8月だし、おまいらが身内や知人から聞いた戦争体験でも書いてけback

8月だし、おまいらが身内や知人から聞いた戦争体験でも書いてけ


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【記者と案内人】朝日新聞記者と小学校教員、異なる戦争体験
 1935年、糸満の漁港で写したとみられる記念撮影風の1枚には、沖縄を取材して本土に戻った大阪朝日新聞の記者と、糸満での取材を案内した人たちが写っている。
その後の歩みは異なるが、それぞれが激動の時代をくぐり抜けていた。
(以下略)
※全文はソース元で
http://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/111965
※こちらは一昨年立てられた戦争体験談のスレ
8月だし、おまいらが身内や知人から聞いた戦争体験でも書いてけ
http://world-fusigi.net/archives/8075594.html
19:
うちのじーさん、ジャワ島で戦闘機が故障して不時着して、そのまま終戦まで現地で米作ったり水車を作ってやったりして楽しく過ごせたんだと。
色々現地人に教えてやってるうちにジャワの言葉も覚えて、すっかり現地に溶け込み、終戦後日本に帰るときには引き止められるほどだったとか。
軍資恩給?は海外にいると多く貰えるとかで、満額支給。ばぁさんが亡くなった次の週には「わし、よそにも女いるからお別れや」と言って出ていったきり消息不明。バイタリティが俺らとは段違いだは
20:
地元では5,6年に一度不発弾が発掘されるんだがw
33:
うちの父ちゃんはまだ子供で、ど田舎だったから遊んで帰ってきたら、戦争負けたって親に言われたらしいよ
あとは、食べる物がなくて松茸ご飯もほぼ松茸とか言ってた
34:
50キロ離れた隣町に子連れで行ったら、運悪く空襲に合い
子供を背負って、走って帰ってきたおばちゃんを知ってる。
途中、何度も、土管の中とかで身を隠しつつ。
39:
岡山県にいた第17師団だったと思う、祖父が高松で訓練を受けて南方へ向かう前に戦争が終わったとずいぶん前に話してくれた事があった
戦争が終わって岡山県の和気町あたりへ帰る際、本当に酷い雨で西大寺から長船町あたりは洪水だったと
その雨で和気町の川が増水、学校の屋上に避難した先生と生徒は建物ごと流されて助けを求めながら濁流の中で校舎が倒壊。みんな亡くなったんだそうだ。いま消防署がある辺りから少し南に行くとカーブになってて、そこで
戦争が終わって助かったというのに気の毒な話で、祖父の姉さんもその話を聞かせてくれた時に居て当時の事を話してくれた。図書館があるところの橋に慰霊碑が建ってる
実際は満州も南方も戦地へ行ったと祖母は後から教えてくれたが、戦争の悲惨さはとても言葉で伝えられるものではないのだろうね
口に出しても何か違う、いやこうじゃないって感覚
54:
>>39
あれ、婆さんから洪水(吉井川)話は聞いたぞ。
多分君の爺さまとうちの婆さんの生誕地はかなり近いな
144:
>>54
おぉ、そうですか。今年もそちらはクソ暑いですか?
