【画像あり】関ヶ原の戦いの布陣wwwwwwwwwwwwwback

【画像あり】関ヶ原の戦いの布陣wwwwwwwwwwwww


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1:
裏切り予測して鶴翼の翼任せる無能
なぜなのか
関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)は、安土桃山時代の慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)に、美濃国不破郡関ヶ原[4](岐阜県不破郡関ケ原町)を主戦場として行われた野戦。
関ヶ原における決戦を中心に日本の全国各地で戦闘が行われ、関ヶ原の合戦とも呼ばれる。
主戦場となった関ヶ原古戦場跡は国指定の史跡となっている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/関ヶ原の戦い
鶴翼の陣(かくよくのじん)とは陣形のひとつ。自軍の部隊を、敵に対峙して左右に長く広げた隊形に配置する陣形である。単に横一線に並ぶのではなく、左右が敵方向にせりだした形をとるため、ちょうど鶴が翼を広げた様な三日月形に見えることから、この名がついた。古来より会戦に用いられ、防御に非常に適した陣形である。
主たる戦術的意図は、前進してくる敵軍を翼包囲することにある。兵力差が大きく開いている時や、籠城戦等を考慮した時のために、なるべく兵の損失を出さない為に考えられた策。突撃してきた敵軍に対して集中攻撃を加え自軍の被害を抑えることができる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/鶴翼の陣
2:
勝手に居座ったらしい
ソースはなんJ
3:
>>2
居座ったとこに近づいていったんやで
4:
一応裏切りそうな奴らまとめて大谷の対応させようとしてるやん
5:
>>4
15000対2000で抑えになるはずもなく
7:
>>5
大谷はたしか5000くらいやろ
6:
※画像クリックで拡大
49:
>>6
うらぎりなけりゃ絶対勝てるやん
167:
>>6
味方側にいたときでもなんか一歩ひいたところにいるし
ほんと小早川と拓哉てにてるな
315:
>>6
これ毛利が後ろから家康ぶち殺せてたんちゃうん
317:
>>315
調略済みやから実質東軍みたいなもんや
関ヶ原の戦い時、毛利氏の運営は秀元及び恵瓊と吉川広家によって担われていた。毛利氏は西軍に属したが、輝元は西軍の総大将として大坂城に入っていたので、実際に関ヶ原へ赴いたのはこの3人であった。
広家と毛利家家老の福原広俊は西軍の勝利を危ぶみ、東軍と密かに内通して「毛利は表向きは西軍であるが、戦場では戦わずにそちらに協力する。その代わり、東軍が勝利した暁には所領を安堵してほしい」と交渉していた。
秀元自身には戦意があったとされるが、広家がそれを押し留めた(宰相殿の空弁当)。結果、毛利家の当主が傍観したため恵瓊・長宗我部盛親・長束正家など他の南宮勢も秀元が東軍に内通してるのではないかという疑心暗鬼にとりつかれ、自身らも傍観せざるを得なくなった。
戦局が西軍の敗色濃厚となると戦わずに戦場を離脱したが、東軍の追撃を受ける。
戦後、大坂城に撤退した秀元は立花宗茂と共に徹底抗戦を呼びかけたが、輝元はこれに応じず、城を退去してしまった。一方で、秀元は輝元の大坂入城時にはその行動を諌めており、開戦当初は徹底抗戦派ではなかったと考えられる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/毛利秀元#.E9.96.A2.E3.83.B6.E5.8E.9F.E3.81.AE.E6.88.A6.E3.81.84
318:
>>315
吉川広家「すまんな毛利家の為にそれはできんのじゃ」
なお
320:
>>317
>>318
なんや、小早川だけちゃうかったんやな
8:
ミッツも内心予想は出来とったけど手駒ないからしゃーない
12:
>>8
大垣籠城してた方がよかったんちゃうかな
9:
狸は舐めプしてるけどもし寝返り反故にされてたらどうしてたんやろ
10:
???「西軍が勝つで」
11:
よくわからんけど石田より宇喜多のが格上ちゃうんか?
宇喜多 秀家(うきた ひでいえ)は、安土桃山時代の武将・大名。豊臣政権下の五大老の一人。通称は備前宰相。戦国大名としての宇喜多氏最後の当主であり、備前美作57万4,000石。
https://ja.wikipedia.org/wiki/宇喜多秀家#.E9.96.A2.E3.83.B6.E5.8E.9F.E3.81.AE.E6.88.A6.E3.81.84
14:
>>11
遥かに格上やで
宇喜多毛利は徳川と同格やし
18:
>>14
じゃあなんで石田が仕切ってたん?
