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少女「雨が止んだなら」
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1:
雨音で目が覚めた。
柔らかな毛布に包まれていた体を、ゆっくりとベッドから引き剥がす。
薄着のまま眠ったせいだろう。鼻と喉の調子が良くなかった。
ベッドを降りると、裸足のままのわたしには、絨毯の感触がふわりとくすぐったい。
服を着替えようと思ったけれど、面倒だったし、いがいがする喉の感覚をどうにかする方が先に思えた。
わたしは、絨毯の上に放り投げていた桜色のカーディガンをパジャマの上に羽織る。
布団にくるまっていると寝苦しくて、つい薄着のまま眠ってしまう。
いいかげん学習して、もう少し暖かくして眠ればいいのに。
自分でもそう思うのだけれど、いまさら自分の身体を気遣うのは、なんだかばからしいことに思えた。
元スレ
SS報VIP(SS・ノベル・やる夫等々)
少女「雨が止んだなら」
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2:
綺麗な赤い絨毯。真っ白な天井と壁。
窓の外の様子を見ると、いつも通り、覆いかぶさるような灰色の雲から、雨粒が静かに降り続いていた。
それでもたしかに、太陽はおぼろげな光を携え、東の空に浮かんでいる。
スリッパをはいて部屋を出ると、幅の広い廊下には、やはり赤い絨毯が敷かれている。
扉を出て、すぐ正面の窓からは中庭が見下ろせる。
木々が枝を空に伸ばして、雨を受け入れているように見えた。
廊下の温度は部屋の中より冷たくて、わたしは思わず両腕で体をさすった。
わたしが出てきた部屋に連なって、壁にはいくつもの扉が等間隔に並んでいた。
その向こうは、どれも同じような構造の部屋になっている。
どこも大差ない。生きた人間の気配がしない。それも当たり前の話なのだけれど。
3:
この広々とした屋敷にいるのは、わたしの他にはたったひとり。
メイドを自称するシラユキという少女だけ。
いつからなのか。
どうしてなのか。
雨が降りやまない町。
深い山嶺に囲まれた、物寂しい町。
その町はずれの丘の上に、打ち捨てられたようにそびえる大きな屋敷。
どこか遠い世界から切り離されたような静かな場所。
何もかもが終わってしまっているような、時間の流れから取り残された場所。
わたしと彼女は、たったふたりで、この場所で暮らしている。
4:
◇
厨房の扉を開けると、シラユキの姿が見えた。
彼女はちょうど、作っていたスープを小皿に分けて味見をしているところだ。
変なことに、真っ先に目に留まったのは、彼女の長い睫毛だった。
東の窓から注ぐ太陽の日差しに、それは微かに透けて見えた。
白い肌は氷細工のようで、不用意に触れたら火傷させてしまいそうな気すらする。
髪の毛は細くて、薄いクリーム色をしている。まんまるの瞳は透き通るような鳶色。
黒いワンピースに重ねられたフリルの白いエプロン。それに合わせられたカチューシャ。
たしかに彼女の宣言通り、その装いはメイドのように見えた。
彼女の姿はとても印象的なのに、その輪郭はどことなくぼんやりしている。
色素が薄いせいだろうか。向こうの景色が透けているように感じることもある。
もちろん、ただの錯覚なのだろうけれど。
5:
きしきしと音が立つような寒さの中、まだ薄暗い厨房で、彼女の立ち姿はいつもより頼りなく見えた。
厨房の入口で立ち止まったわたしに気が付くと、シラユキはふわりと笑う。
「おはようございます。まだ、寝ていても大丈夫な時間ですよ」
彼女はわたしを主人として扱うけれど、堅苦しい敬語はあまり使わない。
こちらとしてもそれは望むところで、あんまり生真面目な話し方をされると肩を凝ってしまう。
「いつもより早く目が覚めたから」
おはよう、と挨拶を返してからわたしがそう言うと、彼女は意外そうな顔で微笑んだ。
ふわふわとした笑顔。わたしはその笑顔を見るたびに、なんだかくすぐったいような気持ちになる。
「珍しいですね。そういう日もあるってことなんでしょうか」
鍋に向かう彼女に近付いて、わたしは何も言わず、その背中に抱きついた。
背丈はだいたい同じくらい。
声や表情にあどけなさはあるけれど、歳だって、同じくらいだと思う。
それなのに彼女のからだは、ふかふかとして気持ちがいい。
6:
「なんですか、急に?」
シラユキは戸惑った風な声音で言う。
後ろから抱きついているせいで顔が見られないことを、わたしは少し残念に思った。
「あったかい」
同じくらいの背丈なのに、シラユキを抱きしめると、猫や兎みたいな小動物を抱いている気分になる。
シラユキはくすぐったそうに身を揺すって、困ったような声をあげる。
「やめてください、危ないですから」
咎めるような言葉だけれど、その声は優しくて、強い拒絶を感じさせない。
「もうすぐ出来上がりますから、食堂で待っていてください」
7:
「そんなこと言わずに、味見させてよ」
「……かまいませんけど」
シラユキは作っていたスープを小皿に取り分けてくれる。
わたしは手渡されたそれを受け取って、その場で口にする。
「おいしい」
と言うと、シラユキは頬を緩めた。
「もうすぐ出来上がりますから」
彼女の声に、わたしはなんだか嬉しくなった。
いつからなのか。
どうしてなのか。
わたしと彼女はここで暮らしている。
いつからか、ずっと、たったふたりで。
8:
◇
屋敷には大きな姿見があるから、わたしは自分の姿をちゃんと確認することができる。
わたしの髪は真っ黒にくすんでいて、瞳も焦茶色に近いが、ちゃんと確認しないと黒っぽくしか見えない。
肌もあまり綺麗とは言いがたい。前髪で隠しているけれど、額にはすぐにニキビができる。
手足も指も、細すぎてガイコツみたいだし、肌も青白くておばけみたいだった。
顔の輪郭だって丸っこいし、目だけが大きいのも、子供みたいでいやだ。
だからわたしは、わたしの部屋に置かれた姿見を見たくなくて、壁に向けてひっくり返していた。
そうすれば、わたしはわたしの姿をあまり気にしなくて済む。
シラユキだってわたしの容姿について何かを言うことはないし、わたしはそれ以外の人と出会うこともない。
家事も買い物もシラユキがすべてやってくれる。他には外に出る用事はなかった。
仕事をしたり学校に行く必要もない。そもそも、この街には学校なんてないらしいけど。
9:
この屋敷に来たのがいつだったか、正確には思い出せない。
つい最近だという気もするし、ずっと前だという気もする。どうもはっきりしないのだ。
というよりわたしには、そんなに昔のことがよく思い出せないのだ。
わたしにあるのは、せいぜい昨日や一昨日や、その程度の分の記憶だけ。
あとはもう、ずっと同じように生活してきたという印象しかない。
いずれにせよ確かなのは、わたしがここでするべきことは何ひとつない、ということだ。
わたしはこの屋敷では好きな時間に寝て、好きな時間に起きる。
退屈したら地下の書庫に本を取りにいったり、蓄音機で音楽を聴いたりする。
シラユキが話相手になってくれることもあるし、近くの森の中を散歩することもあった。
わたしは屋敷の中で一日中過ごし、夜が来たら眠り、朝が来たら目を覚ます。
ずっとその繰り返しだ。
用事もないから、屋敷から見下ろすばかりで、丘の下の街にも実際に足を運んだことはない。
別段、行ってみたいとも思わないのだけれど。
わたしが街に行くのを、シラユキはどうしてかとても嫌がるから。
10:
◇
「最近、嫌な夢を見るの」
その朝はいつもより雨が弱かったので、わたしとシラユキは傘を差して森の中を散歩していた。
屋敷の裏手に広がる森には、生きているものの気配がしない。
鹿や兎どころの話ではなく、小鳥の鳴き声さえ聞こえないのだ。
「どんな夢ですか?」
シラユキは、木々の梢からかすかに差し込む、雨の日の淡い陽射しを見上げていた。
わたしもそれを真似して空を仰ぐ。
薄い雲が広がって、空は真っ白だったけれど、雨の雫を受けた枝葉は、いつもより鮮やかに見えた。
「誰かが、わたしの名前を呼んでいるの」
「名前、ですか」
不思議そうな声音。無理もない。
シラユキが吐いた白い溜め息は、朝の森に吸い込まれるように溶けていった。
11:
昼になれば少しは暖かくなるけれど、この街の朝は、凍えそうに寒い。
けれど、この張りつめたような冷たい空気が、わたしは嫌いではなかった。
「誰かがわたしの名前を呼んで、どこかに連れて行こうとするの」
「いったい誰が?」
「……分からないけど、男の人、だと思う」
わたしの声は、後半になるほど小さく萎んでいったと思う。
この街に来る前の記憶を、わたしは持っていない。
そしてわたしは、この街に来てから男の人と会ったことがない。
シラユキ以外の人の存在は、わたしにとっては一種の情報でしかない。
それにわたしは、自分の名前だって持っていないのだ。
案の定、シラユキは怪訝そうな顔をした。わたしは話したことを少し後悔した。
12:
「その人は、何かを言っていたんですか?」
「分からないけど、"駄目だ"って」
「……"駄目"?」
「うん。なんていうか、引き留めるみたいに。よく分からないんだけど」
シラユキは、真面目な顔になって考え込んでしまった。
わたしは、雨に打たれて震える傘の柄の感触に、感覚を集中させた。
難しいことは、よく分からない。考え始めると、頭が軋むように痛み始めるのだ。
やがてシラユキは、くすくすと笑い始めた。
「不思議な夢ですね」
13:
その声をきいて、わたしはようやく安心した。
最初から、気にするような夢じゃないと、そう笑い飛ばしてくれれば、わたしはそれでよかったのだ。
「でも、夢は夢ですから」
「うん。そうだよね」
それからわたしたちは、森の深い方へと歩いていく。
雨に濡れた森の匂い。靴の裏のぬかるんだ土の感触。
うるんだ空気の中を、わたしたちは長いあいだ、黙り込んだまま歩いた。
夢は、夢だ。気にしたところで仕方ない。
わたしは自分にそう言い聞かせる。少し、雨が強くなった気がした。
14:
屋敷で生活していると、ときどき無性に寂しいような、悲しいような気持ちに襲われることがある。
なぜなのかは分からない。いったい何がそうさせるんだろう。
シラユキが作ってくれる食事はとても美味しい。
ベッドだって、服の替えだってたくさんある。生活には何ひとつ不自由していない。
眠りたいときに眠ればいいし、食べ物だって食べたいだけ食べられる。
わたしはこの屋敷以外の世界を知らない。
だからどれだけ本を読んでも、書いてあることのほとんどがよく分からない。
実感を伴って迫ってこないのだ。写真でしか見たことのないものがたくさんある。
たぶん、取り残されているのだと思う。わたしは、この屋敷は、この街は、取り残されているんだ。
でも、いったい何から取り残されているというんだろう。
世界にはこの街しか存在しないのに。この街が、世界のすべてなのに。
わたしは、それ以外の世界を知らないはずなのに。
それ以上のことを考えようとすると、頭が、どうしようもなく、軋むように痛んだ。
18:
◇
散歩を終えて自室に戻ると、いつものように手持無沙汰になった。
とりあえず、机の上に置きっぱなしだった、読み止しの本を開いてみたりする。
でも、ちっとも分からない。何が書いていあるのか、よくわからないのだ。
集中できるできないとか、そういう問題ではないと思う。
わたしにとって、本を読むのは簡単な作業ではないのだ。
学術書だろうと、物語であろうと、読んだ感じはだいたい同じ。
学術書は、身近に感じられるものがあったとしても、とても難しくてよく分からない。
物語はというと、まずその「世界」が理解できない。
わたしが実感を持って理解できるのは、この屋敷を中心にしたごく狭い世界の中に存在するものごとだけ。
だからたとえば、「飛行機」だとか、「気球」だとか、「雪」だとか言われても分からない。
この街の空には、飛行機も気球も飛ぶことがない。雪だって降ることはない。
空にはただ雨が降り続いているだけだ。
19:
とはいえ、書庫には分厚い百科事典も並んでいるし、たくさんの図鑑や写真もある。
だから、かろうじてその内容を理解することもできた。
かといって、わたしはその作業が特別好きだったわけではないのだけれど。
読書はわたしにとって、どうしようもなく退屈な日々をごまかすための、ひとつの暇つぶしに過ぎない。
それは骨の折れる作業でもあったし、また実りのない作業でもあった。
切り離されている、とわたしは思う。
そう感じるのはたぶん、本を読みすぎたせいだろう。
なんだか妙に気怠くて、本を読み解く気にはなれず、わたしはベッドに寝転んだ。
天井を仰いで横になると、雨の音が大きくなる気がする。
20:
これまでは、この雨の音を聞きながら、本を一日中読み続けることも苦痛ではなかった。
でも、今日はひどく物憂い。身体を動かすのも億劫だ。
閉ざされているのだ、とわたしは感じる。
こんな屋敷に一日中引きこもって、何もせずに過ごすなんて、それは異様なことに思える。
何に比べて異様なのかは、分からないけれど。
けれど反対に、それは仕方ないことなのだとも思う。
だってそれは、わたし自身が望んだことだから。理由は分からないけれど、そう思う。
今までは、こんなことはまったく気にならなかった。自分について深く考えたこともなかった。
考えるのはいけないことだとすら、考えていた。
夢は夢ですから、とシラユキが微笑む。その表情を思い出す。
なにか、とっかかりすらない不安のようなものを感じた。
21:
妙に気分が落ち着かなくて、何かを飲みたくなった。
わたしは部屋を出て、一階の食堂へ向かう。
たくさんの部屋があるこの瀟洒なお屋敷も、ふたりで使うには少し広すぎる。
シラユキは丸一日掛けて、この屋敷を丁寧に掃除する。
夕方になると下界に買い物へ行き、帰ってきてからは夕飯の支度を始める。
わたしが彼女に会いたいとき、彼女がいないことはしょっちゅうだった。
それが自分の仕事なのだと、彼女はいつも柔らかに笑った。
この屋敷の中に、当たり前の生活のサイクルを築きあげること。
それが彼女の仕事。そして、わたしの世話を見ることも。
彼女はわたしが、自分ひとりで水を飲んだりすることすら嫌う。
自分が世話をしたいから、という理由ではないと思う。
わたしがただ水を飲んだり食べ物を食べたりということも、本心では嫌がっているのかもしれない。
22:
わたしはシラユキがいなければ自分ひとりでコーヒーをいれることもできない。
カップどころかスプーンが置かれている位置さえ分からないのだ。
それは、わたしの生活力の無さだけが理由ではないはずだ。そういう部分もあるかもしれないけど。
けれどシラユキには、わざとそのようにして、屋敷の中をややこしくしているところがある。
まるでわたしに、この屋敷の中で何もしてほしくないみたいに。
反対に彼女は、わたしが本を読んだり、音楽を聴いたりすることを好んだ。
なぜなのかは分からない。だけどわたしは、できるかぎり彼女の望むように生活しているつもりだ。
わたしの生活は、彼女の存在によって成り立っているのだから、当然と言えば当然だ。
もちろんシラユキに隠れて軽い食事をとったりすることもある。
実際、シラユキは嫌がるような素振りを見せるだけで、わたしを制限しようとはしないのだ。
シラユキが何を考えているのか、わたしは知らない。
彼女はわたしに多くのものを与えてくれる。それだけを覚えていれば、それでいいのかもしれない。
でもときどき、何もかもが嫌になって、この屋敷を抜け出してしまいたいとも思うのだ。
23:
◇
雨は一日中降り続いていた。
わたしはその日、本を読むことも音楽を聴くことも、結局ほとんどできなかった。
夕飯をとってお風呂に入ったあとも、気分は朝と同じだった。
諦めて早々に眠ってしまおうと思ったのに、いつもは気にならない雨の音が、今日は妙に耳を突く。
それでもベッドの中で瞼を閉じていると、睡魔が徐々に体を麻痺させていった。
夢。夢を今夜も見るんだろうか?
わたしはあの声を、起きている間中、ずっと思い出すことができる。
ずっと耳元で、ささやき続けているような気さえするのだ。
駄目だ、と。
そこにいては駄目だ、と言うみたいに。
妙に眠るのが怖くなって、わたしはベッドを抜け出した。
24:
廊下に出るとひどく薄暗い。夜は知らぬ間に深まっている。
もともとこの屋敷では、時間の流れというものがひどく曖昧だ。
時計が、極端に少ない。些末なことと言えば些末なことだ。
わたしはこの屋敷で生活し続けるかぎり、正確な時間を必要としないのだから。
シラユキの寝室は、一階の、厨房のすぐそばにあった。
わたしは足音を立てないように絨毯の上を滑るように歩いた。
廊下の壁のランプの灯りを頼りに、わたしは彼女のもとを目指した。
部屋の扉をノックすると、返事が聞こえなかった。
わたしは少し待ってから、ノブをゆっくりと捻る。
どこか、悪いことをしているような気分だった。
25:
部屋の中は暗かった。雨のせいで月当たりも差し込まない。
それでも暗い灯りが天井の電灯から注いでいたから、真っ暗ではない。
そのおかげでわたしは、部屋の様子をおおまかに確認することができた。
足音を忍ばせてベッドに近付くと、シラユキは既に眠っているようだった。
わたしが寝付いた後も、シラユキは自分が抱え込んださまざまな作業を続けている。
その彼女が眠っているということは、本当にもう、遅い時間なのだ。
わたしはベッドの横に膝をつき、彼女の寝顔を眺める。
いつもは落ち着いていて大人びた印象があるのに、こうしてみるとシラユキは小さな子供のようだった。
パジャマ姿になって、カチューシャを外し髪を下ろすと、彼女はわたしなんかよりずっと、お嬢様然としている。
薄いクリーム色の髪。閉じられた瞼と長い睫毛。
彼女の寝顔を見ていると、わたしはいつも後ろめたい気分になる。
中庭に迷い込んだ綺麗な小鳥を、無理に捕まえて籠に閉じ込めているような、そんな気持ちに。
26:
じっと眺めていると、シラユキの睫毛がぴくりと震える。わたしはどきりとした。
彼女は何度か息を深く吸い込み、吐き出した。
彼女の呼吸に合わせて、布団がゆっくりと上下する。
それからシラユキの瞼がゆっくりと開かれた。
彼女はすぐにわたしに気付いて、ゆっくりと顔をこちらに向ける。
「どうしました?」
彼女は微笑む。わたしは胸が詰まるような思いだった。なぜなのかは、分からないけれど。
どうかしましたか、と彼女は訊ねる。
どうしたんだろう? いったいどうしたっていうんだろう? 分からない。
「眠れないの」
彼女は困ったような顔をする。わたしは何も言わずに身じろぎした。
視線を合わせるのが、少し怖い。雨の音が鳴り続いている。
シラユキはベッドの上で体を動かし、壁際に寄ってスペースを作ってくれた。
わたしはその隙間にもぐりこむ。彼女はくすぐったそうに身をよじった。
27:
しばらく何も言わずにいた。ベッドはシングルだったから、二人で眠るには少し狭い。
でも、無理ではない。わたしたちはとても小柄だったから。
「……夢」
シラユキは不意に、思い出したように言った。
「例の夢は、いつから見るようになったんです?」
「思い出せないけど、最近はずっと」
「毎晩ですか?」
「見ない日もあるけど……」
わたしは少し怖くなった。
「……夢は、ただの夢でしょう?」
そう言うと、彼女は困ったように笑う。
わたしは何かを言うべきなのかもしれないと思った。けれど何を言うべきなのか、分からない。
28:
「シラユキ、わたしは」
途中まで言葉にしてから、わたしは急に不安になる。
彼女は不審そうに眉を寄せた。
「わたしは、ずっとここに居られるの?」
わたしの言葉に、彼女は怯えるような顔をした。
なぜこんなことを不安に感じるのか、分からない。
雨は降り続いている。わたしの日々に変化はない。
何も変わらない。わたしはずっとここで暮らしていけるはずなのだ。
シラユキは何かを言いたげにしていたが、どう言えばいいのか分からないようだった。
言うべきかどうかすら迷っているように見えた。彼女には、わたしに告げていない何かがあるのだ。
29:
「ごめんなさい」
耐えきれなくなって、わたしは謝った。
シラユキはほっとしたような、困ったような顔になった。
わたしはベッドの中で彼女の手をさがして掴んだ。
小さな手のひら。触れるとほのかに暖かい。
シラユキが苦しそうな顔になったので、驚いて手を離すと、今度は彼女がわたしの手を握った。
何かをこらえるような表情。
「ごめんなさい」
と今度はシラユキが言った。わたしは彼女が何を謝っているのか、よくわからなかった。
30:
◇
いつの間にか眠りに落ちたわたしは、夢を見た。
彼の声は聞こえない。いつもの夢ではなかった。
夢の中でわたしは暗い場所に立っている。
雨音が聞こえる。少し肌寒い。あたりは暗い。広ささえ分からない。
そこでは、わたしの他に、もうひとり誰かがいる。
彼女の姿は水面越しに見るように歪んでいて、その輪郭は滲んでいる。
曖昧で、ぶよぶよと動く、不定形の姿。
それがそう見えるだけなのか、本当にそういう形をしているのか、わたしには分からなかった。
彼女とはどこかで会ったことがある気がするのだけれど、よく思い出せない。
わたしはただ、彼女のその滲んだ姿を、ただただ恐れて、怯えて、震えている。
そういう夢だ。
34:
◇
目が覚めたとき、シラユキの姿は既になかった。
起き抜けの気怠い気分のまま、窓の外から変わらず聞こえる雨の音に、しばらく耳を傾ける。
夢。奇妙な夢。なんだったのだろう?
妙に不安にさせられる、嫌な夢だった。
……あまり気にしても仕方ない。わたしはベッドを抜け出す。
朝食の時間がきたらシラユキが起こしにくるはずだから、まだ朝早い時間だろう。
わたしは少し迷ったが、いちど自室に戻ることにした。
何かが、気がかりだった。でも、それがなんなのか分からない。
35:
自分の部屋に戻ると、やはりいつもとは何かが違う気がする。
何が、違うんだろう?
窓や扉の形が変わっていたわけでもない。
壁や天井だっていつもの通り真っ白だ。絨毯も赤い。
窓の外はどうだろう? 雨だ。いつもより、雲が暗い気がする。
わたしの部屋には物が少ないから、何か余計なものが加わっていればすぐわかる。
机の上には何冊かの本が置かれている。書庫から持ってきて置いたものだ。
タイトルも装丁も変わっていない。当たり前だ。
筆立てにはろくに使ったこともないペンが何本か立てられている。
他には何もない。
わたしは溜め息をついてからベッドに体を投げ込もうとして、強烈な引っかかりを覚えた。
もう一度机の上を見る。
36:
本の冊数は三冊だった。わざわざ数え直さなくても、見ただけで分かる。
念のため、一冊一冊、しっかりと手で確認してみた。三冊だ。
思わず机の周りを見回す。枕元も床も、全部。
でもない。部屋中探しても、本は三冊だけだった。もともとそうだっただろうか?
違うような気がする。わたしは書庫から、本を四冊持ち出したはずだ。
……記憶違いということもあるかもしれない。
いつも、読みたい本を読める範囲で、気まぐれに持ってきているだけだから。
気のせい、なのだろうか。そうではないという気がする。でも、それ以外に考えられない。
本は勝手になくなったりしないし、シラユキだって勝手に――しかも一冊だけ――片付けたりはしないだろう。
どこかに置き忘れたのだろうか? でも、部屋に戻ってきたときは、たしかに四冊あった気がする。
それ以降は、ずっと机の上においていたはずなのだ。
しばらく考え続けていたけれど、結局ばかばかしくなってベッドに倒れ込んだ。
勘違いだ。そうじゃないとしたら、なんだというんだろう?
本は勝手になくなったりしない。勘違いだ。
37:
◇
朝食をとったあと、自室に戻って本を読もうとしたが、気分が乗らなかった。
毎日、同じことの繰り返し。何も変わったことは起こらない。
窓の外では、雨が降り続いている。
ずっと降り続く雨。空がいつもより暗いから、寒さが増している気がする。
不気味な雨雲。ここから見下ろせる森も、いつもより薄暗く見える。
何が、わたしをこんなにも不安にさせているんだろう。
シラユキとわたしだけの、ごくあたりまえの生活。
これまでずっと続いてきて、これからもずっと続くだろう、生活。
なのになぜこんなに、胸がざわつくのだろう。
わたしが溜め息をついて窓辺を離れたとき、何か鮮烈な光が空から降ってきた。
一瞬、それは強く部屋の中に入り込んで、消えた。
続く、轟くような怒号に、わたしは思わず窓から距離をとった。
今のは……雷鳴?
38:
わたしは泣き出したい気持ちになる。どうして、雷が鳴ったりするんだろう。
いままでは、そんなことは一度もなかったのに。
おそろしくなって、わたしは部屋を出た。シラユキはまだ朝食の片付けをしているはずだ。
厨房にいけば、彼女はそこにいるはずだ。
廊下を歩いているとき、また雷鳴が聞こえた。
階段を降り切ると、玄関ホールに出る。
普段なら何の意味もない場所だ。でも、今日はそうではない。
話し声が聞こえた。
そしてより一層恐くなる。どうして、話し声が聞こえたりするんだろう?
39:
わたしは階段の半ばに座り込んで、その声が止むのを待った。
まるで影がささやきあっているような声だった。上手に聞き取れない。聞き取りたくもなかった。
雷がまた響く。わたしは瞼を閉じてぎゅっと耐える。いったい何が起こってるんだろう?
声はひそひそと話を続けている。その片方がシラユキのものだと、なんとなくわかった。
話は長くかかっている。そう感じただけかもしれない。早く終わってほしいとわたしは思った。
やがてその声は途切れた。わたしは少し待ってから、立ち上がって階段を下りる。
足元の感触がふわふわとしている気がした。
「おいおい、大丈夫か?」
「うん」
――?
わたしは振り向いた。でも、誰もいない。当たり前だ。
40:
「……誰かいるの?」
声は、自分でも分かるほど震えていた。辺りを見回してみても誰もいない。階段の上にも、踊り場にも。
じゃあ、どうして、声が聞こえたりする?
