姪「お兄ちゃんのこと、好きだよ?」男「……そう?」【中編】back

姪「お兄ちゃんのこと、好きだよ?」男「……そう?」【中編】


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1:


 僕は、今、何月何日にいるのだろう。よく思い出せない。
 なにひとつ、思い出せない。


「その扉の向こうを、覗いてみなよ」
 僕は彼の言葉のまま、扉の向こうを覗きこむ。そこには、僕と同じ顔をした誰かが映っている。
「自分以外のことをかえりみなかった人間の、それは、なれの果てだよ」
292:


 僕はなにひとつ失ってなんかいない。そもそも僕は何も欲しがってはいないからだ。
 僕はただ自分が快適に生活するためだけに生きていた。
 にもかかわらず、僕はなぜこんなに不快な状態に押し込められているのだろう?
 
 僕を苦しめ苛むものはなんだろう?
 僕は彼女を、どうしたかったんだろう。
 


「僕の言いたいことが分かるかな。彼もまた、今は彼女のことを考えている。
 でも――すべては手遅れなんだ」
「……どういう意味?」
「たぶん、彼女はこういったことを想定していなかった。そのあたりが彼女の甘さなんだ。自分がつなげることの重大さに気づいていなかった」
 彼はいったい何を言っているんだろう。
293:


 誰か、誰でもいい。僕について上手に説明をつけてくれる人間はいないだろうか?
 僕はどこで間違ったんだろう? 何を間違えたんだろう? 
 それとも間違えてなんかいなかったんだろうか。でも、それはおかしい。
 そうじゃなければ、僕はなぜこんな場所にいるんだ?
 
 薄暗くて、狭くて、息苦しくて、耐え難い。
 まるで山椒魚みたいだ。


 
「彼の致命的な失敗は、自分以外の人間のことを一切考えずに生きてしまったことだ。あんたとはその時点で異なっている」
 僕は黙って目の前の少年の言葉を聞いていた。
「僕は彼のような人間が嫌いじゃないけど、でも、それも、彼女を見殺しにしなければ、の話だ。
 あいつを見殺しにするような人間を、僕は許せない」
 だから、と彼は言った。
「そういう奴には、相応しい場所がいる。そいつには、そこが妥当なのさ。ずっと閉じこもってたって、ちょうどいいくらいだ」
 その笑みは酷薄で、悲しげだった。
「あいつはそれを思い違いしていた。どんなに取り繕ったつもりでいたって、そいつは彼女を殺したんだ」
294:


 暗い。……狭くて、昏い。息苦しい。
 僕はここでいったい何をしているんだ? 少なくとも呼吸はしている。
 だが、それ以外の身動きが一切とれない。腕を動かすのも、足を動かすのも、不可能だ。
 いや、できないんじゃない。 
 したくないんだ。しようとすると、心がそれに逆らう。
 いまさら体を動かしたところでどうなるんだ? と。


「分かるかな。それが違いだよ。致命的な差異だ。あんたと彼を別つものは偶然なんかじゃない」
 宣告するように少年は言う。
「誰のために生きたか、だ。だからあいつは死んでる。いや、生きてるけど、死んだも同然だ」
 僕や彼女がしたこととは無関係に。
 彼女が彼を迎えに行くよりも先に、彼は既に死んでいた。
「終わっていたんだよ。彼女はそこを思い違いしていた。手遅れな奴は、とっくに手遅れなのさ」
 分かるかな、と彼は繰り返す。 
 僕には、よく分からない。
「あんたは無傷だから、気付けないかもしれないけど……今、ずいぶん危険なんだ。このままだとね」
 でも、と彼は言う。
「本当のところ、僕にはよくわからないんだ」
295:


 
 腐っていく。
 ここは、どこだろう?
 僕は今、どこにいて、何月何日なんだろう。
 腐臭が、鼻をつく。この臭いは、どこからやってきているんだろう。
 僕はかすかな呼吸を繰り返し、気付く。
 ああ、ここは、そうだ。
 現実だ。
 腐臭は、きっと――僕の身体から、出ているものだ。
296:


「彼女がなぜ死んだのか。もちろん、彼の世界の彼女が死んだ理由はとてもはっきりしている。
 彼が無関心だったのもそうだし、他の誰もが無関心だったせいでもある。
 さまざまな事情が、別世界のあなたの姉を殺意に駆り立てた。
 だから厳密に言えば、僕は彼だけを責めるべきじゃないんだろう。でもね、腹立たしいのはそこじゃないんだ」
 震えた声で彼は言った。僕にはそれが子供のわがままのように聞こえた。
「無関心とか、無神経さとか、そういうものが、そういうものが、嫌なんだ。うんざりするんだ。反吐が出る。死んじまえばいいと思う。
 無神経な人間には、生きてる価値がない。そういう人間は、死んでしまうべきなんだ。一匹残らず消えてしまうべきなんだ」
 その言葉には、どうしてだろう、どこかしら自傷的な響きが込められている気がした。
「だからね、僕は僕の世界の彼女がなぜ死んだのかを知りたいんだ。
 とても都合のいいことに、僕は彼みたいに世界を移動しなくても、時間を巻き戻るだけで原因を確かめられたってわけだ」
 
 そこで彼は目を細めた。射るような視線だった。
「もっとも、あんたが関係しているのははじめから明白だったけど」
「――」
「もちろん、今のあんたに言ったって仕方ないことだ。彼女を殺したのは未来のあんたであって、今のあんたじゃない」
 どういう意味か分かる? と彼は訊ねた。
「つまりこのままいけば、あんたも彼女を殺すってことだ」
 僕には、彼の言葉の意味が、半分も理解できない。
 ――ああ、そうだ。
297:


 僕の身体は動かない。僕の中に意思が存在していないからだ。
 僕はただベッドに寝転がって毛布をかぶっている。カーテンは閉め切られている。
 太陽の光を拒んだこの部屋に二度と朝が来ることはない。
 
 僕はこの中に永遠に住み続けるしかない。 
 そういう宿命だったのだ。
 それはおそらく回避しようのあるものだったろう。でも僕はここに来てしまった。
 この僕は今ここにいる。そうである以上、分岐がどこにあろうと関係はない。
 僕は結果としてここにいるのだ。
 体からは腐臭がする。魂が腐っているのだ。
 誰からも見えないし、誰にも触れられない。僕はここに閉じこもっている。
 いつからだろう? どうしてこんなことになったのだ?
 切断されたのだ。僕が繋がるはずだった、繋がっているはずだった場所から。
 それはなぜ? 僕が不要になったからだ。
 だって僕は、ここで腐っている以外に何にもなりようがない存在なのだから。
 手足はとうに、朽ちている。
 頭はとっくに枯れている。
 そんな人間は、誰にとっても無効でいい。
298:


「ひとつ言ってもいいかな」
 と僕は彼に向けて言った。
「なんだろう?」
 と彼は首をかしげる。僕は笑い飛ばしたい気持ちになった。
「何の話をしているのか、さっぱり分からないんだけど」
 少年は面食らったような顔になる。ばかばかしさに僕は舌打ちした。
「きみはさっきから何か思い違いをしているんじゃないか。僕はそんなことには一切興味がないんだ。
 別世界とか、そういうのはね、正直どうでもいいんだ。わけが分からないことが起こるのはとても困るけど。
 でもね、僕が、きみや、魔女、それから、別世界の僕? うん。きみたちが現れてからずっと考えていることはひとつだけなんだ。
 きみたちは僕と、それから姪に対して何か害をなす存在なのか? それだけなんだ。 
 それ以外のことはたしかに、きみの言葉を借りれば枝葉末節なんだよ。僕にはどうでもいいことなんだ」
 僕が言うと、彼は唖然とした顔で僕を見た。
299:
「僕の話を聞いていなかった?」
 少年は苛立った顔で言う。
「あんたはこのままだと、彼女を見殺しにすることになる。分かる?」
「忠告ありがとう。そうならないように気をつけようと思う」
「話を聞けって」
「きみこそ話を聞いてる? 僕はきみに興味がないって言ったんだ。早く彼女を返してほしい」
 彼は肩を竦めて嘆息した。
「なるほどね。これは――ひどい話だ」
「……何?」
「気にしなくてもいい。枝葉末節の話だから。ま、あんたの望みの話をするなら、そこはね、本人の意思を尊重している」
「彼女が僕のところに帰ってきたくないと思ってるって意味?」
「そうだよ」
 僕は黙り込んだ。
 
300:
「第一、彼女をとりもどしてどうするんだ?」
「どうする? どうするってどういう意味? 元通りの生活を送るけど?」
「そのまま生きて、彼女を殺さないって保証は?」
「そんなものはないよ。先のことはなにひとつ分からない」
「じゃあ――」
「そうだね。とりあえず、携帯電話でも持たせようと思う」
「――は?」
「またいなくなったときに困るから」
「……」
 彼は表情を強張らせて、それから溜め息をついた。
「なるほど。よく分かった」
「……なにが?」
301:
「いや、そりゃ、あいつも死にたくなる」
「……なんていうか、そういう思わせぶりな言葉とか、態度とか、正直いってうんざりなんだ」
 僕は言った。
「なんていうかね、誰も彼もみんな、たいした理由もなく自分の胸の内を明かそうとしない奴らばっかりでうんざりしてるんだ。
 どうして全部を喋っちゃダメなんだ? たとえば何かが原因で僕が姪を見殺しにしてしまうとしよう。
 で、未来からきたなら、きみはその原因を知っているわけだよね。そうじゃなかったら僕のところには来ない。
 でも、じゃあどうしてその原因を直接伝えないんだ? こうして話してるってことは、別にタイムパラドクスがどうとか言う話でもなさそうだ。
 付け加えれば、べつに不干渉を貫かなきゃならないってわけでもない様子だし。
 僕に言わせればきみのやり方の方が陶酔じみてるし馬鹿げている。はっきり言って意味が分からない。理屈が通ってないんだ」
 彼は無言になった。
 彼は僕を侮りすぎている。彼だけではない。皆、僕を侮りすぎている。
 そのことが僕にはよく分かる。父も母も、姪自身だってそうだ。
 姪がいなくなったことで、僕は不安になったし弱気にもなった。
 でも根本的に、僕は、彼が言うような抽象的な話はどうだっていい人間なのだ。
302:


『見えるよ』
 不意に、部屋の中に声が響いた気がした。それはきっと気のせいだ。
 僕は急に泣き出したい気持ちになる。その声は僕の心をたやすく引き裂いた。
 そう言った種類の声だった。鋭い痛みが走る。強い悲しみが僕の思考を襲った。 
 でも、なぜだろう、その痛みは決して不愉快なものではなかった。むしろ爽快ですらある。
『触れるよ』
 僕は目を覚ました。起こされた、と言い換えてもいい。
 とにかく僕には、まだやるべきことがあるように思えた。
 
 魔女は何者か?
 彼女はなんらかの手段で僕をあの世界に導いた。
 そして、その回線が突然途切れた。だから僕は今元の世界、元の場所に居る。
 日付を見る。八月七日。カーテンを開けた。まだ昼間だろうか?
 
 僕は起き上がった。身体がじんわりと痛んだけれど、それはたいして苦痛ではなかった。
 服を着替えて財布を手に取った。彼女が僕の前にあらわれたあの日と、すべてが同じように思えた。
 
 なぜかは分からない。僕はもう一度あの世界に行かなくてはならない。
 魔女には会えなくてもいい。でも、もう一度僕に会っておきたい。
 伝えなければならないことはないし、たしかめなければならないこともない。
 でも――彼女が彼の前からいなくなってしまったのだ。それだけは、僕にははっきりと分かるのだ。
303:
 僕は家を出た。
 家を出るとき、後ろから声が掛けられる。僕は曖昧にぼかして行先を告げた。
 彼女と歩いた堤防を走る。
 土手の真ん中あたりで夏草を掻き分けて河川敷に踏み入る。川の浅い部分が見えた。
 僕はその中に歩いて行った。何も起こらない。何か条件が必要なのだろう。 
 彼女が必要ならお手上げだ。でも、とにかく何かを試してみるしかない。
 
 僕は何かの条件を探そうとした。
 ふと、ポケットの中に携帯電話が入っていることに気付く。ディスプレイが光っていた。
 ――。
 彼女にもらった財布は、ジーンズのポケットの中だった。僕はそれを開けて中身を確認してみる。
 小銭入れの中に小さなお守りが入っていた。僕はそのことに初めて気付く。
 
 交通安全? ……交通安全のお守りだ。僕は何か意外な気持ちでそれを握る。
 それから携帯電話のディスプレイを見た。電波は来ている。繋がっている。
 条件は分からない。 
 けれど、水が、かすかに蠢いた。
「――」
 僕は、飲み込まれる。
304:


 
「まずはね、きみに基本的なことから訊ねたいんだ。とても基本的なことだ。それが分からなくちゃ何がなんだか分からない」
「……なに?」
「きみの名前は何で、うちの姪とどういう関係になるのかってことだ。答え次第じゃただじゃおかない」
「……なんていうかさ、呆れるよ。ほとんど病気だ、あんたのそれは」
 彼は少し、緊張を緩めたように見えた。
305:


 
 僕は、不意に目を覚ました。喫茶店のテーブル席だろうか。周囲を見回す。テーブルの上にコーヒーが乗せられていた。
 とりあえず飲む。美味かった。自分でいれるインスタントのものとはわけが違う。
 さて、と僕は思った。これからどうすればいいのだ?
 とりあえず勘定を済ませて店を出た。
 ポケットの中の携帯は壊れていた。財布の中には相変わらずお守りが入っている。
 街に出て、僕はそこが自分の住んでいる街ではないことを確認した。戻ってきたのだ。
 時計を見る。二時半。僕の中には漠然とした予感のようなものがあった。
 街にぼんやりと立つ。この街で僕ができることは、いつだって何かを待つことだけだった。
 足音。急いでいる。近付いている。僕は顔をあげる。
 目が合った。
306:
「……お前か?」
 と彼は言った。
「……何の話?」
 と僕は問い返す。
「あの子がいなくなった」
 ――予感はあった。
 彼がここまで焦るのだから、それ以外には思いつかない。
「お前だろ?」
 僕は返事をしない。彼女はどこに行ったのか? ……目の前に立つ僕は、ひどく疲れた顔をしている。
 
「お前が連れ去ったんじゃないのか。それ以外に心当たりがない。お前があの子をさらったんだろう?」
「――待てよ」
 と僕はどうにか言った。彼を刺激しないように気を遣う。なんとも面倒な奴だった。僕だけど。
307:
「落ち着けよ、取り乱すな。何があったんだ?」
 こちらに来たばかりなのに、よくこんなにも冷静でいられるものだと自分に感心した。
 いつのまにか疲れも混乱も消え失せている。頭痛だってない。頭が冴えている。 
 彼はこちらの言葉になんとか冷静さを取り戻そうとしていた。やがて深い溜め息をついて、僕を見る。
 不思議なほど僕と同じ顔をしている。僕は彼のことを急に親密に感じ始めた。
「悪かった」
 と彼は謝る。その謝罪については、どうでもいい。
「いなくなったって、何があったんだ?」
 僕は単刀直入に訊ねる。返ってきた答えはなんともはっきりしないものだった。
「分からない」
 僕は彼女のことを考えた。
『すごく疲れてるみたいなの。なんだか、ずっと大変そうで。なんでだろう?』
 理由には心当たりがある。考えるまでもない。
308:
「……とにかく、一旦帰った方がいい」
 僕は真剣に言った。彼に必要なのは休息だ。ゆっくりと休むこと。あせらないこと。
「家に帰って、落ち着くべきだ。ひとりで探して見つかるほど街は狭くない」
「それはそうだけど」
 彼はすぐに反駁しようとしたが、僕はそれを封じる。
「そうだからこそ、だ。僕もできることは協力する」
「お前が?」
「僕が」
 他に誰がいるというのだ。
309:
 ◆
 ◇
「でも、意外だな。あんたはもっと、鬱屈としてるもんだと思ってた。
 どうしようもないクズみたいな陶酔野郎だと思ってた。僕が言うと失礼だけど」
 好き勝手言う少年に、僕は溜め息で答えた。
「別に、否定するつもりもないけど……でも、冷静にならなきゃいけないだろ?」
 僕は冷静でいなきゃいけない。自分が持っているもの、自分がなくしそうなものを把握しておかなきゃいけない。
 手のひらからこぼれおちないように。 
 そう思えるのは、僕の性格が理由じゃない。
 彼の言葉が理由なのだ。
 あのときの僕にとって、彼の言葉はこれ以上ないほどシンプルで、かつ有効だったのだ。
312:
◇十二
 これは例え話だ、と男が言った。ずっと前の話だ。そのことを、ついさっき思い出した。
 男は公園のベンチに座っていた。くたびれたスーツを着た、二十代前半と言った雰囲気。
 僕は彼のことをよく知らなかった。たった一日、出会って、話しただけなのだ。
 彼は突然現れた。ずっと前から僕のことを知っていたような顔で、僕に話しかけたのだ。
「拗ねたような顔をしているな。気に食わないことでもあったのか?」
 おもしろくもなさそうに、男は言った。
 僕が答えないでいると、彼は退屈そうに溜め息をついた。
「黙っていたんじゃ、分からない」
 男との出会いがあまりに印象的だったせいか、その言葉を、僕はよく覚えていた。
 男と会ったことを忘れてしまったにもかかわらず、その言葉だけは、何度も頭の中で繰り返していた。
 
 黙っていたんじゃ分からない。
 分からせたいなら、話すしかない。
 分からせたくないなら、黙っていればいい。
 その考えは、思えばいつも僕の根本にあったような気がする。
313:
「僕が……」
 と、気付けば、男の声に僕は答えを返していた。
「僕が、悪いんだと思う?」
「……何が?」
「母さんと父さん、いつも姉さんのことばかり話すんだ」
 男は、唐突ですらある僕の話に、たいした反応を見せなかった。
 僕が黙ってしまうと、彼は仕方なさそうに溜め息をついた。
「さあな」
「どんどん、自分の中で嫌な気持ちがたまっていくんだ。最初の頃は、寝て起きると消えていたけど」
 僕は『嫌な気持ち』を吐き出したくて長い溜め息をついた。
「……もう、だめみたいだ」
314:
 男は何も言わなかった。彼もまた溜め息を重ねるだけだった。
「僕が悪いのかな。僕がもっと上手くできたら、母さんたちも少しは僕の方を見てくれると思う?」
「……」
「僕が、もっと。でも……」
 深呼吸をする。ひんやりとした空気を肺に吸い込むと、少しだけ肉体に変調があった。
 それは一瞬だけの錯覚で、すぐに普段通りの自分に戻ってしまう。
 何もかも一時的で、効果が長続きしない。窓ガラスに結露した水滴。弾かれて垂れ落ちていく。
 霧に包まれたように覚束ない視界。その頃の僕はどうしようもない袋小路に迷い込んでいたような気がする。
 あるいは、今もその場所でずっと立ち尽くしているのかもしれなかった。
「姪が――」
 今思えば、なぜ彼は彼女のことを知っていたのか。
「姪が、いるんだろう?」
315:
「……うん」
「好きか?」
「嫌いだよ」
 僕は心底からの気持ちでそう答えた。今思えば、それは子供っぽい妬みでしかなかったけれど。
 でも、心底からの気持ちだった。僕は彼女が嫌いだった。
「すぐ泣く。話が通じない。うるさいんだ。すごく」
「子供なんて、そんなもんだよ」
「僕だって子供だよ」
 その言葉に、男は少しだけ悲しそうな顔になった。
「……そうだな」
 僕はその相槌に、どうしようもなくいたたまれない気持ちになった。いっそ、他の人と同じように否定してくれた方が楽なくらいだった。
『お兄ちゃんに、なるんだぞ』。
 どこかのドラマで聞いたセリフを、そのまま使える喜びに、まるで酔ってるみたいに響いた。
 彼女は僕の妹ではなかったし、父はそれを、ちょっとした冗談のつもりでいったんだろうけど。
316:
『お前はしっかりしてるから――』
 しっかりしてるから――僕にかまってくれないんだろうか。
 手が掛からないから。
 面倒を掛けないから。
 大丈夫だから。
 だとしたら――僕はしっかりしていなかった方がよかったんだろうか。
「形は違うが、今のお前と似たような状況を抱えてる女の子がいた」
 僕は、唐突に話を変えられたことにも、その内容が僕以外の人間についてということにも、苛立った。
 僕は子供のときから、ずっとそうした理屈が嫌いだった。
 似たような苦しみを知っている人間は他にもいる、と物事を相対化しようとする態度。
 そうすることで、この僕がいま切実に抱えている苦痛を無効にしようとする態度。
「お前だけじゃないんだから、弱音を吐くな」と。
 そういう態度が、すごく、すごく嫌いだった。
「この僕」の苦しみは、それでもたしかに切実なものとしてそこにあったのだから。
それは易々と無効になってくれないんだから。
317:
「悲しいと思うか? そういう奴がたくさんいて、どいつもこいつも報われない」
 でも、彼の話し口は少し他とは違っていた。
 
