年越し代行back

年越し代行


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 駅前のゲーセンは知らぬ間に無くなり、フィットネスクラブになっている。
 界隈では有名なヤクザの事務所とその一帯は、近代的なマンションと複合施設に建て替わっていた。
 間違えたか?
 いや、確かにこの駅だ。
 気分を落ち着けるためにコーヒーでも飲もうと、自販機で110円を入れてボタンを押す。
 なぜか出てこないので、ふと値段を見ると130円とあった。
 おそらく流行なのだろう、通りを歩く垢抜けた男女の会話に耳を澄ませても、まるで何を言っているのか分からない。
 そして、街の巨大な電光掲示板に流れる知らない歌手の映像を眺め、受ける疎外感にデジャブを覚える。
 僕は時代に取り残されている。
 そして、年末の時期になると、全てを思い出すのだ。
 僕の本来の仕事を。
 そして、また忘れる。
 そういう仕事だった。
2:以下、
 僕のパートナーは、この道何十年の大ベテランである。
 と言っても、その人の見かけの歳は、僕とそう変わらない。
 それは当然と言えた。
 僕達は仕事柄、歳をとることがない。
 従事する人間のほとんどは、20代?30代前半。
 肉体労働ではあるが、大仰なノウハウの蓄積が必要になるほど複雑な仕事ではないのだ。
 しかし、僕は当然に、この仕事をずっと続けるつもりはなかった。
 その一方、離職率の高いこの職場でただ一人、その大ベテランは何故か楽しそうだった。
 ジイサンはいつも、妙に尖った鼻で、いつも鼻歌を歌っていた。
「どうだ、今の曲。
 加山雄三、知ってるか?
 テレビ観てたらまだ生きてんだなアイツ、ガハハ」
 人懐こそうに下がった目尻を細め、大きな口で豪快に笑う。
 古くさい人だなと、事あるごとに思った。
3:以下、
 僕達は、平たく言えば国家公務員だ。
 業務がかなり特殊なだけの。
 僕達の仕事は、つまみを回すこと。
 人間の脳みそにある時計を、次の年に設定すること。
 ただそれだけ。
 国から支給される、エナメル製のような特殊な手袋をはめる。
 バッジを起動させ、高度なステルス機能を持つバリアーを纏って気配を消し、サンタクロース宜しく、年の瀬の深夜に住宅に侵入する。
 そして、寝ている隙にその人の頭の中に手を突っ込み、つまみを回すのだ。
 これが達成されなければ、その人の一年間は虚無に終わる。
 要人だろうとニートだろうと、放置していては社会機能が立ちゆかなくなるから、当然に『全員年越し』が原則だ。
 次は何年だっただろう――よく覚えていない。
 僕達が考えるのは、人の脳みその目盛りを次の年に一つ進めることだけである。
4:以下、
「どうした、ボウズ」
 宵闇にしんしんと降りしきる雪にボーッと持ってかれていた意識が、現実に引き戻される。
 ジイサンに呼ばれ、僕はタバコをその場に落とし、靴底で踏み消した。
「このペースだと間に合わねぇぞ、早くしろ」
「あぁ」
 ジイサンはそう言うが、そんな事はない。
 僕達の乗る公用車は、時間も場所も少しだけ操れるバック・トゥ・ザ・フューチャーのデロリアンみたいな代物だった。
 日を跨いでも戻れるので、そう急がずとも目的は十分に達成できるのだ。
 問題があるとすれば、単純に対象人数が多すぎるということ。
 割り当てられた地区の案件を一つ一つ訪ねるのも、面倒といえば面倒だ。
 とてもじゃないが、僕にはやりがいを見出せる仕事ではなかった。
 しかしそれは、業務の単調さが嫌なわけじゃない。
5:以下、
 公務員の手当の一つに、特殊勤務手当というものがある。
 肉体的、精神的な負担が大きい特殊な業務に従事する職員に、相応の対価を支給するというものだ。
 国家公務員の場合、一般職給与法第13条を根拠法令とし、人事院規則でその類型を定めている。
 具体例を挙げると、高所で作業する職員とか、検疫所や放射線を扱う支所の職員とか。
 刑務所とか屠殺場とかも、あったかと思う。
 ――いや、屠殺場は地方自治体か。
 僕達の業務は、その法令ではなく、もっと違う法令の条文が直接の根拠であると聞いた。
 規則から違う法令に飛んで、通知に飛んで、さらに他の条文の読み替え規定を幾重にも準用して、と――。
 わざと分かりにくくしているかのように、解読は困難を極めた。
 そして、結局忘れた。
 初めて聞いた時はまるでファンタジーで、そういう内容は生理的に受け付けないのだ。
 だが、事実だった。
 そして、僕はこれによる精神的な苦痛を実際に受けている。
「なぁジイサン」
「ん?」
6:以下、
「来年も俺達、コンビを組まされるのかな」
 最後の一件を終え、僕はふとジイサンにこぼした。
 僕は、周囲には「俺」で通していた。
 その方が、何となくナメられないような気がした。
 振り回されっぱなしなのは悔しくて、少しでも自分を取り巻く漠然とした何かに抵抗したかった。
「お前が辞めなきゃな」
 ジイサンはそう言って笑い、デロリアンの時計が1月1日になった瞬間、フッと視界が真っ暗になった。
 ――気づくと僕は、見慣れないマンションの一室で目が覚めていた。
 金が無いので銀行へ行くが、年始のこの時期は開いておらず、コンビニに行ってみる。
 真新しいATMに悪戦苦闘しながら何とか操作を進めると、預金高は見たこともない額に達していた。
7:以下、
 繰り返しになるが、僕達は歳をとることがない。
 年越し代行を行った職員は、そのまま肉体も精神も一年前の状態にリセットされ、次の年を迎える。
 若い肉体を維持する代わりに、その年の記憶を引き継ぐ事ができないのだ。
 肉体と同様に、精神も負荷を加えれば疲弊し、老いていく。
