【SS】超次元偶像二宮飛鳥のセカイback

【SS】超次元偶像二宮飛鳥のセカイ


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≪As to the potential of the ANIMA≫
2: 以下、
≪Observation by 蜈?ココ蠖「≫
海。
広大な海。
情報に満ちた海。
情報。無数のセカイ線。
無数のセカイ線がひしめく海を私は彷徨っている。
遥か“昔”からずっとこうしている。
昔過ぎて、私という存在がいつ、どのように発生したのか思い出すことはできない。
気付いたときにはもう、セカイ線の合間を縫うように漂い続けていた。
一つのセカイ線を覗いて、次のセカイ線を覗いて、また次のセカイ線を覗いて、その次、更に次、次、次、次………。
“何か”を探し出すことが私の存在理由。
なのに、そもそも何を探すべきなのかさえわからない。
悠久の彷徨を経て、私という存在は緩やかに消滅に向かっている。
魂に刻み付けられた、諦めを戒める思念だけが私を生き永らえさせている。
理由も意味も分からない彷徨。このまま消え失せてしまって何の問題が有るのか。
わからない。
私は一体何を探しているのか。
わからない。
わからないまま彷徨い続ける。
ひたすら漂い続ける。
ただ、見つければ“それ”とわかる確信だけはある。
一体幾つのセカイを覗いてきただろう。数えようとするのすら莫迦莫迦しい数だ。
億劫だ。何もかも億劫。
私の魂は限界だ。
今回の“限界”は本当の限界だ。
もう終わりにしてしまおう。
そう決心した。
今度こそ本当に……。
だが。そのときだった。
近傍のセカイ線から、ある特異な波動を感知した。
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3: 以下、
≪Review by Asuka≫
たとえば“運命”と“宿命”というワード。
人知を超えた巡り合わせとか前世の業が関係しているとかの違いはあるけれど、極めて端的に身も蓋も無くそして雑にいうと、両方とも“なるべくしてなる(なった)”という事象を表すワードだ。
この二つを換言して“神の筋書き”と言うこともある。“神のシナリオ”や“神の台本”などとする場合もあるかもしれない。
ここまでは、まぁ、いい。いずれにしても、背景に壮大な物語を感じさせてくれるから。
しかしこれを単に“筋書き”や“シナリオ”や“台本”と呼んでしまうと話は別だ。
意味合いとしてはそう変わらないのは事実である一方、確実に神秘性とでもいうべきものが失われ、“お仕着せ感”が出てしまう。
役者個人の意思は関係なく、決められたタイミングで決められた言葉を吐く見世物。それが演劇というエンターテイメントだが、同じことを劇場の外でやらされるとなるとたまったものじゃない。それはもう人の生とは言えない。
人は言う。人の世はとにかく生きにくいものだと。人を縛る見えざる枷があるのだ。“世間”や“身分”や“規則”などはその最たるものだろう。
そしてまた人は言う。“世間体なんて気にするな”、“身分で差別をするな”、“規則は破るためにある”なんて。それは正論でありながら、同時に弱者の恨み言だったり、強者が述べる綺麗事であったりの側面もある。
共感だけを求めたような言葉を弄しても結局何も変わらない。世は今日も事も無く、相も変わらず生きにくい。
どうしようもない窮屈さ。
全く自慢できることではないけれど、ボクはこの窮屈さを人一倍感じている側の人間であると思う。
いつから感じ始めていたのかはもう覚えていない。ボクがボクであるという、当たり前を意識した頃には既にそうだった。
しかし。少なくとも。窮屈さとは無縁だった時期が、ボクにも在ったことは確かだ。
このテーマに想いを巡らせるとき、いつも思い出す記憶がある。
十年くらい前、まだボクが小学校にも上がっていなかったある日のことだ。
父親が物置から集めたガラクタたちをリビングに持ち込んで、ゴソゴソと何かをしていた。父の背中にもたれながら見ていたボクも手伝うことになった。
父に頼まれた仕事は、円筒型の菓子箱に細くてキラキラした糸のようなものを巻き付けていくことだった。重なったりしないように丁寧に巻くように言われたが、これがなかなか難しい。
ボクが苦戦している間、父親は古くなったまな板に鉛筆の芯やらガラクタから取った部品やらを、画鋲とガムテープで固定していった。
どうにか言われたところまで糸を巻き終えると、それもまな板に固定された。それから父は残ったキラキラの糸を、底の抜けた風呂桶の外周に十回ほど巻き付け「これでいいはずだ」とニヤリと笑った。
父はボクに片耳分しかない黄ばんだイヤホンを渡してきた。ボクがそれを耳にはめるのを見ると、父はまな板の上の部品の位置を少しずつ変えていく。
父が何をしているのか、ボクには全く理解らなかった。何なのか聞こうとすると「しーー」と止められる。
父は黙々と部品を弄りながら、ボクに「どうだ?」と聞いてくる。どうにかなるわけがない。父が弄っているのはただのゴミの集まりなんだから。
ちっとも面白くない、もういいや、もうすぐアニメが始まるしやめよう――そう思った矢先のことだった。耳に当てていた部品から微かな音が聞こえた。ジジジ、という雑音だ。それを伝えると、父は目の色を変えて、これまでより慎重に部品を弄り始めた。すると雑音は段々とまとまっていく。
それは意味のない雑音ではなかった。人の声だった。ボクでも父でも母でもない、誰かの声だ。それが何故か、こんなガラクタを通して聞こえてくる。
とても、とても、不思議だった。
その日、ボクと父は眠るまでずっと、代わる代わるイヤホンを耳に当てながら過ごした。
このとき父と作っていたのが“塹壕ラジオ”と呼ばれるものだと知ったのは、何年も後のこと。父はおそらくテレビか何かでこのラジオのことを知り、ただの好奇心で作ってみたのだろう。
菓子箱に巻いていたのは扇風機のモーターから解いたエナメル線で、つまりボクはコイルを作っていたのだ。それはラジオでは同調回路の役割を果たす。錆びたカミソリ歯と鉛筆の芯は検波回路、エナメル線が巻かれた風呂桶はアンテナ、そしてセラミックイヤホンによって音声が出力される。
この手の原始的なラジオで最も興味深いことは電源を必要としないことだろう。捕らえた電波のエネルギー自体が電源になるからだ。それ故に使えるイヤホンは限られるし、聞こえたとしても微かな音量になってしまうのだが、だとしてもやはり、原理を知った今になっても不思議な魅力がある。
当時のボクは当然のごとく、この不思議な装置の虜になった。
テレビを見るにはコンセントに繋ぎ、リモコンを使うには電池を入れる必要があることは既に識っていたから、無電源で作動するそれは魔法の装置だと思っていた。
今ボクはセカイの秘密に触れているのだと思い込んでいた。
翌日からはガラクタラジオを抱えて外へ行った。
左手で風呂桶アンテナを天に掲げながら、右手にまな板ラジオを抱いて、我が物顔で町内を練り歩く。そして何か聞こえそうになるとその場にうずくまって、コイルを弄り始めるのだ。そんな日々を、おそらく一か月ほど続けたんじゃなかろうか。たしかまだ暑い時期だったのに、子供のボクには些末なことだった。
目を閉じて、木の葉のそよぎよりも小さな音に耳を澄ませる。それは男性の声だったり、女性の声だったり、別の国の言葉だったり、歌だったり。
その頃のボクはラジオの原理は元より、ラジオ番組なんてものがあることも知らなかった。この魔法の装置を介してセカイの何処かに繋がって、そこにいる誰かの声を聞いているのだと思っていた。
だからきっと、ボクの声も何処かの誰かが聞いてくれているのだと、あの頃のボクは信じて疑わなかった。
――ねぇ、ボクはここにいるよ。きこえたらここにきて。いっしょにあそぼうよ。
虚空に向かってそんな風に囁いたことも一度や二度ではなかった。
4: 以下、
≪Observation by Asuka≫
………whe………に………er………r…………………だ…………0……ゅ………………w……g…………た……………ス…………
音? 音楽? いや、声か? 誰だ? 何だ? 何を言っている?
聞き取りづらい。もどかしいな。
白い。白くなってきた。あぁ、そうか――。
「……ふぁ」
覚醒。起床ともいう。
うざったい音の正体はラジオのノイズだったらしい。昨夜電源をオフにしてから床に就いたはずなのに、何故か点いている。
枕元の携帯を見ると起床予定時刻の三十分も前だ。
ベッドから二歩離れたデスクの上の古ぼけたラジオは、いまだ無意味な空電を吐き出し続けている。明らかに故障だ。
数日前から電波の受信状態が極めて悪くなっていたし、安眠を妨害されたとあっては、これはいよいよ買い替える必要がある。
中古だったとはいえ、購入から約一か月の短い寿命だった。
おそらく購入したその日に手荒に扱ってしまったことが原因だろう。自業自得といえばそうなのだが、原因の30%ぐらいはボク以外にある。
そうだ。今日こそこのことについて小言を言ってやろう。そもそも何故彼は――。
「うぅ……」
――いやそんなことより、眠い。あと三十分ほど惰眠を貪りたいのだが……。
ジジ……ブツ……ブツ……ジジッ……ブブブブ……
耳障りだ。とても。
仕方なく、ベッドから這い出してデスクの前に立つ。忌々しいラジオのスイッチを切ろうとして、やはり既にオフになっていることを確認。コンセントからプラグを抜いてやると雑音は消え、ようやく部屋に早朝らしい静寂が訪れた。
今更になって部屋がやけに明るいことに気が付く。照明はちゃんと消えている。
原因は昨日買い替えたカーテンだった。朝日の大半を透過させてしまっている。どうやら安物を買ってしまったらしい。カーテンを買うことなんて初めてだったから相場が分からなかったのだ。これならこの部屋に最初から備え付けてあったものの方がよっぽど遮光性は高かった。
「……まぁ、これも悪くないけどね」
カーテン越しの朝日が照らす、ベッドとデスクとラジオ。そして床に直置きされたテレビしかない殺風景な部屋。これはこれで趣がある。何より、元あったカーテンは柄がファンシー過ぎた。物としてはあちらの方が上らしいが、アレをまた使う気にはなれない。
「んっ、ふぁぁ……」
大きな欠伸と共に眠気は去り、気怠さもなくなっていた。
カーテンを開き、朝日を一身に受ける。この清澄な白さは今日一日が素晴らしい天気になることを保証しているように思える。
ここまできて尚、再びベッドに飛び込むほどにボクは罪深くない。
丁度いい。今日はちゃんとコーヒーを淹れよう。そうすれば早起きしてしまったことにも三文程度の意味は生まれるだろうから。
さあ往こうか、と心の中で呟いて玄関のドアを開く。階段を使って降り、エントランスを抜けて外に出る。見上げれば抜けるような青空が広がっている。
そういえば今日もまたマンションの住人には誰とも会わなかった。
このマンションは一般的なそれとほぼ同じ構造だが、名目上は会社の社員寮になっている。だからボクの同僚にあたる人たちが多く住んでいるはずなのだけれど、やはり生活リズムがズレているようだ。ボク以外はみな成人しているからかな。業界の大人には夜更かしがつきものということか。
だがしかし世間的にはゴールデンウィークの初日。この人たちはそれでいいのだろうか?
いや、ボクも他人のことはとやかく言えないか。
『おはよう これからレッスンに向かうよ』
路線バスに乗り込み、席を確保してから、携帯でメッセージを送信する。
『おはよう、飛鳥。GWなのにレッスンさせて申し訳ない。』
すぐに返信が来た。マンションの隣人たちとは違い、こっちの大人は既に起きていたらしい。
『どうせキミも働くのだろう? お互い様さ』
『わかってくれて嬉しいぜ。昼過ぎに様子見に行くよ。』
『承知した』
10分程度でバスは目当ての停留所に到着した。
下車したその場所から、ボクが所属するプロダクションの社屋が見える。
ここから社屋までは数分の距離があるのに、相変わらず距離を感じさせないほどに巨大だ。まるでバッキンガム宮殿とサグラダ・ファミリアの合いの子。いくらアイドル業界、いや芸能界全体でも断トツの規模の会社とはいえ、その威容は豪奢に過ぎるのではと見るたびに感じてしまう。
そのお城を通り過ぎた隣りの敷地にあるのが、今のボクの主戦場であるレッスンスタジオ。
こちらは質実剛健な造りのビルディングで派手さも遊びも一切無いが、かなり大きなビルだ。ルーム数と在籍トレーナー数はともに百を超え、しかも様々な最新鋭の機材が揃っていて、ありとあらゆるレッスンに対応可能なのだという。
IDカードをゲートにかざしてビルに入り、デジタルサイネージでボクが行くべきレッスンルームを確認する。やはり昨日と同じルーム番号だった。
5: 以下、
「おはようございます、二宮さん! 今日も一日頑張りましょうね!」
比較的小さなレッスンルームに入ると、二十代前半のトレーナーである青木明さんが音響機材のセッティングをしているところだった。ボクも挨拶を返した。
少し早く着いてしまったようなので準備体操をしながら待つことにする。
今日も今日とて、ボクは二つの曲を練習する。しっとりとした寂しげな雰囲気の曲と、重厚でカッコいい曲だ。
両方とも三人で歌うことを想定したパート分けがなされていた。驚いたことに、どちらもまだ一般には公開されていない曲なのだという。当然ボクの為に作られた曲ではなく、このプロダクションに所属する先輩アイドルユニットの為に作られた曲だと聞いている。それが誰なのかは秘密のようで、教えてもらってない。
そんな曲をデビュー前のボクが練習しているのは、将来的に新曲を与えられたときのために、曲を自分のモノにしていく過程を経験しておくという訓練らしい。『知っている曲だとどうしても原曲のイメージに引っ張られてしまうから、未公開の曲を使わせてもらっているんだ』と、以前そんな風に説明を受けた。
「他の人たちはどうしていることやら……」
ステップや発声の仕方などの基礎的なレッスンに取り組んでいた始めの一週間は、他の新米アイドルたちと一緒だったけれど、基礎レッスンと並行して曲のレッスンもするようになってからの三週間はいつもボク一人だ。
マンツーマンでトレーナーに見てもらえるというのは贅沢なことに思えるが、どうなのだろう? 他の子たちも同じなのかな? 業界の事情に疎いボクにはとんと分からない。
この二曲の本来の持ち主である先輩方も、きっと別のレッスンルームでボクと同じように練習しているのだろう。人気アイドルならレッスンに割ける時間も少ないだろうから、案外この二曲を一番多く歌っているのはボクだったりするのかもしれないね。
「準備できました! 午前中はこっちの曲をやりましょう」
明さんが機材をリモコンで操作する。流れ始めたのは物寂しさのあるイントロだ。ボクはそれに合わせてポーズを構える。
今日のレッスンが始まった。
午後のレッスンが始まって三十分ほど経った頃、アイツがやってきた。
「お疲れ様でーす! おー、やってるねぇ?!」
元気に満ち溢れた挨拶で現れたのは、ボクの担当プロデューサーであるPだ。その元気さはどこかわざとらしいけど、妙に笑いを誘うようなところがあって不思議と不快感はない。
「あっ、Pさん! お疲れ様です!」
「明ちゃん、ありがとね。ゴールデンウィークなのに出てくれて」
「いえいえ、Pさんの頼みなら望むところですよ! それにちゃんと休出手当も出ますから」
「うわぁ、羨まし?」
「高給取りが何言ってるんですか!」
「そう思うじゃん? でも時給換算するとね……いや、やめよっか悲しくなるだけだし」
「ふふふっ」
いつもながら楽しそうな掛け合いだねぇ。
「飛鳥の仕上がりはどんな感じ?」
「それはですね……」
二人が仲良さげにボクのレッスンの進捗状況を話し合う。彼らを横目にボクは音楽に合わせてダンスを続ける。
三週間前、いきなり二曲を演らされたたときには目の前が暗くなるほどに惨憺たるものだったが、今では結構できるようになったと自負して――
「……そんな感じで現時点の完成度は両方とも、まだまだ、ですね」
――いたのだけれど気のせいだったのか。くっ……!
「どちらも難しい楽曲ですし、基礎がしっかりしているとは言えませんからねぇ。でも二宮さん、筋は良いと思いますよ」
「ふむふむ。ちなみに、片方の曲に絞ってレッスンすればどれくらいで完璧にできそう?」
「そうですねぇ……片方だけであれば、あと十日ほどあれば大丈夫だと思います」
「オーケー、オーケー。まずは一曲を完璧にしようかな。どちらを先にするかは今日の夕方連絡するね」
「わかりました!」
「もう少し見学してていいかな?」
「もちろんです! 少しと言わず、ずっとでもいいんですよ? ……なんちゃって!」
「たはーー! 明ちゃんきゃわわ!」
「じょ、冗談ですからね……っ!」
……下手なりに必死のダンスを続けるボクを前にして、君たちは一体何をしているのかな?
いや別にいいんだけど。うん、別にどうでもいいんだよ?
だが青木明女史よ、良い趣味とは思えないなぁ。Pよりもハンサムな男性なんて星の数ほどいるだろうに。まぁ確かに、結構有能な男らしいけれど、それを傷つけて余りあるくらいにつまらない冗談を言うし、なんかお調子者だし……。
本当に、別に、すごく、どうでもいいんだけどね。
「おっ、いたいた。P、ちょっといいか?」
そこでまたレッスンルームに人が来た。ボクの知らない人だけど、どうやらPの先輩のプロデューサーらしい。まったく休日だというのに、誰も彼もご苦労なことだよ。
ボクもレッスンに精を出してやろうと、ダンスを続ける。
6: 以下、
「――ってことでよろしく頼む」
「わかりやした! パイセン! わざわざ来てもらってありがとうございました!」
「構わない。オレもちょっと見てみたかったから」
「あぁ、なるほど?。それについても改めて感謝っす」
「初めに提案された時にはよく分からなかったが、ある意味実戦的なレッスンだよな。効果についてはまた共有してくれよ」
「分かり次第そうさせてもらいやす!」
「それにしても、う??ん……。難しい曲だよな。うちのヤツも手こずってるよ」
「それなら、こっちの大苦戦も当然ですね」
途中からボクの話をしていた? 彼もこの曲を知って――あぁ!? しまった気をとられてしまってステップが!
「ほらほら! 動きが雑になってますよ!」
「くっ!」
ダメだな。今のボクに他のことを考える余裕なんて無い。集中だ。集中しよう。
次の休憩をとる頃にはPも彼の先輩もいなくなっていた。
レッスンはボーカルとダンスとビジュアルを行ったり来たりしながら、夕方近くまで続いた。
レッスン後に携帯を見ると『今日の報告は要らないから直帰でおk!』とPからメッセージが届いていた。
だけどボクは彼の居室に行くことにした。
別に何か話すべきことがあるワケじゃない。ただ、Pは怪しげな男ではあるけれど、彼の淹れるコーヒーは嫌いではないというだけのこと。
レッスンスタジオを出て隣にある、お城の敷地内へと足を踏み入れる。
衛兵もとい警備員も品が良くて、爽やかな笑顔で会釈をしてくれる。
建物までの数十メートルの道のりは、職人の手による植え込みやら意匠の凝らされた噴水やらで全く退屈しない。都心の一等地だというのに、土地の使い方が実に贅沢だ。
敷地内は、今日がゴールデンウィーク初日とは思えない程に穏やかだった。
完璧に整えられたこの庭園において、会社に所属する美少女および美女たちが思い思いに時間を過ごしている様は、なるほど、地上の楽園とメディアが評するのも頷ける。仕事終わりの人や、ボクと同じくレッスン帰りの人の他、ただ遊びに来ているのも何人かいるのだろう。
石階段を上り、精緻な装飾の巨大な扉を潜った先のエントランスも外観から期待する雰囲気そのままに荘厳だ。普段であればここで大勢の社外の人間が時間を潰しているのだが、今日が休日と言うこともあってか数は少ない。
エントランスを通り過ぎ、エレベーターホールへ向かう。操作パネルにボクのIDカードをかざすとカゴが降りてくる。ここから先は基本的に社内の人間しか進むことはできない。そして、社内の人間であっても、その地位によって降りられる階に制限がある。
百階以上もある中でボクに許可されているのは、Pの居室がある階と社員食堂階とテラスのある中層階だけ。つまりアイドルランク的には下っ端というわけだ。
エレベーターを降りれば最早そこに宮殿の面影はなく、近代的で合理的なオフィスの風景が広がっている。煌びやかなセカイの舞台裏だ。この階には比較的ランクの低いプロデューサーの個室がズラリと並んでいる。プロデューサーには全員個室が与えられているが、その実績によって床面積の大きさは変わっていくらしい。
Pの部屋は最低ランクのものだった。というのも彼は約一か月前、ボクをスカウトする直前にプロデューサーに昇格したばかりで、当然まだプロデューサーとしての実績が無いから。他の社員の彼への接し方から、どうやら一目置かれている存在ではあるようだが、実績がないことにはどうしようもない。皆ここからスタートするのだという。
この会社において入社三年目でプロデューサー昇格というのはかなりの出世スピードらしいのだけど、その辺りの感覚はイチ中 学生二年生のボクにはピンとこない。
「P、入るよ?」
ノックをしてPの個室に入室する。
「おぉ、来たか」
「もしかしてお邪魔だったかな?」
「全然? ちょうど淹れたとこだし、よければ飲んでってよ」
「えっ? それは……奇遇だね……?」
ボクの訪問はいわば、Pのメールを無視した突撃訪問だったのだけれど、入室した際、Pは二つのティーカップにコーヒーを注いでいるところだった。部屋にはPしかいなかったのに。ボクが来なければ二杯飲むつもりだったのか?
こういうタイミングの良さは、彼といると不思議と多いから特に気にはしない。
それからボクとPは談笑しつつコーヒーとおやつを味わった。
その間、Pは終始手の中でサイコロのようなモノを弄っていた。それはこれまでに何度か見た仕草。ひょっとすると彼なりの健康法とかだろうか? そういうのよくあるし。
「じゃあそろそろ帰路に就くよ。ご馳走になったね」
「うぃっす。お疲れちゃーん。気を付けて帰ってな」
Pの居室からは30分ほどで退出した。
一呼吸おいてエレベーターホールへ向かおうとしたそのとき、通路を挟んでちょうど反対側の個室から声が漏れてきた。
『ハーッハッハッハーーーーッ!』
壁越しでぼやけているが女の子の声。演劇でやるような見事な哄笑だった。
うーん、流石アイドルプロダクションだ。いろんな人間がいるなぁ……。
帰宅してしばらくすると、Pからメッセージが届いた。
『二週間後の土曜日に先輩方のライブ見学しに行くから、予定を空けておいてちょうだい! オナシャス!』
どうせその日もレッスンだろうと思っていたから、何の問題も無かった。
7: 以下、
≪Observation by P≫
飛鳥が帰宅して一息ついたところを狙ってメッセージを送信する。
すぐに『OKだ。楽しみにしておくよ』と返ってきた。騙しているようで、ほんの少し心が痛む。
全ての予定は計画通りに進んでいる。何のイレギュラーも起こっていない。起こってくれていいのに全く起こらない。というか、イレギュラーになってしまう前に俺が潰してしまっているんだけどな。
やはりしばらくは台本通りの進行らしい。
しかし、約二か月後に何があるというのか……? そこから急に台本が読めなくなってしまっている。それが本当であれば諸手を上げてカーニバルするところだが、何か違う気がする。窮屈さは依然としてある。
「やっぱコレが関係してんのか……?」
胸ポケットから取り出した“アレ”を見てみる。
面毎に色が異なる小さな立方体。目の振られていないサイコロみたいなもの。
これを手にして間もなく、台本が変わっていることに気が付いた。明らかに無関係じゃない。
これが俺の思う通りの物ならすぐにでも使ってみたい気持ちはある。だが、今は使う理由がない。台本通りはムカつくが、現状これが最善手であることは間違いないんだから。それは結果的には岡崎ちゃんにとっても同じ。
使う理由あるとすれば俺の好奇心だけ。自己満足に飛鳥を付き合わせるのは流石に忍びない。
「それと……アイツか………」
向かいの部屋のちょっとよくわからないプロデューサー。いやマジでなんなんだろうアイツ……?
