ビッチ(改)【その3】back

ビッチ(改)【その3】


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9:
 翌日は平日でお互いに仕事があった。僕は二日連続で同じ服装でも別に気にならなかっ
た。もともとそういう業界だったから。でも理恵はそうも行かないと言った。校了間際で
もないのに同じ服で出社なんて何と噂されるかわからないそうだ。それで、僕は日付も変
わったくらいの時間にラブホを出て、理恵を自宅近くまでタクシーで送って行った。
「本当なら大学時代に博人君とこうなれていたのにね」
 理恵がタクシーの後部座席で僕に寄りかかりながら呟いた。
「そうだね」
 僕は少しだけ理恵の肩を抱く手に力を込めた。それに気づいたのか理恵が微笑んだ。
「初めては君とがよかったな」
 酒に酔っていたせいか、さっきの余韻がまだ残っていたせいか、理恵はタクシーの運転
手のことを気にする様子もなくそう言った。
 理恵を送り届けてから実家に戻ったときはもう夜中の二時過ぎになっていた。タクシー
の支払いを済ませて、実家のドアの鍵をそうっと開けて家に入ると、すぐに唯が姿を見せ
た。
「おかえり、お兄ちゃん」
「ただいま・・・・・・って何でこんな時間まで起きてるんだよ」
「だってお兄ちゃん、なかなか帰って来ないしさ。あたし入社するまで暇だから夜更かし
したって問題ないしね」
「・・・・・・まさか僕の帰りを待ってたんじゃないだろうな」
「何自意識過剰なこと言ってるの。何であたしがお兄ちゃんが帰って来るまでこんな時間
に起きて待ってなきゃいけないのよ」
「違うの?」
「・・・・・・いや、まあ待ってたんだけどさ」
 唯はそう言って笑ったけど、すぐに僕の腕を取って自分の方に引き寄せた。
「何だよ」
「シャンプーの匂いがする」
 僕は一瞬どきっとした。実の妹にそういうことがばれるのはとても気恥ずかしい。
「理恵さんと休憩してきた?」
 唯がストレートに聞いた。
「いや、その」
「よかったね、お兄ちゃん。理恵さんと再婚するならあたしは賛成だよ」
「・・・・・・まだそんな話になってるわけじゃないよ」
「まだ? じゃあ、さっさと決めちゃえばいいじゃん。うちの父さんも母さんも理恵さん
のご両親も誰も反対しないと思うけどな」
「とにかくもう寝る。明日もっていうか今日も仕事だし」
「うん。お風呂に入らなくていいからすぐ眠れるね」
「・・・・・・おい」
「冗談だって。奈緒人と奈緒の横で寝てあげて」
「うん」
「あたしの隣だけど別にいいよね」
「おい」
 これで何度目かわからないけど唯はまた可笑しそうに笑った。
250:
 翌日の午前中、理恵から電話があった。
 奈緒人と奈緒が並んで寝ている実家の和室に横になったのが夜中の四時前で、起床した
のが朝の六時だった。奈緒人と奈緒と一緒に寝るのは心が安らいだけど、同じ部屋で唯ま
で一緒に寝ることになるとは思わなかった。普段は親子三人で寝ているのだけど、僕が仕
事で遅くなるときは妹は奈緒人たちを寝かしつけるだけでなく、子どもたちと一緒に寝て
いてくれたらしい。子どもたち以外に同じ部屋で寝る女性なんてこれまでは麻季しかいな
かったので、そこに唯が寝ていることに混乱して僕はほとんど眠れなかった。
 それでも仕事柄徹夜には慣れていたせいで、出社すれば僕はいつもどおりに仕事モード
に戻れた。
『元気?』
 携帯の向こうで理恵が言った。
「いきなり元気って何だよ」
『いやあ、ああいうのって久し振りだったからさ。こういう場合何ていえばいいのか忘れ
ちゃったよ。現役を離れて久しいからね』
「何言ってるんだ。まあ、でもそうだね。僕もこういうときに何て答えたらいいのかわか
らないや」
 思わず僕は笑ってしまった。こういうやりとりはすごく新鮮だった。大学時代に麻季と
付き合い出してからこういう会話は全くしたことがない。麻季と僕との間はオールオアナ
ッシングであって、うまく行っているときは直球の甘い会話しかしたことがなかったし、
それ以外のときはお互いに傷付けあってばかりいたような気がする。麻季の性格上、こう
いうゆとりのある会話なんて彼女に対しては望むべくもなかったのだ。
『でも、安心したよ。あたしもそうだけど博人君もまだ現役でああいいうことできたんだ
ね』
「午前中から何を言ってるんだ君は」
『あはは。何かこういうのって久し振り。一緒に寝るよりこういう会話の方が楽しいね。
若返ったみたい』
「理恵ちゃんさあ。周りに会社の人がいるんじゃないの」
『いないよ。今外出中だもん。つうか今さらちゃん付けるのやめてよ』
「僕は周りは人だらけなんだけどな」
『ちょっと出て来れない?』
「今、どこ?」
『博人君の会社の側のクローバーっていう喫茶店。ここたまに打ち合わせで使うんだ』
 それは最後に怜菜と会った店だった。クローバーに入るのは怜菜と会って以来だった。
小さいとはいえ編集部を任された僕は以前より外で打ち合わせをする機会が減っていたの
だ。
「博人君。ここだよ」
 理恵が手を振った。理恵が座っているのが怜菜と最後に会ったときの席ではなかったこ
とに僕は何だか少しだけほっとしていた。
「お待たせ」
「仕事大丈夫だったの」
 理恵が僕の仕事を気にして言ってくれた。
「うん。どうせそろそろ昼食にしようかと思ってたとこだし」
「そうか、よかった」
 理恵が上目遣いに僕を見て微笑んだ。何だか本当に麻季に出会う前、まだ普通に恋愛し
ていた頃に自分に戻ってしまったような気がした。
「じゃあ、何か食べようよ。ここ食事できるんでしょ」
「サンドウィッチとかパスタくらいしかないけどね」
「それでいいよ。博人君、何にする」
251:
 いそいそとメニューを取り出して僕に相談する理恵の様子すら今の僕には微笑ましかっ
た。妹に洗脳されたわけではないけど、僕は理恵のことが好きになっているのかもしれな
い。彼女を抱いてしまった後に思うようなことではないのかもしれないけど。もしかした
ら僕はようやく麻季に対する不毛な感情から開放されるのかもしれない。
「パスタっていってもナポリタンかミートソースしかないのね」
「この店にそれ以上期待しちゃだめだよ。でも味は結構いいよ」
「そう? 博人君は何にするの」
「ミックスサンドにする」
「じゃあ、あたしも」
 そう言って理恵は微笑んだ。
 店内には簡単な昼食をとる客に混じって、打ち合わせをしている顔見知りも結構いるよ
うだ。こんな環境で僕はサンドウィッチを放置して理恵にプロポーズした。理恵はと言え
ば口に中からハムとマヨネーズが溢れ出して、すぐには返事どころではなかったらしい。
目を白黒させながら彼女は慌ててアイスコーヒーで口の中を洗い流した。
「うん、いいよ。バツイチ同士だけど結婚しようか」
 さっきまで大学生同士のように何気ない会話でお互いの気持を確かめ合っていたはずな
のに、やはりこの年になるとロマンスには無縁になるのだろうか。僕と理恵の再婚は混み
合った喫茶店であっさりと決まったのだった。
 それから少しして僕と理恵は別れた。お互いにまだ仕事中だったのだ。麻季にプロポー
ズした時のような大袈裟なやりとりは何もなかった。考えてみれば愛しているとか好きだ
よとかの会話も、少なくともこのときにはお互いに口にしていなかった。
「とりあえず、麻季ちゃんと博人君が離婚するまでは婚約もできないね」
「ああ、悪い」
「いいよ。それで奈緒人君と奈緒ちゃんは当然引き取りたいんでしょ?」
「うん・・・・・・いい?」
「もちろんだよ。でも明日香も一緒に育てるからね」
「当然そうなるよね。奈緒と明日香ちゃんは同い年だしきっとうまくいくよ」
「うん。たださ。プロポーズしてくれた後にこんなこと言うのは後出しっぽくて申し訳な
いんだけど」
「何?」
 僕は少し嫌な予感がした。ここまでうまく行き過ぎいているような気がしていたのだ。
「あたし、仕事は止めたくないんだ」
「そんなことか。もちろんいいよ」
 麻季は奈緒人を出産したとき、自ら望んで専業主婦になったのだ。僕はそのことに関し
て反対をしたことはない。そして理恵が共働きを望んでいる以上、無理に専業主婦にする
つもりもない。
「そうじゃなくてさ。結婚しようって言ってくれたのは嬉しいけど、あたしと一緒になっ
ても君と麻季ちゃんの親権の争いには有利にはならないよ?」
 僕はそのことをすっかりは忘れていた。もちろん親権に有利になる方が望ましいことは
確かだった。それは唯が僕に理恵と付き合うように勧めた理由の一つでもあったのだ。で
もこのときの僕は子どもたちの親権を考慮して理恵にプロポーズしたわけではなかった。
親権の争いのことなど今まで忘れていた。ただ、理恵と一緒になりたいと思っただけで。
 僕はそのことを正直に理恵に話した。
「・・・・・・嬉しい。そう言ってくれると、さっき結婚しようって言われたときより嬉しいか
も」
 理恵が今日始めて顔を伏せて涙を浮べてそう言った。
 その後の展開は早かった。僕は久し振りに会う理恵のご両親に挨拶に行った。お嬢さん
と結婚させてくださいとか言わせてもらうことすらできず、久し振りねえとか元気だった
かとか理恵の両親から僕は言葉をかけられた。本当に懐かしく思ってくれていたみたいだ
った。質問攻めに懐かしいながらも当惑していた僕を見かねて、僕と理恵の結婚には賛成
だよね? って両親に対して言い出して僕たちを救ってくれたのが玲子ちゃんだった。
252:
 理恵と幼馴染だった頃にはまだ彼女は生まれていなかったので、僕と玲子ちゃんは顔を
合わせるのは初めてだった。
「結城さんはお姉ちゃんと結婚したいんだって。ちゃんと答えてあげなよ」
 当時大学生だった玲子ちゃんはそう言ってくれた。
「そんなのOKに決まってるだろ」
「そうよ。結城さんのご両親とはもうこのことは打ち合わせ済みなのよ」
 理恵の両親がそう言った。どうやら僕が自分の両親に理恵との結婚を話す前から、僕の
両親にはその事実が伝わっていたようだった。犯人は一人しかいない。唯だ。そして唯と
玲子ちゃんも仲がいいらしい。僕と理恵の結婚はお互いの妹たちによって根回しされてい
たのだった。このとき玲子ちゃんは奈緒と同じくらいの年齢の女の子を抱っこしていた。
「ほら明日香。あなたの新しいパパだよ」
 玲子ちゃんがからかうように言った。
「玲子!」
 顔を赤くしながら理恵が玲子をたしなめた。翌週、僕は理恵を連れて自分の実家に戻っ
た。予想したとおり理恵の実家を訪れたのとほぼ同じような展開が僕たちを待ち受けてい
た。事前に唯が根回しをしてくれていたせいで、僕の両親は僕と理恵の結婚に関しては良
いも悪いもなく既定事項のように受け止めたうえで理恵を歓迎してくれた。
「理恵さん、本当にこんな兄貴でいいんですか」
 唯が理恵をからかった。
「唯ちゃんこそごめんね。大好きなお兄ちゃんを奪っちゃって」
 理恵も動じなかった。
「・・・・・・何でそうなるんですか」
 理恵と唯は視線を合わせたかと思うと笑い出した。理恵の僕の実家への訪問で少しだけ
慌てたのは、奈緒人と奈緒と理恵が初顔合わせをしたときだった。唯がそれまで外に遊び
に行っていた二人をリビングに連れてきた。理恵は奈緒人を微笑んで見つめた。そしてそ
の視線が奈緒に移ったとき、理恵は突然沈黙してしまった。
「理恵さん?」
 不審に思ったのだろう。唯が理恵に話しかけた。
「どうかした?」
 僕にまとわりついてくる奈緒人と奈緒を抱き上げて二人一緒に膝の上に乗せながら僕も
理恵に聞いた。
「あ・・・・・・ごめん。奈緒人君、奈緒ちゃん。今日は」
 理恵が取り繕うように言った。その場の雰囲気を気にしたらしい唯は、二人で少し近所
を散歩してきたらと勧めてくれた。
「理恵さん、今日は泊まって行けるんでしょ?」
「あ、ええ」
「そうしなさい。ご両親には私から連絡しておくから」
 父さんも理恵にそう勧めた。
「じゃあ、今夜は宴会だね。準備しておくから邪魔な二人は散歩でもしてきなよ」
 唯が言った。
「僕たちもパパと一緒に行っていい?」
「あんたたちはお姉ちゃんのお手伝いして。できるよね」
「うん。お姉ちゃんのお手伝いする」
 奈緒が元気に返事をした。奈緒は実家の中では一番唯に懐いているのだ。
「じゃあ僕も唯お姉ちゃんのお手伝いする」
 奈緒の言葉を聞いた奈緒人は即座に僕と一緒に出かけるより奈緒と一緒にいる方を選ん
だようだった。
253:
「驚いた。奈緒ちゃんって怜菜さんにそっくりじゃない」
 理恵を連れて実家の近所の自然公園内を散策していたとき、理恵がそう言った。そんな
ことだろうと思っていた僕は別に理恵の反応に驚きはしなかった。奈緒はまだ幼いながら
も美人だった。多分容姿に関しては将来を約束されていたと言ってもいいくらいに。鈴木
先輩も外見はイケメンだったし怜菜に関しては性格も外見も可愛らしかった。奈緒の端正
な外見は両親の遺伝子を引き継いでいたのだ。当然のことだけど奈緒は僕にも麻季にも全
く似ていない。でも、この頃には唯も両親も血の繋がりのない奈緒のことを家族として受
け入れていたから、僕も唯も、そして僕の両親さえ一度たりともそれが問題だとは考えた
ことはなかった。
「これじゃ、麻季ちゃんが悩んじゃうわけだよね」
 寒々とした公園内の池を眺めながら理恵が呟くように言った。
「どういうこと?」
 理恵が僕を見た。
「麻季ちゃんが怜菜さんと君のことで悩んでいたとしたらさ。きっと奈緒ちゃんを見るた
びにつらい思いをしていたのかもしれないね」
「そんなこと」
「ないって言える?」
「麻季は自分から奈緒を引き取るって言い出したんだ。娘が母親に似るなんて当たり前だ
ろ。それくらいのことで麻季が奈緒のことを気にするなんて」
「・・・・・・もう一度聞くけどさ。本当にないって言えるの」
 僕は沈黙した。つらかったけど、麻季が奈緒を引き取ると言い出してからの彼女の言動
を改めて思い起こそうと思ったのだ。少なくとも僕と一緒に過ごしていたときの麻季には、
奈緒の容姿が怜菜と似ていることに対して悩んだりした様子はなかったはずだ。あの頃の
彼女は奈緒人と同じくらいの愛情を奈緒に向けていた。
 だけどもう少し考えを推し進めて、僕がそう錯覚していたように当時の麻季が僕との仲
に無条件に安らぎや安堵感を感じていなかったとしたらどうなのだろうか。大学時代の自
分の親友のことを好きになった旦那。そして麻季が自ら育てることを選んだ奈緒は当然な
ことに怜菜に似ていた。その奈緒をひたすら大切にして可愛がっている僕。麻季が口や態
度には出さなくても、内心僕と怜菜の関係に悩んでいたとしたら怜菜への嫉妬が奈緒への
嫉妬や嫌悪に転化したということもあり得るのだろうか。
「麻季が怜菜への嫉妬心を奈緒にぶつけるようになったって言いたいの? そのせいで麻
季が子どもたちをネグレクトしたと」
「さあ? 麻季ちゃん本人に聞かなければ真相なんてわからないよ。でも奈緒ちゃんって
本当に怜菜さんに似てるよね」
「鈴木先輩の面影もあるんじゃないか」
「全くないとは言わないけど、どちらかと言うと奈緒ちゃんはお母さん似だよ。あたしは
そう思うな」
「仮に君の推測のとおりだったとしてもさ。少なくとも麻季は奈緒人のことだけは自分の
ことより大切にしていたよ。それは間違いない。たとえ奈緒の育児を放棄したとしても、
麻季は少なくとも奈緒人のことは面倒看たはずだ」
「そうだよね。麻季ちゃんの育児放棄は許されることじゃないけど・・・・・・仮に奈緒人君だ
けを大切にしていて奈緒ちゃんだけを食事も与えずに虐待していたとしたら」
 僕は頭を振った。夕暮れが近づいていて、だいぶ気温が下がってきたようだ。
「そうだったら奈緒が今頃どうなっていたか考えたくもないね」
 実際、母親であるはずの麻季に一人きりで放置されてたとしたら、いったいどれくらい
心の傷を奈緒が受けていたかを考えるとぞっとする。そういう意味では僕は奈緒人のこと
を誇りに思っていた。奈緒人は麻季に放置された不安から泣きじゃくる奈緒を、精一杯慰
めて守ろうとしたのだった。そのせいもあって、奈緒は思ったより早く心の傷を癒して元
通りの明るい性格に戻ることができた。
「次の調停っていつなの?」
 僕はつらそうな様子をしていたのかもしれない。理恵が話を変えた。
254:
「七月だね」
「調停に出れば麻季ちゃんと直接話せるの?」
「いや。今のところお互いに別々に調停委員に呼ばれて、相手の主張を聞かされてそれに
対する反論を聞かれるって感じかな」
「じゃあ麻季ちゃんと直接話したことはないんだ」
「顔を合わせてすらいないよ。こないだの居酒屋で会ったのが初めてだよ」
「そうか」
 理恵は何かを考え出した。
「今度の調停で養育環境が整いましたって調停委員に申し立てなよ」
「え? 理恵ちゃんはいったい何を言ってるの」
「ちゃんを付けるな。何度言わせるのよ、ばか」
「あ、いや。そうじゃなくてさ」
「麻季ちゃんとの離婚が成立したら再婚する予定の人ができました。彼女が子どもたちを
育てますって言って」
「編集業しながら養育なんて無理だろ。有希ちゃんだって玲子ちゃんが育ててるみたいな
もんじゃん」
「明日にでも経理か総務に異動させてくれって上司に言うから」
「・・・・・・はい?」
 理恵が僕に抱きついた。
「それで駄目なら会社辞めてやる・・・・・・博人君、そうなったらちゃんとあたしを養えよ」
「おい」
 理恵とべったりと寄り添ったまま実家に帰ると宴会の支度が整っていた。奈緒人と奈緒
が僕を出迎えてくれた。理恵は迷わずに二人に向って手を伸ばした。
 法的にはまだ僕は既婚者だったからすぐに理恵と結婚するわけにはいかなかったし、お
互いに子どもがいたから同居するのも難しかったので、少なくとも麻季との離婚調停の結
果が出るまではこれまでどおりお互いに実家で別々に生活を送ることになった。
 公園で理恵と話をしてから僕はこれまでより注意して子どもたちを見るようになった。
そうすると、僕はこれまでは子どもたちへの愛情と憐憫からこの子たちのことを、とにか
く可愛がることしかしてこなかったことに気がついた。僕の実家に馴染んでよかったとか
僕の帰りが遅くても二人とも最近泣かなくなったとか、そういうことだけを僕は一喜一憂
してこれまで過ごしてきたのだった。
 改めて子どもたちの様子を覗うと僕にもいろいろ新たにわかったことがあった。例えば
最近、唯は楽しそうに僕と理恵のことをからかったり、少し真面目になったときは僕たち
が結婚したらどこに住むのかとかそういう質問を僕にすることがあった。そういうときに
は両親も楽しそうに口を挟んできた。でも、子どもたちは大人たちが盛り上がっている会
話の中には入ってこようとしない。もちろん、大人の話だから話には入りづらいだろう。
でも普通の子どもたちなら、わからないなりに無理にでも話に参加しようとするだろうし、
場合によってはその場の関心を自分たちの方に向けようとするものではないか。
 でも、奈緒人も奈緒も大人しく二人で寄り添っているだけで、話に割り込んでくる様子
は一切見せようとしなかった。
 大人同士の話の間、奈緒人と奈緒は二人だけのささやかな世界を作り上げてその中にこ
もっているようだった。それは微笑ましい光景でもあったけど同時にひどく寂しいことで
もあった。母親にネグレクトされた経験を持つ奈緒人と奈緒は、大人たちに相手にされな
いときは他の甘やかされて育った子どもたちのように、大人の関心を自分たちの方に向か
せようと駄々をこねたり話に割り込んできたりしない。そういうとき、奈緒人と奈緒は反
射的に二人だけの世界に閉じこもることを選ぶようになっていた。
 やはりこの子たちにはまだネグレクトされたことによる影響が残っている。僕は子ど
もたちが自然に二人きりの世界を作っているのを見てそう思った。
 それから、奈緒人と奈緒の関係も微妙ながら変化しているようだった。
255:
 僕は今まで奈緒人が奈緒のことを守ろうとしているのだと思っていた。それは間違いの
ない事実だったとは今でも思っているけど、改めて二人をよく眺めると意外と奈緒が奈緒
人の面倒をみるような仕草を見せていることに気がついた。奈緒人が食べ物をこぼしたり
服を汚したりするたびに、奈緒はいそいそと奈緒人が落としたものを片付けたり奈緒人の
服をティッシュで拭いたりしていた。僕はそんな奈緒の様子に初めて気がついたのだ。仕
事のせいで子どもたちのことをじっくりと見てあげられなかったせいか、こういう奈緒の
様子には今まで気が付きもしなかった。
 そのことを唯に話すと「今さら何言ってるの」と呆れられた。
「前に奈緒人が奈緒の面倒をよくみてくれるって言ってたじゃん?」
「うん、そうだよ。あたしもこんなんじゃなくて奈緒人みたいな兄貴が欲しかったよ」
「いや、それはどうでもいいけど、何か僕が見るにどっちかっていうと奈緒の方が奈緒人
の面倒をみているように見えるんだけど」
「そんなの前からそうじゃん。確かに奈緒人は奈緒を気にしているけど、奈緒だって奈緒
人に甘えているばかりじゃないんだよ」
「・・・・・・今まで気がつかなかった」
「まあ、お兄ちゃんが気にしなくてもいいよ。あたしみたいに毎日この子たちを見ていら
れたわけじゃないんだしさ」
「こんなことにも気がついていなかったんだな。少しだけ自己嫌悪を感じるよ」
「女の子の方がしっかりするの早いしね。妹の奈緒が兄の奈緒人の日常の面倒をみるなん
て微笑ましいじゃん」
「まあ、そうかな」
「まるであたしとお兄ちゃんみたいでしょ? しっかり者の妹が兄貴の面倒をみるとか」
 僕が新たに気がついた子どもたちのこういう様子は、唯にとっては単に微笑ましい成長
のしるしに過ぎないようだったけど、こういう二人の様子を僕不在の家庭で麻季がどうい
う気持で眺めながら子育てをしていたのかを僕はここにきて初めて考えてみた。そうして
考えるようになると先日の理恵の話が頭に浮かんだ。
『麻季ちゃんが怜菜さんと君のことで悩んでいたとしたらさ。きっと奈緒ちゃんを見るた
びにつらい思いをしていたのかもしれないね』
 僕は想像してみた。奈緒が怜菜にそっくりなことは麻季も気がついていたかもしれない。
そして奈緒人の方は僕に似ている。そんな奈緒人と怜菜似の奈緒が日増しに仲良くなって
いくところを、麻季は育児しながら一番身近なところで眺めていたのだろう。
 今まで考えたことはなかったけど・・・・・・もしも、本当にもしもだけど麻季が奈緒人に僕
の姿を見つつ奈緒に怜菜の面影を見ていたとしたら、麻季はその二人の姿を見て何を思っ
たのだろう。
 こんな幼い子どもたちに重ね合わせていいことじゃない。だけど麻季が本当に僕と怜菜
との仲を気にしていたとしたら、それは麻季にとってはまるで悪夢そのものだったかもし
れない。幼い二人が仲良くなる姿を見て、本来微笑ましいはずのその様子に麻季が僕と玲
菜が親しくなっていく姿を重ねてしまっていたとしたら、どれほどの心の闇が麻季に訪れ
ただろう。理恵の言葉をきっかけにして僕はそのことにようやく気がついたのだ。
 せめて僕が家庭にいれば麻季のストレスは僕の方向に向いていただろうし、僕も麻季を
諌めたり慰めたり、場合によっては喧嘩だってして彼女のストレスを発散させてあげるこ
とだってできたのかもしれない。でもこのとき僕は海外にいた。
 常識的に考えれば幼い兄妹がどんなに仲が良かったとしても、その様子から僕と怜菜の
仲を思い出して嫉妬するなんて普通の人間なら考えられないだろう。しかも怜菜が生きて
いるのならともかく彼女は寂しい死を迎えていたのだし。
 僕に言えた義理じゃないかもしれないけど、死んだ人間への執着に嫉妬することは不毛
だ。生きている浮気相手なら別れて清算することもできるかもしれない。でも亡くなった
怜菜を振って別れることはできないのだ。麻季に限らず亡くなった想い人を相手に勝てる
人なんていない。特に惹かれている気持がマックスのときにその相手が亡くなった場合、
亡くなった彼女への想いは凍り付いたままで、その記憶が残っている限りはそのまま心の
中に留まり続けるしかないのだ。
 いくらパートナーの愛情を疑った人でも、普通ならそんな実体のない相手への嫉妬にこ
だわる人は少ないだろう。特に大切なはずの子どもたちを巻き込むほどその嫉妬心を面に
出す人はいないはずだ。
256:
 でも麻季ならあり得るかもしれない。愛情も憎悪も人一倍強い彼女ならば。大学時代に
ろくに口を聞いたことがなかった僕のアパートに押しかけてきた麻季。僕とは付き合って
さえいない面識すらなかった理恵にところに、僕に構うなと言いに行った麻季ならば、そ
ういう非常識なことも考えられるのかもしれない。
 最初に知り合った頃、僕は彼女のことを境界性人格障害なのではないかと疑ったことが
あった。恋人同士になって満ち足りていた麻季の姿を見た僕はそんなふうに麻季を疑った
ことを後悔したのだった。でも、それは麻季がその頃の僕との関係に充足して満足してい
たからかもしれない。自分の不倫にひけ目を感じたうえに、僕と怜菜のささやかな心の交
情を聞かされて混乱した麻季が、僕の出張中に奈緒人と奈緒の仲のいい様子に僕と怜菜の
姿を重ねて考えるようになってしまったとしたら。
 かつて脅迫的なほど自分の考えにこだわる姿を見せた彼女の様子が思い浮んだ。
『・・・・・・先輩、あたしのこと好きなんでしょ』
『何言ってるの』
『あたし、わかってた。最初に新歓コンパで合ったとき、先輩はあたしのことじっと見て
たでしょ』
『・・・・・・それだけが根拠なの』
『それだけじゃないですよ。美術史の講義で会ったときも先輩、じっとあたしのこと見つ
めていたでしょ』
 あのときの彼女は、ろくに話しもしたことのなかった僕が自分のことを好きなのだと信
じ込んでいた。そんな彼女なら心の中で奈緒人と奈緒の様子を僕と怜菜との関係に置き換
えてしまったとしても不思議ではないのかもしれない。でもその仮定が成り立つとしたら、
