戦国時代のトリビアback

戦国時代のトリビア


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2:
実際に出たトリビア
愛の兜をしてた戦国武将がいた
4:
豊臣秀吉は
指が6本ある。
5:
豊臣秀吉は
生まれにコンプレックスがあり、晩年には「俺の母親は、天皇の寵愛をうけて俺を産み落とした」と、起きたまま寝言を言っていた。
12:
伊達政宗という
小惑星がある
194:
>>12のネタに被るけど…。小惑星の中には伊達政宗の正室の名を冠した物もある。
有名だけど対になる話なので。一応補足すれば伊達政宗とめごを名付けたのは同じ人。
13:
真田幸隆は
実は幸綱が正しい
15:
浅井長政は徳川家光の祖父。
ホント
16:
>>15
今川氏真の祖父は武田信虎
いろいろある。
17:
逃げる時、怖すぎて
脱糞した天下人がいる
29:
>>17
しかもその屈辱を晩年まで忘れないために、絵師に描かせたというのは、
 
大河ドラマ作中で紹介されちゃった超有名な話
19:
武田には
武田信長という武将がいた
21:
武田二十四将は
一堂に会したことがない
61:
>>21
三国志の蜀の五虎将みたいなもんかw
64:
>>61
単に機会がなかったと言うことではなく
一番年上と一番年下では半世紀差があるとか
22:
宮本武蔵は
関ヶ原の戦いに西軍として参加していた
23:
武田信玄は
明治の板垣退助と親戚である。
25:
北条早雲は
一度も自分のことを「北条早雲」と名乗ったことはない。
26:
四天王と呼ばれているのに
五人もいる戦国武将たちがいる
30:
上杉家の主要財源は
他国で狩った奴隷売却利益
31:
徳川家康が描かせたという例の絵は
 
三方が原のかなり後(家康の死後かもしれない)に描かれたものである。
根拠:冬なのに、裸足で草鞋を履いているのは不自然。
 ポーズが半跏思惟、神となった家康を後世に描いたものである
 可能性が高い。
34:
宇佐美定満は
溺死
35:
家康と於愛(秀忠の母)は、血の繋がりのない従兄弟
37:
俺からも一つ
服部半蔵は
松尾芭蕉かもしれない
38:
豊臣秀頼は実際は
石田三成の子供。女好きで多くの側室を持っていた秀吉に子供が出来なかったのは種が悪かったから。それなのに茶々に子供が出来たのは三成が豊臣家の事を思い跡取りを作る為に親しい間柄にあった茶々とねたから。
40:
>>38
大河厨の妄想か…
39:
秀吉の実子じゃない類は三成説よりも
大野治長説の方がどっちかってと有力
42:
太りすぎて
馬に乗れず逃げ遅れ、討ち死にした部将がいる
45:
>>42
該当人物が有名ドコロで二人いるな。
48:
>>45
東海一の弓取りと肥前のクマーッ!さん?
