海未「自責の輪」back

海未「自責の輪」


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2:
手に持った四本の矢のうち、二本を床に置く。
手に残った矢の一本を弦に番え、手の内を整える。
残りの一本は馬手の薬指、小指で鏃を隠すようにして持ち、馬手はそのまま腰に当てる。
物見。
薄い道着の隙間を刺す寒さも、射場に立つと気にならない。
呼吸に合わせて、打起こし、大三、引き分け、会。
口割りを意識し、一秒、二秒……きりきりとわずかに聞こえる、弓の軋む音が耳に心地良い。
十分に会の型をとったのち、離れ。
タァン。
放った矢は28メートルの距離を一瞬で移動し、直径36センチの的を突き破り、安土に突き刺さった。
ゆっくりと息を吐き、残心を解く。
4:
弓を握るのは少し久しぶりのこと。
勉強、アイドル活動、生徒会、家での稽古……忙しくも充実している日常に不満はありませんが、こうして弓を引く時間が減ったのは少し寂しい気がします。
私は弓が好きです。
弓道をしていると頭がすっきりとします。
弓を引いた後には、そういえば、と、不意に忘れていたことを思い出すことがあります。
歌詞作りに行き詰まった時にもこうして弓を手にして射場に立つと、今までのスランプが嘘のようにアイデアが浮かんで来たりもするのです。
5:
馬手に持っていた矢を新しく番え、先ほどと同じ動作を繰り返す。
二本目を射ったら、先ほど床に置いた二本の矢を拾い、同じように番え、放つ。
命中したのは四本中二本。
今日はずっとこの調子。
多少のブランクがあったことを考えると悪くない結果ではありましたが、未だ皆中がでていないことが少し無念ですね。
6:
すり足で射場を退場し、カケを外そうとしたところで、ぱちぱちと手を叩く音が聞こえてきました。
「海未ちゃんかっこいー!」
「はぁ……また勝手に弓道場入って……」
「ごめんね、海未ちゃん」
二人の幼なじみ、穂乃果とことりが壁の陰からこちらを覗いていました。
「今日はμ`sの練習は休みでしょう?帰ってなかったのですか?」
「ことりちゃんと部室でおしゃべりしてたの」
7:
穂乃果が壁の陰からぴょこんと飛び出して、答えました。
サイドテールがひらりと揺れる。
それに続いてことりも壁の陰から体を出しました。
「気づいたら結構時間経ってたから、どうせなら海未ちゃん待って一緒に帰ろうかなって」
「そうでしたか。ちょうど最後にしようと思っていたところです。片付けるので少し待ってもらえますか?」
「手伝うね」
9:
「勝手に弓道場に入ってはダメですよ」と再三注意したかいがなかった”かい”あってか、弓道場の片付けのやり方を熟知した様子で、二人は的場の方へとかけていった。
「どうぞ!」
これは「的場に入ってもいいですよ」という合図。
今は射場には私しかいないから、的場に矢が飛んで行く心配はありませんが、事故を防ぐためには何時でも守らなければいけないルールです。
二人もそのことは心得ている様子で、私の合図を待ってから的場に入ってきました。
道場の床にモップをかけながら、一応、二人の様子を伺う。
10:
穂乃果が安土に刺さった矢を抜き、ことりが的を外していく。
矢についた土を拭き終えた穂乃果が、的場の脇の小屋からホースを引っ張ってきて、慣れた様子で安土を潤し、同じく脇の小屋から竹箒を取り出してきたことりが土を均していく。
特に心配はなさそうです。
床の掃除を終え、射場のシャッターを下ろす。
鉄のシャッターがひんやりと冷たい。
そういえば、道場のホースはノズルのジョイント部分からの水漏れがひどかったはず。
あとで穂乃果にカイロをあげましょう。
11:
「う?さむさむ?」
カイロをくしゃくしゃとこする手に更に息を吐きながら穂乃果が嘆きます。
見ると、ことりもマフラーの中で首をすくめていました。
住宅の塀を越えてところどころ見える木枝には、水分を失った葉が数枚かろうじてくっついているだけで、いかにも寒々としています。
空は子供がセメントを塗りたくったような不均等で灰色の雲の束。
見ただけで体が冷える気がします。
予報では夜から雪でしたが、じきに降り始めるかもしれませんね。
12:
「あ、穂乃果ちょっと本屋さん寄ってくね」
そう思った矢先に、穂乃果が言いました。
「私もついていこっかな。海未ちゃんは?」
と、ことり。
雪も降りそうですし明日にしては?
