男「人間やめたったwwwww」back

男「人間やめたったwwwww」


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6:
女「もらったったwwwww」

暗さに目が慣れてきた。
(そういえば、頼んでしてもらうのって初めてだな)
それに快く応じて、喜々としてくわえてくれる志乃。
(うんうん。僕は幸せ者だなぁ)
そこがぬるりと温かく包まれる。
(今日は堪能したいな)
「志乃」
「ふ?」
彼女はくわえたまま上目遣いに僕を見る。
(電気消してるから油断してるな)
「顔見えてるよ」とは言わないでおこう。
「ゆっくりして」
「んむ?」
少し不思議そうだ。
「すぐ出したくない」
「ん」
納得したようだった。
427:

志乃は口を離して、舐め上げるところからやり直すことにしたらしい。
空いた手で太股をさすられるのがくすぐったい。
志乃が側面に舌を這わせると、先っぽが彼女の頬に触れて汚した。
薄暗い視界の中で、カーテンの隙間から入った灯りでそこだけなめくじが這ったようにぬらりと光った。
彼女はそれに構わないようだ。
ぞくぞくした。
(うーん、なんて恐ろしい子)
やがて、志乃から例の花の香りが漂い始めた。
(この匂い、久しぶりだな)
先を浅く唇で挟まれる。
(さすがに数日断ったら腹も減るよな)
そのまま舌先でなぶられる。
声が出そうになったけど、奥歯を噛んで堪えた。
僕が大きく息を吐くと、志乃はそのままにやりと笑った。
428:

(こいつ、ツボを心得てやがる……ッ!)
彼女は深く口に含むと、手も使い始めた。
(完全に出させにかかってるな)
一気に容赦しなくなった。
(もうちょっと堪能させてよばかあああああああ)
僕はあっけなく射精に至らされた。
志乃は相変わらず美味そうに喉を鳴らして飲んでいる。
(だから出てる間に吸っちゃらめえええええええ)
指で輪を作って、根本からゆっくり絞り出している。
彼女が口を離すと、ぽっ、と湿った音がした。
「ゆっくりしてって言ったのにぃ……」
僕は布団をかぶって、わざとそっぽを向く。
「あー、うー……お腹すいたん……」
志乃に向き直る。
少しばつが悪そうに、もじもじしていた。
ちょっとおもしろかった。
「美味かったか」
「ごちそうさまでした」
彼女は頬の横で手を合わせた。
429:

志乃が布団に潜り込んでくる。
下の方でごそごそしている。
下着をはき直しているらしかった。
「春海はさ」
「ん?」
「……その、したいって思う?」
「志乃は?」
「質問を質問で返すなー」
彼女は掛け布団を巻き取りながらごろごろと畳の上に転がり出ていった。
「戻ってこーい」
「やだー」
「かえってきてー」
「私が恥を忍んで聞いたんだぞ。答えてもらうまでは帰らないぞ」
彼女は簀巻き状態で抗議する。
これは新しいスタイルのストだな。
「したーい。超したーい」
「だめー、心がこもってなーい」
「真面目にしたいと思ってるから戻ってきてくれー」
「しょーがないニャーン」
ごろごろごろ。
430:

「で、そういうお前はどうなんよ」
布団を直しながら聞く。
「あ、あたし?あたしは……」
志乃は布団をかぶる。
「……したい、ですけど――」
布団の中からくぐもって聞こえる。
志乃が顔だけ出す。
「でも、やっぱりちょと怖い」
「わからんでもない」
彼女が達する直前、指一本でもぎゅうぎゅう締め付けてきたのを思い出す。
自分のモノの直径はどれくらいだったか。
「考えてみてほしい。自分の尻に棒が入ったらどうだろう、と」
「ケツを比較対象に引っ張るなよ」
「穴は穴ですし」
「穴だけど伸縮性とか用途が違うだろ」
「でもそっちに使う人もいるんでしょ」
(お前は何を調べたんだ……)
エロいことに興味を持ってくれるのはいいが、そっちの世界に興味はないんだ。
431:

(いかんなー、ムードがどんどん破壊されていくなー)
彼女の関心をケツから反らさないといけない。
僕に同性愛を嫌悪する気持ちはないが、そっちのケはない。
ましてや開発される気もない。
僕は志乃の胸を掴んだ。
「うわあぁあ」
「もちょっと可愛く驚けよ」
「いやあぁあん」
「リテイクはいいから」
少しあきれる。
「もっと慣れたらしような」
「じゃあ貴様、もっとエロいことをするつもりだな!えっち!」
「しなきゃ慣れないだろうが」
(少なくともそんな反応のうちはできそうにないな……)
「う」
「いやなら一人でしたまえ」
彼女はまた、よくわからないうめき声を出して布団にもぐってしまった。
先は長そうだ。
432:

「恥ずかしいのはお互い様なんだから、いちいち逃げてたらできないよ」
「ごめんちゃい」
「俺は志乃がエロくてもがっかりしたり馬鹿にしたりしないだろ」
「うん」
「もっと信用していただきたい」
「うん」
志乃は急にしおらしくなって、僕に口づけると
「ごめんね」
と詫びた。
僕が志乃の頭を撫でると、彼女は身を寄せてきた。
そのまま体をまさぐってみると、小さく声を上げた。
僕は眠くなるまでそうしていた。
433:

―――――日曜の朝・ナオミの部屋―――――
お義姉さんはいつの間にか帰ってきていたらしい。
「おはよう。よく眠れたようね」
「おはようございます。おかえりなさい」
どっちを言ったらいいのかわからなかったので、両方言った。
志乃はまだ眠っている。
昨日の疲れのせいかもしれない。
僕だって自室で寝てたら昼まで寝ていそうだ。
「妹は寝てるのね。ちょうどいいわ」
彼女は僕を事務所に呼んだ。
僕を来客用のソファに座らせると、お義姉さんは神妙な顔で切り出した。
「あの子が起きてこないうちに話を済ませましょう」
僕は半分寝ている頭をたたき起こそうと息を止めた。
「あなた、あのとき見えてたでしょ」
「あのときって――」
「始めに依頼人の部屋に行ったとき、それから、術者の女の部屋に行ったとき」
「ああ、なんか黒いのがわさわさうごうご……」
「あのときはあなた達の安全を確保するのに気をとられてたから聞かなかったんだけど」
「はぁ」
「それに、気のせいだと思ってた」
「…………」
「君、何者なの?」
「は?」
434:

「いや、ちょっと話の筋がわかりません」
「私があの子を車に残したのは、呪いを見せたくなかったからよ」
「それは、そうでしょうね」
不快な虫の形をした影を、ゲル状の黒いナメクジのようなものを思い出す。
「君、依頼人の部屋を見て、こう言ったのよ」
――なんだよ、これ――
「言った……ような気がします」
あのときは混乱していたからはっきりとは思い出せない。
でも、それくらい言っててもおかしくない。
「どうして見えるの?」
「どうしてって、俺にもわかりませんよ」
むしろ、見えるものだと思っていた。
「君、実は妖怪?」
「えー、俺は人間ですよ」
435:
10
「おかしいわね……」
「俺だってわけがわかりません。こういうもんだと思ってましたから」
「昔からってわけじゃないのね」
「ええ。呪いを見たのは昨日が初めてです」
「何なのかしらねぇ……」
お義姉さんは考えこんでしまった。
僕だってわけがわからない。
「あの、見えると何かまずいんですか?」
「まずいっていうか、心を病みやすくはなるわね。
 ほら、俗にいうみえる人って、不健康そうじゃない?」
「俺、このままだとどうなるんですか」
「どうもしないわよ。見えるだけだもの。相手をしなければいいわ」
「うーん……」
それは「ごもっとも」だけど、見えることが普通でないと言われると、恐ろしくなってしまった。
「ま、何か考えておくわ。今日は帰っていいわよ。私は寝るから」
お義姉さんはそう言うと、休憩室に行ってしまった。
439:
11
―――――春海の家―――――
「ただいま……」
「おかえり。ごはんは?」
一晩帰らなかっただけなのに、久しぶりに母に会った気がした。
(俺、呪いが見えるんだけど、ウチの家系ってこうなの?)
そんなこと聞けるわけがない。
「いい。眠い……」
もう眠くなかった。
何か調べられないものかとパソコンを起動させてみた。
それらしいワードで検索しても、オカルトにかぶれたうさんくさいサイトばかりヒットして参った。
「俺じゃどうにもならんか……」
パソコンの電源を落として、ベッドに寝ころんだ。
お義姉さんが何か考えてくれるらしいが、一人になるとどうにも不安だ。
(独りじゃないのが救いか)
お義姉さんが言うには、志乃にも見えるらしい。
(あの人、何なんだろうな)
――地獄の門番が、門前払いに来てあげたのよ――
いやいや、地獄って。
440:
12
疲れは残っているが、疲れきっているわけでもない。
本来ならここで適当に抜いて、そのまま寝るところだけど、そういう気にもなれなかった。
僕は宙ぶらりんな気分で、特に空いてもいない腹に朝食を詰めることにした。
「あれ、やっぱり食べるの?」
「うん」
「疲れとるねぇ。大丈夫?」
「うーん。……父さんは?」
「釣りよ」
「あ、そう」
(父さん、釣りなんかやってたかな)
調味料の入った引き出しを開ける。
「母さん、鰹節きれてる」
僕は納豆に鰹節を1パック全部入れて食べるのが好きだ。
「あらら。買い物行ったら買ってくるわ」
「うん」
やっぱり、どうでもいい内容の会話をすると、思考が普段どおりに引っ張られるせいか落ち着く。
441:
13
「母さん、うちのご先祖様って何してた人か知ってる?」
茄子は好きだけど、味噌汁に入ってるのはいただけない。
「なに?急に」
「いや、お彼岸近いじゃん。9月だし」
僕は沢庵を噛む。
「お父さんとこは農家で、お母さんとこは、ご先祖様はお侍だったみたい」
「フッ」
なぜか笑ってしまった。
どうしても日本史のビッグネームしか頭に浮かばない。
「まあ、武士もピンキリだからね。うちはキリの方」
「ああ、うん」
(なんだ、イタコや陰陽師じゃないのか)
農家と武士。どちらも現実的に生きてそうだ。
「血筋説」はなくなった。
食事を終えて部屋に戻ると、いよいよすることがなくなった。
学校から簡単な課題は出てるけど、今する気にはなれない。
(志乃、まだ寝てるかな)
志乃にメールでもしようかと思ったけど、やめた。
442:
14
―――――春海の家・昼前―――――
「義弟、起きなさい」
「うー、んー」
結局、何もできず悩むだけ悩んで眠っていたらしかった。
「起きなさい」
お義姉さんの声がする。
薄く目を開けると、彼女が部屋に立っていた。
「また事件ですか……」
僕は布団をかぶって背中を向けた。
あのときは神経が昂っていた。怖くなかった。
「違うわ。あなたの為に来たんだから反抗期な振る舞いはやめなさい」
「俺は、怖いですよ」
「妹だって怖がるわよ」
「そこで志乃を引き合いに出さないでくださいよ」
彼女の名前を出されると、僕は動かざるをえない。
亡霊を殺した志乃の暴走を思い出す。
(いや、あれは理性の上で殺してた)
あんなことはさせたくない。
「志乃を戦わせるのは嫌です」
「私もそう思うわ」
443:
15
僕とお義姉さんでは、志乃が可愛い、極力危険な目に遭わせたくないという点で一致している。
それなら、わかってもらえる。
体を彼女に向けた。
「だけど対抗する術は持っていたほうがいい」
お義姉さんが目を大きく開いた。
驚いたらしかった。
「怖いんじゃなかったの?」
「怖いですよ。だからこそ逃げることもできなくなったときのことを考えると、もっと怖い」
窮鼠猫を噛むというが、今の僕には猫を噛む前歯もない。
「いざとなったら志乃が戦えない、こともないのはわかってますけど――
 でもやっぱり、あいつにあんなことはさせたくないです」
「過保護ね」
「お義姉さんだって同じことを考えると思いますよ」
444:
16
お義姉さんは椅子を引いて座った。
「それで、義弟はどうしたいの」
彼女も半分はわかっていると思う。
「俺に盾をください」
「盾」
「盾っていうのは喩えですけど――ただの人間にも、結界は張れるのはわかりましたから」
「ああ、昨日の」
「そういったものが、瞬間的に出せるようになればいいんですけど」
「妹の――盾になるつもり?」
「そんな大それたもんじゃないです。俺たちが安心できる材料を少しでも増やしたいだけです」
「やけに謙遜するわね」
「長いこと人間やってるとこうなるんですよ。
 ――それで、できそうですか?」
「できるけど、練習が超地味よ。ほんと嫌になるくらい」
「平気です。もう十分面倒は被ってますから」
445:
16
お義姉さんはポケットを探ると、指輪を出した。
見たところ、フラットなデザインの銀でできたもののようだ。
「これをはめて。右手の中指ね」
僕は受け取って、つまんで観察する。
輪の内側には何か石が埋めてあった。
「それ自体があなたを守ってくれるわけじゃない。
 力を増幅させたり調整してくれる、補助的なものね」
言われたように、はめてみる。
確かになんともなかった。
「それで、どうすればいいんですか」
「地味よ。もんのすごい地味よ。覚悟なさい」
「えらく引っ張るなぁ……何なんですか」
お義姉さんは立ち上がって頭を掻いた。
「地味すぎて命じる方もちょっと嫌なのよねぇ」
(命令に地味も派手もあるんだろうか。この人にはあるのか)
彼女は少し間をおいて、
「きれいな円を、フリーハンドで描けるようになりなさい」
と言った。
446:
18
「……はぁ」
意味はあるのだろうが、確かに地味で少しの間呆然とした。
「なによ、リアクション薄いわね」
「ああ、ほんとに地味だったので」
「これだから言いたくなかったのよ」
「俺、漫画描きたいわけじゃないですよ」
(手塚治虫はできるんだったっけな)
「いいからやりなさい。ほんとに役に立つんだから」
少しむきになってきたようだ。
「わかりました。やります。やりますって」
やるべきことができて、少し気分に張りがでてきた。
「それじゃ、がんばってね」
そう言って、お義姉さんは消えた。
450:
フリーハンドで円は地味だなwww
451:

