貴音「月光Cage」【後半】back

貴音「月光Cage」【後半】


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7:
入り口の方で足音がした。
灰崎「こ、これはいったい……」
灰崎さんは物置の中の惨状を目にして唖然とする。その背後から五道さんも姿を現した。
五道「なんてことだ……! 一体、何があった!?」
灰崎「そちらの方は……」
灰崎さんが奥のほうを見て言う。
五道「誰、なんだ?」
事情を知らない二人でも、奥でうつ伏せに倒れた彼の姿を見て察したようだった。
 
P「黒田です。もう……死んでます。……殺されました」
五道「こ、殺された、って……」
P「とにかく、詳しいことは後でお話するので……貴音を部屋に……」
貴音「あっ……」
貴音が立とうとする俺の袖をつかむ。
P「大丈夫、後で二人で話そう……」
小声で言うと、貴音は小さく頷いた。
P「立てるか?」
貴音「は、はい……」
五道「手伝おう」
五道さんにも肩を支えてもらいつつ、ひとまず貴音を部屋まで連れて行って休ませることにした。
238:
その後、段々と騒ぎを聞きつけて物置の前に人が集まり、やがて全員が揃った。その中には、白河くんの姿もあった。
P「白河くん、いつの間に……」
玄関の戸にはたしかに内側から鍵をかけた。外にいた白河くんが入ってくるにはチャイムを鳴らすなり、呼びかけるなりして中から扉を開けてもらわなければならなかったはずだ。
青山「ああ、ついさっき部屋の窓の外から声かけられたんで、窓から入ってもらったんです」
白河「わざわざ玄関の鍵を開けに来てもらうのも申し訳なかったので……。驚きました。帰ってきたらまさかこんな……」
なるほど、そういうことか。同室の青山くんがいたからこその方法というわけだ。
白河「千家さん、三船さん、南京錠の鍵をお返ししときます。ありがとうございました。調査のことはまた後ほど」
五道「ああ……」
五道さんが鍵を受け取ると、三船さんも黙って自分の鍵を受け取った。
白河「――で、話していただけますか? Pさん、あなたがここで……何を見たのか」
P「わかった……」
新たな惨劇の舞台となったこの物置。ここであったことを皆に話さなければならない。しかし、先ほどの貴音の不穏な発言だけは省略しておかなければ。
239:
話の途中、朱袮さんが恐怖に耐えるように両目を瞑ったり、千家さんが「まさか」と呟いたりはしたものの、みんなは話が終わるまで傾聴に徹してくれていた。
話を終え、ひとまず物置から廊下に出る。しっかりと引き戸を閉めておく。血を見るのも、臭いを嗅ぐのももうごめんだ。
牡丹「そんな……」
俺の話についてまずリアクションを起こしたのは牡丹さんだった。
牡丹「そんな話を信じろっていうの……? 鬼が現れて、人を殺しただなんて……!」
P「俺は嘘は言っていません。見たままのことを話しました」
千家「うむ……私は信じるよ。さすがにこの状況でそんな嘘をつくはずもないだろう」
青山「で、でも……不気味すぎますよ。どうして犯人は鬼の扮装なんてしてたんすか?」
白河「多分……鬼であることに意味は無いんやと思う」
朱袮「白河さん、それってどういう……」
白河「犯人は鬼の扮装で全身を覆い隠していた。自分の姿を見られたくなかったんやろう。あとは……返り血を防ぐため、とかな。せやから、変装するモチーフは別に鬼でも天狗でも、なんでもよかったはずや」
240:
牡丹「……それで、そいつはどこへ逃げたの?」
P「わかりません。物置を飛び出していったきりで……」
千家「廊下のどちら側へ逃げたのかもわかりませんか?」
黙って首を横に振る。あの時は、突き飛ばされた貴音のほうに気を取られてそこまで注意が回らなかった。
P「……お二人は何も見ませんでしたか?」
灰崎さんと五道さんに向けて問う。この二人が一番最初にここへ駆けつけてきたので、もしかしたら犯人の姿を見ているかもしれない。
灰崎「いいえ、私は見ておりませんが……」
五道「私もだ……もう逃げ去った後だったのだろう」
たしかに、犯人が逃げてから二人が来るまでには少しの間があったから、目撃していないのも不思議ではないか……。
白河「お二人は、どうして物置へ?」
灰崎「私は自室にいたのですが、何やら騒々しい音がするので部屋の外の様子を見てこようと。それで……」
白河「では、五道さんは?」
五道「……トイレへ行こうと部屋を出たところだった。廊下の奥で……妙な気配がしたので行ってみたら、この有り様だ」
白河「妙な気配?」
五道「……なにか不穏な気配を感じたのだ。そうとしか言いようがない」
241:
千家「それにしても、わからないな……犯人の目的は一体何なんだ? どうして黒田くんを殺す必要がある?」
話題が転換した。殺害動機の問題だ。
白河「気になるのは、犯人が持ち去ったというノートですね」
千家「ああ、『六原なんとか』と書かれていたというやつか」
白河「物置の長持の中に入っていたとのことですが、灰崎さんはなにかご存知じゃありませんか?」
灰崎さんは申し訳無さそうな顔をして、
灰崎「いいえ。たしかにあの長持の中には先代や先々代の遺品がしまわれております。しかし私も、先々代がそのようなものを書き残していたとは知らなかったのです……」
白河「では、六原という言葉に聞き覚えはありませんか? 人の名前かなにかだと思うのですが」
灰崎「いいえ、それも……お役に立てず、申し訳ございません」
そう言って頭を下げる。
242:
P「そういえば」
ふと思い出して、話を付け加える。
P「俺が物置に入るよりも前に、黒田は何者かの気配を物置の外に感じていたようでした」
千家「まさか、それが犯人だったのでは?」
白河「仮に犯人の目的をそのノートだとすれば、黒田さんがそれを手に取り、『ノートに書かれた何らかの秘密を黒田さんが知ってしまった』ために殺害されたと考えることもできますね」
朱袮「で、でもおかしくないですか? 灰崎さんですらその存在を知らなかったノートなんですよね。どうして犯人はそれを知っていたんでしょう?」
白河「……さぁな。そこまではわからん」
白河くんは右手で髪を触った。
白河「例えば……そうやな。もし犯人がノートの存在を知らんかったとしても、黒田さんはノートを見つけて読んだ時にその内容を思わず口に出してしまっていたのかもしれん」
ノートの内容を話そうとしていたあの時の黒田の興奮した様子からしても、それは十分考えられそうなことだった。
朱袮「それを犯人は物置の外で盗み聞きしていた?」
白河「あくまで可能性の話や、確証はない。ノートが殺害の動機っちゅうのも、根拠と言えるのは犯人がノートを持ち去ったゆうことだけやしな」
243:
千家「これ以上は考えようがないな。犯人がどうして松葉さんや黒田君を殺害したのか、そして、これ以上の殺人を続ける意思があるのか……何もわからない」
これ以上の殺人……? そんな……まだ殺人が続く可能性があるというのか。
P「あ……?」
ふと、嫌な想像が脳裏に浮かんだ。犯人があの吊り橋を落とした理由だ。どうしてあんなことをしたのかわからなかったが、もしかしたら……。
五道「なんだ……どうかしたのか……?」
白河くんと一緒に調べに行ったところ、吊り橋が落とされていたことを伝える。
五道「……間違いないのか?」
そう白河くんに向けて尋ねると、彼は黙って頷いた。
青山「待ってくださいよ。どうして犯人はそんなことをしたんです?」
千家「逃げ道を塞ぐため……か」
千家さんが俺の考えていたことと同じことを言った。
五道「……どういう意味だ、千家」
千家「雪崩でトンネルが塞がれ村へは降りれず、山の吊り橋は落とされて隣町へ行くこともできない。多分、犯人は我々をこの屋敷に留まらせておきたいんだろう」
五道「それはつまり……まだ犯人は殺人を続けるつもりだということか?」
千家「そうだ、と断言はできないが……用心はしておくべきだろう」
朱袮「そんな……」
朱袮さんが小さな声で呟いた。
244:
朱袮「犯人って、まだ屋敷の中にいるんでしょうか……?」
不安げな彼女の声に、白河くんが答えた。
白河「さっき確かめたけど、玄関の鍵はかかっとった。Pさんが帰ってきたときに閉めたっきりやとすると、少なくとも犯人は玄関から出てはいないな。まだ中にいると考えたほうが良さそうや」
朱袮「犯人がまだ……屋敷の中に……」
白河「……皆さん、少し確認させてください」
白河くんが提案するように言った。
白河「部屋を出るときに、鍵はかけてきましたか?」
その質問にそれぞれ答えていく。全員、鍵をかけてから部屋を出たらしい。俺の部屋も鍵はかけていたはずだ。
白河「――なるほど。では灰崎さん。この屋敷にマスターキー……つまりどの部屋でもその一本さえあれば錠の開け閉めができるというような鍵はあるのでしょうか?」
灰崎さんは首を横に振った。
灰崎「いいえ。この屋敷の鍵は基本的に全て私が管理しておりますが、そういったものはございません」
白河「マスターキーはないんですね。では他の部屋の鍵……」
そこまで言って、思い出したように付け加えた。
白河「そういえば、松葉さんは部屋の鍵をお持ちでなかったようですが、灰崎さんが?」
灰崎「ええ、旦那様が月光洞へ向かわれる前に私が預からせていただいております。他に談話室の鍵と書斎の鍵――普段から開けっ放しにしているのでこの二つは滅多に使うことはありませんが――それと今は使用されていない亡くなった奥様と先代の旦那様の部屋の鍵が私の部屋にございます」
白河「ちなみに、鍵の保管はどのように?」
灰崎「私の部屋にキーボックスがありまして、その中に保管しております。そのキーボックスを開けるのにも専用の鍵が必要で、それは私が普段から持ち歩いております」
白河「わかりました。ありがとうございます」
245:
五道「……ということは、今、屋敷内に犯人が隠れているとすれば……それは鍵がかけられていない場所のいずれか……ということになるな」
千家「ふむ……この際だ、その『鬼』とやらを探してみませんか?」
千家さんが全員を見渡すようにしながら提案した。
白河「僕も同じことを考えていました」
白河くんが賛同する。
灰崎「ま、まさか我々でその犯人を捕まえようというのですか?」
千家「そうです」
白河「このまま何も行動を起こさず、びくびくしているよりはマシだと思いませんか?」
五道「……そうだな。このままじゃあ満足に寝ることもできん」
青山「よし……わかりました! やりましょう鬼探し!」
朱袮「でも、大丈夫かなぁ……」
白河「何人かはここに残ってもらいたいな。もしかしたら犯人がまた貴音さんを狙ってくるかもしれないし、あまり大人数で動きまわるのもいざという時に混乱しかねない。それと何かちょっとした武器のようなものがあれば――」
246:
――こうして編成された『鬼捜索隊』は、白河くん、千家さん、五道さん、青山くん、そして俺の計5人となった。
体力的な問題も考慮され牡丹さん、朱袮さん、灰崎さんの3人はこのまま貴音の部屋の前の廊下で待機しておいてもらうことに。
それと護身のためにそれぞれが短めのほうきや果物ナイフなどを持つことになった。いずれも物置内から取り出してきたものだ。包丁やのこぎりなどの大きな刃物もあったが、かえって危険だということで却下された。
千家「五道、お前たしか学生の頃は剣道部だったよな。頼りにしてるぞ」
五道「学生の頃はって、何年前の話だと思ってるんだ……それに、これでどう剣道の腕を発揮しろと言うんだ?」
そう言って手に持ったほうきの柄をひょいと振る。
……刀を持っている相手に、なんとも頼りないことだ。5人もいれば返り討ちということはない……とは思う……思いたい。
247:
白河「――じゃあ、開けますよ?」
白河くんがドアノブを掴みながら小声で問いかける。後ろにいた俺たち4人は揃って頷く。手に持ったほうきを握りしめて構える。
一気に扉が奥のほうへ開け放たれた。
その小部屋の中は入ってすぐ右側に小さな手洗い場があり、その上に鏡が取り付けられていた。そして奥へ一メートルほどゆったりと間隔をとった位置に、よく掃除されているらしい綺麗な洋式便器があった。
……それだけで、鬼の姿はどこにもなかった。
五道「また……はずれか」
ここと同じ作りの南側のトイレから始まり、書斎、食堂、台所、洗面所および浴室、談話室と犯人の隠れられそうな場所を捜し回ったが、成果はまったくの皆無であった。
見落としがあったとは思えない。テーブルの下やバスタブの中、カーテンの裏まで徹底して捜したつもりだ。それに広い部屋へ入るときには犯人が入れ違いに逃げ出さないように、常に二人は出入口で待機するようにしていた。
248:
千家「他にどこかあったかな?」
白河「中庭がまだですね」
青山「暗いし広いしで面倒ですねぇ……」
青山くんはうなだれる。青山くんに限ったことではないが、捜索を続けるうちに慣れてきたのか緊張感は抜け始めていた。
白河「しんどいなら休んでてもええぞ。病み上がりなんやから無理すんな」
青山「ああいや、そういうわけじゃないんです。大丈夫です、自分でも何時間か前にぶっ倒れたとは思えないくらい元気ですから」
そう言って拳を上げるポーズをする。
白河「ほぉ。松葉さんの治療は確かなもんやったらしいな」
青山「はい。もうお礼を言うこともできないのが残念ですけど……」
五道「そういえば……君は治療の間のことは覚えているのか?」
青山「ええっと……そうっすね」
青山くんは手を顎に当てて少し考えた後、
青山「熱でぼうっとしてたからよくわかんねっすけど……何か飲まされたような気がしますね」
五道「それは……薬か何かか?」
青山「多分、そうだったんじゃないかと」
249:
五道「なるほど……やはり……」
P「五道さん、やはりって?」
五道「いや……かねてから治療を受けた者から似たような話は何度か聞いていてね。私も考えたことがある。鬼憑き病を治す秘術とは、民間療法の中でも超自然的な力を用いる祈祷や呪術のような類ではなく……もっと現実的な……例えば独自の薬物療法なのではないか、とね」
千家「とすれば、その薬の製造方法がわかれば鬼憑き病を治療できるようになるな。屋敷のどこかにはそれを記した書物なんかもあるんじゃないか?」
五道「どうかな……確証はないし、もしもそうだとして、今までの神宿り様たちがなぜそれを秘術扱いにしてきたのかがわからん」
五道さんは顎に手をやって考えこむ。
青山「薬の製造方法に秘密があるんすかね?」
五道「うぅむ…………」
千家「まぁ、そんなことを今考えても仕方あるまい? それより中庭の捜索をさっさとしてしまおうじゃないか」
千家さんに促されて、まずは東側の中庭に入る。懐中電灯を照らして隅から隅まで捜したが、鬼の影も形もなかった。
西側の中庭も同様に探索を行ったが、徒労に終わる結果となった。
250:
牡丹さんたちが待つ中央廊下へ戻り、結果を報告する。
朱袮「――やっぱりもう逃げてしまったんじゃないでしょうか?」
白河「その可能性もあるな。玄関に鍵がかかっていたのは、窓から出て行ったからなのかもしれない」
捜索を行う途中で確かめたことなのだが、屋敷の東側と西側の廊下にはそれぞれ一箇所ずつ鍵のかかっていない窓があった。どちらも外に面した窓なので、そこから屋敷を脱出することは不可能ではなかっただろう。
もちろん、確認を終えたらその窓の鍵は閉めておいた。
牡丹「それで今は屋敷の中にいなかったとしても、また戻ってくる可能性はあるわけでしょう?」
五道「それはそうだ。いくら鍵をかけているとはいえ……窓を割られてしまえばどうしようもない」
青山「そもそも……本当に俺ら以外に人がいたんですかね?」
青山くんの言葉がその場にいた全員の注意を引いた。
251:
青山「やっぱり……この中の誰か……ってことも、あり得るんすよね?」
彼の質問には誰も答えようとしなかった。重い空気が場を呑み込む。
犯人が物置から逃走し、その後別の場所で扮装を解いてから再びこの場に現れた……時間的には誰もが充分可能だった。……いや、ついさっき戻ってきたという白河くんは除外されるか?
それに松葉さんの時とは違い、今度は屋敷の中で殺人が行われた。今となっては、外部犯と考えるよりは……そちらのほうが可能性は高いかもしれない。
誰もがその考えには至っていたのだろう。それでも互いに疑い合うようなことは避けたくて、口に出していなかっただけなのだ。
牡丹「……ふん。誰だか知らないけど、もしこの中に犯人がいるのなら……そして、私を殺したいなら……殺しに来るといいわ」
五道「三船……!」
牡丹「ただし、それなりの代償を払う覚悟はしておくことね」
静かでありながらも迫力のある声でそう言ってのけると、後ろへ振り向いて歩き出す。
五道「どこへ行く?」
牡丹「もう休むわ。おやすみなさい」
付け加えるようにして、手を振りながら言った。
牡丹「皆さんも、お気をつけて」
252:
千家「……他の皆さんも、もうお休みになられてはどうでしょう? 時間ももう遅い……」
千家さんが右手首の腕時計を見る。釣られるように自分の時計を確認すると、もう2時半だった。
五道「そうだな……あまりに色々なことが起きすぎた。さすがに……疲れた」
五道さんはそう言って部屋に戻っていく。
青山「――じゃあ俺達も部屋に戻りましょうか。……先輩? どうかしたんすか?」
白河くんははっとして、
白河「ん……ああ、すまん。考え事しとった……あ、先生」
部屋へ戻りかけていた千家さんに呼びかける。
千家「なんだい?」
白河「ちょっとご相談したいことが」
千家「構わないよ」
白河「灰崎さん、書斎を使わせてもらってもいいですか?」
灰崎「ええ、もちろん結構でございますよ。あ……しかし、まだ蛍光灯の取替が済んでおりませんが」
白河「多少の薄暗さは問題ありません」
灰崎「左様でございますか」
白河「すまんな青山。先に部屋に戻っといてくれ」
青山「わかりました。じゃあPさん、おやすみなさい」
P「おやすみ」
白河くん、千家さんとも同様に挨拶をして別れる。
253:
灰崎「黒田様は……お気の毒でございました。この日、ここへ居合わせてしまったばかりに、このような目に遭われたのかと思うと……」
たしかに……不幸だったのかもしれない。いけ好かない人間ではあったけど、殺されるほど悪人でもなかったはずだ。彼に対しても哀れみの感情を持たずにはいられない。
黒田「……しかし、お嬢様とP様がご無事で何よりでございました」
朱袮「そ、そうですよ!」
朱袮さんが力強く同意する。
朱袮「みんな犯人のことばかり気にしてましたけど、まずはそれを喜ぶべきです」
P「はは……ありがとう」
朱袮「あっ、でも……貴音さんは大丈夫でしょうか? 心配です」
灰崎「先ほどは、ご気分が優れないようでしたが……いえ、P様のおっしゃるとおりのことが物置の中であったのなら、そうなるのも当然ではあるのですが……どうもそれだけではないような……」
灰崎さんはさすがだ。俺が話の中であえて伏せていたこと……貴音がショックを受けていたのは、黒田の死を目の当たりにしただけが理由ではないということに気がつきかけている。
254:
P「俺が様子を見てきますよ」
彼女と直接話さなければならないこともある。
灰崎「それでは、お茶を持ってまいりましょうか?」
P「いや、必要ないです。灰崎さんもお休みになってください」
灰崎「左様でございますか。お気遣い感謝いたします」
灰崎さんは丁寧に頭を下げた。
灰崎「私からこのようなことを申し上げるのも、おかしな話だとは思うのですが……あなたがここへ来てくださっていて本当によかった」
P「え?」
灰崎「あなたがいてくださるおかげで、お嬢様はだいぶ救われている面があると思うのです。お嬢様の芯の強さは私もよく知っているつもりですが、今回はことがことでしたので……」
灰崎さんはまた一礼して、
灰崎「――それでは、P様、七瀬様、おやすみなさいませ」
朱袮「おやすみなさい灰崎さん。Pさんも」
それぞれに就寝の挨拶を返してから、貴音の部屋に向かった。
255:
P「貴音、入っていいか?」
貴音「どうぞ」
貴音は、天蓋のついたベッドに身を起こしていた。
薄いカーテン越しに見える姿は儚さに似た美しさがあり、写真に収めておきたい欲求に駆られるが、残念ながらカメラは手元にないし呑気に撮影会をしている場合でもない。
P「少しは落ち着いたか?」
カーテンを開けて彼女の顔を覗きこむ。
貴音「……ええ」
貴音はぎこちない微笑みを返した。
近くにあった椅子をベッドの横まで引っ張ってきて、座る。
P「……ありがとう」
貴音「……?」
P「さっき貴音が来てくれてなきゃ、俺は……殺されていたかもしれない」
貴音「……あの時は、無我夢中でしたから。プロデューサーがご無事でよかった……」
P「あのナイフはどうしたんだ?」
貴音「部屋にあったものです。物置の方から妙な物音が聞こえたので様子を見に行こうとしたのですが、嫌な気配がしたので念のためと思って……そしたら」
あの場面だったというわけか。
256:
P「それで……さっき貴音が言ってたことなんだけど……」
貴音は黙って頷いた。
P「どういうことだか説明してくれるか?」
貴音「10年前の記憶が欠如していたことについては、前にお話したとおりです。今なら……その理由がわかります」
P「なんだ?」
貴音「自分を守るためです。わたくしは、きっと自分で犯した罪に耐えられなくなり……自ら、それを忘れたのです」
P「……どうして今になって思い出したんだ?」
貴音「あの時……犯人の被っていた鬼の面を見た瞬間に」
P「鬼の面で……?」
貴音「10年前のあの日も……わたくしは、『鬼』を見たのです。物置であの鬼を見て瞬間的に、その光景が重なって見えて……それがきっかけだったのだろうと思います」
257:
P「なんだって……!? それ、どういうことなんだ!?」
貴音は、何か考え悩むように視線を下げた。
P「あ……話すのが辛いなら、無理にとは言わないけど」
貴音「話したく……ありません。誰にも……話したくない……!」
貴音は呟くように言葉を発した。右手でこめかみを押さえ、苦痛に顔を歪ませる。
貴音「でも……わたくしには……抱えきれない……! 恐ろしいのです……このままでは、自分の記憶に押し潰されてしまいそうで……」
痛みに耐えながら押し出したような、震えた声だった。
P「……だったら、話してくれないか」
貴音「…………!」
P「一人で抱え込むのが辛いなら、俺も手伝うから」
貴音「プロデューサー…………」
彼女は目を閉じ、数秒の間黙り込んだ。そしてゆっくりと目を開くと、こちらをまっすぐと見つめて、言った。
貴音「…………聞いて、いただけるでしょうか?」
俺はゆっくりと頷く。
P「……もちろんだ」
258:
――十年前。その日は、十年祭の開催当日でした。
父は祭りの準備で連日忙しそうにしていたのを覚えています。
叔父もその手伝いのためにしばらく前から屋敷に滞在しておりました。ええ、当時、叔父は遠い別の町で病身の叔母と共に暮らしていましたから。叔母は体調が優れないせいもあって叔父は一人で村へ戻ってきていました。
昼を過ぎた頃だったでしょうか、屋敷に客人がやってきたのです。
「こんにちわー」
よく通る声の挨拶。村でただ一人の駐在巡査、八塚銀志郎(やつか ぎんしろう)という方でした。
貴音「あっ! ぎんしろー!」
八塚「よぉ、お嬢! 今日も元気だな」
銀志郎は当時、わたくしの唯一の遊び相手となってくれていた方でした。わたくしがもっと幼い頃から、いつも巡回のついでには屋敷へ寄り、楽しいお話を聞かせていただいたり、時には他愛無きごっこ遊びの相手を務めてくださったりもしました。
身近にいる大人の中では比較的年齢が近いこともあり、わたくしにとっては、兄のような存在……だったのかもしれません。
259:
八塚「足の怪我はどうだ? まだ痛むのか?」
貴音「まだ少し……」
八塚「そっか。ちゃんと治るまでは無理するなよー?」
彼はわたくしの頭をくしゃりと撫でると、もう一人の人物に気がついて挨拶をしました。
八塚「灰崎さん、こんにちわ」
灰崎「これはこれは、八塚様。ようこそいらっしゃいました。何か御用で?」
八塚「ちょっと伝言を頼まれまして。巡回ついでに寄らせてもらいました」
灰崎「伝言でございますか」
八塚「常磐様はご在宅ですか?」
「私に用でしょうか?」
廊下の奥から声が。父が眼鏡を着物の袖で拭きながらひょこひょことした足取りで歩いてきました。
常磐「やぁ、こんにちわ八塚君。今日はどうしました?」
八塚「こんにちわ。新しい村長さんから伝言を頼まれてます」
常磐「ほう、伝言」
父は眼鏡をかけ直します。
