御坂「――行くわよ、幻想殺し」【前半】back

御坂「――行くわよ、幻想殺し」【前半】


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1:
◆CAUTION◆
この物語には残酷な描写、グロテスクな描写、性的な描写が含まれています。
『とある魔術の禁書目録』15巻まで、ならびに19巻、SS1・2巻、
『とある科学の超電磁砲』5巻までを読んだ上での閲覧をお勧めします。
その上で、独自解釈、独自設定、原作と明確な矛盾がある事をご了承ください。
また、閲覧する際、専用ブラウザ「Jane Style」の使用をお勧めします。
2:
――友よ拍手を 喜劇は終わった
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーベン
4:
――その日、二人の能力者が激突した。
学園都市二三〇万の頂点。
七人の超能力者の中の二人。
片やこの世全ての力を統べる能力者。
片や世界の法則を覆す能力者。
二者の戦いは熾烈を極め、隠し切れない傷跡を街に遺した。
死者が出なかったのがおかしいほどだった。
暴力が吹き荒れ、建造物は薙ぎ倒され、人々は逃げる事すらままならなかった。
互角に見えた二人だったが、けれどそこには圧倒的な差があった。
何が起こったのか街の住人には理解できない。
小さな切欠を境に、一方的な破壊が蹂躙した。
戦いは、一人の少女の登場によって幕を閉じる。
5:
そして。
その戦乱の中、誰にも気付かれぬまま。
一つの終わりが、始まった。
6:
そう、これは物語が終わる話。
故に、ここには救いも願いも祈りも赦しもなく。
徹頭徹尾、血と肉と硝煙に彩られた悲喜劇でしかない。
7:
この物語に幻想殺しの少年は登場しない――。
9:
 ◆
 その日、初春飾利はいつものように風紀委員の詰所で愛機を前にクッキーを頬張っていた。
 他の同僚たちは皆出払っている。
 ワァ――――ン、と小さく唸るパソコンの廃熱ファンの音と、初春がクッキーを噛み砕く音だけが静かな室内に響いている。
 既に作業を始めてから数時間が経過している。
 ディスプレイを見つめる初春の顔には、疲労と飽きの色が浮かんでいた。
 画面に映るのは屋内外を問わず街中の防犯カメラが撮影していた映像記録。
 それをただひたすらに、しらみつぶしに追いかけている。
「…………」
 く、と喉から小さく声が漏れた。
 画面の中央、追いかけていた監視カメラの映像が不意に白と黒の砂嵐に取って代わられた。
10:
 一息つこう。
 そう思い椅子から立ち上がり、インスタントコーヒーに湯を注ぐ。
 安っぽい香りが鼻腔をくすぐる。
 マグカップに口をつけ、あち、と舌を出しながら来客用のソファに体を埋めた。
 ふう、と息を吐き、初春は首を左右に傾げる。
 ぽきり、と乾いた音を鳴らして伸びをする。デスクワークは体が硬くなって仕方がない。
 ちびちびとコーヒーを啜っていると、入り口の扉が開き、同僚の固法美偉が入ってきた。
 固法はちらりと初春のパソコンに視線を向け、険しい表情で眉を顰めると初春を見遣った。
「……初春さん。私用で風紀委員の備品を使うのは駄目だと言ったわよね」
 固法の言葉に、初春は目を逸らし無表情にカップに視線を落とした。
11:
 既に事が起こってから一週間が経過しようとしていた。
 初春の求める情報は日々膨れ上がってゆく膨大な数の映像記録の海に埋没しようとしていた。
「あなたの気持ちは分からなくはないわ。でもこの件は、警備員の担当になったわよね」
 彼女の言葉に初春は歯噛みする。
「でも……心配じゃないんですか」
「心配に決まってるじゃない……でもこの件に関しては風紀委員として動くことはできない。それはあなたも分かってるわよね、初春さん」
「……、……」
 口ごもる初春に固法は溜め息を吐き、
「本当に……無事だといいんだけど、白井さん」
13:
 固法の言葉に初春は下唇を噛んだ。
 彼女は事の重大性が分かっていないのだろうか。
 局所的に見れば、風紀委員きっての問題児が行方不明になった。ただそれだけだ。
 薄々ながら初春は気付いている。
 唐突に人が消える。
 この街ではそういう事はままある。
 恐らく固法も気付いているだろう。
 仮にも、学生のままごとの延長とはいえ治安維持組織に所属しているのだ。
 本職には敵わぬものの、この街に広がる闇の漠然とした気配を感じられる。
 その上で、固法のそれは信頼から来るものなのだろう。白井ならば、と。
14:
 だが白井黒子が失踪したその日、何があったのか。
 初春はその断片を知っている。
 制服に隠された肩にはまだ包帯が巻かれ、動かすと小さな痛みを伴う。
 医療技術が進歩したとはいえ一日二日でどうこうなるものではないらしい。
 けれど入院もせずにこうして普通に生活できるのはありがたい事なのだろうか、とも思うが。
 肩の包帯の原因。
 あの日出合った少女と少年。
 あの後、どうなったのか初春は知らない。
 けれど。その日からまことしやかに囁かれる噂が何を意味しているのか。
15:
「………………」
 初春は無言で立ち上がり、パソコンの電源を落とし自分の鞄を掴む。
「出るの?」
 固法の、素っ気ない言葉に初春は小さく頷く。
「そう。……気をつけてね」
「……はい」
 投げかけられたその一言に少し泣きそうになりながら、初春飾利は部屋を後にする。
 閉じた扉の向こう、固法はどんな顔をしているだろうかと思いながら、けれど初春は振り返らなかった。
――――――――――――――――――――
17:
 持つべき物は友人だ、と改めて実感した。
 仕事柄他人と関わる機会は多いものの、初春にとって友人と呼べる存在は決して多くない。
 その数少ない友人を、単に自分の目的のために利用するという事に躊躇いを感じたが、他に上手い手段が思いつかなかったのでやむなく初春は携帯電話に登録されたアドレスを引っ張り出して恐る恐る電話をかけたのだった。
 ……上手い手段でなければいくつか代案は思いついたのだが、どれもこれも見つかれば即お縄を頂戴する破目になるので出来る事なら遠慮したいところだ。
 そしてすぐに電話に出た相手は、初春の珍しく回りくどい『お願い』に二つ返事で了承してくれた。
「それで、一体どのようなご用件ですの? 学舎の園に入りたいなどと」
 初春の数少ない友人の一人――婚后光子はいつものように芝居がかった澄まし顔でそう問うた。
19:
「ええと、お恥ずかしながら物凄く個人的な用事なのですけれど……」
 そう。個人的な用事だ。
 風紀委員の腕章を見せれば学舎の園への入場許可も得られるだろうが、正式な活動でないからには職権乱用と言われるのは目に見えている。
 始末書を書くのはできれば御免したいところだ。
 ……まあ、婚后が快諾してくれたからこそその手段は使わなくて済んだのだが。
 そんな初春の心中を知る由もない婚后は、
「どうせまた白井さんの事なのでしょう? まったく、彼女も困った方ですのねえ。こんな可愛らしいご友人に心配をかけるなど」
 ぎくり、とする。図星を突かれた。
 そんな初春の様子に目を細め、婚后はいつもの紅白の梅の絵の描かれた扇を開き口元を隠しながら、
「あなたが白井さんでなくわたくしを頼ってくるあたり、丸分かりですのよ?」
20:
 言われてみればそれもそうだ。
 わざわざ婚后を頼らずとも、学舎の園の立ち入り許可など白井に頼んで招いてもらえば事足りるのだから。
 その手段を用いないのだから、彼女との間に何かあったというのは嫌でも分かるだろう。
 けれど。
 白井黒子は、現在行方不明だ。
 その事を友人であり、また同じ大能力者としての好敵手であり、同じ常盤台中学の生徒である婚后が校内きっての問題児の失踪という大事件を知らないはずがないだろう。
「あの、白井さんは……」
「まったく、何をしてるんでしょうね、本当に」
 初春の言葉を遮って苦笑する婚后。その表情はまるで他愛もない悪戯をした子供を見つけたときのようで。
21:
「――――――」
 猛烈な違和感。
 先ほど、同じような言葉を固法が言っていたが――婚后のそれとは根本的な部分が違う。
「あの……」
「でも白井さんの事ですから? 心配はいらないと思いますが。
 今度はどんな面倒事をやらかしてくださるのかしら。それでもまさか、初春さんにすら連絡もなしとは。
 まあ白井さんの事などどうでもいいですわ。校内では白井さんよりも――」
「あのっ……!」
 いつもの調子で一人喋りだす婚后を制止して、初春は尋ねる。
「なんで婚后さんは……そんなに気楽に構えていられるんですか」
 その言葉に婚后は笑みを消す。
「なぜって……だってそうでしょう。白井さんがどうしようもない窮地に陥る事など、ありえませんもの」
 そう、確信を持って彼女は言う。
「彼女には常盤台が誇る学園都市第三位の超能力者、御坂美琴がついていますのよ」
「――――その御坂さんですら行方不明じゃないですかっ!!」
22:
 思わず発した大声に、周囲の人々がこちらを向く。
 しまった、と思うが遅かった。
 超電磁砲こと御坂美琴の名は、ここ学舎の園ではことさらに知名度が高い。
 その第三位の失踪は情報公開こそされていないものの間違いなく大きな波紋を呼んでいるはずだった。
 そんな閉鎖された街の中の、さらに閉鎖された環境で御坂の名を声高に発したならば。
 だというのに。
「…………え?」
 彼らは、初春を一瞥しただけで、すぐに興味を失ったかのようにまた各々の歩みへと戻っていった。
 ――なんだ。
 なんだこの反応は。
 学園都市第三位、二三〇万の頂点に君臨する七人の超能力者、その一角が姿を消したというのに。
24:
「なん――で――」
「御坂さんも、何をやってらっしゃるのかしら。
 まったく……正直に申し上げてあの方は常盤台の生徒としての自覚が足りない気がしますの。
 仮にも第三位。他に与える影響は大きいというのに……皆が真似をしたらどうなさるおつもりかしら」
 初春は確信する。
 自分と婚后の間には、圧倒的な認識の溝がある。
 そうでなければ婚后がここまで安穏とした発言をするはずがない。
「……もしかしてあなた、知らないんですの?」
 愕然とする初春に婚后は怪訝そうな顔を向け、
「御坂さん、学校を休んでまで殿方と密会してるらしいんですの」
「……はい?」
25:
 思わず、呆けた顔でそう尋ね返す初春に婚后は自慢げに、続ける。
「なんでも高校生くらいの殿方と歩いてるところを見たという方がいらっしゃって。
 密会なら密会らしくこっそりとやるものでしょうに、堂々と回りに見せ付けるかのように真昼間から腕を組んで歩いているところを結構な数の方が目撃してらっしゃいますのよ」
 隠す気などないのでしょうね、と嘆息する婚后に初春はいっそう疑念を募らせる。
 街を歩いているだけで必ず鉢合わせる監視カメラの映像とここ数日睡眠時間を削って格闘していた自分が、まさかそんな場面を見逃すはずがない。
「あの、婚后さん」
「なんですの?」
「その話は、どこから……」
 初春の問いに婚后は一瞬きょとんとした顔をして、それから目を瞑り、微笑んで。
「ええ、友人からですわ。……どなたか忘れましたけれど。申し訳ありませんわね。わたくし、交友が広いもので」
「………………」
――――――――――――――――――――
30:
差し込む夕日に顔を照らされ、まどろみから目を覚ます。
南向きの窓に面したビルの屋上、設置された風力発電機の羽に反射されて、本来見えないはずの陽光がちかちかと明滅する。
まるで光信号のようにも見えるそれに、うっすらと開いた目の前に手を翳した。
「あれ、超起きちゃいましたか」
声に、指の間から見遣ると、ちょうどカーテンを閉じようと窓際に寄った少女の姿が目に留まる。
「……おはよう、きぬはた」
「はい、おはようございます」
31:
少女に微笑み返し、滝壺理后はゆっくりと体を起こす。
いつものように安物の、黒い半袖シャツには皺が寄っているが全く気にする様子もない。
上着代わりのブラウスは足元でくしゃくしゃになっていた。
ん、と伸びをして、呆とした目で辺りを見回す。
広い、高層マンションの一室だ。
シンプルながらも金のかかった造りの、ちょっとした富裕層向けのファミリーサイズのマンション。
そこを学園都市の非公式暗部組織『アイテム』はここのところの根城にしていた。
本来居間として使用されるべきであろう一番大きな部屋の、中央に鎮座したソファに滝壺は寝ていた。
大きな窓からは学園都市のビル群が一望でき、夜景もなかなかだと評判の物件だ。
地上五十二階、最上階に位置するこの部屋からの展望はさぞかし素晴らしいものなのだろうが、滝壺をはじめとした全員がわりとどうでもいいらしく、
夜間は普通にカーテンを閉める。それをもったいないとぼやいていたのは誰だっけ。
32:
「おはようさん、眠り姫。目覚めのコーヒーはいかがですかね?」
「…………ありがとう」
柔らかく笑んで、滝壺は緩やかに湯気の昇るマグカップを受け取る。
抱えるようにして両手で持ち、少し口をつけてから、あつ、と舌を出した。
ふうふうと息を吹きかけて懸命に冷まそうとしていると、隣に座った少年が「可愛いな」と笑った。
「…………」
無言でむくれ顔を向けてやると彼は苦笑して、
「なんだよ滝壺。可愛い顔のオンパレードか? まさか俺を悶え殺そうって魂胆じゃねえだろうな」
そう言って、浜面仕上は滝壺の髪をくしゃりと撫でた。
33:
無骨だが、大きく、暖かい手だと滝壺は思う。
こうして彼が優しく撫でてくれるだけで滝壺は陽だまりにいるような柔らかな幸福感に包まれる。
だから自然と口元が微笑んでしまうのは仕方ないと滝壺は自身に言い訳する。
そして、それを見つけた浜面が余計に撫で回してくるのだから始末に終えない。
けれどその一方で、これでいいのかと滝壺は自問する。
この暗部の闇にあって、この幸せを得ていていいのかと。
自分が彼をどろどろとしたコールタールのような、底の見えない汚泥の中に引きずり込んでいるのではないのか。
彼には自分と違う、こんな最悪な世界以外にあるべき場所があるのではないか。
それでもなお、滝壺は自分に言い訳する。
学園都市の闇。
そこは一度墜ちてしまえば抜け出せない底なし沼だ。
浜面仕上という、なんの後ろ盾もないただの無能力者の少年にはもがく事すらままならない。
34:
……そう考えて改めて自分は嫌な女だと実感する。
無理心中もいいところだ。所詮、彼の優しさに甘えているだけ。
きっとどうしようもなくなって、一緒に死んでくれと頼んだとき彼はなんのためらいもなく頷くだろう。
そう遠くない未来、その時は来る。
終わりは始めから覚悟しているし、自分が死んだところでこの街は何一つ変わらないだろう。
けれど彼は自分のために死のうとするだろう。
どんなに強大な相手であっても。
万に一つも勝ち目がなくても。
有象無象の塵芥ように扱われ、なんの理由も証明もなく散ったとして。
それを理解してもなお、彼は矜持を抱いて死ぬだろう。
その姿はとても切なく悲しくて。
同時に、狂おしいほど愛おしい。
……最低だ。滝壺は顔を顰め、顔を伏せた。
35:
「どうした?」
心配そうに覗き込んでくる浜面。
熱はないかと額にかかった髪をかきあげてくる手を優しく退け、首を振った。
「ううん、なんでもない」
そう答え、滝壺は目を閉じて浜面の肩に体を預ける。
服越しに伝わってくる体温が暖かで、滝壺はどうしようもなく安らかな気持ちになる。
(どうでもいいや)
今日の滝壺は甘えんぼだなと笑う浜面にむくれてやる。
今はこの温いものに浸っていればいい。
そのうち嫌でも最悪な気分になるのだから。
36:
「……あのー。非情に言い辛いんですが、人前でいちゃいちゃするの超やめてもらえませんか。すっげー目の毒なんですけど」
声に振り返ると、絹旗最愛が物凄い形相でこちらを見ていた。
眉を寄せ、なんというか……物凄い嫌そうな顔で。道で偶然犬の糞に集るハエの大群を見つけてしまった時のような。
なにやら赤くなってあ、とかう、とか呻く浜面に、少し悪戯心が湧いて抱きついてやった。
そうすると余計に慌てるのがどうしようもなく可愛くて、頬にキスした。
「うわー。なんですかそれ、私に対する超当て付けですか……ってその『ふふん』って顔はなんですか!
 超勝ち組の顔しやがってちくしょう!」
「絹旗も混ざる?」
「冗談。超ごめんで……」
「だーめ。浜面はあげないよ」
ぬがあああ、と両手をばたばたさせる絹旗とうろたえる浜面を交互に見て、滝壺はくすくすと笑った。
37:
「はぁ……なんか今日は超滝壺さんのペースな気がします。
 ラブラブフィールド展開しないでくださいよ。部屋から超出て行きたくなりますから」
「らっ、ラブラブフィールドってなんだよその肌がむずがゆくなるような名前はっ!?」
「はまづら私とらぶらぶするの、いや?」
マジ勘弁してくださいー、と絹旗は諦めて諸手を挙げた。
「この練乳にガムシロップぶちこんだような空気をどうにかしてください、ほんと。
 おい浜面ー、私にもコーヒー。超ブラックで」
へいへい、と文句も垂れずに腰を上げる浜面の裾を一瞬掴もうとして、すんでのところで止めた。
空を掻いた指が所在なさげにふらついたあと、そっとマグカップに添えられる。
そんな様子を見て絹旗は目を細めてふう、と息をついた。
38:
「インスタントでいいよな。っつーか豆なんてないんだけど」
「超構いませんよー。超あったかいものが飲みたいだけですから。最近めっきり冷え込みますからねえ」
そう言う絹旗は明らかにサイズの合わないオレンジ色のだぼついた男物のフルジップパーカーをワンピースのように着込み、その下からはデニム地のショートパンツが見える。
足もタイツできっちりガードされているあたり防寒対策は万全のようだ。
「寒いか? エアコンのリモコンその辺にあるだろ」
「いーえ。超ぬくぬくですよ。寒かったら滝壺さんに抱きついて暖を取りますし」
寒いのは苦手なのだろうか、と首を傾げる。
「まだこの程度の寒さなら大丈夫ですよー。もう少ししたらセーターとかで超もこもこしますけど」
「もこもこ……」
それはこちらから抱きつきたいかもしれない、と滝壺は夢想する。
ふわふわでもこもこ。羊のぬいぐるみに抱きついているような感覚だろうか。
思わず頬がゆるんで絹旗に怪訝な顔を向けられたが気にしない。
元々サイズの小さい絹旗だ。抱き心地はいいだろう。
ぬいぐるみを抱かないと眠れないという人の気持ちがよく分かる。たしかにあれは最高に気持ちがいい。
39:
そこまで考えて我に返った。
つ、と視線を向けた先、部屋の隅。
パソコンデスクのわきにちょこんと座ったうさぎのぬいぐるみを見遣る。
淡いピンクの、大きなボタンが目になった、けれどお世辞にもあまり可愛いとは言えないものだ。
滝壺はこのぬいぐるみがお気に入りだった。
だが、それは滝壺のものではない。
「――――――」
滝壺はぬいぐるみを見る目を細める。
微笑みではなく、物憂げな顔を浮かべ。
このうさぎの主は今頃何をしているのだろう。
数日前、表向きは何もなかった事にされた日。
あの大混乱の中で忽然と姿を消した金髪の少女の行方を滝壺は知らない。
40:
死んでいてもおかしくない。
いや――彼女はもう、戻ってこないだろう。
『アイテム』はそういう世界にいるし、そういう状況にいる。
否、そういう世界、状況そのものだ。
この煌びやかな学園都市にある、どうしようもない闇。
その具現が自分たちであり、それは地獄の悪鬼そのものだ。
けれど――身勝手にも程があるが――滝壺はそれでも彼女が生きて、笑っていてくれる事を願う。
あの場違いに無邪気な少女は今どんな顔をしているのだろうか。
――そっと背中から抱き寄せられた。
二の腕の上から抱き締められ、胸の上で交差する腕に滝壺は指を重ねた。
「大丈夫だよ、はまづら」
ちらりと二人を見た絹旗は、何も言わず目を伏せた。
「私はここにいるから。消えたりしないから。ずっとはまづらのそばにいるから」
あの時、彼女が言っていたものは手に入った。
けれど果たして、彼女自身はそれを手に入れる事ができたのだろうか。
――――――――――――――――――――
47:
その頃。
もう一人の『アイテム』構成員、リーダーの麦野沈利は他の三人のいるセーフハウスから少し離れたところにいた。
珍しく髪を上げ、後ろで括りポニーテールにした麦野はベッドに寝転びながら携帯電話の画面を不機嫌そうな目で睨んでいた。
画面にはメール。絹旗の送ったものだ。
内容は麦野の読みが嫌な形で当たっていた事を告げるものと、今後の指示を仰ぐものだった。
「………………」
かちかちと爪がボタンを叩く音が響く。
『とりあえず合流するまで待機するように』と記したメールを打つ。
そうして送信ボタンを押そうとしたとき、背後の物音に麦野は振り返った。
「……おう、誰かと思ったぞ」
初めて見る垣根帝督の驚いた顔に、麦野は半目に笑んで返した。
「何? そんなに美人だった?」
48:
「単に物珍しかっただけだ。なんだよ眼鏡なんかかけて。視力悪かったのか」
「そこは嘘でも頷いておくものよ」
嘆息する麦野。眼鏡越しの冷めた視線に垣根は肩をすくめた。
「オマエに世辞を言ったところで俺には一文の得にもならねぇだろ」
「なるわよ。私の機嫌がよくなる」
「ぬかせ。しかしどうしたんだよそれ。さっきまでかけてなかったろ」
「普段はコンタクト。でもほら、ずれちゃうし――」
そこで麦野は言葉を止める。ぎし、とベッドが軋んだ。携帯電話を持つ右手を取られる。
「………………」
左手でシーツを手繰り、麦野は手を握る垣根を薄く睨む。
眼鏡越しに見える垣根の顔は、腹立たしいほどの薄っぺらい笑みだった。
「何よ。ムカつく顔見せるんじゃないわよ」
「オマエさ、コンタクト外してたって事はよ。何、俺の顔そんなに見たくねぇの?」
「当たり前じゃない。誰が好き好んで」
「好き、だろ?」
「――――冗談じゃないわ」
そう、鼻で笑うように呟くと同時に口を塞がれた。
49:
麦野は目を瞑る。唇をちろ、と舐められ、啄ばまれた。
思わず喘ぐように息を漏らすとそこに舌が割って入った。
ぞろりと、口内を舐められる感触に然も知れぬ感覚に襲われる。
唾液を吸われる濡れた音に眉を顰める。
羞恥ゆえにではなく、それを誘おうとする垣根のわざとらしい態度にだ。
「――――つ」
だから舌を噛んでやった。
ぴくりと垣根の体が震えるのを感じる。
が、唇を離そうとはしなかった。
それどころかより強く、唇を重ねてくる。
掴まれた腕を振り解こうと抵抗する。
振りをする。まったく反吐が出る。
所詮、こんなものは児戯に等しい。
台本通りの猿芝居でしかない。
何よりたちが悪いのは、それを承知でやってるのだから余計に始末に負えない。
50:
舌を、舐める。
薄っすらと歯の痕の残る肉を埋めるように、唾液で濡れたそれで刷り込むように愛撫する。
粘液質な、淫猥な音が耳朶を叩くが他に聞くような相手もなし、気にする事はない。
熱病に浮かされたような鼻息が人中にかかる。
それははたしてどちらのものなのか。
火照った頭ではそんな判断はできないし、そもそも最初からどろどろの溶けたチョコレートのような、
精神も肉体もないまぜになった状態なのだから最初から疑問すら浮かばない。
唇を離され、あ、と小さく声を漏らす。
頬に添えられた右手、親指が濡れた口周りをなぞる。
目を開くと、そこには予想通りの表情をした垣根が麦野の顔を覗きこんでいた。
「残念?」
「……何が」
「キス」
にやにやと、憎たらしい笑みを向けてくる垣根にだんまりを決め込んでいると、頬にキスされた。
51:
かつ、と垣根の爪がフレームに当たり乾いた音を立てる。
「これ、邪魔」
眼鏡を奪われ、投げ捨てられた。
からん、と乾いた音が響く。
「……ちょっと」
「この距離なら見えるだろう?」
「見たくもない面がね」
だから、目を瞑った。
唇が、頬から下がるように、首をなぞり、鎖骨を――強く吸われる。
最悪、と小さく呟き、麦野は目を閉じたまま天井を仰ぎ、そのまま背からベッドに倒れこんだ。
ベッドのスプリングが軋む。
まぶたの向こうから照らす室内灯が何かに翳り、闇が暗くなった。
52:
………………けれど、それきりなんの動きもない垣根に麦野はいぶかしみ目を開く。
はたして垣根はこちらを見ていなかった。
じっと、どこか呆然としたような顔で視線はやや下を、麦野の脇の辺りを向いている。
「……、……どうしたの」
問いかけ、視線を追う。
――同時、ぐ、と手を引かれた。
「づ――っ」
無理な動きによる手首の鈍痛に顔を顰め、麦野は垣根を睨みつける。
「ちょっと、アンタいきなり何を――」
抗議の文句は途中で止まる。
引き寄せられた麦野の右手。
その中にある携帯電話のディスプレイを垣根は凝視し。
「――――ははっ」
笑った。
可笑しそうに、もしくは、つまらなそうに。
鼻で笑うように小さく声に出し。
「なんだよ。結局、アイツだけじゃまだ足りねぇって言うのか」
くそっ、と。
垣根の呟きはどこか嘆きのようにも聞こえて、麦野にはその顔が今にも泣き出しそうな様に思えた。
まったくそんな気配はないのに、なぜだかそう思えてしまったのだ。
53:
だからと言うように。
「そんな顔するんじゃないわよ。情けない」
麦野は垣根の頬にキスをした。
珍しく間の抜けた、きょとんとした顔をする垣根に麦野は言ってやる。
「私を口説いたのはアンタよ。そのアンタがそんな顔するんじゃないわよ。
 もっと堂々と、胸を張ってなさい。――そうじゃなければ私はなんなのよ。
 アンタの口車に乗って踊らされただけの道化になるつもりなんかないわよ」
嘆息し、麦野は憂いたような、けれどどこか優しげな嘲笑を浮かべる。
「――――――」
そして垣根は頷き。
「悪いな麦野。――続きはまた今度」
「ええ、分かってるわ。分かってるからそこを退きなさい馬鹿。ぶっ飛ばすわよ」
右足を浮かせ膝で蹴り上げるように垣根の胸板を押し退け、麦野は体を起こす。
携帯電話を脇に置き、額に張り付いた髪を指で梳き、ふ、と息を吐いた。
「結構、残念だったりする?」
「まさか」
嘲笑して、肩を竦めた。
54:
「シャワー浴びてくるわ」
「おう。なんなら一緒に入ってやろうか」
遠慮しとくわ、と背を向けたまま手をひらひらと振り、シーツをそのまま半ば引きずるようにしてベッドから立ち上がる。
「麦野。オマエやっぱり、いい女だな」
そう言って麦野の額に口付けた。
は、と麦野は嗤う。
「今頃気付いたの? アンタ今まで私をなんだと思ってたのよ。
 目、おかしいんじゃないの。眼科行けば?