「子供なのに存分に大人に甘えられない奴もいる。
 甘えられない子供のまま、気付いたら大人になって、ろくに甘えたこともないのに甘えられる側になる奴もいる。
 どうして自分が、って思うだろ、普通。だってそいつは、ろくに甘えたことがないんだ。
 甘えたことがないのに、気付いたら甘えられていて。それができないっていうと、大人なのにと責められる」
 理不尽だとは思わないか? 男は胸ポケットから煙草を取り出して口にくわえた。
「月並みに言えば、これはつまり、愛の問題だよ。両親の、周囲の大人の愛を受けて育ったか?
 言い換えれば、『自分は愛されている』と感じて育つことができたか? 
 そうだったか、そうじゃないか。それがその後を分けるんだな。
 事実として、ではなく、本人がそう感じて育つことができたかどうか。
 もちろんそれですべてが決まるわけじゃない。
 両親の愛なんてむしろ邪魔だって場合もある。でもな、そういう話じゃなくて、要するに問題は、
 自分がここにいてもいいと、そう自分自身を確信できるかどうかなんだ」
「『自分がここにいてもいい』?」
318:
「……そう。自分がここに、いてもいいのかどうか。ここに居るだけの理由があるのか」
「理由……」
「そう。理由だ」
「そんなもの……」
 僕には、ないように思えた。
「あなたは?」
「……何が?」
「理由、って奴。あるの?」
「さあ。あってほしいと思って、いろいろ試してはみたんだが……」
 男は煙草に火をつけた。一拍おいて、灰色の煙を口から吐き出す。
 その煙が、僕の胸の内側にたまっていた『嫌な気持ち』のかわりだったみたいに。
 吐き出した煙が空にのぼる有様は、僕の心を少しだけすっとさせた。
「――どうも、分からないな」
319:
 こいつは例え話だよ。男はそう言って、ベンチの端で灰を落とした。
「バカな男がひとり居てな、自分のためだけに生きてたんだ。
 なんせそいつの周りには、そいつのことを考えてくれる奴なんてひとりもいなかったから。
 少なくともそいつ自身は、そう感じてたから。だから、誰かのために何かをするなんて、まっぴらごめんだったわけだ。
 で、だ。そいつはある日、自分と似たような境遇にあった女の子を見つける。
 でも、女の子のために何かをする気にはなれない。だからほっといた。
 するとな、女の子が死んじゃったんだ」
 男は自嘲するように笑ってから咳き込んだ。ごほごほ、という音。何かがしたたかに、彼の胸の内側で暴れているみたいに見えた。
「死んじゃったんだよ」
 男はまた、煙草に口をつけた。彼の目は、ひどく澱んで見える。
「たぶん、そいつは彼女のために何かをするべきだったんだよ」
「どうして?」
「順番に囚われすぎていたんだな。きっと。でも、関係ないんだ。順番は大事じゃないんだ。
 その子のために何かをすることができたら、誰かがもしかしたら、いつか、そいつのために祈ってくれるかもしれない。
 それまで誰もそいつのことなんて考えなかったとしても、彼女のために生きれたら、誰かがいつか、愛してくれたかもしれない」
320:
 まあ、でも、と男は言葉を繋いだ。
「……全部、手遅れなんだけどな」
 彼は嘲るように言った。
「自分のために生きるのは、やっぱり限界があるんだよ。どこかに無理があるんだ。どうやっても。
 もちろんこれは、誰にとってもそうだと一概に言えることじゃないかもしれない。
 自分のためだけに生きた方がいい人間だっているし、そうするに足る理由を持ち合わせている人間もいる。
 誰かのために生きるのだって、まわりまわって自分のために生きてるだけだと言いかえることだって出来る。
 でも、少なくともそいつはそうだったんだよ。そいつは誰かのために生きるべきだったんだ。
 そうすれば、どうにかやっていけたかもしれないんだ」
 男はそこまで言い切ると、数秒押し黙って、煙草の吸殻を地面に捨てた。靴の裏で踏みにじり、それから拾いなおしてポケットに突っ込む。
 かすかに残った真黒な灰は、砂と一緒に静かな風にさらわれた。
「なあ、お前。姪のために生きろよ」
「……どうして?」
「言ったろ。そうすることで、誰かがお前のために祈ってくれるかもしれないんだ」
321:
「……僕は」
「姪のことが、嫌いなんだろ」
 彼の言葉は諭すようでもあったし、それこそ祈るようにも聞こえた。
「でも、好きなふりをするんだよ。愛しくてしょうがないふりをするんだ。
 面倒をみたりかわいがったりしていれば、お前の両親が、お前を見てくれるかもしれない。
 お前のことをかまってくれるかもしれない。動機なんて不純でもいいんだ」
「もし、それでもかまってもらえなかったら?」
「諦めろ」
 と男は言った。それは難しい話だった。
「代えのきかないものなんてない、と思うしかない。そう思えなければ、世の中にはあまりに不条理が多すぎる。
 解決不能の問題が多すぎるんだ。
 お前にとっての両親の代わりが存在しうるなら、お前こそが、姪にとっての母親の代わりになれるかもしれない。
 だってお前とお前の姪は、とてもよく似ているんだ。お前が姪のことを考えることは、そのまま、お前がお前を守ることでもあるんだ」
 その理屈は、ひどく歪んでいるように思えたけれど、でも、少しだけ、どこかに救いのようなものが含まれている気がした。
322:
「そのうち本当に、姪のことを愛せるようになるかもしれない。始まりは不純でいいんだ。
 そうすれば、姪もまた、お前のことを愛してくれるかもしれない。お前が求めていた『たったひとり』になってくれるかもしれない」
 そう思わないと、俺だってやっていけない。男の声には憤りのようなものが含まれている気がした。
 男はそれまでよりもずっと長い溜め息を吐いて、さて、と立ち上がった。
「そろそろ行くよ。悪いな、長い話をしちまって」
「それはかまわないけど、あなたはいったい」
「俺のことはいいんだよ。知らなくていいことだし、知ったところでどうにもならない。俺はそろそろ帰ろうと思う」
「どこに?」
 と気付けば僕は問いかけていた。
「俺の現実」
323:
 彼は笑って、それからポケットから財布を取り出して、僕に向けて放り投げた。
「なに、これ」
「やるよ。必要なもんは入ってないから」
「……なんで、こんなの」
「武器だよ」
「――?」
「この世界で唯一の武器だ。生き延びるための武器だよ」
 男は満足そうに頷いて、最後にこう付け加えた。
「生き延びろよ。どうにかして、生き延びろ。俺も、どうにかして生き残る」
 その言葉の意図は、僕には半分も伝わってこなかった。
 それでも男は去ってしまって、僕はそれを受け取るしかなかった。
 本当をいうなら、その場に捨ててしまう方が安全だし、妥当だった。 
 けれど僕には、彼が自分に敵意を抱いているとはどうしても思えなかったのだ。
 財布の中には何枚かの紙幣と結構な数の硬貨が入っていた。
 一万円札は三枚、五千円札が一枚、千円札が三枚。硬貨は細かいものがあまりなく、五百円玉が三枚と百円玉が八枚。 
 
 免許証や保険証の類は入っていなかったが、代わりに小銭入れの中にお守りが入っていた。
 交通安全のお守り。僕はそれを取り出して手のひらの中に握ってみた。 
 その財布は、今も僕の机の中にそのまま残してある。
327:

 見知らぬ少年が僕に見せた扉の向こうの景色には、ひとりの男がいた。
 いつかあの公園で出会い、僕に武器を与えた男と、その男の顔はよく似ている。
 彼はただ起きて、ただ食べ、ただ働き、ただ眠っている。
"なれの果て"。つまりはそういうことなのだろう。
 でも――それは敗者の姿ではない。
328:

 
「僕がきみの世界の"彼女"を殺すっていったね」
「言ったよ」
 ギターケースを担ぎ直して、彼は溜め息をついた。
「その原因をたしかめに来た、とも言った。時間が遡れたから、原因をたしかめるのは容易だった、というようなことも言った」
「言ったかもしれないね」
「きみの世界の彼女を殺した原因って、なんだったんだ?」
「……これは、はっきりと言うとひどく下世話な話になるけど」
 彼は心底嫌そうな顔で言った。
「恋だよ」
 僕は笑えなかった。
「彼女はあなたが好きだった。だから死んだ。シンプルだって思わない?」
「――」
 
 悪い冗談みたいな話だったけれど、僕にはその話を真に受けるより先に思い浮かぶことがあった。
329:
『お願いだから、置いていかないでね』
 じゃあ、あの言葉は、なんだったんだろう。
『今度こそ』とでも付け加えそうだったあの言葉は。
「……どうかした?」
「いや。……ところで、それが本当だとして、僕が悪いんだって思う?」
 彼は少し考えるような仕草をしたが、やがて肩をすくめた。
「さあ。別に悪くはないだろう」
「……僕に責任があるような言い方をしていなかった?」
「ある意味では、あるだろう。子供をたぶらかしたんだから」
 ……なんとも言いにくい。そもそも『この僕』の話ではないのだが。
 このままいくと、と彼は言った。このままいくと、また彼女は僕を好きになり、そのせいで死ぬ?
 それって、ずいぶん馬鹿げた話じゃないか?
330:
「ところで、きみの名前を訊ねたはずなんだけど」
 僕が言うと、彼は少し困ったような顔をした。
「名乗ったところでしょうがないけど、まぁ、その方が話が分かりやすいかもね。
 僕は、まあ、なんでもいいんだけど、彼女には『ケイ』と呼ばれてた」
「ケイ、ね」
「本当は、アルファベットのKらしいよ」
「本名じゃないのか?」
「彼女がつけたあだ名なんだ。由来は知らないけど」
 測量士。
 ……は、突飛か。
「そろそろ、その子を引き渡してくれないかな?」
「……まあ、いいかげんかまわないかもしれない」
 
 ケイはまだ何かを言いたげな表情だったが、ゆっくりと背に隠した少女を促した。
 そこで、何かの違和感を抱く。なんだろう?
「……ところで、魔女は?」
 
 と僕は訊ねた。彼は何も答えなかった。
331:

「本当にいいの?」
 と僕は訊ねた。
「何が」とケイは訊きかえす。
「僕が彼女を連れ帰ってしまったら、きみは僕を思い通りに動かせなくなるよ。
 僕に何かを言うこともできなくなるかもしれない。本当にそれでいいの?」
 
「かまわないよ」
 とケイが言った。
「僕だって、自分がどうするのが最善なのか、今はつかみ切れていない。あなたにこれ以上何ができるのか、まるで分からない。
 知らなかった事実を聞かされて、動揺したのかもしれない。彼女が死んでいると知ってから、まだ時間が経っていないんだ。
 だから、八つ当たりみたいな部分もあったんだろう。僕にも、何が起こっているのか、分からない」
 僕が黙っていると、ケイは「それに」と言葉を重ねた。
「どうせすぐに気付くよ」
332:

 
 怯えたように歩み寄ってきた少女の手のひらを、僕は握ってみた。
 その手は驚くほど冷たかった。これまで誰も彼女の手を握ったことがないかのように冷え切っていた。
 視線は諦めに凍えていたし、表情は恐怖か何かで濁っていた。何が彼女をこんなふうにしたのだろう。
 僕はその手を握って、笑いかけようとしたけれど、きっとまともな笑みの形にはならなかっただろう。
 彼女は寂しげですらなかった。
 ただ諦めがあるだけだった。
333:

◆十一
 
 その日、僕は無人駅で夜を明かした。何の準備もなかったので寝心地は悪かったが、だからといってどうということもない。
 なぜかひどく疲れていて、夜を明かして朝が来ても身動きを取る気にはなれなかった。
 僕はその一日を、例の小説の内容を反復して過ごした。それ以外はほとんど動かなかった。
 食事もとらなかった。一歩も歩かなかった。
 
 一輪の花、一輪の花。僕はずっとそれについて考えていた。
 
 やがて再び日が暮れて、夜になった。時間の流れは例の小説の終盤近くみたいにあっという間だった。
 日が昇って沈んだ。夜が来た。僕はそこでようやく立ち上がった。
 魔女が、あの子を連れ去ったのだと言う。
 であるならば、僕は魔女に会わなければならない。
 そして、この世界の彼女に伝えるのだ。
 お前のせいなんかじゃない、と。
 お前のせいで苦しんでいる奴なんかいない、と。
 お前はこの世界にいてもいい人間なのだ、と。
 いるべき人間なのだ、と。
 僕とは違って、そうできる人間なのだ、と。
 それは、彼女には伝わらないかもしれない。
 だから、僕はショールームを目指した。そこにいるのだろうと、僕には分かっていた。
 魔女にもまた、この世界に居場所なんてないのだから。
 あの場所は『エントランス』だ。世界と世界を繋ぐ中間地点。
 だから、あそこの鍵はいつでも開け放たれている。あそこは現実ではないから。
 もちろんそれは単なる妄想のような話で、僕には確固たる自信があってそう考えているわけではなかった。
 でも……あそこのドアは開け放たれている。そう、漠然と感じた。
 だから向かった。
 一輪の花。
334:


 家に彼女を連れ帰ると、時刻は朝九時を回っていた。
 
「お腹は空いている?」
 と訊ねると、彼女は黙ったまま、無表情のまま慎重に頷いた。
 何か警戒しているようだった。僕は冷蔵庫と炊飯器の中身を確認した。 
 ご飯は炊けていたし、卵があった。それだけでどうにでもできる。
 一応ベーコンとソーセージが入っていたうえ、市販の冷凍ハンバーグも入っていた。
 インスタントの味噌汁もあったので、お湯さえわかせばどうにでもなりそうだ。
 
 料理をする間、僕は父母が起きてこないかとひやひやした。彼らとは、まだ会わせるわけにはいかない。
 僕の胸の内側には強い不快感のようなものがあった。
 僕はコップに牛乳をそそぎ、彼女の前に置いた。
 彼女は最初、じっとこちらの様子をうかがっていたが、やがておずおずと手を伸ばし、コップに口をつけた。
 その仕草も、顔も、姪のものだった。態度だけが違っていた。たしかに、姪のものだと言えた。
 料理を終えて食器を並べ、ふたりで食卓につく。ベーコンエッグと味噌汁とハンバーグ。
 僕は手抜きであることを簡単に謝ったけれど、彼女は目の前の料理に気を取られ、こちらの声が聞こえていないようすだった。
 しばらくすると、はっと気づいたように少女はこちらを見上げる。「いいのだろうか」という顔。僕は強い憤りを感じた。
 
335:
「どうぞ」
 と僕は言う。箸を差し出したが、上手く使えないらしい。ハンバーグを細かく切ろうとして、彼女は床に箸を落とした。
 たん、という音が静かな室内に大きく響いた。少女は目に見えて焦っていたし、怯えていた。
 なるほど、と僕は思った。これで気付かないわけはない。そして、なんとも悪趣味なことだ。
 どうしていまさらこんなことが起こるのだろう。誰の意図で?
「大丈夫」
 と僕は言った。
「箸が苦手なら、フォークを使えばいい。なんなら、手を使ってもいい。腹が膨らめば、手段なんてなんでもいい」
 僕は立ちあがって台所に向かい、フォークを持ち出した。彼女の前に置く。
 最初、戸惑ったような顔をしていたが、彼女はそれを握る。さっきよりはいくらかマシな動きで、ハンバーグを切っていく。
 彼女は緊張した様子で口を開き、ハンバーグを口に運んだ。
 
 咀嚼し、嚥下する。彼女の目がかすかに光った気がした。僕は少し悲しい気持ちになる。
 彼女はそれからものすごい勢いで手を動かした。僕はその様子をじっと眺めながら自分の分の牛乳をすすった。
 やがて彼女の目の端がかすかに光った。泣いているのだ、と僕は思った。
 嬉しいのではなく、きっと悲しいのだ。僕が知っている、いつかの姪と同じ顔。痩せこけた幼い姿。
 彼女のことを、僕は知らない。
336:


『エントランス』でこの世界の僕と出会い、別れた。
 少しだけ感傷的な気分になる。僕らを別つものは、やはり偶然だったのだろうか。
 
 でも……と僕は思う。
 そうではないのかもしれないし、そうなのかもしれない。
 けれど。
 結局、僕ができるかぎりをしなかったことに変わりはない。代わりはなかった。
 
 僕は、ショールームのドアを素通りして階段を昇る。関係者以外立ち入り禁止の立札。
 階段を昇ってすぐ、細い通路に出る。左手はただの壁で、右手には三つ扉が並んでいた。
 僕は一番奥の扉を開いた。
 中はやっぱり物置で、でも、その中には魔女がいた。
 
「こんばんは」
 と彼女は言った。
「……こんばんは」
 と僕も答えた。
 魔女の様子は少し変だった。傍らにはケイが居た。彼は、愕然とした様子で立ち尽くしている。
337:
「どうしたの?」
 
 彼女はくすくすと笑う。僕はなんだかひどく身勝手な怒りに囚われる。
「結局、きみは何がしたかったんだ?」
 僕の問いに、彼女は一瞬だけ無表情にくちごもった。
 でも、それは本当に一瞬だけで。
 薄っぺらな笑みは、すぐに戻ってきた。
「復讐と、八つ当たりと、人助け。でも、もうよく分からなくなっちゃった」
「……“彼女”は?」
 僕の問いに、魔女は今度こそ無表情になった。
「見えない?」
 と魔女は言った。
 部屋の中は暗かったから、僕は最初、ちっとも気付けなかった。
 窓辺で月の光を浴びる魔女のかたわらには、もうひとり人間がいる。
 その背格好は、あの子に似ている。
 
 似ていたから、僕は最初、おかしいなと思った。
 雰囲気が、違う。
338:
「……分からなく、なってきたでしょ?」
 彼女はあてつけのような攻撃的な声で言った。
 そして、吼えるように、心の底から傷ついた人間がそうするように、
 魔女が、激昂した。
「終わらせてなんかやらない! もうあんたたちのことなんて知らない! あんたたちは、わたしにどうやったって影響を与えられないんだ!」
 ざまあみろ、と彼女は哄笑する。月明かりを浴びて青白く照らされた肌、見開かれた目、吊り上げられた口角。 
 ――魔女、と僕は思う。
「わたしのことを考えてくれないなら――わたしがどれだけ助けたって、あんたたちにとっては無効なんだ!」
 そう叫んで、魔女は窓の外に身を投げた。呆気にとられた僕が動くより、ケイが正気をとりもどす方が早かった。
「おい!」
 と彼は叫んだ。
 
 ×××、と、僕にはケイが叫んだ声が、ノイズのようになって聞き取れなかった。
 窓に駆け寄ったケイを追って、僕もまた外を眺めた。
 何もない。暗闇だけがある。
 
339:
 僕はしばらく唖然としていたが、やがて身動きをとれるようになった。
 動かずに硬直しているケイを無視して、僕はもうひとりの方に歩み寄る。
 彼女があとずさる。僕はかまわず近付いた。
 状況は一向につかめない。でも、今はとりあえず、彼女のことを優先しよう。
 
 ぜんぶ、そのあとでいい。物事には順序がある。
 顔をよく見たかった。僕は屈み、彼女と視線を合わせる。暗闇の中だったが、月明かりで青白く照らされて、僕にはその表情が見えた。
 彼女にも、僕が見えたように。
 
 見えたから、だから彼女は、僕を認識して、
「……叔父、さん?」
 と呼んだ。
「――――」
 僕はなぜだか、事態は収束に向かっているのだと思っていた。
 違う。
 終わってなんかいない。
 なにひとつ、終わってなんかいないのだ。
345:


 食事を終えると、少女は警戒するような目でこちらを見た。
 阿るでもなく、ためらうでもなく、ごく当たり前に信頼できないという瞳。
 この少女はいったい誰なのか。考えるまでもない。並行世界における僕の姪なのだろう。
 
 それ以外に答えがない。問題は、それをどうするか、なのだ。
 彼女は僕のもとにやってきた。おそらく誰かの意図で。それは魔女の意図かもしれない。
 少なくともケイの意図ではないのだろう。彼にはもはや、僕をどうにかしようという気なんてないはずだ。
 彼自身、何をしたいのか分かっていないように見えた。
 僕は考えを巡らせるのをやめて、目の前の少女の姿を見た。
 
 彼女はどのような流れの上でこの場所に立っているのか?
 僕は前に進んでいるのだろうか? それとも堂々巡りに巻き込まれているのだろうか?
 魔女はどこにいる? 彼女はまだ魔女と一緒にいるんだろうか? ケイはいったいなぜあそこに一人でいたのだ?
 彼女をとりもどす。そのための手続きがどうしてこれほど入り組んでいるのだろう?
 何かの意図ならば、いったいどのような意味があるのか。
 それは僕に対するものなのか? それとも他の誰かに向けられたものなのか。
『代えのきかないものなんてない、と思うしかない。そう思えなければ、世の中にはあまりに不条理が多すぎる』
 目の前の少女が、まさか姪の「代わり」なんて話にはならないだろうが。
346:


 そのこどもは、一瞬、ひどく怯えた。
 彼女はこんなふうに僕を怖がっていた。僕だけではない。姉のことも怖がっていたけれど。
 
 でも怖がっていたのは僕の方だった。なぜ彼女が今になってこの場に現れるんだろう。
 僕は後ずさった。彼女はそれを見てひどく傷ついたような顔になる。でも僕が悪いのだろうか?
 だってどうして彼女がここにいるんだ?
 僕の世界の姪は実の母親に殺害されている。つまり既に死んでいるのだ。
 魔女がいなくなり、ケイは立ち尽くしたまま動かない。この部屋で身動きをとり、現実的な反応を見せているのはふたりだけ。
 僕と彼女だけだった。
 
 彼女は何も言わなかったし、僕も何も言えなかった。何を言えるというんだろう。
 たとえば高い秋の空を見て不意に手を伸ばしたくなるときがある。
 別にどこかに届くと思うわけじゃないし、ましてや何かをつかみたいと思ったわけでもない。
 結局その手はなにひとつ掴むことがなくて、何をやってるんだと自分に呆れたりするんだけど。
347:
 そんな無意識な行動のように、彼女は僕に手を伸ばした。
 哀れさすら浮かぶ無表情で。
 でも、僕はその手を掴めなかった。掴むことがおそろしく感じた。
 なぜだろう? ただ手を掴むだけなのに。それはけっして難しいことではないはずなのに。
 ここなのだ、と僕は思った。ここが、僕と『彼』との違いなのだ。この世界の自分にできて、僕にできないこと。
 僕は彼女を引き受けることができなかった。これからもできないだろう。
 僕には誰かのために何もかもを捨て去る覚悟がなかった。ただ自分というものを後生大事に抱え込んでいるだけだ。
 どうせからっぽの自分という器を。
 そんな人間がいまさら、何をしようとしていたのだ?
 僕が黙っていると、彼女は「それはそうだ」とでも言いたげな乾ききった表情で手首をぶらぶらと揺すった。
 誰も彼女の手を掴もうとなんてしなかったのだ。
 僕はいたたまれなくて、恥ずかしくて、無性に逃げ出したくなった。ケイはまだ黙っている。窓の外には闇が横たえていた。
 空には月と星があったが、それは僕にも彼女にも他人事のように感じられた。
 なんなのだろう。
 何がいったいどういう理屈で、僕の前に彼女が現れたりするんだ。
 死者は、蘇らない。
 
 僕は急な吐き気を覚えて、部屋を出た。暗い部屋に彼女を置き去りにした。
 階段を駆け下りて『エントランス』を出る。ひどい気分だった。何かがせりあがってくるような感覚。
 そのまま国道沿いの道をひた走り、僕はどこかを目指す。歩いたり走ったりばかりしている。
 なんなんだろう。どこに向かっているんだろう。どこに辿りつけるんだろう?
348:

 このおかしな世界に迷い込んで、あの公園で財布を渡されてから、僕はずっと思っていた。
 あの小説になぞらえるなら、この世界における時間航空者は誰であり、彼(あるいは彼女)にとっての一輪の花はなんなのか?
 もちろん、小説になぞらえる必要なんてない。でも理屈として、これだけのことが起こったなら、それは収束しなくてはならない。
 どこかに収斂しなくてはならない。乱雑に散らばってみえても、そうでなければ意味がない。
「タイム・マシン」として機能しているのは「エントランス」。つまり魔女の持つ超常的な力と例のショールームだろう。
 ある種の精神的な欠損。その共通性、類似性を利用した接続。超常的。
 僕たちはただ異常に巻き込まれこの場所にいる。その結果、別に見たくもない、知りたくもない話を聞かされている。
 その話は眼前にあって切実であり、それと同時にあまりに他人事じみている。
 僕は彼女に手渡された財布の中身をもう一度確認する。
 財布の中には何枚かの紙幣と結構な数の硬貨が入っていた。
 それに無造作に放り込まれたカード類。
 どこかのコンビニのポイントカードに保険証、病院の診察券。どれもすべて財布に突っ込まれている。
 彼女が準備したものというよりは、実在する男の持ち物を引っ張ってきたみたいに見えた。
349:
 カード類には名前の記述があった。そこには僕の名前が書かれていた。
 
 僕がこの財布を恐れたのは、だからじゃない。この財布の中に僕の名前があったからではない。
 僕はもうひとつの財布を取り出した。僕がもともと持っていたものだ。
 こちらの世界に最初にきたとき、濡れてしまってろくに使えなくなった財布。
 僕はふたつの財布を取り出して並べてみた。
 そのふたつの財布はまったく同じ形、色をしていた。中身もまた同様のものだ。
 ただ、カード類に関する情報が少し違った。
 
 たとえばどこかの店のスタンプカードのようなものが、魔女に渡された財布には入っている。
 日付を見ると、それは僕が知っているよりも未来のものになっているのだ。
 数年先の日付になっているのだ。
 何かの悪戯という可能性があるが、そうすることのメリットが見えない。
 つまりこの財布は未来の僕の持ち物なのだろう。
350:
 数年後、と僕は思う。数年後の僕と、姪は会ったことがあるのだろうか?
 それは"この"僕ではないかもしれないし、"この世界の"彼でもないかもしれない。
 