46:
丹波八上城攻めにおいて明智光秀の母が磔にされたというのは
ガセ
47:
大阪の夏の陣で、
伊達政宗は手柄のために味方を一斉射撃した。
言い訳は、「伊達の兵法に敵味方の区別はない」
49:
>>47
凄い言い訳wwwww
56:
松永久秀は蟋蟀マニア
57:
武田信玄は浮気したことを詫びる手紙を男の出したことがある
58:
尼子経久はケチなクセして
人に物をあげる癖がある
59:
徳川家康はケチなクセして
お金を使うときは半端ない使い方をする
62:
山本勘助は
実は素晴らしい剣豪だった。十数名に囲まれ切り捨てた。
63:
今川義元は信長飛躍の踏み台が如き扱いになっているが
優秀な人物で、海道一の弓取りとまでいわれた傑物であった
71:
宮本武蔵は
島原の乱で 名 も 無 き 農 民 に大怪我を負わされた。
72:
戦国時代に八十四歳で
子供をつくった坊さんがいる。
本願寺の法主で名は蓮如。十三男十四女の子だくさんであった。
生涯で五回結婚(次々に妻が死んだため)し、最後の子が産まれた二ヶ月後に死亡。
石山合戦で織田信長と争った本願寺法主顕如は彼の孫の孫である。
73:
これは事実!  みなさんがよく眼にする、聖徳太子の絵は、本人の絵ではない!  源 頼朝のよくみる絵も、本人じゃない!  足利尊氏の絵も(馬に乗っている絵)も本人じゃない
74:
武田信玄の肖像画(ハゲ頭の絵)も本人じゃない!正確には、畠山義継ってヤツらしい
75:
鎌倉幕府の創立は1192年と、誰でも知ってるこれも正確じゃないらしい! 本当は1185?1189年の間らしい。正確な年は分からないが1192が違うのは事実らしい
83:
山県昌景は
身長130cmの小男でしかも兎口症
これくらいは戦国好きなら常識だが
穴山梅雪は
鼻がなかった。
85:
武田信玄と高坂 昌信(弾上)が、できてたのは有名な話。信玄から昌信宛ての恋文もある。それを見た信玄の奥方は激怒したとか…
87:
家康の嫡男・信康の妻(名前忘れた!)と、家康の妻で姑の瀬名と、もの凄く仲が悪かったらしく、信康とも不仲になり、妻が自分の父・信長に信康と瀬名が武田家に通じてるとデマを言って、それを信じた信長は激怒して家康に二人を殺させたらしい
91:
>>87
信康母子殺害は
家康主導だった。
92:
ルイス・フロイス等が書いたとされる、信長の超リアルな水彩画がある。 俺、その絵を見て驚いた!男前。ヒゲは長くて、頬はこけてて、鼻は高く、顔長若い時の役所光司に似てた
93:
秀吉は優秀なエンジニアである。秀吉が生まれた集落は優秀な技術者たちが集う村だった。墨俣一夜城の時地元民の技術者たちと通じていたからこそ実現できた日本で初の下水道を作ったのも彼だし、四畳半一間という和室の定番な形を考えたのも彼が最初。
104:
村上義清と斯波義統は
血のつながった従兄弟
109:
織田信長は 
痔であった
116:
津軽為信と南部家は決別したが
いまもなお影響しているらしい。南部地方の人は同県のローカルではなく山形どすこい?ずんどこ?山形なんとかテレビを見てるらしい
120:
オノ・ヨーコは戦国大名大友家臣小野鎮幸の子孫
122:
家康が糞漏らしたときに乗ってた馬はその後糞雲と名付けられて家康の愛馬となった
123:
静岡県袋井市にある可垂寺には、家康が隠れたとされる穴、通称六文字穴がある。
夜中に灯りを持たずに入ると大変な事になる。
トリビアでは無いが一応。
124:
>>123
大変な事って何だろう…
127:
>>124
出口がわからないんだ。マジで。
128:
今川義元は
桶狭間の戦いで討たれる直前はかなり抵抗してた。
補足、義元は服部小平太に切りかかれるも逆に脚部を切った、そして毛利新助と
乱闘になるが遂に討たれるまた義元は乱闘の間に新助の人差し指を噛み千切るほど
抵抗してたそうだ。
136:
光秀や吉良は
地元じゃ名君とよばれているらしい
二人の地元がどこだかしらんけど
137:
信玄の隠し湯とよく言われる石和温泉は
実は明治時代以降の発見
164:
>>137石和温泉は、信玄の隠し湯じゃないよ。信玄の隠し湯は、積翠寺温泉、 湯村温泉、下部温泉、川浦温泉、増富温泉です。
138:
長宗我部は海賊だった
141:
豊臣軍の真田幸村は実は真田信繁っていう名前らしい。