毛利は大阪城でやる気無かったみたいだけど宇喜多はバリバリ関ヶ原まで出張ってたのに
26:
>>18
石田は別に総大将でもないし仕切ってる訳ちゃうで
40:
>>18
単純に反家康の音頭を取ったのが側近だった石田ってだけで総大将は別におるで
13:
小川祐忠2000も動員できるんか
20:
>>13
今治7万石の領主だったらしい
ソースはウィキ
15:
大津城なんかほっときゃよかったんや
大津城の戦い(おおつじょうのたたかい)は、慶長5年9月7日(1600年10月13日)から同年9月15日(10月21日)まで、近江国大津城を巡って行なわれた戦い。関ヶ原の戦いの前哨戦と位置付けられる。
この大津城攻防戦は西軍の勝利に終わったが、大局的には西軍の敗因にもつながった。なぜなら、大津城が開城した9月15日は、関ヶ原の戦いのまさに当日だったからである。
つまり西軍は、本来なら関ヶ原にあったはずの1万5000人の兵力を欠いたまま東軍と戦う、という不利な状況を招いたのである。
西軍は大津城を陥落せしめたものの、同じ日のうちにその局地的勝利は意味を失った。
立花宗茂は大津城を開城させた後、軍勢を率いて草津まで進出したが、そこで西軍の壊滅を知って大坂城への退却を余儀なくされ、戦後に改易されてしまった。
一方、敗軍の将である京極高次に対して家康は、関ヶ原戦後に高次の弟・京極高知(関ヶ原で東軍の将として功を挙げた)を使者として高野山に派遣し、大名としての復帰を許しただけではなく、若狭一国・9万2000石を与えて功に報いた。家康は、宗茂を大津城に引き付けたことを大いに賞賛したという。
https://ja.wikipedia.org/wiki/大津城の戦い
16:
ちな姉川
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17:
布陣みると西軍有利に見えるよな
19:
大谷は裏切りを見破ってたから小早川の腋についたんだっけかな
正午頃、松尾山に布陣していた小早川秀秋隊1万5,000人が東軍に寝返り大谷隊を攻撃するが、予てから小早川隊に備えていた直属の兵600で迎撃、更に前線から引き返した戸田勝成・平塚為広と合力し、兵力で圧倒する小早川隊を一時は500メートル押し戻し2、3回と繰り返し山へ追い返したという。その激戦ぶりは東軍から小早川の「監視役」として派遣されていた奥平貞治が重傷を負った(後に死亡)ことからも伺える。
しかし吉継が追撃を仕掛けたところへ、秀秋の裏切りに備えて配置していた脇坂・朽木・小川・赤座の4隊4200人が東軍に寝返り突如反転、大谷隊に横槍を仕掛けた。これにより大谷隊は前から東軍、側面から脇坂らの内応諸隊、背後から小早川隊の包囲・猛攻を受け防御の限界を超えて壊滅、吉継も自害した。享年42。吉継の敗北は戦場の趨勢を一変させ、西軍の諸隊に動揺を与え、西軍潰走の端緒となった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/大谷吉継#.E9.96.A2.E3.83.B6.E5.8E.9F
21:
なんで石田如きがあんなに集められたんや
奉行クビの上本人の所領10万石くらいやろ
23:
>>21
嶋の年俸で半分取られとるから実質もっと少ないんか
25:
>>21
20万弱くらいやぞ
島さんが10万かっさらうけど
44:
>>21
関ヶ原背後にある本拠の佐和山城防衛にも兵力を割いてたんやで
22:
大津城攻略隊が間に合っていればという
1600年9月に入ると、琵琶湖最南端に位置する大津城に西軍の大群が攻め込もうとしていた。
大津城主、京極高次の妻は豊臣秀頼の母、淀殿の妹のお初であるが高次は当初は西軍に味方するとみせるも東軍として参戦、畿内にある城ということで西軍の猛攻撃を受けることになる。
大津城攻略隊は毛利勢を主将として15000以上の大軍、対して篭城勢は3000ほど。 二週間ほど西軍一隊を足止めするも9月14日には降伏、高次は後に高野山に入る。
しかし、関ヶ原の戦いは15日午前から行われており、この大津城攻略隊は参戦することができなかった。家康は後にこの功績を高く評価し高次に若狭小浜への加増を与えた。
http://blog.livedoor.jp/mizuirotonbo/archives/51726390.html
24:
西軍の大将は毛利輝元やろ?
なんで戦場にこんかったんや
士気にも影響するやろ
27:
>>24
なにいってだこいつ
西軍の大将は石田三成やろ
29:
>>24
吉川がとおせんぼしてた
31:
>>24
西軍が負けた時の為に自分が積極的に参加していたのではないって事を見せたかったんちゃう
37:
>>24
ああ秀元だった
28:
黒田長政の過小評価
一理ない
33:
>>28
空気抵抗すごそうな兜すき
30:
戦争を賭けの対象にしてるブックメーカーおらんのか
38:
>>30
近代戦になると勝ち負けの評価が難しい
相手が滅ぶまでやったりせんしな
32:
裏切るやつらが最初から東軍にいたら勝てたん?