 一年前の状態に戻されるのは、特殊な勤務内容により疲弊した肉体と精神を回復させるためだという。
 おそらく建前だろうけど、当局の説明はそういうものだった。
 僕達は、次の年の瀬が来るまでの間、当局から与えられた「オモテ」の職業に就く。
 職場の隅でエクセルやパワポを弄るだけの会社。
 寂れた観光地の案内所。
 片田舎のマンションの管理人。
 民間公営関係なく、なるべく肉体的、精神的負担の少ない所へ、脈絡無く一方的に振り分けられる。
 つまり、人間関係の希薄な所へと。
 そして、再度記憶がよみがえり、自分の本来業務を悟るのは年末の一週間前。
 そう――僕にとって、クリスマスはちっともめでたくない。
 決まった時期に国から支給されるそのバッジは、ファンタジーかつ不条理な事実を強制的に思い出させ、腐った業務への従事を命じる赤紙だった。
 精神的な負担が相応に大きいという評価はあったのだろう。
 数ある特殊勤務手当の中でも、この年越し代行による支給額は他とは桁が違っていた。
 それでも、繰り返しになるが、離職率は高かった。
 僕もいつだって辞めたいと思っていたが、踏ん切りがつかないままダラダラと続けてもう十年以上経つ。
8:以下、
「おう」
 いつもの年末、いつもの集合場所で、ジイサンは僕の姿を認めると、嬉しそうに手を上げて笑った。
 これに答える代わりに、僕は黙って缶コーヒーを飲み干し、その辺に投げ捨てた。
「何シケてんだよ」
「別に」
 立派な学歴も資格も必要としない。
 天涯孤独の身である事。
 そして、友人や恋人等、人との繋がりを作らない事が、この業務に従事する職員の条件だった。
「まぁ、カワイコチャンとイチャイチャできねぇのは分かるけどな」
 若者ぶりたいんだろうけど、どこか古くさい。
 大方、自分では上手い事やれてるつもりでいるのか、ジイサンはなおも愉快そうに笑う。
 その姿が、僕には余計に不愉快だった。
 自らの境遇に何の不満さえ持たない彼が、理解できなかった。
9:以下、
 いつの間にか、行きつけの店が潰れていた。
 消費税が5%になり、8%になっていた。
 僕が最初にやったFFは?だけど、オモテの職場の“同い年の”同僚はスーファミすら知らない。
 流行の曲も映画もドラマも、漫画やアニメも何一つ、噛み合う人間が僕の周りにはいない。
 それどころか、時代遅れだとバカにされる。
 それは当然と言えた。
 僕達の仕事は、人の脳みそのつまみを回し、次の時代へ送ること。
 一方で、僕達のつまみを回す者はいない。
 誰が見張りを見張るのか?
 審判の審判は誰がする?
 それと同じだ。
 トロッコを押す人がいないと、トロッコは前に進まない。
 そして、トロッコを押す人は、トロッコに乗れない。
 そういう仕事だった。
 この仕事に就いている以上、僕達は時代に取り残されることを余儀なくされるのだ。
 そして、誰とも繋がることがない。
 高い手当なんかもらっても、空しいだけだ。
10:以下、
「おい知ってるかボウズ」
 色気の欠片も無い、野暮ったいデロリアンを運転しながら、ジイサンは藪から棒に話を振った。
「ゆくゆくは、この仕事も全自動化っつーのになるかも知れねぇな。
 昨日テレビを観てたらよ、すげぇじゃねぇか。
 アイシーチップとかいうので、なんか工場とかよ、全部管理する技術があるんだってな。
 よく分からんが、それを使って、自動で年号を更新するのができりゃあ」
「そうだな」
「何だよ気のねぇ返事だなぁ、オイ」
 頬杖をついて窓の外を向いてる僕を、ジイサンはグーで小突いた。
「ジイサン」
「ん?」
「何が楽しくて、ジイサンはこの仕事を続けているんだ?」
 深夜とはいえ、大晦日だ。
 普段よりも夜更かしをする人間は多い。
 通りは新年を祝う人達で溢れ、行列はここから歩いて15分ほど先にある寺まで続いているようだった。
11:以下、
「そうだなぁ」
 ご機嫌なトーンを変えずに、ジイサンはハンドルを握りながらウーンと唸っている。
 従事して十年そこそこの僕でさえ、周囲とのギャップに苦しんでいるのだ。
 以前聞いた話が確かならば、おそらくジイサンはFF?どころか、初代FFも、ファミコンすらも知らない。
 ジイサンは、王長嶋の栄光を嬉々として追っかけ、赤提灯の屋台のおでんに舌鼓を打つ、20代の若者なのだ。
 話が合う同世代の人間など、まずいない。
 僕とは比べものにならないほどに、周囲から時代遅れとバカにされてきただろう。
「ボウズ。例えばお前、畳屋はどう思う?」
「畳屋?」
 突拍子も無い質問に、目が点になる。
「この先、街の畳屋さんがこの世から1件も残らず絶滅する日が来ると思うか?」
12:以下、
「――さぁ。絶滅するってことは無いんじゃない?」
 僕は頬杖をつき直して、小さくため息をついた。
 何が言いたいんだ、この人は。
「少なくとも、二、三十年のうちは。
 ドラえもんが生まれるほどの未来にもなれば、どうなっているかは分からないけどさ」
「ドラえもんって?」
「漫画のキャラクター。22世紀の未来のロボット」
「よく分からんが、畳屋が滅びるよりは、そのドラえもんが生まれる方が先だと思うぜ、俺は」
 ジイサンはニヤリと笑った。
「まっ、俺はそういう役になりたいってこった」
 ジイサンは唐突にデロリアンを停め、その年の最初の一件に意気揚々と向かっていった。
 この仕事に、人間の血はいらない。
 さっさと全自動化すりゃいいのにと、彼の後ろ姿を見ながら僕は空しい怒りを感じていた。
13:以下、
 離職率は高い一方で、新規雇用率はゼロに近かった。
 近年では、ツイッターとかインスタグラム?とか、昔と比べて情報発信をする手段が随分増えたという。
 たとえ記憶をリセットされても、次の年の瀬に記憶を取り戻した際、これを嬉々として発信する若者は後を絶たないのだ。
