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真姫「歩き方を教えて」
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9:
本作品はラブライブ!板に投下した作品でシリーズ物の第一作目となります
ラブライブ!板のほうで作品を投下することが困難となり、板をまたいでシリーズを継続するのもどうなのかと思いこちらに転載いたしました
2:
「遠慮せずにくつろいでね」
穂乃果は唐突に訪れた私に嫌な顔一つ見せずに招きいれてくれた。
六帖ほどの小さな部屋。意外と整理整頓されていた。あまりじろじろ見るのも悪いと思い、中央に置かれたミニテーブルの前に座る。穂乃果は、一人キッチンへと向かっていた。
ドッと気が楽になる。根本的な解決になったわけではないが、今日の寝床は確保できた。
「真姫ちゃーん。コーヒー飲む?」
ひょっこりとキッチンから顔を出した穂乃果が、インスタントコーヒーの瓶を掲げて見せてくる。
コーヒー。穂乃果が、コーヒー。
「真姫ちゃん?」
「あ、えっと、頂くわ」
ほんの少し、呆気に取られる。穂乃果がコーヒーを飲むところ、ましてや淹れているところなんてものを見れるとは思わなかった。
彼女はどちらかというと、苦いものが苦手だったはずだ。ピーマンとか。
思えば。穂乃果が一人暮らしを始めてからまともに顔を合わせるのは初めてだ。およそ数ヶ月だが、コーヒーを飲めるようになっていてもおかしくはない。
「はい、どうぞ。ミルクか砂糖、いる?」
「……ありがと。砂糖、一本だけ貰える?」
目の前に湯気の立つマグカップが置かれる。穂乃果の手には幾らかのミルクとスティックシュガー。
スティックシュガーを一本だけ貰い、円を描くようにして投入する。穂乃果はミルクをたっぷりと入れていた。
知らず、笑みがこぼれる。根本的なところでは、変わっていない。
「む、なんで笑うのさ」
「別に。甘そうだなって」
「そっちはすっごく苦そうだけど……飲めるの?」
「当然じゃない」
3:
「はえー……。やっぱり真姫ちゃんは大人だねぇ」
「……そうかしら?」
大人が、突発的な衝動に駆られて家を飛び出したりするだろうか。
いいや、しない。
どれだけ歳を重ねても私はまだまだ子供で、それを受け入れてくれる穂乃果のほうがよっぽど大人だ。
そういえば。
「事情、聞かないのね」
「ん? 聞いてほしい?」
「……どうかしら」
やはり、大人だ。
正直なところ、迷っているのだ。事情を説明すれば、穂乃果は手を貸してくれるだろう。今こうして、家に上げてくれたように。
だが、それでいいのだろうか。穂乃果は着実に前へと進んでいる。自分の足で、自分の意思で。
助けてと叫ぶのは簡単だ。それが難しいことではないと知っているから。手を伸ばせば、穂乃果が掴んで引っ張ってくれることだろう。
西木野真姫として、それは許容していいことだろうか。
「何があったのかはわからないけど、気の済むまでここに居ていいよ。私も、一人より二人の方がいいし」
ちょっと狭いけどね、と穂乃果が笑う。若干温くなったミルク入りコーヒーを一息に呷り、カップを持って立ち上がる。
「おかわり、いる?」
「……いや、いいわ。もう、夜も遅いし」
時計を見ればそろそろ日付が変わる頃。コーヒーのせいか眠たくはない。
こちらも温くなったコーヒーを飲み干し、キッチンへと足を向ける穂乃果に続く。
「明日の朝、大丈夫なの?」
流しでマグカップを洗浄する穂乃果に問いかける。慣れた手つき。数分もかからないだろう。
「バイトはお休みだから大丈夫。真姫ちゃんは……夏休みだったね」
「ええ。それじゃあ、特に早起きする必要はないのね」
早起きするのは苦手、というわけではないが、夏休みでだらけきった身体にとって辛いことは確か。ゆっくりできるのなら、そうしたい。
「お風呂は入った?」
「ええ、家で済ませたわ」
「そっか……。私まだだから、先に寝ててもいいよ?」
「そう? じゃあ、毛布か何か貸してもらえるかしら」
「……うち、布団一つしかないんだよね。毛布とかもなくって」
そこで穂乃果が悪戯気に笑みを浮かべる。もうわかった。次になんというのか、もうわかってしまった。
そして、それに逆らえないことも知っている。やはり穂乃果は、大人だ。子供の扱い方を心得ている。
「一緒に寝ようか、真姫ちゃん」
「……ま、そうなるわよね」
4:
軽やかな音と共に、深く沈んでいた意識が浮上する。まどろみのなかで優しく響く音色は、どこか懐かしさを感じさせる。
