傭兵「この世で金が一番大事」僧侶「じゃありません」【その1】back

傭兵「この世で金が一番大事」僧侶「じゃありません」【その1】


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1:
 * *
傭兵「七百万だ。それ以上はまからん」
 目の前の傭兵さんは言いました。きっぱりと。そりゃもう、きっぱりと。
 酒場の椅子に座って、体はこちらに向けていますが、左手は丸テーブルの上のエールのジョッキから決して離そうとはしていません。飲酒を続けたいがために適当な返事をしているのではないはずです。……たぶん。
 ひとを何人か殺しているふうな顔がわたしをじっと見るものですから、思わず錫杖を握る手に力を籠めました。
 だめです。しっかりしてください、わたし。この方がこの辺りでは最も腕が立つと、斡旋所の方もおっしゃっていたじゃありませんか。
 酒場は殆どのテーブルが埋まっています。こちらに意識を向けている人はいません。いたとしても、傭兵さんの一睨みでそっぽを向いてしまうのでした。
 誰かに助けてもらおうだなんてこれっぽっちも思ってはいませんでしたが、流石に少し、心細くもなります。
僧侶「そっ、それにしても、七百万なんて!」
傭兵「一日七十万。十日で七百万。寧ろ安いもんだと思うがな。十日を超えたらその分は差っ引いてやるって言ってるんだ」
2:
僧侶「ただの護衛ですよ!?」
傭兵「『ただの』とあんたが思うなら、俺以外を雇うといい。こなしてくれるだろうさ」
僧侶「それは……」
 上ずった声だと自覚しています。どすの利いた声と顔つきに委縮しているのです、わたしは。自覚はあるのです、そうです。
 でも、怖すぎます。
 懺悔に来た盗賊の方だって、もっと優しい声をしていました。
傭兵「七百万だ。それ以上はまからん」
 同じことを傭兵さんは繰り返しました。七百万。傭兵事情に疎いわたしでも、それが法外な値段だということはわかります。
 にべもない対応に唇を噛み締めます。このひと、足元を見ようとしているのでは。心を覆うのはそんな疑惑の雲。
僧侶「聞きしに勝る金の亡者ですね……」
 斡旋所のおじさんが渋っていたのはこういうことだったのですね。実力は折り紙つき、されど性格に難あり。
傭兵「金を大事にして何が悪い」
僧侶「度を弁えるべきではと申し上げているのです」
傭兵「この世で金が一番大事だ」
僧侶「違います。お金で買えないものだってあります」
傭兵「少なくとも俺の腕は金で買える。貧乏人のあんたには手が出ないかもしれないけどな」
 厭味ったらしい笑みをこちらに向けてきました。わたし、自分の眉根が寄るのを理解しました。
3:
傭兵「どうした、貧乏人。払えないか」
僧侶「……はい」
 家財を売り、魔法銀行から貯金を下ろし、文字通り全財産がわたしの鞄の中には入っています。それでも金額は三百万程度。倍以上足りません。
傭兵「いいか、あんたはラブレザッハに行きたい。そうだな」
僧侶「はい」
傭兵「普通にいけばぶらり旅だ。街道沿いをずっと北上すればいいんだからな。が、今は事情が違う」
 エルフたちと魔王軍が小競り合いをしているから、でしょうね。
 傭兵さんは不満足そうに鼻を鳴らしました。ふん、と。
傭兵「道中大森林を抜けなきゃならん。あそこはエルフの村が点在している。魔物と間違われて殺されるなんてのはごめんだし、魔物に襲われて殺されるのもごめんだ。だから誰も通りたがらない。通りたくない」
僧侶「……はい」
 藁をもすがる思いでやってきたのです。
 誰よりも金に汚く、誰よりも無茶な依頼をこなす、このひとのところへ。
4:
 大陸を東西に横断し、人間の居住地域を南北に分断する大森林。そこが通れないとなれば、交易にも、派兵にも、大きな影響が出ます。というか、事実出ているのです。
 小麦は北部からの輸入ですから、当然パンの値段は高騰します。市場に流れる魚の種類も大きく減りました。隣国がこの機に乗じて攻め込んでこないとも限りませんが、兵力の投入だって難しい状態。
 名うての冒険者はそれでも大森林に足を踏み入れますが、良い噂はあまり聞きません。
 それでもわたしは。
僧侶「大森林を抜けたいのです」
傭兵「なら、あんたは俺を頼らざるを得ない。さぁ、さっさと金を払え。俺は忙しいんだ」
 お酒を飲むのに、でしょうか。
 そうです。確かにわたしは傭兵さんを頼らざるを得ません。が、無い袖は振れないのも確かなのです。
傭兵「金がないなら死ね。俺は貧乏人を相手にしない」
僧侶「そこをなんとか」
傭兵「俺に今まで『そこをなんとか』と言ってきたやつは何人もいる。だが、引き受けたことは一度だってないね」
5:
 ついに傭兵さんはわたしからエールへと視線をずらしました。それを一気にごくごくと呷れば、あっという間にエールは空になってしまいます。そして、おかわり。
 店員さんが新しいジョッキを持ってくるや否や、傭兵さんはそれに口をつけ始めました。
僧侶「お金はなんとかして必ず用意します! だから……」
傭兵「キャッシュだ。俺はキャッシュしか受け取らん。現物しか信用しないたちでな」
傭兵「それでも俺を納得させたいなら、現実的な支払計画を持ってこい。そこからスタートだ」
僧侶「……」
 わたしは覚悟を決めます。
 懐からお財布を取り出しました。中を改めても、当然七百万という大金があるはずもないです。
 それを勢いよくテーブルに叩きつけました。
 振動で跳ねたエールの水滴が、僅かに傭兵さんの顔に跳びます。彼は相変わらず不機嫌そうな、人相の悪い顔をわたしに向けてきていますが、そんなことは気にしていられません。
僧侶「いつまでこの街に滞在していますか」
傭兵「さぁな。根無し草だ。新しい雇い主が見つかれば、すぐにでも出発するさ」
僧侶「ということは、まだフリーなんですよね」
傭兵「……何を考えてやがる」
 ここで初めて傭兵さんは怪訝な……わたしと対等な目線で見てきました。
6:
僧侶「とりあえず、これがわたしの手持ち全てです。これを手付金として渡します。ですから、三日。三日だけいてください。その間に残りの四百万、稼ぎます」
傭兵「どうやって。カジノか? 悪いが博才にあふれているようには見えないな」
僧侶「体を売ります」
 ざわ、と酒場中の視線がこちらに向けられるのを感じました。
僧侶「街の東南、角にある一体、娼館ですよね。あそこで何とかしてみます」
傭兵「……本気で言ってるのか?」
僧侶「神に仕える者が、こんなこと言ってはおかしいですか?」
傭兵「あんたの神様は女衒だったりするのか?」
僧侶「背に腹は代えられません。わたしはラブレザッハに行かなければならないのです」
 なんとしてでも。
 どんな手を使っても。
 でなきゃ、沢山の人が死んじゃうから。
7:
傭兵「正気とは思えんな」
僧侶「並行して周囲の魔物も狩っていきます。斡旋所で手配書も見ました。近くにオークの棲家がありますね。少しは足しになるでしょう」
傭兵「ますます正気とは思えん!」
僧侶「支払計画を持ってこいと言ったのはあなたです」
傭兵「俺は『現実的な』と言ったんだ!」
 ついに傭兵さんは椅子を蹴倒す勢いで立ち上がりました。百八十はあるような長身に、図らずとも見上げる形に。三十近い身長差はそれだけで威圧感があります。
 負けじと見返しました。ここで負けるわけにはいかないのです。
 右手をすっとあげます。
僧侶「この酒場にいる皆さんの中で、誰か私の処女を買ってくれる方はいませんか?」
傭兵「なっ……バカ!」
僧侶「どんな要望にも応えます。後ろでだって、複数だって、犬とだっていたしますが」
傭兵「脅すつもりか」
僧侶「傭兵さんに通用するはずがないのはわかっていますよ」
 なるべく厭味ったらしく、にっこりとほほ笑んでみます。
8:
 と、そのとき、背後からずんぐりむっくりとした熊のような男性が向かってくるのがわかりました。足取りこそ荒っぽいですが、その指には豪華な宝石のリングがいくつも嵌められています。さぞかし成金なのでしょう。
熊男「おい、お嬢ちゃん。今の話、本当かい」
僧侶「お嬢ちゃんなんて。今は一人の女として見てください」
僧侶「それで――わたしを買ってくださるのですか」
熊男「まだ買うと決めたわけじゃない。が、なに、きみの態度ひとつで変わるというものだ。俺たちはまだお互いのことをよく知らないしねぇ」
??「やめときなよ」
 毛深い手とわたしの肩の隙間に細い刃が差し込まれました。危うく四本の指を落としそうになった男性は、ひっ、と短い声を上げて後ずさります。
??「そういうのは人間のする行いじゃないね」
??「欲深は罪業だよ。金のために春を鬻ぐのもまた然り。買うなんてもってのほかだ」
 騎士風の格好をした煌びやかな青年が立っていました。均整のとれた顔立ちに流れるような金髪。どこからどう見てもいいところのおぼっちゃまです。
傭兵「誰だ、てめぇ」
 言葉を取られました。誰でしょう、この人。
9:
騎士「僕は単なる騎士だよ。ちょっとばかりおせっかい焼きの、ね」
傭兵「おせっかい焼きなのはわかる。で、なんだ。あんたがこのちんちくりんを買ってくれるのか」
 なんと失礼な。ただ年齢相応の成長なだけじゃありませんか。
騎士「まさか、そんなつもりはないよ。僕はきみたちを説得に来たんだ。人が争っているのは見ていて気持ちのいいことじゃないからね」
 傭兵さんが小声で「ばーか」と呟きました。わたしに言ったのではないでしょう。恐らくこの騎士さんのハニースマイルが甘ったるすぎたに違いありません。
 だけど、このときばかりはわたしも傭兵さんと同じ気持ちでした。邪魔しないでいただきたい。
傭兵「争いじゃねぇよ。それともお前が七百万支払ってくれるのか?」
騎士「まさか。交渉したいんだ」
傭兵「交渉?」
騎士「あぁ。きみに決闘を申し込む。もし僕が勝ったら、相場通りの額で引き受けてあげるんだ」
傭兵「なんだこの自意識が肥大したナルシーおぼっちゃんは。お前の知り合いか」
 わたしは黙って首を横に振りました。それを見て傭兵さんは大きくため息をつきます。
10:
 わかります。こういう、困っている人を見過ごせないおせっかいな人はどこにだっているものです。
 僧侶と言う職業上、わたしだってよく施しを行いますが、ここまで見境なしじゃあありません。ありがたくはあるのですが、余計に事態を混乱させているだけのような気もします。
傭兵「俺が勝ったらあんたは何してくれるんだ」
騎士「この銀貨をあげよう」
 騎士さんの手の中で鈍く光る銀貨。一本の剣と、天使の両翼が刻印されています。
 ……わたしの記憶が間違ってなければ、これ、王家の紋章じゃないですか?
 周囲の人間はみんな凍り付いています。この銀貨を持っているということは、分家筋、もしくは直下の貴族に連なる超エリートなのでは?
 売っても値段のつくような代物じゃありません。いや、値段をつけられる代物ですらありません、とも言えます。
 傭兵さんは目をまんまるくしていましたが、やがて満足そうににやりと笑いました。その表情には、けれど依然驚きが残っているようにも見えます。
傭兵「……お前、バカか」
騎士「何とでも言いたまえ。要は負けなければいいんだろう?」
 容易く賭けるにはあまりに重要すぎる品物です。贋物でしょうか……いえ、王家の紋章を偽造するのはあまりにハイリスク。こんなところで見せびらかせるものではないはずです。
騎士「さぁ、外に出たまえ、傭兵くん。騎士道精神の人のなりと呼ばれた僕の実力を見せてあげようじゃないか」
 言葉を受け、傭兵さんはにんまりと笑って、唇をぺろりと舐めました。
11:
※ ※ ※
騎士「ばかな……有り得ない……」
 がっくりと肩を落とし、地面にひざまずいた自意識肥大ナルシーおぼっちゃんは、俺に負けたことが依然信じられないようだった。愚か者め。
 悪くない太刀筋だった。魔法の詠唱もい。人並みが相手であれば完勝もできただろうに。
傭兵「俺の勝ちだな。銀貨は頂いていくぞ」
騎士「くっ……」
傭兵「騎士は嘘をつくのかな? それがお前のいう騎士道精神なのかな?」
傭兵「いやぁこの国の騎士道精神は俺の知っているそれとはだいぶ違うようだ、がっはっは、まったく残念だよ!」
 煽る煽る。話をこんがらせてくれたお礼位はしてもバチはあたるまいさ。
 騎士は憎らしげに俺を見ていたが、余裕ぶった笑顔をようやくその顔に取り戻す。
騎士「わかった。銀貨をあげよう」
 懐から王家の紋章が刻まれたそれを獲り出し、そして手渡す。
僧侶「え?」
 ちんちくりんに。
12:
傭兵「おい」
騎士「話が違う、かい?」
傭兵「舐めてんじゃねぇぞ」
騎士「僕はあげる、としか言っていない。誰に、とまでは明言していないはずだよ」
傭兵「ガキか」
 まるで子供の言い分だった。
 騎士道精神の人のなりはどこへ行ったよと思う。が、そもそも確証もなしに安請け合いをしたのが間違いだったのだと今更悔やんだ。よもやこんなこすい手を使ってくるとは。
 聴衆に訴えかけるか? ……いや、酒場にいた人間はみなちんちくりんに同情的だ。彼女の肩を持つことを明言はしないにせよ、だからと言って俺を助けちゃくれないだろう。
 なら、やはりいつもどおりか? 約束破りには剣を抜くか?
傭兵「冗談もほどほどにしておけよ、ガキ」
騎士「僕と同じくらいに見えるけれどね」
 剣すらまだ抜くつもりはないにせよ、圧力を存分にこめて騎士へと近づく。が、奴は怯んだ様子もない。
 頑固なタイプだ。すぐにそう判断した。そして自己陶酔が過ぎる。こういうのが相手にして一番靡かず、面倒くさいことを俺は知っている。
13:
僧侶「いいんですか?」
 素っ頓狂な声をあげる僧侶だった。あいつの手に銀貨が渡るのは、業腹だが赦そう。しかしあれを売り払われると困る。
 欲しいのはコネクションで、銀貨はその証左となる。この世は金が全てだが、後ろ盾のない金は危険に過ぎるからだ。まさかこんな辺鄙な酒場で僥倖が転がり込んでくるとは、と甘い期待は打ち砕かれたけれど、一度見てしまった銀貨を手放すのは、流石に惜しい。
 しかし、まだチャンスは残っているというべきだろう。
 限りなく癪だが。
傭兵「わかった。その銀貨と引き換えだ。お前に雇われてやるよ」
 七百万を積んでも銀貨は手に入るまい。銀貨の価値は人それぞれで、ちんちくりんには全く用をなさないと思われたが、俺には喉から手が出るほど欲しいのだ。
 ちんちくりんは――いや、雇い主をそう呼ぶのは流石にまずいだろう。僧侶はこちらをじっと見つめている。
 足元を見られるか、と一瞬躊躇したが、なんてことはなかった。彼女は俺に気軽に銀貨を渡し、にっこりとほほ笑む。
僧侶「これからよろしくお願いいたします」
 そして自ら名乗った。
 大陸南側によくある名前だった。
 ありきたりで、不思議と語呂のいい、転がるような音だった。
傭兵「……こちらこそ、雇い主サマ」
 俺は名乗らなかった。
14:
* * *
 お礼を言おうと振り向いたところ、あの騎士さんはいなくなっていました。周囲の人に聞けば、いつの間にか消えていたということで、私は忘我を悔やみます。このご恩はいつか返さないといけません。
僧侶「それで、名前は?」
傭兵「あ?」
 眉を顰められました。が、尻込みをこらえて尋ね返します。
僧侶「それで、名前は?」
傭兵「……」
 ぷい、と変な方向を向く傭兵さんです。名乗りたくない、ということなのでしょうか。
 このご時世珍しくは有りません。名うての傭兵の彼と言えど、その実流浪し漂着したものに違いはないのです。きっと口にはできぬ事情もあるのでしょう。
 ひとまず納得した私は彼を手招きし、私の宿屋へ連れて行くことにしました。とにかく契約は成立です。ならば今後のプランを話し合わなければいけません。
 六畳の板張りの部屋に、ベッドと机を置いただけの質素な部屋です。黴臭さが気になるのか、傭兵さんはしきりに洟をすすっています。
15:
 床に直に腰を下ろした傭兵さんは、懐から羊皮紙を取り出しました。紐解けばそれはどうやら地図のようです。しかもかなり詳細な。これだけで余程の値段はするでしょう。
傭兵「まず契約の確認だ。俺はお前をラブレザッハまで連れて行く。いいな」
僧侶「はい」
傭兵「その前にまず確認したいことがある。『連れて行く』の定義だ。『連れて行く』という言葉には当然護衛も含まれるという解釈であってるか」
僧侶「……そうですね。はい」
傭兵「お前はどれくらい戦える?」
僧侶「え?」
 予想もしなかった質問が飛んできて、わたしは思わず声を挙げました。
 しかし傭兵さんは、逆にわたしのその反応こそが予想していなかったと見えます。怪訝そうな瞳をこちらに向けてきます。
傭兵「お前を護衛するのはいい。が、お前自身もある程度――それこそ俺の足手まといにならず、自分の身は自分で守れないと、大森林を抜けるなんて到底無理だ」
 到底無理でもやるんだろうけど、あんたは。傭兵さんはぼそりと言いました。そのとおりです。
傭兵「俺はお前に雇われてるし、任務としてお前を護衛する。が、四六時中じゃない。それとも風呂に入ってる時、用を足してる時、俺も一緒にいるか?」
 わたしはぶんぶん首を振ります。そんな羞恥に耐えられるはずがありません。
16:
 大きく息を吸って、吐きます。
 戦えるかと傭兵さんは尋ねました。自衛できるか、と。ならば答えはイエスです。
 かばんの中から重厚な鉄の塊を取り出しました。
 ひんやりとした鉄の冷たさ。血の通っていないものが、人間の手によって血の通ったものになるという点では、信仰と似ているのかもしれません。
傭兵「……拳銃か。何とも物騒だな」
僧侶「物騒な世の中ですから」
傭兵「武装くらいはすると。僧侶でも」
 一瞬韻を踏んだジョークなのだか迷いました。傭兵さんは真面目な顔をしているので、わたしは曖昧に笑っておきます。
傭兵「じゃあ魔法はどうなんだ。回復、解毒、解呪、一通りは使えるんだろう?」
 わたしはまたも曖昧に笑いました。
僧侶「あの、それが、言いにくいのですけど……」
17:
※ ※ ※
傭兵「はぁ? 使えない?」
 いましがた聞いた驚愕の事実を俺は信じられないでいた。
 この僧侶――いやちんちくりん、回復も解毒も解呪もできないだって?
傭兵「そんなのは僧侶じゃねぇ。ヤブだ。モグリだ」
 俺の知り合いにも僧侶がいたが、落ちこぼれのそいつでさえも、回復呪文は使えたぞ。
僧侶「ちっ、違うんです! 使えますけど、かけることはできないといいますか!」
傭兵「はぁ?」
 ますますわからん。
僧侶「ですから、使えるんです。でも、他人にはかけられなくて……」
傭兵「なんだそりゃ。僧侶なんだろ。他人にかけられないなら、僧侶じゃなくて僧兵だな。あの自己鍛錬しか能のないバカどものお仲間ってわけか」
 ちんちくりんはただでさえ小柄な体をさらに恐縮して正座する。どうやら怖がらせてしまったらしい。が、しょうがないだろう。こんなのは予想外だ。
 いや、落ち着け、俺。こんななりでも雇い主だ。それに戦闘力の無い金持ちを護衛したことなんて一度や二度じゃない。要領は変わらないのだ。よし、よし、うん。
僧侶「わたし、魔力を外に出す才能が決定的に欠けてるらしくて……」
 遠慮がちに僧侶は言った。
18:
僧侶「縫製はできます。維持も充填も、自慢じゃないですけどアカデミーではトップでした。けど、放出がどうしてもできなくて」
 魔法の理論に詳しくない俺でも、縫製、維持、充填、放出の四項目くらいは聞いたことがあった。
 縫製――魔力を編みこんで特定の性質を与える。
 維持――与えた特定の性質を維持する。
 充填――体内の魔力経路を巡らせる。
 放出――魔力経路から魔法を放つ。
 僧侶は放出ができないという。放出が欠けるということは、魔法を体内に巡らせ、自身に働きかけることはできても、他人に恩恵を与えられないということに他ならない。そしてそれは、僧侶としては致命的に過ぎる。
 間を開けず、「だから」と僧侶が続ける。
僧侶「これなんです」
 そう言って拳銃を指し示す。オートマチック式の、何の変哲もない拳銃である。
僧侶「この拳銃にはわたしの魔力経路を模した構造を組み込んであります。その構造を通して、わたしは弾丸に魔法を装填して、撃ちだすことができるんです」
19:
 なかなか面白いじゃないか、と素直に思った。
 マジックアイテムのワンオフ化だ。魔力を通せば誰でも固定の呪文が使えるあれらとは異なり、柔軟性を持たせてある。回復の際は回復呪文を、解毒の際は解毒呪文をそれぞれ装填した弾丸を撃ちだすのだろう。
 ……撃ちだす?