……わたしはひょっとして、疲れているのかもしれない。
この屋敷にいるのは、わたしとシラユキだけ。それはもうずっと続いてきたことだ。
珍しく来客があった。滅多に鳴らない雷が鳴った。それだけだ。
それだけなのに、わたしは何を怖がっているんだろう。
ことさら強く自分に言い聞かせて、階段を降り切る。
シラユキは外に繋がる扉の前に、ぼんやりと立っていた。
かすかな冷気と、雨の匂い。
「シラユキ?」
41:
声を掛けると、彼女の身体はびくりと震えた。
「どうしたの?」
訊ねるわたしの声は、やっぱり震えている気がする。
シラユキもそうなのかと思った。何かに怯えているのかと。でも違う。
彼女の表情は、恐怖や怯えと言うよりも、むしろ、考え込んでいるようなものだった。
「なんでも。少し来客があっただけです」
そう言ってから、彼女はことさらに笑って見せた。
「どんな用事?」
「街の方で空き巣が出ているようだから、気を付けるようにと。それだけです」
「本当に、それだけ?」
自分でも驚くほど、強い声音だった。シラユキは驚いたような表情になる。
そして、少し頬を緩めた。
42:
「それだけです。驚きましたか?」
「……うん」
だって、この屋敷に来客があったのなんて、わたしが知る限りでは初めてだ。
そう言おうとして、やめておいた。どこかで、その事実を認めたくなかったのだと思う。
「それより、顔が真っ青ですよ」
シラユキはこちらに歩み寄り、静かに手を伸ばして、わたしの頬に触れた。
「暖かい飲み物、用意しましょうか?」
「……うん」
本当はなくても構わなかったけれど、いまはシラユキの傍にいたかった。
食堂で待っているように言われたけれど、わたしは厨房までついていった。
彼女は困ったように笑う。
43:
「どうしたんですか、今日は」
シラユキは、いつもより近くにいたがるわたしに、照れくさそうに笑った。
茶化すように言われても、わたしは離れる気になれない。
「雷が……」
「雷?」
「うん。雷が、さっき、鳴っていたから」
「雷、ですか。雷が、怖かったんですか?」
「……そうだけど、悪い?」
意外そうな声音に、拗ねたような気分で返す。彼女はくすくすと笑う。わたしは恥ずかしくなった。
同時に、シラユキの反応に少し安心する。
珍しいことではあるけれど、わたしは見るのがはじめてだったけれど、雷なんて、全然不思議なものじゃないのだ。
それがちょっと、意外と大きな音を鳴らして、意外と強く光ったから、驚いただけ。それだけだ。
44:
それでもなんとなく不安がぬぐえずに、仕事に向かおうとするシラユキを引きとめて、食堂で少しの間休んだ。
彼女はわたしが少しでも目を離すと、すぐに思案深げな表情をした。
シラユキが作ってくれたホットミルクを飲みながら、わたしは彼女の表情をじっと見つめる。
「何か、考え事?」
わたしが訊ねると、シラユキははっとしたように顔をあげた。
そして笑う。ごまかすみたいに。
「いえ、そうではないんですけど」
と一度否定してから、
「……いえ。そう、ですね。考え事かもしれない、です」
少し言いにくそうに、笑った。
45:
「あの、お願いがあるんです」
「……お願い?」
「はい。……お願い、です」
彼女の真面目な雰囲気に、わたしはなんだか不安になった。
「もし、今日のように来客があった場合、できるかぎり、彼らと会わないようにしてほしいんです」
そこまで言ってから、一度言葉を区切り、
「……いえ。正確に言うと、見つからないようにしてほしい、んです」
そう訂正した。
「見つからないように?」
「はい」
46:
わたしは判断に困った。それじゃあまるで、わたしがここにいることを、誰も知らないみたいだ。
……いや、そうなのかもしれない。わたしは誰とも、会ったことがないのだから。
でも、だとすると、シラユキは街のひとびとに、わたしの存在を隠していることになるんだろうか。
わたしはどう答えようか迷ったけれど、彼女の表情は真剣だった。
気圧されるように頷くと、シラユキは安堵したように息を吐いた。
「ありがとう、ございます」
わたしはその声に頷いたけれど、素直に納得できない何かがあった。
シラユキは、わたしに何を隠しているんだろう。
でも、わたしはそれを、知りたいのだろうか?
わたしはただ、ここで彼女と穏やかに暮らせれば、それでいいはずなのだ。
ただ、それだけで。
51:
◇
シラユキが仕事を始めると、わたしは暇になってしまった。
本当は彼女のことを追いかけまわして一緒にいたい気持ちもあるけれど、からかわれるのが目に見えている。
かといって、今は本を読む気にもなれなかった。
自分の部屋でじっとしているのも嫌だった。見知ったはずの屋敷が、変に余所余所しく感じられる。
今にも廊下の角から、「何か」が出てきそうな気がした。
部屋で休んでいると、ノックの音が聞こえて、「誰か」が現れるような気が。
たぶん、気にしすぎているのだろうけど。でも、さっきの声、あれは……。
たしかに聞こえた気がしたのだ。わたしが知るはずもない男の低い声が、聞こえた気がした。
散歩にでも行こうかと思ったけれど、シラユキにあんなことを言われたばかりで、外には出るべきではないだろう。
仕方なく、わたしは書庫に向かった。
52:
書庫は地下にあるから、昼に行っても薄暗く、肌寒い。
蔵書の正確な量は分からないが、尋常な量ではない。
もし確認しようとするなら、本棚の数から数えなければならないだろう。
誰が集めたものなのかも、わたしは知らない。
そもそも、この屋敷が誰のものなのかも、わたしは知らないのだけれど。
それを思えば、わたしはあまりにわたしについて無知だという気がした。
かといって、別に知りたいとも思わないのだけれど。
むしろ、知ってしまうことへの恐怖の方が大きい。
それは自分の知らない自分を知ることに対する恐怖、ではない。
それを知ってしまったら、何かが壊れてしまうような、そんな予感があるのだ。
53:
ひんやりとした冷たい空気と、宿命的なカビの匂い。
林立する本棚の隙間を縫うように歩く。
書庫はあまりに広い。ひとひとり隠れていたって、わたしはきっと気付かないだろう。
地下では影が大きい。
電気はここまで届いていたし、灯りだって少なくはない。
でも、影が大きいのだ。たぶん外と同じ明るさにできたって、その事実は変わらない気がする。
それを言えばこの街だって、ずっと薄暗いままなのだけれど。
……わたしはこの街の明るさを、他の何処と比較しているんだろう。
読みたい本は既に部屋に持って行ってしまったから、書庫でやることはなかった。
新しい本を探すこともできたけれど、どちらにしても読む気はしないのだ。
わたしは入口からずっと奥へと進み、突き当りの壁の傍に置かれた、木製の椅子に腰かけた。
簡素な机が置かれていて、ここでも読書ができるようになっている。
といっても、地下は居心地が悪いから、あまりここで本を読むことはないのだけれど。
54:
わたしは溜め息をついて、近頃の自分について考えた。
妙に不安になったり、落ち着かなくなったりする自分。
何が原因なのだろう? 考えると答えはすぐに出てきた。
“駄目だ”、と。
夢の中で、男は言った。
起きたらすっかり忘れているけれど、彼はいつも、わたしの名前を呼ぶ。
それはたしかにわたしの名前なのだ。起きると思い出せないだけで、そういう実感があった。
単なる夢と割り切ることもできる。でも、もしそうじゃないとしたら?
そうじゃないとしたら、どんなことが考えられるんだろう。
55:
単なる夢でないとするなら、二つ、考えられる気がした。
まず素直に考えるなら、実際にわたしが、そういう経験をした、という可能性。
過去に見た映像、過去に経験したシーンを、わたしは繰り返し見ているのだ。
そうだとするとわたしは、あの夢の光景を、経験したことがあるということになる。
引き留めるような男の声。 “駄目だ”と言う声。
そして、彼はわたしの名前を呼び続ける。
もしあの夢が、わたしが思い出せない過去だとするなら……。
わたしはやっぱり、何かを忘れてしまっているのだ。
そしてその頃のわたしは、少なくとも名前を持っていた。
じゃあ、なぜ今のわたしはここにいるんだろう?
名前を忘れてしまっているんだろう?
もちろん、ちょっと考えたところで、簡単には分からなかった。
56:
もうひとつの可能性は、冗談のようなものだが、予知夢のようなものだという可能性。
あるいは、誰か知らない人が、わたしが寝ている間に、わたしの頭に直接交信しているとか。
……ばかばかしい、とわたしは思った。
まあ、ないとは断言できないけど、ちょっと考えにくい。
そういえば、今朝、階段で聞いたあの声。
あのときの声は、夢で聞いたそれに、少し似ていた気がする。
だとすればやはり、階段で聞いた声は、幻聴のようなものだったのだろう。
夢で見た声を、現実で聞いたように錯覚しただけだ。
ばかばかしい、とわたしは自分に言い聞かせた。そして溜め息をつく。
何を大真面目に考えているんだろう。ただの夢だ。シラユキだって、そう言っていた。
57:
そういえば、とわたしは思う。
昨晩、シラユキと一緒に眠ったときにみた夢は、いつもとは違った。
ここのところ、ほとんど毎晩のように彼の夢を見ていたのに、昨夜のものは違った。
どんな夢だっただろう? 漠然としたイメージすら、引っ張り出すのが難しかった。
でも、かろうじて思い出せる。
たしか、わたしは暗いところにいて、そして誰かと向かい合っていた。
誰か。薄い皮膜のようなものを挟んで、輪郭が歪んで見えた。
わたしはそれを、とても恐れた。
なぜ今日になって急に、そんな夢を見たのだろう。
何度試みても、夢のことが頭から追い出せない。
58:
わたしは立ち上がって、夢について書いてありそうな本を探すことにした。
これだけ蔵書があるのだから、あってもおかしくない。
でも、いくら本を読んでも無駄だという気もした。
仮にわたしの夢についてそれらしい注釈を付け加えてくれる本があったとしても、わたしはそれを信じないだろう。
だって、これは、そうした説明や理屈の、外側の出来事なのだ。分からないけど、そう思う。
でも、そういった直感とは別の話として、本を紐解いてみても無駄だった。
何冊か集めたが、むずかしくてほとんど理解できないのだ。なんだかごちゃごちゃとしていて抽象的だった。
諦めて、一度は集めた何冊かの本を棚に戻すことにした。
半分を戻し終えて溜め息をついたとき、かたん、と物音が聞こえた。
何かが、落ちるような音。
59:
「……シラユキ?」
声を掛けたけれど、返事はなかった。
背筋がざわざわする。シラユキなら、すぐに返事を寄越す。
そもそも彼女はこの時間、書庫には近付かないはずなのだ。
書庫はあまりに広いから。
ひとひとり隠れていたって、わたしはきっと気付かない。
「だれ?」
とわたしは訊ねた。頭の中でもうひとりの自分が嘲笑う。シラユキのほかに誰がいるっていうの?
でも音は聞こえたのだ。
ただの錯覚なんだろうか? わたしは神経質になっているのか?
おそるおそる物音のした方へと向かう。
ゆっくりと歩いたのは足音を忍ばせる意味もあったけれど、たぶん怖かったからだ。
心臓の震えがいやに大きく、警鐘のように感じられた。
警鐘? 何に対する?
60:
物音のした棚と棚の間を覗き込む。誰もいない。
けれど、本が一冊、床に落ちていた。
わたしは少し怖くなったけれど、さっき自分が歩いた棚だったので、そのとき何かの拍子に落ちたのかもしれないと思った。
ちょうど夢に関する本の一冊は、ここからとったものだ。今手元にあるうちの一冊がそれだった。
わたしは溜め息をついてから本に近付いた。
気にしすぎているのだ。単なる神経質。そうだろう。
わたしは一度、持っていた本を棚の元の位置に戻す。それから床に落ちていた本を拾い上げた。
心臓が凍るようだった。
それはわたしが、自分の部屋に持っていったはずの本だった。
そして、自分の部屋からなくなっていたはずの本だった。
61:
……落ち着け、と、わたしは思う。
やっぱり書庫から持ち出していなかった。きっとそれだけのことだ。
その本が、たまたまわたしが取った本の近くにあって、たまたま落ちてしまっただけだ。
そう、全部偶然。ありえないことじゃない。
……本当に?
そんなことが、本当にあるのか?
わたしは持っていた本を近くの棚の空いたスペースに突っ込んだ。
一刻も早く書庫を抜け出したかった。
地下室の出口に向かい、階段をのぼる。扉を開けると視界が少し眩む。
息を切らして廊下を駆け回った。一階を探し終えるとそのまま階段を昇って二階に向かう。
シラユキは二階の廊下を掃除していた。彼女はこちらを見て驚いた顔になる。
彼女が何か言う前に、わたしは彼女に抱きついた。走るのをやめると、とたんに体が震えだした。
62:
わたしはしばらく彼女が何を訊いても何も言えなかった。ただ怖かった。
「何があったんですか?」
シラユキは慌てた様子で何度も訊ねた。わたしはうまく答えることができない。
窓の外の雨音がいつもより緩やかなテンポに聞こえた。呼吸を整えるのに時間がかかる。
わたしは振り絞るような気持ちで口を開いた。
「シラユキ……」
唇が、うまく動かなかった。
「この屋敷に、わたしたち以外の誰かがいるの?」
「……え?」
シラユキの表情が凍る。
わたしには、もうそうとしか思えなかった。
もうこれを、単なる錯覚だとか、偶然だとか、そういうふうに考えることはできない。
63:
「何があったんですか?」
シラユキは、今度は真剣な声を出した。
わたしは彼女に抱きつく力を少し緩めて、深呼吸をした。怖さはなくならない。
そして、どうにか説明しようと思った。でも難しい。もどかしかった。
「とにかく、ここでは……」
シラユキが言いかけたとき、窓の外から雷鳴が響いた。
わたしは自分の身体をこの場に縫い付けるのに必死だった。
誰かがいるかもしれないことも恐ろしかったが、それだけではない。
昨日まではずっと同じだったことが、今日、そうではなくなっていることの方が、よっぽど怖かった。
68:
◇
わたしの説明を聞いて、シラユキは考え込むように頷いた。
それから書庫の様子を見に行くと言い出したので、わたしもついていくことになった。
書庫には近付きたくなかったが、シラユキからも離れたくなかった。
「あの、一緒に行くのはいいんですけど」
「なに?」
「裾、掴まれてると、ちょっと歩きにくいです」
「……」
「……あの」
わたしが答えないでいると、シラユキは困ったように溜め息をつく。
69:
書庫はやはり、薄暗い。シラユキは入口で一度立ち止まって辺りを見回したあと、ゆっくりと歩き始めた。
わたしは半ば引っ張られるようにしてついていく。
彼女は本棚と本棚の間を一列ごとにしっかりと確認した。
わたしもそれに倣う。人の姿はないし、物音もしない。ただ深い影が落ちているだけだった。
「ここ」
わたしは途中でシラユキの服の裾を引っ張って引き留めた。
「ここで物音がしたの」
シラユキは頷いて、わたしが示した方へと進む。
彼女の歩調がいつもよりいように思えるのは、気のせいだろうか。
70:
「何もないですね」
「……何かあったら、困るよ」
「何かあったから、ここに来てるんじゃないですか」
「そりゃ、そうなんだけど……」
わたしが黙ると、彼女はもういちど首を巡らせて周囲を窺い、ふたたび歩き始めた。
彼女は書庫の奥の壁を見つめて、少しの間黙った。ちょうど机と椅子が置かれているあたりだった。
「シラユキ?」
「……はい」
呼びかけると、すぐに返事が返ってきた。
「とにかく、ここは何ともないようですから、とりあえず上に行きましょう」
「……うん」
71:
でも、もしすべてがわたしの気のせいじゃないなら、おかしなことがあったのはここだけじゃない。
わたしの部屋、それから階段、この地下。
そのすべてに現れた何者かがいるとするなら、その人物は屋敷を自由に闊歩していることになる。
あるいは、複数の人間なのかもしれないが。
考えてみれば当たり前の話で、この屋敷はあまりに広い。
それに対して暮らしているのは二人だけ。
入口さえ見つければ、誰でも簡単に侵入して、隠れていることができる。
わたしたちに知られずこっそりと、屋根裏かどこかで生活することだってできる。
シラユキが掃除する時間にさえ気を付けていれば、空き部屋で堂々と生活だってできる。
あるいは、隠し扉みたいなものだってあるかもしれない。
「とにかく、戸締りをしっかりするようにしましょう。一応、確認して回ってみます」
「一緒に行く」
シラユキは少し戸惑ったような顔をした。
72:
「部屋で休んでいた方が……。鍵だって一応ありますし」
「その部屋に、誰かがいるかもしれないんだってば」
「でも、屋敷の中に既に侵入されているとしたら、どこにいても関係ないですよ?」
「もし別々に行動して、どちらかが不審者に襲われたらどうするの」
「襲ってくるような相手なら、今までに襲われている気がしますが……」
それを思えば、そうなのだけれど。でも、離れる気にはなれなかった。
「それに……」
と、シラユキは一度何かを言いかけたが、それを引っ込めた。
それから、気を取り直すように言葉を続ける。
「ひょっとしたら、村長さんが言っていた空き巣かもしれません」
「……空き巣」
73:
わたしは、あのときの声は村長だったのか、と少し場違いな気持ちになった。
空き巣? わたしは少し拍子抜けしたような気分になる。
でも、たしかに考えてみればそうだ。もし屋敷に忍び込んだのが空き巣なのだとしたら、納得できる。
……できる、か?
ただの空き巣が、わたしの部屋に忍び込んで、本を一冊だけ盗む。
それをご丁寧に地下の書庫まで返しに行く。そこで屋敷の主に遭遇し、本を落として音を立ててしまう。
あわててわたしに気付かれないよう、隠れるなりやり過ごすなりした……。
……なぜ、空き巣が、わざわざ本を返すのだ。
でも、もし襲ってくるような相手なら、そのときわたしの前に姿を現していただろう。
結局シラユキはわたしの同伴を認めて、一階から順に戸締りを確認していくことになった。
食堂に厨房、シラユキの部屋、大浴場、リネン室、ランドリー室。
応接間、書斎、ボイラー室、いくつかの空き部屋。
74:
「その空き巣って、どんな話だったの?」
「どんな、というと?」
「何か、盗まれたとか」
ああ、とシラユキは頷く。
「いえ、何も。ただ、不審な人影が何度も目撃されたみたいなんです」
「何度も?」
「はい。なんでも、そこら中の家に忍び込んでいたみたいで、出てくるのを見たって言う人が大勢いるそうなんです」
「……このあたりの防犯意識って、どうなってるの」
「まあ、小さな町ですからね。みんな顔見知り同士ですし、警戒心は結構、緩いんだと思います」
そもそも、とまたシラユキは何かを言いかけたが、口を閉ざした。
さっきから、彼女の様子はどこかおかしい。
75:
「でも、何も盗まれてはいなかったそうです」
「盗まれていない?」
「はい。お金も食べ物も、服も貴金属も、何も、です」
そもそも金目のものを狙うなら、こんな辺鄙なところではなく、もっと都会の方で盗むでしょうし。
どこか白々しい口調で、シラユキは言った。
彼女の態度は、何かを盗む人なんているはずがない、とでも言いたげだった。
そこには確信に近い何かが宿っている気がした。
怪訝に思いつつも、わたしは質問を続ける。
「でも、じゃあ、仮にその目撃された人影が本当だったら、何が目的なんだろう?」
外では雨が降り続いている。雲が青白く浮かんでいた。
窓を叩く雨粒の音が、静寂よりはましに思えた。
76:
シラユキはわたしの疑問には答えなかった。
不思議な沈黙だった。わたしはシラユキがの考えが手に取るようにわかった。
彼女はその疑問の答えが想像できているのに、わたしに対して口にしなかったのだ。
なぜかは分からないけれど、そのことがはっきりとわかった。
答えがなくても、わたしにも疑問の答えは想像できた。
何かを盗むでもなく、何度もさまざまな場所に侵入を繰り返しているとするなら、その人が探しているのは、何か特定の何かなのだ。
それがこの街にあるのは分かっているけれど、どの家にあるのかが分からない。
だから片っ端から侵入して確認した。と、そんなところだろう。
その空き巣が、侵入者?
何か明確な目的がある人が、なぜ本を盗んで、返したりするんだろう。
そうすることには、当然リスクが付きまとうのに。
77:
とはいえ、
『おいおい、大丈夫か?』
あの声、言葉を思い出すかぎりでは、なんだか真面目に目的を想像しても仕方ないような気もする。
屋敷の昔の住人の霊魂だとか言われた方が、まだ納得できそうだ。
ひょっとしたら、その人物は探していた何かをこの屋敷で既に見つけたのではないか。
そして、わたしたちに見つからないように、盗み出す機会を探っている。
だとするなら、本を盗んだりしたのは、そのための陽動なのかもしれない。
ただの想像だけれど、それは少し信憑性を帯びている気がした。
なんにしても、知らない人間が知らないうちにこの屋敷に侵入しているかと思うと、ひどく落ち着かない。
気味が悪い。背筋がぞわぞわする。
シラユキはさっきからずっと黙ったままだ。わたしは俯いて廊下の絨毯の赤色を見つめる。
78:
わたしは、訊ねるべきなのだろうか。
いったい何を隠しているのだと、シラユキに。
でも、そうしたら、きっと何かが変わってしまう。そんな予感があった。
「……ねえ、シラユキ」
「なんですか?」
「その……」
彼女は立ち止まって、きょとんとした顔でこちらを振り向く。
わたしは少しためらったが、諦めて口を開いた。
「トイレ、行きたいんだけど……」
「……はあ」
呆れた顔をされて、頬がかすかに熱くなった気がした。
79:
「じゃあ、ここで待ってますね」
「……あの、一度離れると、何かあるかもしれないし」
「何も起こらないと思いますよ」
「でも、万が一ってこともあるし……」
シラユキは少し間を置いて、くすくすとおかしそうに笑った。
「近くまでついていきます。それでいいんですよね?」
「……うん」
わたしはいじけたような気持ちで頷いた。
84:
◇
屋敷中見て回っても、結局何も見つからなかった。
わたしはどうしても一人になりたくなくて、掃除や洗濯をこなすシラユキの後ろをずっとついて回った。
最初こそ困った顔をしていた彼女も、そのうち慣れてしまったらしく、言葉さえ交わさなくなった。
シラユキが廊下や空き部屋を掃除する間、わたしはずっと考え事をしていた。
でも、自分が何を考えているのかよく分からなかった。
それは不思議な感覚だ。自分は何を考えているのだろう? と気付けば考えている。
その答えが分からなくなる。どうして分からなくなるのだ? 分からない。
そしてふと思い出す。わたしは、自分が何を考えているのかを、考えているのだ。
そうした多重的な感覚に、気付けば溺れている。要するに何も考えていないだけだ。
85:
昼食を取ったあとも、シラユキの仕事は続く。わたしはそれを追いかける。
夕方を過ぎ、日が沈み、雨音が夜の闇に沈む。
夕食を作らなくては、と言ったシラユキを追って、わたしも厨房へ向かう。
シラユキは、さすがに不審そうな顔をした。
でも、わたしにもよく分からなかったのだ。
なぜこんなにも、シラユキから離れたくないのだろう。
それは、屋敷にいるかもしれない誰かが怖いからではないような気がした。
わたしが恐れているのは、もっと根源的なものだという気が。
不意に、頭の中が軋むような痛んだ気がした。
86:
そもそもわたしは、自分がなんなのかすら、よくわかっていない。
何が起こっているのかも、まったくわからない。
考えるな、とわたしは思った。忘れるんだ、何もかも。
不思議なことに、頭の中でそう念じるだけで、痛みは最初からなかったかのように消えてしまう。
わたしはいったい、何をそんなに考え込んでいたんだろう。
余計なことなんて考えなくてもいい。忘れてしまったって、かまわない。
『駄目だ』と、どこかで誰かが言った気がした。
雨が降り続いている。明日の朝は散歩でもしよう。
雷の音は、もう聞こえない。
87:
◇
夕食を食べ終えて、シラユキが食器を片づける。
部屋に戻る気にもなれなかったけれど、シラユキを追いかける気にもなれなかった。
わたしは食堂の自分の席に座り、ぼんやりとしていた。
不思議なことはもう起こらなかった。
朝からいろいろなことがあったせいか、体がひどく重い。
そういえば、屋敷中を歩き回ったのなんて、久し振りかもしれない。
久し振り。
久し振りと感じるということは、以前にも似たようなことをしたことがあるのだろう。
でも、いつなのかは思い出せない。わたしはいつからこの屋敷にいたんだろう。
頭が、また痛んだ。
88:
シラユキが洗い物を終えて戻ってくる。彼女は食事を作るのも片付けるのも、手際がいい。
もっとも、二人分なのでそう手間がかからないだけかもしれないが。
今日は買い物に行かなかったから、明日、シラユキは街に行くのだろう。
そうだとすれば、わたしはこの屋敷にひとりで残ることになるのか。
そのことを考えると、追い払ったはずの不安が、ふたたび胸の中で疼いた。
「部屋に、戻らないんですか?」
「……」
「不安なのは分かりますけど、お風呂に入って寝ちゃった方がいいですよ」
「……シラユキ」
「はい?」
「ずっと不思議だったんだけど、シラユキは今回のこと、そんなに怖がってないみたいだね」
89:
彼女は少し困ったような顔になる。わたしは少し後悔した。
「わたしには直接、何かが起こったわけではありませんから。上手く実感できないのかもしれません」
「……でも、本当に誰か隠れていて、何か起こったら」
シラユキは黙り込む。彼女の反応はおかしい。……おかしい、と思う。
もしかしたら、わたしの方がおかしいのかもしれないけれど。
だってわたしは、『この世界』について何も知らない。
どうするのが普通なのかなんて、分からない。
でも、このまま眠って、その間に何かが起こったら……?
