【必見】これが全盛期ローマと激突した『古代ダキア』の歴史だ!back

【必見】これが全盛期ローマと激突した『古代ダキア』の歴史だ!


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1:
古代史好き・マイナー史好き・蛮族好きはこい
約2000年前
現在ルーマニアと呼ばれている地にて台頭し
全盛期ローマと激突した人々のおはなし
アスペニート(世界史)シリーズ
http://world-fusigi.net/tag/アスペニート
※「アスペニート」とは2chで世界史に詳しい人のコテハンです。
この記事はアスペニート氏のスレではありませんが、アスペニート氏と同じぐらい歴史に詳しい人のスレだったので「アスペニート(世界史)シリーズ」に加えさせて頂きました。
引用元: ・古代ダキアの歴史をつづっていくスレ
2:
まず前提の補足として
「ダキアじんってだあれ?」
「どんなひとたちなの?」
「どんなところにすんでたの?」
をざっと
3:
さいしょは「ダキアじんってだあれ?」
「ダキア人」とはざっくりいうと
古代にトランシルヴァニアを本拠としていた人々で
盛期には現在のルーマニアをこえて
ハンガリーやスロバキアにまで影響力を拡大させた連中
参考までに地図↓
黄文字はルーマニア内の地方区分 
白文字は国名 緑文字はローマ圏の古名 赤線はドナウ川
(今後もこれら地名をつかうので開いておいたほうがいいかも)
4:
民族としては大きなグループである「トラキア民族」に属すものの
トラキア本流とはけっこう文化の違いもあって
「ダキア人」はサブグループとしてしばしば区別される
ダキア史を語る上では
区別したほうがやりやすいのでこのスレでもその方向で
ちなみにその差異がパッと見でわかりやすいのは軍装
thracian warriorとdacian warriorでそれぞれ画像検索ゥ
「トラキア人」は南のギリシャ圏とのつながりが強く
「ダキア人」はケルトなどのいわゆる「蛮族」圏との
つながりが強いってイメージがつかめるとおもう
■thracian warrior
https://www.google.co.jp/search?q=thracian warrior
■dacian warrior
https://www.google.co.jp/search?q=dacian warrior
5:
彼らの位置関係についてはこの画像のように↓
狭義の「トラキア人」はドナウ川より南に住んでいた人々をさし
ドナウ周辺から北にいたひとびとが「ダキア人」ってイメージでいい
ちなみに北のコストボキはダキア人の兄弟集団であり
東のカルピはダキア人の一部族
6:
またこのへんにまつわる名称で「ゲタイ人」というのもる
(画像ではダキアとトラキアのすき間)
「ゲタイ人」はギリシャ人がドナウ川一帯の者たちを指した名称
その区分やルーツについては諸説あるけどもややこしいので
ここではワラキア地方に住むダキア人の別名という広義解釈でいい
ちなみにダキアの「DACI」はカシウス・ディオによると彼らの自称とされ
由来はフリギュア語のDAOS(狼)やダコ・トラキア語のDAVA(砦)など諸説ある
7:
次は「どんなひとたちなの?」
まず基本的に「蛮族」
ケルトやゲルマンとあわせて
アルプス・ドナウ以北の「北方蛮族」として括られることもしばしば
これは安易なイメージではあるけども正しくもある
蛮族イメージどおりに戦争LOVE略奪LOVEなヒャッハー集団で
盛期には周辺を荒らしまわっていた
ただし蛮族=ヒャッハーだけが取り柄というわけでもなく
蛮族らしからぬ一面も持ち合わせていた
(これは他の蛮族にもいえるけども)
たとえば
指導者層ではラテン語・ギリシャ語を学んでいるという逸話があったり
また軍事面では合理的な防衛戦略のもと城塞網を整備したり
バリスタなどをたくさんもっていたりなど
8:
つぎ「どんなところにすんでたの?」
まず地勢はこんな感じ
ダキア人の中心地は初期はモルダヴィア
成長期はワラキアにうつり
そして繁栄期になると対ローマの関係もあって
防御しやすいトランシルヴァニアにうつる
この地域の特色としてまず第一に資源の宝庫だったということ
とくにトランシルヴァニアは鉄や金がガッポガッポ
第二は全体としては山がちながらけっこう肥沃だったこと
のちのローマ支配時代にはここからの輸出がバルカン半島の胃袋を支えたり
9:
またこうした土地柄のおかげで
それなりの人口を有することもできて
1世紀には80?100万ほどに達していたと推定されている
またのちにローマによって属州化されるのは
「ダキア」全体のうち三分の二程度であるも
3世紀初頭にはその「ダキア属州」だけで60?120万が住んでいたとも
これは現代の感覚からするとスッカスカだけども
古代世界当時の基準だとなかなかの人口密度になる
10:
それでは歴史スタート
この地域は大昔から文明の交差点で
次から次へと民族が流れこみ
大量の文化が繁栄と没落と融合を繰りかえしていったところ
そしてその闇鍋のなかから
「ダキア人」なる集団が形成されることになる
まずそのへんが確立するあたりまでざっくり駆け足で
11:
デケバルスがトラヤヌスとドンパチやりあったことくらいしか知らない
13:
>>11
それ知ってるだけでも十分
12:
このあたりではBC5000代から
ヨーロッパ圏最初期の都市といえる大集落を形成したククテニ文化や
特定の意味をもつ記号を用いてたヴィンチャ文化などが栄えるようになる
(「古ヨーロッパ文字」 ただし文字体系としての機能は疑問視されている)
また比較的短命ながらブルガリアで栄えたヴァルナ文化からは
人類最古クラスな黄金細工の品々が発見されていたりもする
(Varna Necropolisなど)
BC4000代にはウクライナ方面からの印欧語族と接触
つづくBC3000?BC2000代前半にかけて
その印欧語族の進出もおこなわれ
混交したCotofeni文化圏などが構築されていく
14:
また青銅器時代に移行してからのBC2000?BC1500代には
ポーランド方面からじんわり流入があったことも
ハプログループの研究で示唆されている
こうした動きはそれなりの混乱をもたらしたようで
このころのOtomani文化などでは
ヒルフォート(強固な防御設備がある集落)が多くみられるようになり
さらにあいつぐ戦乱のためかその社会が徐々に崩壊していったことが
発掘調査で示されている
(集落の破壊・墓の副葬品にみられる戦士文化の発達など)
15:
あと100年登場が早かったらカルタゴと同じくらいの脅威にはなってたろうな
17:
>>15
ちょうどローマの全盛期に重なるなんて
ほんとタイミング悪すぎだよね
26:
>>17
(第三次じゃない)ポエニ戦争の時期とダキアの全盛が重なってたらとかそういうIF考えちゃうね
16:
そしてとどめに「前1200年のカタストロフ」が到来する
ヒャッハーな「海の民」の時代
この騒動の原因はいまだにハッキリしていないというか
原因になりそうなネタが多すぎて定まっていない
とにかくこの時期
あちこちで既存秩序の崩壊と移住の連鎖がおこり
すでに数百年前から混乱期に突入していたこの地域には追いうちになった
18:
ただし
「前1200年のカタストロフ」における彼らの立場には諸説あって
この騒乱では侵略側でもあったともいわれてる
数百年前からつづく混乱によってこの地域からも多くが移住を強いられ
それらが結果的に「海の民」サイドに加わっていたという流れ
そんな感じでハチャメチャになったワケだけども
この混乱が結果的に文化融合と独自化をすすめたり
民族移動による拡散伝播で
急に鉄器文化が広まったという面もあった
そして広義の「トラキア圏」としての基層も
徐々に形成されていくことになる
19:
しかし一難去ってまた一難
今度ははるか東から
遊牧騎馬民スキタイがウクライナへと勢力をひろげてくる
彼らは前7世紀までには黒海西岸にたっし
一部は西岸にそって南にくだって
ドナウ河口およびワラキアにも入りこんできた
そして現地民とある程度の混交もおこなわれたり
こうした遊牧騎馬民からの影響は
ダキアの歴史を通して継続していくことになる
東方からもたらされたものでパッと見でわかりやすいのは
イラン系騎馬民由来のコイのぼりのような旗(ドラコ)や
鱗状の鎧(スケイルアーマー)などがある
これらはダキア人も好んで使うようになる
20:
そして客人は他にもいた
ちょっと遅れてギリシャ人も各地へ植民しはじめ
黒海沿岸部にもじわじわと都市をつくり
前6世紀までにはクリミア半島まで展開
ここからのギリシャ文化は
黒海沿岸のトラキア人につよい影響をあたえ
またそれを経由して
内陸のモルダヴィア・ワラキア・トランシルヴァニア方面にも
技術や信仰の伝播という形で影響がおよぶことになる
21:
つづく前6世紀のおわりごろ
こんどは南東からアケメネス朝ペルシアが侵攻してくる
ダレイオス一世によって狭義のトラキア(ブルガリア一帯)が征服され
黒海沿岸部も一時的に支配下におかれる
ダキア人がはじめて文献に現れたのがこのあたりで
このときドナウ河口にいた「ゲタイ」のとある部族が
ペルシア軍にしぶとく抵抗したと記録されている
ただしこのペルシアの侵攻は
ドナウ以北では黒海沿岸部にかぎられるもので
内陸部は放置されていた
そしておそらくこの時期
「ダキア人」という集団形成においてもっとも重要な出来事が起こる
それは「ザルモクシス信仰」のはじまり
22:
このザルモクシスなる神
ヘロドトスによると元々はゲタイ生まれの人間で
ピタゴラスの奴隷だったとされている
彼は解放されると故郷にもどり
ピタゴラスから教わったエジプト思想などをもとに
「死はすばらしいものだよ?死ぬということは不死の入り口なんだ?」
と霊魂の不死性を説いてまわった
でも当初はやはり「なに言ってんだこいつ」状態
そこであるときザルモクシスは地下に何年も隠れひそみ
人前に一切姿を現さないようにした
そして彼は死んだのだと人々が思いだしたころに
さっそうと地上に姿をあらわして
死を超越したとうまく人々を信じこませた
とヘロドトスはザルモクシス復活の経緯を記している
23:
ただしこれらを綴ったヘロドトス自身は
この話はおそらく創作だという意見も述べていて
実際にはザルモクシスはピタゴラスよりはるか昔の人物だろうとも記している
このヘロドトスの見解については
現代研究者のあいだでも一定の支持があって
ピタゴラスの奴隷であったという部分は
「ギリシャ文明人が蛮族に教えをさずけた」というギリシャ優位の思想で
加えられたという説もある
またザルモクシスの「復活」についての
何年も隠れて人々を信じこませたというくだりについても
彼らを蔑視する外国人(ギリシャ人)が
「マジで不死になったわけねーだろ」とつけ加えた可能性も指摘されている
おそらくダキア人みずからが信じた伝承においては
ザルモクシスはちゃんと一回死に
本当に復活したことになっているはず
24:
このザルモクシス信仰は
既存の信仰と同化する形で
トラキア圏全体に急にひろまっていった
ただし北のダキア人と南のトラキア人とのあいだでは
その信仰熱意や形態にけっこう差があった
南のザルモクシス信仰は
既存の多神教に含まれていく形であったものの
北にいくほどザルモクシスの絶対性は濃いものになっていった
また時代が下るにつれてその傾向はどんどん強まり
ダキア繁栄時代には拝一神教と言えるくらいになる
こうした信仰の変化によって
ドナウの北では「ダキア人」となる独自性も形成されていったようで
考古学的にわかる様式においても
このあたりから南のトラキア人との違いがはっきりしてくる
25:
また周辺勢力とのかかわりもその流れを促進することになる
東からのスキタイやペルシアと接触していたころ
西からも同じような動きがあった
すこし前の時代からケルト人によるハルシュタット文化が
スロバキア・ハンガリーあたりまで広がってきていて
それらとの交流と文化吸収によって
ダキア人はさらに「北方蛮族」色がつよまっていく
(ケルトふうの動物形象や葉脈状の装飾が見られるようになったり)
これはギリシャ・ペルシアの影響が強まっていった南のトラキア人と対照的だった
27:
そして前5世紀になると南のトラキア人の一部が一足先にじぶんたちの国
オドリュサイ王国をうち建てる
これはトラキア人全体を統一したものではなく
またいぜんとして「蛮族」的な部族社会の色が濃くて
とてもギリシャ・ペルシア圏などとは比較にならなかったものの
トラキア圏内においては先進地域に相当するものだった
これによってトラキア圏内でも
北と南にわかれる意識構造が徐々に生じていったようで
トラキア人とくにオドリュサイ系の人々は
ダキア人(ゲタイ)のことを「未開の野蛮人」と見るようになり
ダキア人も彼らのことを「ギリシャ文化に骨抜きにされた軟弱者」と見るように
ちなみにこの年代の初期ダキア人の拠点は
モルダヴィアで多く見つかっているため
当時はそこが中心地域だったと推測されている
28:
こうして物質的にも精神的にも南のトラキア人とわかれはじめ
名実共に「ダキア人」の歴史がはじまっていくものの
つづく前4世紀もあいかわらず周辺勢力の進出でもみくちゃにされる
29:
南では台頭したマケドニアが勢力をひろげてきて
BC340代にフィリッポス2世によってオドリュサイ王国が征服され属国になる
このさいに詳細は不明ながら
ドナウ南岸にいた「ゲタイ」の一派も北岸におい払われたという記録がある
またはるか東では
新たな騎馬民「サルマタイ」も
ウクライナ方面へむけて動きだす
この新集団そのものはまだ黒海西岸から遠かったものの
スキタイ系がこうした動きから逃れようとしてきたため
玉突き事故のようにダキア圏もじわじわ圧迫されるようになる
考古学調査においても
モルダヴィアの拠点群のおおくが放棄されるか縮小しており
かわりに東カルパチアやワラキアの拠点群が
拡張されていったことが示唆されている
31:
そして圧力は東だけじゃなく西からも
ケルト人が急激に勢力を拡大しはじめる
(ちなみにこの時期はあちこちで彼らがヒャッハーしており
 ブレンヌスによるローマ市占領もちかい時代)
彼らはパンノニア平原をこえてトランシルヴァニアにまで侵入
しかもそれはけっこう激しい出来事だったようで
もとの支配階層がパッと消えてケルト人に入れかわったことが
墓の副葬品の調査などで判明している
こうして前3世紀になるころにはトランシルヴァニアは
ケルト人の支配下になってしまう
現在までに判明している主要なケルト居住地は以下のとおりで↓
その分布は
ケルト本土との交易ルートにつながる北部と
