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LiPPS「MEGALOUNIT」【後半】


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【7】
 (?)
 秩序とは、現実を覆い隠すための虚像。
 そんな表現は、やはり稚拙だろうか?
 分かるのは、アタシの取った行動は、決して正解ではなかっただろうということ。
 そして、アタシにはそれ以外の解を導くことができなかったということだ。
374:以下、
 自分が“天才”かどうかはともかく、“特殊”であるのは分かる。スペクトルの極限にいるという事を。
 幼い頃からそれなりにチヤホヤされてきたものだから、言い訳がましいけど、多少なり調子に乗るのも無理は無かった。
 おまけに自意識過剰で、傲慢で、言うこと聞かなくて、だのに何でも上手くこなせる存在は、万物平等を是とするコミュニティの中にあってはどうしようも無くうっとおしい。
 概ね周囲の反応はそんな所で、そういう風に扱われることが普通なのだとアタシも解釈していたから、ごく自然とマジョリティから外れていく。
 それで不都合は無かった。お互いに不干渉を貫くことで、アタシと彼らはWin-Winでいられた。
 だからだろうね。人としての豊かな心を育む機会を失ったから、人の心に興味を持った。
 一丁前に、それが欲しかったのだと思う。誰もが自然と持ち得るそれを。
 では、人の心が最もむき出しになる場所はどこだろう? そしていつ、どのように?
375:以下、
 海の向こうの退屈な講義に飽きて帰国したアタシの目に飛び込んできたのは、行儀良く並んだビルのとある一面。
 まるで花火のように、存在をこれ見よがしに主張する極彩色のモニターだった。
 次の瞬間気づいたのは、極彩色なのはモニターそのものではなく、それに映る会場と人であったこと。
 そして、夢中になって、やはりカラフルなペンのような何かを必死に振るう無数の人、人。
 道行くお兄さんを適当に捕まえて聞いてみると、どうやら大きな芸能事務所のアイドル達によるライブ映像らしい。
 にゃるほど。
 例えばスポーツの世界でもそう。人がホンキで何かをする姿というのは、人の心を打つものらしい。
 あっちでも、野球とかアメフトの大きな試合があると、ウン万人という規模の人が会場に詰めかけ、その百倍以上の人達がテレビに齧り付き、翌日のティータイムでの話題に華を咲かせていた。
 ホンキ――本気、か。
376:以下、
 本気を出したことが無い、なんてことは無い。
 ダッドと暮らしてた頃、彼はすっかりアタシが何でもできるものだと信じ込んで、無茶な要求を際限なく突きつけた。
 応えられなかった要求こそ無かったけれど、アタシでさえ常軌を逸していると思えたそれに、付き合うのはもうウンザリで、だから逃げた。
 彼の期待に潰される前に。
 ダッドは本気のアタシを見て、多少なり心を動かされていただろうか?
 その結果としてアタシはますますマジョリティーから外れ、心を育む機会を失ったのは皮肉だろうか。
 一つだけ分かるのは、アタシはテレビに齧り付く彼らを軽蔑していたと思う。
 本気で頑張る誰かを応援するなんて、自分で本気になれない人達が他者の威を借りて頑張った気になりたいだけの自己満足でしかないからだ。
 実にくだらないと、それまでは思っていたのだけれど――。
 Hmmm……にゃるほど。
 マジョリティーから外れた自分が見向きもしなかった世界に、自分以外の誰もが持つ心がむき出しに存在し得るのは、一つの論理的帰結を得ていると言えなくもない。
 346プロ――。
377:以下、
 アイドルになるには、大きく二つの方法があるらしい。
 事務所に直接申し込んでオーディションを受けるか、スカウトされるか。
 後者の方が簡単だ。
 とある昼下がり、匂いをかぎ分けて出会ったその人は、狙い通り芸能事務所のプロデューサー。
 しかも、いつぞや見た例の346プロときてる。
 匂いをかぐだけで、どうして狙った人種を補足できるかって?
 正確に言うと匂いだけじゃないけどね。挙動とか雰囲気もあるし。
 ただ、経験則から言わせてもらうと、イイ匂いをさせてる人は大抵の場合、その時の自分にとって“都合の良い”人だった。
 話を聞くと案の定、どうやら新規ユニットの立ち上げに向けて、2人の追加補充人員を探しているらしい。
 ――ただ、都合の良い人であることと、良い人かどうかは別である。
 彼はたぶん、良くない人だろうと直感した。
378:以下、
 彼の指示に倣い、強引に取り入ってその世界を覗き込み、分かったことは二つ。
 一つは、彼女達を夢中にさせるものの正体。
 トップアイドルという、魅力的かつ抽象的なそれは彼女達の夢であり、そこへ至るアプローチも様々だ。
 ビジュアルを活かす子もいれば、ボーカルで魅了する子、ダンスで魅せる子。
 いずれの能力が秀でていなくとも、トークと体を張ってそれを目指す子もいるようだ。
 ひとえに抽象的であるがこそ、自由にそれを目指すことができ、彼女達は皆自分の武器を探して到達し得る道を探す。
 そしてもう一つは、この世界の闇。
 トップになれるのは、ほんの一握り。
 誰かが華やかな舞台に立って光を浴びるその裏で、数え切れないほどの子達が涙を飲むのが実態だ。
 誰もそれを望んでいないにも関わらず、誰もがそれを目指すが故に悲劇が繰り返される。
 そして、プロデューサー達はその感覚にすっかり麻痺しているようだった。
 でも、彼らを責めることはできない。状況がそうさせているのだから。ただ――。
 アタシが出会ったその人は、その状況を変えるために、力を貸して欲しいと言った。
379:以下、
 どうやって? とアタシが聞くと、彼は真面目な顔を崩さずにこう言った。
「まず、君達には今度のサマーフェスで負けてもらいたい」
 正確には、高垣楓さんという人を優勝させたいのだという。
 話を聞くと、どうやら利権が絡んでいるとのことだった。
 つまり楓さんは、身も蓋もない言い方をすれば、この事務所、ひいてはこの業界で言う所の“金の成る木”だ。
 モデル出身の美貌に加え、ダンスやボーカルも並外れた実力を発揮する彼女は、いずれの分野にも精通し、確かな実績を残す。
 そんな彼女には黙っていても仕事が舞い込む。それどころか、楓さんがもし今引退すれば、業界への影響を鑑みると、職を失う人まで出てくるだろうとのことだ。
 もはや産業だね。楓さんという一大産業。
 生え抜きの上層部の中には、その恩恵に預かり、関連する業界と太いパイプを築き上げた人もいるらしい。
 楓さんが優勝しなくては、その後のビジネスにも大きく影響を与えかねないのだ。
 なーんだ、そんなことか。くだらないとは言わないけどさ。
380:以下、
 それで、キミもその甘い汁を吸いたいワケだ、と茶化したら、彼は首を振った。
「言っただろう、状況を変えたいのだと。
 少なくとも、大人達の都合で彼女達が振り回されていくのを見るのはもう嫌なんだ」
 どういう事だろう?
 今まさに、キミは恣意的な理由で楓さんを優勝させるべく、アタシ達に負けろと言っているのに。
「君の言う一大産業をぶっ潰すのさ。一旦持ち上げた上でな。“楓降ろし”だ」
 彼にはどうやら、高垣楓の次期プロデューサーという話が既に偉い人から内々で通達されていたみたい。
 だから、今の彼女のプロデューサーと同行する機会も多く、そういう、いわゆる政治的な会合にも度々出席していた。
 楓さんが優勝した後は、そういう、まー、黒い黒いミーティングなり意見交換会に出席する機会はもっと増えるのだろう。
 その瞬間を、こっそり記録に残し、内部告発する。
 社内のイベントとはいえ、346プロのサマーフェスはもはやアイドル業界の動向を占う試金石であり、業界人にとっては大きな関心事だ。
 週刊誌はこぞって一大企業たる346プロのヤラセとその裏に潜む“政治とカネ”を取り上げ、世間の劣情を煽るだろう。
 そうなれば、楓降ろしどころではない。
381:以下、
 彼がアタシにその計画を告白した理由は結局聞けずじまいだったが、強引に推察するとこうだろうか。
「欲望こそ人の心の根幹であると、アタシに伝えたかった」とか、ね。
 彼は真面目だ。協力を求めるからには、アタシに何かしらのギブをしたかったのだろう。
 だが、それが正しいかどうかは分からない。
 一つだけ分かるのは、スマートではない。
 アタシはそういう黒々とした心のやり取りを観察できるのは、とっても興味深くて楽しいから良いのだけど、当事者達はどうだろう?
 渦中の楓さんは? 取り巻く人達は? 職を失うとされる人達の行方はどうなるの?
 LIPPSの皆だって、負けたらどうなるだろう?
 腐らずに、次も頑張ろうという前向きな姿勢を維持できると、どうして言い切れるのか?
 あまりに無責任なのはもっともだが、それについてアタシが言えた義理ではない。
 でも、たぶんそーゆーのはなんか違うんだよねー。
382:以下、
 計画は、思ったよりも原始的だったようだ。
 誰かが音声プラグを引っこ抜くことで、アタシ達のステージを台無しにしようという算段だったみたい。
 アカペラでのアドリブを皆に提案したのは、彼からその話を聞かされた翌日だった。
 当たり前だけど、何の意味があるのかと、フレちゃん以外の皆は訝しんでいる。
 でも、試しに実践してみせると、どうやらそれなりのクオリティだったらしく、シャレでも悪くないとのことだった。
 そう、何なら元々そういうアカペラ音源にしてしまって、逆に会場を驚かせようという“ジョーク”でも良いのではないか?
 実にLIPPSらしい、ファンキーなステージになるだろうと、美嘉ちゃんと周子ちゃんは結構ノってくれた。
383:以下、
 あんなに上手くいくとは思わなかったし、楓さんが優勝しなかったのはそれ以外の理由もあったのだろう。
 でも、一つだけ分かるのは、そう――とても楽しかったのだ。
 きっと、楓さんを勝たせて失脚させるよりも、遙かに上回る達成感がアタシを支配していた。
 どれだけ退屈な研究を行い、上っ面な論文を書き上げプレゼンし、偉い人達と仲良く握手しても得られなかったそれは、今ここにある。
 ステージの上のアタシを、皆が祝福してくれている。
 そんな彼らが、アタシにはとてもありがたくて、例えようもなく愛おしい。
 これが心なんだ――嬉しいとしか、言いようがなかった。
384:以下、
 行動に対する責任を負うという覚悟が、アタシには足りていなかったのだと、気づいたのはその後だった。
 想定外の事態を受け、混迷を極める上層部を尻目に、アタシ達は爆発的な人気を集め、サイコーに楽しい状態。
 そして、正しくそれを利用しようとする者達がいたのだ。
 新しいトップ、引いては346プロへの背信行為を企む生え抜きの役員が。
 持ち上げて落とす、という行為がしばしばこの国では取り沙汰されるけれど、まさにそれだ。
 LIPPSは、体よく泳がされていたのである。
 346が傾く程度には世間の関心を集めるまで――すなわち、一定の落差が得られるまで。
 高垣楓に代わる新たな346プロの象徴となったがための、『LIPPS降ろし』だ。
 彼からそれを聞かされた時、アタシは混乱した。
 予期せぬ事象に出会うことは、研究者時代から日常茶飯事ではあった。
 だが、恣意的な意志に振り回されることは、人との心のつながりを持たなかったアタシにとって未知なる経験だったのだ。
 理解はできるが、納得ができない。無論、肯定のしようも無い。
 だが、それを打開する術をアタシは導くことができずにいた。どんな理不尽な要求にも応えてきたはずのアタシが。
385:以下、
 こういう時に大事なのは、視点を変えること。
 アタシをLIPPSの一員として存続させるケースを念頭に置くから無理が生じてくる。
 では、アタシはLIPPSではないとしたら?
 この仮定に立った時、たどり着いたのは、驚くほど簡単な解だった。
 アタシが彼らと一緒に『LIPPS降ろし』を画策していたことにすれば良い。
 背信者は、役員連中だけではなかったということだ。
 そして、それを内部告発するのもアタシ――こういうのを二重スパイと言うのかにゃ?
 つまり、LIPPSに対し悪いことを企んでいた人達の仲間になって道連れにするってこと。
 LIPPSは、役員達と一ノ瀬志希にそのアイドル人生を振り回されかけた被害者になれる。
 たぶん、まともにこの話をしたら、LIPPSの皆は納得しないだろう。
 特に、とても純粋で高潔で、曲がったことが大嫌いな美嘉ちゃんは。
 手応えは、二人で話す機会を得た時に大体把握することができた。
 だから、アタシは彼女を利用した。利用してしまった。
 かくして人は自己嫌悪に陥るのである。
386:以下、
 ――まーいっか! にゃっはっはー!
 正しいかどうかはともかく、現状ではそこそこベストに近い手段ではあったはずだろうし。
 アタシはいつも通り失踪し、彼女達は面目を保ってこれからも活躍し続けられる。
 一ノ瀬志希による人の心の観察は一定の知見を得たとゆーことで、ま、そんなもんでしょ。
 問題があるとすれば、次の興味の対象を見つけないとなんだけど――。
 うーん、何かイイのないかなー?
「あのー、ちょっと、もしもしそこのおじょうチャン?」
「?」
 振り返ると、どうやらやはりアタシを呼んでいたらしい。
 ショルダーバッグと、右手には風呂敷包みを持ったそのおばあちゃんは、しかしアタシの知り合いではなかった。
387:以下、
「ん、アタシですか?」
「そうそうあのネ。ちょっと道が分からなくテネー困ってたのヨ。息子のウチを探していテネー」
 話し方がゆっくりで、何やら不思議なイントネーションのおばあちゃんだ。
 でも、不快な不思議さではなかった。とても優しい感じの人だ。
「息子さんの家? 場所はどこ?」
「んーとどこだったかネェ。えぇと、ささ、なんとかいう、ささづ」
「笹塚?」
「あーそうそう! その笹塚ってトコに住んでるみたいデネェ、どうやって行ったらいいんダベ」
 笹塚なら、京王線の駅が近くにあるから、そこから電車に乗ればすぐだ。
 でも、アタシも正直、日本に来てからというもの、こっちの電車の乗り方を未だによく理解できていない。
 仕事上の送り迎えは基本的にプロデューサーの車だし、皆と遊ぶのもテキトーについて行くだけで、道程を意識したことなど無かった。
「タクシーに乗ってったら?」
「エェー、タクシーはネェ、せがれが東京のタクシーはボッタクリで怖ぇから乗るなってネェ。だから怖いのヨネェ」
 ――? 随分偏屈な息子さんだね。
388:以下、
 まぁ、それならしょうがない。電車の駅まで連れてったげよう。
「アラ?、いいのカイ? ありがとうネェ、おじょうチャン。東京にも良い人いるノネェ」
「アタシもぶっちゃけ東京に来てまだ日は浅いけどねー♪」
 スマホで地図を見ながら、おばあちゃんの手を引いて歩く。
「アラ、そうなノ? どこの人?」
「アタシ? アッメェ?リカだヨー♪」
「ヒエエェェ、アメリカ? すごいワネェ、日本人にしか見えないワ?」
 小さな体で大袈裟に驚くおばあちゃんは、思っていたよりも実にユニークでプリティーだ。
「にゃははは、ウソウソ! ホントはね、岩手なんだ。生まれは。
 アメリカには留学してただけ。あ、荷物持つよ?」
 ぶっちゃけ、岩手で住んでいた時の記憶はあまり無かったけど、言った途端おばあちゃんが食いついた。
「アラ、そうだったノ?。あたしもとーほぐから来たんダァ。荷物ありがとネェ」
「へぇー」
 生返事しちゃうと、興味無いのバレちゃうかな。
 日本の都道府県なんて半分も知らないし、岩手で暮らしてた時の記憶もあまり無い。
 岩手の隣には何があっただろう。
389:以下、
「ところで、はて、おじょうチャンは、女子高生カイ? その歳で留学だなんて偉いワネェ」
 ペースを合わせてゆっくり歩いていると、ふとおばあちゃんがアタシの服装を見て言った。
 偉い?
「あっちの大学に通ってたんだ。でもつまんなくてさ。
 何も偉い事なんて無いよ、途中ですっぽかしてきたんだから」
「アラ?、そんな事無いワヨ?。飛び級してたノネ、すごいワ。せがれにも分けてやりたいネェ」
「息子さんって、今は何をしているの? 学生?」
「ウウン、働いているって聞いたケドネェ。何をしてるのかしらネェ」
 顔をしかめながら、おばあちゃんは明るく笑ってみせる。
 年季の入った白髪と、力を込めればポキリと折れちゃいそうな小さい肩。
 でも、この人は見た目以上にエネルギーがある。
「親にまで、内緒にしなきゃいけねぇ話も無いだろうニ、本当、好き勝手やる息子で困っちゃうワ、オホホ」
「仲、悪いの?」
 そっと聞いてみると、おばあちゃんの笑い声は一層大きくなった。
「良いや悪いで決められるモノでも無いワヨネェ、家族って。どんなに悪くても、家族だものネェ」
390:以下、
「――そっか」
 当たり前のように言われると、改めて自分は他の人と違うのかと思い知らされる。
 家族の絆さえ、アタシは育んで来られなかったことを。
「羨ましいな」
「ン?」
「その息子さん、こんな素敵なお母さんがいてさ」
 ふと、ダッドやママの事を思う。
 気づいたら大学から、しかも国を飛び越えて失踪したアタシに気づいた時、彼らはどう思っただろう。
 勝手に手続きを済ませた、編入先である東京の高校からも、一度くらい彼らに連絡は行ったはずだ。
 見つけに来てくれる事だって、やろうと思えば彼らにはできるはずなのに。
 ――――。
「はぁぁ?、何だか疲れちゃったワ?」
「えっ?」
 歩みを止め、腰をトントンと叩きながらおばあちゃんは大袈裟にため息を吐いた。やっぱり、笑顔で。
「ちょっと、そこのお店でお茶でもどうかシラ?」
391:以下、
 おばあちゃんは、自分のコーヒーにミルクを三杯入れた。砂糖は入れなかった。
「変わった飲み方だねー」
「アナタこそ、タバスコいつも持ち歩いてるノ?」
「にゃはは、まぁねー♪」
 コーヒーフロートにマイタバスコを振るアタシを見て、おばあちゃんはまた笑う。
「おじょうチャンの名前、聞いても良いかシラ?」
「アタシ? 一ノ瀬志希っていうの」
「シキ」
「こころざしに、きぼう」
「アァ?、希望を志すで志希ちゃん。良い名前を付けたのネェ?志希ちゃんのご両親は」
 カップを両手で持ち、ニッコリと笑いながらおばあちゃんは、ミルクたっぷりのそれを美味しそうに啜って、ホッと息をついた。
「そうかな」
「えっ?」
「アタシは、自分に見合わないご大層な名前を押しつけられたとしか思ってない」
392:以下、
「そう」
 おばあちゃんは、否定も肯定もしなかった。黙って、アタシの次の言葉を待っているようだった。
「アタシは――」
 別に、さっき会ったばかりの他人に、こんな話をしてもしょうがないのに。
「親が嫌い――ううん、たぶん皆には、アタシの事なんてほっといて欲しいんだと思う。
 希望は十分志した。もうたくさんなのに、ダッドをはじめ、周りはアタシが立ち止まるのを許さなかった。それで」
「家出しちゃったのネェ」
「海の向こうのキャンパスライフはラクだったよ。安上がりの論文さえ書いてればイイ子でいられた。
 権威と呼ばれる知らないおじさん達と「ないすとぅーみーちゅー、みすたー♪」なんて握手してればさ」
「お友達はできた?」
「ううん」
「そう」
393:以下、
 頬杖をつき、窓の外を眺める。
 アタシと同い年くらいの女の子三人グループが、キャッキャと笑いおどけながら歩道を歩いて行くのが見える。
「ラクだけど、つまんなかった。
 それは、学校の講義だけじゃなくて、やっぱりそういう、友達? が欲しかったのかな。
 こっちに来て、ようやくそれを得たと思ったんだけど――」
「だけど?」
 奏ちゃん、周子ちゃん、フレちゃん――怒りに震えた美嘉ちゃんの顔が浮かぶ。
「結局、アタシはそれを手放したんだ。友達に、なれそうだったのに、その子達を――」
「喧嘩しちゃったノ?」
「アタシが、一方的に酷い事を言っちゃったの。そうした方が良かった。
 元々、煙たがられるのは慣れてるしさ」
「ただ――美嘉ちゃんに、謝れなかったのが残念、かな」
「お友達なのネェ」
「お友達に、なりそびれちゃった子、だね」
「いいえ、お友達ヨ」
「えっ?」
394:以下、
 外に向けていた顔をふと正面に直すと、そこにはやっぱり笑顔があった。
 何でこんな――。
「何があったかは知らないケレド、そのミカちゃんって子と志希ちゃんはお友達だと思うワ」
 ――こういうの、ホントは言いたくないけど。
「勝手なこと、言わないでくれるかな。
 アタシがどれだけ美嘉ちゃんに酷い事を言っちゃったのか、まるで知らないクセにさ」
「謝りたいんデショ?」
「もう謝れない」
「後悔する心さえあれば、十分ヨ」
「――えっ」
 おばあちゃんは、カップを置き、テーブルの上で手を組んだ。
「仲直り、したいんでショウ?
 そうでなきゃ、酷い事を言っちゃった、なんてこと言えるはず無いワ」
「――もう、仲直りできないから、言ってるんだよ。後悔は、取り返せないから後悔なんだし」
395:以下、
 美嘉ちゃん――きっとまだ、怒ってるんだろうな。
 ストイックに仕事と向き合ってきた彼女にとって、アタシの言動は許されざるものだったはずだ。
 ダメだよ。
 取り返しがつかない方が良いんだ。それが一番上手く収まるのだから。後悔は正しい。
 でも――何でアタシが、後悔しなきゃいけないんだろう? それは――。
「アタシは、皆の事が、き――嫌いだからさ」
「うん」
「皆だってさ、ほら! 皆も、アタシの事、嫌ってるだろうし、だから――」
「どうしたいかだけでもいいノヨ?」
「どう、したい――?」
 ウンウン、と、おばあちゃんは優しく頷いた。
「人生はネ。本当に良い事も、嫌な事も、いっぱい色んな事があるノヨネ。
 でも、長い目で振り返ると、結局は人生、思うようにしかならないものナノヨ」
396:以下、
「何でも思いようになるなら、アタシ、こんな嫌な思いしてるはずないと思うよ?」
「自分の気持ちに正直に生きる、という事ヨ」
 おばあちゃんは、組んでいた手を解き、それを私に差し出した。
「――手?」
「ウン」
 アタシが差し出してみた手を、おばあちゃんは両手で握る。
 かさついた彼女の手は、飲み終わってすっかり冷めていたはずのカップをさっき握っていたにも関わらず、ぬくぬくと温かい。
「やりたい事を、やりたいようにやりなサイ。人間はネ、図々しく生きたもんの勝ちナノヨ」
「やりたい事――」
「えぇ、そう。仲直り。
 失敗してもいいじゃナイ。やりたい事をやれたなら、結果なんてオマケデショ」
 オマケ、という語感が自分で楽しかったのか、おばあちゃんはしきりにオマケ、オマケと古い玩具のように繰り返して笑い、
「――アラ、外が暗くなってきたワネェ、出まショ」
 と手を合わせて席を立った。
397:以下、
「雨が降るね」
 外に出ると、空気が湿っている。風が運んでくるそれは、嵐の匂いだ。
「天気予報?」
「ううん、匂いで分かるの」
「アラ、志希ちゃんは本当にすごいワネェ」
 そう言って笑った後、おばあちゃんは、「ここでいいワ」と言った。
「えっ、いいの? 駅までまだあるけど」
「えぇ。志希ちゃん、これからやることあるでショウ」
「やること――」
 アタシが、やりたいこと――?
