少女「雨が止んだなら」【後編】back

少女「雨が止んだなら」【後編】


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5:

 広場には武装した人々はほとんどいなかった。
 処刑人と思われる男の持っていた剣さえ、実際の武器としては扱えない、処刑専用のものだろう。
 
 大勢の人がいたけれど、その人々は単純な見物人でしかなかった。
 拳銃を持って人質をとったツキにとれる対策は、そう多くない。
 ましてや急な状況の変化に、ほとんどの人間は唖然としていた。
 
 人々が騒ぎ始めたのはわたしたちが丘に向かう道へ出たのと同じタイミングだった。
 広場で起こっただろうそのざわめきは、街を出るわたしたちのもとにも聞こえた。
 わたしは途中から必死になってツキの腕を振り払おうとした。
 彼はもう、わたしに銃口を向けてはいない。
 単純で物理的な力だけで、わたしを捕らえていた。
「どういうつもり?」
 とわたしは訊ねた。
 ツキは一度立ち止まり、それから窺うように広場の方を振り返る。
496:
「出口はどこだ?」
 と彼は言った。
「手を離して」
「こんな世界、さっさと出るぞ」
「……離してってば!」
 まるで予想外の力に押しのけられたみたいに、ツキはわたしの手を離した。
 彼は古傷が痛んだような顔をする。実際に痛んだわけではないはずだ。
 わたしは彼に何もしていないんだから。
「……追手がすぐに来る。ここを離れよう」
 なおも、ツキは言う。わたしは彼に、はっきりとした敵意を抱いた。
 
「あなただけが行けばいい」
 とわたしは言った。声が震えている。怒りからだろうか。悲しみからだろうか。
497:
「わたしはここでシラユキを待つ」
「……なあ、よく聞けよ、アヤメ」
 ツキは感情を抑え込もうとするような、静かな声で言った。
 彼はずぶ濡れだった。顔色はひどいものだ。
 
 このままここに突っ立っていたら、すぐに動けなくなってしまうだろう。
 
「俺はお前の都合なんてかえりみないって決めたんだよ」
「だったら、好きにすればいい」
「……そうかよ」
 彼はわたしの腕を掴んだ。強い力だった。骨が軋んだような気さえする。
 それからわたしの身体を引き寄せると、わたしの首筋に銃口を当てた。
「俺に従ってくれ。さもないと……」
「……さもないと、撃つの?」
 わたしは笑いそうになる。撃つわけがない。
498:
「わたしを殺して困るのは、あなたの方でしょ?
 あなたはわたしに生きていてほしい。わたしが死ねば、あなたも死ぬ。
 わたしを殺してしまったら、あなたの目的は達成されない。だから、あなたは撃てない。
 わたしはわたしが死んだって、別に困らない。困るのはあなただけ」
 彼はわたしの瞳をじっと覗き込んだ。悲しそうな目をしていた。
 でも、それはそう見えるだけのことだ。彼はわたしのことなんてもうどうでもいいのだ。
「どうしてこんな世界に残ろうとするんだよ」
 ツキの言葉は、雨音の中に溶けていく。
 もう何も変わりようがない。わたしの心は決まってしまった。
 ツキのせい? きっと違う。
 ツキも、シラユキも、この世界も、現実も、すべて、わたしとは関係がない。
 わたしとは無関係に考え、思い、感じ、行動している。
 その積み重ねの果ての果てが、ここだっただけだ。
「少なくともここにはシラユキがいる。わたしはここで、彼女と一緒に暮らす」
499:
「なんだよ、それ……」
 悲しげな声だった。でも、それだってそう聞こえるだけのことだ。
 彼はわたしの腕を引き、強引に歩き始めた。
 抵抗しようとしても、彼は離してくれない。
 わたしは振り払おうとするのをやめた。どうせ彼には、どこにも行きようがないのだ。
 
 彼は出口を知らない。わたしは出口に向かうつもりがない。
「シラユキは死んだんだよ、アヤメ。生き返ったりしない」
「この世界には、シラユキがいる」
「現実にはいない。土の下だ」
「だったら、現実なんていらない」
 
 とわたしは言った。
「わたしはここに残る」
500:
 彼は表情を歪めたけれど、わたしにはもう、その表情が何を意味するのかも分からなかった。
 どんな感情なのかも、分からない。
 雨の雫が彼を打ち続ける。
 わたしにはどうしようもない。
 彼はそれでも、出口も分からないまま、歩き続ける。 
 丘の上へと、彼は足を動かす。でも、その先に何があるというんだろう。
「ツキ、離して」
 彼は返事をしなかった。
「わたしはシラユキのところに行く」
 それでも彼は離さない。
 わたしは泣きたくなってきた。
 なぜわたしたちがこんな話をしなければならないんだろう。
 ……それはきっと、わたしのせいなのだ。
501:
「シラユキが死んだのは、俺だって悲しいよ」
 ツキはわたしの方を振り向かず、前を見て、歩き続ける。
 わたしの腕を引いたまま。
 わたしは引きずられるままに、足を動かし続けている。
 歩いているのではない。ただ引きずられているだけだ。
「でも、仕方ないじゃないか。俺だって悲しいけど、そういうもんだって受け入れるしかないだろ」
「だったら、わたしが死ぬのも受け入れて」
「アヤメ」
「あなただけ、生きればいい。わたしだって、それを望んでる」
 わたしはようやく、自分がどう考えているかを理解できた気がした。
502:
 ツキを助けたい、と思った。
 でもわたしは、生きていたくなんてなかった。
 
 ツキには生きていてほしい。
 そう思って、自分のことはあとで考える、と棚上げにしていたつもりだった。
 
 でも、答えは決まっていたのだ。
 わたしはツキに生きていてほしいだけで、自分まで生き延びるつもりはなかった。
「なんでお前が死ななきゃいけないんだ」
 ツキはそう言った。そんなことはわたしにだって分からない。
 どうしてだろう?
 別に死にたいわけではないのだ。怖い気持ちだってある。
 でもそれ以上に、生きていたくない。もう全部やめにしたいのだ。
503:
「お前の考えなんて知らない」
 
 自分に言い聞かせるみたいに、ツキは言った。
「俺がお前に生きていて欲しいんだよ。俺の勝手だ」
「本当に、勝手だよ」
 
 わたしは呆れたような気持ちだった。
 それと一緒に、わたしの中の決意のようなものが、かすかに揺らいだのも感じる。
 本当にそうできたらよかった。
 でも、わたしは逃げるのだ。
 苦しいのはもういやだ。
 つらいのももういやだ。
 情けないし、ふがいない。申し訳ないし、自分に酔っているのかもしれない。 
 でも、そんなことはもう関係ない。
504:
「ツキ、あのね、仮に、あなたと一緒に現実に帰ったとしても……。
 たとえばわたしが今、ちょっとだけ前向きになって、もうちょっとだけがんばってみようって、そう思ったとしてもね。
 きっといつか、嫌になってしまうと思う。また同じことの繰り返しになると思うの」
「そんなの、分からない」
「わたしはここにいたい。だってここには苦しいことがないから。
 それにここには、シラユキだっているから、寂しくない。
 だから、わたしのことは、もう放っておいてほしいの」
「だったら、お前を苦しめるものなんて、俺が全部取り除いてやる。
 だから、現実に戻ろう。お前がいないと、俺は嫌だ」
「それなら、あなたもここに残ればいい」
「……アヤメ」
「それに、わたしを苦しめるものを取り除くって、いったいどうするの?
 わたしを苦しめる人を殺して、わたしを苦しめるものをなくして、それで本当にわたしの苦しみが消えると思う?」
 彼は背を向けたまま小さく頭を振った。坂の上に、わたしの身体が引きずられていく。
505:
「この世界でずっと生きられるなら、たしかに幸せかもしれないな。
 でも、実際にはそうじゃない。この世界で作り上げられる永遠は偽物だろ。
 実際にずっと暮らせるわけじゃない。単に時間の流れが止まるだけだ。それを永遠と呼ぶだけだ」
「そうかもね」
 とわたしは言った。
「ただ生きてるのが嫌になっただけだったら、なんでこんな場所を作ったんだ?」
 わたしはその問いに答えようとして、ふと疑問に思う。
 ――なんでだろう?
 なぜ、わたしはこんな場所にやってきたのだろう。
 
 ……シラユキがいなくなったのが悲しかった。
 なくなってしまうなら、どんなに大事に思っても、意味なんてないと思った。
 だから……。
506:
 思考が急に混乱しはじめる。
 
 おかしい、と思った。
 この街はわたしの望みを反映しているのだと誰かが言った。
 永遠を望んだから、雨が降り続くのだと。
 でも、わたしはなぜ、こんな永遠を望んだのだ?
 シラユキが、単にわたしに選択を迫るための"保険"でしかないとすれば……。
 この世界には、わたしにとって価値あるものは何もない。
 そんな形で永遠を手に入れて、いったい何になると言うんだろう。
 石ころがいくら壊れたところで、わたしは悲しくない。
 それと同じように、石ころがいつまで形を保っていようと、わたしには何の関係もない。
 この世界には、わたしにとって価値ある永遠がなくてはならない。
 そうでなければ成立しないはずなのだ。
507:
 わたしが何も言わなくなったのを不審がってか、ツキが立ち止まり、振り返った。
 彼はなおもわたしの腕を引いていこうとしたけれど、わたしは動かない。
 どういうことだろう。
 この世界の"永遠"が価値を持つためには、この世界には、わたしにとって価値あるものがなくてはならない。
 それが在り続けなければならない。
 もし、それがあるとするならば、なんだろう?
 考えるまでもない。シラユキだ。
 わたしはシラユキとあの屋敷で暮らし続けることを望んでいる。
 何か、不安のようなものが頭をよぎった。
 シラユキ。
 そうだ。
 この世界においての価値をシラユキが担っているなら、どうしてシラユキが保険の役目を背負うのだろう。
508:
 わたしは、現実において死を望んだ。そして、実際に死のうとした。
 その際、自分の願いを反映させたこの世界を作り上げた。
 
 死のうとした理由は、現実が苦しいことばかりだったから。
 楽しいことがあっても、いつか終わってしまうから。
 でも……。
 選択の余地を残したのは、どうしてだっけ。
"何かの拍子で、生きたいと思うかも知れないから"?
 ……でも、それはおかしい。順番がおかしい。
 この世界を最初から確定した形で作ってしまえば、「何かの拍子」なんて起こらないのだ。
 そして、本当に素朴な意味でわたしの願いを反映するなら、最初から確定された世界ができあがるはずだ。
 だとすれば――。
509:
「ねえ、ツキ」
 自分でもよくわからない不安に支配されて、わたしは彼に問いかけた。
「どうして、シラユキはわたしたちを追ってこないんだろう」
 彼は怪訝な顔をした。
「お前を撃たれたら困るから、じゃないのか」
「……シラユキは、あなたが撃つはずがないことを知っているはずでしょう?」
 彼は少し考え込む。わたしは自分の心がこんなにも揺れ動く理由が分からなかった。
「俺が暴走して、お前を殺しかねないと思ったのかもしれない」
 そうかもしれない。でも、本当にそうなのだろうか?
「何が言いたいんだ?」
 自分でも、何がこんなに引っかかっているのかは分からない。
 シラユキは、何を考えているんだろう。
514:

 黙り込んでいると、ツキは街の方を振り向いて、焦ったような顔になった。
 振り返ると、街の人々が何人か連れ立ってこちらに向かってきているようだ。
 まだ遠いけれど、ここまで追ってくるのにそう時間はかからないだろう。
 彼らが手に持っているのは鎌や熊手のような農具ばかりだった。
 街に武器はないのだとわたしは思った。
 
 本来この街に外敵はいないのだろう。
「急ぐぞ」
 ツキはそう言って、またわたしの腕を引いた。わたしは抵抗しなかった。
 その抵抗のなさを不審に思ったのだろうか。
 彼はわたしの方を振り向いた。
 
「どうした?」
 どうしたんだろう。自分でもよく分からない。
515:
 どうしてこんなことになったんだろう?
 
