【日本近代史】爺さん婆さんから聞いた幕末明治大正昭和の話back

【日本近代史】爺さん婆さんから聞いた幕末明治大正昭和の話


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大叔父から「満州でシナ人の首を日本刀でばっさばっさと斬ってたんだぞ」と
自慢されたことがある。子供の頃なんであまり詳細は覚えていないのと
その話を大叔父が始めると他の大人がたしなめてたんでどういう状況だった
のかは分からない
特高だった祖父から父が聞いた祖父の同僚の話
経済学を学んでる学生がどうもアカらしい、とその学生の下宿に検挙に
向かった同僚は、本棚にマルサスの本があるのを見つけ
「マルクス読んでる貴様はやっぱりアカだろう!」と
その学生を引っ張ってきて取り調べ(という名の拷問)をしたそうだ
学生が「経済やってるなら誰でもマルサスは読む」といくら説明しても
まったく取り合わなかったとか
残念ながら自分が生まれる前に祖父は亡くなったので他に特高の話は知らん
32:
うちの爺さんの終戦時は鹿児島の基地で特攻隊としてスタンバイ中
玉音放送聞いて、飛行停止命令が出たけど、命令無視して発進して
桜島に飛び込んだり、海に突っ込んだりするのが相次いだが、
隊長は止めなかったってさ。止めなかった隊長は後に激しく批判されたけど、
あの時の状況じゃ無理もなかった、後の価値観で判断するのは無理だ、
大勢の仲間が死んでいったのに、おめおめと生き残れるか、という気持で、
俺も自決したかった、と言ってた。
爺さんがようやく前向きな気持になって生きていく覚悟がついて
大学に復学したのは昭和21年4月だから、半年以上も悶々としてた事になる
35:
婆さんが初めて爺さんの顔を生で見たのは、結婚式の当日。
爺さん京城で教師していたからね。見合いも何もなし。京城に帰るのが新婚旅行。
でも当時田舎ではそれが普通で、親が決めた人と結婚するものだと思っていた。
覚悟はしていたが、結婚生活は嫌で嫌で仕方なかった、とこぼしていた。
爺さんは真面目で優しい人だったけど、見た目が悪かったから
新妻から嫌がられるのも仕方ない。婆ちゃんはすらっとした美人だったし。
36:
うちの祖母は、祭の人混みを歩いていたら、祖父に見初められて、知らないうちに結婚が決まってたそうな。
若い頃は『○○小町』と云われたほど地元では美人で有名だったらしい。
私が生まれた時は、祖父は他所に女を囲い、家に来るのは盆と正月くらい。
二つの家庭を持ってたらしい。
小さい頃は、どの家もじいちゃんは他所に住んでるもんだと思ってた。
37:
うちの爺さんは戦争末期に呉の海軍工厰にいて、原爆のピカとキノコ雲を見て
慌てて広島に駆けつけて、原爆投下当日の地獄絵を見ている。
だけど余りの悲惨さに「とても言葉で表現出来ない」と言ってたなあ。
あれだけ凄まじい被害だと、現実問題として救援に行っても手の付けようもないしね。
関東だから、被爆手帳持っている人間は珍しくて「原爆投下直後の話を聞かせてくれ」と
各種団体から講演の誘いがあったけど「あの状況は言葉で表せない」と全部断ってた。
投下時に広島市内にいて幸運にも助かった方は、状況を話せるみたいだけど
爺さんのように近くから駆けつけて、客観的に被爆現場を見てしまった人は
その後の人生で、ずっと負い目を感じて生きていたみたいです。
本人のせいじゃないけど、感情の整理はなかなかつかないでしょうね。
94:
>>37
おお ウチのじいちゃんも広島の呉にいたんだよ。
しかも同じ海軍。ひょっとしたら会ってたかもね。
ちなみに敵軍(アメリカ)の無線を傍聴翻訳がメインの職務だったらしい
41:
爺ちゃんも戦争が終わった時は、大日本帝国の終焉という感慨より
「今夜から空襲がなくなる」「戦地の兄が生きて帰って来る」
「家族が皆無事だった」みたいな安堵感の方が大きかったと言ってたなあ。
8月15日の晩は灯火管制がなくなって、どこの家も煌煌と明かりを点けた
久々の明るい夜で、戦争が終わった喜びを実感したと言ってた。
44:
祖母は小学校時代飛行場で特攻隊の出撃を見送ったことがあるそうだ
笑顔だったり強ばってたり常人の普通の表情と大して変わらないんだけど
もうこの世の者じゃないような、なんとも言えない顔つきをしてたそうだ
告別式の棺桶の中の死人のほほえみみたいだったとも・・・・
彼らがこの世の地面と永遠に縁が切れる離陸の瞬間は、未だに夢に見るらしい
あと、飛行機のペンキが剥げかけてたりマダラだったりするのが可哀想で
せめて死に際なんだから真っさらな綺麗な飛行機で行かせてあげればいいのにと言ってた
45:
うちの爺さんは大正9年生まれ仙台に住んでたけど
長男だったため赤紙は最初来なかったッと言ってた。
その後長男でも徴兵されると聞いてずっと仮病をしてたって笑いながら言っていた。
ただ戦争中は爆弾がいつ落ちてくるか解らないけ怖さがあったらしいけど、
どこにいても爆弾が落ちてきたら終わりと半分開き直っていたらしい。
戦争が終わり仙台の町もひどいことになっていたらしいけど
みんなで集まって「地ならしに行くぞ」って大人数で道を固めに歩いてたらしい。
もう戦争が終わった喜びでみんな再興に必死になっていたと言っていた。
結構虚言癖がある爺さんでもう亡くなったから真偽はわからないんだけど
その話を聞いていた婆さんがいつも涙目になっていたので本当に辛い過去なんだと
子供心に思った、その後は仕事を始めてが忙しくなってからは県外に住むようになって
あんまり話が出来なかった、もっと話していればよかったと悔やまれる・・。
77:
父方の祖父
「俺の周りで戦争に行きたくて行ったヤツなんぞ誰もいねえ。逆らうと上官にぶん殴られるから行っただけだ。」
母方の祖父
「戦争なんて嫌だからわざと脚に銃弾受けてわざと化膿させて帰ってきた」
79:
>>77
いろんな考えがあるんだからね
81:
>>79
同意。
戦争楽しかったって話こそ、聞きたいんだけどな。
そういうひとが、口を噤んでいるのが、残念。
84:
うちの爺ちゃんの部隊は戦争中台湾に駐屯。台湾は暖かいし、日本語通じるし
戦闘は全くないし、食料がとてお豊富で内地じゃ貴重品のバナナが食べ放題で、
女性は綺麗で(内地の女性はみんなモンペ姿で化粧も全くしていなかったけど、
南国はスカート姿でオシャレもしていて、まぶしいほど綺麗だったらしい)、
住民はみんな朗らかで、こんないいところはないから、戦争終わったら
台湾に移住するつもりだったらしい。でも、その願いはかなわなかった。
87:
埼玉の農家だから、東京から「食べ物と交換して下さい」と大勢来たけど
都会の人は玄関前に土下座して、高級な着物をわずかの豆やイモと交換して可哀相で