麻季がまだ僕のことを好きで執着がある場合に限られていた。僕より鈴木先輩や他の男を
選ぶくらいなら、僕と怜菜の感情に悩むことはないだろう。そこまで考えつくと僕は再び
混乱して、あのとき麻季が何を考えていたのかわからなくなってしまうのだった。
 いろいろ考えた末、理恵の好意に甘えることにした僕は代理人の弁護士に養育環境が麻
季に対して有利な方向で整ったことを報告した。麻季の代理人と親権について渡り合って
くれている彼にはいい交渉材料のはずだった。でも彼は浮かない顔で答えた。
「まあ、昨日までならいい材料だったかも知れないですけどね」
「どういう意味です?」
「今日、太田先生から連絡があったんですよ。先方の状況がいい方に変化したんでお知ら
せしときますってね」
「・・・・・・変化って。いったい先方に何が起きたんですか」
「こっちと同じですよ。先方の養育環境もずいぶん有利になってしまいました」
「というと?」
「奥さんの方も離婚が成立したら再婚するらしいですよ。まあ、奥さんの方は半年は結婚
できませんけど、実質的には同棲するみたいですから、養育条件の面ではこちらに不利に
なるところでした」
 弁護士がそう言った。「まあ、幸いにも結城さんにもお相手ができたみたいですから、
そういう意味では五分五分というか一進一退というところですかね」
 では麻季にはやはり好きな相手がいたのだ。奈緒人と奈緒の親権の争いがかかっていた
大事な場面だったのだけど、このとき僕は麻季の相手が誰なのかが一番気になった。そし
てすぐにそういう自分の心の動きに幻滅した。僕にとって一番大切なのは子どもたちだっ
たはずなのに、そして今では一番大切な女性は理恵なのだ。それなのに麻季の再婚相手の
ことに心を奪われている自分が心底情けなかった。
「相手の名前は?」
「鈴木雄二さんです。あなたの奥さんのかつての不倫相手ですね」
 やはりそうか。奈緒人と奈緒のこととか僕と怜菜のこととか、いろいろごちゃごちゃと
考えたことなんか実際にはまるで関係なかったのだ。やはり麻季は鈴木先輩のことが好き
だったのだ。それも理恵の言うことを信じるとしたら大学の頃から。
「まあ奥さんの再婚はどうでもいいんですけどね。偶然にも先方と同じで結城さんにも一
緒に育児できるお相手ができたわけだし、養育環境の面だけではこちらも有利にはなれな
かったけど不利にもなっていません」
257:
「はあ」
「それよりも問題なのは奥さんの相手が鈴木雄二ということですよ」
「どういうことですか」
「ご存知なんでしょ? 鈴木雄二氏は奈緒さんの実の父親ですからね。奈緒さんが戸籍上
はあなたと麻季さんの娘だとしても血は繋がっていない。実の父親が奈緒ちゃんを引き取
りたいと言い出しているわけで、ちょっとまずいことになりそうですね」
 どうしてこんな簡単なことを今まで僕は忘れていたのだろう。鈴木先輩は怜菜の夫だっ
た。怜菜の遺児である奈緒の実の父親は鈴木先輩なのだった。怜菜は先輩に自分の妊娠を
告げることなく先輩と離婚して奈緒を出産した。そして怜菜の死後、先輩は奈緒を引き取
りはしなかったけど認知だけはしたのだった。
「鈴木氏は奈緒さんの実の父親ですからね。調停委員の心象にもだいぶ影響を与えるでし
ょうね」
「子どもたちを取られてしまうかもということですか」
「実の父親が奈緒さんを引き取りたいという意向を示しているのは我々にとっては不利だ
と思います」
「でも、少なくとも奈緒人は鈴木先輩とは関係ないですよね」
「それはおっしゃるとおりです」
「・・・・・・この先、奈緒人と奈緒はいったいどうなってしまうんでしょうか」
「怜菜さんが亡くなった際、鈴木氏が奈緒さんを引き取らなかったことと結城さんの奥さ
んの育児放棄を強調して、この二人には育児に不安があることを主張してみます」
「それで勝てるんでしょうか」
「調停は勝ち負けじゃないですからね。いかに調停委員の心象を良くするかです。調停結
果が思わしくない場合はその結果に従わないこともできます。でもそれは前に説明しまし
たね」
「ええ」
「最悪のケースは子さんたちの親権を奥さん側に取られてしまうことですが、可能性とし
ては奈緒さんが奥さん側に、奈緒人君が結城さん側にとなることも考えられますね」
「奈緒人と奈緒を引き剥がすなんてあり得ないですよ。あれだけお互いに仲がいいのに」
「でも奥さんが鈴木氏と再婚するとなると、この可能性も現実味を帯びてきてしまいまし
た」
「そんなことは認めない。駄目ですよ。あの子たちを別々にするなんて」
「多分、二人の親権を奥さん側が確保することは難しいでしょう。奥さんのネグレクトは
児童相談所の記録で公に証明されていますし、調停委員の一人は元児童相談員をしていた
人ですから、児童虐待の可能性のある人に親権を認めることはないと思います。でも、鈴
木氏は奈緒さんの実の父親だし別に子どもを虐待した経歴があるわけじゃないですから、
奈緒さんの親権をこちらが確保するのは、正直難しいかもしれません」
「その場合は調停を拒否して裁判に持ち込めばいいんでしょ?」
「それはお勧めしません。裁判になれば多分こちらが不利です。この手の訴訟は判例では
八割方母親に有利な判決が出ているのです。少なくとも調停なら児童委員出身の調停委員
のおかげで何とか奈緒人君の親権は確保できる可能性はありますけど、裁判にしてしまえ
ば二人とも奥さんの方に持っていかれてしまう可能性が大きいですね」
 せっかく理恵が仕事を止めてまで育児をすると言ってくれたのに、この場に及んでまた
鈴木先輩が僕を苦しめようとしているのだ。今の僕にとって一番憎いのは麻季ではなく鈴
木先輩だったかもしれない。
 それから数週間後、次の調停の前日に僕は再び弁護士から電話をもらった。
「最悪の事態です。太田先生から連絡があって奥さん側は明日の調停で申し立てを変更す
るそうです。奥さんは奈緒人君の親権、養育権、監護権とも全て放棄するみたいです。そ
の代わりに奈緒さんだけを引き取ることを主張すると」
 確かに最悪の事態だった。弁護士によれば調停ではその主張は認められる可能性が大だ
という。それにしても麻季は何を考えているのだろう。自分の実の息子である奈緒人のこ
とはどうでもいいのか。それとも奈緒人のことも奈緒のことも麻季にとってはどうでもよ
くて、単に僕に嫌がらせをしたいだけなのだろうか。
258:
 翌日はすごく暑い日だったけど、家庭裁判所の隣にある公園は樹木が高く枝を張り、繁
茂している緑に日差しが和らげられていて、申し訳程度にエアコンが働いている家裁の古
びた建物の中よりよっぽど快適だったかもしれない。
 この日僕は会社の上司に麻季との離婚調停があることを正直伝えて休みを取っていた。
それはいいのだけど、問題は奈緒人と奈緒だった。僕の両親は前日から体調を崩してこの
日は病院に行くことになっていた。そのせいで僕は弁護士から言い渡された辛い事実を相
談することすらできなかった。
 僕は唯には弁護士から聞かされたことを相談した。案の定唯はひどく好戦的だった。
「麻季さんってどこまで自分勝手で卑劣なんだろう。お兄ちゃんに嫌がらせをするためな
ら奈緒人と奈緒を不幸にすることも辞さないのね」
 吐き捨てるように唯はそう言った。
「明日の調停で何と主張するのか決めなきゃいけないんだ」
 僕はもう何かを考える当事者能力を失っていたのかもしれない。これまでの僕は奈緒人
と奈緒を失うか、これまでどおり一緒に過ごせるのかの二択以外のことは考えもしなかっ
たのだ。突然に告げられた奈緒だけを引き取りたいという麻季の主張は僕を混乱させた。
 これまで麻季には少なくとも奈緒人と奈緒にだけは愛情があるということを、僕は疑っ
ていなかったし、そのことを前提に麻季と親権を争っていたつもりだった。たとえ奈緒人
と奈緒の親密な様子に僕と怜菜を重ねてしまっていたとしても、まさか麻季が奈緒人と奈
緒を引き剥がすような、子どもたちにとって残酷な主張をするとは夢にも思っていなかっ
たのだ。
「明日、どうすればいいのかな」
 僕は思考を停止して唯に弱音を吐いた。そんな僕の様子に唯は憤った様子だった。
「どうもこうもないでしょ。断固拒否するのよ。奈緒人と奈緒を別々に育てるなんて可哀
そうなことは認められないでしょうが。あの子たちが麻季さんの虐待に耐えられたのはお
互いを慰めあってきたからじゃない。奈緒人と奈緒を散々傷付けたくせに、反省するどこ
ろかさらに傷つけようとする麻季さんなんかに負けちゃだめよ」
「でも弁護士は訴訟に移行しても負けそうだって言ってるし」
「だから何? やってみなければわからないでしょ。調停ごときで諦めるなんて、お兄ち
ゃんは奈緒人と奈緒を愛していないの?」
 理恵はといえば基本的には唯と同じ意見だった。でも唯と異なるのは、僕がどう判断し
ようとも最終的には僕の判断を受け入れると言ったことだった。
『後で後悔するくらいなら結果はともかく唯ちゃんの言うようにとことん足掻いた方がい
いかもしれないね』
 そう電話口で理恵は話した。『でも最終的には決めるのは博人君だし、それがどういう
決断になるとしてもあたしは最後まで博人君の味方をするよ』
 調停の日は両親は病院へ行くことになっていた。そして間の悪いことに唯はその日、内
定していた企業の招集日だった。つまり実家には奈緒人と奈緒の面倒をみる人間がいなか
ったのだ。
「明日は病気になる。高熱があることにする」
「だめだよ。社会人になる最初のステップからおまえをさぼらせるわけにはいかないよ」
「じゃあ、もう内定辞退するよ」
「だから駄目だって」
 そんなことを唯とやりあっていたとき、理恵が事情を知って電話してきてくれた。
『奈緒人君と奈緒ちゃんも連れて来ればいいじゃん。家裁の隣の公園で遊ばせておけ
ば?』
「子どもたちだけで?」
『明日はあたしもついて行くから』
「仕事もあるだろうしいいよ」
『明日は代休だよ。あたしも一度くらい調停っていうの経験してみたいし』
「・・・・・・それじゃ奈緒人たちはどうなるの」
259:
『奈緒人君なら奈緒ちゃんの面倒くらいみられるよ。唯ちゃんもそう言ってたし。あたし
も玲子に頼んで明日香を連れて行くからさ。何かあったら玲子が奈緒人君たちの面倒みて
くれるよ』
「玲子ちゃんと明日香ちゃんって、奈緒人と奈緒と会ったことすらないじゃん」
『心配いらないって。それとなく気にするように玲子に言っておくから』
 そういうわけでその日の調停の場には関係者として理恵が同席した。その場では顔を合
わせなかったけど、調停委員の話では麻季の方も鈴木先輩を連れてきたということだった。
 結局唯の言うとおり、奈緒人と奈緒を別々に育てるなんて考えられないことを主張して、
この日の調停は終った。僕と理恵が連れ立って家裁のそばの公園を歩いて行くと、ジュー
スやアイスクリームを販売しているワゴンのところに、玲子ちゃんが三人の子どもたちと
一緒に休んでいることに気が付いた。
「あら、結局一緒にいたんだ」
 理恵が微笑んで玲子ちゃんに話しかけた。玲子ちゃんは初対面のはずの奈緒人と奈緒に
気がついてくれたらしく、明日香ちゃんと一まとめにして面倒をみてくれたらしかった。
「玲子さん、奈緒人たちの面倒までみてもらってすいませんでした」
 僕は玲子ちゃんに礼を言った。
「どういたしまして。結城さんにそっくりだから奈緒人君のことはすぐにわかりました」
 玲子ちゃんが微笑んだ。「奈緒人君、しっかりしているから余計なお世話かと思ったん
ですけど、奈緒ちゃんと明日香がいつの間にか一緒に遊び出してたんで」
「本当にありがとう」
「いいですよ。一人も三人も一緒だし。まとめて面倒みてただけで」
 玲子ちゃんがどういうわけか顔を赤くした。
「玲子おばさんにソフトクリーム買ってもらった」
 奈緒人が言った。
「おばさんって、奈緒人。お姉さんと言いなさい」
「パパ」
 突然、奈緒が奈緒人から離れて僕に抱きついてきた。僕は暗い気持ちを隠して奈緒を抱
き上げた。抱き上げられた奈緒は無邪気に喜んで笑っていた。
 調停からの帰り道、みんなでファミレスに寄って遅い昼食をとることにした。僕と理恵、
玲子ちゃんと子どもたち三人の総勢六人で賑やかに食事をしたのだったけど、そのときの
子どもたちの様子を僕はその後ずっと忘れられなかった。奈緒人と奈緒がお互い以外の子
どもに興味を持って親しくしているところを実際に見たのはこれが初めてだった。明日香
ちゃんも人見知りしない子のようだった。彼女は多少甘やかされて育った様子はしたけれ
ど、そんなことには関わりなく奈緒人と奈緒とは短い公園での出会いですっかり打ち解け
ているようだ。特に奈緒と明日香ちゃんは既にお互いを名前で呼び合っている。
「お兄ちゃん口に付いている」
 奈緒が奈緒人の口を拭いた。
「服にもこぼしてるじゃん」
 明日香ちゃんも奈緒の真似をして奈緒人の世話をやき始めた。「お兄ちゃんの服、ケチ
ャップが付いてるよ」
「・・・・・・明日香まで奈緒人君のことお兄ちゃんって呼んでるじゃない」
 玲子ちゃんが理恵をからかうように言った。「もう、いつでも結城さんと結婚できる
ね」
「玲子! あんた子どもたちの前で何言ってるの」
 理恵が本気で狼狽して言った。そう言えば明日香ちゃんに対して理恵が僕たちのことを
話しているのか聞いたことはなかった。うちの実家でも理恵との再婚は両親と妹には公然
の事実となっていたけれど、まだ奈緒人と奈緒にははっきりと話をしているわけではなか
った。麻季との親権争いが片付いていない不安定な状況で将来の話を子どもたちにするわ
けにはいかなかったからだ。
「子どもってすぐに仲良くなっちゃうんだね」
 理恵のことを気にする様子もなく玲子ちゃんが笑って言った。
「そうですね。僕も驚いたよ」
260:
「あたしは結城さんと奥さんの事情はよく知らないけど、この子たちのこういう様子を見
ているだけでも結城さんとお姉ちゃんの結婚を応援する気になるよ」
 玲子ちゃんが理恵に言った。
「・・・・・・玲子」
「まあ、結城さんと結城さんの奥さんの話は唯ちゃんから聞かされてはいたし、奈緒人君
たちもつらかったんだなとは思ってたんだけどさ」
「うん」
「でもまあ、唯ちゃんは結城さんが大好きなブラコンちゃんだから話が偏ることも多いか
らな」
「何言ってるのよ」
「だから話半分に聞いていたんだけど、今日公園で二人を眺めててさ。奈緒人君と奈緒ち
ゃんって相当つらいことを乗り越えてきたんだなって思った」
 少しだけ声を潜めて子どもたちを気にしながら彼女は言った。やはり初対面の玲子ちゃ
んでもそう考えたのだ。
「結城さんとお姉ちゃんが結婚すれば、奈緒人君と奈緒ちゃんとそれにうちの明日香が一
緒に暮らせるじゃない? それだけでもこのカップリングは正しいよ」
「それだけでもって言うな。あたしと結城さんは」
「・・・・・・何よ」
「何でもない」
 理恵が赤くなった。
 二人の女の子にお兄ちゃんと呼ばれていた奈緒人はあまり動じていなかった。自然に明
日香ちゃんのことを受け入れているように見えたけど、それでも奈緒人が一番気にしてい
たのは奈緒のことなんだろうなと奈緒人の様子を眺めながら僕は思った。それより僕にと
って意外だったのは、奈緒人が実家の両親や唯に慣れ親しむのと同じくらい玲子ちゃんに
気を許していたことだった。普段は大人同士の会話が始まると、大好きなはずの唯にさえ
遠慮していた奈緒人が、僕や理恵の話しかけている玲子ちゃんの気を引こうと試みている
ことに僕は気がついた。ただ、奈緒人は玲子ちゃんのことを「玲子おばさん」と呼びかけ
ていせいで、玲子ちゃんの機嫌を少し損ねているようだったけど。
「あのね奈緒人君。おばさんじゃなくて玲子お姉ちゃんって呼んでいいのよ」
「なんでよ。あたしは叔母さんって呼んでるじゃん。お兄ちゃんも叔母さんって呼べばい
いよ」
 明日香ちゃんが奈緒人の腕に手をかけた。一瞬、奈緒が明日香ちゃんの方を見た。その
視線はまるで子どもっぽくなかった。嫉妬する一人の女の子のような視線みたいだ。
 ・・・・・・まさかね。考えすぎだと僕は思った。麻季の心境を想像しようと努めていたせい
か自分まで変な影響を受けたらしい。僕は頭を振った。
「どうしたの」
 気が付くと理恵が不審そうに僕の方を眺めていた。
「いや・・・・・・何でもない」
「三人ともすぐに仲良しになったね。何だかうれしいと言うか気が抜けちゃった」
「どうして?」
「うん。あたしと博人君がうまくいってもさ。子どもたちが一緒に住むことに慣れなかっ
たらどうしようかってちょっと心配だったからさ。でも玲子の言うとおりいらない心配だ
ったみたい」
 奈緒人と奈緒の様子に僕と怜菜の心の中の不倫を重ねて見ているのではないかと最初に
言い出したのは理恵だった。でも理恵はそんな麻季の心の動きが異常なものだと見做して
いたのだろう。理恵自身は明日香ちゃんのことはもちろん、奈緒人の奈緒が仲がいいこと
に対して単純に喜んでいるだけで,それ以上余計なことは何も考えていないようだった。
 もうこのことを考えるのはやめようと僕は思った。麻季が何を考えているのなんかどう
でもいい。それよりも親権を獲得できれば、僕と理恵の家庭の幸せは約束されたようなも
のだ。子どもたちの仲のいい様子を見てそれがわかっただけで十分なのだ。
261:
 そう割り切ってしまえば親権の争い以外に悩むことはなかった。これまで子どもを放置
した麻季に対して嫌悪感を感じていた僕だったけど、それでも僕の中には麻季への未練、
というか麻季との幸せだった過去の生活への未練が、どこかにわずかだけど残されていた
のだろう。でも理恵へのプロポーズや明日香ちゃんを含めた子どもたちの仲の良さを実感
したことで、ようやく僕はその想いから開放された。その感覚は癌の手術後の経過にも似
ていた。癌の手術後の患者はいつ再発するのかと常に悩むかもしれない。そして経過観察
期間が過ぎて、もう大丈夫だと思うようになって初めて今後の人生に向き合うことができ
るのではないか。
 僕の場合もそれに似ていた。まだ調停の結果は出ていないけど、この先の自分の人生に
向き合う気持が僕の心の中にみなぎるようになったのだ。僕はもう迷わなかった。理恵と
三人の子どもたちと、新しい家庭を構築するという単純な目標だけを僕は希求するように
なった。弁護士の言うように調停の結果奈緒の親権が確保できなかったら訴訟を起こそう。
悲観的な弁護士と違って唯は勝てる要素は十分にあると言っていたのだし。
 僕はその方針を実家の両親と唯に、そして理恵に伝えた。みんなが賛成してくれた。
 僕は仕事上もプライベートでもかつての調子を取り戻していた。理恵と実質的に婚約し
ていた僕にとって、もう将来は不安なものではなかった。麻季との離婚が成立したらすぐ
に理恵と結婚することになっている。理恵は残業のない職場に異動希望を出し、それが認
められなければ専業主婦になると言ってくれていた。そして、たとえ僕と麻季の離婚の目
途はつかなくても、来年の四月になって唯が奈緒人たちの面倒を見れなくなったら一緒に
住んで子どもたちの面倒をみると理恵は言った。
 現状にも将来にも今の僕にとって不安な要素がだいぶ減ってきていたから、僕は今まで
以上に仕事に集中することもできるようになっていた。
 その日の夜の九時頃、僕は残っている部下たちにあいさつして編集部を出た。この時間
になると帰宅しても子どもたちはもう寝てしまっている。まっすぐ帰宅しようかと思った
けれど、さっき唯からメールが来て今日は家に夕食がないので残業するならどこかで食事
をしてくるように言われていた。僕は夕食の心配をしなければいけなかった。
 一瞬、まだ仕事をしているだろう理恵に連絡して一緒に食事でもという考えが頭をよぎ
ったけれど、よく考えたら彼女は今日は泊りがけの取材で地方に赴いていることに気がつ
いた。面倒くさいしコンビニで何か買って実家に帰ろうかと思って社から地下鉄の駅に向
って歩こうとした瞬間、僕の目の前に人影が立っていることに気がついた。
「久しぶりだね」
 目の前の人影が穏かにそう言った。都心の夜の歩道はビルの中の灯りや街路灯のせいで
身を隠すなんて不可能だ。
「・・・・・・え? 何で」
 僕は口ごもった。目の前に立っていたのは、見慣れた服に身を包んだ麻季だった。
「元気そうね、博人君」
 以前によく僕に見せてくれた優しい微笑みを浮べて麻季が言った。ちょっと長い出張か
ら戻ったとき、麻季は僕に今と全く同じ微笑みを浮べてそう言ってくれたものだった。
「偶然だね」
 ようやく僕は掠れた声で答えることができた。
「偶然というわけじゃないの・・・・・・。あなたが会社から出てくるのを待ってた」
 麻季の微笑みに不覚にも少しだけ動揺する自分のことが、僕は心底嫌だった。
「・・・・・・お互いに弁護士を通してしか接触しないことになっていなかったっけ」
 僕はようやく気を取り戻してそう言うことができた。麻季と直接二人きりになることは
もうないものだと思ってはいたけど、先日の居酒屋での偶然もある。理恵に結婚を申し込
んでからは、万一再び麻季と会うことになったらそう言おうと僕は心に決めていた。そし
てどうやら僕は動揺しながらも思っていたとおりのセリフを口に出すことができたのだ。
「それはそうなんだけど・・・・・・」
 麻季は俯いてしまった。
「何か用事でもあるの」
 僕は意識して冷たい声を出すように努めた。麻季は黙ったままだった。
「これから実家に帰らなきゃいけないんで、用事がないならこれで失礼する」
 用事があったとしても僕は黙ってここから立ち去るべきだ。
262:
「待って。あなたと話したいの」
「・・・・・・話なら弁護士を通してくれるかな」
「・・・・・・博人君と直接お話したいと思って」
「あのさ」
 僕は段々と腹が立ってきた。「弁護士を通せって言い出したのは君の方だろう。携帯だ
って着信拒否してるくせに今さら何言ってるんだ」
「してない」
「え」
「着拒してたけどすぐに後悔してとっくに解除してあるの。でも博人君連絡してくれない
し」
「あれ? 編集長まだいたんすか」
 部下の一人がそのとき編集部から出てきて僕に話しかけた。彼はすぐに麻季に気がつい
た。悪いことに彼は麻季とも顔見知りだった。
「あれ、麻季さん。ご無沙汰してます。お元気でしたか」
「・・・・・・お久しぶりです」
 麻季が小さな声で言った。
「何だ。結城さん、今日は奥さんと待ち合わせでしたか。相変わらず仲がいいですね」
 社内では上司以外は僕と麻季の仲が破綻していることを知らない。
「そんなんじゃないよ」
「麻季さん相変わらずおきれいで。それにお元気そうですね」
「・・・・・・はい」
 彼は腕時計を眺めた。
「おっといけね。マエストロをお待たせしたらご機嫌を損ねちゃう。じゃあ、俺はこれで
失礼します」
「先生によろしくな」
「わかりました」
 彼は麻季に向ってお辞儀をして足早に去って行った。
 どうもこのままでは埒があかない。それにいつまでも編集部の前で人目に晒されている
わけにもいかなかった。
「しようがない。とにかくここから移動しよう」
 僕は麻季に言った。
「うん。ごめん」
「来るなら来るって連絡してくれればいいだろ。いきなり待ち伏せとか何考えてるんだ
よ」
「ごめんなさい」
 麻季が泣き出した。彼女が何を企んでいるのかはしらないけど、社の前で泣かれると困
る。僕は仕方なく彼女の手・・・・・・ではなく、上着の袖を遠慮がちに掴んで歩き出した。麻
季は大人しく僕の後を付いて来た。
 クローバーへ行こうと思ったのだけど、馴染みのその喫茶店はこの時間では既に閉店し
ていた。それによく考えるとあそこは生前の怜菜と最後に会った場所だし、理恵にプロ
ポーズした場所でもある。あそこに麻季を連れて行く訳には行かなかった。この辺にはフ
ァミレスもない。
 こんな時にどうかと思ったけど、立ち話を避けるためには選択肢はあまり残されていな
かった。
「そこの居酒屋でもいいかな」
 麻季は黙って頷いた。
263:
 チェーンの居酒屋はそこそこ混んでいるようだったけど、僕たちは待たされることなく
席に案内された。
 向かい合って席に納まるとしばらく沈黙が続いた。店員が突き出しをテーブルに置いて
飲み物の注文を取りに来た。
「・・・・・・僕には生ビールをください。君は・・・・・・ビールでいい?」
 麻季は俯いたままだ。これでは店員だって変に思うだろう。
 麻季は昔から炭酸飲料が苦手だった。彼女は酒が飲めないわけではなかったのだけど、
ビールとか炭酸が入っているものは一切受け付けなかったことに僕は思い出した。彼女は
地酒の冷酒とかを少しだけ口にするのが好きだったな。それでもこの場で僕が麻季に酒を
勧めていいのだろうか。少し僕は迷った。
「・・・・・・冷酒、少しだけ飲むか」
 俯いていた麻季が少しだけ顔を上げた。
「・・・・・・いいの?」
「いいのって。聞く相手が違うだろ」
 こいつはいったい何を考えているのだろうか。
「冷酒でいいか」
「うん。あたしの好みを覚えていてくれたんだ」
 麻季の返事は少しだけ嬉しそうに聞こえた。
 やがて生ビールのジョッキと冷酒の瓶がテーブルに運ばれてきた。麻季の前にはガラス
のお猪口のような小さなグラスが置かれる。何となく手酌にさせるのも可哀そうで、僕は
冷酒の瓶を取って彼女のグラスに注いだ。
「ありがとう」
 麻季がグラスを手に持って僕の酌を受けて微笑んだ。何か混乱する。まるで奈緒人が寝
たあと、夫婦で寝酒を楽しんでいた昔の頃に戻ったような感覚が僕を包んだ。
 今日一日ほとんど飲み食いせずに仕事をしていたせいか、こんな状況でも喉を通過する
生ビールは美味しかった。人間の整理は単純にできている。僕は思わず喉を鳴らして幸せ
そうなため息をついてしまったみたいだ。麻季は冷酒のグラス越しにそんな僕の様子を見
てまた微笑んだ。
「博人君、喉渇いてたの?」
「・・・・・別に」