 この業務の存在を知るものは、国の一部の人間だけ。
 当然の事ながら、従事者には重い守秘義務が課せられる。
 万が一漏洩したら後始末が大変だし、当事者には相応のペナルティを与える事になる。
 故に、この仕事にはそれなりのベテランしかいないのが現状だった。
 SNSなるものの使い方などロクに知りもしない、時代遅れの人間しか。
 機械化が進めば、その心配は無くなるだろう。
 僕達も、遅れを取り戻すのはホネだろうが、この業務からは解放され、自分の人生に邁進することができる。
 その日が来るのを夢見つつ、その年の最後となる家を訪問した。
 ジイサンとは手分けしてそのブロックを当たっていたため、僕一人だった。
14:以下、
 クソみたいな部屋だった。
 スナック菓子の袋や雑誌、ちり紙とカップ麺と、得体の知れないゴミで足の踏み場も無い。
 加えて、住人であるその男の、きわめて雑な寝相が、ソイツの人間性を雄弁に物語っていた。
 しかし、その男の顔を覗き込んだ時、僕は別の意味で、息を呑んだ。
「え、ジ――!?」
 いや、まさか――同一人物としか思えない。
 その男の下がった目尻、妙に尖った鼻、豪快そうな口――。
 どれをとっても、ジイサンと瓜二つだったのだ。
15:以下、
 ――――。
 ある種の確信めいた疑念が、ふと思い浮かぶ。
 僕は咄嗟に、その部屋に置いてあった包丁を手にした。
 これは賭けだ。
 もうじき、僕の肉体と精神は一年前の状態にリセットされる。
 一年後に戻されるのは、業務の処理方法に関する記憶だけで、個別の案件ごとの詳細までは引き継がれない。
 だが――。
 こうすると、果たしてどうなる――?
16:以下、
 ――気づくと僕は、見慣れないマンションの一室で目が覚めていた。
 金が無いので銀行へ行くが、年始のこの時期は開いておらず、コンビニに行ってみる。
 真新しいATMに悪戦苦闘しながら何とか操作を進めると、預金高は見たこともない額に達していた。
 ――またこの感覚だ。
 何か、同じ事を無為に繰り返しているような感覚。
 大した仕事に就いている訳でもないのに、不釣り合いに溜まった預金を前にして抱く、どうしようもない空しさ。
 ふと、左腕に激痛を感じた。
 コンビニを出て袖を捲ると、腕にはタオルが巻かれている。
 慌てて家に戻り、タオルを取ると、刃物で傷つけたかのような、意図的で大きな傷跡があった。
 そして、それは何かの文字か記号のようにも見えた。
 一体、誰にやられた?
 誰がこんな酷い事を――そもそも、誰かの恨みを買うような事を僕がしたのか?
 病院にも行ってみたが、どうやら傷跡が完全に無くなる事はないであろうとのことだった。
17:以下、
 横浜駅は、未だに工事をしている。
 電車のダイヤはいつの間にか改正され、予定した電車の一本後に乗った。
 駅を降り、目の前の風景が記憶とまるで違うので、咄嗟に引き返すが、やはり目的の駅だ。
 いつまで経ってもなぜか慣れない会社へ行く。
 途中、ラーメン屋だったはずの薬局の前を通り過ぎ、コンビニでは目を疑うほど高いタバコを買わされた。
 同僚の話題には、ほとんど分かる単語が無い。
 曖昧に相槌をうち、愛想笑いを浮かべていたが、我慢できずに席を立った。
「すみません。ちょっと俺、一服してきます」
「おい、何を言ってるんだ。ウチは何年も前から全フロア禁煙だぞ」
 上司に呆れ顔で注意され、僕は言葉を失った。
 左腕の傷は、自傷癖がある危ない奴と誤解されるには十分だった。
 そして、僕のことをアスペ、アスペと、同僚達が影で言っているのが聞こえる。
 パソコンのインターネットで調べてみると、アスペルガー症候群というもののことらしい。
 耳慣れない言葉だが、どうやら自閉症の一種――。
 あぁ、なるほど――社会性や、コミュニケーション能力の欠如、か。
 昨年の記憶は無いのに、僕はますます社内で孤立する感覚を覚えた。
 そうこうしている内に、昼休みである。
 当然に、僕には一緒に昼飯を食う友達はいない。
18:以下、
 こういう時、マクドナルドは助かる。
 多少高い気もするが、良くも悪くも、変わらぬ味は期待を裏切らない。
 何より、耳障りな喧噪が心地よかった。
 周りへの迷惑などまるで省みず、下品な声ではしゃぐ高校生。
 床に座り込み、この世の終わりかとばかりに両親の前で泣き叫ぶ子供。
 普段ならイライラさせられる光景も、その感情を他の人達と共有できることが、何だかありがたかった。
 変な話だけど、社会の一員になれたような気がして、寂しさを紛らわせてくれる。
「おっと」
 急に近くを通りがかった男がよろめき、窓際のカウンター席に座っている僕に左側からぶつかった。
 たまらず僕は、左腕を押さえる。
「あ、ッス」
 雑な謝罪を投げつけられたが、傷を刺激されたら、それどころではない。
 激痛を堪えるのに必死で、ロクに応えてやれる余裕などなかった。
 まだ痛みは引かないが、ようやく呼吸が落ち着いた所で、僕は顔を上げた。
 男は、僕にぶつかった事などもう忘れたような顔をして、携帯電話を弄っている。
 スマートフォンというらしいその携帯には、よく見るとボタンが無い。
19:以下、
「――あ? 何見てんだよ」
「えっ」
 男が僕を睨んだ。
 ぶつかってきたのはそっちなのに、なぜこの男が高圧的なのか釈然としないが、面倒は避けるに限る。
 一言小さく謝って席を立ち、トレイを持ってさっさと出よう。
 そう、店の出口まで歩みを進めたとき、僕の足がふと止まった。
 思うところがあり、ゆっくりと男の方へと振り返る。
 やはりだ――改めて見るその男の顔に、どこか見覚えがある。
 だが、どこで見たのだろう?