常磐「何でしょう?」
260:
八塚「儀式の準備で忙しく、こちらへの到着が少し遅れそうとのことです」
常磐「なんだ、そんなことですか」
父は笑って、
常磐「儀式の予定にはある程度ゆとりをとってますから、特に問題はないでしょう。三船さんにはそうお伝えしておいてくれますか」
八塚「わかりました」
常磐「しかし彼女も大変でしょうねぇ……。前々からご病気だったとはいえ、お父様が亡くなって急に村長を継ぐ羽目になり、十年祭がその初仕事だなんて」
八塚「でも牡丹さん、充分うまくやれてると思いますよ。――なんて、偉そうな言い方でしたかね?」
常磐「いや、私もそう思いますよ。彼女はとても頑張ってます。……一昨日の葬儀の時は、どうなることかと思いましたが」
父は苦笑しました。
八塚「ああ、あれですか……。すごかったですよね、牡丹さんと妹さんとの喧嘩。妹さんは都会のほうで暮らしてらっしゃるんでしたっけ?」
常磐「ええ、久々に帰ってきたのだからもう少し仲良くできないものかと思うんですけどね。彼女らが子供だった頃から見知っている立場の人間としては、心憂い思いをしています」
八塚「昔は仲よかったんですか?」
常磐「儀式の準備などでたまに会う程度でしたが、少なくとも今より険悪ではありませんでしたね。何か不仲になるきっかけがあったのかもしれません。万造は何があったか知らないかい?」
父は、じいやのことを親しみを込めて下の名で呼んでいました。
灰崎「いいえ。私も存じておりません」
261:
常磐「……ま、人の家庭事情にとやかく口を出すのもよくありませんね。このへんにしておきましょう」
八塚「そうですね」
常磐「おっと、そうだ万造。そろそろ客人の来る時間だったな。……はて、なんという人だったかな?」
灰崎「千家様という方ですね」
八塚「千家さん? 村の人じゃありませんね?」
常磐「都会の大学で民俗学の研究をしている方だそうです。十年祭に興味を持たれたようでして」
八塚「へぇ、珍しいですね。この村に外から人が来るなんて」
常磐「ええ、私も楽しみなんですよ。村の外の話なんて、滅多に聞けませんから」
その時、玄関のチャイムが鳴りました。
常磐「おやおや。噂をすれば影ですねぇ」
262:
千家「どうもこんにちは。私は――」
千家殿がやって来て、父たちと挨拶を交わしました。千家殿はわたくしを見ると、
千家「これはこれは、随分と可愛らしいお子さんだ」
常磐「はは、そうでしょう?」
千家「お名前はなんというのかな?」
千家殿はわたくしの前に屈みこんで言いました。
貴音「四条……貴音、です。……こんにちわ」
千家「こんにちわ。貴音ちゃんか。よろしくね」
千家殿はにこやかに微笑みかけてくださいましたが、わたくしはなんだか気恥ずかしく、近くにいた銀志郎の足元に隠れてしまいました。
千家「あらら」
常磐「すみません。初めての人と話す機会というものがなかなかなくて、慣れていないんです」
千家「いやぁ、この年くらいの子ならこういうものですよ」
常磐「あ、そうだ八塚君」
263:
八塚「はい?」
常磐「私は千家さんと色々とお話することがありますので、よければその間、貴音を散歩にでも連れて行ってくれると嬉しいんですが……」
八塚「ああ、いいですよ」
銀志郎は簡単に引き受けました。
常磐「すみませんねぇ。一人にしておくと、またお転婆を発揮して怪我をしないとも限りませんから」
貴音「もう、お父さま!」
常磐「はっはっは。じゃ、頼みましたよ、八塚君」
八塚「よし、それじゃ行くかお嬢?」
貴音「はい!」
264:
八塚「――お嬢も重くなったよなぁ」
外の庭でわたくしを肩車してくれていた銀志郎が、突然言いました。
貴音「……わたくし、太ってしまいましたか?」
八塚「いや。初めてお嬢をこうしておぶってやったときはさ、子猫みたいな重さだったのに……俺がここに赴任してきた時だから、あれからもう3年か。そりゃあ重くなるはずだよな」
貴音「どういう意味ですか?」
八塚「いや、色々とこうね、過ごした年月というかそういうのを噛み締めていたのよ」
貴音「……? わかりません……」
八塚「ま、お子様にはわかんねーか」
貴音「むぅ……」
八塚「お嬢は十年祭は見に行けるんだろ?」
貴音「はい。じいやといっしょに色々見て回るつもりです」
八塚「そりゃよかったなぁ」
貴音「村に行くのは久しぶりだから、楽しみです」
八塚「お嬢が羨ましいよ。俺なんて会場の警備があるから退屈で仕方ねぇや」
265:
そのような話をしばらくした後、銀志郎が思い出したように言いました。
八塚「――あ、そだ。話は変わるけど、この前はどこ行ってたんだ?」
貴音「この前?」
八塚「ほれ、一昨日に右足首、捻挫したって。あの日は村長の葬儀でみんな出かけていただろうし、その間にまた屋敷を抜けだしたんだろ?」
貴音「あー……」
八塚「この辺りで普通に遊んでてそんな怪我するとは思えないし、どっか慣れない場所を歩いたんじゃないかって思ってな」
貴音「……お父さまには秘密、ですよ?」
八塚「おう。わかった」
貴音「裏の山へ行っていました」
八塚「裏の山って……もしかして、あの吊り橋の先にある山か!?」
わたくしは頷きました。
八塚「なんでまたそんな危ない場所に……」
貴音「だって……ぎんしろーが、前に『あの山の先には町がある』って言ってたから……」
八塚「いや……どう考えてもお嬢には無理だって。その思いついたら即実行な行動力は素晴らしいと思うけど……常磐様からも危険だからあそこには入っちゃダメだって言われてたろ?」
貴音「……だから、黙ってました」
八塚「やれやれ……そうしてくれてないと、俺まで常磐様に怒られちまうよ。俺の言葉が発端みたいだしな……。ていうか、もうそんな危ないことはやめてくれよ?」
貴音「はい……ごめんなさい……」
266:
八塚「なぁお嬢。そんなにしてまで町に行きたかったか?」
銀志郎は急に真面目な口調になって尋ねてきました。
貴音「……村から出てみたかっただけです」
八塚「この村は嫌いか?」
貴音「そうではありません」
八塚「じゃあなんで?」
貴音「……わたくしはずっとこの村から出ることはできないのでしょう?」
八塚「…………」
貴音「神宿りは村にとって大切な人だから、いなくなったら沢山の人が困るって」
八塚「……まぁ、そうだな」
貴音「わたくしは村の外がどのようになっているか見てみたいと思いました。でも、お父さまやじいやに話しても許してはくれません……だから一人で……」
八塚「……なるほど。そういうわけか」
貴音「でももう、あのようなことはいたしません。お父さまやじいやに心配をかけるのは、よくないことですから」
銀志郎はわたくしを肩に乗せたまましばらく黙りこんでしまいました。
267:
貴音「……ぎんしろー?」
八塚「……よぉし、決めた!」
貴音「……?」
八塚「外出の許可もらえないか、俺からも常磐様に話してみるよ」
貴音「えっ……ほ、本当に?」
八塚「おう、ただし、保護者として俺が付いてきてもいいならだけどな」
貴音「ぎんしろーが?」
八塚「さすがにお嬢一人でっていうわけにはいかないだろうし、かといって常磐様や灰崎さんに保護者役をお願いするのも悪い、というか多分無理だ。他に適役がいるとするなら、そりゃあ俺しかいないだろ?」
貴音「ああ……! わたくし、今とても幸せな気持ちです!」
憧れていた村の外の景色が見れる……それだけでなく、そこまで気にかけてくれる銀志郎の気持ちが嬉しいと思えました。
八塚「おいおい、まだそうと決まったわけじゃないんだぞ? 常磐様に話してみないと――」
貴音「それでっ、いつ頃になりましょうか?」
八塚「人の話聞いてる? ……まぁそうだな、来週末あたりにでも」
すっかり浮かれはしゃぐわたくしに、銀志郎は少し困ったように笑っていました。
268:
父も今は忙しいだろうとのことで、村からの外出について話をするのは十年祭を終えた後でと約束をしたのを覚えています。
銀志郎とはその後、祭りの準備を手伝いに戻らなければならないということで別れました。
それからしばらくして、五道殿と、少し遅れて三船殿が屋敷へやってきたのです。父たちは月光洞へ暁月を取りに行った後で、村の祭り会場へと移動しました。もちろん、わたくしもそれに付いていきました。
篝火の儀を前にして、神社の広場では祭りの運営委員の方々が慌ただしく準備をしている姿がよく目についたように思います。
わたくしと父は神社の脇に建てられた『ぷれはぶ小屋』の中にいました。そこは神社で何らかの儀式が行われる際にいつも待機所として使われている場所で、その日も神宿りのために用意がされていました。
常磐「――さて、私は篝火の儀の打ち合わせがあるのでもう行きますが、貴音はここで待っているんですよ? すぐに万造が迎えに来る手はずになっていますから」
貴音「わかりました、お父さま」
常磐「また勝手に一人で出歩いてはいけませんよ? ま、ここは山の中とは違いますから、怪我の危険性は低いでしょうけど」
驚きました。どうして父が、わたくしが『山の中で』足を怪我したということを知っていたのでしょう。
常磐「おや、意外そうな顔をしていますね。わからないとでも思いましたか? 私はあなたの父親なんですよ? あなたの隠し事なんて、手に取るようにわかりますとも」
貴音「……ご、ごめんなさい」
父は咎めるようにじっとわたくしのことを見つめていましたが、やがてぷっと吹き出して笑いました。
常磐「――なんて、種明かしをすると、靴の泥を見たからわかったんですけどね。屋敷の周辺でああいう泥の付き方がするのは、あの辺りしかないと思ったんです」
父がわたくしの頭を撫でてそう言ったので、どうやら父はわたくしが山に入ったことを怒ってはいないようだと思いました。
269:
常磐「……あなたがそんなことをした理由は、わかっているつもりですよ」
声の調子を落として父は言いました。
貴音「……お父さま?」
常磐「最近になって、よく考えることがあるんです。『はたして、このままで良いのだろうか』、と」
父はわたくしに話しかけるというよりは、どこか……そう、独白するような雰囲気を持っていました。
常磐「四条家に生まれた者としてのさだめ、と言ってしまえば簡単ですが……近頃の私は、これに疑念を抱かずにはいられなくなってきている」
貴音「…………」
言わんとすることはよくわかりませんでしたが、いつになく真剣な調子で話す父の姿は深く印象に残っています。
常磐「私は神宿りとしてではなく、一人の人間……あなたの父親として、あなたが将来幸せになれる選択をしたいと思うんです。しかし、その選択を私がしてしまえば、とても大きな代償を払うことになるかもしれない……」
貴音「…………」
常磐「それでも、このままでいるよりはずっと良いと思うんです。すぐには無理でも……きっといつかは、あなたも普通の女の子として過ごせる日が来るはずですから」
貴音「普通の……?」
常磐「ええ。そうなったら、もうこの村に留まっている必要もありません。あなたのしたいことを、好きにすればいい。そうやって過ごしていくうちに心を許し合える友人や、素敵な恋人だってできるかもしれませんね。私はあなたのそういう未来を見たい」
父は、最後に付け加えるように言いました。
常磐「――そのためであれば、私はどんな決断でもしましょう。たとえそれが、『神宿りの禁忌』であっても」
270:
父は急に振り返って、小屋の入り口戸の方向を向いて言いました。
常磐「……誰かいるんですか?」
返事はありませんでした。
常磐「ふむ。気のせい……かな?」
貴音「お父さま、今のお話は……」
常磐「……ああ、すみません。少し難しい話でしたね。あまり気にしないでください」
父は笑いかけて、またわたくしの頭を撫でました。
常磐「じゃあ、万造が来るまでここで待っているんですよ」
父が小屋を出ていくのを、わたくしは不思議な感情で眺めていました。
父の言葉からは、わたくしの将来の幸せを願ってくれているという暖かな気持ちが充分に伝わってきましたし、それはとても嬉しく思いました。しかし同時に……言い知れぬ不安を感じずにはいられなかったのです。
その小屋の中でじいやが来るのをじっと待っていました。5分ほどしてから、こんこん、と小屋の扉を手で叩く音が聞こえました。
わたくしは何の疑問を持つこともなく、その扉を開けました。
……そこで、わたくしの記憶は一度途切れます。
271:
――気が付くとわたくしは、暗闇に包まれておりました。
暗く、狭く、固い……箱の中でした。
手足を伸ばすこともできないほどの密閉された空間。箱の蓋は固く閉じられ、内側からはとても開くことができませんでした。
もちろん、助けを呼びました。声も出なくなるほど、泣き叫びました。
しかし……助けは来ませんでした。
どれほどの時間、その中にいたのかはわかりません。数十分か、あるいは数時間か……。
泣き疲れたのと、箱の中の空気が薄くなっていたのでしょう、段々と息が苦しくなってきました。
そして意識も朦朧としてきた頃……箱の外から音が。かちゃり……と、鍵の開く音でした。
恐る恐る箱の蓋を上へと押し開けたわたくしは、そこで初めて、自分が閉じ込められていたのが旅行鞄であると知りました。
周囲には見覚えのない光景が広がっていました。木々が生い茂り、土の地面が広がっていて……おそらく、祭り会場からも離れた森の奥だったように思います。
――誰が鍵を開けてくれたのだろう? その『誰か』はすぐそばに立っていて、わたくしは目を上げました。
夜の闇の中で、月の光に照らされたその姿、今でも目に浮かびます。
……そこにいたのは、『鬼』でした。
272:
その人物は黒い外套のようなもので全身を覆っていて、暗闇の中でその『鬼の仮面』だけがぼうっと浮かんでいるようにも見えました。
鬼は屈み込み、愕然とするわたくしの顔を、愉快そうにゆらゆらと首を揺らしながら見ていました。
……不気味でした。笑っていたのです。
もちろん仮面の向こう側を見透かすことなどできません。しかしその鬼は、怯えるわたくしの様子を見て楽しんでいた……そのように、感じたのです。
鬼は、黒い革手袋をはめた左手を伸ばしてきました。わたくしは思わず身を縮め、両手を顔の前に上げてそれを拒もうとしたのです。
しかし、鬼はその手を払いのけて……自分の身に何が起きたか、一瞬わかりませんでした。
頭が揺れて、閉じ込められていた鞄の縁の固く出っ張った部分で左の頬を強く打ちました。どうしてだか、右頬の方にも熱くじりじりとした痛みが。
ああ、殴られたのだ……と、ようやく理解しました。
貴音「あっ……!」
鬼はわたくしの髪を乱暴に掴み上げ、無理矢理体を引き起こすとそのまま反対側へ放り投げるように手を放しました。咄嗟に鞄の底に手をつくことができ、顔を打つことはなんとか免れました。
自分の身に何が起きたのか、目の前にいる鬼は何者で、なぜ自分に危害を加えようとするのか……混乱と恐怖とで意識は埋め尽くされ、逃げようにも体は緊張しきって言うことを聞いてくれませんでした。
273:
動悸は加度的に激しくなり、歯の根も合わなくなるほどで……それでも恐怖心を押し殺して、どうにかこの危難から逃れなければ……そう思いました。
貴音「……れかぁ……」
助けを呼ぼうとしましたが……自分でも驚くほど、掠れた声しか出てこなかったのです。もう一度、喉を振り絞って叫びました。
貴音「だれかっ……! だれかたすけ――ぁぐっ……!」
鬼によって喉元に手をかけられ、声は遮られてしまいました。そのまま鞄の縁との間で首を挟み込むようにして仰向けに押さえつけられると、それだけで一切の身動きはできなくなりました。
貴音「あっ……がっ…………」
両手で喉に食いつく手を引き剥がそうとしましたが、子どもの非力な力ではそれは到底不可能なことでした。
鬼は身を動かして、手に更に体重をかけるようにしました。首にかけられる力はだんだんと強くなり、呼吸もままならず意識が朦朧としてきて……わたくしを押さえつけていた鬼は、尚も笑っているように見えました。
274:
そのときでした。ふと、視界の端……鞄の外の地面にあるものが転がっているのが見えたのです。
『それ』は以前に銀志郎から見せてもらったことがあり、触らせてもらうことこそできませんでしたが、どのように使うかという知識はありました。
どうしてそこにそんなものが転がっていたのか……理由はわかりません。しかしその時のわたくしにはそんなことを考えている余裕はなく……無我夢中で、それを手に取ったのです。
――ぱん、と乾いた音が森の中に響きました。
275:
首にかかっていた力がすっと抜けたのがわかりました。鬼は仮面の奥でくぐもったうめき声を上げて、胸のあたりを手で押さえながらよたよたと後ろへ下がっていって……ふっと姿が消えました。
その先は急な坂になっていたらしく、鬼は足を滑らせてそこから落下したのです。草木が騒々しく鳴り立てる音……それが鳴り止むまでの長さから、姿は見えねど、鬼は結構な高さから落ちたのだとわかりました。
貴音「……?」
そこで改めて自分が右手に持っているものを見て、気が付きました。……そうです、わたくしが握っていたものは、『拳銃』だったのです。
その時になってようやく、手の中にある黒く、硬く、冷たいその感触が、とても恐ろしく思えてきて……。
貴音「ひっ……!」
それを地面に投げ捨てました。あたりには火薬の臭いが漂っていて、わたくしは段々と、自分が何をしたのか……『何をしてしまったのか』を理解していきました。
月明かりを頼りに、鬼が滑り落ちていった坂の下を恐る恐る覗きこんでみると、その坂はかなり傾斜がきつく、どちらかというと崖と呼ぶほうが相応しいように思えました。
その崖の下――10めぇとるはあったでしょうか――に、鬼が横にうずくまるように倒れていました。暗く、はっきりとは見えませんでしたが……鬼はまったく動きませんでした。
276:
次にわたくしは、崖を下りて鬼に近づいていきました。
頭の中では理解できていたのです。それでも、それを否定してくれるなにかを期待せずにはいられず……「もしかしたら、自分の勘違いかもしれない」、などと淡く、愚かな考えもあって…………。
しかしその行為によってわたくしは、より深い絶望へと身を落とすことになったのです。
鬼を近くで見てみると、外套の胸のあたりから血が染み出しているのがわかりました。流れ出た血液は体の下の草を赤く染め、地面を濡らしていました。
幼いわたくしにも、それがどのような状態なのかはわかりました。
『この人は死んでいるのだ』と。
……『私が殺したのだ』と。
鬼の仮面は外れかかっていました。崖から落ちた時の衝撃のせいでしょうか。そもそもその仮面というのも、落ち着いて近くで見てみると、縁日の売り物にあるような質素なものでした。
わたくしは手を伸ばして、その鬼の仮面を外したのです。
理由は唯一つ。自分が知っている人物かどうかを確かめたかったからです。
そして……その仮面の下にあった顔は…………
貴音「…………え?」
……わたくしの、よく知る顔でした。
貴音「どう……して……? なんで…………なんでぇ…………ッ!?」
わたくしが命を奪ってしまった相手……それは……『八塚銀志郎』だったのです。
277:
――それからどれくらいの時間が経っていたのでしょうか。わたくしには動く気力も、泣く気力すらなく、ただ銀志郎の遺体の側でじっと座り込んでいたのです。
まだ寒さの残る時季でしたので、場所もわからないまま無闇に歩きまわるよりは賢明だったのかもしれません。
「……貴音?」
顔を上げると、父が少し先の木の傍に立っていました。儀式用の装束姿だったことを考えると、篝火の儀式を終えた後だったのでしょうか。父の手には懐中電灯が握られており、わたくしのいる場所を照らしました。
貴音「おとう……さま……」
父は安堵したような顔をして、こちらへ駆け寄ってきました。もう片方の手には一つの紙袋を提げており、中には何か重そうなものが入っているようでした。
常磐「貴音、無事で――!? これは…………」
父は、近寄ってくる途中で私の隣にあった銀志郎の遺体に気がついたようでした。父は数秒の間立ち尽くした後、彼の遺体を検めてその死を確認しました。
常磐「……貴音。なにがあったか、話してくれますか?」
わたくしは、小屋の中でじいやを待つうちに何者かが訪ねてきたこと、気がついたら旅行鞄の中に閉じ込められていたこと、そして『鬼』のこと…………全てを話しました。
父は黙ってその話を聞いていました。やがてわたくしが全てを話し終えると、父はわたくしを優しく抱き寄せました。
常磐「……辛い思いをしましたね」
貴音「お父さま……教えてください……どうしてぎんしろーが…………」
常磐「それは……私にもわかりません。あなたと同じように、私もわからないことだらけなんです。でも……あなたが無事で本当に……本当によかった。今はそれだけで、充分だ……」
父はわたくしを抱きながら、頭を撫でました。その手つきは優しくて、少しだけ安心した気持ちになれたのです。
278:
常磐「……あとのことは、私に任せなさい」
貴音「え……?」
常磐「今夜のことは、誰にも話してはいけませんよ。松葉や万造にもです」
貴音「ど、どうして……ですか?」
父はその問いにはちゃんと答えてはくれず、ただ首を横に振るばかりでした。
常磐「あなたも忘れたほうが良い。悪い夢を見た……そう思いなさい。もっとも、忘れろと言って忘れることができるのならば、この世に悲劇なんて存在しないのでしょうけどね……」
貴音「…………」
常磐「……さぁ、帰りましょう。万造がとても心配していましたよ。足はまだ痛みますか? ――なら、こうしましょう」
父はわたくしを背中におぶってくれました。
父の背中は暖かく、緊張した心が解きほぐされていくようでした。そのせいか、疲れが一気に押し寄せてきました。父に訊きたいことは沢山あったはずなのですが…………いつのまにか、わたくしは眠ってしまったのです。
279:
――次に目が覚めると、わたくしは屋敷の自分の部屋……つまり、ここにいたのです。おそらく、父に連れ帰られた後でそのままべっどに寝かされていたのでしょう。
窓のかーてんの隙間からは既に明かりが差し込んでいました。あれから一晩もの間、一度も目覚めることなく眠り続けていたのです。
昨日の出来事は夢だったのでは? 一瞬、そのような考えが脳裏をよぎりました。そっと、頬を触ってみました。
貴音「いたっ……」
殴られた側の頬は熱を持って腫れていました。痛みが、嫌でも昨晩の悪夢が現実であったと知らせてくれました。
貴音「……?」
部屋の外から話し声が聞こえ、気になって部屋を出ました。
声が聞こえた方向を見やると、何人かの人が玄関から出て行くところでした。その中には、じいやや叔父の姿も見えました。わたくしのことには誰も気が付かなかったようで、そのまま外へ出て行ってしまいました。
聞こえてきた話し声の中からは、『月光洞』、『常磐様』、『お迎え』といった単語を聞き取ることができました。そこでわたくしは、前に父から聞かされていた奉納の儀について思い当たります。
十年祭で神宿りが行う二つの儀式、一つは篝火の儀、そしてもう一つが奉納の儀。奉納の儀では神宿りが月光洞の奥に留まり、一晩の間祈りを捧げる……つまり、今玄関を出て行った人々は、祈りを終えた父を月光洞へ迎えに行ったのだ、と。
……なにか、嫌な予感がしました。
280:
わたくしは、出て行った大人たちをすぐに追いかけても屋敷へ追い返されるだけなのでは、と考え、少しだけ時間を置いて月光洞へ向かうことにしました。今思い返してみると、父を迎えに行くだけなのだからそんなことまで気にする必要はなかったのかもしれません。
月光洞の場所だけは知っていました。もちろん、立ち入りは禁じられていたためにそれまで中へ入ったことはありませんでしたが……。
懐中電灯を手に洞窟までの道のりを早足で歩きました。時々右足の怪我がずきりとしましたが、気にはなりませんでした。
いつのまにか外は曇り始めていて、一雨来そうな気配が漂い始めていました。
洞窟の入り口に着くと、懐中電灯を点けて中を進んでいきました。内部はひんやりと、そしてじめじめとしていて、あまり居心地の良いものではありませんでした。
281:
しばらく歩いていくと、洞窟へ足を踏み入れてからそれまで自分の足音だけしか聞こえなかった耳に、なにか大きな音が飛び込んできました。
地響きを思わせるような轟音。足取りを早めて先へ進むと、ちょうど先ほど出ていった大人たちが月明かりの間に繋がる大きな鉄の扉を開ける瞬間だったのです。
その場にいたのは、じいや、叔父、五道殿、三船殿、千家殿の五人でした。
灰崎「お、お嬢様!? どうしてここに……」