「何か懐かしい。博人君が残業して深夜に家に帰って来たときって、いつもビールを飲ん
でそういう表情してたね」
「そうだったかな。もう昔のことはあまり覚えていないんだ」
 僕は意識して冷たい声を出した。
 ・・・・・・実際は覚えていないどころではなかった。子どもができる前もできた後もあの頃
の僕の最大の楽しみは、帰宅して次の日の仕事を気にしながらも麻季にお酌してもらいな
がらビールを飲むことだったから。奈緒人を身ごもってから麻季は酒を一切飲まなくなっ
たけど、その前は彼女も僕に付き合って冷酒をほんの少しだけだけど一緒に付き合ってく
れたものだった。
 いや。そんなことを思い出してどうする。どういうわけか、あれだけひどいことを麻季
にされたにも関わらず僕は以前の生活を懐かしく思い出してしまったようだ。僕は無理に
冷静になろうとした。
「それで何か用だった? 調停のことだったら家裁の場以外では交渉しないように弁護士
に言われてるんだけど」
「・・・・・・うん」
「うんじゃなくてさ」
 麻季が何を考えているのか僕には全く理解できない。
「食事してないんでしょ」
264:
「博人君、職場で夜食食べるの嫌いだもんね」
 麻季がどういうわけかそう言った。「何か食べないと」
 麻季はいそいそとメニューを持ってじっとそれを眺め出した。
「君の食事の面倒みるのって久し振り。ふふ。博人君、食べ物の好み海外から帰っても変
わってないよね?」
「・・・・・何言ってるの」
「本当は身体には悪いんだけど・・・・・・でも好きなものを食べた方がいいよね」
 麻季が店員を呼んで食べ物を注文した。それは完璧なまでに僕の好みのものだった。こ
れだけを取ってみれば、理恵や唯よりも僕の食生活の嗜好を理解していたのは麻季だった。
でもそれは当然だ。破綻したにしても何年にも渡って麻季と僕は夫婦だったのだから。
 それにしても麻季は何でわざわざ僕に会いに来たのだろう。いろいろ店内に入ってから
はいろいろと喋りだしてはいるけれど、彼女が今になって何のために僕の前に姿を見せた
のかについてはヒントすら喋らない。
「お酒、注いでもらってもいい?」
 さっき麻季に酒を注いだときに僕は冷酒の瓶を自分の手前に置いてしまっていた。僕は
再び麻季のグラスに冷酒を満たし、今度は麻季の手前にその瓶を置いた。
 麻季は一口だけグラスに口をつけてテーブルに置いた。
「ビールでいい?」
「え」
 僕はいつの間にか生ビールのジョッキを空にしてしまっていたようだ。
「頼んであげる」
「あのさあ。明日も仕事だしゆっくり酒を飲んでる時間はないんだ」
「でもお料理もまだ来てないよ」
「君が勝手に頼んだんだろうが」
「今日って実家に帰るだけでしょ? まだ終電まで三時間以上あるじゃない」
「そういう問題じゃない。第一に早く帰って子どもたちの顔を見たい。第二に君と二人き
りで一緒にいたくない・・・・・・。おい、よせよ。何で泣くんだよ」
 泣きたいのはこっちの方だ。僕は泣き出した麻季を見ながらそう思った。
「ごめん」
「・・・・・・うん」
「本当にごめんなさい」
「もういいよ。それにさっきから何に対して謝ってる? 突然会社の前で待っていたこ
と? それとも泣いたこと?」
 僕は弁護士からは、調停の場か弁護士が同席していない限り調停内容に関わる会話は避
けるように言われていた。これまではあまりそのことを真面目に考えたことはなかった。
そもそも麻季の方が僕を避けていたので顔を合わす可能性なんてなかったからだ。
 でも、こうして久し振りに麻季と二人で話せる状態になると、僕はこれまで溜め込んで
きて吐き出す場がなかった怒りや疑問が口をついて出てしまった。そして一度負の感情を
口に出してしまうと、それは自分では制御できなくなってしまった。
「それともまさかと思うけど、麻季は不倫したことや子どもたちを虐待したことを今さら
後悔して謝っているのか? そんなわけないよな。弁護士から聞いたよ。鈴木先輩と再婚
するんだってな。よかったね、僕なんかに邪魔されないで最愛の人とようやく結ばれて
さ」
 一気にそこまで話したとき、ようやく僕の激情の糸が途切れた。心の底がひえびえとし
て重く深く沈んでいった。
 僕は周囲の客の好奇心と視線を集めてしまったことに気がついた。
「大声を出して悪かったな」
 僕は冷静さを取り戻して麻季を見た。麻季は動じていなかった。むしろこれ以上にない
というほどの笑顔で僕に向かって微笑んだのだ。とても幸せそうに
265:
「結城先輩、やっぱりあたしのこと好きでしょ」
 麻季が静かに笑って言った。
 僕は凍りついた。
 ・・・・・・麻季はいったい何を言っているのだ。そして記憶を探るまでもなくそれは鈴木先
輩に殴られた麻季を助けたときに彼女が脈絡もなく言ったセリフだった。それをきっかけ
に僕と麻季は付き合うようになったのだ。
「何言ってるんだ・・・・・・結城先輩って何だよ」
「懐かしくない? あたしと博人君の馴れ初めの会話だよ」
 それにしても泣いたかと思うとすぐに優しい顔で微笑む麻季はいったい何を考えている
のだろう。麻季のこういう支離滅裂な性格は大学時代には理解していたつもりだったけど、
彼女と付き合い出して結婚してからはこういう意図を理解しがたい言動は全くといってい
いほど見られなくなっていたのに。
「もういい。僕は帰る」
 僕が立ち上がると初めて麻季は慌てた様子で僕のスーツの袖口を掴んだ。
「帰らないで。ちゃんと話すから・・・・・・。全部話そうと思って来たの」
 今まで笑っていた彼女がまた泣き顔になって言った。僕はしぶしぶ腰を下ろした。
「何を話す気なんだよ」
「全部話すよ。博人君がドイツに出張してからあたしが何を考えていたか」
 僕は思わず緊張してまだ涙の残る麻季の顔を見直した。
「あたしさ。いろいろ努力はしたんだけど、結局、奈緒のことが好きになれなかったん
だ」
 麻季が言った。
 麻季にそういう感情もあるのではないかと考えたこともあったので、僕は思ったよりは
動揺しなかった。それでも仲が良かった頃の夫婦のような間合いで二人で過ごしている状
況で、薄く微笑みながらそういう言葉を口に出した麻季の様子に僕は少しショックを受け
た。
「もちろん奈緒には何の責任もないことなのよ。だから一生懸命頑張って笑顔で奈緒には
優しくしたんだけどね」
「・・・・・・・怜菜の娘だからか? でもそれなら何でわざわざ苦労して奈緒を引きとるなん
て言い出したんだ」
「・・・・・・あまり驚かないのね」
「僕が不在のときの君の行動を知ってからは、君についてはもう何を聞かされても驚かな
くなったよ」
「博人君ひどい」
「君の口からそんな言葉を聞くとは思わなかったよ」
「確かに今は離婚調停中だけど、お互い別に嫌いになって別れるわけじゃないんだよ。会
っているときくらい前みたいに仲良くしたっていいじゃない」
「・・・・・・何言ってるの?」
「何って」
「僕たちがお互いにまだ愛し合っているとでもいいたいの」
「うん・・・・・・。あれ、違うの?」
 麻季は本気で戸惑ったようにきょとんとした顔をした。そして麻季の話はかつて僕が
ボーダーではないかと疑ったときのように支離滅裂になってしまっている。
 子どもたちの育児放棄。帰国したときに見た廃墟のようにゴミが散乱していた我が家。
太田弁護士から受け取った受任通知書。そして鈴木先輩と麻季の再婚。
 そのどこを取ったら僕への愛情が見られるというのだ。
266:
「注いでくれる?」
 麻季がにっこり笑ってグラスを掲げた。
 わずか数ヶ月僕が家庭を留守にしている間に麻季の心境に何が起きたのか、どうして彼
女は自分の夫と子どもたちにこんなひどい仕打ちができたのか。今夜はようやくその答が
聞けるのではないかと思ったけど、滑り出しは最悪だった。謎がさらに深まっていくばか
りだ。もう諦めて帰った方がいいんじゃないか。麻季の心境のことは諦めるつもりになっ
たばかりなのだし。
 一瞬そう考えたけど、一見すると整合していない麻季の話は彼女の中では完結していた
ことを思い出した。コミュ障というか彼女は心情表現が稚拙なのだ。どうせもう遅くなっ
てしまっている。僕はもう少し粘ってみるつもりになった。そのためにはこちらから話を
誘導して質問した方がいい。付き合い出したばかりの頃はよくそうしたものだった。とり
あえず黙って麻季に冷酒を注いでから僕が自分から質問しようとしたとき、麻季が 注文
した料理が一度に運ばれてきてしまった。
「話は後にしてとりあえず食べて」
 そう言って麻季は取り皿に運ばれてきた料理を取り分けて僕の前に置いた。「あなたは
放っておくと夜食べないことが多かったよね」
「・・・・・・そうだっけ」
「うん。だから子どものこととかすぐにあなたに相談したいときでも、あなたに食事させ
るまでは我慢してたんだよ。そうしないとあなたは相談を真面目に聞いてくれるのはいい
んだけど、夢中になって食事を忘れちゃうから」
 いまさらそんな話を微笑みながら言われても困るし、同時に全く自分の心には響いてこ
ない。懐かしさすら浮かんでこないのだ。当然とは言えば当然だった。僕には今では理恵
がいる。麻季は僕たちは離婚協議中だけどお互いにまだ愛し合っているというようなこと
を言った。でも僕の愛情はもう麻季には向けられていない。そして麻季だって鈴木先輩と
再婚するのではなかったのか。僕のことを愛しているのならそんなことをするわけがない。
麻季が普通の女なら。
 そう普通の女ならそうだ。でも麻季は、少なくとも今の状態の麻季は普通ではないのか
もしれない。僕はとりあえず奈緒に対する麻季の気持について棚上げして、根本的な疑問
から解消してみようと思った。
「まあせっかく注文してくれたんだから食べるよ。でも時間も遅いし食べながら話そう」
 僕は麻季を宥めるように微笑んでみた。まるで言うことを聞かないわがままな子どもを
あやすように。
「ちゃんと食べてくれる?」
 麻季が顔をかしげて言った。それはかつてはよく見た見覚えのある可愛らしい仕草だっ
た。
「君が家を出て行ったのってさ」
 食欲は全くなかったけど無理に食べ物を口に運んでから僕は切り出した。
「うん」
 普通は緊迫する場面だと思うけどどういうわけか麻季は食事をする僕の様子をにこにこ
しながら見守っている。
「やっぱり僕とじゃなくて鈴木先輩と家庭を持ちたいと思ったからなんでしょ?」
「違うよ」
 あっさりと麻季は答えた。「大学で初めて博人君と出会ってから、あたしが本当に好き
なのは昔から今まであなただけよ。だからあたしが一緒に暮らしたいのもあなただけだ
よ」
「あのさあ」
「もちろん、一度は雄二さんと過ちを犯したのは事実だけど・・・・・・。でもあのときだって
本当に愛していたのは博人君だけ。あのときはそんなあたしを博人君は許してくれたよ
ね」
 もう麻季には未練の欠片もないはずなのに、麻季が先輩のことを雄二さんと呼んだこと
に少しだけ胸が痛んだようだった。
「だって再婚する予定なんだろ? 鈴木先輩と」
「うん。でも雄二さんと連絡を取り出したのは最近だよ。家を出て行ったときはメールさ
えしていなかったし。最近会うようになるまでは、彼と会ったのはあなたと二人で奈緒を
引き取りに行ったときが最後」
267:
「それは変じゃない? 君は児童相談所に押しかけてきただろう。自分が見捨てた子ども
たちを返せってさ。そのときは男と一緒だったって聞いたんだけどな」
 いまさら彼女の心変わりなんか批判するつもりなんかなかったのに、僕は思わず麻季を
非難するような言葉を口にしてしまった。
「うん。でもそれ雄二さんじゃないから」
 麻季は落ちついて言った。
「・・・・・・誰なの」
「あなたと神山先輩が居酒屋でキスしてたときにあたしと一緒にいた人」
「どういう人なの」
「よくわからないの。どっかのお店で声をかけられただけだから。名前もよく覚えていな
い」
「・・・・・・手当たり次第ってわけか」
「そうかも。今は雄二さんだけだけど」
 麻季に真実を白状させようとした僕は、思わぬ彼女の話に自分の方が混乱してしまった。
家を出る前からか出た後かはわからないけど、麻季は複数の男と遊んでいたようだ。
「・・・・・・何で子どもたちを何日も放置したまま家を空けた?」
 僕は力なく言った。もう上手に彼女から考えを引き出す自信なんて消え失せていた。以
前と全く変わらない様子で僕を見つめて微笑んでいる麻季は、僕の妻だった頃の麻季では
ないことはもちろん、大学の頃の不可解な麻季ですらなかったようだ。麻季のしたことを
許せはしないまでも、事情を聞けばその行動が少しでも理解できるだろうと思っていた僕
が甘かったようだ。
「口がお留守になってるよ。もっとちゃんと食べないと」
「食べるよ・・・・・・だから答えてくれ」
「ちょっとだけあなたを愛し過ぎちゃったからかな。あたしを放って家を空けた博人君に
も原因があるのよ」
「寂しかったからとか陳腐な言い訳をするつもり?」
「あなたがいなくて寂しかったのは事実だけど、それだけじゃないの。あたしも努力した
んだけど我慢できなくなって」
「抱いてくれる男がいなくなって我慢できなくなったってことか」
 思わず情けない言葉を口にした僕はそのことに少しだけ狼狽した。
「何度でも言うけど今でも昔と変わらずにあなたのこと愛してる。いえ、会えなくなった
分、昔より何倍もあなたが好きかも」
「わかんないな。僕のことを愛しているなら何で男を作って家出することになるんだよ」
「だから最初に言ったでしょ。奈緒のこと」
 僕はもう麻季を問い詰めることを諦めて彼女に好きに喋らせることにした。今夜は帰れ
ないかもしれないな。腕時計をちらっと見て僕はそう覚悟した。
 やがて麻季が微笑みながら話し出した。
274:
 平井さんにたしなめられて加山という男は露骨に不服そうな態度を見せた。
「この兄ちゃんだって妹のことが心配なんだろうさ。そういう切り捨て方はよせ」
「だって平井さん、未成年の高校生にペラペラ情報を喋ってどうするんです。こいつの両
親にだってまだ何も聞いていないのに」
「だからおまえは黙ってろ。このヤマの捜査主任は誰だ?」
「・・・・・・それは平井さんっすけど」
「わかってるじゃねえか。おまえは大卒ですぐに俺なんかより偉くなるだろうけど今はま
だ俺が上席だ。だから俺に任せておけ」
 そう言うと平井さんは僕の方を見た。ほんの少しだけ僕に対する態度が柔らかくなった
ような気がした。
「おまえは女帝っていうニックネームの女のことを聞いたことがあるか」
「いえ。聞いたことないです」
「そうか。この界隈の中高生の間ではちっとばかし有名な女なんだけどな」
 そう言われても僕には初耳だった。女帝とかドラマじゃあるまいし随分大袈裟なネーミ
ングだ。
「そう。ドラマじゃねえしな。大袈裟に聞こえるだろう」
 平井さんは僕の気持ちを見抜いたように言った。
「族とかヤンキーとかチーマーとか、昔から粋がりたいガキはこのあたりにもいっぱいい
たんだ。でもそいつらは無軌道に騒いで悪さをしてたくらいでな。組織立って悪事を働く
奴なんて今までは聞いたことがなかったよ、俺も」
「そうでしょうね」
「おう。第一そんなに頭が働いて、仲間を統制できるような玉なんて普通は不良高校生の
中になんていねえからな」
 平井さんは言った。
「それがな。最近妙なことに悪さをしている連中がおとなしくなりやがった。夜道で女の
子を襲ったり互いに殴り合いの喧嘩をして俺たちに面倒をかけている連中が、そういう揉
め事を起こさなくなったんだよな」
276:
第四部
 奈緒は怜菜にそっくりだ。友人のいない学生時代を唯一といっていい親友の怜菜と過ご
していた麻季にはそう思えた。別に外見だけじゃない。まだ幼いのに他人に対する態度が
すごくソフトなところや、人の気持を優先して自分を抑えるところは、まるで人のいい玲
菜そのものだった。そして一見遠慮がちで儚げな様子に隠れてはいるけど、実は奈緒の芯
は非常に強く、自分の考えを曲げない強い意志の力を持っている。幼稚園の先生からの連
絡ノートを読んで麻季は自分の考えを確信するようになった。鈴木先輩の実子ではあるけ
れど、彼の調子のいい優しさやその場限りの人当たりの良さなんて奈緒には全く感じられ
ない。奈緒は完全に怜菜似だったのだ。
 最初の頃は麻季にとってそのことが嬉しかった。自分に裏切られてもなお黙って身を引
く道を選び、そして突然の死を遂げた親友の怜菜が再び自分の前に姿を現してくれたよう
に感じたのだ。心配する博人を説き伏せて奈緒を引き取った決心は正しかった。そう思う
と麻季の生活には自然とやりがいと張りが戻ってきた。博人も多忙な仕事を無理にやりく
りして週末はなるべく家で過ごすように心がけていたようで、自然に夫婦の仲も改善され
だした。
 自分の浮気から始まった家庭の危機がようやく収束しようとしていた。これも怜菜のお
かげかもしれない。結果的に怜菜の遺児を引き取ることによって、麻季と博人は失ってい
た共通の目標を再び共有することができたのだ。奈緒の遠慮がちな態度は、父親の博人や
麻季自身に対してさえ向けられていた。奈緒は物心がつく前から結城家に養子に入ってい
たし、奈緒が実子でないことはまだ幼い本人には伝えていなかったので、両親にくらいは
無邪気に自己主張してもいいはずだった。でも奈緒はそうしなかった。養子であることへ
の遠慮であるはずがないことを考慮すると、きっと奈緒は家族も含めて誰に対しても一歩
引いて、相手の意向に従う態度を示すような性質を持っていたのだろう。
 その頃から奈緒は奈緒人によく懐いていたし奈緒人も奈緒の面倒をよく見ていた。その
こと自体には不満がないどころか麻季にとっても喜ばしいことですらあった。二人はいつ
も一緒に過ごしていた。その様子は微笑ましかったし、仕事から帰った博人もそんな様子
を暖かく満足して見守っているようだった。それでも少しだけ困るようなこともあった。
たとえば休日に家族で外出するとき、家族四人で一緒に遊んだり食事をしたりする場合は
別に問題はないのだけど、博人と麻季が手分けして生活に必要なものを購入しようと二手
に分かれたりすると問題が発生した。
 博人に手を引かれた奈緒人と麻季と手を繋いだ奈緒。奈緒は奈緒人の姿が視界にないこ
と気がつくと火のついたように泣き出してしまう。奈緒人も泣きはしないまでも博人の手
を振り払い奈緒の姿を求めて駆け出して行こうとした。
 そういう子どもたちに手を焼いた奈緒人と麻季は、外出中に奈緒人と奈緒を引き離すこ
とを諦めた。何か漠然とした不安を感じないでもなかったけど、それがどういうことなの
か当時の麻季にはわからなかった。そして、奈緒人と奈緒の親密な関係は親にとっては嬉
しい悩みなのだと考えようとした。それに一見理想的に育児や家事をこなしているように
見えた麻季には、当時もっと気になることがあった。それは引き取った娘の名前だった。
 奈緒自身には何の罪もない。奈緒人と奈緒。実の両親がそう名付けたのだとしたら、あ
まり趣味がいいとは言えないけどまあ世間にないことでもないだろう。でも、その命名が
博人に淡い想いを抱いていた怜菜が黙って自分の娘に名付けたことが他人に知れたとした
ら、世間体が悪いなんてものじゃない。仮に怜菜の子どもが男の子だとしたら、いったい
彼女はその子に何と名付けたのだろう。まさか奈緒人だろうか。
 鈴木先輩と別れて一人で出産、育児をする道を選んだ怜菜は、離婚に際して自分の旦那
に何も要求しなかったらしい。もちろん麻季自身に対して慰謝料を請求することもなかっ
た。怜菜は黙って自分の夫が自分の元に帰ってくるのを待ち続け、ついにそれが敵わない
と判断すると、何一つ要求するでもなく黙って一人で身を引いたのだ。当時既に身重の身
になっていたことすら夫に告げずに。そういう怜菜の身の処し方は一見鮮やかなように見
える。事実、麻季が博人を問い詰めたとき、博人も怜菜のそういう様子に惹かれていたと
正直に白状したものだった。
『怜菜さんは冷静に自分や周囲を見ていたよ。数度しか会わなかったけどそれはよくわか
った。そして鈴木先輩以外は恨んでいなかったよ。というかもしかしたら先輩のことすら
恨んでいなかったかもしれない。そういう意味では聖女みたいな人だったな』
 博人は怜菜のことを聖女とか天使とかという表現で褒め称えた。麻季だって理解はして
いたのだ。怜菜と博人の間の恋情は淡くそしてプラトニックなものだ。自分が鈴木先輩と
犯してしまったような肉体的な関係ではないのだと。でもそれだからといって相手を想う
気持ちが、肉体関係を伴った不倫より小さいということはできないだろう。ましてその相
手の怜菜が亡くなってしまえば、自分の夫が怜菜に対して抱いた想いは彼女への恋情を残
したまま永遠に氷結されてしまったままになるのだ。
 疑おうと思えばどんなことだって怪しく思える。怜菜が自分の夫に何も要求せずに離婚
したのだって、ひょっとしたら博人と麻季自身が離婚したときに、自分と博人がすぐにで
も結ばれるためかもしれない。もっと邪推すれば、これは荒唐無稽な考えかもしれないけ
ど怜菜は自分への博人の想いを永遠のものにするべく自分の娘に博人の一人息子の名前を
もじって奈緒という名前を命名し、その後自ら命を絶ってということだって・・・・・・。
277:
 それはいくら何でも妄想が過ぎるというものだと麻季は思った。彼女は卒業してから全
く連絡を取らなくなっていた怜菜のことを思い出してみた。
 当時、同性の友人がほとんどいなかった麻季にとって怜菜はほとんど唯一の友人であり、
親友でもあったのだけど、あの頃の怜菜には男女問わず友人が多かった。講義に出ても
サークルに行っても彼女に話しかける学生はたくさんいた。
「怜菜、元気?」「よう怜菜。最近付き合い悪いじゃん」「怜菜さ、鹿児島のフェスのマ
スタークラス申し込む?」「今日、芸大の人たちから合コン誘われてるんだけど怜菜も行
かない?」
 怜菜は愛想よく話しかけてくる友人たちに受け答えしていたけど、気の進まない誘いは
頑として断っていた。あたしなんかに気を遣わなくていいからもっと友だちと遊べばいい
じゃん。麻季は怜菜のそういう態度に不審を覚えてそう言ったことがあった。
「いいよ。本当に気が進まないし、あたしは麻季と一緒にいた方がいいや」
 そういうとき、怜菜は決まって笑ってそう言うのだ。麻季だって怜菜がいないと一人で
寂しいということはない。怜菜と一緒に過ごす方が気は休まるのだけど、一人で過ごした
くなければ自分に言い寄って来た男を呼び出せばいい。もっともほとんどがつまらない男
ばかりだったので、麻季が一緒にいてもいいと思えるような男はサークルの鈴木先輩くら
いだったのだけど。
 彼になら多少のことは許してもいいかもと麻季は当時考えていた。本音を言えば相手が
鈴木先輩だとしても、一緒にいることに対して本心から充足感を感じたことはなかったの
だけれど、自分の相手をしてくれる人の中では彼はだいぶましな方だった。それに彼と一
緒にいると学内で優越感を感じることができる。それでも麻季にとっては怜菜が一緒にい
てくれたほうが気が休まった。唯一の親友、というか唯一の同性の友人である彼女といる
と、麻季は気を遣わずに楽しく過ごすことができるような気がしていたからだ。
 怜菜には友人たちの誘いは多かったけど、それでもほとんどの誘いは断って麻季と一緒
に過ごしてくれていた。彼女も麻季と一緒にいると気を遣わなくていいやと笑って言った。
 そんな二人の関係が変化したのは麻季が生まれて初めて自分から手に入れたいと思った
男性と出合ってからのことだった。
 結城先輩のことはサークルの新勧コンパのときから気にはなっていた。あの夜、麻季は
先輩たちから途切れなく誘いの言葉をかけられたのだった。あのときは怜菜ともまだ仲良
くなる前だったから、麻季は話しかけてくる先輩たちの相手をしながらぼんやりと店内を
見回していたそのとき、一人の男の先輩と目があった。
 その人は麻季と目が合って狼狽したようだった。男のこういう反応には慣れていたから、
麻季はとりあえずその先輩に会釈した。・・・・・・今度こそ先輩はさりげなく彼女から視線を
外してしまい、隣にいる同回生らしい女の子と喋り始めた。こちらから挨拶したにも関わ
らず無視されたことにも腹が立ったけど、自分の会釈を完璧に無視して他の女と親しげに
話し始めたことに麻季は何だか少しだけむしゃくしゃした気持になった。そんな彼女の様
子に周囲に群がっていた先輩たちも不審に思ったようだ。
「あの・・・・・・。あそこでお話している先輩は何という人ですか」
「ああ、あいつは二年の結城だよ」
「結城先輩ですか」
「夏目さん、あんなやつに興味あるの? あいつ変わり者だぜ。音大に入ったのにろくに
器楽もしないで、音楽史とか音楽理論とかだけ勉強してるんだ」
 その先輩は結城先輩の人となりをけなしながら解説してくれたけど、そのときの麻季の
耳にはそんな言葉はろくに届いていなかった。あまり格好いいとかスマートとかという印
象はない。でも、何だかそのときは結城先輩野ことが気になったのだ。
 どうせあの先輩もあたしのことが気になってるんだろうな。そう麻季は思った。でも冴
えなさそうな結城先輩はあたしに話しかける勇気がないのだろう。その後、結城先輩はあ
まりサークルに顔を出さなかったこともあって、彼と話をする機会はなかった。その間に
麻季は怜菜と知り合い仲良くなった。
278:
 それは麻季が怜菜と一緒に、階段教室で一般教養の美術史の講義に出席していたときだ
った。講義が始まってしばらくすると隣に座ってた男の人が麻季に出席票を回してくれた。
その人はそのまま席を立とうとしているようだった。そのとき、麻季はその人が結城先輩
であることに気がついて少し彼をからかってみようと考えたのだった。自分にからかわれ
て嬉しくない男も少ないだろうし。
「こんにちは結城先輩」
