先生が不登校になったback

先生が不登校になった


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1:
ついに呼び鈴を鳴らしてしまった。
 
 僕に与えられた後悔の時間は数秒ほどだったけど、先生がドアを開けて顔を覗かせるまでに、たっぷりと数分は過ぎたような気がした。
「…………どうして」
 目を瞠った先生の唇がぱくぱくと動く。
 久しぶりに見た先生の顔は記憶の中のそれよりもほっそりとしていた。少し痩せたかもしれない。
「あの、僕、心配で……その、ええと」
 長い時間をかけて考えてきた言い訳なんか、一瞬で吹っ飛んでいた。
 玄関先で顔を突き合わせたまま馬鹿みたいに目をそらし合う。
 先んじて冷静を取り戻したのは先生のほうだった。首を伸ばして廊下の左右を確認した後、ドアを押して大きく開く。
「とにかく上がって」
 その言葉に、僕がどれほど安堵したことだろうか。
2:
 猫の額ほどの玄関は、六畳ほどのダイニングスペースと繋がっていた。
 奥にもう一つ部屋があるようだったが、さすがにそこまでは通されない。
 小ぶりな丸テーブルの一席を勧められたので、おとなしく僕はそこに座った。
「紅茶でいい?」
 電気ケトルに水を注ぎながら、こっちを振り返らずに先生が言う。
 カーディガンの背中に垂れた長い黒髪に見惚れてしまった。
 もともと魅力的な人ではあったが、さて、これほどまでだったろうか。
「おかまいなく」
「そういうわけにもいかないでしょ」
 そうか、と僕はあることに思い当たる。
 学校では先生はいつも、髪を結っていたのだ。
 アップにまとめていたり、肩ごしに前に垂らしていたりと髪型は様々だったが、こんな風に髪を降ろしているのは初めて見る。
 その様子は、こっちが恥ずかしくなるくらいに綺麗だった。
3:
「誰かに言われて来たの?」
 言い方こそ柔らかいが、表情は硬い。当然だと思う。
 僕は首を横に振って応えた。
「そうだね。先生たちが、生徒にこんなことさせるわけないもんね」
 僕の目の前にカップを置いて、先生は向かいの席に腰を降ろす。
「どうして、うちまで来たの? どうやって、この住所を調べたの?」
 身がこわばるのを感じた。どうやって、というのは一番答えにくい質問だ。
 もちろん、『職員室で他の先生方から聞く』という方法を取ったわけじゃない。
 電話帳やSNSなどを辿り、郵便物をこっそりとあさり、ようやくの思いでこの住所を割り出したのだ。
 異常なことだとわかっていた。一歩間違えるまでもなく、それがただのストーカー行為であることにも気づいていた。
 でも僕は、そうせざるをえなかったのだ。
 差し障りのない返答をねつ造しようとして沈黙していると、先生は「ふう」と息をついた。
「…………そんなこと言う資格、わたしにはないよね。心配してきてくれたんだもん」
 長いまつ毛が、その表情に影を落とす。
 まったく、なにをしても絵になる人だ、と思った。
4:
 先生は、大体二か月ほど前から学校に来なくなった。
 なんの前触れもなく、なんの通達もなく、僕らの前からいなくなった。
 代わりに僕らの担任となった中年の数学教師は「ちょっと事情があってな」という言葉以外で、僕らに説明をしなかった。
 生徒たちはこのことをずいぶんと嘆いた。
 「なんで教師なんかになろうと思ったんだ?」という問いを禁じ得ないほど先生は可憐だったし、理知的で、授業もわかりやすかったし、それにいつも笑っていたからだ。
 学校にいるときとは似ても似つかない無表情で(それはそれで素敵だったけど)先生は僕の胸元あたりに視線を落としていた。
 たぶん、視線が合うのを避けているのだろう。気まずいと思っているのかもしれない。
「原西先生の国語、わかりにくいんです。なんていうか、数学や物理の問題を解いているのと同じような感じがして」
「そういうこと、言うものじゃないよ。それに、受験に使う国語の解法としてはその感覚も間違ってはいないと思う」
「でも、つまらないんですよね。先生の授業よりも」
 沈黙が下りた。たぶん、こんなことを言っても意味はないのだ。
 そう思いつつも、言わずにはいられなかった。
「先生、いつ学校に戻ってくるのかなって。なにがあったか知らないけど、でも、戻ってきてほしいなって、そう思って」
 先生は目を伏せる。苦しそうにも見えたし、笑っているようにも見えた。
 音も出さずに、吐息のような声が漏れる。「ごめんね」と言ったのだと、そのことに気付いたのは先生の部屋を出た後だった。
 カップが空になるころには、いい加減この空気に堪えられなくなってきていた。
「また、来てもいいですか」
 先生は、じっと押し黙って、なにかに耐えているみたいだった。
「現代文やってて、先生に聞きたいこととか結構あるんです。進路のこととかも相談にのってほしくて」
 先生の頭がゆっくりと頷くように見えたのは、おそらく、見間違いではなかったと思う。
5:
 久しぶりに先生に会ったせいか、翌日はまったく勉学に身が入らなかった。
 いなくなった当初はともかくとして、失踪(僕らにとって彼女は、それくらい唐突に姿を消したのだ)から二か月が経たんとする今では、先生のことを話題に挙げる生徒の数も少なくなっていた。
 先生はこの二か月何をしていたのだろう、ということばかり考えていた。
 すでに学校を辞めてしまったというわけではなさそうだった。仮にそうであるなら学校側はもっとちゃんとした説明をするだろうし、当の先生も、あそこまで辛そうな顔はしなかっただろう。
 あの表情、雰囲気を僕は知っている。
 中学生だったころ、友人に引っ張られて近所の同級生の家に立ち入ったことがあった。
 平日の朝9時前くらいだったろうか。当然、通常なら登校しているべき時間帯だった。
 どういうことかというと、その同級生というのは、いわゆる不登校児だったのだ。
 僕は彼と特に親しいわけではなかったけれど、一緒にその家に上がり込んだ友人は違った。
 友人と不登校児は竹馬の友というやつで、友人はどうにか、彼を立ち直らせたいんだと息巻いていた。
 そんなことをしたって逆効果じゃないか、と僕は冷ややかな目で友人を見ていた。
 友人は不登校児に繰り返し「どうして学校行かないの?」「大丈夫だよ」「なにかあるなら相談して」といった言葉をかけていた。
 不登校児はただ黙って、ときたま頷いたり、笑っているのか眠っているのかよくわからないような息を吐いたりするだけだ。
 不毛なやりとりを僕ら……というより友人は、30分ほど続けていた。
 思えば、僕の態度はあまりにも薄情だったかもしれない。だけど、しょうがないとは思うのだ。
 苗字の読みも曖昧だったくらいにその不登校児とは知らない仲だった僕を、ただ家が近いからという理由で同行者に選んだのだから。
 今だからわかるが、彼は、友人は、きっと数で攻めたかったのだ。
 無意識のうちかもしれないが、そうだったに違いないのだ。
 つまり友人は、こう言いたかったのだ。こう見せたかったのだ。
「きみのことを心配しているのは、僕だけじゃないんだぞ」「不登校を是としないのは、僕だけの主観というわけじゃないんだぞ」ってね。
 そういうことだったんだと思う。
 不登校児はそれから一度も学校には現れず、僕と友人は卒業して、それぞれ別の高校に進学した。
7:
 あの時は中学生だったんだぞ。
 6限目の授業が終わった教室内で、放課後の音がさざめく教室内で、僕は自分の席に座ったまま頭を抱える。
 あの時は中学生だったんだ。アプローチが稚拙だったも、結果が伴わなかったのも、ある程度はしょうがない。
 友人を冷笑したのは「僕ならもっとうまくやれる」という根拠のない優越感が、そこにあったからだ。
 まったくもって、根拠のないことだった。
 あの時は中学生だったんだ。
 なのに僕は先生に、あの不登校児と同じ顔をさせてしまった。
 手を取るつもりで差し出した右手が、知らず知らずのうちに相手の頬を張っていたのだ。
 学校に来ようが来なかろうが、そんなことは重要じゃないのだ。
 学校でも先生に会いたいというのは、単なる僕のわがままだ。
 僕のわがままで先生にあんな顔をさせてしまったのだ。
 不用意なことは言うまい。
 価値観を押し付けるようなことはすまい。
 僕はもう、高校生なのだ。
8:
「恋煩いか」
 そんな風に声をかけられて、僕は飛び上がった。
「なんで?」
 我ながら下手くそな返しだったと思う。
 声をかけてきたのは親友だった。
「なんで? ってなんだよ。図星っぽい」
「そんなことはないよ。すぐそうやって、適当なことばっかり言う」
「適当言ってても、適度に当たることがあるからな」
 スクールバッグを肩に揺らしながら、ユウキは顎をしゃくった。
「帰ろう。バスの時間ちょうどいいだろ」
 頭の中には二つの選択肢があった。
 一つ、そのままユウキとバスに乗る。
 一つ、先生の家に向かう。
 実質、一択のようなものだった。
「どっか寄りたいとことかあるの?」
「ペットショップ」
「好きだね」
 ユウキのあとについて、僕は教室を出た。
9:
「一緒に帰るのも、久しぶりだな」
 車窓の外に向けた目はそのままに、ユウキは言う。
「そうだっけ?」
「ああ。なんかここ最近ずっと、さっさと帰ってただろ? お前」
 意味ありげに言葉を切ってから、
「なんか怪しいことでもやってたか」
 反対の車窓にもたげていた頭が、ずるっと滑りそうになった。
 本当にこの男は適当に、適度に当たったことを言う。
「別に。ほら、ここ最近小テスト多かったじゃん。勉強しないとと思って」
「の割にはいつもより点数悪かったな。お前」
 意地悪く笑うユウキだが、別段腹は立たない。
 憎まれ口と意味ありげな物言いは、彼にとって挨拶みたいなものだ。
「努力が報われないこともあるんだよ」
「努力ってそんなに、ギャンブルめいたものだっけか」
「違う気はするけど、でもそういうこともある」
「報われない努力を努力と呼ぶなら、報われた幸運を幸運と呼ぶのはおかしいよな」
「どういうこと?」
「さあね」
10:
 実際のところ、努力は報われていた。
 僕は先生の住んでいるところを探し当てたのだから。
 歓迎されたとは言い難かったが、拒絶されたというわけでもなさそうだった。