 ――――。
 ――よく考えれば、僕の歳にもなれば、似たような人間の一人や二人、出会うこともあるだろう。
 あの人懐こそうに下がった目尻も、妙に尖った鼻も、大きな口も、デジャブを感じるのはおかしくない。
 そう思っていたのだけど――。
20:以下、
「おい、何だお前今日もマックかよ?」
「アハハ、えぇ、まぁ……」
 同僚の冷やかしを無視して、昼休みにマックへ通う日々がしばらく続いた。
 あの男に出くわす日は、その1割にも満たなかったが、それでも会う度に確信めいた疑念が深まるのを感じた。
 居ても立ってもいられず、とうとう会社に断りを入れて休みをもらい、その男を家まで尾行するまでした。
 いよいよ僕は、変人を通り越して危険人物だ。
 だが、そうせずにはいられなかった。
 彼が何者なのか、思い出さなくてはならないという切迫した思いは、もはや使命感と言ってもよかった。
 しかし、胸中に渦巻く疑念を晴らすことはとうとう出来なかった。
 あの男は、古びた木造アパートの一室に住む、その日暮らしのだらしない男でしかなかった。
 諦めきれなかった。
 だが、認めるしかない。
 僕は、あんなつまらない男のために無駄な情熱を注ぎ、無為な時間を費やしてきたのだ。
 そして、諦めて忘れようとしたその時――。
 街にジングルベルが鳴り響き、気づくと僕の手の中には、見慣れたバッジがあった。
21:以下、
 ――――!
 あの男は――。
 僕は、全てを思い出した。
 この左腕の傷の意味も、あの男の正体も、何もかも。
 年越し代行の従事者は、業務が終わった後、肉体と精神を一年前の状態に戻される。
 特殊な勤務内容により疲弊した肉体と精神を回復させるために。
 だが、もしそれが、勤務中の労働災害その他の不可抗力に寄らないものだとしたら?
 従事者による一方的な過失、あるいは故意により受けた過剰な負荷まで、ケチくさい当局は面倒を見るだろうか?
 結果として、僕は賭けに勝った。
 当局は、僕が自分で傷つけたこの左腕を、労働災害とは認定しなかった。
 そして僕は、一年前に消去されるはずだった記憶の一部を、強引に引き継いだのだ。
22:以下、
 こうしてはいられない。
 急いで自宅に戻ってパソコンを立ち上げ、当局のシステムにアクセスし、とある個人情報を調べ上げる。
 厳密に言えば、服務規律に違反する行為だが、それは今の僕にはどうでも良かった。
 左腕に記されたイニシャルから突き止めた人物は、思った通りだ。
 どうやら住所も一年前と変わっていないらしい。
 いつだったか、ジイサンが僕に話したことがあった。
 昔は雇用条件が今ほど厳しくはなく、恋人がいても従事できたこと。
 そして、この仕事を始めた当時、ジイサンには恋人がいたこと。
「こんな仕事だし、幸せにできるワケねぇからすぐに別れたけどよぉ」
 そして、その恋人さんは既に、子供を身ごもっていたらしいことを。
「なぜ、恋人さんと別れてまで、この仕事に就いたんだ」
 僕はたぶん、何度目かの質問を当時もしていた。
 そして、彼はこう答えていた。
「性に合っていたんだろうなぁ」
23:以下、
 いつもの年末、いつもの集合場所。
「おう」
 ジイサンは僕の姿を認めると、嬉しそうに手を上げて笑った。
 これに答える代わりに、僕は黙って缶コーヒーを飲み干し、その辺に投げ捨てる。
 いつも通りの、年末の挨拶だ。
「またシケてやがんな」
 立派な学歴も資格も必要としない。
 天涯孤独の身である事。
 そして――。
「……別に」
 友人や恋人等、人との繋がりを作らない事が、今ではこの業務に従事する職員の条件だった。
「さて、今年もいっちょ」
「ジイサン」
「ん?」
「今年は俺の仕切りでやらせてくれ。俺が運転するよ」
 ジイサンは何も聞かず、「じゃあ頼むわ」と、デロリアンのキーを僕に預けた。
24:以下、
 この車を運転するのは、随分と久しぶりだ。
 仕事に就いたばかりの頃は、下っ端という理由で、先輩風を吹かせるジイサンに運転させられていた。
 だが、なにぶん僕はペーパードライバーだし、彼自身も車が好きだから、このところ僕はずっと助手席に座るだけだった。
 それを承知しているはずのジイサンが、なぜ何も聞かず、僕に運転を任せたのか。
 今年の担当ブロックの3割ほどを消化して、ようやくそれが不思議である事に気づいた。
「効率悪くねぇか、このルート」
 助手席のジイサンが、僕に声を掛けた。
 不平を言っている訳ではない事は、僕がどんな面白い言い訳をするのかを期待する彼のニヤケ面を横目に見て、すぐ分かった。
「もうお前もヒヨッコじゃねぇんだ。考えがないワケじゃねぇだろう」
 どうやらジイサンは、僕を泳がせたらしい。
25:以下、
「最後にとっておきたい所があるんだ」
 赤信号に気づき、慌ててブレーキを踏む。
 やはり、我ながら僕の運転はおっかない。
 だが、ファンタジー染みた車でも、現実世界の交通ルールを守らなくてはならないのは、何となくおかしな話だと思う。
「ジイサン……ジイサンには、奥さんと子供がいたんだったよな」
「恋人だよ。まだ結婚していなかった」
「将来家族になるはずだったその人達の、その後が気になった事は?」
「どうした、藪から棒に」
 次のブロックを片付けるため、一旦車を降りる。