盆地内の農地・鉱物資源豊富なアプセニ山地をおさえるかたちだった
32:
このようにダキア人にとってとことん不遇な時代だったものの
いっぽうでそれなりのプラス要素もあった
金属加工に優れるケルト人の到来は
現地産業に活性化をもたらしたようで
ダキア産の装飾品やマケドニアのをコピーした金貨などがおおく生産されるようになり
遠くではポーランド中部などでも見られるようになる
またダキア人もこの時期から外へ移住しだした
スロバキア東部・パンノニア平原・セルビア北部においては
ダキア様式の陶器が現地生産されていた形跡があることから
大多数のケルトにまざる形で
それなりのダキア人も住んでいたことがわかってる
(行ったり来たりするケルト人に自らついていったか
 あるいは強制移住させられたのかは不明)
33:
また軍事面でも得るものがあって
金属加工技術の取得による武具の発展のほかにも
集団戦術なども吸収する
ダキア人の戦い方は
これまでは長剣などをもちいた個人乱戦がメインだったけども
これ以降は大盾をもちいての盾壁戦術もさかんに併用するようになる
34:
またこのようにケルトの影響をつよく受けながらも
ダキア人が完全に「ケルト化」することは起こらなかった
前述のとおりケルト支配地域でさえ
ダキア様式の物品がさかんに生産されていたりと
彼らは本質的には「ダキア人」のまま暮らしつづけていた
これの理由はハッキリしていないものの
しばしば強烈なザルモクシス信仰が関連つけられている
そしてトランシルヴァニアは征服されたものの
ワラキアのほうは頑強に抵抗して支配を拒みつづけていた
この闘争は100年以上つづき
これもまたダキア人の軍事と共属意識を強化する重要なステップとなった
35:
信仰は民族アイデンティティの保持には有効だったというわけね
36:
ここらで記録された初めての「ゲタイ(ダキア)王」があらわれる
名はドロミカイテス(Dromichaetes)
おそらくケルトに対抗するべく
各部族が同盟をくむなかで頭角をあらわして
最終的にはワラキア全部族をまとめあげた人物
彼に率いられた「ゲタイ」はかなり勢力を強めたようで
北・西からのケルトと争いつつ
南からゲタイを攻撃しようとしたマケドニア軍をもやぶり
マケ王リュシマコスを捕虜にしたりもする(BC290代)
ドロミカイテスはこのリュシマコスらを手厚くもてなして
すぐに解放するかわりに和平と同盟を結びあっさり終わらせる
いっぽうケルトとの戦いはやはり激しく継続されたようで
ドロミカイテスもこのなかで戦死したとも言われている
(ちなみにこの頃はここだけじゃなくバルカン全域でケルトが暴れていて
 BC270代にはギリシャにも「ガリア人」がハデに侵入してるような時代)
37:
このあたりからダキア人はその戦闘民族っぷりを開花させ
本格的に台頭しはじめる
前2世紀にはいると王ルボボステス(Rubobostes)によって
ついにトランシルヴァニアのケルト支配がうち倒される
そしてワラキアからの有力者層の移住もおこなわれて
かつてのケルト支配がはじまったときのように
支配階層がまるごとダキア人にいれかわる
とはいえケルト人全てが殺されたり追放されたりしたわけでもなく
それなりの数が残りつづけたみたい
さっきの画像の居住地もおおくがそのまま存続する
ただし支配下でも独自性を守りつづけていたダキア人とはことなり
残ったケルト人たちは急にダキア化していった
39:
またおなじ前2世紀なかばには王オロレス(Oroles)が
北からトランシルヴァニアに侵入しようとしていたバスタルナエ族を撃退する
このバスタルナエ族ってのは
ベースはゲルマンあるいは先スラヴであり
ゆっくり南下しつつあった東ゲルマンの最前集団の可能性高
ただし西のケルトや東のスキタイ要素にくわえ
時代がくだるにつれダキア文化とのつよい混交も見られることから
明確に「ゲルマン人」とも言えないような連中
彼らはオロレス率いるダキア人に敗退すると
モルダヴィア北東部におちつくようになる
以後はしばしばダキアと衝突しながらときに従属させられたりで
つよい文化影響を受けることに
結果的にベースがゲルマン系でありながらダキア人の近縁集団にも変化し
はんぶん吸収された形に
あと精確な時期は不明ながら
ダキア人は西にも精力的に軍事行動をとっていたようで
セルビア北部にいたケルト系スコルディスキ族などとも衝突していた
42:
つよい王がゾロゾロでてきたこのあたりで
いったん歴史から離れて
社会構造や政治についてもサラっと触れておく
いかんせん史料不足で不明なところが多いものの
ダキアはまず部族社会だったというのは確実
族長をはじめとする有力貴族がそれぞれの土地を支配しており
それら部族・地域単位で独立自治していた
ダキア社会における身分はおおまかには以下の三つ
・貴族「tarabostes」あるいは「pileati」 意味は「帽子男」
・平民「comati」 意味は「長髪の男」
・戦士「capillati」 これも直訳すると「長髪の男」だけどこっちのほうがもっと長いニュアンス
貴族の「帽子男」という由来はおそらく
束ねた髪をフリギュア風の帽子でしっかり隠すことから
(サンタや七人の小人が被っているようなアレ フリジア帽子の元ネタ)
この帽子をかぶるのは貴族しか許されていなかったため
それに対比して平民は「長髪の男」と呼ばれるようになったみたい
43:
実生活におけるこの貴族・平民の最大の差は
土地所有のありかただった
平民は部族の共同所有地が分配されるという形で
土地私有を認められていなかったけど
貴族は大量の私有地をもつことができた
そして三つめのグループである戦士「capillati」は
貴族・平民と分離していたわけではなく
平民のうちの一部が同時に戦士「capillati」を構成していた
また戦士思想のつよい部族社会であるため
貴族の若者衆も戦士「capillati」に属していた可能性もある
貴族をあらわす帽子をかぶってるけど格好は上半身裸で
戦士「capillati」のシンボルである両手剣「falx」をぶん回している描写が
トラヤヌス円柱などによくみられたりで
ちなみに「capillati」などの名称はラテン語翻訳であり
もとのダキア語名称は不明
44:
そしてダキア社会において
もうひとつの重要なのが神官層のグループ
彼らも貴族層に属していたけども世俗とは一定の距離があって
とくにザルモクシス神官たちは政治的にも特権地位にあった
最終判断が「王」ではなく彼らの「占い」に任せられたり
また部族の壁をこえての
ダキア全土にひろがる独自のネットワークをもっていた
(これはおそらくザルモクシス信仰の
 拝一神教とされる性質によって形成された)
45:
最後に「王」について
これまでの王の政治権力は
実際は族長に毛がはえた程度のもので
権力範囲はまず母体部族とその周辺にとどまっていた
「ダキア(ゲタイ)人の王」とはいえ
その性質は「ダキア(ゲタイ)の支配者」ではなく
あくまで族長クラスから選ばれた代表者・軍事指導者というもの
理由は独立性のつよい部族社会の性質が
政権・軍権の一点集中を妨げていたことと
王位の権威不足などがあげられてる
族長クラスにもなれば祭祀役も担ったりで
宗教的権威はそれなりに強いものがあったけども
これもまた母体部族とその周辺に範囲がとどまり
「全ダキア人の支配」などを正当化できるものではなかった
47:
>>45
戦国時代の日本のだいたいの大名みたいなもんだね
国人(部族の長)が言う事聞かなかったら兵すらままならない
49:
>>47
戦国日本はあんまりくわしくないけども
つまみ食いした感覚だとそんなふうに似ていると思う
46:
とはいえこうした傾向はドロミカイテスやオロレスなど
強大な軍権を手にした王の出現で
ゆっくり変質していったようで
前1世紀にはとうとう決定的な力をにぎる男が現れる
48:
話はもどって歴史へ
ダキアで強き王たちがつづいていた前2世紀代
南のほうでもついにラスボスが視野に入ってくる
かのローマが本格的にバルカン半島に進出しはじめる
VSマケドニアの第三次戦でローマは決定的な勝利をあげ
BC140代の第四次戦でとうとうマケを属州化
また直後にギリシャもすっぽり属州化
これらによってマケの属国だったトラキア(オドリュサイ王国)が
独立するんだけどもしょせん建前だけだった
トラキアはマケが衰退しつつあった頃からすでに分裂内紛ぐっちゃぐっちゃで
「独立」以降はローマが我が物顔で介入してきてさらにミキサー状態になる
また黒海沿岸部のギリシャ都市たちもぞくぞくとローマの影響下におかれていく
くわえてローマはアドリア海方面からも進出してきており
スコルディスキ族とも激しい衝突を繰返すようになる
(ただしスコルディスキのほうもマケ滅亡のスキをついて拡大を狙い
 ローマへ全力で喧嘩を売っていった)
50:
こうしたローマによる怒涛の拡大は
ダキア人らにかつてのケルト侵入・支配を思いださせるには充分だった
あのマケドニア・ギリシャ圏が陥落したというのも
なおさら脅威を際立たせることになり
彼らはすぐに「ローマによる侵略」をつよく警戒するようになった
それは行動にもあらわれ
さっそくBC130?BC100代のスコルディスキとローマの戦いでは
スコを背後から殴る絶好の機会だったのもかかわらず
逆にスコ側を支援しだしたり
ちなみに「ローマによる侵略」という警戒は
決して彼らの思いこみでもなかった
この共和政中期から末期にかけてのローマは
ヒャッハー全開でもっとも領土拡張した時代で
ダキアのことも「大河の北は肥沃で金銀鉄もザックザクらしいぜ!」
と照準にいれはじめていた
51:
それにしてもやっぱりケルトは暴れまわるのね……
ローマも首都を一時的とは言え占領される憂き目にあったようにダキアもまた然りと
52:
こうしたなかでダキア人の勢力圏もじわじわと広まっていったようで
このあたりからスロバキア・ハンガリーなどに
よりおおくのダキア人が居住した痕跡が見られるように
すこしあとの前1世紀初頭には
ダキア文化圏はこのぐらいにまで拡大する↓
黄緑はダキア文化が支配的な地域
薄赤は支配的ではないものの一定の地位を得ていた地域
さらにはポーランドふかくまでダキア系が進出したことが示唆されているものの
(ヤストシェンブニキJastrzebnikiにおける発掘調査などで)
規模が小さく現地文化との本格混交もみられないことから
進出したとしてもきわめて少数であるため
そのへんはダキア文化圏には加えられていない
53:
そして前1世紀のはじめごろ
ついに屈指の王ブレビスタ(Burebista)が現れる
初期の経歴は不明で(おそらく有力部族長かその家系)
BC80代(より具体的にBC82とも)に王位についたとされる
彼は王になるやすぐさまその軍才を発揮し
トランシルヴァニア・ワラキアの全部族をあっというまに服従させる
またそうした武力による掌握だけじゃなく
その権力安定に不可欠である権威確保も巧みにすすめていく
ブレビスタはある段階(おそらくBC70代)に
ザルモクシス最高神官のデケネウ(Deceneu)と組み
全ダキアにおける宗教権威の掌握へとのりだした
54:
詳細は不明ながらもおおまかには
禁酒などの厳格な教義を施行することで神官ネットワークを一本化
宗教権威をネットワーク頂点の最高神官デケネウに集中させ
その最高神官を王が保護するという形で
「ザルモクシスの民(ダキア人)の頂点」たる正当性をゲットという流れ
くわえてワラキアのArgedava(現ポペシュティ)にあった王都を
トランシルヴァニアのオラシュチエ山地深くの
ザルモクシス信仰の聖地サルミゼゲトゥサ・レジア(Sarmizegetusa Regia)にうつし
さらに権威強化
(この遷都には対ローマにそなえての軍事的理由もあった 後述)
こうしてブレビスタは名実共に
「ダキア人の王」たる地位の確立を成功させる
ちなみにこの宗教権威まわりの改革は
ザルモクシス以外の有力な神々をおさえこむ目的もあった可能性もある
たとえば禁酒政策は
祭儀で酒盛りをしていたディオニュソス信仰を抑えこむためだとか
56:
そんなかんじでブレビスタがダキアを掌握しつつあったころ
南ではローマの暴れっぷりも加しつつあった
黒海南東岸にあるポントス王国との
バルカン・小アジアをまたにかけたミトリダテス戦争がはじまり
トラキア各部族もローマ・ポントス側それぞれに分かれて戦うことになる
中には「ゲタイ」のいくつかの部族も参戦していたらしい
(ちなみにあのスパルタカスもこの戦乱の中で捕虜になったと言われてる)
ミトリダテス戦争は最終的にローマの勝利で終わり
トラキア圏におけるその影響力がさらに高まることになる
また東のほうでは
西進してきていた強力な騎馬遊牧民サルマタイが
ついに黒海北西部まで到達して
そのなかのロクソラニ族やイアジェゲス族が
ダキア・トラキア圏と接するようになる
57:
こうした周辺状況による危機感の増大は
ブレビスタには追い風にもなったみたいで
彼の体制はますます強固なものになっていく
そして「統一ダキア王国」の基盤固めを完了させるや
彼はさっそくそのパワーを外へと向けはじめる
BC60代にはまず西のケルト圏へ侵攻
セルビア北部のスコルディスキ族らを次々とたいらげ
パンノニア平原北部のエラウィスキ族や北部のコティニ族も従属させ
スロバキアにものりこんでケルト強キャラであるボイイ族にも大勝する
つづくBC50代には東と南へ侵攻
モルダヴィア方面にむかいバスタルナエ族を従属させ
サルマタイをも押しこんで現在のオデッサあたりまで制圧する
58:
そして南ではドナウをこえてトラキアにも進撃し
沿岸部のローマ従属下のギリシャ都市群をもつぎつぎ制圧
こうしてドナウ南岸にも大きな影響をおよぼすようになる
また年代は不明ながら
北のドニエストル川方面にも進みコストボキ族も従属させたり
こうしてブレビスタの版図はこれから↓
最終的にこうなる↓
59:
この急激な拡大の理由は
もちろんダキア人のヒャッハー気質によるところ大だけども
他にも合理的な理由もあった
それは「生存するためには強くなくちゃ」というもの
古から文明交差点でさっんざんな目にあってきたうえ
このころは南のローマにくわえて
東からはサルマタイも迫っていたため
これらの危機感また
この拡張を押しすすめた要因だった
この軍事への傾倒姿勢は外部攻勢だけじゃなく内部にも表れていて
もっともわかりやすい例は対ローマ防衛態勢の急な整備
都をサルミゼゲトゥサにうつしたもう一つの理由もこれだった
60:
ブレビスタすごい
61:
単純に生産性なら
ワラキアやモルダヴィアの平原はかなり肥沃で優れていたけども
いざ対ローマとなればワラキアは一番最初に荒れるところだし