言いかけましたが、穂乃果は思い立ったが吉日を地で行く性格。
雪程度では言っても聞かないでしょう。
だからといって自分だけさようなら、というのも味気がありません。
「そうですね。では、私も」
幸い、利用する書店は家からそれほど離れていません。
少しくらい雪が降ったところで、大して濡れることはないでしょう。
13:
自動ドアが開くと、人口の温い空気が体に絡みついてきました。
家ではあまり暖房を使いませんが、冷えた体には中々に心地が良い。
マフラーを外す。
コートを脱ぐほどではありません。
漫画の新巻でも出たのでしょうか、穂乃果は漫画コーナーへと足を向け、ことりは雑誌コーナーでファッション雑誌を手に取り、ペラペラとページを繰りはじめました。
私も少し見て回ってみましょうか。
14:
あてもなく店内を回っていると棚に挟まれた細い通路の中に穂乃果の姿。
思った通り、片手にはビニールで包まれた漫画が一冊。
本棚の前で何か難しそうな顔をしています。
陳列された本を見るにそこは小説コーナー。
意外、と言っては失礼でしょうか。
穂乃果は小説にはあまり興味のないものと思っていたのですが、何をそんなに熱心に見ているのでしょう。
「どうかしましたか?」
「あ、海未ちゃん。これ、イタズラかな?」
16:
悪戯?
穂乃果の視線の先に目を向けると、なるほど、確かに妙でした。
書店では、本は背をこちらに向けて棚に陳列するのが一般的でしょう。
それが一番場所を取りませんし、背表紙にはタイトルと著者以外に目を引く情報がほとんど書かれていませんから、客にとっても楽に目的の本を見つけることができます。
ところが、私達の前の棚には、そういった「効率」というものがおよそ感じられません。
小口がこちらを向いているもの。背はこちらを向いているものの、上下が逆になっているものなどがところどころ混ざっているのです。
よく見ると、本の並び順もいじられている様で、同著者の本が点々と散らばっているものも見受けられました。
17:
「イタズラ……のようですね」
本を手にとった客が無造作に書棚に本を戻した、というだけではここまで滅裂にはならないでしょう。
書店があえてこう陳列している、というのはもっと可能性が低い。
穂乃果の言うとおり、誰かが故意に並びをいじったのでしょう。
「直したほうがいいかな?」
「お店の方に知らせてまかせましょう。結構たくさんの本がいじられているようですし、私達が触って本を傷めてしまっても事でしょうから」
穂乃果の会計を待っていると、ことりが近寄って来ました。
「何かあったの?」
穂乃果が店の方と言葉を交わしているのを見て尋ねて来ました。
「お店の本が少しイタズラされていたので、それを伝えているんですよ」
「イタズラ?」
「はい」
先ほど見たものを簡単にことりに説明していると、穂乃果の方も話が終わった様子。
漫画の入った袋を抱えてかけてきました。
18:
店から出ると、雲は一層重い色を帯び。
また、それとは対称に白く軽い結晶を、ふわりふわりと街に落とし始めていました。
寒い━━
そういえば、マフラーを外していたのでした。
19:
小雪とはいえ雪に降られ、穂乃果とことりと分かれ家路を急いでいると、赤い派手な車が家の前の道に止められているのを見つけました。
この車は、確か……
車に近づくと、運転席のドアが開きサングラスをかけた女性が出てきました。
背は私より頭半分ほど高い。
かかとを少し上げたチャンキーヒールのブーツを履いていますから、差は十センチ程でしょう。
私と同じ、腰ほどまで伸ばした青みがかった黒髪をうなじの辺りで一つにまとめています。
「あの……」
「んふ……」
私が声をかけると、女性は何やら不敵に微笑み、サングラスに手をかけました。
そして……
「海未ちゃーん!ひっさしぶりー!」
20:
気取った風にサングラスを外したかと思えば、甘ったるい声で私の名前を呼ぶ彼女は、旧姓園田美空(そら)。
私の姉です。
「姉さん、帰ってきてたんで……」
言いかけたところで、姉の人差し指が私の口をふさぎました。
悪戯っぽく笑う歳の離れた姉には、私にはない大人の魅力のようなものが感じられて。
思わずどきりとしてしまいます。
「姉さんじゃなくて、お姉ちゃんがいいっていつも言ってるでしょ?」
言動が子供っぽいところは、昔と変わりませんが。
21:
「ちょっとこっちの方に用があってね、海未ちゃんに会っておこうかと」
「どうしてこんなところにいるんですか?家にあがらないんですか?」
「ん?、それなんだけどね?……海未ちゃん、一緒にご飯食べに行こ!」
またですか、と私は思わずため息をつきました。
22:
美空姉さんは、私よりも十歳年上の、園田家の長女だ。