面白いっちゃ面白い。でも俺の求める面白さとはまた別なんだよなぁ……。
「まぁとりあえず」
台本が途切れるところまではこのままでいこう。
それから俺は青木の明ちゃんに、明日以降のレッスンについて送信した。
8: 以下、
≪Observation by 蜈?ココ蠖「≫
セカイ線の内側――3+1次元の空間――に受肉を果たしてからおよそ一か月半が経った。
これは以前の私にとっては瞬き以下の短い時間のはずだが、今の私には決して短いとは感じられなくなっている。認識能力と価値基準が肉体の影響を受けているらしい。
そういえば“瞬き”などという尺度で時間を捉えようとしたこと自体が、肉体の影響を受けている証左だ。
受肉前には肉体と呼ぶべきモノは無く、したがって瞬きをするという概念さえなかったのだから。
認識能力が肉体の制約を受けている所為で、受肉前の一部の情報については思い浮かべることさえ非常に困難になっている。
上の次元に居た時には総てが感覚的、同時的、有機的に認識できていたのに、今記憶として保持できているのは“そうであった”という文字情報だけ。大部分の情報は文字化けのような状態になっていて、言語化不能になっている。
受肉後にいくつかの想定外はあったが大勢に影響はない。
今はまだ、あの子に力の使い方を教えることに専念しよう。
9: 以下、
≪Observation by Asuka≫
ボクが所属するプロダクションは巨大なだけあって、大小さまざまなライブを数多く開催している。
観客キャパが百人程度の小規模のものは毎週全国百か所以上で、五百?千人程度の中規模のものも毎週数十か所で行っている。五千人程度の大規模のものは週に二、三か所。これらはすべて多くのユニットが出演する合同ライブである。その他にも、特定のユニットによる単独ライブはこれらとは別に規模も形態も様々な形で随時開催されている。
そして、一際大きな規模のライブが年に四回――五月、八月、十一月、二月――に開催される。こちらのライブも合同ライブだ。
ゴールデンウィークが終わった次の土曜日、つまり今日見学するのは、その五月公演だった。
観客は約三万。
このライブに出演できるのは、プロダクション内のヒエラルキーの中でも最上位に位置する選ばれしアイドルたちだけ。出演できれば、トップアイドルを自称しても決して過言ではないらしい。
まぁ、本当の意味でのトップアイドル――まさに頂の一点に立つアイドルユニット――の為のライブは別にあるのだが、アイドル歴一か月のボクにとってそれは、雲の上どころか宇宙空間の話だ。今のところ言及する気にはならない
「では、練習の成果を見せてもらおうか、飛鳥よ」
ボクの行きつけとなってしまっているレッスンルームでPが言う。準備体操と少々の基礎レッスンを終えたところだった。
五月公演の開演は夕方なので、午前中はいつものようにレッスンをしていた。ただいつもと違うのは、今日がレッスンの一つの区切りになるということだ。
一か月近く前から練習してきた二曲。二週間前からは、そのうちの一曲を集中的に練習していたのだが、二日前ようやくトレーナーさんからも合格判定を貰うことができた。それはつまり、この曲に限って言えばボクにもプロ並みのパフォーマンスができるということを意味している。
そこで最後にPの前で実演してみせて晴れて課題終了というわけだ。
「慶ちゃんがAパート、飛鳥がBパート、明ちゃんがCパート、でやってもらえるかな?」
「はい、わかりました!」
「う、上手くできるか分からないですけど頑張りますっ!」
「ボクが全部演ってもいいのだけれどね……了解だ」
ボクが全パート歌うわけではなくパート分けするようだ。そのために、わざわざルーキーのトレーナーである青木慶さんにも来てもらったらしい。
「あ、そうだ。一つ注意点というか、お願いなんだけど」
そんなPの切り出しに、ボクたちの「はい?」がハモる。
「本当にステージでやるつもりでパフォーマンスして欲しいんだ」
「と、いいますと?」
ボクと慶さんの代わりに、明さんが聞いてくれた。
「そのままの意味。本物のステージの上にいて、目の前に三万人の観客がいると思ってやってほしい」
「それは……はぁ、わかりました……?」
「慶ちゃ?ん、ほんとに分かってる??」
「え、へ…?」
Pが薄ら笑いを浮かべながら慶さんの背後に回り込む。彼女の肩に手を乗せ、耳元で囁き始める。
「ほら……目を閉じて、想像してごらん……いい……?」
「えっ……あぁっ……」
「慶ちゃん……キミは今ステージの上。目の前にはキミを待つ三万人のファン。サイリウムがゆらゆら……揺れてるね?」
「えっ!? あっ……んっ……」
「イマジン……imagine……」
「んっ………あ……………は、はい……っ! ゆ、揺れてます…! たくさん……!」
「みんな慶ちゃんのファンだよ? ねぇ、聞こえる?」
「えっ? えっ?」
「慶ちゃん、頑張って、可愛い、最高だよ、頑張って、可愛い、可愛い……」
「えぇっ!? か、かわっ!? はわぁ???」
何なんだこれは。暗示か何かか? 明さんも神妙、というか、険しい表情で二人を見つめている。ギリリ、という歯を擦り合わせるような音は聞こえなかったことにしよう。
「ほら、見られてるよ? 慶ちゃん、見られちゃってる。キミのことが大好きなファンたちみんなに、全部、見られちゃってるね? ねぇ? どう? 感じる? 視線」
「あぁぁっ! そんなぁ??……、こ、こんなの……だめですぅ?……っ」
慶さんの膝がフルフルと震え出す。見ているだけでこちらまで緊張が伝わってきて、妙にドキドキしてしまう。
「……って、イメージしながら歌って欲しいんだけど、OKかな?」
「あぁぁ…………あ、あへ?」
「こら! いつまでも惚けてるんじゃないの!」
「あっ! ご、ごめんなさい!」
顔を真っ赤にした慶さんがボクたち三人に頭を下げる。
「『練習は本番のように、本番は練習のように』みたいなものですか?」
「うん、そうだね、そんな感じ!」
「それならそう言えば……。回りくどいんだが?」
「茶目っ気だよ、許せ。あぁ、あとね。本番と一緒だから、失敗しても止めちゃダメだし、一発勝負。二回目なんて無し」
まぁ、確かに練習にも緊張感は必要だ。百回以上歌ってきたから、少しマンネリ気味になっていたかもしれないし。
「じゃあ、緊張、興奮、冷めやらぬ内に始めようか」
そう言いながら、Pが音響機材の操作を始める。ボクたちは各自の立ち位置につく。
再生ボタンを押す直前にPがボクに振り向いて、言った。
「いいな、飛鳥。目の前には三万人だ。想像できてるか? 今の内に、出来るだけリアルに緊張しとけよ? でないと……」
「ん? P、今なんて?」
「ンミュージックゥ??スタートォッ!」
ボクに答えず、Pは音楽を流し始める。
ほぼ同時にAパートの慶さんが歌い始め、ボクの身体も半自動的に動き始める。すると、Pは懐から数本のサイリウムを取り出した。なるほど。Pが観客を演じてくれるらしい。
いいだろう、本気でやってやる――!
10: 以下、
Pのコールとサイリウム捌きは、それはそれは見事なものだった。三万とはいかないまでも、百人ぐらいには見えたかもしれない。
そして、ボクもいつになく熱の入ったパフォーマンスができた。他の二人も同様だったらしい。
歌い終えた後は本物のライブを終えたかのように、自然とボクたち三人はハイタッチをし合っていた。
そんなボクたちを見てPは「うむ」と真剣な表情で頷き、サムズアップをしてきた。
安堵と達成感に笑みを浮かべってしまうボクがいた。
その後軽くストレッチをしてから、ボクとPはライブ会場へと向かった。
道中の車内で、ボクは一仕事終えた気分になっていた。今日はもうライブ見学を楽しめばいいだけ、気楽なものだ。なんてね。
「ねぇ! 本当に出来るの!?」
だからまさか。会場でこんな展開が待っているとは、露程も思っていなかった。
トップアイドルの一人、北条加蓮がすごい剣幕でボクに詰め寄ってくる。いや、縋りついてくる。
彼女の後ろにいる少女の顔はテレビで見た覚えがあるから、彼女も結構な人気アイドルなのだろう。
彼女たちの担当プロデューサーと思しき二人の男性も期待の籠った視線を送ってくる。
「ちょ、ちょっと待ってくれ。話についていけない……!」
一体全体、何が起きているのか…。全く理解らない。
ほんの数分前まではボクはただの観客でしかなかったのに。
何故、今ボクは楽屋にいるんだ? この人たちはボクに何を期待しているんだ?
ボクはまだ一度だってステージに上がったことは無いっていうのに!
「二宮飛鳥くん……。どうか俺たちを助けて欲しい。実は――」
待て、いい。説明しなくていい。ボクを巻き込むな!
あぁ、どうしてこんなことに――!!
11: 以下、
≪Observation by Yasuha≫
恐ろしい想像が止めどなく溢れてくる。
運転席ではプロデューサーが頭を掻き毟っている。ズビズビという音から、どんな表情になっているかは見なくても分かる。
後部座席の窓から見る景色は遅々として進まない。こんなに酷い渋滞は聞いたことがない。何の変哲もない高道路で発生した未曾有の大渋滞。
通常なら一時間程度の道のりなのに、もう三時間以上足止めをされている。そしてこの渋滞が解消される見込みは未だに立っていない。
リハの予定時刻をとっくに過ぎたどころか、開演時刻まで秒読みといえる段階まできている。
なのに何故、私はこんな場所にいるのだろう?
「どうしてこんなことに……」
ただの独り言のつもりだったのに、プロデューサーの肩が大地震のように揺れた。
「ごめん! ごめんよ泰葉ちゃん!! 僕が欲張ったから! ああああああ! ごめんなさいっ!!!」
「っ! プロデューサーは悪くないよっ! 受けるって決めたのは私だもん……っ!」
とても割の良いお仕事が、数日前に急に回ってきたんだ。ただ一つの懸念材料は五月公演と同日に入っていたということ。でも時間的な余裕は十分にあった。だから受けた。あの条件なら誰だって受けると思う。でもあそこまで押しに押すとは誰も予想できなかった。そしてその後にこんな大渋滞に捕まるなんて……。
今日の公演にプロダクションの首脳陣が軒並みやって来ることは、今朝急に決まったらしい。それを知った今朝の時点では「偉い人にもアピールが出来るね」なんてプロデューサーと喜んでいたのに、今ではこれこそが最悪だ。
しかも私のユニットは今日が初お披露目。というより結成していたこと自体が完全に秘密にされていて、この公演でサプライズ発表することになっていた……それがメンバー遅刻のため出演辞退になんてことになったら……しかも首脳陣の目の前で……!
「ぅ………っ」
吐き気が込み上げてくる。
最悪のことが起きようとしている。
いくら岡崎泰葉に長い芸歴があっても関係ない。今やプロダクションは芸能界全体で絶大な権力を奮っている。公演に穴を開けるなんて失態をよりにもよって首脳陣の眼前で演じれば、即芸能界から追放されるだろう。アイドルの層は厚いのだから。
何もかも最悪。
あまりこういうことは言いたくないけど、それでも言わねば気が済まない。運が悪すぎる!! まるで悪魔が私を狙いすましたような運の悪さだ!
「鳥になりたい……」
そしたら会場まで一っ飛びなのに。流石に逃避がすぎるか。
せめて特殊部隊の訓練を受けていたら、ロープか何かで一般道まで降りれたのに。
いや、もう遅いか。
既に物理的に間に合わない時間だ。
気掛かりは加蓮さんと肇さんのこと。
私のチョンボで彼女たちにまで累が及ぶのだけはどうか回避して――
「――ふええええっ!?」
そのとき突然、プロデューサーが素っ頓狂な声を上げた。すでに会場入りしていた加蓮さんか肇さんのプロデューサーと電話していたらしい。
そして電話を切った彼が、目に涙を浮かべながら言った。
「見つかったって……泰葉ちゃんの、代役」
12: 以下、
≪Observation by Asuka≫
状況を整理しよう。したくないけど。
今この部屋にいる人物はボクとPの他に少女二人と男性二人。少女の方はアイドルである北条加蓮と藤原肇、男性の方はそれぞれ彼女たちの担当プロデューサー。
Pに電話を掛けてボクたちをここに導いて、経緯を説明しやがったのは北条加蓮のプロデュ―サーだった。彼にはどこかで会ったことがある気がしたが、思い出せない。
ここは北条加蓮と藤原肇のデュオユニットの楽屋かと思えば、そうではない。本来はトリオユニットなのだが、三人目の岡崎泰葉というアイドルがまだ会場に着いていないのだという。午前中の仕事が押しに押して、その挙句、会場への道中で酷い渋滞に捕まってしまい、出番までに到着することは不可能になったのだ。
それならば、体調不良だとかの理由をつけて残り二人で出演すればいいのではと思うのだが、今日に限って、それは出来ないらしい。役員が勢揃いしているからだ。
お偉方の目の前でファンの期待を裏切り、しかもその本当の理由がただの遅刻だと知られたら……。当事者である岡崎泰葉とそのプロデューサーには、間違いなく非常に重い罰が下されるらしい。
だから、トラブルがあったということ自体、役員連中に知られてはいけないのだ。
幸い――かどうかの判断は分かれるけれど――このユニットは今日のライブが初出、というか、今日のライブでサプライズ発表されるユニットだった。しかも、メンバーの情報を知るのは彼らの所属する部署内のごく一部のスタッフだけで、役員連中が活動前のユニットの動向を把握しているわけがない。役員連中の認識としては高々“トリオユニットの結成が新曲と同時にサプライズ発表されるらしい”というだけなのだという。
だからぶっちゃけると、必ずしも岡崎泰葉でなくてもいい。誰か別の人間を三人目に仕立て上げて、このステージをやり過ごしさえすれば、何のお咎めもなく、みんながハッピーになれる……という話だ。
「いや、いや、いや……と、とりあえず、そこまでは理解ったけど、いや、理解らない。理解らないぞ。なんで、ここで、ボクなんだ? 今日この会場には、ボクみたいに見学しに来た暇なアイドルがいくらでもいるだろう? 彼女らはきっとボクよりもずっと経験豊富だろう? ボクよりもずっと適した娘がいるんじゃないのか? さっき、出来るかって聞いたね? 出来ないよ。ボクには。ボクに出来ることなんて、何も無い」
途中から自分でも声が震えているのを感じた。でも言わずにはいられなかった。四人ではなく、ほとんどPに向かって言っていた。こんなこと、キミが一番よく分かっているだろう? 先輩のお願いだからって、ハイハイ聞いてるんじゃない。
ほら、キミも早く断ってくれよ。ここはすごく居心地が悪いんだから。
「なぁ、P……。そうだろう?」
「いや、飛鳥……」
なのに、Pは言った。
「これは、お前にしか出来ない」
意味が理解らない。
「だっ、だから何で!?」
「このユニットが歌う新曲は、お前が今日まで練習していた曲だからだ」
「はぁっ!?」
どういう偶然なんだ!? この巡り合わせは何なんだ!?
「………っ!」
いや、ボクがずっと練習していた曲が初めて歌われるライブだから、Pは今日ここに連れて来てくれたということか! 先輩ならどんな風に歌い上げるかを、実際に見て勉強するために。だけどそこにアクシデントが重なって……!
「二宮くん。二週間前、俺はキミがこの曲をレッスンしているのを見た。あれからもレッスンを重ねたのだろう? それなら……いや! この際、あの時のままのクオリティでも構わないっ! ステージを終わらせてくれれば、それだけで……!」
そうか、この人、北条加蓮のプロデューサーは、以前Pを探してレッスンルームにまで来た人だ。憔悴した表情だったから気付かなかった。
この土壇場であの日のことを思い出して、ボクに縋ってきたということか。それはそれでなかなかの機転だと思うけどさ!
「いっ、いや、でも……!」
「あの曲を歌うことができるアイドルは、今この世界に四人だけだ。北条ちゃん、藤原ちゃん、岡崎ちゃん……そして、二宮飛鳥。お前だよ」
「セカイで、四人の、アイドル……このボクが……っ!」
それはなんて心躍るパワーワード……違う、そうじゃない。
「ちょ、ちょっと、まっ――」
「ですが、先輩、いいんですね?」
反論しようと口を開いた矢先、Pと被ってしまう。
13: 以下、
「飛鳥を今日ステージに上げるということは、飛鳥を正メンバーとして発表するってことになりますよ? 岡崎ちゃんの代わりに」
「それは……わかっている。それでも、岡崎くんと岡崎Pが芸能界をクビになるよりは億倍マシだ。彼女たちの了解は既に取っている。加蓮と藤原くんだって……」
「いいに決まってる! 泰葉はこんなことで終わっていいアイドルじゃない!」
「同感です。他に選択肢はありません……!」
いやいやいや待て待て待て! 話を進めるな! なんかやる感じになってないか? ちょっと! オイ! P!
「出番まであと45分か。幸い、二宮くんと岡崎くんの体格はそう変わらないから、衣装は微調整で問題ないだろう。まずは歌とダンスの確認だ」
「北条Pさん! 大部屋、確保できました!」
いつの間にか楽屋から出ていた藤原肇のプロデューサーが戻ってきた。彼の案内で別の部屋へ移動する。そこはレッスンルームの半分くらいの大きさがある楽屋で、本来中央にあるはずの長机は折り畳まれて隅に重ねられていた。
ボクは完全に置き去りにされていた。気付けば、胸に違和感があった。心臓が激しく脈打っていたのだ。
「飛鳥、なぁ、飛鳥。驚くよなぁ、焦るよなぁ、やっぱり」
「あ、当たり前だろう! 一体何が起ころうとしているんだ…っ!」
「まぁまぁ、そういうときはな、飛鳥。ルーティンだ。知ってるか?」
そう言いながら、Pは忍者のように手を組んでみせた。それを見て頭に浮かぶのは、昔テレビで見た有名なスポーツ選手。
ルーティン……お決まりの動きをすることで精神統一する方法とかだったっけ?
「お前にもあるだろう? ルーティン」
「えっ、えっ……?」
「これまで何十、いや、百回以上繰り返してきた一連の動き……音楽が始まると自然と体も動く……」
「………なるほど、アレか……!」
「いっちょ軽くやって、気持ち落ち着けようか。なっ?」
「そ、そうだな……うん……」
「ウェーーイ! 飛鳥も準備オッケーでーーーす!」
「へっ? あっ………」
Pがボクの肩を押して、部屋の中央に移動させていく。北条加蓮と藤原肇は既に位置についていた。
午前中、慶さんがいた位置には藤原肇が、明さんがいた位置には北条加蓮が、そしてボクの位置はそのまま。
音楽が流れ始めると同時に藤原肇が歌い出す。それに釣られ、ボクの体と喉も動き始めてしまう。いや、たぶんもう只の自棄だった。
約五分間の試演を終えると、まず北条加蓮に強く抱きしめられた。彼女は「神様っているんだ…」と震える声で呟いた。
藤原肇は「奇跡です…」と目に涙を溜めていた。
藤原Pは「イケますよこれ!」と歓喜の叫びを上げ、北条Pは次なる準備のためメイクさんを呼びに行った。
ボクのパフォーマンスは今朝と比べれば随分とレベルの低いものだったのだけれど、彼らにとっては光明だったようだ。
ボクは理解した。最早逃げ場はないのだということを。
言われるままに衣装を身につけ、されるがままにメイクを施される。それが済むともう一度試演を行い、パフォーマンス後のトークパートで話すことを皆で決めた。
ボクが喋るのは自分の名前だけ、その他は全て北条加蓮と藤原肇に任せることになった。彼女達が喋っている間、ボクは終始不敵な笑みを浮かべておけばいいらしい。
それから舞台袖へ向かう。
「うっ……これは……ううぅ……!!」
袖から客席を覗き見て、その広大さに引いた。たじろいで、後退って、その背中をPに受け止められる。
「おっ、どうした? 三万人っつっても大したことないなって落胆したか?」
「逆だ! 広過ぎだろう! ウジャウジャし過ぎだろう! 何でこんなことに!? こんなことになるなら――」
「99パーセント!」
「――は?」
「史上類を見ないアイドル戦国時代の今……地下も含めれば一万人以上いるアイドルの内、99パーセントの娘たちは何年続けようが、一度もこのレベルのステージに立つことができないんだ。それを初舞台にしちまうなんて、最高に面白いよな」
「い……いや……全然笑えないんだが……」
ボクの肩がPに押されて、クルリと回れ右をさせられる。Pは口角を上げてギラついた笑みを浮かべていた。
14: 以下、
「これはなぁ、伝説の始まりなんだ」
「で、でん、せ…つ……?」
「伝説……つまり Legend だ」
「あぁ……うん、それは、知ってるけど……」
「ASUKA The Idol という壮大かつ絢爛な伝説の幕開けなんだ!」
「っ……!」
「差し詰め今日はそのFirst Stage のClimaxといったところか」
「っっ……!」
Pのワードがまた胸をムズムズとさせる。あと、英語の発音がいやらしいくらい勿体ぶっていて、洋画の予告編を彷彿とさせる。
そして何故か、心臓は焦りを脱して、熱く力強く拍動し始めていた。
「それに、三万人の前でのライブは今朝やってきただろう? あれをもう一度やればいいんだよ」
「……んふっ!?」
唐突にPの迫真のサイリウム捌きを思い出した。
「んんっ……フフ。いや、三万人は言い過ぎだ。あれは高々百人分だよ」
「くっそ、マジかよ。オレもまだまだだな」
「キレッキレだったことは認めるけどね」
「じゃあ、そっか。本番は俺が三百人いるみたいなもんだな! どうだ? これならイケそうだろ?」
「は? Pが、三びゃ――ぶほぉっ!!」
ダメだ。これは想像したらダメなヤツだ。本番前になんてことを想像させるんだコイツは。
噎せから回復する頃、ボクたちの出番はもうすぐそこに迫っていた。
北条加蓮、藤原肇、ボクの三人で輪になって手を繋ぐ。
不安の色濃い二人の視線に、今のボクはただ無責任に頷くことしかできない。それはとても悔しく感じられた。
振り返ってPを見る。安全地帯からの満面の笑みとサムズアップに心の底からイラっとくる。
P……三百人の……いやいやダメだ、アレは忘れろ!
いつも通り歌って踊って、名乗る! ボクはこれだけ考えていればいい!!
「行くよ! 肇! 飛鳥!」
「はいっ!」
「っ……ままよ!」
そして、ボクたちはステージへ駆け出していった――。
15: 以下、
「悪りぃな、飛鳥。食事にくらい連れて行ってやりたいんだが、先輩がすぐ来いってうるさくてな」
「ん…? いや…いいよ…。ボクも……すごく……疲れた、から……」
ライブ会場をPの車で出て間もなく、ボクは睡魔に襲われた。
本当に疲れた。肉体的にも精神的にも。長い一日だった。二宮飛鳥の一番長い日だな、これは。
まさかいきなりステージデビューすることになるとは思わなかったけど、滞りなく済んで本当に良かった……。
プロデューサーたちは各アイドルを自宅に送り届けた後、再び集まって、夜通しでユニットメンバー変更の辻褄合わせのための打ち合わせを行うのだという。ボクに絡むことで徹夜をしてもらうのは多少は心苦しい。でも正直いい気味だった。特にPには。
「あぁ、オネムか。寝とけ寝とけ。マジお疲れちゃんだよ。いい夢見ろよ」
「……じゃぁ……お言葉に……あまえ……て……」
携帯にはさっそく北条加蓮、藤原肇、そして、岡崎泰葉からの感謝のメッセージが届いている。でも返信は後回しにさせてもらおう。
――ふぉん、ふぉん、ごぉぉぉ。
車がハイウェイを疾走していく。路面からの微かな振動が今はとても心地いい。
――チカリ、チカリ。
道端に等間隔に並んだ照明灯が、一定のリズムで車内を照らしてくる。それは、少し、うざったい。
運転席に座るPも、チカチカと照らされている。
後部座席のボクからはPの表情は見えない。耳と頬と目尻が見えるくらい。それが数秒ごとに照らされる。
――チカリ、チカリ、チカリ、チカリ
Pの頭部がチカチカするのをボンヤリと眺める。
完全に夢に囚われる直前の、思考と妄想の区別がつかなくなる瞬間。有り得ない考えが浮かんだ。
Pは以前から“こう”なることを知っていたのではないか?
今日、岡崎泰葉が遅刻することを知っていたのでは?
岡崎泰葉の代役をこなせるよう、ボクにずっとあの曲を練習させていたのでは?
だからCパート、岡崎泰葉のパートを特に念入りに練習させていたのでは?
今朝の最後のレッスンは疑似的なリハーサルだった?
しかし。
何月何日の何時に何処で渋滞が発生するかなんて、予想できるのだろうか? いや、そんなことが出来るようになったというニュースは聞いたことがない。
じゃあ。じゃあ……予想するのが無理なら、作為的に引き起こすことは……?
何かの動画で見たことがある。たった一台の急ブレーキが後続車を詰まらせ、渋滞に発展するという検証映像だ。渋滞を作為的に起こすことは、一応は、可能らしい。
そういえば今日、Pは会場に着いたころから頻繁に電話を掛けていたような……? 一体どこへ掛けていたのだろう?
「…………」
「…………」
眠気はいつの間にか消え去っていた。車内の空気が張り詰めているように感じられる。
Pを見た。が、変わりは無い。
いや、ルームミラー越しに、彼はボクを見ていた。
「っ……!?」
Pの瞳の色に何か獰猛なモノが混じっていく。その目は嗤っていた。ボクがそれに気付くと同時に彼が口を開く。
「なんだぁ? 飛鳥、寝ないのかぁ? それとも、聞きたいことでもあるのかなぁ???」
「………っ」
ボクは気付いてはいけないことに気付いてしまったのか!?
なんてね。ハハッ! ボクの妄想に決まっている。
電話だけで特定のエリアに渋滞を引き起こすなんて芸当、聞いたことがない。安楽椅子探偵にもそんなことは無理だ。
「い、いや。ちょっとした妄想さ……。ひょっとしたら、今日のトラブルは……キ、キミが仕組んだんじゃ、ないかってね……?」
「………ハハハ」
ほら、笑われてる。こんなバカげたこと、ワザワザ言うんじゃなかっ――
16: 以下、
「アハハハはーーーー!! ハハハハはははハハハハ!!」
「――ひっ!?」
Pの哄笑が車内を埋め尽くす。
ゾクゾクしたのもが背骨を駆け巡る。
そして運転中にも関わらず、Pの首がグルリと回ってボクに振り向いた。彼の目は大きく見開かれ、しかも血走っているように見える。
ヤバい。ホラーだ。
ビビってしまって、叫び声一つ上げられない。
「………お前のような勘のいいアイドルは――」
「あ、ぁぁ……あわわわっ!」
「――結構好きだぜ。へへへ」
「……………へっ?」
Pは表情を普段のおちゃらけたモノに戻し、前を向いた。車は変わらぬスピードで走り続ける。
「やっぱバレたか。ま、隠してなかったけどな。どれが決め手だった?」
「えっ…決め手とかはなくてなんとなく……って! ほ、本当なのかい…?」
「まぁね! てへぺろ。他の人には内緒な? 先輩たちにタコ殴りにされちまうから」
「……言っても誰も信じないと思うけど……」
「かもな?」
それからPは今回のトラブルの真相を教えてくれた。が、それはほとんどボクの妄想通りだった。
ちなみに岡崎泰葉の遅刻のそもそもの原因であるロケ仕事の御鉢が彼女に回ったのも、Pの暗躍によるものだったらしい。
「まぁ確かに、俺は渋滞を引き起こしたりして岡崎ちゃんを遅刻させた。でもな、あの二人のやりようによっては、ちゃんと時間内に会場に着くことも可能だったんだぜ?」
「……そうなのかい?」
「俺の見立てでは、彼女らが会場に着く方法は七通りあった」
具体的な数字に妙な説得力があった。たぶん、口から出まかせというわけではないのだろう。
「七通りもあるのに、思い付けなかったり、思い付いても実行できないんだったら、それはもう俺の責任じゃないと思う。まぁ、とはいえやっぱ、岡崎ちゃんには悪いことしたっていう自覚はあるから、少し後でめっちゃ良い仕事が回るように既に仕込んである」
「………」
「今回ほど好条件が重なるチャンスはそうそうないから多少強引にしたけどな、ここまでグレーな手段はそうそう使わないつもりだ。……幻滅したか?」
「………」
真相を知ってしまった今、確かに岡崎泰葉に対してボクも申し訳なく思う気持ちはある。
だがしかし、それが気にならない程にボクは興奮していた。
Pはバタフライエフェクトを解明し、カオスを意のままに操ってみせたのだ。
一体何色の脳細胞であればそんなことが可能なのだろう?
