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現代に残る大日本帝国の名建築(画像あり)
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明治から終戦までに北海道、東北、関東地方に建てられた現存する建物をいくつか紹介していくよ
引用元: ・現代に残る大日本帝国の名建築
2:
名建築(西洋のオマージュ)
3:
東京駅:東京都
1914年完成のレンガ建築の駅舎
設計は辰野金吾
建築家として生まれたからには東京に東京駅、日本銀行、国会議事堂を建てたいと語った辰野金吾の代表的な名建築の一つ
長大な駅舎に出口と入口の大ドームやその他の塔をうまく配置し、非常に美しい外観となっている
赤レンガの壁に白い石材のラインが横に走る意匠は辰野式と言われ、日本の多くの建築家に多大な影響を与えた
皇居に正対する形で建てられ、国家の象徴的な位置付けがなされていた
左右にある大ドームは内装も豪華絢爛であり、天井には放射状に飛び立つ鷲やその周囲に各方角を示した8つの干支等が配置されている
また、左右のドームとは別に中央に皇室専用の出入り口が設けられており、内部は立ち入り禁止であるものの、外観は細かな装飾が各所にちらばめられている
かつての皇室用出入り口内部は吹き抜けとなっており、2階部分には農業、漁業、工業、鉱業の労働者が働く様子が描かれた壁画があり、天上にはステンドグラスがはめ込まれていた
1945年の空襲でアメリカ軍の焼夷弾が駅舎に直撃し大火災が発生、レンガの外壁は残ったものの内部はその殆どが炎に焼かれて焼失していた
終戦直後から体制を整えて修復工事を開始し3階部分は安全性に配慮して撤去され、ドーム部分も王冠型から台形に変更
ドーム内部の装飾もローマのパンテオンの天井を模したデザインへと変更され、内外装共に大きく変えられた
しかしこれは仮の修復であり、できるだけ早期に本格的な工事を開始するつもりで当初は「4、5年持てば良い」と言われていた
占領軍から工期の異常な短縮や鉄道省への度重なる財政の縮小などの命令が下され、工事は厳しい財政と超短期間の中突貫で行われた
鉄道省建築家の伊藤滋や松本延太郎、あるいは工事を行った大林組の日夜の努力でできるだけ日本の中央駅の名に恥じないデザインに修復をした逸話が伝えられている
その後は一時取り壊しも協議されたが市民から強い反発が起こり、近いうちに修復工事を行うということで最終的に決着した
そして長らく延長されてきた修復計画は1999年から2000年にかけて創業当初の形態に復元する本格的修復工事の方針がまとめられた
工事は2007年から開始され、5年の歳月をかけて2012年に完成
駅舎は内外装共に本来の美しい姿を取り戻した
因みに、戦前から営業していた駅舎内の東京ステーションホテルの内装については本来の内装、仮修復時の内装、本格修復後の内装と何度も大規模な変更が加えられており、現在のホテルは元の内装とは大きく異なっている
その為か本格修復によるホテル休業時から国内のクラシックホテルによる「クラシックホテルの仲間たち」のグループから外され、工事が終了した現在も除外されたままである
完成当時の東京駅
空爆によって被害を受けた東京駅
仮修復時の東京駅
現在の東京駅
5:
原宿駅:東京都
1924年完成の木造建築の駅舎
設計は鉄道省技師の長谷川馨
ハーフティンバー様式の木造建築で、東京都内の木造駅舎としては最古のものである
ハーフティンバー様式は中世にフランスのノルマンディー地方で誕生し、北ヨーロッパに多く見られる様式である
火災に弱い田舎家として石造、レンガ造にくらべ低い地位にあることが長かった
しかし19世紀後半に田園都市運動などの盛り上がりとともにその美観が見直された
日本にも現地のブームとしてこの様式が輸入されてからは国内でも積極的にハーフティンバーが用いられるようになった
現存している駅舎は二代目であり、中央に換気をかねた八角形の塔が立ち、正面出入り口の上部にはステンドグラスが使用されている
1925年に病弱であった大正天皇の為に皇族専用のホームとして帝室御乗降場が設置された
皇族専用であるにもかかわらずホームの造りは質素であり、目立った装飾も無い
これは当時あまり派手な駅舎を建てると療養中の天皇が利用している姿が人目につき、健康を害している天皇の姿を国民が目の当たりにしたら社会に動揺が広がると考えられたためである
1945年にアメリカ軍の爆撃機より複数の直撃弾を受けたが、奇跡的に全弾不発であった為に駅舎は焼失を免れ現代まで残っている
平成となった現在、今上天皇は東京駅を利用することがもっぱらであり、交通網の発達もあってお召し列車の運行自体が稀となっている
さらに原宿駅自体も過密ダイヤとなっている為、お召し列車の運行には不適切であるとされているという事情もあってこのホームが利用されたのは2001年が最後である
しかし決して廃止されたわけではなく、今後は国賓の案内などにこのホームを利用する可能性も示唆されている
6:
日光駅:栃木県
1912年完成の木造2階建てネオルネッサンス様式の駅舎
設計者は長らく不明であったが2012年に郷土研究家により当時の鉄道院技手の明石虎雄が設計したものにほぼ間違いないと判明した
日光は当時から東照宮や中禅寺湖など美しい景観から観光客も多く、皇室関係者も訪れるなど賑わいを見せていた
駅舎1階の待合室は折上げ天井で木材による装飾が施されている
駅舎2階は一等客室であり、広い室内の天井には美しい装飾が施されシャンデリアで彩られていた、現在はギャラリー展示室となっている
また、1階には貴賓室も存在しているが普段は非公開である
長年にかけて何度も改修が行われ、駅の内装は大きく様変わりしてしまったが2009年に開業120周年を記念して内装がレトロ調に変更された
7:
北海道に期待
8:
三越日本橋本店:東京都
1927年完成のルネッサンス様式の百貨店建築
設計は横河民輔
東京における百貨店ブランドの代名詞的な存在
三越は元々江戸で三井家が営んでいた越後屋という呉服店が元となっている
越後屋が後に三井呉服店と改名、さらに三井の「三」と越後屋の「越」を取って1904年に「三越」という屋号が生まれた
1914年に初代本館が完成、当時の三越は地上5階建て地下1階建てで日本初のエスカレーターやエレベーター、スプリンクラー、全館暖房など最新設備を整えており、1923年には日本発のバーゲンセールも行われた
しかし関東大震災が発生し、初代本館は倒壊した
そしてその4年後となる1927年に新本館として現存する建物が完成、その後も増築を繰り返し1935年に現在と同じ地下2階、地上7階建てとなる
戦後1964年に南側にも用地を広げ現在の形となった
2008年には3年という長期にわたって行われた耐震工事が完了し、東日本大震災でも建物は被害を受けなかった
建物外観はルネサンス様式で、入口付近の煌びやかな装飾は見事である
内部は中央に5階吹き抜けの大ホールがあり、その中央に1960年に建立された天女(まごころ)と言われる巨大な天女像が配置されている
ホール天井にはアールデコのステンドグラスがはめ込まれており非常に美しい
その他にも細かな装飾が施されており、地下や食堂などの隅々にも職人の技が見られる
因みに入口にある有名なライオン像は1914年の初代本館時代から設置されているものである
このライオン像はロンドンのトラファルガー広場にあるライオン像をモデルとしており、イギリス人彫刻家のメリフィールドが型を、同じくイギリス人の鋳造家であるバルトンが鋳造を担当して製造した
イギリスの一流彫刻家、鋳造家が3年という長い期間をかけて完成させたこのライオン像は当時、本国イギリスでも大きな話題となった
ライオン像は第二次世界大戦中に金属徴用でいったん失われたが、戦後原宿にある東郷神社に残っているのを発見され、三越に返却された
10:
伊勢丹百貨店本店:東京都
1933年完成のアールデコ様式の百貨店建築
設計、施工共に清水組による
伊勢丹百貨店は1886年に開業した伊勢屋丹治呉服店が前身となっている
創業地は秋葉原であったが、後に新宿出展を決意
だが「世は挙げて私の愚を笑い、新宿伊勢丹進出のユメを『砂上の楼閣』と指摘した。」と伊勢丹の当時社長である小菅丹治本人が語るように新宿出店は非常に難しいものであった
当時新宿には「三越」と「ほてい屋」という2大百貨店が商圏を確立しており、そこに新たな百貨店が食い込む余地など無いと考えられていた
しかし、ほてい屋は1927年に社長が自殺するなどの事件で客足が落ち始めており、加えて近隣に競合店の三福がオープンして焦ったほてい屋は商品を半額で提供するなど安売りに走っていた
このため業績は悪化しており、ここに伊勢丹は目をつけた
伊勢丹はほてい屋の隣接地を取得し、あろうことかほてい屋と同じデザインのビルを建築しだした
外観はもとより階数、床面の高さまで完璧にほてい屋と同じものであり、そのそっくり具合は当時の新聞でも報じられた
これは伊勢丹側がほてい屋を買収する算段が整っており、買収した後の店舗の吸収も視野に入れていたための行為である
ほてい屋は伊勢丹に対抗するために常軌を逸した大安売りの乱発を行い、当初は黒字を計上したものの次年度から赤字に転落し、ついに1935年ほてい屋は伊勢丹に買収されることとなった
伊勢丹は直ちに二つのビルをつなげる工事に着手し、1936年に工事は完了した
当初は旧ほてい屋と伊勢丹のビルの繋ぎ目ははっきりと分かったが、現在では改修工事により継ぎ目は消されている
建設当初は建物上部にも美しい装飾が施されていたが、戦後の改修により現在では1、2階部分のみ装飾が残されている
7階から屋上へ続く階段部分にある縦長のステンドグラスは開業当初のものであるが、部分的に補修されたり交換されたりしている
またステンドグラスは戦後の改修の影響で最上部の半円部分が建物の陰となってしまっており、その部分の模様が非常に見え辛い
2013年に正面入口が開業当時の姿に復元され、シャンデリアや飾り格子なども再現された
因みにかつて地下一階食品売り場に存在した段差は、旧ほてい屋と伊勢丹のまさに繋ぎ目である
地上階の床面の高さは完璧にコピーした伊勢丹側も地下に関してはうまくいかなかった様で若干の高低差が生まれてしまったのである
現在では改修工事によって段差は消失しており、かつてこの地で営業していたほてい屋の面影は完全に消滅した
11:
旧北海道庁:北海道
1888年完成のレンガ造アメリカンネオバロック様式の庁舎
設計は北海道庁土木課の平井晴二郎
1882年に北海道において開拓使が廃止されると1886年に北海道庁が設置されることとなった
庁舎のデザインについては当時アメリカで流行していた独立と進取のシンボルであるドームを取り入れたものとなった
建築資材のレンガ、石材、木材などの多くに北海道産のものが使用され、中央部に八角形のドームが配置されたレンガ庁舎が1888年に完成
1909年に札幌大火が発生し、庁舎も炎に包まれ内部はそのほぼ全てが焼失した
しかしレンガの外壁は損傷が無かったため、1911年に中央のドームを撤去して復旧された
そして1968年に北海道開拓100周年を記念して庁舎を元の姿に戻すための復元工事が行われ、八角形のドームも復活して完成当初の姿を取り戻した
現在は北海道立文書館として北海道開拓関係資料を展示しており、一般に公開されているが一部は隣接する現道庁の会議室として現役で使用されている
13:
山形県庁(文翔館):山形県
1916年完成のルネッサンス様式のレンガ建築
設計は中條精一郎、田原新之助
1877年に木造の初代県庁舎が完成、1883年には初代県議会堂が完成した
しかし1911年に山形市北大火で県庁舎、県議会堂は焼失した
このことから、1916年にレンガ建築の二代目県庁舎及び県議会堂が建築された
県庁舎はレンガの外壁に花崗岩の石貼りであり、庁舎中央に立上がる時計塔が特徴
この時計は北海道の札幌時計台に次いで国内では二番目に古いものである
内部も大理石の角柱や漆喰による装飾などが見事であり、国内庁舎建築の最高傑作とも言われる
