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妹「なぜ触ったし」【後編】


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9:
 学校が終わって、冬休みになった。
 俺は誰とも会わずに休みを過ごすつもりだった。というより、順当に考えてそれがあたりまえだ。
 今までそうだったし、今回だってそうに違いない。そんなふうに考えていた。
 のだが、初日にいきなり予定が入った。タカヤだ。
 タカヤは「一人じゃ不安だから遠くから様子を見ていてほしい」と言った。デートのことだ。
 そんな奴がいるもんだと思っていなかった。
 
 普通は恥ずかしくていやだと思う。見られるなんて。
 でもタカヤは違った。よくよく考えると彼の行動は普通じゃない。すべて。
 おかげで俺は休みの初日の朝を寝て過ごすことができなかった。
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680:
 駅前の映画館は学生が多かった。休みに入ったところが多いというのもあるだろう。
 もともと最近できたばかりで盛況な場所だった。近くに食事や買い物ができる店が多い。
 おかげで、俺とモスは人ごみに紛れてタカヤの様子をうかがうことができた。
「うーん」
 モスが唸る。
「俺たちは何をやってるんだろう」
「デバガメ」
「せつない」
 俺とモスはふたりでタカヤの様子を見る。遠巻きに眺めていると、本当にいい顔をしている。 
 そこらへんじゃ、ちょっと見かけない。
 さて、と俺は思う。タカヤに頼まれたといっても、どうせ映画を観てちょっと話をするくらいのことしかしないだろう。
 なんでこんなもんを見なきゃならんのだ、と思っているところに「みー」がやってくる。
 俺たちは身を隠す。
681:
 当然だが、距離があるので会話は聞こえない。どうもお互い緊張しているようには見える。
「こんな寒い日にこんなに人がいるなんて」
「インドア派だから世情には疎いよなあ」
「今やってる映画って何?」
「知らない」
 なんとも微妙な話だ。
「券買いにいったな」
「俺らもちょっとしたら並ぶか」
「ポップコーン食う?」
「歯に挟まるからいらない」
 
「嫌な話だ」
 俺は溜め息をつく。
682:
「あいつらジュース買ってるな」
 
 タカヤにあらかじめ聞いていた映画のチケットを購入し、俺とモスはふたりの様子を遠巻きに眺める。
 と、不意にうしろに衝撃があった。何かがぶつかってきたらしい。
「あ、すみません」
 と過失ゼロパーセントの俺は謝った。なぜか。
「すみません」
 と返ってきた声に聞き覚えがあり、視線を向ける。
「ん?」
「あっ」
「お、おう?」
 両手にジュースのカップを持った妹の姿があった。
683:
「なにやってんの?」
 と問いかけると、「いや、べつに……」と返される。
「デート?」
 軽めのジョーク(牽制)。
「誰とですか」
 彼女はなぜか敬語で返した。苦笑する。
 そのとき、彼女のうしろから、もう一人女が出てきた。
 
 幼馴染。
 なぜこのふたりが、と思ってすぐに勘付く。
「……どうやら目的が重なっているようだ」
 幼馴染は気まずげに苦笑した。
「ごめんなさい。一人だとなんだったので、妹ちゃん借りてます」
 ……さすがにそこで妹を誘うのはどうかと思うんだが。
684:
「そろそろ始まるよ」
 と妹が幼馴染に声を掛ける。 
 ということは、俺たちも時間なわけだ。見れば、例のふたりは入場している。
「追いますか」
 一応、席は後ろの方を取ったので、見られないと思うのだが、入るときは気をつけなければならないだろう。
 俺は何かを忘れている気がしたが、考えないことにした。
 スクリーンにしばらくの間諸注意の映像が流れ、やがて新作映画の予告が始まる。
 予告映像ってなぜ面白そうなんだ? って面白そうにしなきゃまずいのだろうが。
 
 映画がはじまる。ここ最近のドラマでよく見かける俳優が山ほど出てくる邦画。
 うーん、と俺は思う。映画なんてよく知らないしなぁ。
 そもそも今日の目的は、タカヤの付添みたいなもんであって、あんまりいる意味がない。
685:
 どうせ映画を観ている最中は声も言葉も交わさないわけであって。
 俺は今朝は眠かった。だから寝たい。寝よう。
 俺は寝た。
 
 ふと目を覚ましてスクリーンを見ると、女が泣いている。夜の部屋だ。二人きり。画面はやたらと暗い。
 蛍光灯の灯りが寒々しい、フローリングの床で食器が割れている。
 女はうずくまって泣いている。台詞がないまま男は静かに部屋を出た。
 夜の繁華街に向かい、ひとりで歩いている。携帯電話が鳴った。どうやら友人かららしい。
 突然呼び出され高架下に行く。
 二人の関係性はよく分からないが、友人の方はさっきの女と主人公の関係に対して思うところがあるらしい。
 真剣に、心配そうな言葉をだらだらと並べ立てる友人に、うんざりとした表情で主人公は言う。
「うるせえな、俺の勝手だろう」
 友人は激昂して主人公に掴みかかる。主人公は抵抗すらしない。友人は殴らずに手を放した。
「分かったよ、勝手にしろ」
 友人はそう言って背を向けて、足早に去っていく。ひとり高架下に残された主人公は、疲れ切ったような表情でその場に座り込んだ。
 胸ポケットから煙草とライターを取り出す。口にくわえて火をつけようとするが、ライターの調子が悪くなかなか火が付かない。
 
 彼はライターを近くの草むらに向かって投げ捨てる。しばらく火のついていない煙草をくわえたまま、じっと夜の闇を睨んでいる。
 なにこの映画。
686:
 隣の席のモスを見ると、どうやら熱心に見入っているらしい。
 タカヤと「みー」はというと、ここからは後ろ姿なのでよくわからないが黙ってみているようだ。
 妹と幼馴染を探そうとしたが、振り返らなければ見えない位置だったので自重した。
 スクリーンの中には朝が来る。狭い部屋。シングルベッドでさっきの男と女が起きる。
 二人とも裸だ。窓の外から朝日が差し込んでいる。
 男が煙草をくわえて、ライターを探す。でもない。当たり前だ。さっき捨ててたんだから。
 舌打ちをして、男は仰向けに寝転がる。女が起きて、「おはよう」と掠れたような声で言った。
 なんなのこの映画。
 俺は疲れたような気分だった。
687:
 なんやかんやあった末に、結局主人公は友人と分かり合うこともなく、女とだらだらとした生活を続ける。 
 しかも周囲から認められるわけでもない。鬱屈とした生活態度。
 最後、堤防の上を、手を繋いで二人は歩く。薄曇りの空の下、犬の散歩をしているおじいさんとすれ違う。
 女は何かを言いかけて、結局何も言わなかった。主人公は苦笑する。
 たぶん彼が笑ったのはその映画で初めてだっただろう。見ていないけれど、そういう気がした。
 で、なんなのだ、この映画は。
 エンドロールに入って早々に、俺とモスは立ち上がった。
 あの二人はしばらく動き出さないようだったし、何より俺の喉が渇いていた。
 
 映画館を出て自販機でコーヒーを買う。ひどく眠くて、頭がはっきりしなかった。
 すると幼馴染と妹がやってくる。
「どうやら移動するらしいですよ」
「ここらへんで、やめとかない?」
 俺が提案すると、幼馴染は目を丸くする。
688:
「どうしてです?」
「これ以上つけまわす必要、なさそうだよ。ふたりとも普通にリラックスしてるように見える」
 実際には見えなかったが、それでも俺たちがわざわざ監視する必要はないように思えた。
「うーん」と彼女は唸って、結局頷いた。
「かもですね」
 そして、なんだか寂しそうな目で「みー」の後ろ姿を眺める。
「なんていうか」
「なに?」
「わたしとあの子、何が違うんでしょうね」
「何の話?」
「いえ。境遇的な?」
「何もかも」
 俺が言うと、彼女は切り傷に消毒液がしみたような顔をした。
689:
「なんか、羨ましいところでもあるの?」
「まぁ、そうですね」
 彼女はちらりと妹を見た。見られた方は首をかしげている。
「なんか知らないけど、羨ましいなら真似してみたら?」
 幼馴染は苦笑した。
「きみが言うことじゃありませんね」
 何の話だろう。
700:
 タカヤとみーが映画館を出るのを確認してから、念のため時間を置いて四人で外に出る。
「さて、どこに行きましょうか」
 少なくともあの二人が行きそうな場所は候補から外さなくてはならない。
 
「大丈夫ですかね」
 幼馴染が心配そうに言う。大丈夫だとしても大丈夫じゃないとしても、放っておくべきだ。
 それよりも俺は、さっきの幼馴染の態度の方がずっと気になっていた。
 いったいどういうことなんだろう。
 
 ――いや、深く考える必要はない。こいつが思わせぶりなのは今に始まったことじゃない。
701:
 ちょうどいい時間だったし、どこか適当な店に入って、昼食を取ることにした。
 タカヤとみーの行動圏を気にしつつ、あまり遠くなく、財布に優しい場所。
 すべてにおいて適当な場所はなかったが、少し移動して近場のファミレスに向かうことにした。
 
 道を歩きながら、俺の意識は微妙に揺れ動いている。中途半端に寝たせいで、頭がぼんやりしてるんだろうか。
 なんだか嫌な感じがした。身体のどこかで何かが渦巻いているような違和感。
 俺は何か思い違いをしていないだろうか。
 ……今更、何を考えることがあるんだろう。
 それでも、なんだか不安を感じずにはいられない。
 四人で街を歩いていると、奇妙な感覚に陥る。
 俺たちはどうしてこんな場所を歩いているんだろうか。
 いや、移動しているからだ。そりゃそうなのだけれど、何がどうなって、このメンツで歩いているんだろう。
 去年の今頃だったら想像もできなかったことだ。
702:
 ――去年の今頃。
 
 不意に、視界の端に見知った顔を見つけた気がした。俺以外の人間は誰も気付かない。
 すれ違った相手。立ち止まって後ろを振り向く。モスは足早に歩いていく。
 幼馴染は、俺が立ち止まったことに気付いて、自分も足を止めた。
 振り向いた先で、目が合う。
 声が出そうになって、抑える。
 彼女はひとりで歩いていた。だからどうというのではない。同じ町に住んでいるのだから、会ったところで不思議はない。
 ついこのあいだ会ったばかりの顔。以前と変わっているようで、やはり面影を残している顔。
 彼女はこちらを面食らったように眺めてから、後ろに立ち止まった幼馴染にも意味ありげな視線を向ける。
 その口元が、微笑のかたちに歪んだ。
703:
 混乱する。
 いったいなぜ、彼女が俺たちを見て微笑んだりするんだ?
 その笑顔はひどく暗示的だった。 
「分かるでしょう?」と彼女が言っている気がした。
「なにひとつ終わってなんかいないんだよ」と。
 
 アキ、と俺は口だけを動かした。その様子を見て、なぜか満足そうな笑みを浮かべ、彼女は去っていく。
 
 分かるかな、なにひとつ終わってなんかいないんだよ。
 そう語る彼女の声が、耳元に聞こえた気さえした。
704:
 幼馴染の態度は、アキとすれ違って以来奇妙なものになった。
 どうにも挙動不審で、ときどき機嫌をうかがうような目で俺の方を見る。
 