その時は西大寺の先が洪水で電車が止まって動かなくなったそうだ
仕方ないから関西方面へ帰る同僚に食料を渡して自分は歩いて吉永あたりから今の日生町方面へ向かったと
祖父は曾祖父から受け継いだ土地を提供して、地域に工場や学校ができた
今はもう工場も閉鎖されてしまい過疎で学校が無いそうだが
222:
>>144
こっちはクソ暑々
>吉永あたりから今の日生町方面へ向かったと
うんうん。よくわかる地名じゃわ。
そういえば、うちも聞いたがいくら岡山県南とはいえ結構な距離を峠だなんだとあるのに?まで歩いてた?行商してた?とか、現代的な感覚じゃビックリする話あるよな
40:
爺さん→神奈川(横須賀?)で訓練中に終戦
婆さん→飛行機に機銃で撃たれるから姉妹で隠れる話や、近くの山にある横穴は防空壕の跡って話
まぁ爺さんの話は、思うところがあったのか、私がガキ故にだったのか本人から聞けず、死んだ後に婆さんから聞いた。
41:
海軍におったじいちゃんの話で
軍艦の大砲?に配置してたら隣の兵隊さんが戦闘機の弾に当たって吹き飛んだらしい
ほんと凄い時代を生き抜いてきたんだなって思った
44:
俺のじい様戦時中インドシナにいたんだけど、バナナ食い過ぎて腹壊して入院した
でもそのおかげにインパール作戦に参加しなくて済んだらしい
だけど終戦直後日本が負けたと知った瞬間じい様の部下が手榴弾抱えて目の前で自決したのを止められなかったのを今でも忘れないって言ってた
45:
爺さんがシベリア抑留組。中尉だったから4年間強制収容所送り
兵卒は1、2年位で帰れたらしい
ガタイのいいやつから栄養失調で眠るように死んでいったとか
爺さん体が小さくて生き残ったけど、帰ってきて1年間は栄養失調のせいで頭が動かず働けなかったらしい
航空整備兵だったので隼も整備したとか
なお本人は話したがらず、直接聞いたことはなかった
61:
>>45
うちの親父もシベリアだな
少尉だったんだが、学歴もあるってんで途中でモスクワまで連れていかれて
徹底的に共産主義を叩き込まれたらしい
まあ日本に帰ったら活動してくれってことらしいな
しかしうちの親父はまったく赤化してなかった
どうしてなのか聞いたら
「そりゃお前、聞けば聞くほど共産主義って絶対にうまくいくはずがないってのがわかってくるんだよw」
って笑っててわ
あんな怪しげなものに飛びつくのは、貧しい農家出身の奴とかが多かったなって言ってた
「平等って素晴らしい!!」ってなるらしいw
73:
>>61
ああそんな話は聞いたわ。
皆んな赤に染まったふりしてたとか。でないと返してもらえないかららしいけど。
119:
>>45
多分俺の爺様と同じ境遇だわ
一昨年鬼籍になってしまわれたが婆ちゃんがあの人は人食ってたんだよって言っててドン引きした。
128:
>>119
許してやってくれ。
数人に黒パン一斤だけの配給で、それを人数で等分とかだったらしいから
体でかい人はそれじゃ足りないので、水でふやかして量を多くしたから、なおさら吸収が悪くなって死んじゃったんだろうって話だった
俺らには絶対に判らん状況だから
48:
よっぽどトラウマだったのか誰も何も話さなかった
49:
従軍体験のある人もかなり減ってきたね。佐官だった人なんて数を数えるくらいだろう。こうなると記憶の改竄がますます進むんだろうね。
50:
じいちゃんきのこ雲を近くで見て次の日現場で遺体の処理
見ただけの人は手帳もらえたけどじいちゃんは貰えずだった
医者に関係ないとは言われたけど俺は白血病になった
53:
大叔父が大陸での戦闘中にわざと上官のそばに向けて銃を打ったらその上官が大人しくなった
映画やドラマに出てくるような理不尽で横暴な上官だったからムカついてやったらしい
55:
じいちゃんは終戦時にまだ子供だったけどじいちゃんちの山に戦車が大量に置かれてたんだって。銃剣とかも拾ったんだけどなくしたそうな。
九州だから本土決戦に備えて温存してた兵器なのだろうか?