 とにかく僕と同じ名前、僕と同じ顔を持つ誰かと、彼女はあったことがある。
 そして財布を受け取っている。
 僕はこうも考える。
 死者は決して蘇らない。そのはずだ。
 身動きをとるもの、言葉を発するもの、何かの影響を何かに与え、何かに影響を受けるもの、それは生者だ。
 では、僕を「叔父」と呼んだ彼女は死者か、生者か? むろん生者だ。
 
 僕が知っている姪は既に死んでいる。
 矛盾を解決する答えはひどくシンプルだ。
351:
『エントランス』を通じて、さまざまな世界にいる人間がこの世界に集まっている。
 魔女が、ケイが、僕が、僕の目の前にいる『姪』が、そうであるように。
 もちろん――彼女が僕の世界で死んだ『姪』と同一人物だという保証があるわけではない。
 別の世界の、僕の世界とよく似た並行世界の『姪』であるかもしれない。
 でもその話について考えるのはあとにしよう。
 仮にさっき目の前に現れた彼女が僕の世界の姪であるなら、答えはひとつしかない。
 彼女は僕にとっての過去からやってきたのだ。
 つまり、僕が通り過ぎてしまった時間から、彼女はこの世界にやってきた。そういうことがありえる。『魔女』と『エントランス』。
『魔女』は何者か?
 彼女とケイがどのような存在で、どのような経緯でそのような力を得、どのような意図で僕をここに連れてきたのか。
 それらを置いておいても、あの財布を踏まえて考えれば、『何者か?』という問いにはシンプルな答えが用意できる。
 あの財布が(いずれかの)未来の僕から受け取ったものだとするならば、彼女は未来から来たということになりはしないか。
352:
 未来。
 数年後先の未来。そしてあの程度の年齢の少女。僕はその心当たりがひとつだけある。
 もちろん、他の誰かと言う可能性だってあり得る。
 でも、「この世界における僕の姪」という少女の未来、生死に干渉しようとする心当たりはひとつしかない。
 つまり魔女とは、『この世界の姪』の、未来の姿なのではないか。
 少なくとも彼女は『僕の世界』の姪ではない。僕の世界で、姪は死んでしまっているからだ。
『魔女』について考えるにあたって、よく考えなければならないことがひとつだけある。
『エントランス』によってつなげられたいくつもの世界。
 その中で、『この世界』に繋がっている世界はいくつあるのか?
 僕たちはいったいいくつの世界を想定すればいいのか? という話。
 それが分からなくては、いったい誰と誰の世界が同じであり、異なっているのかが分からなくなってしまう。
353:
 世界は少なくとも二つある。
 
 僕の世界と、この世界。
「姪が死んだ世界」と「死んでいない世界」。
 僕が元いた「死んだ世界」。今いる「死んでいない世界」のふたつ。これは確実に現状に関わりのある並行世界だ。
 他に想定される世界は、今の段階では考え付かない。
「ケイ」と「魔女」がいた未来では「彼女」は死んでいる。
 それはこの世界――「姪が死んでいない世界」の未来と考えるのが妥当だろう。
 そうでなくては、彼女たちがなぜここに来たのかが分からなくなってしまう。
 そして次に、僕の前にあらわれた二人目の姪。
 彼女は「死んだ世界」の過去からきたものだと考えるのが自然だろう。
 なぜなら、「死んでいない世界」の姪は、この世界の僕を「お兄ちゃん」と呼んでいるからだ。
 彼女は僕を「叔父さん」と呼んだ。つまり、最低でもこの世界の存在ではない。
 
354:
 僕の世界から来たとするなら、彼女は死んでいるのだから、過去からきたと考えるほかない。
 整理すると話はごく単純だった。世界がふたつあり、それらが交錯している。
 そして、ここで三つ目の分岐が現れる。
「魔女が来なかった世界」、「魔女が来た世界」のふたつだ。
「魔女が来なかった世界」から、ケイと魔女はやってきた。
 その時点でこの世界は「来た世界」になり、「来なかった世界」とは別の世界となってしまう。
 この世界もまた、ひとつの並行世界として相対化されなければならない。
 この世界を呼称するなら、「死んでおらず、魔女が来た世界」となる。
 僕の世界を呼称するなら、「死んだ世界」となる。死んだ世界に魔女はやってこない。
 魔女とケイの世界を呼称するなら、「死んでいないが魔女が来ず、結局彼女が死んだ世界」となる。
 枝分かれ。分岐と結果。この世界における結果は、どういうものとなるのか。
 誰のもたらす結果なのか? それが分からない。
 僕の考えは、そこそこ理屈に合っている。少なくとも、そういうふうに思う。
 だが、ひとつだけ分からない部分がある。
 
355:
『未来を守る、ってどういう意味?』
『そのままの意味』
『まるで、君がどうにかしないとその子の未来が失われてしまうような言い方だ』
『その認識であってるよ』
 魔女はたしかにそう言った。
 僕は魔女の世界での『姪』は死んでいるものだと思っていた。魔女も、そんなことを言っていたように考えていた。
 でも、彼女の世界の『姪』とは『魔女』ではないのか?
 だとしたら、魔女は既に死んでいるはずだ。
 
 僕は少し分からなくなった。魔女に限って言えば、死ぬよりも先にこの世界にやってきたということがありえない。
 なぜなら彼女は、自分が死んだことを知っているからだ。死ぬことを知っているということは、死を経験したということだ。
 死ぬ前の「彼女」は、こちらに来たとしても「自分が死ぬこと」を知ることができない。
 そうなると、彼女の目的は失われる。
 なにしろ、守るまでもなく(彼女の認識では)死んでいないのだから。。
 あるいは「ケイ」と「魔女」では時間が少しずれていて、ケイが魔女の死を彼女自身に教えた?
 ――違うだろう。ケイの様子は、そんなふうではなかった。
 僕はそこまで考えてばかばかしくなった。魔女なのだ。彼女にだけは、理屈を当てはめようとしても無理がある。
 僕はここまで考えてから、自分が公園のベンチに座っていることに気付いた。
 逃げて逃げて逃げ回って、僕はここまできて、やっぱりひとりぼっちで、どこにも行き場なんてなかった。
356:
つづく
次来れるとしたら来週の水曜になると思います。
359:


 
 さいわいに、というべきではないだろうが、母が出かけていたので、家には誰もいなかった。
 父と姉は仕事だった。
 母は長く続いた父との喧嘩に嫌気が差したのか、それとも姪がいなくなった現実が嫌になったのか、どこかに逃げたらしい。
 母の母、つまり僕の母方の祖母は病死していたので、おそらくは母がよくなついていた父の姉、伯母のところにでも行ったのだろう。
 少女は僕の方をじっと見つめている。
 さっきまではぼんやりとした目をしていたが、今は少しだけはっきりとしている。
 何を言っても伝わらないような表情から、少し動揺しているような気配が伝わる。
 ようするにさっきまでの彼女は朦朧としていて意識が判然としていなかったのだろう。
 だとするなら、ようやくまともに話が出来る頃だろうか。
「きみの名前を聞いてもいい?」
 僕は念のために確認した。答えは聞かなくても予想がついた。なんせそっくりだったから。
 彼女は少しためらったけれど、ためらう意味がないと判断したのか、結局答えた。
 その声は僕には、
「×××」
 
 とノイズがかって聞こえた。
360:
「もう一度」
 僕が促すと、彼女は怪訝そうな顔をしながらももう一度名前を唱えた。
 けれどやはりそれは「×××」というノイズになるだけだった。
 
「……うん」
 僕は一応、分かったという態度を見せた。ようやく伝わったと思ったのか、彼女が安堵のものらしき溜め息をついた。
 
「×××」
 名前。
 名前?
 僕の頭にある考えが浮かんだ。ひょっとしたら、名前というものが意味を失っているのかもしれない。
 僕の名前。僕はそれを思い出そうとして見る。でも無理だった。
 家族構成、通っている学校の名前、それらは思いだせた。容易だった。住所、年齢、生年月日。簡単だ。
 でも名前は思い出せない。
361:
 ようするに、今僕の周りで起こっているのはそういうことなのだ。
 名前と言うのは個人を区別する記号だ。ごく単純なシステムの識別手段。
 でも、この世界において、名前を用いた区別は既に不可能になっている。少なくとも僕と、そして姪に関しては。
 僕ともうひとりの僕は、名前によっては区別できない。 
 できるとしたら過去の記憶、情報、行動などにおいてのみ。名前はとうに無効化されている。
 たとえば僕と誰かが、もうひとりの僕について話をするとする。
 そのとき僕らは彼を名前で呼ぶことができない。
「彼」とか「あいつ」「あの人」。そういった代名詞で表現するしかない。
 僕たちは代名詞化されている。たぶんそういうことなのだろう。何がどうしてノイズになるかは分からないが。
 
 少なくとも「名前は無効化されている。有効なのは代名詞だけだ」。
362:
 僕は馬鹿げた考えを放り投げて、目の前に座る少女を見る。
「少女」。まぁこれも代名詞だ。少なくとも固有名詞じゃないことだけは明白だ。面倒な話。
「僕」「彼」「彼女」「あの子」「少女」「魔女」「女の子」。僕らは代名詞化されている。
 
 だからどうしたと言われると分からない。それはある種の示唆なのだ。
 
「――どうか、したの?」
 声の響きをたしかめるかのように慎重な言い方で、少女は自分から言葉を発した。
 僕は少し動揺した。彼女がまさか、自分から声を出すとは思っていなかったのだ。
「いや」
 と僕はなんでもない風を装う。とにかく必要なのは、目の前の少女が何者なのかを知ることだ。
 思えば僕は、今起きていることについて何も知らない。
 
 ただ「もうひとりの僕」が現れ、「魔女」から電話がかかり、「ケイ」に怒鳴られただけ。
 そこにはなんの説明も付与していなかった。
 ヒントは、分岐と結果。それから、未来。彼女の死。それだけ。
363:
 目の前の少女は、誰なのか?
 その姿は姪に似ている。でも、別人だ。姪よりも幼い。
 だが、僕には心当たりがある。
 この世界に生きている僕。この世界とは違う世界に生きていた僕。
 この世界にも姪がいて、ここではない世界にもきっと姪がいる。
 ……もうひとりの僕。彼の世界の姪。
 
 でも、それならどうして、彼女はこんな姿をしているのだろう。
『ずっと気になっていたんだけど、どうしてそこまであの子に執着するんだ?』
 彼は、僕ほど姪に執着していなかった。
 その違いだろうか。
 その世界では、いったい何が起こったのだろう?
364:
 僕はそのことを問いかけようかと思った。けれどやめた。
 同時に、彼女は何か、いなくなってしまった僕の世界の姪について知っているのではないかとも思った。
 でも、やめておいた。
 彼女にそうするのは、とてもまずいことだと思ったからだ。
 目の前の彼女は、不意に首をかしげた。その仕草はどこか小動物めいている。
 姪にそっくりな仕草。けれど彼女は姪ではない。
 そう意識的に思い出しておかないと、緊張感を失ってしまいそうだった。
「出かけようか」
 と僕は言った。僕はなんだかおかしな気分に陥った。そういえば、バイトにしばらく出ていない。
 シフトを確認する。……休みが続いている。こんなこと、しばらくなかったのに、なぜだろう。
 いや、夏休みの中盤からは、休みを増やしてほしいと頼んでおいたんだっけ? 予定が入るかもしれないからと。
 でも、明日はシフトが、入っている、ような気がする。
 ……どうも、思い出せない。僕は僕のことを思い出せない。たぶん、混線しているのだ。
365:
「……"でかける"?」
 少女は不思議な響きを重ねるみたいに呟いた。言葉の意味が思い出せないみたいだった。
 しばらく待つと、彼女はようやく意味と音が重なったというふうな顔になって溜め息をついた。
「おでかけ、するの?」
 小さな声。僕はわけもなく眩暈に襲われる。
「ああ」
 頷く。家にいると、何かと不都合があるかもしれない。
 けれどそれ以上に、彼女をこの家にいさせておくのはまずいという気がした。
『分からなくなる』。
 
 なにせ、今この世界で、名前は意味を失っているのだ。
 彼女を姪と区別するものは何もない。『彼女』と一言言ってみても、どちらの『彼女』をさしているのか分からない。
 混乱しているのだ。ここに居させておくのは、まずい。
366:
「……うん」
 彼女は不意に頷いた。僕は一瞬、それが僕の提案に対する返事なのだと気付けなかった。
 僕たちは出かけることにした。日常の雑多なあれこれはすべて置き去りにしていたし、非日常は一応の節目を見せていた。
 僕らにはすべきことがなかった。時間が空白になっていたのだ。
 僕は一度自室に戻り、簡単に身支度を整えた。服をかえてから洗面所に向かい顔を洗う。
 鏡を見るとひどい顔をしていた。
 彼女は僕が移動するたびに兎が跳ねるみたいな歩きかたで追いかけてきた。
 自室の机の上に、僕は以前見たものと同じメモ用紙を見つけた。
 以前は白紙だったそれに、今度は以下のような文が記されていた。
367:
"人々を区別する記号は世界である。
 わたしはあなたの敵ではない。
 彼女は何も悪いことをしていない。
 あなたにはあなたにしかできないことがある。
 彼女はあなたに会うことを痛切に望んでいる。
 あなたは暗闇に手を差し伸べることができる。"
 また裏面には以下のような記述があった。
"世界を支配する魔法は不条理であり、不条理である以上、正体を探ろうとする試みは不毛である。
 わたしはあなたたちとは無関係の存在だ。
 世界は不公平に満ちている。
 不可能を可能にすることはできない。
 彼女はあなたを手に入れることができない。
 あなたは決して彼女を救えない。"
 僕はそのメモ用紙をポケットにつっこんで、後ろから不思議そうに覗き込んでくる少女の目に入らないようにした。
 僕の頭をたったひとつの疑問が支配した。
『彼女』とは誰か?
368:
◇十三
 彼女が襤褸布めいた汚れたワンピースを着ていたので、僕らはひとまず服屋に向かった。
 途中でコンビニに立ち寄り、ATMでバイトで貯めた金を下ろす。
 そうすると、すっと肩の荷が下りた気がした。自分が背負っていた荷物が急に軽くなった気がした。
 少女が自分の意思で服を選ぼうとしなかったので、サイズからデザインまですべて僕が見繕うことになった。
 僕にはファッションセンスなんて皆無だったけれど、姪の服を選んだことはないでもなかった。
 大抵の場合、彼女には文句を言われるか、やんわりと否定されるばかりだったけれど。
 僕が選んだ服を、彼女は何の抵抗もなく受け止めた。あんまりにも何も言わないので、僕の方が不安になる。
 本当にこれでいいのか? と真剣に首をかしげることになった。
 さまざまなものを試したけれど、試せば試すほどわからなくなって、結局無難な方向に落ち着くことになる。
 
 とりあえず今日着る分の服を買い与え、着替えさせる。彼女は一切抵抗しなかった。
 新しい服に袖を通すと、今度はその肌が少し黒ずんでいることに気付く。
 このまま家に帰るのもなんだか馬鹿らしかったので、昔一度家族で行ったきり一度も使っていない銭湯に向かうことにした。
369:
 たどり着いてから、僕は彼女がひとりで風呂に入れるのかどうかを疑問に思った。
「ひとりで大丈夫?」
 と訊ねてみると、
「……」
 という沈黙がかえってくるばかり。
 僕は溜め息をついた。どうすればいいのだろう。
 まぁ、彼女は八歳前後に見えたし、兄妹に見えれば男湯に入れても問題はないだろう。
 問題があるとすれば、僕と彼女が赤の他人というところにあった。
 
 彼女はもうひとりの僕の姪、かもしれない。でも、そうじゃないかもしれない。
 赤の他人。これって誘拐にならないのか。
 それを言ったらそもそもケイの奴が僕に引き渡したのが間違いなのだけれど。さらに言えば自称魔女が。
 でも、謎の男女に引き渡されたので女の子を銭湯に連れて行きました、なんて言い訳して誰が信じてくれる?
 ……信じてくれたところで普通に問題がありそうな話だ。
370:
 男湯に二人で入る。平日の朝だったから、人はほとんどいなかった。朝にしても特に少なかった。
 彼女が自分の意思で服を脱いだりしようとしなかったので、僕はいちいち指示する羽目になった。
 小さな女の子に服を脱げなんて言っている自分を意識すると、情けなくて恥ずかしくていたたまれなくて周囲の目が気になった。
 さいわいあたりには誰もいなかった。それだけが救いと言えば救いだった。
 
 僕があたふたとしている間、彼女は平然と次の指示を待ち続ける。
 体力をやたらに消耗する相手だった。
 少女を促して浴場に向かい、体を洗わせる。そこまで行くと後はひとりでやった。
 まさか自分に洗わせはしないだろうなとひやひやしていたので、僕は安堵した。
 体を洗うとき、ふと彼女の方を見ると、腕に痣があるのが分かった。 
 よくよく目を凝らせばその痣はいくつもあった。
 自分が見られていることに気付いて、少女は表情も変えずに僕から距離を取ろうとする。
 羞恥というよりも、気まずさからに見えた。
 その腕をつかむ。
 少女の身体がびくりと揺れた。
 顔を歪めている。
 痛がっているのだ。
371:
 僕は手を離した。手を離して、目の前で起こったことを冷静に受け止めようとした。
 これはいったいなんなのだろう?
 僕は自分の判断を少し後悔しはじめた。これは僕の手に負えることだろうか?
 僕がいますべきなのは、彼女と話すことではなく、彼女の世話をみることでもなく、ケイに会うことなのではないか。
 ケイに会って、目の前の少女が誰なのかを訊ねることなのではないか。
 けれど僕は、ケイには二度と会えないような気がしていた。
 それはとても不自然な感覚だったけれど、でもだからこそ信憑性がないでもなかった。
 
 でも、僕はやはりあそこに向かうべきなのだろうか? あのショールームへ、もう一度?
 けれどそうすればきっと、この少女とは別れることになるだろう。
 それは――避けたかった。なぜだろう?
 僕はずっと彼女の為にできることを考えている。
 それはきっと独善的で馬鹿らしい感情なのだろうけど、だけど、彼女は僕に似ている気がした。
 
 だからこれは、きっと一種の自慰行為なのだろう。
「他に痛いところは?」
 僕が訊ねると、彼女は恥じ入るような真剣な表情で首を振った。
 自分の深いところに何かが侵入してくるのを拒もうとしているみたいに見えた。それはたぶん習性だ。
「そう」
 僕はそれだけ言って、あとは何も訊かなかった。何を訊けばいいのかも分からなかった。
376:

◆十二
 夜は深まっていた。僕はいまだベンチに座ったままでいる。
 結局僕は動けないのだ。僕は身動きを取れない。取りようがない。
 すべては手遅れなのだ。この混乱の上に何かを根ざすことはできない。僕はここで終わってしまうのだ。
 僕はこの世界に何をしにきたのだろう? 魔女は僕の存在に意義を見出しているような口ぶりだった。
 でも、僕はこの世界においてかぎりなく無価値だ。
 僕はこの場にいる必要のない人間だ。発展性もなく必然性もない。
 物事の解決に一切寄与しない。何ももたらさない。どこにもいかない。何の役にも立たない。
 そんな人間はこの混乱に一層の深みを招くだけではないのだろうか?
 魔女のたくらみはきっと失敗したのだ。僕は何をしているんだろう?
 飛び降りる瞬間の魔女の顔。僕は思い出す。彼女の悲痛な表情。
 僕はそれに限りなく無関係だった。彼女の痛みに対してまるで無関心だった。
  それらは僕という人間を象徴していた。僕はそもそもどこかにいる必要もない。最初から発展性も必然性もなかった。
 物事の解決に寄与したことなど一度もない。何かをもたらしたこともなく、どこかに行ったこともなく、誰の役にも立たなかった。
 そんな人間はそもそも存在する理由がない。
 それは人間ですらない。
377:
 僕は頭が痛いとずっと思っている。でも痛みはおさまらない。当たり前だ。僕は薬を持っていないからだ。
 僕は痛みを止めるための薬を持っていない。だから痛みは治まらない。ないものを飲むことはできないのだから。
 でもどうしてだろう? 耳鳴りがだんだんと近くなって僕を揺さぶっている。僕は入口を行ったり来たりしている。
 
 入ることも出ることもできずにただ行ったり来たりしている。悟ったフリをしたり迷ったフリをしたりしている。
 でも本当は心底どうでもいいのだ。
 僕はこの世界に余計な人間だ。
 それで。
 僕は元の世界でもいる必要のない人間だ。
 だから。
 僕はどこにも行けない。僕は戻りたいと思っていない。とどまりたいとも思っていない。
 堂々巡り。僕は袋小路に迷い込んだ。だって僕は混乱して右も左も分かっていないのだから。 
 空には月が浮かんでいる。
 僕を見下ろして笑っている。
378:
 僕が存在しなければ話はだいぶスムーズに進んだ。魔女の発想は逆転しているように思う。 
 この世界の僕――といってしまえばだいぶ失礼にすら感じるが――は、まったく問題のない人間に思える。
 疲れたり混乱したりはしているが、それは僕や魔女の責任だ。
 
 この世界の僕の姪もまた、僕の世界に比べればだいぶまともに育っているように思える。
 もちろん魔女はその未来の悲惨な事態を知っている。僕の仮定が間違っていようと、彼女自身がそう言ったのだ。
 でも、それならばもう役割は済んでいるのではないか?
 魔女は忠告して、立ち去ればいい。それでいい。それだけでいい。
 それなのに魔女はなぜややこしい手段を取り、なぜ僕はここに居るのか。誰のどんな意図で?
 僕は何かを聞き逃しているのか? それともまだ知らない何かがどこかに置かれているのだろうか?
 