 5分ほどしてまた乗り込み、シートベルトを締めながら、僕は続けた。
「時々、思うんだ。
 流れる時代に何一つ、生きた証を残す事ができない自分って、一体何なんだろうってさ」
26:以下、
 この仕事を続けていく限り、僕達は世界の誰とも繋がらない。
 誰かにとっての特別にもなることは無い。
 いたかどうか分からない時代遅れの変人として、誰の記憶にも残らず、ずっと。
 それがたまらなく嫌で、一度、仕事終わりに、どこかの公園のブランコに落書きをしてみた事があった。
 僕が確かにそこにいたという、存在の証明を残してみたかった。
 当然、年明けにはその記憶はすっぽり抜け落ちて、ジングルベルで思い出した時には、ブランコは撤去されていた。
 ヤケになり、万引きをしてみた事もあった。
 愛とか友情ではなく、恨みや憎しみでもいい。僕をつなぎ止めてくれる何かがほしくて。
 でも、それは失敗した。
 バッジの電源をオンにしたままだったのだ。
 コンビニの店員は、僕に万引きをされた事に気づかなかった。
 記憶を無くして目が覚めると、僕の目の前にあった少年ジャンプに、何でこち亀が無いのかが分からない。
 次の年末に思い出し、同じく万引きをしてやろうと思い立ったが、負の行いでしか爪痕を残せない自分がひどく情けなくなり、とうとうできなかった。
「ジイサンは、この時代に何かを残したいって、思ったことないのか?」
27:以下、
 ジイサンは、事も無げに鼻で笑った。
「そういう役回りを俺は選んだ」
 車の乗り降りを繰り返しながら、順調に案件を消化していく。
 それは当然に、次第に目的地へ近づいていくことを意味していた。
 彼の生きた証そのものに。
「もし、ジイサンのお子さんが生きていたら、何歳くらい?」
「ハッ! もうオッサンだろう。傍から見りゃ、俺がソイツのガキに見られるかもな」
 自分で言った事が面白かったのか、ジイサンは膝を叩いてゲラゲラと笑った。
 その通りだった。彼は傍から見れば、20代の若者だ。
「だとすれば、その人のお子さん……つまり、ジイサンのお孫さんが生まれていても、おかしくないわけだ」
「――ハハハ」
 ジイサンは苦笑し、かぶりを振った。
「たらればとか、夢物語を語るのは飽きたよ。
 つまんねぇ話はやめようや」
 車を停めた。今年最後の家だ。
 木造2階建て、単身住まいの古びたアパートには、あの男しか住んでいない。
28:以下、
 ギシギシと悲鳴を上げて軋む階段を二人で上がり、玄関ドアの前で立ち止まった。
「ジイサンが行ってきてくれ」
「あん?」
「どうしても、ジイサンに見てもらいたいものがあるんだ。この部屋に」
 ジイサンは、奇異な物に相対するような目で僕の顔をジッと見つめ、首の後ろをポリポリと掻いた。
「――まぁ、いいや」
 商売道具である手袋をはめ、バッジに手を掛け、普段通りに彼はその家のドアに手を掛ける。
 鍵が掛かっているはずの拙いドアは、あっさりと彼の侵入を許した。
 僕は、ジイサンの後ろについてそっと中に入った。
29:以下、
 6畳1Kの部屋は、玄関から奥の腰窓に至るまで、相変わらず怠惰で埋め尽くされていた。
 台所はカップ麺の捨て場となり果てており、タオルや服は畳まれないまま乱雑に放られている。
 残された隙間の至る所には、雑誌やティッシュ、その他の見るに堪えないゴミが散乱していた。
 僕は玄関で待機し、後ろから様子を見守っていたが、さすがにジイサンも面を食らったらしい。
 だが、黙して彼は、まるで地雷原を進むようにそぉっと足を慎重に運び、なんとか奥のせんべい布団で眠る住人まで到達した。
 こうして傍から見ると、つくづく風情の無いサンタさんだ。が――。
 今年も、単調な仕事を終える時が来た――そう、住人の頭に手を掛ける、彼の手が止まった。
 ――――。
 長い沈黙は、彼の動揺を如実に示していた。
 それは当然と言えた。
 自分の生き写しといえるような存在が目の前にいる。
 そして、いるはずがない、しかし疑いの余地が無い、自分の生きた証が。
30:以下、
「――俺に、どうしろっていうんだ」
 ジイサンは後ろを振り返り、僕を睨んだ。
「当局には内緒にしといてやるよ」
 そう言って、僕は部屋のスイッチに手を伸ばし、電気を点けた。
「――――?」
 急に明るくなった部屋で、その男は目をこすり、体を起こした。
 当然に、バッジを起動させている僕達の姿は、見えていない。
 キョロキョロと辺りを見回し、すこぶる不愉快そうな顔をして彼は起き上がる。
 電気を消そうと、部屋の中央に立つジイサンの横を通り過ぎ、スイッチに手を伸ばした。
 それを横目に見ながら、ジイサンが自分のバッジに手を掛ける。
 二人が電源をオフにしたのは、ほぼ同時だった。
31:以下、
「――!? なっ!?」
 電気を消した直後、その男は驚きのあまり声を上げた。
 彼が驚いたのは、ジイサンが目の前に急に現れたからだけではないだろう。
 髪型と服装を除けば、相対した二人はまるでドッペルゲンガーそのものだ。
 ジイサンは、何と声を掛けたら良いのか迷ったあげく、小さく手を挙げた。
「誰だ、てめぇっ!?」
 片やソイツは、目の前の不審者を叩き出す事しか頭に無いようだった。
「――きたねぇ部屋だなぁ」
