【逸話あり】歴史上の人物で最強の戦闘力もった人って誰なの?back

【逸話あり】歴史上の人物で最強の戦闘力もった人って誰なの?


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1:
呂布?
呂布
戦乱の後漢末期にあって群を抜く武勇を誇った。
『三国志演義』等、三国志関係の物語等では最強の武将として描かれる。
・正史三国志で数少ない一騎討ち経験者。
・時の権力者董卓のボディーガードを努めていた。
・董卓が武器で殴りかかってきたのを手で避けた
・抜群の弓術と馬術と腕力を持っていたため飛将と呼ばれた。
・蒼天の下に立てらられた戟をただ一矢で射ぬく
・武芸に優れていた丁原、董卓を自らの手で殺す。
・黒山賊の数万の精鋭に対し数十騎で連戦戦勝、「人中の呂布、馬中の赤兎」と評される。
・袁術軍筆頭将軍の紀霊が大軍を率いて劉備を攻めた時、
 少数で出陣してきた呂布の勇名を恐れ、攻撃をしなかった
・?州を乗っ取った時、引き返してきた曹操軍を一度は叩きのめしている。
・徐州を迅なさで乗っ取る。
・捕縛された時、曹操は呂布の強さに魅力を感じ、配下しようとした。
・陳寿は「呂布は吠えたける虎のごとき勇猛さをもつ」と評している。
http://ja.wikipedia.org/wiki/呂布
2:
宮本武蔵
宮本武蔵
新免武蔵藤原玄信のことであり、江戸時代初期の剣豪。
兵法者であり、また書画でも優れた作品を残している。
宮本武蔵は片手で青竹を握り割ることができたらしい。
生涯六十余戦負け無しの無敵の二刀流剣客
http://ja.wikipedia.org/wiki/宮本武蔵
3:
本多忠勝
本多忠勝
戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。徳川氏の家臣。
上総国大多喜藩初代藩主、伊勢国桑名藩初代藩主。忠勝系本多家宗家初代。本姓は藤原氏。
徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑に数えられ、家康の功臣として現在も顕彰されている。
通称は平八郎。本多忠高の子に生まれ、愛槍「蜻蛉切」を持ち、鹿角脇立兜をかぶり、
肩から大数珠を下げ、三河松平氏譜代の家臣として家康に付き従い、生涯五十七回の戦いに
参加するも、一度として戦場で傷を負う事がなかったと言われる徳川四天王にして三傑とされる名将。
忠勝の生涯唯一の傷は、晩年に小刀に名前を彫る際に手を滑らせて指に出来た小さな傷のみと言われる。
なおこの傷を負った数日後に死去したとも言われている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/本多忠勝
8:
鬼小島弥太郎
小島弥太郎
戦国時代の武将。上杉氏家臣。諱は一忠(勝忠)。通称は慶之助。
妙高高原辺りの出身と言われ、上杉謙信の幼少期から側近として仕えた。
強力無双の豪傑で、「鬼小島」と恐れられたと言われている。
『絵本甲越軍記』では、「鬼小島弥太郎」として登場し、使者として織田陣営に赴いたという。
川中島の対陣の折に上杉家臣・鬼小島弥太郎は、武田信玄のもとに使者に立った。
信玄は弥太郎を苦しめようと、「人食獅子」といわれる猛犬を縁の下にひかえさせた。
犬は猛然と弥太郎の手に喰いつくも、弥太郎は顔色も変えずに主君・謙信の口上を述べ役目を果たした。
そして、帰りぎわに腕を一振りして犬を庭先に投げつけ、犬は血反吐を吐いて死んでしまったという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/小島弥太郎
10:
素手での強さか、武器使用での強さか、軍の司令官としての強さか
11:
源為朝は矢一本で戦艦を沈めた
源為朝
弓の名手で、鎮西を名目に九州で暴れ、鎮西八郎を称す。
保元の乱では父為義とともに崇徳上皇方に属して奮戦するが敗れ、伊豆大島へ流される。