「えぇ、やりたいことヨ」
「おばあちゃんさ」
「ん?」
398:以下、
「図々しく生きたモン勝ちだ、なんてさっき言ってたけど――アタシ以上に図々しい子なんて、いないよ」
 おばあちゃんの半歩先を歩く。向こうに見える大通りは今日も、どこへ向かうというのか、人も車も慌ただしい。
 いつだって、周りに迷惑ばかりかけてきた。
 あっちのラボではメンバーの意見に耳を傾けたことなんて無かったし、こっちの高校でも授業はサボってばかり。
 それでも結果さえ残せば、とりあえずはアタシも彼らも、問題は無かった。
 それは、アイドルやってる時だって一緒。
 レッスンをサボったり、お仕事に遅れたり、イベントの当日には台本に無いことをやらかしてばかりだった。
 小さい頃、ダッドの期待に応えようと、良い子になって頑張ってた反動もあったのかも知れない。
 ――なんて、ダッドのせいにする必要なんて無い。アタシがそうしてきた。
 そう、全ては結果を残したモン勝ち。売れたモン勝ちだ。
「周りを省みる必要も、余裕も無かったもん。だから、アタシは勝ててきた」
 振り返り、いつもの志希ちゃんスマイルで――たぶんアイドルとしては最後になるであろう――にゃはっ♪ と彼女に笑いかけた。
「今回も、長い目で見れば勝ちだよ♪」
399:以下、
「志希ちゃんは、優しい子ネェ」
 せっかく笑ってみせたのに、おばあちゃんの笑顔は先ほどとそんなに変わらない。
「優しい?」
「本当に図々しい人は、自分の事を図々しいナンテ、言わないワヨ」
「――そうかな」
「友達になれたんだモノ。
 一度くらい喧嘩したッテ、仲悪いままでいたくないッテ、ミカちゃんも思ってるワヨ、きっと」
「美嘉ちゃんも――?」
「たとえ、そうじゃなくタッテ、志希ちゃんがそうしたいなら、そうすれば良いノヨ。
 本当に図々しいのは、そういうコトヨ」
 おばあちゃんは、風呂敷の中をゴソゴソと漁り、中から一つのミカンを取り出した。
「はい、ウチのミカン。ちょっと若いけレド、今日親切にしてくれたお礼」
 おばあちゃんは歩み寄り、あたしの手にそれを握らせて、ニコッと笑った。
「ありがとうネ、志希ちゃん。頑張ってネ」
400:以下、
「おばあちゃん――」
 大通りに向かって、おばあちゃんは歩き出す。
「やっぱり、タクシーに乗るワ。膝が痛くテネェ、ボッタクリでもいいカラ、ラクしたいノヨネェ、オホホ」
「アタシ、捕まえて来るよ」
 おばあちゃんを追い越し、大通りに出ると、歩道から身を乗り出し、精一杯大きい声でそれを呼んだ。
 ちょうど良いタイミングで止まってくれる辺り、さすが東京だ。
「来たよ、おばあちゃん」
「ありがとうネェ、何から何まで」
「いいの、これくらい」
 その小さい体を後部座席にゆっくり乗り入れると、おばあちゃんはアタシに手を振った。
「志希ちゃんは、もっと図々しく生きていいノヨ。それジャアネ」
 アタシも、返事をする代わりに、手を振った。
 ドアが閉まり、タクシーが走り去った後、駅へは逆方向の車線だったことに気づき、舌打ちした。
「図々しく、か――」
401:以下、
 おばあちゃんを見送ってから、アタシは当初の目的地へ再度歩き出す。
 彼らに一部始終を伝えれば、悪い人達は世間の目によって裁かれ、LIPPSは救われる。
 多少は346プロも揺れるだろうけど、マスメディアにも強いパイプを持つ事務所の力を考えれば、さしたる問題は無い。
 これでいい。いいはずなんだ。
 だけど――。
 それは、アタシにとっての“勝ち”なのだろうか?
402:以下、
 ――たとえそれが、勝ちで無かったとしよう。
 では、アタシが勝つことに、何の意味があるのか?
 人智の及ばない、為す術が無い事象にレッテルを貼ることが、古来より人は大好きだ。
 そうやって考えを放棄し、恐怖から目を背け、逆に崇めることで秩序を形成させた文化だってある。
 これまでのアタシには理解できなかったけれど、今なら少し、分かる気がする。
 程度は異なるけれど、今回のだって――少なくとも今のアタシには、どうしようも無い混沌だった。
 だから、アタシなりの解をもって、この混沌に秩序を与える。
 現実を覆い隠すための、まさしくアタシは虚像だ。
 皆には、それを知ってほしくない。
 始末に負えない一ノ瀬志希という問題児が、笑えない問題を招いてクビになったのだ。
 そう思ってもらえたらどんなに楽だろう。
403:以下、
 やっぱり、おばあちゃん――それが、アタシにとっての勝ちなんだよ。
「ごめんね」
 何を謝る必要があるの?
 おばあちゃんだって、きっと分かって――いや、たとえ分かってくれなくたって――。
 ふと、手に持ったミカンを見つめる。
 特に、好きでも嫌いでも無いそれは、普段そう気に留める存在でも無いはずのものだ。
 駅が見えてきた。
 目的地は、ここからそう遠くはない。乗り換えも1回くらいで済むはずだ。
 よし――と、改めて覚悟を入れ直した時だった。
 後ろから、呼び止められた。
 迂闊だった。
 でも、それはたぶん、アタシにとっては予想外ではなくて――期待していたんだろうと思う。
 その人から呼び止められることを。
408:以下、
【8】
 (■)
「――何か、用でしょうか」
 呼び止められたその人は、ウェーブがかった黒髪を揺らしながら振り返った。
 訝しがる訳でも、プロデューサーのトゲのある声に対して怒る訳でも無い。
 ただ無表情なのは、そう努めているに過ぎないことが、私から見てもよく分かった。
「――俺が聞きたいこと、何だか分かるよな」
 プロデューサーは、厳しい表情をさらに険しくさせている。
 感情を抑えきれていない。
「僕に、ですか」
「そうだ。言いたいことだってたくさんある」
 彼は鼻を鳴らした。ため息だった。無表情は変わらない。
 いや――少し、寂しそう?
「奇遇ですね。僕もあなたに言いたいことがあるんです」
409:以下、
「俺に?」
「えぇ。立ち話もなんですし、場所を変えましょう」
 そういうと、彼はタクシー乗り場へと向かった。
「一度、事務所に戻りましょうか。その方がたぶん、話が捗るかと」
 言われるがまま、私達は先ほど来た道を引き返すように、タクシーで移動した。
 私とプロデューサーは後部座席に。
 チーフは、助手席に座る。
 事務所に着くまでの間、車内は終始無言だった。
 プロデューサーは、腕を組んでジッと窓の外を睨んでいる。
 ピリピリした雰囲気を醸し出している彼は、ボンヤリしている普段のそれとは明らかに異質だ。
 チーフは、どんな心境なのか――ここからでは表情も読み取れない。
 シートにもたれ、ただまっすぐ進行方向に顔を向けたまま、微動だにしない。
 何か、二人の間にあったのかしら。
410:以下、
「ふぅ。さて――」
 事務所に着く頃には、車軸を流すような大雨になっていた。
 本棟1階のラウンジに3人席を見つけ、そこに腰を下ろしたところで、ようやくチーフは一声を発した。
「何からお話しましょう。いや――そもそも僕に用があったのは、あなた方でしたね」
「まず、単刀直入に聞くが、一ノ瀬さんと何があった? というより」
 運ばれてきたコーヒーに手もつけず、プロデューサーは身を乗り出した。
「一体何をした。何を彼女に吹き込んだ」
「吹き込んだというのは、誤解です」
「誤解?」
 ゆっくりと、コーヒーを一口啜ってから、チーフはかぶりを振った。
「志希ちゃんと僕はお互いに利害が一致していた。協力関係を結んでいただけです。
 人の心を理解すべく、たまたまアイドルの世界を覗いてみたいという彼女に、その機会を提供する代わりに協力を仰いだんです」
 そう言って、彼は私の方をチラッと見た。
「奏ちゃんにも、聞かせて良い内容なのかどうか、ちょっと僕には自信が無いんですが」
411:以下、
「いいえ、最後まで聞かせてもらうわ」
 ここまで来て、事の顛末を私だけ知り得ないなんて許されない。
 何より、私の仲間――LIPPSのメンバーに関することなら、なおさら聞かせてもらう他は無いもの。
「あなたは、それで良いんですか?」
 彼がプロデューサーに尋ねる。
 プロデューサーは、ようやくコーヒーにミルクを入れながら、答えた。
「彼女に聞かせられないような内容なら、そもそもこんな人目に付く所で話さなきゃいい」
「分かりました」
 チーフは、一つ息を吐いて、少し俯いたまま語り出した。
「個人的に、僕がすごく嫌だなと思っていたのは、いわゆる業界の裏側でした。
 アイドル業界なんて、結局は予定調和ばかりで、お偉方のお気に入りがいれば、その子ばかりが重用されていく。
 もちろん、そういう側面が全てとは言いませんが、その余波でチャンスを得られずに涙を呑む子達があまりに多いんです」
「あんたが以前担当していた城ヶ崎さんは、そうではなかったはずだが」
 プロデューサーが質すと、彼も首肯した。
「もちろんです。美嘉ちゃんは僕が手塩にかけて育てた子ですが、それ以上に彼女には才能も、向上心もあった。
 一方で、美嘉ちゃんはそれこそ、事務所の都合でキャラ付けされ、ゴリ押しで売り出されたようなものでした。
 それでも、彼女は全てを理解して、腐らず、弱音も吐かず、一途にコツコツと実力と実績を積んで来たんです」
412:以下、
「美嘉が――」
 私は、一瞬言葉を失った。
 あの子がゴリ押しで、というのも含め、そのような泥臭い時期もあったのかと、今更思い知らされた。
「ゴリ押しされずとも美嘉ちゃんは十分評価されるはずなのに、不自然な売り出し方になったのが僕には悔しくてならない。
 何より、彼女のプロデュースに事務所の力が不当に働いたということは、一方で、誰か犠牲になった子がいたはずでした」
 美嘉が売り出された一方で、表舞台に立てなかった子がいるという事かしら?
 一体、誰が――。
「島村さんかな」
 プロデューサーの一言に、私はハッとした。えっ――!?
「経歴的に考えると、だが」
「そうです」
 チーフは頷き、テーブルの上で手を組んだ。
「実は本来、卯月ちゃんは僕が担当するはずでした。
 資料を見ると、随分長い間候補生のままで、そろそろ担当が付いても良い頃合いでしたが」
「城ヶ崎さんの担当になるよう言われたからか」
 小さく頷きながら、プロデューサーはため息を一つ吐く。
「それだけあんたは上から認められていたってことだ」
「からかわないでください」
413:以下、
「彼女達は知っています。自分が大人達の勝手な都合に振り回されていることを。
 僕達プロデューサーが考えている以上に、彼女達は賢く鋭い。
 本当は、僕達に不満の一つでもぶつけてもらえたらどんなに楽だろう」
 気づくと、彼はテーブルの上に置いた拳を握っている。
「美嘉ちゃんも卯月ちゃんも、不満は言いませんでした。しょうがない事だと、笑って僕を励ましてくれさえしました。
 でも、その健気に微笑む彼女達を見て、僕がどれだけ自分を惨めに思ったか。
“売る子と売らない子”の二極化を意図的に作り上げた上層部を、どれだけ許せなくなっていったことか」
「話を急くようで悪いが、俺はあんたの愚痴を聞きに来たんじゃない」
 小さくかぶりを振り、プロデューサーはコーヒーを一口啜った。
「俺の質問に答えてくれ。あんたは一ノ瀬さんに何をした」
「簡単に言うと、高垣楓を潰すのに一役買ってくれと、そう持ちかけました」
 ボソッと零したチーフの一言に、私だけでなく、プロデューサーも固まる。
「当初は、ですけどね」
414:以下、
「どういう意味だ」
「ご存じの通り、この事務所は今や高垣楓に頼りきっている。
 彼女の起用を前提としたプロジェクトが未だにいくつもあるんです。
 それを絵に描いた餅で終わらせてしまったら、多方面の業界で信用が落ちるどころか、下手すりゃ廃業する末端企業まである」
 馬鹿馬鹿しいとでも言いたげに、彼は鼻で笑った。
「泳がせ続けないと死んでしまうんです。346だけでなく、業界そのものが」
 ――何だか大きな話になって、据わりが悪くなってきたわね。
 本当に私が聞いて良かった話なのか、確かにチーフが気にした理由も分かる。
「業界そのものが死ぬってのは言い過ぎじゃないか?」
「それくらい馬鹿げた実態があるという事です。先ほど僕が言った二極化の最たる例ですね」
「ヤバい事になると知りながら、高垣楓を潰すというのは、矛盾を感じるが――それは置いといて、どう潰そうと?」
 プロデューサーに問われ、彼は改めて背を伸ばした。
「サマーフェスで、彼女に勝たせようとしました」
「LIPPSに?」
「いえ、高垣楓に、です」
「――持ち上げて落とす、ということか」
「そうです。フェスに勝った彼女の周りには、きな臭い蠅共がウジャウジャ沸いて出ますから」
 だんだん、言葉遣いも刺々しくなってきたかしら。
415:以下、
「その黒々しい“意見交換会”の現場を内部告発して、業界の裏側を暴くということか」
「えぇ」
 ただ――チーフに協力を依頼された志希は、サマーフェスで何をしようとしていたの?
 あの時は、志希がおふざけでメンバーに提案した、アカペラ用にアレンジした振付で、私達は勝てたようなものだった。
「音源を蹴飛ばす役は、卯月ちゃんが買って出てくれました。
 心根の優しい彼女に本当に出来るのか心配でしたが、上手くやってくれました。けれどね」
 そう――卯月のアレは、ワザとだったのね。この人に仕組まれて。
「あのステージは想定外でした。志希ちゃんの、いえ、LIPPSのあのパフォーマンスは、僕の予定に無かった。
 結果として、僕らの計画は大幅に軌道修正しなくてはならなくなりましたが」
 音源が飛んだことも含め、当日フェスの裏側で起きたことが、もし予め彼の計画にあって、それを志希も承知していたのなら――。
 志希は私達を負けさせるどころか、敢えて勝たせようとしたことになる。
 彼の計画への、反抗としか思えない。
「誓って言いますが、僕はLIPPSもニュージェネも悪いようにする気はありませんでした。
 志希ちゃんには、悲劇のヒロインを演じてもらいたかったんです。
 ステージの上で本気で戸惑い、泣き出す姿などを見せれば、同情するファンもいるでしょう」
416:以下、
「真正面から高垣楓と戦って負けたのではなく、不慮の事故のために負けた――ということにしたかったのか」
 プロデューサーは、なぜかフフッと笑った。
「言い訳や予防線は、使い所さえ間違えなければ、その身を守る盾になります。
 あなたも良くご存じのはずでは?」
 彼にそう聞かれたプロデューサーは、どことなく不適な笑みを浮かべているように見える。
「でも」
 二人が私に顔を向ける。気づくと、私は控えめに右手を挙げていた。
「どうぞ、奏ちゃん」
「楓さんを持ち上げて潰すことが、どうして美嘉や卯月のためになるの?」
「だよなぁ」
 プロデューサーも腕を組みながら頷いている。
「楓さんだけじゃない。346プロが後ろ暗いことをしていると知られたら、所属するアイドル皆が後ろ指をさされるわ。
 当然、プロデューサーや社員さん達だってそうでしょう?」
「実は、新しい事務所を立ち上げようという話がありましてね」
 チーフは握り拳を解き、両手をテーブルの上で組みながら、プロデューサーと私の顔を交互に見た。
「賛同するアイドルや社員達は、皆その事務所に移籍するよう手配するつもりなんですよ」
417:以下、
「――クーデターってことか?」
 腕を組みながらプロデューサーが問うと、彼は手を振った。
「いや、そんな大それたものでは。
 ただ、一方的にゼロクリアだけして、影響のある人達に何もフォローしないというのは筋が違いますからね。
 もちろん、LIPPSやニュージェネの子達も、新しい事務所へ匿うつもりでした」
 ――彼は、気づいていないのかしら?
 346プロを糾弾し存在を揺るがせた上で、一部の人間を誘って新しく事務所を立ち上げる。
「むしろLIPPSは、新事務所での旗印を担ってもらおうと思っていたんです。
 だから、僕も有望な人材のスカウトに走った――そうして出会ったのが、フレデリカちゃんと志希ちゃんです。
 志希ちゃんには、あなたと偶然を装い出会うように仕向けたものでした」
 それは、彼が先ほど自分で憎いと言っていた、一部の勝手な都合で多くの人を振り回すこと、まさにそのものだということを。
「新しい会社が第二の346プロになる可能性は?」
 知らずテーブルの下で拳を握っていた私が声を荒げるより先に、プロデューサーが腕を組みながら彼に問い質した。
「業界の不正を暴くとかもっともらしく言っているが、俺にはそれを建前に346を潰して、自分達が取って代わろうとしているようにしか見えないがな」
418:以下、
「ぼ、僕は――」
 チーフは、今日初めて動揺した。
「僕は、美嘉ちゃんや卯月ちゃんに、償いをしたかったんです。
 新しく整えた環境で、もう一度しっかりとプロデュースしてあげたかった」
「本末転倒だよ。大体、新しい事務所に転身したとしても、経歴を調べれば“後ろ暗い346プロ”にいたのは誰にだって分かる」
「それがあるから早期に立ち上げて移籍させて、実績を積ませる必要があったんです!」
 訴えるような目で、彼はプロデューサーの顔を食い入るように見つめる。
「甘い汁を吸いたいとか、そんなつもりは無いんです決して。
 僕は、努力するアイドル達が真っ当に評価される環境を作りたかったんです。それがプロデューサーの本分でしょう?」
 ――改めて、目を見ると何となく分かる。
 どうやら彼は、本当に美嘉や卯月が――アイドルが好きなのだ。
「プロデューサーの本分は、どんな環境にあってもアイドルを真っ当に育てることじゃないか?
 環境を作り変えるのはお偉方の仕事であって、俺達下っ端は環境に応じた仕事をするだけだと俺は思っている」
 一口啜ってカップを置き、プロデューサーは彼の目を見てニヤリと笑った。
「結局、あんたも担当に惚れ込んじゃったってことか。なぁ、アリさん?」
419:以下、
「惚れますよ、そりゃ」
 アリさんと呼ばれた彼は、恥じることも、悪びれる様子も見せず、毅然とプロデューサーを見返している。
「彼女達のためになるなら、どんなことだってしたいんです。
 身を取り巻く環境を変える努力をしないのは、怠慢ですよ」
「耳が痛いね」
 表情を崩さず、プロデューサーは冷め切ったコーヒーをもう一度手に取ろうとして、止まった。
「さっき、LIPPSやニュージェネを匿うつもり“だった”と言ったな。今は違うのか?」
 ――急にチーフが口ごもる。
「おい、アリさん」
「LIPPSは、売れすぎてしまったんです」
420:以下、
「売れすぎた?」
 それの何がいけないというの? 私は、彼の次の言葉を待った。
「現時点で言えば、LIPPSは高垣楓を脅かすほどに、急激に成長を遂げてきています。
 メインステージに立っている者を潰すことが、僕らの計画でした。
 そして、世間の関心事は変わりつつある」
「まさか――高垣楓ではなく、LIPPSを潰すつもりか。346の不正の象徴として?」
「――――」
 チーフは、無念そうに俯き、肩を震わせている。
 たぶん、演技ではない。美嘉を擁するLIPPSが標的になるのは、彼にとって決して本意ではないのだ。
「どういう不正をしたとして、おたくらはLIPPSを潰そうと?」
 プロデューサーは、平静を装っているが、内心は決して穏やかでは無いはずだ。
 私だって、誰かに後ろ指を指されるようなことをしたつもりなんて無い。
 彼は、重い口を開いた。
「淫行をした、ということに――僕と、美嘉ちゃんとで」
421:以下、
「何だと――!」
「僕だって嫌なんですよこんなの! でも、一番信憑性があると、上が一方的に決めたんです。
 それだけは勘弁して欲しいとお願いしたのですが、聞いてもらえなくて――!」
 テーブルの端を両手で掴み、体を前に乗り出させ、彼は泣きそうな顔で懇願する。
「あの日美嘉ちゃんに会ったのも、真実を告げて、一刻も早くLIPPSを抜けさせなくてはという思いからでした。
 でも、あんな真剣に考えている彼女を目の当りにしたら、LIPPSとしての美嘉ちゃんを、僕自身諦めきれなくて――。
 だから、あなたに相談したかったんです」
「自分で撒いた種だろうが」
「今回立ち上げる新事務所の代表は、奥多摩支社の支社長です」
 そう彼が言った瞬間、プロデューサーが固まった。
「この計画の首謀者は、あなたのかつての上司です。
 親交のあったあなたからも、どうか彼を説得してほしいんです」
 プロデューサーは、固まったまま動かない。
 この人の経歴は未だによく知らないけれど、相当な動揺を受けている様子から、たぶんその上司を信頼していたのだと思う。
「――なぜ、あの人が」
 やっと絞り出されたその声は、先ほど怒気に満ちた同じ人のそれとは思えなかった。
「ご存じの通り、ウチのかつての事業部長ですし、業界のコネも相当ありますからね。
 パイプを繋ぎ直して鞍替えすることができるのは、彼くらいしか出来ません」
「誰が吹き込んだんだ。俺には、あの人が自分からそんなことをするとは思えない」
「いえ、彼は乗り気でした。もっとも、その話を持ちかけたのは187プロですけどね」
422:以下、
「馬鹿な」
 プロデューサーはテーブルをドンッと叩いた。驚いた同じフロアの何人かがこちらを見る。
「それは346の転覆を謀る187プロの計略だ。まんまと乗せられているんだ」
「もしそうであるなら、それをそのまま彼に説得してほしいんです。どうかお願いします」
 彼が頭を下げるより先に、プロデューサーは席を立った。
「支社長の予定は分かるのか?」
「今日、本社に来ているはずです。役員会議がありますから」
「事務所棟の上の方の会議室のどれかだな」
 足早にそこへ向かおうとするプロデューサーを、私は呼び止めた。
「――水さんは、事務室で待っていてくれるかな。雨が止んだら、帰っても構わないから」
 精一杯、私に優しく声を掛けるプロデューサーの態度が、無性に腹立たしい。
「ここまで来て、仲間外れにするつもりなの? 私はLIPPSのリーダーなのよ」
423:以下、
「――すまない」
「お、アリさん達じゃないスか」
 声がした方を振り向くと、男の人が二人、並んで立っている。
 この人達は、プロデューサーの同僚の人達だったわね。
 大きくて柄の悪い方がヤァさんで、小さくて貧乏くじ引いてそうな人がチビさん。
「何か、あったんですか?」
 私達のただならぬ雰囲気を察してか、チビさんが心配そうに言葉を重ねた。
 プロデューサーが控えめに手を振る。
「あぁ、いや――何でもないよ」
「いやいや絶対何でもなくは無いでしょ。どっか人殺しに行きそうな顔ッスよ」
「そういう顔見たことあるんですか、ヤァさん」
「うっせェなチビ太」
「まぁアレですよ、その――ほら、業務改善。最近、よく言われてるでしょう?
 ちょっと、こういう仕事の仕方はいかがでしょうか、って、お偉いさんに直談判してみましょうかって」
 見かねたアリさん――チーフが、はぐらかそうとフォローを入れる。
 しかし、それを聞いたヤァさんは、俄然鼻息が荒くなりだした。
424:以下、
「おっ? マジッスかイイッスねー! オレもクソ上司に言いたい事山ほどあるんスよ!」
「いや、本当大丈夫だって。俺とチーフだけで話に行きたいんだ」
「何だよツレねェじゃないッスか! イイッスよ行きましょ、場所どこ? あっち?」
「いや、ヤァさん、あの、ヤァさんが行くとまとまる話もまとまら――」
「うるっせぇんだよチビ太黙ってろテメェは」
「な、何で俺だけ」
「おっ、誰かと思えば奏ちゃんじゃねェか。相変わらずエ口ェ?なオイ」
 ふと私の存在に気づいたヤァさんが、私の頭をガシガシと乱暴に撫でた。
 プロデューサーよりも遙かに、私に対する距離感が近い。
 何がおかしいのか豪快に笑っている。セクハラで訴えても勝てると思うのだけど。
「ごめんね奏ちゃん。この人、悪気は無いはずだから、気を悪くしないであげてね」
「えぇ、あの、大丈夫です」
 チビさんがそっとフォローを入れてくれる間に、気づくとプロデューサーはスタスタとその場を離れていた。
 アリさんが黙ってそれに続き、「あ、おいっ!」とヤァさんと、チビさんもそれを追いかける。
 もちろん、私もだ。
425:以下、
 本当の事情は何なのか、とチビさんに聞かれたので、エレベーターの中で私は説明した。
 プロデューサーとアリさんが一瞬、私に振り向いたけれど、諦めたように視線を直す。
 どのみち、こうなってしまったら隠す方がナンセンスだもの。
 さっきまでおちゃらけていたヤァさんまでも、急に押し黙り、顔を強張らせた。
 エレベーターが到着すると、開いた先に、男の人が一人立っていた。
「おや」
 入れ違い様、その人はプロデューサーの姿を認めるとニヤリと笑った。
 濃い紫の、ダブルのスーツ。
 黄土色の革靴。
 オールバックにさせた髪は薄めで、細いフレームの眼鏡と、細い顎。
「――――」
 プロデューサーの表情を見て、直感した。
 この人が――187プロの人ね。
426:以下、
「お久しぶりです。どうも、以前どこかでお会いしましたよね?」
 並びの悪い歯をニカッと見せて握手を求めてきた。
 そんな彼を、プロデューサーは露骨に無視して足早に去る。
「あれ、ちょっとぉ? ツレねぇなぁ?」
 後ろから声がするけれど、肩を揺らして歩くプロデューサーは止まらない。
 背中越しに、明らかにそれと分かる怒気が伝わってくる。
 ただならぬ敵意を醸し出す彼に、私をはじめ、他の皆も気安く声を掛けられずにいた。
 その勢いのまま乱暴に、目に付いた会議室を手当たり次第に、プロデューサーはノックし扉を開けていく。
 もう少し丁寧に、とチビさんが進言しようとした所で、ちょうど目的の人物がいる部屋を見つけた。
「? おぉ、誰かと思えば。元気でやっているかね?」
427:以下、
 恰幅の良い、白髪のオールバックで、やや小麦色の肌をした茶色いスーツの老人は、プロデューサーに気づくとにこやかに手を挙げた。
「ご無沙汰しております」
「ハハハ、この間ウチに来てくれたばかりじゃないか」
 丁寧に頭を下げるプロデューサーに対し、彼は穏やかな笑みを返す。
 随分と、雰囲気の良い人。
 この人が、さっきアリさんが言っていた、LIPPS潰しの首謀者――?