武田信玄に名付けられ、生きている間は一度も幸村と名乗ってない。
142:
トリビアというほどでもないが
剣豪・塚原卜伝、上泉伊勢守が戦場で主に使っていた武器は槍
剣豪・宮本武蔵を倒した時の武器は単なる石
143:
後藤又兵衛はキリシタン
154:
家康は戦場で
蒔絵の超豪華なおまるを献上された事がある。
155:
凄い嫌味だな。
156:
朝倉宗滴は
織田信長の台頭を予言していた
詳細:彼の発言を家臣がまとめた「朝倉宗滴話記」に
「織田上総介の行く末をもう少し見届けたい」と言ったような事が記されている
159:
武田信虎は
信玄よりも長生きした
162:
お市の方は
実は信長の妹じゃない
165:
戦国時代の武将は…
親子みたいに年が離れてる兄弟が多々いる
172:
>>165
家康の曾孫には
家康の子供より年長の者がいる
167:
戦国時代からはズレるけど
楠木正成と観阿弥は
叔父と甥
※「観世系図」によると観阿弥の母は河内の橘正遠の娘となっている
これまでの研究で楠木正成の父が正遠と名乗っていたらしきことと、楠木氏の本姓が橘氏であったことが明らかになっている
168:
>>167
板違いなネタだけど10へぇ
176:
戦国時代、織田信長に陣中で使用するトイレが献上された。それはかなり豪華なもので
見事な絵が描かれており、金箔も使用されていた。
後日、そのことを聞いた者が同じような物を徳川家康に献上した。
しかし、家康は「糞が絵を見るか!!」と言って破壊してしまった。
213:
>>176
家康かっこいいw
215:
>>176
家康に糞の話題はタブーだったんだろうな
177:
豊臣秀頼は
身長:190cm、体重:160kgの、贅肉ボブサップだった。
(かまぼこ大好きっ子で、その体格から馬にも乗れず刀も脇の肉がジャマで振れなかったとか)
178:
明治の外務大臣陸奥宗光は
伊達政宗の子孫である
184:
江戸時代、尾張徳川藩主の中で何人かは
石田三成の子孫。
三成の曾々孫あたりが、徳川家光の側室のお振の方。
そのお振の方の娘が尾張の二代藩主に嫁いで三人ぐらい男子つくってる。
その男子の家系が宗春まで続いてる。
187:
上杉景信は
天然痘にかかっていた
190:
信長は
自分の息子に自分の父親の名をつけた
191:
>>190
信長が死んだとき、息子の信秀はまだ12歳だから元服前じゃないの?
192:
西軍の総大将は石田三成ではなく毛利輝元。
193:
今川義元と北条氏康は、又従兄弟
氏康の祖父は早雲であるが、その妹である北川殿が今川氏親を産み、氏親の3男として義元が生まれたため。
195:
豊臣秀頼は二人いる
羽柴秀頼と毛利秀頼(後者が豊臣姓を拝領したため)
196:
191。
信長の息子は信忠では?
197:
>>196
信忠・信雄・信考・秀勝(秀吉養子)・勝長・ 信秀・信高・信吉・信貞・信好・長次・信正 な
199:
石高だけなら豊臣秀吉在世時既に徳川家康は天下人。
204:
よく戦国武将が?升の酒を呑んだって文献が在るが昔の日本酒はアルコール度数がビールと同じく5?程度だったので大量に呑めた。
210:
日本で誕生日に祝うのを定例化したのは信長ってのは本当?
ナイフとスプーンを信長が愛用していたのは聞いた事あるんだが…
ってここは質問スレじゃないな
220:
>>210
ナイフとスプーン使って16世紀の日本で何食うの?
味噌汁?タクアン?
211:
まぁ、松永がクリスマス休戦してるぐらいだからあるんじゃね?
214:
スネ夫やイヤミ、999号の車掌さんの声でおなじみの肝属兼太は、
大隅地方、島津と激戦を繰り広げた戦国武将、肝属氏の嫡流嫡子。
216:
>陣中で使用するトイレ
戦国の脱糞公に対して失礼だよなw
神君だったらその場でちびるっつ?のww
217:
信玄も厠の逸話持ってたな
謙信は言うまでもない
218:
戦国後期から始まった城の天主の建造。
後にも先にもこの天主で実際に生活した城主は安土城の信長だけ。
222:
糞の話が・・そのついでに
加藤清正は厠に入ると一刻以上出てこなかった
ひどい「ぢ」だった
225:
毒針で穴だらけになった饅頭を、それと知りつつ食べた清正公。
朝鮮の王子に神様として崇められたりしたな。
熊本のもんはwe love清正だ。
細川?何すかそれ?