見てられなくて、爺ちゃんの両親も困ってたと言っていた。
可哀相だからと気前よく交換すると、翌日から沢山来てさらに困るし、交換してあげないと相手が困る。
それで村から1kmほど離れた神社で交換していたら、闇屋まで来るようになって臨時交換所は閉鎖。
仕方なく、毎回場所を変えて交換するようにしたらしい。
相手の足元を見て都会の人に威張り腐って無茶な要求する農家もあって嫌だったって。
集まった着物や帯や時計は、昭和30年頃質屋さんに引き取ってもらったけど二束三文だったと言ってた。
時間も経ってるし、仕方ない。
99:
海水浴をしていたら関東大震災が発生して
あたり一面の海水が一瞬にして消えてしまったらしい
近くにいた近所のおじいさんに津波がくるから早く山へ行きなさいって言われて
大焦りで避難したみたい
凄い勢いで潮が引いたというのになぜが津波は来なかったいう・・・
104:
祖父は明治40年の生まれだが、小学校出て商家に丁稚奉公。
盆や年末の小僧さんの仕事に遠隔地のお得意さんの売掛金の回収がある。
田舎だから金を持っての峠越えには山賊が出ると言っていた。当時は姿形で
商家の小僧さんだと一目で分かるしね。山賊から自分の身と売掛金を守る方法として、
郵便局の局員さんと一緒に峠を越えると言っていた。
現金書留があるから郵便局員も山賊に襲わる可能性があるので、
郵便局員は特別に拳銃を携帯を許されていて、発砲訓練や護身訓練も受けていて
局員と一緒なら安全だったので、局員の移動時間を覚えておいて後ろをついて行ったそうだ。
局員さんの制服姿や拳銃が頼もしくて憧れだったそうで、
よく楽しそうに峠越えの話をしてくれたなあ。
場所にもよるが、大正期一杯ぐらいまで山岳地では山賊出たみたいだよ。
「ああ野麦峠」にも中山七里の山賊の話が出ている。あれは明治末頃の話だな。
106:
>>104
へ?
自分が無知なだけなんだけど、普通に勉強になったわ
124:
うちのばあさんは大正末期うまれ。
女学校時代は、陸上部で走り幅跳びの選手だった。
戯曲、小説などを濫読したり、
学芸会?では、肉弾三勇士に扮して、そのあまりに勇猛果敢な
演じ方で、ファンレターがきたとかこなかったとか・・・。
卒業後は、大学教授の家に行儀見習いにだされ、
後に祖父と結婚。
祖父は、甲種合格後ある歩兵連隊の旗護兵として出征
徐州会戦→昭和15年除隊→昭和17年応集→バリ→ビルマ→サイゴンにて
終戦。
極貧の出で、小学校時代は一日2食。昼は水を飲んでがまんした。
軍隊は、衣食住がそろっていて天国だと思ったそうだ。
ばあさんとは、当時教官を務めていた青年学校でしりあった。
ばあさんの親戚は猛反対したそうだが、料亭で婚礼をとりおこなった。
ビルマでは軍曹だったが、上官が戦死するので急遽大尉の階級章を
授けられて食料確保などにあたり、辻参謀が部隊に現れたとき、
重機関銃の弾が6発しかなかったのをみて驚いたそうだ。
マラリアにかかったとき、部下が英軍の食糧倉庫を襲撃してコンデンス
ミルクを奪い、それをもらって飲んだら回復した。
たいめん鉄道を汽車で移動中爆撃にあって列車が横転し、多数の仲間が
死傷した。自分も下敷きになり足を負傷したが、奇跡的に軽症だった。
部下が戦死した際、小指をきりとり ひもにとおして運び、焼いて骨として
空き缶にいれて日本まで持ち帰った。
サイゴンから日本へ帰国するとき、航空母艦が引き上げ船で、
仲間とキャッチボールなどしてすごした。
祖父の慰問袋を空けたら、除隊証明書、92式重機関銃の操典、
支那事変従軍徽章、しらみだらけの「軍帽につけるひさし」なんかが
はいっていた(ほかにもいろいろ入っていた)。
360:
他スレに書いた文だが、こちらのスレに合う内容なので貼っときます。
130 名前:
>>128
スレ違いになるが、俺の父が旧満州在住時に同じ旧制中学で同級の奴が、
実に配属将校にゴマすりべったりで、その配属将校がゲートルを解いて靴を脱ぐ時になると
毎度信長に対する秀吉の如く、甲斐甲斐しくゲートルを解いて靴を脱がせてやってたそうだ。
そんな感じの奴が時も過ぎ、そいつは某国営放送の編集委員となり、平成元年のN○Kスペシャルでの
ホストとなった憲法特集番組で「当事の日本の上層部がもっと勇気を持ってファシズムなどに対するべきだった」
てなことをのたまっていた。日々の暮らしでそういうことを垣間見ると本当に大いに笑えるね。
361:
>>360
おもろいな。
マイクを向けられると、相手が求めている答えを口にしてしまうと言う性質もあるから、
一概には言えんけど、「戦争体験証言」も疑ってかからんとな。
151:
地球温暖化と言われてるが
ばあちゃんに聞いたら昔だって夏はやっぱ暑かったって
まだ子供の頃 
ある時 ばあちゃんの親父が夜中に突然「暑い!」つって
家の壁に水をぶっかけまくった、って言ってた。
時代は大将デモクラシー 
154:
>>151
こういう、なんでもない話もいいな。
大正だと、都市部では水道がすでに出来てたな。
ってことは、ゴムホース? ゴムホースってあったんだろうか?
家屋に水かけられるなら、三軒長屋ではないな。
あぁ、平屋か。瓦が熱もったら夜は暑つかろうに…。
こんな風に次々連想出来るのがいいんだよね。
もっとあったら、聞きたいです。
183:
俺の婆ちゃん、今は福岡に住んでるんだけど元々は東京生まれ。
小学生の頃、毎朝靖国神社で掃除させられてた。
ある日いつものように掃除してると1人の軍人さんがやってきて、
「偉いね。感心感心」って頭をなでられたんだと。
その軍人さん、東条英機だったらしい。
185:
>>183
東条英機とかすごいな
軍人って優しい人もいたんだな
186:
東條英機は、民家のゴミ入れ(昔は各家の道に面した所に必ず設置してた)を
覗いて回っては、贅沢していないか等の民情視察をしてたという人だから、
良く言えば庶民的で腰の軽い人、悪く言えば秘密警察体質だったんだろうな。
187:
戦争中、じいさんは某半島にある軍事港に召集された。
そこで訓練を受けて東南アジアに出征する予定。
訓練中寝ずの番があり、ほとんどの兵隊はこっくりしてしまい上官に叱られた。
がじいさんはこっくりしてもタイミングよく上官が見回りにくる前に起きたので、
「お前はなかなかできる奴だな」と誉められて可愛がってもらったらしい。
いざ港に船がきた頃じいさんは病気になって家に帰らされた。
いわく「俺は要領がいいんだ」
じいさんが乗るはずだった船は出港してすぐに敵の攻撃を受けて沈没した。
こういう話を警察官だった娘婿に酒の席でよく話していた。
そういえば押入れに銃があったのだが、あれはどこへいったのだろう?
