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「酷すぎる…」って思う歴史上の出来事


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1:
ルワンダ虐殺
人間ってあそこまで残虐になれるんだな
ルワンダ虐殺
1994年にルワンダで発生したジェノサイドである。
1994年4月6日に発生したルワンダ大統領のジュベナール・ハビャリマナと
ブルンジ大統領のンタリャミラの暗殺からルワンダ愛国戦線 (RPF) が同国を制圧するまでの
約100日間に、フツ系の政府とそれに同調する過激派フツによって、多数のツチと穏健派フツが殺害された。
正確な犠牲者数は明らかとなっていないが、およそ50万人から100万人の間、
すなわちルワンダ全国民の10%から20%の間と推測されている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/ルワンダ虐殺
4:
人体実験
人体実験とか拷問の怖い話教えてよ
http://blog.livedoor.jp/nwknews/archives/5123019.html
12:
>>4
ナチスがやった双子に対する実験とかヤバい…
16:
>>12
kwsk
26:
>>16
強制収容所にいた双子の子供に対して行われた実験の目的は、人体を人為的に操作できるかどうかを観察するのと同様に、双子の遺伝子の類似性と相違性を示すためであった。実験の中心的なリーダーはヨーゼフ・メンゲレであり、彼は1943年から1944年にかけて、アウシュヴィッツに収容されていた双子1,500体に対して実験を行った。わずか100人の被験者のみが生き残った。
彼はルートヴィヒ・マクシミリアン大学ミュンヘンで、哲学や人類学や古生物学に重点を置いた医学を学ぶ間に、「(ファシズムという)簡潔な政治概念が、遂には私の人生において決定的な要素となった」と述べたと言われている。メンゲレは、「簡潔な政治的概念」に新たな関心を示し、医学と政治の融合が、彼のキャリアの選択において大きな要素となった。
メンゲレは、「4種の人種グループを対象とした下顎部分の人種的形態学的研究 (Racial Morphological Research on the Lower Jaw Section of Four Racial Groups)」というタイトルの論文により博士号 (PhD) を取得した。この論文は人種は顎の形によって識別が可能であることを提起していた。ナチスによって彼は研究の才能を見出され、1943年5月30日、彼は占領下のポーランドに位置するアウシュヴィッツ強制収容所に移動となった。彼は、一般的に考えられているところとは異なり、アウシュヴィッツで唯一の医者であったわけではなく、高い地位にいたわけでもない(親衛隊の大尉であったエドゥアルト・ヴィルツ (en:Eduard Wirths) が、アウシュヴィッツにおける医師の責任者であった)。メンゲレは、双子に対する遺伝学的実験を組織した。双子は年齢と性別によって分けられ、実験の合間はバラックに収容されており、異なる薬品が双子の目から注入され、色の変化があるかどうかを確認され、双子を文字通り縫い合わせて結合双生児を作ることが試された。
http://ja.m.wikipedia.org/wiki/ナチス・ドイツの人体実験
1500人に実験して生き残ったのが100人らしい
43:
>>26
双子を縫い合わせて結合双生児を作る実験とかおぞましいな
50:
>>43
これってただ縫っただけなの?
58:
>>50
縫い合わせただけで被験者の子供たちは激痛に泣き叫んでいた
63:
>>58
縫い合わせてどーすんだ?
83:
>>63
縫い合わせる前
「双子って融合させたらどうなるんだろう?超人ができるのかな?」
縫い合わせた結果
「何もならないのか。」
ただこれだけ。縫い合わせることに何か目的があったかといえば好奇心としか言えない。
5:
アヘン戦争
阿片戦争
清とイギリスとの間で1840年から2年間にわたって行われた戦争である。
名前の通り、アヘンの密輸が原因となった戦争である。アロー戦争を第二次とみなして第一次アヘン戦争とも。
http://ja.wikipedia.org/wiki/阿片戦争
9:
ポルポト
ポル・ポト政権、戦慄の歴史
「【日本】外国の怖い文化【タブー】」スレより転用。
●カンボジアのポル・ポト政権、戦慄の歴史
20 名前: 本当にあった怖い名無し 投稿日: 2005/03/23(水) 03:07:38 ID:nUBNjmPo0
カンボジアは北海道の2倍程度の面積の国だ。人口は現在約1千万人。
首都はプノンペン。カボチャはこの国から伝わったのでその名がついた。
カンボジアの歴史は苦難の一言に尽きる。
