青葉「けしの花びら、さえずるひばり。」【前半】back

青葉「けしの花びら、さえずるひばり。」【前半】


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1:
前置き
・艦娘=適合する人間設定
・基本一人称ですが、地の文が入るかも
・他にも独自設定ありかも
・重い描写あり
・更新はまったり目
お読み頂ける際は、上記の点にご注意願います。
2:
夜の執務室を開けると、よく音楽が流れてるんです。
それはその日の任務も終わって、いつも司令官が 一人になる時間。秘書艦を務めることが多い青葉は、夜に用ができて執務室を訪ねることも多くて。
そのメロディと歌詞を、何となく覚えてしまったんです。
日々の中で、時折その曲を思い出しては、彼の顔が浮かぶんですよ。
どんな時も穏やかで、何が起きても焦ったりはしない。その冷静さに救われる事もあるけど、たまに、彼が怖くなるんです。
昔仲間が死…いや、沈んでしまった時も、彼はあくまで皆を慰める為に動き、同時に慌てるそぶりも見せなかった。
優しい鉄面皮だって、思ってしまう時があって。
司令官が笑うたび、執務室でよく掛かってる曲の一節が、頭を過るんです。
『笑いながら死ぬ事なんて、僕には出来ないから』って。
初めてそこに出くわした時、彼はタイトルを教えてくれました。
天国旅行。
彼にとっての天国とは、何なのでしょうか。
いつも取材として色んな事を探ってる青葉も、これについてはずっと訊けないままでした。
でも、記者魂と言う奴なのでしょう、青葉はその件に関して、結局深入りしてしまったのです。
結果として、確かにネタが出来ました。
ただしそれは、誰にも見せられない記事で。
これは、その記録です。
私とあの人だけの、秘密の。
3:
「おっはよーございまーす!」
「ああ、おはよう青葉。」
こんなやり取りで、青葉と司令官の一日は始まります。
司令官はキツネ顔と言いますか、目の細い方で。いつも穏やかなアルカイックスマイルを浮かべています。
温厚にして、仏の顔も三度までと言った事もなく。怒っている時を見た事がありません。
作戦時も冷静沈着、人に注意をする時も、諭すように的確に。
皆に好かれてはいますが…感情が見えなすぎて人間味に欠けると言う評価も、一部の艦娘からはありました。
元々ジャーナリスト志望だった青葉にとって、そんな彼は興味の的でした。
だって、気になるじゃないですか。提督としての顔を外した時は、どんな人なんだろうって。
もしかしたら、それは個人としての興味でもあったのかもしれません。
だから青葉は着任した時から、色んな質問を投げかけては情報を集めていました。
好きなものや趣味や、たまに恋愛遍歴なんかも訊いちゃったりして。
「今彼女さんとかいないんですか?」
「いないなぁ。結構前に振られちゃったんだよ。」
「ほうほう、どんな理由で?」
「何考えてるか分からないって。普通にしてただけなんだけどね。」
もしかして、プライベートも仕事と同じなんでしょうか?少し、元カノさんの気持ちもわかる気もします。
こうやって普通ならちょっと考えたり焦ったりしそうな質問をしても、彼は相変わらずでしたから。
そんな事を繰り返していくうちに、秘書艦を頼まれる事も増えてきました。
一番仕事以外でも話してる分、頼みやすいからと言った理由で。
秘書艦をやると言う事は、接する時間も増えるという事。そんな中で、青葉は徐々に、彼の素の顔にも触れていくのでした。
4:
“書類の印刷忘れちゃったなぁ、戻らなきゃ。”
ある夜の事でした。
1日の終わり、仕事の抜けに気付いて執務室に向かったんです。
それで扉の前に立つと、どこかで聴いた歌が聴こえて来ました。
“あれ、この曲確かお父さんが聴いてた…。”
その歌声は小さい頃、父が車の中で掛けていた音楽だった事を思い出して。
不思議に思いながら、執務室の扉を開けたんです。
“司令官…?”
司令官のそんな顔を見たのは、数少ない事でした。
無表情なんです。いつもの微笑も無く、まるで魂が抜けたようで。
でもいつもと違うように見えたのは、それだけじゃありませんでした。
“目が遠くに行ってる…疲れてるのかな。”
ノックをしても返事も無かったし、ぼーっとしていて、青葉にも気付かないまま。
思わず声を掛けて、やっと彼はこちらに気付いてくれました。
「…ああ、失礼した。忘れ物かい?」
気付いた瞬間には、やっぱりいつもの顔。
いざ変化するのを見ると、貼り付けた笑みに見えてしまって…その時、少し彼が怖くなりました。
「随分古い曲ですね、お好きなんですか?司令官の世代じゃないと思ってましたけど…。」
「ああ、思い出があってね。青葉もよく知ってるな。」
「お父さんが聴いてたんですよ。何て曲でしたっけ?」
「天国旅行。」
「あー!確かそんなタイトルだった!
…ところで司令官、この曲の思い出って何でしょう?気になりますねえ、お聞きしてもよろしいでしょうか?」
そうやっていつものノリで尋ねたのですが、せいぜい思い出話ぐらいしか返ってこないだろうと思っていました。
「……青葉、天国ってあると思うか?」
ところが返ってきたのは思い出ではなく、素っ頓狂な質問でした。
5:
「天国ですか…私達艦娘って、各々適合する艦の記憶を、ある程度共有してるわけじゃないですか。
それって幽霊が憑いてるようなものだから、きっとあると思います。」
この時は艦娘研修で習うような解釈しか、青葉には答えられませんでした。
でもそれを聞いた司令官は……。
「なるほどな…僕は見た事があるよ、天国。」
その瞬間、カッと目を開けて笑う司令官を、初めて見たんです。
ゾッとするような、普段は細い目の奥を。
「あはは…そ、それはどんなところだったんでしょうか?アレですか、お花畑が広がってるような…。」
「違うね。もっと素敵な所だ。」
本音を言うと、遅い中二病でも罹ってんのか!なんて思いましたねぇ。
仮にも三十路手前の方が、まさかそんな事を言い出すなんて。
「これを聴いてると、そこを思い出すんだよ。また行きたいなぁ…。」
相変わらず、目線は遠くを見たままです。こちらには目もくれない。
この時初めて司令官の腹の底を見た気がしたのですが、却って彼の事が、余計に分からなくなった気がしました。
分かった事なんて、彼はその天国にとても焦がれている事ぐらい。
少年のような純粋な目で語って、だけどとても不気味で。そこに気を取られている内に、流れていた曲の事なんてどこかに行ってしまいました。
彼の語る天国は、その曲がよく表している事にも気付かないで。
6:
また幾日か過ぎた頃でした。
たまにその日の戦況を収めた写真が司令官の元に送られてくるのですが、私はこれが苦手で。
戦況や殺傷効果のサンプルとは言え、要は死体写真です。自分の戦闘が終わった後も改めて見るのは、少々堪えるものがあります。
司令官はいつもの如く渡されたUSBを開いて、それを淡々と確認していました。
少しずつ分かった事なのですが、司令官の口が真一文字になる瞬間は、二つあって。
一つは真剣に作戦や資料に向き合う時と、もう一つは物思いに耽る時。
モニターに映る敵の写真は、それはひどい有様で。最期まで抵抗したが故に、どれも深い苦悶の顔を浮かべていました。
写真を見る司令官の口は、真一文字でした。
でも本当に何となくですが、後者のような気がしたんです。
それはこの前、天国の話をした時のような。
「さ!司令官!そろそろ次のお仕事に戻りましょー!」
「ああ、すまない。ぼーっとしてしまったね。」
物思いに耽る時の彼の顔は、あまり好きにはなれませんでした。
何か、底知れないものがあるような気がして。
7:
司令官は音楽がお好きなようで、ポータブル用のスピーカーを机に置いていました。
でもいつも掛けているわけではなく、流すのは、必ず一人になってから。
だから普段どういうものを聴いているのかは、夜も執務室を訪ねる青葉ぐらいしか知りません。
何というか…暗いものや、静かなものが多いんです。洋邦問わず様々なものが流れているのですが、一貫しているのはそれでした。
私はそこに出くわすと、特に歌詞に耳を澄ませるようになりました。
普段のアルカイックスマイルの裏は、その趣味の中にあるのかもって思って。
司令官はいくつかプレイリストを作っていて、その日の気分で変えていました。
でも一曲だけ必ず入っているのは、やっぱりあの曲で。
“泣きたくなるほどノスタルジックになりたい…かぁ。
司令官、泣く事なんてあるのかな?”
彼の方を見ても、やっぱり相変わらずの笑顔。
この時ふと、青葉は彼の人間らしい部分を見てみたいと思いました。
「司令官、この曲だけは毎晩聴いてますよね?もう段々覚えちゃいましたよ。」
「名曲だよ。何度聴いても落ち着くね。」
「…やっぱり、何か思い出でもあるんじゃないですかぁ?」
「思い出か…あるよ。」
「お!教えてくださいよー!」
「メモ帳を仕舞ってからにして。
そうだな……僕は、一度死に掛けた事がある。」
「………え?」
思わずペンを落としてしまったのは、その時の事でした。
8:
「昔怪我をしてね。臨死体験って言うんだろうか…夢を見たんだよ。
その時のことを、これを聴いてると思い出すんだ。」
「臨死体験って…そんなに危なかったんですか!?」
「意識不明でICU送りだったね。確か目を覚ました時は…ああ、怪我から5日ぐらい経ってたなぁ。」
「良かったですねえ…治って…。」
思いの外深刻なエピソードに、気が動転してしまいました。
だから深くは追求せず、そのまま寮に戻ったんです。
そのまま椅子に座って…青葉は、ある事を思い出しました。
“なるほどな…僕は見た事があるよ、天国。”
“これを聴いてると、そこを思い出すんだよ。また行きたいなぁ…。”
激しい悪寒が背筋を駆け抜けて行ったのは、その時の事でした。
同時に、ゾッとするような彼の目も思い出して。
“司令官……何があったんだろ?
よーし、こんな時こそ記者魂!吐き出させて楽にさせてやるんだから!”
この時青葉は、彼が何か深刻なものを抱えている気がしました。
だから、取材と称して吐き出させれば、彼ももう少し、人に素を見せられるんじゃないかって思ったんです。
これは、記録の1ページ目。
そして20歳前後の青葉の人生の中で、人と言うものを一番深く探った記録の、始まりなのでした。
11:
ある日の事でした。
姉妹艦でもある、同僚の衣笠からある噂を聞いたんです。
「青葉ー、聞いた?○○鎮守府の提督が行方不明だって。」
「え!何それ!」
「私用で出かけたっきり戻らないんだって。脱走扱いでそのままクビじゃないかって噂だよ。」
「あらー、大変だねぇ。駆逐にでも手え出しちゃったのかなぁ。ねえねえ、それっていつ?」
「三日前くらい。まああそこ、ブラ鎮だって噂もあったもんね…上に消されてたりして。」
「まさかー。」
三日前…確か司令官も、その日出張でいなかったよね。
翌日には帰って来ましたけど、思い出しても変な様子はありませんでした。
いつも通り、あの笑みで仕事に戻って。
いつも通り、取り留めのない話をして。
ただ少し気になるのは…何だかその日の音楽は、気だるいものが多かった気がする。そのぐらいでした。
12:
その日の夜、何となく執務室に行ってみました。
最近は大した用事が無くても、少し顔を出すようにしていて。
表向きは尻尾を掴んでみたいって考えでしたけど…実際のところ、やっぱり気になっていたんだと思います。
遠い目をしている時の司令官は、まるでどこにもいないみたいで。いつもの表情も相まって、少し心配だったんです。
扉を開けると、また音楽が流れていました。
色んな音楽を聴いてるけど、やっぱりどれも明るくはないなぁ。
「司令官、お疲れ様です!」
「ん?ああ、青葉か。」
「音楽タイムですね。今日は洋楽ですか?」
「シガーロスって言うんだよ。疲れた日に聴くなぁ。」
「おや?いつも笑顔な司令官でも、疲れる事があるんですねぇ。」
「おいおい、僕も人間だよ?さっき仕事終わったら、何だか腑抜けちゃってさ。こないだの出張の気疲れかなぁ。」
彼のぼやきを聞いたのは、その時が初めてで…何となく嬉しくなったんですよ。
何だか、少し心を開いてもらったような気がして。
「で、その時ガサがですねぇ。」
「あはは、あいつらしいね。」
この日は、いつもより長く雑談をしていました。
取材そっちのけで、最近あった面白い話や、他にもこぼれ話をたくさんして。司令官はいつもの顔でずっと聞いてくれていました。
…でも逆に、青葉の事を聞いてきたりはしませんでしたけど。
ちょっと、寂しいななんて。贅沢でしょうかね。
13:
その後眠る前に、青葉はスマホの音楽アプリを立ち上げていました。
それでネットで、1曲だけ購入してみたんです。今日もやっぱり流れていたあの曲を。
ひとりでじっくり聴けば、この曲が好きな司令官の事を、もっと理解できるんじゃないかって。
子供の頃、父が車で掛けていた時は、何だか怖い曲だって印象しかありませんでしたけど。
この歳で改めてちゃんと聴くと、寂しい曲だなって。そう思いました。
それと同時に、妙な既視感を覚えたんです。子供の時の記憶でもなくて…何て言うんだろ、ずっとそばにある光景みたいな。
“重体だったって言ってたけど…何があったのかな?”
8分間という、一曲としては長い時間。その間青葉は、司令官の過去についてずっと考えていました。
音楽の事はよくわからないけど…曲の最後のギターとピアノの音は、何だかとても穏やかで。人が死ぬ時って、こんな気持ちなのかなって感じて。
彼の事を、もっと知りたいって思いました。
14:
それで何度もリピートしてるうちに、寝落ちしてしまって…そのまま、夢を見ました。
曇り空の海と、原っぱと砂浜と。それ以外何も無い世界。
誰もいないし、周りは自然しかないのに、全部が無機質に思えました。
寂しい世界の筈なのに、それすら感じない。とても落ち着いた気持ちで、でも空っぽで。
『私』は、ただ呆然とそこに佇んでいたんです。
“司令官…?”
遠くの方に、彼がいました。
『私』が声を掛けても振り向く気配も無くて…嫌な予感がして、走ってそこに向かうんです。
それで彼の肩に手を伸ばした、その瞬間でした。
司令官が、消えてしまったのは。
足元には彼の軍帽だけが落ちていて、私はそれを拾い上げて…気付いたら、ボロボロに泣いていたんです。
相変わらず、悲しいも嬉しいも、どこかに行ってしまっていたのに。
15:
「んぁ…夢かぁ。」
そこで目が覚めました。
でも、夢って不思議ですねぇ…起きた時、あくびとは別で涙が伝ってたんですから。
その日青葉はお休みで、特に予定も無かったんです。
携帯は、昨日充電もせず寝落ちたせいで電池切れ。まぁ今日は急ぎの用事なんて…ってコンセントに差して、しばらく放っておいたんです。
それで再起動のバイブが鳴った後、直後に別のバイブが鳴りました。
“あれ、通知だ…誰だろ?”
『おはよう。今日は予定はあるかい?』
開いてみると、それは司令官からのメッセージでした。
普段彼が艦娘に送るものなんて、業務連絡の一斉送信メールぐらい。
でも今青葉の携帯に来ているのは、この前強引に聞き出したラインの方でした。
げ、来てから2時間も経ってる、早く返さなきゃ!司令官、今手ェ離せるかなあ…。
『ありませんけど、何かありましたか?』
『今日の任務は午前で終わるし、お昼でもどうかと思って。
最近秘書艦頑張ってもらってるからね、僕のおごりで。』
『ありがとうございます!もちろん行きますよ!』
『了解。終わったら連絡するよ。』
よかった…今は余裕あったみたい。
タダ飯のチャンスを、逃さない手はありません。起き上がって、すぐに身支度を始めました。
16:
休日に出掛ける時は、まず窓を開けてみます。
それでその日の天気と気温を見て、それから服を決めるんです。
今日は…ああ、曇りだし、結構冷えてるなぁ。
何かあったかくて可愛いのあったかな…メイクと髪は…って、デートじゃないんだから!あんまり気合入れすぎると、ガサにからかわれちゃうなぁ。
あ、でもかなり時間あるなぁ…つ、爪ぐらいは塗っても…。
そんなこんなで結局準備に追われて、終わったのは司令官から連絡が来る少し前でした。
うーん、気合入れすぎちゃったかも…ま、まあ、上司とご飯食べるんだし、このぐらいはするよね。
「あれ青葉ー、どうしたのそんな気合入れて。」
「ガサ!?い、いやぁ、ちょっと出掛けるからさ…。」
「へー…だ・れ・と・かなー?衣笠さんに教えて欲しいなー。」
厄介なのに見付かった!あ?…責められると弱いんですよ、青葉は…!うりうりって感じの笑顔で、もうおもちゃにする気満々です。
う?…ま、まあ、別にやましいことなんてないし、言っちゃえ言っちゃえ。
「う、うん、司令官にお昼行かないかって言われてさぁ。日頃のお礼だって。」
「えー、いいなー。でも最近よく秘書艦してるもんね。
ま、あの人青葉ぐらいにしか心開いてないし。」
「そうかなぁ?皆に優しい人じゃない?」
「優しいけど、なんか壁あるんだよね。
ふふふ、でもいいじゃん。記者が取材対象の秘めたる心を解き明かし、やがて恋に発展して…なーんてね!」
「ガサ!違うってばぁ!」
もう、そんなんじゃないし…あ、いけない!そろそろ行かなきゃ!
17:
駐車場に来てくれって言われていたので、青葉は指定された車を探していました。
えーと…あ、あれだ!もう乗ってる、待たせちゃったかな。
「すいません!遅れちゃいましたぁ!」
「ああ、大丈夫だよ。外寒いから乗ってただけだし、気にしないで。」
司令官はいつもの制服と違って、ラフな感じの私服です。
意外にカジュアルで、でもやっぱり大人だなぁって思いましたね。
司令官に連れて行かれたのは、海岸近くのパスタ屋さんでした。
普段青葉も含めた艦娘達は、バスで反対側の街の方に向かう事が多くて。こっちはあまり来た事がありません。
この辺も結構お店があるんですね。おー、ガラス張りのオープンテラスだ、おしゃれですねぇ。
でも今日は生憎の曇り空、外には寂しい感じの海が広がっていました。
18:
「メニュー見てるだけでも美味しそうですねぇ、ここにはよく来られるんですか?」
「普段は一人でね。コーヒー飲みに来る事の方が多いけど。ここでぼーっとしてるのが好きでさ。」
「おや、元カノさんとは来なかったんですか?」
「ああ、別れたのなんて僕が少佐に上がる前だしね。だから人と来たのは、青葉が初めてかな。」
それを聞いて、少しだけ嬉しくなりました。
でもそうか…司令官って今27とかだから、元カノさんもそのぐらいだよね。
…いつ別れたんだろ。青葉ぐらいの時だったのかな。あ、頼んだのが来た。
「わぁ…ほんと美味しそうですねぇ!司令官、いただきます!」
お腹も空いていましたし、そんな思考も目の前のパスタに追いやられていました。
…いや、自分で追いやったのかもしれませんが。
パスタも食べ終わった頃、司令官は出されたコーヒーを飲みながら、ぼんやりと海を眺めていました。
いつものアルカイックスマイル。 でもそれを見る目は、執務室で音楽を聴いてる時のあの目に見えてしまって…何だか、ちょっぴり切ない気持ちになりました。
…きっと私が、そう見てしまっているだけなんでしょうけども。
19:
「司令官!ご馳走様でした!」
「どういたしまして。あ、そうだ。少し食休みに歩かないか?」
お店を出た後、司令官に誘われるままに海岸を歩いていました。
海風は少し肌寒いけど、湿度があるからか、そこまで芯に来る感じではありません。
「歩き慣れてますねえ。いつもここに来るんですか?」
「そうだね。あの店に行った後は、こうしてよく散歩してるんだ。
いつもあの大岩に乗って…ああ、結構高さあるから気を付けてね。」
「とと、ちょっと青葉には高いですねえ。」
「ほら、掴まって。」
そうやって伸ばされた手を掴むと、とても冷たく感じました。
よく手が冷たい人は心が暖かいって言うじゃないですか?
ご飯に連れてってくれたり、今もこうして引っ張ってくれて…司令官は、やっぱり優しい人だって思いました。
でもこの時、青葉はこうも思ったんです。
“司令官の、本当の心の奥はどうなんだろう?”って。
20:
岩に乗って、そしたら強い風が吹いて。
やっと目を開けた時、青葉の中を既視感が駆け抜けて行きました。
“あれ?ここって…”
そこは、丁度海岸の曲がり角で。
左には枯れ草だらけの原っぱが広がって、右には曇り空と静かな海。
その寂しい景色は、今朝夢の中で見た場所にそっくりでした。
「静かな場所ですねぇ…。」
「散歩の終わりは、いつもここに座って時間を潰すんだ。特にこんな天気の日はいい。
そうすると落ち着くんだよ…天国みたいだろ?」
天国。
その言葉が聞こえた時、何故かチクリと胸が痛みました。
…こんな寂しい場所が天国って、どう言う事なんだろう?
「青葉、今日は付き合ってくれてありがとね。いい気分転換になったよ。」
「いえいえ、ご馳走様にもなっちゃいましたし…こちらこそ、ありがとうございます!」
いつものテンションで返事をして、帰りの車も同じように話をして。その実、青葉の胸中は複雑でした。
触れれば触れるほど、彼の事がわからなくなってしまう気がして…記者失格ですねぇ。
でも今日話した事や、今までの事も総合して…少し、気になる事が出来ました。
21:
司令官と別れて部屋に戻ると、青葉は真っ先にパソコンを立ち上げました。
ここのネット回線は当然軍のもので、各々のパスを入れるとある物が見れるんです。
それはweb資料館と言いますか、過去にあった戦闘の記録の類です。
例えば作戦と戦闘内容や、死者数や生存者数のデータベース。
それを仮に漏れても大丈夫な分だけまとめて、各々自分の戦闘の参考に出来るように作られているんです。
死に掛けるような事なんて、この職務に就いていると真っ先に浮かぶのは、やっぱり戦闘です。
司令官は27歳…深海棲艦との戦いが始まったのは、4年前。
キャリア組の彼ですが、その頃であれば最前線にいたっておかしくはない。
記者魂だって自分に言い聞かせて、その頃の記録を探りました。
だけど本当は…見るのが怖かったです。嫌な予感がしてしまって。
22:
『-月-日。深海棲艦による、各海域に於いての初回襲撃に於ける戦闘記録。』
これは、一番軍の方達が亡くなった時の戦闘記録です。一つ一つを見ても、死者数の方が圧倒的に多い。
スクロールをする手は震えていて…それでも青葉は、その手を止める事が出来ませんでした。
そんな中で、とある記録が目に留まって。
『○○県沿岸、__鎮守府第一部隊。死者数・38名。生存者数・1名。』
他にも沢山の方が亡くなられていますし、生存者の方も沢山います。
これがそうだなんて確証は、どこにもなくて。
けれど……ああ、嫌な予感は、きっと当たってしまうのだと。その資料を見た時思いました。
彼の好きな曲が描く世界。今朝見た夢や、今日行った海岸。
それと、彼が焦がれた目で語った、天国と言う言葉。
それらが頭の中を次々と駆け巡って…何故か青葉の手は、涙で濡れていました。
司令官…あなたは、どこにいるんですか?
何でそんなに、いつも笑顔なんですか?
あなたは、何をその中に隠しているんですか?