じいさんの弟は帝大生だったので、士官になってグアムに出征した。
現地の人にとてもよくしてあげたそうで、帰国時海に落としてしまった腕時計を
現地の人が一生懸命探して見つけてくれたそうだ。
昭和40年代、この大叔父の大学生だった長男が行方不明になった。
長男の下宿をじいさんが訪ねたら、身の回りの品も、貴重品(健康保険証や
通帳の類も)そのままで、住人は連絡が取れず行方も分からないまま。
当時北の国へ連れていかれることが多く、優秀な学生であった彼も
連れていかれたのだろうと語っていた。
ばあさんの体験談では、濃尾地震の折は出かけていて、ものすごい揺れがあって
自宅のほうを観たら土煙がもうもうとあがってなんだろうと思ったら、
自分の家の土塀が崩れていたんだと。
伊勢湾台風の時は、家がガタガタと揺れて皆で蔵に避難したが、ひいじいさんは
「誰かがおらんと家が壊れる」
と、1人で家に残ってたそうだ。
ひいじいさんがじいさんに買ってあげたグランドセイコーの腕時計は
自分が大事に持ってますが、いくらくらいの価値があるんだろう。
209:
もう亡くなって10年以上経つ爺さんから聞いた、
幼少時(戦前)自宅から出火し、兄弟10人中5人が焼死した。
当事爺さんの親父は、関西の某有名私大の学長選に出馬していた。
爺さんの親父は、対立候補側の仕業であると確信し、
警察に訴えたと言う。
だが、警察が対立候補に買収されており(あくまでも爺さんの主張)事件の
捜査も進まず、身の危険を感じた爺さんの親父は学長選を辞退したという。
戦後、放火犯とその依頼者が打ち合わせをしていたとの目撃証言が
新聞に載り、ようやく事実が日の目を見たという。
子供の頃、その墓参りに行ったが五児の悲劇を詠った俳句が彫られた
石碑が建てられていた。
223:
聞いた話ではありませんが、このようなものが見つかりました
これは私の曽祖父が書いたもので(なので苗字を一時伏せさせて頂きました)親戚が大事に保管していたものです
この文章で始まり、其々婦人会や御家族の方々の写真が綴られていました
本当は縦書きだったのですか、綺麗に揃えられなかったので横書きのままですいません
昭和14年で2周年という事なので日中戦争ですかね?
  御挨拶
聖戰早クモニ周年ヲ迎ヘ此ノ間本村
出身ノ将兵諸君ニオカレテハ空ニ陸
ニ海ニ輝カシク叙勲ヲ樹テラレ吾ガ
郷土ノ武威ヲ發揮サレツヽアル事ハ
吾等村民ノ等シク感謝スル処デアリ
マス
銃後ノ村民ニオキマシテハ諸君後顧
ノ御心配ナキヤウ御家族ヘノ手傅慰
問其ノ他出来ル限リノ御世話ヲ致シ
ツヽアリマス 
硝煙弾雨ノ下アラユル困苦缺乏ニ耐
エ皇國ノ為ニ働イテヰラレル諸君ヲ
偲ビマス時何トカシテ御慰労申シ度
イト思ヒマスケレドモ届キ兼ネル事
ノミニテ相済マナイ次第デアリマス
ガ今回諸君ノ御家族其ノ他村ノ種々
相ヲ撮影シ諸君ニ御贈リスルコトニ
致シマシタ就キマシテハ少シデモ御
慰メノ役ヲ果スコトガ出来マスレバ
此ノ上モナイ幸ト存ジマス
最後ニ諸君ノ武運長久ト層一層ノ御
奮闘ヲ御祈リ致シマス
昭和十四年九月十三日 福田村銃後奉公會長
  上益城郡 福田村長 ●田 茂
福田村出身将兵殿
写真は、笑顔だったり、真面目そうだったり色んな表情をしていましたが
悲しそうな顔をしている方はほとんどいらっしゃいませんでした
出来れば写真もあげたかったのですが、スキャナーが無いもので
私の祖父も軍人として戦争へ行き多くの友人を亡くしたと言っていました
晩年は痴呆もあり、亡くなった友人の名前を叫んだりしていたものです
戦争当時の話はあまり聞けませんでしたが、しかし
その少ない機会の中で、楽しそうに悲しそうに誇らしそうに語る祖父の顔を今でも覚えております
このような古いだけの文言ですが、皆様の当時の事を考える上での一助となれば幸いでございます
224:
>>223
貴重なものをありがとう!もう一度一生懸命読み返してみます。
226:
もうすぐ90になる婆さんの母親がお歯黒をしていたらしい。
塗り直しているのを覗き込もうとしたら、子どもは見たらいかんと追い払われたとか。
228:
お歯黒は禁止令が出たが、ひっそりとお歯黒をしていた人も居たと聞く
貴重だ
386:
>>228
私の曾祖母は
鉄漿をするのを子供の頃の母に見せてあげた事があったそうですよ
239:
うちの田舎は岩国市で
広島に原爆が落ちた時
祖母は茸雲を見たらしい
家が農家だったので
戦争も末期になる頃には
着物などを抱えた人が
芋と交換して欲しいと
訪ねて来ることも
あったそうだ。
276:
>>239
上海から長崎の閃光が見えたそうだ
240:
私の祖父では無く、年上の知り合いの祖父の話なんだが・・・。
その人は子供の頃、上野の外れに住んでいたそうで、ある日、「急いで逃げるんだよ」と母親に急かされながら家から逃げ出した。
雨上がりの蒸し暑い中を、「今日は何でアブの羽音が五月蝿いんだろう?」と母親に手を引かれながら思ったそうです。
大人になって、その日は上野戦争が有った日で、アブの羽音だと思っていたのは小銃弾の飛翔音だったと判ってぞっとしたと同時に、流れ弾の中をずっと手を引いていてくれた母親に感謝したそうです。
256:
うちの曾祖父は日露戦争に出征して第二軍として遼陽や奉天で戦っている。
あの世代は「俺達が体を張って日本を世界の一等国にしたんだ」という意識が強くて
第二次大戦中も「東條は国賊だ」と人前で平気で言い放ったり、
自由主義者や無政府主義者を家に匿ったりしてたから、警察署に呼び出されたが
「友人を家に泊めて何が悪い」と逆に署長に食って掛かったりしてたから
家の周囲には特高がいつもウロついていた。在郷軍人会長じゃなかったら逮捕されていた。
終戦後は、戦中に在郷軍人会長してたのでパージにあって、雨後のタケノコみたいに現れた
アカに集中攻撃を浴びて「せっかく戦争が終わったのに、特高の嫌がらせより
アカの嫌がらせの方が悪質だ」と嘆いていたそうです。
朝鮮戦争が始まると、今度はアカの連中がパージ食らって、曾爺さん達が復活して、
昭和30年頃まで町中が落ち着かなかったらしい。
257:
祖母の話。
遠くの空が急に明るくなり、それはそれはキレイだったらしい。「花火みたい」と近所の人達みなで見学。
何かが分からず、近所の退役軍人のおじさんに聞いても「分からない…」とのこと。
だんだんその花火が近づいてきて…
三重県津市が初めて空襲された日の思い出話。
260:
俺の曾じいちゃんのそのまたオトッツァンは奇兵隊(到人隊)の兵士で戊辰戦争経験者(卒だけど)。五稜郭まで転戦した後上京して御親兵の下士官になった。
でもどういう経緯かいつの間にか熊本鎮台に移って台湾出兵を経験。日清戦争で戦死。農民が兵士になるというのは士族には我慢ならなかったらしく随分ボコッたらしい。(言い伝え)
これが陰湿な陸軍の営内イジメのはじまり
262:
うちの爺さんは戦争中、中国方面へ行ってたらしく、現地の料理を楽しんでたみたいだ。
特に鶏の唐揚げ?みたいなのが美味かったらしく、
ケンタッキーで、店員さんに、
「何でアメリカが元祖面してんだ!!」
って食ってかかってた。
んで食い終わると、骨で雑炊作れだの何だのと言い出すから恥ずかしくてよく放置して先に帰ってたなぁ。
305:
もう20年近く前に亡くなってしまった祖父が、私の母にだけ話してくれた話。
祖父は長崎に住んでいた。既に結婚していて妻も子供も居たけれど、みんな原爆
で家も無くなり家族も死んでしまったそうだ。この辺はうろ覚えなんだけど、祖父は
奇跡的に原爆投下時に、頑丈な建物の中にいたのか、無事だった。三菱の関連施設
だったかな?