34:
毛利両川の悪いところが出すぎや関が原は
35:
昔外国の士官学校で教官が関ヶ原の布陣見せて、どっちが勝つか生徒に聞いたらそりゃ西軍やろって結論やったらしい
なお、小早川
36:
なんで19歳の小早川が15000万も動員出来るんだよ
領土もそんなに広くないのに
39:
>>36
日本の総人口やんけ
42:
>>36
引っ越してから2年しかたってないのにな
43:
>>36
ひろいぞ
45:
>>36
こいつ朝鮮でもすごいことやってるしすごいのかすごくないのかわけわからんな
47:
>>36
そら天下人の血筋よ
小早川 秀秋(こばやかわ ひであき)は、安土桃山時代の大名。丹波亀山城主、筑前名島城主を経て備前岡山藩主。名は関ヶ原の戦いの後に秀詮(ひであき)と改名した。
豊臣秀吉の正室・高台院の甥。秀吉の親族として豊臣家では重きをなしたが、小早川隆景と養子縁組した後には、関ヶ原の戦いで徳川家康の東軍に寝返り、豊臣家衰退の契機を作った。
https://ja.wikipedia.org/wiki/小早川秀秋
41:
関が原は天下分け目の合戦、長引こう
その間にわしが立ってとりあえず九州を制圧する
わしの時代がついにやってくるんじゃ
46:
>>41
おは如水
黒田 孝高(くろだ よしたか)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。戦国の三英傑に重用され筑前国福岡藩祖となる。キリシタン大名でもあった。
諱(実名)は初め祐隆(すけたか)、孝隆(よしたか)、のち孝高といったが、一般には通称をとった黒田 官兵衛(くろだ かんべえ)[注釈 4]、あるいは剃髪後の号をとった黒田 如水(くろだ じょすい)として広く知られる。豊臣秀吉の側近として仕え、調略や他大名との交渉などに活躍した。竹中重治(半兵衛)と双璧をなす秀吉の参謀と評され、後世「両兵衛」「二兵衛」と並び称された。
https://ja.wikipedia.org/wiki/黒田孝高
53:
>>41
テッル
関が原は天下分け目の合戦、長引こう
その間にわしが立ってとりあえず旧領を回復する
わしの時代がついにやってくるんじゃ
なぜ後世の評価に差が付いたのか、慢心、環
52:
>>41
大友のアホはともかく鍋島や島津をそう簡単に飲み込めたんですかね
55:
>>52
鍋島さんは協力してるぞ
48:
ぐぐって出てきたこれ見たら普通にやってれば西軍の勝ちやのにな
50:
秀秋の陣羽織すき
54:
と言うかそもそも秀秋が西軍扱いなのがおかしいやろ
あの時点だと中立ちゃうの
どっちの城も攻め落としてるし
61:
>>54
一理ある
56:
もともと秀忠の別動隊1万5000がいれば余裕で東軍の勝ち
徳川 秀忠(とくがわ ひでただ)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将。江戸幕府の第2代征夷大将軍。
https://ja.wikipedia.org/wiki/徳川秀忠#.E9.96.A2.E3.83.B6.E5.8E.9F
60:
>>56
木曽山中で血尿漏らしてるんだよなあ
135:
そういえば徳川秀忠が真田の少数の兵に足止めされたのって史実なの?
いくら真田が有能だったとしても、あの大軍を足止めできたんだろうか
143:
>>135
どっちみち関ヶ原には間に合わんし真田に手こずってたのはあれやけど
140:
>>135
真田の城を攻めあぐねてたのは本当
ただ足止めしたってのは嘘やで
家康からの書状が川の増水の影響で届くのが遅れたから関ヶ原に間に合わなかった
147:
>>140 >>143
サンクス
152:
>>135
信之「お父さん、開城してくれるよね?」
昌幸「しゃーない、かちゅうまとめるから3日まて」
信之秀忠「ええで」ニッコリ
信之秀忠「もう3日たったで」
昌幸「籠城の準備は整った、存分に攻めてこられよ」
160:
>>152
そら寿命縮みますわ
161:
>>152
大河でこれ楽しみやわ
172:
>>161
敵方の伝令兵が遠回りするのかイヤやからお城突っ切らせてってお願いする話好き
57:
家康本隊はほぼ無傷やからなあ
小早川裏切ってなくても東軍有利やろ
59:
裏切ることが内々に決まってたから有利そうな場所に布陣できただけで仮にガチ●コでやり合うとしたらもっと変わった配置になってたやろなあ
296:
弁当食べる時間あったってほんと?