傭兵「聞きたいんだが」
僧侶「はい」
傭兵「銃で頭を撃ち抜かれたら、普通の人間は死ぬよな?」
 僧侶は俺の質問の意図を理解しきれていないようで、頭の上に疑問符を飛ばしながら、それでも頷く。
僧侶「死ぬと思います、けど」
傭兵「頭じゃなくても、手でも足でも、撃たれたらすっげぇ痛いよな?」
僧侶「やっぱり痛いんじゃないですか」
傭兵「回復呪文を籠めた弾丸で撃たれたらどうなる?」
 僧侶はない胸を張って答えた。
僧侶「大丈夫です! 痛覚の少ないところを狙って撃ちますから!」
 そういうことじゃねぇよばか。
僧侶「それにですね、撃たれた分も含めて治癒しますから!」
 そういうことじゃねぇって言ってんだよ。
20:
 叫びださないのが奇跡だった。奇跡のような努力の賜物だった。
 ということはなんだ。つまりあれか。こいつは他人を治すとき、いちいち拳銃をぶっ放して、他人に弾痕を作らないといけないわけか。
 撃たれたところも結局治るからいいやと。
 あほすぎる。
傭兵「わかった。お前は戦力には数えない」
僧侶「な、なぜですか!?」
 そこまで銃の腕に自信があるなら簡単には死なないだろう。魔法も、話を聞く限りは自分に対してなら問題なく使えるようだし。
 いまだに僧侶はどうしてどうしてと尋ねてくるが、俺はそれをまるきり無視した。話がわき道にそれている。軌道修正をして、今後のことを話し合わなければいけない。
 俺は羊皮紙を指さした。
傭兵「大森林までは街道を通っていくのがいい。一度南下して街道に合流、北上したのちに大森林だ。大森林を抜ける街道は農道、山道、沿岸道に大別できるが、この場合は農道を抜けていくことになる」
僧侶「でも」
 僧侶が俺を見やる。その意図を察し、頷いた。
傭兵「そうだ」
傭兵「大森林とこっちの領土の境目に、敵の砦がある」
21:
 大森林にすむエルフは決して人間に対して友好的ではないが、少なくとも敵対してはいない。彼らの技術力や資源は俺たちにとって必要不可欠で、人間側――特に隣接し直接取引をする俺たちの国は大々的にエルフへの援助を申し出ている。
 が、当然魔王軍がそれを許すはずはなかった。交易の要衝となる地点には砦が立てられ、人間側とのにらみ合いが続いている状態にある。
 砦の数や魔物の質は魔王領のある西域に近づくにつれて上昇する。残念なことに俺たちが現在いる地点はかなりの西寄りだった。覚悟を決めなければ。
僧侶「どうにかかわしていけないでしょうか」
傭兵「幸いこっちは少人数だ。山越えの要領で行けば、案外何とかなるかもしれんが」
 それは希望的観測だろう。決して現実的な展望とは言い難い。
傭兵「あそこの砦はオークが住んでいる。数だけは多いが、練度は大して高くない。この辺りは田舎だからな、気も緩むさ」
僧侶「知ってるんですか?」
傭兵「一度な」
 意図的にずれた答えを返して、俺は地図上を指でなぞる。
傭兵「エルフの方には伝手がある。大森林に入ってしまえばこっちのものだ。あそこ全てがエルフの領土と言うわけでもない、とやかくは言われないだろう」
 人間の村落も点在しているはずだ。うまく安全地帯を渡り歩けば、抜けるのはそう難しくない。
22:
 そこは完璧に運次第であって、不安要素もそれなりにはある。が、決してゼロにできない不安要素に頭を悩ませるのも徒労だろう。
僧侶「魔王軍とエルフたちの争いはどうなってるんでしょうか……」
傭兵「聞いた感じだとエルフが有利らしいな。けど、どうやら決め手に欠ける。泥沼化するだろう」
僧侶「早く終わればいいのですけど……」
 恐らく彼女の都合だけを考えて言っているのではないのだろう。なんとなくそんな気がした。
傭兵「ラブレザッハに着いたら契約は終了。それでいいな。引き換えに銀貨を頂く」
僧侶「はい、その条件でいいです。どうせこの銀貨、わたしには必要のないものですから」
 なら今すぐ俺にくれよ、とは口が裂けても言えない。
僧侶「あと、付け足しがあるのですが」
 意志の強い瞳がこちらを向いた。
 これだ、と俺は思った。
 この瞳。身売りを自ら言い出した時と同じ、梃子でも動きそうにないこの頑なな態度。これがこいつの本質であろうことはすぐに察しがついた。
23:
 決して利口ではないはずだ。不器用で、鈍くさい。算盤を弾けず、融通が利かず、曲がることのできない愚かしさを内包している。
 けれど、それは同時に曲がらない強さの証左でもある。
 強かな女とは程遠い。それでいて強い女。
 俺の苦手なタイプだ。金で転ばない人間は嫌いだ。
 俺は「は」と口から漏れたのを、自分の耳で聞いて初めて知覚した。
傭兵「どうせ断れない立場さ、俺ァ」
僧侶「そうですか。それは助かります」
傭兵「それで」
僧侶「旅の途中、わたしがすることに、黙ってついてきてほしいのです」
 不穏な言葉だ。
傭兵「……どういうことだ」
僧侶「わたしは、多分、誰かを助けてしまうと思うんです」
 まるで自分の悪癖を懺悔するかのような僧侶だった。
僧侶「子供のころから路頭に迷う人たちを見てきました。苦しむ人たちを見てきました。彼らの一助になりたいのです。子供のころは非力で無力でしたけど、でも、今のわたしなら、少なくとも何かはできるはずです」
僧侶「困っている人を放ってはおけません。なんとかしてでも、どうにかしてでも、肩を貸して、手を差し出して、足を運んで、口をきいて、なんとかしてあげたいと思うんです」
 思ってしまうのです。
24:
 僧侶はそこまで一気に捲し立て、だから、と続ける。
僧侶「傭兵さん、あなたの噂は聞いています。守銭奴。金の亡者。高い金額を吹っ掛ける、資本主義の手先」
 資本主義の中で生きているやつから「資本主義の手先」と言われるのは、ダブルスタンダードな気がしないでもないが。
 まぁ、聞き流すことにしよう。言われ慣れている。それに、自覚だってある。
僧侶「わたしは全く理解できません。腹が立ちます。気持ちが悪いです。きっとあなたも、わたしのことをそう思っているのかもしれませんが」
僧侶「けれど、今の雇い主はわたしです。わたしが誰かを助けたくなった時、助けなければいけない誰かに出会ったとき――遭遇してしまったとき、あなたの力も借りたいのです」
 高潔な生き方だ。笑い飛ばすにすら値しない。
 くだらない。
 が、しかし。
傭兵「雇い主はあんただ。付き合うさ」
僧侶「ありがとうございます」
 深々とお辞儀をする僧侶。
 こんな守銭奴にだって、こんな金の亡者にだって、こんな資本主義の手先にだって。
 嘘がないから嫌になる。俺の力を借りたいことも、俺のことが嫌いなことも。
 空気を入れ替えたかった。物理的ではなく、心理的な。
25:
 腰を上げる。
傭兵「それじゃ、いつ出発する? 一通り準備をしてからでいいか?」
僧侶「いえ、すぐに発ちましょう。必要になりそうなものはある程度用意してあります」
 それは用意のいいことで。
 宿屋をチェックアウトして外へ出る。快晴。俺は太陽に目を細める。
 これが行く末の暗示であればいいのだが。
34:
* * *
 日もとっぷり暮れて、松明の明りが遠くにぼんやりと見えてきました。街……というよりは村、もしくは集落といった規模でしょうか。
 助かりました。あと一時間歩いてもつかなければ野宿になるところだったのです。想定通りのペースで進めているようです。
傭兵「よかったな」
 ぼそりと傭兵さんが言いました。わたしの考えを見透かされたのでしょうか。
僧侶「傭兵さんは、野宿は慣れてますか?」
傭兵「まぁな。街から街を渡り歩いてれば、自然と身に着いちまう」
 最初の町を出発してから六時間は歩いたでしょうか。最中、何度か会話を試みましたが、傭兵さんはぶっきらぼうな返事をするばかりです。
 性格と言うのもあるのでしょうが、それ以上に、「俺はお前の話し相手として雇われたんじゃない」という意味が強いように感じられました。これを職業の矜持と受け取っていいものか、わたし、悩みます。
 いえ、でも、会話をしなくて正解なのかもしれません。わたしと傭兵さんのスタンスの違いは、最初の出会いからしてよくわかっています。剣呑な雰囲気にともすればなってしまうことを考えれば……。
 お金が大事だというのはわかります。お金がなければ宿屋にだって泊まれないわけですから。けど、お金が全てだと言って憚らない傭兵さんは、どうしても好きになれません。
35:
傭兵「止まれ」
 前を歩いていた傭兵さんが手でわたしを制します。何かを睨みつけるような視線。
 わたしもそれを追うと、松明の明りが空中に浮いているのが見つかりました。
 ……違います。浮いているのではありません。櫓です。畑を挟んでぽつぽつ点在している民家のエリアを集落とするなら、集落をぐるりと囲むように、八方向に櫓が立っているのです。
僧侶「なんでしょうか、あれ」
傭兵「わからん。が……嫌な感じだ。嫌な感じがする」
 その「嫌な感じ」はわたしにもわかります。空気が帯電しているのです。そして肌で破裂しているのです。思わず身を竦め、足を止めさせる何かが、あそこにはあります。
傭兵「引き返すぞ」
 素早い決断でした。
 それはたぶん、傭兵としての彼の経験がそう判断させたのでしょう。彼の生存本能が警鐘を鳴らしているのです。
 ですが、
僧侶「承服しかねます」
傭兵「はぁ?」
36:
僧侶「もし何かがここで起きているのだとすれば、わたしたちにも何かができるかもしれません」
 夜道をさらに進もうとしたわたしを傭兵さんは止めます。
傭兵「あほか。こんな早々に時間を喰ってられるかよ」
僧侶「それでも、です」
 わたしは傭兵さんを見つめました。傭兵さんもまたわたしを、その存外にきれいな瞳で見つめています。
 折れたのは傭兵さんでした。心苦しくもありますが、雇い主はわたしで、出発する前に交わした取り決めがあります。ここは我慢してもらわないと。
傭兵「わかった、わかったよ」
傭兵「とりあえずお前は俺の後ろにいろ。なにがあるかわかったもんじゃねぇ」
 傭兵さんの広い背中に隠れながら、わたしたちは集落の中へと入っていきます。
 ひゅおん、と風を切る音。
 同時に傭兵さんがわたしを突き飛ばします。花の咲き始めた芋畑に頭から突っ込みました。
 なるべく素早く体勢を立て直せば、見えるのは地面に突き刺さった一本の矢。
??「誰だ。それ以上近づくな」
 女性の声でした。熱情が声からにじみ出ています。
 傭兵さんは剣の柄から手を離し、無抵抗を示しました。
37:
傭兵「俺たちは旅のものだ! 宿を借りたい!」
 どこに相手がいるのかわからないので傭兵さんは声を張り上げます。
 僅かな間。そして、ざくざく土を踏みしめる音。
??「手荒な歓迎、申し訳ない」
 姿を現したのは弓を背負った女性です。褐色の肌。灼熱色の耳飾り。何より、獲物を目敏く探しているかのような瞳。
 狩人。一瞬でわたしのなかにその文字が浮かんできます。
狩人「諸事情あって厳戒態勢を敷いている。どうか許してほしい」
傭兵「いや、気にしないさ。あの矢は当てるつもりじゃなかったようだし」
 遅れて遠くから数人の人影が見えました。男衆。一人だけおばあさんもいます。
狩人「長老」
 長老と呼ばれたおばあさんは笑みを崩さずに歩み寄ってきます。
長老「この時期に、こんな場所に、旅の方とは珍しい」
傭兵「宿を借りたいんだが」
僧侶「お力になりたいんですがっ!」
 わたしは叫びました。遮蔽物の無い平地では、わたしの声がどこまでも響いていきます。
38:
 眼をまん丸くしている狩人さんと長老さん。いち早く復帰した狩人さんが、訝りながら尋ねます。
狩人「力……?」
僧侶「えっと、その、何かがあったんじゃないんですか?」
狩人「何を言ってるんだ、お前たちは」
僧侶「だから――」
 あぁもう、なんでわかってくれないんでしょうか。
 すると、わたしを押しのけて傭兵さんが前に出ました。
傭兵「こいつは僧侶。俺は傭兵。で、こいつは俺の雇い主。趣味が人助けなもんで、ちょっとでいいから話をきかせちゃもらえませんかね。もしかしたら、何かお手伝いできるかも」
 意外でした。傭兵さんが自ら、こんな儲けの無い、旨味の無い話に首を突っ込むとは思っていなかったもので。
 しかし狩人さんの訝り顔は戻りません。
狩人「……あたしたちのことはあたしたちだけで解決する」
僧侶「で、でも」
狩人「宿は貸そう。が、手は借りん」
39:
 傭兵さんが笑います。それも、にやぁと。
傭兵「そういうことらしい。じゃ、しょうがねぇなぁ。お言葉に甘えようか」
 傭兵さん。
傭兵「いやぁ残念残念。ほら、行くぞ」
 傭兵さん。
傭兵「自分たちのことは自分たちでやる。これも一つの生き方だな」
僧侶「傭兵さん!」
傭兵「なんだ」
僧侶「町を出る時に言ったはずです!」
傭兵「確かにな。けど、この人たちは俺たちの力は必要としていないらしい。だから俺たちも手を貸さなくていい。お互いがハッピーだろ」
僧侶「だからって見捨てていけると思いますか?」
傭兵「見捨てるとは言い方が酷ェな。自分のことは自分でやる。素晴らしいじゃねぇか」
僧侶「それにしたってこの警戒態勢は異常な事態です」
傭兵「非常事態だからな」
 あくまで楽しそうに傭兵さんは言いました。人を喰った態度。いけ好かない態度です。
40:
狩人「あの」
僧侶「あ、はい!」
 すっかり忘れていました。これから宿に行かなければならないのです。というか、それが目的だったのに。
長老「……」
 長老さんが片目だけでこちらを見ています。気になりますが、なんと言えばいいのかもわからなくて、わたしたちは宿屋へと向かいました。
 通された部屋は当然ながら個室でした。こういう言い方はよくないのでしょうが、粗末な部屋です。物置が近くにあるのかどこか饐えた臭いがします。
 わたしは荷物をおろし、一息つくのもそこそこにして、疲れた足をなんとか動かします。
 宿屋の主人は恰幅のいい女性でした。彼女に長老さんの家を尋ね、礼を言って向かいます。
 傭兵さんはきっと手伝ってはくれないでしょう。発つ時こそああ言ってはいましたが、本心は嫌で嫌で仕方がないはず。しつこく頼めばあるいは、というところだとは思いますが、無理強いをするつもりもありません。
 彼の仕事内容はわたしを目的地まで護衛すること。それ以外はお金にならない仕事なのですから。
41:
僧侶「お金。お金、お金、ですか」
 思考が口の端から漏れていきます。
 お金は必要なものです。しかし大事なものではありません。
 言うなれば必要悪。
 お金がなくなったって人は死にません。飢えて死ぬのです。
 もしくは、貧すれば鈍す。心が死にます。
 満ち足りたお腹と心のために、人はどうして醜く争うのか。
 強欲。
 七つの大罪。
 打倒すべき存在。
 社会の癌。
42:
 取り留めのない思考を打ち破ったのは、ぬっとあらわれた狩人さんでした。
狩人「おい、あんた」
僧侶「え、あ……なんですか」
狩人「旅してるって言ってたな。この先に用があるのか」
僧侶「はい、ラブレザッハまで」
 狩人さんの眉が動きます。
狩人「ラブレザッハ……大森林を越えて?」
僧侶「はい。そのつもりです」
狩人「そうか。どおりであの男を連れているわけだ」
僧侶「知り合いですか?」
狩人「知り合ってはいない。一方的にあたしが知っているだけさ」
 確かに、傭兵さんのことを語る狩人さんの口調は、決して友好的なそれではありません。
 あぁ、そっか。わたしは一人納得しました。
狩人「話には聞くよ。よくね。金のためなら何でもする、最低のくそやろう」
僧侶「実力がある分手に負えない、ですか」
 悪評ぷんぷんですもん、あの人。
 それでも依頼があるということから、実力は推して知るべし、なんでしょうけど。
43:
狩人「正直なところね、あんたらには手伝ってほしいんだ。けどあの男がいる。どんだけ吹っ掛けられるかわかったもんじゃない」
狩人「大森林を抜けるつもりなら、魔王軍とエルフたちの戦争事情は、ある程度知っているんだろう」
 わたしは頷きます。調べて調べて、その結果一人じゃ無理だとわかったから、傭兵さんを頼ることにしたのです。
狩人「この集落からちょっと離れたところにゴブリンの棲家があってさ。戦争が始まって少ししてからかな。多分、物資が不足してるんだろうね。あたしらのとこまでやってきて、作物を荒らしたり、蔵を襲ったりするようになった」
狩人「追い払えないわけじゃない。でも数が多くて。ただでさえ大森林が抜けられないからひもじい思いしてるっていうのに、困ったもんだよ」
僧侶「わたしも手伝います」
狩人「冗談はやめときな」
僧侶「冗談じゃありません」
 狩人さんは目をまん丸にして、一拍の空白の後、笑いを噛み殺しました。
狩人「くっくっく。気持ちだけもらっておくよ」
僧侶「ほ、本当に冗談なんかじゃ――」
狩人「お嬢ちゃん、脚が震えてるじゃない」
 確かにわたしの脚は震えていました。
44:
――そこからどうやって宿へと戻ったかは、あんまり覚えていません。
 ただ無性に悔しくて悔しくて、拳を固く握りしめていました。
 魔物と戦ったことがないわけではありません。瘴気に中てられた猪や犬のほか、低級の魔物……スライムとか、それこそゴブリンだって退治したことはあるのです。
 ですが今度のそれは退治ではなく、討伐。人が聞けば言葉遊びだと笑うでしょうか? それでもわたしには、その間には深く大きな川が流れているように思えて仕方がないのでした。
 わたしは宿に戻ったその足で、自室ではなくその隣、傭兵さんの部屋の扉をあけました。ノックもせずに。
 どうやら剣の手入れをしていたらしい傭兵さんは、最早体に沁みついた動作なのでしょう、剣の柄を握ってこちらに構えていました。
傭兵「……なんだ、いきなり」
 そう言って剣の手入れを続けます。
僧侶「ゴブリン退治を手伝ってください」
傭兵「あぁ、棲家があるんだってな」
僧侶「知ってるんですか?」
傭兵「さっき聞いた。長老のばあさんからな。お前と同じことを言っていたよ」
僧侶「……それで」
傭兵「断った」
 でしょうね。
45:
傭兵「よりにもよって金がないとかぬかしやがる。ま、確かに金はなさそうな集落だがな。金がないなら用はない」
僧侶「……あの人たちは、困っています」
傭兵「どうした。歯切れが悪いな」
僧侶「助けてください。お金なら、なんとかします」
傭兵「断る」
僧侶「だって人が困っているんですよ!?」
傭兵「お前は!」
 わたしの声をかき消す怒声に、思わず身を竦ませます。
傭兵「……人が困っているのがここだけだと思っているのか?」
 まるで泣き出しそうな傭兵さんでした。
僧侶「……」
 ……わたしは考えます。
 考えて、それでもやっぱりその問いの意味が分かりません。
 すでに傭兵さんの顔つきは元に戻っていました。
傭兵「いいか、お前のお遊びに俺をつきあわせるな。お前は俺の雇い主であって飼い主じゃない」
傭兵「消えろ」
僧侶「……」
傭兵「消えろ」
 流石に部屋を出ないわけにはいきませんでした。
46:
 翌日も快晴でした。農村の朝は早いです。窓からは芋畑に繰り出す人々の姿が見えました。
 朝食はすでに済ませてあります。トーストとふかしイモ、根菜のスープ。いつ出発するかを傭兵さんと話そうと思いましたが、彼はすでにチェックアウトしたようでした。
 一声かけてくれればいいのに。
 主人に聞けば、どうやら長老のところへ向かったとのこと。わたしも向かってもいいのですが、昨日の今日のことで、あまりにも顔が合わせづらいです。
 逡巡して散歩することにしました。
 道具屋で消耗品を買い揃え、水を汲もうと川の方へと足を運びます。農道を歩けば長閑な風景。ただ、少し上を向けば、櫓の上に人がいるのが見えるのだけ非日常でした。
 川はきらきらと細かく輝いていて美しく、けれど残念ながら、いまのわたしにはその光景に酔いしれるだけの余裕はないです。
狩人「なにやってんの」
 重たそうな甕を二つ担いだ狩人さんでした。背中には弓、腰には大きめの笊が括り付けられています。彼女も水を汲みに来たのでしょうか。
僧侶「川を……」
狩人「川?」
僧侶「はい、川を、見ていました」
狩人「川」
 繰り返して、狩人さんはもう一度、「そっか、川か」と呟きました。
47:
狩人「今日にはここを出るの?」
僧侶「そのはず、ですけど……」
 どうしても言い切れません。心残りがあります。
狩人「あたしらのことは気にしなくてもいいよ。傭兵も言っていたろ。自分たちのことは自分たちでする」
 見透かされたような物言いに――いえ、事実見透かされているのでしょう。わたしははっと狩人さんを見上げ、逸らします。
 自分たちのことは自分たちでする。そう言われてしまえば、わたしは何もできません。傭兵さんは喜ぶのでしょうが。
「いーや、その必要はないぞ」
 ぬっと長身がわたしたちの間に割って入りました。
 傭兵さんです。
狩人「なに言ってるんだい、あんた」
僧侶「だって傭兵さん、昨日は……」
傭兵「昨日は昨日、今日は今日だ。光栄に思え。お前らのために、俺のこの手をふるってやろう、がっはっは!」
 わざとらしく大口を開けて笑う傭兵さんでした。だいぶ似合ってます。
48:
狩人「長老か」
傭兵「そうだ。あのばあさん、俺にしつこく頼みやがる」
狩人「あんたの悪評は聞いている。いくらだ。うちにそんな金があるはずがない」
傭兵「三十万」
 指を三本突き出して、傭兵さんは言いました。
僧侶「さんじゅう……」
狩人「……まん?」
 驚きでした。それじゃあまるで正規の料金じゃないですか!
狩人「……驚いたな。あんたは金にがめついと聞いていたけど」
傭兵「何を言っている。俺ほど誠実な人間はいないぞ」
 欲望にね。
傭兵「追加料金も一切ない。三十万ぽっきりだ」
 狩人さんはしばらく傭兵さんの意図を読もうとしていたらしいですが、じきにそれを諦めます。肩を竦めて、
狩人「まぁ、長老が言うなら仕方がないね。あたしの出る幕じゃないさ」
 そう言って去っていきました。
49:
僧侶「……」
 じっと傭兵さんの顔を見ます。じっと。恨み節を精一杯こめて。
 気づいていないのか無視されてるのか――恐らく後者でしょうが――傭兵さんはあっけらかんと「どうした?」と聞くのです。
僧侶「……大した心変わりですね。宗旨替えですか」
傭兵「はっ」
 鼻で笑われました。不愉快です。
傭兵「何を言ってんだ。俺に一切ブレはない」
僧侶「なら、なんで手伝うなんて。しかも三十万って。わたしのとき、七百万吹っ掛けた人のセリフとは思えません」
傭兵「馬鹿め。いい言葉を教えてやろう。世の中には先行投資という言葉がある」
僧侶「これが先行投資だと?」
傭兵「お前にはわからないかもしれねぇがな」
 当然だと思いました。わたしは金の亡者ではないのですから。
 依然わたしと傭兵さんの間には不理解という大河が流れています。けれど彼はそれで説明責任は果たしたというふうに踵を返し、悠々と歩き始めます。
 慌てて後を追いました。
僧侶「わかりました。一緒にゴブリンを倒すなら、文句はないです。ですが準備は? 日時は? 計画はあるんですか?」
傭兵「阿呆。ゴブリンの棲家を強襲するのに大した準備も計画もいるかよ」
 あっさりと言います。ただの傲慢なのか、経験に裏打ちされた歴戦のそれなのかは判断しかねました。
 傭兵さん個人の戦いぶりは一度、騎士さんと戦ったのを見ただけです。実力のほどはわかっていますが、どうでしょう。
傭兵「さくっとやっちまおう。落ちてる金は拾う主義だ」
52:
※ ※ ※
 決行は深夜だと伝えておいた。二日泊まるのは予定外だったが、これは僧侶も望んでいること。文句は言われないだろう。
 剣を研いでいると扉がノックされる。俺を尋ねるのは僧侶しかいない。短く促す。
 静かに入ってきたのはやはり僧侶だ。小さな体をいつも以上に小さくしてこちらを窺っているように思える。
僧侶「あの」
傭兵「なんだ」
僧侶「わたしも連れて行ってください」
傭兵「いいぞ」
僧侶「やっぱりそうですよね……え?」
 断られると思っていたのだろう。信じられないという顔をしていた。
傭兵「一緒に来い。俺の視界の中にいろ。どうせ着いてくるんだろう」
 俺はかねてからそう決めていたのだ。
 この僧侶の意志の強さをもってすれば、俺の制止など聞くはずが――効くはずがないのは明らかだった。変なところでうろちょろされても困る。こいつは俺の雇い主であり、俺はこいつを目的地まで送り届ける義務がある。
 勝手に死なれるのは厄介だ。
 僧侶は明るく笑った。まるで満開の花のようだ、と俺は思った。
53:
傭兵「さぁ行くぞ。もうそろ準備も終わったころだろう」
 伴って宿屋を後にする。櫓の上には依然として見張りが立っていた。けれどその数も今は少ない。
 ならばどこへ行ったのか。当然、俺が集めたのだ。
 集落の端にはバリケードがあった。とはいっても、それはかなりお粗末な簡素な代物で、ゴブリンでさえ簡単になぎ倒せてしまうだろう。
 そのバリケードをさらに進むと緩やかな傾斜があり、小高い丘がある。薄の広がる丘である。
 そして、丘を越えた盆地の中央、川の水を引き込んで作ったため池のそばに、ゴブリンたちの棲家はある。
 ゴブリンは狭いところが好きだ。薄暗く、身をさっと隠せればなおよい。それが種族として頑強でないゴブリンたちの処世術なのだろう。
 薄に紛れて村人たちの姿があった。
 先頭に長老のばあさん。後ろに弓を持った狩人。その後ろに、たくさんの男衆。
長老「頼む。なんとしてでも、あの憎きゴブリンどもを追い払ってくれ……!」
狩人「あんたのことは信用ならないけど、実力はあるんだろう。頼む」
傭兵「やることは簡単だ」
 俺は一面の薄を見やって、
54:
傭兵「燃やせ」
「は?」