モルダヴィアもはんぶんサルマタイのお庭と化していてアテにならなかった
いっぽう山脈に囲まれているトランシルヴァニアは守りに最適で
北部から中部の生産地もその後背地として安定機能させやすい
この地勢をまた見るとわかりやすい
またその生産性もワラキア・モルダヴィアには劣るものの
かつてケルト人が気に入って住みついたとおり
なかなかのもんだった
くわえてやはり鉱物資源が豊富な点もナイスだった
ブレビスタはこうした理由から
ダキア圏の中心地をワラキアから
トランシルヴァニアへと移行させていく
62:
そして中でも
トランシルヴァニア南西部のオラシュチエ山地に彼は目をつける
ここはトランシルヴァニアの「南玄関」をおさえられる要衝で
対ローマ防衛線の核としてはこれ以上ない地だった
くわえてトランシルヴァニア内でも有数な
鉄ほか金属資源の産出地でもあったため
要塞化するにもうってつけで
彼はここを防衛戦略の要として城砦網の整備をすすめていった
この政策は以降の指導者たちにも引き継がれていき
のちの1世紀末にはこのくらいまで固められる
63:
またオラシュチエのみならずダキア全土でも同様の拠点整備がおこなわれ
おなじく1世紀末には全体もこのように
中心地は完全にトランシルヴァニアにうつり
山脈を利用した拠点ネットワークがそれを囲むようになっていった
こうしたダキア全体を意識した配置にわりとすんなり移行できたのも
統一されて連帯意識も確立されたことで可能になったものだった
ちなみに地名によくついている「DAVA」というのは
ダキアのことばで砦を意味する
またこの画像でトランシルヴァニア中心部がわりとスカスカなのは
そこにダキア人が住んでいなかったというわけではなく
防衛設備の遺構が現在まで確認されていないため
居住の跡そのものはちゃんとおおく見つかっている
65:
話しもどって前1世紀へ
こうしたブレビスタによる軍事強国化は結果的に大成功をおさめ
本格台頭したダキアは
ドナウ域の主導権争いの大舞台に踊りでる
ただし古今東西の歴史が示すとおり
強気の対外政策は底なし沼におちこむリスクが多々あって
もれなくダキアもそのルートをつき進むことになる
「やれるもんならやってみろやコラ」という威圧は
サルマタイに対しては一定の効果があったものの
肝心のローマには完全に裏目にでてしまう
66:
ダキアがローマ従属下のギリシャ都市を横取りしたり
影響下にあったトラキアへ介入してきたりと
現実にローマ覇権への挑戦行為をともなっていたため
これを宣戦布告同然にとらえたローマ世界では
ダキア脅威論が本格的に強まっていくことになる
一方でダキア側も
同時期のローマによるガリア戦争といった
将来も予感させるような事実もうけて
さらに警戒を強めていくことに
こうしてお互いに安全保障上の脅威とみて敵対しつづけるという
ステキな底なし沼関係が完成する
67:
ちなみにこの本格台頭したダキアの軍事力は
実際にはどのくらいだったかというと
まずローマの著述家たちは
「ブレビスタは20万を動員できる」(ストラボン)など
巨大戦力を有していることをよく強調している
ただしこれは古今東西の著述の例にもれず
かなりの誇張がはいってる
68:
まず最大100万ほどという当時のダキア人口と現実的な運用を考えると
自由に動かせる戦力はおおくても5万程度にとどまる
(現代研究家のI.Oltean氏はもうすこし少なく4万と見積もってる)
本土防衛で戦える男を限界までかきあつめたりなどの
死に物狂いモードでやっと10万にぎりぎり届かない程度
(のちの2世紀での対ローマ戦でこのモードになる)
くわえて周辺の従属・同盟勢力から供出させられる戦力もせいぜい数万なため
外征時のダキア軍は最大でも5?6万ってのが現実的な落ちどころになる
このように
ストラボンの20万発言なんかにくらべたらだいぶ見劣りする規模だけども
だからといって当時においてショボイというわけでもなかった
69:
他の「蛮族」仲間とかんたんに比べてみると
たとえば同時代のゲルマンでは
ウェーザー流域の有力部族が結集したアルミニウスの反乱(AD9?16)で
その連合軍の最終規模は5?6万ほど
もしドイツ南部の大物マルコマンニ族・クアディ族なども加わっての
西ゲルマン大連合になっていたら
戦力は10万ちかくになったとも言われている
またガリアではガリア戦争時には合計戦力が30?40万にまで膨れあがったとも
ただしこれらは政治的に独立していた数多の部族勢力が
一時的に徒党をくむことでやっと実現されうる規模だった
(ガリアなんてその部族構成はおおきめのものだけで70ほど
 小さいのを含めれば数百単位になる)
いっぽうで統一を果たしたダキアは「単独勢力」として最大100万の人口を有し
5万の戦力を自由に動かすことができ
本土防衛時には一時的に10万ちかくまで増強することができるという
西ゲルマンが団結決起したのに匹敵する規模の動員を
自分たちだけでこなすことが可能だった
70:
おもろい
71:
またそうした動員能力だけではなく
なによりもブレビスタからのダキア軍は
強力な騎馬民族をふくむ周辺勢力を
片っ端からぶっとばしていたほどに中身も強かったという点も重要
実際のところブレビスタ以降のこいつらは
のちのローマ戦をのぞいて無敗だった
ローマ側の警戒やダキア軍20万という誇大記述なども
こういった彼らの実際の軍事業績を反映してのものだった
72:
そうして軍事強国化していくダキアは
ローマとの関係がどんどん悪化していったけども
両者完全に拒絶しあっていたわけではなく
状況にあわせての妥協的友好もあった
とくにローマ側は断続的な侵略戦争をへて
すぐに内戦突入という当時はすごく忙しい時期だった
カエサルによる内戦が勃発すると
ポンペイウス陣営は背後の憂いをなくすために
このときは建前だけでもブレビスタに歩み寄るようになる
そしてブレビスタ側も
泥沼内戦でローマが自滅することを期待したのか
様子見をえらんでポンペイウスとの同盟締結を了承する
73:
でも内戦が終結するとそんな関係はやっぱり即ご破算
さらに勝ったのがポンペイウスじゃなくカエサルだったというのもあり
ふたたび関係が急激に悪化していったようで
カエサルはパルティア侵攻の次にダキア侵攻も考えていたらしい
でもその計画はBC44にカエサルが暗殺されたことで頓挫する
これはダキアにとって非常に好都合な出来事だったんだけども
おなじ年に彼らの側でも大変なことがおこる
それはブレビスタ暗殺
74:
これはどんどんブレビスタに力が集中していくのをみて
地位喪失を危惧した有力者たちが暗殺したと言われている
そうしてせっかく統一されたダキアは
あっという間に四つあるいは五つに分裂しちゃう
当然ながら北のコストボキ・東のバスタルナエ・南のトラキア・西のケルト
これらブレビスタ征服地での影響力もまるごと喪失する
またブレビスタが築いた「統一ダキア王」位も継がれることなく
分裂した各地でそれぞれ王が現れる事態に
75:
なぜブレビスタの「ダキア王」の位が継がれなかったというと
実はその王位はまだ未完成だったからという点がしばしば指摘されている
ブレビスタのダキア王権は
最高神官の保護者となり
その絶対的な宗教権威を借りるかたちで維持していたんだけども
これはつまり「王位」そものもは
絶対的権威を有していないということだった
そして最高神官の保護者なんてポジションは
ブレビスタ個人の才とカリスマありきのもので
彼以外にそんな力がある者は当時いなかった
(そもそも他に並びうる者がいないからこそ彼は頂点に立てた)
だから彼が急死しちゃったら当然おわる
76:
ダキアの最高権力者がカエサルと同じ年に暗殺されたって因縁めいてるな
77:
ブレビスタとカエサルはある意味重なるところがありますね
インペラートルを名乗ったカエサルと王を名乗ったブレビスタ……
78:
ちなみにブレビスタ暗殺についてもう一歩踏みこんで
この王権の未完成問題そのものが暗殺理由だとしている説もある
この問題を解決させるべく
ブレビスタは王位にも絶対的な宗教権威をもたせようと
「王位と最高神官位の融合」を試みたも
あまりに急進的なやり方だったため
暗殺されてしまったという流れ
81:
>>78
東ローマのやった皇帝教皇主義に似たようなことをやろうとしたわけですね
79:
たたでさえ文献史料がすくないダキアでも
この分裂期はとくによくわかっていない
ただし少なくとも指導者たちとある程度の勢力図は
以下のように推測されている
・王コティソ(Cotiso)
勢力圏は南西トランシルヴァニア・バナト
「ΚΟΣΩΝ」銘の金貨を生産したコソン(Koson)と同一人物
あるいはその息子であり
分裂勢力の中ではもっとも力がある
いちおうは北部にも影響力があったとも言われてる
・王ディコメス(Dicomes)
勢力圏は南東トランシルヴァニア・ワラキア・南モルダヴィア
コティソにつぐ大勢力
・DapyxとZyraxes
勢力圏はドブロジャ
ドブロジャ内でのそれぞれの勢力圏は不明
・最高神官デケネウ
勢力圏はオラシュチエ
ブレビスタ死後に右腕だったデケネウが
そのままサルミゼゲトゥサ周辺の支配だけを受けついだ形
実効支配域はちいさいものの権威についてはかわらず頂点
80:
このように見事にバラバラになったものの
ブレビスタの作った枠組みがすべて崩壊したわけでもなかった
サルミゼゲトゥサは変わらず全ダキア人にとっての最高の聖地であり
そこの最高神官は絶大な権威を有しつづけ
王たちも手を出そうとはしなかった
そして王たちの一時的な武力衝突も少なからずはあったにせよ
戦国乱世に突入するようなこともなかった
あたかもブレビスタから相続して
みんなで合意の上で分割統治するような状態におさまり
「ダキア」全体としての連帯意識もそれなりに保たれつづけることになる
82:
たとえば二大勢力であるコティソとディコメスは
ローマ世界を二分していたオクタウィアヌスと
アントニウス両陣営と話し合いをして
しばらくフラフラ態度を決めかねていたものの
最終的にそろってアントニウスと同盟をむすぶ
「連中はローマパワーをダキア内の勢力争いにも利用するだろう
 それで泥沼内戦になればたっぷり政治介入できるだろうフフフ」
なんて考えてもいたオクタはこの失敗でダキアのことが嫌いになる
(いっぽうでのちのパルティア相手ではこれがちゃんと成功して介入しまくり)
くわえてアントニウスが死んだとたん
すぐにダキア人たちがドナウ南岸へ侵入しはじめたため
もっと嫌いになる
84:
ダキアとローマって似てるんだな
85:
BC30
アントニウスがエジプトで没するや
それを同盟のおわりとみてダキア人たちはいっせいに行動開始
ドブロジャのDapyxとZyraxesが
北のバスタルナエと徒党をくみ
コティソの支援もうけてドナウ南岸へ侵攻する
しかしアント死直後で忙しかったにもかかわらず
オクタは即断してローマ軍を迎撃に向かわせる
こうしてローマVSダキアという構図としては初めての本格衝突がおこる
(いままでも交戦はあったもののダキアは脇役の支援勢力だった)
モエシア・トラキア地方をまたにかけて数年つづいた戦いは
BC27にバスタルナエの王Deldoが討ちとられるなどして
ローマの勝利でおわった
さらにその過程でオドリュサイ王国も属国としてとりこまれ
モエシア地方もローマ領として正式併合を宣言され
これでドナウ南岸全域がローマ支配下という形になる
86:
ただし当時のローマが
この宣言どおりにドナウ南岸全域を
実効支配できていたかは微妙なところもあったり
このあとも断続的なモエシアでの戦いが記録されており
ローマ側が正式に「モエシア属州」を設立したのも
併合宣言から30年ほどたったあとだった
さらに「侵入してそのまま住みついていたゲタイ人」たちを
北岸に追いかえすという騒動も属州設立後にも起こったり
おそらくBC27にはローマは一応の大勝利をあげたものの
北岸諸勢力をおとなしくさせるような決定的なものにはいたらず
侵入と戦いはだらだらと継続したっぽい
87:
そのようにドナウ下流でくすぶっていたころ
西の中流部でも動乱がおこる
今度はローマのほうからの動きだった
パンノニア征服がおわりかけていたBC10に
その征服軍の一部が前進して(指揮官はMarcus Vinicius)
ローマ軍としてはじめてドナウをこえて北岸に侵入する
このローマ軍の経路は二通りの説があって
一つ目はパンノニア平原を東西にぶちぬいて進んだというもの
二つ目はダキアからみて南西のセルビア方面から入るというもの
がそれぞれある
どちらにせよこの軍はバナトに侵入し
そこの王コティソの勢力圏に攻撃をくわえることに
88:
この侵入は長期にはおよばなかったものの
そのぶん濃密でかなり激しい戦闘が行われたようで
ローマ側はそこそこの段階で撤収をはじめる
ただしコティソ側はそれ以上に甚大な損害をこうむっていた
おそらくコティソたちが
今まで周辺相手にやってきたように積極姿勢の迎撃にでて
戦力集中してのガチンコ勝負をいどんだけども
ローマ軍が今までの敵とは比べもんにならん強さで大敗という流れ
(しかもローマ軍のもっとも得意とするものこそがガチンコ会戦)
コティソ自身もここで戦死してしまったという説もあり(I.Oltean)
すくなくとも彼の勢力は大幅に弱体化する
89:
このときのローマ軍の目的は本格的な征服ではなく
・「俺らもドナウ越えられるからな!」という北岸勢力への牽制
・西からのルート確保とダキアの情報収集
これらだったため
ついでで有力だったコティソを潰せたのはかなりの収穫だった
しかしこのコティソ没落で生じた政治空白が
結果的にはダキアにとって有益なものになる
90:
オクタヴィアヌスは没する時に遺訓として東西南北の帝国の墨守すべき場所を定めてますね
東はダキア領より西が限界域だったから如何にダキアがローマにとって目の上のタンコブだったか伺える
91:
ブレビスタ死後
オラシュチエ一帯は最高神官デケネウが支配していたんだけども
コティソが没落したこのころは
デケネウの弟子であるコモシクス(Comosicus)という男が
その最高神官位をついでいた
そして彼は地位だけじゃなく
先見の明や策士っぷりも受けついでいたようで
コティソ王が没落(たぶん戦死)した際
すかさずその王位を継いでしまう
つまり世俗王位と最高神官位の融合という
ブレビスタができなかった最後の仕事をサクッとやってのけちゃう
しかも有力者たちへの根回しもうまくいったようで
とくに反発もおこらずにそのまま存続させてしまう
ただしこれ全てをコモシクスの手腕に帰すのも安直であり
実際のところ各地有力者たちも
権力集中への容認姿勢がブレ時代よりもずっと強まっていた可能性が高い
