【歴史】原住民と学ぶインドネシア独立と大日本帝国の関係【完結編】back

【歴史】原住民と学ぶインドネシア独立と大日本帝国の関係【完結編】


続き・詳細・画像をみる


http://hayabusa.open2ch.net/test/read.cgi/livejupiter/1426336637/
前スレ:【歴史】原住民と学ぶインドネシア独立と大日本帝国の関係
http://hayabusa.open2ch.net/test/read.cgi/livejupiter/1426336637/967
最終更新分は、前スレ>>967からになります…。
【歴史】原住民と学ぶインドネシア独立と大日本帝国の関係
http://world-fusigi.net/archives/8113573.html
【歴史】原住民と学ぶインドネシア独立と大日本帝国の関係【中編】
http://world-fusigi.net/archives/8113575.html
【歴史】原住民と学ぶインドネシア独立と大日本帝国の関係【完結編】
http://world-fusigi.net/archives/8113577.html
2:
( ・◇・)「いよいよ”独立戦争”が始まったね」
( ・◇・)「知ってる?スラバヤもそうだけど、バンドンの街も火に包まれたんだって」
( ・◇・)「なんでも、インドネシア軍自らが市街地に火を放ったんだってさ」
( ・◇・)「イギリス軍はバンドンを”オランダ軍”に引き渡すため、バンドンの街を占領する寸前だった」
( ・◇・)「インドネシア軍はそれを絶対に阻止したかったんだってさ…」
3:
( ・◇・)「それと、首都ジャカルタの治安が悪化してきたんだってさ」
( ・◇・)「共和国派とオランダ派の武装対立が表面化してきたんだ」
( ・◇・)「それに伴って、首都はジャカルタから”ジョグジャカルタ”に移ったそうだよ」
( ・◇・)「ジャカルタはジャワ島西部、それに対してジョグジャカルタはジャワ島中部」
( ・◇・)「名前は似てるけど、場所は全然違うから間違えないでね」
( ・◇・)「ちなみにジョグジャカルタはね、昔”マタラム王国”が栄えた土地なんだ」
4:
( ・◇・)「新首都ジョグジャカルタに大統領と副大統領が避難して、」
( ・◇・)「旧首都ジャカルタにはシャフリル首相が残って、イギリスオランダとの交渉を継続するんだって」
( ・◇・)「…戦争が始まった以上、ぼくたちはもう引き返せない」
( ・◇・)「一体この先、ぼくたちはどうなってしまうんだろうね…」
5:
・豆知識『独立戦争に参加したインドネシア人』
実は、インドネシア人の中にも”親オランダ派”はいるのです。
インドネシア各島によって傾向が違い、”親オランダ派”の多い島もあったそうです。
そのような島では”親オランダ派”のインドネシア人がオランダ人に協力し、
”蘭印作戦”の時には、オランダと共に戦ったそうです。
この”インドネシア独立戦争”でも、それは例外ではなく、
オランダ軍の上陸を歓迎し、オランダ軍に参加するインドネシア人兵士もいました。
更に”ジャワ郷土防衛義勇軍・ペタ”出身者の中にも、親オランダ派は存在したそうです。
あまり目立たない彼らは、どちらかというと少数派だったのかもしれません。
ですが、やはりインドネシアも一枚岩ではなかったものと思われます。
6:
(・印・)「ぼくはインドから派遣されて来た”インド人兵士”だよ」
(・印・)「インドネシアにやって来てるイギリス軍の、そのほとんどは”インド人兵士”なんだ」
(・印・)「インドはイギリスの植民地だからね」
(・印・)「だから、ぼくたち”インド人兵士”は、イギリス軍としてインドネシア人と戦わなきゃいけないんだ」
7:
(・印・)「だけど…」
(・印・)「正直、ぼくたちも”独立”したいんだ」
(・印・)「インドネシア人たちの独立願望は、とてもよく理解できる」
(・印・)「日本軍政時代は一緒に戦った仲間同士だしね」
(・印・)「だから……」
(・印・)「ぼくはこれから、インドネシア軍に味方するよ」
インドから派遣されたイギリス軍インド人兵士。
彼らは、インドネシア独立運動の理解者でした。
彼らの中には兵舎を抜けだし、インドネシア軍に参加する者もいたそうです。
8:
(●▲●)「は?」
(●▲●)「おい、お前んとこの兵士がインドネシア軍に加わっとるぞ!?」
(●▲●)「一体どうなっとんのや!?」
(U・×・U)「そんなこと言われても…」
9:
(・露・)「今まで黙って見とったんやけど…」
(・露・)「最近のイギリスはんは、インドネシアを支配しとるそうやないか?」
(・露・)「これな?、どう見ても”植民地化”狙っとるんちゃう?」
(・露・)「アカンな?、アカンやろな?、”植民地帝国”の復活やろな?」
(・露・)「人道的に、こんなのは許されんやろな?」
(・露・)「せやろ?」
(U・×・U)「ぐぬぬ…」
10:
1946年11月
(U・×・U)「なんでぼくたちばかり、こんなに責められないといけないんだ…」
(U・×・U)「ぼくたちはあくまで、オランダの代わりに来ているだけなのに…」
(U・×・U)「………」
(U・×・U)「……ああ、またインドのネール首相から非難の声明が来た」
(U・×・U)「”インド人をインドネシアで戦わせるな”って」
(U・×・U)「………インド兵の派遣も、そろそろ限界だ」
(U・×・U)「何より、インド人兵士たちが、インドネシアの独立に同情し始めている」
11:
(U・×・U)「………」
(U・×・U)「我々だって、インドネシアの独立願望は、理解しているつもりだ」
(U・×・U)「だけど、ぼくたちはオランダの準備が整うまでは、この地に留まらないと…」
(U・×・U)「………あー、もう…」
(U・×・U)「大体これは、オランダとインドネシアの問題なんだ」
(U・×・U)「ぼくたちイギリスは、全く、関係ないんだ」
(U・×・U)「正直、さっさとここから手を引きたいよ…」
12:
(U・×・U)「なぁ、もういい加減にしてくれないか?」
(U・×・U)「こっちはインドの独立問題で手一杯なんだよ」
(U・×・U)「これ以上、こんなところで油を売ってなんかいられない」
(U・×・U)「早くインドネシア側と協定を結んでくれよ」
(・蘭・)「仕方ないですね…」
13:
[ジャワ島・チルボン]
(U・×・U)「インドネシア共和国の領地は『ジャワ島』『スマトラ島』『マドゥラ島』である」
(U・×・U)「インドネシア共和国には『オランダ・インドネシア連合王国』の『インドネシア連邦』に加盟してもらう」
(U・×・U)「以上をもって、”リンガルジャティ協定”を締結するよ」
(*・公・*)「はい、分かりました」
(・蘭・)「異論はないです」
イギリス・キーラン郷の斡旋により、インドネシア首相・シャフリル、オランダ領東インド政府副総督、ファン・モークが交渉。
彼らによって”リンガルジャティ協定”が締結されました。
14:
・豆知識『バリ島の独立戦争』
バリ島にも”インドネシア独立戦争”を戦ったインドネシア人の英雄がいました。
貴族出身、インドネシア軍中佐、グスティ・ングラライ。
ゲリラ戦で8ヶ月間を戦い抜くも、最期の戦闘でオランダ軍の降伏勧告を拒否。
壮絶に戦い抜き、残留日本兵12名を含む同志94名と共に、玉砕したそうです。
後に彼の名は国際空港の名として残り、像や紙幣の肖像にもなります。
彼は今でもインドネシアの地で、同志らと共に眠っています。
しかし残念ながら、バリ島での独立戦争は、実質彼らだけだったそうです。
バリ島はオランダの支配下に収まり、
”リンガルジャティ協定”によって、バリ島は”インドネシア共和国”から切り離されたのでした。
15:
(U・×・U)「よし!これで協定締結だね?」
(U・×・U)「それじゃぼくらはすぐに兵を引き上げるから」
(U・×・U)「これからはインドの独立問題に取り組まないとね…」
協定が締結するや否や、イギリス軍はやかにインドネシアから撤退したのでした。
16:
・豆知識『イギリス領インド帝国の分離独立』
第二次世界大戦終結後、イギリスは”イギリス領インド帝国”の放棄を検討し始めます。
イギリスは世界大戦での疲弊によって、経済力、軍事力が破綻。
インドの軍人・官僚からの忠誠を得るのも難しくなっていたのでした。
1947年8月15日。インドとパキスタンが分離独立。(これには後の東パキスタン・バングラデシュも含まれます)
更に1948年にはビルマ(ミャンマー)とセイロン(スリランカ)も分離独立し、
”イギリス領インド帝国”は完全に消滅したのでした。
なお、インドとパキスタン。これは二つの宗教を分離するため、国自体を分離した結果です。
これにより各地で強制移動・流入による大混乱が発生。
暴動や衝突、虐殺が発生し、死者は100万人にも達したと言われています。
インド独立運動・最大の悲劇とされ、今日においても両者の対立は続いています。
17:
さて、この協定に携わった両国の二人ですが…。
(●゚◇゚●)「は?」
(●゚◇゚●)「インドネシアがオランダに組み込まれる?」
(●゚◇゚●)「そんなの認められないよ、何勝手にやってんの?」
(*・公・*)「そ、そんな…」
(*・公・*)「ぼくは”インドネシア共和国”の存在をオランダに認めさせることが第一だと思うんだ」
(*・公・*)「多少譲歩してでも、対等であることを示すことに意義があるんだよ」
18:
(●゚◇゚●)「だとしても譲歩しすぎだよ」
(●゚◇゚●)「ふざけてんの?」
(●゚◇゚●)「大体シャフリル首相って、以前から気にくわなかったんだよね」
( ・`ω・´)「まあまあ」
( ・`ω・´)「ぼく、スカルノはこの協定を支持するよ」
( ・`ω・´)「だからこの話はもうおしまい、ね?」
(●゚◇゚●)「まぁ、スカルノさんが言うなら…」
インドネシア側は、スカルノが支持することで、この問題に決着を付けました。
19:
一方のオランダ側では…。
(●▲●)「”インドネシア共和国”を認める?」
(●▲●)「そんなん無理に決まっとるやろ」
(●▲●)「あれは、悪漢日本が馬鹿な原住民をそそのかして出来たもんや」
(●▲●)「真夏の夜の夢みたいなもんやで」
(・蘭・)「で、ですが!」
(・蘭・)「我が国の権益を守るためにも、共和国には妥協すべきかと!」
(●▲●)「は?妥協?」
(●▲●)「何言っとんのや、お前」
(●▲●)「大体どう見ても、今回のそれは、お前の権限を越えとるやろ!」
20:
(●▲●)「既にお前を支持した政権は交代した」
(●▲●)「もうお前が好き勝手出来る時代は終わったんや」
(●▲●)「それにお前は、ジャワ島生まれだそうじゃないか?」
(●▲●)「原住民に情でも湧いたんか?」
(●▲●)「そんな奴に任せたのがアカンかったんや」
(●▲●)「ここから先は、ワイらの指示に従ってもらうで」
(・蘭・)「はい…」
21:
1947年1月24日
(●▲●)「治安維持活動の時間やで?」
(●▲●)「ジャワ島東部のクリアンとシドアルジョを攻撃や!」
(●▲●)「占領したら、次は内陸のモジョクルトも攻めるで?」
( ・`ω・´)「ファッ!?」
( ・`ω・´)「まだ協定の最終手続きも済んでないんだぞ!?」
( ・`ω・´)「オランダは一体何を考えているんだ!!」
22:
( ・`ω・´)「どうする?徹底抗戦するべきか?譲歩するべきか?」
( ・`ω・´)「一体どうしてこうなった…」
(●゚◇゚●)「それもこれも、全部シャフリルのせいだ!」
(●゚◇゚●)「お前が無責任な協定を締結するから、こんなことに!」
(●゚◇゚●)「もうお前は辞めてしまえ!」
(*・公・*)「うぅ…」
党争に破れたシャフリルは、首相を辞任することになりました。
しかし、オランダとの交渉をシャフリル首相が主導していたのも事実。
スカルノはシャフリルを顧問に命じ、オランダとの外交交渉を継続させました。
23:
1947年6月28日
(●▲●)「スラバヤ、ジョグジャカルタ周辺への空爆も開始するで?」
(●▲●)「………」
(●▲●)「……よし、そろそろええかな」
24:
1947年7月17日
(●▲●)「あー、東インドの諸君、よく聞くんやで」
(●▲●)「我々は東インド治安維持のため、オランダを含めた”共同警察”の設置を要求する」
(●▲●)「これは我々からの”最後通牒”である」
(●▲●)「この最後通牒が無視された場合、」
(●▲●)「我々は、東インドの治安維持のため、」
(●▲●)「東インド全域への”警察行動”を開始する!」
25:
( ・`ω・´)「そんな理不尽な要求をされても困るよ!」
( ・`ω・´)「我々はインドネシア治安へのオランダ介入を、断固拒否する!」