 一同、斉唱。
55:
 僧侶もばかみたいな顔をしていた。
傭兵「だーかーら、燃やすんだよ」
狩人「……どういうことか、説明をしてくれないか?」
長老「そ、そうじゃ。この辺り一面が大火事になってしまう。それは困る!」
傭兵「燃やすと言っても焼け野原にするわけじゃねぇ。ある程度刈入れて、延焼しないように準備を整えたうえで、火を放て」
傭兵「風上はこっちだ。まずゴブリンたちを燻す。盆地は煙が溜まる。棲家から出てくるだろうし、火を消し止めるためにこっちに来るかもしれない。どのみち、そこを狙い撃ちだ」
傭兵「皆殺しだ」
 ぐるりと周囲を見回す。
 全員が唾を飲み込んだ、気がした。
56:
 結果から言えば作戦は成功だった。
 泡を食って飛び出してくるゴブリンたちに対し、農民は即座に矢を射かけ、そうでないものは農具を持って応戦していく。
 突然側面から飛び出してきた農民たちにゴブリンはひとたまりもない。要所要所では応戦するゴブリンたちもいたが、それも次第に数を減らしていく。
 僻地の魔物はそもそもヒエラルキーが低いから僻地に飛ばされているのであって、当然強さも、士気も、大したものではない。
 簡単な作業だ。
 状況は明らかに優勢。俺が見守っている必要も、最早ない。
傭兵「行くぞ」
 小声で僧侶に声をかける。
僧侶「え、どこにです?」
 その声を無視し、俺は薄の中を縫いながら、ゴブリンの棲家に近づいていく。
 限りなく、こっそりと。
 何かがあるといけないから棲家には決して近づくなと釘は挿してある。第一、農民たちだって自らは行かないだろう。やつらにそこまでの実力はない。
僧侶「よ、傭兵さん?」
傭兵「うるさい。黙ってついてこい」
 もしも俺の予想が当たっているならば……
傭兵「面白いものを見せてやる」
57:
 棲家はまるで洞穴だった。ゴブリンたちがひっきりなしに、何事かと飛び出していく。
 俺は全く無警戒に入っていく。
僧侶「危険ですって!」
 なわけあるか。
 ゴブリンが目の前に現れた。二匹……さらに後ろから三匹。細長い耳と鼻。醜悪な吐息。見るからに邪悪そうな面構え。実に魔物然としている。
 ゴブリンは彼らの言語で喚いていたが、意見は一致したらしく、手にした棍棒で向かってきた。
 俺は棍棒を掻い潜り、一瞬のうちに二匹の首を落とす。
 狭い棲家では血なまぐささを避ける術はない。俺は甘んじてゴブリンのべたつく血液を浴び、それでも真っ直ぐに、後方の三人へと躍り掛かる。
 初撃はぬるい。ワンステップで悠々に回避できる。耳元を武器が掠めて行く音も、今となっては心地よさすら感じる。
 首を刈って一匹。
 二匹目は一匹目の陰にいて厄介だ。とはいえ、大上段からの振りかぶりを回避するのは難しくない。剣でいなし、腹を裂いて二匹。
 三匹目はすでに切迫していた。眼と鼻の先。俺の剣先とあちらの棍棒、どちらが先に到着するか、際どいところだろう。
58:
傭兵「邪魔だ」
 閃光が迸った。俺の指先から放たれた衝撃はそのままゴブリンを吹き飛ばす。
 地面を転がっていったそいつの顔面を蹴り上げ、胸を串刺しに。三匹目。
傭兵「さっさと行くぞ」
 振り返れば、僧侶が拳銃を握り締め、構えたまま立っていた。
 今にも泣き出しそうな顔をしている。
傭兵「……どうした」
僧侶「っ……なんでも、ない、です」
傭兵「そうか」
 明らかに何でもない風ではなかったが、本人がそう言うならば、俺にはどうでもいいことだ。
 ゴブリンたちはこぞって出て行ったのか、それからあまりエンカウントすることはなかった。もし仮に出遭ったとしても瞬殺ではあったが。
 僧侶はびくびくしながらもついてきているようだった。血や死体を見て倒れられなくて本当に良かった。
 棲家の最奥、松明で照らし出された入り口がある。そこの壁や地面だけが、それまでの通路よりも随分と整備されている。
 大将のお出ましだぞ。
59:
 気を引き締めて部屋へと転がり込んだ。中にいたのは、体躯こそそれまでのゴブリンと何ら変わりないが、顔中に傷跡を刻み込んだゴブリンだった。
 無骨な鎧を着こんでいるそいつは、闖入者である俺たちをちらりと一瞥しただけで、まったく慌てる様子を見せない。
 下から上への切り上げを、ゴブリンの長は錆びた鉄の剣で受け止める。容易く折れるかとも思ったがそうはいかない。俺は一旦後ろへ下がる。
ゴブリン「人間。お前のせいか、この騒ぎは」
ゴブリン「殺しに、きたか。俺たちを。だろう」
 呻くような声だった。傷のせいかもしれない。
ゴブリン「仕方が、ない。生きていけない、俺たちは。喰わねば、餓える」
 鉄の剣をゴブリンの長が握りなおす。
 あわせて、俺も剣の握りを確かめた。
ゴブリン「恐らく、勝てない。俺は、お前に。だけど、だめだ。そうだ、やるしかない」
ゴブリン「例え、見放されていても。魔王様に。俺にも、ある。矜持」
ゴブリン「誓った、かつて。変えると。世界を」
ゴブリン「背けない。その誓いには」
ゴブリン「――行くぞ」
 ぐ、と力を貯めこんだ。
60:
 ゴブリンの長が地を蹴る。い。そして重い。小柄な体躯が大きく見える。
傭兵「ギラ」
 閃光は鎧の表面で弾ける。しかし、効果は微々だ。衝撃で僅かに体幹をずらしただけ。
 横薙ぎの剣。これもまたい。が避けられないほどじゃない。しゃがんで、そのまま足を払う。
 ゴブリンの長は跳んだ。剣の上でさらに跳ね、天井を掴んで何かを放る。
僧侶「――傭兵さん!」
 うるせぇ、わかってるよ。
 マジックアイテム――爆裂弾。
 注ぎ込んだ魔力を爆裂呪文に改変する機構の組み込まれた、一般的な戦闘兵器。
 球体が明滅し、僅かな間を置いて、轟音と共に爆裂する。
ゴブリン「やった、か?」
傭兵「んなわきゃねーだろ」
 砂煙に紛れて背後からゴブリンの長の脇腹を突き刺している。鎧と鎧の隙間を縫うように、刃は綺麗に内臓を抉った。
 ゴブリンの長は口から一筋の血液を漏らしつつ、自らの腹に生えた刃を撫で、そこでようやく俺に負けたことを理解したようだった。短く何事かを呟き、刃に手を添えたまま頽れる。絶命したのだ。
僧侶「ぶ、無事ですか!」
傭兵「無事に決まってるだろ」
 あんなゴブリンに後れを取るものかよ。
61:
 大体、爆裂弾の威力などたかが知れている。あれは一般的だが、一般的過ぎる。最早慣れっこなのだ。
 だが、しかし、これで俺の推測が半ば正しかったことが証明された。
 思わず笑みがこぼれる。僧侶を振り向けば、爆裂弾の煙を吸い込んで咳き込んでいた。なにやってんだあいつ。
僧侶「それにしても、やっぱりお強いんですね」
傭兵「いまさらか。騎士の時も見てだろうが」
僧侶「いえ、そうなんですが。……あの人が、弱かったのかな、と」
 あいつもそこそこ強かったのではあるが。
 可哀そうに。
 俺は僧侶を無視することにして、部屋の壁をこつこつと叩いていく。
 爆裂弾で机や武装などが吹き飛んだため、非常に歩きやすくて助かる。
僧侶「なにやってるんですか?」
 こつこつ。
僧侶「あの」
 こつこつ。
僧侶「傭兵さん?」
 しつこいな。
62:
傭兵「ここは洞穴だ。その奥で爆裂弾を使えば生き埋めになりかねん。が、あのゴブリンは迷わず使った。その意味が分かるか」
僧侶「えっ? ……大丈夫だと思ったんじゃないですか?」
傭兵「あぁ、そうだろう。じゃあなぜ大丈夫だと思ったのか。ここは長が住むところだから、特別頑丈に作られている……それもあるだろうが、もっと重要な理由があると、俺は思った」
 僧侶は俺の顔を一瞥し、答える。
僧侶「お金ですね!」
 縊り殺してやろうか。
 とはいえ、事実であるから怒れない。それとも俺のことをよくわかっていると喜ぶべきところなのだろうか。
傭兵「あぁ。金庫、宝物庫……それに類するものがあると思ってな」
 集落の長老は、ゴブリンたちが略奪していくと言った。ならば略奪したものを保管する場所があるはずだ。しかしこの洞穴にそういったところは見つからない。
 ならば、あとはここしかない。
 こつこつ、こつこつ。
 ごん。
 ごん、ごん。ごんごんごん。
 当たりだ。
63:
 壁には、よく見ればうっすらと紋章が刻まれている。恐らく魔術的なロックがされているのだ。
 ふむ、どうしたものか。
僧侶「あ、わたし、これならわかります」
 ……なんだと。
僧侶「ちょっといいですか?」
 扉に手を合わせ、僧侶は目を瞑った。魔方陣を走査して詳細を探っているのだろう。
 走査自体は十秒ほどで終わった。僧侶は振り返り、息絶えたゴブリンの長を指さし、
僧侶「あの人の手、らしいです」
傭兵「楽でいいな」
 即座に右手を切断する。凝固していない血液が飛び散って、僧侶は存外かわいい声を出しながら跳び退いた。
 手を壁に這わせると、かちりと術式の解除音。音もなく壁は開いた。
傭兵「ゴブリンのくせに、そこそこな魔術じゃねぇの」
 呟いて、一歩踏み出そうとして、
傭兵「……」
僧侶「どうしました?」
64:
傭兵「僧侶、お前先に行け」
僧侶「えっ、なんでですか!」
傭兵「罠があると困るだろうが、ほら」
僧侶「はぁっ!? 雇い主ですよわたしは」
傭兵「いいから」
僧侶「うう……主従逆転現象ですぅ……」
 文句を垂れながらも僧侶は部屋の中へと足を踏み入れる。
 一歩入れば自動的に照明が点いた。同時に、眼を潰すかのような金色の光。
 俺も僧侶も思わず目をつぶった。
僧侶「な、なんですか、これ」
 大したものはなかった。否、大してものはなかったと言うべきだろう。僅かな食料や武具の中で、主張の激しい黄金色が鎮座している。
傭兵「どう見ても金塊だろう」
 インゴッド。形成もきちんとされておらず、打刻もない。真っ当な手段で生産、流通したものではない。
 僧侶は怪訝な目で俺を見ている。どうして驚かないのか、この黄金に見当があるのか、そんな視線だ。
65:
傭兵「先行投資の結果がこれさ。なかなか悪くない仕事だ」
「残念だけど、それは返してもらうよ」
 背後から声――何より、殺気。
 ふん。僧侶を前にやって正解だったな。
 狩人は右手にナイフをちらつかせながら剣呑な表情をしている。
狩人「それはあたしらのものだ。あんたらのもんじゃない」
傭兵「あんたらのものだという証拠は?」
狩人「裁判をやってるんじゃあないんだよ」
 まったくその通りだった。
 俺は金塊を渡すつもりはないし、狩人は狩人で、俺たちに金塊を渡すつもりはないのだろう。だとすれば奪い取るしか選択肢はない。
 平和的解決など誰も望んでいない。恐らく僧侶を除いては。
僧侶「あ、あの、どういうことですかこれ。なんで狩人さんが、え?」
 当惑している僧侶。説明する時間などない。すまんが混乱していてほしい。
傭兵「こんな狭いところじゃお得意の弓矢も使えんだろう。さっさと退け」
狩人「ほう」
 狩人が眉根を釣り上げる。
狩人「試してみるかいっ!」
66:
 魔力の波動が狩人から迸る。それは空気を震わせ、壁を、地面を、そして俺たちの体を舐めていく。
 そしてそのあとに広がるは花畑。一面の菜の花。限りない丘陵と野原。朗らかの体現。
傭兵「結界……お前、もしかして!」
狩人「その通りさ! あたしはエルフの血を引いてる!」
 身体的特性は人間の方が優性だ。純血種のエルフと違って、ハーフエルフは目立たない。とはいえ魔術的な特性が潰えるわけでもない。
 人間は自らの内から魔力を捻りだし放つが、エルフたちはこの世界に遍く――と言われている。何しろ人間には感じられないのだ――精霊たちの力を借りて魔法を行使する。
 属性に偏りはある反面、何よりも負担が少ない。嫌な相手だ。
 狩人は弓を抜いた。
 僧侶は……いる。俺の背後でおろおろしている。そのまま頭を抱え込んでくれていたらなおいいのだが。
 彼我の距離はおおよそ十メートル。矢を引き絞り、放つよりも先に、俺が喉笛を掻き切るほうが早いか? 微妙なラインだ。
67:
狩人「最後の通告だ。その金塊を、渡せ。それはあたしらのもんだ」
傭兵「そうだろうな。ここまで採取するのに一体何年かかった? あの川に毎日通い詰めて、数年じゃ利かないだろう」
狩人「あんた、わかってたのか」
僧侶「川?」
傭兵「そうだ。あそこの川は砂金鉱がある。小さな粒でも、集めて鋳造すれば、インゴッドくらいにはなるさ」
僧侶「……だから、輝いて見えたのか」
 僧侶がぼそりと呟いた。
狩人「交渉決裂だ」
 狩人が弓を引き絞る。俺は一も二もなく駆けた。
狩人「知ってしまった以上、あんたらは生かして帰せない!」
 直線的な矢の動きを見切るのは決して難しいことじゃない。どんな動作も、基本は視線の先に狙いがある。
 狩人の視線は真っ直ぐに俺。その殺意に惚れ惚れとする。
68:
 狩人が弦を離す――一度に放たれる三本の矢。
傭兵「人間業じゃねぇな!」
 って、こいつは半分しか人間でないのだっけ。
 一本、二本目を回避し、三本目もまた、なんとか回避する。
傭兵「んなっ!?」
 三本目の陰に隠れた四本目!
 限りなく人間業じゃねぇな!
 剣で叩き落とす。が、衝撃は大きい。腕が大きく跳ね上げられた。
 そこへ追加の鏃。身を翻してなんとか懐へ。
 一閃と同時に矢が放たれる。
狩人「くっ!」
 刃は狩人の腹部を掠っただけだった。血が僅かに滲む程度で、薄皮一枚程度しか切れていないのだろう。生半な相手であれば今の一撃で決まっていたはずなのだが。
 俺は左腕に刺さった矢を抜きながら考える。
 最後に放った矢の狙いは正確だった。
僧侶「二人とも、もうやめましょうよ! こんな無益な争いはありません!」
 無益だと? 何を言ってるんだか。
傭兵「あの金塊を見てもまだ無益だって言えるのか、お前は」
狩人「人も殺したことのないお嬢ちゃんにはわかんないだろうさ」
傭兵「……意見が合ったな」
狩人「困ったもんだわ」
69:
「死ね」
 言葉がハモる。
 流石にこれは意見が合わざるを得ないか!
 狩人が弦を弾く。途端に顕現する矢。その数……あぁもう、数えるのもまだるっこしい!
 数多の矢が俺を狙っている!
狩人「聖霊よ! 我に力を貸せ!」
 降り注ぐ雨を横っ飛びで回避する。しかし油断はできない。どんな手品かわからないが、完璧に避けたはずの矢が、Uターンしてもう一度こちらに。
傭兵「くっ!」
 抜刀。剣を振り抜くたびに、矢の刺さった左腕が痛む。そのせいでわずかに度が下がった。
 一振りで三本を落とすのが限界だ。残りは地面を転がりながら、せめて最小限の被害で済ませる。降り注ぐ矢が次々と地面へと突き刺さる。
 と、俺はその時確かに見た。矢のそれぞれに跨った精霊の姿を。
傭兵「下級の精霊に操らせてんのか」
狩人「へぇ、見えるんだ。心のきれいなやつにしか見えないはずなんだけどね!」
傭兵「お前は心がきれいってか! 驕るねぇ!」
 挑発の返事は矢。拡散するかのようにてんでばらばらの方向へと跳ぶそれらの軌道は、けれど空中で急に変化する。矢の背中に乗った小さな小人たち――精霊が、狩人の意思に従って狙いを俺に定めなおす。
 回り込むように飛来する矢を完全に避けきるのは至難だと思われた。それでも慌てることはしない。ここまでは想定の範囲内だ。
70:
狩人「あれはっ、あの金はっ、あたしらの金だ! あたしらのもんだ!」
狩人「あんたみたいな薄汚れた手で触っていいものじゃない!」
傭兵「おいおい、そりゃ酷い言い草だな!」
傭兵「金(かね)は天下の周り者だ! おとなしくあの金(きん)を寄越せ! 俺がもっと有用に使ってやる!」
狩人「黙れ」
 懐に潜り込めばこちらが有利だが、そもそも狩人は近づかせてくれない。相当に熟達している。弓矢の腕前が、というよりも、弓矢を使っての戦闘に。
 しかし遠距離主体の相手との殺し合いを俺だって何度も経験してきた。懐への潜り込み方はすでに体に沁みついている。
 最小限の被害で最短距離を突っ込んでいく俺に対し、狩人が苦虫を噛み潰す。
狩人「死ねぇえええっ!」
 鏃の驟雨が全力で俺の命を奪いに来る。思わずぞっとする密度だった。
 視界は矢で埋まっている。視界の範囲外もそうだろう。数は推定八十から百――全てに精霊が宿っていると考えておかしくはない。
 僧侶が背後でなにか叫んでいるのが耳に入った。まったくうるさいやつである。
傭兵「もうちょっと目を鍛えるべきだったな」
 矢に囲まれていた俺の姿が一瞬で霧散し、代わりに狩人の眼前へと姿を現す。
狩人「なっ――!」
 驚愕の表情。それだけ驚いてもらえるなら、幻影の像も感無量だろう。
71:
 俺は剣を抜く。狩人は柄に手を駆けるよりも早く後ろへと跳んでいる。その回避能力は秀逸だ。頭が理解するよりも早く、体が危機に反応する、本能的な素晴らしさ。
 しかしそれでも俺の刃の方が早い。
 狩人の胸から腹にかけて大きく斜めに切り裂いた。血飛沫の花が咲き、花弁の上に点々と散らされる。
傭兵「ちっ」
 手応えの軽さを感じていた。僅かに浅い。ただしそれは俺にとって致命的ではなかった。
 狩人が膝を落とす。四肢の末端への痺れが来ているのだろう。そういう毒を刃先に塗ってある。効果の時間は短いが、その分作用までの時間は一瞬、そんな毒だ。
 毒で殺すのではない。殺すための毒である。
狩人「いつ、のまに」
 幻影の像と入れ替わったのか、ということだろう。
傭兵「お前が結界を展開した時にな」
 ただただ相手のフィールドで戦うことなどよしとできるものか。重要なのは準備をすること、保険をかけておくこと。
 俺は一歩歩み寄る。
僧侶「……!」
 僧侶が俺の前に立ちはだかっていた。こちらを涙目で睨んでいる。
72:
傭兵「……なんだ」
僧侶「どうする、おつもりですか」
 疑問文の形を呈してはいるが、問うてはいなかった。僧侶は恐らく俺が何をするかを理解している。
 でなければ俺の行く手を阻むわけがない。
傭兵「首を刎ねる」
僧侶「――ッ!」
僧侶「もうこの方は戦えません。あなたの目的が金塊である以上――いや、金塊であるからこそ! ここでこの方を殺すのは無益です!」
傭兵「これは契約の範疇外だ。お前の出る幕じゃない。でしゃばるなよ」
僧侶「それでもっ!」
狩人「そのとおりさ」
 視界の端で狩人が弓を引き絞っているのが見える。狙いは僧侶――違う。僧侶を狙うことで、間接的に俺を狙っている。
 癪だが、仕方がない。俺はこのような状況下でもきわめて冷静だった。
 僧侶の前に飛び出す。それと同時に矢が放たれ、俺の鳩尾を食い破った。
傭兵「がっ、く……っ!」
73:
僧侶「傭兵さん!」
 エルフは耐毒性もある、か。かなりいい代謝をしている。本来ならあと十分は効いているはずなのだが。
僧侶「どうして……!」
 それは果たして俺に向けられたものなのか、それとも狩人に向けられたものなのか。
 前者なら答えは簡単だ。「俺は傭兵で、これは仕事の一環だから」。
狩人「あんた、甘ちゃん、だね」
 僅かに舌の痺れを感じさせる口調で狩人は言う。
狩人「あたしゃ、敵だよ。殺すさ。見逃すとか、見逃してくれたからとか、そういうのはない。ないんだ。ないんだよ」
狩人「その金塊が、何よりも大事だから」
僧侶「なんで? なんでみんな、そうやってすぐに、金、金、金って言えるんですか?」
僧侶「恥も外聞もなく! 醜く争えるんですか!?」
 銃を構える僧侶。脚も手も震えているが、今の彼女なら引き金を引けるような……引いてしまえるような、気がした。
 俺は僧侶の叫びに、なにより怒りに対して応じる言葉は持っている。けれど彼女に納得させる言葉は持っていない。それほど俺と僧侶、そして狩人の間には川がある。俺と狩人の対岸に僧侶は住んでいる。
 コミュニケーションの折に触れての微かな共通了解が、もしかしたら砂金なのかもしれないと思うほどには、全てが不全だ。
74:
狩人「生きるにはとかく物入りになる。新天地となればなおさらだ」
 そうだろうな、と思った。そのあたりだろうな、とは思っていた。
傭兵「捨てる、のか。あの村を」
 治癒魔法が効いてきた。治癒とは名ばかりの、痛みを誤魔化すだけの魔法だ。今も血は流れ続けている。
 狩人は口元を歪めた。醜悪なツラをしていた。
狩人「そうだよ。あたしはいずれあの村を捨てる。その時のための、金だ。あたしの未来のための金だ」
僧侶「そんな……酷い」
狩人「酷くない!」
 叫ぶ狩人。今の僧侶の一言が、彼女の琴線に触れたらしかった。
狩人「酷いのはあたしじゃない! 税しか課さないあのクソ領主の野郎さ!」
狩人「作った作物の半分は持っていかれて、今日食べる分も苦労するありさまだってぇのに、何をするにも課税、課税、課税!」
狩人「金が足りなきゃ畑を売れ、畑がないなら体を売れ、だ! 自作農辞めて小作農になった人間がどうして暮していけるよ!?」
 そこで狩人はとても悲しそうな顔をした。信念の炎が、けれど俯いた顔には宿っている。
75:
狩人「……あたしは、もう、そんなみんなを見てられないんだ。だから村を捨てる。何も見なかったことにする。それしかもう!」
狩人「心の平穏は得られない!」
僧侶「でも、だって、ですが、そんなの!」
傭兵「僧侶、耳を貸すな。こいつはただ見て見ぬふりをしたいだけに過ぎん」
 僧侶の口を制して前に出る。
 体を動かせばそのたびに鳩尾から血が噴き出すが、それは決して俺が動きを止める理由にはならない。こいつの信念は燃えている。確かに燃えているが、あまりにも安い。下の下だ。
傭兵「見ていなければ無いのと同義だ。真実と目に蓋をして、現実から逃げたい卑怯者の言葉を聞くな。耳が腐る」
狩人「黙れよ、部外者」
 矢を番える、放つ――動作は熟達、度は神。正しく狩人。そして獲物は俺だ。
 しかし、信念に燃えた彼女の瞳は濁りきって、既に何も見えていない。
 目の前の問題から目を逸らす人間が、どうしてこの俺を捉えることができようか。
狩人「……あ、ァう?」
 ごぶり。吐息と言葉は血のあぶくとなって、音声として入って来ない。
 驚愕に目を見開いた狩人が、己の肩越しに俺の姿をようやく認識した。彼女の右脇腹から胸部にかけて大きく刃が抉りこんでいる。そして俺の体に怪我はない。
 その表情のまま前を向いて、鳩尾を負傷した俺の幻影が雲散したのを目の当たりにし、ようやく一言「あぁ」とだけ聞き取ることができる。
 そうして倒れた。
76:
 今度こそ本当に息絶えたのだろう。彼女の魔力によって形作られていた花畑が遠くからさらさら崩れ去っていき、代わりにやってきたのは薄暗くひっそりとした洞穴の姿である。
 宝物庫の中心では狩人が死んでいる。
 その傍らの金塊が、争いなどどこ吹く風で、ともすれば下品ともとれる輝きを放っていた。
 その対比。
僧侶「あ、あ……」
 かちかちと歯の根を噛みあわせていた。無理もない。それは誇れる美徳でこそあれ、貶されていいものではないと俺は思った。
 だから言葉はあえてかけない。そこは俺の仕事ではない。金を貰っているならば、慰めることも吝かではないが……しかし、それは機微のわからない人間のすることだろう。そして俺は野暮ではない。
傭兵「……」
 手を差し出すと素直に僧侶はその手を取った。少しばかり予想外で、危うく僧侶の重みに負けそうになる。
僧侶「……こんなことって、あんまりです」
 それきり僧侶は喋らなかった。
81:
※ ※ ※
 宴が開かれていました。わたしたちが宿泊した宿屋、そこのホールに、皆さんが集まってエールを飲み交わしています。
 幸いにして死者は一人しか出ていないようでした。
 そして、死者が一人でも出たという事実に、「幸い」という冠をつけて語ることこそが何よりも恥ずべき悪徳のような気がして……。
僧侶「……はぁ」
 ためいき。
 みなさん頬を上気させています。楽しそうです。愉快な笑い声があちこちから聞こえ、決して体調が万全と言えない人もいるのに、包帯でつるされ固定された片腕を器用に使ってジョッキを持ち上げていました。
村人A「よぉ! お嬢ちゃんは飲まないのかい?」
僧侶「わたしは未成年ですので」
村人A「大丈夫だって! あんたらのおかげでなんとかなったようなもんなんだ、俺たちに神様の罰があたっちまう!」
 神様もわたしたちの善行を照覧している、と?
 思わず薄い笑みが零れました。酷薄だと自覚のあるそれを、けれど村人の男性は好意的に解釈したらしく、ジョッキをわたしのグラスに打ち付けて、一息に飲み干しながら去っていきます。
82:
 狩人さんを殺したのはわたしたちなのに?
 村の人たちには、狩人さんは、ゴブリンの長と戦って死んだと伝えました。わたしたちの危機を身を挺して救ってくれた、とも。
 そしてそれを疑う人はどこにもいません。そうでしょう。わたしたちは村の恩人なのですから。
 思考が深く暗い底へと落ちかけていきそうでした。崖っぷちに伸ばした手は、代わりにエールのジョッキを掴みます。
僧侶「……」
 覚悟を決めて、いち、にぃ、さん!
 にが!
 思わず眉根が寄るのを感じながらも一気、一気、一気。ごくごくごくと嚥下。
 僧侶「ぷは」
 口についた泡を袖で拭って、勢いよくジョッキをテーブルに叩きつけました。近くに座っていた村人が「いい飲みっぷりだねぇ」と褒めてきますが全然嬉しくはありません。
83:
 ひっく。
 嗚咽ではありえない痙攣を横隔膜が行います。自分の体すら意に反して動くのに、誰かの生き死にを自分の意のままにしようだなんてのは、きっと恐ろしくおこがましいに違いありません。
 それでもわたしは、みんなが幸せになる方法を採りたいのです。
 餓えることのない世界を。虐げられることのない世界を。
 実現したいのです。
 あぁ。
 気が付けば二杯目が底を尽きかけていました。うっすらと残ったものを飲み干して、フチについた泡を舐めとり、ほうと一息。
 ……なんだか、暑いですね。
 時期的に仕方がないんでしょうけど?
