卯月「総選挙50位以内に入れないアイドルはクビ…ですか?」back

卯月「総選挙50位以内に入れないアイドルはクビ…ですか?」


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1:
──天下の346プロ神話崩壊』
 新聞の一面を飾った記事の見出しにはそう書かれていました。
 きっかけは、内部告発によるインサンダー取引の発覚。
 それに伴った大規模な社内調査によって、芋づる式に掘り起こされた大小様々な横領、不正売買、お金で揉み消してきた不都合な事実…。
 そして、アイドルのスキャンダル。
 ゴシップ記事は虚実入り混じった内容を連日書き連ね、プロダクションの前では毎日大量のフラッシュが焚かれる日々が続きました。
 スポンサーは次第に離れていき、株価は急落。社長と、近しい重役は責任をとって辞職。
 新たに女社長を据えて大幅な経営転換をします!必ず信用を取り戻して見せます!と記者会見で意気込んでいたのが数か月前。
 ……と、ここまでは日本中の誰もが知っていること、ですね。
 えっと、インサイダーって何でしょうね?
 新発売の炭酸飲料ですか。サイダーみたいにハジける恋の音……♪
 えへへ、なんて。ごめんなさい、違いますよね。 
 私、島村卯月17歳には大人の世界はなんだか複雑で、とにかく大変なんだなぁとは思ってはいても。
 私の中では、最近お仕事がちょっと減っちゃったかなぁ。学校でも色々言われちゃったなぁ。
 でも、もっともおっと頑張って、頑張って、凛ちゃん未央ちゃんとこれからもたくさんお仕事したいなぁ、くらいにしか考えてなくて。
 どこかふわふわした気持ちで記者会見を眺めていたのを覚えています。
 
 1人の記者さんが問いかけました。
 ──きっと、これから事業の縮小は避けられないでしょうね。
 
 それから……。
「えっ、プロデューサーさん、今なんて言ったんですか?」
「……数か月後、初のアイドル総選挙を行います」
初めてアツイ、と感じた火の粉が私に降り注いだのは、あまりに突然でした。
13:
「ソウセンキョ、ですか」
「……はい」
 ちひろさんが差し出してくれた紅茶の湯気をぼんやり見つめながらその言葉の意味を考えました。
 そうせんきょ。ソウセンキョ。総選挙。あ、人気投票のことですね。
 他のプロダクションさんの人気アイドルグループが行っている、テレビで大々的に特集されるアレ。
 私のライバル……ううん、立つ舞台は違っても、きっと私と同じ夢を見たアイドルのみんな。
 順位が発表された瞬間に、おもいっきり泣いたり、笑ったりしているのを見ていると、私もテレビの前で胸をぎゅっと握って良かったね、頑張ったねと応援していたのを思い出します。
 それが346プロでも行われるんですね……。
 まず思ったことが、頑張らなきゃ、ということ。1に努力、島村卯月です!
 その次に感じたのが、素直な喜び。まだまだ活動して日の浅い私が、ネオンが沸き立つあの晴れ舞台に立てる、なんて夢にも思ってもないけれど……。
 ごめんなさい!
 やっぱりちょっと、思っちゃいます。夢を見るだけならタダ、ですもんね。叶えるのは、努力です!2にも努力、島村卯月です!
「えっと……」
 さいごに、胸の奥底で少しだけ広がった感情が、不安。
 346プロのアイドル部署の入り口に貼られているポスター。
 そこには……
 『ひとりひとりが輝ける原石。シンデレラへの階段は今は見えないだけで、貴方の前にいつでも開かれています』
 ──と書かれていました。
 全員が、シンデレラになれる。
 アイドルは競争相手ではなく、大切な仲間。 
 古今東西のアイドルの卵をスカウトしては、たとえお仕事がこなくても、どんなフォローもケアもしてくれて、しっかりと個性を伸ばす。
 その育成方法は海外のメディアからも賞賛されているそうです。「巨額の資本に身を任せた分の悪いギャンブルだ」と評されることもあるそうですが……。
 だけど、ひとりひとりに真摯に向き合ってくれて、決して優劣で比べたりせず、大切にしてくれる346プロが、プロデューサーが私は大好きです。
 以前に人気投票を無断で企画してアイドル格付け票を作ろうとした出版社に、差し止めを行ったことがある、という話も聞いたことがあります。
 
 だから総選挙のアイディアはなんだか、346プロを根っこから覆すような、そんな漠然とした気掛かりを感じました。
 
 それに、不安の原因は何よりも……。
「プロデューサーさん……具合悪いんですか?」
「……」
 目の前にいるプロデューサーさんがあまりに苦しそうな顔をしていたことにありました。
27:
「……」
「……」
 沈黙。
「紅茶、冷めちゃいますよ……?」
「……」
 沈黙。
 元々プロデューサーさんはあんまり表情豊かなほうではない、かもですけど。
 それでもありありと分かる苦悶に満ちた顔。額からにじみ出る脂汗。
 ……前にも、見たことがある気がします。いつだっただろう。
「あ、はい……」
 しばらくして、プロデューサーさんはそこで私の言葉に初めて気付いたように、慌てて紅茶を手に取ろうとして……。
 直前で、はたと止まって……。
 ぐっと血が滲むほどに拳を握った後に、数枚の書類を机の上に広げました。
 
「システムを……説明します……」
「プロデューサーさん……?」
「投票券はファン1人につき基本的に……2枚……ですが、CDやカードや握手会の参加等で配布される券を使えば何票でも投票できます……」
「……」
書類に書かれていることを機械的に読み上げるプロデューサーさんの手はぶるぶると震えていました。
「途中経過は定期的に発表され……投票対象は、現346プロアイドル総勢200名……なお千川さんに投票はできません……」
「は、はい……」
そこまで言わなくてもいいような……。
「なお……」
「はい」
そこで、書類を読み上げる掠れた声が、ピタリと止まりました。
「あの……?」
「……」
 また長い長い沈黙。
 プロデューサーさん、どうしちゃったんでしょう……。
 目を伏せて、じっと何かを堪えているようなプロデューサーさん。
 紅茶も飲み干してしまい、手持無沙汰になって困ってしまった私。
 ふと、ほんのりと微かなラベンダーの香りが舞い込んできました。
 「はい、おかわりですよ♪」
 
 「あっ……ありがとうございます」
 見れば、ちひろさんがポットを傾けて私のティーカップに紅茶をまた注いでくれていました。
 ちひろさんは、プロデューサーさんの一口も手をつけていないカップを覗きこみながら、囁くように言いました。
「プロデューサーさん、もうダメですよ」
「……」
37:
 くすくすと、口元に手を当てて鈴のように笑う、ちひろさんのやわらかな笑顔は、部屋の重苦しい空気とはひどくミスマッチなものでした。
「社長さんから、アイドルのみんなには、ちゃんと余すことなく要件を伝えることって、言われているんでしょう?」
「……」
「さぁ、続きを、どうぞ」
「……」
 プロデューサーさんはこれ以上ないほど窮屈に閉じた瞼をさらに無理やり閉じ込めて。
 意を決したように眼を見開いて、また書類に目を落とし、続きを読み上げ……。
「島村さん」
「ひゃっ?!」
 ……るかと思いきや、私の顔をまっすぐと、けして揺るがない瞳で見つめてきました。
 今日、初めて目が合いました。初めはとても怖かったけれど、今は好きな、プロデューサーさんの真摯でまっすぐな瞳。
「お願いが、あります」
「は、はいっ! なんでしょう?!」
「笑顔です」
「えっ……?」
「貴方の得意の、笑顔を、お願いします」
「……?」
 あまりに突然すぎる要求に頭の中にはたくさんのハテナマークが浮かびました。
 けれど、プロデューサーさんの真剣な態度はなんだか冗談ではない、みたいです……。
「は、はい……それじゃ……こほん……」
 ちょっと恥ずかしいですね……。
 えっと、顔の前で両手でピースサインを作って……。
 最高の笑顔をするためのヒケツ。
 それはみんなの幸せな顔を思い浮かべること。
 
 プロデューサーさんが、凛ちゃんが、未央ちゃんが、みくちゃんが、アーニャちゃんが、みりあちゃんが、みんなみんなずっと笑っていてくれますように。
 ──みんなの笑顔で私が笑顔に。
 ──私の笑顔でみんなが笑顔に。
 ──せーのっ
 
「ぶいっ♪」
「ありがとう、ございます……」
 ほんの微かですが、プロデューサーさんの口角が上がったのを見て、私は胸の奥でじんわりと暖かな気持ちが溢れてくるを感じました。
「お願いです。どうか、これから何があっても」
「は、はい」
「その笑顔を、絶対に、忘れないでください……」
「とっても素敵な笑顔でした♪」
 ちひろさんも手をぱちぱちと叩いて、私の取り柄の笑顔を褒めてくれました。えへへ、うれしいです。
48:
「さぁさぁ、プロデューサーさん、ご多忙なんですから続きを、スケジュールが推してます」
「はい」
「気持ちはわかります。最後まで、この企画に反対してましたものね」
「……」
「でも、もうこれしかないんですよ。私たちには……卯月ちゃんたちにも……」
「……」
 それから二言、三言、何かの専門用語を交えて二人は会話していました。
 内容はよくわかりません。私が入り込むにはまだ早すぎる大人の事情。
 でも、やっぱり今の346プロは何か大きな変化をしていくんだ、ということが伝わってきました……。
 また訪れる漠然とした不安。
 ッ……だけど……。
 「あのっ、私精一杯頑張りますから! 何でも言ってください! どんな厳しいことでもへっちゃらです!」
 うん、やっぱり、笑顔は元気の源です。むくむくとやる気が漲ってきます。
 プロデューサーさん、何か悩んでるみたいですけど、ちょっとでも笑ってくれましたから……。
 きっと大丈夫です。
「では、続きを、かいつまんで、お伝えいたします……」
「はいっ!」
「なお、346プロ、アイドル部門は創設して……間もないにも関わらず……目覚ましい躍進を遂げ、将来的には更なる発展が期待視されていたが……」
「……」
「前取締役の方針による、無遠慮に候補生を全国から闇雲にスカウトしてきた弊害が、ここにきて歪みを産んだ」
「女子寮の設営や維持費、アイドル各人の育成費、スカウトに伴う旅行費等に鑑みるに、無謀とも言える資産運用であったことが発覚し……」
「それに加えアイドル部門はスキャンダルや不正資金運用の温床となっていて、マスコミの批判の恰好の的となっている」
「346プロダクションの抜本的な見直しを行うために……アイドル部門の縮小と再建とを同時に行う」
「……」
「今までの評価基準や価値観ははすべて捨て、総選挙によるアイドルの……仕分けを……」
「えっ……?」
「定められた順位は……絶対であり……何よりも優先される……」
「……」
「仕事や待遇は上位のアイドルから与えられていき……」
「対等な条件下であるにも関わらず、結果を出せない……総選挙51位以下のアイドルに関しては……346プロダクションに、不、要……な人材……」
そこで、ざわりと、背筋に悪寒が走りました。
フヨウ……?
「ふよう……って……プロデューサーさん……」
「……」
「つまり……」
 不要。
「総選挙50位以内に入れないアイドルはクビ…ですか?」
59:
 ……。
 ベッドの上で、指をひとつ、ひとつ、丁寧に折り曲げる毎にお友達の顔を思い浮かべていきました
 凛ちゃん、未央ちゃん、楓さん、莉嘉ちゃん、かな子ちゃん、木村さん……。
 シンデレラプロジェクトのみんな。今まで知り合ったアイドルの先輩たち……。
 50回折り曲げるうちには、もう顔は浮かんでこなくなって。
 私は少しだけ安心すると同時に、ちくりと刺すような痛みを感じました。私の周りだけ、でいいのかな。
 みんな、みんなで、今までみたいにずっと輝くステージを追い求めていたかったのに。
 
 それでも、どうしても選ばれない人は出てくる。
 「……」
 養成所のころを思い出す。
 みんなで一緒に頑張ろうね、と励まし合って、毎日長電話して、いつかフリフリの衣装を着て踊ろうねと約束しあって……。
 そんなある日、朝に突然トレーナーさんに告げられる。
 ──……さんは昨日付けで養成所を辞めました。
 そんな事を何度も何度も何度も経験して、だけど決して慣れることはなくって、胸がどうしようもなく痛くなって。
 幼い私には解決することができない大人の事情とか、家庭の事情とか、他人には見せない、その人だけが隠している事情とかが、いきなり襲い掛かってくる。
 
 気づいた時にはもう手遅れで、私はただ膝を抱えて泣きべそかくことしかできなくて。
 そのたびに、挫折しそうで、すべてを投げ出したい気持ちになるけれど、その時はママの言葉を思い出す。
 
「卯月は頑張り屋だねぇ」
「卯月の笑顔は、人を幸せにする力があるから、いつも笑っていなさい」というママの言葉。
 辛いときは、その言葉“だけ”を頼りに、私は歩いてきました。
 そう、今までは……。
 枕元に置いてあったスマートホンから、軽快なメッセージが鳴りました。
 ──卯月、起きてる?
 ──しまむー、あのさ、ちょっと話をしないかな?
 今は、同じ夢を信じているということを、心から信じていられる、私を支えてくれる大事な友達がいます。
「うん、起きてるよ……凛ちゃん未央ちゃんっと……」
68:
──ちょっとさ、大変なことになったね。
 凛ちゃんのメッセージはいつも簡潔で、クールです。
──いやー!参ったね。正直私まだぜんっぜん心の整理ついてなくてさ。参ったー!
 未央ちゃんは、いつも元気な未央ちゃんらしい情熱が溢れてきそうなメッセージ。
 文字だけだと、気持ちは相手に7パーセントしか伝わらない、というのをバラエティ番組で見たことがあります。
 そのバラエティ番組は今は346プロの、その、悪いことの、特集ばかりしていますけど……。 
 もう数えきれないくらい言葉を交わしている私達には、きっとお互いに7パーセント以上の情報が伝わっている。
 電話じゃなくて、メッセージでのやり取り。要点を避けて曖昧な言葉を使ってる。
 みんな、戸惑ってるんですね。気持ち、わかります。
 きっと、みんな心が風船みたいにぱんぱんに張っていて、上手な空気の抜き方がわからないこの気持ち。
 ちょっと無理するとパンッと弾けちゃいそうになる、パンクしちゃいそうな心。
──凛ちゃん、未央ちゃん私もだよ。急に色々言われて、私あたふたしちゃって。
 そっと抜いていかないと……。
──私たち、大丈夫なのかな。アイドルとして、ニュージェレーションとして、さ。
そっと、そっと。
──大丈夫だよ。きっと3人で頑張っていけば。3人d……。
 はた、とキーをタッチする指が止まりました。
 もし誰か一人でも50位以内に入らなかったら……私たちは……解散?
 
