ビッチ(改)【その2】back

ビッチ(改)【その2】


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「まあ、直接聞いたことがあるわけじゃないですけど、ピアノは習っているみたいです
よ」
 とりあえず僕は何とか冷静に返事ができた。
「そうか。実は女帝にはピアノがうまいという噂もあってな」
 平井さんは再び煙草を咥えて火をつけた。今度はもう僕もここが禁煙であることを注意
しなかった。
「女帝はな。噂だけはいろいろ聞こえてくるんで、ピアノが上手だとかそういう情報には
こと欠かないんだよな」
 平井さんは煙草を美味しそうに吸って僕の方をじろりと見た。
「情報があるならどんな人かは当たりがつきそうですよね」
「それがな。さっきも言ったけど今まで悪さしてた連中が、これまでしていたような悪さ
をしなくなってしまってな。未成年に無理矢理猥褻なことをするとか、対立するグループ
間で乱闘するとかそういうのが無くなってしまったんだよな」
「ええ」
「ええじゃねえ。兄ちゃんにはわからねえだろうけど、これまではそういうつまんねえこ
とをしでかした連中をしょっぴいて取調べをする中でこっちは必要な情報を手に入れてた
んだが」
 平井さんが何を言おうとしているのか僕にもわかった。
「しょっぴいた連中なんざしょせんはガキだからな。ちょっと締め上げればたいがいのこ
とは吐くし、それで俺たちもがぎどものグループの情報は手に入っていたんだがよ」
「そういう小さな悪さをしなくなったんだよな。少なくともこの界隈を仕切っている連中
は」
「だからよ。それなりに情報は集まってくるが、実際に女帝と会ったことのあるやつから
は情報を取れねえんだわ。女帝のピアノ情報とかどこまで信用できるかもわからん」
「それもこれも女帝のせいだと思ってるよ。そいつが現われてからは極端に検挙件数が減
てな。上司に言い訳するのも大変だぜ」
 本当にあの有希が平井さんがいう女帝なのだろうか。普通に考えればそれはすごく突飛
な考えだ。でも現に僕の妹は入院するほどのひどい仕打ちを飯田という男から受けたのだ。
それも冷たい表情で明日香を見下すように眺めた有希に責められた直後に。
 僕はさっき奈緒から聞いた話を思い出した。昨晩有希は不誠実な僕なんかとは別れるよ
うに奈緒に勧めたという。その時の有希の様子は怒ってはいたけど別に不信な様子はなか
ったそうだ。
 その有希が今日の放課後は奈緒の話すらまともに聞いていないほど、何かに悩んでいた
という。考えたくはないけど、彼女は明日香の事件関係で悩んでいたとしたら。
 明日香を追い詰めて、明日香が僕たちから逃げ出して夜の町を無防備に徘徊したその原
因を作ったのは有希だ。そしてその晩、有希は飯田に襲われて池山に助けられた。
 その一連の出来事を有希が知っていて、そして自分の意図よりも大袈裟なことに、つま
り飯田が逮捕され明日香を助けた池山すら参考人として事情聴取を受けるようなことにな
ってしまったことに対して悩んでいたとしたら。
「その女帝って人は何がしたいんでしょうか」
 僕は素朴な疑問を平井さんに聞いた。
「・・・・・・どういうことだ」
131:
「いや。無軌道に騒ぐだけなら単なる高校生の衝動なのかもしれないけど、組織立だって
何かをしようとしているとしたら目的があるんじゃないかと思って」
「ほう」
 平井さんが皮肉っぽい笑いを浮かべた。「兄ちゃんも高校生だろうが。随分うがったこ
とを言うな。まさか、兄ちゃんが女帝じゃないだろうな」
「冗談だよ、冗談」
 僕の顔色を見た平井さんが笑った。「でもいいところを突いてくるな。加山なんかより
よっぽど刑事の素質があるな」
「平井さん!」
 顔色を変えて加山さんが言った。どうもこの人は冷静さに欠けているみたいだ。
「だから冗談だって言ったろ。でも兄ちゃんの言うとおりだ。何のメリットもなくやつら
が女帝に従うはずはねえ」
「メリットって」
「そろそろやばいっすよ。平井さん。ちょっとこいつに情報漏らしすぎじゃないですか」
 不服そうにそう言い出した運転席の加山さんには構わずに平井さんは言った。
「兄ちゃんは合法ドラッグとか合法ハーブとかって聞いたことあるか」
 それはテレビのニュースで聞いたことがある単語ではあった。
「聞いたことはあります。麻薬みたいに違法になっていないけど同じような効果があるや
つでしょう。吸うというよりアロマみたいに焚く感じの」
「そうだ。実際にはかなり危ないことがわかっているけど、法改正が追いつかずに違法薬
物に指定される前のブツって感じかな、だから脱法ドラッグと呼ばれることもある」
「そしてそれはドラッグそのものだ。いい気持になるなんて程度のもんじゃねえんだよ」
「はあ」
「それはとにかくだ。今はまだ違法の麻薬じゃねえしな。表立っては取り締まれねえ。そ
れに暴力団の連中だってまだこんな美味しいネタに気がついていねえみてえだ。時間の問
題なんだろうけどな」
「もうわかったか?}
 平井さんが煙草を捨てて靴の底でもみ消した。
「女帝のグループはその合法ハーブを取り扱っているってことですか」
「ピンポン」
 平井さんが嬉しそうに寒いセリフを吐いた。「あのガキどもが悪さしないで大人しくな
るなんざ理由があるんだよ。それが小遣い稼ぎだったんだろうな」
「まあ兄ちゃんの話はわかったよ。太田有希のことは俺らも気をつけておこう。これから
やつらの事情聴取だから、それとなく探りを入れてみることにするよ」
 平井さんは車に乗ろうとした。「それでいいな? 俺の方も話せる限りのことは兄ちゃ
んに話したぜ」」
「はい。ありがとうございました」
 そのとき再び平井さんが俺の方を見た。
「おまえ、やる気なのか」
「やる気って・・・・・・何を言っているのかわからないですけど」
 平井さんは僕のその言葉を聞いて眠そうな目を少しだけ開いた。僕は平井さんの言葉に
戸惑っていただけだったのに、平井さんはそうは受け取らなかったようだ。
「そうか。やる気なのか。じゃあまあ気をつけろよ」
 そしてもう平井さんは僕の方を見ないで車の助手席に収まった。
「じゃあな」
 何かに腹を立てているかのように加山さんが乱暴にアクセルを踏んだらしい。その警察
車両はタイヤのきしむ音を病院中に響かせながら走り去って行った。あれでは加山さんは
また平井さんに怒られるだろう。
132:
「用事は終った?」
 走り去る車を見送っているといつのまにかいたらしい玲子叔母さんに背後から声をかけ
られた。
「うん。さっきはありがとう」
 僕は叔母さんに言った。
「・・・・・・別にいいけど。奈緒人、あんた本当にやる気なの?」
 何なんだ、いったい。さっきから平井さんと叔母といい。僕は単に有希と明日香の受難
との関係が気になっただけなのに。
「まあいいや。あたしにできることなら何でも言いな。明日香のためならあたしも協力す
るから」
「いや、叔母さん」
 僕は叔母さんの誤解を解こうとしたけど、叔母さんはもう頭を切り替えていた。
「それより奈緒人、明日香があんたと話したいって」
「うん。父さんたちは?」
「仕事に戻ったよ。今日はずっと明日香に付いてるって言ったんだけど、明日香が自分は
大丈夫だから仕事に戻ってって」
 こんな状況なのに明日香は両親の仕事を気遣ったようだった。これに関しては他の人に
はわからないかもしれない。でも僕と明日香には両親の仕事を優先することは当然のこと
だった。我が家の生活が成り立っていたのは両親が昼夜なく仕事をしているせいなのだ。
 もちろん寂しく感じないなんてことはない。でも寂しくたってやることはやらないと僕
も明日香もここまで行き抜くことすらできなかっただろう。だから普段の家事や身辺の雑
事にしても、他の同級生たちと比べたら遊びまくっていた明日香だってはるかによくやっ
ていた方だと思う。
 明日香は自分がこんな仕打ちにあった時ですら両親の仕事を心配している。半分くらい
は自業自得と思わないでもないけれども、その動機には疑いの余地はない。明日香の行動
は全て僕のことを思いやってのことだったのだ。
「とにかく病室に戻ろう」
 叔母さんが僕を急かした。
 病室に入ると僕に気がついた包帯だらけの明日香が点滴を受けていない方の手を僕に向
かって伸ばした。僕は差し出された明日香の手を握りながらベッドの脇の椅子に腰掛けた。
「ごめん」
 最初に明日香はそう言った。さっき明日香が母さんに話しかけたときと同じ言葉だけど、
言葉に込められた意味はきっとそれとは違っていたのだろう。
「いや。おまえが無事ならそれでいいよ」
 明日香が僕の手を握っている自分の手に力を込めたけど、それはずいぶん弱々しい感じ
だった。
「あたしね、いきなり飯田に話しかけられたの。奈緒のことで話しておきたいことがある
から俺の部屋に行こうって」
 奈緒のこと? 何で飯田が奈緒のことを、僕の妹のことを知っているんだ。僕は混乱し
た。明日香とその仲間たちは。、直接奈緒との接点はないはずだ。明日香以外で奈緒と池
山たちを知っている可能性があるのは。
 やはり有希は女帝なのだろうか。
「何で飯田がそんなことを知っているのか気になったから、あたしつい飯田の部屋につい
て行って」
「うん。そこはもう詳しく言わないでいいよ」
 僕は明日香を気遣ったけど、明日香はかすかに顔を横に振って話を続けた。
「それで、部屋に入ったらいきなりベッドにうつ伏せに押し倒されて、後ろ手に縛られて、
あたしが抵抗したらすごく恐い目で睨まれて何度も顔を叩かれたの」
 明日香は低い声で続けた。
133:
「・・・・・・もういいよ」
「うん。そしたらいきなりドアが開いて池山が入ってきて飯田に殴りかかって、あっとい
う間に飯田のこと殴り倒しちゃったの」
 それでは池山が明日香を助けたというのは嘘ではないのだ。
「池山はあたしの手を解いてくれて、すぐに家に帰れって言ったの。これから警察に電話
するし巻き込まれたくなければすぐにここから出て行けって」
「そうか」
 自分の別れた女を飯田から救うことくらいは理解できる話ではある。でも警察に電話す
るなんていったいどういうつもりだったのだろう。個人的に飯田のことをぼこぼこにする
くらいはあの金髪ピアスの男ならやりそうだ。でも警察にチクルなんて池山らしくない。
ましてさっき平井さんから聞いた話が事実だとすると、飯田も池山も女帝の下でドラッグ
の販売とかに手を染めていたはずで、そんな池山が警察に電話すること自体が理解しがた
い。
「あたし、本当にもう池山のことなんて何とも思っていないんだよ。あたしが今好きな人
はお兄ちゃんだけだし」
 突然の明日香の告白に僕は狼狽した。背後で立っているはずの玲子叔母さんのことも気
になった。
「でもね、あたしが逃げちゃったら池山が飯田を殴った犯人にされるかもしれない。あた
しは池山に助けられたんだから、そこにいて証言しなくちゃって思ったの」
 明日香が言うには池山は何度も早く家に帰れと言ったらしい。自分のことは構わないか
ら、おまえはこんなことに関わりになるような女じゃないからと必死な表情で。
「・・・・・・前から池山はあたしのことを過大評価していたから。あたしが清純で穢れのない
女の子だと思い込みたかったみたい」
「もういい。わかったから。今はもう思い出すな。辛いだろ」
 明日香僕の手を一端離した。
「もっと近くに来て。お兄ちゃん」
 僕が言われたとおりにすると、明日香は片手で僕の腕に抱きつくようにした。明日香の
顔が僕の顔のすぐ横に来た。
「お兄ちゃん聞いて」
「・・・・・・席外そうか」
 叔母さんが聞いた。
「いい。叔母さんも聞いてて」
「いいのかよ」
 叔母さんが戸惑ったようにぶつぶつ言った。
「お兄ちゃん、今度こそ真剣に言うね。あたしお兄ちゃんにはいろいろ辛く当たってきた
けど、本当はお兄ちゃんのことが好き」
 僕の頬に触れている明日香から湿った感触がする。
「あたし、奈緒のこと大嫌いだった。昔お兄ちゃんの愛情を独占していて、今またお兄ち
ゃんを惑して傷つけようとしているあのビッチのことが」
「奈緒はそんな子じゃないよ」
 僕は辛うじて反論した。
「うん。今にして思えばそうかもしれないね。あたし多分奈緒に嫉妬していたのかもしれ
ない」
「どういうこと」
「十年以上も会っていなくて、久しぶりに一度だけ会っただけでお兄ちゃんを夢中にさせ
た奈緒に、あたしは嫉妬していたんだと思う。あたしが素直になって自分の気持ちに気が
ついたのは、お兄ちゃんと奈緒が付き合い出してからだったし」
「明日香」
「返事は急がない。でもあたしはお兄ちゃんとは血が繋がっていないし、奈緒と違ってお
兄ちゃんとは付き合えるし結婚だってできるはず」
134:
「結婚って」
「例え話だよ。あたし飯田に乱暴されそうになったとき、お兄ちゃんのことが頭に浮かん
だの。池山でもなくママでもなく」
 明日香は僕から顔を離して僕の顔を見た。顔には痛々しく包帯が巻かれていたけど、そ
れは何かの重荷を降ろしたような幸せそうな表情だった。こんな明日香は初めてだった。
「あたしが好きなのはお兄ちゃんだけ。でも返事は急がないからよく考えてね」
「・・・・・・明日香」
「そろそろ検診の時間ですから、面会時間はここまでですよ」
 そのときさっきの看護師が部屋に入って来て言った。
「明日香、明日退院だって」
 連れ立って病院から出たところで叔母さんが言った。「結城さんと姉さんから頼まれた
んで明日はあたしが明日香を迎えに行くんだけど」
「うん」
「あんたは学校だね」
 叔母さんが言いたいことくらいすぐにわかった。
「妹が退院だからって先生に言うよ。明日は休んで僕も一緒に行っていい?」
「その方が明日香も喜ぶだろうな」
 叔母さんが言った。「まさか目の前で明日香の一世一代のあんたへの告白を見せつけら
れるとは思わなかったけど。あの子も今度ばかりは本気みたいだね」
「叔母さんもそう思う?」
「うん思う。あんたはどうなのよ。最近明日香とはすごく仲いいみたいだけど」
「仲はいいよ」
 叔母さんは少しためらってからそっと言った。
「やっぱり奈緒ちゃんのことが忘れられない?」
 僕はまだ兄妹としての奈緒との再会のことを明日香にも叔母さんにも話していなかった
ことに気がついた。
「それはないんだ。叔母さんにはまた言ってなかったけど、今朝登校中に奈緒に待ち伏せ
されんだ」
「え? 奈緒ちゃんに会ったの?」
 叔母さんは驚いたように言った。多分僕の精神的外傷のことを気にしてくれていたのだ
ろう。
「うん。何で会ってくれないの、嫌いになったのって」
「それだけ聞くとさ、奈緒ちゃんはやっぱりあんたが実の兄貴であることを知らないの
か」
「正確に言うと知らなかったになるんだけど」
「どういう意味よ。こんな場合なのにもったいつけるな」
「いろいろあって奈緒には僕が実の兄貴であることがばれちゃったんだ」
「マジで?」
 叔母さんが驚いた様子だった。
135:
「うん、無意識のうちに僕は気がつかせるようなことを口にしちゃったらしいんだけど」
「それで? 奈緒ちゃんはショックだった?」
「それがそうでもない。むしろ引き離されていた僕と再会したことを喜んでいたよ。もう
二度と僕とは別れないって」
 突然の明日香の事件のことで緊張していた僕だけど、その時の奈緒の表情や言葉を思い
出すと胸が温かくなっていった。恋人同士には戻れない僕たちだけど、二度と会えないと
思っていた僕らは奇跡的に再会できたのだ。
「そうか」
 叔母さんが言った。「じゃあ、あんたはこれまで会えなかった実の妹の奈緒ちゃんと、
これまで妹だったけど彼女に立候補した明日香と二人を同時にゲットしたわけか」
「そんなんじゃないし」
 僕は赤くなって叔母さんに言った。
 僕はその日のうちに奈緒に電話した。叔母と別れて帰宅してもやはり家には両親はいな
かった。ワンコールで電話に出た奈緒はやたらにテンションが高かった。
「やっぱりさっそく電話してきた。お兄ちゃんって本気でシスコンだったのね」
 奈緒が電話口で機嫌良さそうに屈託なく笑った。
 僕は明日香の退院の付き添いと、そのために明日は奈緒と約束したとおり朝一緒に登校
できないことを伝えた。
「妹さん病気なの」
 奈緒が明日香のことを妹さんと言うのには何か違和感があった。僕の妹はおまえだ。僕
は一瞬そう思ったでも、それじゃあ明日香は僕の何なのだろう。奈緒と付き合い始めてか
らは僕の彼女は奈緒で僕の妹は明日香だった。これからはどうなるんだろうか。
 今では奈緒は僕の妹だった。だから僕の初めての彼女は消えていなくなってしまったの
だ。そのことがつらくないと言ったら嘘になる。でもフラバのこともあるし、何よりかつ
ての僕の最大のトラウマだった奈緒との強制的な別離が十年もたってから劇的な再会によ
って解決したのだから、僕はもうそれで満足なんだと考えることにしていた。
 それに奈緒は僕の彼女だったことなど忘れたように、兄との再会を無邪気に喜んでいる。
恋人としての奈緒に未練があるなんて彼女に気がつかれてはいけない。
「ちょっと怪我しちゃったんだけどね。大したことはなかったよ」
「そうなんだ。よかったね」
「うん、ありがと。明日は退院の付き添いだけど、明後日以降は妹の容態によっては学校
を休んで面倒を見なきゃいけないかも」
 それはさっきから考えていたことだった。平日の昼間は間違いなくうちには母さんはい
ない。明日香の外傷は大したことがないと言っても退院してすぐに登校できるわけがない
し、そんな明日香を一人にしておくのもかわいそうだ。
「お母様は?」
 少しだけ遠慮したように奈緒が聞いた。そういえばまだお互いの家族の近況とかは、奈
緒との間には全く話題に出ていなかった。
「母さんも父さんと音楽雑誌の編集をしているんだ」
 僕は家の事情を奈緒に話した。「だから普段は昼間はもちろん、夜だって滅多に家にい
ないよ」
「そうか。じゃあしばらくは朝お兄ちゃんと会えないね」
 奈緒が言った。
136:
「ごめんね」
「ううん、今は妹さんのことを考えてあげないとね」
 奈緒には申し訳ないけど、この状況では明日香のことを優先する以外には選択肢はなか
った。
「朝来られるようになったらいつもの電車に来てね。あたしは毎朝あの電車に乗っている
から」
「行けそうになったらメールか電話するよ」
「うん。お兄ちゃんありがとう」
 そのとき電話の背後で何かを注意するような女性の声が聞こえた。何を話しているかま
ではよく聞こえなかったけど、少しイライラしているような感じの声だった。
「いけない。ママが怒ってる」
 奈緒が少し慌てたように言った。「ピアノの練習時間だったんだけど弾いていないの気
がつかれちゃった」
「練習を邪魔しちゃってたのか。悪い」
「いいの。お兄ちゃんと話しているほうが楽しいし」
「じゃあもう切るね」
 ママ。よく考えればその人は僕の本当の母親なのだ。そこに気がついた僕は、自分の心
に何らかの影響があるだろうと思ったのだけど、そういうことは起きなかった。まるで無
感動なのだ。
「ごめんねお兄ちゃん。一応ここ防音になっているんだけど、完全じゃないからピアノを
弾いていないとママにばれちゃうの」
「そうなんだ。じゃあまた連絡するから」
「うん、待ってる。おやすみ、お兄ちゃん」
 電話を切った後、僕はしばらくさっき考えていたことを再び思い返してみた。奈緒は僕
の妹だ。この先もずっと。そして明日香は僕に告白した。奈緒と恋人同士だった頃の僕な
ら、どうしたら明日香を傷つけずに断ればいいか考えるだけだっただろう。奈緒を振って
明日香と付き合い出すなんて考えたことすらなかった。
 でも今ではどうなのだろう。僕にはもう彼女はいない。僕は明日香の気持ちに応えるべ
きなんだろうか。奈緒とは違って明日香は義理の妹だ。一滴たりとも同じ血は流れていな
い。だからさっき明日香が言っていたように付き合うことにも結婚することさえにも法的
な制約はないのだ。
 僕は試しに僕と明日香が付き合い出したときの周囲の人たちの反応を想像してみた。兄
友は明日香が僕の義理の妹であることを知っているから、驚きはするだろうけどそれが社
会的なタブーだとは考えないだろう。でも他の人たちはどう思うだろう。考えてみれば僕
と明日香が実の兄妹ではないことを知っているのは、両親や親戚を除けばほとんどいない。
 当たり前のことだけど、父さんや母さんだってわざわざ周囲に再婚家庭であることをア
ピールする必要なんかなかっただろう。それに何といっても去年までは僕自身だって明日
香が自分の本当の妹ではないなんて想像したことすらなかったのだ。
 そう考えると、仮に僕と明日香が恋人同士になったときの周囲の反応は考えるだけでも
面倒くさそうだった。僕の友人たちや明日香の友だちはみな僕と明日香が兄妹なのに禁断
の関係になったと思い込むだろうし、そういう噂だって流れるだろう。そういう人たちに
向かって一人一人に我が家の家庭事情を最初から話していくなんて不可能だ。
 僕と奈緒が付き合い出したときはそういう問題は生じなかった。誰も僕と奈緒が実の兄
妹だなんて知らなかった。というか当事者である僕たちだってそれを知らなかったのだか
ら。そう考えると明日香と付き合い出すのは大変そうなのに比べて、奈緒とこのまま付き
合っている方がはるかに自然で楽そうだった。
 そのとき僕は胸に鋭い痛みを感じた。今、僕は何を考えた?