「ん――?」
 そのアリさんの姿を認め、少し体が止まる。
 やがて、もう一度にこやかに、しかしどこか納得したように笑った。
「フフ、なるほどな」
428:以下、
「支社長、折り入ってお願いがあります」
 神妙な面持ちで切り出したアリさんの次の言葉を待たずに、支社長は鋭く言い放った。
「どこまで話した?」
「――大体の事は」
「そうか」
 頷いて、彼は私達の顔を代わる代わる見つめる。
「まるで、私を悪者か何かに見るような目だねぇ」
「悪者じゃなけりゃなん――」
「ヤァさん、マジで黙った方がいいですたぶん」
 喧嘩腰のヤァさんを、チビさんが本気で制した。
429:以下、
「念のため聞くが、私にお願いしたい事とは?」
 ポケットに手を突っ込み、机におざなりに腰掛けながら、支社長はアリさんの顔を覗き込むように見た。
「先日、申し上げた事です。LIPPSを陥れる事を、どうか考え直していただけないでしょうか」
「腐った環境を変えたいと言ったのは、キミではなかったかね?」
 深々と頭を下げるアリさんを一笑に付す。
「それとも、自分が割を食うのは嫌だから降りるか?」
「私は、アイドル達のためを思って」
「高垣楓が標的だった時には日和らなかった癖に、良く言う。それとも、彼女はアイドルではないと?」
「で、ですから、彼女も何らかの形で救えればと」
「ハッハッハッハ!」
 豪快に高笑いをする支社長に、アリさんの表情が凍るのが見て取れた。
「子供かねキミは。
 信用を売り物にするこの業界で、一度ミソが付いたアイドルを再利用する手段がどこにあるというのだ」
430:以下、
「し、支社長は、アイドルのためを思っていたのでは――」
「思っているさ。大事なビジネスの種になるのならな」
 鼻を鳴らし、足を組み替えながら支社長は続ける。
「業界を刷新するという発想は、実に興味深い。
 何事にも旬はある。かの高垣楓にしたって同じ事だ。これ以上マンネリ化が進めば、我が社の自浄作用も失われる。
 新しい事務所を立ち上げ、346に代わる存在として台頭する事は、引いては古くなった業界の血を改める事にもなるだろう」
「そのためにヒドい目に遭う子達が出てくんのはいいンスか?」
 たまらずヤァさんが身を乗り出した。今にも殴りかかりそうだ。
「もちろん、彼女達には悪い事だとは思っている――あぁ、そこのキミもLIPPSだったか」
 ハハハ、と私を見て彼は笑った。一切の熱も湿り気も感じられない笑いだった。
「だが困った事に、我が社は大きな会社でね。無策のまま対抗馬となるだけでは、巨象に挑む蟻にすらなれんだろう。
 攻略するには、その足元を揺るがす爆弾が必要だ。信用を失墜させる、スキャンダルという名の爆弾がね」
431:以下、
「LIPPSの子達はどうなるんですか?」
 アリさんが食い下がる。
「当初の計画では、高垣楓の周りの大人達が良からぬ企みをしていた、というものでした。
 つまり、彼女自身に非は無い。振り回された側の人間として、同情を得られる可能性もあったでしょう。
 ですが、今回の計画は、LIPPS自体が悪者になってしまいます。印象があまりにも悪すぎます!」
「じゃあ無理矢理キミが強○した事にでもすれば良い」
「なっ――」
「そうすれば、城ヶ崎美嘉はめでたく被害者だ」
「は、水さん、待って落ち着いて!」
 コレが落ち着いて聞いていられるとでも思うの!?
 どこまでアイドルを、いいえ、女をバカにすれば気が済むのか――!!
 チビさんが私を引き留めるその横を、鬼の形相をしたヤァさんがヌッと歩み出る。
 しまった、とチビさんが小さく呻いたけれど、もう遅いわね。
「支社長」
432:以下、
 やや後ろから聞こえた声に、皆が振り返る。
 いつの間にか、プロデューサーは私達の後方に立っていた。
 というより、私達が彼を置いて、知らず身を乗り出していた、と言う方が正しいのでしょうね。
「何かね?」
「それ、私がやったって事に、なりませんか?」
「は?」
 皆の顔が点になる。
 一方でプロデューサーは、真顔で支社長の顔を真っ直ぐ見つめていた。
「いや、強○とかそういうのではなくて、何かしら――例えば賄賂とか、私が勝手に不正をした事にして。
 ほら、一応彼女達の担当プロデューサーですし、それなりに話題性もあるでしょう」
「なかなか面白い意見だね。LIPPSの皆にも、火の粉は直接降りかからないし、と?」
「私も会社辞められますし」
433:以下、
「や、辞められるって――!」
 アリさんがプロデューサーの前に歩み出た。
「ちょっと待ってください。それはあまりに無責任じゃ――」
「引継書はちゃんと作るから、LIPPSはあんたが引き継いでくれ。新しい事務所でも、どこでもいいから。
 城ヶ崎さんのプロデュースもできるし、Win-Winでしょ」
 オイオイオイ、とヤァさんも穏やかならない表情で彼の肩を掴む。
 チビさんは、私とプロデューサーの顔を交互に見て明らかに困惑していた。
 あの口ぶりから察するに、どうやら前々から辞めたかったようね。
 辞める――あの人が、私達のプロデュースを?
「魅力的な提案だが、それには及ばんよ」
 えっ、とプロデューサーが小さく声を漏らした。
 支社長は机から腰を上げ、ニヤリと下品な笑みを浮かべている。
434:以下、
「一ノ瀬志希、という子がいたね。彼女が今、どこにいるか知っているかね?」
 思わぬ人物の名前が出て、私達の表情が固まる。
 特に、プロデューサーと、おそらく私の顔も、相当に緊張が走った。
「とある出版社の門戸を叩こうとしているようだ。
 城ヶ崎美嘉ではなく、自分が346のプロデューサーと淫らな行為を行ったのだと。
 そう話を作り変え、これによるLIPPS潰し、346潰しが計画されていたのだと、告発しようとしているらしい」
「何ですって――」
 アリさんの顔が青ざめた。
「今回のLIPPS潰しを企てた者達を、自らの芸能生活と引き替えに陥れるつもりなのだろう」
 やれやれ、とでも言いたげに彼は顔をしかめ、B級洋画さながら、大袈裟に両手を挙げて肩をすくめた。
「だが、私とて黙って見過ごすほど間抜けではない。既に手は打ってある。
 彼女の告発をきっかけに、LIPPS及びその関係者は淫行集団として報道される事になるだろう。
 私には何も火の粉はかかってこない。全て、彼女自身が彼女の大好きなLIPPSを陥れる事になるのだ」
435:以下、
「か――彼女の大好きな、って――?」
 息が苦しい。視界が歪む。
 やっとの思いで、私の口から言葉と呼べるものが発せられた。
 この男が何を言っているのか、よく分からない。
 それくらい、この男は酷い。
 でも、それ以上に気になるのは、志希がLIPPSを、大好きと――?
「彼女はね、以前私と、そこの彼に言った事があったんだよ。
 もっと彼女達と一緒にいたい、そのために出来る事があるなら何でもしたい、とね。
 よほど楽しかったのだろう。海の向こうの研究生活より、愛憎渦巻くこの業界と、その中で切磋琢磨する仲間達との日々が」
 芝居がかった動作で、支社長は目頭を押さえた。
「泣かせるねぇ。自分が悪者になり、悪い大人達を道連れにする事で、彼女は大好きなLIPPSを守ろうとしたのだろうに。
 結局は、彼女も子供なのだ。我々の立ち回りを理解しきれぬまま、手の平で踊らされる事しかできんという訳だな。
 だが、良い勉強にはなったろう。まともな心を持てない化け物が、一丁前に“お友達”を望むべきではないとな。ハッハッハッ――!!」
436:以下、
 突然、鈍い音が鳴り、遅れて支社長の体が後方にもんどり打って倒れた。
 外は気が狂ったかのような豪雨で、時折雷も鳴っている。
 その音かと、最初は聞き間違えた。
 けれど、違った。
 稲光のように私達の間をすり抜け、支社長に飛びかかったのは、プロデューサーだ。
437:以下、
 呻き声を上げながら、支社長は顔を右手で押さえ、その場でうずくまっている。
「この野郎――ふざけるな、この野郎、お前」
 うわ言のように、プロデューサーは小さい声で、しかし、随分と荒い息を繰り返している。
「あの子、まだ――まだ18だぞ。お前、そんな子に、お前はっ、そんな覚悟をさせたって事がなぁっ」
 アリさんがプロデューサーの肩を掴み、引き留めようとする。
 しかし、プロデューサーは乱暴にそれを振り払い、うずくまったままの男に歩み寄る。
「恥を知れ。ふざけやがって、俺達のようなっ。俺や、お前のような、腐った大人のせいで!」
 どんどん声が大きくなってくる。
 チビさんが彼の腰の辺りを両腕で抱きかかえ、体づくで引き留めようとするが、止まらない。
「なんて道義の無い――くそぉ、ふざけんな」
 普段の彼からは考えられないほど、その言動は無骨で、一切の飾り気も気遣いも、余裕も無かった。
「ふざけるなよ。俺達が、彼女を追い詰めたんだっ! 分かってんのか!! ふざけんなっ!!
 くそっふざけやがって! ちきしょう、離せ、ちきしょう、ふざけるなぁ!!!」
 ククク――と、うずくまったままの支社長から、小さく笑い声が聞こえた。
438:以下、
「とんだお笑い草だな?」
 ゆっくりと立ち上がり、支社長がプロデューサーに向き直る。
 口が切れているらしく、血が少し出ていた。
「上司を殴って、キミはめでたく会社をクビになる。
 LIPPSも、“暴力プロデューサー”のせいで一躍脚光を浴びる。
 我々はそれを契機にLIPPS潰し、引いては346潰しにかかる事ができる」
 ハッハッハッハッハッ!! ――と、豪快な高笑いが会議室に響き渡る。
「何とも愉快な話だ! 私の望んでいた事がアッサリと訪れた。
 そしてもちろん、キミにとってもな。良かったじゃあないか、めでたく会社を辞められるなぁ!?」
 プロデューサーは、ギリギリと音が聞こえてきそうなくらい、歯を食いしばっている。
 口の端からは涎が出ていた。体裁など、まるで気にも掛けていなかった。
「し、支社長――あなたという人は」
 アリさんが、呆然と立ち尽くす。
 チビさんも、プロデューサーの体を掴んだまま、笑い続ける男を青い顔で見上げていた。
 そんな――こんな事って――。
「持ってろ」
439:以下、
「えっ?」
 ふと、私の手元に眼鏡が――いや、正確に言えばサングラスだ。
 掛けていたそれを、乱暴に私に預けるのは、ヤァさんしかいなかった。
「おい」
 大笑いする支社長の前に歩み出たヤァさんは、彼の頭を上から引っ掴んだ。
「えっ」
 次の瞬間。
 ヤァさんは、自身の頭を大きく後ろに振りかぶり、思いきり支社長の額目がけて叩きつけた。
440:以下、
「グッ、ウアァァ――!!?」
 支社長は額を両手で押さえ、蹈鞴を踏みながら二、三歩後ずさり、堪らずしゃがみ込んだ。
 ヤァさんも、痛そうに頭を押さえている。
 少しして、ヤァさんが立ち直って姿勢を正すと、まだ立ち上がれないでいる彼に向けて言い放つ。
「アンタに暴力働いたこの人をクビにするっつーんならよォ。オレもクビにしてくれや。
 ただよォ、ただでクビになる訳にはいかねェからよォー。暴力しとかねぇとなぁ?」
 笑いながら、ヤァさんは支社長の髪を掴んで無理矢理持ち上げた。
「つーかオレも怪我しちゃったから、オレもアンタに頭突きされたっつーコトでいいんスかね?
 そうなると、アンタもクビか? 怪我させちゃったもんな、オレによォ? どうでもいいけどな」
 言い終わらないうちに、もう一度後ろに振りかぶり、先ほどよりも強く頭突きをお見舞いする。
「アガァッ――!!」
441:以下、
「うぅ、我ながらキクぜぇ」
 今度はヤァさんも蹈鞴を踏んだ。
 まるで農作業の間に休憩でもするかのように、天を仰ぎ、額を片手で押さえている。
 支社長は、ヒィヒィと痛みとも恐怖ともつかないような声を発しながら、小猿のように身を縮こませた。
「痛ぇか? 彼女達はもっと痛いぜ?」
 ヤァさんが、再度歩み寄る。
「や、止めろ――」
 誰も、止める人がいない。
 恐怖からなのか、呆然としているのか――それとも私達が、それを心の奥底で是としているのか。
 なぜ、この人はこんなにも慣れているの? 単純に、怖い。
 チラッと後ろから見えた彼の顔は、どちらによるそれかは分からないけれど、血まみれだった。
 意気揚々と、まるでパンチングゲームに興じるかのように、ヤァさんは先ほどと同様に支社長の髪を引っ張り上げた。
「い、痛いっ! 止めてくれぇ!」
「おう、立て。次は頭蓋骨行くぞコラ」
442:以下、
「ごめん、ヤァさん。ストップ」
 いつの間にか、プロデューサーは私達の後ろに回っていた。
 振り返ると、どうやら普段通りに落ち着いた様子のプロデューサーと、もう一人――。
「随分と、物騒なミーティングですね? 奥多摩支社長」
 この女性、何度か見たことがある。
 夏頃に新しく来たという、アイドル事業部の統括常務だ。
「み、美城常務――!」
 ボーッと常務を見つめるヤァさんの隙を突いてその手をふりほどき、支社長は常務に走り寄った。
「そ、そうなんです助けてください! あの男がいきなり私に乱暴を働いた次第でして!」
「私が物騒と言っているのは、奥多摩支社長」
 血まみれの顔で、必死に助けを求めようと頭を下げる彼を、常務は上から冷徹に見下ろしている。
「ここでの話の内容。そして、ここで行われていた会合のことです」
443:以下、
 えっ――と支社長の口から蚊のように小さい声が漏れ出る。
「私の留守中を狙って熱心に外部の人間を招き、この会議室で良からぬ相談事を行っていたようだな?」
 そして、常務の口調からは、年上の部下に対する丁寧さが消えた。
「そ、それは、誤解です! ヤツらが私に脅迫まがいの事をして、この事務所を潰そうと――!」
 そう支社長が反論したのを最後まで聞かないまま、常務は黙って手近にあった机に手を掛けた。
 おもむろに机の裏側に手を伸ばし、戻した彼女の手には何かが握られている。
 ゆっくりとそれを開くと、手の中から出てきたのは、小さな機械だった。
「ま――まさか」
 支社長の顔が見る見るうちに青ざめる。
「情報は何よりも重要なものだ。取り分け、信用を売り物とする我々の業界ではな」
 鼻を鳴らし、腰に手を当てて常務は淡々と話を続ける。
「私の部屋と同じ階で繰り広げられる不穏な動きを、私が悟らないとでも思ったか。
 もっとも、事務所の外で密会が行われようと、草の者がとうに知らせていただろう」
444:以下、
「草の者、って」
 小さく突っ込んだのはチビさんだ。私も、どこの時代劇だと突っ込みたくもなる。
 だが、常務は真顔だった。意外と、この業界では普通――なのかしら。
「わ、私は――」
 消え入りそうな声で支社長が何かを取り繕うとした時、常務の携帯が鳴った。
 スッと取り出して一瞥すると、彼女は支社長を見て、次に私達の顔を見た。
「一ノ瀬志希について、その者から今し方連絡があった。
 ここからそう遠くない公園で、見つかったそうだ」
「志希が――!」
 私の胸が、カァッと熱くなる。
 どうやら、彼女が事に及ぶ前に保護することができたらしい。良かった。本当に――!
「さて」
 一息ついて、常務は次に、ヤァさんと、プロデューサーの顔を交互に見た。
「君達は、見たところかすり傷とは言えない怪我をしているようだが、何があった?」
445:以下、
 ヤァさんは、額から流れた血で顔中が真っ赤だ。
 一方で、プロデューサーは――よく見ると、右手の甲が血で滲んでいた。
「あぁ、これッスか?」
 ヒヒッ、と笑いながらヤァさんは手で血を拭う。
「支社長サンと俺らでプロレスごっこしてたら、ちょっと盛り上がっちゃったんス。ねっ?」
 そう言って、ヤァさんがプロデューサーにウインクをしてみせると、彼も頷いた。
「名前は思い出せませんが、ウォーズマンの、ぐるぐる回る必殺技の真似をして」
「ぶははっ!」
 真顔でプロデューサーがくだらないウソを語ったのを見て、チビさんが堪らず笑い、慌てて口をつぐんだ。
「ば、馬鹿な事を言うな!
 常務、この期に及んで反省の色を見せず、こんなふざけた態度を取るヤツらなど即刻――!」
 フッ――と、常務の口角が僅かに上がった、ように見えた。
「じょ、常務――?」
446:以下、
「次からは気をつけるように」
 呆れたように言い捨てた常務に、ヤァさんは「ウッス」と雑に会釈した。
「じょ、常務!? 馬鹿な――!!」
「あなたを解雇します。支社長。
 堂々と背信行為を行う者の面倒を見れるほど、346プロは寛大ではない」
「ひ、そ、そんな! 後生です、どうか、どうか今一度お考えを!!」
 慌てて膝を折り、両手を床に付ける男を一瞥すらせず、常務は指をパチンと鳴らした。
 すると――。
 ドアがガチャリと開き、入ってきたのは数人の黒服の男達。
 ――どう見てもカタギとは思えない、屈強で強面の人ばかり。
 え、ひょっとしてヤクザかしら――?
「な、何だこの男達は!? 離せ、離せっ――えっ」
「お静かに願います」
 最初こそ必死に抵抗していたが、黒服の襟に付いていた金縁のバッジを見て、支社長の顔が引きつった。
447:以下、
「む、村上――う、うわぁ!?」
 そのままズルズルと支社長を引きずり、男達は部屋の外に退場していく。
 最後の男が律儀に深々と頭を下げ、丁寧にドアを閉めて去って行った。
 ――突然の出来事に、私達の誰もが、そのドアに視線を固定し、呆然と立ち尽くしている。
 ヤァさんだけ、ゲラゲラと腹を抱えているけれど。
「じょ、常務――今の人達は、一体何なのでしょうか」
 アリさんが、おそるおそる尋ねた。
「知りたいか?」
「い、いえ――」
 私も、今のは知ってはいけないような気がするわ。
「君達二名も、お咎め無しとはいかない」
 ヤァさんの笑いがピタッと止まった。
「一週間、謹慎処分とする。良いな?」
448:以下、
「え、そんだけ? やった、ざっス」
 ヤァさんに倣うように、プロデューサーも黙ってお辞儀をしてみせる。
「わ、私も、処分していただけませんか?」
 震えながら、それでも勇気を出して切り出したのは、アリさんだった。
「私も、支社長と一緒に、計画に参加していました。
 彼らは、そのために今回その身を削ってくれたのです。
 私だけが、何も痛みを負わない訳にはいきません。どうか、お願いします」
「チーフ」
 深々と頭を下げるアリさんに、声を掛けたのは常務ではなく、プロデューサーだった。
 あえてチーフと呼んだのは、常務の手前だからかしら?
「チーフには、LIPPSの面倒を見てもらいたいんです。
 負い目を感じているというのなら、プロデュースという形で彼女達に返してやってほしい。
 でなければ、彼女達の世話をする大人がいなくなる」
 そう言って、プロデューサーは常務に向き直った。
「常務、お願いします。そういう訳で、チーフは見逃していただけないでしょうか?」
449:以下、
 常務は大きくため息を吐き、プロデューサーを睨み付ける。
「私には、君が体よく厄介事を回避したがっているようにしか見えないがな」
「ハハハ」
 プロデューサーは何も答えず、バツが悪そうに頭を掻いた。
 どうやら、常務とプロデューサーはいつの間にか、そこそこに気心が知れている仲のようだ。
 常務はそのまま、踵を返して出口の方へと向かった。
 しかし、ドアを開けようと伸ばした手をふと止め、思い出したように私達の方へ振り返る。
「――新事務所立ち上げの話が事実上ご破算となれば、今後はおそらく187プロが何かしら妨害工作をしてくるだろう。
 あらゆる点で気を配っておきなさい。『アイドル・アメイジング』本番まで」
 そう言い残し、常務は部屋を出ていった。
450:以下、
「妨害工作、ねぇ?」
 ヤァさんが首に手を当て、ゴキゴキと乱暴に関節を鳴らす。
「めんどっちぃよなぁ。ホント、ダセェ事しかしねェ、あの事務所」
 未だに顔が血まみれなのを見るに見かねて、私はポケットからハンカチを取り出し、彼に差し出した。
「ん、おっ? 悪ぃな、っておいこんなキレーなもん使えねェよ。ティッシュある?」
 ヤァさんは、私のハンカチを笑いながら断った。
「ヤァさん、ティッシュならどうぞ」
「おぉ、チビ太気が利くじゃねぇか、お前俺のカノジョか?」
「ち、違いますよ!」
「マジになってんじゃねーよひっぱたくぞ」
「さっきのアレを見たら笑えないっすよ」
 ゲラゲラと笑いながらティッシュで顔を拭くヤァさんに、チビさんはいくらか距離を置いている。
「さて――――なんか、疲れましたね」
 アリさんが、両手を腰に当て、大きくため息を吐きながら項垂れた。
「すみませんでした――本当に」
451:以下、
「いや、うん――しかし、本当に疲れたな」
 プロデューサーは、いつの間にか携帯を弄っている。
「水さん。何か着信残ってる?」
「えっ」
 慌てて私も携帯を取り出した。そう言えば、皆はどうしているだろう――。
 ――――。
「――何も、無いわね」
「そうか」
 携帯をしまい、プロデューサーは窓の外を見やった。
 相変わらず、外は大嵐だ。
 先ほどの騒ぎで気づかなかったけれど、大粒の雨が絶えず窓ガラスを割らんとばかりに叩きつけられ、時折雷の轟音が遠くに聞こえてくる。
「どうすっかな」
 考える素振りをしながら、プロデューサーはいそいそと財布を取り出し、中からお札を一枚引き抜いた。
452:以下、
「付き合わせてすまなかった。今日はもう遅いし、外もこんなだから、タクシー呼ぶよ」
 そう言って、プロデューサーは一万円札を私に差し出した。
「あの、タクシーなら事務所と契約してる会社をそこから呼べますけど」
 チビさんがこそっと横からプロデューサーに進言すると、「あそっか」と彼は頭を掻いた。
「あなた――この期に及んで、またそうやって――!」
 あくまでも、私に対する接し方を変えようとしない彼に、また怒りがこみ上げてくる。
「あぁ――自分の事を仲間外れにするなとか、そういう話?
 そうは言っても、本当に遅くなっちゃったし、帰らせないと君の親御さんが」
「そういうのもあるけれど、そうじゃなくて!」
「あなた――私達のプロデューサーを、辞めるつもりなの?」
 アリさんも、黙ってプロデューサーの次の言葉を待っている。
 当人は、鼻でため息をつき、視線をもう一度外に逸らした。
 大方、私を言いくるめるための言葉を選んでいるのだろう。
「そんなに私達が、鬱陶しい?」
453:以下、
「片や大事な仕事はすっぽかす」
 外を見やったまま、プロデューサーは思い出したようにポツリと呟いた。
「片やメンバーの頬をひっぱたき、片や遅刻の常習犯。何かにつけて噛み付いてくる、君のような子もいる。
 実害の少なさから、強いてまだマシと言えるのは塩見さんくらい。極めつけは今回のこの騒ぎだ」
 私に向き直り、プロデューサーは肩をすくめた。
「これ以上振り回されるのは、正直ウンザリでな。
 その手綱を上手く操るのがプロデューサーの本分だろうが、俺には君達は荷が重すぎる」
「無責任な事、言わないでよ」
 気づくと、私はプロデューサーの腕を両手で掴んでいた。
「私には、私達には――!」
 ――過去の事を思い出し、思わずキュッと口をつぐんでしまう。
 そんな私の様子を見て、プロデューサーも、どこか悲しげに首を傾げた。
「あなたが必要なのよ――あの時の事、謝るわ。
 だから、こんな中途半端な所で、私達を置き去りにしないで」
 謝るから、などと――よくもそんな勝手な事が言えたものだと、自分が恥ずかしくなり、俯いてしまう。
454:以下、
「いや、いいんだ。水さん」
 プロデューサーが少し屈んで、私の両肩に手を乗せた。
 顔を上げると、今まで接してきた中で、一番優しい彼の姿がそこにあった。
「君には謝る必要が無いどころか、俺の方こそ君を苦しめた。今まで、すまなかったな」
「そんな事――」
「いいんだ。水さんとの話がきっかけだった訳じゃない」
 肩から手を離し、屈んだ姿勢を起こすと、プロデューサーは室内に置いてある電話台へ向かい歩き出した。
 会議室内には、ゲストを早急に案内するため、契約しているタクシー会社の番号を記した電話帳が掛かっている。
「元々、自分からやりたいと思って飛び込んだ業界でもないしな。良い機会だよ」
 受話器を取り、淡々とボタンを押していく。
 やがてそこに掛かったらしい電話に向かい、事務的な依頼と応対を終えると、十数秒ほどで彼は受話器を置いた。
「あと5分くらいしたらエントランスに来るから」
「お願い、これだけ教えてもらえる?」
 私は、これ以上この人の事を理解できていないままでいるのが、我慢ならなかった。
455:以下、
「あなたは、どうしてプロデューサーになったの?」
「――後はアリさん、LIPPSをよろしく頼む」
 彼は私の質問には答えず、それだけ言い捨てると、逃げるように出口の方へ向かう。
「待ってよ!」
 そのままプロデューサーは、ドアの向こうに消えて行った。
 なぜ、あの人は私達と向き合おうとしないのだろう。
 思えば今日、駅でアリさんを捕まえる直前、あの人が言った言葉――。
 確か、本当は私達のステージを台無しにしようとした、と。
 それがもし本当なら――あなたは、本当に私達の事が、嫌いなの?