あとばあちゃんのお父さんは南方戦線に徴兵されて帰らなかった
130:
>>55
米軍の暗号をある程度解読してたから宮崎に上陸作戦するのを判ってた。
なので九州に戦車集めてたんよ。
戦車がずら?と並んでる写真見た事ある。
194:
>>130
よく宮崎ってわかったね
415:
>>130
宮崎も飛行場あったりして結構な軍事拠点だったんだよな
日南の王子製紙には米軍基地の機銃掃射の弾痕が残った建物があったな
俺の地元の都城は富士重工の工場があって、今でもネットでその工場が銃撃にあう動画が見れる
59:
婆ちゃんは、自分の婆ちゃんの実家の茅ケ崎に疎開したんだが
戦争が終わって7歳の時に根津の自宅に帰ってきた
茅ヶ崎も、根津の自分の行動範囲(谷中から本郷周辺)も、全く
被害がなかったんで、東京大空襲も知らんかった
62:
祖父は奈良の予科練に行っていたらしい。だからなのか飛行機にもヘリコプターにも乗せてくれた。ただ予科練について聞いても何も話してくれなかった。空が好きでも、かなり嫌な事があったのだろうと思う。
63:
ビルマで戦ってたじいちゃん、指が3本なくなってて腕には弾丸が埋まったままだって聞いた
70:
パン職人の爺さん
建物疎開で自宅が軍に接収

戦後、返還されず他人の手に

農家から材料を調達して洋菓子を作って売り捌く

自宅の土地を買い戻して自宅兼工場を再建
730:
>>70
淡々と書いてるが前向きで良い話だ
72:
陸軍だったトーチャン達は戦争終盤、門司から広島に向かって移動していたが
移動した3日後位に前に居た街が空襲に遭ったらしい
そして呉鎮守府(クレチン)で終戦を迎えた
その後、引き上げ船が呉港に入港して皆が盛大に帰港を祝って万歳してる目の前で
機雷に当たってあれよあれよと言ううちに沈没したらしい
77:
うちのじいさんは軍曹で主計だったらしい
戦争が終わっても残務処理でしばらく仕事があったとか
非常に小食で、戦時中でもそれは変わらず
飯の盛りも少なくするように配膳の兵士に言ったけど
事情を知らない他の人間がそれをとがめて兵士をぶん殴ったことがあったそうな
78:
うちのじいちゃんはあんまり話したがらなかったな
死んだ後にアルバム出てきて、戦友達との写真に何月何日どこで戦死とか細かく書いてあって一生背負ったんだろうなと切なくなった
もう一人のじいちゃんは爆弾抱えて戦車にひかれる訓練してたら戦争終わったって言ってた
81:
じいちゃんは突撃のラッパ吹いてたそうで無傷で帰国。ラッパ持って帰ってあったらしいんだけど人知れず処分したらしい。戦争の話はしてくれなかったから思い出したくなかったのかな
83:
終戦まで中国戦線、満州にいた人はまだ幸運だわ。
南方に送られた人は殆ど帰ってこなかったらしいからなあ
84:
うちのジッジは中野でわいわいしてたみたいや
87:
親父の足の親指の爪が変な形
ガキの頃なんでって聞いたら
爆弾運んでて、落としたって言ってた
親指の上にな・・
89:
うちのじいさんはいよいよ南方で、近海で訓練していたら、轟沈されて、入院していたら、運よく終戦だった。
運ゲームだよね。
91:
撤退中、匍匐前進で森を彷徨って居たら、ばったり米兵の一人と出くわしちゃって
「嗚呼、終わった…」って覚悟決めた所、その米兵が徐にウヰスキーボトルを差し出したそうな
こっちはお礼にタバコをあげて、お互い一服しながら酒を酌み交わしたんだって
その後二人共何も言わず180度回れ右して別れたと、沖縄で戦った爺さんから聞いた
384:
>>91
良い話だね
564:
>>91
誰も好き好んで殺し合いなんかしたくないんだよ
94:
末期には戦闘機が地上スレスレの低空を昼間っから堂々と飛び回っていて、パイロットとはっきり目が合ったらしい。でも撃たれなかったとか。嘘くさいけど
103:
>>94
いや、それはあると思う
うちのお袋もパイロットの金髪、青い目まで見えたって言ってた