悪魔的だと思った。いや、常識を超えているという意味では悪魔そのものと言っていい。
こんな人間が本当にいるのかと心底驚き、興味と畏怖で深く興奮していた。
Pはどうやら結構有能な人間らしいとは感じていたけれど、それすらまったく見当違いだった。彼について今のボクには何も理解らない。理解を越えている。結局、理解ったのはそれだけ。中 学生程度の知性では、Pという人間を測ることなんて到底出来そうにない。
「ひとつ、いいかな?」
「ヘイカモン! お兄さんに何でも聞きなよ!」
彼の凄まじさに気付いてまうと、聞かずにはいられないことがある。
「どうして…ボクを………………」
「ん…?」
「………どうしてあんな、ことを、したんだい?」
「あんなことって、今日のライブのことを内緒にしておいたことか?」
「えっと………?」
あれ? 聞きたいのはそのことだっけ? 何か違うような……? 妙な違和感が、なくもない……。何を聞こうとしていたんだっけ…? ううむ……ド忘れしてしまった。それとも気のせいだったのか? どちらにしても、そうなるくらいなら大したことじゃないってことだろうし、別にいいか。
それに実際、Pの説明不足の意図については聞いておきたいし。
「あぁ、うん……。それでいい」
「………ん。オッケー!」
Pは少し訝しがったが、すぐに話始める。
「もし事前に飛鳥に伝えていたら、計画はかなりの確率で頓挫か失敗していただろう。飛鳥の素振りから先輩に勘繰られる、とか色々な原因でな。その中でも一番マズイのが、事前に知ったことで緊張し過ぎてしまって、レッスンどころじゃなくなるってことかな。最悪、体調崩しちまうし」
「あぁ…うん…。否定はできないね……」
「まぁ、これは飛鳥だからとかじゃなくて、大多数の人がそうなんだけど」
無事終わった今でも、ステージのことを思い出すと変な汗が出てくる。ボクが三万人の前で歌ったなんて、そしてそれがボクの初ステージだったなんて、今でも信じられない。これまで学校の表彰台に立ったことだってないのに。
もし事前に知らされていたら、Pの言う通りのことが起きても不思議はないし、逃げ出しさえしたかもしれない。
「だからもう、ドサクサの勢いで乗り切るしかないなって」
「ドサクサって、キミな…。上手くいったから良かったけどさ……」
「まぁ、イケると確信してたよ。飛鳥ならな」
「ん、そうか………」
成功に寄与したPとボクの比率はそれぞれどれくらいなのか、少し気になった。けれど、考えるのはすぐにやめた。それはほとんど自明だったからだ。ボクはきっとPが操った駒の一つに過ぎな――
「ん??? もしかして“ボクはPの掌の上で踊っていただけなのか”なんて思ってる?」
「――ッ!」
この男、読心術も使えるのか?
17: 以下、
「それは違うぜ? 俺も飛鳥もベストを尽くした。だから成功した。それ以上でもそれ以下でもない」
「……おべっかなら必要ないよ」
「いや、本当に。……掌の上で踊ってるのは、寧ろ俺の方なんだよなぁ」
「ハッ! 謙遜も過ぎれば嫌味、というのを聞いたことはないかい?」
「嫌味に出来ればどんなに嬉しいか……いや、この辺りの話はちょっとアレだから、もっと別の話をしよう」
「ん? うん…それは構わないけど」
はぐらかされたというよりは、実際にPはこの話をするのに気が進まないようだった。確かに愉快な話になりそうにないし話題変更に異論はない。
それからPは明日以降のアイドル活動の見通しを話してくれた。
端的に言って、激変するらしい。これまでずっとレッスン漬けだったのが、北条加蓮と藤原肇と一緒に毎日のように仕事が入るようになるのだと。
「一年目の目標はとりあえず次のULに出ることだな」
「ゆーえる……? って何だっけ?」
「そりゃもちろん、ウルトラライブのことだ」
「は? それって……」
それは、本当の意味でのトップアイドル――まさに頂の一点に立つアイドルユニット――の為のライブの通称だった。
毎年、四月から二月中旬までの約11か月間で最も輝いたアイドルユニット一組による単独の、しかし、超大規模なライブ。開催日は例年通りなら三月末だ。
プロダクションの威信を賭け総力を挙げて開催するソレは、近年は世界最高のエンターテイメントとの呼び声も高い。観客数は各年のULスタイルにもよるが、最低でも五万人、多い場合には二十万人にも達する。
うちのプロダクションに所属するアイドル全員が目指すべき目標……らしいのだが、今の今まで、ボクは宇宙の果て程度にしか意識したことが無かった。
「……流石に冗談だろう?」
「本気と書いてマジ」
「えぇぇ………」
「俺と飛鳥が本気を出せば不可能ではないはずだ」
「えぇぇぇ……」
複数人のユニットとはいえ一年目でULに出た前例はなかったような……。しかし、この悪魔的なPの言うことだし……。
「そんなこと、本当にできるのかい……?」
「チッ、チッ、チッ。できるかな? じゃねえよ……」
Pはそこで言葉を止め、悪そうな笑みを浮かべながらボクを振り返った。ネットのどこかで聞いたことのあるフレーズだ。ボクに続きを言えということか……やれやれ。
「……やるん――」
「――やるんだよぉぉっ!」
「なんで言うっ?!」
ケラケラと笑うPにボクは呆れて失笑を禁じ得なかった。なんとも緩い雰囲気が車内に漂う。それから間もなく、ボクのマンションに到着した。
「じゃあ、お疲れ。ゆっくり休んでくれ?」
ボクを降ろしたPは、そう言ってプロダクションへ向かっていく。
遠ざかっていくテールランプに背を向けたとき、ふと思い出した。さっき、Pに聞こうと思ってド忘れしてしまったことが何であるかを。
「あぁ、そうか……」
あのときボクは“どうしてボクをスカウトしたのか?”と聞こうとしたんだった。
Pほどの能力があれば誰でもスカウトできるだろうに、よりにもよってどうしてボクを?
確かに気を使っている分ルックスには多少自信があるが、それでもただの中二病罹患者だ。そんなこと、彼ならすぐに見抜きそうなものだが……。少なくともボクより上のポテンシャルを持った人間は幾らでもいるだろうに。
Pとの出会いは偶然で、そして少しの会話の後、スカウトされた。
ボクの何が彼にそう決心させたのか、聞いてみたいと思ったんだ。
「また今度聞いてみよう」
そう呟きながら、ボクは自室のドアを開いた。
18: 以下、
≪Review by Asuka≫
ボク、二宮飛鳥がアイドルにスカウトされたのは、中学二年生に進級する前の春休みのことだった。
その日、中古のラジオを購入した帰り道。自宅近くの公園を通りかかったときに、あることを思い出した。幼少の頃、ガラクタで構成されたラジオを持ってそこら中を徘徊していたという黒歴史のことだ。
音の聞こえやすい場所を探し求めて、あっちへこっちへ。この公園はそのホットスポットの一つだった。
ここで思い出したのも何かの縁だと、公園のベンチで買ったばかりのラジオを試用してみることにした。
同封されていたマニュアルを一読して、スイッチオン! ……点くはずがない。鉱石ラジオではないのだから、電源が必要なのだ。このラジオを聞くにはコンセントが要る。
普通は公園では無理だが、そこは勝手知ったる自宅近くの公園。町内会が管理する物置小屋の裏側にコンセントがあったことにすぐ思い至った。
あまりよろしくないことだけれど、無性にそのとき、その場所でラジオが聴きたくなっていた。
小屋の裏側に回ると記憶通り、外壁の地面に近いところにコンセントが埋め込まれていた。
小屋の壁が面しているのは鬱蒼とした雑木林。寂れた公園のしかも普段は誰も用のない小屋の裏側に、ボク以外の人間が来るとも思えない。だから、多少電気を拝借してもバレることはないだろう。
プラグを差し込んで、スイッチオン。今度こそは電源が点いた。鳴ったのはジジジという空電だったが、それでも妙に嬉しかった。
地面に腰を下ろし、ラジオは膝に抱えて周波数ノブを回す。すぐに何かの番組にたどり着く。オーケストラ音楽だった。
音量をボクにだけ聞こえる程度に小さく絞って、チューニングを続けていく。
少しイケナイことをしているという非日常感からか、AMの下らない雑談やFMの耳にタコのCMがたまらなく面白く感じていた。童心に帰るというのは、きっとああいうことなのだろう。
神にも見落とされるような狭間の場所で、セカイの声に耳を傾けているような気分。それがとても懐かしくてワクワクしてしまう。
ちゃんと音の鳴るこのラジオならまだしも、昔のボクはよくもまぁあんなガラクタで楽しめたものだ。電波をキャッチするのも一苦労、よしんばキャッチできても音は小さいわ、ノイズも酷いわで、あれは今思えば苦行以外の何物でもない。
ふと周囲を見渡せば日が暮れ始めていた。ちょっとのつもりが、随分と長くそうしていたらしい。
門限を越えると母親が怖い。
そういえば昔、底の抜けた風呂桶を天に掲げながら闊歩するボクの話題が町内会で挙がったとかで、顔を真っ赤にした母に父ともどもひどく怒られたっけ? それはまぁ、無理もない。でもその甲斐あって、ボクは初めてちゃんとしたラジオを買い与えられ、ボクの奇行は鳴りを潜めることになった。
そろそろ帰ろうかと思い始めた矢先、前方の雑木林の奥からガサガサと音がした。
犬か猫か、と目を凝らすまでもなく、大人の男がこちらに向かって一直線に向かって来るのが見えた。
ヤバい、大人だ、電気を使っているのを怒られる!
そう思い込み焦ったボクは、ラジオの音量を下げようとして逆に上げてしまった。それでほとんどパニック状態に陥った。
ラジオの本体を力任せに引っ張ってコンセントを抜き、そのままバッグに押し込む。立ち上がり、ジャケットのポケットに手を突っ込んで、小屋の壁にもたれ掛かる。
近づいてくる男はスーツを着ていた。
国家の犬か? 益々ヤバいな。益々焦る。つい今しがた出してしまったラジオの音を誤魔化さなくては。そうだ、口笛の音だったということにしよう!
だけど、ボクの口笛は上手くいかず、盛大に息を吹き出すだけになってしまった。
丁度そのとき男は林を抜け、ボクの目の前に立った。
ボクは外面の格好だけはつけて、しかし、内心ビクビクで男の出方を待った。
ソイツはしばらくボクを見つめていた。ラジオを隠したバッグには目もくれずに。
見えていなかったのか? ということは、盗電を叱りにきたのではないのかもしれない。
ソイツは大人だけれど結構若く見えた。中肉中背。顔面はハンサムではないが、愛嬌のようなものが無くはない。つまり風貌だけなら、まぁ、どこにでもいそうな男だった。
そんな二十歳半ばくらいの男が息を切らしながら、ボクをまじまじと見ている。
そもそも何故、林の方からやってきたのだろう?
もしかして国家の犬なんかよりももっとヤバいヤツなのでは? そんな考えに背筋がヒヤリとするかしないかのとき、ようやく男は口を開いた。
「聞こえたんだ、口笛が。その音を辿ってきたら、キミがいた」
ボクの咄嗟の口笛のポーズから話を繋げてきやがった!!
コイツは手強い。ボクの直感がそう告げていた。
たぶん詐欺師か変質者、もしくはその両方だ。
でも何故か、続きを聞いてみたくさせられていた。そう感じさせるような、不思議と心地よい声のトーンと間と表情だった。
もし何かおかしな素振りを見せたらすぐさま脱兎と化す心構えだけはしておいて、少し話をしてみることにした。
その男がPだったわけなのだけれど、思い返してみても見事な話術だったと感心する。
悪漢の尻尾を出させようと、わざと大人を虚仮にするようなことを言ってみても、ゆるりと躱されてしまう。そればかりか逆に興味を引く返しをしてきて、知らぬ間にボクは自分のことを語っていた。
“痛い”ことを言ってみてもクラスメイトや教師たちのように鼻で笑ったりしないし、だからといって相槌を打つだけでもない。彼なりの知見が加えられた意見を返してきた。
話せば話すほど興味を引かれ、お互いの歯車が噛み合ってくるような感覚が無性に楽しかった。
そして彼の「非日常への扉を開けよう」という言葉はボクの琴線に触れ、アイドルのスカウトを受けてしまった。
彼から渡された名刺には、日本に住んでいるなら知らぬ者がいないくらい有名な芸能プロダクションの社名が印字されていた。
会社のネームバリューのお陰かそれとも単に話術によるのか、会ったその日のうちにPは両親の説得をあっさりと成功させた。
それから一週間経つ前に、彼は転居と転校の手続きも済ませてしまい、四月一日からボクのアイドルとしての生活が始まったのだった。
19: 以下、
≪Observation by Asuka≫
とても渋くて良い声で、目が覚めた。
朝のラジオパーソナリティの男性の声。タイマー機能でラジオの電源が点いたのだ。それが今のボクの目覚まし代わり。
電波の向こうの男性は、毎日全く変わらない文言で挨拶、番組名、時刻を伝えてから、軽妙な語り口で世間話を始める。
初ライブを終えたご褒美として、Pからプレゼントされたこのラジオはすこぶる調子がいい。新品だし、多機能だし、何よりカッコいい。周波数の表示にニキシー管を採用しているなんて素敵すぎる。橙色の揺らめきを眺めていると、時間を忘れてしまいそうになる。
「おっと、いけない……」
本当に時間を忘れるところだった。
手早く準備を済ませて、自宅マンションを出る。
道路に出てすぐ、空の青の鮮やかさが目に沁みて、変装し忘れていることに気付いた。バッグから伊達メガネと帽子を取り出して歩み始める。
「フフッ、慣れないものだな……」
妄想の中ではともかく、自分がまさか変装が必要な人間になってしまうとは。
ボクの肩書に『中学二年生』の他に『アイドル』が加わった二か月前でさえ、こんなことになるとは正直まったく思っていなかった。
そう、まだたったの二か月しか経っていない。
訳が理解らないほどの急激な変化。ついていくのがやっとだ。いや、果たしてついていけているのだろうか?
ボクが切望していた筈の非日常に、既にどっぷり浸かっていることに気付いたのもつい先日という有様なのに。
『おはよう 良い朝だね これからレッスンに向かうよ』
いつも通り、路線バスに乗り込んでから、Pへメッセージを送信する。
『おはよう。体調はどうだ?』
やはりすぐに返信が来た。彼はもうお城にいるのだろう。
『問題ない』
『14時頃そっちに行くよ』
『承知した』
『あぁ、それと……』
「ふむ?」
『飛鳥が一ノ瀬ちゃんに対抗心燃やしてること、聖さんに伝えておいたよ\(^▽^)/ だから今日はみっちりシゴいてもらえると思う。やったね!』
イラっとするのと同時に「うっ」と声が出た。
なんて余計なことを……。
恨み言は負けた気がするので、差し入れの品について交渉してやろう。そう思ったところでまた彼から受信する。
『差し入れは何が良い?』
読まれていたらしい。なんだか悔しい。
『アイス(高いの)』
『OK』
「ふふっ。まぁいいか……」
『では、存分にカロリーを消費しておくことにするよ』
『だけど無理は禁物で。キツ過ぎるようなら我慢せず聖さんに言うように』
『あぁ、理解ってるよ』
それでやり取りは終わり。降りるバス停ももうすぐだ。
これから食らうであろうしごきを想像して一瞬怯んでしまったけれど、Pが聖さんに何か言おうが言うまいが、元から全力でやるつもりだった。
なんでもお見通しのPが聖さんにそう伝えたということは、やはり実際にそうする必要があるということなのだろう。彼と見解が一致しているという点については、そんなに悪い気はしない。
20: 以下、
レッスンスタジオに到着後、更衣室でレッスン着に着替えてからレッスンルームに入る。
聖さんは腕組をしてボクを待ち構えていた。予想通りに挑戦的な笑みを浮かべて。
「……おはよう、ございます」
「おはよう、二宮。プロデューサー殿から聞いたぞ。喜んで協力しよう」
「お、お手柔らかに頼むよ……」
最近お世話になっている二十代半ばの女性のトレーナー、青木聖。P曰く業界ではそれなりに有名なベテランのようで、本来ならボクのような駆け出しアイドルが見てもらえるような人ではないらしい。
そんな聖さんに見てもらえるのは、偏に新しいユニットの相方のお陰だった。
「よし、まずは準備体操からだ」
レッスンルームにはボクと聖さんだけ。なのに、彼女はレッスンを始めようとしたのでボクは察し、何度目かの落胆を覚えた。
「一ノ瀬志希はやはり来ないか…」
「あぁ、今日は体調不良だと聞いている」
聖さんが肩をすくめてため息をつく。それが十中八九、仮病だということは彼女も分かっているのだ。
先日新たに組むことになったユニット、Dimension-3の相方である一ノ瀬志希。彼女はまだ一度もレッスンに現れていなかった。
「一ノ瀬のことだから最後にはなんとかなるのだろう。業腹だがな……。まぁ、二宮が心配する必要はない」
「生憎と新米アイドルなのでね。他の人の心配なんてしている余裕はないよ」
彼女は超人気アイドル様だから、きっとボクのことを軽んじているんだ。ボクとのユニットも上に言われたから仕方なく組んでいるだけなのだろう。
「フン……」
せいぜい余裕をかましておけばいいさ。
あぁ、だけど、一つだけお願いがある。
サボっている間にボクがキミを追い越してしまっても、不貞腐れてやる気をなくさないでくれよ?
21: 以下、
≪Review by Asuka≫
Pが言っていた通り、ボクのデビューライブとなった五月公演の後、ボクのアイドル活動は激変した。
アイドルとして、ボクよりも遥か先にいる北条加蓮と藤原肇。彼女たちと並んで様々な仕事をすることになった。
インタビューや写真撮影は勿論、テレビで歌を披露することもあったし、再びライブにも出たし、CDも出した。
五月公演でボクが発することができたのは自分の名前だけだったが、流石にそれ以外も多少は喋るようにはなった。しかし、それは意味深なように聞こえて、実際のところは当たり障りのない内容だった。Pと一緒に考えた台本通りの台詞を言う事も多々あった。
とはいえ、北条加蓮と藤原肇のフォローとPによる巧妙なプロデュースによって、ボクは“ミステリアスな中 学生アイドル”という印象を世間に与えるに至った。そして少なくとも今のところは概ね好意的に受け入れられているらしい。
六月に入り、北条加蓮たちとのユニットの活動が終了する頃、街を歩いているとたまに声を掛けられるようになっていた。このころから外出する際には変装するようになった。
また、Pが勝手にボク名義のSNSアカウントを作っていたのだが、そのフォロワー数は五万人を超えていた。そんなアカウントをいきなり任されても困るので、投稿する内容は随時Pと相談することにした。
ユニットの活動が終わっても、ボクの慌ただしい生活は元には戻らなかった。
今度は一ノ瀬志希というアイドルとデュオユニットを組むことになった。
一ノ瀬志希。ギフテッドの帰国子女アイドル。今最も勢いのあるアイドルの一人だし、もし仮に“今現在の最高のアイドルは誰か?”なんて議論があったとしたら、確実に彼女の名前は挙がるだろう。
SNSの彼女のアカウントを覗いてみるとフォロワー数は五百万人だった。文字通り桁違いだ。
そんな傑物とのユニットの話を正式に持ってくるPは流石というかやり過ぎというか……
一ノ瀬志希とのユニットを実現した方法について聞くと、少しだけ納得がいった。彼女のデビューライブはボクと同じく、三万人の前だったのだという。
もっとも、彼女の場合はギフテッドというバックボーンと実力から、正当に掴んだチャンスだった。でも彼女はそのチャンスをしっかりとモノにして、アイドルヒエラルキーを駆け上ったのだ。
一ノ瀬志希が通った道を、今ボクも辿ろうとしている――そんなストーリーでユニットの話題性をプレゼンし、Pは見事に関係各所の説得を成功させたらしい。
まぁおそらくPはそれ以外にも以前から、根回しや調整や、あと暗躍していたのだろうけど。
一ノ瀬志希とユニットを組むことになったと知ったとき、ボクは嬉しさを感じていた。
高い能力は元より、自由奔放な気分屋でありながら人を強烈に惹きつける彼女の魅力。それを間近で見て、彼女と関われるのが純粋に愉しみだった。
北条加蓮や藤原肇と親しくすることができたように、一ノ瀬志希ともそうできると思っていた。
だけど、一ノ瀬志希との初顔合わせの日、ボクの期待は失望に変わった。彼女はボクに何の興味も示さなかったのだ。
その打ち合わせでは、ユニット名がDimension-3であることやユニットのコンセプト、これからの仕事とレッスンのスケジュールなどが知らされた。当然、新曲も貰っていて、その初お披露目は約二週間後の合同ライブということだった。
ボクのレッスンはその日から開始された。そしてレッスンがメインという日々がまた始まった。
一ノ瀬志希はユニット以外でも沢山の仕事を抱えているから、彼女がレッスンに割くことができる時間はボクよりもずっと少ないことは初めから理解っていた。しかし、一週間が経とうとしているのに一度もレッスンに顔を出さないというのは、明らかに聞いていたスケジュールと違った。
一ノ瀬志希は担当のプロデューサーが出張しているのをいいことに、レッスンをサボり続けていたのだ。
22: 以下、
≪Observation by Asuka≫
聖さんの熱の入ったレッスンを一日受けるのは、やはりかなり過酷だった。
夕方になって終わる頃には、全身の筋肉という筋肉が余すところなく疲労していた。
だけど、悪くない気分だった。むしろ清々しささえ感じている。昨日よりも上手く出来るようになっているからかな。
「今日もレッスンお疲れちゃん」
「じゃあ、お先にボクは失礼するよ」
Pの居室を出た後、帰路につく前に中層階にあるテラスへ行くことにした。
そもそもが果てしなく高い社屋だから、中層階の時点でこの街のほとんどのビルよりは高く、つまりはテラスからの眺めはとても良いのだ。
今日はとても綺麗な夕焼けになっている予感があって、満身創痍だけれど無性に見てみたかった。
エレベーターで目的の階まで上がり、外に続く観音開きの扉に手を掛ける。重厚な扉を押し開けるのは疲労したボクにはいささか辛かった。
「くっ……!」
とても紅い夕陽だった。見つめ続ければ紅い涙を流してしまいそうなほどの。
テラスに点在する植生と石柱のコントラストは日中には爽やかで軽やかな印象を受けるのだが、今この時はすべてが紅で上塗りされ、廃墟的な雰囲気を醸し出している。精緻な彫刻の施された石造りのベンチはいずれも空席。しかし、広場中央の噴水は稼働し続けていた。
夕陽に向かって真っ直ぐ歩いていく。ほどなくテラスを取り囲む柵に止められてしまう。ボクはどうしても欲しくなって、夕陽に向けて手を伸ばす。しかしそれは絶対に叶うことは無く、ボクが掴むことができたのは空虚だけ。
「いつか必ず手に入れてみせる……」
安いドラマで言いそうな言葉。もちろん、意味のない言葉だ。言ってみたくなったから言っただけ。それ以上でもそれ以下でもない。
振り返れば、紅色の濃くなった石柱たちが無言のままボクを見つめていた。
「ふふっ……悪くない」
やはり来て良かった。
もの寂しいこの光景はボクの胸に沁みる。その痛みがボクの輪郭を思い出させてくれる。
心を忘れると書いて“忙しい”というフレーズが頭に過った。なるほど、昔の人は本当に巧いことを言う。
もうしばらくこの雰囲気に浸っていたいが、流石に座りたい。となればやはり片隅のパーゴラのベンチ一択だろう。蔓が鬱蒼と絡まったその一角は、用もないのにテラスにやってくるような人種にとっては垂涎のスポットで、これまで独り占めするチャンスがなかったのだから。
「ん……?」
パーゴラまであと数歩というところまで近づいてやっと気付いた。蔓のカーテンの向こう側に誰かいる。ボクがここに上がって来る前に、既に先客が居たようだ。
先ほどの一人芝居が頭をよぎり、気まずさで居たたまれなくなってくる。身体的な変化としては、くそう、顔が熱くなっている。
しかしアチラはボクを気にしている風には見えない。本を読むでもなく、携帯を操作するでもなく、ただじっとしているように見える。いや、時折頷くように頭部の辺りが揺れている……?
「なんだ、寝ているのか……」
それならばさっきのボクの台詞も聞かれていなかったということ。このまま静かに去れば何も問題は起きない。いや寧ろ去るべきだ。後ろ姿の輪郭からして、この人はボクの知り合いではないのだし。それにパーゴラ内のベンチは初対面の人間と過ごすには近すぎるから。
「………あ、あれ?」
しかしボクは、また一歩、パーゴラへと近づいていた。
何故かは理解らない。起こしてあげようだなんていう親切心ではない。
更に一歩。
理解らない。去る理由はあれど向かう理由は無いのに、進む脚が止まらない。
まるでボクの何かが、そこへ引かれているかのよう。
そして、この一歩でパーゴラの領域に踏み入り、彼女――そう、少女だった――の前に立った。
23: 以下、
「っ………」
思わず息を呑んだ。
まるで絵画のようだと……このセカイで最も美しい瞬間を切り取ったようだと思った。
その少女のツインテールに結わわれた銀色の髪は夕陽を受けて、砂金が篩われたように煌めいている。病的なほどの白い肌。閉じた瞼を飾る長い睫毛。すっと通った鼻筋。あどけなくも艶やかな唇。実物を見るのが初めてのゴシックドレスは、しかしこの少女のためにあつらわれたように一切の違和感がない。胸には見たことのない凝った装丁の大判の本を大切そうに抱き締めている。ひょっとするとお手製なのかもしれない。
どれだけの間立ち尽くしていただろう。
終わりは不意に訪れた。
ざぁ、と一陣の風が吹いたのだ。それは彼女のスカートを揺らし、銀髪を撫で、睫毛をくすぐった。
「ぅにゅ…………」
瞼がゆっくりと開いていく。ルビーを連想させるような深い色の瞳だった。
「………白銀の騎士…か?」
ぼんやりとした瞳のまま少女が問いかけてくる。まだ夢の続きだと思っていたのだろう。
いや待て、なんて言った? 白銀? 騎士? 今日ボクは珍しく白のブラウスを着ているが、それが目に入ったのか?
正直ちょっと驚いてしまって、何も反応できずにポカンとしてしまう。
「……………はぇ? え……えっ……!?」
少女はといえば、先ほどまでの幻想的な佇まいとは打って変わり、困惑の表情を見せ始めていた。目覚めるといきなり目の前に知らない人間が居たのだから無理もないか。
そんな彼女の表情はとても可愛らしくてもう少し見ていたいと思ったが、それは意地悪というもの。
「やぁ、漆黒のお姫さま。いい夢は見れたかい?」
自分でも何を言っているのだろうかと思った。彼女と一緒で、ボクも夢の中にいたのだろうか? 余計困惑させるかもしれないのに。だけど、それは杞憂だったとすぐに分かった。
「っ!? っ! ???っ!!」
少女は大きな目を爛々とさせて、頬に朱を浮かべて、おまけに鼻息を荒くしている。
嬉しいことに、ボクの言葉は彼女の琴線に触れたようだ。
「んっんん!」と切り替えるような咳払いをした後、そこには微笑を湛えた姫君がいた。
「とても永い夢を見ていたわ。ヒュプノスに誑かされてしまったようね」
ヒュプノス……眠りの神だったっけ?