 うん、上々だろう。少なくとも、思っていたよりはいい結果だった。その後先生と対面した折の、僕の失態を除けばだが。
「ユウキってさ、彼女とかいたの? 前の高校で」
「いきなりどうした」
「いや、ほらモテそうだから」
 僕よりも15?は長いであろう、彼の躯体はがっしりと引き締まっている。眉はキリリとして男らしく、切れ長の目元は涼やかだ。
「いたような、いなかったような」
「なにそれ」
「男子校だったんだよ。知ってるだろ」
「知ってるけども。答えになってない」
「たぶん……たぶんだけどな、両想いではあったよ」
 両想い、という単語の響きが恥ずかしかったのだろう。ユウキはなんの面白みもないバイパスの防音壁を、食い入るように見つめていた。
「付き合わなかったんだ?」
「まあ……どうだかな。なあ、やっぱお前、今日おかしいよな」
「なにが?」
「人に恋沙汰の話振るようなやつじゃないだろ」
「偏見じゃない?」
 ユウキは僕の言葉に答えず続ける。
「そういうやつがいきなりそういう話をし始めるのはな、自分にそういう話があるときだけなんだよ」
「……偏見じゃない?」
「しらばっくれやがった」
11:
 結局、僕が次に先生に会いに行ったのは一週間後のことだった。
 居場所が分からなかったときはあんなにも焦がれていたというのに、いざ会いに行けると分かると「鬱陶しがられたら嫌だな」なんて考えが頭に浮かんで、すっかりと臆病になってしまうのだから不思議なものだ。
「こういうの、自分には縁のないことだと思ってた」
 最初の訪問のときと位置関係を同じくして、僕らは円卓を囲んでいた。
 あのときからすれば先生は幾分か弛緩した様子で、そう切り出した。
「他の誰が悪いわけでもなく、自分の中にしかその理由がないことについて、特別扱いで誰かから憐れまれて、特別扱いで誰かから優しくされるっていうのかな」
 人はそれを、弱者と呼ぶね。先生はそう言った。
「社会的弱者、情報弱者、政治的弱者、身体的弱者、精神的弱者……弱者とつく言葉はたくさんあるけれど、その一つ一つが自身を表す言葉なんだって自覚している人は、どれだけいるだろうね」
 歌うようにこう続ける。 
 人は誰しも相対的に弱者である。でも大抵の人は弱者を、物語の登場人物程度にしか捉えていない。
 弱者という言葉を聞いたとき、人は、自らよりも弱い者のことを思う。スタンダードは自分にあるのだと考える。
 絶対的な弱者などいないのだということを知っていても、絶対的な普通などないのだということを知らない。
「先生」
「なあに?」
「そういうのはやめませんか」
「そういうのって?」
「なんだか、授業を聞いているみたいでうんざりします」
「あら。きみはここに、なにかしら殊勝な理由で来ているはずじゃなかった?」
 そういえばそうだった。
「授業みたいなのに、授業じゃないってのが致命的なんですよ。聞いても、受験に有利になるわけじゃないでしょう?」
 それもそうだね。と、先生は歯を見せて笑うのだ。
12:
 正直なところ、僕は戸惑っていた。
 前回に訪ねた時と今回とでは、先生のまとう雰囲気がまったく違ったからだ。
 そのことについて先生は、
「今回は幾分か心の準備ができてたから、何を話そうかあらかじめ決めていたの」
 と説明した。
「それじゃあさっきの話は、なにかしらの主張だとか意思表示だとか、そういうものに繋がるわけですか?」
「ううん」
 しとやかにかぶりを振る。
「ああいう意味ありげな意味のない話をずっと続けて、間を持たせようと思っただけだよ」
 つまりそれは、彼女なりの防衛手段だったわけだ。
 意味がなさそうでいて、そのくせしっかりと積み重なっていく通常の会話をしなくて済むように、意味のある会話をしないように、先生はあえて饒舌になったということだ。
「ごめんね」
 わたしの事情に踏み込んでくるな、と。
 柔らかい表情で、優しい声で、いつもの先生のままで、彼女は強硬に僕を拒絶しようとしたのだ。
13:
実話か
18:
>>13
いいえ、ただの妄想です
14:
 先生の誤算は三つある。
 わけのわからない形而上学的対話を延々と続けることができるほど、僕が賢くなかったということが一つ。
 僕の問いを濁して、無理やりにでも『意味のない話』を継続する図太さが、先生にはなかったということが一つ。
 そしてなにより、僕は先生から『意味のある話』を聞きたくてここに来たのではない……ということを知らなかったのが、最大の誤算だったろう。
 正直に話そうと思った。
 間違いなくそれが一番なのだ。
「先生と話したいだけなんです」
 まともに顔は見れなかった。
 決して真面目な生徒とは言えない僕が、毎日のように授業内容に関する質問をするため職員室に通ったことも。
 先生の指の隙間から見える文庫本のタイトルを盗み見て、こっそり同じ本を買ったことも。
 こうして僕が、学校中の人間全てのうち僕だけが、先生と顔を合わせていることも。
「学校なんてどうでもいいんです」
 それが今日、一番言いたいことだった。
「なんてこと言うの」
 先生が呟いた。
 上目に見たその顔の赤さは、きっと僕の比じゃないのだろう。
「それはまるで、恋のようじゃないか」
 そうなのかもしれない、と僕は思った。
15:
 土曜日の午後は図書館にいた。
 駅から続くペデストリアンデッキに面している自動ドアが、人を吐き出しては、その倍ほどの人間を吸い込んでいく。
 壁際に設置された長椅子もよそよそしい色をしたテーブルも、人で埋め尽くされていた。
 市立の図書館に来る用事などほとんどないものだから、本そのものどころか、目当ての棚を探すことにすら多少の苦心をした。
 社会科見学に来た小学生のようにあちこち歩き回りながら、上下フロアのほとんどを踏破したのちようやく、僕は人文社会学関連の資料棚を見つけることができた。
「いったい何に目覚めたってんだ?」
 学ランの詰襟から亀のように首を伸ばして、ユウキが手元を覗き込んでくる。
「別に。なんか、面白そうだなあと思って」
「『不登校児に見る日本学校史』がか?」
「いや、そういう特定の本がってわけじゃなくて」
 特に僕の返答になにかを期待していたわけではないらしく、ユウキはかがめていた身体を起こして本棚に挟まれた通路を歩き始める。
 彼の背中に向かって声をかける。
「ユウキは結構来るの? 図書館とか」
「いいや。全然だ」
 けどな、と前置きしてから
「そういう小難しい本ばっかり読んでたやついたなあ、と思ってさ。前の学校での話だけど」
 思えば僕は、彼の過去について全然知らない。
 親友が聞いてあきれるな、と独りごちた。
16:
 先生に「本を探してきてほしい」と頼まれたとき、頭に浮かんだのはネットでの古書通販サービスのことだった。
 あるかもわからない書籍を求めて図書館を巡るよりも、そういったサービスを利用するほうが効率的だろうとは思った。
 もちろん、そんな提案は口には出さない。本の運搬を口実に先生に会えるのなら願ったりかなったりだ。
「駅前の大きい図書館あるでしょう? そこになら、置いてあるかもしれないから」
 先生はこの二か月と少しの間、一度たりとて駅近辺には足を運んでいないそうだ。
 駅前だけでなく、人が集まりそうな繁華な場所にはできる限りいかないようにしているらしい。
 生徒やその保護者、教師の誰かと顔を合わせてしまうかもしれないからだ。
 
 目的の本を書棚から引っ張り出して、貸出カウンターに持っていく。
 貸出カードを作るのに多少時間がかかったが、なんとか閉館には間に合った。
 土日の図書館は閉館時間が早い。
 エントランス付近の腰掛に座って、昭和初期の建築写真集を繰っていたユウキに声をかける。
「探してた本は見つかった?」
 背表紙をつかんだ左手を軽く上げて見せる。
「おかげさまで」
「そいつはよかった」
17:
 図書館を出た後、僕らはチェーンのファストフード店に入った。
 やる気と愛想とハンバーガーの安売りを受け、トレイに乗ったコーラの不安定さに身をよじりながら二階席への階段を昇る。
「やっぱ編入って大変なの?」
 ユウキは今年度の始めに、僕らのクラスに編入してきた。
 ユウキと仲良くなるまで知らなかったのだが、高校生が学校を変わるというのはなかなか大変なものらしい。
 公立の小学・中学校は義務教育であるため、その学籍が途切れるということはまずない。制度上そうなっている。
 これが高等学校となると話は別で、中学を転校するように、学籍を引き継ぐということが原則できない。
 混同しがちな言葉だが、『転校』と『編入』はまったくもって異なる制度なのだ。
「試験は難しかったな。当たり前だけど」
 さして誇るわけでもなく、ストローを口に当てたままユウキが答える。
「甲斐はあったよ。私立高だから親には迷惑かけるがな。でもまあ、在学校の偏差値が12も上がるなら文句はないって感じだ」
「もしかしてユウキって、頭いいの?」
「ひいひい言いながら授業についていくのがやっとの俺しか見てないお前には、想像がつかないかもしれない。俺、前の学校じゃ上から三番目くらいの成績だったんだぞ」
「へえ。なんか意外だな」
「失礼じゃないか?」
「や、正直に言ったまでだよ。ユウキって結構上昇志向なわけ?」
「どうかな」
「なんでわざわざ、高校を変えようと思ったんだよ。地元離れて、寮に入ってまで」
「一人暮らしがしてみたかったんだよ」
「それだけ?」
「なかなかいいもんだよ、寮生活。思い描いてた『一人暮らし』ってやつとは、かけ離れてるけどな」
 寮母は、彼の母親よりも小うるさいのだという。
 眉尻を下げて、屈託なくユウキは笑う。
19:
 一週に一、二度ほどの頻度で先生の家を訪ねる日々が続いた。
 
 『どうやらこいつはもう「学校に?、学校へ?」などと押しつけがましいことを言う気はないみたいだぞ』という風に判断したのだろうか、先生の態度はかなりくだけたものになってきていた。
 いや、どちらかというと『本来の先生』に回帰しつつあるというのが正しいかもしれない。
 親しみやすく、慕われやすい。真面目な顔で不真面目なことを言ったりする。そういう先生の“らしさ”とでもいうべきものが、戻ってきているように感じた。
