風俗嬢と僕【その1】back

風俗嬢と僕【その1】


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ネオンライトがギラギラと輝く街。脂ぎったおっさんやキャッチの兄ちゃん、色気を撒き散らす女と、様々な人がそこを歩いている。
彼女にフラれた腹いせに風俗へ。
自分がこんなに短絡的な人間だとは思ってもいなかった。とはいえ、止める気もない。
デリヘルやソープといった様々な業種があるのは何となく知っていたけど、金銭的にも高価なところには行きづらくて。少しは敷居が低そうなピンサロに僕は向かっていた。
雑居ビルの5階に店はある。別にどの店でも良かったんだけど、ネットで検索したら上位でヒットしたからという理由だけで、僕はそこに狙いを定めた。
2:以下、
エレベーターに乗り込んで、それが上昇するのと共に胸の鼓動がくなる。
浮気をしようとしてるわけでもなければ、自分は18歳だって越えている。生活費や仕送りに手を出しているわけでもなく、大学の授業の合間にこなしているバイトで稼いだ金で遊ぼうとしている。
後ろめたさを感じる理由はないはずなのに、どこか悪いことをしている気がするのはなぜだろうか。
何となく気後れしてしまったけど、乗り込んでしまったエレベーターは故障もせずに無事に5階まで到着してしまった。
扉が開いて一歩踏み出してみると、そこには受付の兄ちゃんが扉のそとで待ち構えていた。
「いらっしゃいませー! お兄さん、どう?」
おっさんというよりは兄ちゃんと言うべきか、ホストの出来損ないみたいな金髪ミディアムの男が胡散臭く笑いながら話しかけてきた。
3:以下、
「えーっと、はい。お願いします」
何と返事をすべきかも分からず、変なことを言ってしまった気がするが、口から出てしまったことは仕方ない。
了承の返事に気を良くしたのか、男は早口に言葉を続けた。
「あざまーすっ! 今ね、一番人気のゆうちゃんが空いてるんですよ! 初めての来店なら、指名料込みでこの値段! お得ですよ!」
そう言って彼は看板の料金表を指さした。正直、他の店との相場とか人気とかあまり分からないけど、その値段自体は予算の範疇ではあったし、店の前に立っているのも何となくの恥ずかしさと後ろめたさがあったので、二つ返事で了解した。
「じゃあそれで」
「あざまーすっ! それじゃ、料金頂戴しますね。こちらの待合室で長かったら爪を切ってお待ちくださーい」
4:以下、
提示された金額通りの紙幣を渡して、カーテンで仕切られただけの待合室のボロい椅子に腰かけた。
……こんな感じなんだ。
やたらうるさくてポップなBGMが流れていて、とてもエ口いことをするようなムードには思えないけど、そういう店なのには間違いがないはずだ。
何となく異世界にきてしまったような戸惑いと、 後ろめたさと、でも悲しいかな男としてやっぱり期待するものもあるわけで、今までの人生で経験したことがないようなテンションになっている。
平日の昼間ということもあってか、他のお客さんはいないみたいだ。一人で落ち着かない気持ちになっていると、やっと店員から呼びかけられた。
「お客さん、来てください」
言われるがままに待合室のカーテンを潜ると、禁止事項を読み上げられた後にブースの指定をされた。
店内は柵か何かで分割してブースを作っているらしく、僕はそのなかで3番ブース、一番奥だった。
5:以下、
「それではごゆっくりどうぞー!」
男はブースの前まで案内すると、そんな言葉を残して待合室や受付の方へ戻っていった。
「ごゆっくりって言われても……」
柵はやたらと低くて立ってる人からは丸見えみたいだし、そもそも今は何をして待っていれば良いのかも分からない。
とりあえず床に座って黙って待つ。そういえば、一番人気ってことしか聞いてないからどんな女の子がきてくれるのかすら分かっていない。
勢いだけでここまできてしまったな、なんて独りごちてもどうしようもないんだけど。
数分待ったところで、場内アナウンスが聞こえた。
『ゆうさん、3番ブースへどうぞっ』
その声と共に入口からの気配を感じると、女の子がブースの入口に立っていた。
「こんにちはー! 初めまして、ゆうですっ」
6:以下、
視線を上げてみると、黒髪をミディアムボブにした、ちょっと小柄な女の子が立っていた。
女性や女といった表現よりは少女の方が適切だろうか。薄暗くて顔ははっきりと見えてないけど、醸し出している雰囲気や動作は何となく同年代のものに思えた。
「どもー」
ぺこり、と頭を下げて挨拶を返すと、彼女は靴を脱いでブースの中に入ってきた。
「初めまして? だよね! わかーい! お兄さん、いくつ? あ、言いたくなったら言わなくていいよー」
早口でガンガンまくしたてながら、彼女は僕の正面に座した。正面から見た彼女の顔はやっぱり幼くて、さすがに未成年ということはないだろうが、僕より歳上でもないとは思う。しかし、それでも顔の造作はさすがというべきか綺麗なもので、美人ではなくとも美少女という言葉がぴったりと当てはまりそうだった。
「あー、えっと、21、です」
何となく歯切れが悪い返事になってしまったのは、この空間に飲まれているからか、彼女の美貌に怖じ気づいているからか。
7:以下、
「えっ、今年21になったの? 同い年? 今年22になるの?」
その問いかけと共に彼女は僕の手を取って、上下に揺らしてきた。手を繋ぐなんて今まで何度もしてきたことなのに、やっぱりドキドキしてしまうのは何でだろう。
「あ、今年21、です。4月で21になりました」
「えー、最近じゃないですかー! 同い年だー、やったー! 私は6月で21になりますー!」
「あ、でもやっぱり同い年なんだ」
歳上ではない、という読みが当たってふと呟いてしまった。彼女は目敏く……ではなく、耳敏くそれを聞いたようで、問い返してくる。
「やっぱりって?」
「いや、同い年くらいかなー、って思ったから。雰囲気とかさ」
8:以下、
「あ、そう? 若いお客さんって珍しいから、私にしてみたら皆同い年みたいに見えるけど」
そう言って彼女はふふふっと妖しく笑って見せた。
「今日は何でこの店に? 風俗通いが趣味なんですか?」
「まさか! 初めてですよ、初めて!」
慌てて彼女の言葉を否定すると、彼女は意外そうに目を丸めた。
「あら、そうなんですか? ほら、一人で来てるみたいだから慣れてるのかなって思って。初めてなんですね、そっか」
そういって彼女は意味深そうに頷いて見せた。それが何だか可笑しくて、僕は思わず笑みを漏らす。
「あっ、やっと笑った?」
彼女はしてやったりという顔でにこっと笑うと、言葉を続けた。
「お兄さん、緊張してるのか知らないけどずっとガチガチだったから。少しは気が緩んだ?」
9:以下、
「そんなに?」
「そりゃもう、これから職場の上司に怒られますー! みたいな顔だったもん」
「上司なんていないけどね」
そう言うと、彼女は目を大きくして驚いた。
「えっ、社長?」
なんでそうなるんだよ、と思わず苦笑を洩らし、言葉を返した。
「いや、学生だから」
「あー、学生さん! 私が高卒だから、その発想は無かったなー。大学生?」
その質問には肯定の意をこめて頷いて見せた。
「通りで若く見えるわけだー。うわー、珍しい珍しい」
ぺたぺたと僕の顔を触りながら、彼女はすっと僕の隣に来た。綺麗に整った小さな顔が僕の目の前まで近づいてきて、思わず目を逸らしてしまう。
10:以下、
「もー、何で顔そらすの?」
拗ねたような上目づかいでこちらを見つめてくる。仄暗い部屋の中でもはっきりと分かるくらい彼女の目は大きくて、吸い込まれそうになる。
「これから私たち、楽しいことするんじゃないのー?」
猫撫で声をあげながら、彼女は僕の胸元に顔をうずめた。何だか良いにおいがする。
「ね、こっち見て?」
そう言うと同時に彼女は僕の両頬を手で挟み、顔を合わせた。
頬が熱くなるのを感じる。彼女はそのまま顔を僕と同じ高さに持ってきて、すっと耳元で囁いた。
「お兄さん、こんなお店に来るなんてエッチだね」
11:以下、
彼女の言葉は僕の羞恥心を煽りながら、耳元で紡がれる。
「何をしたくてここに来たのかな? ゆうに教えて?」
小さな声と共に吐息を感じて、少し身震いしそうになってしまう。何だろう、恥ずかしいんだけど、嫌じゃない。
「えっと……」
言葉を続けられずに悶えていると、彼女は責めるように呟きを止めない。
「言ってくれないと分からないよ? 何でお兄さんはここに来たのかなー?」
うふふ、と笑ったところまで計算しているのだろうか。何にせよ、このまま黙っているのは許してくれないらしい。
「それは、えーっと……」
「うんうん」
彼女は言葉の先を心待ちにしているかのように頷きながら待っている。
「彼女にフラレた心の傷を癒しに? かな?」
12:以下、
「へっ?」
予定外の返事だったのだろうか、彼女は間抜けな声をあげてきょとんとした目で僕を向いた。
そりゃ、こんなところであんな質問をされたら、普通はエッチをしに来たとか言うべきなんだろうけどさ。
「この間、彼女にふられて。思ったより傷ついてたから、人生経験も兼ねて?」
疑問調なのは、これが果たして何の人生経験になるのか自分でも分かっていないから。
「ふられたの? お兄さんが?」
その問いかけには、首肯で返事を示そう。
彼女は僕を見ながら、純粋そうに問いかけた。
「えー、何で? 何でふられたの?」
13:以下、
な話すと長いようで短いんだけど……」
そして僕は自分の経緯を彼女に話し始める。
僕と彼女は共通の趣味をきっかけに仲良くなった。話すのも楽しかったし、二人で遊ぶことも少なくなかったし、気づいたときには僕は恋に落ちていた。
しかし、彼女には彼氏がいたし、それは叶わぬ恋だと自覚していたからこそ、僕はそれを胸のうちにしまっていた。つもりだった。
ある日、彼女と二人で飲みに行くと、酔った勢いで僕は口を滑らせてしまった。
『付き合ってほしいとかじゃないけど、僕が好きなのは君なんだ』
漏れた言葉を受け止めた彼女は、彼氏と別れるから付き合ってほしいという返事をくれ、僕たちはめでたく恋人同士になった。
17:以下、
もちろん、悪いことをしているという意識はあった。『付き合ってほしいとかじゃない』なんて言葉は彼女を選んだ時点で意味をなしてないし、彼氏にしてみたらただ彼女を奪われたのと何も変わらない。
告げた時点では、僕だって深望みをしていたわけじゃない。それは本当のことだ。
ただ、自分の胸のなかにある気持ちがたまりすぎて、苦しくて、伝えてフラれて縁が切れた方がすっきりするんじゃないか、解放されるんじゃないかと思って。本当にそれだけだったんだ。
でも、目の前に人参がぶら下げられてしまった。それに飛び付かないバカ……いや、賢人はどれくらいいるだろうか。
今まで胸に秘めてた気持ちが報われると知ってしまったら、それを拒むことなんて僕には到底できなかった。
18:以下、
付き合い始めたばかりの頃は、僕は有頂天になって浮かれていた。次のデートはどこに行こう、彼女は何が好きなんだろう。
想像もしてなかった幸福が訪れた僕の頭の中はそんなことでいっぱいだった。
とはいえ、不安が全く無いということでもなかった。
例えば、彼女の元彼氏は超有名企業に勤めるエリートサラーリーマンで、そんな男の後に僕みたいな学生と付き合って、彼女は満足するのだろうかとか。彼女自身がとても美人であったが故に、自分の容姿がひどく情けなく思えたりだとか。
言ってしまえば、僕はとてもネガティブな人間なんだと思う。気持ちを告げた時にもうまくいくとは思ってなかったし、自分のことが嫌いで、自信が持てないんだ。
19:以下、
そんな不安や焦りを感じた僕は、『とにかく何とかしないといけない』という方向に進んでしまった。
何をすべきかも分からないのに何かをしないといけない、成長しないといけないという気持ちになって、資格の勉強をしてみたり、ファッション雑誌を読み漁ったり、色んなことに取り組んだ。
勉強もファッションも嫌いじゃないんだけど、『したいからする』ではなくて、『しないといけない』という義務感で始めたそれは、僕のなかで重荷になっていた。
サッカーをしたい、本を読みたいとかそういう欲を押さえて、義務感を消化することを続けていくうちに、僕は疲れてしまったんだ。
そして、そうやって精神を疲弊させてるところで彼女に告げられた言葉はこれだった。
『今は誰かと付き合いたいとかじゃなくなったから、別れよう』
僕が何かしたから、至らぬところがあったから、とか言われたなら、満足はしなくても納得はできたのかもしれない。
ただ、その言葉を聞いた時に、納得もできないそれを否定することも、彼女を責める気持ちも出てこないほど僕の心は疲弊していた。その結果として、行き場のない気持ちは僕自身を責めることでどうにか落ち着かせようとしてしまった。
20:以下、
僕がもっとかっこよければ良かったのに。
僕がもっと将来性があれば良かったのに。
そんな自責の念が僕を縛って、別れた後もしばらくは落ち込んでたし、何かをしなきゃいけないという気持ちでいっぱいだった。
僕はダメな人間なんだ、屑だ、人の彼女を奪うようなやつなんだ。
頭のなかをそんな言葉が巡りめぐって、そして僕は限界を迎えた。
半月ほど高熱にうなされ、それはストレスから来たものだったらしい。慣れないことを続け、自分を縛っていると、人間は案外脆いらしい。
21:以下、
そしてその体調を崩して倒れている間、僕はあることを考えていた。
『仮に僕が完璧な人間だったら、彼女は僕の前から消えなかったのだろうか』
きっとその答はノーだと、僕は結論付けた。
それはある意味で逃げの解答なのかもしれないけど、そう考えるしかなかったんだ。
勿論、僕は自分のことを立派な人間だと開き直ってそんな答を出したわけじゃない。どちらかといえば、自分が屑なのは自覚している。
でも、彼女の別れたいとか付き合いたいってわけじゃないって気持ちは、僕に対して向かっているけど、きっと僕に限った話でもなくて。
仮に僕より立派な人間がいたとしても、彼女はその答を出したんだろう。
ならば、僕も少し息を抜こう。
一度倒れたことで冷静になった僕は、そんな結論を出した。
今まではちょっと気をはって頑張りすぎたから、ちょっと落ち着こう。遊んでみよう。
そんな気持ちで、今までにしたことがないことをしてみたり、行ったことがないところに行ってみたりをしているうちに、今日、ここに来ることを決めたんだ。
どんな場所なんだろうって興味もあり、彼女と別れてからも自己処理をするような気力もなかったのもあり、無駄に勇気を振り絞れるような精神状況だったのもあり。
こんな異世界みたいなところだとは思わなかったけどね。
22:以下、
「……って、ことがあったんだよ」
ここに来るまでの経緯を彼女に話してみると、すっと気分が楽になったことに気がついた。誰にでも話せるような内容でもないと思って、今まで誰にも話したことはなかった。
それなのに、今日会ったばかりの、僕の名前も知らないような人に話して楽になるとは、何とも変な話だ。いや、知らない人だからこそ話せたこともあるんだろうけどさ。
「へぇ……大変だったね」
彼女は半分同情したような、半分対応に困ったような目でこちらを見てきた。そりゃ、初対面の客にこんなことを言われても困るんだろうけどさ。
「まだその元彼女のこと好きなの?」
「え、いや、もうそうじゃない……かな」
少なくとも、まだ好きだったらこういう店には来てないと思うし。倒れて答を求めている間に、彼女への気持ちも徐々に消化してしまったんだと思う。
ありえない仮定として、もし今から彼女に「よりを戻したい」と言われても、きっと断ってしまうと思うし。嫌いになったというよりは、そうやって振り回されるのに疲れて、もう関わりを持ちたくないと言うべきなのかな。きっと彼女も、屑な僕にそんなことを言われたくはないんだろうけど。
「そっか! じゃ、次探そうよ、次! 私なんてどう?」
そう言って彼女が浮かべた笑みは、何だか脆くて儚くて。冗談に冗談で返そうとしても、つい見とれてしまって何も言葉にできなかった。
23:以下、
冗談を言ってるはずなのに、目は何となく寂しそうな。それがなぜなのか僕には分からないけど、とにかく僕にはその笑顔がひどく寂しいものに見えた。
「ねー、黙ってないでさ、つっこんでよー! それとも、本当に私にしちゃう?」
その言葉を耳にして、やっとツッコミを口にする。
「お姉さん、名前も知らないでしょ?」
そう言うと、彼女はしまったという顔をして僕を見た。
「あ、そうだった! その話を聞く前に知っとかないといけなかったかなー! お兄さん、お名前は? あ、偽名でもいいけどね。あと、私はおねーさんじゃなくてゆうだから!」
元のハイテンションに戻った彼女は、僕の顔を見て首をかしげた。偽名でも良いと言われても、パッと思い付くような偽名もなくて、僕は名前をそのまま告げた。
「カズヤ、です」
あの話をした後に自己紹介なんて、改めて何だか変な気がしてきた。
彼女は僕の名前を何度か呟いた後に、僕の顔を両手で挟んだ。
「カズヤね、おっけー! カズヤみたいに若いお客さんって珍しいし、もう忘れないから!」
儚さも脆さも感じられない、ニコニコした笑顔を浮かべながら彼女がそう言ったところで、アナウンスが鳴った。
「あっ、時間だ……」
彼女はバツが悪そうにそう呟いた。そっか、僕が自分語りをダラダラとしているうちに、思ったよりも時間は進んでいたらしい。
「ごめんね……スッキリしに来たのに……」
申し訳なさそうな表情の彼女に、僕は否定と感謝を伝えよう。
「いや、話聞いてもらえて楽になれたんで全然……むしろ、俺の全然面白くない話に付き合ってくれてありがとう」
彼女は申し訳なさそうな表情を浮かべたままではあったけど、「ううん、それならよかった。ありがとね」と言い、僕にブースから退出するように促した。
24:以下、
立ち上がってバッグを持とうとしたところで、彼女は思い出したかのように「あっ」と声をあげた。どうしたんだろうと、僕は彼女に疑問の眼差しを向ける。
「名刺、渡してもいいかな? また来てもらえるか分からないけど」
特に断る理由もないので、了承の返事をすると彼女は名刺らしきカードを取り出して、ペンで何かを書き足していた。よしっ、と一言呟いたかと思うと、それを差し出してきた。
「頂戴します」
なんて、冗談混じりで返しながらそれを受けとると、そのまま腕をひっぱられた。
「おっと……」
そんな焦り声を漏らした瞬間、僕の唇に柔らかい何かが触れた。それが少しだけ熱のこもった彼女の唇だと気づいたのは、ほんの一瞬後だった。
「ごちそうさまでしたっ」
満足そうに彼女が言ったのを呆けて見てしまった。きっと、凄く間抜けな顔だったと思う。
「立場、逆じゃない?」
そんな言葉がその直後に出てきたのは、自分でもなかなか頑張ったなって感じだ。
「確かにー! ま、細かいことは気にしないの!」
そう言って、彼女は僕の手を引っ張って入口まで連れていく。
「ありがとうございましたー! 時間見てなくてごめんね!」
「いえいえこちらこそ……ありがとうございました」
そんな、何とも分からないやり取りを終えて、僕は店を出ていった。
何だか不思議な気持ちだった。最初に感じていた背徳感は全く無くなっているし、抜いてもらったわけでもないのに気分もスッキリしている。何だか、いろんな意味で異世界で異常な体験をしていた気がする。
「……すごいなぁ」
そんな呟きと共に、僕は家路に向かう。
これが、僕と彼女の出会いだった。
26:以下、
あの店に行ってから、もう二週間ほど過ぎた。GWも過ぎてしまい、服装も一段と軽くなった。気が早い人は、もう半袖のTシャツだけだったりする。
大学の講義を終えた僕は、所属しているサッカーチームの練習場所へと移動をしているところだ。
大学の部活やサークルではなくて、社会人のチームだ。一応、県のリーグ戦にも登録していて、今は一部リーグに所属している。
入学当初は体育会系の部活に入ろうと思っていた。しかし、それなりに勉強をしてそこそこの国立大学に入ってしまった結果、みんな勉強を頑張って入学したからなのだろうか、スポーツは趣味という程度で、それほど高いレベルでもなく、入部をためらってしまった。
そこで、外部でチームを探していたところ今のチームを見つけたのだった。県リーグとはいえ元プロや高校サッカーで全国大会に出たような選手も所属していて、少なくとも部活でやるよりは張り合いがある。
元カノと付き合っていた時や悩んでいた時も、自主練であったりチーム外でボールを蹴る時間はなくなってしまったけど、チームに参加しているときは何も考えずにいられた。ボールを蹴ってる瞬間、追いかけている瞬間は、それだけで頭が一杯になるんだ。
27:以下、
学生の僕は時間に融通がきくからか、一番乗りで会場に着くことが多い。
まだ誰もいないグラウンドに到着すると、バッグから荷物を取り出して、近くに誰もいないことを確認すると手早く着替えた。
今はまだ陽があるから半袖でも大丈夫そうだけど、練習が本格化する夜には少し冷えそうだと感じ、プラクティスシャツの上にピステを着ることにした。シャカシャカした素材のピステは、今の時間には少し暑い。
そのままベンチに腰かけてスニーカーを脱いで、スパイクに履き替える。足裏にあるポイントの突き上げるような感覚は、何度感じても楽しさを伝えてくれる。
これからサッカーをするんだ。
そんな気持ちにさせてくれる感覚。
30:以下、
ベンチを立ち上がると、土のグラウンドに向かって一礼をして外周を軽く走る。本当は綺麗な芝のピッチがいいんだけど、県リーグレベルの社会人がそんなところでいつも練習をするのはとてもじゃないが無理な話だ。
二周を走り終えると、サッカー部にはお馴染みのブラジル体操を始めた。一人で掛け声をあげながら、足を伸ばしたりステップを踏んだり。端から見ると不審者なんだろうな。
軽く汗をかいたところで自分で持ってきたボールを蹴ろうと、一度ベンチに向かっていると人影が見えた。
「あ、カズくん。相変わらず早いね」
そんな声をあげたのは、マネージャーをしてくれているミユだった。一歳下の彼女は、ヒロさんというお兄さんと一緒にうちのチームに来ている。
「ヒロさんは? まだ?」
そう尋ねると、彼女は首を横に振って肩をすくめて見せた。
「今日はちょっと遅くなるって、家を出るときに言ってた。忙しいんだって」
そっか、と残念そうに僕は返す。
ヒロさんは2年前まではプロとしてプレーをしていた選手だ。二部リーグの選手だったとはいえ、さすが元プロと言うべきか、うちのチームでは段違いに上手い。
プロを自由契約……要するに、クビになってからは、地元のこの町で就職をしてうちのチームでサッカーを続けている。
サッカーも上手くて、クビになってもすぐに仕事も始めて、落ち着きもあるのに人当たりもよくて。僕の憧れの人だ。
31:以下、
「ま、ヒロ兄以外の人も何人か遅れるって連絡があったし、大人はみんな忙しいんだろうねー」
うんうん、とミユはなぜか自慢げに頷いた。うちのチームの出欠連絡は、基本的にマネージャーにすることになっている。最初は監督にすることになっていたらしいんだけど、監督が適当な人だったせいで僕が加入して一年経ち、ミユがマネージャーとして入ってからは彼女が基本的に連絡役を勤めている。
監督はヤマさんという、三十路を越えた人が選手兼任監督を勤めているんだけど、どうにも適当な人で連絡をしたことも忘れられていることがよくあったんだ。十歳も下の僕が言うことではないけど、あれでよく監督をやっていられるな、と思う。選手としては凄いんだけど。
「そっか、まぁ、来る人だけでやるしかないからなー」
企業が運営するチームではないから、どうしても僕たちの練習は仕事や学校の予定に左右されてしまう。酷いときは、10人も集まらないことだってある。
それでも僕も、チームメイトもサッカーをする。理由もなくて、理屈もない。
ボールを追いかけること、蹴ることが好きなままに大きくなった子どもの集まりだと、以前ヒロさんは言っていたけど、本当にその通りだ。
「じゃ、ちょっと蹴りながら待っとくよ」
「はいはい、じゃあ私も給水の準備してくるねー。がんばって」
そんな言葉を残すと、ボール、有名な漫画の言葉を借りるなら『友達』と共に、僕は土のグラウンドに向かっていった。
32:以下、
「カズ、この後暇か? よかったら、一杯行かないか?」
練習後、ヒロさんに声をかけられた。
僕が飼い主に向かって尻尾を降る犬のようにヒロさんを慕っているからか、彼も僕のことをかなり可愛がってくれているんだけど、飲みに誘われるのは珍しいことだった。
曰く、「アルコールは怪我と体力の回復を遅らせる。もちろん多少の酒は良薬かもしれないけど、飲みすぎるのはサッカー選手としてはマイナス面が強すぎる」とのことだ。
チームの飲み会には参加するし、多少は飲みはするけど、摂生するときは摂生する。プロではなくなっても、当時から持ってたプロ意識は抜けてないらしい。
そんなヒロさんに酒を飲もうと誘われたのは少し意外だったけど、断る理由もない僕はすぐに了承した。
どうしたんだろう、珍しいな。
「じゃ、着替えたら行くか」
「はいっ」
理由は何であれ、ヒロさんと一緒に食事に行くのは久しぶりだし、嬉しさのあまりに僕は慌てて着替え始める。
「何か食いたいものあるかー?」
「肉っ! 食べたいです!」
その質問には素直すぎるくらい、間髪を入れずに返事をする。練習後の肉ってなんであんなに美味しいんだろうね。
ヒロさんは笑いながら分かった分かったと言い、僕もつい笑ってしまった。何か、こういうのって良いな。
33:以下、
「えー! 二人でご飯? ずるい! 私も!」と抗議の声をあげたミユを止めるのにはかなりの時間がかかったけど、どうにかそれを振りきった。
「悪いな、あいつ、お前のこと結構気に入ってるから。俺とじゃなくて、お前と飯食いたかったんだと思うけど」
そんなヒロさんの言葉に、いやいやと否定を入れながらも、僕は目の前で良い色に変わりつつある肉を見ていた。
焼肉って、人によって焼き加減の好みが違うから難しいよね。鶏と豚はしっかり焼くけど、牛肉は本当に分からない。
「カズ、最近調子良いよな。何か良いことあった?」
「良いこと……ですか?」
うーん、たぶん無いよなぁ。大学の授業は相変わらずめんどくさいし、バイトも特に代わり映えしない。
「何かこう……迷いが吹っ切れたっていうか、プレーするのが楽しそうっていうか。スッキリしてるよ、最近」
34:以下、
その言葉で思い浮かべたのは、あの店での出来事だった。
誰にも話せなかった心のモヤモヤがスッキリしたのが、サッカーにも繋がったのかな。
「あー、なるほど……最近、ちょっと気にしてたことが無くなったからですかね」
「あ、そうなんだ? 何にせよ、それなら良いじゃん。俺なんか、今もモヤモヤしてるよ」
最後の一言で、ヒロさんは急に声のトーンを落とした。ジョッキに半分ほど残っていたビールを一気に飲み干すと、追加でまた一杯注文した。
「どうしたんですか?」
ヒロさんらしからぬ行動に、恐る恐る尋ねてみた。僕なんかが触れて良い話題なのか分からないけど、ここで聞かないなんてとても無理な話だ。
35:以下、
「フラれたんだよ」
「えっ」
予想もしてなかった言葉に、つい声をあげてしまった。ヒロさんの彼女は、確かプロだったときからの付き合いだと聞く。
もう数年は付き合っているし、再就職をしてからしばらく経ち、そろそろ結婚かなと思っていたのに。
「っていうのに加えて、代表もだよ」
「代表……?」
脈絡のないその言葉に、僕は首をかしげた。彼女……代表? 代表って何だ?