まず、じいやがわたくしの存在に気が付きました。しかし、すぐにその注意は別のものへと向けられます。
松葉「様子がおかしい……!」
叔父がそう言うのが聞こえ、じいやもわたくしも月明かりの間へと視線を移動させました。
そこには、台座の上に座った父の姿が見えました。奉納の儀の祈りとは、台座の中心で祈りの姿勢をとったまま動いてはならないのだと父から聞かされたことがありました。
不思議なことに、父は祈りの姿勢をとったまま、動こうとしません。
……いいえ、祈りの姿勢というのは、正座に頭を台座の上で額づくようにするものです。父は正座こそしていましたが、両腕はだらりと力が抜け、頭も横を向いていました。
わたくしと同じ違和感を覚えたのでしょう、叔父が父のもとへ駆け寄り……そして、父が亡くなっていることが確認されました。
282:
貴音「――その後、父の死のことで村は大騒ぎになったのですが……その騒動の間のことは、今でもよく思い出せないのです。父を喪った悲しみで長い間塞ぎこんでいたことだけ、覚えています。誘拐されたという記憶を封じ込めてしまったのも、おそらくはその間のことだったのでしょう……」
貴音はそこで息を一つついて、
貴音「……これで、わたくしの昔話は終わりです」
全てを語り終え、彼女はどこかほっとしたような面持ちになっていた。
貴音「……ありがとうございました。プロデューサーに聞いて頂いて……なんだか、少しすっきりとした気持ちがいたします」
P「……ああ」
283:
貴音「どう……思われたでしょうか?」
そう尋ねる貴音の目には不安の色が見える。
貴音「結果的にとはいえ、わたくしは人の命を奪ってしまい、そしてそれを……今まで忘れていたのです。自己防衛のため……そんな身勝手な理由で、です。……さぞや幻滅されたことでしょう。それも仕方のな――」
P「しないよ」
貴音「え……?」
P「そんなことで幻滅するほど、俺は貴音のことを見損なっていたつもりはないからな」
貴音「…………そうですか」
P「辛かっただろうな……それでも話してくれたことを、俺は嬉しく思う。…………貴音」
貴音「はい……?」
P「よく……頑張ったな」
貴音「っ!…………」
貴音は、思いもつかぬようなことを言われたかのようにはっとした。
貴音「……おかしなことを、おっしゃるのですね」
気の抜けたような、安心した声だった。
P「そうか?」
貴音は指の背で目に溜まった涙を拭くと、穏やかに微笑んだ。
貴音「でも……プロデューサーにお話することができて、良かった」
284:
貴音の過去……それは衝撃的で、そして悲しいものだった。ただ、聞いていて浮かんだいくつかの疑問もあった。
P「――要するに、さっき物置に現れた鬼は、貴音が10年前に関わったその鬼とは無関係だと考えていいってことだよな?」
貴音「ええ、10年前にわたくしを誘拐した鬼……その正体は八塚銀志郎で、既に亡くなっているはずですから」
P「さっきの鬼は別人……偶然の一致……考えられなくもない……か?」
貴音「恰好や鬼の仮面もまったくの別物でしたし、ただ単に洞の鬼伝説を真似ただけではないでしょうか。姿を隠し、そして返り血を防ぐためにあのような扮装をしていたと考えれば……」
P「同じことを白河くんが言っていたな」
貴音「白川殿……」
貴音は口元に指をあて、考える素振りをする。
P「白河くんのことで何か気になることでも?」
貴音「……いいえ、話を戻しましょう」
貴音は話を切り替えた。そういえば、前にも白河くんのことを見覚えがあるとか言っていたっけ。……どこかで偶然会ったことがある? あり得ないことではないだろうが……。
貴音「プロデューサー? なにか?」
P「あ、ごめん。話を続けよう」
285:
貴音「プロデューサーはどうお考えでしょう? 10年前の事件と、今回の事件……何らかの関わりがあると思われますか?」
P「そう、だな…………関わりがある、と断言はできないけど……その10年前の事件っていうのも、何かおかしな感じがするんだよな」
貴音「おかしな?」
P「ああ、なんていうのかな……こう、作為的っていうかさ……そうだ、拳銃!」
思わず手をぱんと打つ。
貴音「……拳銃?」
P「そうだよ、拳銃。おかしいじゃないか。どうして森の中に、それも都合よく貴音の手の届く位置に拳銃が落ちてたりしたんだ?」
貴音「あの拳銃はおそらく……銀志郎の持ち物だったのだろうと思います」
P「まぁ、そうだろうな。この村の中で銃を持ってるとしたら駐在であるその八塚さんぐらいのはずだ。だとして、どうしてしっかり身につけておかなかったんだ?」
貴音「落とした……というのも不自然な話ですね」
P「ああ、普通はそういうのって腰元のホルスターに収めておいて、ちょっとやそっとじゃ外れたり落としたりするものじゃないだろ」
貴音「……たしかに、言われてみれば妙ですね」
286:
P「そもそもの問題として、八塚さんがそんなことをした理由がわからない。話を聞く限り、貴音にはいつも優しくしてくれていた人だったんだろう?」
貴音「ええ……それがわたくしにとっては一番不可解なことで」
P「……気を悪くしたらすまないんだけど、金銭目的の誘拐ってことは考えられないか?」
貴音「……ありえたかもしれません。神宿りとして村での祭事を取り仕切ることでの報酬や祈祷料、それに村民からの寄付金で我が家は裕福であると言えたでしょう。それに……」
P「それに?」
貴音「森の中で父がわたくしを見つけてくれた時……父は手に袋のようなものを持っていました。もしかしたらあの中身は……」
P「お金だったかもしれない?」
貴音は頷いた。
それならば疑問の一つは解決する。10年前に貴音が誘拐された時、どうして常盤さんが森の中に現れたのかという疑問だ。
おそらく、常磐さんが誘拐犯である八塚銀志郎に呼び出されたのだろう。常盤さんは要求された金額を用意して、犯人に指定された場所へ一人で交渉に赴いた……そんなところだろうか。
287:
貴音「しかし……どうしても信じられません。銀志郎が、そんなことをしたとは……。信じたくない、と言ったほうが正しいのかもしれませんが」
P「……八塚さんのことで、その後わかったことって何にもないのか?」
貴音「……どうでしょうか。わたくしは存じておりませんが、当時を知る方ならば何か憶えていらっしゃるかもしれません」
P「だったら、憶えてそうな人に話を――って、さすがに皆寝てるか」
もう午前4時をまわろうとしていた。
P「ところで、貴音が誘拐されたことを知ってる人って誰がいるんだ?」
貴音「父の他には、叔父とじいやだけかと」
P「それだけか?」
貴音「……どうやら、大きな騒ぎにはなっていなかったようなのです。父がそう取り計らったのか、あるいは犯人の意図したものだったのかはわかりませんが」
たしかに、理由は違えどどちらとしても無闇に騒ぎ立てたくはないと考えるのは自然に思える。
貴音「わたくしがそのことを忘れてからは、不意に思い出させぬように叔父もじいやも気を遣ってくれていたのでしょうね」
こんな事件が起きなければ、貴音はこの先ずっと過去のトラウマを忘れたままでいられたのだろうか? それが良いことなのか、悪いことなのかは俺には判別できなかった。
288:
貴音「――そういえば、白河殿と月光洞へ行かれたのでしたね。何か新しい発見はありましたか?」
P「大したことはわからなかったよ」
月光洞での調査、それと山道への橋が落とされていたことなどを話す。
白河くんが見せてくれたビー玉のアクセサリーについては、彼から口止めされていたことを思い出し黙っていた。
貴音「橋が、落とされていたのですか?」
貴音はその部分に妙に食いついた。
P「ああ、ロープが刃物で切られたみたいになってたな。それに――」
橋について先ほど廊下で話した内容も付け加える。
貴音「そうですか。そんなことが……」
289:
P「ところで、さっきの……黒田が殺されたことについてなんだけど……」
ショッキングな光景を思い出させるのも気が引けたが、今はそんなことを気にしている場合ではない。彼女も重要な証人なのだ。
P「犯人が持ち去ったノートに、心当たりはないか?」
それが表紙に六原云々と書かれており、黒田の言では貴音の祖父が残したものらしいということも合わせて伝える。
貴音「祖父の……? 申し訳ありません。わたくしにはそれが何なのか検討もつきません。六原、というのも初めて聞く名前です」
P「そうか……。黒田のあの興奮ぶりから察するに、そのノートには何か大きな秘密が書いてあったんだと思う。村の……あるいは、四条家についての秘密、とか」
貴音「四条家の……秘密……」
不安そうな表情で言葉を繰り返した。余計なことを言ってしまっただろうか。
貴音「もしかしたら……」
P「何か思い当たることがあるのか?」
貴音「父の言っていた『神宿りの禁忌』……そのことなのかもしれません」
そういえばそういう話も出ていたな。常盤さんはその禁忌とやらを近いうちに公表するつもりであったような……そんな印象を受けた。
貴音「今となっては、確かめようもありませんが……」
貴音はまた暗い表情になってしまう。
290:
P「そういえば、貴音のお祖父さんって、どういう人だったんだ?」
話題を変えることにする。
貴音「さて……わたくしが生まれる頃には、既に祖父は他界していたものですから……」
P「そっか……」
貴音「それに……存命の頃の父は、祖父のことをあまり話そうとしませんでした。じいやも、『良き主人でした』などと当たり障りの無いようなことを言うだけで」
P「……あまり仲良くなかったのかな?」
貴音「じいやはどうかわかりませんが、父に関してはどうやらそのようでしたね。父は一度だけ話して聞かせてくれたことがあります。祖父は……『狂人』だったと」
P「狂人……?」
子が親を評するのに使う言葉とは思えない。
貴音「父はそれ以上のことは話しませんでしたが……やはり祖父のことを嫌悪していた……いいえ、嫌悪というよりは……何か異形の存在のように捉えていたのではないか、と。そう思うのです」
P「……なにか深い事情があったのかもしれないな」
しかし、それほどまでの事情となると一体どういうものなのか想像もつかない。
291:
あくびが出た。
P「――まぁ、続きは朝になってからにしよう。それまでに少しでも休んでおいたほうがいい」
貴音「わかりました。……お休みなさいませ、プロデューサー」
P「ああ、お休み」
貴音の部屋を出て、自室へ戻る間に考える。
10年前の誘拐事件、そして常磐さんの死……やはり何かがひっかかる。今回の事件とも無関係とは思えない。
とはいえ、そのひっかかりはもやもやとしたままでどうにも気持ちが悪い。
一人で考えていても仕方がない。さっさと休んでしまおう――そう思って自室の扉に手をかけたところ、
「今から休むところ?」
P「うわっ……!」
背後から声をかけられて卒倒しかける。振り向くとそこに立っていたのは、年齢不詳気味の女村長。
牡丹「あ、ごめんなさい? 驚かせちゃったわね」
面白がるように言う。
P「そりゃ驚きますよ……」
牡丹「悪かったわ。でも……背後にはもっと気をつけたほうがいいんじゃなくて? 殺人鬼がうろついているかもしれないんだもの。さくっとやられちゃっても知らないわよ?」
P「はぁ、気をつけます……」
キツい冗談だ。
292:
P「牡丹さんのほうこそどうしたんです? もうとっくに寝てしまったかと」
牡丹さんは寝間着に着替えているでもなく着物姿のままだった。気だるそうな表情で答える。
牡丹「村に戻ってからのことを考えてたら、こんな時間になっちゃった。寝る前にちょっと台所へ水を飲みに行っていたの」
P「大変でしょうね。松葉さんのこと……」
牡丹「ええ、先のことを考えると頭痛がする思いよ。神宿りが殺された、だなんてどんな顔して村民たちに伝えればいいんだか……」
牡丹さんはややわざとらしげに溜め息を一つついた。
牡丹「ごめんなさいね。あなたに愚痴っても仕方ないわよね」
P「いえ……」
牡丹「……外の人にはわからないでしょうけど、神宿りっていうのは、この村にとって……そうね、『火』みたいなものなのよ」
P「火、ですか?」
牡丹「古の時代から、ヒトは暖を取るため、獣から身を守るため、暗い夜の闇を照らすために火を用いてきた……火を失って、この村はどうなっていくのかしらね?」
牡丹さんはどこか他人事のように言う。
牡丹「――いけない、これ以上無駄話に付き合わせちゃ悪いわね。じゃあ、お休みなさい」
P「あっ……! ちょっと待って下さい!」
牡丹「え?」
P「もしよろしければ、なんですけど……もう少しだけ無駄話をさせてくれませんか? 牡丹さんにお訊きしたいことがあるんです」
293:
突然のことではあったものの、牡丹さんは快諾してくれた。
せっかくだからと思い、つい先ほど就寝の挨拶を交わしたばかりではあるが貴音も呼んで、談話室にて話をすることにした。
牡丹「煙草、吸っても大丈夫?」
そう尋ねられたので了承して、3人で談話室の奥の方の席に陣取る。ここならば窓から煙を外に逃がせるからという牡丹さんの提案だった。
談話室の窓は客室のそれとは違って足元から頭上までの高さがある大きなもので、それらが部屋の一面を覆うように横に三つ並んでいる。右端の一つを、鍵を開けて10センチばかりスライドしておく。少し冷たい風が部屋に入り込んだ。
牡丹「――八塚銀志郎?」
俺が問いかけた質問に、牡丹さんは少し関心を持ったように言葉を返した。
彼女は椅子の上でまだ新しいキャメルの黒いパッケージ――千家さんに買ってきてもらったものだろう――から取り出した煙草に火をつける。それから手に持っていた細身の上品なシルバーのライターを懐に入れなおした。
P「ええ、憶えていらっしゃいますか?」
牡丹「そりゃあ、もちろん憶えていますとも」
長テーブルの上に置かれていたガラス製の灰皿を近くに移動させながら彼女は続けた。
牡丹「常磐様が亡くなったのと同時だったせいで割を食っていたけど、あれだってこの村では充分珍しい事件だったわよ」
貴音「……事件?」
牡丹「……貴音ちゃんは憶えてなくても仕方ないわね。10年前、つまり前回の十年祭の後以来……『八塚銀志郎は行方不明になってる』のよ」
P「ゆ、行方不明……ですか?」
294:
牡丹「彼がいなくなっていると判明したのは、十年祭の翌日の朝。毎朝駐在所に挨拶していくおばあちゃんがいたんだけどね、その人が最初に気がついたみたい。駐在所の中は荒らされた様子もなく荷物類はそのまま。最後に目撃証言があったのは十年祭の篝火の儀の最中、彼が祈祷場の警備をしていたときね」
P「捜索はされたんですか?」
牡丹「その日のうちに村の青年団が中心になって捜したわよ。少し外れた森や、山の中までね。数日の間捜索は続けられたけど、でも結局見つからなかった。真面目で村民たちからの信頼もある駐在さんだったから、悲しがっていた人も多かったわね」
P「遺留品の一つも見つからなかったんですか?」
牡丹「ええ。本当に不思議なくらい、ぱったりと消えてしまったのよ」
牡丹さんは灰皿にとんとんと煙草の灰を落とす。
牡丹「――で、あなた達、どうしてそんなことを訊くの? まさか、10年前に行方不明になったきりの八塚銀志郎が、この事件に関係している……なんて言わないでしょうね?」
P「ええと……」
答えあぐねていると、横に座っていた貴音がふっと笑って、
貴音「まさか。……プロデューサーに昔話をしていたのですが、なにぶん幼い頃の話で記憶が定かでなかったものですから」
牡丹「それで私にも話を?」
貴音「そういうことになります」
貴音は誘拐の事実については隠しておくつもりらしい。少々無理がある言い訳に聞こえたが。
だが実際、八塚銀志郎の一件が今回の事件と関わりがあるという根拠はないわけで、それを正直に話して怪訝に思われるよりは無難で適切な判断に思えた。
牡丹「ふぅん……」
牡丹さんは俺と貴音を交互に品定めするように眺める。
牡丹「……ま、そういうことにしておきましょう」
一応納得してもらえたようだ。
295:
牡丹「――じゃあ、私はそろそろ部屋に戻らせてもらうわね」
P「どうもありがとうございました」
貴音も合わせて礼を言う。
牡丹さんは煙草を灰皿に押し付けながら席を立った。ちょうど煙草一本吸い終わったところだったようだ。
牡丹「……そうだ。ついでに教えておいてあげる」
P「なんです?」
牡丹「八塚銀志郎と五道くんって、兄弟なのよ」
P「えっ……!?」
まるで予想外の繋がりだった。貴音もぽかんと驚いた表情をしているところを見ると、初めて知る情報だったようだ。
P「でも、名前が……」
牡丹「ちょっとワケありでね。五道くんの母親が早死して、その後で五道医院の院長である父と看護婦の間に産まれたのが八塚なのよ」
P「……腹違いの兄弟ってことですね」
牡丹「その相手の看護婦は周囲の目を気にして、結婚はせずに子供だけ連れて村を出て行ってしまったの。それでも院長は相手に経済的な援助は欠かさなかったそうよ。巡り合わせかしらね、その子どもが警官になって村に戻ってきたのは……。残念なことに、その頃にはもう彼の父親は病気で亡くなっていたのだけれど」
296:
P「五道さんと八塚さんの仲はどうだったんです?」
牡丹「そうね……私の主観では特別仲良くも、悪くもなかったって感じかしら。そもそも私がこのことを知ったのも、八塚が失踪した後で五道くんが話してくれたからだしね。そうじゃなきゃ兄弟だなんて思いもしなかったでしょうよ」
牡丹さんは「ただ」と繋ぐ。
牡丹「彼自身は、相当ショックを受けていたみたいね。辛気臭い顔してるのはいつものことだけど、あの頃はそれに輪をかけてひどかったもの」
P「五道さんが……」
牡丹「それも当然といえば当然かもね。両親とも既に他界していた彼にとっては、母親が違うとはいえ唯一の肉親だったわけだし」
なるほど……五道さんも10年前に肉親を失っていたのか……。
牡丹「――じゃ、話はもうおしまい。あなたたちも早く休んだほうがいいわよ」
挨拶を交わして、牡丹さんが談話室を出て行くのを見送った。
297:
牡丹さんが出て行ってからも、俺と貴音は席を立とうとしなかった。
P「貴音。今俺が考えていること、わかるか?」
貴音「……わたくしが今考えていることと同じ、でしょうね」
P「ああ……『どうして八塚さんの遺体は見つかってないんだ』?」
貴音「村の外れまで捜索されたというなら、あの遺体は当然見つけられたはず……」
P「遺体が見つかってないから今でも行方不明扱いってことだもんな。どう考えてもおかしい」
貴音「見つかってない…………見つけられなかった……? あっ……!」
貴音ははっとして顔を上げた。
貴音「……『誰かが、隠した』?」
298:
P「隠した……って、遺体を? 誰が? まさか……常盤さんが?」
それならばあり得るかもしれない。常盤さんが貴音のことを思っての行動だったとするならば。
八塚さんの死が――正当防衛によって引き起こされたものとはいえ――殺人であると発覚していれば、貴音は村の人々からどう思われただろうか?
常盤さんは、八塚さんの遺体を隠すことで全てをなかったことにしようとしたのかもしれない。想像にすぎないが、その気持ちは理解できる。
しかし貴音はその考えを否定した。
貴音「父……ではないでしょうね。あの後、父にそんなことをしている時間があったとは思えません」
……言われてみればそうだった。貴音が森の中で常盤さんと再会した時には、もうとっくに夜になっていたという話だった。奉納の儀を前にした常盤さんには、八塚さんの遺体を見つからないように隠すなど不可能だ。
P「それじゃあ……常磐さんが松葉さんや灰崎さんに頼んだってことは……いや、それもありえないな」
貴音「はい。父はあの出来事について叔父やじいやにも話してはならぬと言っておりましたから」
常盤さんは貴音が誘拐されたことを知っている松葉さんや灰崎さんにも、八塚銀志郎が関わっていることは秘密にするつもりだったはずだ。
299:
P「そういえば遺留品も見つかってないって言ってたな。拳銃も同じように隠されたってことか……?」
貴音「そう考えられそうですね。しかし……何のために……?」
体の芯の部分に悪寒が走る。死体を隠すという行動に倫理的な嫌悪を感じただけではない、その正体と意図がまったく見えてこないことからの不気味さがあった。
P「……朝になって他の人が起きてきたら、また話を聞いてみようか」
貴音「わかりま……っくしゅん!」
貴音は手で鼻と口元を押さえくしゃみをした。
P「あー、窓開けっぱなしだったからな」
牡丹さんが煙草を吸うというので数センチ開けていた窓だ。ちょっと外気で冷えすぎたのかもしれない。窓を閉めようと椅子から腰を上げる。
貴音「失礼しま……」
もう一発くるか? と思ったがどうやらくしゃみではないらしい。
貴音の視線の先で「ぎぃ」と音がした。扉が開かれたのだ。牡丹さんが戻ってきたのだろうかと思い、顔を右に向けてそちらを見た。
談話室へ入ってきたのは、物置の中で見たあの姿と同じ――血で汚れた着物と鬼の仮面を身につけた人物だった。
300:
鬼は俺と貴音を視界に捉えたかと思うと、こちらへ向かって駆け出してきた。その動きはかなりく、左手が右腰元に差された刀の柄に伸びているのに気がつけたのは幸いだった。
咄嗟に理解した。奴の意識が向けられているのは、俺ではなく――
P「危ないッ!」
驚き硬直していたらしい貴音を、俺は椅子から突き飛ばすように左手で押す。
貴音「あっ……!」
貴音はテーブルのクロスを咄嗟に掴んで床に倒れこむ。直後、左肩に激烈な痛みが走った。
301:
P「痛っ……!」
実際、痛いどころではすまない問題だった。貴音を狙って突き出された刀身は、俺の左肩を紙のようにやすやすと貫いていたのだ。
しかし痛みはこの際問題ではない。恐ろしいのは、鬼は一切の迷いなく……『貴音の首の位置を狙ってきた』ということだ。
刀はその先端部が椅子の背に刺さるほど強く突き出されていた。躊躇いなど一切ない、百パーセントの殺意を込めた攻撃行為だった。
302:
「……!」
鬼は力任せに刀を引き抜くと、肩から血の飛沫が周囲に飛び散った。腕が落ちてしまったのではないかという激痛がまた走る――まだ肩にくっついたままであることを目で見て確認する。
鬼はそのまま奴から見て左側――つまり俺の方へ向かって刀を振りかぶっていた。
P「ひっ……!」
こうした修羅場をいくつもくぐり抜けてきた歴戦の猛者というなら話は別であるが、大抵の人間はこういう場面に遭遇したら……真っ向から殺意を向けられたら、恐怖心で動けなくなるものだと思う。もちろんそれは俺も例外ではない。
だからこれは偶然、あるいは幸運としか言いようがない。肩を刺された際の衝撃と痛みでバランスを崩していた俺は、椅子ごと後ろへ倒れこみ、薙ぎ払うように振られた刀をすんでのところで避ける事ができたのだった。
303:
貴音「プロデュ……サー……」
貴音は床に倒れ手をついたまま呆然としていた。
傷口を火箸でほじくられているのではないかと錯覚するほど痛む肩を右手で押さえ、喉を振り絞って叫ぶ。
P「逃げろっ! 早く!!」
貴音「逃げ……? あっ……」
鬼が貴音のほうへゆっくりと歩き始める。仕留め損なった俺に止めを刺そうとはしなかった。憐憫の情を向けられたからではない、始めから奴にとっての最優先は貴音だったのだろう。
貴音「う……くっ……!」
貴音は腰が抜けて立つことが出来ないようだった。なんとか鬼から距離を取ろうとしてはいるが、その緩慢な動きでは到底逃げることなどできない。
それどころか、鬼はそれを楽しむかのように貴音をゆっくりとじわりじわりと壁際へ追い詰めていく。
304:
貴音「何者……なのです……」
鬼の動きが止まった。
貴音「何者なのです……何のために……こんな……っ!」
涙声になりながらも、彼女は必死だった。まだ彼女の心は折れてはいない、目の前の恐怖と対峙しようとしているのだ。
貴音が奴の気を引いている今のうちに、どうにか背後から不意打ちを食らわせてやることはできないか……と考えたが、それは無理なようだった。
肩の傷は想像以上に深刻らしく、左腕の感覚はないし、出血のせいか頭もぼんやりとして、もう立ち上がることすらできなくなっていた。
305:
貴音「答えなさい……! どうして――」
鬼は刀を貴音の喉元へ向けて発言を遮った。刀を握る左手がまた動く。
貴音「っ……!」
貴音はもう逃げられないと判断したのか、まるで注射をされる直前の子どものように目と口を閉じた。
「やめろ」と叫びたくても、喉からはカエルを踏み潰したような声しか出てこない。どうすればいい、どうすればいい……!
