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父親と不仲な娘の話


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5:
私と父親はそんなに仲良くなかった。
青春時代にありがちな反抗期というものはそんなになかったが
私が小さい頃から父は多忙で、週末はゴルフだったり海外への単身赴任やら出張やらでそんなに父といる時間が少なかったからかもしれない。
父との関係は決していいものではなかったと思う。
6:
とにかく厳しい父親で、友達と遊びに行ってても部屋が汚けりゃ呼び戻されることもあった。
今から思えばいいしつけだったなと思うけど、当時は本当にうっとうしくって、
ろくに家にもいないくせにそういうとこだけ見てんじゃねーよ!とか思ったりしてた。
7:
うちの父親はとにかく母親第一!子どもは2の次!っていう態度をもろにだしてきていた。
お前なんかただの居候なんだからというセリフは何度聞いたかわからない。
悲しいことに父によく似た顔の私は「もしかしたら私は父の子ではないのでは・・いやいやしかしこんなに顔似てるし・・」という自問自答を繰り返したりしてた。
8:
時は流れ、そろそろ大学進学だって頃に父はガンになった。
胃がん。
だけど発見できたのが超初期の段階だったので手術すれば特に問題ないとのことだった。
でも当時10代の私にとって、ガンという言葉はすごく重かった。
9:
あれ、大学いかないで働かないといけないのかな、とか
本当に手術は無事に成功するんだろうか、とか
ガンといえば不治の病的なイメージが強かった私は日々びくびくしていた。
結果から言うと先生の言ったとおり手術は成功し、父は無事普通の生活に復帰した。
ただし、少し太り気味だった体はがりがりに痩せていた。
11:
大学行かないほうがいいのかな・・とお見舞いで言った時、「そんなあほなこと考えてないで勉強してくれ」と言われたのが印象的だ。
弱った体を見せたくないのか手術痕を見せたくないのか、診察で先生がいらした時は母親だけが病室に残り私はつまみ出されたりしていた。
なんだかんだ言って今の医術はすごい!と感動した私だったが、びっくりするほど数学センスがなかったので結局私大を受験し、父が退院した翌月から大学へ進学した。
13:
大学時代は比較的自由だった。
一人暮らしさせてもらっていたってのもある。
母とは当時ようやく持ち出したケータイやPCメールで連絡を取っていたが父とはさっぱり連絡などとっていなかった。
後から聞くと父は、ひそかに自分にも連絡欲しいなとか思っていたらしい。
ただし私の前ではそんなこと素振りにも出さなかったので知ったのはだいぶ後。
14:
大学生活も無事終了し、就活もなんとかある会社に滑り込むことができた私は社会人になった。
大学を卒業してからは実家に戻ったが、「大人3人だと家が狭い」と父から文句を言われまくっていたので
仕事が終わってもすぐ家には帰らず友達と飲み歩いたりしていた。
実家なのになんでそんなこと言われないとだめなのか、と思ったりもしたが、就活してから父がそこそこいい会社で頑張っていたことに初めて気付き
少し尊敬しだしたりしていたので、そういう不満はとりあえず口には出さずにいた。
16:
そんな矢先父が海外転勤することになり、母もついて行くとなったため急に私は一人暮らしすることになった。
ひゃっほう!!!!状態でフィーバーした私はさわやかに両親を送り出し、快適な一人暮らしライフをスタートさせた。
遠方から地元に帰ってきた友達が泊まりにきたり、何より門限がなくなったことが嬉しくて嬉しくて
その当時は今から思い出しても相当遊んでいた気がする。
18:
支援ありがとう。
そんな羽を伸ばす生活もつかの間、父が健康診断のため一時帰国することになった。
一応渡航先でもできるはずなんだが、過去に癌になったことがあるため詳しい健診が必要だったらしい。
そういうわけで実家に何泊かするからと言われてからの1週間はひたすら掃除に努めた。
なにせ部屋が汚いといわれ首を絞められたこともあるのだ。
今度こそはそんなことないように、と頑張ったがやはり働いている身なので母がするほど綺麗ではなかった気がする。
それでも一時帰国してきた父は満足そうに部屋を見渡して「結構頑張ってるね」と言ってくれた。
思えば生まれてから初めてくらいに聞いた、私の掃除に対する高評価な言葉だったな。
19:
父も私が働いてるのを気にしてくれていたのか、外食に連れて行ってくれたり出来合いのものでご飯にしよう!とデパ地下で買い物してきてくれたりした。
離れていてたまに会うとこんなに優しいならずっと海外にいてくれよ?などと私はのんきに考えてた。
数日間あった健康診断を受け終える頃、仕事中にめずらしく父から着信があった。
出てみるとくらーい声で「白血病みたい・・・」と宣言された。
仰天したが、とりあえずその日も外食予定だったので、仕事を少し早く上がらせてもらい父の会社まで迎えに行った。
20:
おい、良く分からんが現時点で眼から塩水が流れ始めたで
21:
会社から出た父はゾンビみたいな暗い顔をしていた。
ただ話を聞くとどうも急性ではないようだったので、「病は気から!こういう時はたのしくおいしくご飯を食べよう!」
とゾンビ父を引きずりもともと予約していたお店へ向かい大いに笑って食べて飲んだ。主に私が。
ゾンビ父も最初は「そんな気になれない・・」とぐずっていたが、最後は「暗い顔してるよりもこれくらい明るくしてもらったほうが気楽だ」とか言ってたと思う。
父はとりあえず海外赴任を解かれて、一度帰国し治療を受けることになった。
結果から言うと、幸運にも父に合う薬が早く見つかり、病気の進行を抑えることができた。
22:
>>21
なー頼むからハッピーエンドにしてくれよ…
リアルに凹んでくるよ
23:
>>20
きっと優しい人なんだろうな。
それにしても早いよw
うまいこと薬の見つかった父親は会社へもう一度海外赴任させてくれと頼み込み
帰国してから1年で再度赴任することになった。
当時私は付き合い始めた相手がいたのだが「一度赴任される前に挨拶に行きたい」などとトチ狂ったことを言い出していた。
一応父にも伝えたが「忙しいから無理。」の一言で却下されることになる。
25:
>>22
うーん、がんばる
それから父は海外で一生懸命仕事をしていた。
業績は決してよくはなかったが、年末年始や夏休みに向こうに呼ばれていくと、現地の人と仲よさそうにしている両親を見ていたので
まぁそれなりに向こうの人にも受け入れられているんだなぁーよかったね、と思っていた。
一応病気の進行は収まっているとはいえ、癌が再発していないかなど調べる必要があり
父は年に1度は帰国してきていた。
ある年、ちょうど父が帰国してきた時期に私がノロウイルスにかかったことがあった。
久しぶりに帰国してきた父とお買い物に行く約束をしていた私は体調があまりよくないな・・と思いつつ
なんとか買い物を終えたのだが、休憩に入った喫茶店で突然の吐き気に襲われトイレでゲロった。
父はその日の夜めずらしく同窓会の予定があったのでそちらに行ってもらい、私はタクシーで帰宅した。
帰りがてら病院に寄り注射を打ってもらったので、寝てれば治るとわかっていたが
あまりに気持ち悪くて「同窓会行かないで」って言えばよかったな・・と後悔しながらうとうと寝ていた。
26:
みてるよー。
27:
うとうとしてしばらくすると、玄関が開く音がした。
あぁ帰ってきたのか・・と思っているとものすごーくゆっくり私の部屋のドアノブが回って行く。
おいおいホラーかと思いながらそっちを見ていると、うすーく開いたドアの隙間から父の顔が覗いた。
おかえり、と体を起こそうとしたが「そのままでいいから!そのままでいいから!」と連呼し
しばらくして物置にしまってあった使ってない布団を山のように私の上に積み上げてきた。
正直言って重いし暑かったが、初めて受ける父からの看病がおもしろくてそのまま寝ていた。
アイスなら食べられるかもと言った私のために、山のようにいろんな種類のアイスを買ってきていたのにも笑った。
笑いながら、昔は厳しい面しか見せてこなかった父にこんな一面があったとはと驚きもしていた。
29:
>>26
ありがとう
布団のおかげだったのか注射のおかげだったのか(まぁ注射だろうけど)私はノロから回復し
父も健診に問題がなかったとかでまた赴任先に戻っていった。
父が赴任している間にあれやこれやあり、私は結婚することになった。
これもあれやこれやあったがとにかく無事結婚式当日を迎えた。
私が式を挙げた会場では、チャペル入場前に父と私二人だけで控え室に入ることになっていた。
事前に入場の練習をさせてもらえなかったので、「右足からだね」などと確認しあっていた。
当日ドレス姿の私を見ても一言も感想を述べてこなかったので、控え室を出る直前に意を決して「どうかな?」と聞いてみた。
鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして私の方を見た父は「まぁ・・いいんじゃないでしょうか」とだけ答えた。