 腕のいい医者知ってるけど、紹介してあげようか」
「………………」
その言葉に垣根は何か言いたげに唇を少し動かし、それから逡巡して、ベッドから降りて立ち上がり、床に落ちていた麦野の眼鏡を拾い上げ。
「……似合う?」
「返せ」
――――――――――――――――――――
57:
「ですから、わたくしも詳しくは存じませんの」
学舎の園、その一角にあるカフェで初春と婚后は机を挟んで向かい合っていた。
普段の初春であれば、このような助成金に物を言わせた豆も茶葉も内装や店員も一流の、学園都市、すなわち学生向けという趣旨からかけ離れた、どこの王侯貴族御用達だと言わんばかりの超本格的なのカッフェ(発音が重要)に足を踏み入れたというだけで舞い上がっていただろう。
しかし頭ではそれを理解しようとも感情はそれと乖離していた。
意を決して白井と御坂の本拠地である学舎の園に踏み込んだというのに、
予想だにしなかった反応を頂戴して初春は愕然としていた。
「あなたも彼女たちのご活躍は知っているでしょう?
 幻想御手事件然り、乱雑解放事件然り、あの夏休みを騒がせた二つの事件の解決できたのはあのお二人があってこそですもの。
 それはわたくしよりもあなたの方がよくご存知ではなくて?」
「………………」
婚后の言葉を初春はカップの中で揺れる紅茶の波紋に視線を落としたまま聞いていた。
確かに彼女の言うとおり、あの二人であるならば大抵の事は何も心配はいらないだろう。
だが、その二人が揃って行方不明という異常性。
片や風紀委員きっての問題児にしてエース、片や常盤台中学の誇る超能力者第三位。
その二人に何かあったという事こそが大事件なのだ。
58:
けれどその異常性を初春以外が認識していない。
ある意味それこそが異常だった。
一介の中学生である初春が認識しているのだ。
常盤台の教師陣は元より、風紀委員や警備員といった警察組織、そして学園都市統括理事会。
揃いも揃ってだんまりを決め込んでいるそれらが把握していないはずがない。
白井はともかくも、学園都市で三番目に重要な立場にある御坂を彼らが放っておく訳がないのだ。
見目も悪くない女子中学生。
対外的には体のいい客寄せパンダになるし、そもそも御坂の能力は電磁を操るものだ。
その研究によって得られる成果はあらゆる科学技術に応用される。
つまり学園都市にとって御坂は恰好の金づるなのだ。
彼女の存在は学園都市において大きなウェイトを占める。
そんな御坂を学園都市の中央が見逃すはずもない。
59:
いちおしだと婚后の言う紅茶には手を付ける事もせず、初春はただうなだれていた。
休日の喧騒の中、学舎の園などという温室の中でもやっぱり姦しいのだななどと半ば現実逃避的な思考を垂れ流しながら初春は大きなガラスの窓の外を眺める。
制服が目立つのは常盤台のような休日だろうがどこだろうが制服の着用を義務付けているからだろうか。
律儀な事だと思うが、風紀委員の詰め所からそのまま出向いてきた初春自身も制服だ。
自分の野暮ったいセーラー服と辺りの有名デザイナーだかが手掛けた制服とは、やはり醸し出す雰囲気がまったく違うななどと愚にもつかない事を考える。
その中でも一際何やら気品っぽいものを公害のように振りまいている常盤台の制服は目立つ。
ちらほらと見えるその中に、白井や御坂がいないかと無意識に探してしまう。
どうせ見つかるはずもないと心のどこかで諦めかけているが、けれど初春は婚后や固法のように楽観できないでいる。
もしかしたらという希望も捨てきれないでいる。
結局のところ、往生際が悪いのだった。
60:
「……まあ、そのうちひょっこり戻ってきますわよ。白井さんも、御坂さんも」
婚后の言葉を何となく聞き流しながら初春は窓の外を眺める。
本当にそうであって欲しいと願う。
第一七七支部も彼女がいなければ、どうにも静かなのだ。
あの騒がしい友人がいなければ張り合いがない。
「――白井さん」
ぽつりと呟き、空を見上げた。
夕日に照らされたビルの上には薄暗い雲が見え隠れする。
天気予報では夜遅くから雨になると言っていたが、どうだろう。
最近は天気予報も当てにならない。
憂鬱な気分が晴れぬまま初春は視線を再び雑踏へと向ける。
と。
「――――」
店の外、常盤台の制服を着た見覚えのある顔を見つけた。
――――――――――――――――――――
63:
「白井さんに、御坂様ですか?」
こちらを見つけ店内に入ってきた二人――湾内絹保と泡浮万彬は、案の定そんな言葉を返してきた。
「すみません。わたくしも人づてに聞いた程度ですので詳しくは。概ね既にお聞きになっている内容ですわ」
「お力になれず申し訳ありません」
申し訳なさそうに頭を下げる二人に初春は落胆しながらも、表面上は「いえいえ、ありがとうございます」と愛想笑いで答えた。
顔見知り程度の相手。
常盤台の生徒だという事以外はあまりよく知らないこの二人に、けれど初春は食いついた。
情報はいくらあってもいい。
手持ちのカードを増やせば増やすほど選択肢は増す。
どんな無価値に等しいものだとしても、初春にはそれ以外の武器がないのだから。
64:
何よりこの二人――どちらが湾内でどちらが泡浮か、それすらもうろ覚えだが――は、初春の探す人物に近い立場にいる。
白井黒子のクラスメイト。
婚后よりも持っている情報は多いだろうと踏んでいたが、それでも矢張りというか、詳しくは知らない様子だった。
――いや、その事こそが最大の情報だった。
「御坂様も意外ですわね。わたくし、まるで小説のお話のようで不謹慎ながらも少しドキドキしてますの」
「あまり大きな声では言えませんけれどね。御坂様もあれで意外と大胆な事をなさるのですね」
あの日、忽然と姿を消した常盤台の二人の少女。
その片方のクラスメイト。
険悪な仲とも思えないし、見るからに人の良さそうな温室育ちのお嬢様といった印象だ。
婚后のような理不尽なまでの自尊心の塊にも見えない。だからこそ。
この二人が、まったく心配をしていないという事実は異常以外の何物でもない。
65:
何より、白井に関してまったく言及しないという状況がおかしい。
先程から二人の口から出てくる話題は、悉くが御坂に関してのものだけだった。
確かに御坂は常盤台の、学舎の園のアイドルだろう。
大覇星祭の中継でも目にした、一際目を引く少女。
名実ともに彼女の人気は高い。それは初春も重々承知している。
だが、だからといって白井の事がこの二人の口から出てこないというのは異常だ。
確かにこの二人が、その御坂様という恰好のゴシップの的に興味が行くのは分かる。
それなりに身近で、かつ多少なりとも面識があるのだから。
けれど、だからといって――安否の知れないクラスメイトを蔑ろにするような性格でもあるまいに。
66:
「……、……」
嫌な、果てしなく嫌な予感――否、それは既視感にも似た、漠然とした確信のようなものだった。
絶望的なまでに『どうしようもないもの』が視界の外ぎりぎりのところで大きく口を開いているような感覚。
けれど初春自身はそれを直感しつつも理解しようとしなかった。
理解してしまえば、全てが終わる。
所詮、全ては徒労でしかない。
最初からどうしようもない事だと気付いていた。
ただ、目を逸らし続けているだけで。
けれど初春は諦めが悪かった。
果てしなくゼロに近い可能性を模索する。
その為にはどんな労力も惜しまない。
何故なら、白井は初春にとって掛け替えのない友人なのだから。
67:
御坂美琴というアイドルなどよりよほど大事な、初春の人生そのものに大きく関わっている唯一無二の存在。
そんな白井の事を初春はどうしても諦められない。
誰かに任せるなどという余裕はなく、それは親と逸れて泣きじゃくりながら探し続ける幼子にも似ていた。
そんな自覚のないまま、初春は渋い顔で一つの問いを投げかける。
「ちなみに……不躾で申し訳ありませんが、その人づてというのは、どなたかお聞きしてもよろしいですか?」
初春の言葉に、二人は顔を見合わせ、笑顔で頷いた。
「「ええ――――友達からですわ」」
68:
「――――――」
その時の初春の心情を端的に表現するならば、一言だ。
――気持ち悪い。
不気味だった。
まるで決められた台詞を再生するように、示し合わせたかのような綺麗なハーモニーで二人はそう答えた。
初春は直感する。
同時に、絶望的なまでの予感が初春の心の表面に浮かび上がった。
まさか――これは――。
69:
ごくり、と空唾を飲み込む。
いつの間にか口の中はからからに乾いていた。
喉奥が蠢き張り付くような錯覚を起こす。
それから喘ぐように息を僅かに吸い、唐突に思いついたもう一つの質問を投げかける。
「その――友達の、名前は」
すると二人は再び顔を見合わせ。
「…………ええと」
「誰でしたっけ……」
予感は確信へと変わる。
この二人は、いや、婚后も含めて、もしかするとそこらじゅうの誰も彼もが――。
70:
「名前、思い出せませんか?」
二人の視線が宙を彷徨う。
それに倣うように、婚后も思い出そうとしているのだろう、中空を見上げる。
「確か……す、す……?」
首を捻る、どこかとぼけたような顔の婚后。
その顔を見て初春の背中に何か冷たいものが流れた。
彼女たちは知っている。
誰なのかを思い出せる。
なぜかそれが酷く重要な事のような気がして、三人が揃って眉を顰める様子を見て、初春はじっと身構える。
「なんとか子さんだったような……」
「ゆうこ……? いえ、違いますわね。すずこ……いえ、りかこ……でもないですし」
「お願いします。なんとか、思い出してもらえませんか」
お互いのうろ覚えな記憶を頼りに常盤台の三人がうんうんと唸るのをじっと待つ事十分近く。
ようやく、三人の意見が一致し、一つの名が紡がれた。
それは初春の知らない名だった。
確かめるように、決して忘れぬよう刻み付けるように、初春はその名を口にする。
「――――鈴科、百合子」
――――――――――――――――――――
79:
がちゃり、音が響き、部屋にいた全員がそちらを向いた。
「…………何。そんな顔しないでよ」
後ろ手に戸を閉めた麦野はばつが悪そうにそう言った。
垣根と一緒に登場したというのがどうにも引け目を感じたのだろう。
対して垣根は、そんな麦野の表情を気にする様子もなく鼻歌交じりに冷蔵庫から出したペットボトルのジュースを呷っていた。
『アイテム』のセーフハウスである高級マンションの一室。
小奇麗な室内には既に他の全員が揃っていた。
学園都市の暗部組織、麦野がリーダーを務める『アイテム』と、そして垣根の率いる『スクール』のメンバーたちだった。
そんな少年少女たちの中、一人だけ年齢的に浮いた存在である砂皿緻密は壁に背を預けたままぐるりと他の面々を見回した。
80:
「ぬう……どの点を評価するか……酷評するにも超微妙です。所詮B級映画という事でしょうか。無難につまんねー」
まず眼前、大型の壁掛けテレビの正面を陣取り、何が面白いのかと思うような下らない映画を嬉々として鑑賞しているパーカーの少女、絹旗最愛。
「つまんないのが最初から分かってたなら最初から見なければいいんじゃないかしら」
その左隣、砂皿から見て絹旗の向こう側。映画には目もくれず手指の爪を熱心に鑢で磨いでいるドレス姿の少女。
本名は知らないが、他の面々からは『心理定規』と呼ばれていた。
「言ってやるなよ。駄作と分かってても手を出さずにはいられねぇ。マニアってのはそういうもんなんだよ」
ドレスの少女と並ぶとこの場がパーティ会場であるように錯覚させるような、まるで二枚目俳優のような気障ったらしい顔とファッションの少年、垣根帝督。
「……最悪」
寒がりなのか首に巻いたストールを弄っている、黙っていればモデルでも通じそうな顔とスタイルなもののしかめっ面がそれを最悪なほどにぶち壊している少女、麦野沈利。
81:
「……かるぼなーらは……凍らせちゃだめ……」
部屋の中央にあるガラステーブルを囲むように並ぶ、二人の少女の座る位置から右手のやや長めのソファには眠そうに半眼で舟を漕ぐ少女、滝壺理后。
「この状況は一体なんなんでしょうかいや嬉し恥ずかしなんだけど周りの視線が――ない!
 無視してる! 意図的に視線を逸らされてる! それはそれで辛いぞー!?」
彼女に肩を預けられているのは確か恋人だったか。居心地が悪そうにきょろきょろと忙しなく視線を動かしている少年、浜面仕上。
「………………」
そして己。雇われの狙撃手、砂皿緻密。
『スクール』三人と『アイテム』四人。総勢七人。
それが一堂に会していた。
82:
本来『アイテム』や『スクール』といった暗部組織は四人一組であるのが通例だった。
そうして欠けた人員を補う形で投入されたのだと砂皿緻密は認識している。
しかし、一週間前のあの日、目の前の超能力者の少女によって殺害された形ばかりの同僚の席は補充されていない。
その事に妙な引っ掛かりを覚えながらも砂皿は黙したまま一人だけ輪の外にいた。
元々自分は学園都市の人間でもなければ彼らと仲良く青春を謳歌するつもりもない。
年齢的にも一人だけ頭抜けているし、能力開発とかいう胡散臭いSF技術とも無縁の人間だ。
そもそもが金で雇われた身だ。とやかく言う立場でもあるまい。
ただ言われたとおりに頭を弾くだけでいい。
スナイパーとはそういう人種だ。
83:
「でさー、なんでそんなクソつまんない映画なんか見てんの? 苦行? ヨガでも極める気なのアンタ」
呆れ顔でテレビを見遣る麦野に絹旗は「はぁ」と嘆息する。
「まあ借りてきた手前見ざるを得ないというより一種の超通過儀礼ですね。自分へのご褒美の反対というか。
 こんな飛び抜けて面白くもつまらなくもない代物を超選んでしまった自分への罰ですかね」
「不器用な生き方してんのね……」
そう呟いて、何か思うところがあったのか顔をしかめた麦野はソファへどっかと腰を下ろした。
「まったく、本当に面白くないです。役者もやる気がないのが超伝わってきますよ。
 なんでこんな超下らない脚本に付き合わなきゃならないのかとか、そんな感じの」
「仕事選べるほどの役者でもないんだろ」
ぼそりと、浜面が横槍を入れる。横の滝壺は本格的に寝に入っている。
「どこの業界も同じようなもんか。……さて、それじゃ俺らもつまらない仕事をしようか」
かちゃり、と軽い音が響く。いつのまにか垣根の右手には機械的なグローブが嵌められていた。
84:
ピンセット。
磁力などを利用して素粒子――要するに原子よりも小さい粒を『捕まえる』装置らしい。
学園都市のオーバーテクノロジーは砂皿には理解できないが、だからといって理解しようとは思わない。
それは科学者の役目だ。こちらはそれをどうやって使うのかさえ分かればいい。
いつの間にか部屋の雰囲気が変わっていた。
先程までの気だるい空気はどこへ行ったのか、氷水のような冷え尖った緊張感がそこには充満していた。
ただの学生、と最初砂皿は高をくくり甘く見ていた。
表には出さないものの、この世界は学芸会のクラスの出し物ではないとどこか嘲笑すらしていた。
しかしそれは間違っている事を先週の出来事で実感する。
彼らは学生であると同時にこの地獄の住人でもあるのだ。
悪鬼が猫の皮を被っている方がまだマシだ。
本性は最悪そのものという方がやりやすい。
けれど彼らは、両方の側面を持っている。
まるで堕天使だと柄にもない事を思う。
天使という聖なるものでありながら神に弓引いた存在。
清純そのものであるはずなのに地の底に君臨するもの。それがどれだけ最悪か。
85:
「仕事ってのも語弊があるか。これは、個人的な戦争だ」
垣根はいつになくにこやかな、しかし真剣な面持ちで言う。
「俺はこのピンセットを使って得た情報で、統括理事会――いや、アレイスターに喧嘩を売る」
「――――――」
無音の声が聞こえた、と錯覚したがすぐに思いなおす。
もう少しマシな表現をするならば……空気がざわついているのだろう。その場の誰もが息を飲んだ。
「だからここからは仕事なんかじゃねぇ。雇い主と一発やらかそうってんだからな。
 乗ってくれる奴だけ来ればいい。降りるなら降りろ。止めやしねぇよ。
 だが俺を止めようってんなら――叩き潰す」
そう言って、垣根はぐるりと他の面々を見回す。
86:
数瞬の沈黙。それを破ったのは、隣に座る麦野だった。
「……、……チッ。最初から、これが狙いだったの」
舌打ちし、忌々しそうに麦野は横目で垣根を見た。
それを見てドレスの少女はつまらなそうに半眼で答える。
「私は最初からそのつもりだけど。何を今さら確認してるの」
頷き、垣根は視線を隣の麦野に向ける。
彼女は少しだけ考える素振りをして、それから「……最悪」と小さく呟き麦野はソファに体重を預け脱力した。
「いいわよ、協力するわ。まったく面倒な事を言い出してくれる」
そんな麦野のお座なりな態度に、隣を見る垣根は薄く笑んだ。
87:
「オマエらはどうする」
呼びかけた先は残る『アイテム』の三人。
矛先を向けられ、絹旗と浜面はうろたえるような素振りを見せるが。
「むぎのが協力するなら。『アイテム』のリーダーはむぎのだから、私はむぎのについていくよ」
滝壺が即答する。
ちゃんと考えて答えたのか、それとも何も考えていないのか。判断に困る抑揚のない声だった。
「わ、私も麦野と滝壺さんがそう言うなら。垣根に手を貸す義理は超ありませんけど、この際仕方ないです」
慌てるように絹旗がそれに追従する。
……彼女らには自己主張というものがないのだろうか。
いくら組織とはいえ揃いも揃って右倣えとは。
所詮子供でしかないのか、と砂皿は失望にも似た倦怠感を覚える。
責任転嫁に近いそれに砂皿は薄く目を伏せた。
88:
そして次。
「オマエは?」
「お、俺?」
問われたのは浜面だった。
まさか自分も追及されるとは思わなかったのだろう。慌てて居住まいを正した。
「そりゃそうだ。オマエだって『アイテム』の一員だろ」
「………………」
その一言に浜面は沈黙する。
補充要員。
欠けた一角を補う形で、浜面仕上は『アイテム』に組み込まれていた。
今や浜面は単なる下部組織の名もなき雑兵ではなく、精鋭の一人だ。
先週の出来事で彼はそれなりに暗躍し、穴を埋めるのに足る程度の働きはしたようだった。
全員の視線の集中する中――滝壺は相変わらず眠そうに目を閉じていたが――浜面は黙想し、ふ、と小さく息を吐き、顔を上げた。
そして真っ直ぐに、意志の込められた視線を垣根に向け、告げた。
「…………俺はオマエには協力しない」
89:
ぴくり、と垣根の眉が動く。
場の空気が一気に下がった気がした。
ぴりぴりとした緊張感が場を支配する。まるで部屋の中の空気が丸ごと気化爆薬になったかのような一触即発の気配が立ち籠め、ほんの少し、何かの切欠で爆発してしまう気さえした。
そしてそれは錯覚ではないだろう。
「俺は」
そんな中、浜面は顔色を変えず宣言する。
「俺は滝壺の隣にいるだけだ。オマエが何をするつもりかは知らねえが、俺は滝壺を守る。
 それ以外に理由も証明もいらない。……滝壺を害するっていうなら、俺はオマエの敵に回るだけだ」
そう、無能力者の少年は超能力者の少年に告げた。
交差する視線。正面から睨み合い、その場の全員が二人に注視していた。――滝壺を除いて。
90:
あまりに長い数秒が経過し、口を開いたのは垣根だった。
「安心しろ。利用はさせてもらうが、俺は物持ちはいいんだ。
 簡単に使い潰すような真似はしねぇよ。それに、そういうのは趣味じゃねぇ」
第一、と垣根は続ける。ピンセットをかちゃりと鳴らし、ぴっとその爪先を浜面に向けた。
「むしろコイツはオマエらのためにこそある。愉快な話だろう?