 ていうかあの傭兵野郎はどこへ消えたんですか。最初に村人全員から感謝の言葉を受けて、営業スマイルで受け流していた彼の姿を、わたしはそれ以降見ていません。雇い主をほっぽりだして、今わたしが狙われたらどうするんでしょうか。
 立ち上がったわたしの体はいつもより重かったです。脚で自重を支えきれず、二、三歩蹈鞴を踏んで、
村人B「大丈夫かい?」
 受け止められます。お礼を一つして、
僧侶「あのぉ、傭兵さ……うちの傭兵、見てませんかぁ?」
村人B「傭兵さんかい? そう言えばとんと見てないなぁ」
84:
村人C「長老と何か話してたよ。外に出て行ったのは見たけどねぇ」
 通りがかった女性がそう教えてくれました。外。風に当たるのもいいでしょう。ついでに、あの人に文句の一つでも言ってやらなければなりません。
 わたしは一歩一歩地面を踏みしめるようにして外へと向かいます。
僧侶「わぷっ」
 扉を開ければ人の胸板がわたしの鼻にぶつかりました。見上げれば、それは傭兵さんです。
僧侶「あ。どこいってたんれすか?」
 傭兵さんは怪訝な顔をして、ぽつりと一言。
傭兵「お前酒臭いぞ」
 そんなはずはないです。そもそも女性に面と向かって「臭い」だなんて、デリカシーがありません。
傭兵「……まぁいいか。外に行くぞ、ついてこい」
僧侶「にゃにするんれすか」
傭兵「……大事な話だ」
 外に出ます。酒場に充満していた熱気が扉から抜けて、火照ったわたしの体をゆっくりと鎮めていってくれました。それでも体内に十二分に熱は残っていましたが。
85:
村人C「長老と何か話してたよ。外に出て行ったのは見たけどねぇ」
 通りがかった女性がそう教えてくれました。外。風に当たるのもいいでしょう。ついでに、あの人に文句の一つでも言ってやらなければなりません。
 わたしは一歩一歩地面を踏みしめるようにして外へと向かいます。
僧侶「わぷっ」
 扉を開ければ人の胸板がわたしの鼻にぶつかりました。見上げれば、それは傭兵さんです。
僧侶「あ。どこいってたんれすか?」
 傭兵さんは怪訝な顔をして、ぽつりと一言。
傭兵「お前酒臭いぞ」
 そんなはずはないです。そもそも女性に面と向かって「臭い」だなんて、デリカシーがありません。
傭兵「……まぁいいか。外に行くぞ、ついてこい」
僧侶「にゃにするんれすか」
傭兵「……大事な話だ」
 外に出ます。酒場に充満していた熱気が扉から抜けて、火照ったわたしの体をゆっくりと鎮めていってくれました。それでも体内に十二分に熱は残っていましたが。
86:
 傭兵さんに連れられて酒場の裏手へとやってきます。
僧侶「!?」
 人が倒れていました。見たことのあるシルエット。長老さんです。
 介抱しようと咄嗟に駆け寄ろうとしたわたしを傭兵さんが制します。
傭兵「待て。そいつは放っておけ」
僧侶「い、いったい何があったんれす!」
傭兵「叫ぶな。ばれるとまずい」
 わたしは言葉と空気を飲み込んで、深呼吸。酩酊のせいか僅かに鼓動の音が大きく聞こえますが、次第に頭はクリアになっていきました。
僧侶「傭兵しゃんが、やったんれすか」
 まだ口がうまく回りません。
傭兵「殺しちゃいねぇよ。気絶させただけだ」
 でも、なんで。わたしの視線を受けて傭兵さんは頭を掻きます。
傭兵「お前はおかしいとは思わなかったか。この辺りは一帯が農業地帯だ。だからといって全員が農業従事者というわけじゃあないが、あんな手練れの狩人がいるのは普通じゃない」
僧侶「でも、それは近くに大森林があるからで」
 言ってから、わたしも「ん?」と思いました。
 狩人さんはあの時確かに「村を捨てる」と言いました。その表現には、狩人さんなりの村への愛着や、村人への愛が感じられます……結果は、ともかくとして。
 彼女が村の一員だとするならば、ハーフエルフの彼女はどこからやってきたのか。
87:
傭兵「話を聞く限り、狩人は長老が連れてきた孤児らしいな。本当に孤児かどうかすら怪しいもんだが、まぁ、それは今はいいだろう」
傭兵「この村で十年……気の長い計画だな。よほど出ていきたかったと見える」
僧侶「じゃあ、全部長老さんら、裏で糸を引いていはってこと……?」
傭兵「ゴブリンに関しては偶然じゃないか。あいつらが金塊を持って行ってしまった。集落総出でゴブリンを攻め落とせば、金塊が明るみに出る。だから長老は部外者に頼みたかった。タイミングよくやってきたのが俺たちだ」
僧侶「れ、れも、なんで、そんにゃことを」
傭兵「狩人が言った通りさ。新天地で暮らすには金がかかる。金塊一つぶらさげてけば、かなりの額だ。四六時中畑を耕して、税金を領主におさめなくてもいい程度にはな」
傭兵「金塊のことを話したら、このばばあ、血相を変えて俺に掴みかかってきやがった。あることないこと言いふらされるとまずい。所詮俺たちはよそ者だからな」
僧侶「じゃあ……」
傭兵「あぁ。今晩中にでも発つぞ」
 きっと傭兵さんの言っていることは全て真実なのでしょう。彼はお金に忠義を誓っています。ゆえに、そのためならば真実を捻じ曲げることすら厭わないはず。けれど今、彼はわたしの傭兵です。
 唇を噛み締めました。長老さんが全ての元凶だと断ずるのは容易く、実に容易く、途轍もなく容易いことです。それで全てが解決し、すっきりすとんと胸に落ちるのであれば、いくらでもそうしますが。
 
 とるものもとりあえず、わたしたちは喧噪に包まれる酒場を背後に、足早に集落を後にしました。
90:
◇ ◇ ◇
 空気の抜けた音がして、視界の先に小さく映る敵影が、ゆっくり倒れる。
 残存勢力の動きがより一層慌ただしい。周囲はぐるりと取り囲まれた。このまま包囲網を狭められてしまえば、見つかるのは最早時間の問題と言える。
「減るどころか増えてるすねぇ」
 男は照準器を覗きながら息を吐く。
「残弾は」
 男の隊長が口を開いた。随行して数日になるが、彼と口をきいたのは初めてだった。
 二人以外の隊員はみな魔物に獲って喰われたか連れ去られた。喋る相手がいないのだから、それは当然の帰結と言えた。
「ひぃ、ふぅ、みぃ……六発すかね。あ、いや、五発す」
「一つどうした」
「これ、彼女からもらったやつなんですよ。使えないです」
「……そうか。元気だといいな」
「こないだ死にましたよ」
「……そうか」
「殿を任されたって喜んでたんすけどね」
 引き金を引く。一体の頭部が破裂。残り四発。
「尻についた火を消せなかったか」
「魔族も結構ガチすよね」
 引き金を引く。左足を吹き飛ばした。残り三発。
91:
「でなきゃわざわざ俺たちが派兵されん」
「エルフのみんな元気すかねぇ」
「無事に逃げてるだろうさ」
「殿なんかするもんじゃないすよ」
「難しいもんだ。火を消すのは」
「隊長、敵影いくつ確認できるすか」
「十八」
「こっち十二す」
「残弾は三か」
「うい」
「一発で四人殺せるか」
「一応、頑張ってみるす」
「やめとけ。無駄だ」
「あなたが言ったんじゃないすか」
「命令だからってなんでも従うな」
「命令ならなんでも従えと習ってきたすから」
92:
「……なら、命令だ」
「『絶対に死ぬな』すか?」
「……」
「うわ、当たっちゃったすか。冗談のつもりだったんすけど」
「……生き残るぞ」
「もちろんすよ。こんなところで死んでられないす」
「……俺の死場は戦場だと、ずっと思っていた。思っていたが……死ぬのは、いやだな。少なくとも、ここは、いやだ」
「ここは、クソの掃き溜めすからね」
 引き金を引く。弾丸が二体の魔物の頭部を吹き飛ばした。予想外の一石二鳥であった。
 残り二発。
「死にたくないすねぇ」
 引き金を引く。大きく外れて木の幹を穿った。狙撃を外したのは初めてだった。
 自分の指先が小刻みに震えているのを、男はそこで気が付いた。
「隊長」
「なんだ」
「最後の一発になっちゃったす」
「そうだな。俺も、あと二発だ」
 そう言って発砲。魔物の右ひじから先を引き千切る。致命傷とは言い難かった。
93:
「自殺するってのはどうすか。俺、魔物の拷問、うけたくねーすよ」
「……好きにしろ」
 男は曖昧に微笑んで、腰から短銃を取り出す。それを口に咥えて、
「すんません。一足お先に」
「逝かれちゃ困る!」
 傍らには二組の男女がいた。
94:
* * *
 あー、もう!
 まったくもう!
 傭兵さんが大声を出すから、魔物たちが、あんなにたくさんのあれが、
 こっちを向いて!
 見られた――ばれた――死ぬ!
 や、死にはしませんけど!
 全体的に手段が荒っぽいというか、むちゃくちゃというか、省みる事柄が少なすぎるんですよ、あの人。やりたい放題。勝てば官軍。誰に迷惑をかけたっていいや。そんな思考がもろ見え。
 隠された隧道の先には、エルフのみなさんが仰っていた通り、兵士さんたちがいました。話によれば十人一組の小隊だったはずなのですが、残り八人の姿は見えません。
 その意味がわからないほど、わたしは愚かではありませんでした。
傭兵「お前ら、魔法は使えるか」
隊員「え、あ、いや」
傭兵「そうか」
 短く言って、駆け出していきます。魔物の軍勢はこちらに完全に気付いていました。オークと魔道士の混成部隊。一際体の大きく、また無骨な鎧を着けているオークがいます。恐らくあれが大将なのでしょう。
隊長「あんたらは、なんなんだ?」
 歴戦の強者といったふうな男性でした。この現状を受け止めているようですが、まだ嚥下はしきれていない様子。
 わたしは短く答えました。
僧侶「旅の者です」
 おまけににこりと微笑んで。
95:
僧侶「大森林の向こうに用事があるのです。わたしは彼を雇って、森の中を進んでいました。エルフの一団に出くわしまして、何やら様子がおかしい。近づけばあなたたちのことを助けてやってくれとのことでした」
 次第に表情筋が疲れてきました。交渉のことを思いださなければ、これほど気持ちのいい人助けもないのですが。
 珍しく傭兵さんは金銭を要求しませんでした。代わりに、エルフの酋長に会わせろと、それだけ。
 酋長は別働らしく相成りませんでしたが、確約は取り付けました。それが果たしてどんな意味を――傭兵さん的に言えば「利益」を生み出すのか、わたしにはわかりませんけど。
隊長「……あいつ、強ェな」
 マスケット銃を構えた壮年の男性がぽつりと漏らしました。視線の先には一人で包囲網を突破ならぬ叩き潰そうとしている傭兵さんの姿があります。
 まさに鬼神のような戦いっぷりでした。持参した剣は既に使い物にならなくなっていて、切り伏せた魔物の帯びた剣や鋭い牙、爪を奪いながら戦っているのです。
 接敵し、切り捨てて、離脱。そしてその先にある敵をまた切り殺す。
 一方的な虐殺です。
 自らが切られたことに気付いた時にはすでに傭兵さんは別の敵に向かっていて。
 仲間が切られたことに気付いた時にはすでに傭兵さんはそいつへ切りかかっている。
 切り落とされたはずの腕は幻影で。
 囲まれれば火炎魔法が吹き飛ばす。
 見る見るうちに魔物はその数を減らしていきます。大将のオークが指を向けて何事かを叫ぶと、部下たちが一斉に傭兵さんへと飛びかかっていきますが、僅かな隙間を縫って突破。と同時に魔物たちの首が刎ねられます。
 ともすれば剣を振るより先に首が飛んでいるような錯覚さえしていて。
96:
 心底彼が味方でよかったと思いました。性格こそひん曲がっていますが、いえ、ゆえに、そんな性格でも生きてこられた彼の技量なのです。
僧侶「お怪我は有りませんか?」
 二人はこぞって首を横に振りました。視線はわたしの右手にある拳銃へと注がれています。
 そんなに手荒な真似だとは思わないのですが……。
隊員「そろそろすよ」
 若いほうが声を挙げました。見れば、死屍累々の中にオークの大将と傭兵さんが向かい合っています。
 あくまで傭兵さんは自然体でした。緊張の中にあっての脱力。それが達人の域に達してなお習得が難しいものであることを、わたしはなんとなくですが知っています。
 ただただ傭兵さんは立っているだけなのに、オークはじりじりと後ろに下がっていきます。気圧されているのです。武の路を歩んだことのないわたしでさえ彼の強さがわかるのですから、オークに至っては猶更でしょう。
 後ろに下がり続けたオークのかかとがようやく木にぶつかりました。そこで退路がないことを悟ったのか、地面を強く強く蹴り上げ、土塊を巻き込みながら突進。
――い。
97:
 力とはすなわち度であると換言できます。つまるところ還元されるのです。
 力があればく動ける。く動ければ、その分破壊力も増す。
 限りなく単純な図式。そしてそのある種純粋な強さをオークは持っている。
 のですが。
 棍棒の打ち下ろしを紙一重で回避し、次撃もスウェーで避けた傭兵さんは、一歩踏み出すだけでオークの懐に潜り込みます。
 長身の傭兵さんをして見上げるオークですが、まるで意に介さずに抜刀。一振りで棍棒を持った腕を肘から切断しました。
 残った腕をオークが狂乱交じりに振り上げますが、それが振り下ろされるよりも先に、喉を切っ先が貫いて。
 その瞬間にオークの巨躯が一瞬だけ停止しました。傭兵さんは柄に力を籠め、蹴りながら刃を引き抜きます。
 ぐらりと揺れ、地響き。
 血の雨が降る中を平然としているその姿はおおよそ同じ人間と思えません。強さもまた然り。
 ……悪評ぷんぷんでも、いくら恨みを買ったとて、平然としていられるのはこの強さがあるからなのです。人間を相手取るときよりもずっと容赦がありませんでした。
 わたしたちはその光景をぽかんとしながら見ています。なんですか、あれ。呆然と見ているだけしかできないとはまさにこのことでしょう。
 こんなにあっさりと包囲網を突破してしまうと、死を覚悟したお二人の立場なんてありません。傭兵さんにとっては包囲でも網でもなかったのですから。
98:
 まぁ、彼にそのあたりを弁えろ、慮れと言う方がどだい無理な話でしょうが。金を払うならともかくとして。
傭兵「その顔は俺の悪口を考えている顔だ」
 いつの間にか近寄られていました。鼻をひくつかせれば血生臭さが顔を顰めさせます。脂と鉄の混ざったにおい。不快なにおいです。けれど大事なにおいでもあります。
僧侶「……お疲れ様です」
傭兵「は。疲れやしねぇよ。肩慣らしにもならねぇ」
 言い捨てます。二人の兵士は居心地悪そうに笑いました。
傭兵「おい、あんたら。俺の仕事はここまでだ。ここから先は知らん。野垂れ死ぬも、祖国に帰って報告するも、勝手にしろ」
隊長「……助けてくれたこと、感謝する」
傭兵「なぁに、気にするない。これも仕事だ。謝礼を払いたいってんなら払ってもいいんだぜ?」
 軽口を叩いたようでしたがその実大真面目です。謝礼が払われたなら、きっとほくほく顔で受け取るに違いありません。
隊長「残念ながら今は持ち合わせもない。代替になるようなものもない。が、このお礼はいつかさせてもらう」
僧侶「気にしなくていいんですよ?」
隊長「そういうわけにもいかないな」
99:
隊長「我々の現在駐屯地はボスクゥ。本隊は、これは軍規に当たるため詳細の説明はできないが、数日のうちはラブレザッハにある。もしあなたたちがそのどちらかに来れば、尋ねてきてほしい。これを預けておくから」
 階級章でした。重要なものではと思うのですが、様子を見ている限りは特にそうでもないのでしょうか。
 駐屯先はボスクゥ……ボスクゥは大森林を抜けた先にある交易都市です。大きな湖があり、水資源が豊富で、陸路だけではなく海路も充実していると聞いたことがありました。
 そして本隊がラブレザッハ……わたしの目的地。軍自体は王都にありますから、一団がラブレザッハ、そしてさらにそこから別れて各個大森林へ、という流れなのでしょう。
 しかし、ですが、うーむ……これは、もしかするともしかして、少々まずいことになったのかもしれません。
傭兵「おう、ありがたく」
隊員「……あんた、アレすよね」
 そう言って青年は傭兵さんの名前を挙げ、
隊員「金にがめついとは聞いてたすけど、それもやむなしの強さすね」
傭兵「褒めても金は出ないからな」
 青年は苦笑して手をひらひらと振った。
隊長「それでは、我々はボスクゥへと帰還し、報告を行う。それでは、また。神のご加護がありますよう」
僧侶「はい。御武運を」
100:
 壮年の男性が十字を切ったのはわたしが僧侶だからでしょうか? それとも彼自身が敬虔な信徒なのでしょうか。
 二人はわたしたちが通ってきた隧道を引き返していきます。駐屯地まで戻る際に魔物と遭遇しないとも限りませんが、誰もそのことを言い出しませんでした。二人はきっとこれ以上わたしたちの世話になるまいと考えているからで、傭兵さんは……金にならないからですね。
 その背中を見送りながら、わたしたちもゆっくりと歩き出します。
 あの集落を逃げるように発ってからすでに半日以上が経過しています。大森林の中は鬱蒼と木々が生い茂り、昼でも薄暗い。それでもところどころにスポットはあったりして、別段恐怖は感じませんでした。
 魔物の類とは幾度となく遭遇しましたが、それもまた問題は有りません。オークすら鎧袖一触できる傭兵さんがどうしてそれ以下の魔物に後れを取りましょうか。
 問題はただ一点。ただただ歩きにくい地形と、変わらない景色、そしてそれらが齎す疲労。
 ……有体に言ってしまえば、わたし、もうへとへとです。
傭兵「……休むか?」
僧侶「べ、別に、大丈夫です」
 いましがた戦いを終えたばかりの傭兵さんが休息を必要としていない以上、見ていただけのわたしが休むわけにもいきません。
101:
 そういうと傭兵さんはわたしにでこぴんを一発して、
傭兵「雇い主が疲れてたら休むんだよ。敵が強襲してきたとき、疲れて満足に逃げられなかったらどうする」
傭兵「お前、ラブレザッハに行く気がないのか?」
 わたしはぶんぶんと首を振りました。勿論横に、です。
 すると傭兵さんはどっかと腰をその辺の石に下します。そして自分が持っていた道具袋をわたしへ投げて、一言「座れ」。
僧侶「え、でも」
傭兵「どうせ大したものは入ってない。敷け。座れ。休むときはきっちり休め。それが鉄則だ」
 言われるがままに道具袋をお尻の下に敷きました。地面の硬さや冷たさなどが、確かにこれ一枚でだいぶ緩和された気がします。
 優しいんですね、などとは言いません。そもそも思っていません。これは彼なりのプロ意識なのです。わたしが、懺悔に来た人間ならば分け隔てなく受け入れるのと同様に。
 腰を下ろせばどっと疲れが噴き出してきました。膝が笑ってます。眠気も襲ってきました。集落を出てからは歩きどおしで、睡眠はとったといえ、殆ど仮眠のようなものです。物音にびくびくしながらの就寝でしたから。
傭兵「寝るなら俺が見張りをしておくが」
僧侶「悪いですよ」
傭兵「そういう気遣いは無用なんだよ。どうせ今夜も野宿だ。すぐ目ェ覚ますんだろうから」
 ……ば、ばれてる!
102:
僧侶「……じゃあ、すいませんけど、ちょっとだけ」
傭兵「おう。何かあったら蹴り飛ばす」
僧侶「普通に起こしてくださいよっ!」
傭兵「大丈夫、だーいじょうぶ」
 これほど不安になる「だいじょうぶ」なんてめったにありません。
 強がりもそこまででした。魔王よりも強大な睡魔がわたしの意識を深淵に引きずり込んでいきます。
108:
 ※ ※ ※
 日は変わった。しかし景色は変わらない。
 どこまでも続く大森林の光景は、いくら俺でも聊か精神に来る。終わりが見えないのは焦燥感を煽るし、どこから敵が現れるかわからないのもまた同様だ。
 僧侶は俺の背後でふらふらになりながらも懸命に脚を動かしている。視線はぼんやりと上空へ向けられていて、ほぼ無心だ。余裕の「よ」の字もない。
 休もうか、とは言わなかった。今度こそは僧侶も首を横には振らないだろう。そんなにちまちまと休んでいたらいつまでたっても目的地まではつかない。無理のし過ぎは当然禁物として、多少の無理は通さなければだめだ。
 本当に厳しくなったらそれこそ気絶させてでも休ませよう。護衛自体は珍しいことではない。気の使い方も、よほどの場合も、心得ている。
傭兵「……?」
 いや……。
 俺は鼻をヒクつかせる。確かにする。水の匂いだ。
傭兵「水場だ。少し寄っても大丈夫か?」
 水はまだ十分あるとはいえ、補給できるときに補給して損はない。瘴気に汚染されている可能性や、同様に水を求めてやってきた魔物に出会う可能性もなくはないが、そのときはそのときだ。
僧侶「あ……はい、大丈夫、です」
 声に力がない。だいぶ参っている。普段から鍛えてないからこうなるのだ……とはいえ、一介の僧侶に強靭な足腰と体力を求めるのは無謀か。
 嗅覚を頼りに五分ほど歩けば川に行き当たった。沢もないような小さなせせらぎだったが、そのまま下っていくと、やおら急に幅が広くなり、小さな池のようになっている。
 人がかつて使った形跡は有れど、居住の気配はない。誰かがここを拠点に活動しているわけではなさそうだ。
109:
 俺が水を汲んでいると、背後で僧侶が水面を眺めていた。単にぼうっとしているわけではないようで、なんだか羨望のまなざしである。
傭兵「水浴びするか?」
 あてずっぽうで言った言葉が正鵠を射たらしい。僧侶は一瞬赤面し、俺から視線を逸らした。
 こいつも女子だ。あの集落の宿では風呂に入ったのかもしれないが、それから森の中を歩き通しで、不快感を覚えているのだろう。
 慣れている身としてはどうでもいいのだが、年頃の女子にはそれは、もしかすると何事にも代えがたい苦痛かもしれない。
傭兵「安心しろ、見張っててやる」
僧侶「……覗かないで、くださいね」
 覗くか、ばか。
 木陰で脱いだ僧侶は池へと身を沈める。ちゃぽん。ちゃぷ、ちゃぷ。ざぶん。ばっしゃん。背後で水の跳ねる音が断続的に響いていて、どうやらお気に召していただけたようでなによりだ。
 魔物の気配も今はない。こうなると俺も手持無沙汰。
 退屈を紛らわせるために背後へと声を投げる。
傭兵「どうだ?」
僧侶「気持ちいいですよ!」
 ばしゃばしゃと水音。はしゃいでいるようだ。これで疲れや眠気もある程度は飛んでくれるだろう。
110:
傭兵「お前僧侶らしいけど、宗派はなんなんだ? そう言えば聞いてなかったよな」
 広い大陸に宗教は沢山ある。新興のそれまで含めたらきりがない。
 基本的には商人に信仰されているもの、農民に信仰されているもの、騎士に信仰されているものに大別できるだろう。分派は様々だが、どの町に行ってもこれら三柱は教会が存在する。
僧侶「わたしはカトリアンです。あんまり一神教って好きじゃあなくて」
 カトリアン……農民に普及しているカトル教を信奉している者たちの呼び名だ。他の二つの巨大宗教、商人の信じるプロトニック教と騎士の信じるダバラモ教は厳格な一神教なのに対し、カトル教はアニミズムである。
 宗教には明るくないが、教義くらいは知っている。カトル教はこの世の遍く存在に魂が宿ると説き、一人では何事もなせず、協働を通して魂を研鑽することでいずれ昇天できると教えている。
 なるほど、確かにこいつにはぴったりだな。他人を放っておけないところなんか特に。
僧侶「傭兵さんの宗派は?」
傭兵「俺か? 俺はマーナセン教を少々な」
 俺の言い方がおかしかったのか、僧侶は笑いを噛み殺した感じで応じる。
僧侶「少々って……それにしても、意外ですね」
傭兵「何が」
僧侶「傭兵さんが信徒だったことにです。しかもマーナセンって。わたしも知識があるわけじゃないですけど、土着信仰ですよね、それって確か」
111:
傭兵「信じちゃいねぇよ。ただ、無宗教を名乗っていれば、熱心な奴らから受けが悪い。それに、験を担ぐくらいは俺だってするさ」
僧侶「験担ぎ、ですか」
傭兵「なんたって俺は傭兵だからな」
 あまりのくだらなさに言って自分で笑う。
 僧侶は暫し無言でぽかんとしていたけれど、少ししてその意味を察して、
僧侶「傭兵、マーセナリー、マーナセン、ですか」
傭兵「そのとおり」
 僧侶の顔は見えないが、きっと呆れ顔のことだろう。
僧侶「まだ大森林は入ったばかりなんですよね」
 話題を切り替えて聞いてきた。短く「そうだな」と答える。
傭兵「普通に行けばあと五日くらいになる。間に合いそうか?」
 そこが問題だ。
 僧侶は曖昧に笑った。いや、もちろん背を向けているため顔は見えないが。
僧侶「昨日の兵士さんが言うには、ラブレザッハには現在軍の本隊が駐留しているとのことです。今行くのはちょっと危ないかもしれませんね」