 その態度はいつになくおどおどとして自信なさそうだった。俺は彼女のこんな姿を見たことがない。
 何が原因かと言ったら、間違いなくアキとの接触が理由だろう。
 
 だが、どうしてアキの顔を見ることで、幼馴染の態度が変わったりするんだ?
 ファミレスで食事をとる間も、幼馴染はほとんど喋らなかった。
 ときどき目が合うと、彼女はすぐに逸らして、取り繕うような笑みを浮かべる。
 顔はいつになく青白く見えた。
 嫌な感じが消えない。なぜだろう。
 終わったはずのことだ。自分がどれだけ悪くても、結局は過ぎたことだったはずだ。
 アキはアキなりに上手くやっているのだろうと――勝手に、希望的な見方をしていたけれど。
 それでも、そうなるはずだと、思っていた。
 なぜ、彼女が俺たちに向けてあんな顔をしたりするんだろう? なぜ、知らないふりをして通り過ぎなかったんだろう?
705:
「ごめんなさい」
 と幼馴染は口を開いた。
「ちょっと体調が悪いので、先に帰りますね」
 本当に具合が悪そうな顔をしている。
 俺とモスは顔を見合わせて、頷き合った。
「じゃあ、ここで解散にしよう。送っていく」
「いえ、大丈夫ですから」
「そういうふうに見えない」
 はっきりと告げると、幼馴染は苦しそうな顔をした。
 本当に具合が悪いようだ。
「分かりました」
 しぶしぶと言った調子で、彼女は返事をする。
 その声も、普段に比べて力がない。
706:
 途中までは四人一緒の帰り道だった。最初にモスと別れ、次に俺の家について、妹を先に帰す。
 最後に幼馴染を家まで送る。道順的に、彼女の家が一番遠かった。
「……ごめんなさい」
 と彼女は謝る。なぜ謝るのか、まったく分からない。
 家の前につくまで、俺たちはほとんど言葉を交わさなかった。
 幼馴染は凍えているようにすら見える。俺は何をしてやればいいのか分からずに黙っていた。
 アキの顔が脳裏をちらつく。
 
「それじゃあ」
 玄関まで送り届けて、幼馴染に背を向ける。なんだか俺も、ひどく疲れていた。
 ……当たり前と言えば、当たり前、なのだろうか。
707:
 立ち去ろうとすると、後ろから引っ張られる。
 上着の裾を幼馴染が掴んでいた。
 何のつもりかたしかめようとして振り向くが、彼女は俯いていて、表情が良く見えない。
 本当に、こんな姿を見るのは初めてだった。
「あの」
 切迫した雰囲気の声だった。必死そうな、と言い換えてもいい。
 
「……きみは」
 背丈の違いのせいもあって、俯かれてしまうと表情が見えない。
 不安とか、心配とか、そういう感情が綯い交ぜになっている。
「俺は別に、平気だぞ」
 心配をかけたのかと思って言ってみると、どうやら違ったらしく、彼女は意外そうな顔をした。
 それから、何かを後悔しているような顔で、こちらを見た。胸のつかえがとれないような、息苦しそうな表情。
「……そう、ですよね。これだと、立場が逆ですね。本当ならわたしが心配してなきゃなのに」
 幼馴染があんまりつらそうに言うものだから、俺は苦笑しそうになった。
708:
「無理せずに寝てろよ」
「……うん」
 珍しく、彼女は敬語を使わずに素直に頷いた。
 俺は言いようもなく落ち着かない気持ちになる。
「ごめんなさい」
 最後にもう一度彼女は謝った。
 なぜ、謝るのだろう。俺にはその理由がまったく分からない。
 彼女はなかなか家の中に入ろうとしなかった。早く入るように促すと、早く帰るようにと言われる。
 このままだとしばらく話が動きそうにないと感じて、俺は仕方なく歩きはじめた。
 
 振り向くと、幼馴染はこちらをじっと眺めている。
 俺は溜め息をついて歩き続ける。またしばらく経ってから振り向く。目が合う。
 彼女は手を振った。俺は肩をすくめる。
 数歩歩いてまた振り向いていると、ちょうど彼女が玄関の扉をくぐるところだった。
709:
 家についてすぐ、疲労感に襲われる。特に何をしていたわけでもないのになぜだろう。
 理由は分からなかったが、気分がまったく落ち着かなかった。
 なぜだろう? 何かが起こっている気がする。本来ならすべて終わっているはずなのに。
 厄介ごとはぜんぶ、身の回りから離れたように感じていた。
 タカヤのこともみーのことも、俺の手から離れた。茶髪とも、まぁ曖昧ではあるが、片が付いた。
 
 それで、いまさらいったい、何が起こるっていうんだ?
 幼馴染の蒼白な表情と、アキのあの微笑が、頭に焼け付いて離れない。
 妹に幼馴染を送ってきたことを告げて、自室に戻る。
 ベッドに倒れ込むと、全身が鈍く痛んだ。
 しばらく休んでいると、ポケットの中に入れっぱなしだった携帯が鳴る。
 いったいなんだよ、と思いながらディスプレイを見る。
 
 息を呑んだ。
『電話してもいい?』
 素っ気ない文面。見覚えのあるメールアドレス。
 アキからのメールだった。
720:
「アドレス、変えてなかったんだね」
 甘ったるい、鼻にかかったような声が、電話越しに聞こえた。
 俺はなんだか奇妙な錯覚に陥る。アキがいる、と思った。この電話の向こうに。
「ああ」
 頷くと、彼女はくすぐったいように笑った。奇妙に安らいだ声だ。
 アドレスを変えていなかったことに、たいした意味はない。
 もし彼女がしつこく連絡をとろうとしたなら、すぐにでも変えていただろう。
 でも、そうはなかなかった。彼女は意外なほどすぐに事実を受け入れて、俺に対してどのような接触も試みなかった。
 
 だから、変える理由がなかった。そうでなければ、疎遠になっていた幼馴染から、俺の携帯にメールが届くわけもない。
「いま、何してた?」
 本題に入る前に、軽い世間話でもするつもりなのだろうか。いやそもそも、『本題』などあるのだろうか?
 彼女はそういう人間だった。特に理由もなく、人を混乱させるのが好きだった。人を困らせるのが好きだった。
 ……あるいは、それは俺に対してだけだったか。
721:
「別に。寝てた」
 答えてから、そういえばこんな言葉を以前もアキに向けて言ったことがあると思って、妙に据わりの悪い気分になる。
 いったい、何が起こっているんだ。
 どういうつもりか、俺の答えに彼女はおかしそうに笑う。その静かで甘ったるい声音は、以前とまったく変わらない。
 なぜ、以前とまったく変わらないなんてことがあり得るんだ?
「どうして――」
 どうしていまさら、連絡をよこしたんだと、聞いていいものか悩んだ。
 俺は、彼女に対してどんな言葉を掛ければいいのか分からない。
 どんな言葉を掛けることが許されるのか分からない。
「どうしたの?」
 こいつはなぜこんなにも平然としているんだ?
 なぜ、何事もなかったような態度で話ができるんだ?
722:
「どうしたのって、そっちが連絡してきたんだろう」
 俺はやっとの思いで答える。用件を早く言ってくれ。
「べつに、ただなんとなく」
 ただなんとなく、なんてあるわけがない。
 何か意図があるはずなのだ。そう感じるのは、俺が後ろめたさを感じているからか?
 
 彼女が俺と言う人間に恨みを抱いていて、何かの復讐をするつもりなのではないかと、そう考えるのは自意識過剰なのか?
 疑問が頭の中で膨らんでいく。
 何よりもタチの悪いことに……俺は昔から、アキという人間を、けっして嫌いではなかったのだ。
 もちろん恋愛ごとは抜きにしてだが――もういちど話せるようになったなら、どれだけいいだろうとは、思っていた。
723:
「ねえ」
 とアキは言った。普通の、声音だった。何も特別なことのなさそうな。
 気まぐれに隣の席のクラスメイトに話しかけるような、気安げな声だった。
「本当に、なんとなくだよ。別に何かを考えてるわけじゃない。不安になった?」
「少しね」
「そっか」
 彼女は嬉しそうに笑う。なぜ嬉しそうなのかは、俺には分からない。そういうことが、彼女にはある。
 時間をおいたせいか、以前とは関係性が違うからか、俺はアキに対して以前のような鬱陶しさを感じなくなっていた。
 そのことがより一層俺を不安にさせる。俺の気持ちを知らずに――あるいはすべて見透かしてか――アキは話を続ける。
「会いたいって言ったら、笑う?」
「どうして?」
 と俺は問い返した。
724:
「分からないけど、もういちど会ってみたい」
「なぜ」
「だから、分からないんだって」
 彼女はくすくすと笑う。アキは怒ったり苛立ったりすることがない人間だった。
 俺は今、彼女を恐れている。
「このあいだの……」
 俺は話題を変えた。
「コンビニでも、会っただろう」
「やっぱりあのときの人、あなただったんだ。そうかなって思ったんだけど」
「あのときの男、彼氏?」
「そうだよ」
 アキはなんでもないことのように言う。俺は少しほっとした。
725:
「いつから付き合ってるの?」
「先月からかな。ちょうど一ヵ月になるくらい」
 よかったね、と言おうとして、さすがに思いとどまった。
 そして、こんな電話はさっさと切ってしまうべきなのだと考える。
 なぜ俺たちは今更こんな話をしているんだ? もう終わったこととして扱うべきなのだ。
 ――いや、扱ってほしいのだ。俺は。それは逃げだろうか? 俺は彼女と向かい合うべきなのか?
 正解が分からない。どう接するのが正しいんだろう。
「あのね、ずっと考えてたんだけど」
 アキは言う。
「……あのころは、ごめんね。わたし、自分のことばっかりで、あなたのこととか、何も考えてなかったのかもしれない」
 俺は黙って聞いていた。
726:
「わたしが一方的に甘えてただけなんだよね。怒っちゃうのも、当然だと思う」
 俺は息苦しくなる。
「今なら分かるけど、あなたにだって不安とか、悩みとかあったんだよね」
 心臓を直接揺さぶられているような気分だった。これは本当に現実なのだろうか、と俺は思う。
 
「だから、ごめんなさい」
 俺は言葉を失った。どうして彼女がこんなことを言ったりするんだ。
 いったい何があったんだろう。
「……なにか言ってよ」
 アキは、照れくさそうな声で言った。
 この言いようもなく落ち着かない気分はなんなんだろう。ひどく、不安になる。
 自分の存在が揺らいでいる気がした。
727:
「……ああ」
 と、やっと漏れ出した頷きは、溜め息のようにかすかだった。
 それでもアキは声を安堵の色に変えた。
「ありがとう」と彼女は言った。どうして彼女が「ありがとう」と言ったりするんだ?
 俺の頭では彼女の言葉はいちいち理解できなかった。なにひとつ分からない。
「ねえ、もう一度会えないかな。もちろん、いまさらもう一度付き合ってなんて言わないから」
 当たり前だ、と俺は思う。そんなのは当たり前のことだ。
 彼女はなぜ謝ったのだ? 本当なら俺が謝らなくてはならないのに。
 そして、俺は謝ってはならないのだ。本当に悪いことをした人間はそのことを謝罪するべきではない。
 そうすることで許されようとしてはならない。謝ったら、きっと彼女は俺を赦すだろうから。
 なのになぜ、彼女は俺を最初から赦していたような態度でいるんだ。
 不可解なことが多すぎて、俺の頭は上手に働いていない。
728:
「わたしはさ、あなたと話したいこととか、いっぱいあるよ」
「悪いけど」
 と俺は答えた。
「……そっか。うん」
 平気そうな声音だった。アキは努めてそういう声を出す人間だった。
 何を思っていても平気そうな顔をする人間だった。それなのに、頭の中も胸の内も傷ついてばかりいる。
 ひどく傷つきやすい人間だった。
 俺は罪悪感に駆られる。ひょっとして俺は自分勝手な恐怖で彼女を蔑ろにしているのではないだろうか。
 本当に、彼女は言葉以上のことを考えていないのではないか。
 何が俺をこんなに不安にさせているんだ?
 