 学園都市に踊らされてる俺たちが、その学園都市の親玉に戦争吹っかけようってんだからな」
垣根は心底可笑しそうに、年相応の少年のように笑みを浮かべた。
そんな垣根とは対照的に、浜面は険しい顔のまま口を開く。
「そんなのはどうだっていい。……オマエが滝壺を守るってなら俺はそれに協力してやる」
「愛されてるな。妬けるぜ」
大仰に肩を竦め、垣根は膝を叩いた。
「交渉成立だ。俺は自分の味方を切り捨てたりはしないさ。そういうヤツを守れなくて、なんの超能力者だ」
笑みを向ける垣根に、浜面は訝しげな表情を隠そうともせず背をソファに預けた。
何故だろう。危うい場面は過ぎ去ったというのに気拙い雰囲気は消えなかった。
91:
そして。
「で……砂皿の旦那はどうするね」
最後に、問いが向けられた。
逡巡する。砂皿は学生でないどころか本来学園都市の人間ではない。
垣根の言うようにこれが彼らのための戦争ならば自分にメリットはない。
確かに自分は傭兵だが、契約内容にない事象に付き合う義理はない。
が、そうでない理由も存在しない。
「……雇い主は『スクール』だ。統括理事会ではない。それ以外は重要ではないだろう」
あらかじめ用意しておいた答えを砂皿は口にした。
気紛れと言うのがちょうどよかった。
コインを投げて表が出たから。そういうレベルの感覚で砂皿は首肯する。
92:
その答えに垣根は満足げに――どこか安心したような、無防備な笑みを浮かべ頷く。
……もしかすると、この場で一番緊張していたのは垣根かもしれない、と砂皿は思う。
学園都市のトップに、いや、学園都市そのものに宣戦布告しようというのだ。
この場にいる全員が、その配下にいると言っても過言ではない。
常識的に考えてそんな荒唐無稽な所業に賛同するはずもないのだった。
けれど、幸か不幸か全員が学園都市ではなく垣根に付いた。
それが吉と出るか凶と出るか。現時点ではそんな事は分かるはずもなかった。
もしそれが分かるとすれば――そう、神様とかいう存在だけなのだろう。
93:
「じゃあ改めてひとつよろしく頼むぜ、諸君。……アレイスターに一泡吹かせてやる」
一人ひとりを見回し、目を瞑り、そして開く。
「開戦だ」
垣根は静かに宣言した。
――――――――――――――――――――
97:
「それで。結局、私たちに超調査させてたのはなんだったんです?」
延々と続く面白みに欠ける映画を呆と眺めながら絹旗は問うた。
ここ数日、理由も明示されぬまま、絹旗たちは一つの施設について調べさせられていた。
本来そういう面倒な下準備は下部組織に任せるものなのだが、如何せん理由が理由だ。
垣根が統括理事会を敵に回す以上、それ相応の内容のはずだ。
他に任せられるようなものではないのだろう。
(そういう意味では……最初から、それなりに超信頼されていたんでしょうか)
いや、もしかすると自分たちが加担するのすら織り込み済みだったのかもしれない。
最初から計算ずくでこちらの意志に任せるような発言を取ったのだとしたら、それはもうパフォーマンスでしかない。
そこまで考え、絹旗は寒気を覚える。
誘導尋問にも似たそれに操作され『自分の意志で』垣根に肩入れしたのだとしたら。
98:
……けれど。
(今さら言っても詮無い事ですし、たとえそうだとしてもこれは私の選んだ事です)
小さく、悟られぬように頷き、絹旗は顔を上げる。
「あれは――なんだっていうんですか」
訝しげな表情で絹旗はそう言った。
学園都市、第七学区にある建造物。
統括理事長、アレイスター=クロウリーの居城。
学園都市最大の特異点。
通称『窓のないビル』。
のっぺりとした壁面だけを晒すそのオブジェは、その名の通りに窓はおろかあらゆる出入り口が存在しない。
何も知らぬものが見れば(スケールはさておき)奇妙な石碑か何かだと思うだろう。
完全に密閉され、空気は元より放射線や宇宙線までも、ありとあらゆる物質の出入りを拒絶した難攻不落の城塞。
99:
壮大な引き篭もり。いや、言葉を選べば籠城か。
何かから逃げるように彼は鉄壁を築き上げていた。
けれど、中にアレイスターがいる以上、外部との連絡手段が何かしらあってもおかしくはない。
そうでなければ彼はそれこそ単なるオブジェと成り下がってしまうのだから。
アレイスターへの直通のパイプ。絹旗が調べていたのはそれだ。
調べた。散々手を付くし、一歩間違えば即死しかねない致命傷を得る可能性もありながら書庫への直接のハッキングまで実行した。
本来その手の事は彼女の専門でないが、なんとかやってのけてみせた。
だが。
結果、何もなかった。
完膚なきまでに、何もなかったのだ。
100:
「窓のないビル――以前、一発ぶちかましてみた事がある」
あまりスマートなやり方ではないがな、と垣根は肩を竦めた。
「結果、案の定と言うかなんと言うか……傷一つ付かなかった」
垣根帝督。
学園都市の頂点に君臨する超能力者の一角。
この世の法則を超越した、文字通り常識外れな力を振るう少年。
その力を正面からぶつけても無傷だったというのだから正攻法はもちろん裏技を使ったとしてもあの牙城を突き崩すのは不可能という事なのだろう。
「常識が通用しないどころか、非常識すら通用しねぇ。あれは超科学とかSFとかの域を越えちまってるんだろうよ。
 魔法のバリアが張ってあったとしても俺は納得するぜ」
だが、と垣根は手にしたピンセットを掲げる。
「滞空回線……コイツが存在する以上、あのビルへのアクセスはあるに決まってる」
101:
「……で? もったいつけないでさっさと吐きなさいよ」
麦野は垣根に視線を向けず、いらつく様子で足を組みなおして、は、と息を吐いた。
「そのピンセットを使って滞空回線の中身を掻っ攫ってきたんでしょう?
 で、その中にビルの内部へのアクセス方法があったんじゃないの」
「ご明察」
ぱちん、と指を鳴らし垣根はにやりと笑った。
「盲点だった。あぁ、自分で言うのもなんだが、俺の未元物質があまりに強力なもんでな……。
 だが、コイツで崩せない物理法則があるなら他の法則で崩せばいい。
 そうさ。俺以外にもこの町には五十八人も既存の物理法則を無視する連中がいるじゃねぇか」
その言葉に、絹旗はぴくりと反応する。
具体的に思い当たったわけではない。
ただ、その人数がなんとなく何を指すのかが分かった気がした。
「空間移動能力者、ですか」
「正解。奴らは既存の三次元空間を無視して物体を移動させる術を持つ。窓があろうがなかろうが関係ねぇんだよ」
頷き、垣根は一部の書類をガラスの机の上に放った。
クリップで留められたそれには、一枚の写真が添付されていた。
顔写真。少女のものだ。
髪を二つに括った彼女は。
102:
これが、統括理事長の城への唯一の『鍵』。
「空間移動系大能力者、結標淡希――窓のないビル内部への『案内人』だ」
――――――――――――――――――――
110:
夜。
最終下校時刻を過ぎた校内は、当然だが闇に包まれ沈黙していた。
そんな中職員室だけが光を持ち、中には残業に勤しむ教師がまだ教材のプリント作りをしていた。
「――――――」
そんな横を、上履きを脱いで足音を立てないようにそろりそろりと歩く。
見つかれば大目玉では済まないだろう。
鍵閉めの教師にだけは鉢合わせしたくないが、多分、大丈夫だろう。
いつものパターンならもう二時間ほど前にそれは終わっているはずだ。
果たして誰にも遭遇せずに目的の扉の前に着いた。
沈黙のままにバックパックから取り出した携帯端末を扉の横に取り付けられた認証装置に無理矢理接続した。
ボタンを幾つか操作し、待つ事数秒。
ピ、と小さい音を立てて鍵が外れた。
手早く端末を取り外し滑り込むように扉の隙間から室内に入った。
そして内側から鍵をかけ、そこでようやく、初春は安堵の息を吐いた。
風紀委員第一七七支部。最終下校時刻を回り、室内には誰もいない。
室内は、しん――――と静まり返り、初春は思わず息を止めたが、自分の心臓の音がいやに大きく聞こえた。
111:
そろそろと、誰にも気付かれないように、奥へと進む。
靴下が床をする音と関節が軋む微かな音が酷く耳障りだ。
明かりは点けない。
誰かに気付かれたら大変だ。
そしてようやく、いつもの場所に辿りつく。
この部屋の、初春の定位置。パソコンの前だ。
お気に入りの椅子に座り、初春はバックパックを下ろし中からゴーグルとグローブを取り出した。
まるで軍用の暗視ゴーグルか何かのように見えるそれと、赤いラインの入った普通の黒手袋にしか見えないそれの、
端から出ている線の先に付いたプラグをパソコンの接続端子に押し込んだ。
グローブを手に嵌め、感触を確かめるように何度か握る。
「………………」
パソコンの電源ボタンを押し、ゴーグルを被る。
カリカリとハードディスクの駆動音が聞こえ、初春はそれが煩わしくてイヤホンを着け目を閉じた。
数瞬の静寂。
そして、静かにOSの起動音が流れた。
112:
目を開く。
ゴーグルから映像が網膜に直接照射され、外部に光を漏らさぬままデスクトップの光景が眼前に広がった。
ぐ、と手指に力を入れると、ばらばらとプログラムの窓が乱れ咲いた。
初春の両の手に嵌められたグローブ。
使用者の微かな手の動きを感知してコマンドを入力する操作デバイスだ。
マウスやキーボードなどの一般的な入力機器を遥かに凌ぐ超高の操作ができるものの、それを正確に操るのには相当の慣れが必要となる。
それを動かすにも専用のプログラムをインストールする必要があるし、かなりのマシンスペックを要求される事からほとんど使う事はなかったが。
ぴっ、と左手の人差し指を振る。
開かれたのはネットワークへの接続許可を確認するウィンドウ。
ただし、その先は。
――――学園都市のあらゆるデータが収められた巨大サーバ、通称『書庫』。
113:
目の前に広がる数行の英文に初春は、ごくり、と思わず空唾を飲み込んだ。
初春は今まさに学園都市の知識の中枢へとハッキングを仕掛けようとしていた。
いつになく緊張する。
初春は本来、その手の輩からそれらを防衛する立場にある。
一部からは守護神だとか呼ばれていたりするのだが、そんな事はどうでもいい。
確かに初春の構築した防衛システムは強固だが、今回のこれとは全く関係がない。
初春が何者であれ、事が発覚すれば少年院行きは免れないだろう。
学園都市ではハッキングは重犯罪だ。
自覚はある。
わざわざ入室履歴も残さないように詰め所に忍び込んでいるのだ。
自室にあるパソコンからでは十全の力を引き出せないから。
捕まる気などさらさらない。
全てを終わらせて、何食わぬ顔でまたいつもの何もない日常へと戻るために。
「――――行きます」
小さく、己に宣言して。
初春は初めて自らの能を攻撃に使用した。
114:
滝のように流れる英数字。
鳴り止まない警告のアラート。
一つ一つが致命的なまでのセキュリティを掻い潜りながら初春は『書庫』にアタックを仕掛ける。
かつてないほどに脳と指は動いてくれた。
愛機も、自ら組んだプログラムも、万全の働きをしてくれる。
まさかこのような事に使う破目になるとは思ってもいなかったが、初春の思いに応えるかのように相棒は静かに駆動音を響かせた。
眼前に広がるデータの嵐。
一言で表すならば最悪だった。
セキュリティなんて生易しいものではない。
一つ一つが片っ端から殺しにかかってくるような、凶悪な代物だ。
無数に現れるそれの、たった一つでさえ掠りでもすれば即座に武装した警備員がこの場に踏み込んでくるだろう。
けれど引き返そうとは思わない。
ようやく掴んだ手懸かりを見失うわけにはいかない。
もはやそれ以外に初春の進むべき道はなかった。
115:
いったいどれくらいの時間が過ぎただろうか。
数分か、数十分か、それとも数時間か。
時間感覚の麻痺した初春の脳では判断できなかったが、唐突に、視界が開けた。
「…………突破、した?」
思わず呟き、数秒してからようやく深い溜め息を吐いた。
果てしない脱力感に初春は椅子に崩れる。
グローブを嵌めた手にじっとりと感じる冷や汗が気持ち悪い。
吐き気にも似た倦怠感に深呼吸をし、初春は再び体を起こした。
――まだ、本番はこれからだ。
「………………鈴科百合子」
『書庫』の統括する学園都市のあらゆるデータ。
学園都市に住まう学生はもちろん、そうでない人々や学校、研究機関、そして研究内容や過去の事件。
そこには文字通り全てが存在する。
ここにないものは、ない。……はずだ。
動作は一つで済む。
けれどその一歩を踏み出すのがどうにも恐ろしかった。
116:
もしも。
もしも。
もしも。
嫌な予感がぐるぐると脳裏を駆け巡り、気付かぬままに指先が震えていた。
今ならまだ間に合う。
悪いことは言わない、引き返せ。
そう本能が告げている。
ここから先には最悪な結末しか存在しない。
何故かは分からないけれど、それが理解できてしまった。
確信じみた予感に寒気を覚える。
さっきから何やらかちかちと喧しい。
そんな大きい音を立てられては見回りの教師にばれてしまう。
そんな事はどうでもいいのに、目の前の『書庫』の情報こそが重要なのにどうしても意識を逸らせてしまう。
ほんの少しの条件を入力する、たったそれだけの事から精神が逃避してしまう。かちかちかちかち。
動作は一瞬で済む。そのために万全の準備をしてきた。
早く、早くしなければ見つかってしまうリスクは時間と共に跳ね上がってゆく。かちかちかちかち。ああ煩い。
目を背けるな。現実を直視しろ。そうでなければ、そうでなければ何一つできやしない。
なんのために自分はここにいる。掛け替えのないものを失わぬためだ。かちかちかちかち。
そのためにこんな途轍もない真似をしている。今までいったい何をしてきた、初春飾利。この唯一の武器は全てこの時のためではなかったのか。かちかちかちかち。そう、たった一人の友人を守れずなんの『守護神』だ。
かちかちかちかち。
かちかちかちかち。
かちかちかちかちかちかちかちかち。
ああ、さっきから煩いのは私の歯だ――!
117:
がぎり、と軋む音を立てるほどに噛み締め、涙で茫洋となった視界を目をぎゅっと瞑る。
まぶたに押し出された涙は頬を伝い唇に溜まる。
口の中に感じるのはその味か、それとも血のものなのか。
そんな些細な事はどうでもいい。再び目を開く。
相変わらず濡れた眼球の表面に歪曲されたゴーグルの光線は歪んだ画面を投影するが、見ずとも分かる。
体は動いてくれた。
118:
初春は一度深く息を吸い。
震える嗚咽を吐き出し。
それに条件を入力し。
もう一度息を吸い。
静かに吐き出し。
検索をかけた。
119:
そして。
絶望が現れた。
120:
・検索結果
該当件数; 0件
一致する情報は見つかりませんでした。
123:
いつの間にか降り出した雨に、街の光に濡れた路面が目を突いた。
さあさあというノイズにも似た雨音の中、初春は傘も差さぬまま歩いていた。
最初から傘など持っていなかった。
そんな矮小な、どうでもいい事は頭にはなかった。
ただようやく見つけた手懸かりを手繰り寄せようと必死で、それ以外の事は考えてなどいられなかったのだ。
バックパックを力なく肩からぶらさげたまま初春は幽鬼のように街を歩く。
一歩踏みしめる度にぐちゃりと湿った足音が靴の中で鳴いた。
今自分はどんな表情をしているのだろう。
きっと寒さに肌は真っ白で、見る人がいればすぐさま救急車でも呼びかねないようなそんなひどい物だろう。
けれど幸か不幸か、ただの一人とも出会わなかった。
124:
ぐちゃり、ぐちゃり。
街はいつものように煌びやかに光を放ち、降りしきる雨にそれを喧しく乱反射させ、だというのに静まり返っていた。
まるで死都のようだ。
街全体が死に絶え、機械だけがひとりでに動いているだけのような、そんな錯覚。
誰も生きている者なんていないんじゃないのかとさえ思う。
ぐちゃり、ぐちゃり。
もしかすると自分はもう死んでしまっていて、それに気付かないままに徘徊しているのではないか。
生きている者がそれに気付かないように、死んでしまった自分も気付いていないだけなのではないか。
そういえばそんな都市伝説にも似た少女の話を聞いた事があったな、と思い軽く親近感を覚える。
多分彼女もまた、そうして世界に見放されたのだろう。
こうして歩いていたら彼女と会えるかもしれない。
そう思うと少しだけ心が晴れた気がした。
125:
頬を濡らしているのは雨か、それとも涙なのか。
自分は泣いているのか哂っているのか。
それすらも分からず初春は機械的に歩みを進める。
ぐちゃり、ぐちゃり。
冷えた体は雨の感覚さえなく、踏みしめているはずの地面の感触も覚束ない。
幽霊に足はないのだから仕方ない、と思うが、濡れた足音だけは確かだった。
ぐちゃり、ぐちゃり。
ぐちゃり、ぐちゃり。
ぐちゃり、ぐちゃ、
「――――――」
人が、いた。
126:
雨に煙る視界の隅をゆらり、横切る。
それはすぐに消えてしまったが、間違えるはずもなかった。
ぱしゃ。ぱしゃり。
気が付けば走っていた。
悴んだ体はいう事を聞いてはくれず、思わず転びそうになる。
前のめりにたたらを踏みながらも、踏み止まり、初春は走った。
白と黒と灰色だけの無機質な街を走る。
いつの間にか雨音は消えていたが視界には相変わらずの線が降り注いでいた。
だのに耳元で、ぜひ、ぜひ、と嫌な音が聞こえる。
ごうごうと耳鳴りがするのは雨の雫が耳の中に入り込んで血流の音が反響しているからだろうか。
体中がきしきしと悲鳴を上げている。
けれどそんな事はどうでもよかった。
垂れ下がる蜘蛛の糸にしがみ付くように、初春は無我夢中で走った。
127:
ばしゃり、と大きな水溜りに足を踏み入れ、初春は立ち止まる。
通りからひっそりと隠れるように伸びる小路。
何度も通った事のある道だというのに、今の今まで気付かなかったほどの存在感のない路地裏。
明日にはどこにあったのかさえ忘れてしまうような、存在そのものがおぼろげな道。
ここが虚数学区の入り口だと言われても納得してしまうような、そんな漠然とした正体の知れぬ空間だった。
そんな裏道の入り口で初春は道の先を見る。
じじ、と焙るような音を立て壁面に取り付けられた街灯が瞬く。
隣接する飲食店の残飯か、腐った下水のような臭いが僅かに燻る壁と壁に押し潰されそうな狭い空間。
その先に、真っ黒な蝙蝠傘が揺れていた。
128:
傘を差すのは男だろう。
カーキ色のジーンズに濃い青のスタジアムジャンパー。
左手に傘を持ち、差し出すように掲げているその逆肩はこの距離でも分かるほどにぐっしょりと濡れていた。
そして。
彼の左側に立つ人影。
見覚えのある学校指定のブレザーにスカート。
少女だ。
顔は傘で隠れて見えない。
けれど、傘の下から覗く髪と、先程一瞬だけ見えた横顔。それは確かに初春の知る人物だった。
――――ぱしゃり。
気付かぬままに一歩を踏み出し、致命的な過ちを犯した事を直感する。
何故だか分からないけれどそう理解できてしまったのだ。
左右の壁が押し潰そうと覆い被さってくる錯覚を覚え、異様なまでの圧迫感を感じる。
水溜りを踏んだ足音がわんわんと反響し、空気が揺れ。
――――ぴたりと、前方を往く二人の足が止まる。
129:
「………………」
どっどっどっどっ、と、心臓は早鐘のように鳴り響き、初春は貧血のような眩暈を覚える。
全身の毛穴がぶわりと開き、凍え切った体にも感じるほどの冷や汗が流れた。
視界は既にモノトーンのそれとなり、ぱらぱらと蝙蝠傘の跳ね返す雨音だけがやけに耳についた。
「………………」
二人はぴくりとも動こうとはせず、まるでじぃ――と見つめられているような、気さえした。
「………………」
無言。
ただ、傘を跳ねる雨粒の音だけが耳障りだった。
その気拙い空隙に、初春は魚が喘ぐように何度か口を開いたり閉じたりして、空を掻くように手を伸ばし、何かを堪えるように目を引き瞑り指を胸の前で握り締め、そして。
その名を呼んだ。
「――――――御坂さん!」
130:
ようやく、ようやく見つけた。
事件の中心――御坂美琴。
初春は叫び、その後姿に駆け寄る。
――が、立ち止まる。
隣に立つ少年――クセの強い、ツンツンした黒髪の少年だ――がゆっくりと振り返り、初春に微笑んだ。
「……呼ばれてるぞ、御坂」
そして――。
「――――――」
振り返った彼女に、初春の動きが停止する。
……なんだ。
なんだこの違和感は。
見知った顔。
見慣れた制服。
けれど。
――目の前にいる彼女は誰だ?
「――こんばんは」
そして、初春の思考は完全に停止する。
「ええと――ごめん、誰だっけ?」
131:
――――――――――――――――――――
137:
「………………」
ぱらぱらと傘に反響する雨音だけが場を支配していた。
あまりにも予想外の言葉に初春は完全に硬直していた。
彼女は一体何が起こったのか全く理解していない様子で、呆然とした態で立ち尽くすより他なかった。
目の前に立つ少女はどこか空ろな無表情の仮面を貼り付けたような顔で初春の顔をじっと見ていた。
かちかちかち。
いつの間にか聞こえていたその音は、初春の歯が発するものだった。
幾許かの時間が過ぎ、初春はようやく寒さに悴んだ唇を動かした。
「誰、って……初春、飾利です、よ。風紀委員の」
震える声でそう呼びかければ、彼女はようやく合点のいった様子で頷き。
「ああ――初春――初春飾利さん――ええ、そうだった。ごめんなさいね。ど忘れしちゃったみたいで」
作り物めいた笑顔を初春に向けるのだった。
138:
見知った顔。
見知った声。
なのに――どうしてだか足が竦んで仕方なかった。
かちかちかち。
震えは止まらない。
「それで、何かしら。私、ちょっと忙しいんだけど」
今すぐこの場から逃げ出したかった。
目の前にいる友人がとてつもないバケモノのような気がして、
次の瞬間には途轍もない怪物に変化して初春を頭からばりばりと貪り尽くしてしまうような気さえして。
けれどパニックのあまり初春の思考は完全に静止して全く動けずにいた。
ぐっしょりと濡れたスカートの足に絡みつく感触が、冷えた体が凝り固まるような錯覚が、初春をその場に縛り付けているような気がして。
そんな事よりも。
初春は今目の前の友人にどんな顔を向けているのか、それがどうしようもなく気がかりだった。
139:
「忙しいって……何を、してるんですか」
ようやく出てきた言葉はそんなものだった。
「御坂さんがいなくなって、大騒ぎですよ。みんな、心配してるんですよ」
――そんな事が言いたいんじゃない。
初春の言葉に彼女は不思議そうに首を傾げ。
「大騒ぎ? 心配? そんなはず、ないんだけど」
大して興味のない様子で言う彼女の声が妙に癪に障った。
今までの自分を否定された気がして、それは恐らく正解なのだろう。
今日までの一週間の全てを、そして今日の出来事と初春の努力と葛藤と判断と決意と行動と、それら全てを粉々に壊された気がして。
怒りと羞恥とがないまぜになった感情は、それでも動いてくれなかった。
140:
「一週間も何をしていたんです?」
「別に。いいじゃない、そんな事」
相変わらずの薄っぺらい笑顔のまま、彼女はそう答えた。
――そんな事が訊きたいんじゃない。
「もしかしてまた何か事件に巻き込まれてるんですか」
「そうでもないわよ」
――そんな事はどうでもいい。
本当に、本当に大切なのはたった一つだけだ。
震えは止まらない。
歯は相変わらずがちゃがちゃと喧しいし、体中が痙攣するようにしている。
けれど、そんな些細な事よりももっと大切な事がある。
がくがくと笑う膝をどうにか押さえつけて、初春は睨みつけるようにして言った。
「…………白井さんは、どこにいるんですか」
搾り出すようにして放たれたそれに、彼女はやっぱり不思議そうに首を傾げ。
「どこって…………後ろにいるじゃない」
ぱしゃり、と。
水溜りを踏む音が聞こえた。
141:
一瞬、訳が分からなかった。
彼女が何を言っているのかが分からなかった。
けれど目の前の二人の視線は、初春の肩越しにその後ろを見ていて。
それを追いかけるように、真っ白になった頭のままにゆっくりと後ろを振り向くと。
「――――――」
チェックのスカート。
学校指定のブレザー。
赤いリボンタイ。
そして、左右で二つに括った長い髪。
あまりに見覚えのあるその姿に、一瞬幻影ではないかと疑うが。
「あらまぁこれは……濡れ鼠ですわね、初春」
声。
口調。
仕草。
雰囲気。
困ったように苦笑する、顔。
「――――白井さん――――!!」
142:
一体どこにいたのか。
一体何をしていたのか。
問い詰めたい事は他にいくらでもあった。
けれど張り詰めていた感情が爆発し、頭の中で吹き荒れ、それどころではなかった。
顔はきっとぐちゃぐちゃになっている。
でもそんな事はどうでもいい。
今目の前にいる少女の姿を見て、初春はどうしようもなくなって、彼女に駆け寄る。
――が。
「……待ってくださいな」
制止され、初春は凍りつく。
差し出された手は平をこちらに向け、何かを押すように伸ばされた拒絶だった。
「…………白井、さん?」
斜めに顔を逸らし、俯く様子で表情を隠す白井。
何故。なんで。どうして。
もう、何がなんだか初春は分からなくなっていた。
143:
「待ってくださいな、初春」
白井は俯いたまま言葉を続ける。
「そんな顔をしないでくださいまし。わたくし、どうすればいいのか困ってしまいますの」
それはこっちの台詞だ、と。
言い返す事もできず初春は動けぬままに呆然と白井を見ていた。
「そんな顔をされては――わたくし、迷ってしまいます」
何を、迷う事があるのだろう。
その一言がどうしようもなく絶望的なものに思えて、まともな思考ができぬまま、しかし直感だけで初春は一歩を踏み出す。
「――初春っ!!」
そして、怒声にも似た白井の放つ言葉に再び動きを止められる。
「こちらに――来ないでくださいな。あなただけは、来てはいけませんの」
144:
……白井が何を言っているのか全く分からなかった。
でも。
どうしようもない絶望の淵が足元に広がっているのだけは理解できた。
あと一歩を踏み出せばその奈落の底へ落ちてしまうだろう。
そこはどうしようもなく最悪な地獄が待っていて、初春はどうする事もできないだろう。
――それが、どうした。
その先にたった一人の大切な友人がいるのだ。
その彼女が、声を震わせ、今にも泣きそうな顔で俯いているのだ。
踏み止まる理由など存在しなかった。
だから、
初春は、
その一歩を踏み出し、
145:
ぱしゃり、と水溜りを踏む足音が響く。
――――――え?
