上条「もてた」【後半】back

上条「もてた」【後半】


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1:
「あー冷えるなあ、さすがに屋上は」
「そうだね。でも。人が少なめだから」
昼休みのチャイムが鳴ってすぐ。
クラスメイト達は誰も上条たちを追いかけてこなかった。
姫神のものと思わしき茶巾袋にちょうど二人ぶん位の弁当が入っていそうなのを見れば、
追求する気も失せてしまったのだろう。
「女子の連中に何か言われたか?」
「……うん。仲のいい子達は控えめにだけど。おめでとうって」
控えめだったのは、同じクラスにいるもう一人の上条を好きだった女の子に遠慮したからだ。
姫神はそれを暗に上条に伝えたが、そういう複雑なことは伝わらなかった。
「そうか。ま、大騒ぎされると色々面倒だしな」
「当麻君は。あんまりみんなに知られたくない?」
「そういうわけじゃないって。ただ、休み時間に追い掛け回されたりすると、
 秋沙とこうやって昼飯を食べたりは出来なくなっちまうだろ?」
「そうだね。それは。嫌だね」
「だろ? でさ、どういう風に座ればいいんだ? こう、対面になるようにすればいいのか?」
「ううん。壁に二人でもたれて、並んで食べたい」
「わかった。けどこれじゃあ、秋沙の顔を見て食べれないな」
「だからだよ。食べてるところを見られるのは。恥ずかしいし」
「いやでも教室で弁当食べてる秋沙を見たこと、何度もあるぞ?」
「それはいいの。……お付き合いしてる当麻君に見られると。恥ずかしいだけだから」
「秋沙の食べ方は綺麗だから、別に恥ずかしがることはないと思うけどな」
「恥ずかしいよ。それと。並びたい理由はもう一つある」
「ん?」
とすんと二人で壁際に腰掛ける。
膝上に置いた茶巾袋の口を緩めるより先に、姫神が体を傾けて、隣にいる上条の肩に頭を乗せた。
「対面に座っちゃうと。こういうこと。出来ないよね?」
「……だな」
上条は他意なく姫神との間に開けていた距離をぐっと詰めて、体の側面を姫神とぴったりくっつけた。
そして姫神の腰に手を回した。
「このままじゃ。お昼ごはんを食べられないね」
「飽きるまでやってから、食べ始めればいいんじゃないか?」
「駄目だよ。そんなことしたら。お昼ご飯食べる時間がなくなるから」
「秋沙」
「当麻君」
お互いに用事がないのを分かった上で、何の意味もなく名前を呼び合う。
目線を合わせると、柔らかく微笑む恋人の顔と、その瞳の中で笑う自分の顔が見えた。
347:
「時間もなくなるし、弁当食べようぜ」
「うん。あんまり。美味しくないかもしれないけど」
「その心配はしてない」
「しておいて欲しい。期待以下で失望されるのが。一番辛いから」
ややためらう仕草を見せながら、姫神が弁当箱を取り出した。
蓋を止めるバンドを外して中を開くと、一段目のご飯は綺麗な鮭弁だった。
自分がこれを作ると、多分白米を詰めた上から鮭の切り身をドン、だと思う。
だが姫神は鮭の身を丁寧にほぐして骨を取って、ご飯の上に満遍なく散らしていた。
中央には彩りにほうれん草が乗せてあって、いかにも美しい。
二段目のおかずもとにかく綺麗だった。
まずブロッコリーのおかか和え。色がまったく褪せていない。
玉子焼きも上条が作れば不ぞろいになったり箱のサイズにあわないものを強引にブチ込むが、
姫神お手製のそれは優しい黄色で形もまとまっている。
その隣にあるカップに入ってるのは、大豆とひじきの煮物だろうか。
荒く豆が潰してあるのが上条家とは流儀が違った。豆粒が躍り出たりしない分、合理的かもしれない。
たこさんウインナーはどうも開き方がいびつで不慣れな感じがするが、
そりゃあ自分用の弁当でわざわざウインナーの整形なんてしない。
慣れてないけど、多分自分以外の人に出すものだからと、頑張ったのだろうと思う。
一家の主夫、上条当麻として評価した姫神の弁当は。
「完璧だ……」
その一言に尽きた。
姫神は少し笑ったが、不安のほうが大きいのか晴れやかな顔にはならなかった。
「お弁当は見た目より味だから。口に合わなかったら。ごめんね」
「いやいや、これどう見ても美味そうだろ。じゃ、遠慮なくいただくな」
「うん。召し上がれ」
「いただきます」
上条はブロッコリーをつまんで、口に入れた。姫神が固唾を呑んでそれを見守る。
じゅわ、と口の中に旨みが広がった。
鰹節と醤油の組み合わせかと思いきや、実はブロッコリーの煮びたしだったらしい。
出汁の優しい味わいと硬めに茹でてザクザクとした歯ごたえを残すブロッコリーの食感の組み合わせがいい。
コメントするより先に、ご飯に箸を伸ばした。
「どう。かな?」
「なんか普通で悪いんだけど……めちゃくちゃ美味い」
「本当? お世辞は。別にいらないよ」
「お世辞なんかじゃないって。ホントに美味いから」
「うん。……美味しくないのがあったら無理しないでいいから」
「そんなに心配することないと思うけどな」
354:
それほど多かったわけではないので、上条はあっという間に弁当を平らげた。
一品一品が非常に丁寧に作られているのがわかる出来だった。
「ごちそうさまでした。美味しかったです。ありがとな、秋沙」
「お粗末さまでした。良かった。食べてもらえて」
自分も少し遅れて食べ終えた姫神が、弁当箱を仕舞いなおした。
ふと視線に気づく。上条が、ちょっと不思議な感じの目をこちらに向けていた。
僅かに首をかしげて意図を伝える。
「あ、いや。なんかさ、いいなって思って」
「いい?」
「一人の女の子と付き合って、こうやって二人っきりで弁当食ったりするのって、なんか新鮮でさ」
「うん。私にとってもそうだよ」
「嬉しくなるな」
「嬉しくなるね」
上条が頭を姫神の肩に預けた。隣の彼氏の重み。
ちょっと支えるのが大変だけど、それもまた嬉しかった。
なんとなくその仕草の意図が分かった気がしたので、膝の上の弁当箱を退けて、ぽんぽんと軽く太ももを叩いてみた。
ピクリと、上条が反応した。
「……秋沙」
「したい?」
「したいって、その」
「膝枕」
「う。したいっちゃそりゃものすごくしたいけど、一応周りにも人いるし」
「私は。あんまり気にしないよ。当麻君こそ見られたら困る女の人がいるの?」
「何言ってるんだよ。そんなのいないって。……ほんとにお邪魔しても?」
「いいよ。でも。気持ち良いものかどうかは知らない」
「秋沙の膝枕だから大丈夫だ」
「もう」
上条はおずおずと姫神のスカートへと向かってダイブした。
学校の方針もあってここの女子生徒のスカートはそこそこ長い。
なるべく膝よりのほうに頭を持っていって、そっと置いてみた。
「あったかい。あと秋沙の匂いがする」
「もう。恥ずかしいから言わないで欲しい」
上を見上げると、秋晴れの空と照れた表情の姫神の顔が映る。
そこに姫神の手がかざされた。
「気持ちいい。かな?」
「ん。授業サボって寝ても良いくらいには気持ち良い」
「そういうのはよくないよ」
そう言いながら、姫神は撫でるのをやめなかった。
358:
「当麻君。放課後。どうする?」
「あー……。知ってるだろ? さっき小萌先生に呼び出されたの」
「あ。そうだったね」
「秋沙は補習ないだろ?」
「うん。別に私は。座学の点は悪くないからね」
「俺だって真面目に授業に出さえすれば大丈夫なんだって」
「……学業がおろそかになるくらい。あちこちに首を突っ込むのは良くないよ」
「いやいや、上条さんは決して首を突っ込んでるわけじゃなくってですね、
 トラブルのほうからこっちにやってくるのですよ」
「なんでもいいけど。怪我をしたら。いやだよ」
「……ん。なるべく、秋沙に心配かけないようにするよ」
ふう、と姫神がため息をついた。
「あの子も毎度毎度心配してるんだろうね」
「毎回噛み付かれてるよ」
「え?」
「あいつ怒ると噛みつく癖があるんだよ。頭のてっぺんとかでもお構い無しに」
「ほっぺたとか。唇は?」
上条の髪を梳く手を止めて、拗ねた顔でそんなことを聞いてきた。
あやすような意味を込めて、撫でてくれる腕に軽く触れる。
「唇とか、そういうのはないって。ほっぺたは……」
「あるの?」
「……事故で、一度だけ」
「これからは。事故でも起こしたら許せないかも」
「うん、まあ。気をつける」
そこで不意に、姫神が撫でるのを辞めて腕を取った。
持ち上げて、軽く袖をまくる。
上条が疑問を込めた視線を投げかけると、手首をぐっと握られた。
「手首。やっぱり太いね」
「そりゃ、秋沙よりはな」
「噛みついてもいい?」
「はい?」
姫神は最後まで諒解を取り付けなかった。
そっと口を開いて手首の辺りの骨がゴツゴツしたところに軽く歯を立てる。
せいぜいがハンバーグを頬張る時の開き具合程度だったから、インデックスみたいにがぶりとはいかない。
そのまま数秒間。姫神の歯の硬い感触と、僅かに感じるぬるりとした感触と、熱い吐息がゾクゾクする。
「秋沙?」
その言葉でハッとしたかのように、噛み付きが止んだ。
359:
姫神が顔を赤らめ、そっぽを向いていた。勿論膝枕の状態から見上げているのでそれでも表情は丸見えだ。
照れているようで、すこし拗ねているような、そんな表情だった。
「えっと」
「……あの子がしたのなら。私もする」
「え?」
「なんでもない。ちょっと焼きもちを焼いただけ。嫌だった?」
「嫌、って事はないさ。むしろドキドキした」
「私もすごくドキドキした」
甘噛みは、恋人同士なら意味合いがずいぶんと変わってくる。
インデックスとのやり取りでは感じないような緊張感が、そこにはあった。
姫神も、それを感じていたのだろう。
「当麻君のを咥えるには。結構口が大きくないと駄目かも」
ぽつりと、そんな表裏ない感想がこぼれた。
「う、あ、はは。そうか。」
「……?」
「な、なんでもないって」
「……!?」
自分の言った言葉の迂遠な意味に気づいたらしい。
ぽん、と顔が赤くはじけた。
「私べつに変な意味じゃ」
「だ、大丈夫! 分かってる!」
「当麻君のえっち」
「否定は出来ないけどさ」
「お付き合いしてすぐなのに」
「ごめん。……あれ、付き合いが長ければ、ありって事?」
「もう! 知らない」
つかんでいた上条の腕を少し乱暴に姫神は突き返した。
軽く拗ねた感じの姫神に声をかけるのが少しためらわれて、ケータイを取り出して時刻を見た。
「もう、いい時間だな」
「えっ? 嘘」
「嘘じゃないって。ほら」
「あ……。嫌だな。楽しい時間って。あっという間だね」
「だな。放課後、一緒に帰ろうと思ったらかなり待たせることになると思う」
「それは良いんだけど。でも。お付き合いしてる彼氏が出来たからって友達付き合いが悪くなるのはちょっと」
「じゃあ、秋沙は友達と帰るか?」
「うん。ごめんね当麻君。それでいいかな?」
「むしろ補習を受けるはめになった俺が悪いんだしさ。さて、それじゃ戻りますか」
校舎の中までと屋上へいたる階段の短い間だけ、二人は手を繋いだ。
363:
放課後。小萌先生にこってり絞られて、ようやく開放された。
完全下校時刻という制度がこの時だけは有難い。
「にしても、どんだけ頑張ったって上条さんに超能力なんて使えるはずがないのですよっと」
得体の知れない右手のせいだというのは分かりきっていることだ。
頑張りすぎて軽い頭痛のする脳みそを揺らしながら、上条は階段を下りた。
姫神は先に帰ったので、帰りは一人。
小萌先生が今日はいつもに増して頑張ったのは、姫神と無関係ではないだろう。
ちょっと気味が悪いくらいにこやかに授業中に微笑みかけられた。
「当分は先生からも言われるのか。……あれ、なんだあのでかい車」
階段を折りきって公道に出たところ。そこに黒塗りのリムジンが止まっていた。
常盤台クラスのお嬢様学校なら、似つかわしいかもしれない。
どこにでもある弱小高校には、明らかに不似合いだった。
係わり合いにならないで済むよう、なるべく車から離れて歩く。
無意識に車がバックするときのランプが光ったりしないか気をつけながら歩ける辺りが不幸慣れの証だった。
「奇遇だな、上条」
不幸は常に予想外のところから飛んでくる。
今回は後部座席の、少し開いた窓の隙間からだった。
「奇遇なんですか? 先輩」
「まあ実を言うとお前を待ってたんだけど」
「……そうですか、それじゃあまた」
「連れないな。家まで送ってやるぞ?」
「いやいいです。自分で帰れますから」
「こないだ連れまわしたのをまだ根に持ってるのか? まあ随分笑わせてもらったけど」
「え?」
こないだ?
その言葉に上条はドキリとした。夏休みに入ってからは、そんな覚えはない。
「なんだ、忘れたのか? 私の胸を鷲づかみにしておきながらその態度というのは許しがたいけど」
「い、いやべつに……」
雲川のは上条の手のサイズで鷲づかみに出来るか怪しいくらいの大きさだ。
そんなことを、上条はやらかしたのだろうか。
「責任を感じているのなら乗れ。今日もパーティのエスコート役を調達し忘れた。
 ……断るなら、あの転校生にこないだの話を丁寧に説明してやるけど?」
「そ、それは困ります! 分かりましたよ! 付き合えばいいんでしょう?!」
「なんだ、姫神を捨てて私と付き合う気なのか? それならもう少し男振りを上げて欲しいんだけど」
「そういう意味じゃないです!」
どんな話を姫神に吹き込まれるのか、分かったものではない。この人は嘘も平気で言う人だ。
泣く泣く上条は、リムジンに近づいた。
370:
運転手をしていた壮年の男性が降りてきて、扉を開いた。
軽くお礼を言って乗り込もうとしたところで、中の雲川の服装にようやく目が行った。
「……かなり本気の服装じゃないですか」
「そうだけど? 面倒だがパーティだから仕方ない」
「俺、制服ですよ?」
「大丈夫だ、問題ないけど。お前のサイズに合わせたタキシードをきちんと用意してある」
良いから乗れといわんばかりに、手を雲川に引かれた。
「せ、先輩危ないです……って! ちょ、うわわわわっ!!」
「……こんなベタな誘いでもお前は引っかかるんだな」
とにかく、柔らかい。
三人が悠々と座れる広い後部座席シート。その真ん中に座った雲川の胸元へと上条はダイブした。
明らかに雲川はそれを誘い、そして冗談みたいに非常事態が発生した。
「なんか、謝って損した気分です。つーかこのままついていっても不幸にしかならないような」
「食事代は全額負担だし、お前は大型のペットを買っていると風の噂に聞いたからな。ちゃんと土産もつけてやろう」
「……ちょっとラッキーって思った自分が情けない」
「ラッキー以外の何者だというんだ。お前は私の胸に今日も顔をうずめた訳だけど?」
「先輩。あんまりそういうこと、やらないほうが良いですよ」
「相手も時と場合も選んでいるけど。実を言うと、私はお前以外の男に胸を触れさせたことなどないよ」
「え?」
思わせぶりな意図を感じて上条は言葉に詰まる。
「お前ほど面白い人間は、今のところ片手で数えられる程度しか知らないからな。
 遊びの対価にこの程度は悪くないと思うけど」
ぐっと、雲川が胸を押し上げるように腕を組んだ。
胸元の大きく開いたベージュのドレスは、抜群のスタイルをもつ雲川が着ると破滅的なまでに男の視線を釘付けにする。
上条もその魔翌力に抗うことは出来なかった。
「ふふ。彼女に今のお前は見せられんな」
「う」
「捨てられんように一途でいることだな」
「ええ、まあ。忠告ありがとうございます」
「さてそれじゃあ、ここにタキシードがあるんだけど」
「はあ」
「着替えろ」
「……まさかここで、ですか?」
「お前はそんなみっともない姿で私を会場にエスコートする気なのか?」
「いやでも」
「広さは充分だろう。お前の家より広いんじゃないか? それに、私はお前の下着姿が晒されても特に気にしないけど」
「俺が恥ずかしいんですよ! それと車内よりはいくらなんでもうちのほうが広いです!」
「ほう、恥ずかしがるのか? それなら、見てやってもいいかと思えてきたんだけど」
「ああもう、先輩アンタぜったい面白がってるだろ!」
「だからそう言っているだろう。ほら、私に恥をかかすな。さっさと着替えろ」
雲川はこれっぽっちも容赦がなかった。
378:
そろそろと、制服を脱ぐ。隣のニヤニヤとした視線が絡みつくのが分かった。
制服の下には肌着代わりのTシャツを着込んでいる。
さすがにそれを脱ぐのは躊躇われるのだが、脱がずに許してはもらえなさそうだ。
腹からシャツをめくり上げて、少し強引に頭から引き抜いた。
「……ふむ。悪くないな」
「趣味が悪いですよ。性格もですけど」
「そんなことを言われると、もっと嬲りたくなるけど?」
「くそ、最悪だ」
「バッグの中のカメラを取り出しても良いんだぞ?」
「ちょ、それは洒落にならねぇって!」
口喧嘩でとても勝てる相手ではない。上条はさっさとシャツに袖を通した。
スーツの下に着るフォーマルなシャツを肌の上から直接着るのには少し抵抗があった。
そして次は。
「……」
「お願いですから視線を外してはいただけませんか、位は言えないのか?」
「言ったらどうするんですか?」
「さあ。言い方によっては聞いてやってもいいと思ってるけど」
「ちなみに、俺が普通の言い方でお願いしたら?」
「肌理(きめ)を矯(た)めつ眇(すが)めつ出来る距離で堪能してやる」
「ああもう、勝手にしろこのバカ先輩」
上条は自棄になって、ベルトをカチャカチャと外してズボンをずり下げた。
「ひっ。か、上条。私はそんな覚悟、できてない、けど」
「なんで被害者みたいな声上げるんですか!」
「お前はどう思っているか知らないが、私は……処女なんだ。そんな乱暴なのは、いやだ、けど」
恥をかいてるのはコッチだチクショウと呟きながら、上条は必死にタキシードの下を身に着ける。
379:
「ふう。とりあえず難関は乗り切った」
「つまらんな」
「先輩を楽しませるためにやってるんじゃないです」
「じゃあどうして、パーティに付き合ってくれたんだ」
「脅したじゃないですか」
「そうだったかな?」
「そうでしたよ!」
言いたいことを山ほど抱えながら、袖口を留めようとする。
だが、ボタンとは別に立体的な留め金みたいなのがついていて、何がなんだかよくわからない。
「カフスも知らんのか?」
「え、いや、そういえばメイド学校の子が」
「こうやってつけるんだ」
クスリと笑って、雲川が上条の手首に触れた。
「腕をこのままに」
「あ、はい」
袖にあいたボタン孔をあわせて、カフスを通す。
雲川の、少しかがんで谷間のよく見える胸元にドキリとした。
上手く出来たのか、人を食ったような笑みの中に満足げな色を浮かべて、雲川が離れた。
「うん。お前にはあんまり華美なのは似合わないと思ったからな。我ながら、いいチョイスだった」
「まあ分かってますけど。カッコつけても仕方ないことくらい」
「何を言う。お前は優男じゃない、というだけだよ。お洒落は誰にだって必要だ。
 何人の客が、お前のカフスと私のピアスの意匠が同じことに気づくかな?」
「えっ?」
よく見ると、髪に隠れたイヤリングがあった。イヤリングは宝石を加えているから別物に見えたが、
上条のカフスと確かに類似性があった。
「これ、絶対誰も気づかないんじゃ」
「そうかもな。それでいいけど」
「はあ」
「深遠な意味は、深遠なままだからいいんだ。ほら、さっさと着替えろ。もうじき着くぞ」
ニヤリと笑った雲川が、蝶ネクタイに手を伸ばした。
じっとしていろ、と告げて上条の首筋に腕を回した。
380:
「あっ!」
雲川が突然、声を上げた。
シートに普通に座った上条と違い、少し体を浮かしていたせいでカーブの遠心力に振り回されたようだった。
ぽふりと、上条の胸元に雲川が覆いかぶさった。
柔らかい。とにかく柔らかい。
「ちょ、あの」
「ふ、ふふふふふふ。あはは」
「先輩?」
「本当に、お前といると退屈しないよ。今のはどこが不幸なんだ?」
上条の胸板で双球を潰しながら上目遣いで雲川が覗き込んでくる。
雲川は重たくなどないが、なぜか息が出来なかった。
「あの、先輩。この姿勢は……」
「うん? エスコート役なのだからこれくらいは役得だけど?」
「い、いいから早くネクタイつけてください」
「ふふ。わかったよ」
くすくすと笑う雲川の息が耳にくすぐったい。
思ったより器用に他人の蝶ネクタイをしめて、雲川がそっと体を離した。
「あとはそのベストとジャケットを着れば終わりだな。ふう、楽しかった」
その言葉に悪態の一つでもついてやろうと思ったのに、なぜか言い返せなかった。
リムジンがスピードを落とし、大きな建物の前のロータリーへと入っていった。
388:
居心地が、とにかく悪い。
ホールの片隅でそっと奏でられるカルテットの弦楽と、さざめくような談笑。
パーティというものを楽しむ人たちの高尚さが庶民の上条には辛かった。
「……で、どうすりゃいいんですか」
上条の腕には、軽く雲川の手が絡められている。エスコート役の典型的な所作だった。
何をしていいか分からない上条にしてみればひたすら憂鬱だった。
あと何時間やるんだコレ。
「なに、お前が人脈を持っていて私の元に誰かを紹介してくれる、なんてのは期待していないからな。
 お前は飾りだから、ちょっと挨拶を済ませたらあとは料理でも貪っていろ。
 私にも泥を塗られるほどの顔の広さはないものでね、いくら無作法をしても構わないけど」
「……言われるまでもなく腹だけは満たして帰る気でしたけど」
「そうするといい。ああ、お前が持ち前の女運と不運で面白い展開を引っ張ってきてくれるのを、実は期待している」
「俺はお断りです。目立たないように壁際で食ってますよ」
「ふふ。まあ、とりあえずはついてきてもらうけど。ほら、あちらへ私をエスコートしろ」
「先輩が俺をエスコートしたほうが早いじゃないですか」
「私が男性にエスコートされたいと思ってはいけないのか?
 それと……ねえ当麻。先輩なんて名前の呼び方は寂しいのだけど?」
耳元で、雲川の声が急に甘えた響きを伴った。
その拍子に胸が僅かに押し付けられ、いい匂いがした。
「な、なんですかいきなり」
「こんな場所に学校の後輩を連れてきたって思われるのは嫌なのだけど。
 先輩って呼び名をやめて、芹亜と呼んでほしい」
それは、ちょっとマズい提案だった。姫神以外を名前で呼ぶのは、姫神との約束に反する。
……外人さんの知り合いは下の名前で呼んでいるのだが。
「雲川さん、とかじゃ駄目ですか」
「つまらない」
「問題がないみたいですしじゃあ雲川さんで」
「つまらない、と言った」
「いいじゃないですか雲川さん」
「なんで頑ななんだ」
「姫神以外の女の人を、下の名前で呼ぶのってよくないと思うんですよ」
「そうか」
あっさりと、雲川が引き下がった。
「恋人ごっこを満喫するのが駄目だというなら、姫神からお前を寝取るほうの遊びをやるだけだけど」
なんて、言葉を口にした。冗談めいた態度と口調が、本当に冗談であることを上条は願った。
394:
「まったく。不愉快だわ」
エスコート役の同僚がパーティが始まって早々、どこかに姿をくらましたためだった。
理事の息子だかなんだかの化けの皮をかぶった同僚がいないと、声をかけてくる男が増えて鬱陶しい。
あの優男の顔を見るのも愉快ではないが、下心丸出しの顔を向けてくる豚よりはマシだ。
結標はため息をついて、手にしたグラスの炭酸水をあおった。
「すみませんね、知り合いの顔が見えたもので」
不意に隣から、二十代の後半くらいと思わしき男性に声をかけられた。
「ああ、驚かないで下さい。海原です、というと本名ではないのでおかしな気分ですが」
「便利な能力ね」
「ええ。開始早々に酔っ払ってしまった客がいて助かりましたよ。おかげで素早く顔を『貸して』もらえました」
「それで仕事に支障はないの?」
「……素性の調べが足りない人間に化けていますからね、不測の事態はありえます」
「使えないわね」
「返す言葉もありません。ですがこの仕事は座標移動の貴女がメイン。私は助手ですから」
海原光貴としてであれば、数人いる護衛対象の一人、雲川芹亜と楽に接触できたのだが。
隣に『彼』がいる状況ではそれは難しかった。
ついでに言えば何故隣に御坂美琴以外の女性がいるのかと一言くらい言ってやりたいのだが、それも適わない。
「にしても、統括理事会の一員のブレインともあろう人が、まさか『幻想殺し』をつれまわすなんてね。
 魔除けの護符代わりなのか、それとも政治的な意図のあるカードなのか。彼も随分と苦労をする」
「あのツンツン頭は有名人なの?」
「一部の業界では。ご存知ありませんでしたか?」
「ええ。特に興味にある男じゃないし」
「そうでしょうね」
「……随分と含みのあるに聞こえるのだけど?」
「売り言葉に買い言葉はやめておきますよ。
 さて、顔くらいは覚えてもらわないと動きにくいので、ちょっと護衛対象を口説いてきます」
「似合っているわ。その顔の軽薄さに」
「僕もそう思います」
『魅力たっぷり』なんて感じに作ったスマイルを結標に向けてから、海原と名乗る同僚は歩き出した。
395:
「はー、やっと終わった。腹いっぱいメシ食わないと割に合わないな」
なぜか雲川に擦り寄ってくるお偉いさん達が多くて困った。
そりゃあ先輩は綺麗だけど、声かけてくるのが40代以上って。ぶっちゃけ先輩も困ってたんだろうな。
……もしかして、あの人ああ見えてものすごい年上好みなのか?