傭兵「そうか? 一般人の入国が問題になるとは思えないが」
112:
僧侶「州総督はきな臭い噂の絶えない人です。御膝元のラブレザッハを守るのは、そもそも彼の私設軍。そこに傭兵ないし王立軍が駐留する理由はわかりませんが、国王と州総督の確執があると見て間違いないでしょう」
僧侶「となれば、決して雰囲気はよくないはず。入国は厳格化されるでしょうし、内部でのいざこざも、もしかしたらあるかもしれません」
 この国は大小さまざまな村・町・都市から成る。大きな都市はそれひとつで、小さな町村はいくつかまとまって統治が行われている。
 最小の政治的な単位をそれぞれ州といい、州を治める者は領主、そして領主たちを束ねるのが州総督だ。
 現在の州総督は僧侶の言うようにあくどいと評判だ。そのため、立場的にやつの下についている領主たちも、重税を課したり徴兵をしたりと横暴も甚だしい。
 それとは別に王都があり、そこには直系で連なる王族貴族がある。王族一派の支配権は王都アシェンティアと彼らの自治区だけにのみ及ぶが、対外的な活動は全て握っている、ある種の国の象徴だ。
 必然的に王族と州総督は互いににらみを利かせる関係にある。それが一方の暴走を防ぐブレーキとなることもあり、また今回のように、不和の原因となることもある。
傭兵「一体何の用があるんだか……」
 依頼人の意図を汲むのは俺の仕事の範疇だが、だからといって不必要に首を突っ込むのは双方に利益がない。僧侶はラブレザッハに行きたい。俺は金を貰って連れて行く。それこそが互恵関係。
 しかし、見たところ十五、六程度の少女が、なぜ全てを擲ってまで向かおうとするのか。知りたいわけではないが、気になりはする。しかもあいつは自らの体を売ろうとまでしたのだ。
113:
傭兵「道中、こいつに死なれでもしたら、最悪に寝覚めが悪くなるな。くそ」
 そうさせないために俺が雇われたのだ。金を貰った以上は働かなければ。
 と、やけに背後が静かだと思った。
傭兵「……僧侶?」
 応えはない。
 脳裏をよぎるのは敵勢。しかしすぐそばでは俺が歩哨を務めていた。依然として敵影はない。気配もない。
傭兵「僧侶」
 強めに発声。やはり応えはなかった。
傭兵「悪く思うな!」
 我慢の限界だった。俺は、最悪びんたの一発でも二発でも喰らう覚悟で振り向く。
 池では僧侶が倒れていた――いや、眠っていた。石に腰かけた状態で、頬杖を突き、時折こくん、と舟を漕ぐ。
 そしてそのままバランスを崩して落ちた。
 俺は振り返った勢いのまま跳んだ。
 なぜ、と問われると困る。完全にその場の流れだった。
 決して僧侶の裸体が見たかったからだとか、触れたかったからだとか、そんなよこしまな気持からではない。断言できる。ちんちくりんには興味がないのだ。つるぺたすじまんは対象外なのだ。
 十も離れたガキに欲情しない。していたら最初の晩に襲っているはずだろう。
 これは俺にあるまじき善意。もしくは、契約に含まれている「僧侶の身を守ること」。俺は悪くないし、裸体を見てしまったのも、あまつさえ溺れかけた僧侶を抱きかかえたのも、その際に胸やら尻やらを触ったのも、全て不可抗力だ。
 だから許せ。
114:
僧侶「……」
 と言うようなことを小一時間かけてのべつまくなし撃ち続けても、僧侶はこちらを向く気配がなかった。
 膝を抱きかかえ、帽子を目深にかぶり、「見られた見られた見られた……」と呟いている。
傭兵「大体お前、自分の処女売ろうとしてただろうが」
僧侶「それとこれとは話が違いますっ!」
 思春期の気持ちはとうに忘れてしまった。いや、昔日は春を思う余裕などなかったような気もする。
僧侶「傭兵さん!」
傭兵「なんだ」
僧侶「この辺りに魔物の巣や砦はないのですか!?」
傭兵「あったらどうする」
僧侶「ぶっ潰しましょう! こういう時こそ善行を積まなければなりません!」
 確実に八つ当たりだった。
 結果としての善行を神様が照覧してくれるものかは全くわからない。というか、寧ろ魔物の方に同情したくなりさえする。
傭兵「あほか。エルフたちとの小競り合いの真っ最中だぞ、警戒されてるに決まってる。死ににいくつもりか」
「物騒な話ですよねぇ」
115:
 茂みをかき分け一人のエルフがやってきた。いつぞやのハーフエルフとは違う、純潔のエルフだ。細長い耳、金髪碧眼、すらりとした長身にそれが見て取れる。
 エルフは弓と短剣こそ携えているが、それを抜く気配は見せなかった。
 そして俺はその理由を知っている。
傭兵「……この辺りだっけか。お前の棲家は」
エルフ「やーですねぇ、『棲家』だなんて表現をされるのは。クラン、と言って欲しいです」
傭兵「前はもっと奥の方だったろう?」
エルフ「うわぁ、シカトですよ。ドン引きー」
僧侶「……お知り合い、ですか?」
 凛と引き締まった風貌、雰囲気からの、この口調である。僧侶は得心のいってないような顔をしている。
傭兵「エルフに伝手がある、と言ったのを覚えてるか? それがこいつだ」
エルフ「初めまして。『大いなる神々に愛されしクランの装具工代表の未来豊かな第三子』と言います。以後お見知りおきを」
僧侶「……え?」
 戸惑う僧侶。無理もない。俺も最初はそうだった。
116:
 エルフはからからと笑って、
エルフ「からかってるわけじゃないんですよ? 人間には、わたしたちの名前は可聴も発音もできないんですよねぇ、言語が違いますから。今のは、もし人間の言葉になおすなら、ということです」
エルフ「――――」
 エルフは確かに口を動かした。けれど彼女の口からは、どうやっても何かが生まれているようには見えない。
エルフ「ほら、ね。そもそも、こうやって話せるのも、変換魔法があるからだし?」
傭兵「いい加減俺の質問に答えてくれ」
エルフ「あはは。ごめんねぇ。でも、ま、傭兵くんの想像通りだと思いますよ」
傭兵「魔王との戦いに駆り出されてるのか」
エルフ「そりゃうちのクランは一員総戦闘員! みたいなところあるしねぇ。戦力の足りないところへ随時派遣されてるんだよ」
傭兵「てことは、この辺りは前線なのか?」
エルフ「やー? そういうわけじゃないよ。でも、いつ前線になってもおかしかないねぇ」
117:
傭兵「一つお願いがあるんだが」
エルフ「高くつくよ?」
傭兵「金ならある」
エルフ「あはは。お金なんて人間の世界でだけ通用するものさー。そんなものに頼らないと信頼すら築けないんだね、相変わらず」
僧侶「傭兵さん……?」
 不安そうな目で僧侶は俺の後ろに隠れた。
傭兵「安心しろ。悪意はないんだ」
 俺も最初は苛々したものだ。こいつらエルフは他人の文化や風習を貶めこそしないが、確実に、ほぼ確実に、見下している。
 自分たちができ、他人ができないことを、素直に「どうしてこんな簡単なことをできないんだ?」と口に出してしまえる。
 種族の壁は高く、厚い。そもそも、偶然知能が高いから友好的な交友が可能なだけであって、俺たちとの差はゴブリンと同様にあるのだから、理解できないのも当然と言えた。
傭兵「宿を貸してほしい。軒下でもいいんだ。というか、こいつが安心して寝られる場所さえありゃいい。心当たりはないか」
 こいつ、で僧侶を指さす。
118:
 僧侶は途端に慌てふためいて、「いえいえそんな」だとか「結構です」だとか異議を申し立ててくるが、すべて却下だ。また沐浴の最中に眠られても困る。
 エルフは顎に手を当て、芝居がかった動作とともに、俺と僧侶を見比べる。
エルフ「ふむふむ。ほーお。へぇ。はいはい」
エルフ「傭兵くんてロリコンだったっけ?」
傭兵「違ェよ」
 わざと間違えてやがるなこのくそたれ。
エルフ「あはは。知ってるよ。傭兵くん一人なら、大樹の穴倉の中だろうが蝙蝠の棲家の洞穴だろうがいくらでも教えてあげられるんだけどねぇ、雇い主サマも一緒だとなると、多少は気も使いたくなる」
エルフ「よし、わかった! 今晩はうちに泊りなよ。狭いところだけど、雨風は凌げて横にはなれる。十分でしょ?」
傭兵「悪いな」
エルフ「なーに、傭兵くんには借りもあるしね」
傭兵「俺だってお前に借りがある」
エルフ「そう! 損得勘定なんてのは人間のすることさー。それがただでさえ短い人生をつまらなくすることだってのに気付いちゃいない。うちらエルフとは正反対さね」
 この神経を逆撫でするような言動……いや、辞めよう。犬が粗相したのを本気で怒らないように、エルフたちの言動を窘めることに意味はない。
 僧侶がこちらに視線をやってきている。エルフの人柄に対してのものというよりは、俺とエルフの関係を問う意味合いが強いような気がした。勿論それについて言及はしない。
119:
エルフ「とりあえずうちは哨戒の続きをしてくるから、二人は川を遡上すればいいよ。クランがあるから、友好の証、まだ持ってるよね? それ見せれば悪いことにはならないはず」
 俺は懐から一本の枝を取り出した。トネリコの葉。これがエルフたちとの友好の証なのだ。
 エルフは満足そうにうなずいて去っていった。その後ろ姿がまるで嘗てと変わっていなかったので、図らずとも寂寞の念に駆られる。
僧侶「なんか……凄いひとでしたね」
 僧侶はたった一言それだけ漏らした。それは事実だと思うし、的確だ。
 すっかり裸体を見られたことを忘れてしまっているようなので、これ幸いと川に沿って遡上していく。
 なるほど、確かにクランが存在しているようだ。その姿はまだ見えないが、通りやすいように木の下枝が打ち払われているし、藪も踏み固められている。
 よく沢に降りているであろうあたりの土は少し剥げていて、生活痕が点在している。
 嫌な予感がした。
 そしてその予感は事実と言う形で鼻孔を突く。
 濃密に香る血のにおい。
 俺は剣の柄に手をかけた。
 一拍遅れて、僧侶も顔を顰める。
120:
僧侶「傭兵さん、これって……っ!」
傭兵「俺の後ろに隠れてろ。絶対に、何があっても、顔を出すな。俺が死ぬまでは守ってやる」
 木の影から奥を窺う。乱立する樹木の中はあまりにも静かで、静かすぎて、呼吸も鼓動も俺と僧侶の分しか感じられない。
 目を凝らせば確かにいくつかの住居が見える。百メートルほど先だ。動くものの姿は捉えられない。エルフも、敵も。
 それは限りなく最悪に近いイメージを想起させたが、最悪ではなかった。エルフのクランを一つ壊滅させるほどの敵がまだ居座っているのだとすれば、それは恐らく、俺の手に負える存在ではない。
「わかってるのぅ」
 頭上から声。
 死んだ。
 と思った。
 殺意がない。気配がない。音もない。影も形もない。
 違う。ないのではない。俺が単純に悟れなかっただけだ。それほどまでに実力差は乖離している。強いとか弱いとか、同じ秤に乗せていいものではなく、そもそも強弱の俎上に載せていい存在でもない。
 しかし体は動いた。そのための訓練をずっと積んできていて、何より背後には僧侶がいる。俺は僧侶に殉じるつもりなど毛頭ないが、金にだけは。
121:
 幻影でもう一人の自分を生み出しながら火炎魔法を唱えてめくらまし。その一瞬の間に僧侶の腕を取り、勢いに任せて逃げ出した。
僧侶「なんですかあれ! なんなんですか!?」
 僧侶も彼我の実力差を悟ったのだろう。半ば狂乱状態で叫んだ。
傭兵「俺も知らん! とにかく喋るな! 舌噛むぞ!」
 幻影を追加。今度は俺だけでなく、僧侶もセット。逃げる俺たちと同様に逃げる幻影を三つ、ばらばらの方向へ向かわせる。
 これで少しでも時間が稼げれば!
「かっかっか! 愛い奴愛い奴!」
 またしても声が頭上から降ってくる。
 不可視の力場が俺を僧侶ごと吹き飛ばした。木に激突し、全身が軋む。
 怯んでいる暇はどこにもなかった。立ち上がって剣を抜くも、既にその埒外な存在は俺の懐に潜り込んでいて、品定めの如く俺を上下左右から見て回る。
 俺は体が動かない
 息すらもできない。
 果たしてそれが敵の能力によるものなのか、純粋な恐怖であるのかは、現時点では判断がつかなかった。
122:
僧侶「傭兵さん!」
 僧侶は既に拳銃を構えている。脚と腕が恐怖で震えている状態でどこを狙うつもりだ、あのばか!
傭兵「てめぇは逃げろっ!」
僧侶「そういうわけにも!」
 僧侶の言葉は半分正論だった。ここで彼女が逃げたところで、襲撃者が彼女を見逃してくれる可能性は少ない。彼女がきちりと生き残る術は、ここで二人で襲撃者を無力化するしかない。
 が、それができるものならとっくにその選択肢を選んでいる。
「む……よい瞳じゃ。実によぉい瞳じゃあぁ……」
 赤ら顔の山伏。
 高下駄を穿き、椛を象った団扇を持っている。
 何より、その高く、高く、高い鼻。
 風貌だけは噂で聞いたことがある。
 なんでこんなやつがこんなところに。
傭兵「役小角……」
「ほう、儂の真名を知っておるか……」
 魔王軍四天王、第六天魔王・大天狗。
 またの名を役小角。
123:
傭兵「うぉおおおおああああああっ!」
 裂帛の気合いで金縛りを――何より恐怖心を――吹き飛ばした。四天王相手にそう何度も必殺の機会が巡ってくるとは思えない。俺はこの一撃にかける思いで剣を振るう。
 しかしたった十数センチの距離が光年にまで引き延ばされている。近づくたびに刃が風化し、最早残っているのは柄だけだ。
 炸裂音が耳を劈く。僧侶の拳銃だ。理解はできたが、それもまた大天狗には届かない。勢いをそのままに方向転換、圧倒的な重力に負けて全て地面へと突き刺さった。物理反射の障壁がいつの間にか貼られている。
 地面で睡眠を誘発する光が迸る。弾丸に込められた睡眠呪文が発動したのだ。
 大天狗は団扇を振るった。一振りで光すらも掻き消し、タイミングを合わせて踏み込んだ俺へと視線を向けている。
 赤く、長い鼻を撫でた。
傭兵「ぐっ、が、ふぅっ……!」
 腹へと石柱がめり込む。視認できる度を超えた呪文の発動に対処の仕様などあるはずがない。胃の中身を全てぶちまける。
 同時に俺へ助太刀するべく僧侶が発砲した。大天狗は一瞥し、つまらなさそうにもう一度団扇を振るう。不可視の力場が一瞬で生まれ、結果は先ほどと同じだった。
 そして大天狗の意識がそちらに向いた一瞬、俺は一歩を踏み出している。
 懐からナイフを抜き、投擲。
 ナイフが銃弾と同様に弾かれる。不可視の力場は複数設置可能で、生半な攻撃では貫けない。それだけで既に圧倒的だ。加えて圧倒的な反射度。癪だが、この盾を貫ける矛は、俺たちには存在しない。
 ゆえに、数の利。
124:
 もし仮に勝機が――というよりもやり過ごす術があるとするのなら、それは数の利を活かした挟撃以外にありえない。数での有利を打ち捨ててまで勝てる道理はなかった。
 それも今の攻撃で仕留められなかったのだから推して知るべしだ。
 再度ナイフを投擲しようとするが、懐に手を差し入れた時点で、既に大天狗は俺の首根っこを押さえに来ている。咽頭が圧迫され物理的に呼吸ができない。頸椎に、ともすれば折れてしまうほどの力が加えられている。
 が、感じたのは何よりも慈しみだった。繊細な硝子細工を丁重に扱う時のような慈しみを、大天狗は俺に向けているのだった。
傭兵「ごぅ、ぁう……」
 これは、やばい。落ちる。
 天狗の背後で僧侶が拳銃を構えていた。だから逃げろと言っているというのに!
大天狗「童……なかなか強いなぁ? どうだ、儂の弟子にならんか、ん?」
 僧侶の発砲に大天狗は今度こそ一瞥すらくれない。不可視の力場が全ての外敵から大天狗を守る。
 俺は明滅する意識の中、縺れる舌をなんとか操って、一言。
傭兵「遠慮、させて、もらう」
 俺は密教になぞ興味はない。金を稼がなければならないのだ。
125:
大天狗「かっかっか! 死の間際でそんな口が利けるか、肝の据わった男じゃのぅ!」
 大天狗は呵呵大笑する。まるで生まれて初めての経験のように。
大天狗「なら死ね」
「傭兵くん!」
 魔力を籠められた矢が大天狗を襲う。しかし大天狗は瞬きだけで障壁を生み出し、矢の全てを受け切って見せた。
エルフ「もういっちょ!」
大天狗「生き残りがおったか」
 黒翼を背中に生やし、大天狗は大きく羽ばたいて距離を取った。矢は全て打ち落とすが、五十を超える本数の矢の前では、さすがの大天狗もおいそれと反撃には移れない。とはいえ窮しているわけでもない。
 あくまで軽い調子のままエルフは手をひらひらと振った。それが俺たちに撤退を促しているのだということがわからないくらい、俺たちの間柄は浅くない。と同時に、簡単に見捨てられるほども。
エルフ「あはは。いいのさー。今やってるのは戦争で、それは魔王軍とエルフの戦争だ。うちらの戦争だ。人間の戦争じゃない」
エルフ「この戦争はうちらのものだ。うちらだけのものだ。他の奴らに渡したりなんかするもんか。そうだろう? 傭兵くん」
126:
 戦争戦争と繰り返すエルフの口の端から涎が滴っていく。
 実に楽しげだった。待ちに待ったバースデープレゼントを開く子供の笑顔。遠足が楽しみで眠れない子供の笑顔。それがいっぱいに彼女の顔面に張り付いている。
僧侶「でも、そんなことしたら、エルフさんが……!」
傭兵「逃げるぞ」
僧侶「傭兵さんっ!?」
傭兵「ここにいたって無駄死にだ! 安心しろ、あいつは俺くらいには強い!」
 それは事実であって、文法が滅茶苦茶だった。
 俺くらいに強いのならば、あの大天狗には決して勝てない。だからこの場合の「安心しろ」は限りなく誤答である。
 しかし他にどんな声をかければよかったのだろう。それとも声なぞかけず、有無を言わさず連れ出せばよかったのか。
僧侶「だけど、だめです!」
エルフ「早く! 巻き添えにしても、知らないかんねっ!」
 エルフの周囲を光が包み、数多の煌めきはそのまま矢へと形を変えていく。
傭兵「ちっ!」
 俺は僧侶の鳩尾を打った。昏倒させ、ぐったりと力の抜けた僧侶を抱えると、一目散に走り去る。
 背後で大爆音が響く。振り向きたい衝動を必死にこらえながら、俺は走り続けた。
127:
傭兵「はっ、はっ、はっ!」
 一体どれだけ走っただろう。足の裏の感覚がない。傭兵も含めて冒険者生活は長いが、ここまで走ったことも、また走れたこともなかった。俺の脚を止めないのは体力ではなく、気力でもなく、必死感。
 どこまでがあの大天狗の決死圏なのかわかったものではないから。
 それでも限界は来る。自分の意思とは全く無関係に折れた膝。そのまま肩口からぬかるんだ地面へと激突した。なんとか僧侶だけは放り出さないですんだが、それだけ。全身が軋んで動かない。
 心臓がうるさいくらいに働いている。いや、これはきっとオーバーワークからくる文句に違いない。春闘だ。もっと給金を挙げろと叫んでいるのだ。
 しかし心臓は俺のもので、俺のものであるのだから俺の指示と意思に従ってもらわなければ困る。
 からんからんからん、と音が薄暗い森に響く。
 何かを脚にひっかけたのだった。恐らく侵入者警報代わりの鳴子。本来ならば慌てる場面かもしれないが、今回ばかりは事情が違う。鳴子があるということは、人間がいるに違いないから。
 魔物たちのものでは断じてない。なぜなら、あちらにそこまでの知能はない。
 静寂。いや、その中で確かに、微かに、衣擦れの音が聞こえる。
 俺は両手を空にして挙げた。無抵抗のポーズだ。きちんと体を動かせているのかは甚だ疑問ではあったが。
128:
 暗がりから人影が現れた。戦士と盗賊……どちらも男。戦士が前衛で剣を構え、盗賊が後衛でボウガンを構えている。パーティとしてはバランスを欠いている。見えない位置から魔法使いあたりが様子を窺っているか?
傭兵「こっちは旅の者だ。敵意はない」
 敵意もクソもこんな状態ではあったものじゃない。
 二人は僅かに視線を合わせ、頷いた。そして得物を下ろす。
戦士「どうした。怪我をしているようだが」
傭兵「大森林の中で四天王に遭った。第六天魔王、大天狗、役小角だ」
盗賊「……大天狗だと?」
 マスクで隠れた盗賊の顔、その唯一晒されている切れ長の瞳が、大きく開かれた。
 戦士も驚愕の表情を作っている。疑わしい――しかし本当であれば捨て置けない。その判断を頭の中でしているのだろう。
戦士「それは、どこで」
傭兵「だいぶ走ったから正確な距離は覚えてないが、ここから二、三十分程か? エルフのクランがあった。そのあたりだ」
盗賊「エルフのクランは知っている。たまに取引があるからな」
 取引? なんのだ? 気になるが本題はそこではない。
傭兵「そこが大天狗に襲われて壊滅した。一人のエルフが大天狗と応戦しているが……勝ち目は薄い」
129:
戦士「……そうか。とりあえず、ご苦労だった。町に来るといい。大したものはないが、体を安静にできるくらいの施設はある」
傭兵「町?」
戦士「あぁ。採石の町、ゴロン。聞いたことあるかい?」
傭兵「寡聞にしてないな。この近くなのか」
戦士「近くと言うほど近いわけでもないさ。数時間歩けば、ってところだ」
盗賊「俺たちは大森林の調査のために派遣された傭兵だ」
傭兵「争いの渦中の大森林で? 命知らずだな」
戦士「だからこそ、さ。魔王軍のやつら、容赦なく瘴気を振りまくもんだから、汚染の進行がい。自浄を越えてる」
 魔物は瘴気がなければ生きていけず、死してなお瘴気を生み出し版図を広げる。地脈の浄化作用で本来は拮抗するものの、行き過ぎれば人間には毒だ。
 まだ大森林の浅いところだから俺たちも実感は湧いていないが、これがさらに深部だと、もしかすれば不調も出てくるのかもしれない。そうでなくとも魔物はより凶暴に、強力になっていくだろう。
 いや、こいつらの様子だと、僅かに町の方にも影響が出ているのかもしれなかった。
戦士「これ以上進行すると危ないってんで、特に瘴気の濃いところを探してるのさ。争いのさなかでも、いや、だからこそ採石は必要になる」
130:
盗賊「おい、魔法使い、出てこいよ。こいつは安全みたいだ」
魔法使い「……」
 寡黙な様子で魔法使いが現れた。ローブに身を包んで、樫の杖を持っている。存外若い風体で、片眼鏡が特徴的だった。
戦士「旅の者と言っていたけど、その女の子も?」
 そこでようやく三人は俺の背中の僧侶に視線をやった。僧侶は少々眉根を寄せて苦しそうにしながらも、おとなしく眠っている。
傭兵「人攫いに見えるかい?」
盗賊「随分とな」
 真面目くさった言い方だった。盗賊如きに人攫いに見られてはたまらない。俺は苦笑して戦士を見てやった。
戦士「すまんな、こういうやつなんだ」
傭兵「俺はお前らの同業者だ。こいつは雇い主。大天狗に襲われたって言ったよな。エルフを見捨てていくのを拒んだ、だから気絶させた」
 驚くべきことに一番大きな反応を示したのが魔法使いだった。寡黙なのは変わらずだが、何かを思うところがあるのか、目を潤ませて俺たちから――否、僧侶から視線を逸らす。
傭兵「悪いが、とりあえず案内してくれないか? 俺もそろそろ限界なんだ」
135:
* * *
 物音がして目を覚ましました。
僧侶「だれっ!」
 反射的に拳銃を向けると、掃除婦さんが「ひっ」と短い悲鳴を上げて後ずさり、倒れます。
 ……拳銃?
 ……掃除婦?
 見れば宿屋の一室でした。わたしはベッドの上にいて、そこそこ上物の絨毯が敷かれている部屋はそれなりに広く、品のいいテーブルや椅子、小さいですがクローゼットもあります。
 そして部屋の隅に傭兵さんとわたしの荷物が固まっておかれていました。傭兵さんの折れた剣やナイフも。
 わたしは謝罪しながら拳銃を下ろしました。どうしてわたしは拳銃を持っているのでしょうか。
――フラッシュバック。
僧侶「……そうか」
 あの恐ろしすぎるまでに恐ろしい大天狗。あれに襲われて、傭兵さんに気絶させられて……でも今傭兵さんの姿は見えません。そしてこの宿屋。事実に頭がおっつかないのです。
136:
僧侶「あの、連れはどこにいるか、わかりますか?」
掃除婦「申し訳ありません。傭兵様の居場所は私も存じておりませんで……」
 優雅な身のこなしで掃除婦さんは傭兵さんの衣服だとか、部屋の足跡だとか、そういったものを処理していく。
掃除婦「僧侶様はどうなさいますか? お着替えをお手伝いいたしましょうか」
僧侶「え? いえ、けっきょうでしゅ!」
 盛大に噛んだ。着替えを手伝ってくれるなんて、それにこの部屋のランクを見てもわかるように、かなりいいところに泊まっているらしい。そんなお金があったのでしょうか。それとも傭兵さんの持ち出し?
