水本ゆかり「人形の檻」【ゆかさえ】back

水本ゆかり「人形の檻」【ゆかさえ】


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1:
ゆかさえ誕SSです
2:
 一
小さい頃から温厚でいつもぼんやりしていた。
そんな私の性格は、周りからは落ち着きのあって手のかからない子だと誉めそやされはしていたものの、家族、特にお母さまは、私の無防備な振る舞いを内心とてもご心配なさっていて、「知らない大人のひとに付いて行ってはいけませんよ」とか、「下校する時は寄り道せずにまっすぐ帰って来なさい」というようなことを、中学に上がってからも散々口をすっぱくしておっしゃっていたくらいだったから、その日、演奏会から帰った私が、「お母さま、東京からアイドル事務所のプロデューサーという方がお見えになって……」と見知らぬ男性をお屋敷に招いた時は、まるで目の前で交通事故が起きたような真っ青なお顔をなさって、慌てて警察に通報したほどだった。
この時の、お屋敷中を騒がせたお母さまの豹変や、私の頓珍漢な言い訳の数々は、私が青森に帰省するたびに、いつも思い出深く語られる笑い話になっている。
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3:
本州北端は青森の外れ、なだらかな山並みを遠景に背負った平凡な町中に、ひときわ目立つ建物がある。
それが私の家だった。
建築当時はハイカラだったという西洋風のお屋敷は、私が生まれた頃はもう、現代的な町の風景にのまれて時代に置き去りにされていた。
五百坪あまりの敷地や、二十もあるお部屋は、それこそ昔は多くの兄弟姉妹や二世帯家族を住まわすために必要だったかもしれないけれど、私と、私の両親、そして父方の祖父母の五人程度で暮らすには明らかに不釣合いな広さだった。
実際、水本家はかつて県下有数の大地主だったと、お父さまはよくおっしゃっていた。
そんな封建的権威主義の名残のようなお屋敷は、現代においてはむしろ滑稽な印象ばかりが目立っていたように思われる。
派手で見栄っ張りなアーチ状の門、手入れするだけでお金のかかりそうな広大な庭、何年も使われていない形だけの噴水、威圧感のある白塗りの外壁に規則的に並んだロココ調の窓枠、その三階にひょっこりひらけたバルコニー……そうした無神経な華やかさは、どこかみじめな虚しさがあった。
けれど、それは同時に、女性的な可愛らしいわがままや、優しさ、気品さに置き換えることもできた。
とりわけ冬、町のすべてが雪に覆い尽くされる季節、その日暮れ時の静寂の中で、こんもりした雪を頼もしく支えながら、窓の明かりを優しく庭に投げかけているお屋敷のシルエットが、私には無性に切なく映って、そしてたまらなく好きなのだった。
4:
そのようにして、私があのお屋敷に思いを馳せる時は、いつもそこにお母さまの面影を重ねて見ていた。
「お母さまって、まるで暖炉みたい。そこに座っていらっしゃるだけで、どんな寒い冬でも暖かくなるような気がする」
ある時、私がふと思いついた感想を呟くと、それを聞いたお母さまは可愛らしくお声をあげてお笑いになって、
「おかしな子。それじゃあお母さまは、夏になったら用済みね」
とすましたようにおっしゃるから、
「そんなこと……!」
と慌てて自分の言葉を打ち消して、それから、悲しくなった。
お母さまもお母さまで、私が傷ついたと見るや否や、困り顔で「冗談ですよ」などとおっしゃって、そっと私の手を取ったりした。
そうした動作の一つ一つまでもが、美しかった。
テーブルの上に投げ出した私の手のひらに、気付くとお母さまのお手が触れている。
遠慮がちに、まるで傷つきやすいガラス細工の表面を撫でるように、私の指を包む。
少しうつむき加減に私と繋いでいる手を見つめ、それからためらいがちにお顔を上げて、次に、私を見る。
そうすると、今度は私がうつむいてしまう番なのだった。
5:
お母さまは、決して裕福な家に育った人ではなかった。
その昔、まだ駆け出しの政治家だったお父さまは、アルバイトでウグイス嬢をしていたお母さまに一目惚れした。
この馴れ初めのエピソードは、数年前、お父さまが客人を招いてお酒をふるまっていた時に、その客人の方がうっかり口をすべらせて、それで私は初めて知ったのである。
それまで、お父さまもお母さまも恥ずかしがってちっともお話してくださらなかったから、その時私はその客人の御方が酔って話すのを熱心に聞いたものだった。
横でお父さまが年甲斐もなく慌てふためき、お顔を真っ赤になさっていたのは、いま思い出しても笑ってしまいそうになる。
酔って顔が赤いのだと言い訳をしていらしたけれど、私は、台所で聞き耳を立てていたお母さまのお顔までもが赤くなっていたのを、よく覚えている。
ともかく、そのような出会いがあって、お母さまは水本家に嫁いだ。
けれどお母さまは、今でもそうだけれど、少し世間知らずな所がおありだったから、このお屋敷に住み始めた当初は何もかも勝手が分からずにしくじってばかりいたのだという。
政治家の、それも由緒ある家柄ともなれば、何より世間体との付き合いに苦労するものである。
こんな広いお屋敷だから、家事労働だって一筋縄ではいかない。
それでもお母さまは私の前では弱音や愚痴など一言も洩らさなかった。
あるいは、生来呑気な性格でいらしたから、そうした苦労を苦労とも思わなかったのかもしれない。
私にとってお母さまはいつも優雅なお人だった。
野生に咲く一輪の花のように、健気だけれどもたくましい感じがあった。
6:
いつだったか、確か小学校低学年の頃、私が近所の餓鬼大将に執拗にからかわれていた時期があった。
蛇の模型で驚かされたり、下校中に雪玉を投げつけられたり、挙句にはスカートを捲くられたりもした。
それに私もこんな性格だから、最初のうちは不幸な事故に会うものだなぁなんて能天気にぼうっとしていて、それからようやく周囲の友人に「なんで怒らないの?」と言われてはっと気付くような有様だった。
それについて、私がお母さまにどうやって相談したか、実はあまり覚えていない。
覚えていないくらいだから、当時の私はそのことをあまり真剣に考えていなかったのだろう。
お母さまは、そのいじわるな餓鬼大将の話を聞いても、少し表情を曇らせただけで怒ったりなどはなさらなかった。
ただ一言、「ゆかりはもう少し……そうね、もう少し、自覚を持つようになさい」とおっしゃったきりだった。
それは決して責めるような物言いでなく、朝露にぬれた木々の葉っぱが自然と水滴を垂らすような、何気ない一言だったけれども、かえってそんな何気なさが、私の心の水面に、無視できない小さな波紋を落とすのだった。
自覚。
その言葉の正体を、私は今でも知らずに生きている。
私が私の人生に対して抱く感想は、いつも私を守ってくれる人の言葉の中にあった。
青森を離れ東京へ出るまでの十五年余、無知ゆえに流され易かった私の良心は、お母さまのそうした何気ない言葉や、また長い年月を経て水本家の歴史と融和していったお屋敷の、白い雪の景色の中に、魂を何色にも染められないまま、絶えず守られ続けてきたように思われる。
ところで、例の餓鬼大将は、ある日、お母さまが将棋でこてんぱんにやっつけてしまった。
小学校の親子レクレーションで、近所では負けなしと豪語していた彼らの得意気な鼻っ柱を、あの優雅な調子で容赦なく粉砕してしまったのである。
それ以来、私が餓鬼大将にちょっかいを出されることはなくなった。
7:
中学最後の冬に、私は家族みんなと一緒に新青森駅の新幹線のホームに立っていた。
三月の、珍しく雪がふぶいていた日だった。
灰色の高い屋根の下で、冬の終わりの冷たい風が、私たちの白い息をあちらこちらに散らしていた。
お祖父さまとお祖母さまも見送りに来てくださっていて、これから一人で旅立って行くというのに、あまり寂しいという感じがしなかった。
私は、お母さまやお祖母さまが同じ注意を何度も繰り返しなさっているのを、はい、はい、と頼もしく答えながら、一方では、手袋を車の中に置き忘れてきてしまったことに気付いて、家族をますます不安がらせたりするのだった。
そうしてお父さまが、
「東京はここよりずっと暖かいだろうから、いらないんじゃないか」
とおっしゃるのを、お母さまは頑として受け入れようとなさらず、しきりに自分の手袋を私に持たせようとした。
結局、私の手にはお母さまが長年使っていた手袋がはめられた。
「切符はちゃんと持った?」
「忘れ物はもうない?」
「下宿先に着いたらきちんと挨拶するんですよ」
「菓子折りは潰さないように気をつけなさい」
「何かあったら駅員さんに言うんですよ」
「寂しくなったらいつでも連絡しなさい」
そうしているうちに新幹線が来て、私はたくさんの荷物をかかえながらデッキに乗り込んだ。
後ろから、お父さまの応援するような掛け声が聞こえて振り返った。
みんな、思い思いの表情を顔に浮かべて、そしてそのほとんどは私を心配するためにどこか不安げだったけれど、私なんぞといったら、そうして大事そうに見送られることがなんだか妙にこそばゆくて、デッキに突っ立ったまま、曖昧な微笑をずっと浮かべてばかりいた。
8:
お母さまが、もう座席につきなさい、とおっしゃった。
それで私はのろのろと新幹線の中に入って行った。
車内は暖房が効きすぎなくらい効いていた。
窓際の指定席に座ると、ホームで手を振っている家族四人が見えた。
お母さまは、大きな荷物は上の棚に置きなさい、というようなことを身振り手振りで指示なさっていた。
私は重たいキャリーバッグを不安定な体勢で持ち上げて頭上の棚に置いた。
そうして落ち着いてからも、相変わらずお母さまたちは窓の外から心配そうに私を見つめていらしてばかりいた。
私はまた少しこそばゆい気持ちがして、まるで遊園地の乗り物に一人で乗って得意そうにしている子供のように、いたずらに窓の外に向かって手を振っているのだった。
アナウンスが流れ、扉が閉まった。
突然、お母さまがその場にうずくまってしまわれた。
私は思わず身を乗り出して、どうしたんだろう、どこか具合を悪くされたのかしら、などと考えていた。
そうして私は、窓越しにうずくまったままのお母さまと、そんなお母さまの肩を抱いて堪えがたいものを堪えているようなお父さまの姿とを、何か自分がおそろしい事をしてしまったような気持ちで見ていた。
やがて新幹線がゆっくりと走り出した。
お父さまやお祖母さまたちは小さく手を振って見送ってくださった。
けれどもお母さまは最後までその場に座り込んでいらしたきりだった。
そうして窓の向こうに次第に遠ざかっていく家族の姿を、私はそれが見えなくなってしまうまで見つめていた。
新青森駅を発てばすぐ、窓の外には雄大な八甲田山を眺められるに違いなかった。
しかしその日は吹雪のために灰色の憂鬱な風景が通り過ぎて行くばかりだった。
9:
途端に、私はひとりになった。
故郷が、ずんずんと、おそろしいさで遠ざかっていくのを、私は急に焦るような気持ちで眺め出した。
外はこんなにも天気が荒れているのに、家族を置いて、私だけがこうしてぬくい座席に座り、故郷を見捨てようとしている、そんな思いがした。
両手にはめたお母さまのお気に入りの手袋が、ここでは暑すぎるくらいだった。
そして駅のプラットホームでのお母さまのご様子を思い出して、私は、この手袋を私にお譲りになったせいで、お母さまのお手が冷えて、それであんなになってしまわれたのだ、と思った。
急に、さびしくなった。
いますぐお母さまに会いたいと思った。
そう思うと、目から涙が溢れて止まらなかった。
新幹線が暗いトンネルに入って行った。
10:
 二
冷房のひんやりした空気に飽きてベランダに出ると、地平の果てに太陽が沈んでいくのが見えた。
眼下にひろがる巨大な街が、真夏の夕焼けにまんべんなく染まっていた。
もう、あれから二年半になる。
ここから眺める景色も、見慣れてしまった。
「なんやえろう眩しいなぁ」
背後で紗枝ちゃんの声が聞こえた。
と思うと彼女はすでに私の横に並んで立っていた。
冷房のために冷えた細い腕を、夏の大気に馴染ませるようにさすりながら、そうして眩しそうに夕日を眺めているのだった。
先ほどまで紗枝ちゃんと楽しく話していた故郷の思い出が、なぜだか急に懐かしいものとして私の心に蘇ってくる。長い夢を見ていたような気さえするほどに。
「ゆかりはんの部屋、見晴らしええんやなぁ……こんな真っ赤な夕日、久々に見たわ」
「そうなんですか?」
「うちの部屋、東向きやし、景色いうても周りが背の高いびるばかりで味気ないんどす」
「でも、この部屋は陽が射して暑いですよ」
「うちの部屋かてべつに涼しいわけやあらへんもん」
「そういうものでしょうか」
しめった風が吹いて私と紗枝ちゃんの髪をなびかせる。
このベランダに吹く風はいつも、東京の街の喧騒と臭いを一緒くたに運んでくる、そしてそれがこの時だけは、なんだか物憂げな、切ないような倦怠を私の胸のうちに呼び覚ますのだった。
11:
「今日は長いこと話し込んでもうて、かんにんな」
「いえ、私の方こそ、たくさんお話できて楽しかったです」
「うちも暇ができたら青森行ってみたいわぁ。そしたらゆかりはんのその立派なお屋敷も遊びに行けるやろか」
「もちろん、歓迎しますよ」
紗枝ちゃんはベランダの手すりの上に腕を重ねて、その手の甲に、気だるげに顎を乗せながら「はぁ」と小さく溜め息をついた。
夕日の赤がもろに彼女の顔に当たって輝いていた。
斜陽、そんな言葉が、不意に頭の中にひらめいた。
……この二年半、細々と続けていたアイドルのお仕事は、けっして華やかなだけではなかった。
むしろ私にとっては、華やかさとは無縁の、地道な、泥くさい日々ばかりが思い返される。
グループで一人だけ遅れを取って、夜、居残りで曲の振り付けを練習した日々。
人前できちんとお話ができるように、テレビやラジオ番組のトークに合わせてしゃべる練習をしてみたりもした。
野外のイベントで通りすがりの人にやじられたり、握手会で露骨に自分のスペースだけ人が集まらない事も少なくなかった。
報われない自分の惨めさに、涙をこぼした日だってある。
けれど、私はそれで後悔したことは一度もなかった。
それはもしかすると、私がアイドルというお仕事を楽しんでいたからかもしれないし、あるいはそんな不条理な世界に対する免疫が元々私の中に備わっていたからかもしれない。
どちらにせよ、私は今日までアイドルを続けることができた。
同期の、他のアイドルたちが次々に辞めていっても、私は自分のステージを夢見るのをやめなかった、それはともすれば私が初めてフルートを学び音曲の世界に足を踏み入れたその時からずっと夢見ていた場所と、少しも違わないような気がするのだった。
12:
今年の春、私の所属していたグループが解散した。
原因は、私なんぞには分からないくらい複雑だったようだけれど、一番は、メンバーのリーダー格が引退した事が引き金になったと言われている。
でも、きっと本当のところは、売れなかった、ただその一言に尽きる、他愛もない、ありふれた理由なのかもしれない、いや、きっとそうに違いなかった。
事務所のプロデューサーさんは、グループが解散した後も私たちを励まして面倒を見てくださったけれど、大半のメンバーは、自分たちの活動が実を結ばなかったこと、厳しい競争の世界に嫌気がさしてしまったこと、そんな心境から、アイドルを辞め、事務所を去っていった。
……こうして振り返ってみると、私はむしろアイドルでありたいと願うより、アイドルを辞めたいと思うほどの理由を見つけられなかった、それだけのために今、ここにこうして紗枝ちゃんと一緒にいる、そんな気さえしてくるのだった……。
空はもうすっかり夜だった。
私は自分でもどれくらいそうしていたか分からないくらい、ぼうっとしていたらしかった。
隣りでは紗枝ちゃんが同じようにぼんやり街を眺めていた。
私たちのいるベランダには背後から部屋の明かりが漏れ出ていて、そしてそのために紗枝ちゃんの整った横顔が、今度は暗がりの中に影になって浮かんでいるのだった。
私はその何か考えにふけっているような紗枝ちゃんの物憂げな横顔をしばらくじっと見つめていた。
「綺麗ですね」
思わずそんな言葉が口をついて出た。
「ほんまやなぁ」
紗枝ちゃんはそれとは違う意味にとらえて返事をした。
実際、街は夕闇から夜へと輝き始めていた。
しかし私はそれでも尚、彼女の横顔から目を逸らすことができずにいたほどだった。
13:
彼女と初めて出会ったのは私がこの寮に越してきた時、つまり二年前のことになるけれど、彼女とこうして親しくお話ができるようになったのはつい一週間前のことである。
きっかけは、あるドラマ番組での共演だった。
というより、今まさにそのドラマの撮影に向けて二人で親睦を深めようとして、それで彼女を私の部屋に招いたのだった。
それまで私たちは寮の同じ階に住んでいながらほとんど接点がなく、お互いなんとなく顔見知りな関係のまま長い間すれ違っていたのが、一緒にお仕事をすることが決まって挨拶を交わすや否や、すぐに打ち解けて仲良くなった。
同い年で、誕生日も同じという事実が判明すると、なおのこと親近感がわいた。
二人で話していると、それがかえって私たちのこれまでのすれ違いが不自然に感じるほど、なんだか昔からの知り合いだったように思われてくるのだった。
ただ私と違うのは、彼女が私よりもずっと売れっ子のアイドルという事である。
とは言っても、それは私より比較的人気がある、という程度の意味合いでしかなく、本人も認めているように、たぶん世間では私も紗枝ちゃんも無名という点ではそう変わらないのかもしれない。
だから今回のドラマで私が主役に抜擢されたことについて、紗枝ちゃんのファンから不平不満の声が噴出した、などという話はとくに聞かれなかった。
むしろ、スタッフの方々から期待の声をかけられたほどである。
役者なんてまったく経験のない私がいきなり主役を演じることになったのは自分でも驚いたけれど、ともかく私は、一生懸命がんばろうと思った。
各話たった一〇分の連作短編ドラマとはいえ、私にとってはようやく手にした大事な、大事なお仕事だったから、いい加減な気持ちではいられないと思った。
14:
「そないじっと見つめられたら恥ずかしいわぁ」
紗枝ちゃんがいたずらに微笑んで言った。
私は自分の考えに熱中するあまり、いつの間にか彼女の瞳に見入っていたらしかった。
私は慌てて視線を逸らして、
「暑くなってきましたね」
とごまかすように首筋の汗をぬぐいながら言った。
「うちも汗かいてもうたわ」
紗枝ちゃんはTシャツの胸元を少しおおげさすぎるくらいに仰いでみせた。
そうして私たちは冷房のきいた部屋に戻り、こんな時間だから夕食も是非ご一緒に、というような話をして、それからまたしばらく時間を潰していた。
その間、私の部屋のテーブルに開きっぱなしにして置いてあった、私と紗枝ちゃんとで持ち寄った故郷のアルバムを、ふたたびお互い何とはなしにめくりながら、それぞれ他愛もない感想を言い合ったりしていた。
波長が合う、とでも言うのだろうか。
紗枝ちゃんと一緒にいると、不思議と安心できた。
沈黙している時でさえ、私たちの間には自然な心地良いリズムがあった。
この何かにつけて急かされるような日々においては、彼女と作り出すそんな雰囲気が、私にはとても貴重なもののように思えた。
その気持ちはきっと紗枝ちゃんも同じだったに違いない。
15:
結局その日、私たちは一緒に夕食をとり、一緒に寮のお風呂に入り、そのあと今度は私が紗枝ちゃんの部屋に遊びに行って、テレビや雑誌、お仕事や勉強の話なんぞを延々と話し込んで、そうして夜が更けると紗枝ちゃんが「今日はこのまま泊まったらええのに」などと言うから私もすっかりその気になってしまって、なんだか修学旅行のような、合宿のような一夜を過ごすことになったのだった。
……この時の、思いがけず急に近づいていった私たち二人の関係には、そこに何か失ったものを互いに埋め合わせるような執着心がすでに生まれつつあって、そうして私たちはそれを知らず知らずのうちに、後に私たち自身をも苦しめ出すような、美しい色をしたあの神秘の毒花へと育てていってしまったのではないかと思う。
あのたそかれどきのベランダ、東京の夜めいていく風景、それをぼんやりと見つめて思いつめたように押し黙っていた二人、その沈黙の向こうに聞こえていたふるさとの残響……
私たちの追憶はそこでぴったり重なったのだ。
それは束の間の白昼夢のようなものにすぎないけれど、かえってこうした何でもない一瞬が、いつかきっと、自分たちでも驚くくらいにはっきりした映像となって、記憶の底に蘇ってくる日があるような気がする。
そしてその時こそ、私と彼女との運命を決定的なものにした悪魔が姿を現すような予感がするのだった。
16:
 三
街が真っ白に燃えている。
真夏の太陽の、垂直に降り注いでくる光があちこちに反射して、目に痛い。
予報では今年一番の猛暑だと言っていた。
確かに、この日の東京の街は、日陰に入っていても息苦しいくらい、どうしようもなく暑かった。
朝、寮を出て、最寄の地下鉄駅に到着した頃にはもう、汗が粒になって首筋を伝っていた。
地下鉄のホームは風が吹いていて、外に比べると少し涼しかった。
この地下の、圧迫するような音の反響や、生臭い匂いのする空気はいまだに苦手だけれど、こういう暑い日や天気の悪い日にはありがたいと思う。
私は鞄からハンカチを取り出して、そっと肌に当てて汗を吸わせた。
あとでもう一度日焼け止めクリームを塗らなければ、と思った。
制汗剤を使おうかとも考えたけれど、人前で服の下に手を入れるのは気が引けるし、第一はしたない。
その代わり、近くにあったコンクリートの柱がひんやりしていて気持ちがよかったので、そこにしばらく手をあてて涼んでいた。
やがて地鳴りのような振動が手を伝わって、それから突風と一緒に電車が滑り込んできた。
冷房のきいた車内に乗り込むと汗が冷えて心地良かった。
私は手すりに掴まって立ちながら、このままずっと電車に乗っていたいな、と思った。
その行く果てがどこか、そんな事はまるで考えもせずに。
ほんの三駅ぶん電車に揺られて地下鉄を降りた。
地上に昇る階段の途中で、ああ、やっぱり暑い、と思い知らされた。
なんだか自分の甘い考えを太陽に見透かされたような気がした。
そこから歩いて会社に向かうまでの間、熱のかたまりを押しのけて進んでいる気分だった。
次第に、肩に下げているフルートのケースの中身がどろどろに溶けてしまう、そんな妄想が頭をよぎった。
もし本当に高熱で溶けてしまったら先生になんて言い訳すればいいのだろう、家を出た時はちゃんとフルートの形をしていたんです、と言って信じてもらえるだろうか、でも冷やしてしばらく置いておけば元に戻るかもしれない、などと考えていたら、会社に着いた。
17:
スタジオに向かう通路で先生と鉢合わせした。
「おはようございます」
と業界お決まりの挨拶をすると、先生はちょっとおかしいような、驚いたような顔をなさって、スタジオに入る前に御手洗いで鏡を御覧なさい、とおっしゃった。
怪訝に思ってトイレに入り、鏡を見ると、白いシャツがたっぷり汗を吸って、濡れた肌が透けて見えてしまっていた。
慌てて周囲を見渡して、個室にも誰もいないことに安堵したけれど、どちらにせよもう遅い。
私はいまさら恥ずかしくなって赤面した。
鏡にはそんな私の赤くなった顔まではっきりと映った。
不意に、そこに立っている破廉恥な姿をした私が、私の知っている私ではなくなっていくような感覚がした。
明るい光を反射している長い髪の毛。
私をまっすぐ見つめる、するどい瞳。
小さな薄い唇、紅潮した頬、汗ばんでいる喉、胸元、肩、腋、それらにぴったり吸い付いているシャツの透明な肌色、そこに透けて見える下着の淡い輪郭……
そんな私の細部それぞれが私自身から取り外され、私とは無関係にそこに集まって、それから次第に私の姿を模した肉体へと再構築されるような……
そんな風に不思議に思って鏡をじっと見つめていると、気付いた次の瞬間にはもう、鏡には私自身の姿が蘇っていた。
試しに手のひらを自分の頬に当ててみると、それは確かに私の体の一部だった。
それからもう一度鏡を見つめてみたけれど、あの不思議な感覚はもう戻ってこなかった。
18:
シャツを軽く乾かして、それからスタジオに入った。
レッスンが始まる前にチューニングを済ませなければいけない。
ケースの蓋をおそるおそる開けてみる。
幸い、私のフルートは溶けずにきちんと形を保っていた。
「水本さん、今度ドラマに出演するんですって? しかも主役で」
先生がホワイトボードに予定やら練習メニューやらを書き込んで、それから私の方を振り向いておっしゃった。
「はい、おかげさまで」
「おかげさまって、私なにもしてないわよ。水本さん自身の努力のおかげでしょ」
先生はそれでも嬉しそうに、にっこりとお笑いになった。
先生はお母さまと同じくらいの年齢で、しかしお歳のわりにいくぶん頬のこけた険しい顔つきの御方だった。
そして実際、それなりに厳しい指導をなさる先生でもあった。
けれど、笑う時の目じりの小皺などは意外なほどチャーミングで、私の先生に対する尊敬の半分くらいは、この優しい笑顔によって支えられていたのではないかと思う。
私がいま受けているこのフルートのレッスンは、事務所が私たちアイドルに提供している支援のひとつで、私の場合は月に一、二回、会社の練習スタジオを借りて外部講師の先生から稽古をつけてもらっている。
こんな風に言ってしまうのも少し気が引けるのだけれど、故郷で私が通っていた音楽教室と比べると、施設も講師も、ここはまるでレベルが違う。
月二回という少ない稽古でも私が腕前を落とさずに済んでいるのは、プロである先生の優れた指導のおかげである。
むしろ、演奏に対する心構えや、音楽の世界それ自体への好奇心といったものは、故郷でのんびりとフルートを吹いていた頃より、ずっと高い場所へ引っ張り上げられた気がする。
世界が広がる、というのは、こういうことを言うのだろうか。
そして、それは確かに、私にとって東京で数少ない、楽しいと思える変化だった。
お仕事や学校のことで落ち込んでも、東京で経験する音楽とフルートの楽しさを知ればこそ耐えられた。
だから私がアイドルのお仕事をがんばって続けて、その結果ドラマの主役を手に入れることができたのは先生のおかげである、と言い切るのは、あながち誇張ではないと思うのである。
19:
九〇分、集中して練習すると、それだけで一日分の気力を使い果たしたようで、稽古が終わる頃にはいつも頭がふらふらしてしまう。
この日は特に、夏場で体力が落ちたせいか、身体全体に疲労を感じた。
最近はお仕事の方も演技レッスンが中心で、他の基礎トレーニングにかける時間が減っていたから、そのせいかもしれなかった。
「夏バテかしら」
「……少し、疲れが溜まっていたみたいです」
「ご飯はちゃんと食べてる?」
「ええ、それはもちろん……」
答えてから、そういえば今朝はお茶と飴しか口にしていなかった事を思い出した。
そうしてふと黙ってしまった私の表情を見抜いてか、先生は心配そうに、
「アイドルも色々大変だと思うけど、自分の体が第一なのよ。大事になさい」
とおっしゃった。
「でも……そうね、確かに今日の水本さんは、少し緊張していたような、力んでいるような調子があったかもしれない」
「緊張……?」
思い返してみても、心当たりがなかった。
そもそも私は、今日に限らず稽古に臨む時はいつだって緊張している。
20:
「何か、お聞き苦しい所があったのでしょうか?」
「そういうわけじゃないのよ。むしろ今日の水本さんはいつも以上にブレスが安定していたし、言われた事もちゃんと覚えていて、レッスンの内容としては十分合格ラインです」
急に褒められたので、私はどう答えたらよいか分からず、つい「はあ」などと間抜けな声を出してしまった。
先生はそれから意外なことをおっしゃった。
「あまり変な風に受け取らないでほしいのだけど、今日の演奏はなんだか水本さんらしくないような気がしたのよ。つまり、そうね……張り詰めた雰囲気、とでも言うのかしら」
「張り詰めた……」
「ああ、勘違いしないでね? べつにそれが悪いっていうわけじゃないんだから。ただ……いえ、なんでもないわ。水本さんにも心当たりがないというなら、私の気のせいね、きっと」
先生は納得されたように話を打ち切り、それから帰り支度のために御自分の荷物のところへ行かれてしまった。
私もまた荷物を片付けて帰る支度をした。
その間、先ほど先生がおっしゃったことの内容が、私がその理解を曖昧なままにしていたせいでしばらく頭にこびりついて離れなかった。
私の知らない所で、私の身になにか変化が起こったのだろうか。少なくとも今日のレッスン中、調子が乱れたり、思うようにいかないという感覚はなかった。やはり、先生の思い違いか、そうでなくとも私が真剣に考えるほどの問題ではないのかもしれない、先生のあの口ぶりからしても……けれど、それでもわざわざ言及なさったくらいなのだから、どこか私の演奏にひっかかるものがあったに違いない。……これも私の考えすぎだろうか?