 ううん、それよりも。
 
 私と凛ちゃんと未央ちゃんはこれから……。
 「……ッ!」
 必至に頭を振って今の思考を消し飛ばそうとしました。
 違う。違います。
 打ちかけのメッセージを消去して、力強くキーを押し込んで送信しました。
──何があっても、私たち3人は大切な大切な友達、です!
 ぐらぐらな気持ちの中で、これだけは絶対に失うことがないって思える真実。
 3人一緒ならきっと、乗り越えていけます。
 メッセージを送信すると、すぐに、スマートホンから『ミツボシ☆☆★』が鳴り響きました。
 音声着信の合図。相手はもちろん。 
『よく言ったしまむー! 私たちズッ友だよね! とりあえず悩んだって仕方ないしさ! 目の前のこと全力で取り組んでいこうよ!』
「未央ちゃん……」
 
『そしたらさ、きっとなんとかなるって!』
「えへ、うん、そうですよね」
 えへ、やっぱりこういう時はいつも未央ちゃんが先頭を切って、もやもやを吹き飛ばしてくれます。
 きっとなんとかなる。底抜けに明るい声で、そう言ってくれることが何よりの心のガス抜きになりました。
 島村卯月、明日の握手会も頑張ります。
75:
 ……。
 握手会の直前で、巨大なスクリーンで告知された
 『第1回シンデレラガールズ総選挙』
 「始まっちゃったねぇ?……」
 ニュージェレーションの衣装に身を包んだ衣装で、未央ちゃんがスクリーンを見上げています。 
 総選挙で50位以内に入らないとクビ。
 実際には、いきなり解雇通知を突きつけられるわけじゃなくって、51位以下にはお仕事が回ってこなくなって、支援も打ち切られる、という形になるそうです。
 そうなると結局、プロダクションには居場所がなくなって自主的に辞めざるをえなくなります。プロデューサーさんは辛そうにそう言ってました。
 このことはファンの方達には知らせてはいけない社内だけの極秘事項。
 
 シンデレラガールズ総選挙。それはきっと、とっても大事なこと。
 だけど、いざ始まってみると自分でもビックリするくらい、日常が変化することはなくて。
 いつも通り、スタッフさんにメイクをされて、衣装合わせをして、役員さんにご挨拶をした時に
 「あぁ……“あの”346プロさんね……」とちょっと含みのある言い方をされて、楽屋で先輩のアイドルさんと楽しくおしゃべりして……。
 
 凛ちゃんと、未央ちゃんと円陣を組んで!
「「「フラーイドーチキーン!!!」」」
 結局、私がどの位置にいるか、総選挙で何が変わるのか、なんてのは今考えてもわかるわけがなくって、
 未央ちゃんの言うとおり、私にできることは目の前のことを全力で取り組むことだけでした。
「島村卯月です、よろしくお願いします!」 
 346プロの悪評がたって、ほんの少しだけファンが減っちゃったけれど、それでも私達の歌や踊りを今でも見に来てくれる人がいるのが励みでした。
「卯月ちゃん、いつも君の笑顔で元気貰ってるよ」
「あっ、今日も来てくれたんですね! ありがとうございます!」
 
 握手会の先頭は、いつも決まって、この男性の方でした。私が出演するイベントは徹夜してでも、どれだけ並んでも常に先頭で応援してくれる方。
 うれしい。握手する手を少し強めに、ぎゅっと握り返しました。
「俺、絶対卯月ちゃんに投票するよ。100票は入れるから!」
「そ、そんな……う、うれしいですけど、でも無理、しないでくださいね?」
「あぁ、卯月ちゃんのスマイル。昔好きだった子にそっくりなんだ……。卯月ちゃんになら1万票入れてもいいよ」
「お、お気持ちだけでいいですから! その気持ちだけで頑張れます!」
 思わず机に額が擦り付けられるくらいに深々とお辞儀をすると、頭をマイクへごちんとぶつけてしまい凛ちゃんと未央ちゃんに笑われてしまいました。
80:
 ……。
 「卯月、お疲れ様」
 凛ちゃんが汗だくの顔を拭いながら、スポーツ飲料のペットボトルを優しく手渡してくれました。
 こくりと、喉をならして飲み込むと、火照った体にすうっと甘い味が沁み込んでとっても気持ちいい。
 景色は夕日によって、オレンジ色に染まって、どこか幻想的に見えました。
 遠くでスタッフさんがステージを撤去するのをぼんやりと二人で眺めていると……
 
「きっとさ」
 
 凛ちゃんが、ステージへの視線を外さないまま、ぽつりと呟きました。
 それから、ぽつり、ぽつりと言葉を繋いでいきます。
「私たち、今さ、大事な分岐点にいるんだと思う」
「……」
「ニュースや雑誌で346プロのことを毎日見かける度に、他人事で大変だなって気分と、私もその渦の中に巻き込まれてるんだなって気分が両方沸くんだ」
「私も、だよ、凛ちゃん」
「このままでいいのかなって思うけど……」
「うん」
「でも、こうしてライブをやると、最高の気分になれるし、ファンの応援は心に響くし、ああやってスタッフに支えられてるだなって感謝するし、きっとそれはぜんぶ本当だから」
「……」
「だから今は振り返らずに前を向いていこうよ」
「……はい!」
82:
 ……。
 それから私たちは、イベントを精一杯にこなして、どんなに疲れていてもトレーニングをきっちり行い、毎晩励まし合いながら前へ前へ進んで行きました。
 
 凛ちゃんと未央ちゃんが言うように、頑張っていれば、きっと報われる。
 そんな根拠のない自信で。
 ただ目の前の日々を。
 そして……。
 最初の、総選挙中間発表の日がやってきました。
97:
「皆さん、お久しぶりです……」
 静まった応接間に、こだまするように響く低い声。
 あの日から数週間ぶりに会ったプロデューサーさんの顔は前よりやつれているように見えました。
 他の社員さんが相次いで辞職してしまって、お仕事が上手く回らない……とちひろさんが言っているのを小耳に挟んだことがあります。
 プロデューサーさんは一切そういうそぶりは見せないですけれど……。
「それでは、発表します……」
 隣の凛ちゃんと未央ちゃんの喉がこくり、と鳴る音が聞こえました。
 今まで、絶対に手を抜かないで頑張ってきました。だから大丈夫。大丈夫です。
 あれ。
 どうしよう、私、手、ふるえてる……。
 テストの成績発表に似てるけど、まるで深さが違う。
 これからのアイドルとしての価値を定める、無機質で冷たい数字。
 ……?
 ふと、温かな温度と感触が両手を包みました。
 凛ちゃんと未央ちゃんが、私の手を優しく握ってくれていました。
 ありがとう……。声に出さないで心の中でそっと呟きました。
 大丈夫、きっと大丈夫。
「渋谷凛さん……」
 大丈夫……!
「31位、です」
107:
「31位……」
 凛ちゃんがプロデューサーさんの言葉をなぞるように呟きました。
 喜ぶべきか、落ち込むべきかまだ感情が追い付いてないっていう表情。
 それを察してか、プロデューサーさんが口を開きました。
「まだ売り出し中の渋谷さんの立場であることを考慮すれば、快挙であると、言えます」
「そっか、喜んで、いいんだね」
 ゆっくりと、凛ちゃんの固まった表情が溶けていきます。
 凛ちゃん、すごい…!
 そうですよね、クールで知的で、物怖じしない態度が番組のスタッフさんに好評だよー、ってよく言われてました。
 ソロのお仕事もいっぱい増えてましたもんね。
 本当によかった。思わず視界がぼやけるのを感じて、いけない、とぐっと瞼を閉じる。まだ、堪えないと。
「次は、島村卯月さん」
「はっ、はい!」
 心臓が、どくんと一跳ね。 
「島村さんは……」
 とくん……とくん……。
 
 次第に、どくん、どくんどくん、と鼓動がまっていく。
「……」
 どくんっどくんっ……!
「45位、です」
119:
「……」
 じわり、と瞳が生暖かい液体で濡れるのを感じました。
 えっと。
 この涙はなんて名前を付ければいいんだろう。
 ……。
「島村さんは、根強いファンの方がいてくれるようです。見ていると、応援したくなる、と書かれています」
 嫌な気分じゃない。
 悲しくはないぜんぜん。
 あぁ、これは……。
 
 安堵の涙、ですね。
 「えへへ……」
 危なかったけど、まだまだアイドル続けられるんだって思って。
 ニュージェレーショーンの島村卯月で、頑張っていけるんですね。 
「続いては、本田未央さん、です」
「はいはーいっ!」
 手を大きく振り上げて、
 部屋の外にも聞こえるような元気な声で未央ちゃんは返事をしました。
 未央ちゃんほんとハート強いなぁ……。
「……」
「こらこら、勿体ぶらないでさ、早く言ってよ!」
 あ……。
 繋いだ右手が、かすかに湿り気を帯びていました。
 未央ちゃんは、深く知れば、本当はとってもセンシティブな子。
 快活さの裏にとってもデリケートな心を隠している。
 だからこそ、誰よりも他人の気持ちを汲んであげられて、誰よりも他人を見ている。
 きっと、未央ちゃんがリーダーだからこそ、私たちはユニットとしての芯を持つことができたんです。
 未央ちゃんなら、絶対に大丈夫。
122:
「本田さんは……」
 ……。
「うん……」
 ふと、自分でも何故だかわからないけれど。
「……」
 
 このとき、凛ちゃんの言葉を思い出しました。
──私たち、今さ、大事な分岐点にいるんだと思う。
「……申し訳ありません……」
 日常の変化。
 私はちっとも変わらないなぁ、なんて思っていたけれど。
 凛ちゃんはきっと、気づいていたんだ。
「えっ、何で謝って──」
 
 実は、変化はもうすでに起こっていて。
 それはまるで、うねりをもった波のようでいて。あまりに急で、巨大すぎて。
 だから。
「70位、です」
「……えっ?」
 私たちは、溺れかけていることすら、気付かずにいただけだとしたら……。
126:
「……」
 
 ぽかん、と口を空けた未央ちゃんの顔が見える。
 多分、私も同じ顔してる。
 それから、眉が次第に八の字に歪んでいって……。
「……70って……えっ……?」
「……まだ、売り出し中の、本田さんの立場であることを考慮すれば……」
「いやいや、ちょっと待って……じゃクビ……?」
「まだ、中間発表ですので……」
「あっそっか、そうだよね、うん」
 今度は、無理に笑おうと口角を引き上げようとする未央ちゃん。
 思わず目を逸らしたくなりました。
 だけど……。
「……プロデューサー、私にも一言コメントみたいなの、あるでしょ?」
 きゅっと口元を結んでから、眼を見据えて、そうはっきりと言いました。
「……本田さんは、その明るいキャラクター性から、お年寄りから、子供まで、老若男女幅広くファンがいます、単純なファン数でいえば、お二人に引けは取らないかと思います」
「うん」
「ただ、投票に興味を持つ層とは、やや合致していないようにも……データから、伺えます」
「そっかそっか」
 ぽりぽりと後頭部を掻きながら、未央ちゃんはいつもの笑顔で言いました。
 
「いやー、良かった、私、人気ないのかなーなんて思っちゃって……」
「……」
「リーダーなのにさ、二人の足手まといでした?、なんてもうコリゴリだから──」
「ッッ……本田さん!」
 不意に、強く制するような大声がしました。
 一瞬誰が発したかか、わからなかったけれど、この部屋に男の人は一人しかいません。
「足でまといだなんて、そんなこと……ありません!」
 気づけば、プロデューサーさんは必至の形相で、未央ちゃんの肩を強く掴んでいました。
 もう後悔したくない。そんな表情にも見えました。
「私は……貴方達の価値は単純な数字では測れないものだと思います!」
「プロデューサー……?」
「アイドルは……人は……そんなのもので……」
「プロデューサーさん!」
 また、強く制する声。今度は、女の人の声でした。
 今まで部屋の隅で、静かに聞いていた大人の女性。
 ちひろさんでした。
「……それ以上は、ダメですよ」
「……」
「いいですか、順位は、絶対です、それこそが判断基準です」
「……」
「70位は、70位です、それ以上も以下もありません」
「……」
「どれだけ、投票券を勝ち取れるか、それが今のアイドルに、今の346プロに求められている、こと、なんです」
138:
──私は……貴方達の価値は単純な数字では測れないものだと思います!
──いいですか、順位は、絶対です、それこそが判断基準です。
 「……」
 346プロの長い長い廊下を歩きながら、ぼんやりと真逆の言葉を片方ずつ想い比べます。
 すれ違う人は慌ただしそうに、山積みの書類を運んだり、携帯電話で怒鳴り声をあげていたりしました。
 
