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御坂「名前を呼んで【後半】


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階段を下り、こちらに向かってくる二人を手の仕草だけで制し、浜面は壁に張り付くように身を屈めた。
意識の先には階段ホールの先、『B5』と書かれた廊下がある。
いくら人気がないとはいえ大手を振って歩くなど愚の骨頂だ。
施設を完全に制圧したわけではない。
力押しがまかり通るほどこの施設は狭小ではないし、無意味に騒ぎ立てるほど馬鹿でもない。
無意味な戦闘は避けるべきだ。少なくとも浜面は重火器で武装した相手に真正面から立ち向かえるような力を持っていない。
ポケットから取り出したのはツールナイフ――十得ナイフと言った方が分かりやすいだろうか。
折りたたみ式の、缶切りやドライバーが詰め込まれたレジャー用品店などで見かけるあれだ。
学園都市製のそれは普通のものとは違うツールも組み込まれてはいるが、今必要なものは違う。
ぐいっ、と引き出したのはナイフだ。
刃渡りは六センチほど。合金製の刃は綺麗に磨かれていて、まるで鏡面のように傷一つない。
それを浜面は曲がり角に身を隠したまま、少しだけ廊下へと突き出した。
ナイフと一概に言っても用途は刃物としてだけではない。
この場合ツールナイフの持つ数多の用途の一つとして、鏡として使う事も念頭に入れられているのだ。
「……」
床近く、目立たぬようにナイフを動か。
何分刃は小さい。だから浜面は少しずつ角度を調整しながら廊下の状況を確認し――。
411:
「――何を超ちんたらやってるんですか」
苛立ちの声と共に浜面の横を絹旗が駆け抜け、廊下へと踊り出る。
「おい絹旗……っ!」
きゅっ、とスニーカーの靴底で廊下を踏み、絹旗はその先に視線を向ける。
「……クリア。何もありませんよ」
「オマエ、待ち伏せされてたらどうすん――」
「私の『窒素装甲』がそこらの豆鉄砲で貫けるとか超思ってませんよね」
いつもに増して棘のある物言いをする絹旗は、しゃがみ込んだ浜面を半眼で見下ろしていた。
その様子に浜面は僅かな違和感を覚える。
いつもの絹旗は、浜面への態度こそ多少きついもののこの手の感情を露にする事などなかった。少なくとも浜面の知る限りでは。
だがどうしてだか……絹旗は浜面に初めて負のベクトルを持つ感情を見せていた。
『窒素装甲』の名を持つ少女。
彼女の鎧の内にあったはずのものが漏れ出しているのは、単に抑えきれなくなったのか、それとも。
(――多少は俺の事を信頼してくれたと思ってもいいのかな)
それはきっとナルシズムからくる錯覚だろうと思いつつも、浜面は少しだけ嬉しかった。
こんな、死の臭いが蔓延しているような状況にも拘らず。
412:
……実際のところ絹旗が感情を抑えきれずにいるのにはいくつもの理由が複雑に絡み合っている。
人の心を一言で言い表せるはずがない。人は機械ではないのだから。
だから浜面が思ったように彼に対して絹旗が気を許したというのはあながち間違いではない。
本人も自覚していないが、今まさに、緊迫した状況によって着々と二人の接点は近付きつつある。
それは生命にとって基本的な生存本能とも言えるだろう。吊り橋効果もストックホルム症候群も根底は同じものだ。
だからこそ絹旗は、自分の中で大きくなりつつある浜面に苛立ちを覚えていた。
それは確かに好感ではあるのだが、その理由が分からないのだ。
理不尽なまでに絹旗の心の中に存在感を広げてゆく浜面。
どうして彼がそこまで気になってしまうのか。
(これが恋……などと能天気にも程があります。そんな訳あるはずがないじゃないですか)
第一にだ。
(この超冴えないチンピラのどこに惚れる要素があるっていうんです)
何故か少し嬉しそうな表情でポケットにナイフを仕舞う浜面。
その顔がどうにもムカついて、絹旗は足で軽く小突くように浜面の脇を蹴り押す。
「私が超先行します。浜面は滝壺さんをお願いします」
413:
「先行って言ったって、オマエ……」
「私をやろうと思ったら戦車でも爆撃機でも超足りませんよ。それこそ麦野あたりでなければろくにダメージも貰いません。
 私の『窒素装甲』は浜面が思っているよりも超高性能ですから」
だから、最も危険な先陣を切るのは最も堅い自分であるべきだと。
適材適所。確かに彼女の言う事はもっともだ。絹旗の言葉に浜面は押し黙るしかなかった。
幼い少女を矢面に立たせ自分は後ろに引き篭もっているというのは確かに気分がよくない。
だが、浜面も多少頭は切れるとはいえただの無能力者。
滝壺も大能力者とはいえ直接的な戦闘能力を持っている訳ではない。
第一、今の滝壺に派手な立ち回りができるはずもないのは明らかだった。
浜面は一瞬だけ顔を顰め、だが結局。
「分かった。頼む」
短くそう告げると浜面は滝壺に肩を貸そうと歩み寄った。
「……」
その姿を横目で見つつ絹旗は焦燥を抱えていた。
苛立ちは何も浜面の事だけではない。
――嫌な予感がする。
先ほどのあの土星の輪のように頭をぐるりと取り囲む機器を被った少年。
彼の顔には見覚えがあった。思い出したくもないが。
小さく唇を噛んだ。ぎり、と痛みが突き刺さる。
この空気、そして臭いには覚えがある。
――『暗闇の五月計画』。
かつて、絹旗最愛のいたあの最悪が。
再び彼女の前に現れようとしている気配があった。
432:
(『スクール』に彼がいた。『アイテム』については言うまでもなく)
黙考しつつ絹旗は足音を立てないように靴底に能力で作った空気の膜を作りながら歩く。
無意識の内にそうしていた事に少し歩いてから気付き、浜面に偉そうな事を言った手前どうにもばつが悪かった。
しかし無意識の内にそうしているのであれば止めるには意識しなくてはならない。
些細な事だがその程度の事に頭のリソースを割くのは賢明ではないと判断し絹旗は思考を他に回した。
(とすれば、他の組織にも『ご同類』がいる可能性が超高い)
背筋を何か冷たいものが撫でる。
滝壺のそれではないが――具体的な証左が何一つないのに絹旗は敏感に場の空気を感じ取っていた。
(なんか……超超超嫌な予感がします。冗談じゃない)
それは確信とも呼べる、ある種の予知じみたものだったのかもしれない。
「――滝壺さん」
振り返らずに絹旗は背後の少女に向かって言葉を投げる。
「この感じ、どうも超キナ臭いです。……可能であれば滝壺さんも警戒してください。私よりもあなたの方が索敵に超向いています」
「おい絹旗。滝壺もこの状態じゃ――」
「浜面は超黙っててください。それに可能であれば、と言っています」
口を挟んだ浜面の言葉の上からぴしゃりと言ってのけ、絹旗はさらに続ける。
「浜面は分からないでしょうけど……私の勘が正しければ本当に超ヤバイ相手なんです。
 下手をすれば超能力者七人以上に異常な相手とやりあわなきゃならないんですから」
自分が前衛を努めているのにも理由がある。
『何か』があった場合、絹旗が最も対応に適しているからだ。
防御力だけではない。戦闘力だけではない。
経験――単純にその一点だけで絹旗が対応するのが最善なのだ。
435:
 、 、 、 、 、 、
「――超能力者以上、ね。それはどうも。褒め言葉と受け取っておきます」
割り込むように、耳元で囁かれた男の声に絹旗は戦慄した。
「ッッッ!?」
一瞬前まで何の気配も無かったというのに、心臓の鼓動さえ聞こえてきそうな至近距離に突如として気配が現れた。
ぞぞぞぞぞぞっ!! と無数の小さな虫が背中を這い上がるかのような錯覚。
柔らかい口調だというのにとてつもない怖気を伴って声は絹旗の耳朶を打った。
反射的に振り返る。
しかしそこには声の主の姿はなく。
     チェイサー
「どうも。お久し振りですね『追跡者』」
絹旗から十メートルほど離れた場所に今までこの場にいなかったはずの男が立っていた。
肩口に白いファーのついたダウンジャケットを着込んだ高校生くらいの少年だ。
絹旗は、彼に見覚えは、ない。
だが。
  バックスタブ
「――――『裏打ち』」
代わりに、ぼそりと呟くように滝壺はそう口にした。
436:
絹旗は動けずにいた。
いつの間に移動したのか、彼は滝壺に肩を貸していたはずの浜面から彼女を奪い背後から抱きすくめるように手を回していた。
その手にはスリムなシルエットの洋風の鋸。それを滝壺の細い首に添えていた。
「今は査楽でしたっけ。あんまり呼ばれ慣れてないんですが、それが私の名前らしいです。
 あなたはええと――滝壺さん、でよかったですかね」
口調こそ柔和なものの寒気を誘うようなものが声の奥に潜んでいた。
査楽と名乗った少年は薄い笑みを浮かべながら
「テメ……! 滝壺を放しやがれ!」
    レ ベ ル 0
「動かないで下さい『出来損ない』」
査楽は手にした鋸を見せ付けるように軽く刃を返す。
その動きに浜面は沈黙するしかなかった。
「さて。登場して早々なんですが、大人しく退いてはくれませんか?」
「……なんですって?」
訝しげに眉を顰める絹旗。
査楽は変わらず薄笑いを浮かべながら続けた。
「私の所属する組織――『メンバー』っていうんですがね。リーダーから頼まれまして。
 別に従う義理なんてこれっぽっちもないんですが、私の役目はあなたたちの足止めなんです。
 とはいえ、どうにも彼は私を捨て駒にする気満々のようですが、大人しく犬死になんてまっぴら御免です。
 超能力者を相手に正面からやるなんて愚行もしたくはありませんから。簡単に言えばそう、単なる人質です。
 第四位のアキレス腱であるあなたたちをここで封じる。私はそれをカードに、この戦争を生き残らせてもらいますよ」
437:
そう言った直後だった。
「――そうかい」
小さな呟きと共に浜面が動いた。
「っ――!?」
予期せぬ事態に査楽は息を呑む。
滝壺の首元に突き付けている鋸が見えていないはずがないのだ。
知り合いの少女を、しかも明らかに体調の悪そうな者を人質に取られれば誰でも躊躇する。
暗部にいれば人死にに頓着しないのは常だが、味方をばっさりと切り捨てられるほど浜面も絹旗も非情になり切れはしない。
そして浜面には彼女の死と引き換えにしてまで動こうとする理由がない。
そう踏んでいたからこそ、最も弱々しい滝壺を人質に選んだのだ。
しかし浜面は動く。
ほんの一呼吸もない間に、査楽の見せた僅かな虚を突いて反撃に打って出る。
彼のできる事は限られている。何しろ他の物とは違いなんの能力も持っていない。
何かしら目に見えないほどの小さな能力を持っているのかもしれないが浜面仕上は無能力者だった。
代わりになるようなものは持っていない。精々がポケットの中のツールナイフだ。
だがそれを取り出している暇など存在するはずがない。
だから彼はその身一つで立ち向かうしかなかった。
そして、彼の取った行動は実に単純明快だった。
その手で彼と査楽、そして滝壺との最短距離を貫き、首に添えられた鋸の刃を直に握りそのまま力任せに引き離した。
438:
鋸という刃物の類の最大の特徴は細かい刃が連続して折り重なっている点にある。
他大多数の刃物と違うその性質。それは簡潔に立った一言で表せる。
要するに切れ味が圧倒的に悪いのだ。
「ぎっ――!」
滝壺の首と鋸の間にあった僅かな隙間に右手を滑り込ませ握り締める。
みちみちと手の肉を押し切る熱さと、対照的に頭の内側に寒気が走る。
だがそれを意思だけで捻じ伏せ浜面は強引に鋸を引っ張る。
突然の事に体勢を崩した査楽の、鋸の柄を持つ右手首を左手で跳ね上げ、返す手で刃の付け根辺りを握り手前に引き下ろした。
「なに……っ!」
驚愕に笑みを崩し目を見張る査楽。
浜面は彼の声を無視し、左肩から査楽と滝壺の間に身を割り込ませる。
回転。
左手は鋸から離し滝壺の腰を抱く。
ジャージに血が付くだろうが今はそんな事に構っていられない。
右手で鋸を投げ捨て、肘で査楽の胸を押し滝壺から引き剥がす。
からん、と乾いた音が響くよりも先に浜面は右足を上げていた。
狙いは査楽の左膝。絶対的な急所である関節。
踏み折り砕く。
たった一つ、単純な目的のために浜面は全体重を込め斜め下方に靴底を踏み下ろした。
439:
だんっ!! と大きな音が廊下に響く。
それは足をへし折る音ではない。
浜面の靴は空を穿ち何もない床に向かって踏み下ろされた。
(消え――空間移動系能力者!)
人口二三〇万を誇る学園都市にも数えるほどしかいない希少種。
十一次元に干渉する演算を操り三次元的な物理限界を無視し空間を渡り歩く能力者。
       バックスタブ
「だから私はこう呼ばれていたのですよ――『背中刺す刃』と」
視界の外、背後からの声に浜面は戦慄する。
空間移動能力者は総じて演算能力が高く、自身を移動させられる者はその時点で大能力者に認定される。
無能力者である浜面が相手取るには荷が重過ぎる。
だが同時に安堵していた。
――タネが割れちまえばいくらだって対処のしようがある。
440:
常々思っているのだが、どうしてこうも能力者連中は自分の手の内を簡単に明かしてしまうのだろう。
自分のアイデンティティに直結するからだろうか。能力こそ彼らの自尊心、誇りそのものなのだろうか。
能力は一人につき一つきり。それは覆せない大前提だ。
だから手の内を明かすという事は己の弱点を見せ付けるようなものだ。
(こいつは別に目に見えない念動力が使える訳でも手からビームが出せる訳でもない)
鋸を見せたのは脅迫のためだ。目に見える武器は場を演出するための小道具でしかない。
そう、人を殺すには別に能力を使わずとも銃弾の一発で事足りるというのに。
最初から殺すつもりなら空間移動で死角に回った直後に一撃で終わるのに彼はそうしない。
   、 、 、、 、 、 、 、、 、 、 、
逆説的に、空間移動しか能がないのだ。
なのにこの体たらく。彼は自らのいる場所をきちんと理解しているのだろうか。
偉そうに口上を述べている暇があればさっさと背をさせばいいというのに。
所詮、この程度。
彼はこちらに向けて言葉を投げている。
意識はこちらに注がれている。
彼の意識はこちらの背に向いていて、しかし彼自身の背には。
(だったら楽勝だ。なあそうだろう――)
絹旗、と。
小さく唇を動かすだけで彼の知る限り最強の大能力者を呼び、浜面は抱きかかえた滝壺を押し倒した。
「――っらァァああああああああああああッッ!!」
ごっ!! と大気が悲鳴を上げ、浜面の頭の上を何かが物凄い勢いで通過していく。
鉄壁、『窒素装甲』をその身に纏った絹旗が小さな身を宙に躍らせ、査楽の背に全力の飛び蹴りを放ち吹き飛ばした。
451:
とっ、と小さな音。
軽やかに着地した絹旗は視線を浜面たちに向けぬまま前を見据えたままだった。
「……ふううゥゥゥ――っ」
運動エネルギーを全て威力に転化し、査楽と入れ替わるように着地した絹旗は低く、長く息を吐く。
しかし何か、いつもの彼女とは何かが確かに違っていた。
「絹、旗……?」
戸惑いに浜面は彼女の名を呼ぶ。
その目が、異様だった。
いつもの年相応の可愛らしい瞳ではなく、それとはかけ離れた、ぎらぎらとしたものが宿っていた。
「――浜面」
絹旗は両手を軽く開閉させ、腰を落とした体勢を変えず答える。
「ちょっと面倒なヤツが来たみたいです。査楽、お願いできますか」
452:
はっとなり浜面は視線を上げ振り返る。
視線を絹旗の視線の先、蹴り飛ばされた査楽の舞った方へ。
「私はもう一人の相手を超しなければならないみたいです」
絹旗の険しい視線の先。
そこには――、
「……さてはて。矢張り私でも一人で三人相手は骨が折れますね」
痛がる様子を見せながらも、大してダメージを負っている様子もない査楽が不敵な笑みを浮かべ。
そして、査楽の姿を背に。
彼を背後に立ちはだかるように。
更なる乱入者の影があった。
「――――やっほう。殺しに来たよ、絹旗ちゃーン。再開の挨拶は必要かな?」
「黒夜……海鳥」
絹旗と同じく窒素を操る少女が刃のように笑い立っていた。
454:
単身矮躯の、奇妙な格好の少女だった。
細い体に黒い皮と鋲で形作られたパンキッシュな衣装は拘束具を思わせる。
その上から白いコートを、フードを頭に引っ掛けるだけで羽織っている。袖に腕は通されずだらりと垂れ下がっていた。
黒いストレートの髪が肩口から肩甲骨の辺りまで零れているが、両サイドの一房ずつの耳あたりから先が金色に染め抜かれている。
研究所などではなく、ステージの上でマイクを握り叫び歌っていた方が似合うような少女だった。
だから彼女がこのような場にいるのは場違いでしかなく――しかし確かに場の空気には似合っていた。
血と死の臭いしかしないこの場において彼女の衣装は確かに似合っていた。
「……どォしてあなたがここにいるんですか、黒夜」
絹旗がいつもとは明らかに違う奇妙なアクセントで問いかける。
「どうして? 説明が必要なのかい、絹旗ちゃンよォ」
対し、黒夜も同様の口調で答える。
「私も、アンタも、査楽も、それにそっちの滝壺ちゃンもさァ」
彼女は順繰りに視線を投げ。
「『同窓生』じゃないか。寂しい事言うなよ、ねェ?」
一体何が犯しいのか。くつくつと嗤った。
寒気のするような口調と声色に浜面は絶句していた。
乾いた喉をどうにかしようとごくりと唾を嚥下しようとするが、からからに干乾びた口は嫌な痒みを生むしかなかった。
腕の中の滝壺もまた揺れる瞳で黒夜と査楽を視線を見詰めている。
そしてぽつりと一言、呟いた。
「……『暗闇の五月計画』」
――ああなるほど、分かったよ滝壺。
「つまりこいつらは……」
浜面はぎり、と奥歯を噛み締め、黒夜と査楽を睨め付けた。
――俺たちの、敵だ。
457:
「ン、ンっンー、んん。ん。よし」
咳払いするように。それとも歌うように。
黒夜は唇を尖らせ何かを確認するように少し声を出し、そして再びにやりと刃のように嗤った。
「久しぶり、って再会を喜ぶような仲でもないけれど、少し話をしようか」
「……別に、超そんな必要もないでしょう」
「まぁそう言うなって。いいじゃんいいじゃん。少し語らせてよ」
敵意を剥き出しのままの絹旗に黒夜は溜め息を吐いた。
「私もアンタも、いってみれば兄弟みたいなもんじゃん? 女同士だし姉妹か?
 系統は違うけど、そっちの滝壺ちゃんも、こっちの査楽くんも。こっちはイトコかな。
 同窓のよしみだよ。仲良くしようぜぇ? あのクソッタレな実験室のモルモット同士よぉ」
黒夜に視線を投げられ、査楽は肩を竦め、滝壺は無言のまま彼女に険しい視線を向けていた。
「そっちのザコっぽいのはアレ? 絹旗ちゃんのカレシ? 男の趣味悪いじゃん」
「うっせえよクソガキ」
浜面は無言ではいなかった。
恐らくこの少女もまた、絹旗や滝壺に匹敵するような高位能力者なのだろう。
『暗闇の五月計画』。その産物だというのであれば。
しかし浜面は、圧倒的な力量差がある事を冷徹な頭で判断しながらも口が動くままに任せた。
「勝手に一人でベラベラ喋って悦ってんじゃねえよ厨二患者。
 確かにコイツらはレディーの心得ってのがなってねえけどよ――」
はっ、と鼻で笑ってやる。
絹旗と滝壺の表情は浜面には見えない。
ただ黒夜の見下すような視線を真正面から受け。
 ファッキンビッチ
「糞ったれのあばずれが。テメェなんかと一緒にするんじゃねえ。少なくともオマエの何百倍も可愛げがあるぜ」
黒夜に握り締めた血塗れの右手の甲を見せ、中指を立ててみせた。
460:
黒夜はしばらく無言で浜面に視線を向けていたが、やがて深い溜め息と共に前屈みになるように視線を落とした。
「…………あーやっぱダメだな私」
低い声で小さく呟く。
「ダメダメだなー。マジでダメだわー」
不機嫌さを隠そうともせず、がづがづと爪先で床を蹴り付け。
ゆらりと上げたその顔は。
     ゴミムシ
「――――ブチコロシ確定ね、無能力者」
「っ――!!」
あたかも質量を持っているかのような高密度の殺気を真正面から浴び浜面は息を呑む。
右手を開きこちらに向ける黒夜。そこから発せられるのは必殺の一撃だった。
461:
どんな性質のものかは分からない。
ただそれは圧倒的な殺傷力を持っていて、正面から受けて生きていられるほど生易しいものではないのは確かだ。
だが浜面は少しも危機感など感じていなかった。
何も言わずとも分かる。
期待とか依存とか、そういう生易しいものではない。
彼、そして彼女らには、もはや絶対的な信頼がある。
「――超させませんよ」
声を遮るように、パーカッションボーリングマシンが大地を穿つような轟音が響く。
威力を持った音――衝撃波が広がり空間を揺るがす。
浜面が聞いたそれは、黒夜の持つ圧倒的な破壊力を示すと同時に。
彼の信じる少女が間違いなくその通りだった事を示していた。
     、 、 、、 、
「あなたの相手は私でしょう、黒夜ちゃん?」
『アイテム』の誇る難攻不落の要塞、鉄壁の少女。
浜面と滝壺の前に彼らを守るように絹旗は小さな体を広げて立ち塞がった。
学園都市でも屈指の絶対防御力を持つ『窒素装甲』が黒夜の攻撃全てを残らず受け止めていた。
「――生憎と、浜面は別に私のカレシじゃないんですけど。どっちかって言うとペット? みたいな」
不満そうに絹旗はちらりと浜面と滝壺を一瞥し。
しかしその目はどこか笑っていた。
「勝手に人の男に手ェ出してンじゃねェですよ!!」
その声に浜面は思うのだ。
――ほら見ろ。オマエなんか比べ物にならないくらいいい女じゃねえか。
469:
「……査楽」
黒夜の視線は既に浜面を向いていない。
「あの子は私がやる。アンタは滝壺ちゃんをよろしく」
「彼は?」
「アンタなら瞬殺できんでしょうが」
舐められたものだな、と浜面は思うが、自身が無能力者である事は変わらない。
ここで何か突然に新たな力に目覚めるとか、そんなご都合主義のマンガじみた展開は望むべくもない。
浜面の武器は己の体と、頭と、ポケットの中のツールナイフが精々だ。
たったそれだけで浜面は高位能力者に立ち向かわなければならない。
「絹旗」
浜面の呼びかけに絹旗は視線を黒夜に向けたまま頷く。
「黒夜海鳥は私がやります。彼女は私と同じ――窒素を操り武器とする能力者ですから」
なるほど、と浜面は心中で頷いた。
『暗闇の五月計画』――彼女たちの言っているそれは要するに彼女たち自身がその身で受けてきたものなのだろう。
それがどんな内容なのか浜面には分かるはずもないが――この際内容の非人道性はさておき――黒夜海鳥が『成功例』なのだとしたら。
対抗できるのは同じく『成功例』である絹旗最愛でしかないのだろう。
470:
しかし、もう一人。
「彼は――、」
腕の中の滝壺は荒い息と共に言うのを遮るように浜面は制す。
「馬鹿言うな。滝壺、オマエまともに歩けもしないだろうが」
「……うん。だから」
滝壺は首肯し、浜面に寄り掛かるように体を起こし。
「はまづら。助けて」
小さく、しかしはっきりとそう言った。
「私一人じゃ多分無理。だから助けて」
その判断にどれほどの葛藤を抱いただろうか。
           ざつよう
まがりなりにも滝壺は『アイテム』の構成員であり、浜面は彼女らに従う下部組織の一人でしかない。
幾らでも代えの効く消耗品だ。だからこそ浜面は無能力者でありながら彼女たちと同じ場に居合わせる事ができた。
だが彼女ら『アイテム』は違う。
いわばキーパーソン。戦場におけるヒーローユニット。
浜面のような名もなき雑兵を気にする必要などなく、一言死ねと言えばそれですむ立場だというのに。
しかし滝壺はあえて浜面に言った。
助けて、と。
頭を下げ懇願した。
471:
滝壺は続ける。
「はまづらがいればきっと大丈夫だから」
そこにどれだけの思いが込められていただろう。
一介の、いや、一芥の無能力者でしかない浜面に対し彼女は「大丈夫」と言った。
滝壺一人では無理だけれど、浜面がいれば。
この場においてそれは雑兵に対するものではない。
彼女らと同じく、戦場の英雄へと掛けられる言葉だ。
滝壺の瞳に映るのは単なる消耗品の無能力者などではなく。
紛れもなく浜面仕上という名の少年だった。
「――滝壺」
そしてその言葉の重みが分からないほど浜面は無能でも朴念仁でもなかった。
彼は薄く、優しく笑い、彼女の腰に回す腕に僅かに力を入れる。
まるで抱き締めるように。
大丈夫だ、と。彼女の言葉に応えるように。
「オーケー、任せとけ。確かに俺も一人じゃ心細かったんだ」
茶化すように肩を竦め浜面が言い。
「じゃ、超そういう事で」
絹旗が頷くと同時。
大きな破裂音と共に黒夜が高で絹旗に迫り右手を振り上げた。
472:
まるでトラック同士が正面衝突したような轟音。
それを間近で食らった浜面の鼓膜は許容量異常の振動に軋み激痛の叫びを上げた。
黒夜の放った無色透明の一撃を真正面から受け止め絹旗は僅かに後ずさったが。
「『窒素爆槍』……私とは同系列別ベクトル、攻撃に特化した能力。
 作用点が両手のみに超限定されますが、窒素に絶対的な指向性を持たせ鋼鉄をも貫く槍とする――黒夜、あなたも相変わらずですね」
それだけだ。見えない槍を掴むかのように両手で虚空を握り締め――否、まさに見えない虚空でできた槍を掴んでいるのだ――絹旗は黒夜を見遣る。
「相変わらず――超攻撃特化のクセに私の『窒素装甲』すらまともに貫けないンですかァ?」
その両眼がどろりと濁ったと同時、絹旗の放つ雰囲気が一変する。
「ぐっ……!?」
まるでコールタールのような黒い重圧を持った気配。
殺気というには生易しい、それこそ負の臭いを極限まで凝縮したような圧倒的で禍々しい腐臭。
大量殺戮兵器や処刑・拷問器具の類、死を撒き散らす事しか能のない器物が持つ重圧感。
今まで纏っていた少女特有の微かに甘いような気配が吹き飛び、それがまるで拘束具であったかのように彼女の内から濃密な『死』の臭いが爆ぜるように噴出した。
473:
間近、絹旗の背を見ていた浜面は彼女の放つ気配に圧され慌てて滝壺を抱いて後ろに下がった。
臆した訳ではない。
いくら気配が急変したからといって彼女、絹旗最愛は浜面の知る幼い顔立ちと矮躯の少女だった。
浜面が退いたのは純粋に危険を感じたからだ。
    、 、 、、 、 、
その場にいれば巻き込まれる。
今の絹旗には浜面と滝壺に憂慮する余裕などなかった。
そしてもう一つ。
浜面はその場にいれば絹旗に要らぬ配慮をさせる事になると自ら退避した。
彼女が全力で相対できるように。
その判断を下すのに一瞬たりとも迷いはしなかった。
下らない心配をする必要はない。それは彼女に対する侮辱であり冒涜だ。
浜面はただ、絹旗が十全に戦える状況を用意したまでだ。
474:
果たしてその言葉にしないされない思いは絹旗に届いただろうか。
彼女は振り返らず、浜面に見えないようにどこか悲しげな笑みを浮かべる。
それは誰に向けられたものなのか。
視線を交わしたまま黒夜が僅かにいぶかしむように眉を顰めるが。
続く絹旗の表情に黒夜は戦慄し、同時に歓喜した。
――なぁ絹旗ちゃんよ、アンタも相変わらずみたいで私は嬉しいよ。
カハッ、と思わず嗤い声が漏れる。
嬉しくて嬉しくて仕方なかった。
二度と見たくもなかったはずの少女の顔は、今や黒夜にとって最愛ともいうべきものだった。
ああ――その可愛い顔を涙と血でグチャグチャに犯してやりたくて仕方ない――!