おまけに機銃掃射受けたらしい
120:
>>94
>>103
東京大空襲の話は戦後、身内から聞きました。
対空兵器が消失している状況で、B29はまるで嘗めるように
総武線を添うように東から侵入し、
ジュラルミンの敵機の下部は燃える市街地の炎を照らしオレンジに光っていたそうです。
10万を超える市民が犠牲になりました。黙祷を捧げます。
109:
>>94
嘘くさくない。
ばあさんは、近くの航空基地の練習機赤とんぼを、米軍戦闘機が追い回してたけど銃撃しなかったっていってた。
要はからかって遊んでたようだ。
あとは地上走ってる犬とかを銃撃して遊んでたらしい
もう日本には反撃する戦力もなかったから
145:
>>94
うちのオヤジは終戦時5歳で台湾に居たが、トウキビ畑を歩いてたら空襲に来た戦闘機のパイロットの顔がハッキリ見えたとか言ってたわ。
97:
北海道の港町だが、爺さんたちの話によると戦中戦後に食糧難が一切なかったらしい
川に虫取り網を突っ込んだらいくらでもシシャモが捕れるし、農家との物々交換でも鮭一尾で結構な量の野菜と交換してもらえるしで
98:
叔父(長男、俺の父親は9人兄弟の末っ子)は戦艦武蔵と共にレイテ島沖で沈んだ
くらいしか知らない
100:
じいさん樺太で抑留されてて昭和25年に帰って来た。
抑留されてたとき朝起きたら隣の戦友が凍死してたりして、よく埋めてたって言ってたわ。
113:
>>100
>抑留されてたとき朝起きたら隣の戦友が凍死してたりして、よく埋めてたって言ってたわ。
それ、うちの親父も言ってた
「明日も頑張ろうな」って言って眠りについた隣の奴が
次の朝冷たくなってたりしたことがよくあったらしいんだが
それがトラウマになってたのか、自分の母親が亡くなるときに病院にいたんだが
「人が死ぬのを見るのが怖い・・・」っていって病室を出て行った
自分の母親の臨終が怖いって感覚は俺には理解できないけど
やはりなんかフラッシュバックしたりしたのかもしれないと今になって思う
104:
うちの親は昭和5年生まれで、次の年に兵役に付く前の年に終戦って言ってた。
少しでも生きたいと当時、最も死なない内地の海軍の通信に受かったって言ってた。
凄い倍率だったらしいが、俺が言うのも何だか親父は天才だったから受かったんだと思う。
126:
うちのじいちゃん、戦艦大和にぎりぎり人数いっぱいで乗れなかったらしい
そのあとタイだかで川に飛び込んで泳いだお陰で助かったとか
そのあと長崎に派遣されて原爆→爆心地から遠かった+防空壕にいたから被害なし
でも気絶したって言ってた
しかし、片付けで暫く長崎にいて地獄だったって言ってた、被爆手帳もどたばたでもらい損ねてた
そんなじいちゃんは、おつかいでアイスとフローズンを間違えて買ってきてばーちゃんに怒られてたのんびりじいちゃんです
今は天国にいます
133:
俺の曾祖父は戦艦八雲に乗っていたらしい
何でも世界を何周もしたとか
ほんとかな?
146:
もう亡くなったけど近所の医院の先生が広島大学の出身で
戦時中も学生で広島にいたんだが
原爆投下の前日に何人かが教授に呼ばれて
「おまえらとにかく農家かどこかで大八車を調達してきて今すぐ広島を離れろ
 とにかく今すぐだ、できるだけ遠くへ、山を越えて行け、理由は聞くな、他人にも話すな」
って言われたらしい
その医院の先生は真面目な性格だったので教授の言うことを聞いて
徹夜で山を越えて広島から離れたらしい
夜が明けて、やれやれ一休みってところで広島市内方面が突然光ってキノコ雲が・・・
教授の言うことを聞かずに広島に残った者は全員亡くなったらしい
「ああいう情報って、どこからか入ってきて、知ってる人は知ってるんだなぁ」って
その医院の先生はしみじみ言ってたな
328:
>>146
戦争末期は米軍が空襲前に予告ビラ撒いてた
広島長崎も原爆投下予告ビラが撒かれたよ