そんなことを内心で思いながら、スモークサーモンやら鶏肉の煮込み料理など、
値段が高いか手間隙が掛かっているか、そういう感じのする料理を皿に盛っていく。
ジュースを配るウエイトレスからオレンジジュースを貰って、辺りを見渡す。
「あの辺でいいか。人少ないし」
料理から程近い位置。ぽつんと同年代くらいの女の人が立っているのは気になるが、こちらも一人身だ。
目線が一瞬絡んで、上条は少し違和感を感じた。
敵意というほどでもないが、どことなく視線に自分を値踏みするような意図を感じたのだ。
ドン、と背中に衝撃。
話が盛り上がっていたグループの一人が、ぶつかったらしかった。
「あっ、すまない!」
「へっ?」
両手がふさがった上条は、なすすべなく前のめりに倒れていった。
結標は冷静に、対象物の位置を測る。
品のない乗せ方で料理が山盛りになった皿と、幸いにグラスから飛び散ってはいないジュース、
そしてこちらに向かって倒れてくる例のツンツン頭。
結標に接触してこようとするきっかけは偶然のようにしか見えなかったが、もちろんそうとは限らない。
それに、不可抗力であっても自分に触れようとする男を避けない手などない。まあ自分ではなく、相手が避けるのだが。
軽いものから順に。皿とジュースは丁寧に位置と角度を気遣って離れたテーブルにそっと置いた。
誰だか知らないけど。貴方が突っ込むのは私じゃなくて、隣の壁で充分よ。
1メートルほど、結標はその男を横に『座標移動』させようとして――――
むにゅりと、柔らかい感触がした。
肌の露出の少ないドレスだから分からなかったのだが、どうも、この感触はブラを隔てていないような。
サラシでも巻いているのか、なんというかやけにダイレクトな感じのする手触りだった。
「ひっ」
「ごごごごめんげほぶ!」
目の前の気の強そうな女の子は、顔を真っ赤に染めて、驚いたような傷ついたような顔をした。
……かと思いきや、一瞬で獰猛な睨み顔になって、懐にあった懐中電灯みたいな棒で上条の腹を思いっきり殴り飛ばした。
405:
「おいおい。人の連れにそういう露骨な手出しをしないでほしいなあ。
 というか君にも美人の連れがいるじゃないか。
 この子は見かけどおりの気の強さだからね、殺されても知らないよ?」
20代くらいの軽薄そうな男が、その女の子の傍に寄り添って肩に手をかけた。
忌々しそうにその手を振り払う仕草は、とても仲良さげには見えない。
「ほんとすみません」
上条は自分に非があるので謝った。殴られてから謝るとちょっとやるせなかった。
そしてよく見ると、目の前の少女にはなんとなく会ったことのあるような気がした。
「何かしら?」
「あ、いやなんでも」
「……」
「その、どっかで会ったことがあったような?」
「ないわね」
睨まれる。だから自分でもためらったのだが、ナンパの前口上としても陳腐すぎた。
「あ、そうだ! たしか御坂妹に呼び出されて白井を助けに行ったときの!
 なんかボッコボコにされて屋上に引っかかってたから救急車呼んだんだっけ」
「なっ!」
その一言で、結標はようやく知った。
あの時、座標移動で白井を押し潰すはずだった大質量がなぜ誰も殺さなかったか。
そして今、なぜ目の前の男が自分の能力に従わず、突っ込んできたのか。
「……そう、私も貴方と無関係ではなかったということね」
「みたいだな。ま、元気そうで良かった」
「おかげでパーティに出られるくらいにはね」
ふと見ると、隣の男が困った顔をしていた。
傍には雲川が立っていた。
「また、別の女性に声をかけているの?」
「人聞きの悪い」
「貴方には私というものがあるはずなんだけど」
「はあ」
むすっとした表情を露骨に作った雲川がそんな風に愚痴を言った。
この会場で賓客たちと柔らかい口調と表情で談笑する雲川は別人といってよかった。
今も物憂げな顔立ちと危険すぎる肢体に幼い感じのする嫉妬を載せて、いつもとは違う破壊力を秘めていた。
「おっと。もしかしてこの女性とはかなり親しいのかな?」
「ええ。ですから軽薄な声をかけるのは辞めていただきたいのですけど」
406:
にこやかに雲川がその軟派な青年にノーを突きつける。
これは失礼と言って青年が上条を見た。その視線に、なぜだがやけに強い隔意を感じる。
「実は君の事は少し知っていてね」
「はあ」
「君は、常盤台の女の子と付き合ったりしては、いなかったかな?」
「常盤台の? 勘違いされるとしたら御坂か白井か……」
「勘違いということは、付き合ってはいない、と?」
「え、ええまあ」
「ふうん。そうか」
ふんふんと頷く。コイツもしかして御坂か白井に気があるのか?
20代もそこそこの、この人が? それって。
「ロリコンね」
「おおい。随分な言い様じゃないか結標君」
「そんな見た目で中学生と付き合いたいって言うのを、ロリコンと言って何が悪いのよ」
結標という少女は冷たい目で青年を見下した。
上条はロリコンという意見に完全に同意する気分だった。
中学生くらいの女の子を自分も匿っていることは完全に棚に上げていた。
「それで、当麻。あなたはこちらの女性に気があるの?」
「は? いや、単にこれは事故で」
「事故で何をしたの?」
「……つい、胸元に飛び込んでしまいまして」
「ふうん。恋人を、そんなに泣かせたいの?」
「そんなつもりじゃ」
「貴女も、事故だという認識で間違いない?」
「ええ」
「彼に気はないのね?」
「ええ。人の恋人をけなして悪いけれど、私は彼に興味はないわ」
「そう。それじゃあ、もっと気をつけて彼に首輪をつけておくわ」
「え、あの」
こちらに興味を失ったらしい結標と、にこやかに手を振る青年を置いて、
上条は雲川に腕をつかまれて会場の別の隅へと引っ張られていった。
「ふふ。一体この会場の何人が、お前と私の仲を疑うだろうな?」
「やめてくださいよ。その、姫神に悪いですから」
「なら私の面子を潰してでもここで振りほどくといい」
「本当にやりますよ?」
「……いやだ」
「え?」
「私はお前と腕を組みたいんだけど。嫌か?」
「い、嫌って訳じゃ」
そうやって雲川にはぐらかされてる隙に次から次へと雲川に声をかける客が現れて、
パーティの間中ずっと、上条は言い寄ってくる男避けの弾幕としていいようにこき使われた。
409:
「ふう、ルーティンワークはこれで終了だな。
 あとは面倒だから壁際でお前と睦みあっているつもりなんだけど」
「なんかもう、それでいいです」
業務用スマイルを貼り付けて雲川に付き合うこと一時間。
詳しいことは聞けなかったが、雲川が学園都市のお偉いさん方と面識があるらしいことはよく分かった。
性質の悪いことに、偉い人たちは学生である上条と雲川に何のためらいもなくアルコールを勧めてくる。
勿論酒を楽しむというほどのきついのではなく、ジュースみたいなカクテルばかりだったが、
助けになってほしい雲川自身が面白がって上条に勧めてきたせいですでにどこか足元が覚束なかった。
「ずいぶんと弱っているな」
「俺もよくわかってなかったですけど、酒には弱いみたいです」
「外から見ても分からんけど」
「正直言って、気をつけないとふらついて酔ってるのがばれそうで困ります」
「別に他人にばれてもこの場じゃ困らんけど」
「なんか恥ずかしいじゃないですか。未成年なのに酒を飲んでフラフラしてるって」
「そうだな」
「他人事ですね」
「そのとおりだと突き放すことも出来るけど。でも、連れてきた責任は確かにあるな。
 ……それじゃあ、休憩するか」
雲川が給仕をしていた女性を呼び止める。
二、三言話すと、給仕係が頷いてインカムでどこかに連絡を取った。
「休憩って」
「長いパーティだからな。人ごみが嫌いで寛げない人のための休憩用個室があるんだよ。
 水を飲んで酔いを醒ますくらいの時間を休憩に当てるのもいいじゃないか。私も疲れた」
渋いスーツに身を包んだ年配の男性がこちらに来た。部屋を案内してくれるらしい。
その男性と雲川に先導されて、隅の視線を集めにくいところから上条はホールを出た。
410:
「はあ、疲れた」
「そういう愚痴は私とも別れてからにしろ」
「すみません。正直な感想が出ました」
「……上条。やけに私の扱いがぞんざいになってきたな」
「それを先輩が言いますか」
首が苦しくて蝶ネクタイを外そうとして、自分でつけ直せないからためらう。
すると後ろからそっと、雲川が外してくれた。
仕事を終えた手が、上条の背中を撫でた。
「悪かったな。でも、お前を不愉快にさせたいわけじゃない、けど。
 私は愛情表現が、たぶん素直じゃないんだ」
顔の見えないところでそんな風に吐露された雲川の言葉が、やけに素直でドキリとした。
どうしていいかわからなくて、傍にあった小さな冷蔵庫の中身を取り出して、封を開けた。
「何も答えてくれないんだな」
「先輩。酔ってますか?」
「ああ。酔っている。そういうことに、しておこう」
上条は三分の一ほど飲んだミネラルウォータの瓶を雲川に渡した。
栓抜きで口を開けたそれは、多分隣の棚にある洒落たグラスで飲むものなんだろう。
行儀の悪い自分と雲川は、気にせず瓶に直接口をつけた。
瀟洒なドレスに身を包み、いつもよりずっと綺麗に髪を梳き纏めた雲川が、
そんなことを微塵も気にしない動作で水をラッパ飲みする。
その少しの品のなさが、やけに艶っぽかった。
「いいソファですね」
「別にそうでもないと思うけど」
黒い革で出来たシックなソファは、見かけより柔らかい座り心地だ。
二人してどかりとそこに腰掛け、安息のため息をついた。
「酔うと眠くなるんですかね?」
「さあ。私だって飲み慣れてはいないけど。でも、そうかもしれないな。
 眠いのか? か……当麻」
「今上条って呼ぼうとしたでしょう。二人っきりなんだからそれでいいじゃないですか」
「二人っきりだから、それではつまらないと思うんだけど」
「あーはいそうですね」
「真面目に取り合え、当麻」
「芹亜」
回らない頭で、仕返しのつもりでそう呼んでやった。
はっと雲川が息を呑んだ音で、自分のしたことに気づいた。
自分は誰を、いや誰以外を、下の名前で呼んだ?
411:
「……酔ってるんだな。上条」
「そうみたいです。すみません、雲川先輩」
「ここのソファは背を倒せるんだ。何なら本当に一眠りしようか」
僅かにギシリと音を立てて、ソファの背もたれがフラットになった。
横長だったソファは、簡易的なベッドになった。
『ご休憩』のための個室のソファにこんな機能がある理由が、気になった。
「お前の想像通りだよ。パーティなんだからそういうことだってある」
「それを知ってるって、先輩は」
「勘違いをしているけど。私は、処女だよ。ついでに言えばファーストキスだってまだなんだからな」
雲川と二人でそこに倒れこむのが躊躇われたが、靴を脱いで上がれと促された。
酒に弱いのはかなり確実みたいで、上条はひたすら眠気を覚えていた。
満腹感との相乗効果もあったのかもしれない。
簡易ベッドになったそこに倒れこみ、天井の弱めのライトを見つめていると、そっとブランケットが掛けられた。
「風邪を引くぞ」
「あ……すみません」
そして上条の隣に、髪留めを解いた雲川が寝そべった。
胸元の丘陵は仰向けになってなお、その豊かさを強調する。
場違いな感じもする携帯を雲川がカチカチと弄んだ。
「保険で一時間後に目覚ましはかけておいた。まあ、眠らなくともしばらくはこうしていよう」
「いいんですか」
「それはきっと、お前が自分の胸に問いかけるべき言葉だと思うけど」
その言葉に、上条は反論しなかった。
もう随分と意識がうつらうつらとしていたからだった。
「当麻」
「ん……」
「完全に眠ってはいない、というところか。ふふ。こんなタイミングでしか言えないけど。
 私は、お前のことが好きだよ」
もぞもぞと上条と同じブランケットに雲川がもぐりこむ音がして、そこで意識が途絶えた。
421:
「ん……」
唇に柔らかいものを押し当てられた感触で僅かに意識が覚醒した。
五感が損なわれているわけではないのだが、不安定な電灯のように意識が瞬くせいで、
状況がどうにもきちんと把握できない。
おかしいな、と上条は感じてはいた。寝覚めのそう悪いほうでもない。
ああ、これって酒のせいなのか? と自問するもなにぶん経験の浅いことで分からない。
酩酊感というやつなのか、この途切れ途切れでぼんやりとした現実感は、
能力開発のための薬を飲んだときのそれに少し似ていた。
規定の投薬量の数倍でも飲めばこんな感じになるだろうか。
熱っぽい息が鼻をくすぐる。視界の隅でチラチラと明かりが瞬く。
それでようやく、自分に誰かが覆いかぶさっているのが分かった。
ねぶるように、唇の上で柔らかい肉が踊る。
それがキスであることを察してようやく、上条の心は驚きを覚え始めた。
「……んぁ、秋沙?」
それは、最も自然な口付けの相手への呼びかけだった。
あれこれ何度目のキスだっけ、なんてファーストキスもまだのはずなのに。
ひぅ、と僅かに悲しいニュアンスを含んだ息遣いが気になったが、そこでまた意識が飛んだ。
さらさらと、長い髪が上条の頬をくすぐる。
ああ、秋沙の髪ってやっぱ長いな。
頭を撫でてやろうとして、そこまで手を伸ばすのが億劫になってそっと髪を手で梳いた。
そっと手が上条の頬に添えられた。普段の姫神より冷たくて、それが少し気になった。
「当麻君」
寂しそうな響きが、含まれているような気がした。
声もちょっと違う気がしたが、呼びかけが姫神しか使わない、姫神だけのイントネーションだった。
呼びかけてくれた想い人の心の隙間を生めてやりたくて、頭に手を伸ばして抱き寄せた。
「ん、ちゅ……」
再び、口付けが始まる。情熱的な交わりだった。
もしかすればかなり深いまどろみの中にいる上条の唇使いは緩慢だったかもしれないが、
精一杯、姫神に幸せを分けてあげられるようにと、心を尽くした。
「ん、ん、んん」
鼻に掛かった甘い声がこぼれる。
自分の体が熱くなってくるのが分かる。それでも覚醒しないのは、少しもどかしくもあった。
もっと体を触れ合わせたくなって、空いた手を伸ばした。
422:
雲川はほとんど酔ってなどいなかったし、別に眠たいわけでもなかった。
隣にいる上条を見ると、軽い寝息を立ててあどけない顔をしていた。
しばらくは、その寝顔を眺めて過ごした。
心のどこかに虚しいものを感じるから、してこなかったのだが。
そう考えれば、今の思考自体、酔いの産物なのかもしれない。
雲川は、上条の胸元にそっと顔を寄せた。
上条の匂い。すこし汗ばんだ匂いなのは、やはりこの場所に緊張したのだろう。
恋人の匂いだと思えば、それは嫌な気持ちにならなかった。
鼻から抜ける寝息が髪に掛かる。くすぐったい。
恋人の吐息だと思えば、それは嫌な気持ちにならなかった。
動かされた腕が、軽く胸に触れた。
恋人の愛撫だと思えば、それは嫌な気持ちにならなかった。
その夢想は、上条が起きるまでの門限つき。
上条は学園都市という巨大なチェスボードの上の駒で、自分はゲームのプレイヤーだ。
その線引きがしがらみになって、声をかけられなかった。
だからもう上条には彼女と呼べる人がいて、自分は数日遅れで、
取り戻せもしないのに上条を振り回している。
姫神から寝取る気もないのに、そんな素振りを見せて振り回している。
客観的に現状を見ようとする自分を無理矢理眠りにつかせて、ただ、この瞬間に心と体を浸す。
この瞬間を姫神に伝えれば、どうなるだろう。
卑怯な先輩に絡め取られただけの上条を、許すだろうか。
それともここまで着いて行ったことに、愛想を尽かすだろうか。
「……私は、お前のことが好きだよ」
だからこの、個室で寝顔を見られる一時間は大切で、そして空しい。
きっと姫神になら、何に頼らずともこんなあどけない寝顔を見せてしまうのだろうに。
アンビバレントな心を抱えながらも、雲川はこの時間を大切にしたいと想った。
428:
抱きしめたことはあっても、姫神の体を、特に胸をじっくりと触ったことなんてなかった。
……すげ、大きくて柔らかい。
それが偽りのない感想だった。
「あっ」
驚きの声が、可愛かった。先輩でもこんな声を出すんだな、と思わせるような……
あれ?
「秋沙?」
答えはなくて、代わりに唇の間に舌が差し込まれた。
肌のこすれる音だけだったキスに、ピチャピチャとした水気のある音が混じり始める。
この深いキスは接触面積が大きいものかと思いきや、意外とお互いの口腔内が広くて、
上手に舌を絡め合わせるのに苦労する。時々犬歯に当たって痛い。
……不意に理解する。ああ、だから相手の舌を吸えばいいのか。
螺旋を描くように相手の舌に自分の舌を絡め、自分の口の中へと引き込む。
そして息が漏れないように上手く口を封じて、きゅっと舌を吸い上げた。
「ん!? ん、ん、ん、ん!」
可愛い声が聞こえる。
声の持ち主のことは、もう上条は気にならなかった。
苦しいのか逃げる素振りを見せたので、背中を抱いて捕まえた。
それだけで腰が砕けて、相手の体重の全てが上条に預けられた。
少し苦しかったが、嫌な気はしなかった。胸板に押し当てられた相手の胸元が、びっくりするほど柔らかい。
両手をぎゅっと体に回して、撫ぜ回した。
「あっ、ふぁ……」
不規則な吐息が上条の耳をくすぐる。
時々声が漏れそうになっているのを必死に押さえているようで、つい、甲高い声を上げさせたくなる。
「あっ……それ、は」
豊かなヒップのラインを撫で上げる。そして同時に、スカートの裾を捲くっていく。
すぐに、お尻に触れている感触が、布一枚分ダイレクトになった。
見えないけど、恐らく下着が晒されているのだろう。
おかしな気分だった。かなり目が覚めて、意識が途切れることがなくなったはずなのに、
まだどこか夢を見ているような、ぼうっとした感じがする。
お尻を撫でる手を止めて、背中に手を差し込んだ。
僅かに汗ばんだ肌に、直接手が触れる。その感触が気持ちよかった。
「はぁ……あ、だ、だめだ、って……」
ブラのホックに触れたところで、抗うように身をよじり始めた。
それが嗜虐心をそそった。抱き寄せながら口付けて無理矢理繋ぎとめて、
上条は背中をまさぐった。
429:
女の子のブラを外してあげた経験なんてない。
だからどういう構造をしているか、ぼんやりとしか分からない。
「ん、あぅ、あっ!」
上条の腕を振り払おうとしているのか、やんわりとした力でつかまれる。
体をよじって上条の指先から逃げようとする。
それでも、上条の体の上から退こうとはせず、女らしい匂いをさせた体を上条の体に擦り付ける。
耳を噛んでやると、少し大人しくなった。
くちゅりと、ひときわ湿っぽい音が口元からこぼれた。
上条の口の中に絡まった二人分の唾液を、覆いかぶさった上から吸い上げて、飲み込んだ音だった。
求めてくれることが、嬉しい。
「秋沙」
自分でもちょっと驚きを覚えるくらい、優しい声が出た気がする。
姫神もびっくりしたのか、はっと息を呑んだらしかった。
「……どうかしたのか?」
どうしてか、姫神が口付けを辞めた。
いやいやと言うように、上条の鎖骨辺りにおでこをぶつけて、首を横に振った。
仕草が可愛くて、頭を撫でる。ばらけた髪を束ねるように集めた。
腰まであるはずの姫神の髪が、やけに短く感じられた。
「ちが、う」
「え?」
「芹亜。私の名前は、芹亜」
「芹亜?」
姫神の名前は、そんなんだっけか?