そんな風に悶々としていたら、ふと、あの時の、鏡に映った私そっくりの私の姿を思い出して、寒気がした。
21:
スタジオを出て先生と別れたあと、早めにお昼を食べようと思い、一階のロビー近くにある売店へ向かった。
そこへ行くためには、エレベーターを降りたあと、広大なエントランスを横切り、向かい側の棟のエスカレーターを回りこんで、その奥にある待ち合いスペースまで歩かなければならない。
つまり、途中で社員や来客の方々と頻繁にすれ違うことになるわけで、そうなると当然、顔見知りの方と挨拶する機会も少なくない。
でも、この時の私は、その出会いの偶然に自分でも思いがけないくらいびっくりしたから、彼女が何か険しい様子で口論しているのを目撃した気まずさもあって、咄嗟に物陰に隠れてしまったのだった。
相手は紗枝ちゃんのプロデューサーさんだった。
「……こないな場所でそんな話、よしておくれやす……約束なんてした覚えありまへん……うちはただ、ゆかりはんと……」
自分の名前が聞こえて、はっと身体がこわばった。
途端に、聞き耳を立てているのがひどく悪いように思われて、立ち去ろうか、とどまろうかオロオロしているうちに、二人の会話は打ち切られた。
やがて足音が私の隠れている方へ近づいて来、そのまま私はどうすることもできずに紗枝ちゃんと鉢合わせした。
通路の曲がり角で、うつむきがちに早足に歩いて来た紗枝ちゃんは私の姿を見止めると「あっ」と小さく声を上げて驚きに目を見張った。
「すみません、あの、お昼ごはんを買おうと思って……」
「聞いてはったんどすか?」
私が慌てて取り繕うのを見透かして彼女は言った。
観念して素直に謝ると、
「そんな切なそうな顔して謝られたら、かえってうちが悪いことしたみたいやわぁ」
そう言って愉快そうに笑うのだった。
22:
「別になんでもあらへんのよ。……ちょっと今度のどらまのことで、先方と食い違いがあったみたいで……ふふっ、いややわぁゆかりはん、あんさんがそない心配することやないのに」
ドラマの話が出て、私がふいに深刻な表情を浮かべたせいか、紗枝ちゃんはごまかすように話題を変えた。
「これからお昼? そんなら一緒に食べに行かへん? うちもお腹すいたし」
「ええ、それは是非……でも……」
でも、と言ってから、次の言葉が出てこなかった。
紗枝ちゃんはキョトンとして私の言葉の続きを待っていた。
私はしばらく逡巡したのち、一言「なんでもありません」と言って微笑んでみせた。
近くのファミレスで昼食を済ませたあと、紗枝ちゃんの提案で一緒に買い物に出かけることになった。
私もちょうど午後は暇だったので、快く誘いにのった。
「お稽古事もええけど根詰めてばかりやと身体に悪いし、たまには気分転換も必要ですやろ? せっかくやし二人でどっか涼しい店にでも遊びに行きまひょ。ゆかりはんは何か欲しい物あります?」
「うーん……あっ、そういえば洗剤、切らしてたんだった」
ふと思いついてそう言うと、紗枝ちゃんは怒ったように口を尖らせて、
「もう、いけずなんやから……あんな、ゆかりはん。うちらあいどるなんやから、ちょっとは"らしく"振る舞わなあきまへんえ」
「らしく……?」
意味を図りかねてぽかんとする私に、紗枝ちゃんはなぜか得意そうに鼻を鳴らして言った。
「ふふん、これはうちが修行つけてやらなあかんようやなぁ」
23:
外はあいかわらず息詰まるほどな猛暑だった。
私たちはオフィス街のささやかな並木道を二人で並んで歩いて行った。
おしゃべりしながら歩いていると、この不快な暑さも幾分まぎれるような気がした。
一方、紗枝ちゃんは私ほど暑がっているように見えない。
京都の蒸し暑さに比べたらこれくらい大したことじゃないのかも、などと考えながら彼女の私服姿を眺めていたら、あることに気が付いた。
「その帽子、かわいいですね」
「そう? うちはあんまし被り物って好きやないんけど」
「日差し避けですか?」
「それもあるけど、一応あいどるやし、これでも変装しとるつもりなんよ」
変装!
私は思わず感心して「芸能人みたいですね」と口にした。
すかさず紗枝ちゃんが「なに言うてはりますのん」と突っ込んで、それから二人で小さく笑った。
「変装なんて、私ほとんど考えたこともなくて……」
「せやねえ、ゆかりはんはも少し自覚を持った方がええんかもしれんなぁ」
自覚、と言われてドキッとした。
紗枝ちゃんはそんな私の驚いた顔を覗きこんでいたずらに目を細め、
「こないなべっぴんさんが無防備に歩いてたら、あいどるやなくても声かけられてまうやろ」
とからかった。
実際、街を歩いている時に声をかけられることは珍しくない。
東京に来たばかりの頃はそういうナンパ行為をあしらう術を知らず、友達にずいぶん心配されたものだった。
アンケートに答えてほしいと声をかけられ、得体の知れないビルに連れて行かれたこともある。
あれは確か化粧品の購入契約だったか、そんな説明を受けた後、○○プロのアイドルをやっていると話すと途端に相手方の腰が低くなり、そのまま丁重に帰されたのだった。
24:
「その件に関してはプロデューサーさんに厳しく注意されちゃいましたけど」
そんな風に私が懐かしがって話すのを紗枝ちゃんはじっと押し黙って聞いていた。
私は目的も忘れてぼんやりと歩いていた。
陽のひかりがあちこちに真夏の結晶をきらめかせ、景色はゆるやかに行き過ぎながらなお私たちの行く手にどこまでも横たわっている。
立ち並ぶビルの向こう側から、湿った、唸るような喧騒が聞こえてくる。
そんな昼下がりの街の声に、私たちの気まぐれな沈黙が曖昧に溶け込んでいく。
時折すれ違う人々のせわしない足どり、アスファルトから立ち上る陽炎、そして蜃気楼……
「ゆかりはん」
呼ばれて我に返ると、地下鉄に降りる入口を通り過ぎてしまっていた。
慌てて紗枝ちゃんの元へ戻る私を、彼女は特にじれったいような素振りも見せず、のんびり待ってくれていた。
しかしその時の、私を呼び止めた紗枝ちゃんの表情が一瞬ひどく悲しげに……何か痛々しい感情を堪えているように見えたので、私は妙な興奮と罪悪感とから反射的に顔を背けてしまった。
そうして地下鉄の薄暗い階段の奥に目を凝らしながら、この何とも言えない不安の正体をその嫌な匂いのする風のなかに見出そうとした。
が、すぐに思い直して再び紗枝ちゃんの方を振り返った。
彼女はそんな私の不可解な仕草などにはまるで気付いてない様子で階段の先へ降りて行こうとしていた。
私は、今しがた見た彼女の悲しげな表情はすべて幻だったこと、単にこの夏のおびただしい日照りが彼女の顔に投げかけた偶然の影にすぎなかったことを、半ばそうであってほしいと願うような思いで自分に言い聞かせ、彼女の後に付いて行くのだった。……
25:
その後、私と紗枝ちゃんは近郊のショッピングモールへ立ち寄り、あれこれ意見を言い合いながら素敵なお洋服やアクセサリーなどを見てまわった。
「これなんて変装にぴったりや思わん?」
たまたま通りがかった雑貨店で、紗枝ちゃんがハート形のサングラスをかけて私の方を振り向いた。
思わず吹きだしそうになるのをなんとか耐えて「お似合いですよ」と答えた。
「言うたな?」
彼女は嬉しそうに言って、そのサングラスを今度は私にかけさせた。
すると彼女が声を上げて笑い出すので、どんなだろうと鏡を覗いてみるとそこにはおかしな眼鏡をかけて生真面目に佇んでいる自分がいた。
とうとう私も堪えきれずに笑ってしまった。
「この眼鏡じゃ、ちょっと変装には向かないかもしれませんね」
「でもゆかりはん、普通の眼鏡は似合いそうやなぁ。ただでさえ賢そうな目元してはるし」
「そうでしょうか?」
紗枝ちゃんが何やら熱心に私の顔を見てうなずいている。
私は照れくさくなって、近くに置いてあるシュシュになんとなく手を伸ばしてみる。
それからふと思いついて、シュシュを二つ、目に当ててふざけてみせる。
すると紗枝ちゃんはお腹をかかえて笑い出し、つられて私も声を出して笑う。
そうして二人でしばらく笑い合って、なんだかとても嬉しくなった。
こんなに笑ったのはいつぶりだろう。
「お茶目どすなぁ、意外やったわ」
ひとしきり騒いだ後、賑やかなショッピングモールを歩きながら紗枝ちゃんが言った。
「ふふっ、そう言う紗枝ちゃんも案外お茶目ですよね。もっとこう……おしとやかな人だと思ってました」
「おしとやかねぇ……やっぱりうちってそんな風に見られとるんやろか?」
「嫌なんですか?」
「嫌っちゅうわけやないけど……」
彼女は何かに気を取られるようにそっぽを向いて、それきり黙ってしまった。
そして私が声をかけようと口を開きかけたところで、
「なぁなぁ、おやつにしぃひん? ほらあそこ、おいしそうなくれーぷ屋さん」
と急にはしゃいで私の手を取り、人ごみの奥へ進んでいくのだった。
26:
お昼を過ぎてもう時間も経つのに、フードコートは人でいっぱいだった。
クレープ屋さんの列に数分並んで、私はメイプルバターと紅茶のシンプルなセットを、紗枝ちゃんはバニラアイスと黒蜜に生クリームまで乗った豪華なクレープとタピオカの抹茶ミルクを注文した。
私たちは隅っこの方のテーブル席に座り、出来立てのクレープをほおばりながら味について感想を言い合ったり、お互いに食べ合いっこしたりした。
「物足りひんのかなぁ」
唐突に彼女が切り出したので、私はびっくりしてしまった。
こんなに胃に重たそうなクレープを食べてまだ足りないなんて、人は見かけによらないものだなあ、なんて感心しかけたところで、すぐにそれが先ほどの話題の続きだと気付き、改まって椅子に座りなおした。
「確かにうちは元の性格がのんびりしてるさかい落ち着いた風に見えるんはきっと間違ってへんし、下品な娘や思われるよりよっぽどええんやけど……でも、うちがただ大人しいだけの面白みのない人間や思われるんも、なんやつまらんなぁ思て……」
彼女は独り言のようにつぶやいて、それから抹茶ミルクを一口飲んだ。
「私は、紗枝ちゃんはとても個性的で面白い人だと思っていますよ」
「せやろか?」
「はい」
私はやや力を込めて返事をした。
彼女はテーブルに片肘をつき、手に頬をのせ、何か物思いにふけるような遠い眼差しで私の胸のあたりを見つめていた。
私は食べかけだったクレープに口をつけ、目の前にいる紗枝ちゃんの可愛らしい顔立ちをなんとはなしに観察しながら、彼女のその悩ましげな瞳に思いがけないほどな美しさを発見したりした。
ふいに彼女は溜め息まじりの微笑を私の方に向けた。
潤んだ大きな眼が私を見つめ返す。
その瞬間、私たちの周りから音がさあっと引いていく。
彼女の口が艶かしく動き、薄紅色のくちびるを震わす。
すると私の意識にはもう彼女のはっきりした輪郭だけが焼きついて、他は何も残らなかった。
私たちはお互いに何の言葉も交わさないまま、ただそうやってお互いの瞳の中を見つめてばかりいた。……
27:
が、それは私の思い違いだった。
紗枝ちゃんは何やらずっと私に向かって話しかけ、私は無意識に相槌を打っていたらしかった。
そのことに気付いた時にはもう、紗枝ちゃんは話したい事をほとんど話し終えてしまっていた。
私は奇妙な喉の渇きを覚えてコップを手にした。
が、中身はすでに飲み干していて、さきほどまで食べていたはずのクレープも気が付けば全て平らげてしまっていたのだった。
そしてそれは紗枝ちゃんも同じだった。
「あら、もうこない時間に……ほな、そろそろ行きまひょか」
満足げに席を立つ紗枝ちゃんの後に付いて行きながら、私は今しがた見舞われた奇妙な幻想について考えを巡らせていた。
私がぼんやり彼女の瞳を見つめ続けていた間、そこに一体どんな会話が交わされていたか、はっきりとは覚えていない。
しかし同時に、あの瞬間、私は彼女の言いたいことの全てを理解していたのだ。
あの憂いを帯びた眼差し、表情、指先のわずかな振動、そうした彼女を形作るすべてのものから……
そのようにして私は自分のこの不思議な考えに夢中になった。
どうかして彼女にも私のこの理解が伝わっていないものかなあと願いながら……。
寮に着く頃にはもう日が暮れかけていた。
私たちは両手にたくさんの買物袋をぶら下げ、汗を滲ませながら寮の階段を上っていった。
そして前と同じように二人で一緒に夕飯を食べ、お風呂に入り、私の部屋でテレビを見た。
夏休みの、なんということもない一日だった。
次の日もきっと同じように過ぎていくだろうと信じられるような一日だった。
私たちは自由で、けれどそれは明日また二人で遊びに出かけようと約束することによってのみ果たされる自由だった。
28:
私たちは夜遅くまでおしゃべりしたあと名残惜しく「おやすみ」を言い合って別れた。
突然、私はひとりになった。
いつもと変わりないはずの自分の部屋が、今はなぜかよそよそしく感じられた。
テーブルの上には広がったままの雑誌が、その横には空になったお菓子の袋が丁寧に折り畳まれて並んでいた。
私はふいに寒気を感じて冷房を切った。
すると自分の部屋のあまりの静かさに息が詰まりそうになった。
驚きながら私は、自分が今までずっとこんなに寂しい空間で暮らしていたのかと思って恐ろしくなった。
二年前、ここへ初めて越してきた時の心細さを思い出す。
あの夜、私は故郷のお母さまの声とお顔を思い浮かべてはこみ上げる涙を堪えて布団にくるまっていた。
それが今は……。
忘れていた疲労がゆるやかに身体中に広がっていくのを感じた。
痺れるような未知の情念と裏腹に、私は部屋の明かりを消して眠気に誘われるままベッドに倒れ込んだ。
自然と閉じられていく瞼の裏に、紗枝ちゃんの楽しそうな笑顔が映る。
東京へ来て初めて、私に親友と呼べる人ができたと思った。
29:
 四
紗枝ちゃんとはそれからも頻繁に遊びに行くようになった。
あるいは寮のどちらかの部屋で一緒に過ごす日が多くなった。
私の部屋のクローゼットには彼女が選んでくれた可愛らしい洋服が日に日に増えてゆき、また彼女が好きなアーティストのCDや漫画雑誌、二人で買い揃えたアクセサリーや小物などが部屋のあちこちに置かれるようになった。
日中、外へ遊びに出かける時は二人でそれとなく変装するようにした。
遊びに誘うのはいつも紗枝ちゃんの方からで、私から誘うのは十回に一度くらいのものだった。
最初、私はそのことに引け目を感じていて、たとえば買い物の途中、不意に携帯が鳴り、それが紗枝ちゃんからの電話だと分かった瞬間、ああ、また先を越されてしまった、次こそ私から連絡しよう、などと一人後悔しては反省し、そうして次の機会をうかがっているうちにまた彼女から、今日はおやつ買ってきたから一緒に食べようとか、勉強で分からないところがあるから教えてほしいとか、他愛ないきっかけで誘われたりする、そんなことを繰り返していた。
ある日、そうやって私ばかり受身でいて申し訳ないというようなことを彼女に打ち明けたことがある。
すると彼女はまるで私の考えなんてお見通しと言わんばかりに――せやなあ、うちもいつ御馳走に誘ってくれるんやろかって、今か今かと待っとるんやけど――などと得意気に皮肉るのだった。
また私がその言葉を真に受けると彼女はからから笑って、冗談どすえ、と言った。
そして実のところ紗枝ちゃんも似たような悩みを抱えていたのだという。
――うちばかり一方的にちょっかいかけて、もしかしたらゆかりはん迷惑なんちゃうやろか――
結局のところそれらは単なるすれ違いにすぎなかったのだ。
私たちはそのようにして、二人の間に見つけた落とし穴を小さな驚きとはにかみと共に埋めていった。
そして関係とはいつもその共同作業の上に築かれていくものだった。
多くの場合、穴は二人だけのルールや約束事や暗黙の了解によって埋め立てられた。
時にはそれが私たちの信頼の旗印にもなったりした。
のちに私の方から紗枝ちゃんを遊びに誘うとき、そこに何か特別な意味が込められるといった認識が生まれたのも、そうした共同作業のひとつの結果だった。
30:
私たちが夏休みの短い間にこれほど親密になれたのは理由がある。
確かに紗枝ちゃんはプライベートでも何かと世話を焼いてくれたし、私自身も彼女を好いていたけれど、それだけではない。
というのも、例のドラマのお仕事があったので私たちは必然的に顔を合わせる機会が多かったのだ。
ドラマの撮影はすでにリハーサルを終え、近いうちに本番を撮ることになっていた。
実際のところ、すべてが順調とは言えなかった。
やはり初めてのお仕事ということもあって、うまく身動きが取れずにスタッフの方々に迷惑をかける場面が少なくなかった。
折々プロデューサーさんや紗枝ちゃんがフォローしてくれはしたものの、不慣れなのはともかく、飲み込みが悪いのは私自身の能力不足である。
またそれとは別に、撮影スケジュールそのものがタイトで余裕がなかったこともある。
私や紗枝ちゃんが夏休みで時間の空いてる隙に撮影を終わらせてしまおうというプロジェクトの意向で、紗枝ちゃんに言わせれば単に予算を抑えたいのだろうとの話だったけれど、ともかくそういった事情から現場はいつも慌しかった。
しかし、こと演技に関して言えば、私は思いのほか上手くやってみせたらしい。
リハの段階で監督からはお褒めの言葉を頂いたし、私としても、大勢の前で役を演じる事にぎこちなさや恥ずかしさみたいなものはまったく感じなかった。
技術的な部分については演技レッスンの直接の賜物とはいえ、それ以上に私は自分がこれほど自然に役になりきれることに自分自身驚いたくらいだった。
31:
「ゆかりはんの演技、堂々としてて雰囲気出てはるもんなぁ」
リハを終えて二人で帰る道すがら、紗枝ちゃんが言った。
私はそれとなく満足げに答えた。
「お芝居って、けっこう面白いものですね」
「あら、余裕しゃくしゃくかいな??」
「うふふ」
「んもう、得意そうにしはって……うちなんか台詞追うのに精一杯でお芝居まで気ぃ回らんわ」
「そんな風には見えませんでしたけど……」
「まあ、形だけこなすっちゅうんは慣れとるさかい、ごまかしはきくんやけどな」
紗枝ちゃんが言っているのはおそらく、彼女が幼少期から続けているというお稽古事の話だろう。
日本舞踊や茶道、華道など、歴史ある芸事というのは何かと作法を重んじるものである。
彼女はそれこそ「叩き込まれた」とまで言っていたくらいだから、型を身につけることの重要性も、そのコツのようなものも熟知しているのだと思う。
だからだろうか。
紗枝ちゃんを見ていると、振る舞いにしろ人付き合いにしろ器用だなあと感心することが少なくない。
時には羨ましいとさえ思ったりする。
彼女の、そうやって何でもそつなくこなす姿に私は憧れていたし、同時に尊敬してもいた。
本人の前でそれを口にしたことは一度もないけれど。
「たぶん、自然な演技、ちゅうのが苦手なんやろなぁ」
「うーん……紗枝ちゃんの演じる役自体、難しいんじゃないでしょうか」
「それもあるやろなぁ。『愛を伝える少女』なんて……意味分からんもん」
紗枝ちゃんが拗ねたように言うので私は思わず「ふふ」と笑ってしまった。
「まだ『愛を知らない少女』の方が簡単かもしれませんね」
「なぁなぁ、今のうちに役、交代せえへん? うちもそっちやりたかったわ」
「いくら紗枝ちゃんの頼みでも、主役は譲れませんよ」
「いけずぅ」
言いながら楽しそうに小突くのだった。
32:
それにしても、愛、だなんて、私たち高校生には難しすぎるテーマではないだろうか。
台本には『愛』という言葉はたくさん出てくるけれど、それが主人公である私の役にとってどんな意味を持つ言葉なのか、いまいち理解していないのが正直なところだった。
私もまだまだ勉強不足なのだろう。
「ゆかりはんは真面目に考えすぎどすえ。そんなん普通、大人にだって分かってへんのやし」
「でも、興味深いです。紗枝ちゃんは愛について考えてみたことは?」
すると彼女は一瞬口をつぐみ、やがて溜め息混じりに呟いた。
「……ゆかりはんのそーゆーとこ、ほんま羨ましいゆうか……敵わんなぁ思いますわ」
「?」
「素面でそないな台詞吐ける人、ようおらん思うで? うちかてお芝居やなかったら愛なんて言葉、小ッ恥ずかしくて言えへんわ」
「こっぱずかしい、ですか?」
「もう、ほんまにいけずなんやから……」
紗枝ちゃんは呆れたようにそっぽを向いて、そのまま黙ってしまった。
怒らせてしまっただろうか?