通常では長女である姉が園田道場の跡継ぎということになるのですが、姉はそれを望まなかった。
卒業したら一人暮らしを始めると言ったのが姉が高校生の時のこと、反対する両親を説得して卒業と同時に家をでました。
そのこともあって、姉は実家に帰ってきてもあまり両親と顔を合わせようとせず、こうして私だけを食事に誘ってきます。
とは言え、姉と両親は喧嘩別れというわけでもなく、「姉が継がないのなら私が継ぎます!」と、私が名乗りを上げ、それならまあと、円満とはいかないまでも、比較的穏やかに姉の意思は両親に受け入れられました。
姉ももともと放埒だったわけではなく、基本的には家の教えには従うことが多かったのも、親が姉の我侭を聞いた一因でしょう。
両親と会おうとしないのは、「小言がうるさいから」という、ただそれだけの理由、と姉は言っています。
それにしても、当時私はまだ小学生だったのですが……
当時の私の言葉を鵜呑みにして、もし私の気持ちが変わっていたら、両親はどうするつもりだったのでしょう。
23:
「それなら事前に連絡してください。お母様に連絡しないと……」
「大丈夫。私から海未ちゃん借りるって連絡入れといたから」
「私は物ではないのですが……」
ちょうど姉の胸元から、着信を告げる音がなりました。
が、姉は確認しようともしません。
続いてもう一度、受信音。姉はやはり無視。
おそらく母からでしょう。
有無を言わせず連れて行くつもりでしょうか。
「はぁ、わかりました」
「よぅし、決まり!乗って乗って」
24:
抗っても無意味なことは過去の経験から承知済み。
おとなしく姉の車に乗り込みます。
タバコのにおいが鼻をつきました。
「何食べたい?なんでもいいよー」
「そうですね。お寿司とか」
「おいおい……」
あとで母に小言を言われるのは私です。
これくらいは許していただかないと、ね。
「なぁんか、強かになったね」
「おかげ様で、ふふ」
姉は呆れたように笑って、車を滑らせました。
25:
「ふ?ん……へぇ?……」
関心した声を上げて私を見る姉の目はしかし、これはからかいがいがありそうだと笑っていました。
嗚呼、なんという不覚でしょう。
車を10分ほど走らせて訪れたお寿司屋。
お皿を重ねながら「最近どう?」などと、お互いの近況報告に花を咲かせていたわけですが、そこでうっかり、私がアイドルをやっていることを滑らせてしまったのです。
「海未ちゃんがアイドルねー」
秘密にしていたわけではありませんが、やはり顔が熱くなります。
「なんでまた?」
私は諦めて、アイドルになるまでの経緯を簡単に説明しました。
「ふぅん、やっぱり穂乃果ちゃんか。しかも、海未ちゃんたちの活動のおかげで廃校は免れたわけだ。立派立派」
姉は嬉しそうに言いながら、イクラの軍艦を口に放り込みました。
音ノ木坂学院は、姉の母校でもあります。
26:
「今日帰りが遅かったのもそのアイドル部の活動があったから?」
「いえ、今日は活動は休みで、弓道部の活動のあと、穂乃果とことりと本屋に寄り道を」
「海未ちゃんはホント幼なじみラブよね」
「そういえば、その本屋でのことなのですが」
この類のからかいには慣れていたので、無視する。
姉は無視されたことに少しふくれっ面を見せました。
27:
「本屋にイタズラねぇ……」
私の話が終わると、姉はなにか含みのある言い方でつぶやきました。
軽口をいなすつもりで話した本屋の悪戯の件に、姉は思いの外真剣になって耳を傾けていたようでした。
「その本屋でイタズラがあったのは、今日が初めてなのかな?」
「え?さあ、そこまでは……私が見たのは今日が初めてですけど……」
「他の本屋でそういうのは見た?」
「他の店には最近行ってないので……あの、何か気になることでもあるんですか?」
「や、なんでもなーい。あ、サーモンサーモン♪」
それまで少し剣呑な表情をしていた姉は一転してケロッとして、再びお寿司を頬張り始めました。
29:
そこからは姉の話。
お寿司をつまみながら、姉の旦那様の愚痴を長々聞かされました。
愚痴といっても、旦那様を揶揄するような含みは微塵も感じられず、半ば惚気話のようなもので、幸せに生活していることが伺えて、聞いていて気持ちのいいものでした。
「 海未ちゃんは穂乃果ちゃんとことりちゃんどっちと結婚するの?」
「なにバカなこといってるんですか……」
「ま、まさか両方!?」
「あ、ここの大トロ美味しそうですね」
「わぁ!冗談です!勘弁して!」
━━━━
━━
30:
「今日はありがとねー、付き合ってくれて」
「いえ、こちらこそご馳走様でした。お寿司美味しかったです」
帰りの車。
「あー、また節約しなきゃ」
「吝嗇は身を滅ぼすと言いますよ。使いたくなったらまた誘ってください」
