姪「お兄ちゃんのこと、好きだよ?」男「……そう?」back

姪「お兄ちゃんのこと、好きだよ?」男「……そう?」


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1:
◇序
 これから僕が記す文章は、昨年八月から九月にかけての一ヵ月のあいだ僕を悩ませたある出来事についての記録として読んでもらいたい。
 おそらく大半の人間にとっては、この文章は何の役にも立たないものになるはずだ。ある種の人間にとっては有害ですらあるかもしれない。
 そう感じた時点で、この手記のページを閉じてくれて構わない。
 なんだ、こういう類のものか、と、眉をひそめて忘れるのがいいだろう。それがお互いの為だ。
 僕は何も誰かを不愉快にさせたくてこんなものを書いているわけではない。そのことを覚えていてくれれば幸いだ。
 
 反対に、こういったものを必要としている人間がいるはずだと僕は思う。
 この言い方は正確ではないかもしれない。
 僕はこういったものを必要としてくれる人間がいるものだと信じたいのだ。
 もしかしたらそんな人間はこの世にいないのかもしれない。
 こんな記録を必要としているのは、ひょっとしたら僕一人なのかもしれない。
 それは今の僕には判断のつかないことだし、またどちらでもいいことでもあった。
 いずれにしろ、僕は書くことに決めたし、決めた以上は書ききってしまいたいと思う。
 そうするために、僕はいくつかの不愉快な過去を自分の手で掘り返さなければならないだろう。
 いくつかのかさぶたを剥がさなくてはならないし、ひょっとしたらその傷口に指を突っ込んで掻きむしらなければならないかもしれない。
 それはもちろん、僕にとってもできるなら避けたいことだ。
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2:
 けれど、そうしなければ前に進めないという場合がある。何らかの新しい展開を望むとき、痛みが不可欠な場合は往々にして存在する。
 あるいは、痛みや不愉快に耐えた先で得たものがまったくの徒労だったという場合もあるだろう。
 それならそれでかまわない。つまり本当のところ、この文章を書くことで僕が得たい結果とは、展開ではなくて納得なのだろう。
 これを記すことは、僕にとっては単なる記録で、整理でしかない。
 その結果何かが得られるかもしれないという「期待」はほんのささやかなものだ。
 たかだか文章を記す程度のことで何かが得られるはずだという、バカバカしい確信など持ち合わせてはいない。当たり前のことだ。 
 僕はあの一ヵ月のあいだにいくつかのものを失った。得たものは特になかったはずだ。
 徒労というのならば、あの一夏の出来事こそがまさしくそう呼ばれるべきだろう。
 けれど反対に、僕はあの出来事を通じて、本当のところ何ひとつ失っていないのではないかと感じることがある。
 現に僕はそれ以前とほとんど変わらない生活を送っている。 
 なついていた猫がどこかに行き、大事にしていたギターが盗まれて、たったひとりの友だちがどこかに行ってしまった今でも。
 中途半端な書き出しはよそう。何よりも順序が大切なのだ。
 前置きは十分すぎるくらいに長引かせた。ここからはあの夏の出来事を反芻しよう。
 あのむせかえるような夏のことを、可能な限り真摯に書き留めてみよう。
 混沌に支配された一ヵ月と少しの出来事を、可能な限り感じた通りに。
3:
◇一
 彼女がいなくなったのは、七月二十六日のことだった。
「なんだか、ときどき、すごくむなしくなるの。どうしようもない波が来て、頭をぐるぐるかき混ぜていくの」
 いつだったか、彼女は笑いながら言った。朝から続いた霧雨で、街は灰色に煙っていた。
 授業中だったので、その日の校舎はひどく静まり返っていた。
 街中が、どこか遠くの国の王様の死を悼んでいるように静かだった。
 
 授業をサボって、僕と彼女はよく屋上に行った。そこで彼女は僕にたくさんのことを話した。
 彼女をよく知らない人間は、彼女が口を開くことがあることすら想像できなかっただろう。
 実際、彼女は僕の前でだけ饒舌になった。それ以外に対しては、ずっと口を閉ざしていた。
「バッカじゃないの」
 と、僕は彼女によく言ったものだった。
 僕には彼女の考えの大半が子供っぽくてバカバカしい、現実から遊離したものにしか思えなかった。
 だから僕は彼女の話を一通り聞き終わってから、いつもそう返事をすることになった。
4:
 彼女は怒らなかったし、僕を説得しようともしなかった。
 どちらにしても彼女の態度は同じだったし、そうである以上僕の返事も同じだった。
 じっさい、彼女の語るあれこれよりもよほど切実な問題が、現実には山ほどあるように、僕には思えた。
 金が必要だった。時間と住む場所が欲しかった。早く学校を出て、職に就かなきゃいけなかった。
 可能な限り早く独り立ちしたかった。金を貯めて、何が起きても大丈夫な状態にしておきたかった。一刻も早く。
 どれだけ困難であろうとも、そうしておきたかったのだ。
 でも、彼女はそんな僕を見て笑う。
「無理だって、そんなの」
 僕たちはきっと似た者同士だった。容器の形が違うだけで、中身はおんなじものだったのだ。
 本来ならひっかき傷程度で済む怪我が致命傷になってしまう。
 瓶にヒビが入って、中の水が漏れ出している。壊れてしまったものを直すことはできない。 
 ヒビの入った瓶は新しい水を受け入れることができないのだ。
 だからこそ、彼女の辿った結末を、僕だけはしっかりと覚えておかなくてはならないのだろう。
5:
「遠くにいきたいな」
 と、ときどき彼女はそんなことを言った。
「遠くってどこ?」
「月とか」
 その言葉に、僕たちは顔を見合わせて笑った。
 けれど実際、彼女はいなくなってしまった。
 きっと、夜明け前、霧雨に煙る街を出たのだ。
 街には人ひとりいなかっただろう。電線の上から何十もの鴉が彼女を見下ろしていたはずだ。
 手ぶらのまま、彼女は南に向かって歩き出す。近所の公園にでも行くような気軽さで。
 少し湿った空気に、少しだけ心を躍らせて。
 そしてずっと遠くについてから思うのだ。「いつのまにこんなところまで来たのだろう?」と。
 
 彼女はきっと一度も振り返らなかった。そして二度と戻らないだろう。
 旅立ちの日、彼女の姿を見たという者、彼女がいなくなったことに気付いた者は、ひとりもいなかった。
 ただのひとりだっていなかった。
 僕はその日、彼女のことを思い出しもしなかった。
7:
 三週間後の土曜日、彼女がひとりで暮らしていたアパートの部屋を、彼女の叔父が訪れた。
 
 部屋の中は整然としていた。生きる為に必要なもの、便利なものはあっても、それ以上の余分なものはなにひとつなかった。
 部屋にあったのは無愛想な机と最低限の筆記用具、それから低めのテーブル、小さめの冷蔵庫だけだった。
 冷蔵庫の中には大量のミネラルウォーターが入っていた。それ以外には何も入っていなかった。
 テレビもパソコンもなかった。本棚もCDラックもなかった。なにもなかった。
 机の上には携帯電話が放置されていた。充電は切れていた。
 後になってから、彼女に関する情報を求めて、彼女の叔父がその携帯を充電した。
 数十分放置されたのち、電源が入れられる。
 叔父が画面を開くと、ディスプレイは数百件以上のメールの着信を知らせていた。 
 それらはすべて(本当にすべて)迷惑メールやメールマガジンばかりだった。
 それ以外のものはなかった。ただの一通だってなかった。
 誰も彼女に向かって何かを伝えようとはしなかったのだ。
 叔父は未送信メールのフォルダを覗き、宛先のないメールが十数通保存されているのを見つけた。
 すべてがすべて白紙だった。長く下に伸びていたが、どれだけスクロールしたところで何の文字も浮かび上がらなかった。
 その長さはきっと、彼女の未練のようなものだったのだろう。何かがあるはずなのだ、という。
 現実問題として、彼女には伝えたいこともなかったし、また伝える相手もいなかった。
 それが致命傷だったのだ。

8:

 これは携帯電話についての話ということになる。
9:
◇二
 ドアがあった。数は数えきれない。その部屋には無意味な壁があり、無意味な扉があり、無意味な窓があった。
 大抵の扉は横に三つずつ並んでいた。そこを抜けると同じ空間にたどり着く。
 違うドアから入っても、たどり着くのは何もない、同じ空間。一切の実用性が排除された扉。
 何処から入って何処から出ても一緒だ。
 八月三日の十一時、僕はドアのショールームにいた。
 無意味な扉とか、無意味な壁というのは、不思議な魅力にあふれている。
 その先の空間はどこにも繋がっていない。にも関わらず、なぜか開けてしまう(それを試す目的でないにしろ)。
 どん詰まりの魅力といおうか、迷路の袋小路といおうか、いずれにしろ、何かしら人を引き寄せるものがある。
 少なくとも僕はそう感じた。
 ショールームはアルミサッシ製造メーカーの事業所敷地内にあった。国道沿いに建つこの事業所の敷地は広い。
 工場への入り口には大仰な門があり、労働者はこの門で警備員にIDを提示した上、車のまま入場する。
 人々がいつ入場し、いつ退場したのかはその門のコンピューターによって管理されている。
 ついでにいくつかの監視カメラが、その門の周囲を常に見張っている。
 
10:
 敷地の全容は中で働いているものにしか分からない。外側からは把握できないほど広いのだ。
 ショールームは門のすぐ傍にあり、こちらは一般にも開放されていた。
 僕は夏休みで暇を持て余した小学生の姪を連れて、近所の自宅からこの工場へと歩いて向かった。
 無骨に見える工場と、人を寄せ付けない巨大な門のせいか、ショールームは客寄せに難儀していた。
 もちろん家を新築する場合などは、こういった場所にやってくるという場合もある。
(というより、そういった用事以外でこんな場所に来る理由を僕は思い付けない)
 けれどその日に限っては事情が違い、子供向けのヒーローショーが催されていた。 
 その催事はどちらかというと、グループ加盟店の宣伝としての意味合いが強かったのだろう。
 展示場を抜けた中庭にはいくつかのテントが立てられ、その下では浄水器だの非常時用ランプだのの宣伝が行われていた。
 集客は――「こういった場所にしては」という枕詞があるにしても――なかなかだった。
 近所の住宅街に住む大勢の子供連れが、無料で配られた水(例の浄水器を通してある)とうちわで熱気をごまかしていた。
11:
 ヒーローショーに間に合うような時間に出発したものの、それを楽しむのが目的ではなかった。
 むしろ、目的なんてなかったと言ってもいい。姪は今年十歳になる。僕とは七歳離れていた。
 
 十歳ともなれば、ヒーローショーを無邪気に楽しむ、とはいかない。しかもその日のショーは男児向け。
 体よく追い払われたのだ、と僕は思っていた。
 姉は二十八歳のシングルマザーだった。十八のときに妊娠し、結婚。子供を産み、翌々年の春に離婚した。
 それ以来ずっと実家で暮らしている。二十代前半の頃から、いつかは家を出ると言い続けたが、結局この年まで居座っている。
 仕事が忙しいと言い訳して、若いころから子供の面倒はろくに見なかった。
 まだ姪が小さいとき、一度でもおむつを替えると、誇らしげに面倒を見た気になっていたものだった。
 
 実際には、おむつどころか服や靴下ですら自分の金では買い与えず、幼稚園の入園準備すらろくにしなかった。
 すべての世話を父母に任せ、自分は外に彼氏を作っている。
 幸か不幸か容姿だけはたいした美貌だったので、男にはいつも困らなかった。
 とはいえ、バツイチで子持ちで二十八だ。まともな交際を考える男がどれだけいるだろう?
 
 姪がいなければ、バツイチでなければ――とっくに新しい男との生活を歩めたのに、と姉は考えているだろう。
 もちろん口先では愛しているだのなんだの言っている。半ば義務的、もしくは強迫観念的に。
 
12:
 でも実際にはこんなものだ。たまの休みに一緒に出掛けるでもなく、弟に世話を押し付けて自分は服を買いに出かけている。
 それを不満に思わないと言ったら嘘になる。でも、姪と遊びに出かけるのが不愉快というわけじゃなかった。
 姪は、母親が反面教師になったのだろう、子供の割に落ち着いていてしっかりしている。
 少し引っ込み思案なところはあるが、賢く、心優しい子だ。めったにわがままも言わない。
 身内の欲目も少しはあるだろうが、母親があんなふうだからこそ、姪は父母や僕に気遣うようになってしまった。
 不機嫌を隠そうともせず当り散らす母親を幼少期から見てきたのだ。
 周囲を気遣う気持ちだけは人一倍強くなってもおかしくない。
 姪がそんなふうに育ったのがいいことなのか悪いことなのか、それは僕に判断できることじゃない。
 姉の生活についてだって、僕がとやかく言えることじゃない。
 好き勝手言うことはできる。
 けれど現実問題、姉と姪を家から出し、ふたりの暮らしを始めるとなったとき、とばっちりはすべて姪にいくのだ。
 だから、父母としても姉を追い出すわけにはいかない。
13:
 姉はときどき姪につらく当たる。姪もまた、母親が自分を疎んじていることを感じている。 
 だからこそ彼女はそんなとき、あまり母親に近付かない。母親にどれだけ話したいことがあっても黙っている。
 嵐が過ぎ去るのを待つかのように。
 七歳だった僕は十七歳になり、姪は十歳になった。
 僕は姪を歳の離れた妹のように思っていた。
 むしろ姉の方をこそ、僕は同居している親戚という程度にしか考えられなかった。
 すべての判断は保留のまま、十年の年月が流れた。
 嵐は一向に過ぎ去る気配を見せていない。
17:
◇三
 
 案の定、姪はヒーローショーには興味を抱かなかったようだった。
 強い日差しから逃れるように、僕たち二人は屋内に戻った。
 ヒーローショーの代わりに、彼女は展示場のドアを開けるのに夢中になった。
 どこかに出るわけでもないのに、ただ静かにさまざまな扉を開け閉めする。
 
 中庭の催事場に人が集まっているので、ショールームの中はほとんど無人で、ひどく静かだった。
 僕たちふたりは黙って扉を開け閉めする。姪は少しはしゃいでいるようにも見えた。
「楽しい?」
 と僕が訊ねると、
「うん」
 と本当に楽しそうな顔で姪が頷いた。それだけで来てよかったと僕は思った。
 そして、この場に居ない姉に対して更に怒りを燻らせることになった。
18:
 僕のそんな感情を、姪はよく察した。そのたびにかわいそうなほどうろたえる。 
 僕が母親について些細な(本当に些細な)文句を言ったときでさえ、彼女はひどく悲しんだ。
 
 彼女は別に、僕が言うことが間違っているとは思っていないだろう。
 ただ、どのような人間であるにせよ、彼女にとってはそこに存在している実の母親なのだ。
 
「だからなんだ」という気持ちもあった。
 実の母親だからといって無条件に子から愛されるわけでも求められるわけでもない。
 求められるべきだという決まりがあるわけでもない。
 だが、そんな言葉で姪が姉に向けている感情が消えるわけではない。
 僕はいつしか、彼女の前で姉を話題にすることがなくなった。
 彼女を悲しませたり傷つけたりしたいわけではないのだ。
 姉のことを考えているうちに、ほとんどのドアを開け閉めしてしまった。
 すべての扉を一周し終えると、姪は満足そうに溜め息をついて笑った。
 僕はどちらかというとバカバカしいような気持ちになったけれど、姪の笑う姿を見ると少しだけ心も晴れた。
19:
 十分に遊んで満足し、僕らはもう一度外に出ることにした。
 先を行く姪の背中を見ながら展示場を歩いていると、不意に視界の端に何かが引っかかった。
 妙に気にかかって、その正体を確認する。
 それは緑色の扉だった。緑色をしているという以上に取り立てた特徴はない。
 しいていうなら、それは少し寒々しい壁に取り付けられていた。壁は塀のようにも見えた。
 でも扉は扉だったし、壁は壁だった。僕はさして気にもとめず通り過ぎようとして、ふと疑問に思った。
 こんな扉がさっきまであっただろうか?
 あったといえばあったような気がしたし、なかったといえばなかったような気もした。
 突然扉が現れるなんてことはありえないので、おそらくは何かの錯覚なのだろう。
 
 けれどその錯覚らしきものが、僕の頭の奥の方にじんわりと広がっていった。
 僕はためしにその扉に歩み寄り、ノブに手を掛けてみる。がちゃりと音を立て、ノブが動くのをやめた。
 
 安堵の溜め息をつく。どうやら扉に鍵がかかっているらしい。自分がとてもバカなことをしたような気分だった。
 そして気付く。
 ――鍵?
20:
 背筋が粟立つのを感じた。僕は扉から少し離れた。ひどく気味の悪いものを見たような気分。
 なぜ、どこにも繋がっていない扉に鍵がかかっているんだろう。開けるための扉に、なぜ鍵がかかっているんだろう。
 ひどく不安な気持ちになる。その気持ちを振り払うために、ことさら明るく考えようとした。
 ちょっとした手違いか何かで開かなくなっているだけだろう。
 これだけの数のドアがあるのだから、そんなことがあってもおかしくはない。
 そう考えてみても、気分は落ち着かないままだった。
 
 しばらく呆然としていると、後ろから声を掛けられて心臓が早鐘を打った。
 振り返ると、姪がきょとんとした表情でこちらをうかがっている。
 自分が意外なほど動揺していることに気付き、僕は笑いだしたい気持ちになった。
「何かあったの?」
「……いや」
 何もない。扉はどこにも繋がっていない。壁の向こうには意味のない袋小路があるだけだ。
 
「行こうか」
 僕はごまかすように答えた。
 姪は怪訝そうな表情を見せたが、さして気にするほどのことではないと考えてか、あまり追及してこなかった。
 
21:
 中庭のヒーローショーは既に終わっていて、悪役の着ぐるみが風船を配っている。
 小さな子供たちが風船にはしゃぐ様子を見て、姪がうずうずしていたようだったので、「もらっておいで」と声を掛ける。
「いいの?」という顔で僕を見上げてから、少しの間逡巡していたが、彼女は結局駆け出した。
 日向にくると、さっきまでの不穏な感触はどこかに消えてしまった。
 気味の悪い感覚。きっと何かの錯覚だったのだろう。
 もしくは、自分の中の神経質で過敏な部分が、薄暗い、ある意味では異様なあの空間に反応したのかもしれない。
 ショールームには、どことなくそういう雰囲気がある。
 
 姪が駆けだすのと同時に、悲鳴とも歓声ともつかない声が催事場に響いた。
 子供の手から離れた風船が、勢いよく空へとのぼっていく。
 するすると糸に手繰り寄せられるように、風船は西の方へと昇っていった。
 
 僕はなんの気なしにその姿を目で追った。風船は展示場の建物の上を泳いでいく。
 
 その人物と目が合った。
22:
 彼は展示場の二階の窓からこちらを見下ろしていた。僕は強い動悸に襲われた。
 
 気味の悪い感触がふたたび鎌首をもたげる。
 その顔には見覚えがあった。
 
 見覚えというより、その姿はどのような言い訳のしようもなく、僕そのものだった。
 もちろん僕は鏡や映像以外で自分を客観視したことはない。けれどその顔はたしかに僕に似ていた。というより、同じだった。
 背丈も、服装も、顔のパーツのひとつひとつも、僕に似ていた。彼はこちらを見下ろしていた。中庭を、ではなく、僕を見下ろしていた。
 目が合って少しすると、彼は口角を鋭く曲げ、ゆがんだ笑みを浮かべた。
 その顔は、やはり僕に似ている。
 僕は無性に不安な気持ちになった。催事場の光景やそこにいる人々の存在が、蜃気楼のように不確かに感じられる。
 やがて彼は、窓辺から身を剥がした。去り際、こちらに向けてもう一度微笑する。
 胸がざわざわと落ち着かない。足が縫い付けられたように、身動きが取れなかった。
 
 異様な息苦しさを感じた。暑さにやられたのかもしれない。僕は重い体を動かして木陰を目指す。
 水を飲みたかったが、浄水器についての講釈を長々と受けるのはごめんだった。
 いや、見るからに物見遊山の学生に向けて、宣伝などはしないだろうが……そんな扱いは嫌だった。
 木にもたれかかると、じんわりとした熱が体中に広がっていく気がした。
23:
 ふと、手のひらを掴まれて全身がびくりとこわばった。
「……ほんとに、大丈夫?」
 心配そうにこちらを見上げる姪の表情に、落ち着きをとりもどす。
 そして自分がひどく動揺していたのだと実感する。息を整えるのには難儀した。
 
「ああ」
 やっとの思いでその相槌を吐き出したが、それではまだ不足だった。 
 僕は一度深呼吸をして、目を瞑って、頬を伝う汗をぬぐってから、頷いた。
「……うん」
 姪はまだ不安そうな表情をしていたが、それでも僕が冷静さを取り戻したことが分かったのか、幾らか安堵したように見える。
 ……さっきのは、なんだったのだろう。
 錯覚か、白昼夢か。
24:
 いずれにしろ、どうでもいい――と僕は考えることにした。
 僕にはどこかに気をそらしている余裕なんてない。
 姉と父母の関係は、日ごと険悪になっていく一方だ。
 せめて僕だけでも、姪にとっての安らげる家族でありたい。
 そうなれなくても、一緒にいて不安な気持ちにはさせたくない。
「せめて」。無責任な言葉だ。僕には現状を打破する力もなければ気概もない。
 ただある状況の中でできることをやるだけだ。状況を改善しようとはしない。
 
 でも、他に何ができるだろう。そんなことばかり考えてしまう。
 今の僕はあまりに無力だ。
 だから――早く独り立ちしなくてはならない。金が、職が、住居が必要だった。
 いざというとき、僕だけの力で彼女を支えられるように。彼女が大人になるまでの、ほんの数年だけでいいから。
 
30:
◇四
 ヒーローショーの翌日はバイトがあった。
 八時に出勤すると、バックルームでは夜勤の先輩がストアコンピュータの端末で廃棄商品のバーコードを読み取っていた。
 十六のときに始めたコンビニのバイトも、気付けば一年以上続けていることになる。 
 この店は例の事業所の近くにある。つまり国道沿いで、工場のすぐ傍。ついでに住宅地も近い。
 人の出入りは激しい。ひどく混む。品物は売れる。それだけ出さなければならない商品も増える。店全体もすぐに汚れてしまう。
 人の出入りが多いコンビニは、人の出入りが少ないコンビニと比べると圧倒的に仕事量が増える。
 その差はピンキリだと、先輩に聞いた。よくコンビニバイトは楽だというが、場所にもよるのだと今の僕なら言える。
 夜勤の先輩はこことは別の店舗のシフトにも入れられていて、そちらの方が遥かに楽だ、といつもぼやいている。
「この店は異常だよ。あっちじゃ午前三時ごろに客なんて来ない。こっちだと、一人帰ったらまた一人来て、なんてのが珍しくない」
 夜勤の基準は分からなかったが、彼はたしかに朝方になると疲れた顔をしている。
 土日など学校が休みの日、僕は日勤で入ることが多く、時間の指定をせずにいたから八時や七時に出勤ということが多々ある。
 そうなると夜勤と交代ということばかりで、彼とはよく話す機会があった。
(朝六時から九時まではちょうど混み合う時間なので、話す機会がない場合の方が多いが)
31:
 僕は先輩と軽く話してからユニフォームに着替えて出勤した。夏休みの予定の大半はバイトで埋まっている。
 もちろん学生バイトの給料なんてたかが知れているし、何かの足しになるわけでもない。
 それでも僕は早急に金が欲しかった。どれだけ少なかろうと、ないよりはましだ。
 
 金銭的なことだけで判断するなら、ここではなく、もっと他にいい場所もあっただろう。
 けれど、ここが家から一番近い場所だった。自転車や徒歩でも通える距離の。
 それ以上遠い場所だと、父母の運転に頼ることになる。そうなると好きなだけ働くとはいかない。
 