ゆっくりと目を開ける。ぼやけた視界を二度瞬きすることで修正する。薄暗い部屋。窓から差し込む光だけが、唯一の光源だった。
欠伸を漏らしながら上体を起こす。被っていた布団がずり落ち、ひんやりとした空気に一つ身震いを起こす。枕元の目覚まし時計は午前8時過ぎを指していた。
少し寝すぎたかしら、などと思いつつ聞こえてくる音に耳を傾ける。この音はピアノ……おそらく、電子ピアノの類だろう。
軽く伸びをして布団から出る。シーツと掛け布団を軽く整え、音の発生源へと向かう。
二つしかない部屋の、玄関に面した場所。居間として扱われているそこでは、穂乃果が電子ピアノと向き合っていた。
集中しているのか、こちらには気づいていない。広げられた五線譜を真剣に見つめている。
五線譜は手書きだった。いくつもの修正痕があり、ところどころがぼろぼろになっている。
旋律にも覚えがないし、穂乃果が作曲したのだろうか。
「……ふぅ」
しばらく穂乃果の背後に立ち観察していると、不意に演奏が止まった。
「……上達したのね」
「あ、真姫ちゃん。おはよう」
挨拶を返し、穂乃果の隣に腰を下ろす。五線譜を手に取り、いびつな形の音符を目で追いかけていく。
私が穂乃果にピアノを手ほどきしたのは、ちょうど去年の今頃だった。
5:
きっかけはなんだったか。夏休みだといっても部活や生徒会の業務はあって、穂乃果は生徒会の方に追われていたはずだ。
生徒数が増えたことに関するあれこれ。新学期に向けての雑務は山ほどあったようで、生徒会だけでなく、教師達もばたばたしていたのを覚えている。
私はアイドル研究部の練習が終わったら、学校に残っていることが多かった。音楽室でピアノを弾いたり、図書室で課題をやったり。練習と勉強の比率が逆転しただけで、休み前と特に変わりない生活だった。
息抜きと、穂乃果はそういっていた。忙殺されていた、とはいっても休憩を取る時間はあったようで、穂乃果は度々私のいる音楽室を訪ねてきていた。
最初は私の弾くピアノを聞いているだけだったのだが、日が経つにつれて弾くことに興味が芽生えたようだった。
小さい頃に少しだけピアノを習っていたこともあると、穂乃果はいっていた。
ただ、私がしたのは大層なことではない。初歩の初歩、弾き方を教えただけだ。入門用の曲を教え、手本を見せただけ。
それからのことはよく知らない。ただの気まぐれだと思っていたが、あれから弾き続けていたのだろうか。
6:
「そうだねぇ。練習はずっとしてたよ」
もそり、とジャムとバターの乗ったトーストをかじる。口内にわずかなしょっぱさとイチゴの甘味が広がっていく。
やはり穂乃果は、独学で練習していたようだ。独学、といっても今の時代ある程度の情報は手に入る。変な癖もついていないようだったし、ちゃんとした練習を積んだのだろう。
「でも、作曲を始めたのは最近かな。一人暮らしも余裕出てきたし」
「……アーティストでも目指してるの?」
穂乃果は卒業後、普通に大学へ進学した。ことりと海未も、それぞれの道へ進んだ。三人ともアイドルプロダクションからスカウトが来ていたが、誰も受けなかった。
アイドルをやればよかったのではないか、と思うこともある。そうすれば、作曲だってよい講師が得られたはずだ。
それがわからないほど、穂乃果は馬鹿じゃない。というか穂乃果は勉強ができないだけで地頭が悪いというわけではないのだ。私とは正反対に。
「んー……。そうなる、のかなあ? 私はとりあえず歌いたいって思ってるけど、テレビに出たいとか、CDを出したいってわけじゃないし。たくさんの人に歌を聞いてもらえるのはいいと思うけど」
穂乃果は歌うのが好きだ。傍目から見ている分にも、随分と楽しそうに歌う。そして真剣だ。
なるほど。アイドルとは程遠い。
穂乃果は結局のところ自分本位だ。なによりも、自分がしたいことを為す。誰かの為に在るアイドルとは真逆に位置している。
不思議な話だ。かつて誰よりもアイドルだった穂乃果が、今はアイドルから遠く離れたところにいる。それでいて、彼女はアイドルのままなにも変わっていない。
「最近は駅前で歌ったりしてるんだ。興味持ってくれる人は、少ないけどね」
「へぇ。許可とかいるんじゃないの?」
「さぁ?」
「……いい加減ね」
どこまでも、穂乃果らしい。
7:
「それで、今日はどうするの?」
トーストを牛乳で流し込んだ穂乃果がいう。今日は日曜だったか。
取り立てて、何がしたいというわけでもない。突発的な家出で、何か考えがあるわけではなかった。