「ねえ、でもさ、また連絡してもいい?」
 俺には、どう断ればいいのか分からなかった。自分に断る資格があるのかどうかも分からなかった。
 アキが以前と変わらぬ口調で話を続けている間、俺の頭をよぎっていたのは、あの蒼白な幼馴染の表情だけだった。
729:
 電話を切ると、部屋は耳鳴りがしそうな静寂に支配されていた。
 俺の頭は混乱している。努めて何も考えないようにしたが、どうしても暗い気分になる。
 なぜ?
 と、さまざまな疑問が頭の中で回り続けている。
 なぜ、いまさら連絡をよこしたのか。なぜ、平然とした態度で俺と話すのか。なぜ、俺と会いたいというのか。
 だが、しばらく経つと気分が落ち着いて、なんとか冷静に自分なりの説明をつけることができた。
 彼女は今や恋人をつくり、普通に生活をできるほど回復している――少なくともそう見える。
 そして、昔ひどいケンカ別れをした人と偶然会って、なんとか過去のことを清算したがっているのかもしれない。
 ひどい思い出を、もうすこしマシな話に変えてしまいたいのかもしれない。
 だから話したいのだ。対話。そうだろう、たぶん。いまさら彼女が俺になんらかの執着を抱えていると思うのは、自意識過剰だ。
 そんなふうに感じるのはきっと、俺が彼女になんらかの形で執着しているからなのだろう。
 
 どうせ連絡なんてしてこないに違いない。これで、この話は終わりだ。
737:
 冬休みの二日目を、俺は眠って過ごした。怠惰であることはとても大切なことだ。
 ときどきみんな忘れてしまうけれど、一生懸命であることは別に素晴らしいことじゃない。
 素晴らしいことは大抵、一生懸命にならなければ手に入らないというだけで、一生懸命それ自体が重要なのではない。
 
 つまり、頑張らずに素晴らしいものが手に入るならそれに越したことがないのだ。
 こんなことをいうと、努力をせずに得たものなんてむなしい、とかしたり顔で語る奴がいる。
 金持ちは精神的に豊かでない、と貧乏人が言いたがるのと同じ理屈だ。
 実際には金持ちの方が精神的なゆとりと余裕を持っている。欲にまみれているのは貧乏人も大差ない。余裕もないから怒りっぽい。
 貧乏でも幸せな家庭もあるのは確かだが、だからといって金持ちが不幸だという理屈にもならない。
 貧乏人は哀れだ。腕っぷしの強い奴は正義だ。そう言い切ってしまえばいい。
 それなのになぜか、そうした動物的価値に即して優れた人間は、人間性を貶められやすい。
 現実には、金持ちの心は別に荒んでいない。腕っぷしが強い奴にも優しい気持ちくらいある。むしろ強者であるぶん余裕がある。
 貧乏人の心は金持ちの心を見下したくなる程度には荒んでいて、腕っぷしの弱い奴は強い奴を非難したくなる程度にひがんでいる。
 神はちょっと前に死んだ。
 などと、黴の生えたようなどうでもいいことを考えて現実逃避したくなる程度には、憂鬱な朝だった。
738:
 俺の頭は前日のアキからの電話に支配されていた。
 だから、タカヤと「みー」のその後の顛末のことは、モスからの電話があるまですっかり頭から抜け落ちていたのだ。
 モスから電話が来たのは一時半。俺が二度寝から覚めて、ベッドでごろごろとし始めて一時間近く経った頃だった。
「タカヤから連絡来たか?」
「来てないよ」
 そっか、とモスは言う。そういえば、映画館に行ったのは昨日のことだったか。既にずっとまえのことのように思える。
「上手く行ったの?」
 と俺は訊ねた。
「さあ」
 とモスは答える。
「結論を急がないことにしたらしい」
 ずいぶんな立場だ。
739:
 タカヤの話が一区切りしたあと、不意にモスが深刻そうな口調になった。
「……なあ、なにかあったのか」
「なにかってなんだよ」
 と俺は笑う。なにかってなんだ? なにがあるっていうんだ。気にするようなことは何もない。
 本当に、何もない。全部終わったことだ。
 なぜいまさらアキのことなんて考えなくちゃいけないんだ?
 俺は自棄になったような気分で思う。
 そうだよ、何も善人を気取る必要なんてない。俺はもともと馬鹿で身勝手だった。
 気にする必要はない。あいつのことなんて、これっぽっちも。ぜんぜん考えなくていい。俺は目を瞑る。
 モスは何か言いたげに口籠ったが、結局押し黙ったあと、適当な言葉で話を終わらせて電話を切った。
740:
 階下のリビングに降りると妹がこたつで眠っていた。よく寝る奴だ。一時を過ぎているのに。
 俺はコーヒーメーカーを動作させた。こぽこぽこぽ、とよく分からない音がリビングに響いて、独特の香りが部屋に広がった。
 
 できあがるまで、椅子に座って目を閉じていた。すると不思議な気持ちになる。
 何も考えないことができる。それはとても心地よい時間だ。
 
 けれど少しすると、何かを忘れているような気分に陥る。それも、致命的なものを。
 何かを考えなくてはならないような焦燥。けれど実際には、考えなければならないことなんて冬休みの課題くらいしかない。
 目を瞑る。
 幼馴染の顔を思い出す。ふと、俺はアキが嘘をついているような気がした。そのこともあまり考えないようにする。
 コーヒーの香りにくすぐられてか、妹が目をさましたようだった。
「飲むか?」
「……うん」
 寝惚け眼をこすりながら、妹が椅子にすわる。彼女が起き出したおかげで、俺は余計な考えをやめることができた。
741:
 出かけようか、と俺は言った。どこに? と妹は訊き返す。俺は言葉に詰まった。行きたい場所なんてどこにもなかったのだ。
「なにかあったの?」
 妹にまで訊ねられる。俺は溜め息をつく。それ以外にできることがなかった。
 妹は呆れたような顔をした。俺はどんな態度で彼女に接すればいいのか分からない。
 このところずっとだ。
 でも、考えてみればずっと前からこうだったのかもしれない。
 近頃、俺を取り巻く環境が大幅に変わった――ような気がした――から、気付かなかっただけで。
 本当のところ、俺を取り巻く問題はなにひとつ変わっていないのかもしれない。
 ずっと前からなにひとつ。
「出かけよっか」
 妹が、不意に言った。
「どこに」
「わかんないけど」
 なるほど、と俺は思った。
742:
 で、出かけることになった。特に目的もなく。このあいだもこんなことをした気がする。
 いつものように街に出る。人通りの多い道。その中で、言葉も交わさずに二人で歩く。
 外は寒い。クリスマスシーズン。冬休み。なんとなく落ち着かないような気配。
「なんか、兄さん、ねえ」
「なに?」
「さむい」
 冬だから、そりゃそうだ。
「カイロないの? カイロ」
「あるよ」
「貸して」
 俺がポケットからカイロを取り出すと、妹はかすめ取るように受け取って、手のひらでこねまわしはじめる。
743:
「ねえ、なにか考え事?」
 妹は、妙にはしゃいだ口調で言った。
「まあね」
 俺は答える。なんだかひどく疲れていて、外面を保とうと思う気力さえなかった。
「疲れてる?」
「とっても」
「そっか」
 彼女は満足げに頷いた。
 なぜ頷くんだろう。分からないけれど、すこし心が晴れた気がした。
744:
「なんか、どこにも入りにくいね」
「そうかもね」
 俺は適当に相槌を打つ。入ろうと思えばどこにだって行けた。ファーストフードも喫茶店も。
 街角の寂れたブティック、昔からあるゲームショップ、ちょっと前にできた眼鏡屋。
 用事がなくたって、いつだって入れる。でも、どこにいたってなんとなく、俺は場違いになってしまう。
「公園にでもいく?」
「なんで?」
「犬がいるかもしれない」
「未来予知の?」
「の」
 妹は頷いた。俺は肩をすくめる。
745:
 けれど公園に未来予知の犬はいなかった。人一人いなかった。
 この寒さでは当然だろう、と、俺は白い息を吐き出しながら思う。
 俺はベンチに座る。妹は背の高い鉄棒を掴んで体を浮かせた。
「休みって、暇だね」
「だね」
 俺は溜め息交じりに答える。もし毎日がこんなふうに過ぎていくなら、俺はなにひとつ考えずに済むのに。
 ……いや。
 そこで気付く。俺は何を問題視しているんだろう。
 俺が考えている問題とはなんなんだろう? 普通に生活するだけで、俺は満足できないのだろうか、やはり。
 あたかも切迫した問題が目の前に迫っているかのように、俺の生活は不安定で歪だ。
 俺は何を考えているんだろう? 何を考えなければならないんだろう。
746:
 失われた俺の中の指向性。俺は何をこんなに悩んでいるんだろう。
 たぶんそれは、いま、俺の目の前で、冬の寒さに少しだけはしゃいでいる妹の姿と、無関係ではないのだろう。
 このままでは、やっぱりだめなんだろうか。
 俺は自問自答する。なんとかやり過ごせば、上手いこと時間切れが来て、そのうち何もかもが上手くいったり、しないんだろうか。
 幼馴染の顔を思い出す。
 彼女はいったい、どうして俺にちょっかいを掛けるんだろう。
 
 モスが言う通り、俺は本当に妹のことが好きなのだろう、きっと。
 ――それで。
 それで、俺はいったい彼女とどうなりたいんだろう?
 そのことがさっぱり分からない。だから迷っている。
 というよりは。
 俺は彼女と、どうなれると思っているんだろう?
747:
 家に帰って、久しぶりに妹とゲームで遊んだ。
 しばらくすると妹は眠ってしまい、俺は家にひとりになった。すると途端に寂しくなる。
 眠ってしまおうと思って部屋に戻る。ベッドに倒れ込んだ。
 なぜだか幼馴染の顔が頭をよぎる。
 妹と一緒にいると、ときどき幼馴染を思い出すことがある。
 すると決まって悲しくなる。なぜなのかは分からない。
 幼馴染のあの蒼白な表情。
 俺は考える。彼女はどうして、俺と一緒にいてくれるのだろう?
 彼女は、俺のことなんて世話のかかる昔馴染みという程度にしか思っていないはずなのに。
 ――思っていない“はず”?
 なんとなく、自分の思考に引っ掛かりを感じる。どうしてそんなふうに思うんだっけ?
 考えごとをしていると、いつのまにかうたたねしていた。
 目がさめると窓の外は赤く染まっていた。夕方なのだ。
 俺はベッドの中で体をじっと動かさずにいる。
 不意に携帯が震えた。
 アキからの二度目の連絡だった。
752:
アキ怖い
757:
「何の用?」
 と訊ねると、アキは少し気まずそうに呻いた。
「だめだった?」
「そうじゃないけど」
「そっか」
 ならよかった、と彼女は溜め息をつく。俺はなんだか嫌な気分になった。
「何の用?」
「別に、用とかはないの。ダメかな」
 駄目だとは言わない。
758:
 彼女は適当な世間話を始めたかと思うと、不意に幼馴染の話を始めた。
「また仲良くなったの?」
「べつに」
 俺はことさら素っ気なく答えた。どうしてそうしたのかは分からない。
 俺はアキを警戒している。なぜなのかは分からないけど、そうしている自覚はある。
 
 なんとなく、彼女と話していると不安になる。
「あの子とは、子供の頃からの付き合いなんだっけ?」
「まあね」
「ふうん」
 
 どうでもよさそうに、アキは頷いた。
759:
「ね、彼女はできた?」
「べつに」
 俺は正直に答える。
「そっか」
 アキはほくそ笑むような声で相槌を打つ。
 そして彼女は、
「そうだよね」
 と笑った。
 当たり前のことをきいてしまったと、自嘲するような笑みだった。
 俺は胸の奥でじくじくと何かが疼くのを感じた。
 そうなのだ。
 ずっと不安を感じていた理由に、いまさらのように気付く。
 
 明るすぎるのだ。アキが。彼女はそういう人間じゃなかった。
 嘲笑と自己憐憫と憧憬。以前のアキを構成していたのは、せいぜいそんなものだ。
 アキは、以前に比べてマトモすぎる。そのことが、強烈な違和感という形をとって、俺を不安にさせているのだ。
760:
“あなたみたいな人を好きになる女の子なんて、どこにもいないよ”
 アキは呪いでも掛けるように、ことあるごとに俺にそういう言葉を向けた。
 大抵の場合は人間性や生活態度について貶められた。
 次に多かったのは容姿に関するそれで、あとはこまごまとしたどうでもいいいようなことについてだった。
“だってあなたは人間としてまったく魅力的じゃないから”
 そして彼女は、最後に必ずこう言った。
 でも、わたしはそんなあなたのことを愛しているし、あなたと一緒にいてあげる。
 他の誰かが言ったなら、俺はその相手に病院に行くことを勧めただろう。
 