 顔を合わせるのが気恥ずかしいのか、周囲を改めて見回しながら、ジイサンは鼻で笑った。
「こんな生活してたんじゃ、親御さん、心配するだろ」
32:以下、
「親だぁ?」
 男は激昂した。
「俺の何を知ってんだ。余計なお世話だ、マジ警察呼ぶぞお前」
「ハッハッハッハ」
 ジイサンは声を上げて笑った。
 僕も後ろで、笑いを堪えた。
「何がおかしいんだオラァッ!」
 僕達は国の最重要機密の塊だ。
 一介の警察官がどうこうできるものではないのだ。
 そもそも、バッジを起動させれば僕達を捕まえられる者などいない。
 脅しにもハッタリにもならない言葉にこの男が頼るのは、仕方が無いとはいえ、どこか滑稽に思えてしまう。
「すまんな、確かに不法侵入だ」
 ジイサンは顔の前で手を振り、ニコニコと嬉しそうに頭を下げた。
「帰るよ」
33:以下、
 ――えっ?
「あぁ、そうしろ」
 今にも飛びかかりそうだった男の剣幕が、ようやく少しトーンダウンした。
 どうした、ジイサン。
 帰るだと?
 まだコイツのつまみを回してはいない。
 一旦出直すということか?
 それに、何も話をしないまま――。
「だが、一つ言わせてもらうと、家族の繋がりは大事にした方がいいと思うぞ」
「とっくにいねぇよ」
「何?」
 ジイサンは、玄関の方へ振り返りかけた体を止めた。
「俺の親父は、暴力を振るうだけ振るって、俺がガキの頃に家を出てった。
 お袋は、口を開けば親父の悪口を俺に聞かせ続け、それでも拭えないウサを男に貢いで晴らした」
34:以下、
 男は冷蔵庫から缶ビールを一本取り出し、プルタブを開けて一息に飲んだ。
「親父の親父、つまり俺のジジイだな――そいつも、似たようなもんだったらしい。
 結婚もしないまま、子供ができた途端に逃げたから、親父は母子家庭だった。
 未亡人が子供を作ったと知った周囲の人間から、婆ちゃんと親父は相当に叩かれたんだってよ」
 ジイサンは部屋に立ち尽くし、男の語る恨み節を黙って聞いている。
「そりゃ性格も歪むよな、親父も。
 親父を好きになったお袋や、その二人に育てられた俺も。
 食わしてやってるだけありがたく思え――それが、唯一覚えてる親父の言葉だ。
 お袋は交通事故で死んだよ。酒に溺れてヒステリー起こして、男を追いかけようと道路に飛び出してな」
 ――僕は、好奇心でこの男にジイサンを会わせた事を悔やんだ。
 せっかく残された、彼の生きた証がこんな結末だったのか。
 ジイサンの行いが全ての原因ではないだろうが、少なからぬ責任を感じてしまうかも知れなかった。
 爪痕を残す事ばかりを求め、それが正しいと信じて疑わなかった。
 自分がその時代に残す爪痕が、必ずしも良い結果を生むとは限らないことを、僕は知るべきだった。
「そうか」
 ジイサンは小さく呟いた。
「よく今日まで生きてくれた」
35:以下、
「あぁ?」
 男は缶を握り潰し、ジイサンに投げつけた。
「お前に俺の気持ちが分かってたまるか。さっさと帰れカス」
 ジイサンはくつくつと声を殺して笑い、改めて体を玄関に向け直した。
「寒くなってきたから、暖かくしろな。風邪ひくなよ」
「うるっせぇな! マジ警察呼ぶぞ!」
「あぁ」
 僕の横を通りすぎ、ジイサンは玄関ドアを開けると、名残惜しそうに最後にもう一度、男の顔を見た。
「これはお前の見てる夢だ。初夢は、もう少し良い夢見ろよ」
 僕達は男の部屋を出て、アパートの階段を降りた。
 外はいつの間にか雪がチラついていて、危うく滑りそうだった。
36:以下、
「俺がアイツに説教するとでも思ったか?」
 どうやら、僕のルートはすこぶる効率が良かったらしい。
 今年は随分と仕事が早く終わり、まだ新年を迎えるまでには時間があった。
 だが、ジイサンがもう一度あの男の部屋に行く様子は無かった。
 ジイサンは車の外で、ニヤニヤとタバコの煙を空に向けて溶かしている。
「別に……ていうか、アイツのつまみ、回さなくていいのか?」
「さぁなー」
 ガッハッハと笑ったが、乾燥した空気とタバコの煙が喉に引っかかったのか、ジイサンは少しむせた。
37:以下、
「ただ、アイツの言ったとおりだ。
 俺の身勝手のせいで、辛い思いをさせちまったのかも知れんのだから、説教する筋合いなんて無い。
 まっ、謝ってやる気もサラサラ無いがな」
「だからって、あんな別れ方で良かったのかよ」
 僕は顔を上げた。
「俺が言える立場じゃないけど……たとえ自分の事を棚に上げてでも、人生を腐らせている奴を正しい方向に導くのは、年長者の務めだと思う」
 ジイサンは、僕の顔を見て何度か小さく頷くと、短くなったタバコを思い切り吸った。
「ボウズ……お前、何でこの仕事が『年越し代行』っていうか、知ってるか?」
38:以下、
「何で、って……代わりにやるからだろ? 年越しの手続きを」
「質問が悪かった。じゃあ、何で代わりが必要なんだ?」
「それは……」
「昔は、自分でできたのさ。
 いや……自分でやらなければならなかった、の方が正しいかもな」
 タバコを地面に落とし、靴底で踏んづけながらジイサンは鼻で一つ息をついた。
「苦しい状況から脱却しようと、死に物狂いだった。
 立ち止まっていたら、取り残される。それが許されるような時代じゃなかったのさ。
 だから、食らいついた……自分で無意識に、どうにか自分自身を次の時代に送っていた」