 いずれにしても僕にとっての問題はひとつだけだ。
 僕はどこに行けばいいんだろう。
 
 どうせ何もかもが手遅れなのに。
 月が陰った。
「本当に?」と声がした。
 
379:

 
 魔女の声だった。
 彼女は僕の目の前に立っていた。声を聞いた瞬間に泣きそうになる。
 
「わたし、思うの」
 僕は顔をあげることができなかった。彼女の顔を見ることが怖かった。
「過剰な加害者意識というのは、ある種の自己陶酔か、もしくは自己防衛の一種だって」
 言葉の意味よりもその声の音色に心が揺さぶられる。
 すぐそばに魔女がいた。あんなふうに吼えて消えてしまった魔女。
 声音は、けれど、落ち着いている。
「何がそんなに怖いの? あなたは無傷でそこにいて、五体満足で、わたし以外に何も持っていなかったわけでもない」
 彼女の声は責めるようでもあって、諭すようでもあって、そのどちらでもないようでもあった。
 あんまり綺麗な声だから、祈るようにすら聞こえた。
380:
「叔父さん」
 と彼女は言った。
 あの子なのだと僕は思った。そんなはずはないのに、でも確信を抱いてしまった。
 僕は手のひらで顔を覆う。何も見たくなかったのか、それとも誰にも見せたくなかったのか。
「分からない。世界が真黒に見えるんだ。何もかもが澱んでいる気がする。
 どうしたって剥がれ落ちないんだ。何かが僕の日常に忍び寄って、それまで当たり前だった景色を塗りつぶすんだ。
 そうなると僕は、どうしようもなくなる。当たり前で大好きだった世界が、急に薄汚れて見え始めたんだよ。
 どんなものごとの裏側にも真黒な何かが張り付いている気がする。実際にそう見えるんだ。
 真黒なんだよ、この感覚が伝わるかな。大好きだったものが、ありふれた、陳腐でくだらないものに見えるんだ。
 何もかもが、悪意と敵意に満ちている気がして、それ以外のものが嘘にしか見えなくなるんだ」
 僕の声は震えていた。僕にとって彼女が死ぬということはそういうことだった。
 世界は正常な色彩を失った。はじめから真黒であることこそが正常であったかのように。
381:
 だから僕は何も見たくなかった。何も分からなくなってしまった。
 ひとりの人間の死が僕に暗闇をもたらし、そこから出られなくなってしまった。世界は黒で覆われている。
 でも魔女は、
 そんなのはまるで大したことではない、と言いたげに笑う。
「世界が黒く見えるのは、叔父さんの目に汚れがはりついてしまったからだよ。
 世界はべつに、綺麗でも汚くもないよ。ただ世界は、世界ってだけ。
 世界が澱んで見えるのは、叔父さんの目が澱んでしまったからだよ。
 その汚れを剥がすは大変かもしれない。でも、不可能じゃないよ」
 彼女は言葉を選ぶような間をあけてから、ためらいがちに続けた。
「わたしの世界は、暗いばかりじゃなかったよ。叔父さんにとって、それは救いにはならないかもしれないけど。
 もう一度、真黒じゃない綺麗な色を、叔父さんも見ることができるよ。
 手遅れなんかじゃないよ。本当に、そうなんだよ。わたしにも、真黒じゃない、綺麗な色が見れたんだから」
 僕は泣いたけれど、それは彼女の言葉に泣いたのではなかった。
 彼女にそんなことを言わせてしまった自分が情けなくて泣いたのだ。
 僕はいつまで言い訳を続けるつもりなのだろう。
382:
 彼女はそれを見透かして、見透かした上で鼓舞してくれているのだ。
 僕はようやく顔をあげて彼女を見上げた。
 その表情は、やはり魔女のものだ。
 
 でも、彼女は魔女ではない。
 いや、どうなのだろう。どんなことが起こって、彼女がこんな姿でいるのかは分からない。
 この世界では、世界、時間、空間の移動という点での不条理がありふれている。
 
 でも、ありえない姿をしている人物はいない。
 ここにいるのは魔女。――この世界の姪の未来の姿のはずだ。
 なぜなら彼女は、"僕と同い年くらいの姿をしている"からだ。 
 僕は彼女を、僕の世界の姪だと強く感じる。今も感じている。でも、そんなことはありえない。
 "彼女が僕と同い年くらいの姿になることはありえない。"
 "なぜならそれより先に彼女は死んでしまうからだ。"
 "死者は蘇らない。"
 いったい何が起こっているのだろう?
 それはちっとも分からない。
 でも、なにかが僕の中で溶けた気がした。
「許してほしいなら、許してあげる」
 彼女はそう言って、悪戯っぽく笑った。
383:

 僕の意識は浮上する。ということは、今まで沈んでいたということだ。
 何だか頭がぼんやりしていて、自分がどこにいるのかが分からない。
 ただ、なんだか喉がいがいがとした。小鳥のさえずりが聞こえる。
 目を開く。
 僕は今まで眠っていたのだ。そして今目をさました。僕は公園のベンチの上に寝そべっている。
 太陽はまだ東の空で街が起き始めるのを待っているようだった。
 日の光が公園の木を照らしている。僕は頭を掻いて体を起こし、それから少し怯えた。
 懸念はすぐに晴れた。自販機が缶を吐き出す音。振り返ると彼女はそこにいた。
「おはよう」
 と彼女は笑い、僕に向けて缶を放る。缶コーヒー。
「ありがとう」
 僕は言い切ってから、僕は付け加えた。
「おはよう」
 朝の匂いがした。僕は静かに起き上がってゆっくりと伸びをする。
 それから長い息を吐いた。
「そばにいたんだな」と僕は言った。
「ずっといたよ」と彼女は言った。
384:
 適当な時間に公園を出て、朝食をとれる店へと向かった。
 芸もなく同じファミレスに向かう。僕はこの世界に場違いな存在だったけれど、そうした感覚は薄れてきた。
 でも、それは薄れるべきものではない。
 僕はこれから僕の世界へと帰らなければならない。
 僕の現実へと戻らなければならない。
 そうした目的意識が僕の中に出来上がった。
 朝食を食べながら僕たちはたくさん話をした。
 彼女は自分の好きな音楽について語った。いくつかの邦楽バンドの名前が出た。
 art-school、Syrup 16g、people in the box。
 知っているのばかりだな、と僕は言う。
 
「ちょっと前のバンドだから」
 と彼女はくすくす笑う。僕はそれがなんだかおかしなことに思えた。 
 魔女の姿は僕たちと同じくらい。つまり、魔女は数年後まで生き延びる。
 だから、僕の知っているバンドを「少し前の」と呼んでも変じゃない。
 でもやっぱり、そこには何かしらおかしな部分がある気がした。
385:
「なんだか聴いていたら憂鬱になりそうなラインナップだ」
「ちゃんと他のも聴くけどね」
「聴く」と彼女は言った。「聴いていた」ではなく。まるで生きている女の子みたいに。
 彼女は話を続ける。特にpeople in the boxのghost appleというアルバムには思い入れがあるらしい。
 初めて自分で買ったCDだから、と。でも彼女がCDを買う姿なんて僕にはちょっと想像できなかった。
 理屈があっていない。
 けれど僕は、あまり深く考えないことにした。それが重要なこととは思えなかった。
「なんだか、もっと前に、きみとこうやって話をするべきだったという気がする」
 僕が言うと、彼女は寂しげに笑った。
「そうなんだろうね」
386:
 その声には、本当にそうだったなら、という願いにも似た響きがこもっていた気がした。
 あるいは錯覚だったのかもしれない。彼女の表情はすぐに元通りになった。
 
 昼過ぎまで、僕らはそうやって時間を潰していた。
 僕らは何年分の土産話を持て余していたみたいに喋り続けた。中身はほとんどなかった。
 ある時間を過ぎると彼女は立ち上がった。別に時刻に意味はないのだろうと思う。
 ただ、もうそろそろいいだろう、という気持ちになったのかもしれない。
「そろそろ、行こうか」
 
 と彼女は言った。
387:
 僕は不意に思い出した。
「この財布、返すよ」
 最初に僕が魔女から受け取った財布。彼女はそれを不思議そうに眺めていたが、やがて手に取った。
 
「分かった」
 と言った。でもそれは受け取ったというより、誰かに届けることを承った、みたいなニュアンスに聞えた。
 僕にはその響きが、他の会話から奇妙に浮き上がって聞こえた。
「行こう」
 ともう一度彼女は言う。
 どこへ、とは聞かなかった。 
 あの暗い部屋に、もう一度戻るときが来たのだ。
 僕は、そこからしか始まらない。
388:


 銭湯を出る。街をぶらついて本屋をのぞいた。
 僕にはこうした時間が必要だった。落ち着き、混乱を振り払う時間が必要だった。
 そうするために本屋はうってつけだったのだ。
 彼女は何も言わずについてきた。気が付くとはぐれそうになるので、手を繋いでやる必要があった。
 誰かと一緒に出掛けることには慣れていないらしく、すぐにふらふらとどこかへ行ってしまう。
 昼近くなると付近のファーストフード店でハンバーガーを買って食べる。
 僕らは時間を順調に消化しつつあった。
 僕はいなくなってしまった姪のことを考える。
 彼女にそっくりな、目の前の少女のことを考える。
 電話の向こうの魔女のことを考える。
389:
 ケイは言った。彼女は死んでしまったのだ、と。
 おそらくそれは本当だった。
 ケイの言う彼女とは僕の姪のことだろう。
 つまり彼女は未来では死んでいる。
 それを考えると心が痛んだ。悲しかったし理不尽だとも思った。
 でも、それを僕が知ったということは、僕はその未来を避けることができるということだ。
 
 姪が死ぬ世界を世界aとする。そこは僕の過去から地続きの未来だ。 
 でも、魔女やケイが未来からやってきたことで、世界は世界a'に分岐する。
 
 彼女の死は不可避のものではない。それだけ分かれば十分だった。
 ……だが、現状はどうなのだろう。魔女――こう呼ぶのも馬鹿らしい話だが――の思惑から大きく外れているのではないか?
 僕の傍にいる少女。
 彼女は魔女にとってもイレギュラーだったのではないだろうか。
 魔女は言った。「そこから何かを掴み取ってね」
390:
 何かって何だ?
 僕が掴むべき何か。僕が掴んでいない何か。
 魔女の行動と言動はおかしい。
 何か、一致していない、不自然なものを感じる。
 
 なぜだろう? 魔女の目的はいったいなんなんだろう。
 彼女自身、それを掴めているんだろうか。
"塀についた扉"のあらすじを、僕はなんとなく思い浮かべた。
 僕らは不毛な消耗を続けている。そんな気がした。
 終わらせるべきなのだ。
391:

 本屋を出ると、僕の目の前にひとりの少女があらわれた。
 同い年くらいの少女。僕には彼女が誰なのかすぐに理解できた。

392:
◆急
 そのときのわたしには、その人が、なんだか泣いているみたいに見えた。

397:

 彼女の顔を見たとき、僕は唐突な不安に駆られた。それはすぐに言語化して脳を支配する。
「彼女の死は不可避のものではない。それだけ分かれば十分だった」?
 なにが、十分なのだ?
 
 僕はこうも想像した。魔女の想定は外れ始めているのではないか、と。
 そもそも僕が姪を探さなくなったのだって、魔女のところに彼女がいると分かったからだ。
 魔女にはどうやったって手出しができない。そう漠然と感じていたからだ。
 
 その魔女の思惑が外れつつあるとしたら。
 姪の身に今何が起こっているのか、僕にはまったく分からないのではないか?
 
 どうしてそんなことに気付かないほど呆けていられたんだろう。
 事態はまったく変わっていない。
 僕はもっと事態に考えを巡らせるべきだった。"現に彼女はいなくなってしまっている。"
 僕はひとりの少女と手を繋いでいる。彼女は彼女に良く似ているかもしれないけれど、別人だ。
 目の前には見覚えのない同い年くらいの女の子が立っている。
 彼女はきっと、魔女なのだろう。
398:
 苛立たしげに眉を寄せ、魔女は息を吐く。
「ずいぶんと、仲良くなったみたいだね」
 怒気の含まれたその声に、僕は心底恐れを抱く。
 
「もう、代わりがいるからどうでもよくなったわけ?」
 僕は一瞬、繋いでいた手をふりほどきかけた。
 咄嗟の判断でそれを押しとどめる。でも、僕は本当のところどうするべきだったんだろう?
 僕は彼女の手を握るべきではないのかもしれない。
 僕は彼女について何かの責任を取ることができない。
 つまり、無責任なこと。
 僕がしているのはそういうことだ。
 でも、離すことはできない。それはあまりにも無惨なことに思えた。
「混乱してるみたいだね。なんていうかさ、あなたは自分が何をやっているのかも分からないんじゃない?」
 目の前の少女は言う。僕はひどくうろたえてしまう。
 彼女は笑った。
 その笑顔は僕を居心地悪くさせていく。
399:
「……きみが、魔女?」
 僕がたずねると、彼女は意外そうな顔をした。
「なに、それ?」
"魔女"と。
 そういえば、誰がそう呼んでいたんだっけ?
 なんだか、さまざまな情報が混乱している気がする。誰が何を知っていて、誰が何を知らないんだっけ。
 僕は何を知っていて、僕は何を知らないのか。
 なんだかまた頭が混乱している。
 落ち着け。今何が起こっているのか、しっかりと理解しようとしろ。
 理解しようとする意思が必要だ。それを保ち続けることが必要だ。
 思考を止めないことが。
 それがたぶん必要なことなのだ。
400:
 僕は彼女の顔を見る。
 どうしてだろう。見覚えなんてないのに、僕は彼女のことをよく知っている気がした。
 彼女の仕草、表情、立ち姿。そういったものにはまるで見覚えがない。
 にもかかわらず、彼女のそれは、誰かに似ている気がした。
 誰かと同じだという気がした。
「もう全部終わりにしよう。あの子に会わせてあげる」
 彼女はそう言った。そう言えるということは、彼女は姪の居場所を知っているということだ。
 でもそんな言葉より、彼女のやけになった態度の方が気になった。
 たぶんそれがいけないんだと思う。
 僕は姪ひとりのことだけを考えていればいいのに。
 どうしたって気になってしまう。
 僕は繋いでいる手の力を強めた。少女は僕の傍らで黙っている。
 僕は責任をとれない。 
401:
「なんだかね、けっきょく、どうしようもないんじゃないかって気がする」
「……なにが?」
「けっきょく、わたしが逃げただけなんだと思う。そのせいで、こんなことになったんだって」
「何の話?」
「わたしが勝手に死んだから」
 と彼女は言った。
「勝手に死んだくせに、こんなところまで来て、ぜんぶ台無しにして、混乱させてるから。
 いいかげん、終わりにしようって。けっきょくわたしが、受け入れれば、それで済むことだから」
 要領を得ない、うんざりするような口ぶり。
 
「だってけっきょくわたしが最初に逃げ出したせいだから」
 自責のような言葉が、子供のわがままみたいに吐き出され続ける。
402:
「……でも、わたしは大丈夫なんかじゃなかったから」
 僕はその言葉に、どうしようもない苛立ちを感じた。
 もしくは、彼女がそんな言葉を吐かなければならない状態に苛立ちを感じた。
 ケイと初めて会ったとき、僕の中には、魔女の正体の心当たりが生まれていた。
 だとすれば、その憤りは彼女自身というよりは、僕自身に対するものになる。
「でもね、勘違いしないで」
 彼女はそのとき、とても綺麗に笑った。
 僕と手を繋いだ少女が、少し強く僕の手を握った。
 ふたりの少女。
「なんていうか、わたしってばかだったなあ、って、そう思ってるだけだから」
403:


 
 その頃のお兄ちゃんは、なんだかとても疲れているように見えた。
 疲れているというよりは、それはもう、憔悴していると言ってもいいくらいに。
 夏休み中はずっとアルバイトが入っていた。
 お兄ちゃん自身の希望もあったみたいだけど、実際には、単に人手が足りないという部分の方が大きかったらしい。
 バイト先のコンビニはトラブル続きで、しかも忙しくて、それに加えて人間関係もごたついていてと、ろくなものじゃなかったという。
 割に合わないバイトなんて、やめちゃって他を探せばいいんじゃないかって今なら言える。
 でもそういうのは、あとになってからおばあちゃんに聞いた話で、その頃のわたしはまったくそんなことを考えていなかった。
 それに、お兄ちゃん自身、仕事を辞めたかったというわけではなかったという。
 
 というか、仕事を辞めるのを怖がっているみたいでもあった、とおばあちゃんは言っていた。
 今ならなんとなく、お兄ちゃんのそういう性格について、納得のいく部分もある。
 お兄ちゃんは根本的に自分というものを信じていないし、自信というものをまったく持ち合わせていない人間なのだ。
 楽なバイトって言えばまっさきにコンビニってあげられるくらいだから、コンビニの店員なんて楽な仕事だ、とみんなが思う。
 大変だ、とはよくお兄ちゃんも言っていたけど、たぶんそれでも、他の仕事に比べれば楽なものだと思っていたんだろう。
404:
 だからこそお兄ちゃんはバイトを続けた。
 コンビニのバイトくらい続けられないんじゃ、この先どうにもならない、と。
 そういうよく分からない思考をする人だった。なんていうか、頭は悪くないくせに根本的にバカな人だった。
 変に真面目なものだから、仕事をばっくれることもできなかったんだろうし。
 もっと要領よく生きればいいのに、変な枷を自分から嵌めるタイプの人間だった。
 そんなわけでとても疲れていて、その様子はわたしの目から見てもすごく深刻だった。
 もちろん、休みがまったくないわけじゃなかったし、肉体的な支障が出るほどではなかった。
 ただその頃、お兄ちゃんはとても精神的に思いつめていたんだと思う。
 
 何かを必死に考えて、答えの出ない堂々巡りの中で頭を抱えていたんだと思う。
 そういうことがなんとなくわたしにもわかったのだ。
 お兄ちゃんは学生なのにろくに遊びもしないし、ろくに彼女だって作らなかった。
405:
 あの頃のわたしからすればお兄ちゃんはものすごく大人だった。
 でも、同年代になった今にして思えば、特になんていうことのない人だったんだなあと思う。
 いや、わたしだって別に遊んだり彼氏を作ったりしてたわけじゃないにしても。
 なんというか、そういうわたしの中の「大人なお兄ちゃん像」みたいなものは、最近では壊れてしまっていた。
 それでも、わたしの中のお兄ちゃんに対する憧れのような感情は、まったく消えることがなかったんだけど。
 自分でもバカみたいだよなぁと思いつつも、お兄ちゃんのことを考え続けている自分がいじらしくもありアホみたいでもあり。
 ――いや、その話は横においといて。
 とにかくお兄ちゃんはろくな息抜きもしなかったし、それなのに職場のごたごたや家の中のあれやこれやを引き受けるから、すっかり参ってしまっていた。
 
 それであの花火大会の日。
 まだ幼くていい子でけなげだったわたしは、じゃあお兄ちゃんの迷惑にならない子になろうと、密かに誓ったのだった。
 
406:
「ねえ」
 と、帰りのバスの中でわたしは言った。
「わたしね、お兄ちゃんのこと、好きだよ?」
 臆面もなくそんなことを真顔で言える自分を思い出すと顔から火が出そうになる。
 なんていうかもう、無邪気だった。あの無邪気さをとりもどしたくもあり、記憶から削除したくもあり。
「……そう?」
 お兄ちゃんはそのとき、「こいつまた妙なことを言いだしたぞ」みたいな顔でわたしを見た。
 今思えば、真剣だったわたし(子供時代)に対して失礼この上ない態度じゃなかいだろうか。
 そういうお兄ちゃんの気のない態度が、のちのちわたしが死ぬ原因にもなるのだから笑いごとじゃない。
「おじいちゃんのことも、おばあちゃんのことも好きだよ」
「うん」
「お母さんのことも……」
 その頃のわたしには、お母さんについてのことも一大事だった。
 結局お母さんはその三年後には蒸発してしまった。
 まぁたぶん樹海かどこかで死んでるんじゃないかと思うんだけど。
407:
 今思えばろくな親じゃなかったなぁと思うけど、それでも嫌いになったわけじゃない。
 いや、どうだろう。よく分からない。
 でも、お母さんがお兄ちゃんを困らせる姿は、その頃から何度も見ていた気がする。 
 勝手な言い分でいいように使ったり、わたしのことでお兄ちゃんを責めたり。
 どっちのことも好きだったけど、わたしには既にその頃から、お母さん<お兄ちゃんみたいな図式が完成していたのかもしれない。
「お母さんは、わたしのこと嫌いなのかな」
 もちろん、お母さんがわたしのことを愛していたのか、愛していなかったという問題は、死んだ今になってすらわたしの胸に残っている。
 考えてもしょうがないことだし、客観的に答えはもう出ているのかもしれないけど。
「分からない」
 それでもお兄ちゃんはそうやって答えを濁した。濁した時点で、答えたようなものかもしれない。
 わたしには、お母さんがわたしのことを、機嫌のいいときですら愛玩動物程度にしか考えていないことがなんとなく分かっていた。
 だったら、せめてわたしのことを愛してくれている人のための子供になろうじゃないかと。
 わたしはお兄ちゃんのための「良い子」になったのだ。
408:
 わたしの自分プロデュースはまさしくその日から始まった。その変貌ぶりはすさまじいものだった。我ながら。
 それまでのわたしの生活は食べる・寝る・遊ぶの子供スタイル。気分が乗れば家事の手伝いをしたりもした。
 思えば家庭環境の割に、普通の子供みたいな生活を送れていた気がする。このあたりは祖父母の尽力が大きかったんだろう。
 おじいちゃんとおばあちゃんには頭をいくら下げたってたりない。 
 わたしはまず祖母に掃除、洗濯、料理を教わった。
 最初に教わったのは料理で、本当に初歩的なことしかやらせてもらえなかったし、逆に足手まといになる場合の方が多かったように思う。
 それでもわたしには、家族のために何かをしているんだという自信が生まれて、なんとなく嬉しかったのを覚えている。
 徐々にできることが増えていって、いろいろなことを覚えていくうちに、なんとなく視野が広がっていくのも感じた。
 小学校六年生になる頃には、わたしはほとんどの家事を自分ひとりでこなせるようになっていた(ちょっとだけ自慢)。
 
 とにかく早くしっかりして、お兄ちゃんのサポートをしなくては、と思ったのだ。
 わたしがそうした手伝いを始めた時期に、お兄ちゃんの職場では何かが起こったらしい。
 詳しいことは分からないけれど、その出来事の結果、お兄ちゃんはバイトをやめて、ただの学生になった。
 
 遊んでもらえる時間は増えたし、仕事がなくなってお兄ちゃんも身体的な不調を訴えることがだいぶ減った。
 そのかわり、以前から考え込んでしまう性格だったお兄ちゃんが、より一層思い悩むことが増えたように思う。
 このことがわたしには少しだけ不満だったけど、でも一緒に居る時間は増えたんだしまあいいか、という気持ちの方が大きかった。
 
409:
 時間が経つに連れてわたしはお兄ちゃんにより一層なつくようになったし、母はそれを不愉快そうに眺めることが多くなった。
 この頃になると母はお兄ちゃんに対してあからさまな敵意を見せるようになった。
 
 それを祖父母が咎めると、もう状況は最悪。お兄ちゃんは気を遣って、母のいる前ではわたしに近付かないようになった。
 別に母のことが嫌いになったわけじゃない。でも、その頃にはもう、母はわたしにとって邪魔者でしかなかった。
 だからお母さんが蒸発した日、お兄ちゃんがわたしに泣いて謝ったときも、わたしは決して泣かなかった。
 わたしのことを考えて泣いてくれるお兄ちゃんのことを考えていただけだった。
 わたしはそのとき、お兄ちゃんのために生きようと決めたのだ。
 とにかくお兄ちゃんのために生きよう、と。
 そうした自分の考えが、周囲の常識に照らし合わせればだいぶ逸脱していることに、わたしは自分でも気づいていた。
 なんせわたしは、当時中学生だったわけで。
410:
 母親が自分を捨ててどっかに行ってしまったんだから、普通は絶望的な感情に襲われそうなものなのに。
 悲しいことは悲しかったけど、どちらかというと身勝手な母親に対する怒りの方が大きかった。
 本当のことを言えば、よく分からなかったことも大きいんだと思う。
 母のことを自分のなかで上手く処理できていなかったのだ。わたしは母のことがよくわからなかった。
 だからあまり考えないようにしていた。だって、よくわからなかったから。
 この頃は、自分の中のお兄ちゃんに対する感情が恋愛感情だなんて思いもしなかったけど。
 思いもしなかったというか、そもそも恋愛を自分には遠いものとして扱っている節があって、気付かなかったんだけど。
 死んだ今になって思えば、わたしはあの頃からお兄ちゃんのことが好きだったんだなぁと感心する。
 ……あほみたいだなぁと思いつつも。
411:
 わたしが中学にあがるということは、お兄ちゃんは高校を卒業するということで。
 正直、このころのわたしはお兄ちゃんが一人暮らしでも始めるのではないかと気が気じゃなかった。
 進学にしても就職にしても、どうにかして自宅から通える範囲にしてほしいものだと。
 