 けれどアキには、そういった言葉を信じてしまうだけの説得力があった。
 彼女の持つある種の性質が、おそらくはその言葉を信じさせたのだろう。
 絶望的な気分にとらわれていたその頃の俺には、アキの言葉が、ときどき救いめいてすら聞こえたのだ。
761:
 それに比べて――この“アキ”はなんだ?
 けっして以前のような歪さが損なわれているわけではない。
 むしろ影にひそんでいる分、その歪みは以前よりも強まっているように感じられる。
 あるいは、単純な話、関係性が変わった今となっては、俺にそういった自分を見せるのをやめたのか。
 何かを教訓にして、人に暗い自分を見せるのをやめたのか。
 いずれにせよ、俺とアキの関係は、今思えば恋人同士などという生易しいものではなかった。
 手を繋ぎながらお互いの傷を抉り合うような不自然な関係だった。
「会って話をしてみたいな」
 とアキは言った。
 なぜそうなるんだと俺は思った。
 
 いいかげん、俺も疑いたくなってくる。
 こいつは、俺が嫌がっていることを分からずに無神経に電話を掛けてきたり会いたいと言ったりしているではないのではないか。
 俺が嫌に思うことなど分かったうえで、そんなものはとっくに理解したうえで、それをかえりみずにいるのではないか。
762:
 そう考えて、俺はたまらない罪悪感に駆られる。
 俺に、そんなことを考える資格はあるのだろうか。
 だが、なぜそんなことを思うのか、まったくわからなくなる。
 俺はアキに対して強烈な後ろめたさを持っているが、それはどうしてだろう。
 ひどい別れ方をしたのはあくまでも結果であって、俺だってアキを傷つけたくて行動していたわけではない。
 くわえて、アキだってさんざん、俺を傷つけたり蔑ろにしたりしていたのだ。
 
 もちろんだから許されると思うわけではないが――俺が抱える罪悪感は、いったい何に由来するものなのだろう。
 アキは電話の向こうでくすくすと笑う。
 眩暈がする。
763:
「だめ?」とアキは言った。
「だめ」と俺は答える。
 
 一瞬の沈黙が生まれ、空気が張りつめた気がした。
 俺はひどく怯えている。
「うん、分かった」
 アキは笑う。
 俺は、自分が今、たしかにあの冬の地続きに存在しているのだと、ふと思った。
 俺は適当な理由をつけて通話を終わらせた。
 彼女との電話が終わると、俺は疲れ切っている。
 ともあれ、今日はやりすごした。
 
 明日も連絡を寄越すようなことはないだろうと、思いたいのだが。
764:
 翌日の朝、モスとタカヤから連絡があり、どこかで会わないかという話になった。
 俺たちは駅前のマックに集まった。モスが言うので幼馴染にも電話を掛けた。
 彼女はまだ以前どおりという雰囲気ではなく、少なからず暗い気分を引きずっているように見える。
 とはいえ、表面上は平気そうに振る舞っていたし、彼女がそうしている以上、こちらとしても問いただす理由はないように思えた。
 タカヤとモスが話をしている間も、俺はなんだか会話に混ざれずにぼーっとしていた。
 考えなければならないことがたくさんある気がしたけれど、よくよく考えてみればそうでもない。
 妹のことなら、何もいますぐにどうこうしようとしなくてもいい。
 幼馴染に関しても、問題があるようなら何かを言ってくるはずだし、言ってこないにしても、あまり様子がおかしいなら訊ねればいい。
 アキのことは本来ならもっとも簡単だ。連絡するなと一言言ってしまえばいい。
 けれど現実には、俺はそれらの問題にかなり思考をかき乱されていた。
765:
 特に、目の前にいる幼馴染に関してはどうしても気になってしまう。
 一度アキについての話をしたとき、彼女は平然としていたのに。
 それなのに、じっさいにアキと会い、目が合っただけで、ひどく憔悴しているようにみえる。
 何の会話もなかったにもかかわらず。 
 
 いったい彼女とアキとの間に何があったというのか。それは俺と関係のあることなのか。
 タカヤたちは彼女の友人である「みー」についての話をしているが、幼馴染にそれを集中して聞く余裕はないらしい。
 本当に珍しい姿だ。
 その様子が気になって、俺はタカヤが説明する話をほとんど理解できなかった。
766:
 幼馴染はまったく口を開かなかった。やはり何かを訊ねるべきなんだろうか。
 俺にはいつだって、彼女の考えていることがさっぱりわからない。
 だから、どこまで訊いていい話なのか、まったくわからない。それは俺に関係のあることなのか?
 俺はアキから電話がかかってきたことを彼女に話そうかどうか悩んだ。
 俺ひとりで抱えておくにはひどく息苦しい事実だったけれど、その結果彼女がまた沈んでしまうのではないかという危惧もある。
 それはさすがに、自意識過剰だとは思うのだが。
 結局、何も言わずに俺たちは別れる。
 幼馴染はずっと、何かを言いよどんでいるような表情をしていた。
 
 別れ際、俺は努めて明るい表情を見せたつもりだったが、たぶん彼女には見抜かれていただろう。
776:
 翌日の朝はモスからの電話で七時半に目をさました。常識を知らない奴だ。
 こんな朝っぱらから電話を寄越す奴があるか。俺は寝たい。
「眠いので、折り返し電話します」
「大事な話だよ」
 俺は溜め息をついた。
「深刻そうになんなんですか、愛の告白ですか」
 モスは俺の冗談を取り合わず、用件に入った。
 俺はなんとなく悔しい。
777:
 彼の話は幼馴染の様子についてだった。
「近頃、明らかにおかしいよな。何かあったのか?」
「あったといえば、まぁ」
 あった。原因は分からないけれど。
「ずいぶん落ち込んでるみたいだ」
「そうだね」
「そうだね?」
 とモスが訊き返した。
「他人事みたいな言い方するなよ」
「気に障ったなら謝るけど、他人事みたいな言い方になるのは癖みたいなものなんだ。俺なりにあいつのことは気にしてるよ」
「……ああ、そうだな」
 悪かった、とモスは言った。たしかにお前は、口の上では他人事みたいな言い方をする奴だったっけ。
 モスはモスで、少し落ち込んでいるように思える。何かあったのかもしれないし、もっと他の要因からかもしれない。
 いつものような冷静さが、どこかにいってしまっている。
778:
 実際、俺は幼馴染のことを気にしてはいるが、どう対応すべきか判断しかねている。
 俺が関わっている問題なのか、俺が関わっていい問題なのか、そのことが分からない。
 あの何かに怯えたような態度が、ひどく気にかかる。
「とにかく、一度話をしてみたらどうだ」
「って、言っても」
 どうすればいいというのか。「ところで、あなた最近何か悩みでもあるんですか?」と直接聞いてもいいもんなのか。
 俺はそういうのが苦手だ。……そういうのじゃなくても、人と話すのは得意ではないのだが。
「何か悩んでるのは明白だろ」
 モスが言う。それはそうなのだけれど。
779:
「俺に話してくれると思う?」
「内容によるだろうな。とにかく、頼むよ」
「そんなに気になるなら、お前が直接きいたっていいんじゃないか」
「俺が? どうして?」
 どうしても何も、モスと幼馴染だって、一応友人関係と言っていいものだと思うのだが。
 付き合いの長さでいえば俺の方が長いが、相談に乗るならモスの方が適任だろう。
 それでもモスは、自分が話してみるとは言い出さなかった。仕方ないのだろうか。
「……まぁ、分かったよ」
 
 少し納得がいかない気分だったが、頷く。
「これから電話して、会えるか訊いてみるよ」
「ああ。……今日か?」
「今日。早い方がいいんじゃないのか、こういうのは」
780:
「でも、今日と明日は……」
「……なに?」
 訊き返してもモスは言いよどむだけだった。
「とにかく、任せるよ」
「……お前に頼まれると、変な感じだな」
「俺も頼む側として変な気持ちだ」
 モスとの通話を終えてすぐに幼馴染に電話を掛ける。
 彼女は十コール目に出た。
「ふぁい」
 と眠そうな声が聞こえる。
「おはよう。良い朝だな」
 俺は外の曇り空を見ながら言った。
「……ねむたいので、あとでかけ直しますね」
「悪いけど大事な話があるんだ」
「へあ?」
 幼馴染が相槌のように変な声を出した。なんだ「へあ?」って。
781:
「告白ですか」
「今日暇?」
「……否定してもらえないと、妙な期待をしてしまいそうです」
「なんだ、いつも通りに冗談言えるくらいには回復したのか」
「うう?」
 寝起きだからか、幼馴染の返事はいつものしっかりした具合ではなく、とろけたようなふわふわした声だった。
 少し間があいて、彼女があくびしたのが電話越しに分かった。
 
 気を取り直したような声音で、幼馴染が言う。
「あのですね、いまは冬休みなのです」
「知ってる」
「休みなんですから、朝八時に電話を寄越すのはマナー違反です」
「……俺は朝七時半に起こされたんだよ」
「何の話です?」
「なんでもない」
782:
「で、なんでしたっけ?」
「今日暇?」
「……唐突ですね」
「そうでもない」
「まあ、暇、ですけど」
 何かを言いかけたように、彼女は言葉を止める。
 なんなのだ、こいつもモスも。
「……えっと、なにか用事でも?」
「まあ、そんなようなもん。ちょっと話があって」
「……あ、はい」
 なんなのだ、その返事は。
 俺は溜め息をつく。やっぱり本調子ではないのだろうか。
783:
「えっと、それじゃあ」
「会える?」
「……うん」
「じゃあ、午後からでいい?」
「はい」
「どこで会おうか」
「どこかに行くんですか?」
「いや、まぁ、適当にぶらつくだけかな」
「はあ」
 と彼女は奇妙な返事をした。
784:
 本当ならどちらかの家で話をするのが簡単なのだが、こっちには妹がいて、あっちには家族がいる。 
 不意にこのあいだ入った喫茶店のことを思い出して、まぁあそこなら静かだし、話をするのにちょうどいいだろうと思った。
 
 だが、彼女があの店の位置を知っているかどうか分からなかった。
「じゃあ、一時半過ぎに迎えに行くから」
「あ、はい」
 ねぼけたような声で、幼馴染は返事をした。俺は怪訝に思う。
 電話を切って、さて二度寝でもするか、と思った。眠くて頭が働いていない。
 なるべく早めに起きて準備をすればいいだろう。なぜだか近頃睡眠不足だった。
 なぜならも何も、原因はいくつもなさそうなものだが。
 アキのことを考えると目が冴えてきて、俺は眠ろうとするのを諦めた。
785:
 昼前に準備を始めてリビングに降りると、珍しく妹が起き出していた。
 休みの日は昼過ぎまで眠っていることが多いのに、なぜだろう。
 彼女は俺の様子を見て、驚いたような顔をした。
「出かけるの?」
「ああ」
「……そっか」
 何か言いたげな表情で、妹は押し黙る。なんなのだ、どいつもこいつも。
 不意に何かに気付いたように、妹は顔をあげる。
「あの人と?」
「その“あの人”っていうの、やめろよ。まぁそうだけど」
「ふたりきりで?」
「……そうなるな」
 なぜそんなことを気にするんだ。
786:
「そっか」
 と彼女は、承服しがたい何かを受け入れようとするような顔で頷いた。
 
「なにかまずかった?」
「ううん、べつに」
 いつもより明るい表情で妹は答えた。俺は怪訝に思う。
 どいつもこいつも、何を言いよどんでいるんだ。
 結局妹はそれ以降何も言わなかった。気になったが、今日の用事が終わってからでもいいだろう。
 幼馴染の様子が変わった理由を、とりあえず確認してみなくては。
787:
 家の前まで迎えに行くと、彼女は落ち着かない様子で玄関に立っていた。
 俺はその様子に、なんだか戸惑う。
 昨日までとは様子がまったく違った。
 うわついているようにも警戒しているようにも見える。
「……きましたね」
 と彼女は言った。
「だまされませんよ」
「何の話?」
 俺は笑った。彼女は目を逸らす。
 