芝居がかった喋り方は、事実、芝居なのだろう。でもここでそんな風に考えるのは無粋以外何物でもない。
少女は左手に本を抱いたまま、右手を振り上げてからスッと下ろし、掌で顔の半分を覆いながら――堂に入った動作とポージングだ――続ける。
「して、白銀の騎士よ。貴女は何故、此処へ?」
「ふふっ……可笑しなことを言うね。ボクを呼んだのはキミじゃないか」
「ふむ……?」
雑なストーリーだと理解っている。今ここで考えているのだから仕方ない。でも楽しくて、続けたいと思ってしまう。
「最初は何事かと思ったけれど、ここへ来て合点した。この最期の夕焼けを一人では受止められなかったのだろう?」
彼女の視線を促すように夕陽へと半身を向ける。もうその下半分はビル群に隠れていたが、赤みはさっきよりも増していた。
「わぁ! 綺麗……ハッ!? んんっ! そ、そうであったわ。一つの翼で…終焉を渡ることは絶対の禁忌……。故に眷属の助力が要るの」
「あい理解った。だけど、ここに至るまでのレッ……試練で身体がボロボロなんだ。少しの間、休んでもいいかな? それとも、姫の隣に腰掛けるのは無礼だろうか」
「あっ、私もレッスンで疲れちゃって! んんっ……構わぬ。地獄の業火の過酷さは我も知るところ。我が傍らで存分に英気を養うがよい」
彼女の隣に腰掛けると目線の先に夕陽がくる。それをしばし二人して眺め、また幻想のストーリアを綴っていく。
神話や空想などについて彼女はボクよりもずっと造詣が深かった。加えて、口から出るに任せたボクのストーリーとは違い、確固とした世界観を持っているのを感じた。
寝起きの状態から本調子を取り戻したのか、彼女の語りの難解さは増してゆき、ボクはついていくのが難しくなった。
それでも嬉々として語る彼女を見ているのは楽しかったし心地よかった。
「あ……」
日没を迎えて、ふっと辺りが暗くなる。
訪れたるは黄昏。その語源が頭に過り、“まだ”だったことに気付く。
見れば、彼女もちょうど気付いたようだ。ボクと同じく、大切なことを伝えようとするように、居住まいを正している。
24: 以下、
「ボクは飛鳥。二宮飛鳥だ。キミの名前を教えて欲しい」
「我……私は神崎蘭子、です。飛鳥ちゃんっていうんだね」
「飛鳥、でいいよ。蘭子」
「あ……う、うん。あ、あす、か……飛鳥」
―――っ!!??
「飛鳥? 何事か…?」
理解った。
唐突に理解できた。直感した、というべきかもしれない。
さっき蔓のカーテンの前で逡巡していたボクの足を進めたモノ。それが何であったのかが理解った。
彼女がボクの名を口にしたとき、ボクの“何か”が震えた。それは脳と心臓の丁度中間にある“何か”だった。しかしそれは中間にありながら、脳との距離がゼロで、また同時に、心臓との距離もゼロだった。脳と心臓が離れている以上、この三つの条件を満足する点なんて、このセカイは存在するはずがない。小 学生でも理解ることだ。
でも確かにその点は存在していると、ボクの直感が告げていた。
そして、理解を越えた場所にあるその“何か”が、蔓のカーテンの向こうに引かれていたのだ。
肉体とも精神とも違う何か。
魂だ。
そう呼ぶ他ない。
出会う前だというのにも関わらず、ボクの魂は蘭子に引かれたんだ。
「飛鳥…?」
「……いや、何でもないよ」
「ならば良いが……? ふむ。ではまずは我の出生の秘密から――」
それからはお互いの身の上について教え合った。
蘭子は熊本出身で、ボクと同学年だということ。ボクと同じ日にスカウトされてアイドルになったということ。蘭子はこれまでのところは基礎レッスンがメインで、仕事と呼べるようなことはまだあまりしていないということ。住まいは女子寮なのだということ――ボクはこのとき初めて女子寮にしなかったことを悔やんだ。
蘭子の言い回しは所々難解だったけれど、なんとかこれくらいのことは理解できた。
空が黒に染まり、疎らにある屋外灯だけが頼りになる頃、一つ気になっていたことに触れてみる。
「そういえば、その本はもしかして……」
「き、禁忌に触れようというのか…っ!?」
蘭子は怯えるように本を胸に抱いた。その警戒ぶりから察するに、彼女にとってとてもデリケートな事らしい。
「大丈夫、無理 矢理見たりしないよ。その本には蘭子の世界観が記されているんじゃないか、というのがボクの見立てなんだけど」
「う、うむ……」
「ボクも趣味で漫画を描くことがあってね。お互いのセカイを披露し合うのも一興かと思ったんだが……いや、気にしないでくれ。同じ創作者として、他人に見せたくないという気持ちも理解るから」
「ぁ……っ」
本を抱く力を強めて、蘭子は何かを言おうとする。勇気を振り絞ってくれているのかな。だとしたら嬉しいな。
でも、蘭子が次の言葉を発する前に――
「蘭子、何をしているの?」
――パーゴラの外から誰かに声を掛けられた。その声はまるで、月の砂が零れ落ちる音のようだった。いや、月の砂の音なんて当然聞いたことはないけれど、そんなイメージの沸くくらい、冷たくもよく通る声だった。
「おや? 蘭子の知り合――!?」
声の方へ目をやって、言葉を失った。そこに居たのは“美”そのものだったからだ。
おそらくは二十台半ばの、とにかく美しい女性が立っていた。まず目に飛び込んできたのは銀色のストレートの長髪だ。屋外灯の光を受けるまでもなく、自ら輝きを放っているような異常なまでの艶があった。次に印象的な白磁のような肌は、景色が映りそうなくらいに滑らかだし。目口鼻の造形は非の打ちどころがなく、歴史上の美女たちから拝借してきたと言われても納得できる。藍色のブラウスと黒色のタイトスカートの着こなしからは、一目でスタイルの完璧さが理解る。
完璧なルックスだった。あまりに完璧だから、人から生まれたというよりは神に作られた人形だと言われた方がよっぽど納得がいく。
「あっ、晩御飯食べに行くんだった! 時間…っ!」
突然現れたこの美人は蘭子の知り合いらしい。
蘭子よりも十センチほど背が高く、髪色も同じなので、並んでいると年の離れた姉妹に見えなくはない。が、たぶん違うだろう。纏う雰囲気が違い過ぎる。
ボクらとは別部署のモデルだろうか? アイドルの可能性もあるか。人を寄せ付けない雰囲気を纏っているけど、この美貌だし。
「いいのよ、蘭子。貴女がここにいることは分かっていたから」
「あぅ…ごめんなさい。お話に夢中になっちゃった…」
蘭子がボクを見ると、謎の美女もボクを見た。いや、感情の見えない瞳で一瞥しただけで会釈もせずに、すぐに蘭子に視線を戻した。蘭子に注ぐ視線には優しさのようなものが見て取れる。
「この人は瞳を持つ者……あ、私のプロデューサーなの」
「へぇ、てっきりモデルの知り合いかと思っていたんだけどね。まさかプロ……プロデューサーだって!?」
驚いた。こんなルックスの人間が裏方稼業だなんて。何かの間違い、もとい経済の損失な気がしてならない。
25: 以下、
「やっぱり驚くよね。こんなに美人さんなのにね。えへへ」
しげしげと彼女を見るボクを見て、蘭子が自慢げに笑う。
「それでね、プロデューサー。飛鳥は――」
「必要ないわ」
ボクのことを紹介しようとした蘭子の言葉を、彼女はぴしゃりと遮った。そして「知っているから」と、抑揚のない声でボクの経歴を語り始めた。
「二宮飛鳥。静岡県出身の中学二年生。二か月前スカウトされアイドルに。その一か月後の五月公演において、北条加蓮率いるトリオユニットのメンバーの一人として鮮烈なデビューを果たす。これにより注目を集め始め、一ノ瀬志希のユニットのパートナーに抜擢されるなど、異例のさでスターダムを駆け上がっている」
「はっ? なんで知って……?」
さっきから驚いてばかりだ。たまたま会ったボクのことを、ここまで把握しているなんて…。だが、この激動の二か月が他人にも評価されているというのは悪い気はしない。と、悦に入っていたのに、「しかし――」彼女の語りはまだ終わっていなかった。
「――真に評価されるべきは全ての計画を立て、裏で糸を引き、成功を手繰り寄せた担当プロデューサー。彼の傑出した働きに比べれば、二宮飛鳥本人の特性など取るに足らない。ただ彼に言われるままに踊っただけの人形……傀儡でしかない」
「くっ…!」
「ちょ、ちょっとプロデューサーっ!?」
言葉が出なかった。いきなり批判されるとは思っていなかったのもあるが、彼女が言ったことは、悔しいけれど認めざるを得ない事実だったからだ。
「つまりは凡俗。蘭子が付き合うに値する人間ではないの」
蘭子のプロデューサーはボクを見る目は、路傍の石を投げやりに眺めるような、そんな無の視線だった。
「もーー! プロデューサー、またそれー! そういうのホント良くない!」
ボクへの酷評に蘭子は頬を膨らませて抗議してくれた。
「蘭子…私は貴女のことを思って……」
「私の友達は私が決めるの! そういうこと言うプロデューサー、キライ!」
「なっ……!?」
蘭子の拒絶の言葉に、彼女のプロデューサーは世界の終わりのような表情を浮かべた。氷のような雰囲気は何処へいってしまったのだろう?
「飛鳥、ごめんなさい。私のプロデューサー、たまにこうなるの……」
「あ、あぁ……ボクは気にしていな」
「ちょっと、私の許可なく蘭子と喋らないで」
「こらーー! プロデューサー! こらーー!」
「あぁ、そんな、蘭子……!」
いわゆる過保護というヤツなのだろうか?
「本当にごめんなさい。プロデューサーにはちゃんと言っておくから」
蘭子の後ろからの威圧的な視線は気にしないようにして相槌を打つ。
それから蘭子と連絡先を交換して、テラスを去ることにした。
蘭子とそのプロデューサーは予定通り食事へ。ボクは自宅マンションへ。
蘭子に一緒に食事はどうかと誘われたけれど断った。決して蘭子の背後からの無言の圧力に屈したわけではない。少し一人で考え事をしたかったからだ。
別れ際に蘭子が思い出したように振り向き、ボクに掌を向けながら言った。
「か、必ず…! 我らのグリモワールが相克する刻は、必ず訪れる! 待望せよ!」
一見すると見事なポージングだった。でも魔導書を抱える左手がほんの少し震えていて。そのことがボクはとても嬉しかった。
「あぁ、楽しみにしているよ。本当に。じゃあね、蘭子」
「闇に飲まれよ!」
「ん? やみに…?」
「あっ……お疲れ様……ばいばい」
「ふふっ。そういうことか。闇に飲まれよ」
「ぁ…!! や、闇に飲まれよー! ハーッハッハッハッ」
蘭子のその哄笑には聞き覚えがあった。どこで聞いたのかに思い至ったとき、彼女とはこれまでも結構ニアミスしていたのだと気が付いた。
26: 以下、
帰路の間、そして帰宅してからも、蘭子のプロデューサーの言葉のことを考えていた。
“ただ彼に言われるままに動いただけの人形……傀儡でしかない”
理解っている。そんなことボクが一番よく理解っているさ。だから必死にもがいているんだ。
でもただの中学二年生でしかないボクに一体何が……。
思考はすぐに袋小路に突き当たる。何度目だろうか。無益だ。
ラジオ番組を変えて気分を切り替えよう。そう思ったとき、携帯がメッセージを受信した。
『凱旋のとき!』
蘭子だった。これは帰宅したということだろう。
ときに普通に、ときに幻想語入り混じって。そんな蘭子とのメッセージのやり取りは良い気晴らしになってくれた。
しばらく続けると、ボクはどうしても彼女のプロデューサーについて皮肉を言いたくなってしまった。それに対し蘭子は改めて謝ったあと、不思議なメッセージを送ってきた。
『我が導き手は天界より堕天せし絶対者なれば、現世の理には囚われぬ。』
天界? 堕天? 絶対者? 帰国子女の才媛ということだろうか? 人間離れした美貌だし異国の血が入っていることも十分に考えられる。まぁ別にどうでもいいけど。あの人の出自になんて興味はないから。
27: 以下、
≪Review by 蜈?ココ蠖「≫
私が元いた空間について、蘭子に伝えようとするときにはとても苦労した。
どう言えば伝わるだろうかとアレコレと考えて、結局は自分でも釈然としない説明しかできていない。
3+1次元しか認識できない者に、上の次元のことを正確に伝えることは原理的に不可能なのだ。
私がいたのはとても広大な空間で、そこにはとても長いワイヤーが数えきれないくらい沢山並んでいた。
一本のワイヤーに近づいて見てみると、実はそれはワイヤーではなく、とても薄い膜が無限に積み重なって形成されているものである。一円玉が千枚積み重なると百五十センチのアルミ棒になるのに似ているかもしれない。その膜の一枚に目を凝らせば、それは膜ではなく宇宙だった。
無数の銀河、無数の星、無数の生命を内包する宇宙が、薄膜の中に納まっている。
膜の中で動いているものは何もない。膜はある瞬間の宇宙を切り取っているに過ぎないからだ。その一枚隣りの膜を見てみると、刹那分だけ時間が進んでいる。逆側の膜では刹那分だけ時間が戻っている。つまりワイヤーはひとつの宇宙の過去から未来への流れ、つまりセカイ線なのだ。
近くにある別のワイヤーを見てみると、それは似ているがまた別のセカイ線。そのセカイ線を過去側へ遡っていくと、ある時刻で別のセカイ線から分岐しているところが見つけられる。つまり、その分岐点で“何か”が起こった。そして、何も起きないままの宇宙と、何かが起こった宇宙とに枝分かれしたのだ。
どのセカイ線も過去へ遡っていくと、いくつかの分岐点を経て一点に収束してった。その一点、つまり始端が所謂ビッグバンと呼ばれているものだろう。
ビッグバンから僅かの間に膨大な数の分岐が生じていた。超高エネルギーによる単なる分岐か、それとも“干渉”による分岐か、それはわからない。どちらにしても、始点に近い位置での分岐は初期条件の違いのため、それぞれ全く別の宇宙に成長していく。
蘭子は、私が元いた空間のことを“天界”、そして天界からセカイ線の内側に受肉することを“堕天”と呼称した。
天界を漂っていたのは、もちろん私だけというわけではない。数えきれないほどの同類と邂逅した。
今の私が天界から堕天した者とするならば、天界を漂っていた数多の同類は“天使”と呼称するのがよいだろうか。
私が出会った天使の数は数えきれない。無量大数は軽く超えるだろう。それでもセカイ線の数に比べれば取るに足らない数だが。
いずれの天使も個性があった。礼儀正しい者、無礼な者、賑やかな者、おとなしい者、親切な者、他者に全く無関心な者、エトセトラ。そもそも形も大きさも千差万別。多様性があるという点では、人間と然したる違いはないといえる。
また、発生から間もない者は空間移動を始め何もかもが下手なのは人間の赤ん坊と同じであるし、発生から悠久を経た者が快活さや好奇心を失い存在感を薄れさせていく傾向があるのも人間の老人と同じだ。
天使は人間と違い、時間とは別の次元を経て成熟していく。その次元がどのようなものなのかは、天使にとってあまりに自明で当然のことだった。しかし今となっては欠片も理解できなくなっている。ただ“そうであった”という文字情報が残っているだけだ。
28: 以下、
≪Observation by Asuka≫
Dimension-3の初ライブを二日後に控えたレッスンの後、Pの個室を訪ねた。いつものようにレッスンの進捗状況を伝えるためだ。
つい先日Pのプロデューサーランクが大幅に上がったことで、彼の個室は三階上に移動し、広さは2倍ほどになっていた。とはいえ相変わらず物は少なく、資料棚はほぼ空のまま。増えたものと言えば、コーヒー豆のラインナップくらい。
気持ち高級感の増したソファに座り、トレーナーの聖さんから今日初めて及第点を付けてもらったことを伝えた。
「そうかそうかそれは良かった。おつかれちゃーん!」
「あぁ、どうも……」
そこまで済めばアイドル二宮飛鳥としての一日は終わりだ。
気分を切り替えるように背もたれに体重を預けると、ギュム、と低い音が鳴った。それから一呼吸おいて、やはり耐えられなくなってボクは喚いてしまった。
「何なんだあの女は?!」
ボクは思わず頭を抱えた。
ははは、理解できないことがあると本当に人間は頭を抱えるのだな。
そんなボクの窮状にも関わらず、Pは「クハッ」と楽しそうに吹き出した。
「来たらしいなぁ、一ノ瀬ちゃん」
そう。来た。本番二日前にして、一ノ瀬志希は初めてレッスンに来た。
レッスンの終了時刻が迫り、そろそろクールダウンを始めようかというときに、一ノ瀬志希はやってきた。というよりかは連行されてきた。彼女のプロデューサーの脇に抱えられながら。
その後、志希はあからさまに不承不承といった感じで準備運動をはじめたのだが、聖さんのデモンストレーションを一度見ただけで、ほとんど完璧に歌もダンスもこなせるようになっていた。少なくともボクにはそう見えた。
『本番では合わせてあげるから心配しなくていーよ。えーっと…… に、にの……なんだっけ? まぁ、いいや♪』
志希がレッスンルームを出る前に、ボクに言ったことが耳にこびり付いている。
ボクのここ十日あまりの努力を、一ノ瀬志希は10分で越えてしまったわけだ。
何日か前に志希に一泡吹かせてやろうなんて考えていたことが、これ以上ないくらいの黒歴史に感じていた。悔しさと恥ずかしさで身悶えしてしまう。
「なんであんなことができるんだ!? アレは本当に人間か!?」
「一ノ瀬ちゃんはなぁ?、ギフテッドだしなぁ?」
Pの声音はボクをバカにするでもなく憐れむでもない、ただの事実を述べているだけといった風だ。
何かを考えるように視線を上に逸らしながら腕組みして、手の中ではサイコロを弄っている。それはこれまでも何度か見たことのある仕草。考え事をするときのPの癖なのかもしれない。
いや、サイコロと呼んで良いのかは微妙か。指先で摘まめる大きさの立方体であることは確かだけど、どの面にも目は振られていないのだ。その代わりに面毎に色が違っているから、一応はサイコロとして使うこともできそうではある。
「ふむ……」
Pはその変なサイコロを胸のポケットに仕舞ってから立ち上がった。
「飛鳥もコーヒー飲むか?」
「え……? あぁ、頼もうか」
そして壁際の戸棚へ向かい、コーヒー用具を取り出していく。
ゴポゴポゴポ
しばらくすると、静かな部屋に電気ケトルの中の水の沸騰する音がし始めた。
出来た熱湯をPは銀色のポットに移し替え、流れるような手つきでドリッパーに注いでいく。
濃厚なコーヒーの香り部屋に広がり、肺にまで達すると、昂っていた気分がリラックスしていくのを感じた。
「砂糖とコーヒーフレッシュはいるか?」
こちらに背を向けたままPが聞いてくる。彼がコーヒーを入れてくれるときにはお決まりの質問だ。たぶんもう十回以上あったと思うが、Pは相変わらず聞いてくる。
「砂糖だけもらおう」
ボクはお決まりの答えを返した。
Pが戻ってきて、お互いのマグカップとスティックシュガーをローテーブルに置く。
「さぁ召し上がれい!」
「ありがとう、頂くよ」
コーヒーのポテンシャルを引き出し尽くしたような豊かな香りが鼻腔をくすぐる。砂糖でまろやかになったコーヒーの苦味が、疲れた身体に沁み込んでいくようだ。
やはりPはコーヒーを淹れるのが巧い。
29: 以下、
「飛鳥と一ノ瀬ちゃんとでは、そもそもキャリアが違うしなぁ」
ブラックのまま一口飲んだPがそう切り出した。
「彼女は彼女で、アイドルになりたての頃は大変だったらしい。主に体力不足で」
「あぁ……ふぅん」
たしか飛び級でアメリカに行って研究していたのだったか。ステレオタイプかもしれないが、研究者と体力不足は親和性のあるイメージだ。
「まぁ、体力がついてきてからは、社内でも話題になるくらいの上達度だったんだけどな」
「………だろうね」
「でもやっぱり、今日飛鳥が見たみたいに、10分で一曲をマスターするなんて芸当はできなかった。今それができるのはこれまで色んな曲を歌って、色んなダンスを覚えてきた蓄積があるからだ」
「ふむ……?」
「色んなステップや振り付けを身につければ身につけるほど、コツは掴みやすくなる。それに、今回の曲はダンスの動きは大きいが、実は難易度は低めの振り付けで構成されている」
「うん……そうらしいね」
それはたぶん経験の浅いボクへの配慮なのだろう。今はそのお情けを甘んじて受けるしかない。
「そういう事情もあって、この曲でなら一ノ瀬ちゃんと近いことができるアイドルも何人かいるさ。あとはもう曲の流れや歌詞を覚えるだけ。たしかに一回聞いて覚えられるのはナカナカのもんだと思うが、飛鳥だって仮歌渡した一時間後にはほとんど覚えてただろ? ま、誤差だな」
「そう、だろうか……」
「飛鳥にはまだ基礎力が欠けてるからなぁ。経験豊富な天才を見たら、魔法か何かを使ったように見えるのも当然だ。まっ、基礎よりも実戦を優先して最前線にぶち込んでるのは俺なんだけどなっ! いやー、わりーわりー!」
Pが大げさに頭を掻いておどけて見せる。茶番だ……。だけど、地底に引きこもりたくなるくらいの劣等感と耐え難い焦燥感は霧散していた。
「………ふっ。まったくだよ」
この男は相変わらずボクをノせるのが巧い。
他人にモチベーションを左右されるなんてすごく癪なことだが、それが理解っていても何故か嫌な気分にはならない。彼の独特な雰囲気のせいだろうか。
「自分より秀でているところのある人間を前にしたとき、対抗心を燃やすのは悪いことじゃない」
「………」
「だけど、二宮飛鳥は歌手でもダンサーでも女優でもなく、アイドルだからな。曲を早くマスターするなんてことは、そもそも全然重要じゃない」
「で、でも……っ」
「もちろん、覚えが早いに越したことはない。その方が仕事の幅は広がるからな。それに当然、下手なパフォーマンスでも構わないというわけでもない。だが、やはりぃぃ……」
そこまで言ったPは意味ありげな微笑を浮かべた後、マグカップをあおりコーヒーを飲み干した。それから少し前かがみになって両膝に両肘をつき、口元を隠しながらボクを見つめ直す。そして、低く落ち着いた声で言葉を続けた。
「………そういう次元のことじゃないんだよ、アイドルに求められているのはな……っ!」
「……!」
くそう。結構カッコいいじゃないか。
「少なくとも一ノ瀬ちゃんは、その辺りのことをちゃんとわかっているだろう」
「っ……」
「なぁ。飛鳥はアイドルになって、何がやりたい?」
「それは……」
それはアイドルになって間もない頃に聞かれたことだった。でもそのときには曖昧にしか答えられなかった。
「いや、待て。アイドルに求められることと、ボクのやりたいことは分けて考えるべきじゃないか? アイドルとは偶像……他者に求められる姿を提示してやる存在だろう? だからこそ、この二か月だってキミの言う通り振る舞ってきたんじゃないか」
まぁ、Pの言う通りにしてきた理由の大半は、何を言ってどう振る舞えばいいか理解らなかったからではあるけれど。
幸いなことに“ミステリアスな中 学生アイドル”という世間のイメージには今のところ不満はない。そしてこういうイメージを作り上げていくことこそが“アイドル”を“プロデュース”することだと理解し始めていた。
30: 以下、
「これまではチャンスをものにするために、どうしても俺の言う通りに動いてもらわなくちゃならなかった。ンだが、その時期はもう終わりらしいな。この話題について触れざるを得なくなっている、ということ自体がその証拠だ」
「……理解らない。キミが何を言おうとしているのか」
「さあ、始めようじゃないか」
「いや、だから何を……?」
「そんなの決まってるだろ――」
Pがまた体勢を変える。前のめりだったのが背筋を伸ばし、セカイを抱擁しようとするように胸の前で腕を開いて……
「――ASUKA The Idol ……その Second Stage をさっ!!」
「っ!」
出た…! 約ひと月ぶりだ。
く、くそう。この男は……!
「他者に求められる姿を演じてやる……それも良いだろう。ああ、良いだろうともさ! それは確かにプロだし、卒なくやれば一流と言ってもいい。しかし。だが、しかし! “超”一流ゥ、では……ぬぁい!」
「ちょ、超一流の、アイドル……だと……!?」
「超一流のアイドルとはっ! ソイツにしかない輝きでぇ! 世界を! あ、この世界をぉ! 遍くぅ! 照らすぅ! 存在であるぅゥゥ!!」
「っ!!」
「予想の通り期待に応えてくれるのが一流ならば! 予想を裏切り! 期待を超えるのが! 超!一!流!! 初めて会ったときから分かっているんだぜぇ??? お前はファンの期待に応えるだけで良しとするような、そんな生ヌルイ奴なんかじゃないってな!!」
「くっ………くぅ??っ!」
理解っている。これは発破をかけられているんだ。それに気付いていながら、Pの思惑通りに焚き付けられてしまうことに反発を感じないわけではない。でも事実、胸に何か熱いものが灯り始めていた。
そしてそれが、どうしようもないくらいに燃え上がっていく。
「………フッ……ククク……ハハッ! 当然じゃないか……。上があるなら…一流の、上が、あるなら…目指すに決まっているよ。伊達に飛ぶ鳥の名を持っていないんでね!」
「はい、頂きましたぁーー!!」
「ぷっ……フフ……」
「じゃあじゃあぁ?、二宮さんちの飛鳥ちゃんはぁ?、どんな超一流のアイドル目指すぅ?? どんな光を放ちゃう??」
「……流石にちょっとウザいな」
「えっ、ひどくない?」
「フフッ!」
コーヒーを一口含み、優しいほろ苦さと一緒に雑念を飲み下す。
脚を組み替えて、天井を仰ぎ、目を閉じる。
頭の中は驚くほどフラットだ。
そこに自然と浮かび上がってきたフレーズを掬い上げる。
「ボクは此処にいる」
清々しくて、溌溂として、瑞々しい。とても懐かしい、そんな感情が胸に去来していた。
ガラクタの寄せ集めを宝物のように抱えて、そこら中を駆け回って……。今思えば荒唐無稽な時期だった。
あの頃は日常と非日常の狭間がボクの遊び場で、自分を壮大な物語に登場する主人公だと信じていた。
でもそれはもう遠い過去のことで――いや、違う。昔あった万能感は忘れてしまって久しいけれど、たぶんボクの本質はあの頃から何も変わっていない。
Pがボクをスカウトしたときの誘い文句である“非日常”というワードに無性に惹かれたのは、そういうことなのだろう。
セカイへのアプローチの仕方が変わっていただけなのだ。それが中二病という形態をとっているのは、我ながら業が深いというか……捻くれていると思わなくはないけどね。
ボクの声は届いているのか?