 どっちが、正しいのかな。
 子供の私に答えをすぐに出せ、と言われても難しい問いでした。
 でも、それよりも……。
 未央ちゃん……大丈夫かな……。
 「……ひゃっ! わたたっ」
 
 ふと、何かに躓いて、バランスを崩した私はお尻をおもいきり廊下に打ち付けてしまいました。
 いたた……。
 こんな廊下の真ん中に、一体何が置いてあったんでしょう。
 お尻をさすりながら前を見やれば……。
 「うふ……うふふ……」
 
 ビロードのような上品さを閉じ込めた亜麻色の髪。
 イメージカラーともいえる桃色と赤を基調とした、柔らかな印象を与えるその出立ち。
 そして、ハイライトが抜け落ちた瞳。
 佐久間まゆ……さん……。
 ……って!
 「ご、ごごごごめんなさい! 私なんてことを!」
 大先輩の超人気アイドルを足蹴にしちゃうなんて!
 島村卯月、大失態です!
 「あのっ、お怪我はないですか!」
 「あはっ、プロデューサーさぁん、ごめ、ごめんなさぁい……まゆは悪い子ですねぇ……」
 「あの?」
 なんだか様子が変です。
 私の声がまるきり届いてないような……。
 「約束……守れそうにないですねぇ……」
 「約束……?」
 あら、45位じゃない。
 ぞくり。
 まるで舌で背中をなぞられるような妖艶な声。
 前にも聞いたことがある。あれは、そう、テレビで。
 
 振り返ると……。
 まず目に飛び込むのが、ボリュームのある毛髪を背後に束ねたポニーテール。
 耳にはエメラルドのイヤリング。妖しげに光る紅色のルージュ。
 
「ひとまず、選ばれた側の席に座っている気分はどうかしら」
 
 346プロの新しい、女社長さん……。
140:
「こ、こんにちわ……」
「えぇ、こんにちわ」
 その鋭い目線に射られていると、どうにも落ち着きません。
「まゆ、プロデューサーさんのことだけを思ってがんばって強くなったんです……でも……」
 消え入りそうな声が聞こえてきて、またまゆさんに向き直ります。
「ま、まゆさん、どうしたんですか?」
 大先輩……。
 少し、戸惑ったけれど、意を決して背中をさすります。
 ステージでの、あのキラキラした姿からすれば信じられないほど、脆くて華奢な身体でした。
 大先輩、けれど私より1つ歳下の一人の女の子なのには変わりありません。
「……まゆ、ちゃん」
 壊れないように優しく、優しく掌をすべらせていきました。
「やめなさい」
 え……?
「放っておきなさい」
 女社長さんの言っている意味がわかりませんでした。
 目の前に苦しんでいる人がいるのに、どうして。
「彼女、何位か知ってるかしら」
「えっ?」
「彼女はね……」
「57位よ」
 57位。
 少し前までは、テレビをつければその顔を見ない日はなくて、コンビニにいけば必ずなにかしらの雑誌の表紙を飾っていて、
 CDも毎月出してたほどのまゆちゃんが……。
 57位……?
152:
 どうして……?
「お茶の間を騒がせた大スクープ」
 
 まるで私の心を読むかのように、静かに女社長さんは言いました。
「大人気アイドルに熱愛発覚」
 あっ……。
 アイドルのスキャンダル。
 まず、いのいちに槍玉にあがったのがこのことでした。
「一連のあらましについては、いまさら説明するまでもないわね」
「……」
「この子も記者会見ではっきりと否定すればよかったものを、余計に火に油をそそぐようなことして」
「約束……プロデューサーさんとの約束……アカイイトの……約束……」
 まゆちゃんは、ぶつぶつとうわ言のように“約束”という言葉を繰り返していました。
「情報ひとつで、昨日まで憧れていた存在が、憎き仇のようになる、怖いわねぇ」
「……」
「45位、あなたは57位を足蹴にする権利がある。謝る必要なんてなかった」
「っ……そんな!」
「もう先輩だろうが関係ない、順位は絶対、それこそが、これからのあなたの判断基準」
 そんなことって……。
「うっ……プロデューサーさぁん、どうしてまゆの前から居なくなっちゃったんですかぁ……」
 まゆちゃんの瞳から、宝石のような大粒の涙がぽたりと零れました。
 ……放っておくなんて、できるわけありません!
 ぎゅっと、手を強く握ります。氷のように冷たい冷たい掌でした。
「まゆちゃん! 大丈夫です!」
「この子はもうだめよ、きっとこれから順位を更に落としていく」
「……そんなことありません! 頑張ればなんとかなります!」
 女社長さんの言葉を掻き消すかのように、声を張り上げました。
「でも……まゆは……アイドル続けなきゃ……」
 かすかに聴き取れたその言葉。
 そこに含まれた意味をくみ取ることはできません。
 でも、まゆちゃんはアイドルを続けたがっている。それだけで十分でした。
「まゆちゃん! あと7位ですよ! 7位ならすぐです! 一緒に頑張りましょう!」
 大先輩のアイドルということも、順位の序列なんてことも、もう頭になくって、ただただ、目の前の女の子に心を注ぎます。
 握った手に力を入れて、左右に振ると、まゆちゃんの頭がかくんかくんと揺れる。
 それは、まるで壊れた人形みたいでした。
「いいのかしら? 57位のお相手ばかりしてて」
「……いいも悪いもないです! まゆちゃん、頑張りましょう、ねっ!」
「この子が選ばれた結果、70位のあなたのお友達が選ばれなかったとしても?」
「えっ……?」
156:
「……」
 その言葉で、今までまゆちゃんで占められていた思考が一気にないまぜになる。
 さっきの未央ちゃんの顔が浮かぶ。苦しそうな、ギリギリを保つ笑顔。 
「……」
「ごめんなさいね、あなたをイジメたいわけじゃないのよ」
「ただ笑っていて、誰もが判りあう前提として、手を取り合って生きていく」
「争いのない平和なユートピアならそれでいいかも知れない」
「もしかしたら、数か月前の346プロダクションが、あなたにとってそれだったのかも」
「でも、その俯いている顔を持ちあげて、周りを見てみなさい」
「……」
 山積みの書類を運ぶ人、携帯電話に向かって怒鳴り声をあげている人。
 みんな、この場に不釣合いだというかのように、佇む私とまゆちゃんを見下げている。
 慌ただしい景色の中で、私たちだけが、時が止まった世界にいるようでした。
「ここは戦場に変わった」
「もし、あなたが今の甘い考えのままでいるのなら」
「そのまま倒れるか」
「耐え切れなくなって逃げ出すか」
「もしくは」
「うん、そう、きっと」
「お仲間に、背中から撃たれるかも、ね」
 女社長さんはそう言って去っていきました。
 その瞬間に合わせるかのようにカチリ、と音がなって。
──ぼーん、ぼーん。
 鐘の音色が、けたたましく鳴り響きました。
──ぼーん、ぼーん。 
 時計の針が一回りしたことを知らせる合図、でした。
178:
 ……。
 まだ明日は来ないでと願っても、
 どんなに寝苦しい夜を過ごしたとしても、
 眩しい朝の日差しが私を無理やりに起こす。
 
 目覚まし時計の針は、コチコチと、一定のリズムで進んでいます。
 「ん……」
 時間は止まってくれない。
 思考のまとまりがつかないまま、お仕事のために早起きして、
 朝ごはんには生ハムメロン食べて、ママとパパに行ってきますって挨拶して。
「……おはよう、卯月」
 ハナコちゃんを愛くるしそうに撫でている凛ちゃんがお店の前で待ってくれていて、コスモスのにおいでふんわりと包まれる。
 いつも通りの日々。
「……」
 いつも通りの道。いつも通りの風。
 いつも通りのはず、なのに。
「……」
 「いつも通り」から、私たちの会話だけが抜け落ちていました。
「……」
 
 ちょっぴり、ほんのちょっぴりだけ。
 お休みしたいな、ベッドの中でゆっくりと考えごとしていたいなって思いました。
 私、ダメな子ですよね。
 でも、それでもやっぱり時間は止まってなくて。
「おはよ、う、未央ちゃん」
 事務所ではいつも通り、未央ちゃんに会う。
「っ……」
 ソファに座っていた未央ちゃんの肩がぴくりと跳ねて、
 ゆっくりと体をこちらに向けていきます。
「……しまむー、しぶりん」
──70位、です。
 昨日の言葉がまざまざと甦りました。
 凛ちゃんは31位。私は45位。
 私たちと未央ちゃんは今、50位という壁で区切られている。
 アイドルとしての順位。アイドルとしての、格、差……。
 今までぼやけていたものが、見たくないものが、くっきりと縁取られて、目の前に突き付けられる。
 それによって、ニュージェレーションズは、何が変わっちゃうんだろう。 
 何が変わらないままなんだろう。
「……」
 時間は止まってくれません。
 そして……。
「あのさ、私──」
 未央ちゃんの口から飛び出した言葉は、とても意外なものでした。
180:
「当然の結果です」
 ……。
 ……え?
 人差し指で両目を釣り上げて、わざとらしく野太い声でそう言った未央ちゃん。
 それって……プロデューサーさんの、モノマネ……?
「なぁーんてまた言われちゃうかと思ったよー! あっはっはっは!」
 あっけらかんと笑う未央ちゃん。
 ショルダーバッグがずるりと滑り落ちるのにも気づかないほど、私は唖然としていて。
「だってさ、最終結果まであと何か月もあるじゃん、70位上等!」
「……私さ、諦めないよ、絶対に絶対に2人に追いつくから!」
「なに、ボーゼンとしてんのさ、しまむー、しぶりん」
「未央ちゃん……」
 あぁ、良かった、いつもの未央ちゃんだ……。
 そう、ですよね。
 なんで怖がっちゃったんだろう。
 何があっても私たち3人は大切な大切な友達、そう誓ったばっかりなのに。
 
「ほらほら笑顔っ、忘れてるぞ、こわーい顔してても、いいことなんてないもんっ、わかった?」
 その言葉をはずみにするように、凛ちゃんと私は、顔を見合わせてから……。
「「うん!」」
 つよくつよく頷きました。
「さっ、お仕事行こっ、ニュージェネレーションズ、ゴー!」
186:
 ……。
 ──こんにちわ。私は今日お仕事でライブホールにきています。今は楽屋です。
 送信。
 返事はどれだけ待ってもありませんでした。
 ……。
 一方通行の未読メッセージがまた一件、増えました。
 まゆちゃん、大丈夫でしょうか。
 あのあと、頑張ってなんとか連絡先だけは交換したんです。
 こうやって諦めずに話しかけていれば、きっと心を開いてくれます。
 返信が来ますように。
 試しにスマートホンに念を込めてみます。
 むむむ……むむむ……。
 
「卯月、眉間に皺寄り過ぎだよ、メイク崩れるよ……」
「へっ!?」
「最近ちょっと思い悩んでるとこあるけど大丈夫?」
「……うん、ありがとう、凛ちゃん」
「まぁ、無理はないけどさ」
 凛ちゃんに心配されちゃいました。いけないいけない。
 きゅっ、と唇を結んで、表情を作り替えます。
 今はイベントに集中……集中……。
「お待たせしました!」
「ひゃっ!」
 不意打ちの、集中をかき消す大声。
 お待たせしました……?
 スタッフさんでしょうか。
 まだまだイベントまで時間はたっぷりとあるはずですけれど……。
 それに、スタッフさんにしてはずいぶんと声が幼くて可愛らしいような。
 振り返ると……。
 淡い薄紫色がかかったショートヘア。
 キューテクルを目いっぱい詰め込んだ、なだらかな丸みを帯びるコンパクトな身体。
 そして何よりも目を引くのが少しボーイッシュな顔立ちに浮かぶ……。
 