かの有名な遺跡、アンコールワットが建設された12世紀では、
インドシナ半島で最強の国家だったものの、
その後は衰退の一途を辿った。
ベトナムやタイに領土を奪われ、第二次世界大戦渦中はフランスの植民地だった。
その状況を打破したのが、王族の血を引くシアヌークだった。
大戦後、彼は国際世論を巧みに操り、フランスから国土を解放した。1953年のことである。
この功績により彼は、『カンボジア独立の父』として民衆に敬愛されることになる。
多少独裁の色は濃いとはいえ、彼の手腕で国はそれなりに機能した。
それでも、後のポルポトによる圧政時代と比べれば格段に自由な時代で、当時を懐かしむ人々も多いという。
そう、それほどポルポトの時代は酷かったのだ。
21 名前: 本当にあった怖い名無し 投稿日: 2005/03/23(水) 03:10:04 ID:nUBNjmPo0
1970年。米ソ冷戦下。
アメリカのバックアップでロンノル将軍がクーデターを蜂起し、シアヌークは中国に亡命する。
クーデターを実際に画策したのはCIA。完全にアメリカのわがままだった。
このアメリカの暴挙には、以下のような背景があった。
1961年からのベトナム戦争で、アメリカは南ベトナムを応援した。
腐政に苦しむ南ベトナムの農民&ベトナムの統一を目指す北ベトナム軍
VS
利益を守るために邪魔な共産主義を排除したい南ベトナム軍
資本主義のアメリカは、この構図にも関わらず南ベトナムを応援した。
民衆の幸せなんて一切考慮していない。
ただ、北ベトナムの共産主義が気に食わないから、南側を応援したに過ぎない。
ベトナムの南側と国境を接するカンボジアとしては、
南ベトナムが勝利して力をつけると、自国が占領される恐れがあった。
よってシアヌークは、ベトナム寄りのカンボジア領に、
北ベトナム(解放軍)の補給基地をつくることを、暗黙の上で了解した。
これで南ベトナム軍は、南北から挟撃される形になってしまった。
23 名前: 本当にあった怖い名無し 投稿日: 2005/03/23(水) 03:16:04 ID:nUBNjmPo0
アメリカとしてはカンボジア領の補給基地を爆撃したいが、国際世論もあるのでカンボジアの了解が要る。
ただ要請するだけでは、シアヌークは承知しない。
よってアメリカは、経済援助の凍結を武器に何とか爆撃を認めさせた。
そしてカンボジアの民衆ごと、補給基地に爆撃を浴びせた。
ベトナム軍だけでなく、カンボジアからも難民が大量に発生した。
この事実を証拠に、シアヌークが国際世論に訴えれば、アメリカはベトナムから手を引かざるを得ない。
戦争に負ける。
そこで、カンボジアの要人・ロンノル将軍を使ってシアヌークを追放し、
カンボジアを意のままに操ろうとしたのだ。
『世界の警察』は随分身勝手なことをする。
むしろいない方がいいのでは?
ロンノル政権に移ってからは、弾劾される可能性はないので、
アメリカはさらに爆撃を徹底して行うことができた。
カンボジア人の死亡者は30万人。200万人の難民が新たに発生した。
それと同時にロンノル政権は、重税をかけて国民を苦しめた。
亡命したシアヌークはすぐに軍隊を編成し、協力者を募った。
賛同したのはロンノル政権を排除したい北ベトナム軍。
そしてクメールルージュ。筆頭はかの有名な暴君、ポルポトだった。
民衆に人気の高いシアヌークの名を全面に押し出すことで、クメールルージュは多数の志願兵を得た。
ここで解放軍の実質上のトップに、ポルポトが踊り出た。
ただし、この時点ではポルポトは温厚で、農民と共に汗を流し、田畑を耕したりもした。
兵士達も皆、友好的だったという。
そして、ベトナムがアメリカと合意して戦線を離脱したにも関わらず、ポルポト率いるクメールルージュは、
1975年にロンノル政権を倒し、カンボジアをロンノル将軍から解放したのである。
ここまでは、ポルポトよりもむしろアメリカの方が悪者である。
ここまでは。
24 名前: 本当にあった怖い名無し 投稿日: 2005/03/23(水) 03:18:08 ID:nUBNjmPo0
ポル・ポト率いる解放軍は首都プノンペンに入ると、
すぐに民衆を着の身着のままで、強制的に地方の農村部に移すということを開始した。
逆らう者は容赦なく殺した。次々と殺した。
同様の行いが、大小含む全ての都市でなされた。
これらはあまりに迅に実行されたので、国外に逃げられた人はほとんどいなかった。
そして国内を『平定』した後は、以下の政策を迅に施行した。
・私有財産の強制的な没収。貨幣制度の廃止。
・電話、電報、郵便、ラジオ等の連絡機関の廃止。
・バス、鉄道、飛行機等の移動手段の廃止。
・全ての教育機関の廃止と書物の焼却。
・仏教の禁止。寺や像の破壊。民族音楽や古典舞踊の禁止。(関係者は全て殺された)
・都市市民の農村部への強制移住。
・家族概念の解体。2?5歳以上の子供は全て親から隔離。
・自由恋愛の禁止。無作為の相手との強制的な結婚。