「この間、アジア予選の代表が発表されただろ」
あ、サッカー日本代表のことか。でも一体、それがどうしたって言うんだろうか。
「シンヤが選ばれてるんだよ」
吐き出すように口にした名前は、今回初めて代表に招集された選手の名前だった。一部リーグで中盤の選手ながらもゴールを重ね、アシストランキングだけじゃなくて得点ランキングでも上位に名を連ねている。
待望の招集に日本中のサッカーファンは彼のプレーを楽しみにしていると専ら評判なんだけど、ヒロさんは不機嫌そうだ。
36:以下、
「それが……」
僕の言葉を遮るように、ヒロさんは言葉を重ねた。
「あいつ、チームメイトだったんだよ」
ああ、そういえば。
言われてみると、確か彼は去年までニ部のチームでプレーをしていたはずだ。そして、そこでの活躍が認められて一部のチームに今季から移籍したと、雑誌の特集記事を読んだ記憶がある。
しかし、元チームメイトだったのなら、彼の代表選出は喜ばしいことなんじゃないんだろうか。
そんな謎は残るけど、僕からヒロさんにそれを尋ねるのは何だか躊躇われてしまった。
「俺がクビになった理由、カズに話したかな?」
投げられた言葉は、またも脈絡の無いように思えたものだった。僕は黙って首を横に振ると、ヒロさんは言葉を紡ぎ始めた。
37:以下、
俺と同期で高卒新人だったのが、シンヤだったんだ。
もちろん俺たちはすぐに仲良くなった。友達だし、チームメイトだし、仲間だった。
入団初年度はお互いにロクに出番がなくて、二人で自主練をしたり、愚痴りあったり。
お互いに活躍するとそれを励みに練習に打ち込んで、仲間だけど負けたくないなって思ってた。
二年目になって、俺たちのチームの主力選手の先輩が抜けたんだ。一部のチームに引っこ抜かれて、チームとしてはピンチだけど俺達としてはチャンスだなって。ポジションも同じだったから、これを機にレギュラーになってやるって野心を持ってね。
その年の開幕前のキャンプで、紅白戦をしたんだ。レギュラーチームに入ったのは、シンヤじゃなくて俺だった。
プレースタイル的に俺の方が先輩に近いものがあったっていう幸運もあったのかな。でも、そこで良いプレーをしたら開幕スタメンも夢じゃないって思って、俺は気合を入れてその試合に臨んだんだ。
自分で言うのも何だけど、前半はかなり良いプレーが出来てさ。あのプレーなら、先輩がいてもレギュラーを争えたんじゃないかってくらい。チームとしても良いペースで点を奪って、紅白戦だけど圧勝って感じ。
ただ、後半。あれが起きたのは後半だったんだ。
38:以下、
後半が始まってからも、レギュラーチームの優勢は変わらなかった。
俺たちはボールを支配して、相手チームも防戦一方って感じでさ。
そんな雰囲気の時に、俺とシンヤがマッチアップしたんだ。ボールを持ってるのはもちろん俺で、ディフェンスがあいつ。
勝ってるし調子も良いからって天狗になりかけてた俺は、シンヤ相手に股抜きをしたんだ。
足の間をボールが通って、俺も脇を通り抜けて。やったと思った直後に、倒れたてたんだ。
後ろからシンヤにスライディングをされて、それがモロに右足に入ってたんだ。
出たくなんかないのに担架でピッチの外に追い出されて、そのまま病院に行ったら全治半年だ、って。
試合に出られない間にあいつはチーム内でレギュラーになって、俺はそのまま出番をなくしてしまった。
初めてそんな大怪我をしたからかな。それ以来、後ろからの接触プレーが怖くて、どうしても抜いた相手を気にし過ぎてしまうんだ。
県リーグレベルならそれでも通用するけど、プロの世界ではそれじゃダメでさ。
その年ともう一年は面倒を見てもらえたけど、結局それが遠因で、二年前にクビになったんだ。
シンヤともあれ以来気まずくて、退団してからは連絡を取ってない。
39:以下、
「あいつのせいじゃないってことは、分かってる」
ヒロさんは、絞り出すように漏らした。
「あんな状況で股抜きなんかされたら誰だってイラつくし、接触プレーを怖がってしまうのは俺の心が弱いからなんだ」
「じゃあ……」
「でも」
逆接の言葉で感じたのは、強い感情だった。理屈を超えた感情だ。
「もしあそこで怪我してなければ、今ごろ代表にいたのは俺かもしれない。そう思うと、どうしてもスッキリした気持ちで応援も出来ないんだ」
俺って嫌な奴だよな、とヒロさんは自嘲気味に呟いた。
「そんなことないです」とも、「それはシンヤが悪いですよ」とも、僕は言えなかった。
ヒロさんの「あれさえなければ」という気持ちも分かるし、とはいえ怪我のリスクはサッカー選手である以上、当然背負っているものだ。自慢できるものではないが、僕だって骨折や捻挫の経験はある。
消化しようとしてもしきれないモヤモヤを、ヒロさんも感じているんだろうか。
「悪いな、こんな空気にしてしまって。ちょっと愚痴をさ、聞いてもらいたかったんだ。お前くらいしか話せないからさ。ミユにこんな話を聞かれると心配されるし」
その言葉を最後に、ヒロさんは空元気なのか笑えてない笑顔で僕に「肉食え、肉! 体作って、今週の試合も勝つぞ!」と言った。
その言葉にも僕は返事が出来なくて、ただ頷いてトングで肉をつつくだけだった。
40:以下、
あの焼肉から一週間。
アジア予選が始まり、シンヤも代表デビュー戦でゴールを決める活躍をした。その試合後は、うちのチームでもシンヤの名前がよく出てきた。
彼の名前を耳にするたびに、ヒロさんは複雑そうな表情で相槌を打っているし、僕も何だか晴れやかな気分とはいかなかった。代表が勝ったら、普段は嬉しいのにね。
大学も練習も無い休日は久しぶりで、家に引きこもるか悩んだけど、ちょっと出掛けてみることにした。どうせ一人で家にいても落ち着かないしね。
七分丈のお気に入りのサーマルカットソーに、ちょっとダメージの入ったジーパン、スニーカー。夏が近づくとサンダルを履く人も多いけど、中学生の時の部活の顧問に「サンダルなんか履いて怪我してサッカーできなくなったらどうするんだ! 靴を履け!」と言われて以来、卒業した今もその教えをずっと守っている。
ファッション、流行りの服が好きってことじゃないけど、お気に入りの服を着るだけで少し楽しい気分になる。
浮かれない気持ちも少しはマシになって、僕は行くあてもなく町をうろつく。
41:以下、
信号待ちで顔をあげてみると、大型スクリーンにシンヤが映し出された。以前の代表戦の得点シーンが流れた後に、『絶対に負けられない』というお決まりのテロップが流れている。
それを眺めながら、あの日のヒロさんの話を思い出すと少し憂鬱な気持ちになった。
誰が悪い、どちらが悪いとかではなくて、お互いが本気だったから起きてしまったことだとは思う。
とは言え、それはあくまで僕の感覚での話だ。正直、プロとか代表とか話のスケールが大きすぎて、何だか違う世界の話のようにも感じてしまう。
違う世界……?
その言葉に、何だか引っ掛かりを覚えた。
そういえば、僕のモヤモヤを解消してくれたのも異世界のような場所で、彼女に話したことがきっかけだった。
また行ってみようかな。
そんな軽い気持ちで、僕の足はあのビルへと向かった。
42:以下、
まだ早い時間ということもあってか、僕はすんなりと店内に誘導してもらえた。
以前と同じブースに座っていると、場内アナウンスが耳に入った直後に彼女の姿が見えた。
「あっ、カズヤ! こんにちはー、また来てくれたんだ?」
靴を脱ぎながら彼女は僕に挨拶をした。
忘れない、との言葉通りなのかスタッフが何か伝えたのか分からないけど、彼女はとりあえず僕の名前は分かってくれているらしい。
「あっ、名前覚えてるんだ」
「そりゃ覚えてるよー! あんな話をここで聞いたの初めてだもん! おまけに抜いてあげられなかったしさー」
少し口を尖らせて、拗ねたような口調でそうぼやいた。
「で、今日は? 今日こそスッキリしに来たの?」
彼女はそう言いながら僕の左頬に右手を添える。相変わらず吸い込まれるような瞳に見つめられ、自分でも胸の鼓動が高鳴るのが分かってしまう。
44:以下、
「えっと……」
完全に話しを聞いてもらいに来てたけど、よくよく考えるとここはそういう場所で、僕の行動はひどくお門違いなものの気がする。
「ん? 違うの?」
「ちょっとお話をしに……」
「またー?」
「やっぱり迷惑?」
「いや全然! でも、私で良いの?」
私で良いの、というよりは。
「お姉さんだから良いのかも。知らない人だから話しやすいこととか、あるじゃん?」
その説明に納得したのか、うんうん頷きながら「よし、ドンと来い!」なんて言って胸を叩いた。ノリ良いな。
「あっ、でもね」
そう言ったかと思うと、彼女は僕の唇に人差し指を当てた。
「お姉さん、じゃなくて、ゆう、だから。お分かり?」
ね? と、笑いながら彼女は念を押してきて、僕は顔を赤くして頷く。
45:以下、
しかし、いざ話すとなるとなかなかどうして、説明が難しいんだよね。前みたいに自分のことだったら包み隠さず全部話せるけど、ヒロさんもシンヤも預かり知らぬところでプライベートを曝されるのは嫌だろう。
「ちょっと説明が難しいんだけど……憧れてる先輩がいてさ。最近、落ち込んでるみたいで」
「うんうん、何で?」
ここの説明が一番難しいんだけど。
言葉を選びながら、慎重に話を進める。
「同じタイミングで入社した人が一人いるらしいんだ。でも、最初は自分の方が優秀だったのに、不幸な事故で出世できなくて、もう一人が出世したらしくて。祝ってあげたいのに、事故さえなければ……って思ってしまうんだって」
プロサッカー選手だって社会人なんだから、入社という言葉で誤魔化してみたり、怪我を不幸な事故と言ってみたり。ニュアンスが変わって伝わらないか心配だけど、これ以上の説明は今の僕にはできなかった。
「そうなんだー、へぇ……」
「それで落ち込んでるし、彼女にもフラレたらしくて、二重に落ち込んでるらしいんだよね」
「何だ、カズヤの仲間じゃん」
そんなツッコミを入れて、ゆう……ちゃん、はニヤけ顔になった。
「でも、人の心配ができるくらいならカズヤはもう大丈夫そうだね。カズヤはその先輩に元気になってもらいたいの?」
「うーん……元気になってもらいたい……なのかな……?」
改めて問われると、その返事には少し戸惑ってしまう。いつも通りのヒロさんになってほしいとは思うんだけど、ヒロさんだって人間なんだから、苦しさを捨ててほしいなんてことを僕が願うのも過ぎたことだ。
僕はいったい、どうしたいんだろう。どうなってほしいんだろう。
「やっぱりさ、カズヤの憧れてる先輩もさ、落ち込んでるってことはそれだけ悔しくて、好きでやってることなんでしょ? それなら、その悔しさは大事にしないといけないんじゃないかな」
前回と同様に、ユーロビートな音楽が騒がしくなる部屋のなかで、ゆうちゃんは言う。
「悔しかったり悩んだりするのは、それだけ好きだからなんだよ。好きじゃないことで辛いなら、逃げてしまえばいいもん。でも、それから逃げられなくて辛いなら、それは受け止めて消化するしかないんじゃないかな」
言いきると、「ごめんね、偉そうに」なんて申し訳なさそうに付け足した。
46:以下、
「なるほど……」
「だから、カズヤは特別何かするとかじゃなくて、その先輩が悔しさを消化しきれてるかどうかを気にしてあげればいいんじゃないかな。それこそ、辛そうなら話を聞いてあげるとか。言葉にすると楽になること、あるでしょ?」
それは確かに、正しく以前ここで体験したことだ。
「でもさ、その先輩もカズヤのこと信頼してるんだろうね。そんなこと話してくれるなんてさ」
羨ましいな、と彼女は言った。何が羨ましいのかは分からないけど、とても寂しそうな声色で。
「何の先輩なの? カズヤはまだ学生だったよね? その人は働いてるみたいだけど」
まあ、これくらいは話しても問題ないよね。働きながらサッカーをしてる人なんていくらでもいるし。
「今、大学じゃなくて社会人のチームでサッカーしてるんだ。そのチームの先輩」
「あっ、サッカーやってるんだ! 言われてみればやってそうだよねー!」
「そう?」
「うん、胸板しっかりしてるし、足もちょっと太いし、見た目チャラいし」
47:以下、
「チャラいって……」
関係あるの? と苦笑すると、彼女は大真面目な顔でこう返した。
「サッカー部への偏見ですっ!」
何だそりゃ。 つい吹き出して笑ってしまったよ。そんなイメージがあるのか……チャラくないんだけどなぁ。
「社会人のチームかぁ……試合とかもあるの?」
「もちろん。県のリーグ戦にも登録してるし、天皇杯っていうトーナメントも予選に出るし、結構本気なチームかな」
「サッカーしてるカズヤ、ちょっと見てみたいかも」
「はいはい」
「もー、何でそんな冷たい反応なの?」
リップサービスを流してしまうと、そんな苦情を入れられた。真に受けるのも何か、ねぇ。
「えー、本当だよ? 試合の予定とか教えてよー」
48:以下、
「えーっと……来週末に、天皇杯の予選があるけど……」
会場は、このお店からもそう遠くない場所にあるサッカー場だったはずだ。芝のピッチに、小さいながらもスタンドもついているところだ。今は、そこで試合をするのが待ち遠しい。
「へぇー、近いんだね。何時から?」
「14時キックオフだったかな? たぶん」
「なるほどなるほど……って、店外デートは禁止なんだけどねっ」
「デートなの?」
そんなふざけたやり取りに、やっぱりリップサービスじゃないかと少し残念がってしまう自分もいた。
「私、サッカーの試合って生で見たことないんだよね。テレビニュースで日本代表のハイライトは見たりするけど。誰だっけ、今注目されてるの。えーっと……」
「シンヤ?」
名前を隠していたとはいえ、さっきまで話していた彼がこんな風に名前が出てくるとは思っていなかった。
「そうそう! 最近よく見るなぁって思って!」
サッカーにあまり興味が無い人にまで知るようになるくらい、代表の影響力っていうのは強いらしい。
「ま、僕はあんなに高いレベルで試合できないからね。先輩とかはやっぱり上手いんだけど」
「じゃあ、その先輩を見に行っちゃおうかなぁ……嘘だけど」
そんな下らないやり取りをしているうちに、その日の僕らの時間は終わった。
49:以下、
風俗で働こうと思ったきっかけは、楽に稼げそうだったから。
高校を卒業した私は、勉強が嫌で進学もせず、だからと言って正社員として就職もせず、ダラダラと生きていた。
でも、そんなことをいっても私だって年頃の女なんだから、苦しい思いをして働きたくもないけど、遊ぶお金は欲しかったんだよね。それで選んだ道が風俗だった。ピンサロならホテルに行ったりはしないから本番とかの心配はないし、色々と相手をしないといけないキャバクラとは違い、ヌいてあげたらそれで終わりだから面倒なこともなさそうだし。
最初はおじさんのそれを扱うのに戸惑いもしたけど、馴れてしまえば若いイケメンも脂ぎったおじさんも同じものだと割り切れるようになった。
とはいえ、風俗だって人気商売なんだから流行り廃りがあるわけで、いつまでもこんなことをしているわけにもいかないよね、とは思い始めていた。成人式が終わったあたりからかな。やっぱり、20歳を越えた儀式って、日本人の感覚としては大きいみたい。
そんな風に転職を考えていた春に、変なお客さんが来た。
歳も私と同じ男の子で、風俗に来たっていうのに脱ぎすらしないで、寂しそうな目をしたまま失恋話を始めてきた。
話すだけ話すと、彼は憑き物が落ちたみたいにすっきりした表情で退店していった。
普通に恋愛をするとあんな風に落ち込んだり悩んだりするんだ、って思うと、今度は私が少し寂しくなってしまった。私の恋愛は、普通ではないと自分で思っているから。
50:以下、
よくある話かもしれないけど、私はホストにハマっていた。
私のお客さんはおじさんが多いしたまには若い男と話してみたい、と軽い気持ちで踏み入れたのは深い沼だった。
そこで私の対応をしてくれた男を応援したい、ナンバーワンにしてあげたいと思い、私は彼に貢ぎに貢いだ。
ブランドのスーツや財布、現金だって渡したし求められたらセ○クスだってした。
それでも、これだけは分かっている。
私は彼の彼女にはなれない。
彼が好きなのは私じゃなくてお金や体であって、それがあるなら私じゃなくても良いんだっていうのは、私が一番知っている。
彼は私以外の女も平気で抱くし、貢がれたものも気に入ったなら使う。要するに、私は彼にとって彼女どころか、何番目の女ですらないんだ。私の前で、他の女の匂いを隠そうとしない。
それで他の女に負けたくないと貢ぐ私って、本当にバカだよね。でも、止められないの。
52:以下、
彼女はおろか、貢いでいるからセフレにすらなりきれてない私は、ドロドロの底無し沼にハマって抜け出せないでいた。
ピンサロで働いているのと同じで、このままじゃダメだって分かっているのに止めることもできない。
きっと、私はこのままじゃ幸せにも不幸にもなれないんだろうな。たぶん彼に女ができても私たちの関係はなくなりはしないだろうし、逆にずっと女ができなくても私は彼女にはなれない。
私も似たような接客業だから分かるけど、お客さんと付き合うのってめんどくさいみたいだしね。
お客さんでいるときは相手の気を引こうと貢いだり健気にいたりするけど、立場が恋人になってしまうと、人間は欲深くなってしまうらしい。
表向きはお客さんと店外で会うのが禁止されてるうちの店でも、お客さんと付き合ってる子は今までに何人かいた。でも、彼女たちは全員、付き合ってしばらくすると「あんな人とは思わなかった」って口にするようになるんだ。
今までは男が女の子に合わせてお店に来たり、プレゼントを貢いだりしてたのに、恋人みたいに対等な関係になってしまうとそれが変わってしまうからなのかな。
そういうのを見てきた私はお客さんと付き合うとか店外で会うとかってめんどくさいと思ってたのに、自分が客として貢ぐ側になってしまうと、貢いでいく方の気持ちも何となく分かるようになってしまった。
対価を払い続けている限り、よっぽどのことがない限り彼は私を拒まない。そして、彼が納得するだけの対価を払えてる今は、彼の優しさを得ることができる。
ビジネスライクなwin-winの関係で、私たちは結ばれている。その優しさを失うのが怖くて、私は彼に貢ぐのをやめられない。そして貢ぐのをやめられないからこそ、私は今の仕事を離れることができない。
53:以下、
何度か、彼から離れようとしてみたこともあった。
合コンに行ってみたり、友達に紹介してもらったり。高校の同級生がモデルをしていたから、彼女に誘われた合コンでは芸能人やスポーツ選手、お笑い芸人みたいな華やかな世界の人にも会えた。
そこで何人かに気に入られてお持ち帰りはされても、恋人同士にはなれなかった。
華やかな世界に住む彼らに対して、私が怖じ気づいてしまったんだよね。だって私、ホストに貢ぐ風俗嬢だよ? 他の人がそれをどう思うのか分からないけど、私の感覚だとどう考えても私じゃ彼らには釣り合わないと思うんだよね。
それに、彼らもたぶん本気じゃないし。一晩遊ぶ相手として、私はちょうどいい女なんだと思う。連絡先も交換しないことだってあったし。