 あの人がそんな殊勝なことをするとは到底思えませんけど。
 それにしても、傭兵さんの居場所がわからないことには、わたしも動くに動けません。伝言は預かっていないようだし、書置きも……うん。部屋の中にはありませんね。
 逆説的に、これは傭兵さんが短時間で戻ってくることを意味しています。あの人がわたしをおいて長時間いなくなるなんてことは、今までなかったのですから。
 そこまで考えて、わたしがあの守銭奴にそれなりの信用をおいていることに気づき、少し落ち込みました。
 いえ、わたしは彼の戦闘力に信用をおいているのであって、決して、決して、人間性に信用をおいているわけではないのです。と自分に言い訳をしておきます。
僧侶「あの、ここはどこなんですか?」
 掃除婦さんに声をかけると、彼女は少しきょとんとして、けれどこちらに不快感を与えないような優雅なしぐさで、
掃除婦「採石の町、ゴロンでございます」
 と言った。
137:
 採石の町、ゴロン……聞いたことがない。いや、わたしたちは大森林にいたはず。であるならば、この町も大森林の中にあるのだろう。聞いたことがないのも当然だ。
掃除婦「もしお暇でしたら探しに町に出られては? それほど大きな町ではありませんし、今日は礼拝日、教会に行けば見つかるかもしれませんよ」
 あの人が礼拝なんてするはずはないのですが、わたしは軽くお礼をして、ベッドから這い出ました。僧服からネグリジェに変わっています。サイズもぴったり。
 森の中を歩きまくったどろどろの服で寝られないのはわかりますが、眠っているうちに着替えさせられたことを思うと、顔から火が出るほど恥ずかしいです。まさか傭兵さんがやったのではないと思いますが。
 見ればテーブルの上に畳まれて置かれていました。洗剤のいい匂いが鼻孔をくすぐります。ふわふわとした柔らかな手触りはいつまでも触っていたいくらい。
 するりと袖が通っていきます。心地よさを感じながら着替えを終わらせ、鞄を背負い、僅かに悩みましたが拳銃を入れて、部屋を出ます。勿論書置きは残して。
僧侶「『もし帰ってきていたら、教会まで来てください』と」
僧侶「……あれ、教会ってそういえば――」
 なに教のなんですか、と聞こうとして振り返れば、既に掃除婦さんは仕事を終えていなくなっていました。音も立てず。プロの仕事です。
 まぁ外に出ればわかるでしょう。わたしは別段引きこもりではないのですし、そもそも門外不出は性に合いません。
 そうして外に出ます。
僧侶「うわぁ……」
 端的に、凄い、と思いました。
138:
 町の中心に大きな竪穴があります。大きなとは、本当に大きな、です。小さな集落ならすっぽりと収まってしまうくらい巨大な竪穴が町の中心にあるのです。
 わたしはついさっき聞いた言葉を思い出します。「採石の町、ゴロン」。採石なのですから、つまりあれは鉱石の採掘場なのでしょう。中心に向かって渦巻き状になった道を、一輪車を押した人たちが上下しているのも見えます。
 町は竪穴を中心にできているのでした。わたしが泊まっていた宿も、石屋も、装具屋も、食べ物屋も、住居も、竪穴をぐるりと囲む螺旋状、竪穴の壁面に建てられています。
 宿は竪穴がよく見える、恐らくメインストリートなのでしょう、一際大きな道路――いえ、通路と言ったほうが正しいでしょうか?――に面していて、もし先ほどの部屋の窓からのぞきこめば、もっと高い位置から竪穴を見ることができたはずです。
 下を見れば竪穴があって、そして上を見れば、今度は精錬の煙があちこちから立ち上っているのが見えました。白、黒、黄色、様々な煙が見えます。
 わたしは鍛冶には詳しくないのですが、きっと使っている鉱石や、工程の違いなんでしょうね。
肉屋「この光景が珍しいのかい?」
 振り向けばお肉屋の店主さんがわたしを見ていました。どうやらきょろきょろしているところを見られてしまったようです。
 店先のディスプレイに並ぶのは、オーソドックスな豚や牛ではなく、魔物の肉が主でした。勿論豚や牛も並んでいますが、どれも割高です。大森林の中にある町ならそれも仕方がないのでしょう。
 本来なら瘴気で食べられないはずですが、もしかすると血抜き同様に瘴気を抜く術もあるのかもしれません。
139:
肉屋「この町に初めて来た人間は大抵そんな顔をするよ。で、どうしたんだい。お嬢ちゃんは何か用かい?」
僧侶「あ、教会の場所を教えてほしいのですが」
 店主さんは怪訝な顔をしました。
肉屋「教会ィ? そりゃ教えてやるけどさ、お嬢ちゃん、カトリアンだろ? この町にゃプロトニックの教会しかないぜ?」
 そうでした。わたしはカトルの僧服を着ているのです。別段カトルとプロトニックは敵対してはいませんが、他宗派の教会にこの僧服を着ていくのは無礼なことでしょう。
 仕方がありません。一度宿屋に戻って私服に着替えてくるしかないですね。
 プロトニックは商人に信仰されています。「労働こそ神から与えられた天命であり、全ての職業は天職である。正しく働くことによって神からの加護がある」と彼らは信じています。
 わたしは正直、その教義に対しては半信半疑でなりません。
 半信は前半の部分にです。労働自体は尊いものだとわたしも考えます。職業に貴賤は有りません。わたしの僧侶としての職務と、傭兵さんの職務、どちらも同じくらいに重要なことです。
 しかし、わたしは後半部分に半疑します。正しい労働とは一体何なのか。この世の中にきちりと「正しい」ものがあるならば、それこそ神の教えなどいらないのではないか。
 それになにより、プロトニックの教義が正しいとするならば、正しく働く者こそが富める者になっているはずです。
 しかし、現実はそうではない。例えば州総督のように。
 背理法。
140:
 お金には地位や権力が付随します。そしてそれらにはどうしても権謀術数が付随して、必然的にプロトニックの教義からは遠ざかっていってしまいます。
 わたしはそれが、現実との乖離に思えてならないのです。
 正しい労働に価値を見出すのか。
 金銭に価値を見出すのか。
 後者であるならば、きっと、それは神など最早どうでもいいのです。
 彼らにとっての神様は、紙幣であるに違いありません。
 資本主義の犬め。
僧侶「……っ」
 体を思わず震わせました――奮うのを堪えて。わたしの中の激情が鎌首をもたげたのを、何とか押しとどめます。
 今は、まだ。
141:
 着替えを終えて教えていただいた教会へと向かいます。教会は螺旋の上の方にあって、少しばかり足腰が痛くなりますが、我慢我慢。
 上層へ行けばあとは探すまでもありませんでした。今日は言った通りの礼拝日。信者で溢れてごった返しています。人の波に埋もれてしまいそうです。
 見れば親子連れが多いようでした。みなさん、少しばかり重たい表情をしているのが気になります。
 教会の中に入るまでには多少の時間がかかるでしょう。教会の内装には大いに興味があります。が、わたしの目的は傭兵さんを探すことで、こんなごった返したところに傭兵さんがいるはずはありません。
 書置きを残しているとはいえ、この中では傭兵さんがわたしを探すのも一苦労でしょう。
 ……仕方ありませんね。やっぱり帰りましょう。
 と踵を返そうとしたその時、肩をつつかれました。
僧侶「え?」
魔法使い「……」
 ローブを身に纏った女性でした。年齢はわたしより五つくらい上でしょうか。銀髪に片眼鏡が特徴的です。
僧侶「礼拝、するんですか?」
 か細い、かわいい声でした。
 わたしは首を傾げます。この人とどこかで出会ったでしょうか。
142:
魔法使い「……あ、そうか……」
魔法使い「これ……」
 女性は一枚の手紙を差し出しました。受け取ると、そこには傭兵さんの走り書きでわたし宛のメッセージが書かれています。
『用事を済ませたい。二時間くらいで宿に戻る。魔法使いに護衛を頼んだから、一緒によろしくやってくれ。宿代は俺持ちだから、これくらいは許せ』
 ……はぁ?
 なんですかこれ。なんなんですかあの人。職務放棄ですか。
 少しでも信頼したわたしがばかみたいじゃないですか!
僧侶「で、あの、魔法使い、さん?」
魔法使い「……うん。なに?」
僧侶「魔法使いさんは、えっと、いいんですか?」
魔法使い「いい。かわいい女の子は、好き、だから」
 含みのある言い方でした。なんとなく背筋にさぶいぼがたちます。
魔法使い「礼拝、する? いこっか」
 自然と指を絡ませてきます。びくっとしてそれを振り払ってしまいました。
 傷つけたかな、と思ってみれば、魔法使いさんはわたしを真っ直ぐに見て、
魔法使い「……残念」
 ……相当に不思議な人のようです。一応、警戒をしておきましょう。
143:
僧侶「よろしくやってくれって、そーゆーことじゃ、ないですよねぇ……?」
魔法使い「?」
 言いたいことはいろいろありましたが、最早戻るのが億劫なほど進んできてしまいました。人の中をかき分けながら、教会の中へと進みます。
 高さは有りませんが奥行きの広い教会でした。いくつかの部屋に別れていて、礼拝堂、懺悔室、説法室、図書室などがあるようです。礼拝堂ではゴスペルの真っ最中で、殆どの人はこれを聞きに来たのでしょう、一番人がいます。
 人の少ない説法室に行きました。中には子供たちが十人ほどいて、司祭様に質問をしたり、逆に司祭様から子供たちにプロトニックの教えを授けています。
司祭「――ということを、我らが主はおっしゃったわけです。だから私たちも、この採石の町でやっていけるわけですね。労働に貴賤はなく、真面目に働くことが、よりよい人生を形作るのです」
司祭「ですからみなさんも――あれ。魔法使いさんじゃないですか」
 司祭様が魔法使いさんに声をかけると、子供たち、保護者の方も一斉にこちらを見ました。
「すげー、本物だ……」
「お前声かけてこいよ」
「できないよ」
「サインとかもらえるかな」
「ばか、辞めときなって」
 等等、子供たちが大きな内緒話で騒ぎ出します。
 司祭様は苦笑しながら額に手をやりました。
144:
魔法使い「……ごめんなさい、今日は、その、デートだから」
 ……ん? 今聞き捨てならない言葉が聞こえた気がしましたが。
 魔法使いさん、顔を赤くしてどうしました。
 その後、なんとか無事に説法の時間も終わり、子供たちは保護者と一緒に三々五々散っていきます。その際も魔法使いさんは人気で、子供たちがみんな手を振ったり、中には握手を求める子供もいたりして。
僧侶「魔法使いさんって有名なんですね」
魔法使い「そんなこと、ない」
司祭「ふふ。魔法使いさんはそういうけどね、実際有名人なの。あなたはこの町の人じゃないみたいね」
僧侶「はい。その、えーと」
 大天狗のことを話すべきか迷って、やめました。不穏なことを迂闊に漏らすべきではないでしょう。
僧侶「旅をしていて」
司祭「旅! 懐かしいわぁ。私も昔は旅をしていたものよ。って、そんな話はいいかしら」
司祭「魔法使いさんは採石事業を担っている会社の研究員なの。彼女が来てから採石の効率は凄くアップしてね、暮らしも並み程度にはなったし、落盤事故の数もぐっと減った。司祭の私が言うのもなんだけど、町にとっては神様みたいな存在よ」
魔法使い「そんな……神様なんて」
 伏し目がちに魔法使いさんは言いました。褒められたり、そういうのがあまり得意ではないのでしょう。恥ずかしそうです。
145:
司祭「でも、もう五年になるのか……時が経つのは早いわねぇ」
 遠い眼をする司祭様。勿論わたしにはその意味がわかりません。しかし、嘗てのこの町の状況と、そこから這い上がるための努力の歴史を垣間見ることはできました。
 きっと、だからなのでしょう、この町にプロトニック教しか存在しないのは。
 大森林に囲まれた採石の町。そして、採石の町といえば聞こえはいいですが、その実採石「しか」ない町だったのでしょう。そこから這い上がるためには現実的で即物的な欲望が必要だったに違いありません。
 即ち、金銭。
 成りあがってやると言う目標。
 勿論労働者が皆そうだったとは思いませんし、司祭様もまたそうであるとは思いませんでしたが。
 まぁ、なぜこんな危険極まりない、言ってしまえば人間の領土外の町ができたかということが何よりの疑問なのですけれど、きっと金のにおいを嗅ぎつけた人がいたのでしょうね。
司祭「そういえば、次にお医者様が来るのはいつなのか知ってる?」
魔法使い「確か、再来週って言ってたと思う」
司祭「そう……長いわね」
146:
僧侶「お医者様がおられないんですか、この町」
司祭「いないわけじゃないけど、月に一度、魔法使いさんのところ……カミオインダストリーのお医者さまが来てくれるの。ここは大森林で、今は何かと物騒でしょう? 瘴気に当てられる人も出てるから、専門家に来てもらっているの」
僧侶「瘴気に当てられた人がいるんですか?」
 それは一大事です。大森林の中を思えば仕方がないことなのかもしれません。いくら魔術的な結界を張っていても、瘴気はゆっくり浸み込んでくるのですから。
 もしかしたら子供連れが多かったのも、あまり浮かない顔をしていたのも、それが原因なのでしょうか。子供は体が小さい分蓄積率の上昇が早いと聞きますし。
 やはりカミオインダストリーのお医者様も診察料を取るのでしょうか。ふと気になりましたが、無論、聞けやしません。気持ち悪がられるのが関の山。
 ただ、もしそれで医療すらも満足に受けられない貧困層がいるのなら、それは彼らの問題ではなく、社会の罪業なのです。
 わたしたちはそのあと少し談笑し、次の説法の時間が来たために退出しました。入れ替わりにやってきた子供たちが、やはり魔法使いさんに手を振るのを見て、心が少しだけほっこりします。
 わたしもあのような人格者になれるでしょうか。
147:
 教会の裏手には墓地があります。恐らくは土地面積の問題で、個々人のお墓が軒並み連なっているのではなく、一つの大きな石碑がある共同墓地。新しく書き連ねられた名前に、享年が五つや八つのものがあることに、少しばかり心が痛みました。
 少し離れたところでは、下から見上げた色とりどりの煙を吹き出している煙突が多数見えます。あそこが鍛冶屋や装具工の集まる区域なのだと魔法使いさんが教えてくれました。
 そこから道路を下っていけば比較的大きな洞穴があって、そこはどうやら居住区のようでした。
 洞穴を抜ければ竪穴の下層で、何やら物々しいパイプが何本も突き出た建物があります。タービンの回る音。ひっきりなしに出入りする人々。ここが魔法使いさんの職場。
 当然中に入ることはできませんでしたが、そろそろ二時間が経ちます。一応宿屋に戻っておいた方がいいでしょう。遅刻すれば何を言われるかわかったものじゃありません。わたし、雇用主なのに。
魔法使い「……そう。残念」
僧侶「といいますか、魔法使いさんは傭兵さんのお知り合いなんですか?」
魔法使い「それは、なんていうか……今更?」
 なんとなく場の雰囲気に流されて、その話題すらも流してしまっていましたが、わたしはこの人のことを何も知らないのです。
148:
魔法使い「大天狗と戦ったあとの傭兵に、私たちが出会った。彼は怪我をしていたし、一般人のあなたを背負っているし、だから町まで案内しようって」
僧侶「『私たち』?」
魔法使い「そのときいたから。仲間が」
僧侶「それにしても凄い町ですね。採掘場が町っていうか、町が採掘場って言うか」
 何言っているんだかわかりませんが、そこはニュアンスです。雰囲気さえ伝わってくれればいいのです。
 魔法使いさんは真面目に頷きました。
魔法使い「採掘場が町、かな」
 てくてくと道を歩きながら、魔法使いさんはどこを見ているのか、上空をぼんやり眺めながら歩きます。
魔法使い「開拓初期からいたわけじゃないから、資料だけで知った知識、なんだけど」
魔法使い「ここで採掘される鉱石は珍しいだけでなく純度も高い。だから、大森林の中だろうと、放っておかない人はいたみたい」
魔法使い「最初に採掘場ができて、そこにいろんな人が住み着いた。住居ができて、食料品店ができて、お偉いさんが視察に来るようになったら宿屋も作らないといけなくなった……らしい」
 だからあの宿屋は大森林の中にあっても十二分だったのでしょう。
149:
 さながら誘蛾灯ですね。町の生まれる経緯なんてものは、実のところみんないっしょくたにして鍋に放り込んでしまえるものなのかもしれませんけど。
 砂漠でオアシスの周りに町ができるように、人は魅力的なものに誘引されますから。
僧侶「で、今は採掘事業を魔法使いさんの会社がやっている、と」
魔法使い「そう。鉱石の採掘、精製及び卸売まで、いろいろ。ご時世的に、需要はある」
 少し悲しそうに言う魔法使いさんでした。
僧侶「魔法使いさんは研究職なんですよね。魔法の専門ってなんなんです?」
魔法使い「……機密事項、に、抵触するから」
 あぁ、そういうのもあるんですか。わたしなんかが知る由もない世界ですね。
僧侶「……? あれは、なんです?」
 変に長蛇の列ができていました。赤ちゃんを抱いた女性が、もしくは両親が、ずらっと並んでいます。
 またも魔法使いさんは悲しそうな顔をしました。
魔法使い「あそこは、病院。魔法的な外傷を取り扱ってる。会社のお医者さんが持ってきた、瘴気に関わる疾病の薬は、大体あそこにある。だから」
 ……子供はより瘴気の影響を受けやすい、か。
150:
魔法使い「この町に住んでる以上、仕方がないことなのかもしれないけど。あの子たちに、罪はない、のにね」
僧侶「どうにかできないんでしょうか」
 聖なる術式を用いたとして、瘴気による汚染をどうにかできるのは短期間。この土地を離れるか、大本の魔物を殲滅しない限り、また瘴気に汚染される。
 わかっていても問わずにはいられません。
魔法使い「ん……無理じゃないだろうけど、途方もない、かな。それこそ、戦争になる。生体からの瘴気の除去は、それ自体は研究されてるけど、実用化には遠い、し」
 戦争になる――魔物の殲滅、ということでしょう。
魔法使い「カトル教の僧侶としては、やっぱり、みんなで力を合わせてどうにかしなきゃ、って思う?」
僧侶「なんでそれを――」
魔法使い「さっき言った。あなたが気絶しているとき、カトル教の僧服着てた、から」
 なるほど。
 わたしは魔法使いさんの問いを解釈して、考えて、答えを出そうとして、いや、やっぱり違うと首を振って、考えて、答えを出しました。
僧侶「僧侶としてのわたしが、力を合わせてどうにかしなきゃって思ってるんじゃないんです、きっと」
僧侶「力を合わせてどうにかしなきゃって思うことのできるわたしだからこそ、カトル教の僧侶なんです」
 採石場が町なのか、町が採石場なのか。それと同じで。
 「わたしの信念」はきっと、「僧侶の信念」よりも先立つべきだと思うから。
151:
 魔法使いさんはここで初めて明確に笑いました。
魔法使い「私はずっとプロトニック。でも、神様の教えは、難しいね。わからないことだらけだよ」
僧侶「それこそ司祭様に聞けばいいじゃないですか?」
魔法使い「うん。まぁ、そうなんだろうけど」
 何かを言おうか迷いましたが、それより先に宿の前についてしまいました。それじゃと去っていく魔法使いさんの後姿にありがとうございますと声をかけます。
 いいってことだよ。そう風に乗って飛んできました。
僧侶「さて、傭兵さんは戻ってきてますか――」
僧侶「――ねっ!?」
 地盤が大きく揺れました。
 同時に、爆発音でしょうか、お腹の奥底にずしんと来る重低音が、螺旋の最下層から響いてきます。それも一度ではなく断続的に。
 事故という言葉が頭をよぎりました。周囲の人々は慣れているのか、そそくさと家の中へと戻ってゆきます。
 どぉん、どぉん。少し間をおいて、どどぉん。
 なにかとてもよくないことが起こっているような気がしました。
152:
 わたしは宿の部屋へとなだれ込みます。
僧侶「傭兵さん!」
 しかし傭兵さんはまだいませんでした。一度帰ってきた気配もありません。あの人はいったい何をしているんでしょうか。買い物にしたって長すぎます。
 外では依然として断続的な揺れと重低音。けれど途中から、勿論それらも継続してはいますが、三点鐘の音が混ざってきました。
掃除婦「お客様」
 掃除婦さんが部屋の前に立っていました。
掃除婦「どうやら最下層、採石場において魔物が出現したとのことです。ですがご安心ください。ここと距離はありますし、採石場には衛兵たちが常駐しておりますから」
掃除婦「ただ、危険なことに変わりはありませんので、くれぐれも宿から外には出ないようお願い申し上げます」
 魔物――採石場に。この揺れと音の原因は、その魔物か、応戦している護衛たちのものなのでしょう。
 掃除婦さんの様子から、魔物が出ることは決して非常事態でないことがうかがわれました。それとも、非常事態であっても、彼女はお客様を不安にさせないように同じく振舞うのかもしれませんが。
僧侶「あの、わたしは僧侶です。癒しの魔法も、少しではありますが、使えます。傷ついた人を助けたいのですが」
掃除婦「お客様」
掃除婦「我が町の自警団は屈強です。また、カミオインダストリーの衛兵の方々も、歴戦の強者揃い。医療班も充実しておいでです。失敬ですが、お客様がお出来になられることはないかと……」
153:
 それでも、と喉まで出かかった言葉を飲み下します。ここでのやり取りに意味なんてなく、そして掃除婦さんが言うことももっともです。わたしはおとなしく引き下がります。
 掃除婦さんはにこりと優雅に微笑んで、
掃除婦「落ち着きましたらお呼びいたします。それまで、お部屋でおくつろぎください。出られませんのはお客様の安全確保のためですので、何卒ご寛恕を」
 もしかすると傭兵さんは戻ってこないのではなく戻ってこられないだけなのかもしれません。
 わたしはベッドに腰を掛け、後ろ向きにダイブしました。やわらかなベッドはわたしを優しく包んでくれて、それは今までのどんなものよりもよい質のものでしたが、胸騒ぎは止みません。
 わたしはこっそりと抜け出しました。
154:
 町はひっそりとしています。人っ子一人いないゴーストタウン。みなさん家の中で地響きが止むのを待っているのでしょう。
 わたしは断続的に破られる静寂の中を駆けていきます。
僧侶「!」
 正体不明が這いずっていました。
 それは闇夜のように暗く、油のような粘度を持ち、洞穴から吹き荒ぶ風のような声を上げていました。大きさの違う白い穴が二つ、ぽっかりと空いています。
「う、お、お」
「ぐ、う、ぇ」
「あ、ご、ぐ」
 意思の有無さえもあやふやな音が、わたしの鼓膜と脳に不快感を擦り付けていきます。
僧侶「これが、魔物?」
 おどろおどろしい存在でした。『それ』はべちゃり、ぐちゃりと、遅々とした歩みでわたしに近づいてきます。わたしは一秒後に忘我から目覚め、二秒後に銃を取り出し、三秒後に『それ』へと銃口を向け、
僧侶「――ッ」
 引き金を引こうとしたところで、わたしの心が止めました。
 それは理屈ではなく、寧ろそれとは反対に位置するものです。ゆえに、心。
155:
 だめだ、と思いました。『これ』は撃ってはならない。不幸なことになる。それも、『これ』が悪さをするのではなく、もっと壮大で、曖昧で、純白な何かによって。
 思考を単純化するなら、こうです。
 撃ってはいけない。
 なぜなら不敬であるから。
 その思考を自覚した瞬間にわかりました。『これ』は叫んでいるのではありません。呻いているのでもありません。
 助けを求めているのです。
僧侶「ひっ……」
 思わず声をもらしました。
 『これ』の醜悪さにではなく、事態の醜悪さに。
 『これ』は土地神なのでした。土地神のなれの果てなのでした。
「お客様」
 と、声がかかります。
 振り向けば掃除婦さんと――掃除婦さんと、わたし、が。
 え?
僧侶?「……」
 掃除婦さんの隣にいるわたしがどんどん実像を失くしていきます。どろどろに溶け、残ったのはわたしの靴だけ。
 わたしの代えのブーツです。それがぱたん、と倒れました。
156:
掃除婦「お客様、私、言いましたのに。宿から外に出ないように、と」
僧侶「それは、すいません」
 不穏な気配がわたしの脚を地面に縫い付けています。
掃除婦「他にも言いました。出られないのは、お客様の安全確保のためである、とも」
掃除婦「お外は危険なのです、お客様。他の住人の方々だって、今は家の中におります。彼らはわかっているのです。どれだけお外が危険なのかと言うことを」
僧侶「この、土地神様が危険だ、と?」
 掃除婦さんは一瞬途轍もなく凶悪な顔をしました。笑みに細めた目の奥の光が、貪欲に、わたしの全てを食らいつくすがごとく。
掃除婦「……気づいてしまったのですか。それでは、なおさらですね」
 その言葉だけは独り言のように聞こえました。
 そしてわたしに向き直って、
掃除婦「お外は危険なのです。魔物も、土地神も、最早狂ってしまいました。それに何より――」
 掃除婦さんはスカートを広げました。するとどこに収納していたのか、ぼとぼとぼとぼと、重たい音を立てながら、靴が。
 数多の靴が。
 地面へと転がって。
 立ち上がり。
 脚が、腰が、腹が、胸が、肩が、頭が。
 形作られ。
掃除婦「――私がおりますから」
157:
「逃げろ僧侶!」
 ナイフが掃除婦さんを襲います。しかし、実体化した人々が壁になり、ナイフは少しも掃除婦さんの脅威とはなりません。
 傭兵さんでした。
傭兵「遅くなって悪かったな。追われてた」
僧侶「追われたって誰に!?」
傭兵「こいつのお仲間だろうな」
 傭兵さんを前にしても掃除婦さんは決してほほえみを絶やさず、余裕の態度も崩しません。その立ち居振る舞いは優雅そのもので、それが逆に恐ろしくあります。
掃除婦「傭兵さん、あなたのお名前は聞き及んでおります」
傭兵「はっ。そりゃ光栄だ」
掃除婦「カミオインダストリー所属、序列第十四位、『足跡使い』。参ります」
傭兵「こっちにゃ名乗る名はねぇな」
掃除婦「さぁ、お掃除の時間です」
161:
 ※ ※ ※
 僧侶は一目散に駆け出した。それを視界の端で捉えながら、とりあえず人心地ついた気分になる。勿論そんなはずはないのだが。
 目の前の悪鬼から生き延びなければいけないから。
 あちらは掃除婦を含めて七人。軍用ブーツから軍人が、草鞋から侍が、足甲から騎士が、それぞれ顕現している。
 忍者。魔法使い。儀仗兵。遠距離や搦め手も万全だ。
 俺は剣を抜いた。
 先ほどの名乗りを信じれば、敵は大企業子飼いの揉め事処理屋。金を貰って仕事を請け負う俺たち傭兵とは異なり、彼らの居場所は常に企業の傘下だ。
 過去に何度か利益相反でぶつかりもしたが、それらは全て近距離特化の剣闘士まがいばかり。魔法使い、しかもカミオインダストリー級ともなれば、どれほどの手練れなのか想像もつかない。
傭兵「ふっ!」
掃除婦「しっ!」
 俺のジャブ数発に対し掃除婦はカウンターで応戦する。俺の拳は掃除婦の髪の毛を打ち、掃除婦の拳は俺の真横を切った。
 これくらいは避けずとも、また能力に頼らずともよい、か。大層な自信だ。
 同時に六人がこちらへ攻撃体勢を取る。
162:
 一番槍は軍人。両手にナイフを逆手で持ち、体勢を低くしながら軽いフットワークで近づいてくる。さはないが執拗にこちらを追い詰める蛇のような動きだ。
 その背後から侍が一撃必殺の構えで刀を構え、騎士が広い範囲をカバーするランスを握っている。
 さらにその背後では忍者がスリングを持ち魔法使いと儀仗兵が詠唱。
 多勢に無勢。
 圧倒的に不利だな。
 戦力判断と同時に敵の能力の種を解明しようと試みる。魔法の種別は召喚魔法の類に違いない。つまり掃除婦はサモナーというわけだ。
 サモナーは本体を叩くのが常套手段であるが、中々に掃除婦が遠い。彼女自身がかなりの使い手であり、さらに行く手を阻む六人がいるのでは、そう簡単にはいかないだろう。
 召喚の媒介は靴。召喚形態は自律型で、召喚しているのは靴の持ち主のコピー、だろうか。掃除婦が戦いを焦っていない以上、時間制限があるとは考えにくい。
 考えれば考えるほど絶望的だが、召還、使役しているのが人間のコピーであるのが幸いだった。上位のサモナーには魔物や、果ては空想の生き物すら召喚できる存在がいる。
 そういうやつらは押しなべて条件が厳しかったり媒介が特殊であったりするようではあるが……。
 交錯法気味に狙ってくるナイフの刃をワンステップで避ける。屈んだ軍人の背中の上を通ってランス。肩口をやられる。
侍「ちぇえええええすとぉおおおおおおっ!」
 強引な唐竹割。しかし威力は本物だ。浅く踏み込んでいたのが功を奏し、瞬時に体勢を変えて離脱することに成功する。
 が、体のバランスと言う、払った代償は大きかった。スリングから放たれた鉄弾が俺の右目を掠めて行く。それに意識と視界を奪われ、できた隙を的確に魔法使いと儀仗兵が魔法で支援。
 こちらの攻撃は連携によって通らないのだからジリ貧以外の何物でもない。俺はそもそも攻撃魔法は初歩的なものしか使えないし、幻影魔法もこう全員に注目されていてはすり替わるタイミングを掴めずにいた。
163:
 方針変更。俺は体の向きを変えた。
 勝てないのなら、負けないまで。
 七人に背を向けて走り出す。
掃除婦「やはり、逃げますか」
掃除婦「追いなさい」
 六人がそれぞれ散開しながら追ってくる。真っ直ぐに動くのではなく、包囲するように寄せ、一気に出口をふさぐつもりなのだ。
 スリングの鉄弾を弾きながら最下層を目指していく。
 何かがこの町で起こっているのは明白だった。なぜ住民が一人残らず出てこないのか、なぜ僧侶が襲われていたのか、あの魔物の正体は一体なんなのか、答えは何一つ見つからないが。
 採石の権利を有しているのがカミオインダストリーであり、掃除婦の雇用主もそこであるから、全てを知っているのはそこ以外有り得ない。
 住民が出てこないのはあの魔物が原因だろう。とするならば、僧侶が襲われたのは、外を出歩いていたから? 俺も合流するまでは衛兵に追い回されていたし、有り得るかもしれない。
 なぜ外に出てはいけないのか。あの黒い魔物が危険だ、というのが素直な考えだ。しかしそれにしては掃除婦をはじめとするカミオ側の対応が荒い。激しすぎる。寧ろあれを見た人間を始末――
 始末。
 始末、だと。
164:
 そうだ。確かに俺たちは始末されようとしている。なぜ? ――見てはいけないものを見てしまったから。触れてはいけないものに触れてしまったから。
 あの黒い粘体の存在を知ってしまったから。
 あれが瘴気に侵された魔物であるとするならば、採石場の内部では違法な工程、魔法、薬品のいずれか、あるいは複数が用いられている。そして企業はそれを隠したい。だからこその始末。
 俺は鼻をすんと鳴らした。
 金の、匂いがする。
 とにもかくにもまずは僧侶との合流を果たさなければいけない。このような事態になるのであれば、予め合流地点や符丁を決めておけばよかったと今更ながらに後悔する。
 まぁ、後悔先に立たず。人の気配のない今のこの町では、探すのはそう難しくないだろう。
 と、思っていた俺は、すぐにその浅はかさを知ることになる。
 ぞろぞろと。
 ばたばたと。
 人の足音――足音?