 売り場に出てすぐにレジに客が入った。一度捕まるとそのうしろに客が並ぶ。
 その二人目が終わる頃に、またひとり増える。延々と増え続ける。
 僕はそれらを可能な限り手際よくさばいていく。
 大抵の客は缶コーヒーや煙草、雑誌や新聞などをひとつふたつ買っていくだけだった。 
 夏だからというので大量の氷やアイスを買いこんでいく人もいる。
 こういう人が来ると片方のレジの動きが遅くなり、もう片方のレジに客が集中してしまう。レジに列ができるのはそういうときだ。
 僕はとにかく落ち着いて、客の相手をすることにしている。
 大勢の人間がやってくるのだから、中にはガラの悪い人もいるし、機嫌が悪い人だっているし、急いでいる人だっている。
 そういう人がやってきて、僕の仕事ぶりに対して何かを言ったりする。僕の質問に対して答えをよこさなかったりする。
 平謝りでその場をやり過ごし、とにかくその客を追い出して(実感としてはそんな感じだ)、次の客の相手をする。
 ピークが過ぎるまでそれが続き、途切れる頃になるとさまざまな雑事をこなさなくてはならない。
 そして雑事が終わるか終らないかというとき、今度は昼過ぎのピークがやってくる。
 昼過ぎのピークが終わると、また雑事。夕方が近付くとまたピーク。
 その頃に米飯類などの荷物が届く。このとき働く人間はピークの対応をしながら品物を出すことになる。
 ちょうど夕勤と交代する時間だ。
 
 僕は働くとき、あまりものごとを考えないようにしている。
32:

「それ、ドッペルゲンガーって奴?」
 ちょうど退勤の時間が一緒だった先輩と、仕事が終わってからもバックルームに残って話をしていた。
 夜勤で働く一人の先輩と僕を除いて、この店には男性がいない。
 今話している先輩は当然女性で、学生で、僕より三つほど年上だった。
 
 彼女は日勤の中で唯一まともに働く人間だった。
 彼女以外の日勤は――そこには副店長なども含まれているが――正直、仕事が遅い。
 なによりも、仕事を人任せにして、自分はほとんど動かない。
 入ってきたのがもっとも遅い僕にこう思われているのだから、夕勤や夜勤の人も思うところはあるだろう。
 僕は学校がある平日は夕勤に入っているが、その温度差はすさまじい。
 同様に彼女も平日は夕勤に入るので、日勤に入るときはひどく憂鬱そうにしている。 
 
 手を抜きたがる人間の中のまともな人間と言うのは、ある意味では不幸な存在なのかもしれない。
 もっとも僕だって、そんなに仕事ができるわけではないのだけれど、それでも真面目には働いているつもりだ。
33:
 僕は彼女と話をする機会が多かった。シフトが重なることが多いせいだ。
 
 僕は彼女にいろいろな相談をしていた。
 彼女は話を聞くのも相談に乗るのもうまかった。適度に歳が離れていたし、適度に歳が近かった。
 だからこそ、前日、目撃したものについて、彼女に話してみる気になったのだ。
 ドッペルゲンガー。自分と同じ姿をした幻影。
「死の予兆、ってよく言うよね」
 先輩はからかうように笑った。僕は頷く。まぁ、そんなふうに茶化す以外の反応は、僕だって想像できなかったのだが。
 自分によく似た人間を見た、と言われたところで、だからなんなのか、と言って終わりだ。
 見たからどうだというのではない。あえて気にしないようにはしていた。
 それでも、なんとなく据わりの悪いような感覚が、昨日からずっと続いていた。
 なんだか、自分が知らないところで何かまずいことが始まっているような予感が。
 けれど、そんなことを誰かに話したところでしょうがない。何かの誇大妄想だと受け取られてもしかたなかった。
 それなのに、なぜ話題に出してしまったのだろう。
34:
「……疲れてるの?」
 
 案の定、先輩からの精神の不調を疑われた。
 けれど、体は至って健康だし、休息も十分にとっている。
 だとするならなおさら、錯覚や見間違いと言うのは考えにくいのだが。 
「早く帰って寝た方がいいよ。明日も出勤でしょ?」
「……はい」
「日勤?」
「そう。じゃあ、わたしも帰ろうかな。お疲れ」
 先輩は軽やかに立ち上がって、バックルームを出て行った。僕はしばらく動く気が起きなかったが、仕方なく無理矢理足を動かした。
35:

 家に帰ると、母が姪と一緒にドラマを見ていた。僕が「ただいま」というと、母は「早かったわね」と答えた。
 うん、と頷いて冷蔵庫を覗く。作り置きの麦茶が入っていた。コップに注ぐと、母が自分の分を要求する。
 
 仕方なくコップをさらに二人分用意した。僕はリビングのテーブル近くに腰かける。
「おつかれさま」
 と姪が言った。僕は曖昧に二、三度頷きを返す。たしかに疲れた。
「何かあったの?」
 母は少し心配そうな表情をこちらに向けた。そんなに疲れた顔をしているのだろうか。
 なんとなく不安になった。母がバイトから帰った僕にそんな言葉を掛けるのは初めてだと言う気がする。
 たしかに疲れている。けれど、いつにもまして、というほどではない。
 
 なんとなく納得がいかなかったが、そういう日もあるのだろう。そう思うほかなかった。
36:
 ふと、また嫌な感覚が広がった。ざわざわとした胸騒ぎ。不安が胸の奥に詰まる。
 違和感のようなものだ。僕は自分の行動やさっきの会話におかしなところがなかったかを探したが、すぐには分からなかった。
 コップの中の麦茶を飲み干した時、さきほどの母の言葉を不意に思い出した。
『早かったわね』
 ――早かった?
 時計を見る。三時四十五分。僕が退勤したのは三時で、いつもは三時二十分には帰ってくる。
 今日は先輩と話していたので、いつもより遅くなったのだ。
 この時間よりも遅い時間に帰ってくることがないわけではないし、母が何かを勘違いしただけなのかもしれない。
 僕は母に何かを訊ねようとしたけれど、何をどう訊けばいいのか分からなかった。
 きっと何かの勘違いか、そうでなければ言葉が咄嗟に口をついて出ただけなのだろう。
 僕だって似たような具合で、一度は相槌を打ったのだ。たいして会話を意識していなかったのかもしれない。
 僕は努めてそれ以外の可能性について考えないようにした。
 もっとも、それ以外にどんな可能性があるのか、僕には思いつかなかったのだけれど。
37:
◇五
 自室にもどって、僕は驚いた。
 スタンドに立てかけておいたはずのエレキギターが、ベッドに横たわっていたのだ。
 朝出勤するまで、ベッドには僕が眠っていたのだから、ギターがベッドに倒れているはずがない。
 もし変化がそれだけだったならば、姪が悪戯でもしたのかと思えなくもないが、ギターの弦が切れていた。
 しかもほとんどの弦が。かろうじて切れていないのは四弦だけだった。
 それ以外の弦はすべて、中ほどから途切れて外側に跳ね上がっている。
 僕はギターに触れて状態を確認してみた。そして間違いなく弦が切れていることを確認した。
 なぜ弦が切れているのだろう。僕は漠然とした不安を感じた。
 
 弦は何もせずに切れたりしない。錆びていれば弾いているときに切れたりもするかもしれないが、替えたばかりだ。
 姪がペグを回して切ってしまったのか。それならば、どこかひとつの弦が切れるだけで終わりそうなものだ。
 第一、そんなことをしたら、姪はすぐに謝りに来るだろう。
 だったら母? 母は自分がギターをいじれば僕が良い顔をしないことを知っている。母ではない。
 姉は僕がバイトに向かう頃には仕事に出ている。父も同様だ。……じゃあ、誰も触っていないのに切れたのか?
 そんなはずはない。
38:
 だが、弦がこんなふうに切れている以上、人為的に切断されたのだろう。
 よく見れば、ベッドの上にはニッパーが放り出されていた。
 僕がいつも使っているニッパー。デスクの引き出しの中に入れてある。
 姪も、母も、ニッパーの位置は知らないはずだ。僕以外が使う機会はないのだから。
 知っているのは僕だけ。僕以外の人間は知らない。
 僕以外の人間は――。
 ……何を考えているのだろう。僕はデスクの引き出しを開けてみた。そこからはたしかにニッパーがなくなっている。
 けれど、だから何だと言うんだろう。ギターをやっていれば弦の交換くらいする。そうだとすればニッパーくらい持っている。
 部屋の中でそういった道具をしまいそうなところを探せば済むことだ。別に場所を知らなくても問題はない。
 でも、いったい誰がなんのために弦を切ったりするんだろう。
 嫌がらせ以外の理由は、思いつかない。
 それ以前に、その『誰か』は、いったいどうやってこの部屋に入ったんだろう。
 姪は夏休みで家にいる。遊びにいったりすることはめったにない。それに付き合って、母も家に残っている。 
 家に人がいない時間はない。朝まで弦は切れていなかったのだから、有り得るのは僕が出かけてから帰ってくるまでの間。
 僕がバイトに出る時間に、母は既に起き出していた。
39:
 もし、家族の仕業でないとしたら。
『早かったわね』
 ……思考が、一方向に引き寄せられる。僕は努めてその考えを頭から排除しようとした。
 
 ふと、考えが浮かんだ。
 普通に考えれば、他人の部屋に忍び込んだ場合、自分が侵入した痕跡を残そうとはしない。
 物の配置にすら気を配るだろう。にも関わらず、ギターの位置は動き、弦が切れている。
 つまり、犯人(そんなものがいると仮定すればだが)の目的は僕の部屋に忍び込むことではなかったのかもしれない。
 むしろ、ギターの位置をあからさまに動かし、弦を切ること自体が目的だったのではないか。
 なぜ"あからさまに"ギターを動かし、弦を切ったのか。
 僕は根拠もなく考えを巡らせた。
 つまりこれは、意思表示なのではないか。
 僕の家族が家にいる間に、僕の部屋に簡単に忍び込み、ギターの弦を切り、何事もなかったかのように家を出る。
「自分にはそうすることができるのだ」という、これは意思表示で、つまりは脅迫なのではないか?
40:
 バカバカしい考えだ。何よりもバカバカしいのは、そうとでも考えないかぎり、こんなことをする理由が分からないということだ。
 単なる嫌がらせとしてはリスクが多すぎるし、仮に嫌がらせだとするなら、なぜ自宅に忍び込むようなことまでするのか。
 こういった類の行為は、大抵の場合所属集団内で行われるものがエスカレートっした場合に発生する。
 学校、職場。――どちらでも、嫌がらせを受けた記憶はない。
 ――ドッペルゲンガー。何度振り払おうとしても、その言葉に僕の頭は支配されてしまう。
 僕とまったく同じ姿をした誰かが、僕が仕事から帰ってくる前に、家にやってきた。
 そして何食わぬ顔で母と姪に目撃される。そのときの態度は、おそらく不自然なものだったのだろう。
 だからこそ母は『何かあったの?』と僕に訊ねる。
 何者かは部屋に向かい、ギターをベッドの上に寝かせる。
 僕がいつもそうするようにペグを回して弦を緩め、ニッパーで切断する。
 
 そして何食わぬ顔で部屋を出る。玄関に向かい、家を出る。
「どこかに行くの?」と母は訊ねるだろう。
「ちょっとそこまで」とでも、彼は答えるかもしれない。
 ……「早かったわね」は、それに対しての答え、と言えるのか。
 すべて、想像の域を出ない。
 朝、寝惚けて自分でギターを倒してしまい、そのときに弦が切れたのかもしれない(ちょっと上手く想像できないけれど)。
 思えば僕が違和感を抱いたのは母の言動だけだ。母がちょっとしたイタズラのつもりでやった可能性もある。
 が、だとすると悪趣味にすぎる。もしそんなことがあったなら、それこそ母の精神の不調を疑わなければならないだろう。
41:
「お兄ちゃん?」
 と声がして、僕は振りかえった。部屋の入口に姪が立っていた。
 立場としては叔父だったけれど、彼女が生まれたとき、僕は十歳だった。
 僕は当然のように叔父と呼ばれるのを嫌がった。三歳ごろになると、姪は僕のことを、姉や父母がそうするように呼び捨てで呼んだ。
 それもそれで不愉快だったので、僕は姪に呼び方を変えるようにと言った。
「お兄ちゃん」は、妥協点だ。
「なに?」
 僕が問い返すと、姪は視線をあちこちにさまよわせ、こちらの機嫌をうかがうような声を出した。
「どうかしたのかな、って、思って」
 不安そうな表情。自分だけは、彼女にこんな表情をさせたくないといつも考えていた。
 けれどそれは理想であって、僕だって失敗もするし限界はある。いつでも彼女を気遣えるわけではない。
 異変が大きすぎた、ということもある。
『それでも』、僕は可能なかぎり彼女にこんな表情をさせたくなかった。
42:
 僕はできるだけ明るい声音で言った。
「いや、ギターの弦を張り替えてただけだよ。すぐ下にいくから」
「そう、なの?」
「ああ」
 もう一度頷く。
 彼女は納得したようなしていないような曖昧な表情をした。
 僕が視線を動かさずにいると、仕方なさそうに頷いて部屋を出て行く。
 僕は溜め息をついて、弦が切れたままのギターをスタンドに立てかけた。
 予備の弦はたしかにあったが、張り替える気にはなれなかった。
 気味が悪い。いや、もっといえば、恐ろしくすらある。昨日僕を見下ろしていたあの視線。
 あの目。僕のものと同じ、あの目。僕はなんだか、足元がぐらつくような感覚に襲われた。
 ふとデスクの上を見る。メモが残されていた。その存在に、なぜ今まで気付かなかったのだろう。
 僕が使っているものと同じメモ帳の切れ端。
 だが、僕はこのタイプのメモ帳を、バイト先でしか使っていない。いつもユニフォームのポケットに入れっぱなしにしている。
 ――汗で服がべたつく。暑さのせいか、不安のせいかは分からなかった。
43:
 僕はそのメモを手に取る。拍子抜けしたような、肩透かしを食らったような気持ちになった。
 そこには何も書かれていなかった。白紙。
 そしてすぐに、その白紙のメモが、ひどくおぞましいものに思えた。
 白紙であるにもかかわらず、メモを残す。
 その行為の意図は読めないけれど、そこにはたしかな悪意的な意思が感じられた。
 僕はメモをぐしゃぐしゃに丸めてゴミ箱に捨てた。それから落ち着いてコーヒーでも飲もうと考える。 
 リビングに降りて、母に頼んでコーヒーを入れてもらう。
 僕はダイニングの椅子に座って全身の力を抜く。知らず知らず長い溜め息をつくと、姪が心配そうにこちらに駆け寄ってきた。
 僕は彼女の頭を撫でる。昔から、ついやってしまう癖のようなものだ。
 子供の頃は、何かをするたびに彼女の方から頭を差し出してきたものだが、近頃では子供扱いが嫌になったらしく、あまりいい顔をしない。
 
 それでも僕の手を避けるようなことはしなかった。そのことは少しだけ僕を安心させる。
 僕は少し考えて、そしてあのメモを残した誰かについて考えた。
 さっきまでの想像を続ければ、あのメモは大きなメモを持つことになる。
 気のせい、錯覚、見間違いでは済まされない。
 最悪の場合、この出来事は僕だけでなく、僕の家族にとっての危険にもなりうるのではないか。
 素知らぬ顔をして僕の部屋に忍び込み、何かの意思表示をした誰か。
 いったい、誰がそんなことをするというのだろう。
 コーヒーを飲んでも気分はまったく落ち着かなかった。
 さっきまでの漠然とした不安は、既に得体のしれない恐怖に変わっている。
46:
◇六
 
 胸騒ぎに反して、すぐに何か具体的な異変が起こることはなかった。
 僕は相変わらず姪の相手をしながらバイトをして、長い夏休みを着実に消化していく。
 
 数日経つと、結局あの出来事は何かの間違いで、気のせいだったのではないかと思い始めた。
 人間の記憶なんて曖昧なものだ。ひょっとしたら僕はあの前日、ギターの弦を張り替えようとしたのかもしれない。
 ギターの位置が動いていたのだって、僕が気にしすぎていたのかもしれない。
 たとえばスタンドに上手いこと立てかけられずに倒れてしまったものを、母が気付いてベッドに寝かせた、とか。
 そういう可能性だってないわけじゃない。思いつきはしたものの、確認する気にはなれなかった。
 バイトのない日は姪の相手をして、付近で遊んだりもした。母の気晴らしに付き合って遠出もした。
 予定のない夜は勉強に使った。ときどき気分転換にギターを弾いたりした。
 弦を張り替えると、やはり何かの間違いだったのだという気分が強まる。
 けれど、心の奥の方に、しこりのような不安がかすかに残り続けていた。
 本当に、そんなふうにごまかしてしまっていいのだろうか、という不安が。
47:
 八月六日は近所で花火大会があった。僕は夕方過ぎに、姪とふたりで街に出かけた。
 近所からバスをつかって会場を目指す。浴衣姿の若い女が何人か乗っていた。
 ラフな格好をした男も何人かいた。親子が連れ立っている姿もあった。
 僕と姪は二人掛けの座席に座り、黙って後ろに流れていく窓の外の風景を見下ろしていた。
 姉は仕事から帰ってきていない。母は僕と姪をなかば追い立てるように出掛けさせた。
 姪には友達がいない、と、母が言っていた。一緒に花火を見にいく友達がいない。
 だからお前が連れて行ってやれ、と母は言ったけれど、その先でクラスメイトにでも会ったらどうすればいいのだろう。
 友達なんていないところで、特に問題はない。僕の歳になればその程度は割り切れる。
 表面上の付き合いで、ある程度はどうにかなるのだ。
 でも、姪の歳では、そういうわけにはいかない。十歳の僕にとっては学校と家が世界のすべてだった。
 もちろん姪にとってもそうだとは限らない。だが、簡単に割り切れる話でもないだろう。
 良し悪しでは、あるのだが。 
48:
 適当な場所でバスを降り、会場へと徒歩で向かう。普段は寂れている道も、歩いている人が多かった。
 僕は既に疲れていたが、姪に悟られぬよう、表情には出さないように心掛けた。
 雑踏も喧噪も苦手だった。だからといって静かな場所が好きかと言うと、そうでもない。
 ショッピングセンターの屋上駐車場には、臨時のステージが設置されていた。
 パイプ椅子が何列も並べられいる。この街出身の演歌歌手が舞台の上で何かを喋っていた。 
 人はごった返していた。屋上には、数は少ないがいくつかの出店があった。
 行列が多く、見ているだけでうんざりしそうだったけれど、時間は余っていたので、姪に何か食べたいかと訊ねた。
「かき氷」
 たったそれだけの言葉を聞くために、僕は前かがみになり、彼女に耳を寄せなければならなかった。
 それくらい騒々しく、人のうねりが激しかった。
 僕と姪は手を繋ぎ、人ごみを掻き分けてかき氷を買わんとする人々の行列の最後尾を目指した。
 さまざまな方角に好き勝手に歩く人々とすれ違う。そしてふと、自分がその中のひとりなのだと気付いた。
 僕は自分がこの場所に、自分の意思ではなく、もっと大きな何かによって唐突に運び出されたような気がした。
 なんだかとても孤独だった。宇宙に放り出されたような気持ちだった。でも、不思議と不安ではなかった。
 ただ、たしかにそうなのだ。今これだけの数の人間がここにいて、僕を知っている人はいない。
 いや、いるかもしれないが、とても巡り合えない。そういう実感があるだけだった。単なる感覚でしかないのだが。
49:
 黙ったまま行列に並ぶ。その時間はさして苦痛ではなかった。さまざまな音が何かの皮膜越しに聞こえた気がした。
 その不思議な感覚は、不意に肩を叩かれるまでずっと続いていた。
 僕の肩を叩いたのは、バイト先の先輩だった。ドッペルゲンガー、と口に出した女性。
 彼女は何食わぬ顔で僕の隣に並んだ。
「わたしもかき氷食べたい」
 そう言って彼女は、ごく自然に僕の隣に立ち、僕と手を繋いでいた姪を見てきょとんとした。
「その子、誰?」
 僕は彼女に姪を簡単に紹介した。
 姪は人懐っこい笑みを浮かべてあいさつしたが、彼女は怪訝そうな表情になるだけだった。
「ずっと一緒にいたの?」
「一緒にって?」
「その子と」
「……ええ、まあ」
 どうしてそんなことを訊くのだろう。
50:
 彼女は納得しかねたような表情でうなる。自分に落ち度があったと思ったのか、姪がおろおろしていた。
 行列が進む。姪を促し前に進んだ。先輩も、遅れてついてくる。
「ふうん」
 かき氷を買って、僕たちは行列から抜け出した。
 花火を見やすい位置を探そうとしたが、既に人々が見やすい位置を埋め尽くしていた。
 屋上なので、みんな立ち見だ。当然、背の低い子供なんかは、最前列にでもいかないと見えにくい。
 どうにか開いていそうなところを探し、三人で歩いた。
 さいわい見やすそうな位置を確保できたので、待機する。
「先輩は、誰かと一緒じゃなかったんですか?」
「いや、別に」
 一人で観に来たのだろうか?
「ま、いいからいいから」
 何がいいのかは分からないけれど、先輩はここから離れる様子を見せなかったので放っておく。
 時間が経つ。待ち疲れてうんざりしはじめたころ、誰かが時計を見て、始まるぞ、と言った。
 
51:
 姪は屋上の手すりを掴んで背伸びをしていた。危ないぞ、とたしなめる気にはなれない。
 遠い音が聞こえた。僕は空に目を向ける。姪が「あっ」と声をあげた。
 花火が空の向こうに咲いた。
 先輩が感心したように間抜けた溜め息をついた。
 僕は姪の方に目を向ける。目を輝かせて、花火に見入っていた。
 とりあえず、彼女が喜ぶのなら、それだけで来た価値はある。
 納得のいかないことは多いけれど。
 持ちにくそうにしていたので、かき氷のカップを代わりに持ってやる。
 なぜかは分からないけれど、花火を見ていると気が滅入りそうだったので、僕はあまり真剣に空を眺めないでいた。
 すると妙に不安な気分が沸き上がってくる。さっきのように、喧騒が皮膜を通したようにぼんやりと聞こえた。
 
 何か気配に、振り向く。
 背筋が凍った。
 その目は僕を見ていた。
52:
 振り向いた先の視界には大勢の人がいた。人だかりが、僕たちと同じ方を向いて立っていた。
 けれど、視界を埋め尽くすほどの人間を、僕の頭は認識しようとしない。
 そのときの僕に、彼らは蜃気楼のようにぼんやりとした存在に見えた。
 不安になって、僕は姪の方に手を向けようとしたが、やめた。彼女は花火に見入っている。
 邪魔をしたくなかったし、不安がっていると気付かれたくなかった。
 汗がべたついて、気持ち悪い。
 人だかりの向こうから、こちらをじっと見つめている目があった。
 その視線はたしかに、こちらを、というよりは、僕を見つめているようだった。
 周囲の視線が少し上に向かっているのにたいして、彼はまっすぐこちらを見ている。
 その人物の顔は僕のものだった。
 彼は僕に向けて、微笑んだ。
 ――その微笑みに、悪寒が走る。
 以前見たときとは違い、彼はすぐには去ろうとせず、むしろこちらに向けて何かを伝えようとしているふうだった。
 やがて僕の姿をした誰かは、小さく手招きをして、自分の後ろを示した――ように見えた。
 臨時ステージに設置された、パイプ椅子。もう既に、そこには誰もいない。
53:
 咄嗟に彼の手招きに応じようと足を踏み出しかけるが、先輩に手首を掴まれた。
「どこ行くの?」
 彼女は見透かしたように言った。何か悪いことをしたわけではないのに、後ろめたい気持ちになる。
「ちょっと、トイレに」
 僕は嘘をついた。なぜ嘘をついたのかは分からない。なんとなく、あの男の存在を人に知られるのが嫌だった。
 当たり前と言えば当たり前の話なのだが……。
 姪は不意にこちらを見た。視線は名残惜しそうに花火と僕をいったりきたりしている。
「先輩、少しの間、この子を見ててもらっていいですか」
「かまわないけど……」
 
 彼女はあからさまな疑いのまなざしをこちらに向けた。
 僕は詳しい追及を受ける前に、お願いしますと短く告げて、人込みを掻き分けて臨時ステージを目指した。
 姪は花火から目を離し、手を振り払われたような表情でこちらを見ていた。
 けれど僕は彼のもとを目指した。 
 なぜかは、やはり分からない。
 
57:
 ◇七
 特設ステージの脇に僕を誘った男は、物陰まで僕を促してから、こちらに向き合った。
「こんばんは」 と彼は笑った。
 僕は答えずに彼の姿を眺めた。僕に似ている、というより、僕と同じ。鏡でも見ているようだ。
 けれど――それまではまったく気付かなかったのだけれど――服装が違った。
 彼は僕の持っていない服を着ていて、眼鏡をかけていて、髪が少しだけ僕より長かった。 
 