聞きなれない名前が、頭に引っかかった。
「今くらい。ちゃんと私を見てくれたって、いいじゃないか」
「え?」
思いをぶつけるように、口付けが再開された。
上条の理性を蹂躙しかねない熱情。
上条が何かを言うのをふさぐかのような勢いに戸惑いながら、働かない頭で寝ぼけた思考を必死に纏める。
芹亜という名は、たしか雲川先輩の下の名前のはずだ。
息を求めて唇が離れた瞬間に、じわりと這い寄る違和感に背中を押されて、誰何した。
「なあ、秋沙?」
「えっ?」
その呼びかけで、二人の間にあった何かに、亀裂が入る音がした。
430:
硬直の時間が、僅かにあった。
上条が戸惑っていると、しばらくして体が軽くなった。
秋沙と上条が呼びかけたその相手は、隣に崩れ落ちた。
ここでようやく、上条は自分が視覚をほとんど封じていたことに気がついた。
薄明かりでろくに確保できなかった視界を、目を開いて手に入れる。
肩が震えている。
黒髪が広がって、表情は分からなかった。
ドレスは、さっきまでの雲川が着ていたそのままだ。
太もものきわどいところまで露になっているし、胸元もブラのカップまで見えている。
急に、現実感が取り戻されていく。
「先輩?」
「……い、まだけでも。芹、亜で、よかったのに」
信じられない響きだった。
気だるげで偉そうな雲川芹亜という人の声が、泣き声になるとこんな風になるのか。
何かを考えるより先に、手が勝手に動いた。
こんな風に弱弱しくなった女の子を、上条は放っておけなかった。
だが、その手は強引に振り払われた。
「莫迦……」
「先輩、今、俺」
雲川が顔を上げた。目じりに浮かべた光が、上条を捉えた。
ぐいと再び、押し倒された。
先ほどまで絡めあっていたであろう、姫神ではない、雲川の唇。
三センチ先にそれを突きつけられて、上条は再び戸惑う。
雲川の匂いに混じって、かすかにあの薬の匂いがした気がした。
「卑怯なことをしても、幸せにはなれないんだな。上条」
「……先輩」
「芹亜って、呼んでほしい」
「……芹亜」
「うん。嬉しいよ、当麻。おやすみ」
再びくちゅりという音を立てて、キスをされた。
雲川の唾液が流れ込む。
それを嚥下するとすぐに、再び泥のような眠りが上条の意識を窒息させた。
437:
ピリリリ、という人の注意を喚起する音で、目が覚めた。
秋沙キスして、それに先輩ともキス……いや、姫神? それよりここ、そうだパーティで休憩してて。
訳の分からない思考に振り回される。体を起こすと、まだぼうっとしていた。
「ようやく目が覚めたのか」
「……芹、雲川先輩」
「なんだ、私の名前を呼んでくれるのか? 姫神にはもう飽きたのか」
「いえ、そんな……え?」
思わず、まじまじと雲川を眺めた。
ドレスには着乱れたところなんてないし、髪だって整っている。
自分の脳内で、ぼんやりしながらも強烈な印象を持っている出来事が、まるで目の前の雲川と合わない。
「まだ姫神に寝顔を見せたことはないだろう? 上条」
「はあ……そうですけど」
「なかなか可愛かったぞ」
「じろじろ見てたんですか」
「ああ。私はそんなに眠くはなかったからな。それにしてもよく寝ていたな。
 ところで、どんな夢を見ていたんだ? 一度抱きしめられかけて、身の危険を感じたんだけど?」
「へっ?」
「まあ、こんな場所に連れ込んだ私が無防備だという指摘があれば全くその通りだけど。
 お前はもっと狼じゃなくて羊だと信じていたんだがな」
「……」
「まだ寝ぼけているのか? キレが悪いけど」
「う。酒飲ませといて先輩がそれ言いますか」
「そうそう。さっさとそうやって回復してくれ。どうせすぐにホールに戻らないといけないんだ
 そろそろデザートが振舞われる時間帯だし、それが終われば閉会の挨拶だからな」
「へいへい。……水、ありますか」
「ああ」
雲川が水の入ったボトルに口をつけて一口あおり、それを上条に渡した。
「どうした? さっきお前は気にしなかったけど」
「いや、あの」
「上条。あまり意識しないでくれ。……脈があるのかと思うと、望みを捨てきれなくなるのが人間というものだけど」
「脈って。そういうきわどいことを言うの止めたほうがいいですよ」
「そうかな。それが、精一杯の私の気持ちだと思ってほしいのにな。今ここでした事だって」
その一言で心臓が止まりそうになった。
たぶん雲川が言っているのは、この部屋で二人して居眠りしたこと、それだけだ。
上条の脳裏にフラッシュバックしたひと時の夢のことでは、決してないだろう。
「思いは言葉にしないと、ちゃんと伝わらないものみたいですよ」
「さすがはあまり人懐っこいほうではない姫神を射止めた男だな。言う事に説得力がある」
「それ皮肉で言ってるでしょう」
「確認を取るほどのことじゃないけど」
身だしなみを整えて、二人で廊下へと続く扉をくぐった。
439:
会場に戻ると、もう宴もたけなわの空気だった。
宣言どおりに雲川はデザート類を食べ、そうこうしている間にお決まりの閉会の挨拶があった。
この会の意味も何を祝うのかも分かっていない上条は、周りが拍手するのにつられて拍手をして、
それでパーティは幕切れとなったらしかった。
「ふう、帰るか上条」
「ええ。疲れました」
「お前は食べていただけだけど」
「こんな場所に来るのが疲れるんですよ」
場所取りまで計算していたのか、雲川はほとんど一番乗りで会場を後にした。
エントランスで行きと同じリムジンがすぐに現れて、スムーズに上条たちは帰路に着いた。
「で、着替えるのか?」
「へ? そりゃそうでしょう。服は返さないと」
「返すも何も、それは経費で買ったお前の服だよ。着て帰っても構わないけど」
「正直言って持ってても着ないですよ」
「そうだな。私とまたデートするときは同じ服を着てもらうのは嫌だしな」
「デートって。……それで、俺の制服とかはどこですか」
雲川の立つ位置が、さっきより近い気がしてそればかりが気になった。
二人っきりの車内で、腕がはっきりと触れ合うくらい接近していて、
姫神しか入ってこないような、恋人の距離に雲川がいた。
「この袋の中身だな。ちゃんと洗っておいてやったけど」
「そりゃどうも。で、また着替えをジロジロ見るんですか?」
「つまらないぞ上条。もっと恥じらいを覚えろ」
一瞬、嗜虐的な笑みを浮かべた雲川が上条の首元に手を伸ばした。
蝶ネクタイが外される。今日は何度も雲川に着け外しをしてもらった。
「出来の悪い弟みたいだな」
「ほっといてください」
「それとも、甲斐甲斐しく夫の着替えを手伝う妻に見えるか?」
蝶ネクタイを外したその手が首筋、胸元にかけてぷつりぷつりとボタンを外していく。
良くないことだった。今日は一体何度、雲川にドキリとしただろう。
そんな気持ちは、姫神にしか抱いちゃいけないのに。
「雲川先輩、自分で出来ますから」
「うん、知ってるけど」
「こんなことしてくれなくていいです」
「私は、したいからしてるんだけど?」
「したい? どうしてですか」
「恋人のいるお前に、私はそれを言えないよ」
「え――」
それは、どういう意味だろう。
443:
曖昧な笑みを浮かべて、雲川はそれ以上を語らなかった。
そして上条のジャケットやベスト、シャツのボタンを外して上着を脱ぐのを手伝うと、
あとはそっと身を引いて上条の着替えを待った。面白がりもせず。
「あの、着替え終わりましたけど」
「そうか」
行きとは違う素っ気のなさに戸惑いながらも、上条はいつものTシャツの上から学ランを着た状態に戻った。
雲川が、脱いだ上条の服を畳み始めた。
「あ、俺やりますって」
「うん。手伝いくらいはさせてくれ」
「手伝いって。何も肌着から畳まなくても」
肌の上から直接着たカッターシャツ。雲川が畳んでいるのはそれだった。
緊張してかいた汗を吸っていて、一番他人が触りたくない服だろうと思う。
雲川が綺麗に畳んだそれを持ち上げて、匂いを嗅いだ。
「思い人が眠った布団の匂いをかぐヤツが主人公の小説が確かあったな」
「変態ですよそれ」
「少し汗っぽい匂いがするけど」
「解説しないで下さい! 汗吸ったシャツなんだから当然でしょうが!」
「当麻の、匂い」
「こんなタイミングで名前で呼ぶなバカ先輩」
「お前が要らないんなら持って帰ろうかな」
「先輩ホントにそれやったらドン引きですよ」
「代わりに私の下着をやろうか? 今ここで脱いで」
「い、いやそんなのいらないですから!」
「本当にか? いま、言葉に詰まったけど」
「そんなお誘いきたら誰だってどもるくらいするに決まってんだろ!」
おなかを押さえるようにしながら雲川がクスクスと笑う。
そっとシャツを横において、ズボンを畳み始めた。
それ以上をやらせるのは悪いので、上条は急いで他の服を畳む。
「今日は楽しかったよ、上条」
「そうですか」
「本当にだよ」
「……俺は疲れました」
「明日からはまた、こんな距離で話すことは出来ないんだな」
それは、そうだ。姫神はクラスメイトだから、きっと学校では雲川先輩とはこんなことにならない。
それを少し寂しく感じた自分を、自省した。
不意に、雲川が上条の首元に腕を回し、胸に顔をうずめた。
「寮に着くまで、こうさせてくれ」
懇願の響きを持ったそれを、上条はたぶんやんわり断るべきだったのに。
リムジンは静かに学園都市の道を走っていった。
445:
リムジンが寮から少し離れたところについてすぐ、上条は車内から追い出された。
着替えるためだと言ってはいたが、素っ気無く追い出されたことに少し寂しさを覚えていた。
「……インデックスにこれ食わせて、あとは宿題か」
通常授業の分に加えて補習まであるのだ。睡眠時間が不足するくらいは頑張らないといけないだろう。
憂鬱な気持ちを抱えながらエントランスを上条はくぐった。
「あ。当麻君……」
「秋沙?」
ラフな格好の姫神が、驚いた目で上条を見つめた。
郵便受けでもチェックしたのか、ゴミを捨てに降りたのか、そういう感じだった。
「今。帰ってきたの?」
「あ、ああ」
「……一応聞いておくけど。危ないことに首を突っ込んだとかじゃないよね?」
「ちがうって」
会えたことに嬉しそうな顔をしてすぐ、心配げに表情を変えて上条の傍に近づいた。
まるで上条を信用していないかのごとく、服が破れたり焦げたりしてないかを調べるように、
姫神は上条の周りを一周した。
「汚れてはないね」
「……だろ?」
後ろめたい。上条の内心はその言葉一色で染められている。
上条が荒事に首を突っ込んだんでないらしいことを理解した姫神が、ほっと顔を緩ませる。
それに釣られて、上条も僅かに微笑んだ。
だがよく見ると、姫神の笑みが、いつもよりくっきりとしていて、妙な感じがした。
「どうして。制服をクリーニングに出したの?」
「え?」
「当麻君は。よく腕をまくるから肘にしわがあるのに。さっき着なおしたばっかりみたいに綺麗だよ」
「……えっと」
「靴もちゃんときれいにしたんだね。自分で穿き潰した普通のスニーカーって言ってる靴なのに。すごく丁寧に擦り切れを直してある」
「……あの」
「当麻君」
怒りを笑みに隠したような表情が、くしゃっと崩れて悲しそうな色を帯びた。
「どうして。胸元にこんなに長い髪の毛がついてるの? クリーニングした服なのに」
黙っているほうが悪く取られかねないくらい、ひどい状況証拠がそろっていた。
何も悪いことをしたつもりはないはずなのに、夕方から今までの出来事を姫神に話すのが躊躇われた。
456:
姫神が、つまんだ髪を払い落とした。
「雲川って女の人?」
「え、な」
なんで、と聞こうとして、自分が語るに落ちたことに気づいた。
「やっぱり。……当麻君の。顔に書いてあるよ。当麻君は私のこと彼女だなんて思ってないのかもしれないけど。
 それでもすぐにわかったよ。あの人と遊んでたんだって」
遊ぶ、という言葉に揶揄が込められていた。上条に嫌味を言っているようで、自虐的でもある言葉だった。
「彼女と思ってないとか、そんなことないって」
「だったらどうして? 当麻君に好きって言ったときに。約束したよね?」
姫神秋沙以外の女の人とデートをしないこと。
自分は当然のことだと思って、その約束を契った。
雲川としたのは、デートではなかった。だから約束を反故にはしていない。
だが、後ろめたさのない、潔白な身かというと、やっぱり後ろめたかった。
つい数分前に胸元にすがり付いていた雲川の重みが、まだ腕の中に残っていた。
「ごめん」
「謝るっていうことは。私に言えないようなことをしたの?」
「そんなことはないって」
「じゃあどうして謝るの?」
「えっと、秋沙以外とはデートしないって約束した身でさ、夕方に女の人と会うのは良くない、からさ。
 一応言っとくけどデートではなかったんだけど」
「何をしたの?」
髪を弄りながら、上条と目を合わせずに姫神が詰問する。
気がつくと二人の距離が少し遠かった。
「パーティのエスコート役が必要だからって無理矢理連れて行かれて、知らない人だらけの会場で、
 挨拶して回ってる先輩の横でずっと立ってた」
「それだけ?」
「……基本的には」
「当麻君」
髪を弄ぶ癖は苛々とした気持ちの表れなのだろうか。
チラとこちらを見た目がちっとも笑っていなかった。
「隠し事してるの。わかるよ。私なんかには言う必要もないと思ってるのかもしれないけど」
「……ごめん」
「謝られても。どうしようもないよ。何をしたの?」
457:
「ちょっと酒を飲まされて。少し介抱してもらった」
「介抱って?」
「いや、その……。蝶ネクタイ外してもらったり」
「ふうん。お洒落な服を着てたんだね」
チクチクというかもうちょっと太い針で責められている感じだった。
「どうして黙るの?」
「どうして、って」
なんと返せばよかったんだろうか。
「私は当麻君の。何なのかな? お付き合いしてるって。そんな風に舞い上がってたのは私だけだったのかな」
「そんなことないって」
「じゃあ、どうしてあの人とこんなことしたの?」
「こんなこと、って。その、言い訳がましいかもしれないけどさ。別にデートしたわけじゃなくて」
「じゃあどうして。クリーニングまでした当麻君の制服にあの人の髪がついてるの?」
「……」
姫神にしては珍しいくらい、語気が強かった。
「ごめんね。当麻君」
「え?」
「一方的だって。分かってる。けど」
姫神が首を横に振った。そして、上条に背を向けた。
「今日は帰るね。あの子が部屋で待ってるんでしょ? 私より、あの子のところへ行ってあげればいいよ」
「ちょ、ちょっと待てって」
「触らないで」
帰ろうとする姫神を止めようとして肩に触れた手を、払いのけられた。
上条を拒否する意志の強さに、気おされた。
「今日、上条君はあの人を抱きしめたりしたんでしょ? その手で。触られるのは嫌」
上条に聞かせるようなため息が、姫神の口から漏れた。
「ごめんね。明日には。少しは頭も冷えてると思うから。当麻君も悪いって思うことがあるんだったら。今日の夜はちゃんと反省して」
「……わかった」
「放課後はあの人と遊んで。今からはあの子となんだね。……私って。何なのかな」
その問いの答えは明らかなはずだったのに、一瞬、答えるのを躊躇った。
469:
「とうま、遅い。おなかすいたんだよ」
お帰りと言うより先に、文句が飛んできた。
こういうときのインデックスは少し危険だ。早めに食事を用意しないともう一段階上の危険状態にシフトアップする。
まあ、文句より先に噛みついて来ることはなかったので、そこまで機嫌は悪くないのだろう。
「悪い悪い。今日は出来合いのを貰ってきてるから、それ食べよう」
「えっ? やった! でもなんでとうまがそんな高級そうな匂いの包みを持ってるの?」
買ったとは思わなかったらしい。その通りなので否定はしない。
だらーっと床に寝そべっていたインデックスが這い寄ってきて、綺麗な紙袋の中身をしきりに気にしている。。
「まあ、ちょっとあってさ」
「……とうま。服が綺麗になってる」
「え?」
「まさか、また変なことに巻き込まれて汚したから着替えたとかそういうことじゃないよね」
姫神と同じ反応だった。思わず苦笑しようとして、チクリと内心に痛みを覚えた。
「インデックスも一応女の子なんだな。そういうところに気づくあたり」
「一応ってなんなんだよ! それで、なんで服が綺麗なの?」
「学校の先輩に拉致られてパーティに連れて行かれたんだ」
「とうまだけずるい!」
「だぁっ歯を仕舞え口を閉じろ! だからこうやって食べ物を持って帰ってきただろ」
「でもそれ、残り物じゃないの? とうまはもっと良いもの食べたんじゃないの?」
「あっちじゃ大して食べてねーよ」
「ふーん。まあいいけど。とうま早く準備して」
「へいへい」
手を洗って、上条は詰め折を広げに台所へ向かった。
470:
「とうま」
「ん?」
「今日、どうかしたの?」
「あ? 急になんだよ」
「とうまがいろんなことに巻き込まれるのはいつものことだけど、なんだか今日は、落ち込んでるみたいに見えるよ」
「……」
図星だった。
温めた詰め折をテーブルに置く。
パーティでは食べられなかった分、上条も腹がすいてはいたのだが、食べる気にならなかった。
「秋沙に怒られてさ」
「あいさに? なんで?」
「まあ、いろいろあって」
「……ちゃんと謝ったの?」
「ああ。でも許してくれないかもしれない」
「そんなことないよ」
「え?」
「秋沙もとうまのこと、好きだから」
その一言に思わずインデックスの顔を見る。
自分と姫神の関係に気づいたわけじゃないだろう。
だがその裏表なく人を信じている笑みは、上条を勇気付けてくれた。
心のどこかでインデックスに後ろ溜めたさを覚えながら。
「ありがとな」
「わっ。……もうとうま。早く食べたいんだよ」
わしゃっとフードの上から髪を撫でると、インデックスは一瞬眩しそうな顔をしてすぐに上条から興味を失った。
インデックスは箸を取り上げてすぐさま目の前の洋風の料理に手をつけ始めた。
474:
上条当麻の朝は早い。
目覚まし時計を信頼できるような幸福に恵まれない上条にとって、自力で起きることは当然のことである。
手早く朝食を摂って身だしなみを整え、大したものの入っていない鞄を手にして扉を開ける。
今日の懸案事項は、どんな顔をして姫神に会うか、だった。
頭を下げることは出来る。真摯なつもりで言い募ることは出来る。
だが、拒否されたら? 取り付く島がなかったら?
……俺に出来ることはまあ、許してもらえるまで真剣に謝ること、くらいだよな。
朝の空気がかなり肌寒い。
気乗りしない足取りで、エントランスへと下りたところで。
「あ、秋沙……」
「おはよう。当麻君」
無表情に、そっと佇む姫神に出くわした。
「あ、その。おはよう」
「うん」
昨日別れ際に見せた激情が、これっぽっちも見えない。
だがそれが上条を許したということだと思えないのは、その無表情ゆえだろう。
「秋沙」
改めて呼びかけると、肩がビクリと震えた。
「昨日は、ごめんな」
返事はなかった。上条は怯まずに、一晩考えた事を言葉にした。
「先輩とはデートをしたわけじゃなかったけど、でも秋沙が嫌な気持ちになるのは、当然だと思う。
 逆に姫神が誰かとそういうことをしたら、俺も嫌な気持ちになると思うしさ。だから、ごめんな」
謝罪の意思が読み取れるよう、しっかりと頭を下げて、そう言った。
「……当麻君は。怒ってない?」
「え?」
許してあげる、または許してあげない、どちらかの答えを待ち構えていた上条には、意外な言葉だった。
「私も昨日。言いすぎたなって。心の狭い嫌な女の子だって思われちゃったかなって。嫌われちゃったかなって」
「そ、そんなことあるわけないだろ!」
「本当に?」
475:
不安げに僅かにうつむく姫神。そっと上目遣いに見上げたその表情が、反則的に可愛かった。
「本当だって。いやだって、悪いのは俺なんだしさ。秋沙が気にすることなんてないって」
「……うん。当麻君は悪いよ」
「ごめん」
「もうしない?」
「しない。約束する」
「……信じてあげない」
「えっと、じゃあ、どうすればいい?」
「信じられるように。ずっと努力して」
「分かった。努力する」
「ほんとに分かってるのかな。当麻君は」
少しづつ、顔が前を向いてきてくれたように思う。拗ねて尖らせたその唇を、上条は申し訳ないと思うより先に可愛いと思った。
「でも。嫌われてなくてよかった」
「当たり前だろ」
「うん。当麻君が他の女の人を見るのは嫌だけど。嫌われるのはもっと嫌だから。」
怒ったような、それでいて微笑んだ表情を姫神が見せた。
それがいじらしくて、上条はつい、手を姫神の髪に伸ばした。
さらさらとした感触を楽しみながら、頭を撫でる。
すぐに柔らかくなった姫神の表情を見て、
「好きだよ、秋沙」
「うん。嬉しい」
そう囁きあった。
「じゃあ、ひとまず仲直り出来たところで、学校行きますか」
「そうだね。……当麻君。持って」
「あ、ああ」
上条は鞄を渡されて、少し戸惑った。姫神の荷物を持つのは嫌ではないが、意図がつかめなかったからだ。
罰ゲームなのだろうかと考えたところで、予想を全く裏切る行為に姫神が出た。
「ちょ、ちょっと秋沙。ここエントランス!」
「学校でやるのは恥ずかしいから。ここで許してあげる」
姫神は正面に立って、開いた両腕を上条の背に回した。二人の距離がゼロになる。
朝だからなのか、姫神の匂いがフレッシュに感じられる。その柔らかさが、気持ちいい。
……それはいいが、ここは朝のエントランス。思わず辺りを見渡さずに入られなかった。幸い人はいない。
「当麻君は。そういう人だって分かってたから。浮気性でどんな女の人でもすぐ落とす人だって」
「いやいやいや! 何だよそのひどい評価!」
「だから。当麻君の一番になりたい私は。当麻君に一番愛してもらえるようもっと努力する。
 でも。見返りがなかったら。私もいつか疲れちゃうよ?」
わかってほしいと、姫神が目でそう訴えた。それだけで、姫神以外が見えなくなった。
姫神が可愛い。見返りなんて、いくらでも与える気だ。それで微笑んでくれるなら。それで幸せになってくれるなら。
上条は開いた片腕で、ぎゅっと姫神を抱きしめ返した。
483:
「上条ちゃん。まだ終わらないんですか?」
「い、いやあ。この式ってどうやって展開するんだったかなー、なんて」
「……それ、小萌先生は授業でちゃんと書いたですよ! それも今日の授業で!
 まさか上条ちゃん。分からないのに板書のメモを取ってなかったんですか?」
鋭い叱責が飛ぶ。小萌先生が、いつになくスパルタだった。
隣では同じように補習を受ける青髪がいつ自分はしかってもらえるのかとワクワクして待っている。
まあ、期待は裏切られるだろう。さっきから小萌先生の叱責は上条にしか飛んでいないのだった。
理由はこれまた分かりやすい。
……姫神が、自分の席で淡々と補習の問題を解いているからだ。
勿論、真面目な姫神は補習を受ける義務などない。
ちょっと分からない所があったから、なんて上条に告げた言い訳はどこから見ても不自然で、
本音は教室を出るところからガッチリ上条を捕まえて一緒に帰る気満々らしかった。
上条は内心そういう姫神のいじらしさが嬉しくて、早く終わらせようという気にもなるのだが、
どうやら上条以上に小萌先生が燃えてしまったらしい。
「カミやーん。ええなあ。小萌先生に苛められて。しかも小萌先生の後は姫神さんとなんやね」
「……姫神に苛められる予定はないぞ」
「じゃあ何するん? 何するん?」
ぼんやり笑う青髪の背中に、どす黒いオーラが立ち上る。
「上条ちゃん! おしゃべりしてる暇はないですよ!」
「……」
声をかけるのは小萌先生だけだが、教室の遠くからチラリと送られる姫神の一瞥も、
上条にプレッシャーを与える要因だった。
「小萌先生すみません! ボクもしゃべってました!」
「集中しないと駄目ですよ」
「はーい! ……もっとカミやんみたいにきつく言ってほしいのに」
青髪の切ない呟きは、小萌先生には届かなかった。
484:
補習は、与えられたプリントを終えた人間から帰れる形だった。
教卓の小萌先生にプリントを持っていくと、目の前で採点して間違いを指摘してくれる。
上条は二度ほど突き返されて、ようやく終わりそうだった。
「……はい。ちゃんとこれで直りましたね。上条ちゃん、この問題は検算も簡単なんですから、
 落ち着いて全部確かめれば間違いは避けられるんですよ?」
「まあ、それはそうなんですけど、なかなか」
「きちんと手続きを踏めば正解できるんですから。そういう部分を疎かにしてはいけないですよ」
「はい。それじゃあ、帰ります」
「小萌先生。私も。終わった」
「あ、姫神ちゃん。すぐ終わらせますね。……これも、これも、これも、はい。
 姫神ちゃんはちゃんと出来てますね。全問合ってます」
「よかった。それじゃ。帰ります」
「はいです。狼さんに送られちゃ駄目ですからねーっ?」
「……狼が拾い食いしないように、首輪をつけて帰る予定」
「あの、姫神さん? 帰り道は狼の散歩でもなさるおつもりで?」
「何を言っているの? 当麻君」
狼ってのは俺のことなんだろーなー、と上条も察しはつくし、首輪をつけて帰るって言葉の意味も分かるのだが、
拾い食いの意味するところがよくわからなかった。いかに貧乏学生の上条とて拾い食いの経験はない。
「いい彼女さんやねえ。カミやんの帰りにあわせてくれたんやね」
「うるせ。てかお前もとっくに仕上がってるだろ? さっさと帰れよ」
「カミやんは信じられへんこというね。最後まで小萌先生に面倒見てもらいたないん?
 ああ、カミやんは今からデートやもんねーいいねーうらやましいねー」
面倒くさい隣のを無視して筆記具やテキストを仕舞い、さっさと上条は鞄を背負って席を後にした。
姫神を見ると、向こうも準備を済ませて、友達に挨拶しているらしかった。
ふと視線をその周囲にスライドさせると、まばらに座る生徒のほぼ全員が、意味ありげにこちらを見つめていた。
「あ、み、みんなお疲れ」
「さようなら、また明日お会いしましょうです。上条ちゃん、姫神ちゃん」
小萌先生だけがにこやかに手を振ってくれた。
486:
「今日は。すぐに帰るの?」
「いや、買い物する以外は別に予定はないよ。まあ、インデックスに最近構ってやってないから、
 どっかで穴埋めしないとまずいなー、とは思ってるけど」
インデックスは友人も少なく暇をもてあまし気味なので、定期的に遊んでやらないと不機嫌になって
晩御飯を作ってる間中愚痴を言い続けたり意味もなく噛み付かれたりするので厄介なのだ。
「あの子は。昨日の夜遊んであげたんじゃないの?」
「ん? いやまあ、時間もそんなになかったしたいしたことはしてないけど」
「でも遊んだんだよね」
「そりゃそうだけど……姫神?」
「姫神じゃない」
「ごめん。秋沙」
「我侭だって思われたら嫌だけど。当麻君のことを当麻君って呼ぶようになってから。
 私は一度も当麻君と放課後遊んでない」
そういえばそうだった。昨日は、長引いた補習の後に雲川先輩に連れまわされた。
自分で言ったことをきっかけに、姫神の機嫌が急激に曇り空な感じになってきた。
「じゃ、じゃあ今日はどっかいくか」
「当麻君があの子と遊びたいんなら。帰ってもいいよ」
「そんな風に言わなくてもいいだろ。秋沙と一緒にいたいからさ、どっか遊びに行こうぜ」
「他の女の子にはそんな事言わない?」
「言わねーよ」