フリーハンドで円が書ける人は心がけ綺麗らしい
454:
19
他にしたいこともないので、父の書斎からコピー用紙を適当に束でもらってきた。
(円ねぇ……)
久々にコンパスを出して、いくつか大きさを変えて描いてみた。
(まあ、これなぞってれば癖が付くんじゃないかな)
まずは模倣から。
コンパスで描いた円を何度もなぞってみるが、30分もしないうちに飽きた。
(いやいや、飽きるまでやったってことは、案外描けるようになってるかも)
白紙を出して描いてみる。
(だめだ。タテに長い……)
やり直し。
(だめだ。ヨコに長い……)
(だめだ。ココでっぱってる……)
(だめだ。ココひっこんでる……)
(これは……地味だけど、いや、地味であるが故にキツイぞ……)
455:
20
「フリーハンド、円、コツ……っと」
困ったらグーグルに相談だ。
「教えてグーグル先生ー」
(ああ……漫画の神様とか紙を回せばいいとか、Shift押しながらドラッグばっかりだ)
(これは詰んだな)
(地道にやれということか)
急激にやる気がなくなっていく。
ベッドに入ろうとしたところで、インターホンが鳴った。
階下からやりとりが聞こえる。
――ママさんこんにちはー。
――あらぁ、志乃ちゃん。どうしたの?
――春海君がバイト先に携帯忘れたから届けにきますた。
(そういえば、まだ帰ってから携帯使ってなかったな)
足音が階段を上ってくる。
僕は机とベッドの間で、どっちつかずの中途半端な姿勢で志乃を迎えた。
456:
21
「春海ー、はよーん」
と、志乃は手を挙げる。
「おはよーの時間じゃないだろ。昼。今アフタヌーン」
「さっき起きたんだもーん」
「はい、携帯」と、僕に手渡す。
「ありがとな」
開いてみると、志乃からの着信が残っていた。
「悪い。何か用だった?」
「用は特にない。お話したかった」
「そうか」
かわいい奴め。
志乃の目が机の上で留まった。
「あ、丸がいっぱい」
「ああ、それは――」
説明しようと体を向けた瞬間、志乃が飛び込んできた。
「おおぅ……どうした志乃……」
「春海ががんばるっておねーさんから聞いた」
「あの人と喋ると筒抜けだな」
「ちょっと感動した」
(ちょっとか……やっぱり修行が地味なせいか……)
457:
22
志乃は僕の首に腕を回して、唇を合わせてきた。
(いつもより長いな)
息苦しくなったところで離す。
「――ぷは。じゃ、私は帰るね」
「お、おう……」
「がんばってね」
部屋を出るとき、彼女は振り返って微笑んだ。
僕は鼻の下を伸ばしながら見送った。
(ぃよっしゃあああああがんばる!もうね、俺超がんばっちゃう!)
(シモ・ヘイヘだって秘訣は練習だって言ってるしな!)
あー、俺って単純。
お義姉さんだって言い出すのを嫌がってたし、地味ーで成果がわからないけど、意味はあるのだろう。
そうでなければ、あの人がやれと言うはずがない。
志乃の容態がまだ安定しなかったとき、志乃の口に指を突っ込めと言われたときは面食らった。
だけど、それもちゃんと意味があった。
やる気が失せないうちに、僕はまた机に向かった。
458:
23
―――――月曜・学校―――――
僕は授業中も丸を描いていた。
ノートの余白がランダムな水玉模様になって、草間弥生リスペクトみたいになった。
「春海、ノートがキモいぞ」
長野に見つかった。
没頭していて隠す間もなかった。
動揺を悟られたくない。
「ああ……きれいな円を描こうとがんばってたらこんなことに……」
「なんでまた」
「最近、絵が上手くなりたくてなー。
 直線とか丸描いて線の描き方練習したらいいって聞かない?」
「そうなん?」
「いや、よくわからんけど」
「なんだよー、もー」
「俺もちょっと調べただけだもんよー」
459:
24
「あー、でも俺、むきになるのちょっとわかるわ」
長野が僕のノートに目を落としながら言う。
「おお、わかってくれるか」
シャーペンを置いて手首を回す。
仮に腱鞘炎になったとして、原因が「マルの描きすぎ」なんて恥ずかしい。
「貸して貸して。俺、結構得意なんだよねー」
「ん」
シャーペンを渡す。
長野は適当な余白を見つけると、迷いなく、シャッとペン先を走らせた。
「どうよ、これ」
粗を探せないこともないけど、ぱっと見た感じ、円だった。
「なん……だと……」
僕の昨日からの丸一日の苦労はなんだったんだ。
「お前、なんか練習した?」
「まあ、たまに描いてたけど、そんな必死にはやってないかな」
「はあぁあああ?なんだよこの美しさは。一朝一夕で身に付くもんじゃねーぞ!」
「そんな必死にならなくても……」
そうだ。たかがマルだ。
だけど今回ばかりは身を守りうるマルなのだ。
460:
25
「で、コツあるの?」
「コツっていうか……まあ、コツか。
 紙の上に線が見えるくらい、円をイメージして、線が見えた瞬間に迷わずなぞる」
思いがけず、有用そうな答えだった。
「イメージか」
「そう。俺のイメージ力はアスリート並!」
妙な喩えだ。
「イメージねぇ……」
「そう!俺は今まで一度もインターネットやエロ本を頼らなかった男!すべては想像!」
「お前、かっこいいようでやっぱりかっこ悪いわ」
「そこは誉めたたえて!」
こいつ、図に乗るとしばらくテンション高いからな……。
(素直ないい奴ではあるんだけどな……)
「うーん、ああ、でも助かったわ。サンキュー」
「え、助かったの?なんかよくわかんないけど俺ってえらいわー」
「うんうん」
闇雲に手を動かしてきたけど、ちょっと気が楽になった。
461:
26
―――――放課後・志乃の部屋―――――
「――というわけで、きれいな円を描くにはイマジネーションが大事らしい」
「ほう」
「だから俺は、まるいものをイメージするところから始めようと思う」
「ほうほほう」
「そこで印象に残りやすい丸いものを頭に叩き込みます」
「いやな予感しかしない」
「志乃、おっぱい見せてく――ぶっ」
枕が顔に飛んできた。
志乃はベッドに飛び移って避難している。
「ヘンタイだー!」
布団をかぶって、胸の前でかき合わせている。
「なんだよ、解禁してくれただろうが」
「まだ見られるの恥ずかしいんだもんバカバカー!」
「羞恥心と命どっちが大切なんだ」
「どっちも!ていうか丸いのなら他のがあるじゃん!ボールとか!」
「あれは直接的すぎて俺を円という枠にはめにかかるんだ!」
「じゃあそれでいいじゃん!なに自称・大器晩成型のダメ人間みたいなこと言ってんの!」
「俺はダメ人間じゃない!ちょっとばかりエロで釣ってくれた方がやる気が出るだけだ!」
「あんた十分ダメだよ!」
462:
27
煩悩と羞恥心の応酬の後、二人で大きく息を吐いた。
「おっぱいは円じゃない」
「知ってる」
「じゃあ見せろとか言うなよぅ……」
志乃は布団をかぶったままいやんいやんと身をよじる。
布団の固まりが揺れている。
「だけど乳輪は円かもしれない」
「いやいやいやいや」
「俺はその可能性に賭けてみたい」
「あんたって人はー!もう!もう何?なんなの?」
身構えたが、投げるものがないせいか何も飛んでこなかった。
「もー!私真剣に聞いたのに!ファック!まじファック!」
「志乃、俺たちの為だ」
「おっぱいで救える命などあるものか」
「あるよ。少なくとも二つは」
「真顔で言うなもうやだああああああああ」
志乃は布団をかぶったままうつぶせになって、足をばたばたさせる。
(志乃、ケツ出てるぞ)
ああ、尻も丸いな、そういえば。
僕は存分に注視する。
465:
28
身の置き場に困ったので、ベッドに腰掛けた。
「頭隠して尻丸出しだぞ。今日はピンクか」
志乃は止まった。
一旦布団に全身を隠してもぞもぞすると、頭だけこっちに向けて出した。
(かたつむり……しのつむり……)
志乃から布団を奪ったら、携帯を忘れた現代っ子くらいオロオロしそうだ。
彼女にとって、布団は羞恥心を守ってくれる殻のようなものなんだろう。
「そんなに見たい?」
「見たいとも」
「なんでよ」
「おっぱいを求めるのに理由が要るかい?」
「…………」
志乃は頭が痛いときみたいに、眉間にしわを寄せて、ぎゅっと目をつぶった。
「おかしいと言われてもいい。
 俺はお前の裸をちゃんと見るまでは死ねない」
「どっかで聞いたフレーズだな……」
志乃は布団にくるまったまま傍にきて、頭を僕の膝にのせた。
466:
29
「まあ……あんたもココ、見せてくれてるしねぇ……」
手を出して、平常心な棒をつついてくる。
「おお、柔らかい」
「それが普通なの」
「おもしろい……」
「その気がないならツラいからやめて……」
僕はおっぱいを見せてほしいと頼みに来たのであって、生殺しにされに来たんじゃない。
「じゃあさ、イメージだとか練習がどうとか変な理屈こねないで素直に見たいって言って」
「さっきから言ってるよ」
「ちーがうー。最初に見たい理由がどうとか言ってた」
志乃は僕の膝をぺちぺち叩いて抗議する。
「こだわるなぁ……」
「そりゃこだわるよ。敬意を払いたまえ」
「俺みたいなこと言うなぁ」
「あんたが言ったんじゃん。もー」
(お前こそ見せたいのか見せたくないのかどっちなんだ)
(ああ、理屈抜きで単純に求められたいのね)
僕の頭の中のお義姉さんが「女ってめんどくさー」と、ぼやいた。
467:
30
「あー……見たいから見せてくれ」
「う」
「なんだよ、お前が言ったんだろ」
「わ、わかったよぅ……」
了解したくせに、志乃はまた布団にもぐってしまった。
「テ、テンションが素だと恥ずかしい……」
弱々しい声がくぐもって聞こえた。
(そっちの問題かよ)
志乃が布団から赤くなった顔を出す。
「恥ずかしいの、気にならないようにして」
「暗くすると見えないんだが」
「……そうじゃなくて、恥ずかしいの、考える余裕がないようにして」
「ほう」
「うう……やだ。もう言わない」
「よしよし、任せんしゃい」
僕はベッドに仰向けに寝ころんだ。
468:
31
「志乃、来い」
「えええ」
「俺をまたぐか、俺に座るかしたまえ」
「う、重くても知らないぞ」
「あー、平気平気」
志乃はもじもじしながら僕の体をまたぐと、遠慮がちに腰を下ろした。
「あああ、あのさ、この体勢って」
彼女は両手で顔を覆う。
「言わなくていいことは言わないでおけー」
「おk?」
困った顔で首をかしげる。
「うんうん」
志乃は硬直してしまっているので、ネクタイを緩く引っ張って顔を寄せた。
彼女は倒れ込みそうになると、僕の胸に手をついた。
「うう、何?」
「緊張しすぎ」
「そ、そんなことはない」
「そう?」
「そうだよ」
「そうか。じゃあいつも通りにして」
志乃は「あうぅ」とか「えうぅ」とかよくわからない声でうめくと、そろそろと顔を近づけて頬にキスした。
474:
32
志乃が顔を離そうとするのを、両手でがっちり捕まえる。
「な、なによぅ……」
「まだ遠慮してるな。体重かけていいよ」
「どうすればいいんだ……」
「まずはその、突っ張ってる手をよけるんだ」
志乃が手をどかすと、僕の上に倒れ込むようになった。
僕の胸で、志乃の胸がつぶれる。
「ね、ねえ……これエロくない?」
(わざわざ申告してくるあたり照れてるな)
「なんなら動いてもいいぞー」
「そんなことしないもん」
肩が震えている。
「うんうん。ほら、固まってないでちゅーしよ」
「ぬううう……が、がんばる……」
志乃は軽く首を振って、僕の唇を軽く噛んだ。
僕は少しだけ舌を出して唇を舐めて、だんだん絡ませていく。
顔を捕まえている両手で、そのまま志乃の耳をふさいだ。
475:
33
しばらくすると、吐息に甘えた声が混じってきた。
「はっ……うぅ、ん……なんかっ、それだめ……だめっ」
「だめ」とは言うものの、「やめて」とは言わない。
(ああ、これがいいのね)
などと、冷静に分析しているつもりで僕の頭も結構トロトロになっている。
たぶんこのまま続けたら、溶けた脳が耳から流れる。
(それでもいいやぁーあはははは)
「あっ、う。やだあぁ頭ん中でぐちゃぐちゃいってるぅ」
(僕はすでに頭が液状化現象です)
志乃も、僕の耳をふさぐ。
口内で粘膜がぺちゃぺちゃ接する音が、頭骸に響く。
「う……確かにこれはやばいな」
「だからだめって……ん、言ったのにぃ……」
(あ、でもやめないのね)
476:
34
苦しくなったのか、志乃は顔を離した。
僕の上で、乱れた呼吸を整えている。
僕は片手で背中をさすりながら、もう片方の手で尻から脚を撫でる。
たまにびくっと体が跳ねるのがいい。
「いい?」
志乃は曲げた指の関節で唇を押さえながらうなずく。
(うーん、可愛い奴め)
肌の出ている部分が汗ばんできている。
シャツの裾から手を差し入れる。
怒られるかと思ったが、彼女はされるがままになっている。
そのまま手を肩甲骨のあたりまで滑らせる。
汗でシャツが張り付いて、服の中は思ったより自由がきかない。
(あれ、サラシじゃなくなってる)
ホックを外そうとがんばってみるが、片手じゃうまくいかない。
(誰だ、指パッチンの要領でいけるとか言った奴は)
「……ん、手こずってるな?」
志乃がとろんとした目のままでからかってくる。
「ちょっと黙ってなさい」
両手を使って、やっと外せた。
ゆるくなったワイヤーの下から指で下乳をつついてみる。
重力の影響を受けているせいか、仰向けになっているのを触るより量感があった。
477:
35
(脱がすって言ったほうがいいのか黙ってるほうがいいのか……)
僕はそんなことを考えながら、志乃のネクタイの結び目に指を差し込んでゆるめた。
元々、結び目をきつく作らないせいか、思ったより簡単にほどけた。
(黙ってネクタイ取って、文句言われないってことは、いいんだよな……?)
せっかくとろけていた脳が、要らん方向で思考力を取り戻してきた。
(やりにくいな……女は服の合わせが逆だったか)
苦戦しながらボタンを外していく。
志乃はどうしていいかわからないらしく、きつく目を閉じて僕の服をつかんでいた。
(ボタン全部外せたけど、スカートだけ残すのも間抜けだしなぁ……)
僕はまた要らぬことに気を遣いながら、志乃の肩を露わにしていく。
蛍光灯の明かりの下だと、肌が妙に生々しい。
シャツの生地が、肘のあたりで下着と一緒に下りなくなってしまった。
478:
36
「志乃、腕抜いて」
「……あっ、ご、ごめっ」
彼女は何も考えていなかったようで、素直にそうしてくれた。
ブラジャーのカップの上辺が、胸の先にひっかかっている。
なんとも頼りない最後の砦である。
指をかけて少し引っ張ると、志乃は完全に上半身裸になった。
盛り上がった白い肉のてっぺんに、ピンクがかったベージュの乳輪と上を向いた乳首がついている。
さんざんつついたせいか、硬くとがっている。
ただでさえ生意気おっぱいなのに、ローアングルからの眺めは絶景で、僕は息を飲んだ。
「……うぅ……な、なんか言って」
絶句していたらしく、志乃が気まずそうに口を開く。
「いや、その、感動していた」
「うー、ばかばかエッチー……」
志乃は顔を覆ってうつむく。
その腕で乳房が両側から圧迫されて、ぎゅっと寄せられた。
(あー、俺はその右おっぱいと左おっぱいの間に挟まりたい)
もう円とかイメージとかどうでもよかった。
僕の頭はおっぱい一色だった。
脳の皺一本一本が「おっぱい」の単語でパテ埋めされてツルンツルンになるくらいおっぱいだった。
482:
37
志乃の体を無理矢理抱き寄せて、胸の先に口を付けた。
口の中にこりこりしたものがある。
どうしていいか迷う余裕もなくて、ひたすら吸った。
志乃が小さく悲鳴をあげて、僕の頭をかき抱く。
「春海っ、痛い、ちょっと痛い」
我に返って口を離した。
志乃のおっぱいが僕の唾液で塗れている。
僕はそれを見て、妙に満足感を覚えた。
「ああ、すまん」
「もー、赤ちゃんじゃないんだから」
「そのおっぱいで育ちたかった」
「その願いは来世に持ち越しだな」
志乃は僕のシャツをつんつん引っ張る。
「なんだよ」
「あんたも」
「何?」
「……あたしにも触らせろよぅ」
あの、彼女の「空腹時」特有の花の香りはしない。
「はい、喜んでー」
「居酒屋か」と、つっこみながら、彼女は僕のボタンに手をかけた。
「やりにくい……」
もどかしそうにしているので、結局僕が自分で脱いだ。
483:
38
志乃はどうしていいかわからない様子だったけど、僕の真似をすることにしたらしい。
志乃が僕の体に唇を当てるたびに、既に限界近くまで膨張している箇所が自己主張するように脈打つ。
僕が呼吸を荒くすると、志乃は「ふふん」と笑って頬ずりしてきた。
「気持ちいい?」
「多幸感がすげえ」
「タコ缶……?」
(あー、絶対勘違いしてる)
「脳汁がドバドバ出る」
「しる…………」
志乃が僕の股間に目をやる。
そこに座ってるから見えはしないんだけど。
「要る?」
「要るー」
即答である。
これに限ってはあんまり恥じらわないのね。
484:
39
「その前に志乃をいじり倒さないとなー」
「うぅ……あたしはいいよぅ……」
「ほぉーら、恥ずかしいと思う余裕もなくなるぞー」
志乃の首をつかんで、首から耳へ舐めあげる。
しょっぱかった。
「ひゃ、あああぁ、っはぁ…………もう!」
涙目でにらまれても怖くないです。
手をスカートの中に滑らせる。
「パンツ脱がなくていいの?」
「うぅ……いい。もう悲惨なことになってそうだし」
一通りお尻の丸みを楽しんでから、肝心な所へ移る。
そこから分泌された液は、すっかり生地に染みこんでいる。
確かにもう手遅れだった。
「うーん、時すでに遅し……」
「だから言うなぁ……っ」
クロッチの部分をずらして、指を侵入させる。
485:
40
志乃が喘ぐと、指を包む粘膜が奥へ引っ張ろうとしたり外へ押し出そうとしたりする。
中身をこね回したり側面に指の腹をこすりつける。
「ふ……春海、もっと」
「大丈夫か」
「うんん……たぶん」
かと言って、あまり激しくして傷をつけてもよくない。
迷った挙げ句、もう一本指を入れてみることにした。
一旦中指を抜いて、薬指と重ねてねじ込むようにゆっくり挿入する。
「痛くない?」
「ん、ちょときついけど、痛くない」
(これに慣れたら、俺の入れても大丈夫かな)
志乃は恥ずかしさの上限を振り切ったようで、自分から腰をくねらせて勝手に気持ちよくなっている。
僕はその様を眺める。
「ああああぁ、ん、は……っ。み、見るなぁっ」
「見ないほうがムリだわ」
「やだあぁ」
上の口では「いやいや」と言うが、下の口がなんとかかんとか。
「大丈夫、可愛い可愛い」
本心である。
「ううう、もう、ばかばかぁっ。気休めには騙されないんだからなっ」
それがまともに口も閉じれない人間の言うことか。
(これはある種の才能だな……)
(どこがいいかわかりやすくて助かるけど)
486:
41
途中から志乃の声は言葉じゃなくなった。
やがて、短く叫ぶと体を反らせていってしまった。
脱力しきって、僕の上に倒れている。
指を抜くと、彼女は短く痙攣して、少し声をあげた。
「うう……またいかされた……」
「うんうん。いいことだ」
志乃は体を起こそうとするが、だめだったようだ。
「……んっ。ごめん、力が入らない」
「いいよ。そうしとけって」
「あー、うー……後でがんばる」
「期待してるー」
「ねえ」
「ん?」
「その、入れたいって思う?こっち」
と言いながら、すまなそうに僕の性器を服ごしに撫でる。
「そりゃもう」
「そか」
「焦ってはないから、気にするなよ」
「うん。……いや、そうじゃなくて、してみたいなって」
「早まるなー!」
「そんなんじゃないよぅ。案外痛くなさそうなんだもん」
「うーん、それなら歓迎するけど、俺にはコンドーム的なものがない」
「あたしにもない」
「薬局に行く度胸もない」
「あたしにもない」
「先は長いな」
「ああ」
(そう悪くない気もするけどねー)
志乃の髪に顔をうずめる。
熱気と湿気が、僕の鼻をくすぐった。
妙に有機的な感覚で、志乃がとても生き物らしく思えて、ほんの少し切なくなった。
492:
42
―――――志乃の家からの帰り道・夕方過ぎ―――――
僕はあの後、志乃に口で二発抜かれて恍惚とした感じを引きずりながら歩いていた。
(今日は電車使っちゃうぞー)
志乃の家と僕の家は、電車で一駅。
歩けない距離ではないので、僕はあまり電車を使わない。
日中はまだ暑いのに、日が落ちるのだけは早い。
文化祭前で、駅で見かける同じ学校の生徒も多い。
(そういえばうちのクラス、何するんだったかな)
まだ出し物は決まってなかったはずだ。
何かしら、クラブに入ってる奴は準備で忙しそうにしてるけど、僕は帰宅部なので関係ない。
駅前のバス停に、いつもは見かけない顔がいた。
(あ、あれは文芸部の……)
どこにでも、男女問わずアウトローな、いや、アウトサイダーな人物はいる。
メガネをかけた、いつも不機嫌そうな女子。
志乃とは中学が同じだったらしく、たまに話しているのを見かけるけど僕は彼女が苦手だ。
どう接していいかわからない。
成績は常に上位だけど、誰も彼女に教えてもらったりノートを借りようとしたりしない。
一目置かれながら、ついでに距離も置かれている人物だ。
493:
43
(うわ、目があっちゃったよ)
無視するわけにもいかず、会釈した。
向こうもそうする。
(うう……なんだよ、この牽制しあってる感じ……)
お互い悪意はないが、積極的に関わりたいとも思っていないという点は一致しているだろう。
通り過ぎる瞬間、すごく嫌な感じがした。
背中に毛虫が入ったような、悪口の書いてある紙を貼られているような――
とにかく不愉快だった。
「えっと、私に何か?」
僕は彼女を見ていたらしい。
しかも、顔を露骨に歪めて。
「いや、ごめん。背中痛くて」
「そんな顔しないでくれる。私何かしたみたい」
彼女も同様に顔を歪める。
そのひきつらせた頬に、虫が這っているように見えた。
「あっ」
「え?」
「虫が――」
「は?」
彼女は、ますます不可解そうに、機嫌悪そうになる。
「いや、虫かと思ったら葉っぱだった」
「……はぁ」
ちょうど、バスが来た。
彼女は納得したようなしていないような顔で乗り込んだ。
(助かった……)
494:
44
―――――火曜・学校―――――
志乃は頭の後ろで、丸く髪をまとめていた。
「なに、メイド長?」
「これで髪が伸びても、しばらくは大丈夫」
「賢いな」
「ふふふん」
彼女は得意そうに鼻を鳴らした。
ふと、先週から空いている席に目を移す。
「どうした」
「いや、今日も来てないなって」
「あー」
昨日の彼女と、唯一親しそうにしている女子だ。
(志乃に、虫っぽいの見えたって言わないほうがいいのかな)
(でも、あれが呪いだったら?)
(彼女は呪われてるのか、呪ってるのかもわからない)
彼女の席も空いている。
(彼女は、どっちだ?)
事情を聞ければいいのだろうが、僕から話しかけるのは不自然だ。
かといって志乃に接触させるのも嫌だ。
(呪ったり呪われたりなんて、やっぱり嫌だな)
そんなことを考えながら、僕は手を動かしていた。
495:
45
「おーう、春海、いい感じじゃーん」
長野が様子を見に来た。
「おう、お前のおかげだ。恩に着るぞ」
「しかしそこまで必死にやる必要があるもんかねぇ」
(あるからやってるんだよ)
「何かにハマるのに理由が要るかい?」
矛先をずらしたくて、なるべくおどけた。
手首を回す。さすがに疲れた。
(昨日は志乃をいじり倒したしなー。うへへへへ)
志乃は「昨日は別にエロいイベントなどありませんでしたが?」
といった感じで小テストの予習をしている。
僕は、この単元は得意なので何もしない。
ひたすらマルを書く。
長野はいつも何もしない。
手首を回して休ませる。
496:
46
「あ、そうそう。手で書くんじゃなくて、肩や肘を使うといいよ」
「早く言えよー」
「普通そこまで本気だと思わないじゃーん」
「肩を使えとか、お前はカントクか」
「何のだよ」
「ま、やってみてよ。やってるうちにわかるから」
「あー、カントクが言うならやってみようかな」
「うんうん。早くきれいに書けるようになって、春海は俺が育てたって言わせてね」
僕は適当に相づちを打ちながら、早手首を紙から浮かせて、肩から動かすように鉛筆を走らせる。
(思ったよりやりやすいな)
「そうそう。それで、頭としっぽをつなげることを意識して、なるべく迷わないように」
(お、これは結構いい感じなんじゃないか?)
「お前、教えるのうまいな」
「ま、がんばって〜」
そこで、チャイムが鳴った。
497:
47
―――――火曜・昼休み―――――
「今日も志乃ちゃん作?」
「ああ、うん」
志乃は精力に関係なさそうなものも作れるようになって、弁当の詰め方も慣れてきたようだ。
「よく続くなー。えらいと思うわ」