 だからだろうか、僕たちのことを気に掛ける人はいなかった。あるいは花火に夢中になっていて気付かないのかもしれない。
 僕と彼の顔が鏡写しのように瓜二つだということに。
「初めましてというのも変な話だけど、やっぱり初めましてと言うのがふさわしいんだろうね」
 僕が黙ったままでいると、彼はからかうような口調で言った。僕はひどく動揺している。
 周囲のざわめきがとても遠く感じた。
 僕は自分が幻でも見ているような気分だった。
 自分がここにいるのだと漠然と思った。ここにいるのは僕なのだ。
58:
 何も答えようとしない僕を見て、彼はたたえていた微笑を消し、無神経なほど不機嫌な表情になった。 
「――返事くらいしなよ」
 その攻撃的な表情に、寒気がした。花火の音が鋭く響き、歓声があがる。
 僕は身動きひとつとれなかった。
 その表情は、ひどく生々しいものだった。人間らしいと言い換えてもいい。
 僕ではない僕が、人間らしい表情を浮かべている。人間らしい仕草をしている。
 その事実に、恐れを抱かずにはいられなかった。
 無感情で爬虫類的な笑みを浮かべられただけだったなら、ここまで怯えることもなかっただろう。
 人間にしか見えない。僕にしか見えない。それが一番おそろしかった。
「君は、誰?」
 気付けば、そう問いかけていた。
 彼は不愉快そうに眉をねじまげて、嘲るように笑う。
 ひどく気分が悪かった。自分はこんなふうに笑うのだろうか?
 自覚がないだけかもしれないが、少なくとも僕はこんなふうに笑わない気がする。
 顔はそっくりなのに、仕草や表情は僕とまったく異なっているように思える。 
59:
「言ったところで分からないだろう。どちらかというと、僕から質問があるんだ」
「質問?」
「いくつかね。真剣に答えてほしい。僕にとってはとても致命的なことなんだ」
「……話が分からない。君が何者かも分からないのに」
「少なくとも生き別れの双子の兄ではないし、赤の他人のそっくりさんでもない」
 
 彼は真剣な口調で言った。
「僕の名前は君が良く知っているし、住所も生年月日も分からないはずはない。家族構成は違うかもしれないけどね」
「……君は僕なのか?」
「僕は君ではない。君とは違う。でも、もし君という人間が持つ個人的要素と同じ要素を僕が持っているかと訊ねられれば、答えはイエスだ」
「――何を言っているのか、分からない」
「僕は君と同じ名前で、同じ生年月日に生まれた。同じ家に住み、同じ学校を出て同じ学校に通っている」
60:
「そんなわけがないだろ?」
 
 と僕はなぜか泣き出したいような気持で言った。
「僕の家に君は住んでいないし、僕と同じ学校に君は通っていなかった」
「でも僕はたしかに住んでいたし、たしかに通っていたんだよ」
 それ以上は説明のしようがないとでもいうふうに、彼は口を閉ざした。
 僕は彼の言葉を十分に咀嚼しようとしたけれど、思考は混乱していく一方だった。
 こんな男の言葉を信用しようとするのがそもそもの間違いなのかもしれない。
 不意に浮かんだ考えが、思わず口をつく。
「――ドッペルゲンガー」
「……え?」
 僕にとって一番意外だったのは、彼のその反応だった。予想もしていなかった攻撃を受けたような表情。
 彼は心底不思議そうな顔をしたあと、ひどく頼りない表情になった。
61:
「それ、どういう意味?」
 僕は彼の様子を不審に思いながらも、仕方なく答えを返す。
「君はドッペルゲンガーなんじゃないのか。僕にとっての」
 彼は深く傷ついたような顔をした。僕は動揺する。こんなふうに彼が傷ついたりするなんて想像さえできなかった。
 強い怒りや悲しみを抑え込もうとするような震えた声で、彼は静かに、強く言う。
「その言い方、やめろよ。それじゃあ、まるで――」
 彼はかすかに俯いた。僕が目を細めて続きを待っていると、こちらをきっと睨んでくる。 
 不安が強くなる。足元がぐらついている気がした。僕という人間が、僕という固有性を失って空気に溶けてしまいそうだった。
「――それじゃあまるで、僕が偽物みたいじゃないか!」
 その言葉は、まるで僕の方が偽物だと言っているようだった。
62:
 彼は興奮して荒れた呼吸をなんとか落ち着かせようとしていた。頬を垂れる汗をシャツの肩で拭く。
 妙に息苦しくなってきた。周囲の景色がぼんやりと歪んでいるように見える。
 彼は僕なのだろうか? ならば僕はいったい誰なのか?
 僕が僕であることは間違いがない。――そうだろうか? そう思い込んでいるだけではないのか?
 バカバカしい考えは、切り捨てるに限る。
 彼はひどく混乱した様子で、僕の方を睨んでいたが、やがて落着きをとりもどした。
「……まあ、いい。そのことについては、どうだっていいんだ」
 僕にとってそれはどうでもいいことではなかったけれど、だからといってさっきの彼の様子を見た上で問いを重ねる気にはなれなかった。
 必死の形相で、自分は偽物ではない、と叫ぶ彼の姿に、僕は何が何だかわからなくなってしまった。
「僕が訊きたいのは彼女についてだよ」
「彼女?」
 彼の視線は僕からずれた。その先を追いかける。視界の歪みが、少しだけ直っていく。
 その先には、先輩と姪の姿があった。
63:
「……あの、子供のことだ」
 ひどく言いにくそうに、彼は言った。
 僕は少し意外に感じた。てっきり先輩について言っているものだと思ったが、どうやら違うらしい。
「姉の子供だよ」
 と僕は正直に答えた。
 ここで嘘をつくことは無意味だと思ったのだ。けれど、どうして彼は彼女のことを知らないのだろう?
 家族構成が違う、と言っていた。……状況が、上手く想像できない。彼の言葉の半分も、僕は理解できなかった。
 目の前に唐突に現れた自分とうり二つの人間が、自分は「僕」だと名乗る。
「僕」がふたりいる。どちらかが本物で、どちらかが偽物でなくてはならないはずだ。
 僕は本物だ、と少なくとも信じている。信じざるを得ない。ならば、彼は偽物。……そのはずだ。
 けれど、どうして、家族構成の違いがあったりするんだろう。うまく想像できなかった。
「君になついているみたいだ」
「――そう見えるなら、そうなのかもしれないけど」
 実際にどうなのか、僕には分からない。
64:
「……そんなことがありうるのか?」
 彼は自問するように呟いた。
「ありうるなら、それだったら、じゃあ僕は……」
 彼の独り言は、僕をどんどんと不安にさせた。 
 僕には僕自身よりも彼の方が、よほど人間らしく考えたり感情的になったりしているように見えた。
 不安が途切れない。僕は僕であって、そこにはどんな誤謬も挟まりようがない。……そのはずだ。
「ねえ、君は彼女のことをどう考えている?」
「どう、って?」
 ふたたび歪み始めた視界の中で、彼の声は透き通るようにはっきり聞こえた。
「べつに。家族だよ。ごく当たり前の……」
「家族、ね」
 含みがあると言うよりは、僕の答えを材料に思考を組み立てようとしているような相槌だった。
65:
「家庭には、何の問題もないのか?」
「姉が……」
 と言いかけて、僕は口を噤んだ。
 そこまで喋ることはない。いわばこれは僕の問題なのだ。姉のことを話すのは筋違いだ。
 けれど、途中までの答えを聞いて、彼はなるほどというふうに頷いた。
「それなのに、仲が良いんだね」
 僕は頭に血が上るのを感じた。なぜだかは分からないが、自分の生き方それ自体をバカにされたような気がしたのだ。
 侮辱や嘲笑のようなものに僕は弱い。相手にそのつもりがなくても、過敏に反応して感情的になってしまう。そういう傾向があるらしい。
「どういう意味?」
 
 僕が投げかけた質問に、彼はあからさまに動揺した。
「いや、別に。ちょっと不思議だっただけだよ」
 落ち着け、と僕は自分に言い聞かせる。ここで声を荒げても仕方ない。
「僕は別に君を挑発したかったわけじゃない。いくつか確認事項があっただけだよ」
66:
 彼は言葉の通り、ずっと何かに思いを巡らせている様子だった。
「いくつか、分かったこともある。分からないことだらけだけど……」
 疑問を感じて、僕は質問を返した。
「同じことを聞くようだけど、君はいったい何者なの?」
「少なくともドッペルゲンガーじゃないことはたしかだ。でも、僕自身にも詳しいことが分かっているわけじゃない」
 彼は言う。
「ただひとつはっきりと言えるのは、僕は何らかのめぐり合わせでこの場にいるということだ」
 抽象的な言い回しに苛立ちを感じる。
67:
「魔女の甘言に乗せられて、緑色のドアの向こうにやってきた。と、詩的に表現すればそんなとこか。はっきりとは言いたくない」
 気恥ずかしくなるような表現で、彼は大真面目に言った。僕は少し考える。
 緑色の、ドアの向こう。
『タイム・マシン』を書いたH・G・ウェルズの小説に、そんなものがあったっけか。
 あるいはO・ヘンリの方かもしれない。そっちはどうしようもない出来だったと思うけど。だからなんだと言いたくなるような。
 ……何をくだらないことを考えているのだろう、僕は。
 緑色のドア。――あの、ショールーム。
「ひょっとしたら」
 と、彼は小さく呟いた。
「君にとっては、僕の存在がひどく致命的なものになるかもしれない。僕にとっての君がそうであるように」
 
 僕は何も答えられなかった。
68:

「ところで、僕のギターの弦を切ったりした?」
「何の話?」
73:
 ◇八
 
 帰りのバスの中で、姪はずっと黙り込んでいた。
 一番のメインだった花火を見るとき、僕が一緒にいなかったので拗ねているらしい。
 ありがたいといえばありがたい話かもしれない。でも、ちょっとだけ不安な気持ちだった。
 なぜかは分からない。
 姪は、何かをずっと考え込んでいるような表情だった。
 子供離れした悲壮な雰囲気をまとっている。そこには一種の決意すら覗き見えそうだ。
 僕は息が詰まる思いだった。
 あの男、どう呼ぶのが正しいのか分からないので、そう呼ぶしかないのだが、結局あの男との邂逅は、僕に何も教えてくれなかった。
 彼がどこの誰で、どのような人間で、僕とどのように関係するのか。なにひとつ分からなかった。
 分からないことが増えただけだった。
74:
「ねえ」
 と姪が声をあげた。目を向けると、彼女はさっきまでとまったく変わらない姿勢、表情で、視線を床に落としている。
「わたしね、お兄ちゃんのこと、好きだよ?」
「……そう?」
 唐突な発言に面食らったような気分で、間抜けな返事をした。
「おじいちゃんのことも、おばあちゃんのことも好きだよ」
「うん」
「お母さんのことも……」
 彼女はそこで、何かをためらうように口を閉ざした。
 少しの逡巡のあと、今度は不安そうな顔で僕を見上げて、姪はふたたび口を開く。
75:
「お母さんは、わたしのこと嫌いなのかな」
 僕はどう答えればいいのか分からなかった。
 どう答えても、それは嘘になるような気がした。僕は姉ではないから、彼女が姪についてどう考えているのかは分からない。
 直接聞いたこともない。僕にできるのは推測とか、想像とか、そういうことだけだ。
 でも、そんな勝手な「推測」なんかを、姪にぶつけるわけにはいかない。
 だから僕は、
「分からない」
 と、そう答えるしかなかった。
 彼女はそれきり本当に黙り込んでしまって、家につくまで一言も話さなかった。
 その様子は家に帰ってからも変わらず、ずっと何かを思いつめているような顔をしていた。
 家族の前では普段通りの自分を演じていたようだったが、そこは子供のすることで、様子がおかしいことにはみんな気付いていた。
 気付かなかったのは姉ひとりだけだった。
76:

 翌朝、早くに目を覚ました僕は、寝汗を洗い流そうとまずシャワーを浴びた。
 ひどくうなされていたようで、髪もシーツもぐっしょりと濡れている。悪い夢を見ていたようだった。
 服を着替えて、そういえば今日はバイトが休みだったな、などとぼんやり考える。
 いつものように自分でコーヒーを入れて、窓の外の曇り空を眺めながら、ぼんやりと外を見る。
 やがて姉が仕事の準備を済ませて降りてきて、軽い朝食をとったあとすぐに家を出て行った。
 彼女がリビングを出ていくまで十五分と掛からない。
 
 僕は溜め息をついてダイニングテーブルの上に置きっぱなしになっていた本を掴む。
 けれど気分が落ち着かず、なぜだか集中できない。どうせ手慰みのつもりだった。僕は本を閉じる。
 
 それから僕はただぼんやりと時間が流れるのを感じていた。
 ただぼんやりと。それはとても透明な時間だった。すべての時間がすべてのものに平等に流れている。
 そういうことを実感する機会は少ない。
 
77:
 どうも僕はどうでもいいことを考えているようだった。疲れているのかもしれない。
 家の中はしんと静まりかえっていた。いつも静かな家なのだけれど、今日は昨日までと何かが違うという気がする。
 何かが欠けているのかもしれない。何がだろう。
 僕は少し考えてから、そんなことを大真面目に考える自分を笑いたい気分になった。
 
 何かが僕を不安にさせていた。コーヒーを一口飲んで時計の針の音に耳を澄ませる。時間は確かに流れている。
 僕はこのあいだからずっと何かを不安がっている。それは予感のようなものなのかもしれない。
『その言い方、やめろよ。それじゃあ、まるで――』
 揺さぶられている。
 足元がぐらつくのだ。足場が不確かで、身動きもとれない。
 神経が過敏になっているのだ。
78:
 でも、僕は何を不安がっているのだろう。昨日会った彼のこと? 
 たしかにおかしいとは感じる。わけのわからないことだとも。でも、今感じているそれは、そういった不安とは種類が違う。
 もっと漠然としていて根源的な不安なのだ。
 階段が軋む音が聞こえた。上から誰かが下りてくる。父と姉は仕事に出ている。ならば母か姪だろう。
 案の定姿を見せたのは母だった。妙に頭が痛くて、上手くものごとを考えられない。
 母はダイニングを見回すと、すぐに出て行った。どうも他の部屋を見て回っているらしい。
 いったい何をしているのか。窓でも開けるのかもしれない。
 やがてもう一度階段が軋む音が聞こえた。今度は昇っているようだ。
 僕は自分がとても疲れているような気がした。とても。時計の針の音はまったく変化がない。
 やがて母はもう一度ダイニングに現れると、僕に向かって言った。
「……ねえ、あの子は?」
 その朝、姪が家から姿を消した。塗りつぶしたような曇り空の日だった。
84:
◇一
「自分のために生きるのは、やっぱり限界があるんだよ。どこかに無理があるんだ。どうやっても」
 いつだったか、誰かが僕に向かってそんなことを言った。誰かは忘れた。
 たぶんここ数年の間に一度でも話した誰かだと思うが、よくは思い出せない。きっと男だったはずだ。
 でも、そんなのを必死になって思い出そうとする気にはなれなかった。
 とにかく僕は自分のためになんて生きていたくなかったから、それならそれで一向にかまわなかったのだ。
85:

 僕は姪の姿を求めて街を走り回った。
 近所の公園、よく行った市営図書館、夏休み中の小学校。
 それからあまり気は進まなかったけれど、何人かの同級生の家にも電話を掛けた。
 当たり前のように彼女は見つからなかった。僕は彼女がなぜいなくなったりするのか分からなかった。
 まったく分からなかった。前日、彼女の様子がおかしかったことには気付いていた。
 でも、いったいどうして彼女がいなくなったりするんだろう。その理由はなんなんだろう。
 彼女は自分の意思でどこかに行ったのか。それとも誰かに連れ出されたのか。
 前者だとしても後者だとしても、その出来事は僕にとって不安でしかなかった。
 見えない何かが自分に追いすがっているような気がした。
 
 僕は彼女の行きそうな場所を考えてみて愕然とした。
 彼女がどんな場所で遊ぶのか、どんな場所が好きなのか、僕はまったく知らないような気がした。
 午後二時半を過ぎた頃、僕は歩き疲れて街中のベンチに座って休んだ。そして彼女のことを考えた。
 焦燥が背中をじりじりと焼いている。吐き気がするような緊張が全身を覆っていた。
86:
 不意にポケットの中の携帯が鳴る。母からだった。
「今どこ?」
「……街」
「とにかく、一度帰ってきなさい」
「でも」
「いいから」
 僕は電話を切ってから少し考え、帰りながら街中に彼女の姿を探した。
 
 姪の姿は見つけられなかった。けれど家に向かう途中、彼に出会った。
87:
◇二
 彼は僕の顔を見て怪訝そうに眉をひそめた。僕と同じ顔。心臓が強く脈打つのを感じる。
 空は滲んだ曇り空で、今にも雨が降り出しそうだった。
 おかしなものでも見るような目でこちらを見下ろして、
「……どうした?」
 と言った。
 僕は溜め息をついた。深呼吸をして気分を落ち着かせようとする。でも駄目だった。僕の心は僕の言うことを訊かなかった。
「お前か?」
 震えたその声が自分のものだと、僕は最初気付けなかった。
「……何の話?」
「あの子がいなくなった」
 彼は息を呑んだ。僕は言葉を重ねる。
88:
「お前だろ?」
 返事はなかった。僕は苛立つ。
 
「お前が連れ去ったんじゃないのか。それ以外に心当たりがない。お前があの子をさらったんだろう?」
「――待てよ」
 彼は真剣な表情で言った。
「落ち着けよ、取り乱すな。何があったんだ?」
 僕はまだ気分の高ぶりがおさまらなかったけれど、だからこそ彼の言葉に従った。
 深呼吸をして、なんとか頭に昇った血をおさえようとする。
 混乱してはいけないのだ。動揺してはいけないのだ。こんなときだからこそ。
 僕は疲れている。混乱している。そう自覚することで、なんとか落ち着きをとりもどそうとした。 
 やがて深い溜め息をつき、僕は正面に立つ彼の目を見た。
 気分が悪くなるほど僕と同じ顔をしている。それが心配そうな顔をしていた。
 気味が悪い。だが、なんとか落ち着けた。
89:
「悪かった」
 と僕は謝る。実際、根拠はなかったのだ。
「いなくなったって、何があったんだ?」
「分からない」
 僕は昨日の姪の様子を思い出す。あの思いつめたような表情。 
 僕は何かを間違えたのかもしれない。言うべきことを言わなかったのかもしれないし、言うべきじゃないことを言ったのかもしれない。
 何がそれだったのかは分からない。でも昨日、僕は彼女に何かを言い損ねたのかもしれない。
「……とにかく、一旦帰った方がいい」
90:
 彼は僕に向けて真剣な顔で促した。
「家に帰って、落ち着くべきだ。ひとりで探して見つかるほど街は狭くない」
「それはそうだけど」
「そうだからこそ、だ。僕もできることは協力する」
「お前が?」
「僕が」
 彼は強く断言した。そう言われてしまうと僕は黙るしかなくなってしまった。
 たしかに僕は混乱している。いちど落ち着くべきなのだ。落ち着いて考えるべきなのだ。彼の言う通り。
91:

 当然、家には姪の姿はなかった。母は真っ青な顔でどこかに電話をかけている。姉と父かもしれない。
 僕は帰ってすぐに自室のベッドに寝転んだ。どうして彼女がいなくなったりするんだろう。
 頭が痛くてどうしようもなかった。手慰みに携帯電話のディスプレイを開く。
 どこからも連絡はなかった。
 気付けば僕は眠っていた。眠っている間、夢を見ていた。
 嫌な夢だった。このままずっと姪が帰ってこない夢だった。僕は毎日を憂鬱そうな顔で過ごしている。
 姉は家を出て行って、家は今以上に静かになる。
 そして僕は寝て起きるだけの毎日をただただ繰り返し続けるのだ。
 夕方五時半に目をさまし、ベッドを這い出た。気分はちっとも晴れない。不安なままだった。
 窓の外では弱い雨が降っていた。この街のどこかで姪が雨に濡れている気がした。
 そうすると僕はいてもたってもいられない気持ちになるのだけれど、現実問題として心当たりはなかった。一切なかった。
 どうしようもない。母が僕に向けて何かを言ったが、その言葉は耳に入らなかった。
 
 なんだか何もかもが透明で澱んだ皮膜越しに見聞きするようにぶよぶよとしている。
 生活の中から実感と呼べるものが欠如していく。
 いったい僕の身に何が起こっているのだろう?
96:
◇二
 
 リビングから話し声が聞こえた。僕は足音を立てずに階段を下りる。
 母が何かを騒いでいる。相手は誰だろう。姉だろうか。
 ここからでは、よく聞き取れない。
 口論しているようだった。
 足を止め、少し待ってからその声がやまないのを確認し、自室に戻った。
 何かが致命的に狂いだしているような気がする。
 でも、実際にはそんなことはない。何もおかしなところはない。
 誰も彼もまっとうな反応を見せていた。
 姪がいなくなったのだ。母は神経過敏になって姉を責めるかもしれない。
 母に責められれば、姉は母の責任を問うだろう。なぜちゃんと見ておかなかったのかと。
 父はその言い争いを聞いて声を荒げるに違いない。落ち着け。冷静になれ。きっとそんなことを言う。
 誰も彼もまともだった。考えうるかぎりでも一、二を争うほどまともな反応だった。まともじゃないのは僕だけだった。
 どうして僕はまともじゃないのだろう。……いや、違う。逆だ。
 どうしてみんなまともでいられるのだ?
 彼女がいなくなってしまったのに。
97:
◇三
 朝起きて、バイトに行く。僕は仕事中、何も考えないようにしている。
 けれど姪がいなくなってからはそれがまったくうまくいかなかった。
 何にも集中できなかったし、失敗をしてばかりだった。
 そうして失敗したあげく、僕は集中し直そうと努力する。でも駄目なのだ。なにひとつ上手くいかない。
 僕を正常に動かしていた歯車のひとつが欠けてしまった。それがあってこそ僕は動くことができたのに。
 誰の言葉も耳に入らなかったし、どんな動作も実感として脳に伝わってはこなかった。
 にも関わらず、不意に誰かに言われた言葉に傷ついたりしている。
 そして何もかもやめてしまいたくなる。
 
 こんなにまでなって働く理由なんて何も思いつかなかった。
 だって彼女がいないのだ。働いたりするよりも、今すぐにでも駆け出して彼女を探した方がいい。
 でも、心当たりはない。それは致命的なことだった。
 自分が彼女について何も知らないのだと思い知らされるのが怖い。
 
 いずれにしても僕はまともに動けなかった。まともに動けなくてまともに考えられなかった。
 それでも僕はまともに動こうとして、まともに考えようとしている。
 僕にはそのことが不思議でならなかった。
 なにが起こっているのか? ――何も起こっていないのかもしれない。
 僕は昨日までの自分を思い出そうとしてみた。もっと前の自分について少しだけ考えてみた。
 でもどうしてもうまくいかなかった。どうあがいても、僕が思い描く自分の姿は赤の他人のように空々しかった。
98:
「大丈夫?」
 と先輩は言う。
「早退してもいいよ。もうすぐ、交代の時間だから」
「いえ」
 と僕は断る。
「すみません。迷惑をおかけして。大丈夫です。だと、思います」
「本当に、そういうんだったらいいけど、でも、迷惑を掛けるのはやめてね。その前に、自分で判断して」
「……はい」
 僕は頷く。でも、なぜ僕は帰らなかったのだろう? 一刻も早く彼女の姿を見つけたいのに。
 その答えはまったく分からなかった。理由が何も思いつかない。僕はどうにかなってしまったのだろうか。
 僕はなんのために働いているのだろう。……何のために生きているのだろう。
 努めて、思考を頭から追い出す。いつものように動けばいいだけなのだ。まともに機能する、歯車になればいいのだ。
99:
◇四
 その夜、僕は眠れずにベッドを抜け出した。寝間着から着替え、財布と携帯だけを持って家を出る。
 なんとなく気持ちが落ち着かなかっただけで、目的があったわけじゃない。
 とにかく、今の僕に必要なのは冷静さだ。落着き。そのための夜の散歩。悪い考えじゃない。
 僕の足取りはきっと覚束なかったはずだ。なにせ僕自身どこをどう歩いたのかまったく覚えていないのだから。
 きっと夢遊病者のように見えただろう。実際似たようなものだったかもしれない。
 気付けば国道にぶつかっていた。潰れたボウリング場の駐車場から、バイクのエンジン音が響いてくる。
 目覚ましにはちょうどよかった。僕は歩く。夜とはいえ、夏の夜はひどく蒸し暑かった。
 僕はどこまで歩くのだろう。足は勝手に進んでいく。
 喉がひどく乾いていた。
 気付けば僕は例の事業所の敷地に足を踏み入れていた。完全に不審者じゃないか、と自嘲する。
 だが足は止まらない。ほとんど勝手に動いているようなものだった。
 
 僕の足は勝手にショールームへと向かっていく。なぜだろう?
 