もっと真実に近付きたい。
青葉がそれを暴いてしまえば、彼は笑顔なんて貼り付ける必要はなくなるって、楽になれるんじゃないかって…その時はただ、彼の事を思っては悲しくなっていました。
本当は苦しんでいて、いつか自殺でもしてしまうんじゃないかって。
でも…真実と言うのはいつも、大体は残酷で悪い方にドラマティックなのだと。
青葉は、この件でそれを学ぶ事になるのでした。
25:
それから何日か過ぎた日の事です。
その日の戦闘で、仲間が一人死にました。
司令官は撤退の指示を出していたのですが、撤退中、敵の別働隊が奇襲を仕掛けたようで。
その際に、仲間を庇って亡くなってしまったそうです。
この戦争の情勢は、確かに今は優勢でした。少なくとも、普通の生活を送れる程度には勝ち進んではいて。
それでも戦争である以上死ぬ可能性は、全てを避けては通れない事。頭では分かっているのですが…やっぱり、悲しいものは悲しいんです。
それは皆も同じで…司令官はそんな中、いつもの笑みも無く、一人一人に慰めの声を掛けていました。
あくまで慌てる様子も、悲しむ気配もなく。淡々と真剣な顔で。
26:
亡くなった子は元々身寄りがなくて、遺体の引き取り手がいませんでした。
それでも鎮守府でお葬式はして…さすがに全員とは行きませんでしたが、司令官と姉妹艦の子達が火葬に付き添いました。
青葉は、よく皆の写真を撮っていて。
遺影に使われたのも、一緒に荼毘に付された思い出の写真も、全部青葉が撮ったものでした。
仲間を亡くしたのは、初めての経験で…そして年端も行かない子の死に直面する事も、やはり同じで。
全てが終わったその夜、青葉は執務室を訪ねました。
情けない話ですが、その夜はひとりになる事が怖かったんです。何となくですが…ガサじゃなくて、彼のそばに行きたくなって。
今は徹夜明けの上に事後処理で忙しい筈で、申し訳ないとは思いつつも、青葉はノックする手を止める事が出来ませんでした。
27:
「青葉か…お疲れ様。」
扉を開けると、彼はいつもの笑顔で出迎えてくれました。
その子が亡くなった報せ以来、見ていなかった顔。それを見た時、少しだけ安心している自分に気付いて。
「お疲れ様です…あの子、随分ちっちゃくなっちゃいましたねぇ…。」
「君の撮った写真は、あの子の手に握らせておいたよ。たまには思い出せるようにね。」
「…ありがとう、ございます……。」
改めてその話を聞くと、涙が止まりませんでした。
だめだなぁ、最近泣き虫だ…でも司令官は、相変わらずの笑顔でこう言ってくれました。
「……青葉、おいで。」
もう、だめでしたね。
青葉は彼の胸に縋り付いて…遂に、嗚咽を堪えられなくなっちゃいました。
彼は相変わらず、怒りも悲しみも見えなくて。それは人によっては、冷たいものに見えるのかもしれない。
でもこの時の青葉にとっては、それが何よりの救いでした。
「何も言わなくていいよ…あの子なら、きっと穏やかな場所に行けたはずだ。」
この時彼は、何度か口にしていた天国と言う言葉を使いませんでした。
穏やかな場所。司令官…そこはあなたの焦がれている場所とは、違うんですか?
あの子を失った悲しみと、この前彼に抱いた不安がぐちゃぐちゃになって。
余計に涙を堪える事が出来なくなりました。
それでも抱き締めてくれる腕は、優しくて。
青葉は、いつしか泣き疲れて眠ってしまっていたのです。
28:
目を覚ますと、そこはソファの上でした。
司令官が上着をかけてくれていたみたいで、寒くはありません。机の方を見ると…彼は、座ったまま寝ているようでした。
寝顔は当然、無表情です。いつもの貼り付けた笑みとも、物思いに耽る時の物とも違う無表情。
まるで、死に顔みたいで。
司令官はTシャツだけで、彼が腕を出している所は初めて見た気がします。
それで上着をかけてあげようと近付いてみると、腕時計が見えました。
それは彼がよく付けている、ベルトが四角い文字盤と同じ幅のものです。
少し体勢を直してあげようと、手首を掴んで…青葉は、見てしまいました。
ベルトの端から少しだけ覗く、彼の手首に引かれた傷を。
29:
「ん…ああ、掛けてくれたのか。ありがとう。」
「あ……いえいえ!こちらこそすみません…寝ちゃってたみたいで…。」
起き上がった時、彼が浮かべたのはいつもの笑顔でした。
でも…見ちゃったんです。目を覚ます瞬間の、彼のぞっとするような冷たい目を。
暗いとも、病んでいるのとも違うんです…それはただただ、空虚な目で。
「さて、今日からまた通常任務か…あの子の仇、ちゃんと取らないとな。」
「はい!あ、司令官、ごめんなさい。ちょっとシャワーだけ浴びてきてもいいですか?」
「いいよ、行っておいで。」
それで逃げるようにシャワー室に向かって、青葉は一心不乱に頭からシャワーを浴びていました。
人肌程度のお湯が、次々排水溝に吸い込まれて…さっき見ちゃったもののせいでしょうか、一瞬だけ、それが血に見えてしまって。
…青葉はきっと、彼の事を好きになりかけているのだと思います。
だからこそ、もっと彼を知りたいと思ってしまう。
なのにそうやって近付く程、謎ばかり増えて行く。ますます、わからなくなる。
それでも彼の事を考えると、胸は暖かくて…どうしたらいいのか分からなくて、青葉はまた泣いちゃいました。
シャワーの温度と涙の温度は、あんまり差がないように思えました。
涙が流れてる感覚だって、今は目元にしか感じない。
だけど…まるで、身も心にも涙を浴びているような。そんな感覚に陥っていました。
31:
しばらくは、変わらない日々が続きました。
らしくないですねぇ…あの日以来、青葉は彼の過去に触れようとはしなくなっていました。話をしに行っても、本当に他愛の無い事しか言えなくなって。
時計から見えた手首の傷跡は、かなり深いもので。
本当の事を知りたいとは思うけど…いざ司令官を目の前にしてしまうと、何も言えませんでした。
彼が死に掛けた理由は推測通り、過去の戦闘なのか。
それとも、意図して命を落とそうとしたからなのか。
考える程、いつもの彼に接する程…余計にわからなくなって。
でも、彼と過ごす時間は、青葉にとってはとても穏やかなもので。
日々の任務や秘書艦を終えたら、その板挟みで部屋で悶々としてしまうようになっていました。
イヤフォンを付けて、机に突っ伏して。携帯から流れて来るのはやっぱりあの曲で。
『汚れた心と、この世にさよなら。』
そのフレーズが流れる度、彼がいつもの笑みのまま、どこかに消えて行ってしまうような景色が浮かぶのでした。
32:
「……葉ー?青葉ー?……無視すんなってーの!!」
「いったぁ!?ガサ?、なにすんのさぁ!」
そうやってぼーっとしていたら、イヤフォンをぴっと抜かれました。
どうも隣室のガサが来ていたようです。
「あんたがノックしても返事しないからでしょうがー。あれ、体調悪いの?顔色悪いけど。」
「へ?そうかなぁ、元気だよ?」
「…ははーん、提督と何かあったなー?」
「な、何でそうなるの!」
姉妹艦としては妹にあたるけど、人としてのガサは、実際は青葉の一つ年上で。
青葉が何か悩んでいたりすると、時折こうしてからかってきたりするのでした。
隠し事の出来ない親友と言うか、お姉ちゃんと言うか…そんな間柄なんです。
「青葉は突っ込まれると弱いもんねー。わかりやすいよ?
…話してみたら、楽になるかもしれないじゃん?ほらほら、衣笠さんにおっまかせー♪」
「う……司令官にも関わる事なんだけどさ…誰にも言わない?」
「大丈夫だって。ほら、ちゃんと聞いてあげるから。ね?」
「う?…ガサ?…!」
「よしよし、あんた本当は泣き虫だもんね。」
ぽんぽんと頭を撫でられたら、いつもガサの前では我慢が出来なくなっちゃいます。
結局、青葉は最近あった事や考えた事を、全部ガサにぶちまけたのでした。
33:
「……なるほどねー。」
「うん…司令官、何があったのかな…。」
側から見たら、きっと馬鹿馬鹿しい話なんです。
でもガサはからかったりせず、最後まで話を聞いてくれました。
「提督変わってるねー。確かにそりゃ心配にもなるよね…でも、まだその戦闘に関わってた確証はないんでしょ?
手首の事だってリスカじゃなくて、その死に掛けた時の怪我かもしれないじゃん?機械で事故ったとかさ。」
「うん…でも、時々消えちゃうんじゃないかってさ。」
「ふふ…悩んじゃってー。あんた本当に提督が大好きなんだね!」
「え!?ち、ち、ち、違うよぉ!青葉はただ、秘書艦として心配で…。」
「かわいいなぁ。いい?そうやって四六時中意識してる段階で、もう手遅れなんだよ?受け入れちゃえば楽になる。
…それにさ、あれだけ素を見せない人が、青葉には見せてくれてるんだもん。悪いようには思われてないって。
もし青葉の思う通りだったとしてもさ…それはあんたにだけ出してるSOSかもしれないでしょ?」
「そう、かなぁ…。」
「しっかりしなよ、ジャーナリスト!
真実を追い求めるのがあんた、暴かれる事で救われるものもあるかもしれないじゃない!
衣笠さんは、青葉の恋を応援しますってね!」
「うん…そうだよね!ガサ、ありがとう!」
「ふふーん、衣笠さん最高でしょ?青葉は元気が取り柄なんだから!」
この時ようやく、青葉はこの感情が恋なのだと受け入れる事が出来たのでした。
理由なんて、別にいらないか…青葉はただ、あの人が好きになったから、知りたくなった。それだけなんだよね。
そうだよね…真実に近付くのが記者魂!心の闇も扉も、青葉にお任せ!
よーし、待ってろあの鉄仮面!絶対本当の笑顔、引っ張り出してやるんだから!
34:
『prrrrr....』
「はい、もしもし。」
深夜、あるベッドルームに電話が鳴り響いた。
それを受けたのは、貼り付けたような笑みを携えたとある男だ。
その電話の向こうからは、老人の声が響いていた。
『私だ。すまないな、連絡が遅れてしまって。』
「これはこれは、元帥殿。あの件でしょうか?」
『ああ。死体の始末だが、そちらも上手く行ったようだ。これであの件は、粗方ケリが着いたはずだ。』
「そうですか。後任は決まりそうですか?」
『××鎮守府の大尉が少佐と司令官に繰り上がる。それで補填だ。
彼は何も知らないし、代理時の作戦で戦果を挙げたからね。周囲からすれば、抜擢にしか見えないはずだ。
…すまないな。海軍の為とは言え、よりによって君のような若者にあんな役目を…。』
「いえ、立候補したのは僕ですから。お気になさらず。」
『身内の不始末は、身内でケリを着ける。それを決めたのは私だ。
有事の際は、責任は全て私が取ろう。君に迷惑は掛けない。
…初めて人を殺した感覚は、どうだった?』
「虫を殺すようなものでしたよ。銃を撃つ時、殺虫剤を使う気分でしたね。」
『ふふ…恐ろしい男だよ、君は。君がもう少し老けていたのなら、私のポストを譲っていたのだがな……では、失礼する。良い夜を。』
「はい、おやすみなさい。」
電話を置き、彼はベッドに腰掛けると一丁の銃を取り出した。
残弾数を確認すると、二発だけ弾が減っている。
それを確認するといつもの笑みを浮かべたまま、彼はこう呟いた。
「あーあ……期待外れだったなぁ…。」
そう落胆の言葉を吐きながらも、男は尚も笑みを崩さずにいた。
ようやくその笑みが消えたのは、彼が眠りに就いた時の事だった。
40:
「司令官。言いづらかったら申し訳ないんですが……その…元カノさんって、例えばどんな見た目の方だったんでしょうか?」
翌日、青葉は早、聞けずにいた事の一つを司令官に尋ねました。
以前からそうでしたが、特に嫌な顔も切なげな顔もしないあたり、やはり吹っ切れているのは間違いありません。
じゃあなぜこんな事を聞くのかと言えば…正直、司令官の好みを探ってみたいと言う下心もありました。
それと、彼の過去へ繋がるヒントも。
かなり前だと言っていた通り、司令官はしばらくその頃の事を思い出している様子でした。
「そうだね…まず、物静かで…。」
う。
「儚げな感じの…。」
う"。
「黒髪の…。」
う"…。
「どちらかと言えば、可愛いより美人って感じの人だったかな。」
う"???!!!
hit→hit→hit→critical hit!って具合に心にコンボを喰らいました。残念ながら青葉、かすりもしません!
で、でも負けないんだ!司令官みたいな人には、やっぱりグイグイした子じゃないと!青葉とか!青葉とか!!!!
それに…振られてるんだもんね。
でももし、例えば心が壊れるようなひどい振られ方されてて、それがあの手首の原因だったら…。
そう考えた時、メラメラとしたものが青葉の中に芽生えました。
いや、待て待て、そんなの考えちゃダメ…まず取材段階は、ありのままを見極めなくちゃ。
そうだ、他にも思い出話とか聞いちゃえ!
41:
「び、美人さんだったんですねぇ…どんなお付き合いをされていたのでしょうか?」
「本当に普通の恋愛だよ。
彼女は二つ年下の、軍の事務員でね。僕が最初にいた鎮守府で出会ったんだ。」
「その、馴れ初めとかは?」
「僕の代の新歓だね。情けない話なんだけど、その時上官に潰されてね。目が覚めたら、その人に膝枕で介抱されてたんだ。
それで後日お礼をしようと声を掛けて…きっかけはそこからだったかな。」
はぁ!?膝枕ぁ!?
ふ、ふふふ…青葉、今なら心のカットイン決めちゃいそうです……ちぇー、いいなぁ…。
でも…飲み会で潰れてたり、やっぱり昔は今より人間味はあったんでしょうね。
司令官、今はお酒も殆ど飲まないし…休日もあのお店でコーヒー飲んだり、一人で出掛けている事ばかりみたいで。寂しくないのかな?って思っちゃいます。
そうだ、今度司令官とお休みが被る事があったら、誘ってみよ!街の方はきっと、青葉の方が詳しいはずだし!
42:
その3日後。
青葉達は演習の為、遠くの鎮守府へと向かっていました。
演習と言っても、艤装を付けて海上を移動なんて事は無く。燃料節約の点で、普段の移動は陸路です。
大体は艤装を整備さんのトラックが運んで、艦娘達はバスで移動するのが常でした。
それで青葉は、司令官の隣の席に座っていたんです。
「のどかですねぇ。」
「青葉、ここは僕が住んでいた街でもあるんだ。今日の演習先は、最初にいた鎮守府でもあってね。」
「え、そうなんですか?」
その頃住んでた街って言う事は…じゃあ、元カノさんとの思い出の街でもあるんだ…。
海岸の方を見ると、ポツポツとカップルの姿も見えて…司令官も、その人とああして過ごしてたのかなぁなんて。ちょっと切なくなっちゃいました。
司令官はと言えば、相変わらずいつものアルカイックスマイル。特に何かに浸っている様子もありません。
事務員かぁ…もしかして、まだ働いてたりして。
そんな事を考えながら、青葉はバスに揺られていました。
43:
大体の鎮守府には集会所があって。演習の休憩や待機の時、艦娘達はそこに集められます。
それは数少ない他の鎮守府との交流の場でもあって、そこで友達が出来たりする事もあったりして。
そうして青葉がいつものように待機していると、ある艦娘さんが目に付きました。
“わあ、きれいな人だなぁ…。”
その人は和風な制服を着ていて、大和撫子と言った風。青葉とは大違いで。
確かあの制服は…ああ、戦艦だっけ。
そんな風に眺めていたら、その人と目が合ってしまって。
彼女は一度青葉の方を見て微笑むと、こちらへと近付いてきました。
「初めまして…こちらに所属の戦艦・扶桑と申します。
__鎮守府の方ですよね?今日はよろしくお願い致します。」
「あ…はい!恐縮です!重巡・青葉と申します!本日はよろしくお願い致します!」
間近で見ると、いい匂いがして…見惚れてしまった青葉は、少し返事が遅れてしまいました。
それですぐに、司令官の言っていた事が頭を過ぎったんです。
“物静かで儚げな黒髪美人…ま、まさかねえ…。いや、違うでしょ。事務員だって言ってたし。”
でもそんな予想も、あっさりと裏切られてしまうのでした。
「__さんは、お元気でしょうか?」
そう呼ばれたのは、司令官の本名で。
ああ…やっぱりそうなんだって。その瞬間は、それ以外何も浮かびませんでしたね。
44:
「……あ。え、ええ!相変わらずいつも笑顔ですよ!
うちの司令官とはお知り合いでしょうか?」
「ふふ…私は元々、ここの事務員だったんです。
その頃彼にはよくお世話になっていたので…元気そうなら何よりです。」
「お!昔からあんな感じだったんでしょうか?司令官は少し変わったお方なのですが…。」
「うふふ、それなら相変わらずみたいね。よく音楽聴きながら、海を眺めたりとかしていないかしら?」
「よくやってますねー。うちの鎮守府では、近くのカフェに行って……。」
この時青葉は、心底自分の事を白々しいなと思いました。
あれだけヤキモチ妬いてたのに、いざ本人を前にすると、勝てないなぁなんて思っちゃって…。
それで世間話をしている内に、集合時間になったので、一度扶桑さんと別れたんです。
また後でよろしくお願いします!なんて言って、手なんか振っちゃったりして。
だから、その後彼女が囁いた言葉なんて、青葉には聞こえてなかった。
「青葉ちゃん…彼はもう誰にも………壊れてさえ、いなければ。」
この時彼女が呟いた言葉と同じ事を、後に青葉は思う事となるのでした。
それはもう少し、先の事でしたけど。
45:
演習そのものは、いつものように進みました。
指示席は全体が見渡せる位置にあって、当然司令官からは全てが見える。
味方は勿論、対戦相手一人一人の顔だってそうで。
相手方の旗艦は扶桑さんで…でも司令官は、声色一つ変えず、青葉達に的確な指示を出していました。
その日の演習も終わって、この日は近くの民宿に泊まったんです。
宿の目の前に砂浜が広がっていたのですが、演習明けの艦娘は花より団子。この日の面子で集まって、まったりとお酒を飲んでいました。
「あれ?そう言えば提督どこ行ったの?」
「さっき出てったきりですねぇ。あ!じゃあ青葉、探してきまーす!」
裏口から砂浜に出ると、やはりいました。
岩に座って、ぼんやりと海を見ているようです。
「司令官、ここにいたんですね!」
「青葉か。少し夜風に当たりたくなってね。」
青葉はしれっと隣に座って、司令官の顔を見てみました。
月明かりに照らされるのは、やはりいつもの微笑で……でも、青葉が声をかける前はどうだったんだろ?って。
そう思うと、胸がぎゅっとなりました。
でも、確かめなきゃいけない。
思い切って、彼に話を切り出しました。
46:
「司令官の言ってた元カノさんって…あちらの扶桑さんの事ですよね?見た目でそうかなって…。」
「ああ、そうだよ。元気そうで良かった。」
「ふふー、お顔を見て、切なくなったりしちゃいましたかぁ?」
「んー…ある意味、そうかもね。」
そう笑う司令官は、どこか寂しそうで。
それを目にすると、今度は痛いなって思うぐらい胸がぎゅっとして…でも悟らせたくなくて、青葉は必死にいつもの顔を作っていました。
「僕の中では、彼女の事は完全に吹っ切っていてね。未練は無い。
それでもいざ顔を見たら、何か感慨ぐらいあるかと思ったんだけど…自分でもびっくりするぐらい、何も感じなかったよ。
やっぱりそう言うものなんだなって思ったね。」
「……そう、ですか。」
悲しいような、嬉しいような。そんな気持ちになりました。
司令官が寂しく感じたのは、何も感じない自分に対してで…裏を返せば、何か感じて当たり前だって思うぐらい、二人にはドラマがあったのかもしれません。
それに…過去に執着も無いけど、今誰かが彼の中にいるわけでも無いんだなって、分かってしまって。
「……今、好きな人はいないんですか?」
「ふふ、ご想像にお任せするとだけ言っておくよ。」
心なしか、いつもより柔らかく笑ったような気がして。
でもそれは、何だか妹分をあやすような、そんな感じの笑みで。
…ああ、隣にいるのに、何でこんなに離れてるんだろ。
心地いい海風と月明かりに照らされたような、ロマンチックなシチュエーションです。
それでも青葉は…それ以上は、彼の方へ近寄る事は出来ませんでした。
48:
数日前の事だ。
この日各鎮守府の司令官は、秘密裏にとある料亭に集まっていた。
それは、一人のある司令官を除いての密談。
そして彼らが交わしている議論は、その省かれた男についてのものだった。
「あのブタ野郎!やりやがったな!」
「ああ、これがバレたら世論からの攻撃は免れない…うちの子達にも迷惑が掛かる。」
「クソが…!立場を傘に好き勝手しやがって…艦娘を何だと思ってるんだ!!ブッ殺してやる!!」
皆一様に苛立ち、激しい怒りを隠せずにいた。
その殺伐とした空気の中、一人の老人が手を挙げた。
「静粛に。」
その老人の正体は、彼らの元締めである元帥だ。
ロマンスグレーの髪と皺が目立つが、彼の目は、ここにいる者達の中で一際鋭いものを放っていた。
49:
「欲望に身を任せた末、駆逐艦の少女を強○のち殺害…そして遺体を焼却炉で処分。
これは査察官の聞き込みと、調査の際押収された骨片から見ても間違いない。奴はバレていないと思っているがな。
ただでさえ女子供を戦場に送っているのだ…これが明るみに出てしまえば、更なる世論からの攻撃は免れないだろう。
しかし平和を何とか保てているとはいえ、今は戦中だ。今の優勢に、綻びを生じさせる訳にはいかん。
だが…同時にこれは海軍としても、人間としても許せる筈が無い。」
ギラリとした視線が前を捉えた瞬間、一同は無言でその言葉に頷いた。
元帥は一人一人の顔を確かめると、再び語り始めた。
「憲兵を使えば必然的に軍全体に伝わり、隠し切る事は難しいだろう。
そこでだが…私は身内の不始末は、身内で着けるべきだと思う。
奴を粛清するのは、私がやろう。
君達は口裏を合わせるだけでいい、協力してくれないか。」
皆一様に無言だが、気持ちは同じだった。
直後一同は頷き、決意の果ての緊張感が部屋に走っていた。
だがそこに、一人の若い声が響いた。
50:
「元帥殿、殺害は僕に任せていただけないでしょうか?」
「__君…だが、君のような若者に手を汚させる訳には…。」
「僕だからこそですよ。
元帥、お言葉ですがあなたはお年を召されている…もし激しい抵抗があった際、何よりあなたの身に危険が及びます。」
「確かに、老いには勝てん節もある…しかし…。」
「あなたの代わりはいませんが…この中では若輩な僕の代わりなど、いくらでもいます。
今ここであなたに命を落とされては、それこそ戦況が傾きかねない。
僕は皆様と比べても、まだまだ経験が浅い。そして、これから士官となる若者は沢山います。
危険であるからこそ、ここは任せていただけないでしょうか?」
視線が交わる。
元帥は射抜くような目を青年に向け、その内側を探っていた。
青年はいつもの微笑を携えているが、その薄目の奥にあったものを確かめ、元帥は溜息を一つついた。
「……わかった。そこまで言うのならば、殺害は君に任せよう。
我々一同は、__君を全力で支援する。
……だが、__君。」
直後、青年の体が弾き飛ばされた。
元帥の拳が、彼の頬を射抜いたのだ。
「命を粗末にするのはいただけんな…今回は折れるが、君の代わりもいないのだ。
今は分からんかもしれんが、年寄りの小言、忘れてくれるなよ?やるならば、必ず生き残れ。」
帰りの車中、青年は自らの運転で高を駆ける。
車内には彼一人。鳴り響く声は、カーステレオからの音楽のみ。
もう何度聴いたか分からない曲に耳を澄ませながら。
青年は、不気味に微笑んでいた。
51:
青葉は雑学を調べるのも好きで、よく気になった事柄をネットや本で調べて回っています。
一日を終えた時、そうして部屋で過ごすのが主な休息で。
この時は、何となくある植物について調べていたんです。
“スギナ…難防除雑草であり、その栄養茎をスギナ、胞子茎をツクシと呼ぶ。根が深い事から、地獄草とも呼ばれる。
つくしんぼうって、地獄草なんて言われてるんだ…。”
春によく見る、立ち尽くすようなあのツクシ。
その資料を目にした時、不意にあの歌と、彼の事が頭を過ぎりました。
地獄に立ち尽くす…司令官の心は、そこにいるのかな?って。
52:
「司令官!おっはよーございまーす!!」
「ああ、おはよう。おや、今日はどうしたんだい?」
「ふふー、たまにはイメチェンでもと思いまして!」
「よく似合うと思うよ。」
「恐縮です!」
この日秘書艦だった青葉は、髪を下ろして執務室に行きました。
せっかくだし、ちょっとギャップでも付けてやろうかなー、なんて思ったので。
…まあ、扶桑さんの事を意識してないと言えば、嘘になりますけど。
しかし司令官はと言えば、それからは相変わらず。髪下ろしただけだし、そんなもんかなぁ。
無意識に異性に反応してしまうのは、男女問わず悲しい性だとは思うのですが…スタイルの良い方に対しても、彼は日頃そう言う素振りを見せませんでした。ま、まさかこの人、生物として必要ラインの性欲すら無いんじゃ…。
でもあの人と付き合ってたって事は、勿論そう言う事もしてたよね…となると、青葉の色気が足りないだけかぁ。
窓を見れば、今日の天気は大荒れです。
敵は暴風雨の日は活動が止まる習性があるのですが、こちらもこうなると動けません。
今日の出撃は中止になり、やる事と言えばひたすら事務作業。外からの訓練の声も今日は聞こえず、雨音とキーボードの音だけが響いていました。
53:
「ひゃっ!…びっくりしたぁ、割れるかと思いましたよ。」
うちの鎮守府は建物が古くて、こんな日は時折窓がガタつきます。
業者を入れての工事も進めてはいるのですが…運営しながらではなかなか追い付かなくて、今でも雨漏りの報告がちらほらと。それは執務室も例外では無くて。
「おや、雨漏りですねぇ。」
「仕方ないな、バケツを置こう。」
ただの雨漏りだろうと思って、司令官がバケツを置きに行ったんです。
それで下にセットした瞬間…
『ばしゃっ!』
かなりの量の水が、彼の頭から降り注ぎました。
「司令官!大丈夫ですか!?」
「溜まってたのか…大丈夫だよ、濡れただけさ。青葉、着替えるから少し背を向けていてくれないか?」
「は、はい!」
青葉は異性の着替えは気あまりにしないのですが、こう言われたらさすがに目を伏せます。
うん、でも意中の人の上裸…ちょ、ちょっとぐらいなら……。
青葉とタンスの位置は、今は丁度背中合わせ。ばれないだろうと思って、こっそりとチラ見しちゃいました。
“え…?司令、官……。”
そこで目に入ったもの一つ一つは、写真の様に脳裏に焼き付いたのです。
でもそれは、見惚れてしまったとかじゃなくて…ショッキングな記憶として。
54:
背中の火傷の痣に、脇腹や肩に走った、恐らく破片が掠ったであろう傷跡。
引き締める方に鍛えられた体と相まって、それは随分と痛々しく見えました。
この時青葉は、確信を得たのです。
この戦争が始まった時、やはり彼は最前線にいたのだと。
「…こらこら、見ちゃダメだって言っただろ?あまり良いものじゃないんだから。」
「あ…ご、ごめんなさい…。」
そういつもの微笑で注意をする彼ですが…身体と見比べてしまうと、首から上はいつもより貼り付けたように見えてしまって。
「司令官…その怪我は、いつのものですか?」
「古傷だよ。あれは最初の襲撃だったね…僕はまだ新人で、最前線に派兵されたんだ。その時のものさ。」
具体的に何があったのか、彼がそれ以上を語る事はありません。
青葉の見た記録では、どの部隊も多くの人が亡くなっていて…彼が仲間の死に立ち会って来た事だけは、間違いありません。
それでも怒りも悲しみも、封じ込めたように彼からは感じ取れなくて。
その時何を考えたのでしょう、自分でも分かりませんが…。
気づいたら青葉は、背中から彼に抱き付いていました。
55:
「……まだ拭ききれてない、君も濡れてしまうよ?」
司令官の体温は、とても低いものでした。
濡れた肌は一層冷やされていて…それはこの前亡くなった仲間の遺体の冷たさに、よく似ていて。
「司令官…青葉は、ずっとそばにいますから。」
「ありがとう。…大丈夫だ、僕はいなくならない。」
“うそつき。”
そう言いかけたのを、青葉は飲み込んでいました。
彼の垂れた左手にはいつもの腕時計と、隠された傷跡。
これだって、きっとその事が関わっているんだ。
時計からはみ出た手首の傷は、閉じた目尻のように見えました。
この時青葉には、それが彼の、閉ざされた心の目に見えたのかもしれません。
こじ開けてしまいたい。
それで彼が泣く事が出来るなら、何もかも暴いてしまいたい。
例えそれが、パンドラの箱だったとしても。
バケツに滴る雨漏りの音は、外とは真逆のリズムを刻んでいて。
この時青葉の中に、同じリズムで滴ったものがありました。
それはきっと…色の付いた滴だったのだと思います。
ほんの少し水を濁らせる、真っ黒な滴が。
60:
あの日からも、司令官と青葉の間は何も変わりませんでした。
まるであの日だけ切り取ったみたいに、お互いそれ以上は触れないまま。
でも青葉は、改めて決めました。
吐き出せないのなら、吐き出したくなるぐらい近くに寄るんだって。記者は追っかけるものですから。
だからその為の手段を、色々と模索していたんです。
例えばですねぇ…まずはプライベートから攻めてみよう!とか。
「さーて、今回は…っと。」
その時々の作戦や状況によって変動はありますが、艦娘達のお休みは週に2日ほど。
配られる出撃スケジュールを見て各々予定を決めるのですが、青葉には、自分のお休み以上に気になる箇所が。
“司令官のお休みは…あ!ここ被ってる!”