「それで、話があるって言ってましたよね」
「とりあえず、移動しようか」
788:
 街の方に移動している最中、幼馴染は周囲の目を気にするように視線をあちこちに泳がせていた。
 表情は緊張している。本当に昨日までとはまったく違う態度だ。
 街中は静かだった。人が少ないと言う意味じゃない。たくさんの人が歩いている。
 その大半は冬休み中らしい学生だった。男女の組み合わせが多い。
「……うう」
 幼馴染がこらえきれないように呻いた。
「どうした?」
「なんでもありません。……騙されませんよ、わたしは」
「……だから、何の話?」
 風邪でもひいてるのか。それとも酔っ払っているのか?
789:
 喫茶店に入る。普段から寂れているが、今日はとくに人気がない。
 天気のせいもあって中は薄暗く、俺はなんとなく気分がよかった。静かで薄暗い空間は、妙に落ち着く。
 窓辺の席に腰を下ろして、幼馴染と向き合う。
「なんか食べてきた?」
「いえ」
「じゃあ頼むか」
 軽食の値段は馬鹿げていたが、静かな空間を提供してもらった分だと思って払うことにする。
 注文を済ませると、沈黙が下りた。
 幼馴染の様子はもぞもぞと落ち着かない。ずっとこちらと目を合わせようとせず、店内のあちこちに視線を泳がせていた。
「どうしたの?」と訊ねると、
「いえ、特には」とすぐに返事が返ってくる。
 即答するということは、自分の態度が変だということに気付いてはいるのだろう。
790:
「それで」
 ようやく視線をこちらに向けたかと思うと、真面目な表情をつくって幼馴染は言った。
「なんですか、大事な話って」
 妙に警戒した表情だった。俺は彼女がこんな態度になる理由がわからない。
 ……いや、そういえばふたりきりでどこかに行ったりするのは、久し振り、ということになるんだっけ。
 
 出かけるにしてもタカヤや「みー」に関することばかりだったし、それ以外の時間は他の人間が一緒だったような。
 ……さんざんふたりきりで昼食をとったりしていたし、その程度のことで警戒されるとも思えない。
「んー、いや、まぁ」
 俺はどう切り出そうか迷ったが、単調直入に話を始めるのがよさそうだと口を開いた。
「近頃様子がおかしいよなぁ、と思って」
 幼馴染は一瞬、忘れていた傷口が痛んだような顔をした。
「そうですか?」
791:
「うん。目に見えて沈んでた。から、なにか悩みでもあるのかと思って」
 こういう言い方をするのは得意じゃない。
 彼女は戸惑ったような顔をする。
「べつに、悩みがあるわけでは」
「じゃ、どうして落ち込んでたんだ?」
 訊き返すと、幼馴染は口籠った。
「べつに、言いたくないならいいんだけどさ」
「……言いたくない、というのとは、違うんですけど」
792:
 言いかけて、結局彼女は口籠った。
 
「……アキと関係があるの?」
 彼女は顔をしかめた。何かの痛みをこらえているようにも見える。 
「べつに、彼女に直接の関係があるわけでは」
 間接的にはあるという意味だろうか。
 また、幼馴染は押し黙る。俺は溜め息をついた。
「さっきも言ったけど、言いたくないなら別にいいんだ。本当に」
 彼女は躊躇したような、安堵したような表情になる。
 
「……ごめんなさい」
 
 と彼女は謝った。ここでこの話はうちきりだ、と俺は思う。
793:
「いいよ。でも言いたくなったら言えよ。あんまり心配かけるな」
「……心配したんですか?」
「しないと思ったのか?」
「……あ、いえ」
 まだ落ち込んだ様子だったが、表情はてれくさそうな微笑に動いた。
 俺はすこしほっとする。
 それから俺たちは、特になんでもない世間話をした。幼馴染の様子は、時間が経つにつれて自然になっていった。
 話す内容はなくならなかった。こんなにも話すことがあったっけか、と不思議に思うほどだった。
 喫茶店を出る頃には時刻は三時半を過ぎていた。
「どこかに行く?」と俺が訊ねると、彼女は何かを思い悩んだ様子だった。
「……えっと」
794:
 どこか行きたい場所があるのだろうか。それとも、何か思うところがあるのか。
「……いえ。いいです」
 彼女の表情は少しこわばっていた。何かの落胆を隠そうとするような、強がりめいた微笑。
 その表情は「しかたない」と自分に言い聞かせているようにも見えた。
 気になったが、結局俺たちはそのまま帰ることにした。
 さっきまでの反動のように、俺たちの間から会話というものが消え去ってしまった。
 ただ沈黙があった。街から外れて、より静かな方へと戻っていく。街は少しずつ暗くなり始めている。
 幼馴染の表情は、家に近付くにつれて重々しくなっていった。
 黙っている間、ずっと何かを考えていて、それが徐々に暗い考えに傾いてきたというふうに。
795:
 ぽつりと、幼馴染が声を漏らした。
「どうせ……」
 独り言のように言う。その言葉には何かが続いていたが、俺には聞き取れなかった。
「なに?」
「いえ、べつに」
 拗ねたような、諦めたような顔だった。妙に気にかかる。
 俺は空気を変えようと思い、場違いに明るい声を出した。
「喉乾いたな」
「……そうですか?」
 俺は溜め息をつく。
796:
「乾いたの。俺は。コンビニ寄ろうぜ」
「じゃあわたし、先に帰ってます」
「……なんなの、お前は。言いたいことがあるなら言えよ」
「……べつに」
「何拗ねてんだ。いいから行くぞ」
 肩に触れると、彼女は体を捩じって俺の手を振り払った。
 空気が静かに変化した。
 彼女は泣き出す直前の子供のような顔をしている。
 俺は少しだけ傷ついたけれど、腕を振り払ったことで彼女自身の方がよっぽど傷ついたような顔をしていたので、何も言えなかった。
「ほら、行くぞ」
 俺は少しためらったが、強引に彼女の腕をとった。
797:
 最初、幼馴染は抵抗とも言えないような抵抗をしたが、やがてそれもなくなり、連れられるがままになった。
 こいつの考えていることはさっぱり分からない。
 俺は本当はこいつの腕をとるべきじゃないのかもしれない。
 それでも、ここで腕をとらなかったら、俺は彼女に対して普段通りに接することができなくなる気がした。
 
 彼女は離してくれとは言わなかった。
「何飲む? おごってやるよ」
「……コーラがいいです」
「珍しいね」
「そういう気分だから」
 なんとか答えを返してくれるようにはなったが、態度はまだ冷たい。
 さっきのやりとりの結果、いつも通りに振る舞うのが気まずいだけなのかもしれない。
798:
 コンビニで飲み物を買って、帰路につく。
 彼女は軒先で500mlのコーラのキャップを開けて飲んだ。一口で半分ほど減った。
 自棄になったような飲みっぷりだった。
「……帰るか」
 と俺が言うと、彼女は黙ってうなずく。俺は飲み物を袋に入れたまま口をつけなかった。
 家がだんだん近づいてくる。俺は自宅を通り過ぎて、彼女を家まで送るつもりだった。
 幼馴染との空気は、さっきまでよりはいくらかマシになった。
 話しかけると、普段よりはそっけないが、返事を返してくれる。
 少し安堵したが、何か変化があったわけではない。
 咄嗟にさっきのような態度になってしまうほど、幼馴染の悩みは深刻らしいと分かっただけだ。
 次の角を曲がると、俺の家が見える。幼馴染をちらりと見る。彼女もこちらをうかがっていた。
 互いに何も言わずに目を逸らす。
 角を曲がる。
799:
 最初に、幼馴染がそれに気付いて、立ち止まった。
 俺は立ち止まった幼馴染を怪訝に思い、振り向く。
 
 それから彼女の視線の先を追いかける。
 背筋が粟立った。
 おおよそ日常的な感覚とはかけ離れた、恐怖のようなものを感じる。
 日が沈むにつれて伸びていく影のように、振り払いようもなくつきまとう。
 おいおい、と俺は思った。どうしてこいつがこんなところに立っているのだ。
 アキはこちらに気付くとからかうように笑った。
805:
気になる・・・
815:
 俺が何かを言う隙もなく、アキはこちらを見て目を細めて笑った。
「へえ」
 獲物を見つけた蛇のような顔。
“まだいたんだ”、と彼女が言ったように見えた。
 俺に対してじゃない。
 彼女は幼馴染に向かって笑いかけたのだ。
 様子を見遣ると、彼女は一瞬で青ざめたように見えた。
 あるいは冬の寒さがそうさせたのか。
 俺はなんだか、不安になる。
816:
 幼馴染とアキの視線が絡み合う。
 そこには何かの感情の応酬めいたやりとりがあるようにも見えた。
 視線だけでお互いの考えを見抜き、そして見透かされたような。
 見ただけの印象なのだが。
 先に目を逸らしたのは幼馴染だった。彼女は打ちひしがれたような顔で視線を落とし、俯く。
 アキは満足そうな微笑をたたえる。この二人には何か圧倒的な上下関係とでもいうものがあるのか。
 それとももっと心的な要因で、幼馴染はアキに対して強く出られないのか。
「……おいおい」
 と俺は言った。
「どうしてお前がそんなところに立ってるんだ?」
 幼馴染のこの様子を見て、俺は一刻も早くこいつをこの場から追いやるべきだと強く感じた。
 こいつと幼馴染を一緒にいさせてはならない。――理由は分からないけれど。
817:
 けれど俺は、アキに声を掛けるべきじゃなかったのだ。
「会いたかったんだって。電話でも言ったでしょ?」
 電話でも、というところをアキは強調した。
 幼馴染の身体がゆらめく。俺の顔を見て、彼女は怯えるように後ずさった。
 何のつもりだと問いただしたかったが、それよりも幼馴染の様子の方が気になる。
 さっきまで、少しましになっていたのだ。
 それが、アキと会うだけで、どうしてこんなふうになるのだ。
「でも、そうなんだ。まだ一緒にいたんだね、その子」
「……お前には関係ない」
「そう?」
 とアキは言う。
「本当にそう?」
818:
「何の話を、してるわけ、お前は」
「べつに。でも……」
 と、彼女はそこで間を置いて、
「いいかげん、限度があるよね」
 と意味ありげに言った。
 幼馴染はその言葉に顔をあげ、羞恥か憤りか、顔を真っ赤に染めあげた。
 俺は混乱する。 
 今の会話の中に、幼馴染を強く揺さぶる何かがあったのか?
「わたしは……」
 震える声で幼馴染は何かを言いかけたが、結局何も言わなかった。言えなかったのかもしれない。
 その様子を見て、アキはやはり満足げに笑う。
 俺は気分が悪い。
819:
「おんなじなんだよね、結局」
 何が、と言おうとしたとき、幼馴染が振り絞るように声を出した。
「なにが、おんなじなんですか」
「わたしと、あなた」
 アキは笑う。
 幼馴染は表情を歪めた。たぶん恐怖だろう。
 俺は、幼馴染とアキの間に立った。
 アキへの怒りが先立ったのか、幼馴染を庇いたかったのか、どちらが強かったかは自分でも分からなかった。
「お前の話、むかしっからわけわかんねえんだよ」
820:
 アキは面食らったような顔をしたが、やがておかしそうに笑い始める。
 こういう奴だった。俺は思い出す。こういう奴だったのだ。
 相手が怒れば笑い、泣けば笑い、相手が笑えば怒る。
 そういう人間だったのだ。あのころは気にならなかったが、今になってみれば、異様だ。
 歪だ。
「悪いけど」
 
 と俺は言う。
「これ以上つきまとうの、やめてくれない? 負い目があるから強く出てなかったけど、正直鬱陶しいんだ」
「ひどいこと言うね」
「ひどくないよ。お前がいると、状況が混乱するんだ。お前がいるってだけで、割と迷惑なんだ。ひどいことを言うようだけど」
「……ふうん」
 