シラユキだって、そういう可能性に気付いていないわけではないだろう。
わたしはじっと彼女の答えを待った。
90:
「いくつか、理由を言うことはできます」
ゆっくりと口を開いたシラユキの表情は、どことなく考えをまとめるのに苦労しているようにも見えた。
「まず、本当に誰かがこの屋敷に忍び込んでいても、わたしにはそれをどうすることもできません。
仮に屋敷中見て回ったとしても、わたしの目を盗んで他の場所に隠れているだけかもしれないですから。
そうである以上、可能性を完全に払拭することはできません」
シラユキはわたしの瞳をじっと見た。わたしはどう反応すべきなのかを迷った。
「それにこの屋敷のすべての出入り口を、わたしは完全には把握できていないんです。
だからわたしの知らない通路なりなんなりがあるとしたら、わたしはどうしてもそれを防げない。
このふたつに関しては、わたしの力不足です」
シラユキが、この屋敷の出入り口について、完全には把握できていない。
わたしは何よりもまず、そこに驚いた。彼女はこの屋敷のすべてを把握しているような気がしていたのだ。
91:
「それから、この屋敷に人を呼んで見張りをしてもらうこともできません。
街にはあまり人がいませんし、ここは丘の上ですし……。
ましてや、そうなると寝ずの番か、それに近いことをしてもらうことになります。
証拠もなしにそんなことをしていただくわけにはいきません」
そこでシラユキは少し嘘をついた。……と、思う。
直感的に、彼女は建前を口にしているのだと分かった。
人を呼べないのではなく、呼びたくないのだ。
わたしを、街の人々に会わせたくないのだ。なぜなのかは、分からないけど。
「それから、仮に誰かが忍び込んでいたとしても」
シラユキは、どう説明するかを迷うように、一瞬、躊躇した表情を見せた。
「根拠は言えませんが、わたしたちに危害を加えることはないと思います」
「……なぜ?」
彼女は困ったような顔をした。またこの顔だ、とわたしは思う。
この顔をされると、わたしはもう何も言えない。
92:
けれど最後に、ひとつだけ、わたしは訊ねることにした。
「本当に大丈夫だと思う?」
「はい」
確信めいた声で、シラユキは言う。
もちろん、正直に言って疑わしいところだったけれど、かといってこれ以上言えることもなかった。
わたしは溜め息をついて、それならば、と思う。
「ね、せっかくだし、一緒にお風呂に入ろう?」
「……待ってください。何が"せっかく"なのか、よく分からないです」
シラユキは戸惑ったような声をあげた。
「シラユキの言う通り本当に何もないとしても、気を付けておくに越したことはないし」
気を付けるっていうなら別々に入って、それぞれ見張るとか、方法があると思うんですけど、と彼女は俯く。
93:
「だめかな?」
「子供じゃないんですから」
彼女は一度そう言ってから、
「……あれ、子供ですかね?」
と首をかしげた。
「子供でいいから」
わたしが言うと、彼女はまた困った顔をする。
今度はさっきより、いくらか穏やかな表情だった。
「わかりました。今日だけですからね」
「浴場は大きいんだから、いつも一緒でもいいのに」
「……まあ、そういう言い方をすれば、そうなんですけどね」
94:
◇
それからわたしたちは一緒にお風呂に入って、シラユキの部屋で一緒に眠った。
不思議と、穏やかな夜だった。雨の音がとても優しく聞こえるような。
外を見れば満天の星が見られるんじゃないかと思えた。月が煌々と夜の森を照らしているんじゃないかと。
でも、現実にはそうじゃなかった。雨粒が窓を叩いているうちは、空は雲に覆われているのだ。
けれど、わたしの傍にはシラユキがいたし、星が見えないこともさして悲しくはなかった。
シラユキさえ傍にいれば、どんなことが起きても平気な気がした。
それは本当だ。少なくとも、そう信じている。
でも、じゃあ、シラユキがいなくなったら、わたしはどうするんだろう。
シラユキがいなくなったら……。
その想像は、あまりうまくいかなかった。
わたしはなかなか寝付けず、すぐそばで静かな寝息を立てていたシラユキの手のひらに触れた。
95:
手のひらの感触。
わたしが触れた瞬間、彼女の指先がぴくりと動いた。
でも、それだけだった。目を覚ますこともなかったし、握りかえしてくれることもなかった。
わたしは瞼を閉じて、雨のことを考えた。
それから今日の出来事を思い出して、シラユキのことを考えた。
丘の下の街のことを考えて、屋敷の近くの森のことを考えた。
そういえば森の奥には古い井戸があった。ひどくみすぼらしい井戸。
でも、だからなんなんだろう。どうして今そんなことを考えたんだろう。
ぼんやりとどうでもいいことを考えているうちに、わたしは眠ってしまっていた。
96:
◇
夢を見ている。
暗い場所。また同じ夢だ。わたしは、その人と向かい合っている。
水面越しの歪んだ輪郭。それが誰なのかは分からない。
わたしは彼女を恐れている。彼女もまた、わたしを恐れている。
そこで終わる夢かと思った。
けれど、彼女は、輪郭を歪ませたまま声をあげる。
くぐもった音。わたしはその声をうまく聞き取ることができなかった。
何を言おうとしているのか、ほとんど分からない。
でも、ところどころ聞きとることもできた。
「醜い」と声は言っていた。
「どうしてそんなに、醜いのか」と。
声はわたしに、そう言っている気がした。
100:
◇
目を覚ますと、わたしはひとりだった。
まるで同じ一日を再現しているかのように、シラユキは既にベッドにいなかった。
わたしは奇妙な感覚にとらわれる。いやな夢を見たというのは、思い出せる。
でも、もっと別の、予感めいたざわめきがあった。
なんだろう?
窓の外の空は、まだ明るくなりはじめたばかりのようだった。
わたしはシラユキの姿を探して部屋を出る。
やはり肌寒い。わたしはなんだか不安になる。
海の底のような暗さの、凍ったような空気。
この屋敷の朝は、いつもその空気に包まれている。
101:
その静寂は、物寂しげで、悲しげで、ひどく寒々しい。
窓から差す蒼白い光。それも、慣れてしまえば心地よくなる。
だからわたしは、どれだけ寒くても、この朝の引き締まった空気が好きだ。
でも、今日は何かが変だった。いや、今日も、か。
廊下を歩いて、わたしは厨房に向かう。シラユキの姿はない。
じゃあ、食堂かどこかだろうか。思いついたところを探してみても、彼女の姿はない。
不思議な感じがした。シラユキは普段、こんなに朝早い時間から動き回ったりしないのに。
シラユキの様子は近頃変だ。……いや、変なのはわたしなのだろうか?
どっちなのかは分からない。いずれにしても、何かが……変だ。
102:
わたしが玄関ホールの近くに行くと、話し声が聞こえた。
誰かがいる。
「……ですけど、本当に」
シラユキの声だった。わたしは姿を現すのを躊躇する。
彼女は、客人が来たときは隠れていてほしいと言っていた。
わたしはどうすればいいか分からずに、少しの間そこにとどまった。
戸惑うようなシラユキの言葉に対して、話の相手はすぐに返事を寄越した。
「ただの確認です」
声は言った。低い、太い声。男の声だろう。わたしは男の人の声をはじめて聞いた気がした。
あのとき階段で聞いた声が幻聴だったら、本当に初めてだ。
わたしはホールの脇の壁に隠れて聞き耳を立てた。
103:
「例の人影が、この屋敷の方に向かうのを見た者がいるのです」
すぐに、例の空き巣の話をしているのだと分かった。
わたしは壁にもたれて静かに溜め息をつく。男の神経質そうな声。なんだか、無機質な印象を受ける。
「……ですが、本当に、何も起こっていませんから」
わたしは戸惑う。
どうしてシラユキが嘘なんてつくんだろう?
それとも、彼女はわたしの言ったことを信じなかったのだろうか?
そんなわけは、ない、と思うのだけれど。
「ですから、確認なのです。ご存知でしょう。私の仕事です。仕事はしなくてはならない。
規則です。規則は守らねばなりません。じっさい私は、人影が目撃された家のすべてを自分の目で確認しました。
この屋敷も確認しなければなりません。例外はありません。規則なのです」
104:
堅苦しい口調で話すその男に、わたしはなんだか嫌な気持ちになった。
声に抑揚というものがないのだ。色というか、気配というか、そういうものがなかった。
生きている感じがしないのだ。下界の人間はみんなそうなのだろうか?
だが、話の大体の流れは理解できた。
「ですが、本当に問題は起こっていないんです。なんともないんですよ」
「これまでもそうでした。ですが皆、侵入者の確保のために協力してくれました。
あなたがそうしてくれることを私は望んでいますし、そうしてくれるはずだとも思っています」
「侵入者」とは変な言い方だ。空き巣ではないのだろうか。
つまり男の方は、本当に空き巣が屋敷の中にいないのか、取られたものはないのか、確認したいのだろう。
そしてシラユキは、なぜかはわからないが、それを拒絶している。
たぶん、わたしの存在を知られたくないという理由で。
105:
シラユキはしばらく黙りこんだようだったが、やがて諦めたように口を開いた。
「わかりました。ただ、少しの間待っていていただけませんか? 屋敷の中を少し片付けさせてください」
「なぜです?」
「散らかっているので……」
「気になりません。私は仕事で来ています」
「申し訳ないですが、わたしが気にするのです」
「……あなたが?」
男の声には一瞬、底冷えするような冷たさが宿った気がした。
「……はい」
どことなく緊張した様子で、シラユキは答えた。わたしはホールと通路の出入口から少し距離を取る。
「わかりました。まあ、ただの確認ですからね。少しの間待たせていただきます」
「……申し訳ないのですが、こちらでしばらくお待ちいただいてよろしいですか?」
「かまいませんよ。なるべく早くお願いします」
106:
わたしは通路を逆戻りし、玄関ホールから距離を取る。
シラユキとすぐ近くで言葉を交わすわけにはいかなかった。
わたしが厨房の付近まで移動したとき、シラユキは玄関ホールの方から姿を現した。
シラユキは口元に人差し指を立てて当てた。真面目な表情だった。
彼女とわたしは厨房の中に入り、小声で言葉を交わした。
「話、聞いていましたか?」
「……途中から」
怒られるかと思ったが、シラユキはそこをあまり気にしていない様子だった。
「どこか、隠れられる場所に心当たりはありますか?」
「……分からない。ねえ、どうして隠れなくちゃダメなの?」
「あとで説明します。とにかくわたしが村長さんを案内します。
あなたはできれば、長い時間隠れられて、見つからない場所を探してください」
「そんな場所なんて……」
107:
シラユキは困った顔をした。わたしも困った。
書庫だろうとどこだろうと、しっかりと探されれば見つかってしまう可能性は拭えない。
「そんなにしっかりとは確認しないと思うんです。どこか見つからないような場所なら……」
「それって、どこ?」
彼女はだんだん追いつめられたような表情になっていった。悲しそうな、必死そうな顔。
わたしは彼女がそんな顔をする理由が分からなかった。
わたしは気付けば、
「分かった。なんとかしてみる」
と答えていた。
シラユキはようやく安堵したような顔になった。
それから少しの間、隠れる場所を一緒に考えた。
108:
窓の外は雨が降っている。森の中に逃げ込めば隠れることはできなくはないが、傘は玄関にしかない。
何より、廊下の窓から見つかるかもしれなかった。
どこかの空き部屋のクローゼットやベッドの下は、いざというときに逃げることができない。
かといってボイラー室や書庫なんかでは、しっかりと探されたら見つかってしまう。
運が良ければ見逃してもらえるだろうけれど、やっぱり不安はある。
他にどんなことが場所があるだろう。
考えれば考えるほど、隠れることがバカバカしくなってくる。
とはいえ、シラユキが言うのだから仕方ない。何か理由があるに違いないのだから。
「……書斎は?」
わたしの声に、シラユキは少し考え込むようにしていた。
誰も使うもののいない書斎。そこには書庫ほどではないが本があり、暖炉があった。
書斎には簡易なクローゼットがあるし、身を隠す場所は一応あった。
一階だし、窓があるからいざとなれば外にも逃げられる。
109:
シラユキは少し不安そうな顔をした。
でも、他のどこでも同じなのだ。彼女は最後に覚悟を決めたように頷いた。
「じゃあ、書斎の中に身を隠して、内側から鍵をかけてください。
中に入るときはわざと音を立てますから、それから可能なかぎり隠れていてください」
「……鍵なんてかけたら、怪しまれるんじゃ」
「大丈夫です」
シラユキはまた、妙に確信を込めた声を出した。
下界の人間について何かを言うとき、彼女はときどきこんな声を出した。
「わかった。じゃあ、隠れてる」
シラユキは間を置いて玄関ホールに戻ると言った。わたしはすぐに書斎を目指す。
どうしてこんなことをするのかは分からない。どうして会ってはならないのだろう。
でも、わたしだって彼に会いたいわけじゃない。
むしろ、あの男の声からは、なにかいやな感じがした。
110:
◇
書斎に行ってみて思ったのは、クローゼットには隠れられないということだった。
あまりに「あからさま」過ぎるのだ。
もし何者かがいるかもしれないという前提で家探しするとしたら、わたしならまず見逃さない。
とはいえ、他に隠れられそうな場所はない。
こんなことなら書庫に行けばよかったかもしれない。
本棚の隙間を移動しながらやり過ごすことができたかもしれないのに。
わたしはひょっとしたらと思い、本棚の裏に隠し扉でもないかと壁を触ってみた。
埃が手のひらについただけだった。
あとは書斎机の下に潜り込むこともできるが、見逃してもらえるとは限らない。
その後ろには暖炉がある。
中庭側と森側、両方の壁に窓があった。だが、廊下の窓からも見えない場所じゃない。
上手くやれば見つからないだろうが、あくまでも「上手くやれば」だ。
手間取って見つかる可能性の方が大きいように思う。
111:
さて、とわたしは思う。困った。手詰まりだ。
ためしに机の引き出しを開けてみる。たいしたものは入っていない。
簡単な文具や羊皮紙なんかが入っているだけだった。
事務机が事務机であるための義務を果たそうとしているみたいに見えた。
二段目には懐中電灯と、双眼鏡、それから拳銃といくらかの銃弾が入っているだけだった。
たいして役にも立たない。三段目には何も入っていなかった。四段目も同様。
焦っているうちに、廊下の方から足音が聞こえた。
わたしは慌てて机の下に隠れる。鍵を開けようとする音。
シラユキはゆっくりと時間をかけて、鍵を開けようとしていた。
どうしよう、とわたしは思う。見つかってしまう。このままでは、すぐに。
112:
やっぱり書斎はだめだったんだ。見つかってしまう。見つかったらどうなるんだろう?
わたしはシラユキの表情を思い出した。あの悲しそうな顔。
彼女はわたしに猶予を与えようとして、静かに書斎の鍵を開けようとしている。
「どうしたのです」
と男の声が扉越しに聞こえた。
「すみません。どれがここの鍵か、分からなくなってしまって……」
シラユキは困ったような声で言った。
いくら時間を稼いでもらっても、わたしはもうどうしようもない。
どうしようと思った、そのとき。
小さな声が聞こえた。
「こっちだ」
気配をひそめた、静かな声。わたしは思わず息をのんだ。
声は暖炉の方から聞こえた。目を向けると、暖炉の奥から腕が伸びている。しかも手招きしていた。
113:
思わず声をあげかけて、口元を押さえる。
「早くしろ。見つかりたいのか」
声は言う。わたしは少し迷ってから暖炉を覗き込んだ。
強迫観念に近い感覚。わたしはあの無機的な男から逃げなくてはならない。
暖炉の中は意外と広かった。それこそ本棚のひとつくらい入りそうな広さだ。
手は右側の底から伸びている。どうやら穴が開いているようだった。
わたしが近付いてきた気配に気付いてか、腕が引っ込む。
わたしはその中を一度覗き込んだ。暗くてよく見えない。
昨日、屋敷中を見て回ったときは、この暖炉は見逃していた。暗くて、中がどうなっていたかなんて気にしなかったのだ。
扉が開く音。暖炉の位置は書斎机に隠れているが、猶予はない。
足音。わたしは焦って、穴の中に足から飛び込んだ。
思ったより高さはなく、足はすぐついたが、階段のようになっているらしい。
慌てて体を屈める。意外なほど、空間は広がっていた。
わたしの身体が完全に暖炉の下に入ると、静かに、何かが閉じる音がした。
かすかに差し込んでいた光がなくなり、真っ暗になった。蓋? 蓋が閉められたのだ。
114:
「喋るなよ」
とその人は小声で言った。
かちり、という音がして、辺りが微かに明るくなる。
ささやかな灯り。ライターに火をつけたらしい。
光は慰め程度のものだったけれど、それでも完全な闇の中では、たしかに役に立つ。
そしてわたしは、相手の姿をようやく見ることができた。
わたしは声をあげなかった。
「ひやひやしたな」
とその人は言った。
声をあげなかったのは驚かなかったからじゃない。
あまりに混乱していて、自分が声を出すべきかどうかすら分からなかったのだ。
118:
◇
灯りに照らされてみて、暖炉の下には想像以上のスペースがあったことに気付かされる。
目の前に立つ誰かは、わたしの姿を見て一度怪訝そうに眉をひそめた。
黒いっぽい服。歳は、わたしやシラユキよりもいくらか上という程度か。
背はわたしより二回りほど大きかったが、大人というよりも青年と呼ぶのが近い。
髪は黒く、瞳は焦げ茶色。目つきは鋭いが、雰囲気に冷たさはない。
「ここで話をしたら、上に聞こえるかもな。移動するぞ」
その声に、わたしはハッとする。明かりに照らされて、空間の輪郭が浮かびあがっている。
黴の匂いと地下の冷気。どこかに繋がっているらしい。
「あなた、誰?」
わたしは「ここで何やってるの」や、「どうしてこんな通路を知っているの」を先に聞くべきだったかとも思った。
「静かにしろ」
男は嗜めるように言う。わたしはとりあえず従った。他にどうすべきか分からなかったから。
まさか書斎の方に戻るわけにもいかないし、第一わたしは灯りになりそうなものを持っていない。
119:
ついていくしかなかった。
「しばらく隠れていなきゃいけないんだろ?」
通路を歩きながら、男は静かに口を開いた。奇妙なことに、気遣うような響きを感じた。
わたしが咄嗟に答えられずにいると、男は振り返る。
「……おい?」
わたしは覚悟を決めて、もう一度訊ねる。
「あなた、誰?」
彼は溜め息をついた。わたしはなんとなく嫌な気持ちになる。
でも、彼の方はもっと嫌そうな顔をしていた。結局彼は答えなかった。
それからお互い黙り込んだまま、しばらく歩いた。
何をどうすればいいのか、分からなかった。足元の感触がぼんやりしている。
120:
男は何の前触れもなく立ち止まった。わたしも立ち止まって距離を取った。
それから彼は、わたしの方を振り返る。
射抜くような視線に、わたしは目を逸らした。
彼が例の空き巣で、下界の人間が言っていた人影なんだろうか。
疲れ切ったような顔をしている。ひどく、頼りなく見えた。
「覚えていないな?」と彼は言った。
「……何を?」とわたしは訊ねた。
彼はライターの灯りを消した。わたしは何かをするつもりなのかと思い、身構える。
でも、何も起こらなかった。深い暗闇が帳のように降りてきただけだった。
121:
「まあ、いいか」
彼はそう言って溜め息をついたようだった。真っ暗な空間に、声は静かに反響する。
が、わたしからすれば、ぜんぜんよくない。
「あなた、わたしを知ってるの?」
その質問に、彼は答えなかった。
わたしは、自分が不思議なほど落ち着いていることに気付いていた。
男の人に会うのは、というより、シラユキ以外の人と話すのは、初めてなのに。
「この通路を歩いていくと、道がいくつかに分かれてる」
彼は一方的に話を始めた。わたしは、どうするべきか分からない。
「通路にはさっきと同じような扉がある。確認した限りでは書庫にも入口があった」
書庫、とわたしは思う。
「あなた、このところ屋敷の中をうろついていた人?」
122:
彼は躊躇した様子もなく答える。
「そうだよ。お前の部屋から本を持ち出したのも、それを書庫に戻そうとしてお前と鉢合わせしそうになった間抜けも。
それから真っ青な顔で階段を降りようとしていたお前に咄嗟に声を掛けたのも、俺だ」
「……なぜこの屋敷に?」
「答えたって今のお前には分からないよ」
「今の、って、どういうこと?」
彼はまた黙り込んだ。答えてくれそうな様子はない。
「あなた、どうしてこの屋敷にいるの?」
「お前、名前は?」
彼は質問に質問で返す。わたしは戸惑った。答えがもらえなかったことに、ではない。
わたしには、名前がないのだ。今度はわたしが黙り込む番だった。
123:
「なあ、俺は別にお前をいじめたいわけじゃない。むしろ逆だよ。本当は」
「……なに、それ」
「でも、言えることと言えないことがあるんだよ。俺にだってどうするのが最善かなんてわからないんだ」
彼が何の話をしているのか、わたしには、よく分からなかった。
「俺がこの屋敷にいるのは単純な理由だ。『あるもの』を取り戻しに来た。
丘の下の街にやってきてから、そこら中探しまわってたんだけど、結局この屋敷で見つけた。
でもどうやって取り戻せばいいか分からないんだよ。ただ持ち出しておしまいってわけにはいかない。
乗り込んできたのはいいが、俺はそのあたりのことをまったく考えていなかった。手詰まりだったわけだ」
「……『あるもの』って?」
「仕方ないんで、お前らふたりの生活をしばらく隠れて見張っていた。
話を盗み聞きしたりはできなかったけど、屋敷の構造はだいたい掴めた。
何もしないでいると退屈したから、誰もいないときにお前の部屋から本を盗んだ。暇つぶしだよ」
わたしの質問に、彼は一切答えない。わたしはいまさらのように怖くなりはじめた。
124:
「まあ、お前の部屋の様子を観察する意味もあった。
普段はなかなか隙がなかったから忍び込めなかったしな。
それに、あんまり動きがないから、そろそろ姿を見せてもいい頃だとも思った」
真っ暗な通路に彼の声だけが響く。
頭の奥がずきずきと痛む。
「階段でふらふらしていたお前を見かけたときは、思わず声を掛けた。
あんまりにも様子が変だったから。本を取ったのを少し後悔したよ。
そのあとまずいと思ってすぐに隠れた。人がいたからな。奴らに見つかるわけにはいかなかった」
「奴ら?」
「それから俺は他の入口から通路を使って、書庫に行った。結構いろんな場所に繋がっているもんなんだよ。
お前ら、生活していて良く気付かなかったな。気付きたくなかったのか、気付かないふりをしていたのか」
125:
「ねえ」
「まあどっちでもいいか。あとはだいたい想像する通りだと思うよ。それにしたって不健康な場所だ」
「ねえってば!」
わたしは怒鳴り声をあげた。頭の奥の痛みが鋭さを増す。男が、息をのんだように聞こえた。
「さっきから、何を言ってるの?」
必死の思いで声を絞り出す。彼の反応は、分からない。
どうしてわたしはこんなところで、知りもしない男に、分かった風なことを言われなくてはならないのだろう。
男はわたしの質問に答えるかわりに、ライターに火をつけた。
「そろそろ戻ろう。いいかげん書斎は調べ終えている頃のはずだ」
わたしは何も言えなかった。すごく嫌な気持ちだった。
でも何よりも嫌だったのは、わたしが彼の言葉に従わなくてはならないということだった。
灯りを持っているのは彼。この通路の構造を知っているのも彼。
わたしについて、何か知っているらしいのも彼。
126:
わたしは別に、自分のことを知りたいわけじゃないのだ。そのことに気付いた。
シラユキと一緒に暮らせれば、それでいい。
なのにどうして、そっとしておいてくれないんだろう。
誰が、わたしたちの生活を壊そうとしているんだろう。
いったいなぜ、わたしたちの生活に変化をくわえようとするんだろう。
どうして、こんなふうに、見ず知らずの男に、観察されたり、好き勝手言われなくちゃいけないんだろう。
「あのメイドのことは信頼しすぎるなよ」
男は、付け加えるように言った。わたしは顔をあげて彼を見た。
どうして彼が、そんなことを言うのだ。
泣き出したいような、笑い出したいような、よく分からない気持ちだった。
「あいつがなんなのかは知らないが、それでも『ここ』の住人ってことは確かなんだ。
引きずり込まれると、戻れなくなる。絶対に信用するな」
わたしは、結局笑った。
「その言葉を、わたしが信用すると思うの?」
127:
のしかかるような沈黙。わたしは言葉にしたことを少し後悔した。
けれど結局、彼は穏やかな、諦めたような、傷ついたような静かな声で、
「そうだな」
と頷いただけだった。
「……あなたは、わたしがなぜ書斎に隠れようとしたか、知っているの?」
わたしは最後に、それだけを訊ねることにした。
「別にお前がどう考えていたかは知らなかったよ。でも、お前を奴らに会わせたくなかった」
「そういう言い方をするっていうことは、あなたが言う『あるもの』というのは、わたしに関係があるんだよね?」
彼は静かに舌打ちした。肯定だ。
128:
「なぜ、会わせたくないの?」
「あのメイドに、その質問をしたか?」
「……シラユキは、はぐらかした」
「"シラユキ"?」
その名前を聞いたとき、彼の雰囲気がはっきりと変わった。
それから彼は口の中で何度も繰り返す。シラユキ、シラユキ。
「まあいいさ。出ようぜ」
「……わたしが下界の人たちにあなたを引き渡すのが先だとは思わないの?」
「お前にはできないよ」
129:
彼はいやに自信ありげに言った。
それから何かをぶつぶつと呟く。
彼の話していることは、わたしにはまったく理解できなかった。
違う言葉で話しているようだった。それともわたしが、無知が原因なのか。
彼は暗い通路を歩いていく。
わたしは不安な気持ちを抱えたまま、それについていった。
どうするべきだったのだろう。わたしには何も分からない。
あるのはただ、頭の奥の、軋むような痛みだけ。それ以外のことは、何も分からなかった。
雨の音が聞きたいなと思った。
ここからは雨の音が聞こえない。だから頭が痛むんだ。
大丈夫。何も変わったりしない。大丈夫。
祈るような気持ちで、わたしは自分に言い聞かせた。
134:
◇
通ってきた道を遡っていくと、やがて小さな階段が通路の脇に現れた。
さっき降りてきたものだろう。彼は階段の上部に突き出た取っ手のような部分を掴んだ。
持ち上げるように押すと、それは重々しい音をあげながら開いた。
光が目を刺す。彼はライターの火を消し、身を低くして階段を昇った。
上半身を地下から出して、彼は暖炉の外の様子をうかがった。物音はしない。
彼は暖炉から抜け出して、わたしを手招きした。わたしは不服に思いながらそれに従う。
ずっと薄暗いと思っていた曇り空も、真っ暗な場所から出てきたあとだと、明るく感じる。
雨の音が聞こえて、わたしはほっとした。
地下にいたのはほんの少しの間だけなのに、わたしは疲れ切って溜め息をついてしまった。
これからどうすればいいのだろう。
目の前にいる男に対して、わたしはどうすればいいんだろう。
135:
彼は窓際にはあまり近付かず、部屋の様子を眺めた。
わたしはその姿を確認しながら、書斎机の二段目の引き出しを開ける。
彼には見えないように拳銃を取り出し、シリンダーを出して弾を込めた。
物音に気付いたのか、彼はわたしの方を振り返る。
机を挟んでいるから、屈みこんだわたしが何をやっているのか、すぐには分からないだろう。
シリンダーを押し戻す。右手で握り、左手は添えた。撃鉄は起こさなかったし、銃口は向けなかった。
「あなた、誰?」
彼は怪訝そうに眉をひそめたあと、わたしの手元を見て引きつったような笑みを浮かべた。
思ったよりもずっしりと重い。持ち上げるのに苦労するくらいだ。
一分も構え続けていれば、腕が震えだすかもしれなかった。
136:
「何をしてるんだよ、お前は」
「答えて。何が目的なのか。これからどうするつもりなのか」
彼は小さく舌打ちした。わたしは努めて無表情を装う。
「あの男は、たぶんまだ屋敷の中にいる。銃声が聞こえれば飛んでくるぞ」
「撃つつもりはないから、安心して。何も持ってないのと一緒だよ」
だいいち、痛そうだしね。わたしが言うと彼は表情をくしゃりと歪めた。
「わたしはここで、シラユキと暮らしていくの。ずっと。ねえ、あなたの目的はなに?」
彼は黙り込んだ。視線は逸らさない。
一瞬彼は、泣き出しそうな顔をしたように見えた。たぶん錯覚だろう。だって、本当に一瞬だけだったから。
窓の外では何事もないかのように雨が降り続いている。中庭には水溜りができていた。
こんな日には、傘をさして森の中を散歩したくなる。彼のことが片付いたら、そうしよう。
137:
やがて、彼はわたしから視線を逸らした。
銃を持っている相手から、視線を逸らすものだろうか、普通。
いや、わたしには、何が普通なのかなんてわからないんだけど。
あるいはそれは降伏の宣言なのかもしれなかった。
「……シラユキと話をさせてくれ」
「ねえ、冗談でしょう?」
わたしは撃鉄に指を添えた。
「どうしてわたしが、あなたをシラユキに会わせなきゃいけないの?」
「本来、こういう台詞は好きじゃないが、俺を殺せばシラユキが悲しむよ」
138:
「そうかもね」
自分で思ったよりも冷たい声が出て、わたしは少し怖くなった。でも、言葉は自然に続けられた。
「それで?」
わたしはなんだか拍子抜けした気分になる。
この男も結局、死ぬのを恐れているのだ。得体のしれない何かなんかじゃない。
生きた人間だ。当然と言えば当然か。そうだ。彼は生きている。だから死ぬのが怖い。
そう思うと身体の中の熱が急激に冷めていくのを感じた。頭に血が昇っているわけじゃない。
わたしはとても冷静だ。
「なあ、聞いてくれ。俺はお前たちに危害を加えたいわけじゃない」
「うん。そうかもね。でも、そうじゃないかもね?」
139:
彼の肩からふっと力が抜けたのが分かった。
そして、彼は息を深く吸い込んだ。
「お前がそんなんだから、俺がここにいるんだろうが!」
怒鳴り声のあと、奇妙な静けさが書斎の中を支配した。
わたしはその声の大きさにも驚いたけれど、それよりも何か変だと思った。
どこかで聞いたことのある声だ。どこで?