 驚いたように結城先輩は席に座りなおした。出席票に目を落すと最後の欄に雑な字で結
城博人と書かれていた。博人さんというのか。
「ごめんなさい、わからないですよね。サークルの新歓コンパで先輩を見かけました。一
年の夏目といいます」
「知ってるよ。あそこで見かけたし・・・・・・でも何で僕の名前を?」
「先輩に教えてもらいました」
 麻季はそう答えた。
「じゃあね」
 その場の雰囲気を持て余したように先輩が中途半端に立ち上がりながら言った。
「講義聞かないんですか?」
「うん。出席も取ったしお腹も空いたし、サボって学食行くわ」
「結城先輩ってもっと真面目な人かと思ってました」
「・・・・・・そんなことないよ」
「でも先輩格好いいですね。年上の男の人の余裕を感じました」
「じゃあ、失礼します」
 麻季はそう言って話を終らせたのだけど、その後に隣に座っていた怜菜が珍しく結城先
輩のことを聞き始めた。
「今の人ってサークルの結城先輩だよね」
「そうみたい」
「麻季、いつのまに先輩と知り合いになったの?」
「話したのは今が初めてだよ」
「嘘? 何で初対面の人にあんなに親しく話せるの」
「・・・・・・何でって別に」
「麻季って結城先輩のこと気になる?」
 怜菜が麻季にそういう質問をするのは珍しかった。
「何で? そういうこと聞くの怜菜にしちゃ珍しいじゃん」
「そうかな? 別にそうでもないでしょ」
 怜菜が少し赤くなった。
「ひょっとして怜菜って結城先輩が好きなの?」
 ぶんぶんという音が出そうなほど怜菜は首を横に何度も振った。
「違うよ。そんなんじゃないって。それにあたしは麻季の恋の邪魔なんてしないよ」
「別にあたしだって好きとかそういうんじゃ」
「ふふ」
279:
 珍しく言葉を濁した麻季を見て怜菜は微笑んだ。講義が始まったこともありこのときの
話はそれで終った。
 その後キャンパス内で何度か結城先輩を見つけた。先輩は男と二人で歩いている麻季の
ことを何気なく見つめていたみたいだった。それでも麻季にとって腹立たしいことに結城
先輩は彼女には一言も声をかけようとはしなかった。この頃、麻季は三回生の鈴木先輩に
言い寄られていた。彼への気持ははっきりしなかったけど、それでも他の男に向ける気持
とは少し違う気持を抱き始めていた。何より彼といると周囲の女の子の視線が彼女の優越
感をくすぐる。それでも麻季は鈴木先輩と一緒にいるよりは怜菜と一緒にいることを選ぶ
ことが多かった。男は鈴木先輩に限らずいっぱいいたけど、女友だちは怜菜くらいしかい
なかったし。
 そんなある日、麻季は結城先輩が女の子と親し気に話をしているところを目撃した。何
か心の芯がじわじわと痛んでくるような感覚が訪れて彼女はそのことに狼狽した。
 結城先輩と一緒にいる子は陽気な可愛らしい感じの人だった。単なる知り合いという感
じじゃないなと麻季は思った。
「結城先輩だ」
 一緒にいた怜菜がそう言った。そして少し残念そうに話を続けた。「やっぱり神山先輩
かあ。何かいい雰囲気だね、あの二人」
 麻季は少しだけ心が重くなるのを感じた。別に彼のことをはっきりと好きというわけで
はないのに。
「神山って誰?」
「二年の先輩。何かさ、結城先輩と幼馴染なんだって」
「そう」
「やっぱり結城先輩と神山先輩と付き合ってるのかなあ。まあお似合いだよね」
 自分の心の動きはそのときにはさっぱりわからなかった。それでも麻季は冷たく言った。
「全然似合ってないじゃん。結城先輩はあの人のことを全然好きじゃないと思うよ」
「よしなよ」
 怜菜が麻季の言葉を聞いて真面目な表情になった。
「・・・・・・よしなよって何が」
「あんたは今はもう鈴木先輩と付き合ってるんでしょ。それなら他の人にちょっかいを出
して不幸にするのはやめな」
「付き合ってないよ」
「嘘。こないだ麻季と鈴木先輩が抱き合ってキスしてるとこ見たよ」
「あんなの。一方的にキスされただけだよ。あたしは誰とも付き合っていません」
「嘘言え。あんたの方だって鈴木先輩の首に両手を回して抱きついてたじゃん」
「怜菜には関係ないでしょ。何? あんたやっぱり結城先輩のこと好きなんでしょ? そ
れであたしに彼に手を出すなって言ってるんじゃないの」
「違うって」
 そう答えた怜菜の顔は真っ赤ですごくわかりやすかった。何だ。親友とか言ったって結
局怜菜も自分の恋が大切なだけか。なまじ客観的なアドバイスの形を取っているだけ、玲
菜の言葉は麻季を苛立たせた。このとき結城先輩のことがどこまで好きなのかは自分でも
わからなかった。
 鈴木先輩を振って平凡そうに見える結城先輩を選んだら後悔するかもしれない。心の中
でそんな声が聞こえた。でも目の前の怜菜の偽善に腹が立った彼女にはもはや冷静に考え
る余地は残っていなかった。お互いに恋愛なんて超越した親友同士だと思っていたのに。
怜菜に裏切られた気がした麻季はもう自分を抑えるすべを知らなかった。
 ・・・・・・最初の突撃は失敗だった。サークルの先輩から聞き出した結城先輩のアパートで
の出来事を思い出すと、さすがの麻季にも恥かしいという感情がしばらく付きまとった。
 あの朝、麻季はアパートの前で結城先輩が出てくるのを待っていた。彼は眠そうに部屋
から出て、ドアの前に立っている彼女を見て驚いて目が覚めた様子だった。
280:
「おはようございます、先輩」
「・・・・・・夏目さん? どうしているの」
「サークルの先輩に結城先輩のアパートの住所を聞きました」
「いや・・・・・・そうじゃなくて。ここで何してるの」
「先輩、神山先輩と付き合ってるんですか」
 麻季はいきなり核心を突いた。
「君は理恵、いや。神山さんのこと知ってるのか」
「知ってますよ。最近、先輩と仲良さそうに話している人は誰ですかって聞いたらサーク
ルの先輩が教えてくれました」
「夏目さんさ、それいろいろおかしいでしょ」
「・・・・・・先輩、あたしのこと好きなんでしょ」
 麻季の突然の言葉に彼は目を白黒させながら戸惑った様子だった。
「何言ってるの」
「あたし、わかってた。最初に新歓コンパで合ったとき、先輩はあたしのことじっと見て
たでしょ」
「・・・・・・それだけが根拠なの」
「それだけじゃないですよ。美術史の講義で会ったときも先輩、じっとあたしのこと見つ
めていたでしょ」
「君、正気か。酔ってるの?」
「酔ってませんよ。先輩こそ嘘つかないで。あたしがこんなに悩んでいるのに」
「あのさあ、確かに僕は君のことを見たよ。それは認める。君は綺麗だし。でもそれだけ
で君のことを好きとか決め付けられても困るよ。第一、僕は一言だって君のことが好きだ
とか付き合ってくれとか言ってないでしょ」
「生意気なようですけど先輩って自分に自信がなさそうだし、あたしのことを好きだけど
勇気がなくて告白できなかったんじゃないですか。あたし、ずっと先輩の告白を待ってた
のに」
「・・・・・・・もしかして君は誰かに何かの罰ゲームでもさせられてるの? そうだとしたら
巻き込まれる方は迷惑なんだけど」
「先輩こそいい加減にしてください」
「罰ゲームって何よ。何であたしのことをからかうんですか? あたしのこと好きじゃな
いなら何であんな思わせぶりな態度をとるんですか」
「・・・・・・泣くなよ。わけわかんないよ」
「ひどいですよ。結城先輩、美術史の講義の日からあたしのことを無視するし。あたしの
こと嫌いならはっきり嫌いって言えばいいでしょ」
「あのさあ。僕が君のことを好きなんじゃないかと言ったり嫌いだと言ったり、さっきか
ら何を考えてるんだよ」
「何でわざとあたしの目の前で神山先輩といちゃいちゃするのよ」
「してないよ、そんなこと」
 結論から言えばこの日の結城先輩への突撃は失敗だった。先輩は麻季のアパートに彼女
を送って行ってくれたけど、麻季の言葉に感情を動かされている様子はなかったのだ。
 失敗したその日のことの出来事を麻季は怜菜にも誰にも言わなかった。でも鈴木先輩は
そんな彼女の様子がいつもと違うことに気がついたらしい。麻季と二人でキャンパスを歩
いていた鈴木先輩は彼女を責め始めた。
「麻季さあ、おまえ浮気してるだろ」
「浮気? あたしは別に先輩と付き合っていないし、浮気とか言われてもわかんない」
「ふざけんなよ。キスまでしておいて付き合ってないってどういうこと?」
「先輩が勝手にしたんでしょ。あたしは知らないよ、そんなこと」
281:
「・・・・・・まあ、いいや。今日のところは許してやるよ。それよかさ、これから遊びにいか
ね? 今日はもう実習はないんだろ」
 麻季がその誘いを断った瞬間、鈴木先輩の手が頬に飛んできて彼女は地面に倒れたのだ。
下から眺め上げると、鈴木先輩に詰め寄る結城先輩の姿が見えた。結城先輩が何か話すと
鈴木先輩はみっともなく言い訳しながら去って行ってしまった。このときが麻季が初めて
結城先輩への愛情を実感した瞬間だったかもしれない。
「君、大丈夫?」
結城先輩が倒れている麻季に手を差し伸べた。そのときの彼女はきょとんした表情を浮べ
ていた。
「怪我とかしてない?」
「……先輩、神山先輩と別れたの?」
 麻季はこのとき一番気になっていたことを聞けなかった。その代わりに二番目に気にし
ていたことを口に出した。
「何言ってるんだよ。そんなこと今は 関係ないだろ・・・・・・。君の方こそ彼氏と喧嘩でも
したの?」
「彼氏って誰のことですか?」
 結城先輩はとりあえず麻季を学内のラウンジに連れて行ってくれた。
「ほら、コーヒー」
「ありがとう。結城先輩」
 麻季は暖かいコーヒーの入った紙コップを受け取った。それからようやく麻季はさっき
の先輩のことを話し始めた。
「よくわかんないの。でも一緒に歩いていたらこれから遊びに行こうって誘われて、講義
があるからって断ったら突然怒り出して。付き合っているのに何でそんなに冷たいんだっ
て言われた。あたしは別にあの先輩の彼女じゃないのにおかしいでしょ?」
 結城先輩は何か考え込んでいる様子だった。
「神山先輩と別れたの?」
 麻季が聞いた。何でそんなことを突然口にしたのか自分でもわからなかったけど。
「別れるも何も付き合ってさえいないよ」
「・・・・・・先輩?」
 そのとき、結城先輩はいきなり麻季の髪を愛撫するように触った。先輩は急に声を出し
て笑った。髪を撫でられながら麻季は微笑んで言った。
「結城先輩、やっぱりあたしのこと好きでしょ」
282:
「結城先輩とお付き合いを始めたの」
 そう怜菜に対して話したとき、麻季は少し緊張していた。怜菜が結城先輩のことを好き
なのだとしたら、怜菜は相当ショックを受けるかもしれない。もともと怜菜への意地から
始めた自分の行動について、この頃には麻季は結城先輩のことが好きで始めたことだと思
い込むようになっていた。だから今の麻季は友情よりも男への恋を優先した怜菜のことを
もはや恨んではいなかった。むしろ自分と結城先輩の付き合いに彼女がショックを受けな
いかだけを心配していたのだ。
「そっか」
 怜菜はあっさりと言った。
「ごめんね」
「何で麻季が謝るのよ。あんたの誤解だって」
「・・・・・・それならいいんだけど」
「あたしは別にどうでもいいんだけどさ。ちょっとだけ鈴木先輩と神山先輩のことが気に
なるな。きっと傷付いてると思うよ」
「博人君は神山先輩とは付き合ってないって」
「もう博人君って呼んでるんだ」
「う、うん。ごめん」
「だから、謝らなくてもいいって。でも付き合ってなかったにしても神山先輩はショック
だろうなあ。結城先輩に失恋したんだしさ」
「よくわかんない」
「それに鈴木先輩は絶対落ち込むよね。付き合ってた彼女を後輩に取られちゃったんだも
んね」
「あたし鈴木先輩の彼女だったことなんかないもん」
「・・・・・・抱き合ってキスしてたくせに」
「突然先輩からされただけだよ」
「あっちはそう思ってないって」
「まあ、でも」
 ここで初めて怜菜が麻季に優しく微笑んでくれた。「鈴木先輩には悪いけど、付き合う
なら結城先輩の方がいいよね。安心できそうだし」
 怜菜の言葉を聞いて麻季は、ああよかった、これからも怜菜と友だちでいられると思っ
てほっとした。
 友だちでいられると思ってほっとしたのはよかったけど、結局その後は怜菜とはあまり
一緒に過ごさなくなっていった。一つには博人と付き合っているうちに、思っていたより
麻季の方が博人に夢中になってしまったからだった。男性に対してここまで依存に近いく
らい一緒にいたいと考えるようになったのは、彼女にとっては初めての経験だった。麻季
はなるべく博人と過ごすようにしていた。お互いに違う講義に出席している時間を除けば、
キャンパス内でも大学への行き帰りもいつも二人きりで過ごしていた。それは全部彼女の
希望だったけど、博人も笑ってそれでいいよと言ってくれた。そういうこともあり博人と
いつもべったりと一緒だった麻季には怜菜と一緒に過ごせる時間がなくなってしまったの
だった。
 もう一つは麻季自身の怜菜に対する感情の問題だった。怜菜に祝福されてほっとした彼
女はこれまでどおり彼女と付き合えると思っていた。ところが博人に惹かれ夢中になって
いくうちに自分でもよくわからない嫉妬めいた感情によって心が支配されてしまうように
なった。怜菜は博人のことが好きだったのだろうか。つい先日までの彼女の悩みは自分が
親友の好きな人を奪ってしまったことによって、怜菜が自分から離れていってしまうので
はないかというものだった。ところが博人に対する独占欲が強くなっていくうちに、怜菜
に対する感情が変化していった。怜菜が本当に博人のことを好きで、しかもその感情をま
だ諦めていないとしたらどうだろう。麻季は男性に関して他の女の子のことなんか気にし
たことはなかった。神山先輩に対してだって負けると思ったことはなかった。それなのに
怜菜に対してはなぜか不安を覚えるのだ。
 そういうわけで麻季は怜菜も含めて学内ではあまり博人以外の人と会ったり喋ったりし
なくなった。博人と二人きりでいるだけで十分だったし、そうしている間は怜菜への漠然
とした不安もあまり感じないですむ。麻季が自分の方からこれほどまでの愛情と不安と嫉
妬心を抱いた男性は博人が初めてだった。
283:
 最初、怜菜はそんな麻季の様子に戸惑い、そして少し寂しそうだった。
「麻季って最近結城先輩とべったりだね」
 二人が出席していた同じ講義が少し早く終ったあとに彼女はそう言った。
「うん。彼と一緒にいないと寂しくて。ごめんね」
「謝ることはないよ。あたしは別にいいけどさ。麻季って本当に結城先輩が好きなんだ
ね」
「うん」
「でも気をつけた方がいいかも。たまに鈴木先輩が二人のこと凄い目で睨んでるし」
「・・・・・・あの人、まだそんなことしてるんだ。博人君に追い払われて逃げたくせに」
「まあ、先輩にしてみれば自分のことを麻季に浮気されて捨てられた被害者だって思って
いるろうし」
「冗談じゃないよ。あたしあの人に殴られたんだよ。女に手を出すなんて最低でしょ。あ
のとき博人君が助けてくれなかったらもっとひどいことされてたかも」
「それはそうかもしれないけどさ、まあでもちょっとは注意しなよ。あ、お迎えが来たみ
たいだよ」
「うん。ごめんね」
 麻季は博人が怜菜に気づく前に彼の腕を取って出て行ってしまった。怜菜が普通に接し
てくれるのはいいけど、彼には怜菜を紹介したくなかったのだ。だから博人は怜菜も含め
て麻季の友人に紹介されたことは一度もなかった。
 麻季の心配をよそに二人の交際は順調に続いた。麻季は自分のアパートを解約して博人
の部屋に引っ越した。最初のうちは博人の自分への態度が凄く淡白なことに不安を感じて
いた彼女も、一緒に暮らすようになると段々とそんな不安も解消されていった。博人なり
に麻季に愛情を感じていてくれていることも、彼の不器用な愛情表現から理解できるよう
になったのだ。鈴木先輩や他の男たちのように四六時中彼女を誉めたり愛していると言っ
たりはしないし、彼の方から手を繋いだり身体に触ったりすることもあまりないけど、そ
れでも穏かで静かな愛情というものがこの世にはあるのだということを麻季は初めて理解
した。
 これまでの男たちは自分が喋ることが好きで麻季の言うことをあまり理解しようとしな
かった。もちろんそれは自分の感情表現の下手さから来るものでもあった。ところが博人
はほとんど口を挟まずに不器用な彼女の言葉を聞き、自分の中で繋ぎ合わせ、最後には彼
女の考えていることを理解してくれたのだ。もう博人君から一生離れられないと麻季は思
った。
 だから博人が音楽の出版社に内定が決まった日の夜、彼からプロポーズされた麻季は本
当に嬉しかった。
「喜んで。この先もずっと一緒にあなたといられるのね」
 このときの麻季の涙はこれまでと違って中々止まらなかった。
 結婚後、麻季は大学時代のピアノ科の恩師の佐々木先生の個人教室のレッスンを手伝っ
ていた。音大時代のほとんどの時間を博人にかまけて過ごしてしまった彼女だけど、佐々
木教授だけはどういうわけか彼女に目をかけてくれていた。演奏家としてやっていくほど
の実力もないし、中学や高校の音楽教師を志望するほどのコミュ力もない麻季に、先生は
自分の個人レッスンを手伝わないかと言ってくれた。卒業したときは既に博人との結婚が
決まっていた彼女は何となくそれもいいかと考えたのだ。音大志望の中高生を教えるくら
いなら何とかできそうだ。既に音楽系の出版社で働き出していた博人もそれを勧めてくれ
た。
 始めてみると意外と自分にあっている仕事だった。拘束時間はきつくないし、実生活で
の麻季とは異なりレッスンのときは中高生たちに自分の伝えたいことがよく伝わった。半
分はピアノに語らせているせいもあったのだろう。今思えば無茶をしていたと思う。博人
と一緒に暮らしている部屋にはもちろんピアノなんかない。佐々木先生の教室での空き時
間に教えるところを一夜漬けみたいにおさらいするのが精一杯。それでも仕事自体は楽し
かった。それで彼女は博人と結婚した後もその仕事を続けていた。博人といつでも一緒に
いられた大学時代とは異なり彼の会社までついて行くわけにもいかない。博人不在の時間
を潰すのには彼女にとって格好の仕事場だった。
284:
 その日は初めて教室を訪れた親子の相手をするところから麻季の仕事は始まった。きち
んとした紹介で入ってくる人だったから、あまり問題はないはずだった。約束の時間にま
だ幼い女の子を連れて教室に来た母親を見たとき、麻季はどこかで見覚えのある人だなと
思っただけだった。でも相手は興奮したようにいきなり彼女に話しかけてきたのだった。
「夏目ちゃんじゃない。久し振り」
 そう言われてよく見ると彼女は同じサークルにいた一年上の先輩だった。あまり女性の
知り合いがいなかった麻季だけど、ようやく彼女のことを思い出した。彼女は大学時代の
新歓コンパのときに博人と二人でずっと話をしていた先輩だったのだ。
「多田先輩ですよね? ご無沙汰してます」
「やだ、夏目ちゃんって佐々木先生のとこで働いてたんだ。知っていればもっと早く連絡
できなのに。あたしは今は結婚して川田っていう姓なんだけどね」
 だから今まで気がつかなかったのか。麻季は記憶を探ってみた。たしかこの先輩はどっ
かの私立中学の音楽の教師になったはずだ。
「そうそう。まだちゃんと働いているんだけどさ。中学生って面倒でね。音大じゃなくて
教育大の音楽科行っとけばよかったよ。あたしって教育とかって全然苦手だしさ」
「こちらはお嬢さんですか」
「そうなの。小学校の低学年なんだけど早い方がいいと思ってさ。麻季が指導してくれる
の?」
 そういえばこの先輩自身も佐々木先生の愛弟子だったはずだ。
「ちょっと待ってくださいね」
 ロビーの椅子を勧めてから麻季は佐々木先生の私室に赴いた。
 ノックして部屋に入ると先生はデスクの上に広げた書き込みだらけのスコアから顔を上
げた。
「どうしたの?」
「先生、あたしより一期上の多田さんって覚えています?」
「ああ真紀子さんでしょ。どっかで学校の先生してるんじゃなかったっけ」
「そうなんですけど、今日申込みにいらした川田さんって、旧姓多田さん、多田真紀子さ
んでした」
「あら、じゃあ川田美希ちゃんって多田さんのお子さんなんだ」
「はい。どうされます? あたしがレッスンしましょうか」
「あの多田さんのお嬢さんなら最初くらいはあたしがみるわ。三番のレッスン室に連れて
来て」
 多田さん、いや川田さんにそれを告げると彼女は喜んだ。
「佐々木先生が直接レッスンしてくれるの?」
「はい。とりあえずは最初は多田先輩のお嬢さんなら自分がみるとおっしゃってましたよ。
その後は全部佐々木先生というわけにはいかないと思いますけど」
「光栄だわ。美希、落ちついて頑張るのよ」
 麻季は美希を連れて佐々木先生の待つ部屋に赴いた。
「美希落ちついてた?」
 麻季が川田先輩の待つロビーに戻ると先輩は心配そうに聞いた。
「ちょっと緊張してましたけど、みんなそうですから」
 麻季は笑った。佐々木先生の美希への初レッスンが終るまで、川田さんは大学時代の思
い出をいろいろと語り出した。
「そういえば夏目ちゃん、結城君と結婚したんだってね。おめでとう」
「ご存知だったんですね」
「うん。あんたと仲良しだった怜菜から聞いたよ。ああ、もう夏目ちゃんじゃないのか」
285:
 怜菜は麻季と博人の披露宴に来てくれていた。その場では一言も会話しなかったけど。
そしてそれ以来、麻季は怜菜と話をしていない。
「そういや怜菜も結婚したんだってね」
「・・・・・・そうなんですか? あたし聞いてないです」
「え? 怜菜も水臭いなあ。あんたと怜菜って親友だと思ってたのに」
「怜菜、いつ結婚したんですか」
「先月だよ」
「そうですか」
 麻季は少しだけショックを受けた。
 冷静に考えれば無理はないのかもしれない。何しろ博人に夢中だった麻季は、在学中も
卒業後も怜菜とはほとんど一緒に過ごしていなかったのだから。それでも卒業後に麻季は
自分の披露宴に怜菜を招待したし、久し振りに会った彼女も式の前に目を輝かせて麻季の
ウェディングドレス姿を見て「麻季きれい」と言ってくれたのだ。
 その怜菜は自分の披露宴には麻季を呼んでくれなかったのだ。
「怜菜ってどういう人と結婚したんですか」
 怜菜への失望を押し隠して麻季は先輩に聞いた。
「怜菜の結婚のことを知らないんじゃ相手のことも知らないか。えーとね。あたしより一
年上の鈴木雄二って先輩・・・・・・というか、あんたの元彼じゃなかったっけ」
「・・・・・・鈴木先輩はあたしの元彼じゃありません。あたしが大学時代に付き合ったのは今
の旦那の博人君だけですから」
「ああ、そうだよね。あんたと結城君っていつも一緒だったもんね」
 少しだけ慌てた表情で先輩は取り繕うように言った。「何かさ。怜菜と鈴木先輩って卒
業後に鈴木先輩のオケの定演でばったり出会ったんだって。怜菜って首都フィルで事務や
ってるでしょ? 鈴木先輩の横フィルと首都フィルってよく合同でイベントとかしてるみ
たいで、その縁でそうなったみたい」
 先輩の話は麻季の耳に入っていたけど彼女は半ばそれを聞きながらも心の中ではいろい
ろな疑問が浮かんできていた。怜菜は博人君を慕っていたはずだった。それは多分麻季の
思い違いではないだろう。そしてそんな怜菜が鈴木先輩に惹かれていたたなんていう話は
怜菜から一言だって聞いたことがない。もちろん卒業後のことだし、鈴木先輩はイケメン
だったから、怜菜が改めて彼に惹かれて結婚したということもあり得るかもしれない。で
も麻季が怜菜の気持を気にしながら博人と付き合い出したことを彼女に告げたとき、怜菜
はこう言った。
『鈴木先輩は絶対落ち込むよね。付き合ってた彼女を後輩に取られちゃったんだもんね』
『あたし鈴木先輩の彼女だったことなんかないもん』
『・・・・・・抱き合ってキスしてたくせに』
『突然先輩からされただけだよ』
『あっちはそう思ってないって』
『まあ、でも鈴木先輩には悪いけど、付き合うなら結城先輩の方がいいよね。安心できそ
うだし』
 怜菜は本当は博人ではなく鈴木先輩のことが好きだったのだろうか。それなら麻季が博
人と付き合ったときもうろたえずに受け止めてくれた理由としては理解できる。そして結
果的に麻季に振られることになる鈴木先輩のことを気にしていたのも理解できる。でも麻
季が博人と付き合いだす前に彼と自分が話をしていたところを聞いていた怜菜の様子を思
い出すと、やはり彼女は博人のことを好きだったのではないかと思える。
 怜菜は麻季への友情から、自分の気持を抑圧してまで麻季と博人との付き合いや結婚を
祝福してくれたのだ。それは間違いないはずだった。それならなぜ彼女は鈴木先輩と結婚
したのだろう。それも親友であった自分には一言も知らせずに、披露宴に招待すらするこ
ともなく。
286:
『怜菜は敵だからね』
 凄く久し振りに麻季の心の中で誰かの声がした。
『怜菜が鈴木先輩と結婚した理由はわからない。それでも彼女は麻季と博人との付き合い
を邪魔しようと企んでいるんだよ』
 その声を聞くのは久し振りだった。そしてできればもう二度と聞きたくない声だった。
濁ったような男とも女ともつかないような低い声。麻季が博人と付き合い出してからも彼
女の人生の節目でしょっちゅう心の中で勝手にアドバイスし出す声。
 博人と同棲したのもその声の勧めだった。佐々木先生の教室を手伝うことに決めたのも
その声に従ったまでだ。でも博人のプロポーズに答えたのはその声とは関わりなく純粋に
自分の意思だった。そしてその声は博人との結婚後は彼女の頭の中で響きだすことはなく
なっていたのだった。
『怜菜は敵だ。これは罠だよ。怜菜は君のことを恨んでいるんだね』
「あ、佐々木先生。ご無沙汰しています」
 先輩が立ち上がってレッスン室から美希を伴って出てきた先生に声をかけた。
「多田さんお久し振り。元気だった?」
「おかげさまで元気です。それで美希はどうでしょうか」