26:
1947年7月21日
(●▲●)「ワイらは待った」
(●▲●)「待って、そして返答は変わらなかった」
(●▲●)「決まりやな」
(●▲●)「そんじゃ、始めるか」
(●▲●)「原住民は一人残らず、叩き潰すんやで」
27:
ジャカルタ。
チルボン。
チアミス。
タシクマラヤ。
スマラン。
マグラン。
更にスマトラ島メダン、パレンバン。
12万を越すオランダの大軍は、インドネシア共和国全域への侵攻を開始。
そしてオランダ軍は、主要都市、農園や油田など、主立った拠点を次々と占領。
オランダで”第一次警察行動”と呼ばれる大規模侵攻。
それは、オランダの圧勝でした。
28:
[ジョグジャカルタ]
( ・`ω・´)「うぅ、とうとう我々も追い詰められてしまった…」
( ・`ω・´)「…こうなったら、都市部は破棄するしかない」
( ・`ω・´)「農村に隠れて、ゲリラ戦に移行するよ!」
オランダ軍は首都ジョグジャカルタにも攻め入り、共和国軍は都市部を破棄。
以後、戦闘は農村部でのゲリラ戦に移行しました。
29:
1947年8月1日
(●▲●)「フハハ!ワイらの勝利は目前や!」
(☆●●●●)「そこまでだ!」
(●▲●)「なんや?」
30:
(☆●●●●)「我らは”国際連合・安全保障理事会”」
(☆●●●●)「我々はこの戦争の”即時停戦”を求める!」
(☆●●●●)「オランダとインドネシアは、”平和的手段”をもって紛争を解決してほしい!」
インドネシア共和国・国連代表シャフリルは、この戦争の解決を国連で求め続けていました。
やがて、設立したばかりの”安全保障理事会”によって”戦争の即時停戦、及び和平解決を求める決議”が採択。
この決議に基づき、8月4日、停戦は成立されました。
32:
国際連合GJ
33:
しかし。
(●▲●)「停戦?知らん知らん」
(●▲●)「ワイらのこれは、あくまで治安維持活動」
(●▲●)「ただの”警察行動”なんや」
(●▲●)「国民の秩序と安全を守るため、これは仕方のないことなんや」
(●▲●)「なぁ、せやろ?」
(*^○●)「ウン、ソウナンダ…」
(●▲●)「な?」
停戦成立後もオランダの攻撃は止みません。
占領地域には次々と”傀儡国家”が設立され、インドネシアは追い込まれていきました。
1947年12月9日には、ジャワ島西部ラワゲデ村で、男性150人以上が虐殺される事件も起きました。
34:
うおー…
35:
(*・公・*)「お願いです!どうかオランダを止めて下さい!」
(*・公・*)「ぼくたちはもう限界です」
(*・公・*)「このままではインドネシアは、本当に滅んでしまいます」
(*・公・*)「どうかぼくたちを助けて下さい!」
(☆●●●●)「う?ん……そうですね……」
(☆●●●●)「それでは”仲裁委員会”を設置しましょう」
シャフリルの求めに応じ、国連は”仲裁委員会”の設置を決定します。
36:
おいオランダゴラァ
37:
(*・公・*)「ぼくたちインドネシアは、オーストラリアを指名します」
(●▲●)「ワイらはオランダは、ベルギーを指名するで」
(・豪・)(・白・)「ぼくたちはアメリカを指名します」
(☆●●●●)「それでは、アメリカ、オーストラリア、ベルギー」
(☆●●●●)「この3カ国による”仲裁委員会”を設置」
(☆●●●●)「各代表者はジャカルタにて、停戦協定の締結を目標に活動して下さい」
こうしてようやく、停戦協定締結に向け、事は進んで行きました。
38:
1948年1月17日
[ジャカルタ沖・米国軍艦レンヴィル・艦上]
(☆●●●●)「インドネシア共和国の領地は『ジャワ島中部』『ジャワ島西端部』『マドゥラ島』である」
(☆●●●●)「これにて停戦協定”レンヴィル協定”を締結する」
( ・`ω・´)「……了解しました」
インドネシア共和国の領土は、更に狭まりました。
しかし他に手段はなく。インドネシア共和国はそれを認めるしかありませんでした。
39:
( ・◇・)「この停戦協定で、戦闘はようやく小休止したんだ」
( ・◇・)「でも、この協定を認められないシャリフディン内閣は総辞職したんだって」
( ・◇・)「しかし、代わりを務める政治家は誰もいなかった」
( ・◇・)「だから、ハッタ副大統領が首相と国防相を兼任」
( ・◇・)「新内閣を組織して、国内の混乱収拾とオランダとの外交交渉を継続していったんだ」
( ・◇・)「………」
( ・◇・)「…語り部みたいな役になってしまったね」
( ・◇・)「まぁ何はともあれ」
( ・◇・)「独立戦争はいよいよ、クライマックスに突入するよ」
40:
( `(エ)´)「”レンヴィル協定”なんて認められん!」
( `(エ)´)「我々”インドネシア共産党”は徹底抗戦を主張する!」
( `(エ)´)「スカルノ大統領!ハッタ副大統領!」
( `(エ)´)「お前たちの外交路線は間違っている!」
ムソ。
ジャワ島東部出身。
社会主義を経て、”インドネシア共産党”創立に参加した人物。
1926年。共産党の武装蜂起失敗と共に、ソビエトへ逃亡。
やがて独立戦争が始まると、彼はインドネシアに戻ってきていました。
彼が帰国したことで、”インドネシア共産党”は再び勢力を伸ばすようになります。
41:
('ω`)
シャリフディン前首相。
戦前。彼は弁護士として開業する一方、反ファシズム運動に身を投じます。
戦中。彼は日本軍に逮捕されますが、スカルノらの嘆願により一命を繋ぎ止めました。
戦後。彼はシャフリルと共に、日本協力者を批判した”非日協力者”として政界で頭角を現します。
情報相・国防相の要職に就き、シャフリルの後を継いで首相にもなりました。
首相在任中。彼ははオランダとの協調路線を進めていました。
1948年1月23日。シャリフディン内閣が総辞職。
1948年2月。シャリフディンは、共産党・社会党を中核とした”人民民主戦線”を組織。
1948年8月。ムソの帰還と共に、シャリフディンはムソと行動を共にするようになります。
42:
1948年9月18日
[ジャワ島東部・マディウン]
(・軍・)「もう我慢ならん!」
(・軍・)「これ以上奴らに好き勝手やられて堪るか!」
(・軍・)「我々はマディウンの政府機関を奪取し、」
(・軍・)「”インドネシア・ソビエト共和国”樹立を宣言する!」
”マディウン事件”。