31:
おそらく一生に一回の晴れ姿なのにその答えかよ!と思ったが
無常にもドアは開いてしまったのでそのまま父の腕に手を添えて歩き出した。
みんなが祝福してくれる中歩きながら、あぁそういえば物心ついてから父親と手を繋いで歩いたことがないなぁとか思い出していた。
そのまま式は滞りなく進んでお開きとなり、私は実家を出て新居へを移った。
その頃からだったろうか。
異常なほど阪神ファンだった父から、阪神が試合に勝った日はメールをくれないかと言い出した。
33:
正直意味がわからなかったが、とりあえず試合を見ていた日はメールを送ってやった。
しかし私の認識は甘く、父は全試合をチェックしろと言っていたのだ。
どこに出かけていようが、23時ごろになってもメールをしていないと「今日はだめだったのか?」と父からメールが送られてくる。
そういう催促メールが来るのは、阪神が勝った日に限ってだったので
こいつすでに結果を知っているくせになぜメールを欲しがるのか?!と思っていたが
初めての父親との仲良し風なメールがおもしろくて、結局私も毎日結果を調べては送っていた。
34:
結果はまだ分からんが、マジで親父お袋大事にするわ。
35:
年に1?2回は主人と実家に帰りご飯を食べた。
父はずっとずっと息子がほしかったので、血のつながりがないのに主人の父親面をしていた。
「仕事ではこれこれこうしたほうがいい」だの「ゴルフはね?こういう風にスイングして」だの信じられないくらい上から目線で物を言う父に私も母も閉口していた。
主人が内心どう思っていたかは知らないが、おおむねニコニコして話を聞くタイプだったので
さらに父は調子に乗って一生懸命主人に講釈をぶっていた。
私と主人が帰宅してからいつも母から「あんなことばっかり言ってたら嫌われるよ!」としかられていたらしいが、特に堪えていなかったようだ。
37:
>>34
それはとってもとっても素敵なことだよ!
そういう生活が何年も経った頃、父はまた病気になった。
癌の再発だ。
39:
3度目の大病だったので、私はショックを受けつつも、
まぁまた初期で見つかったみたいだし大丈夫だろうとたかをくくっていた。
父はやはりショックを受けていたがとりあえず検査と治療を続けないことには進展がないので
おとなしく入院して治療を受けていた。
お見舞いにちょっと高級なパジャマとスリッパを持って行ったりしたけど、そんなに頻繁にこなくていいと言われていたので
1ヵ月半くらいの入院生活でお見舞いに行ったのは1回だけ。
入院中は暇かな?と思い、阪神に関することだけじゃなく毎日くだらないメールを送っていた。
癌を克服するのは並大抵のことではないが、鬱々とするよりも笑顔でいるほうがいいとどこかで聞きかじったからだと思う。
40:
もしかして・・・・・
スレタイ詐欺?
42:
父はケータイでメールを打つのに慣れていないので、小さい「っ」が大きな「つ」でくることなど日常茶飯事だった。
あんなに厳しかったくせにこんなこともできないのかよ、とほくそ笑みながら私はメールを送っていた。
父は退院したものの、経過観察が必要ということで週に1回投薬治療を受けることになった。
43:
>>40
そうかな。ごめんね。
この投薬治療はなかなか体的にしんどいらしく、父からのメールにも弱音が混じることがあった。
が、まぁおおむね阪神がどうとかくだらない内容が多かった。
当時スマートフォンが流行りだしていたのだが、父はどうしてもそれが持ちたかったらしく
ついに母と一緒に私と同じだったキャリアを移ることにする!というメールがきた。
それは別にいいけど、これから家族割が効かなくなるね?と返信したところ
「お金払うから、あなたも持ってください」とメールがきた。
私はまさかのケータイ2個持ち生活を送ることとなった。
46:
ちなみに父親はほしい!と思ったものはなんとしてでも手に入れる癖がある。
昔wiiが流行ったころは毎週車を出しては探しに行き、結局3台買ってきたことがあった。
念願のスマホを手に入れた父ははしゃぎまくり、一生懸命勉強していた。
「どうやったらラジオ聞けるの?」とか「なぜかメールが消える!」とかそんなメールばかりきていた。
49:
そんな父と楽しくメールを送っている日々だったが病状はおもわしくはなかった。
複数個できている腫瘍のうち、1つだけが投薬治療が効かなくなり大きくなり始めていたのだ。
一度治療内容を変えてみようということで1ヶ月放射線治療を受けることになった。
51:
放射線治療というものを私は受けたことがないのでわからないのだが相当しんどいようだった。
メールの文章も日に日に短くなっていった。
それでも父は私の送る他愛のないメール1通1通に律儀に返信してきていた。
放射線治療が終わって1週間、少し楽になったかな?と思っていたが、父は緊急入院することになったと母から連絡が来た。
52:
放射線治療後半くらいから腰がすこし痛いと言っていたのだが、ある日突然立てなくなってしまったのだ。
そのニュースには驚いたものの、別にすぐお見舞いにくるような話じゃないといわれ、結局父が入院した週末にお見舞いに行った。
病室に入った時、驚くほど痩せた父の姿に衝撃を受けたことを覚えている。
53:
衝撃を受けつつも何食わぬ顔をして「調子はどう??」と軽く話しかけた私だったが
父親の返事をする声の小ささにまたしても衝撃を受けていた。
「まさか急にこんなになるなんて・・」と弱弱しく言う父。
これが10年ほど前「お前なんて居候に過ぎない!」と啖呵を切ってきた父だろうか?
55:

>>1
は幸せなのか?
俺の落ち込んでる心を、少しでも建て直してくれ…
57:
しばらく話していたが、話すのにも体力を使うようでしばらくしたら父は目を閉じて黙り込んでしまった。
また来週来るね?と明るく声をかけ病室を出る際振り返ったけど、父はやはり目を閉じたままだった。
父は入院するのもショックだったみたいだがなによりも歩けなくなってしまったことがとても悲しかったみたいだ。
その次の週にお見舞いに行く時には少しいい毛布を買っていって、「ちょっと早いけど父の日!」と渡した。
「来年の父の日のプレゼント、なにが欲しいか考えておいてね」という私に弱弱しく笑いかけた父は
「ママのこと、どうかよろしく頼むよ」と言っていた。
「阪神の試合がまた見たかったなぁ」とも言っていた。
「そんなこと言ってどうすんの!病室にはテレビもあるんだし試合はいくらでも見られるよ。ママのこと頼まれても困るよ」
と返したが、父はまた疲れてしまったらしく目を閉じてしまった。
58:
びっぷら作り話多すぎ
59:
>>55
今はしあわせだよ。建て直ったかい?
母は毎日お見舞いに行っていたが数週間続くとやはり辛くなってきたようで
私もお見舞いに行くことにした。
しかしお見舞いに行こうと決めていた日の前日母から連絡があり「できるだけ早くこられるなら来たほうがいいかも」と言われた。
びっくりして特に用事がなかった私は急遽病院へと向かったが、病室にいた父はもう口がきけなくなっていた。
61:
>>58
作り話じゃないんだよ。ごめんね。
この間お見舞いに行った時はまだしゃべっていたのにどうして・・と絶句してしまい
初めて父の死を身近に感じた。
お医者様の話では余命半年だときいていたのに、このときには今日明日の命ですと宣言された。
なんのこっちゃら急転直下で私はまったく頭がまわらなくなっていた。
62:
とりあえず父は口をきくことができなくなったが、先生からの問いかけにはたまにうなずいたりしていたので
声は聞こえているようだと判断し、できるだけ話しかけていた。
寝息をたてて寝てるなって時は黙ってたけど。
63:
主人もすごく心配してくれて当時仕事が忙しかったはずだがよく病院に来てくれた。
「○○さん、明日来てくれるってよ」と声をかけると、父は心なしか嬉しそうだった。
めったに目を開けなくなっていたがたまに目を開けては、横についてる母のことを必死で眺めていた。
ちっとはこっちも見ろよwと思ったりもしたが、本当に父は母のことが好きだったんだなぁと感じたりもした。
ちなみに主人がお見舞いに来て声をかけた時も急に目を開けて主人のことを見ていた。
思い返すと私はあまり見てもらってなかった気がするw
64:
すまん、ちょっと離席する
65:
俺の事凄く良くしてくらてたオッサンも癌で亡くなったんだけど、ホントに進行早いってか、1日2日会わないだけで相当ちがうよな。
本気でショックを受ける。
それが親族だったら、もっと悲しみヤバいんだろうな。
67:
>>64
ゆっくりでいいからな
68:
>>65
なんかほんとにびっくりしたよ。
肩とかがりっがりで、骨盤がすごく目立ったりしてさ。
母は病院に泊まり私は実家に泊まるという生活が2週間くらい続いた。
今日明日をも知れぬ命と言われた割に父は頑張っていた。
呼吸補助としてつけられていた器具も、外しても酸素濃度が問題ないほどになっていて
ぼんやりこのまま1年くらいこの状態が続くのかな、なんて考えていた。
そんなある夜、寝ようとしていたときに母から連絡が来た。