黒夜の殺意でしかない視線に絹旗は正面から睨み返す。
その眼光は鋭く爛々と輝き、まるで燃え盛る気炎は鬼火のようだった。
幼い外見の少女には似合わない悪鬼のような笑みを浮かべ絹旗は背後に向かって言い放つ。
「そォです。超離れててください。今回はちょっと――さすがの私も抑えが効きそォにありませンからァっ!」
ゴッ!! と絹旗の足元、床が音を立てて数センチ陥没し。
両手で握り締めた窒素の槍を、思い切り引っこ抜いた。
475:
窒素の槍は、黒夜が制御しているとはいえその掌から生えているわけではない。
能力の出力点が掌を基点としているだけで、徹底的に制御された窒素の刃がそこから放射されているだけに過ぎない。
しかし僅かに――ほんの僅かに、黒夜は窒素の槍に引き摺られ、体勢を崩す。
直接的な接点がないとはいえ槍を作っているのは黒夜自身だ。
高度すぎる演算能力が故に『窒素の槍』の想定しない動き。
それを補正しようと反射的に制御端末である掌を『窒素の槍』の動きに合わせて修正してしまう。
純然に結果としてだけを見るのであれば。
絹旗が『窒素装甲』でむりやり押さえ込んだ窒素の槍を投げ飛ばし、黒夜は右手を引っ張られる形となり体勢を崩した。
実体を持たない『ベクトルの集合体』でしかない窒素の槍は黒夜の制御下を離れた途端に雲散霧消する。
だが黒夜自身は肉体を持つ。
崩された体勢を立て直すためにたたらを踏み、結果として充分すぎる隙を見せる。
そこを絹旗が見逃すはずがない。
槍を放り投げるような動作と共に背後に振り上げられた拳は来た道を引き返すように前方に繰り出され黒夜へと迫る。
  みぞおち
狙いは腹部。水月。
第二次性徴の途中にある薄い胸の下、肋骨下部にある人体急所。
腹腔神経叢のあるそこは鍛えようのない急所の一つだ。どれだけ筋肉や骨を鍛えようとも、神経を鍛える術を人類は持たない。
だが、そんな事はこの場面では些細な事でしかない。
そこを絹旗が狙ったのは単に狙いやすい胴の中心であったからで、更に言うならば格闘術における急所を狙うという基本戦法に則った的確な一撃だからだ。
しかし絹旗の拳は急所だろうが何だろうが関係ない。
その間合い、射程こそ身体から数センチと黒夜に大きく劣るが、単純な威力だけで見れば黒夜の『窒素爆槍』の一撃と比べても全く遜色ない。
ただ絹旗の『窒素装甲』が攻撃性という点で『窒素爆槍』に劣るのは威力の問題ではなく。
彼女のように『斬る』『吹き飛ばす』というような小器用な事は一切できず。
ただ単に『殴り殺す』しか能がないからだ。
476:
「ふっ――――!」
吐息と共に繰り出された拳は見た目こそ少女のものだが大型トレーラーを正面から殴り飛ばせるだけの威力を伴っていた。
対し、黒夜の『窒素爆槍』は攻撃性に特化している。
両掌を基点とし、およそ三メートルの間合いに入れば戦車装甲だろうがチーズのように易々と切り裂いてしまう窒素の刃は、
絹旗のようなごく一部の例外を除いて必殺となる威力を持つ。
まがりなりにも『第一位』の演算能力の内でもその代名詞ともいうべき『ベクトル操作』を植え付けられているのだ。
『攻撃性』――どんな防御であれ正面から突き崩さんとする性質に特化した能力はそれ故に致命的な弱点を孕む。
防御性能の決定的な欠落。
どうしても絹旗の『窒素装甲』と比べてしまうが――『窒素装甲』は射程が数センチと極端に狭い代わりに全身を基点とする。
彼女の圧倒的な防御力はその所為だ。どこからどう攻撃されようとも『反射』の性質を移植された絹旗は完璧に防御する。
しかし黒夜の能力は両手を基点とし、故に他の部位は生身の少女のそれでしかない。
極限の域の薄く鋭利な刃物。黒夜の本質は槍だ。
刃は穂先だけにしかなく、それ以外を打たれれば容易く砕けてしまう。
まして絹旗の一撃をして。
黒夜は容易く打ち砕かれてしまうだろう。
478:
だが。同系異質の特性故に、黒夜にも策はある。
           、、 、
絹旗の拳が黒夜の腹部を捉えんとするその直前、黒夜の体が不自然にぶれた。
「――っ!?」
僅かに毛の先ほどの距離。
絹旗の拳に纏った窒素の奔流は僅かに黒夜の体に届かない。
「ばァ――――っか」
黒夜の嘲笑が絹旗の耳に届く。
彼女の体はよろめいた先とは逆方向に跳ねるように逸らされていた。
「確かに私はアンタに比べて防御は紙だけどさァ――避けちまえば一緒だろォが」
にぃ、と歯を見せ嗤う黒夜の犬歯が鋭く輝く。
不自然に背を曲げスウェーした黒夜。
引かれた右手は絹旗の右肩上に向けられていたはずだったが、今は黒夜の折り曲げられた体の真上を向いていた。
瞬時に絹旗は理解する。
彼女は右掌を基点に窒素を噴射し、まるで宇宙船の機体制御法のように自らの体を押し返したのだ。
だがそれだけでは辻褄が合わない。
黒夜は別に格闘技に長けている訳でも相手の動きを高精度で察知するスキルを持っている訳でもない。
瞬間的に、絹旗の一撃を文字通り紙一重で避けてみせるような技量を持っているはずがない。
そのからくりを推理するよりも前に絹旗の背筋に嫌な予感が駆け抜けた。
黒夜の右手は天井を向いているが。
もう片方、左手がこちらに向けて掌を翳していた。
(まず――――!)
  パイルバンカー
「――――破城槌だ。吹っ飛べェ!」
轟音と共に打ち込まれた気体の一撃は確かな重みをもって絹旗の胸に直撃した。
482:
「づァっ――!!」
真正面から『窒素爆槍』の刺突を受けた絹旗はそのまま後方に吹き飛ぶ。
一瞬で数メートルの距離を飛び、そのままノーバウンドで壁に激突した。
「絹旗っ――!」
浜面が叫ぶ。
しかしそれは届かなかった。
壊滅的な音が響くと共に建物自体がびりびりと悲鳴を上げ振動し、叫び声が掻き消される。
壁面に大きなクレーターを刻み付け、粉塵が跳ね上がり濛々と立ち込めた。
その煙の中から絹旗が、ゆっくりと、歩いて姿を現す。
無傷だ。だが――その顔は苦しげに歪み、吐く息も若干荒い。
彼女の様子に黒夜はまた破裂するように嗤うと口の端を吊り上げた。
「確かに『窒素装甲』には私の『窒素爆槍』でもまともにダメージ入らない。
 攻撃も衝撃も全部受け止められちまうだろォよ。……でもさァ――」
とん、と軽く地を蹴ったと同時、黒夜は両手を背後に向け、窒素を高で噴射しブースターとして絹旗に一足で迫る。
噴射は一瞬。反動を利用して前方へ跳ね上げられた両手は絹旗に向けて突き出される。
「――アンタ自身はただの、生身の中学生だ。いくらなンでも慣性の法則には逆らえねェだろォ?」
即座に演算を終了させた黒夜の形成した、長さおよそ三メートルの窒素の槍が絹旗に向かって爆発した。
483:
ガガガガガガッッ!! と、まるで道路工事の現場のような音が連続する。
翳した両手から黒夜は窒素の槍を連続で形成し高で穿ち続ける。
その先はアスファルトではなく一人の少女に向けられていた。
一撃一撃に必殺の威力が込められている。
絹旗の能力が十全に働かなかったとしたら、彼女は瞬時に押し潰されていただろう。
しかし絹旗の纏う窒素の鎧は万全に機能し黒夜の放つ攻撃の雨から彼女を守っていた。
だが『完全に』とはいえない。
繰り出される連撃は少しずつではあるが絹旗に『振動』という名のダメージを与え続けている。
絹旗の『窒素装甲』は防御性こそ高いが――その中で二点、致命的な弱点を持つ。
彼女の能力はその結果だけを簡単に言ってしまえば『窒素を固めて身に纏い鎧にする』というものだ。
一つは前述の通り、絹旗自身が生身の少女であるという事。
車だろうと軽々と持ち上げてしまうが、彼女自身の力ではない。
絹旗は窒素を操る能力者であって肉体強化の能力者ではない。
故に『窒素装甲』を貫けずとも絹旗自身に何らかの方法で攻撃できるのであればダメージは通る。
そして二つ目。
『窒素装甲』は衝撃を殺せない。
外面は決して砕けぬ鎧として、内面は絹旗を守るクッションとして働いているが。
単純に『硬い』。ただそれだけだ
別に足に根が生えている訳ではない。何トンもの重さがある訳でもない。
形成された鎧は互いを支えあい、外部からの干渉で変形させられる事はないが――。
    、 、 、 、、、 、
簡単な話、『窒素装甲』は押せば動くのだ。
484:
その特性をしっかりと理解していた黒夜は真正面から『窒素装甲』を抜く事を捨てた。
先の一撃、絹旗を吹き飛ばしたものがそれだ。
絹旗がその場で堪えられる打ち下ろしではなく、吹き飛ばすための打ち上げる一撃。
撥ねられれば絹旗といえど無傷とはいかない。
表面上は確かに傷はないが、内面、特に脳に衝撃が伝われば確実にダメージとなる。
内臓も、骨も、筋肉も。大きな衝撃には耐えられない。
何せ絹旗最愛は肉体的にはただの中学生の少女なのだから。
一度壁に押し付けてしまえばあとは一方的だ。
射程は黒夜の『窒素爆槍』が上。
絹旗が動けぬよう壁に押し込んだまま一方的に殴り続けられる。
そうしてガードの上からじわじわとダメージは蓄積され体力を削り取ってゆく。
スマートなやり方ではないとは思う。
だが絹旗にはこのような搦め手でなければ通用しない。
気に入らないが『暗闇の五月計画』の中でも黒夜と違い絹旗は優秀だった。
攻撃性のただ一点であれば確かに黒夜に勝る者はいなかった。
しかし彼女でも才能という点では絹旗には遠く及ばない。
あの最強、『第一位』の無敵の性能に最も近付いたのは絹旗だ。
『窒素爆槍』と『窒素装甲』。槍と鎧。矛と盾。
矛盾の逸話では答えは出なかったが――学園都市における二人の矛盾の能力者は才能という点で勝敗が決している。
だから、気に入らないがこうでもしないと。
ただの秀才は、努力しなければ天才には敵わないのだ。
485:
「くっ……!」
声を発したのは浜面だった。
窒素を操る二人の大能力者。
その戦いの間に割って入るなど無能力者の浜面には愚の骨頂でしかない。
しかし一方的に蹂躙される絹旗の姿に歯噛みする。
何か自分にできる事はないか……そう考えてしまう。
だが。
「――離れないで」
滝壺の声にはっとした。
袖を掴む手には心なしか力が込められている。
浜面を見上げるその顔は疲弊し切っていた。
吐息は熱く、目は茫と潤んでいる。
けれど視線は――確かに力強い光を持っていた。
「……ああ」
浜面は頷き、右手を滝壺の左手に重ねる。
絹旗は任せろと言った。
ならばここで浜面が手を出すのは彼女に対する侮辱だろう。
そして浜面にはやるべき事がある。
「離れるもんか。絶対に」
この腕の中の少女を守らなければならない。
489:
「立って、はまづら」
声に頷き、浜面は立ち上がる。
腕の中の滝壺を抱き起こし支え、ポケットの中のツールナイフを取り出し右手に握り締める。
視線の先はダウンジャケットの少年、査楽。
相変わらず馬鹿にするような薄笑いを浮かべているが――今の浜面には不思議と癪に障らなかった。
むしろ憐憫すら抱く。
相手が高位能力者だろうが『暗闇の五月計画』の被検体だろうが関係ない。
浜面はもはや彼に自分が負ける場面など考えられなかった。
「お別れの挨拶は済みましたか?」
見下すような台詞。それすらも滑稽に感じてしまう。
「そっちこそ」
浜面は目を細めた。
「遺言状は書いてきてんのか」
「……別に。必要ないでしょう。私たちのような立場の人間には、そんなもの、不要でしょうに」
490:
「はっ、確かに」
ナイフの刃を引っ張り出し浜面は頷く。
そして一言。
「それじゃ――悪いけどよ。お姫様方の頼みだ」
断って、浜面は己の顔付きが変わった事を自覚する。
既に一人。
だから二人だろうがそれ以上だろうが同じ事。
浜面は選択をした。
守るべきものとその価値を得た。
だからもう――他は何だって捨ててやろう。
平穏だろうが人生だろうがプライドだろうが、人として大切なはずの何だって。
ここは暗部。学園都市の裏にあるこの世の地獄。
そこに墜ちた浜面にとって今まで守ってきた人生観など無価値に過ぎない。
そして浜面は新たな役割を得た。
所詮自分は使い走りの雑用でしかない。
それが浜面仕上の仕事だ。
少女たちには不相応なゴミ掃除こそ自分の役目。
     アイテム
それこそが浜面に架せられた姫君たちに侍る騎士の称号だと確信して。
「――――オマエ、殺すわ」
ナイフを握る手と滝壺を抱く手に力が込められる。
浜面仕上はこの時生まれて初めて真正の意思を以って殺人を決意した。
491:
その言葉を合図とするように査楽の姿が虚空に掻き消える。
学園都市に五八人しかいない空間移動能力者。
高次元関数を用いる特殊な演算と、それを処理するだけの演算力を持つ空間移動能力者はその名だけでも充分な脅威だ。
その上、彼が『暗闇の五月計画』の被検体と言うからには超能力者級のスペックを持っているのだろう。
  トリック
しかし既に種は割れている。
必殺の一撃を放てるはずの空間移動能力。
物体が能力によって移動した際に起こる出現空間への割断は防御不可能の一撃だ。
絶対防御を誇る絹旗の『窒素装甲』であろうと、相手が三次元に捕らわれる以上不可避の断裂。
紙切れ一枚でダイヤモンドを断ち切れるというその能力の殺傷力は伊達ではない。
だというのに。査楽はそれをしようとはしない。
滝壺は元より絹旗に対して非常に相性がいいはずのそれを行おうとはしない。
空間移動能力者であるはずなのに普通の武器を持ち、そして未だに浜面は生きている。
(……なるほどな。やっぱり、そういう事か)
とっ、と背後で起きた小さな音。
それは空間を移動し浜面と滝壺の背後に現れた査楽の靴底が床を叩く音だ。
不意打ちであれば効果は絶大だろう。
だが査楽の行動は予想の範疇でしかない。
  、 、 、、 、 、 、 、 、
最初から後ろから攻撃が来ると分かっていればどうという事はない。
むしろどこから攻撃が来るのか教えてくれているようなものだ。
 バックスタブ
(『背後からの一撃』……オマエら能力者ってのはいつもいつも――)
だから浜面は微塵も動揺せず振り向き様にナイフを振るった。
(名前の時点でネタバレなんだよ――っ!)
492:
力任せの掻き裂くような一閃は虚空を薙ぐだけだった。
「おっと」
浜面のナイフを査楽は危なげなく軽いバックステップで避ける。
「警戒しないで下さいよ。今のは別に攻撃するつもりなんてなかったんですから」
おどけるように笑う査楽はそのまま浜面に背を向け悠然と歩く。
その先には浜面が投げ捨てた鋸。査楽の得物だ。
「さて、と。それじゃあ」
鋸を拾い上げ振り向く。
  、、 、
そして刃をずらりと構え。
「――今度は殺しに行きますよ」
再び査楽の姿が音もなく宙に消えた。
493:
「――走れ!」
叫び、滝壺の手を引き浜面は駆け出す。
直前まで浜面の首があった場所を鋸の刃が薙いだ。
背後に現れた査楽の振るった鋸をすんでのところで避ける。
(コイツは――相手の背後に回る事しかできない――!)
彼の持つ武器は鋸。リーチはどう頑張っても二メートルほどしかない。
彼が拳銃を持っていたとしたら話は別だっただろう。
飛び道具を相手に背を晒す事は愚行でしかない。
真っ当な空間移動能力者が相手であれば即座に決着はついていただろう。
けれど浜面はまだ生きている。
それは浜面でも――無能力者であっても抗えるという事実に他ならない。
明らかに体調の優れない滝壺に走らせるのは気が引けるがそう言える状況でもないだろう。
文句は後から幾らでも聞くからと心中で謝りながら浜面は滝壺の手を引く。
494:
例えここで査楽から逃走できたとして彼が追ってこない可能性も捨てきれない。
後方では絹旗が黒夜と交戦中だった。
凄まじい打撃音が響き続けているのがその証拠だ。
そこに査楽が加勢するという事もあり得るが――。
(それでも。アイツは俺たちを追ってくるしかない)
その確証が浜面にはあった。
(アイツらがここで一番されたくない行動を取る――!)
彼らが最も危惧する事柄。
先ほど浜面は本人の口からそれを聞いた。
    メルトダウナー
――超能力者第四位、『原子崩し』麦野沈利。
    ジョーカー
彼の打てる手の内で最強の切り札。
それをこの場に持ってくる。
497:
二人の背を横目で見送り絹旗は小さく、ふ、と溜め息を吐く。
浜面の意図は絹旗にも分かっていた。
この場において最良の選択といえるだろう。
彼女たち『アイテム』の主砲、『原子崩し』。
黒夜の『窒素爆槍』など彼女に比べればおもちゃのようなものでしかない。
少なくとも彼女の粒機波形高砲は同程度の強度を持つ超能力者七名でなければ防御すらままならないだろう。
いくら絹旗といえどあれを食らえばひとたまりもない。それほどまでに強力なものだ。
(そもそも――私たちがバラバラに動いてる事がそもそもの間違いだったンです)
絹旗は独白する。
『アイテム』の最大の武器は『原子崩し』でも『能力追跡』でも『窒素装甲』でもない。
麦野沈利。
絹旗最愛。
フレンダ。
滝壺理后。
個人個人の能力や技術は確かに強力なものだが彼女たちの真価は別にある。
――チームワーク。
絹旗が食い止め、フレンダが撹乱し、滝壺が捉え、麦野が撃つ。
四人の少女たちが個々の短所を補い合い、長所を引き出した時こそ真の力が発揮される。
498:
彼女の大好きな映画だって似たようなものだ。
監督も脚本も俳優も音響も撮影も照明も演出も衣装も全てが揃った時こそ傑作が生まれる。
単独での力など高が知れている。どこかが欠けていてもいけない。
絹旗が愛してやまないC級映画はその『欠落』そのものだ。
別に絹旗は下らない映画が好きな訳ではない。
駄作などなければいいに越した事はないと常々思っている。
しかし悲しいかな、映画というものは個人では作る事ができない。必ず誰かの協力が必要なのだ。
例えばそう、スポンサーの金銭的補助。
最も得がたく、ある意味では最も重要な役割。
予算がなければどうしても陳腐なものになってしまう。
ハリウッドの映画と比べれば華々しさなど圧倒的に見劣りする。
そういった『傑作』になれない『隠れた名作』を見るたびに絹旗はある種の親近感を覚える。
彼女たち『アイテム』もまた――何かが足りない。
欠けたピースは輪郭も朧でその形すら想像できない。
そもそも欠けたピースが存在するのか、それともないのか、それすらも分からない。
だのに、確かに何かが決定的に足りないとどこかに虚無感を持っていた。
けれど。
もしかしたら。
自分たちは今こそ最後のピースを得たのかもしれない。
少年の背を見送りながら絹旗はそんな柄にもない事を思ってしまうのだ。
499:
浜面もまた、知り合ってまだ間もないがその事を直感的に悟ったのだろう。
全てのピースがかっちりと嵌った時こそ彼女たちは無敵の集団と化す。
だからこそ絹旗を残した。
逃げたのではない。
散らばってしまったピースを集めるために。
残したのは絹旗を信じての事だ。
彼女を信じるからこそ言葉も交わさず迷わず全てを任せた。
そして絹旗を後に残し浜面は走る。
滝壺の手を取って。
(――あは。なンですかそれ)
こんな血と死の臭いしかしない舞台だというのに二人の姿は鮮烈に絹旗のまぶたに焼き付いた。
手に手を取って駆ける男女。それを追う敵対者。
力の差は歴然だというのに絶対に負ける気はしない。
それはまるで――。
(まるで――どっかの映画のワンシーンみたいじゃないですか)
二人の背に若干の嫉妬を覚えながらも絹旗は薄く笑った。
500:
「……どォしたンだよ絹旗ちゃンー? おつむをシェイクされすぎてどっかおかしくなっちゃったのかなァ?」
絹旗の笑みを見て黒夜はいぶかしむような視線を向ける。
軽口を叩きながらも攻撃の手を一切緩めないあたりはさすがとしか言い様がないが。
「いえね。私には私の役割があるって超再認識しただけですよ」
黒夜の言葉に絹旗は笑みを崩さぬまま視線を投げる。
そこには今までのどす黒い炎のような光はなかった。
彼女の放つ気配の質量はそのままに、性質だけががらりと変質していた。
殺意の炎ではなく、希望の光がそこにはあった。
そう、絹旗の役割は仲間を守る盾。
その防御力を以って敵を食い止める防波堤。
損な役回りだとは思う。
花形は麦野だ。自分はそれを飾るための冴えない木石でしかない。
けれど己に割り当てられた最良の役割を全うする事こそ彼女の仕事だ。
501:
「私を突破できない時点であなたの負けは確定してるンですけど」
嘯いて、絹旗はようやく反撃に出る。
黒夜が絹旗の一撃を避けた時に見せたおかしな反応。
彼女の能力には第一位の持つ『ベクトル操作』の演算方式を移植されている。
それは単に掌から無色透明の槍を生み出す能力ではない。
『両の掌を基点に窒素のベクトルを操る能力』
限定こそされるものの窒素は大気中の大部分、およそ八割を占める。
呼吸をし、音が生まれ、風が流れる場には全て窒素が満ちている。
だからこそ黒夜は避ける事ができた。   ベクトル
絹旗の呼吸、心拍、動きの悉くを窒素が媒介する震えとして捉え察知している。
その全てを捌き切る事はできないにしても少なくとも大きな挙動を伴う動き程度なら見ずとも分かる。
何かが動けば空気が流れ風が生まれる。
それらは窒素の持つベクトルとして黒夜の掌に伝わり彼女の超反応を手助けする。
味方であるはずの窒素に裏切られたような気がするがそれも些細な問題だ。
避けられるならば。
風を読まれるならば。
動いて風が生まれるならば。
それって要するに――風を超生まなければいいだけの話でしょう!