62:
毛利がトチ狂って突っ込んでたら勝てた?
66:
>>62
吉川「弁当食って落ち着けや」
206:
>>66
カラやんけ
宰相殿の空弁当(さいしょうどののからべんとう)は、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおける毛利氏の去就にまつわる故事。略して「空弁(からべん)」とも。
関ヶ原の戦いで、毛利軍は家康本陣の背後にある南宮山に布陣した。秀元は南宮山を降りて徳川軍の背後から攻撃するつもりであったが、先陣を務める広家が出撃に反対して道を空けないため動けずにいた。
毛利軍の背後に陣を構えていた長宗我部盛親の出陣要請に困惑した秀元は、苦し紛れに「今、兵に弁当を食べさせている」と答えた。そこから秀元の官位(参議。唐名で宰相)をとって「宰相殿の空弁当」という言葉が生まれた。
同日、吉川家と同じく毛利家に連なる小早川秀秋が戦闘中に寝返り、東軍として戦闘を開始。結果、関ヶ原の戦いはたった1日で西軍が敗北して終了した。
その後、大坂城にいた毛利輝元も戦闘せずに本国へ引き上げたため、毛利・吉川・小早川は家康と戦うことなく関ヶ原の戦いを終えることができた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/宰相殿の空弁当
63:
図をみると
毛利秀元吉川広家安国寺えけいなつか長宗我部の4つ何してんねんって思う
68:
>>63
長曾我部とか上杉討伐に赴こうとしてたら関所で止められた組やししゃーない
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが起こる。当初、盛親は徳川家康率いる東軍に与しようと考えていたとされるが、近江国水口で西軍に属する長束正家に進路を阻まれ(徳川方へ送った密使が捕らえられ、連絡が取れなかったとも言われる)、やむなく西軍に与した。
結果的に西軍主力の一角となった盛親は東軍に与する伏見城や安濃津城などを落としながら関ヶ原に向かい、毛利秀元・吉川広家・安国寺恵瓊・長束正家らとともに家康本陣背後の南宮山に布陣した。
しかし、合戦においては徳川家康に内応する吉川広家によって毛利隊は動けず、毛利隊の後方に布陣していた長束隊や長宗我部隊も毛利隊の動向が分からず、動くことができなかった(宰相殿の空弁当の故事で知られる)。最終的に戦闘に参加しないまま西軍は壊滅した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/長宗我部盛親
71:
>>63
そら広家が内通して動かないから上にいた秀元以下動けずよ
空弁当事件やん
81:
>>71
あら小早川だけじゃなく吉川も裏切ってたんか
237:
>>81
吉川はお家を守るために徳川派だった
なお
64:
真田親子が反抗期迎えてる間に
冷静に信之を切り離して家を存続させる布石をうっておくのは凄いよなぁ
65:
天下人候補から毛利の養子を断られ小早川にたらい回し
ヒデヨシ死ぬ前に追い打ちで領地半分に減らされ
西軍につくはずないんだよなぁ
70:
>>65
センゴクにいろいろ滅茶苦茶にされた長宗我部さんは?
76:
>>70
大阪の陣でもヒデヨシに味方する忠臣
67:
東軍が負けても家康が討ち取られなければ江戸城にこもる家康の討伐軍を起こせず
家康が外交交渉で生き残りそう
72:
西軍の武士が弱かっただけやろ
東軍は鍛えてたからな
75:
>>72
島津「ほーん」
82:
>>75
あんた逃げただけですやん
73:
小早川だって序盤は傍観していてその後東軍に攻撃
後に他の西軍武将も裏切りって具合だったらしいし調略済みとはいえこの布陣やる度胸すごいわ
87:
>>73
佐和山ー松尾山ー大垣ー岐阜城
で一歩下がったとこで高みの見物してたとこにミッツが寄ってきたんやろかな
96:
>>87
一歩下がった所言うても前線にするつもりで修復してたやろう松尾山城やろ
かなり前線やろ
107:
>>96
大垣おって裏切り感づいてるやつからしたら恐怖やろ
77:
西軍は地元でもどっちにつくか意見が分かれてたり足並みそろえられなかったりグダグダやね
78:
秀吉に騙されて岐阜城13万石にされたのに西軍について攻められてあっさり降伏した三法師とはなんだったのか
79:
東軍の子飼いは終戦後どんな気持ちなんやろか
天下持ってかれたって憤慨しとんか?