なんて、軽口を叩いてみる。
「ホント、強かになったね」
姉は呆れて笑いました。
つられて、私もクスリ。
私がこんな態度を取るのは、美空姉さんだけ。
姉もやぶさかではないのです。
私にはそれがとても嬉しい。
このように甘えられる相手は、なかなか見つからないもの。
歳が離れていても、姓が変わっても、離れて暮らしていても、彼女は昔から私の頼れる姉なのです。
31:
家に近づくにつれて、姉の口数が少なくなってきました。
「やっぱり、家にはよらないんですか?」
「ん」
「お母様もお父様も、顔を見たがってると思います」
「お盆には帰るさ」
「またずいぶん先の話ですね」
「海未」
「……はい」
姉の口調が真剣味を帯びる。
また、ですね……
32:
数拍の間をおいて姉は私に尋ねました。
「家の稽古は、どう?」
「何も問題ないですよ」
これも、毎度のこと。
一緒に食事をした日は決まって、別れ際に姉はいつも同じ質問をするのです。
少し悲しそうな顔で。
33:
姉は家の話を嫌う。
当然といえば当然かもしれません。
端から見れば、姉は跡継ぎの責を放って家を出たのですから。
それなのに、彼女が私に家のことを問うのは、私にすべてを背負わせた後ろめたさ、自責の念からか。
私は何も恨んでなんかいないと言うのに。
一度、姉に言ったことがある。
後ろめたく思う必要なんか無い、きっかけは姉さんが家を出たことだったが、私は、私の意思で跡を継ぐ道を選んだのですからと。
父も母も尊敬出来る人物、その跡を継げるのを、誇りに思っています。
強がりなんかじゃありません、本心です。
34:
それでも姉は変わりませんでした。
毎回毎回、私に同じような質問をして、毎回毎回、私も同じような答えを返します。
かっこよくて、優しくて、頭もよくて、頼りになる姉さんが、ひどく不安定に見える瞬間。
私は、姉といる時間の中で、唯一この時間、この問答が、嫌いです。
「そっか」
35:
車が停車する。
気づけば家の前でした。
「ありがとうございました。おやすみなさい、姉さん」
「お姉ちゃんだってば」
翳りを帯びた顔で、姉は笑った。
36:
「海未ちゃん!ことりちゃん!暗号だよ、暗号!」
翌朝。
珍しく約束の時間前に待ち合わせ場所に来た穂乃果が開口一番そう言いました。
「あの、意味がわかりません」
ことりも困った顔をしています。
「昨日の本屋の話だよ!」
「ああ、本屋の……それで?」
「あれはきっと誰かへの暗号だったんだよ!」
「あの、いきなり結論だけ言われても困ります」
37:
言いながら、私は穂乃果が昨日の本屋でのことをまだ気にしていることを意外に思いました。
昨日は特に関心を示していなかったし、夜にはそんなことは忘れて白河夜船に違いないと思っていました。
というか、私自身がそうでした……
「まあまあ、落ち着きたまえ園田くん」
ホームズにでもなったつもりでしょうか。
いえ、彼女はコナン・ドイルなど読んだことないでしょう。
「行きましょうか、ことり」
「え?えーと……」
「あぁん、待って待って!聞いてよ!」
「わ、私は穂乃果ちゃんの話、聞いてみたいな!」
「ことりちゃーん!」
ああもう、ことりは穂乃果に甘いんですから……
39:
結局、学校に向かう道すがら穂乃果の話を聞くことに。
「本屋での話を雪穂にしたらさ、少し前に雪穂も別の本屋で同じものを見たって言うの。二週間前くらいって言ってた。
でね、昨日店員さんがいってたんだけど、一週間くらい前からイタズラが始まったって言うの。なんかさ、ただのイタズラじゃなくて、何か意味があると思わない?」
穂乃果は興奮して力説します。
「はぁ、それで、暗号と言うのは?」
「きっとあれは、わかる人にはわかる秘密のメッセージが込められているんだよ!」
「なんともはた迷惑なコミュニケーションですね……」
私は穂乃果の突拍子もない考えに呆れましたが、ことりにはウケが良かったようで、なるほど、と関心していました。
「内密の連絡だとしたらメールとかで済むことでしょう。わざわざ店に迷惑までかけてそんな面倒なことをするなんて……」
「もう、海未ちゃんは夢が無いんだから。それに、もしかしたら決まった誰かに向けたものじゃなくて、暗号を解ける人を探してるのかも。はっ!だとしたら穂乃果たちにも解けるかも!?」
穂乃果の興奮は収まるどころか逆に増して行く一方。
ことりも最初は、なんだかロマンチックだね、とウットリしていましたが、お店に迷惑がかかっていることを思い出して少し複雑な表情になりました。
40:
確かに……
傍から見たらなんでもないものに、何か大切なメッセージが込められていたら素敵かもしれ……
はっ!だ、ダメですダメです!