強いていえば、着替えが欲しいところ。穂乃果のものを借りることもできるが……。
何日泊まるか定かではないし、服だけでなく下着の問題もある。そう長い間居座るつもりはないけれど。
「服と、下着がほしいわね」
「そっか。じゃあ、後でお買い物に行こう」
まだ出かけるには早い時間帯。朝食も食べ終えたので、特にやることがない。
知らず、電子ピアノに視線が移る。よくよく見れば、結構な値段がするものだった。
「これ、弾いてもいい?」
「いいよー。音量は絞ってもらうけど」
穂乃果が食器を片付ける。電子ピアノの電源を入れ、軽く調整を施す。
鍵盤に触れる。ポーン、と控えめな音が鳴る。随分と、軽い。
何の気なしにSTART:DASHを弾き始める。胸の奥底から懐かしさがこみ上げる。
もう随分とμ'sの曲を弾いていなかった。弾けなかった、というのが正しいかもしれない。
私の中にはまだμ'sへの未練が燻っていて、弾けば、それが大きくなってしまいそうだったから。
穂乃果は、どうなんだろうか。
8:
μ's解散に対する後悔はない。だけど、どこかで続けていたらと考えてしまう。
もうスクールアイドルと名乗れない立場になってしまったからこそ、そう思ってしまうのか。
現状に不満はない。いや、あるにはあるが、嘆くほどではない。ただただ、不安なのだ。
先の見えない道。一歩踏み出したそこに、地面は本当にあるだろうか。
μ'sであった頃にこんな不安を感じたことはなかった。当然だ。私は穂乃果を初めとしたみんなの後ろを歩いていたのだから。
前に進めない。立ちすくんでいる。歩くことがこんなにも難しいことだったなんて、思いもしなかった。
9:
「やっぱり、真姫ちゃんのピアノはいいね。とっても素敵」
一曲弾き終えると、いつの間にか隣に座っていた穂乃果が拍手をしてくれる。
少し、複雑だ。穂乃果の賞賛を受けられるほどの演奏だっただろうか。
その疑問を口には出さない。返答は決まっているからだ。穂乃果は絶対に私の演奏を否定しない。
だからこそ、不安になるのだが。
「何かリクエスト、ある?」
「じゃあ、ユメノトビラ」
軽く頭を振って思考を切り替える。今は演奏に注力すべきだ。ピアノ演奏の先達として情けのない演奏はできない。
ちらりと穂乃果を覗き見る。真剣な眼差しが私の手元に向かっている。一瞬たりとも見逃しはしないと言いたげに。
好きこそものの上手なれ。穂乃果ほど、この言葉が似合う者はないだろう。
10:
穂乃果と連れ立って外を歩く。
今日一日だけ穂乃果の服を借りることにした。そもそも寝巻きで家を飛び出してきたからそうするしかなかった。
丈が少し短いが、まぁ許容範囲だろう。
夏の日差しはじりじりと私たちを照りつける。日光だけでなく、陽炎の立つアスファルトすら私たちを苦しめる。
ひたすらに暑い。夏だから当然ともいえるが。
「そういえば、塾とか行ったりしないの? 夏期講習とか」
「考えはしたけど、自分でやった方が早い気がして」
「おお、さすが真姫ちゃん」
塾なんてものは自発的に勉強できない人が勉強するために行くところだ。自主的に勉強できるのであれば、行く必要はない。
「私ももうちょっと、勉強しておけばよかったかなぁ」
「……なによ、それ」
「もうちょっと勉強しておけば、もっといろんなことができたのかなぁって」
「……そう、かもしれないわね」
個人的には、もう少し勉強とピアノ以外のことをやっておきたかったが。
まぁ、それでも。
「今からでも遅くはないんじゃない?」
「そうかなぁ?」
「きっとそうよ。勉強をするのに遅いも早いもないわ。きっとね」
そして何かを始めるのも、同じように。
11:
忘れていた。
目の前にできた人の列を見てため息をつく。
「あ、ありがとうございます! 一生大事にします!」
「……ほどほどにね」
目の前で大事そうに色紙を抱える女の子に、適当な言葉を返す。
その子が退けばまた新しい女の子がこちらに色紙を差し出してくる。
日曜の昼。それなりの大きさを誇るデパート。となればスクールアイドルのことを知っている人もたくさんいるわけで。
サングラスを持ってこなかったのが悔やまれる。最近は鳴りを潜めたと思っていたのだが……。
腐っても、ラブライブ出場グループのメンバーということか。
「プロに行ったりとか、しないんですか!?」
「あー、その予定はないわね。申し訳ないけど」
「そ、そうですか……」
実際、どうだろうか。アイドルに興味がないわけではない。スクールアイドルは引退したといえど、人前で歌ったり、踊ったりするのが嫌になったわけじゃあない。