本格的にローマの強さを身をもって知りだしていたから
92:
そうしてコモシクスが王位を完成させ
さらに南西トランシルヴァニア・バナト一帯も勢力下において
統一ダキア再建の足がかりを固めつつあったころ
時代も1世紀にはいり
周辺状況も次のステージへ
93:
まずはサルマタイ系の本格進出
西のパンノニア平原は
ブレ死後にダキア支配から外れていたんだけども
そこにサルマタイ系イアジェゲス族が
カルパチア山脈の北をぐるっとまわってきて侵入する
彼らはケルト系現地民を従属させるか追いだしちゃうと
そのままそこに居座ってしまった
ちなみにこのパンノニア平原は
あとの時代でもフン・アヴァール・マジャールといった
騎馬民の面々が次々住みつくようになる
ここはウクライナ以西におけるヨーロッパ最大の草原地帯で
西進してきた遊牧騎馬民の終点のようなところだった
また東の黒海沿岸部でも
おなじくサルマタイ系のロクソラニ族がじわじわ南下してきて
モルダヴィア南部・ワラキア北東部にまで勢力を広げていた
彼らはダキアと摩擦しつつ
ローマとも衝突を繰りかえしたりと第三勢力みたいな存在だった
94:
いっぽうローマのほうも
ドナウ南岸域での力をじわじわと固めていた
AD4にはドナウ南岸にのこっていた「ゲタイ人」を北岸に追放し
そのころまでには正式にモエシア属州も設立され
つづくAD12・AD15・AD30におきた侵入もすばやく撃退して追いはらい
AD40にはオドリュサイ王国もついに併合してトラキア属州を設立
そのように統合と整備はすすめられ
クラウディウス帝期終わりまでには
ドナウ南岸全域の実効支配がほぼ確立
そしてとうとうドナウこそが
対ダキアの軍事境界線として定められるようになる
こうしてダキアは東西を強力なサルマタイ系に挟まれ
南もドナウをはさんでローマと直接対峙することになり
東西南三方すべてが脅威でしかも密着という
いままでのダキア史においてもっとも危険な時代に突入する
95:
しかしダキア側も着実に力を回復させつつあった
AD30ごろに
コシモスクのあとをついで王となったスコリオ(Scorilo)は
トランシルヴァニア北部全域や
かつてディコメスの勢力圏だった南東トラ・ワラキアをゆっくり吸収
着実に体制をかためていき
AD60代までにはダキアの再統一をほぼ完了させる
96:
そしてそんななかのAD68
ローマで皇帝ネロが自殺し
有力者たちが帝位をめぐって内戦勃発というお祭りがはじまる
この動乱は周辺勢力から見れば
ローマ領に侵入してヒャッハーする絶好のチャンスだった
ドナウ下流域もその例外ではなく
スコリオのダキアとロクソラニもこの機を逃さずに
ローマへの攻撃を敢行することに
とはいえ
このころからダキアとロクソラニはいちおうは同盟関係であったらしいものの
それは「敵はローマだからね!」と確認し合うくらいのもので
まだ真に軍事同盟と呼べるものではなかった
そのためダキアとは完全に別行動で
ローマ側の各文献にも別の事件として記録されることになる
97:
ローマで内戦が勃発しても
スコリオはしばらくうごかなかった
ドナウ防衛線のローマ軍主力が
北岸からの攻撃を警戒して迎撃態勢をとっていたから
でもそう様子見していたダキアとは逆に
ロクソラニはお構いなしにぶっこんでいった
AD69のおそらく一月
彼らは凍結したドナウをわたって9千騎でモエシアに侵入する
その初動の侵入自体はわりとあっさり成功したんだけども
それで調子に乗ってしまったのか
彼らはローマ軍を舐めきってすぐに略奪に夢中になってしまう
そしてそこをローマ軍主力に捕捉され
案の定ボッコボコにされ北岸に逃げかえる始末に
ダキアからすれば「ほら言わんこっちゃない」状態
98:
しかしAD69の夏のおわりごろ
ついにドナウのローマ軍主力も内戦のため
イタリア方面に出撃するという千載一遇のチャンスが訪れる
ここですかさずダキア軍がドナウ防衛線を強襲
主力がいないローマ側など取るに足らぬもので
モエシアに侵入してこれでもかとヒャッハー
でもここで思わぬ事態がおこる
一ヶ月もしないうちに
ちょうど東方からイタリアへと進軍中の
ウェスパシアヌス派の軍がモエシアに通りかかる
こいつらは
ユダヤ戦争で長年鍛えられてきた精兵どもで
かつその指揮官ムキアヌスも歴戦の勇将というゴリゴリの組みあわせだった
そんな彼らがイタリアいきを一時中断して
ドナウ戦線に加わったことで形成が逆転しちゃう
ダキア軍はあっさりボコられて追い払われるという結果に
99:
ローマ軍強すぎてずるい
100:
こうしてスコリオによる攻勢は失敗におわる
くわえて彼はAD69のうちに死んでしまったようで
次はデュラス(duras)という男が王位につく
このデュラスはスコリオの弟という説もあって
すくなくとも若いうちから高位であり
また自ら戦士団をひきいて前線で指揮もとっていた人物
そんなバリバリ戦士なデュラスは
AD69のひどい負けっぷりをふまえて
いったん対ローマ攻勢をゆるめてダキアの軍事強化に勤しむことにする
まず内部では
いままでは兼業の肩書きみたいなもんだった「戦士(capillati)」を
正式な身分階層として区別してその地位を強めて統制をかためていく
(これはスコリオ時代から段階的に行われていた可能性もある)
そして外部に対しては
ローマ以外の周辺勢力へと積極的に圧力をくわえ
それぞれを従属させたりダキア上位の同盟を結ばせたりし
供出戦力も増強させていった
101:
この対外政策でとくに重要なのがサルマタイとの件だった
彼がサルマタイに圧力をかけたのは
単純にブレビスタ版図の回復という目的もあったけども
それ以上に即戦力たる熟練騎兵の大量確保という
ピンポイントな目的があった
デュラスは強力な騎馬民族など恐れずに
東のロクソラニ族と西のイアジェゲス族両方に
時には武力で
時には富で
ガンガン揺さぶりをかけていった
おそらくデュラスは最初はちゃんと軍事同盟を提示したものの
その内容が明らかにダキア上位だったもんで
とうぜん両部族が「はあ?身の程をわきまえろやザコ農耕民」みたいに拒絶
そこでダキアがすかさず軍事侵攻にでるという流れ
102:
騎馬民族の支配地にのりこむなんて無謀にも聞こえそうだけど
デュラス率いるダキア軍はサルマタイたちを圧倒しちゃう
びっくりしたロクソラニは早い段階でダキアとの話しあいに応じ
戦力供出を義務づけたダキア上位の軍事同盟にしぶしぶ承諾する
ダキアはこれで最大2万ほどのサルマタイ騎兵を望めるようになった
いっぽうで西のイアジェゲスは頑なに拒んで戦いつづける道を選んだ
以降彼らはイジメられつづけ
最終的にティサ川の西岸に追いやられることになる
103:
こっから五賢帝時代にかけてのローマ軍はキチガイレベルに強い
105:
またそうした軍事強化にくわえて
対ローマ戦法もこのデュラス期を境に改善されていったみたい
考案したのはデュラスなのかどうかや
そもそも明確な戦法として認識されていたのかも不明だけども
これ以降の戦例をふまえて要点を抽出すると
・ローマ領深くへの長期侵入や
 真っ向勝負の大規模な会戦などは極力避けるようにする
・逆にローマ軍をダキア領に誘いこんで
 森などを利用して待ち伏せや
 分散した遊軍によるゲリラ戦を中心にする
こういう姿勢がこのデュラス期から全体に浸透するようになる
おそらくその意図は
戦力結集させたローマ軍と正面から殴りあっては勝ち目がないため
じわじわと消耗させようというもの
107:
ちなみにこれは
ローマと戦う「蛮族」にとっての模範解答みたいなもので
代表的なのはローマのゲルマニア征服を頓挫させたアルミニウスも
これと同様の方針をとっていた
(デュラスたちも実際にアルミニウスを参考にしていた可能性もある)
アルミニウスとちがう点といえば
ダキア人たちは山岳地帯での城塞戦も併用したくらい
108:
そのようにして
軍事力の増強・戦法確立も成功させ
ダキアはいよいよローマとの「決戦」の準備をすすめていった
その最終目的は
ドナウ北岸への進出をローマに諦めさせ
さらにモエシア・トラキアからも手を引かせ
ブレビスタ以来の野望であるドナウ流域一帯の覇権を握ることだった
しかしこれの準備をおしすすめたデュラス自身は
態勢が整うころには高齢になっていたため
彼はある後継者にバトンタッチすることに
その男の名はデケバルス
109:
このデケバルスは
スコリオ王の息子(デュラス王の甥)とも言われており
すくなくとも若い時期からかなり高位についていた
それも単に血筋のおかげだけじゃなく
その能力によるところも大きかった
彼は若きころのデュラス以上に戦地にバンバンでて
そのリーダーシップや軍才を証明
デュラスの絶大な信頼もえたようで
晩年にはその右腕(事実上のNo.2)になる
110:
ダキア民衆も彼のことを熱烈に支持していて
「この男ならきっとローマに勝てる!」と信じていた
またデケバルスは単に「ローマに対する勝利」というだけではなく
ブレビスタが果たせなかったドナウ流域制覇という野心も
堂々と口にしていたようで
これもまた人々を熱狂させるものだった
(そしてローマ人の警戒心をより強めさせた)
そうした猛烈な期待をうけながらデケバルスは軍事をひきつぎ
そしてついに準備完了したAD85
デュラスが次王にデケバルスを正式に指名するという形で
決戦開始のGOサインをだす
112:
この時期のローマは
ブリタニア方面ではカレドニア(現スコットランド)へ侵攻中
ライン方面では対ゲルマン政策でカッティ族討伐や
シュヴァルツヴァルト地方を占領して
あたらしい防衛線の構築を進めていたりと
あちこちで大きな軍事作戦中でいそがしかった
これもまたダキアにとっては好機であり
デケバルスはこの絶好のタイミングを逃さなかった
デュラスから王位を譲られたその年の秋に
さっそく行動を開始する
113:
まず第一段階
ロクソラニから供出させた騎兵もふくめた軍勢で
ワラキアからドナウ防衛線への一斉奇襲を敢行する
その規模はおそらく3?4万ほど
ローマのドナウ方面軍(全体で10万以上)にくらべたら少ないけども
それらはドナウ流域にまんべんなく配置されていたため
ダキア側が一点に戦力集中すれば防衛線をぶち抜くのは簡単だった
奇襲は見事に成功し
彼らはモエシアに電撃侵入する
そして街という街を手当たり次第に荒らしまわり
くわえて迎撃にでてきたローマ軍(どの軍団かは不明)を撃破し
ローマ側の現地最高指揮官であるモエシア総督を討ちとるという大手柄もあげる
しかしそれ以上は欲張らず
ローマ側が本格迎撃にでる前にダキア軍はさっさと撤収開始
秋が終わらないうちに略奪品・捕虜の輸送もすませて
すばやく北岸への引きあげを終了させる
これで第一段階が完了
114:
ちなみにここでダメ元ながらも
デケバルスはローマに講和を打診していた
とうぜんながら向こうはこれを無視する
このハデに攻撃しておきながら
同時に講和を打診するなんて
一見して矛盾しているような二面性だけども
これもまた戦争の最終目的が「ローマを滅ぼす」ではなく
「ローマにダキアを諦めさせる」だったことによる行動
このあともデケは
ローマが疲れて折れるのを期待して
積極的に喧嘩をうりつつも
同時に講和の打診も繰りかえしていくことになる
115:
ローマの征服欲は異常
いったいどこからモチベが来るのか
116:
翌AD86
ローマ側が反撃にでることになる
春に皇帝ドミティアヌスが現地いりし
軍を再編してドナウ北岸への侵攻を命令
動員されたのはドナウ方面軍から
対ゲルマンの上流部のぶんをのぞいた7?8万ほど
そのうちドナウをこえたローマ軍の正面戦力の規模は
ドナウの残留守備・兵站ルート守備のぶんを差引くと
おそらく5?6万ほどになる
上辺の兵数はダキア全軍と同等かやや上回っており
くわえて組織力・装備・錬度の質を考えるとやはりローマが優位だったんだけども
このときのローマ軍にはある致命的な問題があった
それは肝心の最高指揮官であるドミティアヌス
117:
この皇帝ドミティアヌス
対ゲルマンの防衛上の弱点だったシュヴァルツヴァルト地方をしっかり固めたり
あらかた制圧しつつあったカレドニアをその価値を見極めてあっさり捨てたりと
大局的な判断はなかなかだったんだけど
いざ自分で戦争をやるとなると
カッティ族討伐でさんざん苦戦を強いられたりと
あんまりパッとしなかった人だった
(バリバリの軍人でもあった父帝や兄帝とちがって
 彼はまともな軍務経験がなかった)
それでもカッティ戦ではそもそもの戦力で圧倒していたため
ゴリ押しでなんとかなったんだけども
このダキア戦ではそうもいかなかった
118:
ここでドミティアヌスは大きな過ちを犯すことになる
シニカルな人物だったゆえか彼はダキアの戦争能力について
ストラボンの「20万」とかの過大評価に振り回されることはなかったんだけども
逆にかなり過小評価してしまっていてた
5?6万程度の正面戦力では
足りないという点に気づいていなかった
ただしこの問題は現場指揮官が優秀ならまだカバーできたんだけども
ここでドミティは最悪の過ちを犯す
その肝心の現場指揮官に微妙な人物を任命したこと
119:
その指揮官はコルネリウス・フスクスという名で
勇猛な軍人でネロ死後の内戦でも指揮経験があり
ドミティ時代には親衛隊長になっていたけっこうな地位のひと
ただし勇猛なんだけど肝心の軍才はあんまりパッとしなかったみたい
(凡将たちが殴りあったグダグダなベドリアクムの戦いにおいても影が薄い)
またその「勇猛さ」にも少々難があったらしく
タキトゥスには
「危険の報酬よりも危険そのものを好み、
 すでに手に入れた確かなものよりも、
 新しく疑わしい危なげなものを好んだ」
(同時代史 國原版)
と評されてたり
120:
なんかに似てると思ったらそうだ太平洋戦争だ
121:
ただしそんな指揮官の不備があったにもかかわらず
ローマ軍による反攻序盤は滞りなくすすむ
というのもダキア軍はバナト・ワラキアでは小競り合いしかせず
「なぜか」トランシルヴァニアまであっさり退いたから
「抵抗軽微で進路阻むものなし」
という報告を南岸でうけたドミティアヌスは
これはダキア側が恐れて逃げまくったと考え
勝ちを確信してさっさとローマに戻ることに
おなじくフスクスも勝ちを確信して
ダキア首都サルミゼゲトゥサ・レジアに狙いさだめ
自ら先陣軍をひきいてずんずん奥地へ進んでいった
122:
そうして詳細な地点はいまだ不明ながら
フスクス率いるローマ軍が
のこのこと深部までやってきたとき
ダキア側の第二段階が発動する
すでに勝った気でいたローマ軍が谷あいを進んでいると
周囲の森から突然3?4万のダキア軍が出現
そしてあっというまに分断・各個包囲される事態に
ここまでデケバルスの罠だった
軍をトランシルヴァニアまで退かせたのも