あの頃から連綿と続いている、セカイへの訴え。
ボクの特別は何だと問われれば、これを無視することは不可能だ。
そして、それをアイドルとして追求していくことは、悪くないと感じた。
目を開いてPを見ると、彼は不敵な笑みを浮かべていた。それは悪の首領のような邪悪さがあって、実に頼もしい。
31: 以下、
「どうやら、“至った”ようだな」
「お陰様でね。それでボクが目指すアイドルだけど――」
「いや、待て。今はいい」
「えっ?」
イメージの共有をしようとしたボクを、何故か彼は制止した。
「それは二日後のステージで見せてほしい。飛鳥が選択する、混じりっ気のないアイドル像そのものを見たいんだ。もちろん、俺のヘルプが必要なことなら言ってくれていいけどな」
「それは、まぁ、必要ないといえばないけど……。いいのかい? どうなっても知らないよ?」
「アイドルのやらかしに商業的価値を付加することが、プロデューサーの仕事なんだぜ?」
「……失敗するかも」
「アイドルに失敗はない。仮に失敗と呼ぶべきモノがあるとしたら、それは諦めたときだけだ」
Pは本気だ。彼の笑っていない瞳がそれを物語っている。
「……いいだろう。やってやる。ボクを焚き付けたこと、後悔しないでくれよ?」
「くはっ! 俺を後悔させるほどのことをやれたら大したもんだ! くくっ! そうだ。別にそれを狙ってくれてもいいぜ? 俺ならそれすらもプラスに変えてやるけどな!」
「減らず口を! ……フン。 まぁ、今回のところは精々真面目に取り組むさ。ボクにとって大切なことだからね」
「ソイツぁ残念だ!」
Pはケラケラと笑いながら彼とボクのマグカップをシンクに運び、手早く洗った。
それから「よし、晩メシ食いに行こう」と、PCをシャットダウンした。
「えっ、連れて行ってくれるのかい? って、ずいぶん急だな…」
「もしかして神崎ちゃんと予定あった?」
Pはあっけらかんと言う。蘭子を知っているらしい。いや、それよりも。
「何故ボクと蘭子が知り合いであることを知っているんだ?」
「あぁ最近、神崎P……神崎ちゃんのプロデューサーとよく飲みに行ってるんだよ」
初耳だが?
聞いてみると、三月末に中途採用で入社してきた神崎Pに社屋の案内をしてあげたのがPで、それが縁でよく情報交換をしているらしい。
そういえば蘭子が、あの人は24歳だと言っていたっけ。Pは25歳と聞いているから、歳が近い分、話も合うのだろう。いや、別にボクには関係ないことだけれども。
そうか。初めて会ったとき、彼女がボクのデビューライブの真相を知っている風だったのは、Pから顛末を聞いていたからなのかもしれない。
「アイツ、神崎ちゃんが飛鳥のことばかり話してくるって悲しんでたぞ」
「……へぇ。キミは蘭子のプロデューサーと随分と親しいみたいだねぇ?」
蘭子と会っていると、いつもどこからともなく現れて邪魔をしてくるあの性悪女を、ボクはもう敵と認識している。その敵をPが気安く“アイツ”呼びするのは、なんというか、こう……嫌な感じだ。
「そうかな? まぁ、飲みに誘えば大体来てくれるし、親しいっちゃ親しいか」
「へぇ?……。へぇ???………!」
なんというか、こう……色々、聞くべき、だと、思う。
「幸い、この後の予定はないからね。いいよ、行こうか、晩御飯。ボクからも是非お願いしたいね」
「よっしゃ。じゃあ、どこ行くかなー。何か食べたいものあるか?」
「こういう答えが望まれないのを百も承知で、敢えて言うけれど。食べるものは何でもいいよ。希望があるとすれば、騒がしくないところ、かな。ゆっくりと話ができるところが良い」
「ん??、オッケー」
Pに連れて行かれたのは、ボクの希望通り落ち着いた雰囲気の店だった。ダイニングカフェというものらしい。
薄暗くて隠れ家のような内装と、趣向の凝らされた料理は悪くなかった。
食事をしながら、蘭子のプロデューサーのことを聞き出してやるつもりだった。
しかし何を勘違いしたのか、Pがやたらと面倒くさい絡み方をしてきたので、彼女に関する話は早々に打ち切らざるを得なかった。
別にあの女とPの関係を聞きたかったわけじゃないんだ。蘭子とボクの間に入ってこようとする、あの女に対抗するための情報を仕入れたかっただけだというのに。
まったくもって面倒くさい!
32: 以下、
≪Review by 蜈?ココ蠖「≫
天界での天使の過ごし方は主に4つ。彷徨、閲覧、干渉、観測だ。
彷徨はその言葉の通り、空間を漂い彷徨うこと。それでセカイ線の合間を縫うように天界を移動していく。
閲覧とは既にあるセカイ線を見ること。覗き見するだけと言ってもいい。天使ならただ見るだけで、そのセカイ線の中で起きたことはどの時間においてもほとんど全てを把握できる。とてもお手軽だ。セカイ線の複雑さにもよるが、人間で換算すると大抵は小説の一文を読む程度の労力だろうか。
干渉とは特定のセカイ線に対し、天使の能力を以って手を加えること。たとえば、星の軌道を変えたり、A地点にある物質をB地点に転移させたり、未発達な知的生命体に高度な科学技術を与えたり。どのような方法を採るかは天使ごとに様々だ。その労力は人間の料理に似ている。とても単純なものから、極めて複雑なものまであったり、各自のセンスに激しく依るという点でも料理に似ている。そして、天使がセカイ線に干渉するとその時点から世界は分岐する。ただ、干渉をすれば必ず分岐が起こるわけではない。極軽微な干渉しかしていない場合は分岐が発生しないこともあった。分岐が発生するかどうかを決定づけるなんらかの閾値が存在しているようだった。
観測とは干渉によって分岐した新たなセカイ線の未来を確定すること。分岐してすぐのセカイ線というのはまだ未来側へ伸び切っていない。分岐させた後に放置しておいても勝手に伸びていくが、その度は天使にとっては非常に遅く感じられる。それ故、干渉後はその流れで観測までしてしまうのが普通だ。観測と言っても別に特別なことはしない。ただ“先が見たい”と念じながらそのセカイ線を見据えれば、見たいと思う未来までいくらでも見えるようになる。この労力は顕微鏡を使って単細胞生物をスケッチする程度だろうか。
干渉と観測にかかる労力の人間換算は極めて大雑把だ。というのも私は、干渉はただ一度だけ、そして観測は一度もしたことがないから。どの程度の労力かは他の天使たちの様子から推測してみただけ。
私が天界でしていたのは、専ら彷徨と閲覧だった。
私には“何か”を探すという使命があったので、彷徨しながら、数多のセカイ線を次から次へと閲覧し続けていた。それは無限にあると言っても差し支えないセカイ線の中から、ただ一つの“それ”を見つけ出そうという試みだ。いくら天使といえど、寿命が尽きてしまう前に見つけられる保証はない。だから私には干渉や観測をしている暇などなかったのだ。
33: 以下、
≪Observation by Asuka≫
六月中旬の週末。Dimension-3の初ライブの日。
プロダクションが毎週のように開催している大小様々な合同ライブの内、ボクたちが出るのは一番大きな規模のものだった。会場のキャパシティは約五千人。ボクの初舞台になった五月公演と比べれば六分の一の規模だけれど、普通にすごく大きい。ボクのような駆け出しなら、キャパ百人程度の一番小さな規模の合同ライブに出られるだけでも万々歳らしい。
しかもボクたちのユニットがトリを任せられていた。これらの好待遇はひとえに、超人気アイドルである一ノ瀬志希がいるユニットだからだろう。
―――――!!!
会場の歓声が楽屋にまで響いてくる。ライブの後半に入ってからというもの、すごい盛り上がりだ。
幸いなことに、ここまで何のトラブルもなく進行している。
他のアイドルたちは皆本当にいい笑顔をしていると思う。楽屋のモニター越しでもよく理解る。
ハイクオリティなパフォーマンスは当然として、それ以上の素晴らしい何かも確かに感じる。そういうのがPの言っていた“ソイツにしかない輝き”なのかもしれない。流石はこの会場でのライブに出ることを許された人たちだ。
今日のライブもそろそろ大詰め。もうしばらくすれば舞台袖に移動することになる段取りになっている。そんな土壇場にもかかわらず……
「へ??、あの続編やるんだ。評判よかったのかにゃ??」
「自分のやった仕事の評価ぐらい把握しておきなさい。この撮影は明後日から始まります」
「は?い」
志希と一ノ瀬Pさんは机に書類を広げて明日以降の仕事の話をしていた。彼女クラスのアイドルにとってはこの規模のライブにも慣れているのだろうけど、こんな時間の使い方が普通とは思えない。流石はギフテッドといったろころか。
一方、ボクはというと……
「………はぁ、はぁ………はぁ、はぁ……」
鏡台の前に座ったまま動けないでいた。
志希と対になる衣装で着飾っているけれど、明日のことはおろか、五分先を考える気にもなれない。
左の掌を握っては開いてを繰り返す。手足の末端は冷たくなっているのに汗をかいている。これはたぶん良くない汗だ。動いてもいないのに息苦しさを感じているし。
「飛鳥。コーラ飲むか?」
振り向くとPがペットボトルを差し出していた。数分前楽屋から出て行ったのはこれを買うためだったのか。
ペットボトルの中では黒色の液体が揺らめいている。ラベルからも理解るが、それは確かにコーラだ。
「キミな……いくらなんでも本番前に炭酸はダメだろう。ステージの上でゲップはしたくないよ」
「それだけか? ダメな理由は」
「他に何があるっていうんだ」
「おぉ??嬉しいねぇ??。俺との間接キッスが嫌じゃないとは」
「はぁ!? 何を――」
――言っているんだ、と声を張り上げようとしたボクの目の前で、Pがボトルをゆっくりと揺らした。その黒い水面はボトルの真ん中あたりでユラユラとして……いや、待て、半分くらいしかないぞ。このコーラ、Pの飲み差しじゃないか! 改めて見てみれば、何故気付けなかったのか意味不明なくらい明らかに飲み差しだ。
「飛鳥さぁ?、もしかして、しちゃってる?? き・ん・ちょ・う」
「……!」
注意力の欠如……。くそう。認めなくてはならない。ボクは緊張している。それもガチガチに。
「良い緊張と悪い緊張があるが、それは良い方じゃなさそうだな」
「くっ……」
「大勢の観客の前に立つ不安というよりは、飛鳥の“選択”に関しての不安といったところか」
「キミってヤツは本当に……」
Pの言う通りだった。いつもながら察しの良さが過ぎる。
昨日のレッスンと午前中のリハーサルから、志希との合わせに問題がないことは確認できている。レッスン通りに本番をこなせば、ライブは何事もなく成功するだろう。
なのに、ボクはわざわざイレギュラーなことをしようとしている。
それが失敗するかもしれないと思うと恐くなってくるのだ。
その恐ろしさに比べれば、五千人の前に立つこと自体の不安は小さなものだ。これと同規模のライブは北条加蓮たちとも出ているし、そもそも、ボクの初舞台はもっと多かったのだから。
34: 以下、
「やると決めた通りにやればいいだけなのに、何をそんなに硬くなることがあるんだい?お兄さんに言ってみな。さぁ、ほらぁ!」
あ、いきなりウザい。
志希と一ノ瀬Pさんがこっちを見てコソコソと耳打ちし合っているし。
「すいやせんねぇ、騒がしくして! うちの二宮がちょっとばかし緊張してやがりましてねぇ! いえいえ、心配ご無用でさぁ! すぐにビッとし――」
「フンっ!!」
「――ンおんっ!?」
思わず出た手だが、彼のアバラに刺さった貫手は効果的なダメージを与えることに成功したようだ。
脇腹を押さえながら「悪かった、落ち着け」と言うPを睨みつける。と、同時に手の先に体温が戻っていることに気付いた。
「やればいいだけって……。失敗したら、と考えずにいられるか……っ!」
「ふむ………二つ再確認だ」
脇の刺激から回復したPは、不敵な笑みを浮かべながらボクへ二指を向ける。
「一つ。アイドルに失敗はない。失敗と呼ぶべきものがあるとすれば……?」
「……諦めたときだけ」
「イエス!」
つい先日Pに言われたことだ。
Pはわざとらしいくらいの笑顔を浮かべて、続ける。
「二つ。アイドルのやらかしに商業的価値を付加することが、プロデューサーの仕事であり、そしてこの俺なら、どんなやらかしにも対応できる。これは誇張でも、冗談でもないんだぜ?」
「そんなこと言っても……!」
「大丈夫だいじょーぶ。プロデューサーウソツカナイネ。トラストミーナノヨ」
「っ……!」
ふざけた口調だが目だけは本気さを感じさせる。
「まぁ、まだ会って二か月くらいだし、俺の言葉も信じてもらうにはまだ付き合いが足りないかもしれないが……。うーん、あと十秒ってとこか」
「え…?」
「九、八、七、六――」
急にPがカウントダウンを始める。そのまま三、二、一、と進み、Pが楽屋のドアに掌を向けた、その瞬間――
コン、コン、コン
ドアのノック音が響いた。入室してきたのは会場スタッフで、そろそろ舞台袖へ向かって欲しいとのことだった。
「ま、こんなのじゃあ、何の説得力もないけどな」
「……ったく、出鱈目だなキミは……」
そろそろ呼びに来るとは思っていたけど、ドンピシャで当てるなんて。どこまで人の動きを読めば可能なのか。こんな芸当を目の当たりにすると、どんな事態にも対応できるというのもあながち嘘ではないのかもしれないのでは、と思ってしまう。
「おっ、効果あった?」
「まぁ……少しは、ね……」
「そりゃ良かった。分かってもらえてところで、コーラ飲むか? アイドルのゲップなら寧ろ――」
「フンっ!!」
「――ンおんっ!?」
まったく、本当に小憎らしい男だ。
いつの間にか彼のペースに巻き込まれている。それが悔しくて……いっそのことわざとやらかしてやって、Pをヒーヒー言わせたい気さえしてくる。
だが妙に清々しい気分だ。五体には熱が灯っている。理解る。これは闘志だ。
Pとのくだらない会話を経て、結果的に精神コンディションは最高の状態を迎えていた。
35: 以下、
舞台袖に到着。あと数歩進めば観客の顔が見える位置で、志希と二人待機する。
Pと一ノ瀬Pさんはボクたちから離れた壁際で何か談笑しているようだ。
目と鼻の先のステージの上では、ボクたちの一つ前のユニットが今まさに歌い始めたところ。歌の後にしばしのトーク時間があるが、ボクたちDimension-3の登壇まで10分を切っている。
ステージの前に志希と二人だけで話すには、今が最初で最後のタイミング。
ボクのやろうとしていることについて、流石に彼女には事前に伝えておくつもりだった。本当はもっと早く伝えるつもりだったけれど、今日は一ノ瀬Pさんが常に志希の傍にいたからできなかった。まぁ、天才娘ならこのタイミングでも十分だろうとは思っていたけど。
そこで志希を見ると、既に彼女はボクを見ていた。
「ねぇねぇ、何か企んでるよね?」
「っ……!」
彼女から話しかけてくるのは相当に珍しく、その驚きも相まって口籠ってしまう。
いやそれより、何故分かった?
「ドーパミンとアドレナリンの匂いがすごいよ?。面白いことしてやろうって企んでる匂いだね」
天才というのはいつも想像を超えてくるものなのか。だが、匂いという物理的根拠がある分、Pの真正の曲芸よりは良心的かもしれない。
「……その通りだよ。黙っていて悪かったね。ちょうど今からキミにも伝えようとしていたんだ」
「そ?なんだ?。そのまま黙っておいてね?」
「……なんだって?」
「だって、サプライズなんでしょ? 聞いちゃったら面白くないじゃん。志希ちゃんもサプライズされた?い」
「は? ……ボクが何をするかもわからないのに大丈夫なのか?」
「ワオ! それはベリーエキサイティングだね!」
「……」
「最近刺激的なコトに飢えてたところなんだ。別にステージを台無しにしてやろうって悪意があるワケじゃないよね? ならいいよ?、存分にやっちゃってよ?。志希ちゃんアドリブで合わせるから?♪」
身振り手振りは飄々として、でも目は笑っていない。
正気なのか…? 狂気が一周回ってる? ああもう、本当に天才というやつは……!
「……理解ったよ。そこまで言うならボクは自重も遠慮もしない」
「にゃはは?。楽しくなりそうだにゃ?。今日失踪しなくて良かった?」
「フッ……よろしく頼むよ」
それから数分して、前のユニットがパフォーマンスを無事に終えた。
場内は暗転。彼女達が舞台袖に戻ってくるのを待って、ボクと志希はステージへと駆け出し、所定の位置につく。
そして、照明の復活と同時にDimension-3のステージが開幕した。
36: 以下、
疾走感のあるピアノとギターのサウンド――百回以上聞いてきたイントロに同期し、顔を覆っていた腕を回し上げていく。
開けた視界の先にはローズピンクに輝く海が広がっていた。志希のカラーの数千本のサイリウム。網膜がチリチリとして、身震いを禁じ得ないほどに壮観だ。その合間を縫って波の飛沫のように点々と灯るバイオレットは、嗚呼……ボクのカラーじゃないか。ボクへ捧げられたその紫電の光は、全体の一割にも満たないだろう。でも、割合なんて関係ない。
ボクなんかの為にキミたちは!
体温が急上昇。吐く息は気炎と化している。正体不明のエネルギーが漲る。
ノセろ。アゲろ。オーディエンスを。ボク自身を。
紫電の一つ一つへ、とびっきりに不敵な笑みを送りつけてやる。毎日のようにアイツに見せられているのよりも更に不敵で不遜なヤツだ。この胸いっぱいの激情を籠めて。
「――ッ!」
あれだけ練習した振り付けがいとも容易くブレる。喉に覚え込ませた音階があっけなくハズれる。しかし許容範囲内。決してお粗末なパフォーマンスにはなっていない。それが理解る程度にはキツいレッスンを積んできた。
そもそもこれだけの熱量を捧げられているのにレッスン通り歌い踊るだけなんて、不誠実極まりないじゃないか。
志希と視線が合う。
結局、彼女と合わせの練習ができたのは10回にも満たなくて、しかも終始彼女はボクに無関心だった。目を合わせたのもあくまで振り付けとしてだけ。でも今、志希は確とボクを見ていた。その顔はボクと同じに不敵に笑っていた。
彼女のムーブにはムラがある、クセがある。
志希ならば受けた熱量をそのまま完璧な歌とダンスに昇華できるだろうに、以前宣言した通りにボクに合わせてくれているのだ。いや、違うか。事ここに至っては、最早どちらがどちらに合わせているのかなんて区別できないし、する意味もない。光の海のうねりが全てだ。
これはマズイな。堪らない快感がある。病みつきになったらどうする!
序盤のサビを過ぎ、数十秒間のダンスタイムに突入する。
だけど。そこでボクはピタリと止まってやった。
「――ッ!?」
即座に志希はそれに気付いた。志希の瞳が猫のように見開かれる。
舞台袖にいるスタッフたちに緊張が走る。何かあったのかと固唾を呑んでいる。たった一人を除いて。
オーディエンスにも不自然さを感じる者が出る。
刹那の間に全方向が見えた。見えるはずがないのに、何故かボクには見えていた。あり得ないほどに集中力が高まっているのか。
口上はもう決めてある。さぁ、覚悟を決めろ。
観客の注目を十分に惹きつけてからボクは訴えかける。
「何故! キミたちは此処にいる!? 何を求めて此処に来た!?」
先刻までの盛り上がりがすべてクエスチョンへと移り変わる。
口上の内容と歌詞の一致性についてなんて考えるな。勢いだ。勢いだけでボクは駆け抜ける。
細かい点にはこの際目を瞑ってもらおう。いや案外、疲労感も相まって彼らの頭の中は空っぽだったりして、メッセージを刻み込むには丁度いいかもしれない。もっとも、元からここまで考えていたわけじゃないけれど。まぁ、すべてPの責任なのだし、もう進んでしまえ。
「フフ。理解っているよ! 心の何処かで求めているんだろう? 新しいセカイへの扉を! 心奪われる瞬間を!」
遠い過去の記憶にさざ波が立つ。セカイの秘密に触れた瞬間の感動が胸に蘇る。
「だったら、曝け出せ! 熱くなれるモノを! 青くて痛い、等身大の衝動を!」
手応えを感じる。ボクの叫びがオーディエンスに沁みていく手応えを。
「セカイの扉の“その先”へ、ボクたちが連れて行ってやる! だから――」
大きく息を吸い込む。体中のエネルギーを使い果たすつもりでやってやる。
「――魂の叫びを上げろォォーー!!」
これはたぶんボクの独善的な願望。しかし確信している。
セレンディピティ? センス・オブ・ワンダー? いや、もっと素晴らしい“何か”。ソレは確かに在ったんだ。
ボクはそれをもう一度感じたい。そして、それを他の人にも伝えられるとしたら……。こんなに素敵な事、他にあるだろうか?
方法はまるで理解らない。アイドルという選択でそこに至れるのかも理解らない。そう思っていた。五秒前までは!
37: 以下、
「――!!」
コレは何だ!? この異常なまでの高翌揚感は!
万能感? まさかアイドルこそがセカイの扉だったとでもいうのか!?
堪らない!
それにしても我ながらなんて痛さだろうね。歌の最中に語りを入れるなんて。
嗚呼! 本当に堪らない!
―――――!!!!
ボクの意志が届いたどうかはすぐに判明した。旋律を掻き消す程の叫びが返ってきたから。
サイリウムの群れは狂乱じみた動きを見せている。
一方、舞台袖では皆唖然として、しかし、アイツだけは邪悪な笑みを浮かべているのを感じた。
どうだ、P。これがボクのオリジナルな衝動だ! 満足か!?
ダンスパートの終了と同時に正規の振り付けに戻り、歌唱を再開する。
また視線の合った志希の額に、先程までは無かった汗が滲んでいた。
そのときふと思い至った。ひょっとすると志希が想定していたボクのサプライズというのは、高々ダンスのフリを変えるとか、歌の後のトークパートにおいてとか、その程度だったのかもしれないと。
普通そう考えるか。当たり前か。素人アイドルがぶっつけ本番でこんなことをやるなんて、リスキー過ぎる。ボクがこんな選択を採れたのは、Pに発破をかけられたからだ。いくら志希でも彼の口車の巧さは想定外だろう。
しかし最早何もかも遅い。賽は投げられてしまった。
ルーキーのボクが煽りなんてしたんだ。ファンからすれば、志希だってしないと釣り合いが取れない。
じゃあどうやるか、何を言うか? それを志希は一分足らずで、しかもパフォーマンスをしながら考えなくてはならない。そんなこと非現実的だ。だから事前に伝えようとしたのに!
ボクに付き合わず、正規のパフォーマンスを通すという選択肢もある。だけど志希はそれを選ばないだろうということはすぐに理解った。
「――にゃは!」
笑っていたのだ。それはこれ以上ないくらいのギラついた笑みだった。
猛獣を想起するほどの気迫を纏いながら、その実、志希の頭蓋の内は絶対零度よりもクールに超回転している!
曲は終盤に差し掛かり、ここで二度目のダンスタイムに入る。そこでやはり志希はきた。
「ねえ! キミたちの21グラムの叫びはこの程度!?」
志希がダンスを止めて煽りを始める。舞台袖では彼女のプロデューサーが悲鳴を飲み込んで呻いていた。
「全っ然聞こえないよ?! ホントにキミたちはそこにいるのかな? あたしたちはいるよ! ここに!!」
志希の口上を聞き、危うくボクはダンスを止めてしまいそうになった。志希が今言ったことは、もし彼女が煽りをしなかった場合に、ボクが言おうとしていた内容と酷似していたからだ。ただの偶然なのか、それとも……!?
「同じセカイにいるなら無限遠にだってきっと届く! だから――」
志希がこちらへと手を差し伸べ、ボクはノータイムでその手を掴む。それが出来たのは、そう来るという謎の確信があったから。
お互いの手を力いっぱいに握り合い――
「――叫んで!!」
「――叫べ!!」
同時に声を張り上げる。客席からは雷鳴のようなコールがやってくる。
いつの間にか志希への一方的な対抗心は霧散していて、今はもう彼女へは深い尊敬の念だけがあった。
志希のボクへの無関心も過去の話。彼女の底なしの好奇心がボクに向けられているのを感じていた。
理解った。共鳴だ。
ボクたちは重なり響き合っている。だからお互いの考えが見えるのなんて当然だったんだ。
曲はクライマックスを迎える。
ボクたちのパフォーマンスは練習の時とはかけ離れたものになっていた。繋いだ手をお互い離したくないんだから仕方がない。でも、ボクたちの歌とダンスは今が一番調和していると断言できる。聖さんもきっとそう言ってくれると思う。まぁ、散々叱られた後でだろうけどね。
「―――ハァッ……ハァッ、ハァッ……!」
最後の詞を歌い切り、無心でファンたちを見つめる。
―――――!!!!
アウトロの残滓が消えてなくなる頃、堰を切ったように喝采が溢れた。それはトリを任されたユニットとしては十分なものだったろう。
38: 以下、
その後のトークパートでは志希の高すぎるテンションとハスハス…? にかなり苦戦させられた。
今日表現すべきことは全てやり切っていたとはいえ、志希を引きはがそうとすることに忙しくて、碌に喋れなかったのは反省点だ。それでもファンは盛り上がってくれたから、一先ずは良しとしようか。
こうして、Dimension-3の初舞台は終了した。実に濃厚な時間だった。
楽しかった。掛け値なしに。
舞台袖に引っ込むと、即座に一ノ瀬Pさんが駆け寄ってきて志希を問い詰める。
「あ、あ、あ、貴女は何てことを!! 二宮さんはまだアイドルになったばかりなんですよ!? なのにあんなマイクパフォーマンスをさせるなんて!!貴女って人は本当に…ほんっっとうに……っ!」
あぁ、マズイ。この人、志希が計画したと思っているようだ……。
「やだなー。アレは飛鳥ちゃんのサプライズだよ。志希ちゃんはそれに合わせただけ?」
「ええっ!? 二宮さんが……っ!?」
「ぅっ……」
驚愕、といった目を向けられる。眉間の皺がすごい。整った顔が台無しだ。
どう言い訳したものか悩ましい。というか、急に襲ってきた疲労感で頭が回らない。
「ええとだね……なんと、いうか……その……」
「すいやせん先輩!」
ぬらりと現れたPが、ボクと一ノ瀬Pさんとの間に入ってくる。
「俺がねぇ、言ったんですよ! 一ノ瀬ちゃん相手なら何やっても何とかしてもらえるから、胸を借りるつもりで好きにやれって」
「むっ……P君が……」
「いやー、さっすが一ノ瀬ちゃん。痺れましたわー! 完の璧! 咄嗟の対応であれだけ盛り上げるなんて、他の誰にも無理ですよ! あぁもう鳥肌が止まらないっすわ! 先輩もそうっしょ!?」
「むっ、むっ……まぁ、そうだが……。ううむ…P君が承知していたのなら、問題はないのだろうが……って、キミは近いな相変わらず……!」
一ノ瀬Pさんへとすり寄るP。大人の男が二人して仲睦まじく肩を寄せ合うような感じになっているのは、片方が美青年だとしても目を逸らしたくなってくる。
「大成功だったんだからいいじゃ?ん。ライブであんなに盛り上がったのはホント久しぶりだにゃ?。てことで志希ちゃんもう電池切れ?。プロデューサー後よろしく??」
「あぁ、もう! ちょっと! 志希さん!?」
志希が彼の背中にしがみついておんぶを強要すると、渋々といった形で彼は志希をおぶったまま楽屋に向かい始めた。
どうにか有耶無耶にすることに成功したようで、志希は振り向いてボクにウィンクをしてきた。それに対し、ボクは手を振って感謝の意を伝える。
「飛鳥ちゃんまたね?。次のオシゴト楽しみにしてるよ?」
「あぁ……ボクもだよ。志…一ノ瀬さん」
「にゃはは、志希でいいよ?。あでゅ??」
志希のプロデューサーという最後の山を越え、完全に気が抜けた。
そういえばボクたちのステージをPはどう感じたのかを聞こうと彼を見ると
「っ!?」
口角はつり上がり、目尻は垂れ下がり、いっそ繋がってしまいそうな……! いや、彼流の満面の笑顔なんだろうけど悪魔じみていて、率直に言って不気味すぎるっ! しかもジリジリ近づいて来ているし……!