 わたしはお兄ちゃんのために生きようとぼんやり考えていたけれど、お兄ちゃんから離れた生活なんて想像もつかなかった。
 その意味では母の蒸発がお兄ちゃんの選択にも関わってきたのだと思う。
 わたしのことを放っておけないと思ったのかもしれない。
 結局お兄ちゃんは自宅から通える範囲の場所にあっさり就職を決めてしまった。
 複雑な気分ではあった。
 お兄ちゃんの枷になりたくないのか、お兄ちゃんと一緒にいたいのか。
 そのどちらが優先的な気持ちなのか、わたしには判断がつかない。
 でも、たぶんどっちも同じなのだ。
 わたしはお兄ちゃんと一緒にいたかったから、できるかぎりお兄ちゃんの邪魔になりたくないと思ったのだ。
 邪魔にならないかぎり、お兄ちゃんは一緒にいてくれるはずだから。
 少なくともその頃のわたしは、そう信じていたから。
412:
 そんな生活をしばらく続けるうちに、働き始めたお兄ちゃんのお弁当はわたしが作っていたし、朝食も夕食もわたしが作ることが多くなっていた。
 というか、わたしがやりたがったのでおばあちゃんがその座を明け渡したことになる。
「まるで奥さんみたいね」
 なんておばあちゃんは茶化した。わたしは「もう、やめてよ」なんて嫌がってみせたけど、内心ではかなり浮かれていた。
 実際、その頃のわたしは仕事から帰ってくるお兄ちゃんを家で迎えるのが嬉しくてしょうがなかった。
 
「おかえりなさい」
 とわたしが言うと、お兄ちゃんは少し疲れた顔に微笑をのせて、
「ただいま」
 と照れくさそうに笑うのだ。
 これって新婚さんみたい? なんてバカみたいに浸っていた自分が恥ずかしいやら埋めたいやら。
413:
 そこまで行くと病的だよなぁ、と、思わなくもないのだが。
 ていうかその頃には気付いていた。
 自分がだいぶおかしい、ということには。
 とにかく、わたしはお兄ちゃんのことが好きだったし、お兄ちゃんと一緒にいるのが好きだった。
 
 でも、この頃になると、お兄ちゃんの方の態度が変わってきた。
 なんだか、わたしにたいして距離をおきたがったりすることが多くなった。
 
 硬化した、というか。
 あからさまに変な態度だった。
 その頃になるとわたしは自分の中の感情が、どうやら恋愛感情と呼ばれるものらしいと気付き始めていた。
 もちろん、どう足掻いたって叶うようなものではないので、早々に見切りをつけたんだけど。
 
 だからといって他の男の人に自分が惹かれるとは思えなかった。
 少なくとも同年代の男子は、自分には遠い存在に思えた。かといって年上なんてもっと遠い。
 
 今にして思えば――単純に、お兄ちゃん以外の人間をそうした対象として見ていないというだけだったんだと思うけど。
 
 勉強だって熱心にしたし、部活にだって打ち込んだ。友達だってできた。
 そこそこ充実した中学校生活を送ったわたしは、当たり前みたいに卒業して、高校受験に合格し、中学生じゃなくなった。
 
 その年のことだった。
 お兄ちゃんがとある女の人を恋人として家に連れてきたのは。
418:
 お兄ちゃんに言わせれば、そのとき女の人を連れてきたのは単にそうしたいとねだられたからで、深い意味があったわけじゃない、とのことだった。
 深い意味もなく女の人を家に連れてくるあたり、なんともお兄ちゃんらしい話だが、まぁそれはさておき。
 さいわいというべきか、その女の人とはあんまり続かなかったらしい。
 兄ちゃんと気の合う女の人なんて、そうそういないだろうことは分かっていた。ていうかいたら驚きだ。
 今だからこそ落ち着いてそう言えるけど、当時のわたしは大パニックだった。
 なにせお兄ちゃんに恋人ができるなんてことすら想像していなかったんだから(失礼な話だ)。
 
 けれどそうしたことが起こったとき、わたしは自分に対して疑問を投げかけずにはいられなかった。
「わたしはいつまでお兄ちゃんと一緒にいられるのか?」
「いつまでお兄ちゃんと一緒にいたいと思っているのか?」
 わたしはお兄ちゃんと自分との関係を変えたいとは思っていなかった(とその頃は思っていた)。
 そして、わたしとお兄ちゃんの関係が単なる姪と叔父である以上、何があろうとその関係は揺るぎないはずなのだと信じていた。
 だが、その考えは、ちょっと自問を続けているとすぐに揺らいだ。 
 少なくとも、わたしはお兄ちゃんの姪であって妹ではない。もともと同居しているのが自然な存在ではないのだ。
419:
 わたしとお兄ちゃんは時間が経てば(まぁ普通の兄妹関係だってそうなんだけど)離ればなれになる宿命。
 悲劇として酔いしれるには、その問題はわたしにとって切実すぎた。
 お兄ちゃんと離れてしまって――わたしは上手く生きていけるんだろうか?
 お兄ちゃんと一緒にいるためだったら優等生にもなれたし、真面目にもなれた。
 きっと劣等生にだってなれたし、不真面目にだってなれただろう。
 でも、お兄ちゃんがいなくなったら、わたしは何かで在りつづけることができるんだろうか。
 なんだかそれを想像すると、自分の存在がすごく希薄になってしまう気がした。
 さっきまで鮮やかな色をしていたゴム風船が、クラゲみたいに色を失う。
 そんなふうに、自分の存在感が、まるまる消えてしまう気がした。
 自分でも異常だと思った。
 別にお兄ちゃんだけじゃなくてもいいのだ。
 わたしには祖父母だっていたし、またそれで不足なら母の消息を追うことだってできた。
 わたしにはそうした、宙ぶらりんのままほったらかしにしてしまった「わたし自身」についての問題がいくつかある。
420:
 でもわたしは、どうしたってお兄ちゃんの傍から自分がいなくなることを想像できなかった。 
 そうなるとわたしはクラゲになってしまうのだ。
 実際、その頃のわたしは色を失いかけていた。
 お兄ちゃんの態度がおかしくなって、女の人を連れてきて、それで成績が少しずつ落ち始めた。
 
 わたしの様子がおかしいことに、お兄ちゃんだって気付いていたはずだと思う。でもお兄ちゃんは何も言わなかった。
 だからなおさら成績が落ちた。
 ひょっとしたら、これ以上ないというところまでクラゲになりきってしまえば、お兄ちゃんが何か言ってくれるかもしれないと思った。
 でも、悲しいかな、わたしはわざと悪い点数を狙えるほど器用じゃなくて、成績の下降は一定位置でストップしてしまった。
 それでも祖父母からは何かあったのかとは訊かれた。
 かといって真剣に答えたところで問題が解決するわけではなく、大丈夫だよと答えるしかなかったんだけど。
421:
 もっと切実な問題も、あるにはあった。
 単に離ればなれになるだけなら、お兄ちゃんはわたしのことを考え続けてくれるかもしれない。
 でもたとえば、お兄ちゃんに結婚して、そして子供ができたら?
 わたしのようなどっちつかずのまがいものじゃない、本当の子供ができてしまったら?
 不仲だった姉との子供なんて、その子供との関係なんて、疎ましく思うだけではないだろうか?
 もちろんお兄ちゃんがそんな人ではないことは分かっていた。分かっていたけれど、絶対の自信もなかった。
 わたしはお兄ちゃんに、都合のいいお兄ちゃん像を押し付ける悪いくせがあったことを自覚していたから。
 そんなわけでその頃から、わたしの生活を奇妙な不安が覆い始めた。
 それは霧のようにわたしの生活を覆い尽くして、いつまでもわたしのことを憂鬱にさせ続けるのだ。
 
 つまりわたしは、根本的にお兄ちゃんに対する気持ちに「見切り」なんてつけられていなかったのだ。
 わたしは、頭では分かったようなことを考えているつもりになっていても、実際的にはお兄ちゃんの隣に居続けたかった。
「いつか離れる」ことを受け入れられないなら、それはいつまでも一緒にいたいってことだ。
 いつまでも一緒にいたいってことは、ようするに、たぶん、その人のことが好きだってことだ。
 
 わたしは、お兄ちゃんのかたわらに立ち、お兄ちゃんと共に生活するのが自分であってほしいと願っていた。 
422:
 趣味の悪いことに――お兄ちゃん自身は知らなかったけど――わたしとお兄ちゃんに直接の血縁関係はなかった。
 というのも、わたしの母――つまりお兄ちゃんにとっての姉――とお兄ちゃんとの間に血縁関係がなかったからだ。
 というよりも、もっとはっきり言ってしまえば、お兄ちゃんとわたしの祖父母との間に血縁関係がなかったのだけれど……。
 いや、なかったわけではないか。でもまあ、そのあたりは祖父母とお兄ちゃんについての話になってしまうので省略する。 
 少なくとも法的には、わたしの気持ちには何の問題もなかったということになる。
 ……でも、法律以外の部分というのが大事なのだ。
 たとえばお兄ちゃんは、自分を育てた父母との間に血縁関係がないことを知らない。
 たとえば祖父母は、姉とお兄ちゃんを、わたしとお兄ちゃんを、分け隔てなく平等に育ててくれたはずだ。
 たとえば世間は、わたしとお兄ちゃんを、叔父と姪として、もしくは兄と妹として以外に見てくれないだろう。
 そうしたあれやこれやの問題こそが、現実としては大事なのだ。
 仮にそういった一切のことを無視して、お兄ちゃんと一緒になることができるか? と自問すれば答えはノー。
 明白に問題が多すぎる。第一お兄ちゃんの心情をまったく考慮していない。
 そんなわけで、わたしは自分の気持ちに気付いた後もそれを抑え込むはめになった。
 
423:
 これが憂鬱に拍車をかけたわけで、そりゃあ思いつめて自殺のひとつでもしたくなるよ、と自分に同情したくもなる。
 わたしは健気にも、お兄ちゃんの態度が変わってしまった後も彼の為に新妻よろしくお弁当を作り、毎朝送りだしていたわけで。
 それを思えば自分がかわいそうで涙が出そうになる。
 なんせ完全に叶わない恋なわけで。
 さらに言えば、相手は恋人なんかを気ままに作っちゃうくらいにこっちを見向きもしてないのだ(したら問題があるけど)。
 
 とはいえわたしは、お兄ちゃんが好きだという、ただそれだけの事実を思い出すだけで幸せに浸れるくらいの色ボケだったので。
 憂鬱になりつつも、日々をたしかに楽しんでいたのだけど。
 その頃のわたしは、お兄ちゃんとはろくに話せないし、優等生としての友人関係にも疲れていた。
 ので、いつも屋上でぼんやりと過ごしているとある男の子と話すようになった。ケイくんとわたしは呼んでいた。
 
 そのころちょうど夏目漱石の「こころ」を読んでいたからって、ただそれだけの理由だったりするんだけど。
 実際、「ケイ」と呼ぶにはちょっと不適切だという気がする。なんでかは分からないけど。
 
 でも、まぁ、彼は本名で呼ばれることを嫌っていたから仕方ない。
 というよりは、自分の家が嫌で仕方なかったのかもしれない。詳しいことは知らないが。
 とにかくわたしは、自分の中で何かがどうしようもなくたまっていくのを感じたとき、どうでもいい話を彼にして気を紛らわせた。
 彼は少しだけ、お兄ちゃんに似ていたから、わたしは少しだけ彼のことが好きだった。
 嫌な想像に振り回されて疲れつつあったわたしは、その頃からあんまり深く物事を考えないようになっていた。
 考えるとすぐ悪い可能性ばかりが浮かんでくるから。
 
424:
 お兄ちゃんの態度は一向に変わらず、かといって自分からお兄ちゃんを問い詰める勇気も持てずに一年を無駄にした。
 ここで大きな変化が起こる。たぶんこれがわたしの死因。……とは言わないか。なんていうんだろう、こういうのは?
 お兄ちゃんが家を出て一人暮らしを始めたのだ。もうこれでアウト。わたしのメンタルはやられてしまった。
 お兄ちゃんが家を出たら、わたしは祖父母と暮らすことになる。
 祖父母はわたしのことを気遣ってくれたけれど、母のことでさまざまな感情がないまぜになった複雑な思いをわたしに向けていた。
 申し訳なさとか、負い目。愛情とか憎悪とか、そういうものまで。
 だからわたしは、祖父母と三人で生活していくのがつらかった。
 でもお兄ちゃんはいなくなってしまった。まるでそうしないとどうにかなってしまうみたいに。
 
 で、わたしはもう、ここらへんでどうしようもなくなった。
 だって、家に帰ってもお兄ちゃんはいない。しかもお兄ちゃんは、一人暮らしを始めて、部屋に恋人でも連れ込んでるかもしれない。 
 もっと言えばある日「できちゃいました」とか言って帰ってくるかもしれない。 
 わたしはそういったことを想像するだけで吐き気がするほどにつらかった。
 比喩じゃなく吐いた日もあった。
425:
 ある激しい台風の日、わたしは家にひとりぼっちで、どうしようなくつらくて誰かに会いたくなった。
 誰かに会いたくなったんだけど、誰に会えばいいのか分からなくなった。
 
 たぶんお兄ちゃんに会いたかったんだろうし、お兄ちゃんに会いに行こうと思えば会いに行けたんだけど。
 でも、なんていうか、それは困難だった。
 なぜだろう? ほとんど白昼夢じみた実感をともなった映像が見えたのだ。
 お兄ちゃんがわたしの知らない女の人と一緒に居て。
 それから小さな子供を抱いて笑っている光景が。
 なんていうか、それだけでわたしはどこにも行けなくなって。
 家に帰るのもつらくて。
 誰かに会いたかったんだけど、わたしにはお兄ちゃん以外の人がいなかったから。
 だから――。
 その台風の日、わたしは川に身を投げた。
 古風で、なかなかいい。
426:
 で、死んだ。
 思えば短い人生だったと思う。なんせお兄ちゃん一色の人生だ。
 こんなことだったらもうちょっとあほみたいに生きればよかったかなぁとも思う。
 でも、まぁいいか、とも思う。わたしはお兄ちゃんのことが好きで好きで仕方なかったんだから。
 痛くて苦しくて死ぬかと思ったけど(死んだんだけど)、こんな死に方もありだろう。
 
 そりゃ、未練は山ほどあるし、納得はいかないけど、でも死んじゃったんだからしょうがない。
 ――ところで。
 死んだなら、今こんなことを考えているわたしはいったいなんなんだろう?
 わたしはそんなことを考えて――仕方なく目を開けた。
 開けて、光を感じた。
 それはすごく暗い光だったけど、すごくまぶしく感じた。青くて、黒くて、冷たい光だった。
 薄暗くてよくわからない場所に、わたしは放り出されていたのだ。
「おはよう」
 と、女の声がした。
 
「はい?」
 と間抜けに問い返したわたし(享年十六歳)。
 いったい何が起こったんだろう?
 わたしは上半身を起こして首をかしげて、それから自分の身体が動いていることをはじめて意識した。
「なにこれ」
 とわたしは言った。残念ながら、誰も教えてはくれなかった。 
417:
テキストエディタですべての行頭にタブを2つ入れる
行頭が数字ならタブを全て消す
タブ◇のタブを消す
タブ◆のタブを消す
テキストを保存
Excelで開くと…
僕はこのSSで正規表現が少しわかるようになりました。
427:
>>417
章分けっぽく配置してる記号の意味はともかく、数字に関しては何の意味もなかったりします。
数字に限って言えばむしろ邪魔かもしれません。
あとから気付いてやばいなぁと思ったのですが、気にしないでくれると助かります。
431:

「どちらさま?」
 とわたしは訊ねた。目の前に立つ女の人はちょっと爽やかな風貌。
 薄暗くて底冷えする空間に、その恰好はあんまりに不似合。
 でも、彼女の場合はひょっとしたらどこにいてもこうかもしれない。
 ときどきそういう人がいるのだ。
 どこにいても上手く馴染めない人間。馴染まない人間。
 彼女は小さく微笑して、
「魔法使い」
 とからかうように言った。
「……はあ」
 わたしはとりあえず頷く。よくよく考えれば彼女が誰かを知ったところで何の意味もなかったのだが。
432:
「ちょっとあなたに提案したいことがあって」
「……提案?」
 わたしは首を傾げたけれど、そもそもわたしは自分がどういう状況にあるかも分かっていなかった。
 死んだんじゃなかったっけ? そもそもここはどこなのだ?
「ここは控室」
 女の人はそう言って、
「みたいなところ」
 と付け加えた。
 ……いや、その説明じゃさっぱり分からない。
 わたしは周囲の様子を眺める。音を立てて唸るポンプのような機械。床や天井を這いまわる何かのパイプ。
 ポンプにはハンドルと何かの数値計。そういったものがあちこちに配置されている。壁は打ちっぱなしのコンクリート。
 わたしはその光景に覚えがある。
「水族館の地下?」
「というよりは、えっと、こういうところなんていうんだっけ? バック、バックなんとか」
 いや、知らないけど。魔法使いは思い出すのを諦めて、「ま、いいか」と頭を掻く。
 一度だけ、水族館の裏を見学したことがある。子供の頃、祖父母に旅行に連れて行ってもらったときだ。
433:
 結構大きな水族館で、大きな水槽があって、あとトンネルみたいになってるところがあって……。
 ……どんな魚がいたかは思い出せない。
「場所自体にあんまり意味はないから。問題は、ここがどこに繋がってるかってこと」
 彼女の言葉に、わたしは首をかしげた。「繋がってる」とか「どこに」ってどういう意味?
 それじゃまるで、水族館以外の場所に繋がってるみたいな言い方だ。
 ……いや、そもそも、わたしはいつのまに水族館にいたんだろう?
 というか、記憶が判然としないけど、川で溺れるか何かして死んだんじゃなかったっけ?
 もしかしたら流木に体を打たれたのかもしれないけど……という死に際の細かいディティールはどうでもよく。
「ね、あなたさ、自分が死んじゃったって覚えてる?」
「――あ、やっぱりそうなんですか?」
「うん。まぁね」
 ひとつ疑問がとけた。……ノリが軽いのが気にかかるが。
434:
「そっか。やっぱり死んでたんだ、わたし」
「うん。そんでね、提案なんだけどさ、ちょっと未来、変えてみない?」
「え、変えられるの?」
「変えられるんだよ。それが」
 ……やっぱりなんか軽い。
 わたしはなんとも微妙な気持ちになる。何が微妙って、この女性の言葉に一切胡散臭さを感じない自分自身に。
 まぁ、なんで感じないかっていうと、たぶんどうでもいいんだと思う。だって死んじゃったし。
 別に嘘でもホントでもどうでもいい。どっちにしたってわたし死んでるし。
「……過去を、じゃなくて、未来を、変えるの?」
「いいとこに気付いた」
 魔法使いは笑顔で頷く。わたしはなんとも言えない気持ちになった。そもそもなんですか、魔法使いって。
「過去は変わらない」
「……じゃあ、未来も変わらないのでは?」
435:
「ま、そのあたり、わたしが魔法使いたる所以って奴でさ」
 女はそれから、コンクリートの壁に背をもたれて人差し指を立てた。
「ようするに、タイムスリップ、的なことを、他の人に体験させられるんだよ、わたしは」
「……どうやって?」
「理屈とかないの。超自然的って言葉は、自然の範疇を超えてるから超自然的っていうの」
「あなた、何者?」
「魔法使い」
 女は笑って、
「“わたしはあなたの敵ではない”」
 と言った。そして溜め息でもつくみたいに続ける。
「“わたしはあなたたちとは無関係の存在だ”」
436:
「……」
 意味が分からない。わたしはその言葉を振り払うみたいに首を振ってみたけど、あんまり効果はなかった。
「……その話はもういい。でも、わたし、死んでるよ。死んでる人って、タイムスリップできるの?」
「控室に来た以上はね。ていうかわたしが連れてきたんだけど」
 わたしはちょっとだけ気になって訊ねた。
 訊ねたところでどうなるってものでもないだろうけど、聞いたところで損をする話でもないだろう。
「何が目的?」
「観劇」
 ずいぶんと悪趣味な魔法使いがいたものだ。
 いや、魔法使いなんてそんなもんか?
「というかまぁ、研究、みたいなもの?」
「いや、疑問形で言われてもね」
437:
「とにかく、さくっと過去にタイムスリップして、未来を変えてみない?」
「……過去に飛ぶなら、過去も変わるのでは?」
 魔法使いはくすくす笑って、それ以上何も言おうとしなかった。
 
「で、どうする?」
 と魔女は言った。
 わたしはどうでもいいやと思ったけど、少し真面目に考えてみる。
 仮に過去に戻って何かを変えられるとしたら、わたしはどうするだろう?
 わたしにはさっぱり思いつかなかった。
 