 奈緒とこのまま付き合うなんてありえない。お互いに生き別れた兄妹だとわかった今と
なっては。奈緒は僕の妹なのだ。奈緒と感動的な再会をはたした今朝は、つらい別れをし
た妹と再会できたことに喜びを感じただけで、それ以外に余計なことを考える余裕なんて
なかった。でも、今改めてこの先の僕たちの関係を考えてみると、僕は自分の汚い心の動
きに気がついた。
 最初に奈緒とキスをしたあの夕暮れの日、正直に考えれば僕の下半身は奈緒の華奢で柔
らかくいい匂いのする身体に反応していなかったか。奈緒とキスを重ねるたびに、次は奈
緒に対して何をしようかとわくわくしながら考えている自分はいなかったか。
137:
 そうだ。この次は奈緒の体を愛撫し、そしていつかは奈緒と身体的に結ばれたいと思っ
ていた自分がそこにはいたのだ。そしてその気持ちは実は今になってもまだ清算すらでき
ていなかった。奈緒は妹だ。そして僕のことを兄だと気がついた以上、彼女は僕が自分に
対してこんな破廉恥な気持ちを抱いているなんて夢にも思っていないだろう。つらい別れ
をして以来、再会を夢見続けていた奈緒は、自分の兄を取り戻せたことに満足しているの
だ。彼氏としての奈緒人が消滅してしまっても気にならないくらいに。
 それなのに僕はそんな妹に対して汚らしい欲情をまだ捨てきれていない。
 こんなことを考えていたらまたフラッシュバックを起こしそうだった。僕はとりあえず
無理に考えを違う方向に捻じ曲げた。
 明日香は急がないと言ってくれた。明日香が僕の彼女で奈緒が僕の妹である将来だって、
あり得ない話ではないのだ。というか両親も玲子叔母さんも僕と明日香が結ばれることに
祝福こそすれ反対はしないだろう。
 でもそれは明日香の言うとおり急ぐことではなかった。奈緒との関係の整理とか明日香
との付き合い方とかを今日一日で決めろと言われてもそれは無理だ。奈緒に感じた性欲の
ようなものを思い起こすだけでもつらい今では絶対に無理だった。
 それで僕は無理に今日平井さんから聞いたことを思い起こした。
 有希が女帝だったとしたら、この先明日香や奈緒には何らかの危害が及ぶ可能性がある
のだろうか。明日香に関して言えば、とりあえず飯田は逮捕された。この先どうなるのか
はわからないけど、少なくとも傷害事件の現行犯だから家裁を経て少年院送りとなるか、
あるいは初犯なら執行猶予とか保護観察になるかだろう。
 でも平井さんの話では前から警察に目を付けられていたらしいし、初犯じゃあないのか
もしれない。いずれにせよ再び明日香を狙う可能性はそんなに高くないだろう。
 奈緒はどうか。明日香が飯田のアパートに無防備について行ったのは、飯田に奈緒の話
をほのめかされたからだ。奈緒のような子とボーイズギャングとして警察にマークされて
いる飯田との間にはいったいどんな接点があるのだろう。
 考えられるとすれば有希がその接点だということだった。あの有希が女帝として飯田や
池山にいろいろ命令したり指示する立場にいるなら、飯田たちは有希から奈緒のことを聞
いていた可能性は考えられる。でも奈緒も有希もお互いのことを親友だと言っていた。少
なくとも有希が奈緒のことを親友だと考えているなら、有希の命令で奈緒に危害が及ぶ可
能性は低い。
 そう考えると、明日香と奈緒の身がすぐに危ないというわけでもなさそうだ。その点に
関しては僕は少しだけ安心することができた。それから僕は平井さんと玲子叔母さんの言
葉を思い出した。
『おまえ、やる気なのか』
『そうか。やる気なのか。じゃあまあ気をつけろよ』
 平井さんは戸惑っている僕の言葉なんか気にもせずにそう言い放った。
『・・・・・・別にいいけど。奈緒人、あんた本当にやる気なの?』
『まあいいや。あたしにできることなら何でも言いな。明日香のためならあたしも協力す
るから』
 これは叔母さんのセリフだった。いい大人の二人は、高校生の僕に対していったい何を
期待しているのだろう。
138:
 翌朝、叔母さんは家まで車で僕を迎えに来てくれた。叔母さんの車の音はすぐにわかる。
それは周囲に響くような重低音だった。明らかに近所迷惑としか思えないのだけど、叔母
さんはそのシルバーの古い国産のクーペを大切にしていたし自慢もしていた。
「おはよう叔母さん」
 僕は玄関から外に出た。
「おはよう奈緒人。何か雪でも降りそうな天気だね」
 叔母さんが車の中でハンドルを握りながら言った。
「叔母さん、ここは住宅地だし朝なんだからあまりエンジンの空吹かししないでよ」
「悪い。ちょっと調子が悪くてさ。じゃあ行こうか」
 僕は叔母さんの車の助手席に乗り込んだ。スポーツカーらしくひどく腰がシートに沈み
込みフロントウィンドウから見る景色がとても低いように感じる。
「明日香の保険証持ってきた?」
「うん。持ってきたよ」
「じゃあ行こう。あ、帰りは明日香が助手席な。後ろの席は狭いし怪我人にはつらいから
ね」
 叔母さんの車はツーシーターではないのだけれど、後席は飾りみたいなものだった。や
たらに狭いし天井も低い。とても長く人が乗っていられるような空間ではない。
「叔母さんも普通の車に買い換えたら?」
「普通の車じゃん」
 叔母さんがアクセルを踏んだ。車は急発進して坂を下りだした。まるで昨日の加山さん
の運転のようだった。
「叔母さん、ここスクールゾーンだからスピード出しちゃ駄目だよ」
「お、いけね」
 やがて叔母さんの運転する車は環状線に入った。妹の入院している病院はうちからはそ
んなに遠くないのだけど、平日の朝は病院までの国道は通勤の車で渋滞していてなかなか
目的地の近くに辿り着く様子がない。
「叔母さんさ」
 僕は信号待ちでも工事でもないのに一向に動かない車の中でハンドルを握っている叔母
さんに言った。
「うん」
「昨日叔母さん言ってたでしょ? 本当にやる気なのって」
「言ったよ。そんであたしは反対しないよ。というかあたしも手伝うよ」
「手伝うって」
「結城さんや姉さんには言わない方がいいとは思うけどね」
 僕は混乱してきた。
「叔母さんはいったい僕が何をしようとしていると思ってるの?」
「明日香のために、あの子が何でいきなり襲われそうになったのかを調べるんでしょ」
 あっさりと叔母さんは言った。「そんな危険なことは警察に任せておいた方がいいよっ
て普通の大人なら言うんだろうけどね」
 病室から抜け出して平井さんの後をついて行こうとしたときに、僕はそこまで考えてい
たわけではなかった。ただ、あのときの有希の冷たい視線と言葉が思い浮んだだけなのだ。
でも改めて叔母さんにそう言われると、最初から僕はそうするつもりだったのかもしれな
いと気がつかされたのだ。
 もともとすべきことはわかっていたのだけれど、奈緒とのことが頭を占めていたせいで
はっきりとそれを突き詰めて考えなかっただけなのだ。妹でも彼女でも明日香は僕にとっ
て大切な女の子だ。そのことをここ数日で僕は思い知った。明日香が遊んでいた相手は、
明日香が考えていたような単純な遊び人たちではなく、脱法ドラッグとやらを取り引きし
ているような組織らしいのだ。
139:
 僕はひ弱な高校生に過ぎない。そんな僕に対して警察の平井さんや玲子叔母さんが何で
そこまで僕の意思を疑いなく決め付けるのかはよくわからなかった。喧嘩が強いわけでも
なければ頭が切れるわけでもない。それでも明日香のためならばしなければ、いけないこ
とはするだけなのだろう。多分明日香の病室を抜け出して平井さんを追いかけたときから
僕は無意識にそう決めていたのかもしれなかった。
「あたしを除け者にするなよ、奈緒人。あたしたちは家族なんだからさ。家族のためには
あたしたちは結束して立ち向かうのよ」
 叔母さんは大袈裟に言って笑った。でも叔母さんを巻き込むわけにはいかない。玲子叔
母さんは頼りになるけど、それでもやはりやつらから見ればか弱い女性に過ぎない。性格
的に男勝りだとか車の運転が荒いだとか、そんなことはこれから相手にするやつらには通
用しないだろう。ドラッグとかを扱っているような連中なのだから、彼らに目を付けられ
たら叔母さんだって明日香と同じような目に会わないとは言い切れない。
 叔母さんをそんな危険なことに巻き込むわけにはいかない。だから僕はもうこの話には
触れずに言った。
「明日香はいつから学校に行けるのかな」
「それはわからないよ。今日主治医に聞いているけど、少なくとも今週いっぱいくらいは
自宅療養なんじゃないかなあ」
 僕は即座に決心した。奈緒には申し訳ないことになるかもしれないけど。
「じゃあ僕が学校を休んで奈緒の面倒をみるよ」
「悪いね」
 本当に申し訳なさそうに玲子叔母さんが言った。「あたしも今日の午前中休むだけで精
一杯でさ」
「叔母さんのせいじゃないよ」
「結城さんと姉さんも仕事を何とかやりくりするって言ってたけど」
「無理しなくていいって言っておいて。僕が明日香の面倒を見るから」
「・・・・・・わかった」
 玲子叔母さんは最近すぐに涙を見せるようになったらしい。ようやく叔母さんは病院の
駐車場に車を入れた。自宅を出てから一時間以上はかかっていた。
 それから明日香が退院するまでも長かった。叔母さんが会計で治療費や入院費用を支払
うだけで一時間弱は要しただろう。突然の入院だったので荷物なんか全くないのはよかっ
たけど、それからが大変だった。明日香が着替えることになって僕は明日香と叔母さんに
病室から追い出された。でもすぐにまた病室のスライドドアが開いて叔母さんが困惑した
顔を見せた。
「明日香の着替えがないや」
叔母さんが言った。
「そう言えば着替え持ってくるの忘れてたね。とりあえず昨日着ていた服じゃだめな
の?」
「・・・・・・飯田って男に破かれちゃったみたいね。病院の人が畳たんで置いといてくれたん
だけどとても着られる状態じゃないな」
 よく考えれば不思議なことではなかった。奈緒のこととか明日香の告白のこととかそう
いう自分にとっての悩みばかり考えていたせいで、僕はこういう本当に必要なことなんか
何も考えていなかったのだ
「悪い。あたしがうっかりしてた」
 叔母さんはそう言ったけど叔母さんのせいじゃない。むしろ昨日病院を後にしてすぐに
仕事に戻るほど忙しかったのに、明日香の保険証を持ってくることを注意してくれたのだ
って叔母さんだった。学校を休んで明日香の退院に付き添うくらいで僕はいい兄貴になっ
たつもりでいたのだけど、それだけでは何もしていないのと同じだ。
「叔母さんのせいじゃないよ」
 僕は叔母さんに言った。「でも破かれた服とか見たら明日香も思い出しちゃったかな
あ」
「・・・・・・気にしていない様子だけど、多分相当無理していると思うな」
「そうだよね」
140:
 PTSDから生じるフラッシュバックのつらさは僕が一番わかっていたはずだったのに。
「家に戻るわけにも行かないからさ、あたしちょっと明日香の服を適当に買ってくるわ。
だからあんたは明日香の相手してやってて。できる?」
 叔母さんがわざわざできるかと念を押したわけはよくわかった。
「うん、大丈夫」
「じゃあちょっと行ってくる」
 病室に引っ込んだ叔母さんに付いていこうとして僕は止められた。
「また入院着に着替えさせるからちょっと待ってて」
 ・・・・・・このとき僕はそんなことすら気を遣うことがきない大馬鹿者になった気がした。
 叔母さんが明日香の服を買いに行っている間、僕は明日香と二人で病室で叔母さんの帰
りを待っていた。明日香は外見的には自分の破かれた服を見たショックを表情に表わして
はいないように見えた。
「結局、学校は何日くらい休めばいいんだって?」
 僕は明日香のベッドの横の丸椅子に座って聞いた。
「今週いっぱいは自宅で療養してた方がいいって先生が言ってた」
 明日香が答えた。「お兄ちゃんと違って勉強とか好きじゃないし休めるのは嬉しいな」
「そんなのん気なこと言ってる場合か」
 僕は明日香に笑いかけた。
「だって正々堂々と休めるなんて滅多にないじゃん」
 明日香も笑ってくれたけど何かその表情は痛々しい。
「とりあえず今朝は母さんが会社からおまえの中学の担任に具合悪いから休ませますって
連絡しているはずなんだけどさ」
「うん」
「明日からはどうしようか。いっそインフルエンザになったことにする? 今流行ってい
るし」
「別に・・・・・・怪我したからでいいじゃん」
「だってそしたら」
 そうしたら担任の先生には理由を聞かれるだろう。いずれ平井さんたちの捜査が進めば
学校にも事実が伝わってしまうのだろうけど、その前に明日香がレイプされそうになって
怪我をしたなんて他人には話したくない。
「あまり気にしなくていいよ。お兄ちゃんも叔母さんも」
 明日香が不意に言った。
「おまえ」
「自業自得だもん。あたしがあんなバカやって飯田たちみたいなやつらと付き合ってなか
ったらこんなことも起きなかっただろうし」
「おまえのせいじゃないよ。か弱い女の子に力づくで何とかしようなんて100%男の方
が悪いに決まってる。おまえが変な連中と付き合ったのは感心しないけど、だからといっ
てこれにはおまえに全く責任はないよ」
「うん。お兄ちゃんありがと」
 病院で会ってから初めて僕は明日香の涙を見た。
「だからおまえが気にすることなんて何もないんだ」
「うん」
 明日香の泣き笑いのような変な表情がそのときの僕には印象的だった。
141:
「それにしてもさ、あたしはか弱くなんかないって。奈緒とか有希みたいなお嬢様じゃな
いんだしさ」
「・・・・・・僕にとってはおまえはいつもか弱い危なっかしい妹だよ」
「え」
「前にさ、公園で鳩を追い駆けていた幼いおまえの記憶が残っているって話したことある
だろ」
「それ、きっと奈緒の記憶だよ。年齢が違うもん。あたしたちが初めて出会ったのはそん
なに幼い年じゃないし」
「うん。多分それは僕の思い違いなんだろうけどさ。でもそのときの女の子をすごく大切
に感じたことや僕が守ってやらなきゃって思ってその子を追い駆けていた記憶はすごく鮮
明なんだよね」
「お兄ちゃんは奈緒のことをそれだけ大切に思ってたんでしょうね」
「いや、僕はその子をおまえだとこの間まで信じていたしさ。それでもその幼いおまえの
ことが心配な気持ちは確かに感じてたんだ。事実としては勘違いかもしれないけど、おま
えのことを大切に思った想いだけは本当の感情だと思うよ」
「お兄ちゃん・・・・・・」
「おまえと仲が悪かったときとかおまえが夜遅く帰ってきたときとか、正直関りたくない
と思ったことはあったけど、結局気になって眠れなかったんだよね。僕も」
 病室のベッドに腰かけていた明日香が涙の残った目で僕を見上げた。
「それくらいにしなよ。それ以上言うともう本気でお兄ちゃんを誰にも渡したくなくなっ
ちゃうよ」
「うん。おまえと恋人同士になれるかどうかはともかく、少なくともおまえは僕の妹だよ、
一生」
 僕はだいぶ恥かしいことを真顔で言ったのだけど、そのときはそれはあまり考えずに自
然と口から出た言葉だったのだ。
「・・・・・・まあとりあえずそれで満足しておこうかな」
 泣きやんだ明日香が微笑んで言った。「ヘタレのお兄ちゃんにこれ以上迫ったら逃げ出
しちゃうかもしれないし、それはそれで嫌だから」
「ヘタレって」
「とりあえずあたしはこれで奈緒と同じスタートラインに立てたってことだね」
 明日香が言った。
 僕は黙ってしまった。まだ明日香の気持ちに応えられるほど気持ちの整理はついていな
い。僕は昨晩感じた奈緒への性欲のような衝動を思い出した。
「血が繋がっていないだけ有利だしね」
 明日香が僕に止めをさした。
 それでも叔母さんが帰ってくるまで病室内の雰囲気は穏やかだったと思う。お互いに意
識して微妙なラインの会話を続けながらも、昔よりは確実に僕と明日香はお互いを理解し
合おうとしていたのだ。
 僕が奈緒のことで悩んでいたときに明日香は僕を黙って支えてくれたし、今は僕は同じ
ことを明日香にしようとしている。それは明日香の僕への想いとはかかわりなく、ようや
く僕たちが自然な兄妹の関係に復帰できたということだった。
「パパやママもそうだけどまた玲子叔母さんに迷惑かけちゃったな」
 明日香の担任にどう話そうかという話を蒸し返していたときに明日香がぽつんと言った。
 確かにそのとおりだった。僕と奈緒のことでいろいろ迷惑をかけただけでは足りずに、
今回は叔母さんにはお礼の言いようもないほど世話になったのだ。
 真っ先に病院に駆けつけたのも、すぐに僕に連絡をくれたのも叔母さんだ。そして今日
は半日だけとはいえ多忙な仕事をよそに病院の支払いから明日香の着替えの購入まで面倒
を見てくれている。
142:
「昔から姉さんにはあんたたちの世話を押し付けられてたからね」
 僕が叔母さんにお礼を言おうとしても叔母さんはそう言って笑うだけだった。叔母さん
にだって自分の仕事やプライベートな時間だってあるのだろうに、僕たちも両親も叔母さ
んに頼ってばかりだ。
「叔母さんって彼氏いないのかなあ」
 明日香がそう言った。
「さあ? 聞いたことないよね」
「あんなに綺麗なんだから絶対いると思うな」
「確かにそうだ」
 そのとき僕は叔母さんのすらりとした細身の容姿を思い浮かべた。確かにあれで彼氏が
いない方が不自然だ。もっとも性格の方はだいぶ男っぽいので大概の男では叔母さんを満
足させられないのかもしれない。
「玲子叔母さんってパパのこと好きだったんじゃないかな」
 突然明日香がびっくりするようなことを言い出した。
「え? パパって今の父さんのこと?」
「うん。あたしたちのパパのこと」
 女の子の想像というのも随分突飛な方向に暴走するものだとそのとき僕は思った。それ
はまじめに取り合う気もしないほど斜め上の発想だった。
「何でそうなるの」
「叔母さんがパパに話しかけるときの雰囲気とかで感じない? 何か甘えているような感
じ」
「どうかなあ。特には気がつかないな」
「ママがいる時は普通の態度なのよ。でもさ、この間の夜みたいにママがいなくてパパと
かあたしたちと一緒にいる時の叔母さんって、すごくはしゃいでててさ。パパに話しかけ
るときの様子とか何か可愛い女の子って感じじゃん」
「それは思いすぎだと思うけどなあ。第一叔母さんにだけじゃなくて母さんにだって失礼
だろ、そんな想像は」
「でもそう感じるんだもん」
 明日香が頑固に言い張った。
「ママとパパって幼馴染で、大学のときに再開してそれで社会人になってからパパの離婚
を経てようやく結ばれたんでしょ」
「叔母さんはそう言っていたね」
 僕はそのときに父さんと母さんの馴れ初めを始めて聞いたのだった。僕の本当の母さん
と父さんとの別れの原因を聞くのと一緒に。
「ママと叔母さんは十三歳年が違うんだ。すごく年の離れた姉妹なんだって」
 その辺の事情を詳しく聞いたことはなかったけど、以前から叔母さんと母さんが年齢が
離れていることだけは何となく感じていたことだった。
「ママが今度四十三歳でしょ?」
「そういや母さんの誕生日って来月じゃん。今年は一緒にプレゼント買おうか」
 これまで仲が悪かった僕たちは母さんへのプレゼントをそれぞれ別々に用意していたの
だ。母さんは平等にそれを喜んでくれたのだけど。
「いいけど。って今はそういう話じゃなくて。パパとママが大学時代に再会したとき、叔
母さんは小学生にはなっていたわけだし、そのときパパに淡い初恋をしたっておかしくな
いじゃん」
「どうでもいいけど、それ全部状況証拠っていうか思い込みだろう」
「可能性の話だよ。あと再婚の頃は叔母さんだって二十歳を過ぎていたんだから、あらた
めてパパに対する禁じられた報われない恋に泣いていたとしても不思議はないでしょ。顔
には祝福の笑みを浮べながら。叔母さんかわいそう」
143:
 叔母さんにここまで世話になったと言いながら明日香はさっそくこれだ。でも叔母さん
には悪いけどこういう話で明日香が重苦しい気持ちを忘れられるならむしろ大歓迎だった。
もっとも叔母さんの前ではこういう話をしないように釘はさしておかなければならないけ
ど。
「叔母さん、もてそうだし彼氏とか作って結婚しようと思えばすぐにでもできそうなのに
ね」
 僕は言った。それは本音だった。むしろ僕たちの世話を焼くことが叔母さんの邪魔にな
っているのかもしれない。あとは殺人的に多忙な仕事もそうだろうけど。
「何よ。お兄ちゃん、玲子叔母さんのことが気になるの?」
 明日香が少しだけ真面目な顔で僕を睨んだ。
「ば、おまえ何言って」
「確かに叔母さん綺麗だもんね。よく考えたらお兄ちゃんとは血が繋がってないし」
「おまえ、いくらなんでもそれは叔母さんに失礼だろう」
「・・・・・・何で本気で赤くなってるのよ」
「なってねえし」
「お兄ちゃんってパパに似てるしね。叔母さんもパパに似ているお兄ちゃんのことが気に
なっていたりして・・・・・・それも男性として」
「おまえ・・・・・・怒るぞ」
 明日香は僕の精一杯の威嚇なんか少しも気にしていないようだった。
「考えてみればパパと叔母さんは十五歳違いだけど、お兄ちゃんと叔母さんは十三歳違い
だもんね。パパよりお兄ちゃんのほうが叔母さんに年齢が近いじゃん」
 明日香の冗談に付き合っているときりがない。でも僕はそのとき叔母さんのすらりとし
た容姿を重苦しく思い出した。女帝の率いるボーイズギャング団のことを思い出したから
だ。そいつらは女帝が現われてからは女の人を襲ったりとか、道端で強盗まがいのことを
しなくなったと平井さんは言っていた。そのかわり脱法ドラッグを組織的に仕入れて売る
という暴力団まがいの商売を始めたのだ。一見大人しくなったようだけど危険な連中であ
ることに違いはなかった。本当に女帝という女が実在するとしたら、僕が探ろうとしてい
ることは相当に危険なことに違いない。叔母さんは僕と一緒にその探索をすると意気込ん
で言っていたけど、やはりそれだけは阻止しなくてはならない。これから探ろうとしてい
る連中は、相手が大人だからといって遠慮したり恐れたりする相手ではなさそうだ。深入
りすれば叔母さんだって明日香と同様に飯田のようなやつに何かひどいことをされてしま
う危険がある。
「まあ、あたしは相手が玲子叔母さんでも奈緒でも有希でも、お兄ちゃんを譲る気なんて
ないんだけどね」
 明日香が叔母さんのことから話を変えた。僕はあのとき逃げ去っていった明日香を見送
って以来初めて彼女の口から有希の名前を聞いたのだ。明日香もそのことに気がついたよ
うだった。彼女の表情が曇った。
144:
 明日香が笑顔を消して何か話し出そうとしたとき、叔母さんがどこかのショップのブラ
ンドロゴの記された紙のバッグを提げて病室に入ってきた。
「ちょうど先月号で見本を提供してもらったショップを思い出してさ、考えたらこの病院
のすぐそばにあるんだったよ」
 叔母さんが持ってきたショップのロゴは僕には初めて見かけるものだったけど、明日香
はそれを見て曇っていた顔を輝かせた。
「え、これJASPERじゃん。こんなの貰っていいの?」
「たまには明日香にプレゼントしてもいいかなって。高いんだぞ大事にしろよって・・・・・・
奈緒人、あんたどうかしたの?」
「お兄ちゃんはね、叔母さんのこと」
 明日香はとりあえず有希のことを忘れたように、嬉しそうに何かを喋りだそうとした。
嫌な予感がした僕はこいつに飛び掛るようにして口を押さえた。
「何すんのよ! 離してよお兄ちゃん」
「これこれ病院でいちゃいちゃするのやめろ」
 叔母さんが飽きれたように笑った。
「違うのよ。ねえ叔母さん、聞いて聞いて。お兄ちゃんって叔母さんのこと、うう!」
 僕は辛うじて明日香の口を抑えることができた。全く。明日香の悪ふざけにも程がある。
「おいもういい加減にしろよ」
「叔母さんの前だからって照れちゃって」
「おい」
「はいはい。着替えるからお兄ちゃんは出て行ってよ」
「あ、うん。余計なこと言うんじゃないよ」
「わかったから出て行ってよ・・・・・・それとも見たい? て痛い」
 叔母さんが明日香の頭をグーで軽くぶったのだった。
 僕は病室の外で少なくともニ、三十分は待たされたんじゃないかと思う。その間に室内
からは楽しそうな話し声が聞こえてきたので、叔母さんが僕のことを好きだとかという悪
質な冗談を話し合っていたのではないらしい。もちろん叔母さんのことを女性としてどう
こう思う気持ちなんかないし、明日香にしたって冗談で言っているだけなのはわかってい
たけど、身内に関するこういう冗談は気まずい。それでもつらい目にあった明日香がはし
ゃいでいる様子を見るのは正直ほっとした。だからとても気まずいけれど、僕は叔母さん
に関する明日香の悪ふざけを本気で怒る気はなかったのだ。
 さいわいなことに病室の外の廊下で待たされている間に室内から聞こえてくる明日香と
叔母さんの会話は主にファッション関係の話らしかった。明日香の興味が叔母さんが買っ
てきた服の方に移ったみたいだ。
「お待たせ」
 ドアが開いて明日香と叔母さんが並んで出て来た。顔や腕にまだ包帯が巻かれているの
で痛々しい感じは残っているけど、新しい服に着替えたせいか明日香はだいぶ元気な様子
に見えた。
「ほら、この服ちょっと大人っぽいでしょ」
 明日香が僕に言った。
「こないだまでの明日香のファッションはケバ過ぎて見ていられなかったからね」
 叔母さんが笑って言った。「これくらいシックな方がいいよ」
 こうして明日香と叔母さんが並んで立っているとまるで少し年の離れたお洒落な姉妹の
ようだ。とても叔母と姪には見えない。
「じゃあ帰ろうか。さすがに少し急がないと午後の約束に遅れそうだよ」
 叔母さんが言った。
145:
 叔母さんが車を病院の入り口にまわしてきたので、まず僕が狭い後部座席に乗り込んだ。
明日香が無事に助手席に座ったのを確認してから叔母さんは車を発進させた。
「雪が降ってる」
 明日香が走り出した車の中から外を見て言った。朝、病院に向かっているときは陰鬱な
曇り空だったのだけど、病院を出る頃には細かい雪がちらほらと空から舞い落ちてきてい
た。
「こんなんじゃ積もらないだろうね」
「積もらなくて助かるよ。明日香は今週は登校しないからいいだろうけど、毎日出勤する
方の身になれよ」
 叔母さんが笑って言った。
「だって叔母さんは好きで今の仕事してるんだからいいじゃん」
「それはそうだけど・・・・・・ってそんなこと誰から聞いたの」
「パパが言ってた。玲子ちゃんは好きな仕事しているだけで幸せだからなって」
 叔母さんが顔をしかめた。
「何で結城さんがそんなこと言ったんだろ」
「叔母さんって何で結婚しないのってあたしがパパに聞いたの。そしたらパパがそう言っ
た」
「何であんたはそう余計なことを結城さんに聞くのよ」
「何でって言われてもなあ。ねえねえ、叔母さんってパパのこと好きだったの?」
