「治療完了、目をさますよ」【7話〜12話】back

「治療完了、目をさますよ」【7話〜12話】


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8:

第7話 ありがとう

人が「死」を認識するのは、何歳の時だろう。
死を恐れるのは、何歳の時だろう。
そして、死を受け入れるのは、何歳になってからのことだろう。
それを知っている人、覚えている人は殆どいないことと思う。
そもそも死とは何なのか。
恐怖し、畏れ怒り危惧し、そして結果的に「何なのか」分からず、自己完結して紛らわそうとする。
そんな不確定的で未確定かつ流動的な要素。
そもそも要素であるのかどうかも分からないそれは、私達の頭の中、そのすぐ傍を常にたゆたっている。
419:

汀は、壁を這っている小さな蜘蛛を、ぼんやりと見ていた。
どこから入り込んだのか、一センチくらいの茶色い蜘蛛が、一生懸命のぼろうとしている。
どこに向かっているのか。
上に行って、そして窓も開かないこの部屋のどこに隠れ、何を獲って過ごすつもりなのか。
汀の脳裏に、足を天井に向け、床に転がっている蜘蛛の姿がフラッシュバックした。
気づいた時、汀は動く右手を、強く壁に叩きつけていた。
ジーンと手が痺れる。
ぼんやりとした視線を手の平を広げて、そこに向けると、もはや飛沫と化した蜘蛛の姿があるばかりだった。
420:
「どうした?」
扉を開けて圭介が入ってくる。
汀は小さく咳をしてから、手と壁をティッシュで拭いて、それをゴミ箱に捨てた。
「何でもない」
「具合が悪かったらすぐに言えよ。そうでなくても、最近お前は不調なんだ」
「……お外に出たいな」
「生憎と今日は土砂降りの大雨だ。気づかなかったのか?」
圭介がカーテンを開けると、外の土砂降りの景色が汀の目に飛び込んできた。
しかし汀は、それを一瞥しようともせずに、ぼんやりと繰り返した。
「お外に行こうよ……何か食べに行こ」
421:
「今の体調と、この天気じゃ無理だ」
「退屈だよ」
「ゲームは? 漫画は?」
「そんな気分じゃない」
我侭を言う汀を、圭介は呆れたように見ていたが、少しして息をつき、言った。
「……なら、患者の診察をしてみるか?」
「え?」
汀はきょとんとして圭介を見た。
「でも、マインドスイーパーは、先入観をなくすために、患者さんのことはあんまり知らないほうがいいって……」
「比較的軽度なら、別に構わないケースもある。それに、お前の精神衛生も考えてな……」
少し表情を暗くした圭介を、汀は不思議そうに見ていた。
やがて彼女は頷いて、彼に言った。
「どうせ暇だし、やってみるよ」
422:

「へぇ、あなたがねぇ。マインドスイーパーっていうのかい。小さいのに、たいしたもんだねぇ」
動く右手を温かい両手で包まれ、汀はきょとんとした顔で、その患者を見た。
「こんなに痩せて。ちゃんとご飯は食べてるのかい?」
優しい顔をした、老婆だった。
「え……あ……は、はい……」
「そうだ。飴ちゃん食べるかい? 今時の女の子が好きそうな飴じゃなくて、のど飴しかないけど、私は黒糖入りが好きでねぇ」
かばんの中から飴を取り出し、二つも三つも汀の手に握らせる老婆。
温かい言葉と行為の攻撃に、汀はついていくことが出来ずに、圭介に困った視線を送った。
423:
しかし圭介は、壁にもたれかかって腕を組んだ姿勢のまま、軽くにやけただけだった。
圭介を頼りに出来ないと気づいた汀は、飴を片手で剥いて口に入れ、残りをポケットに入れた。
そして戸惑いがちに口を開く。
「あの……診察……」
「あぁ、そうだったね。今日はお嬢ちゃんと、お話が出来るんだってね。私の孫も、小さい頃はお嬢ちゃんみたいに可愛かったのよ。今では結婚して、太っちゃったけどねぇ」
「は、はぁ……」
「何歳なんだい? 髪は染めてるのかい? 駄目だよ、小さい頃に染めたら、髪が痛んじまうよ」
「十三歳です。髪は、薬の影響で……」
「あら、そうだったのかい。それは悪いことを聞いたね……」
老婆のペースに流されまいと、汀は無理やりに話題を変えた。
424:
「あの……自殺病の治療に来られたと聞いたんですけれど……」
とても、自殺病を発症しているとは思えない、優しい雰囲気と、元気なオーラを発している女性だった。
それを聞いて、女性はしばらく目をしばたたかせた後、合点がいったように頷いた。
「ええ、そうなのよ。赤十字病院に行ったら、自殺病の第一段階初期とか言われて、もう困っちゃうわぁ」
「だ、第一段階初期……?」
汀はそれを繰り返して、カルテに目をやった。
圭介が書いた流浪なドイツ語が目に飛び込んできたが、当然汀には読むことは出来ない。
「それなら、投薬で十分治療できると思います。自覚症状もないみたいですし……赤十字の先生は、何て言っていましたか?」
425:
戸惑いがちに汀がそう聞くと、老婆はにこやかに微笑んで答えた。
「それがね、どうも私は、自殺病の薬が効かない体質らしいのよ。困っちゃうわ、本当」
「は、はぁ……」
「よく聞いてみたら、ここの病院が一番スッキリ取り除いてくれるっていう話じゃないの。少し遠かったけど、来てみたっていうわけ。お嬢ちゃんと会うのは初めてだけど、高畑先生とは何回か診察でご一緒してるのよ」
ペラペラと、良く口が回るものだと言うくらい流暢に老婆は喋ると、バッグから小さなペットボトルを出して、その中のお茶を喉に流し込んだ。
「圭介……」
「ん?」
圭介を呼び、汀は彼の方に車椅子を向けた。
426:
そして小声で言う。
「赤十字に回したら?」
「まぁそう言うな。息抜きも大事な仕事のうちだ。それより、お前の見立てではどうだ、『汀先生』?」
問いかけられ、汀は手元の資料に目を落とし、右手で器用にめくりながら言った。
「別にダイブしてもいいけど……話口調もはっきりしてるし、瞳の混濁も見られないし……情緒不安定な面も、確認されてないみたいね……投薬が出来ないらしいけど、放っておいても自然治癒するんじゃないかしら」
それを聞いていた老婆が、口を挟んできた。
「それでも心配じゃないの、頭の中に正体不明の病気がいます、なんてことはねぇ。できればすぐにはっきりとした状態に戻して欲しいの」
「でも……自覚症状がないんでしたら、放置していても問題はないと思いますけど……」
汀はボソボソとそう返すと、息をついた。
427:
「一応ダイブしておきますか? 一応っていう表現はおかしいかもしれませんけど……ただ……」
汀は、そこでキィ、と車椅子を老婆に向けた。
「心の中を私に見られて、あなたはそれで構わないんですか?」
端的な疑問をそのまま口に出す。
老婆は、しかし笑顔でそれに頷いた。
「最初は、どんな子がくるのかと思ってたけれど、あなたみたいな可愛い子なら大歓迎よ。どうぞ、沢山覗いていってくださいな」
428:
「はぁ……そうなんですか」
納得がいかない、といった風に汀が首を傾げる。
そこで圭介が汀の脇に移動し、デスクから書類の束を取り出した。
「それでは、契約の確認をしましょうか。それと、当施術は保険の対象外ですので、その点もご了承ください」
「ええ、分かっています。どうぞ、宜しくお願いします」
老婆が深く頭を下げる。
汀は、それを複雑な表情で見ていた。
429:

汀は、施術室の中で、てきぱきと準備をしている圭介を見た。
老婆は、麻酔薬を導入され、ベッドに横になっている。
頭にはマスク型ヘッドセットが被せられているが、別段、手足を縛り付けられているという風な様子はなかった。
「絶対おかしいよ。圭介、何企んでるの?」
そう問いかけられ、計器を点検しながら圭介は返した。
「別に。何も」
「私がやらなくても、赤十字のマインドスイーパーで対処できる内容だよ。てゆうか、ダイブする必要がないと思う」
汀の膝の上で、白い子猫、小白がニャーと鳴く。
「ダイブする必要がないって、どこをどうしてそう判断するんだ?」
「だって……たかがレベル1でしょ?」
伺うようにそう聞いた汀に向き直り、圭介は続けた。
430:
「たかが? レベル1でも自殺病には変わりないだろ。何嫌がってるんだ?」
「嫌がってなんていないよ。でも、わざわざ私が行く必要があるのかなって」
「汀、何か勘違いしてないか?」
圭介は壁に背中でもたれかかり、息をついた。
「お前は、人を助けたいんだろう? なのに、この人は助けなくてもいいって言うのか」
「助ける必要がないと思うだけ」
「それはお前の驕りだよ」
断言して、圭介は少しきつい目で汀を見た。
「お前、自分を何か特別な存在だと思ってないか? お前は、特A級能力者である前に、一介の、ただのマインドスイーパーだ。マインドスイーパーは仕事をしなきゃいけない。それがどんな患者であってもだ」
「……圭介は、それが本心なんだね」
そう言って汀は悲しそうに目を伏せた。
431:
「何?」
「圭介は私のこと、道具としか見てないんだ。道具だから言うこと聞けってことでしょ? 道具だから、文句言うなってことでしょ?」
怒りではなく、悲しみが伝わってくる言葉だった。
圭介はしばらく押し黙っていたが、近づいて汀の頭を撫でた。
「すまん、少し言い過ぎた」
「…………」
「最近お前、情緒不安定だぞ。体調も良くならないしな。だから、単純に、『普通』の人間の心理壁を観光ついでに見て来い、っていうだけのつもりだったんだ。いらない邪推をするなよ。幸い、患者もそれに同意してくれてる。小白とダイブして、遊んで来い」
「……遊ぶ? 遊んでいいの……?」
「ああ。そのために用意したステージだ」
圭介は軽く微笑んで、汀にヘッドセットをつけ、マスク型ヘッドフォンを被せた。
「少し、それで頭冷やして来い。時間は四十分に設定する」
「え?」
汀が素っ頓狂な声を上げる。
432:
圭介は頷いて言った。
「ああ。それだけあれば、十分遊べるだろ。外に連れて行けない代わりと考えてくれればいい」
「分かった。圭介、変なこと言ってごめんね。遊んでくる!」
汀が笑ってそう返す。
圭介は、計器前の椅子に腰を下ろし、少し表情を曇らせた。
しかしすぐに柔和な表情に戻って、言う。
「行っておいで」
433:

汀は目を開いた。
そこは、巨大なトンネルのようになっている空間だった。
足元の小白を抱き上げて肩に乗せ、汀は周りを見回した。
「へぇ……」
そう呟いて、息をつく。
そして彼女は、ヘッドセットのスイッチを入れて口を開いた。
「ダイブ完了。さすが、精神崩壊が起こってない人の心の中って、綺麗ね」
『そうか。状況を教えろ』
「整頓された心理壁の内面に続く通路の中にいるみたい。トラウマに構築された世界じゃないね」
『今回のメインは観光だ。ゆっくりとしてくるといい』
「分かった」
頷いて、汀は散歩にでも行くような調子で歩き始めた。
434:
ベートーヴェンの曲が聴こえる。
落ち着いた空気と、清涼感が漂う綺麗な場所だった。
トンネルは、全てジグソーパズルで出来ていた。
綺麗に全てのピースがはまっていて、そこには、老婆が観光で行った所なのか、
いろいろな景色が映し出されていた。
そこには必ず、同年代の男性と一緒にポーズをとっている老婆の姿があった。
それは、写真だった。
写真のジグソーパズルで構築されたトンネル。
思い出のトンネルだ。
汀は面白そうに笑いながら、手を広げてその場をくるくると回った。
足元もジグソーパズルだ。
どこに光源があるのか分からないが、ぼんやりと光っていて明るい。
「見て、小白。ハワイだよ、ハワイ。行きたいなぁ」
汀は、にこやかにピースサインをしている老人と老婆を見て、自分もピースを返した。
435:
「私が生きてるうちに、行けるかなぁ」
『ハワイになら、夢の中で何回も行ってるだろ』
そこで圭介が口を挟む。
汀は頬を膨らませてそれに返した。
「夢と現実は違うの」
『そうなのか。お前の感覚は良く分からんが』
「本物は、もっとこう……違うんじゃないかなぁ。だって、この写真のお爺ちゃんとお婆ちゃん、笑ってるもん。こんなに楽しそうに、笑ってるもん」
『…………』
「私、こんなに楽しそうに笑えないな。ねぇ圭介」
汀は、裸足の足を踏み出して彼に問いかけた。
「私、大きくなったら大河内せんせと結婚できるかな」
『…………』
「結婚したら、普通にお母さんになって、普通に子供産めるかな」
圭介は、それには答えなかった。
436:
汀は写真を覗き込んで、構わずに続けた。
「男の子がいいな。そして、女の子二人。せんせはなんて言うだろ。せんせは、忙しいから子育てできないかな。そしたら、圭介が手伝ってくれる?」
『…………』
圭介はまだ、押し黙っていた。
「圭介?」
ヘッドセットの向こうに怪訝そうに問いかけた汀に、圭介は口を開いた。
『汀、よく聞け。お前は……』
「ん?」
『……お前は……』
彼が言い淀んだその時だった。
突然、静かに鳴っていたベートーヴェンの音楽が消え、代わりに救急車のサイレンの音が鳴り響いた。
周囲も赤い光源になり、汀はハッとして周りを見回した
437:
「トラウマだ。でもどうして……?」
『……トラウマだって? どのくらいのレベルの奴だ?』
「この人の心が警鐘を鳴らしてるくらいだから、外部からの外的衝撃が加わったってことだと思うけ……きゃあ!」
ズシンッ、とトンネル内に地震が起こった。
バラバラと写真のジグソーパズルが降って来る。
汀は、震度七ほどにも匹敵する地震に抗うことも出来ず、ゴロゴロと地面を転がって、したたかに頭を壁にぶつけた。
ザァァァッ! と雨のようにジグソーパズルが降って来る。
息も出来なくなり、目の前が確認できなくなった汀の手の中の小白が、ボンッ、と音を立てて膨らんだ。
そして傘のようになり汀の体を覆う。
ジグソーパズルの落下はとどまるところを知らず、天井、壁、床全ての写真が崩れ落ち、無残に雪のように積もった。
地震が収まり、時折パラパラとパズルが落ちてくる中、汀はもぞもぞとその中から這い出した。
体の所々が、パズルの角で切れてしまっている。
438:
小白が空気の抜ける音を立てて元にもどる。
そこで、ドルンッ、とエンジンの音が聞こえた。
汀がジグソーパズルの海の中、サッと顔を青くして振り返る。
そして、彼女は目玉を飛び出さんばかりに見開いて、硬直した。
そこには、ドクロのマスクを被り、右手に錆びた巨大なチェーンソーを持った男がゆらりと立っていた。
ピーポーパーポーピーポーパーポーと救急車のサイレンが鳴り響いている。
「いやああああああああああああ!」
汀は、耳を塞いで目を閉じ、絶叫した。
エンジンの音は、チェーンソーが起動した音だったのだ。
『どうした、汀!』
「やだ、やだ、やだ、やだ!」
『落ち着け、何が……』
「やだやだやだやだやだやだ! いやあ! いやあああああ!」
完全にパニックになった汀は、パズルの海を抜け出そうともがいて、その場に盛大に転んだ。
439:
しかしそれでも、全身をブルブルと震わせながら、這って逃げようとする。
男が、パズルを踏みしめて足を踏み出した。
ズシャリ。
ギリギリギリギリギリ。
チェーンソーの端が、壁に当たりそこを削り取る。
汀は両目から涙を流し、腰を抜かしてその場にしゃがみこんだ。
「あ……あああ……あ……あ…………」
言葉になっていなかった。
男がゆっくりと近づく。
小白が、男と汀の間に立ち、シャーッ! と牙を剥き出して威嚇した。
その体が風船のように膨らみ、全長五メートルほどの化け猫の姿に変わる。
『汀、トラウマか? まさかドクロの男か!』
「圭介! 圭介、か、か……回線! 回線切って! 助けて! 助けて! 助けてえええ!」
いつもの飄々とした威勢はどこに行ったのか、汀が泣き叫ぶ。
440:
彼女は後ずさって逃げようとしたが、壁に追い詰められてしまっていた。
『分かった、今すぐに回線を……ブブ……』
そこで圭介の声がノイズ混じりになり、ヘッドセットから、砂画面の音が流れ出した。
『何…………ザザ…………これ…………ブブブ…………』
「圭介!」
汀の悲鳴が、虚しく響く。
「一分…………逃げろ……し……待って…………ブブ…………」
プツン、と音が消えた。
次いで、突然ヘッドセットからの音がクリアになった。
そして面白そうに笑う、少年の声が聞こえる。
『なぎさちゃん』
踊るようにその声は言った。
441:
マスクの男が顔を覆うドクロの口元をめくり、裂けそうなほど広げた。
ヘッドセットと、マスクの男両方から、声が聞こえた。
『みーつけた』
そこで、小白がマスクの男に飛び掛った。
男がチェーンソーを振り回し、小白のわき腹をなぎ払う。
ドパッと鮮血が散り、小白が地面を、パズルを飛び散らかせながら転がった。
次いで男は飛び上がると、小白の脳天に向けてチェーンソーを振り下ろした。
「小白!」
汀が震えながら悲鳴を上げる。
そこで、しゃがみこんでいた汀の両腕に、壁から飛び出た鉄の枷が嵌められた。
あっ、と思う間もなく、彼女は壁に引き寄せられ四肢を磔られた。
首と両足にも枷がはまり、汀は涙をボロボロと流しながら、横に目をやった。
彼女は、縦にした棺のような場所に磔られていた。
442:
そして、ドアを連想とさせる脇の部分には――。
沢山の長い針が、内側に伸びた棺の裏部分が見えた。
頼りなげに揺れている。
棺の扉が閉じたら、中にいる汀は、その沢山の針で串刺しになってしまう。
そういう寸法だった。
暴れることも出来ずに、汀はただ、呆然と体を震わせていた。
彼女の股の間が熱くなる。
あまりの恐怖に、小さな少女は、年齢相応に恐怖し、そして失禁してしまっていた。
マスクの男が飛び上がる。
そして小白の脳天にチェーンソーを突き立てる。
しかし小白は、頭を強く振ると、男を跳ね飛ばした。
飛ばされた男は、まるで無重力空間の中にいるかのように、天井に「着地」すると、そこを蹴って、小白に肉薄した。
そしてパズルの一つを手にとる。
それがぐんにゃりと形を変え、ジグザグの鋲のようになった。
443:
男は、それを小白の腕にたたきつけた。
小白の右腕を鋲が貫通して、地面に縫いとめる。
もがく化け猫に次々と鋲を打ち込み、四肢を地面に磔にしてから、男はチェーンソーを肩に担いだ。
そして紐を引っ張って、ドルンドルンとエンジンを空ぶかししながら、ゆったりと汀に近づく。
「や……嫌あ…………」
口を半開きにさせて、ただひたすらに恐怖している汀に近づいて、男はマスクを脱いだ。
「ひっ!」
思わず顔をそらした汀の前で、男は
「あは……ははははは!」
と面白そうに笑うと、チェーンソーを脇に投げ捨てた。
444:
汀が恐る恐る目を開くと、そこには白い髪をした、十五、六程の少年が立っていた。
「はは……あっはっはははははは!」
爆笑だった。
少年は腹を抱えて、汀が恐れおののいている様子を指差して笑うと、しばらくして、呆然として色を失っている彼女に、息をつきながら言った。
「はは……はははは……面白かった! なぎさちゃんがこんなに驚くなんてさ! どう? 似てた? 僕演技すげぇ上手いでしょ?」
少年――ナンバーXは汀の前をうろうろしながら、彼女の顔色を伺うように、チラチラと視線を投げてよこした。
「どのくらい似てた? 百点? 二百点? 僕は三百点は固いと思うんだけどな」
「だ……」
汀は小さく、か細い声で呟いた。
「誰……?」
まだ彼女の両目からは涙が溢れている。
445:
ナンバーXは少しきょとんとした後、ポン、と手を叩いた。
「もしかして、僕悪いことしちゃったかな? そっか。GMDの副作用を忘れてたよ。うっかりしてた」
彼は顎に手を当てて考え込むと、せかせかと歩き回りながら言った。
「でもグルトミタデンデオロムンキールのA型だと仮に仮定したとしても、そこまで急激な記憶の喪失ってあるのかな? まぁ、なぎさちゃんなら、そんなこと関係ないよね!」
ナンバーXはそう言って笑うと磔られて失禁している少女の周りを伺うようにうろついた。
怖気が汀の背を走る。
何故、彼がこんなに怖いのか、それは汀には分からなかった。
しかし彼女は、あまりの恐怖と、嫌悪感に、彼の視線から何とか逃れようと、体を無理にねじらせて抵抗していた。
その様子をクスクスと笑いながら見て、彼は言った。
「無駄だよ。僕の空間把握能力と構築能力は、なぎさちゃんなら良く知ってるでしょ? 僕の『白金の処女(プラチナメイデン)』は絶対に破れない」
446:
そう言って、ナンバーXは、キィキィと、わざと音を立てて針がついた扉を動かし、汀の泣き顔を楽しむと、怪訝そうに眉をひそめた。
「どうしたの? まさかおしっこもらすほど驚くとは思わなかったけど、僕はそんなこと気にしないよ? あ……! そうだ、この前、会ったことも忘れちゃってるか。てゆうことは、僕のことも分かんない? そんなわけないよね? ね? どう? 僕のこと思い出せない?」
ナンバーXが顔を近づける。
汀は、必死にそれから目をそむけようとした。
そこで、汀の脳裏に、今よりも少し幼いナンバーXの顔がフラッシュバックした。
笑顔で、右手に何かを包んでいる。
その何かを、差し出している。
笑顔で。
「い……」
汀は、引きつった声で、しゃっくりのように呟いた。
447:
「いっくん……?」
「ほら来た! やっぱりなぎさちゃんだ! GMDなんてクソ喰らえだね! 僕達の絆に比べたら、そんなもん屁でもないさ! そりゃそうさ! 僕達は『前世から結ばれる運命にあった』二人なんだからさ! ね? なぎさちゃん!」
一人でヒートアップして騒ぐ、ナンバーX。
汀はそれを呆然と見つめ、しかし自分が、彼の名前以外思い出せないことに気づいて青くなった。
それ以前に、本当にいっくんというのか。
それは名前から取ったあだ名なのか、苗字から取ったものなのか。
いや、それよりも。
私達に、苗字なんてあったのか?
「……ッは!」
そこで、汀の右即頭部に凄まじい痛みが走った。
汀は、歯を噛み締めてそれに耐えながら、かすれた声を発した。
「あなたが……『いっくん』……?」
448:
「ん? そうだよ。今更どうしたの?」
「な……なぎさって……誰?」
そう問いかけた彼女を、きょとんとした顔で見て、ナンバーXは答えた。
「君だよ」
「私……? 違う、私は……」
「あー、そういうのいいから。大事なのは過去や未来じゃなくて、今。今僕と君はこの空間に二人きりでいる。それが重要じゃないか。 なぎさちゃんが、自分のことを知らなくても、僕は全然構わない。だって、僕はなぎさちゃんのこと、何でも知ってるもん」
怖気の残るような台詞をすらすらと笑顔で言って、無邪気に彼は扉を動かした。
「だから、ね。ちょっとだけなぎさちゃんに痛い思いをして欲しいんだ。大丈夫。死にはしないから。『機関』が君の事を探してる。僕もだ。だから、君のいる位置を逆探知させてもらうよ」
「い……いや…………」
扉の針が迫ってくる。
449:
訳が分からない。
分からないが。
このままでは、自分は殺されてしまう。
もがくが、「白金」と彼が形容した通りに、枷はびくともしなかった。
「大丈夫。すぐに済むから。痛いのはほんの五秒くらいさ」
「待って……!」
汀は悲痛な声を上げた。
「ん?」
扉を止めて、ナンバーXは汀の顔を覗き込んだ。
「どうかした?」
「一つだけ教えて……! お願い……私達に何があったの……!」
「…………」
彼は動きを止めて少し考え込んだ。
そしてポケットに手を入れて、クローバーの葉を一枚取り出した。
450:
「持ってるでしょ?」
端的に問いかけられ、汀は首を横に振った。
ナンバーXは怪訝そうな顔をして、汀を見た。
「嘘ついてもすぐに分かるよ。これは特別な空間に続く鍵なんだ。『僕』が、『絶対に外れないように』なぎさちゃんの心の中に、縫いつけたじゃないか。忘れたとは言わせないよ?」
汀の脳裏に、ある光景がフラッシュバックした。
燃える家。
悲鳴。
断末魔の絶叫。
ドルンドルンと鳴り響くチェーンソーの音。
紙芝居のように揺らめく景色。
マスク。
頭蓋骨。
頭蓋骨の形をしたマスクを被った男。
血まみれのチェーンソーを持って、もう片方の手に、髪の毛を掴んだ人間の頭を持っている。
そう、頭部だけ。
その頭部は。
451:
そこまで思い出した時、汀のヘッドセットの電源がついた。
『再アクセス完了。全ての設定をニュートラルにして自動構築開始。汀、聞こえるか?』
「圭介!」
汀が悲鳴を上げる。
「助けて、圭介!」
『もう大丈夫だ、サンプルZを投与した。効果開始まで、あと三秒』
「チッ!」
そこで、ナンバーXが扉を引いた。
「ごめん、なぎさちゃん! 君のためなんだ!」
「……!」
バタン。
ドアが閉まった。
強くそれを押し込み、息を切らしてナンバーXは歯噛みした。
「くそ……あの医者か! 僕のなぎさちゃんに……くそ! くそ!」
地団太を踏む彼。
452:
汀は、その彼を、冷めた目で見つめていた。
後方、二十メートル程後ろに、彼女は立っていた。
今まで拘束されていた部分が、青黒いあざになっている。
いつの間に脱出したのか。
いつの間に枷を外したのか。
全く分からないほどの、一瞬の移動だった。
ナンバーXは、ポカンとした顔で汀を見ると、急いで白金の処女の扉を開けた。
中には、何も入っていなかった。
「え……」
呆然と呟き、彼は汀に向き直って、言った。
「ど……どうしたの? 何、したの?」
「…………」
汀は、妙に落ち着いた表情で彼を睨んでいた。
「なぎさちゃん! 君じゃないか! 僕の構築から抜け出せる人はいないって、褒めてくれたの、君じゃないか! なのに……なのにどうして? ずるいよ!」
453:
喚くナンバーXの耳に、汀がスライドさせたヘッドセットから、圭介の声が流れて飛び込んできた。
『クソガキが』
汀が首の骨を、コキ、コキ、と鳴らす。
瞳は光を失っており、不気味な様相を呈していた。
『俺より早く鯨の居場所に気づくとは、たいしたもんだが、一手遅かったな』
汀が軽く笑って、見下したように彼を見て言う。
「マインドジャック……?」
ナンバーXが唖然として呟く。
「なぎさちゃんの意識を乗っ取ったな! ヤブ医者!」
『ジャリが。オトナへの口の利き方というものを、どいつもこいつも知らんらしい』
汀の口を通して圭介はそう言い、彼女の体を一歩、動かした。
454:
汀の意識は、なくなっていた。
圭介はいつもの柔和な様子とは裏腹に、黒い声調子で続けた。
『いい加減にしろよ変態野郎。こいつは俺のものだ。誰にも渡しはしない』
「なぎさちゃんは僕のものだ! てめぇの玩具じゃねぇんだよ!」
ナンバーXが、そこで吼えた。
「なぎさちゃんを返せ!」
『面白いじゃないか。かかってこいよ』
汀が手を上げ、焦点の合わない瞳で彼を見て、挑発的に動かす。
「この……!」
ナンバーXはそこで走り出した。
そしてパズルの一つを掴んで、振る。
それがぐんにゃりと形を変え、リボルバー式の拳銃になった。
455:
汀も走り出し、足元のパズルを手に取る。
それが同様に形を変え、刃渡り三十センチはあるかという、長大なサバイバルナイフに変わった。
「やめろ! なぎさちゃんの脳をこれ以上刺激するな!」
ナンバーXが怒鳴って、彼女の頭に銃を突きつける。
しかしその銃身を手で弾き、汀は、躊躇なくナイフを突きこんだ。
少年がそれを身をひねって避け、何回か宙返りを繰り返して距離を取る。
そして銃弾を連続して発射する。
次の瞬間だった。
汀は、キン、キン、キン、と言う金属音を立てて、目の焦点が合わないまま、目にも留まらないさでナイフを振った。
彼女の後ろの壁に、それぞれ両断された銃弾が突き刺さる。
「てめぇ!」
ナンバーXが怒鳴る。
456:
そこで、汀の体が消えた。
彼女は地面を蹴って、凄まじい勢いで加すると、一瞬でナンバーXに肉薄した。
そしてナイフを横に振る。
身をかがめてそれを避けた彼の髪の毛が、途中から綺麗に両断されて散る。
「くそ……!」
毒づいた彼の拳銃が、汀の持つナイフと同じものに変化した。
それで斬撃を受け止めて、鍔迫り合いのような状況になりながら、ナンバーXは汀を押し返した。
「ふざけるなよヤブ医者……下衆め! その子は僕のものだ! 貴様のものじゃない!」
『今は俺のものだ』
汀が、目を細めてにやぁりと笑った。
『最高の玩具だよ』
「この……!」
ナンバーXが、汀を突き飛ばす。
457:
しかし汀は猫のように地面をくるりと回ると、 無表情でナンバーXの喉笛に、ナイフを突き立てた。
「か……」
空気の抜ける音と共に、彼がよろめく。
ナイフを抜いて、汀はもう一度、ナンバーXの胸にそれを突き刺した。
そして彼を蹴り飛ばす。
『これでそのおしゃべりな口も、しばらくはきけないだろう。ウイルスを忍ばせてもらった。お前が使ったのと、同じ手だ』
汀の体から力が抜け、彼女はナイフを取り落とし、ずしゃり、と無造作にその場に崩れ落ちた。
『前に汀と遭った時に、接触ついでに、こいつの体にウイルスを付着させたな? それで位置を探知して、ジャックしやすそうな場所にダイブしたから、襲ってきたと言うわけか』
458:
ヘッドセットの向こうで、圭介は醜悪に笑った。
『網を張っていた甲斐があったよ』
ナンバーXは、地面に倒れこんで、汀の方に手を伸ばした。
「な…………ちゃ…………」
その手が、パタリと力をなくして地面に崩れる。
しかし、水溜りのように広がった血液が、汀の方に流れ、彼女の足に触れた。
それを見て、ナンバーXはニヤリと笑い、そして動かなくなった。
459:

汀が目を覚ましたのは、それから数分経ってのことだった。
彼女は目を開き、緩慢にその場に起き上がる。
赤く点滅している光源に照らされた、一面崩れたジグソーパズルだらけの空間だった。
地面には赤く血液が広がっている。
それが病院服を濡らしているのを見て、汀は慌てて体を触った。
そして股間の不快さに顔をしかめ、他に異常がないことを確認してから、ヘッドセットのスイッチを入れる。
「……圭介……?」
『起きたか。大丈夫か?』
「…………ううん。大丈夫じゃない……頭がガンガンする……」
『お前、トラウマと戦ってるうちに、記憶が飛んだんだよ。大丈夫だ。もう心配はない』
「トラウマと……?」
汀は自分の手を見た。
手の平がぐっしょりと血で濡れている。
460:
そこで彼女は、地面に小白が横になっていることに気がついて、慌てて駆け寄った。
「小白……!」
小さな猫はプルプルと震えていた。
両手足から血が出ている。
「小白が怪我してる!」
『早く患者を治療して、戻って来い。小白もそうすればついてくるだろ』
「わ……分かった」
先ほどまでのことを全く覚えていないのか、汀は慌てて周りを見回した。
「異常変質心理壁は……」
彼女はそう呟き、少し離れた場所に、一箇所だけ崩れていない写真があるのを見た。
人間大のそれは、淡く白い光を放っている。
461:
それは、巨大な鯨の絵の前に立っている老婆と老人の写真だった。
一つのジグソーパズルのピースとして、それが立っている。
「この人にとって特別なものなんだ……」
そう呟いて、汀は頭を抑えながら、写真の右半分にスプレーのようなもので殴り書きがしてある文字を読んだ。
「……どういうこと?」
『分からん。何かのトラウマだろう。消せるか?』
「やってみる」
汀はそう答え、頭を抑えてふらつきながら、その数字を手でこすった。
簡単にそれは消え、写真が輝きを増した。
「治療完了……目を覚ますよ……」
汀はその場に眠るように崩れ落ち、そこで意識を失った。
462:

汀が出歩けるようになったのは、それから八日目のことだった。
彼女は、診察室のドアを開いて、にこやかな表情で座っている老婆を見て、表情を暗くした。
そして車椅子を自分で操作して、彼女の前に移動する。
「お待たせしてすみませんでした……」
かすれた声でそう言った汀を、老婆は心配そうに見つめ、そして彼女の右手を手に取った。
「どうしたの? こんなに手を冷たくして。無理して、出てきてくれなくても良かったのよ?」
汀は、そう言われてしばらく黙っていたが、やがてしゃっくりを上げたあと、ボロボロと涙をこぼした。
その様子を、圭介は壁にもたれかかり、腕組みをしながら、表情の読めない顔で見ていた。
「泣かないで。あなたは良くやったわ」
老婆に頭を撫でられ、汀はしゃっくりを上げながら言った。
463:
「でも……私……私、あなたの記憶……思い出、全部消しちゃって……」
老婆は、全ての「思い出」をなくしていた。
具体的には、七年前に亡くなった夫との、旅行の思い出を全て、なくしていた。
「私、壊すことしか出来ない……私、人を治すつもりしてて、本当は人を壊してるのかもしれない……」
それは、圭介にも言ったことがなかった、汀の心の吐露だった。
圭介が顔を上げ、意外そうな顔をする。
老婆は、しかしにこやかな顔のまま、汀の手にのど飴を握らせた。
「あのねぇ、汀ちゃん」
彼女はそう言うと、微笑んだ。
「それは違うと思うわ」
464:
「違う……?」
「あなたは、確かに私の中の、夫との思い出を壊したのかもしれないわ。私、何も思い出せなくなっちゃったもの。でもね」
彼女はそう言って、鯨の絵の前でポーズをとっている自分と、夫が写った写真を汀に差し出した。
「この思い出だけは、あなた、守ってくれたのよね」
「これ……」
汀は呟いて、そして写真を受け取った。
「これはね、交通事故で死んだ、私の息子が撮ってくれた写真なのよ。私の中で、一番大事な思い出」
「私……何もしてない」
汀は首を振った。
465:
「私何もしてない。これは、あなたの思い出が強かったから、残っていただけの……」
「それでも……あなたが『守って』くれたことにかわりはないわ」
老婆はまた、微笑んだ。
「私には、それで十分なのよ」
「どうして……?」
汀は首をかしげてそう聞いた。
「思い出がなくなったんですよ……怖くないんですか? 苦しくないんですか……悲しくは、ないんですか? 私のことが、憎くはないんですか?」
老婆は首を振った。
汀は、また目から涙を落とした。
「どうしてそんなに、私に優しく出来るんですか……」
汀は、右手で顔を抑えた。
466:
「優しくしないでください……私、本当に何もしてない……何も、私には出来なかった……」
「汀ちゃん」
老婆はそう言うと、彼女の肩を叩いて、そっと撫でた。
「大事なのは、『今』じゃないかしら」
そう言われ、汀はハッとした。
思い出せない。
思い出せないが……。
誰かが、そう言っていた気がする。
467:
「過去の記憶がなくなっても、大事なのは今、何をして、これからどこに行くかなんじゃないかしら。私は、あなたに自殺病を治療してもらったわ。これで、心配なく『明日』に向かうことが出来るわ」
そう言って、老婆は汀に頭を下げた。
「本当に、ありがとうね」
汀はそれを見て、また涙を流し、手でそれを拭った。
468:

「『機関』は、ナンバーズをどれだけ所持している?」
圭介は、汀が寝静まった夜中、携帯電話に向けて重い口を開いた。
『テルしてきたのが君で安心したよ。その様子だと、無事に番号は回収したみたいだね』
電話口の向こうの相手が、飄々とそう答える。
「質問に答えろ」
『機嫌が悪いね』
「……汀に、GMD―LSFを投与した。止むを得ずの処置だったが、重度の記憶障害を引き起こす可能性がある」
『あらら。それは迂闊な』
「お前が、剥きさらしの場所に番号を設置するからだ。ふざけるなよ……!」
469:
押し殺した声で低く言った圭介に笑い声を返し、電話口の向こうの男は、軽く言った。
『まぁ、こっちも相応のリスクを負ってるから。君達にもリスクは背負ってもらわなきゃ。割に合わないだろう?』
「…………」
『聞きたいことがあったんだっけ? 機関が所持してるナンバーズは、三人だよ』
「三人……」
『現存してるナンバーズは五人しかいない。そのうち、関西総合病院の加原岬は、昨日の夜、病院から行方が分からなくなった』
「何……?」
『詳細までは分からないよ。ただ、その人数だけは情報として提供できるかな』
圭介は息をついた。
そしてピンクパンサーのグラスに注いだ麦茶を喉に流し込み、続けた。
「もう一人はどこにいる?」
470:
『施設だろうね、多分』
「赤十字の虎の子か……」
そう呟いて、圭介は口をつぐんだ。
『さて、これからどうする?』
そう呼びかけられ、圭介は、口の端を吊り上げて言った。
「機関には、しかるべき贖罪をさせなければいけない。それに……汀にもな」
471:
『そうだね。それが僕達に与えられたカルマなら、仕方のないことなのかもしれないね』
答えて、電話口の向こうの声は、続けた。
『じゃ、これ以上はなすと逆探知されるから、回線を切るよ。次は「河馬(ふぐ)」のところで待ってるよ』
「こちらから直接行く。それじゃ」
プツリ、と電話を切って、圭介は息をついた。
ピンクパンサーのグラスの氷が、カランと音を立てた。
472:

汀はびっくりドンキーのいつもの席で、
ぼんやりとした表情のまま、膝の上の小白を撫でていた。
メリーゴーランドのパフェを半ば食べてしまい、することがなくなったのだ。
「圭介」
「ん?」
彼に呼びかけ、汀は続けた。
「死ぬってどういうことなのかなぁ」
ぼんやりと呟いた汀に、圭介はステーキを口に入れて飲み込んでから答えた。
「何もなくなることさ」
「本当に?」
汀は彼を見た。
473:
「でも、あのお婆さんは、死んじゃった旦那さんのことを、心理壁が壊れても、ずっと覚えてたよ」
「…………」
「何もなくなるなら……思い出って一体何なんだろう」
圭介はフォークとナイフを置き、彼女をまっすぐ見た。
そして少し口ごもってから言う。
「汀、よく聞け」
「何?」
「思い出って言うのは、つまるところ幻だ。その人の心の中で、都合のいいように造られた幻想なんだ」
「…………」
「今お前を苦しめてる『思い出』も、言うなれば同じようなものだ。幻想だよ」
汀は小白を撫でながら言った。
「幻想……幻想なのかな」
「ああ、幻想さ」
474:
「なら、どうして……」
汀は、言いよどんでから伺うように聞いた。
「あのお婆さんは、幸せそうだったの? 自殺病にかかった人は、幸せにはなれないんでしょう?」
圭介は複雑な表情で、汀から目をそらし、フォークとナイフを手に取った。
そして、呟くように言った。
「さぁな。自分が幸福ではないのに気づくことができない。それが、あの人にとっての『不幸』なのかもしれないな」
475:

圭介と汀を、少し離れた席で、パーカーを目深に被って、ポケットに手を突っ込んだ少年が見ていた。
その目は殺気を帯びていて、今にも飛び掛りそうな衝動を圭介に向けていた。
「お客様、ご注文は?」
店員にそう聞かれ、彼は口の端を吊り上げて笑い、メニューの、メリーゴーランドのパフェを指した。
「かしこまりました」
頭を下げて店員が下がる。
彼は息をついて背もたれに体を預けると、携帯電話を手に取った。
弄って消音にしてあるのか、動画撮影のボタンを押して、気づかれない位置に立てかける。
そのカメラは、二人の方を向いていた。
478:

第8話 あの時計塔を探せ

動かない足。
動かない左腕。
自由にならない体。
全てが腹立たしかった。
汀は息をついて、そして目の前で折り紙を折っている理緒を見た。
「私も……折り紙やってみたいな」
右手で、グチャグチャになった紙を爪弾き、彼女は呟いた。
理緒は顔を上げ、そして微笑んで言った
「一緒にやろう?」
「一人でも出来るようになりたい」
時折、汀はこのように我侭を言い出すことが多くなっていた。
辟易まではしなくても、理緒も多少の気は遣う。
彼女は少し考えて、3DSを手に取った。
「じゃ、ゲームやりましょうか」
「……うん……」
元気なく返事をして、汀は扉の向こうに目をやった。
479:
「高畑先生、遅いですね」
理緒が言う。
三十分ほど前、お菓子を準備するからと言って出て行ったきり、圭介はまだ戻ってこなかった。
「多分、何か仕事してるんだと思う。出ないほうがいいと思うな……」
汀がそう呟いて、ため息をつく。
「最近ずっと、圭介ああだから」
「そうなんですか……」
圭介は、汀の世話をしても、どこか上の空、といった具合が続いていた。
いつ頃からだったのかは分からないが、人の気持ちに鈍感な汀でも、多少の異常は察知していた。
「どうしちゃったんだろう……」
少女の小さな呟きは、ピンクパンサーのグラスに入った氷が、カランと溶ける音にまぎれて消えた。
480:

圭介は、無言で病院前の郵便ポストを見ていた。
彼の両手からは、ボタボタと血が垂れている。
指を切ったらしい。
圭介は舌打ちをして、持っていた封筒をゴミ袋の中に突っ込んだ。
封筒の四隅に、綺麗にカミソリの刃が貼り付けられていた。
指に包帯を巻き、ゴム手袋をつけて郵便ポストの中をあさる。
彼がつかみ出したもの。
それは、断末魔の表情のまま固まった、猫の首だった。
野良猫らしく、薄汚れている。
血が半ば固まっているところを見ると、殺されたのはそう前のことではなさそうだ。
圭介は黒いビニール袋を何十かにして、無表情で猫の首を放り込み、そして縛ってからゴミ袋の中に落とした。
「クソガキが……幼稚な……」
小さく呟き、彼はゴミ袋を、脇のポリバケツに入れてふたを閉めた。
そこで彼の携帯が鳴った。
ゴム手袋を外して脇に放り、彼は痛めた指を庇うようにして携帯を取った。
481:
「俺だ」
低い声でそう言うと、電話口の向こうの相手――大河内は、一瞬停止した後怪訝そうに聞いた。
『どうした? 汀ちゃんに何かあったのか?』
「残念ながら特筆することはないな。『近所』の餓鬼の悪戯に手を焼いていたところだ。お前と話す気分じゃない」
『いきなり大概だな。赤十字として、お前達に仕事を依頼したい』
「悪いが、今は……」
『あの「高杉丈一郎」が、自殺病にかかった』
大河内がそう言うと、圭介は電話を切りかけていた手を止めた。
「何?」
『お前なら、食いつくだろうと思ったんだがな』
圭介は、口の端を歪めて、いつの間にか醜悪に笑っていた。
しかし抑揚のない声調子で返す。
「治療はいつだ?」
482:
『すぐにでも始めたい。汀ちゃんのコンディションがいいなら、連れてきて欲しい』
「分かった」
圭介は端的にそう言い、電話を切った。
ポタリポタリと、カミソリで切った傷口の包帯から血が染みて、地面に垂れている。
圭介は口の端を歪めて笑っている、異様な顔のまま、メガネを中指でクイッと上げた。
「はは……高杉が……?」
小さな声で呟く。
「傑作だ」
483:

「今回の患者は、高杉丈一郎。四十一歳。自殺病の治療薬、GMDの権威として知られている、赤十字の物理学者です」
重々しい空気が流れている中、大河内が口を開く。
赤十字の重鎮達と、元老院の老人達、そして医師が集まっている薄暗い会議室の中で、彼は続けた。
「GMDを投与しましたが、自殺病の進行は止まらず、現在第四段階まで差し掛かっています。本人はマインドスイープによる治療を頑なに拒んでいますが、これ以上の放置は危険と判断し、ダイブに踏み切ることにいたしました」
「放置……ハッ、放置ね……」
面白そうに肩を揺らしながら、隅に座っていた圭介が呟く。
「高畑医師、何がおかしいんだね?」
医師の一人が眉をひそめて口を開く。
484:
「これがおかしくなくて何がおかしいと思うんでしょうかね」
挑発的にそう返し、圭介は目の前の資料をテーブルの上に放った。
「高杉先生は、自分の自殺病治療薬、GMDが『効果がない』ことを、自分の体で立証してしまったわけだ。赤十字としても、元老院としても、これは何とも表沙汰にしたくない問題ですね」
「……効果がないわけではありません。防衛型の攻撃性が強く、投薬による解決が中々見受けられない『ケース』なだけです」
大河内が声を低くして圭介を睨む。
「成る程。では高杉先生はその稀有な『ケース』にかかってしまった、強い悪運の持ち主だと?」
「そうなります」
圭介の言葉を受け流し、大河内は周りを見回した。
485:
「GMDは市販されている治療薬の中で、最も使われているものです。その開発者が自殺病にかかってしまい、GMDによる回復が見込めないという状況、これは先ほど高畑医師の指摘にもあったとおりに、表沙汰にはしたくない問題ではあります」
沈黙している周囲から視線を資料に向け、大河内は続けた。
「それでは、資料の十四ページをご覧ください。今回のダイブには、通常よりも更に神経を注ぐことにします。高畑医師のマインドスイーパーと、赤十字から二人のマインドスイーパーをダイブさせることにいたします」
僅かに部屋の中がざわつく。
「この子は……新入りかね?」
元老院の老人の一人が、写真を見ながら口を開く。
大河内は頷いて言った。
「はい。今回のダイブに必要な能力を持っています。A級能力者です」
486:

赤十字病院の中庭で汀の乗った車椅子を押しながら、理緒は息をついた。
先ほどまでああだこうだと言っていた汀が、急に静かになったのだ。
何かと思って覗き込んでみると、コクリコクリとまどろみの中にいるようだった。
彼女の膝の上にいる小白も、丸くなって眠っている。
病院に行く前に圭介が薬を飲ませていたので、心配はないそうだ。
(何だかお姉ちゃんみたいだなぁ)
そう思って、理緒は木の陰に車椅子をとめた。
そこで、彼女は黒い服とサングラスのSP二人に囲まれて、小さな女の子が歩いてくるのを目に留めた。
背丈は汀や理緒よりも低く、金白色の長いウェーブがかった髪の毛を、腰の辺りまで揺らしている。
白い病院服だった。
彼女は無遠慮に二人に近づくと、きょとんとしている理緒を見て、そして頭を垂れている汀を、値踏みするように見た。
SPの二人は、腰に手を当て、女の子の両脇に陣取る。
487:
「あの……」
理緒が戸惑いがちに声を上げると、女の子はそれを打ち消すように、体に似合わない大きな声で、はきはきと言った。
「片平理緒。十五歳。赤十字登録の純正マインドスイーパー、A級。性格はおとなしく消極的、リーダーシップはないが、人望を集めやすく、スタッフからの信頼も高い。成る程、聞いていた通りね」
自分のプロフィールを大声で読み上げられ、理緒が目を白黒とさせる。
「え……」
「そっちは、高畑汀。元老院が指定した、特A級マインドスイーパー。詳細は不明。ナンバーズの一人ね」
女の子はそう言うと、長い髪をくゆらせながら二人に近づいた。
そして、高圧的に、まどろみの中にいる汀の脇に立って見下ろし、鼻で笑う。
「何よ、障害者じゃない」
488:
「あなた……何ですか、いきなり。失礼じゃないですか?」
理緒がおどおどしながら言う。
それも鼻で笑い、彼女は続けた。
「特A級スイーパーがどんな人間か、この目で見たかったら、わざわざ全ての仕事をキャンセルして『来てあげた』っていうのに、何? 日常生活も碌に送れないような、小娘じゃないの。それに猫? 馬鹿にするにも程があるわ」
「……馬鹿にしているのはあなたでしょう? 誰かは分かりませんけれど、汀ちゃんのことを悪く言うのは許せません」
理緒が眉をしかめて、彼女と汀の間に割って入る。
「誰ですか? ここは、関係者以外立ち入り禁止ですよ」
女の子はそれを聞いて、深いため息をついて、やれやれという仕草をした。
そして肩をすくめる。
「一緒に仕事をする人間のことくらい、調べておかないの? 日本人って」
「一緒に? どういうことですか?」
逆に聞き返され、女の子は目をぱちくりとさせた後、SPの一人に食って掛かった。
489:
「どういうこと? 何で日本のマインドスイーパーが、私が来ることを知らないわけ? 一人は寝てるし!」
忌々しそうに汀を指差し、彼女が喚く。
SPの一人は、腰を屈めて女の子に流暢なフランス語で答えた。
それを聞いて、女の子もフランス語で返し、何度かやり取りをした後、彼女は苛立たしげにSPを突き飛ばした。
屈強な男が、それで揺らぐわけもなく、彼はまた手を後ろに回し、先ほどと同じ姿勢をキープした。
「……どうやら、連絡の行き違いがあったようね。私としたことが、とんだ誤算だわ」
彼女はまた深くため息をついて、頭を抑えた。
そしてSPのもう一人から薬を受け取り、口に入れて噛み砕いてから理緒を見た。
「私の名前は、ソフィー。フランソワーズ・アンヌ=ソフィーよ。フランスの赤十字から、今回のマインドスイープのために派遣されてきたわ」
490:
腰に手を当て、見下すように理緒を見て、彼女は忌々しげに鼻を鳴らした。
「あなたと同じ、A級能力者よ」
ソフィーと名乗った女の子は、髪を掻き上げてから、物憂げに二人を見た。
「…………先が思いやられるわね」
「どうしてそんなに喧嘩調子なのか、私には良く分かりませんけれど……今回のお仕事でご一緒するんですね。宜しくお願いします。私、理緒っていいます。あ……ご存知でしたね」
そう言って手を差し出した理緒を無視して、ソフィーは汀の脇にしゃがみこんだ。
「起きなさいよ、特A級能力者。日本のマインドスイーパーは、挨拶も出来ないわけ?」
「汀ちゃんは、今薬で眠っています。あまり刺激しないでください」
理緒が、慌てて車椅子を遠ざけようとする。
491:
そこで小白が目を覚まし、シャーッ! と鳴いてソフィーに噛み付いた。
「痛っ!」
小さくそう言って、彼女は手を引っ込めた。
うっすらと血が出ている。
「だ、大丈夫ですか?」
理緒が駆け寄ろうとするが、SPに止められる。
ソフィーは、涙をうっすらと目に溜めて、吐き捨てるように言った。
「ふん……精々私の足手まといにならないように気をつけることね」
きびすを返して、中庭を去っていくソフィーを、ポカンと理緒は見つめていた。
「……ナンバーズ?」
呟いて首を傾げる。
汀は、まだコクリコクリと頭を垂れていた。
492:

汀は、きょとんとして目の前の、背の低い女の子を見上げた。
施術室で目を覚ました時、腕組みをした女の子が仁王立ちになっていたのだ。
脇で理緒がおろおろしている。
「やっと起きたわね、高畑汀。この私を二時間三十五分も待たせてくれるとは、いい度胸してるじゃないの」
鼻の脇をひくひくさせながら、女の子――ソフィーが言う。
汀は首を傾げて周りを見回した。
ソフィーのことは完全に無視していた。
「ここ……どこ?」
理緒にそう問いかける。
理緒はしゃがみこんで汀の頭を撫で、そして言った。
「赤十字の施術室です。これからお仕事ですよ」
「私、そんな話聞いてないよ」
それを聞いて、理緒は少し表情を暗くしたが、慌てて言いつくろった。
493:
「急に決まったんです。汀ちゃん寝てたから、起こしちゃ悪いと思って……」
「やだ、帰る」
また我侭を言い出した汀に、理緒は息をついてから言った。
「どうして? 患者さんがいるんですよ」
「今日はそんな気分じゃないの。何か……むしゃくしゃする」
「でも、今日ダイブしないと患者さんが危ないんです」
「知らないよ、そんな赤十字の都合なんて」
赤十字の医師達に囲まれている状況で、汀が大声を上げる。
「帰る!」
「汀ちゃん、落ち着いて……終わったら一緒にゲームしよ? 折り紙も教えてあげるから……」
「やだやだ! 今帰る!」
駄々をこねる汀を、呆気に取られてソフィーは見ていたが、彼女はすぐに怒りの表情に代わり、バンッ、とテーブルを平手で叩いた。
それに汀がビクッと体を震わせる。
494:
「とんだ侮辱ね……この私を前にして、よりにもよって『帰る』……? 一体どれだけの労力かけてここまで……」
「汀ちゃん、起きたのか!」
そこで大河内がゆっくりと施術室の中に足を踏み入れた。
汀が一瞬ポカンとした後、慌てて右手で病院服のしわを直す。
「せ……せんせ!」
「心配したぞ。高畑が汀ちゃんに薬を投与したって言ってたから、今日の施術が出来るかどうかも、分からなかったしな」
大河内はそう言って汀を抱き上げた。
汀は顔を赤くして、右手を大河内の肩に回した。
そして頭を擦り付ける。
車椅子に取り残された小白がニャーと鳴いた。
「せんせ、会いたかったよぉ。どうしてすぐ来てくれなかったの?」
「仕事が立て込んでいたんだ。悪かったな」
理緒が、大河内の出現で、とりあえずは安定を取り戻した汀を見て息をつく。
495:
そこで大河内は、肩をわなわなと震わせてこちらを睨んでいるソフィーを目に留めた。
そして汀を抱いたまま、彼女に片手を向ける。
「紹介がまだだったな。こちらは……」
「フランソワーズ・アンヌ=ソフィーよ。よく勘違いされるけど、日本人とフランス人のハーフだから。高畑汀。会えて光栄だわ」
鼻の脇を吊り上げながら、彼女は目だけは笑っていない顔で汀に手を突き出した。
しかし汀は、大河内を盾にするように体をひねると、顔をしかめてソフィーを見た。
「……誰?」
「日本人は自己紹介も出来ないわけ?」
ソフィーがヒステリックに大声を上げる。
それにビクッとして、汀が小さな声で理緒に言った。
「理緒ちゃん、お家に帰ろうよ……」
「汀ちゃん、それは……」
言いよどんだ理緒の言葉を、やんわりと遮りながら大河内が口を開いた。
496:
「ソフィー、最初から喧嘩腰なのはいけないな。ほら、二人とも怯えてしまっている」
「ドクター大河内。彼女達の態度は、とても仕事に向かう姿勢だとは思えません。そんな人達と、この私が一緒にダイブするなんて、考えられないことです。ナンセンスだと思います」
はきはきと大河内にそう言うソフィー。
大河内は、汀を車椅子に戻し、彼女の膝に小白を戻してから言った。
「この子達の解決した案件は、説明したとおりだよ。今現在、日本で一番確実な力を持っているマンンドスイーパーさ。どうか、仲良くしてやってくれないか?」
彼にそう諭され、ソフィーが眉をひそめて二人を見る。
大河内はその視線を無視して、汀に言った。
「フランスの赤十字から派遣されてきた、A級マインドスイーパーだよ。今回は協力して……」
「お断りします」
そこで、ソフィーが声を上げた。
医師たちがざわついて顔を見合わせる。
497:
二人のSPにフランス語で何かを言い、しかし彼らに止められ、しばらく口論してからソフィーは向き直った。
そして、腕組みをして馬鹿にするように理緒と汀を見る。
「それでは、こうしましょう。私と、あなた達二人。どちらが早く患者の中枢を見つけることが出来るか、競争しましょう」
「ソフィー、何を言い出すんだ」
大河内が息をついて彼女の方を向く。
「今回は協力すると、契約書にも……」
「どうです? 競争、しませんか?」
ニヤ、と笑い、彼女はきょとんとしている汀に言った。
「それとも、二人がかりでも、私に敵わないんでしょうかね? 『特A級スイーパー』の高畑汀さん」
挑発的にそう呼びかけられ、汀は、そこで初めてはっきりとソフィーを見た。
498:
そして眉をひそめて、彼女に言う。
「敵うとか敵わないとか、何の話をしているの?」
「実力に差があると、そう言いたいまでです。あなた達と、私には」
「面白いじゃないか。いいだろう。今回は競争だ」
圭介がそう言いながら、白衣を着て施術室に足を踏み入れる。
両手はポケットに突っ込まれていた。
「高畑……何を勝手な……」
大河内が止めようとしたが、圭介は柔和な表情でソフィーに向き直った。
「そんなに自信があるなら、一回挑戦してみてもいいんじゃないかな? フランスのマインドスイーパーさん」
「ドクター高畑……」
そこで、ソフィーは彼を汚物を見るような目で見て、吐き捨てた。
「元老院の子飼いと話すことは何もありません」
「つれないな。俺はただ、君を応援しようと……」
圭介はそう言いながら、包帯を巻かれた手を彼女に伸ばす。
499:
ソフィーは怯えたように喉を鳴らすと、いきなり
「触らないで!」
と怒鳴って、その手を勢いよく振り払った。
「……ッ!」
圭介が顔をしかめて一歩下がる。
傷口を直撃したらしく、包帯にじんわりと血がにじんでいる。
「圭介……?」
不思議そうに、汀が口を開いた。
「どうしたの、それ……」
「……お前には関係ない」
「……圭介に何をしたの!」
汀が大声を上げて、ソフィーを睨みつけた。
500:
豹変した彼女の調子に合わせることが出来ず、ソフィーは言いよどんだ。
「わ……私はただ、振り払っただけで……」
「圭介に危害を加える人は許さない……! 競争でも何でも受けてやるわ。あまりいい気にならないことね……!」
「ふ……ふん! 大概じゃない。後で泣き面晒しても、私は責任を取らないから」
「二人とも落ち着いて……」
理緒がおろおろしながら汀を落ち着かせようとしている。
大河内はため息をついて、横目で圭介を睨んだ。
「……どういうつもりだ?」
小声で彼に問いかける。
圭介は柔和な表情のまま、口の端を吊り上げて笑った。
「いや、何。フランスのマインドスイーパーとやらの『性能』を見てみたくてね」
彼の呟きは、大河内の耳にはっきりと届いた。
「それだけさ」
501:
そう言った圭介を見て、大河内は息を呑んだ。
彼が、どこか暗い、表情の読めない不気味な顔つきをして、ソフィーを見下ろしていたからだった。
ソフィーと汀が睨みあう。
圭介は柔和な表情に戻り、汀の頭を、血が出ていない方の手で撫でた。
「あまり怒るな。俺は大丈夫だから。じゃ、準備を始めるぞ」
「高畑先生! 本当に競争なんて……」
理緒に頷いて、彼は続けた。
「ああ、勝った方には、ご褒美をあげよう」
502:

ムスッとした表情のまま、汀は目を開けた。
そこは、地下室のような空間だった。
広さ十畳ほどの小汚い壁、床。
出口などはどこにも見られない。
天井には裸電球がゆらゆらと揺れながら、時折点滅しつつ光を発していた。
「汀ちゃん……」
どこかおどおどしながら、理緒が後ろから近づいてくる。
「どこですか、ここ……?」
「表層心理壁の、煉獄に繋がる通路よ」
そこで、はっきりとした声が、二人の後ろから投げつけられた。
汀の肩の上で、小白がニャーと鳴く。
振り返った二人の目に、腕組みをして高圧的にこちらを見ているソフィーの姿が映った。
「日本には馬鹿しかいないるのかしら?」
「フランスには礼儀知らずしかいないのね……」
汀が低い声でそう返す。
503:
ソフィーは鼻を鳴らして、現実世界とは異なり、しっかりと自分の足で地面に立っている汀を見た。
「へぇ……『かたわ』のままダイブしてきたらどうしようかと思ったけど、そこら辺は特殊なのね、あなた」
平気で差別用語を口にし、ソフィーは眉をしかめた理緒に目を向けた。
「何ボサッとしてるの? マインドスイーパーなら、やらなくてはいけないことがあるんではなくて?」
「……あなたに言われなくても、分かっています」
理緒はそう言ってソフィーから視線を外し、ヘッドセットのスイッチを入れた。
汀も遅れてスイッチを入れる。
「ダイブ完了しました」
「…………」
無言でソフィーを睨んでいる汀の横で、理緒が圭介に状況を説明する。
『今回のダイブでは、俺が三人のナビゲートをすることになっている。だが、このダイブは「競争」だ。ひいきはしないから、そのつもりでな』
圭介がそう言うと、理緒が少し言いよどんだ後、言いにくそうに口を開いた。
504:
「あの……先生。患者さんの命がかかっているんですよ? 競争だなんて……みんなで協力した方が……」
『出来るならそうしたらいい』
投げやりに圭介が言う。
突き放されて、理緒は何かをゴニョゴニョと呟こうとしたが、失敗して口をつぐんだ。
不満そうな彼女の脇で、ソフィーは足を踏み出すと、扉の一角に目をやった。
そこだけ、鋲が打ちつけられた扉のようになっていた。
壁に、手の平大の窪みがある。
正方形だ。
そして、床には薄汚れたルービックキューブが転がっていた。
色がバラバラになっている。
ソフィーがそれを拾い上げた途端、ガコンッ、という音がして四方の壁が一センチ程、三人に向かって『近づいて』きた。
そう、壁と壁の距離が、狭まったのだ。
理緒がビクッとして肩をすぼめる。
汀は、まだ暗い視線でソフィーを睨んでいた。
ソフィーはそれを意に関することもなく、ヘッドセットの向こうに言った。
「ドクター高畑。あなたのナビゲートを受けるのは心外だけど、この際仕方ないわ。一時的に会話をしてあげます」
505:
『それは光栄だ』
「心理壁に繋がる道を開きました。次の指示をお願いします」
カチャカチャとルービックキューブを動かし、彼女は無表情でそれを壁の窪みに嵌めた。
色は、六色全て揃っていた。
また、ガコン、という音がして、今度は十センチ程壁と壁の距離が狭まる。
「汀ちゃん! 壁が近づいてきますよ!」
「当たり前のことをいちいち喚かないで」
理緒の悲鳴を冷たく汀が打ち消す。
「それじゃ、お先に」
ソフィーがニッコリと笑って手を振る。
シャコンッ、と音を立てて、鋲がかかっていたはずの扉が開いた。
向こう側は白い空間になっている。
「え……? ちょ、ちょっと待って!」
理緒が大声を上げる。
しかしソフィーは口の端を吊り上げて笑った後、壁からルービックキューブを抜いて、床に叩きつけた。
506:
プラスチックが砕ける音がして、ルービックキューブがバラバラになる。
また、壁が今度は十五センチほど近づいてきた。
かなり狭くなった部屋を見回し、ソフィーは余裕の表情で白い空間に体を躍らせた。
次の瞬間、またシャコンッ、という音がして扉が閉まった。
そして鋲が内側からせり上がり、しっかりと扉を固定する。
「嘘……」
理緒が呆然として、砕けたルービックキューブに駆け寄る。
また、壁が狭まった。
「壊されちゃった……! これ、多分この人の心の中に入る鍵なのに……!」
「選別してるのね。マインドスイーパー用のトラップだわ。この患者、私たちのことをよく知ってる」
冷静に言う汀に、ルービックキューブの欠片を拾い集めながら、理緒が青くなって言った。
「汀ちゃん手伝って! これを早く直さなきゃ……」
「そんな必要はないよ」
汀は肩の上の小白を撫でてから、不思議そうに理緒を見た。
507:
「どうして、この人の心が作ったルールに、わざわざ合わせなきゃいけないの?」
「でも合わせなきゃ扉が開かないんですよ。他に、どうすればいいっていうんですか!」
「こうすればいいんだよ」
汀はそう言って、扉の前に立った。
部屋はもう、二人が立っているだけでやっとといったくらいの四方の狭さになっていた。
汀は、軽く助走をつけると、右足を強く鉄の扉にたたきつけた。
凄まじい音がして、次いで部屋のいたるところから、血液が噴出した。
それを浴びて、面白そうに汀は何度も、何度も扉を蹴った。
「汀ちゃん、何してるの……やめて!」
血の雨を浴びながら、理緒が悲鳴を上げる。
しかし汀は、扉を蹴るのをやめようとしなかった。
そして、遂に鋲と扉の継ぎ目から、大量の血液があふれ出す。
それが溜まって、二人の腰までを血が覆い隠す。
「あは……あはははは!」
血のシャワーを浴びながら、汀は嬌声を上げた。
そして、十数回目の蹴りで、扉がひしゃげ、どろりと溶けた。
508:
汀は、そこで理緒の手を掴んで、胸の高さまで上がって来た血液を掻き分けながら、歩き出した。
「行こ」
「汀ちゃん、これってまずいんじゃ……だって、心の表層心理壁を物理的に破壊してるわけだから……」
「知らないよ、この人のことなんて」
汀は簡単に言って理緒を切り捨てると、その手を引いた。
「早くしないと、あの女が一位取っちゃうでしょ?」
その無邪気な笑顔を見て、理緒は口を閉ざした。
言い知れない、何か邪悪なモノを感じたからだった。
しかし、体を包む生ぬるい血液の感触に、汀の手を握り返してしまう。
彼女にニッコリと笑いかけ、汀は白い空間に身を躍らせた。
509:

気づいた時、汀達は、地上二十メートルほどの地点に立っていた。
足元はレンガ造りの堅牢な足場になっているが、手すりも何もない。
幅一メートルほどの足場だ。
コチ、コチ、コチ、コチといたるところで時計の音が聞こえる。
全てが狂っているような、不規則な時の刻み方が多かった。
不協和音が反響して、耳が痛い。
空はどんよりと曇っていて、今にも雨が降ってきそうだ。
理緒はあまりの高さに驚いてよろめき、汀に支えられて周りを見て、硬直した。
二人がいたところは、時計塔の頂上だった。
足元では直径三メートルはあろうかという巨大な時計が、二秒に一度ほど秒針を進めている。
見渡す限り、その時計塔の群れだった。
高さはまちまちで、装飾もまちまちだが、共通していたのは、それが『塔』であるという事実。
それが何百、何千と果てしなく広がっている。
空調音のようなゴウンゴウンという音は、時計の針が時を刻む、不規則な音が織り成す巨大な不協和音だ。
510:
「何……これ……?」
理緒が唖然として呟く。
汀は鼻を鳴らして言った。
「防衛型の進行が進みすぎたせいね。理緒ちゃんは一度、入ったことあるでしょ? 防衛型。この中のどれが一つが正解なの。中枢に繋がる道の」
言われて理緒は、DID患者の中にダイブした時のことを思い出した。
その時も、同じような群れの中に一人だけ、中枢に繋がる道を持つ人間がいたのだった。
「じゃあ……今回も、この沢山の時計塔の中から『正解』を見つけなきゃいけないってことですか……?」
「察しがいいね。その通りだよ」
「でも……どうやって?」
「それを考えるのが、私達の仕事」
「あの……この前から気になってたんですけれど……」
理緒は汀を見下ろして言った。
「こういう場合、もし間違ったものを選んじゃったら、どうなるんですか?」
511:
「さぁ? 死ぬんじゃないかしら」
汀は小白の頭を撫でて、肩をすくめた。
「わかんないな。私、間違えたことないもん」
「そんな……本当?」
「私も興味あるから、ためしに間違えてみたら? 多分、この塔はダミーだし」
そう言いながら、汀は、時計塔の起動スイッチと思われるレバーを引こうとした。
「ちょ、ちょっと待って!」
慌てて理緒がそれを止める。
「何?」
不満そうな顔をした汀に、理緒は汗を垂らしながら言った。
「もうちょっと考えよ? ね? もし爆発とかしたら、どうするの?」
「面白いよ」
理緒は深くため息をついた。
512:
そしてヘッドセットのスイッチを入れて、圭介に呼びかける。
「高畑先生。患者さんの心理壁の内面に到達しました。指示をお願いします」
『入れたのか。まぁ、汀がいるんだから、問題はないだろう?』
さして意外でもなさそうに圭介が返す。
そこで汀がヘッドセットに手を当てて、圭介に言った。
「圭介、手、どうしたの?」
『お前には関係ないと言っただろ?』
「あの女にやられたの? 何かされたの?」
食い下がる汀に、圭介は一瞬沈黙した後答えた。
『さぁな。勝負に勝ったら教えてやるよ』
「高畑先生! ふざけている場合じゃ……」
『中枢をさがして治療してくれ。時間が差し迫っている。それより先に、ソフィーの方が治療に成功するかもしれないな』
圭介が挑発的にそう言う。
513:
汀の目の色が変わった。
「私が勝つよ。フランス女なんかには負けない」
「汀ちゃん、目的は勝つことじゃ……」
『頼もしいな。その調子で頼む』
「高畑先生!」
理緒がおろおろしている脇で、汀は時計塔の扉に手をかけた。
そして引く。
「中に入れるみたいだよ」
理緒が答えるのを待たずに、彼女は時計塔の中に体を滑り込ませた。
「待って!」
慌てて理緒が後を追う。
時計塔内は、錆びた鉄製の螺旋階段が下まで伸びていた。
時計の内部がカッチコッチと音を立てている。
管理室だろうか。
一つだけ、ブラウン管型テレビが置いてある。
壁には、風車がついた時計塔の写真が貼ってあった。
514:
「これを探せばいいんでしょうか……? でも、こんな何百何千ってある中でどうすれば……この前みたいに、逃げてく人を選別するわけにもいかないし……」
「多分、理緒ちゃんが言うとおり、これが正解の時計塔だね。この人の心の中で、重要なものなんだと思う」
「停止させればいいのかな?」
「うん。多分」
汀の肩の上で退屈になってきたのか、小白が大きな欠伸をする。
そこで、テレビがプツリと音を立ててついた。
「ひっ……!」
息を呑んだ理緒の脇で、汀は興味深そうにそれを見ていた。
そこには、豚のト殺場の様子が映されていた。
沢山の豚達が、機械で絞め殺されて断末魔の悲鳴を上げている。
無音だ。
しばらくして、テレビからノイズ交じりの、淡白な男性の声が流れてきた。
515:
「アミハラナギサ、カタヒラリオ、フランソワーズ・アンヌ=ソフィー」
「なぎさ……?」
汀がそう呟いて、怪訝そうな顔をして頭を抑える。
不意に、右即頭部に頭痛が走ったのだった。
「次の犠牲者は、この三人です」
画面の中に、両手両足を天井から縛られ、吊るされた汀、理緒、ソフィーの姿が映し出される。
「わ、私……?」
理緒が震えながらそれを見ている。
豚の断末魔が聞こえ、プツリとテレビが消えた。
「ど……どういうこと……?」
唖然として、ペタリとその場にしりもちをついた理緒に、頭を抑えながら汀は言った。
「ただの異常変質心理壁の特徴が出ただけ。これ以上入ってくるなら、トラウマに触れるぞって警告を発してるの」
「それにしては不気味でしたけれど……」
516:
そこで、二人は外からキィィィ! という豚の断末魔が聞こえてきて、顔を見合わせ扉を開けた。
時計塔と時計塔の間に、錆びた鎖と、巨大な滑車が出現していた。
時計塔の歯車から動力を得ているのか、数万の鎖がギチギチと音を立てる。
そこには、おびただしい数の肉を引っ掛ける鉤が釣り下がっていた。
その先には、まだ生きている豚。
豚が、首先を鉤に突き刺されてゆっくりと進んでいる。
時計塔の頂上には、ノコギリのようなものが高で回転しており、豚たちは、生きたままそれに両断され、ゴロリゴロリと地面めがけて、真っ二つになって落ちていく。
どこから補給されるのか、豚の数は減ることがない。時計塔で切り刻まれて、出てくる時には新しい豚が補充されているのだ。
理緒は、間近で豚が真っ二つに両断され、その血液だか体液だか分からないものを間近で浴びてしまい、悲鳴を上げた。
「これで移動すればいいんだね」
しかし汀は表情一つ変えず、出てきたばかりの、まだ動いている豚につかまった。
「理緒ちゃんも。早く」
517:
呼びかけられ、理緒は真っ青になりながら汀を呼んだ。
「駄目……行けない! 行けない!」
「どうして? 早くしないと……」
「私高いところ駄目なの! それに、このままついてったら、ノコギリで真っ二つになっちゃう!」
「その前に飛び降りればいいよ。大丈夫。ここは、所詮脳内イメージの世界だから」
「そんな風に割り切れないですよ!」
「いいから。ほら」
汀に無理やり手を引かれ、理緒は近くの豚に恐る恐る抱きついた。
「行くよ」
汀も同じ豚に抱きつき、鎖を手で掴む。
二人を乗せた鎖がゆっくりと動き、地上二十メートルの空中に躍り出る。
意識を失いそうになった理緒の手を掴んで、汀は面白そうに、時計塔と時計塔を繋ぐ、豚のト殺光景を見た。
「ふーん。そうなんだ」
空中に出て、周りを見回して、汀は呟いた。
518:
「理緒ちゃん、目開けないと危ないよ」
「開けられない! 開けられない!」
首を必死に振っている理緒にため息をついて、汀は片手でヘッドセットのスイッチを入れて言った。
「圭介。ここ、D型の変質区域だ」
『そのようだな。先ほどソフィーからも同じ通信があった』
汀が頬を膨らませ、不満そうに言う。
「私の方が先に分かってたもん」
『そんなところでひいきはしない。何せ、ソフィーは「このため」に、フランスから連れて来られたんだからな』
「どういうこと?」
『彼女は、IQ190の超天才児だ。パズルを解くことは、何よりも、誰よりも得意なんだ』
「ゲームするうえで、チートはいけないと思うけど、まぁ、でもチートは単なるチートだよね」
汀が冷めた口調でそう言う。
519:
彼女の目に、既にソフィーによって停止させられたのか、いくつかの時計塔が見えた。
それが上下左右対称の、幾何学的模様を描いている。
おそらく、紋様を描く時計塔を停止させた先に見える、中心のものが、あの風車のある時計塔なのだろう。
豚のト殺レールがそのルートになっているらしい。
うっすらと遠くに見えるそれを目を細めて見て、汀は歯噛みした。
そして目を閉じて震えている理緒を見た。
分が悪いのは、誰が見ても明らかだった。
「理緒ちゃんは、ここで待ってる?」
汀が釣り下がりながらそう聞く。
理緒は必死に豚にしがみつきながら、何度も頷いた。
「でも一緒に来ないと、治療した時に外に出れないよ」
汀は考え込んでため息をついた。
「いい加減慣れようよ。夢の世界って、大体こうだよ。理緒ちゃんがダイブしてた、子供の頭の中とは違うの。人間って、大きくなればなるほど汚れていく生き物だから」
520:
まともに返事も出来ない理緒を見て、汀は回転ノコギリが迫ってきたのを見て、別の時計塔に飛び降りた。
「理緒ちゃん、降りてきて」
理緒にそう呼びかけるが、彼女は硬直してしまってそれどころではない様子だった。
「理緒ちゃん?」
問いかけた後、汀はサッと顔を青くした。
理緒がここまでの高所恐怖症だとは思わなかったのだ。
『どうした、汀?』
圭介に問いかけられ、汀は慌ててそれに返した。
「理緒ちゃんがまずいの。このままじゃ、真っ二つにされちゃう」
『どういう状況だ。いいか、理緒ちゃんは無傷で連れて帰れ。約束してるだろ?』
「わ……分かった!」
汀は頷いて、飛び上がった。
521:
そして理緒の近くの鎖にぶら下がり、彼女に手を伸ばす。
回転ノコギリが迫っていた。
「理緒ちゃん、目を開けて! 早く降りないと、まずいよ!」
「……だ、駄目! 駄目なんです! 体が動かないの……腰が……腰が抜けちゃって……」
「理緒ちゃん!」
汀は慌てて、回転ノコギリから理緒を守る形で、その間に割って入った。
嫌な音がした。
汀の肩の上で、小白が驚いて声を上げる。
「……ッあぁ……あ……ッ!」
汀が苦悶の表情に顔を歪ませる。
彼女の左腕が、綺麗に肩口から両断されて、ボトリと時計塔の足場に落ち、転がって下に消えていった。
凄まじい量の血液が、彼女の肩口から噴出する。
522:
「汀ちゃん……!」
理緒が目を開いて、驚愕の声を上げる。
汀は痛みに耐えることが出来ずに、鎖を離し、その場に落下を始めた。
理緒が無我夢中で手を伸ばし、彼女の右腕を掴む。
そして彼女は、悲鳴のような絶叫を上げると、汀の体を持ち上げ、豚から手を離し、転がって時計塔の足場に飛び降りた。
しばらく茫然自失して、荒く息をつく。
そして彼女は、肩口を押さえてうめいている汀に近づいて、震えながら、上腕が両断されてしまった彼女の傷口を見た。
「ど……どうしよう……! どうしよう! 高畑先生! 汀ちゃんが……汀ちゃんが!」
『どうした? 落ち着いて状況を説明してくれ』
「汀ちゃんの腕が、ノコギリで切られて、なくなっちゃった……!」
『何?』
圭介は思わず問い返して、慌てて言った。
『回線を遮断する。汀、聞こえるか? 返事をしろ』
523:
「……圭介……私、まだやれる……大丈夫……」
病院服を右手で破りとって、腕の傷口を縛りながら汀はそう言った。
理緒が慌てて口を挟む。
「む……無理です! 汀ちゃん、戻ろう? このまま失血したら、現実世界の左腕も……」
「元々動かないんだから、どうでもいいよ……」
痛みに耐えながら汀がそう言う。
しかし圭介は、少し考えてから言った。
「駄目だ。回線を強制遮断する。二人とも、戻って来い」
彼の声は、断固とした調子で二人の耳を打った。
汀は歯噛みして、肩の傷口を押さえた。
とめどなく流れていく血液。
そこで、彼女達の意識はブラックアウトした。
524:

第9話に続く

お疲れ様でした。
次話は明日、5/13に投稿予定です。
気長にお待ちくださいませ。
m(_ _)m
526:
薄暗い部屋の中、少年三人は背中合わせに立っていた。
三人とも、白い病院服の所々が鋭利な刃物で切り刻まれ、血が流れ出している。
彼らの周りには、同年代の少年や少女達が、刃物で喉笛を切り裂かれ、無残な死骸となって転がっていた。
「通信が繋がらない……完全に遮断されたぞ!」
少年の一人がそう言う。
彼らは、手に何も持っていなかった。
ヘッドセットを地面に叩きつけ、もう一人の少年が言った。
「チッ。完全にジャックされてやがる。精神世界と現実世界が、これでもかと完璧に切り離されてる」
「大河内、何か構築できるものはないのか?」
大河内と呼ばれた少年が、青くなり震えながら言う。
527:
「……出来ない……精神防壁が張ってある。石ころ一つ持ち上げられない……」
「しっかりしろ。ここであいつを倒さなきゃ、俺達もどの道犬死にだ」
「で……でも高畑……!」
高畑と呼んだ少年に、大河内は叫ぶように言った。
「丸腰じゃどうしようもないよ! みんな、完全に『殺され』た! 俺達も死ぬしかないじゃないか!」
「安心しろ、大河内、高畑。お前達は僕が必ず守る」
そこで、もう一人の少年が口を開いて、足を踏み出した。
そして腰を落とし、腕を体の横に回し、拳闘の構えを作る。
「腕一本になっても、お前達は僕が守る。高畑は僕のサポートを。大河内は外部との連絡通路を急いで構築してくれ。 一からでいい」
冷静に指示を出し、彼は周りを見回した。
528:
一面、蜘蛛の巣だらけの空間だった。
時折、引きつったような奇妙な笑い声が暗闇に反響している。
「決して、何が起こっても慌てるな。僕が死んでも、お前達二人はすぐに現実世界に戻れ。分かったな?」
大河内が泣きながら何度も頷く。
そして、彼は空中の、目に見えないパズルピースを掴むような動作をして、それを見えないキャンバスにはめ込み始めた。
高畑が少年の脇で同じような構えを取り、低い声で聞く。
「……大河内はあの調子だ。何分もたせればいい?」
「二分……二分三十秒」
「最悪だな」
キチキチキチキチ。
金属のこすれる音がして、二人の前方に、奇妙な「物体」が現れた。
529:
ドクロのマスクを被った人間の頭部。
そして、丸いボールのような体。
所々が腐食して崩れ、内部の歯車やチェーンが見えている。
ムカデのような足。
蟹股のそれらが、カサカサと蟲のように動いている。
手は、数え切れないほど巨大な、丸い体から突き出していた。
それらの手一つ一つに、ナタのような刃物を持って、振り回している。
また、キチキチキチキチと音がして、ドクロのマスクがこちらを向いた。
「スカイフィッシュのオートマトンか。でもどうして……」
「高畑、考えている暇があったら動け。来るぞ!」
少年がそう言って、こちらに向かって猛突進をしてきた奇妙な「物体」に向けて走り出す。
そして彼は、数十本の腕が振り回す鋭利なナタを一つ一つ、見もせずにかわすと、丸い胴体部分に、腕を叩き込んだ。
放射状の空気の渦が出現するほどの、早い拳だった。
530:
空気が割れる音と共に、 二、三メートルはある「物体」が数メートルは宙を浮き、足をばたばたさせながら、背中から地面に落下する。
大河内がそこで悲鳴を上げた。
振り返った二人の耳に、大量の、キチキチキチキチキチという、機械の部品がこすれる音が響く。
幾十、幾百もの「物体」が、こちらに向けて近づいてきていた。
「二分三十秒でいいんだな、坂月!」
高畑がそう言って腕を構える。
坂月と呼ばれた少年は、自分達を取り囲む「物体」の大群を見回し、一瞬だけ口の端を吊り上げて笑った。
しかしすぐに無表情に戻り、唖然としている大河内の頭を、ポン、と撫でる。
「いや、一分三十秒でいい」
531:
彼の声に、大河内がすがるように言う。
「そんな短時間じゃ無理だ! 扉を作るのはいくら僕でも……」
「もう作らなくてもいい」
彼はまた、口の端を吊り上げた。
「スカイフィッシュ……僕を誰だと思ってる……」
彼は腰を落とし、醜悪に、舐めるように、呟いた。
「僕は、S級能力者の坂月。坂月健吾だぞ」
532:

第9話 殺害領域

「汀ちゃん、しっかりして! 汀ちゃん!」
担架に乗せられて運ばれていく汀を、理緒が必死に追っている。
汀は、左腕を押さえて、意味不明な言葉を喚きながら、担架の上でもだえ苦しんでいた。
「痛い痛い痛い痛い痛い痛いー!」
彼女の絶叫が響く。
担架を押しながら、大河内が、看護士に押さえつけられている汀に口を開いた。
「すぐに痛みは消える。もう少し我慢するんだ!」
「せんせ……死ぬ! 私死んじゃう!」
「大丈夫だ死なない! 私がついている!」
大河内がそう言って汀の右手を握る。
担架を冷めた目で見ながら、施術室の扉に、腕組みをして圭介が寄りかかる。
533:
そこに、冷ややかな瞳でソフィーが近づいた。
「……どういうことか説明してもらいたいですね、ドクター高畑」
「何だ?」
「どうして、私まで強制遮断されて戻ってきてしまったのかしら? これは、故意だとしたら重大な過失だと思うのですけれど」
彼女の脇に、黒服のSPが二人ついて、腰に手を回して圭介を見る。
「施術は中止だ。予期しない出来事は、この仕事にはよくあることだろう?」
飄々と返した圭介に、ソフィーはバンッ! と壁を平手で叩いて怒鳴った。
「私一人でも治療できました! ドクターだって仰っていたではないですか、これは『競争』だと。なら何故、そちらのマインドスイーパーがミスを犯した時点でやめさせられなければいけないのでしょうか!」
534:
「君一人が治療に成功しても、何の意味もないんだよ」
そこでソフィーは、発しかけていた言葉を飲み込んで固まった。
圭介が、ゾッとするような冷たい目で自分を見ていたからだった。
「で……でも……」
言いよどんだ彼女に、圭介はポケットに手を突っ込みながら言った。
「それに、君一人ではこの患者の治療は無理だ」
「何ですって!」
「君の事は、よく知ってる。調べさせてもらったからな。この患者は、特異D帯Cタイプだ。その意味が分かるな?」
「え……」
一瞬ポカンとして、次いでソフィーは青くなった。
「Cタイプ……?」
「聞いていた『情報』と違ったかな?」
圭介がせせら笑う。
535:
「……人でなし!」
そう叫んで掴みかかろうとしたソフィーを、SPの二人が押さえつけて止めた。
「この件は正式に元老院に抗議させていただきます。ドクター高畑。あなたはマインドスイーパーを何だと思っているのですか?」
歯を噛みながらそう言ったソフィーを、意外そうな顔で圭介は見た。
「ん? 天才なら、とっくに気づいていると思ったがな」
「茶化さないで! Cタイプの患者に、よくも私を一人でダイブさせたわね!」
「君達マインドスイーパーは道具だ。それ以上でもそれ以下でもない」
圭介はそう、冷たく断言すると、押さえつけられているソフィーの前に行って、ポケットに手を突っ込んだまま無表情で見下ろした。
「道具は文句は言わない。もし言ったとしても、それは道具の戯言であって、ただのノイズだ。道具はただ、俺の思うとおりに動いていればいい」
圭介はせせら笑いながら、鉄のような目でソフィーを見た。
「図に乗るなよ。道具」
「この……!」
「次のダイブは三時間後だ。精々『情報』を整理しておくんだな」
髪を逆立てんばかりに逆上しているソフィーを尻目に、圭介は施術室を出て行った。
536:

「薬で眠らせてある。大丈夫だ。精神世界と現実世界の区別がつかなくなって混乱していただけだ」
大河内が、赤十字の病室でそう言う。
汀は、ベッドに横になってすぅすぅと寝息を立てていた。
寝る前によほど錯乱したのか、ベッドの上は乱れきっている。
それを丁寧に直しながら、理緒は涙をポタポタと垂らした。
「ごめんなさい……ごめんなさい……私が、もっとちゃんと出来てれば……」
圭介は一瞬それを冷めた目で見たが、手を伸ばし、理緒の頭を撫でた。
「気にするな。俺も確実なナビが出来なかった。君一人の責任じゃない」
「高畑先生……私、やっぱり……」
そこで言いよどみ、しかし理緒はおどおどしながら続けた。
「私、大人の人の心の中にダイブするの、向いてないんじゃないでしょうか……今回だって、汀ちゃんの足手まといにしかならなかったです」
537:
圭介と大河内が、一瞬顔を見合わせた。
そして圭介は軽く微笑んでから言った。
「そんなことはない。君がいなければ汀を制御することは今よりもっと難しくなってる」
「……本当ですか……?」
「ああ、本当だ」
圭介はそう言って、理緒の手を握った。
「汀を頼む。この子には、ストッパーが必要だ。君のような」
「すみません……ありがとうございます……」
また涙を落とし、手で顔を覆った理緒を椅子に座らせ、大河内は圭介のことを、カーテンの向こうの隅に引っ張っていった。
そして強い口調で囁く。
538:
「……まさか、ダイブを続行させるつもりじゃないだろうな?」
「察しがいいな。当然だろ?」
「二人とも、ダイブが出来る精神状態じゃない。ソフィーも協力する気が皆無だ。このプランは見合わせた方がいい」
「そうでもないさ」
「何を根拠に……」
大河内は、そこで入り口に立ってこちらを睨んでいるソフィーに目を留めた。
SP二人は、病室の入り口に立っている。
「……少し、話をさせて欲しいわ」
ソフィーはそう言うと、理緒を指差した。
「ドクター大河内、ドクター高畑、席を外してくださる?」
「え? 私ですか……?」
きょとんとして理緒がそう言う。
ソフィーは不本意そうに鼻を鳴らし、言った。
「他に誰がいるのよ」
539:

圭介と大河内が病室を出て行き、ソフィーは椅子の上に無作法に胡坐をかいて、汀を睨んでいた。
「あ……あの……」
理緒が言いにくそうに口を開く。
「お話っていうのは……」
「とても不本意だけど、あなた達に協力を要請したいわ」
理緒はきょとんとして、彼女に返した。
「協力……? でも、私達とは競争したいって……」
「事情が変わったのよ。協力、するの? しないの? はっきりして」
ヒステリックに声を上げるソフィーを手で落ち着かせ、理緒は続けた。
「私としては、あなたのような優秀なスイーパーさんとご一緒できるのは嬉しいですけれど、汀ちゃんが何と言いますか……」
540:
「こんなかたわ、何の役にも立たないじゃない。特A級なんて、聞いて呆れるわ」
彼女を蔑むようにそう言ったソフィーに、理緒は深くため息をついた。
「……めっ」
そう言って、彼女の鼻に、人差し指をつん、と当てる。
何をされたのか分からなかったのか、ポカンとして停止したソフィーに、理緒は言った。
「人を、『かたわ』なんて言ってはいけません。人を、馬鹿にしてはいけません。いつか自分にそれが返ってきますよ」
「こっ……子供扱いしないでよ!」
真っ赤になってソフィーが怒鳴る。
人差し指をそのまま自分の口元に持っていき、静かにするように示してから、理緒は汀の頭を撫でた。
小白が、汀の枕元で丸くなって眠っている。
541:
「他人は、自分を映す鏡だって、私は小さい頃、私の『先生』に教わりました。怒っていれば怒るし、悲しんでいれば一緒に悲しんでくれます。それが、他人なんです。ですから、ソフィーさんは、もっと私たちに優しくしても、大丈夫なんですよ?」
「…………」
「それが、ソフィーさんのためになるのですから」
「……脅し?」
小さい声でそう聞いたソフィーに、慌てて理緒は言った。
「そ、そんなことはないです。そう受け取ってしまったのなら謝ります。私はただ……」
「まぁ、私を貶めようとしているわけではないことだけは評価してあげるわ」
腕組みをして、ソフィーは、この話は終わりだと言わんばかりに指を一本、顔の前で立てた。
「私達がダイブさせられようとしている人間は、D帯のCタイプ型自殺病発症患者よ」
「D帯? Cタイプ?」
542:
「あなた、本当に何も知らないのね。そんなでよくA級スイーパーの資格を取れたものね。驚いて声も出ないわ」
「汀ちゃんも、この前気になることを言っていましたけれど……自壊型と防衛型とか……」
「ああ、日本ではそう言うのね」
ソフィーは頷いて、手を開いた。
「いい? 馬鹿なあなたに教えてあげる。自殺病は、大別して五つの分類に分けられるわ。一つは、通常、緩やかに進行していくAタイプ。緩慢型と言うわ」
指を一本折って、ソフィーは続けた。
「二つ目は、あなたがさっき言った自壊型。これは緩慢型が悪化したケースね。これにかかった患者は、精神分裂を起こし、結局は自殺するケースが最も多いわ。Dタイプよ。防衛型は心理的防衛壁が大きいタイプ。これがBタイプ」
すらすらと医者のようにそう言って、ソフィーはまた二本指を折った。
543:
「そして、防衛型の反対、攻撃型。攻撃性が異常に強い患者の精神内壁のことを指すわ。これがEタイプ」
「そ……そうなんですか……」
「そしてCタイプ……まぁ、その中でもいろいろ種類があるんだけど、説明しても分からないと思うから、しない。とにかく、Cタイプは『変異型』という特殊な型が分類されてるの。その中でも、D帯Cタイプというのは、日本語で言えば『特化特異系トラップ優位性変異型』と言えるわ」
「どういうことですか?」
首を傾げた理緒に、髪をかきあげながらソフィーは続けた。
「簡単に言えば、マインドスイーパーに対する精神的トラップを、訓練によって心の中に多数植えつけた人間のこと。私達が最初に入った部屋とか、次に入った空間、異様に面倒くさい手順だったでしょ? 防衛型の特徴も出てるけど、ああいうのは、時間稼ぎをして私たちのタイムアップを狙ってくる、完全な意図的トラップなの」
「じゃあ、今回の患者さんって……」
544:
「ええ。マインドスイープに深く関わっている人間で間違いないと思うわ。それだけに、危険性が急上昇するのよ」
「私達に対する対策を、知っているわけですからね……そういえば、中で私達の名前が呼ばれたような……」
「知ってるからよ。私達のことを。アミハラナギサって言うのは、気になるけど」
ソフィーは鼻を鳴らして、忌々しげに言った。
「それでも、私なら一人で出来ると思ってたけど、この患者、D帯ということは攻撃性も持ってるの。通常、D帯とCタイプが合わさった場合、専門のスイーパーでチームを組んで、十人単位のグループでダイブするわ」
「え……?」
思わず聞き返した理緒に、ソフィーは頷いた。
「私達、ハメられたのよ。あの高畑とかいう医者に。ドクター大河内も信用は出来ないわ」
「そんな……お二人とも、良い方々です」
狼狽しながらそう言った理緒を馬鹿にするように見下し、ソフィーは吐き捨てた。
545:
「信じるのは勝手だけど、夢を見るのは結果を見てからにした方がいいと思うわ」
「お二人が私達を騙すなんてこと、ありません。ソフィーさんの思い違いです」
断固としてそう言う理緒を呆れたように見て、ソフィーは肩をすくめた。
「そう思いたいんなら、それでいいわ。時間がないから、話を進めるわよ。で、今回は、最低でも五種類の役割が必要になるの」
「五種類……?」
「まずは、トラウマ等の攻撃から、私達スイーパーの身を守る、アタッカーとディフェンサー。一番力のある、つまり脳細胞の働きが活発なスイーパーが役割に当てられることが多いわ」
眠っている汀を見て、ソフィーは続けた。
「この子みたいなね。言ってしまえば、一番重要な役割よ」
「他には……?」
「次は、トラップを解除する役割のリムーバー。この場合、私ね。そして治療を行う、キーパーソンが一人絶対に必要。この場合はあなた」
理緒を手で指して、ソフィーは続けた。
546:
「最後はキーパーソンを守る、ファランクス(盾)が必要。それで、最低五人。通常は二人ずつ各ポジションに配置して、一つのチームとして運営するの。『危険地帯』へのダイブの場合はね」
「二人も足りませんけれど……」
「足りないのは七人よ。二チーム使うこともあるから、そう考えると二十七人の手数が足りないわ。圧倒的に、これは『私』をハメるためとしか思えないわ」
歯噛みして、ソフィーは言った。
「……最初に頭に血が昇ったのがまずかったわ。気づけばよかった……」
「…………」
彼女の勢いに圧倒されながら、理緒はおどおどと口を開いた。
「じゃ、じゃあどうすれば……」
「この猫は戦力に入れないとして、この子……高畑汀が、アタッカー、ディフェンサー、ファランクスの三つの役割を兼任するしかないわ」
547:
「そんな……汀ちゃんは一人なんですよ?」
「でも、そのための『特A級』でしょ?」
せせら笑って、ソフィーは続けた。
「私達が仕事を完遂するためには、どうしても『守ってくれる人』が必要になる。だから、こうして馬鹿なあなたに説明をしに来たの」
「汀ちゃんが自分を犠牲にしてでも、私達を守らなきゃいけないって、そう言うんですか? この子は、私のせいで左腕が……」
「どうせ現実世界でも動かないんだから、関係ないじゃない」
「…………」
理緒が眉をひそめる。
「かたわは、かたわのままがお似合いよ」
ソフィーが鼻を鳴らしてそう言う。
そこで、理緒の手が飛んだ。
パンッ、と頬を叩かれ、ソフィーが唖然として目を見開く。
548:
病室の入り口に立っていたSP二人が、急ぎ部屋の中に入ってきて、理緒とソフィーを引き離した。
「何するのよ!」
ソフィーが我に返って大声を上げる。
理緒は目に涙をためながら、押し殺すように言った。
「……協力は、お断りします。人の気持ちが分からない人とは、一緒に仕事はできません」
「何言ってるの? 説明したじゃない! あなた達に、あのパズルが解けるの? トラップを解除できるの? 二人じゃとても無理よ。私の力を使うしかないじゃない!」
色をなしてソフィーが怒鳴る。
しかし理緒は、SPの手を振り払って、ソフィーを睨んだ。
「あなたには出来ないかもしれない。でも、『私達』には出来ます」
理緒はそう言って、病室の入り口を手で指した。
549:
「出て行ってください。汀ちゃんは、次のダイブまでゆっくり休まなきゃいけないんです。あなたも、休んだ方がいいと思います」
「ちょっと待ってよ。何いきなり怒って……」
「出て行ってください」
理緒は堅くなにそう言うと、汀の脇に腰を下ろした。
「手を出したことは謝ります。でも、お互いお仕事の仲間なのですから、これ以上お話しするのはやめましょう? お互いのためにならないと思います……協力は出来ませんが、応援はしています。お互い頑張りましょう」
目を合わせずに理緒がそう言う。
ソフィーはしばらく鼻息荒く彼女を睨んでいたが
「ふんっ!」
と言ってきびすを返した。
550:
SP二人が慌ててその後を追う。
理緒は、ソフィーが出て行った後、
彼女を叩いた手の平をぼんやりと見ていた。
「汀ちゃん、私、初めて人のこと叩いちゃった……」
眠っている汀に、理緒はそう呟いた。
「誰でも、叩くと嫌な気分だね……」
彼女の呟きは、空調の音にまぎれ、やがて消えた。
551:

三時間後、理緒は暗い表情で、うとうとと半分睡眠状態に入っている汀を乗せた車椅子を押して、施術室に入ってきた。
話しかけても汀の反応はない。
しかし、圭介が「ダイブは可能だ」と言っていたのを信じて連れてきたはいいが、理緒は心の中で葛藤していた。
近づいてきた大河内に、彼女は言った。
「先生、私一人でダイブします」
それを聞いた大河内は、身をかがめて彼女を見て、静かに言った。
「……無茶はやめるんだ。君一人でどうにかなる案件じゃない」
「でも先生……これじゃ、汀ちゃんが可哀想です。汀ちゃんは、道具じゃないんですよ」
その声を、部屋の隅で腕組みをして、壁に寄りかかっていたソフィーが聞いていた。
彼女は馬鹿にするように鼻を鳴らして、視線をそらした。
大河内はしばらく沈黙していたが、黙って車椅子を受け取ると、汀のダイブのセッティングを始めた。
552:
「先生!」
すがるように言う理緒に、大河内は続けた。
「このダイブに移行する前、チームを組んで赤十字のマインドスイーパーが、二十人ダイブしたんだ」
「え……」
「全員、帰還できなかった」
そう言って、大河内は汀の頭にマスク型ヘッドセットを被せて、立ち上がった。
「是が非にでも、汀ちゃんと、君と、ソフィーの力が欲しい。そうじゃなきゃ、赤十字の子供達が、それこそ単なる『犬死に』で終わってしまう」
大河内の目は、いつもと違ってどこか冷たかった。
「それだけは避けてあげたい」
「そんな……私達は三人なんですよ!」
「分かっている。分かっていてのダイブなんだ」
553:
そこで、圭介がポケットに手を突っ込んだまま、白衣を翻して部屋の中に入ってきた。
そして汀の意識がないことを確認して、ソフィーを歪んだ視線で見る。
慌てて視線をそらした彼女から理緒に目線をうつし、彼は首を傾げて言った。
「……どうした?」
「高畑先生。汀ちゃんをダイブさせるのは無理だと思います」
理緒がそう言う。しかし圭介は肩をすくめて、汀を手で示した。
「こいつがそう言ったのかい?」
「それは……でも……」
「大丈夫。汀はちゃんとやるよ。そういう奴なんだ。伊達に特A級は名乗っていない」
ソフィーにも聞こえるように、大声で彼は言うと、席について、理緒にも準備をするように促した。
「さぁ、二回目のダイブだ。今回は二十分に設定する」
「二十……?」
ソフィーがそこで声を荒げた。
554:
「そんな時間で中枢を見つけるのなんて無理よ!」
「天才じゃなかったのか?」
冷たくそう返され、ソフィーは悔しそうに口をつぐんだ。
その握った手がわなわなと震えている。
大河内が、彼らの間に割って入った。
「口論をしている時間はない。ソフィーも準備をしてくれ。無理だと判断したら、今回も回線を強制遮断する。その点では安心してくれていい」
「ふん……安心ね」
ソフィーが吐き捨てるように言った。
「よく分かったわ。私には安心できる場所なんて、どこにもないってことがね」
555:

ザッパァァァァンッ! と、凄まじい音を立てて、三人は頭から海に落下した。
一瞬何が起こったのか分からず、鼻から、喉からしこたま水を飲み、理緒は必死にもがいて水面に顔を出した。
「……ゲホッ! ゲホッ!」
もったりとした水の感触の中、飲み込んだ水を必死に吐き出す。
小白が風船のように長く膨らんで水面に浮いているのを見て、理緒はそこまで泳いでいって、尻尾に掴まった。
「た……助け! ゲホッ! 私、泳げな……!」
切れ切れに、少し離れた場所でソフィーが叫んでいた。
バシャバシャと水を撒き散らしながら、浮いたり沈んだりしている。
本当に泳げないらしい。
556:
正確には、精神世界で出来ないことはないのだが、彼女の中によほど水に対する苦手意識があるのか、体が上手く動かないらしかった。
「……! 汀ちゃん!」
そこで理緒は汀の姿が見当たらないことに気がついた。
慌てて見回すと、澄んだコバルトブルーの水、底が見えない中、汀の体がゆっくりと下に沈んでいくのが見えた。
彼女は溺れているソフィーと、沈んでいく汀を見て、一瞬躊躇した。
しかし、すぐに膨らんでいる小白をソフィーの方に投げて叫ぶ。
「この子に掴まって! すぐ助けるから、頑張って!」
そう言い残して、理緒は水を蹴って海の中に潜った。
病院服が不快に体に絡みつく。
しかし何とか汀にたどり着き、彼女は背後から汀の体を羽交い絞めにし、力の限り水面に向かって足を動かした。
557:
実に十数秒もかけて水面に顔を出す。
汀はぐったりとして反応がなかった。
「汀ちゃん! しっかりして!」
汀の体を揺らすが、彼女の口や鼻から、飲み込んだ水がダラダラと流れ出すだけで、目を覚ます気配はなかった。
視線を移動させると、イカダのような形になった小白の上に、ソフィーが大の字になって荒く息をついていた。
彼女は小白に向かって叫んだ。
「小白ちゃんこっち! 汀ちゃんの意識がないの!」
イカダの先っぽに小さく猫の顔と、側面に腕と足がくっついている。
小白は器用に尻尾を回して方向を変えると、スィーッ、と理緒たちに近づいてきた。
「汀ちゃんしっかり!」
反応のない汀に呼びかけながら、理緒は何とか小白の上に彼女を持ち上げた。
558:
グラグラと猫ボートが揺れ、ソフィーが水を吐き出しながら悲鳴を上げる。
「高畑先生、聞こえますか! 高畑先生!」
パニックになっているソフィーをよそに、ヘッドセットのスイッチを入れて、理緒は大声を上げた。
『どうした? 状況を説明してくれ』
「海の中にいます! どうして前と場所が違うんですか!」
『前と同じ問題を出題する学者がどこにいるんだい? 汀の様子はどうだ?』
「意識がないみたいです! ソフィーさんも、泳げないみたいで動けないです!」
『……チッ』
圭介が小さく舌打ちをする。
『周りをよく観察するんだ。汀はじきに起きる。それまで耐えられるか?』
「やってみます……!」
頷いて、理緒は周りを見回した。
559:
少し離れた場所に、小島があった。
人二人が寝れるくらいの、小さな浮き島だ。
小白の尻尾を引っ張ってそこまで牽引すると、理緒はソフィーに声をかけた。
「大丈夫ですか? しっかりしてください」
「私水は駄目……駄目なの……!」
震えながら、ソフィーは浮き島に這って進むと、その場にうずくまった。
理緒は意識がない汀を浮き島に移動させると、荒く息をつきながら自分も浮き島に登った。
ポタポタと海水を垂らしながら、彼女は周りを見回した。
そしてその視線が一点を凝視して止まる。
百メートルほど前方の海面に、巨大な穴が空いていた。
穴、としか彼女には形容できなかった。
正確にはダムの排水溝のような光景が広がっていた。
穴の直径は、五メートル前後。
今彼女達がいる浮島よりも、少し狭いくらいだ。
そこに向かって水が流れている。
560:
浮島も流されていた。
近づけば近づくほど、引き込む力は強くなってくる。
小白が吸い込まれていることに気づいたのか、ポンッ、と音を立てて元の小さな猫に戻り、汀に駆け寄って、その頬をペロペロと舐めた。
「何……あれ……」
呆然として、流されている浮島の中、理緒は呟いた。
次の瞬間だった。
浮島がバラッ、と音を立てて崩れた。
それぞれが一抱えほどの立体パズルの形に分割され、流されていく。
『どうした!』
圭介の声に、パズルピースの一つに掴まりがら、理緒は悲鳴を返した。
「私達のいた島が、パズルになって崩れました! このままじゃ、穴に引き込まれます!」
561:
『そこに引き込まれるな。おそらくトラップの一種だ』
「分かっています……でも!」
ソフィーが完全にパニックになって、パズルピースを掻き分けて浮き沈みしている。
小白がまた膨らみ、汀の体を支えた。
彼女達と浮島の破片が流れていく。
理緒は、ソフィーの方に手を伸ばした。
そこで、ソフィーが泣きながら叫んだ。
「結局こうよ! 結局、誰も助けてくれない! 私はずっと独りなんだ! こんなところで……こんなところに来ても……!」
『落ち着けソフィー。ダイブ中だ。正気を保て』
「うるさいうるさいうるさい!」
圭介に怒鳴り返し、近くのパズルピースに掴まりながら、彼女は血走った目で理緒を見た。
「おかしい? おかしいでしょ! この私が、水に入っただけで何も出来なくなるなんて……笑いなさいよ! どうせあんたも……」
そこまで叫んだソフィーの口元に、近づいた理緒が、そっと手を触れた。
562:
「笑わないですよ。誰にだって怖いものはあります」
荒く息をついているソフィーに、理緒は続けた。
「この場を逃れましょう。協力しようとは言いません。でも、お互い『生き残る努力』をしましょう」
「努力……?」
「はい、努力です」
頷いて、理緒は言った。
「ソフィーさんに足りないのは、努力をしようとする気持ちです。人と仲良くしようとする努力、人を信じようとする努力、諦めない心を持つ努力。人のことを言えたものではありませんが、私も同じです。だから、私は生き残るために努力をします」
パズルピースを手に取り、彼女は近くの一つに嵌めた。
浮島の輪郭が一箇所だけ再生する。
ソフィーは、水の中でもがきながら、浮島の巨大立体パズルを完成させようとしている理緒を見て、口をつぐんだ。
そして理緒が中々パズルを嵌められないのを見て、ついに声を上げた。
「……右のピースを、左十字の方向のピースに、下から嵌めて。それから下のピースを、二メートル先のピースとさっきのピースとくっつけて」
563:
理緒が少しきょとんとした後、笑顔になり
「はい!」
と頷く。
ソフィーの指示は的確で、短時間だった。
特に無理もなく理緒が、バラバラになった浮島を元に戻していく。
時間にして、一分もかからなかっただろうか。
驚異的なスピードで、直径五メートルほどの浮島を再構築させると、ソフィーはその縁に掴まりながら、理緒の手を引こうとした。
「早く、こっちに来て!」
「……分かってます……分かってますけど……」
引き込む力が強すぎて、理緒の片足が、穴の淵に入ってしまっていた。
もう完全に浮島は直っている。
564:
しかし最後のピースを嵌めこんだ理緒の位置が悪かった。
丁度、穴の正面に来てしまっていたのだ。
「片平理緒!」
ソフィーが叫ぶ。
理緒の体の半分が、穴に飲み込まれる。
そして彼女を覆うように、浮島が穴を塞ぎ始めた。
穴の底は何も見えない。
暗黒の空間だ。
ソフィーが青くなって、浮島に這い上がろうとし……。
そこで、理緒の手を、浮島に打ち上げられていた汀が掴み、引っ張った。
間一髪で理緒が浮島に引き上げられ、浮島は、穴を塞ぐ形でスポンッ、とそこに嵌った。
海水の流出が収まり、流れが穏やかになる。
「汀ちゃん……?」
理緒が海水まみれに鳴りながら、呆然と呟く。
汀は、熱にうかされた顔で、耳までを赤くしながら、理緒を完全に浮島に引き上げ、しりもちをついて頭を抑えた。
565:
「どこ……ここ……」
「良かった! 目が覚めたんですね!」
理緒に抱きつかれ、汀はきょとんとして、目をぱちくりさせた。
「どうしたの……理緒ちゃん?」
「怖かった……怖かったよ……」
震えながら泣いている理緒の背中に手を回し、汀が優しく撫でる。
左腕は、動かないようだった。
その様子を見て、ソフィーが浮島に這い上がりながら、高圧的な声を発した。
「よくも今まで暢気に寝てたわね……高畑汀。いえ、『アミハラナギサ』……」
「なぎさ……?」
そう呼ばれて、汀はソフィーを見た。
「あなた、何か知ってるの?」
「何も知らない。いいえ、その『何も知らない』ことが問題なのよ……」
荒く息をつきながら海水を吐き出し、ソフィーは続けた。
566:
「世界中のマインドスイーパーで、私が知らない人はいない。でも、あなたの……いえ、正確には、この患者が認識したあなたの『アミハラナギサ』という名前だけは知らない。ということは……」
『暗転するぞ、気をつけろ!』
ソフィーの声を掻き消す形で、圭介が怒鳴る。
そこで、不意に空が暗くなった。
そして、パキパキパキと音を立てて、海水が一瞬で凍りつき始める。
数秒後、今まで温かかった空間は、極寒の北極のような世界になっていた。
どこまでも続く氷の地面に、吐く息が白く凍る、そんな異常な事態になっていた。
病院服一枚の少女達が、身を寄せ合ってガタガタと震える。
「な……何……?」
理緒が汀に抱きつきながらそう言うと、ソフィーが口を開いた。
「い……異常変質心理内面に入れたんだと思う……」
「二人とも離れて!」
汀がそう言って、小白を抱いた理緒とソフィーを突き飛ばす。
そして自分は右手一本で簡単にバク転を何度かして、五メートルほど後ろに下がった。
一瞬の差で、今まで彼女達がいた場所に、氷を裂く音がして刃渡り四十センチはあろうかと言うナタが三本、突き刺さった。
567:
次いで、キチキチキチキチと機械のこすれる音がする。
汀が考える間もなく、地面に刺さったナタを右手で引き抜いて、走り出した。
そして、どこからか現れた「モノ」に対して勢いよく振り下ろす。
火花が散るほどの衝撃が汀を襲った。
歯をかみ締めてそれに耐える。
そして彼女は、四方八方から襲い掛かったナタの嵐を、身を軽くひねってかわした。
一メートルほどその「物体」から距離をとり……そして、汀は硬直した。
ドクロのマスク。
そして、ボールのような体に、ムカデのような足。
腕はでたらめな方向に、体のいたるところについていて、ナタをもっている。
そのドクロのマスクを見て、汀はナタを取り落とし、胸を押さえてよろめき、しりもちをついた。
「あ……ああ……」
「汀ちゃん!」
異物の目の前で座り込んだ親友を、理緒が慌てて呼ぶ。
568:
「いや……いやあああ!」
右手で頭を抑えて、汀は絶叫した。
「いやだ! やだやだやだやだやだ!」
半狂乱になった汀に対して、その「物体」は、幾十ものナタを振り上げた。
「高畑汀! それはスカイフィッシュのオートマトンじゃないわ! それを模して作られたただの幻想よ!」
そこでソフィーが大声を上げた。
『なっ……』
マイクの向こうで圭介が息を飲む。
「しっかりして! あなたは、特A級スイーパーでしょう!」
ソフィーが怒鳴る。
そこで汀は、震えながら、自分に向けて振り下ろされたナタを、拾い上げたナタで受け止めた。
569:
受け止めそこなったいくつかが、彼女の体に食い込む。
一瞬で血まみれになりながら、汀はゆっくりと立ち上がった。
「そう……私は特A級スイーパー……うっ!」
うめいてよろめく。
彼女の脳裏に、笑う白髪の少年の姿が映る。
――なぎさちゃん。僕達はずっと一緒だよ。
彼はそう言って、笑いながら手を私の頭に乗せた。
――だから、ね。二人で記憶を共有しよう。決して引き離せない二人の記憶。僕の記憶を、君にあげるよ。
燃える家。
チェーンソーの音。
ドクロのマスクを被った、血まみれの男。
その男が持っていたものは。
人の、頭部。
その頭部は――。
570:
「……いっくん……?」
顔を上げた汀の目の先。
「物体」の更に二十メートル程先に、ポケットに手を突っ込んだ白髪の少年が立っているのが見えた。
彼は、手に長大な日本刀を握っていた。
「あ……」
汀が声を上げるより先に、その少年の姿が消えた。
少年は、ソフィーや理緒が視認さえ出来ないほどのさで、「物体」を頭から両断した。
そして陽炎のようにその場に揺らめいて消える。
消える一瞬前、彼は汀の方を見て、醜悪に笑ったような気がした。
両断された「物体」が崩れ落ち、丸い、灰色の玉がその中からぬちゃり、と嫌な音を立てて浮き上がる。
血溜まりの中に立ち尽くしている汀に、理緒が駆け寄った。
「汀ちゃん……すごい……私、全然見えませんでした……」
「理緒ちゃん、今あそこに人が立ってなかった?」
少し離れた場所を指差した汀に、理緒は首を傾げて言った。
571:
「誰もいなかったよ。私には、汀ちゃんがこれ……このトラウマを真っ二つにしたようにしか……」
「私が……?」
「片平理緒。時間がないわ。早く治療をして頂戴」
そこで、ソフィーが近づいて、震えながら言った。
理緒が慌てて頷き、浮いている灰色の精神中核に手を入れる。
そして数秒後、彼女はビチビチとはねる、ピラニアのような形の真っ黒い魚を掴みだした。
それを勢いよく地面にぶつける。
黒い墨があたりに飛び散った。
「高畑先生! 治療に成功しました!」
理緒が大声を上げる。
『…………』
「高畑先生?」
『いや、よくやった。三人とも。スイッチを切れ。こっちに戻すぞ』
一瞬の沈黙の後、圭介はそう言った。
572:

びっくりドンキーのいつもの席で、眠っている汀の脇で、理緒はちびちびとメリーゴーランドのパフェを食べていた。
圭介がメモ帳に何かを書き込んでいる。
「あの……」
彼女がおどおどと口を開くと、圭介は顔を上げて、水を口に運んだ。
「どうした?」
聞かれて、理緒は言いにくそうに言った。
「本当は、聞いてはいけないんでしょうけれど気になって……私達がダイブした患者さんは、一体誰だったんですか?」
それを聞いて、圭介はメモ帳をパチンと閉じて、返した。
「もう『患者』じゃない。別に話してもいいことだから言うよ。名前は高杉丈一郎。赤十字の教授だ。君とは、親交が深いんじゃないか?」
「え……!」
それを聞いて、理緒は硬直した。
573:
「え……? え?」
おろおろと周りを見回し、そして理緒は唾を飲み込んだ。
かなり動揺したらしかった。
それを端的な目で見て、圭介は続けた。
「知人の頭の中にダイブするのは、初めてのことかい?」
「そんな……嘘です! あんな世界が、『先生』の頭の中だなんて嘘です!」
理緒が立ち上がって大声を上げた。
汀の隣で眠っていた小白が頭を上げ、驚いたように彼女を見る。
圭介は肩をすくめ、そして言った。
「だけど事実だ。一皮剥けば、人間なんて、そんなもんだ。もっと深くまでダイブしなくて良かったな」
冷たくそう言って、圭介は水をまた口に運んだ。
「そんな……嘘……」
呆然としている理緒に座るように促し、彼女が力なく腰を下ろしたのを見てから、圭介は続けた。
574:
「君も良く知っている通り、自殺病治療薬、GMDの開発者だ。この件は公にはしていないから、口外はしないように」
「先生が……先生がどうして自殺病に?」
すがるように理緒は圭介に言った。
「何かの間違いですよね? 冗談にしては酷すぎます!」
「冗談なんて言う訳ないだろ。俺は聞かれたから事実を述べたまでだよ」
またメモ帳を広げて何かを書きながら、圭介は言った。
「ま、高杉もこれで完治したんだ。意識が戻り次第、新しいGMDの開発に着手して欲しいものだな」
575:
「高杉先生と知り合いなんですか? どうしてそんなに気楽でいられるんですか!」
理緒に声を荒げられ、圭介は息をついて、彼女を見た。
「自殺病には赤ん坊でもかかる。別段、その開発者がかかったとしてもおかしくはないよ」
「そんな……」
そこでオーナーが近づいてきて、圭介に何事かを囁いた。
圭介はまたメモ帳を閉じ、理緒に言った。
「議論は後でしようか。君にお客さんだ。外で待ってるらしい」
576:

びっくりドンキーの駐車場に出た理緒の目に、ソフィーがSP二人に囲まれて、周囲の視線を意に介さずに、花壇のラベンダーを弄っているのが見えた。
「ソフィーさん……」
呼びかけて近づく。
ソフィーは鼻を鳴らすと、腕時計を見た。
「随分待たせるわね」
「すみません……あの、具合はもういいんですか?」
ダイブ先の極寒地獄で、実のところ理緒も体調があまり思わしくはなかった。
精神世界の影響は、現実世界にも多大に及ぶ。
まだ指先が凍傷になっているような、そんな幻の感覚にビリビリとした刺激が走っている。
577:
ソフィーは髪をかきあげると、馬鹿にしたように言った。
「私を誰だと思ってるの? 体調管理も仕事のうちよ」
「はぁ……そうなんですか。それで、どうしたんですか?」
疲れた調子で言った理緒の顔を覗き込んで、ソフィーは言った。
「あなたこそ疲れてるんじゃないの?」
「ちょっと、いろいろありまして……」
「あなたを育てたドクター高杉が患者だったってこと?」
的確に言い当てられ、理緒は目を丸くした。
「どうして……」
「大概のことなら、私は知っているわ。あなたのおよびもつかないようなこともね」
「…………」
俯いた理緒に、ソフィーは続けた。
578:
「インプラントって知ってる?」
「……インプラント?」
問い返した理緒に、ソフィーは頷いた。
「ええ。インプラント。ちょっと考えて分からない? マインドスイープでトラウマを除去できるなら、逆のことも可能なんじゃないかしら」
「…………?」
「つまり、トラウマの植え付けよ。それが心の中で芽を出して、自殺病を発症させる『種』になる。それがインプラント。国際的な犯罪よ」
「もしかして、高杉先生も……」
ハッとした理緒に、腕時計を見ながらソフィーは返した。
「私は、もう行かなきゃ。でもこれだけは言えるわ。あなたはとりわけ馬鹿そうだから、特別に教えてあげる。ドクター高畑と、ドクター大河内は絶対に信用しないことね」
「どうして……?」
579:
「殺されるわよ」
ソフィーは冷たい目で理緒を見た。
「あなたも、あの子もね」
そこで圭介が駐車場に出てきた。
彼は、顔をしかめたソフィーを見て、包帯を巻かれた手を軽く上げた。
「やあ、天才少女じゃないか。具合はもういいのか?」
「あなたと話すことは何もありません」
「つれないな。君に『ご褒美』をあげようと思っていたところなんだが」
そう言って、圭介は持っていたメモ帳を、ソフィーに投げた。
SPの一人がそれを受け取り、ソフィーに見せる。
ソフィーの顔つきが変わった。
「……これ……」
「君はいろいろ知っているようだな。その人物を探してもらいたい。俺からの、個人的な依頼だ」
「あなたから……いえ、元老院からの依頼なんて、私が受けると思って?」
580:
「君にとってプラスにしかならないと思うが。第一、君は知りすぎている。このまま日本に留まり続けるのも危ういくらいだ。眠れないだろう? 『スカイフィッシュの悪夢』を見るからな」
せせら笑った圭介に、ソフィーは顔を青くした。
よろめいた彼女を見て、理緒がおろおろしながら仲裁に入る。
「高畑先生、何だか怖いですよ……」
「ん? 俺はいつも通りだが」
軽く震えているソフィーを見て、圭介は言った。
「あの子はどうかな?」
「……分かった。で、探してどうするの?」
ソフィーが少し考えた末にそう言う。
圭介は軽く笑って、それに答えた。
「それは君の知るところじゃない」
581:

汀は、ぼんやりと目を開けた。
「ん……」
小さく呟いて伸びをする。
そこで、彼女はうすく霞がかかった視界の先に、誰かが座っているのに気がついた。
「圭介……?」
呼びかける。
しかし、その人影は首を振った。
まだかなり眠いため、目が上手く開かない。
その人物は、目深にフードを被っていた。
彼……その少年は手を伸ばし、汀の右手に、何かを握らせた。
そして席を立ち、周りの客にまぎれて消えていく。
しばらくして圭介と理緒が戻ってきた。
汀が大きくあくびをして、圭介を見る。
582:
「圭介、帰ろ」
「ああ、そうだな」
「ん……?」
そこで汀は、自分が何かを持っていることに気がついた。
「あら……! どこでみつけたんですか?」
理緒がそれを手にとって目を丸くする。
それは、四葉のクローバーだった。
「私、知らないよ?」
不思議そうにそう言う汀。
583:
圭介は周りを見回し、舌打ちをした。
そしてオーナーに何事かを言い、汀の体を抱き上げる。
「理緒ちゃんも帰ろう。今日は家に泊まっていくといい」
「あ……はい!」
頷いて、理緒が四葉のクローバーをポケットに入れて、小白を抱き上げ、後に続く。
理緒が泊まっていくと聞いてはしゃいでいる汀の声が、段々聞こえなくなる。
汀の前にあったコップの水が、いつの間にか全てなくなっていた。
氷が溶けてカラン、と音を立てた。
587:

第10話 衝動

雑然とした部屋の中、加原岬は目を覚ました。
腕には沢山の点滴がつけられている。
病院の診察台のようなものに寝かされていた。
しばらくぼんやりとして、起き上がろうとし、頭に頭痛が走り、彼女は点滴がつけられていない方の腕で、頭を押さえた。
彼女は、思い出そうとした。
今まで自分は、関西総合病院にいたはずだ。
こんな、タバコとアルコールの臭いがはびこっている部屋にいたわけがない。
「どこ……ここ……」
小さく震える声で呟いて、体を起こす。
そこで、診察台を覆っていたカーテンの向こうから、気だるそうな声が聞こえた。
「目が覚めた? 加原岬さん」
聞いたことのない声だ。
岬は、ベッドの上で起き上がり、毛布を手繰り寄せて体を硬くした。
「だ……誰ですか?」
どもりながら言うと、二十代後半と見れる、くたびれた白衣を着た、ぼさぼさの髪を後頭部で止めている女性が顔を出した。
588:
口にはタバコをくわえている。
そこは、コンビニ弁当の残骸や、生活用品のゴミなどが雑然と積まれた、汚らしい部屋だった。
やけに沢山のパソコンがある。
そして、部屋の隅には、精神世界へのダイブに使用する器具が、無造作に投げ出してあった。
女性はしばらく値踏みをするように岬を見ると、頭をガシガシと掻いて、カルテを手に取った。
「特に問題はなし、と。『ラッシュ』を投与したから、記憶の混濁が見られると思うけど、じきにそれも治るわ」
「誰なんですか……? ここはどこですか!」
疑問が確信に変わり、異常を察知して岬が大声を上げる。
女性は軽く肩をすくめて、タバコの煙をフーッ、と吐き出した。
「まぁ慌てない。それにしても、単純に白髪を赤髪に染めてるとは思わなかったわ」
言われて、岬は頭に手をやった。
589:
「何を言ってるんですか……? 私はずっとこの髪ですけど……」
「あぁ、記憶の中枢壁から弄られてるのね。まぁ大丈夫、その辺もおいおい治していくから」
「質問に答えてください! ここは関西総合病院じゃないんですか?」
「キャンキャン喚かないでよ。二日酔いで頭がガンガンしてるんだから」
軽くこめかみを揉んで、女性は椅子に座り、岬に向き直った。
「私の名前は、結城政美(ゆうきまさみ)……ここの場所は、訳があって教えてあげられないけど、関西総合病院じゃないことは確かよ」
「ど、どうして……? 病院の方ですか……?」
「そう見える?」
手を広げて見せてから、結城と名乗った女性はタバコを灰皿に押し付け、新しいタバコをくわえ、ジッポの火を慣れた手つきで移した。
そして息をついて、気だるそうに続ける。
「聞きたいことはいろいろあるだろうけど、まぁ詳しいことは、おいおいね」
そう言って彼女は、部屋の隅に設置してあるハンモックに近づいた。
590:
そしてそこで仰向けになって眠っている少年の頭に軽く拳を叩きこむ。
「起きろ」
「……ッ!」
殴られた少年は、もんどりうって転がると、ゴミを蹴散らしながら床に転がった。
そして周りを見回し、口をパクパクとさせる。
「眠り姫が起きたんだよ。感動の再会シーンとやらを見せてくれ」
結城がそう言うと、少年……白髪の彼、ナンバーXはきょとんとして岬を見た。
そして嬉しそうな顔になり、口をパクパクとさせながら早足で近づく。
「あぁ、そいつヘマして、今一時的に喋れなくなってるけど、まぁ……分かるよね?」
結城に問いかけられるまでもなく、岬は目を丸くしてナンバーXを見た。
そして、慌てて服を直し、真っ赤になる。
「嘘……そんな……」
ナンバーXが岬の手を握る。
ニコニコしている彼に、岬は言った。
「あなた……いっくん……?」
591:

汀の部屋の中で、汀と大河内は面と向かって睨みあっていた。
いつもは柔和な表情の大河内が、顔をしかめて、何かを必死に考え込んでいる。
「これだ!」
短く言って、手に持っているトランプを一枚、テーブルにパシンと叩きつける。
「ダウトだよせんせ」
汀がそう言って、ベッドの上に上半身を起こしている、自分の前に置かれたカードの中から一枚を取って放った。
「何ぃ!」
「大河内先生の二十七連敗ですね」
淡々と言って、理緒が壁のホワイトボードに得点を記入する。
「せんせ、もういいよ。もう休も?」
汀に静かに言われ、大河内は息をついて肩を落とした。
「何てことだ……私が、ここまで負けるとは……」
592:
「汀ちゃんがカードゲームは強すぎるんです。異常な強さですから」
「知らなかった……汀ちゃんにこんな特技があったなんて……」
大河内が頭をわしゃわしゃと掻く。
「いやぁ参った! 降参だよ」
「まだやってたのか」
そこで圭介が、三人分のジュースが入ったコップをトレイに乗せて部屋に入ってきた。
「大河内。お前じゃ勝てないぞ。何せ、俺もまだ勝ったことがないからな」
「本当か?」
信じられないといった顔で大河内が圭介を見る。
彼は肩をすくめて、大河内と理緒にコップを渡すと、汀のベッド脇にある台に彼女の分のジュースを置いた。
そしてストローをさしてやる。
「汀に対してのテストをするのは初めてのことだから、戸惑うのも無理はないだろうが、こいつはまがりなりにも特A級だ。俺達じゃかなわないよ」
「うぅーん……」
大河内が悔しそうに考え込む。
593:
汀はそんな大河内の様子をにやにやしながら見ていた。
そして口を開く。
「せんせ約束だよ。何でも言うことを聞くんだよ?」
「仕方ない。汀ちゃんには負けたよ。何が欲しい?」
「せんせが欲しい」
大河内を指差し、汀はにっこりと笑った。
「せんせと結婚したい」
その、あながち冗談とも取れない発言に、圭介以外のその場の二人が凍りつく。
大河内は頬に一筋汗を流し、しばらく口ごもった後、静かに聞いた。
「汀ちゃん、そういうのは大人になってから……」
「私もう大人だもん」
汀はそんな言葉を意に介さず、嬉しそうに言った。
「どこに住む? 私、田舎がいいな。せんせはどのくらい子供が欲しい? 私は三人くらいがいいと思うんだけど……」
594:
カードゲームの勝負に負け、しかも十三歳の女の子と告白ついでに結婚することになっている大河内は目を白黒とさせた。
そして状況が上手く認識できないのか、目じりを押さえる。
「どうしたの?」
「汀ちゃん、女の子はね、十六歳にならないと結婚できないんです」
そこで、理緒が冷静に突っ込みを入れた。
汀は一瞬ポカンとすると、すがるように圭介を見た。
「本当?」
「本当だ」
端的に、点滴のチューブを交換しながら圭介が言う。
「じゃあせんせ、三年後に結婚しよ。約束だよ」
汀が手を伸ばして、小指を立てる。
「ゆびきりげんまん」
そう言って、無邪気に笑う彼女。
595:
大河内は少し考え込んでいたが、やがてふっ、と笑い、その指に自分の小指を絡めた。
「……ああ、約束だ」
「うふふ」
よほど嬉しいのか、汀が満面の笑顔になる。
それを、表情の読めない顔で圭介が見下ろしていた。
彼の無表情に気づいた理緒が、ビクッとして発しかけていた言葉を止める。
それほど、圭介の目は感情を宿していなかった。
596:

「……驚いた。私のことを好いていることは知っていたが、まさか結婚まで考えていたとはな……」
汀と理緒が寝静まった夜中、診察室の椅子に腰掛けながら大河内が言う。
圭介はピンクパンサーのグラスに麦茶を注ぎながらそれに答えた。
「俺はもう、耳にタコが出来るくらい聞かされている」
「人が悪いな。それくらい教えてくれてもいいじゃないか」
「生憎と、お前にそんな義理はないからな」
冷たくそう返し、圭介はグラスの中身を口に運んだ。
「安心しろよ。そんな未来は一生来ない」
圭介のゾッとするような冷たい声に、大河内の目が厳しくなった。
彼は腕組みをして圭介を見て、そしてせせら笑うように言った。
「……汀ちゃんと私の問題だ。お前がどうこうできる話じゃない」
「勘弁してくれ。俺にペドの趣味はない」
そう言って、圭介は続けた。
597:
「……自殺病にかかった者は決して幸せにはなれない。それは、神が定めた摂理なんだ。汀も同様だ」
「そんなことはない。汀ちゃんは誰よりも幸せになる権利を持っている」
大河内がそう言うと、圭介はドンッ、と乱暴にグラスをテーブルに置いた。
そして歯を噛んで大河内を見る。
「どの口がそれをほざく」
「悪いが、お前よりも、私はあの子のことをよく知っていてね」
含みを持たせて笑い、大河内は続けた。
「それをお前に教える義理はないが」
「ふん……」
鼻を鳴らして、勝手にしろと言わんばかりに肩をすくめると、圭介はテーブル上の資料を手に取った。
「『裏』か」
そう言った圭介に、大河内はまだ視線を厳しくしながら口を開いた。
「ここは病院だろう? 患者のことは詮索しないのが礼儀だ」
598:
「それでも、相応のリスクは負わなければいけないからな。最低限のことは知っておきたい」
圭介はそう言って資料をめくった。
そして呆れたようにため息をつく。
「いい加減、赤十字で処理しきれなくなった案件をこっちに回すのはやめろ。俺達は便利屋じゃない」
「お前が汀ちゃんを手放せば済む話だ」
「残念ながらそういう未来も一生来ないな」
大河内と目を合わせずにそう言って、圭介は資料を閉じた。
そして、それを放って大河内に返す。
「ダイブは明後日だ。だが条件がある」
「何だ?」
「理緒ちゃんをサポートにつける。赤十字から、あの子の管轄を俺に回せ」
「何だと?」
思わず腰を浮かせた大河内に、圭介は醜悪に笑いながら言った。
「元老院も承諾済みだ。あの子は、俺のものにする」
599:
「高杉が黙っていないぞ」
「あいつは俺に多大な恩があるだろう。それに、『お前も』だ。形式上ではあるがな。忘れてもらっては困る。ギブ・アンド・テイクだ」
大河内は椅子に腰を下ろし、深く息をついた。
「……最初から狙っていたのか?」
「さぁな。だが、『役に立つ道具』は一つでも多い方がいいからな」
圭介はそう言って、グラスの中の麦茶を、一気に喉に流し込んだ。
「ここに住まわせる。おかげで、俺も大分動きやすくなるだろう」
「……変わったな。高畑」
大河内が呟くように言う。
600:
「…………あの頃の私達は、もっと…………」
「昔の話は昔の話だ。それに、俺はまだ許してはいないからな」
「…………」
「お前と、坂月をな」
大河内が何かを言おうとして言葉に詰まる。
圭介は、話は終わりだと言わんばかりに立ち上がった。
「精々気をつけて帰るんだな」
含みを持たせてそう言って、彼は診察室を出て行った。
601:

暗い夜道、大河内は息をついた。
もう夜中の十一時近い。
中央通りに出ないと、タクシーをつかまえられそうにもなかった。
電話をしてくるんだった……と若干後悔しながら、しかし中央通りはすぐ近いと思い直し、大河内はまた歩き出した。
しばらくして、彼は自分の足音に合わせて、もう一つ、足音が聞こえてくることに気がついた。
ハッとして立ち止まる。
足音も消えた。
あたりには人影がない。
街灯もなく、非常に薄暗い場所だ。
大河内はゆっくりと、横目だけで振り返り、少し離れた場所に、「何か」を持っている、少年と思しき人影が立っているのを見た。
彼はフードを目深に被り、表情を読み取ることは出来ない。
大河内はそれを確認する一瞬の間もなく、全力で中央通りに向かって走り出した。
少年も、それを追って走り出す。
602:
小柄な少年とは思えないほどの俊敏な動きだった。
彼は近くの民家の塀を蹴り、三角飛びの要領で大河内の目の前に転がり出ると、彼の首を掴んで、足を払った。
素人の動きではなかった。
大声を出そうとした大河内の口を塞ぎ、少年はフードの奥の瞳を、冷たくニヤリと笑わせた。
大河内の目に、フードから覗く白髪が見える。
そして次に、少年が持っていた、刃渡り三十センチはあろうかという長大なサバイバルナイフを目にした。
必死にもがく大河内を難なく組み伏せ、少年は、彼の腕をナイフで撫でた。
簡単に皮が切れ、血が流れ出す。
無言だった。
それが大河内の恐怖を更に煽った。
うめく彼の上腕までに切れ込みを入れ、少年はナイフを振り上げた。
そして――。
603:

「せんせ! せんせえ!」
隔離された集中治療室内で、呼吸器をつけられ、目を閉じて横たわっている大河内をガラス窓の向こうから、汀は車椅子から転がり落ちそうになりながらも必死に呼んだ。
答えはない。
「…………」
険しい顔をして、圭介は虚空を睨んでいた。
「そんな……大河内先生……」
口元に手を当てて、理緒が震える声で呟く。
「……発見された時はこの状態だったそうだ。肺に達する刺し傷が三箇所。うち一箇所は、肺を貫通してるらしい。警察は総力を挙げて、犯人を捜している」
圭介は小さく舌打ちをした。
「……だから気をつけて帰れと言ったんだ……」
聞こえるか、聞こえないかの声で彼が呟く。
604:
耳ざとくそれを聞きつけ、汀が圭介の服を掴んだ。
「圭介! 何か知ってるの? 犯人のこと、何か知ってるの?」
「……知らない。俺が聞きたいくらいだ」
「嘘だ! 圭介は何か知ってる……知っててせんせをこんな目に遭わせたんだ!」
半狂乱になって、汀がヒステリックに喚く。
「せんせが死んだら、圭介も殺してやる! 私が、私が絶対に……」
そこで汀の喉から、カヒュ、と空気の抜ける小さな音がした。
そのまま激しく咳き込み、汀は呼吸が出来なくなったのか、体を丸めた。
「汀ちゃん! 興奮しすぎです!」
理緒が青くなって、看護士が持ってきた紙袋を膨らませて、汀の口に当てる。
何度か深呼吸を繰り返し、汀はしばらくしてぐったりと車椅子に横になった。
「汀ちゃん? しっかりして。汀ちゃん!」
「刺激が強すぎたみたいだ。君は、ラウンジの方に行っててくれ」
荒く息を吐いて、視線をうつろに漂わせている汀の額に手を当て、圭介は冷静に懐から注射器を取り出し、それを汀の右手首に注射した。
605:
そして理緒に、小白の入ったケージを渡す。
「少し寝かせる。大丈夫だ。汀は、時折ヒステリックになるんだ。起きた頃には冷静になってるだろ。小白を離さないようにして、近くで寝かせてくれ」
「高畑先生! 大河内先生が通り魔に遭ったんですよ!」
咎めるような声で理緒が言う。
圭介はメガネをクイッと中指で上げて、それに答えた。
「ああ、そうだな」
「高杉先生の時もそうでした……どうして、そんなに冷たくしていられるんですか! 汀ちゃんの気持ちを考えてあげても……無理やり眠らせるなんて! 誰だって……誰だって、自分の好きな人がこんな事件に遭ったら、冷静でいられませんよ!」
「君も少々ヒステリーの気があるらしいな」
「茶化さないでください!」
理緒は圭介に詰め寄った。
「大河内先生は大丈夫なんですか? 汀ちゃんに、いきなりこんなところを見せるなんて、どうかしてます! 幻滅しました!」
606:
「いくらでも幻滅してくれて構わない。別に、俺は君達の機嫌を取るために生きているわけではないからな」
冷たく理緒の言葉を打ち消し、しかし視線はあわせずに、圭介は続けた。
「……手術は成功した。命に別状はないはずだ。今の医療技術を、信用するんだ」
「でも……でも!」
「俺がやったわけではない。憤りは分かるが、落ち着け、理緒ちゃん」
彼女の頭にポスン、と手を置き、圭介は言った。
「少し休みなさい。ここでいくら喚いても、大河内が良くなるわけじゃない」
「……私……聞きました」
「何?」
問い返した圭介に、理緒は小声で言った。
「高畑先生と、大河内先生が話してるところ、聞きました。汀ちゃんと大河内先生は、絶対に結婚できないって、高畑先生、断言したじゃないですか!」
「…………」
「自殺病にかかった人は絶対に幸せになれないって……どういうことですか!」
607:
どうやら、手洗いに行こうとして起きたところ、彼らの会話を聞いていたらしい。
圭介はしばらく沈黙して、汀が眠っていることを確認してから腕を組んだ。
そして軽く笑う。
「何がおかしいんですか!」
理緒が声を張り上げる。
「特に何も。何も知らない君が、少々滑稽でね」
「こっけい……?」
「ああ。赤十字では教わらなかったのか? 『自殺病にかかった者は絶対に幸せにはなれない』……それは、神様が定めた摂理なんだよ」
「そんなこと、聞いたことありません! それに汀ちゃんが……」
「汀は、俺がマインドスイープで治療した『最後の』患者だ」
淡々とそう言って、圭介は冷たい目で理緒を見下ろした。
「え……」
口ごもった彼女に、圭介は続けた。
「いいかい。これからも人を治療していきたいと思うなら、覚えておけばいい。自殺病にかかった者は、絶対に幸福にはなれない。何度でも言う。絶対にだ」
「どうして……? どうしてそんなに酷いことを……」
「俺も昔、自殺病の患者だったからさ」
抑揚なくそう言って、圭介は吐き捨てるように呟いた。
「それ以上でも、それ以下でもない」
608:

赤十字病院のラウンジで、理緒は汀と小白の乗った車椅子を、日のあたらない場所に設置し、一人、少し離れた場所で水を飲んでいた。
朝、大河内の事を聞きここに来てから、既に半日以上が経過していた。
圭介は顔を見せようとしない。
ここに放置されてからも、随分時間が経つ。
ある程度のお金は圭介に持たされていたが、汀がいつ目を覚ますか気が気ではなかったので、離れるわけにもいかなかった。
頭の中がグチャグチャだった。
寝不足と、疲労と、圭介に投げつけられた言葉の痛みが交互に理緒の胸の中を襲う。
深くため息をついた彼女の周りには、やはり診察を待っている患者や、食事をしている見舞い客などが沢山いた。
誰も、汀達を気にする人などいない。
そんな中だったので、理緒はいつの間にか隣に誰かが座っていることに気づかなかった。
609:
「……?」
きょとんとして隣に目をやる。
そこには、灰色のフードを目深に被った、長袖の少年が座っていた。
理緒と同じくらいの年の頃だろうか。
彼は、売店で買ってきたのか、手にピルクルの瓶と、菓子パンを数個持っていた。
それを理緒に差出し、ぎこちなく笑う。
「た……た…………たっ……」
慎重に言葉を選ぶように、断続的に発音し、彼は息を吸って、そして一気に言った。
「た……べ……る?」
「え……あの……」
理緒はいきなりのコミュニケーションについていけずに、どぎまぎしながらそれに答えた。
「お、おかまいなく。私、大丈夫ですか……」
グゥ、と理緒のお腹が鳴った。
610:
整った顔をしている少年だった。
髪の毛が白い。
同じマインドスイーパーだと気づいて、理緒は顔を赤くしながら、俯いた。
「お、れ……分、ある」
言語障害なのだろうか。
切れ切れに彼はそう言うと、にこやかな笑顔と共に、自分の分のパンを手で指した。
「あ……さから……いた。心配」
「ありがとうございます……」
小さな声でそう言って、理緒はパンを受け取った。
611:

パンを口に入れ、多少は頭の中が整理できた理緒は、息をついて少年を見た。
もぐもぐとパンを食べている彼は、ぼんやりと外を見ている。
髪の毛が白くなければ、タレントにでもなっていそうな程、顔立ちが整っていた。
理緒でなくても、女の子なら誰でも意識はしてしまうだろう。
彼がこちらを向いたので、慌てて目をそらす。
ピルクルで残りのパンを喉に流し込み、彼女は男の子に聞いた。
「あの……お金、払います。お幾らでしたか?」
「いら……ねぇ。男、女……おごる、大切だ……と、思う。逆……おかしいな」
意外と理性的な喋り方をする人だ。
理緒は警戒心を解いて、しかし彼の手に千円札を握らせた。
「お礼です。私の気持ちだと思って、受け取ってください」
少年はしばらくそれを見つめていたが、やがて興味がなさそうに頷いて、ガサッ、とポケットに千円札を突っ込んだ。
612:
その鳶色の瞳でまた見つめられ、理緒は顔を赤くして視線をそらした。
「あの……お名前は……?」
聞かれて、少年は言った。
「工藤…………一貴(いちたか)」
「一貴さんですね。私は理緒。片平理緒って言います」
手を差し出すと、一貴は気さくにそれを握り返してきた。
「同業者の方ですよね? どこでお仕事をされてるんですか?」
「ほ……っかいどう。出張……で」
「遠いところから……担当医の方は?」
「戻ら……ねぇ」
ヘヘ、と笑った彼に、理緒は微笑み返した。
613:
「ふふ、おんなじですね」
一貴は頷いて肩をすくめると、眠っている汀に視線を移した。
そして口を開く。
「あの、子……」
「汀ちゃんのこと、ご存知なんですか?」
問いかけた理緒に、一貴は頷いた。
「有、名……特A」
「今ちょっと具合が悪くて……お話は出来ないんです」
目を伏せた理緒の肩を、彼は元気を出せよ、と言わんばかりにポンと叩いた。
そして立ち上がって汀に近づくと、その顔を覗き込む。
しばらく同じ姿勢のまま固まった一貴を、理緒は怪訝そうに見た。
「どうしました?」
問いかけられ、彼は肩をすくめた。
「残念……俺、ともだ、ち。この……子と」
「汀ちゃんのお友達だったんですか?」
「……う、ん」
頷いた彼の隣に行き、理緒は息をついた。
614:
「羨ましいな……私の友達は、汀ちゃん以外、ほとんど『あっち』の世界に行っちゃった」
「…………」
「そこから助けてくれたのが、汀ちゃんなんです」
彼女は、黙っている一貴の方を見ずに続けた。
「だから私は、汀ちゃんに幸せになってもらいたい……自殺病にかかった人間は、絶対に幸せになれないなんて、嘘です。そんな酷いこと……私は信じられません」
「…………」
「工藤さんも、そう思いませんか?」
振り返った理緒の目に、汀を見て目を細めている一貴の姿が映った。
一貴は少し考えていたが、やがて頷いて、ニッコリと笑った。
「俺……たち。だいじょう、ぶ。医者、適当なこ、と、言う」
「そうですよね。そうなんだ。大丈夫。大丈夫だよ」
理緒がそう言って、眠っている汀の手を握る。
615:
一貴はまたしばらく汀を凝視していたが、彼女が目を覚まさないことを確認して、チラチラと腕時計を見た。
そして理緒の肩を叩く。
「お、れ。行く。かたひ、らさん。これ」
彼が差し出したのは、メモ帳の切れ端だった。
そこには、ゼロと一の羅列がびっしりと書かれていた。
その不気味な紙片を受け取り、理緒が首を傾げる。
「何ですか?」
「この……子に、わたし、て。大事……すごく、大事な……もの。医者、し、んようできない。俺、たちのひ……みつ。約束」
勝手に理緒の手を握り、彼は手をひらひらと振って、足早に人ごみの中に消えた。
「あ……待って!」
616:
慌てて後を追いかけようとした理緒が、小さくうめいて目を開いた汀を見て、歩みを止める。
「ん……」
「汀ちゃん! 目が覚めましたか?」
「ここ……どこ……?」
「…………」
大河内が大怪我をしたというくだりは、完璧に忘れてしまっているらしい。
それに愕然とした理緒の目に、圭介が手にビニール袋を持って、疲れた足取りで歩いてくるのが見えた。
慌てて、一貴から渡された紙片をポケットに隠す。
そこで彼女は、いつの間に折られたのか、小さく、鶴の形にされた千円札が手に握りこまれているのに気がついた。
それを見て、どこか顔を赤くする。
一貴の姿は、もうどこにもなかった。
「……どうした?」
袋に入った菓子パンやジュースをテーブルに並べながら、圭介が聞く。
「ああ、もう食べたのか?」
「え……? あ……はい。ごめんなさい……」
617:
「いや、俺の方こそ、随分と待たせてすまなかった。大河内の容態は安定してる。問題はないだろう」
「圭介……? どこ……ここ……?」
緩慢とした動作で、汀がそう聞く。
圭介は彼女に、ストローを指したポカリスエットの小さなペットボトルを握らせて言った。
「赤十字病院だ。大河内が少し怪我をしてな。そのお見舞いに来ていたところだ」
「せんせが……? 私、お見舞いなんてしてないよ」
「したよ。大河内が、疲れただろうからもう帰れってさ」
淡々とそう返し、圭介は理緒が不満げな顔をしたのを無視して、パンを頬張った。
「理緒ちゃんも。こんな時で悪いけど、仕事だ」
「高畑先生……!」
理緒が小声で咎めるように言う。
しかし圭介は、パンをかじりながらそれに答えた。
「急患だ。今、ここの第三棟に運び込まれてる。放置すれば、あと二時間で死に至る」
618:
「そんな……」
「汀、やれるか?」
問いかけられ、汀は頷いた。
「終わったら……また、せんせと会いたいな……」
「いいよ。約束する」
「うん……」
「……高畑先生!」
そこで理緒が、我慢できないといった具合で圭介の袖を引いて、汀から遠ざけた。
そして小声で彼に言う。
「何で嘘をつくんですか?」
「また汀を過呼吸にしたいのか?」
「私は……でも……!」
「君達はマインドスイーパーだ。資格があるなら仕事をしろ。『人を助ける』といった仕事をな」
冷たく言って、圭介は柔和な表情で汀を見た。
「行くぞ。ダイブは三十分後だ」
619:

汀と理緒は目を開けた。
そこは、大雨が降っている高道路の上だった。
一瞬でびしょ濡れになった二人が顔をしかめる。
『どうした? 状況を説明してくれ』
圭介の声が聞こえる。
汀と理緒がヘッドセットのスイッチを入れ、口々に何かを言うが、雨の音でそれはかき消されてしまっていた。
『聞こえないな……汀、どうにかしろ』
圭介の命令に頷いて、汀は足元で小さくなっている小白を抱き上げた。
そして理緒の手を掴んで、高道路の脇に移動する。
そして親指を立てて、右手をピンと上げた。
(ヒッチハイク……?)
そのつもりなのだろうか。
精神世界で、しかもこの土砂降りの逃げ場がない中で何をしているのだろうと、理緒が目を丸くする。
620:
そこで、凄まじい勢いで、赤い車が走り去った。
エンジン部分が大きく拡張されていて、さながらレーシング用の車だ。
それを追って、サイレンを鳴らしながらパトカーが三台走ってきた。
そのうちの一台が停まり、中から真っ黒いマネキンのような人間が出てくる。
黒いマネキンが、警官の制服を着ている。
二人だ。
表情はうかがい知ることは出来ないが、彼らは腕を立てている汀の前に屈みこんで、心配そうに口を開こうとして――。
そこで、一人が、汀に無造作に投げ飛ばされた。
もう一人が臨戦態勢を作る前に、汀は倒れた警官の喉に一撃を加えてからその警官の警棒を抜いて、まだ立っている警官のみぞおちに突き立てた。
時間にして五、六秒ほどのことだっただろうか。
警官姿のマネキンを二人とも締め落としてから、汀は唖然としている理緒の手を引いて、パトカーに乗り込んだ。
そして扉を閉め、膝の上に小白を乗せる。
「ダイブ成功。変質心理区域だね。かなり自殺病が進行してると思う」
621:
猫のように頭を振って水を飛ばした汀の隣で、理緒が震えながら暖房のスイッチをつける。
そして彼女は、倒れている二人の警官を見た。
「汀ちゃん……あの人たち……」
「ただの深層心理の投影だから、気にしなくていいよ」
そう言って、汀は車のアクセルを踏んで、パトカーを急発進させた。
「きゃあ!」
理緒が悲鳴を上げて、慌ててシートベルトをつける。
「み、汀ちゃん! 運転できるの?」
六十キロ、七十キロ、次第に度が上がっていく。
汀は、明らかに小さな体でギアを操作して、先ほど通過したパトカーに追いついてから、面白そうに笑った。
「やり方は知ってる」
622:
「知ってるって……知ってるだけで運転したことは……」
「ないよ。当然でしょ?」
二台のパトカーを追い抜き、汀は更にスピードを上げた。
理緒がまた悲鳴を上げて、体を縮めて目を閉じる。
既に百二十キロ近く出ていた。
今は土砂降りだ。
ハイドロプレーニング、と呼ばれている。
タイヤと道路の間に水が入り込み、タイヤが空回りする現象だ。
その音を聞き、よく分かっていないまでも理緒は顔面蒼白になった。
当然だ。
自分より小さな女の子が、土砂降りの高道路で百三十キロもカッ飛ばしていたらその隣に座っていて恐怖を感じない者はいないだろう。
「とめて! とめてぇえ!」
凄まじい勢いで流れていく周囲の景色についていくことが出来ずに、理緒が絶叫する。
『どうした? 状況を説明してくれ』
圭介が言う。
汀はまたギアを操作し、更に度を上げてから言った。
623:
「高道路。多分防衛型の特徴だと思うけど、この人の精神中核が車で逃走中。この人、普通の人じゃないね。犯罪者だ」
汀の的確な指摘に、圭介が一瞬押し黙る。
「は……犯罪者?」
理緒が引きつった声を上げ、目をギュッ、と閉じて震えながら言った。
「私達、犯罪者の人の心の中にダイブしてるんですか?」
「それも普通の犯罪者じゃないね。警察に対して異常な警戒心を持ってる。多分何かの逃走犯だ」
『汀、仕事に集中しろ』
「分かってる」
「高畑先生! 犯罪者って本当ですか?」
理緒がヘッドセットに向けて悲鳴のような声を上げた。
「それも逃走犯だなんて……マインドスイーパーは、犯罪幇助はしちゃいけないんですよ!」
624:
『君達はただ、精神中核を治療すればいい。仕事をするんだ』
「高畑先生も汀ちゃんも、おかしいよ!」
理緒はあまりのスピードに腰が抜けたのか、頭を抑えてその場にうずくまった。
百四十、百五十。まだ度は上がっていく。
前方に、赤い車が見えてきた。
もはや気を失ってもおかしくないほどの恐怖が、彼女を襲っていた。
半狂乱になって、理緒はどこかに逃げ場はないかとパニックになって怒鳴った。
「とめて! とめてよ! 死んじゃうよ! やだ、こんないのやだあああ!」
車の度計から流れる警告音が彼女の精神を削り取っていく。
汀は、しかし運転に集中していて理緒の相手をする暇がないのか、小白を彼女に投げてよこしただけだった。
「大河内先生が死にそうなのに、仕事なんてできません! 戻してください! 私、仕事できません!」
理緒が悲鳴を上げる。
「え……?」
そこで初めて、汀は理緒の方を見た。
625:
「せんせが、死にそう?」
『二人とも、仕事に集中するんだ』
「出来ないです! 私は人間です! 人間って、心があります、機械じゃないんです! 二人ともおかしいよ! おかしいよ!」
「理緒ちゃん落ち着いて。落ち着いてその話をよく聞かせて」
汀が冷静に言って、震えて固まっている理緒を横目で見る。
『やめるんだ理緒ちゃん。終わったら俺の口から……』
「圭介は黙ってて」
圭介の声を打ち消し、汀は続けた。
「理緒ちゃん、すぐに怖いのは終わるから。大丈夫。私がいる」
「汀ちゃん……」
鼻水を啜り上げながら、理緒は、途切れ途切れに口を開いた。
「大河内先生が……通り魔に遭って……今、重篤な状態で……」
「圭介、本当? それ」
626:
『…………』
「圭介!」
汀が怒鳴る。
『本当だ。犯人はまだ捕まっていない』
しばしの沈黙の後、圭介はそう答えた。
「私の記憶を消したのね……何で!」
『仕事があるからだ』
「戻る。すぐに戻る!」
『…………』
「この精神中核を捕まえたら、すぐにせんせのところに行く!」
『冷静になれ! 精神中核が外壁防御もなしに高で逃走中なんだろう。慎重に行け!』
「知らない……知らないこんな犯罪者!」
汀は怒鳴って、更にスピードを上げた。
627:
そして理緒に
「ぶつかるよ!」
と叫んでから、前方でエンジンを高で回転させている赤い車の後部に、パトカーを衝突させた。
凄まじい衝撃が二人を襲う。
「きゃあああ!」
『やめろ汀! 患者を殺す気か!』
圭介が怒鳴る。
しかし汀は、それには答えずに、何度も、何度も車を衝突させた。
仕舞いには赤い車の後部タイヤがパンクしたらしく、それはぐるぐると道路をスピンしながらガードレールに激しくぶつかった。
そして何度も回転しながら、崖下に車が落ちていく。
パトカーをスピンさせながら急停止させ、汀はヘッドセットに向けて叫んだ。
「戻して! 早く!」
『…………』
圭介がマイクの向こうで歯噛みする。
628:
ボンッ! という音がして、崖下で車が爆発した。
火柱が吹き上がる。
「圭介!」
ぐんにゃりと、景色……いや、「空間」それそのものが歪んだ。
まるでコーヒーにミルクを入れてかき混ぜるように、汀達を包む空間がドロドロになり崩れていく。
「精神中核の崩壊を確認。戻して!」
ヘッドセットの向こうから、圭介の舌打ちが聞こえた。
そこで、彼女達の意識はブラックアウトした。
629:

「患者の死亡が確認された。死因はショック死だ」
圭介が淡々とそう言う。
「死んだ……?」
理緒が唖然として、その言葉を繰り返した。
「え……死んだ……? 死んだんですか……?」
「ああ、君達が殺したようなものだ」
端的にそう言って、圭介は表情の読めない無表情のまま、手に持った資料を脇に投げた。
大河内を見舞ってから、赤十字の会議室で、汀は圭介を睨んでいた。
「……知ったことじゃないよ」
「それでも特A級マインドスイーパーか。呆れてものも言えないな」
圭介は首を振り、立ち上がった。
「少しここで頭を冷やすといい。大河内は命は助かるが、君達が見放した命は大きい。それがたとえ、犯罪者のものだったとしてもな」
630:
会議室の扉を閉めた圭介を目で追って、汀は唇を強く噛んで俯いた。
「死んだって……どういうことですか……?」
理緒がかすれた声を出す。
汀はしばらく沈黙していたが、やがて、小さな声で返した。
「……私が、精神の中核を、車ごと崖の下に落としたから。精神の崩壊は、脳組織の崩壊を誘発することもあるの……」
「私が……汀ちゃんに、大河内先生のことを話したから……ですか?」
汀は、また少し沈黙してから、首を振った。
「…………」
「汀ちゃん……?」
すがるように口を開いた彼女に、汀は両目から涙を落として、かすれた声で答えた。
「私が……殺した。カッとして……殺しちゃった……」
631:

圭介は、日も落ちて、暗い診察室の中椅子に座って資料を見ていた。
理緒と汀は、隣の部屋で、泣き疲れて眠っていた。
今日起きた一連のことは、彼女達の年齢では、処理できる理解の範疇を超えていた。
睡眠を体が選んだとしても、それは無理のないことだった。
そこで、圭介の携帯電話が鳴った。
圭介が顔を上げて、一瞬止まった後それを掴む。
そして耳にあて、彼は言った。
「誰だ?」
電話の主は、非通知だった。
『久しぶりだな。高畑君』
しかしその声に、圭介は表情を変えて答えた。
「…………久しぶりですね…………」
『相変わらずクールだな。どうだ? 今回の失敗は、随分と堪えたんじゃないのか? 元老院もな』
632:
「あなたには関係のない話だ」
『今回の失敗を、もみ消してやれると言ってもか』
電話口の向こうでタバコでも吸っているのか、息を長く吐きながら、相手はそう言った。
圭介はしばらく考え込んだ後
「あなたには関係がない話だ」
と、先ほどの台詞を繰り返した。
電話口の向こうの相手は、それに構わずに続けた。
『ナンバー?をこちらに引き渡したまえ。悪いようにはしない』
「お断りします」
圭介はせせら笑って、それに返した。
「あの子は俺のものだ。あなたのものじゃない。残念だったな」
醜悪に口の端を歪め、彼は吐き捨てた。
「つるむ相手を変えたいのは分かりますが、相手は選んだ方がいいですよ」
プツッ、と電話を切る。
633:
そして彼は携帯電話をテーブルに投げてから、立ち上がった。
手洗いが一緒になっている洗濯室に入り、
理緒と汀の洗濯物を、洗濯機に突っ込む。
そこで、理緒の服のポケットに紙切れが入っているのを見て、圭介はそれに目を留めた。
ゼロと一の羅列が所狭しとかかれた紙。
そして、鶴の形に折られた千円札。
圭介は鼻を鳴らし、紙を自分のポケットに移した。
そして鶴の形を整えて、洗面台の上に置く。
それを見る目は、どこか笑っていて。
どこか、悲しそうだった。
636:

第11話 発狂非人道

ハワイのビーチで、岬は楽しそうに水を足で蹴っていた。
それを、椰子の木の下で膝を抱えていた少年が見つめている。
やがて岬は、水を蹴ることに満足したのか、足早に少年のところに戻ってきた。
「いっくんも来ないの?」
問いかけられて、彼……一貴は苦笑して口を開いた。
彼の喉には包帯が巻きつけられており、声はしわがれて、少しガラガラしている。
「俺はいいよ……もう、呆れるほど遊んだし」
「そうなんだ」
一貴の隣に腰を下ろし、岬は病院服の裾を直した。
そして、ジーンズにTシャツ姿の一貴を、不思議そうに見る。
「ねぇ、どうしていっくんは普段着でいられるの? 夢の世界では、単純なものしか具現化できないはずだよね」
問いかけられて、一貴は肩をすくめた。
637:
「それは、医者が勝手に決めたルールだよ……所詮夢なんだ。やろうと思えば、何でもできる」
そう言って、彼は足元の砂を手で掴んだ。
そしてギュッ、と握り、手を開く。
そこには、クリスマスツリーの先端につけるような、キラキラと輝く、手の平大の星があった。
目を丸くした岬にそれを放って渡し、一貴は息をついた。
「こんなことも」
彼は砂の中に手を突っ込んだ。
そして中から、長大な日本刀を抜き出す。
「嘘……」
呆然としている岬を尻目に、一貴は日本刀の刃をじっと見つめた。
「『ここにある』と『錯覚』するんじゃなくて、『実感』するんだ。そうすれば、夢は現実になりえる」
それを聞いて、岬は自分も砂を握りこんで、目を閉じて何かを念じた。
そして手を開く。
しかし、そこにはただ、真っ白い珊瑚礁の砂があるだけだった。
638:
「あたしには出来ない……」
残念そうに呟いた彼女に、一貴は日本刀を脇に置いて続けた。
「やり方は、おいおい教えていくよ。でも難しいかも。今も、頭の中のどこかで、『これは砂だ』って思ってるから変質しなかったんだ……」
「でも、砂は砂だよ」
「そうだね」
一貴がそう言った途端、日本刀と星が、サラサラと砂になって散った。
「コントロールだよ。夢の。何もかもを『思い込む』柔軟性が必要だ……訓練である程度は出来るようになると、思う……」
自信なさ気にそう言って、一貴は息をつき、喉の傷口を押さえた。
「まだ痛む?」
岬にそう問いかけられ、彼は頷いた。
「中々治らない……畜生。あの野郎……」
一瞬一貴の目がギラつく。
639:
それを見て、岬は静かに彼の手に、自分の手を重ねた。
「落ち着いて。あたしがいるよ」
「……ああ、そうだね」
頷いて、また息をつき一貴は顔を上げた。
「そろそろ起きよう。結城が煩い」
「……何だよ……」
顔面をグーで殴られてハンモックから転がり落ちた一貴を、雑然と散らかった部屋の中で、結城は睨みつけた。
「岬をお前の夢の中に連れ込むなっつぅのが理解できないのか? お前の脳みそはバッタ以下かよ」
吐き捨てて結城は、勝手にダイブ機械の椅子に座っている岬を見て、頭を抑えた。
点滴をしている彼女は、まだ体をぐったりと弛緩させている。
「あと二時間は起きないぞ。薬まで勝手に使って……」
「別にいいだろ。てゆうか、毎回毎回こうやって強制的に起こすのやめてくんない? ……脳細胞が死滅するよ、割とマジで」
肩をすくめて、一貴は岬に近づくと、彼女に被せていたヘッドセットを取り除いた。
640:
そして点滴の針を抜いて、彼女を抱え上げる。
一貴が、自分が寝ていたハンモックに岬を移動させているのを見て、結城はため息をついた。
「……で? その子の信頼は得られそうかい?」
「信頼も何も、僕達は元々、強い絆で結ばれてるんだ。それに岬ちゃんは僕に惚れてる。信頼を得るもクソもないよ」
淡々とそう言い、一貴は大きくあくびをした。
「……で? 僕を起こしたのは、相応のわけがあるんでしょ?」
「仕事だ」
床に座り込んだ一貴に資料を放り、結城は腕組みをして彼を見下ろした。
「そいつを、岬と二人で『殺して』欲しい」
「へぇ」
一貴が頭をぼりぼりと掻いて、写真を見た。
「いいの? 機関はもうちょっとゆったり活動していくものだと思ってたけど」
641:
「今まではただの準備段階だ。本番はこれからだ」
結城は不気味に口元を笑わせながら、目を細めた。
「できるのかい? できないのかい?」
「多分、対マインドスイーパー用の護衛を連れてる。どれくらい強力な奴か知らないけど岬ちゃんは連れて行かないほうがいいかも」
「機関は、あの子の有用性も証明したいんだよ」
「そういうことなら別にいいけどさ。まぁ、責任はあんた達でとってね」
しわがれた声でそう言い、一貴はまた写真を見た。
「…………やっと一人目だ」
彼の呟きを聞き、結城は頷いた。
「ああ、そうだな」
642:

「心に『ロック』をかけてもらいたい」
圭介にそう言われ、だだっ広い会議室の中、理緒はきょとんとして首を傾げた。
「ロック……? 鍵ですか?」
「そうだ。今回の仕事は、自殺病患者の心の中に潜るんじゃない。至って普通の、異常がない人間の心の中に潜る」
圭介はそう言うと、ホワイトボードに貼り付けた写真を指で指した。
「田中敬三(たなかけいぞう)……名前だけは聞いたことがあるだろう」
会議室には他にも数人医師や教授が参加しており、理緒の隣には、すぅすぅと寝息を立てている、車椅子の汀がいた。
彼女が抱いている猫、小白も寝ている。
643:
問いかけられた理緒は、頷いて、少し考えた後言った。
「ええと……一年前に、警視庁を退任した警視庁総監のことですよね」
「正解だ。よく知っているな」
圭介は頷いて、視線を理緒に戻した。
「一時期、汚職などで随分と騒がれたからな。今は総監を退任して、警察学校の校長として働いている。来年定年だ」
「それで……その人の心の中に、鍵をかければいいんですか?」
「そうだ」
「あの……具体的に何をすればいいのか、全然分からないのですけれど……」
周囲の痛いほどの視線におどおどしながら理緒が言う。
圭介は頷いて、自分の席に座ると、手を伸ばしてホワイトボードに丸い円を書いた。
「仮にこれが人間の精神……つまり心だとする。それを最も端的に表した形だ」
「はい。そうですね」
頷いた理緒から視線をホワイトボードに戻し、圭介は続けた。
644:
「人間の精神は何ヶ層かに分かれていて、中核はその中心にある」
彼は円の中にまた数個、なぞるように円を書き、そして中心に小さな丸を書いた。
「心……精神とは形がないものだ。でも、現に中核は存在する。じゃあその中核って何だと思う?」
聞かれた理緒は、しばらく考えてから答えた。
「その人そのものだと思います」
「正解だ。人間の存在そのものに形を定義することは出来ない。でも、物質としてこの世に存在している以上何かしらの核はなければいけない。それが精神中核だ」
圭介は息をつき、手元のペットボトルから水を口に運んだ。
「……それでだ、今回のダイブでは、いつも君達がやっているように、精神中核についた汚染を取り除くのではなく、逆に、取り除く前に行う『予防』をやってもらいたいんだ」
「自殺病の……予防が出来るんですか?」
素っ頓狂な声を上げた理緒を落ち着かせ、圭介は頷いた。
「まだ実際のところ、世界的にも成功した例はないが、理論的には可能なんだ。理論といっても単純明快なことだ。精神中核を、傷つけないように、何か強固なもので守ればいい」
645:
円の中心の丸を、四角い線で囲んで、圭介は続けた。
「つまり君達が、常時自殺病のウィルスから中核を守っているような状態だ。だがそれが、実際は不可能なことだ。だから、何かを精神内で『構築』して、中核を入れる。それは金庫でも、アクリル製の箱でもいい。とにかく守れるイメージを作り上げる。これが予防だ」
「でも……精神世界内では、思うとおりのものは具現化できないんじゃ……」
「出来る例があるんだよ」
首を振って、圭介は言った。
「まぁそれは、おいおい話していこう。今日は二人の『訓練』だ。それに、心強い助っ人も用意した」
「助っ人?」
「隣の部屋で待ってるよ」
圭介はそう言い、ニッ、と笑った。
646:

まだ眠っている汀の車椅子を押し、ぞろぞろとついてくる医師たちを尻目に理緒は訓練室と書かれた部屋の中に入った。
マインドスイープの訓練をする部屋だ。
彼女にとって、なじみが深い場所でもある。
そこで、四人のSPに周囲を固められたソフィーが、座って携帯を弄っているのが見えた。
彼女の目じりにはクマが浮かび、どこか不健康そうだ。
ソフィーは顔を上げて理緒を見ると、少しだけ安心したような表情になった。
「片平理緒。久しぶりね」
呼びかけられ、理緒もふっ、と軽く笑う。
「ソフィーさん。また日本にいらっしゃったんですか」
「ええ。今回のダイブに、私の協力がまた必要だって要請を受けてね。日本には他に人員がいないの?」
鼻の脇を吊り上げて馬鹿にしたように笑い、ソフィーは椅子に座ったまま腕組みをして理緒を見上げた。
「まぁ、一度一緒に仕事をした間だし、暇を縫って来てあげたわ。精々感謝しなさい」
「はい! またソフィーさんに会えて嬉しいです!」
ニコニコしながら理緒が頷く。
647:
その実直な態度とは裏腹に、まだ眠っている汀を、ソフィーは腫れ物でも触るかのような顔で見た。
「この小娘……」
毒づいて、彼女は圭介を見た。
「ドクター大河内の件は聞いたわ」
理緒がそれを聞いて、ビクッと体を振るわせる。
「残念ね」
「ソフィーさん、大河内先生はまだ生きています。大丈夫です!」
声を上げた理緒に、ソフィーは何かを言いよどんで口をつぐんだ。
「そうね……失言だったわ」
彼女にしては珍しく肯定し、目尻を押さえる。
「大丈夫か? かなり疲れているように見えるが」
圭介がそう口を開くと、ソフィーは彼を睨んだ。
「あなたに心配されるようなことは何もありません」
648:
「相変わらずつれないな。今回は、研究の意味もかねて、日本の赤十字委員会の方々が同席する。ソフィーは、それで構わないな」
「勝手にすればいいわ」
吐き捨てて、ソフィーは立ち上がった。
「この二人に、構築を叩き込めばいいわけね」
「よろしく頼む」
圭介はそう言って、ダイブ機を手で示した。
「今回は、汀の精神世界を借りる。過酷な環境だと思うが、三十分で何とかマスターしてくれ」
649:

理緒が目を開けた時、そこは炎に包まれていた。
思わず悲鳴を上げて、しりもちをつく。
そこは、民家の中だった。
燃えて周りの家具が倒壊してきている。
不思議と熱さは感じなかった。
「何……ここ……」
「チッ……スカイフィッシュの悪夢……この子も浸食されてきてるのね……」
ソフィーが舌打ちをして、理緒の後ろで声を上げる。
理緒は振り返って、ソフィーに言った。
「スカイフィッシュ……? 何ですか、それ……?」
「あなたは知らなくてもいいことよ」
ソフィーはそう言って、周りを見回した。
「直に、本当に熱くなってくるわ。ここを出るわよ」
「汀ちゃんはどこにいるんでしょうか? 」
650:
「多分逃げ回ってると思う。こんな状況でレッスンなんて……」
歯噛みして、ソフィーは息をついた。
「……贅沢は言わないわ」
そう言って、ソフィーは理緒の手を握った。
そして出口に向かって駆け出そうとして、動きを止める。
ドルン、というエンジン音が聞こえたのだった。
振り返ったソフィーが顔面蒼白になる。
それを追って振り返り、理緒はきょとんとした後、真っ青な顔になった。
それは、チェーンソーの刃が回転する音だった。
錆びた巨大なそれを持った男……ドクロのマスクを被った人間が、ボロボロで血まみれのシャツとジーンズ姿で燃える家の中から出てきたのだ。
身長は、百九十はあるだろうか。かなり高い。
小さな理緒やソフィーから見れば、まさに巨人だった。
『どうした? 汀はそこにいるのか?』
ヘッドセットから圭介の声が聞こえる。
651:
それに答えず、ソフィーは震える手で理緒の手を掴み
「逃げるよ!」
と言って、家の外に向かって走り出した。
「な……何なんですか? 何で汀ちゃんの精神世界に、あんなものがいるんですか!」
走りながら理緒が声を上げる。
一瞬マイクの奥の圭介が沈黙し、押し殺した声で言った。
『汀はどこにいる? 早く合流するんだ!』
「どこにいるのか分からないんです! チェーンソー……チェーンソーを持った男の人が!」
理緒が悲鳴のような声を上げる。
男はゆっくりと足を踏み出した。
ソフィーと理緒は懸命に走っているが、一向に出口が見えてこない。
まるで無限回廊のように、燃える家の廊下が後ろに流れていく。
652:
段々と炎が熱くなってきて、理緒は体を縮めて声を上げた。
「熱い……熱いよ……!」
「もっと熱くなる! 早く走って!」
『二人とも落ち着け。落ち着いて、そのドクロの男を撃退するんだ』
圭介の声に、ソフィーは素っ頓狂な声を返した。
「撃退? 撃退ですって!」
『そうだ。これは「訓練」だからな』
「ふざけないで!」
ソフィーが絶叫する。
「スカイフィッシュを撃退できるわけがないでしょう! 現に、夢の主が出てこないじゃない!」
『ふざけてなどいない。スカイフィッシュの悪夢に入り込んでしまったのなら、撃退するか、逃げるかしかない。夢の主がいない以上、夢を終わりにすることは出来ない。逃げるのが無理なら、戦うしかないだろう』
淡々とした圭介の声に、少女二人が次第に落ち着きをなくしていく。
653:
走り続けているソフィーは、目に涙を浮かべながら、ゆっくりとこちらに近づいてくる「スカイフィッシュ」と呼ばれた男を見た。
「やだ……怖い……!」
ソフィーはブンブンと首を振った。
「怖いよ……怖い! お母さん! お母さん!」
恐慌を起こして喚き始めたソフィーの手を、理緒が一生懸命に握った。
「大丈夫、大丈夫です! 私がいますから! 落ち着いて!」
「助けて! 回線を遮断して!」
「汀ちゃんがいないと、扉が開きません。無理です! 落ち着いて、あれが何なのか私に教えてください!」
そこでソフィーが足をもつれさせてその場に盛大に転んだ。
慌てて理緒がそれを抱きかかえ、床に転がる。
二人は、震えながら、ゆっくりゆっくりと近づいてくる男を見た。
「あ……あれは……断片の集合体……」
「集合体……?」
ソフィーはなるべくスカイフィッシュの方を見ないようにしながら、続けた。
654:
「心の中に溜まったトラウマの集合体……実在しないけどしてるものなの!」
意味不明なことを喚いて、ソフィーは近くに転がっていた燃える木片を手に取った。
その手がブルブルと震えている。
「いい? 一度しか言えない。夢の世界のものを『変質』させるには、『ここにある』と少しの疑念も挟まずに『思い込むこと』が重要なの。単純なら単純なものほど成功率は高いわ……!」
ソフィーが持っていた木片がぐんにゃりと、粘土のように形を変えた。
唖然としている理緒の前で、ソフィーは数秒後、小さな手榴弾を手に持って立っていた。
凄まじい集中力を要するのか、彼女は汗だくになっていた。
荒く息をつき、口でピンを引き抜き、ソフィーはそれを男に投げつけた。
そして理緒を突き飛ばして床に伏せる。
爆音が響きわたり、彼女達の背中を吹き上がった炎が撫でる。
「きゃあああ!」
理緒が悲鳴を上げて床を転がる。
ソフィーは、しかし爆炎の中、悠々とこちらに向けて足を進めてきているスカイフィッシュを見て、絶望的な顔で震え上がった。
655:
「に……逃げなきゃ……!」
しかし腰が抜けて立てないのか、ソフィーはへたり込んだまま、ずりずりと後退しただけだった。
彼女は砕けている木片を手に取ったが、恐怖が集中力に勝ったのか、動けずにまた、変質させることも出来ずに、それを床に取り落とした。
ドルン、ドルンとエンジンの音がする。
チェーンソーの回る音。
足音。
それは、ソフィーの前で止まった。
「あ……」
何かを叫ぼうとして、失敗するソフィー。
男はチェーンソーを淡々と振り上げた。
理緒はそこで、訳の分からない言葉を叫びながら、近くの木片を手に取った。
そして、今にもソフィーを両断せんとしている男に、木片を手に体ごと突っ込む。
男の体がぐらりと揺れた。
理緒の手には、いつの間にか、彼女が料理の時にいつも使っているような、菜切り包丁が握られていた。
それが、根元まで男のわき腹に突き刺さっている。
656:
理緒は荒く息をつきながら、震えて固まっているソフィーの手を掴んだ。
「逃げましょう! 早く!」
「う……うん!」
何度も頷いて、やっとのことでソフィーが立ち上がる。
スカイフィッシュは少女達に不気味に光るマスクの奥の瞳を向け、血があふれ出している脇腹の傷口から、包丁を抜き取った。
そして走り出した理緒に向けて、それを投げつける。
理緒の右足の腱が両断されて、彼女はもんどりうって床に転がった。
「片平理緒!」
ソフィーが悲鳴を上げる。
理緒は足を襲う激痛に耐え切れず、喚きながら地面をのた打ち回った。
ゆらりとスカイフィッシュが立ち上がって、こちらに歩いてくる。
ソフィーが理緒を守るように、震えながらスカイフィッシュの前に出る。
そして壁の木材を手で引き剥がして、頼りなく男に向けた。
「家の外に出て、早く!」
スカイフィッシュが手を振り、ソフィーの持つ木片を弾き飛ばした。
そしてチェーンソーを振り、ソフィーの肩に振り下ろす。
657:
凄まじい音と、絶叫が響き渡り、ソフィーの血肉が周囲に飛び散った。
意識を失ったソフィーを蹴り飛ばし、スカイフィッシュは、倒れた彼女の頭にトドメのチェーンソーを叩き込もうとし――。
そこで、巨大な肉食獣の腕に吹き飛ばされ、数十メートルをも長い廊下を、ゴロゴロと転がった。
グルルルル、とうなり声を上げながら、化け猫に変身した小白が、スカイフィッシュを睨んで毛を逆立てる。
『どうした? 状況を説明してくれ! ソフィーのバイタルが異常値だ!』
圭介がヘッドセットに向かって怒鳴る。
しかし理緒は、泣き顔のまま地面にへたり込んで、自分を守るように四肢を固める小白を見た。
そして、家の入り口にうずくまっている汀を見て、叫び声を上げる。
「汀ちゃん! ソフィーさんが……ソフィーさんがやられちゃった! 助けて!」
『汀がいたのか! 汀、早く二人を助けろ!』
圭介の声を聞きながら、しかし汀は耳を塞いで、目をつぶり、震えながら首を振った。
658:
「汀ちゃん!」
足から凄まじい量の血液を流しながら、理緒が這って彼女に近づく。
そしてその肩を強く振った。
「ソフィーさんは、私たちのためにここに来ました! あの男の人を倒せるのは、汀ちゃんだけです! だから目を開けて!」
しかし汀は、ただ震えるだけで反応がない。
その、いつもとは百八十度違ったか弱い様子に、理緒はハッとして手を止めた。
小白がまたうなり声を上げて、スカイフィッシュに体当たりをする。
大柄な男は、床を転がり、家の奥に消えた。
「小白ちゃん! ソフィーさんを連れてきて!」
理緒が声を上げる。
小白は、それを分かったのか、分かっていないでのことだったのか、ソフィーを口でくわえて理緒のところに後ずさりしながら戻ってきた。
そこで、また、家の奥から、スカイフィッシュがドクロのマスクを出したのが見えた。
一部が破れて、中身が見えるようになっている。
659:
それを見て、理緒は一瞬停止した。
「え……そんな……」
『理緒ちゃん、どうした!』
圭介の声に、理緒は呆然として答えた。
「坂月……先生……?」
「…………!」
その名前を聞いた途端、マイクの向こう側に凄まじい緊張感が走った。
スカイフィッシュはボロボロで血まみれの服のまま、チェーンソーを肩に担いで、ゆっくりとこちらに向かって歩いてくる。
圭介がそこで大声を上げた。
『汀がいるんだな? 脱出しろ! 訓練は中止だ!』
「わ……わかりました!」
理緒が悲鳴を返し、汀の手を握る。
「大丈夫だよ。大丈夫、私がいるから……」
慰めにもならないようなか細い声でそう言って、理緒は這いずって家の外に汀を誘導した。
660:
小白がソフィーを離して、うなり声を上げた。
スカイフィッシュがこちらに、 ものすごい勢いで走ってくるところだった。
理緒は無我夢中でポケットに手を突っ込んだ。
そこで、カサリという音がして、何か紙のようなものが手に当たる。
それは、一貴と名乗った少年が、彼女に渡した、千円札で折られた鶴だった。
理緒は必死の形相で、それを掴んで、自分に向けてチェーンソーを振り下ろしたスカイフィッシュに向けて投げつけた。
閃光弾を爆発させたほどの、衝撃と爆音、そして光が周囲を襲った。
汀も理緒も、小白も、その場の全員が吹き飛ばされて家の庭に転がる。
理緒は泥まみれになりながら、砂場の上で体を起こした。
そのかすむ視界に、右半身が吹き飛んで、奇妙なモチーフのようになってグラグラと揺れて立っているスカイフィッシュがうつる。
661:
「うっ……」
その姿を見て、理緒は猛烈な吐き気を催し、その場に盛大に胃の中身をぶちまけた。
スカイフィッシュはゆっくりと、力なく地面に転がった。
その服、肉、チェーンソーが溶けて、黒い水になって広がっていく。
骨だけになったスカイフィッシュが、徐々に砂になり消えていく。
それに伴い、家の火も消え、青空が顔を出した。
『ステータスが正常に戻った……! 全員強制遮断するぞ!』
圭介が怒鳴る。
その声を最後に、理緒の意識はブラックアウトした。
662:

「一体……何が起こったんですか……?」
顔色を真っ青にして、理緒は点滴を受けながら、椅子に背中を丸めて座った。
圭介が息をついて、腕組みをして壁に寄りかかる。
「通常のスカイフィッシュなら撃退できると思った。だが、今回の奴は『変種』だ。ソフィーがやられたのも納得がいく」
「納得……?」
理緒は、隣のベッドで、呼吸器を取り付けられて、点滴台に囲まれて眠っているソフィーを見て、押し殺した声を発した。
SPの人たちが、入り口と窓を警護している。
「私たちをあんなところに送り込んでおいて、よく無表情でそういうことが言えますね」
理緒にしては珍しく、怒りを前面に押し出した口調だった。
圭介は押し黙ると、理緒の隣の車椅子でボーッとしている汀に目をやった。
「何とか言ったらどうだ、汀。お前の夢に変種が出てくるなんて、俺は初めて聞いたぞ」
663:
「……言ったことないもん」
汀はかすれた声でそう言って、クマの浮いた目を圭介に向けた。
「勝手に私の夢の中にダイブしてきて、そういうこと言われるのって、結構心外だな」
「…………」
圭介は自分を睨んでいる理緒を見てから、息をついて肩をすくめた。
「……参ったな。完全に俺が悪者か」
「小白がいなきゃみんな死んでたよ」
汀が淡々とそう言って、膝の上で丸くなっている小白を撫でる。
「だから、私の夢に関わるのはやめようって言ったのに」
「高畑先生」
そこで理緒が口を開いた。
「どうしてスカイフィッシュっていうあのトラウマは、坂月先生の顔をしていたんですか?」
「さかづき?」
汀がきょとんとしてそれを聞く。
664:
「汀ちゃん、知らないの……?」
怪訝そうに理緒が聞くと、汀は頷いて言った。
「誰?」
「赤十字病院のお医者さん。二年位前に、行方不明になったって聞いたけど……いい先生だったよ」
「見間違いだろう。混乱していたんだろ?」
圭介はそう言って、資料を持ち上げ、脇に挟んだ。
そして病室の外で溜まっている医師達を見回して、口を開いた。
「大丈夫です。二時間後にダイブを実行します」
「え……」
理緒と汀が目を見開いて、唖然とする。
理緒が素っ頓狂な声を上げた。
「二時間後って……ソフィーさんはショックで目を覚まさないし、私達、何のレッスンも出来てないです! それにこんな状態で……」
665:
「ソフィーにやり方を教えてもらって、何回か変質を成功させたんだろう?」
圭介はそう言って、ポケットから出したものを理緒に放って渡した。
それは、千円札で折られた鶴だった。
「あ……これ……」
理緒がそれを受け取って、僅かに頬を赤くする。
「なら出来る。レッスンは無事に終了してるよ」
「出来るって……何の根拠があって……」
噛み付く理緒に、圭介は軽く笑ってから言った。
「経験則だよ」
666:

医師達を連れて歩き去った圭介を見送り、理緒は深くため息をついて、頭をガシガシと、苛立ったように掻いた。
「高畑先生……別人みたい……」
呟くと、汀は小白を撫でながら、何でもないことのように言った。
「そう? 圭介はあんな感じだよ。本当は」
「本当は?」
「うん。あれが本性だと思う」
淡々とそう言って、汀は大して気にしていないのか、眠っているソフィーを一瞥した。
「私の夢なんかに入ってくるから……」
「汀ちゃん教えて。スカイフィッシュって何なの? あんなトラウマ、聞いたことも見たこともないです。どうして汀ちゃん達は、あれをあんなに怖がるの?」
聞かれて、汀は口をつぐんだ。
しばらくの沈黙の後、汀は呟くように言った。
「理緒ちゃんは、まだ毒状態じゃないから」
667:
「どういうことですか?」
「毒状態。ゲームとかでよくあるでしょ? 毒になると、HPが段々減っていくの」
理緒と目を合わせないようにしながら、汀は小さな声で続けた。
「私も、この子も、もう『毒状態』なんだ」
「言っている意味が……分からないです」
「つまりね。マインドスイープって、すればするほど、マインドスイーパーのトラウマを広げるの。それは毒みたいに心に広がって、侵食して、成長していくの。スカイフィッシュはその投影。トラウマが強ければ強いほど、スカイフィッシュも強くなる。だから、私の夢に出てくるスカイフィッシュになんて、誰が何してもかなうわけがないんだ」
汀はそこまで言うと、理緒が持っている千円札の鶴を見て、怪訝そうに聞いた。
「……理緒ちゃん、何したの? それ、誰にもらったの?」
理緒は、そこで一貴の顔を思い出し、ハッとした。
そしてポケットをまさぐる。
「あれ……おかしいな。紙をもらったはずなんだけど……」
668:
「紙……?」
「うん。赤十字病院で。工藤一貴さんっていう、マインドスイーパーの男の子にもらったの。汀ちゃんに渡してって言われたんですけど……」
「どんな紙?」
「ゼロとか一とか、沢山書いてありました」
「……夢座標だ」
汀は、そこでハッと顔色を変えた。
「多分圭介が持ってる。それ、多分夢座標だよ」
「夢座標?」
「マインドスイーパーが夢の中に入る時、座標軸を設定するの。その人、私と話したいことがあったんだ……」
そこまで言って、汀は理緒が言った名前を繰り返した。
「工藤……一貴……?」
669:
「汀ちゃん?」
「いちたか……いっくん……?」
汀はそこで上体を起こし、理緒の手を掴んだ。
「理緒ちゃん。ダイブするよ」
「え……? で、でも私、夢の中で右足を切られちゃって、まだ上手く動かせなくて……」
「大丈夫。それより、もっと大変なことになるかもしれない。そうなる前に、その人のこと助けなきゃ」
汀はそう言って、歯を噛んだ。
「……圭介の思うとおりにはさせない……!」
670:

理緒と汀は目を開いて、そして同時に短い悲鳴を上げた。
二人がギョッとしたのも無理はなかった。
ものすごい勢いで、落下していたのだった。
上空の雲の上に、彼女達はいた。
汀が落下度で目を開くことも出来ず、手を広げて理緒の体を掴んで引き寄せる。
二人でもつれ合いながら落下する。
そこで、汀の肩にしがみついていた小白が、ボンッ、という音を立ててパラシュートのように膨らんだ。
それに減され、二人は次第にゆっくりと落下していった。
しばらくして、ポスン、という音を立てて、二人が雲の上に着地する。
雲はまるで綿菓子のようで、きちんとした地面としての質感がある。
理緒は腰を抜かして、その場にしりもちをついて呆然としていた。
そして汀と顔を見合わせる。
『どうした? 状況を説明してくれ』
圭介にそう問いかけられ、汀はヘッドセットのスイッチを切って、脇に投げ捨てた。
671:
それを見て理緒が慌てて口を開こうとして
――汀の手に、口をふさがれる。
汀は理緒のヘッドセットも同じように雲の下に投げ捨てた。
「何するんですか! あれがないと、私達帰還できないですよ!」
「タイミングが分からないだけで、圭介が強制遮断すれば元に戻れるよ」
そう言って汀は、お尻を叩きながら立ち上がった。
「早くしなきゃ。この座標のはずだよ。じゃなきゃ、こんな場所にダイブして出てくるわけがない」
理緒は自分の右足を見た。
腱の部分がズキズキと傷む。ケロイドが醜く、足のかかとまでに広がっていた。
よろめきながら立ち上がり、理緒はしかしすぐに崩れ落ちた。
「駄目……立てない……」
「私に掴まって」
汀の手に掴まって立ち上がり、理緒は雲の下を見て気を失いそうになった。
672:
町が広がっている。
数百メートル下に。
雲は形を変えながら風に流されていく。
小白が下を見てニャーと鳴く。
その頭を撫でて、汀は言った。
「本当なら、町の方にダイブして出るはずだったんだよ。それを、圭介が夢座標の位置をいじったから、こんなことになったんだ」
「ど……どうすればいいんですか? この人、普通の人で、トラウマとかがないらしいですから……」
「トラウマがない人間なんて、赤ん坊くらいだよ。そこをくすぐれば、すぐ煉獄に繋がる道は開くと思う。問題は……」
そこまで汀が言った時だった。
不意に晴れた空が曇り始め、分厚く寄り集まり始める。
そして、ところどころで光が上がった。
それが雷だ、と分かったのは、轟音が二人の耳を打った後だった。
足元の雲から、凄まじい勢いで、土砂降りのスコールが降り注ぎ始める。
上空は晴れているのに、足元はスコール。
不思議な感覚だ。
「何が……きゃぁ!」
また雷が近くで鳴り、理緒が肩をすくめる。
それを支えながら、汀は言った。
673:
「ハッキングだ。この人の心の中に、誰か進入したんだよ。だからこの人の心が警鐘を鳴らしてるの」
「だ……誰が……」
「工藤……一貴……」
汀はそう言って、ゆっくりと振り返った。
「いっくん」
そう言って、数メートル離れた場所に立っていた、白髪の少年と目を合わせる。
いつの間に現れたのか、白髪の少年、一貴はニコニコしながら汀を見ていた。
それを見て、理緒がハッとしてから少し顔を赤くする。
「あなた……」
「やあ、片平さん。また会ったね」
理緒に興味がなさそうに手を上げてから、一貴は汀に向けて両手を広げた。
彼の隣には、赤毛の少女……岬が立っていた。
ポカンとして汀を見ている。
「思い出してくれたんだね! すっごく嬉しいよ、なぎさちゃん!」
674:
「……残念だけど、私はあなたのことは何も知らない。でも……」
汀の脳裏に、笑顔で何かを差し出す、小さい頃の一貴の顔がフラッシュバックする。
「あなたが、いっくんね」
「うん! 良かった。そこまで分かってくれれば上等だよ。なぎさちゃん、僕は君を助けに来たんだ」
「助けに……?」
怪訝そうな顔をした汀に、一貴は続けた。
「僕らに、君達の基本夢座標の位置を教えて欲しいんだ。それで、こっちから、君達の頭の中にハッキングが出来る。だから……」
「話してる暇はないわ。『いっくん』、すぐにここを出て」
汀が、彼の声を打ち消してそう言う。
一貴は一瞬きょとんとした後、首を傾げた。
「どうして?」
「赤十字病院が、あなた達のハッキングを察知してる。これは罠よ」
「ねぇ……なぎさちゃん? 何も覚えてないの……?」
そこで、一貴の隣で、おずおずと岬が口を開いた。
675:
汀は面倒臭そうに彼女を見て、言った。
「言ったでしょ。私は何も覚えてない。だから早くここから……」
「あぁ、もう遅いみたいだ。でも想定の範囲内だよ」
一貴がそう言って、ニッコリと笑った。
「なぎさちゃんは、絶対にそこから助け出す。だから、少しだけ待ってて」
彼はそう言って、足元の雲に手を突っ込んだ。
そして長大な日本刀を掴み出す。
「変質……? あんな簡単に……」
理緒が呆然として呟く。
そして彼女は、小さく悲鳴を上げた。
彼女達の周囲に、いつの間にか赤十字のマインドスイーパー達が立っていたからだった。
取り囲むように十……二十……三十人ものスイーパーがいる。
彼らは一様に目に生気がなく、ぼんやりとした表情だった。
「何……これ……」
理緒が呟く。
676:
「マインドジャックだ」
一貴がそう言う。
「最も非人道的な行為だよ」
『言ってくれるじゃないか』
三十人のマインドスイーパー達が、同時に言葉を発した。
「圭介……?」
汀が呟く。
「マインドスイーパーの心を、逆にマインドスイープでジャックして、操る手法さ」
一貴の声に、三十人のスイーパーたちは、同時に手を雲に突っ込んで答えた。
『おしゃべりはそこまでにしようか。汀、理緒ちゃん。小白を使って降りるんだ。この人の心にロックをかけろ。こいつらは、この人の中枢を破壊して「殺す」気だ!』
「え……」
理緒は青くなって一貴に向かって声を張り上げた。
677:
「どうして? マインドスイープで人を殺したら、現実世界でも死んじゃうんですよ!」
「それがどうしたのさ? 仕事だからさ」
一貴は日本刀を肩に担いで、挑発的に、周囲を取り巻いているスイーパーたちを見回した。
「早くかかってきなよ。OBさん。じゃないと」
一貴の姿が消えた。
手近にいた女の子のスイーパーの喉に、次の瞬間、日本刀が突き刺さって、貫通して向こう側に抜けていた。
一貴はそれをずるりと引き抜き、女の子を蹴り飛ばした。
岬は呆然としている。
一拍遅れて、倒れた女の子の首から、凄まじい勢いで血が噴出した。
「皆殺しにするよ」
あながち冗談ではなかった。
考える間もなく、一貴は日本刀を一閃して、また近くにいたスイーパーの男の子を袈裟斬りにした。
678:
返り血を浴びて、楽しそうに彼が笑う。
『チッ!』
二人も一瞬でやられたスイーパーたちが、雲の中から刃渡り三十センチはあろうかというサバイバルナイフを掴みだす。
一貴はそのドスとも言えるナイフの斬撃を刀で受けて、その場を転がった。
そして近くのスイーパーの胸に刀を突きたてる。
汀は、震えている理緒の手を掴んで
「行くよ!」
と叫んだ。
それを聞いて、周囲をスイーパーに囲まれながら一貴が叫ぶ。
「待って、なぎさちゃん!」
「患者を殺させるわけにはいかないわ! どうしてもやるっていうなら、相手になる!」
「なぎさちゃん!」
岬が、一貴から日本刀を受け取り、スイーパーの斬撃を受け止めながら声を張り上げる。
679:
「あたしだよ! 岬だよ。何で分からないの!」
『行け、汀!』
「私は人の命を助ける! テロリストと話すことは何もないわ!」
汀はそう言うと、小白を小脇に抱えて、理緒の手を引いて雲の下に体を躍らせた。
理緒が一拍遅れて、ものすごい悲鳴を上げる。
小白がまた膨らみ、パラシュートのように広がった。
それを見て一貴が舌打ちする。
「いっくん、どうするの!」
岬が悲鳴のような声を上げる。
一貴は口の端を醜悪に歪めて、そして言った。
「なぎさちゃんは絶対に連れて帰る。そのためには……」
周囲を見回し、彼は言った。
「全員、殺す」
680:

第12話 上野、アメ横にて

パラシュートのようになった小白が汀の背にしがみつき、汀が理緒を抱いたまま、二人はふわりふわりと夢の中の町に降り立った。
完全に腰が抜けた理緒がペタリと尻もちをつく。
茫然自失としている理緒に、汀はポンッ、と音を立てて元にもどった小白を肩に乗せながら言った。
「この人の煉獄に入って、中枢にロックをかけるよ。圭介が時間を稼いでる間に、行くよ。多分二、三分ももたない」
それを聞いて、理緒は電柱にしがみつきながら、何とか立ち上がって答えた。
「汀ちゃん……あの子達、助けなくていいの?」
「どの子達?」
「工藤さんたち! あんなに沢山のマインドスイーパーに囲まれて、殺されちゃうよ! 高畑先生、酷すぎます!」
「理緒ちゃん、何か勘違いしてない?」
汀はそう言って、押し殺した声で続けた。
681:
「あの工藤とかいう男の子は、ナンバーXって呼ばれてるサイバーテロリストよ。意味不明なこと言ってるけど、私の知り合いなんかじゃない。ただ話をあわせただけ」
「でも……汀ちゃん、彼のこと『いっくん』って……!」
理緒にそう言われ、汀は頭を抑えた。
不意に、右即頭部に頭痛が走ったのだった。
そして脳内にある光景がフラッシュバックする。
――なぎさちゃん。
――僕達はずっと一緒だよ。
――だから、記憶を共有しよう。
夢の中の一貴が笑う。
彼は近づいてきて、閉じていた右手を開いた。
小さい頃の彼の姿が、大きくなった彼の姿とブレて重なる。
――入れ替えよう。
――僕と、君の……。
「汀ちゃん!」
そこで汀は、理緒に強く肩を揺さぶられて、ハッと目を覚ました。
いつの間にか地面に四つんばいになり、頭を抑えてうずくまっていたのだった。
「どうしたんですか? 大丈夫ですか?」
682:
度重なる意味不明な事態に頭の処理度が追いつかず、泣きそうになっている理緒の肩を掴んで、汀は荒く息をつきながら立ち上がった。
「大丈夫。やれる……」
「汀ちゃん……?」
「私は……人を助けるんだ。絶対に……誰も死なさない。誰も……一人も死なさない……人を助けるんだ……」
うわごとのように呟き、汀は唇を強く噛んだ。
血が、彼女の口元から垂れて地面に落ちる。
「行こう、理緒ちゃん」
そう言って理緒は、目の前に広がる東京都上野駅の光景を見回した。
「私たちは、人を助けるんだ」
683:

そこは、東京都上野駅の、ヨドバシカメラがある、アメ横に繋がる通りだった。
沢山の人たちが行き来している。
一様に顔がない。
皆、携帯電話に向かって何事かを喋りながら移動しており、顔に当たる部分にはブラウン管がくっついていた。
ニュースや、この夢の主の記憶なのか、いろいろな情報が映し出されている。
歩いている人たちも一様に服装はばらばらだ。
共通しているのは、土砂降りの雨の中、片方に同じ赤い雨傘、そしてもう片方に同じ型番の古い携帯電話を持っているということだった。
汀は手近な一人を蹴り飛ばして傘を奪うと、理緒に手を貸して、ヨドバシカメラの中に入った。
店員も携帯電話に向かって何事かを話している。
蹴り飛ばした人は、しばらく倒れたままだったが、やがて、どこから出したのか、また赤い傘を懐から取り出し、何事もなかったかのように歩き出した。
「ズブ濡れになってばっかりだな……」
汀がぼやいて、傘をたたむ。
理緒は右足の痛みに耐えることが出来ずに、その場に崩れ落ちた。
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