1975年に新庁舎及び新議会堂が完成し、しばらくは事務所として使用されていたが1984年に国の重要文化財に指定され、1986年から約9年の歳月をかけて修復工事を行い山形県郷土館(文翔館)として一般公開を開始した
東日本大震災では山形県も震度5強の強い揺れに見舞われたが一時期ライトアップが休止されたのみで庁舎、議会堂共にほぼ無傷であった
14:
茨城県庁(茨城県庁三の丸庁舎):茨城県
1930年完成のネオゴシック様式鉄筋コンクリート造
設計は置塩章
外壁には茶色のスクラッチタイルが貼り付けられ、中央には塔屋が立上がり、その下に県の花である薔薇のレリーフが飾られている
内部は階段部分に茨城県産の大理石が使用されており重厚な造りとなっている
また天井のアーチ部分や壁にも細かな装飾が見られ非常に美しい
もともと建物は3階建てであったが手狭になったため、1954年に4階部分を増築した
しかしこれにより建物の耐震性が著しく低下
東日本大震災では建物の塔屋と増築した4階部分に被害が集中しており、4階部分を撤去して3階建てに戻すことが決定された
2012年に耐震工事及び復元工事が完了し、建物は本来の姿に戻された
4階部分が増築された庁舎
増築部分が撤去された庁舎
15:
良スレ期待
16:
栃木県庁(栃木県庁昭和館):栃木県
1938年完成のルネッサンス様式の鉄筋コンクリート造
設計は栃木県出身の建築家である佐藤功一
栃木県の県庁舎としては4代目
初代から3代目までの庁舎は木造であり、2代目と3代目の庁舎は共に火災によって焼失した
コンクリート造りの4代目庁舎は完成から約65年もの長きに渡り県政の中心であった
ロの字型の庁舎であり、中央部には中庭が存在した
内部はテラコッタタイルが多用されており、各階の足場にはタイルによる漢数字の階数表示もある
貴賓室、正庁などの大部屋は壁紙やシャンデリア、椅子などの調度品まで一級品が使用されている
特に公式行事等で使用されていた正庁の内装は見事で、天井には現在も当時の石膏によるレリーフが残されており、正面には奉安所がある
余談であるが栃木県出身の芸能人であるU字工事の「北関東ナンバーワン!」というDVDのジャケット写真はこの正庁で撮影されたものである
2008年に正面部分のみを移築し、残りは取り壊された
現在は昭和館として一般向けに開放している
17:
俺の家
1935年に建築され今なおリフォームしつつ残されてる
19:
>>17
昭和初期の建築とか地方ならさほど珍しくないよ
18:
群馬県庁(群馬県庁昭和庁舎):群馬県
1928完成の鉄筋コンクリート造
設計は栃木県庁と同じく佐藤功一
屋上庭園やスチーム暖房、押ボタン式自動消火器など当時としては最新の設備を誇る建物であり、関東一の庁舎と言われた
完成時に行われた一般公開では3日間で約30万人もの見学者が訪れ、当時の群馬県民の4人に1人はこの県庁舎の見学に訪れた計算になる
外観は1階部分を石張りとし2、3階をスクラッチタイル張りとしている
中央の車寄せにアーチ型の意匠が見られるが、内部にはさらにアーチが多用されており非常に美しい
内装には御影石が多用されており、天井にも細かい装飾が見られる
3階の階段正面の部屋は正庁であり普段は非公開だが、現在でも式典などで利用されている
内部は天井にステンドグラスがはめ込まれており、正面には天皇の御真影を掲げるための奉安所が存在している
しかし他に目立った装飾は無く、庁舎建築で最も豪華な造りの部屋であるはずの正庁としては珍しいものである
1999年に隣接地に新庁舎が完成したため、その役目を終えて現在では昭和庁舎として一般向けに公開されている
20:
神奈川県庁:神奈川県
1928年完成の帝冠様式鉄筋コンクリート造
設計は県内務部が担当
神奈川県の県庁舎としては4代目である
関東大震災によって3代目庁舎が大きな被害を受けたため、庁舎の立替え計画が浮上した
そこで再建のための設計を一般から募集した結果、小尾嘉郎の案が入選した
これを基にして関東大震災の教訓を活かし、耐震構造学の専門家である佐野利器を顧問に迎え、神奈川県内務部が改めて設計した
外壁全面にスクラッチタイルを貼り付け、中央には高さ49メートルもの和風の塔が立上がる
この洋風建築に和風の屋根を乗せるデザインは帝冠様式と言われるもので、1930年代に日本で生み出された様式である
クイーンの塔と呼ばれる横浜税関や、ジャックの塔と言われる横浜市開港記念会館と並んで神奈川県庁はキングの塔と呼ばれている
内部は庁舎建築らしい重厚な造りとなっており、階段部分の装飾灯や手すり部分の装飾が美しい
大会議場は折上げ格子天井となっており、更にそこから巨大なシャンデリアを吊り下げた和洋折衷である
また4階の正庁は非公開であるが、かつて正庁内にあった宝相華の装飾タイルが廊下の壁面に移されて展示されている
21:
旧函館区公会堂:北海道
1910年完成のコロニアル様式の木造建築
設計は小西朝次郎
1907年に発生した函館大火で焼失した町会所に代わる施設として建設された
正面にバルコニーを設けており、玄関周りにはコリント式の柱が配されている
破風飾りは和風の唐草模様で、柱の装飾にも和風のデザインが見られる
内部は2階の大広間が見所で、ヴォールト式の天井を有している
1974年に重要文化財に指定された
1980年に老朽化が問題となり、一旦解体された後に修理復元工事が行われた
現在は一般向けに公開されており、3月?12月にはロングドレスなどを着用できる「ハイカラ衣裳館」が営業している
22:
岩手県公会堂:岩手県
1927年完成の鉄筋コンクリート造
設計は群馬県庁と同じく佐藤功一
1923年に昭和天皇(当時は皇太子)の御成婚記念として建設された
完成当時の公会堂は県会議事堂、大ホール、西洋料理店、皇族等の宿泊所としての4つの機能を備えていた
西洋料理店はフランス料理レストラン「公会堂多賀」で、会館時から現在も営業している
現在応接間として使用されている部屋は元貴賓室であり、その隣の付属室では当時昭和天皇が宿泊したという
長年補修などが行われなかったことから老朽化が問題となり、一時は取り壊しも議論された
しかし2006年に国の登録有形文化財に指定され、2009年に耐震工事や大ホール及び食堂(現21号室)の改修、復元工事が行われた
東日本大震災でも被害を受けず、現在も通常通り営業している
24:
郡山市公会堂:福島県
1925年完成のルネッサンス様式鉄筋コンクリート造
設計は荻原貞雄
1924年の福島県郡山市の市制施行を記念して建築された
オランダのデン・ハーグにある平和宮がモデルになったと言われている
外観は一階部分の連続半円アーチの柱廊と二階部分の連窓をデザインした躯体の隅に立上がった塔が目を引く
塔部分は縦長のガラスを用いて垂直性を強調しており、上部には時計がはめ込まれている
この時計は年月の経過によって次第に時刻が狂うようになり、第二次世界大戦中に市民からの苦情で取り外されて以降は長らく市章がはめ込まれていたが、1998年頃に再び時計がはめ込まれた
2002年に登録有形文化財に指定された
2005年には改修工事が行われ音響、照明設備が一新された他、建設当初の御影石の外壁やルネサンス様式の天井、ステンドグラスなども復元された
東日本大震災で窓ガラスが割れるなどの被害を受けたが大きな損傷は無く、現在は通常通りイベントなどが開催されている
25:
日比谷公会堂・市政会館:東京都
1929年完成の鉄筋コンクリート造
設計は岩手県公会堂と同じく佐藤功一
1920年に東京市長に就任した後藤新平がニューヨーク市政調査会を模範として地方自治についての調査を行う独立機関として東京市政調査会を設立
日比谷公園内に安田善次郎から350万円もの寄付金を受けて着工した、因みに当時の350万円は現在で言えば約140億円に相当する
この安田善次郎は東京帝国大学の講堂の建設に関しても多額の寄付をしていたが、これらの寄付は名声を得るためのものではないとして匿名で寄付を行っていた
建物は北側部分を公会堂とし、残りを市政会館とした
工事に関してはかつて日比谷、有楽町方面が海であったことから地盤が大変軟弱であったため、杭2200本を打ち込み、更にそこに鉄筋で基礎を作ってコンクリートを流し込んだと言う
垂直性が強いデザインでゴシック風の印象を受けるが、ゴシック様式の特徴であるリブヴォールトや尖頭アーチなどは見られない
外壁全面にレンガ風のタイルを貼り付けており、中央に時計塔が立上がる
内部もタイル張りであり、エントランスには当時流行であった水色のタイルが使用されている
1999年に東京都選定歴史的建造物に指定され、2003年には景観まちづくり重要物件にも指定された
26:
北海道帝国大学林学教室(北海道大学 古河記念講堂):北海道
1909年完成のルネサンス様式の木造建築
設計は新山平四郎
北海道帝国大学は1876年に設立された札幌農学校が前身となっている
1907年に東北帝国大学農科大学として帝国大学に昇格し、1918年に北海道帝国大学となった
学士の学位を授与する機関としては日本国内で最初のものである
札幌農学校初代教頭であるウィリアム・スミス・クラークが発言した「Boys, be ambitious」(少年よ大志を抱け)は現在も大学のモットーである
建物は木造建築で、左右にマンサード屋根を設け、中央には時鐘が取りつけられた小塔が立つ
正面入口から入ると仕切り扉の上部に林学教室を表す「林」の字を意匠化した窓がある
現在は非公開であり、内部に立ち入る事はできない
1997年に登録有形文化財に指定された
北海道大学は日本一広い敷地を持つ大学として知られ、冬には学校内で遭難するというジョークまで聞かれるほどである
敷地内は自然に溢れ、異国情緒漂う美しい学校である
27:
東京帝国大学大講堂(東京大学 安田講堂):東京都
1925年完成の鉄筋コンクリート造
設計は内田祥三
東京帝国大学は欧米諸国の制度に倣った日本国内で初の近代的な大学として設立された
言わずと知れた日本の名門大学の代名詞であり、国内外から高い評価を得ている
現在でもその地位は揺るがず、アジア圏の大学では常にトップクラスの学力を誇っている
講堂は安田善次郎の匿名を条件での寄付により建設され、現在でも東大のシンボルとして親しまれている
東京大学建築学科の建築家、内田祥三が基本設計を行った
1921年に工事が開始されたが関東大震災が発生し一時工事が中断、その後再開されて1925年に完成となった
背面は地盤が大きく下がっており、正面玄関は3階にあたる
正面玄関の上部には「大學」の文字がデザインされたステンドグラスがはめ込まれている
廊下の床には大理石で市松模様が施されており、アーチ状の天井が優雅さと重厚感を漂わせる
戦後は1968年に発生した東大紛争で全学共闘会議によって占拠され、所謂東大安田講堂事件によって講堂は荒れ果て、事件収束後もそのまま放置されていた
しかし富士銀行をはじめとする旧安田財閥ゆかりの企業の寄付もあり1988年から改修工事が行われ、1991年には再び講堂で卒業式が行われるようになった
東京大学は敷地内に大量の近代建築があり、講堂の他にもアーケードが美しい法文2号館や階段に赤絨毯が敷かれた付属図書館なども必見である
法文2号館のアーケード
28:
早稲田大学大隈記念講堂:東京都
1927年完成の鉄筋コンクリート造
設計は佐藤功一、佐藤武夫らによる
早稲田大学は1882年に大隈重信によって設立された東京専門学校を前身として、1902年に早稲田大学の名称を使用するようになった
日本の私立大学では慶應義塾大学と共に最も古い段階で1920年の大学令に基づく大学となった
早稲田大学は各種式典の際はテントを張って式典を行ってきたが、1922に大隈重信が逝去したため記念講堂の建設が行われることとなった
講堂はゴシック様式で、向かって左側に7階建の時計塔が立つ
この時計塔は大隈重信が提唱した「人生125歳説」に因んで、125尺の高さになっている
全体を覆っているタイルは信楽風の全て手作りの焼き物である
1999年に東京都選定歴史的建造物に選定されたが、2006年に翌年の創立125周年記念事業に向けて外観はそのままに外壁と内部を改装し、多機能型文化ホール化する工事が行われた