 まだ三点鐘は鳴り続けている。どういうことだ。最早隠すことを諦め――いや、違う。
165:
 これは。
傭兵「これはっ!」
 ゴロンの町は活気を取り戻していた。
 靴より顕現した数多の人で。
 足跡使い。
 靴を媒介にするサモナー。
掃除婦「逃がしませんわ、お客様」
 住民が全員、ぎょろりと首だけで俺を見た。
 おいおい、マジかよ……。
掃除婦「帰りたいのなら、先にお代を払って頂かないとなりません」
傭兵「何を払えばいいだなんて、尋ねるまでもねぇな」
掃除婦「えぇ、えぇ、そうです。お代は当然――」
傭兵「俺らの命ってか」
掃除婦「お客様の命でございます」
 屋根の上に掃除婦が立っている。俺の周囲には、戦闘力こそ皆無に近いが、とにかく雑多な人の肉壁。そしてさらにその向こうから、確実な足取りで六人の手練れが近づいてきているのがわかった。
 この数――そして何より狭い戦場。脚を殺されれば圧死するだけだ。
166:
 だから止まらない。止められない。
 剣をしまって右手にナイフ。息を止めて俺は跳ねた。
 とりあえず身近にいた男の胸ぐらを掴み、首を掻き切ると同時に盾にする。びくんびくんと痙攣する男を投げつけ、視界を塞いだ瞬間にナイフの投擲。眼窩に埋まって女が死んだ。
 倒れるよりも早く駆け寄ってナイフを引き抜く。ここでようやく攻撃の第一波。俺に伸びてくる亡者の手。
 近寄る手は片っ端から切って捨てる。度、反応、見てくれこそ人間のそれと同一だが、切っても血が出ない部分だけが異なっている。
 精神的に楽でいいな!
 鉄弾が俺の頬を掠めて行った。僅かに反応が遅れ、町民の指がシャツの襟にかかった。
 手ごとナイフでもぎ取り脱出。後ろに跳び退き、そこにいた子供の顔面へ蹴りを叩き込んで、三角跳びの要領で高く飛び上がる。
 火炎弾と鎌鼬が炎の竜巻となって襲いかかってきた。魔法使いと儀仗兵のものだ。俺は肘当てで魔法の起動を逸らしながら、その方向へと町民の顔面を蹴り砕きながら進む。
167:
 立ちはだかったのは侍と騎士。刹那だけ侍の方が先に足を出した。最小限の動きで最大限の距離を移動するその独特な歩法で、するするするりと距離を縮める。
 急加。一瞬で互いが必殺圏内に入り、侍の唐竹割。視認は不可能だが軌道は読める。とはいえ不可能なのは防御もまたそうである。構えた刃ごと叩き切られる剛の剣相手にできることはそれほど多くはない。
 腕の肉を僅かに献上して懐へ突っ込んだ。
 タイミングを合わせて――寧ろずらして、ランスが牽制に数度突き出される。接敵はならない。ランスの射程距離を測るように小刻みに回避し、同時に背後から迫ってきた軍人のナイフを掻い潜った。
 右から左の切り付け。返す刀で突き、突き、ハイキック。それを受けてのこちらの反撃は予想の範疇だったらしく、軽いステップで後ろへ跳ばれた。
 逡巡。押すか退くか――押す。退いている時間もない。長丁場だとジリ貧だ。
 地を蹴った瞬間に悪寒が走った。説明できない嫌な感覚。俺は反射的に体勢を崩し、地べたを転がるようにしてそれを避ける。
 毒針が地面に突き刺さっていた。
168:
 無論そんな俺を見逃してくれるはずはない。町民が一斉に俺へと飛びかかってくる。太陽の光が遮られ、肉の天蓋となって、俺を圧死させようとしている。
 単純な物量はだからこそ強力だ。小細工であれば看破もできよう。陥穽ならば機転で立ち向かえもしよう。けれど、こと物量に至っては、真っ向勝負の力押し以外に対処法はない。
 手が、手が、手が、手が。
 手が!
 髪の毛を、襟を、袖を、鞘を、喉を、手首を、腹を、脚を、
 俺の全身を目がけて伸びてくる!
傭兵「うぉおおおおおおおおおっ!?」
 切断、切断、そして切断。切っても切っても手の大群は怯む様子を見せない。当然だ、彼らは町民の形をしてこそいるが人間ではなく、行動はあっても意思はない。企業の犬の、さらに犬。
傭兵「っ!?」
 手首が地面に縫い付けられる。魔法使いか、盗賊か――いや、そんなこと今はどうでもよくて、くそ!
 ナイフが動かせない。町民が雪崩れ込む。
169:
 蹴りと左手でなんとか一線は超えさせないが、可動域の問題、なにより手数の問題でどうしようもない。頭が押さえつけられ、肩が押さえつけられ、だんだんと俺の体は俺のものではなくなっていく。
 ――仕方がない、か。
 懐からそれをとりだし、放り投げてやる。
 爆裂弾。
 自分ごと周囲を巻き込んで、ここから脱出を図るしかない。
 光と火炎が視界に満ちた。
傭兵「くっ! ……ちくしょうが」
 口の中に入った砂利を血ごと吐き捨てる。周囲には靴だけが大量に散らばっていて、脱出には成功したようだ。
 四つん這いから立ち上がった。体中が軋みを挙げている。
掃除婦「お客様、ご自愛を」
傭兵「黙れよ、殺すぞ」
掃除婦「おぉ怖いです。御寛恕ください」
 ぱた、ぱたと音がした。
170:
 倒れた靴が起き上がっている。そうして足元からゆっくりと実態が顕現し、たったいま吹き飛ばしたばかりの町民が、全て立ち上がりなおしている。
 まるでゾンビだ。死してなお動く亡者どもよりは、確かに罪深くはないのかもしれないが、性悪なのには変わりない。
掃除婦「お掃除の続きを始めましょうか」
傭兵「……これは、やべぇな」
 ぼそりと呟く。俺が死ぬまで戦い続けるつもりなら、待ち受けているのは俺の死だけだ。サモナーが召喚を停止するのは魔力の枯渇によるもののみ。しかしそれまで粘るのはどだい無理がある。
 全身の調子を確認しながら剣を構えた。これくらいの距離が開いた今ならば、リーチの長い剣のほうが具合がいい。重さと度に任せて一振りで数人を斬り飛ばす。
傭兵「っ!」
 殺気とともに短刀が頭上から降ってきた。
 忍者は生気の宿っていない瞳で俺を見た。攻撃を外したことに対する感情など微塵も見えず、地を這うように接近してくる。
 剣では遅い。そう判断し、即座にナイフへ持ち替え。
 忍者の十の手数に対して六の手数で応戦する。忍者単体なら辛勝できるだろうに、同レベルが他に五人、しかも肉壁もわらわらいる状況となっては、戦いにくいことこの上ない。
 短刀の乱舞をワンステップで回避し、一度忍者と距離を取る。その先には魔法使いと儀仗兵の遠距離組。
171:
 当然阻まれる。前に立ちはだかるは騎士。甲冑のため動きは鈍重だが、ランスのリーチは俺の剣よりも長く、突破は容易ではない。
 騎士の旋回は足元の小さな動きで成るが、俺が騎士をかわすための旋回は、大きな弧を描かざるを得ない。当然の数学の話で、だからこそそれは厳然たる大きな壁となって立ちふさがっている。
 だが足踏みをしている暇はない。
 真っ向勝負を挑んだ。ランスは突きの武器。一度避けてしまえば、引き直すまでにラグがある。
 脇腹の肉を少量持っていかれた。激痛が走るが骨も内臓も恐らく無事。勢いに任せて騎士の関節へ刃を走らせ、隙を見計らって巨躯そのものを駆け上る。
 当然魔法が飛んできたが、火球は剣で両断し、鎌鼬は前回と同様肘当てで逸らす。余波が俺の顔を斬りつけていくが、視界に問題はない。
 第二波。流石にこれは防げなかった。腹へと火球が直撃し、次撃の鎌鼬こそなんとか避けるも、勢いに負けて地面を転がる。危うく螺旋状の下へと落ちそうにすらなってしまう。
 好機と見た軍人と忍者が左右から迫る。忍者の方が動きがい。しかし刃物の熟達は軍人だ。一瞬だけ思考し、最早勘ともいえる何かを手繰って軍人へと向かう。
 背後からスリングの風切音。鉄弾が俺の外耳を穿っていく。意識を無理やりに痛みから軍人へと向け、二本のナイフを的確に捌く。
172:
 右、左、右、右、左、左、そしてまた左。ナイフの連撃に反撃を差し込む余地はない。スリングの鉄弾を身を逸らして避け、崩れた体勢に飛んでくるナイフ。その隙は俺も織り込み済みなため、地面へ倒れこみながら靴の裏で受けた。そのまま体を捻って刃を折る。
 そして火球。転がって避けた先にランスを合わせられる。回避不能。判断は正しく、来る激痛に耐える準備だけをした甲斐はあった。至近距離に儀仗兵を捉えることに成功する。
 儀仗兵が詠唱を始める。しかし遅い。
 と、儀仗兵の姿が掻き消えた――忍者とともに、一瞬で移動している。
 気づけば俺の周囲から一斉に敵が離れていた。
傭兵「な――」
 これは、まずい。
 これはまずい!
 視界が急に狭まっていく。膝を地面につけ、精神を集中し、居合の構えをとった侍の姿しか見えない。
 距離にして五メートル。しかしあの斬撃は、それが十メートルだって届くだろう。
掃除婦「そこです!」
傭兵「ちっ!」
173:
 銃声が俺の体を吹き飛ばした。
 斬撃が体の真横を通っていく。
 空気の流れも、人の動作も全てが止まった世界。俺だけがゆっくりと動き、色もグレースケールで描かれた視界の中で、唯一拳銃を構えた僧侶だけがカラフルだった。
 同時に、体に力が満ち満ちていく。
 銃撃で吹き飛ばされた腹部は既に修復が始まっていた。鎮痛魔法が効いているのか、痛みはない。
 今だけはお前が天使に見えるぞ。
 僧侶。
 俺は地を踏みしめた。弾丸に込められていた魔法――治癒、鎮痛、そして何より倍化。身体能力の向上魔法。
 体が軽い。
 ちんちくりんのガキが僧侶をやれていた理由も、アカデミーを首席で卒業できたわけも、今実感した。確かに魔法の才能があの少女にはある。それをひしひしと感じさせる、この魔法の力強さよ!
174:
 他の亡者どもには目をくれず、一目散で掃除婦を目指す。屋根の上にいようが、今の俺には関係ない。壁を蹴り上げながら一気に空へと舞いあがった。
 無論それを呆然と見ている六人ではない。不可視の力場を魔法使いが生み出し、残り五人がそれを踏み台にして俺へと追いすがる。
 しかし遅い。
 掃除婦は呆然とした表情を浮かべていて、けれど同時に愉快そうな顔も浮かべていた。そして短く呪文を詠唱する。
掃除婦「バックトラック」
 掃除婦の姿が瞬時に消えた。バックトラック――足跡追い。どうやら逃げられたようだった。
 ぱたぱたと音を立て、靴たちが一斉に倒れていく。
 掃除婦が効果圏内から離れたのか、それとも単に召喚を止めたのかは定かではなかったが、ひとまずこれ以上戦いを続ける必要はなさそうだ。
 俺は一気に肩の力を抜く。
僧侶「傭兵さん! 大丈夫ですか!?」
傭兵「あぁ、なんとかな」
 本当になんとかだった。本当に危機一髪だった。僧侶には感謝してもしきれない。
 反対に、俺のそばに駆け寄った僧侶の脚は震えている。疲労から来るものでも、ましてや武者震いでもないだろう。それはすぐにわかった。
175:
傭兵「お前、どうし」
 「た」は出なかった。僧侶は幽鬼の類を見たかのような――いや、それよりももっと恐ろしいものを見てしまったような、知ってしまったような、陰の落ちた表情をしている。
 信じられなかった。俺の知っているこいつは決してこんな顔をする女ではない。勿論、たった数日の付き合いで何を知っているんだと言われるだろうが、それでも。
僧侶「だめです、傭兵さん、だめなんです」
僧侶「逃げないと、ここから、早く、だめです、傭兵さん」
僧侶「傭兵さん、傭兵さん、逃げないと、傭兵さん、早く、だめです」
僧侶「逃げないと、逃げないと、早く、逃げないと!」
 狂乱だった。この世の恐ろしさの最果てを垣間見た少女は、俺に媚びるような笑みさえ形作って、俺の手を引く。逃げましょう、と。だめです、と。早く、と。
 そして、聞きもしないうちから、彼女が見た全ての汚濁を俺に話し出す。
180:
 * * *
――わたしは傭兵さんに説明します。傭兵さんと別れてからの出来事を。
僧侶「!?」
 急に町の人々が現れ、思わず走っていた脚を止めてしまいます。
 町の人々は生気のない顔に生気のない瞳を持ち、ゆっくりとした歩みで徘徊を続けています。向かうは上層。わたしのことが見えているのかいないのか、一瞥すらしません。
 何が起こったのかはわかりませんが、掃除婦さんによるものだということはすぐにわかりました。そして彼らの行先が傭兵さんであることも。
 戻りたくなる気持ちを押し殺して最下層に向かいます。戦闘で大した役に立てないわたしにできることは、この事態の全てをとはいかないまでも、出来うる限りを収拾――否、収集することです。
 息を切らしながらも最下層へと駆けていきます。坂道につんのめりながらも、息があがっていても、わたしは度を落とすことは有りませんでした。
 気になることが多すぎました。気になることばかりでした。なぜ土地神が汚濁に塗れた姿なのか。なぜ掃除婦さんはわたしたちを襲って来たのか。ひいては、この町で一体何が起こっているのか。
 最下層にたどりつけば、そこには目を見張る光景が広がっていました。
 巨大な、巨大な、黒い粘体。
 それと対峙する兵士たち。その背後に陣取るは魔法使いさん。
181:
 鋭く見咎めた兵士の一人が大声を張り上げます。
兵士A「誰かがいるぞ!」
 わたしは咄嗟に身を隠そうとしましたが、その一瞬、確かに魔法使いさんと目があいました。魔法使いさんは驚いたような顔をしましたが、すぐに顔はなんでもないふうに戻ります。
 兵士たちの集中が切れた瞬間に黒い粘体――怒れる土地神は彼らをなぎ倒します。流石に兵士たちも土地神に集中すべきと判断したのか、声を上げて剣を向けました。
魔法使い「……私が、見てくる」
 そう言って魔法使いさんはわたしの方へと歩き出しました。逃げようと振り返りましたが、理性がそれを止めます。ここで逃げてはこの事態の解明など遥か遠く及びません。ここは、リスクを承知でリターンを取るべき。
 そう思ったわたしは兵士たちに見えない位置で魔法使いさんと相対しました。
魔法使い「……どうしたの? 掃除婦が、止めたと思うけど」
僧侶「掃除婦さんは、傭兵さんと戦ってます」
 魔法使いさんは顔色を変えません。小さく「そう」とだけ呟きました。
 そして、魔法使いさんは掃除婦さんのことを知っています。それも、掃除婦としての彼女のことをではなく、掃除人としての彼女のことをです。
 やはり言っていた通り、この件の根っこにはカミオインダストリーがいるのでしょう。
僧侶「何が起こっているんですか」
魔法使い「……素直に教えると、思う?」
182:
僧侶「無理やりでも聞き出します」
 銃口を向けました。それでも魔法使いさんは微動だにしません。事態を切り抜ける術があるのか、わたしが撃てないと思っているのか。
 魔法使いさんは「くふ」と軽く吹き出しました。
魔法使い「……面白い、ね。撃てる?」
 後者でした。わたしは一瞬息が止まります。嘗て狩人さんにも指摘されたそれを、この町に来てもまた言われるとは思っていませんでした。
 ぐ、と唇を噛み締めます。撃てるのです。撃ちます。だって、ここはそういう場面でしょう。撃てなきゃ脅しにもならなくて、脅しにならなきゃこの事態のなにも知ることができなくて、そんなのはごめんなのです。
 一際強く魔法使いさんを睨みつけます――睨みつけられている、はずです。
 魔法使いさんは肩を竦めました。明らかに舐められていると感じました。
魔法使い「……あれは、土地神。正確には、土地神の成れの果て。あれはもう、だめ。狂ってる。瘴気によって汚染されて、正気でいられない」
僧侶「どうしてそんなことに」
 土地神。土地の守り神。そこに住むものの足元に住み、地盤を安定させ、作物を実らせ、発展に寄与する原初の神々のうちの一柱。
 わたしたちが生きる上で土地は、ひいては地面はなくてはならないものです。空を飛べないわたしたちは、地面にへばりついて生きていくしかありません。つまり土地神は最も密接な関係にあると言っても過言ではないのです。
183:
 それが汚染されている。汚辱に塗れている。見ていられないほど酷い光景でした。
 何より、神の叫び声が、不憫で不憫で。
魔法使い「……」
 魔法使いさんは答えません。それが殆ど答えのようなものでした。
 土地神が瘴気に汚染される。そんなことは本来あってはならないことです。
僧侶「答えてください、魔法使いさん」
魔法使い「……」
僧侶「答えてっ!」
 言葉を押さえてもいられませんし選んでもいられませんでした。
 だって、だって、許せるわけがない。
 ただの一企業が、土地を汚し、あまつさえ神を穢し、遍くモノの尊厳を打ち捨てているだなんて。
僧侶「土地神が瘴気にまみれているのは! 採石場の開発が原因なんでしょう!?」
 理由はわからない。理屈もわからない。けれど、それは恐らく事実で、真実で。
 そう思わせるに足るできごとが今日一日だけでもたくさんあったから。
僧侶「あなたは全て知っているはずです! あなたが来た五年前から採掘の効率が大幅にアップした、落盤事故も減った――それと時を同じくして、子供たちに瘴気の影響が出始めたのなら!」
僧侶「あなたが行った何かがこの事態を招いていると、気づいていないはずはない!」
 瘴気に塗れた土地神は、狂った土地神は、性質と特質の全てを反転させる。野菜は全て毒をもち、それを喰った野生動物の肉は腐臭を漂わせる。水も、空気も濁り、じわじわと体内を蝕む。
 そしてその影響を真っ先に受けるのは子供たち。
184:
その影響を真っ先に受けるのは子供たち。
 瘴気に関する疾病の権威をカミオインダストリーが招聘している? そんなばかな話があってたまるか。その原因はカミオインダストリーが生み出しているのに?
 なんていうマッチポンプ。
 このままではこの土地はいずれ草木の一本も生えない不毛の大地となる。住まう人間は病床の中で息を引き取り、死に絶える。だから問題がないと嘯くのなら、そんな人間こそ
死んでしまえばいい。
 きっと地獄絵図に違いありません。誰も何も知らないのなら、そこに罪業は存在しないのでしょうが、利益のために見て見ぬふりをするというのなら――地獄を作ることの罰など、きっとこの世に存在しないでしょう。そういう意味では裁けないも同義です。
 けれど、裁かれないことが即ち無実の証明だと、ましてや救済の証左だというのは詭弁に過ぎます。
 許せない。許せません。
 これを誰が許せましょうか。例え神が許したとしても、わたしは決して許せそうにありません。
僧侶「答えろ!」
魔法使い「……今日、あなた、聞いたよね。私の魔法の専門。私の専門は、瘴気の研究。瘴気の除去、分解、利用に関する研究」
魔法使い「採石にあたっては様々な問題が出る。まず、魔物。次に、自然の瘴気。深部では動力の確保も重要になってくる。私の研究は、それらを全部一挙に解決できる、スーパーウルトラテク」
僧侶「……」
185:
魔法使い「大体、察しがついた? 私は、瘴気からエネルギーを抽出して、採石の動力に、使ってた。研究途中の機構で、勿論いろいろな問題はあったけど、一番の問題は排ガス……エネルギーを出したあとのカス」
魔法使い「瘴気を絞った後のカスは、当然、超高濃度の瘴気……普通に吸い込んだら、一発で即死。ワンパンKO。そんなレベル。それががんがん出る。垂れ流しになんてできなかった、から」
 その時点でわたしはわかってしまいました。この話のけったくそ悪いオチを。
 思わず手に力が入ります。奥歯も、がり、と削れた音がしました。
 魔法使いさんを撃たないことが、この場で何より努力のいることでした。衝動に身を任せてしまえば、今度こそ引き金は引けたのかもしれません。
186:
魔法使い「だから、全部地面に埋めた」
187:
僧侶「あなたはっ! あなたって人はっ!」
 怒りで目の前が真っ赤に染まります。ちかちかちらちら明滅する視界の中で、銃口と、その先にある魔法使いさんの顔と、トリガーと、わたしの指だけが輝いて見えます。
魔法使い「社長が言うから。社長の指示、だから」
僧侶「社長の指示なら何でもするんですか、この土地のことも、この国のことも、全て捨て置いて!」
 それほど超々高濃度の瘴気が長期間にわたって排出、滞留すれば、この町以外にもいずれ影響が出るのは明白です。また、他の採石場などで同様の技術が使われれば、事態に拍車がかかります。
 そうなれば、今度こそ本当に地獄絵図の誕生です。この国に人の住めるところはなくなり、破滅するだけ。
僧侶「あなたたちは自分で自分の首を絞めていることに気が付かないんですか!」
魔法使い「この国のためだって、社長は」
僧侶「どうしてそれを信じられるんですか! こんな、全てを冒涜するやつが――!」
魔法使い「州総督だから」
 え?
 と、声に出せたのかどうか、わかりません。
188:
魔法使い「知らなかった? うちの社長、州総督。だから、大丈夫。問題なし」
魔法使い「あくどくて、私腹を肥やすことに余念はないけど、あの人はあの人なりに、国のことを考えてる、から」
僧侶「な……そ、んな」
 言葉が出ない。国王と権力を二分する人間が社長で、それだけならまだしも、こんな悪行に手を染めているだなんて。
 途方もない巨大な気配が、唐突に魔法使いさんの背後に現れた気分でした。
 いや、でも、しかし。
 なぜこの町が無名なのか。大森林の中にあっても十分に生活できているのか。この惨状が外部に漏れ出ないのか。
 州総督の庇護下にあるから?