やりがいだってあるし、たくさんのファンに応援してもらえるのは素直に嬉しい。まぁ、こうしたファンサービスは時たまうんざりするが。
医者になる、という前提がなければ。
私はアイドルとして活動することもできたのかもしれない。
12:
「お疲れ様」
「ん、ありがと」
エスカレーター付近に設置されたベンチで休息を取る。穂乃果が自販機で買ってきてくれたジュースで喉を潤す。
あれから少しして、邪魔になるからということで警備員がファンを散らしてくれた。後日音ノ木坂学院で対応することになったが。
「やっぱり真姫ちゃんは人気だねぇ」
「これでも落ち着いた方だけどね」
μ'sが解散したばかりの頃よりは随分と減った。今はμ'sの西木野真姫ではなく、音ノ木坂の西木野真姫が求められている。
そして、音ノ木坂の私を求める人は、μ'sの私を求める人よりもずっと少ない。改めて、μ'sの凄さを実感する。
「私なんか、もう全然だよ。変装してなくても声かけられないし」
13:
「穂乃果は、アイドル続けようとは思わなかったの?」
穂乃果がスクールアイドルを引退してから、ずっと気になっていたことを口にする。
穂乃果は自身の進路についてほとんど口にしなかった。いつも能天気に振舞って、だけど準備だけはしていて。
大学に行くと知ったのも、センター試験の直前だった。私たちが聞いていたのは進学するとだけ。どこに行くのか、なんてのはことりも海未も知らなかったらしい。
「思わないこともなかったよ? 大学行きながらでも、アイドルやらないかってにこちゃんにも誘われたし」
「じゃあ、どうして」
「んー……。アメリカに行ったときのこと覚えてる? 私が迷子になったとき」
「覚えてるけど。それがどうかしたの?」
地下鉄で、穂乃果が上りと下りを間違えて一人はぐれてしまったときのことか。
よく覚えている。海未が酷くうろたえていたことばかりが印象に残っているが、あの時は皆不安を抱えていた。
見知らぬ土地で迷子。心配しないはずがない。
「あの時ね、日本人の女性に出会ったの。その人は路上で歌ってたんだけど、凄い上手だった」
「それで、自分もそういうことしてみようって?」
「きっかけはそうかな。でも、なんていうか、自分一人でどこまでやれるのか、試してみたくなったの」
「自分一人で……」
思ってもみないことば。穂乃果が一人で、というのは違和感を覚えずにはいられない。
穂乃果はいつだって誰かと一緒だった。一緒にやろうと誘うタイプの人間で、同時に誘われる気質を持った人間だったから。
手を貸してあげたくなる人。応援したくなる人。穂乃果は、放って置かれることがない人なのだ。
かつて、私が曲を提供したように。
同時に、人を巻き込んでいく人だ。誰彼構わず手を取って、引っ張っていく人。
かつて、穂乃果が私にそうしたように。
14:
「私、一人じゃなんにもできなかったからさ。だから海未ちゃんとかことりちゃんとかに頼ってばっかりで」
「それが普通じゃない? 一人でなんでもできる人なんていないわ」
「そうかもね。皆に頼って、皆の力を借りて。それで、なんていうか、自信がついたのかな」
「自信?」
「そう。私は結構できるんじゃないかって。自惚れだけどね」
それは自惚れなのだろうか。穂乃果が、穂乃果のいうように結構できるのは間違いではない。
μ'sというグループで経験した出来事は、間違いなく私たちの力になっている。
強くなった、大きくなった。言い方は様々だが、成長したのは確実だ。
「それで、今度は頼られるようになれたらいいなって。……なんかこれ恥ずかしいね」
「……私は、前から頼りにしてるわよ」
「え、そうなの? あんまり頼られた覚えないや」
確かに、明確に穂乃果を頼ったことはなかったかもしれない。
けれど私はどこか穂乃果に依存していて、それとなく穂乃果を利用していた。
今も同じかもしれない。希でなく穂乃果を頼ったのは、穂乃果が私を助けてくれると、そう思っていたからではないだろうか。
「そりゃ、あなたは年上なんだから」
「そういえば、そうだったね。真姫ちゃん大人っぽいから」
本当に、大人っぽいだけだ。
15:
お昼ごはん。フードコートの一角でハンバーガーを齧る。エビカツの甘味とタルタルソースの酸味、キャベツのシャキシャキとした食感が口の中で混じりあう。
味はそこそこ。美味しいが、予想の範疇を超えない。チェーン店なんてそんなものかもしれないが。