 相変わらず奥の部屋には入れてもらえなかったけど、そもそも客人を応接するのに寝室を使う人間はいない。
 ベッドや本棚などが見当たらないことから察するに、もう一つの部屋をメインの居室として使っているのだろう。
 他人を易々とあげるような役回りの部屋ではないということは、想像に難くなかった。
 時刻は18時過ぎ。この日は、先生の家で夕食をごちそうになるという約束だった。
 図書運搬のお使いをこなした、せめてものお礼ということだった。
 一生徒が、教師の自宅で晩餐を共にする。非日常の幸福に胸が躍る思いだった。
 大げさに言えば、禁忌を犯しているその感覚。当の先生は、どういう認識でいるのだろうかというのが少し気になった。そのことを口に出そうとは思わなかったが。
「…………それ面白い?」
 20型のテレビを流し見ている僕に、暗澹たる声音でもって先生は聞いた。
 季節外れの心霊特集が短調のピアノ楽曲をBGMとして、一枚の心霊写真を映し出す。黒い目線で顔を隠された女性の下半身がすっかり消失している。あるべき下半身の代わりに見えるのは背景の廃病院だけだ。
「結構好きです」
「そう。わたし、別の番組がいいな」
 意地悪な気持ちが湧いた。
「もしかして、怖いんですか」
 どおりで、頑なにこっちを向かないわけだ。
 ふたのしまった圧力鍋を監視するようにねめつけても、何も面白くはないだろうとは思っていたが。
20:
「幽霊なんているわけじゃないですか」
「一概にそうとも言えないじゃない」
「そういうの、信じる派なんですか?」
「…………いなければいいな、とは思う」
 かわいい。
「馬鹿にしてるでしょう?」
「そんなことはありませんよ」
「コナン・ドイルだって、霊魂の存在を信じてたんだからね」
 そんな話は初めて聞いた。
「コナン・ドイルって、シャーロックホームズを書いた、あの?」
「うん。彼はかなり熱心な心霊学者だったの」
「心霊学者? 心理学者じゃなくて? そんな職業があるんですか」
「19世紀後半から20世紀初頭にかけてだったかな、西洋でスピリチュアリズムが隆盛を誇ったのは。第一線で活躍する知識人たちがこぞって、霊魂の存在可能性を考察したの」
「そんなの、一体どうやって」
 降霊術でも試したっていうんだろうか。
 冗談交じりにそう考えたか、あながち間違ってなかったらしい。
「ドイルがスピリチュアリズムへ傾倒していくに決定的となったきっかけは、外部から密室内部の物体を引き寄せることに成功した降霊実験を、目の当たりにしたことらしいよ」
「そんな実験があるんですか」
「ドイル自身、当初は心霊学に懐疑的な立場だったんだけどね。知ってる? シャーロックホームズシリーズを著した彼は当然、莫大な印税収入を得ていたんだけど、その使い道」
「いかにもなにか出そうな廃墟を買い取ったとか」
「良い発想だね。全然違うけど」
 全然違うのか。
「世界旅行費だよ。スピリチュアリズムに関する講演を各地で行うためのね。彼は心霊学という分野についての偏見を取り払い、世界にその見聞を広めようとした」
 いよいよ、馬鹿に出来ない話になってきた。
 行動のスケールが大きすぎる。
「旅行費約20万ポンド、大体5000万円前後。当時のレートで考えれば、億単位の話になるね」
 僕はいつのまにか、いつものように、先生の話に聞き入っていた。
 彼女の話は面白く、とりとめがなく、意味がない。
 だからこんなに、素敵なのだろう。
21:
「羨ましいなって思うんだ」
「コナン・ドイルがですか? 殺人ミステリーを書けるほど、血や死体に耐性があるようには見えませんけどね」
「ぶ、文章ならなんとか。いや、そうじゃなくてね」
 先生は、コンロのつまみを戻して火を消した。
 火が消え、炎の音が消え、静寂の声に包まれる。
 空気に溶け込ませるようにして、先生が言葉を発する。
「思い立ってすぐに、そうやってどこかに行ってしまえるんだなあと思って」
「旅行にでも行きたいんですか?」
「旅はわたしにとって精神の若返りの泉だ、ってね」
「先生は十分に若いでしょう」
「アンデルセンの言葉だよ。でも逃げるようにただ足を動かしたって、きっとアンデルセンのような旅はできないんだろな」
 先生の作ってくれたかぼちゃの煮つけは、母の作るそれとはまったく違った味がした。
 おいしいとかおいしくないとか、そういうことはまったく浮かばなくて、ただただ「こんなかぼちゃは初めて食べたなあ」という感慨のみが焼き付いた。
 その味付けは、先生と僕がまったく違った環境で育ってきたのだということを示している気がした。
 なんだか、妙に悲しくなる味付けだった。
22:
 高校三年生だったユウキは、その翌年度から高校二年生をやり直し始めた。つまり彼は、僕よりも二つ年上だ。
 もともと大人びて見える上そういう事情もあるのでよく忘れがちになるのだが、彼はまだ煙草を吸ってはいけない歳だ。
「二十歳になったぞ! よし、煙草吸うか! なんてやつのほうが少ないと思うけどな。絶対」
 100円ライターをハイライトのソフトボックスに押し込みながら、ユウキは気だるげに言う。
「そういうものなの?」
「だって不自然だろそれって。煙草なんて十代のころに素通りしてしまえば、あとの人生にも必要ないんじゃないか」
「煙いんだよ。あっち向いてくれ」
「そいつは失礼」
 ホームレスがねぐらにするような橋の下で、彼はのんびりと煙を燻らせる。
 あんなものを吸っている最中におしゃべりすれば咳き込むことは必至だろうと思っているので、僕は彼の喫煙中にあまり口を開かない。
 彼のがっしりとした背中を見ながら、僕はぼんやりと考える。
 二年という歳月は僕らにとって、どれほどの意味を持つ期間だろうか。
 青春は貴重だという。大人たちはみんなそう言う。だけど僕たちは、少なくとも僕は、その言葉の意味の真なるところを知らない、と思う。
 それはとんでもなく、アンフェアである気がした。
 本当に青春が貴重だというのなら、僕らがその期間を無駄に生きないように、大人たちはもっと、僕らを啓蒙するべきなのではないか。
 本当に若さが宝だというのなら、僕らがそれを無駄遣いしないように、大人たちはもっと、僕らを導くべきなのではないだろうか。
 僕はあと二年ほどで、気が遠くなるように長いであろう二年ほどで、ユウキのようになれるだろうか。
「ユウキってさ、大人だよね」
「だろう?」
 振り向かずにユウキは言葉を返す。
「いや、真面目にさ」
「なんで俺が不真面目な前提なんだよ」
「いや、そんな感じがしただけ」
「お前のがよっぽど適当だよな」
24:
「笑わずに聞いてくれる?」
 きっとユウキは笑うだろうけど。
「早く大人になりたいんだ」
「その話、これから面白くなるのか?」
「たぶん、これ以上は面白くならない」
「そうか。笑えるな」
 フィルターを噛んで口元を歪めたその表情が見える。彼は依然として背を向けたままでいる。
「好きな人がいて、でもその人は大人だからさ。だから、早く大人になりたいんだ」
 ユウキが鼻を鳴らした。
「まったくお前は、子供みたいなことを言うな」
「だろう」
「その好きな人とやらが聞いたら、こう言いそうだ。『時間の無駄遣いはするな』って」
「どういうこと?」
「子供は子供で青春しなさいってこと」
「むかつくね、それ」
「そうだな」
25:
 「馬鹿なことを」と思うかもしれないけれど、『教員採用試験ってのは容姿端麗だと合格しにくいんじゃないか』と考えていた時期があった。
 だって、なにをするにしてもいちいち生徒を魅了してしまうような教員は、絶対にその職業に向いていないだろう。
 そういう点で、本当にこの人は、教師失格だ。
「痛かったら言ってくださいね」
 言葉を発さずに神妙な顔でこくこくと頷く。抱きしめたくなるくらいかわいい。
 差し出された右手人差し指に、絆創膏のガーゼ面を当てる。
 染み出た血液が表面に細い線を浮かび上がらせた。
 スーパーで買ってきた羊羹を切っている最中に指を切ったのだ。
 この家の救急箱はたまたま絆創膏を切らしていて、先生は大層慌てた。
 僕の鞄の中にはカットバンが二枚ほど入っていて、そのうちの一枚を先生に渡したのだが……
 彼女は料理ができる人間とは思えない不器用さでもって、一枚目を無駄にしてしまった。いわく「自分の手にこれ貼るの、難しいよね」
 照れ笑いとはにかみが混じり合ったその表情は一二もなく魅力的だったが、残り一枚の絆創膏を無駄にするわけにはいかず、彼女の指にそれを巻き付ける役目を買ってでたわけだ。
「できましたよ」
「ありがとう」
 肌色のテープが巻かれた自分の指を見つめながら、彼女は礼を言う。
 彼女の手は、絆創膏の色よりも白い。
「上手だね」
「普通ですよ。羊羹、僕が切りましょうか?」
「ううん。大丈夫。ごめんね、心配させて」
26:
「迷惑じゃないですか?」
 出された羊羹に手を付ける前に、ずっと聞きたかったことを聞いた。
 でも、こういう表現は正しくないかもしれない。ずっと聞きたかったというよりは、ずっと不安に思っていたのだ。
 彼女の家を訪問するにあたって、なんの大義も持ち合わせていないことを、僕は不安に思っていた。
 なんのことかと目を丸くしていた先生だったが、すぐに言葉の意味を察したようで、こう答える。
「迷惑だなんて、そんなことは、ないよ」
 僕は卑怯者だ。
 だって先生は、はっきりと「迷惑だ」なんて言える人じゃないんだと知っていて、こんなことを聞いたのだから。
 そればかりじゃない。僕は機をうかがっていたのだ。先生が僕を拒絶できないタイミング、すなわち、先生が多少なりとも僕に恩義を売られたと感じるタイミングだ。
 『絆創膏をあげた』なんていくらなんでも些細過ぎることではあるが、しかしそれで十分だったのだ。
 もともとこの人は、他人を強く拒絶することが苦手なのだ。
 自分自身の言葉で、他人とのつながりに波を立てるのが、酷く苦手なのだ。
 僕が二回目にこの家を訪ねたとき、先生は実に回りくどい方法で僕を遠ざけようとした。
 つまりは、そんなことをしなければ、彼女は僕を拒めなかったのだ。
 
「誰とも会話してないとね、ほんと参っちゃうから。ほら、今のわたしの状態だと、友達とかにも会いづらいし」
 こんな風に、僕が会いに来ていい理由を、勝手に仕立ててくれたりする。