 とアキは笑う。全然こたえているようにはみえない。
821:
「わたしはあなたと、話したいんだけどな」
「自分の気持ちが相手の迷惑になるなら、自分が我慢するべきだって思わない?」
「わたしは別に思わないよ。相手の気持ちはあくまでもわたしの気持ちじゃないから」
 話の通じない奴だ。
「でも――ねえ、そんなことを言っていいの?」
 俺は怪訝に思う。
 どういう意味だ?
 俺が言葉の意味を訊きかえそうとするよりも先に、動いたのは幼馴染だった。
 音に気付き俺が振りかえると、幼馴染はこちらに背を向けて走っていた。
 どこか切迫した後ろ姿だった。
822:
「ああ?」
 と俺は間抜けな声を出す。どうしてそうなる?
 だが、アキのもとから離れるなら幸いだ。追いかけよう、と俺が足を踏み出すと、
「やめた方がいいよ」
 と、真剣な声音でアキが言った。
「……本当に、これはいやがらせとかじゃなくてね。彼女のことを考えるなら、やめたほうがいいよ」
「どうしてお前にそんなことを言われなきゃなんないんだ」
「こっちも、見てて痛いんだよね。そういうことされるとさ。いいかげん可哀想になってくるの」
 電話越しとはまったく違う口調。かぶっていた猫の皮をはいだのだ。
823:
「だってさ、あなた、あの子のこと好きじゃないでしょ?」
「……何言ってんの、お前は」
「そこでそういうふうに言っちゃうあたりが、あなたのダメなところだよね。そういうところも好きだけど」
「……ああ?」
 と、さっきよりもいっそう強まった混乱を、喉から吐き出す。
「なに、それ。お前、彼氏できたって言ってただろ」
「いるよ。でも別に好きじゃない。どうでもいい。相手もなんか、わたしのこと好きじゃないみたいだし」
「……はあ?」
「言わなきゃ分からない? 分からないよね」
 小馬鹿にするように、彼女は笑う。
824:
「教えてあげる。わたしだってこの一年、努力はしてきたんだよ。たくさん」
 彼女の息は白い煙を伝って音となり、俺の鼓膜を揺する。
 その感覚は一年前のものとはまったく違って思える。
 ひどく、白々しい。
「でも、あの日コンビニであなたを見て、あなたの表情を見て、やっぱりなにひとつ終わっていないんだって思った」
「……だから、何の話?」
「ある種の感情には折り合いのつけようがないんだって、分かる? どんなに抵抗したって無駄なの」
 痛いほど分かるが、それがこの話とどう繋がるというのか。
「どうやっても無理なの。代わりじゃどうにもならない。だから、いまさらあなたに連絡したわけ」
 アキの声はどことなく高揚しているように聞こえた。
「あなたが好きだよ」
 と彼女は言った。
825:
 殴られたような衝撃を覚える。
 強く認識する。
 なにひとつ終わってなんかいないのだ。
 あの日の地続きに俺は立っているのだ。
「……たかだか数ヵ月一緒にいただけだろ。一年以上会っていないのにひきずるなんて、どうかしてる」
 俺は強がりのように言った。
「本当にそう思う?」
 アキは言う。俺は答えられなかった。
「あの冬に」
 お気に入りの詩でもそらんじるような声だった。
 俺はその声が、白く染まって冬の空に溶けていくさまを見る。
 その光景が、かつての俺は好きだったのだと思った。
「あの冬にね、わたしに話しかけてくれたのは、あなただけだったよ。それはわたしにとってとても重要なことだったの」
 大袈裟な言い方じゃなくてね、とアキは言った。
826:
 だから、と彼女は続ける。
「悪いけど、わたしはあなたに気を遣ったりするつもりはないよ」
 まるで宣戦布告でもするように。
「あなたの側の事情も心境もまったく考えるつもりはない。覚悟しておいてね」
 俺は彼女のその言葉が、俺自身にとってもひどく致命的なものであることに気付いていた。
 その言葉を否定することは、そのまま俺の感情を否定することになる。
 でも、
「知らねえよ」
 と俺は言う。
827:
「いまさらそんなこと言われたって、どうしようもないよ。お前は俺のことなんてちらりとも考えてなかったじゃないか」
「そうかもね」
 まったく平気そうな顔でアキは続ける。
 それにしても、と。
「あの子、可哀想だよね、本当に」
「……何の話?」
「本当に気付いていないなら、気付かないふりをしているよりもよっぽどひどいと思う」
 俺は口籠る。その言い方じゃ、まるであいつが――。
 考えかけて、否定する。
828:
 溜め息をついた。肩をすくめた。頭を振った。もうどうしようもねえな、と言いたい気分だった。
「悪いけど、追いかけなきゃならない」
「追いかけない方がいいよ。責任をとれないなら」
 だから、その言い方じゃあ、まるで――
 ――ふと、思い出す。
 俺は今まで、そのことについて“そんなはずがない”とずっと否定し続けてきた。
 あいつと再び話すようになって、何度もそういう考えがよぎりかけた。
 でも、その考えを否定してきた。なぜだったか。
 アキの唇が、三日月のように裂ける。
「まさか、まだ信じてたとか?」
829:
 怖気が走る。
 自分の愚かさと、この女の賢しさに。
 十五やそこらの子供が、なぜそんなことをできたのだ。
 
 アキは本当に歪なのだ、と俺は思った。
「あなたのことをなんとも思っていない、付き合いが長いから世話を見ていただけで、わたしに代わってもらえてよかった」
 アキはうたうように言う。
「――って、あの子がそんなことをわたしに言ったなんて、そんな嘘を、今の今まで信じてたの?」
 今の今まで、まったく思い出さなかったその嘘が、俺の思考の前提にあったというのか。
 誰が語った言葉だったかも忘れて、それを無意識に信じ続けていたのか、俺は。
 けれど俺の頭を支配したのは、そのことに対する衝撃や驚愕ではなく、むしろ、怒りだった。
「お前、あいつにも言ったのか」
 アキは笑みを止める。
「俺に言ったのと同じようなことを、あいつにも言ったのか」
830:
「言ったよ。もちろん、あなたと付き合うようになったあとに」
 アキは平然と言う。
「走れなくなって落ち込んでいて、人と話しても明るい気分になれそうにないみたいなんだって」
 俺は自分の呼吸が荒くなるのを感じた。
「特に、あなたには昔から付き合いがあるとかいう理由だけでつきまとわれてうんざりしているって言っていたって」
 対話は重要だ。あらゆる問題の解決の糸口になる。
「落ち込んでいるからそんな言い方をしていただけだと思うけど、しばらく距離を置いてやってくれないかって」
 けれど、
831:
「あの子、意外と人を疑うってことを知らないよね」
 ある種の問題は対話によっては決して解決できない。そしてそういった問題ほど、暴力によって解決できる場合が多い。
 そして更に多くの場合、それはどうやったところで、暴力以外の手段では解決できない。
 だからときどき、暴力が絶対に必要なタイミングというものがある。俺は拳に力を込めた。
「だから、あの子、さっき逃げ出したんじゃないの? まだ付きまとってるのか、って言われてる気になったんだろうね」
 アキは楽しそうに笑う。俺は自分の感情を必死に落ち着かせた。
 それでも、暴力をふるうわけにはいかない。
「うっとうしがられているのに、まだ隣に居座ってるんだね、って言われた気になったんじゃない?」
 なにもかも、地続きになっているのだ。
842:
怖い‥レスしたくなくなるくらい怖い
845:
 俺はアキに背を向けて駆け出した。彼女は何も言わなかった。
 頭が混乱して、うまく回らない。
 おいおい、と俺は思った。俺はまた、アキの言葉を信じるのか?
 本当は適当なことを言っているだけで、そんなことは言っていないのかもしれない。
 
 そういう奴なのだ。そういうふうにどうでもいいような嘘で誰かを傷つける奴なのだ。
 
 でも俺は走った。けれど、走り出してしまって本当によかったのか?
 
 アキは言っていた。
 ――だってさ、あなた、あの子のこと好きじゃないでしょ?
846:
 アキにしては珍しく、たしかにマトモな発言だ。
 もし彼女の言葉をすべて信用するなら。
 そうだ、嘘っぱちなのかもしれない。
 単に俺とは無関係なところで幼馴染はアキに傷つけられたのかもしれない。 
 さっきの会話は、実はそっちの事件に影響されたのかも。
 俺なんかとは本当は無関係なのではないか。
 だって、その話を信じるなら、彼女は俺のことを好きだということにはならないのか。
 そう考えてしまうのは短絡的なのか。
 仮にそうだとしたら、俺はやっぱり彼女を追いかけるべきではないのだ。
 俺は彼女を好きだけれど、それは結局そういう"好き"ではないのだから。
847:
 けれど、俺は走っている。とにかく走っている。足は自然とある方向へと動いていった。
 彼女がどこに逃げたのか、俺には分かっていた。
 いや、俺は彼女が逃げる場所を知っていたのだ。
 でも、俺は本当にそこに向かって良いのだろうか。
 姿を見つけるのは困難じゃなかった。
 昔から何かあると、彼女が逃げ込むのはいつも同じ場所。
 
 住宅地から離れ、街からも外れ、寂れていく道の向こうの、無人の神社。
 木々の陰りが、街中から内側の空間を切り離したような場所。
 実際、彼女はそこにいた。
848:
 俺が足音を立てても、彼女は俯けた顔をあげようとはしなかった。
 鳥居をくぐって少し進んだ右手に、大きな樹がある。その枝が、上空を暗く覆っているのだ。
 夏になると葉陰が心地よく、風のざわめきが心地よい。そういう場所だ。
 けれど今は冬だったし、風景はとても寂しげだった。
 実際、寂しいんだろうなぁと思った。そういう場所だ。
 膝を抱えて俯いたまま、幼馴染はぽつりとつぶやく。
「こないでください」
849:
 小さな声だった。俺は戸惑う。
 初めて見る態度だった。こんなことを言われたことは一度もなかった。いままで一度も。
 だから俺は一瞬立ち止まっておきながら、また一歩踏み出した。
「こないで」
 と、さっきより鋭い声が飛ぶ。弱々しい響きながらも、その声を孕んで聞こえる。
「こないでください。ほうっておいてください」
 と言われて、放っておくわけにもいかない、わけでもない。
 こいつに今背を向けて帰ったところで、別に間違ってはいない気がした。
 いや、人間としても男としても友人としても間違っている気はするが、それでも。
 そんな間違いよりも、今ここに来てしまったことの間違いの方が、ずっと大きい気がする。
「……もう、やめましょう。疲れました」
850:
 泣き疲れたような声だった。彼女の目に涙は浮かんでいなかったし、表情は眠たげなだけで、寂しそうにも見えない。
 それでも彼女は泣いていたのかもしれない。あるいは俺の自意識過剰なのかもしれない。
 俺はこいつの考えていることが分からない。ずっと前からなにひとつ。
 いつだって想像するのが怖かったから、分からないように、考えないようにしていたという方が近いかもしれない。
「わたしは」
 と幼馴染は言う。
「別にあの子の言うことを信じてたわけじゃないですよ。きみがあんなこと言うはずないって思ってた」
 本当のところ、俺は彼女の気持ちなんて知りたくないのだ。
 それをはっきりさせてしまったら、俺は彼女と一緒にいることができなくなるかもしれない。
 
 だって俺は、たしかにアキの言う通り、彼女を好きじゃないのだ。
 好きだけど、それは特別な好きではないのだ。
 俺の気持ちはいつだってある方向に傾いて引き離せない。
 強力な磁力で引っ張られている。逃れようがないのだ。いつからかそうなったのか、思い出せないけれど。
851:
「だからあの子の言ってることが嘘だなんて知ってる。でも、きみの気持ちまでは分からないから」
 彼女の声は曇天の下の神社に透明に溶けていった。何もかもを透き通ってしまいそうな声だった。
「怖くなったんです。本当にわたしを嫌いになっても、きみはそう言わないだろうって思ったから」
 怖い、と俺は思った。何を怖がっているのかはわからない。
 でもたしかにそうなのだ。続きを聞くのが怖かった。
「だから不安で、話しかけられなかったんです、ずっと。それでも諦めきれなくて、話せなくてもせめて近くにはいようって」
 不意に、空気が変わるのを感じた。俺の怖さは消えていく。かわりに透明だった彼女の声に、しずかに色がつきはじめた。
 俺はここに来るべきじゃなかったのだと思った。彼女を追いかけるべきではなかったのだと。
 