「飛鳥ぁ???」
「な、な、なんだP……ちょっと、こわ……」
瞬間、Pが目にもとまらぬさで腕を振り回す! そして。
「Good job!」
ダブルのサムズアップ。
どうやらPにも満足いくステージだったらしい。
改めて感想を聞くと「最高にアツいステージだった」とのこと。ステージの上で感じた彼のニヤつきは本当だったらしい。
39: 以下、
楽屋に戻ると志希たちはもう居なくなっていた。さっさと帰宅したようだ。彼女らしい。
ボクとPは他の出演者へ挨拶回りをすることにした。その先々でDimension-3のパフォーマンスについて賞賛を受けることになったのだが、嬉しいやら気恥ずかしいやらで、一周する頃には疲労がより一層深まっていた。
「飛鳥のこれからのアイドル活動の方針は、また改めて話し合うとして……」
「ふむ……」
再び戻ってきた楽屋にて。
Pがわざとらしくお腹を摩りながら時計を見る。夕食を食べるには少し遅いぐらいの時刻になっていた。つまり!
「腹減った!飯食い行くぞ! 打ち上げだ打ち上げ!」
「ふむ!」
意識した途端にお腹が飢餓感を訴えてくる。
「しかし、P。今日は記念すべき日だ。理解っているよね?」
「こういうときは焼肉にと相場が決まっている!」
「ふむ! ……いや、一言に焼肉と言ってもピンからキリまである。その中でキミはどういったお店に誘ってくれるのかな?」
「もちろん! 高!級!店!だ! 接待してやるぜぇ?飛鳥?」
「フフフッ! 悪くないっ!」
肉の焼ける情景に想いを馳せると、耐えきれずお腹をくぅと鳴らしてしまった。が、それはドアをノックする音にかき消された。
入室を許可する声を掛けると、ドアが勢いよく開く。
「ハーッハッハッハ! 実に絢爛豪華な舞台であったわ!」
訪ねてきたのは蘭子だった。
「蘭子!来てくれていたんだね」
「うむっ! 堕天使たちの闇の競演……その熱量は今も尚、心の臓を焦がし続けている」
感動を噛みしめるように左胸を手で押さえる蘭子。その頬は上気している。
「特に! 白銀の騎士と薫香の錬金術師の輝きは別格であったわ! 実に、実に……! すごかった……ほんとに……。飛鳥、かっこよかったーー!」
「あぁ……! 嬉しい。他の誰に言われるより、蘭子にそう言ってもらえるのが一番嬉しいよ……!」
自然に蘭子へと手が伸びる。繋いだ手からは彼女の白い肌からは想像できないくらいの熱を感じた。
「キミが神崎蘭子ちゃんかぁ?。実物もかなりイケてんねぇ?!」
「何奴!?」
「あぁ、彼がボクのプロデューサーのPだよ。見た目は胡散臭いけど、明らかな悪人ではない、かな」
「えっ、それが俺の紹介? ひどくない?」
「むむむ……我が導き手から聞いていた通り、尋常ならざる気を感じる……」
「神崎ちゃんまで!?」
それから改めて二人は自己紹介をし直した。
「あぁそうだ。これから打ち上げに行くんだけど、蘭子も一緒にどうかな?」
「なんと! 最後の晩餐か!?」
「いいね!来なよ、神崎ちゃん!」
「あっ、でも……」
蘭子が言い淀んだそのとき――
「打ち上げ?」
――楽屋のドアの隙間から覗くのは氷を想起させる冷淡な瞳……くっ、やはり来ていたか。
「おっ、一緒に行くか?」
「おい、P……!」
「………」
ヌルりと楽屋に入ってきたのは蘭子のプロデューサーである神崎P。やはり呆れるほどに美人だが、顔面に貼り付けている仏頂面でいろいろと台無しだ。そしてボクには挨拶も、一瞥すらもない。
「……中華?」
「いや、焼肉だが……あぁ、そっかお前中華じゃないとダメなんだっけか」
「食べられないというわけではないのだけれど…。その焼肉店に麻婆豆腐はあるの?」
「たしか無かったなー。あっ、キムチならあるぞ」
「キムチ………」
偏食の気があるのだろうか? まぁこの女のことなんて興味ない。
そんなことより、“焼肉”のワードに蘭子が著しい反応を示したのをボクは見逃さなかった。
40: 以下、
「別に無理してまで来てもらう必要はないよ。人には好みがあるからね。一生のうちで食事を楽しめる回数にも限りがあるし、食べたいものを食べるべきだ。麻婆豆腐が食べたいなら中華屋へ行くべきだ。うん。でも蘭子は焼肉食べたいだろう? すごく良い肉を出す店らしいんだ。どんな高級部位も食べ放題だよ、Pの奢りで」
「や、やき……にく……たべほ………で、でも……」
そこでやっと神崎Pが凄まじく鋭い眼光をボクへ向けてきた。すごい迫力だが、幾度も受けてきたお陰でもう耐性ができているんだよ。ガン無視だ。
「よし、決まりだ。すぐに準備するから少しだけ待っててくれ、蘭子」
「え、あっ……あ、飛鳥ぁ?……」
「あぁ、貴女はどこでも好きな中華屋に行くといい。ということで、ここでサヨナラだ。おっと、こちらの方が良いかな。闇に飲ま――」
「私も行くわ。焼肉」
「――チィッ!!」
過去最大級の舌打ちが自然と出た。
「キミらなんなん? 仲悪過ぎない? 神崎ちゃんも困ってんじゃん」
「いや、蘭子を困らせるつもりは……」
「さっきの飛鳥は……ちょっと…意地悪だったと、思う……」
「なっ!?」
「ふっ……」
ほくそ笑みやがって……って、この女も笑えるんじゃないか。まぁ全然良い笑顔じゃないけど。
「オイオイ仲良くしようぜ? そうだ、お前ら握手しろ、握手」
「はぁ!? なんでボクがこの女と……!」
「ハッ、こっちから願い下げよ」
「もー! 二人ともー! 握手して、仲直りして! じゃないと……」
「じゃないと?」
「じゃないと……えっと……」
「じゃないと、焼肉屋には俺と神崎ちゃんだけで行くことになる」
「ぴっ!?」
「は?」
「は?」
悪い顔をしながらPが蘭子に何事かを耳打ちする。ビクつきながらそれを聞いていた蘭子は次第にウンウンと頷き始め、挙句
「二人が仲直りしないと、ホントにPさんと二人で行くからね!?」
と、のたまった。
蘭子は冗談と思っているようだけど、Pはいざとなれば口八丁を駆使して本気でやるつもりだぞ? そもそも、ボクのライブの打ち上げのはずなのにボクが行かないというのは意味不明なのだが、蘭子の言質を取られた時点でボクは従うしかなかった。
Pの人となりを知っているらしい蘭子のプロデューサーも同じことを思ったのか、実に嫌々といった風に手を差し出してくる。
「ライブの成功で気が大きくなっているようだけれど、勘違いしないこ、と、ね……!」
「ッ!?」
差し出した手が物凄い力で握られ骨が軋んだ。
「あの程度、蘭子の力からすれば無きに等しいわ」
「……キミの言うことはいつも具体性に欠けるね。ただ蘭子をボクに取られるのが怖いだけなんじゃない、か、なっ!」
お返しに手の甲に爪を立ててやる。
「………! 言っても、どうせ貴女には理解できないもの」
「なんだと?」
「でも、そうね。来週の蘭子の初ライブを見れば、貴女のような凡俗にも私の言わんとしていることが理解できるはずよ」
「……へぇ、蘭子の初ライブか。必ず予定を開けておくよ」
「貴女の唖然とした顔が今から目に浮かぶわ。アハハハ」
「ボクには嫉妬に歪むキミの顔が浮かぶけどね。アハハハ」
嘲笑し合うボクたちを見て、蘭子が「仲良きことは美しきかな!」と目を輝かせている。キミにはそう見えるんだね。本当に蘭子は素敵な女の子だよ。
それに引き替えPのヤツは、全て理解った上でいやらしい笑みを浮かべやがって。この後覚えておけよ……。
鼻持ちならないことは多々あったけれど、焼肉自体は最高だった。
ボクと蘭子は特選肉だけで胃の限界に挑み、神崎Pは淡々と全メニューを制覇し、Pの財布はすっからかんになった。
41: 以下、
≪Review by Asuka≫
“21グラム”と聞いて、人は何を思い浮かべるだろう?
アスパラ一本分の重さ? 五百円硬貨三枚分? 昨日から増えてしまった体重?
20世紀初頭にアメリカのとある医師が発表した説によると、21グラムとは魂が持つ重さなのだという。
その医師は今際の際にある患者の体重の変化を記録することを試みた。そして死の瞬間の前後で、呼気に含まれる水分や汗の蒸発とは別の“何らか”の重量が失われていることを突き止めた。
不可解に失われたその重量が21グラムであり、彼はそれが魂の重さだと考えた。死ぬことによって人間の肉体から魂が離れ、21グラム体重が減ったのだと。
この説が発表されるや否や、世間では大変な議論が巻き起こったそうだ。
20世紀初頭というのは、科学とオカルトが交じり合っていた最初で最後の時代なのかもしれない。
インターネットは勿論のこと、テレビも無く、ラジオ放送さえもまだ始まっていない時代。電話の利用は始まっているが、情報を得る手段はほとんどが新聞か伝聞。
生活の中に導入され始めていた科学は、学のない人間には魔法のように思えただろう。眉唾物の噂話が一人歩きして、都市伝説化していくのも容易に想像できる。
かと思えば、魂21グラム説が唱えられる二年前には特殊相対性理論が発表されたり、量子論についての研究もすでに始まっている。
そんな時代で起こった21グラムについての議論の行方だが、現代人が良く知るように――いや、現代人が良く知らないように、と言うべきか――結局はただの似非科学と断ぜられて、今ではもうオカルト愛好家と一部の映画好き以外に注目されることはない。
ボク自身、先日のライブで志希が口にしなければ、こんなオカルト話を思い出すことは無かっただろう。たしか、小学校の図書室にあった子供向けのオカルト本の中の一ページが、このテーマについてだった。当時は「へぇ?」と多少の興味を引かれた記憶があるけれど、今となっては流石に荒唐無稽なオカルト話だと思う。
しかし、それはそれ、これはこれ。
中二病学的見地から見ればこの説には浪漫がある。
まず、“魂”なんてそもそも実在性からして怪しいのに、存在していることを前提にしていること。さらに、見たこともない魂に重さがあるという仮定を立てていること。そして、ある意味でシンプルだけど倫理的に問題のありそうな方法で、その重さを計ろうというところ。どれをとっても、科学の恩恵を受けまくっている現代人からは普通は出て来ない発想だ。
21グラムあれば何ができるだろう? ちょっと探してみた。
マイクロSDカードは一枚あたり0.4グラムだけれど、現時点では最大で1テラバイトの容量のものが存在するようだ。マイクロSDカードを21グラム分というと、約52枚になる。つまり21グラムあれば52テラバイトの情報を記録することができるということ。途轍もなく膨大なデータ量だ。なるほど。これだけのデータ量があれば、人間を人間たらしめる全ての情報を記録することも不可能ではない気がする。まぁ、実際に出来るとしても、マイクロSDに魂は入れたくないけれどね。
質量エネルギーというものもあった。ボクが学校で習うのは数年先になるのだろうけど、小説か漫画で見たことがある。相対性理論の中に出てくる方程式“E=mc^2”が示す、質量とエネルギーの等価性のことだ。この方程式をちゃんと理解することなんて今のボクにはできないけれど、雑に言えば、質量が失われるときにはエネルギーが発生する、というようなことを意味しているらしい。たとえば、1グラムが消えてエネルギーに変換されたとすると、約90テラジュールの熱量になるのだと。こう書いてもよく理解らない。でも、その熱量は長崎型原爆の破壊力とおおよそ同じ、と聞くとその凄まじさが理解る。つまり、もし21グラムの魂がエネルギーに変換しやすい性質のものであった場合、21回の原爆魔法が……いや、流石に不謹慎だな。ともあれ、魂を削って大きな力を発生させるという設定は、実に中二的で美味しいと思う。
魂の重量を計る試みが成功していたのか否かについては、今ではもう分からない。少なくとも彼の測定方法には杜撰さがあって、現代ではそっぽを向かれているというのが現実だ。でもそれは、魂に重みがないことが証明されたということではないし、魂の存在が否定されたということでもない。
脳が作る性格とか理性だとかとは異なる“何か”。魂と呼ぶべきものが実際に存在しているかどうかは未だに、ただ、不明なだけ。有るかもしれないし、無いかもしれない。シュレーディンガーの魂……はちょっと違うか。
案外、科学が発展していけばすんなりと解明されたりするのかもしれない。
アイドルになる前、ボクは魂の存在なんて信じてなかった。いや、その実在性について深く考えることさえなかったという方が正確か。
でもボクは今、魂は存在すると直感している。
蘭子と出会ったからだ。
蘭子と出会った日に震えた、ボクの中の“何か”。その振動は蘭子と会う度にどんどん強くなっていく。その振動はボクに力を与えてくれている。
この不思議で素敵な感覚を、仲が良い、とか、相性が良い、なんて言葉で済ましたくはなかった。
42: 以下、
≪Review by 蜈?ココ蠖「≫
天界においては誰かに命令されることは一切なかったため、天使たちは皆好き勝手に過ごしていた。
その代わり、ただ1つだけルールがあった。それは『セカイ線を崩壊させてはいけない』というルールだ。
天使がセカイ線に干渉を行うと、そこでセカイ線は分岐して新たなセカイ線が生まれる。通常は引き続き観測を行いその新たなセカイ線を確定させるのだが、観測をせずに、天使がセカイ線の中に侵入することがある。それはつまり、3+1次元の空間により高次元の存在である天使が割り込むということであり、それによって生じた歪みは新しく芽吹いたセカイ線をあっけなく崩壊させてしまうのだ。
崩壊させられたセカイ線に存在していた全ては、どうやら崩壊を齎した天使に吸収されるようで、直後の天使は明らかに生命力を漲らせていた。
しかし、その無法者の天使もすぐに罰を受けることとなる。天使よりも更に高次の存在がどこからともなく現れ、まるで象が蟻を踏み潰すように、圧倒的な力によって天使を消滅させるのだ。
他の天使がセカイ崩壊を起こす瞬間は何度となく目撃したが、例外なく高次存在は現れ、極刑を与えた。
それゆえ、セカイ線を崩壊させようなどという輩は、死期が迫り一か八かの賭けに出たか、狂っているか、自殺志願者のいずれかだった。
ほとんどの天使にとってセカイ線やその内側の生き物は、玩具か実験動物のようなものだったようで、セカイ崩壊が起こっても皆あまり気にしていないようだった。
しかし私にとって、セカイ崩壊はとてもおぞましいことだった。セカイ線の内で暮らす彼らは存在する次元と出来ることが違うだけで、実際には天使と本質的な違いはないと考えていたからだ。
彼らにも天使のものと変わらない魂があった。おそらくは肉体を持っているかどうかの違いしかない。天使とは、肉体を持たず“魂そのもの”になった存在なのだと思う。
天使が絶対的な能力を有しているのは、己自身を、つまり魂の力を自在に扱えるから。
セカイの内側の彼らも、魂の力を操ることが出来さえすれば、天使と同等の存在になれるはず……。私はそう考えていた。
しかしこの考えには、彼らが魂の力の扱い方を身につけるのはほぼ不可能だという問題があった。
干渉によってその方法を教えてやることは極めて難しい。天使は生まれながらにして魂の力を引き出すことは出来るが、その感覚は余りに曖昧で教えられる類のものではない。身も蓋も無い言い方になるが、出来て当たり前だから出来るだけ。人間が教えられるまでもなく、また意識することなく、呼吸が出来るのと似ている。呼吸の仕方を知らない者に対し、どれだけ丁寧に呼吸の仕方を説明したとしても無駄なのだ。
彼らの中にも稀に魂の力を引き出す者はいた。しかし、それは偶発的に起こった一回限りのまぐれであることがほとんどで、しかも本来のポテンシャルからすれば極めて小さな力だった。
その“まぐれ”を何度も繰り返し、魂の力にアクセスする感覚を掴むことができれば光明はあるのだが……。神崎蘭子に出会うまで、それが出来る者はただの一人もいなかった。
43: 以下、
≪Observation by Asuka≫
Dimension-3の初ライブから一週間が経った六月下旬。
毎週末、各地で開催されている小規模合同ライブが蘭子の初舞台だった。会場はキャパ約150人のライブハウスだ。
ボクがこれまでに出たライブと比べると遥かに小さいが、会場の熱気は変わらない。寧ろ、狭い分だけ濃密かもしれない。
ほぼ満員の観客に混じって、ボクとPはフロアのやや後方に陣取っていた。会場は狭いから、ここからでもよく見えるだろう。
「まぁ、こんなものか……」
ライブは終盤に差し掛かっている。
この小規模合同ライブに出てくるのはまだ経験の浅いアイドルがメインらしく、そのパフォーマンスの完成度は低めの印象だ。中にはお粗末と評価せざるを得ないようなユニットもあった。
ボクと同じ日にスカウトされた蘭子は、つい先日からレッスン以外にもゴスロリ系のファッション誌のモデルや、ちょっとした動画配信も始めているが、観客の前に直に立つのは今日が初めてだ。
そんな駆け出し無名アイドルの蘭子が、最近のアイドル界では珍しくソロユニットでデビューをする。しかもトリ。小規模ライブとはいえ新人がトリを任されるのはかなりレアケース、もとい、結構な好待遇らしい。
アイドルが掃いて捨てるほどいる昨今、初舞台がデパートの屋上のヒーローショーなどの前座になるのはザラ。小規模ライブだったら御の字という具合。しかもトリなんて、一体どれだけ期待の新人とやり手のプロデューサーなんだ? …というのが社内での認識のようだ。
まぁそういう観点からすると、一ノ瀬志希とボクのキャリアは異常としか言いようがない。ダブルスーパーレアの上がバグで出てしまったようなものだろう。
「蘭子……大丈夫かな……?」
キャラクターを演じているときの蘭子は自信に溢れているけど、素の彼女は気弱なところがある。そんな彼女が初めて人前で歌とダンスを披露するなんて。しかも通常よりも重いプレッシャーのかかるシチュエーションだ。
ボクのときはPの巧みな誘導によって緊張を良い意味で有耶無耶にできたけれど……。蘭子はどうなのだろう?
「次だな。神崎ちゃんのお手並み拝見といこうか」
隣のPが薄い笑みを浮かべ、腕組をして待ち構える。
フロアの雰囲気はどちらかと言えば散漫。
つい今しがた歌い終えたのは何度か中規模ライブにも出たこともある、人気急上昇中のユニットだったらしい。つまり、蘭子を知らない観客にとっては実質トリのようなもの。
なんでトリに無名のアイドルが演るんだ、なんてネガティブな呟きもそこかしこから聞こえてくる。
ボクはただ、蘭子が無事にライブを終えることを祈っていた。どうか、緊張で歌えなくなってしまうようなトラブルは起こらないでくれ、と。
音響の微かな変化から、アイドルが今まさに登壇することを観客たちが察知する。
しん、と静まる空気。
暗転するステージ。
鐘の音が二度鳴り響き、その余韻をヴァイオリンの音色が引き継ぐ。
「――迷える子羊たちよ」
暗闇に包まれたままの会場に、どこからともなく少女の澄んだ美声が響き渡る。
「未来永劫誇るがいいわ。今宵のミサに参列したことを。我が降臨の儀に立ち会えた幸運を」
観客のどよめきは、しかし、荒々しさを増していく旋律に掻き消される。
「我が名は、神崎蘭子。ローゼンブルクエンゲル……楽園を追われし哀しき天使」
閃光。スポットライトが黒いドレスに身を包んだ蘭子を照らし出す。
「さぁ、始めましょう。終わりなき輪舞を……!」
有機物も無機物も。会場を構成する全てが息を呑んだ。彼女の瞳の美しい紅に。そして――
「我が魂の赴くままに!」
――その声音の荘厳さに。
ギリシア神話の神の名で始まる曲。それを歌う神崎蘭子というアイドルは、聴く者全ての既成概念をぶち壊してしまった。
彼女が旋律に歌声を乗せ始めると、まずは周囲の景色が一変した。
何の変哲もない小さなハコが、壮麗なカテドラルへと変貌していたのだ。
ボクは一瞬、プロジェクションマッピングを疑った。しかしそれは即座に却下された。いくら最新の技術を以てしても、あくまでそれは光の投影。目を凝らせばそれと理解る。しかし、目の錯覚では説明できないことが起こっていた。会場の温度がぐんと下がっていた。石と埃の匂いがした。メロディの反響の仕方さえも変わっていた。
幻覚を疑ったのだが、惑わされているのはボクだけではなかった。全ての観客が同じものを感じているようだった。みんな四方を見渡して、瞠目していたのだ。Pまでも。
44: 以下、
「なん…だ……これは……っ!?」
理解らない。
大勢の人間が同時に、五感で同じ幻覚を見るなんてことは、聞いたことがない。
普通のライブハウスだぞ。あり得ない。それとも集団催眠? いつかけられた? いや、これも却下だろう。
明らかに異常事態だ。
だというのに、誰も騒ぎ出したりしない。したくても、できない。
理解を越えた現象を目の前にしたとき、人間はただ茫然と立ち尽くすことしか出来ないのだ。
聖堂の祭壇で蘭子は歌う。
蘭子自身の装いも変わっていく。
黒のドレスを纏っていたはずなのに、瞬く間に白のドレスに変わったり、戻ったり。まるで蘭子が二人いるかのよう。
可愛らしい飾りでしかなかった背中の翼も、いつの間にかその大きさを倍にして、しかも生きているように動いている。
蘭子が手を振りかざせば火花が散って、熱風が頬を掠める。
曲が進むと、カテドラルの風景も変わっていく。星が煌めく夜空。燃える荒野。どこまでも高く蒼い天空。
この現象を引き起こしているのは、蘭子の歌だということは直感していた。蘭子の歌声がこの幻想を見せてくるのだ。抗いようのない絶対的な力で、直接的に訴えかけてくる。五感に、脳に、精神に、心に。いや……。
「魂に……?」
この高翌揚感、ボクには覚えがあった。初めて蘭子に名前を呼ばれたときの感覚。魂が震えたあのときのもの。
蘭子の歌声が聞く者の魂を震えさせている。
歌声。声。声とはなんだ? 空気の振動で伝わる波だ。それはただの物理現象、揺らせるのは鼓膜だけ。だからこの現象とは違う。
ならば、何に揺さぶられている? 蘭子の何に?
蘭子の魂? 蘭子の魂の叫び、振動、その周波数に、ボクたちの魂まで揺さぶられているのか……?
今ボクたちが見ているものは蘭子の心象風景…世界観…蘭子の魂が見ているセカイの形か……!
「すごいよ蘭子……すご過ぎる……!」
蘭子が持つ、幾つもの世界観。それらはいずれも難解で、理解するには万の言葉でも足りないと思っていた。なのに、たったの一曲で深く深く理解してしまったんだから。
蘭子の歌が終わり、その残響も減衰し果てる頃。気付けば、会場は元のライブハウスに戻っていた。
「…………ぁ、あれ……ぇ、ぇっ、えぇぇ…?」
歌い終えた蘭子は、観客たちからレスポンスが無いことに気付き狼狽する。
観客たちは皆、茫然か嗚咽かの状態。
無理もない。ボクたちが見ていたのは、おそらくは奇跡に分類されるものだったのだから。既成概念をぶち壊された人間が、自己を再構築するには時間が必要なのだ。
「ぁ…ぁぅ、ぁぅ……ふぇぇ……」
依然反応のない観客に、蘭子は不安が極まったように目を潤ませた。
そこでボクはようやく柏手を打つことができた。それを皮切りにフロアに拍手の輪が広がっていく。
パチパチパチパチ……。
しかしやはり、歓声を上げる余裕は誰にも無いようだった。
拍手だけというのはアイドルのライブとしては異様だ。でも蘭子はそのおかしさに気が付いていない。おそらく今日初めて舞台に立ったからだろう。
表情に力を取り戻した蘭子は、改めて名乗ってから、
「では、再臨の刻までしばしの別れね。下僕たちにはこの言葉を送るわ。闇に飲まれよー! ハーッハッハッハーーーーッ!」
と、元気に袖に戻って行った。
45: 以下、
これで今日のライブは終了した。
退出を促すアナウンスが流れても、しばらく誰も動き出そうとしなかった。皆が思い思いに、神秘体験を噛みしめていた。神崎蘭子というアイドルを讃える震える声が、そこかしこから聞こえた。
今日出演した他のアイドルには気の毒なことだ。きっと、蘭子以外のパフォーマンスなんて誰も覚えちゃいない。ほとんど全ての観客は蘭子のファンになっただろう。
Pはまだステージを見つめ続けていた。その表情は険しく、眉間には皺が寄っている。
「………そういう、ことかぁ……」
それは絞り出すような呟きだった。発言の意味は分からないが、相当な衝撃を受けているらしい。
「……んぉ? おぉすまん、飛鳥。たまげてたわ。じゃあ行くか」
蘭子を労わないわけにはいかない。フロアを出て出演者の控室へ向かう。
「あっ! 飛鳥だぁ!」
控室に残っているのは蘭子と神崎Pだけだった。
蘭子はステージ衣装から普段着のゴシックドレスに戻っていた。彼女はボクの顔を見るや勢いよく立ち上がり、こちらへと向かってくる。
「来てくれてありがとう! それで…あっ、んんっ……して、我が輪舞曲は白銀の騎士の琴線に触れたか?」
「……!」
チリ、と胸が焦げ付くような感覚があった。
「あ、あぁ……素晴らしいライブだったよ、蘭子……。本当に、素晴らしかった……、語彙力が消失してしまうくらいに……」
「ふぉぉぉ??! やったぁ! 飛鳥にそう言ってもらえて嬉しい! 歓喜の極みー!」
「………っ」
チリ、チリ、チリ。胸の焦げ付きは酷くなる一方。
蘭子のライブは筆舌に尽くしがたいほどに素晴らしかった。
なのに……。一番の友人の成功を褒め称えてあげるべきなのに……。ボクの胸は焼けて、焦げて、爛れている。
隅に追いやったはずの嫌な考えは、やはりじっとしていてくれない。
胸の不快感の理由……それは理解っている。こんなときばっかり自己分析が完璧にできてしまう自分が嫌だ。
蘭子は“本物”だと理解ってしまったんだ。ボクとは違って、本物の力を持っている、と。
ボクは愚かにも勘違いしかけていた。末席ではあるけども、ボクも人気アイドルの一人になれたなんて。
全然違う。バカ者め。思い出せ。いいとこ“並”だろ。ボクのアイドルとして実力なんて。
「飛鳥……? 魔翌力の欠乏か?」
Pだ。全部、Pの力だ。Pの言う通りにレッスンして、Pにお膳立てしてもらった最高のステージで、ボクは“普通”に演っただけ。
そりゃ、先週のライブの盛り上がりは少しは誇っても良いのかもしれない。でもそれもやっぱり、Pが後ろにいてくれたからだし、志希がいなければそもそも成り立たなかった。
二宮飛鳥というアイドルは不完全。偽物。
ボクは、依然、何者でもない。
自分の身体一つで奇跡を起こしてみせた蘭子と比べると、ボクなんてただのイキった中二病患者でしかなかった。
「え、あ、飛鳥…? もしかしてお腹すいたとか…?」
最低だな、ボクは。
心のどこかで、蘭子のライブで何かトラブルが起きると思っていた。そしてそうなったら、先輩のボクが慰めてあげよう、なんて……。
そんなボクの浅ましい考えを、蘭子は真っ向から飛び越えて……極めつけはあの奇跡の歌だ。
蘭子こそ、正真正銘、超一流のアイドルになる逸材なんだろう。
それが羨ましくて、素直に友人の成功を喜んであげられないでいる。
嗚呼、ボクってヤツは……。いくらなんでもカッコ悪過ぎだろう。
「え、え、えぇぇ……? P、さん…? 飛鳥の様子が……」
「あぁ??、うん……ちょっと待ってあげてね、神崎ちゃん」
一週間前に神崎Pに言われたことを思い出す。『蘭子の力からすれば無きに等しい』だったか。その言わんとすることを、今ボクは完全に理解してしまった。
蘭子の三歩後ろで神崎Pはほくそ笑んでいる。『身の程を知ったようだな、マヌケ』ってところだろう。
46: 以下、
「ぁ……………」
言葉が出ない。何を言っても、語るに落ちるというヤツを演じる確信がある。
「今から蘭子と打ち上げに行くのだけれど、貴女たちもどうかしら?」
「ッ……!」
この女は本当に“良い”性格をしている……!