そんな風に不安に思っていると、再び彼女が口を開いた。
「愛って、うちが語れるほど単純なもんなんやろか。そら、確かに恋愛のお歌はたくさん歌ってきたけど……それやってただ言われたとおりに歌ってただけやし、なんぼ表面ばかり取り繕っても根っこでは全然、真剣やない、お仕事やから、言われたから従ってただけ……そないな人間に、愛について語る資格がありますやろか?」
「私は、紗枝ちゃんにも愛を語る資格はあると思います」
即答したので、紗枝ちゃんは面食らったように私の方を振り向いた。
しかし私もそこから二の句が継げず、まごついてしまった。
「……ふふっ、よっぽどゆかりはんの方が愛を心得てるみたいやなぁ。ほんまに」
「ごめんなさい。なんだか、生意気でしたね、私……」
「そないなことあらしまへんえ。むしろゆかりはんがそうやって断言してくれはると、なんや心強いわぁ」
33:
ドラマの話題はそこで打ち切られた。
コンビニの前を通りがけに紗枝ちゃんがちょうど用事を思い出したと言って、それで私も一緒に寄っていくことにした。
どうやらお金を引き落とすらしかった。
ATMはすでに年配の方が一人、先に使っていたので紗枝ちゃんはその後ろでしばらく待つことになった。
私はその間、日用品の棚を眺めながら何か必要なものを思い出そうとしたけれど何も思いつかず、それから手持ち無沙汰にお菓子の棚を見てまわった。
が、結局何も買う気が起きないまま、なんとなく雑誌コーナーの前で適当な本を手に取り、紗枝ちゃんを待った。
彼女の番はなかなか回ってこなかった。
私はそうして雑誌のページをめくりながら内心そちらの方ばかり気にかけていた。
急に、何か悪い予感に迫られでもしたかのように、私は無造作に顔を上げて彼女の方を一瞥した。
それが思いがけず焦れったいような素振りになってしまったので、私は慌ててごまかすように視線を逸らした。
ところが彼女は私の少し近いところの通路に並んで突っ立ったまま、何もない壁をぼうっと眺めやっているのだった。
その横顔はなにやら考えに耽っているらしかった。
私は再び雑誌に視線を落とした。
しかし手はずっと同じページを開いたまま、意識の上にはそれとは別の風景を浮かべていた。
なぜあんな風に考えもせずきっぱり答えてしまったんだろう、まるで知ったように決め付けて……そんな後悔が頭のうちに目覚めつつあった。
そのため後に、用事を済ませた彼女に声をかけられた時、私があたかも雑誌に夢中になって気が付かなかった風を装ったのも、そうした不安と焦りとを彼女に悟られまいとする無意識の作用か、あるいは私自身への罰のつもりだったか知れない。……
34:
 五
早朝、私と紗枝ちゃんはスタッフの方が運転するバスに乗ってロケ地へ赴いた。
東京からそう遠くない地方で、けれど途中いくつかトンネルを通って行くような山あいの道だった。
冷房の効いた車中、紗枝ちゃんは私の隣で言葉少なに、眠たそうに揺れていた。
一方、私といえば窓の外に流れていく険しい山々だの木々だのを飽きもせず眺めていた。
やがて山がひらけて小さな集落が現れた。
目的地はその集落からさらに奥まったところ、雑木林を抜けて行った先にぽつんとあった。
舞台となる古い洋館はその昔、英国の某伯爵が別荘として設計し、建築したのを、戦後、観光施設として開放したという歴史ある建造物である。
私たちは以前、一度だけここへ来たことがあった。
台本の読み合わせが始まった頃に、私のプロデューサーさんが私と紗枝ちゃんを下見に連れてきてくださったのである。
当時は初夏の少し暑いくらいな日で、避暑地として栄えた高原の集落はまさにそんな時期にうってつけのロケーションだった。
私も紗枝ちゃんも半ば興奮気味に、その閑静な木立の影にひっそりとベランダなどが見え隠れしているのを、そこへ夏の日差しが微笑むように降り注いでいるのを、それらみずみずしい緑の匂いの中に私たちの少女らしい空想が溶け込んでいくのを、ほとんどうっとりするような気持ちで眺めていたものだった……。
ところが、目的地に着き、ロケバスを降りると、ここはもう真夏の領国なのだった。
叩きつけるような蝉の鳴き声とそのパノラマ、草木の燃える湿った臭い。
地面から燃え立つ熱気の息苦しさ、そして目を細めずにはいられないほどの眩しい光線……
この数週間ですっかり夏に支配されてしまったようだった。
目の前にある異国風の建物も、今や生い茂る木々の葉に埋もれて窮屈そうにしている。
けれど私は、以前ここへ来たときの憧れをすべて見失ったわけではなかった。
老兵はまだ夏にその支配権を完全に明け渡したのではなかった。
夏ごとに燃え出す青葉の生命力をも、この古城は自らの威厳の中に同化させようとしていた。
私はその三階建ての建物の、白と黒の格調高い外壁を仰ぎ見ながら、今となっては憧れというよりむしろ郷愁に近いような不思議な感動に胸を打たれていた。
それはもしかすると、この燃えさかる太陽の季節が私に見せた幻、遠い記憶の幻影なのかもしれなかった。
35:
監督と一緒に管理人さんに挨拶に伺ったあと、さっそく機材が運ばれ、準備が始まった。
私たちキャストはまず演出家さんと話し合い、全体の進行から細かい位置取りなどを確認して、それから各々の準備に取り掛かった。
準備と言っても、衣装に着替えてメイクを終えてしまえば、あとは待機するだけだった。
私より先に着替えを済ませた紗枝ちゃんが、鏡の前でしきりに自分の格好を確かめていた。
「ロングスカート、とても似合ってますよ」
「せやろか? ならええんやけど……」
「どうかしたんですか?」
「うち、普段あんましこういう服着ぃひんし、なんやおかしないかなぁ思て……」
「ちっともおかしくなんてないですよ。とても素敵です」
「うふふ、ありがとう」
そう言われて、私はなぜかドキッとしてしまった。
そしてすぐ、彼女が京言葉でなく、標準語のイントネーションでしゃべったからだと気付いた。
36:
「ゆかりちゃんも、すごく似合ってる。清楚で、キリッとしてて……本当に、素敵ね」
標準語で……というよりも、演じる役の言葉遣いで話す紗枝ちゃんの声に、私の心は不意にかき乱され、そしてあからさまに動揺してしまう。
別に今日が初めてというわけでもないのに。
「どないしはったん? うちの言葉遣い、やっぱし変やった?」
「え、あ、そういうわけじゃなくて……!」
私がそんな風に慌てて取り繕うのを見て、彼女はどこか愉快そうな、いじわるな笑みを浮かべるのだった。
「しばらくはこの話し方でいきましょう。出番までに少しは慣れておかなくちゃいけないし」
「そうですね」
「あ、ゆかりちゃん。髪の毛に埃が……」
彼女はそう言って私の首筋へ手を伸ばした。
私はまるで金縛りにかかったように身動きがとれずにいた。
彼女の美しく潤んだ瞳に、可愛らしく赤みがさした頬に、滑らかに動く口唇の甘い輝きに、それらが思いがけず接近してきたせいで目をそらす隙もなく魅了されていたから。
37:
「……はい。あとは大丈夫?」
「え、ええ……たぶん、大丈夫だと思います」
私は改めて鏡の前に立ち、平静を装いながら答えた。
「こうやって二人並んでみるとなんだか姉妹みたい。ね?」
紗枝ちゃんがおもむろに私に寄りかかるように立ち、耳元で囁いた。
鏡が一人分の幅しかないために、そうやって二人の姿を重ねようとしていたのだった。
彼女は抱きしめるようにして私の体を縛り、そして肩にその小さな頭をもたれさせた。
密着する彼女の熱と甘い匂いに私は返事もできず、紗枝ちゃんが鏡越しに見つめてくるのをぼうっと見つめ返す他は何もできなかった。
そこに映る私と紗枝ちゃんの姿は確かに、姉妹らしいと言えなくもない一種の法則が……つまり、同じ衣装を着ているがためによりはっきりと区別されるはずの差異が、かえってお互いの関係性を強く印象付けるというような感じがあった。
そうして私は次第にその合わせ鏡のような観念に飲み込まれていった。
――ああ、また、と思った。
鏡の中にいる私の身体が私のものでなくなっていく感覚。
身体がそれぞれの部品に分解され、意味を失い、それから無秩序に集積されていく。
この肉体はもはや私の意志によってではなく、別の何者かの大きな力によって決定されている。
私にはそれをどうすることもできない、というような錯覚――
「緊張してる?」
耳元に紗枝ちゃんの呟きが聞こえた。
「……少しだけ」
私は言葉少なに、けれど精一杯の返事をした。
そうして声を発してみるともう、次の瞬間には鏡に私の姿が復活しているのだった。
私は紗枝ちゃんに寄りかかられて呆けたほうに突っ立っていた。
私の中にはただ、不可解な、奇妙な感覚が残っているだけで、嫌悪感や疲労感といった不安の種も特に認められなかった。
が、それでも私は安堵のために深く息を吐いた。
紗枝ちゃんもまた気分を落ち着かせるように深呼吸し、そしてもったいぶるように私から離れた。
38:
「そういえば……」
紗枝ちゃんはふと思いついたように話題を変えた。
この町に有名な和菓子のお店があるらしいとか、時間が空いたら屋敷の中を散策してみようだとか、そんな他愛のない話をして、上機嫌にはしゃいでみせた。
私もまた何事も無かったように紗枝ちゃんの話題に乗っかった。
おそらく紗枝ちゃんは私の緊張を気遣って、それで気分を紛らわそうとしてくれたのだろうと思う。
だからこそ私は、この緊張の本当の原因について彼女本人に打ち明けることがついぞできなかった。
そればかりか私自身でさえ、彼女に対して初めて抱いたわずかな違和感をなかったことにしようとした。
その判断が後にどんな結末を招くかも知らずに。……
39:
不安はなかった。
心構えはできていたはずだった。
緊張こそしていたけれど、うまくやってみせる自信はあった。
そういう意味では最初、私を気遣ってくれた紗枝ちゃんの方が不安そうに見えたくらいだった。
それでも私たちは本番直前の、カメラの回らない通しのリハだって問題なくこなしてみせたのだ。
今日はこのままいけばすぐ終わるだろう、そう思っていた。
実際、致命的と言えるほどのミスを犯したわけではなかった。
撮影は、多少遅れたとはいえおおむね予定通りに進んでいった。
私がしでかした多くの失態は、監督や紗枝ちゃんや他スタッフのフォローによってすぐ挽回できる程度のものだったし、それによってことさら誰かに責められたり、叱られたりということもなかった。
しかし、それでもやはり、現場の空気が徐々に失望と侮りの色に変わっていくのを意識せずにはいられなかった。
最初は、台詞が飛んだ。
今まで一度も間違えたことのないシーンで、ふと、頭が真っ白になり、固まってしまった。
次は、移動するタイミングを間違えた。
微笑むべきところでうまく表情を作れなかった。
何気ない会話で、急に、声が震えてしまった。
これまで一度もしたことのないようなミスが続き、やがて焦りをコントロールすることもできなくなった。
40:
五つめのカットのあと、休憩が入った。
私はすでに申し訳なさと恥ずかしさと情けなさとですっかり気落ちしていた。
紗枝ちゃんはそうした私の不調をいち早く察してくれたらしかった。
休憩の声がかかるとすぐ私の元へやってきて、お水の入ったコップを差し出してくれた。
「大丈夫?」
彼女の心配そうな表情を横目に、私は反射的に「はい」と答えて、それから自分でも取り繕えないくらいの声色で、
「大丈夫ですよ」
と言った。
すると彼女は、悲しげな……いや、悲しいというよりむしろ憐れむような目をはっきりと私に向けた。
それこそ睨みつけるくらいの、私の態度を責めているような険しい目つきだった。
彼女のそんな表情を見るのはもしかすると、この時が初めてだったかもしれない……そして私といえば、その厳しい眼差しに戸惑いも萎縮することもなく、かと言って悪びれもせず、ただ生真面目に向き合うばかりだったので、やがて彼女の方から耐えきれなくなったように、ぐっと俯いてしまった。
が、それも一瞬の出来事で、次に彼女が顔を上げた時、そこにはいつもの憂うような微笑が浮かんでいた。
41:
「やっぱり場慣れしてないと、難しいわよね。特にロケなんかは……」
「……ええ。思うようには、いかないものですね」
「それに、ちょっと冷房も効きすぎなんじゃない? スタッフさんに言って来ようかしら」
そう言うと紗枝ちゃんは長いまっすぐな髪をひるがえして廊下を行ってしまった。
私は紙コップを片手に壁に寄りかかって深呼吸した。
何か別のことを考えて気分を紛らわしたかった。
しかし頭の中に思い浮かぶものといったら、ドラマのこと、撮影のこと、台本、台詞、役、失敗、恥……考えても仕方のないようなことばかり、次々に脳裏を掠めて行くのだった。
「気分、落ち着いた?」
気が付くと紗枝ちゃんが正面に立っていて、私の顔を心配そうに覗き込んでいた。
「あ、はい」
私は驚きながら返事をした。
すると、不意に彼女と目が合った。
42:
直後、激しい興奮が痺れるように私の神経を貫いた。
私の意識の全ては今、その濡れた漆色の瞳に吸い込まれていた。
冷汗が滲み、恐ろしい寒気が背中を這う。
紗枝ちゃんが私の中に潜り込んでくる。
彼女の、細く白い両手が、私の熱い頬をそっと包んだ。
冷たい手のひら……それだけで私の身体は自由の何もかもを彼女に明け渡してしまったようだった。
激しい動悸と眩暈に襲われながら、私は、その夜のような瞳がゆっくりと私に迫ってくるのを子猫のように震えて待つほか何もできなかった。
彼女の甘い吐息が私の口元に吹きかかる。
あともう少し……彼女の艶やかに濡れた唇が、私の息を塞いでしまうまで……
43:
「…………」
しかし彼女は寸でのところで留まった。
私のほんの数センチ目の前で、彼女は薄くまぶたを伏し、ためらうように、それでいて欲しがるように、ルージュのきらめく口唇をだらしなく開いたままにしているのだった。
まるでその決断を私に委ねているとでも言うように……
実際、私がちょっと頭を動かせば、それだけで済んだ。
みずみずしい果実にそっと口をつけるように、優しく唇に触れてしまえばそれでよかった。
ああ、そしたらきっと、彼女の唇のなんと甘いことだろう!
私は途端に彼女の味と感触を夢想しだした。
それは一度想像してしまえば決して抗えない、禁断の果実の誘惑だった。
片手に持っていたコップが水もろとも床にこぼれ落ちる。
私の胸に羽のように触れている彼女の身体をもっと強く抱き寄せようとして。
ぱしゃり。
「……ふふっ……ゆかりはん? その手はなぁに……」
紗枝ちゃんの掠れた小声が、耳元に巨大に響いた。
と、思うと次の瞬間、私の喉は恐怖のあまり引きつり、今度こそ金縛りにあったように指一本、動かせず固まってしまった。
私の意識は急に現実に引き戻された。
しかし誘惑から醒めてもなお、彼女の漆黒の瞳は私の心を捕えて離さなかった。
何もかもがもう手遅れだった。
44:
絶句する私の震える首筋を、紗枝ちゃんの指がいやらしくなぞる。
彼女は悪魔のように冷たい微笑を浮かべ、そして私の唇に触れるか触れないかの距離で、接吻するように囁いた。
「おいたはあきまへんえ」
逃げなければ、と思った。
しかし私の身体はすでに私のものではなくなっていた。
そして今は私の精神すら、ほとんど彼女のものになりつつあった。
私は、目を逸らさなければと念じながら、一方それとは真逆の意志に支配されていた。
不意に、紗枝ちゃんが身を引いた。
すると暗闇に明かりが灯ったように、周囲の景色が鮮明になった。
それがあまりに唐突で、しかも激しかったので、私は立ちくらみを起こしたようにバランスを崩し、よろけてしまった。
紗枝ちゃんが事も無げに私を支えて言った。
「さ、ゆかりちゃん。次の撮影も頑張りましょう」
にこりと微笑みかけるその表情にはいつもの彼女の愛らしさが蘇っていた。
「あ……」
私はまともに返事をすることもできず、ふらつく足をなんとか支えにして壁にもたれかかった。
45:
全身は極度に疲弊し、額に脂汗が滲んでいるのが分かる。
私はいまだ混乱から立ち直れず、また紗枝ちゃんの顔を見るのも恐ろしかったので、そのままぐったりと床を見つめながら気持ちが落ち着くのを待った。
「あら、汗びっしょり……やっぱり冷房は上げない方がよかった?」
紗枝ちゃんがポケットからハンカチを取り出して私の額の汗を拭った。
そして……そしてなぜだろう、私はにわかに安心を取り戻した。
彼女の仕草には偽りのない献身があった。
彼女の優しい気遣いを嬉しいと思った。
その親しみと思いやりのこもった手に跪き、すがり、感謝の言葉を尽くしたいとすら思った。
まるで悪夢から覚めた子供が泣きながら母の抱擁を求めるように、私は彼女に救いと癒しを求めた。
だから、彼女がハンカチを引っ込めてついと顔を逸らした時、私の手は反射的に彼女の服の裾を掴んでいた。
それこそ駄々をこねる子供のように、あるいは彼女に見捨てられはしないかという恐怖のために……
すると彼女は少し驚いたように私の方を振り向き、助けを乞うように引き止めている私の手をそっと剥がした。
そして、まるで自分の子が人混みにはぐれてしまわないか心配する母のように、私の手を固く握り返すのだった。
そうしているうちに彼女が突然その場にしゃがみこんだ。
しかしそれはよく見れば単に床に落ちた紙コップを拾おうとしていたにすぎなかった。
彼女はこぼれた水もハンカチで拭いたあと、一言「戻りましょう」とだけ言って私の頼りない手を引いて歩きだした。
私はそこで初めて、私たちがいつの間にか建物の奥の人気のない場所へ来ていたらしいことに気が付いたのだった。
46:
……その後、休憩を終えて再び撮影に臨んだ私が、相変わらずミスを繰り返してスタッフを困らせ続けたのは不思議なことだと思われるだろうか?
実際、私はミスを挽回しようと意気込んでいた。
しかし結局それらはすべて空回りに終わってしまったのだった。
肝心なところで上の空だったり、ぼんやりして指示を聞き逃したりした。
私の不注意のせいであわや機材を壊しかけた時もあった。
そんなことが続くと、さすがに現場の雰囲気も和気藹々とはいかない。
終いには、それこそ怒鳴るような声で指示が飛ぶこともあった。
直接、私が罵声を浴びせられたことはなかったけれど、スタッフの方々の苛立ちは確実に私に向けられていたし、私自身、そのプレッシャーを痛いほど肌に感じていた。
私はもう、一刻も早く撮影を終わらせたい、家に帰ってしまいたい、そんな想いで現場の隅っこに独り、ぽつんと佇み、次の出番が呼びかかるのを怯えながら待っていた。
……こうして、最悪の撮影初日は過ぎ去った。
それから、夜、紗枝ちゃんが私の自室を尋ねて来て、私たちの新しい生活が始まった。
47:
小休憩
49:
 六
【昼休み、宿舎の二階ベランダ】
ノラ『(日陰で壁に寄りかかって)その種、また先生から頂いたの?』
ハル『(プランターの土にじょうろで水を撒きながら)ええ、なんでも先生のご友人が送ってくだすったとか』
ノラ『ふうん……なんて名前のお花?』
ハル『ベンジャミンといって、あまり花はつかないの』
ノラ『なんだ、つまらないの。私、綺麗なお花が咲いてる方が好きだわ。ユリの花とか……』
ハル『つまらないだなんて、そんなことないわ。御覧なさいな、こんなに可愛らしく葉を広げて……』
ノラ『そっちはなんていうの?』
ハル『アイビーっていうのよ。ほら、葉っぱが少しお星様みたいな形をしているでしょう? 素敵だと思わない?』
ノラ『(近寄って)あら、本当……でもね、ハル。(外に目をやる)あのお庭の太陽みたいなヒマワリを御覧なさいよ。お星様も素敵だけど、やっぱり太陽には勝てっこないわ』
ハル『(小さく笑いながら)そうね……ところでノラ、私になにか用事があったのではなくて?』
ノラ『ん……(少し言いよどんでから)その、大した用じゃないの。ただ、ほら、せっかく先生が出かけてらっしゃるじゃない? それにちょうど今、ルーシーも仕事部屋にこもってなかなか出てこないし……』
ハル『まさか、また抜け出すつもり?』
ノラ『そういうんじゃないわ! ただ……ちょっと、そこいらを散歩するだけよ』
50:
ハル『まあ。(呆れたようにプランターの方へ向く)お好きになさい……』
ノラ『違うのよ、ハル。あなたを誘おうと思って』
ハル『(驚いて振り返る)私を?』
ノラ『こんなに好いお天気なのに、お屋敷にいてばかりじゃますます身体が弱っちゃうわ。それに、いつだったか言ってたじゃない。あの綺麗な声で鳴く鳥を一目見たいって。ウグイスだの、ホトトギスだの……』
ハル『(逡巡するように)でも、私……』
ノラ『肌のこと? 大丈夫よ。こうしてベランダにだって出られるんだし、ちゃんと日傘を差して行けば、少しくらい』
ハル『次の美術の時間はどうするの? いくら先生がいらっしゃらないからって、さぼるのは良くないわ』
ノラ『外で絵を描けばいいのよ! 教室で果物とか石像とか描くより、よっぽど楽しいわ。ね、良い考えでしょう?』
ハル『(思わしげに庭の方を眺めやった後、黙って水やりを続ける)』
ノラ『(ハルの様子を見て確信したように)……じゃあ私、水車小屋のところで待ってるから(ベランダを出て行く)』
―――……………。
51:
「――――はい」
疲れた体をベッドから無理 矢理起こして、暗がりの部屋をのそのそと歩いていく。
涙をぬぐい、扉を開けると、部屋着の紗枝ちゃんが廊下に佇んでいた。
「夜分遅くにごめんやす……寝るところやったん?」
「いえ、ちょっと横になっていただけです」
「……入っても?」
「ええ、どうぞ」
私は紗枝ちゃんを招き入れて、それから部屋の明かりを点けた。
一瞬、涙を悟られはしまいかと躊躇したけれど、なんだかもう、それすらどうでもよくなってしまった。
紗枝ちゃんを座らせて、私はベッドの上に腰掛けた。
私は沈黙を恐れてすぐテレビの電源を入れた。
バラエティ番組の賑やかな声々が空虚に響く。
夜は九時を回っていた。
「今日はほんまに、お疲れさんでした」
「紗枝ちゃんこそ、お疲れ様でした。私なんか、いろいろとご迷惑をおかけして……」
私はそう言いながら彼女の方へは顔を向けず、代わりにテーブルの足なんぞをぼんやり見つめていた。
そうしていると、また、鼻のあたりがツンとして、顔が熱くなった。
みっともない、恥ずかしい、そう思うと余計、自分が惨めに思われてきて、これ以上、声を出したら本当に泣いてしまいそうだった。
視界の隅で、紗枝ちゃんが静かに立ち上がるのが見えた。
私は部屋の隅の一点を見つめたまま、彼女が隣に腰掛けるのをベッドの揺れる動きで感じた。
52:
もう一度、ベッドが揺れた。
と思うと、今度はすぐ横にぴったりと寄り添って、私の身体の震えを押さえ込むように、そっと肩を抱くのが分かった。
「なぁんにも、迷惑なんてあらしまへんえ」
紗枝ちゃんはそう言って、とうとう涙を零しだした私の熱い頬に優しく手を添えた。
私はしばらくそうして彼女に涙を拭わせるままにしていた。
「ゆかりはんは真面目すぎなんどす。ちょっとやそっと失敗したくらい、だーれも気にしまへん……」
「…………」
「けど、不思議やなぁ。ゆかりはん、本番に弱いようには見えへんかったのに」
不思議……そう、確かに不思議だった。
あれは本番撮影の直前だったと思う。
何か言葉にできない違和感のようなものが視界の隅に……あるいは頭の隅に、ちらちらと舌を出し始めたのは。
その時ははっきり意識していたわけではないけれど、今、思い返してみれば、あの奇妙な影は撮影中もずっと私の周囲にまとわりついていた気がする。
一体、あれはなんだったのだろう? なんだか大事なことを、忘れているような……。
53:
「心当たり、ないん?」
「……分かり、ません」
「ふぅん……」
紗枝ちゃんは曖昧な返事をした。
そして私の頬を冷やしていた手をさりげなく耳元へ向けて、次にその指を私の髪の毛に深く絡ませた。
私は何か大事なことを思い出そうとしていて、そうして彼女が私の髪をいたずらに梳くのをさせるがままにしていた。
やがて彼女はその手を私の汗ばんだ首筋へ、肩へ、腕へ、最後は私の手のひらへ、身体の輪郭を確かめるように、ゆっくりと沿わせていった。
なんだか、頭がぼうっとする。
気分はとうに落ち着いているはずなのに、今日の撮影を思い出そうとすると、もやがかかったように思考が散ってしまう。
ふと、テレビの電源がオフになっている事に気が付いた。
さっき私が消したんだろうか?