すこしぶっきらぼうに歩き出す上条の腕に、きゅっと姫神が絡まった。
恐る恐る表情を覗き込むと、意外と機嫌は悪くなさそうだった。
「うん。遊びに。行こう」
姫神は上条の歩幅に合わせて歩き始めた。
487:
「ここでいいのか?」
「うん。ここがいいの。理由は……わかってくれる?」
「ん。たぶん」
目の前にあるのは、別段珍しくもないファストフードの店だ。
ゲーセンだのなんだのより、姫神が行きたいと言ったのはここだった。
夏休みのある日。姫神と初めて会ったのが、ここだった。
「ほんとに分かってる?」
「席は二階の、あそこだろ?」
「……良かった。覚えててくれたんだね」
「いやあの出会いはそう忘れられるものじゃないと思うんだけど」
「そうかな? 当麻君ならもっとドラマティックな女の人との出会いとか、いくらでもあるでしょ?」
「ねーよ。そんなもんこの上条さんに限ってあるわけないだろ?」
「嘘」
「嘘って。第一ドラマティックな出会いってどんなのだ?」
店に入って、オーダー待ちの列に並ぶ。
「角を曲がったら女の子にぶつかったとか」
「ない。どこのアニメですか?」
「路地裏で絡まれてる女の子を助けたとか?」
「……そういうことは、まあ、たまにやるけど」
「ほら」
「いやでもありがとうございますって言われてすぐ別れるから、
 そういうので知り合った女の子なんて一人も覚えてないって」
「ふうん」
「信用してくれよ」
「信用させて欲しい。……他には。死にそうなくらいの目にあった女の子を助けたことは?」
「え? えーと」
「ほら。当麻君にはそういう女の子がいっぱいいるんだね」
さっぱり分からない。
姫神とデートして、姫神が行きたいというところに連れて行ってやって。
……で、なぜ姫神の機嫌は単調降下していくのか。
事故が振ってかかったような気分になりながら、上条は必死に弁解をする。
「そういう女の子って、まあ成り行きで助けたことになる女の子は確かに何人かいるけどさ、
 別にその子達と知り合い以上の関係になったことなんかないんですけど」
「でも。そういう女の子たちの中にはきっと。当麻君のことを好きな人がいるよ」
「そうかぁ? それでモテるんなら苦労しないと思うんだけどな」
「私が当麻君を好きになったきっかけは。それだよ」
「秋沙」
「私は。おかしな勘繰りをしてるんじゃないよ。私みたいな人が。きっと他にもいるって。それだけ。
 私の中で当麻君が特別な人になったきっかけは分かりやすいけど。
 当麻君の中で私が特別な人になれてるのかどうか。ちょっと自信がないよ」
上条がそれに言葉を返すより先に、ちょうどオーダーの順番が回ってきた。
業務用に貼り付けたスマイルが、早く注文しろと急かしている。
適当に二人分の注文をして、二階へと上がった。
488:
「あー、空いてないな」
「仕方ないね。半分くらいは諦めてたけど。どこに座る?」
「……あそこでいいか?」
「うん。いいけど」
思惑があって、上条はそこを指定した。
フロアの中央に立つ柱のせいでテーブルが入り組んだ配置になっている。
フロアの片隅にある比較的見えにくい二人席。壁際のほうの席はソファ状で、向かいの席がイスになっている。
人目をそれほど気にしないでいいので、カップル御用達の席なのだった。今日は上手く空いていた。
「秋沙。そっちじゃなくて、こっちに」
「え? でも。当麻君がそっちに座るんじゃ?」
ソファ席のほうに上条は座った。そして、椅子に座ろうとする姫神に、自分の横に来るように言った。
つまり対面になるよう作られた二人席で、無理矢理片方の座席に二人で収まって、
密着しながらハンバーガーにかぶりつく構図だ。
姫神が、少し遅れて上条の意図を理解した。
「その。本当にこれやるの?」
「嫌か?」
「だって。誰かに見られたら。恥ずかしいよ」
「見られて困る奴がいるのか?」
「ここ。吹ちゃんとかも来るお店だし」
「別に吹寄に見られたって、いいだろ。俺と秋沙は付き合ってるんだし。
 ……俺だって恥ずかしい思いして言ってるんだ。嫌なら嫌でも、まあ、仕方ないけどさ。
 こんなことしようって誘ってるの、初めてだし。秋沙だけだ」
ほんの一瞬の躊躇い。
そして姫神は、えいっとばかりに上条の隣にもぐりこんだ。
「嫌か?」
姫神がふるふると頭を横に振った。
横にある壁と上条の間にすっぽりと収まって、軽く姫神が上条にもたれかかった。
489:
「どうしよう。恥ずかしいけど。すごく嬉しい」
「まあなんだ。これなら、彼女っぽいだろ?」
「うん」
「こんなことしたいって思うのも、秋沙にだけだからな。その、秋沙。好きだよ。
 やべ、正直言って俺も恥ずかしくて、どうにかなりそうだ」
「うん。私も当麻君のこと大好きだよ。困らせて。ごめんね」
「いいよ。妬いてくれるのも可愛いし」
「もう。……でも、可愛いやきもちって難しいよ」
「ん?」
「やきもちな時って。構って欲しくてすぐ嫌なことを言っちゃうから。
 私とあの子どっちが大事なんて聞かれて。当麻君だって絶対にしんどいって分かってるんだけど」
目でそっと謝った姫神をぐっと抱き寄せる。
姫神からも腕が回されて、見えにくいと言いながら人目もある店内で、ぎゅっと抱きしめあった。
「当麻君。恥ずかしいけど。じゃあどうぞ」
「え? ああ。」
姫神がポテトを一本つまんで、上条の口元に持っていった。
お互いに緊張でぎこちなくなりながらも、上条は出されたそれを齧った。
「ホントのホントの感想を言うとな」
「うん」
「緊張してていまいち味が分からない」
「ふふ。私も当麻君にされたらそうかも」
「ほら、食べるか?」
「うん。ありがとう」
そっと口を開いてポテトを待つ姫神の顔の前で、三秒くらいポテトを止めてやった。
「当麻君?」
「ご、ごめんごめん。つい」
「もう。当麻君の馬鹿」
今度は余計なことはせずに、姫神の口に入れた。
「美味いか?」
「……普通」
「まあ、ただのフライドポテトだしな」
「たしかに。いつもより味が分からないかも」
「このペースで全部食べさせあうと大変なことになるな」
「それでもいいよ。ここ。すごく落ち着くから。こうやって当麻君とべたべたしながらおしゃべりできるし。」
たぶん、夕方まで何をするかがこれで決まった気がする。
ハンバーガーが冷めるのはいいが、周りの冷たい視線が刺さりやしないかと上条は少し心配した。
500:
「秋沙、飲むか?」
「うん。ありがとう」
安く済ませるため、ドリンクは二人でひとつ、Lサイズのジンジャーエールを頼んでいた。
自分で一口飲んで、そのまま姫神の口元に持っていく。
「あは。間接、だね」
「あんまり抵抗なくなってきたな」
「そうだね。ドキドキしなくなっちゃうのは。ちょっと残念だけど。
 ……っていうか当麻君は。女の人と間接キスなんて気にしないでしょ」
「なあ姫神さんや。なんでそんなに俺のことを見境なしみたいに言うんだよ。
 そりゃ確かに否定できないケースもあるけどさ」
上条はこれまで女の子と付き合ったことのない男子高校生だった。
ぶっちゃけ、間接キスでもドキドキできた自信はある。
そんな甘酸っぱい出来事があったなら覚えていないわけがない。
だが、姫神はそんな上条の思いに全く賛同してくれそうもなかった。
僅かに唇を尖らせ、文句を言うように僅かに上条の肩を頭で小突いた。
「テレビで見たよ。当麻君が間接キスしてるの」
「テレビ?」
「大覇星祭のとき。当麻君は借り物競争で女の子と手を繋いで走ったよね。
 ゴールした後手を繋いだ子から貰ったスポーツドリンク。当麻君飲んでた。」
「……」
「そういえば汗も拭いてもらってたね。あの子こないだゲームセンターで会った常盤台の子だよね」
なんでそんなに覚えてるんだよ、という思いは言葉にならなかった。
確かに美琴に引っ張りまわされたのは覚えてる。けど、スポーツドリンクなんて貰ったっけか。
上条はそのへんの記憶が曖昧だった。それからすぐ学園都市に侵入したオリアナ・トムソンの追跡を始めて――
501:
「……」
「当麻君?」
「……」
「もしかして。気を使わせちゃってる。かな?」
「いや、だって。あの時。俺は秋沙のこと――」
上条はその日、血まみれの姫神をまたいで走り去った。
「いいの。あの時当麻君が何をしてたのか。あの子から聞いているから」
「だけどあんな大きな傷で」
「当麻君もあのお医者さんの腕は知ってるでしょ? 痕も残ってないし。
 ……私のことで。怒ってくれてありがとう」
「なんだよそれ」
ひときわぎゅっと、姫神が上条に抱きついた。
「大切に思ってもらえるのが。嬉しいんだよ」
「秋沙があんな目にあうところ、見たくない」
「うん。私も二度は嫌だね。……ねえ当麻君。もしあの時。もう私が当麻君の彼女だったら。
 当麻君はどうしたのかな?」
上条は、咄嗟に答えを返せなかった。
上条に出来ること、出来ないことは姫神がクラスメイトか彼女かと、何の関係もない。
あの時傷ついた姫神をどうにかする力は上条にはなかったし、そして今もない。
そして学園都市を守るために、急いで追うべき敵がいるならば。
「ごめんね」
「なんで謝るんだ?」
「天秤に掛けちゃいけないものを。当麻君に比べてもらおうとしちゃったから」
上条は何を言葉にしていいかわからなくて、姫神を抱き寄せた。
姫神はそれに逆らわなかった。
無言で、上条は姫神の髪を梳く。目を優しくつむった姫神の表情を、可愛いと思った。
二人はお互いに内心で、この後どうしようかと、悩んでいた。
恋人らしく密着して甘い感じはあるのだが、すこししんみりした雰囲気になってしまった。
明るい話を振りたくて、頭の中で話のネタを検索していく。
「あ……」
そこで不意に、見知った第三者の声が二人にかけられた。
506:
「このお店でお茶するの久しぶりですねー」
「だねー。やっぱりこのシーズンになるとこのグラタンコロッケが食べたくなるんだよね」
先に会計を済ませ、初春と佐天は二階へと上がる。
大覇星祭の前後は風紀委員の仕事が忙しく、美琴を含め4人で集まる機会がここしばらくなかった。
今日は久々に、おしゃべりに花を咲かせる予定の日だったのだ。
その中でも、二人が最も期待していたのは。
「切り出しは『そういえば、御坂さんって好きな人っていますか?』でいいかな?」
「ちょっと唐突過ぎますよ。それ」
「じゃあ初春ならどう話を持っていくの?」
「そうですね……」
初春はきっかけを探して周囲を見回す。
今日の一番の目的は、『御坂さんに好きな人が出来たらしい?』という件について、しっかり問い詰めることだ。
どうも常盤台学園の理事の孫に見初められているらしい、なんていう初春好みの噂が流れているせいで、
この花飾りの少女はあれこれと妄想を書き立てているらしかった。
佐天はなんだかその肩書きのチャラさが美琴には合わない気がしていたが、
好きな人がいるという噂にはどことなく真実味を感じていた。
「あの人たちを引き合いに出す、って言うのはどうですか?」
「え、あのカップル? ……うーん、まあいいけど」
「あんまり乗り気じゃないですね」
「別に案は悪くないんだけど、ああいう人たちってあんまり好きじゃないんだ。
 ひがんでるつもりはないけどさ、ああいうことすると周りの人の気分は良くないし。
 ベタベタするのはもっと別のところでやればいいのに、って思っちゃうんだよね」
「んー。まあ、そうですねぇ」
ツンツン頭の男の人と、サラリとした髪の綺麗な女の人、
どちらも高校生らしいカップルが睦みあっていた。
佐天の言うとおりちょっと直視するのも恥ずかしいし、近寄りたくはない。
だが、あんなにも優しげに髪を撫でられる女の人の心境はどんなものだろうと、
初春はちょっと気になるところもあるのであった。
「あ、もしかして初春はああいうのに憧れてる感じ? もー言ってくれればいいのにっ!」
「へっ? そそ、そんなことは。って佐天さん! 駄目です、人が見てます!」
四人席のボックスのソファで、佐天と初春は隣に腰掛けていた。それが間違いだった。
佐天の腕がぎゅっと体に回される。まるで遠慮がなくて、佐天の体が密着した。
そっと頬に手が添えられる。
「可愛いよ。ボクの飾利」
「変なこと言わないで下さい佐天さん!」
「えーこういうのが良いんじゃないの?」
「そんなこと思ってません!」
白井と美琴が上ってくるまでのしばらくの間、
初春と佐天はフロアの死角でいちゃつくバカップルよりも濃密な時間を過ごした。
516:
一度とっちめてやらねばなるまい、と黒子は心に決めていた。
ここ数日、美琴の返事がずっと上の空なのだ。
一応取り繕う気はあるのか、そう露骨なことはないのだが、
いつもと比べて会話のリズムが変にかみ合わないことが多くて、気になっていた。
寝つきが悪いのも気になる点だった。
黒子より寝つきの早い美琴の寝顔を見てから眠るのがひそかな楽しみだったのに、
このごろはどんより曇ったため息が聞こえてくることが多くて、嫌だった。
「ここも久しぶりですわね。というかここでよろしかったのですの?」
「ん? なんで?」
「こないだ話した、地下街にある紅茶セレクトショップのイートインでもよろしかったのに、と思いましたから」
「うーん、別にそれでも良かったけど、地下より外が見えるところで食べる気分かなーって」
疑心暗鬼のせいなのかもしれないが、こんな会話一つとっても、黒子にはなにか引っかかるのだ。
あの店は、かなりいいチョイスだと自負している。
美琴の好きなケーキが美味しいと評判の店だし、遊びに行くことの多いゲームセンターからも近い。
天気がいい日の続いた後で、今日は曇りだ。べつに外で食べたい気分になどならないと思う。
そういう、不確かではあるけれどお姉さまらしくないこと、というのが積み重なって黒子の気になっていた。
……原因は多分、あの類人猿。
その方面の話を初春がしたがっていたから、今日この店で、
お姉さまの真意をはっきりとさせてやるのだと黒子は息まいていた。
「さて、それでは私たちも上がりましょうか」
「ん」
店員からトレイを受け取って、階段を上がる。
それほど人は多くないし、このようすならすぐさま追い出されるようなことはないだろう。
羽を伸ばしてあれこれおしゃべりできそうだった。
「黒子。手拭きの紙とってくるから」
「あ、それなら私が」
「いいって。あっちで佐天さんたち待ってるから行ってきな」
「すみません」
黒子は窓際で手を振る佐天たちのほうに歩き出した。
他の客、特に柱から程近いところにいるカップルは、目に入らなかった。
520:
「あ……」
鬱陶しいカップルがいるわねー、と思った直後だった。
そこにいるのが、上条当麻と先日のクラスメイトらしき女だったからだ。
「よ、よお御坂」
「……」
上条は気恥ずかしさに思わず辺りを見回した。遠くに白井らしき背中が見えた。
残念なことに、ここで姫神とこうしている時間はここで打ち切りになりそうだった。
さすがに知り合いが傍にいる状況でこんなことをする度胸はない。
隣の姫神に目を向けると、上条の胴に回した腕を解くことなく、美琴に会釈していた。
……それにしても、ビリビリが飛んでこない。いつもと様子が違う気がした。
何やってんのよ、と言おうとして。上手く唇が動いてくれなかった。
そもそも肺がきちんと息を吸ってくれない。
いや、それを言えない理由は、体のせいじゃない。
何をやっているのかが本当に分かってしまったら、それは――――
「あの。悪いんだけど。見られると少し恥ずかしいから」
隣の女が、美琴にそんなことを切り出してきた。
おずおずと、という雰囲気を出しているのが癇に障った。
上条の目の前にいる自分という女が疎ましいのだろう。
それなら、失せろと一言、言えばいい。
恥ずかしいだのと男の前で取り繕った事を言うその態度が、不愉快だった。
「こんな人前で恥ずかしいコトやってる癖によく言うわね」
「それを言われると。確かにそうだけど」
目の前の女が、簡単に言い負かされた態度を取って戸惑う。
気に入らない。それが優越感の裏返しなのは見え見えだった。
「ならさっさとその破廉恥な抱きつき方止めたら?」
「うん。そうだね」
「お、おい。御坂。そんな言い方しなくてもいいだろ?
 そりゃ見てて気持ちのいいもんじゃないかもしれないけど、
 無視すりゃ済む程度のことじゃねえか」
女が体を離した。だけど同時にその女を庇うように、上条が背中に優しく手を触れた。
それだけで、自分が悪者のように、酷いことをした人になってしまった。
その裁定は理不尽で独善的で……美琴の中で捨て場のない感情が暴れまわった。
「アンタは――」
ソイツと付き合ってるの、と最後まで言えなかった。
確認しないとここを身動きが出来ないくらい気になるのに、
確認したとたん何もかもが終わってしまうような不安で、やっぱり身動きが取れなかった。
527:
「なんだよ」
「……隣の女、の人は」
つい先日、付き合っていないと上条の口から聞いた相手だった。
付き合っていなかったはずなのだ。つい先日までは。
美琴だって上条と付き合ってなんかはいないが、少なくとも隣のこの女と対等なはずだったのだ。
「こないだ会ったから一応知ってるだろ? まあ名前は覚えてないか。姫神秋沙って言うんだけど」
「そうじゃなくて。その、アンタは……」
美琴の物言いはとにかく歯切れが悪かった。
毛先を繕ったり、つま先を立てて足でトントンと地面を叩いたり。
何が言いたいんだと聞いてやろうとしたところで、ふと気づく。
そういや御坂には秋沙と付き合ってないってモロに言ってたもんな。
その二三日後にこれじゃあ、確かに気になるな。
「御坂。俺と秋沙のことだけど」
「えっ?」
美琴は、こういうことにかけては反則的に物分かりの悪い上条が、
一発で美琴の聞きたいことに思い当たったことに驚いた。
そして、秋沙、と下の名前を呼んだことが、希望をぐしゃりと握りつぶすような圧迫感を美琴に与えた。
「こないだ御坂とゲーセンであった日があっただろ?
 あの日さ、秋沙と夜まで遊んで、まあそのなんだ」
口の中がカラカラと乾いた感じがした。
目の前で、上条がチラリと姫神という女に目配せした。
その女は上条の目線に幸せそうな微笑を返して、ごく軽く、自然な仕草で上条の腕を抱いた。
……美琴を、一瞥だにしなかった。
「こないだから、秋沙と付き合おうってことに、なった」
美琴は、返すリアクションをすぐさま練った。初めにひらめいたのは、ふーん良かったわね、だった。
何か。言葉でなくても、態度でもいい。何かを返さなきゃ。
「あ……」
自分の口から出たのはまるで文脈に沿わない、ただの嗚咽だけだった。
突きつけられた事実が、あっという間に美琴を窒息させていく。
「? なんだよ御坂。変な顔して」
なんでもないわよ、と返したかった。それが出来れば、いつもどおりの世界に戻れるのに。
胸の中に出来た喪失感が、現実世界の距離感まで狂わせていく。魚眼レンズで覗いたみたいに上条が遠い。
ようやく口をついて出てきた言葉は。
どうしようもなく本音であり、だからこそ言うべきではなかったかもしれない。
「なんでアンタは、その人を選んだの?」
530:
「御坂さん、どうしたんでしょうね」
「え?」
そういえば少し戻りが遅いなと、黒子は後ろを振り返った。
柱の陰で見えにくいところに、美琴は立っている。テーブルに座った誰かと話しているようだった。
「知り合いでもいらっしゃったんじゃありませんこと?」
「え、でも初春。あそこに座ってたのって」
「そういえば、あのカップル……」
「知っている人ですの?」
「いえ。知らない人なんですけど、高校生のカップルが見るのも恥ずかしい感じの空気を出してたんです」
「御坂さん、よく話しかけられますねー……」
「ちょっと、様子を見てきますわ」
黒子はパッと立ち上がって美琴のほうへ近づいていった。
初春と佐天は、四人でカップルを囲むのも気が引けて、そのままボックスで待ち続けることにした。
「なんで、って。別になんででもいいじゃねーか。……恥ずかしいだろ」
お姉さま、と声をかけるより先に、どこかで聞いたことにある声に黒子の警戒度が跳ね上がった。
……が、様子を見るにどうやらあの男が美琴に手を出しているわけではないらしい。
隣には高校生らしき長髪の女性が侍っている。明らかにこの二人はカップルだった。
「ずっとその人のこと、好きだったの?」
美琴の、曇った声がした。その声で黒子はでしゃばるのが躊躇われた。
「ずっと、って。何を言わせるんだよ……。
 秋沙と知り合ったのはそもそも夏休みの真ん中らへんだし、
 そういう意味じゃ、ずっととは言えないかもな」
気恥ずかしいのを誤魔化すように、上条はぶっきら棒にそう言った。
夏休みの真ん中といえば、美琴にとって、とても大きな出来事のあった時期だ。
自分は一学期から上条を知っていた。
目の前の女より長い期間、上条当麻という人間を知り、時折町で出会って関係を深めて、
上条の心に、自分という人を刻み付けていっている、そういうつもりだったのに。
――盗られた。
独善的な価値観だと分かっているから、口にはしない。
だが割り切れない思いとは別に、その気持ちは綺麗に割り切れていた。
上条の隣にふてぶてしく居座るこの女への、怒り。
そこまで考えて、美琴はおかしなことに気づいた。
アイツがムカツクなら、アイツに怒れば良いだけなのに。
なんで私は、隣のこの人のことに、ムカツいてんだろう。
嫉妬。
その瞬間、その言葉の意味を、どうしようもなく実感で、美琴は理解した。
それはつまり、自分の抱えている気持ちに気づいたという、そういうことでもあった。
「私……アンタのこと、好きだったんだ」
541:
「えっ?」
上条の純粋な驚きの声聞こえた。
それで美琴は、今自分が思ったことをそのまま口にしてしまったことに気づいた。
「え、あ……嘘。なん、で。私……」
言ったことは、隠せない。
上条がほうけたような目でこちらを見つめている。隣の女のほうは、見る勇気がもう美琴にはなかった。
「御坂」
ビクリと、美琴はその呼びかけに怯えた。今はもう、何を言われるのも怖かった。
顔を上げない美琴の視界の外で、上条は姫神の腕を解いて、居住まいを正した。
「見てのとおりだけど、今俺には、付き合ってる人がいる。こんなこと言うの悪いなって思うけどさ。俺は、御坂お前と――」
上条の言葉の、その続きだけは絶対に聞きたくなかった。
アイツとの今までの距離が、私は大好きだったんだ。
もっと好きになってもらえたら嬉しかった、けど。
明日からもう今までみたいな関係ですらいられなくなるのは、絶対にやだ。
そんなの、絶対に。
もう、これからずっと無視されるのかもしれないけど、それでも、アイツの口から、ごめんって言葉を聴くのは絶対にやだ。
友達でもいいなんて嘘、私自身を誤魔化せないかもしれないけど。
「言わなくても分かってるわよ! そんな変にかしこまった顔なんてアンタに全然似合ってないのよ!」
「……え?」
「あーあ、ま、言えてちょっとスッキリしたってトコかな。アンタも店ん中に公害撒き散らすのいい加減にしなさいよ。
 ……って黒子あんたいたの? ほら、初春さんたち待ってるから、さっさと行こう」
「ええ。分かりましたわ。お姉さま」
まるで名残惜しさを見せずに上条たちに背を向けた美琴の後ろで、黒子がそっと頭を下げた。
黒子とて罵ってやりたい言葉は山のように抱えていたが、それより大事なことがある。
きっともう涙を隠しきれなくなっている美琴の撤退手伝いを、しんがりとして完璧に勤め上げること。
呆然と見つめる上条に、目線だけはきついのをくれてやって、黒子も背を向けた。
お姉さまの良さが分からないこんな男に、もう用なんてない。
「御坂、さん……」
「いやーごめんごめん。ちょっと待たせちゃったね。っく。食べ。よっか」
美琴の強がりが崩れていくのに佐天と初春は初め驚いたが、すぐに、朗らかな態度で話し始めた。
「気にしないで下さい御坂さん。初春は食べたそうにしてましたけど私はちゃんと御坂さんを待ってましたから!」
「ちょっと佐天さん! まだかなーなんて言ったのは佐天さんだったじゃないですか!」
「まーまー細かいことは良いじゃない。ほら、食べながら後のこと考えよっ」
何も言わず、日常を形作ってくれる友達に、美琴は感謝した。
いつ、上条と姫神が出て行ったのか、美琴は気づかなかった。
550:
「んー、予定外に早く出てきちまったけど、一体これからどうしような」
「当麻君は。どうしたい?」
姫神に振った質問をそのまま返された。
さっきの出来事のせいで、あまり街中ではしゃぐ気分じゃなくなっているのも確かだった。
まさか、御坂のヤツがねえ。
今まで突っかかってきたのも、愛情の裏返しというやつなのだろうか。
子供だなーと思って相手していた上条に、一体美琴は何を思っていたのか。
「当麻君」
「ん?」
「さっきのところに。戻りたいの?」
「別に、そんなことは思ってないけど」
「あの子の事。慰めたいって思ったりはしてない?」
それが筋違いだということは分かっているが、そういう思いは、無いでもなかった。
美琴は大切な知り合いだ。
そういう相手が、悲しい目にあっているのを全く気にならないのだって変なことだと上条は思った。
ただ。
「俺が行っても仕方ないだろ」
「仕方ないなんてことがなかったら。あの子のところに行くの?」
「……なんだよ秋沙。そんな突っかかり方しなくてもいいだろ?」
「だって当麻君。私と一緒に歩いてるのに。ずっとあの子の事考えてる」
その一言で、自分が確かに美琴のことばかりに気がいっていたのを、気づかされた。
それこそ、姫神に失礼なことだろう。
「ごめん」
「謝るってことは。やっぱりそうなんだね」
チクチクと、姫神がいつにも増して陰のある言い回しで上条を責める。
「デートの途中で、良くない考え事だったのは確かだけどさ。だけど、やっぱり泣かしちまったら、気になるだろ」
「当麻君が気にする必要なんてない。あの子が今まで躊躇ってたのが悪いだけ。
 大覇星祭なんてあんなに当麻君と遊んでたのに。それでも告白できなかったのは。あの子が悪い。
 なのに当麻君は気にするの?」
「今更俺には何も言う資格がないことくらい、分かってる。ほらこの先どうするか、考えようぜ」
「……当麻君の知り合いの女の子に合わない場所がいい」
「え?」
「街中を歩いてたら。またあの子みたいな子に会いそうだから」
「いや、そんな女友達ほかにいないから」
「当麻君のその言葉。説得力ないよ」
「そう言われても。で、知り合いに合わない場所っていうと……」
上条の自宅ですら、そんな都合の良い場所ではない。
「秋沙。知り合いになわない場所なら、どこでも良いんだな?」
「えっ……うん。ゆっくり出来るところなら」
「わかった。そういう場所、知ってるから。そこにしよう」
573:
上条が、行き先を教えてくれない。
姫神は緊張を押さえ切れなかった。今揺られているバスの行き先から、あれこれ想像してしまう。
「当麻君。あまり遠くは。帰るのに時間がかかるから」
「大丈夫だ。もうじき着くからさ」
当麻たちの家からそう遠くない、地下に深く発達した学区。
向かっているのはそこらしかった。学園都市最小の学区だが、最深の学区でもある。
浅い階層はそうでもないが、学区の底、日の光の到底届かない所は、
どちらかと夜向きな、つまり大人向きな施設の多い場所だ。
酒を振舞うなどの理由で学生が入ることの出来ない店も多いし、