その日の指揮官には、補佐を務める少尉さんの名前が。少尉さんが代理を務める日は、司令官はお休みなんです。
こうなれば善は急げ、青葉は早司令官に連絡を取ってみました。
61:
『お疲れ様です!司令官、_日はご予定はありますか?』
『お疲れ様。その日は予定は無いけど、何かあったかな?』
よしっ…!
で、でも青葉から誘うなんて初めて…ドキドキするなぁ……ええぃ!女は度胸!後は野となれ山となれ!
『よろしければなんですけど、一緒に街の方にお出かけしませんか?』
あー、言っちゃった…。
既読が付いてからの時間は、それはそれは長く感じられました。あ!返って来た!
『いいよ。たまには街にも出ないとね。』
それを見たら無意識に拳を握っていて、誰もいないのに照れちゃいました。
ふふ…でも嬉しいなぁ、誘いに乗ってくれるなんて。何を着てどこへ行こうかなんて、そんな事ばかり考えていました。
こ、これってデートだよね…いやぁ、艦娘になる前以来だ。よし!気合い入れちゃお。
62:
それであれよあれよと言う間に、その日がやってきました。
こっそりと行きたかったので、待ち合わせは敢えていつも使うバス停で。
あまり人に見られても、司令官の迷惑になっちゃう気はしたので。
…それに、鎮守府以外で待ち合わせって、良いじゃないですか。デートっぽくて。
あ!来た来た!
「おはよう、待たせたね。」
「おはようございます!いえいえ、青葉もさっき着いた所でしたので!」
本当は、待ち合わせの30分前にはいたんですけどね。
あれこれ悩んで服やメイクを選んで。でも今日は、髪だけはいつも通りに束ねました。
だって、青葉は青葉ですから。
扶桑さんを意識してもしょうがないですし…これから青葉を上乗せして行けば良いって思ったんです。
どんな時でも変わらないのは、お気に入りのかわいいカメラバッグだけ。カメラのSDカードは、新しいのにしてきましたけど。
…これはですねぇ、司令官との思い出専用のSDにするつもりなので。
63:
いつも街に出る時に乗るバスも、今日の車窓からの景色は何だか新鮮に見えて。いつもより色付いて見えました。
きっと、隣にいる人のせいでしょうね。
司令官はと言えば、いつもの微笑。
相変わらず感情は見えにくいけれど…でも今日は、いつもより機嫌は良さそうで。気のせいでなきゃ良いなぁなんて。
街まではバスと電車を乗り継いで、3、40分程です。駅前に降りると、この土地にしてはガヤガヤした景色が広がります。
ここは栄えてる辺りなので、この時間は特に人が多くて。
でも駅から少し行くと、古い町並みや洒落た通りなんかが広がっていて、ここは青葉にとっても良い撮影スポットなんです。
あ!猫だ!
「かわいいですねぇ。ほらほら、あ?…もふもふしてる…。」
「随分人に慣れているね。お、こっちに来た。」
「司令官!いただきです!」
ふふふ、さっそく貴重なショットを収めましたよ!
猫と戯れる司令官…これはうちじゃ青葉以外知らないでしょう。
よく撮影に来てる場所ですけど、一緒に来る人でこうも景色って変わるんだなぁ。
…あの寂しい海の時も、何か変える事は出来たのかな?
うん!これからそうして行けば良いんだ!
青葉が色を付けて行けば、彼の世界もきっと変わる!
「司令官!一緒に撮りましょう!」
猫が丁度青葉達の間に入って、今度は携帯で写真を撮りました。
猫もいるからツーショットならぬスリーショットですが…うん、よく撮れてる。
こうやって少しずつでも近付いて、彼の何かを埋めて行こう。
64:
それからは、いつも青葉がよく回るルートを歩きました。
服屋さんを見たり、青葉一押しのご飯屋さんに連れて行ってみたり。
どの瞬間もいつもとは違って見えて、カメラの中には画像が次々増えて…いつもは女の子ばかりで賑やかな休日ですが、こんな穏やかな休日は久しぶりだった気がします。
楽しい時間はあっという間で、少し日が傾いて来ました。
それでコーヒーを買って、街中にある公園で一休みをした時の事です。
「ふむ…懐かしいね、この感じ。」
「どうしたんですか?」
「ああ、昔の事を思い出してね。」
一瞬扶桑さんの事が過りましたけど、話の続きを待ってみたら、実際は違っていて。
彼が語ってくれたのは、それとは別のエピソードでした。
65:
「学生時代に、仲間とこんな感じの場所でよく待ち合わせしてたんだ。
飲みに行く時もだし…その帰りも、こういう所に寄っては延々語ったりしてね。」
「青春ですねぇ。ふふ、お酒の失敗とかやっぱりあったんですか?」
「恥ずかしながら、何度もあったよ。
大体誰かが潰れたり、バカな事を始めたら皆でそれに乗っかったりね。」
「司令官も、羽目を外す事があったんですねぇ。脱いじゃったりとか?」
「ふふ、黙秘権を行使させてもらうよ。」
「あはは、記者にそれは通用しませんよーだ。」
そっかぁ…。
改めて司令官の口からそう言う話を聞くと、やっぱり今の彼からは想像も付かなくて。
自分がきゅっと手を握り締めていた事に、青葉は気付いていませんでした。
66:
「いつも大体6人でつるんでいてね、色々な事をやったよ。
車借りてキャンプにも行ったし、冬は年甲斐もなく雪合戦をしたなぁ。」
「今はその方達とは遊んだりしないんですか?」
「……ああ。皆死んだか軍を辞めたかしたからね。」
「…………え?あ…ごめんなさい!」
「気にしないでいいよ、初めて話す事さ。
卒業してからは、それぞれ違う所に配属されてね。最初の戦闘で3人死んで、残り2人はその後軍を辞めたんだ。今はどこにいるのかも分からない。
最後に集まったのは、あの件の前だったよ。
気付いたら軍に残ったのは『俺』一人…それからいつの間にか少佐にまで上がってたけど、今でもあまり実感は無いね。」
司令官…今、『俺』って…。
彼が初めて青葉の前でその一人称を使った瞬間は、夕日が逆光になって、横顔を全て隠していました。
だから、いつもの微笑だったのかすら分からなくて…。
「……まあ、『僕』の思い出話はこんなのさ。湿っぽい話をしてしまったね。」
“あ…。”
司令官がこっちを向いてそう言った時には、もういつもの微笑と一人称に戻っていました。
外れかけたと思った仮面が元に戻る瞬間を、見てしまったんです。
その瞬間、とても遠くに行ってしまったような気がして…青葉は…。
「司令官…。」
思わず彼の手に、自分の手を重ねていました。
67:
「…司令官、寂しくないんですか?」
「“今は”ね。鎮守府の皆もいてくれるし。勿論青葉も。」
今は、かぁ…今までの話を聞く限り、扶桑さんと別れたのもその件の後で。
死に掛けて、仲間も恋人も失って…どんな気持ちだったんだろう。
知れば知る程、見えない人。
でも青葉は、そうある程に知りたくなるんですよ。例えあなたが、深いものを抱えていても。
だから青葉は、あなたから逃げて行ったりしません。
でも何でかなぁ…こんな事を思いはしても、口には出せなくて。
そんな時です。目の前に袋が差し出されたのは。
68:
「これ、もらって欲しいんだ。開けてみてくれ。」
「へ?は、はい…ありがとうございます…。」
中に入っていたのは、青い髪留めでした。
かわいい…嬉しいなぁ…。
「ありがとうございます!良いんですか、もらっちゃって…?」
「さっき自分の服買った時、ついでにこっそりとね。いつも髪を結んでる青葉には、似合うと思ったんだ。
日頃のお礼と思って受け取ってくれ。」
「はい…大切にします。あ!そうだ司令官!早なんですが…。」
それでその場で髪をほどいて、もらった髪留めに付け替えたんです。
やっぱり、この人に最初に見て欲しかったから。
「ど、どうでしょうか…?」
「うん、よく似合うよ。あげた甲斐があるなぁ。」
「ありがとうございます…司令官!一緒に撮りましょうよ!」
それで撮った写真は、我ながら本当に嬉しそうで。
ちょっと恥ずかしくなるぐらい、満面の笑みを浮かべていました。
69:
帰りの電車から見る夕暮れは、きらきらしていて。
普段住んでいる街が、こんなに綺麗な場所だったんだって改めて分かって。
そんな今日を彼と過ごせて、本当に幸せでした。
でも日本語って、不思議ですよねぇ…例えば『しあわせ』って『幸せ』とも書きますけど、『仕合わせ』とも書けます。
こう書くと、人と人との巡り合わせって意味に変わって…司令官と青葉もそうだったらいいなぁなんて。
それと…もう一つこの言葉には、違う漢字を当てられるんですよ。
『死合わせ』とも、書けるって。
73:
「待て!!どう言うつもりだ!?」
「どうって…こう言う事ですよ?」
「へ…?あ……あぎゃああぁああっ!!!??」
某日深夜、とある倉庫。
味気ない機械音の直後、ある男の悲鳴が響いた。
太腿を銃弾で貫かれ、のたうち回る中年。
それと対照的に青年は微笑んだまま、つかつかとその中年へと近付いていく。
「あはは、オーバーですね。大佐、よく最前線にいたとご自慢になられていたじゃないですか。」
「ななな何が欲しいんだ!?金か!?女か!?」
「どうでもいいんですよ、そんなものは。
そうですねぇ、強いて言うなら…一応お目当ては、あなたの命ですかね。」
「……!!元帥か!!
ジジイの犬め!!き、き、貴様のやろうとしてる事はただの殺人だぞ!?おべっか使いやがって!」
「はぁ……勘違いしないでいただきたいのですが、僕は出世も興味は無いんですよ。
ましてやあなたが何をしたのかも聞いていますが、正義感でも無い。
まあ、あなたは別に死んでもいい人間だと思ったから、こうしているんですけれどね。」
一歩、二歩と青年が近付き、その足音は中年に、否応無しに自身の死へのカウントダウンを意識させる。
全身は恐怖に震え、拳銃も上手く持てない。
脂汗で全身が濡れ、終いには恐怖の末失禁し、いよいよ中年は濡れ鼠と化している。
それでも尚、青年は笑みを崩さない。
それどころか、歩を進めるごとに深まるようにさえ中年の目には映っていた。
74:
「みっともないですね…少しは抵抗出来ませんか?ほら、せっかく拳銃持ってるんですし…。」
「ひっ…た、助け…。」
「はぁ……それ、あなたは一体何人に言わせたんでしょうね?もういいです。」
青年は再度銃を構え、引き金に指を掛ける。
その際中年が見た、青年の目の奥にあるものは…。
それが、中年が最期に見た光景だった。
「おやすみなさい。」
その微笑みと、がしゃん、と言う地味な音の後。
ビチャビチャと音を立て、壁に赤いシミが広がった。
「あーあ…こんな奴じゃダメだったかぁ。」
たった今自身が生み出した死体を一瞥し、青年はそうぼやいていた。
困ったような笑みを浮かべ、やがて死体処理担当の者がそれを何処かへ運び去っても。
青年は、尚も微笑を崩さずにいた。
75:
『司令官!今日も一日お疲れ様でした!』
あれから青葉は、彼にこまめに連絡を入れるようになりました。
長々とやり取りする訳ではありませんが…お仕事の後や顔を出せない日でも、気持ちだけでも近くにいるって思ってもらえるように。
あの日まで、髪留めは結構ローテーションをしてたんです。
でも今はいつ会っても大丈夫なように、プレゼントしてもらったものを毎日着けています。
…そうでなくとも、毎日着けますけどね。大切な人からもらったものですから。
“でも司令官、あの人の事は確かに引きずってないよね…青葉の気にしすぎかなぁ。”
司令官の過去もですけど…色々分かる中で、最近特に気掛かりになっていたのは、やはり扶桑さんの事。
記者としては褒められたものでは無いのですが、勘という奴でしょうか。
振られたのは彼ですが、思い返すと扶桑さんの方が未練があるように感じていたんです。
何か、振らざるを得ないような理由があったような気がして。
だって彼女は、開戦前の彼と付き合っていたのですから。
彼の学生時代の話を聞く限り…もしかしたら、変化に耐え切れなくなってしまったのかもしれません。
司令官の手首の原因は、多分この戦争そのもので。
扶桑さんはむしろ、あの事に傷付いている側なのかも。
だとしたら…見放してしまう気持ちは、少しだけ分かる気がします。
……青葉は彼がどんなものを抱えていても、絶対に離れたりしませんけど。
76:
あ…ううん、ダメダメ!こんな事考えちゃ。
女だからなのか、青葉だからなのかもう分かりませんけど。
彼と距離が近付いた手応えを得るたび、ふと湧いてくるものがあるんです。
独占欲とか嫉妬とか、そういう類が。
この前なんて、駆逐の子が司令官にじゃれてるだけで、ちょっとむっとしちゃって…。
昔元カレに浮気された時だって、泣いて怒って仕返しして、後ははいバイバイ!綺麗さっぱり!って感じだったのに。
いつからこんな嫌な女になっちゃったんでしょう。
…大体、まだ付き合ってすらないし。
77:
『今日もありがとう、明日もよろしくね。』
返信はこれだけで、それでも充分嬉しいんですけど。もっと話したいなぁ…って、日増しに思っちゃいます。
出来れば連絡じゃなくて、毎日直接話したい。
週4?5で直で話してるんだから、満足しなよって話なんですけど。
ご飯連れてってもらったり、髪留めもらったり…もらってばっかりだなぁ…。
もっとこう、司令官の為にできる事、ないかなぁ…。
色々と彼について考え事をする時間は、悶々としつつも、何処か楽しみな時間にもなっていました。
こんな時間ですら、なんだかんだで幸せだなぁなんて。
机に置いたデジタルのフォトフレームには、ランダムでこの前の写真が流れていて。
それは青葉にとっては、宝箱を開けるみたいで。
“でも青葉『だけ』しか、この瞬間は知らないんだよね…。
司令官…青葉はいつでも、あなたを見てますよ。”
そうやって悦に入りながら、ずっとそれを眺めていました。
ちらりと写真に写った、彼の腕時計の陰にあるものすら愛おしく思いながら。
80:
一人称を『私』じゃなくて『青葉』と呼ぶのは、艦娘でいる間は、周りに覚えてもらいやすいようにって思ったからです。
本名じゃどこのどいつだってなっちゃうし、私でも分かりにくいかなって。
そんな『青葉』が、ただの『私』だった頃の話をしましょう。
2年ぐらい前ですかねぇ、付き合ってた人がいたんですよ。
人当たりの良い人だったのですけど…あれはその相手と何度か一線を超えて、しばらく経った頃でしょうか。
連絡が、徐々に取れなくなって行ったんです。
取れても素っ気ないし、躱されてる気がして…まだその時は好きだったので、我慢してたんです。
でも、段々浮気じゃないかって思い始めて…ある日尾行をしたんですよ。
結果はと言えば、クロでした。
当時の『私』は新聞部で、先輩から尾行のコツを教わったりしてました。
まさかそれが、本当に役立つなんて思わなくて。
最初は家に逃げ帰って、押さえた証拠を見返しては泣いてました。
信じられなくて…妹か何かだなんて思い込もうとしたけど、場所が場所だけに、そんな訳もなく。
それでも必死に隠して、会いに行きました。
それで相手が丁度トイレに行った時、置きっ放しの携帯に通知が来たんです。
『お前ほんとゲスだな!__ちゃんかわいそうだわー、なんなら俺にちょうだいw』
それは相手の友達から来たもので、思いっきり『私』の名前が出ていました。
文面を見て、その前にどう言う会話をしてたのかすぐに理解して。
あいつは、初体験の相手だったんですよ。
でもそんな奴に奪われたのも、見抜けなかった自分も情けなくて、悔しくて…段々許せなくなってきて。
それで友達に相談したら、意外な答えが返ってきました。
「その子、中学の同級生だよ。」って。
最初は取られたんじゃないかって思って、確かめようと思ってその子の高校で待ち伏せしてたんです。
そしたらその子も、二股の事は知らなかったらしくて…意気投合した私達は、あいつに会いに行きました。
私とその子で、ワンツーパンチを決めましたねぇ。綺麗に吹っ飛びましたよ。
その子とは今でも仲が良くて、地元に帰ると必ず遊びます。
殴った瞬間『私』もその子も、元カレの事はどうでも良くなっちゃって。
…まあ、そんなありがちな話です。
え?何でこんな話をしてるのかって?
そうですねぇ…司令官の事を好きになったのは、その件以来の恋だったんですよ。
その男自体はどうでもよくなったんですけど、今思うと、無意識にトラウマになったのかもしれません。
司令官への感情を自覚してから、独占欲の類が当時より強くなった気がして。
でも…もう一つ心当たりがあるなら、そうですねぇ…彼の抱えていたものに、あてられてしまったのかもしれませんね。
それが『私』の場合は、独占欲って形で出たのかもしれません。
人から人へ伝染するものって、例えばウィルスだけだと思いますか?
物理的には、確かにそうなのでしょう。
目に見えないものも、中にはあるんでしょうけどね。
さて…話は鎮守府に戻ります。
ここからは、再び『青葉』としてお送り致しましょう。
81:
夜、青葉はいつものように執務室へ向かっていました。
でも内心は穏やかじゃありません。
秘書艦を終えて、部屋から連絡を入れたんですが…返ってこないんですよ。
これだけだとオーバーに見えそうですが、彼の場合は心配になる要因があって。
司令官はお仕事が終わっても、すぐには帰りません。
大体は、音楽を聴いて少し休んでから部屋に戻るんです。
青葉と雑談をしたり、連絡をくれるのはそう言う時間です。
ただ、今日は残務も無くて、なのにいつもは付く既読も無いまま。体調でも崩してないかって、心配になったんですよ。
ノックをしても、やっぱりいつもの返事は無し。
それでもうっすらと音楽は聴こえていて…いよいよ嫌な予感がして、急いでドアを開けました。
“司令官!?”
ソファに横になってるのを見た時、思わず駆け寄りました。
まさか病気じゃないかって思いましたが…どうやら、それは杞憂だったようです。
“ほ…よかったぁ、寝てるだけかぁ…。”
彼は少しお疲れだったようで、ソファで仮眠を取っていました。
どれどれ、寝顔を拝見…よかった、今日は前と違うみたい。
ふふ…でもこれってチャンスじゃないかなぁ。こんな顔、なかなか見れないよ。
例えば意中の人の寝姿を見たとして。
このまま眺めてたり、こっそり添い寝やキスをしちゃおっかなんて、こういう場面に遭遇すると思うものなのでしょう。
この時、確かにそう言う気持ちも抱きましたが…。
青葉が真っ先にした事は、部屋の鍵を閉める事でした。
82:
“……これで、誰も入れないよね。”
この時間に執務室を訪ねるのなんて、青葉しかいません。
それでも、鍵を閉めたかったんです。
だってそうしちゃえば、本当に二人きりじゃないですか?
誰も邪魔しない、彼の前には青葉しかいない世界。独り占め出来る機会なんて、こんな時ぐらいしかない。
ソファの端は、丁度青葉が座れるぐらいに空いていて。そこにこっそりと座ってみます。
ほんの少し手を動かすだけで、髪に触れそうな距離。
いつか手を掴んでもらった時よりも、この前街へ出た時よりも、今はもっともっと近くて。
起こさないようにそっと持ち上げて…自分の膝に、彼の頭を乗せてみました。
カメラは勿論持ってないし、携帯も出す必要はありません。
今、網膜と脳に刻まれているもの。それ以上に素敵に写す事なんて、きっと無理でしょうから。
眠る顔は、いつかの死体のような無表情じゃなく、人らしい穏やかなもので。
すうすうと寝息を立てる振動が、太腿越しに伝わって。それは青葉にとって心地いいものでした。
今はどんな夢を見ているんでしょう?