「同じ高校に入って、あたりをうろちょろして、遠巻きに眺めながら、それでも話しかけられなくて」
 そして俺は、自分がこの期に及んで自分のことしか考えていないことに気付かざるを得なかった。
852:
 彼女は自嘲するように笑った。
「ストーカーみたい。気味悪がってくれて、いいですよ」
 ふて腐れたような声で幼馴染は言う。ここに来て彼女が笑ったのは初めてだった。
「もう行ってください。わたし、疲れました」
 俺は何も言えない。
「どうして」
 と俺は言った。彼女の言葉に向けていったわけではない。幼馴染もそのことに気付いただろうとすぐに分かった。
 自分でも驚くほど無神経で、マヌケな声だった。その言葉はその空間の雰囲気と言えるものを切り裂いた。
 風が吹き抜ける。
「"どうして"?」
 と彼女は繰り返した。
853:
「それ、どういう意味です?」
 俺は言えなかった。その言葉を自分で言うのは、ひどく白々しいことだと思えたからだ。
 彼女は呆れたように言う。
「わたし、きみのことが好きですよ。たぶん、とっくに気付いてるでしょうけど」
 体のどこかがずきりと痛んだ気がした。どこなのかは分からない。胸でもないし頭でもない。
 それでもたしかに、どこかが痛んだような気がしたのだ。
「でも分かってます。きみは、あの子が好きなんですよね」
「アキとは……」
「そっちじゃない。あの子なんて」
 他人のことを吐き捨てるような、幼馴染にしては珍しい声だった。
 あるいは。
 その態度は、伏せていただけで、彼女の中では自然にあったものなのか。
 俺が勝手に、彼女は「そういう言い方をしない」と思い込んでいただけか。
854:
「あの子なんて、放っておいたって害はないですよ。どうせ口先だけで、何もできやしないんです。そういう子です。よく分かります」
「……どうして?」
「さあ? あの子が言う通り、おんなじだからかもしれません」
 ただ、と彼女は続ける。
「あの子の方がよっぽど潔いのかもしれない」
 俺は何も言えない。
 幼馴染についても、アキについても、彼女たちの俺に対する態度は、すべて、俺に帰ってきてしまうものなのだ。
 彼女たちについて何かを言うことは、そのまま、俺の妹に対する態度について何かを言うことになってしまうのだ。
「わたしは、ずっと、卑怯ですよ。黙ってみてることなんてできなかった。友達の相談まで利用して、もう一度きみに近付こうとしたんです」
855:
 ともだちの相談をうまく使って、もういちど距離を縮められないかとか、なんとかして近づけないかとか。
 そんなことばかりずっと考えてたんです。
 どうせきみはわたしのことなんて好きにならないって分かってたのに、それでも諦めきれなくて、未練がましくつきまとってたんです。
 そのうち何かの拍子で、きみが、きみ自身の気持ちと折り合いをつけて、こっちを向いてくれるんじゃないかなぁとか。
 そういう、都合のいいことばっかり考えてたんです。そういう人間なんです、わたしは。
 自分でもいやになるくらい、自分のことしか考えてないんです。
 そのくせわたしは、あの子みたいに、きみの気持ちを無視してまで付きまとうことなんてできない。
 だってわたしがわがままを言えば、――これは自惚れかもしれないけど――きみが悲しむことになるかもしれないと思ったから。
 でも結局、そっちだって中途半端なんです。けっきょく、言わずにはいられなかった。今みたいに。
「好きですよ」
 と彼女は言った。
「……“どうして”かは、分からないです。自分でもおかしいって思うけど。理由がどうしても必要だったら、今度考えてみます」
 彼女は顔をあげた。視線はこちらを向かなかった。俺は彼女の表情を見る。
 何ひとつ、彼女の考えていることが分からなかった。言葉にすべてを押し付けて、表情はからっぽになってしまったようだった。
856:
「でも、これでおしまいです」
 と彼女は言った。影をひそめていた恐れが、俺の心を支配する。
 
“おしまい”なのだ。
「ごめんなさい。ずっと黙っていられたら、平気な顔をして、応援できたらよかったんだけど」
 ごめんなさい、と彼女は言った。
 
「もう行きますね。今日はごめんなさい」
 彼女は立ち上がった。俺は立ち尽くす。ゆっくりと、彼女が俺の横を通り過ぎていく。
 俺は振りむこうとした。でも振り向けなかった。
 
 虫が良すぎたのだ。
 何もかも失わないままでいたいなんて。
857:
 ふと、頬にふれた雪の冷たさに、はっとした。
 気付けばあたりは暗くなっている。夜が来た。もうそんなにも時間が経っていたのだ。
 どうしよう、と俺は考える。
 でも、よく考えずともどうしようもないことがわかった。
 幼馴染には何も言えない。何を言えるだろう。実際、彼女の言う通りなのだ。
 俺には彼女より好きな人物がいる。
 それだけで俺は彼女に対して何も言えなくなってしまう。
 
 家に帰ろう、と俺は思った。とにかく今日は眠ってしまいたかった。
 アキがいるのではないかと危惧したが、家の傍までもどっても気配はない。今日は帰ったのだろう。
 どうして今日、家に来たりしたのだろう。連絡も寄越さずに。唐突に。
 
 俺は疲れ切った。家に帰って、妹の顔が見たかった。
 たぶんそれは現実逃避だ。俺は何も考えたくない。
 将来のこととか、自分のこととか、自分が何を望んでいるかとか、ぜんぶ考えたくない。
 保留にしたまま過ごしていたいのだ。保留のままでは満足できなかったくせに。
858:
 家の扉には鍵がかかっていた。持ち歩いていた鍵をつかって扉を開ける。
 玄関に妹の靴はない。出かけているのだと俺は思った。
 リビングのテーブルの上に書置きがある。
 友達と会う。遅くなるかもしれない。そのようなことが書かれている。
 俺はカレンダーを見て今日の日付を確認してから、ああ、イブだったのかと思った。
 それから冷蔵庫をあけて飲み物を探した。でも、何もなかった。
 仕方ないので水を飲むことにする。いまの俺には相応だろう。この程度のものが。
 俺はいまひとりぼっちだった。誰も傍にはいない。それもやはり相応だ。
 どうせゴミのように生きてゴミのように死ぬしかない。
 知らないふりをして、なんともないふりをして、普通のふりをして、まともなふりをして、過ごすことはもうできない。
 俺は妹に何も言えない。彼女のことを考えるなら何も言うべきじゃない。
 俺の気持ちは彼女を不幸にしかしない。少なくともそう思える。
 たしかに義理だが、それがいったい何の慰めになるというのだ。モスの言葉は気休めにしかならない。
859:
 彼女は俺を好きになったりしないだろう。こんな馬鹿でマヌケでゴミみたいな人間を。
 どうしようもなく逃げてばかりの人間を。
 そのことを期待するのは愚かだ。だから口を噤んでいた。
 俺はどうしようもなく恐れている。現状が壊れてしまうことをとにかく恐れている。
 それと同時に、壊れることを望んでもいる。アンビバレンスな感情。
 もうおしまいだ。時間切れだ。
 俺もまた、疲れたのだ。これから先は機械のように生きればいい。
 呼吸をするだけだ。難しいことは何も考えなくていい。
 さっきから自分のことばかり考えている、とふと思った。
 ――いや、最初からずっとそうだったのかも知れない。
 だってそうじゃないか? と俺は自問した。
 他にどうしようがあるっていうんだ? たとえば誰もが納得できるような話になりえるのか?
 
 ありえない。誰にとっても爽快な終わりなんて。最初からそういう類の話なのだ。
 最初から、そういう種類の人間なのだ、俺は。
860:
 階段を昇って自室に戻る。ベッドに体を投げ出す。身体が熱い。それとも空気が冷たいのか。
 俺は枕に顔を押し付ける。枕は俺の友だちだ。何も考えないようにしてくれる。
 そして俺はばかばかしいような気持ちになった。枕はものだ。
 妹が出かけるなんて話は聞いてなかった。突然予定が入ったのだろうか。
 ……イブの日に?
 まさか。じゃあ、あのあと予定を入れたのか。
 
 なぜ? 
 そして俺は考えるのをやめた。もう妹のことを考えるのはやめよう。忘れよう。諦めよう。
 受け入れよう。この現実を。相応だ。こんなもんだ。これが俺という人間だ。
861:
 ――不意に、部屋の空気が切り替わった気がした。
 怪訝に思う。何が起こったのだろう。突然、さっきまでとはまったく違う空気になった。
 静寂に耳鳴りが起こる。予兆のような気配。
 
 いまさら何が起こるっていうんだろう?
 不意に、携帯電話が鳴り響いた。着信音。アキか、と俺は思う。違う、と直感が言う。
 俺は電話に出る。
「もしもし?」と俺は言う。
「どうだった?」とモスが言った。
872:
「どうだった、って、何の話?」
 俺の言葉に、モスは面食らったような声をあげた。
「何の、って、会ってみなかったのか?」
「……えっと」
「……何かあったのか?」
 ああ、そうだ。今朝、彼からの電話で俺は幼馴染と会うことにしたのだっけ。 
 すっかり頭から抜け落ちていた。今日という一日が長すぎた。
「うまく説明できない」
 言って、溜め息をつく。なんだかなぁ、という気持ちだった。
 どうしてモスは、俺と普通に会話してくれるんだろう。
873:
「そっか」
 と彼は頷く。
「もう駄目かもしれない」
 俺は言った。泣き出したいような気持だった。
 なんだかすごく疲れているし、心細いし、不安だった。
 どれもこれも身から出た錆なのだけれど、それでも俺は怖かった。
「なにもかも上手くいかない。なんとなく、ぜんぶ、折り合えない。もう無理だ」
「また落ち込んでるのか」
 彼は呆れた声を出す。
 俺は聞こえない振りをして言った。
「みんな俺から離れていくんだ」
874:
「そんなことはねーよ」
 とモスは言った。
「そんなことはない」
 染み入るような声だった。モスがそういうんなら、そうなのかもしれない。
 彼の言葉にはそういうところがいる。
 
 誰とでも自然と話ができて、素直に笑えて、素直に怒る。
 モスの人間性。俺とは真逆の。
「で、何があったんだよ」
 彼は言った。肝心なところで、彼は話を曖昧にごまかそうとはしない。
 それは責任感なのかもしれない。
 
 よりにもよって今朝、俺をけしかけてしまったことに対する。
 クリスマスイブ。
 幼馴染は俺の電話をどんな気持ちで受け取ったのだろう。
875:
 俺はゆっくりと説明を始めた。今日起こったことのすべて。
 でも話してみれば話してみるほど、起こったことは実に単純なことばかりに思えた。
 モスは黙って俺の話を聞いていた。聞けば聞くほど黙り込んでいった。
 そして俺の話を聞き終えると、
「で、お前はどうしたいんだ?」
 と言った。
 俺は戸惑う。
「どうしたいって、俺にどうできるって言うんだよ」
 俺は拗ねたように言う。まさか、中学の時にアキにしたことを、幼馴染に対して繰り返せと言いたいわけではないだろう。
「どうできるかなんてどうでもいいだろ。まず、お前がどうしたいかだ」
 俺にはそのことがどうでもいいこととは思えなかったけれど、仕方なく考えた。
876:
 俺がしたいこと。
 俺が望むこと。
 それを考えるのはとても難しいことだ。宇宙の外側を考えるのと似ている。 
「妹さんと、どうにかなりたいのか」
 それもある。
「それとも、昔馴染みの女の子と、曖昧な関係のままでいたいのか」
 それもある。
 ……あほか。と俺は思う。
 実に単純な話だ。宇宙の外側なんて大規模なもんでもない。
 ただの我がままだ。
877:
 都合の良すぎる話だ。
 幼馴染は俺が好きだとはっきり言った。そして俺には他に好きな相手がいる。
 にもかかわらず、「ごめんなさい、これからも仲の良い友人同士でいましょう」だなんて。
 そんな都合のいい話があるわけがない。
 彼女が言った通り、幼馴染と俺の関係はもう「おしまい」なのだ。
「彼女は、諦めてないんだと思うぞ」
 モスは不意に言った。俺は怪訝に思う。
「何の話?」
「本当に諦めるんなら、いまさらお前に本心を告げたりするか?」
「……けじめをつけたかっただけじゃないのか」
「気持ちなんて、自分のなかでどうにでも折り合いをつけられるもんだろ」
「人によるんじゃない?」
「そうかもしれないけど」
 俺は溜め息をつく。モスの言葉は”憶測”だ。
878:
「じゃあ、どうしてお前に見つかるような場所に逃げたんだ?」
 そりゃ、あいつだって、あんなところに逃げたら、俺が居場所をつきとめられると知っていただろうけど。
「……だから、話をしたかったのかもしれない」
「じゃあ、どうして逃げたりするんだよ」
 それは、そうだけど。でも、そもそもそういう状況じゃなかった。
 冷静で論理的な判断ができるような状況じゃなかったのだ、俺も彼女も。
 多少おかしな行動をしても、不思議はない。
 