”人民民主戦線”ダフラン中佐の率いる第29旅団が、マディウンの政府機関を襲撃。
”インドネシア・ソビエト共和国”を宣言し、シャリフディン派の政権が作られました。
これにより、ジャワ島中部・東部の各都市にも流れが波及。
ジョグジャカルタとマディウンによる、内戦状態となりました。
43:
-- ラジオ放送 --
( ・`ω・´)「全国民に告げる!」
( ・`ω・´)「これは、インドネシア共産党による、」
( ・`ω・´)「インドネシア共和国、転覆の企てである!」
( ・`ω・´)「我々は、これを絶対に許さない!」
( ・`ω・´)「国民諸君!」
( ・`ω・´)「ムソらによる共産党を選ぶか!」
( ・`ω・´)「それとも我々、スカルノ・ハッタによる共和国を選ぶか!」
( ・`ω・´)「好きな方を選ぶと良い!」
44:
インドネシア軍の主流は、反共産党でした。
そのため、共和国は断固たる態度で対応。国民に二者択一を迫ります。
やがて、反乱は一ヶ月ほどで鎮圧されました。
ムソは射殺され、ムソに内通したシャリフディン元首相も逮捕、処刑されました。
45:
しかし…。
(●▲●)「来たな、この時が」
46:
1948年12月11日
(●▲●)「我々は”レンヴィル協定”の破棄を通告する!」
(●▲●)「そして我々は」
(●▲●)「インドネシア共和国への」
(●▲●)「”第二次警察行動”を開始する!」
”第二次警察行動”。
内乱により、インドネシア軍の軍事力は低下していました。
これに乗じ、遂にオランダが、最終攻撃を仕掛けたのでした。
47:
オランダきたねぇなぁ
48:
[ジョクジャカルタ]
1948年12月19日早朝
オランダは、ジョグジャカルタ飛行場を襲撃、飛行場を占拠。
海兵隊と蘭印軍が陸路で侵攻し、市内要所を強襲。
そして…。
49:
( ・`ω・´)「………」
(^)'・▲・`(^)「………」
(●▲●)「………」
(●▲●)「………」
(●▼●)「………(ニッコリ」
(●▲●)「捕らえろ」
( ・`ω・´)「うわああああああああああああああああ」
1948年12月23日までに、ジョクジャカルタの3個中隊は敗北。
臨時首都ジョグジャカルタは陥落。
ジョグジャカルタのスカルノ大統領、ハッタ副大統領、そして閣僚の大半。
彼らは全て、オランダに逮捕されたのでした。
51:
(●▲●)「勝ったでー、大勝利や!」
(●▲●)「いやー、長い戦いやったな」
(●▲●)「でもそれもこれも全て終わり」
(●▲●)「これからはやっとワイらの時代やな!」
”第二次警察行動”。
インドネシアは存続の危機に追い詰められ、オランダは圧倒的な”軍事的勝利”を治めました。
52:
それは、
オランダの”外交的敗北”の始まりでした。
53:
1948年12月24日
[国連安保理]
(☆●●●●)「オランダのやり方は、全くもって論外だ!」
(☆●●●●)「オランダは”植民地主義”に固執している!」
(☆●●●●)「そんなオランダを、我々は支持することはできない!」
(☆●●●●)「我々は早急に、逮捕した指導者の解放を要求する!」
(☆●●●●)「そして、オランダはやかに和平協議に復帰するように!」
(☆●●●●)「これを無視した場合、我々アメリカは」
(☆●●●●)「オランダへの経済援助を停止する!」
(●▲●)「ファッ!?」
55:
アメリカは、ソビエトの共産主義と真っ向から対立していました。
その共産主義は”マディウン事件”でインドネシアを取り込もうとしますが、ハッタ政権はそれを断固たる態度で鎮圧しました。
これを、アメリカは高く評価していたのでした。
また、当時のアメリカは”レンヴィル協定”の実施に向けて動いている最中でした。
その最中に起きた”第二次警察行動”。それはアメリカの逆鱗に触れました。
こうしてアメリカは、
「オランダが”インドネシア独立”を容認しない場合、戦争被災国への復興援助”マーシャル・プラン”を取り消す」
と宣告したのでした。
56:
(U・×・U)「やっぱりオランダのやり方は間違ってるよねー」
(=◎ω◎=)「せやな、ワイが言うのもなんやけど、やっぱり植民地は不味いと思うわー」
  _、_
( ,_ノ` )「俺達はオランダを非難するよ」
また、インドネシア独立問題の実態が明らかになるにつれ、国際世論は植民地帝国に厳しくなっていきました。
1949年1月には、国連で”オランダ非難決議”が採択されました。
そして国連は、新しい理念”民族自決”を掲げます。
”自らの意思に基づいて政治運命を決定し、他国の干渉を認めない権利”。
国際世論は”脱植民地”へと加していったのでした。
57:
(●▲●)「な、なんや?一体どうしたんや?」
(●▲●)「もしかして、みんなあいつらの味方なんか?」
(●▲●)「……ま、まぁええわ、経済援助停止はかなり痛いけど」
(●▲●)「まずは一刻も早く、この事態を収拾せな」
58:
(●▲●)「おう、スカルノ!お前らはもう終わりや!」
(●▲●)「やかに我々と交渉すれば、悪いことにはならんはずやで!」
( ・`ω・´)「いや、それは無理だよ」
( ・`ω・´)「”既に権限は委譲されている”」
( ・`ω・´)「ぼくたちはもう、何の権限も持ち合わせちゃいないんだ」
(●▲●)「な、なんやて!?」
59:
(´・ω・`)「そうだね」
(´・ω・`)「君たちオランダが、協定を一方的に破棄することは読んでいた」
(´・ω・`)「だからぼくたちは、事前に準備していたんだ」
(´・ω・`)「我々インドネシア共和国は、スマトラ島に”臨時政府”を樹立する!」
非常時に備え、インドネシア側はスマトラ島に臨時内閣を組織する準備を進めていました。
そして、共和国首脳が逮捕されるや否や。
スマトラ島・大蔵大臣シャフルディンは、”共和国臨時政府”として名乗りを上げたのでした。
オランダは捕らえたスカルノらと交渉しようとしますが、スカルノらはこれを拒否。
権限は既に、スカルノらの手からは離れていたのでした。
60:
・豆知識『ジョグジャカルタ陥落以後』
( ・`ω・´)「国民のみんな!」
( ・`ω・´)「我々はオランダとの交渉継続を破棄する!」
( ・`ω・´)「オランダの卑劣な手段に屈するな!」
( ・`ω・´)「インドネシア人よ!オランダとの徹底抗戦に協力してくれ!」
ジョグジャカルタが陥落した後も、オランダ軍の侵攻は止まりません。