工事は2007年に終了し、これに伴って東京都選定歴史的建造物の選定は解除され、重要文化財に指定されることとなった
29:
慶應義塾大学 慶應義塾図書館旧館:東京都
1912年完成のレンガ建築
設計は曾禰達蔵、中條精一郎らによる
慶應義塾大学は1858年に福澤諭吉によって設立された蘭学塾を前身としており、早稲田大学と並んで「私学の両雄」と称される国内最難関の私立大学である
1868年に慶應義塾の名称が使用され始め、1920年の大学令に基づいて慶應義塾大学となった
1907年に慶應義塾創立50周年を迎え、その記念事業として図書館が建設されることとなった
1908年に工事が開始され、1912年に終了した
建物はゴシック様式のレンガ建築であり、12文字のラテン語が刻まれた時計がはめ込まれている
内部は1階から2階に上がる階段の正面に配されたステンドグラスが非常に美しい
このステンドグラスは1915年に完成したもので、ペンを持った女神を甲冑を着た武者が迎える場面が描かれており、下にラテン語で「ペンは剣よりも強し」と記されている
関東大震災では外壁に亀裂が入るなどのしたものの、大した被害は無かった
しかし1945年の空襲でアメリカ軍爆撃機からの直撃弾を受け、天井が抜けて内部が焼失するなどの大きな被害を受けた
大学側は空襲による被害を予測しており、貴重品や図書の多くを疎開させていた
また特設防護団員の活躍により、書庫への延焼や貴重資料の焼失は免れた
さらにレンガの外壁も大した被害を受けなかったため、1949年には修復工事で元の姿を取り戻した
1982年に図書館新館が建てられ大部分の機能をそちらに譲ったが、現在も書庫として活用されている
30:
旧米沢高等工業学校:山形県
1910年完成のルネサンス様式の木造建築
設計は中島泉次郎
米沢高等工業学校は東京や大阪、愛知等に次いで全国で7番目の高等工業学校として開設された
高等工業学校は旧制高等教育機関の一つで工業に関する専門教育を施した旧制専門学校であり、戦後に学制改革が行われて廃止された
現在では高等教育機関である高校への進学が当たり前のような時代になっているが、当時の義務教育は小学校までであり、中等教育学校にも受験で合格しなければ入学できなかった
中等教育学校の生徒の偏差値は60前後であると言われており、さらにその上の高等教育を受けられたのは当時の日本人では少数の人間のみであった
建物の外壁は下見張りで中央の両端には階段室が突き出しており、さらにそこから両翼が長く伸びて全長は94mにもなる
中央は1階に事務室と応接室、2階に校長室や応接室、会議室が設けられている
会議室は天井の装飾が見事であり、その他に階段手すり部分なども見所である
1974年に重要文化財に指定された
現在は資料館として一般向けに公開されており、内部も無料で見学できる
余談であるが現在の米沢駅のデザインはこの建物をモデルとしている
31:
深谷商業学校(深谷商業高等学校記念館):埼玉県
1922年完成のルネッサンス様式の木造建築
設計は埼玉県技師の濱名源吉
1921年に設置された町立深谷商業学校が前身となっている
地元の有力者である大谷藤豊が設立に尽力しており、校舎も大谷の私財を投じて建設された
建物は木造二階建てで「二層楼」とも呼ばれる
中央に時鐘が取りつけられた小塔が立ち、両翼には半円形の破風飾りが見られる
2000年に登録有形文化財に指定された
建物は長年の経過によって老朽化していたため2012年に改修工事が行われた
着工前の建物の塗装は白を基調としたもので屋根部分は赤に塗られていた
しかし完成当初は萌黄色の塗装であったことが修復工事に伴う調査で判明したため塗装し直して当時の姿に復元され、2013年に工事は完了した
この時、建物中央の破風に施されていた放射状の装飾が何故か失われている
現在は日曜日に一般公開が行われている
32:
旧弘前市立図書館:青森県
1906年完成のルネサンス様式の木造建築
設計は堀江佐吉
左右に配置された八角形の塔が特徴の建物
図書館としての機能を意識して窓を多めに配置しており、尚且つ中央部分に大きな採光窓を設けている
当時の弘前市には図書館が存在しておらず、青森県出身の建築家である堀江佐吉や実業家などが中心となって建設された
堀江佐吉は青森県において洋風建築を多く手がけており、学校や銀行、軍事施設、個人の邸宅など1000棟を超える作品が存在したとも言われる
しかし現在はそのほぼ全てが失われており、この弘前市立図書館を含めて僅かな数しか現存していない
堀江は後進の育成にも尽力しており、彼の息子4人も建築家として大成し、登録有形文化財や青森県重宝に指定されている作品を数多く設計している
また、青森県平川市にある国の名勝「盛美園」に建つ盛美館を設計した西谷市助も堀江の下で腕を磨いた人物の一人である
彼の死後、その功績を称えて高さ7mに及ぶ巨大な記念碑が築かれており、最勝院の境内に現在も残されている
弘前市立図書館は1930年に図書館としては手狭になったことから堀江家に払い下げられ、別の場所に移築された
その後は所有者も変わり、喫茶店や賃貸アパートとして使用されていた時期もあったが、1989年に弘前市の市制施行百周年記念事業の一環として市が建物を再取得
元あった場所に再び移築し直し、市立郷土文学館の施設として保存するとともに補修工事を行って一般向けに公開した
かつての建物内部は1階に図書室と女性専用の婦人閲覧室、2階に普通閲覧室と特別閲覧室、3階に応接室と書籍の下書きや書き写しを行う浄写室が設けられていた
現在は1階と2階部分のみ公開されており、3階は非公開である
1993年に青森県重宝の指定を受けた
33:
帝国図書館(国立国会図書館国際子ども図書館):東京都
1929年完成のルネサンス様式のレンガ造(一部鉄筋コンクリート造)
設計は久留正道
帝国図書館は1872年設立の書籍館を前身として1897年に設置された
当時の文部省は図書館は近代国家に必要不可欠な施設であるとして、同じく重要施設とされていた博物館と共に湯島聖堂内に書籍館を設置した
その後1880年に名称を東京図書館と改めて上野に移転
1890年、東京図書館の館長であった田中稲城は欧米への図書館事情視察経験から東京図書館を本格的な国立図書館に発展させる必要性を認識し、帝国図書館の設置を提唱する
その結果1897年に帝国図書館官制が公布され、上野公園内に帝国図書館が設立された
しかし帝国図書館設立費用は田中が要望した額よりも大幅に少ないものであった
これは当時日本が日露戦争の終結直後であったということが大きな原因であり、戦争に勝利したとはいえ世界最強といわれたロシア帝国との戦いで日本の国家財政は疲弊しきっていた
結果として建物は計画の4分の1程度の規模が完成したのみであった
建物は1908年に第一期工事が完了し、地上3階地下1階建てであった
当初の予定では建物はロの字型であり、内側に広大な中庭を有した東洋一の規模を誇る大図書館となる予定であった
一方で蔵書に関しては洋書の購入や納本制度による国内文献の受け入れもあって、研究書を多くそろえた研究図書館として非常に優れたものとなった
1923年の関東大震災では倒壊こそしなかったものの建物が著しく損傷している事に変わりは無く、1927年に修復及び増築工事を開始し構造を鉄筋コンクリートに改修した
第二期工事は1929年に完了し、現在まで残る姿となったが依然として当初の計画の3分の1にすら満たない規模であった
第二次世界大戦では東京大空襲で多くの爆撃機が飛来したが、住宅街を標的としていたために離れた場所にあった帝国図書館は被害を受けなかった
終戦後に国号が「大日本帝国」から「日本国」に改められたことにより、帝国図書館は1947年に国立図書館に改称する
1990年代に入ると子供の読書離れが深刻な問題となり、1996年には国際子ども図書館基本計画が策定され、国立国会図書館国際子ども図書館として2002年に全面開館となった
開館にあたっては外装や内装を極力保存すると共に現代の耐震基準に適合するように工事が行われた
内部は階段部分や漆喰によって施された室内装飾の補修、シャンデリアの復元なども行われており、かつての美しい内装を維持している
しかし地下部分は免震層とされてしまい、かつて存在した食堂は失われている
帝国図書館の蔵書に関してはかつての蔵書が戦後に新築された永田町の国立国会図書館に移されており、現在は児童書専門図書館として国内外の児童書が所蔵、公開されている
1999年に東京都選定歴史的建造物に指定された
36:
網走監獄庁舎(博物館網走監獄):北海道
1912年完成の擬洋風建築
設計は司法省による
網走監獄は当時国内で最も脱獄が難しい刑務所として知られ、また戦後1965年に放映された「網走番外地」によって一般にも広く知られるようになった
明治維新後に内乱などによる政治犯が続出したため、当時全国の監獄はほぼ満員となっていた
さらに近代国家となりつつあった当時の日本にとって、ロシア帝国による脅威も無視できないものであり、北海道開拓は絶対不可欠の課題であった
この二つの課題を解決すべく、日本政府は1881年に釧路に集治監を設置した
ここに連れて来た囚人を開拓のための労働力として勤務させ、北海道防衛の足掛かりとしたのである
1890年に中央道路開通作業を行うため、釧路から囚人を移動させて網走監獄が設置された
この中央道路開通工事はたった1年で160kmが開通しており、後の網走の発展に大きく貢献した
しかし、この工事に従事していた囚人200人以上があまりの過酷な労働状況により死亡した
これは大きな問題として帝国議会で取り上げられ、後年になって囚人の使役は禁止された
1909年に山火事が発生し、刑務所に火が燃え移り建物が全焼
その後1912年に新しく管理棟として建てられた庁舎は木造平屋建ての擬洋風建築で、正面入口上部の破風には警察章があしらわれている
また、1923年にはレンガ造りの正門が建てられ、監獄の周囲もレンガ塀で囲まれた
1973年に建物の立替え工事が発表され、歴史的建築物が失われることを危惧した地元新聞社が北海道や法務省などと協力して移築保存工事を行った
現在は博物館網走監獄として一般向けに公開されている
博物館では4月から10月までの期間限定で現在の網走刑務所で収容者が食べている食事のメニューを再現した体験監獄食が提供されている
また、放射状に獄舎が伸びる構造の五翼放射状官舎は刑務所の施設としては日本国内最古であり、木造の行刑建築としては世界最古である
正門
庁舎
38:
千葉監獄:千葉県
1907年完成のレンガ建築
設計は山下啓次郎
千葉監獄は明治五大監獄のうちの一つ
千葉、石川、奈良、長崎、鹿児島の5つの県に設置され、全ての監獄の設計を山下啓次郎が行った
石川県の金沢監獄は愛知県の明治村に移築されて保存されているが、長崎、鹿児島監獄は取り壊されており、正門しか残されていない
千葉監獄と奈良監獄は現在も現役の刑務所として、それぞれ「千葉刑務所」「奈良少年刑務所」という名称で使用され続けている
現役の刑務所ということもあって普段は見学や撮影などは許可されていないが、年に1度開催される矯正展では敷地内に立ち入ることができ、外観のみであれば撮影も許可される
千葉刑務所は現存している本館の他にかつて監視官棟が2棟存在し、そこから放射状に獄舎が伸びる構造になっていた
現在は監視官棟と獄舎は新築されており、かつてのような放射状の構造ではなく、獄舎が並列する構造となっている
また、矯正展で販売されている革靴は品質が良く、価格もそこまで高価でないため近年密かに人気となっている
矯正展で販売されている物品はその多くが受刑者による手作業で製作されており、千葉刑務所には比較的刑期の長い受刑者が多いため製作技術が高いとされる
矯正展の物品の一部のラベルには本館の建物がデザインされているものもある
39:
旧登米警察署:宮城県
1889年完成の擬洋風建築
設計は山添喜三郎
建物は木造2階建てで外壁を下見張りとし、中央部分にはバルコニーが設けられている
全体が白のペンキで塗装されており、バルコニー上部の破風部分には当時の警察章が掲げられている