異論を唱えた者、従わなかった者は全て処刑された。
投獄なんて生易しいまねはしない。全て殺された。
徹底していると普通は思うだろう。
これだけでも、歴史上類を見ない暴虐だと思うだろう。
しかし、ポルポトはそうは思わなかったらしい。
25 名前: 本当にあった怖い名無し 投稿日: 2005/03/23(水) 03:19:44 ID:nUBNjmPo0
次にポルポトは、理想国家の建設のために協力者を集めた。
「例えロンノル政権に加担していたとしても、私は許す。
資産家、医師、教師、技術者、僧侶は名乗り出て欲しい。
それから、海外に留学している学生も帰って来て欲しい。
理想国家を作るためには、君達の力が必要だ。大切なのは、カンボジアの未来なのだから」
『国を良くするため』という言葉に共感した『インテリ』が次々と現れ、
それこそ、国内のほとんどの高い教養を得た人々、海外に留学していた学生達がポルポトの元に集った。
彼らはポルポト兵に連れて行かれ、二度と帰って来なかった。
ポルポトは大嘘をついていた。
彼はフランスに留学していたので、民衆の集団決起の強さを知っていた。
よって理想国家を作るためどころか、将来自分に歯向かうかもしれない民衆、
その指導者になれそうな教養を持った人間を、一掃したかったのだ。
そして民衆を、少ない食事で朝から晩まで牛馬のごとく働かせた。
26 名前: 本当にあった怖い名無し 投稿日: 2005/03/23(水) 03:27:09 ID:nUBNjmPo0
不満を言う者、働けない者はどんどん殺した。
「疲れた」と言っただけで、スプーンをなくしただけで殺された。
次のような者も、即刻殺戮対象となった。
・眼鏡をかけている者。
・肌が白い者。
・手が綺麗な者。
そして、
・美形。
家族に至るまで、全て。
ポルポト率いるクメール・ルージュ政権は、密告を奨励した。
妻が夫を、夫が妻を、子が親を密告し、隣人を密告する。
そうした恐怖の密告社会の中で、国民は互いに殺し合った。
少しでも正義感が強いとか、物事を考える者はそれだけで殺された。
家族、一族もろとも。
誰も信用できず、栄養が足りず、指導者もおらず、反乱の芽は種になる前に焼かれた。
国民はポルポトに従うしかなかった。
ポルポト兵に入隊できるのは、13歳以下の少年に限られた。
ポルポトの意向通りに洗脳し易いからだ。
結果、少年達はポルポトを神とあがめ、命令があれば肉親でも殺す鉄の兵隊になった。
そうしてポルポト兵は、狂信的集団へと収束していった。
1975年から1978年の3年間のポルポト政権の期間で、カンボジアでは約300万人の死者が出た。
これは国民の1/3に当る大虐殺であった。
27 名前: 本当にあった怖い名無し 投稿日: 2005/03/23(水) 03:29:03 ID:nUBNjmPo0
なぜ世界がこの虐殺を取上げなかったのか。
それには大まかに2つの理由がある。
1つは、ポルポトが徹底した鎖国政策をとり、人の移動や情報を封鎖したこと。
もう1つは、突拍子のない話で、真実味が感じられなかったこと。
実際に、何とかこの虐殺を報道するまでに至ったこともあったが、
自国民をそこまで意味もなく虐殺するなどあり得ない、と判断されたのだ。
国家にとって何の利益ももたらさないではないか、と。
だから誰も信じなかったというわけだ。
しかし、虐殺疑惑の波紋は止め様もなく、取材の依頼が殺到した。
拒否し続けて国連の視察団が来れば致命的、と判断したポルポトは、
限定地域、限定期間での取材を承諾した。
そこでは裏工作がなされ、平和な村を装ったので事実は隠蔽された。
疑問を解消できなかったジャーナリストの一部は、
果敢に独自の取材を展開したが、そのほとんどは行方不明になった。
まず間違いなく、ポルポトの命で殺されたのであろう。
28 名前: 本当にあった怖い名無し 投稿日: 2005/03/23(水) 03:36:25 ID:nUBNjmPo0
ポルポトによる狂気は、1979年のベトナム軍の侵攻をもって、公式の上では終わりを告げた。
そこでベトナム軍の兵士たちは戦慄に震えた。
実はベトナムの情報筋も、クメール・ルージュによる
虐殺の噂は尾ひれのついたものであろうと、たかをくくっていた。
だが、蓋を開けたときに見たものは、噂を遥かに超える『事実』だったのだから。
ポルポト軍は、タイ国境のジャングルへ逃げ落ちた。
ポルポトは逃げる前に、軍人以外の民衆800万人を殺そうとした。
未然に防げたからいいようなものの、もし実行されていれば、
生き残ったのは軍人5万人と、逃げていたカンボジア人5万人。
わずか10万人では、もはや国家とは呼べない。
カンボジア解放後、残った国民の85%が、14歳以下の子供であった。
これらの出来事が起こってからまだ30年弱。
決して遠い昔の話ではない。
つい最近に現実にあった悪夢。
これがクメール・ルージュ、そして純朴なる共産主義者・ポルポトの夢見た、『理想』のなれの果てなのだ。