獄中のスカルノは、全国民に徹底抗戦を訴えます。
ジョグジャカルタを追われた共和国軍は、山岳地帯に逃げ込みます。
彼らはゲリラ戦によってオランダ軍に抵抗しました。
村から村へ行方をくらまし、オランダに通じている村を避け、彼らは逃避行を続けます。
1949年3月1日。
スハルト中佐指揮下で行われた”ジョグジャカルタ奪還作戦”。
この作戦では一時、ジョグジャカルタ都市中心部を6時間占領したそうです。
作戦こそ失敗したものの、彼らはインドネシア共和国存続をアピールし続けたのでした。
61:
スカルノすげえな
62:
(・印・)「インドネシアでは今、お米が不足しているらしいね」
(・印・)「ぼくたちがお米を送ってあげるよ」
独立したばかりのインド。
彼らはオランダ海軍の牽制も振り切り、インドネシアへ米を輸送しました。
国連に加盟した新独立国は、こぞってインドネシアを支持しました。
63:
(・豪・)「ワイらは基本的に白人主義なんやけど」
(・豪・)「ワイらもイギリスの植民地から独立した経緯があるからな」
(・豪・)「やっぱりインドネシアには、共感せずにはいられんのよ」
(・豪・)「せやから、ワイらはオランダ船舶の支援はせぇへんよ」
(・豪・)「ストライキで応じたるわ」
オーストラリア。
大戦時、彼らは連合軍としてオランダと共に戦いました。
日本のインドネシア占領時代、蘭印亡命政府はオーストラリアに間借りする程の仲でした。
オランダの後援者、オーストラリア。
そんな彼らですら、オランダを批判したのでした。
64:
(●▲●)「なんでや!インドネシアは日本の傀儡国家やで!?」
(●▲●)「それやのに、一体どうしてみんな、あいつらの味方なんや!?」
(●▲●)「ワイらかて、ドイツに占領されたせいで、経済はボロボロや」
(●▲●)「それでもインドネシアを取り戻すため、莫大な軍事費に耐えてきたんやで?」
(●▲●)「同じ戦勝国同士、少しはワイらの味方してくれてもええやないか?」
(●▲●)「……分からん、一体どうして、こんなことになったんや…?」
66:
やがて国際世論の圧力の下、オランダは追い込まれていきます。
そして…。
67:
1949年2月
(●▲●)「………」
(●▲●)「………我々オランダは、
(●▲●)「インドネシア共和国と交渉することに、」
(●▲●)「………同意する」
遂にオランダは、国際世論に屈したのでした。
68:
1949年5月
(*・公・*)「”ルム=バン・ロイエン協定”が締結されます」
(*・公・*)「これにより、インドネシアとオランダの停戦合意が、完了されました」
69:
数の暴力はおそろしいなあ
70:
1949年7月6日
[ジョグジャカルタ]
( ・`ω・´)「ただいま!」
( ・`ω・´)「我々の勝利だ!」
( ・`ω・´)「7月13日には、スマトラ島臨時政府が解消される」
( ・`ω・´)「首都ジョグジャカルタの政府機能が復活するよ!」
インドネシア指導者は解放され、ジョグジャカルタは歓声に包まれました。
71:
1949年8月23日
[オランダ・首都ハーグ]
(●▲●)「……これより、”ハーグ円卓会議”を開催します」
(^)'・▲・`(^) (*^○●)
インドネシア共和国代表ハッタ、そしてオランダ傀儡諸国の代表たちが集まり、”ハーグ円卓会議”が始まります。
”ハーグ円卓会議”は11月2日まで続きました。
そして…。
72:
1949年12月27日
(●▲●)「”インドネシア連邦共和国”を樹立する」
(●▲●)「オランダは無条件で、インドネシアの主権を”インドネシア連邦共和国”に引き渡す」
(●▲●)「”インドネシア連邦共和国”は、オランダ女王を元首とする”オランダ・インドネシア連合”に参加する」
(●▲●)「”インドネシア連邦共和国”の外交・国防・財政などに、オランダは永久に協力する...などなど」
(●▲●)「以上をもって、”ハーグ協定”を締結する」
73:
インドネシア共和国
東インドネシア国
パスンダン国
東ジャワ国
マドゥラ国
東スマトラ国
南スマトラ国
中部ジャワ自治国
バンカ自治国
ビリトン自治国
リアウ自治国
西カリマンタン特別地域
大ダヤク自治国
バンジャル地域
東南カリマンタン
東カリマンタン
これらの国、自治地域から構成される”インドネシア連邦共和国”。
インドネシア共和国以外の構成国は、その殆どが”オランダの傀儡国家”です。
とは言え、インドネシア共和国はジャワ島半分とスマトラ島大部分を有し、
”インドネシア連邦共和国”4600万人のうち、3100万人がインドネシア共和国だったそうです。
何にせよ、遂にオランダは”インドネシアの独立”を認めたのでした。
74:
[ジャカルタ]
( ・`ω・´)「ここに掲揚されているオランダ旗は全部外すよ!」
( ・`ω・´)「そして、ぼくたちの国旗”メラ・プティ”を掲揚するんだ!」
( ・`ω・´)「……遂にぼくたちは、独立したんだなぁ…」
75:
( ・`ω・´)「オランダがインドネシアに17億3200万ドルの債務負担を要求してきたよ」
( ・`ω・´)「なんとか11億3000万ドルの債務負担で合意したけど」
( ・`ω・´)「何はともあれ、これで独立戦争はおしまい」
( ・`ω・´)「インドネシアはオランダから独立し、ぼくたちの悲願は成就した」
( ・`ω・´)「めでたしめでたし、だね。」
( ・`ω・´)「………」
( ・`ω・´)「………でも、まだやることがあるよね」
76:
(*^○●)
(^)'・▲・`(^)「こんにちは」
(*^○●)「あ、ハッタさん」
(^)'・▲・`(^)「”ハーグ協定”以来だね」
(^)'・▲・`(^)「それで、あの時の話、考えてくれたかな?」
(*^○●)「………」
(*^○●)「………うん、決めたんだ」
(*^○●)「ぼくらはオランダを排除し、再び集わなくてはいけない」
(*^◯^*)「ぼくたち”傀儡国家”は、”インドネシア共和国”に合流するんだ!」
彼らは”傀儡国家”と言えど、インドネシア共和国に賛同する者も多かったそうです。
”ハーグ円卓会議”にて、彼ら”傀儡国家”は、インドネシア共和国の主張に耳を傾けました。
そして…。
77:
1950年8月15日
( ・`ω・´)「”インドネシア連邦共和国”諸国の権力は、」
( ・`ω・´)「全て”インドネシア共和国”のジャカルタ中央政権に委譲されました!」