      ボンバーランス
窒素の挙動を操るのが黒夜海鳥の『窒素爆槍』なのだとしたら。
     オフェンスアーマー
窒素の停止を操るのが絹旗最愛の『窒素装甲』なのだから。
502:
前方からの攻撃は止まない。
両足は地から浮いていて踏ん張る事もできない。
しかし背には壁がある。
先ほど黒夜が窒素を噴射し回避したように、絹旗もまた窒素を操り無理な動きを起こす。
絹旗の全身が纏う窒素の鎧を意識して固定し、体の挙動に合わせ動かす。
何も珍しい事ではない。
能力を行使する際には少なからずやっていたものだ。全方位を意識するのは初めてだが。
警備員などの使う駆動鎧に原理は似ている。
人には不可能な力と強度を兼ね備えた窒素の鎧。
          、、 、 、
それを操り絹旗は前方からの攻撃を受けたまま壁に力を込め押し返す。
「っ……!」
黒夜の顔に微かな焦りが浮かぶのを絹旗は見逃さなかった。
両足で壁を蹴り、窒素の槍をいなし掻い潜るように、右前方、床に向かって飛び込んだ。
絹旗という盾を失った壁は黒夜の放つ窒素の槍衾に晒され瞬時に砕け散った。
503:
「テメ――!」
黒夜が振り返るよりも早く絹旗は両手で受け止め衝撃を逃がすために身を縮ませる。
そして、曲げられた両手で床を押し返す。
少女の細腕では到底不可能な運動。しかし『窒素装甲』が本来彼女が持つものよりも遥かに高い力を生む。
腕の動きだけで絹旗は跳躍する。
小さな体が宙を舞い、それに合わせ大気がうねり――――
         ベクトル
絹旗は持てる演算能力を全開にし、大気が、窒素が動きを生むよりも早く制御する。
――――私に従え!
絹旗の体の動きに押され流されようとした窒素を、
能力の圏内に入った端から周りの他の気体ごと固定し内へ内へと圧縮する。
身に纏う僅か数センチの領域内に全てが押し込まれるが、
体が過ぎた後の空間に停止させたまま置き去りにする事で同量のものを逃がす。
風を生まず移動するために全てを後ろへ流す。
そのために莫大な量の演算をこなし、脳の血管が破裂しそうな錯覚さえするが。
私だって――この程度の芸当もこなせずに『彼女たち』と同じ舞台に立てる訳がない――!
たとえ主役にはなれなくとも。
銀幕に輝く花形にはなれなくとも。
華美さの欠片もなくどうしようもなく地味で損な役回りだとしても。
「――助演女優賞くらいは貰っとかないと超割りに合わないってもンですよォっ!!」
繰り出された蹴りが槍の如く一直線に黒夜に突き刺さった。
504:
――――――――――――――――――――
513:
ずず…………ん…………。
遠くから音が聞こえた。
重く響くそれは地響きにも似ている。
建物全体が微動しパラパラと小さな砂のようなものが落ちてきた。
垣根は天井を見上げ目を僅かに細めた。
「……」
暗部に属する誰かが戦闘をしているのだろう。
他にも可能性はあるがこの場面でそれ以外の要素は考えられない。
味方、『スクール』の中には建物全体を振動させるような強力なエネルギーを発する能力者はいない。
もっとも砂皿が爆発物でも使ったなら別だが、アイツはそんな雑な仕事をするような玉じゃない、と垣根は自らの考えを否定した。
となれば、最も可能性が高いのは。
横目で麦野を見れば、思いつめたような沈鬱な表情を浮かべていた。
514:
(心当たりがある、か。しかし『アイテム』の誰かだとしたら……相手は誰だ?)
現在この場にいるのは麦野たち『アイテム』と垣根たち『スクール』だけのはずだった。
砂皿は外部への警戒を担当させている。
緊急の埋め合わせである彼を信用していない訳ではないが、信頼し切るには足りない。
屋上あたりで主要連絡経路を抑えているはずだった。
そして残る二人は施設の制圧と『アイテム』の残り三名への陽動を担当している。
同系列の能力者か余程の特殊な例を除き『心理定規』はほぼ敵無しだ。
とすれば――。
(アイツか? いや、『アイテム』を相手には出来る限り交戦しないようにっつってある)
垣根の思い浮かべた頭に土星の輪のようなゴーグルを付けた少年。確かに彼ではない。
彼は『アイテム』の構成員ではない浜面と交戦し、既に死亡しているのだがその事を垣根が知るはずもなかった。
(って事は、まさか――)
嫌な予感がした。
少なくとも『アイテム』の誰かであろう人物が交戦している相手は施設の一般局員や警備員の類ではない。
能力者か、さもなくばそれに類する特殊能力を持った誰か。
学園都市の暗部に属する誰か。
(――『スクール』でも『アイテム』でもない、第三勢力がこの施設にいやがる――!)
515:
「……麦野」
呼びかけ、垣根は横に立つ少女を見る。
こちらを向いた彼女は――、
――ああ。それだけで充分だ。
すぐにいつもの暗部組織『アイテム』のリーダー『麦野沈利』の顔に戻る。
そこにはもう弱々しい彼女の顔はなかった。
が、彼女が垣間見せた年相応の少女のような表情に垣根は頷く。
垣根は麦野に約束した。
彼女を、そして他の『アイテム』の少女たちを守ると。
彼女の信頼を勝ち取るためにも。
同時に自身のプライドを守るためにも。
そして、口にはしないが、ほんの一瞬だけ見えた麦野の表情に応えたいという小さな思いから。
「――――行くぜ」
両手をジャケットのポケットに入れたまま。
視線は往く先、射抜くように見据え。
ばさりと、背に白い羽毛に似た光が翻る。
「――――俺の女を泣かすヤツはぶち殺す」
学園都市序列第二位。
『未元物質』垣根帝督が出陣する。
――――――――――
516:
「ほらほらどうしたんですか。足が遅くなってますよ」
背後からかけられる声に浜面は苛立たずにはいられなかった。
査楽の能力は常に相手の背後を取るものだ。
空間移動能力者を相手に背を向けるなど愚の骨頂でしかなかったが、この場合最良の選択とも言えた。
常に背後から距離を取る前方への疾走。
飛び道具を持たない事は今までの攻撃から承知している。
逃走し続ける事が査楽に対する最良の防御手段だった。
しかし浜面が手を引く滝壺が問題だった。
彼女は浜面の全力疾走についてこれるほどの体力を持っていない。
素の筋力や持久力はもちろん、体晶の副作用からか明らかに体調が芳しくない。
吐く息は荒く、不規則だ。顔面も蒼白で額に浮かんだ汗に前髪がべっとりと張り付いている。
ともすれば転びそうになる滝壺だが、それでも不規則な呼吸を抑え込むように歯を食いしばり必死に浜面についてきている。
(逃げるのも長くはもたない)
彼女の横顔に軽く視線を遣り浜面は思う。
浜面の勝利条件はこの場に麦野が登場する事だ。
それまで時間稼ぎができれば浜面の勝ち。それまでに掴まってしまえばゲームオーバーだ。
517:
だが麦野との連絡を取る術がない。
携帯は通じず、他の連絡方法も持っていない。
下働きである浜面には緊急用の連絡手段が与えられていない。
そもそも彼女たちにしても連絡手段が潰されるのは想定外だったのだろう。
どうせそのような事態に陥ったとしても個々の能力で打開できる。そう高を括って慢心していた感も否めない。
チームワークを最大の武器にする『アイテム』だからこそ各個撃破が最大の弱点であり、
そこに付け込まれたのはリーダーである麦野の落ち度でしかないのだが今言っても仕方がない。
麦野は元より『アイテム』の面々は肝心の所で詰めが甘い傾向がある事は何となく察していた。
目に見えてそれが強いのはフレンダだが(この前『仕事』の後片付けをしていたら彼女の仕掛けていた爆弾に危うく吹き飛ばされそうになった)他の三人も浜面からしてみれば大して変わらない。
タイトルからしてC級臭がぷんぷんするホラー映画を嬉々としてレンタルしてきた絹旗は手持ちのプレイヤーでは形式に対応しておらず再生できなかった事に嘆いていた。
(なぜか浜面が学園都市中のレンタルショップをハシゴする破目になった)
紅茶に砂糖と間違えて塩をしこたま投入した滝壺は口を付けて吐き出していた。
(なぜか浜面が淹れ直しを要求された上に出したものも不味いの何だのと文句を言われ続けた)
セーフハウスのソファで寝こけていた麦野を起こそうとしたら寝惚けた彼女に抱きつかれた事もある。
(なぜか浜面が直後に完全に目を覚ました麦野に意識が飛び駆けるほど殴られた)
そんな事を思い返しながら浜面は鉄火場にも関わらず笑みが浮かんでしまうのを堪えられなかった。
518:
少女たちの顔を順番に思い出し、隣から聞こえる吐息と手に感じる温もりに意識を向ける。
見た目も悪くない、むしろ全員が美少女と呼んでいいほどだ。
顎でこき使われようとも悪い気はしない。けれどそれとは別に――。
(ああ……結局のところ話は簡単だ)
学園都市の暗部組織、粛清部隊『アイテム』。
そんなおどろおどろしい肩書きは彼女たちには似合わない。
浜面は知り合って間もないが、平和で騒々しいあの時間こそ彼女たちには似合っていた。
できる事ならずっと浸っていたかった。
それが泡沫の夢である事は分かっていても。
たとえ鍍金だったとしてもあの時間が紛れもなく輝いていた事を浜面は知っている。
そう思えるからこそ。
(俺はとっくに、まいっちまってるって訳……か)
情に絆される馬鹿な男だと思う。
けれど、あのどうしようもなくちっぽけだけど素晴らしいと思えるものを取り戻すためにと。
浜面は滝壺の手を引いて走る。
519:
(なんとかしてアイツを出し抜かねえとだが……)
背後に意識を向け浜面は酸素の足りない脳を必死に働かせていた。
殺すだの何だのと啖呵を切ったはいいが、真っ向から能力者に対抗できるとは思わない。
浜面が生きていられるのは単に運が好かっただけだ。
もし査楽が拳銃を持っていたらその時点で負けは確定していた。
そうでないにしても逃げ続けるしかない。
明確な対抗手段がない現時点において浜面はひたすらに逃走するしかないのだ。
第一の勝利条件は麦野との合流。
『明確な対抗手段』、それもとびきりのものを持つ麦野であれば査楽程度は造作もないだろう。
だが施設は広い。どこにいるのか分からない麦野を探す前に体力が限界に達する。
元より滝壺を気遣わなければならない。
彼女を人質に取られればその時点で負けが確定する。
しかし運気は浜面に向いている。
この場、戦場そのものが浜面の味方をしていた。
この素粒子工学研究所は重要性も機密レベルも高い施設だ。
だからこそ無能力者の浜面にも勝算がある。
研究所に詰めている多くは大人――能力開発を受けていない一般人だ。
だとすれば。
第二の勝利条件。先程の言葉通り、浜面が査楽を殺す。
(いざという時のための、一般人にも扱える対能力者用の手段が必ず用意されているはずだ――!)
520:
『アイテム』にお鉢が回ってくるのだ。
何らかのトラブルがあった際、馬鹿正直に警備員に頼れるような真っ当な施設ではないのだろう。
高位能力者は戦略的な要になるほどの強力なものを持つものもいる。
絹旗や、先程の黒夜とかいう少女であればその辺りの研究所であれば単独で制圧する事も可能だろう。
麦野については言うにすら及ばない。超能力者の持つ戦力は個人であれ一軍に匹敵する。
そういう能力者との戦闘は戦車や戦闘機を相手にするようなものだ。
その辺りにあるような『普通の装備』では勝ち目がない。相応の装備がある。
移送度が極端に落ちる階段は使えない。
エレベーターなどもってのほかだ。
だからこのフロアにそれがある事を祈るしかなかった。
(駆動鎧……は高望みしすぎか)
恐らく浜面が運用できるであろう戦力の内、最上級のものが駆動鎧だがそう簡単に転がっているはずもない。
たとえ運よく手に入ったとしてそのまま対抗手段となるとは考え辛い。
浜面は専門的な訓練を受けている訳でもない。かといって知識なしに動かせるものは――、
それ以上考える事はできなかった。
「あっ――」
息を呑む声が聞こえた。それと同時に突然手に力が掛かる。
見ずとも分かる。滝壺が転んだのだ。
「っ、滝……!」
彼女の名を最後まで呼ぶ事はできなかった。
振り返ればそこに、寒気のする笑顔を浮かべた査楽が立ち、手にした洋風の鋸を振り上げていた。
「残念。追いつきましたよ」
「――――!!」
浜面が何か言うよりも早く刃が振り下ろされた。
525:
上段から振り下ろされる鋸。
袈裟懸けに切りつけてくる刃は浜面の左肩へ。
ひゅうっ、と風切り音と共に迫る。
浜面は驚愕に硬直しそうになるが、
「――こ――のおおおおおッッ!!」
思考を停止させてはいけない。
自分は何の能力も持たない凡人だ。
能力者を相手に棒立ちになる事こそ自殺行為に他ならない。
常に最で次の手を模索しなければ即座に死に繋がる。
怒声を張り上げ浜面は迎え撃つように右足を蹴り上げる。
「らぁっ――!!」
相手の得物は鋸だ。日本刀ではない。
切れ味が悪すぎるそれは引かなければただの金属の板と変わらない――!
踏みつけるようにスニーカーで鋸の中ほどよりもやや手元を受け止めた。
鋸の細かな刃が靴底に食い込む嫌な感触が足裏に伝わってくる。
まさか受けられるとは思わなかったのだろう。査楽の顔が驚愕の色に染まった。
526:
――これだから能力を笠に着てふんぞり返っている奴は気に入らない。
数日前まで浜面のいた無能力者の集団。
路地裏の吹き溜まりのようなところにたむろしていた彼らの共通見解はそれだった。
理念というほど大層なものではない。
別に政治的な、宗教的な、道徳的な思想に則って行動している訳ではない。
彼らは単にテストの点だけで偉そうにしている連中が鼻持ちならないだけだ。
たったそれだけの感情論。
所詮子供と言われればそれまでだ。
けれど確かにこの場においてかつて浜面がいたコミュニティの存在は能力という絶対的な壁を凌駕し得る要素となった。
査楽の攻撃手段は鋸。引かなければただの細長い金属の板。
それではチンピラ御用達の鉄パイプと何ら変わりない――!
「悪りぃな、足が長くって」
査楽が鋸を引くよりも早く、自分でも馬鹿な台詞だと思いながら蹴り返した。
       ケンカ
「こちとら路地裏のチンピラ同士の殺し合いなら場数踏んでんだよ!」
527:
「く――無能力者風情がっ――!」
いい加減に痺れが切れてきたのだろう。
査楽の口から乱暴な言葉が零れる。
――――それでいい。
浜面は内心ほくそ笑んだ。
  ゆうとうせい
彼らのような能力者は自尊心の塊だ。少し馬鹿にしてやればすぐキレる。
憤怒や羞恥に溺れる思考ほど御しやすいものはない。
動きも思考も単調に。たとえ高位能力者であろうとこれでは無闇やたらにナイフを振り回すのと変わらない。
      ぶき
能力を持つ者の優位性は単に能力の有無だ。
使いこなせば確かに脅威となり得るが、なればこそ単純に振り回すだけでは能がないのと変わらない。
蹴り上げは一瞬の時間稼ぎでしかない。
またすぐに査楽は鋸を振り被り二撃目を繰り出してくる。
528:
横薙ぎ。
浜面から見て左手からの、胸ほどの高さの一閃。
避け辛いが殺傷力は低い。
これではたとえ攻撃をまともに食らったとしても腕が邪魔をして死には至らない。
もちろん痛みは充分にあるだろうし片腕が使えなくなれば利き腕でなくとも不利になる。
しかし、例えばここで片腕を犠牲にして。
カウンターでナイフを相手の胸に叩き込んだら。
小さなナイフだ。
本来は武器ではなく、小枝を削ったり糸を切ったりするためのサバイバル用のもの。
精々が釣った魚の腹を割き頭を落とすのがいいところだ。
刃渡りは六センチに満たない。それ以上は銃刀法で取り締まられているためにこの長さが限度だった。
だが心臓の上から垂直に突き立てれば充分な威力を持つ。
肉を裂くにはか弱すぎ、骨に当たれば止まってしまうだろう。
ならば眼球ではどうだろう。
どうやっても鍛えられない人体急所の一つ。
頭蓋骨の最大の弱点。眼孔に突き立てればそのまま脳への一撃となる。
選択肢は無数にある。
査楽はそこまで考えられてない。
感情に沸騰しかけた思考では冷静な判断を下せない。
浜面の思考のその裏まで読む事などできはしない。
浜面は、自分は違う、と思う。
思い上がりではない。感情はマグマのように煮え滾っているが思考は驚くほど冷静だ。
浜面仕上という人格から思考だけが分離してしまったような錯覚さえ覚える。
冷静に。冷静に。冷静に。
繰り返し、浜面は自身に。言い聞かせる。 バーサーカー
激昂は死亡フラグだ。キレたら負け。そもそも俺は狂戦士ってタイプじゃねえし、と嘯く。
思考は冷たく、氷のように。
鋭く、鋭く、研ぎ澄ます。
529:
肉を切らせて骨を絶つ。確かに手段としては上等だろう。
しかし今ここでその手を使っていいものなのか。
査楽にしても黒夜にしても、浜面にとっては脅威以外の何物でもない。
左腕を犠牲にすれば査楽を仕留められるだろうが、その後更なる脅威が現れた場合に大きく不利となる。
殺傷はあくまで手段だ。目的ではない。
そこを履き違えてしまえば必ず失敗する。
第一優先は滝壺。
殺すのではなく生きる事、守る事が勝利となる。
故に浜面は起死回生のチャンスを捨てる。
手先の器用さには自信がある。
成功する根拠もなく己の技術だけを信じて。
蹴り上げた直後。
浜面は既に行動を起こしていた。
じいいいいいいいっ!! と着ているジャージのジッパーを下ろし最最短の手順で左腕を抜く。
振り回す動きだけで袖を背を迂回させ、胸の前で裾を左手で、左袖を右手で掴む。
さながらアクロバットのようだ。
袖を抜く際に腕を引っ掛けてしまえば大きな隙を見せる事になる。
だが幸運にも――否、浜面は自負するとおりの技量をもって成功させる。
ひゅっ、と乾いた音。鋸の刃が空気を裂く。
予想通りに査楽は立て続けに二撃目を放った。
だから動きが単純なんだよ――!
左手に巻きつけるように握り締めた服の縄。
迫る刃をその内に受け止めた。
530:
みしりと腕が軋む感覚。
しかし鋸の侵攻は止まる。
「なっ……!!」
まさか浜面がそんな行動に出るとは思っていなかったのだろう。
査楽の動きが一瞬止まる。しかし浜面はそれを見逃さない。
素早く左腕を二回転させ鋸に服を巻き付ける。
「げっちゅー♪」
慌てた査楽が鋸を引く。
ぶちぶちと嫌な音がするがそれだけだ。
服の繊維に刃が食い込み動きを阻害する。
そして二度目となる蹴り。
狙いは鋸を握る査楽の手。
「くぁ――っ!」
爪先が手首に突き刺さり査楽は思わず鋸を手放し後ずさる。
跳ね上がった鋸。
左手を離し右手を勢いよく右上に引く事で巻きつけた服が抜き取られ鋸が空中で独楽のように回転する。
そして刃の先端が上へ。柄は下へ。
左手で柄を握る。
金属特有の重量を逃がさず背後へと見送りながら査楽へと無呼吸で踏み込む。
そして。
「――――づぁぁああああっっ!!」
左手を力任せに振り抜いた。
539:
恐らく、最高のタイミング。
武器を奪い、虚を突き、そして必殺の一手。
だが当たらない。
相手は空間移動能力者。
たとえ避けられないタイミングであっても認識された瞬間に攻撃は無力化する。
虚空に掻き消えた査楽。
その首が直前まであった場所を鋸の刃が切り裂く。
「ちぃっ――!」
浜面は舌打ちする。
このタイミングでも避けるか――!