原子爆弾がものすごい威力があるのでのを先生は知ってたんだね
アメリカが広島に原爆を落とす前に大量に撒いたビラの内容がこちら
http://world-fusigi.net/archives/8533605.html
337:
>>146
投下を事前に知っていて逃げられた、っていう人は結構いるらしいな。
米国は情報を集めやすい所に日系人のスパイを入れてて、
広島大もそのひとつだったんだろうね。
知ってて逃げた、っていう人が余り表に出てこないのは
機密を破って教えてくれたスパイへの配慮と、自分だけ助かったっていう後ろめたさなんだろうな。
154:
チビで戦場に行けなかったじいちゃん
そのおかげで俺がいるんだなと。
157:
>>154
うちの爺ちゃんもそうだわ
チビでデブw
でも器用だったので近所の大工さんにさそわれて
一緒に松山の航空隊の兵舎の建築作業に行ってたらしい
日当は良かったらしいよ
156:
8月15日の正午に終戦が告げられたけど、その数時間前に日本海軍厚木飛行場を攻撃しに来たグラマン機の編隊と、
それを迎撃した厚木の302航空隊の零戦隊が横浜の上空で最後の大空中戦を繰り広げたと、当時女学生でそれを目撃していた婆ちゃんから聞いたことがある。ベテランの搭乗員が操っていたと思われる零戦の方が圧倒的に強く、グラマン機が次々と撃墜されていったそうだ。
後に聞いた話だと、その時に撃墜されパラシュート脱出した米兵はすでに息絶えており、近くの寺に丁重に葬ったという。
厚木の航空隊には以前にもグラマン機に追いかけ回されていた時、3機編隊の零戦に助けて貰った事があり、真っ白いマフラーをはためかせ機体をバンクさせながら飛び去る日本のパイロットが本当にカッコ良かったと言っていた。
252:
>>156
うちは小田原だが、たった1機で大編隊の米軍機に戦いを挑んで撃墜された疾風の話が伝わっているよ
慰霊碑はその時の疾風のプロペラでできている
234:
ばーちゃんの話
逃げそびれて、空襲で姉に手を引かれて防空壕へ逃げてたら
近くに爆弾が落ちて庇った姉が腕だけ残してぶっ飛んだ
それから、自分より大きい人と手を繋げなくなった
一方、じーちゃんは満州?の辺りで食料なくて死にそうになってたら
現地の人に、口にキュウリ突っ込まれてた
若い人がこんな所で死ぬな、生きて故郷に帰れって言われたそうだ
助けてくれた人が亡くなるまで文通してた
235:
240:
その本の中にある一部を撮ってみたよ。
248:
>>240
免許皆伝の曽祖父が、
祖父が士官学校を出て軍刀持って配属される際に語った事を思い出した
「おまえには剣道の才は無い。野戦になったらとにかく突け」だったそうだ
その軍刀は珍しい程度には長いサイズだった
263:
>>240
首切りの作法かな?
貴重なものを有難うございます
241:
じいちゃんはミャンマー方面行ってたわ
戦後もよくそっちに渡航してた
もし戦争に勝ってたら向こうに住むつもりだったらしい
251:
今年105歳で亡くなった俺の母方の爺さん
海軍で通信士官だった
愛宕、山城に乗船したが幸い撃沈される前に下船
その後は掃海艇(28号って言ってた)に乗り、ラバウルで集中放火浴びて沈没したけど運良く助かり、その後日本に帰投して航空隊の支援部隊の内勤やってたら終戦
最後は官位ももらってたな
正八位だった
とても優しい爺さんだった
297:
>>251
なんかウチの爺さんと似てる
ラバウルで沈没、地元の漁民に助けられ沖縄まで送ってもらったとか言ってた…
261:
十年前に死んだ祖父は、妻(俺の祖母)や息子たち(俺の父や叔父)にさえ、従軍中のことはほとんど何も語らなかったそうだ。
葬式のとき、親戚が集まったけど、詳しいことを聞いた人は誰も居なかった。
きっと、語りたくないことが沢山あったのだろう。
267:
ばあちゃんは死ぬまで寝る時にはモンペ履いてたよ
いつでも逃げられるようにって