ちらりと対面を見る。そこには当然同じようにハンバーガーを口にする穂乃果が居て、楽しそうにニコニコと笑みを浮かべている。
実際、楽しいのだろう。穂乃果は食事を一つの娯楽とみなすタイプだ。栄養が取れればいいなどとは絶対に言わない。
「ん? こっちも食べる?」
こちらの視線に気づいたのか、手に持ったハンバーガーをこちらに差し出してくる。穂乃果のはチキンカツのものだ。一口だけ齧り、こちらのものを差し出す。
「おお、エビカツもなかなか」
「でっしょー?」
などと適度に雑談を交えながら食べていると不意に携帯が鳴った。私のではなく、穂乃果のものだ。
「ちょっと外すね」
流石に雑音がすぎるせいか、穂乃果が席を立ちフードコートから離れていく。そういえば、昨日から家に連絡を入れていない。
入れる必要があるかどうか悩むところだが。まぁしばらく帰る意思がないことと穂乃果に世話になっていることくらいは伝えてもいいだろうか。
遅かれ早かれ連れ戻されるだろうけれど。そうなったらそうなったで、今考えても仕方がない。
16:
目的を済ませ、ついでに夕飯の買い物をして穂乃果の家に戻る。
日はすでに傾き始めていて、その光を徐々に赤く染めつつある。生ぬるい風がひんやりとしたものに変わり部屋の中を通り抜けていく。
「そんなところで寝たら風邪引くよー?」
特に風通しのよい窓際で寝そべっていると、エプロンをつけた穂乃果がキッチンから出てくる。フリルのあしらわれた可愛らしいもので、ところどころほつれが見える。
「エプロン、似合ってるわね」
「え、そう?」
おだてつつ寝返りを打つ。眠気はなく、なんともいえない不安感が私を支配する。
家を出たのはいい。帰らないのも自分で決めたことだ。それで、私は何をすればいい?
こうしてだらだらと過ごすのは悪くない。が、決してよくもない。停滞は何も生まず、緩やかな衰退へと向かう。
正直なところ、わからなくなってきた。私がなにをしたくて、何を望まれているのか。
「難しい顔してるね」
ヌッ、と視界に穂乃果の顔が映る。にへらとした笑みを浮かべて、私の眉間に人差し指で触れる。
「何を悩んでいるかはわからないけれど、真姫ちゃんはもうちょっと気楽になったほうがいいよ」
「気楽に?」
「うん。よくわかんないけど、きっと何とかなるよ。真姫ちゃんだし」
「……何それ。意味わかんない」
「案外、なんとかなるもんだよ。実際、音ノ木坂の廃校だってなんとかなったし」
「いや、それはまた別の問題じゃないかしら……」
「一緒だよう。頑張ってればきっとなんとかなるんだよ」
そういうものだろうか?
17:
私が穂乃果の家に寝泊りするようになって三日が経った。
特別、変わったことはない。朝起きて、バイトへ向かう穂乃果を見送って、何をするでもなく過ごす。
だらけた生活。家主たる穂乃果は家事を手伝えとも言わず、ただただ私は世話になっている。
流石に冷静になるべきだ。ただ日々を無為に過ごしたところで何も変わらないのだから。
「戻りましょう、家に」
誰も居ない部屋で宣言する。帰るのではなく、戻るのだと。
そして向き合わなければならない。家を飛び出してきた原因である、私の父と。
「……はぁ」
意気込んだはいいものの、気分は下がるばかり。飛び出してきた、とはいうものの、実態としては逃げ出した、という方が正しいのだ。
父から、引いては西木野から。ずっと目をそらしていて、それを直視せざるを得ない状況に陥ったから、逃げ出してきたのだ。
「なんとかなる、か」
そうなればいいのだけれど。
18:
「久しぶりだな、真姫」
いきなりのラスボスである。こんなの聞いてない。
「……ええ、久しぶりね、パパ。元気だった?」
「それなりにな」
「……」
「……」
沈黙。まさか、家に入ってすぐに遭遇するとは思わなかった。お陰で心の準備ができていない。
二人並んでリビングに移動する。適当な飲み物を用意し、向かい合って座る。
物凄く居心地が悪い。大きな存在は、ただ居るだけでこちらを圧迫する。
「まずは一つ、謝罪しよう。まだ高校生のお前に、見合いの話を持ち込んだのは悪いと思っている」
「……別に、それはいいのよ」
きっかけは、それだったか。まぁ見合いなんてのはどうでもいいのだ。
見合いして、その気にならなかった、で終わりだ。
これが二十代後半ともなればそうは行かなかっただろうが……こちらはまだ高校生。その程度のわがままは許される。
19:
「では、何が不満だったんだ? 家を飛び出すほどだ。何かあるんだろう」
「それは」
不満を持たれているのはわかっている。が、その不満が何から来ているものかわかっていない。