そういう華やかな世界じゃない人に対しても引け目は感じてしまって、恋人なんて作ることもできないままに彼から離れることができずにいた。
ホストに貢ぐという歪んだ形の恋愛に溺れた私にとっては、カズヤのように彼女にフラレて落ち込む普通の恋愛が、何だか眩しかったんだ。
54:以下、
「エリ、俺もう行くから」
私の本名を呼んで、アキラ……ホストの源氏名なんだけど、彼は私の部屋から出ていった。私はベッドの上で上半身だけ起こして「いってらっしゃい」と声を投げ掛けた。
昨日の夜、終電を逃したから泊めてくれと連絡された私はそれを受け入れた。彼がうちに来ると、いつも同じベッドで体を重ね、朝になるとさっさと帰ってしまう。
最初はそれに冷たいなぁなんて拗ねていたけど、それにももう慣れてしまった。辛いことへの適応力はわりとすぐに身につくようにでかなているらしい。
寝ぼけ眼のままにベッドから出て、テレビをつけてみると、スポーツニュースが流れ始めた。私とちょっとしか変わらないような歳のサッカー選手が、日本代表の試合で活躍したらしい。得点シーンを流しながら、「彼の活躍が、今後の日本代表には必要不可欠です」なんてコメントも聞こえてきたり。
必要不可欠、か。
私はきっと、誰からも必要になんてされてない。定職にもつかずフラフラしている私のことを家族は呆れて見てるし、アキラだって私のことは都合の良い女だとしか思ってないはずだし、お客さんだって私より上手い女の子、可愛い女の子がいたらそっちに流れてしまう。
私がいなくなったところで、何の問題もなく世界は回る。
そんな私と対照的に、日本代表という大きな舞台で、多くの人に求められている彼を見るのは何だか辛かった。
テレビを消して、出掛ける支度を始める。良い天気だし、ショッピングに行こうかな。
シャワーを浴びて身嗜みを整えて、お気に入りの服を着て。それだけでちょっと幸せな気分になった私は、欲しい夏服を思い浮かべながら町へ飛び出した。
55:以下、
何着かの服が入ったショッピングバッグを手に、私は散歩をしている。
あんな仕事をしているとどうしても不健康な生活リズムになりがちだから、休日に散歩をするのは嫌いじゃないんだ。ダイエットにもなるしね。
町を抜けて、ちょっと落ち着いた河原に出てきた。そのまま堤防沿いを歩いてみると、心地よい風が吹いてきた。
長袖を着ると少し暑いくらいだったし、もう夏は近いのかもしれない。
季節の変わり目に感じがちな、ノスタルジックな感傷に浸っていると、河川敷でサッカーをしている人たちが目に入ってきた。
へぇ、こんなところで練習してる人たちもいるんだ。
その方向に目を向けたまま歩いていると、彼らは大人で、私と同じような歳の人であったり、もしくはおじさんのような人であったりということに気づいた。みんな、気持ち良さそうな笑顔でボールを追いかけたり、声を出したりしている。
56:以下、
彼らはどうしてボールを蹴るんだろう。追いかけるんだろう。
好きだからやってることなんだろうけど、運動音痴な私からしてみたら、これからドンドン暑くなっていくというのにあんなに汗をかきながら走っていくのは苦行にしか見えない。スポーツ好きな人って、マゾなのかな。
それに、失礼なことを言ってしまえば、彼らがプロの選手や日本代表の選手になるのはきっと無理だと思う。
スポーツ選手って名門の高校、大学で鍛えられてプロになるイメージなんだけど、こんな河川敷でボールを蹴っている彼らは、環境的にも年齢的にもそういうところまでは辿り着けないんじゃないかということは、素人の私でも分かる。
それでも彼らは楽しそうに、自分達がサッカーをすることに対して何の疑問も持たずに走り回っている。
その純粋さがどこから来るのかも分からない私は、もしかしたら人として大切な感情の何かが欠けているのかもしれない。
堤防を歩きながら夕焼け空の下、私は自分自身への寂しさも感じながら家路に向かった。
57:以下、
いつも通り仕事をしていると、私の指名が入った。
長く働いているからなのか分からないけど、一応うちの店で一番人気な私を予約せずに指名してすぐに入れるのは珍しいことだ。どんなお客さんだろう、初めての人かな。
そんなことを考えながらブースへ向かうと、いつかの変なお客さん、カズヤがいた。
私が覚えていることを彼は意外そうにしていたけど、カズヤみたいな人って珍しいからそうそう忘れるはずがないよね。
以前は本来の仕事ができなかったから今日こそは、と思っていたのに彼は今度も脱ぎすらしなかった。相談内容は、自分のことではなくなってたけど。
カズヤの話を聞いていると、彼はどうやらその先輩に信頼されている……というか、頼られているのかなって感じ始めた。
人間って汚い部分を絶対に持ってると思うんだけど、それを他の人に見せるのってかなり難しいことだから。他の人も自分と同じで人に見せたくないところがあると分かっていても、自分からそれを見せるのはかなりの勇気と、相手への信頼が必要だから。
きっとその先輩にとって、カズヤは必要な存在なんだろう。そう思うと、つい羨ましいという言葉が漏れてしまった。
カズヤの話を聞き進めると、彼はサッカーをしているらしい。それも、大学の部活やサークルではなくて、この間見かけたような大人のチームで。
同世代とやった方が感覚の近い友達も増えて楽しいと思うのに、何でわざわざとは思ったけど、そんなことを私なんかがお客さん相手に指摘するのも気が引けて、黙っておくことにした。
天皇杯が何かはよく分からなかったけど、試合もある、ちょっと本格的にやっているチームなんだってことだけは何となく私にも分かった。
河川敷を散歩しているときに感じた寂しさの原因が、カズヤのサッカーしている姿を見てみたら少しは分かるのかな。私と同い年だし。もう、全く知らない人ってわけではないと思うし。
冗談半分興味半分で試合の予定を聞いてみたら、私の休日と被っていた。
とは言え、店の中でそういうことをこれ以上話してしまうと、スタッフやほ他の女の子に目をつけられてしまう。
私はそこで話を打ち止めるように冗談だと彼に告げ、彼もそれが分かっていたかのように反応をしていた。
そりゃ、二回しか会ったことのない風俗嬢がプライベートのサッカーを見たいなんてことを本気にするのは、よっぽど女気の無い男くらいだろう。カズヤにはこの間まで彼女がいたらしいし、そんな人は本気にしないってことも分かっていた。
58:以下、
その後はカズヤのサッカー話を聞いていた。小学生の時に始めたんだけど、初めは練習が辛くてクラブに入ったことを後悔してたとか、でも同じ学年で最初に試合に出してもらえるようになって、楽しくなってきたとか。
歳が近いからなのか、それとも話が面白いからなのか。カズヤと話していると時間が流れるのがくて、あっという間に終了の時間が訪れた。
「あ、時間だ……」
私がそう呟くと、彼は申し訳なさそうにこう言った。
「何かごめんね、いつも話してばかりで……」
「ううん、私は話せて楽しいし、全然。むしろ、ありがとうね、来てくれて」
その返事に、少し安堵の表情を浮かべて彼は一息ついた。そんなに気にしなくて良いのに。
イケずに終わるとそれについて文句を言われることはたまにあるけど、カズヤみたいに謝ってくる人なんて、他にはいない。
ただ、安くはないお金を払って来ているはずなのに、これで良いのかなとは思ってしまう。私以外にもそういうことを話せる人を作った方が良いんじゃないかな……っていうのは、聞かれてしまったらスタッフに怒られちゃうから黙っておくけど。
「じゃ、行こっか」
立ち上がった彼の手を恋人繋ぎにして、私たちは歩き始めた。
59:以下、
特別なことはしなくて良い、辛そうなら話を聞けば良い。
そんなアドバイスをもらった後の練習で会ったヒロさんは、少し機嫌が良くなっているように見えた。到着してスパイクに履き替えているときは鼻歌なんか歌ってたし、心なしか笑顔も漏れているみたいだった。
練習時間より少し早く着いたヒロさんと僕は、雑談をしながらアップとしてグラウンドの外周を走っている。
「カズ、相変わらず調子良いよな。次の試合、ゴール狙っていけよ」
「いやー、いつも狙ってるんですけど、結果がですね……」
伴わないんだよなぁ。シュートを打っても、良いコースにそれが向かっても、なぜかキーパーのファインプレーに阻まれたり、ポストに当たって外に弾かれたりしてしまう。
「それより、何かヒロさんご機嫌じゃないですか? 何か良いことでもあったんすか?」
その問いかけに、ヒロさんは嬉しそうに返してくれた。
「この間の合コンで仲良くなった子がさ、今度の試合を見に来てくれるってさっきメールが届いてたんだ。だから、勝っていいとこ見せないとな」
うわっ、もう次を見つけてるんだ。さすがヒロさん。
長い付き合いの彼女と別れて1ヶ月経つか経たないかというくらいなのに、もう新しい彼女を作ろうというのにはさすがに驚いた。試合中の攻守だけでなく、恋愛でも切替は早いらしい。
「確かにそれは、絶対勝たないとっすね。やってやりましょうよ、良いパスお願いしますよ。っていうか、ヒロさんもゴール狙って下さいよ」
そんな軽口を返すと、「当然だろ、俺が決めるのはもう前提なの」と笑い飛ばされ、僕もその笑顔に安心しながら笑い返した。
うん、シンヤの件は分からないけど、二つあった苦しみのうち片方が解決するなら、ヒロさんも少しは気が楽になるかもしれない。
これは、次の試合は是が非でも勝って良いところを見させてあげないといけないな。
そんな不純かもしれない動機で、僕は試合へのモチベーションを高めていった。
60:以下、
ヒロさんの機嫌が回復しつつあるのを見たからなのか、僕も今日の練習では気分よくプレーができた。
イメージ通りのボールコントロールであったり、シュートであったり。不調気味だった得点感覚も戻りつつあって、練習の最後に開かれたミニゲームでは何ゴールか決めることができた。
最後に、選手兼任監督のヤマさんが来週末の試合までの予定を僕たちに説明して解散となった。天皇杯予選ということで、県リーグの僕たちより上のカテゴリーのチームとの試合も行われる。もちろんそれだけ厳しい試合も増えるけど、強い相手と試合をするのは嫌いじゃない。
負けたいって訳じゃないんだけどね。何だろう、強い相手に勝つことが楽しいのかな。勝つから楽しいっていうのも、何かちょっと違う気がするけど。
初戦の相手は同じ県リーグ一部のチームということなので、そこで勝たないと上のカテゴリーのチームとは試合ができない。
ヒロさんのためにも、自分の楽しみのためにも、絶対に負けられない。
そう思うと気合いが入ってくるのと、やっぱり試合は楽しみだからって、自然と笑いが漏れてくる。
「カズくん、気持ち悪いよ」
そんな僕を見ていたのか、ミユが近づいてきてボソッと呟いた。
「良いじゃん。楽しみなんだよ、試合」
「好きだねぇ、本当に」
ベンチに腰かけてスパイクの紐を緩めていると、彼女も僕の隣に座ってきた。
「今、汗くさいから近寄らない方が良いよ」
「みんな汗くさいからどこにいても一緒だよ。それならカズくんが一番マシだから」
そんなことを彼女がいうものだから、耳ざとくそれを聞きつけたヤマさんが「おいおい若者たち! 練習場でいちゃついてんじゃない! カズ、お前はグラウンド10周だ!」なんてふざけて言い始めた。それを聞いたチームメイトもみんな笑ってるし、ヒロさんも「カズが弟か……いや、妹をお前にはやらんぞ!」なんて言っている。
「いやいやいや……」
何なんですか皆さんそのテンションは。
「えっ、カズくん、私じゃ嫌だ?」
いや、そんなことを言ってる訳じゃないし。いやでも良いって言ってるわけでもないし……って、何を考えてるんだ僕は。
61:以下、
ヒロさんの機嫌が回復しつつあるのを見たからなのか、僕も今日の練習では気分よくプレーができた。
イメージ通りのボールコントロールであったり、シュートであったり。不調気味だった得点感覚も戻りつつあって、練習の最後に開かれたミニゲームでは何ゴールか決めることができた。
最後に、選手兼任監督のヤマさんが来週末の試合までの予定を僕たちに説明して解散となった。天皇杯予選ということで、県リーグの僕たちより上のカテゴリーのチームとの試合も行われる。もちろんそれだけ厳しい試合も増えるけど、強い相手と試合をするのは嫌いじゃない。
負けたいって訳じゃないんだけどね。何だろう、強い相手に勝つことが楽しいのかな。勝つから楽しいっていうのも、何かちょっと違う気がするけど。
初戦の相手は同じ県リーグ一部のチームということなので、そこで勝たないと上のカテゴリーのチームとは試合ができない。
ヒロさんのためにも、自分の楽しみのためにも、絶対に負けられない。
そう思うと気合いが入ってくるのと、やっぱり試合は楽しみだからって、自然と笑いが漏れてくる。
「カズくん、気持ち悪いよ」
そんな僕を見ていたのか、ミユが近づいてきてボソッと呟いた。
「良いじゃん。楽しみなんだよ、試合」
「好きだねぇ、本当に」
ベンチに腰かけてスパイクの紐を緩めていると、彼女も僕の隣に座ってきた。
「今、汗くさいから近寄らない方が良いよ」
「みんな汗くさいからどこにいても一緒だよ。それならカズくんが一番マシだから」
そんなことを彼女がいうものだから、耳ざとくそれを聞きつけたヤマさんが「おいおい若者たち! 練習場でいちゃついてんじゃない! カズ、お前はグラウンド10周だ!」なんてふざけて言い始めた。それを聞いたチームメイトもみんな笑ってるし、ヒロさんも「カズが弟か……いや、妹をお前にはやらんぞ!」なんて言っている。
「いやいやいや……」
何なんですか皆さんそのテンションは。
「えっ、カズくん、私じゃ嫌だ?」
いや、そんなことを言ってる訳じゃないし。いやでも良いって言ってるわけでもないし……って、何を考えてるんだ僕は。
62:以下、
「ほら、トレパン脱ぐから後ろ向いて」
そんな下手な誤魔化しが僕には精一杯だった。ミユからは「つまんないなぁ」、外野からは「カズー、意気地ねぇなぁ! 空気読めよー」なんてクレームが聞こえてくるけど、それを適当に流して僕は下を着替えた。
他の人たちも着替え終わって、車所持組は各自車で帰宅。僕も普段は帰りはヒロさんに車で送ってもらってるんだけど、今日はヒロさんが噂の女性と会う予定があるらしく、急いで帰ってシャワーを浴びるということで、自分で帰ることになった。
ヒロさんの妹であるミユも一緒に普段は三人で帰ってるんだけど、今日はヒロさんだけ車で僕とミユは歩いて駅まで向かうことになっている。ミユなんか、一緒の家に帰るんだから車に乗れば良いのに。
ヒロさんは車に向かう前に「さっきはあんなこと言ったけど、お前が義弟になるのは全然オッケーだから!」なんてニヤニヤしながら言ってきた。まだそのネタを引っ張りますか。
とはいえ、ミユもどうしてわざわざ僕と一緒に帰るんだろう。他のチームメイトにもやや冷やかされながら二人で帰り始めると、ミユが口を開いた。
「カズくんさぁ、明日早い? 今晩、時間ある?」
63:以下、
「大丈夫だけど……」
どうしたんだろう、珍しいな。
今までにもミユとご飯に行ったこととか、うちに遊びに来たことはあるんだけど、そういう時はいつもヒロさんも一緒だった。二人でそういうことになるのは何だか新鮮で、変に緊張してしまう。
「ごめんね、急に。ちょっと話したいことがあるの。ご飯行こ?」
そう言って彼女は俯き調子で歩く度をめた。何となく、暗い空気だ。
いつもバカみたいなやり取りをしているからかな、こんな雰囲気は何だか気まずい。僕、何か悪いことしたかな。
グラウンドから駅に向かう道中にある、落ち着いた雰囲気のレストランに僕たちは入った。
店内で一番奥の席に案内され、適当にオーダーをすると彼女は口を開いた。
「あのね、カズくん。私ね、浮気されたの」
「はっ?」
つい口から変な声が漏れちゃったよ。何を言いだすんだ、こいつは。
「浮気って……誰に?」
「彼氏に……っていうか、他にある?」
「ミユに彼氏いるとか知らなかったし……」
「言ってなかったしねぇ」
言ってなかったしねぇ、じゃないよ。急にそんな話をされても僕はどんな反応をすればいいのか分からない。
64:以下、
私の彼氏って大学の先輩なんだけどね、カズくんと同い年で一歳上なの。
ユウヤっていうんだけど、結構かっこよくて人気だったのね。でも、浮気されたからって言うわけじゃないけど、女癖も悪いって有名で。
そんな彼氏だってヒロ兄とか親にバレたら色々めんどくさいから、秘密にしてたんだけどね。
付き合うようになったきっかけは、私が受けてる授業を彼も一緒に受けてたっていうことだったんだ。彼、朝が弱いらしくてさ。一限の必修授業の単位を二年生の時に取れなくて、三年生になった今取ってるらしいのね。
それで、少人数の授業だから仲良くなって、一緒にご飯食べたり遊んだりしてたら告白されたのね。
さすがに知り合って日も浅いし、女癖悪いらしいって友達に教えてもらってたからさ、私もちょっとどうかなって思ったの。でも、かっこいい先輩の彼氏がいるっていう状況に憧れてたのかな、オッケーしちゃったのね。クズだよね、私って。
最初は彼も優しかったの。デートに連れて行ってくれたり、プレゼントをくれたりさ。
でもね、だんだんそれが減ってきて、こう……言いづらいんだけど、ヤルだけやって帰るみたいなことも増えてきて。
なんだかなぁって思ってたら、この間ホテルから女の人と出てくるところを見ちゃったのね。
65:以下、
そこまで話したところで、オーダーしていた料理をウェイトレスが運んできた。
ミユはオムライス、僕はハンバーグのセット。両方にかけられているデミグラスソースの香りが広がって、ついお腹が鳴りそうになる。
「わー、美味しそ」
彼女はそう呟くと、「食べていい?」と確認しながらも既にスプーンを手にしていた。そして、確認なんかしなくて良いと返すより先に既に頬張っている。
僕も両手を合わせて小さく「いただきます」と呟いた。
「礼儀正しいね」
「いや、普通のことだから」
ていうかさ、みんなやってなさすぎるんだよね、いただきますって。ご馳走さまもだけどさ。
別に感謝の気持ちがー、とまでは考えてないけど、子供の頃からそれはクセになっていて、しないと食べる時に落ち着かないんだよね。
箸で割って口に入れてみると、肉汁とデミグラスソースの味が広がってついつい頬が落ちてしまう。
ミユも無心でオムライスを口に運んでいて、どうやら話は一旦置いておくつもりらしい。
さっきまであんな話をしていたのに、無言になっても気まずい沈黙と感じないのはきっと料理が美味しいからなんだろうな。
サッカーのトップ選手のプレーを見てる時と同じかもしれない。素晴らしいものは、僕たちを嫌な気持ちから遠ざけてくれる。
二人して黙々と食べていると、あっという間にお皿は空っぽになった。
66:以下、
「で、ミユはどうしたいの?」
食事で中断されてしまった話に戻ろうと、僕は口を開いた。
「どうしたいって?」
「いや、その彼氏と今後……」
別れたい、とか。言及したい、とか。
「んー、特に何も」
「何も?」
そんなので良いの?