男性向けのいかがわしい店なども林立している。
その中には、もちろん、ホテル街もあった。
もちろん学生の出入りは禁じられているから使えないことにはなっているが、そこは蛇の道は蛇だ。
三次元的に複雑な構造をしていることもあり、穴場な店も多かった。
「二二学区って。遊ぶ所あるの?」
努めて、素っ気無く言った。
意識しているとは思われたくなかった。恥ずかしい。
「二人っきりになれる所に、行くんだろ?」
意地悪そうに、上条はそんなことを言う。
バスの揺れにあわせて、何気ない風に上条の表情を盗み見る。
気負った風もなく、薄く笑っていた。
分からない。本当に当麻君は。私と……その。ホテルに行くつもりなのかな。
心の準備は、まだなかった。そもそも付き合い始めて数日で、さらに言えばキスもまだなのだ。
まさか上条にラブホテルの心得はない、と信じたいし、この落ち着いた態度は、
初めてホテルに行くカップルの、彼氏の態度ではないと思うのだ。
だが、姫神とて男性の心理が分かるほど、男慣れしてはいない。
そもそも転校前は女子校の学生だったのだ。
もし。当麻君がホテルに行こうって言ってるんだったら。私は。どうしよう。
まだ早いよって断りたいけど。でも。二人っきりが良いって言ったのは私のほうだったし。
それなりに混んだバスの中を見渡せば、周りはほとんどが大人だった。
仕事終わりなのか少しはしゃいだ空気を見せながらも、遊ぶと表現するよりは
プライベートを楽しむと言った方がしっくりくるような、
自分たち高校生が背伸びをしているような気持ちになった。
上条は、まだ、降りようとは言わない。
外の世界は夕方かもしれないが、もう姫神がいるそこは、夜の世界だった。
577:
「当麻君。ここって」
「おう。なあ姫神さんや、さっきまでどこに連れて行かれると思ってたんだ?」
「どこ……って。私は別に」
「随分とあっちこっちきょろきょろしてたにゃー」
「土御門君の真似。似てないよ」
「まあ似せる気ないしな。で、どこに行くと思ってたんだ?」
「意地悪だね。当麻君」
からかう上条に少しむすっとしながらも、内心で姫神は安心していた。
さすがに、ホテルではなかったからだ。
だが、見せる肌の面積で言えば、ここはそうホテルと変わらないと思う。
決定的なところは見せないが。
スパリゾート安泰泉。目の前にある施設の名は、それだった。
ボウリング場やゲームセンターなどもある総合アミューズメント施設。
確かに上条たちのクラスで話題になっていたのを、姫神も耳にしたことがあった。
曰く。ここの個人用の貸切風呂は、管理が甘くて『二人用』の貸切風呂に出来る。
「じゃあ、カウンターで場所予約してくるから。ちょっと待っててくれな」
「うん。でも当麻君。こういう所に来るときは次から言ってね。いろいろと。準備っていうものがあるし」
「あ……そうだな。ごめん。女の子をこういうところに連れてくるときは、色々気をつけなきゃいけないよな」
「私をこういうところに連れてくるときは。だよ。他の女の子とはだめ」
「こんな所秋沙とじゃないと来ないって」
ふっと笑って、くしゃりと姫神の頭を撫でて行った。
上条にしてみれば何気ないであろうその仕草に、姫神は嬉しくなった。
上条に大切にしてもらえるのは嬉しいことだが、こういう気安くい触れ合いも好きだった。
一応、上条が独りで入るための風呂を借りることになっているので、
姫神はカウンターから見えないところで上条を待った。
安泰泉はフロアによっては男女が別れているが、
水着着用の上で混浴というか普通のプールみたいな感じになっているフロアがある。
個室は長い時間借りると高い。満足したら広い温水プールで遊んで帰ろうかと姫神は思案した。
問題は、貸し水着に、良いのがあるかどうかだった。
それにしても、と姫神は嘆息する。
どういうデートに誘われても良いようにと入念な準備をしたおかげで特に反対はしなかったが、
色々と、肌を人前に晒すには準備が必要なのだ。
それは男性には見せないのが嗜みだし、だからこそ、そういう気遣いを上条にもして欲しいのだが。
そういうところに気が回らないのは上条も女慣れしていないということだろうか。
「お待たせ。ちゃんとすぐ取れた」
「どれくらいの時間借りたの?」
「一時間半。満足は出来ないかもしれないけど、完全下校時刻までしか借りられないからな」
「そっか。じゃあ。ギリギリまで遊ぼう」
「だな。……じゃあお互い水着借りて着替えて、入り口で待ち合わせな」
「うん。当麻君よりは時間がかかるかもしれないけど。あんまり怒らないでね」
「怒るってなんだよ。ちゃんとぼんやり待ってるから」
「女の子に声をかけられちゃ駄目だよ」
そんな無茶を言われながら、上条は姫神と一緒に水着を選びに行った。
578:
外の時間を意識しているのだろうか、温水プールのある広いフロアは壁一面の映像素子が夕日を写していた。
学園都市のありふれた夕方ではなく水平線の綺麗などこか海沿いの映像だった。
ここに出てきて15分、幸いまだ知り合いには会わない。
「おまたせ。当麻君」
「お、来た来た……って秋沙」
「おかしくない……かな?」
姫神が着ているのは、オーソドックスなビキニ。
特に紐がないとか布地が少ないとか、そういうことはない。
強いてあげれば、白と鮮やかな紫のコントラストが眩しい、
ちょっと大胆な色使いが上条をドキッとさせる。
だが真に強調すべきは姫神自身だろう。
体つきは女性らしい丸みを帯びたラインを描いていて、
それだけで上条の口の中をからからにするくらいのインパクトがある。
肌は傷一つなく、健康的な程度に白くて、どんな感触がするのか触ってみたくなった。
胸にはケルト十字。外れることを危惧したのか、いつもよりチェーンを短くして、
胸元というより首の根元辺りでクロスが揺れていた。
「その。いつも思ってるけど。……綺麗だ」
「本当に?」
「お世辞じゃないって」
「でも。当麻君には綺麗な女の子の知り合い一杯いるし。幻滅されたら嫌だなって」
「ないないない。これだけ綺麗なのに、それはない」
「綺麗って。言いすぎだよ。あの……痕とか。わからないよね?」
お腹につけられたいつかの傷を姫神の指がなぞる。
カエル顔のあの医者は腕だけは間違いなくて、傷跡なんてさっぱり見当たらない。
それよりも白くて柔らかそうなお腹に釘付けになった。
「大丈夫。それに綺麗ってのは全然言い過ぎじゃない」
「あんまり褒めても何もでないよ」
上条は少し不安になった。
これだけ綺麗な姫神と今から個室に入って、はたして自分の理性はきちんともつのだろうか、と。
579:
「じゃあ、先に俺が入るから。少し間を空けて秋沙が入るってことでいいか?」
「うん」
普通は逆なのだ。ナンパな奴がフラフラしてるのに姫神が引っかからないよう、姫神を先に入れる。
上条は当然そうするよう進言したのだが、姫神は頑なに聞き入れなかった。
自分が声をかけられる確率より、上条が女性とトラブルを起こす可能性のほうが高いと姫神は確信していた。
個室の並ぶエリアから少し離れたベンチから、上条の姿を見送る。
二分くらい待てば充分だろう。その時間を、姫神は覚悟に使う。
もしかしたら。キスされるのかな。
……それは嫌じゃない。これだけ場所をセッティングしてくれたんだから。たぶん当麻君は。
抱きしめられるのも。この格好じゃ恥ずかしいけど嫌じゃない。
髪を撫でられるのもいい。お尻を触られるのも。当麻君になら大丈夫。
胸は……どうしよう。少し怖いけど。でも当麻君が望んだら。でもあんまり流されるのも良くないよね。
脱がされるのは絶対駄目。下を触られるのも。まだ。駄目。
一つ一つのケースを吟味して、有りか無しかを判定していく。
すぐに体を許す女は安く見られるのだと、ものの本に書いてあった。
付き合って間もないのだから、確かに全てを上条にさらけ出すのは抵抗もあるし、おかしいと思う。
しかしクロスを下げたチェーンを短くしたのは、上条に触られても大丈夫なようにという配慮だった。
心のどこかで、期待もある。乙女心は複雑だった。
たぶん、二分くらい。
姫神はタオルを持って、上条の入った個室へ向かう。
一瞬の逡巡の後、引き戸を横にカラカラと開けると、少しほっとした顔の上条が立っていた。
「秋沙」
「当麻君。どうしたの?」
「いやー、なんかこういうタイミングで待つの不安になるな。もしかしてナンパとかされてないかとか、
 いきなり秋沙は帰ったりしてないよな、とか」
「ふふ。変なの。当麻君を置いて帰ったりなんてしないよ」
「分かってはいるけどな。さて、秋沙」
「?」
引き戸を閉めると、上条がカチリと鍵を下ろした。もう誰も、ここには入って来られない。
その意味を悟ると、覚悟を決めてきたはずの心臓が、ドキドキと早鐘を打った。
「好きだ、秋沙」
「あっ……」
何よりまず、抱きしめられた。
もしかして、興奮しているのだろうか。上条の抱きしめ方がいつもより力強い気がする。
「と。当麻君! お風呂。入ろう?」
「あ、ああ。悪い。そうだよな」
「気にしないで。私も、ちょっとびっくりしただけだから」
やっぱり、抱きしめてもらうのには心の準備が必要だ。
お湯に入って、少し時間を稼ぎたかった。
580:
「それにしてもここ。不思議な作りだね」
「だなあ。まあ壁に映像を映せばどうとでもなるってことだろうけど」
部屋は高さが上条の身長ギリギリくらいで、奥行きも2メートルくらい。。横幅は1.5メートルくらいの真っ白い部屋だった。
海岸のように奥に向かうにつれなだらかに床が下がっていき、その途中からお湯が波打っている。
上条が壁に触れるとコンソールが出現し、簡単に設定すると真っ白だった壁前面が真夏の砂浜を映し出した。
床は、さすがに砂の質感を出すことはないが適度に柔らかくて、寝そべるのにちょうど良かった。
おおよそ、風呂場というよりは波打ち際というべき、部屋の作りだった。
「ここに横になれってことなのかな?」
「みたいだな。肩までざぶんと漬かりたければ奥に行けってことみたいだな」
「そうする?」
「いや、別に寒くないし、適当に腰まで浸せば良いんじゃないか」
「うん。そうしよっか」
二人で寝転ぶと、少し窮屈だった。肩を二つ並べて足りないほどの幅ではないが、大の字にはなれない。
必然的に、腕と腕が触れ合うことになる。
「お湯、結構ぬるめの設定だけど、大丈夫か?」
「うん。これくらいだったらのぼせないね」
「なあ秋沙。結構強引に、ここに連れてきちまったけど、怒ってないか?」
「えっと。こういうところに来るときにはちゃんと事前に言って欲しいけど。
 でも今日は大丈夫だったから。怒ってないよ」
「ん。なら良かった。それで、今から何したい? 映画とかも見れるみたいだけど」
あれこれ出来ることを調べる上条の仕草が、演技なのがバレバレだった。
こんなところに来て、したいことが映画鑑賞なんて。そんなことあるはずないのに。
「当麻君」
「あ、秋沙……」
姫神は、上条の腕を抱きこんだ。
体を横に向けた姫神の足が踊って、パシャパシャと水が軽快な音を立てる。
姫神は何をしたいとも、別段言わなかった。多分、これだけで伝わると思ったから。
上条が、BGMを自然音に設定した。
これで、誰もいない二人っきりの浜辺に寝そべっているような、そんな気分になった。
「好きだよ。秋沙。その格好がすげえ綺麗で、ドキドキしてる」
「恥ずかしいよ」
「恥ずかしがってるところも可愛い」
「当麻君の馬鹿」
上条の手が伸びてきて、姫神の髪を撫でた。その感触が気持ちいい。
髪と髪の間に指が入り込んで、しっかりと髪の質感を堪能するような、そんな撫で方だった。
「綺麗な髪だよな」
「ありがとう。一応。長くても駄目にならないように気はつけているから」
髪は目立たない自分の数少ない自慢だ。褒められるのは、気持ちよかった。
581:
「当麻君の体、結構締まってるね」
「う。なんかそういうこと改めて言われると恥ずかしいな」
「私もおんなじこと思ったよ。……腹筋とか、鍛えてるの?」
「鍛えるってほどのことはしてないぞ。べつにほら、はっきり割れるほどじゃないし」
「そうなのかな。他の男の子のお腹なんて見たことないし。分からないけど」
姫神の指が、つつうっと腹筋の辺りをなぞる。くすぐったさに上条は身をよじった。
「ちょ、秋沙。それやめてくれ!」
「ふふふ。止めてあげない」
姫神がわき腹なんかにも手を出して、露骨にくすぐり始めた。
攻撃は最大の防御。上条はすぐさま反撃に打って出た。
「あっ。だめっ! ……ふふ、あはは。駄目だよ当麻君」
「なん、でだよっ。こら秋沙。止めないとこっちも止めないぞ」
「負けないもん……っ! ふふっ! 駄目、駄目、あはは! 駄目当麻君」
姫神はくすぐりにかなり弱かった。あっという間に上条は形勢逆転に成功した。
だがそれで許す上条ではない。わき腹から脇の下へと人差し指を中指を歩くように這い上がらせて――
ぷにゅん、と体をよじった姫神の胸に、手の甲が触れた。
「あっ」
「え? あ……」
その感触にはっと上条が我に返った瞬間。姫神は胸に手が当たったことに気づかなかったらしいが、
二人の顔がすぐ傍にあって、よくよく見れば上条に覆いかぶさられている状態なのに気がついた。
「その、秋沙……」
「うん」
「抱きしめても良いか?」
「……そういう事、聞かれるの恥ずかしいよ」
「じゃあどうすれば、って。抱きしめるから、嫌なら言ってくれよ」
「言わないよ」
今ので、二人の距離が縮まった気がする。
姫神はえいっとばかりに当麻の胸に抱かれにいった。
「ふふ。当麻君の腕枕」
上条は胸の中に姫神を抱きこんだ。枕になっていないほうの空いた手で、秋沙の背中を撫でる。
押すともっちりした感触の肌なのに、撫でるとさらさらとなめらかに滑る。
「紐を解いたりしたら。駄目だからね?」
「えー」
「えーじゃないよ。そんなことするんだったら私も当麻君の水着の紐緩めちゃうよ?」
「いや、ちょっとそれは」
「ほら。当麻君だって恥ずかしいでしょ?」
「……まあ」
594:
「なあ秋沙。さっきから俺の体結構見てるだろ。代わりに俺も秋沙の体、見ても良いよな?」
上条が、そんなよくわからない理屈を捏ねて、お願いをしてきた。
「見るって。えっと……駄目」
「駄目じゃない。見たい」
「見たいって。もう、色々見てるでしょ?」
「そりゃそうだけど……こうなんというか、少し離れて鑑賞したい」
「駄目。絶対駄目。そんなの恥ずかしすぎて死んじゃう」
「こういうのはおあいこだろ。ほら」
拒もうとする姫神の肩を押す。元から姫神は寝そべっているから何も姿勢は変わらないのだが、
隣に寝ていた上条が体を起こして、姫神から距離をとった。
水に漬かった足先から、すらりとした肢体、物凄く大きいことはないもののしっかりと重みを主張する胸元、
寝乱れた髪、そして恥ずかしげにうつむく顔までが、全て上条の視界に納まった。
ゴクリ、と自分の喉から唾液を嚥下する音がした。それで自分が興奮していることに気づいた。
「当麻君。目がいやらしい」
「……これは、全面的に秋沙が悪い」
「悪いのは当麻君だよ。もう。飽きたらすぐやめて」
「すぐには飽きないよ。……手、どけてくれよ」
「無理だよ」
秋沙は横向きに寝て、きゅっと縮こまるように自分の胸を抱いている。
足も曲げて、前を隠すようにしながら恥ずかしそうな顔で上条を睨みつける。
姫神には分からないらしい。隠されたほうが、上条は燃えるのだった。
胸元を見ることはこの体勢からでは難しいが、腕を前に交差している分、谷間が強調されている。
足の付け根だって、影で隠れているのがむしろ興奮するくらいだった。
それに、露になっている白い太ももの眩しさも、色っぽかった。
つまりは。どんな姿勢になっても姫神の魅力を隠すことは出来ないということだ。
「当麻君。ほんとにもう。駄目……」
羞恥に耐えてか細くなった、泣きそうな姫神の声。
上条はつい、欲望に突き動かされて、姫神の腕を握った。
「あっ……!」
姫神の声に、おびえが混じる。それで正気になった。
「ごめん。ちょっと、乱暴だった」
「当麻君の馬鹿。ちょっとじゃないよ……」
手首をつかんだ手を解いて、そのまま、姫神の指に絡める。
ぎゅっと握ってやると、少しほっとした顔になった。
だが、手首を握っても指を絡めても、姫神の自由を奪う目的は果たせる。
そのまま押し上げるように、横に寝て体を隠す姫神を、仰向けにする。
重力で形を変えた乳房が、その大きさを主張しながら揺れた。
595:
「秋沙……」
「あの、当麻君」
腕の自由を奪われていることが気がかりなのだろう。
姫神は戸惑いに目線を揺らしている。
……さすがに上条も罪悪感が沸いてきた。
「ライト……」
「ん?」
「ライトを。消して欲しい。明るいところでは恥ずかしいよ」
姫神の真意を上条は探る。ライトを消すというのは、どういう意味だろう。
単純に明るいのが恥ずかしいだけの意味なのか。それとも――
「いいのか?」
あえてそう問う。それで、姫神も自分の言った言葉の意味に思い当たった。
「……変なことは。したら駄目だよ」
「暗くするってそういうことだろ」
「駄目だからね。当麻君のこと。信じてるのにな」
拗ねたような調子で、念を押された。その可愛らしさについ苦笑する。
ここは自分の負けにしておこうと上条は思った。
「じゃ、明かり落とすから」
「……」
映像を切り替える。真昼の砂浜が、日が沈んで真っ暗になる直前の、黄昏色になった。
ぼうっと見つめる姫神の目が、いつもより潤んで見えた。
「これで恥ずかしくないか?」
「さっきよりは。当麻君……」
誘うような呼びかけに、上条は応えた。隣に寝転んで、頭の下に腕を入れてやる。
そうしてもう一度、胸元に抱きしめた。
596:
「ああ……」
安心するような嗚咽と、深いため息が漏れる。それだけで、上条は満たされるような気持ちになった。
姫神秋沙という女の子を、たまらなく可愛いと思う。
乱れた髪を整えるように梳いてやって、耳の裏へと掻き上げる。露わになった耳に、囁く。
「秋沙、愛してる。秋沙が可愛すぎてどうしていいかわからない」
「当麻君……。囁かれると、私もどうなっちゃうかわからないよ」
耳が弱いのだろうか。軽く囁いただけで、体がピクリとなって、はっと声にならない浅いため息を漏らした。
耳の外周に触れて、そっとその形を指でなぞっていく。
「あっ……あ……ぁ……」
ぴくり、ぴくりと姫神が体を震わせる。初めて覚えた快感に、振り回されているようだった。
耳を触るのを止めて、再び髪を梳く。
戸惑いを感じていたせいなのか、ため息をついて姫神がくたりとなった。
「力、抜けちゃってるな」
「うん。私、もしかしたら耳弱いのかも」
「噛んだらどうなると思う?」
「死んじゃう」
「そりゃ困ったな」
それは後に取っておくつもりだった。
上条とてその行為には心惹かれるものがあるが、初めに姫神の体に口付ける場所、それは唇だろうと思うのだ。
と、上条が身を引いた瞬間に、姫神がカウンターを仕掛けた。
「おほぅあっ!」
「……ふふ。当麻君の反応。可愛い」
姫神に、耳を噛まれた。
はぁっと口からこぼれる吐息と、硬い歯の感触、そして僅かに当たった舌のぬるりとした質感。
耳を噛まれるのは、こういう感じなのかと背筋がこそばゆいような感覚を覚えながら上条は理解した。
「秋沙がその気なら。仕返しするぞ?」
「負けないよ?」
「どこ噛まれたい?」
「リクエストはおかしいよ」
クスクスと姫神が笑う。
「リクエストがないんだら。とりあえず唇にしようかな」
「あ……」
その一言で、姫神のはしゃいだ笑い声が止まった。
唇がきゅっとすぼめられたのは、期待の現われに見えた。
597:
キスして良いかと、尋ねたくなる気持ちを上条は押さえつけた。
そういうことは聞かないで欲しいといわれたのを覚えていたからだ。
嫌なら、拒まれるだろうし、拒まれないような気がしている。
上条はぐっと体を起こして、上半身だけ姫神に覆いかぶさった。
薄明かりの下、自分を見つめてくれる姫神の瞳の色が揺れながら、自分を待っている。
顔にかかった髪の一房一房を摘んで取り除いてやる。ヴェールをそっと開く新郎の仕草に似ていた。
ここまで来たら、もう、紛れはない。
そっと上条は、自分の唇を姫神のそれに近づけた。
目の前にある上条の顔を見ていると、ドキドキが止まらない。
目をいつ瞑るかが、問題だった。
開きっぱなしも不自然だが、早めに目を瞑って待ちに入るのも恥ずかしい。
それに、まだ、上条が何かを言ってくれるかもしれない。好きだとか。
真剣で、緊張した面持ちで乱れた自分の髪を上条が整えてくれる。
その仕草は慣れていないように見えて、やっぱり初めてなのかな、なんて、
変に心の中に出来た余裕で姫神はそんなことを考えたりした。
意外と、逡巡の時間は短かった。
上条が息を整えたのが分かる。
いよいよ口付けをされるのだとわかって、上条に合わせて姫神も息を止めた。
心の中から、言い表せないくらいのドキドキと、幸せがあふれ出てくる。
出会ったその日のうちに好きになって。その気持ちはそれからもずっと変わらなくて。
転校して傍にいられることが、嬉しくも切ない日々を過ごして、ふとしたきっかけから、
この上条当麻という人に愛してもらえる立場を手に入れた。
自分を見てもらえること、大切にしてもらえることが、たまらなく嬉しい。
唇が近づいてくるのが見えて、姫神はそっと目を閉じた。
タイミングなんて、自然に分かるものだった。
きっかけだとか成り行きだとか、そういうのは陳腐だったかもしれない。
上条当麻のおかしな日常のような、ドラマティックなものはなかった。
だが、それでも。
その一瞬を、上条も、姫神も生涯忘れられないような幸せな気持ちで過ごした。
なんてことはないレジャー温泉の貸切風呂で。
上条と姫神は、初めてのキスをした。
604:
同じ柔らかさを持った、相手の唇で、自分の唇の形が変わる。
それは唇以外の何かに唇を押し当てたときとは全く違う、柔らかくて暖かい感触だった。
自分と姫神の鼻が僅かに擦れあう。
たぶん、5秒くらいだろう。それくらいで一度、上条は唇を離して、息を吐いた。
「……」
「……」
一瞬、互いに交わすべき言葉を見つけられなかった。
ふわりと姫神が笑う。その顔が可愛らしくて、上条はもう一度姫神に惚れ直した。
「秋沙。愛してる」
「私もだよ。……キス。しちゃったんだね」
「だな。上手く出来たかどうかはわからないけど」
「上手くとか。そういうのじゃないよ。幸せだったからいいの」
「そっか。秋沙」
「あ」
姫神の頬に手を添える。親指を僅かに唇に触れさせると、姫神が目を閉じた。
もう一度、その唇に口付けをした。
「……ふふ」
「秋沙?」
「二回もキスされた」
「もう止めようか?」
「もっとしたいよ。ずっとずっと。飽きるまで」
「じゃあ、お言葉に甘えて」
胸の中に姫神を抱いて、三度目のキスをする。
今度は、息が持たなくなるくらい長く、するつもりだった。
「ん。ふ……」
僅かに唇を唇で噛むように、ぴたりと柔らかい肉を押し当てて、留める。
空いた手で長い髪を梳き、背中を撫ぜる。
姫神の腕が上条の首に回される。それでかなり密着度が高くなった。
「ふあ……」
時折、遠慮がちに姫神が息をする。唇を離さないから、相手の吐息が頬にかかってくすぐったかった。
……だがそれも、あっという間に気にならなくなる。
唇の感触しかなくなっていく。
唾液を絡めるほどのキスではないから、ピチャピチャとはいわない。
時々ごく小さくクチクチといった音が漏れる程度。
だがその控えめな音が、もっともっとと、二人をもっと深いキスへと誘っていく。
605:
「んっ……」
上条は、押し当てるだけの唇を、動かすようにした。要は唇を使った甘噛みだ。
のろのろとではあるが、姫神も合わせてくれる。
上唇と下唇で姫神の下唇を挟むと、軽く姫神の歯が触れた。
姫神も息が荒くなっていくのが分かる。きっと自分もそうなのだろう。
それに構わず、姫神の唇を蹂躙する。
上条は、背中を撫でていた手が姫神の水着の、ボトムに触れたことに気づいた。
その手を、そのまま下へと滑らせる。
水着の上から、姫神のお尻を手のひらでつかんだ。
「ん……」
「秋沙。嫌じゃ、ないか?」
「え……? あ。当麻君。お尻触ってる……」
「嫌って言わないと止めないぞ」
そう言いながら、返事を聞く前に上条はキスを再会した。
姫神はキスが途切れないように僅かに首を横に振って、構わないと伝えた。
言質を取って上条は、無遠慮に姫神のお尻を撫でた。
触って比べたことはないのでなんともいえないが、姫神のお尻は、
どちらかというと薄いほうな気がする。
もちろん女の子なんだなあと分かる感触だが、あまり大きくない感じはした。
あまり指を食い込ませないように気をつけながら、さすさすと布の上から撫で付ける。
時々アクシデントで、指が深いところまで沈みそうになると、
さすがに警戒しているのか姫神の体がきゅっと緊張に固まるのだった。
「ふぁ。ん」
そろそろ息が苦しくなってきた。
同じ気持ちだったのか、引く素振りを見せると姫神も唇を離した。
「……キス、どうだ?」
「体が溶けちゃいそう」
「溶けるって。なんだそりゃ」
「体に力が入らなくなって。当麻君のことしか考えられなくなるの」
確かに、姫神がいつもよりぼうっとしているように見えた。
普段の表情も、たぶんぼうっとした感じと言い表すのが正しいのだろうが、それとは違う。
夢見心地なぼんやり顔で、思考もいつものようなキレがない。
甘えた言葉が姫神らしくなくて、可愛らしい。
「もっとキスしたら、どうなる?」
「わからないよ。私。どこに行っちゃうんだろ」
もう一度キスを、と姫神がねだる顔になった。
606:
「秋沙の体、ホントに綺麗だよな」
「恥ずかしいよ……あっ。当麻君。今の……」
姫神の鎖骨に、上条はキスをした。
その行為に姫神の顔が驚きで一杯になり、すぐにはにかんだ。
次は、お腹にキスをした。
「当麻君。駄目だよそんなの……」
「なんで?」
「だって。汗とかかいたし」
「風呂に入ってるだろ?」
「そこはまだ。濡れてないよ」
風呂に来たくせに個室に入って早々睦み始めた二人は、まだ膝上くらいまでしか湯につけていない。
上条は、ちゃぷりと手でお湯をすくって、塗り広げるように姫神の太ももにかけた。
「あっ……」
その上で、太ももにキスをする。
「当麻君って。……エッチだね」
「秋沙に言われるのは心外だな。秋沙だってこういうの嫌じゃないって思ってるくせに」
「私そんなこと。言ってないよ」
「嫌なら言うんだろ? 嫌だって言わないって事は、秋沙もしたいってことだ」
「それ屁理屈だよ……。ふあ。あん」
くすぐったそうに姫神が身をよじった。
「普通のキスが良いな……」
「普通の?」
「唇に。して欲しい」
「おねだりなんてやっぱり秋沙もエッチじゃないか」
「……意地悪」
上条は太ももを撫でるのを止めて、再び姫神の上半身に体を向けた。
薄く微笑んで、上条の唇をねだっている。
軽く髪を撫でて再び姫神の唇に向けて顔を近づけると、姫神が目を瞑った。
上条はその唇を無視して、姫神の首筋に、キスした。
「えっ? あっ。ふぁぁぁぁ」
鼻にかかった、甘い声が漏れた。
そのあまりに本能的な姫神の喘ぎに、上条は理性をやられそうになった。
ここが個室なのは危険だ。ここが個室でよかったと喜ぶ自分の心が危険だ。
キスマークって、強めに吸ったらつくのかね?
