使いと向かい合い、口を開く。「聞いてほしいことがある」
「嫌よ」と魔法使いはユーシャの目を見て言った。「そんなのぜったいに認めない」
「まだ何も言ってないじゃないか」
「言わなくても分かるのよ。どうせ自分ひとりで“門”をくぐろうとか思ってるんでしょ?」
ユーシャは何度かまばたきをして言う。「ばれてた?」
「あんたのことは何でも分かるわよ」
「すごい」
704:
「すごい、じゃないわよ。どうしてひとりで行こうとするの? 前に言ったはずよ。
“わたしを頼れ”って。“あんたが隣にいないと嫌”って」
「俺もお前が隣にいないと嫌だけど、でもさ、それ以上に、
お前に危ない目に遭ってほしくないんだ」
「今更何を言ってるのよ。もう散々危ない目には遭ったわよ」
「でも今回だけは今までの比じゃない。向こうには何があるか分からない。
何も分からないんだ。もしかすると、ほんとうに死んじまうかもしれない」
「だからこそわたしも一緒に行くんじゃないの。
それに、あんたが死んだらわたしも死ぬわ」
ユーシャは魔法使いの目を睨みつける。
「お願いだから、簡単に死ぬだなんて言わないでくれ」
705:
魔法使いはユーシャを睨み返す。
「“簡単に”? ほんとうにそう思ってるの? あんたには分からないの?
あんたが居なくなるってのが、わたしにとってどういう事なのかが」
「俺はいなくならない」
「結果的には帰ってくるって事でしょう? あんたはどこかに行く。
それは一時的であれ、わたしの前からあんたが消えるってこと。
時間の問題じゃない。長いとか短いとか、そういうのじゃなくて、
あんたがここに、わたしの側にいないと何の意味もないの。
そうでないと、わたしはわたしじゃなくなるの」
「でも、門の向こうで死んだらそんなことも言ってられない」
「あんたがひとりで門をくぐって、向こうで死んだらどうするのよ。
じゃあ、たとえばわたしがひとりで門をくぐるって言ったら、あんたはどうするの?」
「そんなことぜったいにさせない」
「それと同じよ。わたしもあんたがひとりで門をくぐるなんて、
そんなことはぜったいにさせない」
706:
「俺は死なないよ」
「当たり前よ」
「すぐに戻ってくる」
「だったらわたしもいっしょに行く」
「だめだ」
「どうして?」魔法使いは立ち上がって、声を張り上げた。
「どうしてひとりで行くだなんて言うのよ?
あんたはひとりじゃあ何も出来ないんだから、もっとわたしを頼りなさいよ……。
どうしてわたしを置いていこうとするのよ……」
707:
「たしかに俺はひとりじゃあ何もできないけど、魔王を倒すことだけはできる」
ユーシャは立ち上がって、魔法使いの目をもう一度覗き込む。
彼女の瞳には水晶のような純粋な輝きがある。その輝きは感情の波で揺れる。
「何を根拠に言ってるのよ」
「勇者の直感」
「そんなの信じない」
「じゃあ、お前は向こうで俺が死ぬと思ってるのか?」
「そうよ。わたしがいないと、あんたは向こうで死ぬわ」
「何を根拠に言ってるんだ」
「魔法使いの直感」
ユーシャは笑った。「真面目なのかふざけてるのか、分からないよ」
魔法使いはユーシャの頬を打って、震える声で言う。
「ふざけないで……。わたしは大真面目よ」
708:
「俺は死なない」
「分かってる。さっきも聞いた」
「信じてくれ」
「信じてるわよ。だからあんたもわたしを信じなさいよ。
いっしょに行っても死なないって」
「分かってる。お前は死なない。でも怪我をするかもしれない」
「怪我くらい、今更なんだっていうのよ。傷が残っても、べつに誰も気にしないわ」
「向こうには何があるか分からないんだぞ。
傷どころか、手や足が失くなったらどうするんだ」
「そっくりそのまま返すわ。それに、わたしはべつに手足が失くなってもいい。
あんたが隣に居れば何でもいい。
あいつも言ってたじゃないの、“生きて歩いていればどうにでもなる”って」
「だから、簡単に手足が失くなってもいいだなんて言わないでくれ。
俺はお前に、そんな目に遭ってほしくないんだ」
709:
「わたしだってあんたがひとりでそんな目に遭ってほしくないの。
さっきからずっと言ってるわ。
だいたい、癒やしの魔術も使えないのにどうやって戦うつもりなの?
無傷で帰ってこられると思ってるの?」
「無傷で帰ってこられるとは思ってないよ。
もしかすると、手足が失くなることもあるかもしれない。
でも俺は生きて帰ってくる。それは絶対だ。
生きて歩いてさえいればどうにでもなるんだろ?