 わたしにはお兄ちゃんと一緒に生きられる未来なんて作れるとは思えなかった。
 そうである以上、わたしにこれ以上の生はまるっきり無意味なのだ。
 
 なんというか。
 死ぬときは、混乱していたし、疲れていたからよく考える余裕もなかったのだけど。
 何も死ぬことはなかったんじゃないか?
 と早くも後悔。
438:
 べつに現実に何かが起こったわけではなかったのだし、ゆっくりと時間の経過を待てば――。
 ひょっとしたら、わたしにもお兄ちゃん以外の何かがあったかもしれないのでは?
 そんなふうに考えたら、やり直してみたくもあったけど、でも、それだって同じことだった。
 お兄ちゃん以外の何かは、現に今のわたしにはないし、そうである以上わざわざ探しに行く気にもなれない。
「一応魔法のルールを説明しておくとね、何人か必要な人間を連れてくこともできるし」
 いきなりよく分からないルールだ。他の人間を連れて行ってどうするんだろう。
「もしくは、巻き込むこともできる」
「……巻き込む?」
「うん。ま、これやるとめんどくさいし、あんまりお勧めしないけど。前にやった人はね、一人で行って一人で帰ったよ」
 前例があるらしい。
439:
「あとは、過去に戻った段階で世界は分岐する」
 分岐、とわたしは鸚鵡返しする。
「うん。分岐。だから結果が変わる」
 つまり、結果とは未来か。
 でも、分岐――枝分かれということは、「こうだった」部分が「こうじゃなくなる」ということで。
 それってやっぱり、過去が変わっていることになるのでは?
「あ、それと補足。入り方はひとつだけど、出方はひとつじゃない。あっちにいくと区別がなくなっちゃうから。
 たとえばA世界にBがCを巻き込んで入ったとき、Bの意思じゃなくCの意思で帰ることもできる。
 するとね、Cがいろんなものを負っちゃって、Bは巻き込まれた側の立場になる」
「……えっと」
「うん。このあたりの話はよく分からないと思うから、聞き流していいよ。契約書の、細かい文字で書かれてるとこみたいなもん」
 それ、聞き流しちゃだめだと思う。
440:
「あと巻き込まれた人間は気分に左右されやすくて、すぐにちょっとした超常現象起こすけど、あんまり影響ないから気にしないで」
 なんかすごいこと言ってる気がするけど、正直実感がわかない。よく分からない。
「それから、あ、そう。わたしの魔法ってば適当だからさ、ちょっとした誤差が生まれたりもするんだよ。
 A世界にBが向かうとき、Cを巻き込んだとすると、巻き込まれたCがCの世界に帰るとき、ちょっと時間のズレが起こったりするの。
 でも、意思的に出た人物――ふつうなら最初に入った人と一緒なんだけど、その人の時間だけは元通りの時間に戻る」
 ――えっと。
「つまり、普通の場合、入った時間と同じ時間に戻るってわけ」
「……戻る?」
「そりゃそうだよ。未来を変えたら戻ってこなきゃ」
「えっと。未来が変われば、結果も変わる?」
「なにせ、未来が結果だから」
「でも、過去は変わらない?」
「分岐するだけだからね」
 それって――どういう意味?
441:
「口で言ったってわかんないって。実際やってみなきゃ。どうせ失うものなんてないんだからさ」
 そりゃ、そうなんだけど。わたしはなんだかその話に乗り気になれない。
 乗り気になれないも何も、わたしの望む未来が、どんな形であれ手に入るとは思えないからなんだけど。
「……うーん」
「やっぱりダメ?」
「気が乗らない」
「……じゃ、このまま死んだまま?」
「それでいいかなぁ。未練はあるけど……」
 でも、過去に戻ったところで、何が変えられるっていうんだろう?
 わたしはどこにいったって、無力な子供でしかないのだ。
「そっか」
 と魔法使いは頷いた。 
 そして、怖気がするような酷薄な笑みを浮かべる。
「――じゃあ、叔父さんも、死んだままでいいんだね」
 その言葉に、心臓が凍る。
442:
「……死んだ?」
 問い返したわたしの声は、わたしの声じゃないみたいに聞こえた。
 なんだか薄い膜越しに聞くみたい。ぼんやりとノイズがかっている。
「死なないと思う?」
「……え、叔父さんって、お兄ちゃんが?」
「うん。いや、まだ死んでないか。もうちょっと先だね。一年後? 一年はもったんだ。思えばよくもったよね」
「……お兄ちゃんが、死ぬの?」
 足元がふわふわとして頼りない。わたしの身体から感覚が抜け落ちていく。
「死ぬでしょ。あなたは疲れてて混乱してて、上手に考えられなかったみたいだし、思いつかなくても不思議はないけど。
 ね、死ぬでしょ? だって、ねえ。あなたの叔父さんだよ? 溺愛してた姪っ子が自殺したらさ、後を追うでしょ?
 そういう人だもん。想像つくでしょ?
 普通の叔父だったら違うかもしれないけど――あなたのところは、普通の叔父と姪じゃなかったしね。
 それから、そのあとすぐにお祖母ちゃんも病気になって死んじゃうけど」
「――」
443:
 お兄ちゃんが、死ぬ? わたしを追って?
 というか、それは――わたしが殺したようなものだ。
「不思議な関係だよね、あなたと、あなたの叔父さん。どっちもさ、互いを失ったらまるっきりからっぽになっちゃうみたい。
 驚いたことに、始めからそうだったんだよ。そのときは別に、特にお互いのことを考えてたわけでもないみたいだったけど」
 魔法使いの言葉は、わたしの耳を通り抜けていく。
 お兄ちゃんが死ぬ。
 わたしのせいで。
 ――心底思う。わたしはバカだ。
 なぜ死んだ? なぜ耐えられなかった?
 さっきまで、その気持ちは身を切るほど切実に我が身を苛んでいたのに、でも、強い後悔がわたしの胸を襲った。
 耐えられなかった。混乱していたし疲れていた。頭がうまく回らなかった。
 つらかった。だから死んだ。それで、それでお兄ちゃんが死ぬのか。
 ――それは、ダメだ。それだけは、ダメだ。
 お兄ちゃんが死ぬなんて、わたしのせいで死ぬなんて、ダメだ。
 お兄ちゃんのためにわたしが死ぬことはあっても。
 わたしのせいでお兄ちゃんが死ぬことはあってはならない。
444:
「行く」
 とわたしは言った。
「行って、どうするの?」
 魔法使いはわたしに訊ねる。
 わたしは答えた。
「わたしが死ぬのを、止めなきゃ」
 そうしなければお兄ちゃんが死んでしまうなら、わたしは三秒前の決意だって翻せる。
 お兄ちゃんが他の人と幸せになる姿を見るのはつらい。
 本当のことを言うと、わたしの後を追ってお兄ちゃんが死んでくれるなら、それが本当なら、少しだけ嬉しかった。
 でも――ダメだ。ダメなのだ。 
 そんなのは、納得がいかない。自分の身勝手から生まれた結果だとしても、それを許すわけにはいかない。
 その未来を変えることができるなら、その蜘蛛の糸が、わたしの目の前にぶらさがっているのなら、わたしはそれを掴むしかない。
 魔法使いが満足げに笑った。
450:

「なんだか言い足りないことがある気がするけど、まあいいか」
 魔法使いの女の人はそんなふうに言った。
「伝え忘れたことも、追々分かってくるだろうしね。行こうか」
「……行く?」
「過去に」
 魔法使いがわたしに背を向けて歩き始めた。
 通路の様子は薄暗くて分かりづらい。何かの機械の音がする。ごおおおおお、という排気の音。
 天井から床まで、大量のパイプが、どこからか入ってきて、どこからか出ていく。
 パイプには操作するためのハンドルがついている。床は濡れていて滑りやすく、壁はコンクリートの打ちっぱなしだ。
 
 懐かしいなぁ、とわたしは思う。でも、こんなに暗かっただろうか?
 やがて通路は二手に分かれる。彼女は入り組んだ方へと進む。小さな木製の階段があった。
 黙って進んでいく。その先には扉があった。
 
451:
「準備はいい?」
 と魔法使いは訊ねる。
「まだ、って言ったら待っててもらえる?」
「だめ」
 殺生な。
 とはいえ、準備に不足があったわけではなく(なんせ死んでるもんだから、このままいくしかない)。
 さいわい服は着ているし、財布はある。
 ……なんでだろう。この"わたし"はいつの"わたしなんだろう?
 もし死んだときそのままの姿だったら、服も体も、もっとボロボロでおかしくないのに。
 
「ちょっと不確定なところまで遡ってるからね」
 心でも読んだようなタイミングで、魔法使いがよく分からないことを言った。
452:
「不確定?」
「そう。でも忘れてていいよ。携帯とか、なくしてない?」
「……うちに置いてきたかも」
「なんで?」
「もともと持ち歩かないんだ」
「そっか。不便だな」
 ドアノブに手を掛けたまま、何かを考え込んだ様子の魔法使いは、ふとポケットに手を突っ込んだ。
「じゃあ、これあげる」
 彼女が取り出したのは黒いスマートフォン。略してスマホ。
453:
「わたし、初スマホ」
 動揺する。わたしはわりとミーハーなのだった。縁がないものではあるが。
 受け取って、適当に触ってみる。画面は真っ暗なままだった。
「くれるの? ありがとう。高いのに」
「死んでるくせに、物もらって嬉しいの?」
「人からものをもらうなんて、めったにないから」
 魔法使いはなんだかあったかいものに触るような目でわたしを見た。子供だと思われたかもしれない。
「動かないよ?」
「……脇にあるボタン押すと、反応するようになるから」
「おお」
「画面が表示されたら、錠のアイコンに指で触って、そのまま右にずらす」
「……ずらす? あ、動いた」
「そしたら普通に操作できるようになる」
454:
「電話を掛けるにはどうすれば……」
「ホーム画面にショートカット作ってあるんじゃない? たぶん電話帳かな。わたしの番号、それに入ってるから」
「……どうして? これ、あなたのじゃないの?」 
「違うよ。他人のだよ」
「……他人のをあげるって、どうなの?」
「譲渡されたの。で、それをさらに譲渡する」
「……繋がるの、これ?」
「たぶんね」
「ところで、あなたの番号はなんて名前で登録されてるの?」
「"変な女"」
「……」
455:
 発信履歴と着信履歴を見ると、その名前が真っ先に見つかった。
 次は自宅、その次は部長、西沢、花巻。多分仕事仲間か。
 わたしはちょっとした好奇心でメールボックスを探してみた。
悪趣味だとも思ったけど、あんまり抵抗がない。死んでるからか。
「メールは……ここか」
 ホーム画面からメールっぽいアイコンに触れる。
 受信ボックスと送信ボックスを覗いてみる。文章を見る限り、どうも丁寧な人らしい。
 ……いや、無愛想という方が近いか。そのわりに人望がないわけでもないようだ。
 
 プロフィールは、どこから見るんだろう。いったい誰のものなんだろう。
 
「そろそろ、いい?」
 魔法使いが呆れたように言った。わたしはあわててスマホをポケットに突っ込む。
「うん」
 魔法使いが扉を開いた。
456:
「どうぞ」
 と彼女は促す。
 わたしはちょっと戸惑った。
「あなたは、行かないの?」
「行けないの。……ごめん、わたしさっき、ちょっとだけ嘘をついたかもしれない」
「……え?」
「完全に無関係ってわけじゃないんだよね、あなたたちと」
 魔法使いは、そういって気まずそうに前髪を掻きあげた。
「ちょっとは、手伝ってあげる。ちょっとだけね」
「……なんか、いやな感じ」
「がんばってね」
 と彼女はわたしの背中を押した。
 仕方なく、わたしは扉をくぐる。
 視界が光に覆われる。
 まっしろい光。方向感覚と平衡感覚が失われて、地面と接地している感覚が消えていった。
 ちょうど消えていくみたいだった。
 たぶん成仏するのってこんな感じ。今のわたしが言うと冗談にならないけど。
457:
 目が慣れてくると、たくさんのドアが見えた。
「ここ、どこ?」
 と振り返って訊ねると、扉は既に閉ざされていた。気のせいだろうか。扉のサイズがくぐる前と違う気がする。
 緑色のドア。ちょっと悪趣味。
 まあ、別に不思議なことでもないか。いや、不思議は不思議だけど、不思議なのは当たり前だ。
 わたしは少し不安になった。それで、まず何をすればいいんだろう?
 というか、わたしは本当に過去に来たんだろうか? 日付を確認したい。
 携帯電話の日付……は、なんだか信用にならない気がした。
 とりあえずこの場所にカレンダーはなさそうだ。
 
 というか、ここは既に過去の世界なのだろうか? それとも例の「控室」の地続きみたいなものなのかもしれない。
 たくさんのドアは非現実的な様相を呈していて、わたしはなんだか怖くなる。
「うーん」
 と唸ってみると、声は思いのほか大きく響いた。
 周囲には誰もいない。ここはどこだろう?
458:
 わたしはこの場所に来たことがあるような気がする。
 記憶の隅の光景と、この場所が重なる。見覚えがある。
 たくさんのドア。昼下がりの太陽が窓から差し込んで、真っ白な壁に跳ね返っている。
 
 窓の外には木々が並んでいて、緑色の葉をつけていた。
 向こう側には道路が見えて、たくさんの車が左右に抜けて行った。
 
 見覚えのある国道バイパス。わたしの家の近く。
 わたしはとにかく建物の中を歩いてみた。
 時計は、カレンダーはないだろうか? ……ない。 
 よく見ると、扉以外にも窓なんかが壁についていた。
 壁は、まるでそこに突然あらわれたみたいな形で立っている。
 まるで扉や窓をそこに作るために、壁を立てたみたいだった。
 窓のそばにはプレートみたいなものが取り付けられていた。美術館なんかで、絵画のそばにつけられてるようなもの。
「……ああ」
 つまり、展示しているのだ。
459:
 ようするにここは、ドアのショールームなのか。
 ということは、ここはあの事業所の……。
 だとするなら、ここは既に過去の世界なのだろう。
 なにせわたしは現在では死んでいるわけで、現在には存在できない。
 それができたら、話が終わってしまう。
 わたしはなんだか不安になって、自分の手のひらを見た。
 死ぬ前と同じ、十六歳の手のひら。
「うーん」
 なんだか実感がわかない。死んでるんだからその方がいいのかもしれないけど。
 とりあえず適当に歩いているうちに出口を見つけた。わたしは外に出る。
 そこはまだ事業所の敷地内で、そばには厳めしい門が立っていた。
 わたしはなんだかまずいことをしているような気になった。人目を忍んだ方がいいかもしれない。
460:
 ところで、今はいつなのだろう?
 魔法使いはわたしを過去に送ると言った。送ることができる、といった。
 でも、いつに送る、とは言っていなかった。
 
 わたしの自殺を止めるためには……わたしが自殺するその瞬間に行けばいいのだ。
 そうすればわたしは、わたしに直接会って、話すことができる。
 自分と同じ顔をした人間に声をかけられて、自殺を止められたら、わたしは信じるだろう。
「あなたが死んでしまうと、お兄ちゃんも死んでしまうの。だから死んじゃだめ」
 この程度でいい。たしかにわたしが死ぬことは、お兄ちゃんにとってはショッキングなことだろう、とそのわたしにも想像できるだろう。
 だとするなら、わたしは今、自分が死ぬ三日前くらいに来ているとか? 
 とりあえず国道沿いを歩いて、わたしは付近のコンビニに向かった。
 
 すぐに、その事実に気付く。
461:
「……店が違う」
 ファミマがリトルスター(ローカルなコンビニ)になってる。
 ……いや、事実からすれば逆なんだろう。
 
 ちょっと前にここいら一帯のリトルスターがぜんぶファミマになっちゃったのだ。
 ちょっと前っていうか、十六歳のわたしから見て三、四年前。
「……ええー」
 魔法使いはいったい何を考えてるんだろう。
 つまりわたしが今いるのは、三、四年以上前の過去ってことでは?
 ていうか……。
「そんなに遡って、いったい何を変えればいいの……」
 絶望する。
 魔法使いの言葉に耳なんて貸すから、こんなことになったんだ。
「騙された……」
 戻りすぎでしょう、いくらなんでも。
462:
 念のためにコンビニに入る。
 
 入口から、時計が見えた。十二時三十五分。ひどく混み合っている。
 レジから列が伸びていた。ふたつ。おぞましくすらある。リトルスターって、人気なかったと思ったけどな。
 たぶん立地がいいのだろう。事業所と住宅地がすぐ傍で国道沿い。ここらへんは工事関係の人も多い。
 わたしは入口で新聞を掴んで年号を確認した。六、七年前?
 日付は……七月二十三日。
 溜め息をついて、わたしは思う。
 わたしが死んだ日だ。数年前の。
「なんか、悪趣味……」
 いや、単に年単位で移動させただけだったりして。面倒だから日にちはそのまんまでいいよね、という。
 あの女の人、そういう性格っぽいし。
「なんか、お腹すいたな」
 
 新聞を棚に戻して、わたしは店内をめぐる。電子レンジが何度もピーピー言ってる。みんなお弁当をあたためてるのだ。
 わたしは適当にパンを見繕った。あらかた売れていたけど、いくらか残っているものもある。飲み物も一緒に買った。
463:
 会計の列に並ぶ。たぶん七分くらい待った。わたしはレジに品物を出す。
 店員の慌てた様子にせかされて、急いで財布を出して、千円札をカウンターにおいた。
 ついでにポイントカードを出す。店員が不思議そうな声をあげた。
「……あ」
 当たり前だ。ここはリトルスターだった。Tポイントカードを出してどうするのだ。
 ていうか、この時代にTポイントカードってあったっけ? わたしは慌てて財布にカードをしまう。
 店員と目があった。
「――え?」
「……はい?」
 わたしの声に、店員はふたたび不思議そうな声をあげた。
 どきりと心臓が跳ねて、一瞬思考が凍る。
 なんとか頭を落ち着かせて、差し出された品物を受け取って、お釣りを受け取った。
 うしろの列にせかされて、わたしは意思と反してレジから吐き出される。
 客の流れはわたしを店の入り口まで連れ去った。入口の脇で流れからはみ出て、わたしは後ろを振り返る。
464:
 ――お兄ちゃんがいる。
 動揺よりも先に、わたしの胸はなんだか高鳴る。
「……若い」
 というか、同い年くらい。
 いや、そりゃそうなるか。わたしとお兄ちゃんの年の差は七つ。七年戻れば、お兄ちゃんは今のわたしと同い年くらいだ。
 ぽーっとなって仕事ぶりに見とれる。騒々しくて聞き逃していたが、声にだってちゃんと覚えがあった。
「うわ、働いてる……」
 なんだか感動。
 ……落ち着け、自分。
 ここであんまり目立つのは、得策ではない。とりあえず、店を出よう。うん。
 
 わたしは店を出て、それから魔法使いの顔を思い浮かべた。
 あの人、なかなかにいい仕事をする。
 さて、とわたしは思う。どうやら本当に過去に来てしまったようだ。
470:
 まずは状況を把握しなければならなかった。
 中天に浮かんだ太陽がじりじりとアスファルトを焦がしていて、空は真っ青に拡がっていた。
 どこまでも透き通った夏の日。はしゃぐ子供たちが自転車に乗って国道沿いを走っていく。
 
 コンビニの駐車場では、スーツを着た男の人が運転席にもたれてカーラジオをかけっぱなしで昼寝している。
 通りすがりの車の運転手が歩道に立ち止まるわたしの顔をちらりと伺ってすぐに逸らした。 
 街には落着きがない。
 わたしはコンビニの軒先にしゃがみ込んでパンを食べた。それから死んでいてもお腹が空くなんてなぁ、と考えた。
 それを思えば無為に思えたお墓へのお供え物にも意味があったのかもしれない。
 なんて話はどうでもよく。
 
 パンを食べ終えると、ついでに買っておいたお茶を一口飲んで、立ち上がってゴミを捨てた。
 それから鞄がほしいなと思った。手軽に持ち歩ける鞄がほしい。なるべく大き目の奴を持っておきたい。 
 でも、それはあとにすることにした。
 なんだかここでぼーっとしていると時間を無駄にしてしまいそうだ。
 少し名残惜しかったけど、わたしは一瞬だけ振り向いて、それからあとは普通に歩き出した。
 もっと抵抗があるかと思ったけど、そういった感覚は別になかった。
471:
 とりあえず……どこに向かおう?
 わたしは未来を変えるためにここに来た。
 だとすればわたしが考えるべきなのは、どうすれば未来を変えることができるのか、だ。
 
 こういった感覚はわたしにとってはとても楽だった。目的があらかじめ示されている。
 これがみんなにあったら楽なのに、とわたしは思った。役目が自明化されていて、それに従うだけでいい。
 でも大抵の人間は目的なんて持ち合わせていないわけで、せいぜい暇を潰すくらいしかやることがない。
 目的が分からないから混乱してしまうのだ。
 そういう意味では、幼いころに自分なりの目的を見つけられたわたしは幸福だと言えたのかもしれない。
 仮にその目的に殺されてこんな場所にやってきたとしても。
「うーん」
 とわたしは考える。どうすれば未来を変えられるのか? 見当がつかない。
 そもそもそんなに簡単にわかるなら、最初からそんな未来にはならなかったわけで。
472:
 より根本的な話として、わたしはなぜ死んだのか。
 自殺というのはこう、なんか、イメージとして、いろんな要因が重なり合った結果という気がする。イメージとして。
 わたしの身に起こったのは――例の悪夢的な白昼夢。
 要するにあの光景が現実化することが、わたしは死にたくなるほど嫌だったんだろうけど。
 どうしてだろう。死ぬ前の自分のことが、他人事のように思える。
 でもわたしはあのときの記憶をちゃんともっているので、間違いなくわたし自身なのだ。そこに間違いはない。
 
 混乱していて、不安になっていたのだろう。じゃあ、その不安はどこから生まれたんだっけ?
 
 お兄ちゃんに冷たくされたから?
 という心当たりは浮かんだ。なんというか、それは当たりではあるのだけれど、根本的ではないような気がする。
 でも、それ以外に心当たりもないわけで。
473:
 ひとまずそのまま考えを進める。
 お兄ちゃんを死なせないためには、わたしが死ななければいい。わたしを死なせた原因は、お兄ちゃんの態度が原因。
 じゃあ、お兄ちゃんの態度の方に訴えかければいいわけだ。 
 
 つまり、お兄ちゃんがわたしから離れないようにすればいいのだ。
 ……やはり、悪趣味だという気がする。 
 よりにもよって、それを自分の手で行うことになるのだから。
 なんていうか、それは、ひどく自己愛的なことに思えた。
 というかまぎれもなく自己愛的で。 
 しかも歪んでいるのだ。
 救いようもなく。
474:
「……とにかく」
 とわたしは声に出してみる。別に言いたいことがあったわけではないのだけれど、とりあえず声を出した。
 こういう気持ちは案外大事だと思う。とりあえず「とにかく」と言っておけば、そのうち続きが思い浮かぶのだ。 
 たぶんお兄ちゃんにはそういう余裕が足りない。
「そうだ。家に行ってみよう」
 
 どうせわたしは今、未来の姿をしていて誰にも気づかれない。わたしは他人のふりをして、誰にでも近付くことができるのだ。
 それを思うと、自分という存在がすごく超次元的なものに思えた。 
 わたしが誰なのか、誰にも分からない。
 この時間にわたしは存在していない。
「非現実的」
 とわたしは溜め息をついた。
 でもそもそもの話が非現実的で、わたしは既に現実の住人ではないのだ。
 
 季節は夏で、学生たちは夏休み。街を歩きながら、わたしはぼんやりと考える。 
 どうすれば、わたしを死なせずに済むのか。
475:
 ――無理じゃないか?
 