54:
横で、紗枝ちゃんが身体をこちらへ密着させながら、私の手をうやうやしく取って眺めだした。
彼女はまるで高価なブランドものの服を試着するように、その細い指で私の手のひらを優しく、注意深くなぞっている。
私の指のひとつひとつに彼女の指が絡まる。
すると、そこだけが奇妙に熱を帯びたように、私と紗枝ちゃんとを結ぶ手のひらにじっとりと汗が滲みだす。
「こっち向いて……?」
はっと気付いた時にはもう、遅かった。
心臓が早鐘を打ち、身体中に悪寒が走る。
振り向いてはいけない、頭ではそう念じながら、それでもやはり、振り向かずにはいられなかった。
私は再び紗枝ちゃんの瞳に魅入られた。
55:
まぶしい月明かりに照らされた夜の海のように、漆黒に輝いていた。
その深い暗闇の奥底に、未知の、巨大な気配を湛えながら、何も知らない小船を波に揺らしている二つの瞳……
それが彼女の正体なのだった。
私はもはや逃げ出すことも叶わず、甘い死を願って身を投げる女のように、彼女の中にどこまでも沈んでいった。
「ゆかりはんの目、ほんま、綺麗やなぁ……ずっと見ていたいくらい」
彼女はそう言ってさりげなく私の手を自身の胸にあてがった。
柔らかい服の上から小刻みに心音が伝わる。
「分かる? こう見えてうち、けっこう緊張しとるんよ。あんましゆかりはんが綺麗やから……」
彼女は悪意のある笑みを浮かべて私をそこへ引きずり込もうとした。
あの時と同じように、私の心はたったひとつの感動に支配され、そしてついに私は、自分のすべてを彼女に預けたいという衝動の他には何も考えられなくなった。
「もう、欲しがりさんやなぁ。……ほな昼間の続き、しよか……」
私をじっと見つめたままの紗枝ちゃんの顔が、ゆっくり迫って来たと思うと、次の瞬間、私たちはキスをしていた。
56:
頭のてっぺんから鈍い衝撃が内臓を貫き、息ができなくなった。
私は瞬きもせず、彼女の黒い瞳を見つめ返しながら、燃えるような熱が身体の内側に沸き立つのを感じた。
彼女の柔らかさが、そこに触れている唇の感覚を通して私の全てを包み込んだ。
四肢は麻痺したように動かず、そのために私はこの熱く濡れた唇の純粋に甘い快楽だけを徐々に、そしてはっきりと味わった。
禁断の果実の味は想像以上だった!
夢の中でさえ、これほどの幸福はかつて味わったことがないほどだった。
私は呼吸するのも忘れて彼女のとろけるような蜜の快感に溺れていった。
どれくらいの間、そうしていただろう。
紗枝ちゃんが時折、私の手のひらを強く握りながら、そうしてぴったり触れたままの唇を少しだけ食むように動かす以外、私たちは静かに、時が止まったように、じっと見つめ合いながらキスするのを止めなかった。
「…………」
やがて、彼女の方から満足したように唇を離した。
紗枝ちゃんはうっとりしたように目を細め、その口は何か官能的な言葉を囁いていた。
しかし私はもはや言葉を発する気力もなく、彼女と離れた後もしばらく夢の中を彷徨っていたので、意識を朦朧とさせたまま、うなだれるようにこくんと頷くほかなかった。
その時、視界がぐらりと揺れた。
直後に眩暈、そして頭痛が続き、思いがけず紗枝ちゃんの胸に倒れかかる。
抱きかかえられ、頭を優しく撫でられながら私の意識は再び夢の中へ沈んでいった。
やわらかくて良い匂いのする彼女の身体はまるで陽だまりのようだった。
私は紗枝ちゃんの子守唄のような囁き声に包まれながら眠りに落ちた。……
57:
 七
翌朝、ベッドの中で目を覚ました。
カーテンの隙間から夏の太陽が射して枕元を輝かせていた。
私はうとうととまどろみながら薄い肌かけ布団をたぐりよせ、それから部屋に冷房が効いていることに気が付いた。
ふとベッドの脇を見ると、紗枝ちゃんがいた。
膝をかかえて床に座り、薄暗い部屋の壁に寄りかかっている。
どうやら手持ち無沙汰に携帯を弄っていたらしかった。
彼女は私が目覚めたことに気付くと「おはようさん」と言って微笑んでみせた。
「よう眠れた?」
「……はい……でも、どうして紗枝ちゃんが私の部屋に……?」
「ふふっ、また寝ぼけて」
紗枝ちゃんは立ち上がると私の方へ歩み寄り、ベッドに腰かけた。
「だいぶ疲れてはったみたいやね」
「……なんだか、とても気持ちのいい夢を見ていたような気がします」
私はそうして夢うつつのまま紗枝ちゃんの眼差しをぼんやりと見つめ返していた。
彼女の黒く美しい瞳はこの暗がりの中でさえ星のように輝いていた。
何かを言いたげに、けれど何も言わずに私をじっと見下ろしている……。
ふいに彼女が、寄りそうようにベッドの上に半身を横たえた。
私の上に、羽毛のように覆いかぶさる彼女の身体の重みは心地よかった。
彼女はしばらくそうして眠るように私の首元に頭を乗せ、私のはだけたシャツの鎖骨のあたりをゆっくりと指でなぞっていた。
58:
やがて彼女は、私を真上から覗き込むように身体を動かし、うっとりした表情で見つめだした。
小さなかわいらしい顔が私の目の前に浮かんでいる。
お互いの熱い吐息がすぐ口元で混ざりあう。
彼女は、その眼差しだけで何かを物語ろうとしているかのように、私と目を合わせたまま、片方の手で起用に布団を剥いだ。
その手が、今度は私の服の下にするりと滑りこみ、お腹のあたりを優しくさすりだす。
そうして彼女は手のひらを徐々に胸の方へと這わせ、やがて私の汗ばんだ乳房へと、その指をゆっくりと食い込ませた。
私は何も言わず、彼女から目も逸らさず、ただ夢見心地のままに彼女の愛撫を肌で感じていた。
「……嫌なら嫌って、言うてええんよ」
その声は震えていた。
私は、彼女の瞳から視線を引き剥がし、そのだらしなく開かれた口元へ――何かを求めようとして、けれどためらうように小さく動いている――いじらしい唇へと目を向けた。
それから、もう一度、彼女と視線を交わし、目を閉じた。
59:
二度目のキスは激しかった。
剥き出しの愛欲が私の唇に注がれ、それがあまりに劇的で情熱的だったので、私は思わず声を出し、のけぞるように枕に頭をうずめた。
が、紗枝ちゃんはそれすら逃すまいとして執拗に私の口を塞ぎ、乱暴に、むさぼるように唾液をすすった。
私は、彼女が注ぐ愛を零さず受け入れることに必死で、ただひたすら求めに応じようと舌を絡ませていた。
私たちは汗も匂いも汚れも忘れて夢中になった。
彼女の舌が、唾液が、愛が、蜜のように私を満たす。
そうして時々、息継ぎのために激しく喘ぎながら甘い声を漏らし、絶え絶えにお互いの名前を呼び合ったりする、それ以外にはなんの言葉も必要としない二人だけの交信を、いつまでも飽かずに続けていた。
60:
……彼女が息苦しそうに目をつぶり、涎の糸を引かせながら唇を離した。
そうしてそのまま崩れるように私の上に倒れかかる。
私たちは激しい運動をした後のように息を荒くして、しばらくベッドの上でぐったりと抱き合った。
力の抜けた彼女の身体が私の胸に重くのしかかっていた。
人の重みをこんなに愛おしいと思ったことはなかった!
私は彼女の重みを感じていたい一心でその細い身体に腕をまわした。
けれどそのうち彼女の方から遠慮がちに身体を退けてしまった。
同じ枕に頭を並べ、私の横で彼女は苦しそうに、疲れたように目を閉じたままゆっくり呼吸した。
「…………ゆかりはん」
「……はい」
「愛してる」
「はい……私も、紗枝ちゃんのことが、好きです」
「だめ。愛してるって、言って」
「愛してます……紗枝ちゃん」
耳元で、ふふっ、と小さく笑う声が聞こえた。
そしてそれは次に、う、う、と喉を詰まらせたような音に変わった。
紗枝ちゃんは泣いていた。
堪忍え、堪忍え……私のすぐ横で、枕に顔を埋めながらそう呟いていた。
私は彼女の方を向き、その震える身体をそっと抱き締めてあげた。……
61:
――その日、私は午前中にフルートのレッスンの予定が入っていた。
しかし結局、あのあと紗枝ちゃんと二人で寮のお風呂に入って、それがまた思いがけず長引いたので、寮を出発したのは予定より三〇分以上も遅れてからだった。
もちろん、レッスンには遅刻してしまった。
事前に遅れる旨を連絡してはいたものの、先生には手厳しく注意された。
というのも、私ときたら、お叱りを受けている最中すら上の空で、ぼんやりしているような有様だったので、余計に叱咤されたのである。
確かに、この日、私はスタジオまでどうやって来たのかうまく思い出せないほど、ぼんやりしていたらしかった。
ただ、レッスンの最中、ずっと呆けていたかというと、それは違う。
むしろ、フルートの演奏に関して言えば、私はいつにないほど伸びやかに、繊細に、豊かに音を鳴らした。
特別なことは何も意識していなかった。
ただ自然に、音の流れに身を任せるように、フルートと向き合っていた。
にも関わらず、私は自分がこれほど思い通りの音色を奏でられることに内心驚いていた。
これについては先生も非常に困惑なさったようで、私がひととおり課題のフレーズを吹き終えたあと、水本さん、今日は一体どうしちゃったのかしら、などと驚きながら仰ったほどだった。
「なにか、おかしかったでしょうか……?」
不安に思い、尋ねると、先生は少し興奮気味に私の調子の優れているらしいことを褒めてくださった。
そうしてこの日のレッスンは、私が遅刻した分を埋め合わせる以上に、大幅に練習プランを進めることになった。
62:
「……はい。昨日、本番の撮影でした」
帰りがけ、先生と雑談した際に、例のドラマの話題になった。
そこで私は昨日のロケについてお話した。
素敵な洋館で撮影したこと、避暑地でも暑くて大変だったこと、色々と粗相をして監督方を困らせてしまったこと……
そうやって昨日の出来事を思い返しながら喋っていると、ふいに、自分が今はそれほど落ち込んでいないことに気が付いた。
先生は、それならそうと言ってくれれば少しくらいの遅刻は大目に見てあげたのに、と仰って(とはいえ、実際に私が遅刻の言い訳をしたとしても、先生がすぐに許してくださるとは思えなかった)、私の疲労を気遣ってくださった。
しかし私は、そんな風に労いの言葉をかけてくださった先生に対しても、ただ一言「次は気をつけます」とだけ答えて、素っ気ない挨拶と共にスタジオをあとにした。
私は、そんな私自身の失礼な態度を省みることもせず、一刻も早く家に帰りたい、そんなことばかり頭の中に思い浮かべていた。
それからの帰り道のことはよく覚えていない。
寮に着いて、私は自分の部屋へ帰るよりも先に、彼女の元を訪れていた。
息を弾ませ、扉をノックしながら私は、外を歩いているあいだ自分がすっかり汗だくになっていることに気が付いた。
もう一度シャワーを浴びなければ、そう考えていたら、ふと今朝のことを思い出して、身体が疼いた。
やがて静かに扉が開き、紗枝ちゃんが私を迎えた。
私は汗の粒を首元に垂らし、薄いブラウスの下に肌着を透かせて彼女の目の前に突っ立っていた。
紗枝ちゃんが薄く微笑みかけるように言った。
「おかえりやす」
「……ただいま」
63:
 八
これらの夏の一切が私たちをすっかり新しい生き物へと変えてしまった。
私たちは夏休みの間に残された僅かな時間を、それが許すかぎり常に二人きりで過ごすよう努めた。
というのは、私たちは二人きりになると大抵、なんらかの淫行に耽るようになっていて、いつしかそれが私と紗枝ちゃんの生活の中心になっていたからである。
こうした情事において、紗枝ちゃんはどうやらかなり手馴れているらしかった。
一方、私なんぞはまるっきりの無知で、それこそ自慰の仕方すら彼女に教えてもらうくらいだったので、最初のうちはほとんど彼女にされるがままだった。
とはいえ、一週間も経てば私にもそれなりに心得ができて、彼女から教わる他にも自ら雑誌やネットで調べるようになった。
ある日など、珍しく私から誘って、自分なりの努力を彼女に認めさせようとしたことがある。
しかし彼女の、毅然として誇りに満ちた情熱の前では私の付け焼刃な知識などまるで無力だった。
結局、弄ばれるのはいつも私の方だった。
彼女はしもべを従える女王のようにその麗しい瞳で私の魂に命令し、心と自由を奪った。
主導権は常に彼女の手中にあり、私がそれを手にすることはついぞなかった。
というよりも、私自身、彼女への服従こそがこの関係のもっとも自然で合理的な形だと信じていたので、叛逆する意志など最初から無かったのである。
こうして私たちは、その一方的で不可逆な関係のもとに、夏休みの最後の日々をセックスに明け暮れて過ごしたのだった。
64:
この頃、確かに私たちはお互いに夢中になっていた。
しかしそれは必ずしも自堕落で無制限な生活に落ち込んでいたことを意味しているのではない。
むしろ私たちは、この愛を成熟させるためにますます賢明であろうとした。
それは結果として、私たちのもう一方の生活をも、より善い方向に発展させていった。
あの日以来、ドラマの撮影はすべてが順調に進んでいた。
本番初日の悪夢は本当にただの悪い夢に過ぎなかったのだと、私はまるで病床から快復した人のように、癒えた後ではそれがどんなに辛かったかも忘れてしまうほどだった。
かつてスタッフの方々を幻滅させた私のおろおろした態度は二度目のロケの時点ですでに見る影もなくなっていた。
カメラが回れば堂々と主役を演じてみせ、急な演出の変更にも難なく応じた。
そうして私は、過去に被った汚名を返上するのみならず、その仕事ぶりにおいても、監督を含めた多くの方から改めて高い評価をいただいたのである。
こうした著しい変化は私自身をも驚かせた。
あの日、紗枝ちゃんと一夜を過ごし、そこに私たちの新しい巣を築き始めた瞬間から、世界はまるで違ってしまったようだった。
何もかもが――少なくとも私と紗枝ちゃんを中心とした物事のすべてが――うまくいった。
私は、ともすれば尊大になりがちなこうした全能感をも自らの意志で……いや、正しくは紗枝ちゃんへの忠義において律し、分別をつけ、何よりも優先すべき彼女との時間を守るために、かえって他のあらゆる瑣末事に真剣に取り組むようになったので、自分でも思いがけないくらいに充実した毎日を送るようになったのである。
65:
ただひとつ、不安があったとすれば、私たちの秘密を誰かに悟られはしまいかということだった。
私たちは表向きにはいつもと変わらず、気の合う友人同士を演じていた。
あるいは勘の鋭い人ならもしかしたら、私たちの間に時折交わされるさりげない目配せや意識的な距離感から何らかの気配を感じ取ったかもしれない。
とはいえ、勘繰られたり、察せられる程度ならまだ誤魔化すことはできる。
問題だったのは、紗枝ちゃんが時として人目につくような場所でさえいじわるになり、私たちの努力を無に帰すような危険へと自ら飛び込もうとすることだった。
例えば、私たちが二度目のロケに赴いた際、ホテルのロビーで唐突に彼女にキスされたことがあった。
その時のロケは四日間の泊りがけで、私と紗枝ちゃんはツインルームで一緒に寝泊りしていた。
それなのに彼女は、わざわざ人目につきやすい場所で偶然を装うように私の唇を盗み、挙句、私が慌てふためく様子を見て楽しんでいた。
私をからかうために、あるいは私たちの愛を試すために、しばしば彼女はそうやって無謀とも勇敢ともつかない賭けをした。
時には変装しているのを良い事に街中で堂々とキスをせがむことすらあった。
私はそのたびに困り顔をして彼女を暗に非難しながら、かと言ってはっきりと拒むこともできず、結局なし崩し的に受け入れてしまうのだった。
66:
そして実際、そのアンモラルな冒険はひどく私を興奮させた。
彼女はまるで手品か魔法のように私たちの秘密を神秘のベールに包み、どんなに危険な賭けに出ても肝心の証拠が人々の目に留まることはなかった。
それこそ最初は、彼女のそうした愚かな振る舞いに不信感すら抱いたこともあったけれど、やがてそれが彼女の未知の力によって守られた安全な遊戯にすぎないと分かると、私もつい甘えてしまって、しまいには彼女とのそんな無邪気な戯れにすっかり身を投じてしまったのだった。
とはいえ、それで私の中にある疑念のすべてが拭い去られたわけではなかった。
疑念、あるいは不信感……
いや、むしろ彼女に対する信頼と尊敬の念は二人で生活を共にするうちにますます確かなものになっていった。
にもかかわらず、私にとっての『小早川紗枝』という人物は、その声を聴き、その肌に触れ、その心を知ろうとすればするほど私から遠ざかっていくように思われた。
彼女は、自身を包む神秘の霧の向こう側から私に声をかけ、手招きし、美しい幻影をちらつかせながら、そうして魔の森へ迷い込んでしまった私をあざ笑う、いたずら好きの妖精のようだった。
つまるところ私が抱いた疑念というのは、彼女の気まぐれな振る舞いに対する戸惑いであり、友人同士だった頃には知り得なかったもの、彼女の謎めいた素顔に対する戸惑いなのだった。
67:
特に顕著だったのは、彼女が不機嫌になった時である。
仕事か、お稽古事か、あるいは勉強か、いずれにせよ何か嫌なことがあると彼女は静かに怒りを溜め込み、さりげなく私にその不満をぶつけることがあった。
それは愚痴で済む場合もあれば、時には暴力めいた行為となって襲い掛かる場合もあった。
もちろん、手を上げたり、直接傷つけたりするというわけではない。
ただ、そう……たとえばセックスをする時など、いつもより激しくなったり、痛いくらいに愛撫するのをやめなかったり、それこそ私が疲れ果ててぐったりしていてもお構いなしに、執拗に責めてくるようなことが少なくなかった。
そんな時私は、しばしば彼女の目にひどく冷たい残酷な表情を発見した。
喉を締め付け、血を凍らせるような殺意に満ちたまなざしが、ほんの一瞬だけ彼女の表情を横切るのだ。
しかしそれは決して私たちの関係を脅かすようなものではなかった。
むしろ私は、彼女の不可解で掴みどころのない心が、そうして星のように小さく燃え出す瞬間、彼女の冷たい炎が私の影を焦がすその瞬間にこそ、私たちの永遠の絵が刻まれていく、そんな気持ちがするのだった。
68:
「うちが死んだら、ゆかりはんも一緒に死んでくれる?」
ある夜、ベッドの中で突然、紗枝ちゃんが言い出した。
蒸し暑い夜で、私たちは少しばかり汗をかいた後だった。
私は暗闇の天井をぼんやり見つめながら、その声色に込められた意味をゆっくりと噛み締めて、
「うん」
と答えた。
すると彼女は何も言わずに私に抱きついてきて、強引に自分の方へと振り向かせた。
なんだろうと思っていたら、彼女はぐずぐずと鼻をすすっていて、どうやら泣いているらしかった。
私が、どうしたの、と驚いて尋ねても、彼女は無言のまま、抗議するように私の胸へ、その涙に濡れた目をぎゅっと押し付け震えてばかりいた。
これが彼女なりの甘え方なのだ、と思った。
だから私は、彼女が語り出さないうちはそれ以上、自分から理由は聞かないことにした。
それに、聞いたところで素直に答えてくれるような彼女でもなかった。
その頃、すでに私たちは言葉や会話によって心を通わせることにあまり関心を持たなくなっていて、不完全な、取り繕ったような愛の言葉を囁くよりかは、お互いの沈黙と視線と肌とを、その未分化な身体をそのまま交わらせる方がずっと私たちの愛の形にふさわしい、そんな風に考えるようになっていた。
この考えは果たして愚かな思い上がりだろうか?
信頼と甘えを履き違え、愛と恋を区別することのできない未熟さが私たちを怠惰な安楽へと落ち込ませている……確かに、それもひとつの見方かもしれなかった。
あるいは私自身、彼女の本当の心を知りたいと願っていながら、一方ではその正体を怖れていたせいかもしれなかった。
69:
が、どちらにせよ泣いている彼女に対して私がしてあげられることと言ったら、物言わぬ人形のようにじっとし、彼女の欲しがるままにこの肉体を差し出すくらいなものだった。
けれど私にはそれだけで十分だったのだ。
自然に湧き出る水のように望むまま彼女の渇きを潤し、そうして無条件に自らを与え続けながら同時に、私自身、彼女に何かを与えられてもいたから……。
やがて紗枝ちゃんは私の腕の中で眠ってしまった。
私は彼女を起こしてしまわないよう、ゆっくりと手を伸ばして冷房の温度を少し下げ、それから足元の薄い羽毛布団を引っ張ってきて彼女の肩へ掛けた。
微かに熱を帯びた彼女の頭が私の鼻先にシャンプーの香りを漂わせている。
子猫のように儚い寝息が私の胸元で泳いでいる。
窓の外、カーテンの向こうでは巨大な街が、低い唸り声を上げながら焦げ付いた夜の底に沈んでいる。
私たちの夏休みがもうすぐ終わる。
70:
 九
学校からの帰り、紗枝ちゃんと駅で落ち合う約束をしていた。
ドラマの完パケが事務所に届いたので、せっかくだから一緒に見よう、という話だった。
駅に着くと、紗枝ちゃんが見慣れない制服姿で改札口の隅に佇んでいた。
「今日なぁ、あやうく居残りさせられるところやってん」
「え。もしかして、赤点とか?」
「ちゃうちゃう。このままやと出席日数足りひんさかい卒業できませんよー言われてな」
「ええっ、ならこんなことしてる場合じゃ……」
私が言うと、彼女はまるで他人事のように軽い調子で、
「いつでも出られる補講とゆかりはんとの大事なお仕事、どっちを優先する言うたら、決まってますやろ?」
「もちろん、補講が優先です」
「あほ」
紗枝ちゃんは言いながら嬉しそうに私の手を取って歩き出した。
困った人だな、私も半ば呆れながら、まあ、彼女のことだからきっと上手くやっているんだろう、そう思って隣に並んで歩いた。
71:
外に出ると、街は今にも雨が降り出しそうな気配だった。
私はふと往来の中に手をかざして空を見上げた。
そして何気なく、
「雨の匂いがする」
と呟いたら、紗枝ちゃんが「なにそれ」と小馬鹿にしたように言うので、それから事務所に着くまでの間、私は雨の匂いについて彼女に長々と説明する羽目になった。
……と言いつつ、私も匂いの正体なんて分からないから、結局は自分の子供時代の思い出ばかりしゃべっていたけれど。
「あ。そない話してたらほんまに降ってきた。ほら……」
今度は紗枝ちゃんが手をかざして空を見上げた。
すると私の頬にも小さな雨粒が当たるのを感じた。
私たちはおしゃべりするのをやめて早足に道を歩きだした。
幸い、すでに会社の近くまで来ていたので、建物に駆け込んだ時には服と髪の毛をほんの少し濡らしたくらいで済んだ。
72:
「ゆかりはん、肩が……ちょっと、こっち向いて」
エントランスで立ち止まり、紗枝ちゃんが鞄からハンドタオルを取り出して拭いてくれた。
「ありがとう」
すると彼女は私の濡れた髪の毛を撫で付けながら、
「こうしてると一段とせくしーに見えるわぁ」
などと言うので、私は照れ隠しに彼女の腕にかかったタオルをさっと奪い取り、顔を拭くフリをしてごまかした。
あーあ、と彼女が残念そうに呟いた。
「紗枝ちゃんも、そのままだと風邪ひくよ」
私もまた同じように彼女の髪を拭いてやり、ついでにそのすべすべした頬や汗ばんだ首筋にさりげなく触れてみた。
その間、彼女は行儀の良い犬のようにあごを私の方へ突き出し、目を細めてじっとしていた。
不意に、胸の奥で血が騒いだ。
私は思わず息を呑み、彼女のくちびるがグロスに濡れて輝いているのに気付いた。
「おおきに」
彼女はタオルを仕舞いながら薄く笑みを浮かべ、それから小さく目配せした。
私は辺りをキョロキョロと見渡して、――まだ、プロデューサーさんとの待ち合わせまで時間がある――そんなことを頭の中で計算していた。
そうして私たちは事務所に行く前に別のフロアへ寄ることにした。
単に、そう、髪が乱れたから直さなければ……それだけなのだ。
何も、やましいことなんてない……私はそうやって自分に言い聞かせながら、彼女に手を引かれて一緒に人気のない御手洗いに入って行った。
73:
「……やっぱり、その……少し、恥ずかしいですね」
「ふふ、いまさら照れんでもええのに」
「紗枝ちゃん、ずるい。私ばっかり……」
「恥じらうゆかりはんもかいらしどすえ」
「あ、次。紗枝ちゃんの出番ですよ」
「…………」
「ちょっと。どうして止めるんですか」
「あー、なんや喉渇いてきたなぁ。うち、ちょっと飲み物買うてきますわ」
「だめ。逃しません。しっかり見てください」
椅子から立ち上がろうとする彼女を押さえつけ、私はリモコンの再生ボタンを押した。
ドラマの第一話、宿舎の空き教室でレコードに聞き入っている少女ハルのところへ、授業を抜け出した主人公ノラが偶然通りかかる。
それが紗枝ちゃんの最初のシーンだった。
病気がちで、性格は控えめだけれど芯の強い少女ハルの役を、そのわずかな表情の変化だけで見事に演じきっている。
儚げで上品な彼女にぴったりの役だった。
一方、私の隣に座っている紗枝ちゃんときたら、赤くなった顔を両手で覆って、柄にもなく慌てているようだった。
何もそんなに恥ずかしがらなくても、と思ったけれど、私もあんまり人のことは言えない。
実際、撮影本番の時にはなんでもなかったのに、こうやって編集された映像を見ると、自分の演技の細かい部分がはっきり見えてしまって、つい目を逸らしたくなってしまう。
しかも、それを他の人と一緒に見るとなれば尚更である。
私たちがテレビの前できゃあきゃあ言い合っているのを見て、プロデューサーさんは笑っていた。
この日、検品で送られたビデオは二話までだった。
三話以降については、言えば放送前に見せてくれるらしい。
けれど、それだけのためにわざわざプロデューサーさんに時間を取らせるのも申し訳なかったので、三話以降は放送された際に各自で確認する、という運びになった。
74:
それからしばらく、私と紗枝ちゃんは撮影を振り返りながら思い思いに感想を言い合っていた。
「……なんだか、難しいストーリーだったね」
「そう? うちはむしろ分かりやすい話やなぁ思うたけど」
「だって、結局、ノラもハルも愛について何も分からないまま終わっちゃったし……」
「んー、言われてみればせやなぁ。でも、たぶんやけど、脚本の人そこまで深く考えてへんかったと思う」
「そうなの?」
プロデューサーさんにも意見を伺ってみたところ、いや、あれはあれで良いんだ、と一言フォローしたきり、この議論に口を挟むつもりはないらしかった。
「そういえば、まだ最終話の台本を貰う前にな。うち、ハルは最後きっと死ぬんやろなぁ思てたんよ」
「確かに、ちょっとそんな雰囲気あったよね」
「正直、ハルが死んでまうような展開やったら、も少し分かりやすくておもろい話になったんちゃうかなって」
紗枝ちゃんは言ったあと、ほほ、と笑ってごまかした。
プロデューサーさんがいる手前、大っぴらに作品の出来を批判するのも悪い……そんなジェスチャーだった。
とはいえ、実際、紗枝ちゃんの言うように、ドラマ『あいくるしい』のストーリーにどことなく中途半端な感じがあるのは確かだった。
あるいは、物足りなさ……つまり、語られるべきことが十分に語られなかった、というような、そんな終わり方だったので、なんとなく消化不良な印象を受けるのかもしれない。
75:
ドラマの大筋は、主人公ノラが、そのわんぱくさと無邪気さゆえに友人ハルの病態を悪化させてしまい、罪悪感と自責の念に苦しみながらも、一方では自分が傷つけたはずのハルによって救われていく、というものだ。
要するに、ある平凡な少女のささやかな青春譚である。
このドラマではそうした大まかなストーリーを中心に、他の生徒たちや先生との交流、あるいはちょっとした事件などが描かれていて、お話自体はそこまで複雑ではない。
ただ、主人公ノラが物語を通してどのように罪の意識を克服し、また愛を知るようになっていったのか、その内面が劇中でははっきりと示されないのである。
それはもちろん、私の演技が未熟なために伝わっていない、という部分もある。
しかしそれを別にしても、抽象的な会話が多かったり、ところどころ説明が省略されていたりするので、特に主人公ノラの心の機微を理解するためにはひとつひとつのシーンを注意深く追っていく必要があった。
逆に言えば、注意深く見ていないと、ノラが単なるわがままで奔放な子供という印象のまま終わってしまう可能性すらある。
そういう意味ではむしろ、『愛を伝える少女』ハルの健気さの方がよっぽど人物像として分かりやすい。
精神的に幼く、まだ発展途上にあるノラがその未熟さゆえに周囲から徐々に孤立していくのに対し、病床に伏しているハルだけが唯一、彼女の味方になってくれる。
その優しさに満ちた心こそ、まさに人々が思い描くような理想の愛の形ではないだろうか?