ヽ(´ー`)ノ
清正公にお預かりしますとお参りして藩主になった人たちだろ。
229:
>>225
毒針で穴だらけ饅頭の話もうすこし詳しく聞きたい。お願いします
230:
・加藤清正は城に精通していたが、関が原合戦の際
 主力を欠いた小西行景(行長の弟)の守る宇土城を落とせなかった
・しゃぼん玉の名付け親は石田三成
・戦国時代では合戦のとき基本的に馬から降りて戦っていた
231:
第1ヒント:Google
第2ヒント:毒まんじゅう wikipedia
232:
戦国時代に
火縄銃を使って自殺した武将がいる
235:
池田和泉守。
荒木村重の家来で、頭をぶち抜いて自害したんだと。
勇気あるのか、チキンなのかよくわからん武将だなw
236:
伊達政宗は、健康のため、
規則正しく1日3回、朝昼晩
タバコを吸っていたwwwwww。
237:
もう2つ
明智光秀は、山崎の合戦の直前、
緊張のあまり、チマキを竹の皮ごと口に入れ
噛み切れないのにも気がつかなかった。
国宝「洛中洛外図」は
信長から謙信に送られたもの。
手取川の合戦以外は、そうとうに親密な関係にあった。
?おまけ?
上杉家(謙信時代)の収入源の中で
大きな割合を占めるのは、
港、関所、産物(塩、米など)に付けた
「取引税」
238:
少なくとも光秀のは創作
しかもそれは本能寺の変の直前であり
皮ごと食ったのもてんぱってたからではなく
はやる気を抑えるためとされている
240:
赤揃えで有名な山県昌景は身長130くらいしかなかった。
戦国でもかなり低い。
241:
>>240
小学生かよw
でもそんくらいじゃ当時の馬との相性抜群じゃん、
やっぱ武田の騎馬隊はあったかな?
242:
>>241
なかったと主張してるひともいるな。
論文よんだことないが・・・
俺としては、馬で単騎突っ込み大量の銃弾浴びてて落馬、死んだあとも采配を口にくわえたままだった。というエピソードが好きだった。
赤揃えは、後に井伊や真田も影響受けてるから、小さくても戦闘力高いオヤジだった。
243:
フロイスが本国に送った手紙に
「日本では戦う時には馬を下りる。
 日本の馬はほとんどがポニーで、体高120?130cmほどしかない」
と書かれている。
実際、戦場外れに「馬溜り」というものがあってそこに集められていた。
国産馬は山県昌景にはちょうどピッタリのサイズ。
244:
>>243
念の為突っ込んでおくと
フロイスは、馬上戦闘の技術と習慣が無い西国武将しか見たことが無い上、
体長120?130のポニーは一般的な西洋騎士の騎馬と同レベル。
西洋騎士はあの程度の馬でプレートメイルランス突撃できてる。
山県なんて余裕だったはず。
245:
西洋のランスナイトの実態は分からないが、
武田騎馬隊を検証する番組で、体高(ちなみに肩の高さ)125cm前後のポニー数頭集めて
155cmの男性に35kgの錘をつけて走らせたら、100?150mでどの馬も
動かなくなってしまった。
騎馬突撃はムリだったんじゃないか?