 わたしはここに来ることで救われるはずなのに、何もかもが致命的に狂ってしまっている。
 これでは現実に生きるのと変わらない。
 ツキはわたしの腕を引いて歩き始める。出口も知らないはずなのに、彼はどこを目指して歩いているんだろう。
 わたしたちは森の中へと向かっていく。森の奥の奥の方へ。
 隠れるには都合のいい場所だけれど、そこで何かが生まれるわけでもなかった。
 きっと何かの拍子で、どこかの歯車が狂ってしまったのだ。
 その小さな狂いがいろんなものを動かしてしまった。その結果がここなのだろう。
 わたしはシラユキとここで暮らせればそれでよかった。
 そして彼女の方は、きっとそれを望んでいない。
 わたしに選ばせるようなことを言っておきながら、彼女は自分の満足のいく答えが出るまで、問いを繰り返し続けている。
516:
 シラユキと話がしたかった。
 どういうことなのか説明してほしかった。
 ツキはわたしを現実に帰らせようとしている。わたしは帰りたくない。
 だからわたしは、彼に出口を教えるわけにはいかない。
 出口が分からなければ、彼はこの森の中をさまよい続けるしかない。
 そうなれば下界の人々に見つかるのも時間の問題だ。今度こそ、本当に殺されてしまうだろう。
 
 シラユキと会って、説明をつけくわえてもらったとしても、結果は変わらない気がした。
 なんだか、何もかもが疑わしい。
 いろんなものが馬鹿らしかった。
517:
 もういいか、とわたしは思った。
 無理して考えたりしなくたっていい。もう事態はわたしの手には負えない。
 唯一、ツキのことだけはどうにかできるかもしれないと思ったけど、それだってこのありさまだ。
 
 わたしの考えとは無関係のところで、いろんなことは廻っていくのだ。
 この世界でも、現実でも、何も変わらない。わたしがどうしたところで変わらないのだ。
 全部やめにしてしまってもいいじゃないか。誰も困らない。
 いや、誰かが困ったとしても関係ないのだ。
 シラユキだって、何を考えているのか分からない。
 ……本当に?
 
 ふと、わたしの腕を引くツキのことを考えた。
 彼はどうしてここに来たんだろう。
 それを、どうしてか不思議に思った。
518:
 考え始めると、彼がこの場所にいるのはとても不思議なことのように思えた。
 どうやってここに来たのか。どうしてここに来たのか。
 
 なんだか、とても不思議なことに思えた。
 
「ツキ」
 
 とわたしは呼びかけてみた。呼びかけてみると、なんだか不思議な気持ちになった。
 よくわからない感情が心を波立たせた。
 木々が雨に打たれる音が、響いている。
「なに?」
 彼はすぐに振り向いた。
「あなたは、どうしてここに来たの?」
519:
 ツキは怪訝そうな顔になる。わたしは少し不安になった。
 わたしはまた変なことを言ってしまったのだろうか。
 そんなふうに不安に思うことを、ずっと続けてきたような気がする。
 
 それももう、終わらせてしまえるのだけれど。
「言わなかったっけ?」
「……どうだったかな」
 そもそも、彼から聞いた話を、わたしはほとんど思い出せなかった。
 彼は困ったような顔をした。
 
 やがて何かを諦めたような顔をして、前を向く。
 それから話を始めた。
「何度も言ったよ。俺はお前に生きていてほしいんだ」
520:
「聞いてもいい?」
「なに?」
「どうして?」
「……どうしてって、それは、どうして生きていてほしいかってこと?」
「……うん」
 彼は溜め息をついた。
「そんなの知るかよ」
 わたしは何も言えなかった。
521:
 しばらく、わたしたちは黙り込んだまま歩いた。
 彼はわたしの腕を引いたままで、雨は降ったままで、なにも変わっていなかった。
 世界がこの場所だけで完結しているような気がした。
 外側なんてどこにもなくて、この森の他には世界なんてないような、そんな気がした。
 
 そんなのはわたしの錯覚でしかなく、世界はわたしの意思とは無関係に動いている。
 でも、今、わたしはたしかにそんなふうに感じたのだ。
 木々が雨に打たれる音。土の感触。雨の匂い。
 他には何もないような気がした。
 
「……違うよな」
 不意に、彼は前を向いたまま、自分に言い聞かせるような調子で言った。
「違うんだよな。分かってるんだよ。なんでお前に生きていてほしいのか。
 ちゃんと言葉にだってできる。本当はもっと早く言うべきだったんだろうな」
522:
 ふと立ち止まったかと思うと、彼はわたしを振り向いた。
 右手で拳銃を握り、左手でわたしの腕を握っている。
 
 傘もささず、雨に濡れたまま。
「俺はお前のことが好きなんだよ。だからお前がいなくなったら悲しい。
 勝手な話かもしれないけど、お前に生きていてほしい。
 だから俺はこんなところまで来たんだと思う」
 なぜだろう。
 彼の表情が、シラユキのそれと重なった。
「本当は分かってるんだよ。このままじゃ、帰ったって意味なんてないって。
 強引に連れ帰ったって、結局同じことの繰り返しなんだって。お前が納得しないといけないんだって。 
 だからって、なにもせずにはいられないんだよ。このままじゃ、俺まで世界を嫌いになりそうなんだ」
 ずぶ濡れで立っている彼の姿は、雨の日の捨て猫みたいに見えた。
523:
「ツキは帰らなきゃだめだよ」
 とわたしは言った。
「おじさんも、おばさんも、いい人だもん。悲しませちゃだめだよ」
 ツキは苦しそうな顔をした。
 わたしは自分の感情がうまく整理できなかった。
 さっき、ツキのことなんてどうでもいいって思ったのに、彼に死なれるのは、やっぱり少し悲しい。 
 わたしの気持ちはどこにあるんだろう。
 別に何かがわたしの思考を邪魔しているわけでもない。
 記憶だって、もうほとんど取り戻している。
524:
 でも、そういうことではないのだ。
 そういうこととは無関係に、わたしの思考は、まだ正直じゃない。
 だからこんなに混乱しているんだろう。
「うちの両親は、お前が死んだって悲しむよ。そう思うなら、死なないでくれよ。俺だって、悲しいよ」
「……うん」
 不意に腕に痛みが走った。ツキがわたしの腕を握っていた手に力を込めた。
 ものすごく強い力というわけではない。
 ものすごく痛いというわけではない。
 力を込めたといっても、ささやかなものだ。
 
「ごめんね」
 でも、そうされるのは痛かった。
 痛みを訴えようかとも思った。「痛いよ」と言おうかとも思った。
 どうしてかはわからないけれど、たったそれだけの言葉が、すごく身勝手なものに感じた。
525:
 わたしの頭が混乱しているのと同じくらい、ツキの行動だって混乱している。
 
 いろんなことが、よく分からない。
 どうするのが最善なんだろう。
 
 わたしはこの状況をどうにかしたいと思っているんだろうか。
 
 自分の気持ちがうまく掴めなかった。
 ツキがつらそうな目でわたしを見ていた。
 わたしはそれに何も言えない。
 ――不意に、物音が聞こえた。がさりという生き物の気配。
 わたしとツキは、慌てて物音のした方へと目を向ける。
 草むらから、猫が顔を出していた。
529:

 猫は飛び跳ねるようにしてわたしとツキの目の前にやってきた。
 それから素っ気ない態度で前を向いたかと思うと、前方の木々の隙間を進んでいく。
 ツキはしばらくの間、あっけにとられたようにしてその後ろ姿を見つめていた。
 猫は少し歩いたかと思うと、追いかけて来いと言うように首だけでこちらを振り返る。
 どうしようか、わたしは迷った。
 もういいじゃないか、と、そう思った。でも、ツキは歩き始めてしまった。
 腕を引かれれば、わたしも歩くしかない。抵抗するのも面倒だった。
 猫はわたしたちがついてくることが分かると、すぐに歩くのを再開した。
530:
 何か悪い冗談みたいだった。
 実は夢でも見ているのかもしれない。
 
 目を覚ましたら、わたしはごく当たり前にシラユキと屋敷で生活しているのかもしれない。
 
 ツキの存在も、この世界のルールも、ぜんぶがぜんぶ夢なんじゃないか。
 その方がよっぽど理屈が合う気がした。
 雨は降り続いている。
 ツキはずぶ濡れのままわたしの腕を掴んでいた。
 景色にはまったく変化がない。どこまでいっても、ずっと同じような風景。
 焼き増しされたように同じだ。
 ツキに訊きたいことがあったような気がした。
 
 下界の住人に見つかる前までは、わたしが死んでも生きていくと言っていた。
 森の中で会ったときは、もうどうでもいいと言っていた。
 街の中で会ったときは、わたしが死んだら自分も死ぬ、と言った。お前が俺の都合を考えないなら、俺もお前の都合は考えない、と。
 でも、さっきは、本当は無意味だと分かっている、と言った。
 よくわからない。
 ツキ自身にもよく分かっていないのかもしれない。
531:
「……ツキ?」
 呼びかけてみたけれど、彼は返事をしなかった。
 わたしは何か、彼の機嫌を損ねるようなことをしてしまっただろうか。
 心当たりは山ほどあった。
 そもそも、わたしに早々に愛想を尽かして、ほったらかしにしていかないこの状況自体、奇跡のようなことなのだ。
 
 わたしは途端に怖くなった。怖くなってから、どうして怖いと思うんだろうと考える。
 彼にどう思われても、もう、構わないはずじゃなかったのか。
 けれど、そんなことを考えている状況ではなくなってしまった。
 わたしの腕をとらえていたツキの手のひらから、不意に力が抜けた。ふらりと、彼の体が傾いた。
 咄嗟に体を受け止めると、彼は真っ青な顔で荒い呼吸をしていた。
 ほとんど足に力が入らないらしく、彼はわたしの体にもたれかかった。
 朝からずっと、雨の降り続く森の中を身ひとつで逃げ回っていたのだ。傘もささず。
 そしてずぶ濡れのまま捕らえられて、ようやくそこから逃げ出してきた。
 
 猫を追いかけはじめてから、しばらく経つ。
 木々のせいで地面は荒れているし、雨でぬかるんでいる。体力は余計に消耗する。
 今までだって、決して平気そうにしていたわけじゃなかった。
532:
「大丈夫?」 
 訊ねてから、心底自分が嫌になった。
 大丈夫なわけがないのだ。
 ツキをこんな場所に追いやったのも、ツキがこんなことになったのも、全部わたしのせいなのだ。
 そしてそれは、わたしが認めたことでもある。
 自分が苦しみから逃れるためなら、ツキがどんな思いをしたって構わないと、そう思ったから、わたしはここにいるのだ。
「……大丈夫。ちょっとふらついただけだよ」
 言葉は強がっていたけれど、声はひどく弱々しい。
 