「モラトリアムな人間が増えた、ってことか」
「横文字は分かんねぇが」
 肩をすくめて、ジイサンは笑った。
 もう一本タバコを出したので、僕がライターを取り出して火を向けると、彼は手刀を切った。
「平たく言やぁ、時代の流れってヤツなんだろうな。
 今の時代がいい、留まりたいと、潜在的に願う方向へ風潮が傾いていった。
 それだけ人の暮らしが豊かになったんだろうが、放っておくと社会が停滞しちまう。
 だから、この仕事の需要が高まった」
39:以下、
 ――今の時代に留まりたいと願うだけで、本当に年越しができなくなるものなのか。
 にわかには信じられないが、実際こういう仕事に携わっているのだから、疑う余地は無い。
 だが、いま一つ腑に落ちない。
「今の時代がいいと思う人間もいれば、こんな時代は嫌だ、時代を変えたいと願う人間もいるはずだ。
 なぜ、誰も彼もが自分で年越しをできなくなったんだろう」
 僕が首を傾げると、ジイサンは手に持ったタバコをどこか得意げに振った。
「人間が、じゃない。この国がだ」
「国が?」
「どんなに無謀なガキでも、時が経てばそれは失われ、どんどん保守的になっていく。
 歳とともに重ねた自負と恥で、得てきたものを失う恐怖に囚われる。
 つまり、それと同じことだ」
 タバコの火を物憂げに見つめ、彼は続ける。
「それだけ、この国も歳をとったということさ。
 あの頃が良かったと、懐古主義に走りがちな老人になった。
 だから、年越し代行という介護者が必要になったんだろう」
「国の年越しにも介護が必要な時代、か……笑えないな」
 僕が鼻で笑うと、ジイサンも笑って、かぶりを振った。
「俺が言いたいのは、正しいとか間違ってるとか、そういう話じゃない」
40:以下、
「じゃあ何だよ」
 さっさとアイツのつまみを回しに行けばいいのに。
 いい加減、寒さで体が冷えてきて、ついイライラしてしまう。
「この世には、大きく三つの人間がいる。
 時代に取り残される者。時代に流される者。それと、時代を作る者」
 ジイサンは空を見上げ、深呼吸をするようにタバコの煙を少し大きく吐き出した。
「俺は言うまでもなく、取り残される者。
 そして、アイツはたぶん、流される者だろう。少なくとも、今のところは……だが」
「だが?」
「どうでもいいんだ。
 正しい時代が無いように、正しい生き方なんてどこにも無い。
 だから、俺はアイツに説教をしなかったし、自分が悪いとも思っちゃいないよ」
 ――やはり僕は、釈然としていない。
「正しさや貴賤は無いとしても、そうありたいと願う生き方はあって当然だ。
 ジイサンには、何かをしたいという欲は無いのかよ」
41:以下、
「長いこと、この仕事してると、色々と達観しちまうんだよ」
 ジイサンの笑顔は、嬉しそうでもあるようで、どこか寂しそうでもあった。
 それは、僕が勝手にそう思っただけかも知れなかった。
「色々な時代があり、様々な人の願いがあった。
 絶対的な正しさがあれば、世の中は今頃もっと平和だろうが、あるはずがねぇ。
 だから自分で見出すしかねぇんだ。正しさを。自分を取り巻くものの中に。
 その繰り返しだ。いつの時代も」
「だとしたら、俺が正しさを見出すべきは、この仕事じゃない……もう辞めようと思う」
「それがいい」
 実際、どうやったら辞められるのか、具体的な手続きは分からない。
 だけど、いい加減に限界だった。
「ジイサンはきっと、欲とかプライドが無さすぎたんだよ」
42:以下、
 チラッと、デロリアンの時計が目に入った。
 あと数分で年が明ける――僕達の一年間が消える。
「ジイサンの言う通り、人は誰だって、心のどこかに恥とか自負を持っている。
 それがあるから傷つくのだし、傷つきたくないから見栄を張る。
 俺は、時代遅れだなんだと周りからバカにされるのも嫌だし、誰にも認められないのも嫌なんだ」
 自分で言いながら、あまりに安くてちっぽけな自尊心が情けない。
 彼のように顔を上げて笑い飛ばす事が、どうしても気恥ずかしい僕は、俯きながら自嘲気味に笑った。
「機械でも出来る業務に人的資源を投入して、俺やジイサンのような時代遅れを生み出すこの仕事に、何の意義があるだろう。
 全自動化のご時世に、全部アナログでやっているこの年越し代行の方こそ、時代遅れとして淘汰されていけばいいのに」
「それでも、畳屋は死なない」
 顔を上げると、ジイサンはなぜか、とても嬉しそうにこちらを見ていた。
「どんなに需要が無くなっていこうと、ゼロになる事は無い。
 なぜだか分かるか?」
 彼が吐き出した真っ白な煙は、雪がまだらに散る暗闇に曖昧な彩りを与えていく。
「正しさが無い分、どっかで認めてくれる人は必ずいるもんだ。
 畳屋も、お前や俺みたいな奴でも……いつの時代もどこかにきっと、必要とする誰かが」
「――正しさが無いから?」
43:以下、
「役回りが違えば、違うなりの需要はあるんだよ。
 だから、俺もお前も、あのクソガキも皆同列だ……そうでもなきゃ、やってられんさ」
「――そうかもな」
 結局、ジイサンも自分に正しさを求めているというわけだ。
「それが正しいかどうかは別として」
「うるせぇ」
 ジイサンは笑いながら、タバコを僕の足元に投げつけた。
「ところで、本当に良いのか?