興味本位が、半分あったことは否めない。
鎖骨の少し上を、上条は強めに吸った。
607:
「痛……」
「痛かったか。ごめん」
「ちょっとだけだけど。もしかして。当麻君」
「あ、痕になってる」
「嘘。当麻君。明日まで残ったらどうしよう」
「見せれば良いんじゃないのか?」
「無理だよ。そんな恥ずかしいこと。……恥ずかしいよ」
吸われたところを指で触れる姫神。戸惑う表情が、つい苛めたくさせるのだった。
「痕とか、残るほうか?」
「そんなことはないと思うけど……。当麻君。もうやっちゃ駄目だよ」
「残らないなら、いいだろ?」
「駄目だよ。駄目……あっ。あ。あ。あ」
制止を聞かずに、上条は首筋に連続でキスをしていく。少しずつうなじを上へと進んで、
最後に耳をまた噛んだ。
「ふぅぅんっ!」
姫神の甘い声が、悪いのだ。そんな声を聞いたら、あれもこれもしたくなる。
「秋沙。可愛いよ」
「素直に嬉しいって言えないよ。もう」
拗ねた顔も可愛いが、そろそろ機嫌を取ったほうが良いと思えた。
「秋沙」
「あ、当麻君。んちゅ……」
再び腰を落ち着けて、髪を撫でながらのキスを再開する。
今日がファーストキスだと思えないくらい、随分二人ともキスに慣れてきた。
啄ばむようなキスにも積極的に応えてくれる。
そこで上条は、アクシデントを装った。
自分の唇の間に割り込んできた姫神の唇を、舌で舐めた。
キスをしたまま、姫神と目が合った。
何を言い合ったわけでもない。だが、それだけで、舌を絡めても嫌じゃないと分かった。
「んんん……」
加減はよく分からないが、姫神の歯に触れるところまで、上条は舌を差し入れた。
自分の熱さとは違う他人の体温を感じる。何度目か分からないが、これはまずい、と上条は思った。
気持ちが良過ぎる。そしてこのキスは、親愛の情を伝える目的に留まらない。
もっと、深い体の関係への入り口になるキスだった。
それをもう、自分も姫神も、拒む術がない。溺れかけていた。
615:
足元で、お湯がパシャパシャと音を立てている。
そしてそれより熱っぽい水音が、唇と唇の間からこぼれている。
抵抗があるのか、閉じがちな姫神の歯と歯の間に舌をねじ込んでいく。
上条の舌を噛まない様にと、姫神は口を少し開いてくれた。
「ん! ん……」
姫神に息をつかせないくらい強引に舌を吸う。
戸惑う姫神を振り回す感じが、上条の心に火をつける。
前歯を撫ぜて、舌で舌を撫ぜて、時々姫神の唇を軽く噛んで、そして姫神の唾液を啜る。
お返しといわんばかりに、姫神の口の中に自分と姫神の唾液の混ざったものをとろりと口移しで流し込む。
上条の目を見つめたまま、姫神はコクリとそれを飲み込んだ。
それがアルコールだったかのように、薄赤く頬を染めて軽いため息をついた。
姫神も、『出来上がって』いた。上条は言うまでもなかった。
「秋沙が、可愛いから悪い」
「え……? あ、ああっ……ふああああぁぁぁぁ」
耳たぶを、噛んでやった。そしてそのままかすれ声で囁く。
効果は劇的で、それだけで姫神はかわいらしい声で鳴いた。
首筋をつつっと舐めるように、キスをするようになぞり上げて、耳を攻める。
上条は口でそれを繰り返しながら、手では姫神の体中を撫でた。
触っていいかがわからないから、きわどくはあっても、決定的なところには触れない。
それがむしろ、姫神の中に切ない気持ちを膨れ上がらせるように作用していた。
膝から、太ももを撫で上げて、水着に触れないギリギリで手を止める。
水着を避けてお腹、子宮のある辺りからおへそを経由して、みぞおちの辺りを撫でる。
胸を避けて鎖骨と肩に触れて、二の腕から手の先へと撫でていく。
上条にとっても姫神にとっても、もどかしかった。
姫神の体は、どこをとっても柔らかかった。
だからやっぱり、そこを触りたい。
好きな人に愛撫されるのは、姫神にとって初めての経験だ。それ以上をおねだりすることを、姫神はまだ考えられない。
だから、先にじれたのは上条のほう。
「嫌なら。止めるから」
「え……あっ」
お腹を撫でていた手を上に滑らせて、そっと、水着の上から、姫神の胸に触れた。
629:
マシュマロみたい、と聞いたことはある。
成る程、そう表現したくなる理由は分かるが、上条はこんなにも大きなマシュマロを握ったことがない。
「すげ……」
弾力の瑞々しい感じは、マシュマロとは全然違う。その感触になぜか感動した。
愛撫の意味を半分忘れて、手のひらの上でくにゅりくにゅりと形を変えて楽しんだ。
「秋沙のここ、すげえな」
「当麻君の馬鹿。……すごく恥ずかしいんだから」
「ごめん。嫌か?」
「嫌じゃないけど。でも。今日そんなことまでされるって私思ってなかったもん」
姫神が涙目だった。本当に恥ずかしいのだろう。
「気持ち、良いのか?」
「……わかんないよ。ちょっとくすぐったい」
キスほど、悦んでいる風には見えなかった。それに体を大きく撫ぜた方が嬉しそうな顔をしていた。
胸を揉むだけでは、余り気持ちよくないものなのだろうか。
女性の水着なんて触るのは初めてだったが、胸の前を覆う部分にはうすでのパッドみたいなものが入っていて、
姫神の胸の先端の形を、はっきりとは悟らせない。
軽く引っかくようにしながら指でこすっても、そこの変化が全く分からなくて、もどかしかった。
姫神の様子を窺いながら、そっと、上条は水着と胸の間に、指を滑り込ませようとした。
「だめっ」
「あ……ごめん」
「それは。駄目なの。まだ心の準備が出来てなくて……」
「いや、俺こそ強引に触ろうとして、ごめんな」
「うん。当麻君。怒った……?」
「え? なんで怒るんだよ。……愛してる、秋沙」
「うん!」
一番大事なところを触るのと胸をじかに触るのはまだ駄目だ、ということだった。
内心ではそれはそれは上条は残念に思っているが、姫神の嫌がることはしたくない。
謝る意味を込めて、キスをしてやった。それだけで姫神がふわりと笑う。
そんな可愛い顔を見せられるとますます体に触れたくなるので、困りものだった。
再び姫神を抱いて、今度は胸を触りながら、舌で姫神の舌を愛撫する。
もう恥らったり躊躇ったりせず、姫神は上条を受け入れることに悦びを感じていた。
時々漏れる嗚咽にも、自身の戸惑いが現れることは減って、自然な感じになってきている。
自分が姫神を女にしているのだという実感が、上条の男心をくすぐった。
「もっと、触りながらキスしたいな」
「はぁん……。え。当麻君?」
上条を見上げた顔がもう出来上がっている。先ほど胸を触られそうになって我に返ったばかりのはずなのに。
上条は姫神の体を優しく起こして、お湯の深いほうへといざなった。
631:
「当麻君……どうするの?」
気だるげに、姫神はちゃぷりと胸の辺りまでお湯に浸かる。
倒れてしまえば息の出来なくなるこの状態が、少ししんどいらしかった。
「こうする」
「え。きゃっ!」
姫神のお尻に触って、そのまま腰を持ち上げる。
そして、座っている自分の上へ、姫神を座らせる。
姫神が上条にまたがって、お互いに顔を向け合う、対面座位の状態になった。
「当麻君。これ……」
「こうしたら、俺が両手で秋沙を触りながらキスできるだろ?」
「それはそうだけど。でも。こんなの恥ずかしいよ……」
「なんで?」
「だって。その……」
ちらりと、下半身を気にするような仕草を姫神が見せた。
理由は分かる。この体位は、裸で抱き合うときにこそ意味のある姿勢だ。
あまり上条が姫神の下半身を引き寄せていないから今はあまり意識しないが、
ぎゅっと抱き寄せれば、お互いの体の最も恥ずかしいところが、擦れあう。
姫神もそれを意識しているらしかった。
「秋沙のエッチ」
「!? 馬鹿。当麻君の馬鹿。エッチなのは当麻君なのに」
「秋沙も充分エッチだろ」
「そんなことない」
「でもキスしたらすげえ嬉しそうだったじゃないか」
「キスが好きなのは。いいの」
「俺に体を触られるのも好きだろ?」
「だけど。私はエッチな子じゃない」
埒が明かない。
クスリと笑って、上条は姫神の首筋を吸った。
姫神は自分にまたがっているから、目線は姫神のほうが上だ。
だから首筋は狙いやすかった。
そして、ぎゅっと両手を背中に回して、全身で姫神を抱きしめた。
「あっ。ああ……」
やばい、と上条ですら思った。
この体位は、お互いの体の密着面積がものすごく大きい。
相手の温かみで得られる安心感が今までよりずっと深くて、
そして姫神は分からないが、上条にとっては、こう、興奮する体位だった。
632:
「はぁ……っ。ん。ん。あっ」
姫神の息のリズムがはぁはぁ、というよりは、はぁーっ、に近い。
息を吸うときははっと体が快感でピクリと痙攣するような感じで、
息を吐くときは体が快感に弛緩していくような感じ。
姫神の腕が上条の首に回され、落ち着ける場所を探した姫神の頭は、
上条の肩にもたれかかって耳元で甘い吐息をついている。
「気持ちいいか? 秋沙」
「うん。これ。良すぎておかしくなっちゃう……」
自由になった両手で、上条は大きく背中全体を撫でる。
時には髪の毛を撫でたり、お尻を撫でたりもする。
姫神の手が何かを握りたそうにわなないているときには、
手を繋いでやったりもする。
キスで心に火がついたのは見て分かっていたが、
今ではすっかり、体のほうも上条に手にやられているらしかった。
「キス。しよう……?」
「ん。起きれるか?」
「無理かも。当麻君。起こして欲しいな」
あっさりと無理といった声に、たっぷりと甘えが入っていた。
ちょっといつもより幼い感じのするそれが可愛くて、遠慮なく姫神を甘やかす。
だらりと上条にもたれかかった姫神の背中に手を添えて、軽く自分から引きはなす。
胸より上を密着させるとキスができないから、前に倒れこまないように胸を触って支えにした。
「エッチ」
「悪いかよ」
「あ。認めた」
「姫神が死ぬほど可愛いから、したくなるんだ」
「ふふ。当麻君はやっぱりエッチなんだ」
胸をクニクニと弄ばれて恥ずかしがりながらも、もう恥ずかしがって顔を背けることはなかった。
「秋沙」
「ぁ……当麻君」
一瞬。真剣な目で見詰め合った。
そして堰を切ったように、キスをはじめる。
「ん。んんんんんんん……」
舌を離さない。口で呼吸をする余地を与えないくらい、激しく吸い上げる。
両手で体の前と後ろを執拗に撫でる。胸とお尻を同時に撫でたりする。
もう、お尻のどの辺りまで触っているのかよく分からない。
お尻というよりかなり前に近いところまで撫でている気がするが、抗議の声は上がらない。
652:
上条だって健全な男子だ。これだけやって、興奮しないわけがない。
むしろここまで姫神の意思を無視して暴走したりしていないだけで理性があるほうだといえるだろう。
……だがそれも、そろそろ限界だった。
「あっ……。当麻君。あの。その」
「なんだよ」
「あの……」
はっとキスをするのを止めて、姫神が戸惑いを隠しきれずに目線をうろうろさせた。
上条が姫神の腰をぐっと引き寄せて、下半身を密着させたからだった。
「当たって。るよ……」
それを言うのが姫神の精一杯だった。
姫神は、自分の体の、誰にも触らせたことのない部分に、上条の体が触れているのが分かった。
硬い骨が当たっているような感触。だが、人体の構造上、そこに骨なんてない。
骨格が違うとはいえ、それは男女でも一緒のはずだ。
だから、それは。
「姫神が可愛いのが悪い」
「んっ! や、駄目。駄目だよ……」
姫神の肺が軽くつぶれて苦しそうな息を吐いた。それくらい、強く抱きしめた。
何かを言おうとする姫神の唇をキスでふさぐ。
そして姫神の腰を抱いた手に、さらに力を込める。二人の足の付け根が、ぎゅっと密着して擦れあう。
「あんっ! あっ! んぁ……ふぅんんん」
姫神の声のトーンが跳ね上がる。明らかに、キス以外の何かが原因だった。
女の子の可愛らしい反応は、男の側の理性を激しく奪う。
上条ももう、自分を押しとどめるものがほとんどなかった。
「秋沙。愛してる」
「私。も。ひゃんっ!」
愛してるという言葉は、言い訳にも使える言葉だ。
上条はビキニのトップスの下から、そっと指を差し込んだ。
「あ。駄目だよ……。当麻君。あっ! お願い。もう……んっんっ」
姫神の胸に、じかに触れる。
柔らかさはそのままに、布ではない姫神の肌の感触とダイレクトに伝わる温かみが心地良い。
それに、トップスの上からいくら引っかいても得られなかった、その感触が味わえた。
姫神が感じている証拠。ぷっくりとした突起の感触。人差し指と中指の間にあったそれを、
上条は指でこねくり回した。
「あっ! あっあっあっあっあっ」
断続的な悲鳴。駄目だよという言葉より、その嗚咽のほうが何より雄弁だった。
姫神が、自分の愛撫で感じている。それはたまらない充足感だった。
664:
「秋沙。気持ち良いか?」
「うんっ……気持ち。いいよ……っ! あっ」
このまま続けるのが、そろそろ生殺しで辛くなってきていた。
愛撫しあうことの恐ろしさを上条は理解し始めていた。
とめどなく、もっと先を望んでしまうこと。
今欲している快感を得てしまえば、さらに強い快感が欲しくなる。
それはたぶん、姫神も同じだと思うのだ。
「ふあっ」
姫神の胸の尖りを軽くひねるようにして摘む。
すると、ぴくんぴくんと姫神の体は痙攣して、そして、太ももをぎゅっと閉じようとするのだ。
太ももの間には上条の体が差し込まれているから、姫神はもっと上条を受け入れたいように見える。
「このまま、続き、してもいいか?」
「えっ……?」
「もっと秋沙を感じたい」
「あの。当麻君。それって」
「秋沙と。その……一つになりたい」
姫神は息を呑んで、顔を隠すように上条に倒れ掛かった。
髪のこすれる感覚で、首が横に振られたのが分かった。
「嫌、か?」
これも首を横に振る。
「怖い。よ……」
「優しくする」
「うん。当麻君が怖いんじゃないの」
「じゃあ、何?」
「私。はじめてなんだよ」
「そりゃ俺もだよ」
「キスしたのも。お尻を触られたもの。胸を触られたのも。今日が初めてなんだよ。
 全部嫌じゃなかったけど、ちょっと怖かった……あん」
姫神の耳を噛んだ。そのまま、囁く。
「秋沙が欲しい」
「うん」
「嫌ならすぐ止める。痛くてもすぐ止める。秋沙につらい思いは絶対にさせないから」
「うん。でも……あぁぁ」
姫神のビキニのボトムスに、指をかける。
駄目だという割りに抵抗は薄く、はっきりと拒まれることはない。
腰骨の感触を感じながら、そこまでボトムスを下ろしたところで。
――――ピリリリリ、と退出まで残り15分のお知らせが、控えめに鳴った。
665:
「当麻君。あん。可愛い」
「秋沙のおっぱいも可愛い」
「もう。……ふふ」
ちゅぱちゅぱという音がする。
時間のこともあって最後までは、出来なかった。
代わりに、姫神は胸を吸うことまでは上条に許したのだった。
姫神の胸に顔をうずめて、先端を吸う。
姫神が幼子を抱くように上条の頭を抱きしめていて、やけに上条は安心するのだった。
「当麻君。大好きだよ。ぁん……。やだ。ちょっと痛いよ。噛んじゃ駄目」
「ん。ごめん」
もう、理性がとろけていくほどの愛撫はしない。そのときの熱の残りで、軽い快感を楽しむのだった。
「私って母性本能強いのかな。なんか当麻君が子供みたいに見えてきた」
「子供って。子供と秋沙はこんなことしないだろ」
「こら。いけません」
お尻を触ろうとした手をはたかれた。もうそういうのは駄目らしかった。
この雰囲気を上条は好きだった。恋人に甘えるのも、悪くない。
「秋沙に抱いてもらうと、安心するな」
「本当? 嬉しい」
「でも、逆もやりたいってのが本音かな」
「逆?」
胸から脱出して、体の位置を動かす。
今度は姫神を自分の胸元に抱き込んでやった。
「あぁ……」
深いため息。背中を撫でてやると、姫神がくたりとなった。
「いつも当麻君にしてもらってるけど。これ。すごく安心するの」
「ん。これからもずっとしてやるから」
「うん。当麻君もまた抱いてあげるからね」
「なんかそれ誘ってるように聞こえる」
「そういう意味じゃないもん」
もう一度。ピリリリリと音がした。
「あと五分だな」
「……嫌だよ」
「うん。まあ。俺もだ」
「ずっと二人でこうしてたいよ。すごく。今の時間は幸せだったのに」
「でもこれ以上は止まらなくなるしな」
「……怖いけど。でも。それでもいいからずっと二人がいいのにな」
仕方なく、のろのろと二人は体を起こした。
682:
扉を開けると、元気にはしゃぎまわる子供の声が聞こえる。
ポップなBGMもあいまって、そこは完全に、日常の世界だった。
それに比べて、あまりに自分達の体は気だるい。
二人きりの時間を過ごしたらここで遊ぼうかといっていたのに、
もうそれは億劫な気持ちになっていた。
「……どうする? 秋沙」
「うん。ちょっと、疲れちゃったね」
「『ご休憩』したからな」
「もう」
それでもまあ、足をプールにつけて喋るくらいは良いかと思ったところで。
「あー! あのカップル一人用の風呂から出てきた!」
「うわー! えっち! えっち! えっち! カップルがエッチしてたー!!」
ざわ……ざわ……
視線が、上条と姫神に集まる。
えっちの具体的な意味も分からないような小学生のだけじゃなくて、
自分達と同年代の怨念のこもった目や、さらに年上の人たちの非難するような目もあった。
もうここで遊ぶどころではなかった。
姫神を隠すようにして、そそくさと二人はスパリゾート安泰泉を後にした。
683:
「お待たせ。当麻君」
「ん。それじゃあ、帰るか」
「うん」
ロビーで姫神と合流して、バス停に向かう。
お風呂で乱れたせいで濡れていた髪もすっかり乾いて、見かけはもう、いつもどおりに見えた。
それがすこし寂しくもある。
また、上条以外が見えなくなるくらい、姫神を乱れさせてやりたくなった。
「どれくらい待った……?」
「ん。ええと、20分くらいかな」
本当は30分に近かった。
「ごめんね」
「いいって。髪の毛、乾かしてたんだろ?」
「あ。うん……」
「……? 違うのか?」
姫神がなぜか言い淀んだ。
まあいくら髪が長いとはいえ、それだけじゃ上条と30分も差はつかないだろう。
化粧っ気の薄い姫神のことだから、そちらにもそこまで時間は掛からないような気もする。
「水着を洗ってたら。その……」
「水着? レンタルだし普通に返せばいいんじゃ」
「だ。駄目だよ。あんなの見られたら」
「え?」
「なんでもない。なんでもないの」
水着は濡れたって何の問題もない。水着なんだから。
……いや、水に濡れるのが問題ないだけで、その。
「秋沙。もしかして」
「帰ろう当麻君!」
ちょうどバスが来ている。
照れ隠しに怒るような感じで、足早に姫神はステップを登った。
684:
バスの中の、最後部の座席の端に二人は座った。
この夕方の早い時間に繁華街から帰る方向のバスに乗る人は少ない。
近い席に人はおらず、声さえ静かにしていればほぼ二人っきりの空気を楽しめる場所だった。
ぎゅっと上条の腕を抱いて、姫神はうつらうつらと眠りに落ちかけていた。
先ほどまであれだけ激しいことをしたのだ。
体力的には上条にとってはそうでもなかったが、女の子の姫神はどうか分からない。
それに精神的には、女の子のほうが疲れるのだろうと思う。だって、あれほど乱れるのだから。
……『果て』まで行かないと快楽を得られない男の上条としては、ちょっと悶々とする結末だった。
寝顔が見たくて、髪を僅かに掻き分けた。それで姫神が覚醒する。
「あ……。ごめんね。寝ちゃってた」
「いいって。着いたら起こすから、寝てていいぞ」
「うん。当麻君とくっついたまま寝るのすっごく幸せなんだけど。おしゃべりできる時間が減っちゃうのは残念かな」
「寝ながら喋るのは無理だからなあ」
「ふふ。そうだね。当麻君……撫でて欲しいな」
「ん」
さわさわと、おでこの少し上辺りを撫でてやる。
普段の物静かな雰囲気に加えて、眠そうなせいかおっとりした微笑が姫神の頬に浮かぶ。
一人起きてるのも寂しくて、上条も軽く目を瞑ろうかと思った。
「当麻君。今日のお夕飯。どうするの?」
「え? 秋沙を送ったら、買い物に行って適当に考える気だったけど」
「ってことは。外食とかはする予定ないんだよね?」
「まあな。うちは食費がハンパない生き物を二匹も飼ってるからな。まあ片方は常識的な量しか食わないけど」
スフィンクスの名誉のために、上条はフォローをしておいた。
ふむ、と姫神が何かを決意したような息を漏らす。
「じゃあ。作りに行ってもいい?」
「え?」
「私も帰ったら一人のご飯だし。せっかくこんなにいちゃいちゃしたのに。それは寂しいから」
「……そうだな、俺も秋沙とあっさり別れるのは寂しいって思ってた。
 でも、いいのか? うちじゃ二人っきりにはなれないけど」
「うん。それは分かってるから。皆でご飯を食べよう」
「姫神がそれで良いって言ってくれるんなら、俺は大歓迎だ。二人で作ればすぐだしさ」
「うん。それに早目が良いって。思ってたから。」
「え?」
眠そうだったはずの姫神の目は、何か、固い意志を感じさせるものに変わっていた。
その雰囲気を少しも崩さず、姫神は上条に笑いかけた。
「あの子に。私と当麻君がお付き合いを始めたって。ちゃんと報告しておかなくちゃね」
707:
寮よりの手前のバス停で降りて、買い物をする。
ぽろっとこぼした上条のリクエストで、姫神は肉じゃがを作ってくれることになった。
どう考えてもその日中に同居人に鍋の底まで平らげられてしまうのが悲しい。
「ちょっと晩御飯遅くなっちゃいそうだね」
「いつもよりは、そうだな。遅いってほどじゃないけど、インデックスが怒ってそうだ」
とっぷり日の暮れた道を、三人分の食材を手にして歩く。
同棲でもしていればこんなことは日常になるだろう。
つい、そういうシチュエーションを想像してしまう。
「大学行ったら、同棲とかするか?」
「えっ……えぇっ?」
「いや、ごめん。先の話をしすぎた。忘れてくれ」
「えっと。さすがに急でびっくりしちゃった。でも。ずっと当麻君と一緒にいられるのっていいね。
 同棲するとお互いにドキドキすることがなくなるから実は良くないって説もあるけど」
「あー、それは確かにあるなぁ」
「……あの子の事?」
「うん、まあ。それほど長いこと一緒にいるわけじゃないけど、毎日一緒だとさ。
 詰まんないことで喧嘩もするし、嫌なところも見えてくるだろ?
 掃除しないとか料理作らないとか服を俺のと一緒に洗濯すると文句言うとか」
「やっぱり好きな人のところには通うのが良いのかな」
「……秋沙がうちに来てご飯作ってくれるって、ものすごい嬉しいんだぞ?」
「ふふ。あんまり大したことは出来ないけど、気持ちはちゃんとこめて作るからね」
エントランスをくぐって、エレベータの扉を開く。
きっと出会い頭にお腹すいたと文句が飛んでくるのは間違いない。
代わり映えのしない自分と二人だけの夕食じゃなくて、
今日は秋沙がいるからインデックスも喜ぶだろうと、上条は気楽に考えた。
今日は私と当麻君と三人。あの子はそれをどう思うだろうと、姫神は良くないケースも想定して覚悟を決めた。
かすかな加度を足に感じて、勢いよくエレベータは登る。
夏には上条を待ちくたびれて玄関先で待っていることも良くあったが、
近頃はめっきり冷えてきてそんな光景も見なくなった。
エレベータから出て、上条は部屋のドアの鍵を開けた。
「ただいま」
「お帰りーとうま。ごはん、ごはん、ごはん!」
「ああ、うん。すぐ作るから」
玄関からはインデックスの姿は見えない。ベッドの上でごろごろしているのだろうか。
控えめに、うしろから姫神が声をかけた。
「お邪魔。します」
「あれとうま。誰か女の人の声がしたんだけど」
「うん。ご飯。作りに来たから」
「えっ? ……あいさ? どうしたの?」
インデックスが不思議そうに顔を覗かせた。
嬉しそうとも警戒しているとも見えないその態度に、人知れず姫神は体を硬くした。
715:
「あいさのごっはん、あいさのごっはん」
普段上条が料理をしているときなんてほとんど興味を持たないくせに、
インデックスは少し離れたところから姫神の包丁の動きを目で追っていた。
上条はその隣で茹でた卵の殻を剥いている。
「とうま。ちゃんと白身を傷つけないように剥いてほしいんだよ!」
「難しいんだよ。文句言うんなら自分で剥け。俺より下手なくせに」
「そんなことないもん!」
「ふふ。いつもこんな調子なの?」
喧嘩っぽい口調で言い合う二人を、姫神はほっとした気持ちで見ていた。
あの子とにらみ合うようなことになっては、食事どころではない。
そういう心配はしなくてすみそうだった。
それに、二人の会話はなんだか兄と妹というか、子供っぽい感じがして、それも安心材料だった。
「ん、秋沙。剥き終わった」
「ありがと。当麻君。鍋に入れてくれる?」
「了解っと」
上条は予想以上にきちんと料理をするようだ。
必要ならみりんと料理酒を自分の部屋から取ってくる気だったが、その必要もなかった。
甘めの味付けがインデックスの好みだということで、砂糖と味醂が多めの、こっくりとした味付けにした。
隣のコンロでさっと青菜を湯にくぐらせて、辛し和えを作る。
鍋一杯の肉じゃがとこれがあれば夕食としてそれなりのものだろう。
「あいさ、まだ?」
「煮物はすぐには出来ないよ。食べるのはあと一時間くらいしてからかな?」
「えーっ! お腹すいた」
「もう」
甘えてくれるインデックスを少し可愛いと感じてクスリとなる。
――その油断がいけなかったのか。
「そういえばあいさ。とうまのこと、下の名前で呼んでるんだね」
「えっ?」
「とうまも、あいさって呼んだ」
「ああ、えっとそれはだなインデックス」
むー、とインデックスに睨まれる。直接睨まれている上条の隣で姫神もたじろいでいた。
「あいさに変なことしたんじゃだめなんだよ! とうま!」
「へへへへへへ変なことってなんだよ?!」
「そ。そうだよ。変なことなんて。別に」
つい数時間前に姫神の胸を吸っていたのは誰だったか、思い出して上条も姫神も真っ赤になった。
726:
「飯炊けたぞー」
「うん。肉じゃがはまだ冷めてないから、このまま出すね」
インデックスはもうテーブルの前に座って、完全にスタンバイしていた。
姫神が鍋を持っていくと、インデックスが恭しくテーブルに鍋敷きを置いた。
かぱりと姫神が蓋を開ける。醤油と味醂で似た牛肉とジャガイモのいい匂いが、ふわっと広がる。
「うわぁぁぁぁぁぁ……」
インデックスは目をキラキラ輝かせてもう待てそうにもない、という表情をしていた。
……なので、上条は自分と姫神の分のご飯をよそってから、最後にインデックスに茶碗を渡す。
「それじゃあ。召し上がれ」
「うん!! いただきます!」
はぐはぐはぐはぐはぐはぐ!