 大仰な門の監視カメラが、僕の方を睨んでいる気がした。それは錯覚ではないだろう。
 けれど今は、気にならなかった。
 
 ショールームの入口は以前の明るい雰囲気とは違い、どことなく拒絶するような雰囲気が生まれていた。
 僕はドアを押す。
 なんの抵抗もなく、簡単に開いた。
100:

 ショールームの中は静かだった。相変わらずたくさんのドアが並んでいる。
 どれだけ静かに歩こうと、足音はうるさく響いた。僕以外に誰もいないのだから当たり前だ。
 僕はここに何をしにきたんだろう。
 なんとなくだけれど、何かをしなければならないような気がして、手近にあったドアを開けてみる。
 何もない空間に繋がっている。
 それは当たり前のことで、まともなことだった。
 当然だけれどショールームに姪の姿はなかった。あるいは隠れているのだろうか。
 彼女はきっと僕に見つけてほしくないのだ。彼女は気付いてしまっている。
 最初から気付いていたのかもしれない。
「……」
 ドアを幾つあけても、どこにも繋がらなかった。
 開いた先には何もなかったし、誰もいなかったし、何も起こらなかった。
 掛ける先のない電話のような、宛先のない手紙のような。
 要するにそういう種類の空虚なのだ。
 そういう空虚さの、象徴としての場所なのだ、ここは。
101:
「……なんでだろう」
 と僕は呟いた。なぜだろう。何がおかしいんだろう。ここにいると静寂に飲み込まれそうになる。
 何か知らない場所へと連れ去られそうになる。真黒な怪物が、口を開けて待ち構えているのだ。
 僕は最後のドアを開く。
 開いた先は、やっぱり同じ。
 やはりどこにも繋がっていない。
 ――僕は、最後のドアを、開いた。
「……え?」
 僕は最後のドアを開いた。最後のひとつまで残さず開いてしまった。すべて。
 なのに。
 緑色のドアがない。
 どこにもなかった。
102:
◇五
 不意に、ポケットの中の携帯電話が震えた。僕の心臓は強く震える。
 落ち着け、と僕は自分に言い聞かせる。ドアなんて見逃しがあっただけだ。すぐ見つけられるに決まっている。
 それより、今は電話だ。電話を受け取らなくては。
 僕はディスプレイの表示をろくに確認せずに通話ボタンを押した。
 ――きいいいいいいん、と、音がした。
 どこか遠くに繋がっている、と漠然と感じる。そことこことの間には、深い断絶、大きな溝がある。
 僕は不安に駆られる。何が起こっているんだろう。訳の分からないことばかりが起きる。
 この電話はどこから掛かってきているのだろう、と僕は不安に思った。
 時空などをはるかに超越した場所から掛かっている気がする。
 あるいは時間だけかもしれないし、空間だけかもしれない。どっちにしてもそこはここから遥か遠い場所に違いない。
 そういう確信を根拠もなく抱く。なぜだろう。
「もしもし?」
 と僕は言った。
 誰かが呼吸するかすかな音が、電話から伝わってくる。
 やがてその呼吸は声になり、言葉になった。
「――お兄ちゃん?」
108:
◇六
 その声が、僕の鼓膜を揺すったとき、涙が出そうになった。
 自分の中から何かが零れ落ちてしまいそうだった。自分の奥の方でうずくまっていた何かが揺さぶられていたようだった。
 僕は深く安堵しかけた。それは無駄な動きだった。かりそめの安堵だった。一瞬だけの、まともな反応だった。
 少しだけ悲しくなって溜め息をつく。何が僕をこんなふうに混乱させているだろう。
 少なくとも今だけは、その答えが明白だった。
「誰?」
「……」
「君、誰?」
 僕の問いに、電話の向こうの女が息をのんだ。
 なぜだか知らないが、僕の言葉によって彼女が傷ついたような気がした。
 僕はたしかにそう感じた。僕の言葉に、彼女はたしかに傷ついたのだ、と。そのことが僕にははっきりとわかった。
 それは錯覚だったのかもしれない。彼女は平気そうに返事を寄越す。
「やっぱり、分かっちゃうんだね」
109:
 昔からの知り合いのように、語らずとも前提を共有しあっているかのように、彼女は言う。
 同い年くらいの女の子だろうか。誰かは分からないけれど、声には聴き覚えがある。
 それでも僕は彼女のことを知らなかったし、彼女の言葉の前提を知らなかったので、「やっぱり」という言葉の意味は分からなかった。
「少しだけ、傷ついたよ」
 大人びたような声で、平気そうに言う。僕はその声の主を知らない。僕もまた、少しだけ傷ついた。
 彼女の声はあの子に似ていた。
 お兄ちゃん、と彼女は僕を呼んだ。
 どうして僕を期待させたりするんだろう。
 どうして僕を騙したりするんだろう。
 
 期待に揺れ動いた心がまた黒ずんでいく。 
 僕は未だ、どこにも繋がっていないショールームに立ち尽くしていた。
 どこにも行けない。
 
 でも、誰かに繋がっていた。
 そこには何かの意味があるのかもしれない。根拠もなく思う。だって彼女は僕を「お兄ちゃん」と呼んだのだ。
 そうである以上、僕と彼女について何かを知っていなければおかしい。彼女の居場所について、何かを知っているかもしれない。
110:
「君は、あの子が今どこにいるか、知ってる?」
 もちろん、普通に考えれば知っているはずがない。ただ試してみただけだ。
 何の意味もない、ただのテスト。あてになんてしてない。
 彼女の答えはシンプルだった。
「むかつく」
「は?」
「わたしの話は?」
「……」
 どうも、自分なりのペースというものを持っている相手らしい。
「……ん? いや、あ、そうか」
 と、彼女はぶつぶつと独り言を始めた。電話を掛けてきておいて独り言というのもいかがなものだろうか。
 僕は少しだけ彼女を叱りたくなったけれど、見知らぬ相手を叱れるような性格をしていなかった。 
 でもなんだか、彼女のことを叱ってやらなければならないような気がする。いや、気がするだけなのだけれど。
111:
「うーん……」
 彼女は電話の向こうで深く溜め息をついた。何か判断をしかねているような気配がした。
 僕は会話を始めて一分足らずで相手に主導権を握られつつあった。
 なんとなく、緊張が緩む。
 いや、なんで緩むのだ、と僕は気を取り直した。
 知らない相手からの謎の電話。しかもこんな時間に。冷静になれば、むしろ緊張しなければならないのはこれからだった。
 なのに、なぜだか、緊迫感はまるでなかった。
「それで、あの子の話だけど……」
「待った」
 ……出鼻をくじくのが特技なのかもしれない。
「ゆっくりと、話をしましょう」
 彼女は、たとえを自ら示すように、ことさらゆっくりとした口調で、言った。
 僕は「ああ」と頷きを返す。結果的に僕が知りたい答えが返ってくるなら、なんでもかまわない。
 僕の反応に対したものなのか、彼女は「ちぇっ」と拗ねたように口で言った。舌打ちはしないらしい。
112:
「……君は誰?」
 僕は冷静に話を運ぼうとしたが、彼女は取り合ってくれない。
「秘密」
「なぜ?」
「秘密主義者だから」
「それはなぜ?」
「秘密」
 答えらしい答えが返ってこない。
113:
「でも、何もかも秘密じゃあお兄ちゃんがかわいそうだから――」
 と、彼女は当たり前のようにあの子の呼び方を真似して、
「ルールを少しだけ教えてあげる。何にも分からないままじゃ大変でしょ?」
 上から目線でそう言った。
 僕は少し辟易しかけたけれど、なんとか堪えて続きを促す。
「……本題に入ってほしい」
「……ごめん。少しテンションあがっちゃって」
 素直に謝れるのは美徳かもしれない。とにかく悪い人間ではなさそうで、僕はほっとした。
「それでね。えっと、あなたの……姪? 姪か。うん。の、ことなんだけど」
 僕は彼女の言葉の続きを待った。
「わたしと一緒にいるから」
 悪い人間ではないというのは気のせいだったらしい。
114:
◇七
 
「何が目的?」
 と僕は訊ねた。あくまでも、冷静に、落ち着いて。ドッペルゲンガー(ではないらしいが)も言っていた。落ち着け、と。
 落ち着きが大切なのだ。
 
 ここで激昂して怒鳴りつけてもいいことがない。
 電話を切られてしまえば姪の手がかりを二度と得ることができなくなるかもしれない。
 それどころか、彼女が姪になんらかの危害を加えないとも限らなかった。
 この陽気な少女は誘拐犯なのだ。陽気な狂人というのも、なくはないだろう。
「警戒しないでよ、そんなに」
 彼女は取り繕うように言ったが、その言葉によって僕の警戒心がほどけることを期待してはいないだろう。
 当たり前だよね、とでも言いたげに、彼女は笑う。
「わたしがしたいことはね、たったふたつだけだよ」
「ふたつ?」
「そう。ふたつ」
115:
「それは、なに?」
「ひとつは、復讐」
「フクシュウ?」
「そう、復讐」
「……」
「恨んでるんだ」
 たいしたことではなさそうに、けれど確かな重さを乗せて、彼女の声は僕の耳に届いた。
 そこには真実らしきものが隠れているように思えた。
 少なくとも、その言葉が僕の耳には真実らしく聞こえた。
 心当たりは全然なかったけれど、後ろめたい気持ちになる。
 でも、少しだけだった。心当たりがないのだから、それ以上先に進みようがない。
「ルールの説明、始めてもいい?」
 僕の返事を待たずに、彼女は続けた。
116:
◇八
 彼女の話は抽象的で分かりづらかった。
「わたしは、いくつかの分岐と結果をあなたに見せるために来たの」
 分岐と結果。抽象的なワード。僕はうんざりした気分になる。
 はっきり言って、興味を抱けなかった。僕にとって重要な情報は、姪が今どこにいるのか。
 どんなふうに過ごしているのか。それだけだった。それ以外の情報はほとんどすべてどうでもよかった。
「分岐と結果?」
 と僕はなかば義務のような気持ちで訊ね返す。彼女はあからさまな僕の態度に気を悪くするでもなく答えてくれた。
「そのままの意味。あなたは、既にそれを見つけているはず」
「……何の話?」
「それから、あなたの方からわたしに働きかけようとしても無駄。絶対に、無駄。これも分かっておいてね」
 ……無駄らしい。どうりで質問してもまともな答えが返ってこないわけだ。
 彼女は真面目な声音で続けた。
117:
「なぜだか分かる?」
「いや」
「わたしだって、できればあなたの影響を正面から受けられたら、と思う。でも、できない。決まってるの」
「なぜ?」
「人は空を飛べないし、猫は喋らないし、死んだ人は蘇らない。あなたはわたしを変えることができない」
 何が言いたいのか、さっぱり分からなかった。
「とにかく、わたしはあなたに対して、いくつかのものを見せる。それはね、はっきり言って、あてつけみたいなもの」
「あてつけ?」
「逆恨み、って言ってもいい。でも仕方ないの。あなた以外のどこにも向かいようのない感情が、そうさせるの」
「僕以外には?」
 そんなにも強い感情を向けられる心当たりはない。復讐。いったいどこで、そんな恨みを買ったのだろう。
 そこまで強い感情を向けられるような心当たりを頭の中で探してみるが、まったく思い当らなかった。
118:
「厳密にはちょっと違うけど、でも、似たようなもの。……だと、思う。はっきりとは言えないんだけど」
 彼女はそこで言葉を止めた。続く声は、祈るように響いた。
「あなたは、そこから何かを掴み取ってね。わたしが渡す情報から、何かを掴み取ってね」
 僕は、その声がじんわりと耳の内側に広がっていくのを確認する。
 それからしばらくの沈黙があった。僕はショールームの中にたたずんでいる自分を発見する。
 ここはどこにも繋がっていない。宛先のない手紙。そういう種類の空虚さ。
 この場所では、その空虚さが糸になって繋がるのだ。漠然とした認識。緑色のドアを通り抜けてくるのだ。
 
 沈黙の果てに、彼女は子供のようなか細い声でささやいた。
 
「最後にはきっと、もう一度会えるよ」
 それが姪のことを言っているのだと気付くまで、時間が掛かった。
「置いていかないでね」
 その声はやはり、あの子に似ていた。
124:
◇八
 気付けば電話は切れていて、僕は真っ暗なショールームに一人で立ち尽くしている。 
 もうこの場所はどこにも繋がっていない。誰ともつながっていない。まともな姿だ。
 
 僕はひとりぼっちで立ち尽くしている。そこにはやはり姪の姿もない。
 携帯のディスプレイは通話が終わったことを示していた。さっきまで電話がつながっていたのだ。
 でも、もう繋がっていない。不思議な気分だった。何かどうしようもない断絶に触れた気がした。
 それも一瞬だけのことだった。僕は溜め息をついて携帯を畳み、ポケットに突っ込む。
 そして少しだけ考えた。さて、これからどうしよう?
 
 分岐と結果。それを見せる、と女は言った。
 でも、ここには何もない。僕は誰かに何かを見せられたりしていない。ここにあるのはごく当たり前の現実だけだ。
 相変わらず僕が探している相手はおらず、相変わらず僕はショールームに立ち尽くしている。
 僕はまじないでもかけるような他人事めいた気持ちで呟く。
「分岐と結果」
 分岐と結果。意味が、分からない。考えてみよう。
 選択と結末。
 いや、分岐は選択とは限らないか。であるなら、偶然とその帰結。
 分岐。それは僕の身に即した言葉なのか。だとするなら、その言葉が意味するところは明白に思えた。
125:
 なんらかの分岐。その地点が過去にあったとするならば、当然のように「結果」である現在は変わる。
 要するに、「分岐とその結果」とは、「ありえたかもしれない現在」のことだ。
 ごく単純に、彼女の言葉の意味を想像するならば。
 当然の話として――そんなものをまともに信用できるわけがない。
 
 だが――。
『あなたは、既にそれを見つけているはず』
 ――心当たりが、ないわけではない。
『魔女の甘言に乗せられて、緑色のドアの向こうにやってきた。と、詩的に表現すればそんなとこか』
「魔女」
 と僕は声を出してみた。魔女とは、誰だ? 電話の女のことか?
 彼女の目的は……。
『そう、復讐』
 ……復讐?
 だとするなら、相手は……。
『あなた以外のどこにも向かいようのない感情が、そうさせるの』
 やはり、僕、ということになるのか。
126:
 僕はちっとも冷静になれていない。混乱している。何が起こっているのだろう。
 そもそも彼女はいったい何者なのだ?
 僕は既に、その答えを知っているような気がした。
 でも、そんなわけはない。声に心当たりはなかったし、彼女は名乗りもしなかった。
 彼女に関して、僕はなにひとつ分からない。ただ感覚的に、なんとなく僕に関係がありそうだと感じるだけだ。
 なんだか、ひどく疲れた。何も考えたくない。
 ショールームの床に、僕は寝転がった。ひんやりとした堅い感触が背中に広がる。
 こうしていると少しだけ気分がマシになった。さまざまなことを考えずに済んだ。
 けれど本当なら、僕はむしろ考えなければならないのだ。
 僕はあの子ともう一度会わなくてはならないのだ。
 そして彼女がいなくなってしまった理由を知らなければならない。
 姪は女にさらわれたのではない。自発的に出て行ったのだ。そのことに、僕は確信を抱いていた。
『最後にはきっと、もう一度会えるよ』
 最後、とは、何の最後なんだ?
 何が終わるとき、彼女に会えるんだ?
 おそらく、彼女が見せたい『分岐と結果』を僕が見終えたとき、それが『最後』なのだろう。
127:
 そう気付いたのが合図だったように、足音が聞こえた。
 体を起こして、音のする方に顔を向ける。暗くて姿は見えないけれど、相手が誰なのかはすぐに分かった。
 分岐と結果。
 おそらく彼は、もうひとりの僕なのだ。ありえたかもしれない、ひとつの結果なのだ。
 暗闇からするりと這い出て、彼は窓から差し込む薄い月光の上にあらわれた。
 僕と同じ顔。
 表情は、いやに真剣なものだった。初めて彼を見た場所が、ここの二階だったことを思い出す。
「こんばんは」と彼は言った。
「こんばんは」と僕も返した。
 そのやり取りに意味はなかった。僕たちはお互いが考えていることがなんとなくわかった。
「彼女に会ったの?」と彼は訊ねた。
「どっちの?」と僕は問い返す。
 彼は少し面食らったような顔で僕を見返していたが、やがて諦めたように溜め息をついた。
128:
「魔女についてのつもりだったが、両方」
「会ってない」
「本当に?」
「電話が来たんだ」
「電話」
 彼は意外そうな顔をする。僕も、自分で言いながら違和感があった。電話を、彼女が持っているのか?
 いや、持っていたとして、それが繋がるのか? もっといえば、彼女は掛けようとするのだろうか?
 ひどく不自然でおかしな話に思えた。
 魔女、と、彼は電話の女をそう呼んだ。僕もそれに倣う。意味はない。ただの記号わけだ。
「君は魔女について何かを知ってる?」
「何も知らない」
 と彼は答えた。
「あの子は、魔女と一緒にいるらしい」
「……まあ、そうだろうね」
129:
「どうしてだと思う?」
「分からない。けど、彼女はたぶん、繋ぐんだと思う」
「……繋ぐ?」
「電話みたいなものだよ。たぶん、このショールームが、そのための場所なんだ」
「待ってくれ。何の話をしているのか分からない」
「たぶんね、言わなくてもそのうち分かる。でも一応説明する。僕は魔女に誘われて、ここに来たんだ」
「"ここ"?」
「この世界」
 セカイ。
「僕にとってこの世界は、いわゆるパラレルワールドって奴なんだ。最初君を見たときは、悪い冗談かと思ったよ」
 彼はそこで嘆息した。その卑屈じみた笑みが、彼にはよく似合った。こんな言い方は失礼かもしれない。
 でも、よく似合った。卑屈な自嘲。憫笑。それは僕にはないものだ。僕はこんなふうに笑えない。
 
 僕と彼は似ているのではない。同じなのだ。
 でも、明白に違う。彼は僕であって、僕は彼だったが、彼は僕じゃないし、僕も彼じゃない。
130:
「だが、違う。悪い夢なんかじゃないんだ。僕は現実に彼女に誘われて、望んでこの世界を眺めにきた」
 甘言に乗せられたのは本当だけどね、と彼はまた笑う。
 僕は沈黙を返した。並行世界。
「分岐と結果」
 と僕は頭の中で呟いた。
「たぶん、魔女は繋ぐんだ」
 彼はもう一度同じ言葉を繰りかえした。
「僕や、君や、おそらく他の人間。あの子についても、みんなそうだ。そういう人間のある種の性質を利用して、繋ぐんだよ」
 ある種の性質。
 
「繋がるはずのない電話で、繋がるはずのない番号にかける。当然、繋がらないはずなんだ」
 空虚さ。
 でも、と彼は続けた。
「彼女はそれを、無理矢理捻じ曲げて、繋げるんだよ。どうしてそんなことができるのかは知らない。でも彼女はそうするんだ」
「……分かったような、分からないような」
 僕は困った。彼の言葉はやっぱり抽象的だ。どうすればいいのか、僕には分からない。
 分からなければ、僕は二度と姪に会えない。……かもしれない。どうすればいいのだろう。
131:
「ずっと気になっていたんだけど、どうしてそこまであの子に執着するんだ?」
 その彼の言葉に、僕は痛いところをつかれたような気持ちになった。
 家族だからだよ、と答えようとして、口籠る。当たり前のように家族だからだ。
 でも、それは嘘かもしれない。
 僕自身本当のところはよく分かっていないのだ。
 僕はむしろ、彼の話を聞くべきなのかもしれない。
 そして、なぜ彼が彼女に執着しないのか。その理由を確認するべきなのだろう。 
 そうでなければ、――あるいは、そうすることでこそ――僕の卑怯さが、矮小さが証明されてしまう気がした。
 どっちにしたって同じなのかもしれない。
 僕は諦めたような気持ちで答えた。
「夢も希望もないからかもね」
 比較的、正直な気持ちで答えた。
「……何の話?」
「そのままの意味で、僕はなんにも希望がない人間なんだ。やりたいこともなりたいものも別にない」
「僕もそうだけど」
 彼は平気そうに言う。少しだけ羨ましかった。
132:
「そう。みんなそうなのかもしれない。でも僕は嫌だった。そういうことなんだと思う」
「……何が言いたいんだ?」
「僕はあの子のことを家族として大事に思っているし、人間として彼女が好きだ。
 でも、ときどきこうも考える。僕は本当のところ、彼女を大事に思ってなんていないのではないか? と。
 僕は彼女が「可哀想」だから相手をしてるんじゃないか? と。
 他に何もやりたいことがないから、つじつま合わせ程度の「生きる理由」として、あの子の境遇を利用してるんじゃないか? と」
 一息に言い切っても、彼は黙って僕の方をじっと見ていた。
「実際、僕はあの子が今のような境遇になかったら、きっとあの子に優しくなんてしなかった。
 僕が彼女に優しくするのは、彼女が「可哀想」だからだ。そうすることで自分に付加価値を見出そうとした。
 要するに僕は、結果的に「親につらく当たられている子供」としての彼女を望んでいたんだ。
 彼女の不幸の上に、自分の価値を生み出そうとしたんだ。 
 たぶんそういうことなんだと思う。そういう汚さを、あの子は見抜いたんだ。きっと。気付いたんだよ」
「……」
「それを思うと、たまらなく怖い。息もできなくなりそうなくらいだ」
「――あのさ」
「なに?」
「落ち着けよ」
 彼は呆れたように溜め息をついた。
133:
「どうも君は、すごく混乱してるみたいだ。混乱していて、疲れてる。だからそんなことを考えるんだ」
「でも」
「でも、じゃない。そんなに混乱しておいて、彼女を利用しているだけだとか、よくもまぁそんなバカな話を考えられるものだ」
 
 僕は少し驚いた。
 彼は怒っている。明白に、怒っていた。
「君はいくつか思い違いをしている。君は間違いなくあの子を大事に思っているし、大事にしているよ。
 そのことが僕にははっきりと分かる。僕だからこそはっきりと分かる。そこには同情もあったかもしれない。
 でも、たしかに君は彼女のことを考えていたし、彼女のために何かをしたい、と思っていたんだよ。
 もちろんそうすることで、自分に付加価値を与えるだの、なんだのとかいう、よく分からない話の期待も、あったかもしれない。
 でも、“それだけ”じゃない。そんなことしか考えられない奴が、その汚さに気付かれて、「怖い」だなんていうはずがない」
 彼の声が僕の耳を通って、言葉として理解されるまで、長い時間が必要となった。
 僕は彼の言う言葉が何かの呪文のように聞こえた。意味を掴むのが困難だった。
 でも、徐々にだが、言わんとすることが伝わってくる。
「怖いのは嫌われたくないからだ。軽蔑されたくないからだ。もし君が利用するだけの奴だったら、そんなふうには思わない。
 こんなふうに、ひどく混乱したりしない。なんとしても彼女を失わないために、もっと理性的に、彼女をとりもどそうとするはずだ」
134:
 そして何よりも、と彼は続ける。
「その人が今幸せなのか不幸なのかは、その人以外には分からない。絶対に、分からない。
 表層的なものの見方では分からないものなんだ。お前には彼女の境遇が不幸に見えるかもしれない。
 でも、そうとは限らない。結局それは、比較からの結果論でしか分からないことなんだよ。しかも比較対象は空想だ。
“もしもこうだったら”と考えても、それはあくまで絵に描いた餅だ。そんなもんを比較対象にしたって仕方ないだろ?
 少なくとも現実は、君が頭で思い描くほど単純じゃない。僕が知っているほど複雑ではないかもしれないが……。
 だが、いずれにせよ、僕にとってはそれが唯一無二の現実だったし、それに比べたらこの世界の方が遥かにマシなんだ。
 もちろんあっちの彼女が不幸だったとは限らないし、あっちよりマシだからこっちが不幸じゃないとかいうつもりはない。
 でも不幸だとか、可哀想だとか、そういうものを理由になんてできないんだ。それだけは絶対なんだ」
 途中まで何となく理解できたけれど、彼の言葉は一定の地点から理解できなくなった。
 前提が共有されていないのだ。彼は僕の知らないことを知っている。
 だから僕と違う結論を出せるし、僕の言葉を否定できるだろう。
 根拠を知らない僕には、結局その言葉は気休めでしかない。
 気休めでしかないけれど、僕は彼の言葉に励まされた。
 涙が出そうなほどだった。
 おそらくずっと不安だったのだ、僕は。もしも本当に、僕の気持ちが、薄汚れた利己的なものでしかなかったらどうしよう、と。
 それを、無根拠とはいえ、力強く否定してもらえたことは、すごくうれしいことだった。
「とにかく、落ち着けよ。それから自分が何をすべきか考えるんだ。それはたぶん、僕にとっても大事なことなんだよ」
 