戦力を温存するためとローマ軍を油断させ誘いこむため
こうも見事に罠にハマってしまっては
天下のローマ軍といえども手の施しようはなく
ここで彼らは大敗を喫することになる
123:
損害の実数は不明ながら
先陣のフスクス率いる親衛隊と
第五軍団アラウダエが消しとんだのは確かで
(この第五軍団は再編されることなくこのまま消滅)
またここの戦闘のあとも
南へ逃げるローマ軍へ激しい追撃が継続されたため
損害はさらに雪だるま式に
ちなみにやっぱりというか
フスクスもサクッとここで死ぬ
124:
完全にトイトブルクの二の舞いに見える
125:
こうしてローマ軍が南岸に壊走したことで
デケバルスの作戦の第二段階は大成功となったんだけども
これで終わりではなくむしろはじまりだった
かつてのアルミニウスのトイトブルクの大勝利が
つづく過酷なゲルマニクス戦の前座にすぎなかったように
ここからが踏ん張りどころとなる
この大敗北をうけて
ドミティアヌスは自分のミスを痛感してすばやく修正していく
まずカレドニアの制圧が仕上げに入っていたにもかからわず
「んなクソ僻地にかまってる場合じゃねえ」とすぐさま捨てて
その戦線の猛者兵たちをドナウに送ることを決定する
くわえて次の現場指揮官は
経験豊富で優秀な将ユリアヌスを任命するなど
人事面も徹底的にカバー
127:
こうして建てなおしが完了してのAD88の夏
新将ユリアヌス率いるローマ軍は
ふたたび首都サルミゼゲトゥサを最終標的として
ドナウ北岸へと侵攻開始する
規模はAD86とほぼ同じながらも
動き方は当然ながらフスクス軍とはちがい
ユリアヌスはがっちり警戒態勢を組みながら慎重に進軍していった
そんな強固なローマ軍を可能なかぎり消耗させるべく
今回はデケバルス側も最初から
さかんに遊軍をつかっての積極的なゲリラ戦をとるものの
やっぱり有能な将に率いられたローマ軍はクッソかたく
戦局はじわじわと苦しいものに
そこで秋になっていたこともあって
デケバルスはふたたび
トランシルヴァニア方面へ軍を退かせることにする
128:
そうしてダキア軍がさがり
ローマ軍がじわじわ進んでの秋の半ばごろ
舞台はトランシルヴァニアの入り口であるタパエの地にうつる
タパエはさっきのこの地図で
SARMIZEGETUSAの団子のすぐ左「TAPAE」というところ
ここはトランシルヴァニアの正面玄関のひとつで
そしてここから西のティビスクム(TIBISCUM)方面にかけて
山々の隙間をつらぬく回廊のような地形
その谷あいのほとんどが
ふかい森に覆われているという絶好の待ちぶせポイントだった
デケバルスはそこに罠を張って
フスクス戦の再現を狙うことにする
(ちなみにフスクス軍がぶっとんだのもこのタパエの地とも言われてる)
129:
しかし情報収集を徹底していたユリアヌスも
この危険な回廊のことは事前に把握しており
ここからはさらに入念に斥候をだしはじめていた
そのため森に潜んでいたダキア軍の一部が発見されてしまう
この軍はデケバルスの右腕Vezinaが指揮をとっていた一団で
罠にかかったローマ軍の背後や側面をたたく役目を担っていた
その関係で彼らは先行配置されており
東奥のタパエ方面に待機していたデケバルス本隊とはけっこうな距離があった
(デケバルスはローマ軍の前方から攻撃して
 後方のVezina軍と挟みうちにする段取りだった)
130:
こんな絶好の機会をユリアヌスが見逃すはずもなく
孤立状態のVezina軍へとすばやく接近開始する
そんでVezina軍のほうも
こうなったら仕方ねえと打って出るんだけども
やっぱり真正面からの殴りあいとなればローマ軍はかなり強くて
Vezina軍はあっという間に劣勢に
そしてそのまま総崩れになるかというところで
急行してきたデケバルス本隊が滑りこみ参戦する
またVezina軍の他にも小部隊が分散してあちこちに潜んでいたようで
それらもローマ軍の側面を攻撃するなどして
なんとか戦局を持ちなおすことに成功させる
131:
しかしローマ軍は
デケバルスたち増援にもまるで動じないという
即瓦解したフスクスのときとは正反対のタフネスっぷりだった
そして戦いはガチンコの力比べという
ローマ軍がもっとも得意とする形式へ
これこそデケバルスが避けたがっていた戦いで
こうなっちゃうとダキア側はどのみち敗北確実なジリ貧だった
そこで負けるにしても全滅だけは避けるべく
デケバルスは早い段階で退却させることに
この意図的な「敗走」はかなりリスキーなものだったけども
さいわい森という追撃しにくい環境と
ユリアヌス側がさらなる待ち伏せを警戒して深追いしなかったため
なんとかオラシュチエに退くことに成功する
132:
とはいえこのタパエの戦いは
デケバルスにとって明らかな敗北だった
ローマ軍をふたたび一網打尽にするという目的は失敗し
また退却成功したとはいえ
劣勢の激戦だっただけあって損害も甚大だった
ただしユリアヌス側も
ここでいったん進軍停止するほどの損害をだしていたため
「ローマ軍を消耗させる」という目的については
なんとかぎりぎり達成できていた
そしてデケバルス側はとうぜんながら
タパエ戦が失敗した場合のことも想定済みで
ここからも何重にも対策を用意していた
133:
ローマ軍はタパエを制して
ついにトランシルヴァニア内へのルートも確保して
勝利にわいていたけども
指揮官ユリアヌスはここからさらに頭を悩まされることになる
ダキア軍に大損害をあたえて敗走させたとはいえ
デケバルス本隊はとり逃していたし
斥候や密偵たちが集めてきたこの先の情報がどれも難儀なものばかりだった
まずオラシュチエ山地は
おおくの拠点で固められており
どうしても攻め手が消耗を強いられる攻城戦が
連発することが目に見えていた
またそのオラシュチエをまもる戦力も
残存している主力にくわえて
戦える男手を一時的にかきあつめることで増強されていた
134:
くわえてユリアヌスは
オラシュチエ以外の地域も意識しなければならかった
この画像のとおりダキアの軍事要衝はオラシュチエ周辺だけではない
PETRODAVA・PIROBORIDAVA・CUMIDAVA一帯の東部群もかなりのもので
またとBotfeiからTasnad一帯の北部群もそれにつづくものだった
こんな状況でローマ軍がオラシュチエに飛びこめば
これら東部・中部から増援がやってきて
ローマ軍の背後を突いてくるのは目に見えていた
そしてユリアヌスのいまの手持ち戦力では
大量複数の城砦を攻囲しつつ背後の敵増援の相手もするなんて
あきらかに困難だった
135:
そのうえ冬が迫っていたのも大問題だった
プロ常備軍で兵站網も整備されていたローマ軍は
その気になれば一年通して軍事行動をとれたものの
山岳地帯の厳冬期で攻囲戦やゲリラ戦となれば
さすがにきびしいものがあった
いっぽうでダキア人たちが
ドナウが凍結するほどの厳冬期でもガンガン活動できる元気っ子だったことも
この問題をより深刻化させていた
これら数々の問題を前にしたユリアヌスは
南に一時撤収し
オラシュチエ侵攻は翌年に行なうことを決定する
136:
おそらくデケバルスはこれにすごく残念がった
ユリアヌスが飛びこんできてくれていたら
冬のあいだたっぷり苦しめて一網打尽にできたから
こうしてローマ軍はドナウ南岸にいったん退いて
翌年への準備にとりかかる
とはいえ
ユリアヌスは戦力の大幅増強を望んでいたものの
ドミティアヌスが許可したのは損失ぶんの補充だけで
大規模な追加派遣は却下されたらしい
これはおそらくドミティアヌスが
別の戦線が手薄になってしまうのを警戒したため
(すこしあとでやるけどこれについては正しい判断だった)
137:
ということでユリアヌスは
あくまでドナウ方面軍の範疇でやるしかなく
その状況で正面戦力を増やすのは
ドナウ防衛線や兵站ルートにおく兵力が減ることを意味していた
これは当然ながらリスクが増大する面があったものの
仕方なく彼はこの方向で準備をすすめていく
そしてA翌D89
そうした後方の懸念がありつつも
はやくも一月下旬から彼は先陣軍をひきいて
ドナウをわたりバナトを北上していった
138:
ローマに取ってはこれも数ある戦線の中の一つに過ぎないのが恐ろしい
139:
いっぽう
デケバルスはこれも見越してちゃんと策を用意していた
ユリアヌス軍が慎重に北上していたころ
ドナウ下流でダキア・ロクソラニの合同軍がとつぜん動きだす
そしてローマのドナウ防衛線に大規模な奇襲攻撃をかけはじめた
これは戦力がうすくなっていた防衛線を狙うという
ユリアヌスがまさに心配していたことを的確についた形だった
この奇襲攻撃は大成功で
ロクソラニ軍が防衛線突破してモエシアに侵入し
AD68の報復をはたすように大暴れ
ローマ側はとうぜん
戦力を抜かれていた現地守備隊ではどうにもならず
ユリアヌスは侵攻を一時中断し
急遽これの対処にあたらざるをえなくなる
140:
彼はすぐに軍を戻して
ドナウ下流・モエシアに急行するんだけども
いかんせん現地は混乱状態でなかなか主導権を握れなかった
くわえて侵入していたロクソラニ軍も
AD68のときとはことなってローマ軍の動きを意識しており
騎馬民族の機動力を生かしてのらりくらりと衝突を避けながら
あちこち荒らしまわる始末だった
141:
こうした状況でも夏には
ユリアヌスはなんとかロクソラニ軍を追いはらい
ドナウ防衛線も持ち直すことに成功したんだけども
やはりけっこうな損害をだしてしまうことに
ただでさえ戦力が少なくて困っていたところでの
このダメージは致命的だった
もはやドナウ方面軍だけでのダキア討伐は困難であり
作戦を根本から練り直さなきゃならないのは明白だった
これだけでもデケバルスの狙いは達成していたんだけども
このとき別の事件がローマ側で発生していて
それがさらに追い風になってくれていた
ダキアらがドナウ下流を攻撃していたちょうど同じころ
ローマ内部でも上ゲルマニア属州の総督サトゥルニヌスが反乱をおこしていた
142:
この反乱そのものは
現地部隊同士のちょろっとした小競り合いだけで
サトゥルニヌスが死んであっさり終わるんだけども
ローマ世界ではやはり衝撃的な事件だった
(ネロ死後の内戦の記憶がまだ濃かったせいでひときわ過敏)
とくに元から神経質だったドミティアヌスはこれに大激怒で
サトゥルニヌス派の反逆者たちの調査・粛清にいそしむことに
かわりにダキアの優先度は下がってしまい
ドナウ戦線は厳戒態勢のまま待機を命令され
ユリアヌスの再侵攻計画も事実上の無期限延期になってしまう
それでも翌AD90には事態も落ちついてきて
計画が再開される可能性もいくぶんかは出てきたんだけども
ここでさらなる事件が発生する
AD90なのかAD91なのかはハッキリしないものの
この頃にドナウ上流?中流部のゲルマン人たちが
突如ローマ領への攻撃を開始する
143:
中心となったのはスエビ系の
有数の強部族であるマルコマンニとクアディ
彼らはダキアに加勢したわけではなかった
すこし前のデュラスの拡張などでダキアをかなり警戒しており
逆にダキアと敵対していたイアジェゲスと同盟を結んでいたくらいで
明確に「敵」といってもいいポジションだったった
いっぽうでローマとの関係もかなり険悪なものになっていた
ローマが少し前に叩いたカッティ族は彼らと同盟を結んでいたし
またローマが征服したシュバルツヴァルト地方は
はんぶんマルコマンニの影響下であり
従属下の小部族もおおく住んでいた庭のような地域だった
ゆえにローマの行動にマルコマンニは激怒し
兄弟分のクアディも同じようにぷんぷん
144:
そんななかローマVSダキアがはじまり
AD88にダキアがタパエで大敗し
いっぽうローマも翌年のダキ・ロクソ連合の侵入で苦戦
くわえて総督反乱などでてんやわんや
(マルコマンニたちと総督サトゥルニヌスが
 裏でつながっていたという話もある)
そうしてダキアもおとなしくなったしローマも疲労しているという
ゲルマン人たちにとって絶好の機会が到来する
145:
ぷんぷんしていたマルコマンニとクアディは
従属させている多数の小部族をひきいて
ローマ領のノリクムとパンノニアに襲撃をかけちゃう
さらにAD92にはパンノニア平原のイアジェゲスも
クアディと同盟を結んでいた関係でこれに加勢
いままでダキアに圧迫されてきたストレスを開放させるように
ドナウをこえてローマ領になだれこんで暴れまわっちゃう
(ローマからすれば「なんでこっち来んだよダキアのほうにいけよ」状態)
これはローマ側には完全に不意打ちだったようで
とくにAD92の一斉攻撃は甚大な被害をこうむり
(ここで第21軍団ラパクスが消滅したとも)
ドナウ下流の対ダキア用の戦力を裂いてでも
パンノニア方面の穴を埋めなくちゃならなくなる
146:
マルコマンニきたー
147:
とはいえAD92以降のドミティアヌスの対応は
申し分のないものだった
まずユリアヌスの増援要請を蹴って
上流部にも主力を駐屯させたままだったおかげで
防衛線が完全崩壊することだけは回避できていた
くわえてドミティアヌスは
選りすぐりの「優秀な指揮官」に全権をあたえて再編させ
AD92のうちに全面的な反撃を開始させる
すべてを任されたその「優秀な指揮官」は
ドミティアヌスの希望どおりあっという間にゲルマン・サルマタイを撃退し
さらには逆に北岸へわたっての
反撃侵攻ができるほどまでに戦況がもちなおされる
148:
そうしてローマ側はめざましい逆転勝利と
その「優秀な指揮官」の活躍で湧きかえるんだけども
一部にはそれを100%喜べない人もいた
それは対ダキア担当だったユリアヌス
ドミティアヌスはもうダキアへの関心を失い
ゲルマンへの反攻継続を優先することにしちゃったから
149:
こうして最初の「ダキア戦争」は
ダキアは戦いでは負けつつも
デケバルスの消耗戦がギリギリ成功したのにくわえ
運もかなり味方して有利な騒動が連発したことで
まさに彼の望みどおりの結末となる
ただし
実は必要以上に成功しすぎた節もあった
そのせいでドミティアヌスが
最後にとんでもない爆弾を置いていくことになるから
150:
対ゲルマンを優先したいということで
ドミティアヌスがとうとう
無視しつづけていたデケの講和打診に応えることになる
この交渉は
「優秀な指揮官」がゲルマン戦で活躍している裏で
さりげなく行われたようで(AD93?95あたり)
その内容は詳細不明ながら
かなりローマ側が譲歩したものだったらしい
ドミティアヌスはとにかくさっさとドナウ下流を安定させたかったらしく
ダキア側が絶対ゴネないような条件を提示していた
つたわるところではまずドナウ北岸からのローマ軍の全面撤退
および今後は北岸へ介入しないこと
そしてローマ兵捕虜解放のひきかえに身代金をはらうことも約束する