こっちの様子を見てもいない。上条はいつもどおりのインデックスにため息をついた。
向かい合わせに座った姫神に、ありがとな、と伝える。
ううん。と首を横に振る姫神と、どこか、子供を持った夫婦みたいな気持ちを味わった。
「それじゃ、俺も頂きます」
「頂きます。当麻君の口に合えばいいな」
「絶対に大丈夫なんだよ。とうまのご飯の100倍美味しいから」
「作ってもらってばっかりのお前に言われたかねーよ」
「ふふ。喜んでもらえてよかった」
「あいさ! これからは毎日来てくれるの?!」
「えっ?」
驚く姫神を見つめたのは一瞬だった。あっというまに目線を再び肉じゃがに戻して、
もりもりと口に運んでいく。
「毎日。来てもいいのかな?」
「え? なんで?」
「お邪魔じゃないかなって」
「そんなことないよ! とうまは全然遊んでくれないし、あいさがいてくれたら嬉しいもん」
「そっか」
ほっとしたように、姫神が薄く笑う。
上条としても、三人で食事を取れるのは嬉しいし、丸く収まったみたいで良かった、と安堵した。
「おかわり!」
「へいへい。入れてやるから皿貸せ」
「お肉っお肉っ」
「全員平等にだ。お前に肉を全部献上することは断じてありえない」
「わたし全部なんて言ってないもん!」
「全部食いかねない勢いだろーが!」
「ふふ」
上条家の食卓は、いつもこんな感じなんだろうか。
姫神も、自分で作った肉じゃがに手をつけた。
727:
「ごちそうさま」
「ごちそうさま、あいさ」
「うん。おそまつさまでした」
上条家にある最大の鍋は5リットル。
肉も400グラムあったしジャガイモは全部で14個も入れたのに、
目の前の鍋はもうさっと洗えばもう綺麗になる状態だった。
すっからかんとも言う。
「はぁ、コレだけあっても明日の分はないんだもんなぁ」
「もしかして、あったらあった分だけ食べられちゃうの?」
「そうなんだよ! ったく、底なしって言うかこんだけ食べてよく太らないよな」
「ちゃんと成長に使ってるから平気なんだもん!」
「成長ねえ」
どこが、というような話はしない。もうそれはすでにやって、すでに噛み付かれたことがある。
「さて、んじゃ洗い物してくるわ」
「あ。手伝うよ」
「いいって。ほとんど作ってもらってたんだし、片づけくらいはするから。
 それよりインデックスのお守りを頼む」
「とうま! 私はべつに遊んでもらえないくらいで怒ったりしないもん!」
「いや毎日怒ってるだろ……」
鍋と三人分の食器を台所に運ぶ。
リビングではインデックスが姫神をベッドサイドに連れて行って、二人でテレビを見始めていた。
「あっ、カナミンの曲だ!」
「カナミン?」
「あいさは見てないの? 超起動少女(マジカルパワード)カナミン」
「私は見てない。これ好きなの?」
「うん! あ……でも」
何かを思い出したらしく、勢いよく好きと応えた声が、急にしおれた。
「ちょっとこないだの回は嫌だったな」
「ふうん。時期的に最終回まではあと二、三話くらいかな」
「えっ? カナミン、終わっちゃうの?」
「それはアニメだから。いつかは終わるものだけど」
水道の音のせいで上条からは二人の会話ははっきりとは聞き取れないが、
仲良く話しているようだった。
食べてすぐの食器は汚れも落としやすいし、何よりご飯粒一つ残っていないので、
洗いものはさっと済んでしまった。
タオルで手を拭いて、上条も二人に合流すべくリビングへ向かう。
上条は、インデックスと姫神が二人並んだ、その姫神側の方に腰掛けた。
728:
インデックスが少し訝しげな表情をしたことに、上条は気づかなかった。
別に自分から番組を変える気もなくて、カナミンのオープニングテーマを流す番組をそのまま眺める。
「ねーねー秋沙。今日はいつまでいるの?」
「えっと。明日に差支えがなければ。何時でもいいんだけど」
「じゃあゲームしよう! 最近これ、よくやってるんだ」
「あ。うん。いいけど……」
インデックスが傍らに置いたボードゲームを広げようとする。
「こっちのゲームでもいいし、テレビ使うほうのゲームでも良いよ。あいさはどれがいい?」
「えっと」
もうゲームをするんだといわんばかりに、インデックスがあれこれと用意をする。
その勢いに飲まれたせいで、姫神は言う機会を逸してしまう。
だが、今日ここに来た目的は、インデックスとゲームをすることではない。
吹寄が少し、姫神から距離を置いてしまったように。
常盤台中学の女の子が、全く縁のなかった自分に隔意ある視線を向けるようになってしまったように。
もしインデックスに、自分と上条のことを言ってしまったら、これまで通りには接してもらえないかもしれない。
そう多いとはいえない友達の一人だし、納得はしていなくても、
インデックスが上条と離れがたい関係にあるのは知っている。
上条の取り合いになって、いがみ合うことになるのは避けたかった。
だがそれ以上に、『恋人』を取り合うことは、絶対に避ける気だった。
そっと手を、上条に絡めた。驚いた雰囲気が腕から伝わる。
インデックスの前で睦みあうことに、上条がどんな顔をするのか、確かめた。
「秋沙」
大好きな恋人の声には、戸惑いとためらいの響き。
チリチリとそれだけで燃え上がる何かがあった。
大切なのは私でしょ。あの子に知られたって構わないでしょ。
「ちゃんと。言わないと」
言いたいことは別だった。
私のことが好きなんだ、って、あの子の前で言って欲しい。
あの子に姫神秋沙は俺の彼女だと明言して欲しい。
私とあの子の立場をちゃんと区別して欲しい。
自分が一番嫉妬している相手はインデックスなのだと、姫神は自覚していた。
だって、こんなにも毎日、上条の傍にいる女の子がいたら。
そしてその子が可愛くて、健気な、いい子なら。
大好きな上条当麻という人が、なびいてしまうかもしれないから。
731:
「あっ、とうま! ……あいさに何してるの」
「へ? え、いやこれは、その、腕組んでるん、だけど」
「次はどこに触る気なの?」
「次ってなんだよ」
「あいさも気をつけて。とうまは油断したらすぐえっちなことするんだから!」
「ひ、人聞きの悪い」
「当麻君」
思わず放しかけた腕を、姫神が手繰り寄せた。
切ない目が上条を見つめる。
それだけで罪悪感が心をざわめかせた。
「とうま……あいさも、どうかしたの? さっきから思ってたけど、今日はなんか二人とも変だよ」
「変か。なあインデックス、その、どうしてそう見える?」
「えっと、よくわかんないけど、とうまがえっちなことをしてもあいさが怒らないし。
 それにとうまが女の人と腕組んでるってそれだけで変かも」
「うん。自分で言うのもなんだけど、変だな」
「だから私はそう言ってるんだよ」
ぎゅ、と上条の腕を姫神がきつく抱きこむ。姫神はもうインデックスのほうを見ていなかった。
インデックスはそれで、今日姫神がこの家に着てからずっと薄く感じていた、
なんともいえない疎外感、それをはっきり悟った。
上条と自分の二人の家にいながら、いつもの空気と違う。お客様がいるからではない。
自分と上条と姫神、三人がいて自分だけが「独り」なのだと感じる。
部屋の距離感がおかしくなって、急に上条が遠く見えるような感じをインデックスは覚えた。
「なあインデックス。報告が、あるんだけどさ」
「えっ?」
ドキリと、心臓がテンポを急に変える。
上条との間に何度か遭遇した、ちょっと幸せで恥ずかしくなるような、あのドキドキとは違う。
むしろ嫌な夢から覚めた直後の、まだあれが夢だったと認識するより前の圧迫感に近い。
姫神が自分のほうを見ないのが嫌だった。仲良くした人にそっぽを向けられる、その理由が知りたい。
……いや、知りたくない。理由を知ってはいけないような、そんな気がする。
「俺と秋沙のことなんだけど」
今更、今になってようやく、上条が姫神のことを秋沙と呼ぶことが気に障りだした。
当麻君、なんて呼び方もおかしいのだ。
上条が姫神のことを好きなのも、姫神が上条のことを好きなのも知っていたが、
それでも今までは互いに苗字で呼び合ってきたのに。
自分の目の前で、二人がそっと見詰め合ったのが分かった。
上条が優しい目で姫神を見つめたのが分かる。いたわるような、安心させるような微笑。
……それを見て自分の心の中に処理しきれないような怒りが湧いたのが分かった。
「インデックス、聞いてくれ。ついこの間のことなんだけど。
 ……その、伝えるのが遅れて悪い。俺と秋沙は――」
呼吸を上手く出来ない。体が急にこわばってしまった。そんな自分を意に介さず、上条が言葉を続ける。
「今、付き合ってるんだ」
732:
「……え?」
科学の話をしたときのような。
インデックスが初めに返した言葉は、自分が知らない単語を聞いたときの、その態度だった。
「付き合う、って?」
「え?」
聞き返したいのは、むしろ上条だった。
インデックスを日本語の分からない少女のように扱ったことなど一度もない。
科学的な知識はさておいて、こういう普通のことに疎い面など見たことがなかった。
「いやだから、秋沙が俺の彼女になるって話で」
「あいさがとうまの、彼女?」
「そうだよ……インデックス?」
「なに?」
「なにじゃねえよ」
上条はどうもよく分かってないように見えるインデックスに、ついつっけんどんになる。
知り合いに彼女が出来たなんて話をするのは照れくさいのだ。
それに、ずっと一緒に住んできた相手、それも女の子に報告するのは、どこか後ろめたかった。
「付き合うっていうのは。抱きしめあったりキスしたりする関係ってことだよ」
誰に目を合わせるでもなく、取り立てて特別でもない説明を、姫神が呟く。
それは上条とインデックスを、ハッとさせるような一言だった。
「だ、だめだよ! そんなの」
「どうして?」
「だってとうまは……えっちなんだもん!」
「エッチだったら。どうして駄目なの?」
「だってとうまはすぐ出合った女の人と仲良くなるし、あっちこっちでそういう人増やすし」
「そうなの? 当麻君」
「え?」
急に話を振られて上条は戸惑う。
ちらと上条を一瞥して、姫神の視線はインデックスに向かった。
「あちこちで知り合った女の人と。キスをしたの?」
「そんなことねえよ。秋沙とだけだ」
「えっ……?」
「ありがとう。当麻君」
困惑を浮かべたインデックスの顔から、瞬間、沢山の感情が剥落した。
733:
「当麻君は。私と他の女の人は別だって想ってくれてる。私は当麻君の彼女なの」
「でもっ……駄目だもん」
「どうして? あなたは。当麻君の何?」
「とうまは私の大切な人だもん!!」
「私が聞いてるのはあなたが当麻君の何なのかだよ」
「そんなの……! とうまに聞いてみればいいよ!」
一転して、混乱と、敵意と言ってもいいような何かをインデックスは浮かべる。
「いや、そりゃ嫌いならこの家に置いたりなんてしないけど」
「私は、当麻の何なの?」
「……何って、まあ、同居人、だろ」
恋人では、なかった。大切な人ではあっただろうと、上条は思う。
でもそれでもやはりインデックスは上条にとって、彼女ではなかった。
自分の大切な、たった一人の女の子。その名はもう姫神秋沙と決まっているのだ。
「とうまは、私のこと嫌いなの?」
「んなわけあるか」
「じゃあ、あいさと比べて、私のこと」
「比べるのはおかしいよ。私は当麻君の彼女で、あなたは違うから」
全ての議論を姫神が遮った。反論の余地のない、バッサリとした断定だった。
上条も、そしてインデックスも、何もそれに言い返せなかった。
インデックスがキッと自分を睨みつけたのに、姫神は気づいた。
自分は取り繕っている気でいるが、あるかないか分からない仮面の下で、
自分もインデックスと同じ表情をしている自覚があった。
だから、なんとなく次の一言も分かった。
「出てって」
「え……?」
驚きに呆然としたのは上条の声。
視線は絶対に逸らさない。まっすぐインデックスを射抜く。
姫神を突き放すように、もう一度インデックスが叫んだ。
「あいさは出て行って!!!!」
741:
「インデックス!!」
姫神とインデックス、二人ともがその怒声にびくり、となった。
こんな風に上条に怒られたことはインデックスは一度もなかった。
だから、怖かった。そして、反射的に覚えたその感情が緩和するにつれて、
別の感情が、じわじわと心を蝕んだ。
事情なんてどうでも良くて、突きつけられたのは自分だけが怒られたという事実。
「そんな言い方はないだろ。誰だろうが、ウチに上げといて出て行けってのは、
 それは言っていいようなことじゃないだろ」
「なんで。とうまは私だけ怒るの?」
「なんでって、出て行けって言ったのお前じゃないか」
「あいさだって私と言い合いしたのに!」
「それとこれとは話が違うだろ?」
「私、ずっと一緒にとうまはいてくれるって思ってたのに! なのに……!」
表し方の分からない想いが、絶えかねたようにぽろりと目じりからこぼれる。
「とうまはどうしてあいさの肩を持つの?」
「だから別にそんなつもりないって言ってるだろ!?」
「とうまのうそつき!」
「意味わかんねぇよ」
噛み付いてきたりなんて、インデックスはしなかった。
憎しみというよりは裏切られたような、傷ついたような顔。
ただの二人の喧嘩なら、上条はもっとインデックスを気遣えたのかもしれない。
今はただ、インデックスの感情論に不快感を覚えることしか出来なかった。
「……私。帰るね」
「あ、秋沙」
「ここにいても。こじれるだけになっちゃうから」
「……ごめんな。せっかく、晩飯まで作ってもらったのにさ」
「ううん。気にしないで。それじゃ、お邪魔しました」
他人行儀に、それでも挨拶をした姫神とは対象に、インデックスは目をあわせようともしなかった。
姫神のことも好いていただけに、裏切られたという思いは強かった。
上条が腰を上げてインデックスと姫神を見た。
姫神を送っていくか、それともインデックスをなだめるか。
姫神はそれなりに平静だ。二人の女の子の様子で判断すれば、インデックスの面倒を見るべきかもしれない。
「インデックス。秋沙を送ってくるから」
「あ……」
「すぐ帰ってくる」
上条は、『身内』より『彼女』を選んだ。愛情の多寡ではなく、それは日本的な価値観の発露だった。
だが二人の女の子は、そんな風には受け取れない。
一方は優越感を感じたことに後ろめたさを覚えて、もう一方は捨てられたような気持ちを、いっそう強く覚えた。
743:
「やっぱり。こうなっちゃった」
「秋沙?」
「半分くらいは覚悟してたんだけど。これはもう嫌われちゃったかもしれないね」
「その、ごめんな。あとで言っておくから」
「止めといたほうがいいと思う」
「え?」
「大好きな人が他の女を選んだせいで傷ついてるのに。その人からさらに叱られたりしたら。
 どうしようもないくらい傷つくよ。私があの子の気持ちを語るのはおこがましいけど。それは分かる」
エレベータを降りて、エントランスに出る。
そもそもマンションの外に出ないから送るほどの事もない。
ここで別れればいいかと思った上条の手を、姫神が引く。
まだそこまで遅い時間ではない。女子棟のほうへと、上条はついていった。
「秋沙はあいつに怒ってないか?」
「うん。怒られる理由はあるけど怒る理由はないから」
「問題はやっぱインデックスか。仲直り、してくれるといいけどさ」
「うん……」
「やっぱり、三人の時にも仲良くいられるのがいいしな」
「……」
「秋沙?」
階段を上る足をぱたりと止めた。
「3人で恋人同士はできないよ」
「え?」
「あの子は当麻君の何でいたいのかな? ただの同居人でいいのかな?」
「……」
「もしそれで満足できないんだったら。3人でっていうのは。ありえないよ」
インデックスは、自分のことをどう見ているのだろう。
さんざん悪口を言われるが、それは愛情の裏返しだと思える。
ときどき女らしい態度にドキリとさせられることはあるが、
向こうが意識しているわけじゃなくて、年頃の上条が過剰に気にしているだけだと思う。
……今までそう思ってきた。だが姫神の口ぶりは、そうではないのだと言っている。
部屋に帰って、どんな顔をすれば良いのか上条には分からなかった。
「うちに上がる?」
「……いや、一応早く帰ってやろうとは、思うし」
「そっか」
「ごめん」
「気にしないで。私もそのほうがいいと思うから。……でも当麻君」
何かを欲しがる目。今日は沢山愛し合った。だから言われなくても分かる。
カチャ、とドアのノブに姫神が手をついた音がする。
姫神を扉に押し付けるようにしながら、上条は姫神の唇を深く吸った。
「おやすみ秋沙。愛してる」
「うん。当麻君もお休み。大好きだよ」
746:
姫神を送ってすぐにきびすを返し、自宅のドアを開ける。
出しかけたゲームや上条の鞄がリビングに居座っていて、さっきの雰囲気を残していた。
「ただいま」
ベッドの上で体育座りになってインデックスは俯いている。
くしゃりと頭を撫でて、上条は部屋の片づけを始めた。
せめて、周りだけでもいつもどおりを取り繕ってやれるように。
……風呂の湯を沸かしはじめたところで、ようやくインデックスが口を開いた。
「私。出て行かなくてもいいのかな……?」
「え? 出て行くって」
「だって。私はもう、ここにいちゃいけないのかなって」
「なんでだよ」
予想以上に悪い方向に考えすぎているインデックスが心配で、上条はベッドに腰掛けた。
もう一度、頭を撫でてやる。
「とうまに。嫌われちゃったもん」
「その嫌ってるはずの上条さんは今お前の頭を撫でてるんだけどな」
「ねえとうま」
「ん?」
「わたし。とうまの何なのかな」
それは上条に向けての疑問というよりも、自分がその答えを持っていないことへのやるせなさのようだった。
答えるべきか、悩む。ただの同居人だとは答えづらかった。それは確かに上条にとっても正しい答えではないのだ。
ただのルームメイトとは違う、恋人とも違う、兄妹とも違う、そういうカテゴリに当てはめにくい、
世界でも自分達二人だけかもしれない、不思議な関係だった。
「お前はなんだと思うんだ?」
「わかんないよ。とうまにとって私はどういう存在なのか。とうまが教えてよ」
「……お前といると、楽しいよ」
二人とも、カーペットに穴でもあけるようにじっと一点を見つめる。
部屋が明るいのが少し、鬱陶しかった。
「私も、とうまと一緒にいると楽しいよ。遊んでもらえると嬉しいよ」
「……それが答えじゃ、だめなのか?」
「だって、答えじゃないもん。私はとうまにとってこういう人ですって、言葉にしたいんだよ」
だが、答えは出ない。簡単に答えが出ないからずっとそんなことは頭の片隅にやって、ただ、楽しくやってきた。
「明日からも、ここにいていい?」
「当たり前だろ?」
「とうまの傍にいても、いい?」
「聞かなくても良いって。お前が出て行きたいって言うまで追い出したりしねーから、
 ウジウジなやんだりなんかせずにずっと笑ってれば良いんだよ。お前は」
「とうま。とうま……っ」
ふぁさりと衣擦れの音がして、インデックスが上条にすがりついた。
急なその動きにあわせられなくて、上条はインデックスを抱えてベッドに倒れこむ。
首に腕が回されて、上条の胸の上にインデックスが鼻をこすりつけた。
かける言葉が上条にはなくて、インデックスは上条のシャツに涙を染み込ませるだけだった。
上条はプールで抱いた姫神の感触を思い出して、後ろめたい思いを感じながらインデックスの髪を撫でた。
姫神の匂いがしない上条のシャツに、インデックスは沢山のものを刻み付けた。
749:
「……落ち着いたか?」
「まだだもん」
インデックスの嗚咽が収まってしばらく。風呂の湯が入ったお知らせが鳴った。
「でも風呂沸いたから、さっさと入ってくれないと」
「うん。あともうちょっとしたら入る」
インデックスは上条の胸に耳を押し当てていた。上条の心臓の音を聞いて、安心しているらしかった。
不意にインデックスが顔を上げる。いつになく間近で、二人は見詰め合う。
「私は。とうまが大好き」
「お、おう。ありがとな」
「……お風呂に入ってくるね」
「ああ……」
インデックスのことが、いつも以上によく分からなかった。
部屋の隅の引き出し、インデックスの専用になったそこからパジャマを取り出し、
上条に見えないように下着をパジャマに包んで隠して、風呂場に向かった。
ピリリ、と上条の携帯にメールが届く。
ぴたりとインデックスは一瞬立ち止まって、振り返らずに洗面所へと入っていった。
ポケットから取り出して覗いた画面には、姫神からではなくて土御門からの他愛もないメール。
返事も面倒でそのまま閉じて、テーブルの上に置いた。
にぎやかしにテレビの電源を入れる。
インデックスが服を脱いで風呂に入る音を聞かないためのマナーだった。
そうやって、殊更に意識してしまうようなことは避けてきた。
いつまでも、今までみたいな関係でいられたらいい。
それが偽らざる上条の願いであり、そんな幻想はもう終わりなのだと、心のどこかで感じていた。
ぼんやり天井を眺めていると、インデックスが風呂から上がってきた。
入れ違いに上条も入って、さっさとお湯を抜いてしまう。
言葉も少なに、いつもより早い時間に寝てしまうことにした。
「ねえとうま」
「ん?」
「今日も、お風呂で寝るの?」
「そりゃそのつもりだけど」
「……ここ、とうまの家なのに。私がベッドで寝たら変だよね」
「い、いや。それなりに理由があってこうなってるわけでさ」
「……そうだね。ごめんね」
「なんだよいきなり。別にいいって」
「うん。それじゃおやすみとうま」
「ああ、おやすみ」
突然にそんなことを言い出したインデックスの真意がつかめなかった。
首をかしげながら風呂場に向かって、電気を消して、
……あまり寝付けずに、長い夜を過ごすことになった。
757:
「とうま、朝だよ」
「ん……」
コツコツと風呂場の扉を叩く音がする。
インデックスも上条も寝起きはいいほうで、どちらがどちらを起こすというほどのこともない。
「起きた? とうま」
「んー。起きた」
扉をガラリと開けて、洗面所に出る。顔を洗ったところで、ふと匂いに気づいた。
香ばしいというか、焦げるところまで若干いってるんじゃないかというようなトーストの匂い。
「あれ、インデックス」
「おはよう、とうま」
「おはよう。トースト焼いてるみたいだけど、どうしたんだ?」
「……とうま、ごめんね。ちょっと焦げちゃった」
「いや、煙が出てないし致命的じゃないのは分かるからいい。自分の分を焼いたのか?」
お腹すいたと文句を言うのが普段なのに。
インデックスが手にした皿は二つ。上条の分も焼いてあるのだった。
「とうまは朝はいつもバタバタだから。私がやってあげたらとうまは喜んでくれるかな、って」
「あ、ああ。そりゃもちろん助かる。すげー助かる」
「そっか。よかった」
ほっとしたようにインデックスが笑う。戸惑いはあるが、なんだか幸せな朝の光景だった。
飲み物と手でちぎるだけの簡単な野菜とハムも用意してあった。
インデックスが自分で出来る精一杯だったのだろう。朝食としてはもう充分だった。
「朝ごはん、これで大丈夫かな?」
「完璧だ。じゃ、頂きます」
「うん。私もいただきます」
いつもより5分早く、朝食を済ませる。その少しの差で朝はずいぶんゆとりを感じる。
ここからは普段なら洗い物をしてゴミをまとめて着替えるところだ。
だが今日は、食べ終わった後率先してインデックスが動いてくれた。
さっと着替えて、洗い物をするインデックスの隣でゴミ袋の口を縛っていく。
「すげぇ……いつもの登校時間まであと10分もあるじゃねーか。ありがとな、インデックス」
「うん。とうまが喜んでくれてよかった」
「にしても、急にどうしたんだ?」
「頑張ろうって思ったんだよ」
「え?」
「とうまにもっと、褒めて欲しいから」
引っかかるものは、ないでもない。なにせ昨日の今日だ。
褒めて、というインデックスの頭を条件反射で撫でた。眩しそうなその表情は、素直に可愛いと思う。
「もう行っちゃうの?」
「急ぐ必要はないけど、別にすることもないしな」
「わかった。とうま……」
突然、インデックスがきゅっと上条に抱きついた。
なんだか今日は突然に新婚夫婦にでもなってしまったみたいで落ち着かない。
彼女が他にいるから、それはなおさら落ち着かない。
「お、おいインデックス。もう行くからさ」
「うん。なるべく早く、帰ってきてね」
「う、わ、わかった」
インデックスがハンガーにかかった上条の学ランを手にとって、さっと広げてくれた。
そのまま、上条が着るのを手伝った。前のボタンを止めている間に、鞄を抱いて待ってくれている。
「いってらっしゃい、とうま」
「ん。行ってくる」
玄関まで見送ってくれるインデックスの顔が曇っているのが、やけに罪悪感を感じさせるのだった。
エレベータを降りれば、きっと姫神が待っているはずだった。
777:
「当麻君。今日は放課後、どうするの?」
「秋沙は行きたいトコあるか? ……昨日と同じとか」
「駄目。あんなの毎日したらおかしくなっちゃうよ」
「おかしくなっちゃう秋沙を俺は毎日でも見たいけどな」
「もう……」
「だって昨日の秋沙はあんなに可愛い顔で」
「駄目! 当麻君ここ街中なのに……。恥ずかしいよ」
時間に余裕のある通学路を姫神と二人で歩く。
放課後の予定を話し合いながらも、どこか上条はそれにのめり込めなかった。
「当麻君。……今日は忙しい?」
「え? なんで?」
「何かを気にしているみたいだし」
「あー」
ガリガリと頭をかく。
姫神は上条がいつもどおりでないことに気づいているらしかった。
「早く帰ってきて、ってインデックスの奴に言われてさ。まあ、いつものことだから気にしなくても良いんだけど」
「……」
「悪い。朝から秋沙に話すようなことじゃなかったな」
「ううん。あの子は。どんな感じ?」
「いつもどおり、とは行かないけど、昨日よりは落ち着いたと思う」
聞きたいのは、インデックスが上条をどう見ているのか。もう、諦めてくれたのか。
だが姫神はそれ以上を聞けなかった。露骨な嫉妬を上条に見せるのを躊躇った。
仮にインデックスが足掻いたとして、自分の『勝ち』は揺るがないだろう。
上条が恋人だと見ていてくれるのは自分だけだから。
そういう理屈で、姫神は不安を心の中に閉じ込めた。
その日、放課後は結局どこにも行かずに二人で寮まで帰った。
780:
「おかえり、とうま」
「ただいま」
扉を開けるとすぐ、パタパタと足音を鳴らしてインデックスが迎えてくれた。
今まではリビングに寝そべったままが普通だったので、戸惑った。
そっと上条の手を握って、手にした鞄を預かる。それを胸に抱く仕草に、ドキッとした。
「な、なんだよ。急にこんなことしてさ」
「とうまが喜んでくれるかなって。まいかが教えてくれたの」
「舞夏が?」
「うん。男の人を落とすテクだって」
ぶは、と上条は噴き出した。アイツ誰に何を教えやがるんだ。
「落とすってお前意味分かってるのか?」
「好きになってもらうって意味でしょ?」
きょとんとした瞳でそう返された。間違ってはいない。
そして昨日までのインデックスなら、やっぱり意味を分かってないのかと決め付けるところだったが、
なんとなく、今朝からインデックスは違って見えるのだった。
「まあ、そうだけど……インデックス。これから買い物行くけど、来るか?」
夕食の準備をせねばならない。
帰り際に買い物を済ませても良かったのだが、献立を考えるのが面倒な日には、
インデックスをスーパーに連れて行くと早く決まって便利なのだった。
当然、行く、という返事を予想していた上条だったが、
「あ、その。とうま、今日はね」
インデックスは何か見せたげな顔をして、台所に向かった。
コンロの上の小さな鍋の蓋を、ぱかりとあける。つられて台所に入ると味醂と出汁のいい匂いがした。
「高野豆腐?」
「うん。あのね、まいかに教えてもらって作ったの」
椎茸と乱切りのにんじんと、高野豆腐の炊きあわせだった。
さすがにインデックスの独力ではないのが分かる。舞夏に感謝すべき出来だった。
「すげぇ! 朝もだけど晩飯も作ってくれたのか!」
「うん! えへへ。味見はして、そんなに変じゃないと思ったから、夜は私が作ったのでいいかな……?」
「味は大丈夫なんだな?」
「むー、とうま、失礼なんだよ。ほら味見!」
味を含めるために冷ましている途中の、ほろぬくい高野豆腐を一切れ菜ばしで摘んで、上条に差し出した。
口をあけてそれを受け入れる。
「――――うまい」
「何点くらい?」
「いやこれは……ぶっちゃけ俺が作るより美味い。満点でいいだろ」
「ほんと!? とうま、あのね、あのね、これだけじゃご飯にならないから、
 ほうれん草のごまマヨネーズ和えっていうのを作ったの。
 あとはお味噌汁も教えてもらったから、ご飯の前にそれも用意するね」
「お、おう」
「あの、でもね。あんまりお肉が入ってないからちょっと物足りないかもって」
「いやいいよ。これだけ有れば充分だって。……すごいじゃないか、インデックス」
「とうまに喜んでもらえたらいいなぁって」
「スゲー嬉しい。マジ嬉しい」
インデックス専属の家政夫として働いてはや数ヶ月。
ようやくインデックスも家事を覚る気になってくれたらしい。とてもそれは喜ばしいことだった。
「とうま。食べてもらう前だけど……撫でて欲しいな」
子犬みたいにはしゃいで喜ぶインデックスが可愛くて、言われるままにグリグリ撫でてやった。
ちょっと乱暴なその仕草に目を眩しそうにしながら、インデックスは上条に抱きついた。
791:
「インデックスが晩飯作ってくれたとなると、今日は夜まで結構余裕あるな」
「うんっ! だから、遊ぼうよとうま」
「んー、けど宿題やらなきゃいけないし」
「えー……つまんない」
「俺も宿題なんてつまんねーよ」
上条は思案する。別に宿題は今でも寝る前でもいい。ただし寝る前はやる気が極端に低い。
一方インデックスは褒めてもらえたのが嬉しいのか、今からもう遊ぶ気全開、という感じだった。
「宿題って……すぐ終わる?」
「一時間はかかるかなぁ」
「そっか……晩御飯終わったあとのほうが長く遊べるよね」
「だな」
「じゃあ、今は我慢する」
また、違和感。
駄々を捏ねることにかけては子供並みのインデックスが、あっさり引き下がった。
インデックスとの距離が分からない。
これくらいなら言ってもいいとか、許されるという線引きの部分がぼやけてしまっている。
きっとそれが理由で、インデックスも引いてしまうのだろう。
踏み込みすぎれば、嫌われるから。
上条もどこまで追いすがっていいのかわからなかった。
踏み込みすぎれば、傷つけてしまいそうで。
「お茶、淹れてあげるね」
「……おう。ありがとな。ってかそれも舞夏に習ったのか?」
「ちがうもん。お茶は前から淹れられたもん」
軽口はいい。互いの距離を測るいいジャブになる。
きっと両方にとってそれは有り難い会話だった。
薄っぺらい鞄からプリントとシャープペンシルを取り出して、宿題に取り掛かる。
古文の再々々々テストの復習問題だった。もう何度目なのか記憶も曖昧なくらいだ。
しばらくにらめっこをしているとケトルからお湯を注ぐコポコポという音が聞こえた。
「はい、とうま」
「サンキュ」
「ねえ」
「ん?」
「ぎゅって、してていい?」
インデックスが返事を聞くより前に、上条の背中にぺたりと張り付いた。
もうかなり冷え込む季節だ。インデックスの温かみが、嬉しかった。
「明日も、頑張ってご飯作るね」
「いいのか?」
「うん。掃除も、頑張って覚えるから今度教えて」
「……ん」
「部屋の片付けも洗濯も頑張るから」
机に置いた腕の下から、インデックスの腕が胴に回される。
ちょっとシャツが背中に引っ張られる。インデックスが服を噛んだのだろう。
792:
「だから、明日も早く帰ってきてね」
「……」
用事がなければ、そうしてやりたいと思う。ちゃんと家のことをしてくれる人への礼儀として。
ただ、上条は今は、自分の都合を優先したい理由がある。会いたい人がいるのだった。
「とうま?」
「悪いインデックス。明日は、用事がある」
「……どんな、用事?」
「まあその、放課後にさ。秋沙と、ちょっと喋って帰ろうかって」
「……やだよ」
「やだって、その、一応俺と秋沙は」
「嫌なものは嫌なの!」
一層きつく、抱きしめられた。
インデックスの好意に絡め取られるような、息苦しい感じがした。
「私だって。とうまとお話したいんだから! ずっと、家で一人ぼっちは寂しいんだよ?