80:
西軍は所詮烏合の衆よ
三河と反石田の結束が異常
83:
徳川が豊臣に対して酷いことをしたという風潮
確かにそうだが家康は所詮秀吉にものすごい恩義があるわけではないので豊臣→織田のほうが総合的に考えればえげつない気がする
88:
>>83
織田の直系保護した豊臣より
豊臣滅ぼした徳川のがえげつないやろ
90:
>>88
従わへんのが悪いんや
97:
>>88
サッルが擁立した後継者はどうなりましたか?
300:
>>97
関ヶ原で西軍について切腹に処されそうなところ福島正則が取りなして領地没収
高野山に流されるもジッジのせいで高野山からも追い出されて餓死
つまり豊臣と織田の直系を滅ぼしたのはどっちも家康
100:
>>88
信長と信忠が死んだのをいいことに一番操りやすい孫を立てて三法師様三法師様と調子のいいこと言っておいて成長すると冷遇して野垂れ死にさせたり
信孝を母まで巻き込んで殺したり
織田家に大恩ある身ということを考えると相当ひどい気がするが
まあ家康が8歳の子供を殺してまで豊臣家を滅ぼしたことを考慮しても差し引きでトントンくらいかなあ
106:
>>100
三法師は元気に関ヶ原に参戦してるぞ
110:
>>106
ああ、もちろん死んだのはもっと後やけど結局利用するだけ利用して後はポイーじゃんってことよ
116:
>>110
岐阜中納言やぞ
さほど冷遇されとらんやろ
84:
岐阜城って堅固みたいなアレやけど結構落とされてるよね
岐阜城の戦い(ぎふじょうのたたかい)は、関ヶ原の戦いの前哨戦の一つである。
岐阜城は本丸以外は全て東軍に攻め落とされてしまう。秀信は最後まで抵抗したが、圧倒的な兵力の東軍に対し、秀信の周りの兵は数十人になってしまい、覚悟を決めた秀信は自害しようとするが、池田輝政の説得と家臣の木造長政らにの説得により、東軍に降伏する。こうして岐阜城はわずか1日で陥落した。秀信は降伏後下山して上加納の浄泉坊(現・円徳寺)で剃髪し、関ヶ原の戦い終結後に高野山へ入った。
石田三成は、岐阜城がわずか一日で陥落するとは想定していなかった。そのために対応が後手に周り、戦略を練り直さざるを得なくなったという。
https://ja.wikipedia.org/wiki/岐阜城の戦い
103:
>>84
登ると分かるが周囲封鎖できる大軍集めが大変
114:
>>84
岐阜城は敵察知するレーダーみたいなもん
支城潰されたらゴミ
85:
西軍は元々家康の上杉討伐に応じた奴らを無理やり組み込んだりしてるからそりゃ裏切りも出るよ
島津義弘なんて伏見に籠城しようとしとるし
86:
増田「裏切るンゴ」
増田「嘘ンゴ」
増田「実は裏切ってたンゴ」
89:
毛利両川とかいう所詮権力を統一しきれなかっただけの副産物
91:
西軍は目的意識薄いからしゃーない
92:
男有楽斎、人とは思えぬさで関ヶ原を駆け抜け無事生還
織田 長益(おだ ながます)は、安土桃山時代から江戸時代初期の大名・茶人。長益系織田家嫡流初代。
織田信秀の十一男で、有楽斎如庵(うらくさいじょあん、有樂齋如庵)と号し、後世では有楽、有楽斎と称される。
彼の真骨頂である。
武人としては大した力量もないのに功を焦ったのか、蒲生頼郷だか横山喜内だか言う石田三成方の猛将相手に一騎打ちを申し込み、斬り付けられて落馬するという醜態をさらす。
頼郷だか喜内だか言う正式な名前の判然としないその猛将は直後有楽斎配下の将兵に討ち取られたため有楽斎自身の武功と言う事になり、珍しく武功を挙げた事になる。戦後、有楽斎は猛将蒲生頼郷だか横山喜内だかを見事討ち取ってやったぞと嬉々として吹聴していたが、周りの東軍諸将には嘲笑され、白眼視されていたのは言うまでもない。もっとも、生き残っているだけマシ。なお、彼が見捨てた甥、信忠の息子、織田秀信は西軍に所属。敗北後に改易、高野山に追放。その後、行方知れずと、まぁ大変素晴らしい結末を迎えている。
http://ja.uncyclopedia.info/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E9%95%B7%E7%9B%8A#.E9.96.A2.E3.81.8C.E5.8E.9F.E3.81.AE.E6.88.A6.E3.81.84
93:
判官贔屓で負けた方美化しがちだけど
三成ってあんま持ち上げてもらえないよな
102:
>>93
無双シリーズでは大人気みたいやし成功してる方ちゃうか
94:
よく上杉は旧領回復できたな
98:
輝元が無能なんやろ