優しく髪を撫でて、そうすると心なしか表情が柔らかくなった気がして。
「司令官…青葉は、いつでもそばにいますからね…。」
深く眠る彼に、聞こえる訳もないのに。
こんな事を囁いていました。
83:
そうしてる内に、少しだけ彼が寝返りを打ちました。
青葉のお腹側に顔が向いて…服の裾を、少しだけ掴んで。
可愛い所もあるなぁ、なんて。
……この時間と出来事だけは、青葉だけのものです。
頭の中だけの、誰にも見せない秘密の記事ですから。
あ、時計、今は外してるんだ…目を逸らしちゃダメだよね…。
恐る恐る視線を左手に合わせると、ズタズタの手首が晒されていました。
初めて全容を見たけど…痛いなぁって。こっちの心まで痛くなりそうで。
手首に手を伸ばして、優しく傷を撫でて…一瞬だけ、彼の頬にキスをしました。
スピーカーから流れていたのは、あの曲で。
今は丁度曲の終わりで…天国の夢を、見ているんでしょうか?
天国旅行…そう、旅行、なんですよね…。
旅行だから、帰ってくる場所がある前提の事だから。死出の旅とは、帰るあての無い放浪とは違うはずで。
この曲を知ってから何度も聴いた、断末魔の悲鳴みたいなギターソロが鳴り響いて。
そこから、嘘みたいに穏やかなアウトロに繋がって。
やっぱり、人が死ぬ時の気持ちを想像してしまって。
青葉は覆い被さるように、彼の頭を胸に抱いていました。
84:
司令官…青葉の胸の中が、あなたにとっての天国じゃダメでしょうか?
ずっと触れたかった、抱きしめたかったはずの人は、いざ触れてもどこまでも遠くて。
泣いちゃダメだってわかってるけど、考える程に泣けてしまって。
だからその時は、当たり前の事が何処かに行っていたんです。
こんな事をされたら、大抵の人は起きてしまうって。
「…青葉か?」
「……はい…。」
その声色は、いつもと変わらなくて。
青葉が体をどけると、彼はすぐに起き上がって、こちらを見つめていました。
きっと今、青葉はひどい顔をしているでしょう。
みっともない泣き顔で、可愛げも何も無い姿で。
ましてや部下が、自分が寝ている間にこんな事をしていたなんて、幻滅されるかもしれない。
でも司令官は…
「……大丈夫だ、泣かないでいい。」
優しく、青葉の事を抱きしめてくれました。
「青葉…一体どうしたんだい?」
「司令官……。」
触れるべきか、触れないべきか。
この時はまだ、迷いがありました。
でも…もう、後になんて引けない。
だから青葉は、遂にあの事を訊くと決めたんです。
「……青葉、見ちゃいました。
司令官…その手首の傷は、どうしてなんですか?」
この時青葉は、また一つ真実への裂け目に手を伸ばしたのです。
裂け目から落ちる、真っ黒な滴。
ポタポタとこぼれる程度だったそれが、線を描いて漏れていたのはいつからだったのでしょう。
それが青葉の中も、次第に黒く侵食して行く事に目を背けたまま。
86:
「……ああ、時計を外したままだったね。見せてしまったのか、すまない。」
まるで大した事でも無いように、彼はあの微笑でそう言い放ちました。
そんなズタズタの手首を、他人事みたいに…この時少しだけ、怒りすら覚えました。
どうしてそんなに、自分を大事に出来ないんだって。
「いえ…本当は少し前から知ってました。ベルトの裾から見えていて…。
司令官、教えてください…青葉はあなたの事を、もっと知りたいんです!」
「君が思う程、大した話じゃないよ。知ったら肩透かしを食らうかもしれない。」
「……それでも、いいんです。青葉にだけは、本当の事を教えてください…。」
「…そうだな、何から話そうか。あれは…」
困ったような、でも相変わらずの貼り付けたような笑み。
それを崩さないまま、彼はゆっくりと口を開きました。
87:
「最初の戦闘だったね…僕の乗った護衛艦は、近海での戦闘に向かっていたんだ。
その船には、あそこに赴任した頃からいた部隊が乗っていてね。
同期の仲間に、お世話になった上官や先輩。いつもの顔ぶれが揃っていたよ。
あの日までこの国の軍はね、災害救助や警備が主だった。
上官すら戦闘なんて初めての事で…それも、相手は未知の怪物だ。死の緊張感と、人々を守ると言う意志が船内には混在していた。
そして、いざ敵と対面さ。
まず、甲板にいた一人が頭を撃ち抜かれた。
いや…正確には、頭が飛び散ったのかな。クラッカーみたいな音がして、直後にはもう倒れていたよ。
一人、また一人と撃たれて死んで、それでも士気は下がらなかった。
だけどその時だ、敵の魚雷が飛んできたのは。」
「……船は、吹っ飛んだんですか?」
「……ああ、火薬庫を貫いてね。背中の火傷は、その時のものさ。
壁が厚いし、遮蔽物もあったからね。幸い遠くにいた僕は、飛ばされるだけで済んだ。
…だけどその近くにいた仲間は、バラバラになって海上に浮いてたよ。
僕は船首側まで吹っ飛ばされて、そして船尾から船が沈んだ。
船は上を向く形で、船首だけが顔を出してる状態でね。僕はそこに捕まって、何とか無理矢理立っていた。
海に投げ出された仲間が、噛み付かれて死ぬ断末魔。
爆発で飛び散った死体が、海面に浮く様。
それが沈みかけの船首からは、よく見聞き出来たよ。
その日は快晴だったなぁ…青空と青い海に、血の赤と火の赤が広がっていた。
まるで昼と夕暮れの境目みたいだって…船首からのその光景は、よく覚えている。」
88:
「それで…どうやって生きて帰って来たんですか?」
「そうだね…吹っ飛ばされた場所で、とっさに仲間の死体から機関銃を掴んでね。
僕はそいつを担いだまま、傾いた船首に立っていた。
死にたくないとか、勝ちたいとか、そんな事はもう考えていなかったと思う。
大声を上げて、とにかく機関銃をぶっ放した…敵にも浮かんだ仲間の死体にも、次々弾が当たって…。
そこから先は、覚えていない。」
「…じゃあ、目を覚ましたのは…。」
「前話した通り、病院のICUさ。
だけどその前に、違うものを見たよ…。
何もない草原に、真っ赤な花が咲いていて…鳥が鳴いて、潮風と風の音だけで。『俺』はそこに立っていた。」
「……っ!?」
「上を見れば、雲一つない空さ。
悲しくもない、ましてや喜びもない。
ただ穏やかな安らぎだけがそこにあって…感情なんて何処かに消えていて…“ああ、ここが天国か”って、その時思ったよ。
…目が覚めたら、__が抱き付いてきた。
船は沈んだ。仲間が死ぬ様も見た。それは全部覚えてる。
どういうわけか『俺』は生きていて…本来なら恋人との再会を喜ぶか、怒りと悲しみに震えるかしたんだろう。
だけど…不思議なものだね、何も感じなかった。
愛していたはずの__に抱き締められた時でさえ、あの場所以上の安らぎは感じなかったね。」
89:
言葉が、出ませんでした。
ここまで脳の処理が追い付かない感覚と言うのは、初めてだったかもしれません。
…でも、折れちゃダメ。確かめなきゃいけない事は、まだたくさんあるんだ。
「………それから、どうして手首を切ったんですか…?」
「死にたかったわけじゃないよ。『俺』もどうして切ったのか、よく分かってないんだ。
そうだね…強いて言うなら……また見れるかなって、思ったからさ。
結局『それ』じゃ、見れなかったけどね。」
その時彼が見せた笑顔は、青葉は一生忘れられないと思います。
あの曲のタイトルを教えてくれた時でさえ、まだ隠していたものがそこにはありました。
欲望に歪むでも、悪意を孕むでも無い。
子供のように無邪気で、どこまでも透き通っていて。
だけど、ゾッとするような。
初めて見た、彼の心からの笑顔を。
ああ…そっか……少しだけ、分かりました。
彼はもう自分じゃ…
90:
____心が死にたがっていることさえ、理解出来ないんだ。
91:
「…そんな所さ。大した話じゃなかったろう?『僕』の話は。」
貼り付けた笑み。
戻った一人称。
他人事みたいに笑う。
笑う嗤うワらう笑う笑うわらうワラうわラう。
どうすればいいんだろう?
何をしてあげれば、取り戻せんるんだろう?
頭がぐちゃぐちゃになって、青ばハもうドうシタら良いカわからナくなッて。
「少し、長話をし過ぎてしまったね…青葉、今日はもう休んだ方がっ…!?」
いつの間にか、ソファに彼を押し倒していました。
頭がボーッとします。それで押さえ付けた肩から手を離して、今度はそれを横に動かして。
気付いたら、ギリギリと彼の首を締めていました。
その瞬間の事でした。
靄が晴れたように、頭の中がクリアになって…自分がどうしたいのか、何をするべきなのか理解出来たのは。
苦痛に歪む顔を見て、手を離して。
彼の胸が酸素を求めて激しく動くのを見て、次にやるべき事。
青葉は彼の手首を取って…今度は、その傷にキスをしました。
92:
「あお、ば……?」
今は鍵を閉めています。
ここにはもう、彼と青葉しか存在しない。
首を締めたのは、生存本能を分からせる為。
傷跡を舐めるのは、慈しみの感情。
それで…これは、愛情を示す為の行為。
唇を重ねて、舌を無理矢理絡めて。
切れる青葉の息と、それでも上がってくれない彼の心拍数がそこにはあって。
ずっと念願だった彼との最初の口付けは、デートの終わりなんてロマンチックなものじゃなく。
『私』から踏み込んだ、甘美で、でもひどく暴力的なものでした。
子供の頃、10針縫う怪我をしました。
その時は周りは大騒ぎで…でも青葉は痛いなんて思わなくて、冷静なぐらいで。
痛くなってきたのは、治療が終わってようやくの事でした。
後で知ったんですけど、痛覚が限界を超えると、麻痺する事ってあるそうじゃないですか?
それは心でも、同じなのかもしれませんね。
93:
壊れたあなたを見て、きっとあの人は耐えられなくなったのでしょう。
色んな人が、死んで、去って。あなたの元を過ぎて行ったのでしょう。
でも壊れてしまっていても、あなたの本質は優しい人です。
分からないのなら、与えてしまえばいいんだ。
苦痛も喜びも幸せも、感情の全部を呼び覚ます為に。
青葉は、今もあなたから逃げなかったじゃないですか?
記者はね、しつこいんですよ。とことん離れませんから。
青葉だけは、そばにいます。
青葉だけが、あなたに与えてあげられる。
青葉なら、あなたの心を取り戻せる。
…だから、どこにも行かないでください。
青葉があなたの天国になりますから…天国になんて…行かせませんから…。
『私』を、ひとりにしないでください…。
気が動転したままの彼を胸に抱いて、青葉は微笑んでいました。
胸に顔を沈めさせて、青葉以外何も感じられないようにして。
だから、この時一筋だけ、頬を伝うものがあった事。
それは、青葉だけしか知らなかったのでした。
97:
「うおおおおおおお!!!!」
叫び声と共に、男の持つ機関銃の音が鳴り響く。
それは海面に浮く死体を貫き、それを見つめる異形達の肌を掠めた。
だがその者達にとって、それは何ら意味を持たない。
異形達は、ただ呆然とその男を見つめるばかりだった。
「…ホットコウカ、今回ハコレデ終ワリ。」
「良イイノデスカ?殺サナクテ。」
「ハァ…ワカッテナイナァ…イイ?アタシ達ハ『人間』ト戦争シニ来タンダ。アレハモウ、殺ス意味モナイヨ。
ソウダネ……デモ、代ワリニヨク見テオクトイイ。」
「アレヲデスカ?」
「…アタシ達モ所詮『心』ト『命』、両方ガ無イト生キテルトハ言エナイ。ドッチカガ死ネバ終ワリサ。
ダカラ、ヨク覚エテオクンダ。アタシ達モコノ先、アア○ルカモシレナイッテ事。
殺サナイ事ガ、アアナッタ奴ニハ一番ノ攻撃ナノサ。」
“人間ハ手強イ…コノ先コソ、コッチモタクサン死ヌンダロウナ。
タダ、願ウナラ……。”
「…仲間タチニハ、アアハナッテ欲シクナイネ。」
異形の一人が振り返った先には、沈み行く船首と、波に飲まれる男がいた。
敵も去り、独り漂う男は目を開けたまま、何処かをじっと見つめている。
彼の瞳は開いているが、意識は既に途切れていた。
その瞳孔には。
透き通る青空だけが、虚しく反射していた。
98:
あの日から、司令官と青葉の間に少し変化が起きました。
それは青葉が一方的にそうし始めたのですが。
彼が仕事を終えた後は、必ず__さん、彼の下の名を呼ぶようになった事。
「__さん、今日もお仕事終わりましたねぇ。
「そうだね、『青葉』。食堂にでも行こうか。」
仕事以外では青葉も本名で呼ぶように言ったのですが…彼の方は、今も呼んではくれないままです。
仕方ないとは思いつつも…やっぱり、ちょっと寂しいかな。
あの日あれだけの事をしでかしたのに、彼は怒りもしませんでした。
しばらく呆然としていて、でもすぐにあの微笑に戻って。逆に青葉の頭を撫でて、慰められた始末で。
「今はそんな気は起こさないから、心配しないでいい」なんて、よく言いますよ。
だから青葉は決めました。少しでも壊れたものを取り戻してみせるって。
その為にこそ、もっと彼を深く知って、色んなものに触れないといけない。
全てを知る事が出来たなら、きっと壊れた所も治せるでしょうから。
…あなたは生きてるんだって、絶対分からせてやるんだ。
それで部屋に戻ってやる事と言えば、ちょっとした泊まりの準備でした。
明日から演習の関係で、3日程ここを離れます。
日程自体は2泊3日なのですが、でも演習は1日だけ。その中日はオフになっています。
オフ日は演習先での観光が義務付けられていて、それは上からの命令です。
要は慣れない街の日常に触れて、普段自分達が何を守っているのか感じろと言うお達しでして。
まぁ、たまにこういう事があるのですが…今回は観光じゃなく、取材と行かせてもらいます。
何と言っても、行先はあの街の鎮守府なんですから。
今回の引率は、司令官じゃなくて少尉さん。
彼の不在と言う環境で、あの街です。調べるにはまさにうってつけ。
愛用の一眼は置いていって、機動性重視の薄型で行きます。それでスマホはレコーダー代わりにして。
『あの人』を捕まえられたら、一番早いんだけどなぁ。
99:
翌日、移動のバスがあの街に差し掛かると、まず車窓からの景色をひたすら収めました。
勿論オフ日に自分の足でも回りますが…彼がどんなものを見て来たのか、記録したいと思ったので。
今回の演習は、相手方は着任から浅い子達で構成されています。
そんな編成なのであの人はいなくて、どうしようかと途方に暮れていた時の事です。
「……あなた、__鎮守府の方かしら?」
振り返ると、青葉と変わらないぐらいの女の子。
少しキツそうな声色ですが、何処か見覚えもあるような…あれ?この制服って…。
「初めまして!そうです、__鎮守府の青葉と申します!」
「私は扶桑型二番艦、山城よ。 ねぇ…__提督は今日いるかしら?」
「いえ、今日はうちの少尉さんが引率ですが…。」
「そう…じゃああいつに伝言をお願い。“あんた、次会ったら殴る”って言っておいて。」
え?この子何言って…。
咄嗟にその子の肩を掴んで、足を止めさせてしまいました。
この子、見る限りあの人の…でも、何でそんなに…。
「…何よ。」
「い、いえ、うちの司令官と何かあったのかなって…。」
「…あなた、もしかして姉様の事を知ってるのかしら?あいつとの関係も。」
「はい…知ってますねぇ…。」
「…艦娘の姉妹艦って、大体の子はエルダー制みたいなものじゃない?でも私達は、実の姉妹なの。
だから全部知ってるわ……あの男…姉様を散々泣かせておいて、許せるわけ無いでしょう…!
今日はあなた達の敗北を、あいつへの土産にしてあげるわ。覚悟しておいてね。」
その捨て台詞と共に、つかつかと山城さんは去ってしまいました。
すごい剣幕だったなぁ…妹さんがあそこまで怒るって、本当に何があったんだろ。
でも…青葉もちょっと怒っちゃうな。好きな人をあんな風に言われたら。よし!今日の演習、絶対勝ってやる!
100:
その後、演習には勝ちました。
ただし、内容はA勝利。山城さんは最後まで粘って、とうとう完全勝利とは行きませんでした。
あの人には会えずじまいで、おまけに山城さんの態度で余計謎が深まった気がします…はぁ、今回は仕方ないか…明日はちゃんと散策して、違う視点からネタを仕入れよ。
布団に潜ってスマホを開くと、メッセージは友達からだけ。
結果は少尉さんが連絡してるだろうし、わざわざ青葉の所に来ないよね…あの人からくれたの、あの時だけだなぁ。
「かまえよー…ちぇー。」
理不尽なぼやきを吐きつつ、今夜は諦めるとします。
結局何も送らないまま、慣れない浴衣と布団で眠りに就きました。
次の日、青葉は朝から街を散策していました。
路線バスを乗り継いでみたり、観光スポットを回ってみたり。
予めネットで下調べをしていたのですが、デートスポットなんかはありふれたものが多くて、特に目ぼしいものはありません。
あの浜辺もそうですけど、司令官は秘密の場所を見付けるのが上手いタイプかと思って、何かそれっぽい所は無いかと海岸線をふらふらしていました。
車や人の通りはまぁ、よくある片田舎って感じです。途切れず、でも多すぎずで。
そんな時、青葉の少し先でとある車が停まりました。窓も開いてるし、何だろ?あ…。
「青葉ちゃん、お久しぶりね…。」
その車の運転席にいたのは、扶桑さんでした。
103:
予想外の事態でした。
青葉は言わずもがなですが、扶桑さんも私服で。どうやら彼女もオフなようです。
ま、まさか鎮守府の外で会うなんて…うう、私服姿がまた美人…負けそう…。
「ふふ、後姿でそうじゃないかって思って。あなたも来てたのね、散策かしら?」
「え、ええ…扶桑さんはお休みでしょうか?」
「ええ、でもちょっと暇を持て余してね。良ければ一緒にお茶でもどうかしら?」
「…はい!」
これは千載一遇のチャンスだ!
緊張感はありましたが、この時青葉にNOの二文字は浮かびませんでした。
車は海岸線を走って、とあるカフェへ。
人もまばらで、今日は暇なようです。お好きな席へどうぞと言われ、扶桑さんの促すままとある席に座りました。
そこは窓から国道と海の見える、見晴らしのいい場所で…ここ、昔も来たのかなぁ。
「昨日は山城が失礼をしたみたいね…ごめんなさい。」
「いえいえ!気にしてませんから!」
「ありがとう。慕ってくれるのは嬉しいのだけど、あの子は私の事になると、ちょっと周りが見えなくなる時があるから…。」
山城さんかぁ、そう言えば昨日のやり取りで…。
青葉が二人の事を知ってるのも、きっと聞いてるよね。
窓の外を眺める彼女の横顔は、やっぱりきれいで。
でも物憂げな瞳の奥には、何かあるように思えました。
…何を、思い出してるんだろう。
104:
「…青葉ちゃん。」
「はい。」
「あなたは、__さんの今の彼女なのかしら?」
「んっふっ!?」
な、な、な!いきなり何を!?
突拍子の無い一言に、コーヒーを吹き出しそうになっちゃいました。
「…い、いえいえ!まだお付き合いはしてませんよ!」
「ふふふ、『まだ』してないのね。かわいいわね、青葉ちゃん。」
「あ。」
しまったー…ああ、そんな小動物見るような目で…。
でも、意外とユーモアのある方なんですねぇ、人をからかってみたりして。大人の余裕かなぁ…。
「もう聞いていると思うけど…私とあの人は付き合っていたの。」
「ええ…聞いてます。」
「…私から別れた事も?」
「はい。」
「じゃあ…彼に何が起きたのかも、聞いてるわね?」
「それも聞きました…すぐには言葉が出ませんでしたよ。」
「…そう。」
それからしばらく、扶桑さんは何かを考えているようでした。
き、気まずい…!冷静に考えて、意中の人の元カノさんとその話題…如何に地雷を踏まずに本質を射抜くか、記者としての資質が試されている気がします。
そんな風に内心慌てていると、扶桑さんはスマホを取り出しました。
開いて何かを探し始めて…少しすると、彼女は小さく微笑んだのです。
105:
「これ、誰かわかるかしら?」
「え……この方、司令官ですか!?」
そこに写っていたのは、青葉が今一番この目で見たいと願っているものでした。
幸せそうに、心からの笑みを見せる顔。
どこかでの記念撮影でしょうか、二人とも本当にいい笑顔で…青葉の記憶の中では、未だに見た事が無い顔でした。
「ふふ、いい写真でしょう?」
「初めて見ましたよ、あの人のそんな顔…。」
「昔はよく見せてくれていたの…あの日まではね。」
「……そう、ですか。」
胸に鉛を突っ込まれたような感覚と言うのでしょうか。
あの日まではと言う言葉が聞こえた途端、羨望さえもどこかへ消えてしまいました。
やっぱり、あの時から彼は……。
「退院した後、やっぱりどこか空っぽでね…お医者さんは精神的なショックだろうって言ってたわ。
学生時代の友達が亡くなられたのを伝えても、上の空だったの。
…手首の事、知っているかしら?」
「……見ちゃいました。ズタズタで、時計でも隠しきれてなくて…。」
「最初ね、私が見付けたの。血の海で、フラフラしてたけど……貼り付けたような笑みを浮かべてたわ。
また入院したけど、やっぱり精神的なショックだって周りは思ってた…でも、それは違ったわ。」
「何か言ってたんですか?」
「“今ならそれで片付けられると思った”って…笑いながら言ったわ。」
「……!!」
「彼はね…あの件で、心だけが死んでしまったと思うの。
そうね…“寂しいや悲しいと感じられない事が、寂しくて悲しい”って…笑って……。」
__さん…そっか、あの公園の時隠れてた顔は…。
間近にいた人からの話は、とても重いものでした。
感情の欠落…嘆くべき事を嘆けない事……司令官のいる場所は、青葉にはどう頑張っても想像しきれなくて…。
106:
「……彼を振ったのは、どうしてですか?」
「これをあなたに伝えるべきかは分からないけれど…嫌いになったからじゃないわ。今でも未練はあるもの。
ただ、私は引っ張られやすいから…ある時カッターを持って、こう思ったの。
“殺してあげる事が、一番彼の為になるんじゃないか”って…。
そう思って我に返って、別れるって決めたわ。
そばにいたら…本当に……やってしまいそうだったもの…。
ふふ…ひどい女でしょう?私は結局、彼を見捨てたのよ…。」
微笑みながらも、扶桑さんは涙声を堪え切れないようでした。
なんで見捨てたんだなんて、責める事は出来ません。
青葉は写真を撮る人間ですから…見れば分かるんですよ。ふたりがどれだけ想い合っていたのかなんて。
だから変化に耐え切れなくなるのは、おかしい事ではないって。
別れを切り出された時の彼の様子は、容易に想像出来ました。
あの困ったような笑みで、そうかとだけ言って……それですら、上手く悲しいと感じられなかったのでしょう。きっと、扶桑さんへの罪悪感さえも。
だけど…上手く感じられないだけで、感情が無いはずじゃないと思うんです。
でなきゃあんな寂しそうになんてしない。
例え壊れていても、あんなに優しい人なんですから。まだ可能性はある。
107:
「…扶桑さん、大丈夫です。これ以上はあなたがつらいでしょう?」
「青葉ちゃん…。」
「司令官は、それでも優しい人のままですよ…青葉はこう見えて、結構泣き虫なんです。そんな時、いつも受け入れてくれる人です。
こんな事を言うのは変ですが…あなたの無念は、青葉が晴らしますから。
『私』が、必ず彼を幸せにします!!」
「青葉ちゃん……ありがとう…。」
…彼の奥底に引っ張られていたのは、この前の青葉も同じでした。
首を絞めた時の感覚は、今でも残っていて。
でも…負けられなくなっちゃったなぁ。
__さん、『私』はあなたの死神になんて、なってあげませんから。
そうですねぇ…なりたいのはあなたにとっての……この言い方は、大分恥ずかしいけど…。
『天使』かなぁ、なんて。
108:
青葉達の鎮守府・執務室。
この時提督は、一人食い入るようにPCのモニターを見つめていた。
映し出されているのは、定期的に届く戦場の写真だ。
敵の死体は激しい戦いの末、死ぬまで戦い抜いた苦悶の表情を浮かべている。
殺傷効果、煙の量等の戦地で兵器がもたらす影響。
それらを取り纏め、司令官視点での改良案を開発部門へと提出する。それも彼の仕事の一つだ。
その全てを見終えた後、ようやく彼はいつもの微笑へと戻る。
だが、その目の奥は…
“きっと彼女達には、あの場所が……。”
この時彼は、歯が見えるほどの吊り上がった笑みを浮かべていた。
それは、青葉でさえ見た事の無いものだった。
110:
泊りがけの演習も終わって、バスはいつもの鎮守府に着きました。
みんな、次々と降りていきます。このまま寮に帰って、後はゆっくりするのでしょう。
青葉には、真っ先に向かう場所がありますが。
廊下を抜けて、大きな扉の前。この時間は、彼以外は誰もいないはず。
青葉がいない間は、当然他の子が秘書艦を務めていて…その子と廊下ですれ違った時、安心している自分がいました。
だってこの扉を開けて、他の子がいたら…きっと、取られちゃったような気持ちになっていたでしょうから。
「失礼しまーす。」
「お帰り、青葉。わざわざ来てくれたのか。」
出迎えてくれる笑顔を見た時、飛び付きたくなるのを必死に抑えていました。
本当は思いっきり抱き締めて、そばにいるって言ってあげたい。でも我慢です。
扶桑さんと話して、前より深く知った事はあるけれど…今は、いつものふたりとして会いたかったから。
それが今の日常で、それを感じてもらいたいからこそ。
111:
「少尉から報告は受けたよ。頑張っていたそうじゃないか。」
「まぁ、何とか勝てたって感じでしたけどね…あ!そうだ!司令官、これお土産です!」
「これは懐かしいな、あそこの名物か…青葉、ありがとう。遅いけど、少しコーヒーでも飲もう。」
「あ!それぐらい青葉が淹れますよぉ!」
「ダメダメ、今この時間の君は客人だ。まぁ座っててくれよ。」
そう制されて、青葉はしょうがなくソファに座り込みました。
やっぱりいつものあの微笑ですが、コーヒーメーカーを弄る横顔は、何だか機嫌が良さそうで。
“青葉が帰って来たからかなぁ”なんて勘違いみたいな事を思って、一人で嬉しくなっていました。
今は出されたコーヒーを飲みながら、ふたりでお土産をつまんでいます。
あ…これすっごい美味しい!名物なだけあるなぁ。
「……いやぁ、落ち着くね。」
「お菓子も美味しいですねぇ。司令官、コーヒー淹れるの上手いですね。」
「まぁ久々のこの味もだけど…いつもの時間に戻った気がしてね。
青葉が帰って来たら、あっという間にそうなったよ。」
「……きょーしゅくです。」
あー……あはは、いざ言われると、頭真っ白になっちゃうなぁ…。
そっか…そう思ってくれてたんだ…。
ソファの対面に座る彼を見て、隣に行きたいなぁなんて思って。
でもこうして、前から見つめてもいたいような。
それは何にせよ、青葉にはとても幸せな時間でした。
そんな時です、彼から声が掛かったのは。
112:
「そうだなぁ…たまには、青葉の話が聞きたいな。」
「青葉の…ですか?」
「ああ、どうして艦娘になったのかとかね。
適正検査の時も、僕が面談した訳じゃなかっただろ?」
言われてみれば、確かに彼とそんな話はした事がありませんでした。興味を持ってくれてるんだって、嬉しくなりましたねぇ。
青葉にとっては、これはちょっとだけ重い話ではありますけど…。
113:
「司令官…少しだけ、嫌なお話になるかもしれません。
青葉の叔父さんは、ローカル誌の記者だったんですよ。
最初の戦闘の前、民間船が何隻か襲われたじゃないですか?