しかしそこでも暴れて国司に従わず、伊豆諸島を事実上支配したので、追討を受け自害した。
切腹による自殺の、史上最初の例といわれる。
一方、琉球王国の正史『中山世鑑』や『おもろさうし』、『鎮西琉球記』、『椿説弓張月』などでは、
このとき追討を逃れて現在の沖縄県に渡り、その子が琉球王家の始祖舜天になったといわれる、
伝説的な人物でもある。
為朝は七尺ほど(2m10cm)の大男で、目の隅が切れあがった容貌魁偉な武者だった。
強弓の使い手で、左腕が右腕よりも4寸(12cm)も長かった。勇猛で傍若無人、兄たちにも遠慮しなかった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/源為朝
19:
舩坂弘
舩坂弘
日本陸軍の軍人、大盛堂書店代表取締役会長。全日本銃剣道連盟参与、南太平洋慰霊協会理事、
大盛堂道場館主。テキサス州名誉市民章授与。最終階級は軍曹。アンガウルの戦いで活躍した。
舩坂弘-アンガウルの戦い
米兵を200人以上殺傷。米兵から鹵獲した短機関銃で数人斃し、
左足と両腕を負傷した状態で銃剣で一人刺殺し、短機関銃を手にしていた
もう一人に銃剣を投げて顎部に突き刺して殺すなど、鬼神を泣かしめる奮戦をした。
部隊壊滅後、敵将に一矢報いんと手榴弾六発、拳銃一丁を持って米軍指揮所テント群に
数夜をかけて潜入した時には、すでに左大腿部裂傷、左上膊部貫通銃創二箇所、
頭部打撲傷、右肩捻挫、左腹部盲貫銃創を負っていた。
突入してきたこの異様な風体の日本兵に、発見した米兵もしばし呆然として声もでなかったという。
舩坂は前哨陣地を単身突破し、米軍司令部を目指し突入するも頸部を撃たれて昏倒し、戦死と判断される。
しかし、舩坂は3日後に米軍野戦病院で蘇生する。ペリリューに身柄を移されて2日目には、
重傷を負っているにも拘わらず捕虜収容所から脱け出し、米軍弾薬庫の爆破に成功している。
個人の戦闘記録としては唯一戦史叢書に載せられる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/舩坂弘
23:
軍を率いてだったらティムール
ティムール
中央アジアのモンゴル=テュルク系軍事指導者で、ティムール朝の建設者
(在位:1370年4月9日 - 1405年2月18日)。
ペルシア語による綴りにより忠実にティームールとも表記される。
また、この名は中世モンゴル語では Temur、現代ウズベク語では Temur であり、テムルとも表記される。
語義は「鉄」を意味し、この名を持つテュルク系、モンゴル系の人物は少なくなかった。
また、ティムール自身、その覇道の最中で他の「ティムール」という名を持つ男達と何度か戦っている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/ティムール
一騎打ちなら尉遅敬徳でひとつ
尉遅敬徳
中国の唐の軍人。姓は尉遅で、名は恭。
敬徳は字であり、字をもって通称される。本貫は朔州善陽県。
唐の凌煙閣二十四功臣のひとりに挙げられた。
また、後世には『捜神記』を基に秦叔宝とともに門神として信仰された。
http://ja.wikipedia.org/wiki/尉遅敬徳
29:
現代だと・・・室伏の兄貴で
室伏広治
日本の男子ハンマー投選手、スポーツ研究者。中京大学准教授。学位は博士 (体育学)。
専門は陸上競技(ハンマー投げ)、アスリートのパフォーマンス向上に関する研究。
アテネオリンピック金メダリスト。栄典は紫綬褒章受章。フルネームは室伏アレクサンダー広治。
室伏広治伝説
・17年連続ハンマー投げ日本一
・オリンピックで金メダルを2度獲得した事も
・身長187cmの高身長
・体重99kg体脂肪率3%の超マッチョ
・握力は測定不可能(120kg以上)
・100mを10秒台で走れる
・立ち幅跳びで3m60cm以上飛べる