「な、何言ってんのよ明日香」
 叔母さんが狼狽したように口ごもった。
「叔母さん、前! 前の信号、赤だって」
 僕の警告に気が付いた叔母さんは横断歩道の手前でタイヤを軋ませて車を急停止させた。
車を急停止させた叔母さんは真っ赤な顔でじっと目の前の革張りの高価そうなステアリン
グを見つめていた。
「ちょっとやりすぎちゃったかなあ」
 叔母さんはあの後あまり喋らなくなった。そして明日香と僕を自宅に送り届けるとそそ
くさと車を出して仕事に戻ってしまったのだった。明日香はリビングのソファで怪我をし
た部分を当てないように上手に横になってくつろいでいた。手元にはテレビのリモコンま
で引き寄せているところを見ると、こいつは今日は自分の部屋ではなくリビングで過ごす
気になっているようだ。
「ちょっとなんてもんじゃないだろ。叔母さん、あれからあまり話してくれなくなっちゃ
ったじゃないか」
「だって気になるんだもん」
 年上の叔母さんのそういう感情面みたいな部分を話すことに僕は違和感のようなものを
感じた。さっきの病室での明日香の冗談だって居心地が悪かったし。だけど今は明日香が
襲われた話とか有希の話とかをするよりも、こういう話をしていた方が明日香にとっては
気が楽だろうとさっきも病院で考えたばかりだ。だから僕は無理に話を遮らずその話に付
き合うことにした。
「叔母さんだってもう三十じゃない? あんだけお洒落で綺麗なのにいつまで独身でいる
つもりだろ。男なんていくらでも捕まえられそうじゃん」
「確かに綺麗だけどさ。叔母さんって性格は男っぽいからなあ」
「お兄ちゃんってやっぱキモオタ童貞だけあって女のこととかわかってないのね」
 随分な言われようだけど明日香の言葉には以前のようなとげはなかった。
「それは反論できないけど」
「叔母さんのしっかりとした態度なんて職場とかあたしたち向きの演技だよ、きっと」
 明日香が随分うがったことを言った。
146:
「そうかなあ」
 車の趣味とかきびきびした決断の早い行動とかがあいまって叔母さんを男っぽく見せて
いるのだろうけど、その全部が演技だというのはさすがに素直には受け取り難い。
「男と同じに扱われる職場だってまえに叔母さんも言っていたし。それに叔母さんが両親
があまりそばにいてくれないあたしたちと一緒に過ごしてくれるときってさ」
「うん」
「多分必要以上に頼りになる叔母さんを演出してくれてたんだよ、今まで」
 それはあまり考えたことのない視点だった。たしかにそういうことはあるかもしれない。
叔母さんは以前から好んで僕たちの世話を焼いてくれていたし、まだ幼かった頃の僕たち
に対して安心感を与えようとしてくれていたのかもしれなかった。小さい頃から叔母さん
にべったりだった明日香も今までただ甘えていただけではないらしい。明日香は叔母さん
の心の動きまで察していたようだった。
「本当は叔母さんだって普通の女の子だと思うよ。まあ三十歳になるんだから女の子って
ことはないんだけど」
「女の子ってことはないだろ・・・・・・。そういや叔母さんって誕生日いつだっけ?」
 僕はふと思いついて言った。
「八月でしょ」
「叔母さんの誕生日にも一緒にプレゼントしようか。お世話になってるんだし」
 明日香はそんな僕の提案を瞬時に却下した。
「叔母さんに喧嘩売るつもりならお兄ちゃんが一人でプレゼントしたら? ケーキに三十
本ろうそくを立てて渡しなよ・・・・・・そんな勇気がお兄ちゃんにあるならね」
 三十になる女の人は誕生日なんて喜ばないのだろうか。
「だいたい何でそこでプレゼントなんて発想がでてくるの? お兄ちゃんて中学生の女の
子が好きなロリコンだと思ってたけど、冗談抜きで年上属性もあるの? て痛い」
 僕はさっきの叔母さんを真似て明日香の頭を軽く叩いたのだ。明日香とこんなコミュニ
ケーションが取れるなんて不思議で少しだけ幸福感を感じる。
「何すんのよ」
 明日香が文句を言ったけど、以前の明日香だったら本気でつかみ合いの喧嘩になってい
ただろう。
「あたしさ、パパとママの仲が壊れるなんて絶対に嫌なんだけど、それでもどういうわけ
かママがいないときの叔母さんとパパの雰囲気とか会話とかは大好きなんだ」
 そういえば年末にもそういうことがあった。明日香の言うように叔母さんが父さんのこ
とを好きなのかどうかはわからないけど、確かにあのときの二人は親密な感じだった。
「それはわかるような気はするけどさ。それにしても僕は叔母さんのことをどうこうなん
て全く思っていないぞ。洒落にしてもしついこいよ」
「そうかなあ」
 ちょっと真面目な顔で明日香が呟いた。
「マジで言うんだけどさ。お兄ちゃんって本当のママの記憶ってあまりないんでしょ」
「うん。ほとんどない」
「うちのママだってあまり家にいないしさ。お兄ちゃんにとってのママの役って玲子叔母
さんが引き受けてたんじゃないかなあ」
 僕は不意をつかれた。確かにそういうことはあるかもしれない。僕は昔から叔母さんに
は懐いていた。去年母さんと明日香とは血が繋がっていないことを知らされたとき、しば
らくして僕は叔母さんとも血縁関係になかったことに気がついた。それからの僕の叔母さ
んへの態度は不自由で不自然なものになってしまった。でもこの間の夜、叔母さんは僕に
敬語を使うのはよせと言ってくれたのだ。僕が叔母さんの言葉に従ったとき、叔母さんは
目に涙を浮べてくれていた。
 明日香のことや奈緒のことで僕が自分でも気が付かずにどんなに叔母さんを頼っていた
か。明日香の言葉で僕は改めて真面目に考えた。
「叔母さんだってお兄ちゃんのことすごく大切にしているしね」
 明日香が言った。
147:
「でも、真面目な話だけど叔母さんを口説いたりしたらお兄ちゃんのこと許さないから
ね」
 そのとき自分でもようやく気が付いた叔母さんへの僕の真剣な慕情を明日香が無神経に
ぶち壊した。この恋愛脳のばか妹はまた話をそっち方面に持っていったのだ。
「だから何を言ってるんだよ。叔母さんは僕にとっては母親代わりみたいなものだって自
分で言ったばっかじゃないか」
「血が繋がっていない母性ってさ、互いに恋愛感情になりやすいって思うんだ」
 そんなことを考えていたのか、こいつは。人のことは言えないけどちょっと恋愛系の漫
画とかの読みすぎではないのか。それも少女漫画というよりレディースコミックのような
やつを。
「・・・・・・あたしさ」
 明日香が声を低くして言った。「なんか玲子叔母さんとお兄ちゃんが二人きりで笑いあ
っていたり話しをしていたりするところを見ていると何か胸がもやもやする」
「そろそろ洒落になんないよ。もうよそうよ」
「まあ、半分は冗談だけどね」
 半分は本気なのかよって僕は思ったけどこの話題はもう終わりにしたかった。
「まあ、あたしは相手が玲子叔母さんでも奈緒でも有希でも、お兄ちゃんを譲る気なんて
ないんだけどね」
 明日香が突然さっき言ったセリフを蒸し返した。
「有希さんのことはもういいよ。確かにおまえのしたことは感心しないけど、おまえなり
に僕のことを心配してくれたんだろうから」
 明日香が僕の方を真っ直ぐに見た。
「有希はお兄ちゃんのことが好きだよ。自分でもそう言っていたし」
「うん、知ってる。有希さんから直接聞いたよ」
「そうなんだ。あたし有希のことを応援しようと思ったの。有希とお兄ちゃんがくっつけ
ばお兄ちゃんは奈緒のことを忘れてくれるかも知れないって思って」
「だからわかってるよ。もういいんだ」
「でも有希のことをあたしは裏切っちゃったの。有希を応援するなんて言って有希をけし
かけておきながらお兄ちゃんに告白なんてしちゃてさ。しかもそれを有希に聞かれたんだ
から、有希が怒るのも無理はないの」
 でも今となってはそれは多分明日香が思っているような単純な話ではない。有希は女帝
かもしれないのだ。その有希が本気で僕を好きになったのかは考えただけでも疑わしい。
最初に有希に近づいたのは明日香の方みたいだけど、仮に有希がギャング団の女親分だと
したら明日香ごときに誘われるままに僕たちと冬休みを一緒に過ごしたり、僕のことが好
きだなんて告白したりするだろうか。
 やはり有希には何か目的があるのだ。そして有希に不用意に接近してしまった明日香の
身の安全のためにも、僕はその理由を探らなければならない。
 どういうわけか平井さんも玲子叔母さんも最初から僕がそうすることに疑いを抱いてい
なかった。いったい何でかはわからないけど。それを明日香に言う必要はない。だから僕
は明日香にこう言った。
「有希さんのことはもういいよ。そしてもう有希さんには近づかない方がいい。下手に謝
ろうなんてしたらかえって彼女を傷つけると思うよ」
「ちゃんと謝りたかったんだけどな」
「もう関わりになる必要はないよ。おまえが本気で僕のことを好きならなおさらね」
「お兄ちゃん、あたしの愛情を疑っているの?」
 何とか明日香の気持ちを逸らすことができた。これ以上明日香は有希と関ってはいけな
いのだ。そのとき僕は一番大切な話をまだ明日香にしていなかったことに気がついた。
「それよりさ。奈緒と会ったんだ」
「え」
 明日香はすぐに有希のことを忘れて奈緒の話に食いついた。
「何でよ? もう会わないって約束したじゃない」
148:
 僕は昨日叔母さんに話したことを繰り返した。奈緒に待ち伏せされ詰られたこと。その
後フラッシュバックを起こした僕が口走ったセリフによって、奈緒は僕が引き離された実
の兄だと気づいたこと。明日香は驚いたように口も挟まずに話を聞いていたけど、僕と奈
緒がこれからは再会した兄妹としてずっと一緒にいようと約束をしたあたりで不服そうな
顔をした。
「それって結局、奈緒とお兄ちゃんはこれまでどおり朝一緒に登校するし、お兄ちゃんは
毎週土曜日にはピアノ教室に奈緒を迎えに行くってこと?」
「まあ、そうだね」
「・・・・・・なんか別れた恋人同士がよりを戻したみたいに聞こえるんだけど」
「そんなわけあるか。これから兄妹として仲良くしていこうってことだよ」
「兄妹ってそんなにいつもベタベタ一緒にいるものだっけ」
「最近は僕だっておまえといつも一緒じゃん」
「お兄ちゃんはお兄ちゃんじゃないし」
 正しい日本語にはなってないけど、明日香の言うことも理解できた。同時にいい兄妹に
なるはずの兄の方が、今でもまだ妹になったはずの奈緒に対して抱いている性的な情欲の
ことも心に浮かんだのだけどそれは胸のうちにそっと仕舞っておいた。
「お兄ちゃん?」
 明日香が静かな声で言った。今までとは違う真剣な声を聞き、僕は妹の顔を見た。
「お兄ちゃんは本当にそれでつらくならない?」
「え」
「好きになった、とっても好きになった女の子が自分の実の妹だってわかって、それでも
お兄ちゃんは平気なの」
 それは僕の悩みを的確に指摘した言葉だった。本当にそのとおりなのだ。記憶のない僕
が妹の奈緒と再会して、自分の初めてできた大好きな彼女を失って、それでもなお何で奈
緒と一緒に登校したり、奈緒をピアノ教室に送迎したりしようと思えるのか。
「お兄ちゃんがそれでも平気ならあたしは何も言わない。言う権利もないと思うし」
「権利って。おまえは僕のことを助けようとしてくれたんだし」
「それでもね」
 男たちにひどい目に合わされ、入院して退院した今まで、気丈だった明日香の声が初め
て気弱な響きを帯びた。
「勝手なことを言うね。奈緒と会ってお兄ちゃんがつらいなら、お兄ちゃんは奈緒に会う
べきじゃない」
「妹なんだぞ」
「奈緒がお兄ちゃんに対して復讐心を抱いているなら、お兄ちゃんはもう奈緒のことは忘
れた方がいいよ」
149:
第二部
 もう十年も前になる。
 それはすごく暑い日だったけど、家庭裁判所の隣にある公園は樹木が高く枝を張り、繁
茂している緑に日差しが和らげられていて、申し訳程度にエアコンが働いている家裁の古
びた建物の中よりよっぽど快適だった。あれは大学二年の頃だったから、今から思うとあ
たしがまだ保育園に通っていた姪の明日香を公園で遊ばせていたのは2003年のことだ
ったと思う。
 明日香は涼しい木陰には片時もじっとしていなくて、あたしは炎天下の中を喜んで駆け
回っている明日香を汗だくになりながら追い駆ける羽目になった。小さい子どもだから無
理はないけど、明日香は二年前に父親を事故で亡くしたことなんかもうすっかり忘れてい
て、その日もちっとも大人しくせずにはしゃぎまわっていた。
 本当なら今頃は飛行機に乗って北海道に向かっているはずだった。大学のサークルの合
宿がちょうどこの日から始まっていたのだ。あたしは随分サークルの合宿を楽しみにして
いた。サークル内に気の合う女の子たちがいっぱいいたということもあるけど、密かに気
になっていた先輩が北海道出身で、自由時間があればあたしをいろいろ案内してあげるよ
って言ってくれていたということもあった。
 大学二年生だったあたしはいろいろな事情もあって、高校時代に期待していたような充
実した楽しい大学生活を送っていたとは言えない状況だった。音楽関係でもしたいことは
あったし、彼氏だって作りたかった。アルバイトもしてみたかったし、同じクラスの子た
ちと講義の後でカフェに集って気になる男の子の話だってしたかった。
 でもこればかりは仕方がない。姉さんの旦那が交通事故で突然の死を遂げてから、あた
しは落ち込んでいる姉さんを必死で励ましたし、一時期姉さんが育児を放棄したときは姉
さんに代わって両親と一緒に姪の明日香の面倒もみた。あの頃は毎日自殺しかねない暗い
顔の姉さんを一生懸命励ましながら、明日香の保育園の送り迎えをするのが大学で講義を
受けていないときのあたしの日課だった。
 姉さんと姪のためだからあたしはそれを当然だと思って引き受けたし、そのことで姉さ
んや明日香を恨みに思ったことはなかったけど、あたしの大学生活はスタートから入学前
に期待したようなものでなくなってしまったことも事実だった。それでも必修の講義のカ
リキュラムを何とかこなして、希望を持って入会したサークルでは幽霊部員扱いされなが
らも、あたしは必死で姉さんを支えた。もともと姉さんとは十歳以上も年齢が離れていた
せいもあって、これまでは姉さんに頼ってきたのはあたしの方だった。その姉さんが抜け
殻のようになってかろうじて自分の仕事だけを必死で守っていた姿を見たとき、あたしは
自分が大学生活に期待していた多くのことを捨てる決心をしたのだ。
 あたしは公園の涼しい木陰を抜け出して噴水の水に手を差し伸べてきゃあきゃあと楽し
そうに一人で遊んでいる明日香を目で追いながらサークルの夏合宿のことをぼんやりと考
えた。今頃はサークルのみんなは飛行機の中で盛り上がっているだろう。滅多にサークル
に顔を出せないあたしに合宿の案内を手渡して誘ってくれたのは気になっていた先輩だっ
た。
「君の同期の女の子たちから頼まれたんだ。玲子ちゃんは家庭の事情で忙しいみたいだけ
ど、せめて合宿くらいは参加してほしいから僕から声をかけてくれって」
 先輩はそんなに目立つ方ではなかったし、あたしだってあのことさえなかったら先輩を
好きになろうなんて思わなかったかもしれない。それは先輩にはすごく失礼なことだった
けど。木管楽器を専攻していた先輩は穏やかでいつも笑顔を浮かべていた。他の先輩たち
と異なり音楽上の野望もないようで故郷の北海道で音楽の教師をしたいということだけが、
先輩の唯一の望みだと聞いていた。もともと将来への夢でぎらぎらしている学生で溢れて
いたこの大学では、そういう堅実な姿勢は珍しかった。あたしが先輩のことを気にしたの
はそのことを友だちから聞かされたからかもしれない。
「君にも事情があるだろうしあまり無理は言えないけど、できるなら合宿に参加した方が
いいよ。知り合いも増えるしね」
「それに」」
 先輩はそこで少し顔を赤らめて照れたように続けた。
「自由時間には君をあちこち案内してあげるよ。北海道はいいところだよ」
 その言葉がしばらくの間あたしの胸の中に留まってぐるぐると渦巻いた。先輩のような
人と恋におちて将来北海道で教員をしている先輩と共に暮らすという考えがあたしの心を
捉えて離さなかったのだ。今から思うと随分先輩には失礼な話だっと思う。先輩のことが
気になっていたのは嘘じゃなかった。でもそれは本気の恋ではなかったのだ。
 姉さんが立ち直って少しづつ元気を取り戻したのは偶然に結城さんと再会したからだっ
た。あたしは以前のように笑顔を見せるようになった姉さんのことが嬉しかった。姉さん
が久しぶりの笑顔で明日香を抱き上げる様子を見ると、依然として大学生活には未練があ
ったあたしも明日香の世話をすることがあまり苦にならなくなってきた。幼馴染だった結
城さんと姉さんの再会と交友関係の復活が恋愛関係に変化するのに時間は不要だったみた
いだった。姉さんは結城さんの存在に心の平穏を見出したのだ。
150:
 その頃の結城さんは自分の海外赴任中に、元彼と浮気した挙句、大切な子どもたちをネ
グレクトした奥さんと離婚協議中だった。でもそれさえ片付けば二人は結ばれて改めて幸
せな家庭を築けるだろう。こうして姉さんが旦那の不慮の死から立ち直っていくことは嬉
しかったし、実家の両親も素直に喜んだので、姉さんの旦那さんの死後、暗くなっていた
家の雰囲気もよくなっていった。それでもこの変化によって新たな問題も生じた。それは
主にあたしの個人的な問題だった。あたしは姉さんに紹介されて初めてあった結城さんに
恋してしまったのだ。そしてその不毛な恋から逃れようとあたしは気になっていた先輩が
好きになったのだと自分に言い聞かせ、そう思い込もうとしていた。
 いつのまにか明日香は公園の中央にある芝生のところで同じ年くらいの女の子と遊びだ
していた。この年代の子どもたちが仲良くなるなんて実に簡単なことらしい。明日香とそ
の女の子は手をつないで一緒に逃げ惑う鳩を追いかけていた。明日香の足取りもその女の
子の足取りも危う気だった。互いに走る度が違うのにお互いに手を離そうとしないから
これではすぐにでも転倒しそうな感じだ。さいわいにも地面は芝生が張ってあるし転んで
もどうってことはないとあたしは思ったけど、すぐに考えを改めた。よその子どもを怪我
させてしまうとまずい。あたしは物思いにふけるのを中断して明日香を止めようと思った。
 そのとき小学生くらいの男の子が二人の後を追い駆け出した。
「こらナオ。あんまり走ると危ないよ」
 男の子の澄んだ声が響き渡った。
 その男の子のことは目に入っていたのだけど、この子が明日香と一緒に遊んでいる女の
子の連れだとは思わなかった。この子は女の子のお兄さんなのだろう。その子の声や表情
には妹を大切にしている様子が窺われてあたしは思わず微笑んだ。兄弟っていいものだ。
あたしだって姉さんのためにいろいろと自分を犠牲にしてきたのだけど、そのことで本気
で姉さんを恨んだことはなかった。血の繋がりってすごいんだなとあたしその子を眺めな
がら考えた。
 男の子は明日香たちに追いついて二人の無謀な冒険を止めさせた。
「あたしたちはころばないもん」
 妹の方が口をとがらせて男の子に反抗した。
「でも転びそうになってたじゃん」
「なってない。お兄ちゃんのうそつき」
 やはりこの二人は兄妹なのだ。
「なってたよ」
 男の子のほうも譲る気はないようで頑固に妹に向かってそう言い張った。
「なってない! ねえ明日香ちゃん」
「そうだよねー。ナオちゃん」
 いつの間にかお互いの名前を教えあっていたらしい。ナオという名前を聞いたとき、あ
たしは公園に隣接した古い建物に集合して話し合いをしている人たちのことを思い出した。
今日あたしは結城さんと一緒に話し合いに参加している姉さんの代わりに明日香の面倒を
見ていた。どうせなら実家で明日香の面倒をみていた方が楽なのだけど、最近やたらに明
日香のことを構うようになった姉さんが自宅を出ようとしただけで、明日香の機嫌が悪く
なったのだ。それであたしは明日香と一緒にこんな場所に来ていた。
 今日は確か結城さんも子どもたちを連れて来ていたはずだった。結城さんの両親が通院
する日だとかで子どもたちの面倒を見る人がいないという話だった。結城さんと姉さんは
家裁のロビーで待ち合わせをしていたから、あたしは家裁の建物に入らずに明日香を連れ
て公園に来たのだった。
 目の前にいる二人はやはり結城さんの子どもなのだろう。名前も奈緒人と奈緒で事前に
聞いていた話と一致する。あたしは三人がもつれ合うようにして会話をしている芝生の方
に向かった。
「こんにちは奈緒人君、奈緒ちゃん」
 このときの奈緒人は少し警戒したようにあたしを見たのだった。そして奈緒ちゃんの手
を握って自分の背後に隠すようにした。その警戒心にあふれた彼の仕草は、この兄妹がこ
れまでどんなに過酷な生活を強いられてきたかを、そして兄妹の絆がどんなに強いのかを
物語るものだった。あたしは胸の痛みを誤魔化して無理に奈緒人に笑いかけた。
「心配しないでいいよ。お姉ちゃんは奈緒人君のパパの友だちだよ」
151:
 父親のことを聞いて奈緒人は少しほっとしたように警戒を解いてくれた。
「おばさんはパパのお友だちなの」
 奈緒人は気を許してくれたようだった。
 奈緒人の目を見たときあたしはもう間違いないと思った。奈緒ちゃんはともかく奈緒人
は結城さんにそっくりだった。
「でも奈緒人君と奈緒ちゃんの面倒は誰がみるの?」
 今日明日香を連れて家裁まで来る途中であたしは姉さんに聞いた。
「安心して。いくらなんでも初対面の子どもたちの面倒を玲子にみれくれとは言わないか
ら」
 本来なら相当緊張していてもいい場面なのに、姉さんは笑って言った。「玲子は明日香
を見ていてくれればいいよ。結城さんが言ってたけど奈緒人君って年齢のわりにはすごく
しっかりしてるんだって。それに奈緒ちゃんは奈緒人君が大好きだから、奈緒人君がいれ
ば大丈夫だって結城さんは言ってたし」
 確かに奈緒人がいれば奈緒ちゃんは大丈夫だろう。実際にこの二人を見ていたあたしも
そう思った。年齢の割には奈緒人はすごく大人びている印象だった。きっと奈緒ちゃんを
守るためにそうならざるを得なかったのだろう。こんな子どもにそこまでの生活を強いた
人がすぐ隣の家裁に来ているのだ。そのとき初めてあたしは見たこともないこの二人の母
親に憎しみを覚えた。
「ねえ、お姉さん喉が渇いちゃったんだけどみんなでジュースを飲もうか。ソフトクリー
ムでもいいよ」
 公園の隅にワゴンが出ていてジュースやらソフトクリームやらを販売していることにあ
たしは気がついていた。姉さんの彼氏の子どもたちなんだからあたしがまとめて面倒をみ
たって叱られはしないだろう。
「おばさんいいの?」
 その頃の奈緒人は小学生の割には随分遠慮がちな子どもだった。いや遠慮がちなのはあ
れから十年たった今でも同じだ。
「あのさ、あたしのことは玲子お姉さんって呼んでね」
 この年でおばさん呼ばわりされるのはかなわないので、あたしは奈緒人にそう言い聞か
せた。
「何でなの? あたしはいつも叔母さんって呼んでるじゃん」
 無邪気な声で明日香が余計なことを言った。あんたの呼んでいる「叔母さん」とこの二
人がいう「おばさん」じゃ意味が違うのよ。あたしはそう言いたかったけどそれをこの無
邪気な子どもたちに上手に説明できる自信はなかった。
「玲子叔母さんっていうんだよ」
 明日香が奈緒人に教えた。それでその時から今に至るまであたしは奈緒人に叔母さんと
言われ続けている。
 公園の隅のワゴンであたしはソフトクリームを買って子どもたちに渡した。そろそろ正
午に近い時間で、あたしと明日香が公園に来てから一時間以上も経っている。もう三人は
すっかり打ち解けていた。奈緒人が結城さんに似ていたせいで、ともすればあたしの視線
は彼に釘付けになっていたのだけど、よく見ると妹の奈緒ちゃんはすごく可愛らしい子だ
った。身びいきではなく明日香も可愛い子だと思っていたのだけど、外見の整っているこ
とでは奈緒ちゃんの方に軍配が上がった。
 明日香と仲良しになったらしい奈緒ちゃんだけど、彼女の視線はすぐに奈緒人の姿を求
めていた。途中、奈緒人はあたしに奈緒ちゃんを託して公園のトイレに行った。明日香と
夢中になってお喋りしながらソフトクリームを舐めていた奈緒ちゃんは、奈緒人がそばに
いないこと気がつくとパニックにおちいったのだ。
 突然泣き出した奈緒ちゃんを抱きしめて宥めていたあたしは、奈緒人が帰ってくるのを
見つけてほっとした。奈緒ちゃんはあたしの手から抜け出して奈緒人に抱きついた。
 離婚調停では結城さんの奥さんは二人の親権を主張していて折り合いがついていない。
でもまだ幼い奈緒人と奈緒ちゃんをここまで追い詰めた母親にそんなことを言う資格はあ
るのだろうか。結城さんの離婚に関しては全く口を出す気もその資格もないあたしですら
そう思った。この子たちは結城さんと姉さんに引き取られた方が絶対に幸せになれるだろ
う。いや、幸せになれなくても少なくとも普通の子どもと同じ生活は送れるに違いない。
姉さんが再婚後にも仕事を続けるのなら、そうしたらそのときはあたしがこの三人の面
倒をみてもいい。さっきまでサークルの北海道合宿に未練たっぷりだったあたしだけど、
このときは本気でそう思ったのだ。
152:
 このとき結城さんと姉さんがワゴンのそばにいるあたしたちに気がついて、連れ立って
あたしたちのところに来た。
「あら、結局一緒にいたんだ」
 姉さんが微笑んだ。
「玲子さん、奈緒人たちの面倒までみてもらってすいませんでした」
 結城さんもあたしにそう言った。
「パパ」
 奈緒ちゃんが奈緒人から離れて結城さんに抱きついた。
 あれから十年経った。結局結城さんは奈緒ちゃんを引き取ることはできなかったのだけ
ど、奈緒人だけは結城さんと姉さんの新しい家庭で明日香と一緒に兄妹として育った。
あれからあたしの結城さんへの恋はあたしの心の底に深く隠されていて、あたしは誰に
もそのことを悟られなかった自信があった。
 再婚しても姉さんは仕事を止めなかったので、前ほどではないけどあたしは大学を卒業
するまで引き続き明日香の面倒をみた。あたしは当然、新たに姉さんたちの家族の一員と
なった奈緒人の面倒も一緒にみようとしたのだけど、奈緒人は明日香とは異なり全く手の
かからない子どもだった。
 奈緒と二人で脱走する途中で保護されて、結局奈緒ちゃんとつらい別れを経験した奈緒
人は、その後は一度もあたしに奈緒ちゃんの名前を出すことはなかった。まるで記憶から
すっぽりとその部分が欠落したように。
 あたしは先輩とは何の進展もなく、高校時代に夢想したような充実した大学生活を送る
ことなく大学を卒業した。もちろん演奏家になることもなかった。それでも運がよかった
のだろう。あたしは大手の出版社に入社した。最初は自社で出版している雑誌の広告を取