「今すぐ来て」というものだった。
69:
>>67
ありがとう。主人が帰ってきてしまったのでしばらく遅いかも。
手早く書くよ。
とにかく寝巻きから着替えてタクシーを捕まえ病院へと急いだ。
病室へと走っていって、開けたドアの向こうには帰る時と同じように眠っている父がいた。
いまわの時にはあのピコーンピコーンとかなる機械があるもんだと考えていた私はとてもほっとした。
70:
父の枕元に立っている看護しさんが父に懸命に話しかけていた。
「お嬢さん、来てくれましたよー!」
その看護師さんが泣いているのに気付いてから、父が亡くなっていることに気付いた。
母からの連絡がきてから10分以内には到着したのになんで?なんで?なんで?
母は泣き崩れていた。
「とても急で・・」と説明してくれる看護師さんを尻目に「パパ、来たよ」と呼びかけてみた。
返事が無いのにはもう慣れていたけど、呼吸していない姿は初めてだった。
布団の上に出ていた手を握ってみたけどまだ温かかった。
でもドッキリでした?!なんてことはあるわけもないし、父はもういないんだとわかった。
父と交わした最後の言葉はなんだっただろう。
すごく大切なことのはずなのに、その時はまた話せるだろうと思っていたからか思い出せないんだよね。
これは今でも思い出そうとしたりするんだけど、どうしても思い出せない。
最後まで親不孝な娘だな。
72:
そこからは怒涛のように日が過ぎていった。
今まで生きてきた中で一番一日一日を長く感じてたと思う。
告別式に赴任先の現地の人が来てくれたりしてとても驚いたが、やはり父はすごい人だったんだなぁと思った。
年齢がそんなに高くなかったってこともあるかもしれないけど、最後のお別れに来てくれた人で泣いてくれた人が多かったから。
私が今死んでしまったとして、あんなにたくさんの人から惜しまれたりするだろうか?
73:
すべてが終わったあと、父のスマホを解約しに行った。
回線を生かしておきたい気もしたけど、母にかかる金銭的負担を少しでも減らしてやりたかったから。
あんなに欲しがっていたスマホだったが、結局父は1年も使うことはなかった。
解約の説明を聞きながら父のスマホを見ていると、未読のメールが山のようにあることに気付いた。
前に迷惑メールがくる!と言っていたからそれかなぁと思いつつ、母に了解をとってからメールボックスを開けた。
たしかに迷惑メールもあったけど、大半は私からののんきなメールだった。
74:
病状が良くないとはわかっていたけど、できるだけいつもどおりのメールを送ろうと当時の私は考えていたわけだが
それを読む元気すらなくなっているとは思いも至らなかった。
こんなことさえ思いやれなかったんだな、私はと思うと無性に悔しくてならなかった。
75:
妻からも子供からも周りからも尊敬される人物だったんだろーな
76:
あなたは全然親不孝じゃないよ
77:
父は無事49日の旅を終えて、仏様になった。
昔の私はどうしてあんなに反抗的だったんだろうか。
父が入ったあとのお風呂になんて入れない!とかいう生理的嫌悪はなかったが
とにかく上から目線で正論をぶつけてくる父が本当にいやでしょうがなかった。
今から思えば、親なんだから上から目線は当然だし言われてたことも大体正論だったんだから素直に聞いておけばよかったのに。
後から知ったが、父は一人娘の私を甘やかしてしまうことを極度におそれていたみたいで
無事結婚してお嫁に行くまでは甘やかさない!と自分を強く律していたらしい。
甘やかせよwと思ったけど、その教育のおかげで今の私があるんだと思うと、それはそれでよかったのかなとも思う。
79:
>>75
私が尊敬しだしたのは生まれてだいぶだってからだけどねw
>>76
ありがとう。なんだか救われるよ。
仏様になった父が私の願いをかなえてくれたのかわからないが、49日が終わってから比較的すぐ私は妊娠した。
母は仏壇に向かって「もうちょっとだけ生きてたら妊娠したことだけでもわかったのにね」と話しかけていた。
まだ安定期に入ったばかりでどうなるかわからないが、日々「神様仏様父上様、どうか無事この子が生まれてきますように!」とお祈りしている。
なぜか今日はすごく父のことを思い出してしまったので、自分の気持ちを整理させるためにスレ立てしてみた。
80:
もっともっとくだらないことでも話したらよかったな
感謝の言葉を照れずに伝えてあげたらよかった
もっともっとご飯を一緒に食べたらよかったな
父と一緒にご飯を食べたのって全部あわせても365日いくだろうか?