初春はまだ、その踏み出した足を、下ろしていない。
踏み出した足はまだ空に浮いていて、足音が鳴るはずもないのだ。
なのに水音は左右にそびえるコンクリートの壁に反響して。
見れば、白井との距離は縮まっていない。
「――――ごめんなさい、初春」
……遅れて踏んだ水溜り。
ぐちゅりと濡れた靴中の嫌な感触に、初春はそれ以上の絶望を覚えた。
そう。距離が縮まらないのは。
白井が一歩後ずさったからで。
146:
ぱしゃり。
再び響く水音に初春はようやく気付く。
「――ごめんなさい、初春」
その音を発したのは、初春でも白井でも、背後の二人でもなく。
「………………ねえ、白井さん」
そんな事はどうでもいいのに。
そんな事を訊いている時間もないのに。
そんな事よりももっと大切なものが目の前にあるのに。
そんな事よりももっともっともっともっとタイセツナモノが目の前から遠ざかってしまおうとしてるのに。
「ごめんなさい――――――さようなら、初春」
その泣きじゃくるような白井の顔を遮るように立ったのは。
「――――――そちらの方は、誰です?」
「どうも。『友達』です」
がしゃりと、世界が閉じた。
――――――――――――――――――――
151:
「表向きの所属は霧ヶ丘女学院。強度判定では大能力者、能力は『座標移動』。
 ……空間移動能力の中でもダントツのスペックだなこりゃ。最大重量四トン超ってなんだよ」
すらすらと暗唱するように言う垣根は、かちゃりとピンセットの爪を鳴らした。
「そして――俺たちと同じような暗部組織、『グループ』の一員だ」
その一言に全員が息を呑んだ。
『グループ』。
その名の意味するところをこの部屋の誰もが理解していた。
絹旗が遠慮がちに、言葉を選ぶように呟いた。
「……って事は超あれですか――『彼』――のお仲間ですか」
「ぼかさずに言えばいいじゃない。一方通行、って」
それを半眼で返すのはドレスの少女だ。
そんな面々の様子を見ながら頬杖を突いていた麦野は嘆息し、「それで?」と垣根に続きを促した。
「相手がソイツなら遠慮はいらないじゃない。適当に捕まえて、適当に懐柔なり強迫なり洗脳なりすればいいんだし。
 それに都合のいい事にこっちにはコイツがいるんだしさ。『心理定規』。頼んで断れないようにしちゃえば一発でしょ」
第一、と麦野は続ける。
「遠慮する必要すらない。最初からアンタは――私たちは、アレイスターを敵に回してるんだから」
「それはそうですけど……」
言いよどむ絹旗に、再びドレスの少女は言い返した。
「それとももしかして一方通行が怖い? もう――――死んでるのに」
152:
『一方通行』。そう呼ばれる少年。
学園都市二三〇万の頂点に君臨する、最強の能力者。
この世のありとあらゆる力の方向性を配下に置く、絶対の君臨者。
そして『グループ』の一員。
しかしそれらの肩書きは、全て過去形となる。
あのなかった事にされた日を境に王座は奪われた。
ソファに悠々と座り手に嵌めたピンセットを遊ぶ少年、垣根帝督に。
しかし最強の座を手に入れたはずの彼は難しい顔をして首を左右に振った。
「それがだなぁ……捕まえたいのは山々なんだが、いや、できれば丁重にご協力願いたいところなんだが……」
「はっきり言え」
横から足を軽く蹴り急かされ、垣根は溜め息を吐いた。
「いやその実はな…………行方が分からねぇんだわ、結標チャン」
参ったな、と苦笑する垣根に、部屋の誰もが沈黙し、
ある者は呆れたように目を細め、
ある者はリモコンの再生ボタンを押し、
ある者は相変わらず隣の少年に寄りかかり、
ある者は天井を仰ぎ負けじと寝入ってやろうと目を瞑り、
そんな中。
「…………はぁ?」
麦野が不機嫌の極まった様子で呟いた。
153:
「何アンタ、ええと、あれだ……ふざけてんの? アンタお笑い芸人にでも鞍替えする気?
 学園都市第一位じゃ飽き足らず今度は芸能界でもトップスターになろうっての? 死ぬ?」
頭痛でもするのか、麦野はこめかみを押さえ俯きながら垣根を指差した。
「ピンセットがあれば滞空回線から情報取り放題じゃなかったの。
 そもそもそれって監視カメラみたいなものなんでしょ。学園都市中に撒かれてる。
 ソイツが見つけられないって、え、もしかしてソレ必死で奪取したのって結構割に合わなかったりするの?
 ……一人死んだんですけどー」
殺したのはソイツだけど、と付け加えながら、こちらも物凄い不機嫌な、まるで般若の面のような表情で問い詰めるドレスの少女。
「ま、待て待て待て! 言い訳くらいさせてくれよ!」
二人の少女に垣根は慌てて弁解した。
「結標だけじゃねぇ。他のヤツら……残りの『グループ』の構成員も、行方不明だ」
「ますます使えねぇじゃん。他のは別に空間移動能力者でもなんでもないんでしょ」
「ねえ、それ壊していい? なんかムカついてきたんだけど。別に彼の敵って訳でもないけど」
「最後まで聞けよ!?」
続きがあるのかよ、と浜面はもう寝たふりを決め込みながら心中で毒づいた。
155:
「それがどうもここんとこ滞空回線が動いてないみてぇなんだよ、なぜか。データ自体は生きてるんだが、更新がストップしてやがる。
 だからソイツらが今何をしてるか、ってのが絶望的に分からねぇ。これじゃ『書庫』漁ってんのと大差ねぇよ」
俺も被害者だ、と両手を挙げて主張する垣根に、麦野は一度納得しかけ、しかし考え直して問うた。
「そういえば……アンタ、あの日一方通行とカマす時さ……私に何させたかしら」
その一言に、垣根の動きが完全に止まった。
軽薄な笑みを浮かべるその首筋に、冷や汗が浮いていた。
数瞬、沈黙し、そして今まで沈黙を保ってきた砂皿が何かに納得したように一つ頷くと。
「つまり……麦野が起こした強力な電磁波か何かで滞空回線が全滅したと」
「私のせいじゃないわよ!!」
慌てて弁解する麦野に、ドレスの少女が頷く。
「そうねー悪いのは全部コイツねー……最悪」
「…………うわー映画見終わっちゃいましたよどうしよう超混ざりたくないなあ」
全力で目を逸らし流れるスタッフロールを凝視しながら絹旗は誰にも聞こえないような小声で呟いた。
156:
数分後。
ようやく二人の少女を宥めた垣根は疲労困憊といった様子で肩を落としてソファに座っていた。
「第一位(仮)……」
「第一位(笑)……」
「括弧って言うなよ!」
何やら傷ついたのか垣根は不貞腐れた様子で一つ嘆息する。
「まぁ少し手間が増えちまったが……お陰で収穫もあった」
ばさり、ばさり、と追加のファイルを机の上に投げる。
「土御門元春。それに海原光貴。残りの二人だ」
「……これの何が収穫なんです? コイツが外部組織からのダブルスパイっていうのなら、私も超掴んでますけど」
ファイルの片方、金髪にサングラスの少年の写真が添付された方を手に取りぺらぺらと振りながら絹旗はつまらなさそうにぼやいた。
「行方を掴もうと色々してみたのさ。ソイツらのどっちかから繋がるかもしれないからな」
もったいつけるように言う彼に、絹旗はさっきの今じゃ超格好つかねー、と内心吐き捨てる。
「それで、超本題はなんなんですか」
「急かすなって。駆け引きは重要だぜ?」
「超うぜぇ……」
思わず口に出た言葉に垣根は顔を顰め、そしてさらに数部のファイルを取り出した。
157:
「結標、土御門、海原……全員が同時に、姿を消した。一〇月九日。あの日だ」
「そういうのはもういいですから……ってなんですかその超分厚いのは」
眉を顰める絹旗に、垣根はにやりと笑みを浮かべる。
「そしてその日、何人か死んではいるが……死亡確認が取れないまま、失踪したヤツが他にもいたんだよ」
ばさ、と一部を放り。
どさっ、と表現した方がしっくりくるような量の圧倒的な枚数のそれを無造作に机の上に放った。
それをちらりと一瞥し、麦野は顔色を変えた。
「――――コイツ」
「あぁ、オマエもしかして面識があるのか」
ぎり、と歯噛みする音が聞こえた気がして、絹旗は意図的に視線を麦野に向けぬように、ファイルに目を落とした。
158:
添付された、どこかで見た事のある顔写真。
少女のものだ。
年は絹旗と同じくらいだろうか。
片方は肩に掛かるくらいの、もう片方は左右で二つに括った髪。
同じ制服。それには見覚えがあった。
――この制服は、まさか。
「ツインテールの方が白井黒子。風紀委員だな。
 もう片方は……知ってるヤツも多いだろ。旧第三位……今は第二位、なのか?」
「っ――」
予想は的中した。
見覚えがあるはずだ。テレビやら何やらで何度か目にした記憶はあるだろう。
学園都市の毒によって形作られているはずの超能力者でありながら表舞台に燦然と輝いていた少女。
「御坂美琴――常盤台の『超電磁砲』だ」
写真の少女は、つい最近のものなのだろう。
体操服姿で誰かと腕を組みながらカメラに向かって満面の笑顔とピースサインを向けていた。
159:
「そして、もう一人」
今度は打って変わって薄いファイルを投げる。
しかしそれは加減を誤ったのか机の上を滑ってぱさりと落ちた。
寝たふりをしていた浜面の足元に。
「「………………」」
少女たちの無言の視線の槍が垣根に集中した。
「…………すまん」
そんな様子がどうにも不憫で、浜面は狸寝入りを止めて足元の紙束を拾い上げた。
そしてそれを差し出し、また我関せずを決め込もうかとして。
「――――――コイ、ツ」
その写真に硬直した。
「なんだ、知ってるのか」
垣根の声は耳に入ってこなかった。
浜面の意識はもはや写真に写った人物にしか向けられていなかった。
160:
男だ。
黒い髪に学生服。
気だるげにこちらに視線を向ける少年。
その人物を浜面は知っていた。
「ソイツ、何故か情報封鎖されてるみてぇなんだが……滞空回線にもほとんどなかったんだよな」
まだ記憶も新しい一〇月三日、深夜。
浜面はこの少年を見た。
忘れもしない、この特徴的なツンツンした髪の少年は――。
「名前は上条当麻――『幻想殺し』、とだけあった」
決して挙がるはずのない名が告げられた。
――――――――――――――――――――
166:
――ばんっ!
大きな音を立てて扉が開き、けたたましく部屋に飛び込んできた少女に目を覚ました。
「大丈夫、初春!?」
聞きなれた声にゆっくりと体を起こし、初春は扉の方を見遣る。
息を切らせてこちらを、どこか必死なほどの形相で心配そうに見つめる佐天涙子という名の少女に、初春は弱く微笑んだ。
「倒れたんだって!? な、何か変な病気とかじゃないでしょうねぇぇ……」
少なくともそれは病人に向かって放つ声量じゃないよなぁ、などと考えながらも心配してくれている事は素直にありがたかった。
「あ、いえ、ただの貧血だって……雨に濡れたから体温が奪われてちょっと危なかったみたいですけど、もう大丈夫ですよ」
「よ、よかったぁ…………」
へなへなと力なくへたり込む佐天に溜め息を吐きながら、初春は身を起こす。
167:
既に病室の窓にはカーテンが閉められ、その隙間から見える外界は真っ暗になっていた。
今何時だろう、とサイドテーブルに置かれた時計に目を向けると、もはや日付が変わろうとしていた。
……完全下校時刻はとうに過ぎ、病院の面会時間も終わっているだろうに、どうして佐天はこうも自然に部屋に飛び込んでこれたのだろう。
まあ、学園都市は色々と奇妙な街だ。
いちいちツッコミを入れていたらそれだけで一生が終わってしまう、と思いなおして、初春は考えない事にした。
物珍しそうに病室内をうろうろとする佐天をぼうっと眺めながら初春は頷く。
元々奇行の多い人物だ。彼女には彼女なりの偉大で崇高な理由があるのだろう。そういう事にしておく。
ひとしきり病室の中の物を触ったあと、佐天はベッドの脇にあるパイプ椅子にどっかと腰を下ろした。
それからじっと初春の顔を見つめ、そして、にへら、と笑った。
「アンタも災難だねぇ。もう少し大通りでぶっ倒れればすぐに救急車でもなんでも来れたのに。
 なんでわざわざ人通りのないところを選ぶかなあ」
「私だって好き好んでそんなところでひっくり返ったわけじゃありませんし」
口を尖らせて反論すると、佐天はうんうんと納得した様子で頷き、
「しっかしアンタ、こんな時間まで何してたのさ。お外はこんなに真っ暗だよん?」
問われ、
「………………」
何故、だっただろうか。
どうしてだか初春にはその事が思い出せなかっ
168:
「………………ええと」
何故、だっただろうか。
何か大事な用があって、それで、あんな時間に。
誰かを。
「友達に」
――そうだ。
「友達に、会ってたんです」
頷き、初春は笑った。
「たまたま久し振りにばったり遭遇しちゃって、それでファミレスでついつい話し込んでたんですよ」
「へぇ。よく店員に蹴り出されなかったね」
――――そういえばそうだ。
でもまあ、あの時間の店員だ。
大学生のアルバイトが大半を占めているのだろう。
彼らにもきっと中学生や高校生や、そんな時に同じような経験をしたことがあって、それを思い出して目を瞑ってくれたのだろう。
そう初春は一人で納得して小さく頷いた。
そんな気を利かせてくれた店員がいるところなら今度から贔屓にしなければ。
169:
けれど。
――――あれ?
初春の思考の海に疑問符が浮かんだ。
それはどうという事はないほど、小さなものだったが、確実に意識の水面に波紋を広がらせて。
――――どこのファミレスだっけ――?
何故か、記憶の中のそのページだけが掠れたような、どうにも上手く思い出すことができない様子だった。
他にもいくらか同じように思い出せない事があるのだが、そもそもそれが何かという事まで思い出せないのだから手のつけようがなかった。
この年で認知症にでもなったのだろうか……?
いや、きっと倒れた拍子に頭でも打ったかして、記憶が混乱しているだけなのだ。
そのうち何が思い出せなかったかすらも忘れてしまうほど、どうでもいい事で。
……まあいいや。
どうせ、普段は近付かないような区域の店だ。わざわざ遠出してまで利用する必要はない。
それに学園都市中に点在するチェーン店だ。どこの店でもさほど変わりはないだろう。
そんな風にして初春は再び納得する。
170:
「――――初春?」
佐天の声に初春は、はっと顔を上げる。
見れば佐天がベッドの上に乗り出して初春の顔を心配そうに覗きこんでいた。
「どうしたの? 気分でも悪い? お医者さん、呼ぼうか?」
「あ、いえ。大丈夫です。……ちょっと頭が痛くなっただけですから」
そう初春はこの友人を心配させまいと薄ら笑みを浮かべてみせた。
それからしばらく、気拙い沈黙が続く。
初春は終始何故か呆とした様子で所在なさげにふらふらと視線を動かしていた。
かっ、かっ、とアナログ時計の秒針が小さく立てる音だけが病室の空気を震わせていた。
「…………あの」
「…………ねぇ」
声が重なり、さらに気拙くなった。
「えと、佐天さんからどうぞ」
「いや私はいいよ。ほら、初春から。病人だし」
それとこれとは全く関係ないのではないだろうかなどと感じながら、初春はどうせこのまま不毛な争いが続いてはと折れる事にした。
「じゃあ、あの、佐天さん」
「なんだい初春クン」
茶化して偉ぶって言う佐天の様子が可笑しくて、何故だか少し救われたような気がしたけれど。
初春は、頭のどこかで猛烈な気持ち悪さを覚えながらもその言葉を口にした。
「――――御坂さんの事、知ってます?」
171:
「へー。御坂さんが、ねー」
一通りの事を話した後、佐天はうむうむと大仰に頷いて、妙に納得した様子でそう言った。
「あれ。驚かないんですか佐天さん」
反応を見る限り既に知っていた、という事もなさそうだが。
そう思い尋ねてみると佐天はあっけらかんとした口調で。
「いやまあ、なんか前からそんな感じはしてたでしょ」
同意を求められても困る。
「好きな人がいるっていうのはなんとなく……ふいんき? で分かってたし。
 いいねぇ恋する乙女って感じで。ちくしょー私も恋してー!」
だからといって駆け落ちモドキはどうかと思うが、と初春は頬を掻いた。
それから、ふと思い立って。
「…………佐天さんは」
んー? と何故か疲れたような顔を向ける佐天に、初春は尋ねた。
「好きな人、いないんですか?」
172:
「――――いるよ」
弱く笑み、そう答えた佐天。
予想外の返答に初春は面食らった。
……そして。
「私ゃ初春が大好きだーっ!」
飛びつかれ、抱き締められ、目を回しそうになりながらも初春は腰をくすぐってくる指を掴み、なんとか引き剥がした。
「病人に何するんですか!?」
「私をこんな風にさせるなんて……初春ってば罪なオ・ン・ナ」
私の所為なんですか……と初春は重く溜め息を吐いた。
「で、初春は?」
「…………はひっ!?」
予想外の質問に、初春は思わず裏返った悲鳴を上げた。
なんとなく発した質問がまさか自分に返ってくるとは思わなかった。
「……もしかして今日一緒にいた相手って、男の子だったりする訳ー?」
「ちちち違いますよ!?」
「そのやけに慌てるところが怪しいにゃーん」
「誤解ですー!?」
「むー……なんだいつまらない」
けっ、と佐天は悪ぶって唾を吐き捨てるような仕草をして、それから少し落ち込んだような顔をした。
173:
「どうしたんですか?」
「んー……初春ってば純だからさー。おねーさんその辺が心配で心配で」
「……、……」
この能天気な友人は、初春が常駐する世界で飛び交う罵詈雑言の存在を知らないらしい。
確かに、初春には生まれてこの方そういう手の浮いた話はない。
けれど、少なくとも今はそれでいいと思う。
第一、大切な相手は少なければ少ないほど守りやすいのだ。
ある意味寂しいとも思うが、それでも恵まれているのだろう。
そういう相手がいるという事が。
まあ、今のところそんな相手なんて、それこそ佐天や――――。
――――ずきり、
「っ――」
左側頭部に鋭い疼痛を覚え、思わずこめかみを押さえた。
174:
「……ほんと大丈夫?」
「ええ、ちょっと、寝不足だったのもありますし」
そんな生返事を返して、初春は力なく笑いかけた。
それからしばらく、また無言が続き。
「……そんでさ。初春」
佐天は妙に真面目な顔になって初春に向き直った。
「本当にオトコじゃないの?」
「だから違いますってー! 女の子ですー!!」
頬を膨らませ、初春は佐天を両手で小突く。
ぎゃいぎゃいと、ムキになって否定する振りをしながら、初春は顔を綻ばせ。
――――あれ、
その両手が、ゆっくりと、力を失いベッドの上に落ちて、初春は俯く。
ずきり、また疼痛が走る。
――――なんて名前だっけ。
175:
どうしてだか、今日話していた相手の名前が思い出せない。
それどころか顔も、声も、喋り方も、どこの学校なのかも、どうにも朧気で。
まるで記憶に靄がかかったように曖昧模糊としていた。
その事を佐天に言えば。
「…………はぁ?」
案の定怪訝な顔をされた。
「うーん……まあたまにあるよね。私もたまに初春の名前忘れるし」
「それはいくらなんでもあんまりだと思いますよ佐天さん」
全力で作り笑いを浮かべながら、しかし作っている事を隠そうとはせずに初春は右手で佐天の肩を掴んだ。
「痛っ! 痛いっ!? あれー初春ってば結構握力あったりするー!?」
そんな佐天の声を意図的に無視して、初春は額に左の人差し指を当てながらうんうんと唸り思い出そうとして。
――どこかでそれに嫌悪感というのも生温いような吐き気を催す最悪を覚えながら、
「…………あ、」
ふっ、とその名が浮かんだ。
「鈴科百合子」
そういう名前だった。と思う。
176:
「百合っ!? 何それやっぱり私の初春の危険が危ないー!?」
「お願いですから日本語喋ってください」
右手に力を入れると、小さく呻いた後大人しくなった。
「佐天さん。どうしてそんなに気にするんですか」
しばらく彼女は無言のままじたばたと両手を振っていたが、ふと動きを止め初春を向いて。
「んー……なんだろうね。気になるじゃん」
うん、と小さく頷き。
「初春の友達なんだもん。どんな人だろうなーって」
「……、……」
その返答に、初春はどうにも毒気を抜かれてしまって、仕方ないなといった様子で小さく息を吐いた。
「いい人ですよ。ええ」
頷き、初春はにっこりと笑いかけた。
177:
「……あのさ初春」
「はい?」
「その百合なんとかさんに……連絡した? ぶっ倒れたって」
「………………あ」
そうだ。
佐天には真っ先に連絡したのに、他の人の事はまったく考えていなかった。
ついさっきまで(といっても数時間前だが)一緒にいた相手なのだ。
それに、もしかしたら後で電話か何かする約束だったかもしれない。――はっきりと覚えていないが。
そう思って慌てて携帯電話を取り出し、そういえば院内はこの手の機器は禁止だっけと思い直すが、
部屋の片隅に電子機器を使用可能な病室である事を示すプレートがかかっていたので遠慮なくアドレス帳を開く。
そこから、電話をするにはもう遅いしメールにしておこうか、などと考えながら。
「――――――あれ?」
178:
・固法 美偉  ↑
・婚后 光子
・柵川中学
・佐天 涙子
・じゃっじめんと177
・鈴山高校
・高崎大学  ↓
179:
――番号もメールアドレスも、聞き忘れてたかな。
初春は携帯の画面を呆然と眺めながら、そこにない名前を探していた。
――まあいいか。
唐突に、大して重要ではない事のように思えて、初春は携帯を仕舞った。
「…………初春?」
呼ばれ、びくりと肩を震わせ振り向いた。
「どうしたの。顔……真っ青だよ」
言われて、気付く。
握り締めた手の内はべっとりと濡れ、そうでなくても体中から嫌な汗が噴出し、どうしようもないほどの寒気を感じる。
実際のところ、室温は低くはない。
だからこれは、初春の精神的なものだ。
そう理解してはいるものの体が震えて仕方がなかった。
凍える体を暖めるように自らを抱き締め、初春は泣きそうになった。
耳元で誰かが心配そうに自分の名を叫んでいた。
「初春! ねえ初春どうしたの!?」
「――――――、です」
小さく、ほとんど無意識のまま呟き、ようやく自覚した。
「何か凄く大切な事を忘れてる気がするんです――――」
けれど、それが何かが分からないのだ。
そう初春は呟いた。
181:
「やっぱり、私お医者さん呼んでくるよ!」
まるで人形のように表情を失い俯く初春を見て青ざめ、佐天は慌てて病室から飛び出した。
真夜中だというのに憚らず、大きな足音を立てて扉まで駆け寄り。
がぢゃっ――!