( ・`ω・´)「これにより”インドネシア連邦共和国”は事実上の解体!」
( ・`ω・´)「これより我々は、」
( ・`ω・´)「真の”インドネシア共和国”の樹立を宣言します!」
”インドネシア連邦共和国”の全ての国が、インドネシア共和国に主権を委譲。
そして遂に、単一の国家”インドネシア共和国”が宣言されます。
78:
それは、インドネシアの独立が、完全に果たされた日。
300年に及ぶオランダの影響力が今、完全に潰えたのでした。
79:
イイハナシダナー
80:
・豆知識『インドネシア独立戦争』
1945年から1949年までの4年5ヶ月にわたる戦争。
インドネシア全土で80万人が犠牲になりました。
その中でも特に目立つのが、1947年7月21日と1948年12月19日の二度に渡って起きた”警察行動”。
このオランダの軍事侵攻は、二回ともインドネシアに壊滅的被害を与え、
二回ともオランダに致命的な逆風をもたらしました。
結局、イギリスと違い、オランダは最後までインドネシアに拘り、全てを失いました。
仮に名誉ある撤退が可能だったとすれば、それはあの”リンガルジャティ協定”の時点ではないでしょうか。
当時のオランダで酷評された”リンガルジャティ協定”と、ファン・モーク。
それらがオランダで再評価されるのは、遥か後年になってからのことです。
時は流れ、2005年。
オランダは初めて、インドネシアへの謝罪を行いました。
そして、”インドネシアが1945年8月17日に独立したこと”。
これをオランダは、遂に認めたのでした。
81:
 【エピローグ】
82:
1949年1月9日明け方
[ジャワ東部・スメル山麓ダンピット]
83:
彡(゚)(゚)
彡(゚)(゚)「ハァ…ハァ…」
彡(゚)(゚)「……あそこがオランダの兵舎か」
彡(゚)(゚)「………」
彡(゚)(゚)「……この戦争も、そろそろ終わりやな」
彡(゚)(゚)「何せ、あのアメリカが動き出したらしいからな」
彡(゚)(゚)「いよいよ、インドネシアの独立が、」
彡(゚)(゚)「世界中に認められるんやな」
84:
彡(゚)(゚)「………」
彡(゚)(゚)「”インドネシア共和国”」
彡(゚)(゚)「………」
彡(゚)(゚)「………そこに、ワイらの居場所はない」
彡(゚)(゚)「分かっとったんや、最初から」
彡(゚)(゚)「ここは、インドネシア人のための国や」
彡(゚)(゚)「ワイらは、彼らの国を作るために、この戦争に協力したんや」
彡(゚)(゚)「見返りなんかいらん」
彡(゚)(゚)「そういうもんやろ?」
彡(゚)(゚)「………」
彡(゚)(゚)「………よし、いくか」
85:
彡(゚)(゚)「ぁあ゛あ゛あ゛あ゛ぁぁああぁああ゛あ゛あ゛あ゛
(ターン)
彡(゚)(゚)「あっ」
彡(゚)(゚)「………」
彡(゚)(゚)「………」
彡(^)(^)「………」
彡(^)(^)「………ほな」
彡()()
86:
ゲリラ隊隊長、アブドゥル・ラフマン。
戦前、彼は”トコ・ジュパン”の店員として渡り、やがて新聞記者として独立運動に共感しました。
戦中、彼は”タンゲラン青年道場”で”ペタ”に情熱を傾けました。
”脱走兵”として日本軍を離れ、インドネシアに協力した彼ら。
彼らは皆”インドネシア名”を持ち、インドネシア人として戦いました。
アブドゥル・ラフマン。
彼は、市来龍夫という日本人でした。
87:
”脱走兵”として軍を離れ、独立戦争を戦い抜いた彼ら。
彼らは常に最前線で指揮を執り、その死亡率はとても高かったそうです。
オランダは日本人に特別な懸賞金をかけ、逮捕された日本人は処刑されたそうです。
88:
やがて、独立戦争は終わります。
89:
3000人と言われた”残留日本兵”。
そのうち1000人は、最前線で戦い、戦死したと言われています。
インドネシアでは、独立戦争を戦った”英雄”は、死後”カリバタ英雄墓地”に埋葬されます。
”残留日本兵”。
日本人の彼らもまた”英雄”であり、”英雄墓地”に眠ることを許されているのです。
90:
彡(゚)(゚)「………」
彡(゚)(゚)「………結局、ワイらは生き延びてしまった…」
彡(゚)(゚)「………」
彡(゚)(゚)「さっき、日本への引き揚げ船が来たわ」
彡(゚)(゚)「ワイら脱走兵も、日本へ帰国してええんやとさ」
91:
彡(゚)(゚)「………」
彡(゚)(゚)「…あそこに居るあいつは、インドネシアに留まるらしい」
彡(゚)(゚)「ワイらはもう、インドネシア名を得たインドネシア人や」
彡(゚)(゚)「帰ったところで”非国民”と罵られるかもしれん」
彡(゚)(゚)「それに、ワイらは旧軍刑法を違反しとる」
彡(゚)(゚)「下手すると処刑もんや」
彡(゚)(゚)「………あいつは、日本に戻るのが怖いらしい」
彡(゚)(゚)「見つかるのが怖いから、もう、日本名は名乗らんそうや…」
彡(゚)(゚)「………」
彡(゚)(゚)「……ワイは、どうするかな………」
92:
生き残った2000人のうち、
1000人は、日本に帰国したそうです。
1000人は、インドネシアに残ったそうです。
インドネシアに残った彼らは、やがてインドネシア人と結婚し、
インドネシアへ帰化し、インドネシア国籍を取得し、インドネシアに永住しました。
その中には、終生日本名を名乗らず、時の流れに埋もれていった者たちもいたそうです。
1960年代。日本企業が本格的にインドネシア進出し始める頃。
日本とインドネシアの橋渡しをしたのは、彼ら”元残留日本兵”でした。
彼らはその後も、日本とインドネシアの交流に貢献したのでした。
94:
その後のインドネシアにも、色々ありました。
政治では”議会制民主主義”を忠実に実行していたのですが………。
1954年。インドネシアは”オランダ・インドネシア連合”を解消。
1956年には”ハーグ協定”も正式に破棄。インドネシアは非同盟中立国家として歩み始めます。
1960年。ソビエトの軍事援助を受けたスカルノは、オランダとの国交断絶を宣言します。
そして”ハーグ協定”で決着しなかった問題、オランダ支配下の”イリアンジャヤ”へ進軍。
1962年にアメリカの調停を経て、”イリアンジャヤ”はインドネシアに組み込まれたのですが………。
ここから先も、まだまだ歴史は続きます。
ですがひとまず、今回はここまで、ということで。
98:

99:
( ・`ω・´)
スカルノ。
ハッタと共に”建国の父”と呼ばれる人物。
101:
勉強させてもらったわ
103:
後に彼は”独裁者”として君臨し、”終身大統領”となります。
シャフリルを退け、ハッタとも袂を分かつこととなりました。
104:
好色、好戦、浪費、容共。
この4つがスカルノの特長であり、欠点でした。
特に、晩年、スカルノには第四夫人までが存在し、更にそれ以外にも二人以上の愛人がいたそうです。
昼寝用の女性が毎日取っ替え引っ替え同衾し、婦人なしではいられない病気だったとも言われています。
105:
”9月30日事件”。
このクーデターを境に、スカルノのカリスマ性は地に落ちます。
”終身大統領”の称号は返上させられ、晩年は宮殿に幽閉されていたそうです。
106:
1970年、死去。享年69歳。
その最期は宮殿の中で一人、ひっそりと。
多くの家族を持ちながら、その誰にも見取られず。
数多の称号を持ちながら、その墓碑銘には”工学技師”としか刻まれず。
”建国の父”としては寂しい、最期でした。
107:
・豆知識『デヴィ・スカルノ』
本名・根本七保子。
好色のスカルノ大統領に取り入る目的で、日本があてがった女性です。
イスラム教では、4人の妻までがコーランで認められていました。
既に同じ目的で送り込まれた女性がいましたが、用済みとなった彼女は自殺したそうです。
なお、マスコミの執拗な取材で体調を崩した実母は亡くなり、その二日後には実弟が自殺しています。
彼女の名”デヴィ”は、インドネシアの稲の女神”デウィ・スリ”から取ったものです。
スカルノの複数妻問題、外国人を第三夫人に迎えたこと、女神の神聖な名を与えたこと。
これらは問題になりましたが、独裁者スカルノを批判することは誰にもできませんでした。
やがて彼女は、スカルノから”インドネシア・日本親善協会会長”に任命されます。
日本との経済関連事項、利権の絡む物件に口を挟むようになり、日本も国をあげてそれを利用しました。
”9月30日事件”にて。
デヴィ夫人は日本大使館に保護を求めますが、政治的行為になるとして断れます。
海外へ逃亡したデヴィ夫人は、その後スペインの貴族と再婚し、離婚。
後に、彼女の裸の写真集が刊行された時は、インドネシア当局も困惑したそうです。
108:
・豆知識『賠償協定』
1958年1月20日。ジャカルタにて、日本とインドネシアの賠償協定が締結されます。
インドネシアの経済悪化に伴い、協定締結は早急に済まされました。
総額2億2300万ドル(当時803億円)。これを物資か役務で提供。
その他貿易債権破棄、経済協力4億ドルを加えると、総額約8億ドルの規模だったそうです。
当時のインドネシアは地方の反乱、オランダがインドネシアから船舶を引き揚げるなどで、
船舶が大幅に不足し、軍事・経済の両方に支障をきたしていました。
インドネシア側はとにかく船舶を要求し、日本側は足元を見る形で、中古船を高額で売り飛ばしたそうです。
賠償では他に、ダム、橋、工場などの有用なものから、ホテルやデパートなどのスカルノ大統領好みの物も贈られました。
前述のデヴィ・スカルノ夫人も、その一環と思われます。
この”インドネシア賠償汚職”は中々に真っ黒で、1959年には日本の国会でも取り上げられたそうです。
なお、スカルノ大統領は反米を煽り、外国企業農園への不法接収を黙認しました。
そのため、外国企業は相次いで撤退。
結果、”戦時賠償”という特殊な関係の日本のみが、外国との唯一の繋がりとなるのでした。
110:
(^)'・▲・`(^)
ハッタ。
スカルノと共に”建国の父”と呼ばれる人物。
111:
スカルノとハッタ、そしてシャフリル。
彼らは一枚岩ではなく、対立も多かったそうです。
112:
スカルノは”土着派”……”土着的・権威主義思想”を持つ人物です。
それに対して、シャフリルは”西欧派”……”西欧的・合理主義思想”を持つ人物でした。
思想の異なるスカルノとシャフリルは、よく対立しました。
113:
ハッタは”西欧派”だったため、シャフリル寄りの人物でした。
ですが彼は、スカルノら”土着派”の思想もよく理解していました。
そのため、スカルノとシャフリルが対立すると、ハッタが二人を調停することが多かったそうです。
彼らは絶妙なバランスで成り立っていたのでした。
114:
やがて、シャフリルが失脚します。
残ったスカルノとハッタは、様々な方針を巡って対立します。
ハッタはスカルノの”容共産主義”や、”政権の汚職体質”も批判したそうです。
115:
そして、遂にハッタは辞任を決断します。
スカルノとハッタは、決別したのでした。
残されたスカルノは独裁化を加し、”9月30日事件”に行き着くのでした。
116:
その後、ハッタが政界に復帰することはありませんでした。
後に、政界での汚職や不正批判が高まるたび、”ハッタ待望論”が唱えられたこともありました。
しかし彼は静かに、政界の行く末を眺め続けたのでした。
117:
1980年、死去。享年77歳。
スカルノの良きパートナー、ハッタ。
彼は最期まで、スカルノと決別したままでした。
118:
(*・公・*)
シャフリル。
独立宣言後、インドネシア初代首相となった人物。
119:
彼は、日本への協力者を厳しく批判した”非日協力者”です。
そのため、彼が最高権力者となることで、独立戦争中も、オランダとの外交交渉が可能となっていました。
120:
首相から降りた後。
彼は政府顧問として諸国を遊説し、インドネシア独立の支援を説いて回りました。
国連でも積極的に支援を求め、彼の求めに応じて国連が動いた形となりました。
彼もまた、独立戦争の貢献者でした。
121:
なお、シャフリルは社会党を結成していました。
そして、シャリフディンの社会党と合併し、新たな社会党を結成していました。
しかし”レンヴィル協定”の混乱の際、シャフリルはシャリフディンではなくハッタを支持。
社会党は分裂し、シャリフディン派はインドネシア共産党に合流。
そして”マディウン事件”が勃発するのでした。
122:
独立戦争終結後。
インドネシアで史上初めての、総選挙が実施されます。
シャフリルは自身の社会党を率いて総選挙に挑みます。
しかし得票率わずか2%。惨敗でした。
123:
弱小政党となった社会党は復活を目指しますが、
1958年”スマトラ反乱”に党関係者が参加していたため、社会党は活動停止処分。
更に1962年、政権転覆を謀ったとして、シャフリルはスカルノ政権に逮捕されてしまいます。
こうしてシャフリルは、スカルノに”長年の政敵”として、葬り去られてしまったのでした。
124:
その後、シャフリルは病気を理由にスイスへ出国、亡命。
1966年、亡命先のスイス・チューリッヒで死去。
享年57歳でした。
その後、スカルノが失脚した頃。
彼の遺体は、インドネシアに帰還します。
彼もまた、英雄墓地に埋葬されたのでした。
125:
彡(゚)(゚)
柳川宗成。
”タンゲラン青年道場”で指導に当たり、後のインドネシア共和国軍・幹部を育成した人物。
126:
残念ながら、彼は”インドネシア独立戦争”に参加することはできませんでした。
終戦後、彼は日本への帰還を余儀なくされたのでした。
127:
1964年。