いや、どこでもない。わたしにはこの屋敷以外の記憶はない。
シラユキ以外の人と会ったことなんて、ない。
でも、わたしは急にばかばかしくなった。沈黙を雨音が埋める。
足音は聞こえないから、今の怒鳴り声はシラユキたちには聞こえなかったのだろう。
140:
「分かった。シラユキに会わせる」
わたしは拳銃から弾を抜いてテーブルの上に置いた。
何か反応を見せるかと思ったけれど、彼は胸を撫で下ろしただけのようだ。
「しばらく待って。あの男が帰ったあと、たぶんシラユキはこの部屋にやってくると思う」
「ああ、分かった」
さっきまでの余裕ありげな態度ではなかった。
彼は忌々しげな表情で俯く。飼い犬に手を噛まれたような表情をしていた。
とすれば、わたしは彼の飼い犬なのか。それは笑えない冗談だ。
わたしは溜め息をついて窓辺に近付いた。森の様子は今日も変わらない。
植物になりたいなあとわたしは思った。そうすればきっと誰も傷つけないで済む。
頭の奥の方が、軋むように痛んだ。
141:
◇
シラユキが書斎に現れるまで、わたしたちの間には会話ひとつなかった。
会話の予兆のようなものすらなかった。ただお互いを、いないものとして扱うように努めた。
わたしは自分を調整するのに必死だった。彼はわたしを刺激しないために必死だったのだと思う。
シラユキが書斎に姿を見せたのは、わたしが空腹をこらえきれなくなった頃だった。
まず彼女は、見ず知らずの男がわたしと一緒にいることに気付き、動揺した。当たり前だ。
男を問い詰めようとするシラユキ抑え込んで、わたしは空腹を訴えた。
「詳しいことは、ちゃんと説明してくれるらしいから」
そしてわたしたちは一緒に食事をとることになった。
遅い朝食か、早い昼食かのどちらかを。
142:
「それで、この人は……」
食事を終えて、最初に口を開いたのはシラユキだった。
二人分の視線を受けて、男は居心地悪そうにした。
何も言い始める様子がなかったので、仕方なくわたしは口を開く。
「近頃、屋敷の中をうろついていた人。何か目的があって、この屋敷に来たんだって」
「……目的、ですか」
「それは教えてくれなかったけど、書斎で隠れる場所がなくて困ってたら、助けてくれた」
「ああ、そうだったんですか」
シラユキは納得したように何度か頷いた。
143:
「屋敷には隠し通路みたいなものがあるんだって。書斎の暖炉から、そこに入れた」
「そこで、彼と一緒に隠れていたんですか?」
「うん」
そこまで話してから、あとはシラユキに任せることにした。
別に彼の処遇なんてどうでもよかった。いざとなれば脅迫して追い出せばいいのだから。
変化のない日常。ずっと降り続ける雨。わたしにはそれだけあれば十分だ。
「なあ、目的を話すのはかまわないんだが、ひとつだけいいか?」
ようやく口を開いたかと思うと、彼はそんなことを言い始めた。
シラユキはあくまで落ち着いて、彼の言葉の続きを求める。
「なんでしょう?」
「そこのお嬢様には、聞かれたくない」
144:
シラユキはいくらか考え込んだあと、仕方なさそうに頷いた。
「いいですか?」
彼女がそう言ったので、わたしは立ち上がった。
「うん。ちょっと疲れたから、部屋で休んでる」
「あとで、話をしに行きます」
「いいよ、別に。ぜんぶシラユキに任せる」
「ですけど……」
「どうせ、全部は話してくれないんでしょう?」
シラユキが悲しそうな顔をしたので、わたしは少し罪悪感を抱いた。
でも、そんな顔をするってことは、やっぱり話してくれないんだろう。
まあ、どうしても知りたいってわけじゃないけど。
145:
わたしは何も言わずに食堂を抜け出した。
話を盗み聞きしようかとも思ったけど、やめた。
たぶんわたしには、聞いたって理解できない。
別に拗ねているわけでもない。
気に食わない部分だってあったけど、本心を言えば、わたしは新しい何かを知りたくなんてなかったから。
自室に戻ってから、音楽が聴きたくなった。
蓄音機。便宜上そう呼んでいるけれど、実際にはレコードプレイヤーの一種らしい。
本当は、この屋敷にだってCDなんかを再生できる環境がある。
けれどそういうものは、この屋敷で生活するうえで、できるだけ遠ざけていたかった。
でも、今は動くのが億劫だ。
枕元にポータブルCDプレイヤーが置きっぱなしになっていた。
イヤホンを耳につけて、プレイヤーを再生してみる。CDは入ったままになっていた。
流れ出したのは、スキータ・デイビスの「この世の果てまで」だった。
149:
乙です。
>>145
スキータ・デイビスの「この世の果てまで」
♪絶望してるけど私は元気、死にたい気分でもお腹は空くのね……
みたいな歌詞ですね
150:
◇
音楽をかけたまま、眠ってしまったらしい。
目をさますと耳が痛かった。イヤホンをはずして頭を軽く振る。
音の波から解放されると、雨の音がいつもよりはっきり聞こえる気がした。
わたしはしばらくベッドの上でぼんやりとする。
何かを考えなければいけなかったはずだ。なんだっけ?
ずっと雨の音を聞いたまま、ぼんやりとしていられたらな。わたしはそう思った。
そして気付く。ここではそれができるのだ。
雨は決して降りやまない。わたしはわたしが望むだけ、ここでじっとしていられる。
この雨は降りやまない。絶対に。
151:
ふと、例の男のことを思い出した。
自分がどのくらい眠っていたのかは分からないけれど、話はもう終わったのだろうか?
シラユキは、話が終わったらわたしのところに来ると言っていた。
でも、眠っていたから遠慮して、声を掛けなかったのかもしれない。
体をベッドから引きずり落とし、少し考えてから、わたしは着替えることにした。
朝起きて、すぐにあの騒動があったものだから、ずっとパジャマ姿だった。
あの男にパジャマ姿を、しかも寝起きの顔を見られたのだと思うと、なんだか居心地が悪くなった。
でも、居心地が悪くなるのは不自然だという気もした。なぜだろう?
わたしは彼を知っているのだろうか。
152:
着替えを終えて廊下に出る。いつもより肌寒いような気がした。
ここでの生活には、現実感というものがほとんどない。
地に足をつけてここに生活しているという実感が、ほとんどないのだ。
それは当たり前の話で、わたしの生活は「生活」と呼べるような代物ではない。
シラユキに守られて、かろうじて息をしているだけ。
ふたりはどこにいるのだろう?
ひょっとしたら、シラユキはあの男を追い出してしまったかもしれない。
そうだとしたら、どうしよう。
……どうしようって、どういうことだろう。
別にあの男がいなくなったところで、わたしは困らないじゃないか。
むしろ追い出そうと思っていたくらいなのに。何を考えているんだろう。
一階に降りて、食堂を覗く。ふたりはまだそこにいた。
わたしは少し安堵した。
なぜ?
153:
わたしが降りてきたことに気付いたのは、シラユキより男の方が先だった。
そのことに、すごく嫌な気持ちになる。
気分が落ち着かない。何かもやもやとしている。
異物感のような据わりの悪さ。
つまり、見知らぬものがこの屋敷にいることに対する不快感。
最初はそれだけなのかとも思った。でも、それだけじゃない。
彼がわたしを知っているかもしれないとか、わたしが彼を知っているかもしれないとか、そういうことでもない。
もっと別の何かが、明白にある。不快感でもない。好奇心でもない。もっと別のもの。
「まだいたの?」
皮肉を言うと、彼は落ち着いた様子で肩をすくめた。
「今日から、ここで暮らしたい」
「……どういうこと?」
154:
シラユキに視線をやると、彼女はわたしから目を逸らした。
「シラユキ?」
名前を呼ぶと、彼女は困った顔をした。
「……泊まる場所が、ないそうなんです」
「その人、不法侵入者だよ。街につき出せば、少なくとも屋根と食事は確保されると思うけど」
彼女はますます困ったような顔をして、何かを言いかけて口をもごもごと動かした。
困っているのはわたしの方だ。
仕方なく、わたしは黙り込んだままの男に声を掛けた。
「どういうこと? ここに住むって」
「そのままの意味だよ。宿がない。でも、下界に降りるわけにもいかない」
降りるわけにもいかない。変な言い方だ。
155:
わたしは問い詰めようとして、彼の名前を知らないことに気付いた。
相手のことを知るのは対話の一歩目だ。何かの本に、それらしいことが書いてあった。
名前は相手の情報の中でも、もっとも基本的なものだ。
だとすれば、わたしという人間は、対話を放棄していることになるのか。
もしくは、忘れているのか。資格を失っているのか。深くは考えないようにした。
「あなた、名前は?」
彼は少し変な顔をした。意外そうな顔だった。
何かまずいことをしただろうか? いや。名前を聞いただけだ。特別なことじゃない。
「名前なんていいよ。呼ぶときは適当でいい」
彼は悪戯っぽく笑った。
156:
「そうだな。一度、お兄ちゃんって呼ばれてみたかった。それでどうだ?」
「わたしはあなたの妹じゃない」とわたしは言った。
「本当に?」と彼は言った。当たり前だ。
苛立つわたしを無視して、彼は平然と話を続ける。
「そういえば、お前、ここでは名前がないんだっけ?」
ここでは、と彼は言った。
この男は危険だ。わたしを混乱させる。
「でも、ないのは不便だもんな。俺がつけてやるよ」
「結構です」
わたしが即座に答えると、男はくっくと笑った。シラユキがひどく慌てた顔をしている。
157:
「あの――」
何かを言いかけた彼女を、
「わかってる」
男が制した。
そのやり取りに、わたしは言いようのない不安を感じた。
このふたりは何かを共有している。わたしには分からないことを。
「お前はアヤメだ」
男はそう言って満足そうな顔をした。わたしには彼の言葉が良よく理解できない。
けれど、なぜか、シラユキはほっとしたような顔をする。
「いったい、何の話をしているの?」
158:
「アヤメ」
と、それが当たり前のことかのように、彼はその名前でわたしを呼んだ。
「受け入れろ。お前はアヤメだ。決まってる。逃げられない」
「……なにそれ、何の話をしてるの?」
相手をするまでもない、見知らぬ男の奇妙な戯言。
それなのになぜ、こんなふうに、頭の奥が痛むんだろう?
わたしの様子を無視して、彼は平然と言う。
「お前がアヤメで、そっちのメイドがシラユキだから、残った俺はツキだな」
わたしは彼の言葉をどう処理すればいいのだろう。
たぶん無視すればよかった。そして追い出せばよかった。それなのに、逆らえない。
「雪月花だよ。知ってるだろ? お前が花で、俺が月で」
頭が軋むように痛むのだ。それはどんどん鋭くなっていく。
159:
「ちょっと待って」
「同じ屋敷で暮らすんだ。仲良くしよう、アヤメ」
「……その名前でわたしを呼ばないで」
「屋敷の中を案内してもらっていいか? どうせちょっとやそっとじゃ帰れないだろうし」
「――待ってってば!」
頭がぎしぎしと痛む。音を立てて。なぜこんなふうに痛むんだろう?
歯車の間で押しつぶされているみたいだ。
「何の話をしているの? 人をからかってるの?」
「誰もお前をからかったりなんてしない」
160:
彼の表情はあくまで真剣だった。
わたしは強く混乱しながら、自分がどうしてこんなにも混乱しているのかについて考えていた。
いいじゃないか呼び方くらい。好きに呼ばせてあげればいいんだ。名前なんてなんだっていい。
それなのにどうしてこんなに嫌になるんだろう。不安になるんだろう。
嫌だった。名前は。ここで名前を呼ばれると、わたしは。
「あの」
不意に、シラユキが声をあげて、わたしの頭は空っぽになった。
混乱は熱が引いたように去っていき、わたしは一瞬自分が何をやっていたのかさえ思い出せなかった。
「そのくらいにしてください」
彼女は戸惑ったような表情で、静かに、強く、言う。
男は舌打ちをして、億劫そうに頷いた。
「急ぎすぎたな」
シラユキは、何も言い返さなかった。
161:
それから彼女はわたしの方を見る。静かな視線だった。
「嫌なのはわかります。ですけど、彼をここから追い出すわけにはいかないんです。
仮に、あなたがここにいなかったとしても、わたしは彼をここに滞在させると思います。
彼をここに置くのは、あなたがここにいるのと同じことなんです。こういう言い方をすると、混乱するかもしれませんけど」
言葉の通り、わたしはまた混乱に放り込まれた。
「下界に行かせるわけにはいきません。彼がここに無事にやってこられたのだって、奇跡のようなものですから」
要領を得ない話し方だったけれど、わたしは反論する気力を失ってしまった。
シラユキが決めたことに、どう逆らえるというんだろう。
わたしはシラユキによって、かろうじて生かされているだけなんだから。
わたしと"ツキ"が黙り込んだのを見て、シラユキは静かに溜め息をついた。
167:
◇
屋敷の中をツキに案内する、と言って、シラユキはわたしを残して食堂を出て行った。
別にほったらかしにされたわけじゃない。「一緒に行きますか?」とも訊かれた。
でも、わたしは行かなかった。あの男と一緒にいるのはまだ抵抗がある。
ツキ。わたしと同じ色の髪と瞳を持つ男の人。
当然のように、彼はわたしを「アヤメ」と呼んだ。
アヤメ。
何がこんなに引っかかっているんだろう。わたしはひとり食堂に残り、椅子に座って額を抑えていた。
彼がわたしを呼ぶ声には、聞き覚えがある。
どこで? わたしは本当に、この屋敷に来る前に、彼と会ったことがあるんだろうか?
……いや、違う。もっと最近のことだ。そんなに前のことじゃない。
いつだ? いつだろう。冷静に考えろ。心当たりは、そう多くないはずだ。
168:
そうだ。夢だ。夢の中で聞いた声に似ている。
「駄目だ」と、引き留めるような声。わたしはそれを毎晩のように聞いた。
そして、夢の中の男は、わたしの名前を呼んでいた。
それが、「アヤメ」だった?
夢の中のことだから、よく思い出せない。
単なる偶然かもしれない。
わたしは男の人の声をそんなに聞いたことがないから、似ているように錯覚しているだけかもしれない。
いずれにしたって、夢は夢だ。気にしたって、仕方ない。
わたしは溜め息をついて頬杖をついた。食堂の窓から中庭の様子が見える。
雨は止まない。
169:
◇
ツキが自分の部屋の様子を確認しにいっている間、シラユキは食堂に戻ってきた。
ツキは、二階の空き部屋の一室を使うことになった。
問題があるとわたしが訴えても、シラユキは取り合わなかった。
不服げに溜め息をついたわたしを、シラユキは半ば懇願するように説得しようとした。
「部屋には鍵がついていますし、二階なら窓からは入れません」
「でも、隠し扉は……」
「それに関しては大丈夫です。あの部屋に隠し扉はありません」
「どうしてわかるの?」
「……勘、ですかね」
「シラユキ?」
「あ、いえ。ないと思います。ないはずです。たぶん」
わたしが溜め息をつくと、彼女は苦笑した。
170:
それに、とシラユキは付け加えた。
「彼はわたしたちに危害を加えないと思います」
「根拠は?」
「彼が何かするつもりなら、とっくにしていると思います」
「これまでがそうだったからって、これからもそうだとは限らないでしょう」
「本当にそう思いますか?」
「……どういう意味?」
「雨は、止みますか?」
その咄嗟の質問に、わたしは答えられなかった。
雨は止むことがない。この生活は終わらない。だから彼も、わたしたちにいつまでも危害を加えない?
171:
「その理屈は、おかしいよ」
やっとのことで絞り出した声に、シラユキは寂しそうに微笑んだ。
その様子はまるで、自分が言ったことを後悔しているみたいにも見えた。
「そうですね」
これまでが「そう」だったからといって、これからも「そう」だとは限らない。
これまでが「そう」だったのだし、これからも「そう」かもしれない。
どっちも根拠のない、可能性の話だ。
わたしも彼女も、結論を優先して理屈を作っている。
わたしは彼と暮らしたくないからこそ、彼の危険性を主張している。
シラユキは彼をこの屋敷に住まわせたいからこそ、彼の安全性を主張している。
目的が食い違っているのだ。
172:
「分かった」
わたしは諦めて受け入れることにした。
別に問題はない。そう信じるしかない。
ツキがこの屋敷で暮らし始めたところで、雨は止まないし、シラユキとわたしの生活は壊れない。
それならいいじゃないか。ツキだって、やがてこの屋敷を出て行くだろう。
彼が生活する上で困るところがあるとすれば、衣服くらいか。
そのあたりはシラユキがなんとかするだろう。
「そういえば、彼は、何か目的があってここに来たって言っていたはずだけど、聞いてる?」
「はい」
説明してくれるのかと思ってしばらく待っていたけれど、続きはなかった。
何も言う気はないらしい。
173:
そういえばツキは、隠れている間に屋敷のだいたいの構造を把握したとも言っていた気がする。
それなのに、わざわざシラユキに案内させたのはなぜなんだろう。
……単なる嫌がらせという気がした。
「ツキは、どこから来たんだろう」
わたしが疑問を口にすると、シラユキは困った顔をした。近頃彼女は、こんな顔ばかりする。
「シラユキは知っているの?」
「……いえ。本人に訊ねてみるのはどうでしょう?」
「話をしたくない」
「そんなに邪険にしなくても、平気ですよ、きっと」
平気って、その言い方じゃまるで、わたしが彼を怖がっているみたいだ。
……いや、怖がっているのか。どうなんだろう。よく分からない。
ツキという人間を自分がどう消化するべきなのか、わたしにはよく分からなかった。
174:
◇
わたしは自室に戻って少し休むことにした。
近頃は、ろくに本も読めていない。生活のリズムが崩れている。
本来はそのリズムを守っていなければならないのに。
少ししてから、扉がノックされた。
シラユキかと思い返事をしかけたところで、わたしは思いとどまり、ドアに問いかける。
「だれ?」
「俺だ。入っていいか?」
わたしは、鍵をかけていなかったことを少し後悔した。
自分でも意外なほど、わたしはツキに拒否反応を示している。
「どうぞ」
本当は顔を合わせたくなかったけれど、拒絶し続けるのも馬鹿らしいと思った。
一緒に暮らしていく以上は、顔を見ずに生活するのは不可能だ。
わたしの方が妥協しなきゃならない。
175:
「なに?」
「特に用事はない。暇だったから」
「そう」
どうしてわたしがあなたの暇つぶしに付き合わなきゃいけないの、と言いかけてやめた。どうせ疲れるだけだ。
「お前は、普段どんなことをして生活してるんだ?」
「隠れて眺めてたんでしょう?」
「まあね。でも、本を読んだり、シラユキと話をしたりしているところしか見ていない」
「それだけ分かったら十分じゃない?」
彼は押し黙って部屋のあちこちに視線を彷徨わせた。
「あんまりじろじろ見ないで」
「悪い」
素直に謝られて、拍子抜けする。こんな反応をされると、自分の方が嫌な奴みたいだ。
それにしても彼は、拳銃で自分を脅した相手と生活することに、何の抵抗もないんだろうか。
そのあたりにもやはり、彼の目的というものが関わってくるのだろうけれど。
176:
「ねえ、あなたは……」
「ツキ」
「……ツキは、どこから来たの?」
彼は一瞬呆気にとられたような表情をした。それから何かを探るような目つきになる。
シラユキも、ツキも、特定の事柄についてわたしが聞こうとすると、同じような反応をする。
「なぜそんなことを知りたがる?」
「単純な好奇心だけど……」
「教えてやりたいところだけど、まだダメだな」
「なぜ?」
その答えをツキは寄越さなかった。
わたしは溜め息をつく。別に知らなくたって、困りはしないのだけれど。
「まだ」って、どういうことだろう?
177:
◇
その日は何事もなく過ぎた。
シラユキが作った食事を三人そろって食べた。
入浴の時間などに関しては、後々決めることにした。
何も決まっていない状態のままだと、不便だろうということだ。
その夜は妙に明るかった。月の光が冴え冴えと瞬き、窓に垂れ落ちる雨粒を光らせた。
森の空気も、木々も、いつもより落ち着きなくざわついているような気がした。
でも、それはツキの存在とはまったく無関係のことだ。当然。関係があったらおかしい。
就寝前、本を読もうとしても音楽を聴こうとしても気分が乗らず、ベッドに仰向けになってぼんやりとしていた。
目を閉じると雨音が聞こえた。
昨日までとは、何かが違う、と感じる。そう感じている自分に気付き、苛立ちを覚える。
何かが変わるはずなんかない。
178:
その晩も夢を見た。また同じ夢だ。暗い空間で、わたしは誰かと向き合っている。
彼女の言葉はいつもと同じ。
ぼんやりとした輪郭も、はっきりとしない声も、同じ。
どうしてそんなに醜いのか、と。
声は同じ言葉を繰り返す。
そんなことは、わたしには分からない。
でも声は訊ね続ける。どうしてそんなに、と。
わたしはそのたびにやりきれないような気持ちになる。
だってそれは、わたしにはどうしようもない部分なのだから。
どうしたって、変えられない部分なのだから。
183:
◇
ツキがこの屋敷にやってきてから、何日か経った。
彼は驚くほどこの屋敷の生活に馴染んだ。
そういう適正でもあるのかと思うほどに。
でも、屋敷で生活することに適正というものがあるのかどうか、わたしには分からなかった。
最初は警戒していたわたしも、彼の態度があまりに柔らかいものだから、変に気疲れしてしまった。
最初の頃こそ皮肉めいた口調でわたしに接していたが、すぐにそういった棘はなくなった。
こっちが不思議に思うくらいだった。
この屋敷にやってきてからツキがやったことと言えば、本を読むこと、音楽を聴くこと。
それからわたしやシラユキと言葉を交わすことくらいだった。
そのほかには、屋敷や森を散策する程度。
まるで何かを探すような様子だった。
184:
シラユキは彼が頻繁に外出することを快く思ってはいないようだった。
下界の人間に人影が見つかったら面倒だと思うのだろう。
それがなぜかは分からないけれど、わたしも、ツキの外出をあまり好ましくは思わなかった。
ある朝、三人で朝食をとっているとき、ツキが唐突に食事の手を止めた。
どうかしたのかと様子を見ると、顔色が真っ青だった。
「なあ、今までは気にしなかったけど、これ、食べても平気なのか」
「どういうこと?」
わたしが訊ね返しても、彼は反応しなかった。ただ、真剣な表情で、じっとシラユキを見つめていた。
シラユキは、何のことを言われたのか分からなかったらしく、首をかしげるばかりだった。
185:
ツキはやがて思い直したように頭を振ると、頭痛でもするように額を抑えた。
「いや、平気なんだよな。平気じゃないと、困る」
一事が万事というわけではないが、ツキがこういった奇妙な態度をとることは珍しくなかった。
それでも、シラユキの言った通り、ツキがわたしたちに危害を加えることはなかった。
だからわたしは、尚更彼のことが分からなくなった。
最初は皮肉を言う元気もあったのに、時間が経つにつれて余裕がなくなっているように見えた。
何かを急いでいるようにも見えたし、何かに抗おうとしているようにも見えた。何かを恐れているようにも見えた。
でも、それがなんなのかは分からない。
最初は気に掛けていなかったものの、そんな様子をずっと見せられていると、こちらも不安になってくる。
それでも実害はなかったし、わたしやシラユキに何かを求めてくるわけでもなかった。
表面的には、よく散歩をする変わった住人が増えただけのことだった。
186:
◇
ある日、わたしが部屋で本を読んでいると、不意にノックの音が聞こえた。
「どうぞ」
部屋に入ってきたのはツキだった。疲れ切ったような顔をしていた。
「何を読んでる?」
彼は、ベッドに横になって本を読むわたしを見て、そう訊ねてきた。
わたしは口にするのが億劫だったので、読むのを中断して彼にタイトルを見えた。
「人類が消えた世界」だった。
「面白いか?」
「そこそこ」
「どんなところが?」
「現実的じゃないことに、現実的に迫ってるところ」
彼が一瞬表情をこわばらせたので、わたしは戸惑った。でも一瞬のことだ。彼はすぐ、持ち直すように笑った。
187:
わたしがベッドに寝転がっていたのをいいことに、彼はわたしの椅子に勝手に座る。
注意しようかと思ったけれど、やめた。
このところのツキはあまりに追いつめられているようで、思わず咎めるのを遠慮してしまうほどだった。
彼は深い溜め息をついて、頽れるように俯いた。
「どうしたの?」
思わず訊ねると、彼は顔もあげずに笑った。
「別に。そっちこそ、そんなことを言ってくるなんて珍しいな」
「……なんとなく」
顔は見えないのに、彼が泣き出してしまうような予感があった。
胸の中がざわついた。別に彼が泣こうが、わたしには関係ないじゃないか。
そう思った。そう思おうとした。
188:
「ねえ、あなたは何を欲しがってるの?」
わたしは思わず訊ねた。何がこの人をこんなに苦しめているんだろう。
何のために、この人はこんなにつらそうなんだろう。
やってきた返事は、答えと呼べるものではなかった。
「お前の方こそどうなんだ」
ツキはそう言った。
「お前は俺にどうして欲しいんだ?」
わたしには彼の言うことが分からなかった。
雨が窓の外で降り続いている。不意に忘れそうになるくらい、ずっと。
「……別に、何も」
わたしはそう答えた。ツキは身じろぎひとつしなかった。ただ俯いているだけだ。
それなのに、何の変化もなかったのに、わたしはわたしの言葉で、ツキを傷つけたのだと感じた。なぜか。
189:
しばらく、部屋の中には何の変化もなかった。雨の音だけがずっと続いている。
気付けばわたしは、本を読むのをやめてツキの方をじっと見つめていた。
やがて彼は、やはり身じろぎひとつせず、顔もこちらに向けないまま、
「何か音楽を掛けてくれないか?」
と言った。わたしは返事もしないかわりに反発もせず、音楽を掛けることにした。
スピーカーから流れ始めたのはシーナ・イーストンの「モーニング・トレイン」だった。
わざと明るい曲を掛けたのだ。なぜかは自分でも分からない。
……別に元気づけたいわけじゃない、と思う。
それにしても、深く落ち込んだ様子の男の人が、「モーニング・トレイン」を静かに聴いているのは、少し滑稽だった。
わたしは、こんなにも悲しそうに「モーニング・トレイン」を聴く人を、初めて見た気がした。
もちろんそれは真実で、わたしは他の人が音楽を聴くところなんて、初めてみたのだけれど。
190:
不意に彼は、何かに気付いたように顔をあげた。
それからわたしの顔をじっと見た。何かに驚いているような目だ。
「なに?」
「……いや」
何かの違和感のようなものがあったのか、彼は眉をひそめた。
それから部屋を見回す。じろじろ見るなと言うには、彼は少し情緒不安定だった。
そして彼は、部屋の片隅に置かれたCDコンポに目を止めた。
「レコードは?」
と彼は訊ねた。
191:
「……急に何?」
「前は、レコードだった」
「そうだったけど、それが?」
「なぜCDになってる?」
「……物置にあったから、取り替えたの。こっちの方が手間がないし」
それから彼はしばらく唖然とした様子で黙り込んで、何かを考え始めたようだった。
彼はもう落ち込んではいない。そのかわりに、何かに驚いているようだった。
なにが彼の心境を変化させたのか、わたしにはよく分からなかった。
たかだか、レコードプレイヤーがCDコンポに変わった程度の変化。
それが彼にとって、何か重要なことなんだろうか?