毎日とまではいかないが、元気のあるときは作ってくれる。
「そうだな」
言及されると、ついにやけてしまう。
「うっわ。なんだよもう」
「ああ、いや……フフッ。すまん」
「キモッ!なに!なんなのもう!結婚しろ結婚!」
ふと、避妊のことが頭をよぎった。
(やっぱり愛と責任ある性交をせねばなりません)
僕は心の中で拳を握る。
「……この年じゃ出来ん」
「なにもう!煽りにマジレス!?」
「いや、ネットじゃねえんだからさ」
498:
48
空になった弁当箱を包んで席を立つと、彼女の席に汚れが見えた。
気のせいだと思いたくて、目をこすった。
「あの人、居づらそうだよね」
「あー、教室にいるのあまり見ないな」
「仲良し二人組で、友達休んでるとねー……」
「心配なら話しかけてみれば?」とは言わなかった。
彼女は同情されるのを嫌がりそうだ。
特に、「あなたを気にかけていますよ」と言いながら、特に何かをしてくれる訳でもない同情は。
(なんかこう、跳ねつけられそうなんだよな)
(ATフィールドというか、リフレクかかってるというか)
「マホカンタ……」
僕はどうしていいかわからず、頭をかきながら呟いていた。
503:
49
―――――火曜・放課後・ナオミの部屋―――――
「――と、いうわけなんです」
「あ、そう」
お義姉さんは興味なさそうに頬杖をついている。
(あんたの仕事でしょうが……)
「いつ気づいたの?」
「ああ、昨日帰る途中でなー。俺ん家の近くの駅前で」
「珍しいね。文芸部って半分帰宅部みたいなもんだと思ってた」
志乃が唇をとがらせる。
「俺もそう思ってたから、あそこで神田さん見たときはびびった」
バス停に佇む、彼女の姿を思い出す。
「でさ、こう、目が合っちゃったから頭下げてったんだよ。無視するのも変だし。
そしたら、神田さんの顔に黒いものが――」
「義弟よ、それは呪いだったの?」
「うーん……だと思いますけどねぇ。だってほっぺたを虫がうぞうぞ這ってたら気づくでしょ」
「見間違い説浮上!」
志乃が横やりを入れる。
自分の身近なところで、こんなジメジメした事件は嫌なんだろう。
僕だって嫌だ。
504:
50
「志乃、お前見てないのか」
志乃は神田さんの友人・上木さんの席に目を留めていた。
「え、呪いって虫なの?」
そういえば、前回は呪いを見ずに済んだな。
「虫っつーかゲルっぽいっつーか……とにかく黒くて気持ち悪いな」
「……あー、じゃああれ、呪いかもしんない」
「これじゃ、どっちがどうなのかわからないな」
「二人ともしっかりしてよ」
お義姉さんが呆れて、大きく息を吐いた。
気を取り直すためか、テーブルの茶菓子に手を伸ばす。
志乃もそうした。
「……で、どう見えてるの?」
「俺が確認できたのは、神田さんの頬をムカデみたいなのが這ってるのを――」
「私は、上木さんの机に、カビみたいなのがびっしりついえるの」
(どっちを見てても、気分のいいもんじゃないな)
「少なくとも、その二人に呪いが見えた、と」
志乃が事務所の隅からホワイトボードをカラカラと転がしてきた。
「それ、要るか?」
「ミーティングを演出しようと思って」
志乃はマーカーのキャップを外した。
505:
51
「さ、義弟。現状で何が想定できる?」
「えっと、じゃあ現時点で考えられるのは……
 神田さんが上木さんに呪われてるケース、
 上木さんが神田さんに呪われてるケース、
 二人そろって第三者に呪われてるケース、
 お互いが呪いあってるケース……ってことですか」
僕が言ったことを、志乃がホワイトボードに書いていく。
(おお、確かに作戦会議っぽいな)
不謹慎にもわくわくしてしまう。
「で、その二人は誰かに恨まれるようなことしてる?」
「俺の知る限りでは、何も」
「特に嫌われてはないけど、いつも二人でいるし、あんまり愛想ないから近寄りがたいかも」
マイペースに見えて、志乃の方が人間関係を把握している。
僕はもう少し、周りに目を向けたほうがいいのもしれない。
「確かに、これと言って嫌われることはしないんですけど、どことなく浮いてはいますね」
「なるほどねぇ……」
「私は二人と中学一緒だったから、ちょっとは話すけど……
 でも、長くは続かないなぁ。会話」
志乃は少し後ろめたそうに言った。
506:
52
「それで、その上木さんっていう子は先週の半ばから来てない、と」
「そう……ですね」
「となると、接触しやすいのはそのメガネの――」
「神田さんです」
「じゃ、その神田って子にコンタクトを取ってみましょ」
(うーん、毎度のことながら簡単に言ってくれるなぁ)
どうしたらあのATフィールドを中和できるんだ。
「彼女に言うことを聞かせやすい立場の教師はいるかしら」
「関わることが多い先生ってこと?」
「そんなとこね」
「それじゃ、文芸部の顧問の先生かなぁ。
 今、文化祭の準備で盛り上がってるみたいだし」
(文芸部にも盛り上がることあるんだ)
(そもそも文芸部って何してんの?読書?)
ここにきて、やっぱり僕は何も知らないんだな、と自信が揺らいだ。
507:
53
「わかったわ。私が手を回しておくから安心しなさい」
(嫌な予感しかしない)
安心どころか不安である。
「あの、手を回すっていうのはどうやって……」
「ああ、その顧問の先生っていうの?
ちょっと操ってあなた達があの子と話しやすい状況をつくるだけよ」
それなら失敗しなさそうだけど、後ろめたさが残る。
「志乃は、他に神田さんのこと知ってる?上木さんのことでもいいけど」
志乃はマーカーを指揮するように振る。
「うーん、めっちゃ頭いいー」
「それは俺も知ってるよ」
「あ、でも上木さんはフツー」
志乃の言う「フツー」がどの程度か知らないが、それはちょっと無礼じゃないか。
(接点ゼロだった佐伯さんの件よりマシか……)
僕はお義姉さんの根回しにビビりながら、ナオミの部屋を後にした。
別れ際、志乃が人目を忍んで一瞬だけキスしてくれたので、ちょっとがんばろうという気になった。
510:
54
―――――水曜・学校―――――
国語の授業の後、僕たちの担任でもある教科担当から呼び出された。
「志乃、これは……」
「おねーさんだね……」
「え。担任、文芸部持ってたっけ?」
「うーん……わからん」
「影薄いもんなぁ……で、どう思うよ」
「どうって……行かねばなるまい」
「あれ、どうなんよ。操られてるように見える?」
「私にはどうとも……」
「だよな」
二人で顔を見合わせて、「あー」と嘆いた。
志乃は露骨に嫌そうな顔をしている。
きっと僕も嫌そうな顔になっている。
55
―――――水曜・学校・国語準備室―――――
「二人とも、ごめんなさいね。忙しいところ」
「ああ、いえ……」
今のところ、いつもの先生だ。
「私は文芸部の顧問をしてるんですけど、準備を手伝ってほしくてね」
「はぁ。準備、といいますと」
「文化祭で部誌を発行するんだけど、その準備が追いつかなくて……
 印刷会社にデータを渡すんだけど、一人、原稿を手書きにしてる部員がいるのね。
 それで、二人で手分けしてデータになおしてほしいの」
「ああ、そういうことなら」
「うん」
志乃も、安心したように首を縦に振った。
「パソコンは文芸部の部室にあるから、放課後、手の取れるときに顔を出してください」
「あ、はい。わかりました」
「ありがとう。助かるわぁ。神田さんもがんばってるんだけど、彼女は自分のことで手一杯だから」
(部誌ってなんだ……がんばるって、何をがんばるんだろう)
(……ん、原稿?原稿って何だ?)
どうにもすっきりしない気分で、僕は志乃と準備室を出た。
511:
56
―――――水曜・放課後・文芸部の部室―――――
「と、いうわけ」
志乃は神田さんにざっと経緯を説明した。
「ああ、私だけじゃ手に負えなかったから……助かる」
「ありがとう」と、彼女はうなずいた。
頭を下げているつもりらしかった。
「パソコンは適当に使って。原稿はこれ」
と、神田さんは僕らに二分した原稿を渡す。
「他の部員もいるんだけど、私以外は三年だから……
 受験もあるし、クラスの出し物優先みたいだから、あまり手伝ってって言えなくて」
彼女は困っているようだったが、教室で見るよりもずっと、表情に張りがあった。
(ここから聞き出せってことだな)
僕はパソコンの電源を入れた。
「えっと、Wordでいいの?」
「.txtでよろしく」
「どういうこと?」
「保存するときはテキストファイルにしてねってこと」
「?」
「まあいいや。保存するときに言ってくれ。簡単だから」
「へーい」
「何かわからないことがあったら、私に聞いて」
神田さんはさっさと自分の作業に没入していった。
志乃はぺちぺちと軽快にタイピングしていく。
キーボードの上で躍る指を眺めていると、志乃が賢くなったように見える。
僕もひたすら入力していく。
文章は決まっているので、量はあるけど気分的には楽だ。
「神田さんって文章書く人だったんだね」
志乃が話しかける。
探りを入れている風ではなく、素直に感心しているようだった。
「ああ、元々は違ったんだけど、むりやり引きずり込まれてね。
 まあ、今こうして書いてるってことは、性に合ってたんだろうけど」
「むりやり?」
思わず聞いていた。
「うん。まあ、なんのまぐれか知らないけど、入学してすぐの模試、国語がすごい良かったのね。
 で、担任が籍だけでも置いてくれって」
「すげーな、それ」
「問題に恵まれただけだって」
「籍だけでいいって、先生切羽詰まってたみたいだね」
「今の先輩達が卒業したら、部員は私だけになっちゃうからね。廃部よりはマシだよね」
そう言う神田さんの目には力があった。
この人はただのアウトサイダーじゃない。
ちゃんと自分の身の置き場所を見つけて、そこで力を尽くそうとしている。
少し、かっこいいなと思った。
517:
56
「神田さんは何してんの」
意外とまともに話せることに安心して、声をかけた。
「推敲」
「ああ、誤字脱字チェックか」
「それもだけど、言い回しとかね、話の整合性とか」
「へー」
「締切前とはいえ、まだ時間はあるからね。仕上げはギリギリまで粘るよ」
彼女は顔を上げて、にっと笑った。
(教室でもその顔すれば、もう少し居やすそうなんだけどな……)
志乃は鞄からペットボトルのお茶を出した。
口をつけて、「ぬるい」とまずそうに舌を出した。
「ああ、熱いのでよければポットあるけど。沸かす?お菓子あるし」
「え、いいの?」
「だってこの時間、おなかすくでしょ。特に頭使うんだから糖分は常備よ」
まるでアスリートのような口振りだ。
(エトピリカ聴きたいな)
葉加瀬太郎を思い出して、少しだけ鼻歌が出た。
518:
57
「ああ、イマージュもあるよ。聴く?」
神田さんは手近な引き出しをあけて、緑のジャケットのCDを出して机に置いた。
「なんでそんなもんあるのwww」
思わず気安くつっこんでしまう。
「さあ?何代か前の先輩が置いてったらしい。
 結構変なアイテム残ってておもしろいよ、この部室」
「文化系って深いね……」
志乃が感慨深そうに呟いた。
(まさか入部するとか言い出さないよな)
「ねえ、そういえば上木さんどうしたの?」
「私は何も聞いてないけど。……なんで私に聞くの?」
「んー、仲良さそうだから、知ってるかなって」
「それがねー、最初は風邪だと思ってそっとしといたんだけど、さすがに心配になってメールしたら無視されてさ」
そんなこと親友にされたら傷つくだろうに、彼女はいたって飄々としていた。
友人はいない。
クラスでは、なんとなく一人で浮き続ける。
平気でいられるものかな、と思う。
(僕だったらしんどいな)
519:
58
「せっかくあるんだし、聴こうか」
気分を変えたくて、CDを再生する。
(エトピリカ……エトピリカ……)
「ふーんふーふふーん。ふふふーんふふーん」
緊張がゆるんで、脳内BGMが鼻から垂れ流しになる。
「えー、オープニングの方じゃないの?」
志乃が物言いをつける。
「しょーがねーなー」
(トラック16……と)
語り出すかのようなイントロから、刻むように入っていく。
(あー、俺これ聴くと、何かで一流になった人みたいな気分になるんだよなぁ)
志乃は素直に縦ノリしている。
そんなノリ方、僕は照れくさくてできない。うらやましい。
神田さんは黙々と赤ペン片手に、プリントアウトした原稿に向かっている。
「これ聴くと万能感におそわれるから細かいことする時に聴くのやばいわ」
曲が終わると、彼女はそうコメントした。
ああ、あれはノリにノッていたのか。
520:
59
「志乃、満足したか」
「うんうん。てってーてーれってーてってーてーてれっててー」
僕は彼女の、大体いつも楽しそうなところが好きだ。
だけどここでいちゃつく訳にはいかないので、このときめきはそっと胸にしまっておく。
しまっていこうぜ、俺。
(えーと、エトピリカ……)
(あー……俺、これ聴くと何かを成し遂げたような、一日やりきったような気分になるんだよなぁ……)
右手の指輪が、一瞬光ったような気がした。
あの、ひたすら円をかく練習はどう役に立つんだろう。
(そういえば、僕は神田さんを探るためにここにいるんだ)
彼女と上木さんの関係性、遠くから見ていると、勝手にわかったような気になっていた。
だけど、こうして本人と話すとよくわからなくなってきた。
思ったより淡々としている。
上木さんとのことをポンポン聞くのはまずい気がした。
神田さんは頭がいい。
普段関わりのない人物のことを聞かれたら不審がるはずだ。
521:
60
どうアプローチしたものか、意外と難しい。
(なんか恨まれる覚えある?なんて思惑オープンリーチな質問できないしな)
対面の神田さんを眺める。
これだけ熱中できるなら、寂しさや居づらさを感じる暇は、あまりないかもしれない。
僕は、お茶を入れようと席を立った志乃の透けたブラに視線を飛ばす。
(うーん、最近、二人きりだとエロいことしかしてない気がするな)
志乃のおっぱいが思い出されてにやけそうになる。
(他の娯楽も模索してみるか……)
(そういえば、前回は男絡みだったな)
神田さんと上木さんが、一人の男を取り合っていがみあう図は想像できない。
(うーん、却下)
522:
61
「神田さんは何で文芸部に目覚めたの?」
志乃がお茶を配りながら聞く。
神田さんは棚から茶菓子の入った盆を出して、机の真ん中に置いた。
「正直、夏休みまではどうでもよくてさ。ほんとに幽霊部員でいるつもりだった」
好きなことについては、気分良く話してくれる。
そのへんは普通の人だ。
「あたし、全国見ちゃった」
「まじすか」
いきなりのインターハイ級発言と、文芸部にそれに相当するような大会があることに驚いた。
黙々と書いて発表してるだけじゃないのね。
「何もしなくて行けるもんなの?」
「先輩の七光り。去年の実績のおかげでさ。
 で、勉強して来いって放り出された。あ、引率で先生付きだったけどね」
この人はこんな目ができるのか。
「で、全国はどうでしたか」
「すげかった」
と、彼女は拳を握る。
「幽霊でいるの、もったいなくなってさ。今度は絶対自力で来ようって思った」
神田さんの見ているものは、僕たちとは違うのか。
彼女の愛想の無さは、周りへの敵愾心ではなく、ただの無関心だった。
その証拠に、こちらからのアクションにはきちんとリアクションを返してくる。
(俺はこの人を誤解してたんだな)
僕は心の中で一言だけ詫びた。
525:
乙です
神田さん熱いとこあるじゃん…
春海君はどーするかね
527:
62
―――――水曜・春海の部屋―――――
机に向かって課題を片づける僕の後ろで、お義姉さんはベッドに腰掛けている。
「で、彼女と話して何かわかった?」
「いえ、これといって動機につながるようなことは――」
あの神田さんに、誰かを恨んでる暇はない。
「彼女が自分から周りに溶け込もうとしなかったのは、人見知りでも攻撃性からでもないです。
 俺には――単に興味がないからそうしなかっただけ、と取れました」
「義弟が言うなら、そうなんでしょうね」
「いいんですか。俺の言うことなんかそのまま真に受けてしまって」
「現時点ではいいのよ。最終的に判断するのは私」
そう言ってお義姉さんは脚を組んだ。
「これ以上、神田さんから聞き出せることはあるんでしょうか」
「どうかしらねぇ……」
お義姉さんは後ろに手をついて、上を向いた。
喉が、異様に白く見えた。切られたという傷は残っていない。
528:
63
「上木さんのことがわかればいいんですけど……」
「私がちょっと行って手帳や携帯を拝借してくれば話は早いわ」
「それは極力したくないんですよねぇ……。同じクラスの人間ですよ。
 前回は全くの他人だったけど、今回はさすがに気まずいです」
「何よ、正攻法で聞き出せるの?」
「それを言われるとお手上げですよ」
僕は椅子を回して、お義姉さんに向き直った。
「志乃の考えも聞きたいですね。あいつ、あれで結構周りのこと見てるんですよ」
「妹を誉めても何も出ないわよ」
(まんざらでもない癖に)
529:
64
僕はあまり外向的ではない。
誰とでも会話はできるけど、クラスで特に親しいと言えるのは志乃と長野だけだ。
僕に比べて長野は軽いところがあるが、人なつっこくて割と誰にでも好かれる。
僕が苦もなく周りと接点を持てるのは、長野があいだにいるからかもしれない。
(少し条件が違えば、僕もアウトサイダーになっていたかもしれないってことか)
僕は彼女たちに悪意を持ったことはない。
だけど、どう接していいかわからず困ったことはある。
そして、もし自分が彼女たちのポジションに置かれることを考えると、やっぱりどこかしら恐いと思う。
(どこかで、見下してたのかな)
頭が痛いと思った。
530:
65
「それで、円は書けるようになったのかしら」
「ああ、だいぶ近づいてきたと思います」
手近な紙に書いて、お義姉さんに見せる。
「完璧とは言えないけど、次に移ってもいいかもしれないわね」
僕は机の下でガッツポーズを作った。
「もう書かなくていいんですか?」
「いえ、まだまだ書くのよ。指輪を貸してちょうだい」
指輪を外して、お義姉さんに渡す。
一瞬手が触れたけど、びっくりするほど冷たかった。
お義姉さんは、指輪をつまんで蛍光灯にかざしている。
何か見えるのだろうか。
「ああ、これなら……。少し厳しいけど、できないこともないわ……」
「あの、次は何を――」
「同じよ。今度は指で空間に書くってだけで」
「うわぁ……」
531:
66
「何よ。身を守る手段がほしいって言ったのは義弟でしょ。やるのやらないのどっちなの」
「やりますよ。やりゃいいんでしょ」
「かわいくないわねぇ……」
お義姉さんは指輪を僕に放ると、消えてしまった。
指輪をはめ直しながら、一人でぼやく。
「うーん……空間って言われてもなぁ……」
試しに、顔の前で指を立てて丸く動かしてみる。
(これは……目に見えない分紙に書くより地味だな……)
先が思いやられる。
僕の盾、使い物になるのはいつだろう。
532:
67
―――――木曜・放課後・文芸部の部室―――――
神田さんは掃除当番で、僕は志乃と先に部室で作業をしていた。
「上木さん、結局まる一週間休んじゃったね」
「そうだな」
「春海、やっぱり呪い見えてる?」
「うん……そうだな。たまにちらちら見える」
「じゃあ、気のせいじゃないんだ」
志乃が机に突っ伏したので、僕は背中を撫でた。
「んー、だいじょうぶ」
彼女は頭を振って体を起こした。
「あ、ニャーンだ。ニャーンがいる」
志乃が廊下を指さす。
「あ、猫」
そのへんを歩いてそうな、普通のキジトラの猫だった。
「ニャーン。おいでおいでおいでー」
志乃は床にしゃがんで、胸ポケットに挿していたペンを低い位置で振る。
(なんで猫好きって、猫見るとテンションおかしくなるんだろう)
533:
68
猫は警戒する様子もなく、トコトコ歩いてくると僕の足下で腹を出して転んだ。
「ぬうぅ……私が呼んだのに」
「おお、志乃がジェラシーに燃えている」
「なぜだ。春海、どっかで餌付けしたな」
「しないよ――おー、よしよし」
せっかく来てくれたのだから、僕も腹を撫でる。
一通り撫でて、パソコンに向かうが、猫は帰らない。
「あーあ。相手するからー」
「志乃が呼んだんだろー……ちょっと出してくる」
僕はすねに体をすり付けながらぐるぐる回る猫を抱いて廊下に出た。
「ニャーン」
「だーめ。おまえ、きれいだから飼われてるんだろ。おうち帰りなさい」
「ニャーン」
猫は丸い目で何か訴える。
「だめー。おうちの人が心配するぞ。じゃあな」
僕は心を鬼にして、猫に背を向けて部室に戻ろうとした。
「つまんないにょー」
なんだその語尾は。
「はぁ!?」
振り向いたときには、猫はしっぽを上げて、住宅地のある方へトコトコ……
537:
69
「志乃、さっきふざけた語尾で喋った?」
「具体的には?」
「そんなん言えないにょー」
「フッ」
「鼻で笑うなよ」
「気のせいじゃない?」
「うーん、確かに聞こえたんだけどなぁ」
「どしたの?」
「いやな、猫が喋ったんだ。おうちに帰れって言ったら、つまんないにょーって」
「いーなー。私もニャーンの言うことわかりたい」
「たぶん、あんまりいいことないぞ。絶対音感の人だって全部音階で聞こえて疲れるそうじゃないか」
「それが動物でも同じことだと」
「たぶんな。俺だってさっき初めて聞こえたんだ。気のせいならいいんだけど」
「うーん、どうだろねー」
538:
70
そろそろ掃除も終わりそうだ。
神田さんが来る前に聞いておこう。
「志乃、俺に呪い、見えるか?」
「うんにゃ」
即答で否定された。
「なんで急に?」
「現象自体は可愛らしいけど、異変は異変だからな。
 正直なところ、ちょっとびびってんだ」
「そう言われてみれば……」
志乃は上を向いて、少し考えていた。
「あ、おねーさんの可能性は?変身できるし」
「あの人ならやりかねないな」
「先生を操るって言ってたけど、それだって潜入しなきゃできないし。
 猫のふりして近づくことは十分ありうると思う」
僕が突然、動物の言葉がわかるようになるよりは現実的だった。
「よし、当面はその説を採ろう」
とりあえずの結論を出したところで、神田さんが来た。
どこか落ち込んで見えた。
539:
71
昨日と同じように、対面に座った彼女の目は赤かった。
(あー、上木さんと何かあったな)
「大丈夫?」
自然と口にできていた。
志乃が少し驚いた顔を僕に向ける。
前回は、こういったことは志乃がやってくれていたのだ。
志乃はディスプレイの影で親指を立てて、唇の端をきゅっと上げた。
(誉められた……)
照れくささが一拍遅れてやってくる。
「あー……私、ひどかったみたいだわ」
神田さんは碇ゲンドウみたいなポーズで嘆いた。
こんなに簡単に話し出すなんて、相当参っているらしい。
頭の中でマヤさんが「対象のATフィールドが中和されています!」とか言ってる。
(いやいや、人を使徒扱いしてはいけません)
「聞きましょうか」
志乃は立ち上がり、ポットに向かった。
540:
72
「上木さんと、連絡取れたの?」
志乃は湯呑みを口に近づけて、熱気を飛ばすように息を吹いた。
「上木、私のこと恨んでる。私がこっちにかまけてばっかりで、一人ぼっちになったみたいだって」
(そういえば、上木さんは帰宅部だったな)
「私は部の手伝いするから教室にいなくていいけど、一人であそこにいるのが嫌だって――
 私、そこまで考えてなかった。そこまで見えてなかったんだ」
上木さんの欠席は、体調不良じゃなくて登校拒否だったってことか。
先週の終わりくらいから、クラスでは文化祭について話し合っていた。
上木さんが憂鬱になるのもわかる気がする。
541:
73
「うーん、悪いか悪くないかって言ったら、悪いことしてないよね」
志乃が適当な言葉を挟んで促す。
僕はとりあえず、聞き役になる。
「自分でもそう思う。だけどこれって気持ちの問題じゃん」
「まあねぇ……」
志乃は頬杖をついて、「ふぅん」と鼻から息を漏らした。
「上木には悪いって思うんだけど、一方で私は悪くないって思ってて……
 謝ったほうがいいんだろうけど、テキトーな理由で謝りたくないのよ」
「納得したい、と」
一言添えてみた。
「そう……かもしれない。たぶんそう」
542:
74
「上木さん、端から見てると、ちょっと神田さんにべったりなとこあったからねぇ」
志乃は難しそうな顔で言うと、ぬるくなった茶を一気に飲み干した。
「お前、それは失礼だろ」
さすがに言い過ぎだと思った。
「いいんだよ。……やっぱり、周りにもそう見えてたってことか」
神田さんは茶菓子の盆から煎餅を一つ取ると、小袋に入ったままのそれを二つに割った。
「上木、私を前と同じでいさせようとしてた」