「きみに救われてると思う。わたし、結構」
 それは本心なのかもしれない。
 そうではないのかもしれない。
 僕は卑怯者だから、仕方ないとは思うのだ。
 穿った見方で、他人の行為をぼやけさせてしまう。他人の好意を有耶無耶にしてしまう。
 彼女はこんなに、こんなに嬉しいことを言ってくれているのに、素直に喜べない自分がそこにいた。
27:
 さて、その日の僕の気分は最悪だった。
 どんよりとした冬口の空がそれを一層強いものにした。
 先生の家に通い始めてから一か月と少しになり、先生が学校に来なくなってから三か月が経ったころだった。
 休日ではあるが、家でふさぎ込んでいるとどうにも嫌なことばかり考えてしまうので、財布と傘を持って外に出た。
 ショッピングモールのフードコートは、日曜にふさわしい混み具合だった。
 かまぼことねぎしか乗っていないうどんを注文し、プラスチックの番号札を受け取ってから席探しを始める。
 こんなに混んでいるというのに。僕一人が座る席を探すのだって難しいというのに。
 空いている椅子を見つけるより早く、見知った顔を見つけた。
 中学を卒業して以来会っていない友人だ。
 不登校児の家を一緒に訪ねた、あの友人だった。
 気づかなかったことにして通り過ぎてしまおうと思った。
 二年近く会っていない相手だ。それだけの間連絡を取らないということは、それだけの関係だったということだ。
 今更顔を突き合わせたって、話が弾むとは思えない。ただでさえ今日の僕はテンションが低くて、誰かと馬鹿話をするような気分じゃないというのに。
 しかし運が悪いことに、彼も顔を上げてしまった。
 二人掛けの席に座って、ドーナツをつまんでいる。ばっちりと視線が合ってしまった。
 きっと彼も、僕と同じようなことを思ったに違いない。久しぶりに会ったからといって、肩を叩きながら笑い合うような関係ではない。
 だけどまた、互いに互いを認識したというのに、黙って通り過ぎてしまえるような間柄でもない。
 双方ともが望まない語りの席はこうして形成される。
 観念した僕が彼のほうへと足を向けるのと、あいまいに笑った彼が控えめに左手を上げるのは、ほとんど同時だった。
28:
「最近どうだ」
 そんな決まりきった言葉を、挨拶のように投げられる。
 僕がどうしてるかなんて、彼はちっとも知りたくないだろうに。
「相変わらずだよ。そっちはどう?」
 彼は苦笑い気味に手を振って応える。
「最近彼女と別れてさ。最悪だよ、最悪」
 番号札をもてあそんでいた手がふと止まってしまうくらいには、興味深い一言だった。
「え、彼女いたの?」
 高校二年生ともなれば彼女くらいいても不自然ではない。が、中学時代にはとんとそういう話を聞かなかった彼なので、少し意外だった。
「人並みに恋愛はしてるよ、そりゃあ。別に初めての彼女だってわけでもねえし」
 ますます衝撃だった。
 しばらく見ない間に、男として大きく水をあけられたような気さえした。
「そういう事情もあってか、家に一人でいるとおかしくなりそうで。寂しく飯食ってたんだよ」
 茶化して笑う余裕のある彼が、急に、得体のしれない生き物のように思えてきた。
 人並みに恋愛する、とはどういうことなのだろう。
 僕が先生に抱いているこの感情は果たして『人並みの恋愛』の範疇なのだろうか。
「どうして別れたの?」
「なんか、他に好きな人ができたんだってさ。まあ、正直に話してくれる分だけまだいいよな」
29:
「お前は彼女とかいないの?」
 『人並み』に恋愛しているという彼に、対抗心が湧いたことを否定はしない。
 ユウキにすら相談したことのない事柄について、僕は話し始めた。
「好きな人はいる」
「へえ。同じ学校のやつ?」
「うん。先生なんだけど」
「…………マジで?」
「うん」
 後になって思えば、僕が彼に自分の恋愛を話してしまえたのは、彼が先生についてなにも知らなかったからなのだろう。
 彼は、深い森の中にあいた穴そのものだった。「王様の耳はロバの耳!」と叫びいれるに相応しい、何も知らず、何の関係もないはけ口だった。
 この日の僕には、そういった存在が必要だったのだ。
 僕の語りを、彼は神妙な顔で聞いていた。
 先生が不登校になったこと、先生の家を探し当てたこと、先生の家に通うようになったこと。
 そして昨日、先生の家の洗面台で、あるものを目にしたことについて。
「歯ブラシが二本、か」
「……彼氏がいるってことだよね」
 もちろん、そのことについて、当人に直接確かめるような真似はしなかった。できなかった。
 悶々鬱々と夜を明かして、今日この日に至ったのだ。
「一概にそうとは言えないんじゃないか」
 できるだけ明るい声を出そうと努めているのか、不自然な笑顔で彼は言う。
「古くなった歯ブラシを捨ててないだけ、とか」
「口をゆすぐカップも二つあったんだけど」
「…………すまん」
「いや、謝るようなことじゃ……」
 うなだれていた彼は、それでもすぐに復活した。
「それにしたって、今まさに彼氏がいるとは限らねえじゃん」
「そうかな」
「だってお前、定期的にその先生んとこ行ってるんだろ? 彼氏がいる女が、そういうの許すかなあ」
 なるほど確かに彼の言うとおりかもしれない。
 この一か月ほどに僕が先生に会いに行った回数は、両手の指で数えるほどもあるのだ。
 どのタイミングで、その彼氏とやらに鉢合わせてもおかしくない状況だったのだ。
 しかしそんなことは、一度もなかった。
30:
 密かながら、彼に感謝した。
 彼の姿に気づいたとき、目を伏せて通り過ぎなくてよかったと思った。
 相手が誰でも、口にするのがどんなことでも、話はしてみるものだ。
 家を出たときから比べれば、僕の心は相当に軽やかになっていた。
「不登校と言えば、あいつ、どうしてるのかな」
 心が軽くなったせいだろう。
 頭まで軽くなっていて、口も軽くなっていた。この場合は軽薄というべきか。
 ほんの世間話のていで、そんな話題を口にしてしまった自分に驚いた。
 慌てて取り繕おうとしたのだが、しかし、彼の反応は予想とは違っていた。
「さっきから話そうと思ってたんだよ」
 よくぞ聞いてくれた、と言わんばかりだった。
 口角を釣り上げて、不敵に笑っている。
「どこ通ってると思う?」
 知るわけがない。そもそも、学校に通っているという時点で驚きだ。
 不登校児というのは、僕たちの及びもつかない暗い世界に消えていくものだと思っていた。
 まるで内緒話でもするかのように声を潜め、彼は僕に学校名を告げる。
 彼が口にした学校名には、聞き覚えがあった。
 確か、四国あたりでは一番有名な進学校だったはずだ。
「すごいだろう?」
 まるで自分の子を自慢するかのように、彼は胸を張る。
 確かに、すごい。元不登校児の通っている学校は、僕の通っている高校と比べてもなんら遜色ないほど名のある高校だ。
31:
 それから僕はひとしきり、彼の手柄話に聞き入っていた。
 彼は何度も、その不登校児の家に足を運んだらしい。
 僕が同行したのは、何十回もの訪問のうちの、たった一回だったというわけだ。
 知らなかった。
 中学時代はそこそこに仲が良かったと思っている間柄だが、しかしそれでも、知らなかった。
 彼はそういう話を、僕にしなかったのだ。かの同行に際したその一回きり以外、彼は僕に助けを求めなかったのだ。
 なんで言ってくれなかったんだ水くさい、と彼を責める気にはならなかった。
 心中で彼を冷笑していた僕には、当然そんな資格などない。
 それに、当時の彼の気持ちが、僕にはなんとなくわかるのだ。
 檻に閉じ込めた子猫を、たった一人で世話するときのあの昂揚感。あれに似ている。
 加えて言うならば、暗い気持ちを抱えた人間が、徐々に心を開いていくのを間近で見た時の、背徳感。
 そしてなにより、弱り切った大切なひとを、むやみやたらに他人と関わらせたくないという、ねじまがった独占欲。
 それにしたって、彼は立派だ。
 こっちが目を細めてしまうくらいには、高尚な人間だ。
 今、立ち直った不登校児が、どこでどうやり直しをしているのか。
 それをこんな風に、心底嬉しそうに話せるのだ。
 なにを思って、なにを感じて、不登校の彼に手を差し伸べていたのかなんて、どうでもいいじゃないか。
 すごいだろう、と彼は言った。
 すごいと思う。そうやって誇るだけの価値が、お前にはある。
 不登校児のことは、まあ、どうだっていいよ。
 だけどお前は、なんと素晴らしい。素晴らしいじゃないか。
 僕はお前のようになれる気がしない。
 僕はお前のようになりたいと、思えないんだ。心から。
 旧友と別れてショッピングモールを出ると雨が降っていた。
 傘は、どこかに置き忘れてきていた。
33:
 翌日の放課後、僕とユウキは教室の一角で顔を突き合わせていた。
 再提出となった小テストの直しを手伝ってやるつもりでいるのだが、当のユウキにやる気が見られないせいもあって、ただだらだらと雑談しているばかりになっている。
 くるくる、がしゃん。
 くるくる、がしゃん。
 くるくる、がしゃん。
 しきりにペン回しをしているユウキだが、回したあとに上手くペンをキャッチできず、取り落とされたペンは不快な音を立てて机に落ちる。
「できないならやらなきゃいいのに。うるさいんだけど」
「いや、できるんだよ」
「できてないじゃん」
「このペンだとやりにくいんだ。ほら、こっちのシャーペンならうまくできる」
 ペンを持ちかえて、ペン回しを再開するユウキ。なるほど、確かに上手だ。あまりにもどうでもいいことだが。
「ん。これ、万年筆?」
 ユウキの手から取り落とされたままになっていたペンを拾い上げてキャップを抜く。くちばしのような形のペン先が鈍い光を放っている。
「かっこいいだろう。ドイツ製らしい」
「書いてみても?」
 了承を得てから、小テストの隅に落書きをする。
 特に気の利いた言葉も思いつかず、ただ『万年筆』とだけ書いた。
「これ、書きにくいね」
「ああ、だからほとんど使ってない」
 書きにくいというよりは、なんとなく、持ちにくいのだ。
 グリップの向上を目的としているのであろう持ち手のくぼみが、まったく指にフィットしないのだ。