「あの人――どんな過去があったんですか?」
 部屋にいる人達に、聞いてみた。
 だけど――答えてくれる大人は、誰もいなかった。
 外の豪雨は、未だ収まる気配を見せない。
 まるで私を脅すように、稲光が絶えず瞬いては、世界が割れるほどの轟音が空っぽの胸の中で暴れ回る。
456:以下、
【9】
 (♪)
 シキちゃーん! シキちゃーん!
457:以下、
 (?)
「――フレちゃん」
 振り返ると、案の定いつもと変わらない満面の笑みの彼女がそこにいた。
 携帯を握りしめていない方の手を思い切り挙げて、人目も気にせず大きく振りながら近づいてくる。
「ひさしぶりー元気してた? 一日ぶり? ん、何持ってんのソレ?」
 フレちゃんは、アタシの手の中にあったミカンを興味津々そうに上から、横から、下からも見つめる。
 この子はいつもそうだ。どんなにくだらない事でも大事件にしなければ気が済まない。
「んー、これー? にゃはは、何のヘンテツも無いオーゥレンジだよー♪」
「ワァオ♪ チョー奇遇じゃないシキちゃん?
 アタシもほら、この通りでっかいミーカンをボンボヤーだよー!」
 そう言うと、フレちゃんは手提げのバッグからサッと、タネも仕掛けも無いと嘯く手品のように得意げに取り出してみせた。
「どうしたのそれ? 買ったの?」
「それよりシキちゃん、外すんごい雨だよ? 何て言うんだっけこういうの、ゴリラ雷雨?」
458:以下、
 アタシの問いなど歯牙にもかけず、フレちゃんは外をチラッと見たので、アタシも一応それに倣う。
 途端、ピカッと空が光り、それを照らしたでっかい白熱電球がそのまま落っこちてきたような凄まじい轟音が鳴り響いた。
「うひゃあっ、ホントに雷鳴っちゃった! おヘソ隠しておヘソ!
 あ、でもだいじょーぶ♪ なぜならフレちゃん服着てるから。しかもヘソ出しじゃないんだなーコレが☆
 シキちゃんはどう? ゴリラにおヘソ取られてない?」
 今日もフレちゃん、飛ばしてるなー。
 元々彼女は、アタシが言うのもなんだけど、頭のネジがどこか飛んでいて、予想もしない角度から話題を提供してくれる。
 それが彼女の魅力であり、退屈を忌避してきたアタシにとって快い時間を絶えず提供してくれる人。
 でも――。
 今のアタシには、フレちゃんの存在は鬱陶しい事この上ない。
 なぜなら、アタシにはやるべき事があるからだ。
 そして、フレちゃんにはそれを知って欲しくないし、決して知られてはならない。
459:以下、
 フレちゃんのくだらなくて楽しいフリには答えず、アタシは踵を返して駅の改札に向かおうとする。
「お待ちください、一ノ瀬さん」
 振り返ると、フレちゃんはおかしいくらい真顔になって、慎ましくその場に立っている。
「一ノ瀬さん、貴女は――とても、大いなる事を、されようとしているのではありませんか?」
 おフザケなのに、言い得て妙な台詞だ。Hmmm……乗っかってあげよう。
「はい、そうなのです――私の大事な人を守るため、この一ノ瀬、巨悪を討って参ります」
「やはり、そうなのですね――それでは、これをお持ちください」
 そう言って、フレちゃんは手に持っていたビニール傘を厳かに差し出した。
「宮本さん。これは――?」
「これは、ビ・ニールの傘。
 予言者フジ・リーナの神託に従い、この宮本が、先ほどコンビニで、500円で買ったものです」
460:以下、
「まぁ――そのような、貴重な傘を、この私に?」
「はい。ですが――この傘を扱うには、ある条件が必要となります」
「それは、一体何でしょう?」
「私を、貴女の旅に、一緒にお供させてほしいのです」
「――ありがたいお申し出ですが、危険な旅になります。お連れすることはできませんわ」
「そうなると、私は、自分の傘が無くなってしまうのです」
「まぁ、それは難儀なこと。ですが、コンビニで買えばよろしいのでは?」
「この宮本、今月がそこそこにピンチなのです」
「私が、買って差し上げますわ。そこのコンビニまで、一緒に参りましょう」
「ホント!? やったー!」
「おーい、フレちゃん素になってるー♪」
 やはり、いつものフレちゃんだ。彼女のペースで振り回されるのは心地が良い。
 ただ――何故だろう。普段通りのはずなのに、今日のフレちゃんには、どこか違和感が拭えない。
 今のアタシが、正気ではないから?
 それとも、昨日の今日で、フレちゃんもアタシに気を遣っているからだろうか。
 ――――。
461:以下、
「シキちゃん千円ありがとー! んじゃ、ちょっと待っててね☆」
 二人で傘を差し、駅前から見えたコンビニにたどり着くと、フレちゃんは楽しげにそこへ吸い込まれていく。
 アタシは特に用も無いので、お店の前で傘を差してボーッと待つことにした。
 電車はちゃんと動いているだろうか。多少ダイヤに遅れはあるかも知れない。
 だが、高架に雷が落ちるでも無い限り、目的地までの経路に大きな支障は生じ得ないはずだ。
「シキちゃーん!」
 ――?
「シキちゃんヘンタイ! あっウソ、タイヘン! 傘無かった!」
「えっ?」
「売り切れちゃってたの! 次のコンビニまでトゥギャザーレッツゴー♪」
「あ、ちょ、ちょっと」
 傘の中にスイッと入り、携帯を持っていない方の手で傘の柄をアタシの手の上から掴み、フレちゃんはニコッと笑った。
 おかしいな。さっきチラッと見た時には、出入口の辺りにそこそこ陳列されていたように見えたけど。
462:以下、
 その次も、その次のコンビニでも――。
「シキちゃーん! 次行こ、次っ!」
「シキちゃーん、三度目! 三度目の正直! おフランスの顔も三度まで!」
「んー、残念っ! いやー残念デリカだよー☆」
 明らかにおかしい。
 敢えて指摘をしていないが、確かにコンビニに傘は置いてあるのだ。
 それを、悉く売り切れだの予約完売だの、テキトーな理由を付けてフレちゃんはそれをはぐらかす。
 ただ一つ分かることは、明確な意志で以てフレちゃんは、こんなふざけた振る舞いをしているということ。
 駅からも、どんどん遠ざかっていく。
「フレちゃん」
463:以下、
「ン?」
 このまま騙されたフリをして付き合ってみるのも、悪くはない。
 でも、生憎今のアタシには余裕が無いのだ。
 要点を、結論をさっさと教えてほしかった。
「ひょっとして、どこか行きたい所、あるの?」
「うん」
 フレちゃんは、静かに、優しく笑って、一緒の傘を持った。
464:以下、
 土砂降りの雨の中、連れられた場所――。
「ここは――」
 公園だった。それも、サマーフェスを行った所。
 何も言わず、ステージが設営されていた場所まで、アタシはフレちゃんの歩みに従った。
 フレちゃんも、何も言わなかった。ただ、その表情はとても柔らかかった。
 やがて、一応の目的地らしい東屋にようやくたどり着き、フレちゃんは傘を閉じた。
「いやーすごいねこりゃ。あの日も雨だったけど、今日はトビキリだね。
 まー何も無いけどゆっくりしてってよ☆」
「あれ、ここフレちゃんち? にゃはは」
 フレちゃんに倣い、中央のベンチに腰を下ろした。
 長い間歩かされて、靴だけでなくスカートも袖もビショビショ。髪はシナシナだ。
 それはフレちゃんも同じなんだけど、彼女を見るとどうやらそれを鬱陶しく思っている節は無さそう。
465:以下、
「アタシね? あのフェスが終わった後、結構ココに来てるんだ♪」
 東屋の手すりを掴み、広場の方を見やりながら、フレちゃんが語り出した。
 アタシは、ふっと顔を上げ、黙ってそれに耳を傾ける。
「天気の良い日は、ココじゃなくて、ほら、あそこにベンチあるでしょ?
 あそこに座ってボーッとしてたり、緑道をフラフラ歩いてみたり」
「散歩してるワンちゃんにコンニチハしたり、池にプカプカ浮かんでるカモ先生を、女の子と一緒にボーッと眺めたりするの」
「たまに男の子達から、キャッチボールとか、フリスビーに誘われることもあってね?」
「でもフレちゃん、ノーコンだからあっちこっちに投げちゃって、その子達から怒られてもータイヘンでさー☆」
 ケラケラと笑い声が聞こえる。
 ただ、フレちゃんは広場の方をずっと向いているから、どんな表情なのかは分からない。
「ここで出会う、全てのことが楽しくて、大好きで、愛おしいんだー。
 アタシにとって、きっと人生で一番ステキな瞬間を手に入れた場所だから」
466:以下、
「――フェス、楽しかったね」
 一応、同調してみせた。
 いや――一応ではない。疑いなく、それはアタシの本心だった。
 彼のナンセンスな提案を反故にして自前の計画を決行し、見事結果に結びつけた事が痛快だったのもある。
 しかし、それ以上に、こんな賑やかで愉快な仲間達と一緒に切磋琢磨して、その喜びを共有できた事が、アタシにとって何より得難いものだった。
 ここは確かに、アタシにとっても、特別な場所だったのだ。
 フレちゃんは、思い出したように鞄を漁り、先ほどのミカンを取り出した。
「――さっき、このミカンどうしたのって、シキちゃん聞いたじゃない?」
 クルッと振り返ると――あぁ、良かった。
 フレちゃん、やっぱりいつもの笑顔だ。
 いつもの――?
467:以下、
「このミカンね? ――通りすがりのおばーちゃんから、もらったの」
 その一言に、アタシはハッとした。全てを合点した。
「たぶん、シキちゃんも、おんなじ人からもらったんじゃないかなって。
 ヘンな喋り方した、おばーちゃん」
「――フレちゃん」
 やはり、そうだったのか。
 あのおばあちゃんに、アタシが美嘉ちゃんはじめ、皆に申し訳ないなんて吐露していた事も、フレちゃんは知ってしまっている。
 詳細な事実は知る由も無いはずだけど、彼女はアタシの事を心配して、引き留めたかったのだ。
 ダメなんだよ。それは。それ以上、知ってはならない。
468:以下、
 どんなに得体の知れないものでも解明できるという、根拠の無い驕りがあったのだと思う。
 だがそれは、アタシの想定以上に取り留めが無く、それでいて大きい、怖いものだった。
 アタシの愚かしいことには、それに気づくのが遅すぎたのだ。
 どうにかならないのかと、アタシは彼にすがった。
 ケミストの端くれでありながら一切の提案も打ち出せず、こんな漠然とした情けないお願いを人にするのは初めてだった。
 彼は、苦しそうに首を振るしかなかった――そうであろう事は、知っていたはずなのに。
 島村卯月ちゃんが、アタシに話したい事があると言って、コンタクトを取ってきたのは一月ほど前。
 にゃるほど、誰がどうやって音声プラグを引っこ抜くのかは知らなかったけど、そういう事だったのねー。
 泣きながら胸の内を吐露して謝る卯月ちゃんに、努めてアタシは冷静に、穏やかに声を掛ける。
 彼女も、大人の都合に振り回され、苦しい役どころを強いられた犠牲者なのだ。
 さらには、仲間達に――未央ちゃんや凛ちゃん達にも打ち明けられず、一人で抱え込んできた苦しみは、如何ばかりか。
 そして――。
 こんなに理不尽な事があって良いのか――!
469:以下、
 アイドルとは、まさしく虚像だ。
 彼女達は、夢を見て、夢を生き、夢を信じている。
 それが活力となり、輝きになる。理屈も捉え所も無いものが彼女達の糧であり、生きる道理なのだ。
 それを手の平の上で転がす輩がいると知った時、彼女達はどうなる――?
 現実を見せる訳にはいかないんだ。
 それを覆い隠すための虚像がアタシ。
 皆には、どーしようもない女が好き放題やって騒がしてくれたもんだと、そう思ってもらいたかった。
 あんな始末に負えないコがいなくなって清々した、と。
 だから――。
「柑橘系のあの爽やか?な香りの正体、フレちゃん知ってる?」
 誘い笑いをしながら、アタシは全然関係の無い話を始める。まずは話題を逸らすべきだと判断した。
470:以下、
「シトラスの香り、なんてよくシャンプーのCMとかで使われるよね。
 まさにシトラスってのが柑橘類を指す言葉なんだけど、それらの皮に含まれる代表成分がリモネンって言ってね?
 これを嗅ぐことでリラックスできたり、ドパミンとかの神経伝達物質をドバドバ出してくれたりするんだよねー♪」
 ズラズラとくだらない事を並べ立てながら、アタシは手元のミカンの皮に指をかける。
 若いとはおばあちゃんも言っていたが、思いのほか固い上に、手が悴んで上手く剥けない。
 フレちゃんの方へ視線を向ける事ができなかったから、首を傾げながらミカンに集中するフリをした。
「ただ、香りの元となる成分は? って話だと実はリモネンじゃなくって、オクタナールっていう脂肪族アルデヒド――」
 その時。
 ビカァッ!!
 と先ほどまで文字通り鳴りを潜めていた雷が、真っ暗な空間をアタシ達ごと追い出すかのように照らし尽くした。
「キャ――!」
 堪らず小さく悲鳴をあげてしまう。遅れて聞こえる轟音。
「シキちゃんはさ」
 一方でフレちゃんは、どこか淡々としている。
471:以下、
「雷は、好き?」
472:以下、
「えっ?」
 思わず顔を見上げる。
 相変わらずフレちゃんの表情は、とても穏やかで、優しい笑顔だった。
「す――」
 好きとか嫌いとか、そういう次元で雷を考えたことなんて無かった。
 自然現象だから、当然にアタシ個人の好みでどうこう出来るものでもない。
 空と地上の電位差による放電現象を、いつかは正確に予知し、あるいは意のままに操る事も出来るだろうか。
 そうなれば、それは恐怖の対象でなくなる。だけど――。
 テキトーそうに問うたフレちゃんの、そのテンションに合わせた回答をするなら、
「嫌い、かなぁ? だって当たったら死んじゃうでしょ?」
「アハハ、だよねー☆」
 フレちゃんはニッコリと満足げに笑った。彼女がアタシに何を期待したのか、分からない。
473:以下、
「でもね?」
 フレちゃんは、広場の方へ向き直った。
「アタシは、好きになりたいなって、思うんだ」
「好きになりたい?」
 どういう事だろう。
 好き嫌いは感覚であり、そうでありたいと努めようとして自身の感情をねじ曲げるのはおかしい。
「アタシもね。怖いよ、雷。
 あんなにビカビカーッ! って光って、ドドーッ!! ってもの凄い音が鳴ってさ。
 この世の終わりかってくらい、ホントにおヘソ取られちゃうんじゃないかって」
「フレちゃん――?」
「雷は、どう考えているのかな?」
「は?」
474:以下、
「たとえばさ――実は、雷も、友達が欲しいんじゃないかな、って、思うときがあるの」
 真っ白い世界が瞬間的に訪れ、先ほどよりも激しい轟音が、東屋を切り裂いていく。
「ホントは、ゴリラみたいにイカツい顔をした神様かも知れない。
 触れた人をみんな傷つけてしまうから、余計に怖がられちゃってるのかも知れない」
 フレちゃんは、東屋の外に向けて右手をサァッと挙げ、それを握ったり閉じたりしてみせた。
「でもさ――ホントは、握手をしたいだけなんだとしたら?」
「握手?」
「不器用だけど、友達がほしくて、お空の上から地上に向けて、一生懸命手を伸ばしているんだとしたら――」
 手すりを掴んでいる方の手をギュッと握りしめる。
「そうやって、勇気を出して伸ばしてくれた手を、たとえ怖くても、アタシは拒みたくはないの」
「自分が雷に当たって死んじゃうとしても?」
475:以下、
「その子の気持ちには、応えてあげられるからね。
 なーんて、フレちゃんカッコつけすぎ? アハハ!」
「フレちゃん」
 言わんとしていることが、分からない。
 一つ言える事は、フレちゃんは未だにアタシに好意を持ってくれている。
 アタシを引き留めようとしてくれている。
 それがありがたくて、それ故に苦痛で仕方が無い。
「アタシ、もう行くね? 傘ありがとう、フレちゃん」
 元々びしょ濡れだし、その辺でタクシーでも捕まえよう。風体を気にしてる場合じゃない。
 さようならだ。フレちゃんにも、ちゃんとアタシの事を嫌いになってほしかった。
「怖がらないで、いいんだよ」
「――――えっ」
 フレちゃんは、いつの間にかこっちを向いていた。やはり、笑っていた。
476:以下、
「シキちゃんがどんな風に思っていたとしても、アタシは手を伸ばし続けるよー☆ びよーん♪」
「フレちゃん――違うんだよ。もういいんだよ」
 言うな。言っちゃダメだ。
「アタシはもうアイドルなんてどうでもいいの。ダルいし窮屈だし、メンドくさくて」
 嫌だ――。
「皆の事だってウンザリ。なんで思うようにしてくれないの? どうしてアタシに協調を強いるの?
 ユニットだからっていう短絡的な理由でアタシを束縛したいなら、もうアタシの取るべき行動は一つしか無いじゃん」
 もっと一緒に――。
「フレちゃんだって、こんな雨の中連れ回して、何を言うかと思えば――ホント呆れちゃうよ。
 友達なら何でも許されると思った? お願いだから放っといて。
 おバカな美嘉ちゃんにもよろしく言っといてよ、アタシ失踪するから」
 でも――。
「だから――だからっ!」
 もう一緒に、いられないから――。
「もう、やめてよ――アタシの事なんか、好きになろうとしないで――!」
 これ以上は、辛いだけだから――。
477:以下、
「シキちゃん、アタシね?」
 フレちゃんの声が聞こえる。顔を上げることができない。
「LIPPSって、すごいユニットだって思うの。
 だってシキちゃんだけじゃなくって、カナデちゃんもシューコちゃんもミカちゃんもいるんだよ?
 すんごく楽しいし、皆がいてくれるからアタシもやりたい事だけをやれて、良いカンジのバランスで成り立ってるLIPPSが大好き、でっ、さ」
 ゴトッ――!
 と、音が聞こえたので、フレちゃんの足元を見ると、携帯が落ちていた。
 疑いなく、それはフレちゃんのものだった。えっ――?
 フレちゃんの携帯――今まで、どこにあったの? 鞄から落ちたとは思えない。
「LIPPS、大好きなの、アタシ――だから、手を、伸ばし、たいのっ」
 声が絶え絶えになりつつあるのを不思議に思い、顔を上げる。
 フレちゃんは――。
 ――こんな、フレちゃんの顔を見るのは初めてだ。
 こんな、一生懸命な笑顔を見るのは。そして――。
478:以下、
 違和感の正体を探るため、自分の携帯を取り出した。
 案の定、皆からの着信がすごい事になっている。その内容は――。
 ――そうか。
 フレちゃんが、皆と一生懸命、連絡を取り合ってくれていたんだ。
 携帯にずぼらなフレちゃんが、皆とのつながりを確かめるように。その手が離れてしまわないように。
 おかしいと思うはずだ。
 今日出会ってから、フレちゃんはずっと携帯を握りしめていた。
 それが無くても皆と一緒にいられるという安心感から、普段の彼女は携帯に頓着を示さない。
 しかし今、彼女はその携帯で、LIPPSがバラバラにならないよう尽力してくれていた。
 皆とのつながりが途絶えてしまう事への不安を、彼女は懸命に押し殺すように、ずっと握りしめていたのだ。
「楽しいから――好き、だから」
 フレちゃんは、ぱっと東屋を飛び出した。
479:以下、
「ふ、フレちゃ――!」
 ザァザァ降りの雨に打たれ、天を見上げる。まるで雷を待っているかのようだった。
 やがて、それがしばらく経っても来ないのを認めると、彼女はアタシに顔を向けた。
「好き、ってだけじゃ――ダメなのかなぁ――!」
 顔をクシャクシャにして、それでもフレちゃんは笑った。
 泣いているのかどうかは、彼女の顔が雨に濡れているから分からない。
 アタシはフレちゃんのもとに飛び出した。
 今にも溢れ出てしまいそうなそれを、遠目に悟られたくなかったから。
480:以下、
「フレちゃん――」
「うわぁ――何してんのシキちゃん、風邪引いちゃうよ?」
「――それ、フレちゃんが言う? にゃはははー♪」
 笑いながら、フレちゃんはその場で踊りだした。
 あのフェスで披露した、アカペラアレンジバージョン――の、フレちゃんアレンジだ。
 鼻歌に促され、アタシも負けじとステップを踏んでみせる。
 抑えきれない感情を誤魔化そうと、幾分ムキになってしまうおかげで、存分に泥は跳ね、スカートはベトベトだ。
 すごいすごいと、フレちゃんが嬉しそうに手拍子をしてくれるから、すっかりその気になって、気づくと二人とも泥だらけだった。
 お互いに指を差し合い、ケラケラと笑う。
 先ほどまで渦巻いていた負の感情が、すごくちっぽけに思えた。
 同時に、大音量の雨音の合間から、パトカーのサイレンの音が遠くで微かに聞こえる。
 どこかで事故でも起こったのだろうか?
「志希ちゃんっ!!」
 ふと、アタシを呼ぶ声がした。
 フレちゃんが嬉しそうに手を振るので、振り返ってみると――。
481:以下、
 まさか――。
「志希ちゃん――志希ちゃぁん――!!」
 なぜ持っていたのか、ヘルメットをその場に投げ置き、美嘉ちゃんがアタシ達の元へ駆け寄ってくる。
 遠目からでも、この子の感情は本当に分かりやすい。どこまでも、呆れるほどに真っ直ぐだ。
「志希ちゃん、全部――全部聞いたっ!! 周子ちゃんから! プロデューサーや奏ちゃんからも、全部――!!」
「――そっか」
 アタシの計画は、全部――知られちゃったかぁ。
 年貢の納め時、っていうヤツかにゃ?