その船の中に、叔父さんも取材で乗ってて…そこで亡くなってしまいました。
遺体の手に、SDカードが握られてたんです。
ビニールに包んで、しっかり握り込まれていて…死期を悟って、咄嗟に包んだんでしょうね。
不幸中の幸いですが、叔父さんの遺体はすぐに回収されて…間近で深海棲艦を捉えた写真として出回ったのが、SDに残されていたものなんです。
叔父さんはよく言ってました、“それが街の行事であれ事件であれ、事の本質を伝えるのが俺達の仕事だ”って…。
だから…仇を討ちたかったですし、知りたかったんです。
前線に立つ事で今起こってる事を見極めて、そして自分の手で、この悲劇を終わらせたいって。
それでいつか、この戦争に関する記事か本を書きたいって思ってます。」
「そうだったのか…僕も、君が果たせるように頑張らないとな。」
“終わらせたい悲劇は、増えちゃいましたけどね”とは、言えませんでした。
叔父さんの事だけじゃなく、死んでしまった仲間や、司令官自身の事。
青葉にとって、終わらせたい事は増えていました。
“寂しいや悲しいと感じられない事が、寂しくて悲しい。”
彼が手首を切った時、そう笑っていたと扶桑さんは言ってました。
喜怒哀楽の全部…嬉しいや楽しいも、本当は彼の中には無いんでしょうか?
青葉に向けてくれる顔も、もしかして…。
一瞬気が暗くなりかけて、すぐにそれを追い出しました。
ダメダメ。青葉が暗くなっちゃ、照らしてなんてあげられないんだから。
そうだ、質問を変えさせてみよう。
114:
「訊かれるって言うのも新鮮ですねえ、他に何か質問とか無いですか?」
「そうだな…じゃあ次は…変な話で申し訳ないのだけど、恋の思い出とかは?」
嫌な汗が背中を伝ったのは、その時の事でした。
徐々に壊れてく不安。
見てしまった瞬間や、携帯の画面の下卑た会話。
真っ暗な所に突き落とされる気持ち。
あの子と一緒に向かった時の怒り。
トラウマになんて、なってないと思っていました。
それまで思い出しても、せいぜいダメな黒歴史ぐらいにしか思わなかった事。
ガサには、笑い話として話したような事。
なのに、何故でしょうか。
あの時の嫌な感覚が、頭の奥を突き抜けてしまうのは。
ああ…今『私』は、この人を好きだからなんだ。
形はあの時と全然別で、彼はあいつと違って優しい人で。
だけど壊れていて、いつか青葉の前から消えてしまいそうな人。
『私』は、またひとりにされてしまうかもしれない。
今度は心変わりじゃなく、絶対的な『死』という終わりでもって。
その間は、実際は5秒にも満たない時間だったでしょう。
ですがこの時青葉には、こんな思考を回せる程に長く感じられました。
やろうと思えば上手くけむに巻いて、適当に誤魔化せる話で。
でも青葉は…はぐらかすと言う選択肢を、取る事が出来なくて。
115:
「……そうですねぇ…高校生の時、彼氏がいたんですけど…二股されて、別れちゃいました。」
こんな事を伝えて、どうしたいんだろう。
ひとりにしないでなんて、言える間柄じゃないのに。
俯いたまま、彼の顔を見る事が出来ません。
今の顔を見られたくなかったですし…訊かれるのって辛いんだなって、改めて分かりました。
今まで手を差し伸べようとすると同時に、傷に塩を塗ってもいたんだなぁって。
色々な感情が頭を巡っては、どんな顔をすればいいのか分からなくて。
「そうか…すまない、辛い事ばかり訊いてしまったね。」
謝らないで欲しい。
裏を返せば、ひとりが怖くなるぐらいまた人を好きになれたのは、あなたのおかげなんですから。
そうですねぇ…でも、ちょっとだけ、寂しくなっちゃったかな。
116:
「……青葉?」
対面から隣へ移動して、そのまま横になりました。
この前と逆で、青葉が膝枕をしてもらう形で。
「じゃあ謝るよりも、撫でてくださいよ。青葉も司令官の辛い事、沢山訊いてきましたから。」
「……分かったよ。」
一際優しい声の後に、髪に手が触れました。
触れるのは彼の左手。ズタズタの手首がある場所。
眠くなりそうなくらい優しい手付きで、夢みたいで…でも青葉は満たして欲しいと同時に、満たしてあげたいんですよ。
撫でてくれる手を掴んで、時計を外しました。
改めて間近で見るそれはグロテスクで…そして愛おしい、彼の一部でもあって。一度手を胸に抱えて、その傷に唇を寄せました。
触れた感触は、でこぼことしていて。
きっとあの人でさえ、知らない事。青葉だけが知っている事。
これは、わたしだけのもの。
他の誰にも渡したくない、青葉だけのもの。
手を離したら、また髪を撫でてくれて。どんどん眠くなって来ました。
「いいんですよ?襲ってくれても」なんて、寝ぼけたフリして言えちゃいそう。
でも今は…これだけでも充分です。
この時間をひとりじめ出来ているだけで、青葉は満足でしたから。
結局そのまま眠気に負けて、目を閉じて。すうすうと寝入ってしまったのでした。
彼への欲望に際限なんて無い事にも、目を閉じたままで。
119:
歌が聴こえる。
どうやら青葉は、しばらく彼の膝で眠っていたようです。
血流なのか、衣擦れなのか。さわさわとした音が波のように頭の奥をくすぐって、意識はまだほわほわとしたままでした。
今も頭を撫でてくれる感触は、余計に意識を微睡みに沈めて。夢と現とが混濁した世界に、溶けていくみたいで。
そんな中で流れている音楽は、段々と映像のように、青葉をその中に引きずり込むのでした。
“海の果ての果てに君を連れて…”
これ、あの曲と同じ声だ…同じ人なのかな?
そのメロディに身を任せていると、あの日の浜辺が脳裏に蘇ります。
何だかせつなくなって…彼の上着の裾を、きゅっと掴みました。もう狸寝入りも、やめにしなくちゃ。
「ん…__さん、今何時ですか…?」
「起きたのか、まだ1時間も経ってないよ。」
そっかぁ…随分長く寝てた気がしたけど…。もう少しこのままでいたいけど、彼も帰らなくちゃだしね。
……『私』の匂い、これで付いたかな?着替える時にでも、思い出してくれたらいいなぁ。
120:
「…お邪魔しました。じゃあ、部屋戻りますね。」
「君も長旅だったしね、今日はしっかり休んでくれ。」
後は『私』が彼の名前を呼んで、おやすみなさいって言えば。それで今日はお別れ。
きっとその時も青葉って呼んで、本当の名前を呼んではくれないのでしょう。
ここで聞き耳を立てる人なんて、誰もいないのに。
「__さん、おやすみなさい。」
いっそ朝が来るまで隣にいたいけど、それはできないから。こうやって、今日もお別れをするんです。
…この後返ってくる言葉は、変わらないと思うけど。
「おやすみ、__。」
涙がこぼれそうな瞬間って、あるんですね。
初めてそう呼んでもらえた時、じわじわと込み上げてくるものがあって。
でもそれを出さないように、精一杯の笑顔を向けてました。
ふたりだけの秘密が、また増えた。
それがただ幸せで、せつなくて。
部屋に帰って横になったら、何だか泣けてきていました。
121:
その日から数日後、青葉は原付を飛ばしてあの浜辺にいました。
その日はお休みでしたけど、予定の合う人が誰もいなくて。
大岩に座ってイヤフォンを嵌めて、ある音楽を掛けていました。
ゆうべ暇を持て余して、映画でも借りようかとレンタル屋さんに行ったんです。
執務室のプレーヤーに出てたタイトルを覚えていて…何となくCDコーナーに行って、あの日掛かっていた曲が入ってるアルバムを借りました。
それは、『聖なる海とサンシャイン』と言う曲。
それを聴きながら、今はぼーっと空と海を眺めています。
今日はあの日と同じように、曇り空。
あの日と違うのは、たまに雲間から夕焼けが差していたのと、隣に誰もいない事で。
一人っきりでこの景色を眺めていると、ここの寂しさが改めて浮き彫りになります。
天国みたいな場所だって、あの時言ってたっけ。
その時よりは深く彼を知った今、その言葉の意味が少し分かったような、分かりたくないような。そんな気持ちになりました。
目の前で仲間が残酷な死に方をして、自分も死にかけて。
何も感じなくなる方が、もしかしたら幸せなのかもしれない。
その後も昔の仲間も失って、恋人とも別れて…それでも彼は、悲しむ事さえ出来なかった。
それはより、天国への憧憬を強めさせたのかもしれません。
ああ、でもきっと憧憬なんかじゃなくて…それはそこに隠した、死への願望なんだ。
相変わらず、寂しい光景が青葉の前には広がっていました。
悲しくも綺麗でもない、ただただ寂しい海辺。
彼の心が、今もいる場所。
122:
今日何度目かの、歌の終わりの時です。ふと立ち上がって、後ろを振り向きました。
一瞬の事ですが、その時確かに見えたんです。
夕日を背に、微笑む彼が立っていたのは。
血を吐きながら、青葉の方を見て微笑んで。
「…青葉か?」
だけど当の本人の声が聞こえたのは、更に反対側からでした。
制服を着ていた幻と違って、私服姿の彼は、いつもの微笑でそこに立っていて。
「びっくりしたぁ!お疲れ様です!お仕事はもう終わったんですか?」
「ああ、それで一息入れようかってね。」
彼の顔を見た瞬間、嬉しさが込み上げて来きました。
こんな寂しい場所でも、ふたりでいればすぐに色が付く。それはとても幸せで…。
でも…じゃあさっき『私』が見たのは、誰?
123:
「…隣、座ってもいいですか?」
「いいよ、おいで。」
しれっと体を寄せて、青葉は隣に座りました。
落ち着くなぁ…こうしてる間は、ゆっくり時間が流れれば良いのに。
寂しげだった波音も、今は優しい音に聞こえて。
世界の変わる瞬間を、じっくりと噛み締めていました。
「??…♪」
「それ、聖なる海とサンシャインですよね。」
「そうだよ、よく知ってるね。」
ふと聴こえた鼻歌に、思わず声をかけて。
蘇るのはさっきの幻と、聞いていた歌の最後。
『潮騒の銃声が夕日に響いて』
そのフレーズと血を吐く彼の影が、脳裏を掠めて。
「…昨日借りて、さっきまで聴いてたんですよ。何ていうか、悲しい歌ですよね。」
「そうだね…確かに悲しい歌だ。」
「……扶桑さんの事、聴いてて思い出したりするんですか?」
「…ああ。別れ話をされた時、こんな海を見ていた。彼女はずっと泣いていたね。」
「そう、ですか…。」
未練は無い。
それはいつか彼が言った事ですが…今思うのは、未練すら上手く感じられないんじゃないかって事で。
もしかしたら、彼も心のどこかに引っかかりがあるのかもしれない。
でも二人が後戻り出来ない事は、どちらの話も聞いていた青葉にはよく理解出来ます。
そう、戻れないんだ…だから青葉が、そばにいてあげなきゃいけない。
青葉で塗りつぶせば、少しでも未来が動くのかな?
扶桑さん…ごめんなさい。
あなたの分も幸せにするって言ったのに、今も青葉は、あなたに嫉妬しています。
だってこんなにも、染め替えてしまいたいのですから。
胸元の広いTシャツに、上着を羽織った彼の姿。
青葉はそこに抱きついて…。
彼の肩に、噛み付いたのでした。
124:
「__…?」
呼んでくれる本当の名前は、脳に甘く広がって。
口の中の鉄の味は、とても甘美なものに思えて。
残った傷を見れば、ぞくりとしたものが背筋を駆け抜けて行きました。
ああ……これで『私』は、いつでも彼に残ってるんだ。
「__さん、痛みますか?」
「……ああ。」
そっか……ふふ、痛いんだぁ。
込み上げて来るものは、熟れた甘い匂いみたいで。
青葉は抱きついたまま、今度は彼の匂いを楽しんでいました。
だって……痛いって、生きてるって事じゃないですか?
心だって、痛みも喜びもあって…彼はきっと、そこに蓋をしてるだけなんです。
そのまま彼の顔を掴んで、キスをしました。
重ねた唇からは、血の味がした事でしょう。
それが、あなたの命の味なんです。
アナタハイキテマス、アオバガソバニイマスカラ。
拒絶もせず、彼は優しく青葉を受け入れてくれました。
唇を離しても、胸に青葉を甘えさせてくれて…少しだけ、心音が早くなった気がして。
この鼓動は、きっと青葉のせいで。それが堪らなく嬉しくなりました。
それが『私』の、気のせいだとしても。
「なぁ、__。」
「どうしました?」
優しく背中を撫でながら、彼は青葉に声を掛けました。
また本名を呼ばれて、それがもっと嬉しくて…。
「…例えば『僕は人を殺した』って言ったら、君はどうする?」
鉛弾のような冷たさが心臓を駆け抜けたのは、その時の事でした。
126:
激しい悪寒が背筋を抜けてく。
目をそらせない。
ただただ、じっと青葉を見つめてくる目は吸い込まれそうで。
にたりと笑う顔は、一瞬誰かすらわからなくなりそうで。
怖いって、明確に感情の正体が理解できて。
「冗談だよ。」
そう耳元でささやく声は、今までで一番優しい声で。
その瞬間。ふっ、と、青葉の体は力を失ったのでした。
「……ほんと、ですよね?」
「ああ。」
なだめるように、また髪に手が触れて。
でも青葉の意識は、下げられた方の手に向かっていました。
震えてる…?
「…僕は先に帰るよ。今日は冷えそうだ、青葉も早めに帰るようにね。」
「あ……はい…。」
そのまま彼は、駐車場へ向けて歩いて行ってしまいました。
そして姿が見えなくなった瞬間、青葉はその場にへたり込んでしまったのです。
辺りは夕凪の無音で、心臓の音が嫌に生々しくて。
それは何だか、世界にひとりぼっちにされたような。そんな感覚を青葉に与えていたのでした。
__さん…俺に深入りするなって、脅してるんですか?
恐怖感と言う壁を彼に張ってしまった後悔と、突き放されたような感覚とで、頭の中はグチャグチャで。
さっきまでのドロドロとした感情でさえ、どこかに行ってしまって。
青葉はただ、呆然と夕日を眺めていたのでした。
ああ、目に沁みるなぁ…。
127:
同日・鎮守府駐車場。
一足先に鎮守府へと戻った彼は、車をいつもの区画へと停めた。
日も相当に沈み、外灯と殺虫灯のみが辺りを照らしている。
殺虫灯がバチンと音を立て、白い蛾がポトリと彼の先へと落ちた。
そこより少し先に視線を送ると、人の脚。
その影をなぞるように目を動かすと、そこに立ち尽くす者が一人。
青葉の姉妹艦である、衣笠だ。
「……青葉に、会ってたんですか?」
「ああ、たまたま出先でね。どうかしたかい?」
「あの子について、話があるの。
提督…青葉の元カレの事、聞いてます?」
「…聞いたよ。詳しくではないけどね。」
「そう…。提督、青葉の事、大事にしてあげて?
あの子、その相手に『初めて』を許したら浮気されて…好きな人が離れるのが、トラウマになってるから。」
「なるほどね………そういうことか。」
「………っ!?」
それを彼が聞いた瞬間の変化は、衣笠に衝撃を与えた。
衣笠にとっては初めて見る、彼の無表情な貌。
そこにある凍てついた視線は、彼女の背筋を冷たくなぞる。
そこに衣笠は、一瞬誰かも分からなくなるほどの違和感を感じていた。
「提督……あなたも、そんな顔するんですね。」
「さて…何の事かな?おやすみ、衣笠。」
衣笠の横を通り過ぎる頃には、彼はいつもの微笑に戻っていた。
衣笠はそれを一瞥すると、軽く手を振り彼を見送る。
彼女の足元には、先程電流に撃たれた蛾が一匹。
白い羽根を震わせていたそれも、やがて震える事さえ止めた。
「焼けちゃうぐらい、光に縋る…かぁ。」
その蛾の影に何を重ねているのか。
それは、衣笠だけが知っていた。
128:
部屋に戻った彼は、ベッドへと倒れ込んだ。
時計も外し、上着も脱ぎ。何となく照明へと手を伸ばしている。
彼の視界に映るのは、ぼやけて見える強い照明と、相反して生々しく映る自身の左手。
ズタズタの手首は明かりに晒され、その傷の深さをより浮き彫りにする。
手は、微かに震えていた。
「うっ…………!?」
そんな中、突如強烈な嘔吐感が彼を襲い、彼はトイレへと駆け込んだ。
吐けるものを全て吐き、口をゆすいでようやく平静を取り戻す。
彼が正面を向くと、目を鋭くした男が一人、洗面台の鏡の中に立っていた。
肌蹴たTシャツから覗く肩には、噛み跡が一つ。
その痛みと共に、蘇るもの。
甘い声。
体温と匂い。
向けられた心。
それらが否応無しに、彼の奥底に貼り付くものを、少しだけ引き剥がす。
洗面台の横、コンクリートの壁。そこから鈍い音がしたのは、直後の事だ。
拳から垂れる血が、足元の白いマットを赤く汚す。
掌を伝う温度が、命の赤が、生命の存在を耳をこじ開けるように囁く。
ここでは誰も見たことの無い、彼の苦痛に歪む顔。
今それは、たった一枚の鏡の中でのみ、白日のもとに晒されていた。
「……ふふ…。」
だがそれも、長くは続かなかった。
それはすぐに、侮蔑の笑みへと変わったが故に。
「………てめえは死んだんだろ?今更出てくんじゃねえよ。」
男は一人笑いながら、鏡の奥へと声を掛ける
その目には、一筋の涙が伝っていた。
彼の感情さえ無視した、身勝手に溢れる涙が。
131:
「司令官!おっはよーございまーす!!」
「おはよう。」
昨日の事が嘘みたいに、次の日、青葉達はいつも通りでした。
人や国を守るお仕事ですから、そこは青葉も理解しているつもりです。
でも早、いつもと違う事が青葉の目には飛び込んで来ました。
「司令官、その手どうしたんですか!?」
「ん?ああ、昨日ハサミでやっちゃってね。」
司令官は、手にひどい怪我を負っていました。
右手は包帯で巻かれていて、肌は指ぐらいしか見えていません。
…右利きの人が、何でハサミで利き手を怪我するんでしょう?
包帯の膨らみが分からない程、青葉は鈍くありません。ガーゼの位置は拳で…何かを殴らなければ、まずそんな所に怪我なんてしない。
ガーゼがあるって事は、擦り傷で。きっと固いものを殴ったのでしょう。
あの後、何があったんでしょうか?彼が何かを殴るなんて…。
……青葉、怒らせちゃったのかな…。
「ああそうだ。青葉、明後日から2日ほど僕はいないからね。
戦術講習で、××鎮守府に出張に行くんだ。」
「××鎮守府…ですか。」
それは、扶桑さんのいるあの鎮守府の名前でした。
司令官一人で、あそこに行く…それが頭を過ぎった瞬間、暗い気持ちになって。
でも青葉は…。
「了解しました!お気を付けて行って来てくださいね!」
何とか明るい笑顔を作って、その場は答えたのでした。
ほんとは、一人じゃ行って欲しくないなぁ…だってあの人は今も…。
そう、今でも………。
132:
その夜、青葉はまた執務室を訪ねていました。
夜にここに来ると、昼と違う顔を見せ合うようになったのは、いつからだったっけ。
いつも通り、いろんな音楽が流れていて…その間だけは、艦娘と司令官じゃなく、ただの人同士でいられる。
扉を閉めた時、またこっそり鍵を掛けちゃいました。
誰にも、邪魔なんかさせたくなかったから。
「……__か。」
あの声で響く、『私』の本当の名前。
その瞬間に、込み上げて来るもの。
腐った果実みたいな匂いの感情が、頭の奥を支配して。
「いい夜ですねぇ。今夜は何をお聴きでしょうか?」
答えなんて、待つ気も無いけれど。
言葉が帰って来る前に、背中から腕を回して。
首を挟むように、青葉は彼に絡み付いたのでした。
右手の中に、ある物を握ったままで。
133:
「…ソロモンの狼って、実艦の青葉が呼ばれてたのは知ってますよね?」
「それはそうさ。」
実艦の青葉は、何度大破しても戦線に戻る不死身ぶりからそう呼ばれていました。
その適合者である『私』もまた、狼なのかもしれませんね…意味は大分、違ってしまうけれど。
狼って、愛情深い生き物なんですよ。
裏を返せば、執着の強さとも言えますけど。
こうして腕を絡ませて体を寄せれば、『私』の匂いは否応無しに刻まれるでしょう。
白い制服に、鼻腔に。或いは、記憶の底に。
匂いの記憶って、鮮明なものですから。
胸元に触れた手には、彼の心音が伝わって。
それが早まったのは、今度は気のせいじゃない。
今の心音もそうですし…朝にあの手を見た時、思ったんですよ。
少しずつ、彼に感情が戻って来てるんじゃないかって。
それは嬉しい兆候でしたけど、出張の話を聞いた途端、不安に変わってしまったのです。
だって…もし彼の閉じた感情が、未だにあの人を想っていたとしたら?
感情を取り戻す事で、その想いまで取り戻したとしたら?