家族が心配になり、自宅のあった場所へ急いで向かったが、家は跡形もなく
妻がいつも見につけていたロザリオだけが見つかったって。
その数年後に私の祖母(現在94歳)と再婚した。
319:
俺らの親の世代は、新撰組関係者に直接、当時の様子とか訊けたんだよな。
で、俺らは、二次大戦、戦後復興の話なんかがまだ訊けるんだけど、
べらべらしゃべってくれるのは、思想的に偏った、戦争大嫌いな人たちの声ばかり
その人や話自体に罪はないけど、はっきり言って食傷気味。
321:
>>319
食傷気味って、おまえの娯楽の為に話してくれてるわけじゃねーよ。
人としての質が低いな。
332:
>>321
戦前のいわゆるリア充であれば、当然、戦争には反対してなかったはず。
戦後の食糧難で、生活力がある人なら、非合法の道も恐れず突き進んだはず。
そういった人のほとんどが口を噤んでる。常識を兼ね備えた人なら、なおのこと黙ってる。
じゃあ、いまべらべらしゃべってくれるのは、いったい当時、なにやってたひとなの?って話。
積極的な証言者の全部とは言わないけど、そのうちのかなりが、
日教組や共産党のプロパガンダに感化されて(しかも、自分では影響を受けたとは思っていない)人たちだと思うよ。
334:
うちのじいちゃんは戦争に積極的に加担してたな。だから戦時国債を
大量に買ってたし、田舎に残してた田んぼを戦後全部農地解放で奪われた。
貧乏人には同情するが、農地解放で得た土地を70年代に高値でうちの
おやじに買い戻させて、そのあとの80年代バブル期にまたぞろ買い戻した
貧乏人の小作のセガレどもにはいい目をみたよな!とおもってるw
335:
>>334
じいちゃんも、小作人たちもしぶとくて、いいなw
340:
爺さんはスマトラ島に行ってコックさんやってたって。
卵だけはたくさんあるからいつも茶碗蒸しばかりで兵隊さんうんざりしてたとか
ウミガメを敵兵の上陸だと勘違いして大騒ぎしたとか。
348:
親戚のオッサンは南京にいたらしいが、当時は、皇族が、こられるといって、部屋の掃除ばかりさせられたそうだ
銃声はあまりなく、殺人なんかみたことないそうだ
後、南下し、ビルマあたりで終戦
当時の傷が生々しかった。
384:
婆ちゃんの戦後の話
北陸の糞田舎金沢に進駐軍の白人がやって来た。
ある日キャンプを覗いて見ると白人が質素な物を食っていたので、ひい婆ちゃんに報告。
するとひい婆ちゃんが「可哀相だから、これを持って行きなさい。」と言って鍋一杯の治部煮を渡して持って行った。
味見をした白人からは感謝され、大量のコーンビーフやココアなどをお返しにもらって帰宅した。
肝心の白人が食っていた質素な物はフライドポテトでした。
403:
明治生まれの祖父母が子供の頃には
狐憑きや狐に化かされた人が
普通に身の回りに沢山いたらしい
祖父も奉公を始めた頃に川岸で列を作って横切る狐火を
毎朝見ていたそうだ
勿論それが何だったのかは不明だ
404:
東京出身の祖母は幼い頃には使用人に囲まれて不自由なく暮らしてたそうだが
戦争終了時には身寄りも使用人もいなくなってしまった。
農家に着物を持って、食料と交換しに行っても、足元を見られてまともに食料を分けてもらえなかったらしい。
なので、祖母は今でも田舎者や農家が大嫌いw
相手が田舎出身だったり農家出身だったりするとあからさまに嫌そうな顔をしてた。失礼極まりない。
高級な着物を献上しても僅かな野菜としか交換してくれない農家が、熱を出した子供のおでこに
きゅうりの薄切りを乗せて熱を覚まさせているのを見て、惨めな思いをしたと言ってた。
405:
戦中は身内に戦死者が出ても悲しんだ素振りを見せてはいけない、
というのが常識みたいになっているが、
我が家に伝わる話だと、祖父の弟が戦死した時、人が大勢いる前
でその報を聞いた曽祖父は人目も憚らず号泣したと言っていた。
423:
私が幼い頃に住んでいた祖父母の家には
天井に焼夷弾が落ちた跡があった
義理の伯父の父母の墓には鉄の門扉が付いていたのだが
それも戦時中に没収された
父は終戦時に国民学校の生徒で玉音放送を聴いた記憶もはっきりしてるのだが
「ああ終わったんだな」と思っただけで
悔しいとかそういう感情は不思議と起こらなかったと言っている
431:
戦時中の話。
俺のばあちゃんの弟の話。
弟さんは負傷者とか載せてる大型機のパイロットだったんだって。
そうゆう機体には目印が有って、攻撃してはいけないんだけど、米軍機に撃墜されて戦死。
正月にばあちゃんが泣きながら話してくれた。
432:
同じく戦時中、書き忘れてたけど第二次世界大戦ね
ひいばあちゃんは金持ちで、でかい寺に住んでた
寺って大きいから、空襲に来た米軍機が故障で投弾できなかった爆弾を捨てていく時、標的にされるんだって。
だから防空壕作ったらしいんだけど、近所の人たちも作ってたのは知ってたから、いざ空襲の時作った本人たちが入れなかったそうな。
それでもひぃばあちゃんが、自分たちは良いからせめて子供は入れてくださいってお願いしていれさせて貰ったらしい。
ひいばあちゃんとひいじいちゃんは寺でラジオ聞いてたって。
433:
空襲が酷くなって、ばあちゃんが疎開した時の話
場所は忘れたけど、海の直ぐ近くに疎開した
海が近くなので当然海に地元民と泳ぎに行く、当然ばあちゃんは水着を着るけど地元民は男女かまわず全裸
ぼんぼんで育ったばあちゃんからしたら衝撃だった、地元民に「おめえ何服きて海に入ってるんだ」と言われて水着を脱がされたと笑いながら話してくれたよ
最初は恥ずかしかったらしいけど直ぐに慣れて遊んだって。
予断だけど疎開してた場所に戻って、直ぐ又をおばさんに洗ってもらったらしい。(砂が入って痛かった)
ってか昔で小中高大を通うって凄い事なんだな。しかも女で。
444:
玉音放送の日の話を…
当時ラジオは高価で、金持ちが周りの人達に放送を聞かせてあげてたらしい。
玉音放送の日、ひいばあちゃんの家(寺)に人々が集まってくる
放送が進むにつれて、すすり泣くと言うか、鼻をすする音と共に声が聞こえてくる
その内容が、「負けるはずが無い」だとか「ふざけるな」だとかそんなのじゃなくて実際は
「やっぱりな」だとか「惨めだ」とか「悔しい」といった諦めとかそう言った感じのだったらしい。