「邪魔して悪かった」
ツキはそれだけ言い残して、部屋から出て行った。
何かを吹っ切ったような表情だった。
192:
◇
ツキはそのようにして、この屋敷での暮らしを続けた。
いなくなる気配もなければ、例の何かを「取り戻す」こともできてはいないようだった。
またある日ツキは、わたしを森の散歩に誘った。
最初の頃こそ落ち込んだりしていたが、彼はそのうち開き直ったように明るくなった。
わたしも段々、彼がわたしに危害を加える気がないということを、実感と共に理解し始めていた。
だからその散歩にも、付き合う気になったのだ。
「ツキは、どうして森の中を歩くの?」
傘をさして、並んで歩きながら、わたしは訊ねてみた。
ただの気分転換とは思えないほど真剣に、彼は森の中を歩いていたのだ。
「さあ?」
「わたしには言えないこと?」
こんなふうに訊ねると、シラユキもツキも、決まって黙り込んだ。
鳥の声すら聞こえない森の中で、雨が木々の梢を打つ音だけが響く。
世界から取り残されているみたいだ。でも、"世界"ってなんだろう。どこだろう?
193:
「出口」
ツキは不意にそう言った。
「なに?」
「出口を探してたんだよ」
「……出口って、森の?」
彼は、それ以上何も言わなかった。わたしはなんとなく不安になる。
シラユキとツキ、どちらと話しても、わたしはときどき不安になることがあった。
ふたりの言葉の節々に、予兆めいた何かを感じるのだ。
その予兆が、何を言わんとしているのかは分からない。
でもわたしは、それを素直に受け入れることができないのだ。
194:
◇
ツキがこの屋敷で暮らすようになってからも、わたしは毎夜同じ夢を見た。
水面越しに見る彼女の姿は、段々と正確な輪郭を取り戻し始めていた。
わたしはそれを直視することができない。
ひどく恐ろしいのだ。
影は同じ言葉を吐き続ける。怨嗟がこもったような暗い声で、何度も。
わたしの怯えを見透したように、彼女はじっとこちらを見つめている。
わたしは彼女を見たくない。彼女のことを知りたくない。
彼女の声を聞きたくない。彼女なんていなくなってしまえばいい。
そう思う自分自身すら恐ろしく思えて、わたしはどうすることもできず、ただ震えている。
でも、夢は夢なのだ。そうでなくてはならない。
198:
◇
その日の朝、ツキは朝食の時間になっても食堂に現れなかった。
シラユキが部屋を確認しにいったが、やはり姿はなかったという。
雨音はいつも通り、屋敷を包み込むように響いている。
わたしたちふたりは、ツキを待たずに朝食を先にとった。
シラユキが言うには、玄関の傘が一本なくなっていたらしい。
単純に考えて、森の散策に向かったのだろう。
なぜ朝早くから外に出たのかは、分からないにしても。
わたしは、久しぶりにシラユキとふたりきりになった気がした。
このところはずっとツキに気を取られていて、彼女とろくに話もしていなかった気がする。
199:
そう思うと、このタイミングで彼女に言っておかなければならないことが、いくつかあるような気がした。
それがなんなのかは、咄嗟には思い出せなかった。
というよりわたしは、このところずっと、話すべきことをわざと話さずに過ごしてきたような気がする。
そうすることで、何かを守ろうとするように。
「シラユキ、ちょっと訊いてもいい?」
訊きたいことがたくさんあったはずだ。でも、なぜだろう。いざ訊くとなると、よく思い出せない。
シラユキは少し怪訝げな顔を見せ、警戒するように眉を寄せた。
「内容によりますが、どうぞ」
あらかじめ予防線を引くシラユキに苦笑しながら、わたしはゆっくりと質問を考えた。
「このあいだ、ツキが食事をとっているとき、言っていたでしょう? 『食べても大丈夫か』って」
「……ええ。それが?」
「あれ、どういう意味だと思う?」
200:
彼女は思案深げに眉を寄せながら、取り繕うように微笑んだ。
まさか、毒をうたがったわけでもないだろうが。
「どうでしょう。わたしにはよく分かりません。そういったことに関しては、あなたの方が詳しいはずです」
「どうして?」
彼女は上手い言葉が見つからない様子で、口をもごもごと動かした。
「わたしの知識は、とても偏っているからです。という言い方だと、正確ではないんですけど……」
それ以上適切な言葉が浮かばないという様子で、シラユキは口籠る。
わたしは質問を変えることにした。
「あのね、シラユキ。ここ最近……特に、ツキがここに来てから、ずっと考えていたことがあるの」
「……はい」
「どうしてわたしには、この屋敷に来る前の記憶がないんだろう。シラユキは、そのことについて何か知っているの?」
201:
今度は、言葉を探すふうではなく、本当に深く考え込んだように見えた。
シラユキが押し黙ると、食堂に雨の音だけが響く。降り続く雨。
この雨だって、いったいいつから降り続いているんだろう?
シラユキはやがて、振り絞るような声で言った。
「先に、ひとつだけ訊いてもいいですか?」
わたしは少し怖くなった。やっぱり質問を取り下げようか、とも思った。
でも訊かなきゃ。訊かなきゃ何も分からないままだ。
頭の奥が、軋むように痛む。それでも。
「どうして、今になってそのことを気に掛けるんですか?」
「自分の記憶の欠落を気にするのって、そんなにおかしいこと?」
「おかしくはありません。でも、そうだとしたら、どうして今までは気にしなかったんですか?」
彼女の言う通りだ。わたしはこれまで、自分の記憶について考えたことがなかった。
いや、考えないようにしていた。
202:
わたしが答えられずにいると、シラユキは言葉を重ねた。
「わたしは、その質問に答えることもできます。それは事実です。
でも、正直いって、あなたがそれを知るべきなのかどうか、わたしにはわかりません。
いつかは言わなくてはならないとも思いますし、何もかも忘れたままでも構わないのかもしれない、とも思います」
「……どういうこと?」
「わたしはできるかぎり、あなたの望みを叶えてあげたいと思っています。これも本当です。
その結果、あなたがどちらを選ぼうと、わたしはあなたの判断に従います。
本当は、自分がやっていることが、エゴに満ちた、身勝手なお節介なんじゃないかと感じることもあるんです」
彼女は言葉を選ぶようにゆっくりと、話を続けた。
「たぶん、彼が来たからだと思います」
彼というのは、ツキのことだろう。わたしにはその言葉の意味が、よく分からない。
203:
「彼が来たから、あなたは今、彼の方に引きずられているんだと思います。
わたしにとっても、それは別に悪いことではないんです。
でも、もし、彼に引っ張られていった結果、あなたがもう一度傷ついたとしたら」
もう一度、と彼女は確かにそう言った。
「そう考えると、今すべてを話すわけにはいかないと思うんです。
それならいつ話すのかと言われたら、それはわからないんですが」
「ねえ、よくわからないんだけど、わたしの記憶というのは、思い出すだけでそんなにダメージを負うようなものなの?」
「そうでないとしたら、あなたは何も忘れたりなんかしなかっただろうと思います。
いえ、こういう言い方も正確ではないかもしれません。問題は記憶じゃないんです。
上手く言えませんが、問題なのは覚えているとか、忘れていることではなくて、現にそうあるという事実の方なんです」
シラユキはそこで、自分の話がわたしにあまり伝わっていないと気付いたのか、寂しそうに頭を振った。
「とにかく、わたしはまだ、あなたの記憶についての話をすることができません。
ひとつだけ言えるのは、あなたやわたしや彼にとって、その話はとても重要な意味を持っているということです。
ひょっとしたら、悠長なことを言っている場合でも、ないのかもしれません。彼が来てしまった以上……」
204:
いまいち要領の得ないシラユキの話は、けれど何か大事なことを示唆している気もした。
ツキが望んでいること。シラユキが望んでいること。そしてわたしが望んでいること。
そのどれもが曖昧で、わたしにはよくわからない。
わたしはただこの屋敷で、シラユキとずっと暮らしていければよかった。
雨がやまなければいいと思っていた。
でも、ツキがやってきて、何かが揺らぎ始めている。
わたしが暮らしている、この屋敷。一緒に生活するシラユキという少女。そしてわたしという人間。
そのどれもが、今になって突然、余所余所しく、得体のしれないもののように感じられるのだ。
この感覚は、ただの錯覚なんだろうか。
それとも、もっと得体のしれない何かが、わたしたちのすぐそばで、口を開けて待っているのか?
205:
◇
ツキはなかなか屋敷に戻ってこなかった。
わたしはひとり部屋に戻り、自分の現状について考えてみることにした。
再確認のようなものだ。紙とペンを手に取り、わたしは状況の整理を試みる。
わたしには、この屋敷に来る以前の記憶がない。
その記憶のうち、ほとんどが、前日や前々日の反復のようなもので、一日と一日の区別がつかない。
ツキがやってくるまでずっと、わたしとシラユキは、同じ一日を繰り返しのような生活を送っていた。
わたしは、わたしについて知らない。
名前も、なぜこの屋敷で暮らしているかも、シラユキとどんな関係なのかも分からない。
同様にわたしは、シラユキが何者なのかも知らない。
シラユキという呼び名が本当の名なのかも、分からない。
けれどわたしは、そんな生活に何の疑問も抱かなかった。
206:
そこに現れたのがツキだ。
彼は「取り戻したいものがある」といい、この屋敷で一緒に暮らし始める。
彼はわたしを「アヤメ」と呼んだ。
そして、彼のわたしに接する態度はまるで、わたしに対して何かを訴えかけようとしているようだった。
シラユキとツキは、わたしの知らない何かの情報を共有している。
わたしだけが、それを知らない。
そして、その情報はおそらく、わたしの記憶と密接に関係する何かだ。
結局わたしの記憶が問題なのだ。
つまり、わたしが思い出せないわたし、わたしの知らないわたしが。
207:
ペンを机の上に放り投げて頬杖をついた。
情報の整理は捗らなかった。現に起こったことだけを列挙しても、何もわからない。
かわりに思ったことがある。
つまり、今この状況の最大の問題は、わたしが自分自身の望みを理解していない点にあるのだ。
わたしは、思い出したいのか、思い出したくないのか。
思い出すべきなのか、思い出すべきではないのか。
この屋敷での生活を変えたいと望んでいるのか、望んでいないのか。
でも、そんなの分かりっこなかった。
肝心の記憶がどのようなものなのかが分からないなら、思い出したいかどうかなんてわからない。
中身の見えない箱を目の前に差し出されて、「これが欲しいか」と訊かれているようなものだ。
中身を知らないのだから、答えようがない。
そして中身を知ってしまったら、知らなかった頃に戻ることはできないのだ。きっと。
208:
『その結果、あなたがどちらを選ぼうと、わたしはあなたの判断に従います』
シラユキはそう言った。"どちら"というのは、何と何のことなのだろう?
思い出すことと、思い出さないことだろうか。
それは、少し違うような気がした。じゃあなんなのかと言われれば、分からないのだけれど。
考えるのがいやになって、わたしはベッドに寝転がる。
雨の音に耳を傾けているうちに、言いようのない不安は収まってきた。
焦って考えることもない。別に今すぐどうこうなるという話でもないのだ。
シラユキの言葉の意味は分からない。
ツキの考えていることだって、分からない。
分からないことだらけ。わたしにはどうしようもない。
いつもより頭の奥が鋭く痛んで、上手に物を考えられなかった。
213:
◇
夕方過ぎ、わたしは部屋を出た。
なぜなのかは分からないけれど、じっとしていられなかった。
胸がざわざわとした。何かが起こりそうな気がする。
いや、ひょっとしたらそれは既に起こっているのかもしれない。
そんな気がした。それがなんなのかも分からないのに。
わたしは目的なく屋敷の中を歩き回る。
二階の窓から、中庭を見下ろしてみると、立ち並ぶ木々は雨を受け続けていた。
そもそも、根源的な話として、どうしてこの街には、雨が降り続いているのだろう?
どのような本を読んでも、そんなものはフィクションとしてしか描かれていない。
でも現に、この街はずっと雨に打たれ続けている。
214:
わたしはこの街を、切り離されていると感じたことがあった。
わたしにとっては、この街に雨が降り続けていることは自然なことだ。
けれど、どの本を読んでみても、雨が降り続ける街を実在のものとして描いているものはない。
だから、わたしがこの街を切り離されていると感じてもおかしい話ではない。
現に雨の降り続ける街があるとしたら、きっとその街はすぐ有名になる。
本にだって載るし、人だって来るだろう。でも、そんな様子はない。
切り離されているのだ。本の中の世界から。
この街以外の世界から。あるいは、本に記されていることが、すべて嘘なのかもしれない。
だとすれば、なぜシラユキはわたしが本を読むことを好ましく思うのだろう。
215:
おかしいことはいくつもある。
シラユキは外で働いているわけではない。それなのに食材を買うお金には困っている様子がなかった。
そして書斎にあった拳銃。あれはいったい誰がなんのために置いたものなんだろう。
……そして、その存在を疑問に思わなかったわたしも。
そもそもこの屋敷は、なんなんだろう?
たくさんの隠し通路。拳銃。シラユキという少女。雨の降り続く街の、高い丘の上。
生き物の気配のしない森。わたしの記憶。突然あらわれたツキという人。
丘の下には、無機的な声の人々が住んでいる。
悪い夢のような世界。
わたしは今までここで、何の疑問も持たずに暮らしてきたのだ。
そう思うと、なんだか急に不安になった。
自分を包む空気がひんやりと冷たくなるような感覚。
軋むような痛み。
216:
シラユキと話をしたくなって階段を目指した。
彼女は一階にいるはずだ。
何が訊きたいというわけでもない。何を話してほしいわけでもない。
ただ声がききたくなった。わたしは怖かった。
この得体の知れない場所が怖いんじゃない。
何も話してくれないシラユキやツキが怖いわけでもない。
わたしは自分が怖い。この場所に何の疑問も暮らしていなかった自分。
何の抵抗もなく銃を握った自分。誰に会うわけでもなく、雨が止まないことを願い続ける自分。
どこかで誰かがわたしを見ている気がした。
217:
いや、見ているだけではない。その人はわたしに語りかけていた。
わたしにだけ聞こえる声、わたしにだけ届く音で、彼女は何かを言っている。
本当にそうなのだ。
いつものように彼女は.、言う。
「どうしてそんなに、醜いの?」
でもおかしい。どうしてそんな声が聞こえたりするんだろう?
聞こえるはずのない声。
「……でもいいんだよ。別に。だってもう関係ないから」
いつもとは違う続き。声音は冷たい。あたりを見回しても姿は見えなかった。
218:
「あなたはそこに居ていいんだよ。だってそこ以外にあなたに居場所なんてないから」
声はわたしの頭の中で直接響いていた。空気の振動を伴わない声。
意味が先立ち、音が追いかけるような声。
「もう決まったの。逃げられないの。あなたはそこにいるの。絶対に」
声はわたしに話しかける。
どこから? どこからだろう。内側からだ。
頭の奥が軋むように痛む。幻聴? 幻聴。
わたしはよろめきそうになったが、目の前に階段があることに気付き、バランスを取り直す。
視界がぐるぐるとまわっている。混乱している自分と、それを冷静に眺めている自分がいる気がした。
夢が現実になったのか? あるいは、現実が夢になったのか?
何が起こった? どこかに変なスイッチでもあったか?
わたしの身に何が起こったんだろう。何が起こっているんだろう。
219:
「ねえ、聞いて。あなたはもう自由なの。何にも縛られる必要はない。
本当は縛られてすらいなかったの。最初から自由なの。
誰もあなたを縛り付けないし、誰もあなたを必要としない。何もあなたに求めない。
だからもう苦しまなくていいの。あなたはそこに居るだけでいいの。そうすればすべて終わるから」
何を言っているのか分からなかった。分かりたくもなかった。
その声を聞いていることが嫌だった。足元の空気が凍てついたように冷たい。
「何も思い出さなくても大丈夫。気にしないで。本当に、全然、何の問題もないから」
痛みが鋭さを増す。これはいったい、どういう冗談なんだろう。
わたしは夢でも見ているんだろうか? 見ているとしたら、いったいいつから?
「ねえ、本当にそうなんだよ。あなたはもう、そこに居ていいんだよ」
その諭すような優しげな声が、わたしにはとても悲しかった。
220:
声はそれ以上何も言わなかった。
けれど、声の主の気配だけが、辺りに散らばったままだった。
わたしの足元の絨毯にも、壁にも、窓にも、扉にも、階段にも、中庭の木々にも、雨の雫の一粒にさえ。
その気配は、ひそやかに宿っている気がした。
わたしはしばらくその場で深呼吸をして、視界の回転が収まるのを待った。
荒くなった呼吸が戻るのを待った。心臓の鼓動が落ち着くのを待った。
瞼を閉じて、深呼吸をもう一度する。そして瞼をもう一度開ける。
なんてことのない、いつもの屋敷だった。何も変わったところなんてなかった。声も聞こえない。
溜め息をつく。幻聴だ。疲れているんだ。きっと。
そしてわたしは階段を下りることにした。シラユキを探していたのだ。
シラユキ。シラユキがいる。そうだ、シラユキがいるじゃないか、とわたしは思った。
シラユキがいさえすれば、他に何も必要ない。
必要とされなかったんじゃない。わたしが必要としなかったんだ。
わたしの方が、必要と思わなくなっただけだ。わけもわからず、そう思った。
221:
◇
階段を途中まで降りたとき、話し声がするのに聞こえた。
声だけで分かる。シラユキとツキが、玄関ホールで話をしていた。
ツキが、何か、声を荒げている。
シラユキはそれに対して戸惑っているようだった。
止めに行こうと思ったけれど、今そういった会話に巻き込まれると、冷静でいられない気がした。
わたしは身動きもとれずに、その場にとどまった。
「どうすればいいんだ?」
何かを焦っているような声で、ツキは言った。
「俺はもう何が何だか分からない。何をどうすればいいんだ? どうすれば元に戻るんだ?
何が原因でこんなことになったんだろう。なあ、誰のせいだ? いったいなぜこうなった?」
シラユキは答えなかった。ただ静かに息を呑んだだけだった。
「シラユキ。シラユキ、お前はシラユキなんだよな? あの、シラユキだな?」
222:
ツキの、その奇妙な質問に、シラユキは少し間を置いて、
「……はい」
確かな声で、頷いた。わたしには、そのやりとりの意味が分からなかった。
「あの」シラユキ。ツキとシラユキは、ここではないどこかで会ったことがあるのだろうか。
「そうだよ。知ってる。そうなんだ。ここにいるってことは、アヤメと一緒にいるってことは、そうなんだ。
なあ、シラユキ。教えてくれ、俺はどうすればいいんだ? どうするのがアヤメのためなんだ?」
わたしに対しても、何度も使ったわけではない、便宜上の呼び名。
アヤメというその名前を、彼は何年も前から知っていたように使った。
"わたしのため"って、どういうことだろう?
何の話を、しているんだろう。
どうしてこんなに、頭が痛むんだろう。
223:
すっかりと混乱した様子のツキに対して、シラユキは落ち着いた口調で答えた。
「わたしにもわかりません。どうにかしたいとは思いますけど、でも、わたしにはどうすることもできない。
それはもう、わたしたちがどうこうできる次元にはないんです。
彼女の問題なんです。彼女だけの問題なんです。わたしたちにできることなんて何もない」
ツキはしばらく押し黙った。シラユキも、すぐには答えない。
雨の音。雨は降り続いている。何も変わることはないと言っているようだ。
その雨音に安堵したのか、それとも悲しいのか、自分の気持ちが分からない。
「シラユキ、俺がここに来たのは、間違いだったと思うか? 無駄なことだったと思うか?」
「そんなこと……」
シラユキはそれ以上何も言わなかった。
ふたりがどんな表情をしているのか、わたしには見えない。
でも、きっと悲しそうな顔をしているんだろう。そう思った。
そして、きっと、その表情の原因はわたしなのだろう、と、漠然と感じた。
なぜかは、分からないけれど。
224:
「シラユキ、俺はもう駄目かも知れないよ」
震えた声でツキは言う。
「あっちにいたときのことをどんどん忘れていくんだ。ここにいると不安でたまらなくなる。
いろんなものが俺を取り残して進んでいっているのを、肌で感じるんだ。
そう長い時間、耐えられそうにない。俺はきっと、近いうちアヤメを見捨てるよ。そうなったら……」
そうなったら、と彼は繰り返す。
「そうなったら、俺は何をしにここに来たんだ? わざわざ自分の手で、とどめを刺す為に来たのか?」
泣き出しそうな声のツキに、シラユキは何も言わなかった。
考えなくては、とわたしは思う。何を? 分からない。何を考えればいい?
『あなたはそこに居ていいんだよ』と、声がもう一度言った気がした。
『だってそこ以外にあなたに居場所なんてないから』。
その声は、本当に優しげに聞こえたのだ。
231:
◇
ふと気付けば、夜だった。
わたしはもうパジャマ姿だった。髪もしっとりと濡れていた。
ベッドの上に腰かけていた。
夕食をとった記憶もお風呂に入った記憶もない。
でも、事実としてお腹は空いていないし、髪は濡れている。
だから、夕食はとったのだろうし、お風呂にも入ったのだろうと思う。
頭がぼんやりとして、うまく働かない。
でも、別に問題はない。頭が働かなくたって、別にかまわない。
考える必要なんてもうないんだ。
そう思った。
眠気がなかった。音楽を聴くのもいいだろう。本を読むのもいいだろう。
静かな雨の音が聞こえる。何も変わらない。
232:
これでいいんだ、とわたしは思う。
何も考えなくていい。ただぼんやりと何もかもをやり過ごせばいい。
それでいいんでしょう? わたしは頭の中に訊ねた。
答えは聞こえなかった。頭が痛むこともなかった。
それでいいんだ、と何もかもが言っている気がした。
雨の音。部屋の灯り。机の上におかれたペン立て。ベッドの感触。
そのすべてがわたしに語り掛けている気がする。それでいいんだ、と。
だって、何かを考えようとすると、頭が鋭く痛むから。
痛いのは嫌だから。
だから、これでいい。
――本当に?
233:
痛みは思っていたよりも小さかったけれど、わたしはその思考を頭からすぐに追い出した。
そうするとすぐに気分が落ち着いてきた。自分の心臓の鼓動すら、なくなった気がした。
いいんだ。これでいい。
――本当に?
そう、本当に。
別に深く考えることなんて何もない。
わたしはここで、何もかも忘れて生活すればいい。もしくは、何もかもから忘れられて生活すればいい。
それだけでいい。
――本当に?
何度目かの疑問と、それに付き従う頭の奥の痛み。
ひょっとしたら、わたしは納得していないのかもしれない。
ふと、昔どこかで見たことがある、綺麗な毛並みの猫のことを思い出した。
綺麗なクリーム色の毛並。鳶色をした真ん丸の瞳。
あの子とはどこで会ったんだっけ? あの子はどこにいったんだっけ?
不意に、ノックの音が聞こえた。
234:
◇
扉を開けたのはツキだった。
「どうしたの?」
訊ねると、彼は部屋の前に立ち尽くしたまま頭を振った。
自分でも何をしているのかわからない、といった様子だ。
「入ったら?」
わたしはそう言ってから、妙な気分になった。
ツキに対する警戒心は、いったいどこにいってしまったんだろう。
「話があってきたんだ」
「うん」
そんなのは、部屋にきた時点で分かっていた。だからわたしは迷わずに頷く。
なぜか、彼と目を合わせるのが怖かった。
235:
ツキはなかなか口を開かなかった。
こちらから何かを訊ねるべきなんだろうか?
なんだかひどく体が重い。起きているのが億劫だった。
雨の音。重苦しい沈黙に、耐えられなくなる。
「ここを出ていくの?」
とわたしは訊ねた。
ツキは意外そうな顔をする。わたしの心はさして動かなかった。
たぶん拳銃を出されたって、ツキが泣き出したって、ぴくりとも動かなかっただろうと思う。
「それでいいと思う」
彼は黙ったままだった。わたしはどうして自分がこんなことを言っているのか、分からなかった。
236:
やがて彼は、何かを確かめようとするみたいに口を開いた。
「どうしてそんなことを言う?」
「……さあ?」
ツキは悲しそうな顔をして、部屋の隅に置きっぱなしの、壁を向いたままの姿見を見遣った。
そこには何もないのに。
「何か別のことを話そう」
取り繕うみたいにツキはそう提案した。
わたしは気乗りしなかったけれど、仕方なく頷く。
「たとえば?」
「俺のこととか、お前のこととか」
そのどちらも、たいして話が弾みそうになかった。
237:
「そういえば、あなたは以前、シラユキの食事を口にするのをためらっていた気がしたけど」
「……ああ」
「あれって、なんだったの? 毒でも入っていると思った?」
ツキは少し答えるのを躊躇った様子だったが、やがて諦めたように笑った。
「別にそういうわけじゃない。ただ、ここの食べ物を食べると、帰れなくなりそうな気がしたんだ」
「なに、それ。どういう意味?」
「ヨモツヘグイ」
「……え?」
「そういう話があるんだよ」
彼はそれ以上何も言わなかった。
こちらも、質問を重ねる気にはなれない。別の話をしようと思った。
238:
「シラユキのことを、ここに来る前から知っていたの?」
彼は頷いた。
「わたしのことも?」
また頷く。今度は少し間があった。
「あなたは、いったい誰なの?」
「その質問に俺が答えても、お前が自分で思い出せなきゃ、納得なんかできないよ」
「わたしは、どうすればいいの?」
その質問には、答えてくれなかった。きっとシラユキも答えてくれないだろう。
それはわたしが決めなければならないのだ。
239:
急に心細くなって、泣きたいような気持ちになった。
でもきっと、わたしが泣けばツキは困ってしまう。
そう思うのは、傲慢ではないと思う。
言いようのない気持ちが胸の中で氾濫している。
「明日の朝、一緒に森を散歩しないか」
不意に、ツキはそんなことを言った。
「それを言うためにここに来たんだ。すっかり忘れてた」
「どうして?」
思わず訊ね返すと、彼は不思議そうな顔をする。
「どうしてって。駄目か?」
「そうじゃなくて……あなたはもう、ここを出るんじゃないの?」
240:
「出ていってほしいか?」
そう訊かれて、分からなくなった。
わたしはツキにいてほしいのか、それともいなくなってほしいのか。
「分からない」
正直に答えると、ツキは笑った。
それから彼は部屋を出ていった。何を考えればいいのか、分からない。
わたしは眠ることにした。ベッドにもぐりこむ。雨音がいつもよりうるさい。
どうすればいいんだろう。どうすればいい?