どれもこれもローマ人にとってはイライラものだったけど
とくに最後の身代金が問題だった
兵士がお金で救われるなんて
ローマ人とくに軍人にとってはとてつもない屈辱だった
151:
ドミティアヌスがそこまで意図していたのかどうかは不明ながら
この講和内容は結果的にダキアの首をしめることになる
ローマ軍人たちに
「いずれ必ずダキアを潰してやる」と
ひときわ強く誓わせることになったから
そしてそうした軍人のなか
対ゲルマン戦を任せられていたあの「優秀な指揮官」が
とくにダキアにつよい関心を抱いていた
その男の名はトラヤヌス
152:
このトラヤヌスがのちに皇帝になるというのは
ドミティ治世中は誰も予想していなかったにしろ
ダキアへの憎悪が凄まじいことになってきたのは
デケバルスもすぐに察知することになる
一連の戦いで
いちおうはローマ側から「北岸への不介入」などの
デケバルスが欲しかった約束を引きだすことに成功したものの
ローマ側の空気をみるかぎりそれはいつか必ず破られるものだった
「ダキアを諦めさせる」という最大目標はいぜん確立されておらず
むしろローマがダキア絶対殺すマン化してしまったため
逆に遠のく結果になってしまっていた
デケバルス自身この失敗を痛いほどわかっていたはずで
これからのダキアの未来も察し始めただろうけど
すでに選択肢はなくなっていた
153:
ローマ側がマジになってきたというだけじゃなく
ダキア内部も強硬派がかなり台頭していたようで
「死んでザルモクシスに身を捧げるべし」という
頑なな思想がより高まりつつあった
すでに「ダキア存続とひきかえにローマに従属する」などの
妥協案は絶対に許されない空気になっていて
これに反して無理やり方針転換しようものなら
デケバルスは即暗殺されかねない状況だった
こういったことから
和平を手にいれた直後からも
デケバルスはさっそく次の決戦にそなえていくことに
そしてその不穏な平和が数年つづいたのちのAD96の九月
ドミティアヌス暗殺という大事件がおこる
154:
最強皇帝トラヤンが相手とか…
155:
すぐにネルウァが次の皇帝として承認されるものの
ドミティ暗殺に怒っていた親衛隊が暴走したりとか
それを利用した次期帝位をめぐってのダークな政争などで
「もしかしてまた内戦・・・?」と一時はきな臭くなったりと
目まぐるしい経緯をへて翌AD97
ついにダークな駆けひきを制したトラヤヌスが
ネルウァから指名され次期帝位をゲットする
そしてAD98初頭にネルウァが天寿を全うするや
軍からの絶大な支持のもと皇帝に即位した
156:
このトラヤヌスはいろいろな意味で
軍事に突きぬけた久々の最高指導者だった
(もちろん内政面でも優秀)
以前にもティベリウスやウェスパシアヌスといった
軍人肌の皇帝はいたものの
即位後は前線を部下に任せたティベやウェスパとはことなり
トラヤヌスは即位後もかわらず自ら最前線にでて
陣頭指揮をとるような凄まじい現場主義な人
ひらめきタイプか秀才タイプかという性質の違いはあったものの
最高指導者としてはカエサル以来の戦争屋だった
157:
その現場主義っぷりにまつわるエピソードもいくつかあって
たとえばのちのパルティア遠征では
とある攻囲戦のさいに自ら攻撃隊をひきいていき
そのとき城壁から矢(バリスタという説も)で狙いうちされて死にかけたり
また帝都ローマ駐屯のラクチン生活していた親衛隊じゃ
矢玉とびかう最前線を駆けまわるトラヤヌス護衛は困難だったため
地方軍から歴戦の戦闘マシーンを選抜した護衛隊があらたに編成されたり
しかもただ勇猛なだけじゃなく
ドミティ時代にゲルマンをきっちりボコっていたりなど
その能力も確固たるものがあった
そんな筋金入りの戦争屋がローマを
それも国力・軍事力が最高潮な黄金時代ローマを率いることになり
ダキアは運命の時代をむかえることになる
158:
ドミティアヌスって五賢帝の前で今一軽視されがちだけど有能よね
160:
>>158
いろいろと問題もあるけど業績もすごくあるね
親父ウェスパと彼が土台固めをしてくれたからこそ五賢帝期があるといっても良いくらい
159:
即位したトラヤヌスはすぐには帝都ローマに向かわなかった
しばらくライン・ドナウ上流部にとどまり
対ゲルマンの仕上げを継続するんだけども
それに平行してさっそく対ダキアの準備もはじめていた
新たに二個軍団や
けっこうな数の補助部隊も新設したりと兵を増員し
兵装の強化・更新もおこない
大量消費するのをみこして軍需品も増産備蓄させ
兵站網も準備させて大遠征の基盤をかためていく
また対ゲリラ戦や攻囲戦を想定しての
具体的な演習も頻繁におこなわせていった
161:
このようなトラヤヌスの戦争準備は
デケバルスも察知しており
彼のほうもより軍事強化をすすめていった
豊かな鉱物資源と工房フル稼働で武器を生産し
戦士だけじゃなく可能なかぎりの壮健な男たちに訓練をおこなわせ
また城砦網の整備にもより力をいれ
そのなかでもサルミゼゲトゥサを中心としたオラシュチエ防衛網を
いっそう強固なものにしていき
バリスタなどもたくさん作ってそこに配備したり
162:
また周辺へ圧力をかけての
版図拡大も継続的に行われていて
ブレ死で分裂し周辺地を失っていたダキアはここから↓
AD100までには
デュラス・デケバルス期をとおしてここまで回復させていた↓
その勢力は強固なものになっており
ブレビスタ時代みたいにまだローマと密着さえしていなければ
デケバルスたちもその版図を完全回復させ
さらに広げるのも夢ではなかった
でもいまはもうブレビスタの頃とはちがい
ローマと密着していた
この先なにをするにしても
まずはローマをどうにかする必要があった
そしてトラヤヌスも
そんな野心と活力にあふれる勢力を
隣人にしておく気なんて微塵もなかった
163:
AD100ごろには
トラヤヌスはもう意図を隠さなくなっていたようで
よその方面からも大々的に部隊が派遣され
年末までにはドナウ南岸に15万ほどのローマ軍が集結していた
これは「いち方面作戦」の範疇をこえた本気モードであり
動員規模もカエサル?オクタウィアヌスの内乱期以来のものだった
そして翌AD101の初頭
とうとう状況がうごき「トラヤヌスによる第一次ダキア戦争」が始まる
ちなみにこの時の両陣営の主要配置はこんな感じだった↓
このほかにも
ダキア側の細かい拠点をだいぶ削ってるのと同じく
ローマ側もドナウ沿いに書ききれないくらいに小砦が連なっていた
164:
この第一次戦のはじまりは
まずダキア側によるドナウ南岸への小規模な襲撃だった
これは前線のいち部隊がデケバルスの待機命令を無視して先走った
あるいは時間が経つほどローマ側の態勢が整っていくとみて
「さっさとやれ」とデケバルスが挑発させたという二通りの説がある
どちらにせよローマが計画する開始時期はまだちょっと先だったようで
この襲撃の報告をトラヤヌスは政務中の帝都で受け取ることになる
ただし計画より早かったとはいえ
ダキア側から開戦してくれるのは
「向こうが和平を破った」と大義名分を掲げやすくて好都合だった
一気にもりあがる気運にのって
トラヤヌスはすかさず現地入りし
最終準備を急ピッチですすめていく
165:
ローマがダキアを狙う目的は大別して二つ
?反抗的な統一ダキア政権の打倒
 (安全保障問題の解決と報復)
?ダキア地方の征服・併合
 (莫大な鉱物資源と豊かな土地をゲットしたいという物欲)
このAD101からの戦争は後述する侵攻過程から踏まえると
トラヤヌスはまず?の達成のみに集中していたとみていい
(?は従属させたあとにゆっくり進めればいい)
具体的にはデケバルスを討ちとって
後釜に親ローマの傀儡王をすえるというお馴染みのやり方
そのため侵攻作戦の大筋も
首都サルミゼゲトゥサを最終標的としたものになる
166:
かつてVIPでこれ程真面目なスレがあっただろうか
167:
そして四月
トラヤヌスは自ら軍を率いて
ドナウ北岸へ侵攻開始する
全軍15万のうちドナウ線・兵站ルート守備のぶんをひいて
正面戦力はおそらくフスクス・ユリアヌス戦時の倍になる10万ほど
ただしその全てが一気に投じられたわけではなく
それなりの数が予備としてドナウ南岸に留め置かれていた
北岸への侵攻軍はまず
ユリアヌスのときと同じくバナトルート↓をたどっていった
進軍は一定間隔で数万ずつ分かれて行われ
最終的にあのタパエで全軍合流して
トランシルヴァニアへの侵入口をおさえるというプランだった
168:
いっぽうデケバルスもすぐにローマ軍の動きを察知し
すばやく対応する
こちらもやり方は基本的に前とおなじ
まずバナト・ワラキアでの抵抗は軽めにしてローマ軍を誘いこみ
絶好の伏兵ポイントであるタパエの回廊で
ふたたび待ち伏せすることに
ただし
ユリアヌス軍と同様に警戒しているトラヤヌス軍相手では
待ちぶせの罠を発動させる前に
ふたたび伏兵が発見されてしまう可能性が大だった
そこでデケバルスは作戦を変えることにした
169:
待ち伏せに警戒しつつ
タパエにつづく回廊を慎重にすすんでいたローマ先陣軍
彼らは森の中のすこしひらけた野原にでたところで
堂々と布陣しているダキア軍に遭遇することになった
得意な会戦にもちこめる機会を
とうぜんローマ軍が見過ごすはずがなかった
その先陣軍はすぐに待ち伏せ警戒モードから会戦モードに切りかわり
ダキア軍へと正面から攻撃開始する
しかしその布陣していたダキア軍はエサだった
野原で正面会戦がはじまるや
周囲の森に潜んでいたダキア主力が一斉にうってで
ローマ軍の両側面へと襲いかかった
170:
どうせ見つかるのなら
いっそのこと「逃げも隠れもしない正面会戦」という
ローマ軍が本能的に逆らえないエサを堂々ぶらさげて
連中がそれに夢中になって食いついたところを横から突く
というのがデケバルスの作戦だった
その罠は完璧すぎるくらいに決まる
ダキア軍は華麗にローマ軍を挟みうちにして
彼らの勝利の方程式が発動する
と思いきや
171:
ローマ軍は
ここで両側面に伏兵がいることは知らなかったとはいえ
トラヤヌスの指示で
どんな時でも伏兵に対応できるように演習を繰りかえしてきており
ここでもその成果を完璧に発揮する
彼らは両側面を強襲されてもあわてず踏ん張り
士気も統制も乱さずに持ちこたえて戦いつづけた
そうして戦いが長引いてしまったことで
トラヤヌス本隊などのローマ軍後続もぞくぞく合流・参戦してきて
デケバルス側があっというまに窮地に追いやられることに
172:
首都を脅かしたカルタゴやケルトを別格にするならダキア、マケドニア、マルコマンニ、ゲルマンはローマを苦しめた四大敵やね
173:
その時
ザルモクシス神が助けてくれたかのように
天候がとつぜん悪化してすさまじい雷雨になった
デケバルスはこの機会をのがさずに
すかさず全軍に退却を命令
ダキア兵たちも士気崩壊せずに死に物狂いで戦ってくれたため
大損害をだしつつもなんとかオラシュチエへの退却を成功させる
174:
いっぽうトラヤヌス側も優勢だったとはいえ
ダキア側の奮戦でなかなかの損害をだしており
また雷雨の森という環境を進むのも危険とみて深追いはしなかった
そうしてローマ軍は当初の予定通り
進軍停止させてタパエに強固な陣地をつくりはじめた
そして南岸から予備戦力を移動させたり
道路の整備したりと
この年の残りはルートの恒常化に勤しむことにする
175:
もちろんデケバルスがこれを黙ってみているわけがなく
土木工事中のローマ軍を狙ってのゲリラ奇襲などで執拗に妨害していく
また年末には大掛かりなイベントも用意していた
ダキア東部+ロクソラニの軍によって
前回とおなじくドナウ下流へ大規模な攻撃を敢行する
しかも今回はさらに大規模だった
この冬はやや暖かかったようで
凍結したドナウを渡河中に氷が割れて死者続出とか問題はあったものの
全体的には大成功をおさめ
まずロクソラニを主とした1万5千ほどの先陣がモエシア侵入に成功する
でも今回はそこからが違った
176:
ダキア軍はさらに続けてなだれこもうとしたものの
今回のローマ軍は守備にもたっぷり兵が残されていたことにくわえ
前例をふまえて入念な打ち合わせと演習もおこなっていたため
その対応度が尋常じゃなかった
反撃にでたローマ軍によってすぐに侵入路を寸断されたことで
モエシア侵入していたロクソラニ軍は孤立することになる
もう周辺を荒らすどころじゃなくなった彼らはすぐに転じて
北岸へと渡れる場所を探してドナウ河口方面へと逃げるも
アダムクリシ(Adamclis)という場所でついに捕捉され全滅する
またワラキアにいたダキア軍も
ドナウをすばやく下ってきたトラヤヌス隊によって
おもいっきり蹴散らされるハメに
こうして今回の東部攻勢はむざんな失敗に終わる
177:
しかしこれでダキア側の手が尽きたわけではなかった
むしろここからが本番
前回のユリアヌス戦も実をいうと
ダキアにとっては「前哨戦」の段階で早期終結していたようなもので
彼らの「主力要素」の出る幕がなかった
それは彼らが代々かけて整備してきた城砦群
翌AD102
本格的にトランシルヴァニアに切り込みはじめたローマ軍の前に
いよいよこれら城砦群が立ちはだかることになる
178:
トラヤヌスは
侵攻ルートが西のタパエ方面からだけでは不足とみて
タパエからの侵攻指揮は部下にまかせ(おそらくリキニウス・スラ)
彼自身は別ルートを切り開いていくことにする
ワラキアを流れるドナウ支流のオルト川をさかのぼり
南カルパチア山脈のTurnu Rosu Passを抜けて
オラシュチエの東にでるルート
これで西と東からオラシュチエを挟みこんで
効率的に攻められるようになり
また東部・北部からの支援の妨害も望めるようになる
179:
これら二方面からすすむローマ軍
そして城砦網とゲリラ戦のあわせ技でむかえ撃ったダキア軍
その戦いは双方にとってかなり過酷なものになった
180:
ダキア軍は
大規模な戦力を一度にぶつけるんじゃなく
機動重視の小規模戦力に分けて
起伏はげしい地形とふかい森を利用しての
神出鬼没な奇襲戦法をとる
それも連日のように
その一戦一戦は規模が規模だけに
ローマ軍に大損害をあたえることはできないものの
数を重ねれば効果絶大であり
また絶え間ない攻撃は相手の疲労蓄積・士気低下も期待できた
ローマ軍はそれらを退けつつ城砦の攻囲にかかるんだけど
その間もダキアゲリラはあいかわらず周辺からチクチク
そして城砦側も激烈な抵抗をおこない
ローマ軍はより消耗していく
こういった戦いが各地で何度も連発していった
181:
しかしそうした激しい抵抗をうけてもなお
大怪獣ローマの前進は着実だった
城砦を徹底的につぶしゲリラ部隊も退けながらゴリゴリすすみ
トラヤヌス隊はTurnu Rosu Passルートを確保