 えっと、その。
「カワイイ」
 自信満々の……。
「ボクが」
 ドヤ顔……ですね。
「楽屋入りですよ!」
197:
 一度見たら忘れたくても忘れられない強烈なキャラクター性で大人気、
 バラエティ番組で引っ張りだこの輿水幸子ちゃんがそこにいました。
「いやー、ホンっっトに幸運ですよねぇ、今でも予定ビッシリな超人気アイドルのボクに偶然にもアポをとれただなんて」
「……」
「総選挙の順位も絶好調、あぁ、ボクはなんてカワイくてステキなんでしょう!」
「……」
「ふー、そこのスタッフさん、とりあえず冷たいお茶をもらえますか」
 ぱたぱたとハンカチでそよぎながら、頬の火照りを冷ます幸子ちゃん。
「ちょっとスタッフさん、聞いてるんですか?」
 視線の先はあきらかに私たちに向けられていました。
 スタッフさん……私たち……?
 3人で顔を見合わせて、いきなりの問題の答え合わせ。
 ……。
 2人の視線に挟まれた私は、促されるようにそっと手をあげました。
「あの、楽屋間違えてませんか?」
「……へっ?」
「ここ、私たちニュージェネレショーンズの楽屋のはず、ですけど……」
「ニュー、ジェネ、え?」
 今度は幸子ちゃんの答え合わせが頭の中で始まりました。
「えっ、と、それって」
 みるみるうちに頬が赤く染まっていって……。
「まっまさかまたボク、間違え」
 そこまで言いかけて、口をくっと噤む。
 それから何か閃いたように、ぱあっと顔を明るくして。
「いいえ、違います! そう、こ、後輩のあなたたちにカワイイボクが何かタメになるアドバイスをしようとやってきたんですよ!」
「アドバイスですか……?」
「感謝してくださいね!」
「は、はぁ……」
「感!謝!してくださいね、なにせ、この──」
 グーを自信満々に身体の前に突き出して、
 ぴん、と細くて小さな指を1本跳ね上げました。
 もひとつ、ぴん。
 ぴん。
 ……ぴん。
「総選挙4位の、このボクの直々のアドバイスなんですから!」
216:
「ふふーん!」 
 ぴこぴこ。
 犬が尻尾を振るように、両サイドのハネっ毛が上下に揺れ、た?
 気、気のせいですよね。
「ふふふふーん!」
 鼻息の音がふんす、と聴こえてきました。
「あの、幸子、ちゃん?」
「はい、何でしょう!」
「アドバイスって……?」
「えっ?」
「もしかして考えてなかっ──」
「えっ、やだなぁ、カンペキなボクに限ってそんなことあるわけないじゃないですか!」
 四方八方にめまぐるしく回る幸子ちゃんの瞳。
 幸子ちゃんきっとこういうところがカメラ映えするんだろうなぁ、私も頑張って参考にしなくちゃ……。
「あっ、えっと、そう、あれですよ! アレ──」
「『この世の成り立ちに早く気づくことよ、輿水』ですよ!」
「……」
「どうでしょう! ボクのアドバイスは!」
「……」
「輿水?」
「えっ?」
「今、最後に輿水って……」
「あっ、これはさっきボクが社長さんに言われたことだった……って違いますけどねー!」
「ま、まぁ、この世の成り立ちなんて、ボクは生まれた時からとっくに知ってることです! 教えてあげますよ」
 流れがあまりに急すぎてついていけません……。
「それは──」
………。
……。
…。
「世界一カワイイボクとその他大勢で、この世は成り立っているってことです!」
 そ、そんなに溜めていうことなのかな……?
「宣言します、総選挙はトーゼン世界一カワイイボクが1位になるということを、それがこの世の理、この世の定めです! それでは失礼します!」
 ガチャン。
 ドアが閉まる。
 途端に水を打ったように静まり返る室内。
「台風みたいな子だったね……」
 凛ちゃんが私の心を代弁してくれました。
219:
……。 
 
 イベント開演まであと1時間。
 凛ちゃんが唇にグロスをきゅっと引く。
 目尻がかすかに引き閉まって、徐々にファンに向ける顔付きになっていく。
 未央ちゃんはそれにしてもさっちー可愛かったなぁ、なんて独り言を漏らしてて、
 持ってきた雑誌をぺらぺらとめくってる。口ずさんでいるのは『ミツボシ☆☆★』。
 私も、鏡の前で笑顔の練習。……ぶいっ♪
 お客さんの前に出るときは、いつもイチバンの島村卯月を見せなくちゃ失礼になっちゃいます。
 慣れはあっても、全く緊張しないお仕事なんて、ない。
 リハーサルで一回もミスしなかったとしても、本番で初めてその1回目がくるかもしれない。
 とくん、とくん。
 だからこうして時間をかけて、ゆるやかに高めていくテンション。
 ……。
 ガチャリ。
 ふと、また金属音がしました。
 ドアノブが回る音。
 きぃ、と軋んだ音がしてゆっくりとドアが開いていく。
 「はぁー……」
 そこには、また、私の先輩のアイドルさんがいました。
 最近、他のプロダクションから移籍してきた方で、何でも女社長さんが直々に引き抜いてきたそうです。
 346プロの在籍期間は私のほうが長いですけれど、アイドル歴は私より何年も長い方。
 部屋をぐるりと見渡して、どさりとバッグを床に置きました。
 えっと……。
 凛ちゃんと顔を見合わせて、いけないとは思いつつも……。
 ふふっ、少しだけ吹き出してしまいました。
「あの、楽屋間違えてますよ?」
 こんなことって、二度もあるんですね。
223:
「……」
「えへへ、私もたまに楽屋間違えちゃうんです、その度に怒られちゃって」
 まだ、部屋の隅々を見渡しています。
 ……?
 少し様子がおかしいなと思って、名前を呼んだのですが反応がありません。
「あの……?」
「……」
「いいじゃん」
「えっ?」
「いいじゃん! やっぱ3人部屋だから広ーい! こっち1人部屋でさー」
 そう言って、バッグからペットボトルを取り出して、メイクグッズとお菓子を取り出して……。
 えぇ?!
「あ、あのっ! ここニュージェネレーションズの楽屋なんですけど──」
「代わってよ」
「え?」
「私と、部屋代わって、ね?」
 な、何を言って……。
「26」
「……にじゅう……?」
「私、26位だから、確認してもいいよ? ま、そういうわけで、忙しいから」
 視線はもうスマートホンの液晶画面に映るブラウザゲームに注がれて、
 私たちへの興味をまるで失っているようでした。
 理解が追い付かなくて、どうして、という気持ち。
 この前までは、楽屋が一緒のお仕事の時はあんなに楽しくおしゃべりしてたのに。
236:
 どうして?
 どうして?
 
「あーミスっちゃった」
「……」
 軽快な電子音がアンバランスに鳴る室内。
 あぁそうだ、きっと何かの冗談、ですよね。
 私たちをビックリさせようと思って、わざとそうしてるだけで。
 イベント前でカチカチの、私たちの緊張を解そうなんて、きっと思ってるんです。
 人を簡単に疑っちゃいけません、ママの言葉を思い出します。
 ちっちゃいころに、私がたいせつにしていたアルパカのぬいぐるみ。
 それがなくなった時に、もしかしてだれかが盗んだのかな、なんて言ったら優しくぴしゃりと手を叩かれてそう言われました。
 結局ぬいぐるみはベッドの下に埋もれていただけで。
 ママの優しいおしおきよりも、ずっとずっと体のあちこちが痛くなったのを覚えています。
 
「あの、えーっと、もしかしてドッキリ番組だったり?、なんて、えへへ」
「……」
「あ、それとも部屋におっきな虫がいたとかですか!」
「……」
「…っ…! そっそれともっ、何かイヤな事でもあったんですか。私でよければ相談に乗りますから」
 ふと、右肩に掌が乗せられる感触がして、くいと体を軽く引かれました。
 自然と視線が向かった先には……。
「……26位、だから?」
 凛ちゃん……。
238:
「26位だから、何?」
「え、ルールでしょ、説明聞いてなかった?」
 目線は依然としてスマートホンに注がれたままでした。
「楽屋狭いのが嫌ならせめて一緒に使えば、いいんじゃないの」
「いやそれじゃ意味ないでしょ。あ、あと私の方が年上だし芸歴長いからこれから敬語使ってね」
「……あなたは、それでいいの?」
「いいも悪いもルールでしょって言ってるの、31位ちゃん」
「……」
「ルール、でしょー」
「……」
「何その眼、ちょっと新人で他より人気あるからって、調子乗ってる?」
「……」
「何?」
「……ふーん、そっか、“そういう人”だったんだ」
 その時、スライドさせる指がぴたりと止まって。
 視線が液晶画面から外れて、まっすぐと凛ちゃんの方へと向けられました。
「あんた、生意気だね」
 瞬間、ピンとした空気が張り詰める。
 予感。これ以上何か言ったら……!
 
「ストーップ!!!」
 ……!
「ま、まぁもう時間もないしさ! 後でゆっくり話しましょってことで、今回は私たちが出ていくから、ほらほらっ!」
 よかった。察した未央ちゃんの助け舟が入りました。
 私たちの背中を強引に扉の外へと押し込もうとします。
「しまむー、しぶりん! さっ行こうよ!」
 
「う、うん……」
 私は未央ちゃんに背中を押されながら
──ここは戦場に変わった。
──もしあなたが今の甘い考えのままでいるなら……。
 
 女社長さんの言葉を、思い出していました。
249:
……。
「こないだの子さ、何でもプライドがすっごい高くて前の事務所で揉めたらしいよ」
 
 未央ちゃんが、前屈運動をしながら言いました。
「だからさっ、よっと、しぶりんもぉ?……気を付けたほうがいいよ 」
「……」
 無表情でハナコちゃんが映る待ち受け画面をじっと眺める凛ちゃん。
 考え事をするときにたまに見せる動作。
 結局、あの後抗議をしたのだけれど、聞き入れられなくて……。
 
 悔しかったらやり返してみればいいじゃない、と女社長さんは言いました。
 いいでしょ彼女、面白そうだから試しに引き抜いてみたの。
 社長さんはいつも口元に笑みを携えていています。
 いつも同じ表情。あんな人初めて……。
 ……ううん、結構いるかな、文香さんとかのあさんとか……。
「……集まってるな、それじゃトレーニング始めるぞ」
 
 時間きっちり。
 ベテラントレーナーさんが防音扉を重そうに押し開け入ってきました。
250:
……。
 汗がぽたりぽたりと床に落ちて水溜まりを作る。
 はぁはぁ、頭の中が霧がかったように、思考がかすれる。
 今日も厳しいなぁ、レッスン……。
 で、でも弱音は吐きません。島村卯月、頑張ります!
「はいはーい! 次は何の特訓? ダンス、歌?」
 
 未央ちゃんだけがまだまだスタミナ満タン!といった具合に手をあげます。
 
「あー……」
 ベテラントレーナーさんは、バインダーに挟まった書類を眺めながら、ペンで頭を掻く。
 何か言い淀んでいるような。そんな素振りに見えます。
「言い辛いことなんだが……」
「私、何でもやるよ!」
「……本田」
「はい!」
「……今日はお前はもう帰っていい」
253:
「えっ?」
 未央ちゃんの、不意を突かれたような声が聞こえました。
 私の前に立ってるので、表情は見えません。
「ど、どうして?」
「どうしてもこうしても、そう指示されてるんだ……」
「ユニットが出来てからは、常に3人一緒で練習だって……」
「……」
「わ、私の体調とか気分とか気遣ってるんなら大丈夫だよ」
「……」
「べ、別に落ち込んでなんかないから!」
「……本田」
 あ……。
「ま、まだやらせてよ! お願いします!」
「本田、いいか、よく聞け、私だってこれは、不本意だ」
 この声色は、聞き覚えがある。
「だけどな、私だって、346プロの被雇用者で、しかるべき仕事をして給料を貰っている立場なんだ」
 これは、そう。
「上からの指示には、従わざるを得ない状況だってある……」
 子供のワガママを、なだめる時の声色。
「で、でも!」
「本田……」
 力強く握りしめたバインダーが、パキリ、と割れた音を立てました。
「あまり、大人を困らせないでくれ」
258:
……。
 未央ちゃんはあの後、私たちに振り返って言いました。
 まぁ、しょーがないかー! あっはっは! 今日は帰って自主トレしてるね。
 凛ちゃんが、3人一緒じゃないとやりたくない、と抗議したのを、未央ちゃんは強い口調で制止しました。
 だめだよ、しぶりん、振り返らず前だけを向く、でしょ。
 勝手だけど同情はさ、多分、今の私にとってはマイナスだから。
 絶対に追いつくから、ニュージェレーションズは、みんな隣に並んでこそ、だから、ね。
……。
「こ、これってどういうことですか」
 前よりも更に頬が削げ落ちたプロデューサーさんに、今後のスケジュールを告げられて、真っ先に呟いた言葉でした。
 ニュージェネレーションズとしての、活動がほとんど無い……。
「申し訳ありません、私の努力不足で……」
「ち、違います、プロデューサーさんは、その、とっても頑張ってるじゃないですか!」
 最近、返信が返ってくるまでの余白の時間がどんどんと長くなっていく私とプロデューサーさんのLINE。
 1時間から、3時間、12時間、1日、2日、3日……。
 そんなプロデューサーさんに、頭を下げてなんて、欲しくありませんでした。
 