・高校生の時、何となく槍投げに出たら日本2位になった
・野球の素人だが始球式で131kgを出した
・跳び箱は18段までなら飛べる
高校2年生のときには既に体力測定で立ち幅跳び327cm、
30m走は3秒79、立三段跳10m10、立五段跳17m06を記録している。
100kgの握力計を一瞬で振り切るほどの握力を持つため計測不能となっているが、
日本陸上連盟が行ったメディカルチェックでは120kgを記録。
高校3年生時、べにばな国体のやり投で68m16を投げ2位になる。
この記録はやり投の千葉県高校記録である。
実はこの大会に出るまでほとんどやり投の経験はなく、
小石を数回投げ勘をつかんで本番に挑み、
圧倒的な記録を出してその大会で入賞した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/室伏広治
30:
項羽
項籍
秦末期の楚の武将。秦に対する造反軍の中核となり秦を滅ぼし、
一時西楚の覇王(在位紀元前206年 - 紀元前202年)と号した。その後、天下を劉邦と争い(楚漢戦争)、
当初は圧倒的に優勢であったが人心を得ず、次第に劣勢となって敗死した。
姓は項、名は籍、字が羽である。以下、一般に知られている項羽(こうう)の名で記す。
120万の軍勢に8000で先頭に立ち突破しかける
一度に八人の猛将を相手にして勝利
8人になり120万の軍勢に突撃し無事
その後馬から降りて数百人殺し自害、誰も勝てなかった
http://ja.wikipedia.org/wiki/項籍
33:
ルーデル
ハンス・ウルリッヒ・ルーデル
第二次世界大戦中のドイツ空軍の操縦員、幕僚将校。
ヨーロッパ東部戦線において、ソ連戦車500両以上と800台以上の車両を撃破する驚異的な戦果を挙げた。
また、9機を撃墜し、地上砲火で30回撃墜された。
これらの戦功から、ナチス・ドイツ最高位の「黄金柏葉剣付ダイヤモンド騎士鉄十字勲章」を授けられた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/ハンス・ウルリッヒ・ルーデル
死にたい赤軍将兵にお薦めの「ソ連人民最大の敵(スターリン曰く)」
ハンス・ウルリッヒ・ルーデル
・ベルリン突入直前なら大丈夫だろうと虎の子のJS-3を出したらいつもと変わらない
 ルーデルに撃破された
・Ju-87の機影を発見後一分で重戦車が火の付いた燃料を流して撃破されていた
・足元がぐにゃりとしないので沼をさらってみたら戦車の残骸が敷き詰められていた
・停泊中の戦艦が襲撃され、気が付いたら大破着底させられていた
・高度数百ftで爆弾を投下、というか距離100m以内で機銃をぶっ放す
・爆撃機編隊が襲撃され、爆撃機も「護衛の戦闘機も」一部撃墜された
・トラックから塹壕までの10mの間にルーデルに機銃掃射された
・装甲車の車列に合流すれば安全だろうと思ったら、車列の全車両がルーデルに
 よって撃破済みだった
・全赤軍将兵の3/100がルーデル被撃破経験者、しかも急降下爆撃ならどんな兵器も
 破壊出来るという彼の信念から「強力で頑丈な兵器ほど危ない」
・「そんな奴いるわけがない」といって出撃して行った戦車兵が五年経っても骨の
 一つも戻ってこない
・「赤軍将兵でなければ襲われるわけがない」と雪原に出て行ったキツネが穴だらけの
 原型を止めない状態で発見された
・最近流行っているルーデルは「何が何でも出撃」総統に止められても片足が吹っ飛ん
 でも赤軍狩りに出て行くから
・ベルリンモスクワ間の1620kmはルーデルの襲撃にあう確率が150%。
 一度撃破されて撤退中にまた襲撃される確率が50%の意味
・ルーデル中隊全体における赤軍襲撃による戦車撃破数は一日平均34輌、
 うち約17輌がルーデル一人のスコア
・第二次世界大戦ドイツ爆撃隊の英雄
・戦闘機乗りを目指していたが勘違いで急降下爆撃隊に入隊
・戦車519輌撃破