トランシルヴァニア内にのりこんでダキアを分断
タパエ方面軍も正面の盆地を制圧したことで
夏にはオラシュチエ山地の包囲が完了される
でも文字どおり「山」場はここから
ここからのAD102のオラシュチエ戦こそ
ローマVSダキア史上でもっとも激しいものになった
ダキア側が死に物狂いで抵抗するのは当たり前として
ローマ軍もとある理由でとにかく急いで前進しようとしたから
それはやはり「冬」という問題
こんな凍える山地で
厳冬期でも元気なダキア人と戦うなんて愚の骨頂
ユリアヌスとおなじくトラヤヌスにとっても論外だった
182:
古代の戦いはこういう作戦や戦術次第で状況を変えられたというのが本当に面白い
183:
損害をだしながらも止まらず
すさまじい勢いで攻めてくるローマ軍に
つぎつぎ玉砕していくダキア側の城砦
さすがにこれには
デケバルスも追い詰められていたようで
いつもどおりダキア側から繰りかえされていた講和の打診が
だんだんと「降伏」よりになっていく
いっぽうローマ側は
ダキアからの打診が「降伏」よりになっても
しばらくは無視しつづけていたんだけども
とある理由でその態度も変わっていくことになる
184:
デケバルス側がジリ貧になっていたころ
実はトラヤヌス側もいくつかの重大な問題に直面していた
一つ目は
オラシュチエの城砦網が予想以上に堅固であり
このペースでは冬までにサルミゼゲトゥサを落とすのは困難だということ
二つ目は
最終標的をサルミゼゲトゥサとしたローマ軍の作戦が示すとおり
「心臓部を追いこめばデケバルスは求心力を失い
 統一ダキアは自然に崩壊する」彼らは思っていたけど
それは誤りだったこと
こんな状況になってもさっきの画像のように↓
北部・東部勢はデケバルスに忠実なままで
ぞくぞくと兵を向かわせてきていた
これは
サルミゼゲトゥサ陥落・デケバルス排除「するだけ」では
ダキア人の連帯意識を砕けないということを示していた
185:
ここでトラヤヌスは軌道修正を迫られることになった
とはいえ戦略根幹であるために修正は至難であり
くわえてダキア全土を短時間で武力制圧するとなると
このユリアヌス戦の倍の正面戦力でさえも足りなかった
せまる冬や大動員による財政圧迫もふまえれば
このへんで侵攻中断して仕切りなおすのが一番リスクが小さかった
でも軍や民衆を納得させるには
「中断」ではなく堂々と「勝利」といえる形が必要だった
こうして次第にトラヤヌスも
デケバルスからの「降伏」打診に興味を持つようになっていった
186:
ちなみにデケバルスもこのタイミングで
「これで決まりだ!」というように
はじめて高位の貴族を使者として送りこんでいたりと
彼のほうもトラヤヌス側の事情を把握してたみたい
そして秋ごろ
トラヤヌスはデケバルスとの交渉に応じ
その降伏をついに受けいれる
ちなみにこの時点での侵攻状況は
いまだにオラシュチエの防衛網を完全につぶすには至っておらず
ローマ軍はサルミゼゲトゥサには到達していなかった
187:
降伏による取りきめはだいたい以下のとおり
・ダキアの武装解除
・ドミティアヌス帝期に結ばれた協定は完全反古
・デケバルスのもとダキア王国は存続を許されるものの
 ローマの言葉をきくこと(事実上の従属)
・周辺地域の放棄(バナトおよびワラキア地方はローマが管理し軍が駐屯する)
・城壁をふくむ防衛設備はすべて破壊すること そして再建も禁止
・軍事系の技術者およびローマからの亡命者をひきわたすこと
これらでいちおうは合意に達してひとまず停戦となる
188:
こうしてAD102のうちにトラヤヌスはさっさと南岸に引き上げるけども
ダキア内にしっかりとローマ軍を残していった
タパエに第三軍団フラウィアを
バナトのベルゾビアに第一軍団アディウトリクスを
そのほかにも要衝や整備したルートにそって部隊を多数配置
そして首都サルミゼゲトゥサにも一個大隊ほどを駐屯させたらしい
(この年に破壊されたサルミゼゲトゥサ城砦の資材を再利用して
 ローマ軍が駐屯地を作っていたことが発掘調査で確認されている)
この首都駐屯はデケバルス政権の監視というだけじゃなく
ザルモクシス信仰の聖域すらもローマの影響下であると
宣言する目的もあった
こうしてこのような情勢になる↓
189:
このようにデケバルス率いるダキアは敗北したものの
彼らの闘志はまだ挫けなかった
むしろこの戦いは
「団結さえすればローマの大侵攻にも耐えられるはず」
という自信を抱かせる面もあった
たしかに結果的には負けたとはいえ
東部はほぼ無傷だし
トランシルヴァニア内の後背地や北部もばっちり残っていて
まだまだ余力はあった
そして一連の戦いっぷりにおいても
地の利を生かしてローマ軍をさんざん消耗させたし
要であるオラシュチエの城砦網も最後まで持ちこたえし
これでその防衛戦略が正しく効果もあることが証明された
くわえて圧倒的劣勢の状況でも
統一ダキアの連帯が崩壊しなかったというのも
さらなる自信をあたえて連帯強化の後押しにもなった
190:
とはいえ
此度の戦いが「大敗北」であることは事実
圧倒的劣勢であり滅亡一歩手前な戦いだったこともまた事実だった
よくもわるくも単純な戦士層や民衆は
敗戦をうけてもなお熱狂し
ダキアの最終的な粘り勝ちを疑わなかったけども
より大きな視点をもっていた指導者層では
本気になったローマの絶大すぎる力を目の当たりにしたことで
やはり微妙な空気が漂いだしていた
くわえてデケバルスの戦略で
いつも捨て駒役にされていたバナトとワラキアが
結局ローマの手にわたってしまったのも
各地の指導者に疑念を抱かせる大きな要素だった
191:
AD103のデケバルスの動向はハッキリしていないけども
サルミゼゲトゥサをよく留守にしていたのは確かなようで
おそらく北部や東部をまわって各地指導者にあい
励ましと説得で忠誠の再確保につとめていた
また周辺勢力にも使者をおくって
ダキアを核とした同盟継続の再確認をとっていたものの
やは先の戦況が響いて完璧にはいかなかった
あろうことか同盟勢力のなかで一番有力だったロクソラニが
曖昧な態度をとりはじめる
192:
ロクソラニとダキアは
たしかに対ローマで利害が一致していたとはいえ
彼らの同盟はもともとダキアが圧迫して押しつけたむきがあり
くわえてロクさんはAD101冬のモエシア侵入失敗で
大損害もこうむっていたため
ここで態度が変わってくるのも当然だった
第三者視点である彼らからすれば
ダキアはもう沈みかかっている船でしかなかった
そしておそらく
デケバルスも本音ではそれを自覚していただろうけども
ダキア王たる彼はそれでも船を進めるしかなかった
193:
降伏の際にローマと交わした協定は
デケバルスはあたりまえのように完全無視する
デケバルスは各地をまわって指導者と会うのと平行して
再戦へむけての準備もさっそく進めていたようで
西部ではその準備運動のようにイアジェゲスいじめが再開されたりもする
(これはデケバルスが忠誠再確保もかねて自ら指揮した可能性もある)
そしてAD104にはいるとついに本拠オラシュチエでも
各地での城砦再建や武具類の再生産も急ピッチでやりはじめる
もちろん駐屯するローマ軍の監視なんて無視して
194:
ローマこわい
195:
これらは明らかな挑発行為もかねていたようで
デケバルスはできるだけ早く口火をきろうとしていた
ローマ側の準備が整っていないうちに戦争に引きずりこもうと
これは無謀にも聞こえるけども
それでも準備万端なローマ軍の攻撃をただ待つよりかは
まだいくらかマシだった
こうしたダキアの動きはとうぜん
帝都ローマのトラヤヌスにも逐次報告されていたものの
彼は現地部隊にたいして駐屯地に篭って静観するよう指示を出す
これは山積みなっていた内政業務を優先するためと
デケバルスの行動を挑発だとも見抜いていたから
地の利は圧倒的にダキア側にあり
くわえてダキア内に残している現地兵数もけっして優勢ではなかったため
下手に個別の積極行動にでるとフスクスの二の舞になる可能性があった
次はしっかり準備して全軍で一気にカタをつける
トラヤヌスはそう決めていた
196:
ダキア側が再軍備をすすめていたのと同じく
ローマ側もまた準備をすすめていた
まず終戦すぐのAD103から
ドナウをわたる巨大な橋が建設開始される
(Trajan's Bridge)
これまではローマ軍は船をつなげた一時的な橋を使っていたけども
この新たなものはがっちり橋脚を作っての恒久的なもので
軍事展開の効率化という目的のほかに
「ドナウ北岸もローマの管理下」だという宣言でもあった
また全土でさかんに志願者を募って人員を補充し
いくつかの新たな補助部隊も新編成
経験を踏まえて演習もより入念におこなわせ
対ゲリラ戦・攻囲戦の能力もさらに磨きあげていった
197:
そうしてAD105
おそらく春ごろとうとう大橋が完成する
ローマが着々と準備をすすめていくのを見たデケバルスは
これ以上時間を与えてはならないと判断して
ふたたびダキア側から仕掛けることに
こうして夏のおわりに第二次戦が開幕する
ダキア軍がまず狙ったのは
オラシュチエ一帯に駐屯しているローマ軍だった
各地で基地に奇襲をかけて次々と攻略し
サルミゼゲトゥサにあった目障りなローマ砦も
すぐに落として聖地解放になんなく成功する
ちなみにサルミゼゲトゥサにいたこのローマ隊
彼らについての文献記録は残っていないものの
その状況からみて
聖地を穢されて怒り狂っていたダキア人によって
かなーり悲惨な結末を迎えたのは確実
198:
そうしてデケバルスは
サルミゼゲトゥサ城砦の再建も急がせながら
次にバナト・ワラキアに連なるローマ基地に矛先をむける
この南下攻撃はダキア人の怒りを反映した激烈なものだったようで
ルートぞいに点在するローマ基地を怒涛のいきおいで潰していき
夏の終わりにはドナウまで到達し
ドナウ防衛線にも激しい攻撃を開始する
199:
とはいえ
北岸に残っていたローマ軍を一掃できたわけでもなかった
小規模な基地なら楽に落とすことができたけども
さすがに軍団本隊が篭っているタパエ・ベルゾビアなどの大きな駐屯地は
手出しできるもんじゃなかった
ダキア側も第一次戦のせいで
兵数が三分の二から半分程度にまで減少していたようで
各地に分散展開しつつ強固な軍団駐屯地を落とすような芸当は難しかった
また完成したばかりなローマの大橋の橋頭堡も
おなじく強固な設備と人員を抱える拠点で
ここでもダキア軍は攻めあぐねることになる
そして各地でローマ側も積極反撃にでるようになり
しだいに戦況が逆転していくことに
200:
また
報告をうけとったトラヤヌスの動きもはやかった
すぐに第二次遠征の計画を前倒しして
全土の駐屯地へ部隊をドナウへ送るよう伝令をはなち
自分も帝都ローマを発って秋には現地いり
そしてすぐにドナウ南岸の現地軍をみずから率いて大反撃にでる
これはダキア軍の怒涛攻勢をさらに上回る電撃反攻だったようで
トラヤヌス円柱には皇帝自身が
みずから騎馬隊を率いて先陣を突っ走っていく光景も描かれている
ローマ軍は橋頭堡の包囲網をやぶって解放し
ついで北へ進撃しルートぞいの拠点も次々と奪還
ベルゾビアとタパエの包囲もといて合流し
あっというまにバナト・ワラキアの再制圧を完了させる
201:
デケバルスは事前に
ローマが大反撃に出た場合はすぐに
トランシルヴァニアに退くよう段取りをとっていたらしいものの
あまりにトラヤヌス軍の進撃がくて
退却が間にあわずに捕捉されたり
やけになって真っ向からローマ軍に挑んだりする集団が各地で続出した
こうしてデケバルス自身がひきいる隊は
しっかり兵を温存して退却に成功したものの
全体としては無残な敗退だった
202:
先の戦争のせいですでに兵力事情が苦しかったダキアにとって
この大損失はトドメになった
オラシュチエ一帯には大量の鉱山と工房があるおかげで
武器自体はおおく蓄えていたけども
肝心の戦闘員がもう底をつきかけていた
オラシュチエに戻った時点でのデケバルス直接指揮下の戦士は
少ないものではわずか1万という推計もあるくらい
そこで今まで武器を持ったことすらないような者まで
徹底的にかきあつめることで数だけは増強したけども
それでもドミティ時代や第一次戦時にくらべたら
作戦能力はいまや悲しいレベルだった
いっぽう南のローマ軍側では
全土から続々と部隊が合流しつつあり
規模は前回と同じかそれ以上になる様相
いくら地の利があり
防衛網も強固で後背地も無傷とはいえ
ダキアの状況は絶望的だった
203:
そうして冬を前にいったんローマ軍が落ちついたこの時期
追い詰められたデケバルスは苦しまぎれの策にでる
いくつか同時に進められていたらしくそのうち二つは今日まで伝わってる
一つ目は
一連の戦いのなかで捕虜にしていたローマの将ポンペイウス・ロンギヌスを
交渉のカードにするというもの
このロンギヌスさんは執政官経験もある最上層エリートで
人質にされたらトラヤヌスも何らかの対応をとらざるを得ないほどの高位の人物だった
そんなローマ政界を揺さぶるにうってつけなカードだったんだけども
この策はあっさり失敗する
ロンギヌスさんが国益を優先してさっさと自害しちゃったから
204:
二つ目の策は
脱走・亡命してきた元ローマ兵をつかってのトラヤヌス暗殺作戦
亡命者たちをローマ軍営に紛れこませて仕留めるというもの
でも亡命理由になった罪状がよっぽど悪くて有名だったのか
彼らの顔を知っているものが多くて
すぐに捕らわれて失敗
デケバルスは他にもいろいろとやっていたようだけども
それらも全て失敗したらしい
こうして成果なくAD105の冬が終わり
AD106をむかえたころ
ダキア戦線に集結したローマ軍は20万にたっしていた
205:

その大軍をもってトラヤヌスはいよいよ動きだす
内容はこれまでの経験を全てフィードバックしたものだった
それがどんなもんかは
この侵攻ルートを見るだけでだいたいわかると思う
206:
まずタパエ・Turnu Rosu Passルートの二方面から
オラシュチエを囲いこんでサルミゼゲトゥサを目指す
という点はAD102の時とおなじ
でもご覧のとおり今回はそれだけではなかった
Turnu Rosu Passルート隊は
南カルパチア山脈を突破したあとも
その全てがオラシュチエにいくわけではなく
おおきく三つに分かれるというものだった
ひとつは東カルパチア方面へ
ひとつはオラシュチエ方面へ
ひとつはそのままさらに北へ
またドナウ河口方面からも一軍が出撃し
ロクソラニの土地を突っきってダキア東部を外側から攻撃
そして西でも北上しアプセニ山地の裏側をおさえたり
前回からさらに兵力が増員されていたのは
こうした複数方面の同時侵攻を行うためだった
「首都とデケバルスを討つだけでは足らん?