140:
◇九
 僕と彼はひとまずショールームから出た。外では細かな霧雨がプランクトンのように宙を舞っている。
 ひどく肌寒い。不思議なことに思えたが、かといって、そのことに何か重要な意味なんてありそうにもない。
 彼は僕を振り返り、静かに言った。
「君と僕の違いってなんなんだろうな」
「違い?」
「たしかな違いがあるはずなんだ。でも、僕にはそれがよく分からない。ひょっとして、そんなものなかったのかもしれない」
 僕と彼の違い。服装と眼鏡の有無。表情。でもきっと、彼が言いたいのはそういうことじゃない。
 それは分岐と結果の話。
 なぜ僕は今ここでこうしていて、なぜ彼は今ここでこうすることになったのか。
 僕が彼の立場でなく、彼が僕の立場でなかったのはなぜなのか。その違いはなんなのか。
 考えれば考えるほど頭が痛くなりそうな話だ。
141:
「たぶん僕たち自身には決定的な違いはなかったんだと思う。しいていうならそれは外側が生んだ差異なんだ」
「外側」
 鸚鵡返しの返答に短く頷いて、彼は皮肉げに顔を歪めた。
「"たまたま"こうだったのかもしれない、って意味」
「たまたま、ね」
 だとするなら、僕たちは何に怒って何に感謝するべきなのか。
 いずれにせよ、それも重要なことではないように思えた。少なくとも僕にとっては。
142:

 僕はそれから家に帰ってベッドに倒れ込んだ。
 ぜんぜん眠れなかった。何もかもが不安でたまらなかった。
 何が不安なのか分からないくらいだ。僕は何かをなくしそうで怯えている。
 
 僕は何を不安がっているのだろう。その不安の正体が分からないことが一番大きな不安だったのかもしれない。
 僕は彼女にもう一度会えるのだろうか。
 何が不安ってそれよりも大きな不安はなかった。とにかくただただ不安でたまらない。
 油断をすると指先が震えだしてしまいそうだ。そのくらい巨大で圧倒的な不安だった。
 僕は落ち着きをとりもどすためにコーヒーを入れて自室に戻った。蛍光灯をつけて、デスクに向かった。
 それから机に積みっぱなしになっていた文庫本を手に取った。適当に買った小説だ。
 
 読書はちっとも捗らなかった。名前がどうとか、名刺がどうとか言う話が続いている。
 不条理なあらすじ。僕は溜め息をついてコーヒーに口をつける。でもそれだけだった。
 コーヒーを飲んだところで、コーヒーを飲んだという結果以外はなにひとつ生まれなかった。
 不安はなくならなかったし、本の内容は頭に入らなかった。
143:
 僕はこれからどうなるのだろう?
 ふとどこか暗い場所へ連れ去られてしまいそうな気がした。
 ここよりも暗い場所。霧が立ち込めた街。僕はどこかに連れ去られてしまう。
 
 僕は疲れて机に体を投げ出した。どうもここは居心地が悪い。自分の部屋なのになぜだろう?
 瞼を閉じる。頭が熱に浮かされたようにぼんやりしていた。
 ――きいいいいいいん、と、音がした。
 意識が失われていく。僕の連続性が切り取られる。
 どこか別のところに繋がってしまうのだ。おそらくは彼女の手によって。
 それは錯覚かもしれない。錯覚かもしれないけれど、僕の中で、何かが変わってしまった。
 
144:

◆破
 
 僕はひどく疲れていた。何かが僕を強く苛んでいる。きわめて悪意的な何かが。
 その悪意は外側から現れたものだと思っていたが、どうも違うらしい。
 
 これは内側からやってきている、と僕は今になって確信している。
 つまるところこれは現実に起こった出来事と、それに対する周囲の反応を飲み込んだ僕が生み出したのものなのだ。
 きわめて悪意的な何か。僕を苛み混乱させる何か。それは肥大していく。
 
 エスカレートしていく。それは僕では止められない。でも、たしかに僕が行っている行為なのだ。
 それは自責と呼ばれるのか。それとも自傷と呼ばれるのか。あるいは自慰と呼ばれるのかもしれない。
 いずれにせよ僕は混乱していた。混乱して冷静さを見失っていた。
 こんなときこそ、大切なのは落ち着きだ。僕は考える。
 何よりも大切なのは状況の整理だ。何が僕をこんな状態にしているのか?
 それは取り返しのつく状況なのか?(おそらく、取り返しはつかない)
 それは避けられる事態だったのか? であるなら僕はどこかで間違えたのか? 
 その問いは長い時間僕に宿り続けた。途方もなく長い時間だ。問いは僕をなじった。
 
 なじり、苛み、苦しめ、そしてその苦しみすらをせせら笑った。
 落ち着け、と僕は自分に言い聞かせる。僕は今ひとりぼっちでいる。
「いつも通りじゃないか」と、僕は自分に向かって呟いた。何がおかしいんだ?
 情報を整理しよう。順番が少し狂っているのだ。だからこそ、整理をしなくてはならない。
 何よりも大切なのは、順序だ。それを、整えなければならない。
145:

 不意に聞こえたノックの音に、僕はうたた寝から目を覚ました。
146:
◆一
 
 目を覚ますと、寝る前に入れていたコーヒーはすっかり冷めていた。
 僕はなんとなくそれに口をつけて顔をしかめる。おそろしくまずかった。
 どうやら机で眠っていたらしい。顔を起こすと読みかけの本は栞も挟まれずに閉じられていた。
 これではどこまで読んだのか分からない。ひとつ嘆息してから諦め、僕はベッドに倒れ込んだ。
 
 倒れ込んでから、枕元の置時計に目を向ける。一時半。寝なければ明日に響く。
 と考えてから、僕は響いて困る明日なんてないことを思い出した。今は夏休みじゃないか。
 
 それから瞼を閉じて、このまま好きなだけ眠っていられたならと考えた。
 カーテンは閉じられていた。明かりはつけっぱなしだった。ドアは閉ざされていた。
 今ここは、たしかに僕だけの空間だった。
 瞼の裏に蛍光灯の灯りが浮かぶ。光が静かに僕の意識を侵食していった。
 侵食していってから、僕は不意に――本当に不意に、ノックの音が聞こえたことを思い出した。
 面倒だったが、仕方なく立ち上がり、ドアの前に立つ。心当たりはなかったが、誰だろうとかまわない。 
 どうでもいい気分だった。なんなら幽霊でもかまわないし、怪物でもかまわない。そういう気分だったのだ。
 ドアを開ける。もしも変わらない日々を望んでいたのなら、僕はきっとドアを開けるべきじゃなかった。。
 でも僕は結局開けてしまったのだし、開けてしまったのだから仕方ない。
 ひょっとすると、どこかの並行世界には、"ドアを開けなかった僕"もいるのかもしれない。
 でも僕は"ドアを開けた僕"なのだ。結局のところそういう話だ。
147:

「こんばんは」と彼女は笑った。どこか皮肉めいた笑顔だった。その表情がなんだかおかしくて、僕も笑いながら返した。
「こんばんは」
 僕はベッドにふたたび寝転がる。ひどく疲れていたのだ。
「入ってもいい?」
 と彼女は言った。僕は彼女の顔を見ずに手招きする。どうでもいい。入りたければ入ってもいいし、出たければ出て行ってもいい。
 不思議なことに興味はわかなかった。一切わかなかった。誰が僕を訪ねてもいいし、誰がここから去ってもいい。
 だって、ここには最初から何もないのだ。
「変な部屋」
 彼女は部屋を見回して、言った。僕もそう思う。ここは変な部屋だ。
 本来ならば他の場所に当然あるべきもの、当然属すべきものを、無理矢理他の場所に移し替えたような空間。
 その印象はある意味では正しかった。僕は溜め息をつく。
148:
「嫌な感じかな?」
「少しね」
 僕が笑うと、彼女も笑った。
「ねえ、ところで、お願いがあるんだ。いいかな?」
 彼女は言った。僕は問い返す。
「なんだろう?」
「わたしはこれからある場所に向かおうと思う。あなたについてきてほしいんだ」
149:
「どうして?」
「都合がよさそうだったから」
 ひどい理由だと僕は思った。そんな理由で誰が彼女についていったりするんだろう?
 少しうんざりしたが、でも、頼みを受け入れる理由がなかったように、断る理由も僕にはなかった。
 要するにそういうことなのだ。僕には今、なんらすべきことがなかった。
 ただ目の前に振りかかった現実を、とにかく認識する以外には。
「ひどいものを、見ることになるかもしれないけど」
「かまわないよ」
 むしろそういうものを目撃したい気分だった。少しでも珍しいもの、変なものを見てみたかった。
 今この場所にある現実以外のもの。それを一度目撃してみたかった。
「ところで、君は誰?」
「秘密」
 僕と彼女はそのように出会った。
 おそらく僕のことだけを考えるならば、彼女と僕は出会うべきではなかったのだ。
 それは僕に対して何ももたらさない邂逅だった。
 でも、仕方ない。そのときの僕には、どうでもよかったのだ。
156:
◆二
 僕と彼女は家を出た。先導されるがままに歩いていくと、近所の川沿いの堤防へと彼女は進んでいく。
 霧雨に覆われた夜の空気はひんやりとしていて、それは少し僕を安心させた。肌寒いくらいだったけど、気にならなかった。
 空には星と月がぼんやりと浮かんでいる。目に映るすべての輪郭が霧に煙って判然としない。
 不意に、女が声をあげた。
「こんな感じの道をさ。子供の頃、よく歩いたんだよ」
 夜の底で聞く彼女の声には、どこかしら人を飲み込むような響きがあった。
「二人で、一緒にね。散歩に行ってきなさい、ってよく言われたんだ」
 何かを思い出そうとするような声だった。もしくは、何かを悼むような、惜しむような声だった。
 
「似てる。その道に。ね、そんな場所をそんなふうに歩いた記憶、ある?」
「ない」
 僕ははっきりと答えた。
「そっか」
 彼女は当然だとでも言いたげに頷く。僕はなんだか居心地が悪くなった。 
 なぜだろう? 彼女といると、僕はひどく後ろめたい気持ちになる。
157:
「それでね、堤防を抜けた先に、何かの事務所みたいなのがあるの」
 僕には分からない話を、彼女は続けている。けれど不思議と、その話に登場する土地について、僕は知っている気がした。
 なぜだろう? 彼女の話す場所は「ここ」とは違うのだ。「こんな感じの場所」。ここではない。
「敷地の入口に自販機があって、そこでコーヒーとリンゴジュースを買うの。それを飲みながら、道を戻っていくのが散歩のコース」
 言葉にすることで何かを確認しようとするように、彼女は話を続けた。
「一年中、ずっと。春は風が強かったりして大変だった。
 河川敷の草むらは、夏になると背が高くなって、迷い込むと出られなくなったりするんだよ。一度そうなって、怖かった。 
 秋になると夕方でも真っ暗だった。虫の声がうるさかったな。早めの時間に歩くとね、夕焼けとススキが綺麗だった。
 冬の寒いときなんかは、もうちょっとだけ歩いてコンビニまでいって、肉まんを食べながら帰ったの。寒い寒いって言いながら」
「……誰と?」
「……」
 彼女はそこで立ち止まった。僕たちは土手のちょうど真ん中あたりで立ち尽くす。
 霧雨は細かかったけれど、僕たちはたしかにその粒に濡れていた。
 服がしっかりと雨粒を吸い込み、気付けばびしょ濡れになっている。
 女はこちらに背を向けたままだった。僕はいやな気持ちになる。
158:
 不意に、彼女は河川敷の方に体を向けた。背の高い夏草が人の行く手を阻んでいる。 
 彼女はためらわずに足を踏み入れる。
「こっち」
 なんでもないことのように、彼女は言う。
 背が高いとはいえ、頭まで覆われてしまうほどではない。僕は彼女を追った。
 視界が奪われるほどではないが、何かを落としたりしたら見つけられないだろう。
 蛙や虫がいそうなことも嫌だったが、それよりも霧雨の雨粒に濡れた草の感触が気持ち悪かった。
 するすると進んでいく彼女の姿を追いかけ、僕は必死に草を掻き分ける。
 月がこちらを見下ろしている。夏の夜なのだと僕は思った。
 やがて草むらを抜ける。当然だけれど、川があった。
 このあたりは水深が浅く、水底の砂利がよく見えた。水が澄んでいて綺麗。小魚が泳いでいるのが見えるくらいだ。
 躊躇なく、彼女は川に足を進めた。
「こっち」
 前を向いたまま、女は言う。
159:
「こっちだよ」
 真剣な表情を見て、僕もそれに従った。気圧されたという方が近いかもしれない。 
 彼女の表情は、常に真剣だった。それに対して僕の態度はいつだって曖昧で不誠実に思える。
 それは仕方ないことだ。僕はそういうふうになってしまったんだから。
 水に足を踏み入れる。それは思ったより気分の良い行為だった。 
 靴も履いたままだし服も来たままだった。裾をまくりげる気にもならない。
 どうせびしょ濡れだったのだ。いまさらどうなったところでおんなじだ。
「ごめんね」
 と彼女は言った。
「あなたがどう感じるか、わたしには分からない。ひょっとしたらすごく傷つくかもしれないし、怒るかもしれない」
 ――水面が、波紋を広げるように、かすかに動いた。
「でもそれは、どうしても必要なの。そうしないと、我慢ならないの。わたしはだめだったから、せめて」
 せめて、と彼女は言う。波紋は大きな波になっていく。僕はちょっとした焦燥に駆られた。
160:
「これ、何が起こってるの?」
 異様だった。水面の動きは川の流れとも僕らの動きとも無関係に激しくなっていく。
 水が意思を持って蠢いているようにすら見える。それは決して飛躍した発想ではないだろう。
 彼女は僕の問いに答えず、にっこりと笑った。
「身勝手だって分かってる。でも、納得できない。だから、最初に謝っておく。ごめんね」
 彼女は笑う。
 水流は僕の足をさらう。何かが足を掴んだ気がした。引きずられて倒れそうになり、咄嗟にうずくまる。
 僕は何かを叫んだ。女はこちらを見て笑っている。
 水の流れが僕をどこかに連れ去ろうとしている。引きずり込もうとしている。
「ごめんね」
 と彼女は笑う。
 それは悲しそうにも見えたし、嬉しそうにも見えたし、そのどちらでもないようにも見えた。
 いずれにせよその表情は、僕にとってはどうでもいいものだ。赤の他人なのだから。 
 だからきっと、彼女にとっても僕の態度はどうでもいいものだったのだろう。
 でも、そのときの僕が最後に見たのは彼女の表情だった
 月の光にぼんやりと照らされて、青白い景色に包まれて、夏の夜の中に居た。
 彼女のその表情を、僕はたしかに綺麗だと思ったのだ。そんな、場違いなことを考えたのだ。
161:
◆三
 水滴の落ちる音で、意識をとりもどした。
 湿ったコンクリートの上に、僕はずぶ濡れのまま倒れていた。
 ずきりという頭痛が走る。身体の節々が痛くて、頭が回らなかった。
 僕はなんとか体を起こして、周囲の様子を確認した。
 薄暗くて分かりづらい。何かの機械の音がする。ごおおおおお、という排気の音も聞こえた。
 音はそれだけだった。まずはなんとか視界を確保しようと、僕はポケットから携帯を取り出そうとする。
 水に濡れていたせいか、携帯は壊れていて、ディスプレイは真っ暗だった。僕は舌打ちをする。
 ふと、光が後ろから現れた。
 
「行こう」
 女は懐中電灯を握っていた。僕は意識を失う前のことを思い出す。
 これはあの続きなのだ。
 冗談じゃないと言ってやりたかったが、ここがどこなのか分からない以上、彼女に逆らうのは賢い選択ではないように思えた。
162:
 言葉を返さずに頷き、彼女が進むのに任せた。
 それにしても、ここはどこなのだろう。機械と、何かのメーターのようなものがある。
 天井から床まで、大量のパイプが、どこからか入ってきて、どこからか出ていく。
 パイプには操作するためのハンドルがついている。床は濡れていて滑りやすく、壁はコンクリートの打ちっぱなしだ。
 
 漠然と、ここで何かを操作し管理しているのだということは分かったが、具体的に何を管理しているのかは分からない。
 通路のところどころにはパイプが伸びていて、ときどき屈んで通らなくてはならなかった。
 ときどき、魚の骨格標本や何かの水槽のようなものも見つけた。たいして興味は引かれない。
 やがて通路は二手に分かれる。彼女は入り組んだ方へと進む。小さな木製の階段があった。
 黙って進んでいく。その先には扉があった。
 
 迷わずに、彼女はドアノブを回した。
「先に行って」
 と彼女は言う。僕は怪訝に思いながら、足を踏み出した。
 僕らは扉をくぐる。
 扉を、くぐった。
166:

 
 音もなく扉が閉まった。僕が振り向くと、彼女が扉に鍵をかけている。
 その扉は、くぐってきた扉とは大きさが異なるように思えた。錯覚かもしれない。
 緑色をしたそのドアは、緑色だという以外には特に言うべき特徴を持っていない。
 でも、その扉はどこかしら変だった。分からないけれど。
「ついた」
 と彼女は言った。僕は辺りを見回す。
 ドアがあった。無数のドア。僕は眩暈がしそうになる。突然現れた無数のドアが、窓からの日差しに照らされている。
 時間も空間も、おかしかった。
 窓からの日差しは暖かい。夏の真昼の太陽だ。僕は周囲を見回す。どこまでも白い壁に、無数の扉があった。
 幻想的というよりは悪夢的な光景ですらあった。
「別に、分かってしまえばそんなにたいしたものじゃないから、驚かなくても大丈夫だよ」
 そこが単なるドアのショールームだと僕が知るまで、結局数十分の時間が必要になった。
167:
 無数の扉に囲まれた気味の悪い場所を、彼女は迷わずに進んでいく。
 関係者以外立ち入り禁止のプレートを無視して、階段を昇った。
「説明、しないとね」
 階段を昇ってすぐ、細い通路に出る。左手はただの壁で、右手には三つ扉が並んでいた。
 彼女は一番奥の扉を開いた。
 その中は物置になっているようだった。いくつもの段ボール、何に使うかも分からないオブジェ。
 棚の中では大量の書類が埃まみれになっている。
 彼女はひとつ咳をした。それから窓辺に歩み寄り、手招きする。
 嫌な予感がした。
 それでも僕の足は窓辺に進む。なぜかは分からない。
 僕は窓の前に立つ。彼女を見る。ひとつの方向を見ていた。
 中庭のような場所。結構な人がいて、いくつかのテントが立っている。 
 そして、正面には何かのステージのようなものがあった。何かのショーをやっている。
「もうちょっとだと思うんだけど」
 と彼女が言ってから、しばらくのあいだ何も起こらなかった。
 僕は不安と焦燥が綯い交ぜになったような気持ちを抱えて、じっと窓辺に立っていた。 
 そして誰かに見咎められるのではないかと不安に思う。なぜ不安に思うのか分からなかった。
 そもそもここはどこなのだろう? 僕たちはここに居てもいい人間なんだろうか。
163:
 やがてショーが終わり、着ぐるみが子供に風船を配っている。
 ひとりの子供が受け取ろうとしたとき、手が滑ったのか、風船は空へと舞いあがった。 
 けれど、僕の視線はそれをとらえなかった。
 どうしてかは分からないが、あえて探そうとせずとも“彼”がそこにいることにすぐ気付いた。
 まるで引き寄せられるようにすぐ気付いた。
 
 彼は風船を視線で追う。やがて風船はこの窓の近くを通って空へと飛んで行った。
 その人物と、目が合った。
 僕は身動きが取れなくなった。彼の表情、姿は“僕”と似ている。
 似ているというより、同じだった。本当に同じだった。服装も髪型も仕草も表情も。 
 思わず顔が勝手にひきつった笑みを浮かべた。真昼の太陽に照らされて、その姿は僕にはっきりと見える。
 これはどういう冗談なんだ?
164:
「見えた?」
 と女が言う。
 僕は答えない。彼はこちらをじっと見ている。居心地が悪くなって苦笑し、僕は窓辺から身を引きはがした。
 彼女は試すような目でこちらを見る。僕の背中がじっとりと嫌な汗を掻いた。
「これはどういうこと?」
 気味悪さに、背筋が粟立つ。
 いったい僕の身に何が起こっているのだろう。
 彼女は僕の問いに、にっこりと笑った。
 その笑顔が、僕には恐ろしくすら思えた。
171:
◆三
「簡単に言うと、あれはあなた」
 と女はあっさりと言った。
「どういう冗談?」
 
 僕は笑い飛ばそうとしたけれど、上手くいかなかった。
 否定しようとしても、僕はその姿を見てしまったのだ。
「はっきり言ってね、説明する義理なんて、わたしにはない気がするの。そうじゃない?」
 彼女の表情は冷淡で、それが僕を一層不安にさせた。
 僕は彼女についてくるべきではなかったのかもしれない。 
 でも、それとは逆に、半ば本能のような感覚が頭の中で疼いていた。
「あなたにはわたしに義理立てする理由がない。わたしにはあなたに義理立てする理由がない。わたしとあなたって、お互い他人事でしょ?」
 彼女の言葉には、少なからず皮肉めいた響きがこもっている気がした。俯いて、考え込む。
 いったい彼女は何を言おうとしているのだろう?
「でも、かわいそうだから、仕方なく教えてあげる。二度目だけど、あれはあなた」
172:
「僕?」
「そう。あなた」
「……それはおかしい。僕はここにいる」
「そう。あなたはここにいる。あそこにもいる」
「同じ人物が、二人いる、なんてことは、有り得ない」
「でも実際、起こっている」
 彼女は断言した。
「ねえ、はっきり言うけど、いま現に起こっている異常に対して、「ありえない」なんて言葉はなんの意味もないよ」
 その通りだ。僕は現にあの姿を目撃している。
 ありえないなんて言葉に、何の意味もない。あれを幻覚だとか言いだすなら、話は別だが。
「悪い夢でも見てるのか?」
「残念ながら」
 と彼女はくすくす笑いながら言う。
「ここに転がっているのは、現実だよ。どこまでも無様で悪趣味な、現実だよ」
173:

「とりあえず、服を着替えた方がいいと思う」
 彼女にそう言われて、僕は自分の服がびしょ濡れのままだったことに気付く。
「って言ったって、替えの服なんて持ってないよね」
「身一つで来たからね」
「仕方ないから、買ってあげましょう」
 彼女はそう言って、ふたたび窓辺から中庭を見下ろした。僕は窓に近付くのがなんだか恐ろしかったので、身動きを取らずにいる。 
 やがて彼女は、どこかに視線を固めた。穏やかな目で、何かを見下ろしている。その視線の先に何があるのかは、僕には分からない。
 それはとても悲しいことなのだろうと思った。だって彼女は泣き出しそうな顔をしていたのだ。
 やがて、彼女はあっさりと窓辺から体を引きはがし、僕の方に向き直った。
「行こう。まずは、服屋にいかないとね」
174:
 一応財布自体は持っていないわけではなかったが、さっきまでの出来事のせいで中身もずぶ濡れだった。
 仕方なく彼女に金を借りて(店に入れないのでついでに買ってきてもらい)、服を手に入れる。
 