・装甲車・トラック800台以上、火砲150門以上、装甲列車4両撃破
・戦艦1隻、嚮導駆逐艦1隻、駆逐艦1隻、上陸用舟艇70隻以上を撃破
・でも航空機は9機のみ(5機以上撃破でエース・パイロットにはなる)
・功績を挙げすぎて渡す勲章がなくなってしまい、新たに勲章が作られた
・スターリンに「ソ連人民最大の敵」と言われ、10万ルーブルの賞金をかけられる
・クレタ島侵攻に参加できず「口惜しさに男泣きに泣いた」
・6ヶ月間で出撃回数が400回を突破
・休暇を減らして出撃回数を増やすよう上官に懇願
・無理だとわかると書類を偽造して出撃
・撃墜されて満身創痍で基地に帰ったのに、そのまま再出撃しようとした
・心配したヒトラーに地上勤務を言い渡されるも拒否
・その後、右足切断するほどの大怪我を負い、ソ連軍を攻撃できないと涙
・でもこっそり病院を抜け出し、部隊を率いて30輌以上の戦車を破壊していた
・その期間、軍上層部は地上勤務に就いていると思っていた
・ドイツ空軍初の出撃回数が1000回を突破。最終出撃回数は2530回
・戦後しばらくしていた仕事は「ドライバー」その後A-10製作顧問になる
・片足が義足なのに趣味は登山。アンデス山脈のほぼ全てを制覇。
36:
足利義輝
足利義輝
上泉信綱・塚原卜伝に指導を受け、卜伝からは一説に奥義「一の太刀」を伝授され、
鎌倉から江戸までの征夷大将軍の中でも、最も武術の優れた人物として伝えられている。
室町幕府第十三代将軍、足利義輝将軍家の権威回復の為に画策しますが
松永久秀や三好三人衆に敗れます
松永一党が邸に流れ込んできた時、僅かな護衛しかいなかった義輝は
畳に何本もの太刀を刺して斬り合い、最期には自害して果てます
http://ja.wikipedia.org/wiki/足利義輝
38:
三浦義意
三浦義意
戦国時代初期の武将で相模三浦氏最後の当主。三浦義同の嫡男。
妻に真里谷恕鑑の娘(異説有)。通称・荒次郎。官途名は弾正少弼。
父から相模国三崎城(新井城とも。現在の神奈川県三浦市)を与えられ、
永正7年(1510年)頃、家督を譲られる。「八十五人力の勇士」の異名を持ち、足利政氏や上杉朝良に従って北条早雲と戦うが、永正10年(1513年)頃には岡崎城(現在の平塚市)・住吉城(現在の逗子市)を北条氏によって奪われて三浦半島に押し込められた。
父とともに三崎城に籠って3年近くにわたって籠城戦を継続するが、遂に三崎城は落城、
父・義同の切腹を見届けた後に敵中に突撃して討ち取られたと言う。
これによって三浦氏は滅亡し、北条氏による相模平定が完了する事になる。
「相州兵乱記」によると、三浦荒次郎義意(よしおき)は7尺5寸、85人力の剛の者。
真柄十左衛門は7尺で刃渡り5尺3寸の大太刀を振り回す。
脳筋クサい名に違わぬ男で、七尺五寸(約220cm)の体躯と、八十五人力を誇り、
五尺八寸(約175cm)の大太刀を振るい、毎日北条軍と楽しくヒャッハーしていたが
多勢に無勢、ついに父・道寸が切腹したとの知らせが入る。
「よし、オレも北条兵を思うままヌッコロしてから死んで、名を天下に上げてやる!」
と思い定めた義意、得物を一丈二尺(360cm)の丸太に持ち替えて飛び出した。
もう地獄の羅刹にしか見えない義意を恐れて逃げる北条兵を追い詰め、
丸太をタテに振るえば相手の首が胴にメリこみ、ヨコに振るえば五?十人が吹き飛んだ。
義意に近づく者は誰もいなくなり、満足した義意はみずから首を斬り落とした。
しかし、首だけになっても義意は生き続け、宗瑞が高僧に供養させても目を閉じなかった。
それから三年経ったある日、小田原は総世寺の新住職がやって来て、
うつつとも 夢とも知らぬ 一眠り 浮世の隙を あけぼのの空
と詠んで供養したところ、三年の時間を取り戻すかのように肉が腐って溶け、
あとには義意の頭蓋骨だけが残された。
http://ja.wikipedia.org/wiki/三浦義意
41:
戦闘力だとシモヘイヘ
