後輩「わたしは、待ってるんですからね」back

後輩「わたしは、待ってるんですからね」


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1:
「夏休みももうすぐ終わるし、誰かの家で泊まりで遊ぼうぜ!」
 なんて言ってるうちは良かった。
 場所が俺の家になったのも、まあ問題じゃない。
 
 夏休みは実際、終わるまで十日を切っていた。
 その最後を飾るイベントとして、男友達三人だけで集まるのも悪くない。
 俺たちは近くのコンビニで大量のスナック菓子とジュースを買い込んで集まった。
 食事代わりのカップラーメンだって大量に買い溜めた。
 予定では三泊四日、部屋に引きこもり怠惰に時を過ごす予定だった。
 楽しかった。
 古いパーティーゲームで盛り上がり、トランプをしながらこの夏の思い出を語り合い……。
 ノートPCでエロフラッシュサイトを巡り、テンションをあげて猥談を始め……。
 そしてふと気付いた。気付いてしまった。
「俺たち……何をやってるんだ?」
元スレ
SS報VIP(SS・ノベル・やる夫等々)
後輩「わたしは、待ってるんですからね」
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2:
 時間は二日目の昼過ぎで、家には誰もいなかった。
 俺たちは徹夜明けのテンションのまま「看護戦隊エンジェルナース」の続きを見ていた。
「なにって、何の話?」
 俺の声にまっさきに反応したのはビィ派の奴だった。
 女顔で背が低い。パッと見だと美少年に見えなくもない。見た目だけなら。
 でも口が悪いうえに乳房原理主義者だった。女の価値は胸で決まると主張して憚らない。
 エーコ派の俺と衝突を繰り返すのはごく自然な成り行きだと言えた。
 俺たち三人の中でいちばんのエロス大臣でもあり、エロフラ巡りを提案したのもこいつだった。
 
「……いや、つまりさ、この高二の夏休みの、終わり頃に差し掛かって、だ」
「うん」
「他の奴が、彼女と夏祭りなんかに行ってるような時季にさ」
「……うん?」
「なんで、男三人で集まって、エロフラッシュなんて見てんだ?」
「……」
 あー、こいつそれ言っちゃうのかー、と言いたげな顔で、ビィ派の奴は俺を見た。
3:
「あのさぁ、シスコン野郎」
 ビィ派は呆れたように言った。シスコン野郎というのはたぶん俺のことだと思う。
「何が駄目なんだよ、エロフラ鑑賞。健全な男子学生の、健全な夏休みの過ごし方だろ」
「健全な男子"中"学生の、夏休みの過ごし方だと思うけど」
「ばかにすんなよおまえ、これ十八禁だぞ。大人の楽しみだっつーの」
 じゃあ見るなよ、と思いつつ、俺は溜め息をついた。自分も見ている以上は同罪だ。
 俺が何かを言うよりも先に、シィタ派の奴が口を挟んだ。
「いや、いいと思うけどね」
 シィタ派の彼は落ち着きがあって地味に見えるけど、話してみると普通に面白い奴。
「この中でいちばん女に縁がなさそう」というのはビィ派の言。
 が、こいつは中学時代に一度だけ彼女を作ったことがあった。三ヵ月後に別れた。こいつから振ったのだ。
「なんかめんどくさくなったんだよね」と本人はあっさりしていた。
 相手はクラスでも評判のかわいい子だった。俺が彼の言い分に納得するまで半年が必要だった。
4:
「こういうふうに集まってワイワイやるのもさ、楽しくていいと思うよ」
 シィタ派の彼はいつも良いことを言う。が、それをされるとこちらは何も言い返せなくなってしまう。
 話を強引にまとめられてしまい、消化不良に陥ることも珍しくなかった。
 なんだかんだで馬が合うから一緒にいるわけなんだけど。
「そりゃ楽しいよ。楽しくないなんて言ってないよ。言ってないけど……」
「けど?」
「これでいいのか、高二の夏……」
 言葉は汗臭い部屋の中に静かに落ちた。
 開け放ったままの窓からは、風も吹きこまない。
 部屋の中に響く音は、扇風機が羽根を回す音と、PCの駆動音と、蝉の鳴き声くらいのものだった。
 そんな騒がしい沈黙を破ったのは、案の定ビィ派だった。
「つまり、なんだ? 俺たちにはもっとふさわしい過ごし方があるはずだと、おまえは言うわけか」
5:
「というよりは、なんというか……」
「ないね。断言しよう。ない」
 まだ何も答えてねえよ、と言いたかった。
「見ろ。ディスプレイを」
「……」
 言われるがままに視線を動かすと、少女の裸体が映っていた。
 我に返ってから眺めると奇妙な憂鬱に心が支配される。罪悪感?
「かわいいじゃないか」
 ビィ派はたしなめるように言った。
 たしかにかわいい。……いや、かわいいという感想はどうかと思うのだが。
「俺は十六年ほどの人生で悟ったね。理想は常にディスプレイの向こうにある」
 困ったことに、ビィ派には哲学と思想と信念があった。
「あ、紙媒体も含む」
 けっこうおおらかな思想ではある。
6:
「断言する。こんな女の子は現実にはいない。絶対に、いない」
 そこまで言うと、彼は心底悲しそうに溜め息をついた。
「俺たちは、理想の世界の住人じゃなかったんだ」
 ……なんなんだ、こいつは。俺はどこかで何かのスイッチを押してしまったのだろうか?
 間違いなく話がずれている。
 興奮すると持論を展開し始めるのがビィ派の厄介なところだった。
 趣味が近いのでつまらないということもないのだけれど、絡み癖のある酔っ払いみたいでちょっとめんどくさい。
「そうは言ってもさ、生身の女の子と夏祭りとか、行ってみたいなあって思うだろ?」
 訊ねると、ビィ派は心底呆れたというふうにわざとらしく溜め息をついた。「やれやれ」とでも言いたげだ。
「じゃあ、行けばいいだろ」
「……え?」
「夏祭り。三日後から二日間。商店街で。花火だってあるぞ。浴衣の女の子誘って行って来い」
「……」
 一緒にいく相手がいたら、こんな話はもちろんしていない。
7:
「いいかシスコン。俺たちに選択の余地なんてないんだよ」
 ビィ派の声は段々と大きくなりはじめていた。
 大音声の蝉の合唱をかき消すほどに。
 近所に声が漏れるからやめてほしい。
「俺は現実の女に関わりたいなんて思わないが……思っていたとして、同じことだ」
 彼がこんなに真面目な顔をしたのはいつぶりだろう。
 思い出せるかぎりでは、学園ハーレムモノにおけるお約束イベントの是非について激論を交わしたとき以来だった。 
「――俺たちにはどうせ何もできやしないんだよ!」
 ひときわ大きな声でそう断言すると、部屋に沈黙が戻り、耳に蝉の声がよみがえった。
 まあ、たしかに。
 したいと思ってできるほどの積極性を持っていれば、夏休みの終わりごろになって、いまさらこんなことを言い出しはしない。
「だから俺は断言できる。これは俺たちが取り得る選択肢の中で最善のものだ。友達とすら遊ばなかったら寂しくて死ねるぞ」
 まあそうかもしれない、と思ったところで話は終わり、俺たちはフラッシュめぐりを再開した。
 ……虚無感。夏休みは残り一週間を切っていた。
8:

 今年の夏休み、家族以外の女性と交わした会話のいくつかを、俺は即座に思い出すことができる。
「袋はお分けいたしますか?」「あ、お願いします」(コンビニ)
「プールとか海とか、行ったー?」「行ってませんねー」(部活)
「おにいちゃん、ひさしぶりー。彼女できたー? お小遣いちょーだい?」「うるせーよ」(従妹の家)
 あとは細々しすぎていて思い出せないが、その程度だった。
 といって、夏休み以外だったら話は違うかと訊かれればそうではない。 
 学校が始まっていても、まあ似たようなものだ。
 要するに俺は女子に縁のない男子高校生であり。
 女子に縁のない男子高校生として、高二の夏休みを、見事、女子に縁のないまま消化してしまっていた。
9:

 昔はこうじゃなかった。……本当に。
 昔といっても、小学生の頃とか中学生の頃とかの話であって。
 そんな過去にすがるのも、我ながらみっともないとは思うのだが。
 
 昔はこうじゃなかったのだ。
 小学生のときは、クラスの女の子と公園の砂場で結婚の約束を交わしたし(彼女は転校した)。
 中学生のときは、告白だってされた(一度も話をしたことがなかったので断った)。
 毎年バレンタインには最低一個、チョコをもらっていた(……家族だけど)。
 でも、いつのまにか、話す相手が狭まってきて。
 いつのまにか、女子が俺の生活から姿を消した。
10:

 といっても、まったく話相手がいなくなったわけでもない。
 そのあたりは難しいところだ。
 俺が所属している部活は文芸部。部員は計七名で、その内三人は幽霊部員。
 まともに活動しているのは俺と部長と、後輩の女の子がひとり。残る一人はシィタ派の彼だった。
 部長は三年生で先輩だけど、ちまっこい感じで、なんだか小動物的な愛くるしさがある。
 背だって低いし、子供みたい。と、本人に言ったら怒られそうなものだけれど。
 後輩の方はあまり話したことがないのでよく分からないが、いつも部室の隅の方で本を読んでる。
「……どうしました、せんぱい?」「……あ、えっと、これ、夏休み中の部活の日程表」
 というのが俺と後輩が最後に交わした会話だ。
 つまり、夏休みに入ってからは一度も話をしていない。
 
 部長の方は頻繁に声を掛けてくれるのだけれど、思うように返事ができず、すぐ会話が途切れてしまう。
 要するに、女子と交流があるとかないとか以前に、俺のコミュニケーション能力には欠陥があるのだ。
11:

 もうひとりだけ、よく話す女の子がいる。
 その子とは学校の屋上でよく出会う。俺は不思議と、彼女とだけは普通に話をすることができた。
 というのも、彼女の発言というのが、哲学的というか、文学的というか、そういう変な具合だから。
 いつも形而上学的で、思索的で、つまりよくわからない。
 以前、俺は彼女にクラスメイト達の色恋について訊ねたことがある。
 俺たちふたりにしては、比較的地に足のついた話題だった。
「学生時代の恋愛なんて、どうせ卒業までには別れるのが大半でしょ。興味ないよ」
 彼女はそんな、どこかで聞いたようなことを言った。
 俺も彼女相手にはあまり緊張せずに済むので、
「いつかなくなるものに意味がないっていうなら、生きていることにだってなんの意味もないのだぜ?」
 と、そんなふうに気取って言い返しすらしたのだけれど、
「だからそう言ってるでしょ?」
 と呆れた風に言われてしまうと、それ以上は何も言える気がしなかった。
 つまり彼女はよく分からない子だった。
12:

「俺たちにはどうせ何もできやしないんだよ!」
 というビィ派の叫びから三日後、俺たち三人は商店街の夏祭りに足を運んでいた。 
 暇だったのだ。
 集まるように声を掛けたのは俺で、一番文句を言ったのはビィ派だった。
 
「どうしてわざわざ人ゴミの中に来たがるのか、理解に苦しむね」
 彼はそんなふうに悪態をつく。とはいえ、なんだかんだ言いつつ呼び出せば来てくれるあたり、悪い奴じゃない。
 シィタ派はいつものように、
「いいと思うけどな。男三人で祭りっていうのもさ」
 などと、妙に良いことを言って話を終わらせた。
「ま、思い出づくりみたいなもんだよ」
 俺はビィ派をたしなめるような気持ちで言った。
「思い出づくり?」
「高二の夏に、夏祭りに縁がなかったっていうよりはさ、友達と一緒に行ったっていう方が、気持ち的に楽だろ?」
 ビィ派は呆れたように溜め息をついた。
 夕方過ぎの商店街。雑踏のざわめき。浴衣姿の女の子たち。
 どこかしら、なにかしら、みんなはしゃいでいた。
13:
 特設ステージから聞こえるバンド演奏に耳を傾けていると、妙に薄ら暗い気持ちになる。
「……今年の夏、なんもなかったなあ」
 俺の呟きに、ビィ派はまた溜め息をついた。
「お前はそればっかりな」
 俺はこの夏の間に自分がいったい何をしたのか、それを思い出そうとしてみた。
 いくつかのことは思い出せたが、いくつかのことはよく思い出せなかった。
 前からやろうと思っていた「バイオショック・インフィニット」はやった。音声ログだってけっこう集めた。
 気になっていた「海街diary」も読んだ。すずがかわいかった。
 課題も忘れずに終わらせたし、お盆には墓参りだってちゃんとした。
 例年通り、妹と二人で従妹の家にも遊びに行った。
 部活だって欠かさず出た。新学期に置いてきぼりを食らうのが怖いから、勉強だってそこそこした。
 何もしていなかったわけじゃない。じゃあ、この空虚感の原因はいったい……。
14:
 気付けばバンド演奏は終わっていて、小学生の和太鼓演奏に変わっていた。
 暗くなってくると、辺りはより一層賑やかになりはじめた。
 商店街を歩く人々の組み合わせはさまざまだった。親子。家族連れ。学生の集団。若い男女。
「ああもう。さっきから何回溜め息つくんだ、シスコン!」
 と、ビィ派は俺に向けて怒鳴った。
「……あ、俺溜め息ついてた?」
「無意識かよ?」
 無意識だった。
「すまん。かき氷でも食うか」
 話を逸らそうとしたのだが、ビィ派の苛立ちは結構大きいものだったらしい。
 気持ちの置き場が見つからないような、そんな態度。
 彼も戸惑っているのかもしれない。理由は分からないけど。
15:
「そんなに女の子と一緒に夏祭りに来たかったのか?」
「いや、そんなにってわけではないけど」
「じゃあなんで溜め息なんてついてるんだよ」
「なんていうか」
「なんていうか?」
「……先行き、暗いよなあって」
 今年や来年だけでなく、ひょっとして俺はいつまでも恋人を作ることができないのではないか、とか。
 というか、女友達すらできないのではないか、とか。
 そういうことを考えてしまった。
16:
「分かった」
 とビィ派は言った。うんざりしたような声音だった。
「おまえ、ちょっとナンパしてこい」
「は?」
「ナンパ。ガールハント」
「話のつながりがまったく分からない」
「だから。女の子に声を掛けてくるんだよ」
「なぜ?」
「女の子と一緒に夏祭りを見て歩きたいんだろ?」
「……いや、まあ」
 だったらナンパするしかないだろ、と彼は言う。
 俺たちには一緒に夏祭りを楽しんでくれるような女の知り合いはいない。
 =知り合い以外の女性に声を掛けるしかない。 
 というような理屈らしい。
17:
「ナンパなんてできるような性格だったら、そもそもこんなことでうだうだ悩んでないよ」
「ナンパができないならどうする? 奇跡が起こるのでも待つか?」
「いや、そうじゃなくって……」
「グラス一杯分の水の中にチェレンコフ光を見出そうとするようなもんだ」
 ビィ派の声は大きくなりはじめていた。衆目を集めつつあることに彼は気付かない。
 シィタ派は、ひとりで綿菓子を食べながら、通り過ぎていく人々をぼんやりと眺めている。
 彼の目はいつも透徹して見える。
「声を掛けてこい。一万人に一人くらいは返事をくれるかもしれない。でも掛けなかったら一万年に一度だ」
「……」
 ……どっちにしたって確率はほとんどゼロだと思うんだけど。
 何が悲しいって、否定する根拠がないことが一番悲しい。
「分かったよ」
 と俺は言った。
18:

 ナンパなんてするより、同じ学校の女の子と親しくなっていく方がよっぽど発展性がある。
 たとえば、男友達に女の子を紹介してもらう。
 あるいは、自分で女友達を作る。さらに、友達を紹介してもらう。
 そういう手順を踏んだ方がよっぽど確実に、楽に、出会いを増やせる。
 そう。
 女の子を紹介してくれるような男友達がいればそうしている。
 女友達を作れるような性格だったらそうしている。
 それができないから男三人で夏祭りに来ているという結果がある。
「人を縛り付けるのは恐怖だ。恐怖の正体は存在しない苦痛に対する不安だ」
 とビィ派は言った。
19:
「つまり、『恐怖を感じている間は、苦痛は実在しない』『恐怖は常に未来の苦痛に対する不安だ』
『同時にそれは過去受けた苦痛の反復に対する予感でもある』『苦痛は実在しない』『よって恐怖も実在しない』
『日常生活の範囲内では、大抵の場合、実際に訪れる苦痛は恐怖していたそれよりもずっと小さい』
『おまえが失敗しても俺は笑わない』『誰も気にしない』『何も傷つかない』」
 
 だから思う存分声を掛けてこい、と。
 でも絶対、そういう問題じゃない。
 そもそも普通に友達を作るより、ナンパをする方がずっと難易度が高い、と、思う。
 リスクの面で見ても、リターンの面で見ても、ナンパなんて利口な手段じゃない。
 どうかしてる。でも俺は頷いた。たぶん本気じゃなかった。
 単に何かしたい気分だったのだ。
20:

 実践編、その一。
「……あの子がいいのか?」
 ビィ派が指差したのは浴衣姿の女の子の後ろ姿だった。青い浴衣。黒い髪を後ろでまとめている(貧弱な表現力の例)。
 かわいい子がかわいいことは背中を見ただけで分かる(たぶん)。
 俺がその子を目で追っていたことに、彼は即座に気付いたのだ。おそろしい。
「行ってこい」
「……ついてきてくれないの? 提案したのおまえだろ?」
「甘ったれんな。女を必要としてるのはおまえだ。それに、大勢で押しかけて女の子を委縮させたらどうする」
 追い払うように俺の背中を押すと、彼はかき氷を食べるのに集中しはじめた。
 ……迷っていてばかりでも仕方ないので、ためらいつつも足を動かす。
 まあ、何かまずいことが起こっても、祭りの熱気のせいにすれば納得してくれるだろう、みんな。うん。
 半分ヤケだ。
21:
「あの」
 と俺は彼女の背中に声を掛けた。彼女は振り向きさえしなかった。
 声が小さくならないように注意したつもりだったが、聞こえなかったのだろう。
 あるいは、この雑踏だ。声を掛けられているのが自分だと、分からないのかもしれない。
「ちょっといいですか?」
 と横から回り込みつつ声を掛けると、女の子はようやく振り返ってくれた。
「はい?」
 目が合う。美少女だった。遠目に見たときより、背は低く見える。
 こちらを振り返るために、わずかに首を傾げて上向けた顔。
 黒い髪。戸惑った声。たしかにかわいい。かわいいが。
 
 困ったことに、聞き覚えと見覚えがあった。
「……お兄ちゃん?」
「……」
 妹だった。
22:
 硬直している俺をさしおいて、妹は即座に現実を受け入れたようだった。
 
「結局来たんだ、お祭り。来ないんだと思ってた」
 彼女は俺の方を向き直ると、小首をかしげてそう言った。
 表情の動きはほとんどないが、驚いているように見える。
 俺は呆然と頷きを返した。
「……あ、うん」
「それで、なに?」
 
「あ、いや……見かけたから、声かけただけ」
 俺は嘘をついた。時には真実を話す方がよほど罪深いこともある。
「……そう?」
23:
「うん。小遣い、足りてるか?」
「足りないって言ったら、くれる?」
「……おい」
「……冗談」
 
 彼女はくすくすと笑う。兄妹で話をすると、いつもこんな調子になった。
 妹は今年で中三。受験を控えて、夏休み最後の息抜きに来た、というところか。
 
 近隣の公立高校を志望している。こいつの成績なら問題なく受かるだろう。
 無能の兄とはえらい違いだ。
 俺は財布を開いて、紙幣を二枚取り出し、妹に手渡した。
「……い、いいよ」
24:
「いいから」
 
 むりやり手のひらに押し付ける。妙な罪悪感が俺の身体を動かしたのだ。何かの足しにはなるだろう。
「ありがとう。……わたし、友達待たせてるから、行くね」
「うん。楽しんで来い」
「お兄ちゃんもね。帰り、そんなに遅くならないと思うから」
 妹は手を振って去って行った。
 ……俺は悪くない。
 そりゃ、妹が祭りに来ているというのは聞いていた。
 でも、浴衣姿で、髪型も普段とはちがうとなれば、気付かなくても仕方ないことだ。
 俺は悪くない。……と、思う。でもなんだろう、この罪悪感は。 
25:

 反省編、その一。
「シスコンの面目躍如だよなあ。雑踏の中から妹を選ぶなんて」
 俺たちは露店の隅の方に座り込み、たこ焼きを食べていた。
 ビィ派は相変わらずうんざりした様子で人ゴミを睨み、シィタ派はあちこちをぼんやり眺めている。
 返事をしないでいると、ビィ派が俺の背中を叩いて笑った。
「褒めてんだよ。喜べ」
「喜べるかよ……」
 もちろん喜べない。
 
「というかそもそも、浴衣の女の子に声を掛けるのも考え物だよな」
「なんで?」
「浴衣着てるってことは、誰かと一緒なんじゃねーのかな」
 ……最初に気付いてほしいものだ。ビィ派は俺の恨みがましい視線を無視した。
 そりゃ、俺だって気付かなかったけど。
「さて、次いきますか」
 とビィ派は俺を立ち上がらせた。戦士に休息はない。
26:

 実践編、その二。
「あの子とかどう? かわいいし、普段着だよ」
 次のターゲットを見つけたのはシィタ派だった。
 こうやって雑踏の中でかわいい女の子を探すというのも、一方的に品評会でもしているようで気が引ける。
 とはいえ気にしていてもしかたない。
 より大きなものの為に、些細なものを犠牲にしなければならないことだってある。
 そして大抵の場合、ささやかなものほど重要なのだけれど。
 ……だとすると俺は、まるで見当違いなことをしているのかもしれない。自分ではよくわからなかった。
「よし、行くか」
 自分を奮い立たせるために声を出すと、ビィ派は相変わらず冷淡な反応をした。
「行くのはおまえだけだけどな」
「行ってきます」
 たこ焼きを食べ終えた彼らは、今度はフランクフルトにかぶりついていた。
27:
 次の標的はたしかに普段着だった。
 顔もかわいかった。上から目線で言えば、まさに言うことなしだ。
 こんなかわいい女の子と一緒に花火を見ることができたら、たぶん幸せだろう。
(……ほんとに?)
 と心の中の誰かが訊ねてきた。(さあ?)と俺は答えた。
 そんなの、今の俺に聞かれたって困る。実際にやってみたあとに聞いてほしい。
 
 幸い、声はそれ以上何も言ってこなかった。
「あの、すみません」
 声を掛けたあと、「すみません」もどうなんだろうなぁと考える。
 こういうのってタメ口の方がいいんじゃないだろうか。
 
 仮にうまくいっても、
「いいですよ。一緒に回りましょうか」
「あ、はい。あっちで面白そうな出し物をやってたんですよ」
 なんて敬語で会話を続けるのか? お見合いか?
28:
 などと考えている間に女の子は振りかえった。
 見覚えのない顔。
 
「……はい?」
 聞き覚えのない声。
 
 よし、と俺は内心で拳を握った。
 で。
 何を言えばいいんだろう?
 怪訝そうな表情。
 何を言えばいいんだっけ。何が最終目的なんだっけ? 
 そう。俺は女の子と一緒に花火を見たいのだ。
 
 女の子と一緒に夏祭りに行った思い出が欲しいのだ。
 ……夏祭りの思い出だけ? いや、その後のことは成り行きに任せる感じで。
29:
 そのために確認しなくてはならないのは……。
 いま、彼女が一人なのかどうか?
「……えっと。なんですか?」
 と彼女は言った。
 
 心臓は正確なリズムを見失い、肺は正常な動作を奪われた。
 きっと、頬は紅潮していた。
 ……バカか俺は。
 こんな美少女が、一人で祭りに来ているわけがあるか。
 友達か、男か、それじゃなくても家族と一緒に決まってる。
 夏祭りにひとりで来る奴なんていない。当たり前のことだ。
「あ、いえ……」
30:
 俺はポケットから自分の携帯を取り出し。
「これ、さっきそこで拾ったんですけど、あなたのじゃないですか?」
 
 とっさに逃げに走った。
 口に出してから、「人違い」でもよかったな、と気付く。思いつかなかった。
「……いえ。わたしのじゃ、ないですけど」
 彼女は不審そうな顔で俺を見た。
「そ、っか。勘違いみたいだな。ごめんなさい。他の人みたいだ」
 俺は作り笑いをした。女の子は笑わなかった。困ったことに。
 
「運営の人に渡した方がいいと思いますよ」
「……そうします。すみません、声を掛けて」
「……いえ。それじゃあわたし、待たせてる人がいるので」
 ほら。やっぱりこの通り。
 祭りでナンパなんて馬鹿げてる。
 俺は笑いたかった。うまく笑えなかったけど。
 彼女は背を向けて去って行った。
 俺は恐怖に敗北した。苦痛は幻想ではなかった。それは未来にたしかに存在していた。
31:

 反省編、その二。
 
 誰でもいいから笑ってほしい気分だった。
 ビィ派なら、戻ってすぐに「何やってんだよおい」とか言ってくれると思っていた。
 そう言ってもらえれば、俺だって「いやあ、参ったなあ」って言えたのだ。
 でも、彼らは俺のことなんて忘れていたようだった。
 我らが文芸部のちびっこ部長と、数人の見知らぬ女子が、二人と話をしていた。
 俺はその様子を、二メートルとちょっと離れた位置で立ち止まったまま、十五秒間ほど眺めた。
 十五秒経って、最初に俺に気付いたのはシィタ派だった。
「おかえりー」
 と彼は笑った。俺は気持ちの置き場所を見失ってしまった。
 たぶん俺自身のせいだ。
32:
 シィタ派の視線の先を追って、部長が俺の方を見た。
 浴衣はよく似合っていた。たぶん三年の友達同士で来たんだろう。
「おー。楽しんでるー?」
 いつもの間延びした声で、部長は俺にそう訊いた。
 いつも通りの笑顔。顔見知りの後輩に向ける笑顔。
 なんでもない、挨拶みたいな質問。それなのに。
 自分が夏祭りを楽しんでいるのかどうか、それがよく分からなくて、俺はとっさに返事ができなかった。
(楽しんでる?)と俺は自分に訊いてみた。
(さあ?)と俺は答えた。
「おーい、無視ー?」
 部長は取り繕うみたいに笑ったけれど、俺の喉はまだ声を出せない。
 居心地の悪さは二割増しになった。
 ようやく何かを言えそうになったときには、場の流れはすっかり変わっていて。
 シィタ派が俺の代わりに部長にフォローを入れて、ビィ派がそれを盛り上げて。
 それからすぐ、部長たちはあっというまに去って行った。俺は一ワードも喋らなかった。
33:

「で、どうだった?」
 とビィ派は言った。
「……断られた」
「やっぱりか。ほれ、おまえの分」
 ビィ派は笑いながらチョコバナナを差し出してきた。
 まずいことをしたと気付いたのは、それを受け取ってからだった。
 部長たちに、ひどい態度をとってしまった。どう考えたって、さっきの態度はない。
 思った時には、だいたいのことは手遅れだ。
 今だってそうだ。持ち直さないといけない。みんな楽しんでる。水を差しちゃまずい。
 気をつけなければ。
34:
「大丈夫?」
 とシィタ派は俺を見た。心配をさせてしまっている。
 彼の瞳はいつも透徹していて、俺が気付かないことに気付くし、俺が見えないものを見る。
 