「その、何か理由が……」
 原因は、薄々わかっていました。
 それでも聞かずにはいられませんでした。
「……」
 首元に手をあてて、プロデューサーさんは言いました。
「順位が、社内だけでなく業界全体にすでに回り始めているようです」
「社内でも、その、方向転換に乗り出す頃合い、と通達されました……」
「渋谷さんのソロのお仕事は増えてまして、それに伴ってユニットとしての活動は……」
「……」
「……渋谷さんに、先ほどこう、言われました」
「えっ?」
「対等な条件下なんて、でまかせだ、結局初めからある程度人気がある者が勝つようになっているのではないか、と」
「……」
「私も、当初からその点で意見はしてみたのですが、聞き入れられず……」
「……」
「……申し訳ありません」
「……」
 じわり、じわりと捻じれていく、私たちの日常。
 何が変わっていって……。
 何が……。
293:
「……」
「……意見した際に、このように、言われました」
 あら、だって世の中って往々にしてそういうものじゃない。
 生まれた時から不平等で、格差がある。
 配られたカードは選びなおせない、振られた賽は止められない。
 勝つべき者がいて、負けるべき者がいる。
 不条理で不合理にして、条理的で合理的。
 でもね、中には勝つべくして負ける者もいて、負けるべくして勝つ者もいる。
 ふふ、誰が残るかは、私も少し楽しみなの。
 ……。
 島村さん、本番5分前です、準備お願いします。
 舞台袖で、スタッフさんにそう声をかけられる。
 薄暗い場所だから、スマートホンの灯りがちかちかして少し目が痛い。
 映っているのはみんなとのメッセージ履歴。
──こっちも今度、営業とかPR活動とか色々あるからさ、心配しないで!
 未央ちゃんから、既読。
──今回はお互いソロの仕事だね、だけど卯月も未央も傍にいると思って、やるから
 凛ちゃんから、既読。
──今日は司会のお仕事です、体調崩していませんか、お互い頑張りましょうね
 まゆちゃんへ、未読。
──美味しいお菓子をかな子ちゃんから貰いました、今度持っていきます、あまり無理しないでくださいね
 プロデューサーさんへ、未読。
「……」
 知らない人ばかりの現場を通されて、楽屋でお喋りする相手もいなくって、転んじゃった時に笑ってくれる人もいない。
 スマートホンの電源を切る。
 一人ぼっちの感覚が更に深みを増して、私を飲み込もうとする。
「……っ!」
 いつも3人一緒にいたから、わからなかった。
 弱音一つ吐かないでソロのお仕事をこなす凛ちゃんがどれだけ強い子か。
 隣でいつも笑ってくれている未央ちゃんがどれだけ頼もしい子か。
「……」
 甘い考え、ってこういうこと、なんでしょうか。
 変わってほしくないって思うこと、みんな笑顔でいて欲しいって思うこと。
 傍に誰かがいて欲しいって思うこと、一人ぼっちじゃ寂しいって思うこと。
 最近いろんなことがいっぺんに起こって、考えているうちに、おいてけぼりになっちゃう感じがする。
「……」
 ……ダメ、ですよね、こんなクヨクヨしてちゃ。
 うん、そうだ、私は変わらないままでいよう。
 いなくちゃ。
 3人でステージで立った時に、同じ気持ちでいられるように。
 憧れてた場所を、ただ遠くから見ていた時とは違うから。
 
 ……私に出来ること。
「笑顔、笑顔……!」
 笑顔と努力、島村卯月、頑張ります。
 舞台から出ると、歓声と眩いライトが私を照らして、先頭にはいつもの男性のファンの方が応援してくれていました。
294:
……。
 2回目の中間発表はそれから暫くしてのことで。
 ちひろさんが紅茶の注がれたティーカップを2つ置く。
 今日は凛ちゃんはソロの演劇の練習、未央ちゃんはラジオ番組の収録。
「島村卯月、さん」
「はい!」
「その、この間の件は、申し訳ありませんでした」
 首に手をあてて、プロデューサーさんは言いました。
「この間……?」
「三村さんの、その、お菓子……なのですが、結局受け取れず」
「えっ、そんないいんです! 私ったらお節介で、えへへ」
「……」
 ふと、プロデューサーさんが真剣味を帯びた瞳で、私の顔をじぃっと見つめていることに気付きました。
「あの、何でしょうか?」
「少し、安心しました」
「えっ?」
「何でもありません、それでは順位を発表します」
「……」
「島村さんは──」
296:
「……待ってください」
「っ……」
 言いかけたプロデューサーさんの口が、そのままの形で止まる。
「あの、先に未央ちゃんと凛ちゃんの順位を教えてくれませんか」
 喜ぶのも、悲しむのも、それから。
「……」
 プロデューサーさんは、一度目を伏せてから、言いました。
「わかりました」
「……ありがとうございます」
「それでは、渋谷さんの順位から、お伝えいたします」
「……はい」
「渋谷さんの順位は──」
 きゅっ、と胸が締め付けられる。
 凛ちゃんは、格段にソロのお仕事が増えました。
 舞台の主役も決まって、今はその練習に精一杯明け暮れている日々、だそうです。
 舞台名は『蒼き魂』。凛ちゃんにピッタリのお仕事ですね。
 
 凛ちゃん、会う機会は減っちゃっても、私、ちゃんと応援してますから。
「……」
 凛ちゃん……!
「19位、です」
304:
「……」
 す……。
「やはり、初の舞台が注目視されているようです、その結果、新規のファンも増えていて好調な推移であるといえます」
 すごい……。
「すごい、凛ちゃん! すごいです!」
 気持ちが溢れて、つい口に出さずにはいられませんでした。
 それでも足りなくて、手や足が自然に動いちゃって……。
 
「ネットやテレビ番組での宣伝が大体的にされ始め、総選挙が注目されるようになってきています、順位が大きく変動する事も珍しくはありません」
「プロデューサーさんも、嬉しいですよね! すごいって思いますよね!」
「……はい」
 無表情で頷くプロデューサーさん。
「では、続いては、本田さんです、よろしいでしょうか」
 あっ……。
 火照った心が、一気に冷まされる。
 未央ちゃん、この前会った時はいつもと変わらずに笑っていました。
 いやーむしろ前より忙しいくらいだよ、飛び込み営業とか河川敷でタイヤ引いてみたりとか!
 そしたら茜ちんが乱入してきてビックリしたよー!……なんて風に。
「わかりました……」
 語気を強めて言う。
「本田さんの順位は──」
 ……未央ちゃん、ラジオ番組は必ず聴いていますから。
 ラジオでのオハガキの返事に対して、笑って、こう言ってました。
──ツラいこともあるから、成功した喜びも大きいんだ……きっと。
 未央ちゃんからパワーを貰っている人が、たくさんいる。
 元気な声に救われて、応援しようって人が、きっとたくさんいる。
 もっともっと、未央ちゃんの声が聞きたいなって思う人が、たくさんいる。
「……」
 だから、未央ちゃんは大丈夫……!
「64位、です」
318:
「64位……」
 上がってる……よかった……。
 強張った表情が、ゆるりとほぐれてしていきました。
「最近の本田さんの努力に鑑みれば、当然の──」
 ごほん、とひとつ咳払い。
「……順当な結果であるといえます」
「あの、未央ちゃんは、その、大丈夫そうですか」
「……このまま上昇する傾向にはあります、ただし残りの期間でどこまで伸びるかは、現状では何ともいえません」
「そう、ですか」
 きっと、プロデューサーさんは正直に言ってくれたんだと思います。
「それでは、続いては島村さんです、よろしいですか?」
「は、はい!」
 どんな結果でも、受け止めなくちゃ。
 未央ちゃんも、凛ちゃんも前を向いて進んでる。
 きっと、順位が上がったのは、その決意の表れですから。
 私もその気持ちで、私に出来ることを重ねてきた、つもりです。
「島村さんの順位は──」
 気づけば自然と、お祈りのポーズになっていました。
 きつく目を瞑って、プロデューサーさんの言葉を待つ。
 掌がじっとりと汗で湿る。
「……」
 お願い……!
321:
「45位、です」
 ……!
 ……えっ? 
 ゆっくりと目を開ける。
 映るのは、首に手を当てているプロデューサーさん。
「島村さんは、なんといいましょうか、とても、安定しています」
「えっと……」
 喜んでいいんでしょうか。
 悲しんでいいんでしょうか。
 頑張ったから、順位を落とさずにいられたんですね、やりました!
 そんな、あんなに頑張ったのにそのままなんですか?!
 うぅん……。
「不服、でしょうか」
「へっ、いいえ! そういうわけじゃないんですけど、ちょっとビックリしちゃいました」
「……」
「なんというか、普通、ですね、えへへ」
「普通、ですか……」
 また首に手を当てるプロデューサーさん。
「あと1回、中間発表があって最終結果となります、残りの期間はそう長くはありません」
「はい、頑張ります」
「どうか、無理はなさらず」
「大丈夫です、プロデューサーさんも、その、無理しないでくださいね」
「……はい」
 ぺこりと一礼してから回れ右。
 ドアノブを回そうとしました。
「……待ってください」
「えっ?」
「その、私は、普通であることも、時には大切であると思います」
「……?」
「……それだけです、どうか、無理はなさらず」
 プロデューサーさん、その台詞2回目ですよ?
327:
……。
 事務所の廊下は相変わらず、慌ただしく社員さんが行き来していました。
 
 みんな大変、なんですね。
 私も頑張らなくちゃ。
 そうだ、えっと……。
──まゆちゃんは今日は事務所に来ていますか、良かったらお話──
「どういうことですかっ!!!」
 不意に、目の前の執務室から、喧騒を上塗りするかのような怒鳴り声が聞こえました。
「こんなのっこんなのおかしいですよっ!」
 どこかで聞いたことがある女の子の声。
 えっと、たしか……。 
「世界一カワイイボクがこんなのっ……」
 あっ、このキーワード……。
 ひょっこりと、部屋へと顔を覗かせると薄紫色のショートヘアの後頭部が見えました。
 幸子ちゃんだ……。
 よく見れば肩がぷるぷると震えています。
 何かあったのかな……?
「大体……!」
 机をおもいきりグーで叩き付ける音が鳴り響きました。
 社員さんが数人で、何か慰めの言葉をかけています。
 大丈夫、とか、きっと疑いは晴れる、とか、信じてる、とか。
「大体、ボクが人のものを盗むわけないじゃないですか!」
 社員さんが何かをぼそりと呟きました。
「ネットで騒ぎになってる……? だから知らないですってば! 冤罪です!」
 また机が大きく揺れて。
「こんな、こんなくだらないことで……」
 ずるずると、小さな体が机にうなだれていきました。
「5位も順位を落とすなんて……!」
359:
 背中を丸めている幸子ちゃんに向かって、
 社員さんが、9位でも十分すごい、と言いました
「……っ!」
 限界まで縮んだバネが元に戻ろうとするように、勢いよく幸子ちゃんの体が飛び跳ねました。
「ボクはっ世界一カワイイボクは一番じゃなくちゃダメなんですっ!」
「……失礼します!」
 俯いたまま、扉に向かってきます。
 自然と……。
「あっ……」
 私と目が会いました。
「この間の……」
 ぽかん、と口を開けたまま立ちすくむ幸子ちゃん。
「……っ!」
 そのまま表情が歪んでいって、きりきりと食いしばった歯が鳴る、瞳が潤んでいく、
 もう見ていられなくなって、
 幸子ちゃん大丈夫ですか、そう声をかけようとした時でした。
「なんですか、その目は……」
「えっ?」
「ボクを、哀れんでるんですか」
「えっえっ、そ、そんなつもりじゃ……」
「……」
「幸子ちゃん……?」
「……ボクは絶対に、諦めませんから」
 そう言って、くるりと踵を返して去っていく幸子ちゃんの背中をしばらく茫然と見ていました。
「私、どんな顔してたんだろう……」
 哀れみ……?
 胸の奥にしこりのような、かすかな違和感を覚えたその時でした。
「輿水、やっぱり見込みあるわね」
 背筋に氷が滑るような感覚。
 振り返ると……。
「彼女ね、別のプロダクションのアイドルと共演した際に何かモノを盗んだって騒がれてて、気が立ってるのよ」
 女社長さんがいつのまにか背後に立っていました。
「調べてさせてみると、実際はファンが面白がって広めたでまかせに尾びれがついただけで事実無根」
「……」
「人の噂も75日、いずれ忘れられるだろうけど、いずれにしても今の彼女にしてみればたまったもんじゃないわね」
387:
「まぁ、あの程度の理不尽や逆境には耐えてこそよ、ねぇ?」
「へっ?」
 急に意見を求められてしまいました。
 答えを用意していない私はしどろもどろになってしまって、
 えっと、とか、あのとか意味のない言葉を発することしか出来なくて。
 そんな私の姿を見て、くすくすと女社長さんは笑って言いました。
「ふふ、ごめんなさい、またあなたを困らせちゃったわね」
それから腕時計に目を落として、女社長さんは言いました。
「あら、もうこんな時間、そろそろ行かなくちゃ」
「……えっ、あっ、あの」
「あなた、何者、そんな顔してるわね」
 また、私の心を見透かされているかのようでした。
「そうねぇ、さしずめ……」
 女社長さんはいつもの口元に笑みを浮かべた表情のまま、言いました。
「あなたを虐める継母かも、ね」
「えっ……」
「それじゃあね、あの時の忠告、ゆめゆめ忘れなきよう」
 ……。
 一人きりになった廊下。
 壁掛け時計が、コチ、コチと一定のリズムを刻んで音をたてていました。
389:
……。
 ベッドに寝転がって、ぼんやりと天井を見つめる。
 まどろむ意識のなかで、またかすかな違和感が一瞬、体の内側を走りました。
 きゅっ、と胸を抑えるとそれはもう引っ込んじゃって。
 「……」
 なん、なんだろう。
 人差し指を2本、口元に持っていって、くいっと持ち上げる。
「もっともっと皆の笑顔のために、頑張りますね、島村卯月です」
 感情を込めないで、何気なく思い浮かんで発した言葉。
 えっと、写真撮影の時に言ったんだっけ。
 スマートホンが鳴る。
 相手は……。
──卯月、明日は久々に一緒に仕事だね。
 凛ちゃんでした。
「……」
──ねぇ、凛ちゃん、私、何か最近変わったかな?
……既読。ちょっぴり、緊張。
 すぐに返信が返ってきました。
──むしろ変わらなすぎるよ、卯月は。
えっ……。返信する前に、重ねてメッセージが届きました。
──だから安心するよ、卯月を見てると。
──前にも言ったけどさ、いつだったかは忘れたけど。
──卯月の笑顔は、本物だと思う。
「……」
 少し文面に迷ってから、結局、とりとめのないメッセージを送りました。 
──ありがとう、明日は頑張ろうね、凛ちゃん。
390:
……。
 イベント会場につくと、凛ちゃんが手を振って迎えてくれました。
「久しぶり、卯月、昨日どうかした?」
「ううん、何でもないよ、凛ちゃん」
「ふーん……」
 紙パックのミルクティーに差し込まれたストローを咥えながら、私を横目で見る凛ちゃん。
 本番前に、変に心配させちゃいたくなくて、私は咄嗟に言いました。
「そ、それにしても凛ちゃんすごいですよね、舞台すっごく注目されてるみたいで」
「えっ? あぁ、うん、初めてのステージだし、大変だけどさ、やり甲斐あるよ」
「頑張ってるんですね」
「うん、卯月と未央に、負けないようにね」
 どきん、と胸が跳ね上がりました。
 私は45位、未央ちゃんは……。
「……」
「私さ、結構悩んだけど、今はもう、考えてないから」
「えっ?」
「みんなが、隣にいない未来なんて、考えてない」
「凛ちゃん……」
「もしそうなったらどうしよう、とか、何か別の道があるんじゃないか、とか今は考えないから」
 真っ直ぐな瞳が、ブルートパーズのように輝いていました。
391:
……。
 そのあとすぐに、スタッフさんがやってきて、楽屋に案内されました。
 入り組んだ建物の、曲がり角をあれよこれよと曲がっていきます。
 しばらくすると、ホワイトボードに『346プロさま』と手書きのサインペンで書かれた部屋の前に着きました。
「すいません、ちょっと狭いんですけど、相部屋でいいですか?」
 スタッフさんは、頭を掻きながら申し訳なさそうに言います。
「あっはい大丈夫です、凛ちゃんとはいつも一緒ですから、ねっ?」
 凛ちゃんはこくりと頷いて、ドアノブを捻りました。
「あっ……」
 その瞬間、凛ちゃんと、部屋の中から、もう一人聞いたことのある女の人の声が聞こえました。
 なんだろう、部屋の中を覗きこむと……。
 床に広がったメイクグッズ、お菓子、ペットボトル。
 スマートホンから流れる、ブラウザゲームの軽快な音。
 この間の楽屋で会った先輩アイドルさん……。
 たしか今の順位は、わずかながらも、
 凛ちゃんより、下でした。
393:
「……」
 ドアノブを握ったまま固まる凛ちゃん。
 覗きこんだ姿勢のまま動けない私。
 凛ちゃんへの視線を外せないまま、何か言葉を探しているそぶりを見せる先輩アイドルさん。
 ブラウザゲームの音だけが室内に鳴り響いていました。
「……」
 長い長い、沈黙が続きました。
 気の遠くなるような、長い長い沈黙。
「ふぅ……」
 不意に、溜息が聞こえてきました。
 沈黙を破ったのは……。
「いいよ」
 