 アイツの年越し、しないままだと当局にどやされるだろ」
 もう時間が無い。
 もはや行動を促すというよりは、ジイサンがあの男を放っておく理由を聞きたいと思った。
「お咎め食らうのは、今日の俺じゃなくて一年後の俺だからな」
 おどけてみせながら、ジイサンは続ける。
「それに、俺だっておセンチにもなるさ」
「どういう意味だ?」
44:以下、
「アイツが年越しすりゃ、俺とアイツはますます離れていっちまう。
 たかが一年くらい、俺だけのために足踏みしてもらいたかった、って……そんだけだ」
「――ハッハッハッハ」
 なんて身勝手な理由だろう。
 あの男は、この人の気まぐれのせいで一年を棒に振るのか。
「懲戒免職待ったなしだ」
「大丈夫だよ。これまでも気にくわねぇ奴の年越しを何度も放置してきたが、口頭注意で済まされた」
「何度もあるのかよ」
「俺も何だかんだ重鎮だし、今さら当局も辞めさせられないんだろう。
 ま、アイツもどうせ無為に過ごしてんだろうし、俺のために棒に振る一年なんざ安いもんだ」
「ジイサンが言うことじゃないだろ」
 不謹慎だけど、あまりに清々しい不条理さに、腹の底から笑い転げた。
 男二人、深夜の住宅街で、大声で。
 近所迷惑を考えなくていいのは、このバッジを付けて初めて感じる有り難みだった。
「さて」
 お互い、ひとしきり吐き出した所で、ジイサンはおもむろに手を差し出した。
「お前が辞めること、当局には俺から伝えておく。
 世話になったな」
45:以下、
「――僕の方こそ」
 この手を握ったら、ジイサンともお別れだ。
 記憶を引き継げない事の寂しさが、今年は一層重く、強く押し寄せる。
 だが、当然に――僕はこれに、応えないわけにはいかない。
「俺が放っちまったこの世の未練があったら、代わりにお前が拾ってくれや」
「明日になったら、どうせ忘れてる」
「それでもいいさ。お疲れさん」
「――あぁ」
 僕は右手を差し出し、ジイサンと握手を交わした。
 その瞬間、彼はいつの間にか手袋をはめた左手を、僕の頭に突っ込んだ。
 カチリ、と――脳みその中で音が聞こえた。
「良いお年を」
46:以下、
 ――気づくと僕は、見慣れないマンションの一室で目が覚めていた。
 金が無いので銀行へ行くが、年始のこの時期は開いておらず、コンビニに行ってみる。
 ふと、コンビニのATMで金を降ろすこの動作に、デジャブを感じた。
 だが、正月なんて毎年一回必ず来るのだ。
 真新しくもなんともないし、既視感があるのは当然と言えた。
 ――そう、当然なんだ。
 わざわざ、自分の中で再確認しなければならないことに違和感を覚えたが、直に忘れた。
 意識を傾けなければならないものは、今の僕には他にたくさんある。
 足踏みをしてはいられない。
47:以下、
 更地になった場所に以前何が建っていたのか、思い出すのは難しい。
 新しい道路や建物は人々の記憶ごと街並みを上書きし、利便性と豊かさを与え続ける。
 高度に発達したインフラはあらゆる障壁や距離感を取り払い、人々の生活の度を際限なく早めた。
 昔好きだったアイドルは、軒並みオバサンになった。
 Jリーグのチーム数は発足当時から5倍以上になり、ヴェルディにはもうビスマルクはいない。
 ウルトラマンや仮面ライダーは今日も悪と戦い、マリオはクリボーを踏んづける。
 ペガサス流星拳の練習をしていた公園の子供達は、今頃ガチャを回しているだろう。
 国のトップが目まぐるしく入れ替わり、著名人の死を連日のニュースは報せていく。
 思い出したかのように災害は起き、当事者以外の記憶は蛇口の水のように溢れる出来事が薄め続ける。
 誰かが言った。
 いつだって、正しい時代は無い。
 今日も、どこかで誰かが時代遅れになるだろう。
 あるいは流され、あるいは時代を作っていく人がいるだろう。
 横浜駅がいつでも工事をしていて、街の畳屋が絶滅しないのと同じように。
 それは、いつの時も、どこかで自分を必要としてくれるものがいることの裏返しなのだと。
 駅の入口脇に停まった赤提灯の屋台を覗くと、若者がおでんを美味そうに頬張っている。
 場違いなのはあちらなのに、何となく僕の方が居心地が悪くなり、店に入るのをやめた。
 だが、あの人懐こそうな目に、今度は付き合ってみるのも悪くないかも知れない。
 次に出会えるのはいつだろう?
 いつか、あの赤提灯が見れなくなる日も来るのだろうか。
 来るとしても、ドラえもんが生まれる方が先だろう。
 たぶん、それが当然だ。
<了>
48:以下、

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