「心配するな」
 彼はそう言い切って、自分の足で立とうとする。
 心配する資格だって、わたしにはないような気がした。
 
「……ごめんなさい」
 わたしが謝ると、彼はきょとんとした顔になった。
 それから困ったように笑い、空いた左手でわたしの頭を撫でた。
 レインコートのフード越しで、その感触はほとんど伝わってこなかった。
 急に胸が詰まって、わたしは泣いてしまいそうになる。
 でもそれだって、わたしの身勝手だ。
533:
 わたしは、ツキがこんな場所までやってくるとは思っていなかった。
 シラユキが死んだときだって、彼は確かに悲しんでいたけれど、ちゃんと起こったことを受け入れていた。
 だからわたしが死んだところで、最初は少し悲しかったとしても、少し怒ったとしても、すぐに慣れてしまうだろうと思った。
 わたしのいない世界に、すぐに溶け込んでいくのだろうと、勝手に思っていた。
「……どうして、こんなところまで来たの?」
 ふたたび猫を追いかけ始めた彼の背中に、わたしは気付けばそう投げかけていた。
 彼は呆れたように溜め息をついて、仕方なさそうに笑う。
 
「その質問の答えは、もう言った」
 それから彼はもう一度わたしの腕を掴んだ。
 わたしはなんだかすごく混乱していた。
 
 さっきまでしていた会話の内容の実感が、遅れてやってくる。
 怖さとか、疑念とか、後ろめたさとか、そういうものと一緒に、気恥ずかしさみたいなものまで。
534:
「嘘だよ、そんなの」
 混乱した頭のまま、わたしは言った。
「何が?」
「だってわたしは、ツキに何もしてない。嫌われる心当たりはあっても、好かれる覚えなんてない」
「……ああ、いや。そのことか」
 彼はまた困った顔をした。それから少し、呆れたみたいだった。
「好かれる覚えはないって、すごい言い草だな」
 
 彼は自分で言った言葉に少しだけ笑った。
「ツキが苦しい思いをしてるのだって、わたしのせいでしょ?
 嫌にならないの? わたしのせいだってなじらないの? なんでそんなふうに、笑っていられるの?」
 大真面目に訊ねたつもりだった。
「……惚れた弱みかなあ」
「からかわないで」
「からかってるつもりはない」
535:
 わたしはまた泣き出したい気持ちになる。
「……どうしてそんなに、平然としてるの?」
「平然としてないから、ここにいるんだ」
「そうじゃなくて……もっとわたしを、責めたり、したいんじゃないの?」
 
「それは、まあ、そうかもな。どんな理由があったって、置いていかれる方からしたら冗談じゃないって思うよ」
 
 言葉を選ぶように慎重な様子で、彼は言った。
「でも、そんなのはこっちの都合であって、結局お前に何もできなかったのは俺も一緒だから。
 だからそんなに簡単に責めたりはできない。お前のことを何にも知らない赤の他人だったら、責めてたかもしれないけど。 
 それに、ここでお前のことを責めたりしたら、それこそ死んじまいそうだ」
 結局、わたしは抵抗できていなかったのだな、と思う。
 
 ツキを苦しめることに対して後ろめたさが沸くということは、責めてほしいと思うということは、結局そういうことだ。
 ツキが責めてくれれば、わたしは迷わずに、後ろめたさもなく、いなくなれるから。
 
 後ろめたさが沸くということは、結局、ツキのことをどうでもいいと思えなかったということだ。
 ツキがわたしのせいで悲しむのはつらい。
536:
 覚束ない足取りで、ツキは猫を追い続ける。
 わたしは腕を引かれたまま、どうすることもできない。
 ひょっとしたら、このツキも、わたしに都合のいい妄想のようなものなのかもしれない。
 現実のツキは死に瀕するわたしの隣で、どうでもよさそうにあくびをしているかもしれない。
 ……彼はそんな人ではない、と、心の中で誰かが言った。それだって、わたしの中のイメージがそうというだけだ。
 このツキが、「わたしにとって都合のいい」妄想のようだと言えるなら。
 結局わたしは、こんなふうに言われることを望んでいるということになるのだろうか。
 
 そうだとしたら、すごく、滑稽な話だ。
 それでも。
 そんなふうに言ってもらえたとしても、やっぱりわたしは、あの日々に戻ることが怖い。
 みんなの視線も、母親の表情も、何より自分が浮かべる愛想笑いも、これからずっと続くのかと思うと、怖い。
 ツキはもう何も言わなかったし、わたしも訊ねるべき疑問を持っていなかった。
 ツキの荒い呼吸が、ふらついた足取りが、わたしを不安にさせた。
537:
 やがて、猫は立ち止まった。
 代わり映えのしない森の中。さっきまで歩いてきた景色と、何も変わらない。そんな場所だ。
 
 わたしたちが追いつくと、猫はあっというまに木々の隙間を走っていった。
 追いかけることもできないようなさだった。
 ツキはしばらく猫の走っていったほうを見つめていたが、やがて疲れ切ったように近くの木にもたれかかった。
 わたしがあわてて駆け寄ると、彼は変なものでも見たような顔をする。
 自分が何かを持っていないか、確認しようとしたけれど、何も持っていなかった。
 荷物は全部、シラユキが持っていたのだ。
 今度こそ本当に泣いてしまうかと思った。どうしてわたしはこんなに役に立たないんだろう。
 呼吸すらも苦しそうで、表情は疲れ切っていて、体を起こしているのもつらそうだった。
 わたしのせいでそんな思いをしている人に、わたしは何もできずにいるのだ。
 そのとき、
「……大丈夫ですか?」
 
 と、声が聞こえた。
 すぐそばに、シラユキが立っていた。
539:
シラユキは何を考えているんだ……?
541:

 木の根本に腰を下ろしたツキに近づいて、シラユキは自らの傘を差し出した。
 そして鞄の中から大きめの乾いた布を取り出し、ツキに渡す。
 布を受け取った彼は、自分の体を念入りに拭き始める。
 ツキが上半身にまとっていたシャツを脱ぎ、布で体を拭いている間に、シラユキはわたしの方を見た。
 その一連の流れを、わたしは何も言えずに見守っていた。
 シラユキは傘をツキの肩に掛けるように置いた。
 二本目の傘は持っていないようだった。
「いくつか、謝らなければならないことがあります」
 とシラユキは言った。
「謝らなければならないこと?」
「わたしがあなたにした、この世界についての説明には、少し嘘がありました」
「……嘘?」
 シラユキが、わたしに、嘘をついた?
542:
 わたしは少し戸惑った。
 隠し事をしているとか言い忘れていたことがあるとか、そういうことなら、別に驚かない。
 でも、シラユキがわたしに嘘をつくなんてことを、わたしは想像すらもしていなかった。
 想像していたとしても、どこか実感のわかない空想のようなものとして扱っていた。
「驚くのも、無理はないと思います。シラユキは、本当は嘘をつきませんから」
「……どういう意味?」
 違和感。
“わたしは”ではなく、“シラユキは”、と彼女は言った。
 どこから説明すればいいかわからない、というふうに、彼女は眉を寄せた。
 木々は奇妙な静けさをまとっているのに、雨の音がいやにうるさかった。
「まず最初に、ツキが処刑されかけたときのことです。
 侵入者がとらえられたあと、処刑されるタイミングというのは、下界の規則で決まっているんです。
 わたしは、わざとツキの処刑が行われる少し前に広場に着くように、準備に掛かる時間を調整していました」
「……わざと時間を掛けていたってこと?」
「はい。もちろん、ぎりぎりにならないようにしましたが」
 それじゃあ、何かのアクシデントが起こってわたしたちの到着が遅れたり、処刑の時間が早まっていたら……。
543:
「何のために、そんなことをしたの?」
「いくつか理由があります。まず、捕らえられた状態からツキを直接救出しようとしたら、結構な労力が掛かるからです。
 ツキを助けようと思うなら、一番都合のいい状態は、ツキが処刑される直前だったんです。
 多少不安点もありましたが、むしろ街の人たちの用心のなさに救われた形ですね。結果的には、予想以上に容易でした」
 それは、わたしも感じた。
 いくら抵抗がなかったとはいえ、ツキを縛ったりもせず、また周囲に武器を持った人間を控えさせたりもしていなかった。
 
「今回のような事態は初めてだったはずですし、普段は荒事などない街ですから、仕方のないことだとも言えます。
 この街では罪を犯す人間がいませんし、争いごとも起こりませんから、そうした想像が回らなかったんでしょうね。
 彼らの頭の中にあったのは、余計な人間は殺すという、ただそれだけだったのだと思います。それを規則通りにこなすだけです」
「……質問の答えになってないと思う」
 シラユキは笑った。
「そうですね。本当なら、今言ったことはあらかじめ説明しておいてもよかったんです。
 でも、どこまで教えていいのか、判断がつかなかったものですから。
 それで、どうしてわたしが、わざとあのタイミングで広場に着くようにしたかというと、ですね」
 彼女はそこで、少し言いにくそうにした。それからツキの方をちらりと見やる。
 彼女の体が雨に濡れていく。
「あなたに、ツキの処刑を見せたかったからです」
544:
 わたしは息を呑んだ。
 急に、目の前の少女が、得体の知れない怪物のように見えた。
「それは、ツキが殺される瞬間を、ということ?」
「……え?」
 わたしの疑問に、彼女はきょとんとした顔をする。
「あ、ちがいます、ちがいます。そうではなくて……。今の言い方だと、たしかにそう聞こえたかもしれませんが」
 彼女は苦笑する。わたしは少しほっとした。
 