「だって女癖悪いって有名だったから私が注意したところで変わらないだろうしさ。嫌われたくないし」
「じゃあ何で僕にその話を……」
何か意見でも求められるのかと思ってたのに、そういうわけではないのかな。
「誰かに聞いてほしかったの。彼氏がいるってことは幸せだから秘密にできても、愚痴って話してどうにかなることじゃなくても、聞いてもらいたいじゃない?」
なるほど。最近似たようなことを言われた気がするし、僕は割と聞き手としては優秀なのかもしれない。
「惚れた弱味なのかな、浮気とかしないでほしいんだけど、それを言って別れるよりは辛くても彼と繋がっていたいの」
そう言って、ミユは笑った。どこかで見覚えがある、寂しそうな笑顔だった。
67:以下、
レストランを出ると、彼女は「私もカズくんと二人でご飯に行ったって秘密を彼に作ったから、これでおあいこだね」と小さく呟いた。
秘密のなかにも大小はあると思うんだけど、ミユが納得するならそれはそれで良いのかな。
「彼のこと、初めて話したんだよね。大学の友達にも、まだ付き合ってるって報告はしてないし」
「それはそれは光栄です」
「うん、誇りにして良いよ」
そんな軽口を話せるようになったから、ミユも少しは気が紛れたのかな。根本的な解決はできてないけど、嫌な気持ちが少しでも減ったなら僕も付き合った甲斐があるというものだ。
「そういえば、この間はヒロ兄とも二人でご飯に行ってたよね。何の話してたの?」
「えーっと……」
困った。彼女に心配をかけないためにヒロさんは僕と二人だけの状況を作ったのに、そんな聞かれ方をされるとは。
「いいよ、隠さなくて。知ってるから」
「えっ」
「彼女にフラレたって愚痴でしょ?」
あ、そっちか。
「今朝ね、ヒロ兄に教えてもらったの。あれでも繊細だからね。すぐに新しくいい人に会えて良かった。試合を見に来てくれるってウキウキだったし、来週末は絶対に勝ってよね」
「もちろん!」
そう返すと、彼女は笑った。つられて僕も笑った。
試合に勝つ。そんなシンプルなことが、僕たちにしてみると何より大事なことなんだ。
68:以下、
良い天気だ。
前日の雨のと好天の日差しで、これこそ日本の夏みたいな蒸し暑さ。芝の上って、こういう日はめちゃくちゃ暑い。感覚としてはサウナみたいにムシムシする。
ウォーミングアップを終えた僕たちは、ヤマさんの指示を受ける。今日は都合で不参加のメンバーもいないから、ベストメンバーで試合に挑める。
僕は右のサイドバックでスタメンだった。うちのチームのフォーメーションは基本的に4-4-2、ディフェンダー四人に、中盤がダイヤモンド型になってる四人、そしてフォワードが二人という、少し古いタイプのシステムを採用している。ちなみに、ヒロさんは中盤の前、いわゆるトップ下というポジションでスタメン。
「今、もう来てるんですか?」
「バカ、そんなこと今聞くな」
ピッチに入場する前、ヒロさんに彼女候補の話をふるとそんな風にあしらわれた。そりゃそうだよな、今は試合に集中しないと。
審判による装飾品やスパイクのチェックが終わると、僕たちはピッチに向かって歩みを進める。
さぁ、熱い時間を始めよう。
71:以下、
序盤にゲームを支配したのは僕たちだった。元々リーグ戦の順位もうちの方が高いし、実力通りって言えば実力通りなのかな。
守備機会はあまりなかったけど、僕もタイミングを見てオーバーラップを仕掛けてクロスをあげたりして。
その中でもヒロさんの出来は出色していて、フォワードにスルーパスを通しまくり、シュートも放ってポストに当てたり。
……とか言ってるけど、まだゴールが入っていないんだけどね。
前半30分が近づいてくると、僕たちとしてもそろそろ得点が欲しくなる。焦るような時間じゃないけど、これだけ支配していて点が取れないのはもどかしい。
右サイドバックという名前で、ほぼ右ウイングフォワードのポジションについてる僕は中央にいるヒロさんからパスを受けた。
「カズー! ゆっくり!」
相手は既に守備のブロックを固めていて、焦って攻めてもそれを壊すことは難しい。そして、それを壊せるドリブラーは僕じゃない。
攻め急ぎたい気持ちをグッと堪えて、僕は受けたパスを一度ヒロさんに預けて、パスを蹴った足でそのまま前線に走り出す。
72:以下、
対面していた相手ディフェンダーは、ヒロさんにプレッシャーをかけずそのまま僕を追いかけてくる。
しかし、ヒロさんに付いていたディフェンダーも、僕を警戒して右サイドへのパスコースを消そうとプレッシャーをかけていった。それをヒロさんは見逃さない。
右の僕から出たパスをそのまま流してトラップして相手をいなすと、左フォワードにスルーパス。
ピッチを裂くように蹴られたボールの先に走り込んだフォワードは、ボールを丁寧にコントロールする。オフサイドはない。
そのままキーパーしか残ってないゴールに向かってドリブルをして、キーパーの位置を確認して流し込むようにシュートを放った。
見事にキーパーの逆をついたボールはそのままゴールに吸い込まれ……ポストに当たって跳ね返った。
そのボールを慌てて追いかけた相手ディフェンダーがクリアした。
こんなチャンスを作ってもまだ決められないのか……ヤバイな。
時間が経つにつれて焦りが増して、その焦りは解消されることなく前半終了の笛が響いた。
73:以下、
「崩せてるんだけどなぁ」
ベンチに引き上げると、ドリンクを飲みながらヤマさんが困ったように呟いた。そう、決定機は作れているのに得点が入らないから問題なんだよね。
惜しいシュートが何本も続くのは、外から見ると押してるように見えて、やってる側からすると実にフラストレーションが溜まるものだ。事実、僕も攻め急ぎたい気持ちを堪えてプレーしている。
全く攻撃の形が作れていなくて決められないのはチームとして解決できても、最後の決定力は個人の能力で、練習することでしか向上させられない。
つまり、この試合においては下手な鉄砲数打ちゃ当たるというか、『とにかくシュートを入るまで打ち続ける』ということが最善策なのである。
それしかないよなぁ、という雰囲気が蔓延してきたときに、ヒロさんが話し始めた。
「カズのポジションを上げましょうよ。右のフォワードに入れて、もっとゴール前に顔を出させましょう。こいつは最近調子良いし、ゴール前に置いたら何かしてくれそうな気がするんですよね」
「えっ、僕、フォワードなんか遊びでしかしたことないんですけど……」
オーバーラップしたり、ゴール前に顔を出すのは好きだけど、あくまでそれは試合中の流れでの話だ。戦術として、ディフェンダーではなくて中盤の右に入ることはあっても、フォワードまでいったことはない。
ヤマさんもどうしたものかと思案した顔で僕とヒロさんを交互に見ている。
負けたら終わりのトーナメントで、ぶっつけ本番のフォワードをやる度胸なんかネガティブな僕にはない。これで僕が決定機を外したらと思うと、試合中とはとは違う汗をかいてしまいそうだ。
「カズ、お前……いけるか?」
とはいえ、試合には出たくても出られないメンバーもいる。お気楽な学生の僕とは違って、仕事をしているチームメイトは、貴重な休日を使ってこの会場に来ていて、試合に出られなくても声を出したり応援をしてくれたりしている。
ここでできませんなんて言うことも、僕にはできない。
「自信は無いんですけど……とりあえずやってみます……」
いけます! とは返事は出来ずとも、肯定のニュアンスで僕は返答した。
そんな僕を見て、ヤマさんも何となく不安だったんだろうけどヒロさんの提案を受け入れることにした。
ただし、条件が一つ。後半15分までに得点が動かなければ、僕は交代して本職がフォワードの選手を投入するというものだ。
つまり、僕に与えられたフォワードとしての残り時間は15分。
74:以下、
ハーフタイムを終え、ピッチに向かっているとヒロさんに声をかけられた。
「良いか、俺がボールを持ったらお前はとにかく前に行け、相手ディフェンダーの裏を狙え」
「でも僕、タイミングとか分かんないっすよ。オフサイド抜ける練習とかしてないし……」
だって僕、基本的にディフェンダーだったし。
「良いから。お前のところに俺が絶対届けてやるから。カズはただ、前を向け。走り出せ 」
ヒロさんのあまりに自信ありげな口調に、つい僕は「了解っす」と返事をしてしまった。
パスを受けられたところで、僕が決められるかどうかは僕次第なんだけどね。とりあえずヒロさんの指示通りに動いて、そこからはなるようにするしかない。
キックオフの時、こんなハーフウェーライン付近のポジションにいるのは新鮮だけど、何だか違和感がある。
審判が笛を響かせ、僕の15分の戦いが始まった。
75:以下、
相手チームのキックオフのボールが中盤の選手に下げられた瞬間、僕はそれを追いかけてチェイシングをする。
相手チームはボールをポゼッションしようとするんだけど、前線から僕ともう一人のフォワードのプレッシャーを受けて慌ててロングボールで逃げる。
僕の代わりに右サイドバックに入った選手がそのボールを拾い、パスを回し始めると、前半と同じように後半も支配権を握ったのはうちだった。
ゴール前まではいけても、そこから決めきれない。
僕もシュートは打ててるんだけど、キーパーに阻まれたり、ゴールから逸れてしまったり。それに、フォワードとしての守備なんて慣れてないから、どこまでプレッシャーをかけに行けばいいかも分からず、とにかく走り続けていた。15分も経つ前に、限界が訪れそうなくらいガムシャラに走る。
正確な試合時間を刻むデジタル時計なんかこの小さな競技場にはなくて、申し訳程度にスタンドに設置されているアナログ時計を見てみると、残り時間は2分ほど。僕と交代予定のフォワードもアップを終えて、ユニホーム姿になる準備をしていた。
15分で、僕はまだ何もできていない。いくらシュートを打とうが、プレッシャーをかけ続けようが、ゴールを決められない限りは与えられた役目は果たせていない。
走り続けて体は限界に近いんだけど、根性とか意地とかそういうものなのかな。何か分からないんだけど、それでもとにかく走る。
いよいよ交代が近づいて、第四の審判が交代予定の選手のスパイクや装具品チェックをしているのが目に入った。
くそっ、まだだ。まだ僕は何もできていない。このまま交代することなんて、僕にはできない。
苦し紛れに相手チームが蹴ったボールはうちのキーパーまで届いて、そこから恐らく僕にとってのラストプレーが始まった。
76:以下、
キーパーはそれをディフェンダーに預け、更に中盤の底の選手、いわゆるボランチへと運ばれる。
相手チームもしっかりと守備陣形を作っていて、雑な攻撃では壊せそうにない。中盤で横パスを回して揺さぶってみても、相手チームの選手はしっかりと陣形を整えたままスライドして修正してくる。
そんなとき、すっとヒロさんが少し下がり気味のポジションを取った。相手のマークが少し薄くなったのを察知したボランチは、そのままヒロさんにボールを預ける。これが僕のスイッチだ。
ヒロさんが前を向いてボールを触った瞬間、僕は一気呵成に走り出した。
「来い!」
ボールを要求する声よりも早く、ヒロさんからのロングパスは蹴り出されていた。
少し低めの弾道で、弾丸のようなそのパスは玉足がい。
全力で走る僕の少し上を、そのボールは通過していく。中央からやや右サイドへの角度があるパスは、そのままタッチラインへ向かって転がっていく。
相手チームのディフェンダーは追いかけるのを止めている。間に合わないと思っている。
僕だって、普段ならここまで必死に追いかけたりはしないかもしれない。それでもこれは、僕にとってのラストプレーだ。ここでプレーが止まると、僕は交代してしまう。
最後の燃料を使い果たすかのように、僕は足を運ぶ。前へ進む。
勢いが死に、ゆっくり進むボールがタッチラインを越えそうになった瞬間、僕はスライディングでボールが外に出るのを食い止める。
副審の旗を確認する余裕なんかない。ただ、この際どいプレーに主審の笛が鳴らないということは、まだボールは生きている。プレーができる!
立ち上がってドリブルを開始すると、相手ディフェンダーが慌てて戻ってくるのが目に入った。でも、もう遅い。
ヒロさんからのパスを追いかけるのをやめていた相手と僕には、かなりの距離がある。
右サイドからゴールへ向かうと、ペナルティエリアに入ったところでキーパーが飛び出してくる。ただでさえ角度がない場所なのに、更にコースが狭まる。
あ、無理だ。
直感的にそう感じた。前半もこういう場面でシュートを打ち、枠を外したり止められたりというシーンがあった。
時間的にもこれが最後のプレーで、これを外すと今日の僕の試合は終わってしまう。
コースを丁寧に狙ってシュートを打つ決心をしたところで、僕の名前を呼ぶ声が聞こえた。
僕にパスを出した人のその声はペナルティアークのあたりから聞こえてきて、顔をあげて確認すると、そのまま彼に優しくパスを出した。
僕のシュートコースを消しに来ていたキーパーはそのパスに反応できるわけもなくて、パスを受けたヒロさんはそのパスをインサイドで丁寧に流し込む。
何も邪魔をする者がいなくなったゴールにそのボールは転がっていき、そして小さな白い波が起きた。
77:以下、
ヒロさんはゴールを決めるとそのままに僕に駆け寄ってくる。
「やったな! カズ!」
頭をめちゃくちゃに撫でられながら、僕もヒロさんの背中を叩く。
「ナイパス、ナイッシューっす!」
二人で歓喜を爆発させていると、遅れてきたチームメイトも混ざってきて小さな輪ができた。
みんな、「やったな!」「よく走った!」と僕を叩きながら言ってくれる。
その輪が一段落したところで、主審が僕たちに早くプレーを再会するよう笛を鳴らして促した。
「君、交代だから」
主審にそう言われたので確認すると、交代選手が立っていた。そっか、交代か。
得点が決まるまではいられたとはいえ、最後までプレーしたかったな。
そんな残念さもあるけど、慣れないポジションでのプレーに疲れていたのも事実で、交代選手とハイタッチをしながら僕は白線の外に出ていった。ピッチに一礼も忘れずに。
ベンチにいたチームメイトからも声をかけられて、ミユからも「大活躍じゃん」と言われた。
自分のゴールって結果を出せなかった後悔、最後までプレーできない悔しさなんかはあるけれど、とりあえず今はチームの応援だ。
78:以下、
失点した相手チームはその後、攻勢に出てきた。危ないシーンも何度かあったけど、逆に前がかりになってきた分守備が甘くなっていた。
僕の代わりに入ったフォワードの選手がキーパーとの一対一を制して二点目を決め、そのまま試合終了を告げるホイッスルが響いた。
どうにか勝利はできたけど、課題の多い試合だったよな。
ベンチを空けて、スパイクからトレーニングシューズに履き替えると、僕はヒロさんと一緒に競技場の外でクールダウンのジョギングを始めた。
「ナイッシューです」
一点目のシーンを振り返ってそう話しかけると、ヒロさんは僕の背中をバシッと叩いた。何か今日、叩かれすぎじゃない?
「何言ってるんだよ、あんなのお前がパスに追いついた時点でお前のゴールだよ。よく追いついたよ」
そんな風に誉められると、何だかむず痒い。嬉しいような、止めてほしいような。
「お前に届けるとかいいながら、お前が届かせてくれたしな」
キョトンとした顔でヒロさんを見返すと、「後半開始前に言っただろ、お前にパスを届けるって」と、恥ずかしそうに言った。
「いやいや、あの厳しいパスだから相手も追いかけなかったわけですし……」
「でももっと楽に、ていうかお前に決めさせられるようなパスを出したかったんだよなー、くそっ」
「そんな良いパスもらっても、僕が決められるかは……本職じゃないですし?」
「何だよー、待ってますって言えよー! またお前が前でプレーするなら、その時待ってろよ」
そう言うと、ヒロさんは照れ隠しか少し走るペースを上げた。それが何だかおかしくて、少しニヤけながら僕もついていく。
「ヒロくん!」
後ろから、どこか聞き覚えのある声でヒロさんを呼ぶ声がした。
「あっ、サキちゃん」
サキちゃん……?
まさかと思って振り返った先には、はっきりと覚えてる顔。
二ヶ月ほど前、僕に対して「今は誰とも付き合う気はない」と話した元彼女が、そこには立っていた。
82:以下、
「あっ……」
驚きと共に漏れた呟きに、ヒロさんが「どうした?」と問いかけてくる。
「……初めまして」
少しためて、彼女から聞こえてきた言葉はそれだった。
初めまして、か。
「どーも、初めまして」
その言葉を返すのが精一杯で、「ヒロさん、お邪魔そうだから先に失礼しますね」と薄ら笑いを残して、返事も待たずに僕は走り出した。
後ろから呼び止めるヒロさんの声が聞こえたけど、それも無視して僕は逃げる。
ヒロさんたちが見えなくなるくらい走って止まると、そこはスタンドに繋がる階段だった。僕たちの試合が今日の最終試合だったからか、歩く人は誰もいない。
階段を数段上って、僕は膝を抱えて座り込んだ。
なんだよ、くそっ。
言葉にならない感情は、子供じみた文句に変換される。
そりゃ、ヒロさんはいい人だよ。僕だって憧れて、ああいう風になりたいなって思う。
でも、サキは「誰とも」と言った。誰とも付き合いたくない。その言葉は、僕に向かった言葉であっても僕に対してだけではないと思っていた。
違うのかよ、僕が嫌になっただけじゃないか。
それならそうと言ってくれたら、ヒロさんの恋路を素直に応援できたのかもしれない。でも、現実は違う。
モヤモヤではなくて、ドロドロした汚い感情が僕に浮かんでくる。ハッキリ言うなら、憎悪が近いかもしれない。
あんな女が幸せになるなんて許せない。そして、あんな女に惹かれるヒロさんもヒロさんだよ。
そんな、自分のことを棚にあげたガキくさい心。
83:以下、
その汚い心を認めたくない自分と、どうしても恨んでしまう自分。
二つの感情のぶつかりは目から雫を、口からは息を押し出した。
まだ好きとか、うまくいきそうなのがショックとか、そんなのじゃない。
ヒロさんには幸せになってほしいし、文句をつけたい訳じゃない。フラれたことだって仕方ないしと思うし、新しい恋を見つけるのだってサキの自由だ。
でもこんなのって、こんなのってあるかよ。
膝を抱えて頭を埋め、僕は嗚咽をし続ける。
84:以下、
ハイブランドのシルバーのアクセサリーをプレゼントにアキラのお店へ行くと、彼は上機嫌で対応してくれた。
本当に分かりやすい。男ってバカだね、それで貢ぐ私はもっとバカなんだけど。
「今日、行く?」
「どこに?」なんて聞くことはない。プレゼントを渡した日は、彼はホテルで私を抱く。ほとんどお決まりなことなんだけど、形だけの確認はされるんだよね。
黙って頷いた私の頭を撫でながら、彼は嬉しそうにアクセサリーの入った紙袋を眺めている。
私よりアクセサリーが好きなんだよね、知ってる。
私じゃなくて貢いでくれる女が好きなんだよね、分かってる。
このままじゃ幸せになれないことも、自分が間違ってることも。
やめたいのにやめられないの。辛いよ。
それでも私は今日も彼に抱かれる。ベッドの上で彼を感じて、一瞬の充足感に身を委ねる。
85:以下、
ホテルから出ると、彼はプレゼントの礼を言ってタクシーに乗り込んだ。
自分のものでもないネックレスひとつにバカみたいなお金を出して、偽物の幸せを買う私をいつまで続けるんだろう。
「幸せになりたいなぁ」
つい呟いたのは、心の声。
さっきまで満足してたからなのかな、急に寂しい気持ちになった。その満足すら本当に満足できてるのかは分からないけど。
家に帰っても一人で辛くなるだけだし、どうしよう。
特に目的もないけど、家に帰りたくないから散歩。たまに捕まる水商売のキャッチをあしらって、町の外に向かっていく。
30分くらい歩いたところで、スポーツ公園が見えてきた。そういえば、カズヤたちはここで試合をするって言ってたかな。
公園って名前だから、小さな学校のグラウンドみたいなところを想像してたけど、スタンドがあったり陸上のトラックに囲まれてたり、何だか思ったより本格的だ。
こんなところでサッカーをするのって、どんな気持ちなんだろう。見に来る人たちは、どんな人なんだろう。
街灯の光でしか見えない芝のグラウンドは、何だか神秘的な雰囲気すらある。明るい時だと、どう見えるんだろう。
あまりに縁遠い世界で想像もつかないけど、少し興味が出てきた。
私はその日を待ちながら、お仕事に励んだ。
86:以下、
天気は快晴。昨日の雨が嘘みたいにカラッと晴れた空の下、私はスポーツ公園へ向かっている。
14時からって話だったから、ちょうどそれくらいに到着するようにお昼を食べて家を出たんだけど、この時間は日差しがキツくて日焼けしそう。
敷地に入ると夜とは全然違う空気を感じた。何て言うんだろう、変な例えかもしれないけどお祭りみたい。
競技場に近づくにつれ、その熱みたいなものはどんどん強く感じられるようになって。
スタンドに繋がる階段を登ろうとしたとき、中から強い笛の音が鳴り響いた。試合が始まったのかな。
少し小走りに階段を登ると、壮大な景色が広がった。
88:以下、
実際にスタンドから見てみると、サッカーのコートってすごく広い。綺麗な緑色が太陽に照らされて、普段は暗いところで働く私には何だか眩しすぎる。
「すご……」
思わず呟いてしまうほど、私はそこに吸い込まれていた。
しばらくボーッと眺めていたけど、立ったままでいるのも何だか変な気がして、少し陰になってるベンチに座ることにした。ちょっとお尻が痛いし、贅沢かもしれないけど背もたれがほしいな。
文句も程々に、試合に意識を戻した。遠目だからどれが誰かはパッと見分からないけど、みんな一生懸命なのはすぐに分かる。声を出して、走り回って、たまにはこけちゃったり。
何が楽しくて、彼らはあんなに汗をかいているんだろう。
10分ほど見たところで、やっとカズヤが分かった。スタンドに近い方で、たぶん攻撃よりは守備をする人なのかな? それにしては、ずいぶん相手陣地に近い気もするけど。
素人も素人な私は、ゴールが入る以外にどんなことがあるのかはあまり分かっていない。ボールが外に出たら手で投げて、反則があったらフリーキック。オフサイドは、名前だけ聞いたことがある。
そんな私でもカズヤのチームが何となく良い感じなのは分かる。ボールをいつも持ってるし、相手チームはシュートを打つことすらまだできていない。
それでもまだカズヤたちもゴールを決められていないのは、何だか不思議。やっぱり気持ちとしてはカズヤを応援してるからかな、惜しいシーンが続くと私もイライラしてしまう。
89:以下、
イライラは続くんだけど、何となく気づいたのはカズヤと10番の選手が上手いってことだ。
かなり押してる中でも、その二人は相手チームに全くボールを奪われない。余裕って感じ。
10番の選手からパスをもらったカズヤは、そのボールを止めるとすぐに返した。
あんなすぐに返しちゃうパスに、何か意味はあるんだろうか。
カズヤはパスを返してすぐに走り出したけど、彼にパスは出ずに逆側の選手にボールが向かった。
パスももらえないのに、何であんなに走るだろう。カズヤのあの走りは、骨折り損のくたびれ儲けのように私には見えた。
そんな私の気持ちを知るはずもなく、彼はまだ走る、走る。つい目を惹かれてしまう真剣さと純粋さで、彼は走る。
90:以下、
笛が二回鳴って、選手たちは一度グラウンドから出ていった。サッカーが前半と後半に分かれているっていうのは何となく知ってるから、これがその間の時間なのかな。
何が何か分からなかったり、考え込んでしまったり、カズヤの姿に惹き付けられたり。
サッカー自体がよく分かってない私にも、前半はあっという間に終わってしまった。手汗をかいてるのには、自分で驚いてしまった。
スタンドの階段を降りたところに、自販機があった気がする。何か飲みたいな。
日陰から出ると、蒸し暑さが一層強くなる。こんな天気のなか、あんなに走れる源は何なんだろう。本当に同じ人間なのかな。
階段を降りて自販機に向かうと、女の子がじっと私を見てきた。誰だろう、知り合いではないけど、何だか品定めするような目付きだ。
違和感を感じながら会釈をすると、彼女も一応礼を返して去っていった。謎だけど、気にしても仕方がない。
あっ、もしかして私が美人過ぎて見ちゃったとか?
心でボケても誰もつっこんでくれるはずもなく、私は炭酸ジュースを片手にスタンドへ戻った。
91:以下、
前半はあっという間に終わったのに、後半が始まるまでの時間はやたらと長く感じた。
冷たかった缶ジュースがぬるくなった頃、選手が出てきた。カズヤは10番の選手と何かを相談しているみたい。
その相談も終えて、選手が広がったときに気がついた。カズヤ、ポジションが変わってる? 今までは守りのポジションにいたはずなのに、今度は10番の選手より前にいる。
後半開始の笛がなると、カズヤは全力でボールを追いかけ始めた。一生懸命に、ガムシャラに。それはグラウンドから離れたスタンドで見ても、はっきりと感じ取れた。
前半より早いペースでダッシュを繰り返して、遠いところにパスされてもまだ追いかける。
走っているのはカズヤのはずなのに、なぜか私が息苦しくなってくる。鼓動が早くなる。
93:以下、
そんなところまで追いかけても、どうせパスされるじゃない。何で追いかけるの?
それが素人の私だから持つ感想なのか、他の人もそう思ってるのか分からない。でも、明らかに無駄に見える走りを彼は止めない、諦めない。
まだ後半が始まったばかりなのに、焦っているのかな。前半とは何か違って見える。
そんな彼の姿を眺めていると、カズヤのチームの10番がボールを持った。カズヤは走りはじめて、大きな声でボールを呼び込む。
でも、出てきたパスは厳しいもので。外に向かって流れていくボールを追うペースを、相手選手も緩めてるのに、カズヤは全力で追いかけている。
何で。何で走るの。ボール出ちゃうよ。またその後に頑張れば良いじゃない。無駄だよ。
そんなことを思っているのに、口から漏れてきた呟きは真逆のもの。
「……がんばれ」
94:以下、
ボールはそのまま白線に向かっていく。勢いは落ちているけど、それでも着実に。
ああ、もう出ちゃう。やっぱり、無駄なんだよ。
そう思った私に、新しい絵が目に入った。パスを出した10番が、相手ゴールの方に向かって全力で走り出したんだ。
相手チームの選手も申し訳程度に走っているんだけど、二人ほど全力ではなくて。たぶんボールが出ると思ってるのかな。
みんなが無理だと思ってるところで走る二人は何だか滑稽。滑稽なのに、笑えない。
追いかけるカズヤとボールの距離は少しずつ、少しずつ縮まっている。まさか。追い付くの?
いよいよボールがラインを越えようという時に、カズヤはボールに滑り込んだ。縮まっていた距離はゼロになって、ボールはグラウンドの中に止まる。
スタンドにいる、多くはない観客から今日一番の歓声が上がった。間に合ったの? ボールが出る前に、カズヤは追い付いたの?
ろくにルールも知らない私はキョトンとするだけなんだけど、グラウンドの彼はもう立ち上がってドリブルをしている。あんな勢いでスライディングしたのに、痛くないのかな。
相手チームの選手も慌てて戻っているけど、カズヤには全然追い付けそうにない。
外からゴールに向かってドリブルしていくカズヤの顔は、何だか楽しそう。あんなに走り回って、ボロボロになって、さっきもスライディングをして。楽ではないことのはずなのに、彼は今、笑っている。
95:以下、
ゴール前に一人だけ残っていたキーパーが、慌ててカズヤに向かって近づいていく。今までもこういうシーンが何度もあって、その度に外してしまっていた。
どうするんだろう。また外してしまったら、さっきの頑張りも意味がなくなっちゃうのに。
カズヤがドリブルのスピードを落とした時、彼の名前を呼ぶ10番が後ろから走ってきていた。このために、他の誰よりも早く走り始めてたんだ……!