そしてハルの優しさはけっして臆病から来ているのではなかった。
彼女はたとえ相手が大人だろうと自分の主張を曲げようとしない頑固な一面もあった。
その点においてハルとノラは似た者同士だった。
が、ハルのやり方はノラが子供のように駄々をこねるのとはまるで違っていた。
毅然と相手の目を見つめ、言葉少なに、我慢比べでもするかのように、静かな情熱で空気を支配するのである。
この、己の信念に対する厳しさもまた、ハルに備わっている愛の素質の一端であり、そして紗枝ちゃんが彼女らしい芝居で見事に表現してみせた、ハルの魅力の本質でもあった。
そう、確かにハルは魅力的だった。
人々を愛し、あるいは愛を伝える役目を担いながら、それと同じくらい、彼女はみんなから愛されるべき人物だった。
事実、作中においても、施設の誰もがハルを慕い、彼女に好意を抱いていたのだ。
ただひとり、ノラを除いては……
76:
「……ゆかりはん?」
「え?」
「どないしたん? ぼーっとして」
私はまとまらない思考をむりやり頭の隅に退けて、なんでもないよ、と答えた。
ふと、時計に目をやると、夕方はすでに六時を回っていた。
私はさりげなく紗枝ちゃんに目配せし、鞄を手に取った。
そろそろ帰ります、私がそう言って席を立とうとした時、プロデューサーさんに、水本、と呼び止められた。
話がある、そう言って、私の横にいる紗枝ちゃんに小さく謝るようなそぶりをした。
紗枝ちゃんは一言、お邪魔しました、と頭を下げ、静かに会議室を出て行った。
扉が閉まった後、プロデューサーさんは改まったように私の方へ向き直り、口を開いた。
次の仕事だが、実は――そう切り出して、新しいユニット結成、ローカル番組のレギュラー出演、公演のオファー、そんな話が矢継ぎ早に私の耳に聞こえてきた。
まだ正式に決定したわけではないが……と言いながらプロデューサーさん自身、話しぶりにも徐々に熱が入ってきて、最後は嬉しそうに、私の努力の実ったことを称えてくださった。
それは確かに、嬉しいニュースに違いなかった。
私は、思いがけず降ってきたこのチャンスに、おそらくプロデューサーさんが期待した通りの反応を見せた。
まずは、驚き、それから、喜びと興奮のために、いつになく声を大きくして舞い上がってみせて……
しかし私は、そうして分かりやすい感情を表に出しながら、一方、自らの言葉をまるで他人事のように聴いていた。
もちろん、喜びがなかったわけではない。
にもかかわらず、私は自分の喉が震えるのを、どこか遠くから聴いているような気分だった。
心の声はまったく違う言葉を私に言い聞かせようとしていた……が、もはやその声も明るい光の中にかき消される寸前だった。
私はそうして私の喜びと感謝の表情を演じてみせながら、一方、この目はただ、窓の外にとうとう激しく降りだした雨と、その夕闇の景色に浮かび上がる私の影とを、ぼんやりと見つめてばかりいた。……
77:
「あっ」
一階のロビーの隅に紗枝ちゃんの姿を見とめた瞬間、すぐに異変に気がついた。
私は歩き出しかけた足を不安定な姿勢で支えながらその場に踏みとどまった。
大理石の玄関ホールは音がよく響いた――私の足音が彼女に聞こえないはずがなかった、それに先ほど発した「あ」という声も――しかし彼女はガラス壁の向こうの景色をじっと見つめたまま私の方を振り向こうともしなかった。
私は深呼吸し、気持ちを落ち着かせた。
それから絞首台に向かう囚人のようにゆっくりと歩き出し、彼女の横に並んで立った。
「紗枝ちゃん」
私の声は緊張で震えていた。
彼女は何も答えなかった。
沈黙が嵐のように私の心をかき乱した。
彼女に許しを乞わなくては――私はそんな焦りから咄嗟に口を開いた。
が、舌はひりついた空気に焼かれたように麻痺していて、代わりにかすれた呼吸が虚しく吹いただけだった。
「……雨、降られてもうたなぁ」
ほとんど聞き取れないくらいの小声でようやく紗枝ちゃんが呟いた。
私は慌てて鞄から折り畳み傘を差し出した。
しかし彼女は相変わらず私の存在を脇に置いたまま外を眺めやっていた。
ビルの表通りは滝のような雨の中に夜の火を灯している……紗枝ちゃんはそうして雨の底に沈みゆく都会を、そこに時々行き来する人々の姿を軽蔑するように見下ろし続けていた。少なくとも私にはそう見えた……あるいは彼女が、その神のように気まぐれな怒りから街の全てを海の底に沈めようとして、そのためにこの絶望の黒い雨を降らせているかのようだった。
「次のお仕事はうまくいくとええなぁ?」
彼女が再び独り言のように呟いた。
空調の音にかき消されそうなくらい小さな声だった。
しかし私を屈服させ、魂を支配するにはそれだけで十分だということを彼女は知っていた。
78:
怒鳴りつけられたような気分だった。
思考力を奪われ、言葉にならない声が私の喉から搾り出された。
私の心臓はもはや彼女の手のひらの上にあり、まるで命乞いをするようにどくどくと波打っていた。
あとほんの少し、その手に力を込めさえすればいとも簡単に握り潰されてしまうような儚い命……
いつの間にか私を見つめ返していた彼女の、その凶器のような光を湛えた瞳が、私にそんなイメージを思い起こさせた。
この時、思わず私が彼女から目を逸らしてしまったのはけっして彼女の怒りと罰を恐れたためではない。
ましてや気まずい沈黙をごまかすためでもない。
私の心は奇妙な興奮に包まれていた――かつてこれほどまでに彼女の正体に近づいたことがあっただろうか?
しかも、彼女の情熱と殺意に濡れた瞳の美しさといったら!
そこにあるのは怒りでも悲しみでもなく、憐れみと哀願に傷ついた痛々しい欲望だった。
私はようやく理解した……いや、実はずっと前からすでに分かっていたことだった。
彼女はただいたずらに私を傷つけようとしていたのではなく、そうするより他に私を求めるすべを知らないのだ。
だから私は彼女から目を逸らさずにはいられなかった、その弱さがあまりにも愛おしくて哀れだったから。
もしこのままお互い見つめ合っていたらきっと私は自らの命をも惜しまず彼女に捧げてしまっただろう、この愛と喜びの全てを伝えるにはそれしかないと思ったから。……
が、それも一時の錯覚にすぎなかった。
やがて私は胸の奥からこみ上げてくる興奮をとうとう押さえきれず、再び彼女の視線と向き合った。
しかし彼女の漆黒の瞳に貫かれても私は死ななかった!
私が夢見ていた甘い死の運命は所詮、ただの憧憬でしかなかったのだ。
ところが私の中に芽生えだしたこの激しい感情は宿主が死の願いを果たせなかったために行き場を失ってしまい、結果として私の身体を衝動に任せるまま突き動かした。
79:
「んっ」
紗枝ちゃんの短い叫び声が私の唇に塞がれて止まった。
一瞬の出来事だった。
気付けば私は彼女の身体を強く抱きしめていた。
紗枝ちゃんの驚きに見開かれた瞳が目の前で瞬いている。
次いで、怒り、それから、苦悶の表情へ……
私の両腕はその細い身体を砕きかねないほど強く締め付けていた。
彼女の喉からくぐもった声が漏れ、二つの鼓動が重なるように胸に響く。
その手は乱暴に私の制服や髪の毛のあちこちを掴み、引っ張って、もがいている。
「……!」
はっと我に返って、咄嗟に唇を放した。
一体、私は何をしているんだろう……目の前の紗枝ちゃんの困惑した表情、怯えたような唇のわななき、そして私を呆然と見つめるばかりの潤んだ瞳に、私は自分がしでかした事の恐ろしさを少しずつ、やがてはっきりと理解し始めた。
「紗枝ちゃん、私……」
そう言いかけて、今度は紗枝ちゃんが、私の声を塞いでしまった。
私は慌てて彼女から離れようとした……しかし彼女はそうして逃れようとする私の首に素早く腕を回し、ぶら下がるようにしがみついて、一切の言い訳を許さないとでも言うように、その熱っぽい唇で私の口を封じたのだった。
80:
――だめ、違う、こんなこと――私は心の中で叫んでいた。
しかしそれとは反対に、私の腕は紗枝ちゃんの背中をしっかり抱いて離さなかった。
混乱と後悔の渦の中で、もうひとりの私が叫んだ
――紗枝ちゃんを手放したくない。彼女とひとつになりたい。それ以外は、何もいらない――
胸が張り裂けるような思いだった。
そしてこの苦しみから逃れる方法はただひとつ、彼女のその眠りのように優しいキスを受け入れることだけだった。
私は息をするのも忘れ、腕の中で紗枝ちゃんの血がどくどくと波打つのを感じていた。
数秒、数分、もしかしたら、永遠……どれくらいの間、私たちはそうしていただろう?
夜の向こうで、雷光が走った。
私たちはいつの間にかキスするのを止めていた。
そしてじっと向かい合ったまま、お互いの瞳の中を探るように見つめていた。
「…………」
どちらかが、何かをしゃべったらしかった。
しかしそれは雷鳴にかき消されて聞こえなかった。
私は――あるいは紗枝ちゃんは――二人にしか分からないような合図の微笑を浮かべて、それからもう一度、お互いの唇に小さく触れるだけのキスを交わした。
穏やかな……そう、私たちにはそれで十分だったのだ。
81:
帰り道、私たちはひとつ傘の下、半身を雨に濡らしながらぴったりくっついて歩いていた。
「明日の週刊誌が楽しみやなぁ」
出し抜けに紗枝ちゃんが言いだした。
何の話だろう、そう思って私は無邪気に尋ねた。
「何か、気になるニュースがあるの?」
すると紗枝ちゃんはしばらく間を置いて、
「……ゆかりはんは呑気でええどすなぁ」
と言ったきり、質問には答えてくれなかった。
紗枝ちゃんも週刊誌なんて読むんだ、私はそんなことを考えながら、雨粒が跳ねる道を彼女の歩幅に合わせて歩いていた。
やがて赤信号に捕まって、傘を手にぼうっと雨夜のビルを見上げていたら、唐突に彼女の言っていた事の意味を理解して、さあっと血の気が引いた。
「私たち、記事にされちゃうのかな……?」
隣で、彼女がぷっと吹き出した。
「じょーだん、さっきのは冗談どすえ。うちらみたいな半端もん、すくーぷしたって誰も関心持たれへんやろ」
彼女はそう言うけれど、やはり私は不安だった。
もちろん、覚悟していたことではあった。
でも、いざ世間に私たちの秘密が知られてしまうことを考えると、自分の行動が果たして正しかったのか、自信が持てなくなる。
それがたとえ限られた範囲のごく狭い世間であっても……
いや、むしろ私が本当に恐れていたのは、世間などという曖昧なものでなく、もっと具体的な、私のすぐ身近にある何かではなかったか?
けれど、それが一体何だったか、私はすぐには思い出せなかった。
82:
「紗枝ちゃんは不安になったり、怖くなったりしないの?」
「んー……べつに?」
信号が青になって、彼女が先に歩いて行った。
私は慌てて傘を差し出しながら後に付いて歩いた。
「相手が男ならまだしも、うちら女同士やし。そら、プロデューサーはんやらふぁんの方々やら、びっくりしはるとは思うけど……そやかてべつに、怒られるっちゅうほどのもんでも無いんとちゃう?」
その口ぶりからして、彼女は本当にこの状況をなんとも思っていないらしかった。
まったく、紗枝ちゃんも大概、呑気なんだから、そう言いたくなるのをぐっと堪えて、私は黙った。
「あ。今、うちのこと呑気な人やなぁとか思てたやろ」
「そんなこと……!」
図星を突かれて、あからさまに言葉に詰まってしまう。
「ふふっ、ゆかりはんってほんま、分かりやすうておもろいどすなぁ。……けど、今日のことに関しては正直、うちも本気で驚いたんよ……まさかあんな場所でいきなりきすされるなんてなぁ。ゆかりはんも大胆どすえ」
彼女はそっぽを向きながら、まるで独り言のように、それも雨音の中で私に聞こえるくらいはっきり呟いたので、私は慌てて傘の屋根を下げ、辺りを憚るように小さく耳打ちした。
「聞こえちゃうよ……」
あっ、と思うより早く、彼女の手が動いて、傘の柄を弾き飛ばした。
驚きに固まる私の顔を、彼女の濡れた両手が乱暴に引き寄せる。
道行く人々の視線が一斉に私たちに注がれる。
土砂降りの雨に打たれながら私は、彼女の額に、瞼に、頬に、涙のように流れ落ちる水滴をただじっと見つめている。
それから、ゆっくりとお互いの唇をほどいて、私はその薔薇のように深い瞳の中を覗きこむ。
83:
「あんな、ゆかりはん。うちはもう、自分のことも、他人のことも、どうでもええの……けどな、ゆかりはん。あんさんだけは、うちのそばに居てほしい。遠くに行って欲しくない。ずーっと、いつまでも……うちの言ってる意味、分かる?」
「うん……分かるよ」
しかし彼女は相変わらず私の顔を切なそうに見つめたきり、その手を離そうとはしなかった。
歩道沿いに並んだ店の柔な明かりが、ずぶ濡れになった私たちの表情を淡く照らしている。
そうして道の真ん中で突っ立ったままの二人と、足元に転がっている傘とを、通行人たちが訝しげに避けて歩き過ぎていく。
「帰ろう?」
私は彼女の両手をそっと剥がして言った。
それでも彼女はすがるような目で私を見つめるのをやめなかった。
以前、ベッドの中で泣きながら私に抱きついてきた時と同じように……そして結局、私が傘を拾い上げ、その手を取って歩き出すまで、彼女は放心したようにその場から動こうとしなかった。
私はそうして私以外の何物も見ていないような彼女の、その危なげな足取りを介助してやりながらなんとか帰路についたのだった。
寮に着いて、私は紗枝ちゃんを連れてそのまま自分の部屋に帰った。
部屋の扉を閉めてすぐ、私たちは濡れた服を脱ぎ散らかしながらお互いの汗と唾液と愛液を貪るように求め合った。
この瞬間、私たちはもはやセックスすることしか頭になかった。
それこそベッドに行く手間すら惜しんで、部屋の入口に立ったまま、床に散らかった服や下着を蹴飛ばしながら、それでも尚、そんなことは気にも留めずに、お互いの肉体を獣のような欲望で満たしていった。
84:
夕食も、シャワーを浴びるのも忘れて、私たちは愛し合った。
彼女の細い指が私の一番深いところまで潜り込んで、ゆっくりと掻き回した時、同時に舌を吸われながら私は、お腹の底から幸福感に満たされていくのを感じた。
また、私がその燃えるように熱い肉膣を愛撫しだした時の、彼女の淫らな表情といったら!