中には竹やり五本くらい背負い、有志を集ってロシアに行こうとする人もいたらしい(漁師の方々)
そこでひぃじいちゃんが演説してまとめ戦後の混乱とかを収めていったと聞いた。
今でもその事に恩を感じてる人がたくさんいて毎年年賀状きます。
471:
こんなスレあったんだね。
婆ちゃんの弟が五・一五事件で犬養毅のとこに乗り込んでった内の一人。
今ためしに検索してみたらwikiにも名前思いっきり出てる。びびった。
父は出所後の婆ちゃんの弟(父からしたら叔父か)に会ったことがあると言ってた。
どんな人だったのか今のうちに聞いておこう。
事件の是非はともかく暗殺なんてしちゃってるわけだから周囲にも言えないし
やっと吐き出せたわ。
婆ちゃんや爺ちゃんも獄中当選やら大学作ったりやら相当アグレッシブだったらしい。
自分が生まれる前に亡くなってるから直接話を聞けないのがすごい残念。
誰だったか忘れたけど教科書に出てくるような当時の有名人と知り合いだったとかで
「○○のおじちゃん」とか言ってたらしい。
父は話し始めるとクドいし長いしで面倒だけどもうちょい聞いておこう。
472:
五一五の人たちって、結構その後も政治活動をしてたりするよね。
凄く興味があるなあ?。どなただろう。
474:
>>472
父に改めて聞いてみたけど、政治活動は殆どしてなかったんじゃないかと言ってた
名前は出せなくてすまんが、姉である婆ちゃんは戦後に平和運動してたらしいよ
婆ちゃんと結婚した爺ちゃんは典型的な左派活動家だけどそれで姉弟仲が悪くなることもなかったみたいだ
(五・一五が右派的な事件でなかったらすまん)
475:
>>474
興味本位のレスにわざわざありがとう。
戦前に政治活動に関わった人の家族から
憲兵に追われて大変だったみたいな話を聞いてたから
興味があったんだ。
476:
 今生きていれば百歳以上になる曾祖母が娘時代、山梨県の甲府近郊に
住んでいて、関東大震災に遭遇した。
 祖母の村の被害は大きくなく、その日の夕方、
村人総出で、壊れた家屋の片づけや怪我人の手当などで大わらわだった時、
東の空を見たら赤く染まっている。
「甲府が火事だ、避難しろ」となったが、
一向に火の手がこっちに来ない。
 みんなで見つめていると、空が暗くなるにつれてものすごい紅蓮の炎が
天高く上がるのが見えてきた、と。
「甲府の火事ではなさそうだ」「八王子だろうか」と言いあううち、
「あれは東京のど真ん中の火事だそうだ」という報がどこからともなく伝わって
きて、一同、びっくり仰天したそうだ。
 甲府の郊外の村から、浅草や本所の炎が見えるとは思わなかったと曾祖母の弁。
突風にあおられて炎が非常に高くなったせいだろう。
478:
>>476
小笠原諸島から、東京大空襲の火災は見えたそうだからな。
甲府だったら、見えたんじゃないか?
本所被服廠跡の火災旋風は、史上最大級だったろうし。
501:
思い出したことがあったので連投失礼。
祖父は食料が万全とはいえなかった戦地ではヘビやカエルを食べたという。
ヘビはしらないが、カエルは実際に食用の大蛙をさばくのを見た。
何十年ぶりだろうに、いい手際で、普通に鳥をさばくみたいな感じだった。
あと、年末年始には地元で宝船というのうを作って、それを代表して東京の市場に
売りにいったそうな。今で言えば数十万から百万しないくらいで売れたんだとな。
(1個でなのか複数でなのかは不明)
そんで売り上げから自分の取り分を使って、東京見物を兼ねて一晩過ごしてから帰ってきたという。
これは戦後しばらくまで続いていたらしい。戦中はさすがに無いと思う。
505:
曽祖父は大正時代から横浜で手広く会社をやっていた。
関東大震災で被災した。
曾祖母の話を母から聞いたが、ものすごいゆれで、
工場の工員たちが畳をもって竹やぶに置いてくれ、そこに避難した。
竹やぶは根が張っているので、地割れが起こらないらしい。
服に火がついた人が川に飛び込んだら、川には重油などの油が流れ込んでいて、
そのまま焼け死んだ人も多かった。
曽祖父は「製氷工場」も経営していたので、怪我人のために氷を横浜市に提供して
ずいぶん感謝されたらしい。
ちなみに祖母は「お女中」付きで育てられたと聞いた。
そのひ孫の俺は出世どころかwww
516:
老親の祖父母とも長命で、随分色々な話を聞きました
他愛も無い話から、驚くような話まで様々ありました
ボツボツ投稿させていただきます
*日曜の銀座・デパート
昭和初期の銀座は日曜ともなると大層な人出で、喫茶室2階の窓際に座っていると
皆の下駄で歩く音が「ゴ????」と、地鳴りのような響きだったと・・・
デパートには「下足番」が居て、下駄にはカバーを被せてくれた
三越・高島屋は「高級」松屋・松坂屋は「中級」白木屋は「普通」だったと
白木屋は東京駅から「送迎バス」を出していたとも・・・
各デパートの呉服太物売り場には、所謂「二枚目店員」がずらりと並んでいたと・・・
でも「役者のような美男」は、お得意周りだけで成績が上がり、店頭には出ては
いなかったとも・・・当時の貧困家庭で「眉目秀麗な男子」が生まれると、呉服屋の
番頭さんに・・・と言うのが褒め言葉だったとも・・・
★以下エロ話
お得意周りの「美男呉服店員」と、得意先の夫人・令嬢間の醜聞は度々耳にしたと・・・
それも「○○様ご療養で○○温泉にご逗留らしい・・・」といったように伝わる事が
多かったとも・・・出産の為に身を隠した・・・と理解したようです
中には「大奥様・ご隠居様」といった方々の醜聞もあったと・・・
無駄話で失礼
562:
母方の祖父
遊び人で釣りばかりして婆ちゃんが働いて家計支えていた。
爺さんが誰かから「これからは洗濯屋が儲かる」って聞いて爺ちゃんが洗濯屋開業したけど、本人は釣りばかりしてたんで
結局婆ちゃんが職人の手配だとか全部やったらしい。昭和15年くらい。それまで婆ちゃん看護婦だったのに。
戦争行きたくねえからってんで、友達の八百屋かなんかのセガレと刑務所の看守になるために試験を受けたらしい。
試験の時に隣り合わせになった二人はそれぞれ問題見せ合っていわゆるカンニングしてたらしい。
答案全く同じだったけど、人手不足だったのか二人とも受かった。