 握った時のすわりがあまりに悪いので、筆記の際にペン先がぶれて、字が歪んでしまう。
 早々に興味を失って、それをユウキの筆箱に押し込んだ。
「こいつで完璧なペン回しを会得することが、目下の目標だよ」
「目下の目標は再テストを片付けることだよ。さっさと終わらせてくれ」
 右手側の窓の外、15メートルほど下の校庭から運動部の怒号が響く。
 放課後の教室に残っている人間が、一人、また一人と消えていく。
 最後の二人になってもなお、僕らは一枚のわら半紙とにらめっこをしていた。
34:
「僕の好きな人って、先生なんだ」
 帰り支度をしているユウキは、特に驚いた様子もなくおどけて答える。
「原西?」
「そんなわけないだろ」
「ああ、あの不登校不良不毛教師か。なんだよ今更」
「今更とか言わないでよ」
「まさかとは思うが、俺が気づいてないという前提で言ってるわけじゃないよな? その話」
 当然、ユウキは気づいていただろう。
 いや、ユウキでなくとも、僕と親しい人間であれば誰だって気づいたはずだ。
 ただ僕と殊更に親しい人間は、ユウキ一人のみだったというだけで。
 先生がまだ学校に通っていた頃、ことあるごとに「ちょっと質問があるから職員室に行ってくる」などと理由をつけて、先生と話をしに行っていた僕なのだ。
 四六時中僕とつるんでいたユウキが、僕の下心を察しなかったということはないだろう。
 だから僕の告白は、彼が驚くべき僕の吐露は、次の一言なのだ。
「ずっと先生の家に行ってたんだ。ここ最近」
 今度こそ、ユウキの動きが止まった。
35:
「なんだって?」
 ゆっくりと頭を上げたユウキが僕に向かって問う。
「先生の家に通ってたんだよ。会いたくて仕方がなかったから」
 ユウキの目つきが変わった。
 正直この反応は予想外だった。
 先生は僕ら男子学生のほとんどを魅了しているような人だったが、ユウキは、その『ほとんど』から漏れる例外的な存在だと思っていたからだ。
「誰にでもいい顔して、色目つかって、気に入られようとしているところが気に入らん。教師ってのはすべからく、生徒に親愛の情を持たれないように努力すべきじゃないか?」
 というのはユウキの言だ。「先生のこと嫌いなの?」と聞いたことがあった。「特に興味はないな」というのがユウキの返事だった。
 こんな風にユウキが、先生の話題に反応してくるとは思っていなかったのだ。
 「先生に会いに行ってる。わざわざ住所を調べてまでだよ」と言えば、「馬鹿だなあ、お前」と――そんな風に、ユウキは一蹴して笑ってくれるだろうと思っていたのだ。
 僕は、どうかしていたか。
 旧友に先生の話をしたことによって、秘密のハードルが下がってしまっていたのかもしれない。
 僕のやっていることは意外と、大したことではないのかもしれないと、そんな風に考えてしまったのかもしれない。
 ユウキは依然として目を丸くしたままで、僕の顔をじっと見つめている。
 生きた心地がしない。
 認識が足りなかった。僕のやっていることは、異常なことなのだという認識が足りなかった。
 馬鹿め。
 この一か月で、なにかすごいことをやってのけたつもりでいたか。
 この一か月で、なにか先生のためになることをやったつもりでいたか。
 愛想笑いを、心からの笑いと勘違いしたか。
 初めて先生の家を訪れたときの、あの先生の目を忘れたか。
 自分は、ストーカー以下のゴミムシであることを、どうして忘れていたか。
 誰かに、スニーカーの裏側で踏んづけてもらえ。
 ひとしきり心中で自責を終えた頃だろうか。
 内に閉じこもっていた僕は、ユウキがすでにいつもの調子に戻っているのに気づいていなかった。
 僕の左肩をバンと叩いて、ユウキは言った。見開かれたその目は、茫然のためではなかった。頬が笑みを形作っていた。
「やるなあ! お前」
 世界に許されたような気がしたことは、言うまでもない。
36:
「電話帳だけを見てもね、登録されてなければそれで終わりなんだよ。そういう場合でも104にかけて、電話交換手と話をすればある程度住所を絞れることがある。具体的にはね……」
 僕は先ほどとはうって変わって、得意満面でユウキに講釈を垂れていた。
 『件の先生の住所を、いったいどうやって割り出したのか』ということについてだ。
 探偵密偵のような僕の仕事ぶりに冒険小説的な面白さを覚えたのか、ユウキはそのことについて興味津々といった様子だった。
「意外と学校の近くに住んでたんだな、あの先生。確か車通勤じゃなかったか?」
「歩けば30分くらいはかかるよ。学校からの道の途中に、結構長い坂道があるから」
 
「ああ、なるほどなあ」
 ユウキは、やけに嬉しそうだった。
 からかいのにやけを隠そうともせず、先ほどやったように僕の肩を叩く。バンバンと叩く。
「お前、女みたいな顔と性根してると思ってたけど」
 そんな風に思われていたか。別に驚きはしないが。
「すげえ根性あるじゃねえか。あの性悪女のためにそこまでやるの、お前くらいじゃないのか」
 他に僕みたいなのがいてたまるか。
「先生は別に性悪女じゃないよ」
「いいや、ああいうタイプは性格悪い。確かに物腰柔らかくて親しみやすい感じするだろうけどな、でもあれは、自分が人気ある前提での振る舞いだからな」
「ユウキはほんと穿った見方するなあ。いいじゃん別に、本当に人気あるんだしさ」
「まあ、お前のあこがれに水をさすつもりはないけど」
 すでに思いっきり水をさしたあとでそんなことを言う。
「がんばれよ」
 急にそんなことを言うのだ。
 二つばかりの年上に相応しい、落ち着き払った兄のような笑みを浮かべて、彼は僕の肩を叩くのだ。それはもう、優しく。
37:
 それから四日後のことだった。
 先生が学校に来なくなったことを告げたときと同じ口調で、件の数学教師は僕らに告げた。
 先生が学校を辞めた。
 僕らの進路指導担当はその数学教師になっただとか、人員補てんのために学年副担任が新しく誰々先生になっただとか、そういう事務的な説明が二、三続いた。
 それがいったいなんだって言うのだ。
 学校に生きる僕が、学校に生きるために必要だった説明通達は、漏れなく聞き漏らした。
 頭髪の薄い中年教師の痰が絡んだ声など、もう一言だって、この脳みそに取り込む余裕はなかった。
 50分間がこんなに長く感じたのは、初めてのことだった。
 
 数学の授業が六時間目で本当に良かった。
 担任教諭の授業が終わり、ホームルームもなし崩し的に終わり、僕はスクールバッグをひっつかんで駆け始めた。
 廊下を抜け、階段を転がり、上履きを履き替えるのももどかしく、制靴のかかとを踏んで僕は学校を飛び出した。
 
 数学の授業が六時間目で本当に良かった。
 もしも朝一であの話を聞かされていたら、きっと僕は途中で学校を抜け出していたに違いない。
 風景がすべて後ろに吹き飛んでいく。
38:
 インターホンを鳴らしても、先生は出てこなかった。
 躊躇したのは一瞬だった。ドアノブに手をかける。カギはかかっていなかった。
 相も変わらず生活感のないダイニングに、先生の姿はない。
 しかし、空気は語る。今ここに、この場所に、人間が息づいていることを。
 彼女がいるとしたら、それは当然、開かずのドアのその奥だ。
 自分の耳にしか届かないような声で「お邪魔します」を言った。
 こんな事態なのに、こんな状況なのに、律儀にそんな言葉が出てくるあたり、やはり冷静ではなかったということだろう。
 ハの字に靴を脱ぎ捨てて、ゆっくりとダイニングを横切る。
 ドアの前に立ち、棒状のノブを握るところまでいけば、もう大した決心はいらなかった。
 音も立てず、ドアが開く。
 きっとその瞬間、時間は止まっていたに違いない。本当に何の音も、聞こえなかったのだから。
39:
 電気はついていなかった。
 沈みかけた日の光がパステルカラーのカーテン越しに彼女の姿を染め上げていた。
 薄暗く、陰鬱に、先生はぺたりと座り込んでいた。うなだれた首より先は、長い髪の毛に隠れてしまっている。
 部屋は惨憺たる有様だった。
 まず目を引くのは、直径が70?もあろうかというレトロな掛け時計だった。ブリキ製の長針が真ん中あたりでねじまがって、中空に屹立している。
 壁に貼ってあったのだろう『世界のクジラたち』という博物ポスターはびりびりに破れて、床に落ちていた。
 大量の蔵書は本棚から雪崩れ落ち、下に置かれていた小物入れをひっくり返してしまっている。
 洒落たデザインの薬瓶が割れて、中に入っていたであろう綿棒が本の海と混ざり合う。
 横倒しになったローテーブルの足元には、木製の鉛筆立てが転がり、針の山のように文房具が散らばっていた。
 凄惨な破壊痕に圧倒されて、しかるべき事実に気づくのが遅れた。
 もちろん、気づいてしまったこと自体に後悔するような、そんな気づきだ。
 この惨状は、全部先生の仕業なのだ。
 たとえ局所的な大地震があったとしても、時計の針はあんな風には曲がるまい。
 ポスターはあんな風には破れまい。
 小指の爪が剥がれてしまうようなことはあるまい。
 だらんと垂れた先生の左手、その小指から血が流れていた。
 大した出血量ではない。淡い色のカーペットに、二センチほどの黒い染みが出来ている程度だ。
 けど、それでも、軟弱な僕に狂気の刃を突き付けるには十分だった。
 部屋はこんなに病的なのに――
 そこに在る匂いは、あまりにも優しい匂いだった。
 持ち主を想像するに難くない、可憐な女性に相応しい、そういう匂いだった。
 そのアンバランスさにまた、身震いした。
40:
 久しぶりに、先生から名前を呼ばれた。
 苗字を、くん付けで呼ばれた。
 消え入りそうな声というか、音のようなもので以って、彼女は僕に呼びかけた。
 スローモーションのような緩慢さで、彼女が頭を上げる。
 黒髪のすだれを割って白い顔が覗く。
 今度こそ、本当にやばいと思った。
 その顔には、まったく表情がなかったのだ。
 これだけの光景のなかにいて、
 これだけの境遇のなかにいて、
 爪が剥がれている身でいても、
 彼女は、なにも、なにもその顔に浮かべていなかったのだ。
 どこか遠くに逃げなくてはいけない。そう思った。
 こんなところに、こんな風に、先生は、もう、ああ、とにかく、
 こんなところにいてはいけないんだ。そう思った。