だらしなく口を半開きにし、虚ろな眼差しで快楽に身を悶えさせる彼女の姿はほとんど半狂乱だった……いや、狂っていたのは私も同じだった。
私たちは素肌を空気に晒しながら家具や壁のあちこちに身体をぶつけ、汗とも愛液ともつかない汁をそこらじゅうに撒き散らしながらセックスに没頭した。
そうして何度目かの絶頂の果てに、とうとう力尽きて身動きの取れなくなった私たちは、気付くと床の上に重なるようにしてぐったりと横たわっていた。
紗枝ちゃんのベタついた身体が私の下敷きになって苦しそうに喘いでいる。
彼女の心音が、押しつぶされた乳房の柔らかな感触の向こうにどくどくと響いている。
疲れきってぼんやりした頭で私は、彼女の汗ばんだ肌の火照りを、手のひらに、腕に、足に、胸に、全身に染みるように感じ入っていた。
やがて私は気だるい身体をやっとの思いで動かして、仰向けになっている彼女の表情を覗き込んだ。
彼女は虚ろな瞳で天井を見つめ、深く息を吐きながら、まだ身体の中に残っている絶頂の波に震えながら浸っていた。
「紗枝ちゃん」
そう呼びかけてようやく我に返った彼女の身体を、抱き起こし、引きずるようにベッドまで連れて歩く。
そのままもつれるように布団の中に倒れこむと、疲労と倦怠がにわかに私の身体にのしかかってきた。
……いつの間にか夢を見ていた。
嫌な夢。楽しい夢。怖い夢。……過ぎ去った記憶の欠片が、フィルムのように瞬いては消え、現れては移り、そうして残された微かな匂い、景色、感情……雪のように儚い思い出たち。ずっと昔の、お母さまの笑顔。小学校の校舎、クラスメイトたち、そして、フルートの先生、プロデューサーさん。それから、スキャンダル、非難、罵倒、東京で出会った人たちの、失望の声……
最後に見たのは、故郷の夢だった。
家族に囲まれて、幸せに暮らしている。
するとそこへプロデューサーさんが、紗枝ちゃんを連れてやってくる。
紗枝ちゃんが私に微笑みかける。
振り返るとお母さまが、吹雪の中に泣き崩れている。
私は選択を迫られる。
そして……。
85:
次の日、学校から帰って、プロデューサーさんに電話をかけた。
自室のベッドに腰掛けて、その隣には紗枝ちゃんがいつものように寄り添って座っている。
彼女は私の手を握りながら、息を潜めて私とプロデューサーさんの会話に聞き耳を立てている。
「……はい。突然、すみません……いえ……それで、あの、先日のお話なんですが……ええ……その、実は少し考えさせてほしくて、だから……はい……そうです……え? 理由、ですか?」
「…………」
「……進学……そう、進学、するので……ええ、それはもちろん……その、別にアイドルを辞めたいわけではなくて、ただ、進学を機に、もう少し落ち着いて考えてみようかなって……はい……はい……すみません、今はちょっと……はい……また後ほど……失礼します」
「……大丈夫そう?」
電話を切ったあと、紗枝ちゃんが心配そうに私の顔を覗きこんだ。
「……分からない、けど……たぶん、昨日のことはまだプロデューサーさんの耳には入ってないと思う」
「ちゃうちゃう、そうやなくて、プロデューサーはん納得してへんかったんやろ?」
「……うん」
「うまく説得できそう? これから……」
私は曖昧に頷いて返事をした。
正直、自信はなかった。
けれど、紗枝ちゃんとずっと一緒に居たいという私自身の願いのためには、こうするしかなかった。
紗枝ちゃんが望む限り、私には他の生き方なんて選べなかったのだ。
静まり返った部屋で、紗枝ちゃんが慰めるように私を抱きしめ、言った。
「ありがとう……ゆかりはん。うち、ほんまに嬉しい。愛してる……」
私たちは眠るように見つめ合った。
不意に、ある予感が胸の奥で激しくざわめきだす。
しかしそれも一瞬の眩暈のうちに消え失せて、後にはただ、漠然とした不安だけが、舞い上がった砂埃のように私の心に広がったきり、なかなか去ろうとしなかった。
私はそうして私を見つめる紗枝ちゃんの表情をぼんやりと眺めながら、彼女の背後、その幸福の影の中に、いつか見たあの夕焼けの追憶をまざまざと蘇らせていた。……
86:
それから私たちは雨が上がってすっかり涼しくなった十月の夕暮れを二人、歩いて買い物へ出かけた。
紗枝ちゃんが夕飯を作ってくれるということで、煮物やら、魚やら、それらに必要な食材を買い揃えたあとは、少し贅沢な、普段は買わないような高いお菓子を買って、子供みたいにはしゃぎながら寮に戻った。
帰宅して、さっそく紗枝ちゃんの部屋のキッチンに食材が並べられた。
最初は私も手伝おうとしたけれど、彼女があんまり手際良く調理していくので、やがて私が手伝えることもほとんど無くなってしまい、手持ち無沙汰になった私は最終的に、彼女の料理姿を後ろからじっくり観察して時間を潰すことにした。
「そないじろじろ見んといてやぁ。やりにくくてしゃーないわ」
言いながら彼女は笑っていた。
出来上がった料理は、それはもう見事だった。
湯葉と豆腐の澄まし汁や、南瓜の煮付け、だし巻き玉子、秋刀魚の塩焼き、それから、金平、おくらの和え物、茄子の揚げ浸し、小早川家秘伝の漬物なんてものまで、食べきれないくらいの食事が小さなちゃぶ台に並べられた。
それで私が、盛り付けの美しさや色彩の豊かさにいちいち感銘を受け、紗枝ちゃんすごい、などと褒めちぎっていたら、彼女は「作りすぎてもうた」と照れくさそうに言って、
「はよ食べまひょ。働いたらお腹すいてきたわぁ」
などと誤魔化すようにせかせかと食べ始めてしまうのだった。
そんな彼女のいじらしい姿を見ていたら、なんだかもう、それだけで胸がいっぱいになって、私はつい、箸を持った手を止めて、彼女に見惚れてしまった。
食べひんの? 彼女が不安そうに尋ねる。
私は、ううん、と首を振って、写真、撮ってもいい? そう聞くと、彼女も喜んで携帯を持ち出して、二人で記念写真を撮った。
それからあとはもうひたすら、おいしい、おいしいと言いながら、目の前の料理をどんどん平らげていった。
私好みの濃い味付けで、本当においしかったから、最後にはすっかり満腹になってしまって、結局、デザートは明日食べようということになった。
87:
その後、私が食器を片付けて洗い物をしていると、今度は紗枝ちゃんが私の横に立ってじいっと観察しだした。
「どうかしたの?」
「んー? べつになーんも、あらしまへんえ」
彼女は含みのある視線を投げかけて言った。
確かに、こうして間近で見られながら作業するというのは、なんだか監視されているようで落ち着かない。
もう、紗枝ちゃんったら、なんて苦笑しつつ、私が洗い物を続けていると、横で彼女が、あっ、と思い出したように叫んで、
「そういえばうちら、もうすぐ誕生日やない?」
「……あ!」
ほんとだね、私は手を止めて彼女の方を振り向いた。
かぞえてみれば、再来週にはもう誕生日である。
それなのに私たち、なんでもない日に限ってこんな祝い事みたいな贅沢をして、間が抜けているというか、そう考えるとなんだかおかしくて、ふふふ、と二人の間に笑みがこぼれた。
「どうしよっか?」
「せやなぁ……旅行とか、行きたいなぁ」
「旅行かぁ。でも確か、平日だよね」
それから私たちはいつものように一緒にお風呂に入って(多くの寮生が帰省していた夏休みと違い、今はもう貸切り状態のお風呂を使うような機会はなかったけれど)、誕生日の計画について思い思いに意見を出し合ったりした。
とはいえ、いますぐ決めるということもなかったので、ひととおり案を思い付いたあと、とりあえず計画は保留することにして、それからは学校の話やら、お仕事の話やら、芸能人の噂話なんぞまで、とりとめのないことばかりしゃべって、その日は眠った。
88:
小休止
89:
 十
見上げれば吸い込まれそうな青い空だった。
二ヶ月前、ドラマの撮影でここへ来た時とはうって変わって気持ちのいい秋晴れが広がっている。
日差しもとても暖かくて、駅を出てすぐ、私たちは羽織っていた上着を脱いでしまった。
避暑地だから、きっと昼間でも寒いだろうと思って着込んできたのだけれど、少なくとも日中は必要なさそうだね、と二人で話して、それからタクシーを拾った。
結局、私たちは学校を休んでまで、誕生日を一泊二日の旅行をして過ごすことにしたのだった。
この町には夏休みの撮影で何度も訪れていたけれど、観光する余裕なんてほとんどなかったし、私たちにとっても思い出の場所だったので、今回改めて二人で遊びに行くことにしたのである。
「見て見て、紅葉がほら。あんなに綺麗に……あっ、今のなんだろう? 不思議な家……」
「ゆかりはん、てんしょん高すぎどすえ」
紗枝ちゃんに笑われてしまった。
タクシーの運転手さんにまで、山の方へ行けばもっと綺麗な紅葉が見られますよ、と言われたので、私は恥ずかしくなってつい、身を縮こまらせてひそひそ喋った。
「思ったより人、多いね」
「そらまあ、この辺は年中観光客が来はるからなぁ。……あ、でもほら。林ん中入ったらだんだん静かに……」
私たちを乗せたタクシーが曲がりくねった細い坂道をのぼっていく。
すると明るい林の奥に、木立に囲まれた小さな旅館がひっそりと姿を現した。
二人で調べて見つけた宿で、このあたりでは比較的穴場の温泉旅館だった。
タクシーの料金を払って降りると、緑に囲まれた自然の空気が瑞々しかった。
私は思わず深呼吸して、きもちいい、とひとりごちた。
後ろで紗枝ちゃんが、ほな、行きまひょ、と言って、荷物を預けに旅館に入って行った。
90:
それから私たちは、手ごろなお店でランチを摂ったあと、買い物をしたり、スイーツのお店を巡ったり、商店街を端から端まで練り歩いて、気付けば三時間近くもショッピングを満喫したのだった。
実際に買ったものはそんなに多くなかったけれど、私たちは学校も勉強も、アイドルのお仕事の事も綺麗さっぱり忘れて、二人きりのデートを思う存分楽しんだ。
そうして私たちはすっかり満足した気になって、このあと何しようか、などと話しながら、通りから少し外れた小さなカフェで休憩していた。
「お土産、どないしよか?」
独特な香りの苦いコーヒーをちょびちょびと飲んでいたら、紗枝ちゃんが何気なく尋ねてきた。
私はふと顔を上げ、店内を見渡した。
窓際に座っている私たちの他には二組の客が、ここから少し離れたテーブルに座っている。
「それなんだけど、私、紗枝ちゃんのプロデューサーさんにも何か買っていった方がいいような気がする」
「へ? どうして?」
「だって、この前のことで迷惑かけちゃったし……」
「そんなん、気にせんでええのに」
「……でもやっぱり、きちんと挨拶に行った方がいいと思う。私、紗枝さんとお付き合いさせていただいてます……って」
ちょうどコーヒーカップに口をつけていた紗枝ちゃんが、急に何か飲み込んだような奇妙な声を上げた。
と思うと、苦しそうに自分の胸をとんとんと叩いて、
「けほっ、けほっ……もう、笑わせんといてや!」
そう言ってテーブルナプキンを口にあて、涙目になりながら笑いだした。
私は首をかしげて、
「私、おかしなこと言ったかな?」
「ふ、ふふっ、いや、それやとまるで両親に結婚の挨拶しに行くみたいやん、あ?おかし」
言われてみれば、と思ったけれど、私は紗枝ちゃんがなぜ笑っているのかは分からなかった。
91:
それから彼女はひと息ついて、
「けどなぁ、それ言い出したらうちの方こそ、ゆかりはんのプロデューサーはんに菓子折りのひとつやふたつ持っていかなあきまへんわ。一応、お咎めなしで認めてくれはったとはいえ、迷惑かけたことには違いないやろし」
「それは……確かに、そうだね」
例の、私と紗枝ちゃんが堂々とキスしてみせたあの事件は、すでに社内で知らない者はいないほどだった。
目撃者も何人かいたらしく、最初は噂話程度だったのが、それもあっという間に尾ひれがついて広まって、ある日とうとうプロデューサーさんの耳にも入った。
私は正直に事実を話した。
プロデューサーさんは、私たちの付き合い自体には特に深入りしようせず、ただ、目立った行動はしないように、とだけ念を押した。
広まった噂も、事実でない部分に関してはプロデューサーさん側から対処してもらうことになった。
そして、それと引き換えに私と紗枝ちゃんの恋仲はもはや公然の秘密として大勢の関係者に知られることになったのである。
とはいえ、結局のところ私たちが危惧していたようなスキャンダルには発展しなかったし、私の身の回りでも特に大きな変化は起きなかった。
その点については紗枝ちゃんの言っていた通り、私たちの活動が危ぶまれるような大事には至らずに済んだ。
ただ、今回の件に関して、私とプロデューサーさんの間に多少のわだかまりが生じたのは確かだった。
というのは、あの日、私がプロデューサーさんに電話してお仕事のオファーを断ったちょうど前日に例のキスの事件があったので、彼女との付き合いが何か関連しているのではないかと疑われたのである。
もちろん私は、仕事については自分の意志で決めたことであって紗枝ちゃんは関係ない、と弁明はしたけれど、元々、ごまかしたり嘘をつくのが苦手だから、下手な言い訳をしてかえってプロデューサーさんの疑念を深めてしまったような気もするのだった。
差し迫った問題、というわけではないけれど、これもいつかは折り合いをつけていかなければならないことだった……そう考えると、私たちは上手くやったように見えて実際、ただ単に問題を先送りにしていただけなのかもしれなかった。
92:
「ま、ほんならプロデューサーはんへのお土産も買うときまひょか。お互いの分と合わせて……ゆかりはん?」
「はい?」
「もう、また小難しいこと考えてたやろ」
紗枝ちゃんが不満そうに口を尖らせて言った。
私は肩をすくめてみせながら、
「そういうのは禁止、だったね」
旅行に来ている間は余計なことは考えない……それが私と紗枝ちゃんとの約束だった。
「そそ、ゆかりはんはうちのことだけ考えてればええの」
彼女はテーブルに両肘をつき、その組んだ手の甲にちょこんと顔を乗せ、溜め息をつくように私に微笑んでみせた。
私は思わずうつむいてコーヒーカップに添えている自分の手を見ていた。
気恥ずかしさにみるみる顔が熱くなるのが自分でも分かる。
それから私は思いついたようにカップを手に取り、ぎこちない仕草でコーヒーを啜った。
ちらり、と上目遣いに正面を見ると、彼女はそんな私の様子をじっと見守るように眺めて楽しんでいるらしかった。
そうして私はますます気恥ずかしくなって、熱いコーヒーを一生懸命啜って間を繋ぐのだった。
93:
旅館に戻り、私たちは夕食の前にまず温泉に入ることにした。
シーズンオフに加えて平日ということもあり、浴場はほとんど貸切状態だった。
普段から寮の共用風呂を使っているので、それ自体はいつもと変わりなかったけれど、まるで私たちのために用意されたような温泉の雰囲気はなんだか新鮮で心が浮き立った。
私たちはさっと汗を流したあと、髪を束ねて露天風呂に出た。
夕方の冷えた空気が熱い湯温にちょうどよかった。
そうして私たちは湯船に心地良く浸かりながら、切ないくらいに燃えている茜色の夕焼けと、その隅にぼんやりぶら下がっている淡い半月とを、どこか懐かしいような気持ちで見上げていた。
「ずっと、こうしていたいね……」
なんだか、眠ってしまいそうだった。
すると紗枝ちゃんが私の顔をじっと覗きこんで、
「寝たらあきまへんえ」
と言いながら、おもむろに私のわき腹をつついた。
「ひゃあっ」
紗枝ちゃんがからからと笑った。
私はふくれっ面をして、仕返しとばかりに彼女のわき腹をつついてやる。
すると彼女が、あん、なんて妙に艶かしく鳴いたのがおかしくて、笑ってしまった。
それから私たちはまるで子供みたいにお互いの身体をくすぐりあい、露天風呂にひとしきり笑い声を響かせたのだった。
そうしているうちに、案の定というか、彼女の手つきがいやらしくなってきて、そして私も相変わらずだったから、一応は抵抗してみせるけれど、結局いつものように流されてしまい、やがて露天風呂にはお湯が波打つ音に混じって二人の押し殺したような嬌声が響きだした。
こんな開放的な場所でセックスするのは初めてだった。
次第に私たちはエロチックな気分というよりむしろ楽しくなってきて、今までにしたことのないような恥ずかしい格好を求められても笑いながら応じてしまうほどだった。
94:
お風呂から上がって夕食をとったあと、しばらく部屋でだらだらとテレビを見ていた。
そうして私が座布団の上に横座りしていると、ふいに紗枝ちゃんがごろんと転がって私の膝を枕にした。
今日ばかりは彼女も、普段の緊張を解いて私に甘えきるつもりらしかった。
私はそうして猫のようにちょっかいをかけて遊びだした彼女の、さらさらした髪を優しく撫でつけながら、いま流れているニュースが気になって仕方がないといった風でテレビに見入っていた。
私たちはそれから寝る前にもう一度、温泉へ入りに行こうとした。
が、今度は私たちの他にも客人が一組、すでに浴場に入っていたらしかった。
脱衣所に着くと何やら楽しそうな笑い声が聞こえてきた。
「あっちで少し時間潰しとこか」
私たちは引き返して旅館入口にあるロビーの椅子に並んで座った。
卓球台でもあればええのになぁ、などと彼女がぼやくのをよそに、私は近くに置いてあった雑誌棚に何気なく手を伸ばした。
観光ガイドブックや婦人雑誌、絵本、それらの間にふと薄い小冊子が紛れているのを発見して、見てみると何かの付録らしい間違い探しの本だった。
最初は、暇つぶしにやってみよう、くらいの気持ちだった。
ところが間違いを二、三見つけた辺りから急に難しくなって、突然、全く先に進めなくなった。
しばらく悩んで、これ、絶対おかしいよ、と紗枝ちゃんにも見せてみたら、彼女はふふんと鼻を鳴らし、うちに任せとき、などと言って余裕そうにイラストを眺めだした。
彼女の笑顔はそう長く持たなかった。
その表情はやがて真剣に、ついには困惑と恐怖の色に変わっていった。
彼女は、おかしい、おかしい、と呟きながら、もはや鬼気迫る様子で間違い探しに集中しだしていた。
一方、私は早々に匙を投げ、彼女が熱心に挑む姿を横からただ眺めていた。
「ね、紗枝ちゃん、お風呂……」
「待って、あともう少し……」
95:
結局、私たちが温泉に入れたのはほとんど深夜に近い時間だった。
夜の露天風呂は寒かった。
蛍の光のような照明が石床の上に点々と落ちている。
私たちはそのわずかな灯かりを頼りに湯船に足を差し、それからゆっくり肩まで浸かった。
囲いの外から秋の虫たちの鳴き声がりんりんと聞こえてくる。
透き通った雲が流れるように半月にかかり、夜空には星が瞬いていた。
けれど、その星のひとつひとつは浴室から洩れ出る靄のような明かりに紛れてはっきりとは見分けがつかなかった。
そういえば、今、何時だろう?
ふと、大事なことを忘れていたのに気付いた。
たぶん、もう言ってもいいよね。
私は、自分でもなぜそうしたか分からないくらいな気まぐれから、私の身体を温かく包んでいる真黒な湯水をそっと片手ですくい上げた。
柔らかな月の光を浴びてそれは血のようにきらめいて、私の手首を滴り落ちた。
「紗枝ちゃん。誕生日、おめでとう」
すると彼女も、この淡い熱のひとしずくを手のひらに、祝福するように捧げて言った。
「ゆかりはんも、誕生日おめでとうさんどす」
ちゃぷ、と音がして、彼女が立ち上がった。
視界の隅で、彼女の艶やかな肌があらわになった。
そうして彼女は石の縁に腰を下ろし、その細く美しい肢を湯水の上に泳がせながら、感慨に耽るように言った。
「うちら、もう十八なんやなぁ」
96:
十八歳。
その言葉はまるで自由と革命の鐘のように私の胸に響いた。
錆びた鉄の匂いのする……あるいはまた、一つの時代の終わりを告げる汽笛のようでもあった。
果たしてそれは祝福の笛だったろうか?
私たちは十八年という歳月の中で抱えきれないほど多くの何かをこの心と身体に蓄えてきた。
そして私は、それらの全てを次の時代に持ち越すことはできないということも、その高らかな笛の音の中に、荘厳な鐘の響きの中に見出したのではなかったか?
いずれにせよこの時、私は確かに羽化の兆しを感じ取っていた。
しかし同時に、私は、そうしていつか羽ばたくはずの私自身の姿をまるで想像できなかったのだ。
それはただ、かつて少女だったこの肉体がひとりでに傷つき、ひとりでに悦びを得て、勝手に私の知らない身体になっていくだけのような気がした。
私の肉体はもはや私の未熟な心よりも多くのもので満たされていた。
紗枝ちゃんの声、紗枝ちゃんの指、紗枝ちゃんの唇、胸、恥部、そしてその蜜のような愛の液体で……。
97:
翌朝、目を覚ますと、紗枝ちゃんが私のすぐ横ですやすやと眠っていた。
鳥たちの明るい鳴き声が柔らかな朝日の向こうから聞こえてくる。
彼女のあどけない寝顔が、薄暗い部屋の中でもはっきり見分けられるくらいの距離で私の方に向けられていた。
まどろみながら私は、無意識のうちに彼女の額にかかっている髪をそっとかきあげた。
彼女はまるで愛を知らない少女のように、温もりの中に優しく抱かれて眠っている。
私はしばらくその寝顔をじっと眺めていた。
紗枝ちゃんの瞼が小さく揺れた。
どこか遠いところを彷徨っていたようなその目は、泥の底から少しずつ湧き出る清水のように、やがてそこにひとつの泉を蘇らせるはずだった。
が、どうやら彼女は薄く開かれた瞼の隙間から私を覗き込んだまま、まだ夢と現実のあいだを行きつ戻りつしていたらしかった。
ふいに、紗枝ちゃんの目がぱちりと開かれた。
そして、何か不思議なものを見るように私の顔をじっと見つめだして言った。
「……ゆかり? 起きてるん?」
「起きてるよ」
「なぁんや、びっくりした……目ぇ開けたまんま寝てはるんかと思たわ」
そう言って彼女は再び目を閉じた。
私は相変わらずそうして狸寝入りしているような彼女の輪郭をぼうっと眺め続けていた。
そして次第に彼女の表情が小さな微笑みに変わり、それをごまかすように布団の中に潜りこんでしまった後でも、私は何の反応らしい反応もせず、ただ彼女が甘えるように身を寄せてくるのをさせるがままにしていた。
彼女はそうして私の胸に埋めた顔をひょっこり覗かせ、上目遣いに言った。
「ゆかり」
「はい」
「うちのことも紗枝って呼んで」
「紗枝。……もう起きる時間ですよ」
「いじわる!」
彼女は笑いながら布団の中で私をもみくちゃにした。
私もまた、そんな彼女を抱き止めて声を出して笑ってみせた。
そうして私たちはしばらく無邪気な子猫のように絡み合った。
98:
ふいに辺りがしんと静かになった。
剥がれた布団の上で、私たちはお互いに軽く息を弾ませながら座って抱き合っていた。
彼女が肩越しに私の髪の毛を弄りながら言った。
「今日はなにしよっか?」
「観光。言わなかったっけ?」
「せやったっけ……どこ行くとか、決めてるん?」
「一応、考えてはいるけど……」
「ほな、ゆかりの言うとおりにする」
それから私たちは磁石のようにくっついていた身体をなんとか引き離して部屋の明かりを点けた。
歯を磨き、ぼさぼさになった髪の毛を梳いて、温泉はどうしよう? ご飯食べてからにしよか、などと話していたら、ふと、下半身に違和感を感じて、見ると下着を履いていなかった。
「ねえ、また夜中、変なことしたでしょ」
すると彼女は悪びれもせず、
「だって先に寝てまうんやもん」
と拗ねたように言った。
私は、はぁ、と溜め息をつきながら、けれどまんざらでもない気分で、布団のわきに捨てられていた下着を見つけて拾った。
寝ている私の身体を好き放題にまさぐるのが彼女の趣味なのである。
紗枝ちゃん曰く、私の寝顔は非常に?そそる?ものがあって、しかも「何しても全然起きひん」のが良いらしかった。
彼女が喜んでくれるなら私もべつに嫌な気はしないけれど、一方で、紗枝ちゃんばかり楽しんでずるい、という気持ちもないではなかった。
私なんぞ、せいぜい彼女の寝顔にそっと触れるくらいが精一杯なのに……。
99:
 十一
旅行の、特に二日目の計画はほとんど私に任されていた。
これは自分から言い出したことでもあるけれど、半分は私たちの慣習によるもので、つまり特別なイベントごとでは私が仕切るというのが二人の間の暗黙の了解だったのである。
要するに普段お世話になっている彼女への恩返しということだ。
そんなわけで、二日目の朝、私たちはまずタクシーに乗って駅へ向かう途中の美術館へ行くことにした。
解放感のある近代的な建物で、私としては特に深い興味があってそこを選んだわけではないけれど、落ち着いてゆったりと過ごせる場所を考えたら自然と美術館が候補に上がったのである。
元々、美術館は私たちにとって定番のデートスポットだったので、観光としてはいささか新鮮味に欠けるものの、かえって気を張らずに安心して楽しめるだろうと考えていた。
そして実際、私たちは旅行先ということも忘れ、絵画やら彫刻やら、思わず首をかしげてしまうような奇妙な展示物まで、数々の作品をじっくり観賞することができた。
とはいえ、さすがにそこで一日潰すわけにもいかなかったので、私たちは時間もそこそこに美術館を発つことにし、最後に館内の販売店で買ったアイスクリームを食べながら悠々と駅までの道を歩いて行った。
おしゃれな町並みは歩いているだけで楽しかった。
透き通るような秋晴れの空の下、洋風とも和風ともつかない独特な意匠の家々が軒を連ねていて、私も紗枝ちゃんもふいに足を止めてはその珍しい家屋や庭の眺めに魅入られたりした。
大半は人様の住居だったので写真は撮れなかったけれど、そのかわり記念館だの教会だの、その他観光地らしい場所を通りかかるたび、私たちは人目も憚らずお互いにカメラを向け合って喜びはしゃいだ。
そんな調子だったので、午前中だけで私が撮った写真はゆうに五〇を数えたほどだった。
そもそも私は写真を撮るのがあまり得意でなかったから、良い絵を残そうとして余計に枚数がかさんでしまうのである。
一方、そうやって納得のいく絵が撮れるまで何度もシャッターを切る私と比べると、紗枝ちゃんのやり方は随分と思い切りがいい。
カメラを構えたと思うと、次の瞬間にはもう撮り終わっている。
驚くのは、そうしていかにも気軽に撮ったような彼女の写真が、どれもこれ以上ないくらい完璧な絵に仕上がっていることだった。
そうして私が感心しながら彼女の腕前を称賛すると、彼女は思いがけず素直に嬉しがって、それは褒めた私の方が照れてしまうくらい素朴な笑顔なのだった。……
100:
駅に着き、コインロッカーに荷物を預けたあと、私たちは適当なカフェに入って軽くランチを済ませた。
「これから行くところなんだけど……」
食後のデザートが運ばれてくるまでの間、私は秘密を打ち明けるように彼女の方へ近寄り、小さく呟いた。
というのは、その提案が紗枝ちゃんに喜ばれるかどうか、はっきり言って自信がなかったのである。
私が今回の旅行で訪れるべきか迷っていた場所は、夏休みに何度も行ったはずの、ドラマの舞台となった例の洋館だった。
「ふぅん、ええんやない?」
思惑から外れて、紗枝ちゃんは何のこだわりも見せずにそう答えた。
渋られるか、それでなくとも理由くらいは聞かれるだろうと予想していた私は「いいの?」と念を押すように彼女に確認した。
「だって、うちらの思い出の場所やろ? 文句なんてあらしまへん……ちゅうか、どうせ行くんやろなぁって思てたくらいやわ」
彼女は全部お見通しとでも言いたげにふふんと鼻を鳴らした。
私は拍子抜けして、それからちょっと恥ずかしくなった。
いつも、彼女の方が一枚上手なのだ。
101:
その洋館は駅からバスに乗って二〇分のところにあった。
こうして町の方から上って行くと、本当に人里離れた山の中にあるのだと感じる。
バスの窓に流れていた景色は明るい家並から徐々に薄暗い森へと移り変わっていた。
道が細くなり、いよいよ鬱蒼としだした窓の外は、やがて明るい木立とそこにひっそり沈んだような別荘らしき建物とを、まばらに私たちの目に認めさせた。
そうしてそれらのひとつひとつが、今となっては憧れよりももっと切ない感情で私たちの思い出を上書きしていくのだった。
バスに揺られている間、私たちは一言も発さないまま、ただすがるように窓の向こうをじっと見つめてばかりいた。
その先のどこかに失われた季節がひょっこりを顔を出すのではないかと虚しい希望を抱いて……。
102:
「――……ここに来るのも久しぶりだね」
「だいぶ感じ変わって見えるなぁ」
「なんだか、前よりも小さくなってない? 建物」
「ゆかりがおっきくなったんとちゃう?」
「私、そんなに背伸びたかな?」
「精神的に成長したんよ、きっと」
私たちは広い庭園を意味もなくぶらつきながらしゃべっていた。
かつてここを一面覆っていたラベンダーだのバラだのといった花々はもはやすっかり身を潜め、後にはただぼそぼそした緑の植物が広がっているだけだった。
そして私たちの目の前にはあの威厳に満ちた城郭が建っているはずだった。
太陽の光の中に、友のように寄り添っていた木々と青葉の中に、老いてなお誇りを失わずにいる眠れる戦士のように私たちの再訪を迎えてくれるはずだった。
しかし実際、この淋しい感じはどうだろう?