どうにか立ち上がることさえできれば……そのまま奴にしがみついて貴音が逃げられるくらいの時間は確保できるかもしれない。
306:
息も絶え絶えに体を起こそうと右腕を動かす、するとその手が何かに触れた。
どうして『それ』がここにあるのかはぼんやりした頭でもなんとか理解できた。先ほど貴音がテーブルクロスを掴んで倒れた時に床に転がったのだろう。
鬼は刀を振り上げたところだった。その切っ先が貴音に振り下ろされるまでもう僅かな時間もない。一か八か、右手に掴んだ『ガラス製の灰皿』を鬼に向けて渾身の力で投げつける。
掴むときに床をこすった音が相手にも聞こえたのだろう、鬼が左回りにこちらを向きかけた。
「ッ……!」
その振り向きざまに、灰皿が刀の刃先に命中して甲高い音を立てる。この攻撃は鬼にとって完全に予想外のものだったらしく、一瞬の狼狽が見えた。
灰皿がそれなりに重いものであったためか、刀は鬼の手から弾き飛ばされて窓際に転がっていく。それと同時に灰皿が相当な騒音を立てながら床へ着地した。
307:
失敗した。
少しの時間稼ぎはできただろうが、これでは何の解決にもならない。刀の落ちた位置は座った状態の貴音には遠すぎたのだ。
当然、鬼はすぐに刀を拾い上げる。……所詮、無駄なあがきだったようだ。
鬼はその刀で、思いのままその殺意を振りまく――かと思ったが、鬼の動きが止まる。その視線は扉の方を向いていた。
「なにしてんだ!」
扉の方向から声がした。テーブルが邪魔で見えないが、これはたしか青山くんの声だ。騒ぎを聞きつけて来てくれたのだろうか?
鬼は身を翻すと、開きっぱなしにしてあった窓を更に大きく開いて中庭に飛び出した。
308:
青山「おい待て!」
青山くんが鬼の出ていった窓に駆け寄る。しかし闇夜のせいもあって見失ったのか、「くそっ」と吐き出すように言った。
青山「貴音さん、大丈夫ですか?」
貴音「は、はい……それより、プロデューサーが……!」
貴音がこちらを指差す。
青山「え? Pさん?」
不思議そうに言ってから振り向いてこちらを見る。
青山「うわっ!? すみません、テーブルに隠れてて見えなかった……だ、大丈夫ですか?」
P「ちょっと大丈夫そうじゃないから人を呼んできてくれるかな……」
青山「わ、わかりました! あっ……戻ってはこないと思いますけど……一応、そこの窓閉めておきますね!」
青山くんは開いていた窓に鍵をかけてから扉の方へ早足で向かっていった。
309:
貴音「プロデューサー……」
貴音が近寄ってきて傍らに座り込む。
貴音「怪我は……その……痛みますか……?」
戸惑うように尋ねる。
P「まぁ、少しな」
本当はすぐにでも泣きだしてしまいたいくらいの激痛だったが、見栄を張る。
P「そっちはどこにも怪我はないか?」
貴音「わたくしは大丈夫ですが……」
P「それならよかった」
貴音「……プロデューサーは……馬鹿です……!」
P「ええ?」
貴音「ご自分がこんな状態のときに、人の心配などしないでください……!」
思わず苦笑する。
P「……それもそうだな。でも貴音が無事なら体を張った甲斐も――いてて……」
貴音「プロデューサー!?」
310:
P「だ、大丈夫、ちょっとズキッとしただけだ」
貴音「血が……どうすれば……あっ……」
P「うん……?」
貴音は肩の傷口に両手を重ねて当てた。
P「……手、汚れるぞ」
貴音「わたくしの手では傷を癒やすことはできませんが……出血を抑えるくらいならば少しは役に立つかと思います」
P「……少し痛みが引いた気がする。ありがとう」
貴音はゆっくり首を横に振った。
貴音「……いけずです。それを言うべきなのは、わたくしの方なのに……」
彼女は目に涙を浮かべて、それでも微笑みながら言った。
貴音「ありがとうございました……プロデューサー」
311:
五道「――よし。ひとまずはこれで大丈夫だろう」
肩に包帯を巻き終わり五道さんが言った。
ここは五道さんの部屋だった。あの後、青山くんと彼が連れてきてくれた五道さんと二人によって部屋に運び込まれて治療を受けていたというわけだ。
「治療の邪魔になるといけないから」と青山くんは自分から部屋を出ていった。彼には感謝してもしきれない。今、彼には貴音と一緒に各部屋を廻って皆に警戒を呼びかけてもらっている。
P「ありがとうございます。すみません、お休みになっていたところを起こしてしまって」
五道「馬鹿を言うな……そんなことがあったのに起こされないほうがよっぽど困る」
テーブルに広げた薬品類を片付けながら、
五道「それより……施すことができたのは応急処置にすぎないからちゃんと病院には行ったほうが良いぞ。なるべく早くな。それに無理せず寝ていることだ」
P「わかりました」
扉をノックする音が聞こえた。
灰崎「灰崎でございます。青山様とお嬢様から事情はお伺いしました。着替えのワイシャツをお持ちしたのですが……」
先ほど俺が青山くんらに頼んでおいたものだった。
312:
灰崎「――まさかそのようなことが……私からも感謝申し上げます。お嬢様を守っていただき、ありがとうございました」
灰崎さんは丁寧に頭を下げる。
P「やめてくださいよ。ほんとに……助かったのは運が良かっただけなんです」
ワイシャツにボタンをとめながら言う。
灰崎「それでも、P様がいらっしゃらなければどうなっていたことか……想像したくもございません」
P「お礼なら、青山くんに言ってください。あの時彼が来てくれなければ、多分あのまま……」
死んでいただろう、とまでは口に出来なかった。
P「――ところでお二人にお訊きしたいことがあるんですが」
やや唐突ではあるものの、話題を転換する。
五道「なんだ?」
P「10年前……つまり前回の十年祭の時のことなんですけど」
灰崎「それが、なにか?」
貴音の誘拐については少なくとも灰崎さんは知っているはず、しかし五道さんもいるこの場では伏せておきたい。
とすると、どういった質問を投げかけるべきだろうか? 少し考えてから、続けた。
P「貴音の父親……常磐さんについてなんですが、いつもと違ったようなこととか、ありませんでしたか?」
313:
常盤さんは貴音の誘拐、そしてその犯人が八塚銀志郎であったことを知っていた。その事実が八塚さんの遺体が消失したことと何かしら関係しているのではないかと俺は考えていた。
ざっくりとした質問ではあるが、なにが手がかりになるかわからない現状ではかえって効果的ではないかと思ったのだ。
灰崎「どうしてそのようなことをお尋ねになるのです?」
P「まだはっきりとしたわけではないのですが……もしかしたら、10年前のことが今回の事件にも関係しているかもしれないんです」
五道「なに……? それは本当なのか?」
慌てて訂正する。
P「あ、いや、何か根拠があるというわけではないんです。ただ俺がそうではないか、と思っているだけで……」
五道「なんだそれは……」
灰崎「かしこまりました。お嬢様を助けていただいた御恩もございます。なんでもお答えさせていただきますとも」
五道「……まぁ、質問くらい答えてやってもいいが」
P「ありがとうございます」
314:
五道「しかし十年祭の時の常磐様か……。そういえば……珍しく落ち着きが無いように見えた気はするな」
P「いつ、そう感じましたか?」
五道「篝火の儀の前あたりだったかな……漠然とそう感じたというだけだが」
ちょうど貴音の誘拐が発覚した頃だろうか。
灰崎「…………」
灰崎さんは気まずそうに黙っていた。
五道「それと……篝火の儀が終わった後に、ふらっとどこかへ出かけていたな。そう長い時間のことではなかったが……急にいなくなったから不思議に思った。そういうことは予め連絡してくれる人だったからな」
なるほど……多分その時、常磐さんは森にいたんだ。そこで貴音と、八塚さんの遺体を見つけた……。
P「その後の奉納の儀は問題なく進んだんですね?」
五道「ああ……常磐様と一緒に月光洞へ行ったのは私と三船、千家と……その時は灰崎さんも一緒だったな。そうでしたね灰崎さん?」
灰崎「え、ええ。たしかに私も奉納の儀に立ち会わせていただきました」
P「……篝火の儀を終えてから奉納の儀の間までは、何も変わったことはありませんでしたか?」
五道「……なかったと思うが?」
P「灰崎さんは?」
灰崎「……私も、特にはなかったかと」
315:
……ここらで少し視点を変えてみようか。
P「では、祭りの始まる前はどうでしたか? 五道さんはその日、最初に常盤さんに会ったのはいつです?」
五道「ええっと……午前中だな」
灰崎「ええ、十年祭の準備もありましたし、それとお薬を取りに行かれていたはずです」
五道「灰崎さん」
灰崎さんは「しまった」と言うように口を押さえる。当然、その発言を聞き逃したりはしなかった。
P「『薬』……っておっしゃいましたね? 常盤さんは何か薬を飲んでいたんですか?」
灰崎「それは……その……」
温和なご老人を問い詰めるのは気が引けるが、状況が状況なので割りきらせてもらう。
P「……薬を飲んでいたんですね?」
灰崎さんは観念したように頷いた。
316:
P「何の薬だったんです?」
灰崎「常磐様は……心臓病でございました」
P「心臓病……それって、貴音も知らないことですよね?」
灰崎「ご存じないはずです」
P「どうして隠していたんです?」
灰崎「常磐様のご意思でした。村民たちに余計な不安を抱かせたくないと。それと同じ理由でお嬢様にも伏せておられたのでしょう」
灰崎さんは五道さんの方へ顔を向け、
灰崎「そのために五道様にもご協力をいただき、休診日を利用して人目につかないように診察していただいておりました」
五道「発作にさえ気をつければ……危険性は低い病だった。その発作を抑えるための薬を渡していたというわけだ。いつも薬を切らす三日前までには取りに来てもらうことになっていた」
P「……待ってください」
頭の中で、点と点が合わさり線になったような気がした。
P「……隠しているのはそれだけではありませんね?」
五道さんと灰崎さんは、どちらも肯定とも否定とも取れぬ微妙な反応を示した。それならば、切り込んでみるしかない。
P「『常盤さんの死は……その心臓病が原因だった』のではありませんか?」
317:
十秒ほどの沈黙の後、五道さんが言った。
五道「……そうだ。常磐様はおそらく、奉納の儀の最中に発作を起こされそのまま亡くなったのだろう」
P「薬があれば大丈夫なはずでは? そんなにひどい発作だったんでしょうか?」
五道「常磐様は……薬をお持ちでなかったのだ」
P「まさか……薬を持たずに月明かりの間に入ったんですか?」
五道「そういうことになる」
灰崎「おいたわしいことです……発作を起こされ、助けを求めることもできずに亡くなられたかと思うと……」
灰崎さんが右手で顔を覆った。その手はわずかに震えていて、当時のことを思い出し悲しんでいることは容易に見て取れた。
P「……でも、そんな大切な薬を持ち忘れるということがあるでしょうか?」
五道「ないとは言い切れん……いや、実際お持ちでなかったのだ。そう考えるしか……あるまい」
318:
灰崎「不幸中の幸い……と言うべきかはわかりませんが、常磐様はご自分の病気のことでもしものことがあった場合を考え、前々から弟の松葉様に神宿りとしてのお役目を引き継ぐ準備をなさっていました。そのおかげで混乱は最小限で済んだというところもあるのです」
P「前々からというと、どのくらい?」
灰崎「常磐様が亡くなられる半年ほど前からお手紙でそういったやりとりをなさっていたようです」
P「そういえば、松葉さんはそれまで別の街に住まわれていたんでしたよね?」
灰崎「ええ、早くに村を出られたので、この村で過ごされた年月よりも外での生活のほうが長かったことになります。季節の折り目となる行事や村にとって重要な祭事のある日には、大抵お戻りになられていましたが」
P「松葉さんの奥さんもご一緒だったんですか?」
灰崎「はい、千歳(ちとせ)奥様がお元気な頃は必ずお二人でしたね。仲の良いご夫婦でした。病気を原因に奥様が入院されてからは松葉様お一人でいらっしゃるようになりましたが……」
聞きながら、松葉さんの奥さんが病気で亡くなったのは9年前のことだと貴音が言っていたのを思い出していた。名前は千歳というらしい。
319:
灰崎「……ご存知のこととは思いますが、貴音お嬢様には母親との思い出がございません」
灰崎さんの言葉には並々ならぬ思いが込められているようだった。
灰崎「また、松葉様と千歳奥様の間にお子がいらっしゃらないということもあってか、奥様はお嬢様のことを大変可愛がられておりました。おそらくは……その……お体が病弱でしたので、子どもを持つということに一種の憧れのようなものがあったのではないかと」
P「じゃあ、貴音と千歳さんは仲が良かったんですね」
灰崎「幼いお嬢様も奥様にはよく懐いておられました。お二人がお会いになる頻度はそう多くはありませんでしたが……それでもその時ばかりは……そう、本当の母娘のようであられました」
母を知らない娘と母になることに憧れた女性……それが神の示した巡り合わせとするなら、なんと優しく、そして残酷なんだろうか。
その別離が、9年前の貴音に深い悲しみをもたらしたであろうことは想像に難くなかった。
320:
灰崎「……申し訳ございません。訊かれてもいないことをべらべらと」
灰崎さんが頭を下げる。
P「いえ、そんなことは……」
五道「それで……まだなにか訊きたいことというのはあるのか?」
P「そうですね――」
また新たな質問を考えようとしたところ、扉の外でどたどたと騒々しい足音が響いた。続いて扉が激しくノックされる。
青山「青山ですっ! たっ……大変なんです……!」
喘ぐような声だった。何らかの異常事態が起こったらしい。――またか。唾を吐き捨てたい気持ちだった。
321:
五道さんが扉を開けて青山くんを中に入れる。走ってきたのだろう、彼は肩で息をしていた。
五道「何があったんだ?」
青山「し……死んでるんです……しょく……食堂で……!」
嗚咽をこらえながら彼は言った。その目から大粒の涙がこぼれた。
P「死んでるって……誰が!?」
青山「うっ……うあぁ……ッ!」
青山くんはその場に泣き崩れてしまう。
ざわざわとした嫌な感覚が胸を襲ってくる。なぜだか、この村に来て、今までで一番不快な気分だった。
俺は屈んで彼の肩を右手で掴んだ。
P「教えてくれ! 誰が死んでたんだ!?」
青山「……――が……」
一瞬、頭の中が真っ白になった。
灰崎「い、今なんと……?」
五道「聞こえなかったぞ。もう一度言ってくれ!」
そんな馬鹿な……!
俺は3人を置いて部屋を飛び出していた。
322:
走ると振動が傷口に響いたが、そんなことを気にしてはいられなかった。
青山くんの言っていた食堂の前に辿り着く。
両開きの扉は開けっ放しになっていて、中は不気味なくらいにしんと静まり返っていた。
P「貴音……?」
小さな声で言った。大きな長テーブルの脇のところに貴音が座り込んでいた。
貴音「プロデューサー……お怪我は、大丈夫なのですか……?」
P「……ああ、五道さんが治療してくれたよ」
貴音「そうですか……よかった……」
貴音は安心したように言ったが、その表情は重く暗い影がかかっているように見えた。
P「それより、貴音……」
貴音の傍らに誰かが倒れていた。
323:
貴音「彼女は、無事です」
朱袮さんだった。だが、見る限り怪我をしている様子はない。どうやら気を失っているだけのようだ。
貴音「…………」
貴音は黙ってテーブルの更に奥のほうを見た。そっちを見ろ、ということか?
テーブルの下、椅子の間から靴が見えた。朱袮さんと同じく、仰向けに横たわっている。
その誰かは、テーブルの向こう側、厨房スペースへと繋がったところの前あたりに倒れていた。回りこんで、それが誰なのかを確認する。
P「……嘘だろ……なんでだよ…………ッ!?」
なんで君が死ななきゃならないんだ?
――そこにあったのは……胸にナイフを突き立てられた……白河竜二の死体だった。
330:
貴音「……最初に白河殿を見つけたのは、七瀬殿だったのでしょう」
背後で貴音が言った。
貴音「悲鳴が聞こえて青山殿と一緒に駆けつけたのです。そしたら……」
P「朱袮さんが……倒れていた?」
貴音は黙って頷く。
P「朱袮さんは怪我をしているわけではないんだな?」
貴音「はい。気絶しているだけのようです」
白河くんの遺体を見つけたショックで気を失った、というところか……。
白河くんの首にそっと触れてみると、もう体温は失われ始めていた。亡くなってから時間が経っているようだ。それが30分程度なのか、1時間、あるいは2時間なのかは医学の知識を持たない俺には判別のできないところであった。
左胸部に深々と突き刺さったナイフは折りたたみ式の小さなものだった。白いシャツにそこだけ赤色が滲んでいる。その他に目立った傷は見られなかった。
目は何かに驚いたように見開かれたままになっていた。彼は死の直前に一体何を見たのだろうか……。痛ましくなって手でそっとその瞼を閉じてやる。
331:
部屋の入口のほうで気配を感じたので見てみると、青山くん、五道さん、灰崎さん、そして後ろの方に牡丹さんと千家さんが揃って立っていた。皆不安そうな顔をしていた。後ろの二人は青山くん達が連れてきたのだろうか。
牡丹「嘘……」
牡丹さんがふらふらと頼りない足取りで白河くんの遺体に近寄っていく。
牡丹「っ……!」
遺体を見て、牡丹さんは引きつった声を上げた。
五道「あっ、おい!」
牡丹さんはよろけ、五道さんが慌ててそれを支えた。牡丹さんの顔は蒼白で、相当なショックを受けたらしいことがわかる。
牡丹「ごめんなさい……わ、私……部屋に戻るわ……」
千家「ちょっと……大丈夫なんですか三船さん!?」
牡丹さんは額を手で押さえながら、千家さんの声などまるで聞こえなかったのように皆の間をすり抜け食堂を出ていった。
332:
五道「一体どうしたんだあいつ……」
たしかに、不自然な反応だった。人の死を目の当たりにしたのだからショックを受けるのも当然ではある。
だが、それにしたって松葉さんや黒田の時とは反応が違いすぎた。
P「……白河くんと牡丹さんって、面識はなかったはずですよね?」
千家「そのはずだが……」
あの態度はとてもそうは見えなかった。そういえば、この屋敷で初めに牡丹さんと会った時も白河くんのことを見て驚いていたような……もしかして、俺達が知らないだけで二人には何らかの繋がりがあったのだろうか?
そうだとしても、だ。それを二人して他人同士のように振る舞って隠していたのはなぜだ……?