査楽は臆病だ。
相手の背後に回るというその能力。
人質を取るというその選択。
それは常に相手の動きに注意を払っているという事に他ならない。
故に、最も敵に回した場合に組し辛い性質となる。
(どこに――)
考えかけて、考えるまでもなかったと思い返す。
査楽の目的はいわば浜面と同じ。
敵手の殺害は手段であり目的ではない。
背後に回るという能力の性質上、この場における可能性は二つ。
浜面か。それとも――、
「滝壺――!」
振り返ればそこには、彼女を後ろから羽交い絞めにする査楽の姿があった。
540:
査楽は滝壺の首に右腕を回し引き摺り起こしていた。
彼女の両手は回された腕を剥がそうと抵抗しているが、指に力は入らず、弱々しくダウンジャケットを掻くだけだった。
「テメェ滝壺を――」
「動かないで下さい。滝壺さん、あなたも。あまり抵抗しないで下さいね」
ぐいっ、と見せ付けるように滝壺の顔を無理矢理起こし査楽は哂った。
「動けば、首を折ります」
「殺せないだろうが。殺せばそこでオマエの死は確定するからな。
 滝壺はオマエにとって大切な交渉カードだ。人質の殺害は複数人いてこそできる。
 盾がなくなればあとは一方的に蹂躙されるだけだ」
そうは言うものの浜面の背には薄ら寒いものが走る。
浜面が動けない事には変わりなかった。
万が一にも彼女を殺されてしまっては。
それだけは絶対に避けなければならない。
541:
沈黙、いや……膠着。
浜面は手を出すことができず。
査楽もまた、滝壺を盾にすれど不用意には動けない。
互いに千日手のこの状況、先に次の手を打ったのは査楽だった。
「とりあえず、そうですね」
顎でしゃくるように指し、査楽は笑った。
「それ、返してくれませんか?」
浜面は視線を向けぬまま手に持つ鋸を意識する。
唯一の武器だ。査楽が他に武器を持たないとすればこれは大きなアドバンテージとなる。
手放せば圧倒的に不利になるのは明白だった。
だが浜面に拒否権はない。
彼が滝壺を殺せないとは分かっていても従う外ないのだ。
「……、……」
「早くしてください。時間稼ぎなど無駄な事は考えぬように」
査楽の腕の中の滝壺は疲れきったのかぐったりとしている。
もがいていた両手はだらりと下ろされ、不規則な荒い息を吐いている。
選択肢はない。
542:
「……分かった」
そう言って浜面はその場にゆっくりとしゃがむ。
鋸を床に置き、そしてまたゆっくりと立ち上がる。
「そうです。そのまま後ろに――」
下がれと。
言う前に浜面は鋸を査楽の方へと床を滑らせるように蹴り飛ばした。
「っ――!」
攻撃ではない。
それにしては度はあまりにお粗末だし、単純に査楽へと蹴って寄越したつもりだったのだろう。
だが長すぎ先端と柄の部分で比重の違う鋸は査楽の左手方向の壁へと向かう。
くるくると回転しながら平坦な床を滑り、そして壁にぶつかりかつんと音を立てる。
「ちっ――」
舌打ちし、思わずそちらに目を遣った瞬間。
どづっ、と鈍い音と共に右腿に激痛が走った。
543:
「ぎぁ――――――っ!!」
その瞬間三者が同時に動く。
査楽は苦痛の悲鳴を上げ思わず拘束の手を緩め、
浜面は無言のまま二人に向かって駆け出し、
そして滝壺は、自分が突き立てたナイフを引き抜き査楽の手を振り解いて浜面へと駆け寄る。
浜面は自分の持っているツールナイフを使わなかったのではない。
使えなかったのだ。滝壺に渡していたから。
万が一にもこのような状況になった時のために。
彼女の自衛手段として浜面はたった一つ持っていたちっぽけな武器を渡していた。
そして幸か不幸か想定していた場面は訪れ、浜面の計は功を奏す。
打ち合わせなしのぶっつけ本番。
目配せすらなしに行われた二人の連携に驚嘆すべきだろう。
両手を広げ駆け寄る滝壺を浜面は抱き留める。
首に回された手は優しく、そして強く抱擁するためのものだ。
浜面は止まらない。度を落とさず、半ばぶつかり押し返すように彼女を抱き上げる。
止まれない滝壺の下半身は度を保ったまま、彼女の踏み切りによって方向を変え上へ。
救い上げるように出された浜面の左手によって膝を下から抱えられ、そのまま浜面に抱き上げられる。
そうして浜面は、滝壺を抱いたまま。
「――――っらぁぁああああ!!」」
二人分の体重を乗せた蹴りが、今度こそ完全に虚を突かれた査楽に叩き込まれた。
544:
蹴り飛ばされた査楽には目もくれず、反動を不恰好に着地する事で逃がした浜面は再度疾走する。
なにせ絹旗の全力の蹴りを食らっても平然としていた男だ。
この程度が決め手になるとは到底思えない。
浜面は走る。
腕の中に少女を抱き、廊下を駆け角を曲がる。
「滝壺。大丈夫、か」
呼吸を乱さないように注意しながら浜面は問いかける。
「大丈夫。ごめんね、大分前から結構楽になってた。走っててあんまりにも疲れたから転んじゃったけど」
……つまり今までの具合の悪そうなのは全て演技だった訳だ。
「――ははっ」
思わず笑いが零れる。
「なんだオマエ、女優でも、目指すつもりか?」
「アカデミー賞はもらったかな」
このような状況にも関わらずそんな事を平気な顔で嘯く滝壺。
浜面は愉快で仕方がなかった。
――本当に傑作だ。
どうしてだろう。
こんな絶望的な状況で、具体的な打開策などなく都合のいい幸運に頼り切っているにも拘らず。
――まったく負ける気がしねぇんだなぁこれが……!
然り。
主人公というものは元来そういう存在だ。
        ヒーロー
そしてこの場において浜面仕上は間違いなく主人公だった。
……この場においては。
545:
「ジャージ、脱いじゃったね」
滝壺はぼそりとそんな事を言う。
「私とお揃いだったのに」
こんな状況にも関わらずそんな事を言ってからかってくる程度には彼女にも余裕ができたのだろう。
それとも冗談を言って浜面を元気付けようとしてくれているのか。
返事に困ってだんまりを決めていると滝壺はさらに続ける。
「はまづら。はまづらこそ大丈夫?」
とは言うが滝壺は心配する様子ではなく――どちらかといえば気遣うように問いかける。
「えっと。その……重くない?」
「妙な事訊くなよ。ここで頷くほど俺は馬鹿じゃねえし、実際、なんて事ねえよ」
そう言う浜面の足は本来のものより明らかに遅いし、息も上がっている。
いかに軽いといえど年頃の少女が一人。十や二十ではすまない。
彼女の正確な体重については言及せぬが華というものだ。
546:
「……ううん。前から思ってたけど、はまづらって馬鹿だね」
「オマエ何――」
思わず言い返そうとして、しかしそれ以上の事を浜面は言えなかった。
首に回された両腕にほんの少し力が込められる。
そして抱きつき、頬にキスするように顔を近付けた滝壺は浜面の耳元で囁いた。
「――今まで言わなかったけどね」
耳をくすぐる彼女の声と吐息に思わずどきりとする。
「はまづらのそういう馬鹿なところ、実は結構好き」
そう言う彼女の顔は、見えない。彼女もまた同じだろう。
浜面は前を向き、駆ける足のさを落とさずにぼそりと。
「…………あんまりからかって気を緩めさせないでくれよ」
「本当の事なのに」
くすくすと笑う滝壺の吐息が耳をくすぐった。
……本当に顔が見えなくてよかったと思う。
彼女の言葉の真偽は定かではなかったけれど、不快になるなんて事は絶対にない。
事が済んだらその辺りについてゆっくりと話を、純情な男心を弄ぶ罪についてじっくりと説教してやる事を胸に誓う。
――そう、少なくともそういう場面には、まだ早い。
554:
生と死を巡る攻防は終わってはいない。
その事を最も早く察知したのは他でもない滝壺だった。
「っ――はまづら!」
彼女の表情が険しく張り詰める。
「来るよ――!」
どれだけの度で駆けようとも背後に着いて離れない。
そう、相手は空間移動能力者。どれだけ逃げようとも必ず追い縋る。
相手の背を追う能力を相手に逃げ遂せる事など不可能に等しい。
その能力の発現の前兆を滝壺は察知していた。
彼女の持つ異能、『能力追跡』は能力者の放つAIM拡散力場と呼ばれる一種の気配のようなものを察知する。
世界の特異点。
絶対の法則を塗り潰すその絵筆を滝壺は観、油の臭いを嗅ぐ事ができる。
査楽の絵の具は相手の背に回る空間移動能力。
ならばその絵の具が現れるのは背に向かってだ。
纏わり着くような不快な気配が伸びてくる。
どろりとした泥のようなものが浜面の背に張り付こうとしている。
それが放つ悪臭が滝壺の人の域を超えた能力によって形作られる感覚器官に届く。
だが彼女は何もできない。滝壺理后という名の少女はただの観測者だ。
常人には理解できないものを見、聞き、嗅ぎ、触れ、味わう事はできてもただそれらを感じる事しかできない。
彼女の能力は抗う術を何一つ持たない脆弱で矮小なものだ。
だからこそ浜面仕上が必要となる。
無能力者。学園都市のおちこぼれ。
高位能力者から見れば道端の石ころ同然の存在が彼女を守る。
彼は世界の条理を捻じ曲げるような異能は持ち合わせていない。
だが、世界の――物語の流れを読む術には長けている。
勘と称されるもの。第六感、これもまたある意味では人の域を超えた能力なのかもしれない。
具体的に予知じみた虫の知らせがある訳ではない。
ただ、この場に用意された浜面が取れる限りなく無限の選択肢。
その中で最も冴えたものが何となく分かるのだ。
それは浜面の能力の域を超えず、けれど明らかに度を逸した可能性。
無限分の一の正解を何千だろうと何万だろうと当て続ける『才能』。
故に、彼の行動は常に間違わず、常に最良手となる。
555:
背後に現れるという能力の特性。
その最大の弱点を浜面は既に掴んでいた。
視線を下げる。その先には滝壺の顔。
いつもの気だるげな表情はなりを潜め、眼光は鋭く、浜面の背の先、背後を見据えている。
綺麗な瞳だ。僅かに潤んだような色は憂い帯びているようにも見える。
浜面は彼女の瞳を注視する。
黒曜石のような瞳。
その中に唐突に翳りが写り込む。
瞬間、浜面は強引に身体を捻り斜めに踏み切り飛び込んだ。
滝壺を抱きかかえたまま、左前方へと抉るように。
       ひめい
無理な運動に足の筋肉と骨と血管が軋み痛みを上げる。
だが今この状況。そんな事は些細な問題だ。
最も優先されるのは滝壺の無事。
先程の虚を突く手は二度は通用しない事くらい分かっている。
だからもう滝壺を奪われてはいけない。絶対死守せねばならない。
鋸の刃が切り裂いた風を背に感じながらも浜面は死角からの一撃を避ける。
先ほどまでとは異なる、遊びも余裕もない殺意の塊でしかない攻撃。
リーチのある鋸の刃は走ったところで逃げられるようなものではない。
けれど浜面は回避してみせた。
頭の悪い空間移動能力者はなぜ避けられたのかが理解できないだろう。
背後、死角に回るというその能力。その最大の弱点は。
――要は死角を死角でなくしてしまえばいい。
自分の背後を見る事ができれば容易に避けられるのだ。
鏡の前に立ってしまえば死角は消え去る。
いくら背後に立とうともそれがばれてしまえばその優位性は失われる。
浜面は滝壺の瞳に映る背後の状況を見て最善のタイミングで回避行動に移った。
最良手の前に査楽の稚拙な攻撃など当たるはずもない。
556:
加えて、滝壺がナイフで刺した傷。
足に深い刺し傷を持っていては痛みにまともに歩けない。立つ事すらままならない。
もし査楽が万全であったならば。背後への移動に加え更に踏み込む事で回避をさせなかっただろう。
けれど浜面は『最後の手段』と引き換えにそれを封じた。
差し引きでは優位性はゼロだろうが結果として査楽は最後の最後で詰める事ができない。
普段の倍近い負荷に膝関節が軋む。
滝壺を抱えたままの運動には無理があった。
だがそれを押し殺し浜面は折り曲げた膝を再びばねのように伸ばし加する。
前へ。前へ。前へ。
立ち止まらない。振り返らない。全力で疾走する。
背後に聞こえる苦悶の声を無視して浜面は駆ける。
そして。ようやく目的のものを発見する。
(中央制御室――――!)
案内表示を確認し、浜面は一目散にその扉へと駆け寄る。
扉は僅かに開いている――普通そんな状況はありえないだろう。
が、だからといって躊躇している余裕はない。足で蹴りつけるように扉を開けその中へと身を躍らせた。
565:
ばんっっ!! と大きな音を立て扉が壁を叩く。
中央制御室。その名の通り研究所そのものを総括するための部屋だ。
カメラモニターや何を意味しているのかも分からない計器類が壁一面をびっしりと埋め尽くしている。
そこでまず最初に感じたのは、空気。
むせ返るような血の臭い。
血と脂のべっとりと貼り付くような空気が室内には充満していた。
       、 、 、 、、 、、
もっと直接的に表現するのであれば――飛び散っていた。
血肉が辺り一面にばら撒かれたそこはまるで戦場跡か、さもなければ屠殺場か生肉工場だ。
多分、元は研究所の職員だっただろう。
そういう到底人の形には見えないモノが散乱していた。
まるで爆撃にでも遭ったような有様だった。
銃撃ではこうまでいかない。刃物や銃器ではなく、蹂躙するような破壊がここであった事は間違いない。
「っぐ――――」
喉がえずきそうになるのを飲み込みながら浜面は意図的に感情を殺す。
今必要なのはこの悪夢めいた光景に顔を顰める事ではない
素早く辺りを見回す。死体は路傍の石ころと同じようなものだと言い聞かせて黙殺した。
何に使うのか分からないスイッチで埋まった操作盤。
何を意味しているのか分からないメーター類。
どこを映しているのか分からないモニター群――、
「――――麦野」
半分以上が砕かれるか何も映していないモニターの中。
どこかも分からない廊下を歩く超能力者の少女の姿を見つけた。
566:
俯瞰するような画面の中、そこに『アイテム』のリーダーがいた。
しかし――。
「…………誰だ、コイツ」
彼女の隣に立つのは誰だ。
浜面は思わず小さく呟いた。
くすんだ金髪にいかにも高級そうなジャケットを羽織った優男。
一見ホストのようなその風体には似合わない、どこか刃物のようなギラついた気配を纏った少年。
モニターの中で薄く笑む彼は、麦野と何やら話ながら――、
『――――――』
ふっ、と。
視線を上げ、彼がこちらを見上げた。
「っ――――」
それは偶然だったのかもしれない。
しかし浜面には彼がモニター越しの視線を感じたように思えた。
     カメラ
そして彼は軽く手を挙げこちらに指を差す。
親指を立て、人差し指を向け、残る三指を握るその形は――。
――――――BANG
ぶつん、と。
跳ね上げるような手の動作と同時にカメラの映像が途切れた。
「――――!」
それは完全に偶然の産物だったのかもしれない。
けれど――浜面にはどうしても――。
彼が超能力者第二位『未元物質』垣根帝督だという事を浜面は知らない。
そして、滝壺も。
567:
彼が何者なのか。
どうして麦野と共にいるのか。
浜面の理解の及ぶ範疇ではなかったが、何にせよ彼女の無事は確認できた。
もっとも麦野が危機的状況に陥っている可能性など考える必要もないのだが。
思考を戻す。
数秒の間とはいえど意識を完全にそちらに持っていかれてしまった。
それはこの状況では致命的なものとなり得るというのに――。
――――こつ、と。
靴音が響いた。
(しまっ――!)
浜面は己の愚に歯噛みしながら振り返る。
そこには――。
「……鬼ごっこはそろそろ終わりですか?」
ズボンの右を赤黒く染めた査楽が扉に寄りかかるように立ちこちらに視線を向けていた。
570:
「……」
浜面は無言で査楽を見返したまま、腕に抱いていた滝壺をそっと降ろす。
「背後に回られないように、ですか。確かに私の出現位置が決まっている以上そのポジションは安全でしょうね」
浜面はスイッチや計器の並ぶ操作盤を背に立つ。
滝壺を胸に抱くように。彼女もまた査楽に向いて――背を浜面に預け立っている。
「いやはや、まんまとしてやられましたよ。まさか無能力者を相手にここまで苦戦するとは。
 瞬時に私の能力を見抜き、対策を講じ、裏を掻いた。能力に対処した上でこちらの足を傷付け機動力を失わせる。
 ……結果ここまで逃げおおせた。敵ながら天晴れと言うべきでしょうか」
口調こそ軽いまま捲くし立てているものの査楽の表情は硬い。
その言葉は恐らく浜面に対してのものではない。
彼自身のプライドを守るために何だかんだと理由をつけて納得しようとしているだけだろう。
浜面を無能力者と吐き捨てた彼が納得できるはずもないのだが、そう思い込もうとする事で自己を保とうとしているに過ぎない。
「……しかし。ここでチェックメイトです」
細身の鋸を構えなおし査楽は、右足を引き摺るようにして、ゆっくりと浜面と滝壺へと近付いてくる。
「まさかオマエ、高位能力者の優等生が泥臭い殴り合いで俺みたいなチンピラに勝てると思ってるのか」
「……まさか。ええ、まさか。そんな事思ってるはずがないでしょう?」
浜面の挑発するような言葉に査楽は一瞬表情を引きつらせるが、それには乗らないとばかりに笑みを向ける。
「能力に頼りすぎましたね。我ながら汗顔の至りです。ここまでいいようにされるとは」
そう言って査楽は右足を庇うようにしゃがみ込み、足元に散らばっていた残骸の中から黒い塊を抓み上げる。
「っ――」
背に嫌な寒気が走る。
「やっぱりここは単純に、文明の利器に頼る事にしましょう」
意図して辺りの様子から目を逸らしていたがために見落とした。
査楽の手にしたのは――ありふれた人殺しの兵器。
どこにでもあるような、何の変哲もない拳銃だった。
571:
(職員が拳銃持ってるなんてどんな研究施設だよここは――!)
心中の叫びは今となっては後の祭りでしかない。
浜面の焦燥を他所に査楽は鋸を左手に持ち直し、右手の内で拳銃を遊ばせながら言葉を続ける。
「殴り合いなんて面倒な事はしたくないですよ。あなたはいかにも、ケンカ強そうですしね。
 しかし真正面からの正攻法――銃器の武装はどう対処しますか、無能力者?」
「――――ハッ」
小さな笑いに査楽は眉を顰める。
そのような反応をする時点で、矢張り彼はどうにも頭が悪いと浜面は断じる。
――だから、獲物を前に舌なめずりするなんて三下のやる事なんだよ。
浜面の意図を測りかねたのだろう。
査楽の動きが一瞬止まる。
それだけあれば充分だ、と浜面は。
「――――滝壺」
腕の中の少女の耳元で囁く。
彼女を抱く左手に少しだけ力を込め。
右手は恋人を愛撫するように――背後の操作盤へと伸ばし。
「悪い。少し我慢してくれ」
顔は向けずとも分かる。
左腕を握り返してくる細い指に力が微かに込められたのを合図に浜面は彼女に心中で謝って。
「あのな、能力者。文明の利器ってのは」
赤いボタンを覆う透明パネルを跳ね上げ指を滑り込ませた。
――浜面の指が重なるボタンの上にはこう書いてある。
 【 EMERGENCY / CAPACITY DOWN 】
「馬鹿な無能力者の俺にもボタン一つで扱えるようなのを言うんだよ」
言葉と共に、かち、と小さな音を立ててボタンが押された。
574:
――――――――――――――――――――
「…………、へぇ?」
廊下を悠然と歩いていた垣根は、ふっと顔を上げ小さく感嘆の声を漏らした。
「何よ。いきなり変な声上げて」
そんな彼に訝しげな表情を向ける麦野。
垣根は右の人差し指を立て、つい、と宙に円を描くように回してみせた。
「いや何。オマエんとこの、だよな。中々やるじゃねぇか」
「はぁ?」
眉を顰める麦野に垣根は少しだけ迷ってから、
「……百聞は一見にしかず、ってか。少し体験学習してみようか」
そう言って、麦野の眉がさらに顰められた直後。
――――――――――!!
大音量の不協和音が麦野の耳朶を叩いた。
「な――っあ――ぐ――っ!」
突如として現れた音。
まるで脳を内側から掻き毟られるような不快感を伴う音がそこら中に木霊していた。
黒板を爪で引っかく、あの不快極まりない音を何万倍も濃縮したような音。
神経を震わせ脊髄を抉り思考さえも蹂躙するようなその音に麦野は堪らず頭を押さえその場にしゃがみ込んだ。
そして、また突然に音が消える。
「…………何よこれ」
不快感の余韻に吐き気と頭痛を覚えながら顔を上げると、垣根が嫌に癇に障る笑みを浮かべて麦野を見下ろしていた。
576:
「大丈夫か? 悪い悪い。そこまでモロに食らうとは思わなくてよ」
軽薄な笑顔で麦野の手を取り抱き起こす垣根は相変わらずの口調でそんな言葉を吐いた。
     キャパシティダウン
「対能力者用音響装置……『演算破壊』っていうんだが。
 用はあれ、モスキート音の能力者限定版の超強力な奴。
 仕組みはよく分からねぇが特殊な音波を出して演算を疎外する装置……のプロトタイプだ。
 以前こいつの試作機がちらっとスキルアウトの間で出回ってな。少し事件になったんだが」
そこで麦野は思い出す。
数ヶ月前、いつもは路地裏をこそこそと這い回っているような無能力者たちが妙に粋がって麦野に絡んできたことがあった。
彼女の性格上そんな事をしてはただでは済まない。
麦野は個人的な時間外労働として一つ二つそういう組織を潰し、その際にこれを一度目にしている。
もっとも、装置は使われる前に使い物にならなくされたのだが。
「木原印のキチ装置か……」
「なんだ、知ってんじゃん」
肩を竦める垣根に苛立ちを覚えながら麦野は彼の手を振り払い、顔に掛かった長い髪を後ろに撥ねる。
「どうなってんだろうな、これ。AIM拡散力場から干渉してるんだろうが、仕組みが全く分からねぇ。
 無能力者っつっても能力開発を受けている以上、何かしらの超微量な演算領域は持っているはずなんだが。
 どうして俺らには効いてアイツらには効かないんだろうな?」
577:
「アンタ平気な顔してるじゃない」
  まっとう
「俺にこういう常識的なモンが効くと思うか?
 ま、種明かしすると結局は単なる音だからな。俺の周りだけ逆位相の音波をぶつけて相殺してる」
事も無げにそんな事を言ってみせる垣根に麦野は薄ら寒いものを覚える。
彼も能力者である以上、この音(今は聞こえないが相変わらず鳴り響いているのだろう)を聞けば先程の麦野と同じようになってしまうのだろう。
だとすれば。彼は音を聞くよりも先にその存在を認識し、即座に相殺する手段を構築し実行した事になる。
「第二位――『未元物質』」
小さく、まるで呪詛の言葉のように呟く。
その声は麦野以外には聞こえるはずもないのだが、果たして垣根は聞こえているのだろうか。
麦野に向ける背からは分からなかった。
「さて、と」
誰にともなく呟き垣根は右手を胸の前に上げる。
その指にはいつの間にか――白い鳥の羽毛のようなものが抓まれていた。
無論これがただの羽毛であるはずがない。
どころか見た目こそありふれた造形だがこの世のあらゆる存在からかけ離れた存在だった。
彼の能力『未元物質』によって創造された既存の物理法則から外れた異質の存在。世界の常識を狂わせる猛毒。
それを操る垣根の目には世界はどのように写っているのか。
この世界の常識に捕らわれた者からは想像もつかないが――手の内の『未元物質』を見る垣根は笑っていた。
「本来そんな柄でもないだろうに。よく奮闘する。
 そういう奴には――手を貸さない訳にはいかないよなぁ?」
そう嘯いて。
垣根は、ふっと息を吹き付け、そして羽が宙に踊った。
――――――――――――――――――――
578:
一方、二人の大能力者の戦いは泥沼化していた。
「――づァ――ぎっ――がっ」
「か――ふゥ――ぐ――ァっ」
絹旗最愛と黒夜海鳥。
二人の窒素を操る能力者はその場に崩れ落ち床に這い蹲りながら悶えていた。
なまじ強力かつ意図的に改造を施された演算領域を持つ二人に音は本来期待される効果以上のものを発揮していた。
「なン――だよ、っ――こりゃァ――」
黒夜は正体不明の、不快と表現するには余りに凶悪な音に喘ぐように吐いた。
頭痛と吐き気と眩暈と虚脱感。
まるで世界がモノクロキネマになったかのように明滅する錯覚。
目からは涙が零れ全身が総毛立つ。悪性の熱病に侵されたようだった。
そんな見えているのかいないのかも不確かな視界の中、絹旗もまた黒夜と同じように崩れて落ちていた。
「はま、づら――ですか――ぐっ――」
タイミング的にそれ以外ありえないだろう。
既に施設自体は機能していない。
今まで絹旗たちが好き放題暴れていて作動しなかった装置が今さらながら機能したのは彼の手に因るとしか考えられなかった。
対能力者用の装置だ。無能力者――浜面以外にそれを有効活用できる者はいない。
これは唯一効果を発揮しない浜面だけに有利に働く。
  浜 面
ならば無能力者側、絹旗たちの勝ちに直結する戦略兵器だ。
「しかし――これは――っ!」
……辛い。
579:
脳の内側、思考そのものをごりごりと削られるような感覚。
自我と称してもいいかもしれない。元来『自分だけの現実』とはそういうものだ。
人が意識によって存在するのであれば人格という概念そのものを侵すような音に絹旗はなけなしの苦笑を浮かべる。
(超やってくれましたね――)
今やこの能力者のみを攻撃する音は施設全体に鳴り響いている。防衛装置であるならばそう考えて然るべきだ。
だとすれば彼と共にいるはずの滝壺もまたこの音響装置の影響を受けているだろう。
苦肉の策とは思うが、最高の逆転手である事には違いない。
持ち得る能力が強大でそれに頼れば頼るほど弱体化される。
最弱の存在が最強になる。まるでカードゲームの革命だ。
絹旗と黒夜の能力が拮抗している以上、拮抗はそのままに能力は下落し、お互い無能のままにこうして床に這い蹲っている。
あとは浜面が全てを片付けてくれるまで待てばいいだけなのだが――。
絹旗は掻き回される思考の中で疑問を覚えていた。
どうしても腑に落ちない点がある。
黒夜に放った蹴りは正確に彼女に突き刺さり少女の矮躯を撥ね飛ばした。
その時点でこの能力の発揮を阻害する音は発生していない。
だとすれば黒夜はその時点で即死までは行かずとも再起不能なほどのダメージを負っているはずだった。
なのに――。
(黒夜は――ろくにダメージを受けた様子もなかった――)
吹き飛んだ黒夜は多少の苦痛を見せたものの即座に立ち上がったのだった。
580:
それがどうしても解せない。
何らかのからくりがあるのだろう。
けれど今の絹旗にはそれを推理するだけの余裕はなかった。
そして、考えに耽れるような暇もなかった。
ごっ――! と空気が悲鳴を上げ不可視の力が絹旗の体を弾き飛ばした。
「っが――はァ――っ!」
まるでサッカーボールにでもなったような気分だ。
抵抗すらままならず絹旗は廊下の壁に激突する。
なけなしの演算領域を確保し辛うじて『窒素装甲』で防御したものの無双の防御力は普段の一割も発揮されない。
衝撃を若干和らげた程度とはいえこの状況下でまともに能力を発揮させた絹旗は驚嘆に値するが、
だからといって実質的にはその事は何の意味もなさない。
大能力者、『暗闇の五月計画』の落とし子だとしても絹旗最愛は中学生の少女だ。
見た目には小学生に間違われるほどの矮躯。彼女の精神性はさておき肉体的には外見通りでしかない。
『窒素装甲』の鉄壁さ故に隠されているが年齢に相応しない肉体はその通りに脆弱だった。
多少の痛みには耐えられる。そこは精神的な問題だ。
だが体は別だった。たった一撃であっても全身を突き抜けた衝撃は彼女の体を蹂躙する。
その上でこの音。
演算領域を食い荒らされ精神的に疲弊していた絹旗にはこの痛みは致命的だった。
581:
「――――あ」
視界がぼやけて見えるのは朦朧とした意識の所為か、それとも涙を浮かべているのか。
意識が薄れる。
白か黒かも分からない場所に落ちていくような感覚の中、絹旗の脳裏に走馬灯のように色々なものが浮かんでは消える。
『アイテム』の皆の顔が過ぎる。
麦野、フレンダ、滝壺、そして――。
「――――っ」
消えかかった意識を意思の力だけで強引に叩き起こした。
浜面。彼の顔が浮かんだ途端にどうしてだか無性に腹が立った。
彼がここまで活躍しているのに、果たして自分はここで寝こけてしまっていいのか。
たとえ絹旗が何もせずとも全てが上手く行くとして、だからといって何もせずにいて良いのか。
――いや、上手く行くはずもない。今、自分はどうなっている。
虚ろな視線を投げればそこには黒夜海鳥が立ち上がっている。
彼女もまた絹旗と同じように通常の何分の一も力を発揮できていないだろう。
けれど今受けた攻撃は彼女の能力に因るもの以外にあり得ない。
そして彼女は立ち上がっている。
だとしたら絹旗もまた。
(私は――まだ立てる――!)