 先生はきっと、何かに殺されてしまいそうなのだ。
 何かに? なにかにとは、なんだ? そんなの知るか。知りたくもない。
 学校に行かないということは、そんなに悪いことなのだろうか。知らなかった。
 学校に行かない人間は、不登校児は、僕たちのような人間には及びもつかない暗いところへ、連れていかれてしまうのだ。
 連れていかれて、そうして、人知れず、消されてしまうのだ。そうに決まっていた。
 とにかく、どこかに先生を、先生を連れていかなくては。
 勇気をくれ。そう願った。
 旧友は、あの不登校児を助けた。本人がどう思ってるかは知らないが、とにかく、彼はやり遂げたのだ。
 僕にも、同じようにできるだろうか。
 そんなのは、知ったことじゃない。
 僕にできるのは、僕にしかできないことだ。僕にしか言えないことだ。
41:
 逡巡していたのは数秒だった。
 僕は先生の前にかがみこんだ。その顔を真正面から見据える。僕を追って、先生の両目が揺れる。
 思い切って、先生の手首を掴んだ。未だうっすらと血の浮かぶ小指が痛々しい。残念ながらもう絆創膏はない。
「逃げましょう」
 この短い間に100の言葉を考え付いたと思ったのだが、結局最初に出てきたのは、そんな一言だった。
「どこか遠くに逃げましょう。
 逃げたってどうにもならないかもだけど逃げましょう。
 先生にどんなことがあったのか知らないけど逃げましょう」
 馬鹿みたいに、馬鹿みたいな言葉を繰り返した。
「大丈夫です。
 どうにもならないかもしれないけど大丈夫です。
 どうなればいいのかなんて知らないけど大丈夫です」
 こんなことを言うしか、僕にはできないんだ。
 でもきっとこれは、僕にしかできないことで、僕にしか言えないことだ。
 何も知らないことを良しとしてきた、僕にしか言えないことだ。
「何も話さなくてもいいんですよ。
 いいじゃないですか、たまには休んだって。
 いいじゃないですか、そんなになるまで苦しんだんだから。
 いいじゃないですか、いいですよ。それでも僕は、先生のそばにいたいと思うんですから」
 なにがお気に召したのか。あるいは、なにが気に入らなかったのか。
 みるみるうちに、先生は表情を取り戻していった。苦しそうで辛そうで、まるで麻酔なしの手術を受けているような、そんな顔。
 先生は声をあげて泣いた。子供のように泣いた。
 なにも知らない僕は、なにも汲めない僕は、それでもその涙の意味を考えなかった。
 優しく肩を抱きしめるなんてことを、どうしてこの時の僕ができただろうか。
42:
「電車よりは、車のほうがいいよ。ぜったい。終電もないし」
 枯れるほど泣いた先生は、その目はまだ赤らんでいたけれども、不自然なほどにあっけらかんとしていた。
 つきものが落ちた、というやつなのかもしれない。
「僕、免許なんてないですよ」
「なに言ってるの。わたしが運転するに決まってるじゃない」
 未だぺたんと座ったままだった彼女は、ふわりと立ち上がった。
「それに、わたしがきみを連れて電車に乗ったりなんかしたら、危ないんだから」
「どうしてですか?」
「だって、その、ほら……いかにも人さらいしてるみたいになっちゃう」
 それはちょっと、自意識過剰というものだろう。
 先生は確かに綺麗だが、しかし、僕と比べて極端に大人びて見えるというわけではない。
 ユウキのほうがよっぽど大人らしいというものだ。
「なんで笑ってるの」
「いえ、別に、そんなことはないですよ」
 手ごたえがあった。
 この時の僕は、確かに正解の道を選んだという気がしていた。
 これからどうしていけばいいのか、なにを言えばいいのか、どこに行けばいいのか。
 そんなことは何一つとしてわからなかったけど。
 でも、これでいいのだと思った。
 間違っていないのだと感じていた。
 だって、先生が笑っているのだ。
 大したものは持って出なかった。
 財布の入ったハンドバッグと数冊の文庫本を右手に抱えた先生は、空いている左人指し指にキーホルダーをひっかけてくるくると回す。
 居室を出る直前、僕はもう一度室内を振り返る。
 壮観だ。なんとも最悪に壮観だ。いいじゃないか。なんたって僕らは今、ここから逃げ出すのだ。この場所は、悪ければ悪いほどいい。
 すがすがしい気持ちの中に、ちくりと、不吉があった。凄惨な部屋の一部、針の山から僕はそれを取り上げる。
「いこう?」
 片方だけ靴を履いた先生が、玄関から僕を振り返って呼ぶ。
 僕は慌てて、その細長い不吉を、スクールバッグに押し込んだ。 
 いいさ。今は、考える必要のないものだ。
43:
 既に先生ではなくなった先生と、未だ生徒のままな僕を乗せて、ホンダのエヌボックスは動き出した。
 慣れた手つきで車頭を駐車場の外に向け、先生は車を狭い路地に入れる。
 エンジンを始動した際、自動的にカーステレオから流れ出したその曲には、聞き覚えがある気がした。
 陽気で妖艶なそのギターサウンドを、さて、僕はどこで耳にしたのだったか。
 始めのうち、僕と先生は口をきかなかった。
 その沈黙は別に気まずいものではなかった。
 非現実的な現実に、僕の頭は焼け付いてふわふわとしていたし、先生も似たようなところだったのではないかと思う。
 都市部を過ぎてしまうまでに、車は幾度となく信号に引っかかって止まった。
 前に後ろにと揺られる身体に合わせて、冬の闇に浮かぶ赤や緑、オレンジの光が僕の目を眩ませた。
 僕たちが大まかに南下していることは、カーナビに移るポイントの軌跡から知れた。
 その動線がところどころ無意味に大回りしているところを見ると、先生自身、なにか明確な指針に基づいて運転をしているというわけではなさそうだった。
 だからきっと、目的地を決めて道を走ったというよりは、走った道が目的地を決めたというほうが正しいのだと思う。
 地図を見て、先生の家がある市よりまっすぐ南には、海がある。湘南の地だ。
「気づいたら海に来てた、っていうのいいよね」
 エヌボックスが神奈川県に入ったあたりで、僕らはようやく口をきいた。
「気づいたらってところがポイントなの。小説とかだと、よく使われる表現だけどね」
「どういうことですか?」
「物理的にも精神的にもふらふらとしているうちに、自己防衛本能が、自分を危機から遠ざけてくれてるって話だよ」
「海とか山とか、そういうのは、危機から遠い場所なんですか?」
「現実的に考えたら、そんなことはないけどね。でも海とか山とかそういう場所って、精神を高揚させるにしても鎮静させるにしても、どっちでも、人を救う場所として描かれるから」
44:
「気づいたら、ってところがずるいですよね」
「あ、すごい。よくわかってる」
「そうですか?」
「うん。わたしが言いたいことをよくよく表してるよ、その表現。そう、ずるいと思うんだ」
「なんとなく言っただけですよ」
「少なくともわたしは二十数年ほど、『気づいたら何々していた』ってことは、二度しかないよ。自らを癒してくれる場所に行くには、しっかりとした意識を持って、苦痛を継続させたままで、この足で歩いていかなきゃいけなかった」
「僕は『気づいたら何々していた』って経験、一度もないですけどね。先生にそんな経験が二度もあるってのは、驚きです」
「きみだって少なくとも、一度はあるはずだよ」
「どういうことですか?」
「気づいたら、この世に生まれていた。わたしはね、それから気づいたら、大人になっていたんだよ」
 海に行きましょう、と僕は言った。
 自分たちの意思で、意思を続けたままで、そこに行かなければならないのだった。
 気づいたら海に来ていた、なんて、そんな風に場面がとんでいたら、それはとても幸せなことだったろう。
 もちろん、そんなこと望むべくもない。
45:
 コナン・ドイルは世界旅行に赴く際、スーツケースに何枚のパンツを詰めただろうか。
 そんな馬鹿なことを考えたのは、先生が、コンビニの日用品コーナーに足を止めて、真剣に下着を見ていたからだ。
 遠巻きにそれを見ていた僕に気づくと彼女は真っ赤になって、白々しくも、ウェットティッシュをひっつかんで籠の中に入れたのだが。
 まるで、前々からそれを買おうと思っていたのだというふうだった。そんな彼女が愛おしくて仕方がない。
 下着か、と僕は考える。
 それはつまり、旅の意思を表しているのだ。
 僕は、僕たちは、これからどうしようと言うのだろうか。
 僕の中に、彼女の中に、少なくともまず今日一日を、越す意思はあるのだろうか。
 明日のためのパンツを買うというのはつまり、そういうことだ。
 いきあたりばったりを、いきあたりばったりのまま終わらせる気ではないという意思表示だ。
 先生が去った後の日用品コーナーに立つ。
 そこには、男性ものの下着ももちろんあった。
 僕は思う。邪魔が入らなければ、先生は、パンツを買っただろうか。
 僕はいったい、どうするべきなのだろう。
 コンビニから出た僕らが手に下げていた袋には、次のようなものが入っていた。
 缶コーヒー、
 サンドイッチ、
 唐揚げ串、
 キシリトールガム、
 要らないであろうウェットティッシュ、
 そして煙草。
 
 僕も先生も、明日のことは、考えないことにしたのだ。
46:
 左手側に黒い海が見える。
 エヌボックスは東京に背を向けて走っている。
 堤防に沿うまっすぐなアスファルトを走っている車は少なかった。
 もういい加減、夜さえも寝静まるような時刻だ。
 初めに海が見えたとき、先生は「わあ」とも「きゃあ」とも声を上げなかった。僕も同じく、なにも言わなかった。
 ぽつりぽつりとあてのない会話がから回るのを除けば、車内にあるのは、件の陽気なギターソングだけだ。
「降りてみようか」
 先生がそう言わなければ、この海沿いの道は、延々と、永遠に、続いていたに違いない。
47:
 24時間営業ではないコンビニを見たのは、いつ以来だろう。
 暗く静まり返った店舗の前に設けられた、小さな駐車場に車を停めて、僕と先生は車道を横切った。
 この時に繋いでいた手は、どちらから握ったものだっただろうか、よく覚えていない。
 刃物のように冷たい先生の手は、寒さのためか、震えていた。
 実を言うと、冬の海に来るのは初めてのことだった。