101:
よく関ヶ原は豊臣政権内の争いとかいう奴おるけど
東軍が勝ったら家康が根こそぎ持ってくのわかってたやろ
そういう意味で加藤、福島は無能
104:
三成が素直に隠居しておけが良かったんだよ
105:
脱糞ニキは豊臣家だけじゃなくて今川にも不義理働いてへんか
108:
>>105
自分に害為したやつらは徹底的に潰すからな
政略マシーンやで
111:
>>105
晩年は氏真保護してるからセーフ
112:
>>105
恩があったのは義元と坊主やったししゃーない
でも家康って家復興させたり名前は残したり結構甘いところはあるんちゃうか
121:
>>112
義元「元康って名乗れ、ワイとお揃いの名前やで!」
家康「義元死んだから改名するンゴ」
109:
三成ってどんだけ人望なかったんや
へうげものでも扱い酷いぞ
115:
>>109
人望あるやつは味方の大物たちに徒党を組まれて襲撃されて殺されかけへんから
131:
>>109
下克上の代名詞みたいな津軽為信がデメリットしかないのに三成の遺児を手厚く保護してたから
親友が数人いればええわってタイプだったんじゃね
173:
>>109
大谷吉継や小西行長、宇喜多秀家らとは仲が良かったのでセーフ
113:
昨日のれきしヒストリア見たやつおる?
119:
>>113
板尾謎の関西弁家康に視聴者激昂
117:
後世の人間から見ると豊臣秀頼も無謀なことせずに自分の身の丈を知って家康の天下を認めればよかったのに、って思えなくもないが
やっぱり武士の歴史を見てると「謀反の疑いで切腹」「謀反の疑いで改易」などというフレーズが大量に出てくるあたりたとえ勝てる見込みが少なくても少しでもチャンスあるうちに立ち上がらなきゃ潰されるだけだしプライドもある、みたいな心理だったんやろかね
148:
>>117
淀に聞け
118:
天下狙うなとかいう遺言残した元就が悪いよ元就がー
120:
関ヶ原って戦あったからいいようなものの
合戦無かったら本当に何にも無い田舎だよな
127:
>>120
壬申の乱とか南北朝時代の青野ヶ原の戦いの戦場になってるやん
125:
>>120
小牧長久手なんてどうなるんや
133:
>>125
本当になにも無いな
128:
>>120
何もないから戦場になったんや
130:
>>128
交通の要所やからやぞ
122:
家康もよく待ち構えてる布陣に突っ込んで行ったな
124:
松平元信→徳川家康
この結果的に原形が残っていない感じ結構好き
126:
小早川毅彦「ワイは沼田小早川の末裔だから関係ない」
129:
関ヶ原って行ってもここが関ヶ原か?!って言うくらいしかやる事ないよな
136:
>>129
足軽ごっこしないのか?
139:
>>129
道路の真ん中で銃構えて捨てかまりごっことか
137:
>>129
馬でも貸付してくれたらええのに
142:
>>129
ウォーランドいけや
146:
>>142
検索したらめちゃくちゃ面白そうで草
何でワイはこんなものを見落としてしまったんや
151:
>>142
公式サイトの館長の写真で草
http://www.rest-sekigahara.co.jp/war_land/
155:
関ヶ原ウォーランドの人形に作者は
怒り新党の新三大で紹介されてたな
132:
関ヶ原までが無能すぎる
大津城といい伏見城といい
134:
江戸時代に三成がボロクソ言われるのは当然として明治入って最近までまともに顧みられなかったのはかわいそう
138:
関ヶ原本戦中の大津城攻めメンバー
末次元康(総大将)
毛利秀包
立花宗茂
筑紫広門ら総勢約15,000人
156:
>>138
もったいないよなあ
元康と秀包は毛利一門だからこいつらが戦えば吉川も戦わざるを得なかっただろうに
163:
>>156
後背に控えてた多秀元も一門なんですがそれは…
170:
>>156
だから吉川の工作で関ヶ原にこれんようにしたんとちゃう
171:
>>156
結局吉川が先鋒になって何も変わらなさそう
141:
たった19万石、隠居の身で約10万もの軍勢の指揮を執ったってのはすごいことやと思うよ
145:
アメリカだかイギリスの軍人が布陣見て西軍の勝ちだ、と言ったらしいけど、
そんな軍人の目を使うまでもなく素人目にも誰が見ても西軍有利だよな
高いところに布陣して周り囲んでるしそもそも数も多い
157:
>>145
ドイツ
149:
一回も降りたことないけど高だとほんと山ん中よな
150:
戦国時代に騎乗できる兵士って限られてたやろ?