答えがあるはずもなかった。
241:
◇
いつものように、夢を見た。いつもとは、様子が違った。
「どうしてそんなに、醜いのか」
聞こえるはずのその声がなかった。彼女は、輪郭をほとんど取り戻している。
怖くてたまらなかったけれど、ためしに声を掛けてみることにした。
「ねえ」
声は思ったよりも大きく反響する。わたしは少し怖気づいた。それでも、なんだか逃げることはできない気がした。
「あなたは、誰なの?」
水面越しに見るように歪んでいた彼女の姿。
それも、もうほとんど、はっきりと見えるようになった。
返事はなかったけれど、わたしは彼女の顔を知っている。彼女の声を知っている。
全身に寒気が走った気がした。不意に確信に近い予感を抱く。
わたしは、思い出しかけているのだ。
246:
◇
朝早くに目を覚ました。夢の内容はよく思い出せない
いろんなものの輪郭がぼんやりとしていて、なんだか曖昧な感じがする。
認識というか、世界そのものが、薄く揺らいでいる気がした。
でもいいや。どうでも。わたしはあくびをしてからベッドに体を預けたまま天井を見上げた。
窓の外はいつもの通り、雨の音。
今日は何をしようかな、とわたしは思う。
本を読もうか。音楽を聴こうか。いつもの習慣でそう考えかけて、頭を振る。
その必要はない。シラユキがそうすることを勧めたからしていただけで、本当はそんなことをする必要はないのだ。
本を読む必要はない。音楽を聴く必要もない。
247:
じゃあ何をしよう。すべきことはない。したいこともない。何もない。
わたしはずっと、そんな日々を望んでいた気がする。
何もしなくてもいい、他人にも時間にも束縛されない日々。
ここにはそれがあった。しかもそれはきっと永遠だ。永遠が石ころみたいに転がっている。
そんな気がした。
しかし、もともと『すべきこと』なんてあるものなんだろうか。
自分が何をしたところで、何をしなかったところで、世界は平気で廻る。
そう思えば、すべきことなんてひとつもないような気がする。
何を作って、何を残したところで、人はいつか死んでしまう。
誰かを好きになったり、誰かのために何かをしたりしても、その人もいつか死んでしまう。
たとえばわたしが音楽家で、たまたま作った曲が評価されて、それが誰かの心を動かしたとする。
その曲が百年以上も語り継がれて、ずっと先の時代の誰かが、その曲を聴いて涙を流したとする。
でも、それがいったい何になるっていうんだろう? 人を楽しませたり感動させたりして、それで?
いつかなくなるなら、最初からなかったことと同じだ。
248:
人の歴史は石ころを積み上げて作った山のようなものだ。無意味な生と死が積み重なっている。
いつかは崩れるその石の山に、わたしがひとつ石を重ねたところで何になるんだろう?
わたしひとりが石を重ねなかったところで、誰が困るというんだろう?
人はやがて滅びるだろうし、地球だっていつかなくなるだろうし、宇宙だってどうなるか分からない。
わたしは、ただの石ころを宝石と勘違いできるほど無邪気ではない。
ただの石ころだと分かっていながら、宝石だと自分を騙し続ける自信もない。
他の人にとってどうなのかはともかく、わたしにとっては、現にそれは石ころでしかないのだ。
……わたしは何を考えているんだろう。
寝惚けているせいか、頭がうまく働かない。どうでもいいことを考えてしまっている。
でも、別にいい。どうせするべきことはひとつもないのだ。
どうだっていい。雨の音が心地よい。
わたしは結局、自分のことしか考えていないのだろう。でも、それの何が悪い?
どうして、わたしの心はこんなに醜いんだろう。
249:
◇
不意に、何かの音が聞こえた。
なんだっけ、とわたしは思う。意識は雨の音に集中していた。
それは何かの意味を持った音だったはずだ。なんだっけ。なんだろう。
ああ、そうだ。ノックの音だ。誰かがこの部屋を訪ねてきたんだ。
誰だろう? なんだかよく分からなくなってきた。夢の中を歩いているような気分だ。
すべての感触が、ふわふわしていて、実感がない。
扉が開けられた。わたしは体を動かす気にもなれなかった。
どうしてこんなにも動く気が湧かないんだろう。自分でも不思議なほどだ。
何が原因で、こんなことになっているんだろう。
何も分からなかった。たぶん分かりたくないんだろう。
「どうした?」
声は言った。ツキだ。それはちゃんと分かる。
わたしは何も答えなかった。
250:
こういうとき、何も考えずに泣き出してしまえたらよかったんだろうな、と思う。
たとえば、ツキに抱きついて弱音を吐いたりして、思い切り泣いてしまえたら。
不安に思っていることをぜんぶ吐き出して、当り散らしてみたり。
でも、そんなことができたら、わたしはそもそもこんな場所にはいないのだろう。
それに、そんな自分を想像すると、ひどく不格好な気がして嫌だった。
ツキだって、わたしがひとたびそんな姿を見せようものなら、きっと面倒になって離れていってしまうだろう。
わたしの内面は、言い訳と、卑屈さと、憎しみと、それ以外のみすぼらしい何かでいつも溢れている。
それを誰かにさらすことなんてできない。
だからわたしは泣き出したりしなかったし、喚いたりもしなかった。
ただ寝足りないふりをして、瞼をこすっただけだった。
結局わたしはそういう人間なのだ。
251:
昨夜の約束のことで来たのだとツキは言った。
すぐには思い出せなかったけれど、散歩のことを言っているのだと思い当った。
わたしの頭は、いつになくぼんやりしている。
普段は蓋をしているものが、どんどんと溢れ出している。
思い出しかけているのだ。自分が居る場所のこと、自分が居た場所のこと。
着替えをするのが面倒だったから、わたしはパジャマの上にカーディガンだけを羽織って、部屋を出た。
一階に降りると、厨房の方に人の気配がある。きっとシラユキだろう。
ツキとふたりで玄関に向かう。会話はなかった。
彼はわたしに傘を差しだす。わたしはそれを受け取る。会話以外のやりとりだって、その程度のものだ。
わたしたちは森の中へと歩く。
252:
相変わらず、生き物の気配がしない森だ。それも当たり前の話かもしれない。
昨日彼が言った、ヨモツヘグイ、という言葉を不意に思い出す。
黄泉戸喫。その言葉がなくたって、わたしはきっと気付いただろう。
気付いていたのに、気付かないふりをしていたのかもしれない。
奇妙なほど、すっきりとした気持ちだった。
つまりわたしがイザナミで、彼がイザナギで、だとすると彼は、わたしの醜さに怯えていなくなってしまうわけだ。
そういうことなんだろうな、となんとなく思った。
それとも、まだ寝惚けているんだろうか? 単なる妄想なのかもしれない。
どっちだっていい。もうどっちだってよかった。
253:
彼は何かの歌を口ずさみながら歩いた。わたしには、その光景は少し意外に見えた。
なんだったかな。明るい曲調だけれど、少し寂しげな。
悲しい曲だった気がする。よく思い出せない。
別に思い出す必要もないのだけれど、会話のない退屈を紛らわすため、わたしは記憶を掘り返すのに専念した。
そうだ。カスケーズの「悲しき雨音」だ。
彼は不意に、歌うのをやめてわたしを見る。そして、困ったような顔で口を開いた。
「疲れたのか?」
「まだ、歩き始めたばっかりだよ」
「そういうことじゃないんだ」
妙に落ち着いた口調だった。何かを心に決めたようなしっかりとした声。
254:
「……そうかもしれない。疲れたのかもね」
たいした含意もなく、わたしは答えた。自分で思ったよりも、それはあからさまな言葉だった。
「帰るの?」
話題をなんとか変えたくて、わたしは思わず訊ねた。
「まだ、来たばっかりだろ」
「そうじゃなくて」
分かっている、というふうに、彼は深く頷いた。
「まだ、決めかねてる」
わたしは自分が安堵しているのか、残念がっているのか、分からない。
でも、残念がっているとしたら、それはすごく身勝手なことだろうと自分で思った。
255:
ひとつ言えるのは、とツキは続けた。
「お前がどちらを選ぶにせよ、俺は戻るってことだ。それだけは変わらない。
俺は生きていくよ。でも、お前の選択によってはとても悲しい思いをすると思う。
せいぜいそれだけだよ。だから、気楽に選べよ。たかだか何人かの人間が悲しむだけだ。それだけだよ」
ツキの声には、感情を押し殺すような響きがあった。
「たかだか、悲しいだけだよ。それだって、別にお前のせいってわけでもない。
ただ、そういう結果を生み出さざるを得なかった状況が憎いだけだ。
そういう状況を生み出すのに加担した自分が憎いだけだ。
自分が何もしなかったことに腹が立つだけだ。そしてお前には、そんな俺を好きに罵る権利があると思う」
雨音の中で、彼の声はいやにはっきりと耳に届いた。
「だから、好きにしろよ」
ツキはそう言った。それ以上は何も言ってくれなかった。
256:
◇
そろそろ戻ろう、とツキは言った。わたしは彼に先に戻ってもらい、森の中に残った。
考えたいことが、たくさんあった。でも、何から考えればいいのか分からない。
傘をさして森の中に立っていると、ひどく透き通った気持ちになる。
このまま透明になれそうな気分。あるいは、森の木々のひとつにでもなれそうな。
しばらくそこでじっとしていた。
曇り空が優しく見える。どうしてわたしはこんなふうになってしまったんだろう。
しばらく経ったあと、遠くの方で誰かの声が聞こえた気がした。
その声に何か嫌なものを感じたわたしは、森の中をもう少し歩いてから屋敷に戻ることにした。
それだけだった。別になんていうことはない朝だった。
262:
◇
屋敷に戻るとき、何か奇妙な感じがした。
なんだか、物々しいような雰囲気を感じたのだ。
これまで暮らしてきて、屋敷をこんなふうに感じたことはなかった。
不審に思いつつ玄関に向かう途中、誰かが屋敷の前に立っていることに気付いた。
誰か、ふたり。
片方がシラユキだということは分かった。でも、もう片方はツキではない。
わたしは物音を立てないように引き返し、森の木々の影に隠れた。
いまさらという気もした。もう見つかったってかまわないじゃないか、と。
だいたいのことは、想像がついているのだ。もう何が起こってもかまわない。
どうなったって、知るものか。
263:
話し声は、雨の音に途切れてろくに聞こえなかった。
それなのに、シラユキではない方の声は、ひどく冷たく、無機的に聞こえる。
なぜかは知らない。
その人とシラユキの、何が違うのか、わたしには分からない。
そういうところも含めて、たしかめないといけないんだろう。
わたしはそろそろ、終わりにしなくちゃならない。そんな気がした。
というよりは、もう終わってしまうのだろう。そういう予感がある。
だってわたしは思い出しかけているんだから。
わたしのささやかな平穏は、忘却によって維持されていた。
本来ならもっと長い間、何もかもを忘れられていたんだろう。
思い出したのは、ツキがここに来てしまったから。
264:
シラユキと話をしていた誰かは、やがて丘の下へと向かう道を歩いていった。
わたしはその場で少しのあいだ空を見ていた。
雨は降り続いている。灰色の雲と白っぽい太陽。生き物の気配のしない森の中。
まるで世界の果てにでもいるような、そんな気持ちになる。
溜め息をついて歩き出す。ぬかるんだ土の感触。それは分かる。
雨の匂いも、土の感触も、太陽の光も、ちゃんと分かる。
でも、そのすべてに現実感がない。
ここにはもう何もないのだな、とわたしは思った。
ひょっとしたら、最初から何もなかったのかも知れない。
今まで気付かなかっただけで。
でも、別にそれでもいい。
もう思い出してしまっているから。
265:
◇
しばらく経ったあとだというのに、わたしがふたたび屋敷に向かったとき、シラユキはまだそこに立っていた。
まるで待ち構えるみたいに。
わたしと彼女は、傘をさしたまま少しのあいだ視線を合わせた。
それだけで、彼女の方からも何か話があるんだろうと分かった。
わたしにそう分かったということは、彼女の方も、わたしから話があることが分かったのだろう。
シラユキはそれから視線を落として、顔をわずかに俯けた。悲しげな表情だった。
でも、なんだか不安定な悲しみ方だった。憤りと諦めを行き来しているような、そんな悲しみ方。
「少し、歩きませんか」
わたしは散歩から戻ってきたばかりだったけれど、頷いた。
どうせ、屋敷の中に戻る気にはなれなかったのだ。
彼女と並んで歩き出すと、なんだか懐かしいような気持ちになった。
ツキと並んで歩いたときにも、こんな感覚があった気がする。
いや、懐かしいと思うのも、当たり前か。
266:
「話があるんですよね?」
「うん。シラユキもでしょう?」
「……はい。大事な話です。でも、あなたの話を聞いてからでも、かまいませんか?」
「なぜ?」
「少し、ややこしい話ですから。その話をする前に、あなたがどう思っているのかを教えてほしいんです」
「どう思っているかって、何を?」
いつもの彼女なら、少し間を置いて、困ったような顔をする場面だ。
けれど、彼女は躊躇わなかった。もうそういう場面ではないのだ。
「わたしや、ツキや、この屋敷や、あなた自身のことや、この街のこと。それから、この世界のことです」
「……うん。いくつか質問するけど、いいよね?」
「答えられる類のものであれば」
彼女はいつもよりもずっと控えめに微笑んだ。
267:
薄いクリーム色をした、細い髪。まんまるの、鳶色の瞳。
淡く滲んだような森の中に、彼女の気配は溶け込むようにうつろだった。
どこから話せばいいんだろう。思い浮かんだこと、思い出したこと、思いついたこと。
どれから話を始めても、どこかが中途半端になってしまいそうな気がする。
ともあれ、話すしかない。そうすることでしか、たしかめられないのだ。
「これから話すこと、もし、おかしいところがあったら、言ってね」
「はい」
「思い出したことが、いくつかあるの」
シラユキは相槌も打たず、話の続きを待った。わたしは話をするのが得意じゃない。
でも、そうするしかない。今はもう。
268:
「わたしは、ここじゃない世界に生きていたんだよね?」
シラユキは答えなかった。雨の音が、かすかに強まった気がした。
「そこで、どんな理由かはわからないけど、わたしは……」
言葉にするのが、少しだけ怖かった。でも、それだけだった。
たかだか、少し怖い程度だった。
「……死んだ。それも、ただ死んだんじゃなくて、自分の意思で」
掠めるのはわずかな記憶ばかりだけれど、反芻するたびに肌があのときの冷たさを思い出す。
水の唸りが獣の咆哮のようだった。夜の静寂を嵐が吹き飛ばしていた。
灯りも見えない暗闇の中で、澱んだ水流のすさまじい勢いと、突き刺さるような冷たさだけを感じた。
その冷たさを、徐々に感じられなくなっていった。
269:
「だから、ここは死後の世界なんでしょう? ツキが、ヨモツヘグイって言ってた。
死後の世界に迷い込んだ人間が、その世界の物を口にすると、帰れなくなるって話。
そうなるかもしれないと、ツキは疑ってた。彼はきっと、最初からこの世界がどんなところなのか知っていたんでしょう?」
答えを待って、わたしは黙り込む。いつもより、雨の音がよそよそしく思えた。
「……概ね、正解です」
彼女は、感情的になるのを恐れているみたいに、無表情のままだった。
「ただ、この世界の食べ物を食べても、帰れないということはありません。
この世界が、死後の世界、というわけでもありません。ただ、あなたの記憶に関しては、正解です。
あなたはここじゃない世界で生きていて、そこで自ら命を絶とうとしました」
「そう、なんだ」
死後の世界ではない、という言葉も気になったけれど、記憶の内容が事実だと肯定された衝撃の方が大きかった。
分かっていたことなのに、どうしてこんなにも胸が苦しいんだろう。
270:
「ツキのことは、思い出せましたか?」
シラユキの方から質問されて、わたしは少し戸惑った。
「まだ、ほとんど分からないけど、情景みたいなものは……」
「それは、どんな?」
「……雨の街を、傘をさして、並んで歩いているの。今よりずっと子供のとき、だと思う。
こことは全然違う場所。なんだかもっと、なんていうか、"普通"の……」
そう言いかけて、わたしにとってこの街は"普通"ではなかったのだな、と、いまさらのように気付いた。
シラユキは何も言わず、続きを待つ。わたしはその光景を思い出しながら、丁寧に言葉にしていった。
「それはたぶん、"いつも"のことで、"当たり前"のことだった、と、思う。
ツキも、わたしも、特別なことだって意識はなかった。わたしたちは、当たり前みたいに並んで歩いてた。
これは、生きていた頃の記憶ってことで、いいんだよね? わたしは、ツキのことを知っていた」
「……あなたがそう感じるなら、そうなんだと思います。その情景に続きはありますか?」
シラユキは穏やかに言った。まるで催眠術にかかったみたいに、口が勝手に動き始めた。
頭が、続きを探していく。
271:
「それは、どこかからの帰り道で……たぶん学校からの、帰り道。
いつも通る公園があった。晴れた日にはそこで、ふたりで話をしたりもした。
でも、その日は、雨が降っていて、わたしとツキは、つまらないことで喧嘩してた。だから、公園には寄らなかった」
そう、寄らなかった。通り過ぎようとした。
「でも、通り過ぎようとしたとき、鳴き声が聞こえた。公園の、ベンチの下から。
小さな動物の鳴き声。雨音にかき消されるほど弱々しくて、小さな声。
わたしはたしかに聞こえたって言ったけど、ツキは聞こえなかったって言った。
それでまた喧嘩になって、たしかめようってことになって……」
そして、ベンチの下には、どこかで聞いた話のように、段ボールが置かれていた。
「底に敷かれた薄っぺらなブランケットの上で、まだ目も開いていない子猫が鳴いてた。
白っぽい、薄いクリーム色がかった毛並をしていて、小さくてかわいかった。
わたしとツキは、雨の中にその子猫を放っておく気になれなくて、段ボールを抱えて、慌てて家に帰った」
272:
思い出していなかったはずの、記憶の続きだった。
わたしはその記憶を必死に辿る。
ツキの両親は猫を連れて帰った息子を叱った。
ペットを飼ったことがなかった彼らは、市販の牛乳を舐めさせて、子猫の腹を壊させた。
急いで本屋に向かい、子猫の本を買ってきて、ペット用品を買いそろえて、次の日には飼うことになっていた。
わたしはその猫がかわいくて仕方なかった。
毎日のようにツキの家に行き、その猫と遊んでいた。
あんまりにもわたしが猫と遊びたがるものだから、ツキはいつも不機嫌になった。
そんなに遊びたいならお前の家で飼えばよかったんだって。
でもそんなことはできなかった。両親にそんなことを言えば……どうなるか、わからなかったから。
その子には名前があった。
ツキが考えたのだ。『お前が花で、俺が月だから、こいつの名前は雪がいい』って。
そのままだと人の名前みたいでややこしいから、少し付け加えて。
柔らかな、綺麗な毛並の子猫に、その名前はぴったりのものに思えた。
シラユキ。
276:
◇
「猫は長い間ツキの家で飼われていた。
わたしはその子のことが好きだったし、ツキだってその子のことが好きだった。
でも、死んだ。四年か、五年経った頃だったと思う。
季節は秋で、よく晴れた日だったことを覚えてる。車に轢かれて、ひどい姿だった」
連鎖するように、記憶が次々と浮かび上がってくる。
ツキのこと。シラユキのこと。それから自分のこと。
わたしが何かを言いかけるより先に、シラユキは口を開いた。
「もし、わたしがその猫の死後の姿なのではないかと、あなたが考えているとしたら、それは誤りです」
彼女はわたしの考えを、あっさりと否定する。
何の躊躇もなさそうに、はっきりと。
不思議と驚きはなかった。いや、不思議でもなんでもない。
いくら死んだあとだからといって、どうして猫が人の形になったりするだろう。
277:
「続きを、話してもらえますか?」
「……続き?」
「はい。その猫が死んで、あなたはどう思ったんですか?」
「……わたしは」
わたしは、とても悲しんだ。
猫はだいぶわたしたちになついていたし、死んでしまうのもあまりに唐突だったから。
当たり前のように悲しんで、それで……。
「悲しかった、までは分かります。それから?」
それから。
「……それから、って、なに? それ以上に何があるっていうの?」
「ないのですか?」
シラユキの表情は、いたって真面目なものに見える。
こんなときに、彼女はふざけたりしない。
頭が、軋むように痛む。
278:
「あなたはシラユキの死に、どんなことを思ったのですか?」
わたしは。
「……生き物は、死ぬんだなって思ったよ。すごく素朴に。
なんだかすごく虚しい気がした。こんなことがずっと繰り返されていたんだと思うと」
「はい」
そこで終わりではないでしょう、と言うみたいに、彼女は頷く。
わたしは続きを引き出される。自覚できないほど深い部分から。
「……いつか終わるなら、もういいやって思った」
「どういう意味ですか?」
「だから、もういいや、って思ったの。いつか終わるとしたら、ここで終わりでもいいやって」
「なぜ?」
「全部が全部、いつか終わってしまうなら、それが今すぐでも構わないって思った。
だって、苦しかったから。いろんなことが分からなくなっていたから。今だって、そうだと思う」
279:
「生き続けて苦しむより、何もかも終わりにしてしまった方が楽だったってことですか?」
「……うん。そういうことになるんだと、思う」
シラユキには、たいした衝撃もなさそうだった。まるであらかじめ知っていたみたいに。
わたしは自分の記憶と、自分の言葉を整理するので頭が追いつかない。
「だから、何もかも終わりにするために、死のうとしたんですね?」
「……そう、だと思う」
頭痛がなくなってくれない。記憶が無理に引きずり出されているような痛み。
雨音がノイズのようにのしかかる。わたしは痛みに対しての耐性を持ち合わせていない。
「ことの是非に関して、わたしはまったく興味がありません。
問題は、何があなたをそこまで苦しめていたかという点です」
「シラユキ、やめて」
気付けば、そう言っていた。自分でもびっくりするほど頼りない、怯えた声だった。
280:
「そんな言い方をするということは、あなたは既に思い出しているはずです。
自分が誰によって苦しめられていたのか。そのことをちゃんと理解しているはずです」
「……そんなの」
――どうしてそんなに、醜いのか。
耳元で粘つくようなささやき声。
でもわたしは、なるべくその声の主のことを思い出さないようにした。
「あなたの母親です。正確にいえば父親の後妻。あなたから見れば継母にあたります。
実の母親は、あなたが立って歩けるようになった頃には亡くなっていましたから」
シラユキはそこで一度言葉を切ると、吐き捨てるような調子で続けた。
わたしは彼女のそんな声を、初めて聞いたような気がした。
「あまり気分の良い話ではありませんから、細かい部分は割愛しましょう。
"それ"は日常的に繰り返されていました。父親の目がない時に。
再婚した直後はそうでもなかった。でも、それに関してもさまざまな要因があったのでしょうね。
あなたの方も、誰にも言うことはできずに、ただ投げつけられる言葉に耐えていました」
それ以上何も聞きたくなかった。どうしてこんな話をしているのか、分からなくなってしまう。
281:
「あなたにとって、家は安らげる空間ではありませんでした。
学校に行くことだって、家から離れられる安堵を除けば、楽しいことでもなかったでしょう。
苦しいばかりだったでしょうね。唯一の友だちだったツキと、その家族。それからシラユキという子猫。
もし苦しみではないところがあるとしたら、そうした人々との交流くらいでしょう」
シラユキは、淡々と言葉を吐き続けた。
わたしの頭は心とは別に、答えを導き出していく。
長い間、その自覚もなく、わたしは耐え続けていた。
けれどある日、何の脈絡もなく、猫は死んでしまった。
その出来事に、わたしは分からなくなってしまった。
どうしてわたしは、必死になってここに留まり続けているんだろうと思った。
いつからか、自殺と疑われずに死ねる方法を考えている自分に気付いた。
282:
「そうして、あなたは死にました」とシラユキは言った。
他人事のようなニュアンス。そのことが、むしろ事実を際立たせていた。
「激しく風雨の吹き荒ぶ、嵐の夜のことでした。
暗い夜の中、いつも通っていた橋の下の河は、とぐろを巻いた巨大な黒い蛇のように見えました。
それから先は、わたしが言わなくても感覚が覚えているでしょう」
沈黙の隙間を、雨音が縫うように埋めた。
わたしは何を言えばよかったんだろう。
自分の死の顛末に、感想のひとつでも寄せればよかったのだろうか。
視野狭窄だった、とか、周りに相談するべきだった、とか、父親は何をしていたんだ、とか。
そんな間抜けな感想のひとつでも、付け加えればよかっただろうか?