その肌はまるでひび割れた化石のように私の目に映った。
鮮やかなコントラストを描いていた白と黒の外壁は今やただのぼやけた灰色だった。
冷たい秋風がその身を枯らしてしまったように、彼は周囲に対して卑屈に背をかがめていた。
彼は孤独だった。
しかも彼は彼自身が単なる背景のひとつでいることに何の不満も抱いていないらしかった。
それが余計に私には切なかった……。
103:
私たちはお互いになんとも言い出しかねて、まるで建物に立ち入るのを渋るかのように庭の辺りをうろうろしていた。
かと言ってベンチに座り込む気にもなれず、そうして歩きながら本当に話したい事とは全然関係ないような事ばかりしゃべっていた。
が、結局、私たちは気付かないうちに入口のポーチの前に流れ着くようにして立っていた。
私たちはつい顔を見合わせて、それから、ふふ、と笑った。恩師の元を訪ねるようなものだと……緊張はあっても不安はない、そう考えるといくぶん気が楽になった。
重たい扉を開けると、中はしんと静まり返っていた。
入ってすぐ横に窓口があり、そこでは明かりだけが煌々と灯っていて、人の姿はなかった。
呼び鈴を鳴らすかどうか迷ったけれど、紗枝ちゃんが「入場無料みたいやし別にええんとちゃう?」と言うので、私たちはそのまま靴を脱いで中に上がり込んだ。
見たところ私たちの他に客はいないらしかった。
スリッパの擦れる音が二人分、薄暗い廊下に響いた。
「静かだね……」
「ん……」
撮影の風景ばかり記憶していたせいで、こうして再び中を見渡してもあまり懐かしいという感じがしなかった。
それに、内装も微妙に違っている。
あの時には無かったものが――いくつかの写真と歴史資料の展示物が――廊下の壁に掲げられていた。
私たちは、あたかもそうすることで私たちの思い出をこの空間に馴染ませることができるとでも言うように、それら一つ一つをじっくりと見ながら進んで行った……が、結局、その行為はかえって私たちに余所余所しい思いばかりを募らせていった。
104:
こうした違和感は決して私たちを戸惑わせはしなかったけれど、どこか失望にも似た諦めが頭をもたげてきたのも確かだった。
しかし一階の応接間に入った瞬間、思い出が向こうからぶつかってきて私は思わず立ち尽くしてしまった。
「あぁ、懐かしい……」
そう呟いたのは紗枝ちゃんだった。
懐かしい……いや、けれどよく目を凝らしてみると色々なものが私の記憶と違って見えた。
広々した部屋には見覚えのあるソファやテーブルが並んでいて、部屋の奥の古くて立派な暖炉も――以前紗枝ちゃんが珍しがって興奮していたけれど私には見慣れたようなものだったあの暖炉も――前と変わらずそのままだった。
しかしここにはカメラも照明もマイクも、舞台セット用の小道具も置かれていなかった。
今、ここにあるのは厳粛な、それでいて親しみのある静寂だけである。
ふと窓辺に目をやると、そこから差す秋の光が柔らかなカーペットの上に明るい陽だまりを描いている――そうだ、あの夏、ここは寒いくらいに冷房が効いていたのだ――私は部屋の隅々を眺め尽くしながら、そんなことをいまさら頭の裡に蘇らせていた。
これらの、思い出とはまるで違うような風景を前にして私の感傷を強く刺激したものの正体はなんだったのだろう?
もしかしたら、匂い、空気、音……どれもが心に思い当たるようで、しかしどれも違うような気がする。
105:
ふいに、横で声がした。
「ねえ、二階のベランダは開いてるかしら?」
私はぎょっとして声のする方を振り向いた。
どうやらそれは紗枝ちゃんの呟きらしかった。
しかし彼女は何か考え事をしているように部屋の隅を見つめたまま、私の返事などまるで期待していないようだった。
束の間、私はそんな彼女の幼すぎる横顔に驚きながら見入っていた。
やがて彼女が少年のようなしなやかさで私の方を振り向いた時、そこにはもう、紗枝ちゃんの面影はなかった。
「連れて行ってくれるんでしょう?」
気が付くと私はハルの手を握っていた。
冷たい手……その病人の肌の感触が一瞬、ノラを怖気づかせた。
が、ノラは迷いを振り切るように乱暴にハルの手を引っ張ると、そのままずかずかと廊下を歩いて行った。
ハルは、そんな怒ったようなノラに引かれながら、嬉しいような、嘲るような微笑を浮かべ、黙ってあとについていくのだった。……
106:
ノラ『――……ここに居たらあそこの水車小屋から見えてしまうわ。もしバレたりしたら……』
ハル『大丈夫よ、どうせ誰もいやしないわ……』
ノラ『管理人さんが来るかもしれないじゃない』
ハル『その時は素直に謝ればいいだけよ。……ふふ、ノラったらそんなに怯えて、あなたらしくもない』
ノラ『またあなたが倒れてしまうんじゃないかって心配なだけよ!』
ハル『いいえ、違うわ。あなたはただ自分が責められるのを怖がっているだけ……自分の心を知らないだけなのよ』
ノラ『…………ハルは私のことが嫌いなのね』
ハル『どうして?』
ノラ『私をいじめるんだもの』
ハル『いじめてなんかいないわ』
ノラ『…………。(黙り込んで、ベランダの隅にある植木鉢に目を向ける)』
ハル『……その葉、ノラがお世話してくれたんでしょう?』
ノラ『ええ……』
ハル『ありがとう』
ノラ『べつにあなたのためにやったわけじゃないわ……ただ、そのまま枯らしてしまうのはもったいないと思っただけよ』
ハル『そう……でも、ちょっと水のやりすぎね』
ノラ『…………。(気を悪くしてそっぽを向いてしまう)』
ハル『ふふ、ごめんなさい。意地悪だったかしら』
107:
ノラ『私……私あなたのことが分からないわ、ハル……どうして私にばかりそんな態度を取るの? 他の子には一度だってからかったりなんかしたことないじゃない』
ハル『あなたのことが好きだからよ』
ノラ『嘘よ。違うわ、そんなの……』
ハル『どうしてそう思うの?』
ノラ『……恨んでいるんだわ。私のこと……きっとそうよ』
(その言葉を聞いた途端、ハルは声をあげて笑って)
ハル『まだあの時のこと、気にしてるの? あんなの、なんてことないわよ』
ノラ『命に関わる状態だったって先生おっしゃってたわ! 私……意地悪されるのはまだ我慢できるの。でも優しくされるのは耐えられない。私、あなたを殺しかけたのよ』
ハル『だから言ってるじゃない、私はそんなの気にしてないわ。本当よ……。それに私、自分なんかいつ死んだっていいと思っているもの。誰に殺されようがおんなじだわ……』
ノラ『そんなこと!(目に涙を浮かべる)』
ハル『……ノラは優しいのね』
ノラ『違う、私は優しくなんかない。だって、今もこうやってあなたを連れ出して――
突然、頭の奥で何かが弾けた。
と思うと、次の瞬間、得体の知れない不吉な予感が、私が次の台詞を発するよりも早く私の意識を覆いつくした。
私は目を見開いてその場に固まった。
木枯らしが吹き、落ち葉がベランダの上でかさかさと音を立てていた。
二人の長い髪の毛が乾いた空気に絡まるようになびいて、それは私に、眠りから覚めた怪物の黒く禍々しい双翼を思い起こさせた。
108:
「……ゆかり? 大丈夫?」
異様な胸騒ぎに襲われ、言葉を失っていた私の耳に、紗枝ちゃんの心配そうな声が聞こえた。
私は軽い眩暈を覚えてベランダの手すりに寄り掛かった。
深呼吸し、気分を落ち着かせ、私は外の林の奥にじっと目を凝らした。
そうでもしていないと本当に倒れてしまいそうだった。
横で再び紗枝ちゃんの声が聞こえた。
「具合、悪いん?」
しかし私は彼女の方を見ることができなかった。
私は怯えていた。
ただ黙ったまま、意識の底にこびりついた予感を拭おうとして頭を振ることしかできなかった。
すると、そんな私の様子のおかしいことに気づいたらしい紗枝ちゃんが、欄干に乗せた私の手の上に、慰めるようにそっと手を重ねて置いた。
「……!」
私の手が、紗枝ちゃんの手を振り払った。
反射的な、無意識の行動だった。
自分でも何をしたのかすぐには理解できなかった。
109:
私は呆気にとられた。
直後、これまで感じたことのないような激しい後悔に胸を貫かれ、咄嗟に彼女の方を振り返った。
彼女も最初は何が起きたか分からないようなぼんやりした表情で私を見つめ返していた。
が、やがてその瞳に戸惑いの色が、次に怒りと悲しみの色が燃え滾りだしたのを私は見た。
かつてないほど大きな波紋が彼女の泉の上に広がった。
そして、ついにその縁から一粒の雫が溢れだした時、それでも二人の間を結んでいたのは張り詰めた沈黙だけだった。
私は何かを言おうとして口をぱくぱくさせていた。
が、何を言えばいいかも分からず、喉の奥で虚しく声を萎ませてばかりいた。
彼女もまた何かを言おうとしていたらしかった。
小さな唇を震わせ、私を睨みつけながら、声にならない声を絞り出していた。
110:
私はその歪んだ眼差しから彼女の心を読み取ろうとした。
彼女は私を責めていた。
そして同時に、縋るような、慈悲を乞うような弱々しい希望をも私に向けていた。
私はそれにどう応えるべきだったろう?
いつもなら微笑みとキスだけで全てを赦し合えていた私たちが、この時ばかりは、言葉によってしか埋められない溝があるのだと認めないわけにはいかなかった。
そして、ああ、彼女の涙をこの手で拭うことさえできたら!
愚かな私は、それでもまだ手を伸ばせば二人の間の断絶を乗り越えられるものと信じていた。
彼女を抱きすくめ、その唇に触れさえすればすぐにでも私たちの間に失われたものを取り戻せるはずだと信じていた。
しかし結局、その願いは叶わなかった。
私の臆病な心は、彼女に手を差し伸べる勇気も、無様な弁明に言葉を尽くす覚悟もついぞ果たすことができなかった。
私はただ叱られるのを待っている、彼女が、女王のように鞭を振るうその時を、そして私を罵倒するその言葉を……その願いすら今はもう望むべくもないというのに。
そうしているうちに一階から人の声が聞こえ、それを合図に紗枝ちゃんが涙を振り切るように先にベランダを出て行ってしまった。
一人取り残された私は、彼女の後ろ姿を呆然と見送りながら、そこで初めて自分が大きな過ちを犯してしまったことに気付いたのだった。……
111:
「待って、紗枝ちゃん、私――」
彼女の後を追いかけて私は叫んだ。
すでに建物を出て庭を歩き過ぎようとしていた彼女が、木春菊の群がる花壇の前でぴたりと立ち止まった。
私はわずかに息せき切らせて、それからようやく、彼女の背中に向けて言った。
「ごめんなさい……私、ひどいことを」
こんな言葉で、彼女が許してくれるとは思っていなかった。
謝罪の言葉など、今となっては何の意味も持たないはずだと分かっていた。
しかしそれでも私は叫ばずにはいられなかった。
傷ついた彼女の心に寄り添うためではなく、ましてや誤解を解くためでもなく、ただ私自身、この苦しみから逃れたい一心で……。
ところが彼女はまったく思いもよらない反応を私に見せた。
立ち止まって背中を向けたままの彼女に、私はゆっくりと近づいて再び声をかけた。
「紗枝ちゃ……」
「わっ!」
私は驚きのあまり小さく飛び上がってしまった。
彼女が急に振り向き、私を驚かせたのだ。
彼女はしてやったりな顔で私を見、それからおかしそうに笑った。
「うふふ、びっくりしたやろ? お返し」
紗枝ちゃんが涙の跡を拭いながら言った。
「うちの方こそ、さっきは取り乱してもうて、ほんまに堪忍どすえ。せっかくの旅行やのに、変なごっこ遊びに付き合わせて……ちょっと面白がって、ふざけてみただけやったんどす」
私は、違う、と言いかけて口をつぐんだ。
きっと、これもまた彼女が彼女自身を救うために必要な言葉なのだろうと思ったから。
すると私はますます胸が苦しくなって、
「ごめんなさい、紗枝ちゃん……」
と、彼女の顔をまともに見みることもできず、取って付けたような謝罪の言葉を繰り返した。
112:
「うち、気にしてへんよ。せやからまた、紗枝って呼んで? ね?」
「…………」
私はきまりの悪い思いがしてまたしても黙り込んでしまった。
が、紗枝ちゃんはその沈黙も織り込み済みといった風に、溜め息のような微笑を浮かべてもう一度、私の手を取った。
彼女の手のひらは温かかった。
私はいよいよ泣きそうになって、思わずその手を両手で包み、自分の胸の中に祈るように抱え込んだ。
それが私の精一杯の懺悔だったのだ。……
113:
帰りの新幹線、紗枝ちゃんはいつになく饒舌だった。
私もまた、気まずい空気を恐れる気持ちから、あるいは罪滅ぼしの気持ちから、彼女の気遣いに乗じて楽しげにはしゃいでみせた。
実際、そうして笑い合っているうちは、あのベランダでの険悪なやり取りなどまるでなかったかのようだった。
私たちは誕生日のこの日を嫌な気持ちで終わらせたくなかった。
幸福な思い出だけで満たしたかった。
そうして未だ疼いてやまないこの傷跡さえも、いつかは懐かしいものとして平和に思い返せる日がくると信じたかったのだ。
しかし私は忘れることができなかった。
この傷跡を見ないふりはできなかった。
そして将来、私たちがどれだけ二人の愛を育んでいったとしても、この傷を完全に消し去ることはできないだろうということも……。
こんな些細な事で、と思われるだろうか?
単に私が紗枝ちゃんの手を払い退け、その親切心をほんのちょっぴり裏切ってしまったくらいのことで……
確かに、それだけなら何かの間違いで済んだのかもしれなかった。
悪気はなかったと、驚いて咄嗟に動いてしまっただけだと、笑いながら謝ってしまえばそれで済んだことかもしれなかった。
ところが私を真に脅かしていたのはそんな非運や行き違いの誤解などではなかった。
この不安の正体、この苛立ちの正体は、まさにあの時、ベランダで感じた不吉な予感のことだったのだ。
私は警告されていた。
記憶の中のノラの台詞を追いかけながら、この道の行き付く先は絶望だと……
それも決して遠くない未来、私たちを破滅へと導く運命がそこに待ち受けているだろうということを。
その最初の試練が私たちの間に立ちふさがったのは、誕生日の旅行から間もない十一月のある日のことだった。
114:
 十二
その日、私はフルートのレッスンでスタジオに入っていた。
年明けに定期演奏会があり、今はそれに向けて少しずつ練習を重ねているところだった。
その演奏会も、もしかしたらこれが最後になるかもしれない。
そんな想いで私は、この日のレッスンに臨んでいた。
もちろん、大学に進学した後もフルートを続けるつもりでいる。
しかし私が東京に来てから定期的に参加しているこの演奏会は、もともと先生が手がけている音楽教室の合同発表会という名目で開かれている。
つまり、もし仮に、私が進学を機にアイドルを辞めてしまった場合、先生のご指導も同時に受けられなくなり、すると私が演奏会に参加する理由も資格も自動的に失われてしまう。
とはいえ、一応、事務所を通してでなく個人として先生の教室に通い続けるという選択肢もあったし、そもそもアイドルを辞めるかどうかも決めかねている今、これが最後の演奏会などと考えるのはやや早計かもしれなかった。
ただ、少し前からアイドルのお仕事を減らしているのは事実だった。
以前、プロデューサーさんに薦めていただいた大きなお仕事を断ってしまってから、私はアイドルらしいことはまるでしていなかった。
表向きは学業に専念するためということになっていたけれど、大学はエスカレーター式で決まっていて受験勉強の必要もなかったし、正直なところ今の私にとって一番大事なのは紗枝ちゃんと過ごす時間だったので、自然、アイドルのお仕事を続けていく動機も薄れてきてしまったのである。
それを、恋愛事にかまけてばかりでやるべきことを疎かにしていると言われたら、返す言葉もない。
115:
そしてもうひとつ、私にとって大事だったのは、まさにフルートを吹いているこの時間だった。
実を言うと、ここ最近は特に自主練習のために一人でスタジオを予約することが多くなった。
会社のスタジオが予約で埋まっている時は、多少遠出をしてでも楽器店に行き、そこでスタジオを借りたりした。
今では学校でも、放課後、たまに音楽室の一角を借りて気ままにフルートを吹いている。
元からフルートは私の心のよすがだった。
これがなければきっと私は東京でアイドルを続けていくこともできなかっただろう。
そしてそれは紗枝ちゃんと付き合い始めてから今に至るまでの間も変わっていない。
確かに私は、あの夏の日以来、生活の全てを彼女に捧げてきたつもりだった。
けれど、ただひとつフルートだけは、私の生活の一部でありながら彼女の愛にその居場所を奪われることはなかった。
フルートは私にとって、紗枝ちゃんの存在と同じくらい、侵しがたい聖域だったのだ。
私がそのことをはっきりと感じるようになったのはつい最近のことである。
あの誕生日のことがあって、私はこれまでより一層フルートに執心するようになった。
そんなことを言うと、まるで私の心が紗枝ちゃんから離れて行ってしまったように聞こえるかもしれない。
もちろん、その推測は間違っている……と言い切りたいけれど、本当のところは私自身にもよく分からない。
ただ、近頃は紗枝ちゃんの甘え方もなんだかストレートになってきて、世話が焼ける、というほどでもないけれど、そんな彼女の際限のない要求に応えるのが大変でもあり、また楽しくもあった。
おそらく、私にとって紗枝ちゃんとフルートは天秤のはかりのようなものなのだ。
一方が傾くと、もう片方にも比重をかけて均衡を保とうとするような心の機構……
そんな未知の力学の支点に立って、私は、ひとつの素朴な疑問を頭に浮かべていた。
なぜ、この二つは区別されなくてはならなかったのだろう?
まるで水と油のように、この二つは私の中では決してお互い相容れないものだった。
改めて考えてみると不思議なことだった。
私は、その気になれば彼女のためにフルートを吹くことだって出来たはずなのだ。
それなのに私は端からその可能性を考えたことすらなかった……。
116:
「水本さん」
レッスンが終わり、ぼうっと考え事をしていると、いつものように先生にお声をかけられた。
考え事に耽っていた私は、つい反応が遅れてしまって、はい、と返事をした後、すみません、と謝った。
先生は私のそんなぼんやりしがちな性格も元から承知の上で、そのまま話を続けられた。
「ドラマ、見たわよ」
何のことか、すぐには飲み込めなかった。
それから、ふと理解して、ありがとうございます、と答えたら、急に恥ずかしくなった。
「つたない演技で、お恥ずかしい限りです……」
「謙遜しなくていいのよ。水本さんとっても素敵だったわ」
先生はまるでご自分のことのように喜ばれて、役が合ってる、とか、演技が良かった、等、お世辞にしては褒めすぎなくらい、真面目に感想を述べてくださった。
一方、私は照れくさいやら恐れ多いやら、目を泳がせながら意味もなく鞄のアクセサリーを指先で弄って、曖昧な返事をしてばかりいた。
褒められるのは、嬉しい。
けれど、面と向かって言われるのは、やはり慣れない。
それに、あの誕生日の事件以来、私はドラマのことはあまり考えないようにしていた。
というより、意識しないうちに頭から遠ざけていたように思う。
紗枝ちゃんとの会話でもその話題が出た覚えはなかったし、気付かないうちに一種のタブーになっていたのかもしれない……
要するに私は、今の今までドラマのことなんぞすっかり忘れていたのである。
117:
そんな調子だったので、先生が色々とお褒め下さっているにも関わらず、私の歯切れの悪さといったら、自分でも何をしゃべっているのか分からないくらい、支離滅裂な回答を繰り返していた。
しかしそんな私のまとまりのない思考も、先生が何気なくおっしゃった次の言葉に一瞬で釘付けになった。
「……それでね、実は娘が水本さんのファンなのよ」
「え?」
私はあからさまにうろたえて聞き返した。
先生は私の驚きを喜びの反応と捉えたらしく、そのまま続けておっしゃった。
「前の演奏会の時にね、水本さんがソロを吹いたじゃない? あれがすごく気に入ったみたいなのよ」
「娘さんが見に来ていらしたんですか?」
以前、先生に娘がいらっしゃるという話は聞いていた。
でも、その時はコンサートに連れて行くような年齢ではなかったように記憶している。
そう言ったら、「もう小学三年生よ」と返されて、びっくりしてしまった。
確かに、私が先生にお会いしてからもう二年半過ぎているのだから、その歳月だけ子供が成長するのは当然である。
しかし、それにしても月日が経つのは早いものだと、しみじみ感じずにはいられなかった。
「……そしたらアイドルの方の水本さんにも興味が移って、ほら、前に水本さんが出したCD、あれを聞かせたらこれがまた気に入っちゃってね。ライブのDVDも家でよく観てるのよ。そうしたら今度ドラマに出演するって言うじゃない? うちの子ったらすごく喜んで、楽しみにしていたんだから」
先生は、それから優しく私に微笑みかけて、
「もっと自分に自信を持ちなさい」
とおっしゃった。
私は、なんと答えて良いやら、震える声で「はい」と返事するのが精一杯だった。
帰り際、先生は例のチャーミングな笑顔で「次の演奏会もたぶん見に来ると思うから」とおっしゃって、私を応援するように小さく手を振り、見送りに出てくださった。
118:
私は重たい足をやっとのことで動かしながら駅までの道のりを歩いて行った。
耳の奥がざわざわと鳴っている。
途中、何度か眩暈を覚えて立ち止まり、それから自分のいる場所を確かめるように辺りを見回した。
私はここにいる。
けれど一歩、踏み出すごとに、分からなくなる。
私はどこへ行こうとしているのだろう?
まるで世界で私だけが取り残されてしまったようだった。
私は、その場にうずくまりたい気持ちを懸命に抑えながら、無意識のうちにその名前を口にしていた。
紗枝!