という結論だったと記憶している。
当時西洋の馬は平均150cmだったと思うが
246:
>>245
> 武田騎馬隊を検証する番組で、体高(ちなみに肩の高さ)125cm前後のポニー数頭集めて
> 155cmの男性に35kgの錘をつけて走らせたら、100?150mでどの馬も
> 動かなくなってしまった。
当たり前だ。どんな種類でも訓練を受けていない馬がいきなりそんなことが出来るか。
きちんと戦闘用の調教を受けて初めて軍馬になる。
247:
至極真っ当な意見だな
252:
比叡山焼き討ちで5000?10000人を粛清した信長。
その感想を「誠に気を散じ候」(スゲーすっきりした)と手紙に書く。
どんだけだよ・・・
258:
騎馬隊で有名な武田軍であるが
全兵力における騎馬の割合は北条軍の方が多かった。
各家の着到状の比較で
264:
>>258みないのでいいなら、長篠の合戦時、実は信長より家康の方が鉄砲を
持っていた。
259:
越後の竜
甲斐の虎
でもって、北条氏康は相模の獅子っていうらしいよ。
覇王伝の武将ファイルに載ってた。
一般的かどうか知らん。
361:
>>259
亀だが。
印章においては
その三家が入れ替わっている
(武田氏の龍印・上杉氏の獅子印・北条氏の虎印)
261:
大阪の陣の開戦理由の一つとして上げられ、一般に、徳川によるこじつけ、とされる
「国家安康」「君臣豊楽」
実際は、撰文者である文英清韓が、まさに幕府が問題視した内容そのままに、意図的に織り込んだもの。
清韓自身が弁明書で証言していたりする(『摂戦実録』)
262:
>>261
それ、その二つがでかでかと書かれた鐘を想像してたら何百字もびっちり彫り込まれた
文章のうちのたった八文字で噴いた覚えがある
263:
あげるぞー
みんなトリビアだすんだ!
戦国時代の農民は、搾取されてるイメージがあるが、実は超狂暴な存在。
農閑期にはいくさにアルバイト的にかかわり、敵国の住人を殺戮しまわった。
落武者狩りの凄まじさ
自軍からはぐれた武将が、農家を見つけ水と食べ物を貰う、よくありそうな話だが、実際はありえないらしい。
戦国時代の農民は決してカワイソウナ存在ではなかった。
264:
>>263
まあ、たくましく生きなきゃいけない時代だしな。
上に立つ大名も選んだとも言われている。
268:
大阪冬の陣の講和条約。内堀を埋めるのもちゃんと条件に入っていた。豊臣が他も別に抗議していない。
270:
>>268
あれ「そうぼり」ってかいてあって
大坂方は「惣堀(外堀のこと)」と解釈して
大阪城の外堀ってほとんど天然の川利用してるし
これはうめられないだろうからいいやっておもったけど
徳川は「総堀(すべての堀)」って解釈できるだろ?ってやって埋めたという
偉大なる神君の知略の勝利って習ったけど違うの?
273:
>>270
最初っから全ての堀を埋めると言う話になってる。
内堀埋めるとき豊臣方も抗議していない、どころか、豊臣方からも工夫出してる。
277:
>>273
堀埋めについては、誓約状に書かれてないし、大阪側の資料も無いと思ったけど……
…元ネタはナニかな?
279:
>>277
吉川弘文堂から出てる、笠谷和比古の「関ヶ原合戦と大坂の陣」に書いてあるよ。
280:
>>279
笠谷和比古って、東日流外三郡誌に真作鑑定書出された方ですよね、、、、、
もし本をお持ちなら、その話の根拠になる一次資料書かれているとおもうので、
よければちょっと引用していただけませんか?
295:
>>280
確認したが、こういうこと。
1:細川家と浅野家の、国元に送った書状に「講和条件としての堀埋め立ては内堀まで全て」と、明確に
書かれていること。
2:実際に埋め立ての作業をしていた大名のどんな記録にも、内堀の埋め立てに関しての、豊臣家からの
抗議があったと言う記録がないこと(櫓などの破壊についての抗議の記録は残っているのに)
3:巷説に、抗議する間もなくあっという間に埋め立てられたと言われる内堀の埋め立てだが、
実際この埋め立ては、内堀だけで一ヵ月半かかっており、もしこれが講和条件違反なら、その間に
豊臣家から抗議なり妨害なりが無いとおかしい事。(櫓の破壊ではやっている)
さらにいえば、「徳川による講和違反」という説の根拠になっている大阪の陣覚書などは全て、この時代より後世に
書かれたものであり、一次資料ではない。そして一次資料にはこれを講和違反とするものは一つもない。
よって、大阪城の内堀を埋めたのが徳川の謀略と言うのは後世の創作である。
297:
>>295
ありがとうございます!