何も言えることなんてなかった。
283:
父親はいつも仕事で帰りが遅かったし、義母は父の前では良き妻を演じていた。
……いや、良き妻だったのだろう。きっと良き母にもなれたはずだ。
でも彼女はそれを拒んだのだと思う。きっと、そうだと思う。
生きている間、ずっと、わたしは自分の日々を覆う暗闇の正体がつかめなかった。
何かが覆いかぶさっているのは分かっていた。
でも、それがどんなもので、どのように取り除けばいいのか、見当もつかなかった。
だって誰も教えてくれなかったのだ。
「……記憶の話は、ここまでにしましょう」
シラユキは言った。わたしは頷くこともできなかった。
傘の柄を握る手のひらの感触が、いつもより心もとない。
自分は死んだのだ、と思った。そして二度と生き返らない。
そう思うと虚ろな解放感がわたしの心を支配した。
かすかな安堵。あとは少し、胸の痛んだ。それだけだった
284:
「ひとつだけ、聞いておきたいことがあります」
シラユキは真剣な瞳でわたしを見つめた。
鳶色の、まんまるの瞳。あの猫ではない、と彼女は言った。でも、よく似ている。
わたしは少し、悲しくなった。
「死を選んだことに後悔はありませんか?」
どう答えればよかったのだろう。わたしは迷う間もなく、返事をしていた。
「……後悔? なぜ?」
シラユキは何も言わなかった。少しだけ後悔したけれど、取り繕うような言葉は浮かばない。
きっと本心から出た疑問だったのだろう。
「そうですか」
とシラユキは頷いた。
285:
「では、まだ生きて帰る術があると聞いても、あなたは嫌がるだけなのでしょうね」
その言葉に、彼女の言う通り、嫌な気持ちになる。
選択の余地がないこと、選択が終わったあとだからこそ、解放されたと言えるのだ。
選択の余地があるあいだは、わたしは考え続けなければならない。
もう、そういうのは、うんざりだ。
シラユキはわたしの気持ちを知ってか知らずが、話を続けた。
「いくつか、話さなければならないことが残っています。
あなたがさまざまなことが思い出したのも、そういうタイミングだからでしょう。
それを思えば、あまりにもお誂え向きと言えるかもしれない。そろそろ終わりが近づいているということでしょう」
わたしが不審に思っていると、彼女は困ったように笑った。
「大丈夫。迷いがないなら、話は簡単です」
それから彼女は、いつものように微笑む。
「この世界についての話をしましょう」
289:
◇
風が吹いた気がした。冷たく湿った風だ。少しだけ雨を揺さぶって、すぐに消えた。
生き物の気配のしない森の中に、わたしたちは立ち尽くしている。
「死後の世界ではない、と、さっき言いました。では現実なのか、と訊かれるとそうではありません」
シラユキは話し始めた。わたしは話の続きを聞くべきなのだろうかと考えた。
でも、もう無駄なのだろう。わたしは聞くしかない。聞いたうえで選択しなくてはならない。
「上手く説明するのは難しいですが、この世界は、あなたを中心に出来上がったものです。
というよりは、あなたこそが世界そのものである、という言い方をすべきかもしれません。
あなたの心象風景が具現化されたもの、それがいくつかの現実的な要素によって補強されたもの、とも言えます。
厳密には異なりますが、走馬灯や妄想と言い換えることもできるでしょう」
心象風景。走馬灯。妄想。
それならたしかに、現実とは言えない。死後の世界とも言えない。
ということは、このシラユキとの会話も、わたしの頭の中での出来事ということになるのか。
要するに、すべて、わたしの妄想ということに。
290:
「つまり、全部が全部、わたしの自作自演ってこと?」
そう思うと、なんだかこんな会話すら無意味だという気がしてきた。
人形遊びのようなものだ。自分の頭の中での会話。
だとすれば、この雨の匂いも、土の感触も、すべては夢のようなものなんだろうか。
「そうだ、とも言えますし、そうではない、とも言えます」
「よく分からない。つまり、どういうこと?」
「この世界は、あなたの精神に依拠して生み出されました。
ですが、それはこの世界があなたの願望によって成立していることを意味しません。
まったく無関係というわけではありませんが、世界は既にあなたから独立してしまっています」
291:
彼女なりに、噛み砕いて説明したつもりなのかもしれないけれど、わたしにはさっぱり分からなかった。
シラユキは少し黙った。それから気を取り直すように深呼吸をする。
長い睫毛が、かすかに揺れた。
「丘の下の街には、変化が存在しません。
今いる人間は決していなくなりませんし、今いない人間が新たに生まれることもありません。
大人は永遠に大人ですし、子供は永遠に子供です。そして毎日、ほとんど同じことを繰り返しています。
つまり、今降っている雨は、ずっと降り続けるんです」
これらは街が街として生まれてから、街として獲得したものです、とシラユキは言う。
「生み出したのはあなたでも、管理しているのはあなたではありません。
だから、丘の下の人々は自分の意思で行動していますし、あなたの意思でこの街が消えてなくなることもありません。
世界は世界として成立してしまっているんです」
わたしには彼女の言うことの半分も理解できなかった。
292:
でも、少し考えてどうでもいいやと思った。
だってここは結局、わたしにとっての現実ではないのだ。
夢のようなものだ。
そしてわたしは、別に現実に帰りたいとも思わない。
死ぬというのならそれでいい。生きたいとも願わない。
わたしの願いは、シラユキとずっとここで暮らし続けることだった。
でも、それすらも、もはや関係ない。
にも関わらず、シラユキは続ける。
「丘の下の街で暮らす人々は、変化を毛嫌いします。
街にいる人間が増えることを許しません。絶対量が決まっているんです。
それは決して減りませんし、増えることは許されません」
293:
いまさらそんなことを知ったところで、何の意味があるんだろう。
「あなたは世界が生み出されたとき、既にこの世界に存在していました。
ですが、厳密には、あなたはこの世界、この街の住人ではありません。
そのことは分かりますね?」
「わたしにとっての現実は、ここじゃないってことでしょう?」
「はい。ですから、あなたはとても曖昧な立ち位置にいます。
あなたがこの世界に居続けるかぎり、この世界はあなたに危害を加えません。
ですが、もしあなたが変化を望み、この世界を去ろうとしていると気付いたら、この世界はあなたに容赦しません」
「……どういう意味?」
「もし発覚すれば、拘束してでもあなたを街に留め続けるでしょう。
それでも逃げ切ることはできるとは思います。出口が見つけられれば、ですけど」
294:
なんだ、とわたしは思った。
じゃあもうわたしの結論は決まっているんじゃないか。
「つまり、わたしがここに居続けることを選べば、何の問題もないの?」
「……そうなります」
シラユキは硬い表情で頷いた。簡単な話だ。わたしはここに留まることができるのだ。
「そっか。そうなんだ。じゃあ、別にいいや。わたしはここに居られるんでしょう?」
「はい。永遠に、です」
シラユキは少しだけ困ったような顔をした。
「一応、言っておきます。今はまだ仮の状態ですから、違う答えを選び直すこともできますけど……。
もう、そんなに猶予はありません。もう少ししたら、永遠が確定されます。
そうなるともう、後悔すらできません。その先ではあらゆる変化が許されません」
「そう」
「それはそのまま、現実世界での死を意味します」
「そっか。うん。分かった」
295:
「……本当に、構わないんですか?」
雨音は続く。わたしはシラユキの不安そうな表情がおかしくてしかたなかった。
「どうして駄目だって思うの?」
「……わたしはおそらく、あなた自身が作り出した存在です。シラユキという猫をモデルに。
どういう理屈かは分かりませんが、わたしの中には、あなたやツキと過ごした記憶があります」
「本当に、猫のシラユキとは違うの?」
「シラユキは死にました。死んだものはどのような形であれ、生き返ることができません」
そうだろうなとわたしは思った。でも、どうなのだろう。
理屈はどうあれ、彼女は――猫のシラユキなんじゃないか。
いつだったか、ツキが「あの"シラユキ"か」と訊ねたとき、彼女は頷いてはいなかったか。
ひょっとしたら単純に、そう言っておいた方が、話が早かっただけなのかもしれないが。
296:
「わたしは、あなたを丘の下から隔離して、できるだけ街から遠ざけるように行動してきました。
それはたぶん、この選択を迫るためのこと、だと思います。現実を望んだときは、現実に帰れるように。
わたしはその為の保険のようなもの、なんだと思います」
「なんだか釈然としないけど、つまりあなたも、わたしが勝手に生み出した存在ってこと?」
「……もちろん、わたしにも意思や感情はあります。独立した一個の存在です。
ですが、そういうふうに作られたんだということは、状況的に想像ができます」
「それで?」
「もし本当に、この世界に居続けることを、あなたが望んでいるなら、自分で選択の余地を残すでしょうか?」
わたしは溜め息をつきたくなった。
297:
この世界で暮らし続けること。"永遠"が確定されること。それは現実世界における死を意味する。
理解しにくい、納得しにくい理屈だ。でも要するに、言葉の使い方が違うだけのことなんだろう。
ここから出るか、出ないか。
あるいは、生きるか、死ぬか。
問われているのはそこだけなんだろう。
「シラユキ、選択の余地に、保険以上の意味なんてないよ」
誰かが、似たようなことを言っていた。まだ生きていた頃だ。
『痛くて、苦しくて、死にたいって言いながら、それでも死なないのは、本心では生きたいと思っているからじゃないのか?』
誰が言ったんだっけ。わたしには関係のない場面だったような気がする。
わたしはあのとき、何も言わなかった。
何も言わなかったけれど、覚えている。
298:
その人は根本的に誤解していたのだ。
死を望みながらも、最後の一歩を踏み出さないのは、本心だとか、無意識だとか、そういうものが理由じゃない。
積極的な死と消極的な生ならば、消極的な生の方が労力が少ないだけだ。
生きている状態から死を望むなら、積極的に行動を起こす必要がある。
でも、ずるずると生き続けるだけなら、覚悟も、決意も、必要ない。
きっかけひとつ、あるかないかの問題なのだ。きっかけさえあれば、いつだって死ぬはずだ。
世界を救うために誰かひとりの命が必要だったなら、喜び勇んで名乗り出るだろう。
大義名分を手に死ねるなら、それほど楽なことはない。
選択の余地に、保険以上の意味なんてない。
299:
「じゃあ、あなたは、死にたいんですか?」とシラユキは言った。
「正確に言うと、もう生きていたくない」
雨。
ずっと続いている。昔から雨は好きだった。止まなければいいと思っていた。
どうしてだっけ。雨はわたしに優しかった。
「……わたしは、この世界に、意思と感情を持って存在しています。信用できないかもしれませんが。
ですから、そうする権利はないと知っていながら、少し勝手な行動もとりました。
少しでも現実のことを思い出せるよう、本や音楽を勧めました。
この街に馴染んでしまわないよう、他の人と会わせることを避けたりもしました」
「ああ、そうだったんだ」
「それは、あなたのことが好きだからです。生きてほしかったからです。知っていましたか?」
「シラユキ」
とわたしは強く呼びかけた。
「もう、現実のことなんて、ぜんぶどうでもいいよ。ぜんぶ、終わりでいいよ」
300:
彼女は悲しそうな顔をした。でも、本当にそうなのだ。
もう、全部終わってしまって構わない。
現実はわたしにとって積み上げられた石ころに過ぎない。
ここにきてより一層、その感覚は強まっている。
「そうですか。では、あなたの身の周りにいた人々のことも、どうでもいいんですね?」
「石ころ」とわたしは言った。口に出すつもりはなかったけれど、それは転がり出るように声になってしまった。
シラユキは眉をひそめた。
「本当に?」
「なぜ違うと思うの?」
「わたしも――」
と彼女は言いかけて、一度口を閉ざしてから、言葉を選び直した。
301:
「――シラユキという猫も、あなたにとっては石ころでしたか?」
「……どうだったかな」
いいかげん話を終わらせてしまいたいなとわたしは思った。
そうじゃないと……。
「ツキは、どうですか? 何の価値もない相手でしたか?」
……ああ、そうだ。思い出した。
ツキだ。
雨の日が好きだった理由。
外で遊ぶのが好きだった彼は、晴れた日には、わたしを置き去りにして他の誰かと外に遊びにいった。
でも、雨の日は、退屈そうにしながらも、一日中だって一緒にいてくれた。
だからわたしは雨が好きだった。
ツキの、少し物憂げな横顔を眺めながら、シラユキの背中を撫でるのが好きだった。
302:
「あなたがここに残ることを決めるというのなら、わたしはそれに従うしかありません」
怒ったような声だった。少し、震えているようにも聞こえる。
わたしの胸は少し痛んだ。どうして痛むんだろう。わたしはほとんど死んでいるのに。
「あなたはこの屋敷で暮らしながら、そのときが来るのを待てばいいだけです。
ただ、その前にひとつだけ言っておくことがあります。
ツキがこの世界にやってきたのは、なぜだと思いますか?」
「……それだって、わたしの妄想の一部でしょう?」
「さっき言った通り、この世界では人口の増減は起こりません。ツキは最初、この世界に存在しませんでした。
もし彼が現れたのなら、それは他のどこかから来たということです。やってくることができた、ということです」
「……それが?」
「……それすらあなたにとってどうでもいいことなら、もう何も言いません。責めるつもりも、ありません。
あなたにとって、それだけ現実が決定的だったんだと解釈します。
ただ、これはそうした決定とは無関係のこととして聞いてください」
303:
シラユキは一度深呼吸をした。わたしは何か嫌な予感がした
でも、なぜ嫌な感じがするのか、分からなかった。
何が起ころうとわたしは揺るがない。そのはずだ。だったら、関係ないじゃないか。
「先ほどまで、丘の下の村長さんが、屋敷にいらっしゃっていました。
変化を嫌うはずの彼が、今日ここを訪れたのは、何かを感じ取ったためかもしれません。
そして、タイミング悪く、散歩から帰ってきたツキの姿を、彼は目撃しました。
今頃、ツキを探すために、丘の下で人を集めているところでしょう」
急な話題の変化に、わたしは少し戸惑った。それからやっぱり、嫌な気持ちになった。
「丘の下の人々は、人口の増減を決して許しません。
もしいないはずの人間が現れれば、彼らは必ず探し出して、殺害しようとします」
「……サツガイ?」
「はい。殺害、です。あなたにとっては、もうどうでもいいことなのかもしれませんが」
そう言うと、シラユキは静かに空を仰いだ。
「積み上げられた石ころの山から、たったひとつ石ころがなくなるだけの話です」
わたしは、答えられなかった。
307:
◇
わたしとシラユキは言葉もかわさずに屋敷に戻った。
ツキは森の奥に逃げ込んだという。まだ、つかまってはいないらしい。
ひとり部屋に戻り、ベッドに寝転がる。それからさっき話した内容を吟味した。
この世界のこと、わたしのこと、シラユキのこと、ツキのこと。
そして自分の記憶にある「現実」のことを考えた。
思い出してみると、それはさほど悪くないように思えた。
ツキがいた。彼の両親は良い人たちだった。わたしにも優しくしてくれた。
それにシラユキが言っていたように、現実には面白い本もあったし、音楽だってあった。
映画だってドラマだって娯楽には事欠かなかった。その中にはいくつか好きなものだってあった。
きっとわたしが知らないだけで、現実にはたくさん、素敵なものや場所があるのだろうと思う。
そして生きてさえいれば、そうしたものを求め、出会い続けることができるのだ。
でも、それだけと言ってしまえば、それだけのことだった。
本も音楽も映画も、実際の境遇からわたしを救ってくれるわけではなかった。
耐える手助けにはなるかもしれない。でもそれだって結局、それだけのものだ。
耐えたあとに何かを残してくれるわけでもなかった。
308:
世界は世界として独立している。シラユキはそう言った。
死後の世界というわけでもなく、現実でもない。
一種の異世界のような場所。わたしの精神を土台に作られた場所。
そして、ツキはそこにやってきた。
彼の存在は、この世界では許されないものだ。だから彼は、人々に見つかれば殺されてしまう。
それでなくても、この世界に来るために、どのような手段を取ったのだろう?
この世界が世界として独立しているなら尚のこと、普通の手段でここに来ることはできない。
……入口があるなら、出口もあるのだろうか。
ツキ。ツキが死ぬかもしれない。
この世界で死んだら、現実でも死んだことになるのだろうか?
たぶん、そうなのだろう。ここで死んだ人間は、現実でもやはり死んでしまうんだろう。
309:
別にかまわないじゃないか。そう思った。ツキが死のうと生きようと関係ない。
そう思ったから、わたしはここにいるんじゃないのか?
ツキが悲しんでも、苦しんでも、関係ない。そう思ったから、わたしは今ここにいるのだ。
身の回りの人間のことだって知ったことじゃない。そう思ったから……。
わたしは瞼を閉じて、ツキのことを思い出そうとした。
現実に生きていたときの記憶。ツキはわたしに、どんなふうに接していたのか。
思い出す必要なんてない、と思う自分もいた。
でも、わたしは思い出そうとした。なぜだろう? それは分からない。
思い出そうとしてもろくな記憶がなかった。
かろうじていくつかの表情が思い出せるだけだ。笑った。怒った。泣いた。強がった。
そんな断片的な記憶だけ。でも、それはツキだった。
310:
わたしは無性に叫びだしたいような気持ちになった。
どうしようもなく、気分が収まらなかった。そう考える自分を抑え込もうとした。
ベッドを降りて、窓の外を睨んだ。そして思う。
見ろ、と。雨はまだ降っている。雨が降っている。それだけだ。それ以上に何がほしいんだ?
窓の外には森が見えた。ツキは今、どこにいるんだろう?
きっと逃げている最中だ。
どうなんだ? わたしはわたしに訊ねる。
ツキにどうなってほしい? 本当に、ツキのことはどうでもいいのか?
答えは、すぐに出た。
どうでもよくなんかない。
彼は、石ころなんかじゃない。
311:
そう思うことに、どことなく抵抗もあった。理屈が合わなくなってしまう不安。
でも、それどころじゃない。彼はこんなところにいてはいけないのだ。
ツキの両親は、彼が死んだらきっと悲しむ。
わたしのために、彼らにそんな顔をさせるわけにはいかない。
理屈なんてどうでもいい。わたしは、彼が現実に帰る手助けをしなければならないのだ。
わたしは部屋をあとにして、屋敷の中でシラユキの姿を探した。
二階にはいなかった。階段を下りて一階を目指す。
シラユキは厨房にいた。そうだ。わたしたちは朝食だってとっていない。
ここは現実ではないけれど、ひとつの世界だ。
お腹だって空くし眠くだってなる。現実感に乏しいなんて嘘っぱちだ。
ツキだってきっとお腹を空かしている。
雨に打たれて寒い思いをしているかもしれない。
そんな思いをしていい人じゃない。
彼はわたしとは違うのだ。
312:
「シラユキ」
呼びかけると、彼女は意外そうに顔をあげた。
彼女はわたしの声に、どこか戸惑ったような表情を見せた。
当然と言えば当然か。
この屋敷に来てから、ここまではっきりとした意思を持ったことはなかった気がした。
「この世界に、出口はあるの?」
彼女は怪訝そうにしながらも、答えをよこした。
「あります。そうでなくては、あなたが現実に帰ることができませんから。それでは、保険が機能しません」
「そこから、ツキも現実に帰れるの?」
「……おそらくは」
「分かった」
313:
「分かったって、どうしたんです?」
「ツキを現実に送り返す。彼に死なれるのは困るから」
「……なぜです?」
心底不思議そうな顔を、シラユキはした。
なぜ、死のうとしている人間が、生きている人間のことを考えるのか。
そういう表情だ。
「彼を巻き込んだら、わたしが気持ちよく死ねないの」
シラユキは、答えに迷ったようだった。
というよりは、まだ、どうにかしてわたしを説得しようとしているような態度だった。
「わたしのことについては、何も言わないで。それはわたしも、あとで考える。
ツキのことは、急がないといけない。そうでしょう? 彼を一刻も早く、現実に戻さないといけない」
「アヤメ」
と彼女はわたしを呼んだ。わたしは彼女が何か言うより先に答えを返す。
「協力して。ツキをどうやって助ければいいの?」
314:
◇
わたしは部屋に戻り、動きやすい服に着替えた。
それから何か武器になるようなものを探した。
書斎にある拳銃が手っ取り早そうだったが、あれはあまりに物騒だ。
部屋の中を探しても、それらしいものは見つからない。
仕方ないか、とわたしは思った。もし武器が必要な場面になったら、わたしにはどうしようもないだろう。
できるかぎり、そのような状況に出会わないようにしなければならない。
「どうして、下界の人たちは殺そうとするの?」
わたしがそう訊ねたとき、シラユキは考え込むような顔をした。
「だって、別に殺さなくても、追い出せばいいだけのことでしょう?」
「……たぶん、彼らは出口があるということを知らないんだと思います」
純粋な意味でのこの世界の住人は、この世界以外の世界を知らない。
だから、殺す以外に数を維持する方法を持たないのだと。
315:
彼らはツキを見つければ、すぐに捕縛し、殺害しようとする。
里にやってきた熊を撃ち殺すみたいに。
そして、仮にわたしがこの世界から逃げようとすれば、わたしを捕らえようとする。
逃げるとまではいかなくとも、何かの変化をわたしが望めば、彼らは動く。
おそらく、ツキを逃がそうとすることも、それに抵触するだろうという気がした。
出口の存在を知らないのに、わたしが逃げることを嫌がるというのは、変な話だ。
でも、細かいことはどうでもいい。
彼らに見つからずにツキを探し出し、出口まで連れて行き、逃がしてしまえばいいのだ。
たったそれだけだ。
316:
なんとか気持ちを落ち着かせなくては、とわたしは思った。
それから軽く食事をとった。
シラユキはなんとも言えないような表情でわたしを見た。
わたしは何も言わなかった。
彼女はきっと、まだわたしに期待しているのだろう。
わたしは、その期待に応えるつもりはない。
ただ、ツキを見過ごせないだけだ。
食事をとったあと、玄関ホールに向かう。
シラユキはわたしに薄い水色のレインコートを渡した。
わたしがそれを羽織ったとき、外から物々しい足音が聞こえる。
シラユキと顔を見合わせてから、わたしは通路の影に隠れた。
317:
ドアを叩く音。シラユキが扉を開けた。
客人が何かを言うよりも先に、彼女が声を掛けた。
「どうされました?」
「例の、人影です。これから森の中を探そうと思っています」
無機的な声。聞き覚えのある、男の声だ。
「……はい」
「それで、あの男については、どうでしょう。このところ人影などを見かけたことはありましたか?」
「いえ、そんなことはまったく……」
「そうですか。この屋敷の周りを、ひょっとしたらうろついているのかもしれません。
この屋敷の近くを重点的に探してみたい、と思っています。よろしいですか」
「……はい」
318:
シラユキは頷く。特殊ではあるが、,彼女もこの世界の住人だ。
この世界のしがらみには、従わざるを得ないのだろう。
「それでは、少しのあいだ騒がしくなると思いますが、よろしくお願いします。
こちらも仕事ですから、ご容赦ください。ご存知でしょう。仕事なのです。申し訳ありませんがね」
男はそういって、玄関を出て行った。しばらくの間、屋敷の外をうろつくのだろう。
それに、彼ひとりではないようだった。何人もの住人を連れてきたらしい。
シラユキは無言のまま、わたしを屋敷の奥へと促した。
窓の外から見えないような位置を通る。
「そのうち、屋敷の中を調べさせてくれ、と言い出すでしょうね」
とシラユキは言う。わたしもそうだろうと思った。
319:
「森の中で人ひとりを探すというのは、大勢の人間がいるにしても、簡単なことではありません。
とはいえ、外は雨が降っていますから、ツキの体力の方も心配しなくてはいけません」
「……うん。でも、これじゃ、外に出られない」
「時間が経てば、屋敷の周りの人は減るでしょうけど、そうすると森の中に数が増えますね。
かといって、いま真っ向から外に出ようとしても、難しいと思います」
完全に出鼻をくじかれた形になった。
わたしは焦る気持ちを抑え込んで、なんとか方法を考える。
玄関はダメ。窓からだって、きっと同じだろう。安全さに欠ける。
それ以外の出入口はない。出入り口は……。
……入口があるなら、出口もある。
「ツキは、どうやってこの屋敷に入ったんだっけ?」
わたしが訊ねると、シラユキはちょっと驚いた顔をした。
320:
「普通に玄関から入ったら、シラユキは気付いていたはずだよね?」
「……それは、まあ」
玄関の扉には鈴が取り付けられていて、開閉する際はそれが大きな音を鳴らすようになっている。
でも、この街では雨が降り続いているから、わたしもシラユキもめったなことでは窓を開けない。
毎晩、シラユキが厳重に戸締りを確認しているから、どこかの鍵が空いていたとは考えにくい。
思い浮かんだのは、ツキの姿を最初に見た、例の隠し扉の向こう、あの地下通路だ。
あの通路を進んだ先に、ひょっとしたらどこか外へ繋がる道があるのではないか。
あくまでも可能性だ。どこにも繋がっていない場合もある。
それに、万一、外に繋がっていたとしても、それが屋敷からすぐ傍の場所では意味がない。
それでは街の人々に見つかってしまうかもしれないからだ。
理想は、地下通路を辿って、森の中に出られること。
そんなふうに繋がっている確率は、かなり低そうだ。
「でも、他に手段もありませんね」
シラユキはそう言った。わたしもそう思う。
321:
「地下通路を通って、森に出られそうなら、そのままツキを探すのがいいと思います。
もし危険そうなら、戻ってきてください。別の方法を考えましょう」
安全な方法なんてあるものか、とわたしは思った。多少のことは仕方ない。
手をこまねいている間に、ツキが見つかってしまうかもしれないのだ。
わたしたちは書斎に向かった。わたしは書斎机の二段目に入っていた懐中電灯を持ち出す。
それから暖炉の中に入り込み、例の蓋を開けようとした。
どうやって開けるのか、分からなかった。
ようやくそれらしい隙間を見つけて動かそうとすると、重くてなかなか持ち上がらない。
シラユキに協力してもらおうと思ったが、ふたりが入って持ち上げようとするには、暖炉の中の幅が足りない。
わたしはやっとの思いで蓋を開けた。
322:
「お気をつけて」とシラユキは言った。
わたしは頷きだけを返して階段を降りた。
懐中電灯をつける。黴の匂い。こもった冷気。この先に出口があればいいのだが。
蓋を閉める直前、シラユキと目が合った。不安そうな表情。
わたしも似たような顔をしているのかもしれない。
怖くなりそうだったので、気が変わる前に蓋を閉めた。
それはあっさりとした音を立てて閉まった。上からの光はなくなって、懐中電灯の灯りだけが頼りになる。
さて、とわたしは思う。
進まなくては。
325:
◇
引き伸ばされた棺の中を延々と歩いているような、そんな気分だった。
黴の匂いが湿った空気に混じり、わたしを不安にさせる。
石造りの通路は、そっけないような冷たさで満ちていた。
ありとあらゆる温かみが存在しない、何もかもから隔絶されているかのような空気。
それも当然のことだろう。
天井の隅では大きな蜘蛛の巣が埃をかぶっていた。
この場所にも蜘蛛がいるのだと思い、わたしは少し怖くなる。
以前来た時に、そんなものを見ただろうか?
考えたけれど、よく思い出せない。あのときはツキを警戒するので精一杯だった。
今はそのツキをどうにかするために歩いているのだから、考えてみれば不思議な話だ。
326:
以前ツキが言っていたように、しばらく進むと道がいくつかに分かれていた。
懐中電灯で照らせる限りを照らしてみたけれど、その先に何があるのかは分からない。
どのくらい続いているのかも分からない。本当に暗い。自分がどのくらい進んだのかも分からなかった。
今この懐中電灯が壊れてしまえば、わたしはどうなってしまうんだろう。
とにかく進んでみないとならない。
道はまっすぐ進むものと、左に向かうものがあった。
わたしは左に折れてみることにした。変わり映えのしない景色が続く。
不意に何かが蠢くような気配がして、背筋がぞっとした。
慌てて床を照らすが、そこには何もいない。けれどたしかに、何かがいたのを感じた。
辺りを照らしてみると、壁の下に開いた小さな隙間に、何かが入り込もうとしていた。
細い尻尾と黒ずんだ毛並み。かすかな鳴き声が聞こえた。
鼠。わたしの手のひらよりも大きそうな鼠だった。鼠は尻尾を振りながら穴の中へと逃げ込んでいった。
わたしは慌てて辺りを照らした。そこらじゅうを照らしても、他の鼠の気配はしない。
けれど、たしかにいるのだ。わたしはその一匹を目の当たりにした。
そう思うと怖気がするような不安に駆られた。
327:
パニックになってそこらじゅうを振り向いたせいで、自分が進んでいた方向が分からなくなる。
自分の間抜けさに泣きたくなってきた。
皮肉なことに、再び正確な方向を把握できたのは、鼠が入っていった隙間の位置のおかげだった。
わたしは緊張しながら先に進む。
通路の突き当りは、行き止まりになっていた。
わたしは溜め息をつく。
それから周囲を見回して、不審なところがないかを確認した。
少なくとも鼠が出入りできそうな隙間は三か所ほどあった。行き止まりの天井の隅には蜘蛛の巣があった。
風もない澱んだ空気。饐えたような臭気。
なんだかもう帰りたい気持ちだ。なんでツキのためにこんな思いをしなければならないのだ。
そう思うと涙が出てきそうになった。暗いし、怖いし。でも、それはわたしのせいなのだ。
そしてツキだって、今頃同じようなことを考えているに違いない。
森の中で雨に打たれて、どうして自分がこんな思いをしなければならないのかと。
それを思えばあまり弱気なことも言って居られない。
それでもわたしは、怖くてその場で少しだけ泣いた。
死にたがりが鼠に怯えて泣くのもおかしいものだとも思ったけれど、それとこれとは話が別だ。
328:
気を取り直して、行き止まりの壁の一部を照らしてみると、鉄製の取っ手のようなものがあった。
わたしは少し躊躇したけれど、結局それを掴んだ。
ざらついた埃の感触が嫌で、わたしはまた泣きたくなった。
世界には、嫌なものが多すぎる。
押してみてもだめだったので、とりあえず引いてみた。それはドアのように簡単に開いた。
石でできているように見えたのは、見せかけだけだったらしく、いやに軽い。
ためしに壁を叩いてみると、こんこんと軽い音が鳴った。素材が分からないのも、それはそれで不気味だった。
扉の先には石造りの綺麗な階段があった。
天井が低いので、身を屈めて昇るしかない。
ここを進むべきだろうか。
少し迷ったけれど、結局昇ってみる以外に術はなかった。
階段はたいした高さではなかった。少し昇ると平坦な狭い道に出る。
さらに奥に行くと、今度は深い下り階段があった。階段の一番下は行き止まりになっている。
329:
念のため進んで確認してみると、一番奥まったところの天井に取っ手があった。
ためしに叩いてみる。音が軽かったりはしなかった。
取っ手を引いてみたが、ダメだった。今度は押すのだろう。
天井が低かったので、押し上げるのはさして難しくはない。
押し上げると、ぎしぎしという音がした。何かが引っかかっているような感覚。
構わずに押していくと、やがて抵抗がすっとなくなり、何かが倒れるような音がした。
わたしは少し不安になってその場で息をひそめた。
数秒待っても何かが動くような気配はなかった。扉の向こうに顔を出す。
本棚が並んでいるのが見えた。確認してみると、扉に引っかかっていたのは、椅子だったらしい。
書庫だ。書庫に繋がっていると、そういえばツキも言っていた。
屋敷から出るどころか、屋敷から離れてさえいないことに気付かされて、わたしはショックを受けた。
でも、そうなのだろう。実際、その程度しかまだ歩いていないのだ。
もうやめてしまいたかったけれど、そういうわけにもいかない。
一度屋敷に戻って何か使えそうなものを持ってくるべきだろうか?