内部は柱や壁に彫刻による装飾が見られるが、特に階段を上った左手部分の装飾が美しい
建物の奥は平屋建てとなっており、奥には1955年まで実際に使用されていた留置所が存在する
建物は1968年に新庁舎が完成した後は商工会が使用していたが、1988に改修工事が行われて宮城県指定有形文化財に指定され、警察資料館として一般向けに公開された
この建物を設計した山添喜三郎は登米小学校の設計も手掛けており、こちらは重要文化財に指定されている
周辺は近代建築が多く残されており、みやぎの明治村と呼ばれている
40:
大日本帝国陸軍歩兵第四連隊兵舎(仙台市歴史民俗資料館):宮城県
1874年、若しくは1876年に完成した擬洋風建築
設計者は不明
宮城県内に現存する洋風建築としては最古の建築物である
建物は木造2階建てで外壁は漆喰で仕上げられており、角部分には隅石が配されている
1875年に榴岡に歩兵第四連隊が置かれることとなり、前年の1874年に兵舎が建てられた
そしてさらにその2年後に兵舎が増築され、合計で7棟の兵舎が存在した
歩兵第四連隊は第二次世界大戦ではガダルカナル島の戦いやビルマの戦い等の激戦区の戦闘にも参加した部隊である
建物は終戦後に7棟全てが占領軍によって接収され、1956年までアメリカ軍によって使用されていた
返還された後は警察学校として利用されていたが1977年に榴岡公園整備のために7棟の内6棟が取り壊され、残りの1棟は整備されて仙台市歴史民俗資料館として一般向けに公開された
現在残されている兵舎は1874年に建てられたものなのか1876年に増築されたものなのか不明であり、建物の完成時期は正確には分かっていない
建物は外観こそ和風と洋風の意匠が混在する擬洋風建築として見所があるが、内部は兵舎らしい簡素な造りであり、階段部分以外は装飾らしい装飾はほとんど見られない
41:
大日本帝国陸軍騎兵学校御馬見所(空挺館):千葉県
1911年完成のコロニアル様式の木造建築
設計者は不明
東京都目黒区に存在した陸軍騎兵学校内に天皇が馬術などを天覧するために建てられた
戦前は帝国大学、陸軍士官学校、陸軍騎兵学校の卒業式は天皇の臨席のもと行われていた
特に明治天皇は自身も馬術に慣れ親しんでいたことから騎兵学校では卒業式だけでなく部隊練武や個人馬術まで全ての演目を天覧した
この建物が建てられるまでは明治天皇は「兵が雨の中訓練を行っているのに自分だけ傘を差すなどということはできない」として雨の中でもずぶ濡れで馬術を天覧していた
このことから陸軍内で議論が起こり、馬術を展覧するための御馬見所を建築することとなった
完成当初の御馬見所は屋根部分が入母屋となっており和洋折衷の外観であったが、騎兵学校が千葉県の習志野に移転となった際に屋根部分が改修され、洋風の外観に統一されて迎賓館として利用されることとなった
内部は美しい装飾が随所に散りばめられており、扉上部のペディメントや格子天井などに和風の意匠が見られる
階段は高齢となった明治天皇の身体に配慮して緩やかな傾斜になっており、天覧室までの動線も最短となるように設計されている
天覧室は正面と左右の三面に大きな窓が設けられており、窓の扉下部には菊の紋章が見られる
また、他の部屋と異なり天井の格間が紫色で、皇室専用の格調高い部屋であったことが分かる
終戦後はアメリカ軍によって約8年もの長きに渡り接収され続けた
その後は陸上自衛隊の第1空挺団によって「空挺館」と名称を改められて再利用されている
1992年に船橋市指定文化財に指定された
しかし文化財の指定を受けると建物の解体や改修などに厳しい制限が課されるため、当時の防衛庁によって指定は強制解除されてしまった
2012年に空挺館創立100周年を記念して改修工事が行われた
建物は痛みがひどく、アメリカ軍による接収時代に付けられた英語の落書きやペンキによる汚れ、ビールの空き缶なども発見された
改修工事が完了し、現在は非常に良好な状態で保存されている
また、現在専門家から国の登録有形文化財に指定するべきであるとの意見が多数出ているが、今のところその動きは見られない
空挺館は普段は非公開であるが、駐屯地行事等が開催された際に一般公開される
館内には落下傘部隊や騎兵隊の資料などが展示されており、1932年のロサンゼルスオリンピックの馬術競技で金メダルを獲得した陸軍騎兵隊の西竹一大佐に関する資料も展示されている
余談であるが、このロサンゼルスオリンピックで日本は金メダル7個を獲得しており、メダル獲得総数ランキング5位と白人国家以外で唯一ベスト10入りを果たした
42:
大日本帝国陸軍近衛師団司令部(東京国立近代美術館 工芸館):東京都
1910年完成のゴシック様式のレンガ建築
設計は陸軍技師の田村鎮
北の丸公園南端に建つ二階建てのレンガ建築で、建物中央には銅製の小塔が立つ
建物下部の通気孔の格子には陸軍の紋章である五芒星が描かれている
近衛師団は大日本帝国陸軍の師団の一つで天皇の守護、及び皇居の警衛の任を担う陸軍の中でも最精鋭かつ最古参の部隊であった
また、儀仗隊として鳳輦供奉(ほうれんぐぶ)の任も担っていたため、服装も華やかなドルマン式軍服が礼装用として採用されていた
(鳳輦供奉の「鳳輦」とは天皇の正式な乗り物を意味する言葉で、「供奉」とはそれに付き従う者を指す)
終戦後に大日本帝国軍が解体さたことに伴って近衛師団も解体され、代わって天皇を守護するための機関として禁衛府が宮内省に置かれた
この際も禁衛府庁舎として建物は利用されていた
禁衛府は皇居護衛と言う任務の重大性から自然と重武装の組織となり、旧陸軍の一部の将校はこの禁衛府を起点として再軍備を行うことを計画していた
しかしGHQはこの武装を危険視し、設立された翌年の1946年に禁衛府は解体させられた
その後建物は利用されることなく放置されて窓ガラスは割れ、内部も荒れ放題となっていた
1963年に当時の建設省が北の丸一帯に森林公園を作る計画を打ち出し、それに伴ってこの建物は邪魔であるとして取り壊すことで方針が決まった
これに文化庁は猛反対し、補修して保存すべきであるとして意見は真っ向から対立した
議論は長く続いたが最終的に建物は保存されることで決着した
現在は東京国立近代美術館の分館である工芸館として染織、陶磁、ガラス、漆工、木竹工、金工等が展示されている
建物内部は改修工事によってほとんど原型を留めていないが、階段付近は漆喰による装飾や階段手すりの見事な彫刻などが残されている
因みに建物中央と両翼の3箇所のペディメント部分には近衛師団時代から禁衛府が解体されるまで菊の紋章がはめ込まれていた
1972年に重要文化財に指定された
余談ではあるが北の丸には近衛師団司令部とは別に近衛師団の兵舎が存在しており、こちらは中央に立った大きな塔が目を引く大規模かつ壮麗なレンガ建築だった
兵舎は終戦後まで無傷で残されていたが、建設省の森林公園整備によって取り壊された
森林公園整備によって取り壊された近衛師団兵舎
43:
旭川偕行社(中原悌二郎記念旭川市彫刻美術館):北海道
1902年完成の擬洋風建築
設計は陸軍臨時建築部による
偕行社は戦前に陸軍の社交場として設立された組織である
終戦後はいったん解散したが、その後有志が集まり1952年に偕行会として復活した
そして1957年には名称を再び偕行社として現在まで活動を続けている
建物は木造2階建ての擬洋風建築で、正面中央のペディメントには陸軍の紋章である五芒星が描かれている
玄関部分には半円型のバルコニーが設けられ、前面は1、2階共にベランダとなっている
内部も照明は取り外されているが、かつての照明台座の装飾などが残されている
偕行社の建物は複数残されており、青森県の弘前偕行社や石川県の金沢偕行社なども現存している
この旭川偕行社は終戦後はアメリカ軍に接収され、返還された後に国から旭川市に移譲されたが、長らく放置されて見るも無残な姿となっていた
しかし1968年に復元修理を行い、旭川市立旭川郷土博物館として再び利用されることとなった
郷土博物館は博物館の新築によってそちらへ移転したが、建物は1994年から中原悌二郎記念旭川市彫刻美術館として再利用されている
44:
遊就館:東京都
1931年完成の帝冠様式
設計は伊東忠太
靖国神社の境内に存在する国家の為に殉職した軍人や軍属に縁のある物品を展示する宝物館
建物は2代目であり、初代のレンガ造りの建物は陸軍参謀本部も設計したイタリア人建築家のカッペレッティによるものだったが関東大震災で倒壊した
2代目の建物は帝冠様式で、正面入口には伊東忠太らしい強烈な和風のイメージとして三つの鬼面の装飾が施されている
かつての館内には至る所に和風意匠の美しい装飾灯やシャンデリアが見られたが、現在はそのほとんどが失われている
1945年の空襲で焼夷弾の直撃を受け、大ホールが被害を受けたほか別館が全焼
日露戦争勝利の記念品や蔵書、幕末以来の貴重な絵画などが大量に失われた
さらに終戦後のGHQの命令により遊就館はその機能を完全に停止した
その後GHQによって靖国神社を焼き払い、跡地をドッグレース場にしようという計画が持ち上がる
これに伴って遊就館も取り壊される予定であったが、駐日ローマ法王庁のブルーノ神父が「靖国神社を焼却する事は米軍の占領政策と相容れない犯罪行為である」として強く反対した
これにより靖国神社は存続し、遊就館も建物の取り壊しを免れた
1961年に隣に建つ靖国会館の2階を修理して遊就館のかつての展示品の一部を公開した
これがきっかけとなって1980年になるといよいよ復活に向けて準備が進められ1986年、約40年ぶりに遊就館は開館した
また、2002年には創立130周年を記念して2階の特別展示室の天井部分にあるステンドグラスの復元が行われた
復元に際しては屋上へ上る階段部分に残されていた小さなステンドグラスが戦前から残っていたものであったため、色の再現はこれを基にしたという
設計者である伊東忠太は建築界ではじめて文化勲章を受章した人物で、それまでの「造家」という言葉を「建築」に改めた人物である
また西洋建築学を基礎にしつつ日本建築を本格的に見直した人物でもあり、東京都の築地本願寺を初め、京都府の平安神宮や奈良県の橿原神宮も伊藤の設計である
他にも一橋大学の兼松講堂など数多くの名建築を手がけており、辰野金吾などと並ぶ日本を代表する名建築家である
45:
軍人会館(九段会館);東京都
1934年完成の帝冠様式の鉄筋コンクリート造
設計は川元良一
1928年に挙行された昭和天皇即位式典を記念して在郷軍人会が軍人会館設立を計画、1930年に設計競技を実施した
その結果小野武雄の作品が採用され、これを原案として設計が行われた
技術顧問として遊就館の設計者でもある伊東忠太を迎え、日本的な意匠を取り入れた洋風建築として建てられた
外観はスクラッチタイル貼りで、正面玄関部分上部などには縦長のガラスを多数用いて垂直性を強調している
玄関上の4階部分には鬼面の意匠が施されており、その上に城郭を思わせる屋根が乗せられている
建物内部は大ホール天井部分の格子の装飾や、2階と3階席の前部に美しい装飾が見られる
また、舞台前面の壁には陸軍の紋章である五芒星と海軍の紋章である錨が漆喰で無数にあしらわれている
建物は主に軍の予備役などの訓練や宿泊に利用されたが、満州国皇帝の弟である愛新覚羅溥傑はここで結婚式を挙げている
終戦後はGHQに接収され、返還後は国から日本遺族会に無償で貸与されて名称も九段会館に改称された
その後はホテルなどが入り、和食や中華料理の「くだん亭」やフレンチ、イタリア料理の「九段迎賓館」などのレストランも開かれて賑わいを見せていた
しかし2011年の東日本大震災によって天井が崩落し、2名の死者が出たことから九段会館は閉館された
さらに2014年には建物の取り壊しが発表され、跡地に高層建築物を建て、その一部を国が保有して日本遺族会に改めて無償貸与するということで決定した
取り壊しに関しては現在も全国から多くの反対の声が上がっているが、2015年9月には建物調査等業務の一般競争入札が行われ、取り壊しに向けて準備が進められている
46:
横浜正金銀行本店(神奈川県立歴史博物館):神奈川県
1904年完成のネオバロック様式のレンガ建築
設計は大蔵省の設計者でもある妻木頼黄