333:
青山「くそがっ……! ふざけんなよ……ッ!」
青山くんが壁を手で激しく打った。
青山「なんで……なんで白河さんが死ななきゃならないんだよ……ッ!」
悲しみと怒りとでわけがわからなくなっているというような様子だった。千家さんが近寄って彼の肩に手を置いた。
千家「彼のことは……残念だった。不運だったんだ」
青山「不運って……そんな……!」
千家「きっと、さっきPさんたちを襲ったという犯人がここへ逃げ込んだんだ。白河くんはたまたまそれを目撃し、殺されてしまったんだろう……」
五道「いや……ちょっと待て」
五道さんはいつのまにか白河くんの遺体を調べ始めていた。
五道「……見つけた時、目は開いていたか?」
P「え? あ、はい。俺が閉じました。……まずかったですか?」
五道「いや……それならついさっきまでは開いていたというわけだな。それがわかればいい」
五道さんは遺体の目を開いて覗きこむ。
五道「……ほんの少しだが角膜に曇りが現れ始めている。それに死後硬直も僅かではあるが見られる……死後1時間半から2時間半というところだな」
それを聞いて腕時計を確認する。今は4時55分だった。
334:
千家「……ということは、さっき君らが談話室で襲われたのよりも前に、白河君は殺害されていたということか?」
P「……そうなりますね」
肩の傷の治療で少し時間はかかったが、それでもあれからまだ40?50分というところだろう。死亡推定時刻には俺は貴音の部屋にいたことになる。
P「……?」
何か引っかかるものを感じた。何かが食い違っているような……だが、それが何なのか思い出せそうで思い出せない。
灰崎「P様、大丈夫でございますか? ご気分が優れないようならば、何かお飲み物でも……?」
灰崎さんが心配そうに言ったので記憶の点検作業を中断する。そんなに暗い表情になっていたのだろうか。
P「あ、いや……なんでもありません。大丈夫です」
不要な心配をさせても悪いのでやんわりと断る。
335:
千家「彼と最後に話をしたのは多分私だろうな……もちろん、犯人を除いてだが」
P「何を話したんです?」
千家「いや、何ということもない。ただ救助が来てここから出られたらどうするかという話をしただけだよ。その後はてっきり部屋に戻ったのだろうと思っていたのだが……」
「しかし」と繋いでから千家さんが続ける。
千家「……七瀬君はどうしたものかな。ここで目が覚めるまで待っているというわけにもいかんだろう」
青山「……朱袮は俺が部屋に運んできます」
千家「そうか……悪いが頼んだよ」
青山「はい。あっ……そうだ、Pさん」
P「うん?」
青山「それと貴音さん」
貴音「なんでしょう?」
青山「ちょっとついてきてくれますか? お二人に話しておきたいことがあるんです」
336:
青山くんが朱袮さんをおぶって、俺と貴音はそれについていく形で朱袮さんの部屋の前まで来た。
青山「貴音さん。朱袮の部屋の鍵を出してもらえますか。多分ズボンのポケットとかに入れてると思います」
貴音「承知しました」
貴音は「失礼」と言ってから朱袮さんのスウェットのポケットをまさぐる。
貴音「……ありました。今開けますね」
青山「お願いします」
鍵を開け、部屋に入ると青山くんはベッドの上に朱袮さんを降ろして布団をかけた。
青山「これでよし……あ、どうも」
貴音から鍵を受け取る。
P「それで……話したいことっていうのは?」
青山「ちょっと待ってくださいね」
青山くんはそう言ってから扉の前まで歩いて内鍵をかけた。
青山「一応、念の為に」
337:
青山くんは二脚ある椅子に座るように俺と貴音に促したが、青山くんだけ立たせて話すのも気が引けたので断った。
青山「……なんで白河さんは殺されたんだと思いますか?」
思い切ったように青山くんが言った。
P「……わからない」
青山「貴音さんは?」
貴音は黙って首を横に振った。
青山「俺も、白河さんが殺される理由なんて思い当たりません。誰かの恨みを買ったりするような人ではなかったし……でも、一つだけ思いついたことがあるんです」
P「それは?」
青山「もしかしたら白河さんは……『犯人の正体に気がついていたんじゃないでしょうか?』 それを犯人に知られて……」
P「口封じ、ということかい?」
青山「そうです。白河さんは犯人を見つけ出そうと積極的でした。それに、俺なんかよりずっと頭がよかった。だから他の誰もが気がついていないことに一人だけ辿り着いていたのかもしれない」
考えてみる。
白河くんは犯人の正体に気がついたが、それを犯人に察知され、口封じに殺された。……あるいは自首を促そうと彼自身から犯人にそのことを告げたのかもしれない。しかし犯人にその思いは届かず、逆に殺されてしまった。
そのどちらも、充分有り得そうなことに思えた。
338:
P「君の言いたいことはわかったけど、どうしてそれを俺達だけに話そうと思ったんだ?」
青山くんは少しだけ口元をゆるめて笑う。
青山「わかりませんか? お二人だけは犯人ではあり得ないからです」
青山くんは寝ている朱袮さんの方を見て、
青山「それと、朱袮も」
P「……どういうこと?」
青山「犯人はここにいる4人を除いた、さっき食堂に集まったうちの誰かですよ」
339:
P「根拠があるのかい?」
青山「あります」
はっきりと答えた。
青山「黒田さんが殺害された後、犯人がどこかに隠れていないか皆で屋敷の中を捜し回ったじゃないですか」
貴音「……そうなのですか?」
こちらを見て貴音が尋ねた。
P「ああ、そういえば貴音には話してなかったな」
青山「――で、結局犯人は見つかりませんでした。あの時は、犯人はもう屋敷の中にいなかった……黒田さんを殺した後で外に逃げ出したんじゃないかって考えることもできました。まぁ、あの時点で俺は、まず間違いなく俺らの中の誰かだろうなとは思っていましたけどね」
そういえば、内部犯の可能性を切り出したのも青山くんだったのを思い出す。
青山「……でも、根拠があるわけではないし、そこまで強くは言いませんでした。正直言って、あの時はまだどこか他人事みたいな感覚があったんです。殺人が起きたと言っても、殺された二人は俺にとってはよく知らない人でしたから」
そこまで言ってから青山くんははっとして、
青山「あっ……すみません。貴音さん。俺、そういうつもりじゃなくて……」
青山くんにとっては二人とも他人だったのだろうが、貴音にとってはその内の一人は育ての親ともいうべき叔父だったのだ。青山くんは頭を下げて謝罪した。
貴音「お気になさらないでください。……続きを、話していただけますか?」
340:
青山くんは咳払いをしてから続けた。
青山「……話を戻します。あの調査の時、西側と東側の廊下で一箇所ずつ窓の鍵が開いていたのを見つけましたよね?」
P「ああ、玄関の扉には鍵がかかっていたから、犯人が逃げ出したとするならその二つの窓のどちらかからだろうって」
青山「その施錠されていない二つの窓も、見つけた時にちゃんと鍵をかけておいたのをPさんも覚えていますよね?」
P「覚えてる」
青山「外に面した窓は、客室の中にあるものを除けば玄関両脇、そして西側東側の廊下の窓だけです。さっき見てみたんですけど、それらの窓は割られてはいませんでした」
P「鍵は?」
青山「全部は確認してません。遠目から見ただけのものもあるので。ただ、あの後で誰かが中から鍵を開けたというのも不自然じゃないですか? 外の犯人を招き入れるようなものじゃないですか。玄関の鍵についても同じです」
P「……なるほど、たしかに」
青山「ですから、犯人は屋敷に戻れたはずがないんです。なのにPさんと貴音さんは襲われ、また殺人が……白河さんまで殺されてしまった。ということは最初から外に逃げ出した犯人なんて存在しない、俺らの中の誰かが犯人って事になりませんか?」
341:
P「……それはわかった。じゃあさっき言っていた、俺と貴音、そして朱袮さんが犯人ではないと君が考えた理由は?」
青山くんは気の抜けたように笑った。
青山「それこそわかりきったことじゃないですか。さっきの談話室での一件。『あの場に犯人である鬼と一緒にいた』、それこそが最も強力な『犯人ではない』という証明になるでしょう?」
P「たしかに君は、俺と貴音と犯人とが一緒にいるところを見たわけだけど……」
青山「実はあの時、朱袮もすぐ近くにいたんですよ」
P「朱袮さんも?」
342:
青山「そもそもあんな時間に俺が談話室での騒ぎに気がつくことができたのは、朱袮の付き添いで部屋のすぐ外にいたからなんです」
P「付き添いって……?」
青山くんは朱袮さんの方をちらっと見てから、
青山「俺が教えたこと、本人には言わないでくださいよ? 寝てたところをノックで起こされて、最初は白河さんが戻ってきたんだろうって思ったんです。でも扉の外にいたのは朱袮で、何の用かと聞いたら……『怖いからトイレに付き添って欲しい』だなんて言うんですよ? 真剣な顔して言うもんだから思わず笑っちゃいそうになりましたよ。真夜中だったから我慢しましたけどね」
朱袮さんにとっては青山くんか白河くんぐらいしかそんなことを頼める人はいなかったのだろう。千家さんでは歳が離れすぎる。
青山「まぁ、殺人鬼がうろついているかもしれないと怖がる気持ちは理解できたので、引き受けました。部屋出てすぐ右側にあるトイレに朱袮が入ってる間、外で待っていることにしたんです。トイレからすぐのところで待ってるのもなんかアレかなと思ったんで、談話室の前あたりに移動しようとしました。そしたら中から騒ぎが聞こえたので……」
P「談話室の中に入ったら、俺と貴音と、犯人がいた?」
青山「そういうことです」
343:
話を聞く限り、青山くんの言うとおりここにいる4人は犯人候補から除外してもよさそうだった。そうなると五道さんか、牡丹さんか、灰崎さんが犯人ということになってしまうのだが……。
貴音はどう考えているのか気になって横を見てみると、彼女は黙ったまま形の良い唇を右手の親指でなぞっていた。
貴音「……?」
こちらの視線に気がついて不思議そうに眉を上げる。なんとなく彼女の思考の邪魔をしてはならないような気がして、慌てて目線をそらす。
P「と、ところで、五道さんはどうなんだい? あの人も犯人からは除外されるんじゃ?」
五道さんの部屋は談話室の扉から廊下を挟んだほぼ真向かいの位置にある。犯人は扉とは反対側の窓から逃げていったので、青山くんが呼びに行った時に部屋にいたということは、五道さんは犯人ではあり得ないように思えるのだ。
青山「五道さんですか? あの人、部屋にいなかったんですよ」
P「えっ……そうなのか?」
青山「談話室を出るとちょうど朱袮もトイレから出てきたところだったみたいで、説明は後にとりあえず部屋へ戻らせました。それから五道さんの部屋に行ったんですけど、ノックしても反応がなかったんですよね。そしたら後ろから声をかけられたんで、振り向いたら五道さんがいたんです」
344:
P「五道さんは部屋の外で何を?」
青山「さぁ? でも中央の廊下を歩いてきたようでした。だからもしかしたら、談話室の窓から逃げ出した後、中庭を通って反対側の廊下に出てからまた素知らぬ顔をして戻ってきたとも考えられませんか? あの時は慌てていてそこまで気が付きませんでしたけどね」
青山くんは興奮気味に話した。
P「でも犯人は鬼の扮装をしていたんだよ? 五道さんはそれらしい荷物を持っていたのかい?」
青山「あ……」
青山くんは思わぬところを突かれた、というように一瞬ぽかんとした顔をしたが、すぐに持ち直してこう言った。
青山「い、いや……あんなものどうにだってなりますよ。中に服を着ていたのなら脱ぐだけでいいんだから時間はかからないでしょ? 途中の中庭や、物置の中にでも置き去っていけばいいんです」
一応は筋が通っている。青山くんが見た時に五道さんが手ぶらの状態でもそれならばおかしくない。
青山「でも、そうだとしたらしまったな……重要な証拠を押さえるチャンスだったかもしれないのに。さすがにもう回収されているだろうな……」
青山くんは腕を組んでそう言うと、小さく舌打ちをした。
345:
P「……たしかにそうかもしれないけど……部屋にいなかったというのは、五道さんを疑う根拠としては弱すぎると思う」
青山「そうですか? あんな時間に部屋にいなかったというのはそれだけで充分怪しいでしょう?」
P「部屋にいなかったのなら俺達だって同じさ」
青山くんは鼻で笑って答えた。
青山「少し、甘いんじゃありませんか? 僅かでも疑わしい要素があるなら信用なんてできません。油断したらこっちが殺されるかもしれないんですよ? こちらから犯人を狩り出してやるくらいの気概でいるべきだと、俺は思いますけどね」
P「その論法だと……君は、千家さんでさえも信用できないっていうのか?」
青山「できません」
即答だった。
青山「先生とはいえ、俺はあの人の全てを知っているわけではありませんから。というか、自分のこと話さないんですよ、あの人。……人と人とがある程度仲良くなったら、自分の昔話の一つでも相手に話したりするものでしょう? あの人はそういうの、全然しないんです。聞かれてもいつもはぐらかすんですよ。どこで育ったとか、家族は何人いるかとか、ゼミ内の生徒でも誰も知りません」
青山くんは段々と饒舌になっていた。少し前までの彼と同じ人物とは思えないほどだ。
青山「講義はしっかりするし、ゼミの飲み会にもちゃんと参加してくれるから評判の良い先生ではあります。でもどんなに『良い人』でも……それでも、人を殺さない理由にはならないでしょう?」
彼の言っていることは間違ってはいないのだろう。しかし……どうしても釈然としない気持ちを拭いきることはできなかった。
346:
貴音「……青山殿」
それまで黙っていた貴音が口を開いた。
青山「……なんです、貴音さん?」
貴音「お話は、それで全てですか?」
彼は不意を突かれたような顔になったが、やがて短く溜め息をついて言った。
青山「…………ええ、もう終わりです」
貴音「それでは、わたくしたちはもう戻らせていただいてもよろしいでしょうか?」
青山「もちろんです」
青山くんはこちらの方を見て、
青山「……すみませんでした。さっきはつい失礼な言い方をしてしまいました」
P「別に気にしてないよ。ところで、君はこのあとどうするんだい?」
青山「とりあえず、朱袮が目を覚ますまではここにいようと思います。起きて一人だったら不安だろうし……」
P「それがいいと思うよ」
347:
青山「あっ……貴音さん!」
部屋を出ようとしかけたところで、青山くんが思い出したように言った。
貴音「……どうかなさいましたか?」
青山「いや……今、どうでもいいようなこと訊いても大丈夫ですか?」
貴音「なんでしょう? なんでもおっしゃってください」
青山「貴音さんって……前に白河さんと会ったことあります?」
貴音「え……?」
青山「いや、この屋敷についてすぐ、白河さんの部屋で話していたんですけどね……」
348:
――――
青山「……どうしたんすか? なんかぼーっとしてません?」
白河「……あのご令嬢、前に一度会ったことがあるんや」
青山「は? 貴音さんとですか? アイドルなんて知らないって言ってたじゃないですか」
白河「嘘は言っとらん。アイドルなんてろくに知らんし、そもそも会ったことがあるゆうのも、ついさっき再会するまですっかり忘れとった」
青山「いつ会ったんですか? どこの街です?」
白河「さぁな。まぁ、向こうはさすがに俺のことなんて憶えとらんのやろうけど」
349:
青山「――ってことがあったんです。……憶えてませんか?」
貴音は目を細め脳内でじっくりと記憶を辿ったようだが、やがて言った。
貴音「…………残念ながら、思い出せませんね」
青山「そうっすか……。いや、すみません。なんというか……あの時の白河さん、妙に感傷深げだったので気になっちゃって」
貴音「……それでは、わたくしたちはこれで」
青山「あ、はい。また後で」
部屋を出てすぐに貴音が言った。
貴音「……食堂へ戻りましょう。なにか犯人の手がかりが残っているかもしれません」
350:
食堂へ戻りながら話す。
P「白河くんのこと、心当たりないのか?」
貴音「……わたくしにもよくわからないのです」
貴音自身も記憶の何処かに引っかかるものがあるのだろう。それをはっきりと思い出せず、苛ついているようだった。
とりあえず、話題を変えよう。
P「……そうだ。貴音は俺よりも前に食堂へ来ていたわけだけど、その時の状況を話してくれないか? どうもそのあたりがはっきりしないせいで頭の中がごちゃごちゃするんだよな」
貴音「……かしこまりました」
貴音は軽く咳払いして話し始めた。
貴音「御存知の通り、プロデューサーが五道殿のお部屋で治療を受けていらっしゃる間、わたくしと青山殿は各部屋を廻って犯人への警戒を呼びかけておりました。最初に訪ねたのはじいやの部屋です」
P「着替えを頼んでくれたんだったな」
貴音「それほど長く話したわけではありませんが、怪我はないかと四度も聞かれてしまいました……じいやも、プロデューサーには大変感謝していたようです」
P「ああ、着替えを持ってきてくれた時に直接言われたよ」
貴音「その次に千家殿を訪ねました。深く寝入っておられたようで、部屋を出てくるまでには少し時間がかかりました。話はしっかりと聞いていただけたようですが」
351:
P「並びからすると、次は白河くんの部屋か。そのときには部屋にいなかったんだよな?」
貴音は頷く。それより随分前に白河くんは亡くなっていたはずなのだ。
貴音「白河殿は部屋に戻っておられなかったようなので、ひとまずとばして七瀬殿の部屋へ向かいました。しかし、七瀬殿も部屋を留守になさっていたのです」
P「彼女はどうして部屋を出ていたんだろう? 青山くんの話では、犯人が恐ろしくてトイレの付き添いを頼むほどだったのに」
貴音「おそらく、ですが……白河殿のことを心配して一人で捜していたのかもしれません。ですがやはり、七瀬殿が目を覚ましたら訊いておいたほうがよさそうですね。……話を戻します」
P「ん、遮ってすまん」
貴音「仕方がないので七瀬殿の部屋もとばして、三船殿を訪ね、犯人の襲撃について話しました。ご自分が談話室を辞した直後のことだったので、大変驚かれていたようです」
P「そういえばそうだったな」
貴音「それから青山殿が、姿を消した白河殿と七瀬殿のことが心配だからと彼らを捜すことを提案しました。ちょうどその話を廊下でしていた時、七瀬殿の悲鳴が聞こえたのです」
P「悲鳴の元を辿って来てみたら、白河くんの遺体と、朱袮さんの気絶していた姿があったというわけか……それから青山くんは俺達のところに知らせに来てくれたんだな」
貴音「はい。……このようなところでしょうか」
352:
P「ありがとう、おおよそは把握できた。……こっちも貴音に話しておきたいことがあったんだ」
貴音「なんでしょう?」
首を少し傾けて言う。
P「常盤さんのことなんだけど……」
五道さんと灰崎さんから訊き出した『常盤さんは心臓病を患っており、その発作を抑える薬を奉納の儀に持ち込んでいなかった』という事実を貴音に伝える。
貴音「父が……心臓病を……?」
P「やっぱり、知らなかったんだな」
貴音「……わたくしに心配をかけないように隠していたのかもしれません」
P「灰崎さんもそう言っていたよ」
貴音「しかし……」
貴音はそこで言いよどむ。
P「奉納の儀の時に常盤さんが薬を持ってなかった……ってところが引っかかってる?」
貴音「ええ……」
食堂の扉を前にする。
貴音「――ですが、ひとまずは食堂の調査を終えてしまいましょう」
353:
食堂へと戻ってきた。人の姿がなくなっている以外に先ほどと変わった様子はなかった。白河くんの遺体もそのままだ。
貴音「……誰かいます」
厨房の方で食器棚か何かを閉める音が聞こえた。
「誰かいるのか?」
控えめな声が厨房から届いた。この声は……
P「五道さんですか? 俺です」
厨房との出入口から五道さんが出てくる。右手には薄い緑色の瓶、左手にはグラスが握られていた。
五道さんは俺と貴音を交互に見て、
五道「貴音ちゃんまで…………何しに来た?」
貴音「少し調べたいことがありましたもので」
五道「そうか……」
354:
P「五道さんは何を?」
五道「……ちょいと飲み物を取りに来ただけだ」
そう言って右手の瓶をひょいと上げる。林檎のイラストが描かれたラベルがちらっと見えた。林檎ジュースかなにかだろうか。
P「五道さん。ちょっとお訊きしたいことが」
五道「またか?」
P「何度もすみません」
五道「まぁいい……なんだ?」
P「俺の怪我のことで青山くんが五道さんを呼びに行ったとき、部屋にいなかったそうですね? どこに行っていたんですか?」
五道さんは驚いたようで、喉の詰まったような声を出した。
五道「べ、別にどこに行っていようが……いいだろうが」
P「それはそうですけど……」
五道さんは溜め息をついて、
五道「変に疑われるのも気分が悪いから正直に言ってやる……私はな、物置にいたんだ」
355:
P「物置……? そんなところで何を?」
五道「……犯人を捜す途中で、鬼憑き病の話になったのを覚えとるか?」
P「覚えてます。鬼憑き病の治療の秘術とは薬の製造法のことじゃないか、って話でしたね」
五道「その製造法を記した書物がどこかにあるんじゃないか、とも話した」
P「まさか、それを探しに物置に?」
五道「……危険かもしれないとは思ったが、それでも好奇心を抑えられなかった」
だが、もしもそういう書物が存在するとしたら物置の中に仕舞われていたとしてもおかしくないかもしれない。灰崎さんですら中にあるものの全てを把握しているというわけではないようだし……。
五道「ちゃんと探そうとするなら松葉様の部屋も見てみるべきなのだろうが、鍵がかかっとるし……何より気が進まんかったからな」
P「それで、物置で何か見つかりました?」
五道さんはつまらなそうに首を振った。
五道「何も。というより……血の臭いがひどくて探しものどころじゃなかった。30分も保たんかったよ」
そうか、物置には黒田の無惨な遺体がそのままにしてあるのだ……そうなってしまうのも当然だろう。
356:
P「物置から戻ってきたところで、青山くんに会ったんですね?」
五道「そういうことだ」
それが五道さんが部屋にいなかった理由というわけか。
五道「ところで……貴音ちゃんに訊いておきたいことがあったんだ」
貴音「なんでしょう?」
五道「鬼憑き病の治療法……本当に、何も心当たりはないかな?」
貴音「……いいえ」
五道「そうか……わかりきったことを聞いてすまないね。まぁ……気をつけてな」
五道さんはそのまま俺たちを通りすぎて、後ろの扉から出ていってしまった。
357:
予想外の先客がいたわけだが、気を取り直して食堂の調査を始める。
貴音「……持ち物を確認してみましょう」
貴音はそう言うと遺体の側に屈みこんでズボンのポケットを探り始めた。
取り出されたのは、中身が数本残ったキャビンの箱、携帯灰皿、百円ライター、10円玉……そして、
貴音「これ……」
ビー玉のアクセサリーだった。月明かりの間の調査の際、白河くんが見せてくれたものだ。
彼がなぜ、このちゃちな飾りについて黙っていてほしいと言ったのか、その理由が彼自信の口から明かされる機会は永遠に失われてしまったことを今更ながらに理解する。
P「その飾りのことなんだけどな――」
口止めされてはいたものの、こうなってしまっては話さずにはいられなかった。
聞き終えると貴音は、飾りを哀しげに見つめながら言った。
貴音「……そう、だったのですね。ようやく、合点がいきました」
358:
P「……なんだって?」
貴音「ずっと気にかかっていたのです。先ほど青山殿から問われた際には、はっきりと思い出せなかったためあのように答えましたが……わたくしは、やはり過去に白河殿と会ったことがあるのです」
驚きと、やっぱりかという納得とが半分ずつだった。
貴音「どこかで会ったことがある……そんなおぼろげな記憶でしたので、気のせいかとも思ったのですが……」
P「彼はお前がアイドルだってこと知らなかったそうだから……となると、仕事中じゃないな。プライベートのどこかで?」
貴音「初めはわたくしもそうではないかと思っておりました。しかしどうしてもどこで会ったのか思い出せませんでした。それもそのはずなのです。わたくしはその場所を最初にありえないと決めつけ、無意識に選択肢から除外してしまっていたのですから」
P「……まさか」
貴音「そうです。わたくしと白河殿が会った場所というのは、『ここ』なのです。それも……10年も前のことです」
359:
――10年前、わたくしが無謀な試みをしたということはお話しましたね。ええ、裏手の山を越えて隣町へ行こうとしたことです。一度でいいから、村以外の景色を見てみたい……そう思っての行動でした。
隣町とはいえ、子供一人ではとても越えられるような距離ではないのに……今思えば、馬鹿なことをしたものです。
長年ろくな整備もされていない山道は歩きづらいのはもちろん、あちらこちらへと曲がりくねっており、歩いても歩いても先に進んでいる気がしませんでした。
屋敷を抜けだして30分は歩いていたでしょうか……息は上がっているのに、目的地へ辿り着く気配すらありません。諦めて帰ってしまおうか……そう思った時のことでした。