僧侶「あなた、は。魔法使いさん、あなたは、良心が痛まないんですか。罪もない子供たちが苦しんで、いずれこの町の人たちはみんな汚染されて死んでしまうんですよ」
 だって、あなた、言っていたじゃないですか。
 「あの子たちに罪はない」と。
 もしあの言葉が嘘だったなら、あなたはどんな気持ちであの言葉を吐いたのですか。
魔法使い「あの言葉は、本心」
魔法使い「でも、私は、こうも言った。この町に住んでいる以上、仕方がない、と」
189:
僧侶「それは――」
 後ろ向きな言葉ではあっても、そこまで後ろ向きだとは思ってませんでした、が。
魔法使い「この町に住んでいる以上、仕方がないの。この町は採石で成り立ってる。それはつまり、うちの会社で成り立ってるって、こと。だから」
 何をしても許される、と魔法使いさんは言いました。
 まるで子供のように、無邪気に、罪悪感の欠片も感じられない口調で。
魔法使い「それに、ね。私は、かねてからずっと不思議だったことがあるの」
魔法使い「どうしてみんな、ここを出ていかないんだろう、って」
魔法使い「だって、そうでしょ。こんな不便な大森林の中の町。娯楽は全然なくて、瘴気のせいで段々体は蝕まれていって、肉も野菜も粗末で、生きてて楽しいだなんて、私、どうしても思えない」
魔法使い「僧侶ちゃん。誰も逃げちゃダメなんて、言ってない。みんなが好きでこの町にいる。自己責任。いやなら出ればいいのに。でしょう?」
 それは正論でした。限りなく無責任な正論でした。
 けれどなぜでしょう。わたしはどうにも苛々してしょうがないのです。何もわかっていないような魔法使いさんに、わかったように正論を言われるのが、わたしはとても業腹なのです。
魔法使い「全部、みんなの自由なの。やりたいことを、やりたいようにやる。あなたたちがここから逃げるのも、自由。職業選択の自由。経済活動の自由。移動の自由。それが実際のところ、神様が与えてくださった天命で、天職」
魔法使い「プロトニック教では、そう教えているから」
190:
――と、わたしがそこまで喋ったところで、傭兵さんは笑い始めました。
傭兵「はぁーっはっはっはっは! あは、あはははっはっは、ひひ、ひははは、ひゃははっ!」
 わたしにはわかります。傭兵さんは怒っているのです。怒り狂っているのです。人間、本当にどうしようもないとき、笑いしか出ないということを経験上よく知っています。
 反対に、わたしは、怒りを通り越した無力感に苛まれていました。信じられないほど強大な敵、信じられないほど無力な自分。そして信じられないほど価値観の違う人間。
 ここにいて何ができましょうか? この小さな世界は、わたしの理解できない理屈で満ち溢れています。他者が恐ろしいのではありません。わたしの中の常識では、どう考えてもおかしいことが平気でまかり通るこの町が、どうしようもないほどに反吐が出るのです。
僧侶「傭兵さん、もう逃げましょう。この町はおかしいです。わたしたち二人じゃあ、どうにもならない、どうしようもない事態になってしまってます!」
 町も人も狂ってる。
 哄笑はしばらく続きましたが、やがてぱたりと止んで、凪の顔で周囲を見回しました。
傭兵「二人なら、確かに無理だろう」
 含みのある口調でした。
 と、同時に、周囲の家屋から人々が姿を現します。一瞬掃除婦さんの手先かと勘繰りましたが、瞳に光がありました。
傭兵「けど、これだけいればどうだ?」
 傭兵さんは大きく手を広げ、
191:
傭兵「お前ら、聞いていただろう。カミオインダストリーは、採石事業に際してこの地を汚染していた。土地神は汚れ、大地も、水も、動物も、最早まともではいられない。長く住み続ければ、子供だけじゃない、全員が死ぬ。それでいいのか!」
傭兵「今こそ立ち上がるときじゃないのか!? 州総督が怖いというなら、王都に直接出向いて、直訴する気概を持って行動する時が来たんじゃないのか!」
傭兵「立ち上がれよ! お前らがこの土地を守らなくてどうする! 命を賭しても守らなきゃならない、動かなきゃならない時があるとするなら、いま、ここ以外にないだろうが!」
 心を打つ言葉でした。熱く滾る言葉でした。傭兵さんにどのような意図があるかはわかりませんが、それは確かに本心からで、何よりの咆哮でした。
 しかし。
町民「やめてくれよ」
傭兵「……は?」
町民「やめてくれよ」
町民「いいんだ、もう」
町民「そういうのはいいんだ」
町民「俺たちはもう、そういうのは、いいんだ」
192:
 だめなのです。
 それでも、いや、だからこそ、彼らの心には届かないのです。
 最早彼らの体に流れているものは、誇りでも信念でもなく、もっと下卑たものだから。
 酸素を運ぶのはヘモグロビンでなく札束に置き換わっているから。
 魔法使いさんとの会話を思い出します。
僧侶『だ、だったら、この事実を町のみなさんに公表します! そうすればきっと!』
魔法使い『違うんだよ、僧侶ちゃん。そこがあなたの、大きな、とても大きな勘違いなの』
魔法使い『私たちは何一つ強制しちゃいない。おおっぴらには言ってないだけで、たぶん、みんな、この土地の現状を――惨状を、知ってる』
魔法使い『それでも出ていかない』
 信じられないことでした。それでは自殺と同じです。緩慢な死を座して待つのみではないですか。
魔法使い『だって、彼らには行くべきところがない。お金もない。寄る辺もない。ここを離れたら生きていけない』
魔法使い『労働者はみんな元農民。自作農から小作農に没落して、そこからさらに落ちてきた、底辺中の底辺。弱者中の弱者』
魔法使い『社長が囲い込んで、労働者として雇って、手厚い保護を与えてるおかげでみんなは生きていける』
魔法使い『だから、彼らはここから逃げない』
193:
僧侶『で、でもあなた、魔法使いさん、さっき、どうして逃げないんだろうって――』
魔法使い『言ったよ。言った。うん、言ったね。でも、普通そう思うじゃない? 土地がなくたって、お金がなくたって、体一つあれば何とかなる――他に一緒に誰かがいるなら、なおさらもっと、やっていける。そう思わない?』
 またしても正論でした。何よりそれは美しい言葉でした。お金などなくとも、土地などなくとも、みんなで一緒に頑張ればきっと何とかなる。まるでお伽噺の世界の出来事を、魔法使いさんは諳んじているのです。
 それが難しいことを、そして理想であることを、誰しもが知っています。だからこそそれは甘露で、誰もが憧れ夢見るエルドラドなのです。
魔法使い『私は、そう思うんだけどね――誰も、そうしようとは、しないんだぁ』
魔法使い『だから私は不思議だったの。言ったでしょ?』
魔法使い『でも、一つだけ、しっくりとくる、すとんと落ちる、解は得たかな』
 にこやかに魔法使いさんは喋ります。
 わたしが絶対に聞きたくない言葉を。
 耳を防ぐことは叶いません。まるで金縛りにあったかのように、わたしの体は動かなくなっているのです。
194:
魔法使い『きっとみんな、楽して生きていたいんだよ』
魔法使い『現状が最悪なことはわかってるけど、努力してまで、この「大したことせずとも生活できる」生活から逃げようとは思ってないんだよ』
魔法使い『罪もない子供が蝕まれているっていうのに』
魔法使い『いずれ自分たちも蝕まれるっていうのに』
 とどめに、一言。
魔法使い『本当、救いがたい衆愚』
 あぁ、そうなのです。衆愚なのです。
 愚かで、愚かで、愛することすらどだいできそうにない愚かさなのです。
 狂っているとしか表現できないほどに。
195:
 全てを聞き終えた傭兵さんは、黙って柄へと手をやります。
町民「なぁ、あんた。頼むから揉め事を起こさないでくれ。俺たちはなにも、なんにも困っちゃいねぇんだ」
町民「あんたがかき回すことは、誰のためにもならねぇ。だから、頼むよ。この通りだ」
 そう言って町民の男性は手を合わせて傭兵さんを拝みます。そして、「この通りだ、この通りだ」と拝み続けるのです。
 それに合わせて傭兵さんの瞳の温度が一気に下がっていくのがわかりました。
 男性に他の町民も追随します。「この通りだ」「お願いします」「後生だから」。そんな――そんな、気持ちの悪い、気持ちの悪い、気持ちの悪い言葉のオンパレード。
 あぁ、神様、申し訳ありません。この苛立ちを隠すことはできそうにありません。
僧侶「あ、あ、あなた、あなたたちねぇっ!」
傭兵「僧侶!」
 だん、と剣の鞘で地面を叩きつけた傭兵さんは、打って変わって笑顔で――けれど瞳の奥は炎が燃えていて。
 その場が静まり返ります。
傭兵「……僧侶、俺は金が好きだ」
僧侶「……はい、知ってます」
傭兵「どうして金が好きか、言ったことはなかったな」
僧侶「……たぶん」
196:
傭兵「俺は金が好きだ。金は目的じゃなくて手段だからな。使い方によっていくらでも応用が利くってのがいい。逆に言えば、僧侶。俺は応用の利かないのが嫌いだ。一辺倒という言葉には反吐が出る」
傭兵「俺は金の有用な使い方を知っている。それは俺の才能だ。凡人どもは百万あっても碌な使い方をできねぇが、俺が百万持っていたらずっと意味のあることに使ってやれる。即ち金ってのは有能かどうかを図るバロメータみたいなもんだ」
傭兵「だから俺は金をうまく使えないやつも嫌いだ。投資ができず、浪費しかできないやつなど死んでしまえばいい。こんなやつらが金を持っていたっていいことはない。碌なことに使いやしない。そうだろう」
僧侶「……」
 逡巡。傭兵さんが怒りに打ち震えているのはわかりますが、話の流れがわかりません。
 ただ、傭兵さんへの好悪を度外視すれば、言っていることに同意はできます。
 だから。
僧侶「……はい。この人たちに使われるお金が、可哀そうです」
傭兵「やっぱりお前もそう思うか」
 そう言って傭兵さんは剣を抜きました。それだけで拝んでいた人たちは波が引くように後ろへと下がります。
197:
傭兵「お前らは安易に生きるべきではなかった。楽な方に、楽な方に、流れるべきではなかった。澱んだ水は腐って濁る。金の浪費しかしない」
 下がった町民の中から、一人、最初に拝み始めた男性が一歩踏み出してきます。
町民「あんたさっきから金、金って言うけどね、俺たちにとっちゃ違うんだ」
町民「この世で一番大事なのは金じゃない」
町民「俺たちはプロトニックの教えに沿って労働に勤しみ、みんなで助け合い、一日一日を生きることに喜びを見出してるんだ」
町民「なぁ、そうだろう!」
 男性は振り返りました。すると、後ろの集団から、小さくですが「そうだ、そうだ」と聞こえてきます。
 あぁ、きっとそれは素晴らしい節制の日々です。美しい日々の過ごし方なのでしょう。わたしだってそう思います。わたしだってそういう生活がしたいものです。
 ですが、今この場に至っては、そんな美しい日々は途端に絵空事へと劣化します。あまりにも滑稽なのです。
傭兵「金なんだよ全ては!」
 傭兵さんはついに爆発しました。わたしは最早それを止めようとも思いません。
198:
傭兵「お前らが本当に! 真の意味で! 幸福で安寧な人生を、生活を求めているならば! それは決して、絶対に、のんべんだらりとした中で手に入るものじゃないんだ!」
傭兵「みんなで助け合う!? 一日一日を生きる!? そりゃ素晴らしい、随分と立派な考えをお持ちだ! だけどなぁ、その生き方はてめぇらが掴みとったことなのかよ! てめぇらが選び取ったことなのかよ!」
傭兵「違うだろうが!」
傭兵「てめぇらはその生き方を掴みとったんじゃない、選び取ったんでもない! 与えられたものをただのうのうと享受してるだけだろうが! みんなで助け合わなきゃ生きていけない、一日一日を生きるので精一杯、そう正しく言えよ!」
傭兵「金なんだ! どうしてそれがわからない!? 土地がない、金がない、それはわかった。それで結構。なら、なぜ、どうして、買い戻そうとしないんだ! 買われた土地と誇りを、もし本当に取り戻したいと思うなら、それは死にもの狂いで金を作った先にあるんじゃねぇのか!」
傭兵「奪われたものも、失われたものも、少しでも惜しいと思うなら、悔しいと思うなら、その倍額、三倍、相手の顔面に叩きつけてやれよ! それが誇りを取り戻すってことだ、そうするしかないんだ!」
傭兵「でなきゃお前ら、死んだガキになんて言うつもりだよ!」
 わたしは、共同墓地の石碑に刻まれた名前を思い出します。
 ……。
 沈黙。それは実に、心を揺さぶる、心地よいものでした。
 わたしは決して多くは語りませんが。
199:
傭兵「僧侶」
僧侶「はい」
傭兵「行くぞ」
僧侶「はい」
 どこに、とは訊きません。訊く必要もありません。わかっていますから。
僧侶「州総督に喧嘩売るなんて、馬鹿ですね、傭兵さんは」
傭兵「そうだな、馬鹿」
僧侶「えぇそうです。わたしはいいんです。馬鹿ですから」
 ずっと前から。
 取り返しのつかないくらいに。
僧侶「傭兵さん」
 わたしはすっと傭兵さんを見ました。
僧侶「わたしはあなたの雇用主です。あなたはわたしの剣であり盾。そして、犬です。わたしの願いを叶えるのが役目」
 傭兵さんも佇まいを直し、片膝をつきます。
傭兵「何なりとおっしゃってください。あなたの幸福こそ我が幸福。命に賭けても遂行して見せます」
僧侶「では、命じます」
僧侶「あなたの好きなようにやってください」
 息を吸い込んで、覚悟を決めて、わたしは言葉を吐く。
僧侶「わたしは、あなたを、信頼します」
 傭兵さんは面喰った顔で一瞬わたしを見ましたが、すぐに真面目な――似合わない、実に似合いません――顔に戻りました。
 そして笑いが混じった声でこういうのです。
傭兵「御意」
206:
 ※ ※ ※
傭兵「……止めないのか」
 ぴったりと背後についてくる僧侶に向かって俺は言った。けれど僧侶は寡黙に頷くばかりである。
 これが業務を逸脱していることは百も承知。それでも感情は止められない。抑えられない。
 もし、怒りを抑えられないまでも、行動を抑えてくれる存在がいるとするならば、それは雇用主である僧侶以外にはいないはずだった。しかし寧ろ彼女の方が乗り気であるように見える。
傭兵「止まらないのか」
僧侶「はい」
 ここで初めて僧侶は明確に意志を示した。
僧侶「やっと気づきました。傭兵さん、わたしはあなたのことが、やっぱり、どうしても、好きになれないのです」
 嫌い、ではなく。
 ここでその単語を使わなかったこと、代わりに別の単語を使ったこと、その事実に気が付かないほど愚かではなかった。そしてそれが包含する意味を。
僧侶「先ほど傭兵さん、あなたは言いました。金なのだと。金が全てなのだと。わたしはやっぱり、どうしても、その主義主張が正当であると――正統であると、認めるわけにはいきません」
僧侶「お金は必要悪です。社会も人も未成熟だから必要なだけなんです。人間は本当は、金銭を媒介にするのではなく、信用や信頼を通貨にできるはずなんです。一致団結して生きていけば、お金が必要なときなんて、そう簡単には生まれません」
207:
僧侶「それでも、先ほどの傭兵さんの言葉は、少なからずわたしの心を揺さぶりました。間違っているはずなのに、お金が全てなど、そんなことあるはずないのに――わたしはどうしても、傭兵さん、恥ずかしげもなく晒してしまえばですね、傭兵さん」
 俺の名前を数度繰り返して、僧侶は意を決した。
僧侶「わたしは感動してしまったのですよ。あなたの、間違っているはずの言葉に」
僧侶「さぁ、行きましょう。金の亡者の金の生る木を、人を人とも思わない鬼畜生の棲家を、徹底的に駆逐しましょう」
傭兵「おう、来い」
 僧侶は俺に拳銃を向けていた。
 たった今、僧侶は「信頼」と言った。むず痒い言葉だ。照れくさい言葉だ。それだのにどこか仄暖かさを感じる言葉だ。
 僧侶はどうやら俺のことを信頼してくれているらしい。信頼。それは金ではないが、金に通じるものがある。信頼さえあれば飯も食えるし服も買える。何より、信頼は手段だ。結果として得られる信頼に意味はなく、信頼をどう使うかが個人の価値を決める。
 口には出せないが、出せっこないが、俺もまた僧侶に、一定のそれをおいていた。
 だからこいつに銃口を向けさせることだって厭わない。
 「お前は戦力に数えない」なんて最初は言っていたはずなのに。
208:
 炸裂音。銃弾は綺麗に俺の肩を抜けていく。一瞬だけ激痛が走ったが、すぐにそれは緩和される。血液も止まり、代わりに全身に充実感が生まれた。
傭兵「気をつけろよ」
僧侶「大丈夫です。傭兵さんがいますから」
 はっ!
 俺は地を蹴った。これまでの怪我と疲労が嘘のように体は軽い。羽が生えたようにどこまでも走っていける。
傭兵「目的は採石機構の停止。目標は魔法使い。任務は魔法使いの殺害。これで構わないな」
僧侶「……はい」
 きっぱりと前を見据えた僧侶だった。
 いい顔だ。
兵士「誰だおま――へぶぁっ!」
兵士「敵襲、てきしゅ――!」
兵士「なんだ、なんだこ――!」
兵士「はや、つよ、にげ――!」
兵士「助け――!」
兵士「う――!」
兵士「――」
209:
「――」「――」「――」「――」「――」「――」「――」「――」「――」「――」「――」「――」「――」「――」「――」「――」「――」「――」「――」「――」「――」「――」「――」「――」「――」「――」「――」「――」「――」「――」「――」「――」「――」「――」「――」「――」「――」「――」「――」「――」「――」「――」「――」「――」「――」「――」「――」「――」「――」「――」「――」「――」「――」「――」「――」「――」「――」
 最早誰にも負ける気がしない。
 鎧袖一触、すれ違いざまにほぼ全ての兵士の命を奪っていく。斬りつけ、折り、蹴り飛ばして、俺たちは最下層、カミオインダストリーの採石場入口までやってきた。
 周囲には大量の黒い粘体と、その残骸。そして兵士たちの死体が折り重なっている。俺が殺した者はそのうち半分くらいで、残りは恐らく土地神にやられたのだろう。自業自得である。
 上層を見上げれば町民が不安そうにこちらを覗き込んでいた。が、俺が見上げていることを知ると、すぐに顔を引っ込める。
 すべて失った後に後悔して、絶望の中で死ねばいい。
傭兵「掃除婦あたりが再度出張ってくるかと思ったが、どうやらそれはないみたいだな」
僧侶「この先で待ち受けているのかもしれませんが……どうでしょうね。ここまで大事になってなお、なんのアクションもないとなると、この町は既に見捨てられたのかもしれません」
傭兵「トカゲの尻尾きりか。大いに有り得る話だ」
210:
僧侶「社長が州総督と魔法使いさんは言っていましたが、それが表立ってのものなのかは、正直疑問が残ります。火の粉が自らに及ばないような細工は当然してあるでしょうから」
傭兵「ここはその程度だったってことか」
 富めるものは選択肢も豊かだ。貧しければ、本来取るべきではない、取りたくもない選択肢を取らざるを得ないことも多々ある。
 ここの町民は土地を持たず、金も持たず、ここで「生きさせてもらっている」人々だ。この町がなくなれば、彼らは餓えて死ぬだろう。もしくは森に出て魔物に食われる。そういう運命だ。
 しかし本当に彼らにとって必要だったのは、選択肢などではなかったのだと思う。もっと根源的なもの。選択肢を生み出すために必要なもの。
 彼らには牙がなかった。彼らには牙が必要だった。
 剣を握る手に力が籠る。対象が不明瞭な怒りが確かに腹の下に溜まっていた。
戦士「昨日の友は今日の敵、だな」
盗賊「助けた命を奪うのは悲しいものだ」
 採石場の内部から二人が現れた。こいつら二人も掃除婦と同じように企業お抱えの揉め事処理屋なのだろう。
戦士「お前が暴れてくれるから怒られちまったよ。町に招いたのは俺たちだ。てめぇのケツはてめぇで拭けとよ」
盗賊「悪く思うな。俺たちにもあとはないものでな」
傭兵「うるせぇ」
 盗賊の手首を捻る。軽々と盗賊はその体を一回転させ、地面に叩きつけられる。
 呆気にとられた顔をしていた。俺は全く頓着せず、ナイフを一閃。
 血の飛沫が顔にかかる。熱い。生命の温度。
211:
戦士「なっ、てめぇっ!」
 剣の振り下ろし。半歩下がって避ければ、剣先は俺ではなく盗賊の胸部を叩き割った。骨や臓腑があたりに飛び散ってぷんと死のにおいを漂わせる。
 僧侶は顔色を悪くしていたがそれでも背けることはない。恐らく、それが彼女の覚悟なのだ。
 隙だらけの戦士の手首を上から踏みつけ、橈骨及び尺骨を粉砕。声にならない悲鳴を挙げる戦士は最早俺のことを見ていない。あさっての方向を向いた己の手のみを注視している。
 剣を使うまでもなかった。顔面を蹴り上げれば脳を揺らして戦士は昏倒する。
 詰めは誤らない。首の骨を折って、きっちりと殺す。
 そのまま採石場内に飛び込んだ。恐らく内部の衛兵たちの大半は、外で起こった一件を知らなかったのだろう。まだ土地神と戦っている者もいれば、土地神との戦いを終え、一息ついている者もいる。
 そいつら全員を殺す。
 入り口付近にいた衛兵数人は気づかれる前にナイフを滑らせて黙らせた。俺たちと言う闖入者にやっと気づいた衛兵が襲ってくるが、はっきり言って練度が足りない。大ぶりの斬撃を避け、切る。
 頽れる衛兵のさらに後ろに数人控えている。ナイフを投擲し顔面を破壊、そいつが進行の邪魔になっているところを、そいつごと剣で後ろを突き刺した。腹を蹴りながら刃を抜く。
212:
 姿勢を低くすれば二つの死体が陰になって俺の姿を正確にとらえることは難しい。地面すれすれを走り、回り込んで背後へ。振り向きざまに脇腹から背中にかけてを切り裂いた。
 最後の一人はようやく忘我から戻ってきたようで、剣を構えてはいるが、明らかに重心が踵に寄っている。突撃すると見せかけてさらに後ろへ傾けさせ、脚を払って地面に押し倒す。
 喉元にナイフをかざした。
傭兵「魔法使いはどこにいる。この採石場は研究所も兼ねているはずだ。道を教えろ。でなければ命はない」
衛兵「き、貴様、こんなことをしてただで済むと」
 時間が惜しい。ナイフを首に突き立てて飛び跳ねる。
 視線の先には見張りの交代にやってきた衛兵二人組。この状況が理解できていないのだろう、脚が止まっている。
 火炎魔法で遠距離からまず一人を打ち倒す。火球が顔面に直撃して遠くまで吹き飛び、採石場の壁に頭から突っ込んだ。肉の焼ける臭いが嗅覚を、頸椎の折れる音が聴覚を、それぞれ過ぎ去っていく。
 もう一人は柄に手をかけていた。狙ってくれと言わんばかりだ。当然切り落とす。
 そのまま流れで胸を突き刺した。勢い余って壁に磔にしてしまう。
傭兵「ちっ、もう剣を壊しちまった」
 今日買ったばかりだというのに。
 仕方がないので衛兵の帯びていた剣を抜き身で奪うことにした。
傭兵「で、お前は教えてくれるか?」
213:
衛兵「ひ、ひっ!」
 尻もちをついた衛兵が隅で後ずさっていた。しかし既に背中を壁へと擦り付けている。これ以上どう後ろへ下がろうというのだろうか。
 剣をちらつかせながら近づいていく。
衛兵「うわぁあああっ!」
 狂乱のままに逃げ出そうとした衛兵をぶん殴って馬乗りになる。拳を口の中に突っ込んで、残った手でナイフをかざして見せた。
 見れば僧侶と同じくらいの年齢のガキだった。幼い顔を、涙と洟でぐずぐずにしている。
傭兵「お前、研究所の場所知っているか。魔法使いの居場所を知っていればなお良い。イエスなら一回、ノーなら二回、瞬きしろ」
 瞬きは一回。
傭兵「知ってるのは研究所の場所か。魔法使いの場所か。前者なら一回、後者なら二回」
 また、一回。魔法使いの居場所はわからない、か。
 まぁ研究所さえ潰せれば次善は為せる。そこに魔法使いがいる可能性も高い。
 俺は衛兵の口の中から手を引き抜いてやった。
傭兵「変な真似をしたら殺す。行き方を教えろ」
 衛兵は自分の懐を指さした。どうやら新米の身分であるため、そこに採石場内の地図が入っているらしい。
214:
 杜撰だ、と思った。そんなものは本来一介の衛兵に持たせていいものではない。危機管理と言うものが存在しないのか、ここは。あまりに杜撰すぎて逆に罠だとすら思えてくる。
 地図を受け取る。……おかしなところは、ぱっと見た限りでは見当たらない。
傭兵「僧侶、今後魔法的な罠が仕掛けられてたら、教えてくれ」
僧侶「専門的なことはわかりませんよ?」
傭兵「変な魔力の流れを感じたら、でいい。魔法の才能はお前の方がある」
僧侶「わかりました」
傭兵「おい、お前」
衛兵「はいっ?」
 声がひっくり返っている。少々驚かしすぎたか。
傭兵「ありがとよ」
 ナイフを振り下ろした。
傭兵「行くぞ」
僧侶「……」
 返事はもともと期待していなかった。
 俺たちは歩いていく。
215:
 幸運にも研究所までは一人の衛兵にも出会うことはなかった。
 研究所の入り口は銀色の扉で、土と埃に塗れた薄暗い採石場内にあって、まるで異世界への扉のようだった。実際それほど間違ってはいないようにも思える。ここから先はエリートの巣窟に違いないのだから。
 そう、エリート。採石場内で働く者とは、ましてや町民とは決定的に、徹底的に、身分としての差がある人々。
 だから彼らは自分以外の者を下に見ているのだ、だから彼らは臆面もなく瘴気を垂れ流せるのだ――そんな知ったふうなことを言うつもりは全くない。どんな階層でも漏れなく腐ったやつはいるし、できたやつもいる。
 が、少なくともこの中にいるのは企業の犬で、州総督の走狗で、俺が途轍もなく気に食わない。
 俺が研究所の扉を開けると、換気の利いた清涼な空気が流れ込んできた。これもまた採石場内とは天と地ほどの差がある。
魔法使い「待ってた」
 ぼんやりと魔法使いは言った。研究所内には最早魔法使いしかいない。
 そりゃああれだけ暴れれば気づかれもするだろう。寧ろ魔法使いが残っていたことの方が驚きだった。
傭兵「お前は、逃げないのか」
魔法使い「逃げないよ。逃げるな、って言われたから」
傭兵「州総督にか」
魔法使い「うん、そう」
216:
僧侶「なんでですか?」
 ここで僧侶が声を挙げた。悲痛な声だった。
 俺はここで魔法使いを殺す。研究所の機材も、資料も、全て焼く。魔法使いはそれを恐らく悟っている。それでも抵抗の様子が見えない。僧侶はそれが信じられないのだろう。
 慮っているのだ。俺はその感情を甘さだとは言いたくなかった。なんとしてでも、僧侶のそれは優しさであるのだと思いたかった。
僧侶「そこまでして何がしたいんですか? あなたは何に命を懸けてるんですか?」
魔法使い「言ってることが、よくわかんない」
魔法使い「命なんて懸けたことないよ」
僧侶「……あなたは、ここで、わたしたちが」
 息を止め、つばを飲み込む音が聞こえた。
僧侶「……殺します」
魔法使い「うん、知ってる。別にいいよ。私の役目は、終わったから」
 やはりだった。トカゲの尻尾きりであると同時に、魔法使いが持っていた知識や技術は全て持ち出されている。一般化されている。法則化されている。最早彼女自身に、有能な一研究者以上の意味はなくなっているのだ。
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