と鈍い音を立て扉を開いた。
しん――と耳鳴りがするような静寂。
真っ暗な廊下は静まり返り、どこかで何かの機械が駆動する音だろうか、ぶぅぅん、という虫の羽音に似た煩わしい振動を反響させていた。
夜の病院。
嫌な予感と気配と、そして背後の友人の真っ青な顔を思い出して、思わず佐天は身震いする。
いくらここが人の英知と科学の結晶である学園都市だからといって、そういう『何か』の気配はそこかしこに点在する。
深夜、人気のない病院などというのは典型ではなかろうか。
――――ごくり、
思わず唾を嚥下した喉が大きな音を立てた。
182:
だが。
同時に、張り付いたような無表情の奥に見えた、彼女の今にも泣き出しそうな瞳を思い出し。
ぎゅっ、と両手を握り、佐天は廊下へ踏み出した。
かつっ――――、
靴底がリノリウムの床を叩く。
乾いた音が四角く狭い通路に反響し、その奥にある闇を嫌が応にも実感させる。
緑色の避難口誘導灯のやけに人工的な光に照らされた廊下は、まるで異次元にでも迷い込んだかに思え、
「――――――あ、れ?」
僅かな違和感。
不気味で、怖くて、気持ち悪くて、肌寒くて、仕方がないというのに。
その違和感は、まともに考えれば最悪でしかないはずなのに。
どうしてだろうか。
今自分の立つ病室の前に、ついさっきまで、それこそ佐天が戸を開け放つ瞬間まで立っていたであろう生々しい人の気配が足元から伝わってくる。
だというのに。
なのに、なぜかまったく恐怖は感じず、それどころかどこか安堵さえして。
183:
かたん、とどこか遠くで物音がして、佐天は我に返る。
「――――――、」
感じた気配は一瞬で、ひんやりとした廊下の空気に押し流されたのか、もはや無機質な冷たさしか踏んだ床は返してこなかった。
左右を思わずきょろきょろと見回すが、廊下は相変わらずぽっかりと闇を広げるだけだった。
緑の病的な、どこか生理的嫌悪感を感じさせるような気持ち悪い人口の光に薄ら寒さを覚える。
淡い緑に照らされた通路の奥がどうにも恐ろしいどこか別の場所への入り口に見えた。
だが。
「――――うん」
小さく頷く。
――誰かの暖かい手で、優しく背を押された気がした。
「――――うん」
もう一度、小さく、確かに頷き。
佐天は迷うことなく走りだした。
――――――――――――――――――――
184:
雨脚は弱まり、しかし風が出てきた深夜。
病院の駐車場は人気はなく、雨垂れだけがぱらぱらとその音を奏でていた。
病院の壁面から僅かに伸びる電線のようなものに、風が正面から当たり、ひうひうとどこか物悲しい悲鳴のような音を立てていた。
そんな雨と風の音に紛れるようにして。
――――ぱしゃり、
と、水溜りを叩く音が響いた。
強い風に長い髪を嬲られながら、横顔に細かい雨粒をばらばらとぶつけながら、彼女はその無人の駐車場に立っていた。
空ろな瞳は駐車場を照らす街灯を弱々しく跳ね返し、あっという間に濡れてしまった頬は蝋人形のように真っ白だった。
そこに、傘を差し出される。
真っ黒な、どこか時代遅れを感じさせる蝙蝠傘。
それを握る手は、彼女と同じ色のブレザーに包まれていた。
「………………風邪を……引くわ」
「……放っておいてくださいまし」
ゆらり、と幽鬼のように白井は顔を上げた。
「そもそもその傘は、あの方のものでしょう。わたくしにはどうかお構いなく」
「そうもいかねえだろ。オマエに風邪ひかれちゃ――御坂が怖い」
困ったように頭を掻く、ツンツンと尖ったような特徴的な髪型の少年。
「お優しいんですのね、あなたは」
ふっ、と幽かに笑みを浮かべる白井に、肩を竦めた。
185:
「そんな大層なものじゃねえよ。単に、それっぽい事をしてるだけだ」
苦笑する少年に、白井は頭を振った。
「いいえ。それでも、そう言ってくださるのは、少しだけ……ええ、ほんの少しですけど」
その先を紡ぐ事はせず、頷いて、白井は空を見上げた。
真っ黒の、無明の闇から降り注ぐ雨粒は、風に煽られて斜めに吹き荒び、その身を照らされて宙に白く無数の線を描いていた。
分厚い雲に覆われて、月も星も、見えない。
ただ無数の流星のように雨粒が黒天を横切った。
……それを。さらに黒いものが遮った。
「……風邪を……引くわ」
「――――――!」
その、耳に心地よいはずの声色に、視界が真っ白に染まった気がした。
186:
かしゃ、と傘の爪が舗装された地面を引っかき、乾いた音を立てた。
そのまま開かれた懐に風を抱き込んだそれは、かしゃ、かしゃ、と音を立て弾むようにして横滑りに飛んでゆく。
こっ、と足に当たり、跳ね上がったそれを掴み、彼は本来そうである通りに傘を差した。
それから、傘の飛んできた方を見遣り。
「………………」
雨に濡れる二人の少女。
ひうひうと吹く風に、その特徴的な二筋に結われた髪が靡く。
雨風にその身を晒すのを躊躇う素振りもせず、二者は向かい合っていた。
――いや、その表現は正しくない。
身長差があるにも関わらず、白井はその手で胸倉を掴み上げていた。
「――――――ねえ、」
首が圧迫されているであろうに、彼女は一切苦しむ様子もなく、睥睨するようにして感情のない視線を白井に向けていた。
それが気に食わなかったのか、白井は手首を捻るようにしてさらに力を加え、
ぶっ、とブラウスのボタンが弾け飛んだ。
「お願いですから――あなた、わたくしに声をかけないでいただけます?」
187:
ともすれば殺意を感じさせる視線で、白井は見知った顔を見上げる。
……こうするにも、どうしようもなく最悪に吐き気と罪悪感を感じるというのに。
けれど心の中では真っ黒な、熱して溶けたコールタールのようなどろどろとした気持ち悪いものが渦を巻いていて仕方がなかった。
だがそれを白井は許容し、納得した。
……これを選んだのは、他でもない自分だ。
だが、『これ』は耐え難い。
自分の敬愛し、信奉してやまない少女、御坂美琴。
なればこそ白井は最悪なまでの吐き気を催す以外なかった。
「ええ、そうです。そうですとも」
頷き、空ろな目を彼女に向ける。
「わたくし、あなたが意識の端にいるのですら我慢できませんのに」
ご理解いただけまして、と極力優しい声色で、かくりと首を傾げながら白井は尋ねる。
そんな、正気の沙汰とも思えぬ言動に、彼女は。
「――――ええ。分かった、わ」
どこか機械的に、無機質に頷くのだった。
189:
「…………あんな状態で大丈夫なの、白井ちゃん」
そう、背後から声をかけられ、少年は傘の向こうにいるであろう人物を見ようともせず答えた。
「そんな事にまで俺は責任持てねえよ。心配なら仲裁してくれ。俺だって、あんな絵面見たくねえんだ」
「冗談。下手に刺激して逆鱗に触れたら大事」
もしかしてこの状況を面白がっているのではないのだろうか、などと勘ぐるが、思い直し。
「そう思うなら自分が止めれば?」
……言われ、もっともだと頷いて、二人に歩み寄った。
二人は顔も、髪も、服も、雨にぐっしょりと濡れ、肌は真っ白に冷えていた。
そこに傘を差し出す。
「………………」
そんな彼を見て、白井はばつが悪そうに顔を背け、手を離した。
とたん、力が抜けたのか彼女は崩れるようにへたり込んだ。
そんな彼女の肩を抱き、心配そうに、彼は言う。
「大丈夫か――――御坂」
「…………ええ。大丈夫」
そう、力なく彼女は頷いた。
190:
――――――――――――――――――――
191:
序幕
『さがしもの』
Closed.
――――――――――――――――――――
192:
――そうして、ようやくこの最低な茶番劇の幕が上がる。
193:
故に、ここから先は悉く地獄の底まで一方通行で。
   ヒ ー ロ ー
だからこそ、幻想殺しの少年は登場しない。
194:
     グランギニョール
――と あ る 世 界 の 残 酷 歌 劇――
196:
ビーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
197:
――――――――――――――――――――
   第一幕
   『ゆめ』
――――――――――――――――――――
204:
信号が赤を示し、浜面はブレーキを踏んだ。
緩やかに度を落とし、ミニバンは停止線ぎりぎりでその足を止めた。
ハンドルを握る右手の人差し指を、とん、とん、と打ちつけながら浜面はゆっくりと左右を見回した。
休日の雑踏は相変わらずの平和で、それがなおさらに苛立ちを助長させる。
「………………」
無言。
辺りは能天気な顔を乗せた人ごみで溢れ、それを流し読みするように観察しながら浜面は小さく溜め息を吐いた。
助手席には何が可笑しいのか、軽薄な笑みを浮かべた垣根が座っている。
それを横目でしばらく見つめていたが、その顔が余計に癇に障って、視線を逸らした。
――何の因果でコイツとドライブと洒落込む羽目になったのか。
嘆いても仕方ない。言い出したのは自分なのだから。
ラジオに合わせ流行のJ-POPを口ずさむ垣根に顔を顰め、浜面はもう一度重々しく嘆息した。
205:
どうせ助手席に乗せるなら滝壺がよかった。
昨夜の雨は上がり、まだ薄曇の空だが、長閑な休日だ。
日和とは言い難いがドライブにもまあ悪くない。
手製の弁当などを持参したりして、町外れにある自然公園にでも遊山に出るのもいいだろう。
が、隣に座るのは愛しい少女ではなく、それどころか忌々しいほどご機嫌な様子で鼻歌を垂れ流す超能力者の少年だ。
今や学園都市の頂点に君臨する『第一位』、垣根帝督。
そんなに歌いたきゃカラオケにでも行けよ、と心中毒づきながら、浜面は意識して彼を知覚から追い出した。
どうせならもっと楽しい事を考えよう。
そう思って、薄く目を閉じた。
206:
真っ先に浮かぶのは、矢張り滝壺だった。
いつもどこか眠そうな目の、ふわふわとした雰囲気の少女。
先週の一件で、何故だか浜面は彼女にいたく気に入られていた。
あの大混乱の中を、浜面はなんとかしようと必死だった。
思えば最初はただの自己満足に過ぎなかったかもしれない。
浜面に張られた『無能力者』というラベル。
心の奥深くで苛み続ける選別の札。
その不名誉な称号は浜面にとって重々しく圧し掛かり、コンプレックスというにも生易しいものになっていた。
それをどうにかして返上しようと、自分では遠く及ばない高位能力者の闊歩する戦場で、無我夢中に立ち回っていた。
どこをどう走り回ったのか、何をしていたのかさえ朧気だった。
けれど気付いた時には、どうしようもない最悪が目の前に立ち塞がっていた。
圧倒的な力を背に、悠然と立つ少年。垣根帝督が。
207:
学園都市の最高峰に君臨する七人の超能力者。
その一角に座す『未元物質』。
その対極に位置する彼に、浜面仕上などという凡俗にも程がある少年では逆立ちしたって敵いっこないはずだった。
どころか、二三〇万いるこの街の住人のどれだけが彼に刃を向けることが叶うだろうか。
多くは垣根の眉一つ動かす事すら能わず、有象無象の塵芥のように吹き飛ばされるだけだろう。
それを、浜面自身理解していた。
クソつまらない人生だったがここで終了か、と諦めた。
だというのに。
大能力者の少女は、無能力者の少年のために、超能力者の少年の前に立ち塞がったのだ。
こんな何一つ取り柄の無い、路傍の石でしかない無能力者のために。
敵うはずのない相手の前に、何の躊躇も逡巡もなく、滝壺理后は立ち塞がったのだった。
208:
――パァーッ!
クラクションの音に我に返る。
見れば信号は青を指していて、浜面は慌ててアクセルを踏んだ。
若干の急加を伴って車は発進する。
「どうした? 上の空じゃねぇか」
ニヤニヤと、垣根は頬杖を突いた顔をこちらに向けてくる。
「滝壺の事でも考えてたのかよ」
図星だ。
だがそれに答えるのも嫌で、浜面は努めて垣根の視線を無視した。
ましてや、まさかそこで「オマエの事を考えてたんだよ」などと言えるはずもない。
「いいねぇ青春だねぇ」
からからと笑うその声が浜面の神経を逆撫でして、より一層に苛立たせるのだった。
210:
はぁ、と何度目になるか分からない溜め息を吐き、浜面は再び滝壺の事を考える。
あの日を境に、半ばなし崩し的に浜面は滝壺と付き合う事になった。
しかし本来そこにあるであろうプロセスを踏んでいない。
その事に若干の居心地の悪さと罪悪感を感じながらも、浜面は滝壺にキスをする。
きっとこれは逃避に等しい。
この最低な地獄の中で出会った少女に逃げているだけなのだ。
そう考えると、もしかするとそれは誰でもよかったのかという疑問が湧く。
その答えは浜面自身にも分からない。
そうかもしれないし、そうでないかもしれない。
だから浜面はその免罪符を得るように、ひたすらに滝壺の味方であろうと決めた。
何があっても、それこそ世界が終わっても。
たとえこれが後付の理由であっても、自慰的な偽善でしかなくても。
あの時自分を守ろうと小さな両手を一杯に広げてくれた少女の味方であり続けよう。
そう、決めたのだ。
212:
だからこそ浜面は、こうして垣根とのドライブに甘んじている。
失踪した御坂美琴らの捜索。
幸か不幸か、浜面がまだ『アイテム』と出会っていなかった時分、彼女らは件の超電磁砲と一度相見えた事があるらしい。
それは単にお互いの顔を、声を知っているという事では終わらない。
接触し、交戦した折に、一つのフラグが立った。
即ち、滝壺の能力『能力追跡』の対象として記録した事。
いくら御坂が行方不明だろうがその身を隠していようが、そんな事はお構いなしにすぐさまその居場所を白日の下に曝け出してしまう、
けれど言い換えればそれしか能のない強力無比な能力。
昨晩、御坂美琴の行方を捜索する事が確定した瞬間、滝壺はポケットからあのシャーペンの芯を入れるケースのようにも見えるそれを取り出した。
そして一言。
「使う?」
そう、誰にともなく尋ねた。
213:
――『体晶』。
そう略語で呼ばれる粉末体は、能力者に投与する事で能動的にその力を暴走させるためのものだ。
どのような理由からそれが開発され、どのような経路からそれが滝壺の手に渡るようになったのか。
そんな事はどうでもいい。それは些細な問題でしかない。
重要なのは、それを使い意図的に暴走させなければ彼女の能力追跡は発動しないという事だ。
一週間前、浜面の目の前でそれを摂取した彼女がどうなったのか。脳裏に鮮明に焼きついていた。
それはいわば車のエンジンがかからないからという理由でニトロを爆発させるようなものだ。
  エンジン   ニトロ
そして、滝壺理后は何度も体晶に耐えられるほど頑丈ではなかった。
誰に説明されるでもなく、浜面は直感としてそれを誰よりも理解していた。
あと数度、片手の指で数えるのに足るほどの回数だろう。
明確な残された回数も、全てが終わってしまう確率も分からない。
だからこそ、分の悪いロシアンルーレットなどに頼る事などできなかった。
――要するに俺が滝壺の代わりに見つければいいんだろ。
なんとか口八丁で場を収め、他の誰でもない、滝壺を説得した頃には日付が変わろうとしていた。
そうしてなんとか期限付きの――明確な期間などない、主に麦野の機嫌次第で打ち切られる執行猶予を頂戴して、
浜面はこうして当て所なく車を走らせている。
214:
「それで。勝算はあるのかよ」
一体何が可笑しいのか。
隣の垣根はくつくつと零れる笑い声を隠そうともせずそう尋ねた。
垣根の言うももっともだ。相手は超能力者に空間移動能力者、暗部の人間が三人に、そして正体不明が一人。
口にしてみれば数は多く、けれどこの街の人口はそれを隠して余りある。
そして誰も彼もが一筋縄ではいきそうにない輩ばかりだった。
そもそもが、だ。この徹底した情報管理が確立した都市で、姿を隠し逃げおおせているというだけで異常なのだ。
それをたった一人で探し当てようなど無謀もいいところだ。
だが、彼には彼なりの手段があった。
       デジタル   アナログ
「昔馴染みにいくらか根回ししてる。滞空回線が駄目なら人海戦術だろ」
へぇ、と感心したのか、垣根はまたいやに癇に障る笑みを浮かべた。
まさかここになってまで、無能力者のごろつきどもを名前だけとはいえ束ねていた事が役に立つとは思わなかった。
ほんの数人の、信頼できる相手を経由して町中のそういう手合いに指示を出している。
その網に引っかかれば、すぐさま浜面の元へと連絡が飛んでくる手筈だった。
215:
けれど、彼らが意図して姿を隠しているのならばそう簡単に見つかるはずもない。
まして無能力者の、それも底辺に位置するような連中を相手にだ。
所詮気休めの、滝壺に体晶を使わせない理由にするためだけの言い訳でしかない。
それを自覚しつつも浜面は簡単に見つかってしまう事を祈った。
そしてそれに胡坐をかいて悠々と待っている事などできるはずもなく、こうして浜面は休日の雑踏の中にいる。
道は混み、すぐ傍でそんな必死の思いをしている少年がいる事など分かるはずもない連中で溢れている。
その事が余計に浜面を苛立たせ、相変わらず指は執拗にハンドルを叩いていた。
「本当、愛されてるな。まったく、こっちのカノジョさんにも、少しは振りだけでもいいからしてもらいたいぜ」
きっと、そういう浜面の無駄な努力を面白がっているのだろう。
助手席の垣根はさっきから上機嫌で、無視しようとしても浜面に話しかけてくる。
「俺にも教えてくれよ。その執着のコツはなんだい?」
「劣等感だよ、超能力者。オマエにそれが分かるとは思えねえな」
吐き捨てるように、返答した。
216:
「無能力者の気持ちなんてオマエには分かるとは思えねえよ。分かってもらおうとも思わねえけどよ」
「確かに。分かりっこないな。俺は間違いなく超能力者なんだからよ」
にやにやと、まるで童話に出てくる狂った哄笑を向ける猫のように垣根は笑った。
「でもまぁ、そう言うなよ。俺だって俺なりにオマエら無能力者の事も考えてるんだぜ」
「ぬかせ。オマエはそんな事はどうでもよくて、その証拠にアレイスターにご執心じゃねえか。そうだろう、『第一位』」
俺も嫌われたな、と芝居がかった仕草で大仰に嘆き、垣根は窓を開けた。
途端、冷たい外気と雑踏の喧騒が車内に流れ込んでくる。
「吸うか?」
口の端にタバコを咥え、懐から取り出した、少し潰れたパッケージを差し出す。
「…………」
飛び出したそれを無言で抜き取り、浜面は同じように口に咥えた。
横合いから伸びたライターの口をちらりと見遣り、小さく頷くと、ゴォッと圧縮されたガスと噴出する火の音がして、蒼い炎が先端を焦がした。
217:
唇に挟んだフィルターから息を吸い込むと、尖った味の気体が口内に進入してくる。
内臓をもはや毒でしかないものに汚される事を自覚しながら肺で煙を転がし、ふーっ、と吐き出した。
「……エリート様がそんな不良みたいな真似していいのかよ」
「何、ただの格好付けだよ。ファッションさ」
色々としねぇと舐められて困るのさ、と垣根は嘯いた。
「それはオマエも同じだろ? 所詮強がってみせねぇとやってらんねぇんだよ」
灰を窓の外に零しながら、垣根はやっぱり猫のような印象を受ける嫌らしい笑みを浜面に向けた。
「オマエ、マナー最悪だな。喫煙者の風上にも置けねえ」
「言うなよ、未成年者」
お堅い警備員サマが飛んでくるんだよ、と小さくごちて、浜面はちくちくと痛む喉に顔を顰めた。
そして、しばらく無言のまま、車内には小さく葉の焦げる音と煙と流れ込む喧騒とが充満し。
「…………本当だぞ。俺こそ、オマエら無能力者の事を考えてんだ」
小さく、呻くように垣根は呟いた。
218:
「まだ続いてたのかよ、それ」
意識をタバコの味に集中させながら浜面は投げ遣りに返事をした。
「少しくらいいいじゃねぇか。他にする事もねぇんだしよ。語らせてくれよ」
「探せよ役立たず」
そう言われ少し傷付いたのか、垣根はうっと苦い顔をして、溜め息と共に煙を吐き出した。
「…………言ってみればアレイスターは手段の一つでしかねぇ。
 残念ながら他に上手い方法が思いつかなかったから……いや、どうしてもアイツが、アイツの『プラン』が阻んだからソイツを潰そうってんだよ」
「懺悔なら告解室でやってくれ。俺は神父様じゃねえよ」
「俺は本当は、アレイスターなんてどうでもいいんだ」
無視かよ、と声にせず口の中だけで吐き捨て、それを誤魔化すようにタバコの煙を吐いた。
半ばなし崩しに諦めて、浜面は垣根の言う事に口を挟むのを止めた。
220:
……けれどそう思った途端に垣根は静かになり、その事がさらに浜面の苛立ちを助長する。
とん、とん、とハンドルを叩く指は止まらない。
口に咥えたタバコの先端には灰が伸び、今にも落ちそうな様子で頭を垂れていた。
左手で操作してセンターに備え付けられた灰皿を飛び出させ、タバコを指で挟み、ゆっくりと灰皿に伸ばす。
とん、と灰皿の縁にタバコの腹が当たると同時、灰がぼろりと落下して、
「俺は、超能力なんて下らねぇもんでラベルを貼られるのが――」
消え入りそうな小さな声が聞こえた。
「……、……」
その意味を量りかねて、浜面は助手席に座る垣根を見遣る。
そこに座る彼は、どこか呆然と窓の向こうのどこか遠くを見ていた。
何か見てはいけないものを見てしまったような気がして浜面は慌てて視線を前方へと戻す。
相変わらず道は混んでいて、前を走る空色の軽自動車が交差点を曲がろうとウィンカーを点滅させていた。
慌てて浜面はブレーキペダルを踏み、緩やかにスピードを落とした。
221:
もしかしたら、垣根は浜面の持つ印象ほど悪意に塗れた人物ではないのかもしれない。
この最悪な地獄にいるのだから、きっとそれに相応しい何かしらの条件を満たしてはいるのだろうが。
けれど『未元物質』というそのラベルを抜きにした、垣根帝督という一人の少年は、もしかするとどこにでもいる凡百な少年だったのかもしれない。
『未元物質』というラベルがあるからこそ、彼はここにいるのであって。
そうでない彼は、きっとこの雑踏の中のただの一人だったのだろうか。