る営業の仕事についた。その後に雑誌の販促を担当する営業企画の仕事を経て、あたしは
やっと希望し続けていた雑誌の編集部に編集者として配属されることができた。本当は週
刊誌で報道の仕事を希望していたのだけど、結局配属されたのは女子高校生をターゲット
にしたファッション雑誌の編集部だった。
 この頃になるとさすがに仕事が忙しくなってきたあたしは、以前のように明日香や奈緒
人の世話をすることもなくなっていた。明日香は昔と変わらずあたしを慕っていてくれた
けど、この頃には明日香と奈緒人との仲は最悪の関係になってしまったようだった。あた
しは仕事の合間を縫ってこの二人となるべく会うようにしたのだけど、そういうときでも
明日香は全く奈緒人に話しかけることすらしなかったのだ。
 そのせいかはわからないけど奈緒人は内省的な性格の男の子になっていた。口数も少な
いし趣味もインドア系のものばかりだったらしい。でもそんな彼にもあたしは好かれてい
る自信はあった。奈緒人は遠慮がちにだけどあたしに甘えてくれることすらあった。あた
しは時折奈緒人があたしに向ける視線にどきっとすることがあった。そしてその視線は結
城さんのそれにそっくりだった。
 ・・・・・・退院した明日香は、今日奈緒人があたしに異性としての好意を抱いているという
いうようなことを匂わした。あたしは胸の動悸を必死で抑えて明日香の言葉の意味に気が
つかないふりをした。追い討ちをかけるように明日香は結城さんへのあたしの好意につい
て質問したのだ。結局何も言葉が出てこなかったあたしは、二人を自宅に送ってから逃げ
るように車を出した。そうして二人と別れて車を運転して社に戻り途中でも、そのときの
明日香の言葉が繰り返し胸の中再生されていた。
『お兄ちゃんはね、叔母さんのこと』
『違うのよ。ねえ叔母さん、聞いて聞いて。お兄ちゃんって叔母さんのこと』
 結城さんへの想いはとうの昔に克服していて、今あたしに残っているのは明日香と奈緒
人への、叔母としての愛情だけなのに。あのときあたしは何で顔を赤くするほど明日香の
その言葉にうろたえたのだろう。年末に結城さんと会ったとき、いったいあたしは何で少
女のようにみっともなくはしゃいだのだろう。いったい三十歳にもなるあたしは何を期待
したのだろうか。まるで高校生の女の子のように取り乱しながら。
155:
 翌日も僕は学校を休んだ。一見、僕のことをからかったり叔母さんの父さんへの恋を語
ったりしている明日香はもうあまり思いつめていないように見えた。でも、僕がトイレに
行ったり食事の支度をしたりしてリビングのソファに寝ている明日香のところに戻る際、
僕は明日香が僕と話している時にはあまり見せない暗い表情をしていることに気がついた。
 奈緒に会えないことは正直寂しかったし授業に遅れてしまうことへの危惧もあったけど、
僕が悩んでいた時期に僕にそっと寄り添って一緒にいてくれた明日香を一人で自宅に放置
するなんて論外だった。なのでリビングのソファで横になっている明日香の隣で僕はじっ
と腰かけて、PCに録画していた深夜アニメを、転送したスマホで見ていた。明日香がテ
レビを見ているのでイヤホンをして邪魔にならないようにしていたのだけど、それでも明
日香は僕のしていることが気に入らないようだった
「あたしとお兄ちゃんは一緒にいるのに何でお兄ちゃんは自分ひとりでアニメ見てニヤニ
ヤしてるのよ」
 明日香が僕のイヤホンを取り上げた。ニヤニヤなんかしていない。
「よせよ。壊れちゃうだろ」
「一緒にテレビ見ながら話しようよ」
 明日香が僕の手からスマホを取り上げて言った。
「テレビって」
 平日の午前中だから仕方ないのだろうけど、明日香がさっきから興味深々に見入ってい
るのは主婦向けの情報番組だった。
「・・・・・・これ見るの?」
 僕は一応明日香に抗議したけれど実はそんなに視聴していたアニメには未練はなかった。
最近はリアルの生活でいろいろ進展があるせいか、これまではあれほど熱中していたアニ
メがなんだかそんなに面白いとは思わなくなっていた。
「・・・・・・嫌なの? じゃあチャンネル変えようか」
 明日香がリモコンを弄ったけど結局はどれも似たような番組だ。
「いいよ。最初におまえが見ていたやつで」
 窓からはちらほらと舞い降ってくる粉雪が見える。この調子だと今日は積もりそうな勢
いだ。
「・・・・・・この人おかしいよね」
 番組の中で芸人のコメンテーターが何か気の利いたことを言ったのだろう。明日香が笑
って僕の方を見た。
 今頃は奈緒はどうしているのだろう。僕はふと考えた。まだ午前中の授業時間だから授
業に熱中しているのだろうか。それともピアノのことでも考えてるのか。
 ・・・・・・それとも。ひょっとしたら僕のことを考えているのかもしれない。つらかった別
れを経て久しぶりに再会できた兄のことを。奈緒が自分の実の妹であることを知った日
以来、僕は精神的には本当にまいっていたのだけど、奈緒にとってはそれはそういう受
け止め方をするような事実ではなかったようだ。奈緒はすぐに僕が自分の兄であることを
受け入れたばかりか、僕を抱きしめながら本当に幸せそうな微笑みを浮べたのだ。僕は奈
緒が真実を知らされることを恐れていた。出来立ての自分の彼氏が恋愛対象として考えて
はいけない相手だと知らされたときの奈緒がショックを受けて傷付くことを恐れたからだ。
 奈緒は傷付くどころか喜んだ。僕だって妹との再会は嬉しくないはずはなかった。でも、
これほどまでに入れ込ん最初の恋人が付き合ってはいけない女の子だったと知ったときの
絶望感は僕の心に深く沈潜してなくなることはなかった。
 僕ほどにショックを受けていないのは僕が兄だと知る前の僕のことを、奈緒がそれほど
愛してくれていたわけではないからなのだろうか。その考えは僕を混乱させた。奈緒を傷
つけたくないと思っていたはずの僕は、あろうことか奈緒が僕と恋人同士ではいられなく
なるという事実を知っても動揺しなかったことに対してショックを受けたのだ。
 いったい僕は何がしたいのだろう。過去に自分の記憶を封じ込めるほどにつらい過去が
あった。その話は玲子叔母さんが僕に話してくれたら今ではよく理解できていた。そのつ
らかった過去の一部が奈緒との再会によって癒されることになったのだ。
 それなのに僕はこれ以上いったい何を求め、何を期待していたのだろう。つらい別れを
した兄貴と偶然に再会できて喜んでいる実の妹の態度に、僕は何が不満なのだろう。突き
詰めると簡単な話なのだろう。僕はあれだけ大切にしていた妹が再び僕のそばにいてくれ
ることだけでは満足できないのだ。要するに僕は奈緒のことを今でも妹としてではなく女
としてしか見ていないのだろう。無邪気に兄との再会を喜んでいる奈緒の態度に、僕は飽
き足らない想いを感じているのだ。
156:
 本音を言えば、奈緒を傷つけたくない混乱させたくないと思いながらも奈緒が彼氏であ
る僕を失ったことを悲しんで欲しかったのだ。僕が奈緒に対して感じているのと同じ感情
で。奈緒と出合った日。奈緒と初めてキスした日。
 僕はその思い出を今でも大切にしていた。そして僕は奈緒にもその想いを共有して欲し
かった。奈緒は血の繋がった実の妹だった。それが理解できていた今でもなお、僕は奈緒
に自分のことを異性として意識していて欲しいと願っていたのだ。ちょうど今の僕が奈緒
に対してそう考えているように。
「また黙っちゃった。お兄ちゃんってこういうときはいつも何考えてるの」
 明日香は物思いにふけっていて自分を無視していた僕の態度に不満そうだった。
「ただぼんやりとしてただけだけど」
「そんなにあたしと二人きりでいるとつまらない?」
 明日香が言った。
「そんなことないって」
「だってお兄ちゃん、さっきから全然あたしの話聞いてないじゃん」
「だからぼんやりしてたから」
 明日香がソファから半分身を起こした。
「あたし以外の女のことを考えてたんでしょ」
 一瞬僕はどきっとした。明日香の言うとおりだったから。
「いったい誰のこと考えてたのよ」
 明日香がテレビの音量を下げて僕を睨んだ。「・・・・・・もしかして玲子叔母さん?」
「おまえなあ、その話題はいい加減に止めろって。叔母さんに失礼だろ。あと僕にも」
「だってお兄ちゃんと叔母さんのお互いに対する態度って何かぎこちなくて怪しいも
ん。絶対玲子叔母さんってお兄ちゃんのことを男として意識してるよ」
「あんだけ叔母さんに世話になっておいてそういうこと言うか? 普通」
「叔母さんのことは大好きだけど、恋のライバルとなったらまた別だよ」
 どうも明日香はあながち冗談で言っているわけではないらしい。
「百歩譲ってたとえ僕が叔母さんに好意を抱いていたとしても、十七歳の僕と三十歳にな
る叔母さんが男女としてつりあうわけないだろう」
 明日香を宥めるためにそう言うと、どういうわけか彼女は僕の言葉が気に障ったようだ
た。
「・・・・・・冗談で言っているのに何でお兄ちゃんはマジで叔母さんのことが気になるみたい
な言い方をするのよ」
 明日香はとても冗談とは思えない表情で言った。
「あたし嫌だからね。お兄ちゃんが三十歳の叔母さんを彼女にするなんて」
「あのなあ」
「世間体だって悪いよ。知り合いはみんな本当の叔母さんだって思ってるのに、甥と叔母
さんが男女の関係になっちゃうなんてさ。血は繋がっていないことは知り合いはほとんど
誰も知らないわけだし」
 何かわからないけど明日香のスイッチが入ってしまったようだ。明日香にとっての地雷
は奈緒だと思っていたのだけど、昨日からこいつは随分叔母さんのことにこだわっている。
こいつをそんな考えに追いやるようなことなんて、僕と玲子叔母さんとの間には何も生じ
ていないのに。
 明日香がテレビの音量を下げたせいで部屋の中は静かだった。相変わらず窓の外には粉
雪が降りしきり庭の樹木を白く装っている。叔母さんは嫌がっていたけどこの分だと積も
るかもしれない。
「正直に言うとさ、さっきまで奈緒のことを考えてた」
 これ以上甥と叔母の恋愛なんて妄想には付き合いたくなかった僕は正直に言った。
 明日香はそれを聞くと黙ってしまった。
157:
「だから玲子叔母さんのことを考えていたわけじゃないって。変な誤解するな」
 でも明日香は全然安心したような表情を見せなかった。
「・・・・・・最悪だよ」
 明日香が低い声で言った。「お兄ちゃん言ったよね? 奈緒とは再会したいい兄妹の関
係だって」
「うん」
「あたしと二人きりでも奈緒の方が気になるの? 実の妹なんでしょ? お兄ちゃんは実
の妹のことでいつも頭がいっぱいなわけ?」
「いや、違うって」
「どう違うのよ。お兄ちゃんはあたしの気持ちを知ったんでしょ。あたしはお兄ちゃんの
ことが好き。お兄ちゃんにあたしに彼氏になって欲しい。血も繋がっていないし、ママだ
ってそれを望んでいるのに」
 穏やかな午前中の時間はこれで終ったみたいだった。明日香は今では涙を浮べていた。
こいつは昨日は僕に返事は急がないと言ったばかりだったはずなのに。
「お兄ちゃんが高校の友だちの女の子が好きであたしが振られるなら仕方ないよ。それに
さっきはああは言ったけど玲子叔母さんとお兄ちゃんがお互いに求め合うなら、賛成は出
来ないけどまだしも理解くらいはするよ。年齢はともかく少なくとも血は繋がっていない
んだし」
「学校に好きな子なんていないし、玲子叔母さんはそういう対象じゃないだろ」
 明日香は僕の話なんて聞いていないようだった。
「でも、何でそれが奈緒なの? 奈緒だってお兄ちゃんが彼氏じゃなくて実の兄だってこ
とを受け入れたんでしょ? お兄ちゃんだってそう言ってたじゃない。それなのに何でお
あたしと一緒のときにいつもいつも奈緒のことばかり考えてるのよ」
 明日香はいい兄妹として仲直りする以前のような興奮した口調で話し出した。
 奈緒のことを考えていたと正直に明日香に話したのは失敗だったようだ。そのときの僕
は、明日香の話を聞いているうちに玲子叔母さんのことを一人の女性として意識させられ
そうで、そのことがとても気まずかった。だから、本当は黙っていた方がいいと思ってい
たのだけど、正直に奈緒のことを考えていたと話したのだった。
 でも明日香が叔母さんのことを気にしているのも本当だろうけど、やはり明日香の一番
気に障る存在は奈緒のようだった。奈緒が悪意をもって僕を陥れるために近づいたのだと
いう誤解は解けたはずだった。あれは偶然の出会いだったのだ。それを理解してもなお、
明日香の奈緒に対する敵愾心はちっとも薄れていないようだ。
 こうなってしまったら仕方がない。明日香が僕に対して敵愾心を持っていた頃、明日香
が切れたときは僕は反論せず怒りが収まるまでじっと耐えたものだった。それがどんなに
ひどい言いがかりであったとしても。久しぶりに今日もそうするしかないだろう。それに
今回は明日香の言っていることは単なる言いがかりではなかった。奈緒と兄妹して名乗り
あったときの安堵感が消えていき、さっきから悩んでいるように僕が奈緒に対して再び恋
愛感情を抱き出したことは事実なのだ。でもそれだけは明日香にも誰にも言ってはいけな
いことだ。
 昔はよくあったことだった。ひたすら罵声に耐えているうちに明日香の声は記号と化し
意味を失う。そこまでいけば騒音に耐えているだけの状態になり、意味を聞き取って心が
傷付くこともない。久しぶりにあの頃は頻繁にあった我慢の時間を過ごせばいい。そう思
っていた僕だけど、どういうわけか明日香の言葉はいつまで耐えていてもその意味を失わ
なかった。
「まさかお兄ちゃんは血の繋がった妹を自分の彼女にしたいの?」
 以前と違って明日香の言葉は鮮明に僕の耳に届き僕の心に突き刺さった。
「実の妹とエッチしたいとかって考えているの?」
 もうやめろ。やめてくれ。以前と違った反応が僕の中で起きた。僕はまたフラッシュバ
ックを起こしたのだ。視界が歪んでぐるぐる回りだす。叔母さんや奈緒の声が無秩序にで
も鮮明に聞こえてきた。
158:
『奈緒人・・・・・・あんた、まさか本気で自分の妹と付き合う気?』
『鈴木奈緒はあんたの本当の妹なのに』
 叔母さんの驚愕したような声。
『あたしピアノをやめます。そしたら毎日奈緒人さんと会えるようになりますけど、そう
したらあたしのこと嫌いにならないでいてくれますか』
『それで奈緒人さんがあたしと別れないでくれるなら、今日からもう二度とピアノは弾き
ません』
『あたしのこと、どうして嫌いになったんですか? ピアノばかり練習していて奈緒人さ
んと冬休みに会わなかったからじゃないんですか』
 僕を見上げる奈緒の縋りつくような涙混まじりの目。
「お兄ちゃんごめん」
 気がつくと僕はソファで横になっていた。明日香の顔が間近に感じる。
「・・・・・・まったやっちゃったか。ごめん明日香」
 明日香が僕を抱いている手に力を込めた。
「あたしが悪いの。自分でもよくわからないけど、奈緒のことを考えたらすごく悲しくな
って、でも頭には血が上ってかっとなっちゃった。本当にごめんなさい」
 代償は大きかったけど、でもこれでようやく明日香の気持ちはおさまったようだった。
僕は安堵したけど、もちろん事実としては何も解決していないことは理解できていた。
明日香はもう何も喋らずに僕に覆いかぶさるように横になった。思ってたより重いな、こ
いつ。僕は何となくそう思った。全身が汗びっしょりで体が体温を失って冷えていくのを
感じる。明日香の包帯を巻いた手が僕の額の汗を拭うようにした。明日香の手に僕の汗が
ついてしまうのに。そのまま明日香は僕の頭を撫でるように手を動かした。それはずいぶ
んと僕の心を安定させてくれた。
 やはり奈緒への恋心、つまり自分の実の妹への恋愛感情は無益なだけでなく有害ですら
ある。世間的にどうこう以前に自分の心理ですらその禁忌に耐えることすらできていない。
再びフラッシュバックに襲われた僕はやっと冷静に考えられるようになった。きっと明日
香の言うとおりなのだろう。もうこれは本当に終らせなければならないのだ。それに僕の
恋は無邪気に兄との再会を喜んでいる奈緒をも戸惑わせ傷つけることになるかもしれない。兄としての僕への奈緒の想いの深さは、恋人が実は兄だったという事実をも圧倒したため、
奈緒は僕のように傷付かずに済んだのだろう。それを蒸し返せば今度こそ奈緒を深く傷つ
けることになるかもしれない。
 奈緒が僕のように胃液を吐きながらフラッシュバックにのたうちまわって苦しんでいる
姿が浮かんだ。だめだ。自分の大切な妹にそんな仕打ちをするわけにはいかない。奈緒へ
の無益な恋心に惑わされていた僕がそれに気がつけたのは、明日香のおかげだった。確か
にきつく苦しい荒療治だったけど、そのおかげで僕は目が覚めたのだろう。
 僕は大きく息を吸った。この決心によって傷付く人は誰もいない。明日香の望みをかな
えられるし、僕のことを実の兄として改めて別な次元で慕い出した奈緒だってもはや傷付
くことはない。叔母さんだって僕たちの味方をしてくれるはずだった。
「明日香」
 明日香は僕の髪を撫でる手を止めて僕の方を見た。
「・・・・・・まだ苦しい?」
「いや。そうじゃないんだ」
 僕は体を起こし、半ば僕に覆いかぶさるようにしていた明日香を抱き起こすようにして
自分の隣に座らせた。
「おまえが言ってたことがあるじゃん。僕のことが好きだって」
 明日香が怪訝そうな表情をした。
「言ったよ。それがどうしたの・・・・・・あ」
 そのとき明日香の表情が何かに怯えるような影を宿した。
「よく考えてって言ったのに。あたし、お兄ちゃんにもう振られるの?」
159:
 本心で明日香のことを奈緒以上に愛しているかと聞かれたらそれは違う。でも少なくと
も明日香が大切で心配な存在であることは確かだった。僕が一番つらい時期にぼくを支え
てくれた明日香のことが。それにこれだけは嘘じゃなく本当だった。明日香のその怯えた
表情を見たとき、僕は心底から明日香をいとおしく感じたのだ。
「僕たち付き合ってみようか」
 一瞬、驚いたように目を大きく見開いた明日香の表情を僕は可愛いと思った。
「お兄ちゃん、それってどういう意味」
「どういうってそのままの意味だよ。っていうか僕に告白してきたのはおまえの方だろ
う」
 次の瞬間、僕は明日香に飛びつかれ、ソファの背もたれに押し付けられた。
「だめだと思ってたのに・・・・・・絶対に断られるって諦めてたのに」
「・・・・・・・泣くなよ」
「嬉しいからいいの。お兄ちゃん大好きだよ」
 僕も明日香の体に手を廻して彼女を抱き寄せた。そのとき一瞬だけ記憶に残っていた幼
い奈緒の声が頭の中で響いた。
『お兄ちゃん大好き』
 夜半過ぎに雪は雨に変わっていたようだ。結局、明日香の望みどおり朝の景色が一面雪
景色となることはなかったのだ。その晩、僕と明日香は深夜までソファで寄り添っていた。
初めて心が通じ合った直後の甘い会話や甘い沈黙は僕たちの間には起こらなかった。アン
チクライマックスもいいところだけど、僕と明日香が恋人同士になっても今までの関係や
お互いに対する想いが劇的に変化することはなかったようだった。
 僕が明日香を受け入れてたたとき、こいつは涙を浮べながら僕に抱きついてきた。僕も
そのときは感極まって明日香を抱き寄せたのだけど、しばらくしてお互いの気持ちが落ち
着いてくると、初めて彼女が出来たときのようなどきどきして興奮したような気持ちはす
ぐにおさまっていった。そして残ったのは限りなく落ち着いて居心地のいい時間だった。
 思うに僕と明日香の関係は長年の仲違いを解消して、明日香が僕のいい妹になると宣言
したときの方がはるかにドラスティックな変化を迎えていたのだと思う。結局明日香の気
持ちに応えた僕だけど、付き合うようになってもその前までの彼女との関係とあまり変化
がないような気がする。多分それは明日香も同じように感じていたんじゃないかと思う。
 僕が真実を知りフラッシュバックを起こすようになってから明日香は常に僕に寄り添っ
ていてくれた。改めて付き合い出したとはいえこれ以上べったりするのも難しい。そうい
わけで深夜まで抱き合いながら寄り添っていた僕たちの会話は今までとあまり変わらなか
った。ただ、お互いが恋人同士になったことを両親や玲子叔母さんに話すタイミングとか
を少し真面目に話したことくらいが今までと違った点だ。
 その会話も寄り添いあった恋人同士が近い距離で囁きあっているわりにはきわめて事務
的な会話といってもよかった。
「まあ急ぐことないよ」
 明日香が僕の肩に自分の顔をちょこんと乗せながら言った。
「でもいつかは言わないとね」
「多分、あたしがお兄ちゃんのことを好きなのはもうパパやママにもばれてるし」
「そうなの」
「うん。ママには前からけしかけられるようなことも言われていたしね」
 その話は叔母さんからも聞いていた。母さんは僕と明日香が結ばれることを密かに期待
していたのだという。そうしていつまでも家族四人で暮らしていくことを望んでいたらし
い。
「それに確実に叔母さんにはばれてるし」
「そらそうだ。叔母さんがいる前でおまえは告白したんだから」
「叔母さんには隠し事したくなかったし」
 明日香が言った。
160:
「本当にそれだけなんだろうな」
 僕は明日香に念を押した。
「正直に言うと少しは叔母さんを牽制しておこうとは思ったけどね」
「何度も言うけど、たとえ血がつながっていないとしても自分の叔母だと思ってきた人に
恋するなんてことはありえないよ」
「うん。今ならお兄ちゃんのこと信じてあげる」
 明日香が言った。
「やっとか。まあわかってくれたのならいいけど」
「でもお兄ちゃんにその気がなくても、叔母さんはお兄ちゃんのことを好きかも知れない
よ」
「まだそんなこと言ってるの」
「玲子叔母さんのことはあたしの方がよく知ってるもん」
「それは否定しなけど。だからと言ってさあ」
「叔母さんは多分昔からパパのことが好きだったと思うんだ。でもその気持ちを抑えてき たのね」
「何度も言うけどそのことだって想像にすぎないだろ」
「誰かを好きな気持ちを察するのに証拠なんてあるわけないじゃない」
 まあそれはそうかもしれないけど。
「でも僕は父さんじゃないぞ」
「パパを好きな気持ちがパパにそっくりなお兄ちゃんへの愛情に変わったんでしょ。それ
にお兄ちゃんにとっては叔母さんはママ代わりみたいなものでしょ? そして叔母さんに
とってはお兄ちゃんは血の繋がっていない息子のような存在だったし。その叔母さんの母
性がいつのまにか異性への愛情に変わったんだよ、きっと」
「それも全然根拠のない思い込みじゃん」
「女の勘ですよ」
 明日香は笑った。いったいどこまで本気で言っているのだろう。
「まあ常識的に考えれば世間的にも成就する恋じゃないし。叔母さんだってそんなことは
わかっていると思うけどね」
 明日香の言うことが本当だとしたらそれは僕にとっては非常に落ち着かない気分にさせ
られる話だった。
「だからお兄ちゃんが玲子叔母さんに告ったり迫ったりしなければ、叔母さんの中ではそ
れは秘めた恋で終わるよ」
「そんなことするか」
「うん」
 明日香はそこで嬉しそうに笑った。「そこは信用してるよ。お兄ちゃんもあたしのこと
が好きだってようやく気がついてくれたみたいだしね」
 少なくともそこを信じてくれただけでもよしとしないといけないようだった。
 それからしばらくは僕たちは黙ったまま寄り添っていた。居心地は悪くない。お互いに
長年身近にいたせいか、こういう時間も全く気まずくはなかった。
「そう言えばさ」
 明日香が僕の手を両手で包んで撫でるようにしながら言った。
「うん」
「お兄ちゃんて妹属性ってある?」
「は?」
 僕の趣味はアニメや漫画がゲームだったから妹属性とかと言われればすぐにピンときた
けど、これまでそういう系統に全く興味を示さなかった明日香がよくそんな言葉を知って
いたものだ。
161:
「何でそんなこと聞くの」
「いや。お兄ちゃんって去年まではあたしのこと本当の妹だと思ってたわけじゃん」
「まあね」
「何て呼ぼうかなって」
「はい?」
「あたしたち結ばれたわけだけど、お兄ちゃんが妹と結ばれたことに萌えているのならお
兄ちゃんの趣味にあわせてこれまでどおり、お兄ちゃんって呼んであげようかなと」
「・・・・・・妹だと思ってたら僕がおまえと付き合うわけないだろ」
 一瞬、本当の妹である奈緒の顔が目に浮かんだ。
「そう? じゃあ奈緒人って呼んでいい?」
 確かに明日香にお兄ちゃんて呼ばれることには違和感はなかった。でも僕が実の兄貴で
あることを知った奈緒は自然に僕のことをナオトさんではなくお兄ちゃんと呼んだのだ。
 これからは奈緒が妹で明日香は僕の彼女なのだ。
「そうしたかったら奈緒人って呼べば?」
「うーん」
 自分で提案しておきながら明日香は少し考えて赤くなった。僕の肩に自分の頭を預けな
がら。
「いきなり呼び捨てっていうのも違和感あるなあ」
「・・・・・・じゃあもう好きに呼べば」
「お兄ちゃんすねてるの? 可愛い」
 明日香が顔を起こして僕を覗き込んだ。
 僕たちはその晩随分遅くなってから結局僕の部屋のベッドで一緒に寝ることにした。こ
れまでも明日香が僕のベッドに潜り込んでくることがあったので、別にそれは敷居が高い
ことではなかったし。
 ただこれまでと違って明日香は最初から僕に密着して抱きついたので、僕は少し混乱し
た。変な気持ちがなかったといえば嘘になる。今までの兄妹としての仲直りからの延長上
で自然に付き合い出したような僕たちだったけど、正式に恋人同士になってから一緒に寝
るのは初めてだった。長年一緒に連れ添った夫婦みたいに、こいつとの間には新たな発見
はないと思っていたのだけど一緒にベッドに入って抱き付かれるとこれまで明日香に対し
ては感じなかったような感覚が湧き上がってきた。
 ここは自制すべきところだった。飯田に襲われかかった明日香に対してそういうことを
求めるわけにはいかない。でも体の反応の方は素直だったので僕は明日香がすやすやと寝
息を立てた後もしばらくは天井を見上げて自分の興奮を収めようと無駄な努力を重ねてい
たのだ。それでもいつのまにか僕は寝入ってしまったようだった。
「奈緒人君起きてよ」
 僕が目を覚ますとカーテンを閉め忘れた外の景色が目に入った。雪は小雨に変わってい
るようだった。僕は隣で横になっている明日香の柔らかな肢体を再び意識しながら目を覚
ました。
「・・・・・・何で君なの?」
 結局、明日香は僕のことをお兄ちゃんでもなく呼び捨てでもなく奈緒人君と呼ぶことに
決めたようだ。
「だって呼び捨てって照れくさいじゃん」
 奈緒人君だって呼ばれる方にしてみれば十分に照れくさい。
「・・・・・・なんでお兄ちゃんが赤くなるのよ」