「前とっていうと、幽霊部員でいようとしてた頃?」
「そうそう。前はそんなことなかったのに、メール返さないと不安定になるし、正直持て余してたんだわ」
彼女は自嘲気味に笑った。
「ひどいって思うなら、非難してくれて構わないよ。
 でも、私だってやっと目標見つかったんだ。そこは譲れない」
「でもでも、上木さんにすまないと思う気持ちはある、と」
わざと話を振り出しに戻した。
「それ言われると、私も参るわ」
543:
75
「もうさ、謝っちゃえば?」
イライラしてきたのか、志乃が投げやりに言った。
「神田さんは納得したいの」
「だからさ、直接神田さんがしたことについて謝る必要はないんだよ。
 結果的に、上木さんが寂しいと思ってしまった、とそのことについて謝ればいいんだって」
屁理屈なような気がするけど、自分の中で折り合いをつけるなら、その結論を選ぶ。
「――と、志乃が申しておりますが?」
「まあ、それなら不服ではないかな。
 よし、一応はそれで納得する、ことにするわ」
えらく回りくどいが、それでいいと思うことにしたらしかった。
544:
76
―――――木曜・帰宅中・公園―――――
頼まれた原稿の入力も終わりが見えてきたので、キリがいいいところで引き上げた。
ベンチで缶コーヒーを開けた。
「志乃、どう思う?」
「あの二人のこと?」
「うん」
「私は……もう、上木さんが犯人だと思う」
「それが自然だよなぁ」
「でも、上木さんの机についてる呪いのカスみたいなのが気になるよ」
「確かにそこは引っかかるけどさ――」
後ろに気配を感じた。
「あ、春海。ニャーンがいる」
体をねじって振り向くと、首輪のないロシアンブルーがいた。
野良にしては毛並みがよすぎる。
夕日の赤みを帯びた光が、おでこや背中で反射している。
「おお、ほんとだ。かわいいな。おいでおいで」
「ニャーン」
猫はベンチに飛び乗り、志乃の膝で丸くなった。
「あなた達、何かつかんだようね」
お義姉さんの声だった。
周りを見渡しても、彼女の姿はない。
「私はここよ」
ロシアンブルーの猫パンチが僕の腿に入る。
志乃は「おねーさんだ」と面白がりながら、猫を撫でている。
545:
77
「俺、今日はもう、猫はいいわ……」
なんだか疲れてしまった。
「何よ、高校生カップルと成人女性の三人組じゃ怪しまれるでしょ。私の粋な気遣いよ」
(あー、この気を遣えてない気遣いはお義姉さんだ)
「たぶん、神田さんを呪ってるのは上木さんです」
「あ、そう」
「淡泊な反応ですね」
「まあ、今回は狭い世間の話だしねぇ……」
「それは、そうですけど」
「ま、よくやってくれたわ。続きはまた考えましょ」
どうも釈然としない。
「お義姉さん、それはいいんですけど、学校にまで出てくるってどうなんですか」
「そうそう。ちょっとびっくりしたよ」
志乃は驚くというよりはしゃいでいた。
「私、行ってないわよ」
「でも、猫来ましたよ」
「どんな?」
「普通のキジトラでしたけど」
「ああ、なおさら私じゃないわ」
寒気がした。
549:
78
「お義姉さん、俺――」
話すべきか迷った。
志乃が僕の肩に手を置いた。
「俺、猫が言ったことわかったんです」
お義姉さんは、猫の姿でNHKの猫の歌を歌った。
(この人も、受信料払ってたりするのかな……)
「まじめに聞いてください」
「え。そういうことじゃないの?」
「いえ、そういうボディーランゲージ的なものでわかるんじゃなくて、声で聞こえたんです」
「ああ、それが怖いと」
「正直、びびってますね。俺はただの人間ですよ。
 ただでさえうっかり呪いが見えちゃって戸惑ってるんですから」
仕事の上では便利だけど、やっぱり一人でいるときに見えたらと思うと、怖い。
「あれは比率で言えばマイノリティなだけで、絶対数で言えばそう珍しいことじゃないのよ」
「うーん……」
どうもすっきりしなかった。
550:
79
「俺、呪われてたりします?」
「もー、私が大丈夫って言ったじゃん」
「――と、志乃は言うんですけどね。あれです。セカンドオピニオンってやつで」
お義姉さんは僕の膝に移ると、体を伸ばして僕の肩に前足を置いた。
そのまま緑の瞳が、僕の目を見つめる。
しばらくそうしていたけど、お義姉さんは「うやぁん」と鳴いて志乃の膝に戻った。
「安心して。呪いは見えなかったわ。私の目は君や妹より確かよ」
「じゃあ、俺の異変は――」
「推移を見守りたい」
「都合のいいときは日本人なんですね」
551:
80
「どうしても不安になったら私を呼びなさい。
 私には昼も夜もないもの。私が起きたときが朝。寝るときが夜よ」
お義姉さんはそう言うと、植え込みに飛び込んでそのまま消えてしまった。
「春海、私もいるよ。役に立つかわからないけど」
志乃が僕の手を握る。
志乃の方が、自分の体が変わっていく感覚を知っているはずだ。
(こいつに気を遣わせてどうするんだよ……)
「ああ、すまん」
僕は立ち上がり、志乃の手を引いた。
552:
81
「思い悩むのは、もっと奇ッ怪なことが起こるまで中断な」
「うんうん。帰ろ」
珍しく、手をつないで歩いた。
志乃はニヤニヤしている。
「どうした」
「んふふー。なかなかいいものですな!」
「じゃあ、毎日こうやって帰るか」
「うへへ。みんながいないときね!」
志乃はつないでいる手を前後にぶんぶん振った。
(知られてても、ラブいとこ見られるのは恥ずかしいんだな)
そのへんのさじ加減がよくわからん。
「じゃ、私は髪切って帰るから」
「結べる長さは残してもらえよ。おろしてると伸びたときにごまかしにくいからな」
「わかってるよう。じゃねー」
志乃を見送りながら、やっぱり心細かった。
夕方なのにまだまだ明るい。
9月はまだ夏だと思った。
556:
82
―――――金曜・朝・学校―――――
教室に誰もいないのをいいことに、僕は宙で指を回す。
「なにしてんの?」
「お義姉さんが、今度は空中で円をかけって」
志乃は不思議そうに僕の動きを見ている。
僕だってこれで効果があるのか、半分は疑っている。
何もしないよりは不安じゃないから、そうしている。
切りっぱなしの志乃の髪が、肩口で揺れる。
「おお、切ったな」
「代わり映えしないけどねー」
彼女は毛先を指に巻き付けて言った。
気に入ってるんだか気に入らないんだからわからない。
「今日はおねーさんが見張ってくれるって。ニャーンの姿で」
「あの人、大丈夫かな」
「うーん……一応出て来ちゃいけない空気は読めるはず……と、思いたい」
校内でうっかり人間の姿に戻られたら面倒だ。
557:
83
そろそろ誰か来る時間だ。
他のクラスの生徒が、廊下を通りすぎるのが見えた。
「志乃」
「んー?」
彼女が顔を上げたところで、短くキスをした。
「な、なんだよぅ」
「ここ数日してないような気がしてなー」
「うへへへへ」
「なんだよ、その笑いは」
「いやぁ、私もそう思ってたから」
「そうか」
にやけそうになるのを我慢して、口が歪んだ。
「そろそろ原稿出来上がっちゃうね」
文芸部の部室がある方角を眺めている。
「あー。俺らあんまり関係ないのに、そう思うと達成感あるな」
自分で入力した文書が冊子の形になると思うと感慨深い。
神田さんは、自分で作った話がそうなるんだから尚更だろう。
「この準備の手伝い終わったら志乃を撫で回したいな」
「犬猫扱いかよ」
「ああ、いや、性的な意味で」
「ヘンタイだー」
「へっへっへ。だから、まあ、がんばろうな」
「うん」
彼女は窓の外を眺めて、目を細めた。
558:
84
―――――金曜・放課後・文芸部の部室―――――
三人で机を囲んで、それぞれ作業をする。
神田さんは相変わらず校正。
僕と志乃は、入力した原稿をプリントアウトして誤字脱字をチェックする。
「……はー」
「神田さんあんまり元気ないね」
上木さんの不登校記録が丸一週間をクリアして、二週間目に突入してしまった。
「さすがに滅入るよ」
何かを払うように頭を振る彼女の首に、蛇が巻き付いているのが見えた。
まだら模様が毒々しかった。
目を細めて見つめる僕を、志乃がつついて気を逸らそうとする。
――あやしまれちゃうよ。
――すまん。
アイコンタクトで、多分そんなことを伝えた気がする。
559:
85
僕に見えたということは、志乃も見ているはずだ。
彼女の横顔の線が、かすかに震えているように見える。
被害者と思われる人物がすぐ目の前。
だけど、何の手出しもできない。
恐ろしく、また、もどかしい。
「ニャーン」
廊下にロシアンブルーが見えた。
情けないことに、それだけで力が抜けるほど安堵した。
「あ、猫」
神田さんは持っていた赤ペンをチッチッと振る。
この人も猫好きか。
お義姉さんは構わず廊下を行ったり来たりしている。
「あー、来てくれない……」
「どんまーい」
志乃は余裕の表情である。
(あれ、お義姉さんだしな)
廊下に人影が見えた。
体格はお義姉さんじゃなかった。
560:
86
神田さんの手からペンが落ちる。
「上木――」
廊下に顔を向けているせいで、表情はわからない。
志乃が身構える。
廊下には、身を低くした猫がいる。
僕は――僕は、どうすればいい。
上木さんは、焦点の定まらない目で、顔だけ神田さんに向けていた。
「神田……なんであたしを一人にするの」
ひどく、恨めしい声だった。
「してない」
「嘘。避けてた」
ゆらりと扉をくぐり、部室に入ってくる。
とっくに見つかっているのに、追い詰められたと思った。
「なんで。なんでよ――」
「話せばわかる」なんて幻想だと思う。
話が通じる相手ではなくなっている。そう思った。
「あんたが邪魔するからでしょ!」
神田さんは明らかに苛立っていた。
「あたしは――あたしはあの時助けてあげたのに!」
上木さんは半分泣き叫んでいた。
半狂乱といってもいい状態だったけど、彼女が嘘をついているようには見えない。
561:
87
どっちを信じたらいいのかわからなくなって、嫌な汗が吹き出てきた。
神田さんが苦しそうに体を折る。
彼女を覆う黒いものが、よりはっきり見える。
志乃は、それを泣きそうな顔で見ている。
――春海君、妹を連れて走って!
お義姉さんの声が頭に響いた。
相当大きな声だったのに、神田さんと上木さんは、その声に気づいていない。
志乃の手を引いてドアに向かって走った。
数メートルもないのに、遠く感じた。
志乃がつまづいて転ぶ。
志乃の足首に、ぬめぬめしたツタのようなものが巻き付いている。
「いって」と志乃の口が動いた。
562:
88
頭の芯が沸騰する。
目の前が白くなって、総毛立つような感じがした。
「志乃に手ェ出すなああああああっ!」
そう叫んだような気がする。
夢中で手を振り回したような、覚えがある。
目の前で、ツタやアメーバが、黒カビが、虫やら何やらが弾かれたのを見た気がした。
猫が――お義姉さんが――僕らの前に躍り出て――――
僕はもう、目の前が真っ赤になって、嘔吐して倒れた。
569:
89
**********
波の音がする。
あまり海に行ったことはない。
(小学生のうちは、家族で毎年行ってたっけ)
海水が足元に寄せては返す。
(冷たいな。今、満潮か?干潮か?)
これから満潮になるなら、ここから動かなければ僕は溺死してしまう。
肘を使って、岸から離れようと這ってみる。
全身が痛い。
どれほど進んだかわからない。
なんとか体を転がして、仰向けになる。
目が開かない。
太陽が出ているのか、まぶたの中の僕の視界は真っ赤だ。
(ああ、さっき倒れたときみたいだな)
腹が減ったと思った。
夕方に吐いて、それっきりなのだ。
(今、何時だろう)
なぜ海にいるのかわからない。
時計を見たいけど、目が開かない。
570:
90
――ニャーン。
また猫か。
波の音しかしない中で、心細くなっていた。
少し救われたような気になった。
――ニャーン。
声が近い。
耳元でふんふんと鼻息の音がする。
その音が離れると、猫は僕のわき腹を前足でこねはじめた。
(フミフミしても乳は出ないぞー)
今なら目を開けられそうな気がした。
まぶたを上げる。
(あー、この世の終わりみたいだ)
空が真っ赤だった。
太陽も月も星も雲もない。
なぜ「この世の終わり」だと思ったのかはわからない。
海と、赤い空間。
胎内のイメージかもしれない。
571:
91
(それなら、この世の始まりのその前じゃないか)
ここはどこだろう。と、改めて思う。
指を動かして手元にあるものを握る。
(砂だ……)
猫は僕の顔の近くに来て、またふんふんと匂いを嗅ぐ。
(僕は何も持ってないよ)
撫でてやろうと顔を向ける。
まだ幼い三毛猫だった。
急に切なくなって、僕は奥歯を噛みながら泣いた。
572:
92
どれくらい経ったのかわからない。
傾く日も、伸びる影もない。
繰り返すだけの波の音が秒針みたいに、時間が流れていることだけを示している。
三毛猫はずっと僕のそばで丸くなっていた。
一通り泣いて、気分が落ち着くと体を起こすことができた。
あぐらをかく僕の周りを、何か言いたそうに三毛猫はぐるぐる回る。
「ありがとな」
と、撫でようとすると猫はするりと避けてしまった。
(まあ、猫にはよくあることだよな)
僕はあまり気にせず、トライ・アンド・エラーを繰り返す。
そうしているうち、女の声が聞こえてきた。
とても親しんだ声だ。
これは誰の声だったか。
573:
93
――はるみ。
なんだそれは。
――はるみ。おきて。
それは、名前か。
――春海。ねえ。
それは、誰のことだったか。
僕は、上を向いて考える。
(僕のことかもしれない)
「しの」
志乃。
あいつは無事か。
自分がどういう状況に置かれていたか思い出した。
猫が前足を僕の脚にのせる。
「心配してくれるのか」
さっきからずっと一緒にいてくれたのだ。
犬猫は人間が思うより共感する能力があるのだと思う。
もう一度声をかけようと口を開くと――
――七代祟ル
そう言って猫は、僕の腹に飛び込んで、そのまま消えてしまった。
**********
576:
94
恐ろしくなって、悲鳴をあげそうになったところで、赤い空は見覚えのある天井になった。
急に体を起こしていたらしく、頭がぐらりとした。
「春海!」
志乃が僕に抱きつく。
僕は頭を押さえながら、もう片方の手で志乃を抱く。
「ちょっと揺らさんでくれ。頭痛い……」
「あっ、ごめん」
志乃が僕からそっと離れる。
動くとズキズキする。
「大丈夫か」
「うん。守ってもらったからね」
彼女はそう言いながら、宙で指を回す。
自分の右手を見る。
指輪がなかった。
その代わり、小さな傷がいくつか残っていた。
「志乃、ここは」
「事務所の休憩室だよ」
(ナオミの部屋とは言わないんだな)
まあ、あまり口にはしたくない勤務先名だよな。
577:
95
「呪いなら大丈夫。おねーさんが始末したよ」
「あの二人、どうなった?」
「無事かどうかで言えば無事だけど――」
「関係がどうなるかは微妙ってことか」
「うん」
志乃は視線を落とした。
ふすまが開く。
「義弟、大丈夫?」
「ええ、なんとか」
(怖い夢見たって言った方がいいのかな)
お義姉さんは僕の側に腰を下ろした。
「あ、でもすげー頭痛いです」
「ごめんなさい。声を出すより、直接頭に語りかけるほうが早くて――」
「人間相手だと、やっぱり無理がくるのね」と、お義姉さんはため息をついた。
「いいんですよ。俺たち無事ですし」
急に静かになってしまった。
578:
96
「すみません、指輪壊してしまったみたいで」
この間が気まずいような気がして、指輪のことを詫びた。
「いえ、いいのよ。まさか完成してたなんて思わなかった」
「完成っていうか――俺にもよくわからなくて。とにかく必死だったんで」
「春海がんばったんだよ。こう、丸い線の光が出て、レンズみたいに膨らんでさ」
志乃が身振り手振りを交えて説明してくれるが、よくわからない。
「まあ、無事でよかったよ」
志乃は僕に抱きつこうとしたけど、遠慮したのか手を握って頬に寄せた。
「お義姉さん、なんで円だったんですか?」
お義姉さんの手前、照れくさいので真面目っぽい話題を振った。
579:
97
「円って、シンプルすぎて嘗められがちだけど、実はありがたい形なのよ」
その意味するところは、命の源である太陽、卵といったものも含まれるらしい。
「でも、私は意味を教えてないわよ。自力でその理解に至ってくれたのならすごいけど」
「いえ、俺は今知りましたよ」
「なにそれ。春海すごい」
「ああ、己の才能がこわい」
「義弟、あの瞬間何を考えたの?」
「えっと……」
あまり思い出したくない光景だ。
あのとき、凝縮された一瞬の間に思ったのは何だったか。
(一発やらずに死ねるか)
なぜか同時に志乃のおっぱいが思い出された。
580:
98
「おっぱい……」
「はぁ?」
志乃がアヒルのような形で口を開けている。
多分あきれて閉まらないのだろう。
「あ、いや」
言い訳がましく手を振るけど、もうごまかせない。
「君はそれだけで生存本能の最も深いところにアクセスしたっていうの?」
「そんなすごいことなんですかね。あ、でも火事場の馬鹿力ならそんなんかもしれないです」
「性と生は切っても切れないから……」
お義姉さんは、無理矢理自分を納得させようとしているようだ。
「でも、性的欲求だけでそこに至れるかしら……」
「あの、とりあえず無事に帰れたことですし、そこ悩むの置いときません?」
「なんだか屈辱だわ……」
そうぼやきながら、お義姉さんは僕に新しい指輪をくれた。
584:
99
――――――
夜になると、お義姉さんは繁華街に出かけてしまった。
頭痛は軽減したものの、まだ動くと吐きそうだ。
「志乃、帰っていいよ。俺泊まるわ」
生きて家にたどり着ける自信がない。
「ぬー、あたしもお泊まりんぐー」
志乃が畳の上を転がりながら寄ってきた。
「俺、元気ないから今夜は何もできないぞ」
「いいじゃん。何もしなくて。私が帰ったらあんた寂しいでしょ」
「断言されると否定したくなるな」
「じゃ、私は帰るよ。一人でも平気でしょ」
「そう言われると悲しくなるな」
「はじめからそう言えばいいのに」
「うるせー。たまには天の邪鬼したくなるんだよ」
「男のツンデレはかわいくないぞ。烈さんくらいじゃないと」
「俺がいつツンデレになったよ」
頭は痛いし気分も悪いけど、横になってどうでもいいことを喋っていると気が楽だ。
「――やっぱり、居てもらったほうがよさそうだな」
「あ、デレた」
志乃は、にっと笑った。
585:
100
「春海、ひどい夢見てたんじゃない」
志乃が布団に入ってくる。
「なんで」
「うなされてたから」
体調の悪い僕に遠慮しているのか、抱きついてこない。
「……」
「嘘はつけないぞ。ちょっとくらいの異変なら私にも見抜ける」
僕には、彼女を心配させまいと気を遣って悪夢を隠すことも許されていないようだ。
「いや、猫がな」
攻で観念した。
586:
101
「またニャーン?」
「海と、朝焼けだか夕焼けだか――
 空には何もないんだけどな、赤いところで、すごい寂しいところで倒れてた」
残念なことに、不吉なイメージを僕ははっきり覚えていた。
「それで、三毛の子猫が慰めてくれるんだけど」
「子ニャーン?」
並んで寝ころんだ志乃が、猫の手を作って空中に伸ばし、空気をかきまぜる。
「目が覚める直前に『七代祟る』っつって俺に飛び込んで消えた」
「うええ、こわー」
「な。怖いよな」
「ほらー、やっぱり私がここに残ってよかったじゃーん」
「そうだな」とは言えなかった。
言えない代わりに、痛みを振り切るように体を動かして志乃を抱いた。
「な、なに!いきなり!」
相変わらず突発的に触られると固まるようだ。
「あんまり大声出すなよ。頭に響く」
「すまぬ」
「志乃、居てほしい。居てくれ」
「さっきから居るって言ってるのにー」
「ちゃんと頼みたくなったんだよ」
「ほう」
「デレてるんだから喜べよ」
「わぁい」
「心こもってねえなー」
587:
102
彼女と話して、少しずつ平常心に戻ってきた。
怯えを一旦心の隅に置くことができるくらいには、僕は落ち着いていた。
「俺、明日お義姉さんに相談してみるわ」
「うん」
志乃がうなずく。喜んでいるようだった。
「そうでなきゃ、お前泣きながらお義姉さんに依頼しろって言ってくるだろうしな」
「依頼しろとは言うだろうけど、泣きはしない」
(いーや、泣くね)
あえて言うまい。
「俺は薬局に行くぞ、志乃」
「痛止め要る?この時間は閉まってるよ」
志乃は僕から離れて、鞄を探る。
「運が良かったな。私のが余ってた」
少しくたびれたパッケージを僕の側に置く。
「お水くんでくるー」
立ち上がろうとする志乃の手首を掴んで止める。
「いいよ。痛みのピーク過ぎて飲んでも効きにくいし」
「そうか」
588:
103
「まあ、その、コンビニでもいいというか」
「?」
「俺はこないだ長野と話していて思いました」
「ああ、円の書き方教えてもらってたよね」
「それもだけどな。やっぱり愛と責任ある性交をせねばなりません」
志乃が吹き出す。
「笑うなよ」
「わ、笑ってなどいない。うろたえたんだ」
彼女はきまり悪そうに体を動かす。
「真面目に聞けよ。真面目に考えたんだから」
「あ、あー。そのことなんだけどさ」
もじもじそわそわ。
「どうした」
「しばらくは困らなくていいよ」
「え?」
589:
104
志乃はタンスを開けて、何やら箱を取り出した。
「ででーん」
と、僕に差し出す。
――業務用――
「ナニコレ」
「もらったったwwwww」
「いやいやいやいや。業務用て」
こんなものにも業務用があるのか。
「おねーさんに相談したらくれた」
「何考えてんだよあの人は!」
別の意味で頭が痛くなってきた。
「呼んだ?」
口の横に血糊をつけたお義姉さんが、部屋の真ん中に立っていた。
食事中だったようだ。
「呼んでません!なんなんですかあなた!もう!」
「私は妹を助けただけよ」
彼女は腕を組んであごを上げ、僕を見下す。
「だからって業務用はないでしょう!」
「いいじゃない。これでしばらくは持つわよ」
「しばらくって何ですか!」
「しばらくはしばらくよ。ペースにもよるわね」
「もう!ペースとか!もう!もう!」
いろいろとブッ飛んでてツッコミが間に合わない。
「特に用もないみたいだし、私は食事に戻るわ」
お義姉さんは踵を返す。
「……がんば!」
と、お義姉さんは親指を立てて消えた。
590:
105
休憩室に残った僕と志乃。
あと、業務用コンドーム。
「……気まずぅー」
志乃が舌を出す。
お気持ちは嬉しいんですが……こういうんじゃないんだよなー……。
「こういうんじゃないんだよなー……」
思ったことが口から漏れていた。
「確かに……ちょっと違うよね」
志乃がうなだれ、扱いに困った。という風に箱に目を遣る。
「どうするよ、これ」
「どうするって……ああー……」
部屋の真ん中に鎮座する、殺傷力のない爆発物。
「使うしかないんじゃないかなぁ」
志乃が棒読みで答えた。
「何だね、その他人事のような口振りは」
「快く受け取っちゃった手前、気まずいんだもん」
「一旦片づけようか、それ。気になって仕方ない」
「ああ、うん」
僕の目の前から、しばしの別れだ。業務用。
591:
106
志乃が布団に戻る。
「寝よ寝よ!」
「寝れん!」
テンションをニュートラルに戻してほしい。
「えー。さっきまで寝そうな感じだったじゃん」
「そんなもん露と消えたわ」
「もー。どうしろと言うんだ。エロいのはナシだぞ」
「エロいことを要求する気力も体力もない」
「あー……」
「だから今日は、おとなしくポツポツ喋ってようぜ。眠くなるまで」
「それいいかも。話題が尽きてしりとりしたりしてさ」
「で、『る』でハメられてムキになるんだよな」
「それは反則だ」
志乃が僕に布団を掛け直す。
「修学旅行の夜みたいだね」
「やっぱり女子って好きな人告白大会とかやってたの?」
「やったやった。そのときは好きな人いなくて困った」
ああ、この会話の取るに足らない感じがちょうどいい。
「いないって言うと、ありえないって言われるんだよね。
 しょーがないから、かっこいいと思う人を挙げるってことで許してもらった」
「めんどくせぇなー、女子って」
「あれ、なんなんだろね」
「なんだろなー……」
最後に話した話のタネも朧気になったところで、僕は眠ったらしい。
夢と自覚できる夢の中。
――ニャーン。
声だけで、あの子猫だと判別できる。
お義姉さんの、次の依頼人は僕だ。
そう確信しながら、僕はさらに深く眠った。
女「もらったったwwwww」おわり
592:
あえて言わせてもらおう
頼むから爆ぜてくれ
595:
おねーさんに血を吸われたい
596:
応援してる
肉塊になれ
597:
乙でしたっと
おっさんには眩しいくらい青春してるな…
598:

なにこれ甘酸っぱ過ぎて血の涙流しそう
605:
女「有効利用したったwwwww」

少し寒いような気がして、眠りから覚めた。
(一応、秋か)
まだ眠っていたい。
僕は閉じたまぶたに力を入れる。
脚が寒い。
股間は暖かい。
ていうか……気持ちいい……だと……?
気付いて上半身を起こしたときにはもう遅く、僕は射精していた。
(あああああやっちまったああああああああ)
いくらお義姉さんがエロ関連に寛大だとはいえ、汚すのは申し訳ない。
自責の念に駆られそうになったが、そんな考えはすぐ消えた。
606:

僕の下半身にかかった布団が不自然に盛り上がっている。
呆れながらはぎ取ると、案の定志乃がうずくまっていた。
「んむ……おあおー」
「おはよう」と言いたいらしかった。
志乃は最後の一滴までしっかり吸い取ると、満足そうに口元をぬぐった。
「寝込みを襲うなよ……」
なんだかもったいない気分でいっぱいだ。
「いっぱいでたよ!」
力強く親指を立てて、いい笑顔で言ってくれる。
「言ってくれればいいのによー」
「お腹すいたん……。寝てたし、起こしちゃ悪いかなって」
久々に嗅ぐ、イランイランの香りだった。
たった今、放出してすっきりしたはずなのに、陰茎に硬度が蘇ってくる。
志乃はそれを見て、目を輝かせながら指の腹で撫でている。
607:

下腹のあたりがぞわぞわする。
「こら。志乃、くすぐったいって」
「ふっふっふー。上の口ではなんとかかんとか。下の口では――」
「俺に下の口はないぞ」
「あ、そうか」
彼女は唇をとがらせる。
うまいこと言い損ねたのが不満なんだろう。
「まだ吸い足りないか」
「うーん、まだいけるー」
と、棒を握りながら口を開けて近付ける。
僕は志乃のおでこを押さえてそれを制する。
「ぬうう……よいではないかよいではないか……!」
「だからくすぐったいんだよ。いじらせろ。俺にエロいことをさせろ」
「やだー!」
腕を掴んで引き、志乃を抱え込んで倒れる。
「ははは。上の口ではなんたらかんたら。下の口では――」
戯れながら指を下着に滑り込ませる。
昨晩はきかえたばかりなのを汚さない為の、僕の粋な計らいである。
(……これは……笑い事じゃないな)
「まだ何もしてないんだけどなー」
志乃は顔を伏せている。耳が赤い。
608:

その様がかわいいと思ったので、耳を舐めた。
「ひっ、ぅああう」
情けない声を上げて体をよじる。
「どうした、リアクションが面白いぞ」
「だ、だめ。それだめ」
彼女は僕の肩を押して離そうとする。
「うんうん。これは開発の余地ありだな」
「ないない! ないって!」
「フロンティア精神だ。向上心のないやつは馬鹿だ」
「股間を硬くしながら言ってもかっこよくないぞー!」
「はっはっは。照れるな照れるな」
僕は志乃の体の線をたっぷり撫でて堪能する。
「んんっ……何で朝から元気っ、なんだ……」
「いやぁ、お義姉さんに相談すると決めたら少し吹っ切れてな」
「だからって吹っ切れすぎっ……もう!」
耳にいきなりぬらりとしたものが入ってきた。
水っぽい音がぺちゃぺちゃと響く。
なぜか腰のあたりがくすぐったいようなうずきに襲われた。
「うぁああそれらめえええええ」
「ほらー、だめじゃん」
(なぜ勝ち誇る……)
609:

「妙に明るいな。健康的すぎて萎えるぞ」
萎えはしないけど、この調子じゃいつまでもじゃれあってるだけだ。
「えー。やだそれ屈辱」
「これはこれで楽しいけどなー」
ひとしきり笑った後、志乃が黙っていることに気付いた。
「どうした、志乃」
「べ、べーつにー」
「なんですか。明るいエロスではなく淫猥でぐちょぐちょしたのをお求めですか」
「いや、そこまでは」
「べっつにィー。平気ですしー」
「平気じゃないんだろー。不完全燃焼なんだろー」
「んー……言わなきゃだめ?」
「求められたい」
「うぅ……」
「さあ! レッツ!」
「そ、そりゃあイキたいかって言われたらイキたいですけどー?」
「もう一声!」
「う……ゆ、指入れて……」
(ハイ、おかずいただきましたー)
志乃は消え入りそうな声で言うと、僕の腕の下に隠れようとした。
ぺたりと触れた頬が熱かった。
610:

「うんうん。えらいぞ志乃」
僕は幸せである。
たとえ寂しい不気味な夢を見ようと、猫に祟るとおどされようと、僕は幸せである。
再び、志乃の中に指を侵入させる。
「自分が口でしただけなのに濡れてるの、恥ずかしかったんだ?」
志乃は涙目でこくこくと繰り返しうなずく。
心なしか、指を包む粘膜がきゅっとなった気がした。
「大丈夫だ。口の中も性感帯だ」
「今まではふつうだったのにぃ……」
「そりゃ開発されたんだろ。あとは気分とか?」
指を抜き差しすると、液がとろとろ流れてくる。
もう一本入れると、志乃の体が跳ねた。
「あ、大丈夫か?」
「ふっ、うん……平気」
首を抱えて顔を寄せ、唇を重ねた。
僕が舌先で唇をなぞると、彼女も遠慮がちに舌を出して応じる。
(腰が動いてるのは言わないでおこう)
言ったら、恥ずかしがって振り出しに戻りそうだ。
こうして会話しながら淫靡な行為に耽るのも乙なものだと思う。
せっかく恥じらいを一旦隅に置いてくれたのだから、思い出させることもないだろう。
611:

志乃はたっぷり時間をかけて楽しんだ後、果てて僕の横に倒れると、そのまま少しの間眠った。
「志乃、志乃ーおきろー」
「んん……ふぅ」
(満足そうな顔してやがる……)
フルボッキで待機している僕をそのままに、眠った。
(これは……後でねっとりやってもらおう)
志乃が復活するまでの時間が残酷な焦らしプレイであった。
あと、ずっと下半身丸だしでいたことに気付いて、少しへこんだ。
何よりパンツを穿き直すべきか迷って、その逡巡のくだらなさに気付いて、またへこんだ。
617:

――――――
せっかくの土曜日なのに、仕事だ。
その仕事を依頼するのは僕だ。
憂鬱だけど、面倒なことはさっさと済ませた方がいい。
(志乃も言ってたしなー)
――春海一人の体じゃないんだよ!
(……握りながら言われると他意を感じるが、心配はしてくれてるんだろうしなー)
事務所に入ると、お義姉さんは帰ってきていた。
「あら、どうしたの、この世の終わりみたいな顔して」
「まだそこまで落ち込んじゃいませんよ」
「それは落ち込む可能性があるってことね」
「まあ、そんなところです」
お義姉さんは今日もきれいだった。
ただ、その場にいないと顔を思い出すことができない。
618:

「……深刻そうじゃない」
「わかりますか」
「わかるわよ。空気が読めないわけじゃないわ。普段は読まないだけよ」
(わざとやってたのかよ……)
「まあいいわ。ちゃちゃっと本題に入ってちょうだい」
お義姉さんはコーヒーカップに口をつけながら、立てた指をくるくる回す。
「巻きでよろしく」ということか。
「あの、俺、呪われてるっぽいんですけど」
立ち向かってやろうとは思ったものの、実際相談するとなると、その事実を受け入れなければいけない。
口にするのは抵抗があった。
「ふーん……」
お義姉さんの目がまっすぐ僕を見つめる。
虹彩はロシアンブルーの緑じゃなかった。
呼吸ができない。
お義姉さんはしばらく僕の目の奥から何かを読みとろうとしていたけど、やめたらしい。
619:
10
彼女は長く息をつくと、まだ湯気の立っているコーヒーを一気に飲み干した。
「やっぱり呪われてなんかないわよ。何をそんなに心配してるのかしら」
被害妄想だとか気にし過ぎだとか言い捨てないあたり、気にはかけてくれているらしい。
僕は夢の話をした。
覚えている限り、全て話した。
「それが本当なら、私の手には負えないわ」
すっと寒くなった。
自分が何も考えていなかったことが、行動を起こして5分で露呈した。
戦ってやると肚をくくったつもりが、結局はお義姉さんに依頼すれば何とかなるとタカをくくっていた。
(志乃に合わせる顔がありません……)
(やっぱ俺ってヘタレなんかなー)
視界の端に入った指輪の輝きも、ずーん、と鈍かった。
620:
11
「その猫は祟るって言ったのよね。それなら私の専門外よ。
 呪いと祟りは違うの。そこはわかるわよね」
「ニュアンスの違いくらいは……。
 人が誰かに害を与えようとしてこう、怪しげなことしたりするのが呪いで、
 霊とか神様とか――動物霊もあるかな――そういったのが人間の行いに報いる形で出るのが祟り、ですかね」
「あら、大筋ではわかってるのね。それなら話が早いわ。
 私は呪い専門。私は、祟りのことは門外漢。私はね」
――私は殺し屋よ。呪い専門の。
(待て待て。じゃあ祟り専門の殺し屋なんてのもいるのか?)
頭が痛くなりそうだ。
「お義姉さんではない、他の誰かなら対処できるかもしれないと」
「そう思ってくれて構わないわ。
 ――妹、聞いてるんでしょ。入ってきていいのよ」
621:
12
志乃が半開きのドアをすり抜けて事務所に入ってきた。
「春海、大丈夫だよね」
「さーねえ。ちょっとあの世に口利いて調べてもらうわ」
「あの世って?」
「あの世はあの世よ」
お義姉さんの頭上から、スポットライトのような光が射す。
「なんすかそのエフェクトは」
「ここ、あの世に直結してるのよねー。ちょっと行ってくるからテキトーに過ごしててちょうだい」
お義姉さんは天に召されるように、上に上に吸い込まれて、天井に頭が当たりそうになったところで消えた。
「志乃、お義姉さんのあんな退場見たことある?」
「いや、あのバージョンは初めて。いつもすいーっと出てきて、すいーっといなくなっちゃうもん」
そもそもこんなオフィス街の一角にあの世直通の霊道チックなものがあるなんて知らないぞ。
いや、知らなくて当たり前なんだけど。
(せめて場所選べよ……。オカルトなことが起こっても受け入れられそうなところにさー)
僕は判決待ちの被告のような気分で取り残されてしまった。
志乃がいつの間にかコーヒーを淹れていた。
「いつの間に」
「さっき。飲む?」
飲む? と聞いてはいるものの、カップは2つある。
はじめから僕の分も淹れておいてくれたのだろう。
「うん」
僕は素直に受け取る。
そして、二人で長く長くため息をついて、途方に暮れながら同時にカップを口へ運んだ。
628:
13
「志乃はさ」
熱い液体が舌に触れる。
やっぱり熱々のうちはまだ飲めない。
「んー?」
「やっぱり見えてるの、呪い」
「割と」
志乃はカップをテーブルに置いて、手指をばらばらに動かした。
王虫の触手のイメージだろう。
「前は見えてなかったんだよなー」
お義姉さんは「みえる人」みたいなものだから気にする必要はないと言っていた。
だけど、こうなったのはつい最近のことだ。
629:
14
「やっぱヴァンプになっちゃったからじゃない? 前までは何ともなかったし」
「俺、人間だよな……」
「そーなんじゃない? 実際人間やめてみると、よくわかんなくなった」
「区別がつかんと」
「私が半分妖怪になったのはここ2〜3週間のことだし、
 かと言って人間とはそう変わらないし……となるとさ、
 もっと私みたいなのいるんじゃないかなって思っちゃうよね」
「そう言われるとなー。案外みんな巧く化けてるのかもな」
まだ飲めそうにないので、僕もテーブルにコーヒーを置いて、ソファに座る。
「うーん、でも春海はなんか違うって思うことはあったかな」
志乃は難しい顔で、僕の隣に腰を下ろした。
630:
15
「変人のつもりはないぞ」
「変っていうか、違うって思ったんだよね」
「そのニュアンスの違いを詳しく」
志乃はおろした髪の毛先を指に巻き付けては離している。
「そうだなぁ。あの、やっぱり私が変質者に尾行されたときの話に戻るんだけどさー」
あの事件がなければ、僕は志乃と話すようにはなっていなかっただろう。
いつどこで縁ができるかわからない。
「実は、周りには他にも顔見知りの人いたんだ。
 私に気付いてなかったり、向こうがグループで動いてたから行きにくかっただけで」
「選択肢はいくらかあって、結果俺を選んだってことか」
「選んだっていうか、そのときは怖かったから直感だよね。
 この人についててもらえば大丈夫だって思った」
「なに、運命感じてたの?」
「それはない」
「切り捨てるなぁ」
「だって当時は名前と顔がやっと一致したくらいだよ。
 惚れた腫れたなんて言い出すには早すぎるよ」
「なるほどねー」
631:
16
「まあ、その、そのとき春海を選んだ判断が働いたのは、何かが違うっていうところに反応したんだと思う」
「何かねえ」
「何か……気配とか匂いとか、そんな単純なものでもない気がするけど、抽象的すぎてよくわかんない」
「お前にわかんなきゃ、俺にもわからないよな」
「だからさ、人間かどうかなんて結構曖昧でいい加減なんじゃないかなって思うわけよ」
「だから、って話が繋がってないような気がするんだけどな」
「しょーがないじゃん。印象の話だもん。私は馬鹿じゃないけど、春海ほどきれいに喋れないしー」
「そう言い切られると、俺はそれを丸ごと飲み込むしかないんだなぁ」
「あたし、あんたのそーゆーとこ好きだけどね」
志乃は「ふふふんっ」と一人で楽しそうに笑うと、一気にコーヒーを飲み干した。
カップに触れると、しっかり持つことができるくらいにはぬるくなっていた。
口に近付けて、少し吹いてから飲んだ。
632:
17
「朝ごはん買ってくるー。角にカフェあったじゃん。朝カフェとかビジネスパーソン(笑)ぽくない?」
きっと彼女の頭の中では、読めもしないニューヨークタイムズが広げられているのだ。
「うんうん。ぽいぽい。俺、ツナサンドね」
ズボンのポケットを探ると、500円玉が入っていた。
それを志乃に渡す。
「うああ、ぬるい。硬貨が人肌だよう」
「懐であたためておきました」
「じゃ、ちょっと行ってくるー」
彼女は休憩室に財布を取りに戻り、出ていった。
出ていこうとしたところで振り返り、
「ねえ、こうやってお財布だけ持ってビルから出るのってOLっぽくない?」
と言った。なんでそんなに楽しそうなんだ。
「うんうん。それっぽい」
志乃が元気だと安心する。
見送って一人になると、やっぱり事務所は静かで広くて、心細かった。
この際あの子猫でいいから、そばに居てほしいと思った。
640:
18
しばらくして、志乃が帰ってきた。
「ただいまー」
「おう、おかえり」
「ほい、ツナサンド。と、おつり」
と、紙袋とポケットを探って僕に手渡す。
僕は礼を言って受け取った。
志乃は僕の隣に座って、袋からクッキーを出した。
「それじゃ足りないだろ」
「私はもう朝ごはん済んでるもーん」
「あー……」
(そういえば今朝は2回分精液を補給したな)
「お腹は空いてないんだけどさ、人間の食べ物は口にしていたいんだよね」
「食べ物が変わるって、怖いよな」
それはつまり、体質の変化だ。
それイコール正体の変化だ。
今までの自分とは違う、別の自分になった証左だ。
641:
19
「おねーさんには感謝してるけど、やっぱりなるべく人間でいたいと思うよ」
だから志乃は戦わない。
呪いに対しても常識の範疇で解決したがる。
あくまで人間の能力の範囲内で、お義姉さんに協力したがっている。
「そうか」
気の利いたことが言えない。
なるべく多く具が入るようにツナサンドをちぎって、志乃の口に押し込んだ。
「んぅ……」
彼女は腑に落ちないといった表情で、何か言いたそうにしながら咀嚼している。
「美味いか」
うなずく。
「よかったな」
「……うん」
642:
20
志乃が小袋からクッキーを一枚、僕の口に押し込んだ。
「おいしー?」
「うぅ……」
僕は今、変な顔になっていると思う。
具体的には、しょっぱいものと甘いものを口の中で同時に処理してまずいのをこらえているような顔だ。
あまりよく噛めないうちに飲み込んだ。
「まずい……」
「ちぇー」
「俺の口が空いてるときにしてくれ……」
「すまん」
そういう志乃の顔は、ちっともすまなそうじゃなかった。
それどころか嬉しそうですらあった。
643:
21
ふと、事務所の所長席の近くに光がまっすぐ射した。
(この演出は要るんだろうか)
僕は黙ってお義姉さんの降臨を待つ。
(吸血鬼って、ほんとはもっと凶々しくなきゃいけないんじゃないか?)
「ただいま。あなた達、いつ見てもラブいわね」
「いやんー」
志乃が僕の袖をつまんで下を向く。
お義姉さんはその様を、目を細めて眺めていた。
――私はあの子が可愛いの。
心が暖まる一方で、志乃が人間であろうとしている事実をお義姉さんがどう取るかと思うと、少し寂しくなった。
644:
22
「それで、あの、どうでしたか。調べてみて」
「……結論から言った方がいいのよね?」
「それを言うってことは、俺にとっていい答えじゃなさそうですね」
お義姉さんは唇を真一文字に結んで、膝の上で組んだ指を動かしていた。
「言ってくれて大丈夫ですよ。あなたを待ってる間、主文後回しを言い渡された被告の気分だったんです」
自分でも、妙な喩えを持ち出して饒舌になっているとわかる。
ちっとも大丈夫なんかじゃない。
ほんとは答えなんか知らないで、志乃と昼まで寝ながらいちゃいちゃしていたい。
猫や神田さんと上木さんのこと、呪いや祟りのことなんか忘れていたかった。
645:
23
「わかった。言うわ」
志乃が僕の指を握る。
柔らかい力だった。
「義弟は祟られてる」
これで、今度こそ本当に絶望できる。
胃の底が持ち上がるように、吐き気が起こった。
「詳細はまだ調査中だけど、君のご先祖様が猫を殺してるわ」
「そう、ですか……」
それだけ、絞るように言えた。
自分が超自然的な脅威に晒されていることへの怯えがあった。
現代と倫理観や死生観が違うとはわかっていても、遠い昔の身内が、
かわいらしい動物を手に掛けていたことへの嫌悪感があった。
646:
24
「ただ、気になるのは、その祟ってる子猫が口ばっかりってことね」
「口だけ?」
志乃が聞き返す。
「そう。小さな子供が、意味もわからないで、なんとなく覚えた言葉を繰り返すような――そんな感じ」
「エントロピーとかゲシュタルト崩壊みたいなもんですか?」
「それじゃ男子じゃん」
「男子だけどさ」
「人間の子供はカタカナが好きなの?」
「いえ、いいんです。先に進めてください」
「言ったとおりよ。その子猫、口では祟る祟ると言いながら、義弟に危害を加える気が全く見受けられないの」
「それはそれで――」
「不気味でしょう?」
僕は、肺の空気をはっきりしないうめき声と共に排出して、少しえづいた。
651:
25
「私も、もっと早くに気づくべきだった」
お義姉さんは少し、うなだれたように見えた。
「仕事中に起こることなら、私がついてれば大丈夫だと思ってた。
 だけど、君の場合は生まれる前から仕掛けられたものだった。
 それでも、違和感には気づくべきだったわ」
「あの、俺、そんなにピンチなんですか」
「わからない。言ったでしょ。調査中だって」
「じゃあ、悲観的にならなくても……。俺がショック受けて立ち直れないならわかりますけど」
「耳が生えてるのよ」
「耳?」
「あとしっぽ」
「は?」
「義弟の魂に、猫耳と猫しっぽが生えてるのよ」
そう言ってお義姉さんは頭を抱えた。
志乃が唇を噛む。
さすがに猫好きでも、喜べない状況だと感じているらしい。
652:
26
「おそらく、君で七代目」
声がくぐもって聞こえる。
耳がざわざわする。
「あの、先天的なものだったなら、なんで今頃になって現象として出てきたんでしょうか」
生まれつきの体質みたいなものなら、もっと昔から特異なことは起こっていたはずだ。
「妹は、ゆくゆくは義弟の子供が欲しいでしょ」
志乃が短くうめいて、顔の前で手を振る。
「ああああたしお茶、い、淹れてくる!」
思い切りどもりながら言うと、給湯室に逃げてしまった。
「お義姉さん、唐突すぎますよ。からかってるんですか」
「私は真面目よ。妹もまんざらじゃないはず。
 今になって猫が自己主張してきたのは、君がつがいとなる雌を手に入れたと判断されたからよ」
「つがいとか雌とか言わないでくださいよ……」
もうちょっとロマンのある言い方でお願いしたい。
「おそらく、その猫は生まれ直そうとしてる。
 よくある話でしょ? 生まれた子供に化け物の特徴があって、それと対面した親が発狂――」
「天狗じゃ、天狗の祟りじゃー」
「ま、そんなとこね」
この年で親になりたいとは思わないが、そのうち子供が欲しいとは思うだろう。
653:
27
志乃が茶器をカチャカチャさせながら戻ってきた。
「うー、きまずいー」
「さすがにな」
志乃が人間をやめているにも関わらず、僕の中の猫が志乃を「つがい」と判断したということは、
僕は志乃と子供を作れるということなんだろう。
僕にはまだ早いが、それでも安心した。
振動音が聞こえる。
「誰か、携帯鳴ってる」
志乃もお義姉さんも気付いていない。
「私じゃないよ」
志乃がポケットを押さえて言う。
「あら、じゃあ私?」
お義姉さんが木製のデスクから、鞄を引っ張る。
「ああ、あの世からだわ。普通に話しかけてくれればいいのに――はい、ナオミの部屋です」
(あの世から着信アリって怖いな……)
「ああ、すみません。お疲れさまでーす。
 で、お願いしてる少年の調査の件なんですけど、ああ、そうですか。
 あー……それは……うーん……ああ、本人に話してみます。
 あ、はい。また何かわかったらお願いします。
 すみません、お手数かけますが。はい。失礼します」
(お義姉さんがまともな社会人に見える! スゲエ!)
お義姉さんのまともな振る舞いに、自分の危機そっちのけで衝撃を受けていた。
654:
28
お姉さんが二つ折り携帯を畳んで、僕に向き直る。
「よかったわね、義弟のご先祖様は、わざと猫を殺すような人じゃなかったわ」
「それじゃ――」
「悲しいわね。事故というか、誤解というか……。
 そのへんで人さらいに連れていかれそうになった娘を助けようとして、娘の猫が人さらいに飛び込んだ。
 そのタイミングで――」
「人さらいと一緒に斬ってしまったと」
「そんなところね」
確かに事故だ。飼い主である娘に危害を加えようとしたのは人さらい。
だけど、猫が死んだのは、斬ったのはご先祖様。
「過失致死ですね……」
だけど、殺してしまったのは事実だ。
猫も事情を汲んではくれないだろう。
志乃は沈痛な面もちで聞いている。
動物や女子供が痛い目に遭う話は嫌なんだろう。
僕だって嫌だ。
662:
29
「春海は、どうなるの?」
志乃がぽつりと聞いた。
「その猫ちゃんと話してみなきゃわからないわね」
肝心の子猫は、僕の魂と融合してしまっている、らしい。
「でも夢にしか出てこないし、ロクに話せませんよ」
あの赤い空と海の空間でも、猫はか弱く、可愛らしく鳴くだけだった。
話した言葉は、祟ると告げた一言だけだ。
「死人に口を作るとかー」
お義姉さんが視線をやや上に飛ばしながら呟いた。
(嫌な予感しかしない……)
「やーねぇ。喩えに決まってるじゃない」
「シャレになってないんですよ、お義姉さんの言うことは」
この人と関わり始めてから、多少の非常識は常識のブレの範囲内に納まるように思えていた。
ただ、今まで認識してこなかっただけだ。
猫に喋らせるのだって、術者がいるのかは知らないが、降霊術でもやりだすんじゃないかと思っていたところだ。
663:
30
「夢で会ってらっしゃい」
彼女は僕に立てた指を突きつけながら命じる。
「さっきまで寝てたのに……」
「俺、眠くないですよ」
自分が完全には自分じゃないと告げられて、混乱している。
今はまだ飲み込めないでいるが、そのうち自我が揺らいで不安でたまらなくなるのかもしれない。
僕はまだ、そういった「仮定」や「予測」に対して恐れている。
祟られている当事者の自覚はできたけど、そのへんの危機感は薄い。
「寝なさい」
「仮に会えたとしても、あの猫、触らせてくれないんですよ」
「じゃあ、これを持っていくといいわ」
「持っていくったって――」
僕が言うのを無視して、彼女は上を向き、自分の手を口に突っ込んだ。
664:
31
「うえぇ……」
志乃がもらいゲロしそうな顔で僕にすがる。
(こいつはお義姉さんが口から物を出すの、初めて見るんだったな)
まさか僕に、佐伯さんの事件のときに使った剣を持たせるつもりじゃあるまいな。
(あれはキツかったなぁ……ぶったぎられた黒い触手が、床でビチビチと跳ね回りながら消えてくの……)
思い出してぞっとする。
やっぱり、あんなもの志乃に見せなくてよかった。
僕も、志乃と一緒に目を反らした。
「ん、これ」
お義姉さんが僕に何か差し出す。
嫌々視線を戻すと、お義姉さんの手には猫じゃらしがあった。
(この人の口は……どこに繋がってるんだ……)
「なんつーか、ベタっすね……」
猫じゃらしを受け取る。
特に変わったところはなく、そのへんに生えていそうなものだ。
665:
32
「王道と言ってほしいわね」
彼女はため息をついて、腕を組んだ。
志乃は不思議そうに、お義姉さんの口元と猫じゃらしを見比べていた。
「さ、義弟よ。準備はいいわね」
「よくないですよ。俺、眠くないですよ」
「うっさいわね。夜まで待てっていうの?」
「せめて昼まで……」
言い終わらないうちに、お義姉さんの手が僕の眼前にあった。
丸めた中指が伸びる力を、親指の腹で溜めている。
額に衝撃が走り、意識はブラックアウトした。
666:
33
**********
僕はまた、海辺に倒れていた。
波が膝まで濡らして、引いていく。
(またここか……)
一度の挑戦で、狙った場所に来れるなんて、運がいいのかもしれない。
目を開けると、やっぱり空は赤くて、太陽も月も、雲も星もなかった。
手にはお義姉さんに持たされた猫じゃらしがあった。
(まさかこれが守ってくれるわけないよな……)
体を起こして、あぐらをかいた。
きっと待つしかない。
相変わらず寂しいところだ。
初めてここを見たときは胎内のイメージだと思ったけど、ここには胎教だと言って語りかけてくれる母の声はない。
そして、性懲りもなく僕は、祟られていても構わないから、あの子猫が恋しいと思った。
667:
34
――ニャーン。
どれくらいそうしていたかわからないが、丸めた背中の後ろで猫の声がした。
背筋が伸びる。
振り向くと、例の小さな三毛猫がいた。
「おいでおいでー」
ちっちっ、と口を鳴らしながら猫じゃらしを振る。
(祟るような猫が、こんなオーソドックスな手に乗るかな……)
半信半疑で猫を挑発する。
(まさかなー)
子猫は猫じゃらしの先端を凝視している。
とりあえず、リズミカルに、時に変則的に動かしてみる。
子猫はテンションが上がってきたのか、両手で挟み込もうとしたり、たたき落とそうとしたり、くわえようとしたりしている。
668:
35
(オカルトのくせに可愛いな)
ひとしきり遊ぶと、猫は砂浜に背中を擦りつけるように仰向けになり、くねくねと動いた。
触っていいのか、話しかけていいのかわからず、僕は黙ってみている。
「ニャーン」
「撫でていいのか」
相変わらず、時折前足を伸ばしてくねくねしている。
そっと腹を撫でてみる。
柔らかい毛が気持ちいい。
「いい子いい子」
猫は長くなっている。
(癪だけど、お義姉さんは正しかったな)
どう話したものだろう。
「七代祟る」と言葉を発したからには、人の言葉で意志疎通を図ることはできるのかもしれない。
でも、何から聞いたらいいんだろう。
腹を撫でる手が止まる。
手のひらがあたたかい。
(僕のご先祖様は、こいつを殺してしまってるのに)
急に後ろめたくなって、申し訳なくなって、僕は奥歯を噛んだ。
674:
36
「ごめんな」
猫を抱き上げる。
すっかり気を許してくれているらしく、僕の腕の中でおとなしくしている。
前足で二の腕をフミフミする動作がたまらなく可愛い。
猫は丸い目で僕を見つめ、「なーん」と甘えた声を出す。
「こんなに小さいのに。まだ生きてたかったよな」
指先で、掻くようにしておでこを撫でてやる。
動物は意外と賢い。話しかけてみれば通じるかもしれない。
「母上死んじゃった。ぼく、まだ生まれてないのに」
男とも女ともつかぬ、幼児の声だった。
猫の口が動いている。
声は頭の中に響いて、そのまま加しながら頭蓋の内部を何度か反射する。
675:
37
「ぐぅ……っ!」
いきなり偏頭痛の最高潮がきたみたいだ。
油断しきっていたところに吐き気が込み上げたが、なんとかこらえた。
「七代祟るって言ってたよ。おなかのなかで聞こえたにょー」
(お腹の中――?)
「母上、死んじゃった」
(生まれてないってことは、死んだとき、こいつは胎児だったのか?)
「母上かわいそう。冷たくなりながら、ずっと心配してくれた。ぼく、さむかった」
斬られて死んだ猫は、こいつじゃなく、こいつを身ごもった母猫だったのか。
「母上、なにも言わなくなった。かわいそう」
ということは、母猫が息絶えた後、少しの間、子猫は胎内で生存していたことになる。
「ひとり……ひとりはいやだ……」
僕の口から言葉が出ていた。
僕の意思じゃない。僕の体を、僕の声を借りて喋っている