「うん。まだわかんなけど、弾き方の癖とかあんたにそっくりだわ。しばらく結城さんに
レッスンさせるけどいい?」
「はい。ありがとうございます」
 先輩が感激したように声を出した。「麻季ちゃん、娘をよろしくね」
「結城さん?」
 黙っている彼女を不審に思った先生が麻季に声をかけた。
 博人と結婚して奈緒人が生まれ、麻季は幸せだった。もうあまり心の中の声が勝手に彼
女に指示することもなくなっていて、生まれてはじめて彼女は平凡だけど安定した生活を
送るようになった。もう二度とあの声が聞こえることはないだろうと彼女は思った。それ
くらい育児というのは彼女にとって大変で、しかし幸せな体験だった。妊娠をきっかけに
麻季は佐々木先生の教室をやめた。先生は育児が一段落したらいつでも戻っておいでと残
念そうに彼女に声をかけてくれた。
 育児で多忙な麻季だったけど、奈緒人がお昼寝をしたりしている時間は彼女の自由にな
る時間でもある。そんな時間すら麻季はベビーベッドに寝ている奈緒人をぼんやりと見つ
めていることが多かった。この子は博人君に似ている。そんな奈緒人を見つめているだけ
で自然に育児の苦労も忘れ彼女の顔には自然に笑みが浮かんだ。彼女にとって出産は自分
の愛する人が無条件で増えたということだった。
 怜菜と鈴木先輩の結婚、それにその披露宴に自分が招待されなかったことについて、彼
女はだいぶ冷静に考えられるようになった。怜菜が何で鈴木先輩とって悩んだこともあっ
たけど、あの心の中の言葉のとおりだとは やっぱり思えない。例えばお互いに好きな相
手と添い遂げられなかった同士である怜菜と鈴木先輩が何かの拍子に相談しあい慰めあっ
ているうちに、恋に落ちたということだって考えられるのではないか。そういうことだっ
て世の中には決してないことではない。そしてそういうことだとしたら二人が麻季を披露
宴に招待しなかったことも納得できる。先輩だっていくら怜菜の親友だといっても自分が
振られた相手を招待するなんてことはしたくないだろう。
 ひょっとしたら怜菜は麻季のことを招待したかったのかもしれない。もう自分は博人へ
の想いを断ち切って鈴木先輩と幸せになるよって、言葉にする代わりに幸せな披露宴の様
子を見せたかったのかもしれない。でも、常識的に考えれば鈴木先輩が麻季のことを元カ
ノだと信じ込んでいた以上、怜菜も麻季を招待するとは言い張れなかったのも無理はない。
心の声は以前に言った。怜菜は敵だと。そして、彼女は麻季と博人との付き合いを邪魔し
ようと企んでいるんだよと。
 今にして思えば邪推もいいところで、せいぜいよく言っても考えすぎだ。怜菜と鈴木先
輩が結婚したことによって麻季と博人の仲が邪魔される要素なんかない。むしろその逆だ
ろう。今度はその声も麻季の考えたことに反論しようとしなかった。
287:
 鈴木先輩との思いがけない再会は、麻季が奈緒人を保健所の三ヶ月健診に連れて行った
帰り道のことだった。とりあえず周囲のママたちと違って、特に仲の良いママ友なんてい
ない麻季は、奈緒人を乗せたベビーカーを押して帰宅しようとしていた。途中の駅の段差
でベビーカーを持て余していたとき、一人の男性が黙ってベビーカーに手を差し伸べて持
ち上げてくれた。お礼を言おうとその男性の顔を見た瞬間、麻季は思わず凍りついた。黙
って手助けしてくれた男性は鈴木先輩だった。同時に彼の方も麻季に気が付いたようだっ
た。
「あれ、もしかして夏目さん?」
「・・・・・・鈴木先輩」
 二人はしばらく呆然としたようにお互いの顔を見詰め合っていた。すぐに先輩は気を取
り直したように笑顔で懐かしそうに麻季にあいさつした。
「久し振りじゃん。元気だった?」
「うん」
「そういや結城と結婚したんだってね。夏目さんじゃなくて結城さんか」
「先輩は・・・・・・」
 怜菜と結婚したんですよねと麻季は言うつもりだったけど、先輩はそれを質問だと取り
違えたようだった。
「俺? 俺は相変わらず寂しい一人身だよ。同情してくれる?」
 先輩は麻季の言葉を自分への質問だと間違えたのだった。そして自分の結婚を彼女がま
だ知らないものだと思ったらしい。実際、偶然に多田先輩から聞かなかったら麻季は怜菜
と先輩の結婚のことなんか知る由もなかったろう。それで先輩は自分が結婚していないと
麻季に言い出したのだ。
 いったい先輩は何を考えてそういう嘘を彼女に言ったのだろう。
「夏目さん、じゃなくて結城さん。これから少し時間ない? 久し振りで懐かしいしちょ
っとだけ話しようよ」
 当然、麻季にはそんな気は全くなかった。けれどこのとき再び久し振りのあの声が頭な
の中で響いたのだ。
『いいチャンスじゃん。この際、鈴木先輩と怜菜のことを少し探っておきなよ。それにど
うして鈴木先輩が怜菜との結婚を隠しているのかも気になるでしょ』
 麻季は好奇心からその声に従うことにした。
「そこのファミレスでお茶でもしようか」
「・・・・・・少しだけなら」
 鈴木先輩は学生時代より少し大人びていて、服装も落ちついた感じで格好よくなってい
た。 麻季は奈緒人が寝入っているままのベビーカーを押して先輩とファミレスに入った。
ファミレスの店員は先輩と麻季のことをきっとまだ幼い子どもを連れた若夫婦だと思った
だろう。
 席について飲み物が運ばれると、先輩は快活に共通の知人たちの消息を話してくれた。
麻季は作り笑顔で頷いてはいたけど、その実少しもその話に興味を持てなかった。彼女に
とって興味があったのは怜菜と先輩との関係、そして怜菜の消息だった。
「今は横フィルにいるんだ。ようやく去年次席奏者になれたくらいだけどね」
「すごいんですね」
 麻季はとりあえずそう言ったけど、その言葉に熱意がこもっていないことに先輩は敏感
に気が付いたようだった。
「君だって立派に子育てしてるじゃん。とても幸せそうだよ」
「そんなことないです」
「きっと旦那に大切にされてるんだろうね。まあ、正直に言うと君ほど才能のある子が家
庭に入るなんて意外だったけどね」
288:
「あたしには才能なんてなかったし」
「佐々木先生のお気に入りだったじゃん。みんなそう言ってたよ。君がピアノやめちゃう
なんてもったいないって」
「・・・・・・あたしは旦那のそばになるべく長くいたかったし」
「いい奥さんなんだね。しかし結城のやつも嫉妬深いというか」
 博人の悪口を聞かされて麻季の顔色が変ったことに気がついたのだろう。先輩は言い直
した。
「そうじゃないか。愛情が深いってことだね」
 取り繕うように笑った先輩は心なしか少しイライラしているような感じだ。本当にここ
で鈴木先輩と出会ったのって偶然なんだろうか。麻季は少し不審に思った。
『やっぱりこれは怜菜の罠だよ。先輩と怜菜が結婚したのは、君への復讐なんじゃない
の?』
 心の声が響いた。そしてこれまでその声を聞く一方だった麻季は初めてその声に心の中
で反論した。
『意味不明じゃない、そんなの。あたしに隠すくらいなら最初から二人が結婚する必要な
んてないでしょ』
 心の声は待っていたとばかりに反論した。
『そうとも言えないんじゃない? 多分さ、先輩はこの後君のことを誘ってくると思う
な』
『無駄なことでしょ。あたしが博人君を裏切るなんてあり得ないでしょ』
『そんなことは言わなくてもわかってるって。でも問題は先輩の方じゃない。怜菜が何を
考えてるかでしょ』
『・・・・・・どういう意味よ』
『先輩の考えていることなんてわかりやすいでしょ。君と寄りを戻すっていうか、君のこ
とを抱きたいんでしょ。こういう男が考えそうなことだよね』
『だからそんなのは無駄な努力だって』
 麻季の反論を無視してその声は続けた。
『問題はさ、君の言うとおり怜菜が何を考えているかだよ』
『どういう意味?』
「麻季ちゃん、よかったらメアドとか携帯の番号とか交換してくれる?」
「・・・・・・何でですか」
「いや・・・・・・音楽のこととか同窓の友人たちの情報交換とか君としたいと思ってさ」
「あたしは家庭にこもってますから、先輩には何も教えられないと思います」
「それでも情報は大切だよ。僕の方は麻季ちゃんに教えられることは結構あると思うよ」
 いつのまにか先輩は麻季のことを結城さんではなくて麻季ちゃんと呼び出していた。
『怜菜が本当は鈴木先輩のことなんか好きでも何でもなかったとしたら?』
『どういう意味?』
『そして鈴木先輩が執念深くずっと君のことを狙っていたとしたら?』
『先輩があたしにそんなに執着するわけないじゃん。この人、ただでさえ女にもてるんだ
し。それに卒業してから何年経ってると思ってるのよ。それに先輩があたしなんかのため
だけに怜菜と偽装結婚までするわけないじゃん。結婚とか式とかってどんだけ費用と労力
がかかると思ってるのよ』
『だからあ。先輩はそんな面倒くさいことは考えないでしょ。問題は怜菜の意図でしょう
が』
『どういうこと?』
『前にも言ったとおり怜菜は君の敵だ。先輩は単純に怜菜に惚れただけでしょ。彼女って
控え目で可愛らしいしね』
289:
『・・・・・・あんた、どっちの味方なのよ』
『私は君そのものだからさ。君の味方に決まってるじゃん』
『先輩は大学卒業後に怜菜を好きになったということね。それはわかった。でもそれじゃ
怜菜の気持は?』
『そんなことはわからない。神様じゃないんだからさ』
『怜菜は先輩のことが好きじゃないって言ったよね?』
『怜菜は君の敵だよ。そしてこれは純粋に仮説に過ぎなくて証拠はないんだけどね。怜菜
が何とかして博人君を君から奪おうと考えているとしたらさ、君に浮気させちゃうのがて
っ取り早くない?』
『あたしは浮気なんてしないよ。博人君を失ったら生きていけないもん』
『仮定の話として聞いてよ。仮に君と鈴木先輩が浮気したとするじゃん』
『絶対にしない』
『仮にだって! そうしたら鈴木先輩の動向を確認しているだろう怜菜はどうすると思
う?』
『・・・・・・どうするのよ』
『怜菜は博人君に接触するよ、間違いなく。それで旦那に浮気された被害者を装って博人
君の同情を買うと同時に君と先輩の仲が浮気ではなく本気だと博人君を説得するでしょう
ね。押し付けがましくなく自然にね』
「今日はいい日だったよ。偶然に麻季ちゃんに会えてメアドとか交換できるとは思わなか
った」
「そうですか」
『鈴木先輩のことは気にしなさんな。きっと彼には深い考えなんかないよ。ただ、偶然に
会えた君を口説いて、あわよくば抱きたいと考えているだけだから』
『先輩なんかどうでもいいけど・・・・・・怜菜が博人君のことを好きだったのは確かかもしれ
ない』
 麻季はついにその声に対してそれを認めた。もともとそう考えていたことだったし。
『でもこんな馬鹿げたことを怜菜がするわけないじゃん。あたしが博人君一筋だってこと
を怜菜は知っていたはずだし、先輩のことなんて好きじゃなかったこともね』
『君は怜菜の善意を信じてるの? 君の親友だから?』
『怜菜はあたしの人生で唯一の親友なの』
『その親友に君は何をした? 怜菜から博人君を奪った。そしてそれを許容してくれた親
友の怜菜に博人君を会わせなかったばかりか、卒業までろくに怜菜と一緒に過ごさなかっ
たんでしょ』
『それは・・・・・・』
『それはじゃないよ。そんな仕打ちをされても怜菜がいまだに君のことを親友だと思っているとでも?』
『じゃあ、どうすればいいのよ。今さら怜菜にあの頃どう思ったなんて聞けるわけないじゃない』
『確かめてみたら?』
 その声が静かに言った。
290:
『私の言ったことが正しいかどうか試してみればいいと思うよ』
『・・・・・・どうやって』
『簡単じゃん。鈴木先輩に一回だけ抱かれてみればいいんだよ。鈴木先輩は君を落す気
満々だし』
『いい加減にしなさいよ。あたしが博人君を裏切れるわけがないでしょ』
『試すだけなんだから裏切りにはならないよ。それに君は博人君の君に対する愛情を本当
には信じ切れてないみたいだね』
『そんなわけないでしょ。あんたなんかに言われたくないよ』
『いや。君が一回だけ先輩に抱かれたことがわかっても博人君は君を許すよ。君はそれだ
『それならなおさら博人君を裏切っちゃだめでしょ』
『それは正しい。怜菜さえ存在しなければね。でも怜菜は強敵だよ。彼女は控え目で可愛
らしいけど芯は強い。今のうちに怜菜の目的を理解して手を打っておくべきだよ』
『馬鹿なこと言わないで。それにあたしが先輩に抱かれたら怜菜がどうするっていうの
よ』
『さっき言ったとおりだと思うよ。怜菜は旦那に浮気された被害者として博人君に接触す
きを書いているんじゃないかな。怜菜って旦那と親友のひどい仕打ちに耐え忍んでいる聖
女とか天使とかっていうイメージじゃん』
 麻季はそのときは別に動揺しなかった。心の声も愚かなことを言うものだ。たとえその
声が言っていることが正しくて怜菜がそういうことを仕掛けていたとしても麻季が鈴木先
輩に靡かなければ無意味な話なのだ。怜菜のことなんかもう放っておけばいい。そして博
人君の愛情も疑わなければそれでいい。
 先輩と連絡先を交換したそのときは麻季はそう思っただけだった。
 それなのにそれからしばらくして麻季は怜菜の意図を図りかね、それを知りたくてどう
しようもなくなってしまった。もちろん博人と一緒にいるときや奈緒人の面倒をみている
ときは少しもそういう気は起こらない。でも博人の不在時に奈緒人がお昼寝を始めると、
彼女は親友だったはずの怜菜のことが頭にこびりついて離れなくなるのだった。
 そして決して考えるべきでもなく試すべきでもないこさえ麻季の脳裏を占めるようにな
った。彼女はこんなにも博人君を愛している。多分博人が万一浮気のような過ちを犯した
としても麻季は結局それを許すだろう。でも博人はどうだろう。麻季が先輩と過ちを犯し
たとしても彼は麻季のことを許してくれるのだろうか。怜菜の意図が知りたい。特に彼女
がどれくらい博人に対して想いを残しているのか知りたい。麻季はひとりでいるときはい
つもそのことを考えるようになってしまった。同時に博人の気持を試したいという欲求も
徐々に彼女の心を支配するようになっていった。
 先輩はメアド交換をして以来、しょっちゅうメールを送ってくるようになった。麻季の
方は当たり障りなくそれに返事をしていた。博人との馴れ初めが馴れ初めだったので、本
当は先輩とメールのやり取りなんかすべきではないことはわかっていた。でも怜菜の意図
を知りたいという欲求のことを考えると、ここで先輩との連絡を絶やすわけにはいかなか
った。
 心の声はあれからもしつこく麻季に話しかけてきた。
『鈴木先輩に一回だけ抱かれてみな。試すだけなんだから裏切りにはならないよ』
『君が一回だけ先輩に抱かれたことがわかっても、きっと博人は君を許すよ。君はそれだ
け彼に愛されているんだから』
『怜菜は強敵だよ。彼女は控え目で可愛らしいけど芯は強い。今のうちに怜菜の目的を理
解して手を打っておくべきだよ』
『怜菜は旦那に浮気された被害者として博人に接触するでしょ。そしてお互いに伴侶の不
倫を慰めあっているうちに恋に落ちるなんていう筋書きを書いているんじゃないかな。怜
菜って旦那と親友のひどい仕打ちに耐え忍んでいる聖女とか天使とかっていうイメージじ
ゃん』
 そんなとき先輩からメールが届いた。横フィルの次の定演で先輩がソリストとしてデビ
ューする。招待状を送るから来ないかという内容だった。
『行ってきなよ』
 その声が静かに言った。『確かめてみたら?』
291:
 鈴木先輩にホテルの一室で抱かれた夜、麻季は先輩に抵抗もしなかったけど、乱れた演
技すらもしなかった。終始人形のように先輩にされるままになっていただけだ。博人に抱
かれて乱れて喘ぐときとは大違いだ。それでも先輩はそんな麻季に満足したようだった。
「処女と一緒だね。結城って本当に君のことがわかってないんだな。何年も君と寝ていて
全く君の性感帯も開発していないなんてさ」
 先輩は博人のことを嘲笑しながら、麻季の裸身を優しく愛撫した。「もう少し機会をく
れれば君のこと絶対に変えてみせるよ」
 先輩が何を言おうと麻季の心には何も響かない。次の機会なんてないのだ。怜菜の感情
を推し量るためにはこういうことは一度だけで十分だった。それに彼女はろくに先輩の言
葉に注意していなかった。心の声の方に気を取られていたからだ。
『ついでに博人の気持も確かめとこうよ』
『そんな必要はありません』
『本当は不安なんでしょ、彼の気持が。怜菜が動き出す前に安心しておこうよ』
『どうすればいいの』
『博人が君を求めてきても拒否しなよ。君だって嫌でしょ? 先輩に抱かれた身体で博人
君と交わるなんてさ』
『・・・・・・』
『しかし見事なまでに感じてなかったね。鈴木先輩のせいとは思えないからきっと君は博
人じゃなきゃ駄目なんだな』
『当たり前だよ』
『でももう君はそんな大切な人を裏切って浮気しちゃったんだよ』
『あんたがそうしろって言ったんでしょう』
『私は君だからね。つまりこれは君自身が望んでしたことなんだよ』
『今まで博人君が求めてくれるのを断ったことないし、断れば疑われちゃうよ』
『そう。君は疑われなきゃいけないんじゃないかな』
「今日は泊まっていける?」
「無理。奈緒人を迎えに行かなきゃいけないし、先輩だって打ち上げに顔を出さないわけ
にはいかないでしょ」
「君と過ごせるなら打ち上げなんて」
「あたしが無理なの!」
「ひょっとして後悔してる?」
「してる。あたし、博人君を裏切っちゃった」
「・・・・・・泣かないで。君のせいじゃない。全部、僕が悪いんだ」
「もういい。これが最初で最後だから。先輩、もうあたしに連絡してこないで」
「普通の友人同士としてとかなら」
『電話は駄目だけどメールくらいは許してやんなよ』
『もうそんな必要ないじゃない』
『怜菜の気持を知りたいならそうした方がいい。始めちゃった以上は良くも悪くも続けな
いと。中途半端が一番まずいよ』
「・・・・・・電話はしてこないで。メールにして」
「・・・・・・わかった。君がそういうならしつこくはしないよ。大学の頃から本当に君だけし
か愛せなかった。だからメールくらいはさせてくれ」
292:
『出産してから博人君は全然そういうこと誘ってこないもん。考えたって無駄じゃないか
な』
『そろそろ博人だってそういうこと考えていると思うよ。早晩、君のことを求めてくるっ
て。そのときは彼を拒否しなよ。そうしないと好きでもない男に抱かれて博人を裏切った
意味がなくなってしまうから』
 鈴木先輩はベッドの上ではそう約束したけど、ホテルの前で別れたその晩にさっそくま
た麻季に会いたいというメールを送りつけてきた。麻季は拒絶の返事を書いてメールを出
した。
『もうあたしのことは放っておいて。先輩とは二度と会わない』
 その後、多忙であまり家にはいないながらも遅く帰ってきても麻季と奈緒人のことを気
遣う博人に対して、麻季はしてしまったことに罪悪感を感じた。幸運なのか不運なのか、
産後の麻季の体調を気遣った博人が麻季を誘うことはなかったので、表面上は二人は今ま
でどおり仲のいい夫婦のままだった。
 あんな声に従って博人君を裏切るなんて、何て馬鹿なことをしたのだろう。麻季は後悔
したけどしてしまったことはもうなかったことにはできない。それでも麻季の浮気なんて
夢にも疑っていない博人は相変わらず優しかったし、麻季も自分の過ちをだんだんと忘れ
ることができるようになった。
 それでもやはりその日は訪れた。
 ある夜、奈緒人が寝入った後の夫婦の寝室で、博人は出産以来久し振りに麻季を抱き寄
せて彼女の胸を愛撫しようとした。このときの麻季は自分の不倫を忘れ、博人の愛撫に期
待して身体を彼に委ねようとした。
『ほら、ちゃんと拒否しないと』
 最近聞こえてこなかった声が麻季に言った。
 博人は麻季をこれまでより強く抱き寄せて彼女にキスしながら手を胸に這わせ始めてい
た。
『やだよ。久し振りなのに断ったら博人君傷付くと思うし、それにあたしだって・・・・・・』
『君は博人と違って先輩とセックスしたでしょうが』
『あれはしたくてしたんじゃないし! それに気持悪いだけだった』
『そうだね。そんな思いまでして先輩に抱かれたのには目的があったからだ。今さらそれ
をぶち壊す気なの』
『・・・・・・だって』
『ここで頑張らないと、先輩と寝たことは単なる浮気になっちゃうよ。さあ、疲れてるか
らそんな気分になれないって博人にいいなよ』
 博人の手に身を委ねてい麻季は彼の腕の中から抜け出した。
「・・・・・・麻季?」
 初めて見るかもしれない博人の傷付いているような表情に麻季は胸を痛めた。
「ごめんね。何だか疲れちゃってそういう気分になれないの」
「いや。僕の方こそごめん」
「ううん。博人君のせいじゃないの。ごめんね」
 一度博人の腕から逃げ出した麻季は再び彼に抱きついて軽くキスした。
「もう寝るね」
「うん。おやすみ」
 本当は麻季の方が泣きたい気持だったのだ。
293:
 確かに博人は麻季のことを大切に考えているようで、それから長いこと彼は麻季を抱け
ないことに耐えているようだった。事実、彼はその夜から全く麻季に手を出そうとしなく
なった。
 博人には思いも寄らないことだろうけど、耐えていたのは麻季も同じだった。セックス
がないだけならまだ耐えられたかもしれない。でもあの夜以来、博人は自分から麻季の身
体に触れないようにしているようだった。多分、抱きしめ合ったりキスしたりした後の自
分の衝動に自信が持てなかったのだろう。今ではハグやキスは全て麻季の方からするだけ
になり、彼はそんな麻季に軽く応えるだけだった。
 全部自業自得だ。博人君は自分を抑えてくれている。そう理解はしていたけど彼女の方
もそろそろ限界に来ていたようだった。ある夜、我慢できなくなった麻季は博人に甘える
ように彼に寄り添った。いつもの軽いキスとかでは済まない予感がする。その夜の麻季は
まるで恋人同士だった頃に時間が戻ったみたいに博人に甘えた。麻季はもう我慢ができな
かったのだ。それは決してセックスだけのことではない。麻季にとっては博人との肉体的
な接触が激減したことが不安で仕方がなかった。
 そういう麻季の気持を正確に理解したように、博人はいつもと違って真剣な表情で麻季
を強く抱き寄せようとした。
『拒否しなさい』
 またあの声だ。
『もうやだよ。一度は拒否したんだからもういいでしょ。拒否しても博人君はあたしのこ
とを嫌わなかった。博人君の気持はもうこれで十分にわかったんだし』
『やり始めたことは中途半端にしちゃいけないね。拒否するくらいで彼の気持が理解でき
るくらいなら、何も鈴木先輩と寝ることなんかなかったじゃん』
『だって・・・・・・』
『だってじゃない。君だってわかってるんでしょ。単にセックスを拒否した程度で彼の気
持なんて試せないって』
『あたし、博人君に抱かれたい。彼に好きなようにさせてあげたいの』
『博人の気持を知るためだけじゃない。ここで流されたら怜菜に博人を取られるかもしれ
ないんだよ』
『そんなこと』
『さあ勇気を出して』
「やだ・・・・・・。駄目だよ」
 結局このときも麻季は心の中の声に従ったのだ。このときの麻季は可愛らしく博人の腕
の中でもがいたので、夫はそれを了承の合図と履き違えたようだった。しつこく体を愛撫
しようとする博人の手に麻季は微笑みながら抵抗していたから。このままでは埒が明かな
い。
『博人を押しのけないと』
 麻季の服を脱がそうとした博人は突然麻季によって突き飛ばすように手で押しのけられ
た。一瞬、博人は狼狽してその場に凍りついた。博人にはひどく傷つけられた自分の感情
をを隠す余裕すらなかったようだった。麻季は再び博人の愛撫を拒絶したのだ。
「ごめん」
 それでも博人は麻季に対して謝罪した。何でもないことのように見せようとしているら
しいけど、震えている声が博人の彼女を思いやろうとする意図を裏切っていた。
「ごめん。今日ちょっと酒が入っているんで調子に乗っちゃった。君も疲れているんだよ
ね。悪かった」
「あたしの方こそごめんなさい。博人君だって我慢できないよね」
「いや」
294:
「・・・・・・口でしてあげようか」
 麻季が言った。それは心の声とは関係なく思わず彼女の口から出た言葉だった。
 その言葉に博人は凍りついたようだった。
「もう寝ようか」
 ようやく博人が口にした言葉は、結婚してから初めて麻季が聞くような冷たいものだっ
た。博人の冷たい口調に麻季は混乱して泣き始めた。
「悪かったよ」
 麻季の涙を見て後悔したように博人はさっきの冷たい口調を改めて言った。
「ごめんなさい」
「君のせいじゃないよ。僕のせいだ。君が奈緒人の世話で疲れてるのにいい気になってあ
んなことしようとした僕の方が悪いよ。本当にごめん」
 麻季は俯いたままだった。
『先輩との浮気を告白するなら今がチャンスだね』
『あたし、これ以上博人君に嫌われたくないよ』
『博人を信じようよ。博人は君を愛している。きっと君の浮気を許すだろう。そうしたら
君の悩みの一つはそれで解決でしょ。これでもう二度と君は彼の愛情を疑うことはないだ
ろう』
『・・・・・・・あたし恐い』
『勇気を出しなよ。大学時代に君のことなんてどう思っているかもわからない博人のア
パートに押しかけた勇気を思い出しなさい』
『だって』
『まず博人の愛情を確認しようよ。それから親友だった怜菜の感情を探らないとね。知り
たいんでしょ? そして安心したいんでしょ』
『あんなことを告白しちゃったらあたし博人君に捨てられるかも』
『大丈夫だよ。むしろ、このまま何も手を打たないと怜菜に博人を取られちゃうよ』
 麻季はまたその声に従ったのだ。
「ごめんなさい。謝るから許して。あたしのこと嫌いにならないで」
「謝るのは僕のほうだよ。まるでけものみたいに君に迫ってさ。君が育児と家事で疲れて
るってわかっているのに。仕事にかまけて君と奈緒人をろくに構ってやれないのに」