丁寧なで優しいパスをカズヤからもらった10番のシュートを妨げる人はもういない。カズヤが追いかけていた時みたいに転がったボールは、ゴールの線をしっかり越えてネットを揺らした。
カズヤと10番は二人で喜びを爆発させている。遅れて、後ろから走ってきたチームメイトもそこに加わる。
プロの試合でもなければ、彼らはこれでお金を稼いでるわけでもない。ゴールが入っただけ。ただそれだけ。
ゴールを決めたからお給料が増えるわけでもなければ、有名になるわけでもプロになれるわけでもない。
それでも彼らは輪になって喜んでいる。これこそが最大の喜びだというように、顔をクシャクシャにしているのがここからでも分かる。喜びすぎて、審判に笛を鳴らされるほどだ。
彼らがここまで喜べる理由が、私には分からない。その一方で、そんな風に考えてるくせに、胸には何か熱いものが残っているのも事実で。
言葉にできない何かが、私を焚き付けてくる。今までに感じたことがない気持ちだけど、嫌じゃない。
これが何か分かれば、カズヤたちの気持ちも分かるのかな。
理由の分からない胸の高鳴りを感じていると、カズヤがベンチに向かってきて、代わりに一人の選手が入っていった。交代しちゃったのかな、残念。でも、点が入るまで出てて良かったなぁ。
96:以下、
私がいなくなっても世界は回るように、カズヤが交代しても試合は続く。
胸が高鳴ったまま試合観戦を続けていると、相手チームも反撃をし始めた。
あっ、危ない! シュートがカズヤたちのチームに向かうと、それだけで何だか不安な気持ちになるし、逆に攻めてると「いけー!」って思っちゃう、不思議。
そのまま攻めたり攻められたりの時間が続くと、久しぶりに10番の選手がボールを持った。カズヤが交代した後もずっと存在感を放っていたけど、今度はどんなプレーをするんだろう。
前を向いてボールを持った彼は、右足でボールを叩いた。点と点が線で結ばれるように、カズヤと交代した選手の走る先にボールが送られた。
すっごい、綺麗!
さっきのカズヤみたいにキーパーと一対一。でも、あの時とは違ってゴール正面からだからかな、その選手が放ったシュートは難なくキーパーの脇を抜けて、ネットが再び揺らされた。
一点目同様に輪が出来て、相手選手もうなだれてる。
観客の「やっぱりオオタは上手いよ」「パスで勝負あったな」なんて話し声が聞こえてきて、10番の選手がオオタさんだと私は知った。サッカーの分からない私でも綺麗と思うようなパスを出すくらいだから、あの人ってすごい人なんだとは思っていたけど、名前も知られてる程なんだ。
そのまま試合が進んでいって、もうすぐ終わりかな、なんて思ったときに、隣に女の人が座ってきた。
97:以下、
うわー、すっごい美人だ。
ウェーブを少しかけて、ふわふわの茶髪が背中まで伸びてる。目鼻立ちはくっきりしてるし、着てるシャツワンピも安くは無さそうな生地感。肌の色は白くて、胸元には女の子に人気なブランドのネックレスが飾られている。
さっき私を見ていた子の時は冗談で考えてたけど、こんな美人がいたら、つい見つめてしまう。
誰かの彼女とかなのかな。それか、親戚? うーん。
座ってからはずっと携帯をいじっていた彼女を見ながらそんなことを考える私を不審がったのか、こちらに不思議そうな視線を向けられた。慌てて会釈をして試合に視線を戻したんだけど、すぐに試合が終わってしまった。
他の観客たちは帰り支度を始めて、徐々に席を立っている。隣に来た女の人も、座って早々だというのに立ち上がった。終了間近に到着して、試合も見ずに携帯をいじって、それでもう帰るんだ、何をしに来たんだろう。まぁ、私も人のこと言えないくらい何をしに来たか分からないんだけど。
元々少なかった観客はどんどん減っていき、私は最後の一人になるまで座ったままだった。
何て言うか、圧倒され過ぎて、見てただけなのに私はちょっと疲れていた。全然走ってもないし、日陰に座ってただけなのにね。何でだろう。
選手たちもグラウンドから出ていって、空っぽになったスタンドから空っぽになったグラウンドを眺める。
綺麗な緑は、夕焼け空に照らされている。何か、青春っぽい景色だ。
一息吐くと、私は階段を降りていって小さなスタンドの最前列に立って柵に手をかける。
こんなに近くにあるのに、柵の向こう側は遠い異世界みたいだ。私なんかは、入りたくても入れない世界。
そう思うと何だか無性に悲しくて、泣いちゃいそうになる。柵を握る手にも力がこもる。
その世界に行きたいなんて思ったことはなかった。今だって、何であんなことしてるんだろうなんて考えてた。
それでも彼らはなぜか輝いていて、理由も分からないけど憧れすら持ちそうになる。
寂しさを隠すように頭を小さく振って、グラウンドに背を向けて帰り始めた。
スタンドを出て階段を降りようとすると、折り曲げられて小さくなった背中が目に入った。何だか見覚えのある後ろ姿だ。
98:以下、
階段を降りるにつれ、その見覚えは確信に変わる。カズヤだ。
ユニホーム姿からジャージ姿になってるから階段の上からじゃ分からなかったけど、彼は今、なぜか分からないけどこんなところで膝を抱えている。
背中が小刻みに震えて、鼻をすする音も聞こえる。
どうしたんだろう。試合には勝ったし、活躍もしたはずなのに、何で彼は泣いているんだろう。
状況が状況なせいで何が何かも分からないまま、私は少しずつ階段を降り、彼に近づいていく。
声、かけない方がいいかな。お店のルール的にも良くはないし……っていうのは、ここに来た時点で言い訳にしかならないんだけど。こんなところに来て泣いてるってことは、カズヤも人目につきたくなかったのかもしれないし。
でも。彼の隣に並んだとき、私はそのまま黙って階段に座った。お気に入りのデニムが汚れることなんて気にもせず。
無視なんて、私にはできなかった。
理由なんて分からない。でも、そういうことって誰もが経験あるんじゃないかな。優しくしたいとか、泣いてる理由が知りたいとかじゃなくて、ただ単に放っておけなかったんだ。言ってしまえば、私のわがまま。
励ましたいから、元気になってほしいからカズヤの隣に座ったんじゃなくて、ここで私が黙って通りすぎちゃうと家に帰った私がモヤモヤしそうだから。
隣に座った私に気づいているのかいないのか、彼はまだ顔をあげようとはしない。
99:以下、
かける言葉も見つからない私は、彼の背中に右手を伸ばした。
寂しそうに揺れる背中を、そっと撫でる。今までもお店でカズヤの体に触れたことはあったけど、その時とは違うように感じるのは気のせいなのかな。
急に触れられて驚いたのか、カズヤは小さく頭を動かしてこちらを向いた。目は充血していて、頬は普段より痩けて見えた。
「えっ……」
驚きの呟きを漏らす彼に、私は労いの言葉を投げ掛けた。
「試合、お疲れさま。かっこよかったよ。勝って良かったね」
「いやいや……えっ……な、何で?」
泣き顔のまま、カズヤは疑問を投げ掛けてきた。まぁ、それはそうなんだけどさ。ちょっと意地悪をしてみよう。
「何が何でなのー?」
「いや、何でいるの……っていうか……」
「見に来るって言ったでしょ? 信じてなかったのー?」
「いやいやいやいや……」
やけに「いや」って言葉を使うなぁ、口癖なのかな。そんなどうでもいい感想は置いておくとして、私は彼の背中を撫でながら言葉を続けた。
100:以下、
「凄いね、上から見ててもカズヤってうまいんだなって思ったよ」
「いや、俺なんか全然……」
「謙遜しないでいいから。私、正直サッカーのことなんて全然分からないまま来たけど、カズヤのプレーが何ていうか……一番だった」
上手いっていう言葉が入るのか、凄いって言葉が入るのかは分からない。ただ、カズヤの姿が私の胸を揺さぶったのは事実で。
「あんなに走り回って辛そうなのに、楽しそうだなって。目が離せなかったの」
黙って私の言葉を聞く彼は、少し照れ臭そうに頭を掻いた。
「あ、ありがとう」
「だから本当に、かっこよかったよ」
「いやいや……最後だって結局、ゴール決められなかったし」
「でもその前のパスに追いついたところとかさ。間に合わないと思ってたのに、スタンドも凄い盛り上がってたよ」
それはそれは、と他人事のように彼は呟いた。
「もうー! 本当だよ! カズヤはもっと自分のしたことの凄さに気づきなよー!」
「いや、だって僕、仕事できてないし。点取るためにポジション変わったのにさ……」
「でもさ、カズヤがあそこで走って追い付いて、点が入ったでしょ? 勝ったんだし、その悔しさはまた次に解消すれば良いじゃない。それに……」
そこまで言った後、何と続ければ良いか分からず言葉に詰まってしまった。
感動した? 違うよね。うーん、何て言葉を言うのが正解なんだろう。
「それに?」
言葉の続きを求められて、私の口から出てきたのはこれだった。
「また見に来たいな、って思ったよ」
101:以下、
「お、うちのチームのサポーターになっちゃう?」
「サポーター?」
キョトンとした表情で問い返した私に、カズヤは説明をしてくれた。
「ファンっていうか応援団っていうか……ほら、日本代表の試合だったら『VAMOS ニッポン』って歌ってたりするじゃん?」
「えー! 無理だよ無理!」
あんな少人数しかいないスタンドで、テレビで見るような応援なんて絶対無理。恥ずかしいし、そもそもサッカー自体がまだ、ろくに分かってないし。
……まだ?
「それは冗談にしても、よかったらまた見に来てよ。見てくれる人がいるって、やっぱり嬉しいしさ。うちのチームくらいだと、基本的に家族とか関係者しか見に来ないから」
そうなんだ。やっぱり、さっきスタンドにいた人たちはみんな知り合いなのかな? 楽しげに話してた人もいたし、オオタさんって名前を知っていたのもその関係だろうか。
あの美人さんは誰かの恋人なのかな。それこそ、オオタさんとかお似合いっぽいけど。
103:以下、
「何かね、知らない人たちが『オオタさんが上手い』って話してたんだけど、あの人が前にカズヤが話してた先輩?」
「オオタさん……ああ、ヒロさん。そうだよ、あの人、上手いでしょ?」
へぇ、ヒロさんって言うんだ。
彼の名前を口にするとき、カズヤは何だか複雑そうな顔をした。この間は慕っていて心配で仕方ないって感じだったのに、どうしたんだろう。
「うん、サッカーを知らない私でも、あの人は別格だなって思った。でもね、カズヤも同じくらい上手いなって思ったよ、本当だよ」
「あー、うん。ありがとう」
「そういうとこー! もっと喜んでよ!」
本当に、もうちょっと自分に優しくしてあげなよ。同じくらいって言ったけど、上手さじゃなくて心に残ったのはオオタさんじゃなくて、カズヤのプレーなのに。
104:以下、
日もそろそろ陰ってきて、夏が近いとはいえ少し涼しくなってきた。
「じゃあ、そろそろ帰ろうかな」
いつまでもダラダラ話しててもカズヤに迷惑かけるしね。
立ち上がって、汚れたお尻の辺りを手で払った。まあ、話して楽しかったし多少の汚れや傷みは仕方ないかな。
そのまま歩いて行こうとする私を、彼は不思議そうな声色で呼び止めた。
「……聞かないの?」
105:以下、
背を丸めて泣き始めて、どれくらい時間が経っただろう。
きっと今、僕はどうしようもなくみっともない姿なんだと思う。やりようのない悲しさを堪えられずに泣いてしまう、小学生みたいな僕。
情けないと分かってはいるんだけど、泣くという行為以外にこの辛さを消化する方法を僕は知らなかった。
サキは僕の試合を見に来たことはなかった。サッカーをしていることは知っていても、試合を見に来ることなんて話にあがりもしなかった。
だからこそ、今日こんな事態になったんだろうけど。チーム名も知らなければ、チームメイトの話もしてなかったから。
僕のサッカーなんて、彼女に見せられるようなものじゃないと思っていたんだよ。プロでもないし、サッカーを頑張ったからと彼女と釣り合う男になれるとは思えなかったんだ。
それよりは勉強をして、元彼に負けないように良い企業に就職してっていうのが大事なことだと思っていたから。その結果倒れちゃって、開き直って今に至るんだけど。
そんな勘違いのツケが、こんなところでも出るなんて想像もしなかった。
予想外のショックにただ震えていた背中に、暖かいそれが触れた。
106:以下、
背中で動く手は、優しさに触れているような気がして。
顔を上げると、これまた予想外の顔がそこにはあった。
彼女はさも当然のように試合の感想を話してきて、僕の頭はそれを正確に処理できない。
何で? えっ、何でいるの?
そんな僕の疑問を笑い飛ばすかのように、彼女は信じてなかったのなんて聞き返してきて。いや、あれを信じる人はそうそういないと思うんだ。
彼女はその後も泣いてたことには何一つ触れず、背中をさすりながら試合について話してくれた。
ヒロさんの名前が出てきたときには、驚きとさっきのことを思い出してしまった。そっか、やっぱりゆうちゃんから見ても、ヒロさんは上手いんだ。そりゃそうだよね、腐っても元プロだし。僕とはレベルが違う。
申し訳程度に足された僕への評価を聞き流すと、怒られてしまった。いや、ヒロさんと比べて僕が下手くそなことは、自分が一番理解している。
しばらく話すと、彼女は満足げに立ち上がった。
あれっ、それで良いの?
何だろう、ほら、あの状況で背中を撫でて、でも理由は聞かないなんて、そんなことがあるだろうか。
構って! 聞いて! ってことではないんだけどさ、でも何か違和感がある……っていうのは、結局誰かに聞いてほしい言い訳なのかもしれないけど。
立ち去ろうとする彼女に、つい僕から声をかけてしまった。
107:以下、
「えっ」
何を? と、彼女は問いかけてきた。
「いや、何て言うか、ほら……」
泣いてた理由を、なんて自分で言い出すのは恥ずかしくて。
「何、話してくれるの?」
そう言うと、彼女は再び僕の隣に座った。察しが良くて助かるよ。
そういえば、こんなに明るいところで彼女を見るのは初めてかもしれない。何だか不思議な感じだ。
「こんなところで、ただの客の話を聞いてもらって良いのか分からないけど……」
「良い試合を見せてもらったから、そのお礼に聞いてあげるよ。でも、お店には内緒にしてね」
そんな前置きをしつつ、僕は事の顛末を話し始める。嘘みたいな、それでも本当の話だ。
109:以下、
「へぇ……へぇぇ……じゃあ、オオタさんとカズヤの元彼女が今、良い感じなんだ……」
言葉にされると、何だか変な感じがする。でも、その通りだよね。僕は黙って頷き、それを返事にした。
丁寧に言葉を選んで、僕は絡まってしまった心の紐をほどこうとする。
「何て言うか……ヒロさんには幸せになってほしいし、サキが他に好きな人を作るのは分かるよ。恋愛って、理由を説明できないものじゃん。でも……」
でも。
その言葉で、僕の心はキツく縛られている。
理由じゃないんだよ。ヒロさんのことは今も尊敬してる。サキのことは本当に今は吹っ切れている。それでも、納得はできないんだ。
111:以下、
「でも、辛いんだ?」
続きを言えずにいると、彼女が言い足してくれた。
「苦しいよね、辛いよね。大丈夫?」
再び僕の背中に触れたそれは、さっきよりも僕の心に直接呼び掛けているようにも思える。感覚的なものなんだけど、すごく居心地が良くて。
「カズヤはね、難しく考えすぎなの。どうにかしようとしすぎなの」
その言葉に僕は首をかしげた。そんな僕を見て、彼女は再び口を開く。
「辛い時は辛い。悲しい時は悲しい。それで良いんじゃないかな。今聞いた話だって、カズヤが何かを頑張ったからって解消される辛さじゃないでしょ?」
「うん……うん」
僕がヒロさんよりサッカーが上手くなったら、今の気持ちがなくなるわけではない。サキに付き合おうと言われても、僕は断るだろうし、辛さがなくなるわけでもない。
確かに、彼女の言う通りではある。
「辛いなら辛いで、カズヤがその気持ちを消化しないといけないの。それにはさ、もちろん何かを頑張って消化できるものもあれば、時間が経つのを待つしかなかったり、何かの事件とかきっかけが必要だったりさ。ケースバイケースなんだろうけど」
ゆうちゃんの言葉に相槌をうちながら、僕の心の底にあった黒い感情が少しずつ薄れていくのを感じる。
何だろう、この感覚。
有名なカウンセラーのありがたい講義でもなければ、特別なことを言われてる訳でもないと思う。
それでも、この言葉が僕には必要だったんだと自分で分かる。
「でもね、カズヤは全部を頑張ることで解消しようとしてると思うの。それじゃ辛いよ、疲れるよ、抱えきれないよ。だからさ、私なんかに言われたくないかもしれないけど、少し肩の力を抜いていこうよ」
ねっ、と彼女は微笑んだ。
夕焼け空の下で、太陽みたいに。
112:以下、
「私は全然頑張れなくて、時間とかきっかけとかを待っちゃうから。恋愛だって、誰かと別れたら次に好きな人ができるまでは引きずっちゃうし。だから、カズヤみたいに頑張れる人ってすごいなって思うの」
背中を撫でていた手を止め、軽く叩きながら「こーの、頑張り屋さんめー」なんてふざけて言ってくるんだから、ちょっと笑っちゃったよ。
辛い気持ちがゼロになったわけじゃないのに、笑えてるんだから、僕はどれだけ彼女に救われたんだろうか。
「だからさ、私もカズヤみたいにちょっとずつ頑張れるようになるから、カズヤは私みたいにゆっくりできるように意識してみよ?」
「……うん、そうしてみる」
「よくできましたー、良い子だねぇ」なんて言いながら今度は僕の頭を撫でてくるんだから、ゆうちゃんには敵わないなって思う。
113:以下、
「一応、今は僕の方が歳上なんだけど?」
同級生の世代とはいえ誕生日を迎えたし。
……あっ、そういえばゆうちゃん、6月が誕生月って言ってたかな。何日なんだろう。
「良いの、何かカズヤ可愛いし。見た目チャラいのに純粋だし。良い子良い子」
その後に、「あっ、うちの店に来るような子は良い子じゃないかな?」なんてニヤけながら言ってくるから、反応に戸惑っちゃったよ。
「まぁ、冗談は置いとくとして。辛かったら、頑張らなくても良い時だってあるんだよ。辛いときに何もしないのって焦ったりしちゃうかもしれないけどさ」
「うーん……そうなれるように頑張る……」
「ほらまた頑張るって言ったーだめー」
「それは言葉のアヤじゃん」
僕は笑った。彼女も笑った。何だろう、何なんだろう、この感じ。
114:以下、
「あっ、カズくん、ここにいた! 探したー! 全く連絡つかないんだから……」
声が聞こえて、顔をあげると僕のバッグを持ったミユがそこにはいた。
「あ、ああ……ごめん」
「ごめんじゃないよー! もうみんな帰っちゃったし、ヒロ兄は女の人と出掛けちゃったし、カズくんの荷物を置いとけないから私が探せって言われるし!」
「分かったから……」
すごい剣幕で捲し立てられて、申し訳なさと恥ずかしさが混在している。ダウン中に逃げちゃったから、携帯も財布もバッグの中に入れたままだったもんね……そういえば。
「あー、じゃあ、私はそろそろ帰るね?」
少し気まずそうに言って、ゆうちゃんは階段を降り始めた。
えーっと、えっと。
「ありがとう!」
何か言わなきゃと思って口から出てきたのはそれだった。試合を見に来てくれて、話を聞いてくれて、ありがとう。
「こちらこそっ」
気持ちいい笑顔と共にその返事を残し、彼女は階段下のミユにも会釈をして帰っていった。
何だか、ミユがゆうちゃんの顔を一生懸命見ているものだからどうしたんだろうとは思ったけど。
「あの人、カズくんの彼女?」
バッグを受け取りに階段を降りると、そんなことを言われたからつい吹き出しそうになったよ。まさか、まさか。
「へぇー……そっか」
何だか意味ありげに呟くミユを見ていると、「何でもない」と言い足した。何も聞いてないけど。
その後、僕は階段下の自販機でミユにジュースを奢らされるハメになり、散々説教を受けながら帰路についた。
濃すぎる一日。辛かったのに、何だろう、嫌じゃない日だった気がする。
115:以下、
プレゼントを片手に、僕は町を歩いている。
あの試合から数日が経った。まだ完全にモヤモヤが無くなったわけじゃないけど、それでも沈んだ気持ちだけということもない。少しずつ、それは薄くなってきている。
時間が解決してくれることもあるんだ、って実感してる最中だ。たぶんこのまま、いつか自然に無くなってるんだと思う。
ゆうちゃんに感謝して、誕生日が今月だって前に話してたし、何かプレゼントをしようと思った。
アクセサリーは重いよね、でも何が好きなんだろう……そういう話ってあんまりできてなかったからなぁ……。
そんなことを考えながら買ったものが、右手に持っている紙袋の中に入っている。
ゆうちゃんの働くお店に一度行ったんだけど、彼女は二時間ほど待たないと空かないらしいと言われ、予約だけして暇を潰しに出てきたところだ。
「予約が埋まってる」という言葉を聞いてチクリと胸が痛んだのは、たぶん気のせい。
どうやって暇を潰すか考えて、とりあえず本屋に入った。
サッカーバカだと自分でも思うけど、本屋に来るといつも最初にサッカー雑誌をチェックしに来てしまう。小説とか漫画とかも好きなんだけどね、小さい頃からの癖だから仕方ない。
スポーツ雑誌のコーナーに着いて、何か面白そうな記事がないかチェックをしていると、シンヤが大きく写った表紙が目に入った。
116:以下、
その雑誌を手に取ってインタビュー人気は目を通す。主な内容は、代表選手としての意気込みと、海外移籍の噂についてだった。
ヒロさんは凄い人とチームメイトだったんだな。
そんなことを改めて感じながら、僕はそれを棚に戻した。
僕とほとんど歳が変わらないのに、国を代表する選手としてインタビューを受け、サッカーをすることでお金を稼いで生活をしているシンヤ。
遠い遠い存在で、追いかけても追いかけても届かない存在の気がする。
何で僕はサッカーをするんだろう。
好きだから、っていうのはもちろんそうなんだけどさ。好きだから、ってだけで終わらせられるのかな。分からないや。
考えすぎるのは僕のよくない癖だと自覚している。そこで考えるのをやめて、他のコーナーへ移動を始めた。
もうしばらく、何を見て暇を潰そう。
117:以下、
結局本屋で暇を潰し、いつもの薄暗い部屋のブース内でゆうちゃんを待った。
少しなれちゃったのかな、異世界感も薄れてしまった気がする。
「あー! 来てくれたんだ、ありがとー!」
いつも通り、ニコニコしながら彼女は近づいてきた。僕も座ったまま会釈で返事をする。
「ね、今日はどうしたの? またお話? それとも?」
ニヤニヤしながら僕の正面に座る彼女を見ると、胸が高鳴った。
何か緊張しちゃうよね。でも、初めて来たときに感じる緊張とは違うものの気がするけど。
「何しに来たと思う?」
そう言った僕を見て、彼女は首をかしげた。
「えー、気持ちよくなりに? とうとう?」
少し僕との距離を詰めて、彼女は「いやらしいー」なんて笑った。
何て言うか、ここに来てる時点でいやらしいのは否定できないよね。でも、残念ながら違うんだよね。
「えーと……」
脇に置いたままの紙袋を手にすると、そのまま彼女に差し出した。
118:以下、
「6月が誕生日だって前に言ってたから……これっ!」
言い訳みたいに理由を言わないと、それを渡すことすら恥ずかしかった。
僕ごときにプレゼントを渡されても困るかもしれないし、何か場違いなことをしてしまった気がしなくもない。でも、渡したかったんだから仕方ないよね。
「えっ、私に?」
頷いて返事をすると、彼女はおそるおそる手を伸ばした。
「ありがとう……めちゃくちゃ嬉しい……!」
あれ、何か予想と反応が違う。「マジでー? やった、ありがとね!」みたいなノリで来るかなって思ったのに。
「誕生日、覚えててくれてたの?」
「いや、日は知らないんだけどさ。初めて来たときに6月が誕生月だって言ってたから」
「よく覚えてるねぇ……」
うーん、やっぱり、僕なんかがそれを覚えてて祝うって、何かちょっと気持ち悪かったかな……? 引かせてしまった?