 思わずお兄ちゃんと呼びかけてきた明日香の顔も真っ赤でそれが少しだけおかしかった。
「お兄ちゃんのほうが呼びやすいならそれでもいいよ」
「いけない。奈緒人君だった」
 明日香が笑った。
162:
「まだ十時前だけどもう起きる?」
 今週いっぱいは明日香は医師から自宅療養を指示されている。その間は僕も学校を休む
つもりだったから特に早く起きる必要はなかった。特に昨日は夜更かししていたのだし。
自堕落にいつまでも寝ているつもりはないけど、明日香はまだ怪我だって癒えていないの
だから、何も急いでベッドから出なくてもいい。
「誰か来たみたい」
 明日香が僕を覗き込んで言った。
「聞こえなかった? さっきチャイムが鳴ってた」
 僕は起き上がった。特に気が付かなかったと言おうとしたとき再びチャイムが響いた。
「どうする?」
「とりあえず見て来る。おまえはこのまま寝てろよ」
「うん」
 明日香は再び毛布を引き寄せた。
「はい」
 僕がリビングに降りてインターフォンを取ると女性の声がした。
「突然申し訳ありません。警察の者ですけど」
「・・・・・・はい」
 何となく用件は想像が付く。でもぼくはてっきり平井さんたちが来るものだと思ってい
たのだ。僕がドアを開けるとそこには私服姿の若い女性が二人立っていた。一人が僕に手
帳を見せた。
「明日香さんの具合が悪くなければ、三十分ほどですみますので事情をお伺いしたいんで
すけど」
 その人はそう言った。
「平井さんじゃないんですね」
 いきなり見知らぬ警官が現われたことに不信感を覚えた僕は聞いてみた。これが平井さ
んならまだわかる。両親にも僕にも一応は自己紹介してくれていたのだし。それなのにい
ったい約束もなしに見知らぬ警官を寄こすとはどういうことなのだろう。
 女の人は動じずに微笑んだ。
「性犯罪の被害者の方への聴取は女性警官がすることになっています。明日香さんへの聴
取はあたしたちがさせていただいた方がいいでしょう」
 女の警官は話を続けた。
「それに自分の上司を悪く言うようだけど、平井さんは高校生くらいの女の子の扱いには
慣れてませんしね」
 彼女は笑ってそう言った。
 確かにあの平井さんに明日香が事情聴取されるよりは、目の前で柔らかな微笑みを浮べ
ている女性の警官に事情聴取された方が明日香も緊張しないだろう。二人の女性警官は制
服も着ていないのでそういう意味でも明日香には答えやすいかもしれない。それにしても
この人が何気なく言った性犯罪という言葉は改めて明日香が被害を受けそうになった飯田
の凶行を否応なしに思い浮かべさせられた。明日香は僕との仲が進展して多少は気分転換
できたかもしれないけど、やはり明日香があのとき経験したことは中学生にとっては過酷
な出来事だったのだ。
「ちょっと妹の様子を見てきますから、少し待ってもらえますか」
 僕は言った。明日香に心の準備ができているかを確認しないで勝手にこの人たちを家に
入れるわけにはいかない。
「あら。あなたは明日香さんのお兄さんなのね」
「はい。ちょっとだけ待ってください」
「ごゆっくりどうぞ。明日香さんの気が進まないならまた明日とかに出直してもいいの
よ」
 私服の婦警さんが気を遣ったように言ってくれた。
163:
 僕は自分の部屋の戻って毛布を被っている明日香に声をかけた。
「明日香?」
「誰だった?」
 毛布から顔だけちょこんと出した明日香が聞いた。
「それが・・・・・・警察の人なんだ。おまえから事情を聞きたいって」
 明日香の顔が一瞬曇った。でもすぐに明日香は気を取り直したようだった。
「そう。早く済ましちゃった方がいいんだろうね」
 明日香が殊勝に微笑んだ。
「気を遣って女性の警官が来てくれてるし三十分くらいで終るって」
「そうか」
 明日香が起き上がった。
「じゃあ着替えるね」
「リビングで待っていてもらうな」
「うん。お兄ちゃん?」
 僕は部屋のドアのところで立ち止まった。
「一緒にいてくれる?」
「もちろん」
「お兄ちゃん」
 明日香は僕のことを奈緒人君と呼ぶことなんて忘れてしまったみたいだ。
「どうした」
「・・・・・・キスして」
 明日香が目を閉じた。僕から明日香にキスするのはこれが初めてだった。
 警察の人たちがそれでも一生懸命に明日香に微笑みかけ、できるだけ明日香を刺激しな
いようにしながら事情聴取を終えて引き上げていった後、明日香は大きく息を吐いてソフ
ァに横になった。
「痛っ」
 明日香は顔をしかめて言った。どうやら傷になっているところをソファにぶつけたらし
い。
「大丈夫?」
 明日香は体をもぞもぞと動かしてようやく具合のいい位置を見つけたらしかった。
「平気。ちょっとぶつけただけだから」
 ソファに居心地良さそうに横になると明日香は再び大きくため息をついた。
「やっと終ったのね」
「うん。もうおまえから話を聞くことはないでしょうって言ってたし」
「自業自得なんだから図々しいかもしれないけど。あたし、もうあいつらとは関りになり
たくない」
 明日香が言った。
 警察の女の人たちはあの晩に起きた出来事を優しく同情しながらも、明日香の記憶に残
っていることは一欠けらも取りこぼさずに聞き取っていった。今日家に来た警官は性犯罪
の被害者の聞き取りは女性警官の方が当たることになっていると言っていた。自分の上司
の平井さんは若い女の子の扱いには慣れていないとも。その言葉に嘘はないだろうけど、
彼女の聞き取りだって笑顔やていねいな口調を取り去ってしまえば容赦のないものだった
と言える。これでは明日香が再び言葉と記憶のうえで再びレイプされているようなものだ。
164:
 何度か僕は明日香の手を握りながら女性の警官の尋問をとどめようとした。そのたびに
警官は柔らかい口調で謝りながらも知りたいことを知ろうとする執念を諦めはしなかった。
そして明日香は顔色も変えずに淡々とその夜自分に起きたことを話し続けた。
 そうして飯田に押し倒され縛られて服を破かれたあたりで、明日香の話に池山が登場し
た。この間まで明日香の彼氏だった池山のことを明日香は庇うような説明をした。どうい
うわけか明日香を庇った池山の行為には警官にはあまり関心がないようで、彼女は飯田と
池山の会話の内容を覚えている限り全て話すように明日香に求めたのだけど、女性警官に
とってはその内容は期待はずれだったらしい。でも、縛られて身の危険を感じていた明日
香が二人のやり取りを逐一覚えていることなんて不可能だったろう。
「まあ仕方ないですね。明日香ちゃんだってそれどころじゃなかっただろうし」
 残念そうに彼女が言った。
「ごめんなさい」
 明日香は一応警官に謝ったけど本気で悪いとは思っていないらしかった。何と言っても
明日香は参考人かもしれないけどそれ以前に被害者なのだ。
「じゃあこれで終ります。明日香さんご協力ありがとう。飯田と池山がどうなったかは平
井警部がお知らせにあがると思いますから」
 ソファに座った明日香がほっとしたように少しだけ力を抜いた。明日香から事情聴取し
た警官ともう一人の何も喋らずひたすらメモを取っていた警官が立ち上がった。
「じゃあお邪魔しました。もう明日香さんにお話を伺うことはないからね」
 僕と明日香も立ち上がり二人を玄関まで送った。明日香は相変わらず僕の手を離そうと
しなかった。
「ずいぶん仲のいい兄妹なのね。まるで恋人同士みたい」
 今までずっと黙ったまま喋らなかった方の警官が言った。「うらやましいわ」
「二人きりの兄妹なんです」
 微塵も動揺せずに明日香がしれっと答えた。
「これで全部おしまい。もうあいつらとは二度と関りになりたくない」
 警官たちを見送ってから具合よくソファに横になった明日香が繰り返した。
 ほっとしたことに警察の人たちはドラッグのことや女帝のことは話に出さなかった。単
純にあの女性警官たちには知らされていないのか、それとも捜査上の機密なので匂わすこ
とすらご法度なのか。平井さんが僕にそのことを話したときだって加山さんは顔色を変え
て阻止しようとしたくらいなのだし。
「お兄ちゃん、隣に来て」
 明日香が僕に言った。
 僕は明日香の横たわった体の顔の隣のあたりに腰かけた。明日香が片手を上げて僕の腕
に触れた。
「ごめんね」
 明日香がぽつんと言った。
「何が?」
「あたしが昔バカやってたからこんなことになっちゃったんだよね」
 さっきまで顔色一つ変えず気丈に警官の質問に答えていた明日香は今では曇った表情を
見せている。
「おまえのせいじゃない。悪いのは飯田だろ」
「あたしはもうお兄ちゃんに迷惑かけたりお兄ちゃんが恥かしいと思うような友だちとは
二度と付き合わないからね」
「うん」
「・・・・・・奈緒や有希みたいに誰が見てもお兄ちゃんにとって恥かしくない女の子になるか
ら」
 奈緒はそうかもしれないけど有希は少し違う気がする。でもそれは今明日香に言うこと
じゃない。
「別に今だって恥かしくなんかないだろ」
165:
「優しくしなくていいよ。それよりこんなことしてたらお兄ちゃんに嫌われちゃう方が恐
い。せっかくお兄ちゃんの彼女になれたのに」
 明日香が言った。
「こんなことで嫌いになんてなるか」
「だって・・・・・・お兄ちゃん、僕たち付き合ってみようかって言った」
 明日香がいったい何を言っているのか僕には理解できなかった。
「言ったけど・・・・・・嫌だった?」
「ううん、嬉しかった」
 明日香が話を続けた。
「でも、どうせならおまえのことが好きだとか、付き合ってみようかじゃなくて僕と付き
合ってくれって言われたかったな。付き合ってみようかじゃお試しみたいで不安じゃん」
「考えすぎだよ。お試しとかそんなこと考えて言ったわけじゃない」
「ごめん、そうだよね。さっきまでは何の不安も感じなかったけど、警察の人の質問に答
えていたら不安になっちゃった。あたしってお兄ちゃんにふさわしくないのかもって」
 明日香が苦労してソファから身を起こして僕を見た。
「確かにあたしは池山に助けられたし飯田たちとも遊んでたけど、もう二度とそんなこと
はしないの」
「うん」
「だから・・・・・・お兄ちゃん、ずっとあたしと一緒にいて。パパとママとあたしとお兄ちゃ
んでみんなでずっと一緒に暮らそうよ。あたしのこと捨てないで。もう誰もいらないよ。
お兄ちゃんがずっとあたしの彼氏でいてくれたら」
 僕さえいたら誰もいらないと一番最初に言ってくれたのは、まだ幼かった奈緒だった。
今改めてそれと同じ言葉を明日香から聞かされた僕は、自分では決断したつもりだったこ
とを自分の中では曖昧に済ませていたことに気がついた。
 わかってはいたことだ。今まで曖昧にして突き詰めて考えなかっただけで。
 僕は明日香の顔を見たかったけど、俯いて涙を流しているので目を合わせることもでき
ない。少し乱暴だったけど、僕は明日香の顎に手をかけて少しだけ手に力を込めた。たい
した抵抗もなしに明日香が顔を上げた。僕は明日香の目を見た。
「そうだね、明日香。ずっと一緒にいようか」
 実の妹にはこんな言葉はかけられない。明日香は妹であって妹ではない。だから僕は奈
緒にはこの先一生言ってはいけないことだって、明日香には言える。
 もう手を離しても明日香は俯かなかった。それどころか今までで一番激しく彼女が僕に
抱きついてきた。僕もそんな明日香に応え、両手を明日香の体に回した
「・・・・・・あたしもう大丈夫だよ」
 しばらく抱き合っていたあと明日香が言った。
「え」
「怪我なんて大したことし。初めてはお兄ちゃんがいい」
「おまえ何言ってるの」
「ずっと一緒にって言うお兄ちゃんの言葉に嘘がないないなら、お兄ちゃんの部屋に行こ
う。最初はあそこがいい」
 明日香が立ち上がって涙を拭いて僕を見た。
「リビングの電気消しておいて。テレビも」
 僕は戸惑うばかりだった。
「シャワー浴びてくる。今日もパパとママは帰ってこないから。お兄ちゃんは部屋に行っ
て待ってて」
 明日香がバスルームの方に歩いて行った。ちょうどお昼ごろの時間だった。外の雨は激
しさを増し雨音がはっきりとリビングまで届いている。
166:
 決断するということはこういうことなのだろう。告白してもなおしばらくは急激な展開
を望まない僕の卑怯な心境が、今いきなり試されているのだ。半ば躊躇しいながらもどう
いうわけか僕の体と感情はこれから起こることに準備を始めていたようだった。明日香の
誘惑に反応している下半身を持て余しながら、僕が立ち上がって夢遊病者のように二階に
上がろうとしたとき、再びチャイムが鳴ってインターホンから玲子叔母さんの声が聞こえ
た。
「おーい。いないのかな、まだ寝てるんじゃないだろうな」
 残念なようなほっとしたような心境だったけど、とりあえず僕は玄関に行って鍵を開け
叔母さんを家に招じ入れた。
「寒かったあ。びしょ濡れだよ」
 叔母さんがそう言いながら家に上がって来た。
「叔母さん車じゃなかったの」
 僕は家に上がるといつものようにさっさとリビングに向かう叔母さんの後に続きながら
聞いた。
「打ち合わせ先が駐車できないんでさ。傘なんか全然役に立たないしびしょ濡れになっち
ゃったよ」
「そんなに降ってたんだ」
「うん。いきなり雨が強くなってさ。こんなんじゃ社に戻れないからここで雨宿りしよう
かと思ってさ」
 叔母さんが高そうな、でも雨にぐっしょり濡れたコートとスーツの上着を一度に脱いだ。
リビングのフローリングに雨滴が落ちる。白いブラウスとスカートだけの姿になった叔母
さんは、何かぶつぶつ言いながら濡れた髪を拭こうと無駄な努力をしていた。
 薄い生地の濡れたブラウスから叔母さんの白い肌が透けて見えた。そのとき僕は本当に
叔母さんから目を逸らそうとしたのだった。でもちょうど明日香の誘いに体が反応してい
たタイミングで叔母さんが現われたということもあった。僕は無防備な仕草で髪を気にし
ている叔母さんの全身から目が離せなかった。
 濡れて肌にくっついている感じの白いブラウス越しに、黒いブラジャーが浮かんでいる。
胸だけではなく上半身全体がほの白く浮かび上がっている。これまで奈緒や明日香よりは
るかに大人だと思っていたし、そういう目で見たことのなかった叔母さんの体は思ってい
たより華奢で細身だった。僕は思わず明日香の言葉を意識して顔が赤くなるのを感じた。
明日香の言うように叔母さんの僕に対する母性が異性への愛情に転化しているというのは
本当なのだろうか。
「・・・・・・バスタオル持って来ようか」
 僕はそう言ったけど、このときは玲子叔母さんの体から目が離せないままだった。
「ああ悪い。でもそれよかシャワー浴びようかな」
 そう言って僕を見た叔母さんが僕の視線に気がついた。そのとき一瞬僕と叔母さんの視
線が交錯した。
「・・・・・・あ」
 叔母さんは狼狽したように小さく呟いて、床から拾い上げた服を胸に抱えて僕の視線か
ら自分の肢体を隠す仕草をした。
「叔母さんごめん。って言うか見てないから」
 今まで玲子叔母さんの上半身をガン見していた僕が言っても全然説得力がなかったろう。
「見るって何を。奈緒人、あんた何言ってるの・・・・・・」
 叔母さんがいつもと違って小さな声で呟いた。その濡れた顔が赤くなったのは僕の思い
込みのせいなのだろうか。
167:
「包帯だらけでシャワー浴びられないんだけど」
 そのとき明日香がリビングに戻って来て言った。僕はその瞬間救われた思いだった。
「そういやそうか。って、おまえその格好」
「服を脱いでいる途中で気がついたんだもん。今日はシャワーもお風呂も無理だわ。お兄
ちゃん、体拭いてくれる?」
「あんた、何て格好してるのよ」
 叔母さんが明日香の半裸を見て言った。明日香もそんな叔母さんの姿を驚いたように見
た。
「玲子叔母さん、いつ来たの? っていうか叔母さんこそ何でそんな格好してるのよ」
 奇妙な状況だった。肌を露出しているとしか言いようのない叔母と姪がお互いに驚いた
ように見詰め合っている。僕はこの場をどう収めればいいのだろうか。
「お兄ちゃん」
 ・・・・・・シャワーから戻って来た明日香はさっきまでの甘い口調を引っ込めて、並んで突
っ立っている僕と叔母さんを不機嫌そうに交互に睨んだ。
 結局明日香は不貞腐れて自分の部屋にこもってしまった。叔母さんも濡れた服を抱えて、
タクシーを捕まえるからとだけ小さな声で言って家から出て行ってしまった。
 何がなんだかわからないけど、今僕はリビングに一人取り残されていた。明日香には少
し可愛そうだったかもしれない。初めて結ばれようとしているそのとき、悪気はないとは
いえ突然の叔母さんの来訪に邪魔されたのだから。タイミングもまずかった。僕には明日
香が心配しているような叔母さんに対する恋愛感情なんてないし、叔母さんだってきっと
そうだ。
 でも。
 確かに叔母さんの濡れた体をガン見したのはまずかった。叔母さんも気にしていたよう
だし、その微妙な空気は明日香もすぐに気がついたようだった。僕が叔母さんの体を女性
として意識して眺めたのはこれが初めてだった。濡れたブラウスから覗いていた叔母さん
の肌が僕の脳裏に浮かんだ。僕だって男だからいくら年上の叔母さんとはいえその肢体に
目を奪われることはあっても不思議はない。僕はそう自己弁護した。でもそれは明日香に
対する裏切りでも浮気でも何でもない。
 今日は僕と明日香が一生一緒にいようと誓い合った日だ。一度決めたことなのだから最
後までその決心は貫こうと僕は思った。とりあえず明日香の誤解を解いて仲直りしよう。
ちゃんと話せばきっとあいつだってわかってくれるはずだ。それに明日香は中学生の女の
子としては考えられないような辛い目にあったばかりだった。多少は僕の方から譲歩して
あげる場合なのは間違いない。僕はそう決心するとリビングを後にして二階に続く階段を
上っていった。明日香の部屋はドアが閉まっていて中からは何の物音もしない。僕は思い
きってそのドアをノックした。
「明日香?」
 返事はない。
「明日香・・・・・・入るよ」
 ドアを開けて部屋に入ると明日香はベッドに入って頭から毛布を被っていた。相変わら
ず返事はしてくれない。
「叔母さん、帰ったよ」
 とりあえず何を喋ればいいかわからず僕はそう言った。でも叔母さんの名前を出したの
は失敗だったのかもしれない。明日香は僕を振り向きもせずうつ伏せ気味に毛布の下に潜
り込んでいるままだ。
「・・・・・・」
「風呂に入れなかったんだろ。体拭いてやろうか?」
「なあ、返事してくれよ。僕は明日香の彼氏なんでしょ? 何で返事してくれないの」
 彼氏という言葉に反応したのか、ようやく明日香が毛布の下から顔を覗かせた。
「・・・・・・んで」
 ようやく明日香が低い声で返事した。
168:
「え」
「・・・・・・何であんな」
 明日香がようやく僕と目を合わせてくれた。
「何でお兄ちゃんはあんな目で叔母さんのことを見つめていたの? 何で叔母さんは潤ん
だ目でお兄ちゃんのこと見つめてたの」
「何を考えているのかわからないけどそれは誤解だから」
 僕は言った。ここは正直に話す方がいい。
「確かに叔母さんが、その・・・・・・ああいう格好だったんで思わず見入っちゃったかもしれ
ないけど、別に叔母さんに特別な感情なんかないって。叔母さんだってそうだよ」
「・・・・・・そういう雰囲気には見えなかった。何か今にもお互いに告白しあいそうに見えた
んだけど」
「ないよ。僕だって男だからそれは叔母さんの体を見つめちゃったかもしれない。叔母さ
ん綺麗だし」
 それを聞いて明日香が辛そうに僕から目を逸らした。
「でも恋愛感情とかじゃないんだ。今の僕には好きな女の子は一人しかいないんだし」
「どういうこと」
「もう忘れちゃった? 僕はおまえとずっと一緒にいようって決めたばかりなんだけど」
 再び明日香が僕の方に視線を戻した。どうやら少しだけ明日香は僕の言うことを聞く気
になったようだった。
「明日香、好きだよ」
 僕は真顔で言った。これが本音だったことは間違いない。どんなに僕が奈緒に惹かれて
いても奈緒は僕の妹だった。付き合うことも、ずっと一緒に二人で暮らすこともできない。
結婚して子どもを作ることもできない。何よりも再会した大好きな兄貴として僕を慕って
くれている彼女に対して、僕の正直な想いを話すことすら今では禁忌なのだ。
 それに玲子叔母さんのことに関して言えば、それは明日香の完全な誤解だった。たとえ
僕が不実な恋人だったとしても明日香が嫉妬すべきは叔母さんではなくて奈緒の方なのだ。
でもそれは僕が言うことじゃない。僕はその考えを胸の奥にしまった。
「・・・・・・わかった」
 ようやく明日香がベッドから上半身を起こして言ってくれた。毛布から這い出した明日
香は寒いのに白いタンクトップの短いシャツだけを身にまとっていた。シャツの隙間から
覗く肌に巻かれた包帯が痛々しい。
「信じるよ。あたしだってお兄ちゃんと喧嘩するのは嫌だし」
「・・・・・・明日香」
「ぎゅっとしてお兄ちゃん」
 突然明日香の態度が柔らかになった。僕は明日香の甘い声に従ったけど、言葉どおり抱
きしめたらきっと明日香の傷が痛むだろう。だから僕はベッドの端に腰かけてそっと彼女
の体に手を廻した。
「もっと強くしてくれてもいいのに」
 明日香が僕の首に両手を回しながら言った。この先は明日香の指示を待っていたのでは
駄目なのだろう。僕は自分から明日香にキスした。
「疑ってごめんね」
 明日香が言った。
「叔母さんの体を見つめちゃったのは僕の方だしな。誤解させて悪かったよ」
「もういい。お兄ちゃんの言うことなら信じるよ」
 僕の顔の近いところで彼女の声が響いた。
「お兄ちゃんの気持ちはわかったから、あたしの言うことも聞いて。お兄ちゃんはうざい
と思うかもしれないけど、やっぱりお兄ちゃんが奈緒とか叔母さんのことを話す口調とか
表情とか態度とかって、あたしにとってはすごく不安なの」
「そんなつもりはなかったんだ。でも心配させたならごめん」
169:
 少なくとも叔母さんに関しては明日香の邪推なのだけど、今日は明日香に譲歩しようと
決めたばかりだったから素直に僕は謝った。明日香は僕の首に回した手に力を込めた。
「お兄ちゃんが本気であたしを選んでくれたなら」
「うん」
 密着している明日香の体から女の子らしいいい匂いがする。
「あたし、奈緒にも有希にも玲子叔母さんにも絶対お兄ちゃんのこと譲る気はないから」
「うん・・・・・・僕だってもう決めたんだしそんな心配いらないよ」
「でも不安だから」
 明日香が真面目な顔になって言った。「だからあたしたちが恋人同士だってこと、みん
なにカミングアウトしよう」
「・・・・・・僕は別にいいけど。でもカミングアウトって大袈裟だな」
「だってみんなあたしたちのこと血の繋がった兄妹だ思っているわけじゃない。だからカ
ミングアウトしよう」
「うん。それでいいよ」
 明日香の言うとおりだ。臆病な僕は曖昧なままの関係を望んでいたのだけど、それでは
いけないと思って明日香の気持ちに応えたのだ。だから別に明日香の提案は反対するよう
なことではない。ただ、周囲の反応を考えると多少は気が重いのも事実だった。
「今度パパとママが帰ってきたら真っ先に言おうよ。あとこれはお兄ちゃんに任せるけど、
奈緒ちゃんにもちゃんと話してね」
 今まで明日香は奈緒のことを呼び捨てしていたのだけど、このとき彼女は奈緒ちゃんと
言った。明日香もきっと彼氏である僕の妹として奈緒のことを認識しなおしていたのだろ
う。
「最初に玲子叔母さんに言って」
 明日香が言った。「あたしとお兄ちゃんは恋人同士の間柄になったって」
「わかった」
「メールでいいよ。叔母さんが次に家に来るのを待っていたらいつになるかわからない
し」
「うん」
「あと、有希にはあたしが直接謝るから」
 明日香がさらりと恐ろしいことを言った。明日香は有希のことを富士峰のピアノが上手
な少女に過ぎないとしか認識していないのだから無理はないのだけれど、それは非常に危
険なことかもしれない。
「ちょっと待て」
 明日香が怪訝そうに僕の方を見た。
「両親には話するし、奈緒にも話す。叔母さんにも今この場でメールしてもいい」
「うん」
「何なら渋沢と志村さんにも報告するよ」
「・・・・・・嬉しい」
 明日香が赤くなって僕に答えた。
「でも有希さんには僕から話す」
「何で? 有希に悪いことしちゃったのはあたしのせいだよ?」
「それでも僕から話した方が言いと思う。おまえはもう辛いことは何にもしなくていいよ。
全部僕が被ってやるから」
 女帝のことを話せない以上、こういう大袈裟な言葉で明日香を誤魔化すしかない。それ
でも明日香は僕の言ったことに喜んだようだった。
「幸せだな。本当に誰かが無条件であたしを守ってくれる日が来るなんてなんて嘘みたい。
しかもそれは大好きなお兄ちゃんだなんて」
 少しだけ罪の意識を感じたけどそれを誤魔化すように僕は明日香の体を抱きしめた。明
日香の傷は痛んだのかもしれないけど、彼女はそのことに抗議しなかった。
170:
「明日にでも叔母さんにメールするよ。とりあえず話があるからっていう内容でいい?」
「・・・・・・まあいいか。面と向かってちゃんと言った方がいいもんね」
 明日香が笑って言ってくれた。ようやく明日香の機嫌が元に戻ったようだった。
from :奈緒人
sub  :無題
本文『叔母さんさっきはごめんなさい。叔母さんに大切な話があるんだ。叔母さんは仕事
で忙しいと思うから、もし時間ができたら僕に会ってほしい。突然変なメールしてごめん。
でも僕たちにとっては大事なことだから。じゃあ、玲子叔母さん。会えるようになったら
メールか電話して』
 そのとき僕と明日香は僕が叔母さんに送ったメールのことで少し揉めているところだっ
た。カミングアウトしたいという明日香の希望に沿ってとりあえず僕は玲子叔母さんに大
切な用事があるというメールをした。それを送信した後で明日香がそれを見たがった。別
に隠すようなものでもないので僕は叔母さんに送ったメールを明日香に見せたのだ。
 いつのまにか機嫌を直していた明日香は僕に身を預けるようにして、僕が差し出した携
帯のディスプレイを眺めた。
「あのさあ」
 低い声で明日香が僕に言った。
「うん。とりあえずこれで僕たちが叔母さんに大事な話があることは伝わっただろう」
 僕は明日香に言った。僕はさっそくこいつの希望に応えたのだ。
「お兄ちゃんさ。もしかして自分のことが好きな玲子叔母さんの気持ちを弄んで楽しんで
ない?」
「何のこと?」
 ずいぶんとひどい言われ方だけど、このときの僕には明日香の言ってる言葉の意味がわ
からなかった。
「何よこれ」
 明日香が僕のメールを読み上げた。わざわざ声に出されたことでやっと僕にも明日香の
言いたいことが理解できた。
『叔母さんさっきはごめんなさい。叔母さんに大切な話があるんだ。叔母さんは仕事で忙
しいと思うから、もし時間ができたら僕に会ってほしい。突然変なメールしてごめん。で