14:
王女が民衆の目の前で生出産
75:
>>14
「この子供は間違い無く王女の子供である」って言う証人を得る為だよな
18:
欠地王ジョンという存在
http://ja.wikipedia.org/wiki/ジョン (イングランド王)
19:
コロンブスアメリカ上陸に伴う先住民大虐殺
末裔曰くコロンブスはヒトラーが不良少年に見えてしまうレベルの大罪人
コロンブスの悪行
「コロンブスの軍勢はやりたい放題の大虐殺を続けた。
コロンブスが快復するまでに、5万人以上のインディアンの死が報告されている。
やがて完全復帰したコロンブスの最初の仕事は、彼の軍勢に対し、略奪を組織化することだった。
1495年3月、コロンブスは数百人の装甲兵と騎兵隊、そして訓練された軍用犬からなる一大軍団を組織した。
再び殺戮の船旅に出たコロンブスは、スペイン人の持ち込んだ病いに倒れ、
非武装だったインディアンの村々を徹底的に攻撃し、数千人単位の虐殺を指揮した。
コロンブスの襲撃戦略は、以後10年間、スペイン人が繰り返した殺戮モデルとなった。
スペイン軍は面白半分に彼らを殺す楽しみを決してやめなかった。
1492年の「新大陸」へのコロンブスの上陸時に約800万人いたインディアンの人口は、
1496年の末までに、その3分の1までに減った。さらに1496年以降、死亡率は倍加していった。
量的にもスケール的にも、コロンブスは、エルナン・コルテスやフランシスコ・ピサロに並ぶ、
虐殺目的で戦争を楽しんだ最も悪名高いコンキスタドール、征服者の一人」
http://ja.wikipedia.org/wiki/クリストファー・コロンブス
27:
>>19
しかも西洋人が持ち込んだ病気が原住民に感染してかなり死んだらしいな
89:
>>19
昔は勇敢な冒険家なイメージだったけど
事実を知った途端、あのコロンブスの肖像画がとんでもなく凶悪に見えてくるから不思議
wikiにも思いっきり大量殺戮者って書かれてるし
23:
アポロ、月面着陸の嘘
「アポロは月に行ってない」これはガチだと思う。
http://blog.livedoor.jp/nwknews/archives/3860909.html
29:
カノッサの屈辱
聖職叙任権をめぐってローマ教皇グレゴリウス7世と対立していた神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世が、1077年1月25日から3日間に及んで雪が降る中、カノッサ城門にて裸足のまま断食と祈りを続け、教皇による破門の解除を願い、教皇から赦しを願ったことを指す。
http://ja.wikipedia.org/wiki/カノッサの屈辱
32:
プラハ窓外投擲事件
http://ja.wikipedia.org/wiki/プラハ窓外投擲事件
33:
サン・バルテルミの虐殺
http://ja.wikipedia.org/wiki/サン・バルテルミの虐殺
35:
植民地時代のヨーロッパ>>>共産主義>>>ナチス>>>昔の中国
こんな感じ
45:
>>35
共産主義が一番だろ
あとキリスト教も入る
39:
オーストラリアに上陸した白人どもの先住民に対する仕打ちはマジで人間のやることじゃない
42:
>>39
タスマニア原住民がすぐ全滅したからな。オーストラリア本土の原住民もかなり減ったが
西洋人がオーストラリアを「発見」した段階では、50万人から100万人ほどのアボリジニがオーストラリア内に生活していた。言語だけでも250、部族数に至っては、700を超えていた[要出典]。
しかし、1788年よりイギリスによる植民地化によって、初期イギリス移民の多くを占めた流刑囚はスポーツハンティングとして多くのアボリジニを殺害した。「今日はアボリジニ狩りにいって17匹をやった」と記された日記がサウスウエールズ州の図書館に残されている。
1803年にはタスマニアへの植民が始まる。入植当時3000?7000人の人口であったが、1830年までには約300にまで減少した。虐殺の手段は、同じくスポーツハンティングや毒殺、組織的なアボリジニー襲撃隊も編成されたという。数千の集団を離島に置き去りにして餓死させたり、水場に毒を流したりするといったことなども行われた。
また、1828年には開拓地に入り込むアボリジニを、イギリス人兵士が自由に捕獲・殺害する権利を与える法律が施行された。捕らえられたアボリジニ達は、ブルーニー島のキャンプに収容され、食糧事情が悪かった事や病気が流行した事から、多くの死者が出た。
これによりアボリジニ人口は90%以上減少し、ヴィクトリアとニューサウスウェールズのアボリジナルの人口は、10分の1以下になった。さらに1876年には、タスマニア・アボリジナル最後の生存者である女性のトルガニニが死亡して、多い時期で約3万7千人ほどいた純血のタスマニアン・アボリジニが絶滅した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/アボリジニ