「そっかじゃないよ!! 何で、なんでアタシ達に、しら、せ、えっ――ぐ――!!」
 雨の中でもそれと分かるほどに大粒の涙を流しながら、美嘉ちゃんはアタシに抱きついた。
「ごめん、志希ちゃん。ほんとに、アタシ――ほんとに、ひどかったよね――!」
482:以下、
「苦しい、苦しいよ美嘉ちゃん。にゃははー」
 アタシの胸の中でわんわんと泣く美嘉ちゃんに、かける言葉が見つからない。
 困ったなぁ。割とホントに、苦しいんだけどなぁ。
 胸の奥が、苦しくて――。
「あはは、は、は――」
 強く抱きしめられると、こんなに温かいものなんだって、知らなかったから。
 行き場を失った感情が、溢れ出てしまうのを、もうアタシは堪える事ができない。
「ひ、いっ――う、うぅ、わああぁぁ――!」
 まだアタシは、皆と一緒にいて良いのかな――。
 脅し立てるように打ち付けていた大雨が、万雷の拍手に変わっていく。
 ようやく出会えた友達に、稲光が喜びを告げ、フレちゃんは笑った。
483:以下、
今回はここまで。
次回は12/20、夜の7時?12時頃を目標に更新したいと思います。
488:以下、
【10】
 (・)
「外ヤベーッスねー、雨」
「今日は会社に泊まりますかね」
「京王線は動いてるんじゃなかったでしたっけ? 確か、家は笹塚でしたよね?」
「まぁまぁアリさん、ヤボな事言いなさんなや。今日は皆でパーッと酒盛りしようぜ」
「や、ヤァさんあれだけ出血しといて、お酒なんて飲んだら」
「心配すんな、チビ太よ。酒はひゃくやくのチョーだろうが」
「それで、どうするんですか? 奏ちゃんもあれだけ言ってたでしょう」
「下まで送りに行った時、彼女、ずーっとプリプリ怒ってましたよ?」
「プリプリ屁こいてた?」
「いや、屁はこかないでしょ」
「ギャハハハ!」
「不必要な事を言いたくない、という気持ちも分かります。僕も敢えて言う必要は無いと思いますし。
 ただ、彼女達に不信感を与えるような態度をいたずらに取る必要も無いと思うんです」
「まぁ、そうですよね、うん」
490:以下、
「まーあれッスよ、あの子達に言いたくないんなら、オレ達が聞きまスよ」
「ヤァさんは酒の肴にしたいだけでしょ?」
「よく分かったな、寝る前の恋バナみたいでおもしれーじゃん」
「人の話を面白いって」
「まーまーアリさん! オレらにまず話してみればさ、ほら、この人も何つーか心のハードルが下がってあの子達に言いやすくなるかも知んねーじゃないッスか」
「――そりゃあ、そうかも知れませんが」
「でしょ?」
「いーから、とにかくさっさと乾杯しましょ乾杯。ほら、持って持って」
「じゃあ、とりあえずアリさん、音頭を」
「え、あ、あの――本日は、本当にすみま」
「ウェーイ、クソ野郎の円満退社にかんぱぁーい!!」
「あ、えぇぇ――」
「大丈夫ッス。オレらは誰にも言わないッスから、ねっ?」
「実際、俺らも興味ありますし。過去のお話」
「誰かに話して、楽になる事もありますよ」
「――――」
491:以下、
 小さい頃は、親父の膝の上が好きだった。
 彼がデカンタにワインを並々と注いでいくのを、特等席で見るのが楽しみだった。
 だが、それも直に見れなくなった。
 親父が仕事で干されたのだ。
 当時の職長を殴ったらしい。
 めっきり仕事が減った親父は家に居座るようになり、安い酒を大量に煽るようになった。
 俺や母さんに暴力も振るいだした。
 出過ぎた真似をすれば拳が飛んでくることを知ったので、俺は大人しいイエスマンに徹した。
 反抗するだけ無駄だと、母さんも気づいていたのだろう。黙って彼に従っていた。
 甲斐性無しの癖に偉そうにふんぞり返る親父を、俺は心の中で軽蔑していた。
492:以下、
 我慢して地元の高校を出て、東京の大学に進学する際、ようやく俺は上京した。
 奨学金で学費を賄い、バイトして金を貯めるだけの4年間だった。
 実家の援助は断った。
 最初の会社は、一年目は現場に張り付くことになった。
 職人さん達の怒号が一日中飛び交う中、彼らの施工状況をチェックし、時には是正を指示する。
 だが、大卒の青二才が指摘した所で、百戦錬磨の職人さん方が二つ返事で話を聞いてくれるはずもない。
 お前に何が分かると、無視して自主検査がパスされ、監理者検査で案の定そこを指摘される。
 どこ見て仕事してんだと、監理者に怒られた上司から俺は怒られる。
 職人さんが帰ってからが俺達の仕事で、先輩に怒鳴られながら次の日の工程を見直し、書類を整える。
 席を立ち、少しでもサボる時間を作るために、タバコを覚えた。
493:以下、
 二年目は現場から離れ、一転して本社の営業に回された。
 クライアントと設計部を行ったり来たりして、案の定その板挟みに遭う仕事だ。
「こんな事もできんのか」とクライアントにはどやされ、「何でも首を縦に振ってくんじゃねぇ」と設計部からは突き返される。
 俺は何のためにいるんだろうと、何一つ誰にも言い返せない自分がむなしかった。
 このままこの会社にいたら、俺は人の心を失ってしまう――そう思い、一度目の転職を考えた。
 安定性と仕事量のバランスを求め、狙いを付けたのは公務員だ。
 地方は暇らしいという噂は、何度か聞いていた。
 学校なんて通える暇も金も無かったから、参考書を買って、仕事の合間を縫って勉強した。
 人生最大の努力だった。
 これを逃したら俺はこの会社に殺されると思ったら、人間こんなにも頑張れるものなのかと、自分に驚いた。
 天啓があったのか、入社して三年目の夏、翌年度の俺の市役所入りが決まった。
 退職届を出し、会社の人達からは盛大に送別会を開いてもらい、意気揚々と4月から入庁した。
494:以下、
 努力した先に輝かしい未来が待っていると信じていた。
 期待に胸を膨らませる俺を待ち受けていたのは、クソのような現実だった。
 公共工事を発注する際には、業者に対し公平性が保たれるよう、一定の入札ルールがある。
 特定の業者に肩入れするような発注の仕方はできないのだ。
 ところが、入庁して早々、俺に課せられた仕事がまさにそれだった。
 早い話、俺の勤め先は、いわゆる“先生”と呼ばれる地元の有力者とズブズブの関係だったのだ。
 その先生が贔屓にしている業者が受注できるよう、俺達は入札ルールをねじ曲げさせられた。
 代わりに、俺達にも一定の飴がもたらされるのだが、それは俺の上司が根こそぎ回収していった。
 定年退職が決まっていたジジイ共が、最後の年になって先生共とグルになり、甘い汁を吸ったのだ。
 官製談合が横行していた昔の感覚そのままに汚職をしたジジイ共の尻ぬぐいをするのは、俺だった。
 それが優良な業者だったらまだ救いもあったが、残念な事にお粗末で、挙げ句の果てには事故まで起こした。
 管理責任を問われるのは、監督員である俺だ。ジジイ共は退職前の有給を使い切るため、職場に来ていない。
495:以下、
 デスマーチを経てなんとか工事は終わらせたものの、待っているのは監査と会計検査だ。
 タチの悪い事に、東京都や国からの補助金を充当している工事であり、発注方法から何から説明を求められる。
 ルールをねじ曲げた、と説明できるはずが無く、かといって合理的な説明もできない。
 俺だっておかしいと思っているのに、経緯を知らない新しい上司からは、当時の発注方法について責められる。
 どうやって無事にそれらを切り抜けたのか、覚えていない。
 たぶん、どこも似たような事をやっている手前、それを指摘して大事になれば自分達も藪蛇であると、検査員側も考えたのかも知れない。
 上手くいったと、安堵した上司が胸をなで下ろす。
 おかしな事を言いやがる。上手に不正を隠匿するのが俺達の仕事なのか?
 役所勤めの二年間で学んだことは、言い訳の仕方と、そのための資料や書類の作り方。
 そして、自分が原因者にならないための立ち回りを――責任は負うものでなく、押しつけるものだということを。
 性格は、とことん悪くなった。
496:以下、
 世の中にはもっと苦しい事もあるだろうし、俺の受けた苦しみなんて屁みたいなもんだと言う人もいるだろう。
 俺も、今振り返ってみれば、やりようはどうにかあったし、それに耐えた先の未来もあっただろうと思う。
 だが、人の幸不幸や苦しみは、定量的に、相対的に量れるものではない。
 誰かにとっては蟻に噛まれる程度でも、当時の俺にとっては象に踏み潰されるほどの苦しみだったのだ。
 期待は裏切られるもの――調子に乗った奴は叩き落とされる事を思い知った。
 すっかり乾いた眼に一つの求人を見つけたのは、出張先のコンサートホールだった。
 老朽化した公共施設の修繕工事を発注するに当り、現地を下見しに行った際、そこの掲示板にスタッフ募集のチラシが貼ってあった。
 おそらく、バイトみたいなものだろう。
 水が上から下へ流れ落ちるように、楽な方へ、楽な方へと自分の体を預けていく癖が、既に出来ていた。
 こっそりチラシを手にし、腹が痛いからと午後は早退して、その日のうちに電話をする。
 聞いてみると、俺がいた役所の外郭団体らしい。要するに、施設管理を役所から受託している法人だ。
 俺が役所の人間であることを伝えると、そのツテでトントンと話は進み、来春からの配属がすぐに決まった。
 年明けには、役所に退職届を提出した。
497:以下、
 給料は下がったが、民間時代に使う暇も無いまま蓄えたものもあったので、それほど切迫感も無かった。
 電話応対、施設使用者への鍵の貸し出し、設備や備品の点検、チラシの張り出し。
 同僚のおじちゃん、おばちゃん達と菓子を摘まみ、窓口の客と世間話をしながら、ゆっくりと時間が過ぎていく職場だ。
 今までの職場を思えば、植物のように張り合いの無いこの生活が、天国のように思えた。
 当初は非正規の雇用形態だったが、職員の一人が病気のため退職すると、直にその穴埋めのため、二年目には正職員となった。
 やることは変わらない上に、給料はちょっとだけ上がった。それでも民間時代の半分だ。
 このまま俺は、火傷も感動もする事の無い、つまらない人生を送っていくのだろう。
 転機が起きたのは、そこに勤めて三年目の冬だった。
498:以下、
 俺が勤めていた施設は、規模が中途半端であった分、その利用者も微妙に幅広かった。
 爺さん婆さん達で構成される生涯学習サークルの、音楽やら演劇関係の発表会。
 うさんくさそうな大学教授や某企業の社長さんによる講演会。
 芸人のライブや、オケもあったっけ。オーケストラ。
 地元の学校の生徒さん達による、合唱部の練習に利用される事もままあった。
 もちろん、合唱発表会の本番に使われる事も。
 何度も利用してくれる学校の生徒さん達とは、俺はそこそこ仲良くできていたと思う。
 そんな中、俺は一人の少女に出会った。
499:以下、
 その子は、小学校の合唱発表会で来ていたようだった。
 ただ、周りの子達と溶け込めておらず、一際目を引く青みがかった綺麗な長髪が、余計に異質な存在感を放っていた。
 他の子達も、露骨にイジメている訳ではないものの、明らかに彼女の事を煙たがっているようだった。
 本番前の練習で、他の子達から数歩離れた位置に一人ぽつんと立ち、ギュッと口をつぐんで頑なに歌おうとしないその子が、見るに堪えなかった。
 普段は余計な事に首は突っ込まないのだが、あまりに刺激の無い生活に、内心飽きていたのかも知れない。
 休憩時間、ロビーでやはり寂しそうに一人座っている彼女を見つけ、気まぐれに声を掛けた。
 歌は嫌いかい? お兄ちゃんもな、人前で歌うの恥ずかしいから、よく分かるよ。
 だが、少女は首を振った。歌は好きだという。
 ――――?
500:以下、
 学校の皆とは、一緒に歌いたくない? ――少女は、頷いた。
 一緒に歌ったことは、あるの? ――少女は、首を振った。
 他の子達は、歌に対して真剣じゃないから嫌い、という。
 そっか――。
 じゃあ、試しに一度だけ、一緒に歌ってみてあげたらどうかな?
 そう提案すると、少女は顔を上げて、不思議なものを見るように俺の顔をのぞき見た。
 一緒に歌ったことが無いのに、真剣じゃないなんて決めつけて、心を閉ざしたらもったいない。
 一度だけだよ。皆のことを嫌いになるのは、それからでも遅くはないと思うよ。
 ――発表会本番で、彼女は俺の提案通り、歌ってくれた。
 小さい体に秘められた声量もさることながら、驚くほど綺麗で美しく、力強くも繊細な歌声が、強烈に印象に残った。
 演奏後、彼女は興奮気味の同級生達に取り囲まれて当惑していた。
501:以下、
 柄にも無くキザったらしい事をしてしまったが、まぁ――これはこれで、良かったのかな。
 そう、一人客席の隅っこに立って物思いに耽っていると、後ろから肩を叩かれた。
 誰だ、館長か? やべっ、サボッてるのがバレ――た訳では無かった。
 俺の肩を叩いたのは館長ではなく、茶色いスーツを着た壮年の男性だった。
 曰く、近くアイドル事務所の立ち上げを考えているらしく、その中心的スタッフであるプロデューサーなる人材を探しているらしい。
 そして、彼は俺をそのプロデューサーとして、ぜひスカウトしたいのだという。
 なんでも、先ほどの少女とのやり取りを見て、ティンと来たらしい。原文ママ。
 渡された名刺を見ると、何ともヘンテコな名前だが、それ以上に心配なのが、新規立ち上げという点だ。
 安定性を是とする俺の価値観と異にするこのシチュエーションは、当然に忌避すべきではあるのだけど、このおっさんが思いの外しつこい。
 まぁ、半日程度話を聞くだけなら良いですよ、と渋々了承した。
 話を聞くフリだけして「やっぱ無理です、ごめんなさい」と断ってさっさと帰ってやろう。
502:以下、
 マルチ等の勧誘を断る際のセオリーは、その場でキッパリ断ること。
 話だけ聞く、という半端な対応は御法度であるという。
 後にして思えば、俺はここで道を踏み外したのだ。
503:以下、
 渡された名刺の住所から最寄り駅を調べ、当日、その駅からタクシーで向かった。
 運ちゃんに事務所名を伝えると、小首を傾げた後「あぁ、あそこね」と合点した様子で車を走らせる。
 ――何だか、やけに駅から遠いな、とは思った。
 出向いた先は、天にも届かんとばかりの、随分と立派な高層ビルだった。
 新規に立ち上げたとは思えない、格式高いエントランスをくぐると、配慮の行き届いた案内嬢が出迎えてくれた。
 社長に呼ばれて来た旨を伝えると、少し疑問符を浮かべながら、案内の女性は奥へと消えていく。
 ロビーで待つよう促され、とりあえず座ってみたものの、あまり綺麗な空間なもので落ち着かない。
 スーツを着るのも久しぶりだったので、肩が凝って仕方が無かった。
 こんな自社ビルを所有するとは、飄々としていながらあのおっさん、何者だ――。
 そう思いながら待つこと20分、おっさんがやって来た。
 だが、そのおっさんは、俺がこの間会ったおっさんとは別人だった。
504:以下、
 え――!?
 曰く、ここは961プロという別の事務所で、俺をスカウトしたおっさんは765プロの社長だという。
 そんなん知るかよ! いや、ロクに調べもせず、行先を正確に運ちゃんに伝えなかった俺が悪いけども。
 だが、数字3文字のヘンテコな名前した芸能事務所がそう何社もあるなんて、普通は思わねぇべ!
「フン、間抜けが――だが、良い機会だ。キミにはとっておきの転職先を用意してあげる事にしたよ」
 歳の割に派手でキザったらしく、どうにも高慢なそのおっさんが、俺に一枚の紙を差し出した。
 見ると、それは別の事務所――346プロダクションとかいう所のパンフレットだ。
 また数字3文字? 何なんだこれは。
「予定を取り付けておいたから、暇であればこれから出向いてみるがいい。
 もっとも、この話を反故にしたら、キミの身の安全は保障できんがねぇ。ン???」
 脅しとも取れる高圧的な態度で、おっさんはそのパンフレットを俺の手に強引に握らせ、そのまま背を向けて去って行った。
 後になって、彼が961プロの社長だと知った。
 あんなオラついた人が社長かよ、大丈夫?
505:以下、
 ここまで来て何もせず帰ったら、何のために今日有給を取ったのか分からない。
 そんなくだらない貧乏性から、俺の足はその346プロなる事務所へ向けられていた。
 着いてみると、これはまた趣向の違う立派さが漂う建物だ。
 とにかく超高層ビルだった961プロと違い、346プロの事務所は驚くほどという高さは無い。
 一方で、外観の装飾は煌びやかで、門塀も格調高い。外構の植栽も手入れが行き届いているようだ。
 いたずらに高層でない事が、逆に敷地内の容積を贅沢に使用していることの証左でもあるかのように思える。
 エントランスに入ってすぐそばの、一流ホテルを思わせる受付に用件を伝える。
 丁寧に会議室に通され、10分ほど待つと、白髪頭の壮年の眼鏡の男性が、秘書と思わしき緑の制服を着た女性と一緒に現れた。
 アイドル事業部の今西部長と、総務部管理課の千川さんだ。
506:以下、
 今西部長の口から伝えられたのは、俺にとって驚くべき内容だった。
「それでは、4月1日よりよろしく頼むよ。何か分からない事があれば、彼女に聞くと良い」
 ――?
 さっそく分からない。どういう事だ?
 聞けと言われたその千川さんに目をやると、彼女は穏やかな笑みをたたえながら俺の前に用紙を差し出した。
「ご住所と、通勤経路をこちらに書いてご提出ください。
 旅費等の経費は翌月頭の精算払いになりますので、申告は漏れが無いようにお願いしますね」
 い、いや――ちょっと待ってください。
 いつの間にか、こちらで働くみたいな話になっていませんか?
「ん、違うのかね?」
 ちげーよ! と声を大にしてツッコみたい所をグッと堪える。
507:以下、
 どうやら、961プロから346プロへは、俺のことは優秀な人材として紹介されたらしい。
 明日にでも働きたいと、アイドル業界の未来を憂う期待のプロデューサーである、と。
 何考えてんだ、あのおっさん。
 と、これは後で知ったのだが――。
 当然、961プロは本心でそう思っていた訳ではなかった。むしろ、俺を一見して能無しと判断していた。
 それを346プロに、紹介という形で押しつける。当然、346プロは俺の扱いに困るだろう。
 だが、これを蔑ろにした時、961プロはそれを逆手に取り、346プロのイメージダウンを謀っていたようだ。
 同業他社からの好意的なビジネス提案を反故にするばかりか、求人にも後ろ向きで閉鎖的。
 事務所協同による業界の隆盛を望まない346プロは、自分本位の城を築こうとしている、と。
 あの短時間の間にそこまで算段を付け、346側とも段取りした辺り、961プロ社長の判断力と行動力には目を見張るものがある。
 ただ、少し飛躍しすぎじゃないかと思う――が、そこは信用に過敏な346プロである。
 ここで俺を叩き出した場合の、961プロの出方もよく承知していたのだろう。
 なので、一応のゲスト対応、というか、入社を受け入れる姿勢は示してみせたという事である。
 だが、最終判断は俺に委ねた――入社しなかった場合の原因者が346側にならないよう、彼らも老獪に立ち回ったというわけだ。
508:以下、
 曲がりなりにもコンサートホールの職員という事もあり、一般の人間よりは芸能分野に精通しているとでも思ったのだろうか。
 とはいえ、俺には当然、今の仕事がある。
 本来であれば、二つ返事でノーを突きつけるところであるが――。
 今一度考えてみてほしいという、穏やかかつ妙に熱のこもった今西部長の、去り際の一言。
 そして――。
 事務所を出る前、千川さんに促され、案内されたレッスンルームで目の当たりにした、一心不乱に汗を流す少女達。
 彼女達は、何のために、何を求め、斯様に苛烈な環境に身を置くのだろう?