看守になって夜の見回りに行って、囚人の格子の前でタバコ吸ってすぐに落としてタバコ吸わせてやったりしてたんだって。
囚人が出所した後に慕って家に訪ねてきたら、泊まっていけって言ったはいいけど、爺さんは夜釣りに出かけて、婆ちゃんと元囚人で二人で寝たんだって。
空襲の時は婆ちゃんが自転車乗って赤ん坊の俺の母をカゴに入れて、次女を後ろに乗せて、長女を走らせて逃げたんだって。爺さんは釣り行ってた。
酒飲みすぎて脳溢血で昭和26年に爺さんは死んだ。友人と称する人が沢山来て、釣竿を全部持っていかれたって言ってた。なかなかいい人生だったと思う。
563:
>>562
爺さん徹底しすぎだろw
578:
俺の親父は日中戦争の始まった年に九州で生まれたが、嘉永三年に一家が興ったと言っていたな。
幕末の頃の貧しい家計や、侍が威張っていたことなんかも聞かされたらしい。
明治になって時計など輸入小物の商売を始めて比較的裕福になったそうだが、昭和に入り不況と戦争で再び没落。
太平洋戦争では父親(祖父)と兄一人を亡くした。
戦後親父は農業で生計を立てる母(祖母)や兄弟を手伝いながら苦学して大学まで通い、三男だったこともあってか、
卒業すると田舎を捨てて東京に出てきてしまったw
こうしてみると、我が父の事ながら波乱に富んだ人生を歩んできたのだなと、密かに尊敬してしまう。
638:
たまたま戸籍見て知ったんだが、俺の高祖母は1854年に生まれて1933年まで生きてる。
爺さんが1921年生まれだから、幕末の話とか聞いたことあるのかと期待して聞いてみたら、「ワシの婆さんこんな名前か。初めて聞いたわ。」だって。
爺さんの兄弟もみんな知らなかった。
里を離れた分家だと孫でもこの程度の繋がりなのが普通…?
それとも何か繋がりを持たない理由があったと考えるべき?
639:
>>638
家庭内での呼び名が「じいさん」「ばあさん」「おまえ」だったりすれば
名前で聞くことがないからなあ。
今みたいにお役所からいちいちいろんな葉書がきたり、
病院の待合で呼ばれるとかもないだろうし。
まして分家だとそんなの顕著では?
あと家族も多いから、気にする人しない人が分かれてそう。
640:
存在する知らなかったそう。本家が四国で爺さんは本州の分家で生まれたから、関わりが薄いのは間違い無さそう。
しかし遠方とは言え、生まれた子どもを母親に一度も会わせないなんてことあり得るだろうか…?
641:
幕末は微妙なところだけど、江戸時代なら丁稚とかで
外にでたっきりの人とかもいそうな気はするけどね。
今と違って移動するだけでも大変だし、よけいなコストがかかるし。
まあ、それが一般的とはいえないけど。
653:
多くの人が語り聞いているとは思うが、
昔は食料事情が今とは格段に違ったらしい。
ひい祖父さんいわく、肉と言えば鶏肉を意味し、高級の部類に入るのはもちろんの事、かなりの美味として扱われてたんだと…。
正月や慶事に鶏を絞めて皆で食べたそうな。
だから今みたいに数百円で鶏のタタキが売ってたり、ファミレスなんかの安いランチに鶏が出てくると、
いつも「へ??。」
と語りだす。
貧しい経験をしてきてるから、ブロイラーみたいな大量飼育を否定しない。
文句があるなら自分で育てろ!!
ってさ…。
そういう観点からすると俺達庶民って大量生産の恩恵受けてるんだよね…。
なのにそれを否定して…。
だけど祖父さんアメリカ嫌いだからケンタッキー見ると、国賊とか喚きながら乗り込むから最高wwwwwwwwwwwwwww
667:
うちのひいばあちゃんがそのお母さんから聞いた、戊辰戦争の話。
幕府側の藩だった地方で、やってきた官軍(西軍と言ってた)と出会ってしまって
やばい、斬られる!とおもったら話しかけてきた
「なんで幕府側についたんだ?」
「だって、幕府軍が先に村にきたから…」
彼女の間の抜けた回答に
「そうか…」と言って官軍はなにもなったかのように行ってしまったらしい。
今、当時の資料なんかをみると、官軍は案外地元民にひどい仕打ちをしてたなんて記録がでてくるから
なにもなくてよかったと思うよ…
ひいひいばあちゃんいなかったら、今頃自分存在してないからなぁ
698:
爺さん 日本郵船のボーイ
婆さん 婦人公論の記者
知り合ったきっかけは、婆さんが「浮かぶホテル氷川丸」という特集の取材でした。
お互いの第一印象は最悪で、爺さんはお客様が使う高価なグラスを勝手に触ったりマナーのなっていない食い方
をする下品な女。
婆さんはポマードを塗って口やかましいきざな男でした。
760:
うちの爺さんは硫黄島の生き残り
兵隊当時の写真をいろいろ見せてくれたけどみんな戦死だと言う
最後に200人ぐらいの集合写真を見せてくれたが生き残りは赤丸で囲んでた
爺さん含めて3人しかいなかったよ
769:
昭和二年生まれの祖父は、戦争に行きたくないばかりに徴兵猶予があった
医学部へ行こうとしたが叶わず、結局薬学へ行った。戦後若い男が少ない時代
軍需工場で儲けた成金の家へ養子に来た。そこへ生まれたのが自分の母親だ
ところが昭和40年頃、母が高校から帰宅すると父親の姿が無く、家の誰に
尋ねても教えてくれず、祖母からは「二度と父のことは口にするな」と厳しく
言い渡されたらしい
結局大叔父が、事の次第を母に話したのは祖母の死後で、母は随分ショックを
受けたようで、幼かった自分にも、母の情緒不安定がひしひしと伝わってきた
若い頃から遊びが激しかった祖父が、赤線廃止後に梅毒に罹患し、それが祖母にも
感染していたのが原因だった。感染後数年が経ており、抗生物質での治療にも
限界があったようだ。祖母は母の将来を考え、梅毒持ちの夫を田舎に隔離し、家出を
装ったらしい。祖父は田舎で晴耕雨読に明け暮れ、村外へもめったに出なかったらしい
、祖母の死後は大叔父が経済的支援を続けたらしいが、祖父がいつ死んだか
墓が何処か、大叔父は最後まで話さなかったから、誰にも判らない
戸籍を調べたら失踪宣告(死亡)扱いになっていた
778:
大叔母との他愛ない会話から・・・
戦前の関東の学生は、卒業旅行には関西旅行が定番だったらしい
三都 大阪・京都・奈良が主なコースだったと
神戸は?と尋ねたら、昭和40年代頃までは「神戸は怖い街」という