 なんていうか、こういう立場になって初めて思うけれど、ようするにわたしはお兄ちゃんのことが好きで。
 あの人の隣に誰かが立つことを想像するだけで体が不調を訴え始めて。
 要するにお兄ちゃんが誰ともそういった関係にならずに生きていく以外に、方法がないように思える。
 でも、お兄ちゃんの人生を束縛することなんて誰にもできない。
 
 もしそれ以外に方法を探そうとするなら、お兄ちゃんとわたしが結ばれるか。
 あるいは、わたしが堪えるしかない。
 こらえるのは無理だったわけで。
 じゃあ、お兄ちゃんにわたしを好きになってもらうしかない。
 ――なんていうか。
 それは、ええと。
 ばかみたいな話だ。
476:
 ていうか、仮にそうすることで未来が変えられるとしても――それってわたしにどうにかできる問題?
 歩いていると、家に段々近付いていく。
 当たり前だけど距離は縮まっていく。
 それがなんだか不自然なことに思えた。
 歩けば距離が縮まる。太陽が照れば暑さを感じる。
 わたしがどうして、そういうごく当たり前の流れの中にとどまっていられるんだろう。
「……ま、いいか」
 考えたって仕方ないし、何を考えているのか自分でもよくわかっていないのだ。
477:
 家を直接訪れるわけにはいかないし、外から様子をうかがうことしかできない。
 とりあえず中には誰かがいるらしい。母と、この時間のわたしか。
 わたしは、この時間のわたしと、この時間のお兄ちゃんの間に、何かの変化を残さなければならない。
 そうすれば未来は変わる。
「……あれ?」
 変わったら、どうなるんだろう?
 未来が変わると、「この時間のわたし」の未来も変わって。
 たとえば万事が上手く回って、わたしとお兄ちゃんが結ばれたとして。
 するとわたしは自殺しないし、お兄ちゃんも死なない。
 わたしが死なないなら、わたしはこんなところにいないわけで。
 なにかの本で読んだことがある。親殺しのパラドックス。
478:
『過去は変わらない』
 と魔法使いは言った。
『過去に戻った段階で世界は分岐する』
 分岐。枝分かれ。
 彼女はこうも言った。 
『つまり、普通の場合、入った時間と同じ時間に戻るってわけ』
『……戻る?』
『そりゃそうだよ。未来を変えたら戻ってこなきゃ』
 つまり、死んだ時間から来たわたしは、自分が死んだ時間に戻らなきゃいけない。
 でもわたしが未来を変えたら、わたしは死なない。じゃあ、戻るべき時間はどこに行ってしまうんだろう。
 つまり――それが分岐ということなのだろうか?
 わたしがここで未来を変える。すると、本来辿るはずだったものとは別の未来に、この世界は変わってしまう。 
 枝分かれするのだ。
「…………」
 それは、つまり。
479:
 考え事を続けようとしたところで、後ろから声を掛けられる。
「……あの」
 とか細い声。
 わたしは慌てて振り返る。
 わたしが居た。
「うちに何か御用ですか?」
「――」
 わたしはどう答えようか迷って、結局何も答えなかった。
 何も言わずに背を向けて逃げ出す。わたしはいつも肝心なことから逃げてばかりだという気がする。
 彼女の視線が、ずっとわたしを追いかけているような錯覚。咎められているような、錯覚。
480:

 わたしは自分が今どうするべきかだけを考えることにした。
 時間とか世界とか、そういう話は別に知らなくてもいいことだ。
 わたしがすべきことは、お兄ちゃんとこの世界のわたしを死なせないように努力すること。
 わたしが死んだのは、たぶん、お兄ちゃんの態度が原因だ。お兄ちゃんの冷たい態度が。
 じゃあ、少なくとも、お兄ちゃんが普通通りの態度で接し続けてくれたら。
 わたしは死なない。じゃあ、そうなるように仕向ければいい。
 でも、それはどうすればいいのだろう?
 つまり、冷たくならないようにするには。そもそもお兄ちゃんは、どうしてわたしに対する態度を変えたんだろう。
 それさえ分かれば対策ができないこともない。
 でも……それが分かっていれば、わたしはそもそも死ななかったんじゃないか。
 わからないから不安になって、死んだのだ。
 お兄ちゃんは、わたしのことを嫌いになったんだろうか。
481:
 ……一瞬、その考えに呑まれかけた。死ぬ前のわたしは、そう考えていた気がする。
 でも、違う。魔法使いは言っていた。お兄ちゃんはわたしが死んだあと、自分もまた死を選んだのだ。
 つまり、わたしの存在がお兄ちゃんにとって大きなものであったのは間違いない。
 わたしはそこにあまり自信が持てなかったが、魔法使いの言葉を信じることにした。
 そうしなければ立ち止まってしまう。
 お兄ちゃんに嫌われない方法なんて思いつかなかった。
 だってわたしは、そうならないようにせいいっぱいやってきたんだから。
 せいいっぱいやってダメだったなら、これ以上はどうしようもない。
 じゃあ、他にあるとすれば?
 ……思いつかない。
 まったく、見当もつかなかった。
487:
 ふと気付くと、わたしは見覚えのある児童公園の入り口に立ち止まっていた。
 この世界のわたし――まだ子供のわたしから逃げ出してきて、こんなところに来てしまったのだ。
 
 ポケットからスマホを取り出す。どうでもいいけど、スマホのことはなぜか携帯ではなくスマホと呼んでしまう。
 いや、本当にどうでもいい話なんだけど。
 時刻はまだ昼過ぎだった。わたしはコンビニで買った飲み物に口をつける。
 そういえば……お金はどうしよう。
 こちらで行動するのにだって、なにかとお金はかかるわけで……そのあたりのサポートは、魔法使いから受けていない。
 
 思ったのだけれど、わたしが今考えなければならないのは、未来や世界のことではなく、今晩の寝床や夕食のことではないだろうか……。
 二十一世紀にもなって、なぜこんなにサバイバルな。
 思わず恨み言のひとつでも言いそうになったところで、スマホが振動して着信を知らせた。
 画面の表示は「変な女」。噂をすれば電波。
「通話ってどうするんだろ。これ? ……あ、ずらすのか」
 ぶつぶついいながら画面に触って、どうにか通話させる。耳に当てるとちゃんと声が聞こえた。
488:
「ちょっとまずいことになったかも」
 と魔法使いは挨拶もなしに言った。
「なに、なんの話?」
 それより夕飯やお金や寝床のことで相談があるんだけど、とわたしは言おうとしたけれど、魔法使いの言葉に遮られる。
 人の話を聞かないのはお互い様か。
「なんかね、巻き込まれちゃったみたい」
「巻き込まれた? なにが」
「人が」
「……なにに」
「つまり、あなたがそっちに行くときに、巻き込まれて控室まで来ちゃったみたいなの」
「誰が?」
「見に来て。ちょっとめんどくさいことになったかも」
「……それ、どういう意味?」
「うん。来たら分かる」
489:
 電話が切れる。
 来たら分かるって、どこに行けばいいんだ。
 そもそも、わたしがこっちに来てからまだ一時間と経っていないのに。
 
 あの魔法使い、自分でも適当だって言ってたけど、ボロが出るのが早すぎる。
 この分じゃだめかもしれないな、と諦め気味に思いながら、わたしはスマホをポケットにしまった。
 
「とりあえず、さっきのショールームに行けばいいのかな」
 お兄ちゃんが家を出てから、ひとりごとが増えたのは自覚している。
 とはいえ、どうせ誰も聞いてないわけだし。
「……」
 なんだか、生きてるときより世知辛い気がする。
490:

 
 白昼に堂々と事業所の敷地に忍び込むのは、困難だった。
 さっきまでとは違い、人が大勢いたからだ。何かの催事の準備をしているらしい。
 打ち合わせのように、何人かの大人が頭をつっつき合わせたり歩きまわったりしている。
 とはいえ、不思議とわたしは見つからずに済んだ。これは本当に不思議なことだと思う。
 ドアに埋もれた部屋を抜けて、人気のない方へと進む。
 忍び込んだはいいが、どこに向かえばいいんだろう。
 
 控室、と魔法使いは言った。
 つまりさっきの場所にいけばいい。緑色のドアを探せばいいのだ。 
「んー、と」
 どこらへんにあったっけ。
 結構奥まったところだったような気が……。入ってきたときはまだ感覚がつかめなかったから、よく思い出せない。
 もともと道を覚えるのって苦手だし。RPGなんかもワールドマップでつまずくし……。
491:
 でも、それにしても……。
「ない」
 ひょっとして色を見間違えていたんだろうか?
 青とか、薄茶色とか、黄色とか、光の加減で緑に見えただけで、実は黒だったり白だったり……。
 というわけでもないだろう。いくらなんでも。
 でも、緑色の扉はひとつも存在しない。
 じゃあ見間違い以外に可能性はないはずなのだが、なぜか、そうとは思えない。
 わたしはスマホを取り出して、魔法使いに電話を掛けた。
「いまどこ?」
「控室ー」
 魔法使いは間延びした声で返事を寄越した。
492:
「あ、そこまで来た? ちょっとまって。今開けるから」
「……開ける?」
「うん。わたしの意思で開くようになってるから、ここ」
「……へえ」
 ホントに不条理な存在。魔法使いって。
「三秒、目、瞑ってて」
「はい」
 わたしはたっぷり三秒数えた。
493:
「開けて」
 開けると、目の前に緑色のドアがあった。
 つくづく、不条理。
「待ってるから」
 そう言って魔法使いは電話を切る。
 さて、とわたしはドアノブに手を掛けた。
「鬼が出るか蛇が出るか」
 なんて、大層な話じゃないといいんだけど。
494:

 
 ドアを抜ける。音もなく扉が閉まる。金属製の重く冷たいドア。振り返ると、その大きさは明白にそれまでと異なっている。
 繋がっている、ということだ。
 わたしは溜め息をつく。自分は何をやっているのだろうと思った。
 いや、もちろん自分がやろうとしていることはなんとなく分かっている。
 そうするだけの理由もある。でも、上手に言葉にできないけど、何をしても無駄だという空しさもあった。
 
 わたしはなるべくその空しさの相手をしないようにして、歩を進める。
 最初わたしと会ったときのまま、魔法使いは立っていた。
「や、おかえり」
「段取り悪すぎ」
 わたしが皮肉を言うと、魔法使いは苦笑した。
「悪いね」
 と彼女は謝り、さらりと続けた。
495:
「でも、もっと悪いことが起こるかもしれない」
 どういう意味、と問いかける前に、彼女のかたわらに一人の子供が立っていることに気付く。
「――――」
 さっき見たのと、同じ少女。
 いや、違う。服装や体格、身長なんかが、異なってる。
 表情も、さっきの子――要するにわたしなんだけど――はごく当たり前にごく普通の顔をしていたのに。
 
 この子は、ごく当たり前に暗い顔をしている。
 
 でも、その顔は、わたしにしか見えない。
496:
「これ、どういう……」
「面倒なことになったかも、って言ったでしょ」
「開き直られても……」
 少女はぼんやりとした目でこちらを見上げる。わたしはなんとなく彼女が怖かった。
 なんとなく? いや、もっとはっきりと。
 はっきりとした恐怖を感じていた。
「……あの、どういうこと、この子、誰?」
「たぶん、ひとりめ、なんだけど……」
「"ひとりめ"?」
「あ、うん。ごめん。えっと……別の世界のあなた、って言った方が分かるか」
 魔法使いはごまかしたし、わたしは追及しなかったけれど、その「ひとりめ」という言葉は影が差すようにわたしの心に残った。
 でもそれ以前に、
「……別の世界って、なに?」
497:
「あ、そっか。そこからか」
 失念していた、というふうに魔法使いは額を押さえた。
「えっとね。世界っていうのは分岐してるの」
 また、分岐か。わたしは溜め息をついた。でもなんとなく、その言葉の意味は理解できる。
「並行世界ってこと?」
「そう、一種のパラレルワールド」
 SFだなあ。わたしはぼんやり思う。いつから世の中はこんなに不条理になったんだろう?
 ああ、元からか。
「たぶんだけど、重なっちゃったんだと思う」
「重なるって、世界がってこと?」
「そう。んで、こっちに吐き出されちゃった」
「……どうしてそんなことに」
「さあ」
 と魔法使いは首をかしげた。
「この子も川で溺れたんじゃない?」
498:

「それよりも問題は」
 と魔法使いは続けた。
「この子がこっちに来てしまったことで、未来を変えるどころじゃなくなるかもしれないってこと」
「……どういう意味?」
「だって、完全なイレギュラーだよ。ほっといたらどうなるか分からない。未来が、あなたの思惑とは違う方向に進むかも」
「……わたしの思惑とは違う方向?」
 それってどんなものだろう? わたしはとりあえずお兄ちゃんの死を回避できさえすればいいのだ。
 逆にいえば……お兄ちゃんの死以外の未来ならどんなものでもかまわない。
 
 ……頭の奥がずきりと痛んだ気がする。
 わたしはお兄ちゃんを不老不死にでもしたいのか。
 ……違う。死んでほしくないだけじゃない。
 
 死ぬなら、幸せになって、それから死んでほしいのだ。
 そのとき隣にいるのがわたしだったら、というのはついでの妄想みたいなものだ。
 別に死んでほしくないわけじゃない。人は死ぬ。お兄ちゃんが死ぬたびに、はいまたやり直し、なんてやってられない。
 死ぬなら、幸せに。わたし以外の誰かとでも、我慢できる。……いや、我慢できなくたって、どうしようもないんだけど。
499:
「まあとにかく、どんな形の終わりになるか分からなくなってしまうってこと」
「……もうこっちに来ちゃってるんだもん。手遅れじゃないの?」
「まだ世界に出たわけじゃないから、影響は生まれてないはず」
「というか、送り返せないの?」
「難しいかも。一回来ちゃったら、ちょっと時間が掛かるんだよね。何より……」
 と、魔法使いは一拍おいて、
「この子、たぶん帰りたくないんだと思う。本人が望んでないと、鍵を開けても意味がないんだよ。本人が扉をあけないから」
 それはよく分からない理屈だったけど、彼女の理屈が分からないのは最初からずっと同じことだった。
「じゃあ、他にどうできるの?」
500:
 わたしが訊ねると、魔法使いは少し考え込んだ様子だった。しばらくの沈黙のあと、嫌そうに口を開く。
「ここに軟禁、とか」
「……ひどい発想」
 それを名案だと思ってしまうあたり、わたしも歪んでいるんだろうけど。
 かわいそうだとは思うけど、でも、仕方ない。
 迷子の面倒まで見ている余裕はない。そこは魔法使いがどうにかしてくれるだろう。
 すぐには帰れないとは言っても、そのうち帰すことができるのだろう。魔法使いの言葉にはそういう含みがあった。
 手違いでここにきてしまっただけなのだから、しばらく大人しくしていてもらうのがいい。
 何より、よその世界にやってくるなんて、本人にしても面倒なだけだろう。
 何より、わたしは彼女の顔を見るのがなんだか嫌だった。
 怖い、と言い換えてもいい。それはなんだか、昔見た悪夢が、頭の中で再放送されてるみたいな不快感だった。
 わたしはこの子が怖い。
 真正面から目を見れないほど。
「任せてもいい?」
 と訊ねると、魔法使いは不承不承といった様子で頷いた。
501:

 別の世界、分岐、並行世界。
 わたしはこの世界にきた瞬間からずっと思っていた。
 
 わたしは十六歳の姿のままこの世界に戻ってきた。
 たとえば同じく未来を変えるなら、意識を保ったまま時間を巻き戻し、子供時代の自分に戻る方が容易なはずなのに。
 おそらく魔法使いの魔法では、それができない。
 要するに、時間が巻き戻されたのではなく、過去の世界にわたしがぽんと投げ込まれただけなのだ。
 
「過去は変えられない」と魔法使いは言った。
 変えられるのは未来だけ。
 
 でも彼女の言葉には嘘がある。わたしはそのことに気付きかけていた。
502:
 わたしは未来すらも変えられない。ただ分かれ道を作るだけだ。
 
 世界の分岐。もともと同一だった世界がふたつに分かたれるということ。
 お兄ちゃんが死んだ世界と、お兄ちゃんが死なない世界のふたつに、この世界は分岐する。上手くいけば。
 それはつまり、お兄ちゃんが死んだ世界はけっしてなくなるわけではないということ。
 わたしにできるのは「お兄ちゃんの死なない世界」への分岐を作るところまで。
 お兄ちゃんが死んだ世界をなかったことにすることはできない。
 つまり――わたしが元いた世界で、お兄ちゃんは死んだままだし、わたしもまた死んだままなのだ。
 だからこそ、魔法使いは言った。
『未来を変えたら戻ってこなきゃ』
 わたしが戻るのは当然、わたしが死んだ世界。お兄ちゃんが死ぬ世界。
 ようするにわたしは、最初からなにひとつ変えられないのだ。
503:
「……これって詐欺だよね」
 とつぶやくと、魔法使いは苦笑した。
「ホントにそうとも、限らないけど」
 
 わたしは少し失望したけど、それでも、もともとゼロだった世界に可能性が加わったと考えることだってできなくはない。
『このわたし』がダメだったとしても。
『この世界のわたし』と、『この世界のお兄ちゃん』に、何かが残るのなら。
 そこにどんな意味があるのかは、あまり考えないことにしよう。
 きっと、意味はない。
 ようするにこれは、自分を納得させる作業なのかもしれない。
 
 このままでは納得できない。だったら、やるしかない。
 わたしとお兄ちゃんの未来が、死以外にはありえないなんて、そんな現実は、絶対に認めるわけにはいかない。
 わたしはここにも何かの矛盾があるような気がしたけれど、あまり考えないようにした。
510:

 それから、わたしの数日は特に得るものもないまま過ぎて行った。寝床に関しては魔法使いを頼った。
 控室の中で休んでいいという。寝具なんかも用意してもらえた。
 こちらの世界に来て、何かをしたというわけではない。
 昼間になったら街に出て、お兄ちゃんとこの世界のわたしの身の回りを観察していた。
 特にどうということのない生活。覚えのある平坦さ。
 この時期のわたしがどんなことを考えていたのか、いまいち思い出せない。
 なにをしたわけでもないのにひどく疲れがたまって、わたしは控室で休んでいることが多かった。
 このままで何かを変えることができるのかという不安もあったけれど、他にどうしようもない。
 例の女の子とわたしは控室の中の同じ空間にいた。
 少し開けているけれど、変わらず薄暗いし、少し寒。
 冷たい空気が走っている。
 わたしは何をしにきたんだろう。
 あんまり考えないようにする。
 わたしが考えるべきなのはどうすれば未来を変えられるか。
 ではなく……良い分岐をくわえられるか、ということ。
511:
 少女は膝を抱えて座り込んだまま、ぼんやりとした目で虚空を見つめている。
 とても落ち着いているように見える。そう見えるだけかもしれない。
 
 なるべく離れていたかった。彼女のことが怖かったから。
 わたしはこの子に何かを訊ねるべきだと言う気がする。
 気のせいなんだろうけど……。
 なんだか、落ち着かない。
 何かを聞き逃しているという気がする。
 あるいは、なにかを捉まえ損ねているような……。
 
 少し怖かったけれど、彼女に話しかけてみることにした。
「ねえ」
 と声を掛けると、少女はぼんやりとした頼りない目つきでわたしの方を見た。
 その瞳には怯えもないし、疲れもない。何もない。
 それが心底怖くなって、わたしは続く言葉を吐き出せなくなってしまう。
512:
 立ち上がる。あの目はわたしを居心地悪くさせる。
 わたしは入り組んだ迷路みたいな構造の中を歩いて、魔法使いのいる場所へ向かった。
 彼女はずっと、例の扉の近くに座り込んで休んでいる。
「おはよう。なにかする気になった?」
 わたしの顔を見て、魔法使いは笑う。
「ねえ、できれば教えてほしいことがあるんだけど」
 訊ねると、彼女は「言ってごらん」というみたいに首をかしげた。
「あの子……あの子の世界で、いったい何があったの?」
「……それを知ってどうするの?」
"どうする"?
 どうするというのだろう。そうだ。知ったところでどうしようもないことだ。
 異なる世界で起こったことなんて知らない方がいい。
 事態がややこしくなるかもしれない。頭が混乱するかもしれない。
513:
 知らない方がいい。
 でも……。
 あの目。
 どうしてわたしが、あんな目をしたりするんだろう。
 いったい、何が起これば、あんなことになるのだろう。
"ひとりめ"。
「あなたは、それを知ることができる。でも、知らないでほしいと望んでいる人もいるかもしれない」
「……それ、どういう意味?」
 彼女は答えない。
514:
「ねえ、ずっと考えてたんだけど、あなたの言っていることと、あの子の存在は一致しないように思うの」
「……どういう意味?」
「わたしは、お兄ちゃんを死なせないためにこの時間に来た。でも、未来は変えられない。
 ただ、別の可能性を生み出すことはできるかもしれない、というだけ。
 それってつまり、お兄ちゃんが死んでいない並行世界は、この過去からはもともと存在していないってことだよね?」
 魔法使いは微笑を絶やさずわたしの顔をじっと見つめる。
 その目はなんだか、底知れない。
「わたしが何かしないと生まれない。これってどうして?」
「そういう可能性が、もともとなかったからじゃない?」
 つまり。
 お兄ちゃんは死ぬ以外なかった、という意味だろうか?
515:
 でも、そうだとしたら、並行世界、可能世界ってなんなんだろう?
「別の可能性」という意味での並行世界だとしたら、それは存在していないとおかしい。
 死ぬ以外に未来がなかったというならそれは、そのまま……そのまま、並行世界なんてない、というのと同じようなものだ。
「だとしたら、あの子はなんなの?」
 別の世界から現れた少女。どこかで分岐した、わたしとは違う過去。
 魔法使いはその問いに答えるかわりに、別の答えを寄越した。
「あの子のいる世界じゃ、あなたの両親は離婚してないの」
「……え?」
 わたしは急に話が飛んだような気がした。
 
「あの子は、両親と一緒に暮らしてる。祖父母や叔父の家を出て、三人で」
「……」
 並行世界。こうであったかもしれない、という可能性。 
 その意味では、たしかにそれはあったかもしれない可能性のひとつ。
516:
「――じゃあ、どうしてあの子はあんな顔をしているの?」
「何が間違いで何が正解かは一概には言い切れない。そういった極端な定め方をする方が間違いなのかもしれない」
 魔法使いの言葉は他人事のように空々しくて、しかもはぐらかすように抽象的だった。
「あなたの父親は少し感情的になりやすかったし、あなたの母親は少し身勝手だった。悪い人たちじゃないのかもしれないけどね」
 でもいい人でもなかった。
「あの子、虐待を受けてる」
 魔法使いがさらりと言った。
「頼る相手がひとりもいない。あなたの祖父母が様子を見るくらいはしてるけど、母親があんなんでしょ。あんまり強く踏み込めない」
 そうだ。母は周囲から注意を受けたり咎められたりすると機嫌を悪くして、それで……。
 ――怒鳴り声には覚えがある。でも……。
517:
「……お兄ちゃんは?」
 そうだ。
 強く出れなかった祖父母のかわりに、わたしを守ってくれたのはいつだってお兄ちゃんだった。
「その世界の、お兄ちゃんは……」
「さあ?」
 と彼女は首をかしげた。
 それで分かってしまった。
「いろんな要因がね。ごちゃごちゃにこんがらがって、さ」
 だから、と魔法使いは言う。
「誰のせいでもないし、誰が悪いわけでもない。いや、誰かを悪いと言うこともできるけど、そういう極端な見方って意味がないんだよね」
 彼女は一言。
「結局、そうなったってだけ」
 
 そんなふうに笑った。
518:
「ねえ」
 しばらくの沈黙のあとわたしが声をあげると、魔法使いは表情をこわばらせた。
 その表情の意味は見えない。
「その世界のお兄ちゃんに会ってみたい」
 魔法使いは押し黙る。
 彼女はその世界のお兄ちゃんについて、どのようなことを知ってるんだろう。
「……会って、どうするの?」
 
 ……イレギュラー、と彼女は少女を、そう評した。
 でも、わたしにはそうは思えない。
 彼女の存在はわたしにとってなにかの必然性を帯びているように感じられる。
「……あなた、言ったよね。あの子は、「巻き込まれた」んだって。そして、わたしは「巻き込む」こともできるんだって」
「やめなよ。きっと相手は、あなたに会いたいと思ってない」
 不快そうに眉を寄せ、魔法使いは歯を見せる。
 その態度に、わたしは不可解なものを感じる。
「あなたの目的はなに? 単なる観劇、研究じゃないの? だとしたら、役者に自由に演じさせるべきじゃないの?
 それともあなたは脚本家だったの? だとしたら、あなたはどういう展開を想定しているの?」
 苦虫を噛み潰したような表情。わたしの鼓動は少しだけ早まる。
519:
「あなたのためを思って言ってるんだよ。会うべきじゃない」
 魔法使いは言いつのるように言葉を重ねる。
 わたしは別の問いを返した。
「その世界に行ったことがあるの? その世界に、何か関わったことがあるの?」
 彼女はしばらくこちらをじっと見つめていたが、やがて目を逸らした。
「あなたは何が目的なの? いったい何をさせたくて、わたしやお兄ちゃんに関わろうとしているの?」
「わたしは……」
 彼女の表情がかすかに震える。なぜ彼女はこんなに動揺しているんだろう。
 イニシアチブを握っているのはいつだって魔法使いの方なのに。
「わたしには、約束がある。それだけ」
「約束?」
 いったい誰との、どんな。
 けれど。
 それを聞いたところで意味などないようにも思えた。
520:
「あなたこそ」
 魔法使いはひどく重苦しい息を吐いてから、ようやくわたしに反論した。
「目的を忘れていない? 違う世界の事情なんて知ったところでどうするの? あなたがするべきなのは、この世界を変えることじゃないの?」
 その通りだった。
 わたしがすべきなのはこの世界に変化をくわえること。
 どうにかして。なんらかの形で。
 