柳川は家族と共に、再びインドネシアへ渡ります。
そして日本料理店を営み、インドネシアに永住しました。
1985年9月、死去。
彼は今でも、インドネシアの地で眠り続けています。
128:
彡(゚)(゚)
前田精。
”独立養正塾”を設立し、民主主義運動家を支援。
独立宣言時には、その邸宅を提供した人物。
129:
戦後。前田は不遇が続き、経済的に失敗したそうです。
1958年にはスカルノ大統領が初めて日本を訪問し、病床の前田を見舞ったそうです。
130:
1976年。
一度だけ健康が回復した前田は、インドネシアからの招待を受けます。
そこで”インドネシア独立記念祝典”に出席した前田は、”ナラリア勲章”を受賞します。
それは独立名誉勲章。
インドネシア独立に貢献した者に贈られる、国家最高の栄誉でした。
1977年、死去。享年79歳。
彼もまた、インドネシアで讃えられる人物でした。
131:
1979年
彡(゚)(゚)「…終戦から随分経った」
彡(゚)(゚)「孤立したまま独立戦争に参加したワイらも、年を取った」
彡(゚)(゚)「そろそろワイらは、また共に集おうと思う」
彡(゚)(゚)「”福祉友の会”を結成するで」
日本人残留者180名により、インドネシアで”福祉友の会”が結成されます。
独立戦争から時は流れ、やがて彼らは再び集結するようになりました。
132:
1991年
彡(゚)(゚)「日本では”平成”という年号になったらしい」
彡(゚)(゚)「ワイらの中で生き残っとるのも、あと21人だけや」
彡(゚)(゚)「……ホンマに、随分と時が過ぎたんやなぁ…」
133:
(・日・)「”一時軍人恩給”の支払いが決定されたよ」
(・日・)「戦後、”脱走兵”とされた彼ら残留日本兵に」
(・日・)「今まで軍人恩給は支払われてこなかった」
(・日・)「今回、彼らには特別に、恩給が支払われるよ」
”一時軍人恩給”。
既に日本人ではない彼らへの支給には、法律の壁が立ちはだかったのでしょう。
それは、平均額5万円程度。たった一度きりの恩給でした。
134:
それでも。
彡(;)(;)「お……おぉ……」
彡(;)(;)「ワイらはワイらの理由で、祖国に背を向けた…」
彡(;)(;)「そんなワイらでも、」
彡(;)(;)「祖国から、許されたんやな…」
彼らにとって、金額は問題ではありませんでした。
”祖国からの名誉が回復された”。
彼らはそれを、心の底から喜んだのでした。
135:
時は流れ…。
136:
2014年8月25日。
彡(-)(-)
その日。
最後の”元残留日本兵”の方が亡くなりました。
享年94歳でした。
彼の棺には、国旗”メラ・プティ”が被せられ、英雄墓地へと送られます。
彼もまた、インドネシアの英雄となったのでした。
137:
これで、この物語はおしまいです。
ここから先の未来。
平和国家を目指す日本に、彼らの物語は不要になるかもしれません。
あの時代から学ぶべきは、犯した罪と戦争の傷跡だけなのかもしれません。
138:
ですが、それでも。
どうか、忘れないで下さい。
混沌に包まれたあの時代。
”彼ら”の想いを救うため、立ち上がった人がいたことを。
時代の流れに抗った人がいたことを。
戦い、散っていった無銘の”英雄”がいたことを。
   彡(^)(^)っc(´・ω・`)
どうか、忘れないで下さい。
 【 原住民と学ぶインドネシア独立と大日本帝国の関係 】
      【 完 】
139:
これにて”原住民と学ぶインドネシア独立と大日本帝国の関係”は完結です。
最後までお付き合い頂きありがとうございました。
154:
終わってしまったのか…
140:
いちおつ
超大作やね(しんみり)
141:
サンキューイッチ!
フォーエバーイッチ!
144:
フライングすまんな
勉強になったのはもちろんやけど
感動までくれたわ…
サンキューイッチ
142:
いちおつ
知ってたつもりで知らないネタ多くてためになったわ
143:
イッチさん、誠にお疲れ様でした
145:
凄く読みやすく書いてくれてありがとうやで
勉強になったし、顔文字とかも含めて読み物としてホンマ面白かったで
また気が向いたら書いちくり?
152:
超大作やったわ。
お疲れやでイッチ
148:
サンキューイッチ
サンキュー英雄たち
フォーエバーインドネシア
【歴史】原住民と学ぶインドネシア独立と大日本帝国の関係
http://world-fusigi.net/archives/8113573.html
【歴史】原住民と学ぶインドネシア独立と大日本帝国の関係【中編】
http://world-fusigi.net/archives/8113575.html
【歴史】原住民と学ぶインドネシア独立と大日本帝国の関係【完結編】
http://world-fusigi.net/archives/8113577.html
引用元: ・【歴史】原住民と学ぶインドネシア独立と大日本帝国の関係【完結編】
-->
- Tweet
-
-
-
-
「歴史・文化」カテゴリの最新記事
「歴史・文化」の記事一覧
過去の人気記事ランダムPICK UP
おススメサイトの最新記事
コメント
1 不思議な
やっぱロシアはクソだな
中国もしね
2 不思議な
俺世界史の塾講師してたんだけど、この残留日本兵のこと少し熱くなって教えたら同僚の日本史講師に「右翼め」って言われてブチギレした思い出があるw
最近は講義を思想教育かなんかと勘違いしてる予備校やら塾の講師が多すぎなんだよ
3 不思議な
自分達の歴史を語れないなんて異常だ
是々非々で過去を学んで未来に活かすのが歴史の意義だろ?
何でも「右翼」のレッテル貼って言論弾圧するキチ左翼
4 不思議な
全部読んで感動したワイはムルデカ17805を注文しようとしたがプレ値に断念した
5 不思議な
よくまあこんな長々としたポエム読む気になれるな
尊敬するわ
6 不思議な
いい話読んだ後で右だ左だと騒ぐなよ
7 不思議な
読み応えあったで!
ただひとつインドネシアについて悪印象があるとするならば、昔から小国の乱立・内紛やら独裁やらの傾向が強い風土なんだな
フィリピンもまだ島々で独立紛争やってるし、南方の島国は我が強いのかな
8 不思議な
※6
右だ左だで争ってオランダに利用された話を読んでなお右左で争おうとするんだから病人だよ
こいつらの「正義感」の落とし所はないんだろな
9 不思議な
感動した
10 不思議な

続き・詳細・画像をみる


岸田メル「かわいい女の子を描くためにはまず自分が可愛くなる必要がある」

【サッカー】リバプール、ムヒタリアン獲得で合意 英紙

【悲報】 TBS社会部、釣りツイートに釣られる

卯月「プロデューサーさんの、本当の幸せを」

今日のサザエさんに木村沙織が出演(本人役)wwwwwww(※画像あり)

韓国「日本のせいで韓国はアジア通貨危機で破たん状態になった」

【悲報】「恋仲」月9史上初の打ち切り確定へwwwwwwwwwwwwwww

電話「…社です」ワイ「お世話になってます(難聴)」

バイクで長距離走れるという地味な特技

ブリーチのソシャゲ、KBTITがいよいよ3万人突破へ

【VIP】つくづく納得させられる名言

上地雄輔が嫌いなタイプ多すぎワロタwwwwwwwwwwwwww

back 過去ログ 削除依頼&連絡先