も僕たちにとっては大事なことだから。じゃあ、玲子叔母さん。会えるようになったら
メールか電話して』
「この僕たちって誰のことを言ってるの?」
「そら僕とおまえのこと以外にないだろ」
 僕はとりあえずそう答えたけど明日香の怒っている理由も何となくわかる。
「こんなメールを受け取ったら玲子叔母さんがどう考えると思うのよ。『突然変なメール
して』とか『大切な話がある』とか『僕たちにとって大事なこと』とか叔母さんに言うな
んて。いったい何考えてるの」
「いや」
 本当に明日香に言われてメールをしたということ以外は何も考えてはいなかったのだ。
171:
 叔母さんは自分とお兄ちゃんにとって大切な話があるって受け取ったでしょうね」
 明日香が言った。「かわいそうに叔母さん、お兄ちゃんが叔母さんに告白しようとして
いるって思い込んでどきどきしているかもよ」
 詳細は文面では伝えきれないと思ったので、メールでは叔母さんに会いたいということ
だけを切実に伝えるだけにとどめようとしていただけだったのだけど、明日香に言われて
みれば微妙な内容なのかもしれない。僕たちという言葉だって僕と明日香のことを表現し
たつもりだったけど、よく見直せばメールの本文には明日香の名前は一回も出していない。
だからそれが僕と玲子叔母さんのことを指しているのだと叔母さんが考えても不思議はな
かった。
 明日香の言うようにこのメールは叔母さんに対しては誤解を生むかもしれない。そう思
って自分の出したメールを改めて読み直すとこれではまるで僕が玲子叔母さんに愛の告白
しようとしているかのようにも受け取れる。でもそれも叔母さんが僕を男として意識しい
るという仮定が正しければの話に過ぎない。
「まずかったかな」
 僕は少し気弱になって明日香の方を見た。
「これって、完全に告白のために女の子を呼び出すメールだよね」
 明日香が呆れたように言った。
「いやそんなつもりはないんだけど」
 僕はおどおどと明日香の顔をうかがいながら言い訳した。「女の子にメールすることな
んて慣れてないからさ。ちょっと誤解されるような言い回しになったかもしれないけど」
「女の子にメールって・・・・・・。自分の叔母さんにメールしただけじゃないの? それとも
お兄ちゃんの中では玲子叔母さんって女の子扱いになっているわけ?」
 まずい。再び僕は明日香の地雷を踏んだようだ。そんなつもりは全くなかったのだけど、
せっかく僕が叔母さんの体をガン見していたことを許してくれた明日香の憤りに再び火を
つけてしまったようだ。
「違うって。言葉尻を捉えるなよ。誤解を招く表現だったかもしれないけど、わざと書い
たわけじゃないぞ。それに叔母さんだっておまえが言っているような意味では受け取らな
いって。そもそも叔母さんが僕に好意を持っているなんて、全部おまえの妄想だろう」
「それならいけど。でも何で最初に叔母さんに謝っているの」
「それは・・・・・・叔母さんの体を見つめちゃったから」
「お兄ちゃんはそのことを叔母さんが気にしていると思ったから謝ったわけね」
「まあ、気が付いてはいたと思うし」
「お兄ちゃんの言うとおり叔母さんがお兄ちゃんのことを意識していないなら、わざわざ
こんなことを書く意味あるの」
 明日香が指摘した。僕にとって幸いなことに明日香は本気で僕を咎めているわけではな
いようだ。さっきの真面目な言い訳の効果があったのだろう。僕は本気で明日香とこの
先恋人同士でいようと思ったのだ。そして明日香もようやくそのことを信じてくれたみた
いだった。そうでなければこんなにあっさりと追求を止めてくれなかったろう。
「まあいいいけど。叔母さんにはちゃんと話してね」
「わかってる」
 明日香に嫌われていると思っていた時分には全く考えなかったことだけど、こういう仲
になってみると明日香は随分と嫉妬深い恋人のようだった。でもそのことは今の僕にはあ
まり気にならなかった。ちょっと前までの僕たちの関係を考えるとそれは不思議な感覚だ
ったけど決して不快ではない。
「信じているからね」
 明日香が機嫌を直したように僕に抱きついた。
「うん。叔母さんにも父さんたちにもちゃんと話すよ」
 僕も明日香を抱きしめた。慣れというのは恐いものかもしれない。もう僕には明日香の
体を抱くことに違和感がなくなってきていた。実の妹である奈緒を除けば明日香と僕はい
ろいろな意味で一番相性がいいのかもしれない。一緒にいて安心するとか気を遣わなくて
いいとかという意味では、ひょっとしたら明日香は僕にとって奈緒以上に隣にいるのが自
然な存在なのだろうか。
 そんなことを考えながら明日香の体を抱きしめて背中を撫でてやっているうちに、僕は
自分の腕の中の明日香が体を小刻みに揺らしていることに気が付いた。それも僕が明日香
の背中を撫でるごとに次第に大きくなっていくようだ。
172:
 僕は自分の頬に明日香の吐息を感じた。
「どうかした? 傷が痛むのか」
「お、お兄ちゃんのばか。変態」
 明日香は小さい声でそう言った。僕の体に回されている明日香の腕に力が込められた。
 それに気が付いて明日香の顔を見ると顔が真っ赤になっているし息も荒い。
「変態っておい」
「童貞、キモオタ」
 明日香の悪口には慣れていたけど、そのときの明日香の声は今までとは異なり甘いもの
だった。
「恋人同士になっても相変わらずおまえは口が悪いな」
 僕は苦笑して言った。でもこの方が明日香との距離感としては落ち着く。僕は少しだけ
笑ってしまいそうになった。こういうのが本当に幸せということなのかもしれないと僕は
はふと考えた。辛いことを思い出さないようにしたせいか今となっても不完全な過去の記
憶や、奈緒と兄妹の名乗りを上げることによって完治の方向には向かっていたようだけど、
油断するとすぐに発症するかもしれないPTSD。
 ろくなことがなかった僕の人生で初めてのやすらぎが訪れたのかもしれなかった。奈緒
と恋人同士になれたときもそう思ったのだけど、結局あの関係は安定した安寧の地ではな
かったのだ。僕はそういう感傷にふけって明日香を抱いていたのだけど明日香の様子は少
し変だった。
「お兄ちゃんの意地悪」
 自分の脚を僕の足に絡みつかせるようにしながら明日香が小さく言った。明日香の甘い
吐息が僕の耳をかすめた。そして僕の体も明日香に応えて反応しだした。
「もういじめないでよ、お兄ちゃん」
 明日香が悩ましい声で言った。
 僕はそのとき明日香を抱こうと思ったのだけど、お互いに抱き合っている姿勢から次に
はどうしたらいいのかよくわからなかった。服を脱がすのか。それとも服って明日香が自
分で脱ぐものなのか。それでもとりあえず下半身の言うとおりにすることにして、僕は明
日香の胸を触ってみた。考えるよりも行動をという決心は少なくともこのときの明日香に
対しては間違っていないようで、明日香は一瞬びくっとして体を跳ねるようにしたけど、
僕の手を拒否したりはしなかった。
 タイミング的には最悪だったけど、さっきまで明日香に見せていた携帯がマナーモード
になっていなかったせいで、明日香の胸を触りだしたそのときに着信音が鳴った。
こういうことに邪魔が入るのは二度目だった。
 再び邪魔された明日香は不機嫌そうな表情だったけど、こいつらしく僕に抱きついた姿
勢だけは維持していた。そのことが僕には照れくさかった。興奮していた僕は携帯を無視
しようとしたけど、思っていたより冷静だったらしい明日香はディスプレイを見て、僕の
腕から抜け出した。
 僕の腕から抜け出した明日香が勝手に僕の携帯を操作してメールを見ている。
「何で当たり前のように僕あてのメールを見てるんだよ」
 僕はまだ興奮の余韻を残しながら言った。
「やましいことがないならいいいでしょ・・・・・・これ、玲子叔母さんの返信だし」
 僕は明日香の手から携帯を奪い返すようにして叔母さんからのメールを読んだ。
from :玲子
sub  :Re:無題
本文『いつでもいいよ。てか大切な話って何だよ。メールじゃ駄目なの?』
『まあ、仕事の合間とかでいいなら時間は取れるよ。今週中にそっち方面に行くことがあ
るからそんときに電話するよ』
『じゃあおやすみ、奈緒人』
『あとあんた何であたしに謝っているの?』
173:
「ほら見ろ」
 僕はほっとして言った。「叔母さんは全然僕のことなんか気にしてないじゃないか」
「そうだねえ」
 明日香が疑り深そうに叔母さんからのメールを見た。「叔母さんはお兄ちゃんのことは
何とも思っていないのかな」
「だからそう言ったろ」
「そうなのかなあ・・・・・・て、え? お兄ちゃん」
 再び僕に抱き寄せられていきなり自分の胸を愛撫された明日香が戸惑ったように言った。
「続きしようか」
 正直に言うと僕の方も今では玲子叔母さんのメールどころではなかった。
「・・・・・・うん」
 明日香はもう僕にキモオタとか変態とか言わずに僕の手に自分の身を任せた。
 次の土曜日の午後、僕は明日香の了解をもらって奈緒をピアノ教室まで迎えに行った。
奈緒に僕が明日香と付き合い出したことを伝えるためということもあったけど、最後に話
したときに、奈緒からピアノ教室に迎えに来るように言われていたということもあった。
 平日、明日香に付き添って学校を休んでいる間、僕は何回か奈緒にメールしたり電話し
たりしたのだけどメールの方には返事がないし、何度もかけた電話の方は通じない。結局、
金曜日の夜になるまで奈緒からは何の連絡もなかった。
 それで僕はとりあえず土曜日は約束どおり奈緒を迎えに行くことに決めた。明日香は僕
が自分を置いて奈緒に会いに行くことには反対しなかった。奈緒への伝え方は僕に任せる
と言っていたということもあったかもしれないけど、体を重ねてからというものの、あれ
だけ嫉妬深かった明日香はもうあまり奈緒や玲子叔母さんに対しても嫉妬めいたことを口
にしなくなったのだった。
 その代わり明日香は今まで以上にいつも僕の側にいるようになった。
 これまでだって大概ベタベタしていた方だと思うけど、そんなものでは済まないくらい
に。極端な話トイレと風呂以外はいつも一緒にいる感じだ。その風呂だって昨日までは僕
が体を拭いていたのだったから、実質的には常に隣に明日香がいたことになる。
 心理学上、愛撫、慰め、保護の意識を持つとされる距離感である密接距離のままで。
 同時に明日香はやたら甲斐甲斐しくもなった。食事の用意から何から何までも。僕が休
んで家にいたのは明日香の世話を見るためだったからさすがにこれには困った。体調だっ
て完全に回復しているわけではないのだ。
「おまえは座ってろよ。食事なんか僕が作るから」
 僕は彼女にそう言ったのだけど明日香は妙に女っぽい表情ではにかむように笑って言っ
た。
「いいからお兄ちゃんこそ座ってて。こういうのは女の役目なんだから」
 こういう言葉を明日香の口から聞くとは思わなかったけど、それは決して不快な感じで
はなかった。
「でもおまえ体は・・・・・・」
「もう全然平気だよ。でも良くなったってママに言ったら学校に行かなきゃいけないし、
お兄ちゃんと一緒にいられないから」
「ちょっと・・・・・・包丁持ってるのに」
 明日香は文句を言いながらも後ろから抱きしめた僕の手を振り払わずに、包丁を置いて
振り向いた。
「続きはご飯食べた後にしよ?」
 結構長めのキスの後で明日香が顔を紅潮させながら上目遣いに言った。
174:
 出がけに明日香の行ってらっしゃいのキスが思わず長びいたこともあって、到着してそ
れほど待つことなく、ピアノ教室の建物から生徒たちが次々と出てきた。妹を迎えに来
ているんだから恥かしがることはないと思った僕は比較的入り口に近いところで奈緒が出
てくるのを待っていた。これだけ近ければ見落とす心配はない。
 このときの僕は全くの平常心というわけでもなかったけど、それほど緊張しているわけ
でもなかった。奈緒の兄貴だということを知られてしまった今では、僕に彼女ができたと
いうことを奈緒に話すことに対してはあまり抵抗感を感じないようになっていた。
 奈緒はあのとき僕が離れ離れになっていた兄貴であることを自然に受け入れた。初めて
の彼氏を失うことよりつらい別れをした後も、一筋に兄のことを忘れなかった奈緒なのだ
からそういうこともあるだろう。その後の奈緒は、僕と恋人同士であった頃よりも自然な
態度と言葉遣いで僕を慕ってくれた。
 むしろ悩んで混乱していたのは僕の方だった。奈緒が僕のことを兄であると認めてくれ
た事実にさえ嫉妬した挙句、自分の妹に欲情する気持まで持て余して。でもそれももう終
わりだった。今の僕には明日香しか見えていない。明日香の言うとおり僕と明日香は結ば
れる運命だったのかもしれない。大袈裟に聞こえるかもしれないけど、血の繋がっていな
い男女としてはお互い他の誰よりも長い間身近に暮らしてきた仲なのだ。行き違いや誤解
もあったけどそれを克服して結ばれた間柄のだから、僕はもう明日香を自分から手放す気
はなかった。明日香のいうとおりこのまま付き合って将来は結婚しよう。そして父さんと
母さんがいる家で共に過ごすのだ。子どもだってできるだろうし。
 そんな物思いに耽っていても目の方は奈緒が通り過ぎてしまわないか入り口の方を眺め
ていたのだけど、なかなか奈緒は出てこなかった。いつもより遅いなと思った僕が奈緒の
ことを見落としたんじゃないかと思って少し慌てだしたとき、見知った顔の少女が教室か
ら出てきた。その子は外に出るとすぐに僕のことに気が付いたようだった。
 それは有希だった。有希は慌てた様子もなくにっこり笑って僕の方に駆け寄ってきた。
「奈緒人さん、こんにちは」
「有希さん・・・・・・どうも」
 有希は全く最後に会ったときのことを気にしていない様子だ。
「もしかして奈緒ちゃんのお迎え?」
「うん」
 ここで嘘を言う理由はなかったから僕は正直にうなづいた。
「聞いてないんですか? 奈緒ちゃんは今週はずっとインフルエンザで自宅療養してます
よ。今日もピアノのレッスンは休んでるし」
 それこそ初耳だった。
「知らなかった」
「電話とかメールとかしてないの?」
「したけど返事がなくて」
 有希が少し真面目な顔になって僕に言った。
「奈緒人さん、これから少し時間あります?」
 このとき僕の脳裏に平井さんが口にした女帝と言う言葉が浮かんだ。
 駅前のファミレスは、以前僕と奈緒が初めて一緒に食事をしたときの場所だった。
僕たちはボックス席に納まってオーダーを済ませた。昼食をして行こうということにな
ったのだけど、冬休みのときのように一枚のピザを僕と有希で分け合うということはなか
った。僕たちは言葉少なくそれぞれに注文を済ませた。今日は昼食を食べながら奈緒と話
をするつもりだったから多少は遅くなっても明日香が心配することもない。
「ごめんなさい」
 オーダーが済むとすぐに有希がしおらしい声で僕に頭を下げた。一瞬僕は有希が明日香
が襲われたことを謝ろうとしているのかと思って身構えた。でもそういうことではないら
しい。
「奈緒ちゃんから全部聞きました。奈緒人さんは昔離れ離れになった奈緒ちゃんのお兄さ
んだったって」
 では奈緒はそれを有希に話したのだ。
175:
「あたしそんな家庭の複雑な事情とか考えずに奈緒人さんのこと一方的に責めちゃって。
本当にごめんなさい」
「いや。奈緒のことを心配してくれて言ってくれたんだろうし謝るようなことじゃない
よ」
 依然として女帝疑惑は振り払えていないものの、この件に関しては彼女には非はない。
それに有希が明日香を襲わせたという推論に関しても全く証拠のない話なのだ。
「奈緒人さんは奈緒が妹だって気づいていたんですね。それで奈緒ちゃんがそのことで傷
付かないように距離を置こうとしていたのね」
 有希がずいぶんと感激したように目を潤ませて僕を見つめていた。
「・・・・・・奈緒にはつらい想いをさせたかもしれないけど。まだしも振ってあげた方がいい
かと思って」
「奈緒人さんの気持ちはわかるし、妹思いのいいお兄さんだと思う」
 有希が言った。「でも結果としてはそんな心配はいらなかったようですね」
「うんそうなんだ。でも奈緒はそこまで君に話したの?」
「あたしと奈緒ちゃんは親友ですから」
 有希は少しだけ笑った。「奈緒ちゃんはすごく喜んでました。昔からずっと会いたかっ
た大好きなお兄ちゃんとやっと会えたって。別れてからも毎日ずっと奈緒人さんのことを
考えてたんだって」
「そうだね。僕もああいう別れ方をした妹と再会できて嬉しかったよ」
「だからごめんなさい。何も知らずにあんな偉そうで嫌な態度を奈緒人さんにしてしまっ
て」
 有希はそう言ったけどその後再び体勢を整えるように深く息を吸った。
「でも明日香には謝りません」
 明日香は女帝である自分がが明日香を襲うように指示したことを明かして、そしてその
命令には後悔していないと言っているのだろうか。僕は一瞬凍りついた。
「あたしは奈緒人さんのことが好き。その気持ちが明日香にばれたとき、奈緒ちゃんには
すごく罪の意識を感じたんです。でもそんなあたしの奈緒人さんへの想いを明日香は利用
した」
「ちょっと待って。そうじゃないんだ」
「実の兄妹だと思って完全に油断してました。あのときは明日香は自分が奈緒人さんと血
が繋がっていないことを知っていて、そして奈緒ちゃんが奈緒人さんの本当の妹であるこ
とを知ってたんでしょ?」
「それは・・・・・・そうだけど」
「じゃあ明日香は奈緒ちゃんから奈緒人さんの気持ちを覚めさせるために、とりあえず奈
緒人さんが好きだったあたしの気持ちを利用したのね」
 それは違うと言いたかったけど、そこだけ切り抜くと困ったことに有希の推理は間違っ
ていないのだ。明日香の本当の目的は僕を救うことだった。でもそのためにいろいろと本
来なら取るべきでない手段を明日香が取ってしまったも事実だった。
 それでも僕は明日香を、自分の彼女を弁護しようと試みた。僕はもう全部を有希にさら
け出すことにした。そうしたって有希が明日香に都合よく利用されたという事実は変わら
ないということはわかっていたのだけど。
「明日香は僕が奈緒が自分の妹だって気がついて、それで僕が悩み傷付くことを恐れて、
奈緒から僕の気持ちを引き剥がそうとしたんだ。決して奈緒と別れさせた僕を自分の彼氏
にしたかったからじゃないよ」
 有希は少し考え込んだけどそれでも納得した様子はなかった。
「それが事実だとしても二つ疑問があるよね」
「・・・・・・うん」
「まず一つ目は奈緒人さんを傷つけないためならあたしを傷つけても、奈緒ちゃんが悩ん
でも構わないのかということ。目的が正しければどんな手段を取ってもいいの?」
 僕は答えられなかった。明日香がしたことはまさにそういうことだったから。まともな
答えなんか期待していないのか、黙り込んだ僕には構わず有希は冷静な表情で続けた。
176:
「もう一つは・・・・・・。あのとき明日香は明らかに奈緒人さんに告白してたよね? あたし
は奈緒人さんと明日香が本当の兄妹だと思っていたから、あのときは自分が明日香に利用
されたんだって思って悲しかった気持ち以上に、実の兄を異性として愛するなんて気持悪
いって思ったのだけど」
 この話の行き先がだんだんと見えてきた。行き着く先は芳しくないところなのだけど、
もともと有希にはそのことをいずれは話すつもりだったのだ。僕は覚悟した。
「奈緒人さんが明日香の本当の兄じゃないなら、お二人は付き合おうと思えば付き合える
んだよね」
「うん」
「明日香の気持ちに応えたの?」
 僕はゆっくりとうなずいた。
「うん。明日香と付き合うことになった」
「ほらね」
 有希が小さく笑って言った。
「兄貴思いの妹の行動だったって言いたいみたいだけど、結局明日香は望んでいたものを
手に入れてるんじゃない」
 結果としてはそうなる。それは否定できない事実だった。
「あのときあたし、明日香にとって都合のいい話だって言ったけど結局そのとおりだった
わけね」
「でも、明日香だって最初は純粋に僕を救うつもりだったんだ。途中で僕のことを好きに
なったのは事実だと思うけど・・・・・・」
 僕の言葉は途中で途切れた。さっきまで笑っていた有希の目に涙が浮かんでいることに
気がついたからだ。
「あたしは奈緒人さんが好きだった。ちょっとしか会っていないのにおかしいかもしれな
いけど。でも明日香の言うとおり万が一奈緒人さんがあたしのことを気にしてくれていた
としても、あたしは奈緒人さんと付き合う気はなかったの。奈緒ちゃんを傷つけたくなか
ったから」
 それは以前にも二人で大晦日の買出しに出かけたとき聞いていた話だった。
「今では奈緒ちゃんは奈緒人さんのことを再会できた大切なお兄さんだと思っているから、
本当はあたしにもチャンスだったのにね」
 有希は涙を浮べたまま再び微笑んだ。
「でも今では明日香が奈緒人さんの隣に座ってるんだね」
「ごめん」
 こんな間抜な返事しか口を出てこなかった。
「奈緒人さんのことは恨んでないよ。逆にあたしが謝らなければいけないの。でも明日香
は・・・・・・」
「有希さん」
 有希は俯いた。彼女が明日香を許す気がないことは明白だった。やがて彼女は顔を上げた。
「今日はもう帰る」
「うん」
 僕には他にかける言葉が思いつかなかった。最後に有希は涙をそっと片手で払いながら
意味深なことを言った。
「明日香のそういう手段を選ばないやり方が、奈緒ちゃんには向けられていないといい
ね」
 どういう意味かを聞き返す暇もなく彼女はもう後ろを振り向かず、僕を残してファミレ
スを出て行ってしまった。
 有希が去っていった後、目の前には手をつけてさえいない料理がテーブルの上に並んで
いた。もったいないし店の人にも変に思われるかもしれない。僕は自分の目の前に置かれ
た冷めたパスタを一口だけ口にしたけどすぐに諦めた。
178:
 有希の言うとおりだった。明日香は有希の恋心を僕から奈緒を離すために利用したのだ。
そのときの明日香は僕に対して恋心なんて感じていなかったはずだから、有希を利用した
といってもそれは有希が僕と付き合うようになってもいいと考えての行動だったろう。つ
まりある意味では有希を応援したとも言える。でも結果がこうなってしまえば今さら何を
言っても有希は納得しないだろう。僕と明日香は結ばれたのだ。決して明日香の仕掛けた
手段によって成就した関係ではない。それでも有希の視点から見れば明日香の一人勝だと
いうふうに思われても無理はない。
 僕はもう半ば有希と明日香を仲直りさせることは諦めていた。それに有希には女帝疑惑
がある。本当に有希が中学生離れした恐い女なのかどうかは定かではないけど、明日香の
身の安全を考えると危険は冒せない。そう考えると有希が明日香と仲直りせずこのまま疎
遠になった方が明日香にとっては安全なのかもしれなかった。
 そう考えると奈緒に会いに来た僕は当初の目的を果たせなかったのだけど、有希に対し
ては期せずしてできることはしたような気がしてきた。有希に謝罪し、でも女帝かもしれ
ない有希と明日香をこれ以上関らせないこと。明日香が有希に直接謝罪すると言ったとき、
僕は彼女を止めた。そして一応はそのとき僕が考えていたことは達成できたのだ。
 そのとき有希が最後に言い捨てて言った言葉が胸に浮かんだ。
「明日香のそういう手段を選ばないやり方が、奈緒ちゃんには向けられていないといい
ね」
 僕と奈緒を別れさせようとしていた明日香は取れる手段は全て動員しただろう。そのこ
と自体には感謝していた僕だけど有希の言葉を聞くと胸騒ぎを感じた。手段を選ばないと
いうことは、当時の明日香なら奈緒に対しても何らかの手を打っていたかもしれない。そ
してそれが奈緒を直接的に傷つけるようなことだとしたら。
 でも。
 僕と明日香は結ばれたのだし、もう明日香には僕への隠しごとはないだろう。それに明
日香は奈緒のことを奈緒ちゃんと呼び出したのだ。奈緒が僕の大事な妹だと正しく認識し
たからだろう。その明日香が奈緒にひどいことを仕掛けているはずはない。自分の彼女を
信じよう。明日香はこれまでのところ、有希の件も含めて全てを僕に正直に話してくれて
いた。奈緒の件は有希の思い過ごしか嫌がらせなのだ。
 僕は席を立って勘定を済ませた。インフルエンザになったという奈緒のことも心配だけ
どさすがに命に別状はないだろう。それよりも明日香のところに帰ろう。きっと明日香も
僕の戻りが遅いと心配するだろう。僕はファミレスを出ると足を早めてできたての恋人の
元に急いで戻ろうとした。
179:
 奈緒人は昔から内向的性格の子だった少なくとも結城さんが再婚したあたりからは。結
城さんと姉さんとの新しい家庭に迎え入れられた奈緒人はそのことに喜んでいる様子はな
かった。それまでずっと寄り添ってほぼ二人きりで一緒に暮らしてきた奈緒ちゃんとの別
れは、奈緒人にとっては新しい母親や妹で代替できるようなものではなかったのだろう。
当時の奈緒人は母親に放置されていても失わなかった、生まれつきの明るさを全く外に表
わさないようになってしまっていた。それだけ奈緒ちゃんとの強制的な別れがショックだ
ったのだ。
 結城さんと姉さんはそんな抜け殻のような奈緒人に優しく接していた。一見、奈緒人も
奈緒ちゃんのことを口にするでもなく、それに応えているようだった。当時、仕事で多忙
な姉さんにかわって二人の面倒を看ていたあたしが見ても、当時の奈緒人には奇妙な落ち
着きがあった。奈緒ちゃんのいない今の生活に満足していたはずはない彼は、両親にもあ
たしにも奈緒ちゃんが不在であることに対する不満を一切口にしなかったのだ。
 まるで奈緒ちゃんに関する記憶だけが失われたかのように。
 その奈緒人の行動には二つの側面が会ったと思う。一つは精神病理学的な側面だ。あた
しは奈緒ちゃんのことを一言も口に出さない奈緒人は、自分の妹や実の母の記憶を失って
いるのではないかと考えていた。それは昨年結城さんと姉さんが子どもたちに事実を打ち
明けたときの奈緒人のショックで証明されたと思う。
 解離性障害。そのうち奈緒人に当てはまるのは解離性健忘という症例だった。
 あたしはそのことを以前に少しだけ奈緒人に話したことがあった。あのときの奈緒人は
混乱していたしはっきりとは覚えていなかったんじゃないかと思うけど。それは人間の心
の自己防衛機能のひとつだ。例えばレイプされた女の子はその衝撃的な事実から自分を守
るためにそのときの記憶を全く失ってしまう。普通なら障害トラウマになりPTSDを発
症するような出来事だけど、本人には全くその記憶がないので傷付くことすら生じない。
奈緒人の実の母親にネグレクトされた記憶や奈緒ちゃんとの別れの記憶もきっとそういう
ことになっていたのではないか。
 もう一つは奈緒人の性格上の問題だった。自己防衛的な反応によって辛い記憶を失って