……この世に『もしも』は存在しない以上、いくら考えても詮無い事だが。
けれどそう思うと、少しだけ浜面の苛立ちは和らいだ気がした。
だからだろうか。
浜面は横の少年に何か言葉をかけてやりたくなって。
――――かち、
小さく何かが音を立てた。
少しだけ何を言うべきなのか迷って。
でもどうせ、口を開けば愚にもつかない悪態でも出てくるだろうと思って。
――――がちゃり、
先程よりは幾分か大きな音が確かに響き。
「なあ垣根――――」
見れば、車の左前の扉は開け放たれ、その向こうにはぼやけるほどの風景が流れ、
「――――おいっ!?」
度を落としたとはいえ走行中の車から、垣根は浜面に背を向けたまま外へと身を躍らせた。
222:
訳が分からなかった。
何か急に投身自殺でもしたくなったか、と一瞬自分でも馬鹿だと思う考えが頭を過ぎるが。
「…………ああっ、くそっ!」
交差点を過ぎ、すぐさま路肩へ横付けすると、浜面はきっちりと停止した車から外へ飛び出した。
とたん、鼻先をトラックがそれなりの度で過ぎ去って冷や汗を掻く。
慌ててガードレールを飛び越え歩道に降り立ち、浜面は今来た方を振り向き走り出す。
駐車禁止区域には間違いないだろうが、どうせ盗難車だ。
レッカー車に引っ張られていたらまた別のを捕まえればいい。
そんな心配と諦観と妥協を背後の車に投げかけながら、視線は垣根を探していた。
果たして、前方に彼が立っていた。
飛び降りたのだからそれなりの衝撃を伴っただろうが、傷一つ、どころか服に汚れた様子すらなく、垣根は歩道の中心に直立していた。
「テメェ、いきなり何しやがる!?」
駆け寄り、罵声を浴びせる。
しかし垣根はそれにゆっくりと振り向き、無表情めいた静かな面持ちを浜面に向け。
「――――いたぞ」
「……はぁ?」
眉を顰めるが、浜面は垣根が顎で指した先を思わず目で追う。
走行中の車から飛び降りた少年にざわつく雑踏の中。
遠くに、この距離でも確かな存在感を放つ制服が見えた。
「――――御坂、見つけてやったぜ」
小さく、垣根が笑った。
――――――――――――――――――――
226:
同じ頃。
絹旗は当て所なく雑踏を歩いていた。
昨夜の雨の影響か、灰色の空の下を吹く風は冷たく、そろそろ手袋がいるかなと近くの雑貨屋のショーケースを覗き込んだ。
しかし理由もなくぶらついている訳ではない。
あの日を境に消えた幾人かの足跡がないか、それを捜し歩いていた。
滝壺の能力を使えば御坂の行方は確実に分かるだろうが、浜面が頑なにそれを拒否したために未だその行方は知れていなかった。
大通りの中、どうにも今日は柄の悪い連中が多い気がする人混みを泳ぐようにして絹旗は歩く。
辺りは若者向けの服飾店や小洒落た喫茶店が軒を連ねる一等地だ。
こんな場所にいるはずはないとは思いながらも、絹旗はきょろきょろと辺りを見回す。
一方通行という要を失った『グループ』の連中が何を考えているのかは分からない。
ましてや、御坂美琴という表舞台に立っていたはずの超能力者が姿を眩ませる理由など絹旗には知る由もなかった。
だからだろうか。
もしかしたら、こんな街のど真ん中にいるかもしれない。そう思ったのだ。
227:
滝壺の能力を使わせない事については絹旗も概ね賛成だった。
体晶とかいう訳の分からない妙なクスリを使ってまで無理をする事はない。
あれは確実に滝壺の体を蝕むのだ。
少なくともそれを気遣う程度にはまだ彼女には人間らしいまともな感情と思えるものがあった。
しかし、学園都市の暗部という最悪な地獄の果てに身を置く自分がそんな綺麗事を言えるはずもない。
そう思っていた。
だのに彼は、毅然なまでの態度でそれを拒否した。
ある意味それは絹旗に憧憬ともいえる感情を喚起させていた。
諦めにも似た堕落に身を任せかけていた絹旗に、それでも抗おうという意志を湧き起こさせたのだ。
そんな彼に義理立てするつもりは毛頭ないが、少しばかりの協力を以ってしてそれに報いるくらいの事はしてもいいのではないのだろうか。
万に一つも目当ての人物を見つけられる当てなどなかったが、絹旗はそうして一人街を歩く。
……超欺瞞にもいいところですが。
つまるところ、これは贖罪にも似た自慰行為に過ぎない。
滝壺を気遣っているという単なるアピールでしかない。
自分の偽善者振りに吐き気がして、絹旗は小さく嘆息した。
228:
店頭で新商品のアピールを喧しく唱える女性を脇目に絹旗は思考する。
御坂美琴という少女についてだ。
他の『アイテム』の面々――つい最近参入した浜面を除いた連中だ――と違って、絹旗は彼女に直接の面識を持っていない。
麦野が彼女と交戦した事については聞いたが、その時どうして彼女がそういう事態に陥る破目になったのか。そこまでは知らない。
もしかすると、今回の失踪にも関係しているのかもしれない。
――調べてみる必要があるかもしれませんね。
そう頭の中のメモ帳に書き記し、絹旗は足を止め辺りを見回す。
街は相変わらずの雑踏に塗れ、どこから湧いて出たのかと思うほどの人で溢れていた。
この中のどこかに件の少女がいるかもしれない。
そう思うと、いつもは気にも留めず木偶人形のようにしか思えない彼らの顔を逐一見てしまう。
一体何が可笑しいのか。彼らは大抵ご機嫌な様子で、その表情は絹旗の気持ちを余計に暗鬱にさせるのだった。
229:
はぁ、とまた一つ溜め息を吐き、絹旗は再び歩き出す。
相変わらずの喧騒は絹旗の感情を逆撫でし、何が悲しくてこんな苦行じみた行動を取っているのかと誰かに問い質したくなる。
もはや雑踏の中を歩くという行為そのものが目的になりつつあった。
この針の筵にも似た場所に身を置く事が滝壺への懺悔のようにも思え。
――それこそ苦行じゃありませんか。
行き場をなくした感情をぶつけようと、小石を蹴ろうとして、けれど整備された街にそんなものがあるはずもなく、
絹旗は感情を燻らせながら再び雑踏へと目を向けた。
そして。
「――――――ぃ」
すんでのところで息を止め、けれど目を瞠った。
絹旗の視線の先には。
(なんでこんな所にいるんですか――!)
暢気な笑顔を浮かべ、どうにも優雅な仕草でカップを傾ける海原光貴の姿があった。
――――――――――――――――――――
231:
ブーッ、ブーッ、と唐突に身を震わせた携帯電話に浜面はぎくりとする。
一体誰だ。今はそれどころではないというのに。
やり場のない苛立ちを覚えながらも逡巡している間に、垣根はゆっくりと歩き出す。
じゃり、と砂を噛む靴の音がやけに鮮明に聞こえ、浜面は余計に慌てた。
歩みを進める垣根の背と、ポケットで頑なに自己主張する携帯電話とに交互に視線を向け。
――くそっ。
垣根を追いながらポケットからそれを取り出した。
視線を落とし、右手に掴んだ携帯電話の画面を見る。
そこにはメールを受信した事を告げるメッセージが表示されていた。
垣根は浜面に振り返る事もせず、一歩ずつ確実に、少しずつ足をめて、その距離を詰めてゆく。
手の中の携帯電話に気を取られた浜面は出遅れ、垣根との距離はかなり開いていた。
それに追い縋ろうと足を動かし。
けれどどうしてか、そんな事をする余裕もないはずなのに携帯電話に意識を取られる。
何か、妙な予感が浜面の精神を苛んでいた。
ちら、ちらと携帯電話に視線を向けるたび、垣根との距離は広がってゆく。
「っ――――」
意味のない決意をして、垣根は一挙動でメールボックスを開いた。
即座に新着メールが開き、本文が画面に表示される。
そこには――――。
232:
「………………え?」
最初、その文字列の意味するところが理解できなかった。
一瞬、思わず足を止め、呆然と立ち尽くし、そしてはっとなって前方を見る。
そこには雑踏に紛れかけた垣根の背と、その向こうに、あの強烈なまでの存在感を放つ制服が見えた。
再び携帯の画面に目を落とす。
そこには。
「……おい……どういう事だよ」
遠く、第二二学区の地下街で御坂美琴を発見した旨を告げる文章が並んでいた。
233:
そして再び、手の中の携帯電話が唸る。
「――――!」
新たにメールを受信した事を告げるポップアップメッセージ。
ボタンを押し、新着メールを表示させる。
そこには同じように、御坂美琴を発見した事を報告する文章。
「ちょっと待て――――」
しかし、少しだけ違った。
GPSの位置情報が添付されたそれが示すのは。
「十八学区――――!?」
そして、再び振動。
新着メール。
振動。
メッセージ。
振動。メール。振動。受信。振動。振動。新着。振動。振動。振動振動振動振動振動――――。
「どう――なってんだ、これは――――」
その悉くが全く異なった場所を示す、『御坂美琴』の目撃を告げるメールが画面いっぱいに溢れた。
234:
再び視線を前方へ向ける。
もはや浜面の目には垣根の姿は映っていなかった。
そんな些細な事はどうでもいい。
それよりももっと大事なのは、その先に微かに、
――――『御坂美琴』の後姿。
それが確実な実体を以って存在していた。
立ち尽くす浜面の手はだらりと垂れ下がり、そうしている間にも携帯電話は振動を止める事はない。
ブーッ、ブーッ、ブーッ、ブーッ、
小刻みに震える手の内の小さな機械は、現実を否定するようにがなりたてる。
ブーッ、ブーッ、ブーッ、ブーッ、
白昼夢でも見ているのだろうか。いや、もしかすると精神感応系の能力者に認識を弄られているのかもしれない。
「――――そんなはずがあるか――っ!」
現実を直視しろ浜面仕上。今、己の目には確かに捜し求めていた相手の背が映っている。
そう、そして何より。
彼女の横に並んで歩いているのは、特徴的な、ツンツンとした黒い髪の少年じゃないか――!
235:
ぐっ、と足に力を込め、浜面はその後姿を見据える。
手の中の小さな金属と合成樹脂の塊は相変わらずそれを否定するように振動を止めず。
うるさい、と。
握り潰すように拳に力を入れ、浜面は駆け出す。
見えない情報などよりも、確かにこの目で見える事こそが真実だ。
現にこうして、目の前に御坂美琴が、そして――。
――――ふと、手の中の感覚が変わった。
浜面はそれを認識しながらも、意識から外した。
そしてまた、どうにも妙な、そして強烈な予感。
変わったのは振動。
手を伝わる震えも、耳朶を叩くその音も、それが意味する事も。
ブ――――ッ、ブ――――ッ、という、通話の着信を意味する長い振動のサイクル。
それがどうしても無視できず、振り上げた手をそのままに浜面は画面を見た。
そこには、アドレス帳に登録された人物からを示す、相手の名が表示されていた。
『絹旗最愛』、と。
236:
ぎり、と思わず歯噛みする。
混乱に混乱を重ね知覚できぬままに疲弊した浜面の意識は、そのよく知る名に強烈な怒りを覚える。
思わず親指が、大きな通話切断のボタンを押そうとする。
が。
ここで通話を断ってしまっていいのか――――?
絹旗から、メールではなく通話で連絡が来る事など今まで一度でもあっただろうか?
通話、だ。口頭での連絡を必要とするほどに急な、かつ重要な事項ではないのか?
もしかしたら、絹旗は最悪なまでの事態に巻き込まれ、助けを求めているのではないのだろうか?
もしかしたら、絹旗は事件の核心を突く情報を手に入れそれを伝えようと急いで電話をかけてきたのではないのだろうか?
もしかしたら、全ては浜面の知らぬ間に終わってしまっていて、もうこうして足を急く必要も混乱に頭を悩ます必要もないのではないだろうか?
もしかしたら、
もしかしたら、
もしかしたら、
ゆらゆらと浜面の親指が携帯電話のボタンの上で揺れる。
相変わらず携帯電話はブ――――ッ、ブ――――ッ、と振動し、画面には同じ人物の名がある。
そして、浜面は。
「――――くそぉっ!」
通話ボタンを押し、携帯電話を耳に当てた。
237:
最初に聞こえたのは街の喧騒。
がやがやと、意味を成さない雑音だった。
そして、一瞬の間の後。
『――――浜面っ!』
聞き慣れた少女の声が耳に当てたスピーカーから響いた。
その声にどこかほっとした。
絹旗の携帯電話を何者かが奪い、自分に電話をかけてきたのではないか。
そういう妙な、妄想じみた嫌な予想が頭のどこかにあった。
けれど聞こえるのは確かに知っている少女の声で。
238:
「――なんだよ、そんな声出して。告白なら直接の方がいいんだが」
思わず、状況も忘れ軽口で返した。
『何を超トチ狂った事を言ってるんですか! だいたい私が浜面の、そもそも滝壺さんが――じゃなくてですね!』
電話越しに聞こえるその声はどこか逼迫した様子で、浜面は緩みかけた思考を正す。
「――どうした」
短く問い、浜面は顔を上げる。
視線は遠く、人で溢れた道の先。
少女と、少年の後姿。
それに追いつこうと足は動き続けている。
けれどどうしてか。
距離は縮まっていないような錯覚を覚え――。
『     』
「――――――え、」
告げられた言葉に、浜面の足は止まった。
239:
――どういう事だ。
疑問で思考が埋め尽くされた。
――どういう事だ。
何か、冗談みたいなよくない夢でも見ている気がして、足元がぐにゃりと歪んだ気がした。
「――――どういう事だよ」
思わず口にしたその言葉に。
『ですから――――!』
電話の向こうの絹旗は再びそれを口にする。
『――――海原光貴と――――御坂美琴を発見しました――――!!』
視界の先では、垣根が何か声を発し、
それに振り返ったのは、
確かに写真で見た、御坂美琴だった。
――――――――――――――――――――
243:
ウィ――――――ン…………、
小さくモーターの駆動音が響く。
微かに感じる重力は、つまり上への上昇を意味している。
狭い空間は沈黙が満たされていた。
順番にランプが点灯し、それはゆっくりと右へと流れていく。
ウィ――――――ン…………、
そしてようやく、灯火が右端に達し、甲高い音を立てて静止した。
両足に感じていた重さは消え失せ、どこか喪失感にも似た感情を呼び起こさせる。
滑らかに眼前の扉が両に開き、目的の階に到着した事を実感する。
彼はエレベーターから一歩外へ。
狭く、小さい廊下が僅かに伸び、その先には重々しい鉄の扉があった。
244:
「………………」
前方。扉の方へ向かってゆっくりと歩く。
かつ、かつ、
革靴が床を叩く音が響く。
長期間そこは人の通る事がなかったのだろう、微かに積もった埃がその僅かの振動に身を震わせ、ほんの少しだけが宙に身を躍らせる。
――こつ、こつ、
それに遅れるようにして、背後から、別の足音。
足音は彼にぴったりと張り付くように聞こえるが、そこに人が存在する気配はない。
彼の靴の奏でる音とは違う、確かな足音が空気を震わせ、それはまるで彼の足跡を一つ一つ踏むようにゆっくりと追従していた。
けれど彼は振り返らず、歩みを進める。
かつ、かつ、
――こつ、こつ、
異なる質感を持った足音が壁に、天井に、反響する。
背後で微かにエレベーターの扉が閉まる音が聞こえ、再びモーター音。
無人の箱はゆるやかに下降していった。
245:
かつ、かつ、
――こつ、こつ、
足音。二つ。
彼の歩みに合わせ重なるように聞こえるそれは、僅かにずれていた。
まるで影が遅れて付いてきているような感覚。
彼は振り返らず、しかし確かに背後に意識を向けて、歩む。
かつ、かつ、
――こつ、こつ、
かつ、かつ、
――こつ、こつ、
そして、扉の目の前。
ほんの僅かに手を伸ばせば取っ手に届く距離。そこで彼は足を止める。
かつ、
足音が止まり。
――こつ、
遅れて、背後で足音が一つ、響く。
246:
「………………」
背後に向けられる意識を隠しながら、彼はゆっくりと手を伸ばし、扉のノブを掴む。
ひやりと冷たい感触。
だが、それに構わず握り締め、ぐいっと捻った。
がちゃり、
湿った金属音が響き。
ゆっくりと押す。
ぎぎぃぃ――――…………、
と、扉は耳障りな錆びた音を立てて開かれる。
ほんの少しだけ、それこそ指が一本入るか入らないか程度の空間から、どっと冷たい空気が溢れる。
それは彼の腕を這い、脇を滑り、背後へ流れる。
確かな風を受け埃が歓喜するように舞い上がった。
その事に彼は委細構わず、さらに力を籠める。
甲高い、悲鳴のような擦過音を伴い、扉はその口を広げる。
指がようやく通る程度だった空間は、握り拳が収まる程度になり、頭一つ分ほどの隙間となり、そして――。
247:
「………………」
彼の前に灰色の街が現れた。
鉄と、コンクリートと、ガラスと、多種多様な建材を用いられて築かれた人口の森。
曇天にそびえるそれらはいつもの煌びやかな印象とは異なり、鈍くその身を冬の近い空に晒していた。
墓標のようだ、と彼は初めて思う。
見慣れたはずの景色だというのに、立つ位置によってこうまで違って見えてしまうものなのだろうか。
ひぉぉぉ――――…………、
ビルとビルの谷間を縫うようにして駆け抜ける寒風は、どこか物悲しいような音を立て、頭上を通過する。
    バンシー
まるで古い洋館に住む泣き妖精の叫びにも聞こえる身震いさせるほどの寒気を伴うそれに身を晒し、彼は扉から外へ一歩足を踏み出す。
ごう、と一際強い風が吹き、髪を撫でた。
右手で扉を開け放ったまま、彼は眼前の景色を微かに首を振り見回し――。
そうして、ようやく振り返る。
「――――――」
彼の背後だった場所には、確かに人がいた。
まるで幽鬼のような印象を覚えるその人物は、無機質な仮面めいた顔を彼に向け、硝子玉のように澄んだ眼球に彼を写す。
その瞳を彼は見つめ返し、そして、
「――――どうぞ、御坂さん」
ふっ、と優しく笑み、海原光貴は少女に手を差し出した。
248:
そこは屋上だった。
特に何かがあるわけではない。狭く、がらんとした、寒々しい空間だった。
あるのはただ、コンクリートのタイルが敷き詰められた床と、転落防止用の金属の柵だけだ。
その柵も元は白く綺麗に塗られていたのであろうが、手入れする者がいなくなって久しいのか、
風雨に晒されそこかしこが剥げ落ち赤錆の浮いた地肌を覗かせていた。
もし寄りかかれば腐った根元からぼきりと折れ、それは本来の仕事を果たさないだろう事が容易に見て取れたが、
そもそもそれに寄りかかるような人物が存在しないのは明白だった。
――風が強い。
海原が最初に思った事はそれだった。
ビルとビルの間を、ぶつかり、混ざり合い、加した空気は突風となって海原の頭上を吹き抜ける。
空飛ぶ鳥を拒絶するような荒々しい対流は恐らく計算されて人工的に作られたものなのだろう。
一直線に吹き抜けるそれを受け止めるように、向かいのビルの屋上にそびえる風力発電の羽が緩やかに回転運動を続けていた。
249:
見上げていた視線を下ろす。
目の前には窓のないビルの壁面。
隣接する建物の存在を意識してだろう、意図的に窓が設けられていないそれに、海原は『窓のないビル』の名で呼ばれる建造物を想起する。
もっとも、本来のそれはここからかなり遠い位置にあり、乱立する無機物の柱に遮られ見えないのだが。
海原の立つビルの屋上は辺りの他のそれらよりも低い位置にある。
他と明確な差がある訳ではない。ほんの二、三階の高さの差だ。
けれどそれが分厚い壁のように立ちはだかり、妙な圧迫感を覚える。
振り返る。
その回転する三枚羽を彼女は何を思うのか、じっと見ていた。
まるで廉潔な宗教画でも見上げているような気配を纏いながら、彼女は高い位置にあるそれを仰ぐように見上げている。
それこそが清廉な偶像のようにも見え、海原はしばらくの間彼女を呆然と見つめていた。
250:
ふっと影が落ちるように、彼女は視線を水平に戻す。
その事に海原の顔は緊張に彩られた。
ぴりぴりと張り詰めたような空気が場に満ち、それは風では吹き飛ばされなかった。
かつ、と靴底が屋上を叩く。
歩み寄るように、こちらに視線を向けられない事を確信しながら海原は彼女に近付く。
そして隣に立ち、海原はゆっくりとそちらを向いた。
彼女に、ではない。
――重々しく閉ざされた、屋上とビルの内部とを繋ぐ鉄の扉。
その向こう側。決して視界に入る事はない空間を見据え、海原は息を吸い。
「――――ええ。ここなら邪魔も入りませんし、どうぞ」
告げ、しばらくの沈黙の後、扉が再び開かれた。
ゆらりと、そこから姿を現したのは。
「こんにちは――――絹旗最愛、さん」
名を呼ばれ、暗澹とした視線を絹旗は二人に向けた。
――――――――――――――――――――
251:
探していた人物の一人、海原光貴は休日の人混みで溢れるモノレール駅前の、洒落た喫茶店で暢気にコーヒーを啜っていた。
「なんでこんな街のど真ん中をうろついてるんですか……!」
予想外の出来事に絹旗は思わず小さく叫んだ。
思いがけず目的の人物を見つけてしまい、絹旗は混乱していた。
大きく取られた窓際の、外が一望できる――外から丸見えのスペース。
二人掛けの丸テーブルの片方に座り、彼はカップを離すと味を確かめるように少し口の中で液体を転がす様子で、そして納得したのか小さく微笑んだ。
(どこのお貴族様ですかコンニャロウ)
鼻につくその仕草に顔を顰め、絹旗は歯噛みした。
滝壺。麦野。垣根。浜面。
昨日今日のこちらの苦労や心労や、その他諸々の苦悩が馬鹿のようだ。
そんな事をまったく分かっている様子もなく、海原はまるで映画のワンシーンのようにしてそこに座っていた。
252:
念のため絹旗は物陰に身を隠した。
少しだけ深呼吸して、気持ちを落ち着かせる。
そして再び店内を見てみれば、相変わらずそこには海原が座っていて、これが夢や幻でない事を物語っていた。
絹旗はようやく冷静さを取り戻した脳で思考する。
――よく考えれば、あまりにも出来すぎていた。
絹旗は確かに彼らを探していた。
けれどそれは実を伴わず、素振りだけのような、意志を伴わないものだったはずだ。
だが現に目の前には目的の人物の一人がいた。
まるでお膳立てされたように。
(――――罠、か)
そんな様子はまったくないのに。
こちらを誘っている。そんな気さえした。
253:
しかし考え直す。はたしてそうだろうか?