横浜正金銀行は貿易金融機関として1880年に設立された
1887年に横浜正金銀行条例が制定され、貿易専門の特殊銀行として日本銀行と並ぶ最重要銀行となる
設置に関してはイギリスのHSBCを模範としていたとされ、HSBCも横浜正金銀行に協力を惜しまなかった
建物は角にドームを置き、2階から4階を貫くコリント式の大オーダーで外観を構成している
各部の細かな装飾も全体の構成を考えて配置されており、非常に完成度の高い作品である
終戦後ポツダム命令によって横浜正金銀行は閉鎖機関の指定を受け、閉鎖された
その後は横浜正金銀行の資産を引き継いで東京銀行が設立され、建物は東京銀行横浜支店として利用されていた
1964年に神奈川県が建物を買い取り、改修工事を行って神奈川県立歴史博物館として一般向けに開放した
設計を担当した妻木頼黄は本店の他にも横浜正金銀行の海外支店の設計も行っており、大連支店と北京支店は妻木の手によるものである
これらの支店は現在も残されており、それぞれ中国銀行大連分行、中融集団の建物として利用されている
また、横浜市の赤レンガ倉庫も妻木の作品である
47:
第五十九銀行本店(青森銀行記念館):青森県
1904年完成のルネサンス様式の木造建築
設計は弘前市立図書館と同じく堀江佐吉
第五十九銀行は1897年に設立された銀行で、現在の青森銀行の前身に当たる
国立銀行は明治時代に国立銀行条例に基づいて設立された金融機関を指し、第一銀行から第百五十三銀行まで存在した
その多くが現在も続く銀行のルーツとなっており、例えば「みずほ銀行」は「第一銀行」を前身としている
第五十九銀行は青森県の弘前で設立された
建物はルネサンス様式だが、外壁は瓦を貼りつけて漆喰塗りで仕上げるなど日本の技術が取り入れられている
また内部は雪国であるにもかかわらず仕切り壁や柱が少なく、2階の大会議室は室内に遮蔽物が一切無いなど実用性も兼ね備えている
さらに屋根部分にもベランダの手摺が設けられ、落雪防止の機能も備えるなど地域の気候を考慮した設計がなされている
1943年に第五十九銀行を含めた県内の5つの銀行の合併にって青森銀行が発足すると青森銀行弘前支店として使用されるようになる
1965年に建物の立替が発表されて取り壊されることとなったが、地元市民の強い反対によって保存されることが決定した
その後は青森銀行記念館として一般向けに開放されている
1972年に重要文化財に指定された
48:
秋田銀行本店(秋田市立赤れんが郷土館):秋田県
1912年完成のレンガ建築
設計は秋田県技師の山口直昭
建物は1階が白の磁器タイルで2階が赤レンガの外壁となっており、両脇にドーム付きの円筒の塔が立つ
内部の設計は星野男三郎が担当しており、外観がルネサンス様式であったのに対して内部はバロック様式である
ホール部分は天井に巨大な石膏の装飾が見られ、1階には彫刻が施された受付窓口がある
階段部分は大理石が使用されており、壁や天井は漆喰仕上げである
2階の貴賓室は特に見所で、蛇紋石の暖炉や扉のペディメントの装飾などが非常に美しい
建物は1969年まで使用され続けたが、その後1981年に秋田市に寄贈された
1985年に秋田市立赤れんが郷土館として開館し、現在も一般向けに公開されている
1994年に重要文化財に指定された
49:
盛岡銀行本店:岩手県
1911年完成のレンガ建築
設計は東京駅の設計者でもある辰野金吾
建物は3階建てのレンガ造りで、レンガの壁に白い石材によるラインが走る辰野式の意匠が見られる
正面入口が設けられた棟は3階建てで、屋根部分には六角形のドームが乗る
また、建物正面入口に向かって左側には小塔が立ち、右側には切妻の棟が見られるなど、凹凸に富んだ外観を有している
内部は天井などに石膏による装飾が見られ、また吹き抜けのホール部分は2階に回廊がめぐらされている
窓や扉部分にも美しい意匠が見られ、非常に豪華な造りとなっている
盛岡銀行は1896年に設立され、1933年に岩手県金融恐慌の影響で破綻した
その後、県から補助を受けて岩手銀行として復活
途中、合併を幾度か経て現在まで営業を続けている
建物は岩手銀行中ノ橋支店として2012年まで利用され続けたが、同年6月に中ノ橋支店移転により現在は改修工事中である
工事終了後、2016年には記念館として一般に公開される予定である
1994年に重要文化財に指定された
50:
第八十五銀行本店(埼玉りそな銀行川越支店):埼玉県
1918年完成のルネサンス様式の鉄筋コンクリート造
設計は保岡勝也
正面部分の高いドーム屋根が特徴の建物
外壁は白タイルが全面に貼り付けられており、付け柱には縞模様の装飾が見られる
建物内部は現役の銀行ということもあって撮影や見学は不可である
2階部分には頭取室があるらしく、現在は応接間として利用されているらしい
川越は「蔵の街」として見世蔵の建物が多数残っていることで有名であるが近代建築も数多く存在している
かつてはこの建物のドーム屋根が遠くからでもよく見え、地域のランドマークとして親しまれていたという
51:
日本銀行本館:東京都
1896年完成のネオバロック様式の鉄筋コンクリート造
設計は辰野金吾
日本銀行は1882年に日本銀行条例が公布されて設立された中央銀行である
1877年に西郷隆盛を盟主として士族による反乱が起こり「西南戦争」が勃発
この内戦による戦費を賄うために不換紙幣が各国立銀行で発行され、これに加えて不換政府紙幣なども大量に発行された
その結果日本国内に紙幣があふれ、激しいインフレーションが発生、国内の物価が高騰して国民の生活は非常に苦しいものとなった
このことから通貨の混乱を納めるためには銀行を統制する中央銀行が必要であるとして設立されたのが日本銀行である
日本銀行は世界の中央銀行の中では7番目に古い歴史を持ち、イタリア銀行やスイス国民銀行よりも歴史が長い
建物はかつて幕府が金貨を鋳造していた金座の跡地に建てられている
辰野は約1年の出張で各国の中央銀行を視察し、外観はベルギーの中央銀行を基にして設計されたと言われている
当初は建物全体を石造りとする予定であったが1891年の濃尾大地震を教訓として耐震性を考慮し、2階と3階部分はレンガ造に石貼りとして建物上部の重量を軽くしている
その結果関東大震災では建物は一切被害を受けなかった
しかし近隣の火災から火が燃え移り、建物のドーム屋根が焼け落ちたため後に修復された
建物は上空から見ると「円」という形になっていることはよく知られている
しかし当時は「円」ではなく「圓」という漢字を使用していたため、この形になったのは偶然であるとする意見がある一方
俗字としては以前から「円」と書かれていたため、やはり意図的にこの形にしたという意見もある
現在は敷地内での撮影などは禁止されているが、事前に予約すれば外観のみであれば撮影が許可され、内部の見学も可能である
建物は1974年に重要文化財に指定されている
因みに本館正面に向かって右側の別館は辰野の弟子である長野宇平治が設計したものである
53:
旧日本郵船小樽支店:北海道
1906年完成のルネサンス様式の石造り建築
設計は佐立七次郎
日本郵船は1885年に設立された船会社で日本の三大海運会社の1つである
「Nippon Yusen Kaisha」の頭文字を取って国際的にNYKとして広く知られている
建物は純石造りの2階建てで内部は漆喰壁に木材は北海道産ワニス塗りで仕上げられており、落ち着いた雰囲気である
各部の装飾や彫刻は見事で、いかに海運業が栄えていたか見て取れる
特に階段手すりの彫刻は非常に美しく、必見である
2階の大会議室は天井が漆喰で仕上げられており、壁には金唐革紙が使用されている
この金唐革紙は日本の伝統工芸で、和紙に金箔を貼り付けて木版で文様を打ち出し、さらに色彩を施して作成される高級壁紙である
日露戦争終結後に行われた樺太国境画定会議はこの大会議室で行われており、豪華な室内で会議を行うことで日本の近代化をロシアに見せつける狙いがあった
また、隣の部屋は貴賓室でこちらの壁も金唐革紙が使用されており、大理石の暖炉や寄木張りの床など贅沢な造りとなっている
さらに2階の窓は全て二重窓になっているなど、見た目だけでなく雪国の気候にしっかりと配慮した設計がなされている
第二次世界大戦後に建物はアメリカ軍に接収されたがその後返還され、1955年に小樽市が日本郵船から譲り受けた
1956年からは小樽市博物館として一般向けに開放されたが、長年の経過によって建物が傷んできたため1984年に改修工事を行った
この際、貴賓室や会議室などは接収時にアメリカ兵が金唐革紙にタバコを押し付けて穴を開けたり、壁に汚れをつけるなどしていたため新しい金唐革紙の壁紙を作成することとなった
しかし金唐革紙の製作技術は既に失われており、東京文化財研究所の助言を受けて金唐革紙研究所が新設された
その後日本画家などが中心となって技術を復活させ、復元は無事成功した
現在は旧日本郵船株式会社小樽支店として小樽市の発展経過や日本郵船に関する資料などを展示している
余談であるが金唐革紙は製作技術は復活したものの、現在これを製作できる人物は日本画家の後藤仁ただ一名のみである
また、青森銀行記念館の2階の天井にも金唐革紙が使用されているが、これは創業時からのものであり非常に貴重なものである
54:
三井本館:東京都
1929年完成の新古典主義建築
設計はアメリカのトローブリッジ・アンド・リヴィングストン社による
新古典主義建築は18世紀にフランスで興った建築様式で、それまでのロココなどの芸術様式の過剰な装飾性に反発して誕生した
派手な装飾などよりも厳粛さや荘厳さを重視した様式で、古代ギリシャ建築や古代ローマ建築を模範としている
代表的な新古典主義建築の例としてはフランスのエトワール凱旋門などがある
三井本館は1902年に初代本館が完成、コの字型の大規模なレンガ建築であったが関東大震災によって倒壊した
その後、現在まで残る二代目の三井本館が完成
関東大震災の教訓から耐震性を考慮して設計されており、関東大震災の2倍の規模の地震が来ても倒壊しないと言われている
建材としてイタリアのベネチア産の大理石などが使用されており、内外装とも非常に豪華な造りとなっている
外観はコリント式の列柱が非常に美しく、外壁には御影石が使用されている
また入口のペディメント部分には三井家の家紋である「四ツ目結」があしらわれている
建物上部には杖、蒸留器、天秤、犁と麦束、歯車、鍬とツルハシ、地球儀、車輪、紡車、パレットと筆絵、錨、蜂の巣が描かれたレリーフが見られる
これは当時の三井財閥の各事業や精神を表現したもので、それぞれ「商業」「化学工業」「銀行業務」「農業」「機械工業」「鉱業」「算術」「陸運」「製絹」「美術」「海運」を意味し、蜂の巣は「勤勉」を表す
内部は天井の装飾や磨りガラスの美しい文様、大理石による市松模様の床に巨大な柱など見所は数え切れない
特に天井の装飾は鮮やかな色彩が施されており、その美しさは息を呑むほどである
かつてはこの建物に三井銀行本店、三井物産本社、三井鉱山本店などが入っていたが、終戦後にGHQによって建物の一部が接収された
そしてGHQは第二次世界大戦以前の日本の経済体制の壊滅を目的として財閥解体を行い、これによって三井財閥、三菱財閥、住友財閥などをはじめとする複数の財閥が解体された
この時、それぞれの財閥に属していた会社はかつての商号である「三井」や「三菱」の名称を使用することも禁止されたが、各財閥のロビー活動によって後に商号の使用は許可された
その後それぞれの財閥の流れを汲む企業は長い時間をかけて再結集を果たし、再び企業グループを形成した
三井本館は現在も三井不動産の本社として利用されているほか、建物内には三井住友銀行、三井住友信託銀行が入っている
また2005年には三井家の所蔵品を展示する三井記念美術館が7階にオープンした
建物は1998年に重要文化財に指定されている
55:
明治生命館:東京都
1934年完成の新古典主義建築
設計は岡田信一郎、岡田捷五郎らによる
明治生命は1881年に設立された有限明治生命保険会社が前身となっており、1880年に設立された共済五百名社を前身とする安田生命保険と共に日本最古の生命保険として知られる