「ツキの処刑に対して、あなたがどんな反応を見せるか、確認したかったんです」
「……同じに、聞こえるんだけど?」
「えっと、つまり、あなたがツキを助けたいと思うかどうか、確認したかったんです」
「わたしはずっと、ツキを助けたいって言ってたよね?」
「はい。口先では」
 毒のない笑みを浮かべるシラユキに、わたしは内心ぎくりとした。
545:
「ツキを助けたい、とは思っていたかもしれません。
 でも、ツキを助けるために自分も生き延びる、とまでは考えていなかったように思います。
 あのときも言ったと思いますが、それではツキを助けることはできません」
「……なぜ?」
「順番が決まっていますから」
 ツキも同じことを言っていた。……だとすると、ツキはシラユキからこの話を聞いていたのだろうか。
 いや、そうではないような気がする。
 なぜかは分からないけれど、ツキとシラユキは、完全に互いの思惑を把握しきってはいない、と感じる。
 もし把握できていたなら、もっと他に手段があったはずなのだ。
「あなたが死ねば、ツキも死にます。これはこの世界においての話ではありません。
 現実においての話です。あなたが死んだ結果、ツキも死にます。
 別に、あなたの死を苦にしてツキが自殺するというわけじゃありません。
 もしかしたらそういう結果もあるかもしれませんが、あなたの死がツキの未来に強い影響を与えるわけです」
 シラユキはそこで言葉を一度詰まらせて、ツキの様子を見た。
 彼は何も言わず、ただ呼吸を整えている。
546:
「あなたが死に傾けば傾くほど、ツキもわたしも、そうした結果を想像することができました。
 擬似的に未来を感じ取ることができたわけです。あなたが死んだ結果として、ツキは死に蝕まれる。
 そうである以上、“あなたの死の影響”からツキを助けるには、あなたが死なない以外に方法はないんです」
 ……よく、分からなかった。
 分からなかったけれど、なんとなく、彼女がひとつの結論を示唆していることは伝わってくる。
「あなたがその決断を下すのかどうか、確認したかったんです。
 だからあえてあのタイミングで広場に向かった。結局あなたは、自分の死を覆す気にはならなかったようですけど」
 そうだ。
 あのときわたしは、自分の死はそのままに、ツキの生を確定させようとした。
「その後のツキの行動は、ちょっと予想外でしたね。あんなことをする体力が残っているとは思っていませんでした。
 それにさっきも言いましたけど……住人たちの警戒の薄さが、あんなことを可能にさせたんだと思います。
 まして、あなたが直接ツキを処刑する立場になるとは、正直思っていませんでした」
 内心どきどきしていましたよ、と、シラユキは平然とした様子で言う。
「ひょっとしたら、あなたがツキを殺しちゃうんじゃないかって思いました」
 冗談には、聞こえない。
547:
「結果そうはならなかったのは、救いでしたね。
 でもあの段階で、どうすればいいのか、さらに分からなくなりました。
 ツキの死を見過ごすのか、見過ごさず自分も生きるのか、二択を迫ったつもりだったんです。
 あなたはどちらも選ばなかったから。わたしが上手く説明できなかったのも、悪かったんでしょうけど」
 それに、と彼女はツキを睨んだ。
「あんな逃げ方をされたものですから、荷物なんかもわたしが持ちっぱなしでしたし……」
「最初から、わたしに持たせていればよかったんじゃ……」
「多少なら、あなたに持たせてもよかったんですけど、すべてを預けるわけにはいきませんでした」
「なぜ?」
 訊ねると、彼女は肩にさげた鞄を慎重にのぞき込み、底の方から何かを取り出した。
 布に包まれた、棒状のもの。彼女は布をゆっくりとほどいていく。
 出てきたのは、包丁だった。
「いざというときは、これを使おうと思っていたんです」
「……ずいぶん、物騒だね」
「拳銃よりは穏やかだと思います。どのような状況になっても、これさえあればどうにでもなると思っていました」
 何か、怖いことを言っている。
548:
「誤解のないように言っておきますが、包丁を振り回して暴れるつもりはありませんでしたよ。
 ただ、仮にあなたが生きようと思っても、そう思わなくても、ツキを助ける必要があったんです。
 わたしにとってはあなただけでなく、ツキも死なせるわけにはいかない存在ですから」
「……じゃあ、何に使うの? それは」
 彼女は平然と、自らの首筋に刃を当てた。
「わたしも一応、この世界の住人ですから。わたしがこうするだけで、人々は手を出せません。
 あの場から逃げるとき、本当はこの手段を用いるつもりでした。
 だからある程度、他の住人たちとは距離をとってもいたんです」
 結果的には、ツキにその役目を奪われてしまいましたが。シラユキはそう苦笑した。
 それから彼女は、少しのあいだ考え込んだ。
 何を説明するべきか、分からなくなってしまったのかもしれない。
 わたしはツキの様子を見る。さっきまでより、顔色が悪くなっているような気がした。
 もしくは、よくなっているのかもしれない。よく分からない。判断がつかない。
549:
 やがてシラユキは、真剣な顔で小さく頷いた。自分を納得させようとしているみたいに見えた。
「ここまで話したのは、もう本当に、どうしようもない状況になってしまったからです」
「……どうしようもない状況、って、どういうこと?」
「ツキは、あなたの意思とは無関係に、あなたを現実に帰らせようとしています。
 わたしは、ツキにも生き延びてほしい。ですから、ツキに出口を教えるしかありません。
 ……でも、もしあなたがこの世界に残るというのなら、ツキには一人で帰ってもらおうと思います」
 ……つまり、何かの決着をつけないとならない状況まで来てしまった、という意味だろうか。
 たしかにツキが取った行動を考えれば、何かの形で結論は出さなければならない。
 もう、何事もなかったように平然と三人での生活を続けることは不可能だ。
 シラユキは、何かを言いたげな表情をした。
 
「……どうしたの?」
 彼女は戸惑っているようだった。何かを言いたいのだけれど、うまく言葉にできないというように。
 でも結局、諦めたように口を開く。
550:
「まだ、隠してることがあるんです。
 本当はまだ言いたくないんですけど、言わないとフェアじゃないような気がして……。
 でも、これを言ったら、あなたは騙されたと思うかもしれない」
 シラユキが隠していること。うまく想像できない。
 でも、それはたぶん本当なのだろう。
「わたしは、厳密には、この世界に生まれたシラユキではありません」
「……どういう意味?」
「わたしは、すべての判断をあなたに任せるような言い方をしてきました。
 あなたが決めたことに従うと、そういう言い回しを何度もしてきたと思います。
“シラユキ”は本来、そうした中立的な立場だったはずなんです。
 でも、“わたし”は違います。“わたし”は明確に、あなたが生き延びることを望んでいます」
 言葉の意味がうまくつかみ取れなかった。
「本来、シラユキという人格は、わたしとは別の形で生まれるはずでした。
 より単純化されたひとつの機能として。でも、その“シラユキ”の体に、“わたし”の人格が割り込んだんです。
 ですからわたしは、厳密に言えばメイドの“シラユキ”ではありません」
551:
「……わたしが知っているシラユキは、あなただけど。でも、それなら、あなたは誰なの?」
「それについても、シラユキ、と言うほかありません」
「待って。何が言いたいのか、よく分からないんだけど」
「わたしはあなたがこの世界に逃げ込もうとしていることに気付き、その邪魔立てをするためにここに来たんです。
 その際、あなたが“シラユキ”という名前の住人を作り出そうとしていることに気付いた。
 ですから、その人物の人格として、わたしは紛れ込んだんです。そして、この世界に隙間を作った。
 その隙間が出口であり、ツキがこの世界にやってくるときに通った入り口でもある」
 彼女の言葉に、実感を伴った感想を抱くことができなかった。
 ただなんとなく、言葉として聞き流すことしかできない。
「本来ならこの世界は、作り上げられた段階で完成していたんです。
“保険”なんて、最初はありませんでした。わたしはそこに紛れ込むことで、結論を一度保留させたんです。
 そして、あなたが選択するための猶予期間を強引に作り出した。
 つまり……猶予なんて最初はなかったんです。ツキがこの世界にやってくるだけの隙間も。 
 わたしは、あなたが結論を変えてくれるようにと、ずっと働きかけていたんです。その猶予期間を、ずっと引き延ばしていたんです」
554:

 シラユキの話をそこまで聞いたとき、頭に鈍い痛みを覚えはじめた。
 ツキはまだ座り込んでいる。シラユキは雨に打たれている。
 
 話の続きはないらしい。
 
 どうしよう、とわたしは思った。 
 わたしが何かを言わなければならないのだろうか。
 何かをしないといけないのだろうか。
 よくわからなかった。どうすればいいのか。
 ツキも、シラユキも、わたしに何かを求めているみたいだった。
 何か、というより、結論を。
 でも、どうすればいいんだろう。その判断がいまだにつかない。
555:
 ……なんとなく、分かった。
 今の今まで、ずっと、わたしは茶番を演じているような気分のままだった。
 行動の一つ一つにも、出来事の一つ一つにも、現実感のようなものがまるで伴っていない。
 
 その理由が、ようやく分かった。
 
「ねえ、シラユキ」
 シラユキは意外そうな顔をして首を傾げる。続きを促しているようだった。
「本当はね、世界の成り立ちとか、シラユキがどういう存在かとか、わたし、どうでもいいの」
 彼女はきょとんとした顔をする。
「本当に気になっているのは……わたしがどうするべきなのかってこと。
 ここが現実じゃないって分かったときから、ずっと、考えてた。
 じゃあ、わたしは、どうすればいいのかって。それ以外のことは、本当はどうでもいいんだ」
 わたしの言葉に、シラユキは何を言っていいのか分からないという顔をした。
 思えば彼女も、随分混乱していたのだろう。
 何処まで話して良いかも分からず、どうすればわたしを望み通りにできるのかも分からず。
 でも、そんなことはもうどうだっていいのだ。
556:
 とにかく、問題は……わたしがどうするか、という一点に尽きる。
 
「ねえ、シラユキ。わたしはどうすればいいんだろう?」
 そう訊ねてみた。彼女は悲しげに首を振るばかりだった。
 それはそうなのだろう。心細いような気持ちが、雨の中でふくらんでいく。
 傍に誰もいないような気さえした。
 わたしの表情が曇ったことに気付いてか、シラユキは再び口を開いた。
「……とても一方的な話になりますけど」
 雨に濡れて、彼女の髪は静かにきらめいて見えた。
「この世界に猶予を生んだのがわたしだということは、あなたを戸惑わせているのも、わたしということです。
 わたしは、あなたがした決断を保留にさせ、あなたを迷わせるために行動してきたんです。
 ですから、どうすればいいかと聞かれれば、わたしの答えはひとつしかありません」
 そうなんだろうな、とわたしは思った。 
 何かを考えるべきなんだろう。でも、何を考えればいいのか、分からない。
557:
「ここを出て、もう一度、生きてみる気にはなれませんか」
 とシラユキは言った。
 彼女はそう言うだろうな。そんなのは分かっていたことだった。
「やめてしまいたい気持ちも、分かるんです、なんて言ったら、安っぽいかもしれませんけど。
 でも、ツキを悲しませてしまうことを、少しでも心苦しく思うなら……。
 少しでも、気がかりなことがあるなら、もう少しだけ、続けてみませんか」
 たしかに、ツキがどうなってしまうのかは、わたしにとっては気がかりな問題だった。
 そういう説得の仕方は、たしかに正しい。
「単なる気まぐれでも、構わないんです。もう少しだけ続けてみませんか。
 結果はまったく変わらないかもしれない。でもひょっとしたら、何かが起こって、根本的な転換のようなものが起こるかもしれない。
 抜本的な解決のようなものが、あらわれるかもしれない。それを期待してみるのも、悪くはないと思うんです」
 そう、確かに彼女の言う通り。悪くない。そう。悪くない。
 そう思える。でも……なぜだろう?
 ちっともその気になれないのは。
558:
「とにかく生きてみて、それでも結果、なにひとつ変わらなかったら、何の解決も訪れなかったら……。
 そのときは、わたしのことを恨んでくれてもかまいません。とにかく、もう一度生きてみませんか。
 わたしが言いたかったのは、ずっとそれだけなんです。あなたに、もう少しだけ続けてみようと、思って欲しかったんです」
 だとすれば、彼女はそれに失敗したのかもしれない。
 どうなのだろう? よくわからなかった。
 
 今、シラユキはすべてを明かしたのだろう。
 たぶん本当のことを言っている。
 いままで隠してきたのは、わたしを上手に誘導できている自信がなかったからだろうか。
 
 自分でも不可解なほど、わたしの気持ちは透き通っている。
 凍り付いていると言い換えてもいい。何も反射していない。
 奇妙なほど、わたしの気持ちは透明だった。
 シラユキの言うことも悪くないかな、と思った。
 そう。試すような気軽さで、もう一度生きてみるのも。
 彼女の言うように、ひょっとしたら何もかもが簡単に解決するような結果が生まれるかもしれない。
 もしそうならなかったとしたら、そのときは彼女を恨めばいいだけだ。
 とても簡単なことだ。今までどうして気付かなかったんだと、疑問に思うくらいに。
559:
 なんだかおなかが空いていた。最後に何かを食べたのはいつだったっけ。
 朝からずっと、時間の流れが遅くて早い。
 どうしてだろう。
 自分が今までやってきたこと、自分が過ごしてきた時間。 
 そういうものがまるまる全部、消えてなくなってしまったような喪失感があった。
 なぜだろう?
 たぶん、わたしは、シラユキに裏切られたような気がしているのだ。
 