46:
少年十字軍
少年「神のために戦える!」
大人「はい君たちはあっちいってね」
変態「いらっしゃい」
48:
>>46
何それ
100:
>>48
少年兵を集めた兵団を作ったんだけど
いくつかあった船の多くは難破
無事だった船も聖地奪還どころかゲス商人によって
全然違うところへ連れてかれて、
奴隷として売り飛ばされてごっそり消息不明になった
少年十字軍
第4回十字軍の後、フランスやドイツにおいて神の啓示を受けたとする
少年エティエンヌの呼びかけにより少年・少女が中心となって結成された十字軍。
1212年のフランスの少年十字軍では、少年少女が十字軍として聖地奪還に向かう途中、
船を斡旋した商人の陰謀によりアレクサンドリアで奴隷として売り飛ばされた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/少年十字軍
49:
レニングラードだかなんだかってとこはよくわからんくらい酷い感じだったらしい
ドイツ軍はソビエト連邦第2の大都市レニングラード(現・サンクトペテルブルク)を900日近くにわたって包囲したが、レニングラードは包囲に耐え抜き、後にスターリンによって英雄都市の称号が与えられた。飢餓や砲爆撃によって、ソ連政府の発表によれば67万人、一説によれば100万人以上の市民が死亡した。これは日本本土における民間人の戦災死者数の合計(東京大空襲、沖縄戦、広島・長崎を含む全て)を上回る。
http://ja.wikipedia.org/wiki/レニングラード包囲戦
51:
これはルワンダ虐殺
62:
>>51
子供だろうが女だろうがナタで殺されたらしい
陽気な音楽かけながら笑いながら殺しまくってた奴もいたから怖すぎ
ソースは『ルワンダの涙』っていう映画
54:
ホロドモールが酷すぎる
1932年から1933年にかけてソビエト連邦のウクライナ社会主義ソビエト共和国をはじめ、カザフスタン共和国および現ロシア連邦のクバーニ、ヴォルガ川沿岸地域、南ウラル、北シベリアなど、ウクライナ人が住んでいた各地域でおきた人工的な大飢饉である。ウクライナ人たちは強制移住により、家畜や農地を奪われたために400万人から1,450万人が死亡した。また、600万人以上の出生が抑制された。
http://ja.wikipedia.org/wiki/ホロドモール
59:
天明の大飢饉
津軽藩が救荒用の備蓄米(年貢とは別に取り立てたもの)を藩借金返済に流用して大飢饉を招く
72:
ポロニウムによる毒殺
プーチンのガチで恐ろしい話を淡々と語る
http://blog.livedoor.jp/nwknews/archives/4488943.html
74:
九軍神の特攻
77:
>>74
真珠湾攻撃か
大々的にもてはやされたんだよな
79:
>>77
陸軍には軍神がすでにいたが海軍にはまだいなかったって理由で10人を特攻させ祭り上げるという
生き残ってしまった一人は存在すら否定される
これはもう鬼畜
81:
>>79
確か生き残った一人って結構長生きしたんだっけ?前にテレビで観た気がする
85:
>>81
そうそう
日本の一番長い日っていう戦争体験者の座談会を収めた本があるんだが
それに出演して吉田茂やらなんやらと話してたわ
76:
ドレスデン空襲
第二次世界大戦末期の1945年2月13日から15日にかけて連合国軍(イギリス空軍およびアメリカ空軍)によって行われたドイツ東部の都市、ドレスデンへの無差別爆撃。
4度におよぶ空襲にのべ1300機の重爆撃機が参加し、合計3900トンの爆弾が投下された。この爆撃によりドレスデンの街の85%が破壊され、2万5000人とも15万人とも言われる一般市民が死亡した。
「東からドイツに攻め寄せるソ連軍の進撃を空から手助けする」という一応の名目はあったが、実際は戦争の帰趨はほぼ決着しており戦略的に意味のない空襲であり、ドイツ空軍の空襲を受けていたイギリス国内でも批判の声が起こった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/ドレスデン爆撃
90:
鳥取城攻め
兵糧奪取して降伏宣言するまでずっと篭らせる
共食いだらけでカオスなことになってたらしく降伏した後もイッキ食いか何かで死んだ奴等も多かったとか
37 : 柔道整復師(千葉県) : 2010/09/24(金) 15:04:28.48 ID:82ZHXF2/P
1580年(天正8年)に織田方秀吉の第一次鳥取城攻めで
3か月の籠城戦(この時の籠城費用は全て豊国が負担)の末、
和議により降伏し9月豊国が織田信長に臣従した。
が、同月毛利の来訪で再度の降伏、鳥取城は牛尾春重が城将として入った。
この時点で豊国は因幡守護であるが鳥取城主ではなくなった。