シモ・ヘイヘ
フィンランドの軍人、狙撃手。
フィンランドとソビエト連邦の間で起こった冬戦争では、ソビエト赤軍から“白い死神”と呼ばれ恐れられた。
史上最多の確認戦果505名射殺の記録を残している。
活躍
ヘイヘは狙撃において、ソビエト側では旧式になりつつあったモシン・ナガンM28を使用していた。冬戦争当時のフィンランド軍の制式装備の多くはソビエト製だったが、物資や銃弾が極端に不足していた。
このため戦場で敵の装備を鹵獲して使用する必要に迫られ、
ヘイヘも敵の武器であるモシン・ナガンを使用することになった。
ヘイヘは身長約152cmと小柄であったが、120cm以上あるこの銃を手足のように自由に扱ったと言われる。
後にその活躍から、サコ社によって調整された特製のモシン・ナガンを与えられている。
モシン・ナガンには3.5倍から4倍の倍率を持ったスコープが装着できたが、
ヘイヘはこれを使用せず、銃身に付いた鉄製の照星と照門のみで狙撃を行った。
これは、猟師時代からの射撃姿勢への慣れと装備の軽量化に加え、
スコープのレンズによる光の反射で自らの位置を悟られるのを嫌ったことによる。
ヘイヘの使用したモシン・ナガンのうちの1丁は現在もフィンランド国立軍事博物館に展示されている。
ヘイヘの狙撃技術は入隊前に営んでいたケワタガモ猟で培われたものと言われ、
これは元猟師だった赤軍のヴァシリ・ザイツェフや、アボリジニーの猟師出身者が多い
現代のオーストラリア陸軍SAS狙撃兵などの経歴と共通する。
ヘイヘの狙撃は連続的な射撃と精度を両立していたとされる。
狙撃訓練課程では150mの距離から1分間に16発の射的に成功したという逸話が残され、
実戦でも300m以内ならほぼ確実に目標の頭部を狙撃したと言われている。
ヘイヘの公式確認戦果である505人は世界最多記録として知られるが、
このなかには狙撃銃以外の火器による殺害数は含まれていない。
ヘイヘはサブマシンガンの名手でもあり、“殺戮の丘”の戦闘ではKP31サブマシンガンを用いて、
記録では200人以上、非公式なものを含めれば狙撃で殺害した
505人よりも多くの敵兵士を倒したと言われている。
これらの記録は戦争開始から負傷するまでの約100日間のうちに残されており、
1939年のクリスマス直前の12月21日だけでも25人の赤軍兵士を殺害し、
クリスマスの夜には通算殺害数が138人に達していたという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/シモ・ヘイヘ
総合力でみるとチンギス・ハーンの圧勝
チンギス・カン
大小様々な集団に分かれてお互いに抗争していたモンゴルの遊牧民諸部族を一代で統一し、
中国北部・中央アジア・イラン・東ヨーロッパなどを次々に征服して、最終的には当時の世界人口の
半数以上を支配するに致る人類史上最大規模の世界帝国、『モンゴル帝国』の基盤を築き上げた。
死後その帝国は百数十年を経て解体されたが、その影響は中央ユーラシアにおいて生き続け、
遊牧民の偉大な英雄として賞賛された。特に故国モンゴルにおいては神となり、
現在のモンゴル国において国家創建の英雄として称えられている。生年は異説あり。
http://ja.wikipedia.org/wiki/チンギス・カン
44:
細川幽斎
・腕の力だけで牛の突進を止めることができた。
・階段から突き落とされても歌を詠み続けた。
45:
ルーデルよりもガーデルマンのほうがすげーよ
あんな奴にツッコミいれつつ、ついていける精神力がすげぇ
エルンスト・ガーデルマン
ロートマンの後任の機銃手。出撃回数は850回を超え、騎士鉄十字章を授与されている。
1913年12月25日生まれ、ドイツ・ヴッパータール出身。
1941年10月、軍医として第2急降下爆撃航空団第III飛行大隊(III./StG2)に配属され、