俺はお前が隣にいて、生きて、歩いていればいいんだ」
「だから、わたしだってそうだってさっき言ったでしょ? どうして分からないの?」
「分かってる」
「分かってない。それとも何、わたしが嫌いなの? どうしても離れたいの?」
「そんなわけないだろ。俺はお前のことが好きで、離れたくもない」
「だったら、どうしてひとりで行くだなんて言うのよ……」
魔法使いの目から大きなしずくが落ちる。
710:
「……それは、俺だってひとりは嫌だし怖いけど、
お前が嫌な目に遭うのはもっと怖いんだ」
「何よ、それ。結局、自分を守りたいだけなのね……」
ユーシャは何も言えない。魔法使いに言われて気がついた。
結局、彼女を置いていくのは
自分が傷つかないための口実でしかなかったのかもしれない。
「結局、逃げてるだけじゃないの……。
わたしを守りきれる自信がないから、置いて行きたいのね……。
あんたが弱いからわたしが傷を負って、それを見るのが嫌なんでしょ……。
あんたは重たくてつまんない責任感を背負いたくないだけなのよ……。
そうよ、あんたはひとりじゃあ何も出来ないんだから……。
わたしを守りきることもできないのよ……」
何も言うことができない。
喉に粘り気のあるものが込み上げる。胸に熱い何かが詰まる。
たしかに、彼女の言うとおりだ。自分ひとりでは誰も守れやしない。
魔法使いの傷ついた姿を見たくないとは
思っていたが、その理由など考えもしなかった。
ほんとうに彼女の言うような理由で、俺はこいつを置いていこうとしたのだろうか?
自分の深いところにあるのは、結局は
誰かへの想いではなく、自己防衛の考えなのだろうか?
違う、と何かが言った。
711:
「うそつき」魔法使いはユーシャの身体に手をまわす。
「わたしを守るって言ってくれたのに……。
どこにも行かないでほしいって言ってくれたのに……。
ずっと昔に約束したのに……
ずっといっしょにいるって、あの丘の木にふたりで書いたのに……」
「ごめん」心に張った氷にはさざなみや波紋ほどの揺らぎもない。
決心は揺るがない。「もう決めたんだ」
「うそつき……」
「……それでも構わない」
「あんたなんか嫌いよ……」
「……うん」
「大嫌い……」
「……」
「あんたなんかもう、死んじゃえばいいのよ……」
「……お前が俺のことを嫌いでも、俺はずっと」
「そんなの聞きたくない……」
712:
ユーシャは魔法使いを抱き寄せる。「ぜったいに戻ってくる。すぐに戻ってくる」
「嘘。だってあんたはうそつきなんだもの……。もう信じない……」
「ちょっと離れたところに行くだけだよ。戻ってきたら、ずっと一緒だって」
「嫌よ……今からずっと一緒に居たい……」
「ちょっとだけ我慢してくれ」
「嫌……やっとこうしていられるようになったのに……どうして……」
「帰ってきたらさ、もう一回こうやってほしい。“ぎゅっ”てやつ」
「何度だってするから、ひとりで行くだなんて言わないで……」
「帰ってきたら、お前のお願いをひとつ聞くよ」
「そんなのいらないから、ひとりで行かないで……」
713:
「……明日の朝、ひとりで“門”をくぐる。お前はここで待っててほしい。
べつにここじゃなくても、故郷の村でも、どこだっていい。
俺はぜったいにお前のとこに戻ってくる」
「そんなことできっこないわ……」
「できる。ぜったいにできる」
「何を根拠に言ってるのよ……」
「愛してるから」
「そんなの理由にならないわよ……」
「でも俺の隣にはお前がいて、お前の隣には俺がいるようになってるんだ。
そうしないことには何も始まらないだろ。だから俺は戻ってくる」
「むちゃくちゃよ……。もういい」
714:
魔法使いはユーシャを押し倒した。床の木は軋んだ音を鳴らす。
背中に鈍い衝撃が走った。が、それは大したことではなかった。
魔法使いはそのままユーシャの口を塞ぐ。口内に舌が入り込み、這いまわる。
魔法使いの頬から、冷たいしずくが落ちてくる。それは頬を濡らす。
しばらくすると魔法使いは唇から離れ、ユーシャに馬乗りになる。
そして大声で泣き叫んだ。それは芯を削り、抉ってくるような絶叫だった。
屋根を伝って生まれた大きなしずくのように、しょっぱい雫が唇の辺りに落ちてくる。
暖炉からの光が長い髪に遮られ、顔に影を作り出しているおかげで、
魔法使いの表情ははっきりとは見えない。
「今だけなんだ。これが終わったら俺たちはずっと一緒なんだ」と
ユーシャは言ったつもりだったが、声は出なかった。
喉に詰まった何かは声を消し、目頭を熱くさせ、頬を濡らす。
715:
魔法使いはユーシャの胸に手を押し付けて言う。
「なんで、あんたが泣いてるのよ……」
「分からない」滲む視界に映る魔法使いを見る。
どんな表情をしているのかは分からない。
何も分からなくなってくる。「でも、すごく悲しい……」
「わたしだって悲しい……」魔法使いはもう一度ユーシャの口を塞ぐ。
舌が入り込んでくる。熱い舌は口内を力強く這いまわった。
またしばらくして魔法使いはキスを止めて、着ていた服を脱ぎ捨てた。
ユーシャも服を脱いで、魔法使いの身体を抱き寄せた。
「好きにして」と魔法使いは耳元で言った。「もう殺してくれたっていい……
勝手にすればいいわ……あんたなんかもう、どうにでもなっちゃえばいいのよ……」
ユーシャは黙って魔法使いの口を塞いだ。
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