どんだけ偉くなれば馬に乗って参戦できるんや?
エリートなんか?
255:
>>150
馬周りで検索
153:
今と比べて情報伝達が糞遅くて確実性が高くない時代だから総評すりゃあーすればこーすればって突っ込みどころ満載なのもしゃーないやろ。
154:
島左近とかいう過大評価の塊www
関ヶ原の戦開始すぐに死亡
159:
>>154
現在進行形の真田丸の一発屋ほどじゃないやん
164:
>>159
どんぐらい過大評価とかいうと真田幸村が大阪冬の陣の開始後にすぐ死んで部下が頑張ったという逸話が残る程度ぐらいやぞ
はっきりいって殆ど何もせんかったぞ島左近
162:
井伊さん、戦争にも政務にも駆り出され無事死亡
168:
秀頼を担ぎ出せれば福島も加藤も逆らえなかったんだけどな
淀殿とかいう老害
181:
>>168
千なり瓢箪黙って借りてくだけでも効果あったろうなぁ
169:
島津って漫画でもゲームでも優遇されてるのに兵少なくね?
なんでや
176:
>>169
これ確か義弘の私兵みたいなもんやろ
177:
>>169
薩摩とかいうクソ田舎から出てくるのに金かかるんや
187:
>>169
そら(日本の南端から)そう(日本の真ん中付近に来たら補給がしんどい)よ
179:
>>169
義久が中央情勢に全然興味がなかった
だから島津義弘が大阪に連れてきてた兵しか動かせなくてあんな感じになっとる
しかも島津義弘は東軍につこうとしたのに連絡が上手く行かなくて城から追い出されたりしとる
絶対胃に穴空いてるわ
212:
>>179
日本語が通じなくて能の言葉で会談してたとか司馬史観すき
175:
「石田三成は憎い人物ではない。人はそれぞれ、その主君に尽くすのを義というのだ。たとえ敵でも、君のために尽くした者を悪く言うのは良くない。君臣ともそう心がけるべきだ。」徳川光圀
200:
>>175
と言っても光圀も実際に戦場で敵対することになっていたら悪く言いそう
180:
島津は東軍につく予定やったのになぁ
予定通りいってたら直政も死なんかったのに
183:
>>180
絶望的に噛み合ってなくて悲しいなぁ
東軍は損しかしてない
190:
>>183
しかも恨みは幕末まで残るし
182:
小早川が裏切るのって開戦前から決定してたんか?
189:
>>182
元々は東軍のつもりが伏見入城断られて西軍からの裏切り
202:
>>189
えぇ…複雑な話やなあ
209:
>>202
筑前から海路で上洛したら周りが西軍だらけだった
三成の指令なんか全く聞かなかった
184:
キリシタン大名ってどうなったンゴ?
185:
大体上杉討伐においそれと従うのがおかしいやろ
徳川家臣かよ
186:
島津義弘って戦闘狂みたいなイメージついとるけどわりと穏健派だよな
島津の癖にちゃんと中央政権とのパイプをやろうとしとるし
秀吉にも勘違いされとるけど
191:
???「鈴虫が3年生きたからワイも125歳まで生きるで」
192:
東軍につくはずやったんか草
193:
秀秋に西軍につく義理なんてないやろ
どんだけ恨みつらみたまっとるとおもっとんねん
197:
小早川さん
養子になること4回転封5回
朝鮮で旗本で明軍の本営を強襲
三成のせいで北庄減封
脱糞が筑前に復帰させてくれる
上杉討伐に恩を返すために大軍で上京、しかたなく西軍のふりをする
鳥居にキレて伏見城で大暴れ
勝手に松尾山に布陣
三成に「どっちの味方なんや」という書状に「知るかボケ」的な返事を書く
関ヶ原後、宇喜多領まるごと貰ったのに家康に「まだ足らねえぞ」と強請る
207:
>>197
その後程なくして病死(毒殺?)
お家取り潰し
211:
>>197
佐和山に(強奪できる)財宝は無かった
213:
>>197
アル中って糞だわ
208:
>>197
こいつ野望とかで冷遇されてるけどやっぱ凄いやつやろ
215:
>>208
めちゃくちゃ脳筋のイメージ
221:
>>215
鬼武蔵に指揮能力つけたようなのが秀秋
210:
グーグルマップみると日本って本当に山だらけだよな
そら関東が強いわ
218:
関白秀次 大納言秀俊(秀秋)
だったら豊臣は安泰だったのにな
226:
>>218
秀長、秀秋の件でおねねの心が豊臣家から離れてしまったのもなあ
219:
橋かかる前の四国とかよほどの用事でも無い限り行かないだろ
文化や軍事レベルが中央とは500年は遅れてそう
224:
>>219
細川いたからさほど遅れて無かったんちゃう
225:
>>219
一条「」
244:
>>219
阿波あたりはそうでもなかったんじゃね?