いた奈緒人だけど、彼にとって、辛い環境は新しい家族と暮らすようになっても続いてい
た。それは明日香の、奈緒人に向けられた極端な敵意だった。あたしは明日香の行動を逐
一結城さんから聞かされていた。結城さんはどういうわけかあたしが奈緒人の一番の理解
者で味方だと信じていたから、姉さんでさえあたしには話さないようなことでも隠し立て
せず話をしてくれたのだ。多分、このときのあたしは、結城さんにとって離婚した奥さん
に代わって奈緒人の母親役を務めていた妹の唯さんに代わった、第三の奈緒人の母親だっ
たのかもしれない。
「最近、明日香が奈緒人のことを嫌っているんだよね」
 結城さんはあるとき姉さんが不在の自宅で、明日香と奈緒人の夕食の支度をしに来てい
たあたしに言ったことがあった。二階にいる子どもたちに聞かれないようにひそひそ声で。
結城さんの声がよく聞き取れなかったあたしは、しかたなく結城さんの体に密着するよう
にしながら話を聞き取らなければいけなかった。それはまだ結城さんへの成就しない恋心
を抱いてたあたしには辛いことだった。
「明日香の言うには奈緒人が明日香の着替えを覗こうとするとか、自分の体を嫌らしい目
で見るとか、何気なく触ろうとするとか、まあそういうことを奈緒人が自分にしてくるっ
て明日香は言うんだ」
「姉さんは知っているの?」
 あたしは結城さんの側にいることから生じていた胸の高鳴りを押さえつけながら冷静に
聞こえるように結城さんに聞いた。
「ああ。あいつは年頃の男の子ならそいうことがあっても不思議じゃないって言ってるよ。
何も本気で明日香に手を出そうとするわけがないし、むしろ明日香の思い過ごしだって。
玲子ちゃんはどう思う?」
 クラッシク音楽雑誌の業界では名前の知れた結城さんがこんなことでうろたえているの
を見て、あたしは彼のことを可愛らしく感じた。胸のどきどきも収まってきていたし。
「どう思うも何も悪いのは全部明日香だよ」
 あたしははっきりと言った。「わざわざ自分の部屋のドアを開けて見せ付けるように着
替えたり、シャワーの後に下着姿で奈緒人君の前をうろうろしたりしているのは明日香の
方じゃない」
「じゃあ何で明日香は一々奈緒人のことを僕たちに言いつけるようなことをするのかな」
「明日香も可哀そうなんだよ。姉さんが世話できなくてあたしが育てたみたいなものだし。
やっとできたちゃんとしたパパとママのことを奈緒人に取られそうで恐いんでしょ」
 誰が見たってそう見える。それと明日香自身は気づいていないかもしれないけど、自分
と本気で親しくしてくれない奈緒人への苛立ちもあるのだろう。そしてそれは奈緒ちゃん
への嫉妬心かもしれなかった。
180:
 明日香にはかなり古い時点から記憶が残っていた。あの夏の日の公園での奈緒人と奈緒
ちゃんとの出会い以降の記憶すら、明日香には思い出という形で自分の中に保存されてい
たのだった。負けず嫌いの明日香が奈緒人の自分に無関心な態度を見て、奈緒ちゃんに負
けているという感情を抱いていたとしても不思議ではない。要するに明日香の行動原理は
嫉妬なのだ。両親に対してにせよ奈緒ちゃんに対してにせよ。そのことを自分で気づいて
いるのかどうかに関らず。
 あたしはそのことを結城さんに説明した。
「明日香が本当に異性として奈緒人のことを好きならこんな嬉しいことはないけどね」
 結城さんは言った。
「兄妹なのに?」
「実の兄妹じゃないし、あいつもそうなることを望んでるんだ」
 どうやら結城さんと姉さんは本気でこの兄妹が男女の仲になることを期待しているらし
い。
「そうすればもううちの家庭はいつまでも一緒にいられるしね」
 結城さんは言った。
「随分単純に考えているのね」
「僕たちは別れと出会いを繰り返してきたからね。それでもようやく結ばれるべき相手と
結ばれたんだ、せめて子どもたちには同じ想いをして欲しくないだけだよ」
「奈緒人君は優しいからなあ」
「え?」
 戸惑った様子の結城さんにあたしは言った。
「奈緒人君は何でも自分の中に溜め込んで自己解決しようとするから。仮に明日香が奈緒
人君への態度を改めて奈緒人君に告白したら、彼は断らないだろうね。明日香の気持ちや
結城さんたちの意向を考えちゃってさ」
 結城さんが考え込んだ。
「玲子ちゃん、頼む」
 いきなり頭を下げた結城さんの態度にあたしはとまどった。
「頼むって何よ。結城さん何言ってるの」
「迷惑かけっぱなしだけど、頼む。奈緒人のことを見てやってください」
「言われなくてもそうするよ。奈緒人君はあたしの大事な甥っ子、いやそうじゃないね。
あたしの大事な息子みたいなもんだし」
 ・・・・・・結城さん。あなたの息子ならあたしの大事な子どもなの。あたしはそのときそう
呟いたのだ。ただし、心の中でだけひっそりと。結城さんの話はそこで終った。明日香が
階下に下りてきて結城さんに抱きついて甘え出したからだ。
181:
 自宅のドアを開けると目の前に明日香が立っていたので僕は驚いた。
「明日香、おまえこんなとこで何やってんだよ」
 明日香はそれには答えずに僕に抱きついた。
「おい」
「最近のあたしの勘って結構当たるんだよ」
 明日香が僕の胸に自分の顔を押し付けるようにしながら言った。
「・・・・・・ひょっとしてずっと待ってたの?」
「だから勘だって。お兄ちゃんのことなんかこんなとこでずっと待ってるはずないじゃ
ん・・・・・・って、あ」
 僕に抱き寄せられた明日香が真っ赤になった。
 僕は明日香と抱き合いながらもつれ合うようにソファに倒れこんだ。
「やめてよ、お兄ちゃん乱暴だよ。こら無理矢理はよせ」
 明日香が少しだけ笑って言った。僕はこのとき明日香をソファに押し倒したままの姿勢
で言った。
「有希さんと話をしてきた」
「・・・・・・え?」
 明日香がふざけながら僕に抵抗していた体を凍らせた。「奈緒ちゃんにじゃなくて?」
「奈緒はレッスンを休んでたんだ。それで有希さんと話をした」
「そうか」
 明日香が僕の体から離れて身を起こした。
「有希、怒ってた?」
「うん」
 有希の反応は疑問の余地のないものだった。あれでは誤魔化しようがない。
「そうか・・・・・・」
「おまえと僕が付き合い出したことを聞いてさ。有希さんは自分がおまえに利用されたっ
て思っている。つまりおまえが僕と奈緒を別れさせるために自分の気持を利用したんだっ
て」
「・・・・・・あたし、あのときは本当に有希がお兄ちゃんと付き合ってくれればって思って」
「うん。おまえが僕のことを心配して奈緒と別れさせようとしていたことはわかってる。
でも結果的におまえと僕は付き合っちゃったから、有希さんは素直にはそのことを受け取
れなくなってるんだよ」
「・・・・・・うん」
 明日香はさっきまでの元気を失って俯いてしまった。
「気にするなとは言えないけど」
 僕は明日香の肩を引き寄せて言った。
「でももう仕方ないよ。おまえはやっぱり有希さんには悪いことしたんだよ」
 僕は明日香の涙を指で払った。明日香が僕の方を見た。
「それでも僕だけはわかってるから。ずっと一緒にいるんだろ? 有希さんの怒りも何も
かも僕が引き受けるよ」
182:
「お兄ちゃん」
「だからおまえはもう悩むな。僕が全部引き受けるから」
「いいの? あたし本当にお兄ちゃんに全部頼っていいの」
「うん。僕はおまえの兄貴で彼氏なんだからさ・・・・・・って、え?」
 明日香が僕に抱きついて僕の唇を塞いだのだ。
 口を離しても明日香は僕から離れようとしなかった。もうこれでいいのだ。これでもう
何度目かわからないけど明日香を大切に思う気持ちが僕の中に溢れた。明日香の取った行
動は間違っているにせよその動機は僕のためだ。
「前にも言ったけど、おまえはもっと僕を頼れって。まああまり頼りにならないかもしれ
ないけどさ」
 明日香は何も言わずに子どものように僕に頭を擦り付けているだけだった。僕は黙って
明日香の華奢な体を抱きしめた。
183:
第三部
 僕が初めて彼女に出会ったのは大学のサークルの新歓コンパの席上だった。その年サー
クルに入会した新入生たちは男も女もどちらも子どもっぽい感じがした。多分一年生のと
きは僕も同じように見えたのだろうけど。その中で彼女だけはひどく大人びていてクール
な印象を受けた。見た目が綺麗だったせいか、彼女は上級生の男たちに入れ替わり話しか
けられていた。その年の新入生の女の子の中では彼女は一番人気だった。その子が気にな
った僕はしばらく彼女の方をじっと見て観察していた。
 彼女はこだわりなく笑顔で先輩たちに応えていたけど、その態度は非常に落ち着いたも
のだった。どうにかすると年下の男たちを年上の女性がいなしているような印象すら受け
た。彼女が綺麗だったことは確かだったから、僕も彼女に自己紹介したいなとぼんやりと
会場の隅の席で一人で酒を飲みながら考えていた。そういう意味では僕も新入生の彼女に
群がる上級生たちと考えていることは一緒だった。でも彼女の側からは一向に話しかける
連中がいなくならないし、その群れに割り込むのも自分のプライドが邪魔していたので僕
は半ば諦めて同じ二回生の知り合いの女の子と世間話をする方を選んだ。
「結城君も彼女のこと気になるの?」
 しばらく僕は知り合いの子の隣でその子から彼氏の愚痴を聞かされていたのだけど、そ
のうち僕が自分の話をいい加減に聞き流していることに気がついて彼女がからかうように
言った。
「別にそうじゃないけど。彼女、大人気だなって思って」
「あの子、綺麗だもんね。夏目さんって言うんだって」
 僕の隣で知り合いの子がからかうように笑って言った。気になっていた子の話題になっ
たせいか僕は再び離れたテーブルにいる彼女の方を眺めた。そのとき、ふと顔を上げて周
囲を見回した新入生の彼女と僕の目が合った。彼女は戸惑う様子もなく落ち着いて僕に軽
く会釈した。新入生が誰に向かってあいさつしているのか気になったのだろう。彼女を取
り巻いていた男たちの視線も僕の方に向けられたため、僕は慌てて彼女から目を逸らして
何もなかったように隣の子の方に視線を戻した。それで、僕は結局新入生の彼女のあいさ
つを無視した形になった。
「結城君らしくないじゃん。新入生にあいさつされて照れて慌てるなんて」
 彼女が僕をからかった。
「放っておいてくれ」
 僕はふざけているような軽い調子で答えたけど、心の中では自分の今の不様た態度が気
になっていた。あれでは新入生の彼女の僕への印象は最悪だったろう。まあでもそれでい
いのかもしれない。あんなやつらみたいに新入生の女の子に媚を売るようにしながら彼女
の隣にへばりつくよりも。みっともない真似をしなくてよかった。僕はそう思い込むこと
にした。
 次に僕が彼女に出合ったのは、階段教室で一般教養の美術史の講義に出席していたとき
だった。その講義は出席票に名前を書いて提出し課題のレポートさえ提出してさえいれば、
その出来や講義時の態度に関わらず単位が取れると評判だったので広い階段教室は一二年
の学生で溢れていた。美術になんかに興味はない僕はさっさと出席票を書いて教室の後ろ
の出口から姿を消そうと考えていた。講義が始まってしばらくすると出席票が僕の座って
いる列に回ってきた。自分の名前を出席票に書いて隣に座っている女の子に回して、僕は
そのまま席を立とうとした。そのとき、僕は彼女に声をかけられた。
「こんにちは結城先輩」
 出席票を受け取った隣の女の子はサークルの新入生の夏目さんだったのだ。驚いて大声
を出すところだったけど今は講義中だった。僕はとりあえず席に座りなおした。
「ごめんなさい、わからないですよね。サークルの新歓コンパで先輩を見かけました。一
年の夏目といいます」
 講義中なので声をひそめるように彼女が言った。
「知ってるよ。あそこで見かけたし・・・・・・でも何で僕の名前を?」
「先輩に教えてもらいました」
 彼女は出席票に女性らしい綺麗な字で自分の名前を記入しながらあっさりと言った。僕
はその署名を眺めた。夏目 麻季というのが彼女の名前だった。彼女は出席票を隣の学生
に渡すともう話は終ったとでもいうように美術史のテキストに目を落としてしまった。
「じゃあ」
184:
 彼女に無視された形となった僕はつぶやくような小さな声で講義に集中しだした彼女に
声をかけて席を立った。もう返事はないだろうと思っていた僕にとって意外なことに、夏
目さんがテキストから顔を上げて怪訝そうに僕を見上げた。
「講義聞かないんですか?」
「うん。出席も取ったしお腹も空いたし、サボって学食行くわ」
 夏目さんはそれを聞いて小さく笑った。
「結城先輩ってもっと真面目な人かと思ってました」
「・・・・・・そんなことないよ」
 僕は思わず夏目さんの眩しい笑顔に見とれてしまった。中途半端に立ったままで。
「でも先輩格好いいですね。年上の男の人の余裕を感じます」
 彼女がどこまで真面目に言っているのか僕にはわからなかったけど、彼女の言葉は何か
を僕に期待させ、そしてひどく落ち着かない気分にさせた。
「じゃあ、失礼します」
 くすっと笑って再び夏目さんはテキストに視線を落としてしまった。
 気になる新入生から話しかけられる。それも僕の名前を知っていたというサプライズの
せいで、それからしばらくは僕の脳裏から彼女のことが離れなかった。何で僕の名前を知
りたがったのか、何で僕に話しかけたのか、何で僕のことを格好いいと言ったのか。悩み
は尽きなかった。多分僕は彼女のことが気になっていたのだ。それも恋愛的な意味で。
 彼女への思いが次第に募っていくことは感じてはいたけれど、それからしばらく彼女と
話をする機会はなかった。キャンパス内で友人たちと一緒にいる彼女を見かけることは何
度かあったけど、彼女が僕にあいさつしたり話しかけたりすることはなかった。
 ひょっとしたらもう二度と夏目さんと会話することはないかもしれない。そう思うと残
念なような寂しいような感慨が胸に浮かんだけど、僕はすぐにその思いを心の中で打ち消
した。僕と彼女では釣りあわないし、きっと縁もなかったのだろう。そう考えれば夏目さ
んに対する未練のような感情は薄れていった。彼女は僕の人生でほんの一瞬だけ触れ合っ
ただけなのだろう。これ以上夏目さんのことを深く考えるのはやめようと僕は思った。
 それにこの頃僕は偶然に幼馴染の女の子とキャンパス内で再会していた。同じ大学の同
じ学年だったのに今までお互いに一向に気がつかなかったのだ。
「結城君」
 自分の名前を背後で呼ばれた僕が振り返ると懐かしい女の子が泣いているような笑って
いるような表情で立ちすくんでいた。
「・・・・・・もしかして理恵ちゃん? 神山さんちの」
「うん。博人君でしょ。わぁー、すごい偶然だね。同じ大学だったんだ」
「久し振りだね」
 中学二年生のときに僕は引っ越しをした。それで幼稚園の頃からお隣同士だった理恵と
はお別れだったのだ。あのとき涙さえ見せずに強がって笑っていた彼女との再会はいった
い何年ぶりだっただろう。僕に声をかけたときい理恵はびっくりしたような表情だった。
そして僕がほんとうにかつての幼馴染だとわかったとき、どういうわけか理恵は少しだけ
目を潤ませたのだった。久し振りに会った理恵に対して懐かしいという思いは確かにあっ
た。でもそれ以上に理恵に対しては再会というよりは自分好みの女の子にようやく出会っ
たという気持ちの方が大きかったかもしれない。気が多い男の典型のようだけど、理恵と
再会した僕は夏目さんのことを忘れ理恵のことを思わずじっと見つめてしまった。
「な、何」
 僕の無遠慮な視線に気がついた利恵が顔を赤くして口ごもった。そのときは僕たちはお
互いの家族の消息を交換して別れただけだったけど、僕の脳裏には夏目さんの表情が薄れ
ていって代わりに理恵の姿が占めるようになっていったのだ。
 その後、再会してからの理恵は僕と出会うと一緒にいた友だちを放って僕の方に駆け寄
って来るようになった。そして僕の腕に片手を掛けて僕に笑いかけた。
「博人君」
「な、何」
 突然片腕を掴まれた僕は驚いて理恵の顔を見る。周囲にいた学生たちがからかうような
羨望のような視線を僕に向ける。
「別に何でもない・・・・・・呼んだだけだよ」
185:
 理恵は笑って僕の腕を離して友だちの方に戻って行く。僕に向かって片手をひらひらと
胸の前で振りながら。
 この頃になると僕の意識の中では物怖じしない明るい女の子として理恵に密かに恋する
ようになっていた。理恵の僕に対する態度も積極的としか思えなかったので、僕は久し振
りに再会した幼馴染に対する自分の恋はひょっとしたら近いうちに報われるのではないか
と思い始めていた。つまり一言で言うと僕は理恵に夢中になっていたのだ。なので一瞬だ
け気になった夏目さんと疎遠になったことを思い出すことはだんだんと無くなっていった。
 僕と理恵はお互いに愛を告白したわけではなかったけど、次第にキャンパス内で一緒に
過ごす時間が増えてきた。付き合ってるんだろとかって友人に言われることも多くなって
いた。そろそろ勇気を出して理恵に告白しよう。僕がそう考え出していたときのことだっ
た。
 その日もいつもと同じような一日の始まりだろうと思っていたのだ。自分の狭いアパー
トで身支度を済ませた僕がアパートを出たとき、アパートのドアの前に女の子が立ってい
た。僕は一瞬目を疑った。外出して講義に行こうとした僕の目の前にいたのは夏目さん、
夏目麻季だったのだ
「おはようございます、先輩」
 彼女は微笑んで言った。
「・・・・・・夏目さん? どうしているの」
 そのときはそう言うのが精一杯だった。そこに恥かしげに微笑んでいる理恵がいるのな
らまだ理解できた。その頃の僕は理恵に惹かれ出していたし、思い切り恥かしい勘違いを
しているのでなければ理恵も僕のことを気にはなっていたはずだから。でも目の前にいた
のは夏目さんだった。いったいどうしてここに彼女がいるのだ。
「サークルの先輩に結城先輩のアパートの住所を聞きました」
「いや・・・・・・そうじゃなくて。ここで何してるの」
 夏目さんはここで何をしているのだろう。僕には理解できなかった。とりあえずこの人
目の多すぎるアパートでする話じゃない。僕は夏目さんを促して駅前のカフェに彼女を誘
った。
「・・・・・・サークルで何かあったの」
 人気のない奥の席に落ち着いてから僕は夏目さんに話しかけた。この頃になるとだいぶ
落ち着いてきた僕はサークルで何かが起こったのではないかと思いついたのだ。でもそう
言うことでもなかったみたいで、夏目さんは顔を横に振った。そして突然意表をついた質
問を僕に投げかけたのだ。
「先輩、神山先輩と付き合ってるんですか」
 いったい何の話だ。というか何で彼女が理恵のことを知っているのだ。
「君は理恵、いや。神山さんのこと知ってるのか」
「知ってますよ。最近、先輩と仲良さそうに話している人は誰ですかって聞いたらサーク
ルの先輩が教えてくれました」
「・・・・・・何でそんなこと聞いたの」
 夏目さんは少しだけ俯いたけどやがて意を決したように淡々と話し始めた。
 彼女の話は僕の想像を超えていた。要するに夏目さんは、僕が自分のことを好きなので
はないかと考えたと言うのだった。そして自分のことを好きな僕が仲良さそうに理恵と話
しているのを目撃し、それがどういう意味なのかを聞きに来たそうだ。
「夏目さんさ、それいろいろおかしいでしょ」
 僕はようやくそれだけ言うことが出来たけど、彼女はそれには答えずに言った。
「・・・・・・先輩、あたしのこと好きなんでしょ」
「何言ってるの」
「あたし、わかってた。最初に新歓コンパで合ったとき、先輩はあたしのことじっと見て
たでしょ」
「・・・・・・それだけが根拠なの」
「それだけじゃないですよ。美術史の講義で会ったときも先輩、じっとあたしのこと見つ
めていたでしょ」
186:
 自惚れるのもいい加減にしろ。いったい彼女は何様のつもりだ。腹の奥底から怒りが込
み上げてきた。
「君、正気か。酔ってるの?」
「酔ってませんよ。先輩こそ嘘つかないで。あたしがこんなに悩んでいるのに」
「あのさあ、確かに僕は君のことを見たよ。それは認める。君は綺麗だし。でもそれだけ
で君のことを好きとか決め付けられても困るよ。第一、僕は一言だって君のことが好きだ
とか付き合ってくれとか言ってないでしょ」
「生意気なようですけど先輩って自分に自信がなさそうだし、あたしのことを好きだけど
勇気がなくて告白できなかったんじゃないですか。あたし、ずっと先輩の告白を待ってた
のに」
 おまえは何様だ。僕は怒りに振るえた。確かに彼女は目を引く容姿と落ち着いた行動を
取れるだけの知性を備えているのだろう。そして自分の容姿に自信もあるに違いない。そ
れはこの十分程度の会話からでも理解できた。だからといってこんな風に僕の気持ちを決
め付けていい理由にはならない。そのとき僕はふと思いついた。ひょっとしたらこれはも
てない男をからかうゲームなのだろうか。
「・・・・・・・もしかして君は誰かに何かの罰ゲームでもさせられてるの? そうだとしたら
巻き込まれる方は迷惑なんだけど」
「先輩こそいい加減にしてください」
 夏目さんが怒ったように言った。何か彼女の様子がおかしい。
「罰ゲームって何よ。何であたしのことをからかうんですか? あたしのこと好きじゃな
いなら何であんな思わせぶりな態度をとるんですか」
 自信たっぷりだと思っていた夏目さんが今度は泣き出したのだ。
「・・・・・・泣くなよ。わけわかんないよ」
「ひどいですよ。結城先輩、美術史の講義の日からあたしのことを無視するし。あたしの
こと嫌いならはっきり嫌いって言えばいいでしょ」
「あのさあ。僕が君のことを好きなんじゃないかと言ったり嫌いだと言ったり、さっきか
ら何を考えてるんだよ」
「何でわざとあたしの目の前で神山先輩といちゃいちゃするのよ」
 夏目さんはついに声を荒げた。
「してないよ、そんなこと」
「あたしを悩ませて楽しんでいるの? 何であたしに思わせぶりな態度を取りながら神山
先輩との仲を見せつけるんですか。あたしを悩ませて楽しんでるんですか」
 とうとう夏目さんは普通に喋れないくらいに泣き出してしまった。もうこのあたりで僕
は夏目さんとまともな話は出来ないと悟った。彼女は普通じゃない。確かに一時期は気に
なった女の子だったけど、これだけ聞けば十分だった。学内で人気の彼女は実はメンタル
面で問題のある女の子だったのだ。そして運の悪いことにそのメンタルの彼女の関心を偶
然にも僕は引いてしまったようだった。
 その日、何とか彼女を宥めた僕は、夏目さんをその自宅まで送っていった。キャンパス
から一時間くらいの閑静な住宅地にある彼女の自宅まで。駅から彼女の自宅まで歩いてい
るうちに夏目さんは冷静になったようで、今度はしきりに僕に謝りだした。さっきまでの
激情が嘘のようだった。
 夏目さんを送ったあと、僕は大学に向かった。キャンパスに着いて今朝起きた出来事を
ぼうっと思い出していると、今度は理恵に話しかけられた。今までの出来事が嘘みたいに
理恵は明るく僕に話しかけてきた。僕は笑っている理恵に無理に微笑んで見せた。
187:
 夏目さん・・・・・・いやもういっそ麻季と呼んだほうがいいだろう。自宅アパート前で待ち
伏せされたあの日からほどなくして僕は麻季と付き合い出したのだから。
 麻季のことをどう考えればいいか最初は自分でもよくわからなかった。でも、何を考え
ているのかわからない麻季が、理恵のことを問い詰めてきたときの表情を思い出すと、い
くら綺麗な子だとはいってもできれば二度と関わらないようにする方がいいと僕は思い直
した。麻季を自宅に送って行ったとき彼女はようやく我に返ったように泣いて謝ったけど、
それは単に謝ったと言うだけで自分の突飛な行動の動機を話てくれたわけではなかった。
 理恵は相変わらず学内で僕を見かけると一緒にいる友だちを放って駆け寄って来る。置
き去りにされた友だちの女の子たちは僕たちの方を見てくすくす笑って眺める。僕は幼い
頃に心をときめかした同い年の女の子との再会に満足してもいいはずだった。
 でも理恵と一緒にいても、僕の視線はどういうわけかいつのまにか麻季を追い求めてい
るのだった。あれ以来麻季は全く僕と話そうとしなかった。たまに教室とかですれ違って
も彼女は僕の方を見ようともしなかったのだ。
 その日も僕は理恵と並んで歩いていた。理恵はさっきから自分の妹が最近生意気だとい
う話を楽しそうにしていた。玲子ちゃんというのが理恵の妹の名前だった。僕たちが昔隣
同士に住んでいた頃には理恵には妹はいなかったから、僕が引っ越した後で生まれたのだ
ろう。今では小学生になったという玲子ちゃんは理恵にとってはひどく相手にしづらい気
難しい女の子らしい。理恵のふくれた顔を眺めながら僕は彼女の話にあいづちを打ってい
た。でも正直会ったことすらない小学生の女の子に興味を抱けという方が無理だった。た
とえそれが気になっている女の子の話だとしても。
 そのとき視線の端に麻季の姿が見えた。彼女は誰か知らない上級生の男と一緒だった。
一瞬、何か心に痛みが走った。麻季が他の男と寄り添って一緒に歩いている。それだけの
ことに僕はこんなに動揺したのだった。よく考えれば僕だって理恵と並んで歩いているの
に。隣で話している理恵の声が消え僕は自分の心が傷付くだろうことを承知のうえで麻季
の方を見つめた。
 でも何か様子がおかしかった。僕が見つめている先に一緒にいる男女は何かいさかいを
起こしているようだった。自分の肩を押さえた男の手を麻季は振り払っていた。
「それでね、玲子ったら結局あたしの買ったCDを勝手に学校に持って行っちゃってね」
「・・・・・・うん」
 手を振り払われた男は麻季のその行為に唖然とした様子だったけど、すぐに憤ったよう
に麻季の顔を平手打ちした。麻季の体が地面に崩れた。
「でね、あいつったら勝手に友だちに貸して」
「悪い」
 僕は驚いたように話を途中で中断した理恵を放って麻季と男の方に駆け出した。このと
きはよくわからないけど何だか夢中だった。とにかくあの麻季が暴力を振るわれているこ
とに我慢できなかったのだ。僕は中庭のベンチの横にいる二人の側まで走った。麻季は地
面に崩れ落ちたままだ。激昂した男が何か彼女に向かって言い募っている。再び男が手を
上げたとき僕は二人の側に到着した。
 先輩らしい男はけわしい表情で僕を見た。それでもその先輩はか弱い女には手をあげた
のだけど、まともに男相手に喧嘩する気はないようだった。きっと手を痛めつけられない
のだろう。ピアノ科とか器楽科にいる連中なら無理もなかった。普通音大には演奏系、作
曲・指揮系、音楽教育系の学科がある。演奏系の学生にとっては手は喧嘩ごときで傷める
わけにはいかない。逆に言うとこの先輩は、自分の大切な手を女を殴るためなんかによく