それ以上の恐怖なんて、今の『私』にはありませんでしたから。
今は終業後です。
彼も一休みの時で、気を抜くために制服の前は開けられてる…だから、手の中の『これ』を付ける事だって出来る。
134:
「…何を着けた?」
「それ、あげますよ。青葉のおさがりになっちゃいますけど。」
それはあまり着けてなかった、手持ちのとあるペンダントです。
彼なら似合うと思って、男性向きのチェーンに付け替えたんですよ。
着任した時シャレのつもりで買った、葉をモチーフにしたペンダント。
“『私』と言う『青葉』は、いつでもあなたのそばにいる”って。
“いつでも、あなたを見ています”って。
そんなつもりで持ってきたんです。
「これは……ありがとう。大事にするよ。」
「お守りです。寂しくなったら、いつでもそれで青葉の事を思い出してください。」
「…ああ。」
いつもの微笑でしたが、それでも嬉しそうに見えて。青葉もそれに釣られて笑って。
そんな瞬間は、やっぱりとても幸せで…また深く、彼に抱き着いたのでした。
そんな時でした。
彼の手が、青葉の髪を撫でたのは。
「この前は、言いづらい事を訊いてしまったね…だけど、もし吐き出したくなったら、いつでも言ってくれ。
『俺』でよければ、幾らでも聞くよ。」
じわりとした感覚が、目元に広がりました。
優しい言葉をもらったのもですが…また一つ、心を開いてもらった気がして。
肩に顔を埋めて、それを押し殺していました。
もう、誰にも渡したくないよ…あの人のいる場所になんて、行かせたくない…。
そんな我儘な感情を、押し殺すのに精一杯で。
青葉は、それ以外の事が見えていなかったのでした。
彼の心の奥が、血溜まりの中にある事さえも。
136:
愛車を駆り、青年はかつて暮らした街へと走っていた。
自らの運転では、やはり景色は違う。
過去の記憶をなぞるかのように車は国道を通り、彼の脳裏では、次々とその時々の記録が流れて行く。
左折しようと横を見れば、がらんどうな助手席が目に入る。
この景色とその位置にもまた、彼の思い出は残っていた。
長い黒髪。
不意にその影が蘇り、青年は思わず苦笑する。
制服はバッグに詰め、今の彼は私服姿だ。
左折の振動でちゃり、と胸元から金属音がした時、彼の瞳はその幻を消し去った。
運転中の彼には、当然助手席の小さなゴミが見える事は無い。
故に、そこに落ちていた一本の薄紫の髪にも、気付かずにいた。
『彼女』は、常にそばにいるのだ。
例え目の届かない場所でも、彼の現在の、様々な場所に。
車を目的の鎮守府に停め、彼は駐車場へと降り立った。
日頃艦娘達を引率する際は、他に気を向けずに済む。
だが今は、一人だ。植樹の生え方や、空の色合い。それらの一つ一つでさえ、否が応にも彼の中の思い出を蘇らせて行く。
コツコツと靴を鳴らし、それらを踏み付けて行くように彼は駐車場を越えた。
案内された更衣室もまた、懐かしさはある。
だが、白い服に袖を通した瞬間、それもすぐに消え去った。
唯一外されなかったのは、制服の下にあるペンダントのみ。
司令官としての、そして人としての彼の現在の、そばにあるもの。
ボタンを閉める前、彼は一度だけそれを握り締めていた。
「…さて、行ってくるよ。」
ポツリとこぼした言葉は、どこの誰に向けたものなのか。
それは、彼だけが知っている。
懐かしい廊下を通り、集会室へと彼は歩いていた。
その後ろ姿を、遠くから睨み付ける視線が一つ。
それはミディアムの黒髪を揺らす、とある少女のものだ。
「あいつ…!」
すぐさま追いかけようと、少女は動こうとした。
だが、彼女の肩に掛かる白い手が、それを制する。
少女が振り返ると、そこには彼女の姉が立っていた。
「……やめてちょうだい。」
「姉様…でも…!」
「…いいのよ。彼を振ったのは、あくまで私だもの。」
「…わかりました。」
妹を制し、彼女は遠ざかる背中を見つめていた。
その目はひどく切なげに、妹の目には映っていた。
137:
その日の講習を終え、彼は一人、用意された宿でくつろいでいた。
安宿ではあるが、窓からは慣れ親しんだ海がよく見える。
月夜と海、さわさわとした潮騒の声。
写真を一枚撮り、彼はある少女の元へそれを送った。
カメラには上手く収まらなかったが、何となく、今自身が見ている世界を共有したくなったのだ。
数分後、携帯が震えた。
だがそれは先程彼が連絡した相手ではなく、違う女性からのもの。
何年振りかのその名前に、画面をスライドする手は少し震えていた。
『明日、会えるかしら?』
『あの浜に行くつもりだよ。』
彼はそれだけを返し、以降返信は無かった。
続いて携帯を震わせたのは、とある少女からのものだ。
『綺麗ですねぇ。』と、可愛らしいスタンプと共に返ってきた言葉を目に収めると、彼は微笑を深める。
『ああ、今日の月は本当に綺麗だ。そっちも見えてるかな?』
空だけは、何処へだって繋がっている。例え、遠く離れていたとしても。
出来るなら今夜は…と打ちかけた所で、彼は首を横に振っていた。
机に置かれた、葉をモチーフとしたペンダント。
それは全くの偶然だが、今も彼の背の方を向いて置かれている。
じっと、それを見つめ続けるかのように。
138:
翌日の昼には、講習は全て終わった。
参加者は各々の交通手段で帰る。
電車の者、飛行機の者。そして車で戻る者。
ここまでの道は、高を使って3時間。
自分の車で来ていた彼は、気が向いた頃に帰れば良いと言った状況だった。
それはこの街での自由時間が、まだある事を意味する。
彼はすぐに帰ろうとはせず、とある駐車場へと車を停めていた。
そこは、ある海浜公園の駐車場。
少し歩けば砂浜が広がり、シーズンオフの今、ここに彼以外の人影は無かった。
青空と海。それ以外は、この砂浜には何も無い。
一人ポツリと佇み、彼は潮騒の声に耳をすませている。
かつて『二人』で何度も見た、穏やかな海がそこにはあった。
今、彼の胸に去来するものは、一体何なのであろうか。
「……変わらないわね、ここは。」
そこに響くのは、儚げな細い声。
長い黒髪とスカートを揺らし、とある女が彼に声を掛けていた。
艦娘としての制服よりも、彼にとってはずっと見慣れていた私服姿。
戦艦・扶桑としてではない、かつての恋人の姿として、彼女は立っていたのだ。
「……久しぶりだね。」
「ええ…何年経ったのかしら。」
「少し、座ろうか。」
言葉少なに、二人は近くの石段へと腰掛ける。
肩と肩の隙間は30cm程、手を伸ばせば届く距離。
だが、彼らが触れ合う事は無い。手をつなぐ事でさえも。
139:
「知ってはいたが、目の当たりにするまで本当だと思わなかったよ。
…どうして艦娘になんてなった?」
「…憎たらしかったの…あなたを壊した、戦争そのものが。」
「…それでも『俺』は、帰ってこないけどね。」
「わかってるわ…でも__……何でそんなに寂しそうなのかしら?」
「…何の事だよ。」
「可愛い子ね、青葉ちゃん…この前、じっくりお話させてもらったわ。
ねぇ__……少しずつ、感情を取り戻して来てるのではないかしら?」
「………あぁ、そうだよ。」
青年の肯定に、女は寂しげに微笑んだ。
彼は青葉との交流の中で、失った物を徐々に取り戻しつつあった。
痛みや悲しみ、恐怖に怒り。
そして、愛と喜び。
少しずつではあるが、それらに揺れる感覚を、近頃彼は味わっていた。
それは間違いなく、青葉と言う少女が与えてくれたもの。
だが、過去への感情もまた、改めて噴き出していたのだ。
「……あの子のおかげかしら?」
「きっとね…例えは悪いけど、犬みたいな子だよ。常に『俺』の深い所にいてくれる。
…こんなんになっちまった、『俺』のそばにでもね。」
「それでも、あなたを見捨てた女に会いに来たのね…。」
「あの頃の『俺』は、死んだようなものだったからな…だから今こそ、ケリを着ける為にね。」
「……ずっと、後悔してたわ。
私がしっかりさえしていれば、あなたを殺しそうなんて思わなかったもの。ねぇ…。」
しなだれかかる重さ、懐かしい香り。
それらはかつてこの海で、幸せに夕日を眺めていた頃と同じものだった。
だが、今は違った。
過ぎた年月は心を焼き、今二人にあるものは、思い出の灰でしかない。
それでも彼女にとって、伝えたい言葉は。
「……やり直す事は、出来ないのかしら?」
どこまでも悲しい、わがままな想いだった。
140:
「……ああ、出来ない。
君の好きな『俺』はもう、あの時死んだんだ。
息を吹き返してたとしても、それは新しい『俺』さ。」
「……あの子、本当に良い子よ。幸せにしてあげて。」
「…………わかったよ。」
嘘つきだなと、彼は内心で自嘲の笑みを浮かべていた。
青葉と心を通わせる前に、彼はもう、後戻り出来ない場所まで来てしまっている。
その事は、かつての恋人にさえ話せない事。
「…『僕』は、そろそろ行くとするよ。」
「そう…気を付けてね。」
背を返し、彼はその場を後にする。
振り返らずに歩く彼と、座ったままの彼女。
次第に遠くなる足音。それもエンジン音と共に止むのだろう。
だが彼女は、その音が途切れる前に走り出していた。
「待って!」
肩を掴まれ、強引に振り向かさせられた彼に触れたのは。
かつて愛した女の、唇の感触だった。
「__、愛して『いた』わ。」
「__……『俺』もだよ。さよなら。」
「ええ…さようなら。」
車は走り去り、見えなくなるまで彼女は手を振っていた。
その足で浜へと戻り、彼女は石段へとまた腰掛ける。
ひとりきりの、石段の上。
さっきまでは、ふたりきりだった思い出の場所。
上を見れば、透き通るような青空だ。
だが彼女の瞳には、天気は狐の嫁入りに見えていた。
瞳をぽつぽつと水滴が濡らし、それは人肌の、ぬるい雨粒だ。
次第に視界が滲んで行くが、それでも尚、空は変わらない。
青き日々の最期を、彼女の中に刻むように。
「ああ…空はあんなに青いのに。」
ポツリとこぼした言葉と、ポツリとこぼれた雫。
彼女の瞳には、土砂降りの雨が降っていた。
次の虹を呼ぶ為の、寂しい通り雨が。
141:
この日が来るのを、待っていました。
今日は彼が帰って来る日です。
もう夜だけど、絶対出迎えてやるんだ!って今は待ち伏せしている所。
早く会いたいなぁ…でもこんな時間も何だか楽しくて、暗い駐車場も怖くはありません。
おや、光ですねぇ…あ!帰って来た!
「司令官!おかえりなさい!」
「青葉…待っててくれたのか。ありがとう。」
私服姿の彼は、あのペンダントを付けてくれてて。
もう顔を見ただけで嬉しくなって…思わず抱きついちゃいました。
だって今なら、誰も見てないもん。だから我慢なんて出来ない。
「あはは、そんなにくっつくなよ。犬じゃないんだから。」
「狼ですよーだ。えへへ…。」
嬉しくて嬉しくて、思わず腕に頬ずりしちゃいました。
ふふーん、久々に匂いでも味わってやろうかなー、どれどれ……。
…………え?
「司令官……扶桑さん、いましたか?」
「…ああ、いたよ。」
アノヒトノ、ニオイガスル。
形容し難い何かが青葉の中を駆け抜けて行ったのは。
その匂いを、感じた時でした。
143:
こわい。こわい。こわい。
血の気が引いて、でも込み上げてくる感覚もあって。
頭がぐるぐる回って、汗が冷たい。
くらくらする。
しんぞうがばくばくして、じめんがちかい。
あれ?なんでじめんがちかいんだろ?
「青葉!?」
しれいかんのあししかみえない。おっきなこえがする。
なんでそんなにあわててるんですか?だいじょうぶ、たてますよ。
あ。からだがういた。
「待ってろ、すぐ連れてく!」
そのままかれは、あおばをどこかへつれていってくれました。
あたまがぼんやりして、ねむくなって…。
そこからは、意識が途切れていました。
144:
あの浜に、青葉と司令官は立っていました。
彼は青葉の少し先にいて、いつもの微笑もありません。
ただ淡々と、曇り空の下を歩いていました。
『たぁん…。』
嫌な残響の銃声が響いたのは、その時のこと。
その場で彼は倒れて、青葉はそこに駆け寄るんです。
抱き上げるんですけど、血が止まらない。
気付いたら青葉の両手も真っ赤で…ふと自分の手を見たら、拳銃が握られていたんです。
血は暖かくて、全身に彼を浴びているようで。
でも拳銃は、とっても冷たい。
青葉が目を覚ましたのは、心までその温度に飲み込まれた時でした。
“あれ…?”
司令官の匂いだ。
真っ先に感じたのは、その香りです。
そこは医務室でもドックでもないし、ましてや自室でもない。知らないベッドの上で。
手があったかくて…それはどうやら、人に握られていたからのようでした。
「え…司令官!?」
「良かった…目を覚ましたのか。」
その手の主は、彼でした。
優しい笑みを向けてくれてて…青葉はそれで、ようやく現実に帰ってこれたのです。
でもここ、どこだろ…?
145:
「あの、青葉は一体…。」
「急にうずくまって、意識も朦朧としてたんだよ。それで近くの俺の部屋に運んだんだ。
医務も呼んで診てもらったが…ストレスから来る急性のものだったようだね。」
「………ストレスですか。」
原因は、思いっきり心当たりがあります。
扶桑さんの匂いがした瞬間、『あの時』の感覚が蘇りましたから。
ドン底に突き落とされる感覚…でも違うのは、司令官は青葉のものでも何でも無いってこと。
だからこんな感情も、こんな風にトラウマぶり返すのも、本当は筋が違うんですよ。
迷惑掛けちゃったな…彼女ヅラして、ばかみたい。
ほんと、ばかだよ……やり直す可能性だってあって、『私』にそれを止める権利なんて…。
「青葉…泣いているのか?」
「あ…いえいえ!だいじょーぶです!眩しいだけなので!」
そうだ、起きたんだし帰らなきゃ。
ここ、司令官の家だもん。これ以上はいられないし…。
「…ここなら誰も見てないよ、我慢しなくていい。」
ぎゅっと青葉を抱き締めて、彼はそんな言葉をくれました。
ダメですよ、そんな事言っちゃ…余計涙止まんなくなっちゃう。
言えないよ、こんな気持ち…でも…。
「……扶桑さんと、ヨリを戻したんですか?」
この時、心底自分を子供だって思いました。
そんな光景を想像すると、やっぱり怖くなって…今でも、少し手が震えてるのがわかる。
無意識に彼の裾を強く掴んでいて、それは青葉自身の執着を教えてくれていました。
そうだよ。これは執着で、ワガママなんだ…知りたいって思う事さえも。
「逆さ。彼女とは、ちゃんとケリを着けたんだ。
あの時の俺は、今より欠けていたからね。」
でも返ってきたのは、青葉の不安と真逆な言葉でした。
ケリって一体…。
146:
「……彼女は俺を振ったのを後悔していたが、それでもやり直す事は出来ない。
あまりにも、時間が経ち過ぎていたんだ…俺が俺を取り戻し出すには。」
「司令官…やっぱり、感情が欠けてしまっていたんですね。」
「そうだろうね…昔は寂しいや悲しいと言った類も、上手く感じられなくなっていた。
ただあの場所に俺は焦がれていて…その理由さえ、理解出来なかったのにな。
だけどこの頃、少しずつ蘇ってきたんだ…君との交流の中でね。
思う所は沢山あったが、まず彼女とちゃんとケジメを着けなきゃと思った。講習の話は、その時に来たんだ。」
「それで…扶桑さんは何て?」
「……宿にいる時、彼女から連絡があった。それで次の日会いに行ったよ。
彼女もまた、後悔したままだった。
ただ俺とは逆で…やり直せないかって、そう言われた。
だが、今となっては不可能な話だ。
俺はその間、余りに変わりすぎたからね。戻る事は出来ない…その旨は、ちゃんと伝えたよ。」
「…そう、ですか…。」
それを聞いて安心した自分がいて。
ふと我に返って、自己嫌悪を抱きました。
何を安心なんて…だって感情が戻り出したって事は、きっと…。
「……司令官、じゃあ拳の傷は…。」
「…あの件やその後に纏わる気持ちを思い出し始めた、副産物だろうね。
耐え切れなくなって、吐いたり暴れたりしたものさ。
なぁ青葉。俺が見た場所へ行く条件って、分かるか?」
「いえ…。」
「手首を切った時は、気絶しても何も見えなかった…今思えば、簡単な事なんだよ。
あそこは戦場で、死に瀕した者にだけ見える…生と死の、狭間の場所だ。
もしかしたら俺は、そこに自分の心を置いて来たと思い込んでたのかもな。ずっと、俺の中に眠っていたのに。
…まぁ、俺の事はどうでもいい。
今日は無理せず、休ませた方が良いって医務も言ってたよ。ベッドはそのまま使ってくれ。」
そう微笑んで、彼は青葉の髪から手を離しました。
短い間見せた、張り詰めた目なんて無かったかのように。
「司令官は、今夜どうするんですか?」
「俺はリビングで寝るよ。ソファもあるしね。それじゃあ…!?」
「…嫌です。」
背を向けようとする彼の手を、無意識に掴んでいました。
怖くて、寂しくて……それは青葉にとってもでしたが、彼を一人にする事が怖くもあったから。
このまま、遠くに行ってしまわないかって。だったらいっそ…。
147:
「病人ほっとかないで下さいよ…隣で寝て下さい。」
「…簡単に、異性にそんな事言うものじゃない。『僕』が狼でないと言いきれるかい?」
「……あなたの一人称が『僕』の時は、仮面被る時です。青葉、さんざん見ちゃってますから。
それに……『私』も狼ですから。食べられちゃうのはあなたかもしれませんし?」
自分が満更でもないと思ってもらえている事ぐらい、気付いてるんですよ。
だからこれは、卑怯な事。
こうやってどさくさ紛れに気持ちを伝えて、後戻り出来なくさせて…逃げ場を無くす行為。
それと同時に、これは青葉にとっても大切な事で。
本当は、今でも怖いんですよ。
こんな事したって、またいなくなるんじゃないかって。男の人自体を信じられなくなってる自分もいて。
だけど、それじゃこの先何も変わらない。
『私』との交流の中で、感情を取り戻し始めた彼。
もっと深く踏み込んだなら、より多く取り戻せるでしょうか?
自分の為にも、あなたの為にも。
今少しだけ、私達は殻を破らなきゃいけない。
「…私達は成人同士です。不倫でもない限り、男女の仲は自己責任ですよ?
司令官…いえ、__さん。私はあなたが好きです。あなただから、こんな事を言うんですよ。」
「………そうか。」
「びっくりしちゃいましたか?
_さん、あなたはどうなんでしょう?」
「俺は……。」
さっきとは別で、心臓がばくばくしています。
小悪魔気取ったって、内心は必死ですから。
とても長くて、永遠にも感じられる時間です。
背中に汗が伝うのを、青葉の肌は感じ取っていました。
「なぁ、__。」
その時聞こえたのは、青葉の本当の名前。
微笑も無く、ひどく真剣な。そして苦悩に満ちた顔で。
あぁ…あれだけの事、『私』はしてきたもんね。
きっと振られてしまうんだと、目元にじわりとした感覚を感じた時の事。
148:
「俺はあの日以来、感情を失っていた。今でも完全にとは言えない。
今でも軍にいるのは、もう一度死線に巡り合う為でしかなかった……いや、正確にはそれ以外は感じられなかったんだ。
ここにいれば、いつかあの場所が見えるんじゃないかってね。
この歳で少佐に上がったのも、感情が無かったからだろうな。
感情が無いから、戦術での最適解を出す事が出来た…味方の反発を産まず、敵もなるべく殺せる道を。
だが、失ったものは多かった。
俺は仲間の死も嘆けなければ、彼女と別れてもやはり空虚だった…ひどい事ばかりしてきたよ。
司令官になった今でも、艦娘や他の職員との距離は感じていてね。そんな中に現れたのが、君だ。」
「……はい。」
「随分と、俺を引っ張り出してくれたもんだよ…ちゃんと人として話を出来たのは、君ぐらいなものさ。
おかげで、今はこの戦争を終わらせたいと、はっきり思えるようになった。
俺には言えない事も沢山ある。これから先、君にはつらい思いをさせるかもしれない。
__。それでも、近くにいてくれるか?」
「……はい!いつでもそばにいますから!」
「ありがとう…俺も、君の事が好きだ。」
そうやって抱き締められた時、全てが昇華された気がしました。
彼の苦しみも、青葉の苦しみも、何もかもが。
抱き合っている間は、融け合えているみたいで。それはとても、幸せな事。
目に見える全てが、優しい場所と思い込めるぐらいには。
例えばそこが、実際は海の底だったとしても。
いくらでも、どこまでも深入りできてしまう気がして。
青葉と司令官が。
いえ…『私』と『彼』が一線を超えたのは、その夜の事でした。
それは全てに目を伏せるような。
虫の声も聞こえない、丸い月の夜だったのです。
手を伸ばしても届かない、光の遠い夜の事。
151:
“……真っ暗…まだ3時かぁ。”
一度目を覚ましたのは、真夜中の事でした。
上は裸ですけど、寒くない。だって、彼の腕にくるまれているんですから。
ふふ…叶っちゃったんだぁ…。
幸せを噛み締めて、胸元に頬を寄せて。
これは夢じゃないんだって思えました。
静かに眠る彼の顔は穏やかで。でもいつかみたいな、死んだような寝顔じゃない。
それが愛おしくて、嬉しくて。青葉は少しの間、彼の心臓の音に耳をすませていました。
“でもトイレ行きたいなぁ…起こさないように…っと。”
ベッドを出て、そろそろとトイレに向かいました。そこで初めて、ちゃんと家の中を歩いたんです。
最初にトイレと間違えてお風呂場を開けちゃって、目に入ったのは脱衣所。
端の方に透明なビニール袋があって…その中には、血の付いたマットが入っていました。
これ、きっと拳の怪我のだ…手に取ってみると、かなりの血が出ていたのがわかりました。
さっきまでの幸せとは別で、胸がぎゅっとなります。どんな気持ちだったんだろ…。
用を足して寝室に戻ると、多少目が覚めたのでしょう、部屋の様子がさっきよりはっきり見えました。
間接照明にも目が慣れて、どんなレイアウトかよく見える。
棚には沢山のCDが並べられていますが、それ以外は特にめぼしい物もありません。
むしろ無機質さすら感じるぐらい、他に生活感や趣味の要素が見当たらない。
本棚も、殆どは戦術や軍事関係のもの…思い出のアルバムも無いし、何か写真が飾られてる様子も無くて。
PCには外付けHDが繋がれていますが、これも音楽用なのでしょう。
……デジカメや古い携帯の写真とかも、PCに無いのかもなぁ。
CDラックは整頓されていて、ちゃんとアーティスト順に並べられていました。
悪いとは思いましたが…ふと気になって、ある区画を探したんです。
彼が一番好きな曲を作った人達の、あの頭文字を。
“綺麗…。”
何となく手に取ったのは、黒地に綺麗な指輪が印刷されたもので。
しばらくそのジャケットを、ぼーっと見つめていました。
152:
「ん…起きてたのか。」
「あ…え、ええ!少しトイレお借りしました…。」
そこに掛かった声は、大好きな人の声で。
でもCDラックを勝手に見ちゃってたから、ちょっと慌てちゃいました。
「おや、あのバンドか。それは良いアルバムだ、良かったら貸すよ。そうだなぁ…だったら他にも…。」
そうして青葉の隣に来て。
彼は何気無く、片手で青葉の肩を抱きながらCDを探していました。
…恋人同士って、こう言う感じだよね。
こんな何気ない事でも、怖いぐらい幸せで。このまま朝なんて来なくていいのに。
「袋に入れたから、帰りに持ってくと良い。忘れないようにね。」
「ありがとうございます。」
「ああ、それと…仕事以外では、敬語はもう使わなくていいよ。
その、何だ…す、少なくとも、今までの関係じゃないんだし。」
「ふふ…うん!そうするね!」
「よくできました。」
少し恥ずかしそうに言う姿は、初めて見る顔で。
かわいいなぁって、にまにまとそんな顔を見つめたものでした。
夜明けまでまだあるなぁ…ガサには連絡が行ってるみたいで、下手に早く帰ったら怒られちゃいそうです。
それにしても、よっぽどぐっすり寝ていたのでしょう、目も冴えてしまっていて…それは彼も、同じなようでした。
153:
「眠くねえなぁ…。」
「横になろっか?ゴロゴロしてるだけでもマシだろうし。」
「そうだね、変にテレビ見たりするよりは。」
照れ笑いも、少し崩れた言葉遣いも。やっと心を開けたようで、青葉には全部が嬉しくて。
それで思わず抱き着いて、腕を絡めたら…あるものが青葉の手に触れました。
火傷ででこぼことした背中に触ると、眠る前まで無かった、細くて硬い感触があって。
それは多分、最中に青葉が爪を立てたせいで出来た傷。
痛かったかなぁ…無意識とは言え、悪い事しちゃったな。
「背中、ごめんね…痛くない?」
「ん?ああ、大した事じゃないさ。」
そう笑顔で言い放つ彼を見て、少し胸が痛みます。
彼の過去の恋愛も過ぎりましたけど…それ以上に、あの戦闘で痛みに慣れてしまったんだろうって。
…最近少しだけ、確信を得た事があるんです。
彼が感情を取り戻し始めたきっかけや、その後に欠けたピースをはめて行ったトリガー。
それはきっと、『私』が彼の体に痛みや傷を与える事。
痛みを以って、痛みを呼び覚ます事。
確かに、恋人同士になった事もあるでしょう。
だけど、体を重ねる前より柔らかくなった表情を見ると…背中の爪痕が、また呼び覚ましたのかもしれないって思ってしまう。
医務官さんの指示で、青葉は今日はお休みになったそうです。
それでも昼には、部屋に戻らなきゃいけない。
つまり、また夜になれば、彼はひとりきりで夜を明かす。誰にも見られず、何かを隠す必要もない。
そこまで考えた時、さっきの血まみれのマットが頭を過って…今度は、自分の胸に彼を抱きしめたんです。
154:
「ねぇ…本当に痛くないの?」
「背中の事か?大丈夫だよ。」
「……違うよ。私は記者だもん、あなたの事は沢山見てきたんだ。
__…昔の事、思い出したりしてない?」
「……思い出してないと言えば、嘘になるかな。」
「…今は何も訊かないよ。でも辛くなったら、私のこと思い出して。いつでも見てるから。
それで…話したくなったら、いつでも話してね。」
「……ありがとう。」
胸元にわずかに冷たいものが触れたのは、きっと気のせいじゃない。
痛くないように、なるべくゆっくりと抱く力を強くして…体に食い込むその感触で、彼がここにいる事を確かめていました。
抱きしめているようで、きっと縋り付いているのは『私』の方だけど。
艦娘である以上、命の危険なんていつでもあるはずで。
なのに相変わらず、仲間や自分の誰よりも、司令官である彼が一番消えてしまいそうな気がするのは、変わりませんでした。
『私』は、あなたがいないと生きて行ける気がしない。
でも…あなたは、『私』がいなくても生きて行ける?