明治生命館は明治生命の社屋として約3年7ヶ月の年月をかけて建てられた
地上8階、地下2階建ての鉄骨鉄筋コンクリート造
1階部分にはアーチ窓が連なり、2階から6階にかけて力強いコリント式のオーダーが見られる
内部も店頭営業室などをはじめ、各部屋ごとに美しい装飾が施されている
また、店頭営業室の大理石の床には階段を下った付近にアンモナイトの化石が見られる
終戦後はGHQに接収され、アメリカ極東空軍司令部として使われたほか米、英、露、中による日本を占領、管理するための対日理事会の会議がこの建物の2階の会議室で行われた
1997年に昭和の建築物として始めて重要文化財の指定を受けた
2004年に明治生命と安田生命が合併、明治安田生命保険が誕生した
明治安田生命は2001年に隣接地に30階建ての明治安田生命ビルを建設するための工事を開始したが、明治生命館に関しては「こういう建物は今後二度と建てる事はできない」として全面保存を決定
ビルの建設工事と並行して破損箇所の修復や外壁の洗浄を行い、「建物は書割りではないのだから、外観と内部空間は一体として考えるべき」という観点から内装もほぼ完璧な形で保存された
現在は丸の内お客様ご相談センターとして現役で利用されており、土日は無料で一般公開されている
設計者である岡田信一郎は黒田記念館や日本銀行小樽支店などの名建築を手掛けているが、戦災などによってその多くが失われ、2010年には戦前から残されていた歌舞伎座も建て替えで取り壊され、外観は再現されたものの内部は全く異なる構造とされてしまった
このため岡田の作品で、建設された当初の状態で残っている作品は極僅かである
56:
なんで日本人は建物を大切にしないのか
57:
>>56
日本人にとって建物は消耗品だからね
海外とは全く考え方が違う
ただ、こういう芸術的なものまで取り壊してしまうのは残念だね
58:
小坂鉱山事務所:秋田県
1905年完成のルネサンス様式の木造建築
設計は小坂鉱山工作課による
小坂鉱山は秋田県鹿角郡小坂町に存在する鉱山で、1816年から金や銀の鉱山として開発が始められ、1901年には銀の生産量が日本一の鉱山となった
その後、精錬技術が向上すると銅、亜鉛、鉛などが黒鉱から採取可能となり、こちらの生産が主体となった
この頃から労働者を集めるために周辺に集合住宅や劇場、病院などが建てられるようになる
小坂鉱山事務所もこの時期に建てられた建物の一つであり、鉱山事務所として建築された
ロの字型の木造3階建てで、正面玄関の上部にベランダが設けられている
内部には1階から3階までを突き抜けるケヤキの螺旋階段がある
1997年まで現役で利用されていたが製錬所拡張に伴い解体された
その後、その歴史的価値の高さから2001年に小坂鉱山病院跡地に移築された
この周辺は現在「明治百年通り」と呼ばれており、数多くの近代建築が建ち並ぶ人気スポットである
その中でも小坂鉱山事務所は一際目を引くランドマークとなっている
現在は建物内にレストランも入っており、レトロな雰囲気を味わいながら食事を楽しむことができる
また、100着を超えるドレスが用意された撮影スタジオもあり、館内の好きな場所で写真撮影を行うことができる
2002年に重要文化財に指定された
59:
シャトーカミヤ:茨城県
1903年完成のレンガ建築
設計は岡田時太郎
シャトーカミヤは神谷伝兵衛によって日本初の本格的ワイン醸造場として設立された
神谷は10代の時に横浜でフランス人の経営する会社に就職し、洋酒醸造場で働いたことがきっかけで酒造業を志す
30代で日本産の葡萄によるワイン醸造を国内事業化することを目指し、養子をフランスに渡らせ、葡萄栽培やワインの醸造技術を学ばせた
日本国内でワインの製造はシャトーカミヤ以前から行われていたが、原料となる葡萄の栽培から醸造、ビン詰めまで全てを一貫生産したのはシャトーカミヤが始めてである
この「シャトー」とはフランス語で「城」を意味する単語であり、原料の栽培、醸造、ビン詰めを一貫生産する醸造場しか名乗ることを許されない
建物はフランスの醸造場をモデルにして設計された本館の半円アーチの通路を通って奥へ進むと醸造場と貯蔵庫がある
本館は建物の両端にマンサード屋根を設け、通路の右側には時計塔が建つ
1階には事務室と和室が設けられており、2階に大広間と貴賓室がある
大広間は1913年に板垣退助が政府の要人などと共にワインパーティーを行った部屋であり、当時の調度品が現在も保存されている
醸造場は当時の醸造方式を理解する上で産業技術史での価値が高く、2階に設置された機械で葡萄を搾り、1階の大樽へと果汁を流し込み、発酵させていた
現在も1階では当時の大樽が並んでいる様子を見ることができ、地下室にも葡萄酒を詰めた小樽が当時のまま横置きに並べられている
かつての貯蔵庫は現在はレストランとして利用されており、フランス料理が提供されている
東日本大震災では本館と醸造場の壁に亀裂が入るなどしたため。現在補修工事中である
貯蔵庫は無事であったため、レストランは通常通り営業している
2008年に本館、醸造場、貯蔵庫の建物が重要文化財に指定された
60:
十和田ホテル:秋田県
1938年完成の木造3階建てのホテル建築
設計は長倉謙介
秋田県の十和田湖に面して建てられており、全ての部屋から湖を眺めることができる
青森、秋田、岩手から約80人の宮大工を集め、腕を競わせて建てられたという
外観は1階部分が石積みで、2階からは半丸太状に加工した秋田杉が使用されている
北欧のロッジのような見た目だが切妻部分などに日本的意匠が見られ、玄関部分の装飾も和風の色合いが強い
内部も秋田杉がふんだんに使用されており、吹き抜けとなった玄関ホールは圧巻で当時の宮大工たちの技術の高さが伺える
客室に関しては全室和室で扉や天井、床の間などが各部屋ごとに異なった造りとなっている
1940年に開催予定であった東京オリンピックで日本を訪れる外国人観光客のために建てられたホテルであったが、ホテルが完成したその年に政府が五輪開催権を返上
翌1939年に開業したものの、戦時下であったためすぐに休業となってしまった
そして終戦を迎え、外国人観光客に日本の美しい自然と文化を楽しんでもらおうと心血注いで建てられたこのホテルに最初に訪れた外国人は皮肉にも接収にやって来たアメリカの占領軍兵士達であった
ホテルはそのままアメリカ軍によって接収され続けたが、このままではいけないと秋田県は1952年にホテルを軍から買い戻した
こうしてホテルは無事に日本側の手に戻り、その後は秋田県観光公社が運営に当たっている
1998年には風雪によって外壁の老朽化が著しいことから改修工事が行われた
現在は内外装とも非常によく整備されており、新築と見紛う程である
ホテル内には図書室が備えられており、ゆったりとした時間を過ごすことができる
また改修工事が行われた際、本館の隣に新館が建てられ現在はこちらの入り口が正面玄関となっている
新館は洋室やバリアフリーの客室などを備えており、現在は食堂もこちらに入っている
2003に登録有形文化財に指定された
61:
日光金谷ホテル:栃木県
1893年完成のホテル建築
設計者は不明
栃木県日光市の日光の山々を望む高台に立つ
現存する日本最古のリゾートホテルである
日光金谷ホテルは東照宮の楽師をしていた金谷善一郎が自宅の一部を外国人の宿泊施設として開業した「金谷カッテージ・イン」が起源となっている
ここを訪れた英国人旅行家のイザベラ・バードが自身の著書で金谷カッテージ・インを紹介し、さらに在日英字新聞でも取り上げられたことから多くの外国人が訪れた
金谷は現在ホテルが建っている場所に建築工事途中で放置されていた三角ホテルに目をつけ、これを買収
1893年に木造2階建て客室30のホテルを完成させ、日光金谷ホテルの名称で同年開業した
建物は1936年に地面を掘り下げて3階建てに増築されており、これ以外にも何度か増改築を行っている
内部は入口上部の龍の彫刻や2階のロビーに見られる鳥居型の鑑枠など、東照宮を思わせる装飾が随所に見られる
また、本館コーヒーラウンジの朱塗りの入口をくぐって振り返ってみると上部に眠り猫の彫刻がある
メインダイニングはかつてロビーであった場所で、天井の極彩色の装飾が非常に美しい
本館の他にも1901年完成の新館や1935年完成の別館などがあり、本館を含めて全ての建物が登録有形文化財に指定されている
また、宿泊施設ではないものの登録有形文化財に指定されている観覧亭や展望閣も日光金谷ホテルの建物である
62:
ホテルニューグランド:神奈川県
1927年完成の鉄筋コンクリート造
設計は渡辺仁
ホテルニューグランドは1923年の関東大震災で倒壊したグランドホテルの後身として開業した
「最新式設備とフレンチ・スタイルの料理」をキャッチフレーズに、特に料理には力を注いだ
パリのホテルからスイス人コックを総料理長として呼び寄せ、更に元帝国ホテル代四代総料理長である内海藤太郎をその補佐につけた
ドリア、ナポリタン、プリンアラモードなどはこのホテルで生み出された料理であり、いかに創意工夫がなされていたかがうかがえる
ホテルオークラ初代総料理長の小野正吉や、プリンスホテルグループ総料理長となる木沢武雄など名店の料理長を多数輩出し日本の料理界に多大な影響を与えた
建物はロの字型の低層部にコの字型の客室棟を重ねて中廊下を設けており、角部分には創業の年である1927の文字が刻まれている
ロビーを中2階に設けており、こうした内部構造に応じて外観を変更している
内部は正面から入ると大階段があり、階段にはイタリア産のタイルが使用されている
階段を上った先にはエレベーターがあり、その上部には京都の西陣織物職人である川島甚兵衛が製作した綴織の「天女奏楽之図」がある
大食堂の装飾は、当時ホテルに訪れる客に外国人が多かったことから和風の色合いが強い
現在はフェニックスルームという名称で宴会場として利用されている
また、かつての舞踏室もレインボーボールルームという名称でパーティー会場として利用されている
レインボーボールルームの天井の漆喰細工は現代の技術では再現不可能であるとされており、ホテル改修工事の際も撤去されること無く補修が行われた
建物は2007年に近代化産業遺産に指定された
設計者である渡辺仁は服部時計店(銀座和光)や帝室博物館(東京国立博物館本館)を設計しており、後にGHQの本部として接収された第一生命館も渡辺の作品である
63:
富士屋ホテル本館:神奈川県
1891年完成の和洋折衷の木造建築
設計は河原兵次郎
富士屋ホテルは外国人を対象とした本格的なリゾートホテルとして1878年に開業した
創業者である山口仙之助は慶應義塾で福沢諭吉に国際観光の重要性を説かれ、ホテル開業を決意する
しかし開業してすぐの1883年に宮ノ下大火により当初の建物が焼損、創業時の記録も焼失した
1891年に現在も現役で使われている本館が竣工、その後1906年に西洋館、1936年に花御殿という新たな宿泊棟が建造される
本館は和風の外観を有しながらも内部は洋風であるが、装飾に関しては和風の色合いが非常に強い
これは宿泊客の外国人に日本の文化を知ってもらおうという考えからである
花御殿は外観、内装共に和風の色合いが強いが、こちらは各部屋に番号の代わりに花の名前がつけられており、外国人宿泊客からは「フラワーパレス」とも呼ばれた
2棟ある西洋館は木造の擬洋風建築で、内装は洋風の色合いが強い
また、本館に向かって右側の食堂棟は屋根部分に昇天閣が立つ特徴的な外観を有している
食堂内は廊下に富士屋ホテルの内外装がデザインされた大倉陶園の飾り皿などが多数展示されている
食堂2階のメインダイニング「ザ・フジヤ」は日光東照宮をモデルにデザインされており、各所に美しい装飾がちりばめられている
1階はバーとなっており、天井には特徴的な装飾が見られる
終戦後はアメリカ軍によって接収され1952年に接収は解除された
しかしその後もアメリカ軍との自由契約によってホテルは軍の管理下に置かれ続け、ホテルが日本側の手に戻ったのは1954年であった
現在の富士屋ホテルは本館正面玄関周りの外観が大きく変えられてしまっているが、その他は当時の面影をよく残している