「……うん。無理だわ、ナンパ。やるもんじゃない」
「まあ、おまえ向いてなさそうだもんな」
 ビィ派の言葉に、俺もようやく笑えた。
「じゃあやらせるなよ」
「おまえが女の子女の子うるせーからだろ」
「ナンパしろって言ったの、おまえだろ」
「悪かったな。ホントにやるとは思わなかったんだよ」
「……いや、緊張したよ。喉乾いたから、ラムネ買ってくる」
「おう」
35:
 二人に背を向けて、片手にチョコバナナを持ったまま、ラムネを買いに行った。
 財布から小銭を取り出して露店に並び、冷えたラムネを受け取って、両手がふさがっていることに気付いた。
「……何やってんだ、俺は」
 ほんとうに、何をやっているのやら。
 
「何やってるんです? せんぱい」
「俺が知りたい」
 声を掛けられたことに気付いたのは、返事をしたあとだった。
「……ども」
 振り向いた先に、きょとんとした顔で、文芸部唯一の一年生が立っていた。
「ああ、こんばんは……」
「こんばんは。ラムネですか」
 会話はすぐに途切れた。夏休みが始まってから、彼女と交わした最初の会話だった。
36:
「……あ、さっき、部長も見かけたよ」
「会いました。浴衣でしたね」
 そういえば、後輩は普段着だった。
 それでも普段は制服姿しか見ていないので、だいぶ印象が違って見える。
「ひとり?」
「いえ。家族と来てたんですけど、はぐれちゃったみたいで」
「ふうん」
「せんぱいは?」
「あ、うん。ほら、あそこ」
 雑踏の向こうに座り込む二人を指差す。シィタ派がこっちに気付いて手を振ってきた。
 後輩はとまどいながら小さく手を振りかえす。
「一緒だったんですか」
「ま、他に来る相手いないしね」
 何か言ってくれるかと思ったけれど、彼女は何も言わなかった。
 それでもこの場を去ろうとはしなかったので、俺は反応に困った。
 両手は塞がったままだったし、話したいことだって、別になにもない。
37:
「夏休み、終わるね」
 世間話のつもりでそう言ってみる。彼女の表情は動かない。
 ……なんだろう、この苦行は。精神面に負荷がかかる。
 彼女は何も言わなかったし、俺も何も言わなかった。
 そんな沈黙を嫌ったみたいに、不意に、パン、と、音が響いた。
「あ。今の音」
「……銃声か?」
「花火ですね」
「あ、だね。うん」
 俺のささやかな冗談は簡単に受け流された。
38:
 後輩は首を巡らせて空のあちこちを見上げはじめる。
 建物が邪魔になる分、この通りから見える空は狭い。
 
「前から思ってたんですけど、お祭りの参加者には見えない位置で花火をあげるって、絶対おかしいと思うんですよ」
 そんなふうに不平を漏らしながらも、周囲の人の視線の先を辿って、彼女も花火を見つけたようだった。
「まあ、花火を見たい人には、別の会場があるしね。ホントは別々のイベントなんだよ」
「そうなんですか?」
「うん。どうせだったら祭りに合わせて日程ずらせばいいのにな」
「……ですね」
「まあ、だからこの祭りの一日目は、割と人が少ないんだけど」
「……」
 返事がなくなったから何かと思って後輩の方を見ると、すっかり花火に夢中になっているようだった。
 喜んでいるふうでもなく、ただ食い入るように見つめている。
39:
 そりゃ、この場所からだって、ある程度花火は見える。会場で見るよりは小さいけど、それなりに綺麗に。
 音だってちゃんと聞こえる。ちょっと遠いだけで、ちゃんと楽しむことはできる。
 子供みたいに無心になって、彼女はいつのまにか暗くなった空を見上げていた。
 花火の音が途切れても、次は何かと待ちわびるみたいに、一瞬も見逃すまいとしているみたいに。
 俺は、そんな気持ちにはなれなかった。
「家族と、合流しなくていいの?」
「あ」
 水を差すのは悪いと思いながらも一応投げかけた言葉に、今度はちゃんと反応してくれた。
 後輩は慌てて携帯を取り出すと、シィタ派にもよろしく伝えるように言い残してあっという間に去って行った。
「それじゃ、二学期に」なんてあっさり言い残して。それだけだった。
 
 彼女の後姿を見えなくなるまで見送ってから、俺は溜め息をついて二人が居る場所まで戻った。
 花火の音に、どこかで子供がはしゃいでいた。遠くで救急車がサイレンを鳴らしていた。
 夏はそのようにして終わった。
44:
やばい
なんか来るモノがあるなこれは心に
精神的ダメージが凄い
47:

 拝啓、叔母上様。
 立秋の候、いかがお過ごしでしょうか。
 こちらは相変わらずです。
 父は資本主義経済の下、身を粉にして馬車馬のごとく働き続け、盆も盆にあらずと言った様子。
 妹は、義務教育下の受験生であるにも関わらず、我が家の良妻賢母になりきって家事をこなしています。
 夫が父で、子が俺です。
 受験生だと分かっているなら、家事はお前が代わってやれと、どうか仰らないでください。
 彼女は望んでそうしているのです。
 
 と言いますのも、以前一度、俺が一日だけ、炊事洗濯掃除買い物をすべてをこなしたことがあったのですが、
 食材は料理とは呼べぬ何かに変貌し、服は雨に濡れ、
 白いシャツには色が付き、床は傷つき、妹の下着がなぜかリビングに散乱しました(摩訶不思議でした)。
 我々は悲嘆に暮れたのです。
 それは我が家の経済状況を圧迫すらしました(主に俺の小遣いの面でですが)。
 以前というか、二日前のことです。
48:
 それは悲劇でした。
 抒情的な表現すら寄せ付けぬほどのリアリティをまとった、それはまさにトラジディでした。
 シェイクスピアもかくや、です。ハムレットの苦悩がいかほどのものでありましょう。
 カタストロフ、であったのです。
 叔母上様の娘君が、「ストロガノフ?」と首を傾げているさまが目に浮かぶようです。
 カタストロフィー、であります。
 結果、妹は俺から家事の自由を奪い、父は俺から買い物の自由を奪いました。ギリシア神話の神々のようです。
 
「お兄ちゃんに任せてたら、いつキッチンが焼け跡になるのか不安で勉強が捗らないもん」
 というのが妹の弁であり、
「……おまえの小遣いは、多すぎたかもしれん」
 というのが父の言でありました。
 小遣いの減額に関しては、家族三人で多数決を取りました。多数決。民主的な手法です。
 が、少数派から見れば民主主義は常に横暴であると、俺は今回のことで悟りました。
 今の額ではカラオケにもいけません(一緒に行く相手がそもそもいませんが)。 
 女の子と学校帰りにタイヤキも買えません(推して知るべし、です)。
49:
 叔母上様。甥のあまりの情けなさに、呆れられるでしょうか。辟易なさいますでしょうか。
 俺も同じ気持ちです。
 俺も自分が情けないのです。不甲斐ないのです。うんざりなのです。
 
 ので、家事の勉強をすることにしました。
 
 ものは試しとヘソクリを持ち出してレシピ本などを買ってみましたが、さっぱりわかりません。
 野菜の種類の区別すらつかないのに、パセリだのセロリだの言われても困るのです。
 ニンジンとかジャガイモとかタマネギとか、そこらへんを使ってうまいことやりたいのです。
「カレー?」と首を傾げる叔母上様の娘君のようすが、目に浮かぶようです。
 悩んだあげく、以前叔母上様が絶賛なさっていた「調理以前の料理の常識」という本を購入いたしました。
 書名がいささかプライドに差し障りましたが、さすがの慧眼、良書です。
50:
 俺の立つ場所は、調理以前、だったのです。常識知らず、であったのです。
 毎朝、父のものと一緒に俺の分の弁当までつくってくれていた妹には、頭があがりません。
 あげられるほどの頭もありませんが(笑うところです)。
 叔母上様、俺は生まれ変わります。
 秋の内に味噌汁の作り方を会得し、冬には勉強中の妹に夜食を作ってやれるようになっていることでしょう。
 乞うご期待(……なにやら変な結びになりましたが、これにて)。
 敬具。
 追伸。
 同封した写真は、休み中そちらを伺ったときに撮影した画像データを印刷したものです。
 父が寂しがっているようなので、お暇なときにでも電話を掛けてやってください。
 また近い内にお会いしましょう。
51:

 校長の話は長い。
 改めて言わなくたってみんな知っているようなことなのだが、とにかく長い。
 でも、今までだってさんざん、校長の話は長い長いとそこかしこで言われていたわけなんだから、
「まあ、あんまり話を長引かせちゃうとね、また『校長の話は長くていけねーや』なんて言われちゃいますからね。 
 このあたりでおしまいにしちゃいますけど、みなさん二学期も健やかに、和やかに、積極的にね、過ごしましょう」
 みたいな具合であっさり話を終わらせる校長があらわれたって、別におかしくないと思う。
 が、なぜか未だにそういう校長があらわれたという話は聞かない。
 ひょっとしたらどこかの学校にはいるのかもしれないが、俺自身の人生ではお目に掛かれていない。
 そんなわけで、二学期の始業式は眠気との戦いだった。
 前日の夜中まで叔母宛の手紙を書いていたせいで寝不足だったのもある。
 いや、始業式の前日に夜更かしするなよと言われれば、その通りだけれど。
 あまりの眠気に途中から意識をやられて、開式前に噂になっていた美少女編入生の姿を見損ねてしまった。
 ……ひょっとしたら、俺の人生を示唆しているのかもしれない。せつない。
 とにかく、長かった夏休みは終わり、二学期が始まった。
52:

「んで、夏休みが始まる前からさんざん言ってた通り、十月の頭には文化祭があるわけなんだけど……」
 二学期最初の文芸部の活動はミーティングだった。
 部長はホワイトボードの上の方に背伸びをして文化祭の日程を書き記した。
 
「うちの部は、例年通り部誌の発行と配布を行います。まあ、そんなに数は出ないだろうし、作るだけって感じだけどねー」
 間延びした声。部長の様子は相変わらずだった。
 会って早々祭りのときの態度を話題にするでもなく、「おー、眠そうだねー?」なんて普段通りに話しかけられてしまった。
 どうも後ろめたい。
 ミーティングとはいえ、実際に部室にいるのは四名の部員と顧問だけ。
 幽霊部員はミーティングにすら出ない。それを許容するあたりは、まあ、顧問の性格か。
 当の顧問はパイプ椅子にもたれていびきをかいて眠っていた。
 無精ひげの目立つ二十七歳、男性教諭。
 初恋の相手はデジモンのヒカリかポケスペのイエロー、らしい。
「どっちかにしろ」とツッコミを入れたら、「選べって、そんなの無理だろ」と深刻そうに途方に暮れていた。
 割とずぼらな性格らしく、部活に対してもあんまり積極的ではない。
 だいたいのことは部長が取り仕切っていた。
53:
 うちの文芸部は人気がないなりに歴史もあるらしくて、部誌のバックナンバーも結構残っている。
 
 読み返してみるとおもしろいものだ。 
 どう考えてもふざけているとしか思えないものから、ひときわ気合いの入ったものまでさまざま。
 そんな中、去年の部誌の見どころは、幽霊部員たちが罪悪感からか一句ずつ寄せた川柳だろう。
「何か書け そう言われても 書けやしない(字余り)」山田 
「書けないよ ああ書けないよ 書けないよ」定岡 
「雨の音 木々の隙間に 揺れる声」枝野 
 枝野だけが妙に真面目なあたりが哀愁を誘った。
 でも、いちばん適当に書いたのも枝野だと思う。だって意味なさそうだし。
 当時の部長の判断が、今にして思えば英断だった。
 表紙を開いたとき、真っ先にこの川柳が目に入るようにして、しかも一句につき一ページを割いた。
 ページの中央に大きめのフォントで各々の川柳を配置。左下に三十字ほどの解説まで寄せていた。
 たぶん普段サボりがちだったことに対するあてつけもあったのだと思う。
 が、この身も蓋もない感じの川柳が、かえって親しみやすさを呼んだのか、部誌はなかなかにさばけた。
 けっこう評判もよかった。主に川柳が。
54:
 それはともかく、今年の話。
「割と余裕を持って完成させちゃいたいので、締め切りは、まあ、半月前くらいかなあ」
「どんなのでもいいんですか?」
 と質問したのは後輩だった。
「うん。どうせ部員少ないし、たいした厚みにもならないだろうから、好きに書いちゃってー。複数作品も可」
 部長の答えはあっさりしている。
 そのやりとりの直後、一瞬だけ、後輩がこちらをちらりと見た気がした。
 たぶん気のせいだろう。
 さて、と俺は考え込んだ。今年はどうしたものだろう。
 シィタ派に目を向けると、彼は窓の外を見ながらぼーっとしていた。
 たぶんなにか壮大なことを考えているんだろう。パウロ・コエーリョみたいなことを。
 眠気に負けてあくびをすると、部長が「こら」と笑った。先に顧問を叱ってほしい。
55:

「せんぱいは、どうするんです? 今年」
 と、後輩がそんなふうに声を掛けてきたのはミーティングを終えた直後だった。 
 そんなふうに彼女から声を掛けられたのは初めてだったので、少し戸惑う。
「今年は川柳かな」
「え?」
 なんでもない感じに呟いたつもりだったけれど、後輩はかなり意外そうな顔をした。
「……え、ダメかな?」
「いや、ダメってことは、ないでしょうけど……。とすると、今年は四つ並ぶんですか、川柳」
「一つかもしれないけどね」
「山田先輩たちはもう提出したらしいですよ。部長が言ってました」
「……川柳?」
「はい。一句ずつ。枝野先輩はまだらしいですけど」
 ……奴ら、徹底してるな。枝野はめんどくさがってるに違いない。
56:
「きみはどうするの。ポエム?」
 反問すると、彼女はちょっと言いにくそうな顔をした。
「……ポエムは、ちょっと」
「若い頃しかできないよ。ほろにが系のポエムを書くのは。誰もが通る道。部長も通った道」
 通ってないよー、と聞き耳を立てていたらしい部長が言った。
 通っていないのか。通っていそうなのに。というか通っていて欲しかった。なんとなく。
「なんかこう、片思いの切なさをね、砂時計とか噴水とか夕陽にたとえちゃうような文芸部的精神が必要だよ、うん」
「……よく分かりませんけど、ポエムはなしで」
 なしらしい。ちょっと読んでみたかったのだが。
57:
「小説」
 と、彼女は溜め息みたいなささやかな声で呟いて、それからたっぷり五秒の間を置き、恥ずかしそうに俯いた。
「……を、書いてみようと、思ってたんですけど」
 耳まで真っ赤だった。恥ずかしがる女の子はかわいい。なんでだ。
「うん。いいんじゃない? ほろにが系の小説も」
「どうしてほろにが系限定なんです?」
「……俺が好きだから?」
「……そうですか」
 呆れたのか、困ったのか、よく分からない顔。
 俺は溜め息をついて、そういうことならとシィタ派を指差した。
「小説についてなら、あいつに訊くといいよ。去年の部誌読んだんでしょ」
 え、俺? とシィタ派は意外そうな顔をした。
58:
「部長もスペースオペラ書いてるし、そっちをアテにしてもいいと思うけど」
 わたし、書いたことないよ、スペースオペラ、と部長は苦笑していた。
 もちろん知っている。
「まあ、俺はしがないほろにが系ポエマーだから。小説のことは、よくわかんないや」
 部長とシィタ派はそろって困った顔をしていた。
 後輩も、ちょっと戸惑っているみたいに見える。 
 適当にあしらったと思われたかもしれない。
 正直、話を振られてもまともに反応できる余裕がなかった。
 他の奴なら、もっとうまくかわすだろう。そう考えると余計に苦々しい気持ちになる。
「でも……」
 後輩が何かを言おうとしたところで、ノックの音が部室に響いた。
59:

「……すみません、文芸部の部室って、ここですよね?」
 
 扉を開けたのは、見慣れない制服を身にまとった美少女だった。
 一斉に注目を浴びて戸惑ったのか、居心地悪そうにスカートの裾をつまんでいる。
 
 美少女なのはいい。
 が、声に聞き覚えが、容姿に見覚えがあった。
 ……というより、祭りのときに声を掛けた女の子に似ている。似ているだけかもしれない。きっとそうだ。
 俺は思わず顔を伏せた。冷静に考えてみれば別に隠れる必要もないのだが、なぜか。妙な罪悪感があった。
「……えっと、編入生、さん、だよね?」
 応対したのは部長だった。
「はい。今日、部活の見学をしたかったんです。それで、顧問の先生が教室まで迎えに来てくれるって話だったんですけど……」
 ……顧問は寝ている。なんとなく、全員が事情を察した。
「てことは、入部希望?」
「……はい」
 シィタ派が顧問を揺すって無理やり起こした。顧問は目覚めたあと、十秒くらいぼーっと虚空を見つめていた。
 たぶん無限大な夢と現実とのギャップに愛しい想いが負けそうになっていたんだろうと思う。
60:

「それで、その子、結局入部したんだ?」
 部活が終わった後、俺が屋上に行くと、彼女は案の定そこに立っていた。
 まるで夏休み中もずっとそうしていたみたいに。
 風の吹く中、夕陽に向かって。まるで映画のワンシーンだ。
 
「まあ、正式にはまだみたいだけど、あの感じだと入るみたいだ」
 ふうん、と彼女は面白くもなさそうに頷いた。
 あの子とは、結局話もしなかった。目も合わせなかった。今後も何も起こらないよう願いたい。
「ねえ」
 と彼女は口を開いた。夕陽を浴びながら、髪をなびかせている。
 疲れないんだろうか、と思う。どうしてこんな場所にいるんだろう。
「小説、今年は書かないの?」
「……盗聴でもしてるの?」
 彼女に小説のことを話した記憶はなかった。
61:
「……何の話?」
 
 と彼女は怪訝そうに眉をひそめる。
「いや、なんでそう思った?」
「べつに。なんとなく」
「俺が書いてたこと、知ってたの?」
「そりゃ、そうだよ」
 彼女が当たり前みたいな顔で頷くのと同時、ひときわ強い風が吹き抜けて、制服がばたばたと音を立てた。
 まだ残暑がきついとはいえ、夕方の屋上に夏服でいるとなると、さすがに肌寒い。
「で、書かないんだ?」
 どう答えるべきなのか、一瞬、戸惑ってしまった。
62:
 でも、それは本当に一瞬だけだった。
 彼女相手にいちいち答えに詰まるのは、馬鹿らしいことだという気がした。
 妖怪みたいなものなのだ、たぶん。そういう雰囲気がある。
「書かなくても、誰も困らないだろ?」
「まあね」
 彼女は笑いもしない。当たり前だ。冗談を言ったわけじゃない。事実を言ったんだから。
 それでも、彼女の淡々とした反応に、俺はなんだか苦しくなった。
 いつもの調子でちょっとおかしなことでも言えばごまかせるだろうか。
 そう思って何か言おうとしてみても、とっさには思い浮かばない。
「出口があればいいんだけどね」
 やっと出てきたのは、抽象的で意味のない言葉で、
「ないよ、そんなの」
 しかも、あっさり否定されてしまった。
63:

 家に帰ったときには既に妹がキッチンに立っていた。
 ので、一緒に料理をさせてほしいと懇願する。
「……お皿、割らないように気を付けてね?」
 というのが彼女が最終的に放った台詞だった。
 小学生レベルの扱いを受けているが、事実小学生レベルの能力しか持っていないので仕方ない。
「学校、どうだった?」
 妹が、豆腐をなんとか切りしながら訊ねてきた(たぶん賽の目だと思うのだが確信が持てない)。
 俺はジャガイモの皮を剥きながら答えた(ピーラーとかいうあれで)。
 
「休み明けは、やっぱり疲れるな。そっちは?」
「うーん……。なんかね、友達みんな日焼けしてた。それくらい」
 妹は不思議と真っ白だった。
 
 夕食をとったあと、部屋に戻って「調理以前の料理の常識」の続きを読んだ。
 実践を伴わない情報の収集にどれだけの意義があるのかは分からない。 
 少なくともやらないよりはマシだと信じるしかなかった。
 何か見当違いのことをしているような、そんな予感に怯えながらも。
68:

「お兄ちゃん、そろそろ起きないと遅刻するよ?」
 
 朝、そんな声で目が覚めた。自分でも驚くほどあっさりとした寝起きだった。
 目が覚めたのに、なぜだかすぐには動けなかった。
 
「けほ」
 咳が出た。
「風邪?」
「……みたいだね。まあ、大丈夫だろう」
 季節の変わり目で、油断しただろうか。
 ベッドから這い出す。ただでさえ休み明けのところに、寝不足のせいもあるのか、どうも体が重たかった。
 時計を見ると、もう慌てなければいけない時間だ。
 
「……大丈夫なら、二度寝しないでね?」
 妹はそう言うと部屋から出て行った。
 ドアが閉まる音。
 さて、と俺はあくびをした。今日も今日とて学校だった。
69:

 教室につくとビィ派とシィタ派は既に登校していて、なにやら窓際で話をしていた。
 
 奇妙なことに、彼らとは中学の頃からずっと同じクラスだった。
 高二になる今までずっと。さすがにちょっと変な話だと思う。
 当たり前だけど、俺は彼らがふたりきりのとき、どんな話をしているのか知らない。
 というか、想像すらできない。どっちも黙り込んでいるんじゃないかという気がする。
 ふと思いつき、気付かれないように足音を忍ばせて近付いてみる。
 話し声は思ったよりもずっと聞きとりにくかった。
「もう夏も終わりだなあ」
「だねえ」
「衣替えっていつだっけ」
「もうすぐじゃないかなあ」
 ……老境だ。
70:
 ちょっと興味があったのでもう少し聴いていたかったのだが、つい咳が出てしまった。
「よう」
 ビィ派は俺に気付き、驚いた風でもなく、当たり前みたいな顔で挨拶してきた。
 俺はそれに頷きを返してから、荷物を自分の席に置く。
「編入生、おまえらんとこの部に入ったんだって?」
「みたいだね」
「なんかさ、おまえって妙に女に縁があるよな」
「……は?」
 
「いや、だから、妙に女に縁があるよな、って」
「どこが?」
「……なんでキレ気味なんだ?」
 キレ気味というか、納得がいかない。
71:
「まず、よく文芸部の部長さんと話してるじゃん」
「それを言うなら、こいつも同じだろ」
 と俺はシィタ派をさした。というより、ビィ派だって部長とは頻繁に話をしていた。
「それから、例の後輩だろ」
「……例のって、あの子?」
「多分その子。結構仲いいんだろ」
 それだってシィタ派も同じだし、別に特別仲が良いわけでもない。
「で、女に縁があるって、それだけ? 根拠」
「……妹がいる」
「家族だろ」
「かわいいことはかわいいだろうが」
 普段はシスコンシスコンとバカにしてくるくせに、都合の良いときだけそういう扱いだ。
72:
「で、俺のどこが、女に縁があるって?」
 妹を含んでも、普段話をする相手が三人しかいない。 
 ……本当は四人か。まあ、あれは別枠だろう。
「というか、部長たちとは部活が同じだけで、話はしないし」
「そうかな。俺が見てる限りだと、けっこう仲良さそうに見えるけど」
「同じ部に所属してるだけで仲がいいってことになるなら、吹奏楽部入ればハーレム作れるぞ」
 一年から三年合せて、今ならもれなく三十八人だ。
 そもそも部長たちとだって、仲が良いと言うならシィタ派の方がずっと良い。
 ……考えたら憂鬱になってきた。
 体は重いし咳も出る。体調は思わしくなかった。
「風邪?」
「みたいだね。朝薬飲んできたんだけど」
73:
「そういえばさ、文芸部の部長って名前なんていうの?」
 ビィ派の質問のあと、十秒ほど沈黙が続いた。
「……なんていうの?」
「聞かれてるよ」
 と俺はシィタ派の肩をつつく。彼は困った顔をした。
「なんで俺に言うの?」
「だって俺知らないもん」
「え?」
「ずっと部長って呼んでたし。みんなも部長って呼んでるし」
 入部直後のミーティングで自己紹介をしあう機会があったはずなのだけれど、俺はその日学校を休んでいた。
 おかげで俺は部長のフルネームを未だに知らない。今年のミーティングは寝ていたので記憶がない。
 そういえば、幽霊部員三名とも顔を合わせたことがなかった。
74:
 ビィ派はちょっと慌てた様子で、俺を問い詰めはじめた。
「制服のネームとかで見たりしなかったのか?」
「見ないよ。女性の胸元ですよ」
 ……名前を覚えていないのも同レベルに失礼なのかもしれないと、言ってから気付く。
「いや、じゃあ、ほら。書類とかで名前書いてるときとか」
「あー。そう言われてみれば、なんとなくのイメージは分かるような。たしか……」
「たしか?」
「……佐藤?」
「違うよ?」
 とシィタ派が言った。少なくとも佐藤ではないらしい。
 それ以上何も言わないかと思ったら、シィタ派は嘆息して続けた。
「呆れるなあ。それで一年以上よく気付かれなかったね」
「そんなに話、しなかったし」
75:
 また咳が出た。そう言われてみれば、実は目の前の二人の下の名前も思い出せない。
 今言ったらまず間違いなく波紋を呼びそうなので、あとで確認しておこう。
 
 ビィ派はなにやら考え込んでしまった。
 なんだか罪悪感が湧いてきて、
「まずいかな、やっぱり」
 とシィタ派に訊ねてみると、
「まずいと思うよ、普通に」
 当たり前のように言われてしまった。やっぱりか。
 
「覚える気がなかったんじゃなくて、覚えられなかったんだよ」
「……一年以上?」
 シィタ派に冷めた目で見られると、ことの深刻さが浮き彫りになる。
 信頼関係のゲージが削れつつあるらしい。もともとあったのかどうかも疑問だが。
「覚えようとすることを忘れていた」
「危機感持とうよ」
76:
「軽蔑した?」
 シィタ派が思ったより深刻そうな態度だったので、そんなことを聞いてしまった。
 普段だったら、こういう言い方はあんまりしたくないのだけれど。
 風邪で頭が鈍ったせいにしておこう。
「どうかな。ひょっとして、文芸部のメンバー、名前言えなかったりする?」
 俺は答えに詰まる。図星をつかれたのだ。
「あの一年生の子も?」
「……」
「……今までどうやって会話してたの?」
「『ねえ』、『あのさ』、『ちょっといい?』などを使い分けつつ、『きみ』とか『後輩ちゃん』とか『そこの一年』とか言ってれば……」
「その労力で名前覚えればいいのに」
 別に労力を払っているわけではない。けっこう名前なしでもいけるものなのだ。
 現に今朝、俺たちはお互いの名前を一度も呼び合っていない。
77:
「……思うにさ」
 それまで黙っていたビィ派が、神妙そうな顔つきで口を開いた。
 