牛尾は織田方の桐山城を攻めたとき深手を負い死亡したとも帰還したとも伝えられる。
(近年の研究では重傷を負ったものの、その後も生存していたことが明らかになっている)
何人かの城将の入れ替えの末、1581年(天正9年)3月毛利氏重臣吉川経家を城主に迎える。
4月、因幡守護山名豊国は織田へ密使を送るが、市場城主・毛利豊元の家臣達に
斬られたことで織田氏への内通が発覚、豊国は秀吉の下へ出奔する。
残存する山名旧臣は毛利氏への従属を継続したため、信長の部将で中国地方の
攻略を担当していた羽柴秀吉は二度目の鳥取城攻撃をすることとなる。
秀吉は播磨・三木城攻め(三木合戦)で行った兵糧攻めをここでも実施した。
陰徳太平記によると、秀吉は若狭から商船を因幡へと送り込み米を高値で買い占めさせる一方で、河川や海からの毛利勢の兵糧搬入を阻止した。
このとき、城には20日分の兵糧しか用意されておらず、この作戦によりまたたくまに兵糧は尽き飢餓に陥った。
何週間か経つと城内の家畜、植物などは食い尽くされ、
4か月も経つと餓死者が続出し、人肉を食らう者まで現れた。
信長公記にはこう記されている。
「餓鬼のごとく痩せ衰えたる男女、柵際へより、もだえこがれ、引き出し助け給へと叫び、
叫喚の悲しみ、哀れなるありさま、目もあてられず。」
吉川経家はこの凄惨たる状況に、自決と引き換えに開城、自害した。
41 : 柔道整復師(千葉県) : 2010/09/24(金) 15:07:52.51 ID:82ZHXF2/P
1580年7月12日 - 秀吉2万の軍勢が因幡鳥取城とその支城・丸山城を包囲する。
三木の干し殺しと並び、数ある戦国時代の合戦の中で最も壮絶な兵糧攻めと言われる、
鳥取の渇え殺し[とっとりのかつえごろし]が始まる。
9月 - 早くも城内の兵糧が底をつきはじめる。吉川経家は愕然とした。
冬になれば雪で秀吉の包囲網が緩くなり、毛利からの兵糧補給が期待できると踏んでいたからだ。
しかし、現実は甘くなかった。
これは三木の干し殺しで経験を積んだ秀吉の事前工作が功を奏する形となった。
秀吉は播磨の三木城攻めと同様に包囲のための付城[つけじろ]を築城し、
兵糧の搬入経路を徹底的に遮断した。
しかし、吉川経家が毛利一門だと言うことを考えると、毛利方の兵糧を搬入する
援軍の力の入れようは播磨の三木城の時の比では無かったように思われるが、
これを阻止した秀吉軍の力は相当な物だったのだろうと容易に想像が付く。
そして極め付けなのが、前もって因幡国中の米を通常の倍の値段で買い占めたと言う話である。
鳥取城でもそれが秀吉の謀略だとは思いもよらず、兵糧米まで売ってしまっていたと言うから
愚の骨頂としか言いようが無い。
だが、この話は出来すぎなので、もしかしたら創作なのかもしれない。
さらに秀吉は鳥取城下の村や町で、兵にいやがらせや乱暴を働かせ、
盛んに城中へ人を逃げ込ませていたらしい。
人が増えればそれだけ兵糧の消費が早くなると言う巧妙な戦略だった。
それにしても秀吉恐るべしである。
そしてついに城内は最悪の状態を迎えることとなる。
飢えた人々は当時は肉食の習慣が無かったにもかかわらず馬や家畜を喰らい、
虫、草木、食べられるものは全て食べつくしたあと、餓死した死体まで食べ始めたと言う。
吉川経家は決断した。城主切腹、城兵助命である。
秀吉は経家が臨時の城主だと知っていたので、経家を城に呼んだ元城主の山名豊国の
重臣たちの切腹を命じたが、経家はそれでは吉川一門の名が落ちるとし、切腹して死んだ。
10月25日 - 吉川経家が切腹。
最後は子供達に手紙を書き残している。
「鳥取の事、夜昼二百日耐えたが、兵糧が尽き果てた。私が一人切腹すれば、城の皆が助かる。
これは吉川一門の名を上げる事になる。これで良いのだ。」
吉川経家の他に森下道与、奈佐日本助の二将が切腹している。
61 : 柔道整復師(千葉県) : 2010/09/24(金) 16:03:35.09 ID:82ZHXF2/P
秀吉は経家の奮戦を称え、責任を取って自害するのは森下道誉・中村春続だけでよく、
吉川経家は帰還させるとの意思を伝えた。
しかし経家はそれを拒否し、責任を取って自害するとの意志を変えなかった。
困惑した秀吉は信長に「経家が自害してもよいか」との確認をとり、
信長はそれに対し、経家の自害を許可している。
10月25日に経家は自害し、その一生を終えた。
その際に父や子供らに遺書を送っており、自分の心情を記している。その遺言状は現存している。
余談
落語家で『笑点』の4代目司会としても知られる三遊亭圓楽(本名吉河寛海)は、
吉川経家の3男、吉川家好(いえよし)の子孫であるという。
家好は後に鳥取藩池田家の家臣となり、明治時代に至り、
圓楽の祖父吉川寛雅が「吉川」から「吉河」に姓を改めたと言う。
62 : 柔道整復師(千葉県) : 2010/09/24(金) 16:06:32.96 ID:82ZHXF2/P