「本当に好きなのはあなただけなの。それだけは信じて」
「わかってるよ。落ち着けよ」
 混乱している彼女をなだめるように博人は言った。
「あなたのこと愛している・・・・・・あなたと奈緒人のこと本当に愛しているの」
「僕も君と奈緒人のことを愛してるよ。もうよそうよ。本当に悪かったよ。君が無理なら
もう二度と迫ったりしないから」
「違うの。あなたのこと愛しているけど、あの時は寂しくて不安だったんでつい」
 混乱した声で麻季は鈴木先輩と寝てしまったことを話し始めた。
「・・・・・・え」
 博人は予想すらしてなかった麻季の告白に凍りついた。
「一度だけなの。二回目は断ったしもう二度としない。彼ともちゃんと別れたし。だから
許して」
295:
 このときはいろいろとつらい思いをしたのだけど、結局のところ麻季は博人の愛情を確
信することができた。鈴木先輩との浮気を告白した彼女に対して、博人は最後には許して
やり直そうと言ってくれたのだ。博人の愛情を確認するという意味だけを取り上げれば、
あの声のアドバイスも正しかったのかもしれない。でも博人の愛情を再確認したその代償
もまた大きかった。
 博人の愛情を確信した以上、もう麻季は博人に抱かれてもいいはずだった。でも麻季の
浮気を許して彼女の自分への愛情を信じてくれたはずの博人も、一度鈴木先輩に抱かれた
麻季の身体を抱くことができなくなってしまったのだ。もうあの声も反対しなかったので、
麻季は積極的に博人を誘惑した。そういうときは博人もそれに応えてくれようとしていた
のだけど、やはり博人は再中に萎えてしまい彼女を抱けなくなってしまう。麻季は夫が自
分を抱けなくなったという事実に狼狽したけれど、それはもちろん自業自得というものだ
った。
 それでも肉体的な問題を除けば、麻季は幸せで多忙な日々を送ることができた。彼女に
は奈緒人がいる。博人が彼女を許した理由の大半は奈緒人絡みなのかもしれないけど、そ
のことは別に彼女を傷つけはしなかった。奈緒人は二人の分身だった。そして二人を繋ぎ
とめる絆でもある。奈緒人の成長振りを博人と話しているとき、彼女は博人に抱かれて喘
いでいるときと同じくらいの充足感を感じた。
『麻季?』
 鈴木先輩から電話がかかってきたのは博人が不在の夕暮れのことだった。着信表示は
「鈴木先輩」という文字が浮かび上がっていた。あれから結局麻季は先輩とメールのやり
とりを再開してしまっていた。そんな気は全くなかったのだけど、怜菜の件はまだ未解決
だった。そのことを例の声に指摘されて麻季はしぶしぶとそれなりに先輩に気のある素振
りを装ったメールを返信していたのだ。怜菜が先輩の携帯をチェックしているかもしれな
いからね。そうあの声が言ったせいだった。
『メール以外で連絡しないでって言いましたよね?』
『わかってる。ごめん。でもそんなことを言っている場合じゃないんだ』
 偶然再会してから、いや大学時代に先輩と知り合ってから初めて聞くような切羽詰った
声だった。
『何なんですか。もうすぐ博人君が帰ってくるんですよ。話があるなら早くして』
 これ以上博人君に嫌われたくない。彼が帰宅したときは抱きついてキスして、それから
奈緒人を彼に抱かせて迎えてあげたい。そんなささやかな幸せを鈴木先輩ごときに奪われ
たくない。それにこれ以上博人君に誤解されるのもまずい。麻季はそう思って冷たく答え
た。
『悪い・・・・・・。でも僕よりも麻季に関係することだから』
『いったい何があったんですか』
『そのさ。すごく言いづらいんだけど』
『もったいぶらないで早く言って』
『麻季って太田怜菜さんと知り合いだったよね』
 何が太田怜菜さんだ。あんたは独身だってあたしには言っているけど、彼女はあんたの
奥さんじゃない。正確に言うと鈴木怜菜でしょ。そう麻季は思ったけど今さら先輩の嘘を
責める気はなかった。今はとにかく早くこの電話を切りたい。急がないと博人君が帰って
きてしまう。
『偶然に知ったんだけど・・・・・・。君の旦那と怜菜さんって浮気しているみたいだぜ』
 一瞬、麻季の周囲の世界が停止した。
『もしもし?』
『ふざけないでよ! いったい何の根拠があって』
『いや。偶然に喫茶店で結城と怜菜さんが二人きりで親密そうに話をしているところを見
ちゃったんだ』
 場所は博人の編集部の近くにあるクローバーという喫茶店。その店の名前には聞き覚え
があった。打ち合わせでよく使う店だと博人君が話してくれたことがある。先輩はそこで
親密そうに顔を近づけて、何やらひそひそと密談めいた様子で話をしている博人と怜菜を
見かけたのだという。
『僕も二人に見つかったらまずいと思ってすぐに店を出たんで、その後二人がどうしたか
はわからない。ひょっとしたらホテルにでも』
296:
 先輩も動揺している様子だった。自分の妻が後輩と密会しているところを発見したのだ
とすると無理はない。麻季には独身だと偽っているけど、怜菜は間違いなく先輩の妻なの
だから。先輩は乱れた声で何か続けていたけど、もう麻季にはその声は届かなかった。
『やられたな。だから言ったじゃない。怜菜は麻季の敵だって』
『まだ博人君の浮気だって決まったわけじゃないでしょ!』
『先輩は嘘は言っていないと思う。怜菜に浮気されて動揺しているみたいだし。大方自分
のことは棚に上げて怜菜を疑って尾行でもしたんじゃないかな』
『・・・・・・待って。クローバーは同業者の人たちがいつも打ち合わせで使っている喫茶店だ
って博人君は言ってた。そんなところで密会なんかしないでしょ』
 麻季は必死だった。心の声にもそれに同意して欲しかったのだ。
『かえってばれない場所だと思ったのかもよ。怜菜も博人も音楽関係の仕事をしているじ
ゃない? 誰かに見られたって打ち合わせだと言い訳すれば誰も疑わないだろうし』
『やだ・・・・・・そんなのやだよ』
『落ちつきなよ。まだ君は負けた訳じゃない。先輩は女にだらしないくせに怜菜に関して
は自分への貞操を要求するようなクズだからさ。きっと前から怜菜のことは気にしていた
と思うんだ。だけどこれまではそんな様子はなかったみたいだし、怜菜と博人が二人きり
で会ったのはこれが最初だと思うよ』
『麻季? 俺の話聞いてる?』
『・・・・・・うん』
『君にとってショックな話をしちゃってごめん。でも君が結城に騙されているままでいる
ことがどうしても我慢できなくて』
『博人君と怜菜って浮気してるのかな。二人は何を話していたんだろ』
『前に言ったとおりだと思う。怜菜は旦那に浮気された被害者を装って博人君の同情を買
うと同時に、君と先輩の仲が浮気ではなく本気だと博人君に思わせようとしたんでしょ。
そして怜菜は今、お互いに伴侶の不倫を慰めあっているうちに不倫された同士が恋に落ち
るなんていう筋書きを実行しようとしているんだと思うよ。だからまだ二人は出来てない。
安心しなよ』
『君の親友である怜菜と浮気するようなひどい男のことなんて忘れたら? 僕なら君を悲
しませたりしない。それに奈緒人君のことだって責任を持って育てるよ』
 さっきまで他人を装って怜菜さんと呼んでいた彼女のことを先輩は怜菜と呼び捨てした。
彼も動揺しているせいか呼び方まで気が廻らず、つい普段どおりに怜菜と呼び捨ててしま
ったのだろう。
『あたし、どうすればいい? また先輩の言うとおりにするの?』
『バカかあんたは。私はあんたと先輩の仲を取り持っているわけじゃない。今は先輩なん
て放置しなよ。あんたはつらいだろうけど怜菜のことはなかったように博人と仲のいい夫
婦を続けなきゃだめでしょ。まだ、博人の気持は君のもとにある。怜菜なんかにはまだ取
られていない。だから我慢してこれまでどおりに暮らすんだよ。ここで揺らげば本当に怜
菜に負けちゃうよ』
『・・・・・・うん』
『できるね?』
『やってみる』
297:
 博人の態度はその後も変わらなかったし不審な様子もなかった。そして彼はますます麻
季に対して優しく接してくれるようになった。麻季は心の声に従って必死に博人との生活
を再建しようとしていた。博人の日常の素振りからは彼が浮気をしているような様子は全
く覗えなかった。
 怜菜と博人君が二人で会ったことが本当だとしても、彼は怜菜の誘惑に乗らなかったの
ではないか。そしてそのことを麻季に話さないのは彼女を動揺させまいとしているからな
のではないか。だんだん麻季はそう考えるようになった。それほど博人との生活は穏かで
愛情に溢れたものだったし、疑り深い心の声でさえ、『麻季は怜菜に勝ったのかもしれな
いね』と時折呟くようになっていた。
 そういう穏かな日々の積み重ねがしばらくは続いた。・・・・・・怜菜の訃報を多田先輩から
聞かされるまでは。
 お通夜は今夜だそうだった。斎場の場所と時間だけを告げると、多田先輩は他の皆にも
伝えなくちゃと言い残して早々に電話を切った。麻季は構ってもらおうと彼女にまとわり
ついて来る奈緒人の相手をしながら、クローゼットの奥から喪服を取り出した。ワンピー
スの喪服。真珠のネックレス。香典を包む袱紗。
 全く現実感がないせいか不思議と悲しみも動揺すらも感じない。多田先輩から教わった
怜菜の通夜の会場は自宅からそんなに離れてはいないけど、時間的にはあまり余裕がない。
奈緒人をどうしようか。麻季は博人の携帯に何度も連絡をしてみたけど返事がなかった。
喪服に着替えた麻季が姿見で服装をチェックしていたとき、ドアのロックがはずれる音が
して博人が帰ってきた。こんなに早い時間の帰宅は珍しい。
「博人君、ちょうどよかった。さっきからメールとか電話してるのに出てくれないんだも
ん」
 普段どおりの冷静な声。まるで自分ではなく他人の声のようだ。
「ごめん。近所でインタビューしてたからさ。おかげで早く直帰できたんだけど。それよ
りその格好どうかした? 近所で不幸でもあったの」
「博人君が帰ってくれてよかった。大学時代の友だちが交通事故で亡くなったの。これか
らお通夜に行きたいだけど」
「いいよ。奈緒人は僕が面倒をみてるから。つうか斎場はどこ? 車で送っていこうか」
「ううん。保健所の近くらしいから大丈夫よ。奈緒人、まだ夕食前だからお願いね」
「わかった。亡くなった人って僕も知っている人?」
 知っているも何もない。突然亡くなったのはあなたも知っている怜菜だよ。でも今さら
そんなことを言ってもしかたないし、そんな場合でもない。博人は怜菜のことを知らない
ことになっていた。だから麻季は言った。
「博人君は知らないと思う。あたしの大学時代の親友で結婚式にも来てもらった子。太田
怜菜っていうんだけど、多分あなたは覚えていないでしょ」
 博人は驚いたような表情で目を見張った。やがてその目に涙が浮かんだ。麻季は心を動
かされずに、何重ものフィルターを通しているかのようにぼんやりと博人の涙を眺めてい
た。
「博人君? どうかした? 顔色が悪いよ」
「・・・・・・やっぱり送って行く」
「あたしは助かるけど、奈緒人はどうするの」
「連れて行く。君が帰ってくるまで斎場の前に待ってるから」
「博人君、怜菜のこと覚えてるの?」
「とにかく一緒に行こう。僕は外で奈緒人をみながら手を合わせているから」
 博人は奈緒人と一緒に斎場の駐車場で待っているそうだ。麻季は車を降りて入り口の方
に歩いて行った。入り口に黒々とした墨字で太田家と書いてあるのは何でだろう。怜菜は
先輩の奥さんなのだから鈴木家と記されているべきではないか。
「麻季」
 斎場に入ると人で溢れている入り口のロビーに川田先輩がいた。
「先輩」
「ちょうど始まったところだよ。一緒に並ぼう」
298:
 麻季は川田先輩と一緒に焼香を待つ列の後ろについた。並んでいる黒尽くめの人の列の
せいで祭壇や親族席の方を覗うことはできない。
「交通事故だって。怜菜、まだ若かったのに」
 川田先輩がくぐもった声で麻季にささやいた。
「お嬢さんを庇って暴走した車にはねられたそうよ。お嬢さんだって小さいのにね」
「・・・・・・怜菜って子どもがいたんですか」
 麻季の声が震えた。
「そうよ。鈴木先輩もさぞショックでしょうね」
 列が動き出した。始まると早かった。少しして麻季は列の先頭に立った。親族席に頭を
下げたとき、麻季は絶望的な表情で親族に混じって座っている鈴木先輩と目が合った。頭
を下げた麻季に応えて怜菜の家族や親族たちもお辞儀をした。同じように頭を下げた先輩
はもうそれ以上は麻季と目を合わそうとはしなかった。
 祭壇の中央には怜菜の写真が飾られていた。怜菜の通夜や葬儀にあたって怜菜の両親が
がどうしてその写真を選んだのかはわからない。写真の中の怜菜は生まれたばかりの自分
の娘を大切そうに抱いてカメラに向って微笑んでいた。その微笑はかつてキャンパスで麻
季の横に立って彼女に向けてくれたものと同じ微笑だった。
「ちょっと話していかない?」
 香典返しを受け取ってそのまま斎場を後にした麻季に、先に外に出ていた川田先輩が話
しかけた。「怜菜の知り合いがいっぱい来ているの。サークルの人たちとか。少し話をし
て行こうよ」
「ごめんなさい。息子が待っているので」
「そうだよね、ごめん。あたしは娘を旦那に任せてきたけど、結城君ってマスコミに勤め
てるんだもんね。そんなに簡単に帰っては来れないね」
「ええ。教えていただいてありがとうございました」
「うん。あんまり気を落すんじゃないよ。怜菜のことは本当に悲しいし悔しいけど、彼女
は大切な娘を守ったんだもん。決して無駄には死んでないんだから」
 もう無理だった。ここまでは心が氷ついていたせいで痛みすら感じなかった麻季だけど、
だんだんと彼女の精神が、彼女の秩序が崩れていくみたいだ。
「鈴木先輩もつらいでしょうけど、ナオちゃんの育児とかしなきゃいけないだろうし、そ
れで気が紛れてくれればいいんだけど」
 川田先輩がそっと言った。
「怜菜の子どもってナオちゃんて言うんですか」
「うん。奈良の奈に糸偏に者って書くみたい」
「・・・・・・失礼します」
 麻季はもう川田先輩の方を見ることもなく駐車場に向って歩き始めた。あっけにとられ
たように先輩は彼女の後姿を眺めていた。
 博人が待つ車に戻ると、麻季は普段奈緒人と並んで座る後部座席ではなく助手席のドア
を開けて車内に入った。博人は運転席にぼんやりと座ったまま、半ば身体をねじるように
して後部座席のチャイルドシートで寝入ってしまった奈緒人をぼんやりと見つめていた。
「何で?」
「何でって?」
「何で親族席に鈴木先輩がいたの」
「・・・・・・とりあえず家に帰ろう。奈緒人も疲れて寝ちゃっているし」
「博人君は何か知っているんでしょ。何であたしに教えてくれないの。親友の怜菜のこと
なのに」
 助手席におさまったまま麻季は本格的に泣き出した。本当は全て知っていたのに、なぜ
本気で狼狽し涙が溢れるのか自分でもわからなかった。怜菜の死と彼女に娘がいたことが
それほどショックだったのだろうか。その子の名前は奈緒というのだそうだ。
「車を出すよ」
「奈緒って、奈緒って何で? 怜菜はいつ子どもを産んだの。何でその子は奈緒っていう
名前なの」
299:
 博人は車中では何も喋らなかった。麻季が泣いたり悩んだりしているときには、いつも
彼女を気にして慰めてくれた彼とは全く別人のようだ。帰宅してから、目を覚ました奈緒
人に食事をさせ、風呂に入れ、寝かしつけるいつもの麻季の仕事は全て黙ったまま博人が
した。その間、麻季は身動きせず着替えもしないままリビングのソファに座ったままだっ
た。
「奈緒人は寝たよ」
 博人はそう言って麻季の向かい側に座った。博人が麻季の隣に座らないのは彼女の浮気
を知った日以来初めてだった。
「何か食べるなら用意するけど」
 麻季にはもう夕食の支度をする気力は残っていなかった。一応、彼女のことを気遣って
博人はそう言ったけど、彼自身も彼女の返事を期待している様子はなかった。
「君は鈴木先輩との浮気を僕に告白したとき鈴木先輩は独身だって言ってたけど、鈴木先
輩と怜菜さんが実は夫婦だったことは本当に知らなかったの?」
 このときあの声がまだ麻季の頭の中で響いた。
『知らなかったって言わないと。ここで知っていたなんて言ったら、君は本当に博人に捨
てられちゃうよ』
『先輩が独身でも既婚でもあたしが不倫したことに変わりはないよ・・・・・・』
『ばか。そんなことじゃない。怜菜のことを承知で彼女の夫と不倫したことを知られたら
まずいって言ってるのよ』
『あんたが唆したんでしょ!』
『今そんなことを言ってる場合じゃないでしょ』
「先輩は独身だと思ってた・・・・・・さっき知ってショックだった」
「そうか。じゃあ怜菜さんが鈴木先輩と離婚していたことも知らないだろうね」
「知らない」
「怜菜さんに子どもがいたことも?」
「さっき知った」
 少なくとも、離婚と子どもがいたことを麻季が知らなかったことだけは事実だった。
「ねえ。あなたは怜菜と知り合いだったの?」
 ここまで来ると麻季はもう冷静になっていた。ならざるを得なかった。むしろ、博人が
どこまで知っているかが気になっていた。
「正直に話すと、怜菜さんとは仕事の関係で二人で会ったことがあった」
 博人は言った。その態度は麻季の反応を思いやるというよりはどちらかと言うと投げや
りな様子に見えた。麻季は怜菜を博人に紹介しないようにしてきた。学生時代から意識し
てずっとそうしてきたのに、あっさりと夫は彼女には黙って怜菜と会っていたことを認め
たのだ。
「そこで全部聞いたんだ。怜菜さんが鈴木先輩の奥さんであることとか、彼女が先輩の携
帯を見て君との浮気を知ったこととかね」
「怜菜さんは先輩が自分が独身だと偽って君を誘惑していることを知った。でも彼女は麻
季のことは恨んでいないと言っていたよ」
「博人君・・・・・・。何であたしに怜菜と会ったことを話してくれなかったの?」
「僕はショックを受けていたからね。君は鈴木先輩とはもう連絡しないと言っていた。で
も怜菜さんが先輩のメールのログを見せてくれた。君はあの後もずっと先輩とメールをし
ていたんだね」
 思わず麻季は言い訳をしようとしたけど、博人の冷たい、なげやりな表情を見てその言
葉は彼女の喉の奥に引っ込んでしまった。今は切実にあの声のアドバイスが欲しかった。
でもこういうときに限ってその声は沈黙していた。
300:
 もう耐えられなかった。彼女はついに聞いた。
「博人君は怜菜のことが好きだったの?。怜菜は博人君のことを好きだと告白した?」
「うん。僕は彼女に惹かれていた。彼女も僕のことが大学時代から好きだったと言ってく
れた」
 それから博人は怜菜と関係を話し出した。もう彼はその話が麻季にどう受け取るかなん
て全く気にしていないようだった。怜菜の死に衝撃を受けたのは麻季だけではなかったの
だ。もしかしたら怜菜の死に関しては、博人の方が麻季よりもずっとショックだったのか
もしれない。彼はもう何も麻季に隠し事をしなかった。
 博人は怜菜が、自分が博人の夫だったら幸せだったのにと言ったことも告白した。最後
に怜菜から会社に届いたメールの内容も詳しく話した。博人自身も怜菜に惹かれていたこ
と、怜菜が自分の妻だったら幸せだったろうと考えたことがあることも。それでも怜菜が
博人と麻季の復縁を応援してくれていたことも。
 そのつらい告白を聞いて動揺した彼女の頭にようやくあの声が響いた。
『怜菜を救ってあげられなかった絶望に博人は悩んでいるんだね』
『今の彼は、鈴木先輩と麻季の浮気によって苦しんだ挙句、最愛の娘を残して死んだ怜菜
のことだけを考えているんだと思う。正直、君と先輩のことなどどうでもよくなちゃって
るみたい』
 麻季は泣き出した。いつもと違って泣き出した麻季を博人はぼんやりと見ているだけだ
った。まるで泣き出した彼女を通り越してその先にいる怜菜の幻影を追い求めているよう
に。
「何で怜菜はあたしを責めなかったの? 何であたしと博人君を復縁させたいと言ったの
よ。怜菜はあなたが好きだったんでしょ。あなたもそんな怜菜に惹かれていたんでしょ。
何で怜菜はあたしからあなたを奪おうとしなかったの。わかんないよ。あたしにはわかん
ない」
「さあ。もう彼女に聞くこともできないしね」
 博人は自分と怜菜のことを話し終えてしまうと、それ以上何も言おうとしなかった。麻
季の苦悩にすら無関心のようだった。
 それでも結局、博人は怜菜への想いを、麻季は先輩との過ちと怜菜を裏切った後悔を、
互いに告白しあい、その上でお互いに一からやり直す道を選んだのだ。ただ、正直に言え
ば奈緒人がいなかったとしたら二人がその道を選択したかどうかはわからなかった。博人
は少しするとまた以前のように優しい夫に戻ったけれど、そんな彼の態度にもう麻季は何
の幻想も抱いてはいなかった。この家族が新婚時代や奈緒人が生まれた頃のような、何の
疑問もなかったあの頃に戻っていないことは明白だった。その原因はやはり怜菜にあると
麻季は考えた。浮気をした彼女を博人は許したのだけど、その許容自体は偽りではないと
思う。そしてあのときやり直そうと言ってくれた博人の優しさも嘘ではなかったはずだ。
 そう考えて行くと、現在の家庭の破綻の原因は麻季の浮気ではなく怜菜が博人君に告白
めいたことを話したせいだ。麻季にはそうとしか考えられなくなっていた。心の声は結局
正しかったのだろう。怜菜にとっては夫である鈴木先輩と親友の麻季との浮気はつらいこ
とでもなんでもなかったのだ。怜菜にとってそれはチャンスそのものだった。その証拠に
怜菜は全く鈴木先輩を責めることをせず、博人を呼び出して自分の学生時代からの彼への
愛情を曝露したのだから。
 怜菜にとって誤算だったのは自らが死んでしまったことだった。怜菜が事故に遭わなか
ったとしたら、今頃麻季は博人に捨てられていたかもしれない。
『そうだろうね。怜菜は君と先輩がメールのやり取りをしているなんて余計なことを博人
に言いつけたんだしね』
『やっぱりそう思う?』
『うん。下手したら博人と怜菜は今頃再婚していたかもしれないよ。それで奈緒人と奈緒
を仲良く二人で育てていたかも』
 想像するだけで気が狂いそうなほどつらい話だった。
301:
 それでも怜菜は死んだ。彼女の目的は意図しない自分の死によって阻止されたのだ。い
つまでも死んだ怜菜に嫉妬したり彼女を恨んでいる場合ではなかった。死人に嫉妬しても
何も解決しない。怜菜の想いは中途半端に博人の記憶に残ったけど、その想いに将来はな
いのだ。少なくとも麻季と博人には奈緒人がいた。二人は怜菜の死の記憶を封印するよう
に、再度この家庭を維持することを選んだ。表面的には二人の仲は以前より安定している
ようにも思えた。いまさら悩んでも得ることはない。そう悟った麻季と博人はだんだんと
以前の安定した生活を取り戻していった。
 鈴木先輩から電話があったのは、博人が奈緒人を連れて公園に遊びにいている休日のこ
とだった。
『久し振り』
 先輩が電話の向こうでそう言った。
『・・・・・・もう電話してこないでって言ったでしょ』
『わかってる。君を騙していたことを一言謝りたくて』
『もう、どうでもいいよ。そんなこと』
『君を騙すつもりはなかったんだけど、何となく怜菜と結婚しているなんて君には言い出
しづらくて』
『気にしてないよ。今となってはどうでもいい』
『怜菜の子どもの名前聞いた?』
『奈緒ちゃんでしょ。知ってるよ』
『結城のガキの名前から娘を命名するなんてあいつは気違いだよ。いくら結城のことを好
きだからって、怜菜からこんな仕打ちを受けるいわれはないよ』
『結城のガキってあたしの大切な息子のことを言っているわけ?』
『悪い。でも俺は純粋な被害者だよ。怜菜に裏切られたうえに勝手に死にやがって。浮気
相手のことを想って命名された娘を、俺は押しつけられてるんだぜ』
『何があったとしても自分の子どもでしょ』
『ああ。そうだな。最初はそれすら疑ったよ。DNA鑑定までした。結果は結城じゃなく
て俺が親だったけどな。こんなことならあんなビッチのことなんか久し振りに抱くんじゃ
なかったよ』
『さっきから聞いていると先輩だけが一方的に被害者みたく聞こえるね』
『麻季だって浮気されたんだぜ。おまえも俺も被害者じゃないか』
『・・・・・・博人君と怜菜は浮気なんてしていなかったよ』
『そうかな。今にして思えば怜菜のやつ、やたら麻季の話をしてたもんな。麻季が保健所
によく子どもを連れて健診や相談に来るとか、麻季の家はどこにあるとか、あのスーパー
に毎日買物に来てるとかさ。俺の麻季への気持を知っていて俺のこと、けしかけてたんだ
ろうな』
『話はそれだけ?』
『麻季だってあのガキ、じゃなかった君の息子の名前から命名された怜菜の娘のことが気
になるだろうと思って電話したんだよ。鑑定結果がそういうことなんで認知はしたけど、
引き取る気はないんだ』
『あたしには関係ない』
『・・・・・・わかったよ。俺だってもう麻季をどうこうしようなんて思ってないよ。もう昔の
大学時代の女なんてこりごりだ。こんなことなら身近なオケの中で調達しておけばよかっ
たよ。もう連絡なんかしねえよ。じゃあな』
302:
 その後の生活の中で博人は奈緒のことなんか一言も口にしなかった。本当に全く一言も。
それなのに、ある日麻季が奈緒を引き取りたいと思い切って博人に相談したとき、ほんの
一瞬だったけど確かに博人の表情が明るくなった。怜菜の死以降、そんな彼の表情を見る
のは初めてだった。一瞬だけ嬉しそうな表情を見せた博人はすぐに顔を引き締めた。そし
て他人の子を引き取って育てることの難しさや、どれほどの覚悟がそれに必要かを延々と
話し始めた。麻季はそんな彼の言葉を真剣に聞いて考える振りをしていたけど、頭の中で
はそんなものは聞き流していた。
 博人君は格好をつけているだけだ。本当は怜菜の忘れ形見を引き取れることが嬉しくて
たまらないのだろう。それでも怜菜と博人との淡い恋情を麻季に告白してしまった彼には、
自分からそのことを申し出ることが出来なかったのだ。だから、いろいろと難しいことを