も使えたものだ。
 僕は音楽学を選考していたから実際の器楽の演奏にはそれほど執着がない。先輩が麻季
を虐めるのを止めないのならそれなりに考えがあった。でも駆けつけてきた僕を見て先輩
は急に冷静になったようで、人を馬鹿にするものいい加減にしろと倒れている麻季に言い
捨ててその場をそそくさと去って行った。
「君、大丈夫?」
 僕は倒れている麻季に手を差し伸べた。そのときの彼女はきょとんした表情で僕を見
上げた。
「怪我とかしてない?」
「……先輩、神山先輩と別れたの?」
 僕が麻季を地面から立たせると、それが僕であることを認識した彼女は場違いの言葉を
口にした。
「何言ってるんだよ。そんなこと今は 関係ないだろ」
 僕は呆れて言った。「君の方こそ彼氏と喧嘩でもしたの?」
「彼氏って誰のことですか?」
188:
 相変わらずマイペースな様子で麻季が首をかしげた。男にいきなり平手打ちされて地面
に倒されたというのに、そのことに対する動揺は微塵も見られなかった。
 やはり彼女はいろいろおかしい。僕はそう思ったけど、同時に首をかしげてきょとんと
している麻季の様子はすごく可愛らしかった。綺麗だとか大人びているとか思ったことは
あったけど、守ってあげたいような可愛らしいさを彼女に対して感じたのはこのときが初
めてだった。
 とりあえず麻季は怪我はしていない様子だったけど、そのまま別れるのは何となく気が
引けていた僕は彼女を学内のラウンジに連れて行った。ラウンジは時間を潰している学生
で溢れていた。そのせいかどうか学内で目立っている麻季を連れていても、僕たちはそれ
ほど人目を引くことなく窓際のテーブルに付くことができた。
「ほら、コーヒー」
「ありがとう。結城先輩」
 麻季は暖かいコーヒーの入った紙コップを受け取った。それからようやく麻季はさっき
の先輩のことを話し始めた。
「よくわかんないの。でも一緒に歩いていたらこれから遊びに行こうって誘われて、講義
があるからって断ったら突然怒り出して」
 それが本当なら悪いのは自分の意向を押し付けようとして、それが断られた突端に麻季
に手を出した先輩の方だ。でも、あのとき先輩は馬鹿にするなと言っていた。
「よくわかんないけど、付き合っているのに何でそんなに冷たいんだって言われた。わた
しは別にあの先輩の彼女じゃないのにおかしいでしょ?」
 やはり内心そうではないかと思っていたとおりだったようだ。
 最初に新歓コンパで麻季を見かけたときはひどく大人びた女の子だと思った。群がる先
輩たちへの冷静な受け答えを見ていて、彼女は単に男にちやほやされることに慣れている
というだけではなく、しっかりと自分を律することができるんだろうなと。新入生にとっ
てはいくら男慣れしている子でも初めてのコンパで先輩たちに取り囲まれれば多少は狼狽
してしまうはずだけど、彼女には一向にそういう様子が無かったから。
 でもそういうことだけでもないらしい。実はこの子は他人とコミュニケーションを取る
のが苦手な子なのではないだろうか。僕の家に押しかけてきたときの様子だってそうだし、
今現在だってそうだけど僕には麻季が何を考えているのかさっぱりわからない。でも麻季
の中では自分の態度とそれに至る思考過程はきっと一貫しているのだろう。
 先輩はきっと麻季が自分のことを好きなのだと解釈したのだ。そしてその考えに沿って
麻季に対して馴れ馴れしい態度を取ったに違いない。そして麻季も先輩の行動の意味を深
く考えることもせず、自分の意に染まないことを強要されるまではなすがままに付き合っ
ていたのだろう。僕が麻季について思いついたのはこういうことだった。突然に表面に現
われる麻季の突飛な態度もその過程の説明がないから驚くような行動に思えてしまうので
あって、彼女の中ではその行動原理は一貫しているのではないか。
 ・・・・・・こうして考えるとまるでボーダー、境界性人格障害のような感じがする。
 でもきっとそれほどのことではない。麻季の舌足らずの言葉の背後を探ってやればきっ
と彼女が何を考えているのかわかるのだろう。
「神山先輩と別れたの?」
 麻季が言った。
「別れるも何も付き合ってさえいないよ」
「・・・・・・先輩?」
 そのとき気がついた。きっと先輩に殴られて倒れた時に付いたのだろう。麻季の髪に枯
葉の欠片が乗っていた。僕は急におかしくなって声を出して笑った。麻季は思ったとおり
急に笑い出した僕の様子を変だとも思わなかったようだった。僕は手を伸ばして麻季のス
トレートの綺麗な髪から枯葉を取った。その間、麻季はじっとされるがままになっていた。
麻季の髪の滑らかな感触を僕は感じ取ってどきどきした。
「結城先輩、やっぱりあたしのこと好きでしょ」
 麻季が静かに笑って言った。
189:
 それは思っていたより普通の恋愛関係だった。僕は麻季と付き合い出す前にも数人の女
の子と付き合ったことがあった。そのどれもがどういうわけか長続きしなかった。結果と
して麻季との付き合いが一番長く続くことになった。あのとき麻季と付き合い出すことが
なかったら、きっと僕は理恵に告白していただろう。そして多分その想いは拒否されなか
ったのではないか。でも麻季と付き合い出してからは自然と理恵と会うこともなくなって
いった。理恵の方も遠慮していたのだと思うし、それよりも僕はいつも麻季と一緒だった
から理恵に限らず他の女の子とわずかな時間にしろ二人きりで過ごすような機会は無くな
ったのだった。
 勢いで付き合い出したようなものだったけど、いざ自分の彼女にしてみると麻季は思っ
ていたほど難しい女ではなかった。こうしてべったりと一緒に過ごしていると、麻季の思
考は以前考えていたような難しいものではなかったのだ。付き合い出す前はボーダーとか
メンヘラとか彼女に失礼な考えが浮かんだことも確かだったけど、いざ恋人同士になり麻
季と親しくなっていくと意外と彼女は付き合いやすい恋人だった。
 多分、四六時中側にいるようになって僕が彼女が何を考えているのかをわかるようにな
ったからだろう。それに思っていたほど麻季はコミュ障ではなくて、相変わらず言葉足ら
ずではあったけど、それでも僕は彼女の考えがある程度掴めるようになっていった。彼女
には嫉妬深いという一面もあったし、ひどく情が深いという一面もあった。そういうこれ
まで知らなかった麻季のことを少しづつ理解して行くことも、僕にとっては彼女と付き合
う上での楽しみになっていた。
 僕が三回生になったとき麻季はお互いのアパートを行き来するのも面倒だからと微笑ん
で、ある日僕が帰宅すると僕のアパートに自分の家財道具と一緒に彼女がちょこんと座っ
ていた。合鍵は渡してあったのだけどこのときは随分驚いたものだ。
 同棲を始めて以来、僕たちはあまり外出しなくなった。食事の用意も麻季が整えてくれ
る。意外と言っては彼女に失礼だったけど、麻季は家事が上手だった。そんな様子は同棲
を始める前は素振りにさえ見せなかったのに。
 僕がインフルエンザにか罹って高熱を出して寝込んだとき、僕は初めて真剣に狼狽する
麻季の姿を見た。
「ねえ大丈夫? 救急車呼ぼうよ」
 僕は高熱でぼうっとしながらも思わず微笑んで麻季の頭を撫でた。麻季は僕に抱きつい
てきた。
「インフルエンザが移るって。離れてろよ」
「やだ」
 僕は麻季にキスされた。結局僕の回復後に麻季が寝込むことになり逆に僕が彼女を介抱
する羽目になったのだ。
 この頃になるとサークルでも学内でも僕たちの付き合いは公認の様相を呈していた。麻
季は相変わらず目立っていた。やっかみ半分の噂さえ当時の僕には嬉しかったものだ。こ
れだけ人気のある麻季が心を許すのは僕だけなのだ。麻季の心の動きを知っているのは僕
だけだ。それに麻季自身が関心を持ち一心に愛している対象も僕だけなのだ。
 麻季と肉体的に結ばれたとき彼女は処女だった。別に僕は付き合う相手の処女性を求め
たりはしないし、僕が今まで経験した相手だって最初の女の子を除けばみな体験者だった
けどそれでも麻季の初めての相手になれたことは素直に嬉しかった。
 僕が四回生で麻季が三回生のとき、僕は就職先から内定をもらった。この大学では亜流
だった僕は別に演奏家を目指しているわけでも音楽の先生を目指しているわけでもなかっ
たので、普通に企業への就職活動をしていた。音楽史と音楽学のゼミの教授はこのまま院
に進んでこのまま研究室に残ったらどうかと勧めてくれたけど、僕は早く就職したかった。
麻季のこともあったし。結局、ゼミの教授の推薦もあって老舗の音楽雑誌の出版社から内
定が出たときは本当に嬉しかったものだ。
 内定の連絡を受けた僕は迷わずに麻季にプロポーズした。僕の申し出に麻季は信じられ
ないという表情で凍りついた。感情表現に乏しい彼女だけどこのときの彼女の言葉に誤解
の余地はなかったのだ。
「喜んで。この先もずっと一緒にあなたといられるのね」
 このときの麻季の涙を僕は生涯忘れることはないだろう。一年半の婚約期間を経て僕と
麻季は結婚した。僕と麻季の実家の双方も祝福してくれたし、サークルのみんなも披露宴
に駆けつけてくれた。
「麻季きれい」
 麻季のウエディングドレス姿に麻季の女友達が祝福してくれた。僕の側の招待客は親族
を除けば大学や高校時代の男友達だけだった。幼馴染の理恵を招待するわけには行かなか
った。でもずいぶん後になって知り合い経由で理恵が僕たちを祝福してくれていたという
話を聞いた。
190:
 結婚後しばらくは麻季も働いていた。それは彼女の希望でもあった。ピアノ専攻の彼女
は演奏家としてプロでやっていけるほどの才能はなかったけど、ピアノ科の恩師の佐々木
先生の個人教室のレッスンを手伝うことになったのだ。でもそれもわずかな期間だけだっ
た。
 やがて麻季は彼女の希望どおり妊娠して男の子を産んでくれた。僕たちは息子の奈緒人
に夢中だった。もちろん麻季は佐々木教授の手伝いをやめて専業主婦として育児に専念し
てくれた。奇妙なきっかけで始まった僕たちの夫婦生活は順調だった。麻季は理想的な妻
だった。かつて彼女のことを境界性人格障害だと疑った自分を殴り倒してやりたいほど。
 僕は本当に幸せだった。仕事も多少は多忙であまり麻季を構ってやれなかったけど、で
きるだけ早く帰宅して奈緒人をあやすようにしていた。僕が奈緒人を風呂に入れるとき、
麻季は心配そうに僕の手つきを眺めていたのだ。これでは麻季の育児負担を軽減するため
に僕が奈緒人の入浴を引き受けた意味がないのに。
 僕たちの生活は順調だった。少なくともこのときの僕には何の不満もなかったのだ。
 麻紀と奈緒人と共に歩んでいく人生に何の不満もないと思っていたのは本当だったけど、
あえて物足りないことあげるとしたら、奈緒人が誕生してから麻季との夜の営みが途絶え
てしまったことくらいだろうか。ある夜奈緒人が寝入った後の夫婦の寝室で、僕は出産以
来久し振りに麻季を抱き寄せて彼女の胸を愛撫しようとした。少しだけ麻季は僕の手に身
を委ねていたけどすぐに僕の腕の中から抜け出した。
「・・・・・・麻季?」
 これまでになかった麻季の拒絶に僕は内心少しだけ傷付いた。
「ごめんね。何だか疲れちゃってそういう気分になれないの」
 子育ては僕たちにとって始めての経験だったし、疲れてその気になれないことだってあ
るだろう。僕は育児で疲労している麻季のことを思いやりもせずに自分勝手に性欲をぶつ
けようとしたことを反省した。こんなことで育児もろくに手伝わない僕が傷付くなんて考
える方がおかしい。何だか自分がすごく汚らしい男になった気がした。
「いや。僕の方こそごめん」
 僕は麻季に謝った。
「ううん。博人さんのせいじゃないの。ごめんね」
 一度僕の腕から逃げ出した麻季は再び僕に抱きついて軽くキスしてくれた。
「もう寝るね」
「うん。おやすみ」
 これが僕たち夫婦のセックスレスの始まりだった。この頃はまだ奈緒人には手がかかっ
ていた頃だった。実際、育児雑誌で注意されている病気という病気の全てに奈緒人は罹患
した。そのたびに麻季は狼狽しながら僕に電話してきて助けを求めたり、病院に駆け込ん
だりして大騒ぎをした。
 麻季は真剣に誠実に育児に取り組んでいた。それは確かだったしそんな妻に僕は感謝し
ていたけれど、それにしてももう少し肩の力を抜いた方がいいのではないかと僕は考えた。
そしてそのそのせいで何度か麻季と言い争いになったこともあった。麻季は奈緒人を大切
に育てようとしていた。僕たち夫婦の子どもなのだからそれは僕にとっても嬉しいことで
はあったけど、麻季の場合はそれが行き過ぎているように思えた。
 市販の粉ミルクで赤ちゃんが死亡したニュースを見てからは、麻季は粉ミルクを使うこ
とを一切やめて、母乳だけで奈緒人を育てようとした。ちなみに危険な粉ミルクのニュー
スは外国の出来事だ。それから大手製紙会社の製品管理の不具合のニュースを見て以来、
麻季は市販の紙おむつを使用することをやめ、自作の布おむつを使用するようになった。
製紙会社の不祥事は紙おむつではなくティッシュ製造過程のできごとだったのだけど。
 麻季との同棲生活や結婚生活を通じて彼女がここまで脅迫的な潔癖症だと感じるような
ことはなかった。結局、麻季は僕と彼女との間に生まれた奈緒人のことが何よりも大事な
のだろう。そういう彼女の動機を非難することはできないし、息子の母親としてはむしろ
理想的な在り方だった。
 最初の頃少し揉めてからは、行き過ぎだと思いつつも僕は黙って麻季のすることを容認
することにした。若干不安は残ってはいたけどそもそも仕事が多忙でろくに育児参加すら
できていない僕には麻季の育児方法について口を出せるのにも限度があった。
 こんなに一生懸命になって奈緒人を育てている麻季に対して、これ以上自分勝手な性欲
を押し付ける気はしなかったので、僕は当面はそういうことに麻季を誘うことを止めるこ
とにした。内心では少し寂しく感じてはいたけど。
191:
 それに麻季は奈緒人だけにかまけていたわけではなかった。この頃の僕はちょうど仕事
を覚えてそれが面白くなっていた時期でもあったし、少しづつ企画を任されて必然的に多
忙になっていった時期でもあった。だから育児に協力したいという気持ちはあったけど、
実際にはニ、三日家に帰れないなんてざらだった。なので出産直後のように奈緒人をお風
呂に入れるのは僕の役目という麻季との約束も単に象徴的な夫婦間の約束になってしまっ
ていて、たまの休日に「パパ、奈緒人のお風呂お願い」と麻季に言われて入浴させる程度
になっていた。それすら麻季は育児に協力できないで悩んでいる僕に気を遣って言ってく
れたのだと思う。ろくに育児に協力できない僕の気晴らしのためにわざと奈緒人を風呂に
入れるように頼んでくれていたのだろう。
 どんなに育児に疲れていても僕に対するこういう気遣いを忘れない彼女のことが好きだ
った。僕は麻季と結婚してからどんどん彼女のことが好きになっていくようだ。そして麻
季も夫婦間のセックスを除けば、そんな僕の想いに応えてくれていた。この頃は僕も忙し
かったけど麻季だって育児に追われていたはずだ。それでも彼女は一日に何回も仕事中の
僕にメールしてくれた。
 奈緒人が初めて寝返りをうったとき。奈緒人が初めて「ママ」と呼んだとき、奈緒人が
初めてはいはいしたとき。その全てのイベントを僕は仕事のせいで見逃したのだけど、麻
季はいちいちその様子を自宅からメールしてくれた。そのおかげで僕は息子の成長をリア
ルタイムで感じることができた。当時は今ほど気軽に画像を添付して送信できなかった時
代だったので麻季からのメールには画像はなかったけど、それを補って余りあるほどの愛
情に満ちた文章が送られてきたのだ。
 麻季は昔から感情表現が苦手な女だった。それは結婚してからも同じだった。それでも
僕たちが幸せにやってこれたのは僕が彼女の言外の意図を読むことに慣れたからだった。
でも仕事のせいで麻季と奈緒人にあまり会えない日々が続いていたせいで、麻季は僕との
コミュニケーションにメールを多用するようになった。そして、目の前にいる彼女の思考
は読み取りづらくても、メールの文章は麻季の考えを明瞭に伝えてくれることが僕にもわ
かってきた。文章の方がわかりやすいなんて変わった嫁だな。僕は微笑ましく思った。
 そういうわけで麻季の関心が育児に移ってからも彼女の僕への愛情を疑ったことはなか
った。それは疲れきって自宅に帰ったときに食事の支度がないとか、風呂のスイッチも切
られていたとかそういう次元の不満がないことはなかったけど、僕が帰宅すると奈緒人と
添い寝していた麻季は寝床から起き出して、疲れているだろうに僕に微笑んで「おかえり
なさい」と言って僕の腕に手を置いて軽くキスしてくれる。それだけで僕の仕事のストレ
スは解消されるようだった。
 この頃の麻季の僕に対する愛情は疑う余地はなかったけど、やはり夜の夫婦生活の方は
レスのままだった。奈緒人が一歳の誕生日を迎えた頃になると育児にも慣れてきたのか麻
季の表情や態度にもだいぶ余裕が出てきていた。以前反省して自分に約束したとおり僕は
麻季に拒否されてから今に至るまで彼女を求めようとはしなかったけど、そろそろいいの
ではないかという考えが浮かんでくるようになった。まさかこのまま一生レスで過ごすつ
もりは麻季にだってないだろうし、いずれは二人目の子どもだって欲しかったということ
もあった。
 そんなある夜、久し振りに早目の時間に帰宅した僕は甘えて僕に寄り添ってくる麻季に
当惑した。奈緒人はもう寝たそうだ。その夜の麻季はまるで恋人同士だった頃に時間が戻
ったみたいなに僕に甘えた。
 これは麻季のサインかもしれない。ようやく彼女にもそういうことを考える余裕ができ
たのだろう。そして表現やコミュニケーションが苦手な彼女らしく態度で僕を誘おうとし
ているのだろう。長かったレスが終ることにほっとした僕は麻季を抱こうとした。
「やだ・・・・・・。駄目だよ」
 肩を抱かれて胸を触られた途端に柔らかかった麻季の体が硬直した。でも僕はその言葉
を誘いだと解釈して行為を続行した。このとき麻季がもう少し強く抵抗していればきっと
彼女も相変わらず疲れているのだと思って諦めたかもしれない。でもこのときの麻季は可
愛らしく僕の腕のなかでもがいたので、僕はそれを了承の合図と履き違えた。しつこく体
を愛撫しようとする僕に麻季は笑いながら抵抗していたから。でもいい気になって麻季の
服を脱がそうとしたとき、僕は突然彼女に突き飛ばすように手で押しのけられた。
「あ」
 麻季は一瞬狼狽してその場に凍りついたけどそれは僕の方も同じだった。
 僕は再び麻季に拒絶されたのだ。
「ごめん」
「ごめんなさい」
 僕と麻季は同時にお互いへの謝罪を口にした。
「ごめん。今日ちょっと酒が入っているんで調子に乗っちゃった。君も疲れているんだよ
ね。悪かった」
 いつまで麻季に拒否されるんだろうという寂しさを僕は再び感じたけど、ろくに家に帰
ってこない亭主の代わりに家を守って奈緒人を育ててくれている麻季に対してそんなこと
を聞く権利は僕にはない。
192:
「あたしの方こそごめんなさい。博人君だって我慢できないよね」
「いや」
「・・・・・・口でしてあげようか」
 麻季が言った。それは僕のことを考えてくれた発言だったのだろうけど、その言葉に僕
は凍りつき、そしてひどく屈辱を感じた。
「もう寝ようか」
 麻季の拒絶とそれに続いた言葉にショックを受けたせいで、僕のそのときの口調はだい
ぶ冷たいものだったに違いない。
 そのとき麻季が突然泣き始めた。
「悪かったよ」
 僕はすぐに麻季を傷つけた自分の口調に後悔し、謝罪したけど彼女は泣き止まなかった。
「ごめんなさい」
「君のせいじゃないよ。僕のせいだ。君が奈緒人の世話で疲れてるのにいい気になってあ
んなことしようとした僕の方が悪いよ。本当にごめん」
 それでも麻季は俯いたままだった。そして突然彼女は混乱した声で話し始めた。
「ごめんなさい。謝るから許して。あたしのこと嫌いにならないで」
 僕は自責の念に駆られて麻季を抱きしめた。こんなに家庭に尽くしてくれている彼女に
こんなにも暗い顔をさせて謝らせるなんて。
「謝るのは僕のほうだよ。まるでけものみたいに君に迫ってさ。君が育児と家事で疲れて
るってわかっているのに。仕事にかまけて君と奈緒人をろくに構ってやれないのに」
 僕の方も少し涙声になっていたかもしれない。麻季は僕の腕の中で身を固くしたままだ
った。かつて彼女が僕のアパートに押しかけてきたときの、まるで言葉が通じなかった状
態のメンヘラだった麻季の姿が目に浮かんだ。ここまで麻季と分かり合えるようになった
のに、一時の無分別な性欲のせいでこれまでの二人の積み重ねを台無しにしてしまったの
だろうか。
 そのとき麻季が濡れた瞳を潤ませたままで言った。
「本当に好きなのはあなただけなの。それだけは信じて」
 何を言っているのだ。僕は本格的に混乱した。もともとコミュ障気味の麻季だったけど、
このときは本気で彼女が何を言っているのかわからなかった。
「わかってるよ。落ち着けよ」
「あなたのこと愛している・・・・・・あなたと奈緒人のこと本当に愛しているの」
「僕も君と奈緒人のことを愛してるよ。もうよそうよ。本当に悪かったよ。君が無理なら
もう二度と迫ったりしないから」
「違うの。あなたのこと愛しているけど、あの時は寂しくて不安だったんでつい」
「・・・・・・え」
 僕はその告白に凍りついた。
「一度だけなの。二回目は断ったしもう二度としない。彼ともちゃんと別れたし。だから
許して」
 混乱する思考の中で僕は麻季に抱きつかれた。僕の唇を麻季がふさいだ。そのまま麻季
は僕を押し倒して覆いかぶさってきた。
「おい、よせよ」
「ごめんね・・・・・・しようよ」
 彼女はソファに横になった僕の上に乗ったままで服を脱ぎ始めた。僕は混乱して麻季を
跳ね除けるように立ち上がったのだけど、その拍子に彼女は上着を中途半端に脱ぎかけた
まま床に倒れた。麻季が泣き始めた。深夜になってようやく落ち着いた麻季から聞き出し
た話は僕を混乱させた。麻季は浮気をしていたのだ。それも奈緒人を放置したままで。
193:
 その相手との再会は保健所の三ヶ月健診から帰り道でのできごとだった。麻季は奈緒人
を乗せたベビーカーを押して帰宅しようとしていた。途中の駅の段差でベビーカーを持て
余していた麻季に手を差し伸べて助けてくれた男の人がいた。お礼を言おうと彼の顔を見
たとき、二人はお互いに相手のことを思い出したそうだ。
 彼は大学時代に麻季を殴った先輩だったのだ。麻季は最初先輩のことを警戒した。でも
先輩は何事もなかったように懐かしそうに麻季にあいさつした。当時近所にママ友もいな
いし僕も滅多に帰宅できない状況下で孤独だった麻季は、先輩に誘われるまま近くのファ
ミレスで昔話をした。サークルや学科の友人たちの消息を先輩はたくさん話してくれた。
 当時の友人たちはそれぞれ自分の夢に向かって頑張っているようだった。中には夢を実
現した友人もいた。僕との結婚式で「麻季、きれい」と感嘆し羨望の眼差しをかけてくれ
た友人たちに対して当時の麻季は優越感を抱いていたのだけど、その友人たちは今では華
やかな世界で活躍し始めていた。国際コンクールでの入賞。国内どころか海外の伝統のあ
るオケに入団している友だちもいた。
 それに比べて自分は旦那も滅多に帰宅しない家で一人で子育てをしている。麻季の世界
は奈緒人の周囲だけに限定されていた。結婚式で感じた優越感は劣等感に変わった。麻季
の複雑な感情に気づいてか気が付かないでか、先輩は自分のことも話し出した。国内では
有名な地方オーケストラに入団した先輩は、まだ新人ながら次の定期演奏会ではチェロの
ソリストとして指名されたそうだ。
「みんなすごいんですね」
「君だって立派に子育てしてるじゃん。誰にひけ目を感じることはないさ。それにとても
幸せそうだよ」
「そんなことないです」
「きっと旦那に大切にされてるんだろうね。まあ、正直に言うと君ほど才能のある子が家
庭に入るなんて意外だったけどね」
「あたしには才能なんてなかったし」
「佐々木先生のお気に入りだったじゃん。みんなそう言ってたよ。君がピアノやめちゃう
なんてもったいないって」
 そのときは先輩と麻季はメアドを交換しただけで別れた。それ以来先輩からはメールが
毎日来るようになった。その内容も家に引きこもっていた麻季には眩しい内容だった。そ
のうちに麻季は先輩とのメールのやり取りを楽しみにするようになった。
 そしてその日。先輩のオケの定期演奏会のチケットが送られてきた。それは先輩がソリ
ストとしてデビューするコンサートのチケットだった。麻季は実家に奈緒人を預けて花束
を持ってコンサートに出かけた。知り合いのコンサートを聴きに行くのは久し振りで彼女
は少しだけ大学時代に戻った気がしてわくわくしていた。
 終演時に観客の喝采を浴びた先輩は、客席から花束を渡す麻季を見つめて微笑んだ。実
家に預けた奈緒人のことが気になった麻季がコンサートホールを出たところで、人目を浴
びながらもそれを気にする様子もなく先輩がタキシード姿で堂々と彼女を待ち受けていた。
 その晩、誘われるままに先輩と食事をした麻季はホテルで先輩に抱かれた。
 話し終えた麻季がリビングの床にうずくまっていた。さっき脱ごうとした上着の隙間か
ら白い肌を覗かせたままだ。それがひどく汚いもののように見える。情けないことに僕は
一言も声を出すことができなかった。麻季が浮気をした。こともあろうに大学時代に僕が
麻季を救ったその相手の先輩と。麻季との恋愛や結婚、そして奈緒人の誕生は全てそこが
出発点だったのにその基盤が今や音を立てて崩壊したのだ。
「・・・・・・先輩のこと好きなの?」
 僕はようやく言葉を振り絞った。
「本当に好きなのは博人くんだけ。でも信じてもらえないよね」
 俯いたまま掠れた声で麻季が言った。
「先輩と何回くらい会ったの」
「最初の一度だけ。そのときだって先輩に抱かれながら奈緒人とあなたの顔が浮かんじゃ
って。もうこれで最後にしようって彼に言ったの。それから会ってないよ」
 回数の問題じゃない。確かに慣れない子育てに悩んでいる麻季を仕事にかまけて一人に
したのは僕だった。でも心はいつも麻季と奈緒人のもとを離れたことなんてなかった。麻
季だって寂しかったのだ。仕事中に頻繁に送られてくるメールだって今から思えば寂しさ
からだったのだろう。でも僕はそこで気がついた。あれだけ頻繁に僕に送信されていた
メールがあるときを境にその回数が減ったのだ。それは麻季が先輩と再会してメールでや
り取りを始めた頃と合致する。
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