 それはまったく身勝手な話で、わたしが彼女にそういうイメージを押しつけていただけのことなのだろうけど。
 どのような決断をしようと、シラユキだけは、わたしのことを受け入れてくれるような気がしていた。
 それは結局、ただの錯覚だったのだけれど。
 ツキも、シラユキも、もうわたしに自分の意思を伝えてしまった。
 知る前に戻ることはできない。取り返しがつかないのだ。
560:
 シラユキはツキに向かい、声を掛けた。彼に手を貸して立ち上がらせる。
「出口に向かいましょう。どちらにしても、この世界の住人達は、わたしたちを探しに来るはずです。
 逃れる手段はありますが、リスクを背負う必要もありません。とにかく、ツキだけでも現実に帰さなくちゃいけない。
 あなたがどういう決断を下そうと、です」
「……うん」
 気力が沸かなかった。
 森を歩き始めたシラユキの後を追う。シラユキはツキに肩を貸し、傘を自分で持った。
 わたしは並び歩くふたりの姿を、後ろからぼんやりと眺めた。
 もう彼らはわたしに何も働きかけるつもりはないのだと思った。
 本当に、わたしに決断を任せてしまった。そして、その決断がどのようなものであれ、それに従うつもりでいるのだ。 
 
 そういうことがわたしには分かった。手触りすら伝わってきそうなほどだった。
 シラユキ。
 森の中を歩いていた猫。あれは、なんだったのだろう。聞いてみようかとも思ったけれど、やめた。
 あの猫は、わたしを導き、誘導するためにいた。それは、それだけで、ほとんど答えのようなものだ。
561:
 仕方ないか、とわたしは思った。
 
 わたしはどうしてこんな場所を作ったのだろう。
 死にたいのなら、もうやめにしたいのなら、死ぬだけでいいじゃないか。
 どうしてこんな場所に逃げ込んだのだろう?
 それはたぶん、寂しかったからかもしれない。怖かったからかもしれない。
 ひとりぼっちになることも、死ぬことも、怖かったから、わたしはこの世界を作ったんだろう。 
 その中で、ずっと傍にいてくれる人を求めたんだろう。わたしを傷つけない人を。
 でも、結果はこれだ。
 この世界はわたしに何ももたらさなかった。安息も何も。
 結局ここも、現実と同じになってしまった。
 どうでもいいや、とわたしは思う。シラユキは歩きながら何度かわたしの方を振り返った。
 何か心配そうな顔をしている。それはそうだろう。そうなのだ。そんなことは、分かってるのだ。
 
 彼女の言う通りだ。たぶん、彼女が正しい。わたしは彼女に従うことができる。
 どれだけ歩いても、景色はやはり変わらない。変わるのは雨の強さくらいのものだった。
 沈黙はずっと破られることがない。もう語るべきことはぜんぶ語ってしまったのだろう。
 もう誰も、わたしに何も語りかけはしない。
 わたしにすべてが委ねられている。
562:
 わたしたちは歩いていく。 
 代わり映えのしない景色の中を、ずっと。
 ひょっとしたら細部は違うのかもしれない。でも、だいたいは同じようなものだ。
 それは当たり前と言えば当たり前のことだ。
 この森が急に終わって、巨大な砂漠が現れたりするはずがない。
 森はずっと森のまま。突然何か大きな変化が訪れたりすることは、ないのだ。奇跡でも起こらないかぎり。
 そういう意味では、わたしたちは奇跡を望んでもいた。
 森が突然砂漠になったり、砂漠が突然海になったり、ということを。
 でもそんなことは起こるはずがない。
 少なくともわたしには信じられそうになかった。
 
 でも、奇跡が起こらなかったからといって、落胆する必要はない。
 奇跡なんて起こらないのが普通なんだから。起こらなくなって、まあそうだろう、という程度にしか思わない。
 
 その程度のものなのだ。
563:
 やがて、わたしたちの前に泉が現れた。
 ツキは苦しそうにしていたが、意識ははっきりとしているようだ。
 
 彼は長い間、一言も言葉を発していない。
 
 わたしは何を望んでいるんだろう。
 何かを期待しているんだろうか?
 ひょっとしたら、誰かがわたしに何かを言ってくれるんじゃないか、というようなことを?
 でも、それは起こりそうもなかった。泉の中に、シラユキは足を踏み入れる。
 雨の波紋に歪みながら、水面はわたしの顔を映した。
 わたしはその姿を掻き分けるように、シラユキのあとを追う。
 水面に映る自分の姿に、特別恐れを抱くことはなかったし、何か記憶がつつかれるようなこともなかった。
 わたしはちゃんと自分のことを思い出している。自分のことをちゃんとつかめている。
 今、わたしは何の邪魔立てもなく、わたし自身を理解できている。
 何とも言いようがない空虚さが、わたしをとらえている。
564:
 泉を抜けると、森の様相は少しずつ変わりはじめた。
 でも、結局森は森だった。砂漠になったりはしない。
 なんだか息苦しかった。なぜだろう。何が原因なんだろう。
 
 シラユキは、何度もわたしを気に掛けながら、それでもかまわずに進んでいく。
 
 足を進めるたびに、なんだか体が重くなっていく気がした。歩いているという実感がうまく沸かない。
 ツキもまた、苦しそうにしていたけれど、それでも自分の足でしっかりと歩いていた。
 わたしの足下の感触はふわふわとしている。
 わたしは自分の意思で歩いているのだろうか。とてもそうは思えない。
 何者かがわたしを糸で吊して操っているように感じた。だとすると、それは誰だろう?
 シラユキか? ツキか? それともわたし自身なのか?
 
 もちろんそんなのは妄想のようなもので、いくら考えたって無駄なのだけれど。
565:
 やがて前方に岩壁が姿を現した。それはまだ遠くにある。見えてきたというだけだ。
 どうしてこんなに心が凍てついているんだろう。
 たぶん、わたしはどうだっていいのだろう。
 結局、この世界で起こったさまざまなことだって、わたしの意思とは関係がなかったのだ。
 ただ、シラユキが引っかき回したというわけ。
 いずれにしたっておんなじなのだ。
 立ち止まりそうになっている人間に、もう少しだけがんばってみろと言う人間がいたなら。
 それは、もう少しがんばることもできるだろう。
 でも、既に立ち止まってしまった人間にどれだけ声を掛けたところで、それはたぶん、徒労に終わる。
 歩くのをやめてしまってから、もう一度歩き出すためには、歩き続けるのとは違う何かが必要になる。
 どんなに長く続けていたことでも、一度やめてしまえば、どうして今までそれを続けていたのか、分からなくなってしまう。
 たしかにツキを悲しませたくはない。苦しませたくもない。
 でも、死んでしまえば……そんなことはもう、関係ない。
 岩壁の足下には穴が空いていた。大きな洞穴。足場は悪いが、シラユキは注意深く、けれど躊躇わず、進んでいく。
 わたしは両手の塞がった彼女のかわりに、彼女の鞄から懐中電灯を取り出した。
 真っ暗闇の中で、それは気休め程度の効用しかもたない。
「行きましょう」とシラユキは言った。
 洞穴の中の空気は冷たい。
 誰もわたしを求めていないという気がした。
570:

 一歩足を踏み入れてみると、そこから先は、もうさっきまでの森とは空気がまったく異なっていた。
 それは今まで居た世界とは別の場所だという気がした。
 たかだか一歩足を踏み入れただけ。
 それだけなのに、とてつもなく大きな断絶が背後に生まれたような気がした。
 異質な感触。
 でも、異質なのは今いる洞窟の方ではない。
 断絶の向こうに置き去りにした森の方が、今となっては異質に感じられた。
 仮に、とわたしは思う。
 仮にツキをここで現実に帰して、そのあと、どうするのだろう。
 シラユキの言うように、わたしも現実に帰るのだろうか。
 そうだとすれば、あの森にもう一度帰ることはないのだろうか。
 ……どちらにしても、もう見ることはないだろうという気がした。
 もうあの場所ですべきことは全部済ませてしまったのだ。
571:
 わたしを外から守り続けたあの屋敷。雨の降り続ける森。
 もう、わたしとは関係のない場所だ。
 現実に帰るにしても、帰らないにしても、わたしはもう二度とそこにはいかないだろう。
 いずれにせよ、わたしはもうこの世界を去るのだ。
 わたしは、それでもしばらくの間、入り口から少し過ぎたあたりで立ち止まっていた。 
 ただ、なんとなく、そうしたかっただけのことだ。
 もう一度前を向いたとき、シラユキが心配そうにこちらを見ていた。
 彼女は彼女なりによくやったのだと言える。
 
 目論見はすべて、うまく行った。この世界の存在意義を破壊したし、わたしに選択も迫った。
 そしてツキの死に抵抗しようとするわたしを発見し、今はわたしを出口に向かわせてすらいる。
 でも、彼女は上手くいったなんて思っていないだろう。 
572:
 洞窟の中を歩き始める。冷たい岩の感触。雨の音が反響しながら後ろから追いかけてきていた。
 それも、しばらく進んだら止んだ。でも、音が聞こえなくなっただけだ。
 雨が止んだわけではない。
 わたしは頭の中でその言葉を繰り返した。
 雨が止んだわけではない。だから、大丈夫だ。
 足音と呼吸音だけが響いていた。もう誰も何も言わない。
 仕方がないので、わたしも黙っていた。もちろん、話したいことなんてなかったのだけれど。
 暗い道を進んでいく。すごく長い時間、静寂と暗闇の中を歩いた。
 わたしは前方をずっと照らし続ける。予定調和のような景色があるだけだ。
 何もかもが想像の範疇で、変化は起こらない。
573:
 不意にツキがうめき声をあげて、自分の足に体重をのせたようだった。
 シラユキは咄嗟に支えようとしたが、彼はそれを断った。
「自分で立つ」
 まだふらついているようだったけれど、さっきまでよりはずっとマシになっていたようだった。
 少しの間、その場で動かなかった。ツキはやがて長い溜め息をつき、「行こう」と言った。
 それから何度か、うわごとのように、
「お前が死んでも、俺は生きる」
 と呟いた。わたしの顔なんて一度も見なかった。自分に言い聞かせているみたいに見えた。
 また、さっきまでと言ってることが違う。
 たぶんそういう磁場があるのだろう。
 わたしたちは自分で思うよりもずっと、場の力というものに影響を受けやすいのだ。
574:
 雨に打たれ続け、森を歩き続け、今はこんな薄暗い場所にいる。
 そんな無茶をしているにもかかわらず、わたしの体はまったく問題なく動いた。
 もう実感がないのかもしれない。
 本当に長い間、わたしたちは歩き続けた。ずっと、何も起こらなかった。
 何の変化もなかった。ただ暗闇が続いていただけだ。
 そして、不意に、雨の音が聞こえた。
 その場所は、ひどく肌寒かった。
 広ささえ分からないほど暗い。でも、真っ暗闇というわけではなかった。
 
 そこは行き止まりだったけれど、壁には穴が空いていた。
 そしてその穴は、水面越しに見るように、向こう側の輪郭を滲ませてしまっている。
 わたしはその景色をどこかで見たことがあるような気がした。
 ぶよぶよとした皮膜のような、そんな断絶。
 シラユキは「ここが出口です」と言った。でもそんなことは言われなくたって分かった。
575:
 強い風が吹きすさぶような、そんな音が向こう側から聞こえた気がした。
 激しい雨の音も。この向こう側は、きっと嵐なのだ。
 そして、暗い。夜なのだろうか。それは荒々しく、寒々しく、硬質な気配だった。
 皮膜越しに、たしかにそうした感触が伝わってくる。
 ツキは一度立ち止まると、洞窟の壁にもたれて長い溜め息をついた。
 それから自分が拳銃を持ったままだったことに気付いたようだ。シラユキもよく取り上げずに肩を貸したものだ。
「ここを通ると、どうなる?」
 質問はわたしではなく、シラユキに向けられていた。当たり前と言えば当たり前のことだ。わたしに聞いたところで仕方ない。
「想像した通りになると思います」
「なるほどね」
 シラユキの答えにツキはそう頷いたけれど、わたしにはいまいち向こう側が想像できなかった。
 ただ、暗く、激しい雨が降っているようだ、ということしか。
 それからしばらくの間、また沈黙が降りた。
576:
 わたしは少しの間、その輪郭のぼやけた景色をじっと見つめた。
 その先に何があるのかは、よくわからない。
 それで、わたしはここを通るべきなのだろうか?
 