 凛ちゃん……。
 私を部屋へ押し入れるように肩を引いてから、もう一度いいよ、と呟きました。
「みんなで一緒に使おう、楽屋」
 凛ちゃんの言葉を聞いて、口をぽかんと開ける先輩アイドルさん、
 それから、顔をしかめて言いました。
「何で……」
「何で、って」
 目を左右に泳がせながら、何か適当な言葉を探している凛ちゃん。
「あんた私より順位上でしょ、何か裏があるんでしょ、渋谷、おかしいよね、お互いムカつく相手でしょ」
 眼には、警戒の色が宿っていました。
「あのさ……」
 凛ちゃんのあまりに真っ直ぐな瞳が、疑いの瞳を射止めました。
「私とあなたは、違うから」
「……っ!」
 途端に、かぁっと頬が赤くなって、瞳がぐらぐらと揺れるのがはっきりとわかりました。
 バッグを乱暴に引っ掴んで、広げた荷物を手当たり次第に放り込む先輩アイドルさん。
「……っふざけんなっ! バカにしやがって!」
 大きな足音を立てて、部屋から出て行こうとします。
「あ、あのっ……!」
 ドアの前には丁度私が立っている、このまま退くわけにはいきませんでした。
「違うんです! 凛ちゃんはそういうつもりで言ったんじゃなくて!」
 こういう時、未央ちゃんがいれば……。
「凛ちゃんは、あの、ちょっと口数が少ないから誤解されちゃうこともあるけど、本当はとっても優しい子で」
 きっと、解決できたんだろうな……。
「話し合えば──」
 私の言葉は、肩を強く押された衝撃で、遮られました。
「……うるさいっ、この……」
 同時に、私に投げつけられた言葉。
「偽善者っ!」
……。
394:
 それから、数日が経ちました。
……。
「ママ、私、ギゼンシャなのかな?」
 
 囁くような小さな声で呟く。
 洗い物をしているママの肩が、ぴくりと跳ねました。
「卯月、今何か言ったかしら?」
「……ううん、何でもない」
 マグカップをくるくると回しながら、言いました。
 中の液体がゆらゆらと揺れるのを、ぼんやり眺めます。
「そう……」
 きゅっ、と蛇口を捻る音がする。
 それからママは椅子に向かい合って座って、言いました。 
「卯月、あなたはたまに頑張りすぎるところがあるから心配だわ」
「……」
「辛い時は、休んでもいいのよ」
「ううん、大丈夫」
 スマートホンが、鳴りました。
──卯月、ごめん、風邪引いたから次の仕事休む、移したら大変だから、見舞いは来なくていい。
──大事な時期だし、来たら怒るよ。
「……」
 これで、最終結果まで、凛ちゃんと未央ちゃんとのお仕事は、無くなりました。
「……」
 強いなぁ、凛ちゃん。
 私は、凛ちゃんみたいに強くないから、一人になると、色々考えちゃうよ。
 もし、みんなでまたステージに立てれば、こんな気持ちも吹き飛んじゃうのかな。
 どうなのかな……。
 その夜、養成所の頃の夢を見た、ように思います。
 それから、最後の中間発表の日はすぐにやってきて……。
401:
「はーい、それでは最後の中間選挙結果を発表しますね♪」
「は、はい……」
 ちひろさんの明るい声が室内に響きました。
 プロデューサーさんはとても多忙、とのことで代理で伝えてくれるそうです。
「ふふ、プロデューサーの声真似したほうがいいんでしょうか」
「普通でいいと思いますけど……」
「そうですか、それでは……こほん……」
「あのっ、未央ちゃんと凛ちゃんの順位から……」
「はいはい、承っておりますよ、ふふ」
「お、お願いします!」
「まず、未央ちゃんの順位は……56位です!」
 お願い、上がってて未央ちゃん……!
 お祈りのポーズをしようと、指を組もうと……。
「えっ?」
「56位です♪」
 ……って、えぇ?!
 そんなあっさり?!
「時は金なり、ですよ♪」
 にこにこと、笑みを浮かべながら、書類をめくるちひろさん。
「えーっと、最近ネットの水面下で51位以下は解雇になるという噂が半信半疑ながらも広まっています」
 ぺらりと書類を1枚めくって、続けます。
「社長が直々にメディアで、世論の操作をかねてより行っていたのもあり、比較的受容的な意見に傾いている」
 書類から顔を上げて、ちひろさんは言いました。
「346プロへの再三のバッシングが転化して、同情的な目で見てくれてるみたいですねぇ、仕方ないことなのかな、と、むしろよくこの企画を乗り出してくれたな、と」 
 また、書類に目を落とします。
「えっと、それに伴って予想より下回っていた投票率がやや上昇傾向にある」
「本田さんのファンは元より多いので、その層が本田さんを辞めさせたくないと、投票に意識を向けたならば今回の順位は」
「当、あら、これ消えてますね、順当な結果です、とのことです、ふぅ?」
 言い終えて、ちひろさんは机に置いてあったスタミナドリンクを一口飲みました。
「あと……6位……」
 でも、最終結果までは、あとほんの僅かな期間しかない……。
 私は、ちひろさんに向かって叫びました。 
「あの、間に合うんでしょうか!」
「えっと、それは私に聞かれても……あ、卯月ちゃんもドリンク飲みますか?」
404:
「もちろん無料なので、どうぞ」
「あ、ありがとうございます……」
 ちひろさんからスタミナドリンクを受け取りました。
 口に含む。
 炭酸が弾けて気持ちいい。
「あ、凛ちゃんは23位です」
「……っっげほげほっ!」
 思わずむせてしまいました。
「はっ早いですっ……わ、私まだ心の準備が……」
「あ、ごめんなさい、事務処理ばかりしてると、こういうのはてきぱきしなきゃ、と思ってしまって……」
「少し、下がっちゃいましたね」
 1、2回深呼吸してから、気持ちを落ち着けてから言いました。
「えぇ、多少の浮き沈みはありますから、でも、凛ちゃんはもう安全圏、ですね」
「そう、ですか」
「プロデューサーさんの書類にも、渋谷さんは何も心配いりません、と書かれてますねぇ」
 良かった……。
「では、次は卯月ちゃんの順位です」
「はい、あ、あの……」
「あ、はい、わかりました、もっと、それっぽく言いますね……」
418:
「それでは、卯月ちゃんの順位は……」
 心臓が、とくんと跳ねる。
 
「……」
 ちひろさんは目を瞑って、唇を一文字に結んでいます。
「……」
 お願い……!
「……」
「……」
「……」
「あ、あの……」
「はい?」
「今度はちょっと溜めすぎじゃないかな、って……」
「えっ、ごめんなさい、クイズ番組を参考にしてみたんですけど……」
「……」
「はい、それでは、卯月ちゃんの順位は……」
 すぅ、と息を吸ってから、ちひろさんは言いました。
「45位、です」
 ……。
 ……また変わってない?
 ちひろさんは、書類に目を落とします。
「島村さんらしく、このままのペースで頑張っていきましょう、とのことです」
「このまま……」
「総選挙効果で業績も上々! 投票券のために頑張ってくださいね♪」
 このまま、このままで、いいんですよね。
 胸の奥が、またむずがゆくなる。
「それでは、失礼します……」
 ぺこりと一礼して、ドアノブを捻ります。
「……待ってください」
「えっ?」
 気づけば、ちひろさんが真後ろに立っていました。
 そのまま、顔を近づけて、人差し指を一本、私の口元にあてました。
「これから話すことは、オフレコでお願いします」
 
 耳元で、囁くように言われました。
422:
「ひどい、と思いますか、このシステム」
「えっ……?」
「本当はですね、当初はアイドル部門が潰れる計画もたっていたんです」
「えぇ?!」
 しー。
 静かに、の意味合いを示す息遣いをするちひろさん。
「ところが、社長が形を変えてでも、この部門は継続したい、と言い出したんです」
「……」
「実際、スポンサーの離れたアイドル部門に、お仕事がくるのは社長のコネクションによるのも大きくて……」
「どうして、そこまで……?」
「理由はわかりません、掴みどころのない人ですから、でも何か特別視してるのはたしかみたいです」
「……」
「346プロのみんな、いい子ですよね」
 柔らかく笑うちひろさん。
 作り笑いではなく、自然な笑顔でした。
 そのまま、微笑みながら言葉を続けます。
 私は、ただ黙って聞いていました。
「今のところですね、問題になるような妨害行為は一件も報告にあがってないんです」
「社長さんはお伽噺みたいね、なんて笑ってましたけど……」
「スカウトしてきた子たちに、やっぱり間違いはなかったのかなって」 
「それだけに残念だとは思います、下位のアイドルさんには、辞職や移籍を検討してる人も少なからずいるみたいで」
「92位だった早苗さんは、警官に戻るか、なんてボヤいてました」
「でも、みくちゃんなんかは、『346プロには一宿一飯どころじゃない恩があるにゃ、猫の恩返しにゃ』なんてとっても頑張ってくれていて」
「幸子ちゃんは、あんな事件があっても、今まで以上に張り切ってお仕事してくれています」
「みんな、一生懸命なんです」
「私も、お金は大好きですけどそれと同じくらい、346プロには愛着があって、思い出があります」
「……」
「だけど、やりたくないことをやらなければいけないのが大人ですから、私は、運営の犬でいいんです」
「……」
「卯月ちゃんの周りは、大丈夫ですか、何か問題になりそうなことはありませんか」
「えっ……?」
 楽屋での一件が思い浮かびました。
 妨害と呼ぶほどじゃない……けど。
──みんな、一生懸命なんです。
 一生懸命。きっと、あの人も、そうなのかな。
 私と同じ夢を見たアイドル……。
 今度、凛ちゃんも、未央ちゃんもいない、二人っきりであの人とお仕事します。
──この……偽善者っ!
 ……。
 ……うん。逃げない。
 次こそ、ちゃんとお話しよう、そうすれば、この胸のもやもやも少しは晴れそうな気がする。
「大丈夫、です、頑張ります!」
「そうですか、良かった」
 ちひろさんは少し名残惜しそうに、そっと離れる。
 そして……。
「それでは、総選挙の〆切りまで残りわずかです、投票券のために頑張ってくださいね♪」
 いつもの事務的な笑顔に戻って、私を見送りました。
454:
……。
 照明もっと右寄りで。
 あぁ、違う、そこだと影ができるだろ。
 会場前の、ざわつく野外ステージ。
 スタッフさんの指示が四方八方から飛んでいます。
 私はすみっこで座って、目を閉じる。
 心の内側を手探りで進む。
 みんな、大丈夫かな。
 凛ちゃん、風邪治ったかな。
「おい」 
 未央ちゃん、今日も元気にお仕事してるのかな。
 プロデューサーさん、ちゃんとご飯食べれてるのかな。
 幸子ちゃん、まゆちゃん大丈夫かな……。
「おい、そこのJK」
 総選挙まで残りわずか。
 このままのペースで。いつもの島村卯月で。
 凛ちゃんは、私は変わらないって言ってくれた。
 安心するとも言ってくれた。
「おい、聞いてる?」
 でもね、最近……。
 このままでいようって私と、このままじゃだめなんだって私がいる。
 振り子のように、揺れ動く心。
 出口のない考え。
 どちらともつかずに、板挟みになった思考は、焦りになる。
 焦りは、胸のうずきになって表れる。 
 何か答えが欲しい……。
 答えが……。
「あのさ、やる気ないなら帰ってもいいよ? ここ、お前のステージだろ、違うか?」
「へっ?!」
 つよい言葉に、意識が引き戻される。
 気づけば、目の前に指示を飛ばしていた女性のスタッフさんが立っていました。
 編み込みの入った、ゆるやかにウェーブする金髪に、きりりと吊り上がる細い眉。
 意志の強そうなバイオレットの瞳が、一直線に私を睨んでいました。
「ご、ごめんなさい、頑張ります! 頑張りますから!」
「……」
 そんな言葉が勝手に口から飛び出る。
 必至に体を折り曲げて、平謝りする。
 何かに急かされるように、その場から立ち去ろうとしました。
「待てよ」
 