そもそも彼らがこちらの動きを、意図を知っているとは思えない。
何らかの目的があって姿を隠したのだろうが、だからといってそれが絹旗たちに関係するという確証もない。
――もっと別の理由があるのではないか……?
――事と次第によっては、もしかすると協力関係を築けるかもしれないのではないのだろうか……?
そこまで考えて絹旗は頭を振る。
(超ありえないです)
こちらが相手を利用する事ができても、こちらを利用する事ができるはずがないのだから。
暗部とは、そういう場所だ。
利害関係が一致するのは同じ場所にいる相手のみ。少なくとも彼らはそこに位置するとは思えない。
254:
通りを挟んだ対岸。喫茶店の中を見ながら絹旗は思う。
矢張り一度麦野たちに連絡を取って指示を仰ぐのが定石だろう。
自分一人の判断では行動し辛い。
タイムリミットが明確に存在している訳ではない。
無論、時間が経てば経つほど状況は悪化していくのだろうが、その程度の余裕はあるだろう。
そう思い絹旗はポケットから携帯電話を取り出し、アドレス帳を呼び出す。
五十音順に並ぶ登録された名前。数は少ない。
元々絹旗に連絡を取るような相手は数えるほどしかいないのだから。
ボタンを操作して文字の羅列を流していく。
垣根の番号は登録していない。
滝壺は――悪く言うつもりはないが、指示を出せるとは思えない。
となると残りは――。
255:
「……、……」
そこに現れた名を見て、絹旗は動きを止める。
片仮名四文字だけで簡素に記された名前。
彼女は一体何をしているのだろう。
一週間前の混乱で消えてしまった少女。
その足跡は杳として知れない。
彼女の身に何があったのか、絹旗は知らない。
もしかすると麦野や、もしくは垣根あたりならば知っているのかもしれないが、それを尋ねる事は絹旗にはできなかった。
知るのがどうにも恐ろしかった。
まるで自らの末路を垣間見てしまう気がして。
そんな覚悟はとうの昔にしていたはずなのに。
目を瞑り、小さく、ゆっくりと、臓腑に沈殿したものを出すように息を吐く。
元々がそういう世界に生きているのだ。
人が消える。そういう事がままある業界だ。
だから彼女はきっと、そういう事なのだ。
そう、諦念にも似たものを己に言い聞かせるように心の中で繰り返し、絹旗は目を開く。
どうしてだか、世界がさっきよりも無彩色じみたものに見えた。
257:
手にした携帯電話。
それを見つめる視線を、ふと上げる。
順当に行けば浜面の名前が画面に表示される。
しかし、彼に連絡を取っていいのだろうか。
……いや。別に問題はないはずだ。
今や彼は正式な『アイテム』の一員で、少なくとも絹旗の仲間であるはずだった。
だが、どうしてだか気後れしてしまう。
理由は分かっていた。
彼の座っている席。
それは、あの金髪の少女のものだ。
後から割って入った少年。
浜面仕上。
そんな事はないのに、そう思ってしまう。
奪われた、と。
妥当だ。そうは思う。
けれど理性では分かっていても、心が、納得できないでいた。
『アイテム』という四つの椅子。
誰かが席を追われれば、また他の誰かがそこに座る。
絹旗が今座っている椅子も元はきっと別の誰かのものだったのだろう。
そういう風にできているのだ。
258:
――そんな事を考えてしまう自分に吐き気がする。
絹旗は得も知れぬ嫌悪感に苛まれていた。
自分は彼女の事を体のいい逃げ道にしている。
頭の片隅でそう自覚していた。
本当はそんな綺麗な感情ではない。
きっとそれは滝壺の存在だ。
――――浜面の、恋人。
詳しい経緯は知らない。けれど確かに二人は恋仲だった。
傍目には仲睦まじい――地獄には似つかわしくない光景。
しかし絹旗は直感としてそれを知っている。
依存と、贖罪と、代替行為。
恋愛感情とはそういうものなのだろう。
恋とは決して清らかで誉れ高いものなどではない。
むしろ汚らしくて、醜悪で、吐き気がするほどおぞましい感情でしかない。
そう、絹旗が今胸に得ているものが違いないのだから。
それは嫉妬だ。
二人を見ていると、そんな感情を抱いていいはずもないのに、抱きたくもないのに、心の奥底からふつふつと湧き上がってくるのだ。
小さく、細かい気泡でしかないそれは感情の水底から浮かび上がり、ぷつり、ぷつりと音を立てて爆ぜる。
泡の中身は透明のように見え、しかしまるで腐敗したガスのような質量をもって確実に沈殿していった。
もうどれだけ堆積しているのか。分かりはしないけれど。
それははたして浜面に向けられたものなのか。
それともその眩しすぎる光景に向けられたものなのか。
――――それとも滝壺に向けられたものなのか。
判断のつかぬまま、絹旗は仄暗い熱にじりじりと精神を侵されていた。
259:
……そんな絹旗の感情と葛藤とは関係なく、世界は進み続ける。
目を上げ、絹旗は暗澹とした瞳を道路の対岸へと向ける。
人の行き交う歩道と、自動車の行き交う車道のその奥。
ガラス板に区切られた店内の、丸テーブルの二人席。
そこに――――。
海原光貴の姿はなかった。
「っ――――!」
最悪の失態に絹旗の頭は真っ白になった。
よりによって物思いに耽っている内に目的の人物を見失うなど、あってよいはずもなかった。
慌てて人混みを掻き分け、車道ぎりぎりまで駆け寄る。
歩道と車道を区切る鉄柵を鷲掴み、半ば乗り出すような格好で反対側の歩道を見回した。
――――いない。
ぎり、と歯が軋むほどに噛み締めた。
最悪だ。最悪にも程がある。
まさか子供の使いでもあるまいに、こんな馬鹿みたいな理由でせっかく掴みかけた手懸かりを失ってなるものか――!
260:
もはや車道に飛び出しかねない形相で絹旗が掴んでいた鉄柵の横軸が、めきりと悲鳴を上げたとき。
喫茶店の扉が開いた。
そこから出てきた人物の顔に、絹旗は胸を撫で下ろす。
「会計をしてただけでしたか……」
ほう、と安堵の息を吐いて、あわやその場にへたり込みそうになる。
それを慌てて堪えて、絹旗は苦笑する。
もしかして疲れているのだろうか。
精神面はそれほど弱くないとは思うが、矢張り先日の一件が祟っているのだろうか。
全部終わったら、少し休暇を取るのも悪くない。
元々あってないようなものだが、そう思うだけでも少しは違うだろう。
そんな事をぼんやりと考えながら絹旗は海原を目で追い――――、
「っ――――――!?」
絶句した。
彼女の視線の先には、開けた扉を支える海原と、丁度そこから出てきたところの、
「――――御坂――美琴――!!」
携帯電話を握る指は思わず通話ボタンを押し、そして当然のように携帯電話は直前まで表示されていた相手へと発信を開始した。
261:
――――――――――――――――――――
266:
「――――なぁ――――ちょっといいかい」
声がした。
辺りは人でいっぱいだというのに、それは自分たちに向けられた事を確信として少年は振り向く。
「………………」
そこに、一人の少年が立っていた。
高級そうだがどこかくすんだ赤いジャケットに両手を突っ込み、立つ少年。
人の良さそうな笑みを浮かべ、けれど何故かに剣呑な気配を纏っている彼は頷いた。
「あぁ、アンタらだよ。ちょっと、聞きたい事があるんだが、いいか?」
「………………」
返事はない。
問われた少年は視線を泳がせるように横に向け、隣に立つ少女を見る。
彼女もまた、声をかけてきた少年を見ていた。
しかしその瞳はどこか虚ろで、その内に何も写してないようにさえ思える。
それを数瞬の間見つめ、少年は再び眼前の彼へ視線を戻す。
「………………なんだ」
低く、押し殺すような声。
敵意――いや、殺意すら感じるそれに臆することなく、彼は笑みを崩さずに言葉を返す。
「いや、何。ちょっと人を探してるんだが――」
彼は薄く笑い、尋ねた。
「――結標淡希、知らねぇ?」
267:
数秒の沈黙。
まるで彼らの周囲だけが世界から切り取られたかのように、人の流れから隔絶され、川中の島のように停止した空間が出来ていた。
両者の距離は五メートルほど。
人混みの中、その間の空間がぽっかりと開いていた。
その間隙を埋めるように少年は言葉を放つ。
「…………ああ、結標ね」
頷く。
「知ってるといえば知ってるし…………知らないといえば知らないな…………」
「……なんだそりゃぁ」
曖昧で答えになっていない返事に、彼は眉を顰めた。
268:
「どこにいるのかは、正確には分からない…………ただ…………どこに行ったのかなら分かる…………」
小さく、ぼそぼそと喋る少年に彼は嘆息する。
「あぁ、俺が悪かった。了解だ」
大仰に両手を挙げ、彼は頭を振り、手を下ろし再び少年に視線を投げかける。
その顔に笑みはなく、今度は明確な敵意を持って。
「テメェら自身にも幾つか訊きたい事があるんだ。ちょっと一緒に来てもらえるかよ――――上条当麻、御坂美琴」
息の詰まるような圧迫感を伴って放たれた言葉は、周囲の人のいない空間を広げる。
――鼠は災害を察知して船から逃げ出すという。
本能的にだろうか、周囲の人混みがざあっ――と潮のように退いた。
あたりは相変わらずの休日の喧騒で。
しかし彼ら三人の周囲だけ、見えない壁で仕切られているように無人の一画が出来上がった。
269:
そんな光景を、さして興味のない様子で少年は見回し。
「着いて来いって言ったって…………そもそも俺は、アンタが何者なのか聞いてないんだが…………」
今度は幾分かはっきりとした口調でそう言った。
その問いに彼は目を瞑りつまらなそうに息を吐く。
「別に覚える必要はないぜ――――垣根帝督だ」
そう告げて彼は、一歩、足を進める。
「………………ああ、なるほど」
その答えに満足そうに少年は頷き。
向けられた視線。
「――――――オマエが垣根か」
――――どろりと。
沈殿した泥のような重く冷たい殺気を乗せられた言葉が口から放たれた。
270:
「――――――!」
明確な、殺意を放つ少年。
それは浜面の知る『彼』ではなかった。
何か、もっと別の恐ろしい何かだ。
一体何が彼をこうまで変貌させたのか。
浜面の脳がそれを想像する事は叶わない。
ただ、何かがあって、彼はこうして悪鬼のようなどす黒い殺意を得るに至った。
その事だけは容易に想像がついた。
だからだろうか。
「垣根――――」
浜面は自身が何を言おうとしていたのか分からない。
けれど何か、どうしようもないものが起こる気配がして堪らなくて。
271:
「――――結標、な」
少年の口から放たれるそれが呪詛に等しく聞こえ、浜面は息を呑む。
「どこへ行ったのか、教えてやるよ」
ピィ――――ン…………、
小さく、甲高い金属音が空気を振るわせた。
どこかで聞いたような音。それは極々日常で発せられるものだ。
最初、浜面は気付かなかった。
まるで騙し絵のようなその僅かな違いを認識できなかった。
  汝等こゝに入るもの一切の望みを棄てよ
「――――Lasciate ogne speranza, voi ch'intrate'」
きらり、曇天にも関わらずどこからか得た光を反射して、宙を泳ぐ何かが瞬いた。
思わずそれが何か確認しようとして浜面は目を凝らす。
くるくるとその身を躍らせ、緩やかに放物線を描き落ちてくるそれは。
272:
「――――――!」
落下するその先。
そう、それは。
ようやく自身を思い出したかのように。
垣根の肩越しに見える少女の腕がいつの間にか眼前に伸ばされその先は真っ直ぐに垣根に向けられていた。
「――――地獄の門の、向こう側だよ」
少年の昏い声がわんわんと反響するように聞こえ、
そして落下したゲームセンターで用いられる安っぽい金属製のコインが少女の腕に吸い込まれ、
「――――――――――垣根ぇぇええええええっっ!!」
浜面の叫びは、直後轟音と共に水平に射出された光芒にかき消された。
――――――――――――――――――――
293:
寒風が髪を撫でる。
打ち捨てられたような屋上には、彼らの他に誰もいなかった。
科学と発展の街、学園都市。
その中にも時たま、こういうデッドスポットじみた場所が存在する。
元はオフィスビルだったのだろう。
それなりの高さを誇る、内部には小さく区切られた部屋が陣取りをするように配置された灰色のビル。
しかし人気はない。
辺りには真新しいビル群。彼らがいるものよりも遥かに高いそれらに見下ろされるように廃棄された建造物は存在する。
もはや前時代的ともいえるそれは、取り壊される事もなく忘れられたように煌びやかなビル街の中に暗い影を落としていた。
まさかそんなビルに用があるはずもなく、けれど彼はあえてそれを選び、まだ辛うじて電気の通っていたエレベーターを使い迷わず屋上へ出た。
――――矢張り、罠か。
絹旗は嫌な予感が的中していた事を実感として確かめ、彼を睨み付ける。
視線の先に立つのは、スーツ姿の少年。
一目にも高級品だという事が分かるそれの両のポケットに無造作に手を突っ込み、彼は笑みを向けた。
「――――初めまして」
海原光貴。そして。
「………………」
視線を虚空に投げる少女。
「…………御坂……美琴」
その名に反応することもなく、彼女は空虚な瞳をどこか知れぬ場所に向けていた。
294:
屋上の硬い、けれど僅かに風化した床を足裏で確かめ、絹旗は海原から視線を外しはしなかった。
「ええ、初めまして。海原光貴」
ドアノブから手を離す。
きぃぃ――と軋んだ音を掻きながら扉はひとりでに元の位置へと角度を変えてゆく。
「ところで……なんで私の名前を超知ってるんです?」
ばたん、と大きな音と共に背後で扉が口を閉じた。
絹旗は険しい表情を変えず。
海原も笑みを崩さなかった。
「そういう貴女も、自分の事を知っている様子ですが」
「そんな超些細な事はどうでもいいんです。質問に、答えて欲しいんですが」
苦笑する海原。
少し残念がっているようにも見えるそれを浮かべ、彼は小さく肩を竦めた。
その笑顔がどうにも仮面じみた、本心を覆い隠すもののように思えて、絹旗は嫌悪感を抱かずにはいられなかった。
違和感にも似た小さな猜疑心。そう、彼は本当に重要な事を何一つ表に出さず、絹旗と喋っているように思えた。
「いえね、特になんという事もない、下らない事情からなんですが」
断り、海原は少し考えるような素振りをして。
「ええ――友人に。そう聞きました」
矢張り、相変わらず同じような笑顔を絹旗に向けるのだった。
298:
「へぇ。友人、ですか…………交友範囲が広いんですね」
一歩、僅かに足を進め、絹旗は言う。
「どちら様か訊いてもいいです?」
「さあ。貴女の友人ではないんですか?」
はぐらかすような返事。答える気はないのだろう。
元より、それが真実かどうかも分からない。
だから絹旗は、確かめるようにもう一歩足を進めた。
「……まあいいです。本題はもっと別の事ですから」
じゃり、と靴底が砂を噛む音が聞こえる。
「実は私、人を超探してるんですけど」
「なるほど。大変ですね」
頷き、同情を含めた笑みを向けられる。
その人を小馬鹿にしたような態度に絹旗は奥歯を噛み締める。
あからさまな挑発だ。乗ってやる必要はない。
そう頭で理解していても、両手は硬く握り締められていた。
いつになく、そう、普段の彼女を知る者が見たならば目を見張っただろう。
絹旗からどす黒い感情が陽炎のように噴出しているのが瞭然だった。
それは本人にしても明らかだった。
しかしそれを絹旗は目の前の少年の癇を逆撫でするような巫山戯た仕草に寄るものだと理由付けた。
まして、今この状況とは何の関係もない色事を端にするものなどでは断じてない――!
「結標淡希」
濁った粘液質の息を吐くように、絹旗はその名を告げる。
「どこにいるか、知りません?」
299:
その問いに、乗せられた昏い気配に僅かに顔を顰め、海原は。
「――――さぁ?」
おどけた調子でそう答え。
みしぃっ――、と絹旗の踏みしめたタイルが悲鳴を上げた。
表面は罅割れ、無数の亀裂がスニーカーの周りから放射状に広がっていた。
靴底は本来あるべき位置を越え、僅かに沈み込むようにして内部にその身を埋めていた。
本能的に拒否したくなるような音はびうびうと風の吹く壁のない空間に確かに響き。
けれど、海原の背に庇われるようにして立つ少女はぴくりとも動かなかった。
その、眼前の二人は。
どうしてだか。
絹旗のよく知る二人と影が重なった気がして。
そして、そんな彼女の心中など知る由もなく、海原は微かに首を傾げ、
「――――――誰ですか、それ?」
その声に絹旗は視界が真っ赤になったような錯覚に全身の毛を粟立たせ。
次の瞬間、大きな破砕音を道連れとしてタイルを一つ踏み割り、倒れこむような前傾姿勢で疾駆した。
300:
がづがづがづがづっっ!! と廃屋に確かな足跡を刻み付けながら絹旗は間隙を詰める。
距離はほんの十数メートルでしかない。
己の能力で踏み抜きを受け止め、加しながら、しかし僅かに下半身を先行させ上体を起こす。
度の異なる二点は、先行した上半身を足が追い抜き、垂直となる。
加は止まず、胸と頭は後ろへ、腰が前へ。
それを助けとして右肩を後ろへと流す。
力を込められた右腕は停止に近い遅れを生み、背後へ靡くように伸ばされ、
そして鞭のように撓る全身をバネに、最大威力で以ってして右拳を振り抜いた。
絹旗の能力、『窒素装甲』。
それは、その名の通り大気の優に八割近くを占める窒素を、自身の周囲数センチをその領域として自在に操る、
装甲とは名ばかりの、絶対的な支配力と制圧力を持つ女王の権を表す異能。
斯くして女王の軍勢は命に従い彼女の示した先に歓喜に震えるその身を全力で突撃させる。
ゴッ――――――ンン…………、
まるで巨大な鉄塊同士が高で激突したような轟音。
衝撃にびりびりと空気が跳ね、周囲のビルに伝播し、その場に一つとして向けられていない窓ガラスを振動させた。
301:
絹旗の能力によって気体は風というには絶対的な硬度を得て特攻した。
銃弾をも跳ね返し、装甲車の正面衝突すら逆に相手を叩き潰すほどの鉄壁。
それでいて主の身には傷一つ付けず、それ以外を絶対的に拒絶する。
矛盾を体現したようなそれを、相応の度と侵食力を以って人体に叩き付けたなら。
答えは明白だった。
しかし。
直撃するよりも前に受け止められていたならば。
「――――――!」
絹旗の拳は、確かに無色の兵卒を伴い目標に向かって高で撃ち抜かれた。
だがそれは対象を打撃するには至らず、僅かに届かない。
絹旗の右腕は、眼前で遮るように翳された海原の右手によって受け止められていた。
305:
――――否。
絹旗の放った一撃は届いていない。
拳の纏った硬質の気体は、海原の手に受け止められて、
――――それすらも間違いだ。
――――僅かに、届いていない――――。
無色透明の、気体と呼ぶにも躊躇うような質感を持ったそれは、微かに海原の翳した手の平との間に空隙の残していた。
「なっ――――――!」
思わず息を呑む。
魑魅魍魎のごとく有象無象の異能が跋扈する学園都市だ。
今まで幾度か、その攻撃が通用しなかった事はある。
だがそれは防御されたり、攻撃させなかったり、あるいは無力化されたりといったものだ。
しかし、これは。
(届いていない――――!)
防御されたのではない。
何かしらの異能に、それに限らずあらゆる要因によって、絹旗の一撃は受け止められたのではない。
事態はもっと単純だ。
絹旗の拳そのものが動きを止め、その制空権が至らなかった。ただそれだけの事だ。
306:
絹旗の拳は、甲は、細い指は、見えない『何か』によって遮られていた。
その『何か』は絹旗の支配下にない。
もしそうであれば己が主の挙動を阻害するはずもない。
だからこの『何か』は絹旗のものではなく――――。
彼、海原光貴に因る物だ。
絹旗の手は海原の支配下にある、絹旗が御する事のできない物で阻まれていた。
彼女の脳裏に最悪の予想が過ぎる。
――――まさか、彼は自分と同じ――――。
否。それを瞬時に否定する。
海原光貴の能はそういう物ではない。
昨日垣根によって提示された資料。
その中には一切そういう事は書いていなかった。
腐っても滞空回線だ。間違った事は書いていない、はずだ。
307:
――――能力は一人の能力者に一つきり。
そういう覆せない大前提が存在する。
だが、しかし。
それが『能力』でないのならば話は別だ。
学園都市にごまんといる異能の保持者。
そういう特異点が日常的に存在する世界だからこそ誤認しやすいが。
世界は学園都市だけではない。
外部から隔絶された密室、学園都市。
それは、地球上のほんのささやかな一区域でしかなく。
世界とは学園都市だけで完結しない。
そして世界には、彼女らが『能力』と呼ぶもの以外にも異能が存在する。
308:
例えば、英国。
例えば、イタリア。
例えば、ロシア。
学園都市と敵対する、国家の裏側に巧妙に隠蔽された存在がある。
科学の最先端の、さらに先を往く学園都市に敵対する存在。
それらにも『異能者』は存在する。
『科学』を伴わない彼ら。
絹旗は知らない。
『能力者』以外の『異能』の存在を。
それらは神話や伝説や異形の物語を基にする、それこそ幻想の存在。
遥か古の時代より人々の間で幽かに囁かれる、それこそ幻想の存在。
――――曰く、『魔術』。
309:
絹旗は知らない。
それは、幻想にあってなお、それは児戯に等しい。
本来の『幻想』とはそういう類のものではない。
絹旗は知らない。
純粋過ぎるが故に人の手に余る『幻想』の塊。
時としてそれは形取り、書物、あるいは絵画、絵物語として実像を結ぶ。
絹旗は知らない。
そんな純粋過ぎて濃密過ぎるそれは『原典』と呼ばれている。
そしてその中には、例えば『暦石』と呼ばれる石版を模した幻想が存在する。
絹旗は知らない。
『暦石』の内容の極一部を抽出し、巻物状に加工されたものが存在する。
それはとあるアステカの、魔術を行使する少女と共に、学園都市に持ち込まれていた。
絹旗は知らない。
その巻物が意味する幻想。
即ち、『武具を持つものへの反撃』。
310:
「――――女性に手を上げるのはあまり気が進みませんが」
……暗部組織『グループ』の海原光貴という少年は、『海原光貴』ではない。
「まあ、事態が事態ですし」
彼は困ったような笑みを浮かべ、悲痛に笑って、
だがそれは滞空回線の情報の中に確実に含まれていて、垣根の提示した文書の中に正確に記述されていた。
――絹旗は知らない。
垣根の得たものは、『グループ』の一員である魔術師の少年のものであり。
そこには本来の『海原光貴』の素性も、経歴も、そして能力も、含まれていなかった。
――絹旗は知らない。
垣根は、『グループ』の海原光貴の姿を借りた少年と、その姿の元となったただの学生である海原光貴を混同していた。
本来存在しないはずの『海原光貴の姿を借りた少年』はそれ以上行方不明になれるはずもなく、失踪したのは間違いなく『海原光貴』だった。
――――絹旗は、知らない。
――――目の前にいるのは、『グループ』などという組織とは関係のない、単なる中学生の少年で。
――――そして、絹旗と同じく大能力に数えられる、『念動力』の異能を持つ間違いなく本物の『海原光貴』だった。
311:
「――――非情に申し訳ありませんが」
彼は、海原光貴は、今にも泣き出しそうな悲哀に濡れた笑顔を絹旗に向け。
「――――――、潰します」
声と共に、絹旗の手をその纏う気体の壁を越えて直接に包んでいた何か見えない力が。
ぐしゃりと、瑞々しい果実を思わせる湿った音と、幾許かの硬質的な音を立てて、絹旗の右手の肉と骨と爪と血液とを一緒くたに圧縮した。
316:
最初に感じたのは、冷たさだった。
限りなく氷点に近い冷水に手を突っ込んだような、凍て凝るような冷たさ。
それが右手の先から一面を埋め尽くす量の小さな小さな甲虫が大群の進行を思わせる感覚を伴って、
少女の細い腕の表面を、皮膚の内側を、掻き回すようにざわざわざわざわと這い登ってくる。
そして、遅れて感じる、ちり、と手指の先に生まれた、痒みにも似た小さな火種は、
這い進む悪寒という名の虫たちを導火線として瞬間で侵略した。
人体の想定していない圧力を拳の前面から受け、みちみちと内部に押し込まれた肉と体液は、
逃げ場を求めて手首より腕に、肩に至る血管と神経を逆流する。
その怖気でしかない感覚が右腕を埋め尽くし、肩に至り、頚を這い登り、頭蓋に達し、
ようやく、絹旗は熱とも痛みとも呼ぶにもおこがましい感覚に脳を灼かれた。
「――――――ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
人として、得るに耐え難い悪夢のような感覚に絹旗は絶叫を上げた。
317:
よもや自分の口が、喉が発しているとは思えない大音は、絹旗の耳には届いていない。
――――――!