 付近にあった公園の物陰で着替えた。タオルで体を軽く拭い、シャツとジーンズを取り換える。
 安物だったが、他人の金で買ってもらったものだし、濡れ鼠でいるよりはましなので文句は言えない。
 僕は濡れた髪をタオルで拭きながら彼女に訊ねた。
「何度も聞くようだけど、これはいったいどうなっているんだ?」
「どうなっているのか、というのは教えづらいし、なぜ、と訊かれても答えられない」
 ベンチに座ったまま、彼女は自販機で買ったアップルジュースに口をつけた。
「何が起こっているか、というところだけ教えてあげる。ここはあなたにとってのパラレルワールドなの」
「パラレルワールド?」
「そう、パラレルワールド。さっき見たのが誰だったか、分かった?」
175:
「……ちょっと待ってくれ」
「なにかご不明な点でも?」
 彼女はおどけて言う。僕は呆れながら考え込んだ。パラレルワールド。
「常軌を逸してる」
「それも、起こってしまったことには無効な言葉だと思う」
 彼女は、どこまでも正しい。
「納得がいかないなら、悪い夢でも見てるってことにすればいい。でも、そのうち気付くはずよ。夢でも現実でも変わりはないって」
「どういう意味?」
「いずれにせよ、あなたは見せられてしまう、という話。だよ」
176:
 彼女の言う通り、夢か現実かという判断はひとまず脇においておくべきなのだろう。
 それよりも、いくつかおかしな点がある。
 彼女は僕の顔を見てくすりと笑った。
「さっきまで、死んでるみたいな顔してるのに」
「……」
「外に出てみると、やっぱり変わっちゃうものでしょ?」
 僕はその言葉を無視した。
「それより、この街のことだけど……」
「何か、不思議?」
「パラレルワールド、って、そういうこと?」
「……ひとつでは、あるよ」
177:
 彼女は否定しない。僕はなんとなく理解し始めた。
 この街は、僕が以前、一年前まで家族と一緒に暮らしていた町だ。
 ある事情から、僕はこの街――父母と離れ、親戚の家で暮らすことになった。
 つまり現在の僕は、この街では暮らしていない。
「今日は何月何日?」
「八月、三日」
「……」
 
 年号を聞こうと思って、やめた。それはバカらしいことに思えた。気になるなら後で調べてみればいい。 
 コンビニにでも入って、新聞を確認すればいいだけだ。
 僕は溜め息をついて、それから少しだけ考えた。
「パラレルワールドって言ったよね。いったい、これはどういう変化なんだ?」
「どちらかといえば――」
 と彼女は笑顔をかき消した。
「あなたの世界の方が、いちばん、驚きに満ちてるけどね、わたしに言わせれば」
178:
 なんとなく、怖気がした。
 そうだ。たしかに、パラレルワールドというならば、“あれ”は起こったのだろうか? この世界でも。
 
「さっき、見なかった?」
「……なにを?」
「見なかったなら、いいよ」
 僕は嫌な予感がした。この世界に紛れ込んでしまったことは、僕にとって致命的なことではないのだろうか。
 僕自身が抱いていた不安や、疑問。それを完全に肯定する結果になりはしないか?
 そうだとしたら、もしも本当にそうだとしたら、僕はいったい、どうすればいいのだろう。
“――ねえ”
 並行世界なんてものがあるとすれば、もしかしたらこの世界で“あれ”は起こらずに。
 つまり“あれ”は回避できる出来事で。
“――わたしが悪いの?”
 要するに僕は、どこかで間違った選択をしてしまったのだろうか。
 彼女は――でも――。
179:
「さて、と」
 考え事に耽っていると、彼女はアップルジュースの空きボトルをくずかごに捨てて立ち上がった。
「わたし、これから会わなきゃいけない人がいるから、行くね」
「……ちょっと待って。それは困る」
「残念だけど、ね。わたし、あなたと話してると、すごく、胃のあたりがむかむかするの」
「……」
「もう、行くね」
 彼女はそう言い残して、本当に去ってしまった。最後に僕に男物の財布を手渡して。
 取り残された僕はしばらく呆然と立ち尽くしていた。行くあてはなかったし頼る人もいなかった。
 
 この世界で僕は、当たり前でまともな話なのだけれど、どうしようもなくひとりぼっちだったのだ。
185:
◆四
 僕は公園のベンチに座って何かを考えようとしてみた。
 何か考えなければならないはずなのだが、何を考えればいいのか分からない。
 それは僕にとって大事なこと、致命的なことだったはずなのだ。
 でもなにひとつ思い出せなかった。とっかかりひとつ思い出せなかった。
 僕の頭にはただ、あの自分自身の表情だけが残っている。どんな感情をたたえているかもさだかではないあの表情が。
 どうしてこんなことになったのだっけ? と考えかけて、ふと思い出す。 
 僕は――こういったことが起こるのを望んでいたはずなのだ。なぜ?
 それは自分でもわからないけれど、きっと僕は、なにかの変化を切望していたのだろう。
 どういう形であれ、それは叶えられたと言っていいのだろう。
 でも、これからどうすればいいのだろう? 訳の分からない空間に放り出されて、僕はいったい何をどうすればいいのだ。
"あなたの世界の方が、いちばん、驚きに満ちてるけどね、わたしに言わせれば"
 ……。
186:
 とにかく、座っていても仕方ない。きっとあの女も、すぐには戻ってこないだろう。 
 待ち合わせをしているわけでもないが、頼りにできるのは彼女しかいないのだ。
 少し時間をやり過ごして、またここに戻ってくればいい。そうすればまた会えるかもしれない。
 会えなかったら……。
 僕は手渡された財布の中身を確認する。財布の中には何枚かの紙幣と結構な数の硬貨が入っていた。
 一万円札は三枚、五千円札が一枚、千円札が三枚。硬貨は細かいものがあまりなく、五百円玉が三枚と百円玉が八枚。 
 
 それよりも僕を怖がらせたのは、無造作に放り込まれたカード類だった。
 どこかのコンビニのポイントカードに保険証、病院の診察券。どれもすべて財布に突っ込まれている。
 彼女が準備したものというよりは、実在する男の持ち物を引っ張ってきたみたいに見えた。
 カード類には名前の記述があった。そこには僕の名前が書かれていた。
「……」
 
 彼女は何者なのだろう。
 ようやく頭が疑問を走らせ始めた。
187:
 あの女。唐突に僕の部屋に現れ、この場所へと僕を誘った女。
 たった一度気を失った間に、遠い街に僕を連れだした女。
 パラレルワールド。自分にうり二つの人間がいるか、白昼夢でも見たかということにしないかぎり、僕は彼女の言葉を信じざるを得ない。
 でも、疑えなかった。
 それでも僕は便宜的に、彼女の言葉を疑ってみることにした。
 僕は公園を出て、コンビニを探した。さいわいそれはすぐに見つかる。
 まず、新聞の日付を確認する。間違いなく、本来の日付と同じものだ。 
 正確に言えば、彼女が僕の部屋に来てから半日以上の時間が経っていることになる。
 彼女が来たのは夜中の一時半。今はもう昼過ぎなのだから。
 次に、新聞の記事を確認する。僕は自分が知らない大きなニュースがないかを知ろうとしたが、大差はなかった。
 もともとニュースなんて確認しないタチなので、もしあったとしてもたいした情報にはならなかっただろう。
 ついでに毎週立ち読みしていた漫画雑誌を読んでみる。内容は僕が知っているものの続きだった。
 僕がこの街にいるかいないかは、世界にたいしてあまり大きな影響を与えないらしい。当たり前の話だが。
 僕はジュースとパンを買って小銭を崩し、軒先の公衆電話で自宅の番号にかけた。
 電話には知らない女が出た。知らない苗字を名乗った。僕は間違い電話だと謝って電話を切る。
 
 さて、と僕は思う。
 確信できる根拠もないが、否定できる材料もなかった。
188:

 
 僕はとりあえず自分が昔住んでいた家を目指すことにした。
 ひょっとすれば僕が見たあの人物は、僕にうり二つな誰かという可能性がないわけではない。
 とにかく情報が少しでも多く欲しかった。
 しばらく通っていない道を通ると、奇妙な感慨が僕の胸に去来した。
 これは郷愁のようなものだろうか? でも、僕は別にこの街が好きだったわけじゃない。 
 むしろ、嫌いだった。
 何もなくて、ろくな奴がいなくて、自分はずっとここにいるしかないのだと考えるたびに絶望的な気持ちになった。
 
 でもそれは僕だって同じなのだ。僕だって誰かの「何か」になれたわけではないし、ろくな奴でもなかった。
 そういう話なのだ。
 家は相変わらずそこに立っていた。数年前に建てられた一軒家。
 僕はうんざりしたような気持ちでそれを眺める。たいした感慨はなかった。
 あるのはただ呆れたような心地だけだった。結局なにひとつ変わってなんかいないんだ。
 僕はインターホンを押そうと思ったけれど、やめた。仮に「僕」と鉢合わせしたらまずい。
 そう考えかけて、何がまずいのか具体的に言えない自分を発見したが、結局やめておく。
 表札には僕のものと同じ苗字が示されていた。それだけでは何の証明にもならない。
 でも、僕の世界なら、表札は外されているはずなのだ。
 溜め息をついたタイミングで、肩を叩かれた。
189:
◆五
 慌てて振り返ると、見知った顔があった。
「よう。何してんだ?」
 と、僕の反応に面食らった表情を見せながら言ったのは、昔からの友人だった。
 近所に住んでいて、子供のときから付き合いがあった。僕は一瞬安堵しかかったが、まずい、と思い直す。
「いや……」
 と僕は言う。どうにかして、この世界が僕の世界と違うものなのかどうかを確認する方法はないだろうか。
 彼に何かを訊ねて。そう考えかけて、強い納得のような感情が胸の内側でくすぶった。
「でも、ちょうどよかった。ほら」
 
 彼は当たり前のように、手にもったビニール袋を僕に手渡す。 
「これ、お袋から。おばさんに渡しといてくれよ」
 じゃあな、と彼は背を向ける。
 袋の中身は何かの食べ物のようだった。
 ごく当たり前のように、彼は僕がここにいることに何の疑問も抱かなかった。
 彼は、僕がここにいることに何の驚きも抱かない。
 僕はこの家にいて当たり前の人間なのだ。
 
“僕”はこの家に住んでいる。
192:
◆五
 僕は彼女と別れた公園に戻った。
 とにかく今は彼女と会わなければならない。そしてこの不可解な状況の法則を確認しなければならないのだ。
 今僕に振りかかっているのはいったいどのような出来事なのか。それをたしかめなければ話が進まない。
 でなければ、僕はこんな場所に理由もなく放り出されていることになる。
 彼女の目的はなんなのか。彼女は何のつもりで僕をここに連れてきたのか。
 僕には圧倒的に情報が不足していた。僕をここに連れてきた以上、彼女には何かの目的があるはずなのだ。
 
「お願いがある」と彼女は言った。僕にさせたいことがあるのだ。
 公園のベンチに座って、僕はみじろぎもせずに彼女が来るのを待った。
 手持無沙汰で、何度もポケットの中の携帯を開こうとしたが、画面は真っ暗なままだった。
 僕の身に何かが起こっていて、彼女は僕に何かをさせたくて僕はおそらく何か奇妙なものを目撃することになる。
 そこまでは分かるのだ。でも、僕がここにいることで達成される目的とはなんなのだろう?
 僕という人間、僕という駒がなり得る布石とはなんなのだろう。
193:
 まったく心当たりはなかった。僕は頭を掻いて考え込む。
 最大の問題は、僕自身のことだ。
 僕は望んで彼女についてきた。そしてここで彼女に放り出され、それをただ待っている。
 でも、僕は何を望んでいるのだろう? 一方的に連れ出されたわけではないし、自分からついてきたわけでもない。
 ただ誘われて、それに乗った。それだけだ。僕の目的はいったいなんなのだろう。
 そこが、まず分からなかった。僕には目的意識というものが欠けている。
 ごく常識的に考えるなら、僕は帰りたいはずだ。いくらなんでもこんな世界に運び込まれるのは想像していなかった、と。
 でも、帰りたいというほどではない。というよりは、帰りたくなんてなかった。
 じゃあこの世界にいたいのか、というとそうではない。ここは居心地の悪い空間だ。
 
 僕の目的はなんなのか? 最大の問題は、たぶんそこだ。
 いずれにせよ、今は彼女にもう一度会って、そして話を聞きたい。文句のひとつでも言ってやるのもいいだろう。
 
 でも、心の底からそうしたいと望んでいるわけではない。本当のところ彼女のことなんてどうでもよかった。
 僕が今考えていることと言えば、今晩の寝床がないのは困るな、とか、せいぜいそんなところだ。
 彼女のたくらみも、他のことも、ほとんどどうでもよかった。
 なぜだろう?
194:

 
 僕が公園でじっとしている間にも太陽は動いていたし、時計の針は回っていた。
 気付けば時刻は夕方を過ぎていて、僕は自分が何もしていないことに愕然とした。
 それどころか、何か少しのことだって考えた記憶がない。僕は何もしていなかった。ただぼんやり座っていた。
 
 何もせず、ただぼんやりと――。
 ――頭の中で、ずきりと何かが軋んだ気がした。
 その痛みはごく単純に僕の内側を捩じっていった。何故だか涙が出そうになる。
 
 自然と荒くなりかけた呼吸を、僕は努めて静まらせる。 
 何の問題もない。僕には何の責任もない。
 僕は自分のことだけを考えて生活していた。そこには何の非もない。
 ただ、自分のためだけに生きていければそれでよかったのだ。その結果が今であろうと、そこには何の失策もない。
 いまだって、そうなのだ。
195:
「疲れてる?」
 夕焼けがかすみ始めた頃、彼女の声が聞こえた。
「……少しね」
 本当のことを言うと、少しどころではなかったけれど、まぁ同じことだ。
 僕は疲れていて、混乱している。
 俯けていた顔をあげると、やはり彼女がいた。別れたのはついさっきだったという気さえする。
 彼女の後ろに、見慣れない少年の姿があった。
「……誰、この人?」
 と少年は言った。同い年くらいに見える。知っている顔ではない。相手もどうやら、僕を知らないらしい。
「秘密」
 と彼女は答えた。単純な仲間というわけではないらしい。けれど僕に会わせるということは、彼女の目的に関係のある人物なのだろう。
196:
「いろいろ、言いたいこともあるだろうから、とにかく、順を追って説明しようと思って」
 無論、言いたいことは山ほどあったけれど、そんなことよりゆっくり眠りたい気分だったので、僕はそのことを彼女に伝えることにした。
 疲れたからゆっくりできる場所に行きたい。僕が言うと、彼女は静かに頷いた。
 分かった、と彼女は言った。
「とにかく移動しましょうか。屋根のあるところじゃないと、たしかに落ち着かないしね」
「……どこに?」
 訊ねたのは少年だった。僕は少しだけ彼の存在を怪訝に思う。
 今まで限りなく調和のとれていた空間に、ぽつんと入り込んだ異分子。
 そういった要素を、彼から感じた。
 僕たちは国道沿いを移動して、近場のファミレスに入ることにした。
 とりあえずの腹ごなしと相談事を兼ねていたので妥当と言えば妥当だったが、僕には今晩の寝床の方が気になって仕方なかった。
 彼女にそのあたりのことを訊ねても、
「まぁ、なんとかなるよ」
 と楽観的なことを言うだけだった。どうも寝床に関しては、彼女にも心当たりはないらしい。
 少し不安に思ったが、とりあえずは気にしないことにした。
 
197:
 彼女は腹を空かせていたらしく、店に入ってすぐに食事を注文した。僕も腹は空いていたが、食べる気にはなれなかった。
 それは少年の方も同様らしい。彼には不可解な雰囲気があった。
 
「まずは、いくつかの説明、ね。その前に――」
 と、彼女は少年の方を見た。
「ねえ、ケイくん」
 それはおそらく、彼の名前だったのだろう。不愉快そうに眉を寄せると、少年は「なに?」と訊きかえした。
「少し頼まれごとをしてくれない?」
「頼まれごと?」
「ちょっとした買い物。待ってて、今メモするから」
 彼女はそういうと、本当にポケットからメモ帳を取り出して、ボールペンでメモを始めた。
 ぶつぶつと独り言をつぶやいている。懐中電灯、飲料と食料、タオル、消臭スプレー。言葉に出しながら書き足していく。
198:
「はい。お願い」
「……これ、なに?」
「近くにドラッグストアがあるから。だいたいのものはそこで揃うよ。そこになければ、もうちょっと歩いた先にデパートがあって」
「そういうことを訊いてるんじゃなくてさ」
「お願い」
 と彼女は笑った。ケイは面食らったような顔をしたが、しぶしぶと言う顔で頷いた。
「あとでちゃんと説明してもらうからな」
「うん。分かってる」
 二人のあいだには、何かの信頼関係のようなものが見えた。僕にはそれが奇妙なものに思えた。
 なんというのだろうか。決してごく単純な友人同士には見えない。
 何か、お互いに距離を作っているように見える。にも関わらず、強く信頼し合っているように見えた。
 きっとそれは気のせいなのだろう。漠然と思う。そうでなければ――こんな事態は成立しない気がした。漠然と。
199:
 ケイが席を立ってすぐに、外ではぽつぽつと雨が降り始めた。
「薬局、すぐそこだから、そこに傘売ってると思うんだけど……」
 それでも少し心配そうな顔をしていたが、やがて頭を切り替えたように表情を一変させ、彼女は溜め息をついた。
「どこから説明すればいいかな」
「……」
「どこから訊きたい?」
 僕はその問いに相応しい答えを持ち合わせていない。何が分からないのかすら、僕自身分かっていないのだ。
 ただ、ひとつだけ、気になることがあった。
200:
「……この世界の"僕"は、この街に住んでるよね」
「うん。そうだよ」
「それは、どうして?」
「分かってることを確認しなきゃ気が済まない性格、おんなじだね」
 誰と、とは訊きかえさなかった。
「簡単でしょ? 理由がないからだよ」
 僕がこの街を出ることになった理由。
 ――それがない。
「つまり、この世界では……」
「そう。そういうこと」
 彼女は死んでいない、ということだ。
204:
◆六
「ところで、ひとつ聞いてもいい?」
 彼女はそれまでの空気を吹き飛ばそうとするみたいに笑った。
「ずっと気になってたんだけど、その荷物、なに?」
 言われて、僕は家の前で受け取った荷物をそのまま持ってきてしまったことに気付いた。
「タクトからもらった奴だ」
「タクト?」
「昔、知り合いだった」
「ふうん。ひょっとして、大柄の人? よく吠える大きな黒い犬を飼ってる?」
「そう。いや、ここでも飼ってるのかどうかは分からないけど」
 と頷いてから、僕は眉をひそめた。
205:
「知ってるの?」
「あんまり。犬もその人も、怖かったし」
「そうなんだ」
 ……いや、そうなんだ、ではないだろう。
 僕はいいかげん、そこを気にするべきなのかもしれない。
「君はいったい誰なんだ?」
「だから、秘密」
 答えは予想通りだったけれど、今度ばかりは質問をひるがえす気にはなれなかった。
 
「じゃあ、どうして僕のことを呼んだんだ?」
「言わなかったっけ?」
「漠然とした話は聞いた。今訊きたいのは具体的なことだ」
「うーん」
 彼女は愛想笑いで首をかしげた。
206:
「ごく簡単に言うとね、わたしはある一人の女の子の未来を守りに来たわけ」
「……女の子?」
「そう」
 その女の子というのが誰のことなのかも気になったが、それよりも気にかかったのは、
"守りに来た"
 という部分だった。 
 来た、ということは、ここではないどこかから来たのだろう。
 つまり彼女はあくまでもここではない外側からやってきた人物であって、「内側」ではない。
 ひょっとすれば、僕と同じような具合なのかもしれないが。
「未来を守る、ってどういう意味?」
「そのままの意味」
「まるで、君がどうにかしないとその子の未来が失われてしまうような言い方だ」
「その認識であってるよ」
「……いったいどんな理屈で、君はその子の未来を知っているんだ?」
「――――」
207:
 彼女の表情が凍るのが分かった。
 僕はなんとなく空恐ろしい気持ちになる。これは触れていい話題だったのか?
 地雷ならいいが、逆鱗なら目も当てられない。
 僕が今の状況に何らかの展開を望む場合、彼女の存在は不可欠なのだ。
 彼女は取り繕うような笑みを浮かべて、肩先まで伸びた自分の髪を軽く撫でてから目を逸らした。
「秘密」
 と一言いうと、そこで口を閉ざす。そのことについてこれ以上話す気はない、ということだろう。
「ねえ、それより、気にならないの?」
「なにが?」
「生きているあの子のこと」
「……別に」
 たしかに驚きではあったけれど、意外ではなかった。
 なんとなくだがそうではないかという気はしていたし、第一、そうでなければ理屈が合わない。
 ひどいものを見ることになるかもしれない、と目の前の女は言った。
 僕にとってのひどいもの――要するに、僕の現実よりマシな世界、のことだろう。
 
 僕の現実。さまざまな意味で混乱し破綻した場所。
"手遅れ"の世界。
208:
「もうひとつ、訊きたいことがあるんだけど」
「なに?」
「君は僕をパラレルワールドに連れてきたわけだけど、どうしてこんなことができるんだ?」
 その質問に彼女は、そんなことは考えたこともなかったというように目を丸くした。
 
「……現にできてるんだし、あんまり関係ないよね? わたしもよく知らない。気付いたらできただけ」
 僕は納得できなかったけれど、その話題があまり有益ではなさそうだと気付いて口を閉ざした。
 重要なのは「あの子」が生きていることじゃない。ここが別の世界だということでもない。
 僕の世界に比べてこの世界がどうだという話でもない。
 問題なのは、僕がここに迷い込んでしまったということ。そして僕がどうしたいのか、という問題だ。
 それを考えようとすると頭が痛くなるのを感じる。元の世界に戻りたいのか、というとそうではない。
 だって僕にとっては、どうだっていいような世界なのだ。何もかも手遅れだし、破綻している。
 そうでなくたってどうでもいいような場所だった。両親や部屋を貸してくれている親戚夫婦には悪いけど、たいして愛着もない。
 