 それが問題だった。それ以外のことは、わたしの判断を必要としていない。
 この先に、何があるのだろう。
 そのことを考えたとき、頭に鈍い痛みが走った。耳元で囁き声が聞こえた気がした。
「どうしてそんなに、醜いの?」
 もちろん、そんなものは錯覚だった。誰もそんなことを言ってはいない。
 でも、そう聞こえた。
577:
 わたしは現実に向かうべきなのかもしれない、と、そう考えてみることにした。
 それから自分が嫌だと思ったこと、自分が逃げ出したもののことを思い出してみる。
 
 すると、どれもこれもたいしたことではないような気がしてきた。
 わたしはどうしてその程度のことで現実から逃げたのだろう、と思えそうな気がした。
 なんだ、その程度のことじゃないか、と努めて考えるようにしてみようとした。
 でも、だめだった。すぐに心は折れてしまった。
 ツキは不意に拳銃を持ち上げた。それから、銃口をシラユキに向ける。
 シラユキは怪訝そうな顔をした。ツキは「ばあん」と言って、銃を下ろす。それだけだった。
 彼は弾倉から弾を外してその場に投げ捨てて、それから拳銃を放り投げた。
 
 激しい雨の音が聞こえる。
 雨の音を聞くと、わたしは安心する。 
 雨が降っている間は、ツキはわたしの傍にいてくれた。
578:
「アヤメ」
 不意に、ツキはわたしを呼んだ。
 それから困ったように笑う。
「お前が死んでも、俺は生きる」
 わたしは反応に困った。だって、何も感じなかったのだ。
「でも、お前がいないと、とても悲しい」
 彼は今まで、何度かそう言った。
 わたしはそれを何度か聞いた。
 
 それなのに、今度ばかりは何かが違うような気がした。
「ツキがいなくなると、わたしも悲しいよ」
 泣き出しそうな気持ちで、わたしはそう言った。
 ツキがいなくなれば、わたしも悲しい。
 置き去りにされるのは、寂しい。
579:
「雨が降っている間、ツキはわたしと一緒にいてくれた。
 わたしはツキの家で過ごすことができた。シラユキの背中を撫でていることができた。
 その時間が好きだった。一緒にいてくれて、嬉しかった」
 ツキは泣きそうな顔をした。わたしは今、どんな顔をしているのだろう。よくわからなかった。
「でも、雨が止んだら、ツキはわたしの傍からいなくなってしまう。いつも。
 ツキはどこかに遊びに行って、わたしはどこにも行けないまま。
 だから……雨が止んだなら、わたしはたったひとり、現実に向き合わなきゃいけなかった」
 わたしはずっと傍にいてほしかった。どんなときだって。
 でも、永遠に雨が降り続くことはない。雨が止んでしまうことを、わたしは受け入れなければいけなかった。
 雨はいつか止んでしまう。
 いつでも、いつまでも、ツキが一緒にいてくれるわけではない。
 そんなのは、当たり前のことなのだ。
 わたしはそれを望んでいたのだ。現実的に不可能だったって、理屈として間違っていたって、わたしはそうしてほしかった。
 
 ツキに非があるわけではない。
 どこにも行けなかったわたしが悪かったのだ。
 彼を追いかけることのできなかったわたしが。
580:
「アヤメ」
 彼はもういちど、わたしの名前を呼んだ。それきり、しばらく黙り込んでしまった。
 何度も苦しそうな顔をした。後悔しているようにも見えたし、何かを言いあぐねているようにも見えた。
 どれが本当なのか、わたしにはよく分からない。
「ずっと一緒にいることはできない」
 そう、彼は言った。そうだよ、とわたしは思った。ずっと一緒にいることはできない。
「でも、雨が止んだからって、傍にいられないわけじゃない。
 一緒にいたいなら、一緒にいたいって言ってくれてもよかった。
 俺はそれを嫌がったりしない。ずっと一緒にいられないとしても、ずっと離れたままってわけでもない」
「……うん。そうだね」
「お前がいなくなるなんて嫌だ」
 彼はもう一度そう言った。
「ずっと一緒にいることはできない。俺はお前の痛みを分けてもらうことも、肩代わりすることもできない。
 でも、だからって、ずっとひとりぼっちで戦わなきゃいけないわけじゃない。俺はそう思うよ。
 雨が降っている間しか、人に甘えられないなんて理屈はない。お前はもっと泣きわめいて、誰かを頼ったって良かったんだ」
「でも、それが上手にできなかったんだよ」
 だってそれは、明らかにわたしの問題なのだ。
 誰かが関わって、うまく解決できる種類の問題ではないのだ。
581:
「たぶん俺も、もっとお前にいろんなことを言うべきだったし、いろんな態度を示すべきだったんだろうと思う。
 でもそれは手遅れじゃないって思うんだよ。お前がもう一度、俺のところに来てくれさえすれば……」
 それから彼は思い直すように頭を振った。わたしは悲しい気持ちになった。
「そうだね」
 
 とわたしは言った。わたしはそうすることもできるのだ。
 
 でも、あの輪郭のぼやけた向こう側の世界に足を踏み出すのは、怖い。
 強い風の声と、激しい雨の音。
 凍えるような寒さと、深い暗闇。
「もしも、もう一度機会があるなら、今度は、雨が止んでも一緒にいたい」
 ツキは最後にそう言って、自嘲するように笑った。
 今にも泣き出しそうな、迷子みたいな表情だった。 
 そうだなあ、とわたしはぼんやり思った。
 そうなれたら、わたしもきっと嬉しいのだと思う。
 もしも、そんな機会があるならば。
582:

 そのようにして、ツキは向こう側へと去っていった。
 後にはシラユキとわたしが残された。
 雨と風の音。冷たい空気。
 わたしはこれから、どうするつもりなんだろう。どうすればいいんだろう。
585:

 シラユキは何も言わなかった。
 だからわたしは困ってしまった。雨と風の音だけが周囲を支配している。
 何を言えばいいんだろう? でも、言うべきことなんて、もうないのだ。
 ツキは行ってしまった。わたしはどうしよう?
 
 そのあたりのことは自分で決めなければならないのだろう。
 でも、考えるのが面倒だった。
 
 もう少しだけがんばってみてもいいかな、という気持ちに、わたしはたしかになっていた。
 この世界に来たとき、きっとわたしはすごく追いつめられていたんだろう。
 状況はよく思い出せないけれど、とにかくすごく混乱して、周囲が見えなくなっていたんだろう。
 
 それは分かる。
586:
 でも、混乱していたからってそのときに下した判断が間違いだったということにはならない。
 冷静な視点で考え直してみても、やっぱり耐え難い状況だったのかもしれない。
 何より確かめるのが面倒だった。
 この世界はすごく空虚だ。
 でも、少なくとも痛みはない。苦しみもない。
 そしてもうすぐ終わりを手に入れる。
 
 黙って待っていれば、わたしはもうすぐ苦しみのない場所に行ける。
 現実にまったく未練がないわけじゃない。
 ツキのことだって、悲しませたくない。
 だからって、もう一度現実に戻れるか?
 ずっとひとりで考えてばかりいるから悪いのかもしれないな、とわたしは思った。
 わたしはもっと誰かに話しかけたり相談したりするべきなのだ。
 でも、面倒だ。
587:
 面倒だ面倒だって言っていたって仕方ないじゃないか、とわたしの中のわたしが言う。
 
 とにかく冷静になってみよう、とわたしの中のわたしはわたしを説得した。
 わたしに、ここを出るだけの理由があるのだろうか?
 理由。必然性。事態の要請。なんでもいい。とにかく、そうしたものがあるのか。
 ないような気がした。
 もう少し考えてみよう。本当にないのだろうか?
 頭の中をめいっぱい探してみても、やっぱり見つからなかった。
 そうしているうちに、もういいじゃないかという気持ちになってきた。
 理由なんてないのだ。
 いや、もうちょっとだけ考えてみようと思い直す。
 理由。理由が必要なのだろうか。
 
 じゃあこういうのはどうだろう。宇宙は巨大な果実のひとつだと考えるのは。
 それは葡萄のように房になっていて、宇宙と宇宙は並んでいる。
 果実の中で生命が発展するほど、果実は甘くなる。だから果実を甘くするために、生命の発展に寄与しなくてはいけない、とか。
 
 それなら生きる理由にだってなる気がした。でもだめだ。果実を甘くする義理なんてない。
 そこまで巨視的な意味や理由は問題にならない。問題なのは、もっと個人的な理由。
 それこそ、そこらじゅう探しても出てこないような気がした。
588:
 ツキのため?
 でも、どうだろう。ツキだってずっとわたしのことを覚えているわけではないはずだ。
 いつかは忘れてしまう。それに、忘れなかったとしても、ツキだっていつか死んでしまうのだ。
 わたしだって、今死ななくたっていつかは死ぬのだ。今死んだってかまわないはずだ。
 考えれば考えるほど理由はなくなっていく気がした。
 何より、いまさら現実に帰ってもう一度苦しむというのは、ちょっと面倒だった。
 たとえば、台風の影響でひょっとしたら学校が休みになるかもしれない、と期待していたときのよう。
 雨が段々弱まってきて、連絡網が回ってきて、通常通りに登校するようにと言われたときの、あのけだるさ。
 正直、いまさら面倒だ。
 だってわたしは、一度やめてしまったのだ。
 一度やめたことをもう一度始めるのは、面倒だ。
589:
 こんなことばかり考えているから、お母さんはわたしのことが嫌いだったのかもしれないな。
 四六時中こんなことばかり考えているような子供を誰が好きになるだろう。
 わたしだってできればみんなに好かれたいと思ったけれど、あんまり上手くはいかなかった。
 あの努力をもう一度続けろというんだろうか。
 それよりは、もう何もかも諦めてしまって、敗北宣言をして、やめてしまった方がずっと楽だ。
 もう期待も持ち合わせてはいない。
 
 どうしようもないのだ。
 本当に空っぽなのだなあとわたしは思った。
 わたしは穴の向こうの歪んだ景色を見つめた。
 じっと見ていると、そのうち目がおかしくなったような気がしてくる。あるいはとうにおかしかったのかも。
 誰がわたしのような人間を好きになると言うのだ。
 別に、好きになられたって、今更なんだけど。
590:
 そう、全部が今更だ。
 
 もう、ぜんぶぜんぶ終わってしまったことなのだ。
 わたしはとっくに決断を済ませていた。
 シラユキがその邪魔をしただけで、わたしはとっくに決断していた。
 すべては終わっていることなのだ。
 なにかがおかしい。そう思った。
 そして気付く。わたしはここからツキが居なくなったことが、悲しいのだ。
 この世界では、わたしは悲しい気持ちにならずに済むはずだったのに。
 それもシラユキが壊してしまったんだっけ。
 それなら、こっちもあっちも同じじゃないか。同じだったら、尚更出ていく意味が分からなくなってしまった。
 悲しくはなかった。ただ少し寂しいだけだ。みんなわたしのことを忘れていくのだ。
 そして思い出しはしない。置き去りにしたのか、置き去りにされたのか、よくわからない。
 わたしを置いてみんなは進んでいくのだ。
591:
 でも、それだってそんなに悪いことばかりではない。
 少なくとも、一度終わらせてしまえば、それ以上はない。わたしはわたしであることを終わりにできる。
 そうすれば、もうこんなふうに考え込む必要もない。
 考えれば考えるほどわけが分からなくなってくる。
 