――――――!
――――――!
脳の司るはずの理性はとうに沸騰していて、知覚も感情も全てが焼き焦げ意味を成さなかった。
全身の毛穴が開き喘いでいるような気さえした。
ぱくぱくと唇はひとりでに動き、見開かれた両眼は意志とは無関係に溢れ出した涙で溢れている。
音となる振動に耐えかねた喉は痛みを発し、けれどそれよりも圧倒的な痛みによってかき消される。
痛い! 痛い! 痛い!
もはやそれが痛みなのか熱なのか、判断がつかない。
いや、僅かに残された知性は、熱と痛みが同等である事を実感として理解した。
その熱痛と驚愕と混乱と否定と涙と叫びとで塗りたくられた絹旗の表情を、海原は悲痛と悲哀と悲嘆に濡れたどうしようもないほど泣き顔に似た笑みで見つめ、
――――みしぃっ、
と、意識してなおもその力を込めた。
318:
……その感覚が唐突に消える。
作用点を失い、意識していた力が虚空を噛み、転ぶようにして霧散した。
海原の掲げる右手の先から力のかかる対象が失われていた。
「――――――」
視線を投げれば、数メートル先に絹旗が立っていた。
左手で、右肩を掻き抱くように掴み、その先には本来のそれから無理矢理に変形された拳の先端に付いた腕がだらりと垂れ下がっていた。
――ぼたり、――ぼたり、
と、決して少なくない量の真っ赤な血液が、もはや肉の塊と化したそこを割るように溢れ出て重力に従い表面を流れ伝い、
先端に溜まり表面張力の臨界を超えた雫が零れ落ち、灰色のタイルに激突し歪な円を描いていた。
全身は脱力し、屋上を吹き抜ける風にふらふらとその身を揺らしながら絹旗は立っていた。
その中で涙に爛々と光る両目だけは確かな力を持ち海原を凝視し、
食い縛られた口の端からは熱を帯びた吐息が胎動のように吐き出されていた。
――――ふーっ、――――ふーっ、
腕を蝕む激痛を意志の力で捻じ伏せ、もはや悪鬼の形相で絹旗は立ち、視線は海原を射抜いていた。
319:
正気の沙汰ではない。そう自身思う。
外部からの圧迫を受け、それから逃れる手段として。
――自らの意志で窒素を操り、より強い圧力をかけ引き抜いたなど。
お陰で思考はいつになくクリアだ。不意に受けた痛みと己の覚悟を以って得た痛みは等価値ではない。
その痛みが何なのか理解し、決意として刻んだものであれば、それは力となる。
風は相変わらず強く、ならばこの場には大気が存在する。
彼らは女王の命を待つかのごとく、ごうごうとその存在を誇示していた。
しかし相手が厄介だ。
『窒素装甲』の一番の武器は絶対の防御力にある。
だが、俗に裏当てと呼ばれる拳法の技法に似た、その鎧を抜いての直接攻撃。
絹旗が物理干渉系の能力の中で唯一の苦手としている相手だ。
これならばまだ同系統の能力で相殺される方がやりやすい。
射程も違いすぎる。先程の一撃から絹旗はそれが『念動力』の異能である事はまず間違いないと中りをつけ、それは正鵠を射ていた。
念動力とはその名の通り物に触れず力を加える能力だ。
その特性上、高位ならば手の届かない場所、相応の距離を射程とする。
その支配圏が自身の周囲僅かでしかない絹旗とは圧倒的な差があった。
320:
ふっ、と。
「――――――!!」
嫌な予感がして、絹旗は真横に飛んだ。
直後、絹旗の立っていた場所を中心に、空気が歪んだ気がして。
ごしゃりと。屋上に放射状の皹が走る。
慣れない回避行動に冷や汗を掻きながら絹旗は再び飛び込むような格好で跳躍する。
能力を自らに向け、半ば突き飛ばすような操作は想定以上の負荷を絹旗に強いる事になるが。
再び鈍い炸裂音。
砕けたタイルの欠片は粉となり、風に巻かれて飛んでゆく。
その間にも次の轟音が鳴り響く。
まるで見えない巨人が地団太を踏んでいるような、そんな場景。
その中を絹旗は右腕を抱え転がるようにして駆ける。
321:
がん! がん! ごん! がん!
工事現場の杭打ちに似た音が連続する。
違うのは一点。それが地面ではなく絹旗に向けられて打ち込まれている事だ。
一見無造作に見えるも、一定のリズムを刻んでいる。
「ダンスはお嫌いですか?」
その最悪に癪に障る笑顔に、絹旗は、
(常盤台の超お嬢相手にでもやってろ――!)
がぎり、と。
跳躍した足をそのままに、屋上に一点、突出した箇所に踏み抜くように押し込んだ。
がぼっ、と。ウエハースでも砕くようなあっけなさでコンクリート製の壁は打ち抜かれる。
砕かれた破片が、がらがらと、相応の質量が絹旗に降り注ぐがそれらは全て彼女の纏う無色透明の鎧によって弾かれる。
「生憎と――――」
左足で暗い内側に着地し、そこを基点にくるりとアイススケートの選手のようにターンを決め、
「私は超安い女じゃないですからっ!!」
抉り取るように振り抜いた右足で、半ば支えを失い揺れていた分厚い鉄の扉を高で蹴り飛ばした。
322:
扉は大気にぶつかり、僅かに傾ぎながら、しかし強風に煽られながらも正面から海原に向かって突撃する。
「――――――」
それを海原は眉一つ動かさず。
――がごぉん!
耳障りな音と共に鉄板は真上から叩き伏せられ、コンクリートに杭のように打ち込まれ、海原の数メートル前でその身を固定された。
ビルに分厚い鉄板が生えているような、奇妙な光景。
だが、それには一切注意を向けることはなく、海原は前方を見据える。
視角封じ。よくある手だ。戦闘中に相手の姿を見失う事は致命傷となる。
だから海原は一度隠された絹旗の姿を目で追い。
――――――いない。
323:
小さく舌打ちして、海原は眼球を動かす。
屋上には身を隠す場所などなく、崩れた瓦礫の向こうにもただぽっかりと空洞が広がっているだけだ。
正面にはエレベーターの両開きの扉が見え、そこまでの廊下を埃が舞っていた。
視線を僅かに下げる。足元。階下、室内に意識を向ける。
彼女の能力は分厚いコンクリートの壁を容易く貫くものだ。
通常ならば地下であるその位置からの奇襲は確かに効果を発揮するだろう。
だが絹旗の能力の射程は絶望的なまでに短い。
何せほぼゼロ距離。絶対の領地はそれだけでしかない。
長射程を持つのであればわざわざ鉄扉を蹴り飛ばす必要はない。
――まさか、逃げたか。
如何せん海原の能力は絹旗のそれとの相性が抜群に悪い。
絹旗の能力は『相手に触れさせない』事であり、海原はその正逆、『相手に触れずに干渉する』事だ。
いくら鉄壁を誇ったところで、小学生にも見えるその小さな矮躯を直接叩けば一溜まりもない。
故に撤退もありえない事ではなかった。
だが、気付く。
下げた視線の先、もはや傷のない場所が見当たらないほど無残な様相を晒す屋上に。
深々と刺さった鉄の板。
それはビルの屋上に生えているかのごとく半身を確かに屹立させ――。
「超ちっちゃいからって舐めんなあああああっ!!」
声と共に、その身を更に小さく、鉄板の影に隠れるようにして屈めた絹旗が、扉を無理矢理に押し割りながら飛び込んできた。
326:
伸ばした左手。
よりく。より遠く。
それは何かを掴もうとするかのごとく、一心に伸ばされ。
張り詰めた指先は、海原を。
――――――ごしゃっ、
横殴りの一撃が少女の小さな体を攫い、それを真っ先に受け止めた左半身が嫌な音を立て。
「――――く――――そおおおおおおおおおっ!!」
流れに逆らうように風上へ。
宙に舞う枯葉のように絹旗の体は吹き飛ばされた。
327:
がしゃがしゃがしゃ! と砕かれたタイルの欠片が巻き込まれ悲鳴を上げた。
耳に響く乾いた音を撒き散らし、ナイフにも見えるそれを跳ね上げながら絹旗は無様に屋上を転がり。
――――ごづっ、
と、鈍い音を立て、絹旗の身体は屋上の端に僅かに迫り上がった部分に後頭部から激突し、ようやく止まる。
しかし彼女の身体を、分厚い石の壁も、その刃のような石片も、傷一つ付ける事はできない。
どんなに重く硬く堅牢だとして、どんなに硬く鋭く尖っていたとして、この期に及んでなお絹旗は彼女の軍勢によって守られていた。
「――――――」
だが、のろのろと起き上がるその様子を見、海原は僅かに目を細めた。
綺麗事も言い訳じみた独善も吐くつもりはない。
彼女の痛ましい様子は全て自分の手によるものだ。目の前の血塗れの小さな少女は自分の力によって血に塗れているのだ。
それを全て自分は自覚的に、その結果どうなるかを正確に理解して行った。そしてその通りになった。
だから、これは彼女に対する憐憫でもなければ、偽善でもない。
「――――――ごめんなさい」
何の救いにもならないその言葉を、けれど投げかけずにはいられなくて口にして。
海原はゆらりと頭上に伸ばされた右手を。
己の意思によって振り下ろす。
328:
「――――――――――え?」
海原は、どこか間の抜けた、短い声を思わず発する。
何が起こったのか理解できなかった。だからそんな声を出してしまった。
目の前は赤く、悪夢的なまでに赤く。
眼前で立ち上がろうとする絹旗が、かくりと折れ、頭から倒れ石の床に突っ込んだ。
だが、自分はまだ腕を振り下ろしていない。
その証拠に絹旗は無傷で。
――――血塗れなのは自分じゃないか。
どさりと、真っ赤な血花の咲いた屋上に、二つ目の重い音が響いた。
――――――――――――――――――――
331:
まったく、人使いが荒い。
砂皿は諦めながらも、小さく、微かに溜め息を吐いた。
場所は高層マンションの一室。
だが周囲に砂皿以外の人影はない。
がらんとした空間。だが砂皿には丁度好かった。
開放された、室内とベランダとを繋ぐ大きく切り取られた空間。
そこから外を吹く強風が部屋へと流れ込んできた。
ばさばさと柔らかいクリーム色のカーテンが翻り背後で耳障りな音を立てる。
が、砂皿にその音は届かない。砂皿にはもはや除き見る小さな穴以上に重要なものはなかった。
  メイルイーター
――――鋼鉄破り。
そう呼ばれる、二メートルに近い長大な銃を手に、砂皿はその上部に取り付けられたスコープを覗き込んでいる。
既にベランダへと通じるガラス戸は砂皿の手によって取り外されている。
地上から遥か高い空を吹く風を肌に感じるが、砂皿はまるで一本の朽ち倒れた老木がごとく微動だにしない。
柔らかい毛の絨毯に腹這いになりながら、砂皿は肩から上をベランダに突き出すような格好で長銃を構えていた。
332:
目の前にはベランダと、そして空とを隔てる、胸辺りまでの高さを持つ壁。
しかしそこに刻まれた装飾の孔穴を銃眼として、砂皿は抱き縋るように狙撃銃を構える。
標的までは八百メートル弱。
いつもの狙撃よりも距離は近い、と認識する。
時として一キロを超える彼我の距離に弾丸を通じさせなければならないような場合がある。
失敗はできない。
自分のような暗殺を生業とする狙撃兵は一発の重さを十分に知っている。
僅か四十グラムそこそこの銃弾は本来対戦車用に作られたものだ。
それを、例えば人体に向ければどうなるか。
子供でも分かる。考えさせたいとは思わないが。
故に失敗は許されない。
目標以外にこの弾丸は命中してはいけないのだ。
……もっとも、銃弾は目標に命中したとして、貫通しそのまま飛翔を続け背後の壁へ至るだろうが、そこは学園都市の建築技術に頼る事にする。
何事も妥協は肝心だ。
333:
銃口と、砂皿の視線の先は灰色のビルの屋上。
先程メールで示された地点。
メールの送信者は絹旗最愛。
本文はなく、そこにはGPSの位置情報だけが添付されていた。
意味は考えずとも分かった。要するにそこを弾けというのだ。
目標地点の屋上には人影が三つ。
なるほど、どれを撃てばいいのかは一目瞭然だった。
砂皿が狙撃位置に移動し、現場を把握しようと双眼鏡で覗き込んだちょうどその時。
背の低いオレンジ色のパーカーを纏った少女が、絹旗最愛がスーツ姿の少年、海原光貴に向かって殴りかかるところだった。
双眼鏡を目から離し、何をすればいいのか理解した砂皿は無言のままに準備を始めた。
まずガラス戸を外し狙撃体制を取るためのスペースを確保するところから始め、二脚を据えスコープを覗いた時には屋上は先程の様子とは全く異なっていた。
何やら屋上はクレーターだらけになっていた。
「………………」
屋上の様子は砂皿のするべき事とは関係がない。
僅かに銃を動かし、目標の位置を掴む。
そこから周囲を吹く風の計算などを瞬時にやってのけ、銃口を微調整し、息を止め、心臓よ止まれと念じ、
――――設定は単発。数は一発で十二分だ。
狭い視界の中で絹旗が一人で吹っ飛び。
そして、砂皿はトリガーを絞る。
タァ――――――ン――――…………、
火薬が炸裂し、人を砕くための音が響いた。
334:
轟音と共に射出された12.7x99mm弾は灰色の雲に覆われた空の下、空間をマッハ二・七で疾走した。
ビル風が強く吹く。
重く、けれど大きい五〇口径ライフル弾はその影響をことさらに受け、その身を微かに流す。
僅か数ミリ。それは決定的な間違いとなりかねない。
距離は八百メートルに近い。ほんの爪先ほどの誤差であっても着弾点は大きく変わる。
しかし、そのビルとビルとに描かれた渓谷は、人工的に計算された風を作る。
なれば狙撃手がそれを含めて全て計算できぬ道理もなく、砂皿もまたその通りだった。
故に激しい風に揉まれながらも、それを悉く助けとして弾丸は駆け抜ける。
眼下に休日の人混みと、日常の談笑を見下ろし。
その上を、純粋な殺意そのものでしかない金属の塊は下界に委細構わず音を切り裂いた。
まるで風に舞うようにその身を虚空に躍らせ、
そして、全くの無感情を以って目標に食らいつき、戦果として真っ赤な花を宙に咲かせた。
――――――――――――――――――――
340:
光。
微かに、瞬いた。
小さな、ほんの小さな光は、この世に存在する何者よりもく自己を主張する。
「――――――」
その小さな灯が何を意味するのか、理解するよりもく。
動けと念じた。
制限時間は〇・八五七秒と少し。
しかし既に〇・三二八秒が過ぎている。
それだけあれば十分だった。
幸いにして大きく位置を変える必要はない。
ほんの少しだけ腕を跳ね上げるだけでいい。
そうして、過たずに真っ直ぐ飛び込んできたそれを。
抱き締めるように、己が意識の延長線であるものを伸ばし。
――――――成功。
そうして、大気を切り裂き衝撃波を撒き散らしながら飛来した銃弾は磁界に囚われた。
341:
しかし既に何もかもが手遅れで、だからこそ上手く行く。
先端から後方へ、内角二十一度。
音の壁を貫いた事を示す衝撃波が発生する。
自然界に存在するには圧倒的過ぎる暴力を背後に現しながら、それ以上の破壊力を持つ殺意の塊は磁場に抱かれ。
差し伸べられた右薬指の付け根から体内に飛び込んだ。
瞬間、五指が吹き飛ぶ。
しかしそれには全く感情を向けることもなく弾丸は容赦なく進入する。
だが、だからこそ。
威力を食われ度が低下する。
電磁誘導で強引にブレーキをかけながら、しかしそれを振り切らんと弾丸は進み続ける。
肉を削り、骨を砕き、血管を引き千切りながら。
もはやそれは肉体の様をしていなかった。
たおやかに差し伸べられたはずの腕はばらりと広がり、風に巻かれまるでビニールテープのように断裂する。
痛覚を感じるには少々早かった。それが救いとなる。
機械的に、拡大した自らの肉を支点として力を行使する。
――――おいで。
不自然に弾丸の先端が動く。
鋭く尖り円錐の様子をしたそこは、見えない糸に引かれるかのように首を上げた。
それによって新たな抵抗が発生する。側面を流れる血脂を弾きながら、弾丸は抵抗を少なくしようと機械的に動く。
――――おいで。
方向が変わる。
水平よりも下へ向けられた射角は、ほんの少しだけ上へ向かう。
――――おいで。
それを切欠として、音を伴うには過ぎる高と共に突き進む弾丸は、なお上を目指す。
手招くのは目には見えない糸。しかしその存在を弾丸は誰よりも確かに感じる。
――――おいで。
そして弾丸は。
彼女に手を引かれるように。
――――おいで。
天に向かって飛翔した。
342:
その目で追えるはずのない行方を横目で見送り、彼女は。
――――まだ、
来るはずの痛みはいつまで経っても現れず。
視界は意志を伴わぬまま、ぐるりと天を向く。
灰色の空。
鈍く光るビル群。
――――まだ、やるべき事が残って――、
その先端に屹立する、三枚の羽。
その翼は一瞬きらりと光を照り返し、網膜を灼く。
――――ああ――、――。
その光を仰ぎ見るようにして、彼女はその場にべしゃりと崩れ落ちた。
――――――――――――――――――――
343:
ばしゃりと、ペンキを叩きつけられたような感触。
それにより世界は赤く染まった。
鼻は風と、そして一秒前まで存在しなかった別の臭いを捕らえる。
「――――――」
べっとりと肌に感じる粘液質のそれを、理解できなかった。
何かは知っている。知っているけれど、それがそうだと認識する事を脳が拒否した。
――いや、本当に拒否していたのは。
そのぬめりとした嫌な感触の中に確かに存在する、僅かに弾力を持った、破片。
「――――――」
指が勝手に動き、頬を擦る。
にちゃり、と糸を引くような気持ちの悪い感触と、手指の腹に感じるぶよぶよとした質感を持つ小さな塊は。
「――――――」
首が、ゆっくりと捻られる。
――――見るな。
意志とは無関係に、けれど何か見えない糸に引かれるように、首はゆっくりと回転を続ける。
――――見るな。
視界の内に広がる真っ赤な世界が、じわじわとその範囲を広げ。
廃ビルの屋上に描かれた真っ赤な花は視界を埋めるように咲き誇り。
――――見るな。
その中に確かに彼女の残滓を発見して。
――――見るな――!
海原のすぐそばで体を大きく二つに割られた少女が大量の血液とその肉の破片を周囲に赤々とばら撒き散らばっていた。
346:
真っ赤な、真っ赤な、真っ赤な、
花が咲いていた。
いや、花ではない。
これは花弁だ。歪な楕円を描き、放射状に広がっている。
その付け根の辺りで、少女が一人分、散らばっていた。
周囲に飛び散り点々と赤を広げるそれらは、彼女の失われた部分だろう。
彼女からは右腕がごっそりと欠落していた。
いや、中途半端に胴につながったままの肉の帯がびろびろと伸び赤い液体の中に浮かんでいた。
僅かに三本。
本、という単位が通用する程度の質量で、彼女の右腕があるべき場所は形成されていた。
右肩から胸にかけてはばっくりと口を広げ、生々しい肉色の間から芽を覗かせるように見えるのは肋骨の断面だろうか。
それは本来あるべき場所まで届いておらず、その先にあったのであろう部分はきっと周囲の景色に混ざっているのだろう。
そして、開いた口。
脊椎と肋骨が辛うじてその形を止めた背に当たる部分からは中身が丸ごと吹き飛び、くりぬかれたメロンを髣髴とさせる。
ええと、あれだ。ホテルなんかで出る洒落たフルーツの盛り合わせに使われてる果物の皮でできた容器。
それをひっくり返して中身を全部ぶちまけたような、そんなイメージ。
人の、胸のところがごっそりと削り取られていた。
しかしその腰から下は比較的まともに形を止めていて、
がらんどうな胸部から覗く赤に塗れながらも新鮮な桜色を見せる臓物は寒空の下湯気を立てていた。
そして、首。
頚椎の周りにだけ肉が残り、棒のように細くなったその先。
顔が、残っていた。
けれど、どうしてだか一回り小さい。
その残された面影を見て、ようやく気付く。
口。
下あごがないのだ。
347:
そうして、人体をスプーンで少しずつ削っていったらこうなるのではないかという物体になった、少女だったものが。
海原のすぐ傍でばっくりと咲いていた。
「――――――――――」
足元に、魚の開きのように。
厚さを失い、平らになった少女が。
光を失った眼球は天を向き、しかし何も写してはいない。
「――――――――――」
ごうごうとなっていたはずの風はいつのまにか消えていた。
きらり、きらりとプロペラが光を反射する。
「――――――――――」
いや、風は吹いている。
その証拠に、風力発電機の羽は回り続けている。
風の音が聞こえないだけだ。
「――――――――――」
耳元で。
鳴り続ける音。
嗚呼、それは、
「――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――!!」
自分の声だ。
348:
「――――――――――!」
空気が震える。
「――――――――――!」
風の音は海原の喉の発する振動によってかき消され。
「――――――――――!」
真っ赤に染まった世界を塗り潰そうとするかのように。
「――――――――――!」
せめて彼女と同じく。
「――――――――――!」
喉よ割れよと言わんばかりに。
咆哮は、しかし吹き荒ぶ風によって、それ以上の世界を埋める事はなかった。
355:
風が啼く。
――――――――――、
震える空気。
――――――――――、
その中に。
――――――――――、
ノイズが混じる。
――――――――――ざ、
砂が流れるような音。
――――――――――ざざ、
それは屋上、崩れかけたエレベーターへと続く扉のあった場所にぶら下がるように残された。
――――――――――ざざざ、ざ、
社内放送用だったのであろう年代物のスピーカー。
『ざざざざざざざざ、ざ――――』
そして雑音が不意に途切れ、しかし稼動を示す小さな震えを残し。
確かな音が生まれる。
『――――――――――演算終了』
357:
声が、止んだ。
『――――狙撃手は道路に面した辺を十二時として二時四十八分方向』
震える喉はからからに渇き、しかし裂けてはいない。
『――――距離、七八八』
四肢の感覚はなく、しかし確かに地に足は付いている。
『――――上方、一度二十八分』
目は、水面を見上げるようにぼやけているが、光を受けている。
屹立する影。
見えるのは、きっと建物だろう。
『――――十八階です』
腕よ届けと。
振り下ろした。
「――――――――――――――――――――!!」
その刹那、海原の腕が伸ばされた方向にそびえていたマンションがぐしゃりと達磨落としのように三階分ほどまとめて崩壊し粉塵を撒きながら上の階が落下した
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