 でも、今はそれよりも、あの少女の目の方が気になる。
 あの目……。
「……違う世界のわたしは、あんな姿になってる」
 
 そう。
 無感動で、無表情で、何にも怯えていないのに、何かに怯えているみたいな。
「じゃあ、その世界のお兄ちゃんと、この世界のお兄ちゃんを比較することで、その違いから生まれた変化を検証することで、何かが分かるかもしれない」
 そうすれば、この世界にどのような変化をくわえればいいかも、分かるかもしれない。
 何が必要で、何がいけなかったのか。
 無理な理屈なようだったが、筋が通らないわけではない。
521:
「それとも、あなたには、わたしの行動を制限する理由があるの?」
 
 いや、あるのだろう。でも、その権限はないのだ。
 彼女は最初から「できない」とは言わなかった。
「会わせることはできない」と、魔法使いが言ってしまえば、そこで話は終わるのに。
「会ってどうするの?」と訊いたのは、会わせることができるからだ。
 だから彼女は、わたしがその人に会おうと望むことを、やめさせようとしている。
 会ったところでどうにもならないから、と。
 それがどうしてなのかは、魔法使いの事情であって、わたしには関係ない。
 彼女の事情はわたしには関係ない。
 わたしはわたしの事情だけを考えればいい。
「会わせて。そうすれば、未来を変えられるかもしれないから。わたしはそのためにここに来たんだから」
 魔法使いは答えない。わたしは答えを待った。
 彼女はその間なんの反応も寄越さなかった。
 ようやく彼女がわずかな反応を見せたのは何十分も経ったあとのことだ。
「わかったよ」と彼女は拗ねたような小声で言った。
「でも、言った通り面倒なことになると思う。どんなことになっても、わたしは責任を取らない。自分で収拾をつけて」 
 わたしは頷いた。
532:

「じゃあ、目を閉じて」
 魔法使いの言葉に従う。彼女は少し辟易したような顔をしていた。
 わたしは目を閉じる。世界は真っ暗になる。
「開けて」
 何かを考える暇もなく、指示がくだされる。わたしは瞼を開いた。
「……うん」
 
 と魔法使いは頷く。わたしは少し怪訝に思ったけれど、あえて何かを問いかけることはしなかった。
「もういいよ」
 と彼女は扉を示した。
「行っておいで」
「……本当にこれで大丈夫なの?」
「さあね」
533:
 魔法使いはふてくされたみたいな態度をしていた。構っていてもしかたないと判断して、わたしは扉に向かう。
「それにしても、回りくどい手段を選んだね」
 わたしの背中に、彼女はあてつけみたいな声を投げつけた。
「直接話をしてみたりとか、考えなかったの?」
「『突然ですけど、このままじゃあなたの姪が死んでしまいますよ』って知らない女に言われて信じる人っているの?」
「……」
 会話はそれで終わった。
 わたしは扉を開ける。
 
534:

 扉を開けた先には、ドアのショールームがあった。わたしは振り向いて文句を言おうと思ったけど、扉は既に閉ざされている。
 これで「もうひとつの世界」についていなかったら詐欺だ。
 
『もうひとつの世界』
『分岐』
 わたしは少し立ち止まって、そのことについて考える。
 
 なんだか整理が欠けている気がした。
 わたしが分かっている限りで、情報を整理しておこう。
 わたしが元いた世界――わたしが死に、お兄ちゃんも死ぬ世界。
 あの子が住んでいた世界――『わたし』が虐待を受け、『お兄ちゃん』を頼りにできない世界。
 まずわたしが元いた世界を、「世界a」として定義する。
「世界a」で死んだわたしは、魔法使いの力を借りて「世界a」の未来を分岐させようと企てた。
 つまり、「世界a」の過去の一点(数年前)を基準に「世界a'」を作ろうとしている。
 ややこしいので、過去のわたしのことは「少女」と呼称しよう。
535:
「世界a」の過去に存在する過去のわたし=「少女a」。彼女はこのままではわたしと同じ結末を辿る。
 そこで、この世界をなんらかの手段で「世界a'」に分岐させる。結果、「少女a」は「少女a'」に分岐する。
 ……全然整理できていない気がしてきた。とてもややこしい。入り組んでる。
 そして、「巻き込まれた」という例の少女のいた世界を「世界b」とする。
「世界a」にいるお兄ちゃんを「お兄ちゃんa」……間抜けだからやめよう。「叔父a」とするなら。
「世界b」にいるお兄ちゃんは「お兄ちゃんb」……じゃなくて、「叔父b」となる。
 同様に、「世界b」から巻き込まれた存在である、控室に軟禁されている少女は、「少女b」となる。
 ……とりあえず、こんなところでいいだろうか。
 人物と世界に関する整理はこんなものだろう。……整理がついている気がしない。
 わたしはポケットからメモ帳を取り出した。
536:
 叔父a――ややこしいからやめよう――お兄ちゃんが昔から愛用していたメモ帳。
 ちょっとした機会でわたしも同じものを使うようになったのだ。
 とりあえずわたしは簡単に文章にしてみた。
『最初にいた世界、普通の現実、わたしが十六歳で死んだ世界=世界a』
『わたしが変えようとしている世界、魔法使いの力を借りてたどり着いた世界=世界aの過去(もしくは世界a')』
『控室の少女が元居た世界、今から向かう世界=世界b』
 世界に関してはこんなところだろう。
 人物は……。
『わたし=わたし。世界aの過去(もしくは世界a')におけるわたし(九歳)=少女a。お兄ちゃん=叔父a』
『世界bにおけるお兄ちゃん=叔父b。巻き込まれた少女=少女b(世界bにおける過去のわたし)』
 
 ……後で読み返して、ちゃんと思い出せることを祈ろう。
537:

 さて。これからどう進むべきなのだろう?
 どうでもいいと言えばどうでもいい話だけれど……仮に世界bに来れたとしたら、わたしは世界bの『いつ』にいるのだろう。
 単純に考えれば、少女bがいた時間だろうか? 
 
 仮に、叔父bがいない時間に放り出されたらどうしよう? 十年後や十年前では何の意味もない。
 ……いや、それはないか。いくらなんでも、魔法使いがそんなことをするとは思えない。
 少なくとも、わたしの目的に即した状態の彼に会わせてくれるはずだ。
 わたしは叔父bに会って少女bがあんなふうになっている原因を確かめる。
 それが何かのヒントになるかもしれないから。
 
 でも、その前に……。
 わたしはスマホを取り出して「変な女」に電話を掛けた。
「……もしもし」
 と魔法使いは憂鬱そうな声で返事を寄越す。
「説明不足。どこに進めばいいの?」
「……適当に、出ればつくと思う」
538:
「ちゃんとナビして。ついでに、軽くこの世界の状況と、時間についても説明して」
「……わたしを便利に使わないでよ」
 魔法使いは不満げだったが、結局説明してくれた。
 わたしは電話越しに彼女の声を聞きながらショールームの出口に進む。
 気付けば、どこかの川辺に居た。
「……は」
 振り向いてもドアはない。
 夜だ。水辺だからか、少し肌寒い。
 わたしは斜面を昇り川を離れる。道に戻ってから辺りを見渡した。
 そして呟く。
「……ここ、どこ?」
 わたしの知らない街だった。
 わたしの知らない場所だった。
 そのことがすぐに分かる。
539:
 魔法使いはその声に返事を寄越さない。
 なんだかひどく心もとない気分になる。わたしはどうすればいいのだろう?
 状況は前に進んでいるんだろうか? 
「あなたがいるのは、あの子の世界」
 あの子――少女b。
 
「……まさか、嫌がらせに全然違う街に飛ばしたとか、そういうのじゃないよね?」
「そうじゃない」
 と彼女は首を振る。
「……じゃあ、ここは」
 彼女は発した言葉を訂正するような響きで唱えた。
「あなたがいるのは、あの子が"居た"世界」
「……居た?」
 なぜ過去形で言うんだろう。
540:
「あなたが控室でみた女の子。要するに、違う世界の、子供の頃のあなた」
 あの子はね、死ぬの。魔法使いは言った。死んでしまうの。死んでしまったのよ。
 その街はあの女の子が死んでしまったあとの世界なの。
「……わたしが死んだあとの世界?」
「違う。あなたじゃない」
 あなたじゃない、と魔法使いは言う。
 あなたとは違う。同じなんてありえない。
 わたしは何も答えられなかった。
「いい? 今その街は、あなたがさっきまでいた世界と同じ時間の、違う場所。
 あなたには見覚えがないであろうその街に、あなたの叔父の家があるの。
 今からそこまでナビする。きっと彼はあなたの誘いを断らない。
 なぜなら彼は死にたがっているから。心底死にたがっているから。でも彼は死なない。このまま放っておけばね」
541:
「……死にたがってる? なぜ?」
 お兄ちゃんが、死にたがるって、どういうことなんだろう。
 そんなの、想像もつかない。つかないけれど、お兄ちゃんが自殺する、というのは聞き覚えがあった。
 世界aにおけるわたしが死んだあとの話。
 でもこの街は世界bにおける過去であり、わたしがいた世界とは違う。
 そして、彼は死なないらしい。魔法使いの言葉を信じるなら。
「会えば分かるかもしれない」
 
 わたしはその言葉に不安になったが、それでも彼女の指示に従ってお兄ちゃんのいる場所を目指すほか術がなかった。
 いったい何が歯車を狂わせているんだろう? 我々を苛むものの正体は何か?
 そんな大仰な問いを冗談交じりに自分に向けたくなるほど、不安だった。
542:

 そしてわたしはその家にたどり着く。
 灯りはほとんど消えていたが、二階の一室にだけともされていた。わたしはスマホで時刻を確認する。
 一時半。……一時半? そりゃ、電気が消えてるわけだ。
 
 わたしは玄関の前に立つ。扉には、きっと鍵が掛かっているだろう。
「関係ないよ」
 と魔法使いは言った。
「開けてみて」
 躊躇したが、開く。
 ドアが動いた。
 大きな音を立てて軋んだので、わたしは少しびくりとしたが、しばらくしても何の変化もない。
 どうやら家の主たちはすっかり眠ってしまっているみたいだった。
「電気のついている部屋に向かうといい」
 彼女の指示通り、二階の電気がついていた部屋に向かう。二階は寝室、私室のスペースらしい。
 わたしは隙間から灯りが漏れているドアを目指して、足音をひそめた。
543:
 そこで彼女は、この世界の状況についてわたしに簡単に説明した。
 あの子は母親に虐待されたあげくに殺される。母親もまたそのとき自死した。父親はその後蒸発した。
 彼は彼女のためになにひとつ行動を起こさなかった。そのことで自分を責めている。
 責めているが、なぜ責めているのか自分でも分かっていない。
 静かな家の中で、電話越しの彼女の声は、なんだか、わたしの頭のなかでだけ聞こえる妖精の声みたいに思えた。
 彼の様子はその後おかしくなる。学校に通わなくなる日が増え、あまり出掛けなくなった。
 それまでごく普通の学生だった彼がだ。その原因を、彼の母は周囲の目だと判断した。
 身近な場所で起こったショッキングでセンセーショナルな出来事に、周囲の彼を見る目はかわった。
 
 父母は決心し、彼を遠い県に住む親戚の家に預けることにした。
 親戚は頼み込んだ父母にしぶしぶ折れて彼の世話を引き受けたが、あまりいい顔もしなかった。
 たぶんこれも(彼が死にたがっている)原因の一端だろう。
 そして彼はそこにいる。そこで最低限ふつうの生活を送っている。――ように見える。
 そこまで言い切ると、魔法使いはそれ以上説明をくわえようとしなかった。
 
「それじゃあ、あとは好きにして」
 パラレルワールド、分岐と結果。
 わたしはこの世界に来るべきではなかったかもしれない。
544:
 だって、この世界のわたしが母に虐待され死んでいるということは、つまり、わたしがそうなっていたかもしれないのだ。 
 というより、わたしが、現にそうなっているのだ。何かのはずみで何かの状況が変わることで。
 それだけわたしは母に憎まれていたのだ。
 ……でも、なんだろう。わたしの世界とあの子の世界を別つものはなんだろう?
 
 ごく単純に考えれば、いちばんの違いはお兄ちゃんだろう。お兄ちゃんの態度が、こちらとあちらではまったく違う。
 要するに、何かを原因にお兄ちゃんが分岐した。
 
 ……分岐?
 わたしは世界について考えていたときに覚えたかすかな矛盾を掘り起こしてみた。
 
 そう、どこかで分岐したのだ。……でも、"どうして分岐なんてものが生まれるんだろう?"
 いや、わたしは既に知っている。
 並行世界なんてものが最初から存在するなら、わたしはそもそも魔法使いの甘言に乗る必要なんてなかったのだ。
 何もしなくても、「お兄ちゃんが死なない世界」は存在しているはずなのだから。
 そういった可能性がないとは考えがたい。だってそれは無数の可能性のはずなのだから。
 だとすれば、原則として、"何も起こらないかぎり並行世界なんてものは発生しない"と考えるべきだろう。
 
545:
 分岐と結果。その分岐を生むものは何か? わたしは既にそれを知っている。
 魔法使いの魔法。彼女の手によって、世界は分岐する。
『前にやった人はね、一人で行って一人で帰ったよ』
 魔法使いは言っていた。わたしの前にも、この魔法を受け入れた人間がいるのだ。
 それが誰なのかは分からない。でも、分かるのは、その人が"分岐を作るのに成功した"ということだ。
 世界a、世界bというふたつの世界が存在するのは、その人物が分岐を作り出したからではないだろうか?
「前にやった人」はわたしたちの現実に関わりのある人物なんじゃないか。
 それは明白だという気がする。
 魔法使いはこうも言ったからだ。
『完全に無関係ってわけじゃないんだよね、あなたたちと』
 その彼(あるいは彼女)は分岐を作り、ふたつの流れを生み出した。
 だとするなら、世界aと世界bの、どちらかが本流で、どちらかが魔法によって生まれた分流ということになる。
 ごく単純に考えれば。
 世界bこそが本流であり、世界aこそが分流である、と考えるのがたやすい。
546:
 もしそうでなければ、世界aの、十六歳のわたしのもとに、魔法使いがあらわれるわけがない。
 世界aがもし「誰かが失敗とみなした世界」であるなら、その軌道をさらに修正しようとする人間はいないだろう。
 わたしたちの認識についてはともかく、魔法使いの記憶は連続性を保っているはずだから。
 彼女は「誰かが作り出した結果」を、さらに分岐させようとするはずだ。根拠はないけど……わたしが彼女ならそうする。
 であるなら、世界aと世界bの違いは明白だ。そして、世界bにおける少女が世界aにおいては死なずに済むことの原因も明白だ。
 ふたつの世界の最大の違いはお兄ちゃんの態度。
 
 つまり、『世界bにいた何者かがその結果を良しとせず、魔法使いの力を借りて未来を分岐させた』。
 さらに言うなら、『その何者かはお兄ちゃんの態度を分岐させる手段を取った』。
 では彼が作りたかった未来、避けたかった未来とは何か? 答えは単純だと言う気がする。
『彼はお兄ちゃんの態度を変えることで、わたしの死を回避しようとしたのではないか?』
 ……これは半分妄想のような想像だ。わたしは頭を振る。そして考え事をやめた。
 ドアを見る。この向こうには、『彼』がいる。
 あるいは、彼こそが……。
 いや、そのことについて考えるのは、今はやめよう。
547:
「……?」
 けれど、わたしの考えはまだ後ろ髪を引かれる。
 わたしがここで『彼』にあったら、……"こちら"の世界はどうなるのだろう?
 わたしは溜め息をつき、今度こそ本当に考えを打ち切った。
 なんだか目の前の扉がひどく重そうに見える。不安な気持ちだった。わたしは本当にこの扉を開けていいんだろうか。
 開けてはいけないような気がする。わたしはこの扉を開けるべきではないのだ、という気が。
 でも、反対に、わたしはこの扉を開けなくてはいけないのだ、とも感じた。それはぼんやりとした感覚だったけれど……。
 
 覚悟を決めて、扉をノックする。軽い音。ドアの向こうはしんと静まりかえっていた。しばらく、なんの音もしなかった。
 けれど少し経つと、ドアがかすかな――それは本当にかすかな――軋みをあげ、開かれた。
 
 わたしは彼の顔を見た。その瞬間、魔法使いが言っていたことが分かったような気がした。
 この世界の彼の目は……お母さんに似ている。
 お母さんに似ているのだ。
 わたしはそのことに気付くと、なんだか笑い出したい気持ちになった。
 なんだ、そういうことか、という納得があった。
「こんばんは」
 とわたしは言った。
 
「こんばんは」
 と彼も返した。
548:

 彼はわたしの姿を見ると、すぐに興味を失ったようにベッドに身を沈めた。
 少しだけ戸惑う。まるでわたしが来ることをが分かっていたかのような態度。 
 
 でもそんなことはないはずだった。わたしは彼にとって突然の闖入者であるはずだ。
 この世界にわたしは存在していない。この時間にわたしはいない。
 彼がわたしのことを知っているはずはない。
 
 だから彼はわたしを知らない。知らない人間が、なぜ突然の訪問に驚かないのだろう?
 彼の態度はわたしを不安にさせる。
 でも、それは態度だけのせいではない。
 まるで"外側"から何かの感覚が流れ込んでくるようだった。
 彼の言葉、態度、そのひとつひとつがわたしを不安にさせる。 
 それはちょうど、わたしがお兄ちゃんと過ごしている感覚とまったく逆のものだった。
 
 流れ込んでくる感覚。
 名状しがたい感情。
 疑問。
「……」
 わたしはその感覚を無視した。特殊な状況に陥って、何かが混乱しているだけなのだろう。
 
549:
「入ってもいい?」
 なるべく落ち着いた声を意識して、わたしは言った。
 許可を取るのも今更のようにも思えたし、もっと他に言わなくてはならないような気もした。
 でもわたしは、彼を前にするとどうしてもそうならざるを得なかった。
 なぜだろう?
 彼の顔はお兄ちゃんにそっくりだ。でも、似ているようでやはり違う。同じなんかじゃない。
 それなのに……。
 なんだろう、この感覚は。いったいなんなんだろう。わたしを混乱させている何か。
 
 彼はわたしの問いに答えを返さなかった。視線すらも寄越さなかった。
 わたしは奇妙な感覚を振り払おうと一歩踏み出した。とたんに不自然な感覚に襲われる。
『叔父さんの部屋には、入っちゃダメ。……怒られるから』
 
『叔父さんは、怒ると、とても、怖いから』
 内側から聞こえる、外側から流れ込む声。
 わたしが覚える強い混乱。
550:
 まるで、誰かの感覚がそのままわたしに流れ込んできているような錯覚。
 いや、ひょっとしたら――それは錯覚ではないのかもしれない。
 わたしは軽く呼吸を整えた。落ち着け、とわたしは思う。落ち着くんだよ。それが大事なんだよ。
「変な部屋」
 とわたしは言った。
 彼は疲れたように溜め息を漏らす。でもそれはわたしの言葉に対しての反応というより、もっと自然にわき出したものに思えた。
 ようするにそれは彼にとって日常的なものなのだ。だが、わたしを前にして、彼はどうしてそんなふうに振る舞えるんだろう。
 彼は死にたがっている。魔法使いはそう言っていた。
 彼にはもう、ほとんどのことがどうでもいいのかもしれない。
551:
「嫌な感じかな?」
「少しね」
 彼が笑うから、わたしも笑った。でも、わたしには自分たちがなぜ笑ったのかがさっぱり分からなかった。
「ねえ、ところで、お願いがあるんだ。いいかな?」
 居心地の悪さに話を進める。わたしはこの部屋にいたくなかった。
 お腹の奥の方に、ずしんという嫌な重みがあるような気がする。
 ここにいるとわたしは、言いようもなく不安になるのだ。
「なんだろう?」
 彼は平然と問い返す。
「わたしはこれからある場所に向かおうと思う。あなたについてきてほしいんだ」
「どうして?」
552:
 その反応に、わたしは少しだけ苛立つ。いったい、なんなんだろう?
 まるで馬耳東風といった雰囲気だ。彼はおそらくわたしに興味を抱いていない。
"わたしに興味を抱いていない"。なるほど、とわたしは自分の感覚に頷いた。それは致命的だ。
「都合がよさそうだったから」
 苛立ち混じりに言うと、彼の眉がぴくりと動いた。動いたけれど、それだけだった。
 
「ひどいものを、見ることになるかもしれないけど」
 その言葉はわたしなりの警戒でもあったし、また気遣いでもあった。
 この人がこれからあの世界にいって、どんな気持ちになるのか、わたしは想像することしかできない。
「かまわないよ」
553:
 どこまでも他人事のように彼は頷く。嫌な気持ちがどんどんと膨らんでいく。
 これはいったいなんなんだろう。
「ところで、君は誰?」
「秘密」
 わたしは一刻も早く話を終わらせたくて、彼に外出の準備を促して家を出た。
 玄関先で待っていると、彼は何分か置いて服を着替えて出てきた。
 彼を待っている間、わたしは自分がどこに向かえばいいのかについて考えた。 
 どこに行けば、彼を連れてあの世界に帰れるのだろう?
 でもわたしはその答えをあらかじめ知っていた。魔法使いに聞いたわけでもなく。
 誰かが知っていたことを、盗みだしたみたいに、その情報は頭の中にあった。
 これはいったいなんなんだろう?
557:

 わたしたちは近所の川沿いの堤防へと進んでいく。
 霧雨に覆われた夜の空気はひんやりとしていて、それが少しだけわたしを不安にさせた。
 夜の冷気が肌を刺す。この街の景色はわたしを妙に不安にさせた。
 空には星と月がぼんやりと浮かんでいる。夜空に煌々と光る月の明るさ。
 その光を、わたしはいつか、見たことがあったような気がした。
「こんな感じの道をさ。子供の頃、よく歩いたんだよ」
 夜の底に沈み込んだわたしたちは、堤防を静かに進んでいく。
 わたしの足取りに迷いはない。来たこともない街なのに、不思議と。 
「二人で、一緒にね。散歩に行ってきなさい、ってよく言われたんだ」
 わたしとお兄ちゃんはそうやって、母と祖母の喧嘩が始まるといつも追い出された。
 祖母がわたしの面倒を見るのを面白がらなかった母は、いつだってお兄ちゃんにわたしを押し付けていた。
 
558:
「似てる。その道に。ね、そんな場所をそんなふうに歩いた記憶、ある?」
「ない」
 彼のはっきりとした答えには、ちょっとした寂しさのようなものが含まれている気がした。
 彼には何も分からないだろう。死んでしまった彼の姪の、異なる姿がわたしだと、自身では分からないのだから。
 彼にとってわたしは、突然現れた見知らぬ女でしかない。
 
「そっか」
 でも、彼の顔も、声も、わたしのよく知っている人に似ている。
 なんだか自分が、ひどく悪趣味で罰当たりなことをしているような気分になった。
 でも、当たって困る罰なんて、今のわたしにはもうない。
「それでね、堤防を抜けた先に、何かの事務所みたいなのがあるの」
 わたしはその記憶のディティールを可能な限り忠実に頭の中で再現しようとしてみた。
 それは困難な作業だったけれど、けっして苦痛ではない。不思議なほどよく思い出せる。
 なぜだろう? あの頃からもう何年もの歳月が経っているのに、その記憶はまったく色あせない。
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