 だったら全部まとめて潰そう」
という全盛期ローマならではの豪快プラン
207:
この「ローマ史上最大の外征」ともいわれる攻勢を前にして
とうとうダキア人の闘志も挫けはじめてしまう
まずローマ制圧下のワラキア・バナトで
森や山地に篭ってゲリラ戦をつづけていた連中が
あっさり投降しトラヤヌスに許しを乞うてきた
またトランシルヴァニア内でも離反がおこり
有力者が自身の民や戦士団をつれてローマ側へ降伏しにむかったり
あるいは逆に北へにげはじめたり
そしてデケバルスにはそれらを止めるほどの力はもうなかった
さらには最高指導部からも離反者がでたようで
たとえばブリクルというデケバルスの側近だった者もローマ側にくだった
彼はダキア側の重要情報をまるごと明かしたり
デケバルスが埋めた莫大な隠し財宝のありかを教えたりと
ひじょうに協力的だったためローマ側の待遇もかなり良かったらしい
208:
そうした空気は周辺勢力にも波及した
まず曖昧だったロクソラニの態度がこれで決まる
ドナウ河口から出撃したローマ軍がロクソラニの土地にのりこみ
道中にある居住地を片っ端から焼きながら進んでいっても
ロクソ中心派閥たちはそれを黙認する
抵抗したのは居住地を直接襲撃された現地の少数だけだった
モルダヴィアのバスタルナエも
北カルパチアのコストボキもみんな同盟を放棄して支援を打ちきったり
そして彼らはローマ側へ使者をおくって交渉も独自にはじめ
こうしてダキアは完全に孤立する
209:
このようにダキア陣営はどんどん崩壊しだしたものの
みながみな逃げ腰になるわけもなく
追い詰められたことでより頑なになる者もおおぜいいた
とくにオラシュチエでの抵抗は
「ザルモクシスのために死を!」と狂信化した者が多くて激烈なものだった
文字通りの「死に物狂い」な男たちが
城砦にたてこもって最後の一人まで奮闘
なかには城砦に避難していた女子供までが武器を持つこともあったり
そしてそれまでは投降者しだいである程度の酌量もしていたローマ側も
ここからは一切慈悲を見せない苛烈な姿勢に
その執念と圧倒的な戦力差のまえに
ダキア砦は奮戦むなしく玉砕していった
210:
兵どもが夢の跡か
211:
そしてはやくも夏の初めには
オラシュチエの防衛網はほぼ全て破壊され
首都サルミゼゲトゥサが丸裸に
そしてその城壁は
そこへ猛進してきたローマ軍先鋒の強襲にさらされることになる
しかしサルミゼゲトゥサ城砦の防御はかなり強固で
デケバルスの指揮もあって
この最初の強襲はなんとか撃退成功する
でもどれだけ強固な城砦であっても
ここまで死ぬほど攻城戦つづきだったローマ軍側にとっては
とくに問題はなかった
彼らはすぐに策を変更し
サルミゼゲトゥサ周囲をかこんで封鎖する堡塁を築いたり
木を切りだして兵器を増やしたりと堅実な攻囲にとりかかる
またこのあたりでトラヤヌス本隊も到着して
この首都は大軍に包囲されることに
212:
サルミゼゲトゥサはいくら強固で蓄えもあるとはいえ
このままではどう見ても陥落確実だった
唯一の頼みの綱は
北部・東部からの援軍だけだったものの
この時点でそれはもう望めなかった
ローマの別の大軍が北へむかい
ゆく先々を片っ端から破壊しながら縦断
東部でも大攻勢があり次々と敗退・陥落
そんな悲惨な報せが
おそらくローマ軍が首都到達する直前に
デケバルスたちのもとにドッサリ届いていた
援軍なんてもうどこからも来なかった
213:
オーバーキルだろ
214:
そんな絶望のなかでも
サルミゼゲトゥサはなんとか一ヶ月ほど耐える
しかし夏の終わりについに崩壊する
それも内部から
とどめの一押しになったのは
ローマ軍に水道を破壊されたためとも言われている
もう絶望に抗えなくなって
サルミゼゲトゥサ内のダキア人たちは武器をおいてしまった
かといっていまさら投降すれば
地獄のような辱めも確実であったため
高位のものを中心として大勢がザルモクシスの死の恩寵を求めた
つまり自決を選択した
ちなみにデケバルスの息子もおそらくここで自決した
215:
この集団自決へのデケバルスの姿勢については
大きく二つの説があって
デケバルスがそう促したというものと
デケバルス自身は自決に反対したものの
みなの懇願に押しきられて認めるしかなかったという説がある
これをハッキリさせる証拠はないものの
このあとのデケバルスの行動を踏まえて
後者の説がより支持されている
216:
こうしてサルミゼゲトゥサは恐慌のどんぞこへ
聖地もろとも逝こうと思ったのか
誰かが城砦にも火をかけはじめた
これを見た外のローマ軍はビックリ仰天
どうもダキア人が自分で火をかけたらしい
ってのはすぐに判明したものの
ローマ軍のテンションも一気にあがっていたため
(略奪する予定の品が燃えちゃうってのもみんな心配)
トラヤヌスはそのまま一斉攻撃を命令する
217:
何もそこまでやらなくても、と言いたくなるくらいの圧倒的殲滅戦だなあ
218:
とうぜんながら抵抗はほとんどなかった
ローマ軍はやすやすと城壁を突破し
サルミゼゲトゥサに雪崩れこんで
また生きていた者たちを片っ端から虐殺して
あっさり陥落させた
ただしトラヤヌスが一番ほしかったデケバルスの首級だけは
あげることはできなかった
彼はこの騒動にまぎれて
忠実な戦士たちと一緒に脱出していたから
219:
そしてデケバルスは周辺の残党とも合流し抵抗を継続する
ときにはローマ軍の野営地へはげしい奇襲をかけたりもした
しかし全体戦況はやはり絶望的だった
デケバルスの奮戦もむなしく
追いたてられてどんどん手勢が減っていき
ここまでついてきた者たちの中からも
王を見捨てて逃げたり勝手に自害したりする者が出はじめたり
それでも彼はあきらめようとせず
東部山地の残党と合流しようとするものの
いまやその東部に向かうことすら困難になっていた
すでにトランシルヴァニア中にローマ軍がいた
現地人しか知りえないような秘密の山道でさえもローマ兵がうろついていた
さらに捕虜を尋問して得た情報で
デケバルスの追跡網も狭められつつあった
220:
そして秋の半ばごろ
南カルパチア山脈の中部にて
デケバルスはとうとう地面に座りこんだ
彼のもとにのこっていた者はわずか数人
周囲あちこちからローマ騎兵の蹄の音が迫ってきており
木々の向こうにはその姿も見えていた
もう逃げ場はなく
かといって生け捕りにされたら確実に
帝都ローマに連行され凱旋式で見せしめにされる
それはデケバルス個人にとっても
ダキア人全体にとっても究極の辱めであり
ならば選択肢は一つしかなかった
彼はここで自刃した
221:
デケバルスの首はローマ騎兵によって回収され
トラヤヌスらの検分ののち帝都ローマへ
そしてカピトリヌス丘の階段から投げ落とされるという
「大罪人」に対する辱めの形で晒されることになった
ダキアではその後も各地で
デケバルスに忠実な者たちによる抵抗がつづいたものの
状況が変わることはなかった
抵抗者はことごとく狩られるか
あるいは北や東の山地深くに追いやられていった
そして秋の終わりには
ローマ軍はトランシルヴァニア全域制圧を完了し
トラヤヌスはダキア征服完了と属州化を宣言
こうして統一ダキア王国は滅亡する
222:
ダキア人の首都サルミゼゲトゥサは
徹底的に破壊された
これは単に報復や略奪のためというだけじゃなく
ここがザルモクシス信仰の聖地であり
統一ダキアの精神的な柱でもあったから
ローマ側としては
今後の属州統治のためにも残しておくわけにはいかなかった
ローマ軍によってすこし離れたところに
別の「サルミゼゲトゥサ市」が新しく作られはじめたいっぽう
この「古いほう」の跡地にはどでかい駐屯地が築かれて
これでもかとローマの威光を上書きされたのち
数年後には軍も撤収して完全放棄され
そのまま無人の地に
そして徐々に忘れ去られていき
約1900年後に正式に再発見されるまで
なかば伝説として森のなかで眠り続けることになる
223:
この第二次戦でローマが得たダキア人奴隷は
5万とも10万とも言われている
(Criton of Heracleaによると50万とされているけどこれは明らかに誇大
 これは写本のさいに桁をミスったという説もある)
さらに死者や北・東の山奥に逃げたりしたものも含めると
全体で15万から20万ほどのダキア人がこの地から姿を消した
そのなかでもとくに重点的に「狩り」の対象になったのは
デケバルス政権の基盤であったオラシュチエ一帯で
ここのダキア中央集団とも言える有力層は完全一掃される
そしてその生じた空白には
ローマ圏からの大規模入植が行われ
こうして政治・経済・文化の中心部がまるごと取り替えられたことで
ダキアは急にローマ化していくことになる
224:
ただし
統一ダキア王国は完全消滅したけども
ダキア人そのものが消えたわけではなかった
15万?20万いなくなって
ローマ圏からの入植者と入れ替わったとはいえ
ダキアのもとの人口は最大100万
政治・経済・文化の主導権は失ったものの
人口はいぜんダキア人が多数だった
そのうえローマによって属州化されたのは
バナト・トランシルヴァニア・ワラキアのみであり
北と東のカルパチア山脈帯やその周縁部は正式には組みこまれなかった
(薄赤の地域はAD117にハドリアヌス帝によって放棄)
そのため東部のダキア人の一派カルピ族や
北の兄弟集団コストボキはそのまま存続する
225:
くわえてそれらの地にて
トランシルヴァニアから逃れた者たちによって
カルピやコストボキとはまた別の
「亡命ダキア」ともいえる集団も形成される
その勢力地はダキア属州の国境線に張りつくように広がっていたらしく
ディオは彼らを「Daci limitanei」と記している
(limitaneiは「国境の」「辺境の」的なニュアンス)
ちなみに現代では「Free Dacians」(自由ダキア人)と呼ばれている
この「自由ダキア人」たちは
ローマによるダキア本土支配を認めず
このあとも執拗に攻撃を繰りかえすことになる
226:
ローマの奴だきゃあ!
227:
また属州内部でもダキア人は大勢残っていた
たとえば特に「狩り」がはげしかったオラシュチエからアプロン一帯にかけてでさえ
2007年までに確認されている大きめな集落跡59箇所のうち
23箇所が属州化後もおおくのダキア人が暮らし続けていたことが判明している
さらにちいさな農村部になるとその傾向はより強まり
ダキア人のライフスタイルがそのまんま続いていく
(これらはダキア式の陶器や建築がローマ式のものと長期間混在していたり
 ダキア式墓所の副葬品にハドリアヌス以降の硬貨などが含まれていることで判別可能)
(I.Oltean, Vlad.Georgescu, Ion Grumeza, I.Aurel Popらの研究)
228:
またほかの被征服民と同じように
属州民となったダキア人たちもローマ軍へ志願入隊し
ダキア補助部隊も編成されブリタニアやエジプトなどに派遣されていた
「Dacorum」を冠した隊は
これまでに少なくとも六つ確認されており
ダキア人名がならぶアウレリウス帝時代の隊内名簿や
セウェルス帝時代の退役証明書も見つかってたり
229:
そして「ダキア人」としてのアイデンティティも
それなりに受け継がれていたことを仄めかすものも発見されている
たとえば
ブリタニア派遣されたあるダキア補助部隊の碑には
ダキア人の伝統武器であるFalxあるいはSicaが
隊のシンボルとして彫刻されていた
(Cohors I Aelia Dacorum 配備はAD125?400?
 最初期の隊員はデケバルス戦士の息子世代)
これは彼らがダキア戦士の子孫であることを自覚し
軍人としてそれを宣言するほどに誇りにしていたことを示唆している
こんな感じでローマ化しつつも
彼らはダキア人としての部分も抱きつづけていた
230:
こうして国は滅ぼうとも
ダキア人の営みはローマ世界の中で
あるいはその外縁部で
それぞれ新環境に適応しながらつづいていくことになる
ダキア戦争のような彼らが主役の大事件はもうなかったけども
それでも脇役ながらちょくちょくと歴史の表舞台にでてくる
AD170 マルコマンニ戦争中には
ヴァンダル族といっしょに
自由ダキア・カルピ・コストボキがダキア属州に侵入して
ローマ軍と激しい戦いをくりひろげた
AD214にはカルピが単独で攻撃
つづいてその三世紀のあいだ
今度はゴート族の侵攻などに加勢し
マクシミヌス・トラクス帝などと干戈をまじえたり
AD271にはついにアウレリアヌス帝によってダキア属州が放棄され
ゲルマン人たちにくっついてという形ではあるものの
自由ダキア人の一部は夢にみた故地に帰還することもできた
(属州内でローマ化していた側のダキア系にとっては災難でしかなかっただろうけど)
231:
しかしこのローマのダキア放棄という念願の出来事が
ダキア人にとって最後の輝きだった
その後も内紛や民族移動などの度重なる騒乱によって
仇敵ローマがどんどん凋落していったんだけども
ダキア人も同じくその時代の荒波に飲まれることになる
ゲルマンにつづいてフンやアヴァールやスラヴなどなど
次々とやってくる新興勢力にもみくちゃにされ
その闇鍋のなかに彼らは埋もれていった
こうして「ダキア人」の物語は溶けるようにして終わる
232:
ただしその子孫たちの物語は
新章に入る形でつづいていった
古くから民族移動と文明の交差点であるこの地で
かつて闇鍋からダキア人が形成されていったように
今度はゆっくりと「ルーマニア人」が形成されていくことになる
おわり
233:
ちゃんと知りたい人のために
主に参考にしたのだけでもちょろっとかいておく
まず文献資料もとはヘロドトス ストラボン 
スエトニウス タキトゥス カシウス・ディオ ヨルダネスら
おなじみの面々の書物
現代研究ので軸になっているのは
Daicoviciu親子 I.Glodariu A.Diaconescu I.Olteanあたりので
特にちょくちょく名前が出ていたI.Oltean氏の
まとめ本「Dacia: Landscape, Colonization and Romanization」はすごくよかった
あとダキア戦争ほかローマ戦史まわりはStephen Dando Collinsの
「Legion of Rome: The Definitive History of Every Imperial Roman Legion」も参考に
(あるていど英語OKでローマ軍がかなり好きな人はコレけっこうオススメ)
236:
>>233
参考文献ありがたい
234:
民族移動に翻弄されながら強大な王国を築いたダキア人の知られざる物語
235:
また日本語文献では
残念ながらダキアメインのものはないけども
周辺を固めるため「ケルト事典」や
「ハドリアヌス ローマの栄光と衰退」などもつまんでる
あとなんだかんだで
塩野さんの「ローマ人の物語」にもけっこう助けられた
本編もさることながら巻末にある参考文献目録が宝の山
そして英版ウィキペディア記事も
内容もさることながら出典リストがすんげえ宝の山でホクホクだった
237:
現代ルーマニアの主要民族のヴラフ人ってどこかでダキア人と繋がってるのかな
238:
>>237
文化的にはやっぱり断絶状態だけども
血統的にはしっかり繋がってるとおもう
245:
>>238
ルーマニア語はイタリア語系だよ
246:
>>245
そう
属州化後も人口のうえではダキア人が多数派だったけども
ローマ圏からの入植者たちが政治・経済・文化の中心勢力だったことで
多数派のダキア人たちもだんだんラテン語系話者になっていって
(いわゆるローマ化)
血統上の子孫はおおぜい残りつつもダキア語自体は中世初期あたりで死語になる
241:
こんなマイナー蛮族史の長丁場
みんなもほんとお疲れさまでしたした
239:
おつかれさまでした
244:
たいへん乙
こんな時間まで全部読んじまった
24

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