天正9(1581)年10月、羽柴秀吉が、鳥取城を包囲して3ヶ月余りがすぎていましたが、
鳥取城に籠城している吉川経家以下城兵や領民らは悲惨な状況に陥っていました。
城兵らは数日おきに鐘を合図に一斉に城外の柵際まで雑草などを取っては
城内に引き返すといった方法で何とか飢えをしのいでいましたが、
雑草も取り尽くして牛馬を食べなくてはいけない状況になっていました。
しかし、これも食べ尽くすと寒さも加わり飢え死にするものが増えていきました。
籠城する者たちは、飢えの苦しさのあまり城外の柵際まで出てきて、城を包囲する羽柴軍に助けを求めます。
しかし、羽柴軍は容赦なくこれを鉄砲などで撃ち殺します。
この死人や重傷者に城兵が群がりその肉を奪い合うという惨劇が繰り広げられます。
この状況に城将・吉川経家は、降伏を決断。
秀吉に自分と森下道与(道誉)・奈佐日本介(中村春続?)の三人の首を差し出すので
城兵の命を助けて欲しいと嘆願してきます。
秀吉は早、信長に状況を報告。信長もこの申し出を承諾します。
10月24日、秀吉からの返事を得た経家ら三人はすぐに切腹し、その首は秀吉のもとへ届けられます。
こうして鳥取城は落城しますが、悲劇はこのままでは終わりませんでした。
25日、羽柴軍の兵は、開放された飢えた城兵を哀れみ食事を与えましたが、
城兵らは大喜びし一気に大量に食べてしまいます。
しかし、極限まで飢えた状態で一気に食事することは危険なことで、
せっかく助かった城兵の過半数が頓死してしまいます。
後の世に『鳥取城渇え殺し』と呼ばれることになった、凄惨な籠城戦はこうして幕を閉じます。
この鳥取城には、城代として宮部継潤が入城します。
63 : 柔道整復師(千葉県) : 2010/09/24(金) 16:10:04.54 ID:82ZHXF2/P
吉川経家の切腹を知った一族の吉川元春は、「前代未聞」「当世の流行」と経家の死を揶揄したそうです。
当時は城を明け渡せば城主の命も保証される慣例だった上、
経家は派遣された城将だったので切腹する必要はなかったようですが、
元春は経家を見殺しにしてしまった無念と織田軍への憎しみが逆に
「前代未聞」「当世の流行」という言葉を使わせたのかもしれません。
91:
ヨゼフ・メンゲレだけは確実にぶち殺すべきだったのに無能欧州どもが
第二次世界大戦中にアウシュヴィッツで勤務。収容所の囚人を用いて人体実験を繰り返し行った。実験の対象者や、直ちにガス室へ送るべき者を選別する際にはナチス親衛隊の制服と白手袋を着用し、クラシックの指揮者さながらに作業にあたったと伝えられ、彼の姿を見た人々からは「死の天使」と恐れられた。人種淘汰、人種改良、人種の純潔、アーリア化を唱えるナチス人種理論の信奉者。愛称のベッポ (Beppo) はJosefのイタリア語読み「ジュゼッペ」(Giuseppe) に由来する。
戦後は南アメリカで逃亡生活を送り、ブラジルで海水浴中に心臓発作を起こし死亡した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/ヨーゼフ・メンゲレ
95:
>>91
凄いおっさんのイメージあったけど終戦当時まだ34歳なのな
93:
張献忠の四川省民大量虐殺
虐殺癖が異常な人で当時の四川省の数百万の人口を6万人ぐらいにまで減らしたという
94:
ルワンダ虐殺か
ホテル・ルワンダ見たけど緊張感半端無かった
101:
ソ連がやったカチンの森虐殺も酷い
ポーランド人怒れよ
カティンの森事件
第2次世界大戦中にソ連のグニェズドヴォ近郊の森で約22,000人のポーランド軍将校、
国境警備隊員、警官、一般官吏、聖職者が内務人民委員部(NKVD)によって銃殺された事件。
「カティンの森の虐殺」などとも表記する。
http://ja.wikipedia.org/wiki/カティンの森事件
105:
サンドクリークの虐殺
http://ja.wikipedia.org/wiki/サンドクリークの虐殺
106:
魔女狩り
魔女狩り
中世末期から近代にかけてのヨーロッパや北アメリカにおいてみられた
魔女(sorcieres、Witch)や魔術行為(Witchcraft)に対する追及と、裁判から刑罰にいたる一連の行為のこと。
現代では、このような行為は心理学的な観点から集団ヒステリーの産物とみなされているが、
現代においても前近代的な文化や古来からの伝統を重視する社会において
魔女狩りに類した行為が行われることがある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/魔女狩り
111:
>>106
魔女かどうかを水に沈めて判別したんだぞ
113:
>>111
どっちにしろ死ぬじゃないですか!
115:
>>113
死なない→沈めても死なないとかお前魔女だな死ね!
死ぬ→死んじゃったわーやっぱ魔女だったんかなーまあいいや!