 わたしはシラユキの方を見た。 
 シラユキは何も言わなかった。
 
 何か言ってくれないかな。そう思った。でも何も言わない。もう言うことがないのだ。
 
 どうすればいいんだろう。
 向こうに行くのは、怖い。
 怖い、と言ってしまいたかった。でも、怖いと言ってしまうことも怖かった。
 だって、それでも行ってほしいと、シラユキはきっと、わたしにそう言うのだ。
 怖いならいい、とは、言ってくれないのだ、きっと。
 何かが胸の奥でわだかまっているような気持ち。
592:
「シラユキ」
 とわたしは彼女の名前を呼んでみた。
 答えはないかもしれない。でも、とにかく呼びかけてみた。
「なんですか?」
 
 と、シラユキはそう返事をしてくれた。わたしはまだ自分がここにいるのだな、と思うことができた。
「どうしよう?」
 わたしは咄嗟にそう訊ねていた。彼女は困った顔をした。
 怖かった。
 
 本当は分かっている。わたしはもう一度向こう側に行くべきなのだ。
 そこには、何か根本的な転換のようなものが待っているのかもしれないのだ。
 もしそれがなくても、それを期待して生き続けることだって、できるのだ。
 ツキも、シラユキも、きっとそれを望んでいるのだ。
 シラユキは何かを言おうとしたようだった。
 それから諦めたように口を閉ざす。そして、もう一度何かを言おうとした。そういうことの繰り返しだ。
「あなたのことが、好きですよ」
 シラユキは、長い逡巡のあとにそう言った。それはきっと、嘘じゃないのだ。
593:
 雨の音と風の声が絶えず響いている。
 わたしは少しの間、何も考えずにその音に耳をすませていた。本当に何も考えなかった。
「うん」
 わたしはシラユキに、そう答えた。
 
 彼女は、向こう側にはきっといない。
 だから、彼女がわたしを好きだったとしても、もうそれは何の役にも立たないし、理由にもならない。
 
 それは妄想のようなものだ。
 この世界がすべて、わたしに都合の良いだけの妄想なのかもしれない。
 シラユキも、ツキも、ぜんぶがぜんぶ嘘なのかもしれない。
 わたしのことなんて、誰も好きじゃないかもしれない。
 現実感が薄いのだ。
 きっとわたしの五感はもう正常じゃない。そして、正常さを求めてもいない。
594:
 ふと、泣き声が聞こえた気がした。
 
 それは向こう側から聞こえていた。誰の声だろう。知っている人の声だ。
 わたしはその人がそんなふうに泣くのを初めて聞いた。とても激しい泣き方だった。
 
 それから、ツキの声だ、と追われるように気付いた。
 ツキが泣いているのだ。
 なんのために泣いているんだろう。
 それで……ツキが泣いているから、なんだっていうんだ?
 もうだめだな、とわたしは思った。もう全部だめなのだ。根拠はないけれどそう思った。
 恐怖だけが実感を伴っていた。それ以外のものには現実感がない。
 心臓がいやなふうに鼓動した。眩暈がしそうだった。
 どうする? とわたしは訊いた。どうしよう? とわたしは訊ね返した。
595:
 もういいじゃないか、とわたしは思う。
 ぜんぶ終わりにしよう。やめてしまおう。もう怖い思いをするのは嫌だ。
 わたしは体を動かした。シラユキに何かを言おうと思ったけれど、口がうまく動かなかった。
 だから仕方なく、何も言わないことにした。「向こう側」へと繋がる穴に、背を向けようとした。
 そのとき、雨と風の隙間から、鋭い声が耳に届いた。
「駄目だ」
 と、その声は言っていた。引き留めるような響きだった。
 ツキの声だ。もう、泣いてはいなかった。
「駄目だ」
 と彼はもう一度繰り返した。
 わたしはうまく呼吸ができなくなってしまった。
596:
 もう一度、向こう側へ繋がる穴を、わたしは振り返った。
 何も映っていない。ただ、音だけが聞こえる。景色は滲んでいる。
 
 わたしは急に泣きたい気持ちになった。心細いような、寂しいような、そんな気持ちに。
 彼は向こう側から、わたしの名前を呼んだ。
 何度も繰り返した。また泣き出してしまいそうな声で、哀願するように。
 
 駄目だ、と。
 その声がたしかに聞こえた。
 わたしはもう一度シラユキの方を見た。
 彼女は泣いているような、笑っているような、奇妙な顔をしていた。
 わたしは彼女のその顔を見て、少しだけ笑った。
「……駄目なんだって」
 と、わたしは笑いながら言った。シラユキは、困ったような顔をした。
597:
 そっか、駄目なのか、とわたしは思った。
 そうだろうな、駄目なんだろう、きっと。駄目なら仕方ない。
 ツキがこんな声で、必死になってわたしに語りかけているのだ。
 理屈も何もない、感情や、衝動のようなものだけで。 
 
 だったらもう、いくら考えても無駄なのだろう。
 シラユキはしばらく唖然とした顔をしていたが、やがてわたしの方を見て、くすくすと笑った。
「どうするんです?」
「だって、駄目なんだって」
「それじゃあ……」
「うん。そうだね」
 あんなふうに言われたのでは、仕方ない。
 それに、もしまた機会があるなら、彼は雨が止んでも、一緒にいてくれるそうだから。
 嘘かもしれない。でも、信じてみたくなった。
 痛かったり、苦しかったりするかもしれない。でも仕方ない。ツキが、駄目だと言うんだから。
 なんだか、いろいろと考えていたことのほとんどすべてを、今の一瞬で、まるごとすべて忘れてしまった。
 怖さだけは、まだ残っていたけれど。
598:
「わたし、帰るね」
 とわたしは言った。シラユキは、また、困ったように笑った。
 それから小さく頷く。彼女の仕草はいつだって変わらない。
 皮膜越しに、ツキはわたしの名前を呼び続けている。
 そういえばわたしも、いつだったか、こんなふうに誰かの名前を呼び続けたことがあった。
 シラユキが死んだときだ。
 
 だとしたら、ツキをもう一度あんな目に遭わせるわけにもいかない。
 少なくともわたしは、まだ選ぶことができるんだから。
 その先がどんなものであったとしても。
 シラユキは、何かを言いたそうにしていた。その表情は笑っていたけれど、どこか寂しそうだった。
「ありがとう」
 とわたしは言った。
 彼女ははっとしたような顔をして、すぐにまた、取り繕うように笑った。
 大事なことを声に出して伝えるのはすごく難しい。
「ごめんね」
599:
 シラユキはまだ何かを言いたそうにしている。
 わたしはその言葉を待っていたけれど、その声はいつまで待っても訪れなかった。
 やがて、彼女はふわりと笑う。わたしはなんだかくすぐったいような気持ちになった。
 
 そうして、彼女は最後に、
「ごめんなさい」
 と苦しげに言い、 
「ありがとう」
 と笑って付け加えた。
 わたしは前に足を踏み出した。
 すると、足の裏からごつごつとした岩の感触が伝わってくる。冷えた空気が肌を撫でた。
 一歩進むたびに、雨の音が激しさを増していく。
 わたしは指先を伸ばし、その皮膜に触れる。
 するりと、何の抵抗もなく、飲み込まれていく。
 わたしは最後に振り向こうかと思って、やめた。
 それから、不意に思い出して、「さよなら」と、そう呟いた。
 それで最後だった。
606:

 曖昧な意識のまま、わたしはふと気付けば、暗闇の中にいた。
 なにひとつ聞こえず、なにひとつ見えない。そんな暗闇の中だ。
 闇の中では、感覚すらなかった。
 
 自分自身の身体がこの空間にあるということが疑わしいくらいだった。
 何かが視界を覆っている。
 
 そのせいで、わたしの瞳は光をとらえられない。
 なんだろう。何が邪魔しているんだろう。
 不意に、激しい音が聞こえる。
 雷鳴?
 そう、雷鳴だ。
 その音が合図だったかのように、わたしの身体の感覚が蘇っていく。
 蘇るというよりも、むしろ、押し寄せるように、意識に感覚が流れ込んできた。
 しばらくの間、わたしの意識はその奔流に支配されていた。
607:
 雨の匂い。肌に触れる濡れた質感。痛みであることを忘れそうになるほどの強い痛み。
 全身の感覚が鋭敏になっている気がした。 
 でも、むしろ逆だったのだろう。鈍麻していたのだ。鋭いのは痛覚だけだった。
 他のものは、ほとんどすべて機能していなかった。
 一挙に流れ込んできた痛みに、意識は鋭く呼び起こされた。
 視界は相変わらず暗い。ひどく肌寒い。全身がズキズキと痛む。
 音。雨の音、雷の音、風の音。
 わたしの身体は暗闇の中、どこかに横たわっている。
 どこだろう。痛みを堪え指先を動かし、手の感触で確かめた。
 ざらついた、濡れた感触。背中にごつごつとした、尖った痛みがある。 
 
 身体が重く、呼吸が上手くできない。鼻にも口にも耳にも何かが詰まっているような異物感。
 
 全身の関節という関節が軋み、痛む。
 身体のすべてが強く脈動しているような、そんな気がした。
608:
 まだ景色は暗闇だ。
 なぜだろう。視界を覆っているものは、いったいなんなのだろう。
 暗闇の中で、誰かの声が聞こえた気がした。
 それはずっと遠くから聞こえているようにも、すぐ近くから聞こえているようにも感じられた。
 音はなんだかぶよぶよと歪んでいる。だから、その声が現実のものなのかどうか、確信が持てない。
 真っ暗闇だから、誰かが傍にいるのかどうかも、分からない。
 どうして、こんなに暗いんだ?
 何かがわたしの身体を叩いている。身体のそこら中を。
 雨だ、とわたしは思った。
 それも激しい雨。
 でも、雨が当たっているのはほんの一部分だけで、ほとんどの場所は雨を受けていない。
 それでも身体は濡れているようだった。
 不意に、瞼に雫が当たるのを感じた。
 そのときにようやく気付いた。視界を覆っているものの正体は、自分自身の瞼だった。
 瞼を開けていないのだから、光を捉えられないのは、当たり前だ。
609:
 開けろ、とわたしは思った。
 開けるんだ。そうすることでしか始まらない。
 それは少し、怖いことでもあった。
 でも、仕方ない。声が聞こえたような気がしたのだ。
 たしかめてみないといけない。
 わたしは瞼を開けた。
 最初に目に入ったのは、薄い膜のような光だった。
 月明かりだ、と、わたしは思った。
 月の灯りが、嵐の夜をかすかに照らしていた。空は厚い雲に覆われていて、星すらもほとんど見えない。
 それでも月の光は、暗闇を暗闇ではないものに変えていた。
 風が強く、雨はそのときどきによって落ちる方向を変えた。
 しばらく静かに降り続いていたかと思うと、突然横殴りの雨になったり、飛沫が跳ねるように吹き上がったりもした。
 でも、雨は雨だった。わたしは全身の痛みと重さに呻く。
 それからすぐに、わたしの頭上を覆っていたものの正体に気付いた。
610:
 遠くの空は月の明かりで微かに光をまとっているのに、近くに居たその人は、ほとんど真っ黒に見えた。
 でも、それが誰なのか、わたしにはすぐに分かった。
 だって彼は、わたしの名前を、今にも泣き出しそうな声で呼んでいたのだ。
 何かを言おうと思った。
 でも、何を言えばいいのか、よく分からなかった。
 