「あの、迷惑だったら捨ててね」
「そんな迷惑なものなの?」
意地悪そうに笑って問われて、それには首を横に振った。全力で。
「冗談だよ、本当に嬉しい! ありがとう! もしかして、これをくれるために今日来てくれたの?」
119:以下、
「いや、まぁ……そうだけど……」
気持ち悪いよなぁ、僕。
「今年初めて祝ってもらっちゃった……! やったね」
そう言って、彼女は紙袋を胸元に抱えた。何て言うか、演技だとしても慶んでもらえたら嬉しいよね。
「ちなみに、何日が誕生日なの?」
今後のために……と言いそうになったけど、こんな本名すら知らない、不安定な関係の一年後なんてあるのかどうか分からないから黙っておくことにした。
「えっ、今日だよ、今日。だから、偶然かもしれないけど本当に嬉しいんだよね」
120:以下、
カズヤの話を聞いた私は、素直に驚いた。
偶然ってあるんだなぁ。
カズヤの元彼女が、オオタさんの新彼女候補。そしてカズヤはオオタさんに憧れてる。それは心中穏やかじゃなくて当然だよ。
辛そうな彼を何とかしてあげたくて、私が伝えた言葉が適切だったのかは分からないけど、少しは元気になってくれたみたいで安心した。
本当に、彼は頑張り屋だと思う。
サッカーの試合を見ていても感じたし、聞いた話もだし、お店で聞いたときもそう。自分でどうにかしようとして、その重さに負けてしまいそうになっても、それでも自分でやり遂げようとしてる。
それが正解なのか私には分からないけど、でもそんな彼が私にはとても眩しく見えるのも事実で。
アキラとの関係性も、これ以上前に進むことはないって知ってるのに、止めるという決断すらできない私とは大違いだ。泥沼から抜け出そうとはしないくせに、「辛い」「止めたい」って心で思うだけで、本当にどうしようもない。
125:以下、
カズヤに言葉をかけながら、自分に言い聞かせていた。
変わらなきゃ。私も、頑張れるようになりたい。
そんな決心染みた感情を持ったところで、私の行動は変えられないんだけどね。結局、アキラに誘われたら私は彼と寝るだろう。誘われなければ寂しくなって、勝手に凹んでしまうだろう。
私っていう人間の弱さが、自分でもよく分かるの。
変わりたいという気持ちだけで変われるなら、今ごろ私は聖人君子になれているはずだしね。気持ちだけで変わるのは難しいよ。
そんな風にモヤモヤして数日が過ぎ、私は誕生日を迎えた。
126:以下、
高校を卒業して最初の年は、高校の友達がお祝いしてくれた。
でも、去年は誰からも祝ってもらえなかった。大学や専門に通ってもいなければ、職場の女の子とも特に親しいわけではない。独り暮らしを始めていたから家族も連絡がなくて、寂しい誕生日だったなぁ。
ホストにハマったのには、二十歳になってお酒も飲めるようになったし、その寂しさを埋めたいって気持ちもあったのかもしれない。まあ、それがどうしたって話なんだけど。
寂しさを埋めるためにホストに通い、抜け出せなくて辛くなるなんて思ってもいなかった。
アキラも私の誕生日なんて興味を持っていないだろうし、どうせ私は今年も誰にも祝われないまま一人で歳を重ねるんだ。
別にいいんだけどさ、でもやっぱりちょっと寂しい。
どうせ誰にも祝われないなら、明日は出勤前に買い物に行こう、自分で自分にプレゼントを買ってあげよう。 アキラのお店に行くかは、仕事が終わって決めよう。
そう決心すると、私は何か欲しいものを探してファッション雑誌のページを開いた。
127:以下、
かなり奮発して、お高いブランドのアクセサリーを自分にプレゼントした私はご機嫌だった。
たぶん、私みたいな歳の女が持つには分不相応なブランドなんだろうけどね。いつもアキラにばかり高価なブランド品を貢いでいて、自分には安いものばかりだったから、たまには良いよね。
ウキウキした気持ちで出勤すると、今日は予約が一杯入ってた。普段はあんまり忙しくない方が嬉しいんだけど、今日は頑張ろうって気持ちになれる。指名料も稼げるしね、アクセサリーの分を稼いで、また自分にプレゼントしてあげよう。
裸になっては服を着て、裸になっては服を着てを繰り返す。まあ、誕生日だからってお仕事まで特別になる訳じゃないからね。いつも通り。
そんな感じで慌ただしく働いていると、この間の試合からそう日も経っていないのにカズヤが待っていた。
128:以下、
どうしたんだろう、また悩み事? まだあの日のショックを引きずっているんだろうか。
たぶん彼は、私にそういう行為をしてほしくてこのお店に来ているわけではない。
それは何となく分かっているんだけど、それじゃあ悩み事の相談なのかなって考えると、そんなに次から次へと悩んでるのかな、なんて考えちゃったりもする。
何となくしないとは分かっていても、行為をするかどうかだけは一応は確認しないといけない。冗談めいて彼に声をかけてみると、彼は紙袋を差し出して来た。
「えっ、私に?」
いや、確認しなくても私にだって分かってるんだけどさ。何でカズヤは私の誕生日を知ってるんだろう。
私の疑問に対する返事を耳にすると納得したけど、よく覚えてるなぁと感心したりもする。
カズヤが4月生まれっていうのは、お客さんの歳を覚えるためだと思って私は意識してたけど、まさか私のそれを覚えてくれているとは思っていなかった。覚えているどころか、プレゼントまで用意してくれてるとは想像したこともなかった。
129:以下、
誰にも祝われないと思っていた矢先、予想外の人に祝ってもらえた私は嬉しさのあまりにオーバー気味に喜んじゃった。不自然なくらい。だって、それだけ嬉しかったの。
私の誕生日が今日であることをカズヤに伝えたら、「じゃあ、良い日に来たね、僕」と笑っていた。本当にそうだよ。
それにしても、このプレゼントは一体なんだろう。何だか気になるんだけど、本人の前で開けるのは失礼だよね、たぶん。
プレゼントを確認するタイミングを失ったまま、話は進んでいく。先日のショックも少しは和らいだのか、その話は出てこなくてちょっと安心したよね。
「……あっ、それ」
私は彼の胸元を指差した。そこに飾られていたのはネックレスで、それはさっき私が買ったブランドと同じものだった。
「そのブランド、好きなの?」
130:以下、
「えっ?」
カズヤは急に話を変えた私についてこれなかったみたいで、何のことか分かってないみたいだ。彼の首にかけられているそれをツンツンと指先でつつきながら、私は彼に示して見せた。
「これ、ネックレス。可愛いなぁ、って」
「ああ、これ? うん、お気に入り」
「良いよねー。私も、さっき自分へのプレゼントにそこのアクセサリーを買ったんだ」
今思い出しても、嬉しくてちょっとにやけそうなくらいだ。
「えー、いいなー。僕はあれだよ、去年二十歳になったときに、ずっと使える良いものを買おうと思ってバイト代を貯めて買っただけだから。だから、気合い入れたい時に付ける勝負アクセサリー……みたいな?」
「じゃあ、今日は気合い入ってるの?」
「たぶん?」
何それーって突っ込むと、彼も何だか恥ずかしそうに笑った。
そっか、やっぱり私たちくらいの歳だと、そんなに簡単に買えるものじゃないんだよね。
私にしてみれば高価とはいえ、何だかんだこのお店で働いてアキラに貢がなければ普通に手が届くくらいの額でも、カズヤにとってはお金を貯めて買うものだし。
私がこのお店で働いて得たものは、お金と狂った金銭感覚なのかもしれない。
131:以下、
そこから、カズヤの好きなファッションの話とか、逆に私のお気に入りのブランドの話なんかをしていると終了時間になった。
「本当に……ありがとね!」
彼を出口まで送ったあと、紙袋を抱えて私は彼にお礼を告げた。
カズヤは「大したものじゃないから」なんて言うから、私は軽く叩いちゃったよ。大したものだろうがそうでなかろうが、私にとっては大事な大事なプレゼントだ。
早く仕事が終わらないかなぁ、紙袋の中には何が入ってるんだろう。
カズヤが来る前以上に浮かれて、私はお仕事を終えた。すぐにでも中を確認したい気持ちでいっぱいだったんだけど、何となくお店でそれを開けるのは勿体ない気がした私は一度家に帰ることにした。
ちょっと大きな紙袋。でも、中身はそんなに重たくない。
家に帰りつくや否や、私はテーブルの上に置いた紙袋を閉じているシールを剥がした。
「……うわぁ……」
中に入っていたのは、ストローハット。俗にいう麦わら帽子だった。お洒落な雰囲気なのをチョイスしてるのはさすがだけど、何でカズヤはこれを選んだんだろう。
それを被って姿見で確認すると、ちょっと良い感じ。今日買ったアクセサリーにも合うかもしれない。
いつまでも部屋の中で被ったままでいるのも変な気がして、名残惜しさを感じつつもそれを紙袋に入れようとする。袋を開き、帽子を手に持ったところで、私は底に残っていた封筒の存在に気がついた。
表面には『ゆうちゃんへ』という文字。裏面のシールを丁寧に剥ぎ、中身を確認する。
132:以下、
僕なんかに手紙を渡されても困ると思うから、あれだったら捨ててください。
この間は本当にありがとう。お世話になりました。何て言うか、ゆうちゃんに話を聞いてもらえて本当に楽になりました……っていうのは、初めて来たときからいつもなんだけど。
6月に誕生日だって言ってたから、何かお礼にプレゼントと思って、これにしました。「また見に来たい」って言ってくれたのが本当なら、これから暑い日が続くし、熱中症対策にも?被ってもらえたら嬉しいです。
安物だし、趣味じゃなかったら捨てて。ごめん。
気持ち悪いこと書くけど、ゆうちゃんに会えて本当に良かったです。変な気持ち悪い客だって思ってるかもしれないけど、でも、僕は本当に色々と救われました。
良い一年にしてね。本当に、おめでとう!
133:以下、
「……律儀だなぁ」
手紙を読みながら、つい苦笑いしてそんなに感想が漏れた。
そんなに遠慮気味に言わなくても、カズヤのことを気持ち悪いお客さんだと思ったこともなければ迷惑だなんてとんでもない。ただ、変な人とは最初に思ったけどね。
何て言うか、カズヤは一生懸命なんだと思う。手紙もそうだし、プレゼントだってそう。私の「また見に来たい」って言葉を覚えてこのハットを探してくれたんだろうし、かといって押し付けじゃなくて手紙でそういう風に説明してくれたり、メッセージをくれたり。初々しいっていうよりは、一生懸命。
ただ高価なアクセサリーをアキラに貢いで喜ばせようとする私とは大違いだ。金額じゃないもんね、プレゼントって。
カズヤは私の好きなブランドも知らなければ、手紙にも書いてたみたいに、私が自分で買ったブランドのアクセサリーみたいに高価なものでもないんだとは思う。
それでも、カズヤからのプレゼントは私の胸を揺さぶる。それはきっと、言葉にするなら感動というもの。
134:以下、
人の暖かさに、久しぶりに触れた気がする。
アキラと体を重ねているときにも感じたことのない暖かさ。私自身、もう長い間忘れていた気がする。
帽子を片付けるのが何だか急にもったいなくなって、それをカラーボックスの上に飾ることにした。
うん、可愛い。
それを見てニヤけていると、私はあることを思い出す。
そういえば、アキラのお店に行かずに帰っちゃった。でも、何だか幸せだから今日は良いや。カズヤに祝ってもらえたし。
飾ったハットを眺めてにやけながら、私は自分で買ったアクセサリーも確認して幸福に浸っていた。
135:以下、
おかしい。
この間の試合からミユがやたらと僕に近づくようになった。元々歳が近かったり、ヒロさんの関係で仲良くはあったんだけど、ヒロさんがいない時に遊びに誘われたり、ご飯に誘われたり。それまでは基本的にはヒロさんがいるときだったのにね。
そうそうヒロさんといえば、走ってサキの前から逃げたことに関して「彼女さんが美人だったから緊張して逃げちゃいましたー、すみません」って謝ったら、「まだ彼女じゃねーよ!」と笑って許してくれた。ごめんね、ヒロさん。
話を戻すけど、そんな感じでミユはなぜか僕といることが増えてきて、ヒロさんには「カズが義弟になる日も近いな」なんて言われちゃったよ……なりませんから。
ミユのお誘いは、ご飯とか遊びには付き合うけど、さすがに僕の家に来たいっていうことは断るようにしている。彼氏に誤解されたらめんどくさいしね。まぁ、ご飯くらいならやることはやってないって分かるし許されるかなっ……ていうのは僕の個人的な感覚なんだけど。
とにかく、不自然なくらいミユは僕を誘ってくる。
まぁ、彼氏の話なんかも聞いちゃったし、ちょっとは心を開いてくれたからこそなのかもしれないけど。
138:以下、
とはいえ、あの後彼氏とどうなっているのかはは教えてくれないんだけどね。
ただ、「あのサッカー場にいた人、カズくんの彼女じゃないの? 本当に?」とはやたらしつこく確認するようになってきた。どうしたんだろう、一体。
プレゼントを渡してからはお店にも行けなかったし、試合会場で会うことも無かった。僕は僕でテスト勉強が忙しかったり、天皇杯予選で勝ち進んでるから練習に励んだり。ゆうちゃんは、あの言葉がリップサービスだったのかもしれないしね。一回来てくれただけでも感謝しないとね……うん。
寂しさを感じながら自分に言い聞かせて、僕は練習に向かう。
今週末はいよいよ予選の決勝だ。相手はキックスっていう、アマチュア最高峰のリーグであるJFLに所属するチーム。正直、かなり格上。
とはいえ、勝てない相手じゃない。今年は調子もよくないみたいで、JFLじゃ下位をうろついている。
キックスに勝てば、本大会に出られる。本大会に出れば、プロとも試合ができるかもしれない。
それをモチベーションに、今日も僕はボールを蹴る。
139:以下、
練習を終えて荷物をまとめていると、ミユに声をかけられた。
「ねね、カズくん。このあと、空いてる?」
「空いてるけど……」
僕のその返事に、周りにいたチームメイトが声をあげる。「カズも隅におけねぇなあ!」「ヒロー、妹が危ないぞ!」なんてね。いや、良い歳の大人なんだからもうちょっと落ち着きましょうよ。
「ねー、カズくんち、今日行っちゃだめ?」
「ダメ」
その即答には、ミユは口を尖らせて「何でー」と不満げだ。いや、お前も彼氏がいるならそんな簡単に一人暮らしの男の部屋に来たいとか言うなよって。でも、ヒロさんがミユの彼氏のことを知ってるかどうかは分からないから、その説明をして良いのか分からないんだけど。
「じゃあご飯いこうよー」
「まぁ……それくらいなら……」
「決まりっ! ほら、早く早く」
彼女は手を叩いて僕を急かす。チームメイトも囃し立ててくるけど、何なんだ、みんな。
お疲れさまでしたーと声をかけながら、僕たちは帰り始める。
140:以下、
今日は何だか天気が良くなくて、夜から雨が降るらしい。
「雨が降る前に帰りたいなぁ」
僕がそう呟くと、ミユは「カズくん、傘忘れたの? ちゃんとしなよー」なんて言いながら自慢げに折り畳み傘を見せつけてきた。
「はいはい、さっさと食べてさっさと帰ろうな」
そう言うと、僕らは帰り道のレストランに入った。ミユの彼氏の話を聞いたお店だ。
以前と同じメニューを注文して、僕らは雑談を始める。キックスに勝てるかな、とか。ヒロさんの彼女候補ことサキの話とか。ちなみに、ミユはサキが僕の元彼女だってことは知らない。
「それにしても、ヒロ兄の新彼女、可愛くて驚いちゃったよ」
「ヒロさんが言うには、『まだ彼女じゃない』らしいけど?」
「いーや、あれは付き合うね。間違いないよ。絶対そのうち付き合い始める」
絶対だよ、絶対。ミユはそう言い足して、僕に同意を求めてきた。
「……うん、そうだね。そうだと思う、付き合うと思う」
歯切れは悪くなったけど、それを認めることへの躊躇いはどんどん薄くなってきた。時間が経つにつれ、僕の暗い気持ちは薄くなっている。
理由は時間なのか、それとも他にあるのかは僕にはまだ分からないけど。
141:以下、
「ねぇ、カズくんは? 彼女作らないの?」
「どうした急に」
話に脈絡がないぞ。
「いや、カズくんって見た目チャラいのにそういう話をあんまり聞かないなーって」
「……僕、そんなにチャラそう?」
ゆうちゃんにも言われたし。
「チャラいよー! 髪色明るいし、長いし、アクセサリーもつけて私とチャラチャラご飯に来て! チャラい!」
「分かった、もうミユとはご飯に来ない」
「冗談だって冗談! でも、見た目はチャラいよー、うん」
そっか……ちょっとイメチェンしようかな……悩む。
「で、彼女は?」
誤魔化したつもりなのに、しっかり話を元に戻されてしまった。うーん、本当に最近は何かおかしいな。どうしたんだろう。
142:以下、
「前も言っただろ、いないって」
「じゃああの女の人は何ー?」
「いや、だからただの知り合い……」
その言葉に、自分でちょっと傷ついたりね。知り合いって言っちゃっていいのかな。
「ただの知り合いとあんなに密着して、背中撫でさせながら話したりするの? やっぱりチャラいよ」
ああ言えばこう言うなぁ、本当に!