この人にとって、私が飛び出したのは癇癪以外のなにものでもないわけだ。いやそれはそれで正しいのだけれど。
思えば、私はこの人のことをよく知らない。小さい頃から家を空けていることが多かったから。同時に、この人も私のことをよく知らないのだろう。
「一つ、聞いていい?」
「なんだ」
「私が医者になりたくないって言ったら、パパはどうする?」
「……それは、音楽を続けたいということか」
「どうかしら。医者になる意思がないわけじゃないけど」
本当のことだ。医者になりたくないわけじゃない。ただ、音楽の道も諦めることができたわけじゃない。
今、私は分岐点に立っている。どの道にも進むことができる。問題は、その進み方がわからないということ。
「……なんにせよ、認めるわけにはいかないな」
「医者になるかどうかは私次第だわ」
「そうだな。それでもお前が医者にならないというのなら、支援はできない」
「縁を切るってこと?」
「そこまでではないさ。お前は西木野の跡継ぎである以前に、私の娘だからな。ただ、我を通したいのなら自分でなんとかすることだ」
予想よりもずっと優しい。正直、縁を切られて家から追い出されるかと思っていた。
今回の家でのようなものでなく、敷居を跨げなくなるような、そんな感じで。
「なぁ、真姫。私は純粋にお前の幸せを願っていて、だからこそ医者になれといっている」
「医者になることが一番の幸せとは限らないわ」
「では一番の幸せとは何だ。それはどこにある? そんな不確かなものを追い求め、不幸になったものは山ほどいるし、実際に見てきた」
「私がそうなるって?」
「ならないと思うのか?」
どうだろう。この人の言っていることは、十分に信憑性のあることなのだろう。私の倍以上は生きているし、その分だけ培われた知識と経験がある。
私なんかただの小娘であり、私を諭すことが、大人としての役割なのだろう。それはきっと親としての義務と、愛情によるものだ。
「まぁ、なんとかなるんじゃないかしら」
「……はぁ?」
あんぐりと口を開ける父を尻目に、冷めた紅茶を飲み干す。飽和した砂糖のじゃりじゃりとした食感に顔をしかめながら立ち上がる。
「それじゃ、私またしばらく帰らないから」
「お、おい」
「……色々と、考える時間をちょうだい。私の人生なの。自分で決めたいの」
誰かに引っ張ってもらうのはもうやめなければならない。自分の足で歩き始めるのだ。
何が正しいのか、私にはまだわからない。どこに向かっているのかも。それでも、私は歩かなければならない。
いつの日か、彼女と並び立つために。
20:
ああ、そうだ。私は結局、穂乃果に劣等感を抱いているのだ。
それは同時に憧れでもある。
穂乃果はいつも私よりも前にいて、一緒に行こうと手を差し伸べてくれる。
今はそれが、たまらなく嫌だった。彼女の後ろではなく、隣を歩いていたい。
対等になりたいのだ。助けられているばかりでは友達などとはいえない。
結局、自身の進路すら決められないのはそこなのだ。どの道に進めば、穂乃果と対等になれるのか。
私には、未だにわからない。が、まぁなんとかなるだろう。
21:
考えるのを止めよう。
自分が何のために生きているのかを真剣に考察し始めて、いよいよ迷走している。
思考停止するわけでも放棄するわけでもないが、少し休むべきだ。
「穂乃果、晩御飯なに?」
寝転がって雑誌を読む穂乃果に尋ねる。家に戻ったことは伝えていない。その必要もない。
「パスタにしようと思ってるけど、何か希望ある?」
「トマトのやつがいい」
「トマトソースのやつじゃなく?」
「うん」
トマトソースもいいが、今はトマトを食べたい気分。思い返せば最近トマトを摂取していない。
「駄目?」
「トマト買ってあるから大丈夫。真姫ちゃんがいるし」
用意がいい、のではなく、いつかトマトを使った料理を作るつもりだったのだろう。
私が喜びそうだから、とか。そんな理由で。穂乃果は、どちらかといえば尽くすタイプだ。誰かが嬉しければ自分も嬉しい、なんてことを大真面目に言える人。
誰かの為に。そういえば、穂乃果は穂むらをどうするつもりなのだろう。老舗の和菓子屋の長女として、継ぐことは考えなかったのだろうか。
そのことについて尋ねてみる。ページを捲る手が止まり、蒼い瞳がこちらを向く。
22:
「穂むらを継ぐのも、考えなかったわけじゃないよ。長女だし、継ぎたくないわけじゃなかったしね」
「じゃあ、どうして?」