何度も自分からキスをして。その後何をするでもなく、ベッドで色んな話をして。
その間ずっと、青葉はつないだ手を離す事が出来ませんでした。
155:
やがて朝が来て、いつの間にかまた眠ってしまっていて。
青葉が目を覚ました時には、彼はもうお仕事に行った後でした。
“……この部屋、結構広いんだ。”
テーブルの上には、鍵と一枚のメモ書きが。
メモの内容はお風呂の使い方と、鍵の隠し場所の指定でした。
“…さすがに合鍵もらう事も無いかな。あの人も軍人だもんね。”
シャワーを浴びてベッドを整えたら、すぐに彼の家を出ました。
ずっといると、寂しくなっちゃいそうでしたから。
ここの司令官用の住居は、駐車場のそばにある平屋で。どの設備からも少し離れた位置にありました。
だから、上手くやれば人には見付からない。
からかわれたりする事は無いと思いつつ、こっそりと戻った訳なのですが…部屋の鍵を開けると、何やらドアの隙間に紙が一枚。
『おめでとうございます。』
あはは……これ、ガサの字じゃん…。
さすがに今冷やかされるのは恥ずかしいなって思って、今日は大人しくする事にしました。
1日ぶりに自分のベッドに入ると、何だか妙に頭が冷静になって…ふと、今までの青葉の人生を思い返していました。
156:
無意識にトラウマになってた、最低な過去の恋愛も。一夜明けると何だか遠くの様で。
それ以外の事も、映画の様に客観的に蘇って来て…例えば、艦娘になるきっかけの事。
叔父さんの事については、一つだけ彼に隠し事をしていたんです。
それは心配をかけまいとしたが故ですけど。
叔父さんの遺体は、確かに早く見付かりましたが…厳密には、頭と右腕までだけが繋がった状態で見付かったんですよ。
それ以外は吹っ飛んでしまっていて、それでもSDだけは手放していなかった。
青葉が敵に憎しみを抱いたのは、それが最初の事。
叔父さんは青葉にとって、ジャーナリストとしての目標で…仇討ちに艦娘になる事を決めたのは、そう時間は掛かりませんでした。
仇を討つ事も、本を書いて世に伝えたいと言う目標も、そこに偽りはありません。
でも、ある時から青葉の中には、一つだけ疑問が芽生えました。
じゃあ、守りたいものや助けたいものは、青葉にはあるのかな?って。
仲間が亡くなった時や、彼と深く関わっていく中で、その疑問は次第に大きくなっていました。
今は…幸せになりたいし、したいかな。
この戦争に勝って、叶えたい事もあるし…ずっと、隣にいて欲しい人が出来ましたから。
戦争が終わっても彼が生きていられるように、青葉が彼の心を連れ戻すんだって。
“今夜はせめて、彼が寂しくないようにいっぱい連絡をしよう。”
そう決めて体を起こすと、貸してもらったCDをPCに取り込みました。
それで一番気になっていた、黒地のアルバムから聴き始めて…。
言い知れぬ不安に駆られたのは、その時の事でした。
157:
その日の夜。
一日を終え、彼は自室のベッドに横たわっていた。
部屋には音楽が流れており、間接照明の中、彼はじっと天井を見つめている。
ベッドから感じるのは、彼女の残り香。
記憶の中のぬくもりを思い出しながら、しかし彼の手には、それとは相反するものが握られていた。
マガジンの抜かれた、冷え切った拳銃が一つ。
スピーカーから流れるのは、彼女に貸したものと同じアルバム。
それは戦死した兵士の魂が、現代へとタイムスリップすると言うストーリーの作品だった。
彼女の前ではこの頃見せていない、あの貼り付けたような微笑み。
それを浮かべつつ、彼は右手の銃を持ち上げ。
そして、かち、と言う虚しい音だけが彼の片耳に響いた。
「ふふ……ははははははは!!!」
まるで楽しんでいるかのような、激しい笑い声が部屋に響く。
実際に、彼はコントを見ているような気分だったのだろう。
自身の存在と言う、ブラックコメディ。
今彼にとって最も滑稽なものは、それ以上に存在し得ないのだから。
“あの子の前で殺された……ね。”
流れる音楽の歌詞と、ある想像が彼の中でリンクする。
そして彼が彼自身に突き付ける銃口は、自身の心の弱さだった。
「俺は、蘇ったりはできないな……。」
彼女からもらった、葉のペンダント。
それを握り締める手は、ひどく震えている。
直後、携帯のバイブレーションが響き、それは彼女からのものだった。
何とも他愛の無い、恋人らしい内容だ。目を通せば、先程までの感覚はひと時でも安らぐ。
それは偽薬のような、か細い安息。
だがその実、幸福以外に、心の奥底にあるものを隠したままだった。
形は違えど、互いが共通して隠すもの。
それは、不安と言う名の感情だった。
160:
『魔の海を越えて……最後に見たのは…』
イヤフォンを耳に差したまま、呆然と天井を見つめていました。
一通り黒いジャケのアルバムを聴いて…今は、ある曲をリピートしてしまっていて。
それはアルバムのストーリーの冒頭。主人公が敵に撃たれて、戦地から現代へと魂が飛ぶ場面を歌った曲。
これはあくまで、過去としてのその瞬間の歌で。
だけどこの時浮かんだのは……彼の…。
……ううん、もうやめなきゃ、こんなこと考えるのは。今は幸せなんだもん。
それでも寂しい夜を過ごしてないか、心配になって連絡を取りました。
そのまま何となくwebブラウザを開いて…検索したのは、このアルバムのこと。
“ラストのサビの部分には_________の冒頭部分が重ねられている。”
何枚か貸してもらったCDをざっと見た時、そのタイトルを見た覚えがありました。
確かに違うメロディが鳴ってる…それがどうしても気になって、今度はそっちの曲を再生したんです。
日は暮れていて、彼もきっと帰っている頃で。それを一通り聴いて…。
青葉は、部屋を飛び出していました。
161:
息を切らして彼の家に辿り着くと、インターホンに手を伸ばしました。
だけどその手を、途中で止めてしまったんです。
きっと堂々と尋ねたら、彼は全てを隠してしまう。
今青葉が知らなきゃいけないのは、そうじゃない顔。
“…覗くしかない。
何もなければそれで良し、もし何かあったなら…。”
今は記者として、恋人としての見せ所だ。
記者だからこそ出来る、ともすれば傷を広げかねないような、すれすれの手助け。
でもそんな事、他に誰が出来るの?
やるしかない…青葉、取材しちゃいます……!
壁を這うように、こっそりと裏へ回ります。
寝室の位置は把握してる、それはこのサッシの向こう。
カーテンの隙間からは間接照明が漏れてる…音楽も聴こえる。いるのは間違いない。
バレる事は、微塵も怖くない。そんな余裕自体無くて。
でも心臓の音はばくばくしていて…その正体は、不安でした。
ちゃんと耳をすませば、かち、かち、と、無機質な音が聞こえて来ます。
音を立てないよう、片手スコープを窓の隙間へ。
いました……あれは…!?
青葉、見ちゃいました…。
そこにいたのは。
ベッドの上で何度となく、空の拳銃をこめかみに撃ち続ける彼の姿。
間接照明に口元だけが照らされていて…その頬は、釣り上がっていて。
頬には、涙が伝っていました。
162:
『こん…こん…』
自分でもびっくりするぐらい、弱々しいノックをしていました。
それでもあの部屋にはよく響いたのでしょう、彼はすぐに気付いて…。
サッシを開けた彼の顔は、見た事もない、悲しげな顔を浮かべていました。
「見たのか……。」
「うん…ねえ、入れてもらってもいい?」
「……上がってくれ。」
隣同士でベッドに座っても、言葉はありません。
何を言えばいいんだろう、何をしてあげればいいんだろう。
考えるほどわからなくて……ただ、ぎゅっと彼を抱きしめる事しか、青葉には出来ませんでした。
「……何があったの?」
「…………。」
「黙ってちゃ、わかんないよ…おねがい……私には、話してよ……。」
「……何で俺だけ、のうのうと生きてんだろうなって思ったんだ。」
「………また、思い出したの?」
「ああ……あの戦闘で死んだ仲間たちや、あの子の事への気持ちが一気にね……今更だ、本当に今更だよ。
今になって、悲しくてたまらなくなって……気付いたら、空砲を撃っていた。」
様々な痛みや悲しみが、混ざり合って吹き溜まりになって…決壊したダムのように、一気に溢れたのでしょう。
それがどれだけの心の痛みになったのか、青葉には全てを想像する事は出来ませんでした。
それはきっと、地獄のような責め苦で。
不意に甦るのは、彼の語っていた天国の事。
感情なんて捨ててしまった方が、心だけでも殺してしまった方が。何かに苦しみ続けるより、ずっと楽な事で。
彼が心を閉ざしていたのは、防衛本能だったのかもしれない。
死にたいと言う気持ちすら、天国への憧憬にすり替えて。
そうすれば、死に場所を探す事さえ辛くないはずだから。
その蓋を開けてしまったのは、『私』だったのでしょう。
それでも…『私』は……。
163:
「__……大丈夫だよ。」
強く抱きしめて、安心させるように。
「私は、何があってもそばにいるから。」
たったひとりの理解者である事を擦り込むように、甘い言葉を囁いて。
「やっと泣けてよかった…ありがとう、話してくれて…。」
ヴェールを纏った聖母を気取るみたいに、欲望を包み隠して。
「生きてるんだよ、あなたは。」
腕を取って、唇を寄せて。
また、彼に噛み跡を付けたのでした。
164:
「………っ!?」
「痛かった?ごめんね……。」
こぼれた血は、あたたかい。
それはまるで、とろけるように甘美で。
唇を伝う血も気にせず、私はキスをして。
付いた傷を眺めて…ぞくりとしたものが、背筋を通り抜けて行きました。
ああ、また『私』の跡が増えたんだ。
これでまた、感情が一つ戻るんだ。
喜びや幸せが戻るまで、何度でも、何度でも傷を付けてあげる。
全部、『私』が呼び戻した跡で。
他の誰にも、こんな事は出来やしない。
「……それでも今は、私がいるよ。
私を“シルクスカーフに帽子が似合う女”になんて、しないでよ…。」
「聴いたのか?」
「うん……あれ、悲しいよ。あなたの事みたいだって思った…。」
「そりゃ予想外だったな…ごめんな。」
「だめ。収まるまで許さない。」
「ありがとう…お前がいなかったら、今頃どうなってただろうな。」
胸元に飛び込んで、顔を埋めて。
そうやって甘えてみせる青葉を、彼は優しく抱きしめてくれました。
だから今、彼に青葉の顔なんて見えていない。
この時本当は、甘えるよりも、抱きしめてあげたかったんです。
でも、どうしても隠さなきゃいけない自分の変化があった。
釣り上がる頬の感覚。
きっとこの時の青葉は…それはそれは、ひどい笑顔をしていたでしょうから。
彼には見せられないような、欲望まみれの女の顔で。
この時一番強かった感情。それは…
“私がいないと、この人は生きて行けない。
これでもう、えいえんにわたしだけのもの。”
そんな、どこまでも下卑た感情だったのですから。
166:
膝枕をしてあげる内に、彼は疲れ果てて眠ってしまいました。
今は子供みたいに穏やかに目を閉じていて、その顔が青葉を満たして行く。
少なくともこの鎮守府では、青葉以外誰も知らない顔なのですから。
腕には真新しい噛み跡。まだかさぶたも真っ赤なその傷を見て、ふと彼の血の味が蘇りました。
アヘンって、元はけしの乳液だったよね……さながら青葉にとってはその味が。いえ、彼の存在自体が麻薬のようで。
傷に舌を這わせれば、乾いた鉄の味。頭の奥が痺れるような感覚が、そこにはありました。
ほんとうのこのひとはわたしだけのもの。
でも、もう帰らなくちゃ。
起こさないように頭を下ろして、毛布を掛けたら最後にキスをして。それでこっそりと、部屋に戻りました。
本当は朝までそばにいてあげたいけど、恋人であると同時に青葉は艦娘で、彼は司令官で。
それは二人とも、よく分かっている事でしたから。
167:
「“司令官”、おはよーございます!!」
「ああ、おはよう。“青葉”。」
次の日、今まで通りの挨拶で1日が始まりました。
今日の青葉は秘書艦を外れていて、でも作戦の関係上出撃はありません。
戦闘が無い時の艦娘がやる事と言えば、専ら訓練です。
今日は海上移動の訓練をしたかったので、一人訓練用の沖に立っていました。
この時はたまたま、青葉以外誰もここを使っていなくて。静かな沖が目の前に広がっていました。
“??…♪”
何故なんでしょうね。
天国旅行と言う曲を知った日から、艤装を付けて一人沖に立つと、頭の中で流れてきます。
あの曲から感じる、寂しい景色。
それを何故か、ずっと昔から知っているかのように思える。
彼が見た天国が、艤装と通じている間は既視感のあるものに感じられるんです。
『天国とは名ばかりのそれ』が、生々しい物に思えるぐらいには。
彼の事を知り始めてから、作戦や訓練の時は頭の中でスイッチが入るようになりました。
特に具体的な過去を知ってからは、グツグツと煮えたぎるのに、冷え切った様な。そんな感覚を持つようになったのです。
洋上を駆けて、障害物を避けて。そして置かれた的を撃つ。もっとく、もっと正確に。
ぜえぜえと息が上がっても、足が震え始めても。
日が暮れるまで、青葉は訓練を止める事はしませんでした。
168:
「演習ですか…。」
「…ああ。さっき話が来た。」
その夜彼から告げられたのは、演習の知らせでした。
相手はあの鎮守府で、今度はここが会場だって。そう言われたんです。
「その…向こうの編成は?」
「……彼女の妹がいる。たっての希望だそうだ。」
「…青葉を、旗艦にしてもらえませんか?」
「君をか?」
「はい。前の演習の時は、倒せませんでしたから。」
「…分かった。君を旗艦に編成を組もう。」
山城さんの事が出た瞬間、使命感に駆られたんです。
あの子は彼を憎んでる…それこそ顔を見た瞬間、殴ろうとしてるぐらいには。
それを思い出したら、守らなきゃって思って。
コノヒトヲキズツケヨウトスルヤツハ、ダレデアロウトユルサナイ。
キズヲツケテイイノハ、ワタシダケ。
「……ねぇ、“時間だよ。”」
終業時刻を過ぎた瞬間、『私』は彼にとって『青葉』ではなくなる。
だけど『青葉』である時も、いつでも彼のそばにいる。
最も近い部下としても、最も近い恋人としても。
いつだって、あなたのそばにいるんだから。
いつでもいつでも、見てるんだよ。あなたの敵でさえも。
大丈夫、あの子の好きにはさせないから。
私が、守ってあげるから。
169:
翌日夜。鎮守府内・射撃場。
かつて拳銃やライフルの訓練用に作られた小さな建物も、今はあまり使われていない。
だが、今でも時折ここで訓練を行う者が、一人だけいた。
彼が構える拳銃には、サイレンサーが付けられている。
味気ない発砲音の後、的には穴。白い的に空いた銃創は、否応無しに彼の中である光景を思い出させている。
自分と同じ制服を纏った、へたり込む死体の記憶。
彼が手を下した男は、我欲に溺れ、殺されるだけの罪を犯した。
元々その男は、下卑た人格で有名な者。
深海棲艦との初回戦闘を生き延びた一人ではあるが、男の部隊も死者を多数出し、生き延びた者も男以外は後に除隊していた。
当時男の部下の中には、彼の学生時代の友人もいた。
その友人もまた、戦闘の際帰らぬ人となっている。
真相は分からない。だが、男のみ軽傷で済んだ事実は、疑いを与えるには充分過ぎた。
しかし、手を下した当時の彼には、友人の件への疑念も、男の犯した罪も関係無かった。
そこに正義や復讐心も無ければ、義憤に駆られた感情も無い。
彼もまた、我欲の為に男の命を奪ったのだ。
粛清の話を受けた折、彼が元帥の意思に背いてでも、自らその役目を負った理由。
それは、全力の抵抗を受けた先に死線を手に入れ、もう一度天国への切符を手に入れたいが為の行動だったのだから。
全力で戦い、殺される事。
あの場所へ行く為の条件。
それが当時の彼にとっては、全てだった。
だが、今の彼は感情を取り戻しつつある。
その中の一つ。
それは、罪悪感と言う感覚だ。
気の抜けた断末魔と血の匂いが蘇り、同時に湧き上がる様々なもの。
今になって感じる男への怒りや、説明し難い達成感。
そして、一抹の不安。
170:
穴の空いた的は、穴の空いた脳天を蘇らせる。
的の白と、血を流す銃創。
それらが混ざり合うと、それは白い制服を汚す血を想像させた。
“胸に三発の弾”
感情を取り戻しつつある今、苦痛の末の死への願望は、決壊したダムのように彼を濁流に飲み込んでいる。
だが、それでも死ねない理由、死への恐怖を抱く理由が彼にはあった。
何よりも愛おしい恋人であり、最も信頼する部下である彼女の存在。
それがたった一つの死ねない理由で、生きる意味。
射撃場の外へ出ると、三日月が浮かんでいた。
手を伸ばしたところで、それは届くはずもない。
月光はただただ、彼の指をすり抜けていた。
「追いかけても追いかけても?♪
…指の間をすり抜けるバラ色の日々…ね。」
人生とは奇妙だな、と、彼は考えていた。
日頃はあまり吸わないタバコを取り出し、火を点ける。
喉を通るメンソールの冷たさは、夜風の冷たさを一際強く彼の脳に刻み込んでいた。
こんな日は、ぬくもりに触れたい。
その夜恋人にこっそり抜け出してもらい、情事に耽るでもなく、彼はただ彼女を抱きしめ眠った。
これは依存なのだと、彼はどこか冷めた目を自身に向けていて。
彼女はその傾向を感じ、眠る彼を見ては微笑んでいた。
心の奥底にまで沈めるように、深く胸へと彼を抱きしめて。
明後日には、演習が待っている。
176:
4年前、快晴の日。とある海は血に染まっていた。
残骸と原型を留めていない肉片が浮く中、唯一まともな状態の死体が一つ。
いや、死体ではない。その男は、『生きてだけはいる』のだ。
しかし開けられたままの目に意識はなく、表情も虚脱したもの。
辺りは波音のみ。うめき声すら聞こえぬ中、不意に男の頬が動く。
「………ははははははははははははっ!!!!!!!」
狂気めいた笑い声が、波音を塗りつぶす。
だがその声の主の目に、未だに意識は戻らぬまま。
自身がケタケタと笑い転げている事でさえ、彼が気付く事は無い。
数十分後、救助部隊が現場に駆け付けた時には、辺りは再び静寂に包まれていた。
彼もまた、いつの間にか死んだように目を閉じている。
故に、誰もが彼を、ただの生存者としか思う事は無かった。
177:
演習は通常、ゴム弾を用いて行われます。
撃沈やダメージの判定は、本人のスペックと被弾数で決まる。
そして撃沈扱いになった子は、演習場から待機スペースに戻るのがルールです。
始まって、もう何分でしょうか。
散々打ち合った末、この演習場にはもう、青葉と山城さんしかいませんでした。
射撃戦ですから、実際は何かを語り合うなんて無理な距離です。交わせるのは、せいぜい視線だけ。
ダメージはお互いギリギリ…だけど山城さんの目は、まだ死んではいませんでした。
それは青葉も、同じ事でしたけど。
『青葉、君から見て右を重点に狙おう。
彼女は利き手側に発射数が傾く癖があるな、疲労困憊の今なら余計そうだ。逆に左に気を付けろ。』
「了解しました!青葉にお任せです!」
相手は戦艦ですけど、ここに至るまでにみんなが少しずつ削ってくれた…無下には出来ません。
魚雷を3発…でも山城さんからも攻撃が来る。それでも着弾のさなら、青葉の方が…!
結果はスローカメラ判定で、辛くも青葉達の勝利となりました。
はぁ…本当に手強かった。演習ですけど、山城さんからは前回以上に鬼気迫るものを感じてしまって。
やはりここでの演習は、それだけ彼女の中で負けたくないと思う気持ちに繋がったのでしょう。
「青葉、お疲れ様。彼女がここまで手強い相手になるとはね…でも、さすがは君だよ。」
「きょーしゅくです!司令官の指示のおかげですよ。癖までは見抜けませんでしたから。」
褒めてもらって、素直に嬉しくなりました。
これで山城さんも懲りて、一安心……
178:
……とは、行かないんですよねぇ。
179:
今の演習は、艦娘として仲間や司令官のメンツを守っただけなんです。
山城さんが彼を恨む理由は、あくまで私怨ですから。
例えばこの後誰もいない廊下で鉢合わせて、ビンタを一発……なんて事だって有り得る。それじゃ彼を守ったなんて言えない。
今日の二度目の戦闘は、この後。自由時間にこそあるんです。
別に裏に呼び出してボコボコにするとか、そんな事はしませんよ。
ただ少し…『自分と向き合ってもらう』だけ。
今日の第二次戦闘は、『彼の女である私』としての戦いですから。
シャワーと着替えを済ませたぐらいで、時間はいい頃合いになる。
あの人の性格なら…ほら、いました。突堤で一人黄昏てる。絶好のチャンスだ。
「山城さん、お疲れ様でした!」
「…何よ。今日の勝者様のお出まし?」
「いえいえ…青葉達が勝てたのは、運が良かっただけですよ。」
「そうね…私、いつもシメの運は弱いのよ。はあ、不幸だわ…あなた、なかなかやるわね。」
ペンは剣よりも強し、なんて言いますよね?