当時中尉であったルーデルと出会う。両者とも非常にスポーツが好きだという共通点があったためすぐ親友同士となり、一般兵に交じってルーデルと訓練を受けるガーデルマンの姿がよく見受けられたという。
1941年の冬から後部機銃手として勤務し始めたが、誰かの専属の機銃手にはならずにいた。
しかし、後席としての確かな技量と、医者であることによる必要な医療の提供は、
全てのパイロットから絶大な信頼を寄せられるに至った。
1944年5月、親友のルーデルが専属の機銃手を亡くしたこともあり、同機に着任。
ルーデルが右脚を失う1945年2月9日まで出撃をこなした。
2月9日以降もガーデルマンが機銃手を務めるはずだったが、ルーデルがベルリンの病院を退院した
時は西ドイツのブラウンシュヴァイクに居り、制空権がとられ交通も麻痺した状態では移動もままならず、結局戦争中に2人が再会することはなかった。
その後、米軍の捕虜になるもすぐに釈放され、ヴッパータールの実家に帰郷している。
専門は循環器で、撃墜されて負傷したルーデルに応急処置をすることもあったという
(ルーデルが右脚を吹き飛ばされた時には止血を施し、その命を救った)。
軍医出身のため「シュトゥーカ・ドクトル」の異名を持つ。
最終階級は少佐。二級鉄十字章、一級鉄十字章、ドイツ黄金十字章(1943年10月17日)、
騎士鉄十字章(1944年8月17日)を受章。戦後は医師として活動し
1972年のミュンヘンオリンピックでは医学教授陣のチーフを務める。
1973年11月26日のハンブルクでの公演中に心臓発作を起こし死去。59歳没。
47:
サルゴン
人間の歴史の最初の王(自称)、全ての伝説の武器だの技だの魔法だのは
この人が元ネタ(自称)、対人間の戦いでは負けたことがない(自己申告)、だが神さんとか
神と人間の中間にいるっぽいよくワカラン奴らと戦うとほとんど負けてる(独白)←これは神と人間との
間に越えようの無い隔たりがあることとサルごんが
人間として最強であることの証明にもなっているらしい(イミフ)
↑だからよく、神になろうとした人間ってよくいるじゃんwww
俺は神になるとかこっちから願い下げだわwwwww
とかよくぼやいてたらしく、神さんからはあんまり上の地位をもらってないらしい
フラグブレイカー
49:
弓部門なら那須与一じゃないの?
あんな船のうえの扇を射抜くの無理やで。
あと、鵯越を馬を背負って駆け下りた武将もいたらしい。
那須与一
平安時代末期の武将。系図上は那須氏2代当主と伝えられる。
幼い頃から弓の腕が達者で、居並ぶ兄達の前で
その腕前を示し父の資隆を驚嘆させたという地元の伝承がある。
寿永4年(1185年)2月、讃岐屋島へ逃れた平家を追って、
義経は海路阿波に上陸、陸路屋島に迫り、背後から平家を急襲した。
驚いた平家軍は、船に乗って海へ逃げたが、源氏軍が案外少数と知って応戦し激しい攻防が繰り返された。
日が暮れて両軍が兵を引きかけている時、沖の平家軍から
年若い美女を乗せた小舟が一艘漕ぎ寄せてきた。
美女は、紅地に金の日輪が描かれた扇を竿の先にはさんで
船べりに立て、陸の源氏に向かって手招きをしている。
これを見た、義経は、弓の名手・那須与一宗高に扇を射抜くよう命令した。
与一は、馬を海に乗り入れたが、扇の的までは、まだ40間(けん)余り(約70メートル)もあり、
しかも北風が激しく吹いて扇の的は小舟と共に揺れている。
「南無八幡」と心に念じた与一が渾身の力で鏑矢を放つと、
矢はうなりを立てて飛び放たれ見事に扇の要近くに命中。扇は空へ舞い上がり、ひらひらと海へ落ちた。
この様子を固唾を飲んで見守っていた源平両軍は、どっと歓声を上げて与一を褒め讃えたのであった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/那須与一
52:
>>49
鎮西八郎「あ?」
『椿説弓張月』 大弓を引く源為朝。
51:
弓なら黄忠も夏候淵も
54:
>>51
その人らの弓は演義限定でしょ?