「私は何をしたいんだろうって考えたときに、一番に思い浮かばなかったんだよね。穂むらを継ぐのもありだなぁとは思ったけどね」
「何をしたいか……」
結局、それか。私のしたいこと。なってもいい、ではなく、なりたいもの。
簡単にわかったら苦労しない。わからないから、こんなにも悩んでいる。
「真姫ちゃんは、何がしたいのかわからない?」
「……うん」
「まだわからなくても、いいと思うよ。ほら、真姫ちゃんまだ高校生だし」
高校生だから、と甘え続けてきた結果が今だ。
その言葉には頷けない。
「それに、最悪うちに来ればいいよ。何になりたいのかわからなくて、答えが出ないまま手遅れになっちゃったら。そしたら、わたしと一緒に穂むらで働けば
いいんだよ」
「……あなたは、それでいいの?」
「なりたいものになれる、なんて言い切れないからね。失敗してどうにもならなくなっちゃったら、穂むらを継ぐしかないし」
「私だけが失敗するかもしれないじゃない」
「そうなっても、一緒にやればいいよ。ほら、穂むらをやりながらでもできることはあるし」
「……なら、失敗するわけにはいかないわね」
穂乃果は優しい。私が迷っている時に、こうして手を差し伸べてくれる。助けてくれる。
でも、その手を取るわけにはいかない。その手を取ってしまったら、私は二度と自分で歩けなくなる。
確信がある。
私は子供で、弱いから。きっとその手にすがってしまうだろう。
音楽を続けて欲しいと、そう言わないのは彼女なりの温情だろうか。
23:
トマトの赤い実をフォークで刺しながら、トマト農家になるのもありかもしれない、なんて考える。
なれるかどうかはともかく、なろうと思えるものを見つける必要がある、例えそれが、幼い子供のように単純なものであっても。
つまり、夢だ。人生を捧げる夢が必要なのだ。
「穂乃果は小さい頃の夢、なんだった?」
「ん? お花屋さんだよ?」
「もう、なろうとは思わないの?」
「んー、そうだね。なってみてもいいかなとは思うけど、積極的になろうって感じはしないかな」
「今は歌、なのね」
「そうなるかな」
いや、聞きたいのはそこじゃない。
「小さい頃は、どうして花屋になろうと思ったの?」
「……なんでだろう」
「えぇ……」
「たぶん、お花屋さんの店員さんが美人だったとか、そんな感じじゃないかなぁ。綺麗なお花に囲まれて仕事する人に憧れてたんだと思う」
憧れ。そういえば、私は父に対して現実味のある憧れを抱いたことがないのではないだろうか。
医者という職業は、素晴らしいと思う。多くの人を救う父を凄いとも思うし、尊敬もしている。
だがどこかで、遠い人のようにも感じている。童話に出てくる勇者のような、そんな存在。
父は、私の父親として振舞うこと事態が少なかったのではないか。
病院のトップと、その後継。というのが、私と父の関係だったのだ。
憧れ、尊敬。その二点で言うのであれば、穂乃果も該当するが。
「どうかした?」
食事の手を止めて、穂乃果を見る。蒼い瞳とまっすぐに対峙する。
どこか後ろめたさを感じるのは、そういうことなのだろう。
「私があなたと歌いたいって言ったら、どうする?」
「別に構わないよ? それも楽しそうだし。……まぁ、真姫ちゃんがそれでいいのなら、だけど」
「そう、よね。今のはとりあえずなしで」
わからない。自分自身が何故こんなにも悩み、迷っているのかがわからない。
進路を決めるなんて、もっと単純なことのはずなのに。
24:
「真姫ちゃんは、目の前にショートケーキとチョコケーキがあったらどっちを取る?」
「……いきなりなによ」
「いいからいいから」
「チョコ、じゃないかしら」
「じゃあ、ショートケーキはいらない?」
「そうじゃないけど……。というか両方選べるなら最初からそういってよ」
「私は両方は駄目っていってないし……。ま、そういうことだよ」
「……はぁ?」
「真姫ちゃん、色々悩んでるみたいだけどさ。やっぱりもっと気楽に考えたほうがいいよ。真姫ちゃんなら、どんなことだってできるよ」
「……それ、買いかぶりすぎじゃない?」
「ううん、絶対そうだよ。私が保証する」
25:
進む道を選ぶ。選択する。
選ばなかったことは、諦める? それはなにか違う。すっぱりと諦めるほど、興味がないわけじゃない。
選びたくなかった、のだろう。私は、諦めたくなかったのだ。
今までずっと諦観していて、穂乃果たちと出会ってその必要がないことを知って。
どの道に進んでもいいなんて嘯いて。諦めたくないから選ばないで。
単純な、思い違いだ。何かを諦める必要なんてない。医者になったからといって、ピアニストになれないわけじゃない。