 こんなに澄みきった冷たい空気の中にも、潮のにおいはあるのだということを僕は知った。
 堤防が切れて、コンクリートで固められた波打ち際に降りられる場所があった。
 冗談のように急な石段で、手を繋いだまま降りるのにはとても難しい場所だったけど、それでも僕らは決して、手を放そうとはしなかった。
 仮にここから落ちて頭を打って死んでしまったとしても、それは案外、悪くない死にざまなんじゃないかと、そう思っていたのだ。
48:
 さて、海という場所が僕たちの心を癒し、立ち直らせ、人生をよりよい方向へ導いてくれたのかというと、果たしてそうではなかった。
 もちろん僕としては、そんなこと、微塵も期待していなかったのだけれど。
「がっかりしないでね」
 そういう風に、先生は前置きをした。
「彼氏がいたんだよ」
 氷のようなコンクリートに並んで腰かけた僕たちは、手を重ね合わせたまま、沖に光る赤いライトを見ていた。
「その人のことをね、ずっと忘れようとしてたんだ」
「どうして」
「だからね、わたし、東京に出てきたんだよ」
 先生は、僕の質問には答えなかった。
「そんなことはうまくいかなくって、いざ本当に忘れてしまいそうになると、その人の思い出の品とか引っ張り出しちゃって」
 僕に話しているというよりは、独白のようだった。
 語り掛けるような調子の部分だけ、言葉が浮いてしまっているのだ。
「変でしょう? 自分がなにをしたいのかも、よくわかんなくなっちゃって。そうこうしているうちに、もうどうにもならなくなっちゃって」
「なにが、言いたいんですか」
「なにも」
 笑いをこらえるように、先生は言う。
「なにも言いたくない。言いたくないんだよ。冬の朝とか、布団から出たくないことってあるよね。あれの、ちょっと強いやつみたいなのに、わたしは負けたの」
「なにも言いたくないなら、言わなければいいじゃないですか」
「ふざけてるんじゃないんだよ。本当のことなの。そんなしょうもないちょっとの障害物がね、わたしをだめにしたの。日に日にそれは大きくなって、日に日になにもしたくなくなって、ああ、もう、どうしてかな。彼は、どうしてそういうことをするかなあ」
「先生?」
「ごめん、ごめんね。ごめんなさい。わかんないよね。なにも、わかんないよね。でもね、お願いだから、そのままでいて。なにもわかんないままで、きみには、そのままでいて欲しいんだ」
 その懇願には、どうにも、応えられそうになかった。
 というのも僕は、部分的に、本当に部分的にだが、先生の身に起こったことについて、感づき始めていたからだ。
 ただその推測、憶測を披露する相手としては、先生の心は弱り過ぎていた。
 それに、この考えを示すべき相手は、他にいるような気がしていたのだ。
49:
 僕らの手が離れた。
 先生が、この世界を手放したのだ。
 ブランコからでも飛び降りるかのように、先生は、海へと入った。
 大した深さではない。ひざ下にはためくコートの裾が、塩っ辛くなるかどうかといったところだ。
「先生」
 夢を見ているようだった。
 黒い鏡の中を、さざめきに揺られながら先生は進んでいく。
「先生!」
 ようやく、声らしい声を出すことができた。
 腰よりも少し下あたりまで水に浸かった先生が、こっちを顧みる。
 そのときの彼女の表情に、なんという名前がついていたのか、僕は知らない。
50:
 なんだこの女。
 なんなんだこの女は。
「いっしょに逃げてくれる?」
 先生は言った。
「きみは、いっしょに逃げてくれる?」
 こんなの、僕の手に負えるわけがないじゃないか。
「なにを言ってるんですか」
 上手く発音できたかどうか、自身がない。
「なにを言っているんですか、先生」
 意を決して、水に足を入れた。
 文字通り、凍り付くようだった。
 冬の海は、明確な死のイメージを以って、コンクリートの際を染め上げていた。
 
 こんなの、僕の手に負えるわけがないじゃないか。
 人殺しの目のほうが、まだあたたかいってものだ。
 こんな黒のなかを、あんな覚束ない足取りで進んでいける彼女はいったい、何を思って日々を生きてきたというのか。
 動け、動け。
 そう念じる。
 がたがたと震え続ける上半身など、もうどうでもいいから。
 この二本の脚が動いてくれないと、もうどうにもならないのだから。
51:
 ああ、思えば、どうして彼女がこんな目に合わなければいけないのか。
 朝は布団から出たくなくなるくせに、夜はどんなに祈っても眠れなくなって。
 そんな風に、なにかに思い悩むことくらい、人間なら誰しもあることではないのか。
 誰だってそんな経験くらいもっているはずなのに、大人たちの世界とは、そういったことをまったく考慮に入れず、
 ただ日常的にまわり、
 ただ空虚に営み、
 ただ正常を求めるのみなのだ。
 なんで誰も彼女を救おうとしないのか。
 大人だから、甘えるなとでもいうのか。
 私的な感情は、公的な正常に影響を与えないとでも思っているのか。
 誰か、彼女の手を引っ張ってやってくれよ。
 大人であるあんたたちが、彼女を引っ張ってやってくれよ。
 僕にはそれが出来ないんだよ。
 僕の脚は、もうここから、一歩だって前には進めない。
52:
 先生がからからに乾いたような笑い声をあげて、それですべてが終いになった。
 月の反射光を歪ませながら、先生はゆっくりと僕のほうへ歩いてくる。
 波に背を押されるに任せているだけのような、ゆっくりとした歩みだった。
 すれ違いざま、僕の横に並んで、彼女は耳打ちするかのように囁いた。
「冗談だよ」
 たぶん、本当に冗談だったのだろう。
 なにせ今の彼女は、冗談のように生きて、冗談のように死ねる女だ。
 なんて迷惑な女だ。
 あるいは、僕が彼女のところまでたどり着けていたら、
 彼女は僕と一緒に、冗談で死んでくれていただろうか。
53:
 コートとスカートの裾を丁寧に絞り、コンビニのビニール袋を尻に敷いて、先生はハンドルを握った。
 ヒーターの温度を目いっぱいあげていたので、車内は嘘みたいに息苦しくて、それが心地よかった。
 しばらく僕は眠気に抗っていたのだが、健闘むなしく、すぐにうとうとし始めた。
 途中でちらりと盗み見た先生の横顔がどんなだったか、もう覚えていない。
 夢見心地のなかで耳朶の奥に響いた、その一際明るい曲によって、僕はようやくそのバンドの名前を思い出した。
 the pillows
 そのとき流れていた曲は、No Surrender
 ユウキが好きだと言っていた曲だった。
 免許があったらなあ、と思う。
 もし免許があったら、なんでもないふうな顔をして「運転代わりますよ」くらいのことは言えたのに。
 そしてそのまま、なんでもないふうな顔をして、どんどん西に向かって走るんだ。
 海はずっと、僕らの右手側に見えていた。
54:
「免許? ああ、持ってるよ」
 大したことじゃない、とユウキは言った。
 終業式の日、僕とユウキは学校を抜け出して、いつもの橋の下で肩を並べていた。
「いつとったの?」
「18歳になってからすぐだったか」
「彼女のため?」
 吐いていた煙が、止まったような気がした。
「彼女のために免許取るって、なんだよ」
「なんとなく、そんな気がして」
「まあ、確かに、免許とった時はなんとなく大人になった気がしたけどな。でもな、今は乗る機会なんてほとんどない」
 ユウキが二本目の煙草に火をつけようとしたところで、切り出した。
「知ってる?」
「なにを」
「先生が、左利きだったってこと」
55:
「へえ」
「へえ、じゃないよ。ユウキは知ってたはずだよ」
「あの教師が何利きかなんて、どうでもいいな。学校では右手で板書してたような気がするが」
「学校ではね。そういえば、左利きの教師って見たことないね。なんでかな、そういう決まりでもあるのかな」
「知らねえよ。っていうかその話、どこに落ち着くんだ?」
 もちろん、ユウキの本音を聞けるまでだ。
 きっと僕には、その権利くらい、あるだろう。
「学校では右利きとして生活してたみたいだけどね、本来先生は左利きだったんだよ」
 そうでなければ、包丁を扱っていて、自分の右手を切ってしまうようなことはあるまい。
 僕はポケットから、一本の万年筆を取り出した。
「それ……」
 ユウキが言葉に詰まる。
「ユウキのじゃないよ。先生の部屋から持ってきたんだ。こういうの集めるの、好きな人なんだね。いろんな小物が他にもあったし」
 先生の部屋にあったその万年筆は、ユウキの持っていたそれとよく似ていた。
 おそらく、先生がユウキにプレゼントしたのだろう。自分の持っていた二本のうち、一本を彼に。
「これはね、左利き用の万年筆だよ。だから右手じゃ持ちにくいんだ」
56:
 僕の言葉にはなにも返さず、ユウキはマルボロの白い箱をポケットにしまいながら火をつけた。
 先生があの日、コンビニで買ったのと同じ銘柄だった。
 もう、いいだろう。
 もう大丈夫だろう、と僕は思った。
 僕の推測が当たっていないのであれば、それでもいい。
 いや、当たっていないのであれば、そのほうがずっといい。
 だけど、はぐらかされるのは嫌だ。
 いったい僕は何に翻弄され、何に足掻いていたのか。
 本当のことを知りたい。
 ただそれだけだった。
 紫煙はユウキにまとわりついて、彼の姿をぼやかしてしまう。
 少し煙たいが、それも我慢しよう。
 彼に聞きたいことを、聞き終えるまでは。
「先生をおいかけて、編入してきたの?」
 観念したように、ユウキは頷いた。
57:
「二人は付き合ってたんだね」
「それはどうだかな」
 自嘲するように、ユウキは頭を振った。
「前にも言わなかったか。特にそんな、明確に付き合ってたような感覚はねえよ。一方的に俺が押しかけてたようなもんだし」
「先生はユウキのことを好きだったと思う」
 その一言を、何気なく口にすることに、どれだけ僕は苦心したか。
 しかし、認めざるを得ないだろう。
 彼女は引っ越していった先、東京の居にまでも、ユウキの使った歯ブラシを持っていったのだ。
 それを捨てるに忍びないという感情が、彼女の中にあったことは間違いないのだ。
「フラれた男に対しては、無神経な慰めだな」
「そんなんじゃないよ」
 僕に言われるまでもなく、ユウキはわかっているはずだった。
 だってそうだろう?