223:
文化に関しては長曾我部とかかなり評価高かったみたいやし
土佐一条家もいたんやしかなり高いレベルちゃうか
228:
>>223
一条は国親の時長宗我部助けたのに恩知らずだよな
232:
>>228
元親「弟が勝手にやりました」
233:
>>228
もう代替わりしとるしな
元親「助けられたんはワイちゃうし助けたのもお前ちゃう」みたいな感じなんやないの
231:
おねねさまは一体何人の親代わりやってたんだよ
リアルにわしが育てた状態やん
高台院(こうだいいん、生年は諸説あり- 寛永元年9月6日(1624年10月17日))は、戦国時代(室町時代後期)から江戸時代初期の女性で、豊臣秀吉の正室である。杉原(木下)家定の実妹であるが浅野家に養女として入る。秀吉の養子となって後に小早川家を継いだ小早川秀秋(羽柴秀俊)は、兄・家定の子で彼女の甥にあたる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/高台院
236:
>>231
なかなか実子が生まれなかったせいやろなあ…
240:
>>231
小早川の養子になった秀秋を最も愛してたんやで
ねねが亡くなった時に夭逝した秀秋の位牌
を自分の棺を抱いた状態で入ってた
234:
宇喜多もせめて岡山に戻ってたら家は残せた可能性はないんか?
隣が毛利だから家康も力攻めしにくいだろうし
241:
>>234
毛利が攻め込んできそうやけどな
248:
>>241
確かに織田と戦っとる頃寝返られた恨みもあるかもしれんな
256:
>>248
関ヶ原で敗戦したらもう西軍は瓦解やろうし
それで宇喜多が岡山に戻ってたら毛利は多分東軍に差し出す為に宇喜多を攻めるやろ
239:
ワイ家旧福岡藩士やけど石田軍の奮戦ぶりはかなり好意的に伝承されとるな
242:
福島政則とかのアホ武断派嫌い
こいつらが一番無能
福島 正則(ふくしま まさのり)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。賤ヶ岳の七本槍、七将の一人。
正則は石田三成らと朝鮮出兵を契機としてその仲が一気に険悪になり、慶長4年(1599年)の前田利家の死後、朋友の加藤清正らと共に三成を襲撃するなどの事件も起こしている。この時は徳川家康に慰留され襲撃を翻意したが、その経緯から家康の昵懇大名の一人となる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/福島正則#.E9.96.A2.E3.83.B6.E5.8E.9F.E3.81.AE.E6.88.A6.E3.81.84
266:
>>242
福島、清正等の武断派は豊臣と徳川の戦いではなく、石田と豊臣を救う豊臣の配下としての家康との戦いと思ってるからな
結果的に豊臣の力弱めてから秀頼守ろうとして福島はお家取り潰し、清正は毒殺されとる
271:
>>266
徳川が好き勝手やってて尚且つ婚姻結ぼうとしてるしそれはないやろ
276:
>>271
そういうのも目に入らなくなるほど石田憎し!になってたんちゃうかね
脳筋やしあいつら
299:
>>276
タイムスリップする漫画はよくあるがもしタイムスリップできるならこいつらの顛末を伝えて怒鳴り付けたいわ
301:
>>299
即打ち首ですわ
246:
直江というか上杉が過大評価されとる気がする
負けまくってないか?
256:
>>246
謙信はかなり戦強いぞ
ほんまに戦だけっぽいけど
250:
>>246
上杉謙信って結局領土全く広げてないしな
251:
>>250
人狩りはしまくってた
247:
五月雨よ 露か涙か 不如帰
   報いを待てよ 羽柴筑前
足利義輝の辞世の句。
志半ばで逝く無念さが滲み出ていて涙を誘います。
www5f.biglobe.ne.jp/syake-assi/newpage303.html
252:
松尾山に乗り込み金吾を叩き斬ってやる
これすき
269:
なおこいつら全員季舜臣将軍にはボコられる模様
272:
>>269
これには元均将軍も不満顔
275:
>>269
そら朝鮮軍は空飛ぶ椅子を持ってるからな
306:
ドラマの信長協奏曲見てたら安土城すら出てこなくて信長の住んでるとこ丘の上の簡易な要塞で草
311:
秀吉に与して名実ともに織田家の弔い合戦とした信孝
摂津に駐留していた信孝を放置した光秀
29

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The Beatles(ビートルズ)の曲で打線組んだよ

私は恋愛や友情での嫉妬心というものを感じることができない人間。なぜかはわからないけど、気がついた時からずっとそう。

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