軋む体を奮わせ、絹旗は立ち上がる。
全身に力は入らず意識もあやふやだ。
そんな状態でも絹旗は立ち上がらずにはいられない。
敵はまだ目の前にいて、守るべき者も帰るべき場所もある。
それがどれだけ最悪でも、絹旗にとっては最愛そのものだ。
そして何より――――。
(浜面だけに――超いい格好させて堪るもンですか――!)
たとえ端役だったとして。
この舞台、この場。
彼女の世界の主人公は、他ならぬ彼女自身なのだ。
582:
「――ハッ」
堪らなく不快な音の海の中、黒夜の嘲笑が耳に響く。
彼女の顔にもまた苦悶が色濃く影を落としている。意識も朦朧としているはずだ。
だというのに黒夜はそれすら他人事のように悪性の笑みを浮かべる。
「どォしたンだよ、絹旗ちゃンよォ――随分とお疲れみたいじゃン」
「そっちこそ――超大人しくお寝ンねしといたらどうなンですか」
苦痛は続く。
演算領域は相変わらず侵食され続け思考もままならぬものの、その状態での自身の運用に徐々に慣れつつある
その適応性もまた驚嘆すべき埒外のものではある。黒夜も、絹旗も。
「さすが、って言っとくべきなのかなァ『同窓生』」
「あなたに褒められたって、超嬉しくないですよ」
「囀るねェ」
「それ、あなたがでしょォに。黒夜、海鳥」
「いいから寝とけよ。死ンだ方がマシだろ。よく言ってたじゃない」
「いつの話ですかそれ」
……嫌な過去を持ち出す。
「私の人生、あなたみたいな超つまらないザコ相手にゲームオーバーになるなンてシナリオにないンですよ」
「じゃァ私が書き換えてやるよ。アンタはここで終わっとけ」
583:
二人は常に五分。
まるで鏡合わせ。いや天秤か。
先程攻撃してきたのが黒夜ならば、それを防御したのも絹旗だ。
お互いは常に拮抗しあっている。
その均衡が崩れる時があるならば――。
ふっ、と。唐突に。
あれほど自己主張していた音が消え去った。
「――――!」
「――――!」
瞬時に立ち眩みのような感覚を伴いながら思考と演算領域が回復する。
それは酩酊に近い。けれど過つような軟い『自分だけの現実』を持ってはいない。
同時に行動を起こせるとすればイニシアチブは攻撃に特化した黒夜にこそある。
絶好の機会。しかし黒夜は即座に動こうとはしなかった。
……いや、そうは見えないだけで動いている。
ただ絹旗はそれに気付かない。
黒夜の攻撃がないのだとすれば絹旗にとっては好機でしかないはずのその瞬間。
絹旗はほんの少しだけ、なけなしの思考を他に向けてしまった。
数分の一秒にも満たないほどの時間、注意が逸れる。
この音が消えたという事は――。
(浜面――――!)
――――――――――――――――――――
595:
天井のスピーカーから降り注ぐ音。
激しい頭痛に滝壺は思わず頭を押さえ、脱力しその場にへたり込んだ。
「っ――ぁ――!」
猛烈な吐き気と脱力感。そして意識の混濁。
人の脳は作業机に比喩される事が多いが、だとすればこの音は机の上でタップダンスでも踊られている気分だ。
作業の邪魔になるとか生易しいものではない。作業をする机そのものの上で暴れられては何も出来やしない。
浜面のスイッチを押した事によって施設の対能力者用防衛装置である音響兵器が発動した。
大音量で放たれる音波は滝壺の鼓膜から進入し脳を揺さぶる。
視界が明滅する。世界がぐねぐねと波打ちひっくり返っているような感覚。
平衡感覚すら狂っていて、天井に向かって落ちてしまいそうな気さえする。
だが。
そんな激しい苦痛の中で滝壺は笑っていた。
とん、と。
優しく肩を叩かれ、涙が零れた。
(はまづら――――)
滲んだ白黒写真のような視界の中、駆ける浜面の背が見えた。
596:
浜面もまた、放たれる大音量に顔をしかめていた。
けれど浜面は滝壺と違い、単に不快なだけだ。
無能力者である浜面にはこの音の持つ真の効果は発揮されない。
本来これは無能力者――正確には能力者である学生を管理する立場である大人――のための暴徒鎮圧兵器だ。
そのため無能力者である浜面には単にうるさいだけの音に過ぎない。
浜面は音の海の中を走る。
視線の先には――査楽。
彼もまたスピーカーの放つ音により脳と思考を掻き回され苦悶の表情を浮かべている。
「な――づぁ――!」
冷や汗と涙を流し頭を押さえ膝を折って震えている。
今までの威勢が嘘のようだった。だからといって手心を加えたりはしないが。
少しでも躊躇えばその分だけ滝壺への負担が増える。
先ほどのは演技にしても疲労は確実にあるだろう。
それに、少なくとも肉体的にはか弱い少女だ。浜面に暴力趣味はない。
その上――元々が体晶のお陰で壊れかけの体だ。
この音が何かとんでもない副作用を産む可能性だってある。
だから浜面は。
「――逝っとけ」
度と体重を乗せた回し蹴りを、蹲る査楽の頭に微塵の容赦も手加減もなく、全力で叩き込んだ。
597:
「っが――――!」
まるでゴミのように吹き飛ぶ査楽。
床を転がり椅子を薙ぎ倒し机に突っ込みようやく動きが止まる。
ふーっ……ふーっ……
スピーカーから放たれる不快な音の中で荒い息がやけに耳に響く。
それは間違いなく自分の吐息だった。
全力で、殺す気でいた。
サッカーボールを蹴るのとは訳が違う。
明確な殺意を持って、首をへし折るつもりで頭を蹴り飛ばした。
なのに査楽はまだ生きていた。
蹲ったままもぞもぞと動いている。
苦しげな呻き声を上げているものの、まだ生きている。
少なくとも意識くらいは刈り取っていてもおかしくないはずだった。
だが査楽は、先ほどの絹旗の一撃を食らっても平気な顔をしていた。
何故だか査楽は妙に打たれ強い。そんな感じがする。
空間移動能力の応用なのか、それとも別の何かなのか。
それは浜面には判断が付かなかったが。
「………………」
浜面は無言のままつかつかと歩き、少し離れた場所に転がっていた鋸を拾い上げた。
重い。引き切るための充分な質量がそこにはあった。
「さすがに」
刃が室内灯の光を反射して鈍く輝く。
「首を落とせば死ぬだろ」
無表情のまま、冷たい殺意と共に柄を握る手に力を込める。
感覚を確かめるように、ひゅっ、と一度宙を切り払って浜面は査楽に歩み寄る。
606:
「――――っは」
浜面の足が止まる。
査楽は笑っていた。
何がそんなに可笑しいのか。何がそんなに滑稽なのか。
査楽は能力を封じる騒音の中、嘲るように笑っていた。
「は、ははは、はははははは――」
笑い、査楽は身動ぎする。
右手を口元に。漏れる笑いを押し込むように当て――、
ごくり、と喉が鳴った。
僅かに数秒。
しかしようやく気付いた時にはもう遅かった。
査楽の左手には何かが握られていた。
小さなプラスチックのケース。
見ようによっては文房具屋で売られているシャーペンの芯のケースのような――、
浜面は己の迂闊さを、一瞬でも躊躇した事を後悔した。
「し――まっ――!」
その形状をしたものを浜面は見ている。
他でもない、背後にいるはずの滝壺が持っていたものと同じ、
――能力体結晶の粉末が入れられたケース。
607:
小さく査楽の体が跳ねるのと、浜面が走り鋸を振り下ろすのとは同時だった。
ひゅうっ、と風を斬り振り下ろされた鋸の刃は、しかし査楽の首を捕らえる事はなかった。
首筋に食い込む寸前、査楽の体が虚空に掻き消える。
鋸は固い床に当たり、浜面の手に痛みと嫌な振動を与える。
「ちっ――!」
舌打ちしながら振り返りもせず真後ろに向かって蹴りを放つ。
無理な体勢からの緊急の一撃。だがそれも空振った。
左足を軸に回転するように振り返る。
果たしてそこには査楽がいた。
ただしそれは浜面から数メートル離れた場所。
虚空に現れたのか、墜落し机の上に頭から突っ込むところだった。
(体晶で暴走させてこの状況でも能力を――っ!)
がしゃっ、と机の上にあったファイルやケースを撒き散らしながら査楽は机の上に突っ伏す。
「がっ……!」
査楽は衝撃に呻き声を上げる。
再び浜面は痺れる手で鋸を握り直し、査楽に向かおうとするが。
(――――――!!)
直感的に何かを察する。
それが何かを考える前に浜面は真横に飛んだ。
着地など考えない、強引な回避行動。考えている暇はなかった。
608:
視界の外、直前まで浜面がいた空間に何かが現れ、重力に引かれ落下した。
ぱさっ、と乾いた音。
査楽が撒き散らしたファイルだった。
空間移動能力によって移動すれば、問答無用で出現座標の空間を押し割る。
ただの薄っぺらな紙切れだろうとダイヤモンドを切断する。
そういう意味ではあらゆる物体が絶対切断の威力を持つ。
刃物だろうと銃器だろうと、ただの書類ファイルだろうと等しく空間を割断する。
一瞬でも体勢を整えたりと思考する時間を作っていれば死んでいた。
「ぐうっ……!」
無理な回避の所為で肩をしたたかに打ちつけた。
床を転がり、肩の痛みを無視して立ち上がる。
視線を査楽に向ければ、そこには。
「――――――」
あまりの異様な光景に浜面は絶句した。
査楽の周りを、まるで土星の輪のように物体が浮遊していた。
椅子。ファイル。ペン。鋏。パソコン。小さな置時計。メディアディスクとそのケース。
プラスチックのケースは蓋を開け中身をばらまきながら浮かんでいる。
それらが輪を描き、机の上に突っ伏したままの査楽の周囲を旋回している。
ときおり明滅するようにそれらの像がぶれ、次の瞬間リング軌道上の別の場所に現れる。
それでもリングを形成する集団から外れた鋏が、乾いた音と共に床の上に突き立つように出現する。
刃ではなく握り手を下に。V字に刃を突き出して。
重力と空間を無視したある種幻想的な光景。
そのあまりの異様さに浜面は動けずにいた。
査楽を乗せていた机がふっと消えリングの一団に加わり、それに伴い査楽がさらに落下する。
胸を打ち付け肺の中身を吐き出した査楽の頭上、彼の意思は関係ないと言わんばかりにリングは緩やかに回転し続ける。
609:
近付けない。
暴走した査楽の能力は、他者の背後という制限を失い空間を捻じ曲げながら物体を浮遊させている。
彼の能力の対象となる限界範囲――最も気をつけるべきは作用点の射程だが――が分からない以上近付けるはずがない。
下手に近付けば浜面もまた暴走した能力に取り込まれ、あのリングの一員に加えられるだろう。
運が悪ければ床か、あるいは天井か、それとも机の中あたりにでもあの鋏のように突き刺さる事になる。
拳銃でもあれば別だろうが、手に持つ鋸は投げ付けても対した威力にはならないだろう。
だとすれば、手詰まり。
勝率すら見えない以上一か八かの賭けすらできない。
「はは、はははは、はははははははははは――」
査楽の哄笑は止まらない。
能力を暴走状態にする体晶と、能力の演算を阻害する騒音。
両者に蝕まれる彼の脳の中はいったいどんな状態になっているのか。
科学者でも能力者でもない浜面には到底分かるはずがなかった。
「くっ……!」
惚けている場合ではない。
そもそもの勝利条件を履き違えてはならない。
査楽の殺害は勝ちに直結する要素の一つだが、絶対条件ではない。
最も優先されるのは滝壺の生存。彼女を可能な限り無傷で生還させなければいけない。
査楽の生死など結局のところはどうでもいいのだ。
この際、直接的な脅威でないのなら査楽は捨て置けばいい。
第一滝壺に長時間この音を聞かせ続けるのは心苦しいのだ。
610:
査楽は放置する。
そして滝壺を抱いて施設から脱出する。途中で絹旗も拾っていく。
麦野とフレンダについては分からないが、この音の影響下にあっても即座に死ぬような事はないだろう。
現在位置が不明な二人を探すのに時間をかけるよりも戦闘能力の低い滝壺を戦場から引き離す方が優先だ。
非力な彼女はアイテムの他の三人がいるからこそ戦場にいられるのだ。
施設は既に制圧している。能力を持たない者、例えば職員などがいたとしてもまともに動けるはいないはずだ。
一度二人を安全な場所まで退避させてから、再度突入するか、それとも――
査楽から距離を取りながら浜面は迂回して苦しげにこちらを見ている滝壺へと近付く。
「は、はは、ひっ、っくはは」
既に査楽の声は、笑声というよりは喉と横隔膜の痙攣と称した方がいいようなものとなっていた。
「くっ、はは、へけ、ひはは、ぎっ、かは」
そんな、本人もどうしてそんな声を出しているのか分からないだろう状態で。
「――は」
ぐりん、と首だけを異様な方向に向け跳ね上がった手を伸ばし。
その先には。
「あ――――、」
滝壺が。
「止め――――」
査楽の周囲をリング状に舞う机や椅子、文具たちが一斉に掻き消え放たれた。
615:
カカカカカカッ! と乾いた音が連続で響く。
十一次元座標を用い移動を果たしたそれらが空間を割り裂き突き刺さる音だった。
その先は――滝壺の背後。
体晶により暴走状態となったこの期に及んでなお、査楽は誰かの背後にしか空間移動を行えなかった。
「――――、っ!」
安堵したのもつかの間、その能力行使の意味を悟り浜面は走る。
査楽は何も意味なく能力を使った訳ではない。
狙いは初めから滝壺の背後だった。
即ち、この能力演算を阻害する音響装置の制御機器。
「滝壺っ!」
無理矢理抱き起こし、その場から全力で距離を取った。
背後でばちんと硬質の音。その直後、計器に突き立った机の辺りから爆発のような音と共に火の手が上がる。
それと同時に天井からがなりたてていた音が一瞬のノイズの後、ふっと消え去った。
(拙い――!)
腕の中の滝壺の呼吸が回復してゆく。それは即ち査楽も同じ事。
脳を蝕んでいた演算阻害がなくなれば能力者は元の力を発揮できるようになる。
616:
査楽の持つ空間移動能力の前では逃走は無意味だ。だからこそ麦野を探していたのだが。
迷う。
このまま即座に逃げるべきか。
査楽の能力は追いかける事はできても追いつくことはできない。
逃げ続ける限りは追いかけてはこれない。
そしてもう一つの選択肢。
査楽は即座には動けない。回復には時間が掛かる。
果たしてあと何秒か。分からないが……彼をこの場で排除すれば麦野の位置を確実に確認できる。
彼女と合流できれば大きなアドバンテージとなる。
監視カメラを探せばフレンダの位置も特定できるだろう。
好転する可能性を捨て現状維持か。
それとも危険を冒して博打に出るか。
迷っている時間はない。一瞬のうちに決断しなければならない。
そして……。
「くっ……!」
心の中で滝壺に謝る。
浜面の選択した手は逃走だった。
麦野、フレンダ、そして絹旗。
浜面は己の分を弁えている。何人もに気を回せるほどの頭も力もない。
今彼に求められている事は全力で滝壺を守る事だけだ。
617:
査楽を無視し、逃走する。
その決断は僅かに遅かった。
廊下への戸に向かおうと決意した瞬間――目の前に査楽の姿が現れた。
左手で顔面を押さえ、その間から覗く目は血走り殺意も露に浜面を睥睨していた。
(前方への空間移動はできないんじゃ――)
そう考えてから気付く。彼は浜面の前に空間移動で現れたのではない。
浜面が胸に抱く、滝壺の背後に現れたのだ。
「逃が――しません――」
血を吐くように言う査楽の手には、元は椅子か机の一部だったのだろう、棒状の金属製の部品が握られていた。
その先端は不自然なまでに滑らかな切り口で切断され鋭く尖っている。
空間移動の作用によって硬度を無視し切り取られた槍。
たとえ急ごしらえだとしても武器としては申し分のない殺傷力がある。
両手でしっかりと握り締められた槍が繰り出される。
その動きは粗末としか言い様のないものだが、体重を乗せた一撃は充分な威力を持っている。
対し、浜面の腕の中には滝壺。
普段の彼なら躱せるだろうが滝壺の存在によって反応が遅れる。
618:
「っ――のぉ――!」
胸元に向かって穿たれた一撃を浜面は体を落とし首を曲げ強引に回避する。
しかしその無理な体勢では次がない。
続く二撃目はどうしても避けようがない。
滝壺を抱えたままでは。
(悪い、滝壺)
言葉には出さぬまま浜面は抱いていた滝壺を手離す。
乱暴だとは思うがとやかく言っている暇はない。
文句なら後で幾らでも聞こう。今は査楽をどうにかする事が先決だ。
突かれた槍は引かなければならない。
本物の穂先の付いた槍ならいざ知らず、鉄棒を切り出して作ったような刺突にしか使えない代物では切り払う事もできない。
査楽が槍を引き、再び突き出すまでに絶対的なタイムラグが生まれる。
その隙に浜面は査楽の腰に向かい、槍を掻い潜るように突撃する。
「おおおおぁっ!!」
踏み込みこそ浅いものの、路地裏の喧嘩で場慣れしたタックルは正確に決まる。
衝撃に手放された急造の槍が宙を舞い、からんと乾いた音を立てて床に落ちた。
619:
組み伏せようとする浜面。
それに抵抗する査楽。
果たしてどちらが攻めているのかも分からないような状態で二人は縺れ合うように転がる。
殴り、蹴り、掻き毟り、不恰好に。
しかし体力差は歴然だった。
やがて浜面が馬乗りになり査楽を押さえ込む。
手の中に即殺できるような武器はない。
ならば。
「…………!」
浜面は査楽の腕を押さえ込んでいた両手を素早く離し、首を絞める。
「っぎ――ぁ――」
査楽が錆びた金属が擦れ合うような声を上げるが耳を貸しはしない。
両の手の中に筋肉と血管と気管の動き、そして体温が如実に感じられる。
びくびくと痙攣する肉の動きが気持ち悪い。けれどそれすらも意図的に無視し、浜面は両手に力を込める。
どれだけこうしていればいいのか。
早く終わってくれとどこか遠いところで思いながら浜面はぎりぎりと首を絞め付ける。
感情を押し殺し機械的に。手に込める力だけは衝動のままに。
620:
「がっ……!?」
突如生まれた痛みに浜面は顔を顰める。
抑えるもののない査楽の手が浜面の喉を突いた。
痛みと驚愕に断ち切られ張り詰めていた殺意が一瞬途切れる。
刹那だけ緩んだ両手を振り切り査楽は浜面を突き飛ばした。
査楽の首を絞めていた手が離れ、浜面はたたらを踏んで後退する。
咳き込む音。それは査楽のものなのか、浜面のものなのか。
思わず体を折りかける。予想以上にダメージは大きい。
不意の一撃だった事もあって肉体的にではなく精神的にかなりの衝撃を受けた。
だが気を抜いてはいられない。
逃走が不可能な以上、浜面が折れてしまえば滝壺の身が脅かされる。
なんとしてもここで査楽を仕留めなければ――、
強引に意志の力だけで苦痛を捻じ伏せ、歯を食いしばり視線を上げる。
しかし。
「――――」
そこに査楽の姿はない。
「しまっ――」
振り向くよりも早く、空間を移動した査楽が背後から浜面の首を絞めた。
621:
握力ではなく、腕の力で絞められる。
二人の背の高さは同じくらいだ。査楽は浜面を背負うように首に回した腕を吊り上げる。
重力の力も加わり浜面の喉に腕が食い込む。
「ぐ……っ……!」
暴れ、拘束から逃れようとしても体は半ば宙に浮いている。
腕は背後には振れず、踵で蹴り付けても拘束を解けるほどの威力にはならない。
(くそ……っ!)
ナイフ……は滝壺に渡したままだ。
そもそもそんなものがあれば先ほど決着がついている。
この状況から打つ手は――。
「たき――つぼ――」
査楽の腕が食い込んだ喉を無理に動かす。
「早く――逃げ――」
この状況は独力で打破できない。
だが同時に、浜面がこうしている限り査楽は能力を使えない。
査楽の演算能力では自分一人を移動するのが限度だ。さもなくば黒夜とわざわざ別行動を取る理由がない。
その上、査楽は組み伏せられた時に即能力を使わず、一度浜面と離れてから能力を使った。
完全に密着している状態では浜面ごと移動しなくてはならないのだろう。
だったら。
「ぎ……ぐぅ……っ!」
査楽の腕を掴み、引き剥がそうとする。
完全には無理だ。だが多少なりとも絞めつけを緩める事はできる。
時間を稼ぎ、その間に滝壺がこの場から逃れ麦野かフレンダと合流してくれれば。
(そうなれば俺の勝ちだ……!)