イメージがあって、旅行先にはなり得なかったと・・・
かつては日本女性を「香港へ売り飛ばす」などという品の無い冗談が
あったらしく、神戸がその「本拠地」などと冗談が重ねられていたらしい
神戸が観光の対象となってきたのは「大阪万博の頃」かららしい
各組織団体の努力が結実したものと思う
785:
医師だった大叔父は、家が決めた女性とは結婚せず、妹の同級生だった
深川・木場の娘さんを嫁にもらった。自分は祖父とは縁が薄く、大叔父夫婦には
可愛がられ、子供の頃は大叔母の実家へも遊びに連れて行ってもらった
夏祭りに行くと若い衆と銭湯に行く事があり、彼らの刺青が珍しく
隅々まで観察し、小学校の夏休みの研究課題にしようとさえした
(母に止められ、実現はしなかった)
何人か目立たないところに「小さな金魚」を彫っている人間がいた
不思議でならなかったが、成長してからやっと「煮ても焼いても食えない男」
という意味だと知らされた
昭和30年代初頭「マンボズボン」が流行った頃大叔母が「不思議だ
流行は繰り返すんだわ」と言った。後で聞けば大叔母が子供の頃、木場の
若い衆達は「股引=ももひき」を穿いていたが、足に張り付くように
仕立てさせたそうで、脱ぎ穿きにも苦労するほど窮屈なものだったらしい
特に「廓」へ行く際は床屋と銭湯へ行き、体の隅々まで洗い。切りたての
晒木綿の下帯を身につけ、店の法被・細身の股引・小さめの雪駄に小さめの
紺足袋で行くのが決まりのスタイルだったらしい。木場の若い衆は女郎衆に
大層モテたようで、廓の人達に渡す祝儀等は、女郎衆が挙って「身銭を切って」
くれたらしい
そんな人たちも、大半は兵士として戦場で亡くなったらしい。自分が逢った
「若い衆」達も、事故で亡くなったり女性に刺されたり、借金が重なり
蒸発したりと、誰一人残ってはいない
お盆に「迎える人も居ない・帰る家も無い」霊は、どうされるのだろうか・・・
787:
>>785
今のような家が個別で供養をするのは江戸か明治か、比較的新しい風習。
昔だと合同葬や無縁仏のような共同墓地とかも多かったしさほど気にされてないだろ。
まして、転生の概念もあるからいつまでも霊を弔ったところで肝心の当人は
すでにそこにはいないかもしれないしな。
このスレの範囲であろう、江戸末期から昭和中期くらいであれば
ほんとに単純な無縁仏や弔いさえない不明者だろうね。
820:
大叔母との話
昭和の中頃までは、大きな銭湯には必ず「三助」がいたと。落語などにも
登場するし、職業としては認識していたが・・・
大叔母の実家の木場では、若い衆の数も多く「内風呂」は家族のみで
家と店の使用人は、銭湯に行かせていたと。それが息抜きにもなり
買い食いなどしなければ、多少帰宅が遅くなっても文句は言わなかったそうだ
注)買い食いは、店での食事が不足していると噂が立つのを嫌った事と
 衛生面の用心だったそうだ
銭湯で三助を頼むのは、既婚者(男女共)が主だったらしいが、女湯の三助は
女性に人気が出るように「清潔感のある役者のような男」を配置する事が多かった
らしい。そんな三助が「不恰好を仕出かす」と、直ぐ様「お暇=解雇」になったと
不恰好とは「男性の下半身の変化」を指す言葉だったそうだ。それを嫌って、ゴム製の
下着を身に着けた三助も居たらしい
お客に欲情するなど、とんでもない事という論法らしい
大叔母の家の近くに「良い男」と評判の三助が居たそうで、大層人気があって
贔屓にする人も多かったらしい。不始末を仕出かす事も無くしばらくは真面目に
勤めていたらしいが、ある時大叔母の店の若い衆と、亀戸の宿で心中を図ったと
同性愛であったらしいが、外聞を憚って、それぞれの田舎にこっそり帰したらしい
女性に刺されたり博打に狂ったり、色々な人間が居たらしいが、流石に同性間の
心中は「トップシークレット」だったらしい
大叔母曰く昔は「役者のような良い男」は呉服屋へ奉公に出すのが一般的だったと
それが戦後は「デパートの外商・外車のセールスマン」に替わったと言っている
824:
大叔母から電話があり、他愛無い会話の中で・・・
最近の着付けには、色々お道具が必要なようで
見た目はスッキリしているけれど、着心地は悪そうだという話から・・・
実は昔も「お尻に布団を巻いて」着物を着る人は存在していたと・・・
着物は臀部が大きくないと「後姿が美しくない」とかで、襦袢の下に
「尻を強調するような」空豆型の小さな布団を巻いていたと・・・
昭和10年代初頭には、ごく普通の事=常識的工夫 だったらしい
「ほら、あたくし腰下が長くて、スラッとした洋装が似合う体形だから・・・」だと
背が低い人用には「足袋の中=踵部分に入れるゴム製のヒール」などもあったと
「あたくしには必要なかったけど・・・」だと。その頃はまだ子供だったはずが
女の見栄張りには驚くばかりだ
825:
大叔母が尋常小学校低学年の頃だから、昭和の初めの事らしい
ただこれは大叔母の勘違い?ではないかと思うが・・・
祖父母(私からすれば、義理の「高祖父母」)に連れられ、堀切へ菖蒲を観に行った帰途
馬鹿でかい茅葺の家に立ち寄ったらしい。お子様の居られないお宅だったらしく
歓談の邪魔にならないように、中年の女性が遊び相手となってくれたと。その際大叔母が
尿意を催し、お手洗いを拝借したそうだ。畳の廊下が続き、手水鉢がある土間が付随した
二畳程の小部屋の奥に「香を焚いた畳敷きの個室」が二つあり、大小用に分かれていたいたらしい
用を済ませ小部屋に戻ると、壁に木製の突起が二個並んでいたと
何かと思って見上げていたら中年女性が「あれは、お刀掛けですよ」と教えてくれたと
「昔、お侍さんが来られた際に、あそこへお刀を掛けてから、入られたんですよ」と教えてくれたと
チャンバラが大好きだった大叔母としては、刀・お侍の言葉だけで興奮してしまい、近くで観たいと
中年女性に抱っこをせがんだそうだ。中年女性が疲れたと言うまで、その突起を弄繰り回していたと
自宅に帰ってから、自分の木刀(???)を壺に入れるのが嫌になり、雑用をしてくれていた御爺さんに
「刀掛けを作って!!!」とねだったそうだ。そんな願いが叶う訳も無く、しばらくは泣いたり拗ねたり
部屋に閉じ籠ってみたりしたらしい