 翌日以降も、俺はそれが脳裏に焼き付いて離れず、仕事が手につかない日々がしばらく続いた。
 見かねた館長が俺に声を掛ける。
509:以下、
「君には、おそらくここの仕事は退屈なんだろう。
 若く未来のある人間が、自分の力を持て余してはいけない」
 体良く自主退職を促しているのかとも思ったが、この館長さんは良い人だ。
 当時の俺は、刺激も抑揚も無いあそこの仕事によほど飽きていたらしい。
 魔が差すには、十分すぎるほどに。
 館長には、年度内いっぱいでの退職届を受け取ってもらい、346プロに電話をした。
 俺の人生観が決定的となったのは、この346プロでの一年目の仕事が全てだった。
510:以下、
 一年目、本社の事業三課に配属された。
 そこで一緒になったアリさんとは、当時から先輩後輩の間柄だった。
 彼は真面目で、俺は不真面目だから、アリさんはさぞかし扱いに困っただろうと思う。
 ただ、同郷だし同世代というのもあって、先輩でありながら気兼ねなく話せることもあった。
 同期入社にはヤァさんやチビさんもいたが、アリさんの方が割と付き合いは多かったように思う。
 そして、俺達はとある候補生に出会った。
 既に成人していた彼女は、候補生の中でも落ち着きのある女性だった。
 悪く言えば、自己主張をあまりしない子だったように記憶している。
 一応は俺が担当になったが、一年目の俺に全権が託される訳では無く、アリさんが副担に就いた。
 分からない事は全てアリさんに聞いて処理していたから、実質俺なんてプロデューサーとは名ばかりの連絡係のようなものだ。
511:以下、
 その子は、優秀だったと思う。
 ビジュアルはもちろん、ダンスもボーカルも、水準以上のものは優に備わっていた。
 オーディションを受ければ、同時期にデビューしたアイドル達などは相手にならず、楽々と合格できてしまう。
 オーディションを合格するたび、アリさんは子供のように喜んだ。
 仕事にもアイドルにも情熱を傾けていたから、それが認められた時の喜びはひとしおだっただろう。
 俺は、仕事が増えるのはあまり面白くないのだけど――でも、その子も喜んでいるように見えたから、別に良いかと思っていた。
 それで、調子に乗ったんだろうな。
 もちろん、勝てる算段があった上でのことだったが、その子をよりランクの高いオーディションに受けさせたのだ。
 そして、初めて負けた。
 緊張に押しつぶされて、彼女が本来の実力を出し切れなかったのは明らかだった。
512:以下、
 アリさんは彼女を励ました。もちろん、俺もフォローした。
 次は上手くいくさ、頑張ろう――そう言うと、彼女も微笑みを返してくれた。
 その次も、ダメだった。
 普段の彼女からは考えられないミスを、本番で犯した。
 どうにも様子がおかしいので、俺はアリさんに、しばらくオーディションは止めにしようと進言し、彼も了承した。
 仕事先への送迎や現場立ち会い、関係先との調整は、主担当である俺の仕事だ。
 アリさんまで全て付きっきりという訳にはいかない。
 つまり、彼女の異変に気づいたのは、俺しかいなかった。
 とある仕事帰りの車内で、彼女はひどく陰鬱な表情をして、ジッと俯いていた。
513:以下、
 最初は、仕事が忙しくて辛いのかな、と思った。
 無理しないで、キツかったらいくらでも休んでいいぞ。
 たとえ一日二日休んだ所で、今の君ならそう信用を無くすような事も無いだろう。
 アリさんはドタキャンなんて許さないだろうけど、俺は別に何とも思わないし、何なら俺も一緒に怒られるからさ。
 そう言ったけれど、彼女は首を横に振った。
 仕事は楽しいから大丈夫、と――。
 それから幾日か後、久々にオーディションを受けさせた。
 成功体験を積ませるためのものであり、彼女の実力なら、まず問題は無いレベルのはずだった。
 彼女は、アッサリと負けた。
 本社で待機するアリさんに報告すると、もっとオーディションを受けさせろと、上層部から迫られているという。
 後でゆっくり相談させてくださいと通話を切り、彼女の楽屋を開けると、荷物だけが置いてある。
 外に出て、建物の陰を覗いてみると、彼女は一人で泣いていた。
514:以下、
 彼女は言った。
 プロデューサーは、「これなら出来る」と私に期待して仕事を託してくれるのに、私はそれに応えることができない。
 私なりに頑張れば頑張るほど、どんどん自分が見えなくなっていく。
 私は、なんてダメなのだ――と。
 あまりに優しすぎる彼女は、物事を上手に割り切れるだけの器用さを持ち合わせていなかった。
 俺達の夢と期待を一身に受けてきた彼女の心は、ついに決壊してしまったのだ。
 俺は、彼女に引退を提案したが、彼女は泣きながら首を横に振った。
 自分の勝手な都合で、事務所に迷惑を掛ける訳にはいかない、と。
 何が迷惑なものか、自分の身を優先しろと説得したが、真面目すぎる彼女は聞く耳を持たない。
 早々に彼女を自宅に送り届け、その足で事務所に戻ってアリさんと相談をした。
 だが、上層部は彼女に“より一層の成長”を強いるつもりらしい。
 このままでは、彼女は本当に壊れてしまう。
515:以下、
 とあるライブの日だった。
 単独ライブではないが、そこそこ宣伝に金を掛けてもらっていた、小さくない規模のものだ。
 その当日俺は、ステージ衣装が注文していた仕様と全然違うと、スタッフに対して盛大にキレた。
 実際は、衣装は注文通りのもので、キレたのは当然、演技である。
 精一杯騒ぎ、喚き散らし、挙げ句の果てにはその衣装をビリビリに引き裂いてみせた。
 突然訳の分からない言い掛かりで怒り狂う俺を見て、スタッフはもとより、彼女もアリさんも相当驚いたと思う。
 止めに入ったスタッフの胸ぐらを俺が乱暴に掴み、グラグラと揺らした所で、アリさんが俺を取り押さえた。
516:以下、
 その日の仕事は、当然キャンセルとなった。
 それどころか、培ってきた業界への信用が台無しになったとして、346プロは彼女の起用を当面見送るとした。
 アリさんは上層部へ直談判しに行ったが、無駄だった。
 一人のプロデューサーが訳の分からない暴走をしたせいで、彼女は事実上、引退に追い込まれたのだ。
 あまりに突然だった俺の行動を、彼女がどう思ったのかは分からない。
 やがて彼女は事務所を去り、アリさんは俺を責めた。
 だが俺は、これ以上道義に反することをしたくは無かった。
 上層部は、当然に俺をクビにするつもりだったのだろう。
 だが、アリさんはそれについても進言をしていた。
 彼は精神的にかなり参っている。休ませる時間を与えてやってほしい、と。
 かくして俺は、人里離れた奥多摩支社に転属が決まり、悠々自適な社内ニート生活を送る事になる。
 メンタルを壊して離職した社員が相当数いると知られたら、業界に対して都合が悪いのだろう。
 そこは面目と体裁を気にする346プロ。そういう社員を匿う部署も用意している辺り、なんとも周到な事だ。
517:以下、
 この会社は――というより、この国は良くない意味で優しい。
 落ちこぼれの尻ぬぐいを、他の優秀な奴がやらされるシステムになっているのだ。
 正直者が馬鹿を見る、というのであれば、尻ぬぐいさせる側に回った方が良いに決まっている。
 そして何より――この業界は、何と残酷なことだろう。
 夢を見た者は、いずれ相対する非情な現実を前に打ちひしがれる。
 見る夢が大きいほど、それを手に出来なかった時の挫折は、非常な苦しみとなって彼女達を襲うのだ。
 俺自身、それを経験し、よく分かっていたはずなのに――それを彼女に強いてしまったのは、弁解の余地も無い。
 問題は、人が手にできる夢は限られるということ。
 そして、俺達プロデューサーは、彼女達に対し際限なく夢を煽り立てる側だということだ。
 俺達が彼女達に期待をさせてしまえば、それはいずれ待ち受ける挫折において落差を付けるための持ち上げにしかならない。
 俺自身、期待を裏切られる苦しみを味わってきたから、それを年端もいかない女の子達に強いるのはまっぴらゴメンだった。
 だから、辺境の事務所でずっと、そういう仕事からは遠ざかっていたかったのだけれど――。
518:以下、
 奥多摩支社に配属されて三年が経とうとした頃、翌年度の本社入りが決まった。
 鬱になった社員の穴埋めで、事業三課に戻る事になったのだ。
 上手いことやりやがって、と思ったが、どうやらソイツの鬱は本物だという。
 事業三課に戻って与えられた仕事は、候補生である水奏さんの面倒。
 そして、新しい候補生のスカウトだった。
 今いる水さんの面倒は、仕方が無い。
 できれば辞めさせてやりたい所だが、彼女自身が高い意識でもってそれを望むなら、何も言うまい。
 一方、新しい子をスカウトする――すなわち、非情な将来を約束された被害者を、俺自身が新たに引き入れるというのは、抵抗があった。
 だが、今度の上司は口うるさく不寛容で、適当に理由をつけて無視する訳にもいかないらしい。
 まぁ、そりゃそうか。それが俺達の仕事なんだものな。
519:以下、
 渋々街に繰り出して、めぼしい子を探してみる。
 と言っても、これだけ人がいる中で、誰か一人を特定するというのは非常に難儀な事だ。
 理想は、あまりやる気の無さそうな子がいい。
 レッスンや仕事が思いの外キツいとか言って、すぐ辞めてくれれば、その子が受けるダメージは少ないだろう。
 変に熱を持って、狭い視野でのめり込んでしまうような子は、後が怖い。
 アイドルに重心を傾けなさそうな子を、率先してスカウトするというのは矛盾を感じるが――理想は、それだ。
 そして、一人の女の子が目に付いた。
 透き通るような白い肌、銀色の髪に、整った顔立ち。スラリと伸びる長い手足。
 だが、容姿はこの際どうでも良い。
 その子は、駅ビルをボーッと見上げながら、東京ばな奈をモグモグと頬張っている。
 いかにも上京して間もない地方出身者――それに、あの若さだと自立して働いているようにも見えなかった。
 つまり、彼女に仕送りをやれるだけの、経済力のある後ろ盾が彼女にはいるらしい。
 差し詰め実家が裕福なのだろう。
520:以下、
 適当に声を掛け、喫茶店に招き入れる。
 話を聞くと、どうやら彼女は京都の和菓子屋の娘らしい。
 アイドルにもさして興味は無さそうだ。
 何という僥倖だろうか。
 アイドルを辞めたとしても、彼女には実家の和菓子屋という確固たる滑り止めがある。
 俺はこの子をスカウトすれば、上司に対して一応の面目は立つし、後で適当な理由で辞めてもらっても、この子自身が受ける傷は心身共に浅い。
 俺が求める理想の人材そのものだった。
 その子から、何で自分をスカウトしたのかと聞かれ、しどろもどろになりながら、俺は――。
「ティンと来たから」
 と答えた。
 きっと、馬鹿にしてるのかと思われただろう。
 俺だって、あの社長から言われた時は「はぁ?」と、今目の前にいるこの子と同じリアクションを返していた。
 だが、不思議なもんだよな。そうとしか答えようが無かった。
521:以下、
 その後については、特筆すべき事は無い。
 いつの間にか城ヶ崎さんが合流し、間もなく連中の意向により宮本さん、一ノ瀬さんも仲間入りして、今に至る。
 俺は、LIPPSの傍にたまたま居合わせたに過ぎず、能動的に彼女達を導いてきた事なんてただの一度として無かった。
 なぜなら、彼女達は今すぐにアイドルを辞めるべきだと思っているからだ。
 いや、彼女達だけじゃない。ほんの一握りの、本当のトップアイドル以外のアイドル達は、舞台を降りるべきなのだ。
 過信と期待は、身を滅ぼす。
 夢を追う限り、それはいずれ必ずやってくる。
 ああいう苦しみは、もう誰にも味わってほしくない。
 まして、あの支社長のように、クソみたいな輩の都合で弱い者が簡単に振り回される業界だ。
 逃れられない挫折に怯えながら、この腐った世界に長居しなきゃいけない理由がどこにあるというのか。
 俺は――もう何も期待できないし、彼女達も、何も期待しない方が良いのだ。
 ――――。
522:以下、
「――ふーーん?」
「重たい話ですねー」
「そうですね――服部さんの事は、本当に残念でした」
「服部さん、っつーんスか」
「高垣楓とは同世代、かつ同期でした。
 順当にいけば、今頃は彼女と双璧を成していたかも知れません」
「本当ですか? そんな人が――」
「僕もあの時、彼女の異変にちゃんと気づいてあげられたら――お偉方を説得できていたらと、後悔しない日はありません」
「ただね――彼女に期待をした、夢を託した、そのこと自体は、僕は間違いだとは思っていないんです」
「夢や期待が人を潰す、というのは、確かにそういう側面もあるのかも知れません。
 ですが、彼女の挫折は、夢や期待のせいではない。もちろん、彼女自身のせいでも」
「あれはやはり、僕達の力不足だったんです。
 しっかり導く事が出来なかった責任は、僕達が受け止めなくてはならない」
「彼女達が恐れること無く、夢を抱き続けられるよう、導いてやることこそが、僕達の仕事なんだと思います」
「だって、アイドルは夢見てナンボだし、夢を見させてナンボじゃないですか」
「ねぇ、周子ちゃん?」
523:以下、
「んー、あたしはプロデューサーさんの言うことも正直、分からなくもないっちゃーないんだけどね」
「奏ちゃんや美嘉ちゃんなんかは、今の話聞いたら怒るやろなー」
524:以下、
 (◇)
 ソファーの陰からひょっこり姿を現したあたしに、プロデューサーさんは目を丸くしてる。
 あたし、ずーっと寝そべって聞いてたのに、全然気づかないんだもん。
 まぁあの人からは見えない位置だけどさ、分からないもんなんだねー。あははっ♪
「でもさー、あたしのあのスカウトの仕方? あれさー、やっぱあたし、無いと思うわ」
「何で、君がここにいるんだ」
「いやほら、仕事終わって事務所に戻ったらさ、すごい雨降ってきたから、止むまでココで寝てよーって」
「確信犯だろ、絶対」
 プロデューサーさんは、チビさん達をギ口リと睨み付けた。
「ちょ、ちょっと落ち着いてください。俺達は何もしてませんよ」
「そーそー、オレっち達は何も言ってないでしょ?
 たまたまここにいた周子ちゃんが、たまたまアンタの話を聞いちゃってただけっスよ。ねー周子ちゃん?」
「イェー♪」
 ヤァさんとピースサインを送り合う。
 いつの間にお前ら仲良くなってたんだ、とでも言いたげのプロデューサーさんの表情がすこぶる面白い。
 まー、同じ事務室にいるんだし、LINEくらいは交換するでしょ。
 プロデューサーさんのID知らんけど。ていうか教えてくんないし?
525:以下、
「とにかく、今タクシー呼ぶから、早く帰りなさい」
 そう言って、プロデューサーさんが受話器に手を伸ばすのを、チーフさんが制した。
「良い機会だと思いますし、彼女達と一度、向き合ってみてはいかがでしょう?
 周子ちゃんも、たぶん今の話を聞いて思う所もあるでしょうし、あなたも彼女が相手なら、比較的話しやすいのでは?」
「ちょうど酒も切れちまったしよォー」
「飲み過ぎっすよヤァさん、大丈夫ですか?」
「ひゃくやくのチョーっつってんべ」
 急にガタガタと席を立つチーフさん達に、プロデューサーさんが困惑の表情を浮かべる。
「あ、あの――」
「それじゃあ、僕達はこれで。どうぞごゆっくり」
 バタンとドアが閉まると、あたしとプロデューサーさん二人だけになった室内は、途端に静かになった。
「――仕事が終わって事務所に戻った、と言っていたけど」
 話題を選んだ風に、静寂を破ったのはプロデューサーさんだった。
「今日、塩見さん、何か仕事あったっけ? それとも、頼んでいた城ヶ崎さんへの伝令のことか?」
526:以下、
「んーん、ちゃんと仕事してきたよ? 美嘉ちゃんの代打でね」
「代打?」
「オーディション、あたしが代わりに受けてきたんよ。
 美嘉ちゃんを志希ちゃんのトコへ行かせる代わりにね」
 ムフフと笑ってみせたけど、反対にプロデューサーさんは頭を抱えてしまった。
「無茶苦茶だ――上手く行ったのか? というか、先方に迷惑はかけなかっただろうな」
「まぁー、飛び入り参加な上にあんな態度で、アレで合格しちゃったら、あたしは伝説になるだろうねー♪」
「勘弁してくれ」
 大きくため息を吐きながら、プロデューサーさんは缶ビールを流し込む。
「君達の相手は、本当に疲れるよ」
「プロデューサーさん、あたし達の担当を辞めちゃうの?」
 あたしが問いかけても、プロデューサーさんは黙って自分のデスクに向いたままだった。
「奏ちゃんから、その――メールで聞いてさ?」
「そうか」
「で――どうなのかなーって」
527:以下、
 プロデュ?サーさんは、缶ビールをもう一度煽って、それをデスクに置くと、頬杖をついた。
「塩見さんは――」
 そう言いかけて、プロデューサーさんは止まり、かぶりを振った。
「――何て?」
「いや――何でもない」
「いやいや、絶対何でもなくないやん、言ってよ」
「まぁ、その――塩見さんは、俺に続けてほしいのか、って、聞こうとしただけだよ」
 プロデューサーさんは、バツが悪そうに頭をクシャクシャと掻いて、またため息をつく。
「ただ、君達がどうとかじゃなく、俺が自分の勝手で担当を降りる訳だから、聞くだけ無駄だと思ってな」
「あたしがここで、続けてよ、って言っても、意志は変わらないってこと?」
「元々、俺には向いてない仕事だったんだ」
528:以下、
「あたし達のせい?」
 別に、無理に続けてほしいワケじゃない。ただ――納得したかった。
「言っただろ。君達のせいで降りる訳じゃないよ」
「本心とそうでないのを、あたしが見抜けないとでも思ってんの?」
「――――」
 プロデューサーさんの返答は、まだ、納得できるものじゃない。
 やっぱり、この人は隠してる――体の良い言葉で取り繕って、あたし達を躱そうとしている。
「自慢じゃないけどさ――あたし、LIPPSの中で、プロデューサーさんに唯一スカウトされた子なんだよね。
 美嘉ちゃんが教えてくれたんだけどさ」
「――自慢じゃないのか」
「まーまー。だから、って訳じゃないけど――っと」
 ソファーから立ち上がり、プロデューサーさんのデスクに、おざなりに腰掛けてみせる。
 プロデューサーさんは、驚いた表情であたしの顔を見上げた。
「あたしとプロデューサーさんの仲やん。
 ってことでさ。本音トーク、しちゃっていいんじゃない?」
529:以下、
「――もう君達が嫌いだ、顔も見たくない、だから辞める――と言えば納得するのか?」
「そーいう事じゃないってあーもー、ほんっと分かっとらんな」
 握り拳で膝をトントンと叩く。こんのオッサンときたら――。
「そういう、なんちゅーのかなぁ、打算的な返答は聞きたくないんだよね。
 本音を教えてよ。プロデューサーさんの本音をさ」
「本音」
「そう。あたし達、これでも割とけっこープロデューサーさんと仲良くしたいんだよ?
 よく分かんないまま降りてもらいたくないんよ。奏ちゃん達にも報告できんし」
「あっ――」
「報告?」
 げっ――いらん事言ったな、あたし。
「水さん達に、ここでの話をバラすのは、勘弁して欲しいな」
「あはは、いやー少なくとも、奏ちゃんにはちゃんと話すべきだと思うよ?」
 何より、プロデューサーさんの情報を引き出せというのは、他ならぬ奏ちゃんからの厳命であったのだし――。
「奏ちゃん、未だに“君達には何も期待していない”発言を根に持ってるから、少しは誤解も解けると思う」
「何か、言い訳がましいから、いい」
 そう言って、プロデューサーさんは回転椅子をグルッと回して背を向けた。
 すかさずあたしもそっちに回り込んで、置いてあった空き椅子に座り直す。
「あたし、口軽いんだよね」
「だよなぁ」
530:以下、
「まぁ、悪いようにはせんて。で、話を戻すけど――」
「さっき話した通りだよ。俺は君達に、アイドルを辞めてほしいんだ。夢破れて苦しむ前にな」
 プロデューサーさんは、席を立ち、給湯器の方へ歩き出した。
「コーヒー飲む?」
「ううん、いいや」
「夢は破れるためにある。トップアイドルなんて、まさにそうじゃないか。
 それを目指したが最後、トップ以外の全てのアイドル達は敗者になるんだ。
 俺は、君達がそうなるのを避けたかった――それが望めないのなら、君達の行く末をこれ以上見届けたくはない」
 ははーん――こいつは、思ったより重症ですなぁ。随分とこじらせてはるようで。
「LIPPSは泥船だって言いたいワケ? リアリスト気取りのプロデューサーさん的には」
「LIPPSだけじゃなく、およそ夢を目指す全ての盲目的な人は、沼に片足突っ込んでると思うよ」
 カチャカチャとカップの中身をかき混ぜ、一口啜る。
 ホッと息をつくと、少し落ち着いたのか、プロデューサーさんはあたしの方に半分だけ身を向けた。
「――結構俺、酷いことを言ってるよな。気分を悪くさせて、すまない」
「いいって、あたしが本音言えー言ったんやし、それに」
531:以下、
「プロデューサーさんが思ってるほど、あたし達、そこまでヤワじゃないしさ」
 二口目を啜ろうとした手を止めて、プロデューサーさんはあたしの顔を見る。
「たぶんだけどね? 今度の『アイドル・アメイジング』であたし達、勝てなかったとしてもさ。
 志希ちゃんは、きっとそれを敗北だとは考えないと思う。アイドルを通して得るもの全てが、彼女の望む成果だから。
 フレちゃんだってそう。そもそもあのコ、勝ち負けなんて概念無いんやないかな?
 何でも楽しめちゃうコやし、きっと優勝したライバルを誰よりも盛大にお祝いしてると思う」
 自分で言いながら、その光景が目に見えるようで、思わず笑いが零れてしまう。
「美嘉ちゃん――美嘉ちゃんはたぶん、相当悔しがるんだろうね。
 でも、歯を食いしばって割とすぐに立ち上がると思う。そんな素振り見せないけど、色んな苦労乗り越えてそうだし。
 奏ちゃんはまぁ、ヘコみそうやなーあのコ。割と気張ってるトコあるし、それが報われなかった時は、ずーんってなりそう」
「俺も、水さんにはそれが心配でな。城ヶ崎さんも、案外簡単にポッキリいくんじゃないかと」
「あはは、まぁそんな時はあたしやフレちゃんで上手くフォローしとくから、心配いらんて」
「塩見さんは?」
「ん?」
532:以下、
「君は、次のステージでもし勝てなかったら、どうなるんだ」
 恐れを隠すように、ひどく神妙な面持ちでプロデューサーさんがあたしに問いかける。
 そんなさ、大袈裟に構えんでもええのに。
「あたしは、うーん――分かんないな。その時になってみないと」
「玉虫色の回答だな。塩見さんらしい」
「あはは、そんなんじゃないよ。ホントに分かんないの。ただ――確かめたい、かな」
「確かめたい?」
 プロデューサーさんが小首を傾げる。
「まぁね。ほら、いつかプロデューサーさん、言ってくれたでしょ?
 あたしはあたしの仕事をすれば良いってさ。
 あの言葉、今でもあたしは正しいと思ってるし、これからもそれに従おうと思ってる。けど」
 グイッと椅子から立ち上がってみる。目線はまだまだ、プロデューサーさんよりも下だ。
「あたし、まだアイドルってなんなのか、よく分かってないんだよね。好きなのかどうかすら。
 適当って、それはそれで立派な処世術なんだけど、結局は一生懸命になってみないと、それの本質って分かんないのかなって思う。
 だからさ――」
 ふふ――あたしが本音を話す事になるとはね。まぁ、ギブアンドテイクか。
「お生憎様だけどあたし、今日のプロデューサーさんの話を聞いて、もっと一生懸命になろうって思ったよ。
 少なくとも、アイドルがあたしにとっての夢なのか、それだけは今度のフェスでハッキリさせたい。自分の中で。
 あたしにとっての負けがあるとすれば、それが分からなかった時だね、きっと」
533:以下、
 プロデューサーさんは、しばらく黙ってあたしの顔を見た後、思い出したようにコーヒーを啜った。
「――興味深い話をありがとう。参考になったよ」
「おっ、手厳しいねー。
 プロデューサーさんなら、もっと素直に「随分とよく喋るな」とかって皮肉ると思ったのに」
「自重した」
「そりゃどーも」
 ゆっくりと、プロデューサーさんがあたしの元へ歩み寄ってくる。
 何となく、緊張してしまうのを堪え――ようとしたけど、やっぱりやめた。
 この人も、たぶん相当緊張してるんだろうし。
「君達に、一つ話しておかなければならない事がある」
「ほぉ?」
「この間のサマーフェスで、俺は、君達のステージの最中に、音源プラグを抜こうとしていた。
 島村さんがたまたま同じ事をしてくれたけれど、本来LIPPSのステージを台無しにしようとしていたのは他でもない、俺だったんだ」
「――――」
「いくらでも軽蔑して、なじってくれて構わない。
 俺は、勝手な都合で君達を振り回そうとした支社長を殴ったけれど、俺の方こそ、自分の都合で君達を酷い目に遭わせようとした」
 手近のデスクにコップを置き、プロデューサーさんはあたしに頭を下げた。
「道義に反することだった――すまなかった」
534:以下、
 ――意外っちゃあ意外だけど、さっきまでのこの人の話を聞いてたら、そうですかぁという感じだ。
 肯定できないけど、理解はできるっていうか?
 ふふっ――。
「あたしの負けかねこりゃ♪」
「は?」
「納得できる答えを引き出すつもりが、予期せぬ形で納得させられたからね」
 ソファーの方へ向かい、ドカッと腰掛けると、そこに置いていたバッグから携帯を取り出した。
「納得、って――俺ならそれくらいの事はするだろう、と?」
「うん」
「手厳しいな。いっそ怒ってくれた方が遙かにマシだ」
「あたしはプロデューサーさんと違って、言葉を選ばないんで」
「そりゃどうも」
 メールを打ち終わった所で、あたしは膝にポンッと手を置き、立ち上がった。
「んじゃ、あたし帰るね」
535:以下、
「タクシー呼ぶよ」
「いい。雨も少し弱まってるみたいだし」
 でも、と言ってプロデューサーさんが反論しかけるのを、あたしは指で制してニカッと笑ってみせた。
「昼間にもらったタクシー代の残りもあるしさ?」
 そう言って手を振り、ドアノブに手を掛ける。
 このドアを開けて、バイバイしたら――もう、この人はあたし達の担当からは外れるのかぁ。
「何で、プロデューサーさんのお父さん、上司の人を殴ったんかな?」
「はぁ?」
 ノブに手を置いたまま、あたしは後ろを振り返った。
 プロデューサーさん、こうして見ると随分疲れた顔してんなぁ。
「あたし達、これでもプロデューサーさんには感謝してるんだよ。
 プロデューサーさん、頑張らなくていいみたいな事を言いながら、何だかんだあたし達に良くしてくれたし、それに――」
 ぷくくっ――と吹き出してしまったあたしを、プロデューサーさんが怪訝そうな顔で見つめている。
「意外と、蛙の子は蛙なのかも知んないよ?
 LIPPSのことでお偉いさんにどついてくれるような人が、LIPPSに一生懸命でないワケ無いやんな?」
536:以下、
「――風邪、引かないようにな」
「プロデューサーさんも、あんま夜更かししないようにね」
 そう言って、あたしはプロデューサーさんに別れを告げ、部屋を出た。
 エントランスまで行くと、奏ちゃんが待ってくれていた。
 プロデューサーさんが呼んだタクシーで一人帰るフリをして、あたしが来るまで停めてくれていたのだ。
 無言で手を挙げる奏ちゃんに、あたしも何となく無言で頷いて、二人で乗り込む。
 奏ちゃんは何度も頷きながら、あたしの話を熱心に聞いてくれた。
 夢や希望を持とうとしないあの人の背景を、奏ちゃんはすごく気にしていたから、さぞ興味あったんだろうね。
 ひとしきり話し終えると、奏ちゃんはジッと目を閉じ、椅子にもたれかかった。
「ありがとう、周子」
「奏ちゃんも、今日はお疲れさんやね」
「生憎だけど、明日からはもっと忙しくなるわ」
 確かに、プロデューサーさんがあの人から、美嘉ちゃんの担当だったあのチーフさんに変わるんだもんね。
 シャキシャキしてそうだもんなぁ。上手くサボれるかなぁ。
537:以下、
「いいえ、そういう意味じゃなくて」
「えっ?」
 奏ちゃんは、目を開けて、あたしに顔を向けた。
「映画のレビューを見ててもよく思うのだけど、私、自分の価値観を他人に押しつける人って好きじゃないの。
 夢が破れるものだと、勝手に決めつけて、頼んでもいないのにあの人は私達にそう信じ込ませようとしているんでしょう?」
「――見返してやろう、って話?」
「プロデューサーは、言わば私達の夢が叶わない事を期待している。
 だけど、期待を裏切るのは、LIPPSにとって最も得意な分野の一つじゃないかしら」
 フッと、奏ちゃんが得意げに鼻を鳴らし、妖しく口の端を歪めてみせる。
 やっぱこのコ、熱血屋さんで、反骨心メガ盛りやなー。
「だよなぁ」
 咄嗟にプロデューサーさんの口癖を真似してみせると、奏ちゃんはプッと吹き出し、あたしもケラケラと笑った。
 そう――“ジョーク”でLIPPSの右に出るものなどいないわな。
538:以下、
 (♪)
 うーん、風邪デリカ。
 だいぶ寒くなったこの時期にあんだけ雨に降られたらそりゃそうだよねー。
 でもシキちゃんとミカちゃんは大丈夫だったの。よっ、さすがっ!
 それで、シキちゃんちであの日、ミカちゃんも一緒に看病してくれたんだけど、もうビックリ!
 何がって、どういうワケか、あのおばーちゃんがいたんだよね!
 お互いビックリしちゃったんだけど、息子さんが帰って来ないっていうからシキちゃんが部屋に入れて、で、一緒に泊まったの。
 濡れタオルしておかゆ作って、おばーちゃんが他にも何か、えーと何か色々してくれて、本当助かったよー。
 それでもう一つビックリしたのがね? おばーちゃんが朝帰った後、入れ替わるようにプロデューサーが来たんだよー!
 こんな大事な時期に風邪なんて引きやがってー、って怒るプロデューサーに、シキちゃんとミカちゃんがすごい反論してて。
 アタシは一生懸命寝たフリしてたけど、バッチリ聞いてたんだー☆ アハハ、あいあむそーりーしるぶぷれー♪
 でも、やっぱ嬉しかったんだよね。
 シキちゃんとミカちゃんはもちろんだけど、プロデューサー、初めて怒ってくれたから。
 自分の事を気遣ってくれる人がいるの、すごく嬉しいから、ちゃんとしなくちゃって思えたの。
 チャチャッと治してレッスン復帰するね。ごめんなさい。ありがとう。おやすみー♪
539:以下、
【11】
 (?)
 それじゃあ。
540:以下、
 (★)
「どういうこと――!?」
 しぃんと事務室が静まりかえった。
 チビさんが、見ていないフリをするようにパソコンに齧り付いているけど、聞き耳を立てているのは見え見えだった。
 部屋の中には、チーフ――つまり今のプロデューサーと、謹慎が明けたばかりの前のプロデューサー。
 そして、奏ちゃんと、周子ちゃん。
 フレちゃんの風邪はインフルだったらしく、もう少し復帰に時間がかかるというのは聞いてる。
 今、この部屋には、彼女が足りないのだ。
「志希ちゃんが、LIPPSを抜ける、って――」
 チーフは、ひどく苦しそうに顔を歪ませて、俯いた。
「――火の無い所に煙は立たないのなら、火元を取り除けという、上層部の意向でね。
 僕達も上に掛け合ったんだが、どうしようもなかった」
「どうしようもなかったって!!」
 バンッ! と目の前のデスクに両手を叩きつける。
「簡単に言わないでよっ!!」
541:以下、
「美嘉ちゃん――君の言うことはもっともだ。本当に、これは――僕達の力不足という他は無い」
 ただ頭を下げるチーフに、アタシは声を荒げるだけだ。
「何にも悪いことしてないのに、噂が立っただけで切り捨てるの!?