いなくなってから気付くなんてすごくありふれた言葉だけど、今なら本当にそうだって思える。
もちろんニュースを見てたら目を覆いたくなるような親もいるけれど・・
みんな親を大切にな!
かーちゃんはすごく大切な存在だけど、触れ合う時間が少なくっても、とーちゃんもとってもとっても
大切な存在だよ。
81:
>>80
そのぶん生まれてくる子どもをしっかり育てることが、一番の親孝行じゃないかな
85:
父が亡くなってしばらくしてから、夢に父が出てきたことがあった。
夢の中でも父は入院していて、「夢の中でくらい元気な姿でいたらいいのにw」とか思ったのを覚えてる。
夢の中の母は「パパは今でも頑張ってるのに、もっとがんばらなくちゃいけないなんてそんな姿もう見てられない!」と病室を飛び出していった。
父と二人きりになった私は「そんなこと言ってもねぇw」と笑い合ってた。
でも現実世界の私は父が亡くなることを知っていて、夢の私もそれを知っていた。
しばらく笑いあった後、私は父にすがり付いて泣いていた。
こんなん現実世界でもしたことないのにw
父は黙って私の頭をずっと撫でてくれていた。
これも現実ではされたことないと思う。
そのまま目が覚めたけど、起きても自分が泣いてる事実にちょっとびっくりした。
86:
>>81
そうだよね。
たまに父のことを思い出しては泣いてしまうけど、お腹の中の子のためにも泣くのはやめないとなーと思って
そういう意味で自分の気持ちを整理したくて人生初のスレ立てしたってのもあるよ
87:
明確な目的なく立てたスレなのでオチはないんだ、申し訳ない。
以上で自分語りを終えます。
88:
>>1
いなくなってからじゃ遅いもんな。
なんだかんだ親が自分の幸せの事一番考えてくれてるんだよな
89:
>>87

本気で心に染みる話だった
90:
>>89
ずっと読んでくれてありがとう。
こんな文章にそんな言葉がもらえるなんて思ってなかったよw
みんな!がん検診はちゃんと受けような!
初期で見つかれば手術でなんとかなること多いみたいだよ!
92:
>>88
そんなこと言えちゃうあなたはとってもすてきな人だと思う。
ご両親も嬉しいだろう。
95:
ありがとう!
いい話だった。
96:
おつかれさま?
読みごたえあったよ?
阪神も応援するよ!
97:
喪に服さずすぐ妊娠とな!
我慢しろよ?一年ぐらい
すけべ
98:
何年振りかに泣いた。
99:
>>95
こちらこそありがとう
>>96
CS頑張ってほしいよねー最近すこぶる調子悪いけど・・
>>97
後だしなんだけど、私が原因でずっと不妊だったんだ。
父のためにもって治療続けてたんだけどうまくいかなくって・・
父はいなくなってしまったけど母はいるわけだしってことで治療は休まず続けてたんだよね。
そうしたら49日経ってからの治療1回目でうまく妊娠できたんだ。
ごめん、ちゃんと書けばよかったね、蛇足かなと思って書かなかったんだけど、申し訳ない
>>98
ほんとかよw
ありがとう
100:
失ってからその大切さを実感するんだよな
だが俺はやっぱり親父が嫌いだけど
101:
>>100
親子関係なんて千差万別だよな。
いつかお父さんと腹割って話してみてほしい。嫌いってことも含めてさ。
いなくなってしまったら、あんなことでも話しておけばよかったってことあるかもしれないよ。
変に上から目線レスだったかな、ごめん。
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