「おまえ、女に縁がないんじゃなくて、女に興味ないんじゃないの?」
「……え?」
「いや、女にというか、人間全般に?」
 彼は真顔だった。どう反応するのが正解なんだろう。
 どうも冗談ではないらしい。
「考えてみると、こう、話とか聞いてるようで聞いてなかったりするしさ」
「いや、ちょっとぼーっとしてるだけだって、それは」
「それにしたって、名前なんて、毎日のように会ってれば勝手に耳に入ってくるだろ。他の奴と話してるときとかにさ」
「そうは言っても、名前なんてそう頻繁に呼ばないよ。話してるとき」
78:
「とは言っても、この時期に名前すら覚えてないっていうのはさ」
 自分が悪いんだろうとなんとなく感じつつも、そこまで言われると俺もなんだか頭にきて、
「俺がどういうスタンスで生活しようと俺の勝手だろ?」
 と、そんなことを言ってしまった。
 チャイムというのは大概タイミングの悪いときに鳴るものだけれど、今日もその御多分に漏れず。 
 俺たちは気まずい空気のまま自分たちの席に戻った。
 とはいえ、たしかに、名前を覚えてないっていうのは、普通に失礼な話であって。
 人の話を聞いていないときがあると言われるということは、そういうときはたしかにあるんだろう。
 もっと気をつけないといけない。あとで二人にも謝っておこう。
 俺はもっと、自分の生活態度をかえりみないといけない。
79:

 放課後、部室に向かったが、まだ誰も来ていなかった。
 溜め息をついてパイプ椅子に座り、鞄を床に置く。
 朝のことが尾を引いて、ふたりとはろくに話せなかった。
 気分が暗くなってくると、段々体も弱ってきたような気がしてくる。
 妙に体が重い。判断力が鈍っている気がする。
 あるいは、体が不調だからこそ気分も暗くなっているのかもしれない。
 どっちかは分からない。どっちだっていい。
 俺はしばらくの間、部長や後輩の名前を思い出そうとして見た。
 友人二人の下の名前も。でも思い出せない。
 ぼんやりとした輪郭は分かっても、これだという答えが掴めなかった。
 部長が来たのは十五分ほど経ってからだった。
80:
「や。早いね。みんなは?」
「さあ? まだ来てませんよ」
 同じ時間で終わったはずなのに、シィタ派が遅くなるのはちょっとおかしい。
 たぶん何か用事でもあるんだろう。
「どう? 部誌の中身。できそうー?」
「考えてはいるんですけどね」
「どんなの?」
「ほろにが系ポエムかほろにが系川柳で迷ってます」
「ほろにが系小説はー?」
「小説、疲れるので」
 訊かれるとは思っていたので、軽く受け流す。
 部長もあまり強くは言ってこなかった。
81:
「構えすぎてるんじゃない?」
「じゃあ、尚更息抜きにほろにが系ポエムでも」
「うーん、そっかー」
 部長はそれ以上何も言わず、鞄を長机の上に置いて自分も椅子に座った。
 それから部長がボソリと深刻そうに、
「……薄くなったらどうしよう、部誌」
 そんなことを言ったのがおかしかった。
 いや、そんな厚みになるような長さのものを書いた記憶はないのだが。
 そもそも、部員数が少ないんだから薄くなっても仕方ないと思う。
「ところで、ほろにが系川柳って、どんなの?」
 俺は十五秒くらい考え込んでから答えた。
「……『校舎裏 梢の影に 子猫鳴く』、とか?」
 部長はコメントしづらそうな顔をしていた。
 そりゃそうだろう。いま思いつくままに言っただけなんだから。
「それほろにがいの?」とか言われても、「さあ?」としか答えられない。
82:
 ちょうど会話がなくなったので、今朝ふたりに言われたことを思い出して、俺は部長の胸元を見た。
 ネームを見れば名前なんてわかる。むしろそのためのネーム。
 なのだが。
 でかい。
 ……いやいや。
 しかし、なんだろう。これまでまったく気付かなかったが、意外に大きい。
 どうして気付かなかったんだろう。体格は小柄なのに、胸だけがこんなに。
 乳房原理主義者のビィ派が部長の名前が訊きたがるわけだ。
 いや、彼の場合は三次元には興味がないと豪語していたはずだけれど。
 そう考えてみれば、あいつは三次元に興味のない自分を棚にあげて俺を責めたのか。
 あ、いや。責めてはいないか。分析しただけか。分析された俺が勝手に逆ギレしただけか。
 などと考えている間も俺の視線は部長の胸元を離れなかったわけだが。
 ネームが左右どちらについているかも分からない。
 うーむ。女体、神秘である。
83:
 不意に、
「あっ」 
 と部長が声をあげ、立ち上がった。それが夢の終わりの合図だった。
「えっと。喉かわいたから、飲み物買ってくるね?」
「……あ、はい」
 部長はどこか気まずげな表情でいそいそと部室を出て行った。
 ドアが閉まる音。
 気付かれたか。いや、そりゃガン見してれば気付かれるのは当たり前だけれど。
 あの胸の大きさに今まで気付かなかったということは、まさか自分は本当に女性に興味がないのかも。
 いやしかし、今はむしろ興味津々なわけで、その意味で興味はあるわけなんだが。
 そこまで考えたところで罪悪感に襲われ、誰に聞かれているわけでもないのに咳払いをした。
 部長が帰ってくるまで十分くらい掛かった。
84:
 戻ってきた部長の様子はどこかしら普段とは違ってみえた。 
 そわそわしているような感じ。たぶん気付かれたんだろう。
 彼女はパイプ椅子に座ったあと大きな溜め息をついて、紙パックの烏龍茶をストローですすりはじめた。
 気まずい沈黙が続いた。
 
 こういうときは天気の話をするのが一番だった気がする。
「……まだまだ暑いですよね」
 声を掛けると、部長の肩がびくっと揺れた。
「そ、そうだね。窓開けようか?」
 どもっている。こんな態度の部長を見たのは初めてだ。
「……俺開けます」
 立ち上がって窓を開ける。日焼けしたカーテンが吹き込んだ風に膨らんだ。
85:
 何度か、咳が出た。
「……大丈夫?」
「はい。どうも風邪気味みたいで。頭もちょっとぼーっとするんですよね。熱はないはずなんですけど」
「……あ、なるほど、それで」
「はい?」
「あ、ううん。なんでもない。体調悪いんだったら、帰っても大丈夫だよ?」
「どうしてもつらかったらそうします。さっき保健室で薬飲んできたんで、そのうち収まると思うんですけど」
 どうにも咳が止まらなかったので、仕方なく鞄からマスクを取り出してつけた。
 最初からつけておけよという話なのだけれど、やっぱりなんとなく抵抗がある。
 それにしても、今日は他の部員たちが来るのがいやに遅い。
91:

 次に部室に現れたのは編入生だった。
 入部届を職員室に提出してきたから遅れたのだと言う。
 まあ、それでなくても何かと用事が多そうなのは想像がついた。
 そもそも文芸部は時間に関してはけっこうルーズで、特定の日以外はいつ来ていつ帰ってもいいことになっている。
 部長がそのあたりのことを説明すると、編入生はちょっと困った感じで部室の中を見渡した。
 そういえば、俺は彼女が何年なのかも知らない。
 まあ、敬語を使っておけば問題ないだろう。
 部室の中に、しばらく俺以外のふたりの声だけが響いていた。
 ちょうどいいので、俺は黙って本を読むことにする。
 何かを忘れているような気がした。
 思い出そうとしても、頭が重くてうまく考えられない。
92:
 物語の中では、悲惨な虐待と監禁の末にひとりの女の子が死につつあった。
 体調のせいか、あるいは訳に変な部分があるせいか、いまいち小説に没入できない。
 現実は柔らかな風が吹き込む夕方の文芸部室で、俺は空想とのギャップに目が眩むような思いがした。
 いや、違う。そうじゃないだろう、と俺は思った。どうしてそんなことを思ったのかは分からなかった。
 いつのまにか部長と編入生の会話は途切れていて、部室からは誰の声も消えていた。
 不意に、その沈黙を編入生が破った。
「あの」
 と彼女は声をあげた。てっきり部長に言ったのかと思って小説を読むのに集中していると、
「呼ばれてるよー?」
 とその当人が言ったので、俺は顔をあげた。
「はい?」
 自分の出した声はマスクのせいで籠っていて、うんざりした。
 編入生はたしかにこちらを見ている。
93:
「あの、わたし、あなたにどこかで会ったことありますか?」
「……」
 やっぱり、祭りのときの女の子なのだろうか。
 あのときは暗かったし、服装もいまと違ったから、いまいち確信が持てないでいる。
 部長はなにか気まずそうな顔をしていた。
 俺は心当たりを探しているようなふりをしてから、
「いや、判りませんね」
 と結局ごまかした。彼女はとまどったような顔になった。
「そうですか」
 と言ったきり、落ち込んだように俯いてしまう。
 ……なぜ落ち込む?
 
 祭りの日に顔を合わせたかもしれない相手、というだけなら、落ち込む必要はないはずだ。
 それとも、もっと他の場所で会ったのだろうか。あるいは、誰かと勘違いしているのか。
94:
 いずれにしろ、俺に心当たりがない以上は、あちらから何か言われないかぎり分かりようがなかった。
 彼女との話はそのまま途切れてしまった。
 それから、十分も経たずにシィタ派が現れた。
 彼は俺を見て、「大丈夫?」と言った。
「何が?」
「それ」
 と彼は俺の口を指差した。マスクだ。
「ああ、うん」
 ふと、編入生の視線が俺とシィタ派の方を向いていることに気付く。
 シィタ派もその視線には気付いていたしく、どこか居心地悪そうにしている。
 不可解だ。
95:
「窓、閉めていいですか?」
 肌寒さに堪えかねて、俺は全員にそう訊ねた。特に異論のある人はいないらしい。
 窓辺に立つと、また少しの間咳が止まらなくなった。本格的にひどくなってきた。
「大丈夫?」
 と部長が訊いてきた。 
 段々ひどくなってきたし、これ以上は迷惑になるだろうと思い、帰ることにした。
「きついみたいなんで、帰ります」
「お大事に」
 と部長は笑った。
 俺は荷物をまとめながらシィタ派に話しかけた。
「今朝はごめんな」
 
「いいよ。それより、気をつけて帰れよ」
 うん、と頷く。でも俺は本気で謝っていなかった。
 そういうところが自分でも嫌になる。特に最近は。
96:
 部室を出たときには四時二十分を過ぎていた。
 後輩はたぶん部活を休むのだろう。たいして珍しいことでもない。
 どちらかというと気になるのは、編入生の視線の方だった。
 なんというか、明らかに態度が不審だった。
 その態度の原因は、どうも俺だけではないような気がする。
 彼女は俺だけではなくシィタ派の方も見ていた。
 というより、シィタ派の方をより多く見ていた気がする。
 
 ひょっとしたら、シィタ派にはなにか心当たりがあるのかもしれない。
 少し考えてみたけれどよく分からなくて、俺は考え事をやめて帰って寝てしまうことにした。
 
 明日になっても彼女の態度が変だったら、シィタ派に訊いてみればいいかもしれない。
 まあ、理由があるなら、そのうち何か話してくると思うのだが。
97:

 家に帰ってからすぐに自室のベッドに横になって眠った。
 結構深い眠りだったけれど、目が覚めたときに時計を見ると、帰ってきてから二十分と経っていなかった。
 俺はふと思いつき、洗濯物を取り込んで畳んだ。
 何か考えなくてはならないことがあった気がするのだけれど、思い出せない。
 しばらくすると妹が帰ってきて、夕食を作り始めた。手伝うには、まだ本調子ではなかった。
 俺は自分が制服のままだったことに気付き、着替えることにした。
 
 食事のとき妹が、
「クルマサカオウムってかわいいよね……。でも夜明け頃とかに絶叫する習性があるんだって。なんでだろうね」
 というような話をしていたけれど、頭にはあまり入ってこなかった。
 食事をとってから、すぐに部屋で休んだ。 
 ここにきて、風邪がいきなり悪化した理由が分かった気がした。やっぱり寝不足だったのだ。
 眠くて仕方ない。身体が異様に重かった。
 ベッドで休んでいると妙な焦燥感のようなものに襲われた。
 それが眠気にのまれて消えてなくなるまで、しばらく俺は眠ることができなかった。 
98:

 昔から、文章を書くのは嫌いだった。作文や感想文なんて大の苦手だった。
 夏休みの読書感想文なんかは、妹に一枚五百円で書いてもらうことにしていたくらいだ(割と頻繁に入賞した)。
 俺が自分の意思で文章を書くようになったのは中学三年の春先のことだった。
 初めて書いたのは、「彼女は退屈していた。」から始まり、「だから彼女は出かけることにした。」で終わる五千字ほどの物語だった。
 要約してしまえば「彼女は退屈していた。だから彼女は出かけることにした。」で済む文章だ。
 内容は支離滅裂だったし、矛盾を含んでいた。たいして面白いこともなかった。
 何度読み返してみても、その文章に何かの意味があるなんて思えなかった。
 でも、意味があるかどうかはともかく、問題が多くあることは分かった。
 俺はそれを修正せずに、別の話を書くことにした。今度はできるかぎり問題を少なくし、体裁を整えることに腐心した。
 また「彼女は退屈していた。」から始まり「だから彼女は出かけることにした。」で終わる文章だった。
 そうした話を、俺は一年間で十八本書いた。
「彼女」は少女であったり老婆であったりしたし、「退屈」している理由だってばらばらだった。
 字数もさまざまで、二千字で終わるものもあれば十五万字かかるものもあった。
99:
 そうした文章を書くときに俺が目指したのは、ただ「前に書いたよりもマシなものを」ということだけだ。
 何がどうなっていれば「前のものよりマシ」だと言えるのか、それは自分でもよく分からなかった。
 苦痛な作業だった。得るものは何もないし、書けば書くほど自信を失っていく。
 俺は文章を書いていていい思いをしたことは一度もない。
 にも関わらず、なぜそんなことを続けてきたのか、自分でもよく分からない。
 たぶんそれ以外にできることがなさそうだったからだろう。
 そして冷静に振り返ってみれば、それすらもできていないのだ。
 
 どんなことでも継続して続ければ、少なくとも人並み程度の能力は得ることができる、というのが俺の考えだった。
 能力を得た先に何があるのかということに関しては、あまり考えないようにしていた。
 けれど高一の秋頃から、その考えが本当に正しいのか、よく分からなくなってしまった。
100:

 目が覚めたときには夜中の十時過ぎで、体調はいくらかマシになっていた。
 まだ軽く咳が出たが、夕方頃よりはだいぶマシだった
 水を飲もうと思ってリビングに行くと、父が帰ってきていた。
 誰かと電話で話をしているらしい。俺はあまり気にしないことにした。
 水を飲んでから、シャワーを浴びて歯を磨き、寝る準備をする。
 鏡を見て歯を磨きながら、頭の中で、べつに無理に何かを書く必要はない、と自分に向けて言ってみた。
 たしかに、と俺は思った。文章なんて書かなくたってまったく困らない。
 
 そう思うと少しだけ体が軽くなった気がした。
 なんだかいろんなことが自分とは無関係に起こっている気がする。
 ひょっとしたら、まだ夢の中にいるような気持ちだったのかもしれない。
 
 落ち着かない一日だった。
 不調の原因が寝不足なら、やはり、もう少し生活をかえりみるべきだろう。
 少しの間、文章を書こうとするのは諦めた方がよさそうだった。
106:

 翌朝には風邪は治っていたし、早めに眠ったおかげか体調も万全だったのだけれど、
「ていうか、あの編入生っておまえの元カノだよな?」
 とビィ派がシィタ派に言っているのを聞いて、思わず咳が出た。
 俺を驚かせた本人は「大丈夫か? 病み上がりなんだから気をつけろよ」とあっさりしている。
「……マジで?」
 俺の問いかけに、シィタ派はちょっと気まずげな顔で頷いた。
 始業前の教室はざわついていて落ち着かない。誰も俺たちの方に注意を払っていなかった。
 
「だからどうってわけでもないけどね」
 そう言われてしまえば、たしかにそうなのだろうけれど。
 じゃあ、それで昨日はシィタ派の方を見ていたんだろうか。
「同じ中学だったのか。……え、でも編入って」
「あの子、中三にあがるときに引越ししただろ。親の仕事の都合とかで」
 ビィ派は溜め息をつきながら俺の疑問に答えた。
「なんでそんなことも覚えてないんだ?」という顔。
107:
「中学のときの同級生なんてたいした数もいないんだから、気付けよ」
 とビィ派は言った。
「でも、あの編入生だって俺のこと覚えてないみたいだったし。たぶん話したことないし」
 というより、ビィ派もシィタ派も、遠目だったとはいえ祭りのときには気付いていなかったはずだ。
 今でも気付いていないかもしれない。まあ言わずにおこう。ほんとうに同じ人物なのかは分からないし。
 そうは言いつつも、内心、自分でも覚えていないことがショックだった。
 シィタ派に彼女ができたときというのは、俺の中ではわりと苦い思い出だ。
 というのも、その子のことが好きだったから。俺が。
 まあ好きといっても話をしたことがあったわけでもないし、一方的にかわいいなあと思っていた程度だけれど。
 中二の秋頃にその子とシィタ派が付き合い始めて、冬に別れて。
 それから彼女は翌年の春に転校していった。そう言われればたしかにそういう記憶もある。
108:
「……なんかすげえショック」
 俺の呟きに、ビィ派は深く頷いた。
「そうだよ。おまえはもうちょっと反省しろ。人に興味を持て」
 
 俺は中学時代の彼女の顔を思い出してみようとしてみる。
 ぜんぜん思い出せなかった。かすりもしなかった。
「じゃあ、あの子が文芸部に入ったのって……」
 シィタ派がいたからなんだろうか、と訊ねようとした俺を、ビィ派は小馬鹿にするように笑った。
「これだから年齢=彼女いない歴の奴は困る」
 失笑していた。おまえも同じだろ、と突っ込みたい。
「偶然だろ、たぶん。俺たちがこの学校にいたことだって知らなかっただろうし」
「……まあ、そりゃそうだろうけど」
 
 ちょっとした言動で思わぬ傷を抉られてしまった。
109:

 昼休み、昼食を食べてから図書室に向かった。
 うちの学校の図書室は、校舎の端の方にあるうえにいつも薄暗いため、あまり頻繁に訪れたい場所ではない。 
 利用者だって少ない。図書委員は、俺が見たかぎりではほとんどいつも昼寝している。今日もそうだった。
 なんでも、人目がないのをいいことに妙なことをする生徒もいるとか、なんてことをビィ派が前に言っていた。
 ときどき物陰で男女が抱き合っていたりするのを見かけるあたり、根も葉もないというわけでもないだろう。
 というか、男女の教師が二人で何か話している姿も見かける。この学校はいろいろダメそうだ。
 俺は各種図鑑の置いてある棚に向かい、その中から鳥獣図鑑を手に取った。
 委員会の意欲のなさとも利用者の興味のなさとも無関係に、蔵書の数は少なくない。 
 新しいものも入ってくる。司書を見かけたことはないが、割とちゃんと仕事をしているのだろう。
 聞いたことのない名前だったので少し不安だったが、クルマサカオウムの名前はちゃんと載っていた。
 索引から探してページを開くと、写真と一緒に生態についての記載もあった。
 分類や体長なんかの情報を無視して解説文を読む。
 叫び声をあげる習性についての記述は見つけられなかった。
 俺は最後にクルマサカオウムの写真を一瞥してから図鑑を棚に戻した。
 桃色の毛並み。たしかにかわいい鳥だった。
110:

 放課後、すぐに部活に出る気にはなれずに、屋上に向かった。
 彼女は当然みたいな顔で、フェンスのすぐ傍に立っていた。
「ひょっとしてきみって雨の日もここに居たりする?」
 半分冗談みたいなつもりで訊いたのだけれど、
「そういう日は別のところかな」
 と真面目に答えを返されてしまった。
「そっちは、なんか体調悪そうだね?」
 彼女はクイズに答えるような得意げな顔で言った。
 べつに不愉快でもなかった。
 嬉しそうな顔でそんなことを言ってしまうあたりは、彼女らしいかもしれない。
 もっとも、そんなことを言えるほど、彼女のことを知っているわけでもないのだが。
111:
「わかる?」
「顔色悪いもん。太陽の下だから、はっきり分かる」
 雲は多いけれど、太陽はしっかりと屋上を照らしている。
 気温はあまり高くないし、風は少し肌寒いくらいだったけれど。
「建物の下だと分からないってこと?」
「まあ、そうかも。でも、分かる人には分かるんじゃない?」
 彼女はどうでもよさそうにポッキーをかじった。
「体調だけじゃなくて、なんか機嫌も悪そうだね?」
 彼女の隣まで行ってフェンス越しに街を見下ろしはじめたとき、彼女は俺の方を見てそう言った。
 
「わかっちゃう?」
 否定するのも面倒でおどけてみたけれど、彼女はやっぱり笑わなかった。
112:
 口から溜め息が漏れる。
「この季節はダメなんだよね、俺」
「他の季節だったらマシなの?」
 まあ、他の季節でもダメなんだけど。
 俺は返事をしなかった。今度は彼女が溜め息をつく番だった。
 そのまま少しのあいだ沈黙が続く。別に気まずく思うこともなく、ただ時間が流れる。
 不意に、彼女がこちらを下から覗き込んだ。
「なんか憂鬱そう?」
「そっちもね」
 と俺は少し後ずさりながら言った。彼女は身を翻して肩をすくめた。
「わたしは憂鬱じゃないときがないから」
「大変だなあ」
113:
「それで、どうして落ち込んでるの?」
「うーん」
 なんと言えばいいか分からずに考え込む。
 とはいえ、彼女に対しては、正確に話すよりも煙に巻くような言い方の方が通じたりするわけで。
「世の中って不平等だよねってこと」
「そうだね」
 彼女はあっさり頷いた。言ったこっちが困ってしまうくらい素早い肯定。
「不平等にも種類があるけど」
 と言って、彼女は俺の方をじっと見た。
 もっと詳しく話せ、ということだろうか。なんだか面倒そうだ。
114:
 しかたなく、俺は話し始めた。
「……たとえば、きみが一生懸命テスト勉強するとするでしょう。でも、点数はあまり思わしくなかった」
「うん。やり方が悪かったのかも。前の期末はちょっと反省かな」
「たとえ話。一方、俺も一生懸命テスト勉強をした結果、見事全教科満点を取った」
「……悪意を感じるたとえ」
「そして俺はきみに言う。『どうせちゃんと勉強しなかったんだろ? 努力って点数に出るんだぜ』」
 彼女は押し黙った。
「そういう感じ」
「……まあ、たしかに腹は立つね」
115:
「極端な話になるけど、勉強してテストの点数があがった奴は、結果が出せた分勉強するのが楽しくなる」
「うん。……いや、どうかな。楽しくはないと思うよ」
「まぁ、それは、うん。で、結果の出なかった奴は、勉強したってどうせ無駄なんじゃないかって気持ちになる」
「不安にはなるかもね」
「そういう気持ちがあると勉強効率も落ちる。集中できなくなる。成績もさらに落ちる」
「……つまり?」
「悪いところにいる奴はさらに悪いところに落ちていくし、良いところにいる奴はさらに良いところに昇っていく」
 彼女はちょっと納得しかねるような顔をした。
「誰かにやさしくしたときに、それを受け止めてもらえた人は誰かにやさしくすることに抵抗を覚えない。
 反対に、やさしさを突っぱねられた人は、人にやさしくすることが怖くなる。
 やさしいことができる奴はいい奴だって言われるし、できない奴は感じが悪い奴だって思われる。
 そう思われると、更にやさしくなれなくなっていく。まあ、そんな感じ」
116:
「でもそれって、相手にとってその親切が嬉しくなかったり、見当違いだったり、タイミングが悪かったりする場合もあるでしょ?」
「もちろんそうだろうけど。でも例え話だし」
 彼女はちょっと考え込んだ様子だった。
 気付けば空は暗くなっている。太陽が雲に隠れはじめ、風が冷たくなりはじめていた。
「そもそも、その親切で相手が喜ぶかどうかなんて、正確に見極められる奴はいないんじゃないかな。
 自分がしたことで相手が喜ぶかどうかなんて、結局、運次第じゃない?」
 俺の言葉に、彼女は困ったように首を傾げた。同意はしかねるらしい。
 
「まあ、とにかく、そんな感じで、世の中って不平等だよな、ということ」
「それはそうだろうけどね。でも、不平等って、そんなに落ち込むようなこと?」
「どうだろうね。あんまり関係ないかも」
 溜め息が出る。
 彼女は不思議そうな顔のまま天気の移り変わりを見上げていた。
117:

 ぎい、と鉄扉が軋む音がした。
 屋上に来る人は、そんなに多くない。
 一年の春頃に、興味を持ってやってくる人も多いけれど、みんなそのうち来なくなる。
 風を遮るものがないぶん何をするにも不便だし、肌寒かったりもする。
 高い場所にあるだけで、べつに面白いわけでもない。
 頻繁に掃除されているわけでもないから、そんなに綺麗な場所とも言えない。
 夏頃はここに来る人も結構いたけれど、大抵の人は太陽の光にうんざりして屋内に戻っていった。
 だから、人が来るのは珍しい。そう思って後ろを振り返ると、扉から出てきたのは後輩だった。
 何か用事でもあったのかと思って様子をうかがう。 
 後輩は俺たちふたりを交互に見つめると、じっとしたまま黙り込んでしまった。
 俺が困っていると、隣に立っていた彼女がフェンスを離れる。
「わたし、もう行くから」
 それだけ言うとあっというまにいなくなってしまった。
 取り残された俺と後輩は、しばらく言葉もなく向かい合っていた。
118:
「どうしたの?」
 と、俺は声を掛けてみた。後輩はちょっと困った顔をしている。
「いえ。せんぱいを探してたんです」
「なんで?」
「ちょっと訊きたいことがあって。たぶん屋上だろうって、他の先輩たちが言ってたので」
 そこまで言ってから、彼女は少し緊張した様子になった。
「さっきの人……」
「知り合い?」
 ちょっとしたごまかしも含めて何かを訊かれるより先に訊いてみると、彼女は面食らったようだった。
「いえ、どこかで会ったことがある気はしますけど。……彼女さんですか?」
「まさか」
 否定。それ以上は何も言わなかった。でも事実だ。俺は彼女の名前すら知らない。
119:
「それで、訊きたいことって?」
「小説のこと、なんですけど」
「え?」
「……変ですかね?」
 変といえば、変だった。
「小説のこと」というのが彼女が書くものについてなのか、俺が書いたものについてなのかは分からない。
 たぶん前者についてなのだろうけど、そうだとすると俺に訊ねる理由が分からなかった。
「まあ、変といえば変だね」
 
 俺は思ったことをそのまま言った。
 彼女は俯いて、何か考え事を始めてしまった。
「寒くなってきたし、部室いかない?」
「……はい」
 後輩が頷いたのを見て、俺は校舎の中へと向かった。後輩は黙ってあとをついてきた。
 結局、そもそもの用件だったらしい「訊きたいこと」を、彼女がその日のうちに訊いてくることはなかった。
124:

 土曜日、目が覚めたのは午前十時過ぎだった。
 
 しばらく何もする気になれずベッドの中で転がる。
 課題もない。したいこともない。よって寝ていても何の問題もない。
 こういう生活をしているとときどきうんざりする。
 危機感からベッドを抜け出して階下に降りると妹が旅番組を見ていた。
 若く見える三十代か老けて見える二十代か、そのどちらかの女性が美味そうにうどんを啜っている。
「……今晩うどんにしよ」
 