その時点での浜面の生死はさておき。
625:
――――――――――――――――――――
「っ――は――」
床に力なく倒れたまま滝壺は喘ぐように息を漏らす。
まだ演算領域を掻き乱され朦朧としたまま、思考は完全には回復していない。
けれど視界の端に縺れ合う二人の姿を捉えていた。
「はま――づら――」
傷だらけになりながら埃と血に塗れ奮闘する浜面に滝壺は得も知れぬ感情を抱く。
朧気な意識の中で思う。
彼はどうしてこうまでしてくれるのか。
「どうして――」
どうして。どうして。どうして。
疑問の感情がただひたすらに溢れる。
理解ができない。意味が分からない。意図が読めない。感情が見えない。
端的に言って――怖い。
理解の及ばないものを怪異だの幻想だのと称すのであれば滝壺にとっての浜面とは正にそれだった。
つい先日まで無能力者の巨大勢力の幹部を努めていたと聞く。
その事自体には何の興味もなかったが――。
彼は滝壺や査楽や絹旗や黒夜や、『アイテム』や『スクール』、そして他の暗部組織とは異なる。
闇の住人ではない。どれだけ汚れていたとしても彼は真っ当な世界の住人だったはずだ。
だからこそ滝壺は恐怖する。
     やみ
今この場、彼女の理解する日常に紛れ込んだ表舞台の住人。
滝壺はそれを知らない。彼女にとって正常なのはこちら側であって、燦然と輝く表舞台など別位相の世界以外の何物でもなかった。
だがどうしてだか、そんな彼女の前に現れた少年は彼岸の存在であり。
そして彼女たちの常識に縛られない。
不条理。理不尽。理解の範疇を逸脱している。
正に異質。
浜面の存在は滝壺の世界に紛れ込んだその内の見えない暗黒物質でしかない。
626:
滝壺にとって生死のやり取りとは当然であり、もはや呼吸をするのと同義だった。
『アイテム』――その結成は暗部組織の中でも真っ先に行われた。
他ならぬ学園都市の裏を牛耳る正体不明の上役の走狗だ。
異能を持たない大人たちは権力で以って力と成す。
      アイテム
滝壺らはその名が示すようにその道具でしかない。
選択肢はおろか疑問に持つ事すら許されず、そして無敵無敗である事を強要された存在だった。
故に彼女らは、人格の根本が破壊されている。
いや、彼女たちにとって正常なのは自分たちであり、他が異常なだけなのだろう。
己の生も他者の死も、存在の意味も意思の決定すらなく、信じられるのは自分たちのみ。
家族には捨てられ、頼るべき大人たちには奪われ、友人など最初から得られるはずもなかった。
もはや狂気的な、狂信的な自己愛に等しい強固な結束と依存。
『アイテム』を唯一繋ぎとめているのはそれだった。
生も死も真も偽も超越した一群としての共同生命線。
彼女たちの最も恐れるのは己の生死など低俗なものではなく、結束の崩壊にこそあった。
なればこそ背信は自傷――否、自殺行為に等しい。己の中にある絶対正義を傷付ける事などできるはずがないのだ。
だからもし彼女たちを瓦解させる何かがあるとすれば。
   しょうじょたち   しょうねん
それは間違いなく『アイテム』の中に割り込んでくる異質だった。
浜面仕上。
彼の存在は猛毒となり滝壺の精神世界を侵蝕し、その在り様を変質させていく。
627:
いっそ全てをかなぐり捨てて逃げてしまえばいいのに。
死にたくないという気持ちは理解できる。それは世界との繋がりを失う事だ。
滝壺は死そのものに恐怖はない。
明日は我が身の世界だ。いつ死んだっておかしくないし、別に構わない。
唯一どうしても生きる理由があるとすればそれもまた『アイテム』の存在。
死の先にあるのは絶対的な孤独。肉体も精神も他者も世界もない無明の常闇。
『アイテム』に強く執着する自分だからこそその恐ろしさを誰よりも知っている。
彼女たちのためになるならば喜んで死のう。そこに絶対的な信頼があるのだから。
だがこのような、誰がどう見たって死場でないところで散るのはどうしても許せない。
そこに絆は生まれず、塵のように死んでゆく。
麦野も、絹旗も、フレンダも、そして滝壺すらもいない世界。
ただただ不安で――恐ろしくてたまらない末路だった。
考えただけでも身震いがする。
これほどまでに滝壺が恐怖するのだ。浜面もまた少なからずそういう思いはあるはずだ。
いくら壊乱しているからといっても基本構造は同じ。その万分の一も感じ得ない事はないだろう。
だからこそ滝壺は思う。
「どうして――――」
どうして彼は、今紛れもない死地にあるというのに自ら飛び込んで行くのだろう。
628:
『――――知りたいか』
声がした。
遥か遠く。あるいはすぐ近くから。
距離や方向を感じさせず、それどころかその存在すらあやふやな声が聞こえた。
周囲には滝壺の他に浜面と査楽しかいない。他の人の気配はない。
だというのに声はすぐ耳元で聞こえた気すらした。
『考えてみろ』
声は一方的に続ける。
       、 、 、 、 、 、 、 、 、 、
『オマエだったらどうする。いや、どうすればそうなれる』
「――――――」
考えも及ばなかった。
滝壺にとっての浜面は異形の怪物でしかない。
だからまさか、自分と重ね合わせる事など思いもよらなかったのだ。
「わた、しは――」
喉を震わせ掠れるような声を絞り出す。
考える必要はない。直感的に判断すればいい。それが真実だ。
感情は理屈ではない。あらゆる理論は後付であり、未知の怪物を既知へと変えて安心するための屁理屈だ。
「――――むぎのを」
たとえその感情が未知であろうとも、自分の感情は直感的に悟る事ができる。
「フレンダを、きぬはたを――」
もし今滝壺が胸中に抱いている感情と同じなのだとすれば。
   きずな
「――――『アイテム』を、失わせないから」
彼は怪物などでは断じてない。
629:
滝壺の答えがそうならば、浜面の答えも同じだろう。
闇に墜ち、全てを失った少年。
守るべき者、帰る場所、そうしたものを全て奪われた。
だから今彼にそういう掛け替えのないものがあるとすれば、奪われた後に得たもの。
なし崩しの結果だったとしても。
誰かから押し付けられたものだとしても。
浜面が命を賭して守るべきものなど、考えるまでもなく一つしかないのだ。
「……そっか」
滝壺の心に最早恐怖など微塵も存在しない。
あるのはそれを理解できなかったという悔恨と理解できたという安堵。
そして、形容しがたい何か。
あえて名付けるとすれば、絆。
「はまづらは――私たちを守ろうとしてくれてるんだね」
滝壺の世界に亀裂が走る。
蛇が脱皮をするように世界は一回り大きく膨らむ。
その一回りは他ならぬ浜面の分だ。彼の存在分だけ滝壺の世界は広がる。
両腕に力を込め、膝を突き、顔を上げ、前を見る。
そこに絆があのならば。彼が命を賭すというのならば。
彼もまた『アイテム』の一員に違いない。
その彼が今まさに弑されんとしている。
ならば滝壺の取るべき行動など唯一つしかない。
殺されてなるものか。奪われてなるものか。
無二の結束だからこそ絶対に護らなければならない、絶対の価値。
他人に汚される事など許せない、彼女たちだけのたった一つの現実――。
「私が……はまづらを助ける……っ!」
630:
『いい答えだ』
声が再び聞こえた。
『だが“助ける”。どうやって? 勝算はあるのか? オマエは具体的な力を持っているか?』
声は男のものだ。
頭の中に直接浸透してくるような不思議な響き。
その発生源を滝壺は視点を引き上げた事で見つける事ができた。
それは宙に浮かぶ白い羽毛だった。
まるで絵に描いたような、実際にはあり得ないだろう輪郭をした白い結晶が鋲に打たれたかのように空中に静止していた。
視界の中でその一点だけが宗教絵画にでもなったかのような印象を抱かせる清冽な光。
まるで天使の羽。
『いいや、持っている。オマエは確かにそういうものを持っているんだ』
羽が振るえ音を発する。
わんわんと反響するような音色は、指向性を持って滝壺だけを打っていた。
『そう、ポケットの中にあるだろう?』
停止していた羽が笑うようにひらりと宙を踊った。
『木原印の御謹製品だよ。まさかその貴重なサンプルをあのイカれた連中が利用しないはずがない。
 なんていったか、恒河沙だか阿僧祇だかって名前の、自分たち一族のガキに組み込みやがった。その結果を知りたいか?』
羽は視界を横切り、滝壺は思わずそれを視線で追いかける。
『オマエの能力、まさか愛しい彼を見つけるためだけのモンのはずがねぇだろ』
羽はふわりと奥へ。ぶち撒かれ散乱した机や椅子を飛び越えて、部屋の奥へ、奥へ。
そこにはぽつんと、他は残らず消えているのに明かりをともしているモニターがあって。
画面越しに嫌味な笑みを浮かべた少年がこちらを見て笑っていた。
『追いかけて、思いっきり抱きしめてやれよ』
ぱちん、と羽がしゃぼん玉のように弾けて消え、同時にモニターの映像がぶつりと途切れた。
632:
「…………………………」
滝壺の精神は自分でも驚くほど静かに凪いでいた。
ある種の諦念。あるいは悟りの境地に似た覚悟。
ジャージのポケットのを探る手中には硬い感触がある。
薄く平たいものが幾つかと、やや丸みを帯びた手に握り込めるほどの大きさの金属片の塊が一つ。
一つと唯一を取り出し、握り締めた。
薄く軽いプラスチックのケースの中には白い結晶の粉末がある。
無意識に掛けている己の能力の枷を解き放つ強力な爆薬。
暴走状態という表現は正鵠を得ている。そう易々と何度も使えるはずがないのだ。
――――アンタ、何も考えずにぽんぽん使っちゃいそうだから言っとくけど。
  女ってのはそう簡単に自分を曝け出さないものよ。出し渋ってやるくらいでいい。
  そういうものを魅せるのはね――いい? 相手を絶対確実に落としてやるときじゃないといけないの。
脳裏をリーダーの少女の言葉が駆け抜ける。
彼女の言う場面があるとするならば今この場以外にその時があるだろうか。
彼女たちのために使うのならば否はない。
だから、彼女たち以外のために使うとするならば、それは――。
要するにこの時この瞬間。
暗い世界で孤独だった少女は、初めて見た鮮烈な光を前に恋に落ちたのだ。
633:
「死なせない――」
意識しないのに呟きが漏れる。
「死なせる――もんか――」
震える手ではケースの封を切るのも億劫で、その口を奥歯に挟み噛み砕くように折り割った。
尖った欠片に頬の内側が切れ痛みが走る。じわりと鉄錆の味が舌の上に広がった。
足は震えていていう事を聞いてくれない。
立ち上がるのすらできるか分からない。そんな状態で踏み出す事ができたとして一歩か二歩が関の山だ。
舌を舐める血の味に反射として唾液が出てくる。
どうしてだかこの味にだけは味覚はしっかりと反応してくれる。
だが都合がいい。滝壺はプラスチックのケースを口に咥え、中身を残らず朱く濡れた舌の上にぶちまけた。
そして血と唾液ごと能力爆薬の粉末を嚥下する。
――――何を――、――滝――もう――、――。
風などないはずなのに耳元でびゅうびゅうと音がする。
何か声が聞こえた気がするが無視した。
ケースの残骸を放り捨て、乾いた音を後ろに滝壺は彼の方を見る。
浜面仕上は査楽によって絞殺されようとしていた。
腕が彼の首に食い込み気管と頚動脈を圧迫している。
呼吸ができず酸欠を起こし、なけなしの酸素は血流を阻害され脳へ充分に供給されない。
締め付ける腕を引き剥がそうと指が掻くがもはや見るからに力は残されていない。
それでも必死になって締め付ける腕を掴み――。
「たき――つ――――はや――に、げ――」
吹き付ける幻風の中、彼の声だけははっきりと聞こえた。
634:
今。今この時。
死が足を掴み奈落へと引きずり込もうとしているというのに浜面は。
浜面が生きるためではなく、滝壺を生かすために力を振り絞った。
その瞬間、滝壺の中の思いは絶対の確信へと変わる。
それは信仰と呼んでもいい。
暗い闇の中に唯一輝ける星。それは祈りと導き以外の意味は持たない。
たとえ破滅へと誘う凶星だったとして、彼女がそれを理解したところで根本の部分は変わらない。
滝壺はただ漠然と、けれど確かなものとして一つの結末を悟る。
  ああ――きっと私は、彼のために死ぬ――。
いつかは分からない。だが絶対普遍の避け様のない終わりは見えてしまった。
それは抗いようのない事実。彼女が世界の理さえ超えた法則を統べるというのならあらゆる条理を無視して確立するだろう。
それでも構わない。むしろ末路としては最上ともいえよう。
いずれ訪れるその瞬間、もしも自分もまた彼のように輝いて彼を照らし導けるのだとしたら。
この身は刹那で消えてしまう流星でも構わない。
635:
(ただ……そうだとしても、今は)
少しだけ、ほんの少しだけ査楽に感謝すべきなのかもしれない。
彼の、浜面を背から抱きすくめるように首に腕を掛けたこの体勢。
それを眩む視線で見据えながら滝壺は壁を支えに立ち上がる。
背を預け、血と薬の味がする息で喉を鳴らし。
見えぬ手と、
味わえぬ目と、
嗅げぬ舌と、
聞こえぬ鼻と、
触れえぬ耳で、
 AIM拡散力場
       対象指定
能力:空間移動    
         固定
   角度計算  [ピーーー]
  座標設定
    演算式抽出 [ピーーー]
  [ピーーー]
 次元定理     作用軸
    範囲指定
代入定数  [ピーーー]
      変数計測
 [ピーーー]
     [ピーーー]
「――――つかまえ――たぁ――」
そう小さく呟き滝壺は薄く笑う。
そして自らと、そして彼のための守り刀を祈るように握り締め、そして。
(これはちょっと……見られたくない……かなぁ……)
――――――――――ig起nit爆ion
636:
視界が、認識が、世界がずれる。
夢の中のような不確かな世界で自分が広がって内側に墜ちるような感覚。
査楽のAIM拡散力場から彼の能力を盗み、模倣し、改竄し、何もかも全てを強引に起動する。
対象人物の背後への十一次元式空間移動。
正確な名こそ知らぬものの滝壺はその能力の特性を十全に理解している。
能力の起爆からゼロタイム。
拡散していた自分が収束し世界が閉じ、結果が結実する。
無理な能力使用に耐えかねたのか、それとも能力の演算に何か不備があったのか。
眼球の毛細血管が爆ぜたのだろう、開けた視界は真っ赤で何も見えなかった。
けれど構わない。見ずとも分かる。
自分の位置、相手の位置、そして彼の位置。
全ては流れを無視した時間線の一地点で行われた事であり、その前後で状況が変化している事などありえない。
その地点を期に三次元空間を移動した滝壺以外には。
相手の背後に現れる能力。
だから、見なくても分かる。
滝壺は倒れ込むように、そして満身創痍の全力を込め、手に持った小さなナイフを突き出した。
641:
どっ、と背中越しに小さな、しかし重い衝撃を浜面は感じた。
「っ――あ――が――」
査楽の呻きと共に耳に熱い息が掛かる。
滝壺の握り締めたツールナイフは彼の背に深々と突き刺さっていた。
滝壺は己の全力を握る手に込める。
動かす必要はない。それらの力はこの星の持つ引力が補ってくれる。
ただそれをナイフに伝えるためにしっかりと握り締めていればいい。
ぎぢ――。
倒れる体を支えきれずにナイフが肉を裂く。
抉り、掻き回すように内腑を巻き込みながら合金の刃は筋繊維を強引に押し割りみちみちと傷痕を広げてゆく。
「っ――がぁああ――!」
査楽が歯を食い縛り、左手を後ろに振り回すように殴りつける。
旋回する肘が滝壺の横顔を捕らえ弾き飛ばした。
「っあ――――!」
殴打され、滝壺はナイフこそ手放さなかったもののなす術もなく床に倒れる。
それによりナイフは引き抜かれ、最後に鋭い痛みを擦りつけながら肉を切断する。
「づ――っ!」
唐突な傷の痛み。
滝壺を殴りつけるために左手を動かし。
そして止めに更なる激痛。
疲弊した査楽の精神はそこで完全な隙を生む。
浜面を拘束していた腕の力が緩む。
そしてそこを逃す浜面ではなかった。
査楽の右腕を引き剥がし、息を吸う。
新鮮な空気が肺に流れ込む。喉が蠢き咳き込みそうになるのを飲み込み踏み止まる。
642:
「しまっ――」
査楽の腕に反射的に再び力が込められる。
だが浜面はそれに逆らわず、むしろ引き寄せた。
どころか迎え撃つ。
無手の、無能力者の浜面だろうと、生身に備わった武器がある。
首を動かし、引き寄せ、査楽の手に噛み付いた。
顎ほど強い力を発するものはない。
親指の付け根辺りを捕らえた浜面の歯は手加減無しにそのまま肉を食い千切る。
「――――――!!」
絶叫が響いた。
地にしっかりと付いた足に力を込め、浜面は査楽を背で弾き飛ばす。
抵抗もなく床を転がる査楽。束縛から逃れた浜面は肉片を吐き捨てる。
べちゃりと湿った音を立てて床に貼り付いたそれを一瞥すらせず乱れた呼吸を繰り返しながらも滝壺を抱き起こした。
「滝壺っ!」
腕に抱いた少女は、両目から赤い涙を流していた。
能力の限度を超えた強引な発動に耐えかねた毛細血管が爆ぜ流血を起こしていた。
「はまづら――」
掠れるような声で滝壺は彼を呼び、力の入らない手で彼のシャツの胸元を握る。
その血涙に濡れた顔を見て浜面ははっとなる。
彼女は笑っていた。
全身が脱力しきったあまりに痛ましい様相だというのに彼女は笑顔を浮かべていた。
そして彼女は誇らしげに言うのだ。
「私だって、やればできるんだから」
――ああ、そうだな。
頷いて、彼女を抱きしめた。
自分が守るしかないと思っていた非力な少女。
そんな彼女が力を振り絞って査楽に一矢酬い浜面を助けてみせた。
無能の少年と非力の少女。
その二人が局面を逆転させた。
ならば今この場、どう転んだって負ける気はしない。
644:
「糞っ、糞っ、糞がぁっ!」
右手を押さえ吐き捨てる査楽は血走った目で二人を睨み付ける。
「よくも、よくも私の……!!」
「次は首を貰う」
は、と疲労も色濃い息を吐き出しながらも浜面は嘲るように言った。
滝壺の指をそっと開き、その手に持っていたナイフを取る。
「ったく、モブ風情が何格好付けてんだよ。見てて滑稽だぜ。
 これ以上雑魚相手にいくらやったって面白くねえだろうが」
何故だか分からないが、何故か分かるのだ。
どうなったって死なない。負けない。
ここで生き残り勝利するという理由不明の絶対的な確信を得ていた。
「ぶっちゃけ面倒だから尻尾巻いて逃げろ。オマエは絶対に勝てねえよ。
 それともオマエが死ぬまでやるか? あぁ本当に面倒で仕方ないけど――」
まるで既に未来が確定しているような。
究極的に同じ結末になるのだから、ここからはただの蛇足でしかない。
が――。
「オマエがやるってんなら相手になってやる。来いよ三下」
査楽は困惑する。
今といい先といい彼の自信は何から来るものなのか。
彼の目的もまた浜面の殺害や滝壺の拉致ではない。
いや、滝壺には他者の能力を操るという反則的な力があり、最悪の場合自分の能力すら封じられかねないような状況。
詰みは査楽の方だ。既に彼の目的を達成するために二人は直接的な影響力を持たない。
それどころか――。
その時、査楽の思考を遮るように、かつん、と乾いた音がした。
続く声。それは死刑宣告に等しかった。
「――上出来だよ浜面。ご褒美は何がいい?」
『アイテム』のリーダー。
超能力者第四位。
『原子崩し』、麦野沈利が部屋の入り口に立ち不敵に笑っていた。
645:
査楽の決断は早かった。
「麦野――! ――――くっ!」
冗談ではない。査楽にとっては最悪の展開。
一軍に匹敵する能力を持つ最高位能力者の一角の少女。
彼女を相手にするなど、文字通りに命が幾つあっても足りない。
やや薄らいだとはいえ体晶の効果はまだ残っている。
全力を超えた暴走状態の能力を強引に行使し、査楽は最でこの場からの遁走を選択した。
ふつ、と音もなく査楽の姿が虚空に消える。
「………………、は、ぁ……」
張り詰めていた緊張の糸が切れ、浜面は深い溜め息を吐いた。
「どうせならもっと早く来てくれよ。こっちは何度も死に掛けたんだぜ、麦野」
「にしてはそこそこピンピンしてるみたいだけど。あんな啖呵切っちゃってさ。浜面の癖に生意気だっつーの」
そんなやりとりをしながら、麦野はゆっくりと二人の方へ歩み寄った。
「大丈夫? ……じゃないか」
しゃがみ込み、滝壺の顔を覗き見る麦野。
対する滝壺の頬には涙が赤い筋を描いている。
しかし滝壺は薄く目を開き、弱々しく微笑んだ。
「大丈夫だよ、むぎの。はまづらが守ってくれたから」
「……そう」
その返答に麦野は、どこか痛切な笑みを返した。
646:
だがすぐに麦野は、真剣な表情になり滝壺を見る。
「アンタ体晶使ったわね? ……まだ効果、残ってる?」
その言葉が意味するところを悟り、浜面は思わず声を荒げた。
「おい麦野……!」
「アンタは黙ってなさい」
ぴしゃりと浜面の言葉を遮り、麦野は鋭い眼光を浜面に向けた。
「アンタまさか、アイツをあのまま逃がしていいと思ってるの?