大叔母に「香を焚いた畳敷きの個室」に驚くのではないか?と尋ねたが、それには特に驚かなかったと・・・
後で祖父母に「上の厠=かみのかわや を使わせていただいた」と聞かされたらしい
注)関東大震災以後の事で、廃刀令以前の茅葺家屋が無事に残っていたとは考え難い
 倒壊した家屋と同様に「建て替えた」というのも奇妙に思う
 多分これは大叔母の「勘違い」だと思う
 
826:
この「馬鹿でかい茅葺の家」には、もう一つ思い出があるらしい
大叔母が中年女性と「かくれんぼ」をして遊んでいたら、来客用の座敷近くの和室に「ど?ん」と大きな箪笥が
二棹並んでいたらしい。それがピカピカに磨き上げられており、とても良い香りがするので、大叔母はその前で
動けなくなってしまったらしい。直ぐに中年女性に見つかり「これは下され箪笥ですよ」と教えられたと
それは「進物をいただいた際、その額に応じた答礼の品=引き出物を準備しておく箪笥」だと教えられたと
それでも香りが気になり、その場を動かない大叔母に、中年女性は箪笥の下の段を開けてくれたらしい
そこには反物や白生地が沢山入っていたらしい。しかし大叔母の身長では二段目は覗けず、またもや抱っこを要求し
中を覗かせてもらったらしい。そこには、包装された小さな箱が沢山入っていて、良い香りの「元」だという事が解ったらしい
中年女性が引き出しから「箱入りの千代紙」を出して、大叔母にくれたと。それにも良い香りが移っており
大叔母は喜び勇んで祖父母の元に駆け戻り、その余りの無作法を祖父母に叱られたらしい
その後しばらく大叔母は「刀掛けと、下され箪笥のあるお家へ行きたい」と駄々を捏ねたらしいが
その後に行った覚えは無いと言っている
注)御隠居所のようなお宅をお訪ねしたようで、来客が多いとも考え難く、これも大叔母の「勘違い
 混同」のように思う。
877:
これは有名な話だが・・・
戦時中「交易営団」が買い上げた貴金属・ダイヤ・ルビーなどは
ほとんど活用されず、日銀の地下に保管されたままになっていた
もく星号墜落事故の際に、ダイヤの保管量が減っていることが判明したらしいが・・・
毎週どこかのデパートで、買い上げ会があった。金時計は当然の事ながら
金ペン先まで買い上げたと
949:
祖母さんいわく、弾丸所や弾丸塾といった砲術塾が戦前はあった。
砲術を通して基礎教育や女の仕事を教えていた。
そこに通っていたせいか、祖母さんは遠距離戦が得意で、短気を起こして銃剣突撃してくる祖父さんをいつも撃退していた。
祖母さんいわく、
「いかに突撃させるかが勝負の肝」
だそうです。
978:
祖父の話。といっても父からの又聞きですが。
日中戦争の前後?パールハーバー前と思われる期間、埼玉北部にて。
当時、農耕馬や牛も戸籍のように家の情報としての届出か記録があったようで、
そういった家畜の有無などが役所に知れていたそうな。
そして、実戦用か訓練用かはわからないけれど、騎馬兵用にと馬の徴用があったという。
まだ余裕がある頃だったためか、徴用といってもただ取り上げるのではなく、買い上げの形。
一度東松山まで馬を集められることになり、そこまで該当の自宅の馬に乗っていき、
馬の代金をもらうと今度は下馬をして代々木まで連れていったそうな。
なんでも、東松山までは自分の家の馬だということなので好きに扱えたが
そこをもって官用の馬となったことで、勝手に乗馬してはならないということだったらしい。
それで徒歩で馬を連れていき、代々木まで付いたあとには鉄道を使って、高崎線で帰ってきた。
東松山では、今生の別れとなる馬のために馬頭観音にお参りをしたらしい。
この馬も満州なりに送られたのかな、と考えてみたりもしたところで
wikipediaのウマの項目をみたら、日中戦争にまつわる話が掲載されていました。
981:
今は亡き、明治生まれのひいひい爺ちゃんの話。
豪農の長男だった爺ちゃんは農家も手伝わず
戊辰戦争で有名な城下にある遊郭までいそいそと通い、
山一つ分のお金を遊郭につぎ込んでいたらしい。
と、まぁここまでは…
ふ?ん。爺ちゃんはお盛んだったんだね…
で、終わっていたんだけど、最近叔父さんから
実は、じい様が通った遊郭の楼主の子孫と実は知り合いで
遊郭には地下牢があり、病気などでお客を取れなくなった
女郎さんたちをそこに閉じ込めて亡くなるまで置いておき
その後、お寺に置いてきていた…
とか、その他書きたくないような遊郭の事情を
楼主の子孫話と聞かされて、ちょっぴり気分が悪くなった。
実は、その遊郭の建物…現存してるんだよね…。
歴女の私は叔父の話を聞く前に見に行ってしまったよ…。
662:
うちの爺さんは長男で乙二だったせいか赤紙来るのが割と遅かった。
昭和19年に赤紙が来ると家業を整理して、町内会の盛大な見送りによって、
めでたく出征して、師団に出頭した。
同期が約200人いたが身体検査したらなんと爺さんは「不合格」と言われてしまう。
爺さんはチビでド近眼だったからなあ、、足手まといと思われたんでしょうね。
爺さん含め4人の不合格者がいたそうで、こういうのを即日帰郷要員と呼ぶらしい。
盛大に見送られて故郷を出てきた手前、営門を出てもどうしたらいいか判らず
4人で師団前の旅館に泊まってぼう然としていたが、5日で金が尽きたので
仕方なく故郷に帰った。当時としてはかなり不名誉な事だったそうで、
戦争が終わるまで、恥ずかしくて知り合いに会うのが辛かった。
家業は人に譲っていたから故郷に帰っても仕事はないし、たちまち困窮したが、
不名誉な即日帰郷なので、就職活動もうまくいかず本当に困ったと言ってました。
爺さんが入隊する予定だった部隊はフィリピンで全滅したから、
即日帰郷じゃなかったら爺さんは多分戦死して、父親も俺も生まれてないんだけど
爺さんは「俺も米軍と戦いたかった」と死ぬまで言っていました。
663:
>>662
当事はどれだけ不名誉だろうと、どれだけ困窮しようと
いまそうしてあなたが生きているほどの暮らしにもっていけ、
そしてあなたにそれを伝えられたことは十分な成果だね。
生きる、命をつむぐ、ってのは生きていてこそだ。
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