言ってはいても、麻季が奈緒を引き取りたいと言ったことを彼は本当に喜んでいたのだろ
う。何で自分が奈緒を引き取らなければいけないのか、麻季にはよくわかっていなかった。
ただ、例の声のアドバイスに従っただけだったから。
『こんな表面だけを取り繕った夫婦生活をずっと続けるつもり?』
 声はいつでもそう話す。博人君が家にいるときには麻季はそれなりに彼のことを信じら
れた。だけど博人君不在で家にいるときに麻季はいつも不安に襲われる。そういうときを
狙ったように心の中で声が話し出す。
『怜菜が死んでもまだ終ってないんだよ。先輩との浮気で始まったこの作戦はさ』
『作戦とか言うな。もう先輩とも本当に終ったし怜菜も死んだの。これ以上続けることな
んてないよ』
『あるよ。まだ奈緒がいる。怜菜の意図なんてまだ何にもわかっていないのよ』
『わかってるよ。怜菜は博人君と結ばれようとしてたんだよ。でも彼女が死んじゃってそ
れは終ったのよ』
『そんな単純なことじゃないと思うけどなあ。だって、実際博人君の心は怜菜に持ってか
れちゃったままじゃん。だから何にも終っていないんだよ』
『それは』
『君は奈緒人のためにだけ表面だけ取り繕ったようなこんな夫婦でこの先ずっとやってい
けるの?』
『あたしと博人君はそんなんじゃない』
『奈緒を引き取ろうよ。博人だって喜ぶし。もうそれくらいしか君に出来ることはないよ。
それでも出来ることはしておこうよ』
 このときも結局、麻季はその声に負けた。
 次の週末、麻季は博人の運転する車に乗って降りしきる雨の中を奈緒が預けられている
乳児院を併設した児童養護施設に向った。
305:
 奈緒を引き取った一時期、怜菜の意図に不安を覚えて博人と言い争いをしてしまったこ
ともあったけど、それがかえってよかったのかもしれない。お互いに不安や不満を吐き出
したことによって、麻季の不安は収まった。それにそれが端緒になって、二人の理解も深
まり和解することができた。博人は再び麻季を抱けるようにもなった。こうして夫婦の危
機は収まったのだ。
 容姿と性格だけを取り上げてみれば奈緒は本当に可愛らしい女の子だった。幸か不幸か
麻季のお腹を痛めた子どもは男の子だったから、これまで娘が自分の手元にいることなん
て思ったこともなかった。そうしてほとんんど自分が産んだのと同じように幼い少女を育
てているとぼんやりとだけどこの子への母親めいた感情まで浮かんでくるようだった。
 心が安定し余裕を持って眺めてみると、することなすこと奈緒の仕草は全て可愛い。麻
季は一時期、怜菜の博人への想いを忘れるくらい奈緒に夢中になった。奈緒を引き取って
一緒に暮らし出した頃から奈緒人は急にしっかりとした子になった。どちらかというと甘
えん坊な息子のことが麻季は大好きだったのだけれど、その息子はいつのまにか母親離れ
して、今では麻季が助かるほど奈緒の面倒をみてくれるようになった。
 それは幸せな日々だった。もう鈴木先輩も亡くなった怜菜さえも麻季と博人を脅かすこ
とはないのだ。博人が帰宅すると麻季と二人の子どもは待ちかねたようにそろって玄関で
彼を出迎える。博人に抱きつきたかったのは麻季も一緒だったけど、最近ではその権利は
まだ幼い奈緒に奪われがちだった。そういうとき奈緒を抱き上げる博人のことを麻季は怜
菜のことなんて微塵も思い出さずに微笑んで眺めていられた。奈緒人も父親に抱きつく権
利を奈緒には喜んで譲ったけれど、そういうとき彼は珍しく麻季に甘えるように抱きつい
た。それで麻季はこのときだけは母親離れをした奈緒人を思う存分に抱きしめることがで
きたのだ。
 これ以上望むことはない。怜菜と博人の関係を、誰を傷つけることなく消化し昇華でき
たのだ。奈緒を幸せな家庭に加えることによって。あの声は今回も正しいアドバイスを彼
女にしてくれたようだった。
 そういうわけで満足し充足した生活を送ることができた麻季だけど、奈緒の名前につい
て悩むことは未だにあった。博人が奈緒と呼ぶ声。奈緒人が奈緒と呼びかける声。何より
も自分が奈緒に呼びかける際に感じる逡巡に彼女は悩むことがあったのだ。
 今が幸せなのでそんなことを考える必要はない。麻季は自分に言い聞かせた。そして博
人が家にいるときはそんな考えは少しも脳裏をよぎることはなかったけど、奈緒人と奈緒
を幼稚園の送迎バスに送り出して一人になったとき、その考えはしばしば彼女の心を蝕み
出した。
 そんなある日、再び声が聞こえた。
『思っていたよりうまく行ってるよね。よかったね』
『うん・・・・・・』
『何か不安そうだね。博人も頑張って家にいるようにしてくれてるし、これでもまだ何か
気になるの?』
『言葉に出しては言いづらいし、自分でもよくわからない漠然とした不安なんだけどね』
『博人がまだ怜菜のこと引き摺っているんじゃないか不安なの?』
『ううん。それはもうないと思う。確かに亡くなった人には勝てないし、博人君だっても
う怜菜を嫌いになることは永遠にないんだけどね。でも亡くなった人相手に嫉妬してもし
ようがないよ。むしろ怜菜の娘をあたしが一生懸命に育てることが、博人君を繋ぎとめる
唯一の方法だと思っているよ』
『・・・・・・なんだ。わかってるんじゃない。それなのにまだ不安を感じてるんだ』
『博人君がいないときだけなんだけどね』
『もう考えても仕方のないことで悩むのはやめにしたら?』
『わかってるよ。でも考えちゃうんだもん。しかたないじゃん』
『・・・・・・』
 声は沈黙してしまった。
306:
『あんたはあたしなんでしょ? 今まで散々ああしろこうしろって指示してきたくせに。
こんなときに黙ってないで何か言いなさいよ』
『聞くと後悔するかもよ。知らないでいたほうが幸せなこともあるしさ』
『あたし自身のくせに何を思わせぶりなこと言ってるのよ』
『まあ、結局君の意思しだいなんだけどね。わたしは君には逆らえないし、君が知りたい
と言うなら話すしかないんだけど』
『じゃあ、話してよ。何でうまくいっているはずなのにあたしが不安を感じるのか』
『本当に話していいの? 後悔するかもよ』
『それでも知りたい。自分のこの不安の正体を』
『わかったよ』
 その声はため息混じりに言った。脳内の声の分際ですいぶん細かい芸をするものだ。
『あんたにその覚悟があるならこの際徹底的に考えてみようか』
 覚悟なんてあるわけがない。でも不安があるまま目をつぶるわけにはいかないと麻季は
思った。
『その前に聞くけどさ。奈緒のこと引き取ってよかったと思う?』
『よかったって思う。奈緒は可愛いし、あたしたちに懐いているし。このまま幸せに暮ら
せると思うな』
『そうだね。それはそのとおりだと思うよ。でもさ、怜菜が死んだとき君と博人の仲って
どうだったか思い出してみな』
 そんなことは思い出すまでもない。博人は怜菜の死に、怜菜を救くえなかった絶望に打
ちひしがれていて、結婚して初めて麻季の涙にも無関心な状態だった。少なくともあのと
きの破綻寸前の家庭は麻季の浮気ではなく、怜菜の博人への想いとその後の突然の死が原
因だったのだ。
『君と博人の関係の危うい状態は、奈緒を引き取ったことによって解消されたんだよね』
『まあ、そうだけど。何よ、あんたの助言にお礼でも言えって言いたいわけ?』
 麻季の嫌味な言葉には注意を払うことすらなく声は続けた。
『奈緒が我が家に来て博人君は再び君に優しくなった。やり直そうと言ってくれた。何よ
りもこれまで抱けなかった君のことを抱くようにもなった』
『そうだよ。奈緒を引き取ってからだって彼と言い争いをしなかったわけじゃないけど、
結局彼は二人でやり直そうって言ってくれたの』
『博人はあれだけ落ち込んでいたのにね。何で君に優しくなったのかな』
『それは・・・・・・』
『もうわかってるんじゃないの。彼の心が何で安定してまた君に優しくなったのか』
『それは・・・・・・。彼はあたしのことが好きだし奈緒人のことだって愛してるし。奈緒のこ
とをきっかけにあたしを許してくれたんだと・・・・・・』
『覚悟を決めてちゃんと考えることにしたんでしょ? それならもう自分を誤魔化さない
方がいいよ』
『・・・・・・どういう意味?』
19 名前:NIPPERがお送りします [saga] 投稿日:2013/02/20(水) 00:20:21.67 ID:23PR5ugqo
 声は少しだけ優しくなったようだった。そしてとても静かに麻季に言った。
『これは前にも言ったよ。君は忘れているかもしれないけど』
『何だっけ』
『あのときわたしはこう言ったの』
『怜菜を救ってあげられなかった絶望に博人は悩んでいるんだね』
『今の彼は、鈴木先輩と麻季の浮気によって苦しんだ挙句、最愛の娘を残して死んだ怜菜
のことだけを考えているんだと思う。正直、君と先輩のことなどどうでもよくなちゃって
るみたい』
307:
『それが今では君と博人はすごく仲がいい夫婦に戻れた。そのきっかけはわかるでし
ょ?』
『・・・・・・奈緒?』
『正解。奈緒が引き取られて博人には生き甲斐ができたんだと思う。自分が何もしてやれ
なかった怜菜に対して、ようやく自分がしてあげることができたんだって。それは幸せな
家庭で奈緒をきちんと育ててあげること。彼にとってはそのためなら浮気した君のことを
許すくらい何でもなかったんでしょうね』
 麻季はその言葉に衝撃を受けた。でも彼女の心にはどこかで覚めた部分があった。多分
そのことを麻季は前から感じ取っていたのだろう。幸せなはずなのに得体の知れない不安
を感じていたのはそのせいだったのかもしれない。
『じゃあ、博人君は本当にはあたしのことを許してないの? あたしのことを嫌いになっ
たままなの』
『そこまではわならない。本当のところはわたしや君にはもう永久にわからないと思う
よ』
『ふざけんな! 先輩と浮気して博人君の気持を試せってけしかけたのはあんたでしょう。
今になってそんなこと言うなんて』
『わたしのせいじゃないよ。あのときと今とは事情が違うもん。こんなことになるなんて
わからなかったし』
『何言い訳してるのよ』
『神様じゃないんだからさ。まさか怜菜が鈴木先輩といきなり離婚するなんて思わなかっ
たし。まして離婚してから産んだ自分の娘にあんな命名をするなんて』
『・・・・・・』
『それに一番誤算だったのが怜菜の死だよ』
『・・・・・・うん』
 本当はもう、麻季にも声の言いたいことは理解できていたのだ。
『君の不安の原因はわかったでしょ。それは前から自分でもわかってたと思うけど、結局
単純な話だったね。博人は怜菜に気持を持って行かれてしまってたんだよ。今、君の家庭
が安定しているのは、博人が怜菜の代わりに娘の奈緒のことを幸せにできるチャンスを得
て彼自身が落ちついたからでしょうね』
『あたしの不安の原因は結局それだったのね。博人君が本当にあたしのところに戻って来
たわけじゃないって、あたし自身がどこかで感じていたからなのか』
『そうだね。それでも割り切ればいいんじゃない? 博人は君と一生添い遂げてくれるよ。
仲のいい模範的な夫婦として』
『・・・・・・奈緒のために? あたしのことなんて好きじゃないけど、奈緒のために一生あた
しを好きな振りをしてくれるっていうこと?』
『うん。亡くなった怜菜の一人娘のためにね。だから聞かない方がいいって言ったじゃな
い。君はそれに気がついてしまったのだけど、これからどうするつもり?』
『頑張るしかないよ・・・・・・博人君は、結城先輩は絶対あたしのことが好きなはず。どんな
に時間がかかっても取り戻して見せるよ。怜菜と奈緒から博人君を』
 大学の頃、黙って麻季の髪を撫でて微笑んでいた博人の姿が一瞬だけ麻季の脳裏に浮か
んだ。
『そうか。そうだよね』
『辛いけど、気がつけてよかった。今夜も博人君が帰ってきたら笑顔で迎える』
『うん・・・・・・』
『何よ。まだ何かあるの』
『もう少しだけ気がついたことがある・・・・・・。ここから先は推理というか邪推というか、
まあ今となっては証明しようのない話なんだけど。どうする? 聞く?』
『・・・・・・そんな言い方されたら聞くしかなくなっちゃうじゃん。まあ、もうこれ以上ひど
い話はないとは思うけど』
『どうかな』
『さっさと言いなさいよ』
308:
『突然の鈴木先輩との離婚、娘への奈緒という命名、そして怜菜の突然の死』
『うん・・・・・・』
『最初の二つには怜菜の明確な意図が込められていると思う』
『そうかもね。怜菜は博人君のことがすごく好きだったんだろうね。鈴木先輩の言ってい
たこともあながち嘘じゃないのかもね』
『そして怜菜の死だけは悲劇的な偶然だと、君も博人も鈴木先輩も疑っていないでし
ょ?』
『・・・・・・どういうこと?』
『偶然じゃなくて三つとも怜菜の意図が働いていたとしたら?』
『それって』
『そう。怜菜は意図的に鈴木先輩から自由になった。彼の浮気を責めることすらなく。そ
して意図的に自分の娘に奈緒人と一字違いの名前をつけた』
『そしてさ。最後はみんなが悲劇だって思っているけど、実はそれが彼女の意図的な死だ
ったとしたら?』
 それは想像力に溢れすぎていると自分でも認めていた麻季ですら考えたことがなかった
ことだった。
『自殺ってこと?』
 麻季は心の声の非常識な推理に震える声で小さく応えた。
309:
「怜菜って自殺したんだと思う」
 麻季は真面目な声で静かに言った。
 これまで考えもしなかった言葉に僕は一瞬動揺したのだけど、すぐにそんなはずはない
と思い直した。そんなわけはない。怜菜はか弱そうな外見とは裏腹に芯の強い女性だった。
それはただ彼女の言葉だけからそう判断したわけではない。僕は彼女の一貫した行動から
そう確信していた。怜菜は離婚後に配偶者のいない状態で出産した。同じ病院に出産のた
めに入院している母親たちと比べたってつらいことは多々あったはずだった。でもそんな
ことは怜菜から僕にあてた最初で最後のメールには何も言及されていなかった。僕は今で
は一語一句記憶している彼女のメールの文面を思い出した。
『お互いに伴侶の不倫を慰めあっているうちに恋に落ちる二人。そんな昼メロみたいなこ
とをわたしは期待して先輩をあの喫茶店に呼び出しました。そして、先輩はわたしが旦那
と別れるなら自分も麻季と別れるって言ってくれました。もちろんそれは先輩がわたしに
好意があるからではないことは理解していました』
『でも奈緒人君への愛情を切々と語る先輩の話を聞いているうちにあたしは目が覚めまし
た。奈緒人君から母親を、麻季を奪ってはいけないんだと。そしてその決心は自分の娘を
出産したときに感じた思いを通じて間違っていなかったんだなって再確認させられたので
す』
『本当に長々とすいません。あたしの先輩へのしようもない片想いの話を聞かされる義理
なんて先輩にはないのに。でもわたしは後悔はしていません。そして今では先輩が麻季と
やり直そうとしていることを素直に応援しています。生まれてきた子がわたしをそういう
心境に導いてくれました』
『これでわたしの非常識なメールは終わりです。先輩・・・・・・。大好きだった結城先輩。こ
んどこそ本当にさようなら。麻季と奈緒人君と仲良くやり直せることを心底から祈ってま
す』
 それは何度思い起こしてもつらい記憶だった。生前の怜菜に最後に会ったとき僕が彼女
の想いに応えていれば、また違った現在があったのだろうか。そうしていれば、怜菜は死
ぬことなく奈緒を抱いて微笑んで僕の隣にいてくれる現在があり得たのだろうか。
「君が何を考えているのかよくわからないけど、怜菜さんの死は自殺じゃなかった。暴走
してきた車から奈緒を守って亡くなったんだ」
「あたしだってそう思っていたんだけどね。そうとも言えないんじゃないかって考えるよ
うになったの」
「・・・・・・もうよせ。これ以上僕に君のことを嫌いにさせないでくれ」
「それは・・・・・・あたしは信じてるから」
「何を言ってる」
「あたしが何をしても博人君は、結城先輩はあたしのことが好きだって」
「本当に何言ってるんだよ。もうよそうよ。昔のことは昔のことに過ぎないだろうが。君
は鈴木先輩と再婚することにしたんだろ?」
「うん。ごめんね」
「謝るな。僕もこの先の人生は理恵とやり直すことに決めた。だからもうこれ以上怜菜さ
んのことは蒸し返さないでくれ」
「神山先輩なんてどうだっていい」
「・・・・・・それなら」
「神山先輩さんだけじゃない。雄二さんのことだってどうでもいいよ。怜菜は死んだし、
雄二さんにだってあたしたちの愛情の邪魔なんかできないんだよ。あたしたちはお互いに
愛しあっている。でも問題は奈緒人と奈緒のことでしょ」
「何を言っているのかわからなよ・・・・・・もういい加減にしてくれ」
「それはあたしのセリフだよ。博人君もいい加減に目を覚ましてよ」
「子どもたちを放置した挙句、家庭を捨てたのは君の方だろうが。今さらお互いに愛しあ
っているも糞もあるか」
「博人君、まだ話の途中でしょ。そんなにあなたが興奮したらこの後の話がしづらいじゃ
ない」
 麻季が微笑んだ。「それに約束が違うよ。食べながら聞くって言ったのに全然食べてな
いじゃない。そんなんだと博人君、体壊しちゃうよ」
310:
「・・・・・・食べるよ。だから続きを聞かせてくれ。何で子ども二人を家に放置した? その
とき君は何をしてたんだ」
「これ以上怜菜に勝手なことをさせないためだよ」
「どういう意味だ」
「奈緒は怜菜そのものじゃない。そして奈緒人はあなたそのもの。博人君は気がついてい
なかったかもしれないけど、奈緒人と奈緒はお互いに愛しあっているのよ。そんなことあ
たしは絶対に許さない」
「君が何を言っているのか全然わからない」
「・・・・・・食べないと」
「子どもたちが愛しあってるって、そしてそれを許さないっていったい何の冗談だ」
「博人君、食べないと身体に悪いよ」
「食事なんてどうでもいいだろ! そんなことを君に心配してもらう必要はないよ。僕に
は今ではもう理恵がいる。君はいったい何の権利があって・・・・・・いや、そうじゃない。奈
緒人と奈緒が仲がいいことに何の問題があるんだ」
「怜菜は恐い子だったのよ。あなたを愛して、雄二さんの不倫のことを内心は喜びながら
冷静に彼を振って、そしてあなたに告白したの。お腹の中に雄二さんの子がいたのにね」
「本当にもういい。これ以上そんな話は聞きたくない。それより僕が海外にいたときにな
んで子どもたちを放置したか話せよ」
「怜菜が自分の大切な娘を放って死んでいいと思うほどあなたを愛したのだとしたら、あ
なたはそんな怜菜のことを愛せる? 怜菜が自分の娘を捨てて自殺したのだとしたら」
「そんな非常識なことがあるか。誤魔化さずに何で子どもたちを一週間近く放置したか答
えてくれ。真実をだ。それを言わないなら僕は今すぐ帰る」
「そうね。わかった」
 麻季はそう答えた。「わかったから、あなたの身体に悪いから少しでも食べて」
 もうとうに食欲なんてなくなっている。僕は形だけ目の前の皿からなにやらフライのよ
うなものを取り上げて口に入れた。味なんて全く感じない。
「博人君、串揚げ好きだったよね」
「どうでもいいよ、そんなこと」
「わかってる。あのときね、あたしは」
 麻季は散々悩んだ挙句、その声を信じることにしたのだった。その圧倒的な説得力を前
にして信じざるを得なかった。
 それは麻季がこれまで漠然と感じ続けてきた不安に正確な解答が与えられた瞬間だった。
このとき麻季は全てを理解した。これまで博人に対する自分の愛情の深さを彼女自身疑っ
たことはなかった。でも、怜菜が自分の死をも厭わず博人の心の中で一番の女性として生
き続けていく道を選んでそれを実行したとしたら、その愛情は麻季のそれを凌ぐほど深い
ものであると考えざるを得ない。つまり愛情の深さにおいて麻季は怜菜に負けたことにな
る。
 怜菜の自殺によって博人の心の中では、最後に会った怜菜の記憶が永遠に凍結されたま
ま古びることなく残るだろう。それは怜菜が博人への愛情を遠慮がちに表わしたときの切
ない記憶だ。表面上は麻季に優しく接している博人の中では、怜菜の愛に応えなかった自
分への後悔と、そんな自分を責めずに寂しげに微笑んで身を引いた彼女の最後の表情や容
姿がいつも浮かんでいるのだ。
 麻季は最終的に怜菜に負けたのだ。
311:
『負けちゃったね・・・・・・怜菜を甘く見すぎていた』
 声が重苦しく囁いた。
『・・・・・・うん』
『このことに気がつかなければこの先博人との仲を頑張って修復することを勧めたと思う
けど、怜菜の意図を理解した以上このまま博人と一緒に生活しても君がつらいだけだと思
う』
『どうしろって言うの』
『わからない』
『博人君の心を取り戻す方法が何かあるでしょう。今まで散々役に立たないアドバイスし
ておいて、こんなときには何も言わないつもり?』
『・・・・・・』
『確かに怜菜の思い切った行動で一時的に彼の心は奪われているかもしれないけど、博人
君は、結城先輩はあたしのことが好きなの。先輩に殴られたあたしを助けて、あたしの髪
を撫でてくれたときから』
『死んだ人相手には勝てないよ』
『そんなのってひどいよ』
『ただ』
『え?』
『たださ、死んだ怜菜相手には勝てないかもしれないけど負けないこと、いや少しでも負
けを減らすことはできるかもしれないね』
 声は少し考え込んでいるように間をあけた。
『どういうこと?』
『今にして思えば君は、いや、君と私は完全に怜菜の仕掛けた罠に嵌ったんだよ。完膚な
きまでにやられたね。そもそも怜菜は何で鈴木先輩なんかと結婚したんだと思う?』
『それは・・・・・・あたしだって不思議だったけど』
『先輩が電話で言っていたこと。怜菜は麻季の情報を先輩に伝えて、まるで先輩に対して
麻季と接触させようとけしかけていたみたいだったって』
『うん。彼はそう言ってたね』
『そして先輩と君は出合って、怜菜の計画どおり不倫の関係になった。その後、彼女は博
人に接触して、君と先輩がまだ連絡をとりあっていることを博人に告げ口したよね』
『・・・・・・やっぱり全部怜菜の計画どおりだったってこと?』
『うん・・・・・・そしてさりげなく怜菜は博人に自分の想いを告白した。怜菜に誤算があった
とすれば、博人がその場では怜菜の気持に応えなかったことでしょうね』
『そのときはあたしは怜菜に負けていなかったってこと?』
『うん、そう思う。でも、怜菜は賢い子だし思い切って自分の考えを貫く強さを持ってい
た。大学の頃からそうだったじゃん』
 それは声の言うとおりだった。一見大人しそうな怜菜は自分が決めたことは貫きとおす
強さをその儚げな外見の下に秘めていた。麻季なんかと一緒に過ごさなかったら、怜菜は
学内の人気者だったろう。それなのに彼女は麻季と二人でいる方が楽しいと言ってくれた。
『怜菜は離婚して奈緒を出産するまで待った。そして、そのときが来ると迷わず車に身を
投げたんじゃないかな』
『博人君の心の中で永遠に彼に愛されるためだけに?』
『うん。でも怜菜はもっと先まで考えていたんじゃないかな』
『わからないよ。これ以上何が起こるの』
『確かに死者には勝てないかもしれないけど、博人君は君には優しいし君がこのまま良い
妻でよい母でい続ければ、怜菜の記憶だっていつかは薄れていって、君への本当の愛情が
戻るかもしれない』
 麻季はその言葉に一筋の希望を見出した気分だった。たとえ今がどんなにつらくても何
年かかっても何十年かかろうとも博人の愛情が戻ってくるなら・・・・・・・。
312:
『でも、そのことも怜菜はちゃんと考えていたんだろうね』
『どういうことよ』
『奈緒を見てればわかるでしょ。あの子は怜菜にそっくりじゃない。先輩の面影なんか全
然ないよね。この先可愛らしく成長する奈緒を眺めるたびに、博人は怜菜のことを思い出
させられるんだよ』
『それにさ。奈緒は奈緒人が大好きだし、奈緒人だって君より奈緒の方が好きみたいじゃ
ない? 怜菜は自分と博人君が果たせなかったことを、奈緒と奈緒人に託したんだと思
う』
『そんなわけないでしょ!』
『じゃあ何で怜菜は自分の娘に奈緒なんて名前を付けたのかしらね』
『・・・・・・嫌だ。そんなの絶対にいや』
『もうできることだけしようよ。君は博人を失う。でも怜菜や奈緒にはこれ以上勝手なこ
とをさせるのをよそう。それで怜菜に完全には負けたことにはならないし』
『博人君とは別れられない。絶対に無理』
『想像してごらん。怜菜にそっくりに成長した奈緒を見つめる博人の視線を。そしてある
日突然に奈緒と結婚したいって言い出す奈緒人の姿を。本当にそれに耐えられる? そし
てそうなったら、何年も博人とやり直そうとつらい思いをして頑張ってきた君は、完全に
怜菜に負けたことになるんだよ』
『・・・・・・』
『もう決めないと。つらいことはわかるしあたしも甘かった。正直怜菜を見損なっていた
し。でも今となってはそれくらいしか打てる手はないのよ』
『どうすればいい?』
『博人君と離婚しなさい。そして奈緒を引き取って、彼女を奈緒人と博人君から引き離し
なさい』
『・・・・・・でも、それじゃあ奈緒人は』
『うん。君は奈緒人とはお別れすることになるね』
『そんな』
『つらい選択だよ。でも今迷って決断しないでいても、いずれ奈緒人は君を捨てて奈緒を
一緒になるって言いだすよ』
『そんなこと決まったわけじゃない。奈緒人と奈緒はお互いに兄妹だって思っているのよ。
普通に考えたら付き合うなんて言いだすわけないじゃん』
『兄妹の恋愛なんて意外に世間じゃよくあるんじゃないの? 君だって博人の妹の唯ちゃ
んに嫉妬してたじゃない。実の妹なのに博人にベタべタするやな女だって』
『奈緒人はそんな子じゃない。妹と付き合うなんてあたしが言わせない』
 声が少しだけ沈黙した。それからその声は再び囁いた。どういうわけかその声音は悲し
みに溢れているような、そして麻季に同情しているような優しいものだった。
『じゃあ、試してみようか。奈緒人が君と奈緒のどっちを選ぶか』