1997年に登録有形文化財に指定され、2007年には建物のほか、厨房が近代化産業遺産に指定された
完成当時の富士屋ホテル本館
64:
豊平館:北海道
1880年完成の擬洋風建築
設計は安達喜幸
北海道開拓使によって高級ホテルとして建造された
明治天皇の札幌行幸の際の宿泊所として初めて利用され、その後は要人の宿泊や祝賀会などにも利用された
しかしホテルとして開業したは良いものの、天皇が宿泊した部屋に一般客を泊めることに否定的だった経営者は明治天皇が宿泊した2階を立ち入り禁止とし、1階のみを開放した
その結果、元から少なかった客室がさらに減ることとなり、さらに高額な宿泊料金と相まってホテルとしての業績は低調であった
建物は1885年から札幌市から宮内省に移管されていたが、大正時代に入り、札幌市の発展に伴って式典会場や大会会場の需要が高まった
これを受けて札幌市は宮内省から建物を譲り受け、建物の裏側に新しい棟を作って連結工事を行った
その後は札幌市公会堂として盛んに利用され、明治天皇ゆかりの神聖な場所であるとして1933年に大日本帝国史蹟に指定された
終戦後はアメリカ軍によって接収され、1947年に札幌市に返還された
また、大日本帝国史跡の指定が翌年の1948年に解除されている
1957年に中島公園への移築のため解体され、1958年に移築工事が完了したが大正時代に増築された棟はそのまま撤去された
1964年に重要文化財に指定された
現在は保存修理工事のため休館中で、工事終了後は「集客交流資源として積極的に活用していく施設」としてリニューアルオープンする予定であるという
65:
旧岩崎邸洋館:東京都
1896年完成のジャコビアン様式の木造建築
設計はジョサイア・コンドル
岩崎家は三菱財閥の創業者一族
俗に言う三井、住友、三菱の三大財閥の家系であるが、三井や住友が300年を越える歴史を有していたのに対し、三菱は幕末から明治にかけて岩崎弥太郎によってたった一代で巨万の富を築き上げた家系である
三菱は岩崎家の同族主義が強く、岩崎家当主が常に実権社長としてリーダーシップをとっていた
そこに本社役員や傘下企業社長などが集結し、一体となって事に当たるという特徴から「組織の三菱」と呼ばれていた
建物はお雇い外国人のジョサイア・コンドルによるもので、イギリスのジェームズ1世時代から、その息子のチャールズ1世時代のジャコビアン様式という様式である
正面玄関のある3階建ての棟が特徴で外壁を下見張りとし、屋根はスレート葺きで、建物南側にはベランダが設けられている
内部は木材が多用され、見事な彫刻が各所に見られる
全体的に重厚さよりも繊細さを意識した装飾がなされており、各部屋や廊下の壁には金唐革紙が使用されていた
現在は2階の2部屋にのみ金唐革紙が復元されている
また、1階の婦人客室の天井はペルシャ刺繍のシルク貼りである
現在は旧岩崎邸庭園として岩崎家の敷地が公開されているが、これらは一部に過ぎず、かつての敷地はさらに広大であったという
敷地内には洋館の他に和館や撞球室があり、これら全てが重要文化財に指定されている
因みに三菱のシンボルマークであるスリーダイヤは岩崎家の家紋である三階菱を分解して並び替えたものである
66:
旧前田公爵邸洋館:東京都
1929年完成のチューダー様式の鉄筋コンクリート造
設計は高橋禎太郎
陸軍大将である前田利為の邸宅として建てられた
前田利為は旧加賀藩主で、明治時代に入ってからは華族として侯爵の位を拝していた
25歳の若さで貴族院侯爵議員となり、1911年には陸軍大学校を卒業し、明治天皇から恩賜の軍刀を賜った
恩賜の軍刀は陸、海軍士官学校や陸、海軍大学校において成績優秀者に天皇から直々に授けられる軍刀である
陸軍士官学校時代の同期に後の内閣総理大臣となる東条英機がおり、東条は前田に4年遅れて陸軍大学を卒業した
両者は互いにソリが合わず、前田は東条について「宰相の器ではない。あれでは国を滅ぼす」と発言していた
1942年にボルネオ守備軍司令官に任命されたが、同年9月ボルネオ沖にて前田の乗った航空機が消息を絶ち、後に機体の残骸と遺体が発見された
愛用していた軍刀「陀羅尼勝国」は無残に折れ曲がっていたという
建物は前田が駒場本邸として建てたもので、前田の死後は他人の手に渡り、終戦後は米軍によって接収された
イングランド発祥のチューダー様式の建物で、外壁全体にスクラッチタイルを貼り付けている
内部は玄関ホール周りは全体的にどっしりとした重厚な造りとなっており、蛇紋石の角柱が特に目を引く
建物は1964年に東京都の所有となり、周辺が整備されて東京都立駒場公園となった
公園内には洋館のほか、和館や茶室などもあり一般向けに公開されている
67:
旧小笠原邸:東京都
1927年完成のスパニッシュ様式の鉄筋コンクリート造
設計は曽禰中條建築事務所による
旧小倉藩主の小笠原長幹の邸宅として建てられた
小笠原長幹は華族として伯爵の位を拝し、1918年に貴族院伯爵議員となった
建物は小倉藩の屋敷跡に建てられており、当時流行していたスペイン風の装飾がなされている
外壁は掻き落とし仕上げで、屋根にはエメラルドグリーンの瓦が用いられている
また、庭側に張り出した喫煙室の外壁には小森忍の装飾タイルによって生命の賛歌が表現されているという
この喫煙室は内部の装飾も素晴らしく、イスラム風のデザインが施されている
当時この部屋は女人禁制であり、壁は漆喰で仕上げられ美しい色彩が施されている
終戦後は米軍に接収され、1952年に東京都に返還された
1975年には中央児童相談所として使用されたがその後は用途を失って放置され、一時は取り壊しも検討された
2000年に都の生活文化局が民間貸し出しを提案し、レストランを運営するインターナショナル青和が借り手に決定した
現在はレストラン小笠原邸としてスペイン料理が提供されている
また、小笠原家の子孫による小笠原流礼法の教場としても利用されている
68:
天鏡閣:福島県
1908年完成のルネサンス様式の木造建築
設計は木子幸三郎
宮家の一つである有栖川宮(ありすがわのみや)の第四王子である有栖川宮威仁親王の別邸として建てられた
有栖川宮威仁親王は12歳の時に明治天皇から海軍軍人を志すよう命じられ、海軍兵学寮予科に入学
17歳ではイギリス海軍シナ艦隊旗艦のアイアン・デュークへ約1年の乗り組みを命じられ、艦上作業に従事
翌年にはイギリス留学を命じられる
さらに21歳にはイギリスのグリニッジ海軍大学校に3年以上もの間留学するなど、非常に多忙な青年期を過ごした
30歳で海軍大佐となり、大日本帝国海軍の巡洋艦「高雄」の艦長に任命された
晩年は肺結核を患い、1913年に52歳で薨去
現在天鏡閣の敷地内には海軍大学校前に設置されていた有栖川宮威仁親王の銅像が移設されている
建物は屋根に八角塔が乗る特徴的な外観を有し、内部には撞球室などが備えられている
また、室内のシャンデリアなどは当時からのものであり、非常に細かな装飾が施されており大変美しい
天鏡閣の名称は、当時皇太子であった大正天皇がここを訪れた際に建物から見えた猪苗代湖が鏡のようであった事から、李白の詩句「明湖落天鏡」より命名した
現在は周辺の樹木が大きく成長してしまったため、建物から猪苗代湖を見ることはできない
1979年に重要文化財に指定された
年中無休で一般公開が行われており、建物内には威仁親王ゆかりの品々が展示されている
69:
大倉精神文化研究所(横浜市大倉山記念館):神奈川県
1932年完成のプレヘレニック様式の鉄筋コンクリート造
設計は長野宇平治
大倉精神文化研究所は東洋大学学長などを務めた大倉邦彦によって創設された
東洋、西洋の精神文化を研究し、これによって知性、生活、文明の向上を目的とした
建物はプレヘレニック様式というギリシャ風建築である
このプレヘレニックという様式は建築に関しては日本にしか存在しておらず
大倉精神文化研究所の建物は世界的にも非常に珍しい存在である
外観は垂直性を強調するようなデザインが多く、ペディメントや列中などにギリシャ神殿的な意匠が見られる
正面玄関から入ったホール部分は人間の「心の間」を表し、吹き抜けとなった天井上部には鷲と獅子の彫刻がある
3階の殿堂は宇宙全体の中の自己を自覚する場とされている
現在は文化施設として主に音楽会や美術展などに利用されている
70:
群馬県衛生所(桐生明治館):群馬県
1887年完成の擬洋風建築
設計は須藤代吉
群馬県衛生所は群馬県立医学校を併設していたが、たった1年で衛生所が廃止となり、医学校も3年で廃校とされてしまった
その後は女学校や小学校に転用され、1928年から村役場として利用されることとなった
外観は屋根部分が和風なのに対し、壁面部分に洋風の意匠が集中している
中央には玄関ポーチが設けられ、さらに正面2階にはベランダがめぐらされている
また、中央の屋根部分の破風には菊の紋章がはめ込まれている
1976年に重要文化財に指定され、1984年から保存修理工事を開始、1986年に工事が終了し名称を「桐生明治館」として一般向けに公開された
館内には珈琲館という喫茶店が入っており、ゆったりとした時間を過ごすことができる
71:
済生館(山形市郷土館):山形県
1878年完成の擬洋風建築
設計は筒井明俊
済生館は1873年に私立病院として設立された
当初は医学校も併設されていたが1888年に廃止される
1904年には山形市の運営となった
建物は正面が3階建となっており、1階部分は中庭をぐるりと囲む14角形のドーナツ型である
2階の上層から螺旋階段が伸びており、ここを上って3階に昇ることができる
建物上部の塔屋は、戦時中に空襲の標的とされる可能性があったため1945年に撤去された
1966年に重要文化財の指定を受け、霞城公園内に移築復元工事が行われた
この際、最上階の塔屋も復元されることとなったが、設計図が残っておらず工事は難航した
当時の写真などを見ながら文化庁の指導を受けて工事を行い、3年の歳月をかけて創建当初の姿に復元された
現在は山形市郷土館として一般向けに公開されている
因みにこの「済生館」という名称は現在も引き継がれており、市の運営する病院として山形市立病院済生館がある
72:
東京科学博物館本館(国立科学博物館日本館):東京都
1931年完成のネオルネサンス様式の鉄筋コンクリート造
設計は糟谷謙三
東京科学博物館本館は関東大震災で倒壊した東京博物館の震災復興施設として建設された
地上3階建て、地下1階建てで通常の展示室のほか映写機の付いた講堂や赤道儀室なども備えており、日本初の本格的社会教育施設である
この他にも貴賓室などをはじめ館内の装飾も見事であり、実用性と芸術性を兼ね備えた施設である
建物外壁はスクラッチタイルを貼り付け、中央玄関には車寄せがあるが、現在この正面入口から建物に入ることはできない
内部は漆喰による装飾が美しく、特に玄関ホールはドーム状の天井、ステンドグラス、装飾の施された照明などどれをとっても一級品である
また建物南側の階段は美しい曲線を描いており、踊場には鳳凰をデザインしたステンドグラスが見られる
この階段には大理石が使用されており、壁面にアンモナイトの化石なども見られる
現在は国立科学博物館の日本館として日本列島の自然や生物の生態系などについての展示を行っている
73:
日本水準原点標庫:東京都
1891年完成の平屋建石造り
設計は日本郵船小樽支店と同じく佐立七次郎
国会前庭の洋式庭園内にある建造物
内部の日本水準原点を保護するための建物で、菊の紋章があしらわれた扉を開けると目盛が刻まれた水晶の板があり、これが日本水準原点である
水準原点は測量において高さの基準となる原点であり、日本では東京湾の満潮時と干潮時の海水面の高さを1873年から6年にわたり毎日観測し続け、平均海水面を標高0mと定めた
日本水準原点はこの標高0mから測った標高24.5mの位置に設置され、ここを基準として測量が行われている
関東大震災や東日本大震災など天災による地殻変動で標高が変動し、2011年現在では日本水準原点の標高は24.39mとされている
建物は小規模でありながらも見事な装飾が施された本格的洋風建築であり、東京都指定文化財に指定されている