 妹がぼそりと呟いていたのが印象的だった。
125:
 休日はぼんやり家の中に篭もって過ごすと後悔することになる。 
 時間を無駄にした気になるからだ。そうなると憂鬱になる。
 ので、出かけることにした。
 さて、どこにしよう、と俺は考える。
(どうする?)と自分にも訊いてみた。
(さあ?)と俺は答えた。何も思いつかなかった。
 何も考えずに出かけるのは避けたい。だいたいの場合本屋に辿り着いてしまうからだ。
 本屋に行って、気になる本を手にとって、まだ読みかけている本があることを思い出す。そして買わずに帰る。
 そういうことを俺はもう何度も繰り返していた。中三の春頃からずっと。
 かといって、他に見たい場所もない 
 CDショップやレンタルショップならいいかとも思ったけれど、あまり気は進まない。
 映画館がいいかもしれない。特に気になる映画もやっていないけど。
126:

 館内は薄暗くてポップコーンの匂いがする。
 昔からこのむせかえるような甘ったるい匂いがあんまり得意じゃなかった。
 鼻を塞ぐような匂い。
 この匂いを嗅ぐと、「ねえ、楽しいでしょう?」と訊かれているような気分になる。
 土日とはいえ、休み明けだからか、あまり若者の姿は見えない。 
 といっても、大人だってそう多いわけじゃない。人があまりいないということだ。
 
 なんだか映画を観る前からポップコーンの匂いだけでうんざりしてしまった。
 上映時間を見ると、三十分後から始まるものがあるらしかった。
 少なくともシアターの中に入れば、この匂いからは逃れられる。
 休憩用のテーブルで、若い男女がパンフレットを見ながら楽しそうに話をしていた。
 出かけるたびに思うことなんだけれど、この街にはあまり一人で出歩く人がいない気がする。
 
 一時間ほど前に目覚めたばかりだからか、妙に頭がぼんやりして、考え事に耽ってしまう。
 疲れる。
127:
 溜め息をついたとき、後ろから肩を叩かれた。
 部長だった。不思議そうな顔で立っていた。
「や。奇遇だねー」
「……」
 とっさに返事ができなかった。何を言ったらいいのか、よくわからない。
「映画? って、そりゃそうか」
「……はい」
 ようやく返事ができた。部長は一人で喋って一人で笑っていた。
 
「何見るの?」
 訊かれて、チケットを買っていなかったことを思い出した。
 俺は上映時間が一番近い映画を確認して、そのタイトルを言った。聞いたこともないタイトルだった。
「おんなじ奴だ」
 彼女は少し意外そうな顔をした。
128:
「ねえ、じゃあさ、一緒に見ない? 券買ってないんでしょ?」
「……まあ」
「よし、決定」
 部長はあっさりと決定してしまうと売り場に向かって歩き出した。仕方なく後を追う。
 偶然。
 まあ、べつに悪いことではないのだろうけど。なんとなく落ち着かない。
 ……まあ、同じ映画を観るのに知り合い同士が別の場所にいるっていうのも、変、か?
 妙なこだわりがあるわけでもないし。とはいえ、そのあたりがあっさりしているのは部長の性格のせいだろうけれど。
 チケットを二人で買ったあと、部長はあっというまに二人分のポップコーンと飲み物を買って俺をテーブルへと手招きした。
 代金を支払おうとすると、部長は「いいからいいからー」と笑って言う。
 いいわけねえだろと思いながら代金を押し付けた。部長は笑った。
「でも、変わった映画観るんだね?」
「……まあ、意外性のある男を目指してるので」
129:
「意外性かー。なるほどねー」
 もちろん俺は、自分がどんな映画を観ようとしているのかを知らなかった。
 部長はうんうん頷きながら「意外性は大事だねー」なんて言ってる。
 というより、自分が観る映画を「変わった映画」って。
 どんな映画なんだろう。妙に気になってきてしまった。
「そういえば、文化祭まで一ヵ月切ったわけだけど、どう?」
「どう、とは?」
「ほろにが系川柳」
「……あー」
 何も考えていなかった。
 二週間前までに提出となると、もうリミットはそんなにない。 
 まあ、川柳で行くなら(適当なので済ませるなら)、そんなに問題はないけど。
 
 そもそも部誌の作成は強制参加ではなかった。
130:
「今年はみんな苦戦してるみたい。夏休みの内から考えててねーって言ってたのに」
「いやあ。あはは」
 笑ってごまかした。
 部長は一瞬むっとした顔になったが、そのあとすぐに気を取り直そうとするみたいに咳払いをした。
「まあ、いいんだけどさ」
 諦めたみたいな顔。ちょっと寂しそうな。
 俺は何かを言うべきなんだろうか。
 そうこうしているうちに開場の時間になった。
 薄暗いシアターの中で指定席を探す。
 客はほとんどいないようだった。
 
 ほとんどというか俺たちふたりを除いても二、三人。
 そのうちの一人は二十代後半くらいのやせぎすの男で、後ろの方で眠っていた。
 ……妙に不安になる光景だ。
131:

 隣に座る部長は予告が始まったあたりから映像に集中しはじめた。
 身じろぎひとつしなかった。ポップコーンひとつかじらなかった。
 隣にいる部長が気になって、俺はいまいち集中できない。
 とはいえ暗い場所で黙り込んでいるのだから、普段と同じような気持ちとはいかない。
 音と光に刺激されたまま身動きしない。
 
(どうして俺はここにいるんだ?)と俺は思った。
 予告は終わって映画が始まった。
 暗い映画だった。というのは、視覚的な意味で暗いという意味だ。
 全編を通して、濃い影が画面を支配している。
 暗くて何が起こっているのかも何も分からなかった。
 音と台詞でかろうじて話の筋が追えるくらいだ。
 目だけを動かして部長の方を覗き見る。彼女は集中しているみたいだった。
132:

 映画が終わったあと、少し話でもしようと部長は言った。
 俺たちは映画館を出てすぐそばのハンバーガーショップに入ることにした。
 テーブルにつくと、どちらも口を閉ざしてしまった。
 いい時間だから店内は結構混み合っていて、おかげで騒々しい。
 部長は少ししてから映画の感想についての話題を振ってきた。
 俺は覚えているかぎりの情報を強引に並べ立てた。
「ラストシーンの俳優の演技すごかったですね。ちょっと唖然としました」
 とかそんな具合に。さいわい部長の方も不審には思わなかったようだった。
 実際、つまらない映画ではなかった。面白いかと言われると首を傾げるところはあるが。
 そんな調子なので、部分部分の良かったところ、悪かったところをあげているうちに、すぐ話は終わってしまう。
 また沈黙。
133:
「ね、あのさ」
 不意に部長が口を開いた。
「ホントに、小説書かないの?」
 
 俺はジュースを啜りながら少し考えた。
「ううん。今からだと、どっちにしても間に合いそうにないので」
 部長もやけにこだわっているように見える。
「うーん」
 と彼女は考え込んでしまった。停滞。
「部長は今年も書いたんですよね?」
「うん。わたしのはもうできてるから」
134:
「部長は……」
「ん?」
「文章書くの、好きですか?」
 俺の質問に、彼女はちょっと不思議そうな顔をして、それから唸るように考え込んでしまった。
 後悔して質問を取り下げようとしたときに、彼女はしっかりと、うん、と頷く。
「まあ、うん。好きだから書いてるというか。嫌になるときもあるけど……」
 
「……そうですか」
 そうなんだろうな、と俺は思った。
 映画を観て素直に感動したり、文章を書くのが楽しかったり、話を考えるのが面白かったり。 
 花火を一生懸命に見上げたり、楽しかったことを思い出したり、そういうことの出来る人が、たぶん、面白いものを書く。
 溜め息が出そうになったけれど、こらえる。
 さすがに今のタイミングで溜め息をついたら、逆に質問されてしまいそうだ。
135:
「スランプ?」
 と部長は言った。ちょっと困った感じの顔で。
「そういうわけでもないですけど」
 というより、たかだか趣味や部活でスランプも何もない。書けるときに書けばいいだけなのだ。
 
「去年の部誌、評判よかったよね」
 部長は急に話を変えた。俺は頷く。といっても、まぁ、言うほどの評判があったわけでもないのだが。
 文芸部の部誌を手に取る奴なんてたかが知れてる。読む奴はもっと知れている。感想を寄せる奴は更に限られる。
 
「まあ、部長の、面白かったですもんね」
 世辞のつもりもなく言う。実際おもしろかった。
 バラバラの短い話が最後の最後で繋がってくるという連作短編だったのだけれど、個々の話も出来がよかった。
 ひそかに、川柳よりも評判になったんじゃないだろうか。
 去年卒業した先輩たちの作品も面白かったことには面白かったが、少し感傷的過ぎた。
「きみたちのもね」
 と部長は言った。正確に言えば評判が良かったのはシィタ派の書いたものだった。
136:
 シィタ派が書いたのは不思議な話だった。
 世にも奇妙な物語と星新一のショートショートを足して二で割り、カフカ風にアレンジしたような話。
 
 あいつのすごいところはそれを何本も仕上げたことで、しかもそのほとんど全部が面白かった。
 話が盛り上がる分、部長が書いたものよりも取っ付きやすいという面もあった。
 困ったことに、俺の書いた小説が載った位置は、シィタ派の小説のすぐ後だった。
 おかげで俺の小説も、シィタ派の書いたもののようにオチがあるんだと信じて読んだ人がいたらしい。
 もちろん俺の書いた文章にヤマやオチなんてなかった。
 あるのは「彼女は退屈していた。だから彼女は出かけることにした」という文章だけ。
 意味はない。得るものもない。何か言われるのが嫌でタイトルを「意味のない文章」としたくらいだ。
「これだけ雰囲気違うね」なんて、クラスの女子にシィタ派が言われていたのを見た。
「これ、別の奴が書いたんだよ」とシィタ派は言った。「ああ、そうなんだ。どうりで」そんな具合。
 中には俺の書いた話を褒めてくれる奴もいた。
 でもたぶん、話の流れでそう言っただけなんじゃないかと思っている。
「よかったよ」とか言いながらも、彼らはその話の中身に触れることがなかったからだ。
 もちろん、中身なんてなかったんだけど。
 俺がずっと押し黙ったままだったからだろう。部長は何も言わなくなってしまった。
 結局その日、俺と部長はそのまま別れた。
141:

 家に帰ると玄関に見慣れない靴があった。
 
 多少気になったけれど、妹の友達か何かだろうと思い、リビングは経由せずに自室に戻る。
 
 なんだろう。最近、ずっと憂鬱な気分が続いている。
 夏休みが終わった頃からずっと。あるいはもっと前から。
 何かが致命的に足りない。傾きや、繋がりみたいなものが。
 誰と話をしても他人事みたいな感じしかしない。後に何も残らない。
 そんなことがずっと続いている。
 階段を昇りながらそんなことを考えた。妙なことを考えたせいで気分はいやに重かった。
 重みが肩に感じられるくらいだった。
 ドアを開ける。
 ドアを開けると、普段ならベッドが見える。
 で、そのベッドのすぐ下のあたりに、今日は何かが見えた。
 何かと言うか、足。人間の。膝を折って足の先をこちらに伸ばしている。
 じゃあ、その根元は当然臀部なわけだ。
 とするとその上にかぶさっているひらひらした布はスカートなんだろう。
 状況を整理すると、つまり俺のベッドのすぐ横で、女の子が屈みこんでいる。
 尻をこっちにつき出して。
142:
「……あ?」
 思わず声が出た。
「あっ、帰ってきたっ?」
 と、どこかで聞いたようなくぐもった声がベッドの下から聞こえた。
 声の主はベッドの下に頭を突っ込んでいたらしく、急に抜け出そうとしたせいか頭をベッドの底にぶつけたみたいだ。
 
「あだっ」
 
 とか言ってる。今の声だけで、なんとなく事態を察してしまった。
「……アホだなあ」
「アホっていうな!」
 と声をあげつつ、彼女はベッドの下から抜け出そうとしていた。
 頭というか、上半身を突っ込んでいたので、抜け出すにはそのままの姿勢で後ろへ下がってくるしかない。
 その下がり方というのが、なんというか。
 
 結局、俺の視点からだと、こう、尻を左右に振っているように見えるわけで。
 うーむ。何か最近もこんなことがあったような気がするが。
 あ、ぱんつ見えそう。
143:
 やっとのことでベッドの下から抜け出すと、埃を吸ったのか、彼女は何度かくしゃみをした。鼻水も出した。
「ほら、ティッシュ」
「あ、ありがとう」
 それから鼻をかんで、長い溜め息を吐いた。
 お茶でも出したら「あ、どうもご丁寧に」なんて言ってくれるかもしれない。
「それで、何をしていた」
「いやあ、ほら。年頃の男の子の部屋に来てやることなんて、ねえ? 決まってるでしょ」
「……まあ、いいけど。なんでいるんだ、おまえ」
「あれ、聞いてない?」
 
 従妹は不思議そうな顔をしながらスカートをぱんぱん叩いて埃を落とした。
「お母さん、こないだ電話したって言ってたんだけどなあ」
 電話。そういえば、このあいだ父が夜中に電話していた。
144:
「わたし、しばらくこっちで暮らすから。よろしくね、おにいちゃん」
 にっこり笑う。
 従妹は高一で、俺よりも一つ下、妹よりは一つ上。
 見た目は……かわいい。
 髪は黒くてストレート。美少女である。
「男ウケはよさそう」とか「ああいうのに限って性格悪そう」とか言われていそうな感じ。
 どうでもいいが、「ああいうのに限って性格悪そう」というのも見た目の一種だと思う。
 ので、ある意味では容姿に恵まれていないとも言えるかもしれない。
 男子がかわいいと思う女の子の話をしていると、不意に現れて、
「でもあの子性格悪いよ」
 
 とだけ言って去っていく女子に何度か遭遇したことある。
 経験則ではそう語る女子の方が性格が悪く見えることが多くて、言われている方にそんな印象を抱いたことはない。
 こういう話をすると「男ってバカ。見た目に騙されてる」みたいな話になるんだろうか。
 仮に美人=腹黒いが事実だとしても、正直は必ずしも美徳じゃない。
 機嫌悪そうな正直者より笑顔の腹黒女の方が付き合いやすいのだ。なんとも切ない。
145:
 それはともかく。
「こっちで暮らすって、おまえ学校は?」
「うん、まあ。いろいろ?」
 いろいろ、らしい。いいんだけど。
「まあ、今日からよろしくね」
 またにっこり笑う。まあ別にそれはいい。
「おまえ、今なにしてた?」
「うん? いや、ちょっと前についたんだけどさ、ちえこに聞いたら――」
 ちえ、というのが妹の名前だった。「こ」がどこから来たのかを俺は知らない。
「おにいちゃんが出かけてるっていうじゃない? これから一緒に生活する同居人の野獣性を確認するチャンスだと思って」
「……野獣性?」
「ベッドの下が定番だよね?」
「おまえさ……」
 あはは、と従妹は楽しそうに笑った。よく笑う奴だ。
146:
「それにしても、ずいぶん急だな」
 探りを入れるつもりで訊ねると、従妹はちょっと困った顔をした。
 困った顔。
 
 俺は、いったいどれだけの人をこんな表情にさせてきたのか。
「ねえ、それよりもさ」
 彼女は気を取り直そうとするみたいに笑った。
「おにいちゃん、料理の練習してるんでしょ? 晩御飯つくってみてよ」
「……あ、いや、普段作ってるの俺じゃないし」
 叔母宛の手紙をこいつも読んだんだらしかった。
 それにしても食べ物の話しかしない奴だ。
「だと思って、ちえこに頼んでみた。今晩おにいちゃんがつくったの食べてみたいって」
「……あいつに、俺が料理の練習してるって言った?」
「言ったよ。最近様子がおかしいと思ったらー、って驚いてた。戸惑ってたみたいだけど」
「……言ったのか」
 べつに言ったからって問題があるわけじゃないんだけれど。
147:
「なんかまずかった?」
 さっきまでの表情と打って変わって、今度は不安そうな顔。
 いい子だ。みんながこんなふうに表情豊かになれればいい。世界平和になれ。
「別にまずくはない」
 まずくはないが、できればあんまり知られたくなかった。
 今更だし、恰好がつかないような気がする。
 まあ、そんなこといったら格好つけようとするのがそもそも今更なんだけど。
 ほんとうに知られたくなかったなら、手紙にも書かなければよかったのだ。
「……怒ってる?」
 言い方がまずかったのか、彼女はまだ不安そうにしていた。
「怒ってないよ」
 
 俺の答えを聞いて、彼女はようやく安堵した表情になる。
 ……夏に会ったときより、彼女の態度は不安定に見える。
148:

 階下に降りると、妹はソファで昼寝していた。
 父もいないようだし。客人をほったらかしとはとんだ家だ。俺もだけど。
「ちえこはホントに寝るの好きだね」
 従妹は呆れたような、安心したような、奇妙な感じの溜め息をついた。
「おまえ、いつこっちについたの?」
「ほんの一時間くらい前」
「父さんは?」
「えっと……わたしが来たときには、ちえこしかいなかったよ?」
「……なんかあったのかな」
 今日は休みのはずなんだけど。まさか従妹が遊びに来る日にくだらない用事で家を空けるはずもない。
 テーブルの上を確認すると書き置きがあった。
「出かける。父」
 ……どこに? なぜ?
149:
「……昼飯食った?」
「え? うん。着く前に」
「……じゃあ、まあいいか」
 いや、いいのかどうかは分からないが。
 そもそもこいつが何をしに来たのかを知らないので、何もしようがない。
 沈黙。
 放っておきたいところだったけど、別にやりたいこともなく、リビングを離れる理由もない。
「なにかしたいこととか、ある?」
「……え? あ、いいよ。気にしなくて」
「無理だろ」
「……無理か」
「無理」
 俺の言葉に、従妹はおかしそうに笑った。
150:

 父はまだ帰ってくる様子がなく、妹も起きる様子がなかった。
 
 そのまま事態が動くのを待っていてもよかったのだが、従妹がコンビニに行きたいというので案内することにした。 
 太陽の日差し。蝉の鳴き声。少し前までと何も変わらない。
 
 でも、何かが致命的に変わってしまっている。
 なんだろう? よく分からない。
「ここらへん、いいよね。わたしもこういうところ住んでたら、毎朝ジョギングとかできるんだけどね」
 
 隣を歩く従妹はそんなことを言ったけれど、俺には彼女の言っていることがよく分からなかった。
「そんなのどこでもできるだろ?」
 彼女は困った顔で首を横に振った。
「わたしんちってさ、周りに田んぼと山しかないでしょ。あとは他の人の家ばっかり」
 このあたりだって都会というわけでもない。普通の住宅地。
 でも、たしかに従妹の家はここに比べても更に田舎だった。
 その気になればカブトムシもクワガタも捕まえられる。
151:
「走ってると、他の人の家から丸見えなんだよね」
「そんなの、このあたりだってそうだよ」
「うん。でもね、うちの家の近くって、みんな顔見知りだからさ、噂されるんだよ」
「噂?」
「うん。前の家のおばちゃんとかにね、朝走ってたねーって。すぐ広まるんだよ、いろんなこと」
 珍しく、うんざりしたような口調だった。彼女はいつも器用に感情を隠す。 
 本音を軽々しく口にしない。だから温厚に見えるけど、本当はすごく繊細で、しかも気難しい。
「別にジョギングに限らなくてね、あそこの家の子はどこの学校に行ったとかさ、そういうのも全部」
 そういうの、ときどき嫌になるんだよね。従妹は無表情にそう言った。
 従妹には違って見えるのかもしれない。でも、ここだって本当は似たようなものだ。
 そう言おうと思ったけどやめた。何の意味もないことだった。
152:
 コンビニからの帰り道の途中、昔遊んでいた児童公園を通り過ぎたとき、ふと過ぎる記憶があった。
 公園にはよく猫が集まっていた。 
 いろんな奴がいた。茶色いのも白いのも黒いのも掃いて捨てるほどいた。
 その中でもひときわ目を引いた、白い、みすぼらしい猫。
 歩くときはいつも左の後ろ足を引きずっていた。
 毛並みはいつも泥や土で汚れていたし、目は腫れていて、ひどい目ヤニが端の方をほとんど塞いでいた。
 右目の下瞼は化膿してめくれあがり、ピンク色の粘膜が覗いていた。
 瞳は綺麗な青色をしていたが、白目は黄色く澱んでいた。
 尻尾は普通の猫の半分くらいの長さしかなかった。鳴き声は掠れていてほとんど音としての説得力を失っていた。
 それは音というよりもささやかな空気の震えでしかなかった。子供たちは寄ってたかって猫に石を投げつけた。
 他の猫をどれだけかわいがっていた子供だって、あの猫を撫でようとなんてしなかった。
 ただ、気味が悪いだけの猫。それでもその公園から姿を消すことはなくて、何年か前に大通りで車に轢かれて死んだ。
 どうして今そんなことを思い出したんだろう。
153:

 夕飯頃には父も帰ってきたし、妹も起きていた。
 
「じゃあ、晩御飯、よろしくね」
 と妹は眠そうな顔で言った。
 仕方ないので俺はうどんを茹でた。
 
 食卓に何の変哲もないうどんが並ぶ光景を、俺以外の三人は困った顔で眺めていた。
「……なにこれ」
 と従妹は呆然とした様子で言った。
「うどんですが」
「……なんで、うどん?」
「……」
「めんどくさくなったんだろ!」
 従妹はそんなふうに吠えたけれど、妹と父はおかしそうに笑っていた。
158:

 さて、と俺は思った。時刻は夜九時を過ぎたところだ。
 
 おかしな一日だった。
 映画を観に行けば部長に会い、家に帰ってくれば従妹が来ていた。
 
 でもそれ以外は普通の土曜日だ。何も変わったところはない。
 何の変哲もない土曜日。
 それでも、何か、気持ちが落ち着かなかった。
 
 夕食をとったあと、俺は自分の部屋に戻ってぼーっとしていた。
 何もすることが思いつかなかった。
 しなければならないことが思い浮かばなかった。
 それこそ部誌の内容について考えたり、他にも何かいろいろあったはずなのだけれど。
 すっかり気力が萎えてしまっていた。
 部長と話したせいか、従妹と話したせいか、もっと他の要因があるのか。
 でも、そんなことははっきりいってどうでもいいことだ。
 原因は問題じゃない。問題は、その結果生まれた状況をどうするかというところにある。いつも同じだ。
159:
 こういう気分になったとき、どんな対処法があったっけ。
 普段なら何かしら採りうる対策があった気がするのだが、思い出せない。
 それから少し考えて、そうだな、と思った。
 今なら何かしらの文章が書けそうな気がした。このところ二日に一度はそんな気分になる。
 大抵の場合は徒労に終わるのだけれど。
 ためしに俺は鞄からノートと筆記用具を取り出してみた。
 特に抵抗もなかったので、いつものように白紙のページを開き、「彼女は退屈していた。」という一文を書いた。
 
 彼女とは誰なのか。どこにいるのか。どんな人物なのか。
 どんな職業でどんなことを考えて生きているのか。家族はいるのか。いるならどんな構成なのか。
 そういうことを思い付くままにどんどんと書き連ねていく。
 
 血液型や星座まで細かく書いてしまうときもあればほとんど情報が明かされない場合もあった。
 情報が明かされない場合には、俺自身も彼女がどんな人物なのか分からなかった。
 考える意味がないからだ。
 だいたい千五百字程度書いたところでノートをちぎって丸めて捨てた。
 自分の書いたものにうんざりした。近頃はずっとそんなことが続いていた。
「彼女」はもうずっと出かけていない。
160:
 いつから書けなくなってしまったんだっけ? 去年の秋頃から。
 どうして? どうしてだろう。
 でも別に書けなくてもいいかもしれない。現に存在しない女が出かけるかどうかなんてどうでもいいことだ。
 そんなの書いたって仕方のないことだ。何の役にも立たないことだ。
 じゃあなんで書けないというただそれだけのことで、体が動かなくなるくらい不安を感じるんだろう? 
 自己不全感。
 これはダメだ、と思って書いているものを捨てる。考えてみれば不思議なことだ
 俺はいつから自分の書くものにハードルを設けるようになったんだろう?
 別に何か目標があるわけでもない。単に書けるものを書いていただけなのに。
 
 彼女は退屈していた。そこまでは分かっている。
 でも彼女がどうして出掛けるのか、それが分からない。
 
 俺はノートのページをめくり、以前書いたものを読み返してみた。
 それだってたいして面白いものではない。意味だってない。
 けれど完成していた。少なくともそれ以上は書かない、と俺自身納得していた。
 
 なぜ今それができないんだろう?
161:
 俺はノートを机の上に放り出したままベッドに身を投げ出した。
 眠くはなかったはずなのに、横になると急に身体を動かすのが面倒になる。
 
 まだ寝るな、と思う自分と、寝てもかまわないな、と思う自分がいた。
 
 どっちにしても体は動かない。結局眠るしかなかった。
 もう書かなくていいか。そう思った。いつものことだ。
 でも、ふと気付くと書こうとしている。書けるようになっていることを期待している。
 
 結局堂々巡りだ。
 
 気付くと意識を失っていて、ふたたび目が覚めたのは十時を回った頃だった。
 
 体を起こすと従妹が俺の部屋にいた。パジャマ姿だ。
 机に向かって、何かをしている。何か。違う。ノートを読んでいる。
 俺はあっというまに覚醒した。心臓が嫌な感じに震えた。吐き気がこみあげてきそうな震え。
「何をしてる」
 
 とその背中に訊ねた。自分でも分かるくらい眠そうな声。でも、俺はいつになく緊張していた。
162:
 従妹はびくりと肩を震わせながら振り返る。
「あ……」
 不安そうな声。
 俺はベッドを降りて、従妹の横に歩み寄り、彼女の手が持っていたノートを奪った。
「どうして勝手に見た」
「……ごめんなさい」
 彼女は謝ったけれど、それは申し訳ないからというよりも、驚いたからという方が近かった。
 自分の迂闊さにもうんざりしたけれど、俺はそれ以上に従妹の行動をひそかに軽蔑すらしていた。
 勝手に部屋に入って。勝手に人の物を見る。
 
 俺はノートを鞄に閉まってから押し黙った。彼女は少しの間何も言わなかった。
 いっそからかわれた方がマシな気分だ。黙られると余計に苛立ってくる。
 ……寝起きで頭がうまく働いていないのかもしれない。
163:
「それ、おにいちゃんが書いたの?」
 しばらく経ってから、彼女はそんなふうに口を開いた。
「そうだよ」
「……小説?」
「ああ」
「そういうの書くんだって、知らなかった」
 なんと答えるべきなのか分からなかった。
「部活。部誌、出すんだよ。文化祭で」
「……部活って、バスケじゃないの?」
 きょとんとしていた。きょとんとしたいのはこっちだ。
「辞めたよバスケなんて」
「どうして?」
164:
 どうして、どうして、と、なににでも説明を求めてくる奴が嫌いだった。
 彼女はそういうのとは違う。それは分かっているんだけど。
「……オスグッド病って知ってる?」
「なに、それ」
「うん。罹ると男の人を好きになってしまう病気でね。まあそのせいで運動部には入れなくなったんだ。男女比的に」
「……嘘だよね? そんな病気ないでしょ」
「あるよ。その証拠に、俺の膝はまだラクダのコブみたいに膨らんだ形をしてるんだ」
「……意味わかんない」
 彼女は俺が本当のことを言う気がないと思ったらしく、不満そうな顔をするだけでそれ以上は何も聞いてこなかった。
 成長痛か何かだと思って放っておいたら、そのうち痛みがどんどん強くなっていった。
 歩いただけでも痛むようになってから病院にいって、しばらく運動を控えるように言われた。
 その期間が、部活の引退の時期までずっとだった。だから中二の秋に部を辞めてから、俺はバスケをしていない。
165:
 別に上手かったわけでもないし、好きだったわけでもない。
 そんな奴が走れなくなったからって気に掛ける奴なんていなかった。
 別に運動が好きだったわけじゃないんだし、走れなくてもいいんじゃない? なんて言う奴までいた。
 ほら、やる気なかったんだし、部活サボれてちょうどよかったろ? なんて。
 そのときは笑ってごまかした。
 