うちは戦争でも関東大震災でも全焼したから…
268:
岐阜空襲(ぎふくうしゅう)は、第二次世界大戦中アメリカ軍により行われた岐阜県岐阜市に対する空襲。
1945年(昭和20年)7月9日
https://ja.wikipedia.org/wiki/岐阜空襲
被害者の多さに火葬場が満杯で遺体を焼くこともままならず、真夏なので遺体も腐ってきた
仕方なく小学校の校庭に遺体を積み上げてガソリンをかけて骨になるまで焼いたとのこと
272:
親戚が駆逐艦乗りだったらしいが、終戦までに乗った艦が3回沈んだそうだ
90まで生きていたそうだが、いっぱい恩給出たらしいわ
295:
戦地に行ったじーちゃん曰く逃げ回ってた毎日食う飯にすら困ってた
物資とか弾薬なさすぎワロタ状態だったぞうだ
302:
ばーさんが挺身隊で舞鶴にいた
憲兵に「この非常時にぱーまねんととは何事だ!」と髪の毛を掴まれて怒られた
ばーさんら必死に「これは天然です!」と泣きながら話してやっとわかってもらえたが怖かったと言ってた
その頃じーさんは満州で演習中に落馬していたらしい
その怪我のおかげで内地に戻ってこれたんだってさ
308:
戦後72年か
聞いた話しじゃなくて経験した人は殆どいないんだろうな
体験を聞ける人は聞いておいた方がいいのかもね
315:
死んだじいさんから聞いたけど、南東の島で、敵に囲まれて死んだと思ったけど、いきなり空から光が降ってきて相手が全員倒れたと言ってた
味方の兵器じゃなく宇宙からの光とか意味深なこと言ってた
338:
爺ちゃんが8年間シベリアで抑留されてた
決死隊に選ばれてソ連兵に突撃したが捕虜になり、その後は強制労働させられていた
労働がきつくて逃げ出す奴も居たけど捕まって見せしめにみんなの前で射殺されてたそうだ
341:
名古屋の空襲で夜空が真っ赤になってるのが三重県から見えたとか
空一面がB-29に覆われてたとか、上空で飛行機雲が円弧描いて空中戦してるのが見えたとか
子供の頃はなんか嘘くさいな・・・と思いながら話聞いてたけど
今思うと、婆ちゃんが生きてたうちにもっと真剣に詳しく聞いておけばよかった(`;ω;´)
359:
うちのじいちゃんも満州に行ってた
班長たかなんかやってたらしくて部下がミスして責任者だからと上官にスコップで酷く叩かれたらしい
置いてかれそうになった人を担いで助けた事も
その人は戦後たびたびじいちゃんを訪ねて来てたみたい
軍の余りもの理不尽なやり方を許せなくて勲章も恩給も受け取り拒否してた
362:
そういえば ウチの親父も満州生まれ じっちゃんが満州に行ってお菓子屋さんをやってた時に生まれたが 間も無く戦局が悪くなって一歳か二歳の時に引き上げて小倉で暫く暮らしてた居たので 小倉の天気が悪くなく原爆投下されてたら 俺は今こうして生きてないと思う
その代わりに長崎で生まれるはずだった人が生きて居ないのだと考えると居た堪らない気持ちになったりする
387:
じいさんが南方に行った時に前後の船はやられたが自分の乗った船は大丈夫だった。マンゴーばかり食べてたので今は見るのも嫌だという。
403:
祖父は生前の一時期、空母加賀の乗組員だった。当時の写真と書状が残っている。
ただ、ミッドウェー海戦の時点では乗組員ではなくなっていたので命拾いした。もし、参加していたら機関科(死亡率が高いらしい)だったので確実に戦死し、俺はもちろん親父も生まれなかっだろう。
428:
親父がフィリピンでP38の機銃掃射を受けてめちゃ怖かったって言ってた。
442:
祖父が水木しげると同じ隊で水木しげるのせいで一緒にボコボコにされて、水木しげると一緒に隊とはぐれて見捨てられた話はしてたな。
459:
おじさんは神風特攻隊だった
特攻する前に終戦したので命拾いしたそうな
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