 じゃあここに残りたいのか? というと、別にそうしたいわけではないが、それはそれでかまわないという気もする。
 現実問題、生きていくのが困難そうなので嫌だという気もするが、いざとなれば死んでしまえば済むことだ。
209:
 彼女は不意に口を開いた。
「……わたしがあなたをここに連れてきた理由だけどね」
 唐突に始まった話に面食らう。知りたくないわけではなかったけれど、意外さもあった。 
 どうしてこのタイミングで、話したりするんだろう。
「必要だったからだよ、あなたみたいな要素が。つまりね、あなたみたいに怠惰なあなたが」
「……どういう意味?」
「端的に言うとね、わたしが守りたい女の子っていうのは、あなたの世界じゃ死んじゃったあの子のことなの」
 僕は水の入ったグラスに口をつけた。あまり聞きたくないことが言われようとしている。
「つまり、あなたの姪のことね」
210:
 グラスをテーブルに置く。窓の外の夕焼けは静かに薄紫へと変わり始めていた。
「怠惰なあなたを、この世界のあなたに見せるの。自分のことしか考えずに、ただぼんやりと過ごしたあなたをね」
 僕は黙って彼女の話に耳を傾けていた。心臓がわずかに音をあげた。深く息を吐く。
 何もかも澱みきっている。うんざりした気分だった。
「そうして怠惰だったあなたが招いた結果をこの世界に彼に見せる。そして、彼自身が決して無力ではないことを教えてあげたいの」
「……つまり、僕のせいで彼女は死んだ、と言いたいのかな?」
「別に。ただ、この世界のあなたに、"あなたが彼女のことを考えたから、彼女はこっちでは死んでない"と言いたいだけ」
「おんなじことじゃない? 僕が彼女のことを考えずにいたから、彼女は死んだって意味だろう?」
「違う。たしかに似ているように聞こえるかもしれないけど、少なくともあなたのせいで死んだわけじゃない」
 ただ、と彼女は続ける。
「ただ、あなたが彼女のことをもう少し考えていれば、回避できるかもしれない未来だった、と言っただけ」
211:
 だから、それはおんなじことじゃないのか。
 僕は自然に唇が歪むのを感じた。自分でも嫌な笑い方をしているだろうと分かる。
 でも止まらなかった。指先が小さく震えている。怒りだろうか。悲しみだろうか。
「現にこの世界のあなたは、彼女の死を既に回避しているしね。本当に些細なことだったけど、あなたがしなかったこと」
「……」
「あなたが悪いんじゃなくて、こっちのあなたが偶然できただけよ。そんなに気にしなくていい」
「――ちょっと黙ってくれないか?」
 彼女は僕の言葉通り、本当に黙った。そんなところも気に入らなかった。
 僕はまたグラスに口をつける。何かがおかしかった。仮に僕のせいだったとしてなんなのだ?
 別に僕が彼女を直接殺したわけではないのだ。彼女の言う通り、僕のせいという話にはならない。
212:
 第一僕にだって考えなければならないことがたくさんあったのだし、他人のことまで構っていられない。
 ――そう思いかけて、「それが可能だった自分」が存在していることに気付いた。
 つくづく悪夢的だ。実例を前に出されては、言い訳すらもできない。言い訳のしようもなく、僕は怠惰だった。
「……また、彼女の未来が失われようとしている?」
「そう。でも、今度はもっと馬鹿らしい理由。彼女自身の問題。結構先のことなんだけどね。数年後ってところ」
 女は溜め息をついて、窓の外を眺めた。
「でも、たぶん、このあたりが問題なんだと思うから。具体的にいうと、八月六日の花火大会」
「……」
「あの日が、きっと問題なのよ。……でも、誰かが悪いわけじゃない」
 彼女はまだ何かを言っていたけれど、僕の耳は上手く情報を掴み取ってくれなかった。
 なんだか何もかもが澱んでいる。ファミレスは薄暗いし、外は翳っている。
 僕は溜め息をついて席にもたれかかり、瞼を閉じた。
 そして、強く意識して、三回深呼吸をした。目を開けても視界は澱んだままだった。
 少しして、ケイが冗談みたいな大荷物を抱えて戻ってきた。僕たちは会計を済ませて店を出る。
 
「さて、行きましょうか」
 彼女は笑った。僕はどうしたって笑う気にはなれなかった。
 外に出ると、雨脚が強まっていた。
213:

 寝床は、町はずれの小さな無人駅の駅舎だった。
 ひどく狭かったし、夏場なので虫が多かった。寝床と言いつつも、「眠る」というよりは「雨風をしのぐ」と言う方が近いだろう。
 雨が強くなってきたので、屋根があるのはありがたかったが、人目は気になった。
 僕の不安はむしろ強まったけれど、仮にこの世界で人を殺したところで僕自身の問題にはならない。
 この世界に存在しない人間。
 つまりはそういう話だ。
 床の隅には蛾の死骸が落ちていた。ベンチの上はひどく汚れていて、床の上と大差ない。
 女はケイに買ってこさせたタオルでベンチの上を軽く拭い、その上に長いタオルを敷いた。
「今晩の寝床」
 と女が言うと、ケイが顔をしかめた。
 彼が買ってきたもののなかに、あれば助かるようなものは大概が揃っていた。
 たしかにこれだけの物資がそろっていれば、屋根さえあればどこでも眠れはするだろう。
214:
 だが、仮に寝床がここではなく、そこそこまともなホテルのまともな部屋だったとしても、僕はまともに眠れなかっただろう。
「明日は、早起きしようか」
 女が言った。まるで旅行にでも来ているみたいな言い方だ。
 僕はうんざりした。ベンチに腰を下ろして背をもたれたまま、眠る気がしない。
 二人組は疲れていたのか、場所の悪さも気にせずに早々に眠ってしまった。
 神経が図太いのかもしれない。僕にはよく分からなくなった。
 彼女のことをぼんやりと考える。たいして仲が良かったわけではない。話すこともそう多くはなかった。
 疎ましく感じたこともあるけれど、決して嫌いではなかった。
 相手の機嫌をうかがうような態度にいら立ったこともあったけど、死ねばいいと思ったことはない。
 でも死んだ。そしてきっと、それは僕の行動によっては回避できる結果だったのだ。
 今なら少しだけ泣けそうな気がしたけれど、別に泣きたいとは思わなかった。
 よく分からなかった。涙を流すとしたら、僕は誰のために流すべきなのだろう。
 何もかもが暗く澱んでいた。雨の音だけがはっきりとしていた。
220:

◇十
 目を覚ますと泣いていた。眠る前に入れていたコーヒーはすっかり冷めている。
 読んでいた本は栞も挟まれずに畳まれていた。僕は自分の部屋にいた。たしかに自分の部屋だった。
 眠る前と同じだ。
 
 僕は椅子に座りなおして、自分が誰のために涙を流しているのかについて考えた。
 そして、誰かのために涙を流すということについて考えようとした。それはとても身勝手なことに思えた。
 
 溜め息をついて、それからうんざりした気持ちで瞼を閉じた。
 夢の輪郭は既に曖昧になっていた。僕はもう一度溜め息をついた。五秒ごとにでも溜め息をしそうな勢いだ。
 何かが胸のつかえになっていた。そうだ。姪がいなくなったのだ。僕にとって重要なのはそこだった。
 目が覚めてからずっと頭が痛かった。
 僕は額を押さえながら、僕が僕であると言うことについて考えた。そのことはとても奇跡的なことに思えたし、呪いめいても思えた。
 いずれにせよ僕は目が覚める前と同じように僕でしかなかったし、そうである以上は僕であり続けるしかない。
 
 そこまで考えてから、自分がどうしてこんなことを考えているのかが分からなくなってしまった。
221:
 時間は深夜三時だった。僕は部屋を出て、真っ暗な廊下を歩く。
 部屋の扉は当たり前のように家の廊下に続いている。正常なつながりが保たれている。
 
 僕の時間は僕の時間にたしかに繋がっている。
 でも、なぜだ? そこには何かが欠けている気がする。
 僕は僕でしかない。でも僕が僕であるという当然の認識の隙間に、何かが挟み込まれている。
 分かることはひとつだけ。姪がこの家からいなくなってしまったことだけは、間違いようのない現実だ。
 
 頭がぼんやりとしていたので、すぐに部屋に戻ることにした。
 体が重くて、怠い。気分が悪かった。
 
 瞼を閉じると睡魔が襲ってくる。
 電話で聞いた魔女の声を、ふと思い出した。
 彼女は僕に向かって何かを言った。でも、何を言ったんだろう。思い出せない。
 僕はあまりにも無傷だった。
222:

◆七
 目を覚ますと雨は止んでいた。彼女とケイの二人は既に起きていて、窓の外の暗い空をじっと眺めている。
 時計の針は四時半を差していた。僕たちは荷物をまとめて駅舎を出た。
 彼女はうんざりした顔で澄んだ空を見ていた。八月四日の空には雲一つなかったが、暗幕のように澱んでいた。
 
 太陽だけが強い光を放っている。それ以外のものは、ただ澱んだ空気の下にいた。
 眠る前にどんなことを考えていたのか、僕は忘れてしまった。 
 
 僕はあくびをひとつしてから、街の光景をじっと見つめた。
 静まり返った朝の街は、昼間とは違い人の気配がまったくしなかった。
 街がまだ眠っている。そういう中でしか僕は上手に世界に溶け込めない。
 僕はどこまでも異分子だからだ。
223:
「まだ寝ててよかったのに」
 と彼女は言う。僕はうんざりした。あんな場所にこれ以上寝ていられるものだろうか。
「どうせどこにも行けないんだから」
「…………」
 四時半。僕がそうであるように、彼女とケイもこの世界に溶け込める人間ではないらしい。
 居場所がない。入れるのは何かの店くらいだが、こんな時間では休める場所などありはしない。
 雨が降れば雨宿りの場所に困るし、夜になれば寝る場所に困る。
 
 ひどく絶望的な感情に囚われた。
「どこにも居場所なんてないんだ」
 
 僕はそう呟いた。呟いたところで何かが変わるわけではなかったけれど、ただなんとなく呟いた。
 なんだかいろんなことが面倒に感じ始めた。いつからこんなことになっていたんだろう。
224:
「ねえ」
 と彼女は僕の顔を見た。
「わたしはあなたのことを利用しているけど、でもね、あなたの不幸を願ってるわけじゃないんだよ」
「何の話?」
「わたしにだって説明できないけど、できないけど、巻き込んで悪いなって気持ちも、少しはあるの」
 彼女の表情は僕にはよくわからない。僕にはよくわからないことばかりだ。
 なんだかヤケになったような気持ちで空を見上げる。
 雨が降ればいいのだ。
「あなたを見ることで、こっちの世界のあなたは、何かを得ることができるかもしれない」
 でもね、と彼女は続ける。
「反対にあなただって、何かを得ることができるかもしれないと思う。そうであってほしいと思う」
「……得る?」
 何かを得る、ということについて、僕は考えてみることにした。
 得て、どうなるのだ? どうせ彼女は死んでいるのだ。
 今更何がどうなるというんだろう。
225:
「手遅れだよ。僕はもう終わってしまっている人間だし、僕の世界はもう終わってるんだ。ここにきてそれがはっきりした」
「本当に?」
 彼女は真剣な声で言った。
「本当に、手遅れなの?」
「どういう意味?」
「あなたは本当に終わってしまっているの?」
 僕は何も答えなかった。
226:

 僕たちは駅から移動を始めた。どこに向かっているのかは僕には分からなかった。
 大きな旅行バッグをかかえたケイが、彼女の少し後ろを歩いている。
 その更に後ろを、僕が追いかけていた。
 どうして僕はこんなところにいるんだろう。誰も僕のことなんて必要としていないのに。
 僕なんかいなくても、彼女の目的はきっと達成できるはずなのだ。
 しばらく歩くと、蒸気のような雨が降り出した。
 さらさらとした細かな砂のような雨粒が、僕たちの肌を濡らした。
 
「あ」
 と彼女が声をあげた。
「なに?」
「お風呂入りたい」
「……」
 ケイは溜め息をついた。
227:
 駅から三十分ほど歩いた。歩くというのは体力を消耗する。
 朝の街は昼間に比べれば涼しかったが、湿気が多くあまり気分はよくない。
 たどり着いた先はパチンコ屋の裏にある銭湯だった。
 入口の券売機で入場券を買ってカウンターに出す。ごく単純なシステム。
 店に入るとすぐにチープなUFOキャッチャーがいくつか並んでいる。 
 
 早い時間だが、割と混み合っている。銭湯なんてそんなものだろう。
 
「じゃあ、後で」
 そう言って、彼女は簡単に女湯ののれんをくぐった。
 
「用意周到だな」
 ケイがぼそりと呟いたので何かと思って訊ねると、どうもこうした場所で使うだろうものも買わせていたらしい。
 当たり前と言えば当たり前の話かもしれない。トラベルセットなんて、このご時世ならコンビニでも扱っているのだから。
 ケイの旅行鞄はなんとかロッカーに収まった。
 それだけでロッカーをひとつ占領してしまったために、彼はロッカーを二つ使わねばならなかった。
 本来なら避けるべきなのかもしれないが、やむを得ない場合もある。
228:
 湯気に包まれた浴場に足を踏み入れてから、そういえば銭湯なんて何年も来ていないな、と考えた。
 朝方の銭湯には独特の空気があって、一日の始まりの前の前を感じさせる。
 実際にはいろんな人がこの場所には来ていて、ひょっとしたら一日の終わりにここにきている人もいるのかもしれない。
 でも、僕は少なくともそんな印象を抱くのだ。
「さっき、あいつが言っていたことだけど」
 とケイは僕に向かって言った。僕らは仕切りの壁をひとつ挟んで体を洗っていた。
「気にしない方がいい」
「さっきのって」
「あの、抽象的な話だよ。彼女はああいう意味ありげな言い方をすることが多いんだ」
 ケイは吐き捨てるように言った。
「あいつのことは嫌いじゃないけど、あいつの話はバカらしいと思う。現実に即してないんだ」
「……そう?」
「僕はね。そう思う」
 僕は、と彼は言う。そういえば、彼と二人で話すのは初めてだという気がした。
229:
「君は彼女の何なんだ?」
「さあ」
 と彼は僕の問いに首をかしげる。
「分からない。友達、だと思う。それ以上じゃない。でも、僕にとっては唯一の友だちでもある」
「へえ」
 
 友達。
「君はなぜ彼女と一緒にいるの?」
「脅されてるんだ」
 予想外の答えに、少し驚く。
「友達なのに?」
「友達なのに、ね」
 彼は疲れたように溜め息をついた。
230:
「本当なら僕はこんなところにいるべきじゃないんだと思う。だって僕は無関係な人間なんだ。あなた以上に」
「じゃあ、どうしてこんなところに?」
「知らない。何のつもりなのか分からない。今のところ、荷物持ちとしてって以上ではなさそうだけど」
「それは……」
 なんとも言い難い話だ。
「たぶんあいつなりに、僕を呼んだ意味って言うのもあるんだろう。人手って意味以上でね。でも僕には関係のない話だ」
 冷淡にそう言い切ると、ケイは立ち上がって湯船に向かった。
 僕は彼女の言葉について考える。
 何かを得る。
 何か?
 
 考え事をしながら銭湯につかっていると、いろんなことが馬鹿らしく思えてきた。
 十分に体を温めてから浴場を出て服を着る。入口の広間に行くが、二人ともまだあがっていないようだった。
 銭湯の内部に入っていた食堂はまだ営業を始めていないようだった。同様にゲームの大半も灯りがついてない。
 僕は自販機でスポーツドリンクを買って飲んだ。時間の流れがひどく遅く感じた。
231:
 でもそれは仕方ないことなのだ。時間は誰の身にもおおよそ平等に流れる。
 それを変えるのは困難だし、現実的に考えて奇跡めいている。
 現実の人間は、どこかのディストピア小説のようにはいかない。
 レバーを押したり引いたりするだけで、物見遊山気分で人類の末裔を見に行ったりできないのだ。
 あの小説の作者は社会主義に傾倒していたのだという。
 
 人類の進歩と発展は既に上昇ではないのかもしれない。そんなどうでもいいことをぼんやり考えた。
 いずれにせよ僕らが生きるのは人類が行きつく果ての未来ではなく途上の現在でしかない。
 考えなければならない現実は目の前にあるのだ。いつだって。
 僕たちは時間の流れに従って生きている。というよりは、僕たちの正常な変化の一連の流れを時間として規則立てている。
 そこには正当な手続きが必要になる。六時の次は七時だし、七時一分の次は七時二分だ。
 七時二分の次を六時五十分にするわけにはいかない。
 ちゃんと順番に従わなくてはならないのだ。今は六時。まともに活動するには、まだ早すぎる。
 時間が流れるのを待たなくてはならない。少なくとも今のところは。
234:
◆八
 時間をやり過ごして、十時を回った。
 魔女の提案で、僕たちは服屋に向かうことになった。
「……正直、汗くさいよ?」
 誰のせいだと思っているんだろう。
 僕としては特に異論もなかった。彼女の財布を頼らなければならない事実だけが癪だったが、まぁ仕方ないと言えば仕方ない。
 できることとできないことがある。今までだって散々誰かを頼って生きてきたのだ。今更どうという話でもない。
 自分の身の回りのことを自分の力だけで済まそうとするなんて馬鹿げてる。使えるものは使えばいいのだ。
 適当に見繕おうとすると、彼女が何度もダメだししてきた。どうでもよかったので言うに任せる。
 ケイが奇妙なものを見るような目で僕と彼女をじっと見ていた。
 僕はその場で服を着替え、ついでに伊達眼鏡を買った。
 たいした意味があったわけじゃなかったが、顔をさらして街を歩くのに抵抗があったのだ。
235:
 服を選び終わって、朝食兼昼食を取ることになった。
 昨日と同じファミレスならば楽だったのだが、彼女が嫌がったので少し遠い場所にあるラーメン屋にいくことになった。
 僕らは時間が流れるのと同じように歩いて移動し続けた。
 歩いている最中はずっと無言だった。 
 僕は歩きながら考え事をするはめになった。ずっと自分が終わっているのかどうかについて考え続けた。
 そして、終わっているというのはどういう状態なのかについて思考を巡らせた。
 それは間違いなく死のことだろう。
 店に入って注文を済ませる。僕たちは順調に時間を消化しつつある。
 消化しつつあるけれど、僕はここで少し不安になった。
 消化してどうするのだ? 僕には何か目的があるわけではないのだ。
 ようするに、目指すべき時間がない。やりたいことがあるわけでも行きたい場所があるわけでもない。
 時間をやり過ごしてどうしろと言うんだろう。
236:
「ね、そういえばさ」
 と、ラーメンを食べ終えて、満足そうな溜め息をついてから、魔女が笑った。
「荷物、届けないといけないんじゃない? 昨日受け取ってたやつ」
「……ああ」
 タクトから受け取ったものだろう。
「……届けようにも、僕が家に入るわけにはいかないよ」
「そこは、ほら、忍び込むとか」
 
 ……僕はこの世界で、家族がどんなふうに過ごしているのかしらない。
 けれど、姪が生きているとしたら夏休みの最中のはずだし、順当に考えれば母だって働いてはいないのだろう。
 であるなら、忍び込んだりするのは困難めいて思えた。
 
「……どっちにしろ、あなたは一度あの子に会っておくべきだと思う」
「どうして?」
「なんでかは知らない。でも、なんかそういうの、ない?」
「……」
 
237:

「……?」
 店を出て少し歩くと、魔女とケイの姿は消えていた。
 冗談みたいに綺麗に消えていた。僕は強く動揺した。人はこんなに簡単に消えたりするものだろうか。
 それがあまりに一瞬のことだったので、僕はしばらく彼らがいなくなったということに気付くことができなかった。
 僕の心は突然不安定になった。まったく未知の空間、時間に放り出されたのだ。
 僕はいったい何をどうすればいいんだろう? そのことが一瞬で分からなくなってしまった。
 ほとんどの荷物はすべてケイが持っていたし、ここではすべて魔女の言う通りに行動していた。
 すべきこともしたいことも何ひとつ思い浮かばなかった。いつも通り。
 僕が持っているのはタクトから受け取った例の荷物と、彼女から渡された財布だけ。
 僕には何もなかった。からっぽだった。器の中身はとっくになくなっていた。
 最初からなかったのかもしれない。当たり前のことだ。いつだってその場しのぎでやってきたのだ。
 なにもないのだ。気付かなかっただけで。気付かないふりをしていただけで。
 この荷物を届けよう、と僕は思った。それだけが今僕がすべきことなのだ。
 それ以外のことは何もない。あとは本当にからっぽになるだけだ。
238:
 僕はとにかく歩くことにした。そしてあの家に向かおうと思った。
 そうする以外に何も思いつくことはなかったのだ。
 途中に見つけた本屋に立ち寄って、例の小説を読みなおしてみた。
 僕はゆっくりと時間を掛けて本を読む。それを何度か繰りかえす。
 三度目以降から、読んでいる最中に僕の頭の中に不思議な感慨がつきまとうようになった。
 
 なんだ、僕には関係ないじゃないか。
 外に出ると景色はすっかり変わっていて、太陽が西の方に移動していた。
 時間を掛けて街を歩く。僕は歩いてばかりだった。
 
 うんざりしてきた。僕はどうして歩いているんだっけ。いったい誰がこんなところに僕を連れてきたのだろう。
 僕は何もしたくないのに。家に引きこもっていたい。本でも読んでいられればそれでいいのに。
 嫌気がさしていても歩くのをやめたりはしなかった。なぜだろう? 僕はこの世界で、なんの責任も負っていないのに。
 
 ポケットに手を突っ込むと携帯があった。僕は取り出してみる。相変わらず画面が真っ暗だ。
 心底嫌気が差す。誰ともつながっていない。
239:
(終わってるのかって?)
 僕は魔女の声を思い出した。
(終わってるじゃないか。言い訳のしようもなく。僕はただ歩いているだけで……立ち止まっていないだけで)
 涙は不思議とでなかった。
(目的がないんだ。誰かの「おつかい」程度しか。自分がいないんだ。からっぽなんだ)
 それとも、違うのか?
 まだ何かがあるのだろうか?
 魔女はきっと何も言わないだろう。
 愛想をつかされているのだ。
 誰も、僕を必要としていない。
 僕は、機械になりたい。
240:
 家に着く頃には三時を回っていたらしい。らしいというのは、時計を持っていなかったのであとから時間を確認したのだ。
 僕は玄関を当たり前のように開けた。
「おかえり」
 と声がした。母の声だった。懐かしい響きだったけれど、僕の憂鬱は決して晴れなかった。
 いっそ僕が違う世界から来たのだと言うことを伝えようかと思ったけれど、やめておいた。
 彼女は僕の母ではなく、この世界の僕の母親だった。この世界の姪がそうであるように。
 この世界のタクトがそうであるように。
 魔女はそのことに気付いているのだろうか?
 この世界で彼女を守れたとしても――守れなかった彼女を守れたことにはならないのだ。
 並行世界と呼ぶ以上、そのふたつは別物なのだ。
241:
「ただいま」
 と僕は自棄になったような気持ちで言った。
 母は玄関に出ないまま僕に答えた。
「風邪でも引いたの? 声が変」
 僕は笑いだしたい気持ちになった。
「なんでもない」
 言ってから、僕は荷物を玄関先に置いた。それから少し迷ったけれど、家に足を踏み入れた。
 見つかったところで適当に言い訳すれば逃げられるだろう。僕は僕と似た顔をしている。
 それはパッと見ただけでは同じに見えるかもしれないけれど、"違う"のだ。明確に違う。
 僕は彼とは違う。違う経過を生きた人間なのだから当たり前だ。
 僕は彼とは違う。
 僕は彼になれないし、彼は僕にならない。
 どうして――姪が生きていたりするんだろう?
242:
 そのことが気になってたまらなかった。どんな魔法を使えば彼女を助けられるのだろう。
 僕には最初から助ける気なんてなかったけれど。
"――ねえ"
 頭が痛む。視界が澱んでいく。
"――わたしが悪いの?"
 階段を昇って部屋に入る。部屋は僕のものと似ていた。似ていたけれど確かな違いがあった。
 机の上には写真立てがあった。家族が映っている。その中で僕と姪は中央に並んで立っていた。
 僕の手のひらは姪の頭の上に乗せられている。姪は満面の笑みでこちらを見ていた。
 僕は少し照れくさそうに笑っている。でもそれは僕じゃなかった。
 その写真の中に、姉が映っている。
 これは"いつ"撮ったものだろう。
 
 分岐はどこにあったのだろう?
 ――。
 
 何かがおかしい。
 この写真に写っていないものがある。なんだろう?
 何かが欠けている。僕はいる。姪もいる。姉もいる。母も父もいる。
 ……何が欠けているのだろう?
 背景は自宅の玄関。おそらくこの世界の僕の高校入学時に撮影したのだろう。まだ制服に着られているように見える。
243:
 写真には、姉の夫の姿がない。
「――――」
 僕は愕然とした。
 そこなのだ。そこが違うのだ。この世界で姉は離婚している。
 僕は恐ろしくなって写真立てから目を逸らした。
 それはいつのことだ? 分岐があるとするなら、もう何年も前ということになるだろう。
 そうだ。六、七年前、姉と義兄のあいだには、一度離婚話が持ち上がった。
 
「……待て。それはおかしい」
 こらえきれずにあげた声は、少し震えていた。
 あのとき、母はとても悩んでいた。僕を夜中に車で連れ出して、車内で姉と姪について相談してきた。
 僕は姪のこともどうでもよかった。ただ、姪の夜泣きや姉夫婦の喧嘩の声が、うるさかったな、と……その程度だった。
 僕はぎすぎすした家の雰囲気にイライラしていたし、傍若無人な義兄の振る舞いにイライラしていた。
 生んだ子の世話もできない姉にも、泣いてばかりの姪にも。
 だから、
“どうすればいいと思う?”という母の問いに、
“――どうでもいいよ”と。
 そう答えたのだ。
244:
 母は離婚家庭に育った。母親が片親であることでどれだけ苦労をしたかを知っていた。
 娘に離婚なんてさせたくなかった。姪を、父親のいない子供にさせたくなかった。
 