 私たちに敵対した奴は一人残らずぶち殺さないと。絶対に舐められちゃ困るのよ、『アイテム』は」
軽い口調だが、その言葉の裏にある重みを感じ取り浜面の背にぞくりと寒気が走った。
比喩などではない。絶対的な事実としてその言葉があった。
「距離九八三〇、方角は――あっち」
見えていないだろうに、滝壺は目を閉じたまま、つい、と虚空を指差す。
滝壺の指の先、部屋の隅――その先にあるものに視線を向け麦野は眉を顰めた。
「やるわねぇ、十キロ近いじゃん。さすがって言うべきなのか当然って言うべきなのか迷うけど。
 でも遠いなあ。これじゃ着弾点がずれすぎるわね……角度難しいけど補正できる?」
「うん」
キィィィン――――と耳鳴りに似た超高音が空気を振動させる。
麦野が差し出した手の先に光の粒が舞っていた。
それは引かれ合うように一点に集中してゆき、徐々に大きな光球を形成する。
彼女の能力により本来の性質を崩され、粒子と波動の中間の不安定な状態で固定された電子たちが集中し光を放っていた。
「もう少し右……あとちょっと下……」
浜面の目からは麦野の動きに変化はないように見える。
しかし架空の砲身が麦野の視線の先に存在し、針の穴を通すような精密射撃を行おうとしているのだろう。
「あ、行き過ぎ。……うん、そこ。」
麦野が翳した手の先に浮かぶ光の輝きは最高潮に達している。
まるで地上――いや地下か。そこに現れた小さな太陽だった。
燃え盛るような赤ではなく、病的な青白い太陽は直視できぬような輝きを放つ。
「おっけー。んじゃ一発――ぶちかますわよ」
宣言と同時に、小さな太陽が爆ぜ、直線を描き亜光で『原子崩し』の矢が放たれた。
――――――――――――――――――――
647:
査楽は緊急退避用の最後の手段として残していた『避暑地』、馬場の背後への移動を行った。
査楽の能力は相手の背後に回るという特性を持つ。
そこに滝壺と同じAIM拡散力場を代入する演算方法を組み込みば、それを基点として空間移動を行う能力を持つ。
AIM拡散力場に干渉する空間移動能力。
それが査楽の持つ人為的に強化された能力だった。
しかし相手の位置を確認できない以上、空間移動には『埋め込み』の危険が伴う。
だからこそ最後の手段として残してきたが――。
「ぐっ…………!」
超長距離の空間移動は酩酊にも似た吐き気を伴う。
だが体に違和感はない。どうやら壁の中などではなく、開けた空間に出る事に成功したようだった。
背と右手を貫く痛みに演算を失敗する可能性もあったが、麦野から逃れる事を考えれば天秤にすら吊り合わない。
どうやっても太刀打ちできない相手。それが超能力者だ。
博打に近いものではあったが賭けには勝ったようだ。
「お――っげぁ――」
度を超えた能力の負荷に耐え切れず、堪らず嘔吐した。
膝を突いた査楽の視界に広がる見るからに高級そうな絨毯に胃液と未消化の内容物がぶち撒かれる。
「がっ、げほっ、ぐぅ……!」
脳に激しい痛みを感じる。
しかしそれもだが、背と右手の傷を治療しなくては。
「馬場……っ。ぐうっ……負傷しました。医療用の、ロボットがあったでしょう……出してください……!」
内臓を損壊している可能性がある。
即死こそしなかったものの今まさに査楽は死へ向かって緩やかに転落しつつある状況かも知れないのだ。
648:
…………だが一向に返事はない。
「馬場、聞いているんですか……!」
ぐるぐると、平衡感覚すら危うい眩暈を覚えながら査楽は苛立ちに叫んだ。
査楽は間違いなく馬場のAIM拡散力場を基点として空間移動を行った。
それが成功している以上、すぐ目の前に馬場がいるのは間違いなかった。
ようやく、少しずつ回復してきた視線で見回せば目の前にソファの背があった。
そしてその向こうから何やらがちゃがちゃと乾いた音が聞こえる。
「馬場っ……!」
彼はソファに座っているのだろう。
危うい距離だったが幸運にもソファに突き刺さるような事はなかったようだ。
「あ、あのさ」
ソファを挟んで馬場の声が聞こえる。
「止まらないんだ」
がちゃがちゃと、音が止まない。
「馬場っ……あなたは一体何を……!」
叫んでも馬場の耳には届かない。
馬場の脳は許容限界を超えた事実に混乱の極みに至っていた。
「止まらないんだよぉ……」
ソファに深々と腰掛けた馬場。
彼の前には数台のノートパソコンが置かれたガラスの机、そしてその奥には大型テレビが置かれていた。
その画面のどれもが彼の動かす機械の獣のモニタリングをしている。
カメラアイの映像はもちろん、その駆動状況、現在位置、
周囲の気圧や湿度に至るまでありとあらゆる情報がめまぐるしく表示されてゆく。
なのに、それを操る彼の手に握られた極々普通のゲーム機用のコントローラー。
それを操る指が、馬場の意思とは無関係に動き続けて物凄いさでボタンを連打しているのだ。
その操作全てが一つの目標に向かって行使されている。
機械の獣を全力でこの場に向かわせているのだった。
649:
その原因を彼らが理解できるはずもない。
それは彼らの常識からすれば荒唐無稽な代物。
魔術と呼ばれる法則の、更にその中でも原典と呼ばれる超高濃度の毒の塊が引き起こした災厄だ。
因果応報、その術者に刃を向けた者を残らず自刃を強制させる呪い。
そんな非科学的なものだとはまさか馬場は考えも及ばなかった。
地下深くに建設されたこの『避暑地』の周りは特殊な素材で包まれており、
物質的な法則を無視する精神感応系の能力ですら届かない絶対無敵の安全地帯のはずだった。
どうして、と馬場は同じ言葉を頭の中で繰り返しながらも指は止まらない。
コントローラーを持つ手は強く握り締められ離れない。
「止まれよ……言う事を聞けよ……!」
悲痛な叫びを無視して彼の指は機械的にボタンを叩き続ける。
「馬場、一体何を――」
ようやくある程度眩暈と吐き気が治まり、査楽は左手でソファを支えに立ち上がる。
そこで見たものは、がちゃがちゃと忙しなくコントローラーのボタンを操作し続ける馬場の指と。
振り向いた馬場の、恐怖と困惑に塗れぐしゃぐしゃになった表情。
査楽の視線と馬場の視線とが交差する。
それが査楽の見た最後の光景だった。
全ての障害物を無視し十キロに近い距離を突破し『原子崩し』の一撃が飛来した。
何が起こったかも理解できぬであろうまま二人は青白い光に飲まれる。
直撃した査楽は跡形もなく。
その効果範囲を僅かに外れていた馬場は腕だけを残して消失した。
一瞬の光が通過した後、絨毯の上にコントローラーを握り締めたままの馬場の腕だけがぼとりと落ち、それ以上動くことはなかった。
――――――――――――――――――――
651:
「無茶苦茶だ…………」
初めて麦野の能力を見た浜面は率直な感想を思わず漏らした。
浜面の視線の先には直径二メートルほどの大きな穴が開いていた。
その円周は赤く熱を持ち、完全に溶解している。麦野の一撃が疾った跡だ。
滝壺の言が正しければ何キロも離れた場所に査楽は空間移動を行った。
その上で麦野は、大穴を一撃で穿ち、十キロ近い距離にある大地を貫き、その先の査楽を直接狙撃した。
「これが……超能力者……」
「そうよ」
短く応え、麦野は肩に掛かった長い髪を後ろに払った。
彼女にしてもかなりの集中力を要したのだろう。疲労を感じさせる溜め息を吐いた。
「浜面」
「なん……だよ」
「滝壺を連れて病院に行きなさい。場所は分かってるわね? 第七学区のあそこ。
 その子を失明なんかさせたら承知しないんだから。あ、絹旗も回収しておいて」
「っ……! そうだ麦野、絹旗も……!」
「心配いらないわ」
もう一人の少女の事を思い出し慌てる浜面だが麦野は一言で切って捨てた。
652:
「滝壺。アンタ体晶、今日二本以上使ったでしょ。死ぬわよ」
「……うん。ごめん」
「まあ仕方ないんだろうけどさ……でも残りは私が預かっとくわ」
「うん」
ポケットから取り出した残りの体晶のケースを受け取り、麦野はその中から一つを浜面に投げて寄越す。
「最終手段。アンタに預けとくわ。フレンダもまあ、大丈夫でしょ」
そう。フレンダもまた麦野と同じく超能力者の一角だ。
『心理掌握』という名の精神支配能力を持つ彼女であれば対人戦は無敵といえる。
それに自軍にはもう一人――。
「麦野。心配いらないってどういう……」
体晶のケースを受け取った浜面は戸惑うように尋ねる。
ああそうか、と麦野は思う。
今がどういう状況なのか彼は把握できていないのだ。
「アンタが絹旗のとこに行く頃にはもう終わってるわ」
ふ……、とどこか自嘲めいた吐息を漏らし、麦野は嫌そうに笑った。
「私よりも無茶苦茶なヤツが行ってるから」
――――――――――――――――――――
660:
鳴り響いていた音が消え去り再び静寂を取り戻した施設。
廊下で対峙していた能力者二人は、その間隙に生じた絶好の機会をお互いに浪費しあう。
その瞬間、絹旗は浜面と滝壺の身に起きたであろう不測の事態に気を取られ。
そして黒夜は――――。
「――なァ絹旗ちゃン」
声に絹旗ははっと我に返る。
他所に気を取られた一瞬の隙。絶好の機会だろうに黒夜はあろう事か絹旗に声を掛けた。
「私らは一体何なンだろォな」
そう問いかける。
ある種の哲学的な問いに絹旗は眉を顰め、少し考えて、そして警戒したまま答えた。
「何って、あなたは私にどォ答えて欲しいンですか」
「質問に質問で返すのはマナー違反じゃない?」
黒夜はニヤニヤと猫のような嗤いを向けたまま言葉を続ける。
「馬鹿どものいいよォに好き勝手に頭の中レイプされた挙句にさ、こんな掃き溜めでせっせとゴミ掃除だよ? やってられるかっての」
何故、と絹旗は思う。
彼女は一体何を言っているのだろう。
絹旗の感情を端的に表現するなら――何を今さら、だ。
絹旗も黒夜も元を辿れば、生まれは違うものの育ちは同じ。
たまたま同性同年代で、たまたま同系統の能力に目覚め、そしてたまたま同じような境遇だった。
そのために『暗闇の五月計画』において対照的なサンプルとして実験台にされた。
超能力者第一位『一方通行』の演算パターンを人為的に組み込むという実験。
その結果、片や攻撃に尖りすぎ、片や防御に特化しすぎた融通の利かない二つの能力。
ある意味では二人は双子のような存在だった。
だからこそ絹旗は思う。
何故今さらそんな事を問うのだと。
愚にも付かぬ議論はあの研究所でもう何百回と繰り返し――その結果はいつも同じだったというのに。
661:
しかし黒夜は続ける。
「多分さ、何もかも最初から仕組まれてたンだよ。最近よォやくそんな気配を感じるよォになった。
 まだ影しか見えないし、それも視界の端をちらつく程度だけどね」
「――黒夜、あなた、何を言って」
「理解してもらわなくてもいいさ。これはただ、最後の事実確認だ。さっきはあの無能力者に邪魔されちゃったからさ」
は、と自嘲的に黒夜は失笑し――握り締めた右手を水平に突き出すように持ち上げる。
   、 、
「多分私の方が深いンだろォよ。アンタよりもちょっとばかし地獄の底に近かったってワケ。
 だからコイツに気付いたし、だからこそアンタも他の連中も何も分かっちゃいないンだ。
 ワケ分かンないだろォけどさ、絹旗ちゃンがもし気付いてたならきっと……また仲良く地獄巡りができたンだろォけど。残念だ」
べき、と黒夜が握った拳の中で何かが砕けた。
ばらばらと黒夜の手から何かが零れる。
透明なプラスチックの欠片だ。
彼女の能力によって粉砕され、その中身だけを置き去りにして砕けたケースの残骸が零れ落ちる。
「だからごめンね? 殺すよ」
――そして彼女は最後にやっぱり自嘲的に笑って。
開いた手の平の上に乗っていたケースの中身、白い粉を。
(――――体晶――!)
そのままごくりと嚥下した。
662:
黒夜の問いに戸惑っていた絹旗にはそれを止める暇もなかった。
体晶の粉末を飲み込んだ黒夜は、一度びくりと体を痙攣させた後、眼を閉じ、深く、低く息を吐いた。
「――――ふゥゥゥ……」
そしてその両目が開くと同時に、突風が吹き荒れた。
「っ――!」
屋内、それも地下だというのにまるで台風のような風に絹旗は驚愕する。
身に纏った窒素の鎧があるために直接的な風は感じないものの、舞い上がった埃や砂塵、そして音が如実にそれを語っている。
絹旗の背後から吹き付ける豪風が何故発生したのか。考えるまでもない。
「ちょっと――本気、出してみちゃおォかなァ」
血走った眼で絹旗を見据え、震える声で笑った。
「だからさァ、アイツの演算パターンを組み込まれた私なら――同じ事ができるよねェ?」
風は黒夜の手元に収束している。
暴走状態の能力により窒素の槍がその手元に形成され、なおも質量を増し――
「さて問題です。空気、気体、たとえば窒素を限界を超えて圧縮したらどォなるでしょう?」
黒夜の『窒素爆槍』によりそのベクトルを操られ彼女の手元に超々高密度の窒素が生まれ。
そして気体の窒素はさらに上位状態に相転移する。
「ねェ絹旗ちゃン――プラズマって知ってるかなァァああああっ!」
叫び、駆ける黒夜の右手には超高熱を放つ三メートル強の光の槍が生まれていた。
664:
プラズマの槍――いや、もはや大剣と称してもいい。
その高熱の前に絹旗の『窒素装甲』の防御は何の意味も成さない。
文字通り、熱したナイフでバターを切るように焼き切られるだろう。
「プラズマサーベルって……どこの三流SF映画ですか……!」
床を陥没させながら横薙ぎの切り払いを後ろに跳び退り回避する。
本来周囲に放射されているはずの高熱はない。
黒夜のベクトル操作の一端なのだろう。そもそも熱を封じていなければ即座に黒夜自身が蒸発しかねない。
しかしそれに触れれば――。
じゅあっ! と嫌な音を立てて光剣が払った先の壁に赤く抉られた傷を残す。
焼ける、溶けるどころではない。人体など軽く蒸発する。
「付き合えよォ、好きだろクソつまンねェ映画!」
「じょォだンじゃ……!」
暴走状態にあるというのに黒夜はそんな素振りも見せず、高揚こそしているものの確実に絹旗を追い攻める。
絹旗が突ける隙などない。唯一といっていい長所である防御力を無効化され絹旗は何もできずただ躱し続けるしかなかった。
「オラどォした絹旗ちゃーン! 私と同系異型って言うならちょっとは抵抗してみてよォ!」
右手の光剣を黒夜は振り回し叫んだ。
絹旗は歯噛みしながらもそれを紙一重で避ける。
そもそもの射程が違いすぎる。
黒夜のそれは数メートル。
それも能力によって形成された得物の重さはなく、掌からと基点は制約されているものの思うがままに操れる。
対し絹旗の『窒素装甲』は体から僅か数センチしか届かない。
黒夜の懐に入り込まなければ何も出来ない。
その数メートルが両者の間に隔たる絶対的な彼我の差となっていた。
665:
(このままじゃジリ貧です……が)
だが絹旗にも勝機はある。
黒夜の体晶を用いた能力行使には限界がある。
滝壺のようにある程度の耐性がある者ですら連続しての使用は無理があるのだ。
黒夜のそれには必ず限界が来る。黒夜が自滅するまで躱し続けていればいいだけなのだが――。
(問題はそれまで逃げ切れるかって事ですよね)
「下手な事は考えない方がいいよォ?」
絹旗の思考もまた、黒夜には分かっていた。
だが、だからこそ何も考えずに暴走させた訳ではない。
「SF映画っていったらもォ一つ――コイツは外せないよなァ」
にやりと嗤う黒夜。
その笑みにぞくりと背筋が粟立ち。
(拙い――っ!)
咄嗟に絹旗はその足元に向かって――、
「もォ様式美だろォ? SFっつったら――――ビームだよっ!」
能力により指向性を得、解き放たれたプラズマが地下施設に光の軌跡を描いた。
それはまるで『原子崩し』。麦野沈利の持つ電子の砲とあまりにも似ていた。
666:
だがそれが絹旗を捕らえる事はなかった。
「――らァあああッッ!!」
ゴガァンっ!! と激しい音が研究所を震わせる。
直前に絹旗の踏み降ろした足が、床を砕き辺り一面を丸ごと陥没させた。
「なっ――!?」
足場と共に体勢を崩され黒夜の砲は外れる。
思わずバランスを取ろうと反射的に動かした手のままに狙いは逸れ斜め上方へ。
天井を穿ちそのまま何枚もある階層を貫き、地上へと突き抜ける直前でようやく減衰し止まった。
解放された窒素が熱風となって研究所上層を蒸し焼きにするが、溶解と共に爛れ落ちた施設の建材が壁となって黒夜や絹旗へ吹き返すことはなかった。
だが絹旗の震脚はそれだけでは終わらない。
砕かれた床面は黒夜を巻き込み、絹旗もろとも階下に向かって崩落する。
「クソがァ――!」
絹旗と違い黒夜には身を守る術がない。
選択肢を奪われ、黒夜は掌を下に向け掻き集めた窒素を噴射する事で空中の姿勢を制御しようとする。
しかし体晶によって暴走状態となった『窒素爆槍』では思うようにコントロールできない。
まともに落下する事こそ免れたものの通路の壁面に体を打ちつけてしまい、激痛が全身に走った。
「っぐ……!」
鞠のように跳ねながらも黒夜はなんとか致命傷を回避し下階に着地する。
能力の演算には支障はないと思えるものの身体的に無視できないダメージを負った。
槍を形成しての白兵戦は無理だと判断。
もう一度プラズマ砲での砲撃を行おうと周囲の窒素を掻き集めようとして――、
そして、世界に不純物が紛れ込む。
667:
黒夜の視界、彼女の目の前に現実では到底ありえない光景が広がっていた。
世界を覆うように広げられた純白。
それはまるで天使の羽。
空想上の産物でしかない存在の持つ完全に無垢な翼が一対、何かを覆うように広げられていた。
翼は大気を打ち払うように一度ばさりと翻り、左右へと広がる。
そしてその中から現れたのは二人。
黒夜と共に落下した絹旗と。
彼女を腕に抱き止め、翼を広げ笑みを浮かべる少年。
この世の常識など端から知らぬとばかりに威風堂々と広げられた翼。
その持ち主が他の誰であるはずがない。
この街、超能力と超科学の学園都市において。
その二三〇万の内にも世界の条理を無視できる存在などたった一人しか存在しない。
「天使が助けに来たぜ、空から落ちてくる系のヒロインちゃん。この街は本当に退屈させねぇなあ」
超能力者、序列第二位。
   ダークマター
――――『未元物質』、垣根帝督。
普遍条理を覆す異分子が。
その象徴ともいえる異形の翼を背に広げて登場した。
668:
「な――――」
突然現れた少年。
彼の腕に抱かれ絹旗は呆然とするしかなかった。
彼、垣根は絹旗の属する『アイテム』とは別組織、『スクール』のリーダーだ。
ならば敵対する事こそあれ、絹旗を助けるなど考えもできなかった。
だが現に、垣根はこうして上層から落下してきた絹旗を両腕で抱き止めていた。
その行動に敵対する意思など微塵も感じられない。いや、それこそが彼の特性なのかもしれないが――。
「あれ、引いた? ちょっと格好付けすぎたか?」
垣根はおどけるように嘯き、そして笑う。
屈託のない、あどけない少年のように。
「どォして――」
絹旗は思わずそう口にした。
何故この場に現れたのか。何故彼が自分を助けるのか。何故そうも笑っていられるのか。それが分からなかった。
垣根からしてみれば絹旗などどうでもいいような雑魚に過ぎない。その程度の客観的事実は理解している。
他でもない超能力者。それも麦野を上回る序列二位。彼が絹旗を助ける理由など思いも及ばなかった。
「なんで助けるのかって? そりゃあほら、あれだ」
垣根は呆然とした絹旗に微笑み告げる。
「昔から言うだろ――オマエの物は俺の物って。ならアイツの仲間は俺の仲間だ」
暴君のような三段論法を持ち出して垣根は笑う。
いや、三段論法にすらなっていない。彼が言う『アイツ』と彼との関係は――。
「テメェの女を泣かせるなんて三下のやる事だ。
 いい男ってのはな、何も言わずに勝手に全部カタ付けてればいい。そうすりゃ勝手に笑ってくれるさ。
 まぁ階を一つ間違えたのはご愛嬌って事で。結果オーライだし問題ねぇだろ? あ、これオフレコ。麦野には内緒な?」
彼女の名にようやく絹旗は合点する。
そう、垣根は――。
「だから助けに来たって言ったろ……ピンチに颯爽と現れた王子様に惚れちゃった?」
「一言多いンですよ」
669:
「……ッハ……なンだよそれ」
そんな二人を目の当たりにして黒夜は吐き捨てた。
「誰かと思えば第二位じゃねェか……なンだよ、なンだこりゃ。この筋書きは誰が描きやがった。
 三文芝居にも程がある。デウス・エクス・マキナかよ、最低だなクソッタレ」
もう笑うしかない、と黒夜は失笑し、ふらつきながら通路の皹割れた壁に背を預けた。
「あーあ。ダメだもォ……白けちゃったよ。馬鹿。巫山戯んなよ」
そのまま黒夜はずるずるとへたり込む。
気を抜いた途端に体晶の反動が出たのだろう。
苦しげな息を吐きながら横目で垣根を見遣り長い髪を鬱陶しそうに掻き上げた。
「アンタにはどうやっても勝てないってのは分かってるからね、『未元物質』。アンタが出てきた時点で私の負け。
 敗因は攻できなかった事……っていうかさっきの愚痴か。馬鹿やったなぁ……いや、それも含めての筋書きか。
 何にせよ私はここでオサラバ、退場って訳だ。こうなった以上私の出番はないだろうし、いっそ清々しいほど最低だ」
「この先は決まってるってか? だとしても足掻こうとはしないのか」
「アンタ、さっきいい男がどうとか言ってたけどさ。別れ話持ち出されてギャアギャア喚く女をどう思う?」
「俺の美的感覚からすりゃいい女とは言えねぇなぁ」
「だろ? ……まあ別に気に入られようとなんか思ってないから無駄な足掻きをしてみるってのも一興だけど」
そう言って黒夜は、つい、と手を上げ。
「無駄だ。オマエの能力じゃ俺の『未元物質』の混ざった窒素を操れねぇだろ」
「だろうね……ほら、こういう具合にできてんだよ」
手を下ろし、黒夜は肩を竦めた。
世の中上手くいかない時は何をやろうとしてもとことん裏目に出るのだと。
670:
そんな二人の会話を絹旗はどこか遠いところにいるように感じながら聞いていた。
抱かれていた体を下ろされ、ようやく自分の足で立ちながら絹旗は呟く。
「一体――何を言ってるんですか――」
「次元の違うお話だよ。絹旗ちゃんには理解できなくて当然といえば当然なんだけどさ」
黒夜は嘲笑うように鼻を鳴らす。
それから、羽織っていたパーカーの懐に手を入れる。
「多分ここで選択肢があるんだろうな」
黒夜が取り出したのはプラスチックでできた黒い長方形の物体――電気機器のアダプタにも見えるそれを彼女は手の中で転がす。
「選択肢ってどんな?」
「アンタが一番良く分かってるだろ、垣根。ここで死ぬか、喧嘩やめてそっちの味方に付くか……。
 んで、その結果私がどういう答えを出すかも分かってるはずだ。そうだろ?」
「まあな」
垣根も黒夜と同様に肩を竦める。
その顔に浮かぶ失笑が絹旗には――何故かどこか寂しそうに見えた。
「死んでもお断りだよバーカ」
「……だろうな」
顔を見合わせ苦笑しあう二人。
そして黒夜は手にしていた黒い塊を絹旗へと放った。
「っ……!」
咄嗟に身構えるものの、絹旗の『窒素装甲』もまた『未元物質』の影響を受け窒素に干渉できない。
だが垣根はそんな絹旗をよそに何の躊躇いもなく投げられた物体を素手で受け止めた。
671:
「プレゼントだよ、絹旗ちゃん」
黒夜が笑う。
「ほんとはさ、奥の手だったんだけど。『窒素装甲』抜くための特注改造スタンガン。
 一発で全バッテリー使うけどちゃんと端子で挟み込めれば『窒素装甲』の上からでも殺せるだろうと思ってね。
 どうせどっかで使うだろうと思って持ってたんだけどもういらないや。垣根がいるんじゃ話にならない。冥土の土産にあげるよ。あ、これ逆か」
「……黒夜」
「殺せよ。じゃないと困るんだろ、『アイテム』。
 そっちのお兄ちゃんが何かやろうとしてるみたいだけどさ、私が生きてるってだけで邪魔になるでしょ。
 私も無駄生きする気なんかねーし。惰性で生きるのなんてクソ食らえだ」
そう笑って、黒夜は目を閉じ両手を後ろに、腕を枕にして壁に寄り掛かる。
「…………」
絹旗はしばらく何かを考えるように垣根に渡されたスタンガンと黒夜を交互に見た後。
「どうもお互いに超ついてないみたいですね」
「運がいいはずないでしょ。だってほら、地の底だぜ?」
672:
違いない、と絹旗は淡く苦笑して、瓦礫を避けながら黒夜に歩み寄る。
「……ところで黒夜」
「なーにー。私としては殺るならさっさとして欲しいんだけど」
「お墓に備えるもののリクエストって何かあります?」
「――――――」
予想外の絹旗の言葉に黒夜は僅かに眼を開き。
「……あれ、イルカのぬいぐるみとか」
「そういえば超好きでしたもんねえ、イルカ」
下らない事をよく覚えてる、と二人で笑った。
「んじゃ先に地獄で待ってるよ。アンタも早く来なさいよ。寂しいから」
「ここよりは幾らか超マシだといいですね、地獄」
――――――ばぢん
――――――――――――――――――――
677:
「う……」
目が覚める。
悪夢を見ていたのに起きた途端に全部忘れてしまったような嫌な気配。
まさかそんな事があるはずないのに、と自嘲してようやくフレンダは我に返った。
そうだ、私は素粒子工学研究所で――。