 無視すれば、堂々としてればいいじゃない! こんなっ!! こんな理不尽なこと――!!」
 自分でも何を言ってるのか分からなくなってきた時、ふと――。
 隣のデスクに座っていた前のプロデューサーが立ち上がり、アタシ達の前に歩み寄った。
「――すまない。本当に――これは俺の責任だ」
 そう言って、彼は頭を下げた。
 固く握りしめた拳と、震える肩、奥歯を強く噛みしめているであろうその表情からは、この人の悔しさが痛いほどによく分かる。
 アタシの肩に、ポンッと後ろから手が乗せられた。
 振り返ると、奏ちゃんが、やはり残念そうに首を横に振る。
 周子ちゃんも、普段からは考えられないほど暗い表情だ。
 そのまま黙って、アタシ達は部屋を出た。
542:以下、
『アイドル・アメイジング』まで、もう2ヶ月を切っている。
 本当なら、とっくに新曲が決まっていて、それに向けた5人でのレッスンが本腰を入れて行われているはずだった。
 でも今、レッスン室にいるのは3人だけ。
 フレちゃんが復帰したとしても、アタシ達は4人だ。
 そして、結局アタシ達は既存の曲である『Tulip』の練習を行っている。
「何をボサッとしている! 城ヶ崎、ターンが遅れているぞ!」
 トレーナーさんが檄を飛ばしてくれるけど、アタシのダンスは精細さを欠くばかりだ。
 奏ちゃんと周子ちゃんも、やっぱり同じで、涼しい顔でこなしているように見えても、どこか今ひとつだった。
 様子を見に来てくれた、プロデューサーの顔も暗い。
 ――アタシのせいだ。
 アタシが、志希ちゃんを追い詰めて、追い出したんだ。
543:以下、
 だから、アタシが――。
「美嘉ちゃん、しっかりな」
「トーゼンッ! じゃ、行ってくるね★」
 アタシが、皆を盛り上げて、引っ張っていかなきゃ。
 今日は、本当は志希ちゃんが出る予定だった音楽番組の収録。
 問題発言を度々してしまう志希ちゃんへの配慮からか、用意されてたトークの時間は短めだったけど、存在感は出せたと思う。
 そして、歌ったのは『TOKIMEKIエスカレート』ではなく――『秘密のトワレ』。
 志希ちゃんの持ち歌だ。
 彼女の存在を、無かった事にさせてたまるもんか。
 アタシが歌えば、それなりに話題性はある。
 一ノ瀬志希はどこに行った? と、皆に思ってもらいたかった。
 プロデューサーも、アタシがそういう意志でこの曲を歌うのを了承してくれた。
 志希ちゃんのいないLIPPSは、LIPPSじゃない。
544:以下、
 その日の収録が終わった後の事だった。
 スタッフさん達に挨拶して、プロデューサーともハイタッチを交わして、楽屋に戻る。
 さて、私服に着替えるかと、ロッカーを開けて中を漁って――。
「――――えっ」
 下着が無い。
 服を一枚一枚取り出して、中のどこを見渡しても、バッグの中を見ても、あるはずのそれが見当たらない。
「ちょっ、え――何コレ、何で」
 ふと、奏ちゃんから聞いた話を思い出した。美城常務が忠告していたという、あの話――。
 ――今後はおそらく187プロが何かしら妨害工作をするだろう。
 まさか――今思い出すと、見知らぬ女性スタッフが楽屋を出入りしていたのが見えた気もする。
 あの人が、ひょっとして187プロの差し金か何かってこと――?
545:以下、
 コンコン、とドアをノックする音がして、プロデューサーが外から声を掛けてきた。
「おーい、そろそろ準備できた?」
「あ、ううん! もうちょい待って、ごめんね」
 慌てて取り繕い、とにかく下着は諦めて急いで服を着替える。
 うぅ、胸元がスースーするなぁ――!
「お待たせ★ ゴメンゴメン、ちょっと部屋ん中にでっかい虫がいてさ? それで――」
「――何か、変な事でもあった?」
 プロデューサーが不審がって掛けてくれた一言に、アタシはドキッとした。
「美嘉ちゃん、ウソついたり、隠し事をしようとする時って、すごいうわずいた声で話すからさ」
 ――やっぱ、この人は誤魔化せないか。
 正直に話すと、彼は優しくアタシの肩にポンッと手を置いて、「今日はサッサと帰ろう」と言ってくれた。
546:以下、
 帰ってから奏ちゃんと周子ちゃんにも一応聞いてみると、二人も似たような事があったみたい。
 周子ちゃんは、自分のラジオで嫌がらせとしか思えないハガキばかり来てたと憤慨していた。
 奏ちゃんはグラビアのお仕事で、セクハラっぽい事をやたらと現場の人から言われたみたい。
 よくよく調べると、奏ちゃんがその日行ったスタジオは、187プロの事務所のすぐ近くだった。
 ふと気になって、ネットの掲示板を調べてみる。
「お姉ちゃーん、ご飯できたよー」
 ――これは。
 ・塩見周子をこの間街中で見かけた話をする(176)
 ・【悲報】水奏終了のお知らせ(338)
 ・【えるしっているか】城ヶ崎美嘉スレPart41【みかたんはすごい】(288)
 ・俺達の文春、城ヶ崎美嘉の交際相手を暴露wwwwwww(227)
 ・【フレデリカ】アイドルを思い浮かべてスレを開いて下さい【フレデリカ】(190)
 ・一ノ瀬志希が干された理由の闇が深すぎる…(609)
 なるほどね。こういう狡い所で印象操作をするワケだ。
 明らかにいかがわしい話題を焚きつけて、イメージダウンを図っているみたい。
 まぁ――気にするだけ無駄か。こんなものは無かった、やめやめ。
「お姉ちゃーん、ご飯ー!」
「はーいー!」
「お姉、おわっ!?」
 莉嘉がたまらずドアを開けてくるのを見越して、ドアの前で仁王立ちしてみせる。
 開けた瞬間、莉嘉は驚きのあまり尻餅をついたので、思わず笑っちゃった。
547:以下、
「お姉ちゃん、そういやさ」
「ん?」
 夕食が終わった後、莉嘉の部屋でくつろいでいた時だった。
 新しい漫画を買ったというので、ベッドの上で呼んでいると、ふと声を掛けられた。
「お姉ちゃんのツイッター、見たよ」
「アンタ、そういうのやっちゃダメってあれほど」
「あ、アタシはやってないってば! 友達がやってて、それでお姉ちゃんのを見せてもらっただけだよ!」
 あぁ、見たってだけか。
 莉嘉にはあえて教えてないけど、別にやってなくても、ネットで検索すれば誰でも見れるんだけどね。鍵も掛けてないし。
「それで、さ――結構お姉ちゃん、大変なんだね」
「何が?」
 急に莉嘉が声のトーンを落とし、神妙な面持ちになったので、漫画を閉じて顔を覗き込む。
「いや――何か、お姉ちゃんに、エッチぃっていうか――ヘンな事ばっか言う人、こんなに多いんだ、って――」
548:以下、
「――へ?」
 慌ててアタシは携帯を手に取り、自分のアカウントを確認してみる。
 いつもは興味津々そうにアタシの携帯を覗き込みに来る莉嘉は、それを見ようともしない。
 ――通知をオフにしていたから、気づかなかった。
 なるほど、こんな所でも誹謗中傷してくるのか。
 結構辛辣で、エグい事をリプしてる人達もいるみたいだ。
「――莉嘉」
 携帯を置いて、莉嘉に向き直る。莉嘉は今にも泣きそうだった。
「ありがとう、教えてくれて。お姉ちゃんは、全然大丈夫だよ。
 こういうの慣れてるし、言ってる人達だって、どうせアタシと向き合う気のない連中だもん」
549:以下、
「お姉ちゃんは、平気なの?
 こんなヒドいこと、言ってくる人がいるなんて、アタシ、信じらんないよ――!」
「アハハ、心配無いって★ 今見たら、ほら、みーんな捨てアカでリプしてる人ばっかりだよ。
 つまり、自分で自分のコメントに責任持とうとしない人達ってこと。
 そんなのにいちいち構ってあげる必要無いじゃん、ねっ?」
 ベッドから立ち上がり、莉嘉の頭に手を置く。
 莉嘉は肩を縮こませ、少しベソをかいて俯いている。
 アタシへの心無いコメントを、怖くて、悔しいと思ってくれているのかな。
「心配してくれて、ありがとね」
「お姉ちゃん――」
 どうせまた変なコメントが付くかもだけど、更新を止めて、こういう荒らしの人達に屈したと思われても癪だ。
 一切無視して、いつも通り、仕事の報告とファンの人達への感謝を伝えるツイートをして、携帯を閉じた。
 まっ、思いがけずだけど、妹にネットの怖さを教えてあげられた事には、ある意味感謝してやらないでもないか、な?
550:以下、
 その日は、奏ちゃんと二人でイベントのお仕事だった。
 全米No.1とかいうアクション有り、ラブシーン有りの新作ハリウッド映画の上映初日で、その宣伝に呼ばれたのだ。
 映画関係だから、奏ちゃんがメインで取ってきたお仕事で、アタシはおまけみたいなもん。
 と思っていたら、アタシ達以外にも、そのイベントに出席していた他事務所のアイドルがいたのだ。
 まさかと思ったら――予感していた通り、それは187プロだった。
 小悪魔系デュオとして最近売り出し中の、ちょっと目つきの悪い子達だ。
 プロデューサーは、今回はアタシ達に同行していない。
「気にすることは無いわ、美嘉。
 たかが15分程度、笑顔で看板の前に立ち、映画についてコメントしていれば良いだけよ」
 出番前の舞台袖、奏ちゃんが小声でアタシにそっと忠告してくれる。
 そんなこと、言われなくても分かってるよ。
 司会者の人達にコールされ、笑顔で壇上に上がる。187プロの子達とも一緒だ。
551:以下、
「映画通としても知られる水さんですが、この作品の見所と言えば、ずばりどういった所でしょう?」
「そうですね――まずはやはり、スタントやCGに頼らない派手なアクションシーンが挙げられると思います。
 この監督は、“本物を撮る”という事に強いこだわりを持っていて、それを感じ取ってもらえるのではないかなと。
 それと、この撮影がきっかけで交際に至ったという主演の二人の、濃厚なラブシーンも、大きな見所と言えるんじゃないかしら」
 さすが、奏ちゃんはこういうのに慣れているんだなぁ。
 たまに不意打ちで、台本に無い質問もあるんだけど、それでも微笑を浮かべながら、気の利いたコメントがスラスラと出てくる。
 知識はもちろんだけど、肝が据わっているのをすごく感じる。
「なるほど?、私も予告シーンしか観れていないのですが、かなりラブシーンは熱々のようですねー。
 ところで城ヶ崎さんは、何かそういう、憧れる恋人とのシチュエーションというのはありますか?」
 おっ、来たな。答えにくい質問だけど、これは台本通りだ。
「んー、アタシとしてはやっぱ、サプライズ的なものがあると嬉しいかなーって思います。
 ドキドキを味わいたいっていうのもありますけど、そういう何というか、アタシを楽しませようとその人が苦労して考えてくれたーっていうのが、ありがたいっていうか? ですかねー」
「おっ、経験者は語る、ですか?」
「アハハ★ いやいやそんなんじゃ無いですよー!」
 笑いながら大袈裟に手を振る。これくらいの質問なら、こういう応対で大丈夫だ。
「でも、この前男性と二人でお忍びデートをしていたんじゃなかったんですかぁ?」
552:以下、
「えっ――」
 いきなり、アタシの横に立っていた187プロの子達が割って入ってきた。
「人から聞いた話なんですけどぉ?
 海が見えるオシャレな公園で二人が散歩してるのを見たって、ネットでも話題だったんですよぉ」
「えー、マジ!? それホントだったらすっごいスキャンダルじゃない!?
 ただでさえさーほら、もう一人のコがお騒がせしてる時に、すごいよねLIPPSってさっすがぁ!」
 間延びした声の子の隣で、ちょっとチャラいカンジの子が派手に驚いてみせている。
「そうそう、一ノ瀬志希ちゃん! そういう一線越えちゃったから謹慎してるって、そういうウワサってホントなんですかー美嘉ちゃんっ?」
 そう言って、ひどく意地悪そうな笑みを浮かべ、アタシの顔を下から舐め上げるように覗き込んできた。
 ――――。
「お、アハハ、ちょっと映画の話題とはズレて来ちゃいましたけど、世間の皆さんにとっても関心深い事でしょうねぇ。
 さて、実際の所どうなんでしょう城ヶ崎さん?」
 ――――――。
553:以下、
 ――美嘉。
 アタシの手を、奏ちゃんがキュッと掴み、小声で囁いた。
 アタシは、そんな奏ちゃんに横目を向けてフッと鼻を鳴らし、小さく首を振る。
 大丈夫だよ。これくらい、なんともない。
「いやー、それなんですけど、実はそれアタシのプロデューサーなんですよね」
 笑顔でアタシは質問に答えた。
「でも、仕事の一環だったんですよ? 食レポや街頭レポのお仕事が近かったので、二人で予行練習してたんです。
 アタシのツイッターにも、実際に収録された食レポのお仕事風景が見れたりするので、ぜひチェックしてみてくださーい★」
 サッとスマホを取り出し、カリスマポーズを決めてみせつつ、アタシは続ける。
「それと、志希ちゃんは確かに、困った事ばかりするコなんですけど、人が本気でイヤに思う事はしないコなんです。
 どんなウワサかは知らないですけど、彼女は根はとっても誠実で、ファンを大切に思う気持ちはアタシ達の誰にも負けません。
 ただ、アタシにセクハラばっかりするのは勘弁してほしいんですよねー」
554:以下、
「ほう、セクハラとは?」
 司会者の人が、興味津々といったカンジで質問を続けてきた。
「んー、まぁアタシの胸を触ってきたり?
 後はそのー、何か変な香水作ってきて、その実験台にしようとしたり。
 おかげで本番前なのにメイクが崩れて、すっごく慌てちゃった事もあったんですよ」
 あの日、アタシが前のプロデューサーと二人でぶらぶらした事について、追求される事もあるかも知れない。
 そう思い、プロデューサーとも予め相談して、用意していた回答だった。
 それと――まぁ、胸を触られるとか、結局イヤらしい話題にはなっちゃったけど、しょうがない。
 志希ちゃんに、もっといかがわしいイメージを持たれるよりは、イタズラで済まされるレベルの話の方がよほどマシだ。
 笑いながら躱しているうちに、無事イベントが終わり、涼しい顔でアタシと奏ちゃんは壇上を降りる。
 後ろで、187プロの子達が舌打ちをしたのが聞こえた。
 伊達に芸能界長くいないし、あの程度で動揺させられてたまるかってーの。
555:以下、
「やるやん、美嘉ちゃん」
 待ち合わせていたいつものファミレスに着くと、既に来ていた周子ちゃんとフレちゃんが手を振ってアタシ達を呼んだ。
 フレちゃんは、ずっと咳が取れなかったみたいだけど、ようやく快復したみたい。元気そうで本当に良かった。
「スープバーだよー☆」
 もはやお決まりとなった、フレちゃんによるスープのチョイスだ。
 今日のアタシは、中華スープとのこと。
 二人ともオフだったので、アタシと奏ちゃんのお仕事を一緒に見に来てくれていたのだ。
「今日のコら、一緒に上がってみてどんなカンジだった?」
 周子ちゃんが、フレちゃんのスープに手を伸ばしながら、ふと尋ねてきた。
 今度、二人もあの子達と一緒に合同レッスンに参加する予定なのだという。
「まぁー、見たとおりってトコかな? 対策さえ間違えなければ、なんて事は無いよ」
 そう言ったけど、フレちゃんは聞いてもいない様子で、奏ちゃんのスープを引き寄せて美味しそうに啜っている。
 仕方が無いので、アタシは自分のスープを奏ちゃんに渡して、周子ちゃんのを手元に引き寄せた。
 ちょうど、反時計回りにスープがそれぞれ隣に渡った形だ。何だこれ。
「しかし、187プロの嫌がらせも、いつまで続くのかしら」
 頬杖をつき、奏ちゃんが窓の外を見やって軽くため息をつく。
556:以下、
「差し当たり、『アイドル・アメイジング』本番までは続くと思っといた方がええんちゃう?
 一応、節目っちゃあ節目だし、それ以外にやめるきっかけも向こうさんとして無さそうだしさ」
 まるで他人事のように、周子ちゃんがスープを口にしながら答えた。
 チラッと見ると、早くも中身が空になろうとしている。
「それもそうね――ところで、あの人はどうしているのかしら?」
「あの人って?」
「前のプロデューサー」
 奏ちゃんの一言に、アタシと、周子ちゃんも手が止まった。
「なんか――新しく誰か、担当を受け持ったワケじゃあないんよね?」
「新たにスカウトを命じられてる、って聞いたけど」
「あの人が素直に新しい子をスカウトしてくるとは、とても思えないわ」
 奏ちゃんの一言に、アタシも周子ちゃんもウンウンと強く頷いてしまう。
 何せあの人は、奏ちゃんや周子ちゃんの話によれば、アタシ達に対してさえ、アイドルである事を快く思っていないのだ。
「でも――なんか最近、忙しそうにしてるっぽくない?」
 アタシは、ふと前のプロデューサーの近況を思い返してみる。
 あれは、本当に偶然だったけど、彼を街中で見かけたのだ。
 ネクタイをビッと締めて、バッグを片手に携帯で誰かと話しながら、足早に人混みの中を歩いていくあの人の姿があった。
 見間違えなんかじゃない。
557:以下、
「就活してんとちゃう?」
 周子ちゃんがスプーンを振りながらケラケラと笑う。
 なんか台無し――と思ったけど、確かに、あの人は今の仕事を辞めたいみたいな話を結構してた気がする。
「ただ、デスクにいる間も、結構せわしなくパソコン叩いてる気がするけど」
「何か焦燥感があって、話しかけづらいというのはあるわね」
 心機一転して、真面目にスカウトをしているのか?
 それとも、今の事務所など放っておいて、次の仕事に鞍替えする準備を進めているのか――。
「それよりさ、ねー、次の秘密特訓の日、いつにする? フレちゃん明日と明後日空いてるよー♪」
 フレちゃんがニコッと笑って、アタシ達に話題を振ってきた。
「フレちゃん、秘密特訓って言っちゃあ秘密じゃないよ」
「あそっか。でもイイじゃん、アタシ達しかいないんだからさ☆」
「あーごめん、シューコちゃん明日はパス。187プロの皆さんと合同レッスンやわ。
 ていうかフレちゃんもやん」
「ワォ、ホントだ! ゴメンゴメン」
 秘密特訓というのは――まぁ、あえて説明するまでもないかな。言葉通りの意味だ。
558:以下、
「明後日は――夕方からならアタシ、行けそう。奏ちゃんは?」
「私も問題無いわ」
「じゃあソレで☆ フンフンフフーン♪」
 フレちゃんが嬉しそうに携帯を手に取り、操作していく。
 彼女は、本当にLIPPSが好きなんだなぁと、見てて微笑ましくなる。
 でも、だからこそ、不安にもなる。
 LIPPSが大好きなフレちゃんが、LIPPSに対する悪意に直接触れてしまった時、彼女はどうなってしまうんだろう。
 怒るだろうか。それとも、ショックを起こしてしまわないだろうか。
 いずれにしても、良くない事が起こる気がしてならない。
 ただ――何があろうと、志希ちゃんや皆のために、アタシは頑張らなくちゃならない。
 志希ちゃんが抜けてしまったのは、プロデューサーじゃなく、アタシのせいなんだから。
559:以下、
 (■)
 久しぶりに、映画を一本借りてきた。
 不祥事のために芸能界を一時退いていた、かつて一世を風靡した男性アイドルの、久々の主演作。
 それは――自らの私利私欲のために、短絡的な犯行を繰り返す、サイコパスの話。
 女を襲い、人を殺し、狂言を繰り返し、そのような精神状態に陥った背景を、取って付けたようなお涙エピソードで脚色した作品。
 悩むまでも無く、C級映画と呼んで差し支えの無いものだった。
 私も、何かのきっかけで失脚してしまったとしたら、この元アイドルのように、芸能界復帰作でも酷い役を仰せつかるのだろうか。
 そして、あるいは志希も――?
560:以下、
 ネットでのLIPPSの評価は、どうやら二極化されていた。
 最近降って沸いた、いわゆるアンチと呼ばれる勢力に、以前からのファンと見られる勢力がそれを押し返す。
 アンチはそれらを、信者とか社員とか呼んで煽る図式だ。
 おそらく、どちらの勢力にもつかず、ただ騒ぎを大きくして楽しむだけの連中も相当数いるのだろう。
 うわ――やだ、私のいかがわしい話題もいくつかあるみたい。
「はぁ――」
 気にするな、とは美嘉やプロデューサーをはじめ、皆から言われる事だし、私だって気にする筋合いなど無いのは分かっている。
 そして、実際気にしていないという素振りを外面には見せている。
 ただ一方で、全く気にしないというのはなかなか難しい。
 アイドルというのは、人気を売り物にする側面もあり、人からどう思われているかというのは大きな関心事だ。
 割り切って、器用に立ち回るというのは、なかなか難しいものね。
 それが自然とできる美嘉や周子は、同じメンバーながら羨ましく、尊敬の念も覚える。
 フレデリカは、どうなのかしら――。
561:以下、
 ただ、これは少し不思議な事なのだけれど――。
 ここ最近は、187プロからの嫌がらせはネットでの攻撃のみに留まっており、一緒の仕事場での面と向かった攻撃は鳴りを潜めている。
 どういうつもりなのかしら。
 私達がそれに屈しない姿勢を見せるから、もう諦めた?
 それとも、一旦私達を油断させ、周到に準備を整えた上で、何か大きな事をしでかそうとしているのだろうか。
 気味が悪いというのが、正直な所ね。
 いずれにせよ、油断しない方が良いでしょう。
 皆も、それは重々承知しているようで、187プロに対する警戒を解く事はしていなかった。
 ただ一人を覗いて。
「ヤッホー☆ 見てみてー、ドリンク持ってきたよーどれにする? フレちゃんコレー♪」
562:以下、
 レッスンの休憩中、いつものように、フレデリカがクーラーボックスからドリンクを取り出し、皆に手渡していく。
 いつもと違うのは、その相手が私達だけでなく、187プロの子達に対しても行っているという点だ。
「あ、み、宮本さん私――」
「はい、私、宮本です」
「いや、急にマジメ口調になられても――私、そっちの水でいいです」
「水ですね? かしこまりました、では、宮本の、命の水でございます」
「ちょ、これいちごミルクですよ! 何でこんなものが!?」
「ありすちゃんの、チョイスでございます。宮本のせいではございません」
 私達に対してのそれと同じ、普段と変わらないトーンで彼女は誰に対しても接していく。
「前の時もそうだったんだよね、フレちゃん」
 隣に座る周子がふと、私に話した。
「あの187プロとの合同レッスンっていうから、どんな事してくるか分からんって、あたしでさえ一応身構えてたんだけどさ。
 フレちゃんときたら、自分からあぁして相手さん達にグイグイ接していって、もう終始ずーっとフレちゃんのペースよ」
 なるほど――攻撃は最大の防御、ということか。
 187プロの子達をタジタジにさせるフレデリカを見て、最初はそう思った。
 ――けれど、どうやら違うらしい。
563:以下、
「うわぁっ! サヤちゃん今のステップどうやったの!?
 魔法だよ魔法、フレちゃんにも教えて? こう、右足? 右足を左足にするカンジ? えっ、魔法!?」
「ミナちゃん、すっごい声キレイだねー! そうだ、カナデちゃんもそうだったけど、腹筋すごかったりする!?
 ちょっと見せて、うわっ、やっぱりそうだー! 腹筋職人☆ミナデリカ」
 フレデリカは、レッスン中も気づくと187プロの子達の良いところを見つけ、褒めたり、悪戯したりする。
 それは決して打算的であったり、不快感を与えるものではなく、心から相手を楽しくさせるものだった。
 私自身、それを受けてきたからよく分かる。
 187プロの子達は――なるほど、すっかり毒気を抜かれて、戦意を喪失してしまっているわね。
「あぁいうのは、フレちゃんならではだよね。アタシにはとても出来そうに無いや」
 美嘉が両手に腰を当て、心から感心した様子でその様子を眺める。
 確かに――すぐに対抗意識を燃やしてしまう私や美嘉には、あんな振る舞いは出来ないだろう。
 それはフレデリカの、隠された才能に発揮されていたという事を、私達は先日、ボーカルレッスンのトレーナーから聞いた。
「相対音感?」
564:以下、
 レッスンが終わり、着替えてレッスン室を後にしようとした矢先、プロデューサーの声が聞こえた。
 中を覗くと、プロデューサーがトレーナーさんと何やら話をしている。
 私と周子と美嘉は、こっそり聞き耳を立てた。フレデリカは、ジュースを買いに行くと言って先に出ている。
「絶対音感ではなくて、ですか?」
「はい、相対音感です。彼女は、類い希なその才能の持ち主です」
 絶対音感というのは、私にも何となく分かる。
 どのような音でも、ドレミの音階に聞き分けられるというのが、絶対音感。
 それに対し、相対音感とは――?