「何、どうしたの。最近、ちょっとおかしいよ、ミユ。前はそんな話全然してなかったじゃん」
「おかしくないよー、カズくんに興味わいちゃっただけー」
だめー? なんて上目使いで聞いてくる。いや、ダメとは言ってないけどさ。でもやっぱり、何かおかしい。
「カズくんは私に興味ない?」
「いやー……ねぇ」
そんなこと、急に聞かれても困る。ていうか、本当にどうしたんだ、こいつ。
143:以下、
「無いのー? 傷ついた……」
落ち込むフリをするミユを見て、僕は本格的に心配になってきた。
何だ、こいつ、もしかして彼氏にフラレてか何かのショックでこんなテンションになってるのか? まあ、そうだとしても言われるまでは聞かないでおこう。めんどくさいしね。
「ほら、カズくん、年下の女の子が落ち込んでるんだよ。慰めてよ」
これまた、ざっくりした要求で。
「僕以外に興味持ってる人がいるから……」
「やだー、カズくんがいいのー」
何なんだ、本当に。今日はいつにも増して、変なテンションになってる。
144:以下、
「ほら、もう良い時間だし、帰ろう」
声をかけると、ミユは駄々をこねるような声で「もうー? 早いよー、まだ大丈夫だよー」と言ってくる。いやいや、あんまり遅いとヒロさんも心配するだろうしね、ご家族も。
嫌々言いながら、ミユはバッグを手に持ち支度を始めた。
お会計を済ませてドアを開けると、軽く雨が降り始めていた。しまった、遅かったか。
お店の人が傘を貸そうかと声をかけてくれたけど、このくらいならどうにかなりそうだ。お礼を伝えながら断って、僕達はレストランを後にした。
「カズくん、相合い傘したかったから借りなかったんでしょ?」なんて調子の良いことを言ってくるから、ミユの頭を軽く叩いてやった。全く、どうしたっていうんだ。
「痛いよー、カズくんに叩かれたー、DVだよ、DV」
「誰がDVだよ、誰が」
「傷物にされちゃった……責任とらせてやる……」
そんな、下らないやり取りをしながら僕たちは駅へ向かう。
145:以下、
練習場は少し外れた場所にあるから、駅までは少し距離があって。帰り道にはアパレル系のお店の通りがあったり、ホテル街があったりもする。ごちゃごちゃした町だよなぁ。レストランも結構練習場寄りのところだから、駅まではまだ長い。
二人でダラダラ話しながら歩いていると、少しずつ雨足が強くなってきた。しまった、素直に甘えて傘を借りるべきだったかな。
足取りをめても、駅に着く前に雨は本降りになりそうな気配を感じているんだけど、今更どうしようもないし……コンビニでビニール傘を買うのは負けた気がして嫌だし。
「雨、強くなったね」
傘を開いているミユは、他人事のようにそう呟いた。
「……入る?」
「いいって、折り畳みなんだから二人も入れないだろ」
その返事には小さく「つまんないのー」なんて愚痴をこぼされながら、二人で並んで歩く。
話すだけ話したからか、少し沈黙。その分、雨が地面を叩く音が耳に入ってきて、それがどんどん強くなってきた。
それはとうとう僕も耐えられないくらいになって、駅に向かって走りながら、雨宿りできそうなところを探す。
147:以下、
びしょびしょになった服の裾を扇ぎながら、雨の様子を見る。
強いなぁ、しばらくはやみそうにない。
どうしたものかと考えていると、後ろからひょこひょこと歩くミユが追い付いてきた。
「うわー、大丈夫?」
「大丈夫に見える?」
傘を持っていたミユはそこまで被害がないみたいだけど、僕は結構やられてしまった。一度家に帰って練習に向かったから、教科書とかプリントみたいに雨に負けそうなものが少ないのがせめてもの救い。
ため息をつきながら雨がやむのを待っていると、後ろから「すいません」と男女二人組に声をかけられた。
うわっしまった、ここ、ホテルの出入り口か……ミスったなぁ。
傘をさす彼らに道を譲りながら、僕はここに逃げ込んだことを少し後悔する。
148:以下、
「入っちゃう?」
顔をミユに向けると、彼女はホテルのドアを指差している。
何言ってるんだ、こいつ。
「お前、いい加減に……」
「だってさ、雨やまないと思うよ。カズくん、傘ないでしょ。それに、そんな濡れてたら電車にだって乗れないよ。どうするつもりなの?」
そこまで言われると、少し言葉に詰まる。
「……それは駅についてから考えるけどさ」
「ここで入った方が絶対良いと思うんだけどなぁ。風邪引いちゃったら、週末の試合に響くよ?」
「いや、だから入らないって」
「そんなに私と一緒に入るのは嫌だ?」
149:以下、
「いや、だからそういう話じゃ……」
「じゃあ良いじゃん、入ろうよ。私だってこんな雨のなか歩きたくないよ」
「本当に最近どうした? 大丈夫?」
「私はいたって普通だよ、大丈夫」
いや、普通じゃないから……って言っても認めようとはしないんだろうな、たぶん。
「いや、お前、やろうとしてること、彼氏と同じことじゃん。それ分かってるの?」
言って良いのか分からなかった、と言うか、たぶん言っちゃダメなことなんだろうけど、僕はそれを口にしてしまった。
だって、こうでも言わないと入ると言うまでここで口論をすることになは気がしたから。
僕の言葉を聞いたミユは、表情を曇らせて俯いた。
言の刃を向けてしまったことを悪いとは思うけど、でもこう言う以外にミユを止める方法も思い付かなくて。ごめん。
150:以下、
しばらく黙っていたミユは、顔をあげて僕を見た。目を合わせて、決意を込めた目線だ。
「そんなこと、分かってるよ」
「じゃあ何で……」
「分かってるけど、傷つけられた私はどうすれば良いの? 傷ついただけで、それで終わりなの?」
「どうすればって……」
何で、今なんだろう。
いや、タイミングの問題じゃないのかもしれないけどさ。ほら、前に僕に話してきたタイミングでだったら、浮気されたショックでって分かる。
でも、あの時は割と冷静に辛さを処理できていたように思える。あれからしばらく経っているのに、何で今更。
「何で私だけなの。ねぇ、カズくん、教えてよ」
そんなこと、僕に言われても困る。困るけど、それを言葉にすることも僕には出来なかった。
「そんなに私って魅力がない? すぐに浮気されるほど、私から誘ってもエッチしたいとは思えないほど魅力がないの? ねぇ!」
151:以下、
そう叫ぶ彼女の目は雨以外の何かで濡れていて。
傘をさして歩いてる人たちは、ホテルの前で立って口論をする僕たちを好奇の目で見ながら通りすぎる。たぶん、痴情のもつれか何かに見られているんだろうな。
「そんなことは……」
実際、ミユは可愛い子だと思う。気さくで、マネージャーとしても気が利くし、顔だって愛嬌があって可愛らしいって感じで、少なくとも嫌われるような子ではない。
でも、だからと言って僕が彼女を抱くことはたぶんできない。
「……」
沈黙を回答にすることしか、僕には出来なかった。
「……もういいっ、帰るっ! カズくんの、バカ!」
その言葉を残して、ミユは走って僕の前から消えてしまった。
ホテルの前で立ち尽くして、僕は彼女の背中を目で追いかける。
それしか、僕には出来なかった。
154:以下、
あの日のミユとの気まずさは無くならないまま、僕たちは天皇杯予選決勝、キックス戦を迎えた。
あれから二回開かれた練習で会っても特に会話もなくて、チームメイトも「痴話喧嘩かー?」なんておちょくってくるけど、ミユはそれにも反応しない。僕は「そんなんじゃないっす」ってヘラヘラ誤魔化しといた。
あの日から降ってはやみを繰り返していたけど、空は今日も雨模様。
芝のピッチは少し重たくなっていて、ヘビーな試合になりそうだ。幸い、アップをしてみた感じでは水溜まりはまだ出来てないみたいだけど。
それに、雨っていうのはある意味で都合が良い。格上に挑むのに、不確定要素は多ければ多いほど良いからね。
蒸し暑さを感じながら、ステップを踏んで僕は体を暖める。
155:以下、
右サイドバックでスタメンとなった僕は円陣を終えてポジションにつき、ヤマさんがミーティングで話していたゲームプランを頭のなかで繰り返す。
前半は、基本的にディフェンシブに試合に入って無失点で乗りきる。そして、後半になって相手が焦ってきたところで隙を狙ってカウンター。言ってしまえば、弱者の兵法だ。
審判が笛を吹いて試合が始まる。
相手チームのキックオフで始まると、僕の方にロングボールが飛んできた。キックオフ後のロングボールはそんなに珍しいことではないけど、今日は雨だということもあってかこういう蹴り合いが増えそうだ。
そのボールをトラップすると、プレッシャーをかけに来た相手選手が視界に入ったのですぐに蹴り返す。セーフティーなプレーをしないと、こういう日は本当に危ない。
157:以下、
予想通りの大味な展開で、試合はどんどん進んでいく。お互いに中盤をほとんど省略して、前へ前へロングボール。そのこぼれ球を誰がとるか。そんな試合。
たぶん見てる人は退屈なんだろうけど、やってる方はなかなかヘビーなんだよね、こういう試合って。
内容はつまらなくても、時間は着々と流れていく。このまま前半を無失点でいけたら、僕らにも勝機はある。
僕とマッチアップすることの多かった左サイドの相手選手は、リスクを負いたくないのかなかなか勝負を仕掛けてこない。僕も人のことは言えないけどね。
実力的にキックスの中ではそんなに上手いわけではないのか、彼には一対一の局面では今のところほとんど負けていない。
試合は膠着状態に陥って、お互いにロングボールを蹴ってもシュートまでは結び付かないことが増えてきた。いいぞ、このままだ。
そんな油断が良くなかった。
ボールを受けた僕がセンターバックへ出した横パスは、試合中に出来てしまった水溜まりで止まってしまった。
それを狙っていたキックスのフォワードはボールを拾い、そのままゴールに向かってドリブルを始める。
慌てて僕もセンターバックも戻るけど、相手は独走でキーパーと一対一を迎えた。コースを狙うシュートではボールが止まる可能性を恐れたのか、飛び出しているキーパーもお構いなしに思い切り右足を振り抜かれた。
カァン! と、乾いた音が鳴って、ボールはゴールの外に弾かれた。
危ない……ゴールポストに助けられた。
「カズー! パス度気を付けろ!」
前にポジションを取っていたヒロさんからは叫び声が聞こえてくる。僕もそれに右手を上げて了解と表した。
本当に、雨の日は何が起きるか分からない。
158:以下、
ほっとしたのも束の間、ゴールキックを拾ったキックスは、逆サイドから崩しにかかった。雨で止まらないように少し浮いたボールでパスを回し、スルーパスを通される。
うちのチームのセンターバックが一枚釣りだされてしまい、ゴール前にはもう一人のセンターバックと僕しかいない。相手はフォワード二人に右サイドの選手の三人。
ふわりと浮かせられたクロスは、相手チームの長身フォワードにぴったりと合っていた。
競り合いにいったセンターバックも、綺麗に点と点が線で結ばれたようなそのボールには触れることができなくて。
前半34分、キックスが先制ゴールを決めた。
159:以下、
その後は、勢いに乗ったキックスが試合のイニシアチブを握った。
僕たちは防戦一方になりながらも、どうにかゴール前で跳ね返し続ける。とてもじゃないが、カウンターなんて狙えそうもない。
ロングボールどころか、クリアすらままならぬまま、前半終了の笛を待つ。
くそっ、まだ鳴らないのかよ!
無失点に抑えていたからと動いていた足も、徐々に疲れを実感しつつある。サッカーはメンタルのスポーツって本当だね。
とにかく相手がボールをもったらすぐにプレッシャー、パスをされたらポジションを取り直してっていうのを繰り返し、勝ちの目なんて見えない試合は時間が流れる。
嫌な時間は永遠にも思えて、でも永遠なんてものは現実にはあり得なくて。何度目か分からないキックスのシュートが枠を外れたとき、神の笛が鳴らされて前半が終わった。
160:以下、
ハーフタイムのベンチでは、皆声を出す余裕もないくらい疲れている。晴れてると暑さで体力がなくなるんだけど、今回は雨のぬかるみだけでなく、精神的にもキツイ。
ヤマさんは「まだ一失点だ、いけるいける!」と根拠は無いけど前向きな声を出している。
「どうやって相手を崩すかが問題だよ」
「いや、こんなピッチじゃ崩すにも崩せないよ……パスも止まりやすくなってきたし……」
他のチームメイトもこの調子だ。八方塞がりとは認めたくないけど、現状ではどうやってて点を取りに行くかの案も出せない。
ピッチ中央付近は水溜まりが増えてきてる。サイドはともかく、真ん中の選手はパスを出すのも一苦労って感じ。
「カズ、お前の対面どうだった?」
その声をかけてきたのはヒロさんだった。
「7番っすか? いや、仕掛けてこないから何とも……でも、他の選手ほどじゃないかも」
「だよな、お前のサイドで危なくなったのは、パスが雨で止まったあのシーンだけだし……」
少し考える間をおいて、ヒロさんは全体に呼び掛けた。
「後半、右サイドを起点にしましょう。雨で真ん中は使えない。それに、カズの対面の選手は正直キックスの穴だ。狙わない手はない」
ヤマさんの方を見て、ヒロさんは「どうですか?」と確認を取る。
試合前のゲームプランが壊れた今、藁にもすがる気持ちなのだろう。ヤマさんはそれに頷き、チームメイトも同意した。
審判が選手をピッチへ呼び戻す笛が鳴り、僕たちは雨の中へ戻っていく。
この試合に勝てなければ、先はない。それなら勝つしかない。
そんなシンプルなことだけを考えて、僕はポジションへついた。今度はスタンドに近いサイドで、ベンチの選手からの声もよく聞こえる。
雨が降り続くピッチの上で、強い音が響いた。
161:以下、
後半が始まってしばらく経つと、僕は小さな自信を持ちつつあった。
ハーフタイムを挟んだおかげか、相手チームの勢いは落ち着いている。加えて、カズさんの「相手の7番は穴」という発言が正しかったのか、今のところ彼にボールを取られる気はしない。
ドリブルを仕掛けてないから、奪われようがないっていうのもあるけどね。こんな雨では、下手にドリブルをして奪われてしまうのは怖い。穴とはいえ、格上のチームでの話だしね。
ハーフタイムでの立て直しが利いたのか、少しずつ、僕たちも攻めの形を作れるようになった。相変わらずロングボールがメインのつまらない形ではあるけど。
少しずつ7番を押し込んで、僕が高いポジションを取れるようになってきた。悪くない流れだけど、時間を考えるとそろそろ同点にはしておきたい。
中盤を省略したロングボールをうちのセンターバックが怪って、競り合いから零れたボールをヒロさんが拾った。
今だ!
予選の最初の試合だったかな、ヒロさんがボールを持ったら前に走り出せってやつ。それを今、僕はしている。
全力で右のライン際を走り、ヒロさんからのパスを呼び込む。
162:以下、
低いライナーで僕の走る先へドンピシャのパスが届けられた。さすがヒロさん。
ゴール前を確認すると、7番に追い付かれる前にクロスを上げた。
後半が始まってからはずっと僕のサイド、右サイドをメインに使っていた。必然的に相手もこっちに人数を割くことになり、ゴール前にもディフェンダーは固まっている。
じゃあ、空いているのは? 簡単な問題だよね、逆にある左サイドの選手だ。
僕の蹴ったボールは人の密集していたゴール前を飛び越して、逆サイドの仲間へと届けられる。
雨の中、転がったボールは止まってしまうかもしれないけど、浮いたボールなら綺麗にミートすればそれだけで飛ぶ。
ダイレクトで合わせるのは難しいけど、彼は見事に押さえられたボレーを放った。
それは美しささえ感じられる弾道で間隙を縫い、ゴールネットへ突き刺さった。
163:以下、
退屈な試合展開から生まれたビューティフルゴールに、雨の中でもこんな試合を見に来るような物好きな観客たちは歓声をあげる。
今のボレーは、たぶん10回に3回成功するかどうかの偶然だ。まぁ、決まったっていうことが一番大事なんだけどさ。
喜びを爆発させるチームメイトを見ながら、僕はスタンドに設置されている時計を確認する。サッカー用のデジタル時計がない競技場だから、アナログ時計だし大体の残り時間しか分からないんだけど。
あと20分か、このまま勢いに乗れたらいける、勝てる!
そのまま目を離し、ゴールを決めた殊勲者にハイタッチで称えようと彼のところに向かおうととして、見覚えがあるものが目に入った。
あれ、あのハットって。
こんな雨の中、帽子を被っている人なんてそうそういない。
「ははっ」
何だろう、嬉しい気持ちになって、同点の喜びだけじゃなくてにやけちゃったよ。
164:以下、
試合が再開されると、相手の動揺は手に取るように分かった。ロングボールの精度は落ちてるし、そのこぼれ球への反応も悪い。
前半の失点後の僕たちみたいだ。一番の違いは、たぶん彼らが僕たちより格上だということ。焦りは僕たちよりかなり強いはずだ。
その一方で、うちのチームは勢いに乗っている。ハーフタイムでの作戦変更がハマったという事実も、僕たちにある種の自信を与えてくれた。
イケイケムードでシュート放ち、キックスがそれを防ぐ時間が始まった。
とはいえ、さすがはJFLのチームと言うべきか、最後の最後でしっかりと蓋をしてくる。シュートは打てても得点まではなかなか結び付かない。
延長に入れば、さすがに相手も立て直してくるだろう。そうなると、地力で勝るキックスが有利になってしまう。
かなり高いポジションを取っていた僕は、ヒロさんから横パスを受け取った。中盤の右サイドの選手は、ほとんどフォワードみたいなポジションを取っている。
目の前には7番が立つ。
今までは、僕は雨だからといって安全なプレーを心がけて仕掛けずにパスで逃げていた。
でも、ここでそれをするのが本当に賢いプレーなのか?
本能としか言えない
気づいたときには、僕は7番に向かってドリブルで勝負を仕掛けていた。
165:以下、
カズヤから貰ったプレゼントは、中々使うタイミングが無かった。
いや、被りたいとはいつも思ってたよ。でもさ、折角なら試合を見に行く日に使いたいじゃない。
カズヤのチームのことは、あの後インターネットでサッカー協会のホームページを見て試合結果は追っていた。次の会場とか時間も掲載されていたんだけど、お仕事が入ってなかなかい行くことは出来なかったんだけどね。
カズヤもあの日からお店に来なくなって、何かちょっと寂しさを感じていた。
その寂しさを埋めたかったのかな、アキラに会いに行っちゃったの。彼も何かイライラしてたのかな、珍しくプレゼントも持ってない私を抱いた。ホテル代は私持ちだったけどね。
良くないことだって本当に分かってるし、変わりたいって気持ちも本当だ。それでも、やっぱり変われないくらい私はクズ。
雨模様の天気と同じで、私は私に嫌気がさしていた。いつものことって言えば、いつものことなんだけどね。
でも、カズヤたちの試合結果をみていると、何だか胸が晴れるんだよね。
「あっ、また勝ってる!」「もう準決勝かー」なんてね。関係者でも何でもないのに、何でだろう。
何だかその言葉に特殊な響きを感じて、私は決勝戦の日はお休みをもらうことにした。カズヤたちが決勝に残れるかも分からないのにね。
不思議なことに、私は彼らが決勝に残ると心の底から信じていた。理由なんて分からないけど、でも、本当に。
166:以下、
そんな私の期待通りと言うべきか、カズヤたちは決勝まで勝ち進んだ。
それがどれくらい難しいことなのかは分からないけど、とりあえず決勝戦ってだけで何だか凄いんだろうなってことは分かる。
久しぶりに見に行けるという期待と裏腹に、雨模様の天気は続いていた。当日の朝も、天気は良くない。
こんな雨の中で帽子を下ろすのはどうかと思ったんだけど、いよいよ行けるということで、我慢できなくなってそれも頭に被っちゃった。
歩いて行くかタクシーで行くか悩んだけど、歩いてみることにした。カズヤたちは雨でも傘も ささずに走るんだし、少しくらい私も歩いておこう。
そんな風に考えた自分に自分で驚きもしたんだけどね。カズヤに会う前の私なら、「タクシーに乗るお金くらい持ってるのに、乗らないはずがない」と思っていただろう。
167:以下、
会場に着くと、ちょうど試合が始まる頃だったみたい。スタンドの雨が振り込まない席を見つけて、私はそこに座った。
グラウンドの上で選手が丸くなっていて、声をあげたあとに散らばっていく。カズヤはスタンドとは逆に向かっていった。
試合が始まると、ボールの蹴り合いが始まった。前の試合だったらオオタさんがドリブルをしたり、カズヤが前にいったりしてたんだけど、今日はそんなこともない。
ポーンってボールが飛んでいって、ドンってヘディングをして、そのボールを拾ったら攻められる。相手に拾われたらそれが入れ替わるって感じ。
カズヤたちのチームはどっちかって言うと攻め負けてるのかな。相手チームが長いボールを蹴る回数が多く思える。
でも、点に動きもないし、試合展開も同じことの繰り返しで退屈になりかけていた時に、カズヤのパスが水溜まりで止まった。
「危ないっ」
口にするつもりはなかったのに、いつの間にかそれは声になっていた。
幸い、相手がシュートを外してくれたけど自分が何か失敗をしてしまったかのように焦っちゃった。
オオタさんがカズヤを注意する声が聞こえてきて、私もそれに心の中で同意した。危ないよ、本当に!
169:以下、
ゴールキーパーの蹴ったボールは相手に拾われて、鋭いパスがカズヤとは逆サイドに蹴られた。
ゴール前の人数は相手の方が多くなっちゃって、素人目にも危ないシーンだと分かる。何か背の高い選手も多いし、ゴール前にも蹴られたら危なそう。
私の嫌な予感は当たったのか、高くてふわっとしたボールがゴール前に上がって、相手選手がヘディングするとネットが揺らされた。
あーあ、決められちゃった。
相手チームには応援団……サポーターって言うんだっけ? みたいな人たちが何人かいて、彼らは喜びの声をあげている。多くはないけど、自分のことのように盛り上がっていて、ゴールを決めた選手も彼らに向かって手を突き上げていた。
何かちょっと羨ましいなぁ、ああいうの。
カズヤたちはと言うと、すぐにポジションを取り直して試合再開に備えている。
「顔あげろ! 次だ次!」
そんなカズヤの叫び声も聞こえてきた。一点取られたくらいじゃ、もちろん諦めないよね。
171:以下、
それからは相手チームがカズヤたちのゴールに迫るシーンが増えてしまって、見てる私のハラハラも同じように増していく。
いつ二点目を決められてもおかしくないってくらい、カズヤたちはシュートの雨を浴びている。それでも、最後のところで踏ん張ってボールを弾き出したり、体に当てて逸らしたり。
あんな勢いのボールが体に当たっても、すぐに立ち上がってプレーをしている。痛くないはずがないのに、何でそんなに頑張れるんだろう。
こんな雨の中、痛い思いをしてまで続けたいものなのかな、サッカーって。
……こんな日に見に来る私も、相当物好きなのかもしれないけど。
そんな突っ込みを心の中で入れていたら、ボールが外に出たところで前半が終わった。
172:以下、
前半を終えてベンチに向かうカズヤを眺めていると、そこにいる女の子が目に入った。マネージャーかな? そういえば、前にカズヤを迎えに来た子に似てる気がする。
それで仲良しだったんだ……へぇ、そっか。
少し胸がズキッとした。懐かしいような、でもとても辛いような痛み。いつも感じてる気もするし、久しぶりに感じた気もする。
彼女はカズヤに一言もかけずに、他の選手にタオルやドリンクの入ったボトルを配っている。不自然なくらい、カズヤを避けて。どうしたんだろ、喧嘩中?
サッカーを見に来たというのに、私はそんなどうでもいいことばりを気にしていた。ダメだ、ちょっと彼から目を離しておこう。
相手チームのサポーターも、さすがにこの時間は応援を止めるらしい。雨の中でもこんなに応援してくれる人がいるなんて、彼らは幸せ者だね。
カズヤのチームにはサポーターなんていないみたいで、相変わらず少数の関係者が小さく纏まって見ているみたいだ。
そこから外れてこんな席でこそこそ見ている私は、もしかしたら変な人に見えるのかも。
そんなことを考えているうちに、選手が出てきた。前みたいにカズヤが前に来ていることもなくて、前半と同じようなポジションについた。後半はスタンドに近いサイドだったから、カズヤのプレーが見やすそうだ。
笛が鳴って、選手は再び走り始めた。
173:以下、
気のせいかな、後半になってからカズヤがボールを触る回数が増えた気がする。
私が彼を見てるからかもしれないけど、前半よりカズヤからパスが出てることが多いと思うんだよね。
ドリブルをしないからボールを持ってる時間が短くて分かりづらいけど、でもカズヤを中心にチームが動いてそう。
前みたいにポジションが変わったとかじゃないから、パッと分かることじゃなかったんだけど、前半より攻められてる時間も減った気がする……というか、むしろカズヤたちが押せ押せになってる。
シュートも打てるようになったし、前半みたいに相手ばかりが攻めてる訳でもない。
カズヤを応援しながら見ている私には心地いいリズムで試合が進むようになった。負けてるんだけどね。
とはいえ相手も決勝戦まで進むチームなだけはある。シュートを打たれても、決めさせてはくれずに試合は進んでいる。
オオタさんも、今日はなかなかボールに触ることがない。水溜まりでオオタさんのあたりは蹴りづらそうだし、相手選手もオオタさんがボールが来るとすぐに邪魔しに来る。
時間が着々と進んで、試合をしているわけではない私も焦り始める。
準優勝と優勝って、何か違うのかな。……賞金? 負けて失うものが何かは分からないけど、今はとにかくカズヤたちに勝ってほしい気持ちだけで心の中でエールを送る。
そんな時、オオタさんがこぼれ球を拾った。
176:以下、
それに呼応して、カズヤは前に走り出す。以心伝心ってこういうことなのかな、寸分の狂いもないパスがカズヤの足元に送られた。
相手の7番を簡単に振り切ったカズヤは、ボールを中に向かって蹴りあげた。それは弧を描きながら完全に空いてた選手に届けられて、カズヤのパスをそのまま叩いたボールはゴールに突き刺さった。
あまりに華麗なゴールに相手チームのサポーターは呆然としていて、それ以外の人たちは歓声をあげている。私から見ても、あのゴールはすごいって分かる。
ゴールを決めた喜びを爆発させる選手が走り回る中、カズヤはスタンドをじっと見ていた。どうしたんだろう。ああ、時計を見てるのかな。
残り時間はまだある。このままなら、カズヤたちの逆転だってできそうな気がする。頑張れ。
心の中でそう唱えたとき、カズヤがこちらを見てふっと笑った気がした。……気がした、それだけ。
177:以下、
同点になると、それまで以上にカズヤたちのチームは攻勢に出た。目に見えない流れっていうものがあるのなら、今、彼らはそれに乗っている。
シュートを打って、跳ね返されたボールを拾ってまたシュート。前半とは立場が逆になったように、弾丸の雨を浴びさせる。
でも、それはどうしてもゴールまでは辿り着けなくて。やっぱり前半みたいに、相手チームも踏ん張りを見せてくる。
後半終了まで点が入らなかったら引き分け? それとも延長とかあるのかな。決勝だから、白黒つけないわけにはいかないよね。
シュートを打っても入らないストレスは、私に無力さを痛感させる。あとちょっとなのに、そのちょっとをどうにかする力が私にはない。
残り時間が5分くらいになった時、カズヤがパスを受けた。いつもはそこからすぐにゴール前に浮いたパスを入れているのに、今回は何だか雰囲気が違う。
178:以下、
中に向かってドリブルを始めようとして、相手の7番も少し遅れてそれについてくる。この試合で初めてのドリブルは7番にも予想外だったのか、対応がぎこちない。
中央は水溜まりで蹴りづらそうなのに、何であっちに向かって、ドリブルで勝負をしかけるの?
私のその疑問を嘲笑うように、カズヤは右足の外側の面ででボールを軽く触って今度は外に逃げる。
上手いっ!