『・・・・・・何言ってるの』
『その結果をみて決めればいいじゃない。とりあえず子どもたちには可哀そうなことをす
る必要はあるけど、君をそこまで追い込んだのは怜菜の責任だしね』
『だって』
 それから声はその残酷な計画を静かに語り始めた。
313:
 麻季は奈緒人と奈緒を試すためだけのために、子どもたちの世話を放棄して彼らを二人
きりで自宅に放置した。精神的に虐待しただけではなく、食事の支度も入浴も何もかも放
棄して六日間の間、自宅を空けて子どもたちだけを取り残したのだ。
「あなたのお父様とか唯さんには子どもたちを放って男と遊び歩いたみたいに言われた。
きっとあなたもそう思ってると思うけど、そんなことをしてたんじゃないの。これは大切
な『実験』だったし、観察もしないでそんなことをするわけないでしょ」
 麻季は博人の反応を気にしているかのように彼の様子を覗いながらそう言った。
「・・・・・・児童相談所の人がマンションの管理会社に頼んで鍵を開けて家に入ったときのこ
と聞いてないのか。奈緒人も奈緒も衰弱してリビングの横にじっと横たわっていたんだぞ。
すぐに救急車で病院に連れて行かれたくらいに。何でそのとき君が警察に逮捕されなかっ
たか不思議なくらいだよ」
 博人は麻季に対して憤るというより泣きそうな表情だった。そんな彼の様子に麻季の心
が痛んだ。そして奈緒人と奈緒を二人きりで放置している間、麻季の心もずっと鈍い刃で
繰り返し切りつけられているような痛みにさらされていたのだった。奈緒人はもちろん、
奈緒のことだって麻季にとっては大切な我が子だった。それでも麻季は怜菜の意図を探っ
てそれが彼女の死後もまだ策動しているようなら、たとえ全てを失ったとしてもその意図
だけは阻止しなければいけなかった。その点ではもう彼女は声の言うことを疑っていなか
ったのだ。
 その六日間は麻季にとっては肉体的にも精神的にも追い詰められたつらい時間だった。
子どもたちだけを自宅に残していた間、彼女はほとんどの時間をマンションの地下ガレー
ジの車の中でシートに蹲るようにしながら過ごした。一応、自宅近くのビジネスホテルの
部屋を押さえてはいたものの、彼女がその部屋を利用したのはトイレに行くときくらいだ
った。ろくに食事もせずシャワーすら浴びずに彼女はマンション地下のガレージで過ごし
たのだ。
 でもそんなことを博人に話す気はなかった。彼の同情を引くつもりはなかったし、たと
えそれを説明したところで博人が麻季に共感してくれるはずもなかったから。
「時々、奈緒人たちに気がつかれないようにそっと部屋に入って観察していたんだ。最初
のうちは二人とも全然切羽詰っている様子はなかったの。むしろあたしがいなくて奈緒は
喜んでいたようだったよ。奈緒人にベタベタくっ付いて甘えてたし」
「切羽詰っていない子どもが衰弱して動けなくなるわけないだろ」
「そうね。最後の日に奈緒は疲れ果てたのか眠っていたの。それであたしは奈緒人に話し
かけたのね。もともとそれが目的だったし」
「疲れ果ててじゃねえよ。それは衰弱してたんだよ。おまえ、それでも母親かよ」
 それでも麻季は博人の言葉にはもはや動じている様子はなく、淡々と話を続けた。
「奈緒人は眠っていなかった。ただ奈緒の傍らに横になって奈緒を横から抱きしめていた
の。それであたしは奈緒を起こさないようにそっと奈緒人に囁いたの。奈緒はいたずらを
したからお仕置きしなきゃいけない。でも奈緒人は悪くないからママと二人でよければお
食事しに行こうって」
「君は・・・・・・なんてことを」
「ほら。やっぱり博人君は奈緒を庇うんだ」
「庇うとかそういう問題じゃねえだろ」
「まあいいわ。そのときね・・・・・・奈緒人が言ったの。ママなんか嫌いだって。奈緒が一緒
じゃなきゃどこにも行かないって」
「それを聞いたとき、あたしは決めた。たとえどんな犠牲を払ったってもうこれ以上怜菜
の好きにはさせないって。そうしてあたしが奈緒人と奈緒を残して部屋を出ようとしたと
き、奈緒人は何をしたと思う?」
「・・・・・・どういうことだ」
「奈緒人はね。部屋から出て行くあたしのことなんか振り返りもしなかった。そして奈緒
人は眠っている奈緒の口にキスしたの。まるで生きていれば怜菜に対してあなたがそうし
ていたかもしれないようなキスを」
「ばかなことを。怜菜と奈緒を重ねるな。それに奈緒人は僕じゃない・・・・・・僕の息子なん
だ」
「そのときがちょうど六日目だった。児童相談所へ近所の人から通報があったでしょ?」
「・・・・・・ああ」
「あれ、あたしなの。もう奈緒人の前に姿を現す勇気はなかったけど、子どもたちが限界
なのもわかっていた。だから近所の人の振りをして児童相談所に電話したの」
314:
「あたしはこれ以上怜菜に自分の人生を狂わされたくない。これ以上怜菜にあたしの大事
な子どもたちの人生も狂わされたくない」
 麻季は疲れたような表情で少しだけ笑った。大学時代から今に至るまで麻季のそういう
複雑な表情をまじまじと見たのは初めてだった。麻季を非難しようとした博人の言葉が口
を出す前に途切れた。
「・・・・・・奈緒だって怜菜の自己満足な恋愛の犠牲者なのよ。あたしはこの先はずっと奈緒
を可愛がって育てて行くわ。怜菜なんかに奈緒の人生を狂わせたりさせるつもりはない。
あの子にはあたしの大切な娘として幸せでまっとうな人生を歩ませるつもり」
 ようやく博人は言うべき言葉を探し当てた。
「何を言っているのかわからないけど、それはもう君の役目じゃない。奈緒人と奈緒は僕
が引き取って育てる」
「博人君じゃ駄目なんだってば。それに奈緒人と奈緒は一緒にいさせるわけにはいかない
の」
「奈緒人が奈緒を庇って君を拒否したから、君は奈緒人を捨てて奈緒だけを引き取ろうと
言うのか」
「そんなわけないでしょ。お願いだから理解して。奈緒人は博人君と同じくらいあたしに
とって大切なの。でも奈緒人と奈緒が一緒に暮らすのはだめ。それにあたしが奈緒人を引
き取ってあなたと奈緒が一緒に暮らすのもだめなの。もうあたしが奈緒を引き取ってあな
たが奈緒人を育てるしか道はないのよ。だから調停の申し立て内容を変更したの」
「なんでそうなるんだ。理由を言えよ。君のしたことは確かに正直に言ったのかもしれな
いけど、どういう理由でそんなことをしでかしたのか、その明確な説明がないじゃんか」
「本当にこれだけ聞いてもわからないの? 何であたしが太田先生に嘘を言ってあんなひ
どい内容の受任通知書を書いてもらったか。何であたしが博人君を愛しているのに、雄二
さんに言い寄って再婚しようとしたか」
「・・・・・・ああ、わからない。ちゃんと説明しろよ。もっとも何を聞いたとしても二人の親
権と監護権は渡すつもりはないけど」
「あたし、奈緒人と奈緒にはひどいことをしたよね」
「そのとおりだよ。君は奈緒人と奈緒が一生忘れられないくらいの心の傷を与えた。僕が
マンションに残したメモを見たか」
「うん」
「あれが全てだ。怜菜さんとか鈴木のことなんかもうどうでもいい。どんな理由や言い訳
を聞いたって僕が君を決して許さないのは、君が子どもたちを虐待したからだって何で気
がつかないんだ。それともわかっていてわざと知らない振りでもしているのか」
「博人君の方こそ逃げないで考えて。怜菜が何で雄二さんと結婚したか。怜菜が何で雄二
さんにあたしと接触するよう唆したのか。何で怜菜はあたしと雄二さんの浮気を責めずに
黙って離婚した挙句、あたなに会って愛の告白みたいなことをしたのか」
「僕は逃げてなんかいないし、自分の考えに言い訳もしていないよ。怜菜さんは僕を愛し
ていたかもしれない。僕は確かに怜菜さんに惹かれていた。でも彼女は亡くなったんだ」
「怜菜の死が不幸な偶然だと信じ込んでいるのね」
「その根拠のない思い込みはもうよせ・・・・・・なあ、本当にそう思っているのだとしたら君
は病院できちっと治療を受けたほうがいいよ」
 それは付き合い出して以来始めて博人がした失言かもしれなかった。麻季はそれを聞い
て顔を上げた。
 もう麻季は何も隠さなかった。これまでの彼女には博人に嫌われたくないという自己規
制がかかっていたし、進めるべきだと思っている筋書きもそれが博人との永遠の別れに繋
がる分、決定的な言葉を告げることを先延ばしにしたい感情もあった。言ってしまえばも
う今みたいに居酒屋で博人の食事の心配をするというささやかな幸せすら永久に失われて
しまうのだ。
『勇気を出して言ってしまいなさい』
315:
 その声につられて麻季はついに言った。
「相手が神山先輩なら恐くない。でも死んだ怜菜にはあたしはどうしたって勝てないもの。
自業自得なことはわかってるけど博人君とやり直せない以上、奈緒人と奈緒は一緒には過
ごさせない。でもあんなでっちあげた内容ではあなたに勝てないことはわかってた」
 博人は黙ったままだ。
「だからあたしは雄二さんに再び近づいたの。博人君の心は怜菜から奪えないかもしれな
いけど、雄二さんをあたしに振り向かせるのは簡単だったわ。そして奈緒の実の父親であ
る雄二さんなら、奈緒の親権は勝ち取れるかもしれない」
「本当に心配しないで。今でも怜菜のことを愛していて彼女のことを忘れられないあなた
に約束します。奈緒のことは愛情を持って育てるし不自由だってさせない」
「今でもこの先もあたしはずっと博人君だけを愛してる。でももう他に方法がないの。だ
からもうこれでいいことにしようよ」
「あたしは自分のしたことの罪は受けます。凄くつらいけどあなたがあたしを許してくれ
るまではもう二度と奈緒人には会いません。だから奈緒のことだけはあたしに任せてちょ
うだい」
「いい加減にしろよ・・・・・・」
 博人はその乱れた感情を反映しているかのように口ごもったまま辛うじて言葉にした。
「奈緒人のことよろしくお願いします」
 麻季は最後に涙を流したまま頭を下げた。
 麻季が長い話を終えたとき、それが残酷でひどい内容だったにも関わらずどういうわけ
か僕の心の中には彼女への憎しみは生じなかった。ただ、今さらだけど本当に麻季との生
活は終ったことを実感し、そして帰国して以来初めて彼女への憐憫と少しだけ後悔の念が
心の中に去来した。
 麻季は怜菜の死やその意図については明らかに過剰反応していたとしか思えない。でも
彼女をそこまで追い込んだ責任が僕にないと言いきれるかというと、そんな自信はなかっ
た。これまで僕は麻季のことを大事にしてきたつもりだ。でも一度だけ麻季のことなんか
どうでもいいという感情に囚われ、そしてそれを彼女に対して隠すことすらしなかったこ
とがあった。
 それは怜菜の死を知った直後のことだった。混乱して泣く麻季の姿はそのときの僕の感
情を動かすことはなかった。これまでこれだけ麻季を大切に思い、彼女を傷つけないよう
に過ごしてきたというのに。そのときの僕は怜菜の悲惨な死に心を奪われていた。でも今
にして思えばあのときは僕と同じくらいに、麻季は傷付いていたのだろう。親友の死とそ
の親友と自分の夫とのつかの間の交情を知ったことで。
 依然として麻季が子どもたちを追い詰めた事実には変りはないし、太田先生の受任通知
で僕を貶めたことにも変りはない。それでも僕は麻季の告白から、彼女の心の異常な変遷
を知ることができてしまった。そして知ってしまうと、麻季の心変わりに悩んでいた時の
ような何を考えていたのかわからない彼女への憎しみが消えて、その感情は憐憫と後悔に
置き換わったいったのだ。
 これは常識的な判断ではない。奈緒人と奈緒が仲が良すぎることなんか気にすることで
はない。でも僕には一見して支離滅裂な麻季の言葉から、彼女の感情の動きや彼女なりの
ロジックを推測することができた。誰よりも深くそして多分正しく。僕が麻季の気持を察
することができることが破綻する前の僕と麻季との絆を深めていたのだ。
 唯にそう言われてから、僕はこれまでは麻季は敵だと思うようにしていた。というより
僕の知っていた麻季はもういないのだと、僕のことを誹謗中傷しているこの麻季は僕の妻
だった女ではなく見知らぬ女なのだと考えようとしていた。でもこの日深夜の居酒屋で僕
は不用意にもかつてのように麻季の言葉足らずの説明を脳内で補正して彼女の真意を理解
してしまった。それは客観的には間違った考えだったけど、麻季にとってはようやく見出
した真実なのだということを。
 僕は不用意に麻季の泣き顔を見てしまった。生涯、麻季につらい思いはさせない。かつ
ての僕が自分に自分に誓った言葉が再び僕の脳裏に思い浮んだ。
 このときの僕の決心は、結局この後の僕をずっと苦しめることになった。
316:
 奈緒の親権は、奈緒の実父の鈴木雄二と婚姻するという条件で麻季へ。奈緒人の親権は
僕へ。慰謝料、養育費はお互いになし。お互いにあらかじめ決められた回数はそれぞれ相
手に引き取られた子どもに面会できる。
 離婚事由についてはお互いに相手を有責と主張したままだったので、調停結果は互いに
慰謝料はなし。翌年の三月に調停委員からこういう調停案が提示された。あくまでも調停
なので調停案を拒否することはできる。だけど一度調停案に同意した場合は、その調停結
果には拘束力が生じる。つまり一度それに同意した場合は判決と同じ効果が生じるのだ。
 僕は調停の結果を受け入れた。つまり奈緒は奈緒人と別れさせられ、麻季と鈴木先輩が
引き取る結果を容認したのだ。僕はその決断を誰にも相談せずに自分で決めた。
 そう決断した結果は目も当てられないものだった。
 まず、僕は涙を流しながら僕を責める唯に絶交を言い渡された。
「何であんなに仲のいい二人を引き離すなんてことができるのよ。あたしが何のために奈
緒人と奈緒の面倒をみていたと思ってるの」
 僕はそれに対して一言も答えられなかった。説明しても理解してもらえないだろうから。
「もうお兄ちゃんとは一生関わらない。あたしは彼氏との付き合いよりも、内定した会社
への入社よりも奈緒人と奈緒のことが大事だったのに。まさか、理恵さんと早くで結婚し
たかったからなの? 子どもたちの幸せより自分の再婚の方が大切だったの?」
 この後今に至るまで僕は泣きながらそう叫んでいた唯とは絶縁状態のままだ。
 僕の両親も唯と同じような反応だった。
「確かに奈緒ちゃんはおまえと血が繋がっていないけど、それでもずっと奈緒人と一緒に
過ごしてきたんだぞ。どうしてそんな冷たい仕打ちができるんだ」
 父さんが混乱した表情で僕を叱った。母さんは俯いて涙を拭いているだけだった。
「もう勝手にしろ。俺たちはもう知らん」
 そしてこの件で僕は理恵の両親の信頼すら失った。理恵が言うには僕との再婚に何の反
対も心配もしていなかった理恵の両親は、僕との再婚は考え直した方がいいのではないか
と理恵に言い出したそうだ。自分の子どもをあっさり見捨てるような僕に不安を感じたの
だという。理恵の両親と玲子ちゃんは奈緒が奈緒人の本当の妹であり、僕と麻季の実の娘
だと思っ ていたからその反応は無理もないのかもしれない。
 僕と理恵の再婚に唯とともにこれまで一番味方になってくれていた玲子ちゃんは、両親
のように僕を責めはしなかったけど、一時期のように僕を慕ってはくれなくなったようだ。
内心では彼女も僕の決断を嫌悪していたのかもしれなかった。
「本当にそれでいいの? 後悔しない?」
 理恵だけは冷静に僕に聞いた。
「・・・・・・後悔すると思う。でも、今はこうするしかないと思っている」
 僕の答えに、理恵は紅潮した顔で何かを言おうとして寸前で留まったみたいだった。
「あたしは博人君が麻季ちゃんに何でそんなに気を遣うのかわからないけど」
「・・・・・・うん」
「でも。まあ、あたしだけは仕方ないから君の味方になるよ。君がそれでいいなら再婚し
よう。奈緒人君と明日香とあたしたちで新しい家族を作ろう」
 理恵がどうして周囲と異なり僕の非常識な決断に理解を示してくれたのかはわからない。
でも、こうして麻季の複雑な心理を最後に読みほぐし、結果として麻季の考えに従うこと
を選んでしまった僕には理恵以外には味方がいなくなった。自分の息子の奈緒人をも含め
て。
 僕はその決定を人任せにはできず、自ら奈緒人に話をした。彼ももう小学生だったので、
たとえ今は誤魔化していても、いずれは妹がいなくなったときに納得するはずがなかった
から。
 彼が奈緒と別れて僕と理恵と明日香と暮らすことになると知ったとき、奈緒人は黙って
僕の話を聞いていた。そのときは奈緒人は青い顔で黙ったまま反発も非難も泣くことすら
しなかった。
 翌日、僕が出社時間に間に合うように起き出して子どもたちの様子を覗おうと部屋の扉
を開けると、そこには子どもたちの姿がなかった。
 奈緒人と奈緒は二人きりで僕の実家から脱走したのだった。
317:
 冷たい雨の中を傘もレインコートもなく逃げ出した二人は、すぐに警邏中のパトカーに
乗った警官に発見され保護された。パトカーの後部座席に乗せられた二人は手を繋いで互
いに寄り添ったままだった。そして連絡先を優しく聞き出そうとする初老の人の良さそう
な警官に対しては一言も喋らす何も返事をしなかった。
「君たち迷子になったんんでしょ? おうちの人に迎えに来てもらおうね」
 その警官は無骨な顔に精一杯笑顔を浮かべて連絡先を聞き出そうとしたけど、二人はさ
らにお互いの体を近づけて握り合う手に力を込めるだけだった。
「何か様子が変ですよ」
 運転席の若い警官が初老の相棒に声をひそめて話しかけた。「もしかして虐待とかじゃ
ないですかね」
「いや。雨に濡れてはいるけど服装もきちんとしているし、外傷もなさそうだしな」
「そうですね」
 運転席の警官が身体を回して二人を覗き込んだ。「あれ? 女の子のカバンに何かタグ
がついてますよ」
「うん? お嬢ちゃんちょっとごめんね」
 初老の警官が奈緒の持っているバッグに付けられていたタグを手に取って眺めた。
「よし。緊急連絡先とか血液型とかが書いてある。えーと、結城奈緒ちゃんって言うんだ
ね」
 自分の名前を呼ばれた奈緒は顔を上げようともせずに、これまで以上に力を込めて奈緒
人に抱きつくようにしただけだった。
「仲がいいなあ」
 そう言いながらも警官は手際よく連絡先を読み取った。「携帯の番号が書いてあるな。
心配しているといかん。俺はここに電話してみるからとりあえず角の交番まで連れて行こ
う」
「了解です」
 降りしきる冷たい雨の中を、それまで停車していたパトカーは点滅させていたハザード
を止めて動き始めた。
『結城麻季さんですか?』
『ええ。結城奈緒ちゃんという女の子と、多分お兄ちゃんですかね? 小学生低学年の男
の子を保護しています。はあ? 男の子は奈緒人君ですか。お二人を引き取りに来ていた
だけますか? そうです。明徳町の交差点にある交番で保護していますから』
『兄妹じゃない? はあ。そうですか。じゃあ奈緒人君の保護者の連絡先をご存じないで
すか? ええ。あ、ちょっと待ってください。メモしますから』
『はい。ユウキヒロトさんですか・・・・・・え? 苗字が同じですけど家族じゃないんですか。
はあ。じゃあ連絡すればわかるんですね』
 先に交番に到着したのは5シリーズのBMWの助手席から降りてきた麻季だった。簡単
な事情聴取のあと、鈴木先輩が確かに奈緒が自分の娘である証拠を提示した。麻季は奈緒
人には目もくれずに、奈緒の腕を取って鈴木先輩が運転席で待つ車の後部座席に彼女を乗
せた。
「ご面倒をおかけしました」
 そう言って麻季は奈緒の隣に乗り込んだ。このときになって思わぬ成り行きに呆然とし
ていた奈緒人と奈緒が同時に叫び出した。
「奈緒・・・・・・奈緒!」
「お兄ちゃん! 奈緒、お兄ちゃんと離れるのはいや」
 警官たちが子どもたちの様子に不審を覚えるより早く、奈緒を乗せたその黒いBMWは
走り去って行ってしまった。
321:
第5部
 僕と明日香の仲は最初はうまくいっていたのだ。僕が明日香の全てを引き受けると言っ
たその日から。でも、僕の脳裏からはそう都合よくは奈緒に関する悩みは消えてくれなか
った。だから僕は表面上は明日香と仲よく付き合いながらも、心の中では奈緒との関係に
ついて悩み続けていた。
 僕と偶然に再会した奈緒は無意識に僕に惹かれたのだと言う。ずっと兄である僕を忘れ
られなかった彼女は、兄以外の男性に惹かれたことに対して罪悪感まで感じていた。そし
て、そこが僕と奈緒の決定的に違うところでもあった。
 奈緒はずっと思い続けてきた兄に再会したことを素直に喜んだ。自分の初めての彼氏が
消滅してしまうのにも関わらず。僕も妹に再会できたことは嬉しかったのだけど、時間が
経つにつれ奈緒の中で彼氏としての自分が消滅してしまうことに焦燥を覚えた。客観的に
見れば奈緒は実の妹だ。そして彼女は素直に、昔引き剥がされた大好きな兄である僕と再
会したことを喜んでいる。そんな奈緒の気持ちに僕は飽きたらない感情を抱いてしまった。
 今にしてみればわかる。
 奈緒がこんな冴えない男を好きになって彼氏にしようとしたその意味が。奈緒は最初か
ら無意識のうちにかつてつらい別れかたをした兄貴を求めていたのだろう。実の兄貴にな
ら高スペックを求めるまでもない。矛盾するようだけど僕が奈緒の兄貴でなかったら、奈
緒は僕なんかを恋愛の対象と考えることすらなかったはずだ。
「お兄ちゃん?」
「うん」
「お兄ちゃんは誰を選ぶの?」
 あのとき明日香は震える声で聞いた。
 こいつの僕への愛情だけはもう疑う余地はない。答えなんか初めから決まっていた。玲
子叔母さんも、そして多分僕の父母も、僕と明日香の仲がうまく行くことだけを望んでい
る。奈緒は今では僕のことを奇跡的に再会できた、大好きな実の兄としてしか考えていな
い。もちろん有希さんは僕にとってそういう対象ですらない。
「何度も言わせるなよ」
 僕は明日香に言った。「ずっと一緒にいるんだろ?」
「はっきり言って。それでもう二度とうるさく言わないから」
 明日香がくぐもった声でそう言ったのだった。
「明日香のことが一番好きだよ。ずっと一緒にいようよ。父さんと母さんと四人だけで」
 明日香が再び僕に抱きついてぐずりだしたので、僕は明日香の顎に手をかけて彼女にキ
スした。
「ありがと」
「礼なんか言うなよ」
 もうこれでいいのだと僕は考えた。
「でもさ、ずっと四人なの?」
「何が?」
「・・・・・・家族って増えるもんじゃないの」
「何なんだ」
「お兄ちゃん?」
「うん」
「ごめんね。あたしもう迷わないし不安に思わないから」
「よかった。明日香、愛してるよ」
「あたしも」
 スマホをぽいと机に置いて明日香が抱きついてきた。
 僕たちは抱き合った明日香のベッドにもつれ合うように倒れ込んだ。
322:
 翌日、いつもの時間にいつもの車両に乗り込むと、富士峰の制服姿の奈緒が僕を見つけ
て微笑んだ。
「おはようお兄ちゃん」
 それは今朝ベッドの中で僕に呼びかけた明日香の屈託のない、でも少しだけ顔を赤くし
た声とそっくりだった。
「先週の土曜日はごめんね。ピアノ教室まで迎えに来てくれたんでしょ」
「うん。インフルエンザだたって? もう大丈夫なの」
「うん、もう平気。ほんとにごめん。無駄に迎えに来てもらちゃって」
「いいよ、そんなの。病気なのにいちいち迎えに来なくていいとか連絡なんてできるわけ
ないじゃん」
「だって・・・・・・」
 そう言ってちょっと不満そうに口ごもる奈緒の容姿ははやはり可愛らしかった。自分の
妹の容姿をちらちらと盗み見る兄ってどうなんだろう。今は僕は明日香の彼氏として誰に
も恥じることのない行動を取るべきなのに。
「あたしのこと心配だった?」
 突然、奈緒が微笑んで悪戯っぽく聞いた。
「・・・・・・心配したよ。あたりまえだろ」
 実の妹なんだからと言おうとしたけど、その言葉は胸に秘めておいた。
「心配させちゃってごめんね。でも奈緒人さん・・・・・・じゃなかった、お兄ちゃんがあたし
のことを心配してくれるなんて嬉しい」
「僕のこと、そんなに薄情な兄だと思ってたの」
 一々、兄とか妹とか口にする僕の感覚が異常なんだ。僕はそう思った。それに僕には今
でも昨晩の明日香の表情が胸の中に残っている。
 僕ももう迷わないと決めたのだ。こんなにふらふらしている僕だけど、昨日抱きついて
くる明日香を抱いたことへの責任は取らなきゃいけない。それに今では僕の心の中には、
今朝、恥かしそうな表情でおはようお兄ちゃんと言って僕を起こしてくれた明日香に対す
る愛情がこれまでにないくらいに満ち溢れていた。
 改めて考えると、僕のために自己犠牲を厭わずに尽くしてくれていたのは明日香なのだ。
彼氏と別れたり自分の仲間と縁を切って、僕の好みの容姿になってくれたり。そして、そ
れ以上に本当に僕がつらかったときに僕を抱きしめて慰めてくれたのは明日香だけだった。
 もういいじゃないか。この先奈緒のことを考え悩んだりフラッシュバックを起こしたと
しても、きっと僕の恋人の明日香が僕を支えてくれるだろう。そのことに僕は今では何の
疑い抱いていなかった。
 そのときの僕の夢見がちなうつろな態度に奈緒は少し不満のようだった。
「お兄ちゃん、今誰か他の女の子のことを考えたでしょ」
 実際、明日香のことを考えて少しだけ幸せな気分になっていたのは事実だったから、僕
は奈緒の追及に狼狽した。
「あたしと一緒にいるのに、誰のことを考えてたの?」
「そうじゃないよ」
「じゃあ、何考えてたのよ」
 奈緒が僕の腕に抱きつきながら不満そうな様子で聞いた。
「別に何でもない。おまえがよくなってよかったなって」
 どういうわけか奈緒が少し顔を赤くして照れた様子で答えた。
「おまえって・・・・・・。お兄ちゃん、こないだまで奈緒ちゃんって呼んでたのに」
「馴れ馴れしいかな? 奈緒ちゃんって呼んだ方がいい?」
「やだ」
 奈緒はいたずらっぽく笑った。
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