「っ――!」
気絶する直前の記憶を思い出し跳ね起きた。
あの獣型のロボットに打たれた薬がまだ残っているのだろうか。
朦朧とした意識は彼女の持つ能力からすればありえない事だが、演算を阻害する薬効があったのだとしたらそれも頷ける。
事実今の彼女には記憶を回想する事すらも自力でやらなければならなかった。
通常その『心理掌握』の効果をフルに発揮できていればフレンダは完全記憶能力に近い記憶探索能力を持つ。
自分で自分の思考と記憶に働きかけられる状況であれば記憶や心理状態はおろか、感覚器官の増幅や遮断も思いのままだ。
肉体的にはただの少女ではあるが人が生まれつき持っている人体限界値のリミッターを外せば爆発的な身体能力すら発揮できる。
もっともそんな事をすれば筋肉痛どころでない事態が待っているのだが。
ともあれ、フレンダは『心理掌握』を十全に働かせられないものの、僅かばかりの感覚強化を行い状況把握に努める。
ここはどこかの倉庫だろうか。
薄暗く、埃っぽい。分厚い鉄扉の隙間から微かに外の明かりが差し込み、埃を反射してカーテンのようにも見える。
外からは車のエンジン音が絶えず聞こえ幹線道路に近い事が分かる。床から感じる振動はモノレールのものだろう。
鼻をくすぐる油と薬の臭いは独特なものだ。近くに何かの工場があると考えていい。となればここはその倉庫だろうか。
記憶の中の学園都市の地図と照らし合わせて大まかに計算する。
幾つかの条件を照らし合わせれば合致する地形は限られている。都合数ヶ所。その内にもっとも確率の高い場所は――。
「ああ。気が付いたか」
突然の声にはっと振り返るとそこには長い髪を二つに括った少女がいた。
フレンダがあの機械の獣に襲われた時に、今と同じように突然現れた少女だ。
678:
「っ…………」
「すまない、驚かせたか。少し外に出ていたから。隠形の術を解いてなかった」
そう言って彼女は手に持っていたミネラルウォーターのペットボトルを掲げて見せた。
「手荒な真似をして悪かった。詫びと言っては何だが、殺しておいたから許してはくれないか」
そんな物騒な事を平然と言ってのける彼女――ショチトルはフレンダにそう苦笑した。
ショチトルから敵意は感じられない。
外面的にも、内面的にも。
文字通りに感じられないのだ。
「…………」
フレンダは警戒を解かない。
殺された訳でもないし、拘束すらされていない。
どころか彼女は喉が渇いただろうと飲み物を手渡してくる。
だが何よりも――フレンダには彼女の内面がまったく見えない。
超能力者第五位、『心理掌握』の力を以ってしてもその一端すら垣間見えない。
それが不気味でならなかった。
「……アンタ、結局一体何者な訳。あのロボは仲間じゃなかったの」
「体裁上な。まあ……裏切った、と言えば分かりやすいか」
危害を加えるつもりはないといっただろう、とショチトルは嘯く。
「私の名前はショチトル……目立つ容貌だから少し外見をごまかしているが。オマエに頼みたい事があって来た」
「それにしては随分と手厚い歓迎ね。アンタのお国じゃこういうのが慣例な訳?」
「助けたのにその言い草はないだろう。機械相手は相性が悪いだろうに、『心理掌握』」
「っ……」
フレンダは言葉に詰まる。
自分が超能力者だという事は対外的には秘密だ。
それを知る者はごく僅か。仲間である『アイテム』の中でも麦野だけ。あとは暗部の研究従事者程度だ。
679:
「よく私の能力を知ってるわね。結局、アンタの思考が読めないのと関係してるのかしら」
「それについては体質のようなものだ。あまり気にしないでくれ」
「まさかはいそうですかって納得できると思う?」
「納得してくれ。詳しい説明をするのは面倒だ。……魔術や秘蹟の存在を信じるか?」
怪訝な顔をするフレンダにそれ見た事かとばかりに彼女は肩を竦める。
「オマエの事を知っていたのは、たまたま私が裏切った組織にその関係者がいたからだよ」
「関係者って……」
「『博士』と言えば覚えがあるか?」
「あー……」
その代名詞で呼ばれる者は数多くいるが、固有名詞として用いるならば一人だけ心当たりがあった。
爬虫類のような冷たい眼をした、白衣を着ている姿しか思い出せないような男だ。
『アイテム』の要となっている薬品――能力体結晶の開発に従事していた研究者の一人。
フレンダ自身がその実験に少なからず関わっている。ともなれば能力を知られていても当然の相手だった。
「アイツね。何、結局まだ懲りてなかった訳」
「まだ?」
「前に年甲斐もなく私に言い寄ってきたからフってやったの」
「……そういう感情があるような男には見えなかったが」
「研究材料としてよ」
納得した様子でショチトルは頷く。
どうにも会話のテンポが悪いとフレンダは思う。
相手の感情が見えないからだろうか。
いや、そんな事はない。自分の社交性はそこまで能力に依存したものではないはずだ。
と、そこまで考えてようやく気が付く。
(ああそっか……単に不安なだけなんだ)
ある意味では対人における絶対の切り札ともいえる能力。
依存こそしていないものの、『心理掌握』の通じない相手を前にしてようやくそれを拠り所としていた事に思い至った。
(結局、一番相手を信じられてないのは私自身じゃない)
何の因果だろうか。本当にろくでもない能力を開花させたものだ。
680:
「それで?」
今さら一服盛られる事もないだろうと開き直ってペットボトルに口を付けフレンダは聞く。
「結局、私に手伝って欲しい事って何よ」
「ある男を説得したい。手を貸してほしい」
「お断りよ」
微塵も考える事なく即座に切って捨てた。
考える必要すらない。テンプレート通りだ。
「洗脳なら他を当たってちょうだい。私はそういうの好きじゃないの」
「随分と道徳的な事を言うな、『心理掌握』」
「悪い? 結局、誰も彼もが自分の能力が好きって訳じゃないのよ」
眉を顰める。思わず握る手に力が入り、柔らかいペットボトルがべこりと変形する。
感情を上手くコントロールできていないのも能力を充分に働かせられないからだろうか。
そんなフレンダにショチトルは何故か微かに笑みを浮かべると。
「いや、洗脳する必要はない。少しばかり身動きを取れなくしてくれれば」
「……は?」
「できれば手荒な真似はしたくない。……とはいえ何も無しではすぐに殺し合いになりかねないからな」
私も相手も、とショチトルは続ける。
その答えにフレンダは、今度はしばらく考え込んだ。
彼女の真意は見えない。だから言葉面と外面だけで判断しなければならない。
だがショチトルには悪意があるようにも嘘を言っているようにも見えない。
能力の性質上、嘘の見分けは経験則からある程度目端が利く。恐らく本気で言っているのだろう事は見て取れた。
681:
「要するに……私に仲介人になれっていうの?」
「そうとも言えるな」
「……」
「ちなみに相手、誰?」
「…………」
その問いにショチトルは答えない。
答えられない訳ではない。これはつまり――。
「なるほど……『男』ねぇ」
「違う。決してオマエの思っているような相手ではない」
「じゃあ何よ」
再び口ごもるショチトルだったが。
やがておずおずと、不機嫌そうに取り繕いながら僅かに眼を細めた。
「……兄、のような人だ」
「……そう」
その一言で決まった。
単によくある一つの兄妹喧嘩。その仲裁に入ったのだと思えばいい。
何より妹をないがしろにしているような奴には自分も一言二言言ってやりたい。
だがまたしばらくフレンダは黙考する。
とはいえ考えているのは事の正否に関してではなかった。
――どうして自分なのか。動きを束縛する能力者は他にいくらでもいるはずなのに。
幾らか理由を考えて、結局辿り着く結論は一つしかなかった。
よく言うあれだ。
「……結局、単に私が不幸だったってだけか」
小さく口にする。
そうは言うもののフレンダはどこかしら楽しげで、そして不安げだった。
もし自分の能力で、その能力を使わずに誰かの心を動かせるなら。
それも随分と愉快で皮肉の効いた話だ。そう思った。
――――――――――――――――――――
682:
 「……ねえ」
             う  ち
 「言われなくても約束は守るさ。アイツらの事なら心配いらねぇよ。おまけで『スクール』の二人も付けておいたし」
 「そうじゃなくて……」
 「何? もしかして俺の事心配してくれてんの?」
 「……そうよ」
 「……驚いた。オマエの口からそんな言葉が出てくるなんてな」
 「心配しちゃ悪いか。アンタには、私を誑かした責任取って貰わないといけないんだから」
 「これは随分と恥ずかしい事言ってくれんじゃねぇか。そこらの男なら一発だぜ」
 「でも」
 「分かってる。分かってるさ。だから心配するな。オマエはただ俺の言った事をやってくれればいい。ただそれだけだ」
 「……やめましょ。三文芝居もいいとこだわ」
 「いいじゃねえか。臭い台詞だって時には華だぜ」
 「……私はちゃんと、アンタの言う通りにやるから……だから……」
 「ああ。任せとけって。あとは全部上手くやる」
 「……死ぬなよ、垣根」
 「死亡フラグになるからやめようぜ、麦野」
 「臭い台詞がいいって言ったのアンタじゃない」
 「ハハッ、それもそうか」
 「――――さてと。それじゃあ行きますか」
684:
――――――――――――――――――――
 『あーあー、もしもしー聞こえてるー!?』
 「心配しなくても聞こえてるわよ。随分と後ろの雑音が酷いけど」
 『なんか海原が頑張っててなー。手を貸そうと思って来たはいいけど近くにいたら巻き込まれそうだから逃げて……だぁっ!?』
 「ちょっと、下手に死なないでよね。始末が面倒だから」
 『そう簡単には死ねない身体だからな。心配してくれなくても大丈夫だ』
 「その様子なら大丈夫そうね。『ブロック』の件はカタがつきそう?」
 『なんとかな。そっちは?』
 「ちょうど研究所出たところよ。中はもぬけの殻。といっても死体が山積みだけど」
 『じゃあやっぱり持ってかれた後って考えた方がいいか』
 「そうね。しっかし『ピンセット』か……直々に回収命令が来るってことは大層な機械らしいけど……」
 『オマエも何か引っかかるか』
 「ええ。具体的に何っては言えないけど」
 『とりあえず手分けして片っ端から当たってみるか。どうせ何かでかい動きがあるだろ。ええと、なんていったか……』
 「『スクール』と『アイテム』。そのどっちかが持ってると見て間違いなさそうね」
 『あるいはどちらも、だ』
 「そうね。気をつけなさい。相手は超能力者よ」
 『第二位と第四位だったか。もし組まれてたら面倒だな』
 「その時は第一位さんに頑張ってもらうしかないわね」
 『じゃあ無能力者代表の俺は高みの見物をさせてもらうとするか』
 「働け」
――――――――――――――――――――
685:
こうして、最初は少しずつ。
そして次第に物語は狂ってゆく。
しかしその着地点は結局のところ一つしかない。
第一位と第二位の激突によって幕は閉じられる。
どれだけご都合主義に進められようとも。
どれほど歪みが生じていようと。
物語は加をし続ける。
686:
――――――――――――――――――――
 「ええと、名前なんだっけ? うーん、アホ毛ちゃーん!?」
 「ミサカの識別名は打ち止めだもん!! ってミサカはミサ――――はっ!?」
――――――――――――――――――――
687:
 「名前を呼んで」
688:
――――――――――――――――――――
狂ってしまった歯車は致命的。もう元の流れには戻らない。
どれだけ軋みを上げようともひたすらに回り続けて。
後はただ、砕けるだけ。
そう、これは物語が終わる話。
――――――――――――――――――――
689:
 「失礼、お嬢さん」
 「はぁ。どちら様ですか」
 「垣根帝督。人を探しているんだけど」
690:
――――――――――――――――――――
 「それでー? 結局、そのお兄ちゃんとやらはどこにいる訳?」
 「だからそう呼ぶのをやめろ……む。こっちだ」
 「なになに? お兄ちゃんの気配が分かるの?」
 「大方そんなところだが、頼むからやめてくれ」
 「いいじゃんお兄ちゃん。あ、結局もしかしてお義兄ちゃんって言った方がいい?」
 「分かってて言ってるだろうオマエ……」
――――――――――――――――――――
691:
ふと思いついて、右手を握る温もりに呼びかけてみた。
「ねえ、当麻」
「……なんだよ」
するとアイツは、まだどうにも呼ばれなれていないのかちょっとぶっきらぼうにそう返した。
私だって一応年上の相手を下の名前で呼び捨てする事にちょっと抵抗があるけど、でも一応、その……彼氏だし、いいかなーって。
照れくさいけどそれをムリヤリ押し込めて私は悪戯っぽく笑ってみせた。
「なんでもない。呼んでみただけ」
漫画なんかではよくあるセリフ。
でも実際には聞いた事のないあれだ。
それを私はついつい言ってみてしまった。
アイツはその言葉にやっぱり違和感があるのか眉をひそめる。
そりゃそうだ。私だってついさっきまで「実際こんな事言う事ないって」なんて思ってたのだから。
「はぁ? なにそれ、ワケ分かんねえ」
予想どおりの返事に私は笑う。
「この『呼んでみただけ』ってフレーズの意味さ、ようやく分かった」
ずっと疑問だった。なんでこんな事を言う必要があるのか。
ただ呼ぶだけ。特に用もないのに名前を呼ぶ。
その言葉に込められた意味を教えてあげよう。
「あのね」
もったい付けて一度切り、アイツの手をぎゅって握った。
それでアイツは私の顔を怪訝そうに見る。
視線と視線が交差する。
私が言うのもちょっと恥ずかしいけど、アイツの眼はなんだか凄く綺麗で。
「好きな人の名前を呼ぶだけでね、なんかこう、幸せ? みたいな」
「…………」
「照れてる?」
「オマエが恥ずかしい事言うからだろ」
そう言ってアイツはぷいっと顔を背けた。
なんだか凄く可愛い。その行動の一つ一つが凄く愛しかった。
「可愛い」っていうのはこういう気持ちの事を言うんだろう。
692:
「何今さら恥ずかしがってるのよ。さっき、その……キス……したのに」
「うるせえよ! 恥ずかしいもんは恥ずかしいんだよ分かれよ!」
こういうあたりで男女の差が出てくるのだろうか。
一線を越えるって言うとなんだか語弊があるけど、一度吹っ切れてしまった私はなんだか積極的だった。
対しアイツはまだなんだか照れくさそうで。年上だし男なんだから、もっとこう、リードしてくれてもいいのに。
それでも繋いだ手は離さない。
寒空の下、借りた学ランもだけど右手に感じる温もりがとても心地よかった。
アイツは少し寒そうだけどもう少し黙っていよう。
風邪を引かないうちに返してあげようとは思うけど。でももう少しだけ。
見上げる空はもう暗い。早く帰らないと門限が過ぎてしまう。
うちの寮監はとんでもなく恐ろしいのだ。もうハリウッド映画なんかであるサイボーグじゃないかってくらい。
でもそんな寮監の意外と可愛い一面を知ってる私は他の寮生たちよりもきっと少しだけ彼女に好意的だった。
鉄面皮の鬼軍曹みたいな仕事用の顔じゃなくて、プライベートの優しい笑顔を知っている。
だからちょっとだけ甘えさせてもらおう。きっと彼女は私の気持ちが分かるはずだから。
もう少しだけ。あとちょっとだけ。
相対性理論の逸話は有名だ。好きな人と一緒にいる時間は瞬く間に過ぎてゆく。
どうして世界はこうも急いで過ぎていくのだろう。もっとのんびりしてくれてもいいのに。
なんて考えてると。
ぎゅって手を握り返された。
突然の事に驚いてアイツの方を向くと、アイツはまだそっぽを向いたままで。
でも。
「………………美琴」
名前を呼ばれた。
693:
心臓が跳ね上がる。名前を呼ばれるだけでこんなにドキドキする。
少し照れたような声色。街灯に照らされた紅潮した頬。大好きなその声。
心から両親に感謝する。だってアイツの呼んでくれる私の名前はこんなにも綺麗に聞こえる。
美琴。美しい音。優しい響き。
アイツの呼ぶその名前はもしかしたらもっと崇高な存在を差す物じゃないのかってくらいに聞こえる。
私なんかじゃ及びもつかない、言ってしまえば神様の名前かもしれない。
でもそれは間違いなく私の名前だ。
アイツが呼んでくれる私の名前。
愛しい声。優しい音色。美琴。
アイツが呼ぶその名前に私は誇らしげに答える。
「――――なあに?」
続く言葉は分かってるよ。
どうせさっきの意趣返し。それから好奇心と、祈りと、確信。
「……呼んでみただけ」
……ほらね。
694:
――――――――――――――――――――
    ラストオーダー
 「最終信号はどこだ」
――――――――――――――――――――
695:
「…………」
こんなにも幸せなのに。
時間は無情にも過ぎ去ってゆく。
「もうそろそろ……帰らないと」
この言葉を吐き出すのが辛くて仕方ない。
「幸」と「辛」とは棒一本しか変わらないのにどうしてこんなにも違うんだろう。
恋は麻薬だ。とんでもない依存症がある。
一緒にいるときは幸せで一杯なのに、一時たりとも離れたくないのにそれは叶わない。
いっそこの瞬間世界が終わってしまえばいいのに。そんな事すら思う。
これからもっともっと色んな事があって、その度に私は彼の事を好きになるんだろうけど。
「…………」
「…………」
お互いに沈黙する。
繋いだ手はそのまま。
ここでいっそ攫ってほしいなんておとぎばなしみたいな事は言わない。
私は現実に生きてるんだ。夢物語みたいに済んでしまえばどんなにいいかと思うけどそれを否定する自制心がある。
それでもどこかにそれを待ち望んでいる自分がいる。
「…………美琴」
名前を呼ばれた。
私は、できるだけ、平静を装って答える。
「なあに?」
眼を合わせられない。
心臓は凄い勢いで鳴り響いている。こんなに近くにいるんじゃ聞こえてしまいそう。
どこかでそれを望んでいる私がいる。
696:
でも返ってきたのは期待していた言葉ではなかった。
「帰るなら……それ。制服」
……。
がっかりしなかったなんて事はない。
寮まで送ってくれとまでは言わないけどさ。
もしかしたら。そんな事があるんじゃないかって期待してしまった。
でも仕方ないかと諦め、どこか達観したような気持ちでいる。
コイツは私の気持ちなんかまったく気付いてくれないし、いつもいつも思うようには動いてくれない。
いつだって私の気持ちは置いてけぼりでどこかへ行ってしまう。
「…………」
それはとても寂しいけど、でも今に始まった事じゃないし。
文句の一つでも言ってやろうかと思って……やめた。
「……うん、そだね。ごめん、寒かったでしょ」
上着を脱ごうと襟に手を沿える。
右手は繋いだままだ。脱ぐには手を離さないと――、
私の左肩に手が添えられる。
右手。
「――――――」
驚いて顔を上げて。
そこにはアイツの瞳があって。
私を見てて。
卑怯じゃない? 一度落としてからだなんて。
一体どこでそんな事を覚えたのよ。
ううん。きっと違う。
私はきっと思わず顔に出してしまって、それを見たアイツが気付いたんだ。
なんてバカで……優しいんだろう。
――ああ。どうにかなっててしまいそう。
697:
すぐそばにある顔を見ているのが恥ずかしくて眼を閉じる。
それからやっぱり私はこう思うのだ。
名前を――――
「――――美琴」
……返事はこれでいいよね?
「」
698:
――――――――――――――――――――
 「……ったく、シケた遊びでハシャいでンじゃねェよ。三下」
――――――――――――――――――――
700:
「っ――――」
遠くで何か音が聞こえた。
ずずん……と振動を伴う低い音。
きっとそれが起こった地点では物凄い轟音だったのだろう。
……見なくても分かる。
でも私は目を開ける。
そこにはアイツがいる。
唇に感じた温もりがそこにいる。
だけどその目は私を見ていない。
その眼光は鋭く、音の聞こえてきた方を射していた。
どうしてだろう。
すぐそばにいるはずなのになぜだかとても遠くに感じる。
まるでそこにいるのは幽霊のようで。
指の間からこぼれてしまいそうだったから。
「――――当麻」
繋いだ手を握り締めた。
行かないでなんて事は言わない。
止めたところで無駄なのは分かってる。
アイツは誰が止めたところで聞きはしない。
誰よりも不幸の意味を知っているからこそ誰かが不幸になる事が許せない。
でもね、その気持ちは私にも分かるんだ。
だから。
「――――置いていかないで」
そこに込められた意味は正しく通じた。
私たちは小さく頷き――そして走り出した。
二人で。
703:
――――――――――――――――――――
   ダークマター
 「俺の『未元物質』に、その常識は通用しねえ」
 「オーケー。クソと一緒に埋めてやる」
 「それがこの世界にある普通の物理ならな」
 「――――逆算、終わるぞ」
 (時間稼ぎは長くはもたないぞ、麦野――)
――――――――――――――――――――
704:
 「――――みーつけたぁ」
――――――――――――――――――――
705:
あえて大通りではなく路地裏を駆ける。
祝日の街は人通りが多い。人の波を掻き分けて走るのは容易な事じゃない。
今日は一〇月九日。
学園都市の独立記念日だ。
「――こっち!」
辺りの地図はGPSマップを表示しているPDAから画面を直に取り込んで頭の中に投影している。
どれだけ入り組んだ道だろうと迷いはしない。
音はもう空気の振動を感じさせるほどに大きくなっている。
花火でも打ち上げているのだろうか、などと平和な事は考えられない。
こんな物騒な音を立てる花火があるのだとすれば世界はもう少しマシに動いている。
きっと能力者同士の戦闘だ。
それもただの能力者じゃない。
私と同じ――超能力者。
この街に、この世界に七人しかいない最高位の能力者。
きっとそのうちの二人だ。
そしてその片方が誰かはなんとなく感じられるのだ。
具体的に何か確信を持って言えるわけじゃない。
でも虫の知らせというか電波を受信したというか。
肌がピリピリとその気配を感じ取る。
    アクセラレータ
――――超能力者第一位、『一方通行』。
私と、そしてアイツに深い因縁があるあの白髪の超能力者。
きっと最強と称される彼が戦っている。
でも、だとしたら。
その最強とやらに勝てるのはアイツしかいない。
708:
ERROR 0x000x4E21 (cerealnum20001)
MNW_LO_NOT_FOUND
709:
サーバーとの接続が切断されました
5 秒後に再接続を試みます...
...失敗
5 秒後に再接続を試みます...
...失敗
5 秒後に再接続を試みます...
...失敗
5 秒後に再接続を試みます...
...失敗
MISAKANETWORKの再起動を試みます...
...MISAKANETWORKは再起動しました
711:
「――――っあああ!!」
突然物凄いノイズが頭の中に飛び込んできた。
激しい頭痛とめまいに思わず私は悲鳴を上げて受身も取れずに転倒する。
「美琴っ!?」
慌ててアイツが駆け寄ってくる。
嬉しいけど私はそれどころじゃなかった。
まるで世界が悲鳴を上げているよう。
この星を丸ごと覆いつくすような叫びが私の頭の中に木霊していた。
「――――ちがう」
叫喚のようにも悲鳴のようにも聞こえ ×ちがう → 感じられるのは
「――――でんぱだ」
私ととてもよく似た波形。
私に直接飛び込んでくるような電波。
だからきっとこれは。
   シスターズ
「――――『妹達』――――?」
やめて。
もうやめて。
お願いだからもうあの子達をいじめないで。
712:
ざあざあとノイズに侵される感覚の中、すぐ近くで起きた轟音だけははっきりと捕らえられた。
反射的にそちらを仰ぎ見る。
真上。
私たちのいる路地の真上で何かがとんでもない音を立てた。
道に面したビルの壁面に大穴が開いている。そこに何かが激突したんだろう。
でも、そんな事よりも。
真上から砕けた瓦礫が降り注いできていた。
だめ。
だってアイツの右手は。
こんなよくある不幸はどうしようもない。
713:
でも今は違う。
私がいる。
    レールガン
超能力者第三位、『超電磁砲』
御坂美琴がここにいる。
ノイズ? 大丈夫。
あの子達の事は気がかりってもんじゃないけど。
今この瞬間は目の前の最悪をどうにかする事が先決だ。
いつだったか、アイツは私の前に立って守ってくれた。
だから今度は、今度こそは。
私が守ってみせる――――!
716:
ただの気紛れから世界は歪んでしまう。
ほんの小さな不幸で歯車は僅かに狂う。
彼女にしてみれば小さな勇気。
他の誰にだって同じ事が言える。
総ては小さな偶然と不幸の積み重ね。
歪んで、歪んで、歪んで、
かちり、と必然がはまる。
717:
ポケットの中のコインを取り出そうと、
借りた学ランの裾を跳ね上げ、
――――――あ
今日

 『あーその……似合ってんじゃあないっすかねぇ……』
私服だ
「――――美琴ぉぉおおおおおお!!」
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