私は助けを求めて叫んだ。
そして思った、私を助けてくれるのは彼女しかいないと。
彼女さえ隣にいてくれたらそれ以外には何もいらなかった、たとえそれが彼女の愛に覆われた盲の檻の中だったとしても、私はそこでしか生きる方法を知らなかったのだ。
駅に着いてすぐ彼女に電話をした。
呼び出し音が鳴っている間、私は人混みに流されてしまわないよう、建物の隅にじっと佇んで携帯を耳に押し当てていた。
しばらく経って、はい、と間延びした声が聞こえた時、安堵のあまり思わず目に涙が浮かんだ。
今すぐ会いたい、そう言うと、紗枝ちゃんは何ということもなく、ん、とだけ答えて、それから二、三、言葉を交わしたあと、私は電話を切って急いで電車に乗り込んだ。
119:
 十三
あまり馴染みのない駅の、小さな改札口の前に紗枝ちゃんが立っていた。
いつものように帽子を深くかぶり、髪をまとめ上げていて、ベージュのコートに身を包んだ彼女はいかにも雑踏にまぎれる風に壁に寄りかかっていた。
やがて彼女の方も私に気が付いて、微笑みながら僅かに首をかしげてみせた。
私はそれに引き寄せられるようにふらふらと歩いて改札を出る。
「寂しがり屋さん」
紗枝ちゃんがからかうように言った。
私は取り繕う余裕もなく、ただ一言「会いたかった」とだけ呟いて、彼女のコートの裾をつまんだ。
彼女はそんな私の不審な態度を前にしても「どうしたの」とは尋ねなかった。
ただ優しげな表情を浮かべたまま、あやすように私の髪を撫で付けていた。
私はとうとう堪えきれなくなって、コートをつまんでいた手をそっと腰に回し、彼女の身体を引き寄せようとした。
が、体勢が不安定だったために、かえって私の方が彼女の身体へ倒れこむ格好になった。
彼女の小さな身体が、鈍い衝撃とともに背後の壁と私の身体とのあいだに挟まれた。
しかし彼女は可愛らしい悲鳴をちょっとあげたくらいでまるで慌てた様子もなく、私の次の行動を待つようにじっと私を見つめ返していた。
唇が触れ合うくらいの距離で、彼女の大きな黒い瞳が私を覗きこんでいた。
そうして思いがけず彼女の瞳に魅入られながら私は、よっぽどキスをしたい衝動に駆られていた。
が、ふと思いとどまって、
「……今日はなにしてたの?」
と、この状況ではなんだか間の抜けた質問をしてごまかした。
120:
「んー? 買い物……」
「私も一緒に、いい?」
すると彼女は少し考えて、
「実はうち、もう帰るとこやったんどす。ゆかりがどっか行きたい言うなら、付き合うけど……」
私は、ううん、と首を横に振った。
「ほな、帰ろか?」
私は眠るようにこくりと頷いて、けれど彼女を壁に押し付けたまま離そうとはしなかった。
紗枝ちゃんは苦笑しながら肩を優しく押し返して、そうして私が不安の表情を浮かべるより先に、被っていたハンチング帽を私の頭にひょいと乗せて言った。
「よう似合っとる」
私はようやく安心して、彼女に手を取られるまま歩きだした。
121:
電車に乗っている間も私たちはほとんど抱き合うくらいぴったりくっついて立っていた。
空いている車両の隅の方で、今度は紗枝ちゃんが私を壁に閉じ込めるように身体を寄せていた。
私たちは何をしゃべるということもなく、お互いの髪や服を手持ち無沙汰に弄ったり、綺麗な肌や顔立ちをぼんやり眺めたりしていた。
電車の揺れる動きに合わせて紗枝ちゃんの身体が重くなったり軽くなったりして、そのたびに私は言いようのない心地良さを感じたりした。
私は紗枝ちゃんの肩越しに、窓の外に移りゆく風景を眺めながら呟いた。
「……私、アイドルのお仕事も頑張ろうと思う」
彼女は、私の肩にもたれかかった頭を小さく頷かせて、「うん」と答えた。
それは、どちらかといえば空返事気味な調子で、彼女もおそらく考え事に耽っていたらしかった。
先ほどからずっと私のブラウスの襟を指でなぞっていて、視線は一点を見つめてばかりいる。
電車がゆっくりと減し、人気のない駅に停まった。
息継ぎのような音を立てて扉が開く。
すると紗枝ちゃんが、ようやく我に返ったように顔を上げて言った。
「もしかして、あの仕事受けるつもりなん?」
乗客は一人も降りなかった。
開かれた扉の向こう、駅のプラットホームには誰もいない。
扉が閉まり、電車が再び動きだした。
私は「うん」と答えた。
紗枝ちゃんが困ったような笑みを浮かべて私を見つめた。
冗談でしょう? そんな言葉が聞こえてくるようだった。
122:
「そない言うたって、前にいっぺん断わってもうたんやし、もう他の人んとこに回されてるんちゃう? プロデューサーはんかて困ってまうやろ」
「それでも、もう一回頼んでみる」
紗枝ちゃんは信じられないといった表情で首を横に振った。
「無理どす。いまさらそない話したって……」
「たとえ駄目だったとしても、私、アイドルを続けていきたい。中途半端なまま終わるのは、なんだか嫌……」
紗枝ちゃんは困惑したように瞳を揺らし、私の顔のあたりを見上げていた。
すると、やがて呆れたようにそっぽを向き、彼女はそれきり黙ってしまった。
電車の揺れる音がごうごうと響いていた。
私は相変わらず夢の中にいるようで、けれど胸の奥では何物かが、確かな熱を帯びて目覚めつつあるのを感じていた。
123:
目的の駅に着き、私たちは電車を降りた。
紗枝ちゃんが何も言わずに私の手を握り、人混みの中を少し先に歩いた。
改札を通り、駅を出ると、見慣れた街の風景がいつものように私たちを迎えた。
頭上には、冬の気配のする、灰色の厚い雲が低く垂れこめていた。
駐輪場の手前で、紗枝ちゃんがふと足を止めた。
「考え直してくれた?」
私は首を横に振った。
紗枝ちゃんはいよいよ嫌悪の表情をにじませながら、そんな自分自身を落ち着かせるようにゆっくりと溜め息をついて、言った。
「うちのことはもう、どうでもええの?」
「そんなことない!」
「なら新しいお仕事なんかよして」
「どうして? 私がアイドルを続けても、紗枝と離れ離れになるわけじゃない」
「うち以外の子とゆにっと組んで、うちの知らんとこでお仕事して、それでもうちを忘れないって、ほんまに言える?」
「忘れたりなんかしない。それに、大学に行ったら一緒に住むんでしょ? 何も不安に思うことないよ」
「うちはいや。たとえ一緒に住んでても、二人別々の道に進んでもうたらきっと心も離れ離れになる」
「私は、そうは思わない……」
すると紗枝ちゃんはとうとう涙を浮かべ始めて、私を憎々しげに睨みつけた。
「こっちの気も知らんで! うちかて好きであいどる辞めるわけちゃう! そら、うちがあいどるで食っていけるくらい売れてたら、親の反対なんか知ったことやない、どこまでもゆかりに付いて行きます。二人でゆにっと組んで、一緒に楽しくお仕事して……なんぼ夢見たか分からん。けど、現実はそんな上手くいかへんかった。それも全部、うちのせい言うんどすか?」
「違う、そんなこと……!」
124:
「ゆかりがお仕事で忙しゅうなったら、取り残されたうちはどうなるん? ゆかりが他の子と踊ったり、番組で楽しそうにしゃべるのを指を咥えて眺めてろ言うん? 考えるだけで耐えられへん。そんなの、うちが絶対に許さない」
「…………それでも、私はアイドルを辞めたくない。紗枝ならきっと分かってくれるって信じてる」
「馬鹿!」
紗枝ちゃんは血の気の失せた唇をわなわなと震わせ、苦しそうに顔を歪めていた。
私は、そんな彼女の姿を見ているのもつらくて、つと視線をわきに逸らし、痛々しい沈黙から顔を背けた。
何かを言えば、それだけ彼女は傷ついてしまうと思ったから。
突然、凍えるような悪寒が背筋を這った。
それは、かすかな、けれど風の中でもはっきり聞こえるくらいの、不気味な笑い声だった。
私は驚きながら彼女を見た。
その表情には怒りも憎しみもなかった。
そこにあるのはただ、残酷な、人をいたぶることに何の躊躇いもないような、冷たく激しい悪意の眼差しだけだった。
私は身震いした。
剥き出しになった彼女の本性を前に、恐れと興奮を覚えて。
125:
「……かわいそうなゆかりはん。なんも知らんで、えらそうに……」
まるで喉元に鋭い刃を突き付けられたような気分だった。
額に脂汗が滲み、私は、思わず逃げ出したくなって半歩、後ずさった。
しかし私は逃げなかった。
私の中に目覚めつつある何者かが私に語りかけていた。
恐れは問題ではない、ただ必要なのは、勇気だけだと。
私はその場に踏み止まって、言った。
「……どういう意味?」
「いくらあんさんがプロデューサーはんに頼み込んだところで無駄っちゅうことどす。あの企画はもう全部白紙に戻されたし、なんなら今年度いっぱい、ゆかりはんのところに新しいお仕事は来いひんようになってますさかい」
「……どうしてそんなこと知ってるの?」
「さあ、なんでやろなぁ?」
「はぐらかさないで」
「あらあら、威勢のええこっちゃなあ……けどそろそろ、ええ加減にしときや?」
私はひるまなかった。
かと言って無闇に立ち向かおうとはしなかった。
私の脳裏には、あの運命の警告が、不吉の予感が蛇のように目を光らせてうずくまっていた。
そしてそれは今も未知の怪物には違いなかった。
しかし脅威ではなかった!
私はただ受け入れさえすればよかったのだ、たとえそれが私の心を傷だらけにしたとしても、いつかは通り過ぎ、そして私自身のものになると分かっていたから。
126:
再び、私たちの間に沈黙が流れた。
私は依然、苦しみの中にいた。
紗枝ちゃんもまた同じ苦しみの中に悶えていたのだろうか?
私には分からない。
しかし彼女が次に口を開いた時、そこには明らかな苛立ちと、それから悲しみの色が現れていた。
「……誰の、おかげやと思て……」
彼女は、言ったことを後悔するように、ふと口をつぐんで私から目を逸らした。
そして再び、今度は決意したように振り向いて、私を睨みつけながら言った。
「ゆかりが、これまであいどる続けてこられたんは誰のおかげや思てるん? うちが全部、面倒見てあげたからやないの! うちが口利きせえへんかったらあんな無能プロデューサーにどらまの企画なんて声かかるわけない、うちが、うちがゆかりのためになんぼ身を粉にして尽くしてきたか、それも知らんと好き勝手ばかり言って!」
紗枝ちゃんの言っていることの意味が、咄嗟に理解できなかった。
頭の中に嫌な考えが浮かんできて、私は、そんなはずはない、と心に唱えて打ち消した。
127:
彼女は続けて言った。
「……ちょうど、去年の今ごろやった。覚えてる? あんさんのぐるーぷ、CDのりりーすいべんとやってて……うち、たまたま通りかかって見てたんよ。寮でよう見かける子や思て……そしたらまあ、踊りはばらばらやし、声は震えてるし、音響も進行もぐだぐだ、客は騒ぎたいだけの阿呆しかおらん。えらい愉快なお遊戯会やなぁ思て眺めてたんどす。……けどな、ゆかりはん。あんさんだけは他の子と違てた。あほみたいに必死に歌って、必死に踊って、しゃべりもぎこちなくて……うち、あんなに無様にあいどるやってる子初めて見た。目が離せんかった。知ってた? ゆかり、他の子から嫌がらせ受けてたんやで?」
「…………嘘。嫌がらせなんて、されてない」
「かわいそうな子。ほんまに、かわいそう……うちは見ててすぐ分かった。なのに当の本人は自分のことで精一杯で、周りのことなんかまるで気付かれへん……馬鹿な子やなぁって最初は思てた。けどやっぱし、目が離せんかった。不思議やった。あの子を見て、羨ましい、て思う自分が、分からんかった……そう、羨ましかったんどす。なんで自分がすてーじに立ってるかもよう分かってへんような子が、まぶしくて、羨ましくて、妬ましくてしゃあなかった……そん時に、思たんどす。あの子は、うちが守ってあげなあかん、て」
「違う、そんなの、嘘……だって、おかしいよ。私たちドラマの共演で初めて……」
「なんもおかしなことあらしまへん。おしゃべりしたんは確かにあん時が初めてやったけど、共演が決まるよりずっと前から、うちはゆかりのこと見て、知ってました。その共演にこぎつけるんも、なかなか骨が折れましたえ? ゆかりに嫌がらせした子を、一人ずつ追い詰めて辞めさせたのも、うち。あんなぐるーぷ、解散させた方が会社のためや言うて、うちのプロデューサーにも協力してもろて……どらまのお仕事も、最初はうちのとこで全部やる予定やったんどす。けど、なんとかゆかりと共演できるよう上を説得して根回しした、それも全部、うちが一人でやったこと……」
心臓がばくばくと音を立てて胸を打ちだした。
私はうまく息を吸えず、身体を屈め、まとわりつく思考を振り払うように頭を振った。
どす黒い理解が、こみ上げてくる吐き気とともに私の思い出を塗りつぶしていく。
128:
「……けど、失敗やった。ゆかりに主役なんか、やらせるんやなかった。へんに希望持たせたばっかりに……それに、うちも甘かった。ゆかりと愛し合えるのが嬉しくて、幸せで、何もかも全部、すっかり手に入れたもんやと思い込んでた。確かに、一度はゆかりのお芝居見て、ああ、うちが間違うとったんかなって、思たことはある。この子には、人を惹き付ける才能がある、うちがそれを、自分本位な理屈で潰してええんやろか、って……けど、そんな後悔したところで今さら手放せるわけない。だって、ゆかりが……」
紗枝ちゃんの目から、ぽろぽろと涙が流れだした。
そうしてついに泣きじゃくりだした彼女は、震える喉から声を絞り出すように、途切れ途切れに叫んで、言った。
「ゆかりが、ゆかりが悪いんよ。ゆかりのせいで、うち、へんになってもうた。ゆかりのこと考えると、胸が苦しゅうて、つらい。うちはこんな汚い人間やのに、こんなうちを愛してくれるゆかりが、憎くて、愛おしくて、いっそ一緒に死ねたらどない幸せやろって、そんなんばっかし考えてまう。離れ離れになるのはいや。ゆかりが傍にいてくれへんかったら、生きてる意味ない、死んだ方がましや!」
すると彼女が一歩、私の方へ歩み寄った。そして哀願するように、
「なぁ、ゆかりはん……あいどるなんか続けて、何になるん? また昔みたいに、惨めな思いして、無様な格好晒して、つらい思いするだけやないの?」
「…………」
私は答えられなかった。
つらいことは分かっていた。
アイドルを続けても、良いことなんて何もないかもしれない……。
「これだけは言うときます。ゆかりはきっと、後悔する。あんさんみたいな真面目すぎる馬鹿が何も知らんまま生き残れるほど、あの世界は甘うない。いつか酷い目にあって、身も心もずたぼろになって、しょうもないことに貴重な人生捧げてしもたって、泣いて後悔するに決まっとる」
129:
「……どうして、紗枝は……そんなに、私にアイドルを諦めさせたいの?」
彼女の肩がぴくりと動いた。
どうやら初めて、私の言葉にまともに耳を傾けたらしかった。
彼女は何かを飲み込むように大きく息を吸うと、泣き腫らした目を伏して、自らに問いかけるようにその胸に手をかざした。
やがてゆっくりと息を吐き出しながら、
「……怖いんどす。ゆかりが、ゆかりの綺麗な心が、あんな欲まみれの汚い世界に染められてくのを見るのが怖い。それだけやない、うちみたいなろくでなしも愛してくれるようなゆかりの純粋さが、もし壊されて失われでもしたら? きっとうちなんか、見捨てられてまう。こないな性悪女、嫌いになるに決まっとる。それがうちには何より怖い……」
「見捨てたりなんかしない。嫌いになんか、ならないよ。絶対」
その時、紗枝ちゃんの目から大粒の涙が零れて頬を伝った。
私は息を呑んだ。
彼女は微笑んでいた。
悲しげに、全てを諦めたように、私をまっすぐに見つめて……。
「ここまで言うてまだ分からんなら……やっぱし、ゆかりはあいどるに向いてへんね。けど、うちはそんなゆかりが好きやったから、守ってあげたい、そう思たんどす……ふふっ、ほんまに馬鹿やったのは、どっちなんやろなぁ」
「ねえ、私たち、まだ終わりじゃないよね? これからいくらでもやり直せるよ、だから……」
「さっきうちが言ったこと、覚えてる? ゆかりのために、身を粉にして尽くしてきた、って……ううん、ゆかりのためだけやない、自分がこの業界で生き残るために、うちが何をしてきたか、それを知ってもまだ、ゆかりはあいどる続ける言うつもりどすか? うちの犠牲も、無駄にするつもりどすか?」
「やめて。ねえ紗枝……もう、やめよう。これ以上、二人して傷つく必要なんてない!」
言いながら私は、もう後には戻れないことを悟っていた。
私は泣いていた。
そして一度、流れ出てしまえば、もう止めることはできなかった。
130:
「ほんまに、ええお笑い種どす。親を見返そう思て東京まで来て、あいどるになれたはええけど結局、ここでは通用しいひんかった。悔しい、こんなはずやないって、挙句の果てにプロデューサーに取り入って、もっと上の、お偉いさんとこも行った。そこでうちは、うちは――」
「やめて!」
私は叫んだ。彼女は話し続ける。
「……それでも、だめやった。身体を売っても、この世界ではそれが普通なんやって、思い知っただけやった。結局、うちは最後まで半端もんのまま、残ったのはこの汚れた心と身体だけ……なぁ、ゆかりはん? うちはもう、疲れたんどす」
「……ああ……ああ……!」
苦しい。苦しい……
頭の中が、ぐちゃぐちゃになって、立っていられない。
言葉にならない声が、喉から漏れる。
とめどなく涙が溢れてくる。
視界が滲んで、何も見えない。
耳の奥が熱い。
助けて、紗枝、助けて――
叫びたくても、思うように息ができない。
「これで分かってくれはった? うちのこと、可哀想やと思てくれはる? 同情してくれはる? ならうちのために、あいどるなんか諦めておくれやす。そしてもう一度、愛して。うちのこと愛してよ!」
分からない。
私は一体、どうすればいいのだろう?
今はただ、苦しい。何も、考えられない。考えたくない……。
「……かわいそうなゆかり。うちみたいな女を信じたばっかりに、傷ついて、苦しんで、もがいて……けど、うちは諦めへん。どんな手を使っても、逃がしまへん。ゆかりを傷つけてええんはうちだけや。誰にも渡さない。絶対に」
出口のないトンネルの中で、彼女の声が果てしなく反響して私の耳にこだました。
131:
私はその場にへたりこんで、顔を手で覆っていた。
そんな私の腕を、彼女は乱暴に掴んで立ち上がらせた。
足に力が入らず私は、思わずよろけて彼女の腕にしがみついた。
そのコートの厚みの下には紗枝ちゃんの優しく慈しみに満ちた身体があるはずだった。
しかし私は何も感じなかった!
まるで知らない人の腕に寄りかかってしまったように、私は反射的に後ろへのけぞり、駐輪場の壁に背中を打ち付けた。
そうして壁にもたれながら私は、未だこの胸を去らない苦痛と混乱に悶え苦しんで、自分の足元の一点をぎゅっと見つめて動かなかった。
時間がむなしく過ぎていった。
冷たい風が吹きぬけて足元に落ち葉を転がしていた。
目の前にいる紗枝ちゃんは何をするということもなくただ黙ってそこに立っている。
彼女は、それだけで私をこの壁に縛り付けられると知っている。
私には反抗する力も、逃げる力も残っていない。……
132:
が、不意に私は思い出した。
私には、まだ何者にも侵されずにいる聖域があるはずだった。
今となっては弱々しく、絶望の雨と嵐の中に霞んで消えかけていたものが、ぐったりと力の抜けた私の肩からずり落ちた勢いで、思いがけずその光を取り戻しつつあった。
私は落ちかけたケースを咄嗟に支えて胸の前に抱え込んだ。
これだけは手放してはいけない、そんな藁にもすがる思いで私は、フルートのケースを腕の中に堅く抱きしめていた。
そうして縋っていても、絶望が消えるわけではなかった。
悲しみも苦しみも和らぐことはなかった。
私はただ記憶に呼びかけられていた。
低い、地鳴りのような原初の鼓動に……
それはまるで海の底から響いてくるようだった。
私は呼びかけられるままに沈んで行った。
そうすればこの海の上の荒れ狂う嵐からも逃れられると思って。
やがて静寂が私を取り囲んだ。
133:
そして、そこには誰もいなかった。
私を呼びかけていた声も、私を安心させてくれるはずの何物もここには存在していなかった。
そうして私はようやく気づいたのだった。
私を呼んでいたのは他ならぬ自分自身だったのだと。
私は孤独だった。
どうしようもなく独りだった。
深い暗闇の中に、かつてない不安と恐れとが生まれつつあった。
見えない恐怖が、私の目と鼻の先で息づいていた。
そうしてそれらは暗闇を貪りながら肥大化し、やがて私をも飲み込んでしまうに違いなかった。
けれど不思議なことに、そこには同時に力強い意志も目覚めつつあった。
今や私ははっきりと感じていた、孤独は私を脅かしはする、けれど決して敵ではないのだと。
孤独は私の力だった、そして今こそ私は孤独を友として生きなければならないと。
私は顔を上げて紗枝ちゃんを見た。
彼女は静かな表情で相変わらず私を見つめていた。
そしてふと思った、彼女もまた私と同じように孤独の中に生きている人なのだろうか、と……。
確かに、かつて彼女の瞳に見た冷酷な情熱は、私が記憶の底に見い出したあの冷たい静寂と似ていた。
彼女の心はいつも焦がれていた、私がどんなに深く潜り込もうとしても決して届かないその透明な炎によって……
そして私もそんな彼女の激しい情熱を愛していたはずだった。
しかしそれは寂しさと弱さのための孤独ではなかったか?
……
134:
私は歩き出した。
背後から紗枝ちゃんの声がした。
「どこ行くん!」
私は振り返って答えた。
「ごめんなさい」
その時の、彼女の絶望した表情が忘れられない。
身を引き裂くような喪失の痛みが、彼女の眼差しから伝わってくる。
哀れみの言葉が喉元まで出かかった。
彼女を助けてあげたいと思った。
けれど私には、彼女を救う言葉など何も持ち合わせていなかったのだ。
私は被っていた帽子を脱ぎ、彼女に差し出した。
「これ……返すね」
紗枝ちゃんは無言で私を睨み返すと、怒りに任せて私の手から帽子を叩き落した。
私はしゃがみこんで帽子を拾い上げ、土埃を払って片手に抱えた。
そうして怒りと絶望に震える彼女を残し、私は踵を返して歩いて行った。
…………。
…………。
135:
 十四
一月の東京の街はひどく冷え込んでいた。
夕方、私は五時間にも及ぶ合奏練習を終え、これから帰路に着くというところだった。
講堂を出ると、火照った肌に冷たい空気が沁みて気持ち良かった。
長い間、狭いリハーサル室に籠ってフルートを吹いていたから、かえって目が覚めたような心地がする。
が、それもほんの一瞬の癒しにすぎず、私はすぐに寒さに耐えかねてコートを羽織り、鞄からマフラーを取り出して首に巻いた。
そうしてほっと一息つくと、夕闇の街に白い吐息がきらきら舞った。
季節は冬で、私はまだアイドルを続けていた。
と言っても、表舞台に立つような仕事はもう何ヶ月もしていない。
実態としてはただ会社に在籍しているだけで、活動らしい活動といえば定期の基礎レッスンくらいのものだった。
それに、私が所属しているプロジェクトも、今年度いっぱいで解体されることが決定している。
つまり、このまま何も手を打たずにいれば、私は春にはアイドルを辞めなければならないはずだった。
これに関しては、とりあえずプロデューサーさんのご厚意に預かる形で解決した。
今年新しく立ち上げるプロジェクトに、私も引き続き参加させていただくことになったのである。
そんなわけで、新規プロジェクト立ち上げのお手伝いをするのが目下、私のお仕事だった。
その手伝いも、基本的にはグループのコンセプトに関わるアイデアに意見を出したり、新人のスカウトだのオーディションだのといった人選について相談を受けたりする程度で、正直なところ力になれているとは言い難い。
けれど、以前のようにプロデューサーさんに頼りきって自分から何も動かないよりは、微力でもこうして関わっていた方が、少なくとも今は気が楽だった。
それと、かつて私が例の仕事を断ってしまったことの罪滅ぼしという理由もある。
あるいは、私がこうしてプロジェクトに密接に関わることで、今後もしかしたらあるかもしれない紗枝ちゃんの妨害も未然に防げるはずだという思惑も、ないではなかった……
そんなこと、信じたくはないけれど。
136:
……あれから、紗枝ちゃんとはまともに会っていない。
最初のうちは通知が鳴り止まないほどひっきりなしに連絡してきた彼女も、年が明けた頃からようやく落ち着いてきて、お正月に「会いたい」とメールが来たのを最後に、その後のやりとりはなかった。
もちろん、これまでまったく顔を合わせなかったわけではなかった。
同じ寮の同じ階に住んでいたから廊下ですれ違うことも二度三度あったし、何より彼女自身、私を取り戻そうとやけになっていたので、出先で待ち伏せされるなんてことも少なくなかった。
私はそのたびに困ったように笑ってみせて、忙しいからまた後でね、とか、もうこんなことやめよう、などと言ってあしらったりしていた。
そして、それでも彼女が引き下がらなかった時の、私の言い分はこうだった。
「私たち、もう少しゆっくり考える時間が必要なんだと思う」
けれど紗枝ちゃんは、ある日は泣いて謝ったり、ある日は脅すように威圧したり、ある日は情に訴えかけたり、そうやって私の心を繋ぎ止めようとすることに必死で、私の言葉なんかまるで聞こうとしなかった。
それでも私は粘り強く耐えた。
彼女が私を諦めないのと同じように、私もまた彼女の考えが変わることを諦めなかった。
そうしているうちに一週間が過ぎ、半月が過ぎ、クリスマスを迎え、気が付けば年が明けていた。
137:
そうして二ヶ月近く経って、少しずつ私の生活から紗枝ちゃんの存在が薄れてきた今でも、私の頭には彼女との幸福だった思い出がこびりついて離れなかった。
あの頃に戻れたら、と泣いて後悔した夜もある。
別れの傷痕に苦しんでいたのは彼女だけではない。
私だって、何も知らないままでいられたらどんなに楽だったろうと思う。
しかし同時に、無知に閉じ込められた関係が私たちの愛を真の幸福に導いてくれるとも思えなかった。
私は今も変わらず彼女を愛していた。
だからこそ私は、二人が幸せになるために茨の道を選んだのだ。
そして、たとえその先に私たちの望む愛の形が見つからなかったとしても、その時はお互い別々の道を歩み、新たな幸せを探せばいい、そう思っていた。……
138:
この日の夜、お母さまから電話がかかってきた。
今週末、私の演奏会を見るためにわざわざ青森から来てくださることになっていて、その確認の連絡だった。
「……うん。じゃあその時間に、駅に迎えに行くね。一応、電話もしてね……ふふっ、迷子になりそうだなんて、前も一度いらしたことあったじゃない。……え? 私が? そんなことあるかなあ。だって、あの駅は何回も使ったことあるよ……ああ、地下鉄……そういえば、そんなことあったかも。……うん、……はい。じゃあ、また……はい。おやすみなさい」
電話を切り、私は腰掛けていたベッドにごろんと寝転がって天井を仰いだ。
心地良い疲労と重力が身体にのしかかって、頭の中では今日何度も吹いたフレーズがリフレインしている。
そうしてじっと天井を見つめていると、今度はお母さまのお顔が目に浮かんで、お会いしたら何を話そう、どこか良い店でお食事でもしようかしら等々、そんな雑多な考え事が次から次へと移っていった。
そうして気を抜いていると本当に眠ってしまいそうだったので、私は大きく息を吸うと「えい」と掛け声をかけて身体を跳ね起こした。
今日はシャワーを浴びたらすぐ寝よう、そう思ってそそくさとお風呂の支度をした。
そして、寮の共用風呂に向かう途中のことだった。
紗枝ちゃんとばったり会った。
私は思わず「あ」と声に出て、足を止めてしまった。
139:
彼女もびくりと身体を強張らせて立ち止まった。
そして一瞬、呆けたように私を見上げると、すぐにきまり悪そうに目を背け、そのまま黙ってしまった。
「…………」
しんと静まり返った廊下で、思いがけず相対した私たちの間を気まずい沈黙が流れた。
彼女もどうやらお風呂に向かうらしかった。
この時間だと、もしかしたら二人きりになるかもしれない。
そんな思いが二人の間に無言のうちに交わされて、皮肉なことに、この偶然の沈黙が私たちにかつての懐かしい関係を思い起こさせた。
そして私は自分がショックを受けていることにしばらく経って気付いた。
最後に彼女を見たのはいつだったろう?
久しぶりに会った彼女は明らかにやつれて見えた。
それだけではない。
以前の彼女なら、こんな風に私を前にして黙ったまま目を背けるなんてことがあっただろうか?
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