 アスファルトに、コンと小気味良い音が響く。
 振り返ると、スタッフさんは膝を曲げて座っていて、蓋をあけてない缶コーヒーが置かれていました。
「ま、隣座れ、な?」
「えっ……あの……?」
「JKがいかにも死ぬほど悩んでますってツラして座ってたから、なんとなく世間話しに来ただけだよ」
「……」
「知らんぷりして見過ごすのも、私の今日のバイオリズムにも関わるしな、OK?」
「あの、あなたは……?」
 私がそう言うと、スタッフさんは胸ポケットを探りました。
「ん、あー、今は名刺持ってないんだわ、まぁ私はそれほどお前と関わるつもりはねぇし別にいいだろ」
458:
 おずおずと、少しだけ距離を開けて隣に腰掛ける。
 スタッフさんは、私を一瞬だけ横目で見てから、すぐに正面のステージに視線を戻します。
 しばらくしてから、スタッフさんはおもむろに言いました。
「いやー、ちっとナメてたかも、うん」
「えっ?」
「余裕でトップとれると思ってたんだけどさ、上には上がいるなやっぱ」
「そ、そうなんですか」
 ひとまず、相槌を打ってみます。
 スタッフさんの業界も大変なんですね。
「ま、でもズルはしねぇよ? 私たしかにこの歳にあるまじき金持ってるけどさ、それじゃ意味ねぇから」
「え、えっと、そうですよね、ズルはダメ、ですよね、はい」
「移籍しようかとも思ったけど、一度決めたことハンパに曲げるのもダセーし、環境変わってもいざそこで踏ん張れない奴はどっちにしたってダメなんで、常識よ」
「そう、ですよね……」
「ま、それにしたってあの女社長が346プロにくるとはね、負けねぇけど」
「えっ、知って、るんですか……?」
「詳しくは知らねぇけど多少はな、昔は真面目だったんだけど、ある時を境に気まぐれで遊び好きな性格に、そんでついたあだ名が」
「……」
「『魔女』だと」
「魔女……?」
「ま、こんな話してもしょうがねぇな、したくもねぇし、やめるか、うん、やめた」
 スタッフさんは、缶コーヒーのプルトップを引っ張り上げました。
 それからストローを差し込んで、啜ります。缶に口紅が付着するのを避ける飲み方でした。
「んで、お前は何をそんなに必死で生きてるわけ?」
「えっ?」
「必至なのはいい、つーかキホン、だけどお前の必至は見てらんねぇ必至だわ」
「……」
 私はこの時、とにかく誰かに話を聞いてほしかったのかも知れません。
463:
「あの、最近ずっと考えてることがあって、私の友達が……」
 胸の内に溜まった思いを喋り始めたその時、でした。
「あーストップ、そこまで、そーいう相談事はNG」
「へっ?!」
 突然、私の視界がてのひらで遮られました。
 言いかけた話題が、感情が、宙ぶらりんになる。
 
「予防線張っといたろ、それほどお前と関わるつもりはねぇって」
 そう言って、大きく息を吐きました。
「一度ガチで関わっちまったら、本格的に悩み事聞いちまったら、こっちも全力で解決するしかなくなるだろ」
「……」
「悪いけどこっちもさ、今、死ぬ気で生きてるんで、これ以上荷物背負う余裕ないんだよね」
 ……。
 膝をぎゅっと抱えてから、言いました。
「……ダメなんでしょうか、目の前で困ってる人がいたら、それでも何か力になってあげたいな、って思うこと」
「は?」
「えっと、どんな状況になっても、えっと、例えば、うん、戦場、ですか、そんな状況でも、みんな笑顔で居て欲しいなって思うのは、ダメなんでしょうか」
「……」
 名前も知らないスタッフさんは、私の瞳をじぃっと見つめる。
 それから、不敵な笑みをこぼして言いました。
「欲張りなんだな、お前」
「えっ?」
「仏かお前は、チーズカツカレーにこれ以上何乗せるつもりだよ、納豆か?」
 カ、カレー……?
「へーなるほどね、面白いわお前、私と真逆に見えて案外似てるかもな」
 何かに納得したように、スタッフさんは立ち上がります。
「よしっ世間話終わりっ、SNSチェックしてから私も準備するかっ、じゃあな」
「あ、あのっ……」
「やっぱ、自己紹介しとくわ、その異業種交流の賜物が名刺代わりってことで」
「えっ?」
 握っている缶コーヒーをよく見ると、小さく『桐生つかさ プロデュース商品』と印字されていました。
「最後にひとつ、経験則から口出ししとくわ」
 背中越しに、桐生さん……?が人差し指を立てるのが見えました。
「お前のソレ、正解でも不正解でもない、結局はお前がどうしたいかじゃねぇ?」
「でもな」
「そうやって何でも背負ってるうちに、いつのまにかイチバン大切なもん、見失うなよ」
「イチバン大切なもん、失うなよ」
464:
 ……。
 もう結果発表まで会えないと思っていました。
 お互いのスケジュール帳は、埋まっていて。
 心の余裕も、時間の余裕もこれっぽっちもなくて。
 だから、すれ違いざまに誰かの携帯電話から『ミツボシ☆☆★』が流れて、
 駅前の雑踏でたまたま耳に入って、
 思わず振り向いたのは本当に偶然のことでした。
 それから、私が名前を呼ぶ声に気づいてる素振りを見せないで、
 人波に揉まれてどんどん小さくなっていく後姿を追っていって、
 曲がり角にさしかかるところで、ようやくの思いで肩を掴めたのは、奇跡だったかもしれません。
 それでも、とにかく……。
「しまむー……?」
 私は、未央ちゃんに会いました。
「おーしまむー久しぶりじゃーん! 私はバリバリ元気でやってるよ! 絶好調!」
 未央ちゃんは、私の顔を見るなりいつもの調子で笑ったけれど。
「あははー……」
 だんだんと、表情が険しくなっていって、終いには俯いてしまって
「ごめん」
 と一言だけ呟きました。
「しまむーのさ、いつもの顔見たら、なんか糸切れちゃった」
 未央ちゃんの声が、
「弱音吐いちゃダメだって、わかってるのにさ、ごめん、止まらない」
 次第に震えてくる。
「無理言って、寝る間惜しんで、CDの宣伝とか、他の子のサポート役とかやらせてもらってんだけどさ」 
 言葉が、途切れ途切れになっていく。
「もう、これ以、上無理ってほど、やってるつもりなんだけどさ」
 てのひらで顔を覆う。 
 
「も、もし、わ、私だけごじゅ、50位以内に入れなかったら、どうなっちゃうんだろうって思うと、吐きそうになるよ」
 肩が小刻みに揺れる。
「わたし、まだ、3人で、ニュージェネとして、胸張ってやりたいこと、あるよ」
 それから、何度か深い呼吸をして、
「わたし……」
 未央ちゃんは、言った。
「わたし、アイドルやめたくない……!」
 この時、私はこう言おうとしました。
 未央ちゃん、大丈夫だよ、頑張ろうって。
 でも、言えませんでした。
 だって、未央ちゃんはもう限界を超えて頑張ってるから。
 そんな未央ちゃんに、これ以上頑張れなんて、言えない。
 ……。
 あれ、それじゃあ私には何ができるんだろう……?
 ずきん。
 胸の疼きが、痛みに変わったのは、その時でした。
465:
 ……。
 投票終了日まで一週間を切りました。
 見上げると、灰色の曇が空を覆っていました。
 
 今日はあの先輩アイドルさんと会う日です。
 お仕事が終わって、今から楽屋にご挨拶に行くために、鏡の前で笑顔の練習。
 「ぶいっ……」
 をします、けど。
 すぐに、やめる。
 また物思いにふけっちゃう前に、男性のスタッフさんが私に声をかけてきました。
「いやー卯月ちゃんお疲れ様、今回もいつも通り良かったよ」
「そう、ですか、ありがとうございます」
 心に何か引っ掛かりを感じつつも、感謝を込めてお辞儀をひとつ。
「ところでさ、凛ちゃんのあの噂、本当なの?」
「えっ、噂、ですか?」
「知らないの? 雑誌とか見てない? 君のプロデューサーさんから何も聞かされてない?」
「えっと、何も……」
 何かあったのかな、凛ちゃん。
「『蒼の魂』だっけ、あの舞台の練習の無断欠勤に始まり、連日に渡ってキャンセルしててさ、主役降りるかもしれないって」
「えっ……?」
466:
「そ、それっていつからのことですか?」
「え? えっと、大体……」
 日付を聞くと、凛ちゃんが風邪をひいた、と連絡が来た日辺りからでした。
 風邪じゃなかったの……凛ちゃん……?
 慌てて、スマートホンを取り出して、メッセージを送る。
──凛ちゃん、もしかして何か大変なこと、ありましたか?
 ……。
 しばらく待ってみる。
 返信は、ありませんでした。
 ……凛ちゃん……。
 ……。
 曇り空がオレンジ色になる頃に、ようやく返信が届きました。
──何も心配はいらないよ、卯月。
467:
「……」
 もどかしい。
 文字だけじゃ、足りない。
 もっと、もっと、言葉が、想いが伝わって欲しい。
 今日、このあと凛ちゃんの家に行ってみよう。
 ちゃんとお話しよう。
 ……。
 楽屋の扉の前で、きゅっと口を結ぶ。
 手には洋菓子をふたつ。
 お菓子食べてたからきっと甘い物好きだと思って用意したもの。
「……」
 凛ちゃんの家、行かなきゃだから、ご挨拶して、これ渡して帰ろう。
 でもあとで、ゆっくりお話しなきゃ、ですよね。
 ふぅ、とひとつ深呼吸。
 すぅ、もうひとつ。
──えー今日は渋谷への愚痴ないのかって?
 神経を集中させると、ふと部屋の中の会話が耳に入ってきました。
──あー、うん、うん……。
 どうやら電話をしているみたいです。
 終わるまで待っていようかな。でも凛ちゃんの愚痴、あんまり聴きたくないな……。
──あのさ、絶対に内緒にして欲しいんだけど……。
 あ、私、電話の内容を、盗み聴きなんて……。
 そう思って耳を塞ごうとしました。
 だけど。
──いや、実はさ……。
 続きを、訊いてしまったら、私は耳を塞ぐことどころか、
 ほんの少しでも体を動かすことができずに固まってしまって。
 手に持った洋菓子がべしゃり、と音を立てて、床に落ちました。
470:
……。
「はぁ……はぁ……!」
 曇り空は、いつのまにか雨空に変わっていました。
 アスファルトを蹴るごとに、水滴が跳ねる。
 衣服が水を含んで重い。 
 転んですりむいた傷が、ずきずきと痛む。
 どうして、気づかなかったんだろう。
 風邪を引いたって聞いた時に、無理にでも押しかけていれば。
 あれだけ前向きに頑張ってきた凛ちゃんが、順位を落とした時に違和感を感じていれば。
 その時のプロデューサーさんの、何も心配いりません、なんてシンプルな言葉におかしいと思っていれば。
 私が、もっと凛ちゃんのこと考えてあげていれば……!
「はぁ……はぁ……!」
 お花屋さんの看板が見える。
 そこに向かって、ひたすら走る。
 走る。
 酸素不足でかすれた思考の中で、女社長さんの言葉が一瞬よぎる。
──もしあなたが今の甘い考えのままでいるなら……。
 違った。
 「はぁ……!」
 店内のショーウィンドウに手をつくと、飾られている花が揺れて、ばらばらと落ちる。
 何かを踏んだ。
 スズランの花だった。
──うん、そう、きっと。
 私じゃなかった。
 凛ちゃんのママが何か言うのを、無視して、階段を駆け上がって、凛ちゃんの部屋の扉を開ける。
「はぁ……はぁ……」
 夜なのに、照明がひとつも付いていない部屋。
 ぼんやりと浮かぶのは、床に転がっているカビが生えかけたマグカップ。
 赤印が、ある日から途絶えたカレンダー。
 ベッドの上、布団にくるまっている、まあるいふくらみ。
 そして、いるはずなのに、いないもの。
──お仲間に、背中から撃たれるかも、ね。
 私じゃなかった。
「はぁ……凛……ちゃ……」
 ふくらみが、声に反応してピクリと揺れました。
「……っ……」
 私はきれぎれな呼吸のまま、なんとか言葉を吐き出しました。
「ハナコちゃんが……っ……」
474:
──いや、実はさ……渋谷が犬と散歩してるとこ見かけて……。
 プ。
 ロデュ……。
 ふくらみから、一文字一文字、途切れ途切れに言葉が聞こえてくる。
 たっぷりと時間をかけて、ようやく文章になる。 
 プロデューサーには選挙が終わるまで、絶対に内緒にしてって言ったのに。
 ずきん。胸の痛みが、襲う。
 買、物。
 買い物してる間の、ほんの少しの間で、リードが外されててさ。
──渋谷のいつもスカした顔に腹立ってたから、ちょっとイタズラして焦った顔が見たいくらいの気持ちだったの、最初は。
 そし、たらさ。
──そしたらさ、道路に飛び出して……。
 ふくらみが、ぎゅっと縮んでから、絞り出すような声が聞こえました。
 助かるかどうかは、五分五分だって……。
475:
 ずきん。
 痛みに耐えきれなくなって、膝をつく。
 あぁ、やっとわかった。
 甘い考えって、こういうことなんだ。
 偽善者って、こういうことなんだ。
 ニュージェネレーションズの初ミニライブの時を思い出す。
 あの時、私は肝心な時に風邪引いてただけで。
 私たち、この先どんなお仕事するんでしょう、なんて呑気なこと言ってて。
 結局プロデューサーさんに解決してもらったんだ。
 養成所の頃を思い出す。
 アイドルになりたいって気持ちは、みんな一緒で、みんな同じくらいあると勝手に思ってて。
 勝手にわかった気になって……。
 結局、アイドルを諦めて、みんな辞めていったんだ。
 