また、ペディメント下部には「大日本帝國」の文字が刻まれており、石碑などを除けば大日本帝国の国号が刻まれた現存する唯一の公的建造物である
74:
帝国議会議事堂(国会議事堂):東京都
1936年完成の鉄筋コンクリート造
設計は内閣臨時建築局
帝国議会議事堂は1881年に発せられた「国会開設の詔」により開設された帝国議会を行うための建物として建造された
建設に当たってはデザインが一般募集され、優秀案として選ばれたデザインを基として松崎万長、妻木頼黄、辰野金吾、矢橋賢吉などをメンバーとした内閣臨時建築局を設置して設計された
現在の議事堂が完成するまでに仮議事堂が4回建設されており、第一次仮議事堂?第三次仮議事堂の他、東京以外に唯一設置された広島仮議事堂などがあったが、これらは全て木造の洋風建築であった
建物は左右対称で左側に衆議院、右側に貴族院が配置されていた
外観は新古典主義的なデザインであるが、最大の特徴は中央に乗ったピラミッド型の屋根であり、この様なデザインは世界中の同規模の建築物では全く見られない異質なものである
正面玄関は巨大な車寄せが設けられており、4本の円柱が見られる
入口は5箇所あり1つの入口に各2枚ずつ、計10枚の扉があるが、この扉はブロンズ製で扉1枚の重量が1tを超えるものである
正面玄関は普段は使用されず「開かずの扉」と呼ばれており、この扉が開かれるのは総選挙後に開かれる国会に議員が初登院する時、外国の国家元首が議会に招かれた時、天皇が議事堂を訪れる時のみである
正面玄関から入った先は中央広間となっており、2階から6階まで吹き抜けとなっている
天井までの高さは32mであり、壁面には日本の四季を描いた壁画が見られる
この広間から貴族院と衆議院の議場に左右に続く廊下を通って行くことができる
衆議院本会議場は2階から3階まで吹き抜けとなっており、天井にはステンドグラスがはめ込まれている
中央に議長席があり、その前に演壇、さらにその前に記者席があり、記者によって議事録が手書きで記されている
議長席の後方上部には御座所があり、ここで天皇による「開会の御言葉」が述べられていたが現在は行われていない
貴族院本会議場も基本的に衆議院と同じ構造であるが、最大の違いは議長席の後方に天皇の玉座が置かれていることである
かつて帝国議会の開院宣言は貴族院議場において天皇によって宣言がなされており、貴族院が廃止されて参議院となった今でも国会の開会式はこの議場で天皇の臨席のもとに行われる
中央広間から左右に曲がらずそのまま直進するとレッドカーペットが敷かれた皇族専用の階段があり、一般公開の際には一般人でも階段の先に行くことができる
階段を上がると正面に天皇の休息のための御休所という部屋がある
この部屋は議事堂総工費の10分の1の工費を掛けて造られており、天皇の他は各院の議長と副議長以外は立ち入り禁止である
室内は総檜造の本漆仕上げで桃山風の様式となっており敷物、壁、扉、椅子から机まで日本伝統工芸の粋を結集したものである
御休所のシャンデリアは金属部分以外はガラスではなく水晶でできており、入口部分の大理石の装飾も石材を組み合わせたものではなく、一つの巨大な大理石から削り出して造られている
かつては御休所の窓から美しい富士山を見ることができたが、現在は高層ビルなどに阻まれてしまい富士山は見えなくなってしまった
4階には図書館があり、衆議院用図書館と貴族院用図書館に分かれていたが1948年に統合され、赤坂離宮が国立国会図書館とされたのに伴って国立国会図書館分館となった
現在この図書館は一般人は利用できず、国会関係者しか出入りできない
因みにこの4階からは天皇の御休所より上の階となるのでトイレが設置されていない
5、6階部分は吹き抜けとなっているため部屋は存在せず、7階は階段室となっており、螺旋階段が設置されている
螺旋階段を上がった8階は広いホールとなっており、戦前は国会議員が嗜みとして社交ダンスの練習などに利用していた
螺旋階段はそのまま9階まで続いており、9階は展望室となっている
現在は8階のホールと9回の展望室は閉鎖されており、普段は管理人以外は国会議員であっても立ち入ることはできない
余談であるが当初は帝国議会議事堂を中心としたフランスのパリのような街並みを作り上げる官庁集中計画があり、議事堂もネオバロック様式でデザインされていたが中心者であった井上馨の失脚によって計画は立ち消えとなった
この官庁集中計画の名残が大審院や司法省、海軍省などの建物である
大審院や海軍省は戦災によって失われたが、司法省はレプリカとして復元されている
75:
枢密院庁舎(皇宮警察本部):東京都 皇居敷地内
1921年完成の鉄筋コンクリート造
設計は大蔵省臨時議院建築局の矢橋賢吉
枢密院は戦前の日本において、国家の大事に関して天皇の諮問に答えることを主な任務とした合議組織である
天皇の最高諮問機関として、国政の表舞台には姿を出さないものの隠然たる権勢を誇り、憲法問題も扱ったため「憲法の番人」とも呼ばれた
終戦後1947年に日本国憲法が施行される事に伴って廃止された
発足当初の会議は皇居宮殿(明治宮殿)内で開かれていたが、1921年に後に建設される帝国議会議事堂の小規模版として皇居内に新庁舎が建設された
議事堂によく似た内外装となっており、正面玄関には4本の円柱が見られ、上部にはピラミッド型の屋根が設けられている
内部は玄関ホールが吹き抜けとなっており、2階部分のアーチ状の装飾も議事堂の中央広間のものと酷似している
終戦後、庁舎は最高裁判所や皇宮警察本部として利用されていたが1984年から利用されなくなり、一時は建物の中に鳥の巣ができるほど荒廃した
2006年から改修工事が行われ、2012年に工事が完了、2013年より皇宮警察本部として再び利用されることとなった
現在は外観と玄関ホールのみ見学することができる
76:
東宮御所(赤坂迎賓館):東京都
1909年に落成したネオバロック様式の皇室の御所
設計は片山東熊
当時皇太子であった大正天皇のために建設された
建物は左右対称で、両翼が緩やかなカーブを描いている
本格的宮殿建築でありながら、内外装の各所に日本的な意匠が見られる
正面玄関から入ると複数の外国産大理石が使用された階段ホールがあり、天皇と皇后の肖像画が来訪者を迎える
国会議事堂や皇居宮殿(明治宮殿)が建築に当たって日本産の材料にこだわって建材を選んでいたのに対し、この建物ではイタリア、イギリス、フランス、ドイツ、アメリカなどの外国産の材料や設備が多く利用されている
御所の部屋はそれぞれの室内に描かれた壁画や装飾をもとに名前が付けられており花鳥の間、朝日の間、羽衣の間、彩鸞の間などの部屋がある
また、御所の裏側には庭園があり、1974年にはフォード大統領がハナミズキを、1975年にはエリザベス女王がブラウンオークを、1991年にはゴルバチョフ大統領がフユボダイジュをそれぞれ植樹している
落成後、明治天皇は完成した東宮御所を訪れたが、あからさまに権力を誇示するような華美な内外装を嫌い、明治天皇がこの御所を再び訪れることはなかった
さらに嘉仁親王(後の大正天皇)も住居としての使い勝手があまり良くなかった事や、華美に過ぎる内外装を好まず、ほとんど利用しなかった
その後、嘉仁親王が天皇に即位すると離宮として利用されることが決定し、名称も「赤坂離宮」に改められた
裕仁親王(後の昭和天皇)と良子女王(後の香淳皇后)との婚儀が1924年成ると、その後の数年間のみ赤坂離宮は再び東宮御所として利用された
しかし裕仁親王もこの御所の派手な内外装を好まず、天皇として即位してからは離宮としての利用すら稀となった
終戦後は皇居宮殿(明治宮殿)がアメリカ軍の空襲によって焼失してしまったため、高松宮宣仁親王が昭和天皇に赤坂離宮を利用する事を提案した
しかし昭和天皇は使い勝手が悪い上に、経費を悪戯に浪費するので国の財政に無用な負担を掛ける事になるとして赤坂離宮の利用を断った
その後は建物や敷地の所有権が皇室から国に譲渡され、1948年から国立国会図書館として利用される事となった
その後国際関係が緊密化して外国の賓客を迎えることが多くなり、1967年に赤坂離宮を整備して迎賓館として利用される事が決定された
5年の歳月と108億円もの工費を費やして生まれ変わった迎賓館に最初に訪れたのはアメリカ合衆国大統領として初来日したジェラルド・フォードであった
現在は迎賓館として国賓の宿泊に利用されるほか、条約、協定の調印式や首脳会談、皇族が臨席する晩餐会などにも利用されている
通常は非公開であるが、接遇に支障のない時期には一般見学会が行われ、事前申し込みにより参加することができる
2009年に明治時代以降のものとしては初めての国宝に指定された
77:
聖徳記念絵画館:東京都
1926年完成のセセッション様式の鉄筋コンクリート造
設計は高橋貞太郎
明治神宮外苑にある美術館であり、神宮外苑の中心的な建物
幕末から明治時代までの明治天皇の生涯の事績を描いた絵画が約80点展示されている
そもそも明治神宮外苑の造営の主たる目的でもある建物で、明治天皇の崩御後に建築計画が持ち上がった
建物は外壁が花崗岩貼りで、中央にドーム屋根が乗るウィーン発祥のセセッション様式の重厚なデザインである
内部は中央広間の床や壁に国産の大理石が用いられ、天井には石膏による装飾が施されている
左右の展示室には採光窓が設けられており、日中には自然光によって内部が照らされる
また、建物正面には国旗掲揚塔があり、左右には一角獣の銅像が設置されている
明治神宮外苑の入り口でもある青山通りからこの建物を見ると、イチョウ並木が絵画館が中心になるように植えられている
このイチョウは1923年に植えられたもので、遠近法により実際の距離よりも絵画館が遠方にあるように見える
この手法はイギリスのバッキンガム宮殿へ続く並木道などで用いられているものと同じ手法であり、建物の美観をより高めている
建物は東京都の眺望保全対象建築物に指定されており、東京都内で数少ない戦前から変わらぬ美しい景観を有する場所であった
しかし現在、タワーマンションなどの高層建築物3棟の建設が発表され、これらが完成した場合この美しい景観が破壊されるとして波紋を呼んでいる
眺望保全対象建築物の規制内容としては後方2kmまでの景観誘導区域では対象建築物より高く見える建物を建てないよう制限しているが、今回は2km以上の距離があるため規制対象にはならない
さらに3棟の内の1つの住友不動産による高層ビルによっては日暮里富士見坂から見える富士山が見えなくなることも判明し、ビルの建設に対して反対運動が起こっていた
これに加えて世界遺産の諮問機関であるICOMOSは、日暮里富士見坂からの富士山の眺望を歴史的な眺望遺産としてパリ総会で決議し、景観の保全に関して住友不動産に対して勧告を行った
しかしながら反対運動やICOMOSによる勧告は黙殺されて高層ビルの工事は開始され、青山通りから見た聖徳記念絵画館のドーム左側からビルが大きく突き出す形となり、また日暮里富士見坂からの眺望に関しては富士山が完全に見えなくなることとなった
聖徳記念絵画館の景観に関しては青山通りからの景観は破壊されたものの、建物に接近したときの景観は守られている
78:
以上です
数が少なくて申し訳ない
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コメント
1 不思議な
洋風建築をありがたがるのは、アジアアフリカ各国で共通してる。
2 はげ :2016年03月19日 12:12 ID:ZssVNDsl0*この発言に返信
いくつか知らない物があった。
戦前のビッグネームの中では、内田祥三が卓越しているように思う。
明快で実直。遊びつつも、決して作り込み過ぎない。
ゴシックのモチーフを使いつつも、精神は古典に近い。
ただ、最後期の建物は時代とのギャップに迷いが生じているのがはっきりと分かり少し残念。
3 不思議な
植民地の全没収なかったら東南アジアでヴィラでも経営してノンビリ暮らしたかったのに無条件降伏とか最悪の負け方だわ
4 不思議な
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