 とうまが帰ってきてくれるのってすごく嬉しいんだよ? 私、毎日待ってるのに」
「そりゃ……その、ごめん」
「まいかとだって時々しか遊べないし、それに」
ぎゅ、と上条のシャツをきつくインデックスが握り締めた。
続きは、一応知っていた。当の本人に聞いたことだから。
――――あの子は。きっと私に裏切られたって。思ってるんだろうね。
「あいさとはもう、遊べないもん」
裏切られた寂しさと失意、それに嫉妬と、怒り。
誰の方向を向けたら良いのかもよく分からないぐちゃぐちゃの感情が、ぽつんと口からこぼれた。
「遊べないって、秋沙はそんなつもりはないって言ってたぞ」
「そんなつもり? ……知らないよ。あいさの考えてることなんてもうわかんないもん」
「そんな言い方ないだろ? 秋沙だって、別にお前を裏切るとか、そんなつもりじゃ」
「じゃあ何で? 放課後はずっととうまは私といてくれたのに、あいさは盗っちゃったじゃない!」
「いや、俺は別に誰にも盗られた覚えはないけど……」
「でもとうまはずっと私といてくれた! 毎日私と遊んでくれたのに!」
上条は、インデックスを少し強引に引き離した。そして、お互いに正面を向く。
感情的で、敵意さえこもったような視線が、上条を見据えた。
それは上条にとっては理不尽な視線に見えたし、実際、理不尽ではあっただろう。
「とうま。明日も私といっしょにいよう? 料理も上手じゃないけど、一杯頑張るから。
 とうまに喜んでもらえるためだったら、何でも頑張るから」
「じゃあ明後日は良いのか?」
「えっ?」
「明後日なら、俺は秋沙と遊んでもいいのか?」
「……やだ、よ」
「じゃあ明々後日なら? その次は?」
「やだ」
「つまり俺は、もう秋沙に会っちゃいけないってことか?」
793:
ジクジクと、心のどこかが痛みだす。嫌な奴だなと自分で自覚が上条にはある。
インデックスという女の子は、自分にとって何なのだろう。
それは、インデックスだけではない、上条にとっても考えなければいけない命題だった。
姫神秋沙は、恋人である。
この数日で、どんどんと、姫神の可愛らしさに気づいて、惚れて、もっと知りたいという気持ちに駆られている。
きっと姫神が他の男と仲良くすれば馬鹿みたいに嫉妬する自信がある。
……そしてきっと、自分はインデックスが他の男と仲良くしても、同じような気持ちを抱くに決まっているのだ。
そんな欲張りは許されない。誰かを恋人にするということは、その人以外を恋人にしないということなのだ。
インデックスが、少しの沈黙をはさんで、そっと言った。
「とうまに……ずうっと私と一緒にいて欲しい。秋沙のところに行っちゃ、やだよ」
その言葉に、上条は。
「俺は、秋沙が好きだから。秋沙とだって会いたいし、ずっとお前とだけ一緒にいるわけには、いかないんだよ」
自戒を込めて、そう返事をした。
――――ぼんやりと、インデックスが上条を見つめた。
本当に酷い落胆は、服の色落ちみたいなのだとインデックスは知った。
大切だった色や柄が、くすんでしまうように。
とてもとても幸せだったこの数ヶ月が、まるで劇か何かだったかのように。
大好きだったこの家の何もかもの色が、褪せて見えた。
もう、返す言葉はなかった。それを言われたらおしまいだという言葉を、上条に突きつけられてしまった。
何度だって思ったことだ。自分がここにいることは、決して自然なことではないのだと。
どうしようもなく幸せで手放せなかっただけで、ここは自分の居場所ではないのだと。
すっと、無言でインデックスが立ち上がった。もっと激しく罵られることも、上条は覚悟していた。
だがそんなことはなくて。
部屋のタンスにインデックスが向かう。細々したものをいくつかポケットにしまった。
それは多分、ずっと前からインデックスが持っていたもの。そして、上条が何かの折に贈ってやったほんの少しのプレゼント。
その行為が予感させるものが、上条の心をざわめかせる。
インデックスの表情が、何かを諦めたような表情で、たまらなく嫌だった。そんな顔をさせてしまうことが。
「とうま」
インデックスがリビングの、入り口に立つ。
儚くも、感謝に満ちた行儀のいい微笑だった。
「今まで、すごくお世話になったんだよ。すっごく楽しくて、すっごく幸せだったよ。
 でも私の居場所じゃ。なくなっちゃった……っ、みたい、だから。
 バイバイ、とうま。ありっ……が」
ありがとうを、インデックスは最後まで言えなかった。
ぐしゃぐしゃの泣き顔で、必死に笑おうとして、最後まで失敗した。
そして、くるりをきびすを返して、上条の部屋から、出て行った。
唐突過ぎた、というのは言い訳だろう。
こんな結末を呼び込んだのが他でもない自分の振舞いで、何を言えばよかったのか、それが分からない自分のせいだった。
躊躇が生んだその数瞬の差。
上条が部屋を出た頃にはもう、エレベータは下に降りきっていて、インデックスの姿は見えなかった。
827:
もういないだろうと分かっていながら、上条はエントランスに降りて、軽くあたりを見渡す。
学生寮から外に飛び出して、あちこち見て回るが、インデックスの影はなかった。
インデックスの行き先に心当たりはそうない。
一年間常宿を決めず、ずっとあちこちを転々としていた少女だ。
その気になれば、上条もインデックスも一度も行った事のない場所まで逃げて、一人で生き延びていくことも出来るだろう。
だから、あえてその可能性を無視する。
まだ、インデックスが上条やその周囲にいる人々とのつながりを捨てられなくて、
上条の知るどこか、誰かのいる場所にいてくれると、そう信じる。
出来ることは、インデックスと今まで行った事のある場所を探すことだけだった。
食事を取らずに出て行ったからと、スーパーを探す。
好きで何度か行った場所だからと、ゲーセンに入る。
ついこの間、上条の財布の中身をさんざんにしてくれたケーキ屋を覗く。
……時間だけは、失敗でもきちんと取り立てられていった。体力も。
「もしもし、土御門か?」
「たしかに土御門なのである。どうかしたのかー? 上条当麻」
「舞夏か。ちょうどいい。悪いけど頼みがあるんだ」
「んー?」
「うちにインデックスが帰ってきたら俺に連絡してくれ」
「まあ別に良いけど。何があったんだ? あれか、修羅場かー? 修羅場なのかー??」
携帯越しに、のんきそうな舞夏の声が響く。
割と耳聡いヤツだし、気は利いてるほうだ。茶化してはいるが、何とかしてくれるだろう。
最後の言葉には付き合わず、コールオフのボタンを押した。
姫神のところには、行かないだろう。風斬はこちらから連絡を取れる相手ではない。
白井と御坂のところにいるとは思えないし、電話は掛けづらい。
……そうやって考えると、インデックスの世界の狭さが、浮き彫りになる。
毎日学校に行って、顔見知りという程度の知り合いなら100人近くはいる上条と、
インデックスが生きる世界にはあまりに広さの差が大きい。
インデックスが持っている世界の中に、上条のいる場所は、あまりに大きいのかもしれない。
どれほど大事でも、ほとんど一番といって良いくらい大きな存在感を閉めている女の子でも、
インデックスが上条の世界を占めている割合は、大きくはなかった。
心当たりなんて、ここが一番有力だった。
親子ほどにも、というと怒られるかもしれないが、小萌先生とインデックスの仲は良かった。
緊急時のために登録された担任の番号。それを、呼び出した。
「はい。月詠です」
「先生。上条です」
「あっ、上条ちゃんなのですか!? 今電話しようとしてたところです。
 シスターちゃんが急に泊めてくれって言い出したんですけど一体これはどういうことなんですか?」
「えっと、まあ、言葉どおりの意味だと思います」
「喧嘩でもしたんですか?」
「はい、まあ。その……姫神がらみで」
「あ……」
小萌先生の声が、きゅっとしぼんでいくのが分かった。
835:
「細かい話は後でします。とりあえず、インデックスをそこに留めておいて貰えますか」
「分かりました。それは任せてもらって良いですから」
「よろしくです。すぐ俺も先生の家に行きます」
幸い小萌先生の家までは、そう遠くない。
上条は暗がりの町を駆け足で進んだ。
小萌先生は、古めかしい黒電話を切って、部屋の隅に座ってうつむくインデックスに向き合った。
「シスターちゃん。上条ちゃんが、もうじき迎えに来ますよ?」
「……でも、私はあそこにいちゃいけないから」
「なんでですか?」
「私は要らない子だもん。とうまが好きなのは、あいさだから」
インデックスの隣に、小萌先生は腰掛けた。
年は倍ほども違うのに身長はほとんど代わらないインデックスの頭を、ぽんぽんと撫でる。
「シスターちゃんは、上条ちゃんのことを好きなんですね」
「……うん。大好きだった、けど」
「どんな風に好きだったんですか?」
「え?」
どんなところが、なら言えると思う。
意地悪なところもエッチなところも料理がそんなに上手くないところも、全部好きだった。
でもどんな風に好きなのかという質問は、どんな風に答えたらいいのだろう。
「上条ちゃんとキス、したかったですか? もうしちゃったですか?」
「キ、キスって。そんなのしてないもん!」
「して欲しかったですか?」
「知らない! こもえのばか。とうまとはそんなんじゃ」
「だったら、いいじゃないですか」
がばりと振り返って腕を振って否定するインデックスに、小萌先生は微笑みかける。
「キスしたり、抱きしめあったり、そういう事をしたい好きとは違うんだったら、
 上条ちゃんにお付き合いしてる女の子がいても、大丈夫ですよ?」
「え? ……そんなことない。そんなの、やだ」
だから、一緒にはいられないと思うのに。
「シスターちゃんは上条ちゃんの家族なのですよ。妹さんですね。
 お兄ちゃんのことが大好きで、ずっと一緒にいたいって思っていても、
 兄妹ならキスなんてしないでしょう?」
「とうまはだらしないからお兄ちゃんて感じじゃないもん」
「そういうお兄ちゃんは世の中に沢山いると思いますけどねー。
 どうです? 上条ちゃんが家族に思えてきませんか?
 兄妹はいつか、お互いに好い人を見つけて、別の家庭を作るんですよ。
 そうやって思えば、姫神ちゃんのことを受け入れてあげられませんか?」
836:
姫神、という名前を聞いた瞬間に。インデックスの中でまた、嫌な気持ちがどろりと流れ出た。
どうやっても上条と二人で幸せになる姫神を祝ってあげたいという気持ちに、なれないのだ。
裏切られた、盗られたと、そんな気持ちばかりが吹き出て、姫神が不幸になるのを望むような、
そんな気持ちが、確かに心の中に折り積もっていくのを感じてしまうのだ。
「無理だよ」
「どうしてですか?」
「だって、だって」
その続きが、言葉にならない。自分の中でもそこが曖昧で、だからこんなにも苦しい思いをしているのに、
それを上手く整理して、折り合いをつけていくことが出来ない。
「もし姫神ちゃんを義理のお姉さんみたいに見れないんだったら、
 きっとシスターちゃんにとって、上条ちゃんはお兄さんじゃないんですね」
「え?」
「逃げずに、真剣に考えてください。嫌なら先生には教えてくれなくても良いですから。
 シスターちゃんは、上条ちゃんにキスをされたいって、思いますか?」
「え……ええっ?」
はぐらかそうと思って左右に揺らす視線を、ずっと小萌先生が見据えている。
学校の先生だからだろうか、小萌先生の無言の要求に、インデックスは抗えなかった。
ついさっきまでいて、もう帰れないと思っていたあの部屋を脳裏に描く。
時間は深夜。寝ているインデックスが目を開けると、傍には当麻がいて、
大好きな優しい笑顔で笑って、頬に手を添えてくれて、そっと、唇を――――
……インデックスは、一瞬でそれだけ詳細に夢想した。理由は簡単だった。
何度も何度も、そんなことを明かりが消えてから上条のベッドで考えたから。
それがもうかなわぬ夢だと知っている。その痛みは、甘い夢のせいでひどく苦い。
「やっぱり、そういう気持ちもありますよね。上条ちゃんはかっこいいですから」
痛ましい目でインデックスを見つめた小萌先生は、そっとインデックスの頭を抱いた。
インデックスの上条を見る目は、上条を恋人として写しているのだ。
人の気持ちなんてスッパリと割り切れるものではないから、きっと家族として写している側面もあるだろう。
だけど、やっぱり。
「シスターちゃんは、上条ちゃんに恋人として愛されたいんですね」
「え……?」
837:
そんな表現を初めて聞いた、と言う顔を、インデックスはした。
幼くて、兄を慕う情と恋心を未分化なままに、上条当麻という人を愛してしまったのだろう。
上条がインデックスを愛していれば、インデックスの想いはそのまま恋人への愛に昇華されたのかもしれない。
だが現実は、家族愛と恋慕の区別をつけられないうちに、恋い慕う気持ちの部分だけが、否定されてしまった。
「キスして欲しいって、抱きしめて欲しいって、自分だけを見て欲しいって、
 そういう我侭を聞いて欲しいって、思っているんですね。シスターちゃんは」
「そんなこと、思ってない……」
「じゃあどうして、姫神ちゃんにやきもちを妬くんです?」
「知らないよ。だって、本当にわかんないんだよ」
もう止めて欲しいと請願するような、そんな響きの混じった答えだった。
時間が必要だろう。
少なくとも今日、上条と二人っきりの家に帰しても、もっと酷く傷つくだけだと小萌先生は判断した。
ピンポーン、と乾電池式の安っぽいベルを指で押す。
呼吸はまだ整っていないが、早く、迎えに行ってやりたい気持ちが強かった。
「はいはーい。ちょっと待ってください」
ガチャリと、木製の扉が開く。勝手も知ったる、中を隅まで見通せる部屋だ。
小萌先生に挨拶をするより先に、上条は部屋の中を覗いた。
「あ、こら! 上条ちゃん! 女の人の家を覗き込むのはマナー違反なのですよ!」
「煙草の吸殻なら気にしませんよ先生」
「うっ……そういう意味で言ってるんじゃないんですよ」
「インデックス」
ビクリと、人型に盛り上がった毛布が震えるのが分かる。
そこにインデックスがいることは、間違いなかった。
「帰るぞ、インデックス」
ふるふると頭が振られたように見える。
「上条ちゃん。今日はシスターちゃんはここに泊まりますから」
「え?」
「もう一人面倒を見ている子が帰ってくれば三人になっちゃいますけど、何とか大丈夫なのですよ。
 今日は、一日距離を置いて、落ち着いたらまたシスターちゃんと話し合えばいいです」
上条を叱るでもなく、小萌先生は優しく笑ってそう提案してくれた。
今から連れて帰っても、確かに、こじれるだけかもしれない。そんな予感はないでもない。
だが、連れて帰ろうとしないこと自体を、インデックスが何かのメッセージとして受け取るかもしれない。
「ほらほら、もうシスターちゃんとの間でそう決めちゃいましたから、今日は帰った帰った、です」
強引にそう決め付けてくれることが、今はありがたかった。きっと上条の迷いを分かってくれていたのだろう。
「インデックス。お前の忘れてった鍵、持ってきたから。当たり前だけど、いつ帰ってきてもいいんだからな?
 ……今日の晩飯、お前の作ってくれたヤツ全部食べるよ。ちょっと一人で食べるには多いけどさ。
 せっかくインデックスが、心を込めて作ってくれたもんだからな。それじゃあ、俺は戻るわ」
「美味しくなかったら、ごめんね」
「美味いさ。毒でも入ってなきゃお前の作ってくれたものは全部食べきれる」
その冗談に返事は返してくれなかった。
となりで見守っていた小萌先生に上条は挨拶をして、小萌先生のアパートを後にした。
850:
「うーん、今日は結標ちゃん帰ってこないみたいなのですよ。待ってても仕方ないのでそろそろ寝ましょうか」
「うん」
現金なものだ。
上条が隣にいなくても、ちゃんとそれに理由があって、
そして代わりに優しくしてくれる人がいて、おなか一杯ご飯を食べれば。
微笑む余裕が、インデックスにはあった。それは罪悪感を感じることでもあったが。
上条に捨てられてしまったことは死にたくなるくらい悲しいことのはずなのに、
涙を流す以外のことをしてはいけないはずなのに。
「夏にもこういうことがありましたねえ」
「こもえ。あっちにも布団あるんだけど」
「あれは結標ちゃんのですから。先生は別に構わないですけど、
 結標ちゃんは自分の布団で知らない女の子が寝てたらどこかにテレポートさせちゃいそうです」
「ふうん?」
まあ、知らない人の布団を奪って寝るのは落ち着かない。
小萌と一緒に寝るほうが、まだ気楽だった。お互いに背丈は小さいので意外といけるのだった。
月詠家は、はっきり言って寒い。隙間っ風がひゅうひゅう音を立てたりすることはないのだが、
絶対に冷気がどこかから入り込んできている。10月なのに早々と毛布が敷かれていた。
「うふふー、それじゃ電気をけすですよー」
カチカチと音がして、部屋が真っ暗になる。
インデックスのもぐりこんだ布団に、小萌が入り込んだ。
「くはぁー、この布団のひんやりした感触が良いですよねえ。
 だんだん暖まってくるのが先生は好きです」
「……この部屋寒すぎてそんな余裕ないんだよ。はやく暖まって欲しい」
「上条ちゃんの家のほうがさすがにあったかいでしょうねえ。
 今頃、上条ちゃんは何をしてるんでしょうね」
「……」
返事を、インデックスは出来なかった。
咄嗟に思い浮かんだのが、上条が姫神と幸せそうに過ごすシーンだったから。
一番嫌なことを、一番初めに思い浮かべたから。
「考えたくないですか?」
「きっと、とうまはあいさと遊んでるもん」
「そうですかね?」
「そうだよ。だって、とうまはあいさとお付き合いするって、言ってた」
「でも今日は上条ちゃんは、シスターちゃんのご飯を食べてるですよ?」
「食べてないかも。……だって、美味しくないかもしれないし」
「それでも上条ちゃんは食べてると先生は思うです」
「なんで?」
「上条ちゃんはそういう子ですから」
自分の子供を自慢するように、小萌先生は胸を張ってそういった。
851:
「それに事情を知ってたら、姫神ちゃんも上条ちゃんと二人で遊んだりはしてないと思います。
 姫神ちゃんもシスターちゃんの気持ちが分かる、いい子ですから」
「あいさは……」
「ふぇ?」
「じゃああいさは、なんでとうまを盗っちゃったの?」
インデックスとて、その表現を正しいと思っているわけではなかった。
それでも、そう言いたくなるくらい、ショックだったのだ。友達だと思っていたのに。
「本当に大事で、誰とも分け合えないものがあって、それを同時に二人の人が欲しいと思ってしまったら。
 きっとどっちかは泥棒さんになっちゃうのですよ。もう一方から見れば。でも遠くからそれを眺めたり、
 相手の立場からものを見れば、見え方は全然違うのです」
「こもえは、あいさは悪くないって言うの?」
「姫神ちゃんはずるいことをしたですか?」
そんなことは、たぶんない。
いっそ卑怯であってくれたなら、もっとインデックスの考えは変わっていただろう。
「……して、ないと思う」
「それじゃあ、姫神ちゃんは悪いことなんてないですよね」
「でも……」
「シスターちゃんも、同じことをしたっていいんですよ?」
「えっ?」
「姫神ちゃんがどうやってお付き合いするようになったのか、詳しいことは先生も知らないです。
 でもきっと、振られたらどうしようって思いながら、
 勇気を振り絞って上条ちゃんに好きだって言ったんだと思います。
 シスターちゃんも、上条ちゃんに好きだから私だけを見て欲しいって、言ってもいいんですよ?」
「でも、今日とうまにそう言ったら……だめ、だったもん」
「今日、シスターちゃんの話を聞いた限りでは、まだ可能性は有ると思いますよ。
 家族としてのシスターちゃんのために、恋人の姫神ちゃんとの時間を削ることは出来ないって、
 上条ちゃんはそういう理屈を言ってたです。そうじゃなくて、姫神ちゃんと別れて私だけを見て欲しいって、
 そういえば良いです。分かってくれれば、上条ちゃんは、シスターちゃんだけを見てくれますよ?
 毎日キスしてくれて、抱きしめてくれて、遊んでくれると思いますよ?」
なるほど、言ってることは尤もだと思う。
姫神と別れて、自分を恋人にしてくれるのなら。
……だが、それをお願いする勇気が、湧きそうにもない。
姫神から上条を奪う、そして上条と幸せになる。
その強い決心が、インデックスの中にはなかった。
上条を独占したい気持ちがある一方で、恋人のような濃密な関係じゃなくて、
毎日何気なく隣にいてくれる人であって欲しいような、家族でいて欲しい気持ちもある。
上条は家族なのか、もっと心ときめく相手なのか。
どちらか一方に帰属させてしまうと、自分の実感から離れてしまうのだった。
どっちでもいて欲しかった。いままでのままが良かった。
「ずうっと、このままが良かったのに」
「でも、上条ちゃんも男の子ですから。大好きなたった一人の女の子が、出来て当然なのですよ。
 ……ふふふ。命短し恋せよ乙女、なのですよ。精神的向上心のないお馬鹿さんにはならないで下さいね」
「え?」
その引用をインデックスは知らなかった。小萌先生は笑うだけで深くは説明しなかった。
「ようく考えるですよ。シスターちゃん。もう、選ばなきゃいけないです。
 正々堂々と姫神ちゃんに宣戦布告してもいいし、上条ちゃんの妹でいても良いです。
 でも、良いとこどりはもう、できなくなっちゃったのです」
話は終わりという風に、小萌先生はインデックスの髪を撫で始めた。
撫でるに任せて、インデックスは考える。
自分は、上条の何だろう。何でいたいんだろう。
さっさと眠ってしまった小萌先生の寝息が僅かに聞こえるその布団で、インデックスはずっと考えた。
870:
上条からの、メール返信が帰ってこない。
あの子がいるから、返信の頻度が高くないことは、仕方がないかもしれない。
人によって返信の量は違うものだし、それだけのことかもしれない。
だけど。
夕食前に送ったメールが、もう食事も済んで風呂にも入ろうかという時間なのに、まだ帰ってこない。
……姫神はインデックスが上条家から出て行ったことを知る由もなかった。
「当麻君。何してるんだろう」
不安で不安で、たまらない気持ちになる。上条の隣にはインデックスがいるから。
切実な思いに絆されて、上条がインデックスになびいてしまうんじゃないかと心配だから。
テーブルの上に置いた携帯が、バイブレーションでジリジリと動いた。
寝そべっていたベッドの上からパッと跳ね起きて、手に取る。
――当麻君だ。
「もしもし」
「あ、秋沙か」
「うん。こんばんは、当麻君」
「お、おうこんばんは。なんか電話するの照れくさいな」
「そうだね」
決して遠く離れた場所にいるわけではないのだが、こうやって遅い時間にも電話でコンタクトをとると、
恋人同士になったんだな、なんて感慨が沸いてくるのだった。
「それで。どうしたの?」
「あ、いや。メール返そうかと思ったんだけど面倒だから電話にしたんだ」
「そうなんだ」
「今、まずかったか?」
「ううん。そんなことないよ。えっと。今は何をしてたの?」
恐る恐る姫神は尋ねた。
何があったとしても誤魔化されればわからないのだが、インデックスと上条の間に、
看過できない何かはなかったかと、つい疑った目で見てしまう。
自己嫌悪するような態度だったが、それでも聞かずにはいられなかった。
「あー、実はさ、インデックスが」
ドキン、と心臓が跳ねる。一番聞くのが名前だった。
楽しい話なのか、喧嘩した話なのか、どれであっても無茶苦茶に自分は嫉妬する気がした。
「家出、しちまってさ」
「えっ?!」
「ああ、居場所はもう分かってるんだ。今日は小萌先生の家に泊まるみたいだ」
「そう。なんだ」
姫神にとってもなじみのある家だった。そして家主の性質を考えると、納得の行く展開だ。
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