 物事のキレイな面しか、見えてなくて。信じてますなんて、言うだけで。
 みんな笑顔でいて欲しいなんて、都合のいい事が、何になるんだろう。
 頑張ろう、とか大丈夫、とか気休めの言葉が、何になるんだろう。
 すぐそばで大事な友達が苦しんでるのに気付かない。
 すぐそばにいる大事な友達の涙ひとつ止められない。
 あの時の、ままなんだ。
──ひどいっ! ひどいですっ! 凛ちゃんにっ、謝ってくださいっ!
 悪意や敵意に身を守る術を持たない……。
──……っ……あの犬が勝手に轢かれたんでしょ! め、命令すんなっ! 45位のくせにっ!
 膝を抱えて泣いてるだけの子供の私。
 私のてのひらは、握ることができずに、隙間から大切なものがこぼれていく。
 もうやだよ……。
 こんな思いは、もうたくさんです……。
 握らなくちゃ、ダメなんだ……。
 握らなきゃ……。
 ずきん、ずきん……!
 胸が張り裂けそうなほどに痛くなって……。
 ぱきり
 と何かが割れた、音がした。
476:
 ……。
 プロデューサーさんのいつもいる部屋を訪れたのは、それでも底に残る、私の甘えだったんだと思います。
 こんこん、とノックをする。
「……」
 返事は、返ってきませんでした。
 もし、この時プロデューサーさんがいたら、
 私にどんな言葉をかけてくれたんでしょうか。
 どんな結果が待っていたんでしょうか。
──ぼーん、ぼーん。
 壁掛け時計の、鐘が鳴り響きました。
480:
 ……。
 最後のお仕事は、偶然にも総選挙開始の時と同じ、握手会でした。
 違ったのは、
 凛ちゃんと、未央ちゃんが隣にいないこと。
 ……。
 それから数日して、応募が締切られて……。
 そして……。
 数か月に渡った……。
 第1回シンデレラガールズ総選挙は終わりました。
484:
……。
 社長室に私と、凛ちゃん、未央ちゃんの3人が並ぶ。
 ちひろさんが、事務的な笑顔を浮かべながら言いました。
「それでは、最終結果は社長から直々に発表になります」
 社長さんは、分厚い書類の束を1枚1枚、めくります。
「えっと、あったわ、まずは渋谷凛」
 ぴたりと、めくる指が止まる。
「覚悟はいいかしら?」
 凛ちゃんは、一言も喋らず、誰とも目を合わせないで、ただ俯いていました。
「渋谷凛──」
「28位」
 ……。
 凛ちゃんは、何の反応も示しませんでした。
「しぶりん……?」
 未央ちゃんの、心配そうな声が聞こえる。
 社長さんは、いつも通り口元に笑みを浮かべながら、淡々と書類をめくりはじめました。
「それでは、次、本田未央」
 未央ちゃんの体が、途端に強張りました。
「覚悟はいいかしら」
「まっ……まって……!」
 未央ちゃんは、何度も何度も、深い深い深呼吸をする。
 それから、一度うずくまって、ふぅ、ふぅと浅い呼吸を繰り返す。
「大丈夫……大丈夫……」
 頬を、軽く2、3回叩いてから、未央ちゃんは、立ち上がりました。
「おね、がいします……」
「では、発表するわね、本田未央──」
「……っ」
 未央ちゃんの喉が、大きく鳴りました。
495:
 ……。
「あはは……」
 未央ちゃんの笑い声が、聞こえる。
 すべてを出し切ったような、からからに乾いた声。
 操り人形の糸が切れたかのように、無気力に膝が床に向かって落ちる。
 腕がだらりと垂れさがって、
「あと……」
 かくんと首が下向く。
「あといっぽ、だったのになぁ」
 水滴が一粒落っこちた。
 カーペットにじんわりと染みを作る。
「くやしい」
 ぽたり、ぽたりと水滴は量を増していって、
 カーペットの色が濃くなっていく。
「くやしいなぁ……」
497:
 
 私は気づけば、無意識に胸を抑えていました。
 あれ。
 不思議と、あの痛みを感じませんでした。
 涙がでませんでした。
 とっても悲しいはずなのに、辛いはずなのに。
「それでは、次、島村卯月」
 私の名前を、呼ばれました。
「覚悟はいいかしら」
 多分、私は頷くという行為をしたんだと思う。
 社長さんは納得したように、書類をめくり終えていたから。
「それでは、発表するわね」
 時間は私の意志とは関係なく進んでいく。
 けっして後戻りできない、取り戻せない。
 未央ちゃんのすすり泣きが、聞こえる。
 それでもまだ、胸の痛みを感じませんでした。
 大人になるって、こういうことなのかな。
 痛みに慣れること。
 辛いことを忘れること。
 苦しいことを受け入れること。
 どうしようもなかったことに、折り合いをつけること。
「島村卯月──」
 そして……。
500:
「あなたの順位は──」
 やりたくないことも、やらなくちゃいけないこと。
「10位」
 私のてのひらに収まらないものがあるものを、
 認めなくちゃいけないこと。
503:
 ……。
 あの時、握った手に力が入りませんでした。
 震えてたようにも、思います。
「卯月ちゃん?」
 握手会の時、いつも先頭で応援してくれている私のファンの男性。
 あの時も、先頭で来てくれました。
 卯月ちゃんになら1万票入れてもいいよ。
 前に言われたその言葉が、その人の顔を思いだした時にどうしても浮かんでしまって。
 ダメって思っても、どうしても頭を掠めてしまって。
──私、45位のままじゃ、だめなんです……。
 多分、私はそう言ったように思う。
 無意識で、気づいたらそう言ってた。
 でも、この先の言葉は、ハッキリと憶えています。
 具体的に、何をどうして欲しいとか、どうなって欲しいとかを思い浮かべて言ったわけじゃなかったけれど。
 でも、私の感情のすべてを含んだ言葉は、それしかありませんでした。
 何となくじゃなく、あやふやじゃなく、私は確かな意思を持って、こう言いました。
──タスケテクダサイ。
 ……って。
515:
 ……。
 ちひろさんが、デスクに広がった書類を片付ける。
 順位発表が終わりました。
 社長さんは、椅子に深く腰掛けてから言いました。
「それでは、個別に連絡事項があるからまた後ほど、ね」
 凛ちゃんは、ふらふらと扉に向かって歩き始める。
 私は、凛ちゃんの腕を掴んで制止する。
 社長さんは、顎に手を置いて面白そうに私を見つめる。
「あら、まだ何かあるのかしら」
 私は、そっと手をあげました。
517:
 ……。
 扉が開く。
 スマートホンのブラウザゲームの音が聴こえてきました。
 前を向かないで、視線を落としたままその人は言いました。
「社長、私、順位思いっきり下がっちゃいました……」
「それは残念ね」
「はぁ、イヤなことありましたからね」
 そこでその人は視線をあげると、初めて私達の存在に気付きました。
 スマートホンが、ことりと床に落ちる。
「渋谷、と45位……」
 凛ちゃんは、一瞬だけ目を合わせると、興味がなさそうに顔を背けました。
 社長さんはふふふ、と楽しそうな笑みをこぼして言いました。
「彼女ね、45位じゃなくて10位なの」
「は……?」
「その10位、いえ、島村が、あなたに言いたいことがあるそうよ」
 目が合う。
 信じられない、という目。疑いの瞳。
 私は、その人に向かってはっきりと言いました。
「お願い、します」
 目を逸らさずに。
「……凛ちゃんに、ハナコちゃんにひどいことしたこと」
 淀みなく、はっきりと。
「謝ってください」
523:
 …………。
 ……。
 …。
 それから……。
「彼女ね、辞めたそうよ」
 社長さんが、紅茶をかき混ぜながらそう言いました。
「……」
「彼女、どうしても入りたい、絶対にトップになるって言ってたから入れてみたのだけれど、まぁ、残念ね」
 表情を崩さずに、社長さんは続けます。
「と、いうわけで51位だったあなたのお友達、繰り上げ合格ってことになるわね」
「……」
「浮かない顔ね」
「……」
「島村、あなたのおかげで51位は救われた、28位は舞台に復帰するようになった、イジワルする子はいなくなった、会社には利益をもたらした、あなた自身は45位で終わるはずだった身分を自らで変えた」
「……」
「すべて、あなたの力よ」
「……」
「結果で言わせてもらえば、あなたは何一つ間違ったことはしていない、莫大な金額をつぎ込んで投票してくれたのも、あなたにそれだけの価値があったから」
「……」
「その人からね、手紙が届いてるわ、あなたのプロデューサーに預けたから後で受け取ってちょうだい」
「……」
──謝ってくださいっ!
 あの日、私は溢れ出る感情を塞き止められないまま、先輩アイドルさんを責めました。
──……っ……!
 だけど、とうとう、震えながら床に手をついて謝ろうとしたその姿が今でも忘れられません。
──す、すいま……。
 言い切る直前、私の背中から柔らかくて温かなぬくもりが伝わりました。
──卯月、もういい……。
 つよくつよく抱きしめられながら、そう言われました。
 とても優しくて、哀しい声でした。
──もういいよ……。
 
 本当にこれでよかったのかな。
 凛ちゃんは、あんなこと望んでたのかな。
──もういいから……。
 私は本当に、間違ってなかったのかな。
531:
 社長さんは、笑みを浮かべながら紅茶をまだかき混ぜていました。
「ねぇ、島村、ひとつ聞きたいのだけれど」
「えっ……?」
「あなたにとっては理不尽な、この状況にいざなってみて、終わって、生き残って、あなたには何が残った?」
 ほんの一瞬、社長さんの笑みが消えました。
 その時の眼差しは、なぜかとても物憂げなものに見えました。
「ふふっ、あなたには、どうしても叶えたいねがいごとって何か生まれた?」
「ねがいごと……?」
「もしあるなら、いいわよ、叶えてあげる」
「……」
「次の総選挙で、あなたより上の順位の子たち、輿水幸子、一ノ瀬志希、川島瑞樹……そして……」
 くすり、と笑う。
「初代シンデレラガールズを超えて、あなたが一足しかないガラスの靴を履けたら、ね」
 紅茶をかき混ぜた手を止めて、言いました。
「ま、これも魔女の気まぐれよ、よく考えておいてね」
 ……。
 ドアを開けると、プロデューサーさんが立っていました。
「お久し、ぶりです、本当に、お久しぶりですね……」
 私は、お辞儀を深くしました。
「……」
 返事は返ってきませんでした。
「島村さん……」
 しばらくして、プロデューサーさんの震える声が聞こえました。
 よく見ると、血が滲みそうなほどに、拳を握っています。
「私が、前に言った言葉を、覚えていますか」
「えっ……」
「私が、あなたにお願いしたことを、覚えていますか」
 えっと……。
「なん、だったでしょう、色んなこといっぱいありすぎて……」
「……」
 でも、何かとっても大事なこと、だったような……。
 
 ……。
 私は、手紙を受け取りました。
 そして、次の握手会が開かれて、
 
 いつも先頭にいるはずの人がいなかったとき
 
 ……っ……。
 忘れていた感覚が、私の胸をかすかに叩いた、ような気がしました。
 …………。
 ……。
 …。
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