 この男はわざわざ、自分の学年を繰り下げてまで、先生を追いかけてきたのだ。
 到底、先生を諦めきれているわけではない。
「望みがあると思ってるんだ」
 はっきりと告げる。
 そしてたぶん、恋愛的にいってそれは正しい。
 現実的にはどうかわからないが。
 先生とユウキを引き裂いたのは、どこまでも現実的な要素であっただろう。
 この二人が恋仲であったのは、そう昔のことではあるまい。
 歳の差を考慮すれば、やはり今のように、先生は教師で、ユウキは生徒であったはずなのだ。
 そこにどんな苦悩があったのか、それは決して、僕の口からは語れることではないのだろう。
 僕に推測できたのは、その苦悩の結果だけだった。
 先生はユウキと離れた遠い地に旅立つことにした。
 それをユウキは追ったのだ。
58:
「お前は俺を責めてるんだな」
「ああ、そうだよ」
 それはもう、はらわたが煮えくり返る思いだった。
 その腹の内だって、九割が嫉妬のようなものだったのだけれど、あえて残りの一割のことについて述べさせてもらうならば、
 ユウキがうちの学校に来さえしなければ、先生は、未だちゃんと先生として学校にいたはずなのだ。
「ユウキ」
 自分でも驚くほどに、平坦な声だった。
 それは、尋問の声音だ。
「僕が先生のことを好きだと言ったとき、どう思った」
「馬鹿馬鹿しいと思ったよ」
 ユウキのほうも、取り繕うことを辞めたようだった。
「馬鹿馬鹿しいと思った。こいつの言う『好き』なんてのは、俺の言うそれとはまったく別の、低次元のものなんだろうなって思った」
「どうして?」
「根拠なんてない。だけど今でも思ってるよ。俺がこんなに想っている以上にあいつのことを、想っている人間がいるわけないんだから」
59:
「僕は、先生の家を探し当てた」
「だからなんだ。だから、僕も負けてないって言いたいのか? 俺があいつに会いに行こうと努力しなかったとでも思ってるのか? お前のほうが、たまたま早くそれを実現したってだけじゃないか」
 僕もユウキも、声が震えていた。
 寸でのところで、激情を押しとどめているのだ。
 今にも発狂して、論理も整然もない罵詈雑言が吐き出されそうになった。
 先生を先に見つけたのは僕なのに。
 僕の話を聞かなければ、ユウキなど絶対、先生のことを見つけられなかったくせに。
 そればかりじゃない。きっとユウキは先生に会いにいっただろう。あれから、すぐに先生の家を訪ねたのだろう。
 その結果どうなった? 先生は、先生は苦しんで、苦しんで苦しんで苦しんで、もうなにもかもめちゃくちゃにしてしまって、それから、
「お前には無理だ、ぜったい」
 決壊した。
 言葉ではなく、身体が怒りを吐き出した。嫉妬を形にした。目の前が真っ赤になった。
 本気で他人を殴ったのは、これが初めてだった。
 ユウキの右肩あたりに、押し付けるようにしてこぶしをぶつけた。
 顔をしかめたユウキが、バランスを失ってしりもちをつく。
 その光景が、スローモーションのように見えた。
60:
 全部図星なのだった。
 ユウキがどんなに説得力のない侮蔑を言ったって、どんなに短絡的な暴言を吐いたって、
 それを聞き流せるような精神状態が、今の僕に備わっているはずがなかったのだ。
 低次元の思いだと言われたのも、馬鹿馬鹿しいと言われたのも。
 そんなの全部、僕だってそう思っていることなんだよ。
 夜の海で、先生がこちらを見ていた。
 「いっしょに逃げてくれる?」と聞いた。
 怖かったのだ。思い出すだけで恐ろしい。
 僕は尻尾を巻いて逃げ出した。
 到底僕には無理だと思った。
 どんなことがあっても、彼女を好きでいるという自信がなかった。
 僕にとどめを刺したのは、ほかならぬ僕自身だったのだ。
 じゃあ、どうすればよかったんだよ?
 先生と一緒に、あのまま、海に沈んでしまえばよかったのか。
 そんなこと、できるわけがないじゃないか。
 なあ、ユウキ。
 ユウキならどうしたかな。
 それが聞きたい、けど、歯の根が合わない。言葉にならない。
 興奮だろうか。いや、恐怖だろう。
 怖くて怖くて仕方がないんだ。今だって。
 ほうら、ユウキが立ち上がる。
 ゆっくりとこちらに歩いてくる。
 固く握られたこぶしが、震えているのが見える。
61:
 ユウキは、僕の顔面を殴り飛ばした。
 その瞬間、すべてを悟ったのだった。
 視界の端に消えていくユウキを見ながら、緩慢に近づいてくる地面を見つめながら僕は理解した。
 ああ、ユウキは、僕の顔を殴れるのだと。
 つまり、そういうことなのだ。
 僕が殴ったのは親友の肩。ユウキが殴ったのは親友の顔。
 その事実が、僕らの違いを表していた。
 先生のために、先生のことで、先生によって、先生に関して。
 僕とユウキでは、こんなにも大きく違うんだ。
 だから僕はだめなのだ。だめだったのだ。
 ユウキが転がった僕の上に馬乗りになる。すぐさま大きなげんこつが落ちてくる。
 とっさに腕を盾にした。それでもやはり、気を失いそうになるほど痛い。
 一瞬の隙でも見せたら、その鼻の骨を折ってやる。
 そういうつもりでいた。
 容赦なく振り下ろされるこぶしは、僕にそれくらいの攻撃衝動を持たせるに十分な強さで、彼への敗北感やら嫉妬やらがぐちゃぐちゃになって、僕はもうとにかく、彼をぼこぼこに殴らなければ気が済まなくなっていた。
62:
 ユウキのこぶしを、十も受けないうちに、ふと涙が溢れてきた。
 止めようという余裕もない。顔の前に構えた両腕が降りないようにするのに、精いっぱいなのだ。
 恋愛というのは、なんとままならないものなのだろう。
 それが二つの心で形作られる以上は、その半分、自分の心の領分くらいは、なんとかなるのではないかと思うのだが、
 しかし恋愛というのはいつでも、だれにとっても、丸ごとすべてどうにもならないものなのだ。
 鼻血と涙で、僕の顔はぐしゃぐしゃになっていた。
 おまけに、ユウキの涙やら鼻水なんかも上から降ってくるものだから、もう見れたものではない。
 ふとユウキがその手を止めた。
 腫れきった右目をうっすらと開けると、彼は歪んだ泣き顔を両手で覆っていた。
 同情なんてするものか。
 ぎしぎしに痛んだ全身を跳ね起こし、ユウキの左耳あたりに一発入れてから、僕はマウントをとった。
 同情なんてするものか。
 しっかりと心に戒める。
 そうして僕らは、互いに動けなくなるまで、代わる代わるで殴り合っていた。
 どうしてこんなことをしているのか、どうしてこんなに悲しいのか、すっかり分からなくなってしまっても、僕らはそれを続けていた。
 
 二学期が終わる。
63:
 三年生になって、僕とユウキは別々のクラスになった。
 受験を控えて忙しくなったということと、ユウキと僕が疎遠になってしまったことは、おそらく関係ないだろう。
 仮に同じクラス分けになっていたとしても、僕らはきっと、一言も言葉を交わさなかったに違いない。
 ユウキと話さなくなった代わり、というわけではないのだが、僕は中学時代の友人とよくやりとりをするようになった。
 彼が都内外れの私立大学に進学を希望しているという話を聞いて、とりあえず僕もそこを目指すことにした。
 決して偏差値の低くないその大学に進学するにあたって、僕はかなりの熱心さで勉強をせざるをえなくなったのだった。
 受験勉強も追い込みのころ、図書館に通いこんでいた僕は、そこでよくユウキと顔を合わせた。
 ユウキはユウキで、かじりつくように参考書を読んでいた。互いに声を掛け合うということは、もちろんなかったのだけれど。
 後に旧クラスメイトから聞いた話によると、ユウキは、東京ではない、どこか遠くの大学に進学したのだということだった。
 縁もゆかりもないその土地に、ユウキが進学を希望したその理由は、さて、どういうことだったのだろうか。
 なんて、とぼけるくらいしか能がない、相変わらずの僕である。
64:
 最後に、先生のことについて書いておかねばなるまい。
 高校を卒業したその日、一年以上ぶりに、僕は先生の部屋を訪ねた。
 正確に言えば『先生の部屋だった部屋』だ。
 当然僕は、先生がどこかに越してしまったことなどその日までまったく知らなかったのだけど、しかし、不思議と驚きはしなかった。
 かわってしまった手書き表札には、少し寂しさを覚えたけれど、まあ、それくらいだ。
 だから僕が、本当に久しぶりに先生の筆跡を目の当たりにするのは、それからだいたい二年後のことである。
 大学で講義を終えて家に入る前に、郵便受けを覗いた。
 別に、毎日そんなことをする習慣があったというわけじゃない。その日はたまたまだ。
 長四型の白い封筒が入っていた。差出人名を見たとき、僕は一瞬、それがだれだか思い出せなかった。
 考えてみれば、教師のフルネームというのはどうにも耳に馴染まないところがある。
 丁寧に綴られた宛名を、しばらく見つめていた。
 開封するために、カッターナイフを持ち出したところまではいったのだけれど。
 結局僕は、それを開けないままにして、ゴミ箱に捨ててしまった。
 その宛名が、万年筆で書かれたもののように見えたからだ。
65:
おわりです
最後まで読んでくれた人がいれば嬉しいです
ありがとうございました
66:
>>65
好きな傾向の話だった
良かったよ、次回も期待してる
69:
読んでくれた人がいて、嬉しいです
せっかく書いたのでささやかに宣伝など
https://mobile.twitter.com/yasuragichan
普段は、幽霊や宇宙人が出てくるお話などを書いております
よかったら見てみてくださいね
70:
面白かった
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