でも今のご時世、例えばネットの書き込み一つでも、人の心は潰されてしまう事だってある。
あくまでペンはものの喩え…文字そのものが剣より強い訳じゃない。
突き詰めればそれは……言葉は剣よりも強し、だと思うんですよ。
「山城さん…。」
「….何かしら?」
叔父さんの受け売りですけど…記者と言うのは、何も突っ込む事だけが仕事ではありません。
推測だけで記事を書くのはご法度ですが、裏を取る過程に於いては、推測も必要になる。
狙いはある程度定めないと、いつまでも裏付けには手が届きませんから。
そう…それこそ初めてこの子に会った時から、気付いてた事がある。
「………好きだったんじゃないですか?彼の事。」
時には一歩引いて、対象の本質を見抜く事。
それも記者の務めのひとつなんです。
それが、対象の地雷となる時もあるけれど。
182:
「………はぁ?な、なにを言ってるのかしら?」
「いえ…そうなのかなーって。無理にゴキブリの如く嫌ってるようにお見受けしたものでして。」
「ごくごく自然な事よ。元々気に食わなかったし、姉様を傷付けられたなら当たり前でしょう?」
へー……じゃあ、何でそんなにへらへらしてるんでしょうねえ?
ふふ…あの男もそうでしたけど、人って狼狽えると薄笑いになりますよね。
追求される程、痛い所を突かれる程、焦った笑いがボロボロこぼれてくる。
“__。人と本ってのは似てるんだよ。”
叔父さんの言ってた事、本当ですねぇ。
でも彼はこうも言ってました。
“だけど取材の肝はな、その行間や伏線に隠したものを読み解く事だ。”…って。
「くす……山城さん。艦娘以外にやりたい事って、ありますかぁ?」
「な、何よ…。」
「青葉には、あるんですよ。元々ジャーナリスト志望なんですけど…最終的には、小説やエッセイを書きたいんですよね。
プロットを貯めてる小説があるんですけど、あなたに聞いてみて欲しいなって。」
「い、嫌よ…何であんたの妄想なんて…。」
「まぁ聞いてみてくださいよ…内容は、架空戦記にして恋愛小説、と言った具合ですかねえ。
それはね、ある姉妹のお話で…お姉さんの恋人を好きになってしまった妹の話なんですよ。
それは初めから叶わぬ恋でした…ですが彼は軍人で、そしてある日突然戦争が起きてしまって…。
そして彼は、戦地で心を壊して帰って来てしまう。
……そんな導入なんですけどねぇ。」
「……!?嫌…やめて……。」
「まぁまぁ、きっと面白いですから。是非とも……。」
彼女の瞳孔が怯えを孕んだのを、私は見逃しませんでした。
でもこれは小説のプロット。あくまで妄想で、与太話なんですよ。
だから何も、『彼女の事なんて書かれてはいない』ただの小説。
それを私が一方的に聞かせるだけ。
でも……刺さる人には刺さるかもしれませんねぇ…!
「じゃあ、聞いてください……。」
そして私は、ポツポツとそのプロットを語り出したのでした。
183:
一目惚れなんてあるんだって、初めて知った。
その人は普通なら知り合わないような、7歳も年上の人。
高校生になったばかりの私には、とっても大人のように見えて。
街でたまたま出会った?
ううん、そんなのじゃないわ。ある人に紹介されたの。
「新しい彼氏かぁ…どんな奴なんだろ?」
親は仕事で海外にいて、私は大好きなお姉ちゃんと二人暮らし。いつも優しくて、何より綺麗な人で。
でもちょっと影があって、それで彼氏が出来てもいつも振られてたわ。
そんなある日、新しい彼氏が出来たから連れてくるって言われた。
だから今度はしっかり見定めてやろうと思って、私は玄関で待っていた。
それで玄関を開けて……
その瞬間。私は、姉の恋人を好きになってしまった。
184:
「と……まぁ、こんな所から始まるんですけどねぇ。」
「……黙ってよ…聞きたくない…。」
おやおや、随分効いてるみたいですねぇ。まだ導入なのに、そんなにガタガタ震えちゃって……。
でも……面白くなるのはこれからですよ。
185:
「__、紹介するわ。同じ軍の方で、__さんって言うの。」
「あ…は、初めまして!妹の__です!」
「初めまして。お姉さんとお付き合いさせていただいている__です。」
お姉ちゃんは、今年短大を出て軍の事務員として働き始めた。どうもそこで知り合ったみたい。
軍人さんって初めて会ったけど…リラックスしててもどこかキリってしてるって言うか、独特のオーラがあって。
日頃同級生や先生としか男の人と接しない私には、そんな人と出会ったのは経験の無い事だった。
その日は3人でお茶をしただけだけど、緊張してまともに話せなかったわ。
その……まともに見ると、真っ赤になっちゃいそうだったし…。
「二人ともよく似てるなぁ。」
「ふふ、そうかしら?この子は昔はやんちゃでね、よく田んぼに落ちたりして…。」
「ちょ、ちょっとお姉ちゃん!恥ずかしいからやめてよー…。」
「あはは、元気なのは何よりだよ。あ、そうだ。これからは__ちゃんでいいかな?」
“あ……。”
「え、ええ!それで大丈夫です!妹さんって言われるの、何かこそばゆいですし…。」
初めて名前を呼ばれた時、心臓が跳ね上がった。
真っ赤になってそうな気がしたけど、それを一生懸命隠して……精一杯の笑顔で、私はそう答えたの。
186:
でも…すぐにそんな夢は覚めた。
3人で談笑をしてても、やっぱり『ふたり』の間の空気は違っていて。
“そっか…お姉ちゃんの、彼氏なんだもんね…。”
それこそTVを観ていて、顔がタイプなだけの芸能人にときめくような。
そんな一時的なものだって、その時は思ってた。
だけどその日の夜、部屋で何となくゴロゴロしてて…ずっと頭を過るのは、やっぱりあの人の事で。
「__、お風呂湧いてるわよ。」
「う、うん!今行くわ!」
そう部屋に入って来たお姉ちゃんの顔は、何だか晴れやかだった。
今は幸せそうで。、それは今まであまり恋愛が上手く行ってなかったお姉ちゃんには、珍しい顔で。
ずきり。と、胸が痛むのを感じた。
187:
その後もお姉ちゃんは、時折彼を家に連れて来た。
彼は私とも色々な話をしたし、一緒にゲームをしたり、3人で食事を作ったりした。
その度に、自分の気持ちが嘘じゃない事を突き付けられた。
血は争えないのかしら…彼の人柄にも触れる度、どんどん惹かれて行く私がいて。
そして、どんどん絆が深くなる『ふたり』を、目の前で眺めていた。
ある週末の事だ。
お姉ちゃんに買い物を頼まれて、彼も付いて来てくれる事になった。
思えばふたりきりなんて、初めての事。
行きの車の中は密室で…それは本当に、夢みたいだと思った。
薄くてもまだぎこちない化粧をして、服もちゃんと手持ちの中から吟味して。
そこにちょっとした下心はあったけど、思春期だからで誤魔化せると思ってた。
週末のホームセンターは、家族連れの中にカップルも混じっていて。
この中にいたら、私達もそう見えるのかな?なんて、ちょっと嬉しくなったものだ。
「あれ?__じゃん!なになにー?デート?」
そんな時、買い物に来てた友達に会った。
いざ知った顔にそんな事を言われると、照れてしまう。
「あ……ううん、お姉ちゃんの彼氏さん。買い物頼まれたのよ。」
でも、そうじゃないんだ。
自分の口から否定の言葉を吐けば、それは現実として跳ね返ってくる。
188:
友達と別れた後、買い物を終えてまっすぐ家に帰った。
あの店の側には、公園があるの。そこはこの辺りじゃちょっとしたデートスポットで…彼は帰りの車で、そこであったお姉ちゃんとの面白い話を聞かせてくれた。
私といる時よりも、ずっと幸せそうな顔で。
レストに置かれた片手に、その気になれば自分の手を重ねる事だって出来た。
だけどそんな事は出来ないわ。お姉ちゃんとの話をする彼の笑顔を、曇らせたりなんて出来なかった。
私は彼とお姉ちゃんの、優しい微笑みが好きだったから。
家に帰ると、お姉ちゃんが料理を仕上げて待ってくれていた。
それを3人で囲んで食べるのは、とても楽しい時間で。
でも私は、ただの彼女の妹で。
どこか『ふたりとひとり』な、そんな距離感もあって。
“大好きな人達が幸せでいる、それが自分の幸せなんだ。”
幸せな時間を眺めながら、そう思った。
……いや、思い込もうとした。
189:
「…………馬鹿ね、その子。」
おやおや?先程の拒絶も何処へやら、今度は俯いてしまいましたねぇ。
何か思い当たる節でもあるんでしょーか?
まぁ、姉妹が片割れの恋人に惚れてしまう。そんな事はよくある話です。
知り合いの話だろうがまとめサイトだろうが小説だろうが、こんな話は掃いて捨てる程ある。
くす……もしかしたら、山城さんも何か思い当たる節があるのかもしれませんねぇ?
「………このお話は、これからが本番ですよ。」
そして私は、この妄想の続きを彼女に語り出すのでした。
きっとこの時、随分といやらしい笑みを浮かべていたでしょう。
それでも込み上げてくる悪意に、蓋なんてしないままで。
195:
何も変わらない日々が続いた。それはもう、あまりにも平穏すぎるぐらいに。
だけど彼がお姉ちゃんを訪ねて家に来るたび、私は夜、一人でこっそりと枕を濡らしていた。
ふたりとひとりの、どうしようもないぐらい幸せな時間。
身勝手な気持ちでふたりの幸せを壊せば、ひとりの私の幸せも壊れてしまう。
その葛藤の中で、やがて私の中の醜い想いは、いつしか諦観に変わっていった。
叶わない事は、忘れてしまうのがいいんだ。
それで趣味を増やしてみようとしたり、仲が良い方だった男子との交流を増やしてみたりした。
向こうにも何となくそんな意図が伝わってたのか、結局付き合うまでには至らなかったけれど。
諦める事が幸せで、その為の努力をしていたような。そんな毎日だった気がする。
段々受け入れられるようになって、少しずつだけど、前に進めたようなフリをしていた。
そんな毎日の中、よく晴れたある日の事。
未知の化け物が世界中に現れた。
メディアから伝わる事態に恐怖を覚えたけど、何より彼は軍人だった。
軍の事務員であるお姉ちゃんは、出撃する瞬間を見守っているはずで……様々な不安が、胃の中に鉄を突っ込まれたような感覚を与えた。
事が起きていたのは、本州から随分離れた沖の方。
それでも避難指示が出て、私の地区は近くの小学校へ逃げ込んでいた。
窓から見える空は、嘘みたいに快晴だ。爆発音だって無い。
でも何処かで彼は戦っていて…実感を上手く持てないまま、ただ無事を祈る事しか出来なかった。
日が沈んで、夜が来て、また昨日と同じような朝が来た。
一睡も出来ないまま、化け物の撤退の報と共に避難が解除された。
外に出てみたところで、戦火の跡なんて無い。何も変わらない街だ。
でもこの時、私は感じていたの。
“この世界の何かが、きっと壊れてしまったのだ”と。
196:
しばらくして、やっとお姉ちゃんと連絡を取る事が出来た。
お姉ちゃんの無事も涙が出るぐらい嬉しかったけど、彼の無事については不安なまま。
電話越しに、私は意を決して無事を尋ねた。それで帰って来た言葉は…。
「……ええ、『救出』されたわ…。」
その一言で、全てを察した。
病院に駆け付けはしたけれど、面会許可が下りたのは、親族以外はお姉ちゃんだけ。
『恋人の妹』に過ぎない私は、ICUの扉の前で待つ事しか出来なかった。
何分経ったろう?時間にして15分もないのに、避難した日よりもずっと長く思えた。
ようやく開いた扉からお姉ちゃんが出て来た時、私は思わず駆け寄ってしまっていた。
「……命は、助かったわ。」
「………よかった…。」
「でも、部隊の方は彼以外助からなかったみたい……起きた時、なんて言えばいいか…。」
「…………そう…。」
告げられた言葉のせいで、素直に喜ぶ事は出来なくなった。
意識を取り戻した時には、彼を待っているのは厳しい現実。支えて行かなきゃ…『私達』で。
何日かして、彼はようやく意識を取り戻した。
だけど一般病棟に移れたのは、そこから更に5日後。あの日から顔を見れるまで、約10日を要した。
許可が下りてるお姉ちゃんは、毎日僅かな時間でもお見舞する事が出来たけれど…私はその間、何も出来なかった。
やっと面会謝絶が解けた日は、学校も再開した後。放課後、急いで病院へ向かった。
ノックをして、ドアを開ける。
ノブを握る手は、歓喜で震えていた。顔を見た瞬間、抱き付いてしまいそうなぐらいだ。
まるで死んだように窓の外を見る、その姿を見るまでは。
その日までお姉ちゃんは、私の前では無理に微笑んでいるように見えた。
恋人が怪我をしたんだもの、毎日気が気でないはず。
でもそれは怪我だけじゃなかった事を、私はそこでようやく知った。
姿を見ただけで、もう分かってしまったの。
彼はもう、前の彼ではなくなってしまった事が。
197:
「………その男の人は、具体的にはどうなってしまったのかしら?」
「……それは、これからですよ。」
話が進むたび、どんどん大人しくなっていく山城さんの姿。
俯いている横顔は、垂れた前髪で上手く見えません。
でも…ふふ、よく見えますねぇ……あなたの心が…!
「そしてですね、そこからは……。」
198:
「ありがとう」と言う彼の顔には、貼り付けたような笑み。
歓喜で震えていたはずの手は、今は焦燥と、現実への拒絶感で震えていた。
この人は、誰……?
最初は、気のせいだと思い込もうとした。
だけど言葉を交わすたび、上の空な心が見える。
ねぇ、何処へ行ったの?
だって、これじゃまるで……死人みたいじゃない。
面会時間は、まだ長くは取れなかった。
受け入れきれない、頭の処理が追い付かない…家に帰ってベッドに倒れ込んだ私は、逃げるようにすぐに意識を手放した。
その眠りの中、夢を見た。
それはつい最近まで日常だったはずの、楽しい休日で。ただの思い出の追体験で。
でも夜目を覚ました時、私の周りにあったのは、真っ暗な部屋だった。
水を飲もうと廊下へ出た。
お姉ちゃんの部屋は、私の隣。そこはスライドドアになっている。
お姉ちゃんには珍しく、ドアに少し隙間が空いていて。
そこから漏れるのは部屋の明かりと……お姉ちゃんのすすり泣く声だった。
水の味は生々しくて、頬をつねってみても、やっぱり痛くて。
こっちの方が、夢なら良かったのに。
そんな事は、無かったけど。
退院してしばらくは、彼には休暇が与えられた。まだ静養と通院の必要自体はあったからだ。
お姉ちゃんは、よく行った公園に彼を連れて行っていた。
私は行かなかったのかって?そうね…ふたりきりにさせてあげたかったし、何より、現実に向き合うのが怖くなってしまっていたの。
それから3日もしないで、彼は自殺未遂を起こして再入院した。
199:
ちょうど平日の、あの公園が人も疎らになる時間。
お姉ちゃんがトイレに行ってる僅かな隙に、隠していたナイフで手首を切ったようだ。
それは却って憂鬱になるぐらいの、あの日と同じ快晴の事。
入院期間は、決して長くはなかった。
だけど彼がこの家の敷居をまたぐ事は、二度と無かった。
お姉ちゃんが彼と別れたのは、彼が再び退院した日から1週間後のこと。
彼はと言えば、その後職務復帰の許可が下りると同時に、異動の辞令も下ったのだと言う。
それは、軍なりの気遣いだったのかもしれない。
だけど別れを告げる事も出来ないまま、彼はこの街から消えてしまったのだ。
あの怪物と戦う為のある兵器の存在が公になったのは、それから暫く後の事。
それは人間、それも適合する女の子しか強化出来ない存在だった。
実感も持てないまま、毎日絶望的と報道されていた世界情勢は、そこから徐々にポジティブなものに変わって行った。
お姉ちゃんは変わらず軍の事務として働いていて、でもその間、やっぱり元気が無かった。
いえ……元気が無いと言うより、何かをずっと思い詰めていると言った方が正確だったかしら。
一緒にTVを観ていて戦争の話が出ると、時折あの優しいお姉ちゃんとは思えない目をする事が続いて……。
しばらく離れて暮らす事になると告げられたのは、それから半年後の事だった。
適合試験を受け、その兵器への適正が出たからと。
そしてお姉ちゃんは、戦争へ行ってしまった。
200:
全てが憎かった。
私達の日常を壊した戦争も、怪物共も……そして彼の事も。
どうして彼がああならなくてはならなかったのか?
どうしてふたりが別れなくてはならなかったのか?
どうして、お姉ちゃんが自ら戦争に行かなきゃならなかったのか?
そしてこれは、一番強くて…だけど浅ましい衝動。
ねぇ、__さん…どうしてお姉ちゃんを泣かせたの?
どうして…私の前から消えてしまったの?
どうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうして。
どうして。
次第に募るのは、敵よりも、彼への理不尽な憎しみだった。
憎まなきゃ、自分を保ってなんかいられなかった。
おねえちゃんをまもらなきゃ。
そうだ、いつかなぐりにいかなきゃ。
おねえちゃんをなかせたんだ、あいつをなぐりにいかなきゃ。
あいつもせんそうもばけものも、かたっぱしからなぐりにいかなきゃ。
あいつにしかえしをすれば、いたくすれば、ずっとわたしのことをおぼえていてくれる。
わたしのことを、みてくれる。
その後進路を決める時、私は二つの道を決めた。
まず第二志望は軍の事務……そして第一志望は、その兵器の適合者として働く事。
危険な仕事だけど、その頃にはその兵器は、世間の女の子のちょっとした憧れにもなっていた。
それに…お姉ちゃんを支えたいと言う大義名分も、私にはあったもの。誰も止める人なんていなかった。
結果として、私の進路希望は叶った。
何と言う悪戯でしょうね、私はその日から神様が大嫌いになった。
だって、例え肉親でも同じにはなりにくいって言われてたのに…お姉ちゃんと同じ型の兵器に、適正が出たのだから。
私がお姉ちゃんを『姉様』と呼ぶようになったのは、その日からの事だった。
201:
「…まあ、こんな流れです。まだここまでしか書けてないんですけどね。」
「…………ふふ、売れないわね、その小説…。
だってその女の子、あまりにもバカで…惨めで……誰も共感なんて出来ないわ…。」
最後まで話し終えて、隣から聞こえてきたのは涙声でした。
それは私にとっても、意外な結末。
当初はビンタの一発ぐらいは覚悟してましたし…裏を返せばそれだけ悪い面も抉って、傷付けるつもりで、彼女の背景をひたすら想像して作ったお話でしたから。
……これだけ悪意を持って接したのに、何で怒らないんだろう。
そう思った瞬間、ずきりと胸が痛んだのです。
「……ねぇ、その後の展開予想しても良いかしら?」
「…どんな話でしょうか?」
「……彼はその後何年かして、主人公と同い年の女の子と結ばれる。
その子と出会った事で、彼は再生への道を踏み出して。
主人公は最初その子の事も気に食わなくて、険悪になるの。
でもその子も少し嫉妬深い所もあって…辛い事があった彼を守る為にこそ、心を鬼にして主人公にひどい事を言う……なーんて、安っぽいかしら?」
またずきりと胸が痛んだのは、その時の事でした。
反撃を食らったからとか、そんなのじゃなくて…ただ、上手く説明出来ない痛みで…そんな私を知ってか知らずか、山城さんは言葉を続けます。
「……でも、そのひどい言葉のお陰で、主人公は自分の小ささに気付くの。
うん、まぁそれだけなんだけど……使えないかしら?これ。」
「あ……え、ええ!参考にさせていただきます!ありがとうございます!」
「ふふ…あ、そろそろ集合ね。もう行かなくちゃ。」
そうして彼女が立ち上がった時、ようやく俯いていた顔が見えました。
「……青葉ちゃん、ありがとう。またね!」
夕暮れに照らされたその泣き笑いは、あまりにもきれいで、可愛くて…写真に収めたかったぐらいで。
それは私にとっては、ビンタなんか目じゃないぐらい痛くて。
必死に笑顔を作って手を振る事しか、私には出来ませんでした。
202:
その夜部屋に帰って、ドアを閉めた瞬間、その場にへたり込んでしまいました。
山城さん、きれいだったなぁ……あれ?何で床が濡れてるのかなぁ?
はは……何で、泣いてんだろ…。
…ありがとうって、何なのさ。
私はあの子が邪魔で、気に食わなくて……ただ傷付けたくて、あんな話をしただけなんだ。
何だよう…ありがとうってさ……私、ばかみたいじゃん……。
本当に醜くて歪んでるのは、私の方なのに。
ずっとずっと、涙が止まりませんでした。
ただ、あんな事を平気で出来た自分が大嫌いで、ばからしくて…なのにあの子は、あんな言葉をくれて。
それでも彼の事を思い出せば、胸は暖かくて。
さびしくて、あいたくなって。
でもこんなんじゃ、いまはあいになんていけない。
髪をほどいて、祈るようにそれを握り締めて。
縋るみたいに、彼からもらった髪留めを胸に寄せて。
突き付けられた自分の醜さは、ひたすらに痛くて。
それでも相変わらず、彼の為なら同じ事を出来てしまいそうな自分も見えて。
怖くなって、苦しくなって。私はただ、そうやって明日を待つ事しか出来ませんでした。
どどめ色のずきずきとした胸の痛みに、ずっと囚われたままで。
205:
泣き疲れたのか、いつの間にか寝落ちしちゃいました。
時間は……21時かぁ。あーあ、ひどい顔。
携帯を開くと、彼からの連絡が。彼の知らない裏であんな事したのに、やっぱりこんな些細な事でも嬉しくて。
せめてちゃんと、彼が幸せでいられるようにしなきゃなぁなんて思いました。図々しい話でしょうけど。
『こん…こん…』
ん?誰だろ?こんな時間に…あ、でもこの時間こそ一人しかいないか。
「青葉ー、入るよー。」
「もう入ってんじゃんかぁ。」
「どうしたのよー、目え真っ赤だよ?」
「ん?ああ、ちょっとこすっちゃってさ。」
「なになにー?提督とケンカでもしたー?」
「ちがうよー。むしろ仲良くやってますよーだ。」
休み前や次の作戦が夜からな時は、よくガサが遊びに来て。二人で映画やアニメを見たりするのが深夜の過ごし方でした。
でも最近はあんまりしてなかったなぁ…いつぶりだろ。
ガサの手には、何やらブルーレイ。
んん?でもこれ録画用のだ、なんだろ。
「何それ?ホラーはヤだよ。」
「いやいや、今日はドラマ。結構前に録画してたの忘れててさ。青葉も途中で止まってたでしょ?」
「ん…?あー!あの時期作戦重なっててすっかり忘れてた!」
「そ。だから青葉と一緒に消化しよっかなーって。ふふーん、衣笠さん最高でしょ?」
「でも忘れてたんじゃんかー。去年のでしょ?」
「あ、あははー…まあまあ、ゆっくり観ようよ!」
それは少し前に放送してたドラマで。
高層マンションで起こる主婦たちの泥沼劇を軸にしたサスペンスでした。
あー…久々に続き観たけどハラハラするなぁ。
それでエンディングまで観て、青葉はある事に気付いたのです。
206:
「…あれ、このエンディングって…。」
「ああ、このバンド?前に復活したじゃん。どしたの?」
「そう言えば…実は__が大ファンでさ。」
「お!それ提督の本名じゃん!しれっと呼び捨てしちゃって〜、憎いなこのー。」
「…へ?あー!今のナシ!司令官が大ファンなの!」
「記事の訂正は認めませーん。
ふふ…でも良かったよ。皆提督の事も結構心配してて、青葉様々だってさ。」
「何それー、気になるなぁ。」
「だってあの人いい人だけど、正直人間味は無かったじゃん?
青葉との事、皆結構気付いててさ。提督にも遂に人間らしさが…!って、半泣きで喜んでる子もいたんだよ?」
「そう?でもああ見えてさー…」
「お、ノロケー?」
笑い話をしつつ、そんな話を聞いた私の胸中は複雑でした。
だって幾ら男性の士官さんや職員さんも多いとは言え、結局ここは女所帯で。普通は多少のやっかみぐらい起きるものじゃないですか?
それが寧ろ喜ばれるって事は…裏を返せば、上司としては尊敬できても、人間や異性としては近寄り難いって皆思ってたって事で。
どれだけの痛みをあの笑顔で閉ざしていたのか、改めて思い知ったんです。
……今度は、笑顔で会いに行かなくちゃ。
そうだなぁ…いつか戦いが終わったらチケット取って、二人でライブ行きたいなぁ。
実は子供の頃以来に聴き直して、大好きになった曲があるんです。それを生で聴きたいなって。
そんな事を考えつつ、次の話を観ていました。
ドラマのエンディングテーマの歌詞が、上手く頭に入らないフリをしながら。
20

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