雨で滑るグラウンドで、急な切り返しに対応出来なかった7番はカズヤを見送るだけ。
右サイドはまだどうにかドリブルはできそうな状態で、彼はそのまま深く、深く突き進んでいく。雨の中に吹く風みたいに、その姿は力強く見える。
我慢できなくなったのか、ゴール前を固めていたディフェンダーがカズヤに向かって走り出した。
それを視界に入れると、カズヤは同点弾のふんわりしたボールとは真逆の、ゴロではないけど低くていパスをゴール前に向かって思いきり蹴った。
179:以下、
それはゴール前でワンバウンドすると、濡れた芝に触れたからかな、つるっと滑って度が変わった。
ごちゃごちゃになったゴール前で、その変化は対応しづらかったみたいだ。
守るために人数をかけていたゴール前で、相手チームの選手の足に当たったそれはゴールに向かっていく。
キーパーも、味方に当たったボールは予想外みたいで対応が遅れた。
決してカッコいいシュートではなかった。というか、シュートですらないんだろうけど。
カズヤのゴール前に蹴ったボールは、ネットを弱く、それでも確実に揺らした。
180:以下、
「やったぁ!」
気づいた時には立ち上がって、私は大きな声をあげていた。黙りになっちゃった相手チームのサポーターとは正反対にね。
何だろ、今までならこんな風に喜ぶことなんてなかった。ゴールが決まったからといって私が何かあるわけではない。でもそんなことなんて関係なく、私は喜んでいる。
芝の上ではカズヤがチームメイトに囲まれて、顔をくしゃくしゃにして笑っていた。
何で彼は、あんなに急にドリブルを始めたんだろう。
それまではすぐにパスをして、自分で勝負を仕掛けることなんてなかった。なのに、さっきはいきなり挑んで、そして結果に結びつけた。
そこに何かの意図があったのか、たまたまやってみてたまたま上手くいったのかは、私には分からない。
でも、勝負を仕掛けなければ今の喜びはなかったわけで。
胸の底から、いつかもあった熱を感じてる。それは前よりも強くて、そして私にある種の衝動を焚き付ける。
181:以下、
勝負をしなければ状況を変えることはできない。当たり前のことを、今更教えられた気がする。
変わりたいけど変われないっていうのは、私が勝負を仕掛けていないからなのかな。寂しいからアキラと寝るとか、貢ぐとか。それは結局現状維持でしかなくて、行動としては何も変えることはできてない。
特別なことは何もない、アマチュアサッカーのただの1プレー。
それが私に与えた衝動は、計り知れない。
変わるためには、私が動かないといけない。きっかけを待ってるのじゃダメなんだ。
立ち上がったまま、呆けてそんなことを考えていると、周囲の視線を感じて慌てて座る。
そういえば大きい声も出しちゃったんだ、恥ずかしい。
グラウンドに視線を戻せば、カズヤたちも試合再開のためにポジションにつこうとしているところだった。
彼がこっちを見てる気がするのは自意識過剰なのかな。彼は私の方を見たまま自分の頭のあたりを指差して、そのまま右手を突き上げた。
……あっ、帽子? じゃあ、あれは私に?
恥ずかしさなのか何なのか、私は顔が赤くなるのを感じる。でも何だか、嫌じゃない。
182:以下、
試合が再開するけど残り時間はあと僅か。チームの勢いも、得点数も、カズヤたちは相手を圧倒していて。
数分の後、彼らの優勝を伝える笛が響いた。
カズヤたちは喜びのあまりに雨の中を走り回り、相手チームは項垂れたり、グラウンドに倒れてしまったり。
こんなに喜んだり悔しがったりできるほど夢中になれるものがあるのって、何だか羨ましいな。
彼らがサッカーをする理由、好きな理由なんて私には分からない。
でも、少なくとも「これが好き!」と言えるものが思い当たらない私には、彼らはとても輝いて見えた。
服とかカフェとかは好きなんだけど、それも流行りに乗っかっているだけだし。流行りが変われば、私はそれまでに好きだと思っていたものへの興味も無くしてしまう。
彼らのそれは何だかそういう好きとは別次元のものに思えて、自分を恥じそうにすらなる。
好きなものって、どうしたらできるんだろ。
183:以下、
選手たちはぐちゃぐちゃのグラウンドで整列をして、スタンドに向かって礼をした。その直後、ベンチに座っていたカズヤのチームメイトたちも走ってその列に向かっていく。
歓喜の輪が再び作られて、みんな抱き合って喜んでいる。スタンドにいる人たちも、拍手で彼らを称える。もちろん私も。
しばらくして、カズヤはその輪から外れて小走りでスタンドに近づいてきた。
関係者っぽい人たちは「カズー、最高ー!」「カズくんかっこよかったよー!」なんて叫んでいる。今日の主役は間違いなく彼だったし、当然だよね。
彼らに「ありがとうございます! 本戦も応援お願いします!」って返事をしながら、カズヤはこちらに向かってくる。本戦……って何だろう。
184:以下、
私は傘を開いてスタンドの最前列へ向かう。カズヤも私の方を見上げていて、目があった。
「帽子、被ってくれたんだ」
二点目が決まった直後みたいに頭を指しながら、彼は言った。私は頷いて、大きな声で返す。
「かっこよかった! 優勝おめでとう!」
その言葉を耳にすると、カズヤは少し恥ずかしそうに俯いて、ありがとうと返事をくれた。
何かお互いに恥ずかしくなって、少し沈黙が起きてたら、カズヤを呼ぶ声が聞こえた。あ、オオタさんだ。
「ちょっと待って、時間あるなら待っててくれたら、後でそっちに行く!」
その言葉を残して、カズヤはオオタさんに向かっていった。
二人は仲良さそうに話しながらベンチに向かう……と思ったら、オオタさんが振り替えってこちらに手を振ってきた。私が小さく振り替えしてみると、カズヤが彼を肘で軽く小突いて笑いながら再びあちらに進んでいく。
仲良いなぁ、本当に兄弟みたい。でも、あの様子なら元カノの件で気まずいとかじゃないみたい。良かった。
その奥から、表情はよく見えないけどマネージャーの女の子がこちらを見ているから、ペコリと頭を下げてみた。
反応は無かったから、私を見てるわけじゃないのかもしれないけどね。
185:以下、
後で来るって言葉を信じて私は再び雨の振り込まない席に戻ったんだけど、カズヤのチームの関係者っぽい人からすごい話しかけられちゃった。
「カズくんとはどんな関係なんですか?」
「彼女?」
「サッカー好きなの?」
大体は、そんな感じで。
どんな関係かって聞かれたら、返事に困っちゃうよね。風俗嬢とお客さん……今となっては、そんな関係では無い気がする。友達? それも何だか違うよね。
「ちょっとした知り合いです」としか、私には言えなかった。その言葉に自分でちょっと傷ついたんだけどね。
サッカーが好きかと聞かれたら、それも少し返事に困る。カズヤの応援は楽しかったけど、それ以外の試合を見たこともない私にしてみれば、サッカーが好きなのかどうかもよく分からないし。
何だか中途半端に色々とぼかした返事しかできない私を、彼らは暖かい目で見てる。どうしたんだろう、一体。
ベンチでは引き上げる準備が始まっていて、私に話しかけていた人たちも、彼らに会いに行く準備を始めた。
「待つんじゃなくて、カズくんのとこまで行きなよー」
そんな風に勧められもしたんだけど、さすがに私がカズヤに声をかけに行くのは何だか図々しい気がした。
どうしようかな、でもあの言葉が本当なら出向かせるのも悪いよね……うーん。
そんな風に悩んでいると、ユニホームからジャージ姿になったカズヤが階段から現
れた。
186:以下、
「お早い到着で」
「カズー、色気づいてんじゃねぇぞー」
そんな風に茶化しながら、関係者の人たちはカズヤとは入れ替わりで階段を下りていく。
カズヤはカズヤで顔を赤くして「そんなのじゃないっすから!」なんて返事をしてる。そっか、そんなのじゃないよね。
試合に負けた相手の応援団は早々に帰り支度をして出ていってたし、スタンドには私たちしかいない。何か、少し緊張する。
何て言おう、何を伝えよう。
感動した? おめでとう? かっこよかった?
言葉を探して黙ってしまった私に、彼は言葉を投げかけた。
「ありがとう」
「えっ?」
何が? と言葉を続けると、彼は笑って返事をした。
「いや、見に来てくれて。試合中に気づいてさ、嬉しかったよ、本当に」
187:以下、
「あ、もしかして同点に追い付いた時?」
「そうそう、時計見ようと思ったらさ、こんな雨なのにハット被ってると思って」
思い出し笑いみたいに笑うカズヤに、私は不機嫌な顔を作って反論する。
「だって、せっかくプレゼントしてくれたんだから被りたかったもん。試合見に行くまで我慢しようと思って、やっと来れたから」
その後、ふざけ半分で「似合う?」と帽子の鍔を手にして見せた。
「うん、似合う似合う」
「何それ、適当じゃない? 」
本当にー、と彼は必死に弁明するから何だか可愛く思えて、ついからかいたくなっちゃった。
「本当に似合う? 可愛い?」
首を上下に動かす彼を見て、言葉を続けた。
「じゃあ、元カノと私はどっちが可愛い?」
188:以下、
「そんなのゆうちゃんに決まってるじゃん」
「えっ」
どうせカズヤは焦ってしどろもどろになると思い、「冗談だよー」なんて誤魔化すつもりだった私は、その不意打ちの言葉に反応できなかった。
顔を赤くして、「そっか……あ、ありがとう」なんて返事をするのが精一杯で、逆に私が恥ずかしくなった。でも、嬉しいのは隠せなくて、つい笑みがこぼれちゃいそう。
気まずくはない沈黙が流れているとき、階段から足音が聞こえてきた。そちらを見ると、マネージャーらしき彼女。
「いい加減にしなさいよ!」
そう叫ぶと、彼女は私のもとにむかって走ってきて。
「人の彼氏とヤっといて、カズくんまで手を出そうとしてんじゃないわよ!」
その言葉が聞こえた瞬間、私の左頬は彼女の右手に弾かれていた。
192:以下、
私の彼氏は女癖が悪いって有名だった。
でも、顔も良いし友達としては悪い人じゃなかったし、付き合おうと言われたときも断る理由は見つからなかった。
でも、楽しい時間はすぐに終わる。
浮気されるのって本当に辛かった。私に魅力がないって言われているようなものだもん。
最初の浮気は許したくはなくても、特に指摘はできなかった。
そういう可能性があることを考えての付き合いだったし、カズくんに話を聞いてもらえたから少しは楽になれた。
でも、だからといって何かが解決したわけではない。
それはあくまで私が傷つくきっかけであっただけで、悪夢はそれからも続いた。
193:以下、
彼から漂う女の香りに、私は悪酔いしていた。
最初は嫌な気持ちだったのに、徐々にそれにはなれていって、むしろ『彼氏に浮気されて可哀想な私』であることに心地よさすら感じつつあった。
カズくんだって、微妙に気を使ってくれるし。
その優しさに甘えちゃった私は、彼に依存していく。
たまにいるでしょ、彼氏がいるくせに男友達といつも一緒にいるような子。あんな子達の気持ちが、今の私にはよく分かる。
彼氏には認められなくても、カズくんは私のことを認めてはくれなくても否定もしない。それはぬるま湯みたいなものなんだけど、だからこそ抜け出ることもできない。
彼氏からも抜けられず、カズくんからも抜けられず。
気持ちの悪い湯加減に、私は中毒のように沈んでいく。
194:以下、
天皇杯予選が近づくと、チームの練習日も増えたりして彼氏と会う日が減って、逆にカズくんに会う日も増えた。
そうなると、私はどんどんカズくんへの異存が増していって、逆に彼氏も他の女と遊びに耽る。そしてそれに対する苛立ちで、カズくんへの異存が更に強くなる。悪循環ってこういうことなのかな。
カズくんって優しいから、多少鬱陶しくても本気で拒否してこないしね。だからこそぬるま湯なんだけど、それにつけこんで私はどんどん彼と一緒にいる時間が増えていく。
まるで、私がカズくんの彼女だと勘違いしそうなほど。
そんな勘違いをしかけていた頃。天皇杯の初戦勝利を告げる笛が鳴り、スタンドを振り返った私は見覚えのある顔を見た気がした。
それは何だか嫌なところで見た気がして、確信は持てないけど、彼氏がホテルから出てきた時に見た顔だとしか思えなくなってしまった。
そして、試合後に半行方不明になったカズくんを探しに行ったときに、私は彼女を見た。サッカーの試合会場にいるには少しお洒落しすぎな格好に見えたし、彼女はここにいるには不自然な気がしてしまった。
196:以下、
会釈をして私とすれ違う彼女からは、腹立たしいくらいに余裕を感じる。
ベンチから遠目で見た感じと少し印象が違うけど、彼女がカズくんのことを意識してるのはすぐに分かった。
そして、それから私はカズくんへの依存が強まっていく。
私のものではないのに、奪われるって思っちゃったんだよね。彼氏ではないけど、もはやカズくんは私にはいなければ困る存在だったもの。
嫉妬なのか、それとも別の感情なのか分からないけど、彼女にカズくんを譲りたくなかった。
カズくんまでいなくなったら、私は誰に頼って良いのか分からないから。
練習が終わるといつも何かに誘ったし、ヒロ兄が彼女候補と予定がある日でも私はカズくんと一緒にご飯にいったり、遊びに行ったりした。
197:以下、
カズくんも家に行きたいって要望以外は大体叶えてくれたしね。
辛いときは優しくしてくれて、気も使ってくれて。酷い言い方かもしれないけど、彼は私にとって本当に都合が良かった。
カズくんの存在で、私は心の安寧を得ていたのに、私はまたも見たくもない光景を目にする。
彼がホテルから出てきた時に連れていた女は、カズくんと仲睦まじく話していたあの女だった。
練習場と駅の間にホテル街があるせいで、私は偶然にも傷つけられてしまった。
そっか、彼は性欲が満たされるなら、私以外の女とも平気で寝るんだよね。それで私が傷つけられるなんて、お構いなしに。
そっか、それなら私も同じことをしてやろう。
他の男と寝る痛みを彼氏に、好きな相手を他の人に奪われる痛みをあの女に教えてやろう。
200:以下、
それまでは心地いい逃げ道だったカズくんを狙うのは、自分で自分の首を絞めるようなものだった。
でも、それをしないことには私の復讐は達成できない。
自分が苦しんででも、私が感じた辛さを二人にも感じさせたかったの。歪んでるよね。
私がそんな風に苦しむ決心をしていても、カズくんは中々私を受け入れてくれなかった。遊んではくれるけど、そういう空気にはならないし、手を出そうともしてこない。
あの女より魅力が無いから、カズくんは私に何もしてこないのかな。
そのコンプレックスは焦りへと変わり、あの雨の日へと繋がる。
201:以下、
カズくんは頑なに「彼女じゃない」とは言ってるけど、お互いがお互いに気にかけているのは外から見ているとすぐに分かる。
このままだと私は逃げ場を失うどころか、カズくんにまで否定されてしまう。
何よりもそれを怖がった私は、大雨という幸運の手助けを口実にホテルへ誘った。
あんなに直接誘うつもりはなかったのに。
私のワガママな誘いに彼が乗るはずもなくて、そんなの心のどこかで分かっていたはずなのに落ち込んじゃって、逆ギレして捨て台詞を残して。
幻滅されちゃったよね。
カズくんが、彼氏みたいに性欲を満たすために誰とでも寝るような男だったらよかったのに。それなら、私の復讐はあっさり叶えられたのに。
202:以下、
カズくんを使って復讐しようとしてる私が悪いっていうのは分かってる。でも、カズくんに八つ当たりみたいな怒りを持たないことには、私は耐えられそうになかった。
悪いのは私じゃなくて、誘いに乗ってこない意気地無しのカズくん。あの女と付き合ってるわけじゃなかったら、私に手を出しても何の問題もないじゃない。
私はカズくんに逃げることすらできなくなって、更に復讐にも失敗しちゃった。
それからはずっとカズくんとは会話も出来ないし、彼氏にも会う回数は減っていった。最近はイライラしてるみたいで、会ったら喧嘩しちゃいそうな気がするし都合が良いって言えば都合がいいのかな。
イライラとモヤモヤが重なりに重なって、天皇杯予選の決勝を迎えた。
203:以下、
感情としてはそんなのでも、試合は試合だ。
ヒロ兄の美人な彼女候補は、今日は来ないらしい。雨だしね、いつもいつも来るわけにはいかないだろう。
彼女を初めて見た時は、あんまり美人なものだから芸能人かモデルかと思った。何か見覚えあるなーって気がして見てると、売れてる女優に似てるのかなって。腐っても元Jリーガーのブランドは強いんだろうね、あんな美人を捕まえるなんて。
彼女が来ないからってヒロ兄のモチベーションが低いわけでもなく、カズくんもあの雨で風邪をひくことなくスタメンとして普通にプレーをしていて安心した。
自意識過剰かもしれないけど、私があんなことを言っちゃったせいでメンタルに変な影響を与えてしまってるんじゃないかって気になってたから。
204:以下、
格上の相手に善戦をしている。
当初のゲームプランとは違うけど、あれだけ攻められた前半を一失点で乗りきったのは大きい。
ハーフタイムを迎えると、私は選手に声をかけながら給水ボトルやタオルを配る。カズくんにも渡そうと思ったけど、ベンチにいた控えの選手が渡してしまってたし、渡すものもないのに声をかけられるような雰囲気でもなくなってる私は、黙って彼を見ていた。
勝利には得点が必要だけど、点をとるための手段が見つからない。皆が悩んでいるなか、ヒロ兄はカズくんを起点にしようと提案した。
ヒロ兄、本当にカズくんのことを買っている。家でもよく「あいつはあの自己評価の低ささえ無くなればもっと良い選手になれるのに」って言ってるし。「今はまだ俺より下手かもしれないけど、そのうち絶対俺より良い選手になれるよ」とも。
ヒロ兄だけじゃない、チームメイトもカズくんのことを評価している。だからこそ予選初戦で急なフォワードへのポジションチェンジや、今日の戦術だって反論しないわけだし。
いじられキャラなのは、愛されてるからなのかな。
とにかく、カズくんは後半からは試合の主役に決まった。
205:以下、
そして、彼はその期待に応える。まるでヒーローみたいに。
一点目はカズくん以上にシュートを決めた人が目立つスーパーゴールだったけど、二点目は圧巻だった。
あのシーンでのドリブルを読める人はそうそういない。カズくんはそれまでドリブルを封印していたし、こんな雨の日に勝負を仕掛けられるのはよっぽどのテクニシャンだけだ。
カズくんもテクニックはある方だし普通にドリブルしてもいいはずなんだけど、怯えるようにパス、パスの選択だった。それがヒロ兄も言ってた自己評価の低さでもあるんだろうけど。「自分がドリブルしても取られちゃう」ってね。
だから、あのシーンでカズくんがドリブルを仕掛けたのは意外だった。何であそこで勝負したのか分からないけど、でもそれは結果に繋がった。
汚いゴールだったけど、価千金だ。
喜びの輪は崩れていき、カズくんはスタンドに向かって拳を突き上げた。珍しい、いつもはハイタッチとかハグはしても、スタンドの観客へパフォーマンスをすることは滅多にない。
決勝の価値あるゴールだから、テンションが上がってるのかな。
それが私の勘違いだと知ったのは、試合を終えた後だった。
206:以下、
チームメイトと喜ぶのもそこそこに、彼はスタンドに向かっていく。
それを目で追いかけると、奥にはこんな雨の日に麦わら帽子を被った女が見えた。
雨で視界はよくないけど、あの女だってすぐに分かった。
大きな声で会話をしてるから、こっちまで内容がきこえてくる。聞いてるこっちが恥ずかしくなるようなやり取り。なのに、少し羨ましいとすら感じちゃう。
私はあんたのせいでこんなに傷ついているのに、何でそんなにカズくんと仲良く楽しそうなの。
ズルいよ、何で、私だけが傷つくの、ねぇ、何で?
ヒロ兄がカズくんを呼びに行くと、彼は後でスタンドに行くと告げていた。
あんな女の幸せなんて、私が崩してやる。
207:以下、
彼女の頬を叩いた私は、そのまま勢いで彼女を罵倒する。
「そんなに人の男とヤるのが楽しい? ねえ、私の彼氏じゃ満足できないからカズくんにも? 答えなさいよ!」
そのままもう一度手を振り上げた時に、困惑した顔のカズくんが私の手を止めた。
「な、何か分からないけどさ、落ち着けよ」
彼の言葉は私という火に油を注ぐようなもので、私は流れで彼に向かって叫ぶ。
「カズくんもカズくんだよ! こんなビッチにデレデレしちゃって! カズくんだって、飽きられたら捨てられちゃうんだよ!」
何の考えも無しに言葉は流れていく。
そして言葉と一緒に、目からは涙が流れていく。
「ズルいよ、私だって幸せになりたいよ!」
どうしようもなく惨めさを感じた私は、その言葉だけ残すとカズくんの腕を振り払い、走って逃げ出した。
これでもう、本当に逃げられるところなんて無くなったのに。
208:以下、
言葉の意味を理解するまで、私は身動きがとれなかった。
状況が状況過ぎて、私は何も分からないまま目の前から聞こえる言葉を拾っていく。
カズヤは戸惑った声色で彼女を制しているみたいだけど、それも振りきって叫んだ彼女はそのまま走って私の前から消えた。
彼氏と寝た? えっ?
それってつまり、あの女の子がアキラの彼女ってこと?
そういうこととしか思えないけど、それにしてもそれにしてもだ。カズヤの件といい、世間って狭すぎる。
「だ、大丈夫……?」
相変わらず戸惑ったままのカズヤは私に声をかけてきた。大丈夫……ではない、たぶん。
「えっと……」
お互いに何て言って良いのか分からなくて、さっきとは違う気まずい沈黙。
「とりあえず……帰るね……」
それが今の最善策としか思えなかった。私も混乱しているのに、彼に話せることなんて何もない。
「気を付けて」と、彼は言った。
もう既に痛い目にあったのに、何に気を付ければ良いんだろう。
211:以下、
家に帰りついた私は、濡れた体をシャワーで暖める。
あの子がアキラの彼女?
その疑問だけが頭の中をぐるぐると回る。アキラって、特定の女を作るような人だったんだ。それでも私を抱くあたり彼もクズだよね……類は友を呼ぶって言うけど、私と似た者同士ってことかな。
頬の痛みはもうないけど、胸の痛みは取れなかった。でもそれは、アキラや彼女に対する怨みのせいじゃなくて。
きっとカズヤに幻滅されたであろうという現実が、私には辛かった。
夢も情熱もなくて、だらだらと風俗を続けて、ホストに貢いで人の彼氏と寝るような私。
現実に引き戻された気がする。私と彼は、生きる世界が違うという現実に。
214:以下、
試合中にあんなことをしてくれたり、話しかけに来てくれたりで勘違いをしていたけど、彼と私の間には壁がある。
スタンドとグラウンドを分ける柵なんてものじゃない。私が立ってる暗い場所からは、彼のいる明るい場所へは辿り着ける気もしない。
勝手に私が仲良くなった気がして、勝手に私が落ち込んでる。別に、私とカズヤが親くなったわけでもないのに。
変わりたい、変わらなきゃって思いだけでは変われなくて、そのタイミングを私は逃してしまった。
だから、クズのままでいる私に神様が罰を与えたのかな。
シャワーで体は流せても、私の罪は洗うことができない。これからどうしようかということすら決められず、私は声もあげずに涙を流した。
215:以下、
>>213
sagaっていうのが何か分かってなかったんですが、これで大丈夫ですか?
お早いご指摘ありがとうございます。
216:以下、
プロをクビになってから、ここまで本気でサッカーを続けるとは思ってなかった。
県リーグなんかJFLですらないし、今までみたいにお金をもらえるわけでもない。
ただ、クビになったからといってそのままサッカー自体を止める踏ん切りもつかなくて、遊び感覚で入ったつもりだったんだ。
そんなところに、カズはいた。
特別、上手い訳じゃなかった。経歴を聞いても全国的には名もない地方の高校でサッカーをしていたらしいし。中学時代に県トレに入り、高校では県ベスト8。
218:以下、

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