 わたしは、あの巨大な蛇のような濁流に、身を任せたはずだった。
 その中から、彼が引きずりあげてくれたんだろうか。
 痛む身体を動かして、自分のいる場所を確認する。
 あの黒い水流は、すぐ傍で荒々しく唸り続けていた。
 わたしたちはその流れから、かろうじて、外れているだけだった。
 ツキは荒い呼吸をどうにか整えようとしていた。髪も身体もずぶ濡れで、顔は真っ青で、体中が汚れていた。
「ごめんなさい」
 とわたしは言った。だってそれは、どう考えたってわたしのせいなのだ。
 でも、わたしの耳にすらその声は白々しく、嘘っぽく響いた。
 わたしはどうしようもなく悲しい気持ちになった。
611:
 言葉も出せない様子で頷くと、彼はそのまま身体を動かし、わたしの腕を引きずって、水流から引き離そうとした。
 わたしはそれに従って、自分の身体をどうにか持ち上げる。水に濡れた衣服が重く、雨は痛いほど強い。
 身体を動かすたびに手足に痛みが走った。打ったのか切ったのか擦ったのか、分からない。
 でも、どれにしたって同じことだった。
 
 それはわたしが自分でつけた傷なのだ。
 ツキの身体についた傷も、わたしがつけた傷なのだ。
 身体を這うように動かす。怒号のような水流のうねりはわずかに遠ざかった。
 堤防の上まで辿り着くと、ツキは不格好に立ち上がった。
 それからわたしに手をさしのべた。
 わたしは少しの間迷っていた。
 その手を握る資格が、自分にはないような気がした。
 でも、ツキはずっと手を差し出したままだ。
 彼が雨に打たれたままなのは、とても、いやだった。
 だからわたしはその手を握って、痛みを堪えて、立ち上がった。
 彼は苦しげに笑った。
612:

 生き延びることができたのは、ほとんど奇跡のようなものだった。
 言い換えれば、偶然の巡り合わせだ。同じことをやったとしても、二度目はないだろう。
 立っているだけでも風に吹き飛ばされそうな激しい嵐の日に、氾濫してもおかしくない河川に近づいた。
 水流に身を投げ、その中でしばらく意識を失っていた。
 普通なら死んでいた。いや、まあ、死ぬだろうと思って身を投げたのだから、当たり前なのだけれど。
 川に身を投げる前と後の記憶は混濁していて、前後の事情をわたしは上手く把握できなかった。
 あの出来事から数日が経った今でも、思い出せていない。
 だからわたしは、後の状況から推測や想像を交えて、自分の記憶を補完した。
613:
 あの嵐の夜、わたしは両親と激しい言い争いをした……らしい。
 
 どんな言い争いだったのかは覚えていない。
 とにかく、その出来事で打ちのめされたわたしは、家を飛び出した。
 両親がそのことに気付いたのは、わたしがいなくなってからしばらく経った後だった。
 天候が天候だったし、時間が時間だった。
 家を出てわたしが行くところといったら、彼らにはツキの家しか思い浮かばなかったようだ。
 あわてて電話を掛けてみたものの、わたしはツキの家にはいない。
 電話を内容を聞いたツキは、両親の制止もきかずに家を飛び出したという。
 
 そうしてツキは、水流の中にわたしを見つけた。
614:
 ツキに助けられたあと、わたしは再び意識を失った。
 彼はわたしを背負って近隣の民家に向かい、電話を借りて救急車を呼んだ。
 時刻は夜の九時を過ぎていたらしいので、民家の住人からすれば迷惑な話だっただろう。
 わたしとツキは救急車で病院に搬送された。
 ツキもまた、救急車が来るまでに意識を失った。
 けれど彼はその直前、自分の家の連絡先を人に伝えていたため、病院は彼の両親に連絡することができた。
 そして彼の家から、わたしの家にも連絡がいったのだという。
 
 細部は違うかもしれないが、わたしはそういうふうに聞かされた。
 わたしがふたたび目を覚ましたのは二日後の午前八時で、そのときには身体は快復に向かっていた。
 なんでも、一時は結構危険な状態だったらしい。
 一度は目を覚ましたわたしは、五分と経たないうちに再び意識を失った。
 そしてその日の正午過ぎ、今度ははっきりと、わたしは目を覚ました。
615:

 当たり前のことだけど、わたしはいろんな人に叱られた。
 ツキもいろんな人に叱られていた。ちょっと悪いことをしたかな、と思う。
 たぶん、ちょっとどころの話ではないんだろうけど。
 何はともあれ、わたしは生きていた。
 ツキから聞いた話によると、彼はあの水流の中からわたしを救い出したわけではないらしい。
 わたしの身体がたまたま流れから外れた場所に引っかかっていたのを見つけて引き上げただけだという。
 まあ、考えてみれば、彼が泳いでわたしを引き上げたというのなら、それはそれで驚きだ。
 あの流れの強さでは、泳ぐどころが方向を保つことさえ困難だったろう。
 その「引っかかった」際にわたしは擦り傷や打撲を負うことになった。
 これが意外なほどの軽傷で、なんということのないものばかりだった。
 しばらくは、痛むかもしれないけれど。
 でも、それ以外には外傷も何もないらしい。
 たぶんわたしがあの濁流の中にいたのはとても短い時間だったのだろう。
 と、思うのだけれど……根拠はない。
 とはいえ、それならそれで、長い時間意識を失っていて、危険な状態にあったというのは、不思議な話という気がする。
 そのあたりのことは、どうもよく分からない。
616:
 わたしを叱ったのは主にツキの両親で、叱らなかったのはわたしの両親だけだった。
 ツキの両親は、わたしとツキの行為に対して大声を上げて怒った。
 
 反対にわたしの両親は、何を言えばいいのか分からない、という顔でわたしを見た。
 わたしも何を言えばいいのか分からなかった。ひょっとしたら血筋なのかもしれない。
 
 どうしてこんなことをしたんだ、と父は言った。
 それは心からの質問と言うよりは、自分が言うべきことを計りかねているような響きを持っていた。 
 だいたい彼の方でも、察しはついていたのだろうと思う。
 少しずるいかな、と思いながらも、ごめんなさい、とわたしは最初に謝った。
 すると、彼らは揃って苦しそうな顔をした。
 ちょっとした意趣返しのつもりだったのだけれど、彼らの表情は思いの外わたしを暗い気持ちにさせた。 
617:
 彼らはそれから、わたしに頭を下げた。
 でも、わたしは別に謝ってほしいわけじゃなかった。
 だから、すごく困った。
 
 彼らは別に、心から謝ったわけではないのだと思う。
 単に、病院という空間には、人を神妙にさせる磁場のようなものがあるのだ。
 わたしが退院すれば、これまでと同じような生活が待っているに違いない。
 人がそんなに簡単に変われるわけがないし、わたしはそれを信じてあげられるほどお人好しでもなかった。
 が、まあ、わたしは偉そうなことを言える立場というわけでもない。
 それに、こんなふうに迷惑を掛けたことだけは、悪いことをしたな、などと思った。
618:

 目が覚めてから数日間、様子を見るためにと入院させられていた。
 ことがことだったので、担当の医師はわたしに「よければカウンセラーを紹介しますが」と言ってきた。
 わたしはそれを断った。
 嵐は去っていったが、入院中はずっと雨が降っていた。そういう時期なのだ。
 
 窓の外で降り続ける雨をじっと眺めていると、奇妙な気分になった。
 
 わたしは別に「あちら」でのことを忘れたわけではない。
 でも、それを徐々に忘れていってしまうのだろうと、なんとなく感じた。
 
 気になったのは、わたしたちが去った後、彼女がどうなったのかということ。
 でも、それは今となっては確認のしようがないことだった。
 不思議と寂しくはなかった。
 なぜだろう? 彼女がすぐ傍にいるような気がするのだ。
 それは、ただの錯覚なのかもしれないけど。
619:

 数日後、さしたる感慨もなく退院し、わたしは家に帰った。
 家に帰るのは久しぶりだという気がした。
 でも、久しぶりだと感じたところで、結局自宅は自宅だ。何かが変わるわけじゃない。
 だからといって、思ったほど嫌な感じがしたわけでもなかった。ベッドの寝心地は、少なくとも病院よりはマシだ。
 ツキが電話を掛けてきたのは退院したその日の夕方で、窓の外ではまだ雨が降っていた。
「明日、暇か?」
 まあ、暇だった。退院の日はちょうど土曜日で、明日は学校が休みだったからだ。
 月曜のことを考えると、今から気が重い。
「出掛けないか」
 とツキは言った。彼の態度は堂々としていた。
 なんだかいろんなものが吹っ切れたような、そんな態度。
「でも、明日は雨かもしれないって、天気予報で」
「晴れるよ」
「……根拠は?」
「晴れる」
 根拠はないらしい。
620:
 翌朝、案の定、雨が降っていたけれど、わたしはツキの家まで傘を差して歩いていった。
 彼がわたしを当然のような顔で出迎えたので、わたしはちょっとおもしろくない気分になった。
 しばらくのあいだ、何をするわけでもなく、二人で話をした。
 話の内容はよく思い出せない。
 
 何か大事なことだったような気もするし、どうでもいいことだったような気もする。
 抽象的な話だった気もするし、具体的な話だった気もする。
 いずれにしても忘れてしまった。
 話すことがなくなると、「雨が止んだら」と彼は思い出したように言った。
「雨が止んだら、出掛けよう」
 そうだね、とわたしは答えた。窓の外では静かな雨が降り続いていた。
「雨が止んだなら」
 何の気もなく返事をしてから、こそばゆいような、くすぐったいよな気持ちになった。
 彼が、昨日突然電話してきた理由も、今朝からずっと難しい顔をしている理由も、今の言葉で分かった気がした。
 雨が止んでも傍にいるのだと、彼は示そうとしているのだ。
621:

 気象予報士の言い分に反して、雨は十時過ぎに上がった。
 
 灰色の雲は空から消えて、青空が顔を出した。
 太陽の光は少し頼りなかったけれど、それでもしっかりと街を照らしていた。
 外に出てから、そういえば、目的地を聞くのを忘れていたな、と思い出した。
 でもまあいいか、と思う。そういうことを気にしすぎていても始まらない。
 虹を見つけて声をあげると、彼はおかしそうに笑った。
 わたしは不服に思って抗議した。
「どうして笑うの?」
「虹を見てはしゃぐような奴だったっけ?」
 
 彼は心底おかしそうに笑った。
 失礼な話だ。わたしにだって虹を見上げて喜ぶくらいの感性はある。
622:
「さて、それじゃあ行きますか」
 ツキはそう言って歩き始めた。
 わたしは何も言わずに、彼を追いかけて隣に並ぶ。
 ふと後ろを振り返る。そこに誰かがいたような気がした。
 でも、誰もいない。ただ歩いてきた道があるだけだった。
 誰もいないはずなのに、わたしはそこに彼女が立っているような気がした。
 薄いクリーム色の毛並み、綺麗な鳶色の瞳。
 それは錯覚なのかもしれない。
 その錯覚を、わたしはなんだか心強く感じた。
 もう一度前を見たときには、さっきまでより気分が晴れ晴れとしている。
 それは身勝手な投影なのかもしれない。
 わたしはもう一度、「ありがとう」と口の中だけで呟いた。それで最後にしようと思った。
「それにしても」とツキは空を見上げた。
「いい天気だなあ」
 雨に濡れたアスファルトが太陽の光を反射して、まぶしい。
 晴れた空の下を歩くのは、ひさしぶりだという気がした。
623:
おしまい
625:
お疲れ様でした。
今まで長い間ありがとうございました。
627:
面白かった、お疲れさま!
628:
おつー
楽しかったです、晴れやかな気分で読み終えた
読んでる間、「雨と夢のあと」という曲が頭に流れ続けてた
63

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