 だから、誰もなにも言わなければ、どれだけ上手くいきそうになくても、母が姉に離婚しろなどと言うわけがない。
 誰もなにも言わなければ、どれだけ喧嘩続きでも、姉は踏ん切りがつかないだろう。
 当然結婚生活は続き、いずれは家を出ることになる。少なくとも、僕の知る過去ではそうなった。
 数年後、僕が高校に入学する前の年、つまり、去年、姪と姉は死んだ。
 もしあのとき僕が何か違う言葉を母に言えば何かが変わっただろうか?
 変わったかもしれない。変わらなかったかもしれない。
 いずれにせよ姪は死んだ。でもこの世界では生きている。
 ――この世界の僕も、僕と同じことを経験しているのだろうか。 
 だとするなら、彼はいったい母になんと言ったのだろう。
 でも、仮にそのときの僕の言葉が何かを変えられたとして、そうしなかったことに責任があるんだろう。
 ただそれだけのことをしなかった僕を、誰が責めるのだろう。
 ――だって僕は、そのとき十歳だったのだ。
245:

 不意の物音に振りかえると、扉の傍に姪が立っていた。
 僕は言葉をなくして立ちすくんだ。
 
 彼女がただそこにいるという事実に身震いするほどの恐怖を感じた。
 彼女は本当に生きているのだ。
 ただそこに立って、呼吸をしていた。僕は不安になる。
 
 冷静なって考えれば、ここで姿を見せるのはまずかった。
 僕は僕を知っている人間を可能な限り避けないといけない。
 
 そうでなくても、勝手にこの家に入った人間がいると分かれば、無意味にこちらを混乱させかねない。
 ――そうなったところで、僕は別に困らないのだけれど。
「……お兄、ちゃん――」
 そんなふうに、彼女は僕を呼ばなかった。
「――じゃ、ないよね?」
246:
 問いかけるような言葉には、確信がこもっていた。
 服装が違うからではない。声が違うからでもない。態度が変だからでもない。
 彼女には分かってしまうのだ。
 この世界では、僕と姪はそれだけの関係なのだ。
 そのことに気付くと僕はひどく悲しい気持ちになった。
 僕には誰もいない。
「……お願いがあるんだ」
 と僕は言った。彼女は面食らったように目を丸くして、気圧されたように頷く。
 生きている。
「僕と会ったこと、誰にも言わないでくれないか?」
「……あなた、誰?」
「言っても分からない。騒がないでくれると助かる。無茶を言っているって、分かるけど」
 胸の奥から何かがせり上がってくるような錯覚。
 泣き出しそうなのだ。
247:
「今はとても混乱してるんだ。上手に物事を考えられない。それにすごく疲れてる」
「……大丈夫?」
 彼女の声は僕をいっそう不安にさせた。
 手遅れなのだ。この声も、この姿も、すべて僕から失われてしまったものなのだ。 
 それが僕の責任ではないとしても、僕だけは、自分が彼女のことなんてちらりとも考えていなかったことを覚えている。
 悔恨ではないし、後悔とも違う。
 僕は彼女のことなんてちらりとも考えなかった。ただ、自分のことだけを考えていたのだ。
 隣の家で買っている家が、やたらうるさく吠えるなと、その程度にしか彼女のことを考えていなかった。
 僕は姪のことを、生きたひとりの人間としてとらえていなかったのだ。
 僕は立っていられなくなって、ベッドに腰掛けた。俯いて考え込んだ。
 何がおかしいんだろう。僕は別に何かをしたいわけじゃなかった。 
 ただどうでもよくて、ただ不快だった。それだけだった。
 僕が無関心であったことが、彼女を殺したのではない。
 でも、僕は無関心でなかったら、彼女は死なずに済んだかもしれない。
 それは自惚れなのだろうか。
248:
 僕は目を瞑って深呼吸をした。それから何かを考えようとした。何かが何なのかは分からない。
 不意に、何かが僕の頭に触れた。
 驚いて顔をあげると、すぐ傍に姪が立っていた。
 目が合うと、彼女は気まずそうに表情をくもらせる。
 彼女が僕の頭に手のひらを乗せたのだ。まるで子供にでもやるように。
「ごめんなさい」
 彼女は謝ったけれど、謝られたところでどうしようもなかった。
 すべて過ぎてしまったことだった。取り返しはつかない。僕は僕のことだけを考えて生き続けるしかない。 
 誰かのためには生きられない。
「なぜ悲しいの?」
「……」
249:
 なぜ? と。
 それは答えようのない疑問だった。
 僕は少し考えてみたけれど、なかなか答えは浮かばなかった。
 なぜ、悲しいのだろう。彼女が死んだからではない。死んだことが悲しいのではない。
 
「きっと――」
 と、僕は声をあげた。少し鼻声になっていた。
「――自分が無効な人間になったからだ。誰にも何も訴えかけられないし、誰のことも触れられない。誰にも見えない。そういう人間に」
 僕にできることはひとつもないし、僕を必要としている人間はひとりもいない。
 僕が助けられた人間はひとりもいないし、僕を助けたい人間もひとりもいない。
 僕を好きでいてくれる人間はいないし、僕を嫌いになる人間もいない。
 ただそこにいるだけの存在。でもそれは僕が望んでそうなったのだ。
「いつのまにか終わっていたんだ。何も手のひらに残らなかった。どうしようもないんだ。
 いつのまにかこうなっていたんだ。それは自分のせいかもしれないけど。
 僕はどこにも行けなくなっていたし、誰にも会えなくなってた」
 僕は誰にも必要とされようとしなかったし、誰も助けようとしなかったし、誰にも助けてほしくなんてなかった。
 誰にも好かれたくなんてなかったし、誰にも嫌われたくなかった。
 どこにも行きたくなかったから、いつのまにかどこにも行けなくなった。
 誰にも会いたくなかったから、誰にも会えなくなった。
 僕はただ――寝転がってテレビを見ていただけ。誰ともつながろうとしなかった。最初から。
 どうしてそうなったのかは知らないし、こっちの僕がどうしてそうならなかったのかも分からない。
 でもそれは、決定的な違いだ。致命的なことだ。
250:
「……見えるよ」
 と彼女は言った。僕は一瞬、何が起こったのか分からなかった。
 彼女は僕の手を掴んだ。
「触れるよ」
 当たり前のことを当たり前に言うような、「何を言ってるんだ」とでも言いたげな、間抜けな表情で、彼女は言った。
「――」
 
 すとん、と、胸に落ちるような納得がよぎる。
 こういう子だったのだ。
 一緒に居る時間が短かったから分からなかった。
 
 こういう子だと知っていたから、この世界の僕は彼女のことを考えたのだ。
 僕は知らなかった。知ろうとしなかったし、知る機会がなかった。
 であるなら――この世界と、あの世界の致命的な違いを生んだのは、きっと……。
251:
「ありがとう」
 と僕は言った。立ち上がると、彼女は掴んでいた手を離す。
「もう行く。悪いけど、僕のことは誰にも言わないでほしい」
「……うん」
 彼女は状況がうまく飲み込めていない顔をした。
「誰にも、だよ」
「……うん」
 何か思うところがあるような顔で、彼女は俯く。
「どうかした?」
252:
「ううん。えっと、お兄ちゃんの、知り合い、なの?」
「……いや」
「お兄ちゃんのこと、知らない?」
「知っては、いるけど」
「最近、変なの」
 
 姪は表情を曇らせる。僕は訊ね返した。
「……何が?」
「すごく疲れてるみたいなの。なんだか、ずっと大変そうで。なんでだろう?」
「――――」
253:
 この世界もまた、決して順風満帆ではない。
"ごく簡単に言うとね、わたしはある一人の女の子の未来を守りに来たわけ"
 放っておけば失われてしまうのだ。彼女はまた死んでしまう。
 なぜ、そんなことになるんだろう。僕は無性に気になった。
 この世界で何が起こるんだろう。
 それはすぐ起こることではない、と魔女が言っていた気がする。
 僕は――目の前にいる彼女のために、行動を起こしてもいいかもしれない。
 そうしたくなった。たったこれだけの会話で、僕は彼女のことを好きになっていた。
 見過ごすことができなくなってしまった。
「分からない」
 と僕は正直に答えた。
 
254:
「大丈夫だよ。きっと、不安に思うことはない」
 僕の言葉が彼女の耳に届いたかどうかはさだかではない。
 彼女はきっとこの世界の僕のことだけを考えていて、僕のことは目に入っていなかっただろう。
 それでいいのだ。
 僕は素知らぬふりをして玄関を出る。そこまで姪が見送ってくれた。誰にも言わない、と彼女は約束する。
 その時にはすでに、彼女は当たり前のように笑顔になっていた。まったく陰りのない表情。
 きっと彼女は、この世界の僕の前でも、この表情になるのだろう。そして僕のことを騙すのだ。
 何の不安もないような顔で、何か思いつめている。
 家を出たのは三時半を過ぎた頃だった。
 不意に後ろから物音が聞こえて振り返ったけれど、誰もいない。
 怪訝に思ったがいつまでも同じ場所に居続けるわけにはいかず、僕は歩き出す。
 ――魔女を探す。そして、彼女の未来について問いただす。
 
257:
◆九
 
 けれど魔女はその日、僕の前に姿を現さなかった。
 僕は夕暮れの街を歩きながら彼女の姿を探したけれど、どれだけ探したところで無駄だという気もした。
 彼女の意思の上でしか、僕は彼女に会うことができない。
 
 それでも惰性でさがしていたけれど、半分以上諦めていた。街を歩いているのは別の理由からだ。
 自分が住んでいるときは分からなかったけれど、街には結構人が歩いている。
 以前とは違って見える。僕の目にはさまざまなことが色づいて見えた。
 なぜこれだけのものを見過ごしていられたのだろう、と僕は愕然とした。
 五時を過ぎる頃に街には雨が降り始めた。
 静かで綺麗な雨だった。僕は近くのコンビニに立ち寄って傘を買った。
 傘を買うとき、レジを打った店員が奇妙なものを見るような顔をしていた。
 僕は気にせずに店を出た。傘を広げて街を歩く。
 人の姿は消えていた。部活帰りなのだろう、ジャージ姿の学生が自転車を慌てて漕いでいった。
 僕はとりあえず雨宿りできる場所を探したが、新しい場所に向かいたくはなかった。
 とりあえず思いついたのは、昨夜の無人駅だけだった。 
 連日忍び込むのは危ないかもしれないが、他に心当たりもない。
 
258:
 傘を畳んで無人駅に入ると、先客がいた。彼女は僕の顔を見て一瞬不思議そうな顔をする。
 僕は目を逸らして知らないふりをした。
 
「ねえ」
 とすれ違いざま、女は僕の顔を見て声をあげた。そうまでされると顔を合わせないわけにはいかない。
 僕は溜め息をついて女に目を向けた。
 僕の態度に、彼女は怖気づいたように後ずさる。
 そして数拍おいてから、
「……ごめんなさい。人違いでした」
 謝る。たぶん人違いではないだろう。
 どうも、こっちの僕は知り合いが多いらしい。
259:
 彼女はすぐに駅を出て行った。僕はベンチに腰を下ろして溜め息をつく。
 物事にはきっと、相応しい時間というものがある。
 魔女もまた、何かを考え込んでいるような顔をすることがときどきあった。
 彼女にも何かがあるのだろう。僕には分からないこと、僕が知らないこと。
 瞼を閉じると眠気が襲ってきた。疲れているのだろう。たかだか二日間の出来事なのに、ものすごい密度に感じる。 
 何かをしたわけではない。なぜこんなに疲れているのだろう。
 歩き回ったからだろうか。眠気はすぐに襲ってきた。僕の意識はすぐにさらわれる。
 魔女を探さなくては。……彼女の言葉の真意を問いたださなくては。
 そうしなければ……。
260:

◇十一
 目を覚ますと外は白み始めていた。僕は体を起こして頭痛に顔をしかめる。
 朝が来たのだ。全身に鈍い痛みが走っている。
 ただ眠っていただけなのに、なぜだろう。
『たぶん、魔女は繋ぐんだ』
 彼は言った。
『僕や、君や、おそらく他の人間。あの子についても、みんなそうだ。そういう人間のある種の性質を利用して、繋ぐんだよ』
 
 性質。……性質? 僕や彼やあの子に共通する性質。
 ある種の空虚さ。
 僕という人間の生活について考える。 
 僕はごく平凡な高校生だ。両親は健在。歳の離れた姉と、その娘と同居している。
 姉は一度離婚を経験していて、二十八になる今でも実家暮らしを続けている。
 
261:
 近くのコンビニでバイトをしている。
 趣味は特にないが、ときどき古本屋に言って五十円で買える中古の小説を何冊か買って暇を潰している。
 炭酸飲料と甘い食べ物が苦手。
 客観的に言って、少し姪に執着しすぎているかもしれない。
 
 客観的に、と僕は思う。それが大事なのだ。僕と言う人間を客観的にとらえ直すことが。
 
 客観的に言って、僕は焦っている。八月三日の日に自分と同じ姿をした人間を見てから、ずっと気分が落ち着かない。
 では、それ以前は普通の精神状態だったのか? ――どうだろう。それ以前のことはよく思い出せない。
 夏休みに入る前、僕はどんな学生生活を送っていたのだろう。
 友達はいたのだろうか? クラスメイトとの距離感は? 学校での成績、勉強の調子。
 部活動には所属していたか? 人に言えないような秘密はあったか?
 こうして考えてみると、そのほとんどの問いに僕は答えることができない。
 本当に思い出せないのだ。僕は唖然を通り越して笑いだしそうな気持ちになった。
 
 僕の身に何が起こっているのか。
262:
 が、まずはそのことを保留にする。現状を把握し直そう。
 あの日、ヒーローショーの日のショールームの二階、あそこで僕とそっくりの男を見かけた翌日。
 家に帰るとギターの弦が切れていて、白紙のメモが残されていた。
 
 あれは誰の仕業だったのか。
「何の話?」と彼は言った。
 彼が関与していないとなると、候補はひとりしかいない。
"魔女"と彼が呼んだ女。電話の女。
 その三日後の八月六日、僕は彼と初めて言葉を交わすことになる。
 彼の話はまったく要領を得ず、僕を混乱させるだけだった。
 彼は僕と姪の関係についていくつかの質問を投げかけたあと去って行った。
 
 そのことも今考えれば納得できなくはない。彼にとってこの世界は未知の並行世界だったのだから。
 この世界の僕と姪の関係を知ろうとするということは、つまり彼の世界での関係性はこちらとは異なるという意味だ。
 
 だが、それは"彼"の話であって"僕"の話ではない。
263:
 姪はその翌朝、僕の前から姿を消した。八月七日。空は曇り空だった。
 
 なぜ消えたのか。
 僕には、姪が自発的にいなくなってしまったように感じた。
 それを思えば前日の様子はおかしかった。いつもならしないような話をしたりもした。
 彼女は何かを思いつめているように見えた。何を思いつめることがあるのだろう?
 一応、僕は姉と父母の不仲を危惧してはいたが、それでも安定はしていたのだ。
 
 彼女が不安に思うこと。それってなんなんだろう? 姉の愛情? 父母のストレス?
 それともそれ以外?
 よく分からない。なぜ彼女がいなくなったりするんだろう。でも漠然とそう感じるのだ。自発的にいなくなったのだと。
 姪がいなくなった日、僕は彼女の姿を探して街を走り回ったが、結局見つからなかった。
 
264:
 母からの電話の後、帰ろうとする途中でもう一度彼に会った。
 彼の様子はどうだったろう? 初めて会った時と比べて。
 ……ひどく落ち着いているように見えた。
 最初は、彼自身もひどく混乱しているように見えた。けれど二度目の彼は、少し落ち着いていたのだ。 
 
 彼の言葉の通り僕は家に帰り、休むことにした。そしてその翌日にはバイトがあって――。
 その頃からずっと、頭がぼんやりしている。
 夜、ショールームに忍び込んだ。今思えば……なぜ入れたのか。 
 ――――。
"なぜ?"
 緑色のドア。
 魔女の居場所はどこだろう。
265:
 僕はショールームで彼女からの電話を受けた。そこで初めて、彼女の存在を知る。
 フクシュウ。分岐と結果。
 彼女との電話が切れたあと、僕は彼とふたたび会うことになる。
 思ってみれば……彼はなぜあのショールームを訪れたのだろう?
 
 ――。
「…………え?」
 彼はあの日、僕を見つけて、バカみたいな挨拶のあとにこう言った。
『彼女に会ったの?』
 僕はこう問い返す。
『どっちの?』
『魔女についてのつもりだったが、両方』
 彼自身は、別の並行世界から来たただの人間に過ぎない。
 だとするなら、彼は僕の行動を把握できるわけがない。
266:
『彼女に会ったの?』
「会えたの?」ではなく「会ったの?」と言った。
 彼の目から見て、僕は彼女に『会える』状態にあったのか?
 ……バカバカしい。ただの言葉のニュアンスの問題なのかもしれない。
 だが、ひょっとしたら、彼はあの夜、魔女に会いに行くつもりだったのかもしれない。
 魔女に会いにいったら、偶然僕がそこにいた。
 だからこう訊ねることになる。
『彼女に会ったの?』と。
 僕はそんなことを知らないから、電話が来た、とだけ答える。
 彼は何も言わなかった。
『あの子は、魔女と一緒にいるらしい』
『……まあ、そうだろうね』
 姪が魔女と一緒にいると聞いたとき、彼は驚かなかった。
 彼はこの世界の事情に詳しくないはずだ。姪がいなくなる他の要因があるかもしれないと、想像してもおかしくないのに。
 つまり彼は、知っていたんじゃないか。予想できていたのではないか。
 あの日、姪がどこに居たのか。
267:
 あの日、僕はひどく混乱していた。彼の言葉になんの違和感を抱かないほどに。
 
 あの日? ……いや、違う。まだ混乱している。時間の感覚すらおかしくなっている。
 これは――昨夜の出来事だ。
 魔女は、あの子は、昨夜、あのショールームのどこかにいたんじゃないのか?
 ひどい頭痛だった。僕は携帯を手に取って予定表の画面を開いた。バイトのシフトは入っていない。
 もう一度、あそこに行ってみなければならない。
 でも、あの日、あそこに緑色のドアはなかった。
 僕には、それが何か致命的なことに思えた。
 あのドア。
 
 とにかく、落ち着け、と僕は思った。
 頭痛がだんだんとひどくなる。立っていられなくなる。
 落ち着けよ、と彼の声が聞こえる。
 それから自分が何をすべきか考えるんだ。それはたぶん、僕にとっても大事なことなんだよ。 
 
 頭が痛くてうまくものごとを考えられない。僕は瞼を閉じてベッドに倒れ込んだ。
 でも、眠りたくなかった。変な、奇妙な、憂鬱な夢が、ぼんやりと印象だけを僕に残していく。
 眠りたくなかった。
270:

◆十
 
 翌朝目を覚ましてすぐ、僕は全身の痛みと気だるさに意識を引っ張られた。
 堅いベンチで眠っていたから体が石のように凝り固まっているのだ。どこかでゆっくりと休みたい気分だった。
 
 僕はポケットに突っ込んだ財布を取り出してみる。不思議なことに気付いた。
 金が減っていないのだ。 
 
 そういえばこの財布の中身をどれくらい使っただろう? 最初はいくら入っていたのだっけ? よく覚えていなかった。
 むしろ使っていない分の金が余って増えているようにも見えた。当初入っていた金の三倍はある。
 なんだ、と僕は思った。この金があればこんなところで寝泊まりなんてしなくてもよかった。
 食うものにも服にも困らない。そう思って僕はまた、例の銭湯へと向かった。
 途中で歩くのが面倒になり、タクシーを呼んで運んでもらった。大抵のことは金があればなんとかなる。今の世の中は特に。
271:
 僕には何か考えなければならないことがあったはずなのだが、よく思い出せなかった。
 とにかく僕の頭に流れていたのは、つい昨日あったばかりの姪の姿だった。
 
 彼女がどこか遠くで泣いている気がした。でも、僕は彼女の居場所を知っている。
 なぜだろう? 強く混乱しているのだ。
 風呂に入って汗を流した後、僕は銭湯の大広間にあったマッサージチェアに腰かけた。
 いつの間にか眠っていて、目が覚めたら十一時を過ぎていた。腹が空いていたので店を出て、タクシーでファミレスまで移動する。
 朝食をとったあと、僕はどうしようかと考えた。
 とにかく街の方に行くと映画館のポスターが目についた。僕は吸い寄せられるように入場してチケットを買った。
 店の中は空いていた。休みだと言うことを考えれば学生がいてもよさそうなものだが、本当に数えるほどしか客がいなかった。
 寂れているわけでもなさそうなのに、なぜだろう。だが、それもどうでもいいことだった。
 
 今の僕にとって重要なのはそんなことではない。では何が重要なのか? それがさっぱり思い出せない。
 シアターに入場して席に着く。まだ明るい。
 
272:
 僕という人間について整理する。
 
 僕は高校生だ。
 親は生きているが、別居している。生まれた街――つまり今僕がいる街――を離れて暮らしている。
 部活動には所属していない。勉強にも熱心じゃない。バイトをするわけでもない。
 どこにでもある程度はいる無気力な学生。友人も少なく活力がなく趣味もない。それが僕だ。
 歳の離れた姉がいる。彼女は姪を生んだ。そして殺した。そののち、自分の手で自分を殺した。
 彼女たちの死はちょっとしたニュースとして全国を騒がせたが、それは二件目だった。
 同様の出来事が、その年にあと三回あった。あわせて四回の、子殺しのニュース。
 
 ちょっとした社会問題にもなったが、たとえば姪の人格や姉の精神性などを問題にする人間は少なかった。
 問題は最近の母親、最近の子供、最近の家庭の事情にすり替えられた。誰も彼女たちの固有性に目を止めようとはしなかった。
 
 姉の夫はその後蒸発した。どこに行ったのかは知らない。
 いずれにせよ、僕の生活はそこからおかしくなった。
 僕はひどく混乱したし、わけが分からなくなった。なぜかは分からない。
 僕はそもそも他人のことを慮らず、自分のことのみを考えることを信条として生きてきた人間なのだ。
 誰もが自分のことのみを考えていれば十分だと信じていた。
 だから僕は他の人間のことに関与しないかわりに、他の人間の責任を取ろうとしなかった。
 僕の混乱は姪の存在に起因している。僕はあの出来事から一年以上ずっと、姪の死について考えていた。彼女は八歳だった。
 なぜ、八歳の子供が死ななければならなかったのだろう?
 姪の遺体はひどく痩せていて、生前ろくに食事を与えられていなかったらしいとニュースキャスターが言っていた。
 
273:
 もちろん子供が死ぬなんて珍しいことじゃない。そんな例はごまんとある。今だってきっと死んでいる。
 でも、なぜ母親に殺されなければならなかったのか? もちろん姉にも事情はあっただろう。
 本人なりの苦悩もあっただろう。ならばなぜ周囲がそれに気付いてやれなかったのか?
 責任と言うのは連帯させようと思えばどこまでも連結してしまうものだ。
 だから僕は根源的に責任の連帯というものを嫌う。きりがないからだ。
 だが、そのことがあってから僕はずっと考えてしまう。
 僕は姪の死に関して本当に一切責任がないと言えるのか?
 十歳のときに母に何かを言えなくてもいい。それ以来何か他にできたことはなかったのか?
 僕はなぜ姉の異変に気付けなかったのか? 僕は姪に対して何かをしてやったのか?
 姉は母が姪をかわいがるのを嫌った。そうすると姪につらくあたった。だから母は姪の様子をうかがいにいくにも機会を見る必要があった。
 
 誰の責任なのだろう? 姉は悪い。だがその姉を追いつめたのは誰か? 義兄か? 母か? それとも姪か?
 
274:
 僕は――自分以外の人間のためにも、少しくらいは心を使ってもよかったような気がしている。
 でも何もかもが手遅れだ。
 ライトが消えて映像が流れ始める。
 僕は頭を抱える。いったい何を考えているのだろう? 思考から一貫性がなくなっている。
 僕には何かができたのか? それともそれは傲慢か陶酔か?
 その答えは分からない。
 けれど、僕は彼女の為に何かがしたかったのか? という問いに僕はシンプルに答えることができる。
 
 僕は彼女のことなんてちらりとも考えていなかった。
 ただ自分のことだけを考えていた。
 
 だが、それなら、どうしてこんなに、僕は彼女のことに思考を奪われてしまうんだろう。
 死者は蘇らない。
27

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