 どのような音にも、快いハーモニーを奏でる音――すなわち、ピッタリとハモれる音という。
 つまり、音の高低的な関係性を正確に把握し、曲調に応じ、相対的に快くハモれる最適な音を見つけられる能力を、相対音感というらしい。
 そして、フレデリカの場合、それはただの相対音感に留まらない。
 曲調だけでなく、一緒にいる人の呼吸や距離感等、調子や特性を見出し、その時の相手にとって最も気持ちの良い音や空気感を表現できる才能がある、というのだ。
「彼女は、LIPPSのスタビライザーであり、無くてはならない存在です。どうか大切にしてあげてください」
 支離滅裂でありながら、フレデリカといて不快に思えなかったのは、そういう理由もあったのね――。
 トレーナーの話を盗み聞きしながら感心していた私達の後ろから、当の本人が全員分のいちごミルクを持って襲いかかってきた。
565:以下、
 187プロの子達の、フレデリカに振り回されながらも打ち解けてしまっている様は、演技とも思えない。
 どうやら187プロによる嫌がらせは今後、ネット上のそれを重点的に警戒していくのが良さようね。
 となると、残る当面の問題は、私達が当日までにしっかり仕上がるかという事だけ。
 こればかりは私達次第であり、誰かの助けに頼ることもできない。
 その日のレッスンは、珍しく前のプロデューサーが見学に来ていた。
 理由を尋ねると、気分転換に、とのことだった。
 邪魔さえしないのなら、もはや関係の無い人がたかが気分転換で私達を見に来る事に、何も言う筋合いは無い。
 ただ――そのだらしない姿を見せる事に、いくらかの後ろめたさを感じるのは何故かしらね。
「ストップだ! ――水、やる気があるのか。キレどころか覇気も無い、ここへ何しに来ている?」
566:以下、
 ここ最近、同じ事をトレーナーさんから言われている。
 他の子達も、順風満帆とは行かないようで、美嘉でさえ「候補生からやり直せ」などと叱られるほどだ。
 あくまで私の場合は、だけれど――トレーナーさんの指摘は、本当だった。
 私は、手を抜いている。
 フレデリカはよく分からないけれど、周子もたぶん私と同じだろう。
 美嘉は違う。
 彼女は、この“表のレッスン”であっても本気の全力で取り組むのを信条としている。
 だが、それが逆に過度の疲労と、パフォーマンスの低下に繋がっているようだ。
「本気でやるのが、アタシの役だからね★」
 そう言って美嘉は滝のように流れる汗を拭い、震える膝を叩いてニカッと笑ってみせる。
 レッスンの壁にもたれながら黙って見ていたプロデューサーは、気づくと既にいなくなっていた。
「さぞ、ガッカリしたろうねぇ。あたしらのやる気の無さを見てさ」
 美嘉ちゃんは別として――と付け加えながら、出口の方を差して周子はニヤニヤと笑っている。
「えぇ――そうね」
567:以下、
 レッスンが終わり、軽い夕食を取った後で、再びレッスンルームに集合する。
“秘密特訓”の時間だ。
 私の体力は、この時のために取っておいてある。
 そのつもりで、温存していたのだけれど――情けないものね。
「2,3,4――――くっ」
 苦痛に顔が歪み、たまらず膝を落としてしまう。
「奏ちゃん、大丈夫!?」
「平気よ――もう大丈夫、さぁ、始めましょう」
「でも」
「この程度で音を上げている暇は無いわ。そうでしょう? さぁ、皆、配置について」
 心配そうに見つめる皆を、逆に私は精一杯鼓舞してみせる。
 正しく怪物達と呼んで差し支えない連中と、一緒に私はユニットを組んでいる。
 リーダーである私が、足を引っ張る訳にはいかない。
568:以下、
「はぁ、はぁ――――!」
 時計の針は、夜の11時を回っていた。
 仕事の合間を縫い、普段のレッスンとは別に行うものだから、どうしてもこういう時間帯になる。
 美嘉の終電も近いので、惜しみながらも切り上げて、更衣室でシャワーを浴びる。
「――――ッ!」
 そろそろ、足が限界かしら――。
 心配させまいと、先に皆を帰してから、ゆっくり準備を整えて更衣室を出て、出口に向かっている時だった。
 喫煙室で、物憂げにタバコをふかしているプロデューサー――そう、前のプロデューサーが目に入ったのだ。
 こんな時間まで、何をしているのかしら――。
 そう思ったのは、こっちに気づいた彼も同じらしかった。
569:以下、
「皆はもう、帰ったのか?」
「美嘉も、終電だったし」
「ふーん」
 プロデューサーは自販機にお金を入れ、けだるそうにボタンを二つ押した。
「私、コーヒーで良かったんだけど」
「そうか。悪いな」
 ジュースを私に手渡して、プロデューサーはため息を吐きながら隣に腰を下ろした。
 缶コーヒーをパコッと開けて、一口煽るその横顔には、疲れがありありと見てとれる。
「プロデューサーは、最近どうなの?」
 気にならないと言えば、それは嘘だった。
 担当を持たず、候補生のスカウトだけを任されているにも関わらず、彼はこの様子なのだ。
 疲労している中、この時間まで残っている辺り、彼が今の私達と同じ、何かに傾注しているのは明らかだ。
「最近、ねぇ――」
 隣に座るプロデューサーは、そんな私の質問には答えようとせず、ハハハと力無く笑って誤魔化した。
570:以下、
「だから、プロデューサ――」
「新しいプロデューサーは、どうだ。良い人だろ?」
 私の言葉を遮って、彼は逆に質問してきた。
 どうやら、私の聞きたかった事は、彼にとってあまり都合の良くない話らしい。
「――そうね。誰かさんと違って、チーフは親身に話を聞いてくれるし。
 今日は来れなかったけれど、レッスンにも顔を出してくれるわ。
 美嘉なんか、口にはあまり出さないけれど、やっぱり彼の事を好いているみたい」
「だよなぁ」
 コーヒーを啜るプロデューサーの横顔は、満足そうな笑みをたたえている。
「やっぱり、君達にはあの人の方が合ってる」
 不意に、言いようのない寂しさが、私の心にまとわりついた。
 その一言で、彼が急に遠い存在に思えてしまい、それを彼が心から望んでいるかのように感じたのだ。
「プロデューサー――」
 ジュースの缶をギュッと握りしめる。
 11月も中旬に差し掛かろうという時期に、プロデューサーのチョイスしたそれは、私の体温を刻々と奪っていく。
571:以下、
「ところで、足、大丈夫か?」 
「――えっ?」
 急に聞かれ、私の体が跳ねてしまう。
「どうして、分かったの?」
「足、引き摺ってただろ」
 コーヒーを傾け、それが空っぽなのを確認すると、プロデューサーはそれを椅子の脇に置いた。
「靴擦れか? それとも、指の爪でも死んだか――まさか、骨って事は無いだろうが」
「――――」
 私の方に向き直り、彼は先ほどまでの疲れ切ったそれなどまるで見る影も無い、真剣な顔つきで言う。
「見せてもらってもいいか?
 場合によっては、君のレッスンを止めるよう、俺はアリさんに進言しなくてはならない」
「それは――!」
「たとえ俺でなくても、プロデューサーなら誰もが取るべき判断だ」
「! ――――ッ」
「俺が言っても説得力無いのは分かってる。
 だが、やる気があれば何をしても良いなどと考えているのなら、それはマジで改めろ」
572:以下、
 時間を掛けて、革靴を慎重に脱ぐ。
 靴下がそれにかかる時、息が詰まりそうになるのを必死で堪えながら、私は何とかそれをプロデューサーに曝け出した。
「――爪か。捻挫とかは、内側は痛めてないか?」
「ううん、たぶん」
「たぶんとか言うな――ここ、押されると痛いか?」
「痛くないわ」
 真っ黒になっている爪の指辺りを触れられると、本当は泣きたくなるほどに痛い。
 それ以外は、足首を回されようが、付け根とかを押されようが、特に何ともなかった。
 それを知って、プロデューサーは小さく頷くと、片膝を立てた状態からゆっくりと立ち上がり、軽く伸びをした。
「現役女子高生の生足を思う存分触れて、満足かしら?」
 フッと笑い、精一杯の虚勢を張って茶化してみせると、プロデューサーは小首を傾げた。
「あぁ、堪能した」
「馬鹿」
「どっちが馬鹿だ」
 そう言って見下ろすプロデューサーの顔からは笑みが消えていて、私は思わず息を呑んだ。
573:以下、
「しかし、あの程度のレッスンでも、こんなひどい怪我を負ってしまうものなのか?」
 彼にとっては何気無い、いつものようにデリカシーの無いその一言は、私を大いに動揺させた。
 秘密特訓の事を、彼には知らせていないからだ。
 冷や汗を掻きながら、ポーカーフェイスを必死で続ける私を尻目に、彼は続ける。
「本番前に体を壊してしまっては本末転倒だ。無茶だけはしないでほしい」
「無茶はしない。でも、無理はするわ」
「そういうのを屁理屈っつーんだよ」
 クシャクシャと頭を掻いて、プロデューサーはハァ――と、どこか満足げなため息を吐いた。
「本当、君はクールに見えて、年相応に幼稚で負けず嫌いなんだな」
「リーダーには不向きかしら?」
 鼻で笑いながら、私がそう聞き返すと、彼は洋画の俳優のように大袈裟に肩をすくめてみせた。
「今のアメリカの大統領を見ていれば、そうでもない」
「何それ」
 不意に飛び出した妙なユーモアに、私は思わず吹き出してしまった。
 それを見たプロデューサーも、珍しく無邪気に笑っている。
574:以下、
「さて――付き合わせて、悪かったな」
 ふぅ、と息をついて、プロデューサーは手を差し出した。
「ジュース」
「えっ? ――あぁ」
 まだ空になっていない缶を渡すと、プロデューサーはそれを面倒くさそうにクッと飲み干し、ゴミ箱に捨てた。
「寒くなってきたから、風邪とか引かないようにな。体は大事にしろよ」
 そう言って、プロデューサーは踵を返し、あくびをしながら通路に出て行く。
「プロデューサーも」
「うん」
 後ろ手に手を振りながら、ノソノソと歩いていく。
 ――人にはそう言うくせに、自分はまだ仕事をして、体を酷使するつもりなのね。
「まったく――何考えているのかしら」
「だよなぁ」
575:以下、
 ケラケラと、背後の柱の影から、すっかり板についた彼のモノマネをする声が聞こえる。
 先に帰って、って言ったのに――本当、物好きね。
「ま、言ってもあの人なりにさ、奏ちゃんやあたしらを心配してくれてるって事で、許してやんなよ」
「えぇ、そうね」
「許してやれって、そんな上から目線な――まぁいっか」
 心配してそうな声が、また後ろから聞こえた。
 終電近いって言ったの、この子なのに――。
「でもさ、アタシがチーフさんに気があるみたいに言うの、やめてくんないかなぁ」
「だって、本当でしょう?」
「見え見えやんな?」
 振り返らず、クスクスと笑う私の後ろで、彼女はおそらく腰に手を当て、ため息を吐きながらかぶりを振っているのだろう。
 まったくもって、愉快なメンバーに恵まれたものだと、心から思う。
 突拍子も無く、観葉植物の影に隠れていたフレデリカが、いちごミルクを手にプロデューサーの前に踊り出す。
 驚きのあまり、彼が仰向けにもんどり打って倒れるのを見て、私達は腹の底から笑い転げた。
576:以下、
 (・)
「いや?ご多用の中お時間いただきましてありがとうございます?。えぇ、私、お電話でお話させていただきました――!」
 公務員というのは、営利目的で業務を行う事は無い。
 非営利に舵を振れるというのは民間企業には無い強みとも言えるが、同時にいくらか困った話にもなる。
「えぇ、そうなんですよぉ?私共の方ではですね、他社さんと協同でこういった一大イベントを企画してございまして――」
 詰まるところ、彼らの業務にはノルマが課せられない事が多いため、自ら進んで仕事を取りに行く事を、通常は考えない。
 やむを得ない本来業務以外は、行政サービスというお題目が立たない限り、極力排除するのが基本だ。
 給料が公金である以上、無駄な執行をしないために業務を最適化し残業をさせない、というスタンスはそれなりに正しい。
「あぁ?いえいえ! 仰る事はよく分かります、私共もお役所様とお仕事をさせていただくのは初めてではございませんでして――」
 そんなお堅い連中を相手に――。
 何をやってんだろうな、俺は。
577:以下、
「えっ――他の自治体でも、このような事業に参加した事例があるのですか?」
 窓口で鬱陶しそうに俺の話を聞いていたハゲ面の中年職員が、少し反応した。
「そうなんですよぉ?意外でしょう? 例えば東京都さんですとか、あとは23区ですと千代田区さん、中央区さん――」
 彼らが特に恐れるのは、自らが先駆者になることだ。前例の有無を極端に気にする。
 自分の裁量で物事を決定できず、何かしら寄りかかれる判断基準が無いと彼らは動かない。
 そう――逆に言えば、前例があると知った時、彼らのハードルはかなり下がる。
 そのための業界研究は予め行ってきたが、どうやら少しは効果があったようだ。
「ウ?ム――ただですね、やはりこちらとしては、特定の業者さんに肩入れするというのは出来かねるんですよねぇ」
 中年職員は、俺が持ってきたポスターを指差して言った。
 いくら『アイドル・アメイジング』の宣伝ポスターとはいえ、このデザインだと露骨に346プロのLIPPSをアピールする格好である。
 もちろん、その返答も想定通りだ。
「あぁ?、そうでしたか、大変失礼を致しました。そうしますとですね、うーん――例えば、こういった体裁だといかがでしょうか?」
 少し悩んだフリをしつつ、用意していた別のデザインを提示する。
578:以下、
「こちらですと、出演者をというより、会場をより強調してご案内する形になろうかと存じます。
 ご指摘いただきました、公平性という面においても、宣伝の主題を会場とするこのレイアウトであれば、解消されるのではないかと」
 と言いつつ、下部に寄せた出演アイドルの写真は、ちゃっかりLIPPSが真ん中だ。
 このポスターやチラシの作成に当り、俺は課長の許可を取っていない。
 彼にいちいち決裁を求めていたら、回る仕事も回らないというのもある。
 しかしそれよりも、近いうちに辞めてやると開き直れば、案外何でも出来てしまうものである。
 ただ、広報課や営業課の助けは必要だった。
 彼らは、一にも二にもなく俺の話を聞き入れて、協力してくれた。
 どうやら、奥多摩支社長を殴って辞めさせた事件が、社内ですっかり広まってしまったらしい。
 気骨のある奴と思われたか、それとも逆らうと何されるか分からないと思われているのか。
 とにかく、これは俺の独断で進めている事なのだから、何かあったら俺の責任にするよう、よく伝えてある。
 かつて俺がこっぴどく言ってしまった営業課の若い社員は、笑ってそれを承諾してくれた。
579:以下、
 握り拳を口元に当て、少し唸った後、職員はとりあえずと言った様子で渋々頷いた。
「他の自治体にもヒアリングをして、こちらとして支障が無いと判断できましたら、いただいたチラシと併せて掲示しておきます」
「ありがとうございます。その際は、お手数ですが私にもご一報いただければ幸いです」
 満面の笑みで、慇懃とした姿勢をこれ見よがしに強調させ、俺は深々と頭を下げる。
 最初から後者のデザインを見せても、たぶん先方の了承は得られなかっただろう。
 交渉というのは、お互いの妥協点を探ることであり、いかにこちらの譲歩を相手に認識させるかでもある。
 故に、まず無理であろう提案を先にして、そこからあたかも譲歩したかのように、こちらの要求レベルに相手を引き込むのがセオリーとなる。
 成功したかどうかは分からないが、やるだけの事はやった。次の営業先へ向かわなくては。
580:以下、
 課長からは、新たなアイドルをスカウトしてこいとのお達しを受けている。
 だが、当然に俺はそれをする気などサラサラ無かった。
 一方で、俺が今行っているのは、俺が最も嫌いな仕事でもあるというのが、どうにもままならない。
 最初に行ったコンサートホール――5年前、俺が元いた職場は、俺の事を温かく出迎え、親身に話を聞いてくれた。
 実際にそこが会場になる訳でもないにも関わらず、ポスターを掲示し、チラシを置いてくれるというのにはさすがに驚いた。
「私の方から、他の施設や自治体さんにも連絡を取っておくから、営業に行くならそれからにすると良いよ」
 かつての上司である館長さんは、そう言って俺の名刺を大事そうに受け取り、ニッコリと笑う。
 自然と、頭が下がった。
 一件目の営業先で勇気と助力をもらえた俺は、リストを手に片っ端から売り込みを掛けていく。
 俺は――なぜそうしようと思ったのか自分でも不思議なのだが――『アイドル・アメイジング』の宣伝を各所にしている。
 それも目についたもの。手当たり次第にだ。
581:以下、
 数年おきに転職を繰り返してきた俺には、培ってきたスキルなど何一つ無い。
 あるとすれば、色んな業界を渡り歩く中で得た、各方面の浅い知識と、浅い人間関係。
 それだけが俺の武器だった――いや、今はそれを武器にしなくてはならない。
 だが、さすがに役所は効率が悪い。
 その特性は十分に理解していたはずだが、しかし曲がりなりにもかつて自分が同業だった手前、遺憾ながら親近感があったのかも知れない。
 自分がかつていた役所にも一応顔を出したが、知っている人間はほとんどいない。
 もう7、8年になるか。それだけ経てば、大抵の職員はさすがに異動するだろう。
 乾いた心でテンプレ通りの営業をかけ、想定通りの受け答えをして、その庁舎を後にしようとした時だった。
 後ろから、思いもよらぬ人物が俺に声を掛けてきた。
「おー、誰かと思ったら、ピー君。ピー君じゃないか」
 振り返ると、俺がここに勤めていた時の上司――。
“先生”とグルになり、汚職まがいの事をして悠々と退職したはずの、爺さんがいた。
582:以下、
「――その呼び方はやめてください」
「ハッハッハ、水くさいことを言うな、元気にしていたかね?
 ん? 君はもうここの職員じゃないのか」
 その爺さんは、何かの契約のための印鑑証明を取りに来ていたらしい。
 近況を話しつつ、渋々差し出した俺の名刺を、彼はとても感心した様子で眺めていた。
「そうかー。確かにピー君には、我々の行った事で随分と面倒を掛けたようだね。あれはすまんかった」
 慣れ慣れしく俺の肩をポンポンと叩き、ワハハと笑ってみせる。ふざけやがって。
「ただ、そういう事であれば、私にも一肌脱がせてくれないかね? 営業先を探しているのだろう?」
 LIPPSファンだという彼が提示したのは、おそらく現役時代、彼がお世話になり、お世話したであろう業者の数々。
 そして、付き合いのある“先生”方の名前だった。
 俺が毛嫌いする人種ばかりだが、その中で気になるものが一つあった。
 俺が最初に勤めていた会社が、爺さんが挙げた業者の中に含まれていたのだ。
「先生方に会う時は、私も同席するよ。馴染みの店でないと、ヘソを曲げる人も多いからね」
 業者連中は気にしなくとも良いが、と付け加えて、彼はまた笑った。
583:以下、
 ――――。
 まさか、またここに来ることになるとは――。
 俺は――もう10年以上前になるのか――俺にとって最初の会社の、玄関前に立っていた。
 何も感慨が無いと言えば、さすがに嘘になる。
 いつの間にか新調されたエレベーターで上がり、かつての上司がいるというそのフロアへ向かう。
「――おーっ! 待ってたぞおい、ピー! 元気そうじゃねぇか、エェ、こっち来て座れや!」
 入って一年目の時、現場で青臭い俺を散々怒鳴りつけていた作業所長は、本部の重役になっていた。
 白髪の増えた頭を掻き上げ、しかしあの時と変わらないデカい声で、俺を見つけるなり手を振って呼びつける。
「そのあだ名は、勘弁してもらえませんか?」
「ガッハッハ、久しぶりに会ったってのになーに言ってんだお前は! エェ、腹の調子はいい加減マシになったのかよ、ピー!?」
「おかげさまで、はい」
「シマさんには挨拶行ったのか? あの人も寂しがってるからよぉ顔見せてやれよ、エェ!? ワッハッハ!」
「えぇ、はい」
 取り繕いながら、何となく古傷が痛むのを感じて、俺は知らず腹をさする。
584:以下、
 ピーというあだ名は、この人が付けたものだった。
 配属されて三ヶ月ほど経った頃、現場にてバーベキュー大会が催されたのだ。
 てっきり、車を出せる人ので数台乗り合わせて、どこかの河原か山で行うものとばかり思っていたが、全然違った。
 バーベキューは、現場で行われたのだ――工事現場の、普段はトラックの搬入経路として開かれているヤード内で。
 先輩と一緒に買い出しに出かけ、戻ってみると、既に会場がセットされていた。
 腰の高さほどに積まれた廃材のALC板が両端に添えられ、その上に一枚のデカい鋼板が置かれている。
 その周りに、おそらく椅子代わりであろう、逆さにしたU字側溝がグルリと配置されていた。
 鋼板の下には、木の廃材と新聞紙、木炭がたっぷりと放り込まれている。
 まさか、コレの上で焼くのか――?
585:以下、
「よーく洗っといたから心配すんな、ワハハ!」
 いや不衛生にもほどが無いっすか!? という俺の心の叫びは当然無視されて、宴会が始まった。
 訳が分からないまま、先輩方にお酌してまわり、余った肉を口に詰め込まれ、浴びるほど飲まされ――。
 漏らしてはいない。断じて、漏らしてなどいないが――。
 ケツと腹を押さえ、青い顔をしながら現場のトイレに駆け込んだ俺にあらぬウワサが付いた。
 ピーとは、すなわちそういうピーだった。断じて1ミリたりとも漏らしていないのに、だ。
 おまけに、役所に転職した直後、この人達が俺の新しい職場に冷やかしに来たものだから、そこでもあだ名が広まってしまった。
 ちなみに、さっき所長が言ったシマさんというのは、当時俺を可愛がってくれたベテランの職長だ。
 俺の悩みを度々居酒屋で聞いてくれたし、酒とタバコも彼から教わったようなものだった。
 言われるまでもなく、ここに来たからには挨拶に行かなきゃな、とは思っていた。
「しっかし驚いたなぁ、お前役人になったと思ったら今度は女の子達のえーと、何だっけ?」
「プロデューサーです」
586:以下、
「そうそう! はぁ??女っ気の欠片も無かったお前がなぁ、さぞかし楽しいだろ毎日、なぁ? ワハハハ!」
 扇子を扇ぎながら、その人は豪快に笑う。
 俺は閉口した。彼が思うほど華やかな世界ではない事を、彼に知ってもらう必要も無いように思えた。
 LIPPSの事を話すと、所長――いや、統括部長殿は一層上機嫌になった。
「今年入ってきた若ぇヤツに、何か芸やれって言ったらよぉ、あの何だっけ? ピンクの、あーっと――そう、城ヶ崎美嘉!
 あれのよぉ、カリスマポーズってのか? それをキレキレにキメやがってよぉ、あー知ってる知ってる」
 他にも、社員の中には、水さんの映画コラムや、塩見さんのラジオ、宮本さんのバラエティ番組での無双ぶりを楽しんでいる人が大勢いるらしい。
 一ノ瀬さんの曲の名前まで、部長の口から出たのには驚いた。
「当然、チケットくれんだよな?」
「えっ? あ、えぇとまぁ、あの――」
「ワッハッハ! 真に受けてんじゃねぇよマジメかお前は!
 今動いてる現場全てに貼っとくよう指示するよ、下請けで世話になってる業者にも言っとく。ポスター寄こせよ、大量にな」
 彼から口利きをしてもらえる業者のリストをもらった。膨大な数だ。
 これらに一件一件出向かなくてはならない。嬉しいという気持ちよりも、正直気が滅入る。
「ところでピー、お前今日空いてんだろ?」
587:以下、
 本来であれば、事務所に帰らなくてはならなかった。
 以前、役所で会った爺さんに紹介してもらった先生との約束が、明日にセッティングされていたのだ。
 対応を誤りたくはない厄介な相手なだけに、その準備はなるべく念入りに行っておきたかった。
 だが、結局俺はその人からの誘いを断りきれず、彼の部下大勢と居酒屋に来ている。
「何だお前、ピーお前、あんなトコにいりゃあ取り放題だろうがよ。これまで何人仕込んだんだ、エェ!?」
 彼女達には決して聞かせられない、下品な話がバンバン飛び交う。
 俺は「そっすねー」なんて、白けさせない程度にはぐらかす事に徹しなければならなかった。
「お待たせしました、ジンジャーエ――」
 若い男の店員が口を滑らせようとして、俺がギ口リと睨む。
「あっと失礼しました、ジンジャーハイボールでーす、こちらですねー」
 今この場でバラしたらぶっ飛ばすぞてめぇ。
588:以下、

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