――ニィ、ニィ。
上げられることのなかった産声が、頭の中で主張する。
676:
38
僕は今度こそ吐いた。
さっき、志乃が買ってきてくれたツナサンドを食べたばかりなのに、吐いたのは胃液だけだった。
(ああ、このへんはちゃっかり夢の中なんだな)
こういった、大したことないポイントでも観察してないと、冷静でいられない。
子猫は、まだ僕の口でぽつぽつ話し続けている。
「母上、さいごに七代祟るって言った」
それは遺言なんかじゃない。
(おまえの母さんは、今わの際の向こうまで、死んでも主人の為に立ち向かおうとしたんだよ)
「たたるって何だろう」
(やめとけよ。七代は長いよ)
「たたったらどうなるんだろう」
(ろくなことにはならないよ、きっと)
このときには、猫の気持ちは理解できていた。
生まれたときから、生まれる前からずっと一緒だったのだ。
この体と魂を使い続けてきたのが、僕一人ではなく、いたいけな化け猫だったというだけのことだ。
677:
39
子猫は七代の間、母の最後の言葉を反芻してきた。
自分を慈しんでくれた母。
最後に一言、七代祟ると言い残した。
母の発した言葉なら、良いことに違いない。
命を振り絞った言葉なら、すてきなことに違いない。
子猫はそう信じて、その言葉の意味を知らず、僕の家系に憑いてきた。
恐ろしいような、気の毒なような気分になったが、それでもやっぱりこいつにある種の情が湧いていた。
見えない手が、僕の肩をつかんで揺する。
「そろそろいかなきゃ」
これは僕の思考だ。
「またくる? またあえる?」
「うん。たぶん」
子猫は名残惜しそうに口を開いた。
小さいが、歯はりりしく尖っている。
僕はそれを見て、少し嬉しくなった。
赤い空が白み始める。
夢が終わる。
**********
678:
40
目を開けると、向かいにはお義姉さんが脚を組んで座っていた。
志乃が僕の手を握っている。
頬がすうすうする。
ティッシュが差し出される。
(あー……泣いたのか……)
気まずい。
「春海、うなされてたよ」
「うーん、いろいろと複雑でな――ちょっと顔洗ってくる」
洗面台に行って、顔を洗って戻る。
冷水に触れると、少し気分がすっきりした。
猫には猫の事情があるのだ。
事情がややこしいのは人間様だけじゃない。
「それで、何がわかった?」
お義姉さんがあごを引き、上目遣いに僕をにらむ。
「俺に憑いてるのは、ご先祖様が殺した猫が妊娠してた赤ん坊みたいです」
三毛猫で、自分のことを「ぼく」と言っていた。
(もし男の子ならすげーレアだな)
「夢の中では、ちゃんと生まれてきて、ちょっと成長したらこうだっただろうな、って姿で出てきてました」
手が勝手に動いて、「これくらい」と猫の大きさをジェスチャーする。
679:
41
「それから、七代祟るって言ったのは母猫だそうで、子猫はそれを良い言葉と思いこんで過ごしてきたみたいです」
僕から話せるのはこんなもんだ。
志乃が隣で悲しそうな顔になっているので、背中を軽く叩いた。
「じゃあ、勘違いだったっていうの……」
お義姉さんが頭を抱える。
「まあ、誤解ですよね」
「誤解で片付くほど簡単じゃないわ。君は言葉の力をナメてる」
頭を抱えた腕の間から、お義姉さんの眼光が僕を射る。
「キャンセルはきかないんですか」
弱気な発言をはばからない僕。
今は、少しだけ子猫と共生してもいい気分だったのだ。
「七代の間重ねてきたものに、理論で対抗できると思う?」
「猫は可愛かったけど、祟りそのものは強力そうですね。もし実現するなら、の話ですけど」
「実現する恐れがあるから面倒なのよ。もうすぐあの世から連絡がくるわ。今日は帰れないわよ」
覚悟なさい、とお義姉さんが僕に指をつきつける。
680:
42
「俺、えらいことになるんですか」
「それはわからないけど……こうなった以上、ありきたりだけど、供養してあげなさい」
「どうやって――」
「その場所を今、調べてるところなのよ」
「あたしも戦う」
志乃が拳を握る。
「志乃、たぶん今回はそういうのじゃないんだよ」
「でも、なんとかしないと春海が――」
「実力行使の前に、ちゃんと弔ってやるべきだろ」
「うぅ……」
「志乃、相手は、元々は親子の猫だよ。呪ったり呪われたりするような人間よりは可愛いもんだろ」
「話が通じるとは思えないよ……」
「通じないかもしれないけど、俺の中の子猫はいい子だったよ。母ちゃんには会わせてやりたいだろ」
「うん……」
志乃はひどく逡巡しているようだった。
僕の手からくたびれた猫じゃらしを取ると、その茎をぽきぽきと折り曲げてため息をついた。
683:
猫飼ってるおれにはたまらない
二の腕ふみふみの良さを知ってるとは
この>>1なかなかやりおるわ
688:
43
また、携帯が震えた。
お義姉さんは着信を待っていたようで、1コール目で出た。
「――はい。ああ、どうも……」
彼女は相槌をうちながらデスクに向かい、手近な紙にメモを取る。
「わかりました。本人を向かわせます。――早急に」
(本人って、僕のことだよなぁ……)
「ありがとう。失礼します」
人間のようなやりとりを終え、彼女は僕に向き直る。
「場所がわかった。行けるわね。今すぐ」
僕に拒否権はない。
心の準備はできつつあるけど、覚悟は決まっていないようだ。
「はい」とは口に出して言えず、首を縦に振った。
689:
44
―――――土曜日・昼・車内―――――
僕は一旦帰宅して、一泊分の荷物を準備した。
家族には泊まりになると告げた。
お義姉さんには、山に入るのだから上着を持ってこいと言われた。
まだ九月でピンとこなかったけど、従った。
それで僕は今、後部座席で志乃と揺られている。
「義弟のお母様のルーツは、そう遠くなかったわ」
鞄を探り、畳んだ地図を僕に渡す。
見ろ、ということらしい。
隣県との県境にある山に、印があった。
「山じゃないですか。もっとこう、城下町みたいなんじゃないんですか」
なるべくなら、人里から離れたくない。
生活から遠のくほど、不条理で超自然的で、僕の理解を離れた場所に入ってしまう気がした。
690:
45
「それに、リアルな話、熊とかイノシシとか出たらどうするんですか」
「盾があるし、私を呼べばいいじゃない」
「そんなぁ……」
盾は不完全だし、なぜあのとき成功したのかわからない。
「私も行く!」
「妹はだめよ」
志乃はルームミラー越しにお義姉さんをにらんだ。
「不満そうね」
「当たり前じゃん。おねーさんは春海が心配じゃないの」
「これは義弟の血の問題よ。部外者が手を出さないほうがいいこともあるの」
志乃はうつむき、歯噛みした。
「部外者じゃないもん」
微かだけど、そう聞こえた。
691:
46
―――――土曜日・日の入前―――――
道中休憩を挟みながら、お通夜ムードな車内で約3時間を過ごし、とある温泉宿に到着した。
「まさかまったり裸のつきあいで猫と和解できるなんてことはありませんよね」
「ないわね」
「よく当日で予約取れましたね」
「なぜか急にキャンセルが出たらしいのよねぇ。なぜか」
(あの世から何かの力が働いたに違いない……)
あまり追求しないでおこう。
部屋に案内され、くつろぎたいところだけどそんな気分じゃない。
「さ、入ってらっしゃい」
「あの、こんなときに風呂なんて――」
「身を清めておきなさいって言ってるのよ。猫ちゃんのお母様に会いに行くんでしょ。
 山の神の機嫌を損ねたらどうするの」
迷信を信じるおばちゃんみたいな言葉だけど、お義姉さんがそう言うからには、山の神もいるんだろう。
僕は言われるままに浴場に向かった。
692:
47
体を洗って、熱い湯に体を沈めた。
縁のぬめった石に頭をのせる。
(どこからどこまでがオカルトなんだか……)
僕には呪いが見える。
でも、山の神は見えない。
僕には猫の言葉がわかる。
それはたぶん、先祖代々脈々と継がれてきた猫の祟りによるものだろう。
湯けむりの向こうには、山がある。
僕が行かねばならない山がある。
(こいつの母ちゃんに会えたところで、俺、どうしたらいいのかな)
僕は、僕の中の子猫に対して何の恨みもない。
怖いとは思うけど、それはこれから起こるかもしれない祟りに対してであって、子猫は悪くない。
(できれば、親子一緒に成仏するのが一番いいんだろうけどな)
お義姉さんは、猫耳と猫しっぽの生えた僕の魂を見てショックを受けていた。
(ってことは、簡単には分離できないんだろうなぁ)
七代という時間を考えて、僕はめまいがした。
のぼせてしまったのかもしれない。
696:
48
体を拭いて、部屋に戻った。
二人が神妙な顔で正座している。
もっとくつろいでくれていいのに。
「ああ、戻ったわね。座って」
言われるままに、志乃の隣に腰を下ろす。
卓の上には二人分の茶が出ていたが、手がつけられていないようだった。
淹れてみたところで、飲んで一息つく気にはなれなかったのだろう。
まだ十分髪を拭けてなかったようで、雫が首を伝ってひやりとした。
「もう少しで日が落ちる。昔の人が、この世があの世の支配下にあると考えた時間よ」
「まあ、真っ暗だとそう考えたくなる気持ちもわからなくはないですけど……今、そんなに暗いですかね」
「今の君、相当夜目が利いてるはずよ。
 すぐに夜になる。イヤでも認めるしかなくなるわ」
子猫の影響か。
697:
49
「それで、春海はどうするの?」
汚れてもよさそうな服に、玄関にはしっかりしたスニーカー。
志乃はほんとうについてくる気だったらしい。
「日の入りと同時に山に入って、母猫に会うのよ。
 義弟の中の猫ちゃんが連れてってくれるはずよ」
「一人でも出来るの?」
「たとえば――妹、墓参りは一人でできる?」
「できるよ。墓地には一人で行きたくないけど……」
「そういうことよ。一番大事なのは想ってあげること」
「そうだよね。やっつけに行くんじゃないもんね」
志乃が湯呑みに視線を落とした。
少しは安心できただろうか。
698:
50
「私は外で待ってるから、着替えたら出てきて」
そう言うとお義姉さんは立って、部屋を出ていった。
「着替えたらって、手ぶらでいいのかな」
「さー?」
志乃がテーブルに突っ伏す。
「心配すんなよ。こいつの母ちゃんにバッチリ謝罪キメてくる」
「そのノリが出てくるあたり心配だ」
信用できない、といった視線をよこしてくれる。
「お前は祈っててくれたらいいからさ。お義姉さんと一緒に温泉でも浸かりながら」
「そんな気になれないよ」
「でも、今回動けるのは俺だけだよ。そりゃ、理不尽だとは思ってるよ。俺は悪くないからな」
「うん。春海悪くない」
「でも、知っちゃったからな。なんとかしてやりたいだろ。それが俺の為でもあるし」
「…………」
志乃も馬鹿じゃない。
理解はできてるけど、納得いかないだけだ。
今回は憎むべき敵も反吐が出そうな考え方の関係者もいない。
ただ、気の毒な猫の親子がいるだけだ。
699:
51
重い腰を上げて山歩き用に詰め込んできた服に着替える。
父から黙って借りたリュックサックには、気休め程度にチョコレートと懐中電灯、ホイッスルなんかが入っている。
「志乃、そろそろ行くよ」
彼女はうつむいて返事をしない。
割り切れと言うほうが無理だろう。
逆の立場だったら、僕だってギリギリまでついていこうと粘っただろう。
靴を履いて、戸に手をかけたときだった。
「まって」
彼女は大きな歩幅で一気に距離を詰めて、ぴったりと僕に体をつけた。
僕はドアと志乃に挟まれている。身動きできない。
戸惑っていると、志乃が強く唇を合わせてきた。
妙に積極的で、珍しく自分から舌を突っ込んで僕のに絡ませてくる。
僕の手が彼女の体をまさぐろうとしたところで、唇が離れた。
今のは、彼女なりにがんばったんだろう。
志乃は僕の肩に頭をつけて、もじもじしていた。
700:
52
(何を言ったものかねぇ……)
かっこよくキメたものか、コミカルに余裕をアピールするか。
「――お」
「ん?」
「大人のキスよ。か……帰ってきたら、つっ、続きをしましょう……」
照れ隠しに引用に走るあたり、平常運転か。
待つだけなのはつらいけど、がんばれ志乃。
がんばれ僕。
「それ、お前が死ぬフラグだぞ」
「まじすか」
「あの後、絶対ミサトさん死んでるだろ」
「あちゃー」
彼女は壁にもたれて情けない声を出す。
使いどころを間違えたことがショックなのか。
「ま、行くしかないんだな。俺は」
「うん……」
今度こそ靴を履いて、戸をあける。
「春海!」
「なに」
「あのっ、帰ってきたらあんなことやこんなことしちゃうぞ! だから無事に帰ってこい!」
「はいはい。何してもらうか考えとくよ」
「それじゃ、いってらっしゃい」
「うん。いってくる」
僕は部屋を後にした。
701:
53
玄関の前に、お義姉さんが車を回してきていた。
彼女が車に乗るよう促したので、僕はそうした。
「遅かったわね。これからのこと考えたら仕方ないけど」
「やっぱり怖いですけど、このままじゃ俺、もっと悪いことになるんですよね……。
 それなら、今なんとかしようって決心つきました。怖いけど」
「ヘタレなんだか勇敢なんだか……」
お義姉さんはつぶやくと、そのまま数分車を走らせた。
車は山道に少し入ったところで止まった。
「その荷物は置いていきなさい」
車を降りようとした僕を、お義姉さんがリュックをつかんで制止した。
「遭難とか熊とかどうするんですか」
「あの世の入り口に、そんなんあると思う?」
「それは知りませんけど」
「今回は特殊なの。山歩きとは違うのよ」
「あまりごちゃごちゃ持ち込まないほうが、早く会えるってことですか」
「早いかどうかはわからないけど、いらないものが多いといつまでも会わせてもらえないわね」
僕は荷物を背中からおろして、助手席に置いた。
702:
54
「私はついていくことはできないけど、危なくなったらいつでも呼びなさい」
「それじゃ――」
「確かに私が介入した時点で失敗。別の手段を講じることになる。それでも、一番大事なのは今の君よ。
 未来の君は大切。七代の時間を過ごしてきた猫の救済も大切。
 でも、それも今の君が無事でなきゃ叶わないわ」
「わかりました」
「山に入ったら道なりにまっすぐ行きなさい。暗いけど、自分の目を信じて。
 君は一人だけど、ひとりじゃない」
「子猫といっしょ、ですか」
「離れてるけど、私たちもついてる」
「そうですね」
お義姉さんは、まだ何か言いたそうにしている。
日が沈もうとしている。
「それじゃ、無事で」
「ええ、いってきます」
703:
55
僕は手ぶらで歩き始める。
夜の防寒対策はしているものの、これで遭難して、救助されたらバッシングされそうだ。
夜になったと判別できるが、道は見える。
左右には林が広がっている。
もうすこし道をそれたら沢があるんだろう。
(確かに、僕の目は今までとは違うんだな)
人間離れしていく自分に寒気を覚えながら、僕は視線を落として、自分の歩く道以外のものをみないように足を運び続けた。
717:
56
最初のカーブを曲がると、急に心細くなった。
入り口に止まったお義姉さんの車も、申し訳程度についていた街灯も見えない。
道は舗装されているが、生活のにおいはしなくなった。
(もうどこを見ても暗いばっかりだな)
背筋が寒くなる。
だけど、急いだところでこの先に帰る家はないし、母猫に会えるとも限らない。
(ここは体力を温存したほうがいいよな……)
下手に走らないほうがいいだろう。
時計もライトもない。
時間的にも距離的にも、どれくらい歩いたかわからない。
僕は少しでも気休めになるものが欲しくて、指で宙に円を描く練習をしながら歩いた。
718:
57
足の裏が痛み始めたが、僕は歩き続ける。
足元にうっすら影のみえるところがあった。
月が出ていた。
近く、明るく見えた。
月の周りの星が少しかすんでいる。
それでも、星座がよくわかりそうな空だった。
(月でも影はできるんだな)
ナオミの部屋のあるオフィス街や通学路じゃ、こんな星空は見えない。
ちょっとした感動を覚えつつ、ここに志乃がいないことが寂しいと思った。
また、木で月が見えなくなる。
闇に慣れた視界が、月光で少しリセットされたらしい。
僕にまとわりつく湿気を含んだ闇が、いっそう重く不気味に思えた。
720:
58
僕はさらに歩き続ける。
額に汗が浮いて、Tシャツが体に張り付いていた。
足の裏が痛くて、途中で何度か道に座り込み、靴を脱いでマッサージした。
何かにひきずり込まれそうな気がして、道ばたに座る気にはなれなかった。
近くを流れる川の音と、種類のわからない鳥の声がする。
ふと目を上げると、川の上流に来ているらしく岩の影が見えた。
それがちょうど、しゃがみこんだ人間の大きさに見えて、鳥肌が立った。
何年か前、田舎の山で薬物を使用してラリった不審者が捕まった記事を思い出してしまった。
地方欄に小さく載った事件で、場所も関係ない。
だけど、関係ないとわかっていながら一度思い出してしまうともうだめで、
某国の拉致犯とか潜伏する殺人犯とか死体を埋めに来た奴とか、そんなものが頭をちらつきはじめた。
僕の後ろで、がさ、と音がした。
721:
59
「うわあああああああっ!」
出したことのない声をあげて、飛び上がって走った。
(何なんだよ! 何なんだよ!)
勾配の具合が違ったらしく、僕は何もないのに転んだ。
息が乱れる。
吸うのも吐くのも苦しくて、肺がつぶれそうだ。
体温は上がっているが、気温は下がっているのだろう。
気温差のせいか耳の下が痛かった。
目から流れるものを拭う。
疲労による汗か、恐怖による涙かわからなかった。
「痛っ……」
よろけて、何かを踏んだ。
ただの石だ。
僕は靴下のまま、走ったらしかった。
726:
60
振り返っても、水気をたっぷり含んだ夜気と闇で、靴はどこにも見当たらなかった。
いくら今の僕が夜目が利くといっても、遠くまでは認識できない。
あそこから何秒全力疾走したか、自分でもわからなかった。
引き返すか、進むか。
どちらも恐ろしく、どちらも嫌だった。
舗装されているとはいえ、粗いアスファルトを踏む足の裏はごつごつと痛い。
足裏で地面の凹凸を感じるだけで、ふくらはぎ、すね、膝まで疲労が襲ってくる。
僕は大きくくしゃみをした。
寒いと思った。
昼はまだ暑いが、夜になればしっかり秋だ。
夜の、秋の山。
動いていなければ寒さで余計に気力がなくなりそうだ。
727:
61
僕は膝に手をついて、何度か大きく呼吸をした。
(いい加減肚をくくれってことか)
ここで、僕は気づく。
今になって「肚をくくる」とか「覚悟を決める」とかそんな言葉が頭をよぎるのは、今の今までそう出来ていなかったってことだ。
子猫の為と割り切ったつもりが、全然割り切れていなかった。
志乃には、子猫がかわいそうだと、母親に会わせてやりたいと言っておきながら、何もせずに済むなら何もしないでいたかったと思い始めている。
七代の間、僕の血筋にくっついてきて何もなかったなら、今後も大丈夫なんじゃないかと思う。
今更、そう思う。
そう思いたい。
そう思いたいだけ。
希望でも楽観でもなくて、僕は逃げを打ちたがっている。
728:
62
(そういえば、今何キロ歩いた? 何分、いや、何時間歩いた?)
お義姉さんは、いざとなったら自分を呼べと、引き返せと言っていた。
今回失敗したら、別の策を講じると。
(でも、これを一からやり直せるのか……?)
山道の入り口で、車から降りたときの気分を思い出す。
あの放り出されるような感覚に、もう一度耐えられるだろうか。
こんな疲労や恐怖、痛みや寒さが待っていると知って、またあのスタート地点に立てるだろうか。
(無理無理! ぜったい無理!)
僕は至極後ろ向きな理由で、前進することに決めた。
後退したい気持ちに後ろ向きな理由を掛けると、結局は進まざるをえないのだ。
「おお、マイナス同士の掛け算ってこういうことか」
遅ればせながら冷静ぶって、誰もいない空間に向かって軽口を叩いた。
729:
63
靴を失ってから、僕は更に歩いた。
進んではいるが、ペースは落ちていた。
(ゴムの靴底ってエライな……)
いつもと同じように地面を蹴っていると、今までの疲労も相まってすぐに親指の付け根が痛くなった。
衝撃を吸収するクッションがないせいか、足首までが痛む。
やがて脚全体の疲労は漠然とした痛みに変わった。
冷や汗をかき、気分まで悪くなっていた。
(そろそろ休んだ方がいいかな……)
でも、このとっぷりとした闇の中でうずくまって止まるなんて気が進まない。
動いている方がこわいものから逃げられているような気がしていた。
730:
64
ふと、足場がなくなった。
「あ」
と、声に出ていたかどうかわからない。
のどが鳴っただけだったかもしれない。
次の瞬間、がさがさパキパキと枝の折れる音や葉の潰れる音にまみれながら体が転がっていた。
この下は沢だろう。
だけど、どれくらい下にあるかわからない。
(高低差はどれくらいだ)
転げ落ちながら閃き、僕は夢中で叫びながら何か掴もうと手を振り回していた。
結局何かにつかまることはできず、傾斜の最後まで落ちたらしい。
全身が痛い。
痛いなら生きてるだろう。
指は動く。
脚も曲がる。
まぶたは開く。
拳を作ってみると、ちゃんと力が入った。
(あ、やっぱり生きてる……)
頬の内側を歯で切ったらしく、口内が血の味で満ちていた。
731:
65
立とうと踏ん張ると、足元がひやりとした。
浅い水の中に足首まで浸かっている。
(川だ……)
お義姉さんの車の中から見えた民家には、井戸のある家がいくつかあった。
(じゃあ、ここの水は飲めるか)
おなか下るかもよー、と、頭の中の志乃が言う。
いっそ下れ、と、水を掬って口を付けた。
冷たい。
口の中の傷にしみる。そのままゆすいで吐き捨てた。
さっぱりした。
喉をうるおして、顔を洗った。
少し元気が出た。
元のルートに戻れる算段はあるか。
傾斜に手をついて見上げてみる。
僕の視界では、もとの道は見えなかった。
732:
66
(この高さなら、無理して登らないほうがいいか……)
この川に沿って上流を目指そうとしたが、川べりだけあって足場が悪い。
石は大きいし、靴もない。
冷えはそのまま体力を奪っていく。
時計も地図も灯りもない。
眠いと思った。
空腹は気分が悪くて、あまり気にならない。
ただ眠い。
僕は多少見通しの良いところにある、ひときわ大きな岩に辿りつくと、その上で横になった。
目を閉じると、岩肌がいやなものを吸いとっていくようで楽な気がした。
(ねるなー、ねたらしぬぞー)
(でも、きもちいいな、ここ)
(いま、ねてるのかな、おきてるのかな)
(どーでもいいや……いまは……めをつぶって、すこしやすもう)
733:
67
――――――――――
何かが顔をはたいている。
痛くない。が、勢いは感じる。
目が開かない。顔にヒットした瞬間に捕まえる。
(毛が生えてる……)
小さな獣の手だった。
(おお、肉球……)
このサイズは知っている。
とりあえず小熊に嬲られているわけじゃなさそうだ。
安堵とともに目を開けた。
「ニャーン」
小さな三毛猫が、僕の顔の横に行儀よく座り、顔を傾けながら僕の顔をはたいていた。
こいつに会うときは、いつだって夢の中で、赤い空と何もない海辺なのだ。
(夢を見てるってことは、とりあえず死んじゃいないな)
「あれ……」
734:
68
空が赤くなかった。
さっきまで僕をさんざん恐怖に追い立ててきた、黒い空だ。
満天の星空だったが、今は曇っている。
「現実か」
「げんじつニャーン」
思いきり大きく開かれた小さな口には、小さな牙が生えそろっている。
ああ、あいつだ。と思った。
「ここどこー。おそらあかくないにょー」
「山だよ」
「やま?」
「お前が生まれてくるはずだったところだよ」
「さむいニャーン」
「俺だって寒いよ」
「ここどこー」
「お前の母ちゃんに会いに来たんだよ」
「母上?」
闇の中で広がっていた猫の瞳孔が、さらに大きくなる。
735:
69
「お前の母ちゃんを、俺のじいちゃんのじいちゃんの……ずっと昔のじいちゃんがな、間違って殺しちまったんだよ。
 だから謝りに来たんだ。お前も返してやりたいし、俺も助かりたい」
「母上おこってる?」
「俺のことは怒ってるだろうけど……お前のことはずっと心配してるよ」
子猫は愛されていたに違いない。
だから、七代も良い子にしていられたのだろう。
「にいちゃん、なんでねてるにょー」
「俺、ボロボロだろ。疲れたんだよ。休ませてくれ」
「へたれー」
子猫のうしろで、ゆっくりとしっぽがしなるように揺れている。
「こんじょうなしー」
「どこで覚えたんだよ、そんな言葉」
「おそとでねえちゃんがいってたニャーン」
(志乃か……)
「それはわるいことばだから忘れなさい」
「ねえちゃん、にいちゃんのことすき。わるいことばじゃないにょ」
「それとこれとは別なの」
「べつニャーン」
「そう、別」
738:
猫がかわいくて救われるな
746:
70
「にいちゃん行こー」
「疲れたんだよ。休ませてくれ」
「いやにょー。母上に会うっていったのにー。のにー」
そういえば、言葉がわかる、話が通じるとはいえこいつは赤ん坊だったか。
(それも生まれる前の……)
(幼児のしつこさは半端ないからな――)
「お前の母ちゃんってどんなんだろうな」
「おなかが大きいにょー。ぽんぽーん」
「そりゃ妊婦だからな」
柄とか大きさとかいった特徴がわかればいいと思ったが、こいつは母親と面する前に命が絶たれていた。
言葉の端々から、胎児だったこいつに突きつけられた現実のひどさが見えてくる。
こんなに可愛いのだ。
ちゃんと生まれてきていたら、母親からだけじゃなく、もっと多くの愛情を向けられたに違いない。
(その未来を断ったのが、僕の血か)
「よし、行こうか」
「行くにょー」
やることも、気持ちも決まっている。
水分で重くなった足を持ち上げ、僕は岩の上に立った。
747:
71
岩の下は足場が悪い。
みっともないけど、そろそろと降りた。
(志乃、どうしてるかな)
僕だって、憎まれてるだけじゃない。
家族がいる。お義姉さんだっている。
母猫の怒りはもっともだが、僕は帰らなければならない。
子猫の歩きかたがどうにも危なっかしいので、抱いて移動することにした。
転がり落ちた斜面を登るには視界が悪い。
このまま川を遡上していくことにした。
「にいちゃん、ぼく歩けるのにー。のにー」
「いいんだよ。一緒に母ちゃんのとこ行くんだろ」
「行くにょー」
「じゃあ、いい子にしててくれよ」
「ぼくっていい子ちゃーん」
「そうそう。お前はいい子だよ」
もう心細くなかった。
やわらかな毛の生えた額を撫でると、目を細めてあごを上げた。
絶対に、無事に届けてやるんだと思った。
748:
72
僕は子猫を抱えて、しばらく歩いた。
距離も時間も、既に感覚は狂っていた。
足が痛まないように、体が軋まないように歩くのが精一杯だった。
ときどき子猫に声をかける。
猫は腕の中でもぞもぞしたり、返事をしたり、たまに眠ったりしていた。
少し、開けたところに出たらしい。
月光だ。
目を上げると、自分の身長より少し高いところに橋がかかっていた。
(よかった、遭難は免れたな)
「ほら、先に上がってな」
子猫を橋の上に上げる。
僕も飛びあがって、橋にぶらさがる。
枝や太いつるなんかに足をかけて、よじ登った。
足を橋に乗せて、体を反転させて全身を橋に乗せた。
「うわっ!」
狭く、古い橋だった。
人が歩けるだけの幅があるだけだ。
もっと勢いをつけていたら、もう一回転してまた川に落ちていたかもしれない。
749:
73
止まりそうになった息を整え、体を起こす。
「あれっ」
子猫がいなかった。
さっと視線を走らせ、月影に消えそうな小さな影を認めた。
走って追いつき、脇に手を差し入れて抱き上げた。
「こら、勝手に行っちゃだめだろ」
子猫は僕の手からぶら下がって長くなっている。
「母上、もうすぐにょー」
早く行かせろとばかりに、不満そうな表情が浮かんでいる。
しっぽが僕の体にぺしぺしと当たる。
「こっちでいいんだな」
「よんでるー」
伸びきったボディーの下にある尻を支えて、僕は再び子猫を懐に戻した。
(こんな丸々コロコロの体型でも、猫は猫だな……)
750:
74
頂上が近いのだろう。
さっきより光の届くところを多く通っている気がする。
「お前の母ちゃんってどんなんだろうなー」
「きっとかっこいいにょー」
僕はもう、前を見て歩いていなかった。
落ちているものを踏む方が怖かった。
「どれくらい?」
「あれくらいにょー」
子猫は前方に体を乗り出した。
つられて前を見る。
白く光る、着物を着た女が立っていた。
751:
75
足が止まった。
まさか人間の形で出てくるとは思わなかった。
「なんだよ……これじゃ……」
(これじゃまるで)
「幽霊みたいじゃないか、とでも言うのか」
金色に輝く瞳が僕をとらえる。
初めて聞くのに、その女の声だとわかった。
「お前は……ふん。あのときの。今更何しに来た」
僕は硬直していた。
「あ……」
考えるより、声が先に出ていた。
「あなたに、こいつを会わせに来ました」
「死ぬのが恐ろしゅうて命乞いに来たか」
女の鼻に皺が寄る。
上唇がめくれ、とがった糸切り歯が露出している。
(歯はお義姉さんと似てるな)
僕を蔑んでいるのがわかったが、無理やり身近な人を連想することで、なんとか取り乱さずにいられた。
「あの、そのことなんですけど」
「なんじゃ。祟られておるのだぞ。潔く死ねい」
「いや、その祟りのことなんですけど」
女の肩がぴくりと動く。
「助けてほしいのもあるんですけど、その前にお礼を言わないと」
752:
76
「礼? ふざけたことを」
「俺、多分昨日あなたの子に命助けられたんで」
「にゃんだと」
女の頭部から、猫の耳が飛び出た。
動揺のせいか、人の形を保つのに隙ができたのだろう。
「俺、訳あって『呪い殺し』の手伝いをやってるんです」
「それで、昨日、ある呪いに襲われました」
「好きな女が、巻き添えになりかけたんです」
「危ない仕事だから、世話をしてくれてる人に盾のようなものの出し方は教わってました」
「だけど、短期間で会得できるものとは思ってません」
「それでも、あの瞬間、完璧な盾があいつを守ったんです」
「俺だけの力じゃ、とてもできなかった」
「こいつが俺に、力を貸してくれたんです」
子猫を女に向ける。
「はっ! 誰がお前を守るものか」
「こいつを通して、あなたが守ってくれたんです。ありがとう」
女の手が、獣のそれに戻っている。
753:
77
「俺の魂は、こいつのと同化してて離すことができないそうです」
「ふざけたことをぬかすな」
気圧されそうになるが、ここで引いちゃだめだ。
「こいつはいい子です。皮肉だけど、あなたの言葉を全ていいものだと信じ込んでしまった」
子猫を地面に下ろしてやる。
「にいちゃん、母上怒ってるにょ」
「お前には怒ってないから大丈夫だよ。いっておいで」
子猫は振り向きながら、母の元へ歩を進める。
女は爪を納めて子猫を抱き上げた。
「ああ……私の赤ちゃん……」
子猫の額に頬を擦りつけ、女は目を閉じた。
「あなたの『七代祟ル』という言葉を、こいつは良い言葉だと信じてしまった」
子猫は女の胸を前足で押している。
「あなたが悪い言葉を使うはずがないと、自分が聞く言葉は良いものだと信頼していたんです」
女は着物の胸元をはだけ、子猫の口元に近付けてやった。
子猫はすごい勢いで吸いついている。
「だから、あのときこいつが守ってくれた」
女は、子猫を満足そうに見ていた。
僕なんか、始めからいなかったようだ。
なんだか切なくなった。
754:
78
「母上、にいちゃんのこときらい?」
「あ……ああ……」
「ぼく、にいちゃんすき。あそんでくれる」
女は子猫を抱えて、うずくまってしまった。
「俺、生きていたいです。周りの人も、不幸にしたくない。
 ほんとはこいつの魂もあなたのところに返してやりたいけど……それはできない」
「私の、私の赤ちゃん――」
「俺、こいつと一緒に生きます。幸せにもなる。
 ちゃんと死ぬまで生きて、あなたのところに送り届ける」
女は泣き出してしまった。
猫が化けているとわかっていても、泣かれるとなんだか気まずい。
「先に逝って、待っててください」
「待たずとも……お前を殺せば、今片付く話じゃ」
濡れた瞳が、僕をにらみつける。
縦長の瞳孔が開ききっている。
「いいや、あなたは俺を殺さない。あなたがわが子を手に掛けるわけがない」
「この子はどうなる」
「俺の中に戻るでしょう。ほんとは今日、返してやりたかった。
 あなたたち親子が離れ離れになったのは、ご先祖様の――俺の血の責任だ。
 本当に、ごめんなさい」
僕は、深く長く頭を下げた。
755:
79
「もう、よい」
下げた頭の視界に、女の履き物の鼻緒が入る。
顔を上げて、体を伸ばした。
女は泣きはらしているが、その顔に恨みがましさはなかった。
「いいんですか」
「気の変わらぬうちに行け」
女の背後から、光の道が空に向かって伸びていく。
「母上、いっちゃいやにょー」
女は振り切るように、子猫を僕の胸に押しつけた。
「元気でね」
子猫は僕の腕の中でもがく。
二度目のお別れだとわかっているのだ。
「あんなことを言ったばかりに、お前を長い間現世に縛りつけてしまった。母さんをゆるして」
「母上! 母上! いかないで!」
子猫が泣き叫ぶが、僕はそれを離してはいけないと、本能で悟っている。
僕も耐えきれず、叫んでいた。
「だめなんだよ! お前はまだ、あっちにいけないんだよ! わかってくれよ!」
「大丈夫。今度は、お前もこっちに来れるからね。幸せになりなさい」
女は背を向けて、歩き始めた。
756:
80
「うにゃあ」と子猫は悲痛な声を上げた。
「ああああああああああああああああ!」
彼女の消える様から、目を逸らしてはいけない。
僕は袖で涙をぬぐいながら、彼女を見送る。
「男だろ! お前の母ちゃんはもう苦しまなくていいんだ! 何も恨まなくていいんだよ! 辛くても見送ってやれよ!」
もう、自分に言っているのか子猫に言っているのかわからなかった。
女が振り向く。
「もうすぐ夜が開ける。お前をふもとに下ろしてやろう」
礼を言いたかったが、嗚咽で言葉にならなかった。
僕の体も光に包まれる。
お互いの姿が、見えなくなっていく。
意識が遠のいていく。
「娘を、よろしく」
(娘!?)
最後の最後に衝撃の事実を知らされながら、僕は気を失った。
761:
81
―――――夜明け前―――――
気がつくと、僕は倒れていた。
お義姉さんに下ろされた、スタート地点だ。
(月がまだよく見えるな……)
時計や携帯電話といった道具は、山に入るときに全て没収された。
僕が最後の頼みにできたのは右手の指輪だけだ。
(今、何時だろ)
子猫を話し相手にしたかったが、姿が見あたらなかった。
いじけて引っ込んでいるのかもしれない。
体の節々が痛んで動けなかった。
土地勘もないし、このまま歩いて帰れるはずもない。
潔く地面に転がったまま、お義姉さんの迎えを待った。
762:
82
迎えはすぐに来た。
聞き覚えのあるエンジン音が近づいてきた。
お義姉さんは僕の頭の数十センチ横に車をつけると、転がるように下りてきた。
「春海君……!」
のどに詰まった声だった。
お義姉さんは僕を起こすと、ほんの少しの間だけ、ぎゅっと抱き締めてくれた。
温かくも冷たくもなく、やわらかな常温のマネキンのようだったけど、僕は十分嬉しかった。
「お義姉さん、痛いですって」
「あ、ああ……ごめんなさい。もう、心配したんだから」
お義姉さんは目元を拭って、一度鼻をすすった。
「帰るわよ。妹が待ってる」
僕は搬入されるようにして、車に乗り込んだ。
763:
83
車の中で、山であったことを話した。
志乃にも同じことを話すだろうけど、一旦整理しておきたかった。
でも、やっぱり猫の親子が離れなければならなかったことを思い出して、僕は泣いた。
「すみません……やっぱり俺、まだ混乱してます」
自分が(おそらく)許された安堵感と、別れに立ち会った悲しさで頭の中がぐちゃぐちゃだ。
さっきから涙が止まらず、情けないことに泣きすぎて頭が痛くなっていた。
「泣くなとは言わないけど、ほどほどにしとかないと耳を傷めるわよ」
お義姉さんはダッシュボードを開けて、僕に箱ティッシュを持たせた。
「……なんか、間抜けっすね。この図」
「帰ったらすぐお風呂に浸かりなさい。その汚れようじゃ部屋にあげられないわ」
「うん……そうします」
旅館の外観が見えてきた。
志乃に会える。
そう思うと、なぜか感極まって僕はまた嗚咽した。
お義姉さんは呆れるだけだった。
769:
84
―――――浴場―――――
桶に湯をためて何度かかぶり、泥を落とした。
あちこち擦り剥いたり切ったりしていたらしく、ひりひりした。
それでも湯船の誘惑には勝てず、僕は体を湯に沈めた。
「ぬおお……いてえええ……」
誰もいないのをいいことに、存分にうめく。
潜ったり泳いだりして一時の貸し切りを楽しんだ。
(いいないいなー。広い風呂っていいなー)
だらりと仰向けに浮かんで、まだ暗い天のてっぺんを眺めていた。
770:
85
戸がカラカラと音を立てて開いた。
(早起きな客もいるんだな)
せっかくの温泉だ。気持ちはわかる。
僕は広い浴槽の隅っこに座り、へりにもたれかかった。
後ろで人が動いている。
湯を浴びる音。
ぺたぺたと濡れた足音がする。
振り向いて見るのも失礼だと思ったので、知らん振りを続行することにした。
「とう!」
聞き覚えのある声と共に、僕のすぐ横で水しぶきが上がった。
771:
86
「志乃!?」
「ふふーん。来ちゃったー。来ましたぞー」
志乃はタオルで体の前面を隠したまま湯の中で体操座りをして、僕に体を寄せた。
「おおおおまえなああああああ」
「混浴ですしー問題ないおすし」
「テンションおかしいぞ」
「ウォンチュ!」
と、親指を立てて肩をぶつけてくる。
「また懐かしいものを……」
(さっきまでの感傷はなんだったんだろうな)
志乃は「ふふんふーん」と謎の鼻歌をうたいながら僕の肩に頭を乗せる。
濡れた髪が冷たかった。
772:
87
一通りはしゃいだのか、気が済んだのかもしれない。
志乃は僕の肩に頬擦りして、長く息を吐いた。
「……大体はおねーさんから聞いた」
「そうか」
「ニャーンのことはかわいそうだけど、これで前に進めるんだよね」
「たぶんな」
「長かっただろうなー」
「うん。だろうな」
「心配したんだぞ」
「知ってる」
油断したのか、タオルが体から離れている。
「……おっぱい出てるぞ」
「知って――うわああぁ」
773:
88
志乃は慌てて、腕で体を隠すと、僕の後ろに回り込んでしまった。
「狭い」
「それは壁と俺との間に君が入り込んだからです」
「壁と俺との間には」
「今日も冷たい雨が降る」
「同情するなら」
「金をくれ」
(あー、平常運転だ)
僕は背中で柔らかいものが潰れる感触に興奮しながら、安心感を覚えた。
783:
89
「シノサン、オッパイアタッテマス」
「アテテンノヨ」
手を伸ばして、湯船に浮かんだタオルを取って志乃に渡してやる。
「かたじけない」
「うんうん」
志乃は僕と浴槽の間に挟まったままだ。
「あれ、出てこないんだ」
志乃は「ふぅん」と鼻から息を抜いて、僕におぶさるように腕を回した。
「春海、けがしてる」
「転んだりしたからなー」
斜面を滑落したり川に落ちたりしたとは言わないでおこう。
体にできた無数の小さく薄い傷に、再び湯がしみる気がした。
志乃が僕の肩に口をつけて傷をなめた。
「もう血は止まってるからおいしくないと思うよ」
「うーん……」
志乃は何か考えながら、僕の体を撫でていた。
784:
90
「そういうんじゃないんだよなー」
「どんなんだよ」
「お腹すいてないもん」
「ほう」
「ましてやエロいことがしたいわけでもないぞ」
「残念だ」
「……心配したんだぞ」
「知ってる。それ二度目だぞ」
「知ってる。ニャーンは? どうなったの?」
「知らん。お母さんは成仏できたっぽいんだけど、いじけてるのか全然出てこない」
「そっか」
「あいつな、メスだった」
「えー! って見たことないけど」
「あいつと話すときはいつも『ぼく』って言ってたからなー。俺の中にいたから学習したんだろうな」
785:
91
「ニャーン……どうなるのかな」
「俺が引き離しといて言うのもなんだけどさ、なんとか乗り越えてほしいと思う」
「幸せになってほしいよね」
「俺の中でだけどなー」
「幸せってなんだろね」
志乃が僕に覆いかぶさったまま、僕の肩に頬をつける。
冷たかった。
「なんだろうな」
今の僕には、触れる柔らかさが幸せの感触だった。
786:
92
「春海はもう大丈夫?」
「うん、まあ」
「あんまり大丈夫そうに見えない」
「気のせい」
「だって泣いたでしょ」
「……」
「立ち直るの、時間かかりそうだよ」
「仕方ないことだとは思う」
「うん……。私、いいこと言えないと思うけど吐き出してほしい。
 何言っていいかわからなかったら、甘えてほしい」
志乃が体を伸ばして、僕の頭を抱いて後頭部を胸にうずめた。
(うーん……乳枕……)
「女が柔らかいようにできてるのは、たぶんそのためなんだ」
「いいように作ってくれたわけね。インテリジェントデザイン」
体を反転させて、志乃を抱いた。
確かに肌や肉が柔らかく、体の線が出たり引っ込んだりしてるのは僕のためのように思えた。
そうするのが当たり前みたいに唇を吸った。
半日ぶりだったけど、えらく長い間離れていた気がした。
やっと、ちゃんと会えた気がした。
791:
93
「なにそれぇ」
と、志乃が目をとろんとさせて聞く。
「後でなー」
湯を掬って、志乃の肩にかけてやると、半開きの目で微笑んだ。
「ぬくいー」
両手で顔をはさんで、唇から覗いた歯に舌先で触れると、つるりとしていた。
志乃はくすぐったがる。
「やだ。ちゃんとして」
志乃が僕の舌を吸う。
気持ちはまだまだ凹んでいたが、下半身はすっかり元気になっていた。
「そろそろ出ないとのぼせるよう」
と、僕の腕の中で体をよじる。
「いや、今はちょっと」
「隠したってばれてるぞ」
「うわあああ握るなあああああ」
彼女は、腰が引ける僕を捕まえて腕を引く。
792:
94
「ほらー、座って座って」
僕を浴槽の縁に座らせる。目が笑っている。
大体やろうとしていることはわかった。
「朝飯にはまだ早いだろ」
山の向こうの空が白んでいる。朝が近い。
「いいからいいからー」
「ここじゃまずいって――ぅああ」
志乃は何の遠慮もなく、僕の性器を一気に根元まで飲み込んだ。
直後、吐き出してせき込んだ。
「もー、がっつくから」
頭に触れると、髪は随分冷えていた。
「がっついてなどいない」
口元を押さえながら僕を睨む。
じれったそうに先っぽを指でこねている。
「あれ、もういいの?」
「見ーるーなー」
「はいはい」
いい加減に返事をして、目を閉じて上を向いた。
793:
95
「よいしょ」
と、志乃は僕の膝の間に体を割り込ませた。
滑らかな肌が内腿に触れる。
すると、そこが口内の粘膜や手とは違うものに包まれた。
(何を……)
薄目を開けて見ると、僕のが志乃のおっぱいに埋もれていた。
声を出してはいけないような気がして、唾と一緒に飲み込んだ。
両手で寄せた胸の間から先が覗いているのはいい眺めだった。
正直、口でしてもらうほどじゃないけどこれはこれでいいものだ。
「うーん……むずかしい……」
志乃はぼやきながら、揉み込んだり上下に動かしてみたりしている。
「――あ」
「あ」
目が合った。
「やだもう! 見るなって言ったのにー!」
志乃が体を離して、腕で乳を隠す。
794:
96
「わ、悪かったよ……」
「もう! ファック。まじファック」
「すまん……」
うらめしげに棒を握り、やや強すぎる力加減でしごかれる。
「いや、ほんとゴメン」
「せっかく人がヴァンプ化したことにより巨乳化したおっぱいを有効利用してやろうと思ったのに」
「あ、ハイ。ほんと、いいものをお持ちで」
訳のわからない弁解をしつつ、萎えることはなかった。
「――で、出したいの? 出したくないの?」
「う。……だ、出したい」
「どーやって?」
「そこまで言わせるんか」
「言わせるとも。わかれ。恥ずかしい現場を押さえられた乙女心」
795:
97
「あー、じゃあ、さっきみたいな……」
「さっき?」
「あの、おっぱいで……」
「しょおーがないなあー」
満面の笑みである。
機嫌を直してくれたらしい。
「でもうまくいかないんだ……」
「俺が思うにぬめりが足りない」
志乃は少し考えて
「じゃあ、こっち来て」
と、洗い場に僕を引っ張っていった。
796:
98
志乃は膝立ちになり、ボディソープを手に取ると自分の胸に塗りたくった。
「ん。好きにするがいい」
と、泡だらけになった胸を寄せて言い放った。
「え、俺が動くの」
「がんばってー」
「イヤン、恥ずかしい」
「私だって同じくらい恥ずかしいよ」
「うーん、しょうがないなぁ……」
志乃の胸の間に差入れる。
「ぐっ――」
「どう? マシになった?」
僕は答える余裕もなくうなずいて、腰を振った。
志乃は満足そうに眺めていた。
どれくらいそうしたかわからない。
気持ちよさで羞恥心をどっかに放り投げたところで、波が来た。
「志乃っ、出る――」
「ん。いいよ。そのまま出して」
いつも僕が射精するときは、志乃は喋らない。
口が塞がっているからだ。
(毎回、こう思ってくれてるのかな)
僕は満足感を覚えつつ、そのまま出した。
797:
99
志乃の顔や首に散ったものが、重たく垂れてデコルテを汚していく。
「へへー。いっぱい出たね」
唇についた精液を舐めながら、嬉しそうに言う。
僕は呼吸をするのに精いっぱいだった。
ただ、その様子をしっかり目に焼き付けて後のおかずにする意志はしっかりしていた。
「どう? まだ悲しい?」
「頭じゃ悲しいけど、今は疲れて……それどころじゃないよ……」
子猫のこと、母猫のこと。
僕のこれからのこと。
気がかりだけど、身体感覚の方が強かった。
快感や疲労の方が、今この瞬間の僕にはリアルだった。
「そっか。ちょっとでも気が楽になったら、私は嬉しい」
「ああ。ありがとな」
志乃はもったいなさそうにシャワーで流すと、
「ふふーん。有効利用したったwwwww」
と勝利宣言をして脱衣所に消えていった。
819:
100
―――――月曜・朝・学校―――――
軋む体をどうにか動かして、僕は無理やり登校していた。
足の裏なんか、冷静になって見返してみると小さい擦り傷だらけで歩くのが億劫だった。
それでもなんとか遅刻せず、席についたときは達成感すら覚えた。
「あー、俺がんばった。超がんばった。帰っていい?」
「だめー」
「何やりきった感出してんの」と志乃は笑う。
僕の指には、お義姉さんから返された指輪がはまっている。
「あの二人、大丈夫かな」
志乃が上木さんの席のあたりを見やって言う。
「まだ来てないな」
廊下側の後ろの席。まだ空いていた。
少し離れたところに座る神田さんは、いつもどおり本を読んでいた。
あんなことがあっても、傷ついても悲しんでもいないようだった。
820:
101
少し経って、上木さんが教室に入ってきた。
心なしか挙動が怪しい。
あの様子だと、何があったか完全に忘れてはいないんだろう。
神田さんがすっと立ち上がり、上木さんに近づいていく。
「春海、どうする?」
志乃が低く囁く。
「一応警戒しとこう」
二人で席を立って、廊下に出る。
ドア越しに彼女たちの様子を窺う。
821:
102
「上木」
神田さんが、上木さんの席の前に立つ。
声が硬い。
上木さんは顔を伏せている。
「神田、私――」
「言わなくていい」
神田さんは手に持っていた本に挟んでいた紙を開いて、机に置いた。
志乃は身を固くしている。
「でも私」
「私も、思うことがないわけじゃない。私の足を引っ張るのは許せない」
「それは悪いと思ったよ! でも――」
「だから、言わなくていい。あんたは私の友達」
上木さんが顔を上げた。ここからじゃ表情は見えない。
「だから連れていく。入部して」
神田さんは、胸ポケットからボールペンを出して机に置く。
「私は何もあきらめない。あんたのことも見捨てない」
「……うっ」
上木さんは泣き出していたけど、多分悪いことじゃなかった。
周りが野次馬根性丸出しな視線を投げかけても、神田さんは背筋を伸ばしていたし、上木さんも納得しているようだった。
志乃と二人で、荒く息を吐いた。
822:
103
「決着、ついたんだろうね」
「そうだな。……女の友情はよくわからん」
「私にもわからん」
一気に安堵したせいか、気分がよくなっていた。
「いやぁ、よかった。気分がいいから、どろりとした白濁液ことのむヨーグルトをおごってあげよう」
ポケットから100円硬貨を出す。ぬるい。
「そこで下ネタをからめてくるのやめてください!><;」
「なんだね、その『こうですか? わかりません!』みたいな顔は」
「清純アピールです」
彼女の足は、既に自販機に向いている。
「そうですか」
「まあいいや。ありがと。買ってくるけど、あんたも何か要る?」
「コーヒー牛乳!」
「おけー」
823:
104
志乃はスリッパでぺたぺたと走っていく。
一歩ごとに跳ねる髪とスカートの裾を眺めながら、若いっていいなあ、などと思う。
(は! 僕も若かった!)
いろいろあるけど、まあそこはそれ、それなりに何とかなっていくんだろう。
――だってぼく、生きてるしニャーン――
(うんうん。生きてるってそういうことだよな)
(……あれ、今、僕の思考にノイズが……)
細かいことはいいとして、僕は足をひきずりながら席に戻った。
女「有効利用したったwwwww」おわり
840:

―――――ある夜・台風の夜―――――
雨が窓をばらばらと叩く。
雨音にまぎれるメール着信音。
日中から断続的に続く、志乃との短いメールの応酬。
嵐の夜はそわそわする。
――よし、T.M.Revolutionやってくる。
――気を付けて。
――そこは止めてー。
そんなどうでもいいことばかりやりとりしている。
(お義姉さんはどうしてるかな)
薄暗い、清潔な事務所。
白いインテリア。
少し香りのきつい蘭の花。
ここで、僕は初めて気づく。
彼女の顔が思い出せない。
841:

――お義姉さんって、顔どんなだっけ?
――びじーん\(^O^)/
――そうだった気はするんだけど……。
(なんでオワッテんだよ……)
使いどころを間違えている顔文字に、心の中でつっこみながら考える。
――あ、今ピーポーが通ってった。
志乃に言わせれば、緊急車両は全てピーポーらしい。
――誰か用水路の様子でも見に行ったんじゃないか。死亡フラグ。
――やだなー。危ないのに。やだなー。
――自分にはそんな災難振りかからないと信じてるんだろ。たぶん。
842:

他人事だった。
翌朝になれば新聞やテレビの中の、何かを隔てた別の世界の出来事になる。
そして公園でインタビューにつかまった主婦が答えるのだ。
――やっぱり小さい子供がいるんでー、心配ですねぇ、はい。
最後の「はい」は間延びしているのがお約束だ。
完璧に他人事だった。
843:

他人事と決めこむことは、良くないんだろう。
でも、当事者になるのはもうたくさんだ。
夏休みの終わりに起こった通り魔事件で、志乃は一度死んだ。
死んだというか、人間としての生を強制終了させられたというか。
瀕死のところを、同じく瀕死の重傷を負ったお義姉さん――吸血鬼に血を分けて、返してもらった。
後に志乃は「助けあい精神ですな」と語った。
それで終わっていれば「優しい鬼さんも居たもんですなぁ。HAHAHA」といい話でおしまい――
なのだが、現実はそう簡単には終わらせてくれなかった。
844:

志乃はヴァンパイアのなり損ない――半端なヴァンパイア――ヴァンプとして第二の人生をスタートする羽目になった。
僕は僕で、志乃が半端な生き物になってしまったのは僕のせいだと難癖をつけられ、「呪い殺し」の手伝いをしている。
人生、何があるかわかったもんじゃない。
僕だって先祖の因果で猫に祟られていたし、その猫に許しを乞うため、夜の山を歩いた。
何の装備もなく、軽装で。
今思えば自殺行為だ。
そんなでたらめを、僕はこの1カ月受け入れ続けてきた。
849:

何気なく指輪をいじる。
僕達が呪い殺しを手伝う上で、身を守る術がほしいと頼んで貰ったものだ。
友達の長野の助言も受けつつ、僕はひたすら円を描く練習をした。
この指輪は、精神力(のようなもの)を増幅して放出するアンプのようなものなんだろう。
仕組みはよくわからないが、実際に一度は守られた。
そのときのことはよく覚えていないが、気づいた時には指輪はなかった。
その代わり、はめていた指にはぐるりと傷がついていた。
壊れてしまったのかもしれない。
だから、今僕がつけているものは二代目だ。
850:

呪いは嫌なものだ。
虫だったり、いびつな影だったり。
ヘドロ状だったり、何重にも絡むヒモ状のように見えたりもする。
そういう気持ち悪いと認識されるようなものとして、僕の目には見える。
お義姉さんは、僕が呪いを見ていることに驚いていた。
でも、彼女が見ているものと同じものを見ているのかは、僕にはわからない。
志乃は半人半妖の身だから、彼女に呪いが見えるのはわかる。
が、僕は祟られている以外は普通の人間だった
851:

心細くなって、志乃にメールを打つ。
――あの猫。
――どの猫?
――俺に憑いてた。
――どうしたの? まだおかしい?
――いや、あの猫な、女の子らしい。
――女の子ちゃん?
――俺は男だと思ってたんだ。あいつ、俺の中で「ぼく」って言ってたから。
――たぶん、ずっと男子に住んでたからだよ。
――今度会ったら、「私」って言うように説教してやる。
――めんどくさー。
生まれる前に母と別れた子猫は、数日前、七代越しにきちんと別れを果たした。
852:

これでよかったのか、と思う。
これでよかったのだ、と思わなければ、後ろめたさで胸が悪くなる。
僕は自分が助かるために、罪のない母猫を成仏させた。
いや、人に祟って仇を討とうとしたのは良くなかったかもしれない。
「彼女」の罪は、そんなところだ。
この世とあの世に、母娘を別れさせた。
僕に恨まれる要素はない。
もっと言えば、ご先祖様だってせいぜい今でいうところの「過失致死」罪だ。
それでも、どれだけ自分の心が楽になるような理屈を考えても、やっぱり取り返しのつかないことだった。
853:
10
不思議なことはいくらでもある。
人に害をなす呪いだってあるし、それを退治する「呪い殺し」だっている。
自称・義理の姉は吸血鬼だし変身もする。
血液はそんなに必要としないものの、定期的に精液を欲するようになった志乃のために、
「食事」の仕方まで教えている。
非常識なことが、当たり前に起きていた。
それでも。
命だけは。
命の不可逆性だけは変わらなかった。
母猫が成仏してからは、僕に起こっていた異変は消えた。
854:
11
猫の会話も、人語では聞こえなくなった。
やたら利いていた夜目も、人並みに戻った。
子猫は夢に出てこない。
まだ、いじけているのかもしれない。
猫の親子が会えなくなったのは僕のせいだ。
僕は、本当に親の仇になってしまった。
それをすまないと思っても、いくら悔いても、何も戻らない。
僕だって、そうしなければ遠からず重篤な害を受けていた。
安堵していたけど、気分は晴れない。
だったら、どうしていればよかったのだ。
わからない。
猫がいなくなっても、僕が死んでも、取り返しはつかない。
僕にできるのは、僕の中に残った子猫を想ってやることくらいだった。
862:
12
どれだけ考えても、気分が楽になるような答えは出てこない。
「寝よ」
明日になれば台風も過ぎているだろう。
そしたら、週末は文化祭だ。
山から帰ってからの僕はといえば、どことなく腑抜けていた。
祟りから解放された弾みで志乃に手をだしてもよさそうなものだったが、そうもいかなかった。
温泉でのあれ以来、僕らの間にエロスなイベントは起こらなかった。
(志乃の腹具合は大丈夫かな)
僕の気分が乗らなかったのも、志乃が遠慮しているのもあるのだろう。
明日は少し積極的に出てもいいと思った。
863:
13
―――――翌日の放課後・ナオミの部屋―――――
「おねーさんいないね」
「仕事かな」
「なんか用だったの?」
「いや、特には」
今日はバイトの日じゃないが、僕は志乃をここに誘っていた。
邪魔されない場所が、自宅とここの他に思いつかなかったのもある。
「珍しいなー。春海が用もないのに来たがるの」
志乃は上機嫌でレンタル店の袋を探る。
「いや、その、スキンシップが足りないと思いましてね」
「いやんえっちー」
志乃は平坦な声で答えると、両膝をついてテレビに向かった。
こっちに尻を突き出している形になった。
(これは喜んでるな……)
そうでなければ、うつ伏せでなおかつスカートの裾をガードしているはずだ。
864:
14
志乃がお義姉さんに買ってもらったというゲーム機にDVDを入れて再生する。
「何借りたん」
「ふふふーん」
僕としては、そんなんどーだっていいから台風のせいにして温めあいたいのだ。
台風は過ぎたけど。
脳内で西川の兄貴が特長のマフラーをぶん回す。
「タランティーノ?」
「なんで?」
彼女は四つん這いのまま、顔だけで振り向く。
わずかにスカートの端が持ちあがるが、なぜかあと数ミリが重い。
「ああ、こっちの話」
股間に潜む魔弾の射手が引き金を引きたがっているわけですよ。
今日は憂鬱な日々から立ち直ろうと、あえてトリガーハッピーな気分で臨んでいるのだ。
865:
15
『イェエエエエエエアアアアアイ……!!』
いきなりのご機嫌なサウンドにびびる。
志乃はいつの間にか座っていて、ご機嫌で縦ノリしている。
画面では、サングラスをかけた赤毛のおっさんがモータボートの上でキメている。
「志乃、なにそれ」
「科捜研マイアミ」
ケースにはCSIと書かれている。
何の略だろう。
「マイ……アメリカ?」
「うん。お米」
「お前、海外ドラマ好きだったっけ」
「おねーさんのオススメだってさ。これを参考にして仕事をするらしい」
「なんだろう。絶対お手本間違ってる気がする」
「そんな。見もしないで言うのはやめたまえ」
「しょーがないなー。一話だけ付き合ってやるよ」
「見れー」
と、志乃は自分のとなりに座布団を引っ張って、ぽんぽん叩いた。
871:
16
―――――1時間後―――――
「どうよ。面白いだろう」
「お前だって見るの初めてだろ」
「必要ない。現場が語ってくれる」
かけてもいないサングラスを外す仕草で言う。
「あーあー。影響されちゃって」
「つづきつづきー」と、メニュー画面を操作しようとする手を邪魔する。
「なによぅ」
「その西部警察マイアミが面白いのはわかったから、続きは今度な」
「ちぇー」
テレビから志乃の興味が途切れた隙に、リモコンで切った。
彼女の頭を支えながら畳の上に押し倒す。
872:
17
志乃は目を閉じて顔をそむけている。
「嫌?」
「いやいやいや」
僕の胸板を押して首を振る。
「嫌か……」
「あああそうじゃなくて間が空いたから! 空いたから恥ずかしいの!」
「そうかー。じゃあこれからはもっと頻繁にエロいことをしようそうしよう」
「うわあああああ……」
目も開けられないらしい。
志乃の横に転がる。
「で、どうなんよ。実際」
「何がよ」
「察してよ」
「ムリポ」
「やらないか」
「はああああああああ!?」
志乃が逃げるように体を起こす。
873:
18
僕を見下ろす顔が赤い。
「な、なんだね君は! あれか! いい男か!」
「おーおー。動転しているな」
「黙れ童貞」
「童貞ですけど」
「うわっ、なにその余裕。ファック。まじファック」
「はいはい」
一通り騒がせた方が早く静かになってくれそうだ。
少し黙ると、志乃は指で僕の体を気まずそうにつついた。
「あ、あのさー」
「うん?」
「……やぶさかでない」
「もっと可愛らしく承諾してくれ」
「い……いいよ。いいけど」
と、彼女はうつむく。
874:
19
「いいけど、ちゃんと言ってくれないといやだ」
「言ったよ」
「ちがーう。そんなどっかから持ってきたようなんじゃなくて」
「ああ、自分の言葉でってことね」
「うんうん」
そう言われると弱いのが僕だ。
どう言ったものか。
「志乃」
「ん」
「お前は俺と生きていたいって願ったから、人間やめたんだよな」
「ん」
「生きててよかったって思えるようにがんばるからさ」
肝心なところ、どういったものか。
あんまりきれいな言い回しも、僕の性には合わない。
「抱かせてくれ。性的な意味で。俺も生きててよかったって思いたい」
志乃は半分泣きそうな顔で笑った。
「性的な意味で。は要らないよぅ」
その顔を見て、妙な満足感があった。
885:
20
「そうと決まれば――」
さっと押入れのある方向に視線を走らせる。
あの中にはお義姉さんが要らぬ気を利かせて備え付けたお徳用なアレがあるのだ。
「あ! あのさ春海」
「なんだね」
志乃が申し訳なさそうな顔になる。
「やる気になってるとこ悪いんだけど、ここじゃやだ」
「なんですと」
僕のスカイツリーが解禁になろうとしているのに、なんですか。
このハレの日に、君の琵琶湖は凍結するんですか。
「最大なんだ……」
「なにが」
「いや、琵琶湖がな……」
彼女は体を引いて訝しむ。
886:
21
「あの、やっぱり初めては家がいいなって思っただけなんだけど」
「ほう」
「で、うち、今日は親遅いって言おうとしたんだけど」
「ほう!」
思わず顔全体で笑ってしまう。
琵琶湖訂正。カルデラ湖。世界最大。
君の阿蘇に急行。
今すぐにでも草千里を駆け抜けたい。はっしはっし。
「……君はキャッシュな男だなぁ」
「よっしゃ、行くぞ。九州新幹線。君のおっぱいは世界一」
立ちあがって志乃の手を引く。
「なにそれ意味わかんない」
志乃が唇をとがらせる。
「大丈夫だ。俺にもわからん」
その唇をふさいで、ついでに少し噛みついた。
887:
22
―――――夕方・志乃の家の近く―――――
小学校の前を過ぎた。
橋を渡ってしばらく歩くと志乃の家だ。
(またの名を、僕の童貞喪失記念館)
そんな、スカイツリーの報道くらいどうでもよくておめでたいテンションなことを考えていた。
志乃が僕をつついて我にかえった。
「ねえ、ピーポー近くない?」
「赤いの? 白いの? パンダ?」
「ドクターとポリスメン」
僕には聞こえなかった。
「――近づいてきてる。何かあったのかな」
888:
23
「なんだろうな」
「なんだろね」
川は過ぎた台風で増水している。
水面の流れはゆったりとして見える。
でも、その下の水流のエネルギーの大きさを考えると、股間がひゅっとなった。
川沿いに少し北へ行き、橋の近くに来ると、救急車が止まっているのが見えた。
仕事が終わった人が帰ってくるには少し早い時間。
救急車の横にはパトカー。
その近くに、黄色い帽子をかぶった子供が何人か並んでいた。
「ねえ、あれまさか――」
「考えたくないけど、いや、でも」
「事故かな」
「わからない」
889:
24
「ごめん。今日はそういう気分じゃなくなっちゃった」
最悪の場合を考えたのか、志乃の顔は白い。
「だろうな」
「断っといてなんだけどさ、親帰ってくるまでいてくれないかな」
僕は黙って何度かうなずいた。
人が死んだかもしれない現場に居合わせてしまった。
正直言って、今ひとりで帰るのは心細い。
(お義姉さん、どこにいるんだろ)
明後日の方向にぶっとんだ世話を焼いてくれる、志乃の姉貴分。
ろくに顔も思いだせない彼女に、会いたくなっていた。
895:
25
―――――志乃の部屋―――――
志乃がコーヒーを淹れてくれるというので、僕は階段に放置してあった新聞をベッドに腰かけて読んでいる。
(そういえば、昨日の夜中もこの近所で――)
なんとなく気になって地域欄をめくる。
『小学生男児1人不明』のゴシック体に目がいく。
志乃のメールを思い出す。
あれは、心配した両親が通報したんじゃないか。
それなら、さっきの救急車は何だ。
川の水量からして、無事でいるには時間が経ち過ぎている。
残念だけど、この記事の子が見つかるとき、生きてはいないだろう。
(じゃあ、さっきのは別件か?)
だとしたら、同じ場所で、似た条件の被害者が出たことになる。
背中を冷たい汗が流れた。
896:
26
不意にドアがノックされた。
「うわああ」
情けない声が出た。
「はーるみー。あーけーてー」
ドアを開ける。
両手にカップを一つずつ持った志乃が入ってきた。
「はい、薄めのブラック」
両手で受け取る。熱い。
「でー、私のは牛乳が激しいコーヒー牛乳―」
くるりと身を翻し、僕の隣に腰かける。
志乃はカップに口をつけながら、新聞に気づいたのかそれを手に取った。
一気に飲み下すと、カップを机に置いて記事を睨みつける。
「志乃、やっぱりそれ昨日の――」
「――だと思う」
志乃は新聞を床に放り出して寝ころんだ。
「気の毒だけどさ、他人事は他人事なんだよ」
彼女は掌で顔を覆って吐き捨てる。
897:
27
「でも、あのサイレンは他人事じゃない。嫌でも思い出す」
「ああ……」
彼女も被害者だった。
別件で、通り魔だったけど。
「もう治ってるのに、まだ痛いような気がするんだ」
包帯をぐるぐる巻きにしていた彼女の両手を思い出した。
「あいつは私が殺したのに」
(そして僕はそいつに殺されかけた)
ぐす、と洟をすする音がした。
彼女は目元をこすって起き上がり、僕に抱きついてきた。
「志乃、あぶないって。俺コーヒー持ってる」
「そのへんに置いちゃってよ」
「うーん……」
濃厚な花の香りが、鼻腔に満ちていった。
901:
28
志乃はそのまま僕を押し倒して、胸に耳を当ててぐりぐりする。
「痛い」
「うーん。ドキドキしてますなぁ」
「生きてる証拠―」
「あたしは? どう?」
僕の手を取って、自分の左胸に押しつける。
でも、心臓は左右の肺の真ん中に位置するものだし、強く鼓動を感じられる左の心筋は乳腺と脂肪の下だ。
(わかりませんとは言えないな)
「う、うん……」
志乃が空いた手で僕の口を開けて、舌をねじこませてくる。
口の中いっぱいに花を詰め込まれたように、甘い匂いが充満する。
薄く目を開けると、彼女は年には不相応な淫靡な微笑を浮かべていた。
902:
29
「しの」
「うん?」
彼女は唇を離し、唾液で濡れた口元をぬぐった。
「今、どっちだ?」
「そんなの。どっちだっていいじゃない」
その手を僕の股間に伸ばして、ジッパーの上からブツをまさぐる。
「どうでもよくねえよ。お前大丈夫か」
勢いは大事だけど、勢いだけで後悔されたくない。
彼女の動きがぴたりと止まる。
「私の体がこうなのは、しょうがないよ。人間やめちゃったんだし」
「いや、だから大丈夫かって」
「正直なところ、不安定だよ。この状況だもん。でも自棄なんかじゃない」
一瞬だけ、いつもの顔に戻っていた。
903:
30
「ちょっと動揺したくらいで、安心したいからって体を任せるような馬鹿じゃないよ」
いつの間にかベルトが抜き取られている。
「そうか」
「私ってかしこーい」
彼女の指が、僕のシャツのボタンにかかる。
「そりゃよかったな」
心残りはどこかに行った。
僕の性ホルモンはエンジェルフォールのごとく、だばだばと流れ出る。
(あれ、何か忘れてるような……)
髪をかき分けて首を舐めると、しょっぱかった。
(うん。志乃も生きてる)
「どしたの。真顔になっちゃって」
「いや、その」
「ああ、心配要らない。これ」
と、スカートのポケットから小さな平たい小袋をつまみ出す。
アルミっぽい、正方形の。
904:
31
「お前、いつの間に」
「おねーさんが持っとけって。自分の身は自分で守れってさ」
「俺、そんなに信用ないかな」
「さあ?」
彼女は立ち上がり、電気を消した。
僕は裸が見たいのに、そこはきっちりしてるのか。
「やっぱり、痛いってほんとかな」
下着の裾から指をすり込ませると、志乃は体をびくつかせた。
中は既にぐちゃぐちゃだ。
「うーん、善処する」
彼女は喘ぎながら何度かうなずいた。
912:
32
(善処するとは言ったものの……)
指を動かすと、志乃の腰がくねる。
目の前で胸が重たげに弾むのを見て、たまらず乳首にしゃぶりつく。
「ふっ、う、ああぅ」
志乃が嬌声を上げながら、僕の頭をかき抱いてのけぞる。
(どれくらい濡らせばいいんですか。僕にはわかりません)
しばらく手探りで彼女をいじり倒していた。
ふと、志乃の手が僕の性器を遠慮がちに握った。
「う、うー……えっと」
「あ、平気かな」
「知らないよぅ」
「いいと思うけどさ」と消え入りそうな声で続ける。
913:
33
太ももをさすると、内側に分泌液が垂れていた。
「すごいな」
「言うなばかあぁ」
彼女はうつむいて首を振る。
髪の先が肩のラインで踊る。
「じゃあ遠慮なく」
これ以上我慢しても、暴発しない自信がない。
用意の良さに半分呆れながら、戸惑いつつゴムをつける。
志乃を仰向けに転がし、脚の間に体を割り込ませた。
先端をあてがい、少し腰を沈めると
「いっ――」
志乃の全身がこわばった。
「――ったくない。痛くないし。全然痛くないし」
914:
34
「無理するなー」
僕の肩を掴んでいる指がめり込んでいる。痛い。
「力抜いたら? リラックスリラックス」
「が、がんばる」
「がんばっちゃだめだろ、そこ」
彼女は、ふうっと長く息を吐いた。
「ん。きて」
抱えた脚は、くったりと力が抜けている。
(この無駄な集中力……)
入り口の抵抗に遭いながら、何度かわずかに腰を引きつつ挿入していく。
粘液にまみれた温かい肉が、全方位から握り込んでくる。
口の中とは違う。僕は感動していた。
「志乃、入ったよ」
「はっ――あっ、うんっ。こ、こんな感じなんだぁ」
(こんなときまで好奇心に満ちた物言いしなくても……)
苦笑する余裕はなかった。
それからは無我夢中で、射精まで早かったのか遅かったのかも覚えていない。
915:
35
―――――志乃の部屋・夜―――――
着信音で飛び起きる。
すっかり眠っていた。
隣で志乃が話している。
「――うん。うん。わかった。気を付けてー」
暗いが、見えないこともない。
部屋に散乱した服を眺めて、僕は脳内で勝ち鬨を上げる。
(やった! 一発やらずに死ねるかって思ってたけど、やっぱ死なない! もっとやりまくる!)
「もうちょっとで帰ってくるってさ」
「ああ、やっぱり」
「はい服着てー。急いで急いでー」
僕を追い立てながら、彼女は椅子にかけていたワンピース状の部屋着を頭からすっぽりかぶる。
僕はせわしなく服を着る。
彼女は玄関まで僕についてきた。
「じゃあ、帰るわ」
「ん」
「生きててよかったわ」
志乃が両手でがっちり僕の顔を挟んで、熱っぽいキスをする。
「こっちの台詞」
顔を離してにやりと笑うが、すぐ恥ずかしくなったのか「もー帰って! また明日!」と僕を押し出した。
志乃の家を出て、僕は歩く。
例の橋が視界に入る。
世の中には悲惨なこともあるけど、それはそれとして、幸せになることはできるんだな、と思った。
922:
36
―――――翌朝・教室―――――
席に着くと、長野が携帯片手に話しかけてきた。
「見た? ニュース。新聞でもいいけど」
珍しく難しそうな顔だ。
「いや、まだ」
「じゃあこれ見てよ」
「ん? ――不明の男児、遺体で――ああ、だめだったのか」
陰気な顔になるのもわかる。
「名前が出てるでしょ。この子、妹の同級生でさ。いや、他人といえば他人なんだけど、やっぱへこむじゃん」
「お兄ちゃんとしては心配なわけだ。トラウマになったりしないかと」
「まあ、そんなところ」
「大丈夫だろ。特別仲が良かったわけでもなさそうだし」
「うーん、ちょっと気がかりなことがあってさ」
「大丈夫じゃないのはお前か」
「いやぁ、俺は大丈夫だよ」
長野は顔の前で手を振る。
923:
37
「で、気がかりなことって?」
「うーん、言っていいのかな」
もったいぶっているわけではなさそうだ。
単純に、簡単に話していいか迷っているんだろう。
「後ろめたいけど言いたいんだろ。言ってみろって」
妹を気遣っているのか。
「いや、あのね。亡くなった子、ちょっと、なんていうのかな」
「いじめられてた?」
「うーん……。判断に迷うな。ただ、仲良しグループの中じゃ、立場が弱かったらしい」
「ああ……」
察しはつく。
表面的には仲がいいように見える友人がいるが、何かと面倒を押しつけられるポジションの子。
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