貴音「あっ……!」
慣れない道というだけでなく、前日の雨で地面は濡れておりました。そのため、湿った枯れ葉に足を取られて前のめりに転んでしまったのです。
服を汚してしまったから怒られるだろうな、などと考えながら立ち上がると、右足に痛みを覚えました。足首に捻挫を起こしていたのです。
この時点で計画は諦めざるを得ませんでした。ところが来た道を振り返ると、帰りの道順もわからなくなっていることに気が付いたのです。
途方に暮れるとは、ああいうことを言うのでしょうね。どうしていいかわからなくなってしまい、その場に座り込みました。
この先どうなってしまうのかという不安と、自分の愚かさ、失敗への情けなさで涙をこらえることができませんでした。泣いたところで、誰かが助けてくれるわけもないのに……しかし、その時だけは違ったのです。
360:
「――おい。こんなところでなにしてるんや」
声の主は、わたくしのことを見下ろしていました。背が高く、見た目は12、3歳くらい、わたくしより少し年上に見えました。
どうしてこんなところに人がいるのでしょうか。たまに父に付いて行く程度でしたが、村でも見た覚えのない少年でした。
「どうした。口が利けんのか?」
困惑しながらも、一連の事情をその少年に話しました。
「……ふぅん。アホみたいやな。いや、アホや」
見知らぬ相手からそんなことを言われたら当然怒りたくもなります。しかし、そんな元気もありませんでした。
貴音「……『あほう』なのは百も承知です。……放っておいてください」
「たくましいな。それじゃこのまま置いて帰ってええんやな?」
貴音「…………」
「……お前の行動はアホそのものや。せやけど、気持ちは理解できる。自由を求めて行動を起こしたその勇気も賞賛する」
少年は屈みこんで、こちらに背を向けました。
「おぶったるわ。歩けないんやろ?」
貴音「……背中、汚れてしまいます」
「ええからはよ乗れ」
361:
その少年に背負われ山道を戻る途中、尋ねました。
貴音「ここへ何をしにきたのですか?」
「何をしにということもない。せっかくやからこの村一番のお屋敷を見てやろう思うて来てみたら、一人で山の方に入っていく女の子が見えたから、なんとなく追いかけてきただけや」
貴音「わたくしを追いかけて……?」
「雨上がりで地面がぬかるんでてよかった。お前の残した足跡を見ながら歩いてたらすぐやった。帰りもこれで問題無いやろ」
足跡を辿るというのは思いもつきませんでした。素直に感心したものです。
362:
「……少し休憩や。降りてくれ」
山道の途中、日のよく照った崖の近くでした。乾いた大きな岩が幾つか並んでいたので、二人ともそこに腰掛けました。
「道のりはあと半分ってところかな。……ところでお前、四条のとこの?」
貴音「そうですが……」
「ふぅん。名家のお嬢様ってのも、そない楽しいもんでもなさそうやな」
彼は足元の小石を拾っては崖の向こうへ投げるというのを繰り返していました。その行為に意味があるとは思えませんでしたが、彼はどこか自暴自棄になっているようにも見えました。
363:
小石を弄ぶ少年の左手首には一風変わった腕飾りが見えました。
貴音「……それ」
「ん……? これか?」
彼はよく見えるように左手を出しました。白地に桃色の花が描かれたびー玉を藍色の紐で結びつけた飾りでした。
貴音「綺麗ですね」
「……欲しければやる」
貴音「え? い、いえ……そんなつもりでは……」
彼は乱暴にその飾りを手首から外すと、わたくしに差し出しました。
「俺にはもういらんもんや。ほら」
貴音「……受け取れません」
「……そうか」
そう言うと崖の向こうを見て、
貴音「あっ!」
彼はそれを崖下へ投げ捨てたのです。
364:
貴音「ど、どうして……? 何も捨てなくても……」
「気にすんな。これは俺にとっての過去との決別みたいなもんなんや。お前には関係ない」
彼は飾りのなくなった左手首を右手で触りながら、苦笑混じりに言いました。
「いっつも付けてたから、なくなると少し気持ち悪いな」
貴音「過去との……けつべつ? どういう意味ですか?」
「……ある人との思い出の品やった。俺はその人に裏切られた。それだけや。もうええやろ、お前には関係ない。知る必要もない」
触れられたくないようでしたので、それ以上は訊きませんでした。しばらくの沈黙の後、彼が言いました。
「……お前には大切な人っているか?」
貴音「……います。お父さまにじいやに、おばさま、おじさま、それにぎんしろーと……」
彼は途中で笑って、
「いっぱいおるなぁ。まぁ……ええことやろ、多分。そういう人らのためにも、こんなアホな真似は二度とせんことや」
貴音「わ、わかっています……」
「そんならええ。さぁて……そろそろ休憩終わりや」
365:
再び少年に背負われて山を降っていき、とうとう屋敷の前まで戻ることが出来たのです。
「怪我と服の汚れは自分でなんとか誤魔化せよ。そこまでは面倒見きれん」
貴音「あの……ありがとうございました……」
「どういたしまして。お嬢様でも礼の言い方くらいは知っとるんやな」
貴音「当たり前です」
「悪かったよ。怒るな。……そろそろ葬儀が終わる頃やな、戻らんと」
それでわかりました。その日は前村長の葬儀が行われていて、村の外からも親戚関係者が集まっていました。おそらくその少年はそういう人々のうちの一人で、葬儀場から抜けだして来ていたのだろう……と。
366:
そしてその時になってようやく、未だ互いに名前も名乗っていないことに気がついたのです。
貴音「……お名前はなんというのですか?」
「もう二度と会わん相手の名前を覚えてもしゃあないやろ」
素っ気ない言い方でした。
「この村には二度と来ない、そう決めた。この屋敷を見に来たのだって、その記念みたいなもんや」
貴音「あなたを裏切ったという人のせいですか?」
「まぁな。俺は多分、あの人のことを許せない。この先ずっと」
貴音「では……いつになってもかまいません。もしもその人のことを許せるかもしれない、と思えるようになったら……また、この村に来てください」
「……?」
貴音「その時には、忘れずこの屋敷にも来てください。今日のことのお礼と、自己紹介をしましょう?」
「……おもろいことを言うやつやな。あり得そうにないけど……まぁ、記憶の片隅くらいには置いとくわ」
367:
貴音「――それが、前回の十年祭の二日前のことです」
まさかとは思っていたが、過去にそんな出来事があったとは……。
P「でも、貴音を助けてくれたその少年が白河くんだというのは本当に間違いないのか? さっきも説明したけど、白河くんは月明かりの間でその飾りを拾ったというだけなんだ。それが二人を同一人物だとする証拠にはならないだろ?」
貴音「そうではありません。この腕飾りは、思い出すきっかけとなったにすぎないのです。間違いなく、あの時わたくしを助けてくださったのは白河殿です。今にして思えば、風貌も口調もそっくりでしたから」
たしかに白河くんのほうでも貴音のことは覚えていたようだから、二人は同一人物……そう考えるのが自然か。
そうなると彼が村へ来たということの意味も少し違ってくるのではないか? 白河くんはゼミの研究のために村へ来たと言っていたが、彼は村へは二度と来ないつもりだと言っていたはずだ。
どうしても断れない事情があったのか、それとも……白河くんが彼を裏切った人のことを許せるようになったということなのだろうか? その人物に関して「もしかしたら」という人は頭の中に思い浮かんでいるのだが、確かな根拠はないし、本人に訊いてもちゃんと教えてくれるかは怪しいところだ。
368:
貴音「しかし白河殿はどうして、教えてくださらなかったのでしょう……」
P「……それはわかる気がする。青山くんの話にもあっただろ、貴音のほうは覚えていないだろうと思ったから黙っていたんだ」
二人で月光洞の調査をしている間に話したことを思い出す。今思えばあれは、彼なりに貴音のことを心配していたことの表れだったのかもしれない。
P「それに彼は自分がこの村に関わりのある者だということを隠していたからな。どうしてだかはわからないけど」
貴音「わたくしがもう少し早く思い出せていれば……あの日のお礼だけでも伝えられたかもしれないのに……」
P「…………今からでも、伝えればいいんじゃないか?」
貴音「今からでも……?」
P「ああ、遅すぎるってことはないと思うけどな」
貴音「…………そう、ですね」
369:
貴音はビー玉の腕飾りを手に握りしめ、白河くんの遺体に向かって静かに語りかけ始めた。
貴音「……ここまで、あまりに長い時間がかかってしまいました。そして……今となっては全てが手遅れなのでしょうね」
無念さを押し殺すように目を閉じて、またゆっくりと開いた。
貴音「約束を果たすには遅くなりすぎましたが……あの日のご恩はお返しします。必ず、犯人は見つけ出します。ですから……どうか安らかに、お眠りください」
沈黙が数秒続く。
P「……済んだか?」
貴音は頷いた。
貴音「ええ、一刻も早く犯人を探し出しましょう。これ以上の犠牲者を出さないためにも」
370:
事件の話に戻す。気になっていたことを尋ねてみた。
P「そういえば……おかしくないか? 崖の下に捨てられたはずの腕飾りが、どうして月明かりの間で見つかったんだ?」
貴音「それは、おそらく……」
貴音はそこで言葉を切った。白河くんの遺体の傷痕のあたりを凝視する。
P「どうした?」
貴音「……これは……なんでしょう?」
ナイフの刺さった胸の傷口……よりも少し喉元に近い位置を指さして言った。
よく見てみると、シャツに安全ピンが付いている。それ自体が小さい上に、ちょうど血で染まった部分だったためすぐ近くのナイフに気が取られて今まで気が付かなかった。ピンには2センチ程度の紐が結ばれていて、それにも血が染み込んでいる。
P「これ……ガラス球のお守りだ」
記憶にある形とは少々違ってしまっているが、間違いない。彼はたしかに青山くんと朱袮さんからもらった鬼避けのお守りをこの位置に付けていた。
……そして『記憶にある形と違う』ことがここでは重要になる。
貴音「がらす球……? そういえば、そんなものを付けていらした記憶はありますね。しかし、その肝心のがらす球が欠けてしまっているようです」
P「千切れた……いや、そうじゃないな。ナイフを刺された時に切断されたんだ」
紐の切断面は刃物で切られているように見えた。
371:
P「でもそうだとすると……この辺りに切られたガラス球が転がってるはずなんだが……」
床に右手をついて周囲をテーブルの下まで注意深く見てみるが、それらしきものは見つからない。
貴音「無理な体勢をすると怪我に響くのでは……」
後ろから声をかけられる。
P「ああ大丈夫、このぐらいじゃ平気だから」
貴音「……あの、プロデューサー」
まだ何かあるのか。できれば今は邪魔しないでほしいのだが。
P「なんだ?」
貴音「先ほどから気になっていたのですが……白河殿は、何かを手に握っているように見えるのです」
P「……え?」
振り向いて確かめてみると、たしかに白河くんの右手はしっかりと何かを握りこんでいるようにも見える。
P「開いてみるか」
死後硬直のせいか閉じた指はかなり固かった。こじ開けていくのにはかなり手こずったが、なんとかその手の中に握られているものが何なのかがわかる程度には開くことができた。
P「ここにあったか……」
遺体の手の中には、透明な涙型のガラス球があった。ガラス球に付いた紐は1センチにも満たないほどだ。
372:
貴音「白河殿は死の寸前に、紐から切断されたこのガラス球を握りこんだ……ということでしょうか?」
P「そんなところだろうな……」
特に進展はなし、か。とはいえ、ちゃんとガラス球が見つかってよかった。もし見つからなかったら……。
……待てよ。もし見つからなかったらどういうことになっていたんだ?
…………この感覚はさっきも感じた。あれはたしか、五道さんが死亡推定時刻を出した時だ。
あの時の時刻は5時直前だった。ということは五道さんの言う死後1時間半から2時間半という見通しを当てはめると、死亡推定時刻は2時半から3時半の間ということになる。
その時間、俺は何をしていた? それはわかりきっている。貴音の部屋にいて、彼女から話を聞いていたのだ。 
彼女と話を終え、もう休もうということになり部屋を出たのが……そう、4時直前だった。
貴音の部屋を出た俺は、自室に戻る途中で牡丹さんに会って……。
P「そうか……! わかった…………かもしれない!」
373:
貴音「え? な、なにがですか?」
でも、本当にそうか? どこか見落としていないか? 
貴音「あの、プロデューサー?」
P「そうだ、ちょっと待て!」
俺は白河くんの手の中にあるガラス球をもう一度よく見てみる。白と青の糸で編み込まれた紐は無理やり千切られたようなほつれができていた。
P「やっぱりだ……!」
貴音「どういうことなのです?」
P「見てくれ。白河くんが握っているガラス球は、紐から千切り取られているんだ」
貴音「……たしかに」
P「でも、胸のピンに残ったお守りの紐は……刃物で切られたような綺麗な切断面をしている。これがどういう意味か、わかるか?」
374:
貴音「……まさか、『白河殿の胸元に残されたものと、手の中にあるものとでは、違うお守り』だというのですか?」
P「ああ、犯人もお守りを身につけていたんだ。二つのお守りはまったく同じものだった。だけど、その『切られ方』だけが違った」
貴音「待ってください。同じお守りを身につけていたということは……」
P「まぁ待ってくれ。整理するという意味でも、順番に話そう」
話しているうちに、この推理が正しいはずだという自信が湧いてくるような気がした。
P「……犯人は白河くんの胸にナイフを突き立てた、だがその際に白河くんに自分の身につけていたガラス球をもぎとられてしまったんだ」
貴音「犯人は自分のがらす球が奪われたことに気が付かなかったのでしょうか?」
P「それは考えづらい。紐が千切れるほどの力でもぎとられたんだから犯人だってさすがに気付いたはずだ。このガラス球は犯人にとって、致命的、決定的な証拠になる。それなのに犯人がこのガラス球を回収しなかったのはなぜか? いくら強く握りこまれていたとしても、こじ開けられないほどではないし、いざとなれば刃物で指を切断してしまってもよかったはずだ。犯人は刀を持っているし、隣の厨房には包丁もあるんだからな」
貴音「では、なぜ?」
P「『犯人は自分のガラス球を回収したと思い込んでいた』としたらどうだろう。白河くんの身につけていたガラス球と、自分のガラス球とを取り違えてしまったんだよ」
正直言って、ガラス球を取り違えたという部分については推測にすぎない。考えられる経緯の中で一番あり得そうなことを選ぶとこうなるというだけのことだ。
375:
P「犯人は白河くんの胸をナイフで刺した。その時同時に彼のお守りを切り落としてしまったことには気が付かなかったんだ。その直後に白河くんに自分のガラス球を奪われた犯人は、床に落ちていた白河くんのガラス球を自分のものと勘違いして拾ってしまった……お守りは同じものだからな。だから白河くんの手の中にガラス球が残っているとは思いもしなかった。これでどうだ?」
貴音「たしかに筋は通りますが……」
P「もう一つ勘違いをした要因があった。『その現場は暗かったんだ』。蛍光灯が壊れていたからな」
貴音「……待ってください。蛍光灯が壊れていた……ということは、その現場というのはもしや……」
そう、その場所の蛍光灯が壊れているという事実は、議論を行った時の朱袮さんと黒田の証言によって明らかになっている。
P「ああ、本当の犯行現場は書斎のはずだ。遺体が動かされたという根拠もある。牡丹さんの発言だ」
貴音「三船殿の?」
P「4時直前に俺は貴音の部屋を出て、自分の部屋に戻ろうとしていた。その時に牡丹さんと会ったんだけど、その時に彼女は『台所へ水を飲みに行っていた』と言ったんだよ。台所っていうのはつまりこの食堂の隣にある厨房のことだよな。白河くんの遺体は位置的に、厨房からは丸見えになるはずなんだ」
貴音「三船殿は遺体を既に見ていたということですか?」
P「それなのに、さっき白河くんの遺体を見た時の牡丹さんの驚き方はとても演技には見えなかった。そもそも、演技をするならもっと俺達にとって自然に思えるような驚き方をするはずだよな」
貴音「たしかに、あの驚かれようはいささか不自然ではありましたね」
P「牡丹さんと白河くんの間にどういう関係があったかはともかくとして、彼女の驚きは本物だった。ということは、『牡丹さんは4時直前の時点では遺体を見ていない』ということになる。その時間、遺体は別の場所にあったんだ」
貴音「それが……書斎」
376:
P「ではなぜ犯人は遺体を動かしたのか? もちろん、現場が書斎だとばれるとまずい理由があったからだ。貴音はその時部屋にいたから知らないだろうけど、俺を含む多くの人が『白河くんとある人物とが書斎で話をする』ということを耳にしていた」
犯人の捜索を終えて廊下で解散した時のことだ。白河くんは「相談したいことがある」と言ってその人物を書斎へ呼び出した。
P「書斎で遺体が見つかれば、当然疑いの目はその人物へ向かうことになる」
貴音「ということは、その人物こそが……犯人なのですね?」
俺は頷いた。
P「白河くんと同じお守りを身につけていて、彼と書斎で話をしていた人物……千家藍之助、あの人こそがこの一連の事件の犯人……鬼の正体だ」
貴音は考えこむようにしばらく黙りこんだが、やがて言った。
貴音「千家殿の胸にもそのお守りがあったことは、わたくしも覚えています。千家殿が……信じ難いことですが、今のお話を聞く限り、そうとしか考えられませんね……」
それにしても、なんという皮肉だろうか。鬼よけのお守りが、結果的には鬼の正体を暴いてしまったのだ。代償に、白河くんの命を犠牲にして。
貴音「千家殿が犯人だと考えれば、先ほど談話室に鬼が現れた理由もわかりますね」
P「そうだな。あの時間、普通はとっくに部屋に戻って休んでいるはずだと考えるだろう。なのにあのタイミングで談話室に犯人が現れたということは……俺達が談話室にいると知っていたんだ」
貴音「書斎の窓からならば、談話室の様子を確認することができたでしょうからね」
……それにしても、どうして千家さんが自分の教え子である白河くんを殺す必要があったのだろうか?
 
P「千家さんの部屋に行こう。全部が明らかになったわけじゃない。……本人から話してもらおう」
貴音は手に持ったビー玉の腕飾りをぎゅっと握り締めると、力強く頷いた。
貴音「ええ……参りましょう」
377:
食堂を出る。廊下にはどこか冷え冷えとした雰囲気が漂っていた。
P「あれ……?」
千家さんの部屋の前に誰かがいる。それはついさっきも見た姿。その人物はこちらに気がつくと手を上げて言った。
青山「Pさん、貴音さん」
P「青山くん? 何をしているんだい?」
彼は少し緊張したような表情だった。
青山「いや、それが……落ち着いて聞いてくださいね?」
周囲を気にして他に誰も居ないことを確認してから、彼は小さな声で続けた。
青山「……犯人は、千家なんです」
P「え……?」
378:
貴音「どういうことだが、説明していただけますか?」
青山くんは頷いた。
青山「実はPさんと貴音さんが出ていってすぐ、朱袮が目を覚ましましたんです。それで彼女が言ったんです。『鬼の恰好をした犯人が、この部屋――つまり千家の部屋に入ったのを見た』って」
P「ちょっと待って。それって、いつのこと?」
青山「俺が談話室に駆け込んだ時、犯人は窓の外へ逃げ出しましたよね。朱袮がその時トイレにいたということはお話したとおりです。実はその時、朱袮は一度トイレから出てきていたらしいんですよ。その際に、それを目撃したと言っています。驚いてすぐに隠れるようにトイレに戻ったそうです」
P「……でも、それならそうと朱袮さんはどうしてすぐに教えてくれなかったんだろう?」
青山くんは苦笑しながら首を横に振る。
青山「その辺りはまだ俺も……後で本人から直接聞いてください」
379:
青山くんは「それにしても」と言ってから俺たちを改めて見て、
青山「助かりました。実は待っていたんです、誰か来ないかって。朱袮は怯えているからとても連れて来れなかったし、かといって、その……さすがに一人じゃ俺も恐ろしかったんで。――ところで、お二人は何をしていたんです?」
P「……実は、俺達も千家さんが犯人じゃないかと思ったんだ。……長くなるからその詳細は省くけど」
青山くんは心底驚いたように大きく口を開けて、
青山「ほんとですか!?」
あくまで声を抑えたままそう言った。
青山「いや、でも……安心しました。朱袮はかなり混乱しているみたいでしたから、もしかしたら見間違いなんてこともあるんじゃないか……なんて思っていたんですけど」
380:
青山くんは落ち着こうとするように深く呼吸をした。
青山「……それじゃあ、行きましょうか。まず俺が声をかけます。この中では俺が一番怪しまれないでしょうから」
P「わかった」
貴音「お願いします」
青山くんは扉の前に立って、右手でノックをした。
青山「先生? ちょっとお話したいことがあるんですけど」
……………………返答はない。青山くんが不審そうにこちらへ目配せをした。彼はドアノブに手をかけ、ゆっくりとひねる。扉が少し動く。
青山「……鍵はかかってないみたいです」
こちらに向かって小声で言った。
381:
青山「……先生? 開けますよ?」
その言葉とともに扉がゆっくりと開かれた。
P「うっ……!」
扉が半ばまで開かれたところで気がついたのは、その『異様なにおい』だった。部屋の中にこもっていたものが扉の開かれた瞬間に流れだしたのだろう。貴音も青山くんも、その異常にすぐに気がついたようだった。
青山「酒……?」
ノブを掴んだのとは逆の手で鼻を覆うようにしながら、青山くんが小さく呟くのが聞こえた。たしかに、この臭いはアルコールだ。それも色んなものを混ぜたような……いや、違う。アルコールだけではない。吐き気をもよおす、腐臭のような……そんな臭いが混ざっていた。
扉が完全に開かれた。
青山「あっ……」
最初に声を出したのは青山くんだ。それはまさに凄惨としか言いようのない光景だった。
……『赤い』。赤の絵の具を床や壁のあちこちにぶち撒けたようになっているのだ。
部屋の構造は一見して今までに入った自分の部屋や五道さんの部屋、朱袮さんの部屋とまったく同じだ。それだけにこの部屋の異常さは際立って見えた。
その赤い部屋のほぼ真ん中の位置……扉から3メートルほどのところで、千家さんが足をこちら側に向け仰向けに倒れていた。腹部のあたりを中心に大量の出血をしているのが見える。……亡くなっているのはすぐに理解できた。
382:
恐る恐る部屋に足を踏み入れると、後ろから貴音もついてきた。青山くんは扉のあたりで呆然と突っ立っている。
赤く濡れた部分を踏まないように遺体に近寄っていく。
P「そんな……どうして……」
千家さんの遺体をじっと見る。口と目は大きく開かれ、苦痛と驚愕とがないまぜになったような壮絶な表情を浮かべている。
……犯人は千家さんのはずじゃなかったのか? まさか、間違えた? そんな……。
貴音「……プロデューサー、あれを」
貴音が遺体を指差す。
貴音「千家殿の、右手です」
遺体は右手、左手ともに体の横に投げ出されるようになっている。その右手には、抜き身の刀が握られていた。いや……その指は力なく開かれているので、握られているというよりは手の平の上にあると言ったほうがよいだろうか。
刀身は血で真っ赤に染まっており、傍らの床上には鞘が転がっている。
近くで見て気がついたことだが、その両手には血が付着していないようだった。
遺体を見ていて、ある考えが脳裏をよぎる。
青山「…………もしかして、自殺?」
後ろのほうで鼻を手で押さえながら、俺の考えと同じことを青山くんが口にした。だが、それを本格的に考えだすのは今はやめておこう。
P「……とにかく、まずはこのことを皆に知らせないと」
青山「お、俺、他の人達を呼んできます!」
青山くんが駆け足で去っていく。彼が手を離したことで扉が閉まった。
383:
部屋の様子を確認する。
どうもこの部屋のあちこちにある赤い染みは血ではないようだ。腹部の傷痕を見る限り相当な出血があったことは間違いないだろうが、それにしたってこの赤い染みが全部血だとすると、量が多すぎる。血と、なにか別のものだろう。
二つのベッドは布団にところどころ赤い染みができている以外にはおかしな点はなく、特に使われた形跡もない。
床や机の上を見ても物が散乱しているとか、そういった荒らされ方はしていないようだった。
P「それにしても、なんだこの臭い……」
アルコールと血とその他体液をごちゃ混ぜにした、生きる希望も何もかも奪い去っていくかのような悪臭だった。
換気をしようと窓へ寄る。鍵はかかっていないようなので右手をガラスについてスライドさせようとしたが、窓は10センチほど開いたところで引っかかってそれ以上開かなくなってしまった。
見ると、下のレールが錆びついてしまっているようだ。変色具合からして、もう随分前からそうなっているのだろう。
貴音「客室を使うこと自体、珍しいものですから……」