だいたいこんなもんだよ
110:
張忠献の異常行動
四川省占領後に皇帝だと宣言、異論ありの学者民草全員処刑
配下の兵士に殺し合いをさせその兵士の奥さんも処刑、そのちょん切った足の山を作って喜んでた
お布施名義で集まった僧兵を全員処刑
ある兵士にお前の親殺して来いと言い殺させ翌日その事を忘れ激怒してその兵士も処刑
集まった所で身長xcm以下の奴らは処刑。残ったのは子供ぐらい
気が狂いすぎたのか妄も息子も友人も忠臣も好きだった人も全員処刑
それでも飽き足らず牛や豚も処刑しまくる
122:
中国に凄いやつがいたよな
視覚聴覚を奪い手足を斬り肥え溜めだかに女を放り込んだやつ
呂雉
劉邦が没して劉盈(恵帝)が即位すると、呂后は皇太后としてその後見にあたる。また、自らの地位をより強固なものにするため、張耳の息子張敖と魯元公主の娘(恵帝の姪に当たる)を恵帝の皇后(張皇后)に立てた。だが、高祖の後継を巡る争いは根深く尾を引いており、恵帝即位後間もなく呂后は、恵帝の有力なライバルであった高祖の庶子の斉王劉肥、趙王劉如意の殺害を企て、斉王暗殺は恵帝によって失敗するが、趙王とその生母戚夫人を殺害した。この時、呂后は戚夫人を奴隷とし、趙王如意殺害後には、戚夫人の両手両足を切り落とし、目玉をくりぬき、薬で耳・声をつぶし、その後便所に置いて人?(人豚)と呼ばせた、と史書にはある(なお、古代中国の厠は、広く穴を掘った上に張り出して作り、穴の中には豚を飼育して上から落ちてくる糞尿の始末をさせていた。厠内で豚を飼育することが通例であったことから、戚氏をこの豚のように扱ったと思われる)。
http://ja.wikipedia.org/wiki/呂雉
127:
>>122
劉邦の奥さんですね
そしてそれを自分の息子の恵帝に見せて恵帝はトラウマで酒色にふけり病死という
157:
クメールルージュは首謀者ポルポトに悪意が無かったってのがまたなんとも
159:
>>157
クメールルージュの連中は後の裁判でも誰も反省してないしみんな責任をなすりつけ合ってる真正クズ
164:
>>159
どっこいトップのポルポトはかなり清貧な性格だったと言われている
性格も残酷ってわけじゃなく、ただただ共産主義を追及し、その軌範で在りたかったようだ
悪意ではなく、高すぎる理想があの虐殺を産んだと考えれば酷い話だろ。
といっても資料が少ないから断言はできないけどね。捏造されてる可能性も無いわけじゃない
166:
>>164
フランスに留学経験もあるし真面目な人物だったらしいな。
原始共産制とかいう訳わからん理想を追求した結果だな
まぁスターリンにしろヒトラーにしろ真面目で几帳面な性格だけど
169:
アテネだのスパルタだのあった時代はいろいろひどすぎる
175:
>>169
スパルタの政務長官は毎年初めに「ヘタイロイに対する宣戦布告」を行っていた
ヘタイロイというのは、古典期ギリシアのスパルタ市民を構成する
ドーリア人の征服の結果、農奴にされた人々
スパルタ市民にとっては、何の理由もなくヘタイロイを殺すことは
良いことだと考えられていて、それが積極的に実践され、
他国との戦争の際にはヘタイロイは文字通り、"戦争の道具"としてスパルタ人に使われた
181:
>>175
ヘタイロイじゃねーやヘイロタイだ
マケドニア軍制とごっちゃになってた
176:
ルワンダ虐殺の前身になったベルギー植民地化もエグいな
顔の特徴でフツとツチという人種に分けてお互い憎しみ合わせることで領主への怒りを避けたとか
白人の考えることはスゲーや
178:
>>176
本来フツとツチは厳密には分けられないらしいな。
白人が勝手に分類して、支配層と被支配層に分けたのがマズかった
192:
>>178
あんまり詳しくないんだけどアフリカって一国内でも民族の種類すごく多いのに
白人が勝手に押し入って領土決めて人種も言語も決めるとか鬼畜だわ
182:
文化大革命
文化大革命を語り合うスレ
http://blog.livedoor.jp/nwknews/archives/4332998.html
194:
もっともくだらない理由で虐殺を行った人間の一人といえば、
ローマのバッシアヌス帝(いわゆるカラカラ帝)
皇帝を中傷する風聞を流したという廉でアレキサンドリアに軍隊を投入し市民数万を虐殺
195:
ジルドレ
196:
スペインのレコンキスタのネイティブアメリカン殺しっぷりよ
王誘拐して身代金に金塊を献上させて王を処刑する鬼畜っぷりよ
ちなみに王は半強制的に処刑する前にキリスト教徒に改宗させたり
197:
ナチでユダヤ人絶滅計画を担っていたハイドリヒ暗殺への報復
暗殺を実行した英軍チェコ人義勇兵を支援したという理由で一つの村の住人が全員逮捕された
数十人の村人がその場で銃殺、10人あまりの子供を連行して洗脳と収容所送りにした
結局終戦まで生き残っていたのは洗脳処分に処されていた数人のみで、村はそのまま地図から消えた
203:
十字軍がエルサレム奪還したとき女子供老人殺しまくって
モスク内で腰まで浸かるほどの死体の山を築いたとか
当時のサラディンが英雄なのも理解できる
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