「うむ! 共に闇の饗宴を愉しもうぞ!」
無邪気な蘭子は当然、意地の悪い意図に気付かない。ボクの返答も待たず、鼻歌を奏でながら私物をバッグへと詰め始める。
「ごめんねぇ、神崎ちゃん。飛鳥と俺、これからまた会社に戻って打ち合わせなんよ?」
「なっ、なんという悲劇……!」
そんな予定は勿論入っていない。Pの助け舟だ。
「だから俺らはここで“やみのま”させてもらうね」
「や、やみのま!? 闇に飲まれよ、ですぅ!」
「ははは。よし、じゃあ行くか、飛鳥」
「あっ、う、うん……」
そうして、逃げるように控室から出た。
Pが運転する車でライブハウスを離れる。
運転中のPはいつもよく喋るのに、今は極端に口数が少ない。
FMラジオだけが流れる車内。パーソナリティは何がおかしいのか、やたらとテンションが高い。それが段々とウザくなってくる。
消してもらおうと頼もうとする前に、Pは音量をゼロまで絞った。
「神崎ちゃんのアレ、何なんかなぁ???」
「たぶん……」
「ん? たぶん……?」
ボクの考えを言うかどうか、少し悩ましい。いかにも中二病っぽくて、失笑されるかもしれないから。でも相手がPだったと気付いて、気にするのはやめた。
「……21グラム、魂の叫び」
「…………なるほど」
Pはそう言ったきり、しばらく黙った。やはりPは笑ったりせず、寧ろどこか納得したような風だった。
「俺もさぁ、かーなーりーー悔しいんだぜ?」
「……も? ボクがいつ悔しいなんて……いや、いい……。そうなのかい?」
「あたぼうよ。もうかなりキてるね。ほら、見ろよコレ。ほら、すっごいっしょ?」
Pが顎の骨の辺りを指差す。そこは顎の輪郭が変わるくらいに、ぽっこりと出っ張り、ピクピクと動いている。たぶん奥歯を食いしばっているんだろう。
「悔しくて悔しくて、こんなんなっちゃって。折角のハンサム顔が台無しだと思わんかね?」
「………ハンサムという言葉を辞書で引くことをお勧めするよ」
「オイコラ」
「フフッ……」
あぁ、この男はホントにもう……。
「てかさ、俺が何を悔しがってるか分かるか?」
「それは………」
そういえば何故だろう? あ、ひょっとして…。
「ボクみたいな……蘭子とは違うただの中 学生をスカウトしてしまったこと…とか?」
「そう来たか、っておーい! 違ぇよ!」
「……そう」
少しだけホッとしている自分がいた。
「はぁ????! あ、これ呆れの溜息ね? はぁ???、飛鳥、お前そんな風に……はぁ?????、はぁ????!」
「な、何…? 言いたいことがあるならハッキリ言えばいい」
「お前、アレだぞ? 俺が飛鳥と出会ってスカウト出来たことは、アレだ、いやマジで、アレ……ちょっと言うのアレなんだけど……」
「やけに勿体ぶるね。言い難いなら無理には……」
「いいや、言うね! お前に出会えたことは、俺の人生の中で、一番、最も! 最高に! 素敵な! コト! だって! 思ってる! マジで!」
「あ……ぅ……………そ、そう、なんだ………」
「うっわ! やっぱ恥ずいな! いざ言うと!」
47: 以下、
何を言うかと思えば……。
なんだこのむず痒さは。耳とか首回りが急に熱くなってチクチクしてくる。なのに口元は緩もうとしていて、でもそんな表情になってしまうのは避けたくて、眉間と唇にギュッと力を入れる。
「俺はそう思ってんのにさぁ! はぁ???、飛鳥はさぁ、はぁ???、そんな風にさぁ、はぁ???……はぁ???!」
「……むぐ……むぐぐ……」
別にボクだってPと出会ったことは悪く思ってないけどさ。でもそんなことを改めて言うのはボクの柄じゃないし、だからって問われれば正直に言うのも吝かではないのだけれど……く、くそ、戻れ表情筋……!
うん。何かレスを返して気分を誤魔化そう。
そうだ、ボクをスカウトした理由。以前聞こうとしてそのままにしていたな。この際聞いてしまおう。
「だ、だったら、ボクをス――」
「はぁ???! はぁ??ぼごほぉおおおっ!」
「ふぇっ!?」
「げほっ! げぼぉおおっ! ぶふぉっ!」
「ちょ、ちょっと…大丈夫かい?」
「ごめっ、げほっ! む、噎せた…えふぉっ! えふっ……ぶぐっ!」
なんて酷い噎せ方だ。ボクの父でもこんな汚い噎せ方はしないぞ。それでもハンドル操作が確かなのはある意味Pらしいが。あぁ、鼻水も垂らしてみっともない。
ポケットティッシュから二枚取り出して渡してやると、Pはそれに向けてしこたま鼻をかむ。
「げほ、ごほ……ふぃ??回復ゥ??」
「びっくりさせないで欲しいな……」
「すまんすまん。ええと、それで、何だっけ」
何だっけ? Pの噎せがあまりにすごくて、ボクも記憶が飛んでしまった。まぁ、忘れるくらいだし大した要件じゃないはずだ。
「そうだ。俺が何を悔しがってるか、だ」
「あぁ……そうだったね。で、それは何?」
「そりゃもう、神崎Pに出し抜かれたことだよ」
「へぇ、それは興味深いね。キミともあろう者が」
「そもそもからして不思議だったんだ。アイツなら俺がやったようなやり方で、五月公演に神崎ちゃんをねじ込むこともできただろうに。何故やらなかったのか? 今日の神崎ちゃんのステージを見てようやく理解できた。そんなことは必要なかった。神崎ちゃんの歌と飛鳥の存在を前提にした場合、今日みたいな小規模ライブからスタートするのが最善手だったんだ」
「ん? 何故そこでボクが出てくる?」
「二宮飛鳥というアイドルの登場は、この界隈に決して少なくないインパクトを与えている。というのは自覚しているか?」
「それは……まぁ、それなりに」
本来なら人気アイドルしか出られない五月公演を初舞台にして、その後もトップアイドルの一人である一ノ瀬志希とユニットを組んでいるのだ。これで何も注目されていないなんて思うのは流石に自意識過小だろう。
「でもな、やっぱり俺たちは変化球であり、イレギュラーであり、トリックスターなんだ。巧い立ち回りで最短ルートを突っ走るのが俺たち」
「………ふむ」
イレギュラーとトリックスターというのはナカナカに心を擽られるワードだな。
「対して、神崎蘭子というアイドルはド直球。正道にして王道」
「はっ、あれが、あのステージが王道だって?」
「ぱっと見そう思うのも仕方ないが、よくよく考えるとそうでもない。アイドルの持つ世界観をファンにも共有させることはアイドルの存在意義の一つであり、実際に多くのアイドルが目指しているコトだ。それを成し遂げるために彼女たちは語り、歌い、踊り、演じる」
「……そういうことか」
まぁ確かに、どのアイドルだって、アレが出来るならやりたいだろう。でも出来ないから色々と手を尽くすのだ。
48: 以下、
「だから、神崎ちゃんの出発はソコソコの地点からで良い。その後はどっしり構えて彼女のパフォーマンスを続ければ、自ずと登っていく。それに何より、二宮飛鳥というアイドルが引き上げてくれる」
「なんでそこでボクが……?」
「アイドル界に彗星のごとく現れた二宮飛鳥と神崎蘭子というルーキー。成熟したこの界隈は、こんな美味しい素材を放っておかない。すぐに二人は二項対立で語られるようになる。そしてその流れが、神崎ちゃんを飛鳥のいるステージまで押し上げる」
「少し、理解りかけてきた……」
「ライバルってのは同じ場所で戦うものだからな。ギリギリの綱渡りで俺たちがたどり着いたステージに、神崎ちゃんは労せず立てるようになるってわけだ」
二宮飛鳥というアイドルが北条加蓮や一ノ瀬志希の人気を利用したのと同じように、神崎蘭子というアイドルも二宮飛鳥の勢いを利用するということか。
「いや、ライバルという関係ならまだいい……」
「くっ、そうか、そういうことか!」
あくまで平凡なアイドルのボクに、蘭子のライバルなんて務まるワケがない。所謂、踏み台にされてしまう。当然蘭子自身はそんな風には思っていないだろうけど、それがあの氷女の狙いか。ほんとに性悪だな。ボクに恨みでもあるのか。
「ここだけの話。俺は普通の人には見えない物まで見えるし、これまで見てきたものも全部正確に覚えててな。その関係で、数か月くらい先までなら完璧な未来予測ができるんだ」
「…………なんて?」
なんか妙なことを言い始めたぞこの男。
「でも飛鳥と出会った頃から、何故か今日以降の未来が見えなくなっていた。やっとその理由が分かった。情報が不足していたからだ。神崎ちゃんの歌という情報がな」
「何を……言っているんだ? さっきから」
「そして今日見た情報を踏まえて、改めて予測すると…………出ましたよ、俺らの未来。これはヤバいですよ二宮さん」
「っ………何が言いたい?」
「このままいけば、俺たちはあの二人にコテンパンにやられる。そんで、引退とか左遷とかそういう感じ」
「ッ!!」
Pが何を言っているのか全然理解らなかったけど、その実にシンプルな内容には衝撃を受けた。後ろ向きな言葉をPが吐いたことはこれまでなかったから。
しかし、言い回しが少し引っかかった。
「“このままいけば”? それはどういう意味だ? このままいかなければ違うというのかい?」
「うーむ………」
Pはしばしの間、無言のまま運転を続けたが、しばらくして赤信号に捕まるとPは決心したように口を開いた。
「どうにかなる……かもしれない方法は……なくもない」
「あるのか!? じゃあそれを…っ!」
「でもなぁ………ちょっとなぁ……難があるというか……」
そしてPの運転する車はボクのマンションではなく、会社へと向かった。
49: 以下、
≪Review by 蜈?ココ蠖「≫
探し物のために天界を彷徨う過程で、本当に沢山のセカイ線を閲覧した。
一つのセカイ線の中では、数百万オーダーの数の星で生命が誕生することが多かった。だが、極稀に全く生命の誕生しないセカイ線や、逆にありとあらゆる星で生命が誕生するようなセカイ線もあった。そういった特徴的なセカイ線は、大抵は数々の天使が干渉を幾重にも加えた結果出来たものだった。前者のセカイ線は天使たちの実験用に重宝されるし、後者はドラマ的な見所が沢山あるようで、どちらの周囲にも比較的多くの天使が集まる傾向があった。まぁ、そういったものに私の興味が引かれたことはなかったが。
基本的に私は探し物をすること以外に関心は無かったのだが、そんな私でも思わず見入ってしまうセカイ線もあった。
それは“光”に包まれたセカイ線だった。その光はあまりに強いため、セカイ線の内側を閲覧することもできないし、干渉しようにもはじき返されてしまうらしい。天使でさえも完全に不可侵のセカイ線だった。唯一分かるのは、その光が“何か素晴らしいもの”であるということだけ。
私は天使としてはかなり長命な方だったと思うが、それでもこの不可侵のセカイ線は両手で数えられるほどしか見たことがない。極稀どころではない。極を100回以上付ける必要があるだろう。
一体何故このように光り輝いているのか? 調査してみたいという気持ちが高まることもあったけれど、私はやはり探し物の方を優先した。直感的に、それも私の探している“何か”ではないと分かっていたから。だから結局、その光に包まれたセカイ線については何も分からずじまいだ。
無限といっても差し支えない程の数のあるセカイ線を、私は一つ一つ覗いていく。延々と繰り返す。
そうこうしている間にも他の天使たちは各地で干渉を好き勝手行い、私が調べるべきセカイ線はますます増えていく。終わりは寧ろどんどん遠ざかっていく。
閲覧に要する労力は微小なものだが、少しずつ私の魂は摩耗していく。
いつからか、私より老いている天使を見かけることはなくなった。
一体、私は何を探しているのだろう?
少しでも気を緩めれば魂が虚無に支配されそうだった。魂に刻み付けられた“諦めるな”という思念がなければ、私はとっくに消滅していただろう。しかしそれすらも意味をなさなくなる、純粋な物理的限界はすぐそこまで迫っていた。
とある天使に私が出会ったのは、そんな今際の際ともいえる時だった。
その天使は初めからとても不愉快な感じだった。コミュニケーションを取ろうとしてくるでもなく、消滅寸前の私を遠くからじぃっと観察していたのだ。それも薄ら笑いを浮かべながら。
驚くべきことに、どうやらその天使は私よりも遥かに長命らしい。にも関わらず、生まれたての天使のように生命力に溢れていた。まるで、老獪さはそのままに、魂だけが若返っているようだった。
こんな天使にはそれまで出会ったことがなかった。
まるでセカイ崩壊を引き起こした直後のように生命力が漲っていた。しかし、高次元存在の罰から逃れることは出来ないはずだ。ならばコイツは一体何なのだろう?
不可解。不愉快。
だが疲弊しきっていた私には、そいつを追い払おうとすることさえ億劫になっていた。幸い私に対して害意があるわけではないらしい。
ひょっとすると単純な好奇心なのかもしれない。私のように今にも寿命が切れそうな天使は珍しいだろうから。
だから私は無視を決め込んだ。そんな些末事に魂をすり減らしている場合ではないのだ。
彷徨と閲覧を再開してからも、その天使は一定の距離をとりながら、最後まで私に付きまとってきた。
50: 以下、
≪Observation by Asuka≫
「コレ」
淹れてくれたコーヒーをボクにサーブするのと一緒に、Pは“それ”をテーブルに置いた。
一辺2センチ程度の小さな立方体。
それは彼がたまに指先で弄っているサイコロのようなもの。普通のサイコロとは違い、1から6の目は刻印されておらず、代わりに面毎に色が違うという風変わりな一品。
「これが……何?」
「これを使う。飛鳥のプロデュースに」
「……よく理解らないな。もしかして二宮飛鳥の公式グッズにするとか?」
「なるほど、面白い発想だな。だが少し違う」
Pがマグカップに口を付ける。ボクも一口だけブラックを試してみて、諦めてシュガーを溶かし込む。
「ぱっと見はただのカラフルな立方体なんだが、実はかなりの逸品なんだよ」
「そうなのかい? 確かにこんなのが売ってるのを見たことないけど。あぁ、もしかして特注品とか?」
「特注…か……ふむ、ある意味そうとも言えるかも。こういうのがあればなぁ、と長年考えてたのが、ある日突然手に入ったんだから」
「……?」
「これの何が凄いかってーと、まず絶対に壊れない。それと絶対に無くさない」
「サイコロに耐久性はそれほど必要とは思えないけれど……。でも無くさないっていうのは良いね。ボードゲームをしようって時に限ってなかなか見つからなかったりするから。音が鳴って場所を知らせてくれるとか?」
「んー、そういうんじゃないんだけどな……原理は俺にもよくわからないんだ」
「へぇ……? ちょっと手に取ってみていいかい?」
「いいよん」
サイコロの手触りは少し新鮮だった。ツルツルしているようであり、サラサラしているようでもある。というかたぶん、初めて感じる手触りだ。
各面には虹の七色から藍色を抜かした色が振られている。その色合いはかなり美しいと思った。まるでサイコロの内部から各面に色を投影しているかのような奥行を感じさせる。
しげしげと見つめてみて、それでふと気付いた。
「あれ? これ、すごく軽い……」
試しに右手で摘まんだソレを左手に落としてみても、ほとんど何も感じない。ストンと落ちる割に、綿毛が乗った程度に何も感じなかった。
「あぁ、どうやら重さが無いみたいなんだ。でも何故か重力を受けてるような挙動をするし、その辺りの原理もよくわからない」
「ふーん…………?」
「俺の考えが正しければ、このサイコロを使えば運命に揺らぎを与えることが可能になる」
「…………ん?」
今、Pは何て言った? 運命だとかいう単語が聞こえた気がしたが……。
「面ごとに選択肢を設定しておいてから、サイコロを振る。そして出目の通りに行動すれば、運命という神の台本からズレることが出来る。まぁ、出目によっては結局振らなかった場合と同じ行動になることもあるだろうけど」
「…………は?」
運命? 神の台本? また妙なことを言い始めたぞ。いやそれに、重さが無いっていうのもおかしくないか?
「俺の予測では、三か月半後、十月半ばの大規模ライブで、俺たちは神崎ちゃんたちと真っ向から衝突することになる。そして完膚なきまでに叩き潰されるだろう。そこまで分かっているのに避けられない。最善に最善を重ねた選択をしてもそうなる。いや、ただ単にそういう台本で、俺も役者に過ぎないからだなだ」
「いや……ちょっと……」
「だがこのサイコロを使えば、その台本から逸れることが出来る。そんな直感がある。まぁその結果、どんな結末が待っているかは分からないが。正にサイコロのみぞ知ると――」
「ちょっと!」
「ん?」
「キミは一体何を言っている? 漫画かアニメの話かい?」
「あ、すまん。ちょっと先走り過ぎたか……」
Pはテーブルの端に置いてあったメモ翌用紙の綴りから一枚を取り、何事かを書き記してから折り畳んでボクの前に置いた。そのメモにボクが手を伸ばそうとすると「少し待って」と止められる。
51: 以下、
「飛鳥は、この世界は神が書いた台本通りに進む舞台だってことに気付いているか?」
「………はぁ?」
「宇宙開闢のその瞬間から遥か未来まで、この宇宙で起こる全てのことは既に神が台本にして決めてるのさ。塵がどう集まって星になって、どの星でいつ生命が誕生して、どう進化をして、誰が生まれて、どういう人生を経て、どう死ぬのかも。全部」
「P……もしかして酔ってる?」
「いや、素面だし正気だ」
Pの顔をじっくりと見ても顔色や素振りにおかしなところは無い。敢えて言うならば、ニタリと笑っていてちょっと変だが、それこそがいつも通りだ。
「……その世界観が正しいとするなら、ボクたちには自由意思なんてないってことになる。それはボクの感覚からは認め難いんだが?」
生まれてこの方ボクが自分の意思で選択してきたことが、その実、誰かに決められていたなんて。そんな風に感じたことはないし、ハイソウデスカと認められるワケもない。
「流石だな、飛鳥。その指摘は核心の一つだ」
「……それはどうも」
「そこで、ちょっとしたゲームをしようか」
Pは両手をグーにしてボクの前に出した。
「右か左、どっち? 飛鳥の自由な意思で決めてみてよ」
意図は理解らないけど、ゲームと言ったから適当に答えてやろう。右手が先に目に入ったから右だ。
「右」
「ん。右、と……」
Pはメモ綴りから一枚取って、そこに“右”と書き記す。
「じゃあ次はどっち?」
そして再びボクの前に両手を出して聞いてくる。今度は手のひらは開いていた。
「右」
「ほい、次は?」
ひらひらと指を揺らめかせてから、また聞いてくる。ボクは「左」と答える。
そんなことを10回繰り返した。ボクが答える度に、Pはメモに結果を書き記していった。
「よし、じゃあ答え合わせだ。これとそれを比べてみて」
ゲームが始まる少し前にPがボクの前に置いていたメモを指差した。
「はぁ…いったい何だって言うん――」
“右右左左左右左右右右”
“右右左左左右左右右右”
――完全に一致していた。
それに気付いた瞬間、背中に氷を流し込まれたようにゾッとした。
「これがメンタリズムです」
キメ顔を作ってから「なんつって」とPは破顔する。ボクはまったく笑えず、しばらく呼吸も忘れていた。
「飛鳥をビビらせたかったんじゃない。俺が言いたいのは、対象の性格を把握して、あとは多少のテクニックがあれば、他人の選択を予測したり誘導することも可能ってこと。つまり全知全能の神であれば……。世界の全てを知ることができて、どんな干渉でも出来るような存在であれば、この世界で起こる全ての現象を最初から最後まで制御することも可能だろう。それは俺が今やってみせたことのスケールを大きくしただけだから」
「そういう概念は……聞いたことがあるが……。でも否定されてなかったっけ?」
たしか、ラプラスの悪魔とかいったか? 提唱されたのは随分と昔。そして量子論の研究が進んだことで完全に否定されたもの。
52: 以下、
「あくまで、この世界の中という枠組みで考えればそうかもな。だが俺が想定してるのは、もっと上の存在だ。世界……この宇宙の外側にいて、過去も未来も一緒くたに認識できて、別のセカイも含め、ここに居ては観測すらできないデータも全部理解できるような、そんな存在」
「……ただの思考実験としてなら、まぁ……認めてもいい」
「問題は、その神様みたいな存在が作る台本にはそいつの“好み”が入ってるってことだ」
「……?」
「台本の演出が役者個人の“好み”に合っている間は問題ない。でも極稀にあるんだよ。“好み”がズレてることが。神様が俺用に用意してくれやがった台本には、有難いことに常に最善の行動が書かれている。それは確かだ。だけど、たま?に、心のどこかで……いや、魂か……俺の魂が合理性なんかを無視して、別の行動を採りたいと訴えていることがあるんだ。しかし、神様は台本から逸れることを許してくれない。納得いかねぇ台本を押し付けられるのなんて、マジ勘弁だぜ……」
荒唐無稽極まっている。なのに不思議と聞き入ってしまう。
ギリリ、と音が鳴った。音の出元はPの顎で、車内で見たように顎あたりがぽっこりと出っ張っていた。
「飛鳥はこれまでなかったか? 本当は“ああ”したいのに、何故か“こう”してしまうなんてこと。“ああ”しようと思ってたのに、いつも妙に間が悪くて出来ないなんてこと」
「それは……そんなのは世の常さ。みんながみんな、好き勝手に生きられるハズがないじゃないか」
ボクは至極真っ当なことを言っている自覚はあるのに、何かが頭の片隅に引っかかっている感覚があった。でもそれが何なのか掴めなかった。
「それも確かに一つの真理だなぁ。実際のところ俺自身も、世の中のままならなさに中二的な理由付けをしているだけなのかもって疑うことはあったし。あぁ、そういや、確信したのって今の飛鳥と同じ中二の時だったわ」
「フッ……。キミも相当にイタイ奴だったようだね」
「それな。……ハハッ! ダチどもにも言われたな。中二病患者だの、ヤベー奴だの。アイツらテスト前には頼ってくるくせに、そういうときだけ鬼の首取ったように馬鹿にしやがって。まったく失礼しちゃうわよね」
言葉の上では悪態だが、Pは薄く笑っている。
ボクと同じ年齢だったときのPを思い浮かべようとして、しかしそれは無理だった。良くも悪くも、今の彼の印象がやたらと邪魔をしてきたから。
「中二の夏休み明けだったなぁアレは……ちょうどその時期に酷い“ズレ”を立て続けに何度も感じて………………」
「……P?」
中二の時のエピソードを語る流れだと感じたのだが、Pは急に黙り込んだ。彼らしくない詰まり方で、まるでそこだけ時間が止まっているようにも見える。
「………えっと、なんだっけ?」
「おいおい、大丈夫かい?」
そして時は動き出す。なんてね。
ド忘れだろうか? Pも結構疲れているのかもしれない。
53: 以下、
「いや、無理しなくていいよ。中二の黒歴史なんて、大人が語るには酷だろうからね」
「黒歴史言うなし」
「フフッ…」
「まぁ、とにかくだ。中二の頃に立てた仮説は俺の直感から導いたものではあったが、俺としてはほぼ正しいという確信があった。未だ人類の知らない、運命を誘導する力…目に見えないが、確かにそれは在る。客観的な証拠が無いだけなんだ。だがそれが無い限り、いくら説明しようが病院を勧められてしまう。まぁ仕方ないよな。だから俺はすぐにその話題を出すことはやめた」
「それは…そうだろうね」
実を言うとボクは今、彼にカウンセリングを勧めるべきか悩んでいるんだけどね。
「だが証拠は現れた。それがこのサイコロだ。約三か月前の3月25日の午後、これが突然出現した。何も無いところからパッと出現したんだ」
「………はぁ?」
残念なお知らせだ。Pはやっぱりヤバいらしい。
「このサイコロは、上の次元からこの3+1次元の世界に落とされた影……。これが、いくつかの実験を経て俺が導いた結論だ。この世界の外から来ているモノだから、この世界の台本の支配を受けない。故に、このサイコロの出目に従って行動することで台本に抗える、というワケさ」
「えっと……何から言えば良いのか……」
どうすれば彼を刺激せずに通院を勧められるのだろう? これは結構難題だぞ。いやもしかして考えるだけ無駄なレベルで、ボクには手に負えないのではないか…。
「こんにゃろ、俺の頭がおかしいと思ってんな?」
「いっ、いや………」
「んも?、ウチの子は本当に疑り深いんだから。じゃあちょっと、サイコロ持ったまま入り口のドアあたりまで行ってみて?」
「えっ、なんで…?」
「いいからいいから。これ見れば流石に分かるから」
ボクとPはソファから立ち上がり、Pは部屋の奥へ、ボクはドアの方へ移動していく。
ドアの前まで行ってPを振り返ると、「あと、一歩」とPは言ってくる。
「サイコロ、よく見といてなー」
「一体、なんだっていうんだ……?」
そのまま後退るように一歩下がり、踵が床を踏みしめた瞬間。手のひらの上に持っていたサイコロが消失した。じっと見ていたのに、パッと。
「えっ!?」
落としたのかと、周囲を見渡してもどこにもない。
すると「ココ」とPが言った。部屋の奥、五メートルほど離れた位置にいるPの掌の上に、サイコロがあった。
「もしかして、一つじゃないのかい?」
「いーや、これ一つだけだ」
「な、何をした……?」
「このサイコロは俺の身体の重心から約180センチ以上離れた位置にあると約40秒後に、そして約540センチ離れると即座に俺の手元に戻ってくる。瞬間移動してな。今飛鳥の右手の中から消えたのは540センチ離れたからだ」
また変なことを言い始めたぞ……。
「約180センチっていうのはおそらく俺が両腕を開いた時の指先の距離で、540っていうのはその3倍だな。40秒後っていうのは俺の心臓が42回鼓動した時点のようだ。何でそういう設定になっているのかはよく分からない。たぶんその数値は重要じゃない。重要なのは……って、まだ信じていない?」
「っ! も、もう一度だ…!」
瞬間移動なんて、そんなワケあるか! 大方、見えない糸が結ばれていて、それを手繰り寄せたんだろう。見えない糸ってなんだ!? そんなツッコミが頭に浮かぶが構わない。こんな下らないペテン、ボクが見抜いてやる!