 俺は今日に至るまでそいつの名前を忘れたことはないし、そのときの彼の表情を忘れたこともない。
 思い出すたびに憎くてたまらなくなる。今でもあんな奴は死んでしまえばいいと思っている。
 馬鹿げた話だ。
「もう寝ろよ」
 と俺は言った。従妹は困った顔をしていた。そんな顔をされても、俺にはどうしようもない。
 なぜだろう。今日はとにかく、人の態度まで思いやれるほどの余裕が残っていない。
 嫌なことばかり思い出す。
 
 従妹は素直に頷いて俺の部屋を出て行った。
169:

 
 月曜の朝は雨が降っていた。
 家を早く出れば学校にも早く着く。今朝は早く出たので、早く着いた。
 教室にはまだ誰もいない。普段だったらそこらじゅうで騒いでいるクラスメイトたちもいない。
 
 まあ、いたっていなくたって俺には関係ないんだけど。
 
 誰もいない朝の学校。雨の音とひんやりとした空気。
 悪くない気分だった。
 雨は好きだった。出先で降られたりするとうんざりするけれど、室内から眺める分には。
 そんなに強くはないけれど、かといって小雨というほどでもない雨。
 一時間もすればグラウンドに大きな水たまりを作ることだろう。
 心が安らぐ。
 あまりにも雨の音が好きすぎて、以前、自然音を収録したCDなんてものまで買ったことがある。
 まあ別に悪くはないのだけれど、聞いている内にたいしたことねーよなという気分になってくるのだ。
 最終的には「なんで俺はこんなもん買ったんだ……」という自己嫌悪に駆られ落ち込んでしまう。
 癒されるはずがむしろダメージを負うという奇妙な経験だった。
 それに比べて自然の雨の音はいい。なにせタダだ。
170:
 ぼんやりと浸っていると徐々に人が増え始めた。 
 賑やかになりはじめるが、クラスメイト達の表情もどこか精彩を欠いている気がする。
 
 みんな雨が憂鬱なんだろうか。月曜日だからだろうか。
 雨の日と月曜日は気が滅入るってカーペンターズも歌ってたし、両方かもしれない。
 
 ぼんやりとそんなことを考えながらシャーペンで定規を弾いて遊んでいると、ビィ派とシィタ派が登校してきた。
 二人とも眠そうだった。
 せっかくなので「眠そうだね?」と訊いてみる。
「……いや、うん。朝までゲームしてた」
 ビィ派の答えはそれだった。いつものことだけど、生活を犠牲にしてまでゲームをする情熱はすさまじい。
 なんてことを、俺がからかい半分にビィ派に言ったりすれば、
「どんな形であれ、何かに熱中できるほうができないよりはいいよ」
 とシィタ派が大真面目に返してきたりする。どうだろう?
171:
「それにしても、変わり映えしないよな」
 ビィ派は教室の中を見渡してそう言った。
 
「自分だってそうだろう」
 そう言うと、ビィ派は珍しくちょっと傷ついたみたいな顔をした。
「まあな」
 俺はちょっと後悔した。
 
 実際、ビィ派の言う通りでもあったのだ。変わり映えしない。
 一学期に騒いでた奴は二学期になっても騒いでいるし、静かだった奴は今も静かだ。
 変化はもちろんある。前は仲が良かったのに、今じゃ一言も交わさないとか、そんな感じ。
 本人たちからすれば、何かの事件があったのかもしれない。今も事件が続いているのかもしれない。
 でもこうやって、端の方から見てみれば、そんなのは取るに足らない、どうしようもないことだった。
 とても変化と呼べるようなものじゃない。
 そこまで考えてから、俺は少し嫌な気分になった。
172:
 特に面白い話題もなくて、話はすぐに途切れてしまった。
 ビィ派は自分の席につくと顔を埋めて眠りはじめた。
「おまえはなんで眠そうなの?」
 と今度はシィタ派に訊ねてみると、彼は照れくさそうな顔でこめかみのあたりを掻いた。
「部誌の原稿。思うように捗らなくて」
「別に新作書く必要もないんじゃないの?」
「まあ、そりゃ、そうなんだけどさ」
 彼はちょっと考え込むような顔になった。
 ビィ派がいるとそうでもないんだけど、彼と俺だけだと話があまり弾まない。
 まあ、べつにそれで気まずくなったりするわけでもないのだけど。
「なんとなく新しいのを書いときたい気分なんだよ」
 ふうん、と俺は思った。彼にもそういうことがあるのだと初めて知った。
173:
「そっちはどう?」
「どうって?」
「書いてるんだろ?」
 と彼は大真面目な顔で言った。
 別に本気でごまかせるなんて思っていたわけじゃない。
 態度や言動で、なんとなく、それくらいのことはばれてるだろうとは思っていた。
 それでも、彼なら訊いてこないと、どこかたかをくくっていた。部長だって後輩だって、みんな訊いてこないだろうと。
「……まあ、一応ね」
 俺の答えに、彼は安堵したように溜め息をついた。
 そんなに不安に感じるくらいなら、訊かなきゃいいだろうに。
「そっか。調子は?」
「どうも上手くいかないな。そっちは?」
「……どうにも、ね」
 彼にだって調子の悪いときくらいはある、らしい。
174:
「部長に相談もしてみたんだけど……」
「なんて言ってた?」
 彼は肩をすくめた。
「書くことに、書き切ること以上の成果を求めてませんか? って。言ってる意味、分かる?」
「……さあ?」
「書き切るだけじゃ、ダメだよな?」
「……と、思うけど」
 うーん、と二人で考え込む。
「好きに書けってことかな?」
「……好きに書くって、どうやるんだっけ?」
175:

 好きなものを書けばいいんだよー、と部長なら言うんだろうけど。
 シィタ派はともかく、俺はその「好きなもの」というのがよく分からなかった。
 好きな食べ物はなんですか。リンゴです。
 ではリンゴについて書いてみましょう、という話になるんだろうか。
 じゃあ今回の「彼女」はリンゴが好きだった。そういうことにしてしまおう。
「彼女」は今、自分の家にいる。一人暮らし。どこかのアパートの一室だ。
 その日は平日だったけれど仕事は休みで、天気は朝からどんよりとした曇りだった。
 
 家に居るのは退屈だったけれど、取り立てて済ませてしまいたい用事もない。
 だから、ぼんやりと窓の外の雲の形を眺めながら、さて、出掛けるべきか出掛けざるべきか、などと悩んでいる。
 
 それから彼女はどうしてもリンゴが食べたくなって、結局出掛けることにする――?
 ……ないだろう。この「彼女」はどう考えたってリンゴひとつのために出かけるような女じゃない。
 仕事帰りに立ち寄った果物屋で気まぐれにリンゴを買うような女だ。
 それでもどうにかしてこの女に出掛けてもらわなくては困る。
 まったく面倒な女だ。もうちょっと素直で扱いやすいほうが助かる。
176:

 放課後、部室に行ったときには既に俺以外の全員が揃っていた。
 顧問は案の定いなかった。文化祭前だというのにろくに顔も見せない。
 だからある程度自由にやれている面もあるんだろうけど。
 部室の中ではみんなが好き勝手やっていた。
 シィタ派はいつものように窓際でぼんやりしていたし、後輩は一生懸命にノートに向かって何かを書いていた。
 
 部長は……寝ていた。
「……なんで寝てるの、この人」
「気付いたら寝ちゃってました」
 後輩が苦笑しながらそう教えてくれた。
「あの」
 と声が聞こえた。たぶん他の人に言っているのだろうと思い、鞄を置いて椅子に座ると、
「あの!」
 と更に大きな声になった。そっちを振り返ると、編入生が困った顔で俺を見ていた。
「はい?」
177:
「わたし、なにしてればいいですかね?」
 なんで俺に訊くんだろう、と思ったけれど、部長は寝ていたし、シィタ派には声を掛けづらいのかもしれない。
 それだったら別に後輩に訊いたっていいと思うんだけど、まあ下級生に訊くよりは、と考えたのか。
 とはいえ、
「なにも。好きにどうぞ」
 ということ以上は俺の口からは言えない。文芸部って、普通のところはどんなことしてるんだろう。
 俺の答えを受けた編入生は余計に困った顔をしていた。
 そのまま自分の作業をしようと思ったのだが、後輩が俺に「さすがにそれはどうかと」という視線を向けていた。
 見ればシィタ派もこちらを見ていて、「それはどうなのよ?」という顔をしている。
 じゃあおまえらが何か言え。
 と思いつつも、さすがにそんな顔をされるとこちらとしてもちょっと考えてしまう。
 シィタ派はともかく後輩は俺にとってはかわいい後輩であるわけで、こんなくだらないことで軽蔑されたくはない。
「ええと、そうだな。文化祭のことって、部長から何か訊いてる?」
178:
 俺の質問に、編入生はようやく話が進んだという顔をした。
「部誌を作って出すんですよね?」
「そう。その部誌。きみも何か書くように言われた?」
「いえ。どちらでもいいって言われました」
「……あのさ、学年同じだよね?」
「え、はい」
「敬語じゃなくていいよ」
「……あ、はい」
 お約束だ。
「まあ、部誌に何か出してみたいっていうんだったら、手助けはできないけど、去年までのバックナンバーがあるから」
 俺は部室の隅の戸棚の中に並べられた部誌を指差した。
「それ読んで、何か書いてみてもいいと思う。書かないっていうなら、まあ、本でも読んでるのがいいかな」
179:
「……そ、うですか」
 編入生はまだ困った顔をしていた。
 まあ、この部は基本的に沈黙に支配されているわけで、慣れていないとキツいかもしれない。
 
 ああ、そうだ。
「編入生さん、ちょっといい?」
「……はい?」
「女の人を家から外に出したいときってどうすればいいと思う?」
 彼女はちょっと困った顔をした。
「えっと、電話を掛ける、とか」
 俺は感心して溜め息をついた。
「きみ頭いいね」
182:

 編入生が部誌のバックナンバーに目を通し始めたのを確認してから、俺はノートを開いた。
「……やっぱり書くんじゃないですか」
 
 後輩がすぐに声を掛けてくる。ちょっとわずらわしい。今引っかかったところだったのに。
「べつにそういうんじゃない」
 俺はそう返事をしたけれど、「そういうんじゃない」というのがどういうことなのかは自分でも分からなかった。
「なにがですか」
 と案の定彼女は不機嫌そうになる。
「ちゃんと書いてください。わたしは、待ってるんですからね」
 俺は三秒くらいその言葉を無視した。でも三秒経った後に、何かおかしなことを聞いたような気持ちになった。
 後輩の顔を見返すと、彼女はいたって真剣な顔をしている。愛の告白でもしてきそうなくらいだった。
「待ってるって、何を?」
「せんぱいが書くのを、です」
「……なぜ?」
「……」
「まあ、なんでもいいけど。あんまり期待には応えられそうにないよ」
183:

 さっそく彼女の部屋の電話を鳴らしてみた。
「彼女」は電話に出るだろうか? ……出るだろう。
 三、四回コール音を無視してから、仕方なさそうに立ち上がって電話台まで歩く。
 
 掛かってきた電話はなんだろう? 
 友達からの電話? いや、違う。その日は平日だったはずだし、たぶん時刻は昼下がりだ。
 そんな時間に電話を掛けてくるような友達は彼女にはいない。
 そもそも、友達からなら、携帯の方に掛ければ済むはずだ。
 だとすると何か悪い知らせかもしれない。あるいは何かのプロモーションかもしれない。
 なんだろう、と俺は考える。彼女も考える。
 そうだな、と俺は思った。宅配便の在宅確認かもしれない。その線が濃厚だ。
 代引きで何か頼んでいたんだろう。
 本や漫画の新刊かもしれないし、ネットで安く買ったコスメの類かもしれない。
 あるいは別れた恋人にあげるはずだったプレゼントの注文を取り消すのを忘れたのかもしれない。
 きっと在宅確認の電話に出た彼女自身も、自分が何を頼んだのか思い出せないはずだ。
184:
 彼女は暇つぶしがてら、自分がいったい何を頼んだのかを思い出そうとする。
 でも一向に思い出せない。結局思い出すのをあきらめて、コーヒーでも入れてぼんやりと荷物が来るのを待つ。
 
 ……。
 電話をすれば外に出せるような気がしたのだけれど、むしろこれでは部屋の中に縛られている。
 
 駄目だな、と俺は思った。この調子じゃまだ外に出るまで時間が掛かりそうだ。
 できればその日のうちに出掛けてほしいんだけど、荷物が届くのは夕方頃だろう。
 
 夕方頃にわざわざリンゴを買いに出かけるような気分になってくれるだろうか?
 俺は一度書くのを中断して溜め息をついた。
 伸びをして体の緊張を解く。
 椅子の背もたれに身をあずけると、すぐ傍にいた後輩が俺のノートを覗き込んでいたことに気付いた。
「……きみ、自分の作業はいいの?」
「あとでやります」
 熱心に目を動かしている。許可くらいとってほしいものだ。
185:
「……」
 見れば、シィタ派も、眠っていたはずの部長も、驚いた顔で後輩の様子を見ていた。
 視線に怖気づくこともなく、後輩はノートに目を通し続ける。
「……どうしたの?」
 俺が後輩にそう訊ねたのは、だいたい十五秒くらい経ってからだった。
「……」
 後輩は返事をくれなかった。
 助けを求めてほかの部員たちに視線をやる。
 わたしは寝ています、という態度(部長)。
 対処法を持ち合わせていない、という目(シィタ派)
 これが異常事態なのかどうか察しかねる、という顔(編入生)。
「つづき」
 と、不意に彼女は口を開いた。
「つづき、まだですか」
186:
 冷え切った声だ。彼女の声じゃないみたいだった。
 まるでもっと他の何かが彼女の身体を乗っ取って、彼女の口を借りて喋っているような感じがした。
 もちろんそんなわけはなく、たしかに彼女が喋っているはずなんだけれど、そういうふうに感じた。
「……まだだよ。だから書いてるんだ」
「……そうですか」
 それから彼女は目を閉じて長く溜め息をついた。
 ほんとうに長い溜め息だと感じた。たぶんほんの一、二秒のささやかな溜め息。
 それが途方もなく長いもののように思えたのだ。
「わたしも自分の書かなきゃ」
 そう言って顔をあげたときには、彼女は普段の彼女だった。
 俺は今見たものを受け止めかねていた。
 いったいなんだったんだろう?
187:

 結局その日は、馬鹿らしくなって続きを書くのはやめてしまった。
 
 彼女が出掛けようと出掛けまいと、そんなのは関係ない。
 取るに足らない話だ。
 俺はノートを閉じて鞄の中にしまう。こういう気分になると、まず書くことはできない。
 机に体重をあずけてぼんやりしていると、不意に誰かが立ちあがる音が聞こえた。
「あの、わたし、これからちょっと用事があって……」
 声をあげたのは編入生だった。
「すみませんけど、先に……」
「あ、うん。了解ー」
 部長の頷きのあと、編入生は部室を出て行った。誰も何もしゃべらなかった。
 扉の閉まる音。
 取るに足らない。
188:

 屋上に吹く風はいつもより冷たかった。
 曇っているから、それも当たり前の話だ。
 雨は昼過ぎには止んでいたけれど、空は灰色に覆われている。
 
 屋上の地面は濡れているようだった。
 朝の内に出来上がっただろう水溜りを避けながら、フェンスの近くに立つ。
 靴の底は濡れるだろうけど、たいして厭わなかった。
 屋上の入口には、それ用のマットだって一応置いてある。
 なんの慰めにもならないけど。
 普段と街の様子は違ったけれど、それでも彼女は屋上に立っていた。
「元気?」
 と声を掛けると、
「まあまあね」
 と返事が来る。
189:
 前にもこんなことがあった。
 何度もこんなことを繰り返した。
 同じことをずっと繰り返している。
 退屈で取るに足らない、鬱屈していてうんざりする、焼き増しの毎日。
 いろんなことの関係が綺麗に断ち切られて、何もかもがバラバラに浮き上がっている。
 
 何もかもがうまく回らない。うまく繋がってくれない。起こることが全部他人事。
 去年の秋。もっと前。中三の春。違う。中二の秋。……もっと前。
 もっと前からずっとだ。
「変なの」
 
 と彼女は言った。
「なにが?」
「べつに」
 なぜかは知らないけれど、俺は彼女のその言葉に無性に苛立った。
190:
「最近はわたしもつらい」
 彼女は何も訊かずにそんなことを言った。
 こちらも何かを訊かれたい気分じゃなかったので、すごく助かる。
 
 でも、気遣われたのかと思うと、不思議に思う気持ちと一緒に、申し訳なさが湧いてきた。
 
「文化祭の準備始まったでしょ。わたしのクラス、あれやるんだって。あの……」
 しばらく彼女は苦しそうな顔でうんうんと唸った。
「……ホラーハウス?」
 お化け屋敷をやるらしい。
「ああいうの、困るな。普段だったらやる気ない人も妙に張り切っちゃってさ」
「……」
「自分がのけものになったみたいな気分になるんだよ」
 なったもなにも、と、
「最初からのけものなんだけどさ」
 言う前に言われてしまった。
「でも、何もないうちは、のけものじゃないのかもって錯覚できるんだよ、本当に」
191:
 結局さ、堂々巡りなんだよね、と彼女は言った。
「つらいなあって思う。ちょっといいことがある。またつらくなる。その繰り返し。
 次にいいことがあるとは限らないでしょ。ずっと悪いことばっかりかもしれない。
 でも、ひょっとしたらいいことがあるかもって思って、続けて……いいことがあって、でもやっぱり終わって」
 堂々巡り。得意げな、綺麗な笑顔だった。
「いつまで繰り返すんだろう」
 自問のような言葉。
 
「彼女」を部屋から出すにはどうしたらいいのだろう、と俺は考える。
 たとえば「彼女」が小さな子供で、母親にリンゴを買ってくるようにお使いを頼まれた、となれば、そこで話は終わってしまえる。
 あるいは「彼女」が素直で、明るくて、活発な女の子だったら、気分転換に出掛けようって話にもなる。
 でもそうじゃない。
「彼女」はとても思いつめていて、根っこの部分で人に心を預けていない。そしてたぶん、ほとんど何も期待していない。
192:
 古い友達から電話が掛かってきたって嫌気が差すだけで。
 お使いなんて頼まれても、死んだって行きたくなくて。
 気分転換に外に出掛けるよりは、不貞寝している方がよっぽど気がまぎれると考えるような人で。
「彼女」を「彼女」じゃなくしてしまえば、文章を書くことはできる。
 でもそれだけじゃダメだった。俺が出掛けてほしいのは「彼女」だ。
 それ以外の誰かなんて放っておいたって勝手に出掛けるのだ。
 どう考えたって代償行為だ。
悦に入っているだけかもしれない。単なる自己投影の変形かもしれない。
 
 でもそうする以外ない。
「彼女」が出掛けないとするなら、俺だって身動きが取れなくなってしまうんだから。
196:

 家に帰ると妹と従妹が、何も言わずに一緒に料理をしていた。
 
 話しかけても返事がもらえないような気がするほど静かな雰囲気だった。
 外はまだ明るいのに、家の中は暗かった。俺は自分が心底見当違いのことをしていたのだと気付いた。
 それから「ただいま」とためしに言ってみる。二人は思い出したような顔で「おかえり」と言って笑った。
 俺は部屋に戻って鞄をベッドの上に投げた。それからノートを取り出して、今日書いたものを読み直してみた。
 なんだか、自分のやっていることに、急に腹が立ってきた。
 そういう気分になってしまうともう駄目だ。
 俺はキッチンに向かった。
「何か手伝う?」と声を掛けると、妹は困った顔で、「いいよ」と言った。
「三人じゃ動きにくいでしょ」と従妹も笑った。
197:
 俺は無性にやりきれない気持ちになってふたりに懇願した。
「頼むから手伝わせてくれ!」
 驚いた顔が二つ並ぶ。
「どしたの」
「俺を口先だけの男にしないでくれ!」
「……」
 ふたりは顔を見合わせた。
 
 結局俺と入れ替わりに従妹が休むことになった。
 従妹はリビングのソファに腰かけて困った顔でテレビをつけた。
 夕方時のテレビって、どんな内容でも物悲しく感じてしまう。なんでだろう。
198:
「あの、お兄ちゃん?」
「なに?」
「うん。その……」
 不意に口を開いたかと思えば、妹は言いづらそうに口をもごもごさせていた。
「どうした」
 と訊ねてみると、覚悟を決めたみたいな顔をする。
 俺はちょっと不安になった。
「あの、どうして急に、家事の手伝いとか……」
 するようになったの、と。
 もともと俺の様子がおかしかったのを、従妹に言われて確信したんだろう。
199:
 それは難しい質問だった。すぐには答えられそうになかった。
(どうして?)と俺は自分に訊いてみた。
(さあ?)と俺は答えた。相応しい答えが思い浮かばなかった。
「別に理由があるってわけじゃなくて……しいて言うなら、何もしてないと、嫌になるから」
 妹は不思議そうな、それもどこかしら苦しそうな顔で俺を見上げた。こういうのをなんていうんだっけ。
 そうだ。不安そうな顔をしているんだ。
「でも……」
「つまり、何かしていないと、何かしているって確信を持てないと、自分が本当にここに居ていいのか、分からなくなるんだよ」
 妹はまだ何かを言いたげだったけれど、結局何も言わずに俯いて料理に戻った。
 夕食はいつも通りの味だった。
200:

 文章を書くことは自己表現の手段ではない。 
 ましてや他者への奉仕の手段でもない。自分を楽しませるための手段でもない。
 文章を書くことに基本的に意味はない。
 俺は去年の秋にそう確信した。
 
 文章はただの文章でしかないし、そこにそれ以上の意味を見出そうとする人間は破滅する。
 それは文章だけの話じゃない。文章以外の何かだって同じだ。
 文章を書くことで癒したり救ったりできる自己など存在しない。
 啓発したり洗脳したりすることは可能かもしれない。結局はそれだけのことだ。
 そういう意味では、部長がシィタ派に言ったらしい言葉は正しい。
 書くことに書き切ること以上の成果は発生しえない。
 もしあるとしても、それは副次的な、結果論的なものでしかない。
 だが、もしそうだとしたら、やはり文章を書くことに意味なんてない。
 
 にも関わらず、俺は文章を書き続けていた。
 おそらく書き切ること以上の成果を求めながら。
201:

 そもそも俺はどうして文章なんて書き始めたんだろう。
 何度も思い出そうとしたのだけれど、どうしてもわからなかった。
 
 書き始めた時期は分かる。中学三年の春だ。でもなぜなのかは分からなかった。
 
 手慰み? 暇つぶし? もっと別のことからの派生?
 
 いずれにしてもそれから一年以上書き続けてきたし、今も書こうと考えている。
 そうまでして文章に執着するきっかけはあっただろうか。
 理由があったはずなのだ。
 いくら退屈していたからって、それだけでノートを開いて文章を書こうなんて思わない。
 何の目的意識もなく文章を書こうだなんて。そういう人がいるにしたって、俺はそうじゃなかった。
 じゃあなぜ? ……分からない。
 何か理由があったはずだ。
 そしてそこに、俺は俺なりの成果を見出していたはずなのだ。書くことに俺なりの意味を。
202:
 ……何かしらの理由。
 書こう、と俺は思ったのだ。
 書きたい、ではない。書かなくては、と思ったはずなのだ。
 何の為に? ……整理。
 そう、整理するためだった。何を? 頭の中を。
 
 中学三年の春、俺の頭の中は混乱していた。なぜ? なぜだろう。
 とにかく何かがきっかけになったのだ。そしてノートに自分が思ったことを書き連ねてみた。
 それは文章なんてものじゃない。単語の羅列でしかなかった。
 中学三年の春までに起こったこと。どんなことがあっただろう? 
 足を痛めたのが、中二の秋。その冬に祖母が死んだ。脳梗塞。
 同時期に近所の年寄りも何人か亡くなったという。立て続けに人が死んだ年だった。
 公園の猫が死んだのを見たのは中一の春だった。 
 中二の秋に好きだった子が親友と付き合いはじめて、冬に別れて、次の春に転校していった。
 それが一番近いエピソードだ。
203:
 他に何があっただろう? もっとたくさんのことがあったような気がする。
 でも思い出せなかった。たぶんそんなところだ。
 何があったのか? 走れなくなった。人がいなくなった。猫が死んだり人が死んだりした。
 
 なんだ、近頃と同じじゃないか、と俺は思った。
 
 叔父が死んだのは去年の春だし、初夏頃には下校途中に猫が死んでいるのを見かけた。
 今年の春に去年のクラスメイトがどこかに引っ越した。それから今だって走ると膝が痛む。
 同じだ。何も変わってなんかいない。
 だとすると、その頃の俺も、そうしたさまざまな出来事に対して、何かの整理をつけようとしていたんだろうか。
 今の俺が何かを整理しようとしているように?
204:

 目が覚めたのは夜中の三時頃だった。
 電気をつけっぱなしのまま、うたた寝してしまったらしい。
 すぐにシャワーを浴びて眠ろうと思い部屋を出ると、妹の部屋から灯りが漏れていた。
 
 開いたドアの隙間から覗き込むと、妹はパジャマ姿で勉強机に頭をのせ、椅子に座ったまま眠ってしまっていた。
 声を掛けても反応はなかった。俺は部屋の中に足を踏み入れて、妹の肩を軽く揺すった。
 
 すぐに目を覚ました。ぱちぱちと何度か瞬きをすると、俺の方を眠そうな目で見上げる。
「風邪ひくぞ」
「……うん」
 妹は噛み殺すようにあくびすると、机の上に広げていたノートと参考書を鞄にしまい始めた。
 参考書。
「……どうしたの」
 俺が黙りこんだのを不思議に思ったのか、妹は整理を終えると俺の方をもう一度見上げた。
205:
「いや。おやすみ」
「……おやすみ」
 ふわりと、いつになく柔らかい微笑みを見せると、妹はベッドにもぐりこんだ。
「電気消して」
 と彼女は言った。俺は部屋を出る間際に電灯のスイッチに触れた。
 居眠りするような奴じゃない。疲れてるんだ。
 俺は何かをしてやるべきなんだ。家事を代わりにこなしたり、勉強を教えたり、してやるべきなんだ。
 そういう当たり前の、誰かの為になるようなことを、俺は今までずっとしないでここまで来たんだ。
「お兄ちゃん、あの……」
 声を掛けられて見遣ると、ベッドの中から、妹は困ったようにこちらを見ていた。
「……無理しないで。はやく元気出してね」
 そんなふうに、心配そうな声で、妹は言った。
 だから余計に苦しくなって、
「ああ。おやすみ」
 と、そう言い残したあと、俺は電気を消して逃げるように扉を閉めた。
210:

 大声で、誰かと誰かが何かを言い争っていた。いつものことだ。
 ヒステリックな金切声。隣にいる誰かの声さえ、俺には聞こえない。
 
 いつも見る夢だ。
 俺と彼女は、すぐ傍から聞こえる言い争いを無視して、黙々と食事をとる。
 言い争い? 違う。それは一方的な糾弾だ。 
 一方がもう片方を、ただ思う様に責め続ける。断罪だ。よく分からない言葉の連続。
 それは毎日繰り返されていた。日常だった。
 
 だから、俺と彼女の中では、「それ」は大声で責めたてるものだったし、父とは「それ」に責められるものだった。
 食事中だろうがなんだろうが、無関係に怒鳴り声をあげるのが「それ」だったし、俺も彼女も、その資格が「それ」にあるのだろうと思っていた。
 そうされるだけのことを、父がしたのだろうと思っていた。
 そして、俺も彼女も、それをどこか、自分とは関係のない話だと受け止めていた。
 家の中でどれだけ大きな叫び声が聞こえても、それは自分たちではなく、父に向けられているのだろうと。
 もしそれが父の声だったなら、「それ」に何かを言い返したのだろうと。
 だから大声が飛び交う中で、俺と彼女は、自分とは無関係な情報をシャットアウトして、黙々と食事を続けていた。
 声は音でしかなかったし、人は影絵のようなものだった。
 夢は夢だ。
211:

「おにいちゃん、起きて」
 翌朝はそんなふうに起こされた。声は、わずかに緊張を含んでいるような気がした。
 また寝過ごしたのか、と思うよりも先に違和感を抱いた。
「……だれ?」
「起きて。ちえこが……」
 
 瞼を開けると、従妹が俺の顔を覗き込んでいた。身体を起こして伸びをする。
 なんだかいつになく手足が重い。
「……なんだって?」
「ちえこが風邪ひいたみたい」
 従妹はちょっと戸惑った顔でそう言った。
212:
 夜中の三時まで机で居眠りをしていたら、そりゃあ風邪を引く。
 ただでさえ九月に入って夜は冷えるようになってきた。
 季節の変わり目だ。気をつけなきゃ風邪だってひく。
 妹は制服姿のままリビングのソファでぐったりと横になっていた。
 
「おい、大丈夫か?」
「……うん」
 青ざめた顔をしていた。
「薬も飲んだし、ちょっと休んでたらよくなると思うから」
 弱々しく笑って、妹は瞼を閉じた。
 強がりだろうか。本当だろうか。
 強引にでも休ませるべきだという気もするし、もう自分で判断できる歳だろうという気もした。
 どっちだろう。
213:
 互いに黙り込む。従妹がうしろでうろたえているのが分かった。
 
「熱は計ったのか?」
「……」
「……計ったんだな? 何度だった?」
「……三十六度八分」
「どうして嘘をつく?」
「……三十八度一分。なんか具合悪いなって思って熱計ったら、余計に具合悪くなっちゃった」
 それにしたってずいぶん高い。
 
「ずっと体調悪かったんじゃないか?」
 返事はない。都合が悪くなると、すぐに黙り込む。もしくは、謝る。
「……ごめんなさい」
 気付かなかった俺も俺だ。本人さえ、自覚がなかったのかもしれないが。
214:
「今日は休んだ方がいい。他の人にも迷惑になるから」
「……うん。あ、お兄ちゃん」
 素直に頷いたかと思えば、急に顔をあげる。
「テーブルの上に、お弁当あるから」
「うん」
「それと、朝ごはん……」
「……うん」
 
 俺は段々と居たたまれなくなってきた。
「……洗濯物、まだ干してない」
「俺がやるから」
「……ごめんなさい」
215:
 こういう奴だった。昔からずっとこうだった。
 いつも怯えてる。びくびくしてる。自分が誰かに迷惑を掛けていないかって不安がる。
 見放されるんじゃないかって、いつも怯えてる。
 悪いことなんて何もしてないのに
 謝らなきゃいけないのはいつだってこっちなのに。
 妹は身体を起こして立ち上がると、ふらふらとリビングを出て行った。
 自室に戻って着替えるつもりだろう。
 俺は居心地悪そうにしている従妹に声を掛けた。
「おまえ、料理できるっけ?」
「あ……うん。家でしてたから」
 そういえば、そうだった。今は叔母さんが働きに出ているから……。
 ……頭がうまく回らない。
「悪いけど、あいつの面倒見てやってくれ。俺も今日、早めに帰ってくるから」
「うん。しっかり看病する。こういうときに役に立たなかったら、何の為の居候かわかんないもんね」
 ……少なくとも、緊急時に家事をこなしてもらうために居候させているわけでもないだろうけど。
216:

 玄関を出て靴の踵を直したあと、何かが変だ、と思った。
 塵のような細かな霧雨が、舞うように地面に降っていた。太陽の光は布越しに見るかのように霞んでいる。
 すごく肌寒い。冗談みたいに。
 何かが変だ、と俺はもう一度思う。何が変なんだろう。
 
 霧のせいだろうか。視界は悪く、人の気配も遠い。音も鈍く聞こえる。
 もちろん歩くぶんにはまったく困らない。横断歩道の向こうの信号だってちゃんと見える。
 車のライトだってちゃんと分かる。でも、どこか現実味がない。夢の中のような浮遊感。色彩は説得力に欠けている。
 どこかから誰かと誰かが囁き合うような声が聞こえた。くすくすという笑い声すら聞こえそうな気がする。
 濡れた土の匂い。
 天気のせいだ、と俺は思った。珍しい天気だから、ちょっとそんな気がするだけだ。
(本当に?)と俺は訊いた。
(さあ?)と俺は答えた。
 天気のせいなんかじゃない。本当は分かっている。かといって何かが変わったというわけでもない。
 眼鏡を掛ける前と、掛けた後との違い。
 寒々しく、空々しく、よそよそしい。この感じはよく知っている。
 現実だ、と俺は思った。なぜ忘れていられたんだろう。それはずっとここにあったのだ。
217:

 校舎の中は静まり返っていたし、廊下は冷え切っていた。
 誰の話し声も聞こえなかった。そんなに早い時間でもない。人は確かにいるはずなのだ。
 
 それなのに、声も物音もしない。でも気配だけはある。人は確かにいる。
 なんだろう。この奇妙な感覚。説明のつかない不穏さ。
 錯覚かもしれない。
 教室に入る。クラスメイトたちは確かに登校している。
 普段通りに話をしている。笑ったり怒ったりしている。
 
 どうしてだろう? そういうものを、いつもよりずっと遠く感じてしまう。
 色あせている。音が遠い。何かが起こったのかもしれない。俺の身に何かが。だって変だ。
 俺以外のものは全部いつも通りに動いているはずなんだ。
 それなのに、どうしてこんなにも普段と感覚が異なるんだろう。 
 俺の身に何が起こったんだ?
218:
 教室の入り口で立ち尽くしていると、背中を押された。
 
「邪魔」
 と、誰かは俺を押しのけた隙間から教室に入っていって、誰かと気安げに話をし始めた。
 窓の外が真っ白なのが、いやに目についた。
 
 ……落ち着け。
 自分の席に着くだけだ。荷物を置いて、席に着けばいい。それだけだ。何を緊張することがあるんだ?
 
 心臓の音がやけに大きく聞こえる。足元がふわふわとしてどこか頼りない。
 
「おはよう」と誰かが言った。
「おはよう」と俺は返した。
「どうしたの、ぼんやりして」
 
 声はしっかりと耳に届いている。いつもよりはっきりと聞こえる。
 いや、はっきりしすぎている。ありとあらゆる情報が、普段より鮮明に、鋭く伝わってくる。
 処理しきれていない。
 落ち着け、と俺は自分に言い聞かせた。
219:
 誰かは目の前にいる。たぶん心配そうな顔。
 見覚えがある。ちゃんとある。そうだ。誰だっけ?
「……いや、ちょっと寝不足で」
 
 と俺は答えた。まだ相手が誰なのかは分からないままだった。
 俺は何かのヒントがないかと思って辺りを見回してみる。取っ掛かりすら見つからなかった。
 目の前の誰かは、何かを勘違いして勝手に言葉を続けた。
「アイツ、風邪ひいて今日休みだってさ。おまえも気を付けた方がいいよ」
「……休み?」
「そう。騒がしいのがいないと、調子狂うよね」
「休み……」
 ――風邪をひいて休んでるんだ。
 ――×××が看てるから大丈夫だと思うけど。
 ――それにしても、嫌な雨だよな。
 ずきり、と、頭が痛んだ。そうだ。そうだよ。雨が降っていたんだ。あの日も。こんなふうな。
 だからすごく不安になるんだ。でも大丈夫なんだ。こんな雨の日は今までに何度もあった。
「俺」は大丈夫なんだ。不安がってるのは「彼女」の方だ。
220:
「なあ、おい。体調悪そうだけど、大丈夫か?」
「……大丈夫。ちょっと、授業が始まるまで、休んでるわ」
「……うん」
 そう言ってしまうと誰かはどこかに行ってしまった。
 彼が行ってしまうと、俺の耳には他の音も何もかも全部が遠のいて聞こえた。
 
 視界に映る光の束も、耳を衝く音の重なりも、全部が全部、未整理のまま打ち捨てられているように思えた。
 何もかもが雑然としていて、はっきりしない。
 だから俺はそれを整理しようとした。文章を書くことによって。
 誰が悪かったのか、何が原因なのか、俺はずっと知りたかった。
 でも、本当に俺がすべきことは、そんなことじゃなかった。
 気に掛けるべきなのは原因じゃなく、結果の方だった。
 俺が気にするべきは「なぜ」その状況が生まれたか、ではなく、その状況を「どう」すべきか、だった。
「それ」をどう処理するべきか、だった。それ以外のことなんて、後回しでかまわなかったのだ。
224:
乙。なんかすごいひきこまれる
226:

 昼休みには、感覚は平常通りに戻っていた。
 屋上の空気は冷たい。
 さすがに昼前には霧ではなくなっていたけれど、細かな雨はまだ降り続いていた。音のない雨。
 霧というのは最悪だ。いつのまにか忍び寄って、小さな虫みたいにひそやかに身体に入り込む。
 気付きもしないうちに、人を内側から底冷えさせていく。そこに躊躇はないし、礫ほどの愛情もない。
 そして、誰もが忘れた頃に、鈍い痛みを連れてくる。
 だから霧雨は嫌いだった。
 それなのに、そんな日は無性に外の様子が気になってしまう。
 どれだけ細かかろうと、雨の下に出れば濡れてしまうのは当たり前だ。
 浮かび上がるような粒には、傘だって無意味だろう。こんな日に外に出る奴なんて馬鹿だ。
 フェンスの近くまで歩く。靴の裏の濡れた感触が気持ち悪い。
 それでも彼女はそこにいた。
227:
「珍しいね。昼に来るなんて」
 彼女は意外そうな顔をした。
「……そっちは、雨の日だろうとお構いなし?」
「今日はたまたま、そういう気分だったから」
「物好きだね」
 雨の感触が不快だった。彼女の様子はいつもとまるで変わらない。
 当たり前だ。天気なんてささやかな変化だ。いつだって少しずつ違う。
 そんなものに影響を受けるなんて馬鹿げてる。
「何かあった?」
 彼女は、いつもとは少し違う訊き方をした。
 いつもよりずっと、不安そうな訊き方。
「……いや」
228:
 俺は一度否定してから、何を言うべきかを考えた。
 
「妹が熱出して寝込んでるんだよ。うん。だからかな」
「それは、心配だね」
 彼女があんまりにも普通のことを言うので、俺も少し戸惑ってしまった。
 雨は静かに制服を濡らしていく。十分も立っていたら授業に出られなくなってしまうかもしれない。
 でも、そういうことはどうでもいいのだ。そういうのは、ここでは些細なことだ。
 屋上というのは俺にとってそういう場所だった。たぶん彼女にとってもそうだろう。
 現実から切り離された場所。俺はしばらくそこに蹲っていた。
 文章を書き続けることによって、そういう場所に静かに自分の生活を移行させてきた。
 けれど現実がひとたび牙を剥けば、そんなものはたちまち無価値になってしまう。
「小説は、やっぱり書かないの?」
 そんなことを彼女は言った。どうだろう、と俺は思った。何もかもがよく分からなかった。
229:
「わたしは、良いと思ったよ。去年の」
「……俺の?」
「うん。必死なのに、一生懸命なのに、身動きとれてない感じが。でも前向きでさ。そういうのって、分かる人にしか分かんないけど」
 彼女はいつになく饒舌だった。何かを感じ取ったみたいに。
「選民意識とかじゃなくてね、結局、経験とか、境遇によるんだよね。教室とかでもそうでしょ?
 Aに位置する奴は自分なりにがんばってて、Bに位置する奴はがんばっても仕方ないからそこそこにしようって思ってる。
 Cに位置する奴は、どっちもバカで何も分かってないって思ってる。バラバラなんだよ。方法論も目的意識も違うんだ。
 それってね、場合によっては一生そのままなんだよ。噛みあわない。理解し合えない。たぶん、どっちが間違ってるって話じゃないんだ」
 彼女はそう言ってしまうと、しくじった、という顔になった。たぶん後悔しているんだろう。
「今年も、ちょっと楽しみにしてたんだよ。きっと、そういう人、他にもいるよ」
 彼女はそう言った。それは嬉しかった。そんなことを言ってくれる人は、今まで一人もいなかったから。
 でも、今更だったし、それは「彼女」の話であって、「俺」の話ではない。
 
「もう行くよ」
 俺はそう言って、屋上をあとにした。制服に砂のような雨粒がしみていた。
230:

 屋上を出たあと、俺は階段の踊り場で携帯を取り出して家に電話を掛けた。
 従妹が電話に出たのは六回目のコール音の後だった。
「大丈夫そう?」
「うん。ちょっと寝苦しそうだったけど」
「そっか」
「たぶん、あの調子だったらすぐに良くなるよ」
「それならいいんだけど」
 従妹は何か言いたげだった。それが気になって黙り込んでみたのだけれど、彼女は何も言ってくれない。
「それじゃ、早めに帰るから」
「……うん」
 そんなふうにして会話は終わった。
231:

 放課後、部室に顔を出すと、まだ編入生しかいなかった。
 仕方ないので、部活は休むと部長に言伝するように頼んだ。
 俺がそのまま帰ろうとすると、編入生は思い出したように声をあげた。
「あの、わたしたちってやっぱり、一緒の中学でしたよね?」
 どうして今更そんなことを気にするんだろう。少し煩わしかったけど、俺は振りかえって頷いた。
「それと、お祭りのとき、会いましたよね?」
 今度は少し答えに迷う。でも、結局頷いた。嘘をつく理由もなかった。
 俺が黙り込むと、彼女は困ったような顔をした。確認してどうするのか、考えていなかったのかもしれない。
「あのときの携帯の持ち主、見つかりました?」
「ああ、うん」
 これは本当だ。
232:
「それなら、よかったです」
 彼女の表情に、どこかしら含みがあるように感じた。なぜ今更こんな話をするんだ?
 なんだか何もかもが面倒になってきた。
「実はね、あれ俺の携帯なんだよ」
「え?」
 俺はポケットから携帯を取り出し、彼女に見せた。彼女は怪訝そうな顔になる。
 
「どうして、そんな……」
「うん。ナンパしようとして声かけたんだ。でも直前で面倒になって」
 怖くなった、という言葉を、面倒になった、と言い換えると、いろんなことがごまかせるようになる。
 編入生はすごく驚いていた。こっちがちょっと怖くなるくらいだった。
 ああ、そうだったんだ、と笑ってくれることを期待したわけでもないけど。
 
「なんで、その……ナンパ、なんて?」
 そんなに驚くことかな。痴漢ってわけでもないだろうに。
 そんなふうに思いながらも、なんとなく言いたいことは分かる気がした。
233:
「きみがかわいかったから」
 と俺は言ってみた。身の毛もよだつような軽口。よくこんなことが言えたものだ。
「――そうじゃなくて!」
 怒鳴るような声。神経質そうだし、気に障ったのかもしれない。
 まあ、なによりも、善意の振りをした性欲だったわけだから。
 
「……すみません、大声出して」
 彼女はすぐに気を取り直したのか、あっというまに元の表情に戻った。
 まだ少しこわばっていたけれど、それは微笑みの形をしていた。
 それから何かに気付いたみたいな顔になる。
「あの、そのときって……」
「一人だったよ」
 
 被せるように言うと、彼女はちょっと気まずそうな顔をした。
 
「……そうですか」
 そこで話が途切れたので、俺は帰ることにした。
「それじゃ」と声を掛けると、「あ、はい」と声が帰ってきた。それだけだった。
234:

 部室を出てから(どうして?)と自分に訊ねてみた。
 どうしてナンパなんてしたんだっけ?
 
(怖かったから)、と俺は答えた。
 太陽が西の方に移動するのにつれて、街はふたたび白く染まり始めた。
 窓の外で、覆うような霧雨が広がっている。
 昇降口を目指す途中で、シィタ派が前から歩いてきた。
「あれ、どうしたの」
 
「いや、帰る」
 そういえば、こいつに頼んだ方が早かったな、と今更のように思う。
 どうも頭がうまく働かない。
 彼はたいして気にするふうでもなく、「そっか」と頷いただけだった。
「それじゃ、また明日」
235:

 家に着く頃には四時を過ぎていて、天気は再び霧雨へと戻りつつあった。
 夕霧。秋の季語だ、と俺は思った。べつに意味はない。気分が落ち着かないだけだ。
 
 家に帰ると、従妹がヤカンでお湯を沸かしているところだった。
「おかえり」と彼女は言った。
「ただいま」と俺は返した。
「あいつは?」
「さっき計ったときは、熱、七度六分くらいになってたって。でも、どうだろう。しんどそう」
「そっか」
 俺は自室に戻って鞄を置いてから、妹の部屋へ向かった。
 階段も廊下も、いつもより長く感じた。
236:
 部屋の中は薄暗かった。レースカーテン越しの白さが、雲なのか霧なのか、分からない。
 妹は眠っているようだった。額に触れて温度を確かめようとすると、ぞわりとした。
 まあ、冷えピタの感触がいやだっただけなんだけど。昔からこういう感触が鳥肌が立つくらい苦手だった。
 冷たさはもうなくなっている。枕元に箱があったので替えようと思ったら、からっぽだった。
 
 今貼ってあるものを剥がして、手のひらで額に触れてみる。
 前髪が汗で張りついていた。触れられたことを知ったら嫌がるだろうなと、そんなことを考える。
 熱はまだ下がっていないようだった。
「……お兄ちゃん?」
 物音か、手のひらの感触か、どちらが原因かは分からないけど、妹は起きてしまった。
 声はいつもより小さかったけれど、弱々しいというほどでもなかった。
「うん。ただいま」
「……おかえり」
237:
「調子は?」
「……うん。朝よりはだいぶましになってきた、と、思う」
「食欲は?」
「あんまり、ないかも。あ、晩ごはん……」 
 作るとか言い出さないだろうな。そう思ったのが顔に出たのか、妹は言葉を引っ込めた。
 さすがに、どうかしてる。こいつも俺も。
「……ごめんね」
「謝るなよ」
「……うん」
「寝てろ。夕飯できたら起こすから」
「……うん」
238:
 妹が瞼を閉じるのを見てから、俺は部屋を出ようとした。
 けれど、扉を閉める途中に呼ばれた気がして、もう一度部屋を覗きこむ。
 
 妹は上半身を起こしてこちらを見ていた。
「なに?」
「……なんでも、ない」
 明らかに、様子は変だった。でも、なんでもないと言っているんだから、それ以上何も言えない。
 俺は今度こそ扉を閉めて、自室に戻った。鞄の中から財布を取りだし、リビングに降りる。
 従妹はヤカンのお湯をポットに入れているところだった。
「どっか行くの?」
「コンビニ。冷えピタ買ってくる」
「ん。分かった」
239:
 家を出ると、霧はいっそう濃さを増していた。 
 頭がズキズキと痛む。今朝からずっと、断続的に。
 
 俺も風邪をひいてしまったんだろうか。
 
 違うな、と反射的に思った。そうじゃない。大丈夫、ちゃんと分かってる。
 妙な動悸が走った。でもそれだけだった。気にすることはない。
 視界は、今朝よりは悪くない。人の声はしなかったけれど、だからといって感覚が遠ざかっている気もしなかった。
 手のひらを握り込む。痛みが走る。まともだ。
 早く用事を済ませて、帰ろう。こんな霧の中をいつまでも歩いていたくはなかった。
 少し歩いたところで、後ろから物音が聞こえた。
 気にせずに数歩先に進んだところで、とん、と背中に軽い衝撃があった。
「……お兄、ちゃん」
 半ばぶつかるように、背中に何かが合わせられ、すぐに離れていった。
 振り返ると、息を乱した妹が、俺の服の裾を掴んでいた。
240:
 とっさに何も言えなかった。
 妹の顔は青ざめていたし、自分でも何が何だか分かっていないような様子だった。
 パジャマ姿のまま、サンダルをつっかけて、髪も少し乱れたまま。熱に浮かされたような顔で。
 すぐに従妹が後を追ってきた。彼女もまた、何が起こったのか分からないという顔でこっちを見た。
「……寝てろって言っただろ?」
 と良い兄貴みたいなことを言ってみると、妹は俯けていた顔をあげて、俺と目を合わせた。
 不安そうな表情で、こっちを見上げている。さっきよりずっと、今の方が具合が悪そうだった。
 ほんの少しの時間しか経っていないのに。
「すぐに戻るから。な?」
 そう言い聞かせようとしたとき、自分の声がすごく嘘っぽく聞こえた。
 妹は一瞬、表情をくしゃくしゃに歪めた。泣きそうな顔。錯覚かと思うくらいに、短い間のことだった。
 
 それから、数秒の沈黙が流れて、
「……うん」
 と、掠れるような声で妹は呟く。
 服の裾から手を離すと、ふらふらと従妹の方へと戻っていった。
 従妹は何かを言いたげにしていたけれど、連れ帰るように促すと、結局それに従ってくれた。
 
 ふたりの姿は、すぐに霧で見えなくなった。
246:

 買い物を済ませて家に戻ると、リビングには従妹しかいなかった。
 彼女は何かを言いたげにしていたけれど、そこには触れずに妹の部屋に向かった。
 部屋の中は暗い。
 
 でも、妹が眠っていないことは、なんとなくわかった。
 
「……おかえり」
 という声を、追いかけるような咳の音。
 ただいま、と俺は返した。
 ベッドの傍らに置かれていた椅子に座ると、妹はこちらを見たまま眠たそうに目を細めた。
 さっきよりずっと、気分は落ち着いているようだった。
「食欲は?」
「……お腹は空いてるんだけど、喉が痛くて」
 声は掠れていた。
 なるべく考えないようにしているのに、どうしても思い出してしまう。
247:
「お粥なら食べられる?」
「……と、思う、けど」
 作れるの? と目が言っていた。ひどい話だ。
「そんくらいなら作れる」
 と俺は答えたけれど、作ったことはなかった。単に料理本に載っていただけのことだ。
 妹は、苦しそうに笑って、咳をした。
 
「一応、飲み物、新しいの買ってきた」
 そう言って枕元にコンビニの袋を置くと、妹はまた笑った。
 しばらく、お互いに黙り込む。どうしてこんなことになっているのか、よく分からなかった。
248:
「あのさ」
 何かを言わなければならない気がして、口を開く。
 何かというより、それはずっと前から言いたかったことだったのだけれど。
「……もっと、わがままとか、文句とか、言っていいんだぞ?」
 不思議と、俺の声は震えていた。なんでなのかは自分でもすぐにわかる。
 怖かったのだ。
 妹はきょとんとした。それから一瞬だけ傷ついたような顔をする。でも最後には、ごまかすみたいに笑った。
 
「いきなり、どうしたの?」
 俺が本当におかしなことを言ったみたいな顔で、妹はそう言った。
 そうなると、こっちはもう何も言える気がしなくなった。
「あの、お兄ちゃん」
「……ん?」
249:
「前にね、言ってたでしょ。えっと……」
 妹は少し考え込むような顔をした。思ったよりも、真剣な顔だった。
「……何かしているって確信が持てないと、自分がここに居ていいのか分からなくなるって」
「そんなこと、言ったっけ?」
「うん」
 言ったとしたら、そのときの俺はたぶん調子づいていたんだろう。
「それってさ……」
 
 妹はそこまで言いかけて、結局言葉を続けるのをやめてしまった。
 
「夕飯、作ったら持ってくるから」
「……うん」
 お互いに何かを言い損ねているんだろう。そんな気がした。
 今度部屋を出るときには、呼び止める声は聞こえなかった。
 扉を閉めてから、部屋の中に聞こえないように溜め息をつく。柄にもなく妙に緊張していた。
250:

「猫は甘さを感じないって本当なのかな?」
 
 と、夕食時、不意に従妹が口を開いた。
 夕飯のメニューは野菜炒めだった。あと白米。味噌汁もあるにはあった。
 さすがに、昨日今日料理を始めたばかりの男に何品も作れというのは酷だと思う。
 ましてや今日は食材を買いに行く時間もなかった。
「もともと肉食だから、甘味を感じる必要がなかったんじゃないか」
「肉食だと、甘味は感じないの?」
「肉にも甘味はあるだろうけど、それは砂糖の甘さとは違うらしいから、砂糖の甘さは感じないってことだと思う」
「……ふうん」
「まあ、友達が言ってたんだけどさ」
「でもさ。前に猫にカステラあげたんだけど、喜んで食べてたよ」
「いや、実際どうなのかまでは知らない。あんまり野良に余計なもの食わせるなよ」
「あ、うん……」
251:
 会話はそこで途切れたけれど、従妹はまだ何か言いたそうにしていた。
 元々猫の舌の話なんて話のとっかかりのつもりだったんだろう。
「野菜炒め、どう?」
「……あ、美味しいよ。料理、ちゃんとできるようになってたんだね」
 話しかけてみても、返事はとってつけたみたいな響きを孕んでいた。
 しばらく黙々と箸をすすめる。従妹はどことなく上の空だった。
 それもそんなに長くは続かなくて、やがて覚悟を決めたみたいに顔をあげたかと思うと、
「あの、さっきのことだけど」
 そんなふうに切り出した。
「さっきって?」と俺はうそぶいた。
「だから、さっき、ちえこがさ、おにいちゃんを追いかけていったでしょ。あれって……」
 さて、と俺は思った。どうしよう? どう答えればいいんだろう。
252:
「どう考えても、様子がおかしかったよね?」
 従妹は真剣な顔をしていた。それはそうだろう。本当におかしかったんだから。
 でも、だからって的確な答えが用意できるわけではなかった。
 妹が何を思ってあんなことをしたのかなんて、俺にだって本当のところは分からない。
 想像がつくだけだ。
 でも、それは「俺たち」の問題であって、「彼女」の問題じゃない。
 かといって、ごまかしがきく雰囲気でもなかった。
「たぶんね、母親がいなくなったときのことを思い出したんだと思う」
「……えっと、おじさんとおばさんは、だいぶ前に離婚したんだよね?」
「そうだよ。俺が小三の頃だったな。出ていったのがちょうど今日みたいな天気の日でさ」
「そう、なの? ……でも」
 それにしたってさっきの様子はおかしい、と、彼女は言いかけたのかもしれない。
 でも、そんなことは本人になってみなければわからないことだ。
 それに、半分は嘘だった。
 さすがにそれ以上訊く気にはなれなかったのか、従妹は口を閉ざしてしまった。
253:

 食事を終えて様子を見に行くと、空になった食器がベッドの脇の椅子の上に置かれていた。
 妹は眠っているようだった。
 食器を持って部屋を出るときに、ふと、さっき妹が何かを言いかけていたことを思い出す。
 ――何かしているって確信が持てないと、自分がここに居ていいのか分からなくなるって。
 部屋を出て、キッチンの流し台に食器を置く。わけもなく溜め息が出そうだった。
 自分ではもう覚えていないような些細な言葉。取るに足らない軽口。
 そういうことをあいつはずっと覚えている。
 だから俺は、人一倍、言葉にも行動にも気をつけなきゃいけなかった。
 俺はそんなことを言うべきじゃなかった。
 何度か頭の中で自分にそう言い聞かせたあと、そのことについては忘れることにした。
 
 それでも、納得とも驚きともつかない奇妙な気持ちが、俺の中から消えなかった。
 あいつはやはり、「自分はここに居てもいいんだ」と納得するために、必死に家事をこなしているのかもしれない。
 それは、ずっと前から予想していたことではあった。
 そう考えてから俺は悲しくなった。結局俺は、今まであいつに本当に何もしてやれていなかったのだ。
254:

 自室に戻ったあと、鞄の中を整理していると、ふと部活のことが頭をよぎった。
 
 小説、と俺は思った。それから屋上で彼女と交わした会話を思い出す。
(書けるか?)と俺は自分に訊いてみた。
 ……無理だ、今は。とてもじゃないけど。
(じゃあいつなら書けるんだよ?)と、また自分に訊ねる。
 分からない。とにかく今は現実にどうにかしなきゃいけない問題がたくさんある。
 それを全部片付けてからじゃないと……。
(そんなの、終わるのか?)
 ……いつかは、終わるよ。きっと。
(ひとつ片付けたら、また新しい問題が出てくる。その繰り返しだろ?)
 それでも、片付けなきゃいけない問題は目の前にある。
(根本的な転換が起こらないかぎり、おまえはずっと同じことを繰り返すだけじゃないのか)
 上手い答えが見つけられない。
255:
 どうも頭がうまく回らない。俺も疲れてるんだろう。
 しなきゃいけないことはたくさんある。今日は課題だって出たし、予習だってしなくちゃいけない。
 読みかけだった小説の続きだって、しばらくほったらかしのままだった。
 
 ミーガン・ロクリンはあのまま息絶えてしまうんだろうか? 
 とはいえ、生き延びたところでもはやどうにもならないという場面ではあるのだけれど。
「出口があればいいんだけどね」
 と、俺は意味もなく呟いてみた。独り言。いつもより明るい調子で。
 そう呟くだけで、ちょっとだけ前向きな気持ちになれた。
 心が弱りそうなときは、そういうささやかな励ましが大事だ。嘘だってかまわない。
 もちろん、出口なんてどこにもないんだけど。
261:

 翌朝には、妹の風邪はほとんど治っていたようだった。
 俺が寝惚け眼をこすりながら階下に降りたときには、既にキッチンに立って弁当を作っていた。
 
 妹はこっちに気付くとにっこり笑った。普段より二割増しくらい元気に見えた。
「おはよう」
「……おはよう」
 あんまりにも元気そうに笑うものだから、こちらとしても何も言う気がなくなってしまう。
 
「風邪は?」
「平気!」
 
 ……わざとらしいくらいに、元気だった。
 わざとらしいというか、たぶんわざとなんだろう。実際体調は悪くないようだし、何も言わないことにした。
 昨日の今日ではあるのだけれど。
 何事もなかったかのような朝だった。それもべつに悪くはないんだけど。
262:

 早めに登校して自分の席でぼんやりしていると、いつものふたりが俺のところに来た。
 
「よお」
 とビィ派は言った。マスクをつけていたし、声の調子もなんだか変だった。
「風邪ひいたんだって?」
 俺が訊ねると、ビィ派は眉間を寄せて頷いた。
「うん。布団掛けずに寝たせいかな。最近夜だけいやに冷えるだろ。昼間はまだ暑いのにさ」
「うちの妹も風邪ひいて寝込んでたよ、昨日、熱出してさ」
「変な風邪、流行ってるのかもね」
 シィタ派がそう言ったところで、会話は一度途切れた。
 みんないつもと同じような態度だと俺は思ったのだけれど、ビィ派はちょっと怪訝げに俺とシィタ派の顔を見た。
「なんかおまえら変じゃない? なに、喧嘩でもしたの?」
 そう言われて、俺たちふたりは顔を見合わせた。
 思い当る節がまったくなかった。それにしても、「喧嘩したの?」と素直に訊けるこいつの豪胆さには感心する。
263:
 ビィ派には俺たちふたりの様子がいつもと違うように見えたんだろうか。
 
「……べつに、喧嘩とかしてないよな?」
 俺が訊ねると、シィタ派は妙な表情になった。何か言いにくそうな。
「部活で何かあった?」
 と俺は訊ねた。昨日の放課後に顔を合わせたときは、いつも通りの態度だったはずだからだ。
 あるいは、それ以前から様子はおかしかったんだろうか。
 もしそうだったとしても、昨日の俺は気付かなかったはずだ。
「いや、何かあったってわけじゃないんだけどさ」
 
 シィタ派がそれ以上話してくれそうになかったからか、ビィ派の目が今度はこちらを向いた。
「そっちは?」
「病み上がりの妹が心配でね」
「さすがシスコン」
 と彼が笑ったので、話はそこで終わってくれた。
 実際、その答えは嘘でもなかった。半分くらいはそれが原因だろうと自分では思う。
264:

「おー」
 と部長に声を掛けられたのは、移動教室の途中に三年の教室の廊下を通ったときだった。
「元気?」
 一緒にいたシィタ派が返事をすると思って黙っていたのだが、彼は何も言わなかった。
 なんとなく間の抜けたやりとりだと思いながらも、俺は返事をする。
「ええ、まあ」
「昨日はなんで休んだの? 歯医者?」
「みたいなもんです」
「歯医者ってさー、一回行くと毎週みたいに行くことになるよねー。わたしも行かなきゃなあ」
 部長は放っておくとひとりで勝手に話しているので、相手にするのが割と楽だ。
 と思っていると、はっとしたように真面目な表情になって、
「……いや、みたいなもんって、なに? 歯医者なの? 違うの?」
 深刻そうにそんなことを訊いてきたりする。ちょっと真剣に慌てている感じが可愛らしい。
 部長の傍に居た三年の女子がクスクスと笑う。祭りのときに見た顔だという気がした。違うかもしれない。
265:
「今日はちゃんと出ますよ」
 俺がそう言うと、部長はちょっと戸惑ったような顔になった。
「あ、べつに用事があるならあるで全然いいからね? 顧問からして、まあ、あれだしさー」
 部長の態度が、部室で会うときよりも明るい気がする。自分のホームだからだろうか。
 ……文芸部室もホームか。
 特に話すこともなくなったから、その場で別れて移動を再開した。
 
「……あのさ」
 
 少し歩いてから、シィタ派が口を開いた。
「やっぱり、俺よりおまえの方が部長と仲良い気がする」
「気のせいだろ?」
 シィタ派の反応が薄い分、俺と話す機会が多いというだけという気がする。
 それでも彼は、どことなく納得しかねるような顔をしていた。
266:

 放課後、俺が顔を出した頃には、編入生を含めた全員が既に部室に揃っていた。
 シィタ派は一人で紙面に向かってペンを動かしていた。だいぶなめらかな動き。
 苦戦していたと聞いていたけど、うまく回り始めたんだろう。そういうタイミングがある。
 どうやっても動かないんじゃないかと思うほど大きな重石が、些細な刺激で転がって跡形もなく砕けるようなタイミング。
 
 後輩も一生懸命ノートに何かを書いていた。うしろから部長がそれを覗き込んでいる。
 さて、どうするか、と俺は思った。
 文章は書けない。かといって、部室にいて何もしないのも気が引ける。
 
 仕方ないので鞄から小説を取り出して続きを読むことにした。
 ページは残りわずかだったし、うまく集中できれば今日中に読み切ってしまえるだろう。
 ふと気になって、そのまえに編入生の様子を見ると、彼女は彼女で原稿用紙に向かって何かを書いていた。
 気になって視線を向けていると、こちらの様子に気付いてか、編入生は不思議そうな顔をした。
「何を書いてるの?」と俺は訊いてみた。
 
 編入生はちょっと困った感じに笑った。
267:
「部長に、練習代わりにって、お題に沿ってなんでもいいから文章を書いてみてって言われたんです」
 彼女の様子は平常通りに見えた。頭の中で何を考えているかは知らない。
 でも、質問の答えは納得のいくものだった。後輩もシィタ派も、似たようなことをさせられていた。
 俺はたしか、「蝉のぬけがらについて思うこと」を書けと言われて、「そんなものには興味ない!」とだけ書いたら花丸をもらった。
 部長はそういう価値観の持ち主なんだろう。
 会話を終わらせて、俺は本を読み始めた。
 
 みんながんばってるなあ、などと思いながら。
 
(俺は?)と俺は訊ねた。
(今はよそうぜ)、と俺は答えた。タイミングが悪い。こういうのは周期の問題だ。
 余計なことを考えたせいで、目の前の文章に集中できなくなってしまった。
 ほんとうに最後の最後なのに。あと少しで終わってしまうのに。
 どうしても読み進められない。
268:
 そのとき部室の入口のドアが開いた。顔を向けると、顧問が立っている。
 運動部だったら集合掛けて挨拶しに行くところなんだろうが、誰もなにも言わなかった。
 みんな作業に熱中していた。俺以外。
 だからだろうか。顧問は俺に話しかけてきた。
「どう、調子は?」
「はあ。まあ」
「部誌の原稿は?」
「……まあ、なんとか。そのうち」
「ぼんやりしてると間に合わないぞ。来月頭なんてすぐだよ」
「まあ、なんていうか、いろいろ、思うところがあって」
「なにが思うところだよ。あれか、スランプか。芸術家か、おまえは」
 顧問はまるで面白い冗談でも聞いたみたいに大声で笑った。
 死ね、と俺は思った。妙に腹立たしい。
269:
 俺がクスリとも笑わないのが気に障ったのか、彼の声は苛立たしげにこわばった。
「まあ、やる気がないなら無理強いはしないけどね」
 顧問はそう言うと、他の部員たちの様子を見にいった。
 すごい人だ。
 何がすごいって、この人にとって、こういう人にとって、やる気とか精神力っていうのは無尽蔵のものなのだ。
 そう信じてる。信じるだけの体験をしてきている。そういう経験がある。
 だから、「やる気を出せない」とか、「やる気にならない」というのを、単なる怠慢の一種と判断する。
 そしてそれは、一面の真実ではあるのだ。
 
 真実だから、いっそう調子づく。
 現実には、「やる気」も「精神力」もきわめて肉体的で、物質的だ。使えば消費される。
 燃料が必要だし、新鮮さだって必要だ。時間の経過によって消耗も劣化もするし、燃費の差だって出る。
 
 俺は気付かれないように溜め息をついて本を閉じた。さっきよりずっと集中できなくなってしまった。
 ――それってね、場合によっては一生そのままなんだよ。
 そうだな、と俺は思った。歳をとるとかとらないとか、大人だからとか子供だからとか、そういう問題でもない。
 どっちかが正しいとか、間違っているとかでもない。
 経験したか、経験していないかの差。あるいは、強いか弱いかの違い。それだけだ。
270:
 俺がひとりで鬱々とした気持ちになっていると、不意に部長に声を掛けられた。
 彼女はまだ後輩のうしろに立っている。
「あのね、きみっていつもどんなふうに書いてる?」
「……いつもって?」
「小説。わたしのやり方で説明しようとしたんだけど……うまく伝わらないっていうか、うまくいかないみたいで」
 たしかに後輩はすごく困った顔をしていた。
 俺は彼女が書いたものを覗き込もうとしたけれど、思い切り隠されてしまった。
「だ、めです!」
「……だめ、って」
 部長には見せていたはずだし、そもそも部誌として発行されればどうせ俺にも見られることになるのだが。
「これは人様に見せられるような段階じゃないんで」
 彼女の中では部長は人としてカウントされていないらしい。
271:
 部長の小説は割と起承転結がはっきりしているし、抽象的な部分も少ない。
 わりとポピュラーで、感傷的なところもない。
 まあ、そこが部長(シィタ派もだけど)のすごいところで、普通、素人が書くと真逆になる。
 起承転結と呼べるものはなく、抽象的な表現が頻出する。
 文章が自分の殻に閉じこもっていて、登場人物が何を考えているのか分からない。
 無意味に長大で、すごく感傷的。……八割がた俺の話だ。
(素人小説のパターンはもうひとつあって、そちらは状況の読めないバトルマンガみたいなテイストになる)
 だから部長の書き方は、書いたことがないという人には難しい。すごく難しい。
 無意味に長大に感傷的に書く方がよっぽど簡単なのだ。
 
 とはいえ、それは今は関係ない。
 俺は内容を教えてもらうことを諦めて、質問に答えることにした。
「俺の場合は、毎回始まりと終わりが決まってるんで、参考にならないと思います」
「あ、そっか。そうだよね」
 というか、シィタ派に訊けばいいだろう。
 そう思ったところで、昼間に彼に言われたことを思い出し、ちょっと気まずくなった。
 たぶんひとりで暇そうにしていたから声を掛けられたんだろうけど。
272:
「……始まりと終わりが決まってるって、どういうことですか?」
 後輩がひとり、不思議そうな顔をした。
「毎回、女の子が部屋の中で考えごとしてるところから始まるんだよね」
 部長に読ませたのはだいたい二、三本だと思うが、まあそれでも分かるものは分かるだろう。
 なにせ文章がまるまる同じなのだ。
「それで、女の子が出掛けるところで終わる」
 後輩は感心したような顔になった。感心するところでもない。
「まあ、それだけ決まってれば、あとはどうにでもなるんで」
「ああいうの、わたし書けないんだよね。なんでなんだろう」
 逆に書けない方が幸せなんだと思うけど、部長はちょっと悔しそうな顔をしていた。
 俺は居たたまれなくなってきた。そもそもあれは小説なんてもんじゃない。
 とはいえ、まあ、そんなことを言ったところで無意味なんだけど。
「まあ、何か書こうとするなら、やっぱり俺より部長のやり方の方が参考になると思いますよ」
 それだけ言って、話を終わらせた。後輩は余計にわけがわからなくなったみたいな顔をしていた。
278:

 部活を終えて帰ろうとしたところで顧問に声を掛けられた。
 今日は珍しいことに、顧問も下校時刻まで部室に残っていたのだ。
 その頃には他のみんなは帰ってしまっていた。
 いつもなら、部室に最後まで残るのは俺か部長のどちらかだけだ。
 部長は、なにかしらの責任感からそうしているのかもしれない。
 でも俺の場合は、単にぼんやりしていたらみんなが既に帰ってしまっていた、ということが多いだけだ。
 本当はすぐに帰るべきだったのに、足が動いてくれなかった。
 何かやるべきことをやり残しているような、そんな感覚。
「ちょっと屋上で話でもしないか?」
 顧問は俺にそう声を掛けた。俺は何か話でもあるのかと思って頷いた。
 途中の自販機で顧問はパックジュースを二つ買い、その片方を俺に投げ渡した。
279:
「奢りだ」
 と彼は笑った。当たり前だろ、と俺は思った。勝手に買っておいて請求されるなんて冗談じゃない。
「ありがとうございます」
 と俺は一応礼を言う。
 ひょっとしたらと思ったけれど、鉄扉を押し開けた向こうに、彼女の姿は見当たらなかった。
 ただ夕焼けに染まった空があるだけだ。
 すぐに何かしらの話が始まるのかと思ったのだけれど、顧問は烏龍茶を飲みながらぼんやり夕陽を眺めはじめた。
 俺は仕方なく自分の分のジュースを開封して飲み始めた。オレンジジュース。なんでオレンジジュースなんだろう。
 話はなかなか始まらない。風邪が冷たい。俺は早く帰りたかった。
 しばらく経ってから、顧問は溜め息をついて口を開いた。
「何かあったのか?」
「……は?」
 思わずそう言っていた。顧問は表情すら変えなかった。
280:
「急にどうしたんですか」
 俺は笑いながら訊ねた。顧問は大真面目な顔を崩さない。
「いや」
 彼は何かを言いたいようだったけれど、何を言っていいのか分からないようだった。
 俺はなんだか無性に腹が立ち始めた。屋上の空気は冷たかったし、早く帰りたかった。
「なんだか、近頃様子がおかしいような気がしたからな。心配事でもあるのかと思ったんだ」
 ずいぶん余裕のある教師だな、と俺は思った。
 べつに彼は俺の担任でもなんでもない。それなのにいちいち気を回すなんて。
 
 でも、特別感心したりはしなかった。一刻も早くこの場を立ち去りたかった。
 なにが原因でこんなことになったんだろう。やっぱり愛想笑いくらいはしておくべきだったのか。
「特に何かがあったわけじゃないですよ」
「そうか」
281:
 彼がそれきり黙ってしまったので、俺は妙に不安になった。
 おいおい、冗談だろ。まさかそんなことの為に呼び止めたのか?
 わざわざ屋上まで連れてきて? ジュースまで買って?
 たかがそんなことのために?
「今日は夕焼けが綺麗だな」
 と彼は言った。青春ドラマのセリフみたいに空々しい響きだった。実際そのつもりだったのかもしれない。
 
「夕陽を見てると元気にならないか?」
「なぜです?」
「明日もがんばろうって気になるだろ」
 ならねえよ。
「高校のとき、自転車で下校してる途中にさ、夕陽を見ながらいろいろ考えてたんだよな。
 その日にあった嫌なこととか、腹が立ったこととかを思い出しながら。
 ときどき何もかもに嫌気がさしたりするだろ。そういうときに夕陽が綺麗だと、よし、明日もがんばるかって気になったんだ」
 そうなんだ、と俺は思った。
282:
「なんだか、その日起こった嫌なことの全部が、取るに足らない、くだらないことに思えてくるんだよ」
 
 それから彼はこちらを見て照れくさそうに笑った。
 
 夕陽は確かに綺麗だった。でも平凡な綺麗さだった。
 よくある感じの夕焼けだ。よくある秋の夕暮れ。悪くはないけれど。
 なるほど、と俺は思った。
 要するに俺と彼は根っこの部分から異なっているんだろう。
 
 そしてそれは、どっちが正しいとか、どっちが間違っているとかの話ではない。
 俺だって、彼みたいな生き方ができればそれが一番なのだ。
 取るに足らないこと。くだらないこと。そうやって割り切ってしまえばいい。
 自分のささやかな失敗。ささやかな友達との喧嘩。ささやかな言葉の選び間違い。
 ささやかな情報のすれ違い。そうしたささやかなやり取り。
 それは実際、自分の身にどれだけ大きく思えようと、相対的に見れば些細なことだ。
 でも、日常はその「取るに足らないもの」「くだらないもの」の集積物だ。
「取るに足らないこと」を軽んじ、蔑ろにすれば、手痛いしっぺ返しを食らうことになる。
283:
(母が家を出て行ったように?)
(それは……でも……)
 
 頭の奥が軋むように痛んだ。
 取るに足らないこと。
(違う)、と俺は思った。取るに足らないことなんかじゃない。
 客観的に、相対的に見れば、それはとてもくだらないことだ。
 比較で語れば、自分より不幸な境遇なんてありふれてる。
 でも俺たちは、客観的な場所で生きているわけじゃないし、いつも相対的な見方をしているわけじゃない。
 主観的に物事を見ている。俺は俺であることをやめられない。絶対に。
 だから、取るに足らないことなんかじゃない。他人からはそう見えるだけだ。
 ……俺にはそのことが、妙に腹立たしく思えて仕方ない。
 きっと彼にも彼なりの経験があって、だからその価値観にもちゃんと理由があるんだろう。
 悲しい経験や、手痛い打撃だって受けてきたんだろう。
 そうした結果として、そうしたものごとの集積物として、今の彼の価値観がある。
 でもそれは俺にとっては取るに足らないものだった。彼にとって俺の価値観がそうであるように。
284:
 顧問が反応を窺うような視線を寄越したので、俺は適当に、
「そうですね、夕陽が綺麗ですもんね」
 
 と分かったようなことを分かったふうな態度で言ってみた。
 顧問は気恥ずかしそうな表情で頷く。それで話は終わった。
 彼はそれから何か俺に何かを言ったのだけれど、うまく聞き取れなかった。そして去って行った。
 扉の閉まる音。
 ひとり屋上に取り残された俺は、べつに好きでもないオレンジジュースを飲みながら冷たい風に震えた。
 
 それから無性にむしゃくしゃしてきて、
「あーあ、世界とか滅びねえかなあ!」
 とわめいてみた。夕陽が遠くの山の向こうに隠れはじめている。
 妹が病み上がりなんだよ、と俺は思った。
 あいつが気にするといけないから部活にはちゃんと顔を出したけど、早めに帰りたかったんだ。
 風邪をひきずりやすい奴なんだよ。肺炎に悪化して入院したことだってあるんだ。
 それなのになんでおまえの青春ごっこにつき合わされなきゃいけないんだよ、ふざけるんじゃねえよ。
 頭の中でそれだけ言ってしまうと、少しだけすっきりした。
285:
 でも、それは俺のせいでもあったのだ。俺が「普通」を上手く装えてさえいれば、彼も声を掛けてはこなかっただろう。
 それに、ぼーっとしながら部室に残っていたのは自分だった。早く帰ればよかったのだ。 
 
 夕陽が綺麗だった。でも、だからって励まされたりはしない。
 だって俺と夕陽の間には何の関係もないのだ。
 夕陽が綺麗だからって、なんで自分も頑張ろうなんて思えるんだ?
 できることなら教えてほしいくらいだった。
 俺は何をやってるんだろう。
 小説も書かない。家事もやらない。バイトしたり勉強に精を出したりするわけでもない。
 
 せめて誰かの役に立てよ。
 それでなくても、おまえはこれまで散々人に迷惑を掛けてきたじゃないか。人を傷つけてきたじゃないか。
 そして今度は自分を責めたふりをして、気分だけで反省してるのか?
 違うだろ? おまえがするべきなのは手足を動かすことだろう?
 でも動く気になれなかった。不思議なくらい悲しい気分だった。その気になれば涙だって出せそうなくらいだ。
 自分でも、どうしてここまで動揺しているのか分からない。
「ああ、ちくしょう!」
 と俺は叫んだ。それでも収まりがつかなくて舌打ちを三度くらいした。
 そして長い溜め息をついて、両方の頬を三度叩いてから屋上を後にした。
286:

 家に帰ったときには、夕食の準備はほとんど終わっていたようだった。
「遅かったね?」
 従妹は何の含みもなさそうな調子でそう言った。
 俺はどうしてか責められているような気持ちになる。
 夕飯が出来上がる頃には珍しく父も帰ってきていた。
 食卓に並んだ料理を見ていると奇妙な気分になる。
 
 妹は父が早く帰ってきたことを喜んでいるようだった。体調が悪そうにも見えない。
 俺は段々と居たたまれなくなっていく。
 父はいつものように、何を考えているのかよく分からない顔で、俺たちのことを見ている。
 その視線に、俺はいつも居心地が悪くなるのだ。
 たぶん、後ろめたさから。
 なるべくそれを顔に出さないように、俺は普段通りの態度を装った。少なくともそういうつもりでいた。
287:
 食事を終えて、逃げるように自分の部屋に向かう。
 灯りもつけずにベッドに倒れ込む。妙に体が重い。
 なんでこんなに気分が暗くなるんだろう。俺は何に腹を立てているんだろう。
 俺の生活。俺の行動。それはちゃんと他の誰かに影響を与えているんだろうか。
 いてもいなくても変わらないんじゃないか。あるいは、いない方がマシなんじゃないか。
 そう思ってしまう。
 生活の中で起こる大半の出来事は、俺の行動とも感情とも、まったく無関係に起きている。
 部長やシィタ派は小説を書く。妹が家事をする。編入生が文芸部に入る。父が働く。ビィ派はゲームでもしてる。
 従妹が家にやってくる。あの女の子は俺がいてもいなくても屋上にいる。俺がいても屋上に現れない。
 ……なんでこんなことで落ち込むんだろう。我ながら面倒な奴だ。
 どうかしてる。
288:
 不意に、ノックの音が聞こえた。
 
 扉が軋みながら開いていく。姿を見せたのは従妹だった。
「電気、つけないの?」
「……あ、うん。つけて」
 俺は立ち上がってカーテンを閉める。従妹は灯りのスイッチをつけると、部屋の内側に残って扉を閉めた。
「どうした?」
「あ、えっと、わたし、そろそろ帰ろうと思って。思ってというか、今週の土曜日に、帰ることにしたから」
「あ……そうなんだ」
 来るのが急なら、帰るのも急ということなのか。
 俺は自分でも意外なほど驚いていた。ちょっとした寂寞すら感じている。
「うん。いろいろ、お世話になりました?」
「ああ、うん」
 うまく反応できない。何を言っていいか、分からなかった。
289:
「……おにいちゃんさ、わたしが来た理由、訊かなかったよね、一度も」
「そうだっけ?」
「うん。わたしが言うのも変な話だけど……どうして訊かなかったの?」
「訊いた方がよかった?」
「そんなことはないよ、ぜんぜん。すごく助かったんだけど……ちえこだって、おじさんだって理由を訊いたよ。
 訊かなかったの、おにいちゃんだけ。そりゃ、話したいことでも、ないんだけど」
 想像がついた、というわけでもない。
 でも、本人が積極的に言いたがらない時点で、やすやすと訊いていいこととも思えなかった。
 
「でもさ、こんなこと言い方したら変だけど、そうなるだろうって分かってたんだよね。
 おにいちゃんは理由を訊いてこないだろうと思ってたんだ。だっておにいちゃんはそういう人だから。
 人の弱い部分とか、ぜんぶ分かったうえで、受け流す人だから。本心で何を思っていてもね」
 従妹の言葉は、まるで自分自身でも整理がついていないというように、途切れ途切れだった。
「だから、他の誰が何を言ったって、おにいちゃんだけは、わたしが逃げたり、卑怯なことをしたりしたりしても、責めたりしないって思ってた」
 俺は、なぜか、責められているような気がした。
290:
「だからおにいちゃんといるのは、すごく気持ちが楽なんだよ。でもそれってダメだよね」
「そんなことはないよ」
 と俺は口を挟んだ。
「うん。そう言うと思ったけど、でもダメなんだよ。それじゃ、ダメなんだよ」
 さっきより強い口調で、彼女は言った。俺は言葉を失った。
「だってわたしが逃げたくないんだ」
 従妹と目を合わせるのが怖かった。自分のことを言われているような気持ちになる。
 
「だから、わたしは帰る。あの街、すごく嫌いだけど、やっぱりわたしは、あそこにいるしかないから。今のところは」
 それから彼女はちょっと寂しそうな声で、
「逃げ場所にして、ごめんね」
 そう言って笑った。
「それじゃあ、おやすみ」
 軋むような気配。
 扉の閉まる音。
 溜め息が出た。彼女の中で、たぶん話は完結したんだろう。俺の感情とは無関係に。
297:

 従妹が出て行ったあとも、俺はベッドに腰掛けてしばらく部屋の中でぼんやりしていた。
 蛍光灯の青ざめた灯りに照らされたまま、何かを考えている。
 でも、何を考えているのか、自分でもよくわからなかった。
 頭の中が霧に覆われているように判然としない。
 少しするとまたノックの音が聞こえた。扉がもう一度軋んだ。今度は妹の姿が見えた。
「どうした?」
「……うん」
 返事ともつかない頷きだけをよこして、妹は部屋の中に入ってきた。
 
「風邪は平気?」
 俺がそう訊ねると、妹はわざとらしく笑った。
「朝も言ったでしょ? もう平気」
 それっきり妹は黙り込んでしまった。
298:
 彼女は何も言わなかったし、俺も何も訊かなかった。
 いつもそうだ。だから俺たちは、ずっとこんなふうに黙り込んでいる。問いもせず語りもせず。
 俺は何かを訊くべきなのかもしれない。でも口を開く気にはなれなかった。
 結局先に口を開いたのは妹の方だった。彼女が来てから五分ほど経ってからのことだ。
「あの、最近、お兄ちゃん、元気ない、よね?」
 窺うような態度。
「そんなことはないよ」
 俺は即座に否定した。自分でも驚くくらいにすんなりと。
「うそだよ」
 妹もまた、俺の言葉をすぐに否定する。俺はこの会話の意味がいまいちつかめなかった。
「それって、わたしのせい?」と妹は訊いた。
「違う」と俺は言った。
 でも、きっとその否定に意味なんてなかった。
 妹はもう自分なりに解釈してしまっている。俺は落ち込んでいる、それは自分のせいだ、と。
 俺が否定したってきいたりしない。
299:
「お兄ちゃんが家事を手伝いたがったのって、わたしの負担になってると思ったから?」
 俺は何も言い返さなかった。
「……そう、だよね?」
「そういう面もあるよ」
 俺が返事をすると、妹はほっとしたような顔になった。
 この際だから気になっていたことを全部言ってしまおう、と俺は思った。
 
 いざとなると、それは上手く言葉になってくれない。
 けれど声に出して伝える努力くらいはしたっていい。
「俺は、おまえが家の犠牲になってるんじゃないかって思うんだよ。
 おまえはもっと自分のことだけ考えて生きていくことだってできるはずなんだ。
 おまえがやっていることは、本当なら俺がこなしているべきだったんだ」
「……どうしてそう思うの?」
 言わなければよかった。そう思った。妹は悲しいくらいの無表情だった。
 俺はその顔をずっと見ているのが怖くなった。
300:
「だって、おまえが家事をしなきゃならないのは……」
 どうしてか。
 頭がズキズキと痛む。
「たぶん、俺が……」
 ――良い子にしてないと、置いてっちゃうからね?
 ……頭が。
 ずっと、動いているのに、言葉としての結論を出してくれない。
 軋むように痛むだけで。
 考えるだけの材料はあるのに。
 うまく働いてくれない。
 誰かが俺を責めているような、そんな気がする。
 頭の中は霧がかかったみたいにぼんやりしている。
 現実から遊離するような浮遊感。眩暈。
301:
「あの」
 
 声を掛けられて、我に返る。妹はこちらを心配そうに見つめていた。
 
「うん」
 俺は意味もなく頷いた。うまく物事を考えられない。
「あの、わたしは、負担とか、そんなの、思ったことないから」
 言い募るような調子で、妹はそう言った。俺は後悔していた。
「わたしは、好きでやってるから。だからお兄ちゃんが、負い目とか感じる必要、ないんだよ?」
 そう言うんだろうな、と思っていた。そう言って欲しくなかった。
 やりたくないのになんでこんなことって、文句を言われた方がずっとましだった。
 これでこいつは、今までよりもっと不満を漏らせなくなってしまった。
 
「……うん」
 俺は結局頷いた。そうする以外に手段が見つからなかった。
 妹はまだ何か言いたげだったけれど、結局部屋を出ていった。
 扉の閉まる音。繰り返している。
 ひとりになると、また頭が痛んだ。
302:

 翌朝、俺が登校したときには、シィタ派は既に教室に来ていた。
 頭を掻いたりしながらノートに向かってペンを動かしている。
 なんだかすごく苦しげに。
 その様子がちょっと怖かったので、俺は普段より気安げに声を掛けてみた。
「よお」
 シィタ派は驚いた様子で顔をあげた。怖いくらいの驚き方。
「ああ、うん。おはよう」
 そしていつものように笑う。俺はちょっと面食らったけれど、その表情でちょっと安心した。
「……部誌の?」
 訊ねると、彼はちょっと気まずそうな顔で頷いた。
「調子は?」
「まあ、うん」
 彼にしては曖昧な答え方だった。あまり芳しくないのかもしれない。
303:
 俺は何も言わずに近くの席に座り、シィタ派の様子を眺め続けた。 
 真剣な表情。熱心にペンを動かしている。
「……どんな話?」
 俺はためしに、そう訊ねてみた。
 彼は意外な質問を受けたように戸惑った顔になる。
 
「うーん……。手帳の話」
「手帳?」
「うん。主人公は高校生なんだけど、学校の廊下で落し物を拾うんだよ」
「それが手帳?」
「そう。近くにいた人に訊いてみても、持ち主だって言う人も、心当たりがあるって人もいない。
 だから手がかりを求めて、仕方なく手帳を開くわけ。どうせ落し物として職員室にでも届けるんだけどって思いながら」
「ふうん。それで?」
「開いてみると、どうもこの手帳の持ち主は主人公のクラスメイトらしい。というのも、内容が日記みたいになってたんだ。
 それで、主人公のクラスメイトのことを名指しで悪く書いてある。その文脈から、同じクラスの人間だと判断するわけ。
 字面や手帳のデザイン的に、どうも女のものみたいだ、と主人公は思う」
304:
「主人公は男?」
「女。さいわい主人公についての悪口は書いてなかったんだけど、教師に届けるわけにもいかなくなってしまった」
「なぜ?」
「教師が落とし主を特定しようとして手帳の中を見たら、まずいことになるかもしれないだろ」
「気の利く主人公だなあ。俺なら見て見ぬふりして教師に託すけど」
「まあ……まあ、そこはね。主人公がそういう性格だったってことで」
「うん。それで?」
「……なあ、退屈じゃない?」
「いや。なんで?」
「……いや、退屈じゃないならいいんだけどさ」
「それからどうなる?」
「それから、まあ、主人公も授業があるから、一度保留にして自分が手帳を持ったまま教室に戻る。
 だけど、運悪く友達にその手帳を見咎められる。で、中身を見られちゃうんだ」
305:
「……その友達についての悪口が書いてあった?」
「そう。まあ、クラスの中心みたいなところがあって、割と嫌われ者なんだけど、誰も逆らえない相手、みたいな感じ」
「それはまた……」
「うん。あっというまに主人公はクラスの女連中から避けられるようになるわけ。説明しても、拾ったなんて言い訳にしか聞こえないしな」
「……いじめ系かあ。なんかいつも書いてるのと雰囲気違うな」
 俺がそう言うと、シィタ派は苦笑した。
「そういうつもりで書き始めたんじゃなかったんだけどね。なんかこうなってた。なんでだろう。
 まあ、で、そのあと、手帳の持ち主が主人公にだけ名乗り出るんだよ。手帳の持ち主は自分だって。
 主人公がひとりでその事実を明かそうとしても、リーダー格が信じてくれるわけがない。
 だから主人公はそいつに協力してもらって、自分が本当に書いてないってことを他の人に信じてもらおうとする」
「そいつ、協力するの?」
「しないよ」
「だよね」
306:
 
「持ち主は主人公に泣いて謝るわけ。ごめんなさいごめんなさいって。
 もともとリーダー格にひっついてる腰巾着みたいな子だったんだな」
「だったら手帳に実名で悪口書くなよ」
 俺がそう言うと、シィタ派はちょっと考え込んだ。
「いつもは持ち歩いてないんだよ。鞄の底に入れてたんだけど、他の物を出す時に落としちゃったんだな。
 それをとっさにポケットにしまってたら、まあトイレの帰りにでも廊下に落としたんだろう」
 
 迂闊な話だ。油断と偶然が人一人を窮地に追い込むわけか。
「馬鹿げた話だ」と俺は半分本気で怒りながら呟いた。シィタ派はちょっと笑った。
「まあ、たしかに」
「で、続きは?」
「どうなるんだろう?」
「……オチ決めないで書き始めたの?」
307:
「いや、うん。書いてるうちに、どんどん方向ずれてきて。最初は怪談のつもりだったんだけど」
「まあ、それもありだとは思うけど、珍しいな。おまえいつもがっつりプロット作るじゃん」
「いろいろね、気分の問題だけど」
 そこで話が一度途切れた。紙面をペン先が擦れる音だけが続いている。
「おまえは、どう終わると思う? この話」
「え?」
 シィタ派の質問に、俺はすぐに答えを返せない。
「まあ、参考までに訊くだけだけどさ。どう終わると思う?」
「……うーん」
 どうだろう。俺は少し真面目に考えた。
308:
「……逃げるんじゃないかな、主人公」
「逃げるって、どこに?」
「どっか遠いところ。あるいはヒキコモリになるとか」
「……うーん。それ、根本的な解決にならないよな」
「ならない、もちろん。要するに、治療期間っていうか、そういう出来事に適応するための猶予期間っていうか」
「でもさ、猶予期間をこじらせて、そのまま不登校になられるわけにもいかないだろ」
「うん。だから最終的には学校に通わなきゃいけないんだよ、普通に。きっと経済的に余裕のない家庭とかなんじゃない?」
「勝手に設定足すなよ」
「不平不満とか、家ではあんまり漏らせないんだな。だから親に心配かけないようにしないといけない。
 それでもどうしたって我慢ならないときってあるだろ。どう考えてもマトモじゃないものが平然とのさばってるとさ。
 マトモじゃないものに立ち向かうのはエネルギーが要る。だから、猶予期間」
「……ふうん。で、自分からは結局なにもせず、学校に通い続ける、と」
 ビィ派はしばらく、俺が言ったことを飲み下そうとしているみたいに考え込んだ。
309:
「参考になった?」
「……うーん。俺が書くなら、主人公はやっぱり逃げたりしないな」
「俺が書くならっていうか、おまえが書いてるんだけどな」
「つまり、主人公がなんらかの策を講じて、手帳の持ち主を明らかにして、和解するなり、報復するなりする」
「なんていうか、そういうのって疲れるじゃん」
「……どういう意味?」
「いや、うまく説明できないけど……。本人がそうしたいなら、そうするべきかもしれないけどさ」
「だってそうじゃなきゃ、主人公はずっと今の境遇から抜け出せないんだよ」
「……まあ、そうだな」
 俺はそれ以上何も言うことができなかった。
 会話がそこで途切れたまま、結局俺たちはビィ派がやってくるまで一言も喋らなかった。
 本当なら、俺だって何かを書いているべきだったかもしれない。
315:

 放課後の部室には誰もいなかった。
 俺が早すぎたのかもしれないし、他の部員は用事でもあるのかもしれない。
 理由はわからない。とにかく誰もいない。それが事実だった。
 せっかく誰もいないわけだし、何か普段人がいるせいでできないことをやってみたいと思ったのだが、思いつかない。 
 ようしと俺はパイプ椅子に腰かけて、やってみたいことを考えてみることにした。
 ここには誰もいないんだ。やりたいことだって好きなだけやれる。何がしたい?
 ……せいぜい、裸になって踊り狂うくらいしか思いつかなかった。発想力の乏しさがここにきて露呈している。
 あるいは全裸になって自慰に耽るというのも考えたが、方向性が同じだし、あまりにも馬鹿げていた。
 ついでに言うとべつにやりたいというわけでもない。困った話だ。
 
 やりたいことがなかった。一人になってやることなんて、本を読むか、ぼーっとするか、寝るくらいしか思いつかない。
 それだって暇つぶしでしかない。
 大勢の中にいるといつもうんざりした気持ちになる。上手く会話に混ざれない。相槌を打つくらいしかできない。
 だからひとりの方が楽だ。ひとりでいるのは疲れない。
 
 でも、ひとりになりたいわけじゃない。面倒な話だ。
316:
 他人の中にいれば他人にうんざりするし、一人で居れば自分にうんざりする。
 誰の役にも立たない自分。何の成果もあげられない自分。
 
 部室のドアが開いた。最初に来たのは部長だった。俺に声を掛けたあと、いつもの席に座った。
 次に来たのは編入生と後輩。廊下で会ったのだろうか、一緒にやってきた。
 シィタ派は最後に顔を出した。どことなく考え込んでいるように見えた。
 いつものように、みんなそれぞれに活動を始めた。俺はぼんやりとしていた。
 ノートを開くことも本を開くこともない。何もすることが思いつかなかった。
 
 同じだ、と俺は思った。一人でいるときと。何も変わらない。
 それはそうだろう。自分が同じことをしているんだから。
 
「どうかしたの?」と声が聞こえた。振り返ると部長が立っていた。
「ちょっと考え事をしてたんです」と俺は答えた。
 部長は何か言いたげな表情をしたあと、「そっか」とだけ言って自分の席に戻った。
 今日は気持ちのいい秋空だった。少し空気は冷たいけれど、晴れていた。
 なにがいつもと違うんだろう。
317:
 小説。小説の続きは書けるだろうか?
 
「彼女」はどうやったら外に出るんだろう。
 いつもより真剣に、その方法を考えてみることにした。
 でも、もう無理なんじゃないかという気がした。「彼女」は何をしても外に出てくれないような気がする。 
 電話が鳴っても出ない。ノックが聞こえてもドアは開けない。呼び声も届かない。
 結局「彼女」はそこに納得してしまう。まあいいか、と思う。仕方ない、と。
 それが相応だ。そもそも決まっていたことなんだ。そういうふうに。
 それも仕方ないことだ。だって、誰も「彼女」に出掛けて欲しいなんて思ってはいないんだから。
 誰も「彼女」が出掛けることを求めていない。必要としていない。
「彼女」だって、そこにいる自分自身を認め、納得してしまえば、それで構わないはずだ。
 べつに必要とされていない。
 俺は鞄から読みかけの小説を取り出して続きを読むことにした。
 今までがなんだったのかというくらいあっさりと読み進めることができる。
 
 物語は終わりに差し掛かっていた。当然のような結末が当然のようにあらわれる。
 人が死んだ。何人かが当然のように生き延び、何人かは死んだように生き延びた。それで話は終わった。
318:
 最後のページを読み終えた後、俺はぼんやりとその小説について思いを巡らせた。
 それから今朝シィタ派から聞いた小説のあらすじのことを思い出した。
 避けられるだけならばまだいい。けれど行動が伴えばどうなるだろう?
 一人の人間の尊厳を集団で踏みにじる行為は、一種の狂乱だ。
 誰にも、その行為がどこまでエスカレートしていくのか分からない。ブレーキが壊れている。
 だとすると、シィタ派の言うように何らかの解決をもたらすのが一番なのかもしれない。
 
 とはいえ、解決法だってそれほどないし、そのどれをとったところで後味は悪い。
 和解できるとは思えない。糾弾するにしても、今度は手帳の持ち主が悪意にさらされるだけだ。
 
 解決手段。こういうときシィタ派が取る手法は、爽やかでない結末をいかにも爽やかに描写する、というものだ。
 どう考えても何も終わっていない、何も解決しない。そういうのを雰囲気だけ爽やかに描写する。
 するとなんとなく、何もかもがすっきりと終わったように見える。見えるだけだけれど。
 結局、デイヴィッドがもっと早く行動を起こせばよかったのかもしれない。
 そうすればメグだってあそこまでひどい目には合わなかっただろう。
 けれどあの無力なデイヴィッドの態度は、まちがいなく俺自身のどこかと一致していた。
319:
 そんなことを考えているうちに、俺はなぜか従妹のことを思い出した。
 それから彼女が昨夜俺に言ったいくつかの言葉を思い出した。
 こっちに来た理由を訊かなかったのは、気を遣ったわけではない。分かったようなつもりになっていたわけでもない。
 
 面倒だったからだ。どうせ何か面倒な理由があるに決まっていると思った。
 他人の問題になんて最後まで関われない。
 最後まで責任をとれないなら最初から関わらない方がマシだ、というのが俺の考えだった。
 
 何が起こっているのかを知れば何かを言わなきゃならない。
 だから最初から距離を置いた。何かの責任を負うなんてまっぴらだ。
 そういう意味では、たった今読み終えた小説は、ある種の暗示と言えるのかもしれない。
 
 とはいえ、聞いたところで何ができるというわけでもない。 
 あるいは、それでも聞くべきだったんだろうか。
 よく分からない。
320:

 部活の終わる時間まで、俺はそんなふうに考え事を続けていた。
 その日、顧問は顔を出さなかった。それだけが救いだった。
 部室に最後まで残ったのは俺と部長だった。他のみんなは早々に帰ってしまった。
 
 誰かに話しかけられたような気もするし、誰も俺に声を掛けなかったような気もする。
 気付けば窓の外は橙色に染まっていた。
「……大丈夫?」
 椅子に腰かけたままぼんやりしていると、部長はそう声を掛けてきた。
 俺はとっさに返事ができず、部長の顔をぼんやりと見返した。
 そういえば、俺は彼女の名前も知らないのだ。
「大丈夫です」
 そう答えても、彼女はまだ気がかりなようにこちらを見続けていた。
 態度に出すな、と俺は俺に言った。でも無理だった。普通の態度がよく分からない。
321:
「あの、文化祭、間に合いそう?」
「……」
「書けないようなら、無理しなくてもいいからね? 結局、強制じゃないし、何かあるわけでもないから」
「……そう、ですよね」
 書けないようなら、書かなくてもいい。
 当たり前のことだ。何かの義務でやっているわけでもない。普通のことだ。
 誰も必要としていないことなんだから。
「部誌の方は、なんとでもなるし、だから、ホントに厳しいようだったら……」
「……はい。分かってます」
「……うん」
 部長はまだ何か言いたげな顔をしていた。こんな顔を、何人もの人が俺に向けた。
 いったいみんな何が言いたいんだろう。何が言いにくいんだろう。
 でも、べつに問い詰める気にはなれなかった。だってそれは面倒だ。
 結局部長は何も言わずに去って行った。部室には俺ひとりだけが残される。
 扉の閉まる音。
322:

 帰る気にはなれなかった。家に帰ったところで、どうなるわけでもない。
 俺の態度は、きっとまだいつも通りじゃない。家事を手伝おうとしたって、妹にまた心配させるだけだ。
 だからって、家の中で何もせずにいるなんて、俺には耐え難い。
 だからって、部室に残って何かができるわけでもない。
 小説なんて書けないし、書けないなら書かなくてもいい。
 俺は何だったらできるんだ?
 いや、そんなことより、俺には考えるべきことがあるのかもしれない。もっと他の、自分のことではなく……。
 昨日からずっと頭の奥が痛んでいる気がする。
 
 いったいいつまでこんな考え事を続けるつもりなんだろう。
 
 たとえば、誰でもいいから俺を好きでいてくれる女の子が一人でもいたら、自分も少しはがんばれるかもしれないと思ったことがある。
 でもそんなのは馬鹿げているし、「誰でもいい」というのは大嘘だ。
 
 俺を「不安にさせない」「プライドを傷つけない」「望むことを叶えてくれる」。
 それでいて「容姿もまあまあ」くらいの条件は無意識につけている。いずれにしても馬鹿げている。
 相手の人間性をまるで無視しているし、実際にそんな子が現れても俺はまともに会話すらできないだろう。
 ましてやそんな子が仮にいるとしても、俺のことを好きになるわけがない。
323:
 さて、と俺は思った。家には帰りたくない。かといっていつまでも部室にはいられない。
 とにかく移動するしかない。どこでもいい。そう考えたところで屋上のことが頭に浮かんだ。
 屋上。
 仕方ないか、と俺は思った。昨日あんな話をされたあとに、夕陽なんて見る気にはなれないのだけれど。
 それに、今日こそは彼女がいるかもしれない。いたからといって、どうというわけではないのだけれど。
 部室を出て屋上に向かう途中に、シィタ派の後ろ姿を見た。
 誰かが隣にいるようなので覗き見ると、どうも編入生と一緒に歩いているらしい。
 邪推するほどのことでもないだろう。
 俺は屋上への階段を昇る。踊り場の窓が開きっぱなしになっていて、吹き込む風にカタカタと音を立てていた。
 校舎に人の気配はしない。外から誰かの話し声から遠く聞こえるだけだった。
 鉄扉を押し開ける。
 夕陽の逆光。フェンスの傍らの影。彼女は今日もそこにいた。
「元気ないね?」と彼女は言った。振り向いているのかどうかすら、俺には分からない。
「まあね」と俺は言った。取り繕う気にもなれない。
324:
「……前からずっと、聞いてみたかったんだけどさ」
 彼女は珍しく、そんなふうに口を開いた。ちょっと口籠るような様子。
 何かを言いあぐねているような。
「どうしてあんたは、屋上にくるの?」
 二人称ですら、彼女に呼ばれるのは初めてだという気がした。
「……ダメかな」
「別にダメとは言ってないけど。理由が気になるんだよね」
「きみがいるから」と俺は言ってみた。やっぱりどこかしら軽薄になりきれない気味悪さが残っている気がした。
 彼女は一瞬目を丸くして、こほんと咳払いをする。
「嘘だよね?」
「なんでそう思う?」
「だって、わたしに興味ないでしょ?」
325:
「……そんなことはないよ」
「じゃあ、わたしのことどう思ってる? どんな存在?」
「いつも屋上にいる女の子。わりと変なことを言う」
「それ以外は?」
「……それ以外?」
 見とれるくらいの美人だ。それくらいだった。
「じゃあ、初めて会ったときのこと、思い出せる?」
「……屋上にきみが居た。俺が話しかけた。なにしてるのって」
 彼女は押し黙った。少しだけ傷ついたような表情になった気がした。
 でもたぶん気のせいだろう。だって俺は、彼女が傷ついたときにどんな表情をするのか知らないのだ。きっとそう見えただけだ。
 それから少しして、彼女は諦めたような、納得したような、そんな溜め息をついた。
「そう」
 その言葉の意味が、俺にはよくわからなかった。
326:
「今日はどうかしたの?」
 気を取り直すみたいな感じで、彼女は口を開いた。俺は今の表情の変化を頭の中で処理しかねていた。
「ちょっとね」
「小説のこと?」
「……書けないなら書かなくてもいいって言われた」
「ふうん」と彼女はどうでもよさそうに頷いた。
 それから当然みたいな顔で言葉を続ける。
「で、書くの?」
 
 そのなんでもない質問に、俺は一瞬、言葉を失った。
「……え?」
 俺があんまり奇妙な顔をしていたのだろう、彼女もちょっと驚いた顔になった。
 それから言い直すように、
「……書かない、の?」
 そう訊ねてきた。
327:
「……いや、書かない、っていうか」
「うん」
「別に、強制ってわけでもないし」
「……うん」
「誰かが必要としてるわけでもない、だろ?」
「ねえ、そんなことないよって、言ってほしい?」
「……そういうつもりじゃないんだ」
「わたしも、そういうつもりで訊いたんじゃないよ」
 彼女はちょっと怒ったような顔をして、まっすぐこちらを見つめた。
 こんなふうに真正面から顔を合わせたことは、あっただろうか。
「書くか書かないかは、書きたいか書きたくないかで決めるものでしょ?」
328:
 俺はまた、何も言えなくなった。何も言い返すことができない。 
 だって彼女の言っていることは正しいのだ。
「……なんか、ごめん。変なこと言ったかも」
「いや」
 俺が反応をしなかったせいだろうか。彼女は自分が変なことを言ったと思ったらしい。
 俺はそれを否定したかったけれど、その余裕が今はなかった。
「……わたし、今日、帰る」
「あ、うん」
「また明日」
「……うん、また明日」
 彼女は俺がそう返したあとも、こちらの反応を窺うように視線を向けてきた。
 どうかしたのだろうか。
 しいていうなら、「また明日」という言葉には、違和感があったけれど。
 彼女は小走りして屋上を去って行った。鉄扉が軋む。ドアが閉まる。
 扉の閉まる音。
329:
 みんな扉の向こうに去っていく。いつまでも残っているのは俺だけだ。
 誰かが俺と会う。俺と話をする。そして誰かは俺を残して去っていく。
 
 扉の内側に残るのは俺だけだ。
 俺はフェンスの向こうの夕陽を眺めてみた。やっぱり元気になんてならなかった。
 特別綺麗でもないし、かといって色あせても見えない。何もかもが平坦に伝わってくる。
 どうかしてる。
 もう全部やめてしまおう。文章を書こうとするのもやめて、家事も妹に任せて、勉強もそこそこにして。
 普段通りに過ごしてしまおう。そうするのだってべつに悪いことじゃない。
 でも、そう考えると、たまらなく不安になった。
 不意に強い風が吹いた。
 背後で扉が軋む音がした。
 振り返ると、さっき去ったばかりの彼女が、入口からこちらを見ている。息を切らして。
「……どうしたの?」
330:
 彼女は息を整えたあと、右手に握った何かをこちらに差し出した。
「これ、渡しておいてもらおうと思って」
 俺は彼女に歩み寄り、それを受け取った。
 小さな紙片。
「……なに、これ? 誰に渡せばいいの?」
 彼女はちょっと辛そうな顔をした。
「……なんで、気付かないの? ほんとうに覚えてないの?」
「え?」
 錯覚かと思うほど、心細そうな表情。それは一瞬で溶けるみたいに消えてしまった。
「開いてみて」
 少し躊躇ったけれど、彼女が厳しい目でこちらを見ていたので、俺はその紙片を広げた。
『穴倉の 熊をくすぐる 春の風 枝野』
 一瞬、そこに何が書いてあるのか分からなかった。
331:
「……枝野?」
「うん」
「……文芸部の?」 
「うん」
「……きみが?」
「わたし、名札、つけてるんだけど」
「……」
 たしかに、枝野と書いてあった。
「ていうか、わたしたち、中学一緒だから」
「……そう、だっけ?」
「ついでに言うと、わたし、中学のとき、一回あんたに告白したことあるから」
「……あ、え?」
「……やっぱり、覚えてないんだ」
 押し殺すような声で呟いていた。彼女の顔はあっという間に真っ赤に染まった。
 それを隠すみたいに背を向けると、「ばか! 死ね!」とだけ怒鳴って、見たこともないようなさで走り去っていく。
 残された俺は途方に暮れた。頭がまったく動かなかった。
335:

 彼女の言葉が頭の中でぐるぐる回り続けていた。帰り道がやけに長く感じた。 
 途中でどんな道を歩いたのかすら思い出せない。とにかくずっと、さっきの出来事が頭を支配していた。
 帰路の途中で猫が唸り合っていたことだけが、なぜか印象に残っている。
 部屋に戻って俺が真っ先にしたのは中学の卒業アルバムを探すことだった。
 正直あまり見直したいものではないが、そうも言っていられない。
 見つけ出したアルバムのページを順番通りにめくり、枝野という名前を探した。
 
「……」
 すぐに見つかった。と言うより、
「同じクラス、だな。これは」
 集合写真も個別写真も俺と同じページに載っていた。
 今より少し幼い雰囲気はあるが、髪型も変わってないし、眼鏡を掛けているわけでもない。 
 そのまま、あの子だ。
 枝野。
「……告白?」
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