1)は徳川の普請の割り当てだから微妙としても、
2)3)(二の丸の堀を千貫櫓と織田有楽、大野治長の屋敷を壊しでうめた)は確かにそうですよね。
納得しました。
269:
信長の有名な「天下布武」
じつはこの「天下」の範囲、畿内周辺に限られたものだった。
その証拠に信長、六角や三好を追い払った時点で、「天下静謐」を宣言している。
300:
毛利元就の謀略により、内通の噂を流され、陶晴賢に殺されたとされる江良房栄。
実は本当に元就と通じていた。
302:
永禄十二年、フロイスが信長にバナナを献上。これが日本で最も古いバナナの記録。
303:
信長がやったことで有名な比叡山焼き討ち
実は信長の前に、足利義教と細川政元もやっている。
京の治安維持上必要があった場合、比叡山などの宗教勢力を攻める事は、
室町幕府の権能の一つとして、認められていたものらしい。
アレを信長の無神論とか政教分離とかにつなげるのは、完全な過大評価であろう。
ついでに信長は、幕府の官職に付かずに天下をコントロールしようとした事など、細川政元の施策を
真似していた節がある。
304:
通説に、古代中国、周の故事に習い、信長が天下統一の意思を込めて命名したと言われる『岐阜』
実は、「木曽川のほとり」と言う意味の地名。しかも信長以前から呼ばれていた。
305:
大坂城の堀埋めの話。
大坂城で、秀吉が家康と酒宴を行なった時。
秀吉は上機嫌で「この城は誰にも落とせん」と言った。
家康「では殿下でも無理ですか?」
秀吉「わしならすぐ落とせる」
家康「ほう!それはどのようにして?」
秀吉「それはな、・・・・・・・・」
堀を全部生めて丸裸にするのはこの時の話から。
家康は後に大坂の陣に関して「太閤こそ我が師匠だ」と語った。
307:
島津は、鉄砲を武将クラスが持ち、馬上から発射する戦法をとっていた。
308:
有名な、山内一豊の妻の、名馬をへそくりで買ったという美談
この逸話を「藩翰譜」の中で紹介したのは新井白石だが、白石自身このエピソードの最後に、
「本当かねえ?」と書き、真偽を疑っている。
309:
>>308
当時の一豊の知行は400石=今の金に換算して年収4000万円。
へそくりは約100万円。
事実は貧乏で買えないのではなく、将達の中に混じっても目立つための小道具に苦慮していた一豊に、
ちよがへそくりをプラスして南蛮の時計を買ってあげた。
一豊は馬揃えの日、首から時計を提げて、信長の目を引いた。
310:
でも武士の知行って本人丸取りじゃなくて
部下の給与もそこから払うわけだから貧乏ではあったんじゃないの?