その様子を見ていた貴音が後ろのほうで言った。なるほど、手入れ不足も致し方なしというわけか。密閉しておくよりはましだと思い、窓はそのまま少しだけ開いておく。
384:
貴音「この臭いの原因は……」
貴音は部屋を見回して、ある一点に目を留めた。
貴音「……プロデューサー、あれを」
部屋の入口から左側の角を指さす。いくつかの瓶や缶が雑に積み上げられていた。近くに寄って確認してみると、赤ワインが二本、柑橘系のリキュールが一本、ウイスキーが二本、350mlの缶ビール五本があった。
全てが空になっていて、その山の下にコンビニの名前の入ったレジ袋が挟まっている。
P「これ……多分、千家さんが村のコンビニで買ってきたお酒だな」
貴音「それらの中身がこの部屋に撒かれた……ということでしょうか?」
P「……そうなんだろうな、きっと」
壁や床の絨毯、ベッドの布団などあちらこちらが赤く染まっているのはこの赤ワインが撒かれたせいだったのだ。それ以外のアルコールも色という目立った形で残されてはいないものの、それらの臭いを微かにではあるが感じ取ることができた。
P「でも部屋に酒を撒くだなんて、なんでそんなこと……」
貴音「千家殿が自分でやったことでしょうか?」
P「……わからん」
385:
その後、青山くんが他の人達を連れてきてくれた。その中には朱袮さんの姿もあった。部屋は全員が入りきるには狭いし、何よりこの臭いもあるので後から来た人たちには扉の外から見てもらう。
誰もがこの部屋の惨状と異常さに愕然とした様子だったが、やがて青山くんが言った。
青山「自殺……じゃないですかね? 少なくとも俺には、そう見えるんですけど」
朱袮「じ、自殺……?」
朱袮さんが怯えたような声を出した。他の面々も驚いたように青山くんを見る。
青山「だってほら、刀を握っているじゃないですか。あれで自分を突き刺したんですよ」
五道「だが……犯人が偽装工作で死後に握らせたとも考えられないか?」
青山「そうは思いませんね。俺、さっき見ましたよ。あの人、右手に刀を持ってましたけど、その手には血が付いてなかったんです。それってつまり、あの人が死ぬまでの間ずっと刀を握りしめていたってことじゃないですか?」
青山くんの意見に同意することはできなかった。たしかに、刀を握ったままであれば、手の平に血が付着することはない。もしあの手が血で汚れていたとしたら、千家さんが刀を握っていたのは犯人による偽装工作と見てよいだろう。
だが、手に血が付着していないという理由だけで偽装工作が行われていない、つまり自殺であるとは判断できないはずだ。たまたまその部分に血が付かなかっただけとも考えられるのだから。
386:
牡丹「……わけがわからないわ」
牡丹さんが右手で頭を押さえながら言った。
青山「……どこかおかしかったですかね?」
牡丹「違う、そうじゃなくて……どうして千家さんが自殺しなきゃならないのよ? それに、なんで暁月が彼の手に……?」
そこまで言ってからはっと何かに気がつく。
牡丹「まさか……?」
五道「……千家が犯人だったのか?」
千家さんと旧来の友人であった五道さんは、冷静に言った。表面上そう見えてはいるものの、内心がどうなのかは知る由もない。
387:
P「……俺は、千家さんが犯人だと考えてました。千家さんが犯人だとしたら……罪悪感に耐えかねて自殺したということもあるかもしれません」
千家さんが犯人だと考えた過程を皆にも話す。皆、納得してくれたようで反論してくる人はいなかった。
その話が終わると、朱袮さんが突如として言った。
朱袮「私の……私のせいなんです……っ!」
彼女は両手で顔を覆い、床に膝をついた。
P「朱袮さん……?」
朱袮「私……先生が犯人だってこと、知ってました……なのに、黙ってて……もっと早く話してれば、こんなことにはならなかったのに……!」
388:
五道「犯人だと知っていたって、おい……それはどういうことだ?」
五道さんが驚いたように言った。
朱袮「談話室での騒動があった時、私……先生の部屋に犯人が入っていくのを見たんです。だから……先生が犯人だって……」
先ほど青山くんから聞いた話だ。
五道「……どうしてそれをすぐに話さなかったんだ!」
五道さんが朱袮さんの肩を掴んで言った。
牡丹「ちょっと……」
牡丹さんが制止する。
朱袮「私……信じられなくて……先生が犯人だなんて……それに……怖くて……ごめんなさい……ごめんなさい……」
泣き崩れる朱袮さんを見て、五道さんもばつが悪そうにして引き下がった。
389:
青山「朱袮はなんにも悪くない……だからそんなに泣くなって……」
青山くんが朱袮さんのことを慰めている。それを黙って見つめていた五道さんがこちらを向いて言った。
五道「……少し、遺体を見ても?」
P「もちろん。お願いします」
五道さんは部屋に入って千家さんの遺体の側に屈みこんだ。遺体を見つめる彼の目は、寂しそうに見えた。
貴音「……じいや?」
横で貴音が言った。
貴音「顔色が優れないようですが……体調が悪いのであれば、部屋で休んで――」
貴音に心配された灰崎さんは慌ててぎこちない笑みを浮かべた。
灰崎「い、いえ。私は平気でございます。ただ……まさか千家様が犯人だったとは……いいえ、他の誰が犯人であったとしても、信じられないことだと思ったのでしょうけれど……」
灰崎さんも突然の展開にかなり動揺しているようだ。
390:
しばらくして遺体を確認していた五道さんが深く息をついた。それを見て一段落ついたところなのだと思い、尋ねてみる。
P「……どう思いますか?」
漠然とした質問だったが、五道さんはそれを予期していたのかあらかじめ用意された答えを暗誦するようにすらすらと答えた。
五道「腹部から流れ出した血は乾き始めといったところ……死後10分から30分、というところだろうな。傷口を見る限り、この刀で刺されたものと見てまず間違いない」
そう言って右手の中にある暁月を指差す。
五道「傷口は腹部から背中にかけて突き刺された一箇所のみ……」
五道さんは遺体を少しだけ起こして背中を見せる。そこにも血液による赤い染みができていたが、腹部側と比較するとまだおとなしい。
五道「見ての通り、腹部に比べて背中の方は出血が少ない。刀は腹部側から突き刺され、引きぬかれた……その際に、太い動脈を傷つけたらしい……おそらく、失血死だろうな」
P「自殺……なんでしょうか?」
五道さんは顎に手を当て考えこむように黙って、しばらくして言った。
五道「一見して……他殺であると判断できる要素はないな。無論、だから自殺であると断言できるわけでもないが……」
391:
P「この部屋には酒が撒かれているようなんですが、その点についてはどう考えます?」
五道「自殺であるという前提で考えるなら……彼は錯乱状態にあったのかもしれない」
P「気が狂ってこんなことをしたっていうんですか?」
五道「信じ難いか? だが充分考えられる。さっき、彼の両手を触ってみたんだが……少し濡れていたんだ」
P「濡れていた?」
五道「それで気になって近くで臭いを嗅いでみた……自分で確かめてみるといい」
そう言われて、五道さんは遺体の左手を取って俺の鼻先に近づける。
P「あ……酒の臭いだ」
一番濃いのがビールの臭い、ほのかに柑橘系の香りもした。
五道「滅茶苦茶に酒をばら撒いたから、その手にもいくらか付着したのだろうな。ちなみに口に酒を含んだ様子はないな。臭いがしなかった」
392:
P「じゃあ、本当に自殺……」
そう自分で呟いてから、あることに気がついた。
P「そうだ……あれは……あれは、どこだ?」
部屋をぐるっと見回すが、それらしいものは見当たらない。
五道「どうした?」
P「千家さんが自殺だったら、ここになきゃいけないものが……」
貴音「これでしょうか?」
貴音の声が聞こえた。先ほどからベッドのあたりをごそごそと何か探していたようだったが。彼女は入り口に近い方にあるベッドと床の隙間から何かを取り出し、掲げてみせた。
P「あっ……」
どうやら貴音も俺と同じことを考えていたらしい。彼女の手には、血で汚れた墨色の着物と鬼の仮面があった。
393:
P「……見せてくれるか?」
貴音「どうぞ」
貴音から仮面を受け取る。素材は木で、耳の横あたりから出ている紐で固定するようになっている。祭り会場で怪しげな露天商が売っていたものによく似ているが、同じものなのかは判別しようがない。
黒田を殺害した時や、談話室での襲撃の時と同じ位置に血液による汚れがあった。着物の方も同様であるが、付着した血痕は時間が経過したせいか黒っぽい色合いになっている。
近くでじっくりと見て初めてわかったことだが、左の頬の部分には黒い線のようなものが走っている。すぐに思い当たる、これは黒田が死の際にボールペンで反撃を行った時の傷だ。
やはり間違いない。これは犯人の被っていた仮面だ。
貴音「仮面はこの着物の中に包まれておりました。他に、足袋と頭巾などもあります」
ベッドの上の汚れていない部分に着物を置いて広げる。
P「どれも犯人が付けていたものだ」
なるほど、考えてみればこんなものがすぐに目につくような場所に置いてあるはずもない。突然部屋を訪ねてきた誰かに見られでもしたら、すぐに犯人だとばれてしまうのだから。
P「……あれ?」
着物の胸の部分あたりに白い粒状のものがいくつか付着していた。右手でその粒の付いたあたりを撫でて触ってみると、ザラザラとした感触があった。粒は固く尖っている。大きさは不揃いだが、平均して3?4ミリほどだろうか。
何だろうこれ?
貴音がその粒をいくつか手に取る。
貴音「これは……」
牡丹「ところで――」
貴音がなにか言いかけたところを、部屋の外側にいた牡丹さんの声が遮った。
394:
牡丹「……遺書はないのかしら?」
P「遺書は……見当たりませんね。まだ全部を探したわけではないですけど……」
机の上には部屋に備え付けになっているスタンドライトとメモ帳、ペンなどがある以外には、千家さんの付けていた腕時計くらいしか置かれていない。
牡丹「そう……見つからなければ、彼がどうしてこんなことをしたのかは謎のまま、ってことね……」
たしかに、それは非常に気になるところではある。千家さんが三人もの人間を殺した理由は何だったのだろうか……。
青山「でも、もう終わったわけでしょう? これ以上殺人は起きないんです。ひとまずは安心してもいいんじゃないですか?」
牡丹「そうね……終わった。終わったのよ」
牡丹さんは自分に言い聞かせるように言った。
P「あの……朱袮さんは、大丈夫ですか?」
依然として廊下の床に膝をついたままの朱袮さんに声をかけてみる。
朱袮「あ……はい。大丈夫、です。心配かけてごめんなさい」
彼女は手で涙を拭いながら立ち上がった。
395:
P「その……怖くて言い出せなかったという気持ちはよく理解できます。あなたが気に病むようなことじゃないですよ」
朱袮さんはかぶりを振った。
朱袮「私のせいです……千家先生も……私が臆病なせいで……ちゃんと自分の見たことを話せていたら、助けられたかもしれないのに……」
たしかにそうかもしれないが……そんなことを後悔してもどうにもならないのだ。残された者は、前を向いて生き続けるしかない。
朱袮「……ごめんなさい。後悔してもどうにもならない……そうですよね?」
P「……はい」
朱袮「あの……さっきのお話では、白河さんは私が犯人を目撃した時には既に亡くなっていた……ということでしたよね?」
P「ええ、そのはずです」
朱袮「それを聞いて……少しだけ、ほっとしたんです。私、あの時白河さんの遺体を見つけて、咄嗟に自分のせいだって思ってしまったんです。私が千家先生を犯人として告発できなかったから、次の被害者が出てしまったんじゃないかって」
白河くんの遺体を見つけたというだけでなく、そのショックも合わさって気絶してしまったのかもしれない。
P「……そうでしたか。五道さんが出した死亡推定時刻だからその点は確かだと思います。安心してください」
朱袮さんは黙って頷いた。
P「……そういえば、白河くんの遺体を見つけた時、どうして部屋を一人で出ていたんですか?」
朱袮「ずっと白河さんの姿が見えなかったので、心配になったんです。青山くんに……その、付き添いを頼んだ時にも、部屋にいませんでしたから」
P「それで一人で捜しに?」
朱袮「はい」
この点についてはおおよそ予想通りといったところか。
396:
P「その後朱袮さんはしばらく気を失っていたわけですけど……もちろんその間のことは何も覚えてませんよね?」
朱袮「はい……。あ、そういえば私が目覚める直前までPさんたちがいらっしゃったそうですね。ご心配をおかけしました」
P「いえ、そんな。俺達は何もしてませんよ」
青山「しかし驚きましたよ」
青山くんが思い出した様に言う。
青山「やっと目を覚ましたかと思えば、泣き出しながらあんなこと言うんだから」
P「あんなことって、犯人を目撃したっていう話?」
朱袮「そうです。……きっと、あの時の先生は相当慌てていたんだろうと思います。廊下の端のほうにいたとはいえ、私にも全然気が付かなかったみたいですから」
……たしかに、部屋を出るときならばともかく、部屋に入るときには周囲に誰かがいないか確認することはできる。貴音と俺の殺害に失敗して逃げ出したというあの状況、そんなことにも気が回らないくらいに慌てるのも無理はないように思えた。
397:
青山「俺、犯人の話を聞いてすぐこの部屋に向かおうとしたんです。でも、危ないからって朱袮に止められて……せめて誰かもう一人連れて行ったほうがいいって言われて。だから、ああして誰かが通りかかるのを待ってたんです」
なるほど。そこへ俺と貴音が来た、と。
青山「あ、でも、お二人が来てくれて安心したのは本当ですよ」
P「どれくらい廊下で待ってたの?」
青山「あー、そうだな。4,5分ってところでしたかね。そのくらいだよな?」
隣の朱袮さんに確認する。
朱袮「うん。そうだったと思う」
朱袮さんは左手首の腕時計を見ながら言った。
P「その間、ずっとあの廊下に? 誰か呼びに行こうとか思わなかったの?」
青山「それでもよかったんですけど、ちょっと考えたいこともあってあのへんをうろちょろ歩いてました」
P「考えたいことって?」
青山「ええっと……ほら」
青山くんは少し考えてから、隣にいる朱袮さんには聞こえないように少し前に出ながら小声で言った。
青山「最初は興奮してしまいましたけど、よく考えてみると千家が犯人というのは朱袮が言ってるってだけでしたからね。彼女のことを疑うわけではありませんけど、もし何かの間違いだったらと思って。少し決心が鈍ってたんです」
……なるほど。とにかく、その間あの辺りを通りかかったのは俺達だけだったということか。
398:
朱袮「でも……どうして千家先生がこんなことを……本当にわからないんです」
朱袮さんは疲れきった声で言った。
青山「……狂ってやがったのさ。この部屋の有り様を見ればわかるだろ? 表面ばっかり優しそうにした、イカれた殺人鬼だったんだ」
朱袮「そんな風に言うこと――」
青山「『ないだろう』ってか? 本気で言ってるのかよ? だって……白河さんを殺した男だぞ? 許せるわけないだろ!」
朱袮「それは、わかってる……わかってるけど……いい先生だったのも、本当だよ……」
青山くんはそれ以上何も言わず、溜め息と同時に髪の毛をかき乱した。
399:
牡丹「――とにかく、事件は終わったとしてもここから出られないことには何の解決にもならないわね。……後でトンネルの様子を見に行ってこようかしら。何も変わっちゃいないとは思うけど」
五道「そうだな……さすがに村の者から雪崩の連絡くらい入ってるとは思いたいが……」
青山「今日中に救助が来ますかね?」
五道「わからん……」
もう日は昇り始めている。トンネルを塞いだ雪を一日で除雪できるとは思えないし、助けが来るとしたらヘリだろうか?
灰崎「……これから、どうなるのでしょうか」
灰崎さんが誰ともなしに呟く。誰もそれに答えようとはしなかった。
400:
五道「そうだ、灰崎さん」
灰崎「はい。どうかなさいましたか?」
五道「あー……こんな時に言うことでもないようで申し訳ないんだが、実はさっきグラスを一つ割ってしまってね。もし高価なものだったら――」
灰崎「いえいえ、お気になさらないでください。グラスの一つや二つくらい、大したことではございませんよ」
五道「そうか……すまないね」
P「グラスって……もしかしてさっき厨房から持ちだしてたやつですか?」
あれは……たしか30分ほど前だったか。
五道「うむ。自分の部屋に入ろうと扉を開けた時に手を滑らせてしまった。――ああ、ちゃんと片付けておきましたから大丈夫です」
後半は何か言い出そうとした灰崎さんへ向けた言葉だった。
牡丹「そういえば、外でがちゃんと何か音がしたような……。その音だったのね」
牡丹さんは一人で納得したように言った。
五道「すまんな、驚かせたか? てっきり様子を見に部屋から出てくるんじゃないかとも思ったんだが」
牡丹「幻聴か何かと思って聞き流してたわよ」
牡丹さんは髪を触りながら言った。
401:
灰崎「あの……お嬢様? そろそろ部屋をお出になられてはいかがでしょうか?」
灰崎さんが心配するように言った。
貴音「すみません、じいや。もう少しだけ、調べておきたいことが……」
貴音はどこか事件の結末に納得がいっていないようだった。先ほどからずっと黙ったまま何かを考えこんでいる。
灰崎「はぁ、左様でございますか……」
貴音は灰崎さんのほうをちらと見て何かに気がついたようで、彼の方へ近寄っていく。
灰崎「お嬢様?」
貴音「ここ……染みが」
指で指し示す。灰崎さんの胸元、黒スーツの間から覗く白いシャツに10円玉ほどの大きさの茶色の染みができていた。
灰崎「おや? ……ああ、これは恥ずかしいところをお見せしてしまいました。先ほどまでコーヒーを飲んでおりましたので、おそらくその時にこぼしてしまったのでしょう」
貴音「珍しいことですね。じいやがそのような粗相をするなど」
貴音は少し緊張が緩んだように笑って言った。
灰崎「はは……私も年を取ってしまいました」
貴音「早めに、染み抜きをしてしまったほうがよいでしょう」
灰崎「わざわざ教えていただきありがとうございます」
そう言って丁寧に礼をする。
P「灰崎さん。俺も一緒に残りますんで、貴音のことは心配しないでください」
灰崎「左様でございますか。それならば……」
今度は他の人たちにも向かって言う。
P「他の皆さんも、もう戻っていただいて大丈夫です」
402:
俺と貴音以外の人たちは部屋を出ていった。黙ったままの貴音に声をかける。
P「何か気になってることがあるのか?」
貴音「……本当に、自殺でしょうか?」
P「いや、でも……」
貴音「……もう一つ、この部屋になくてはならないものがあるということ、お気づきですか?」
P「……?」
貴音「黒田殿が殺害された時に、犯人が奪っていったものがありましたね?」
P「あっ……ノートか!」
例の六原云々と書かれたあれだ。
貴音「そうです。この屋敷内で処分ができたとは思えません。その帳面がこの部屋で見つからなければ、自殺の線は疑わしくなってきませんか?」
P「……探してみよう」
403:
机の下、引き出しの中、ベッドの陰など隈なく探すが、あのノートは見当たらない。
P「あとは……そうだ、千家さんの荷物の中も見てみよう」
奥のベッド脇に置かれていた大きな革製の黒い鞄だった。
貴音「わたくしが確認します」
片腕しか使えない俺を気遣ってくれているらしい。代わりに貴音が鞄の中身を取り出していく。
中に入っていたのは綺麗に畳まれた着替えと研究用らしい資料のファイルやノートに筆記用具……鞄の中にはそれ以外に変わったものは見つからなかった。
貴音「……見つかりませんでしたね」
P「あっ、ちょっと待った。そこにポケットがあるぞ」
鞄の内側にチャックで閉じられたポケットを開けてみると、やはりそこにはノートは入っていなかった。しかし、別の、それも見覚えのあるものが入っていたのだ。
一つは、紐の切れたガラス球。切断面が綺麗であることからも、白河くんの胸にあったものに違いない。
貴音「プロデューサーの推理は正しかったようですね」
俺は頷く。今はそれよりも、もう一つの発見が気になった。
そのもう一つとは茶色の革の手帳。千家さんが持ち歩いていたものだ。
404:
貴音「この手帳……随分と古いもののようです」
P「たしか、親父さんの形見だとか言っていたかな」
貴音「なるほど……」
そう言いながら貴音は何気ない手つきでその手帳を開く。
貴音「……!」
その目が驚くように見開かれた。
P「どうした?」
貴音「この手帳……始めの部分以外は使われていないようです」
貴音は手帳のページを次々と捲りながら言った。たしかに何も書かれていないページばかりだ。
405:
貴音「それに……ここを、御覧ください」
貴音は手帳の表紙を開いたところを見せた。手帳は横書き式で一ページ目には時間と場所が雑多に書きなぐられていてよくわからないが、予定を記したものであるとわかる。
貴音「そちらではなく、こっちです」
表紙の裏側の隅っこを指で示す。そこには筆で書かれたような字で――少々かすれてはいるものの――こう読むことが出来た。
『六原藍之助』
P「藍之助って……千家さんと同じ名前だ……それに六原って……」
……あのノートに書かれていた名前。
貴音「……プロデューサー」
貴音は痛みを押し殺したような声で言った。
貴音「……思い違いをしていたようです。千家殿は……わたくしたちが予想もしていないほど、途方もなく大きな……悪意のもとに行動していたのかもしれません」
貴音は手帳の2ページ目、つまり予定を記してあるページの裏側を見せるようにする。そこにはボールペンを使ったような字でページいっぱいに書きなぐられている。字はいびつで、ところどころ右にこすったようなインクの滲みができていた。
その字のせいもあってか、その文面はまるで……冷たく刺すような怨念が込められているかのようだった。
406:
『この時をどれだけ待ち焦がれただろう
この日のためだけに生きてきた 復讐のためだけに
ただ殺すだけでは意味が無い だからこそ十年待ったのだ
十年前は予想外の邪魔が入って失敗したが今回は逆にあの男に役立ってもらう 十年前の常磐と同じ役目を常磐を裏切ったあいつに あいつを殺すのは最後にとっておくことにする あいつがそれを知る頃には全てが手遅れなのだ
あの日私たちを地獄に追いやった悪鬼どもへ復讐を 恐怖と死の絶望を』
407:
P「…………」
すぐには言葉が出てこなかった。書かれてある内容の全てを理解できたわけではない。だが、そこに込められた深い憎悪に心を侵略されたような気持ちだった。
唾を飲み込んでから言った。
P「どういう意味だろう……これ」
貴音「おそらく千家殿は……復讐のために殺人を計画していたのです。民俗学の研究などというのも、ここへ来るため、復讐のための建前にすぎなかったのでしょう。そして十年前に村へ来た時にもその計画を実行しようした。しかし、失敗した……」
そこまで言ってからこう付け加えた。
貴音「――わたくしは、そう解釈しましたが」
408:
P「十年前は誰かの邪魔が入った……ってあるな。でも、今回はその人物を逆に利用しようとした」
そして、千家さんはその人物すらも最後には殺すつもりだったらしい。
P「常磐さんを裏切った男……って、誰のことだろう?」
貴音「……一人、心当たりはあります。そう考えれば、色々な辻褄が合ってきます」
P「誰だ?」
貴音「……それは、また後で」
思いつめたような表情で言った。
貴音「――それより、この部分なのですが」
貴音は人差し指でその部分をなぞる。
P「悪鬼ども……これが復讐の対象ってことだよな。『ども』って言うからには複数いるんだろう」
貴音「ええ、その中にはわたくしも含まれているはずです」
409:
P「……どうして?」
貴音「談話室で襲われた時、犯人……千家殿の狙いは間違いなくわたくしにありました。であれば、当然わたくしもその『悪鬼ども』の中に含まれているのでしょう」
P「ありえないよ。なんで貴音が千家さんにそこまで恨まれることがあるんだ?」
貴音「……わかりません。でも、もしかしたら…………」
そこで言いよどんでしまう。
P「もしかしたら?」
貴音「……いいえ。やめましょう。推測に過ぎません。……結局、帳面は見つかりませんでしたね」
貴音は話題を切り上げるように言った。
410:
P「ノートが見つからないとなると……殺人の可能性があるってことか」
貴音「問題は、『千家殿の部屋から誰かが帳面を奪った』のか、それとも『元々この部屋になかったのか』……ですね」
P「待ってくれ。元々なかっただって? ということは……」
貴音「それがどういう経緯であったのかは今は置いておくとして、白河殿を殺害したのは千家殿だと思います。しかし、その前の二件の殺人についてはどうでしょう。特に……最初の殺人。つまり叔父の殺害についてなのですが……千家殿に可能だったでしょうか?」
P「可能だったでしょうか、って……」
千家さん以外にあり得るのか? 記憶を辿って考えてみる。
P「千家さんはたしかあの時……村のコンビニで買い物を――あっ」
今になってやっと思い出した。俺は……『千家さんのアリバイを証明する証拠を持っていた』じゃないか!