でも、そうこうしているうちに動きがあるかもしれない。わたしは急いでいるのだ。
330:
扉を閉めて、地下に戻る。椅子のことはシラユキがなんとかしてくれるだろう。
急いで通路を戻る。わたしが走ると、足元でまた鼠が動くのが見えた。
転びかけて、転んだ先に鼠がいることを想像し、ぞわりとした。
なんとかバランスを取り戻しながら、一瞬考えごとをしかけた。
その方向に思考が転がっていくのを、どうにか抑え込む。
とにかくツキを現実に返さなくてはならない。
返す意味と、返したい理由については、あとで考えることにしよう。それは今は重要じゃない。
溜め息が出る。泣き出したいような気持だった。でも、泣き出すのもわがままだという気がした。
わがままで何が悪いのだとも思った。思考が混乱している。ここにはツキもシラユキもいない。
とにかくこの地下通路を進まなくてはならない。
331:
さっきの分かれ道まで戻る。左側の壁に沿うように進んでいく。
出口は、ないかもしれない。
ツキはひょっとしたら、まったく別の手段で屋敷に忍び込んだのかも。
そう考えると、わたしはどこにも繋がらない通路を延々と進んでいることになる。
むしろ可能性だけいえば、そう都合のいい道があるとも思えないのだ。
わたしは急に不安になる。暗闇を懐中電灯の灯りで照らしながら、足だけを動かす。
しばらく進むと、道が右に曲がった。わたしは注意深く進む。
こんなふうに時間をかけて歩いていて大丈夫なのだろうか。
ひょっとしたらツキはもうとっくに、街の人々に捕まってしまっているかもしれない。
それにこの通路は迷路のようなものかもしれない。
今ならまだ帰ることもできるけれど、この先どんどんと進んで、ちゃんと屋敷に戻れる保証なんてあるのだろうか。
そこまで考えて、また思考が引きずられる。
飢えて死んだところで、鼠に齧られたところで、わたしはどうでもいいはずだ。
332:
「どうして、彼を助けたいの?」
不意に、声が聞こえた。わたしはそれを何かの錯覚だと思った。
でも違う。以前にも聞いたことのある声。それはわたしの頭の中に直接語り掛けてきているのだ。
「だってそうでしょう? どっちにしたって、同じじゃない?
彼が生きようと死のうと関係ない。自分がどうなったって関係ない。
だって、あなたは死んでしまうつもりなんでしょう?」
うるさいなあとわたしは思った。そのことは考えないようにしていたのに。
通路はずっと伸びている。引き伸ばされた棺みたいに。
暗闇にわたしの足音が響く。ここからは雨の音は聞こえない。
雨の音がしない場所。そういえば、そんな場所は、この世界には他になかった。
意識してみると、雨の音が聞こえないのは、少し不思議な感じだった。
「放っておいて」
とわたしは言った。でも答えはなかった。当たり前だ。ここには誰もいないんだから。
333:
通路が再び別れた。まっすぐと、右。わたしは少し迷ったけれど、右に進むことにした。
今度はすぐに行き止まりに出会う。取っ手もすぐに見つかった。
扉の先に階段はなかった。
何か、奇妙な部屋があるだけだった。
大きなソファと、テーブル。テーブルの上にはティーカップが四つ置かれていた。ティーポッドと砂糖瓶もあった。
カップの中には冷えきった紅茶が入っている。ひとつを除いて、手もつけられていないようだった。
壁際には鏡台が置かれていたが、鏡は割れて散乱している。
どこもかしこも埃をかぶっていて、壁の四隅には蜘蛛の巣が張っていた。
石の壁には大きな絵画が掛けられている。
少女の絵だった。正確にいうと、少女の絵なのだろう、という方が近い。
水色のワンピースを着た女の子が、森の中の湖を背景に、傘をさし、こちらに背を向けて立っている。
334:
悲しそうな絵だった。空は灰色に歪んでいて、湖面は暗かった。空虚な静寂がこちらにも伝わってくるほどだ。
でも、目を引くのはそうした部分ではない。
肩越しに振り向いているように見える少女の顔の部分は、ズタズタに破かれていた。
何本かのフォークが突き立っている。壁の下にはそれでも足りないというようにフォークやナイフが落ちている。
わたしは怖くなった。
居ても立ってもいられない気持ちになって、部屋を出ようとする。
扉に手を掛けたとき、不意に気配を感じた。
何の気配なのかは分からない。でも、背中越しに誰かがこちらを見ている気がする。
この部屋には、誰もいなかったはずだ。
それなのに、気配はたしかにあった。
くすくすと含み笑いすら聞こえてきそうだった。錯覚だ、とわたしは思う。
でも、振り向けなかった。振り向くのが怖かった。
ここに来てはいけなかったのだ、と思った。
視線を感じながら部屋を出た。扉を閉めると、静寂が辺り一帯を支配した。
でも、さっきの部屋の中だって、何の物音もしない、静かな場所だったはずなのに。
それ以上は考えないようにした。誰もいなかった。そのはずだ。
335:
通路を戻り、右の壁に沿って進む。わたしはさっきの部屋のことを忘れることにした。
ここまでの通路に、迷うような部分はなかった。
ただ鼠と蜘蛛の気配があるだけだ。
それからしばらく、道は別れず、まっすぐと進んでいく。
わたしは長い時間、何も考えずに黙々と歩き続けた。
本当に長い間だった。途中で時間の流れが分からなくなった。
ここを彷徨っている間に、世界が終わったと言われても信じられるほど長い時間に、わたしには思えた。
やがて通路の雰囲気が変わってきた。
無愛想だった石の壁の両側に、額縁が飾られている。
最初に見えた額縁の中は真っ黒だった。
次は白。その次はまた黒。それが延々と続いていく。通路の続く限り。
ふと振り返ると、見えるかぎりの壁に額縁が飾られている。わたしは言葉を失った。
何も言わずに進む。ずっと進む。何も考えなかった。ツキのことすら考えなかった。
わたしはここに来るべきではなかったのだ、とふと思った。
336:
やがて、懐中電灯のものではない光が、奥から見えた。
わたしは叫びだしたいほどほっとした気持ちになり、そのすぐ後、また不安になった。
どうして、光が見えたりするんだ?
でも進むしかなかった。
ここを出なければならない。
通路をずっと進む。光は思ったよりも遠かった。
永遠にたどり着けないのではないかと不安に思うほどだった。
やがて、懐中電灯の灯りが意味をなさないほど、辺りが明るくなる。
雨の音が聞こえた。額縁が途切れた。
行き止まりは広い空間だった。
光は、頭上から差している。見上げてみても、まぶしくて何がどうなっているのか分からない。
337:
光に気を取られながら進むと、靴が不意に突き抜けるような感触に触れた。
不意の冷たさ。足元が土になっていて、そこには結構な大きさの水たまりがあった。
雨が、ここまで降り注いでいた。よく見れば壁の端に穴があけられていて、水を掃くようになっている。
頭上を振り仰ぐ。光と雨。外に繋がっているのだ。でも、とても遠い。
けれど、通路はここで終わっている。どうやって昇ればいいだろう?
レインコートのフードを被り、雨の感触を感じながら壁に向けて歩く。
正面の壁に、ここに来るまでの間に何度か見かけたような取っ手があった。
それは上に向かって無数に並んでいる。梯子になっているのだ。
わたしは念のため何度か引っ張って、安全かどうかを確認する。それから一番下の段に足を掛けた。
どんどんと昇っていくが、光は遠い。
結構な高さがあるようで、進んでいくうちに怖くなった。雨のせいで滑り落ちそうになる。
下を見ると、高さに震えそうになった。
わたしは手にしっかりと力を込めた。さっきまでの通路に比べれば、こっちの方がぜんぜんマシだ。
338:
やがて、外の様子が見えた。木? 木だ。
わたしは少し不安になった。屋敷の中庭に続いているんじゃないかと思ったのだ。
でもちがった。梯子を昇りきると、そこは森の中だった。外に出られたのだ。
わたしは体を地面に投げ出した。腕と足が緊張で震えた。
それから、自分が出てきた場所を振り向いてみる。
それは井戸だった。見覚えのある、古い枯れ井戸。森の中で、ずっと前に見たことがある。
わたしは頭上を仰いだ。
木々が枝を広げている。雨が降っている。空は灰色だ。ちゃんとした世界だ。
息を深く吸い込む。土と森の匂いがした。
外に繋がっていた、とわたしは思った。しばらく何も考えられなかった。
少ししてからようやく頭が機能し始めて、ツキを探さなくては、と思った。
さっきまでの移動でよほど精神が疲弊したのかもしれない。わたしは自分が混乱しているのを感じた。
森はいつもより、ずっとよそよそしく、不気味な気配をまとっているように思える。
この中で、わたしはツキを探さなくてはならないのだ。
343:
◇
森の空気はいつにもまして重苦しかった。
今朝がた歩いた場所と、地続きにあるのだとは、ちょっと信じられないくらいだ。
とりあえず森の中に来られたのは良いけれど、問題はここからだった。
時間がどれだけ経ったのかは分からないが、下界の人々はとっくに動き出しているはずだ。
彼らは十数人がかりでツキを探している。
その隙間を縫って、わたしはツキを見つけて、しかも逃げなくてはならない。
それはほとんど現実的ではないように思えた。
自分が途方もなく見当違いなことをしているのではないかという不安に陥る。
ツキはどこにいるんだろう。
344:
わたしはとにかく歩き出すことにした。
ツキを探さなければいけない。
見つけられなかったときや、既にツキが下界の人々に捕まっているときのことは考えないことにした。
いずれにしたってわたしは、この森の中を歩いてみなければならない。
森の中には、はっきりとした道があるわけではなかった。
屋敷から入ってすぐの場所には、多少歩きやすい道があるけれど、そこだってしばらく進めば木々に阻まれる。
仮に道があったとしても、ツキがそうした分かりやすい道を歩くとはえない。
だとするとわたしは、この森の中を、何の心当たりもなく、進んでいかなければならないのだ。
周りに人の気配はなかった。
それが幸いなのかどうかは、わたしには分からない。
もうツキが見つかってしまったのかもしれないし、ここまで捜索の手が伸びていないだけかもしれない。
木々の枝葉が奇妙に輝いて見えた。空は灰色だけれど、雫が照らされて光っている。
雨の音。濡れた土の匂い。
345:
雨の音が、不意に弱まるのを感じた。
空を見上げても、雨が止む気配はない。単に音が弱まっただけだ。
それなのに、この感覚はなんなのだろう。
今にも鳥の声でも聞こえてきそうな気がした。
もちろん実際にはそんなことはなく、生き物の気配は感じない。
ただ雨の音と自分の足音が聞こえるだけだ。
何かが変だった。
何が変なんだろう? わたしの感じ方の問題なんだろうか?
わたしは木々の隙間を進んでいく。井戸は森の奥の方にあるはずだった。
ここからさらに奥に進むべきなのか、戻るべきなのかは分からなかった。
それともこの井戸を中心に、周囲の様子を探ってみるべきなのか。
いずれにせよ、歩いてみないことには仕方ない。
自分の無計画さに溜め息が出てきそうだった。
でも、他に手段はないのだ。
346:
どうにかしてツキと連絡が取れたらいいのだけれど、手段はない。
少し躊躇ったけれど、彼の名前を呼んでみることにした。
「ツキ」
声は森の中に静かに溶けていった。
雨の音が落ち着いていたこともあって、声は奇妙な響きで辺りに広がっていく。
何かがおかしい、ともう一度思った。これまでと様子がまったく違う。
でも、考えたって仕方のないことだ。何はともあれ世界はこういうふうに出来ているんだから。
歩を進めていくうちに雨粒が細やかになっていくことに気付いた。
もちろん雨は止んだりはしない。その確信はあった。
「ツキ!」
もう一度呼びかけてみても、返事も何もなかった。
人の息遣いすら感じられない。
347:
わたしは一度立ち止まって、後ろを振り返った。
今のところまっすぐ進んできたつもりだけれど、迷わない保証はない。
人を探しに来て自分が遭難していたんじゃ、冗談にもならない。
まあ、それならそれで、わたしはかまわないのだけれど……。
とはいえ、その前にツキのことはどうにかしなくてはならなかった。
ああ、もう。どうして頭がうまく働かないんだろう。
頭の中に靄がかかっているようだ。靄というか霧というか。
そんなことを考えていたら、雨がいつのまにか、ほとんど霧のようになっていた。
わたしはこの世界で初めて、こんな雨を見た気がした。
あまり考えすぎたって仕方ない。それなのにいつまでも堂々巡りを続けている。
思わずため息が出る。
とにかく、ツキを見つけるしかない。
見つけるのは困難だろう。でもやるしかないのだ。
348:
しばらく歩き回ってみても、ほとんど何も見つからなかった。
ただ木々や草花が生い茂っているだけだ。足場は悪く、草の上の露が何度も足を濡らした。
樹木が枝を伸ばしているせいで、ここからは太陽がろくに見えなかった。
霧雨が、森の暗さと相まって視界を悪くさせた。わたしは不安になる。
迷い込んではいけない場所に来てしまったような、居心地の悪さ。
わたしはそれでも歩く。催眠術にかかったみたいに。
自分が分裂しているような頼りなさ。
何かがわたしをどこかへ引きずり込もうとしているような錯覚。
それはもちろん錯覚でしかないのだけれど。
「助けなきゃ」
わたしはその言葉を口に出してみた。誰に対してというわけではない。
ただ口に出すと、その言葉はすとんと胸に落ちた。頭が軋むように痛んだ。
ツキを助けなければ、と思う。でも、何かがそれに反発している。
何か? 何かって、なんだろう。
349:
ふと、何かが草を掻き分けるような音が聞こえた。
咄嗟のことに身が竦む。音は近付いてきていた。
心臓がどくりと跳ねる。
草の間から顔を出したそれは、大儀そうに首を振って、わたしと目を合わせた。
わたしは最初、それをウサギかと思った。でも違う。どうしてウサギと見間違えたりしたんだろう。
それは猫だった。白っぽい毛並みの猫。雨に濡れて小さく見える。
どうして、ここに猫がいたりするんだろう。
わたしは疑問を抱きつつも、物音の正体がこの小動物だったことに安堵した。
それから溜め息をついて、わたしにもまだ心臓はあったのだなと思った。
どくどくと脈を打っている。
体には血が流れている。わたしはちゃんと呼吸だってしている。一応生きてはいるのだ。
わたしはまだ死んでいない。じゃあ、わたしの身体はどうなっているんだろう?
現実における、わたしの身体は。まだ生きているんだろうか? そうでなくては、戻れはしないだろうけれど。
350:
猫の姿は見るからにシラユキに似ていた。
雨と土に汚れ黒ずんではいたけれど、毛並みは薄くクリーム色がかっていた。
瞳の色は左右どちらも鳶色だった。
抱き上げようとすると、猫は抵抗もなくわたしの腕にもぐりこんできた。
ちょっと気になって確認してみると、ちゃんとメスだった。
かといって、彼女がシラユキだという話にはならない。
この世界に猫のシラユキは居ない。彼女は死んでしまったのだ。
ただ似ているだけの猫(髪や目の色や体つきや性別が一致しているからといって、同一人物だということにはならない)。
でも、この森の中に生き物がいるのはちょっと妙だった。
もちろん、本来なら森の中に生き物がいたって変じゃない。けれど、この森で生き物を見かけたことはないのだ。
屋敷で暮らしていたときも、鳥の声ひとつ聞いたことはなかった。
それも、どうして猫なのだろう?
351:
彼女はひらりと体を翻して、わたしの腕の中から地面へと着地した。
手のひらが泥で汚れてしまったことに気付き、レインコートで軽く拭ってみた。
汚れは広がっただけだった。
わたしは泥を取ることを諦めて、猫の姿を追いかけた。
猫はわたしから少し距離を取ると、ついてこいと言わんばかりに振りかえる。
わたしと目が合うと、ゆっくりと歩きはじめた。
まるで道案内を買って出てくれたみたいだった。
さすがのわたしも、これはおかしい、と思った。
でも、考えてみても結論は出なかった。いずれにしたって心当たりがあるわけではなかったのだ。
結局、何も考えずに歩き回るだけなら、この猫についていくのも選択肢のひとつではある。
猫は姿が遠くなり、霧の中にかすみはじめる。わたしはまだ逡巡していた。
それを見透かしたように、もう一度彼女は振りかえった。
そして促すように、何度かその場で走り回った。
仕方ない、とわたしは思う。
ついていこう。こうなったら賭けだ。いずれにしたって猶予はそんなにない。
352:
猫は常にわたしの少し前を歩いた。
わたしが立ち止まると、当然のようにその場で待っていた。
それは考えるまでもなくおかしな話だ。
嫌な予感とはいかないまでも、何か変なことに巻き込まれている自覚はあった。
いくらここが奇妙な世界だからって、こんなことが尋常な事柄であるはずがない。
まるで人の意を解しているかのようにふるまう猫。
……でも、どうなのだろう。
わたしには世界のことがよく分からない。
もうどうでもいい、という気もした。
とにかくわたしは、無心になって猫を追いかけた。
追いかけているうちにわけが分からなくなってきた。
ツキを探しにきたはずなのに、猫を追いかけている自分。
森の中はまるで、時間の流れから切り離されているように静かだった。
この先に何かあるんだろうか? それとも、単なる動物の気まぐれにすぎないのか。
353:
やがて、猫は立ち止まった。
わたしは少し不安に思ったけれど、それを追いかける。木々の隙間から水の音が聞こえた。
猫の傍らまで歩み寄ると、そこが開けた空間になっているのが見えた。
そこにあったのは大きな泉だった。
ちょっとした池ほどの大きさの水たまり。
こんなことがあるものなんだろうか、とわたしは思った。
水面を弱々しい雨が揺らしているが、木々の葉に守られ、このあたりは雨粒がほとんど届かない。
ふと辺りを見回すと、あの猫の姿はもうここにはなかった。
いったい、なんだと言うんだろう。この泉に何かあるんだろうか。
近付いてみると、泉の水は透き通るように綺麗だった。
水底の土の色がはっきりと見える。
354:
そうやって泉を覗き込んでいるとき、不意に、水面に自分の顔が映っていることに気付いてぞっとする。
水面に映る自分と、目が合った気がした。
凍てつくような目。誰とも知れない他人のようだった。
思わず顔を逸らし、今見たものを忘れようとする。心臓が嫌にうるさかった。
自分の顔を見たのは久しぶりだという気がした。
心底、嫌な気持ちになる。薄暗い場所で、何かも分からない奇妙なものを踏みつけてしまったときのような気分。
深呼吸をする。景色は綺麗だったけれど、わたしの気分は落ち着かない。
ツキを探さなくては、とわたしは思う。でも、すぐには動けなかった。
今、水面にうつった自分の顔が忘れられなかった。どうしてだろう。
さっきまでよりずっと不安な気持ちになる。泣き出したい気持ち。
どうしてわたしはこんなふうなのだろう。蹲って顔を伏せてみると、本当に泣き出してしまいそうだった。
わたしはこんな場所で何をやっているんだろう。
そのとき、不意に、
「アヤメ?」
と声が聞こえた。最初、何かの間違いかと思った。
顔をあげて声の方を振り返ると、ツキはそこに立っていた。
360:
長い時間、ツキの顔を見ていなかったような気がした。
でも、それは真実ではない。朝、ツキと別れてから、まだ三時間と経っていないはずなのだ。
わたしは自分の心がいくつかに分かれるのを感じた。というより、"分かれている"のを感じた。
ツキを、知り合ったばかりのおかしな人物だと思う自分。
ツキを、昔からの仲の良い友達だと感じる、自分。
そして、ツキになんとか現実に戻り、生きて欲しいと感じる自分。
ツキのことなんてどうでもいいと思う、自分。
おかげでわたしは、ツキに対してどんな態度をとればいいのか、すぐには決められなかった。
自分の中の感情が、なぜかよそよそしいものに感じられてしまう。
どうしてだろう?
まるで心の一部を切り取られ、盗み出されたみたいだ。
自分自身の感情に、実感が湧かない。
361:
雨音がふたたび強まった。泉の水面が波立つ。
咄嗟には、何も言えなかった。
わたしも何も言わなかったし、彼も何も言わなかった。
疲れ切ったような表情。ツキの顔つきは、今朝見たそれとは、まるで違って見えた。
「どうして、ここに?」
とツキは苦しげに言った。わたしは答えに窮する。
森の中は雨の音に包まれている。空気は少し冷たかった。
ツキの服は、雨に濡れ、土に汚れている。
雨の降る森の中を、彼はこの場所まで逃げてきたのだ。
でも、逃げて、どうするつもりだったんだろう。
彼には逃げ場所なんて存在しないのに。
いつかは追いつかれてしまうのに。
362:
「……あなたを探しに」
わたしがそう答えると、彼は怪訝そうな顔になった。
それから少し間を置いて、ばからしいと言いたげに笑う。
「どうして?」
「逃げているんでしょう?」
「ああ、そうだよ。逃げてる」
彼はまた笑った。それはなんだか、嫌な感じの笑いだった。
「捕まったら、死んでしまうって、シラユキが言ってた」
「そう。殺されるんだってさ。俺もそう聞かされた。ただそこにいるだけで殺されるなんて、バカみたいな話だ」
でも実際に、下界の人々は森の中でツキを探し回っている。
363:
「それで、俺が逃げてるとしたら、お前は何しに来たんだ?」
ツキは皮肉っぽく唇を歪める。
わたしは段々不安になってきた。
「シラユキに、教えてもらった。この世界のこと」
少し驚いたような顔をしたあと、「それで?」と彼は続きを促す。
シラユキとの、裁判みたいなやりとりを思い出す。もうずいぶん前のことに思えた。
「あなたのことも、少しだけど思い出した」
「へえ。たとえばどんなことを?」
「飼っていた猫のこととか、学校の帰り道のこととか……そういうことを」
「そうか。それは嬉しいな」と、彼はたいして嬉しくもなさそうに言った。
「ツキ?」
思わず名を呼びかけると、彼は忘れていた傷口が痛んだというふうに顔を歪める。
364:
「それで?」
「それで、って?」
「続きは?」
わたしはなんだか怖くなった。
彼の態度は今までになく冷たいものに感じられる。
わたしのことなどどうでもいいと言わんばかりだ。
「あなたには、死んでほしくない」
彼はこらえきれないというように笑った。ひどく苦しそうな笑い方だった。
「それはまた……不思議な話だ」
忘れていた痛みが、頭の中で暴れ出しそうになる。
彼の言う通り、それは不思議な話だ。そのことは、今は考えない。
なんだろう? 今までとは何かが違う気がした。
ツキの態度も、森の空気も、よそよそしく、冷たいものに感じられてしまう。
この場所のせいだろうか。
365:
「わたしは出口を教えるために来たの。シラユキから、聞いてきた」
「そうか」
彼はそう繰り返すだけで、わたしに助けを乞おうとはしなかった。
出口を教えてくれとも言わなかった。ただ黙っていた。
立っているのも億劫というふうに、ツキは泉の傍らの樹に背中を預けて溜め息をつく。
「ありがたい話だけど、来てくれなくてもよかった」
彼はそう言った。わたしは一瞬、その言葉の意味がよくつかめなかった。
「出口の場所も、教えてくれなくていい。もういいんだ」
「なぜ?」
彼の態度は、あまりに今朝までと違いすぎる。わたしは彼の答えを聞きたくなかった。
「疲れたんだよ。もう放っておいてくれ」
何もかも面倒だというふうに、彼は瞼を閉じた。
366:
「もういいんだよ。お前をどうこうしようとも、思わない」
「何があったの?」
「何もないよ。ただ森の中を歩きながら考えてたんだ。どうして俺は逃げてるんだろうって。
逃げることに何の意味もないように思えたんだ。段々分からなくなってきたんだ」
「でも、ツキ……」
彼の言葉を聞いて湧いてきたのは、戸惑いというよりは拒否感のようなものだった。
自分が何を言おうとしているのか、よく分からない。
でも、どうしても納得できない気持ちだけが溢れてくる。
だって彼は言っていたのだ。
わたしがどちらを選んだって、自分は生きていくんだって。
だから好きにしろって。
でも、わたしはそのことを口に出せなかった。
367:
「お前のこととは、関係ないよ。関係ないんだ。
ただ、なんていうのかな。もう疲れたんだ。別に帰れなくたって、捕まったってかまわない。
だから、助けはいらなかったんだよ、アヤメ。お前は屋敷に戻れ。俺はここに残るから」
「そんなの……」
そんなの、わたしには関係ない。そう思った。
ツキの意思なんて関係ない。わたしはわたしの身勝手として、ツキが生きることを望んでいるだけだ。
だから、言ってしまった。
「そんなの、わたしには関係ない。ツキはちゃんと生きて」
口に出してから後悔した。わたしに、どうしてそんなことが言えるだろう。
彼はこちらを鋭く睨んで、何も言おうとはしなかった。
胸が苦しくなる。わけもわからず悲しくてしかたなかった。
「……ツキ」
懇願するような声音だった。自分でも驚くほど、頼りない声。
でも、彼は態度を変えなかった。
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