思わず頭に浮かんだ乙女な妄想をかき消す。
人に迷惑をかけるなんて、ダメに決まっています!
そんなことを考えながら、頭の別の部分で、私は別のことを考えていた。
それは、昨日の美空姉さんとの会話。
『その本屋でイタズラがあったのは、今日が初めてなのかな?』
『他の本屋でそういうのは見た?」
答えは、どちらもYESでした。
姉さんはこの答えを予測していたのでしょうか?
だとしたら、どうして?
姉さんは何がそんなに気になっているのでしょう?
本当に、あの悪戯には悪戯以上の何かがあるのでしょうか?
42:
案の定といいますか、その日の練習後、穂乃果に昨日の本屋に行ってみようと誘われました。
暗号とやらを解きたいのでしょう。
暗号と言う響きに、なんとなくワクワクしてしまう自分も確かにいます。
ですが、穂乃果のようにはしゃぐ気にはなれません。
不謹慎、とまでは言いませんが。
それでも私が穂乃果の誘いを断らなかったのは、昨日の姉さんの言葉と表情が、朝の穂乃果の話を聞いてからずっと頭の隅の方で燻っていたから。
もう一度本屋に行けば何かわかるかもしれないと思ったから。
まぁつまり……ええ、そうです。
私も穂乃果と同じ、気になっているのです……恥ずかしながら。
43:
翌朝。
まだ生徒がまばらにしか見当たらない時間。
弓道着に身を包み、和弓と矢を手に、射場に立つ。
昨日の放課後、穂乃果、ことりと一緒に件の本屋を訪れたのはいいものの、これといった収穫はありませんでした。
昨日は悪戯されている形跡が一目ではなかったからです。
流石に毎日のように本を弄りに来るとは思っていなかったので、こういう日もあるだろうと予測はしていました。
穂乃果は残念そうでしたが、ことりは少しホッとした様子でした。
ただ、一つわかったのは、例のいたずらが思っていたより悪質であったこと。
頭の中を整理しながら、一本目の矢を放つ。
中り。
44:
なんとなしに、本棚から数冊、本を抜いて、パラパラと中を調べてみました。
六冊目の本を手に取りページを捲っていると、ふと、違和感を覚えました。
最初の数冊を調べているときにはなかった違和感……
二本目……
中り。
正体はすぐにわかりました。
その本は外のカバーと中の本が別のものだったのです。
一昨日の悪戯の名残だったのかもしれません。
店員さんが本の位置を直す際、中身までは確認できなかったのでしょう。
三本目……
中り。
45:
悪質、といったのはこのこと。
悪戯の主は、本の並び順を弄るだけではなく、数冊の本の中身を入れ換えていたのです。
あれでは、表紙のカバーだけを見て本を買ってしまった場合、中身が……
四本目……
タァン!
中り。
46:
その瞬間、ピリピリ、と。
電気が流れたかのように、脳が熱くなりました。
そして、今まで頭のなかにモヤモヤと燻っていた塊が、ストンと胃のなかに収まる感覚。
「皆中……ですか」
些か牽強気味……ですが、平仄は合います。
あの悪戯、単なる嫌がらせではないのだとしたら、その目的はおそらく……
47:
「ま、万引き!?」
「いえ、少し語弊がありますね……しかし、どう言ったらいいのか……ともかく、似たようなものだと思います。それも、罪に問われることのない」
穂乃果とことりに、自分が達した結論を伝えました。
49:

あのイタズラはただの愉快犯ではないかもしれません。
おそらく、「本がよくイタズラされる」、そう、店員さんに思わせたかったのだと思います。
それは何故か。
昨日のこと、覚えていますか?