父はなんというだろうか。きっと驚くに違いない。そのときの顔を想像すると、今から笑いがこみ上げてくる。
なんだってやってやろう。それで駄目なら、諦めもつくだろう。ただ、やりもせずに諦めるなんてのはしたくない。
医者になる。音楽だって続ける。トマト農家だって目指してやる。
目の前にたくさんの道があれば、それらをつなげて一本の道にしてしまえばいい。
また穂乃果に助けられたけれど……。ちょうどいい。穂乃果に頼られるようにもなればいいのだ。
「ねぇ、穂乃果」
「うん?」
「さっきの話、なしにしてっていうのは取り消しで。私、やっぱりあなたと歌いたいわ」
「真姫ちゃんがそうしたいなら、私は歓迎するよ」
「ええ、でも、少しだけ待っていてちょうだい。準備が必要なの」
私なりのケジメをつけなければならない。立ち止まっていた私と、それを取り巻く全てのものにさようなら、だ。
26:
「……もう一度言ってくれるかい?」
「何度でも言うわ。私は、医者になるけど音楽も続けるの」
私がまた穂乃果に助けられて数日が過ぎた今日。私は自身の家に戻ってきていた。
本当はもっと早く戻り、父と話したかったのだけど、スケジュール調整をした結果数日が過ぎてしまった。
「本気かい?」
「いたって真剣よ。ふざけてなんかいないわ」
「……質問を変えよう。できると思うのかい?」
「質問で返すけれど、あなたの娘はそんなに不出来かしら」
対峙する父の顔が、なんとも形容しがたいものに変化していく。
怒っているわけでもなく、悲しんでいるわけでもなく。こんな表情もするのだな、と初めて人間味を見た気がする。
……いや、私が気づいていなかっただけか。見ようとすらしていなかったのだから。
「家事すらできない小娘がよくいう……。洗濯機の使い方とかわかるのか」
「失礼ね。説明書読めば余裕よ」
「駄目っぽいな」
「……そういうパパはどうなのよ」
「余裕だぞ。ついでに言えば料理も掃除もできる」
酷く裏切られた気分だ。
「若い頃は、一人暮らしをさせられていたからな」
「そうなの?」
「ああ……。若いうちに色々な苦労をしたほうがいいって親父言われてね」
「大変だったの?」
「そりゃ、突然だったからね。右も左もわからないうちにアパートに放り込まれたのさ」
初めて聞く父の昔話をもっと掘り下げてみたくはあるが、それはまた今度にしよう。
今は、私のことだ。
「それで、パパはどうするの?」
「どうするのっていわれてもね。やる気なんだろう?」
「もちろんよ」
「なら、医者になることを優先しろ、としか言うことがないな」
「優先、ね」
まぁ、まず何になるかの違いでしかない。早いか遅いか、である。
その上でまず医者になれというのならその通りにしよう。
まぁ駄目だとか認めないとか言われたとしても同じことをしただろうが。
27:
「ああ、なんなら、一人暮らしもしてみるかい? いい機会だろう」
「私、まだ高校生よ?」
「問題ないだろう? ああ、別に高坂穂乃果さんを頼ってもいいぞ?」
「……なんで穂乃果の名前が出てくるのよ」
結局、穂乃果のところにいることは話さなかった。連れ戻される可能性を考慮し、友達の家としか伝えなかった。
なのにどうして、この人はこのことを知っているんだろうか。
「一人娘の家出を心配しないわけないだろう? いろんなところに電話してるときに、高坂さんから電話があったんだ」
「電話……?」
そんな素振り、あっただろうか。穂乃果が電話している姿は数回しかみていないし、そのいずれもがバイト関係だったはずだ。
いや、家出した次の日の昼だけは、誰と電話していたのか定かではないが。
でも、穂乃果から……? あの日は穂乃果へ電話が掛かってきていたはずだ。
「そうだ。お前が家出したその日の日付が変わるくらいか。何か考えがあると思うから、そっとしておいてやってほしい、なんていわれたよ」
家出した日の、日付が変わるころ。確かにその日、わたしだけ先にベッドに入り、穂乃果はシャワーを浴びてからベッドに入った。
それほど長い時間通話したわけでもなさそうだし、きっとその間に電話をかけたのだろう。
「その次の日の昼に、こちらからかけたがね」
結局、世話になりっぱなしだった訳だ。私はなんて手のかかる子供だろうか。
「それで、お前はどうしたい? 最低限の支援はしてやろう」
「そう、ね。それじゃあ、私は――」
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