314:
戦国時代は、諸外国から見れば、無政府ソマリア状態(政府や国主はあるが、あって無きが如く)
江戸時代は、諸外国から見れば、軍事ミャンマー政府状態(天皇軟禁)
317:
戦国最強は首切り茂吉と言う農民だったらしい。
17歳から戦場で戦い、57歳までの間に40数度の闘いに出て居る。
槍も刀も貸し出し品は一切手にせず、鎌一つで戦ったと記録に有る。鎌一つで一度の戦で7人を殺したとも言われてる。
あまりの残虐性と強さのため武将達から「首切り茂吉」と言われていた。
高禄で召し抱えたいと申し出た織田信長を前に、あさりと断り、年貢を免除して貰いたいと願い出た。
自分の申し出を断られ激怒した信長は斬りかかるも、茂吉は信長相手に蹴りを入れて倒して「やるならやんぞ!!」と
怒鳴りあげたと言われている。
その後信長の領地で唯一年貢を免除された男として首切り茂吉は有名である。
かの秀吉も茂吉を召し抱えようとするも「秋だし狩ろうかな」と言われて引き下がったと言われている。
なぜ茂吉が首切り茂吉と言われるか、その自宅には今まで倒した男達の首が置かれており、その数は500を超えていたと言う。
一体人知れずこの男はどれだけの戦功をあげていたのだろうかと織田家中では伝説的な農民であった。
40数度の戦に出て、生き延びた首切り茂吉。有名ではないがまさに最強であり多数の戦をした男である。
57歳の時、ついに茂吉は関ヶ原にて可児才蔵との激戦の末、首を打たれたと言う。
319:
>>317
>秋だし狩ろうかな
どこのホラー映画だよw
320:
>>317
>ついに茂吉は関ヶ原にて可児才蔵との激戦の末、首を打たれたと言う。
じゃあ可児才蔵が最強じゃねーか
341:
>>320
ちょww
342:
>>317
TUEEEEEEwwwww
323:
戦国時代の最近否定された説
・応仁の乱の原因は日野富子の策謀
・素浪人北条早雲
・桶狭間は奇襲
・長篠の鉄砲三段撃ち
・本能寺陰謀論
・賤ヶ岳の敗因は佐久間
・三成が家康の下に逃げ込んだ
・方広寺鐘銘事件は無理やりの難癖
・大阪城内堀埋め立ては徳川の陰謀
こんなところか?
333:
>>323
上杉謙信男性説
324:
早雲素浪人説ははなからなかったっぽくないか?
伊勢新九郎であることも今川の奥さんと親類だったのも
昔から知られてたから
道三二人いた説のほうが最近じゃない?
でもこれだと今まで知られてた道三は
親父の築いたものを馬鹿やって潰しただけの男になってしまいロマンがないよねぇ
ロマンで歴史語っちゃいかんのだろうけど。
徒手空拳から成りあがった奴は戦国時代でもいないってのも厳しい現実だよね
ある程度の生まれ持った門地や血筋やバックアップは絶対必要ってことも
秀吉も農民としては金持ちの名士の出だったし
幕末の伊藤山縣ぐらいか例外は
339:
>>324
ならば下克上で有名組で本当に一代で成り上がったのは松永弾正だけか
ますますあいつすげーんだなってかんじだ
332:
あまりに身分不相応な出世の仕方をしたって逸話は大抵江戸時代の創作だな。
秀吉子飼いはまた別だろうが。
335:
>>332
堀尾さんは稲葉山城功略戦で秀吉を裏口に案内した
地元の猟師の息子という根も葉もない説を
中学の頃習ったよ。学校で。
334:
そういえば明智光秀が野心家の奸臣ってフロイスの評論は、結構広まってるけど、
同じフロイスの
> 堺の代官になった彼の伴侶は佐吉殿(石田三成)と称する関白殿の家臣であり、関白の暴政を
> 快しとしないジョウチン(小西立佐)の大敵でもあり、キリシタンの敵でもあって、嫉妬深く、野心家で
> 傲慢であり、その他においても悪徳に満ちた人物である。
この三成評はあまり知られてないな。
338:
キリスト教に好意的なのにこんな人もいるぞ
> 老三ヶ(頼照)殿の息子マンショ(頼連)は、はじめ伊予の国で、関白の甥にあたる
> きわめて残忍な性格の男(福島正則)とともにいた。この男は、ごく些細な理由でマンショを朝鮮で
> 殺そうとしたことがある。そのため彼はこの男の許から身を引き、アゴスチイノ津の守殿に仕え、
> 剃髪して彼とともに日本に帰った。その妻子は伊予国に残っており、かの残忍な男は、
> もとより彼らを皆殺しにするように命じていたから、マンショは密かに伊予に赴き、夜分、
> 気づかれることなく妻子を乗船させ、無事に連れ戻すことが出来た。暴君の家来たちは、
> ただちにマンショの後を追ったがマンショらは巧みに敵の目をくらまし身を隠したので、
> 発見されずにすんだ。
340:
一代の成り上がりレベルだと、松永は秀吉や三成とは越えられない壁があるな。
344:
五奉行増田長盛の子増田盛次を討ちとったのは
藤堂家に仕官していた旧石田三成家臣磯野右近の子供
しかもその磯野行尚(盛次討ちとった人)は
関ヶ原で三成が落ちるときに塩野、渡辺らとともに
最後までつき従い三成が解散命令出すまでずっと一緒にいた人物
大坂の陣は因縁対決が多い
長曾我部と十河が九州の時のように馬並べてたたかって両家とも完全滅亡したり
345:
戦国時代の日本はオスマン帝国に武器を輸出していたほどの軍需産業国家
352:
>>345
本当に?