411:
ズボンのポケットから財布を取り出し、そこに挟んであった2枚のレシートを見せる。
P「これ……屋敷の外に落ちていたんだ。千家さんが落としたものだと思う。ほら……酒の種類、本数……それに、こっちは牡丹さんから頼まれていた煙草だ。買い忘れて一度戻ったって話してた。全部一致してる」
一枚目のレシートには酒類、二枚目のレシートには煙草が一品だけ書かれてある。
P「たしかコンビニまでは車で30分近くかかるんだよ。牡丹さんと五道さんがそう話してたのを覚えてる」
貴音「ということは、ここに記されてある時間の前後30分、千家殿には犯行は不可能だったということになりますね」
P「千家さんが屋敷を出たのが……ええと……」
貴音「じいやが千家殿の車にがそりんを入れるのを手伝ったと話していました。それが終わったのが10時半を過ぎた頃だったと言っていましたね」
そう、各人のアリバイを確認していた時に出た話だ。
改めてレシートに記載されてある時間を確認する。一枚目のレシートには23時08分、二枚目のレシートには23時30分とあった。
P「10時半に出発して、30分ほどの道のりを行って11時08分にコンビニで買い物をした。帰りかけたが、買い忘れた煙草のことを思い出してUターンした。それで煙草を買えたのが11時30分。そこから戻るまでまた30分ほどかかると考えると……」
貴音「千家殿には犯行のために使えた時間がほぼ存在しない事になりますね」
P「ああ。月光洞への往復にかかる時間も考えると、千家さんには犯行はまず不可能だったことになる」
これがなんらかのアリバイトリックである可能性は無視していいだろう。そうであればレシートをあんなところに捨てておくはずがないし、自分が後で見つける予定だった、誰かに見つけてもらう予定だったとも考えられない。そんな迂遠な手順を踏む意味が無いから。
P「……松葉さんを殺した犯人は、千家さんじゃない」
412:
貴音「そして……確実に自分のありばいを証明できる証拠をむざむざと捨ててしまっているということは、『千家殿はその時間に殺人が起こるとは予想もしていなかった』とは考えられないでしょうか? 要するに、共犯者がいるということもあり得ないわけです」
P「なるほど。自分はアリバイを作っておき、共犯者に松葉さんを殺させた……というのはなさそうだな」
貴音「更に言うなら、千家殿本人は『悪鬼ども』への復讐――殺人を犯すつもりだったとしても、まさか『自分以外に殺人を企図している者がいるなどとは思いもしなかった』ということになります」
P「殺人を計画している人間が、ここに偶然二人もいたということなのか?」
貴音「偶然……なのでしょうか。どうにも引っかかるものを感じるのですが……」
貴音は記憶を辿ろうとするように、こめかみを右手の人差し指で押さえながら言う。
413:
貴音「それに、気になっていることがもう一つ」
貴音は人差し指を立てて言った。
貴音「黒田殿が殺害された時と、談話室でわたくし達が襲われた時……鬼の扮装をした犯人の凶行という点では同じですが、それらには奇妙な差異があったのです」
P「差異? 差異って?」
貴音「それは――っ……!」
一瞬、貴音の体がぐらりと揺れる。危うく倒れるのではないかと思ったが、うまく踏みとどまったようだ。
P「おい、大丈夫か?」
貴音「……すみません。少し、くらっときてしまいました」
P「多分、この臭いのせいだろうな。一度出よう」
昨日からろくに休んでいないので、その疲れもあるのだろう。事件のことなど放っておいて、今は休んだほうがいいのだろうとは思う。だが、それを言ったところで彼女が素直に聞き入れるとも思えないのだった。
414:
廊下に出て、扉を閉めて一息つく。
P「……無理はするなよ」
貴音「……ご心配なく。プロデューサーのほうこそ」
そう言って気取ったように微笑む。
貴音「――今までのこと、整理してみましょう」
貴音は扉に寄りかかるようにして言った。
貴音「まず……叔父が殺された事件。二つの南京錠に厚い鉄の扉という、厳重な封印が施されていた月明かりの間の中で、叔父は亡くなっていました。それに、祠からは村の護り刀である暁月が盗み出されていた……」
最初の事件。そしてそれが一番厄介なように思えた。
P「犯人はどうやって密室殺人を……」
貴音「密室の謎は、既に解けています」
貴音はあっさりと答えた。
415:
P「ほ……本当かよ?」
貴音「はい。プロデューサーと白河殿の調査のお話、そして……これのおかげで」
貴音はスカートのポケットから何かを取り出す。それは、例のビー玉の飾りだった。
P「……それが?」
貴音「先ほどプロデューサーはおっしゃいましたよね。『十年前に崖下に投げ捨てられたはずの腕飾りが、どうして月明かりの間で見つかったのか』、と」
P「ああ」
貴音「極めて単純な問題なのです。素直にこの事実を解釈して……あとは、少しばかりの発想の羽ばたき。そうすれば自ずと答えは見えてきます」
P「うぅむ……?」
そう言われても、残念なことに俺にはさっぱりだった。
416:
貴音「次は黒田殿の殺害についてです。犯人の持ち去った『六原』の文字が入っていたという帳面、おそらくは犯人の動機に関わっているものと思われます」
P「黒田はそのノートの中身を知ってしまったために、殺された?」
貴音は頷いて肯定する。
P「……黒田を殺した犯人は、千家さんだよな? だって鬼の恰好をしていたわけだし……でも奪っていったノートが部屋になかったってことは……」
あれ? なんだか混乱してきた。なにか間違ったこと言ってるか?
貴音「そのあたり、先ほど申し上げた『差異』が重要な手がかりになるはずです」
説明を請おうとした時には貴音はもう次の話に移ってしまっていた。
貴音「次の白河殿の事件については、プロデューサーの推理通りでほぼ間違いないと思います」
P「でも、結局どうして千家さんが彼を殺したのかはわからずじまいだ。まさか、白河くんも千家さんの復讐の対象だったんだろうか?」
貴音「……それも、考えられますね。しかし、千家殿が殺されてしまった以上、確認するすべはありません」
417:
P「で、最後に千家さんが殺された……か。一体誰が犯人なんだ……?」
貴音「それが問題ですね。千家殿の事件が発覚してから、どうやら嘘をついているらしい人物ならいたのですが……」
P「嘘……?」
全然気が付かなかった。
貴音「しかし、後もう一歩が足りないのです」
貴音は右手を口元に持って行き、考えこむ……かと思いきや、ぱっとその手を口から離した。
P「どうした?」
貴音は自分の右手を驚いたような目で見つめている。
貴音「……プロデューサー、これを」
そう言って右手を顔の前に差し出す。一体この手をどうしろというのか?
貴音「嗅いでみてください」
P「は?」
貴音「いいから! お願いします!」
P「わ、わかった」
困惑しながらも差し出されたその手に鼻を近づけ、嗅いでみる。
微かにではあるが、爽やかな香りが残っている。これは……
P「……林檎?」
418:
貴音は左手を顔へ近づけて、
貴音「……左手も同じ匂いがします。先ほどまではこのような匂いはしませんでした。きっと、部屋の中のものを触った時に……」
P「部屋の中のものから匂いが移ったってことか? そんな匂いがしそうなものはなかったけど……」
酒にしたって林檎を含むものはなかったはずだし……そんなことを考えながら何気なく右手を顎に持っていこうとした、その時だった。
林檎の香りがした。
P「――あれ?」
419:
貴音「……どうなさいました?」
P「おかしいな……俺の手にも同じ香りが移ってるみたいだ」
貴音「しかし、プロデューサーは……」
そう、俺があの部屋で触ったものといえば……。
貴音「…………プロデューサー。一つ、お訊きしたいことがあるのですが」
P「何だ?」
貴音「……とても、重要な事です。よく思い出して答えてください」
貴音は俺の目をまっすぐと見て、一つ一つ念を押すように言った。
P「……わかった」
貴音がその質問を口にする。その内容は『どうしてそんなことを?』と思ってしまうようなことだった。たしかに、彼女はその場面にいなかったのだが……。
420:
P「――ああ、たしかにそうだったけど、それが一体……」
貴音「…………」
貴音は右手で髪の毛を掻き上げるようにしたまま、時間が停止してしまったかのように動かなかった。
P「貴音?」
やがて彼女は目を閉じ、静かに言った。
貴音「……犯人が、わかったかもしれません」
驚いた。まさかさっきの質問で? だが、彼女はちっとも嬉しそうではない。むしろ……その逆だ。
P「……本当に?」
貴音は頷いた。そして、そのまま黙りこんでしまう。
P「貴音? 大丈夫か?」
彼女の目がゆっくりと開かれる。その目は、悲しみの色を浮かべながらも強い意思が宿っていることを感じさせた。
貴音「……どうか、この先はわたくしにお任せください。この呪縛は……わたくし自身の手で、断ち切ります」
421:
読者への挑戦
まずはこの長い長いお話をここまで読んでいただきありがとうございます。
ようやく物語は最終章の手前までやってきました。
次章において未だ明かされていない謎の全て――つまり、密室殺人の謎や犯人の正体、そして暁月村と十年祭にまつわる事件の全貌が明かされることとなります。
解決編の前に読者の皆様に指摘していただきたい謎は三つ。
一、『犯人が四条松葉を殺害するにあたって用いた方法とは?』
二、『黒田九里太殺害と談話室襲撃事件における奇妙な差異とは何か? また、そこからわかる事実とは?』
三、『犯人が千家藍之助を殺害するにあたってとった一連の行動と、そこからわかる犯人の正体とは?』
これらについては唯一無二の解答があり、既にそれに至るために必要なデータは提示してあります。(もちろんこれら以外の謎の考察も大歓迎です)
一つの戯れとして挑戦していただければ嬉しく思います。
では最後までどうかもう少しばかりお付き合いいただけますように。
435:
余計かもしれませんが第三の謎についてのちょっとしたヒントを
『あってはならなかったもの なくてはならなかったもの』
454:
――書斎に、ノックの音が響いた。
P「どうぞ」
扉が開いて、その人物が姿を現す。
貴音「……座ってください。わたくし達は立ったままで結構です」
貴音が円形のテーブル横に配置された椅子に座るよう促す。
俺と貴音は立ったまま、その人物が椅子に腰を下ろすのを見ていた。
「それで……お話とはいったい?」
落ち着いた、ゆっくりとした声でその人が言った。
貴音「事件について、色々とわかってきたことがあります。それをお話しようと思いました」
「……他の方は?」
貴音「お呼びしたのはあなただけです。そのわけについては、後ほど話します」
その理由を俺は知っている。この人が――『鬼』なのだ。
455:
外は明るくなりかけているが、カーテンは閉めきってある。
そして書斎内の二つあるうちの蛍光灯の片方は壊れているため、その人の顔は陰になっており、どんな表情をしているのかがわかりづらい。だが、一見して随分と落ち着いているようだ。
貴音「千家殿が亡くなり、彼の自殺ということで事件には決着がついた……そのように思われました。しかし、違うのです。……千家殿は殺されたのです。それも、この屋敷にいる誰かに」
「そんな馬鹿な」
貴音「いいえ。その証拠に、黒田殿が殺害されたときに犯人が奪っていった帳面を、千家殿は持っていませんでした。しかし、これは千家殿を殺害した何者かが、その際に部屋から盗みだしたということではないのです」
「……どういうことでしょう?」
貴音「初めから、千家殿の部屋にその帳面はなかったのです。『黒田殿を殺害した鬼と、千家殿は別人』です」
その人は黙っていた。貴音が次に何を言い出すのかじっと様子をうかがっているようにも見えた。
456:
貴音「わたくしがそう判断した根拠は、『千家殿が左利きである』ということなのです。千家殿は腕時計を右手首に付けていましたし、それに……千家殿の持っていた手帳。そこに書いてあった文章は、左手に筆を持つ者の特徴がありました。……実際に見ていただいたほうがよいでしょう」
貴音は茶色の革の手帳をテーブルの上に置き、該当のページを開いて示す。あの復讐計画の文面。
「…………!」
それを見てさすがに驚いたようだった。さすがに、千家さんがそんなものまで残していたとは思わなかったのだろう。
貴音「おわかりいただけましたか? 『字の右側にいんくが擦れている』というのがそれです」
左手で文字を書くと、どうしても小指側が紙に触れてしまう。だから気をつけないとペンのインクが乾く前に擦って字を滲ませてしまうのだ。
457:
貴音「千家殿は左利き、それは間違いありません。そして……『わたくしとプロデューサーを談話室で襲ってきた鬼も、刀を左手に持っていた』のです。あの襲撃については、千家殿が犯人だったと考えてよいでしょう。しかし、『黒田殿を殺害した鬼は違いました。あの鬼は刀を右手に持っていた』のです」
そう……黒田が殺された時、談話室で襲われた時、どちらも緊迫した状況にあったからそんな明確な違いにも気がつくことができなかった。
千家さんは刀を利き手、つまり左手で持っていたのだ。剣道では剣を右手に持つものだと教わるようだが、彼は剣道経験者でもないようだったからそれを知らなくても不思議はない。
貴音「そしてもう一つ。談話室で襲ってきた鬼は、始めからわたくしを殺すつもりでいたと思われます。対して物置に現れた鬼はわたくしの姿を見るなり、逃走した……物置でもわたくしを殺そうと思えば鬼には容易くそれができたはずです。では、それをしなかった理由は何でしょう?」
鬼はあの時点で俺も貴音もまとめて殺すことができたはずだ。そうしなかったのは、あの鬼は俺達に対しては殺意を持っていなかったからとしか考えられない。
その後で行われた談話室襲撃は、青山くんが来てくれなければ間違いなく俺達は鬼に殺されていたことだろう。物置に現れた鬼と、談話室に現れた鬼とでは決定的なまでの殺意の差があるのだ。
458:
貴音「刀を持つ手の左右の差異。そしてわたくしに対する殺意の有無の差異。それが鬼が二人いるという事実を示しています。黒田殿を殺害し、帳面を奪っていった犯人は千家殿以外の誰か……。では、どうして千家殿が、黒田殿を殺害した鬼と同じ恰好をしてわたくし達の前に現れたか……その経緯については想像でしか語ることができません。千家殿が装束の隠し場所を偶然発見したのか、あるいは犯人の正体に気がついて、脅すか、あるいは証拠を隠滅するのを手伝うなどと言って直接受け取ったのか……」
貴音は軽く咳払いをする。
貴音「二人の鬼についてはひとまずここまで。時間を前に戻し、最初の事件の話をしましょう」
一呼吸置いてから続ける。
貴音「最初の事件、つまり叔父が殺害された時のことです。千家殿には、叔父が殺害された時間のありばいがありました。プロデューサーが屋敷の外へ出た時、偶然に拾ったれしぃとがその証拠です」
貴音は二枚のレシートをポケットから取り出してテーブルの上に置いた。
貴音「つまり、叔父を殺害した犯人も千家殿ではないのです。おそらく、その犯人は黒田殿を殺害した者と同一人物でしょう。叔父が殺害された時に同時に祠から奪われた暁月を持っていたのが、その根拠です」
「……なるほど」
呟くようにそう言って小さく頷く。
459:
「ですが、その人物はいったいどうやってあの月明かりの間で……密室殺人をやってのけたと?」
貴音「……現場は、二つの南京錠によって封印された厚い鉄の扉の奥。いったい、犯人はどのようにして月明かりの間に侵入したのか。それが最大の問題でした」
貴音はそう言いながら後ろの本棚に寄りかかる。
貴音「犯人が乗り越えるべき障害はそれだけではありませんでした。たとえ二つの南京錠を外すことができたとしても、あの重い扉を開ければ、その音で間違いなく内部の者に気づかれるはずでした」
「しかし」と言い繋ぐ。
貴音「叔父の傷痕は、背中の一箇所のみ。犯人はまるで音もなく忍び寄り、背後から刃物を突き刺したかのよう……」
「検討もつきません。人の所業とは思えない……」
貴音はそれを聞いて、首を振って否定する。
貴音「わたくしにはわかります。これが人の手による殺人であるということが。洞の鬼など……いないのです」
460:
「……では、いったいどうやって?」
答えられるはずがない。そう挑戦するかのような言い方だった。
貴音「月明かりの間には、正面の鉄扉以外にももう一つ、外と繋がっている部分があるのはご承知でしょうね」
「…………」
貴音をじっと見つめたまま、何も言わない。
貴音「月光の差し込む天井……月明かりの間という、その名の由来でもあります」
「しかし、あそこは……」
貴音「そう。光が差し込んでくるとは言っても、網目状に穴が開いているだけで、人の出入りはできません」
「それではやはり、殺人など――」
貴音「人の出入りはできません。……ですが、『物の出入りならばできる』」
461:
「…………」
その人の表情がわずかに緊張したように見えた。
貴音「……天井の穴の大きさより小さいものであれば、出入りは可能なのです。例えば……そう、こういったものです」
貴音が取り出して見せたものは、ビー玉の腕飾り。
「……それは?」
貴音「月明かりの間に落ちていたのを、ある人物が見つけていたものです。そして、わたくしはこれと同じものを10年前にも見ているのです」
「10年前?」
貴音「しかしその時、この腕飾りは裏手の山道から崖下へと投げ込まれたはずなのです。それがなぜ月明かりの間で見つかったのでしょうか?」
「…………」
その人が何か言おうとしたようだったが、途中で口を閉じた。
462:
貴音「……ここでもう一つ、別の方向から謎の検証をしてみようと思います。わたくしがプロデューサーから聞かされた話の中で、一つ違和感を覚えるものがありました。それは、山道への吊り橋が落とされていたということです」
貴音は淡々と話を進めていく。
貴音「犯人はまだ殺人を続けるつもりであり、対象を逃すことのないよう、予め逃げ道を塞ぐために橋を落としたのではないか……そういった話がされたようですが、わたくしはそれは考えづらいことだと思いました。なぜならば、そもそもここに孤立する羽目になったのは、雪崩によって村への道が塞がれるという偶然の出来事が原因だからです」
「要領を得ませんね。どういうことです?」
貴音「橋が落とされていたということは、事件についての議論を終えた直後、プロデューサーと白河殿の行った調査によって判明しました。犯人は、二人が調査に出かけた後、先回りをして橋を落としたのでしょうか? それはあり得ません。橋を落としたりすれば相当大きな音がするはずで、二人に気づかれる恐れがあるばかりか、途中で鉢合わせにでもなれば言い訳のしようがありません。橋を落とすならわざわざそんな危険な時に実行する必要はない、皆が寝静まった後でもよかったはずです。――それなのに橋は落とされていた。『二人の調査が行われるよりも前に』落とされていたということです」
「それのどこがおかしいと?」
貴音「雪崩が起きたと考えられる時間は、千家殿が村から戻ってきてから、五道殿と三船殿が二人で確認してきてくれるまでの間。この間は叔父の事件が発覚した騒動のために、事件についての議論を終えるまで全員が一緒におりました。……五道殿と三船殿が共犯というわけでもない限り、『雪崩が判明した以後は、誰にも橋を落とすことができなかった』わけです」
「…………なるほど」
その人はようやく貴音の言わんとする事を察したようだった。
463:
貴音「つまり犯人は……『雪崩が起きるよりも前に橋を落とした』という推論が成り立つのです。ではもしも雪崩が起きなかったら、犯人はどうするつもりだったのでしょう? それとも、犯人は予知能力者で雪崩によって道が塞がれることを察知できたのでしょうか? そんなはずはありません。考えられるとすれば、二つ」
貴音は指を二本立てて言った。
貴音「一つは、犯人が予めとんねるを塞ぐ何らかの手段を用意していたということ。それならば先に吊り橋を落としたということにも納得がいきます。しかしそうとなると、とんねるそのものを爆破でもしない限りは不可能でしょう。それはいささか非現実的な考えなように思われました。よってわたくしは、もう一つの可能性のほうを検討すべきだと考えました」
立てる指が一本となる。
貴音「それは『犯人は山道に見られたくないものがあり、それを隠蔽するために吊り橋を落とした』というものです」
「見られたくないもの?」
貴音「それではここで、先ほどお話した『山道の崖下へと投げ捨てられた腕飾りがなぜ月明かりの間で見つかったのか』、そして『犯人が隠したがった山道にあるものとはなにか』……二つの謎を結びつける、ある仮説をお話しましょう」
貴音は力を込めて言った。
貴音「『腕飾りの投げ捨てられた山道の崖下には、ちょうど月明かりの間の天井部分がある』……としたら、どうでしょう?」
464:
一瞬の静寂が訪れた。貴音は更に続ける。
貴音「たしかに、山道と月光洞への道のりは途中の二又路で分かれてはいます。しかし山道は曲がりくねっており、月光洞の入り口も山すそにあって、そこから更に奥へ進んだところに月明かりの間が位置しているとすると……可能性はあるはずです」
「そうだとして、何だと言うのです?」
貴音「……『犯人は山道の崖の上から、月明かりの間にいた叔父を殺害した』という推理が成り立ちます」
「まさか、そんな……」
悪い冗談だ、とでも言うように笑う。
貴音「笑い飛ばせるものならそうしていただきましょう。わたくしの振る刀が鈍らであるというのなら、反論でもってその刃を叩き折っていただいても構いません。……できるものならば」
「それでは……反論させていただきましょう」
その人は静かに言った。まだ余裕の感じられる声だった。
465:
貴音「なんでしょう?」
「仮に……その通りだったとしましょう。しかし、犯人はそこからどうやって殺人を行ったというのです? 刃物か何かを投げつけたのでしょうか? 現場にはそんなものはなかったはずです」
貴音「縄を使ったのです」
貴音は即座に返した。
貴音「長い縄の先端に、ある刃物を結びつけておき、それを崖の上から天井の中心部にある穴に目がけて落とした――そして、叔父の命を奪った後、縄を引き上げて凶器を回収したのです」
「しかし、傷痕は背中にあったはずですが」
貴音「叔父は奉納の儀の祈りの最中でした。しきたりでは、『神宿りは月明かりの間の台座の中心で、正座に額づくような姿勢で祈りを捧げなければなりません。犯人もそれを知っていたのでしょう』。そしてこう考えたのです。『崖の上からで標的の姿がはっきりと見えなかったとしても、天井の中心部を狙って落としさえすればちょうど凶器は背中に突き刺さる形になり、殺害は可能である』……と」
そして、犯人はそれを実行したのだ。
466:
「…………それは、おかしい」
はっきりと否定する。おそらく、自分がここに呼ばれた理由には薄々感づいている。様子を見つつ、少しでも貴音が隙を見せたら、その推理を食い破り追及から逃れようとしているのだ。
まだ、鬼を追い詰めたというには程遠い。
「現場で起こったことは殺人事件だけではなかったはずですよ」
貴音「暁月の盗難のことを言っているのですね?」
「ええ。犯人はいったいどうやって暁月を盗み出したというのです?」
貴音「たしかに、犯人は月明かりの間に入ることはできませんし、暁月の奉納されていた祠には鍵がかかっていました」
「そう。不可能です」
貴音は首を振った。
貴音「それが、可能なのです。『協力者がいれば』」
467:
「きょう……りょくしゃ?」
素知らぬふりをしてはいるが、少しずつ動揺を見せ始めていた。
貴音「そう。『祠から暁月を取り出してくれる協力者』がいれば、暁月の奪取は容易だったはずです」
「何を言っているか……わかっているのですか?」
貴音「……残念ながら、誰よりもわかっているつもりです」
貴音はまっすぐ相手を見て言った。
貴音「その可能性を示す証拠は、先ほどお見せした……これです」
千家さんの手帳に書かれた文面を指し示す。
貴音「――要するに」
彼女にとっては認めたくなかったであろう事実……貴音はそれを口にする。
貴音「この事件は……『千家殿と叔父の共犯による暁月盗難計画が、それを知った犯人によって殺人に利用された』というものなのです」
468:
「……馬鹿な!! そんなはずが……ッ!!」
テーブルを強く叩き、声を荒らげる。しかし、犯人である『彼』はそれを知っていたはずではないのか? その怒りが演技とはどうしても思えなかった。
貴音「千家殿は事件の起こる前に、叔父と二人きりで話していました。そう、この書斎で。わたくしとプロデューサーは部屋から出てくる二人を見ています」
『約束の件、頼みましたよ』
あの時、千家さんは松葉さんにこう言ったのだ。今ならば、その意味がわかる。
貴音「あの時二人は、暁月盗難についての段取りを話していたのです。そして、『その話を何者かが盗み聞きしていたという痕跡もありました。書斎の窓がほんの少しだけ開いていたのです』。おそらく犯人は中庭側から、開いた窓を通してその話を聞いていたのではないかと」
469:
貴音は今度は手帳を指して言った。
貴音「『ただ殺すだけでは意味が無い だからこそ十年待ったのだ』……この部分から、千家殿には殺人以外の目的があったということが読み取れます。それこそが暁月の奪取だったのです。十年に一度、神宿りだけが月明かりの間に入れる。逆に言うなら、神宿りの協力を得られさえすれば、十年祭を待つだけで暁月は手に入る」
「そんなのは……妄想にすぎない……!」
そう言って手帳を見ようともしない。
貴音「では、もう少しばかり妄言にお付き合いください。最後には納得していただけるはずです」
貴音は相手の発言など意に介さずといった様子で、淡々と話を続けた。
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