「歴史上の人物」って括りなら弓術三国志代表は呂布だと思う
55:
>>54
夏侯淵は正史でも弓の名人だぞ
59:
>>55
え・・・そんな記述知らんぞ
71:
>>59
ごめん。いまさらちくまの正史ひっくり返して読んだら、そんな記述なかったわ・・・
56:
呂布は曹操に負けた雑魚。
その曹操も中国史じゃ二流。
中国史最強は朱元璋。
朱元璋
中国の明朝の創始者であり、初代皇帝である。廟号は太祖(たいそ)。
諡号は開天行道肇紀立極大聖至神仁文義武俊?成功高皇帝。
その治世の年号を取って、洪武帝(こうぶてい)と呼ばれる。
また、生まれた頃の名は、朱重八(しゅ じゅうはち)といい、後に朱興宗(しゅこうそう)と改名し、
紅巾軍に参加する頃にさらに朱元璋と改名し、字を国瑞(こくずい)とした。
http://ja.wikipedia.org/wiki/朱元璋
61:
>>56
いやいや、曹操は官渡の戦力差ひっくり返しただけでも十分凄いと思うが
68:
>>61
十分すごいけど、それ以上のチートが項羽であり朱元璋。
62:
ここまで上泉信綱なし。
上泉信綱
上泉伊勢守は、上州出身の戦国時代の兵法家。
生年は推測、没年は天正10年(1582年)など諸説あり。
http://ja.wikipedia.org/wiki/上泉信綱
63:
岩本徹三だな
66:
「白い死神」シモ・ヘイヘ
1939-40年に勃発したフィンランド-ソビエト間、冬戦争に参戦した狙撃兵
公認戦果は狙撃のみで505人、短機関銃も含めれば700を下らないと言われる
しかもこの戦果をわずか数ヶ月間の間に達成
300m以内なら確実に標的の頭部を狙撃し、ボルトアクション式小銃で
150mの距離から1分間に16発の命中弾を叩き出した
同様の戦果を挙げた狙撃手にスロ・コルッカ(同僚)も存在する
「無傷の撃墜王」エイノ・ユーティライネン
同戦争に参加したエースパイロット
ドイツ空軍意外では世界最多の撃墜数を誇る
が、何より注目すべきはその通算437回の出撃の中で、たった一度しか被弾しなかった事である
しかもこの唯一の標的のも僅かに塗装が剥がれた程度という
「モロッコの恐怖」アールネ・ユーティライネン
上記エイノ・ユーティライネンの兄にして、シモ・ヘイヘの所属した中隊の指揮官
若年にしてフランス外人部隊に志願、アフリカから中東で暴れまわる
冬戦争では僅か一個フィンランド軍師団が機甲旅団増強された
四個ソ連軍師団を跳ね返したコラー河の戦いに参加
「散歩に行くと出かけたら30分後戦車を撃破して帰ってきた」
「戦場にロッキングチェアを持ち込んで寛いでいた」
等数々逸話を持つ
「撤退命令が無い限りコッラーは保つ」は名言
フィンランド怖い
67:
戦略云々なら孫子だろ
世界で通用する最強の兵法書書いた人だぞ
75:
あのさ
白兵戦最強を決めようよ
戦略とか貧弱過ぎる
76:
>>75
素手?
武器あり?
銃器あり?
82:
>>76
近代武器は無しな
88:
>>75
李書文は最強とまでとは行かないがいいとこ行くと思う
96:
>>88
李氏八極拳の創始者か
でも中国武術の有名人の逸話って嘘臭いんだよなぁ
イップマン薦めといてあれだけど
やっぱ塩田剛三だな
塩田剛三
武道(合気道)家である。身長154cm、体重46kgと非常に小柄な体格ながら
「不世出の達人」と高く評価され、「現代に生きる達人」「生ける伝説」とも謳われた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/塩田剛三
79:
平将門
87:
岡田以蔵たん!