鉄砲を輸出してたのかな。
オスマンなら遠くの日本より、ヨーロッパの方が早く調達できそうだけど、
敵対関係にあったから貿易できなかったとか?
356:
>>352
宗教内の対立(カvsプ)からフランスとオスマンが同盟を組んで帝国を攻めたこともあるよ
357:
>>356
30年戦争のことなら、宗教内の対立ではないぞ。
ブルボン家 vs ハプスブルク家という文脈で見るべき。
なんせ、カトリックを信仰していたブルボン家のフランス王国は新教側で参戦して
ハプスブルク家の皇帝軍と対峙したわけで。
347:
真田十勇士の源流は、尼子十勇士。
349:
伊達正宗の騎馬鉄砲隊は
実際に射撃するときは下馬して射撃した(98へェ確実)
350:
大阪の陣で馬上からぶっ放してた記録があるがな
364:
室町幕府には、「会議」が存在しなかった。
基本的にみんなが顔を合わせる、と言うことが無く、何か懸案があった場合、書状や書類が
関係者の間をめぐって、なんとなく方向性が決まる、という方式だった。
365:
何でもメールで物事を済ますみたいだな。
368:
伊達政宗が建造させた日本初の国産西洋型軍艦サン・ファン・バウティスタ号は
欧州から帰国途中のフィリピンで、オランダとの戦争準備に追われていた現地総督の要請により
イスパニア艦隊に売却編入、使節団長の支倉常長らは別の船で帰国した。
その後のバウティスタ号の消息は不明。
後のフィリピンでのオランダとの海戦にイスパニア艦隊が敗れたことから
バウティスタ号も撃沈された可能性は高い。
369:
戦国時代に瀬戸内海を荒らしまわった海賊・村上水軍のうち
毛利家に臣従した因島村上氏のほうは関が原の戦の後も毛利家に仕え、
長州の船手組(海上警備や海路の参勤交代の担い手)となった。
いっぽう、来島村上氏のほうは豊臣秀吉に臣従して一時は独立大名となるも
徳川幕府の時代になると山奥の豊後玖珠郡(現・大分県玖珠町と九重町)に転封、
完全に海から遠ざけられてしまった。
371:
>>369
来島氏は、山の中に池を造って、そこで昔を偲んでお船遊びをした。
370:
稲葉山城を失い美濃を追放された斎藤龍興は
その後も長島一向一揆、三次三人衆、朝倉義景などとの同盟や保護のもと
信長に執拗な抵抗を続けたが、信長に攻められた浅井長政を支援するため
朝倉義景と共に参戦した一乗谷城の戦いで戦死。
彼を討ち取ったのは氏家卜全の長男直昌だといわれる。
372:
真田幸村の大阪の陣での家紋は六連銭ではなく、赤地に金線。
徳川方にいた本家への配慮だといわれる。
374:
武士の誕生から、一騎打ちは極めて稀で特殊な状況でのみ行われた。
平安時代から武士の戦術は、集団で敵を取り囲み、大量の矢を射掛けて相手を針坊主に
して殲滅するのが基本。
当然元寇の時もこれをやり、元の軍隊は上陸拠点を作ることすら出来ないほど
武士の戦術に翻弄された。
376:
「一向一揆」と言う言葉は江戸期、しかも18世紀になってから作られた言葉だと言う事。
同時代的にはただ単に「一揆」もしくは「土一揆」としか呼んでいないこと。
37

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