本のカバーが別の本の物と入れ替えられていました。
もし、私たちがそうと知らず、外装だけを見て本を購入したら?
私だったら気づいた時点で、目的の本と交換してもらうか、本を返して返金をお願いするでしょう。
この、交換か返金が目的だった可能性があります。
50:
つまり
"読みたい本のカバーを別の物と交換し、購入。読んだ後で、書店に、「中身が違う」と、交換又は返金を頼む?
派手にイタズラされた跡があれば、そのイタズラのせいだ、と、購入した客のことは疑いもしないでしょう。
他の書店でも同じことが起きていたのは、同じ店では何度も使える手ではないからだと思います。
同じ人が何度も「中身が違う」と来たら、流石に不審に思われますからね。
まぁ、例え疑わしくても、知らぬ存ぜぬで通されたらどうしようもありませんが。
返品しに来たその客が、イタズラした張本人かどうかなんて、知りようもないですからね……
万引きと言いましたが、本そのものは盗みません。
中身を、盗むんです。

51:
穂乃果もことりも、私の話にショックを受けたようでした。
「確証はありません。証拠なんて、あろうはずもありません。ただの悪戯だという可能性も、当然あります」
「そう……あはは、なんか、ごめんね。穂乃果、はしゃいじゃって」
そう言って、穂乃果は困ったように笑いました。
「穂乃果ちゃん……」
「でもあれだね、本はお店に返ってくるんだから、普通の万引きに比べたらマシだよね」
━━━━
━━
52:
本当に、そうでしょうか。
夜、μ'sの新曲の歌詞を考えていたはずが、思考は別のことへ流れてしまいました。
『普通の万引きに比べたらマシだよね』
……本当に、そうでしょうか。
いえ、穂乃果の言う通りでしょう。
店に金銭的被害が及ばない分、普通の万引きに比べたらマシ。
おそらく誰もがそう思うでしょう。
……悪戯の主すらも。
53:
A chain is no stronger than its weakest link.
鎖の強度は一番弱い輪によって決まる。
悪戯の主は、同じことを繰り返すでしょうか。
[盗んではいないんだからいいじゃないか]
こんな愚かな考えを免罪符に……
だとしたら、彼の、彼女の人格を支えている鎖は、罪悪感を司る輪、自責の輪で、いつか千切れてしまうのでは……
その事が、金銭被害云々よりも、恐ろしく感じるのです。
54:
━━罪悪感、自責の念
私は姉を思い出しました。
私を園田家に残し、出ていった、その事で自分を攻め続けている美空姉さん。
きっと、姉さんの自責の輪は太すぎる。
太すぎる輪は、隣の輪を歪ませてしまう。
別れ際の彼女が、ひどく脆そうに見えるのは、そのせいなのかもしれません。
今回の件を通して、私は姉にそんな印象をもちました。
55:
このままでは、姉は一生、自分を責め続けるでしょう━━
携帯電話をとりだし、姉をコールする。
━━私が、責めない限りは。
姉が電話に出るまでの間に自問する。
姉を、微塵も恨んでいないと、言い切れるのですか?
姉が跡を継いでいれば、私にはもっと自由な……
穂乃果と、ことりと、μ'sの皆さんと……
自分の好きなことをできる時間があったはずなのですよ?
56:
『もしもし、海未ちゃん?』
「姉さん、今、電話いいですか?」
『大丈夫だよ。どうしたの?』
「姉さん、私は━━」
これは伝えなければならない。
姉のためにも、私のためにも。
自問して得た答えを、嘘をつかずに、飾らずに。
━━━━━━
━━━━
━━
57:
数か月後。
学校から帰宅すると、姉の赤い車が、家のそばに停まっていました。
またですか、と、思わず笑みがこぼれます。
いつものように、姉が車から出てきて、いつものように、私を食事に誘い、私もいつものように、渋々と姉の車に乗り込む。
「今日はなにをご馳走してくれるんですか、姉さん」
「お姉ちゃんだってば」
姉の車からは、タバコのにおいが消えていました。
58:
終わりです
60:
おつだよ!
6

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