岡田以蔵
岡田以蔵が護衛した要人
勝海舟
勝海舟の自伝「氷川清話」によると、坂本龍馬の口利きで岡田以蔵が勝海舟の護衛を行った。
3人の暗殺者が襲ってきたが、以蔵が1人を切り捨て一喝すると残り2人は逃亡した。
その際、勝が「君は人を殺すことをたしなんではいけない。
先日のような挙動は改めたがよからう」と諭したが、
以蔵は「先生それでもあの時私が居なかったら、先生の首は既に飛んでしまつて居ませう」と返した。
勝は「これには俺も一言もなかったよ」と述べている。
ジョン万次郎
中浜家の家伝(『中浜万次郎 -「アメリカ」を初めて伝えた日本人-』(中浜博、2005年))によると、
岡田以蔵はジョン万次郎の護衛も行っていた。
勝海舟が自分の護衛をした岡田の腕を見込んで万次郎の護衛につけたという。
万次郎が建てた西洋式の墓を参りに行った時、4人の暗殺者が万次郎を襲ったが、
以蔵はその4人以外に伏兵が2人隠れていることを察知して、
万次郎にむやみに逃げず墓石を背にして動かないように指示し、襲ってきた2人を切り捨てた。
残った4人は逃亡した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/岡田以蔵
106:
剣豪将軍と呂布どっちが強いのか
あと上泉信綱と柳生十兵衛も
113:
>>106
柳生十兵衛とか大した剣豪じゃないだろ
そもそも柳生流は竹刀での試合でこそ栄えるものの、実戦向きの剣術ではない
柳生十兵衞
江戸時代の武士、剣豪、旗本(ただし、後述の事情により柳生藩第2代藩主として数えられる場合もある)。
知られた柳生 十兵衞(やぎゅう じゅうべえ)の呼び名は通称。
愛刀は三池典太といわれる。江戸初期の著名な剣豪として知られ、
三厳を題材とした講談や小説が多く作られた。
柳生家累代の記録『玉栄拾遺』には
「弱冠にして天資甚だ梟雄、早く新陰流の術に達し、其書を述作し玉ふ」と記されている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/柳生三厳
116:
でもそんな弱かったら将軍家指南役なんて出来ないと思うが
まぁそこそこだったんじゃないかね
剣術なら新撰組の中から選びたいね
実戦やりまくったのってあの時代がピークだろ
130:
例えば自分の裁量で自由に核ミサイルを発射できる人間が居たとして、
その核ミサイルをそいつの武器と見做すべきだろうか
142:
>>130
バキのドイルによればOK。
ただし発射するまでにドイルに殺されずに居られればの話…
166:
歴史上の人物挙げてる奴はアホ
現代の科学により作られた鋼の肉体の前に
昔のヒョロガリが太刀打ちできるわけないじゃん
169:
>>166
そのレベルのガチムチですらタイソンのパンチ一発で沈むだろ
戦闘技術>>>(越えられない壁)>>>筋肉
171:
>>166
昔でも二m超えの大男は結構いたいたそうだ。
怪力伝説はおそらくヒスタチオン?かなんかの異常だろう。
日本史では三浦義意とかな。
現代最近だとカレリンだろ。
アレキサンダー・カレリン
・120kgの大型冷蔵庫を担いでアパートの8階まで駆け上がった。
・腰まで積もった雪の中を両脇にマキを抱えてランニングを日課としていた。
・レスリング最重量級にて13年間無敗
 オリンピック3連覇
 世界選手権9連覇
 国際大会76連勝
 公式試合300連勝
・趣味は詩を書くこと、クラシック音楽の鑑賞。
175:
特定の人物ではないけどグルカ兵
たまたま乗り合わせた列車で強盗があって50人以上をひとりで退けたとかヤバい
家族の目の前で40人もの屈強な男達に
輪姦されそうになっていた少女をククリナイフ一本で救った男
2011年1月、インドの列車内にて、車内に40人もの武装強盗団が侵入し
乗客らを脅迫し金品を略奪する事件が発生した。
偶然に乗り合わせていたグルカ兵の男性は、当初乗客からの収奪行為には目をつぶっていたが、
隣席の少女が暴行されそうになるに及び行動を決意。
強盗団が複数の銃器や武器で武装していたにも関わらず、携行していたククリナイフを用い強盗団を撃退。
犯人3人を死亡、8人を負傷させ、残った強盗団はその場から逃走した。
グルカ兵男性は左手に負傷したのみであったという。
http://blog.livedoor.jp/himasoku123/archives/51593945.html
グルカ兵
ネパール山岳民族から構成される戦闘集団の呼称である。
一般的に、ネパールのグルカ族出身者で構成される山岳戦・白兵戦に非常にたけた
戦闘集団であると考えられているが、実際にはグルカ族なる民族は存在せず、
マガール族、グルン族、ライ族、リンブー族などの複数のネパール山岳民族から構成されている。
また「グルカ」とは「ゴルカ」(サンスクリット語発音:gau raksha)の訛りであり、
イギリスが英・ネパール戦争当時ネパールのことを「グルカ」と呼んでいた
(当時のネパールのシャー王朝がゴルカ王国の王家の子孫だった)ことによる。
なおグルカの意味は牛を守る者である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/グルカ兵
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