Pから改めてサイコロを受け取り、目を凝らしながら輪郭をまさぐる。見えない糸はもとより、何もサイコロにはくっついていなかった。
そして、ボクはドアへと向かったのだが……。
54: 以下、
「そんな……なんだコレ……っ!」
眩暈がするほどの寒気が足元から登ってくる。
検証は3回行った。
掌の上に載せてじっと見つめていても忽然と消えた。両手でガッチリ握っていても消えたし、口内に入れて両手で口を押えていても消えた。どの回も消えると同時にPの掌の上に現れた。それは瞬間移動…テレポーテーションと呼ぶ他ない現象だった。
有り得ない……。
物は消えたり、急に現れたりしない。常識だ。セカイの真理だ。理論的には量子テレポーテーションというのがあるようだけど、それだって何に使えるのかよくわからない期待外れの理論だったと記憶している。完璧なテレポーテーションなんて、夢のまた夢の技術のハズ。
そんなガジェットを造ることが出来る存在がいるとしたら、それは最早……。
「神……いるのか……?」
「悪魔かもしれんけどな。ま、どっちでも一緒か」
他人に言われたことをそのまま信じるほどナイーブではないけれど、自分の目で見ても信じないほど頑固でもないつもりだ。
正直、Pの語ったセカイの構造については全然理解できていない。でも、人類が未だ知らないセカイがあることは確からしい。それに――
「このサイコロで、何をするって……?」
「これで神の台本に叛逆する」
「叛逆…………クク…ハハッ! ボクたちは叛逆者か……!」
サイコロの出目に従って行動する、だったっけ?
イカれている。常軌を逸している。
だが、それがいい…っ!
それは理解りやすく、完璧に、非日常だ。そしてボクの魂はそれを良しとしているらしい。
「こんなモノまで持っているなんて、まったくキミは底が知れないな。本当に悪魔……メフィストフェレスなんじゃないかと思うことがあるよ」
「ナハッ! 俺はただの人間だ。他の人間とはちょっと違うセカイが見えてるだけのな。それにメフィストってんなら、このサイコロを俺に渡した奴だろう」
「なるほど、そうか……いや、ちょっと待って。それだとPがファウストで、ボクは……」
「あっ」
『ファウスト』のあらすじを思い返すと、すぐにキーパーソンであるボクと同年代の少女が思い浮かんだ。そして彼女の悲惨過ぎる生涯も思い出し、ボクは頭を振った。
そんなボクを見て、Pはカラカラと笑っている。
「グレートヒェンはお断りだからね?」
「ちゃんとフォローするから大丈夫ダイジョウブ。プロデューサーウソツカナイ」
「ま、まぁいいだろう」
そしてボクたちは互いに不敵な笑みを浮かべ合う。
「なぁ、P。これは“アレ”なんじゃないかな?」
ボクのアイドル活動が新たな領域に突入したのを感じていた。
「なるほど。“アレ”だな」
「うむ。じゃあ、宣言を頼むよ」
Pが仁王立ち、大きく息を吸い込んだ。
「現時点を以って! 一大叙事詩 ASUKA The Idol!その Third Stage に突入したことを! 此処に宣言するぅっ!!」
「フハッ! 声が大き過ぎる!」
神の掌の上で踊っていたプロローグは終わり、ここからは叛逆のステージ。
蘭子に敗北するという、神のシナリオに抗ってやるのだ。
それは途方もないのと同時に雲を掴むような話。
でも、ボクとPの二人なら出来るような気がした。
55: 以下、
≪Review by Ranko≫
私、神崎蘭子という人間の一番古い記憶。
それはたぶん市内の公園で開催されていたフリーマーケットだった。
幼い私はパパとママに連れられてそこに行っていた。
緑色が鮮やかな芝生の広場には沢山の人がいた。
レジャーシートを敷いて色々なものを並べて売る人たち。掘り出し物を探しに来た人たち。そして、ただ暇つぶしに来た人たち。私たちもたぶん暇つぶし。
パパとママの間で二人と手を繋ぎながら、色々と見て回った。とはいえ、どんなものが並べてあったのかはほとんど覚えていない。
快晴の青空と、芝生の緑と、私によく似た少女のイメージが強く記憶に残っている。
その少女と私はじっと見つめ合っていた。
両親と繋いでいた手は放していたから、いつの間にか人混みの中で私は迷子になっていたのかもしれない。ひとりぼっちの不安はいつのまにか消えていた。それよりもその少女に興味を引かれていた。
身長は私より少し高いぐらい? 顔は私とよく似ているし、髪の色も私と同じ。でも着ている服が全く違う。
その少女は黒色のドレスを身につけていた。レースと刺繍が所狭しこれでもかと施された豪華なドレス。小さな宝石が生地に散りばめられていてキラキラと光って見えた。指輪やネックレスも輝いていた。
よく見ると靴にはヒールがあって、お化粧をしているのに気が付いた。だから実際には身長も顔も、私と全く同じだったのかもしれない。
そんな場違いな装いの少女が広場の片隅に佇んでいた。なのに不思議なことに、誰もその子のことを見ていなかった。
一目見てお姫様だと分かった。本当にキレイでステキだったから。
それから可哀想だと思った。寂しそうだったから。私にはパパとママがいるのに、その子は独りぼっちに見えたのだ。
私は少女に駆け寄って、手を繋いだ。私は昔から引っ込み思案だったから、そんなことが出来たのは初めてだった。どうしてもそうしたかった。
少女はすごく驚いた顔をして私の手を振り払おうとしたけど、私は放さなかった。聞いたことのない言葉で、強く何かを言われても放さなかった。だって、本心では嫌がってないって、何故かはっきりと分かっていたから。
ぎゅ?っと両手で掴み続けていると、その子は観念したように笑い出したので私も一緒に笑った。
私たちは友達になった。
急に名前を呼ばれ振り向くとパパがいた。
とても長い時間彼女と遊んでいたと思ったけれど、空の青さは彼女と会う前のままだった。
パパは「もう帰ろう」と私の手を引っ張って行こうとする。
この少女と離れたくない。まだまだお話したい。そう言ってもパパは聞いてくれない。「ダメだ」って一層強く手を引こうとしてくる。
私は泣いた。大泣きした。自分でもびっくりするくらいの大きな声で泣いた。
どうしてダメなの? 私がこの手を放したらこの子はまた一人になっちゃうんだよ? 一緒に連れて帰ってあげて!
泣きじゃくりながらパパとママにお願いをする。
広場中の人が私を見ていても泣き続けた。
パパとママは困った顔を見合わせた後、やっと「わかった」と言ってくれた。
ママが鞄の中から何かを取り出して、すぐ近くにいた知らない人にそれを渡した。
「大切にするのよ?」
そう言って、ママが私の頭を撫でる。
いつの間にかお姫様はいなくなっていて、彼女と繋いでいたはずの左手には指輪が握り締められていた。
銀のリングに赤い宝石が嵌められた指輪。それはあの子がしていた指輪と同じものに見えた。彼女はいなくなってしまったけれど、指輪を通して彼女の存在を確かに感じられた。
56: 以下、
以来、私はその指輪を肌身離さず身につけるようになり、私と彼女は事あるごとに“リンク”した。
リンクした瞬間、視界は白く染まって、全身が温かく優しい感覚に包まれる。その光の中で、彼女と私は向き合っているようでもあり、一つに重なっているようでもあり、入れ替わっているようでもあった。お互いの言葉は違うけど、どういうことを考えているか不思議と理解できた。長い時間リンクしているように感じても、現実世界に戻ってくると時間はほとんど経っていなかった。 
最初の頃はいきなり彼女とリンクし始めるものだから、びっくりするやら嬉しいやらで私は毎回大騒ぎをしていた。
しばらくすると彼女とリンクするための条件が何となく分かってくる。
まず必要なのが、指輪を身につけていること。それと儀式。胸と頭の奥にあるモヤモヤした何かをグルグルと回して、そのモヤモヤしたのが光ってきたところで「えいっ!」とお腹に力を入れる……という儀式。
やれば必ずリンクするわけじゃないし、寧ろ空振りすることの方が多かったけれど、彼女とリンクするのは決まって儀式の瞬間だった。彼女の方もやっぱり同じようなことをしていたらしい。でも彼女は私とは少し違って、モヤモヤしたものをゴシゴシと磨くイメージだと言っていた。
あと、リンクしたときは大抵、私と彼女は同じような精神状態――嬉しかったり悲しかったり怒っていたり――だったから、これもリンクするための条件の一つだったのだと思う。
リンクできるのは一週間に一回か二回というのが普通だった。
私は暇さえあれば儀式をして彼女を待ち構えていたのだけれど、彼女の方は私ほど暇じゃなかったらしい。
彼女は本当にお姫様だったのだ。しかもあっちの世界で一番の。
こっち側の世界にあるどんな建物よりもずっと大きなお城に彼女は住んでいた。
私と同じくらいの歳なのに、その世界の人たちは全員膝を着いてお辞儀をしてくる。
いつも素敵なドレスを着て、豪勢な料理を少しだけ食べて。
そしてたくさんの兵隊さん達の先頭に立って、彼女は戦っていた。
彼女は魔法が使えたから。ううん。魔法を使えるのは彼女だけだったからだ。
敵は星の外からやってくる、とても恐ろしい武器を持った異形の侵略者たち。
対する彼女側の戦力はあまりにも貧弱。私の世界の中世時代ぐらいの装備しかなかった。
普通なら相手にならない戦力差だけど、彼女の魔法がそれをひっくり返してしまう。
彼女が手を振れば千の竜巻が荒れ狂い、叫べば視界の全てが業火に包まれ、祈れば雷光が地平線の先までを灰燼に帰す。星の裏側で戦端が開かれても、彼女なら空を駆けて数秒で到着できた。
彼女の魔法で打ち漏らした敵に止めを刺すのが兵隊さんたちのお仕事だ。
彼女はその星の人たちの守護神のような存在だから大事にされ、崇められ、同時に恐れられていた。だから彼女はひとりぼっちだった。
私にとって彼女は憧れだった。
私と変わらない歳、変わらない容姿なのに、魔法を操り人々を助ける。たとえどれだけ恐れられ疎まれても、皆を守るという彼女の信念は変わらない。
それは私には到底持ち得ない強さだったから。
彼女の高潔さを知ってもらおうと何度もパパとママに語って聞かせた。
二人は私の空想だと思っていたみたいで、あまり真剣に聞いてもらえなくてもどかしかった。でも、ママが剣と魔法が活躍するファンタジー世界の本を、たくさん読み聞かせてくれるようになったのは嬉しかった。
断片的にしか分からない彼女側の世界を、本から得た知識で勝手に脚色していくのは楽しかった。
私が成長するのと一緒に彼女も成長していく。
彼女の着るドレスはますます華麗に、お化粧も大人っぽくなっていく。
私もせめて装いだけでも彼女みたいになろうと頑張るんだけど、それもなかなか上手くいかない。主に資金的な問題で……。
彼女と比べれば私なんて、せいぜいボロを纏った召使い。それでも彼女はそんな風には思ってなくて、対等の友達として見てくれているのが伝わってくる。
もう私は彼女に首ったけだった。親やクラスメイトが私を理解してくれなかったとしても、彼女さえいれば私は幸せ。そんな風にも思っていた。
だけど……。
私たちが10歳になる頃から、彼女とリンクする頻度は激減していった。
57: 以下、
私は相変わらず彼女と繋がるのを待ち構えながら、空想にふける安穏とした生活を送っていたのだけれど、彼女の世界は大変なことになっていた。
空からの侵略者たちが昼も夜もお構いなしに、星の至る場所に攻め込んで来るようになったのだ。
いくら彼女の魔法が圧倒的でも、体力の限界はある。私と会うために儀式をして集中力を使うよりも、一秒でも長く睡眠を取るべき…。そんな厳しい状況が日常化していた。
時は流れて。それは私が中学二年に上がる前の春休み初日のことだった。
彼女と唐突にリンクした。三か月ぶりのことだった。
私たちはまず抱き合って再会できたことを喜んだ。
それから改めて彼女を見た私の胸は酷く痛んだ。彼女の顔がお化粧でも隠せないくらいやつれていたからだ。それに、いつも輝いていた彼女のドレスもくたびれていた。彼女にも彼女の周囲の人たちにも、本当に余裕が無いんだ……。
それなのに、彼女からは強い闘志が伝わってきた。
彼女曰く、明日が決戦の日。これまでで最大規模の最も厳しい戦いになるらしい。でも、それに勝利すれば、彼女の星に平和が訪れるのだと。
それを知って、私は今日彼女とリンクできた理由が分かった。
明日は私にとっても決戦の日だったからだ。それは彼女と比べるとあまりにちっぽけだけれど、私にとっては一生を左右する戦いだった。
じゃあ明日また会えるね、とお互い笑い合う。
お互い戦いに勝利した高翌揚感で、私たちはきっとリンクできる。私たちはそう思っていた。
翌日。それは運命の日になった。
私は市内にある、知る人ぞ知るゴシックドレスの専門店に向かった。お財布の中にはこれまで貯めたお年玉貯金がたんまりと入っている。
彼女の隣に立っても見劣りしない最高のドレスを手に入れてみせる! そう意気込んでお店の扉を開いた。
そして数時間に及ぶ死闘の末、財布の中身を生贄にして、私は最高の一着を手に入れることが出来た。
もちろん店内で着替えて、新たな装いで外へ出る。一刻も早く彼女に見て欲しかったから。もうウキウキのワクワクだった。
お店から出て少し歩いたところに丁度いいベンチを見つけたので、そこで儀式を行うことにする。
胸と頭の奥にあるモヤモヤした何かをグルグルと回して「えいっ!」。しかしリンクは成功しない。儀式は上手く出来ている感覚があるのに。何度試してもリンク出来なかった。
或る恐ろしい想像が頭に過った。
途端に身体が震えてくる。頭が重くなってくる。心が寒くなってくる。気分が悪くなってくる。
体調が悪化すれば悪化するほど、彼女とのリンクが近づいている予感がある……。それが何よりも恐ろしかった。
そんなときに、とても嫌な言葉が聞こえた。
指輪に落としていた視線を上げると、道の向こうの大人の男の人がニタニタしながら私を見ていた。どうやらこの人がとても嫌な言葉を言ったらしい。私に対して。
私を見ているのはその男の人だけではなかった。高校生ぐらいの男の子たちのグループや、性格のキツそうなおばさんも私をみていた。ニタニタしたり、眉を顰めていたりしている。私を見て。私の服装を見て。
寒い。身体が冷たい。悪寒。嫌な予感……。
また嫌な言葉を言われた。嘲笑が私に降り注いでくる。
周囲を見渡しても、私に親切にしてくれそうな人なんて誰もいない。
私がこんな格好をしているから。他の誰もこんな格好はしていないから。
私は一人。ひとりぼっちだ。
違う! 私にはあの子がいる!
でもなんでリンクできないんだろう?
なんで?
なんで?
もしかして――
58: 以下、
全部の嫌な考えを振り払うため、私は走り出した。
道行く人全員が私を見ている。指をさして笑っている。そんな気がする。そうに決まってる。
恐ろしくてたまらない。
何でこんなことに?
胸が痛い。矢に貫かれた様に痛い。本当に痛いのだ。私の胸に矢なんて刺さっていない。でも痛む。
なら、この痛みは何の痛み? 誰の痛み?
違う! 嘘だ! 嘘だ!
雨が降り始め、それはすぐにどしゃ降りになった。
そんな中を走り続けたものだから、ドレスは既に濡れて重くなっている。
どこに向かって走っているのか私自身にも分からなかったけど、辿り着いたのはあの広場だった。彼女と初めて会った青空と芝生の広場。
しかし今は厚い雨雲のせいで、辺り一面は夜みたいに暗くて芝生も泥濘に成り果てている。周囲には人っ子一人いない。
トボトボと、広場の中央へ向かって行く。今日に合わせて下ろしたおニューの靴は、あっという間に踝まで泥塗れ。もう自分でも何がしたいのか分からなかった。
寒さと疲労でもう体力の限界だったのだと思う。泥濘に足を取られ私は盛大に転んでしまった。
最悪のことが起こったのはそのとき。
左手の小指に不快な感覚が走った。それは、あの指輪が泥濘の中の石に強く擦れた感触だった。
私は悲鳴を上げながら指輪を確かめた。
でももう遅かった。無惨にも、指輪の赤い宝石には大きな傷が付いていた。しかもそこから生じた亀裂は広がっていき、宝石は粉々に砕け散ってしまった。
その瞬間、私の全身は絶望に包まれて。
だから、私と彼女はリンクした。
まず見えたのは、彼女の指輪が私の指輪と同じく砕け散る光景。そして、焦土、噴煙、瓦礫、迫りくる夥しい数の敵兵。
伝わってくる彼女の胸の激痛。ボロボロのドレスを纏った彼女の胸に、巨大で鋭利な金属片がめり込んで――。
そこでリンクは途切れた。ストロボの連射のような断片的なリンクだった。
しかし彼女に何が起こったのかを知るには十分だった。
雨は収まるどころか激しさを増すばかり。仕舞いには雷鳴が轟き始める。まだ15時過ぎだというのに、まるで夜のような暗さ。
私は泥濘の中でのたうち回り、ひたすら泣き叫んだ。
ついさっきまで新品だったドレスは泥に塗れて、もう二度と着ることは出来ないだろう。
それさえも最早どうでもよかった。
モヤモヤをいくらグルグルして解き放っても、彼女からの返事はない。
彼女の無念を思うと気が狂いそうだった。私に代われるのなら代わってあげたい。
他者のために誰よりも頑張ったあの子が、どうしてあんな最期を迎えなくてはならないのか?この世の神は一体何を見ているのか!? ふざけるな! そんな神ならこっちから願い下げだ!
嗚呼。
私の声を聴いてくれる人……私を理解してくれる人はいなくなってしまった。
私は独りになってしまったのだ。
雷雨の下、喉が潰れるまで慟哭したとして、一体誰に届くというのか。こんな場所で汚泥に沈む私がいることを、誰が気付いてくれるのか。
届く筈がない。気付いてもらえる筈がない。
そんなことが起きたとすれば奇跡だ。
奇跡は起こらないから奇跡と呼ばれるのだ。
だから私は独りになった。
いつまでも。いつまでも。
59: 以下、
≪Review by 蜈?ココ蠖「≫
私の寿命が今にも尽きようとしているとき、蘭子のいるセカイ線にたどり着いた。
そのセカイ線は率直に言って“ハズレ”だった。
文明を持ちうる生命が誕生した星はたったの1万個程度しかなく、しかもいずれの星でも科学技術が大して発展しなかったため、異星間の交流さえ一度も出来なかったセカイ線。見どころ皆無と言ってもいい。
付近には数体の天使が漂っていたが、やはり誰もこのセカイ線には注目していなかった。
私もすぐにそこから離れようとしていたのだが、何の面白味も無い閲覧情報の中に微かな“ノイズ”が混じっていることに気が付いた。どうやら魂の波動による揺らぎが原因らしい。
その揺らぎはセカイの内側に存在する者が生じさせるにしてはかなり大きく、しかし、天使にとっては取るに足らない程微小なものだった。天使である私がその揺らぎに着目できたのは、以前から彼らの魂に関心があったからだろう。
その揺らぎにフォーカスし、改めてセカイを精査する。
魂の波動の発生源は神崎蘭子という少女だった。彼女が雷雨の中、泥水に塗れて慟哭している。絶望の叫びと共に魂の波動を放っていたのだ。
しかし妙だった。この少女が周囲の者たちから侮辱を受けたのは確かだが、これほどまでに取り乱さなくてはならないものだろうか? 少女の性格からすれば、さめざめと悔し涙を流す程度の反応になりそうだが……。
やはり納得がいかない。フォーカスを強める。
すると、慟哭の直前にも極僅かな魂の波動を放っていたことに気付く。それは一見すれば極小のノイズだったが、セカイ線から滲み出した後は一定の方向へと向かって行く。数多のセカイ線の合間を縫った末にたどり着いたのは、神崎蘭子のセカイ線からは随分と離れた別のセカイ線で、そこにいる蘭子と同じ外見を持つ少女が受け取っていた。そしてその少女も同種のノイズを発し、それは蘭子へと向かって行く……。
過去を精査し直せば、同様のノイズがいくつも見つかった。
すべてを理解したとき、私の魂が震えた。
それは異なるセカイ間での交信だった。本来であれば、極限まで発展した科学と多くの偶然が重なってはじめて可能となる、極めて珍しい現象のはずだ。彼女たちはそれを、実に原始的な方法で成功させていた。赤い宝石がアンテナ、肉体が同調回路、感情が検波回路、魂を動力とした送受信機のようなものだった。
“たまたま”丁度いい位置関係にある二つのセカイ線において、“たまたま”原子配列レベルから全く同形状の二つの赤い宝石が存在し、それが“たまたま”同じ肉体構造を持った少女たちの手に渡り、その少女たちは“たまたま”魂に関する極めて優れた才能を備えていた。
広い天界であれば、この“たまたま”の内、一つや二つなら揃うこともあるだろう。しかし四つともとなると最早奇跡の中の奇跡だ。少なくとも私はここで見たのが初めてだったし、他の天使から聞いたこともなかった。
この奇跡の末、彼女達は知らず知らずのうちに、魂の力を引き出す感覚を完璧に体得していた。だからこそ、蘭子の慟哭、魂の叫びはセカイ線の情報に揺らぎを与えていたのだ。
二人の交信の内容は天使である私にさえ解析できないが、最後の交信の直後に起こったことを見れば、蘭子の取り乱し様も理解できた。蘭子はあちら側の少女が死んでしまったと誤解したのだ。あそこで交信が途絶えたのならば無理もない。
60: 以下、
あちら側のセカイ線では蘭子側より遥かに多くの星に文明が誕生していた。そのため、星間交易は勿論、星間戦争も頻発するようなドラマチックなセカイ線だった。そういう意味ではそこそこ“アタリ”のセカイ線だろう。
少女が生まれた星は遥か昔に科学が高度に発達し、銀河を支配していた時代があった。その時代には貴族階級以上なら思考するだけで全てが可能だった。大気中に散布されている自己増殖型ナノデバイスが脳波に反応し、願望を実現してくれるからだ。
しかし夢のような時代は程なく終焉を迎える。ナノデバイスの誤作動により、その使用者の全てが死亡したのだ。その中には当然、銀河の支配者一族も含まれていた。
そして、支配者を失った銀河の覇権を巡る戦乱の時代が幕を上げた。それは野蛮な兵器を用いた、血で血を洗う戦争だった。
そんな暗黒の時代に少女は生まれた。何故か、ナノデバイスの使用権限を持った状態で。使用者不在となってから長い年月が経っていても、未だナノデバイスは健在だったのだ。
それが判明するや否や、少女は正当な支配者の末裔として祀り上げられ、また唯一無二の戦力として戦列への参加を余儀なくされた。
蘭子との交信が始まったのは、何度か戦場を経験し、精神的に疲弊していた頃だった。
蘭子が少女に憧れたように、少女もまた蘭子を心の支えにしていた。平和というものが本当にあるのだと、蘭子が教えてくれて初めて知った。それを実現するために自分は戦っているのだと思うと、どれだけ辛くても力が湧いてきたのだ。
最終決戦のあの瞬間。実際、少女は死を覚悟した。
しかし、その激痛の衝撃によってナノデバイスに掛かっていたリミッターが解除され、本来の機能を全て取り戻した。それはほとんど万能機。使用権を持つ者が大怪我を負っても、自動的に修復してしまうほど。
蘭子との交信途絶後、すぐに蘇生した彼女は決戦を勝利に導いた。それにより彼女の星はしばしの平穏を享受することになった。
戦後、彼女は多くの仲間を得ていたことに気付く。その仲間たちと共に、今度は星の再興を目指していくことになる。
仲間たちとの交流、新たな侵略者、銀河を股に掛ける大冒険、自身の出生の秘密、そしてロマンス……。彼女の生涯の正念場――真の見どころ――は、寧ろこれからなのだ。
ただ、彼女は生涯ずっと蘭子の身を案じ続けていた。最後の交信で蘭子も辛い思いをしているのが伝わってきたからだ。赤い宝石を修復しても、蘭子とリンクすることが出来なくなっていた。あの後、蘭子はどうなったのか? 彼女は折に触れて思いを巡らせた。しかし、彼女にはもう知る術はなかった。
対して、神崎蘭子の生涯には見どころと呼ぶべきものはなかった。
あの日から蘭子は空想に浸ることを辞めた。身につける衣服は、他の大多数が着るのと同じものになった。言動についても努めて普通を装った。
蘭子の変化について彼女の両親は「成長した」と好意的に受け取ったが、その実、ただの逃避だった。少女の悲劇を受け入れることが出来ず、彼女を想起させる全てを自分から遠ざけることにしたのだ。
しかし忘れられるわけもなく、ふとした時に少女との交流を思い出してしまう。そして見当違いの自責の念に囚われ続けた。結果として、蘭子は無意識的に幸福から遠ざかろうとする人間になった。そんな彼女の生き方はまるで、緩慢な自殺のようだった。
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