「そういう、混乱した、咄嗟の状況で、お前に見つけられるような場所に逃げたってことはさ」
 モスの言葉は、あくまでも推測だったけれど、
「本当は、見つけてほしかったんじゃないのか」
 俺は、なんだか悲しい気持ちになった。
879:
「追いかけてほしくて逃げたって言いたいの? 見つけてほしくて隠れたって?」
「あるだろ、そういう気分のとき。誰にだって」
 こいつにもあるんだろうか。俺はあるけど。
「これでお前が何も言わなかったら、彼女はきっと本当に諦めるだろうけど、まだ期待してるんじゃないか」
「期待?」
「期待」
 どんな期待がありえるんだ? 彼女は、俺の抱いている気持ちにとっくに気付いているのだろう。 その相手にも。
 だからひとりで勝手に完結して、ひとりで勝手に諦めたのだ。
 ……いや、そうか?
 彼女にとって問題だったのは、むしろ、彼女自身の言葉を信じるなら、
"嫌われているかもしれない"という部分ではなかったっけ?
880:
 ……何を混乱しているのだ、俺は。だからといって、彼女の言葉に対して俺が何も言い返せないのは変わりない。
 でも、どうなんだ。
 これは身勝手な感情だろう。無神経だし、自分本位だ。
 でも、腹が立つ。
 
 アキという人間がバカなことを言ったことも、たしかにあるだろう。俺の態度だって一因にはなったはずだ。
 だからといって。
 嫌われているかもとか、勝手な推測で避けはじめて、今だって勝手に自己完結して、勝手に納得した顔をして。
 そりゃ、俺だって上手に話せていないとは思っていた。あの頃、話すたびに彼女の態度がこわばっていったのは、よく分かっていた。
 だからといって。
 怖くて話せなかったとか。
 それでも諦めきれなかったとか。
 
 彼女が問題にしている部分がそこなのだとしたら、俺ははっきりと言ってやりたい。
 それを今になって言うことはすごく身勝手で自己満足的なのだけれど。
 俺はお前のことを嫌ってなんかいないんだと。
 怖がったり不安になったりして避ける必要なんてぜんぜんないんだと。
881:
「……いずれにしても、今が正念場だよ、少年」
 モスは言う。お前も少年だろ、という言葉は飲み込んだ。
 ……いや、少年という歳でもないか、もう。
「ここで一個でも間違うと、アキのことみたいに、いつまでも鬱々と引きずることになるぞ。お前はそういう人間だ」
「……そうかもしれない」
 誰かに対して後ろめたさを抱いたうえで手に入る幸福は、結局のところ後ろめたいものでしかなくなる。
 だから俺はずっと躊躇っていたのだ。
 今だって一歩も進めなくなってしまいそうになってしまったのだ。
 本当の幸福は、周囲に認められたうえでしかありえない。たぶん。あるいはそうじゃないかもしれない。今ふと思っただけだ。
882:
「モス、俺は」
 ふと、考えたことが口から出た。
「今まで逃げてたと思う?」
「思うよ。自覚なかった?」
「あったけど」
 あったんだけど。
 難しいのだ、逃げないことは。逃げていないと自分を騙すことはすごく簡単だから。
「ぜんぶにぜんぶ、納得のいく答えなんて出せない気がするんだ。だめかな?」
「いいんじゃねえの」とモスは言う。
「俺たち、まだ十代だぜ。結論を出すには早すぎるよ」
 彼の言葉は十代とは思えないほど老成している。
 俺は笑った。
901:
 少しだけ前向きな気分になる。気分は重たかったけれど、本当に少しだけ明るい。
 いいかげん覚悟を決めるときが来たのだろうと思う。
 自暴自棄に身を任せるのはなく、自分自身の判断と感情で、しっかりと進む方向を決める時期が。
 いつまでも壊れたコンパスをあてにしているわけにはいかない。
 諦めきれないから、ここまで俺はゴミみたいな生き方をする羽目になったのだ。
 諦めきれないくせに、諦めたふりをして自棄になったから、状況が一層混乱したのだ。
 いいかげん、それも終わりにしなければならない。
「モス、俺さ」
「なに?」
「お前がいてくれてよかったよ」
「はっ」
 と彼は笑い飛ばした。
902:
 とはいえ、すぐに何か行動を起こすのは困難だった。
 本当に幼馴染ともう一度話をしてみるべきなのか、それとももう口をきかないべきなのか、その判断はつかない。
 モスとの電話を切って、ベッドに転がり込む。
 そして少しだけ考え込んだ。
 考えることなんて、何かあるだろうか。
 俺にできることはいつだって同じだ。
 自分がどのような状況を望んでいるのかを認識して、そこをめざし行動すること。
 自分の現状が望ましいものならそれを維持できるよう苦心し、そうでないなら望ましいものに変化させようと努力すること。
 いつだって仕組みはおんなじだ。
 ときどき自分の望んでいることが分からなくなってしまったりするだけで、根本はやっぱり変わらない。
 当たり前のことだ。
903:
 瞼を閉じる。どうにも溜め息が出る。俺はこれまでに何人の人間を悲しませてきたのだろうかと考えた。
 どれだけの人間を苛立たせ、苦しませ、呆れさせ、軽蔑させ、失望させ、嫌われてきたのか。
 次に、どれだけの人間を楽しませ、喜ばせ、どれだけの人間に好かれてきたのかを考えてきた。
 どちらが多いかは自明のことだった。
 そして、自分にとって、そのどちらが重要であるかを考えた。
 俺はたくさんの人に軽蔑されるような人格をしている。たくさんの人間を失望させてきた。
 大勢の人間に嫌われてきたし、嫌われても仕方ないような人格だ。
 さんざん身近な人間を苦しませてきて、いまなお自分のことしか考えていない。
 
 世界中の人間に俺という人間についての評価を求めよう。お手元に○ボタンと×ボタンがある。
 好きな方を押してほしい。さあ、結果はどうなるか。
 大半の人間は押さない。彼らは俺という人間について何かを知りたがるほど暇ではない。
 押されるボタンは八割が×ボタンだ。俺は誰からも嫌われている。
 人気者には混じれなくて、嫌われ者にも混じれない。そういう人間性。
904:
 でもときどき、奇特なことに○ボタンを押してくれる人がいる。
 俺がどれだけ無神経で怠惰でアホでマヌケなことをやっても許してくれる人がいる。
 俺がどれだけ努力して結果を出しても認めてくれない人がいるように。
 ×を押した人間と○を押した人間の、どちらが俺にとって望ましいか。
 どちらが俺にとって優先すべきものであるか。
 自明なことだ。
 だからとっくに答えは決まっていた。
 俺は少し悩む。そして携帯を開いた。幼馴染に電話を掛ける。
 奴は出ない。何コールしても出る気配を見せない。
 十五分ほど経ってから、もう一度かけ直してみたが、出ない。ので、諦めた。
 着信履歴に俺の名前が残るだけでも十分だ。
 言葉が届かなくても、その事実はそれだけで意味を持つ。
905:
 さて、と俺は考える。頭は上手く回らない。
 こんなふうになってしまうだけの理由は、いくらでもある。幼馴染のことも妹のことも。
 ふたりとも、俺から離れてしまってもまったくおかしくない。
 俺のことを見はなして、嫌いになっても仕方ない。
 
 それはモスだってそうだし、タカヤだってそうだ。みんなそうだ。
 離れていく。
 で、だ。
 俺は離れたいのか、離れたくないのか。
 たぶんそこが重要なのだ。
 離れたいなら、都合がいい。みんないなくなってしまえばいい。誰とも会わずに生きればいい。
 そうやって日々を消化する。当たり前の日々を当たり前にこなす。それでもいい。別に。
 たぶんそうだ。別に不可能じゃない。前は失敗したけれど――本当に割り切ってしまえば、それはそうできる程度のものだ。
906:
 離れたくないなら、どうするのか。
 都合よく自分の周囲の人たちに、囲まれていたいと望むなら、結局、どうするのか。
 それはもう、未練がましくすがりつくしかないのだ。
 相手の心を弄んだり、相手の意思を誘導したりすることはできない。
 単に相手に伝えるしかない。伝達。対話。そうすることでしか不可能だ。
 相手に嫌がられても、結局そうするしかない。
 でも、どうしても無理で、修正不可能で、あきらかに手遅れだという話になったら、そのときはじめて諦めればいい。
 意思の尊重と言うのは沈黙によって遂行されるわけではない。
 自分と相手の両方が、自身の意思を互いに率直に伝えることでしか達成できない。
907:
 けれど、自分の意思をはっきりと表明することは困難だ。
 いつだってさまざまなしがらみが、言葉を縛り付けてくる。
 いつのまにかさまざまなものが、口を縫い付けている。
 だから混乱する。エラーが起こる。頻発する。
 
 ときどき回路が途切れるのだ。誰にも本音を言えなくなる。それでもなんとかなってしまう。
 それでときどき人が死ぬ。
 そういうふうに思う。考えただけ。思いつき。ホントかどうかは知らない。
 ところで俺はどうしてこんなことを考えているんだっけ? たぶん疲れているのだ。
 疲れているとどうでもいいことを考える。誰だってそうだ。
 
 リビングに降りてコーヒーを淹れ、椅子に座る。家中が静かだった。
 昔のことを思い出す。子供の時のこと。安らげなかった場所のこと。
 でもそれは昔の話なのだ。それも数字にすればごく短い期間の。
 
 だからどうというわけではなく、ただそれは過ぎてしまったことなのだ。
 問題は常に"今"のことだ。
908:
 急に眠気が襲ってくる。だからどうでもいいことを考えるのだ。
 でもしょうがない。うとうとしていると、頭の内側のスクリーンで奇妙な映像が流れ始める。夢だ。
 どうやら夢らしい。でも、細かなディティールが分からない。なぜだろう。
 たぶんまだ眠っていないからだ。そうか、なら寝ればいいんだ。俺は眠ろうとする。
 夢の中に入り込む。俺は子供だった俺を見下ろしている。
 今よりも暗い顔をしている。貧相なチビだなぁと俺は思った。今と大差ない。
 
 そばに小さな女の子がいる。どうやら手を引かれているらしい。女に手を引かれるなんてみっともないガキだ。
 そのチビにとって、目に映る大半のものは巨大だった。
 
 雲もポストも、ガラス製の灰皿も母親の手のひらも、坂道もアジサイも、家の扉も少女の手も、巨大だった。
 赤いマニキュア、煙草の火。
 チビは少女に手を引かれ、公園に入っていった。さびれた公園。なんにもない。
 ベンチと滑り台、雲梯とブランコ。シーソーにばね仕掛けの動物の乗り物。砂場に埋もれた瓶コーラの王冠。
909:
 そこに女の子がいる。ふたりめだ。
「今日も来たね」
 と彼女は言う。
 返事をしたのは、手を引いてきた女の子。
「うん」
 と彼女は元気に返事をする。チビの方は返事もやらない。
「今日は何して遊ぶ?」
 待っていた方が言う。
「なんでもいいよ」
 と、本当になんでもよさそうに、手を引いてきた方が言った。
910:
 待っていた方はしばらく考え込む。うーん。今日はどうしようか。ブランコはふたつしかない。シーソーはふたりのり。
 滑り台は……もう飽きた。動物の乗り物も。遊具はぜんぶだめ。ぜんめつだ。
 
 砂場で何かをつくって遊ぼうか。いや、うーん。……まぁ、いいか。なんでもいい。
「じゃあ、おままごとにしよう」
 と待っていた方が言う。
 手を引いてきた方は首をかしげた。チビは何にも興味がなさそう。
「おままごと?」
「おままごと?」
 女同士だけで、会話が成立している。彼女たちは意味もなく笑いあう。チビはアジサイの上を舞うモンシロチョウを目で追っていた。
「じゃあ、わたしがお嫁さん」
 と、待っていた方が言う。
「きみが、だんなさま」
911:
 指をさされたチビは、面食らってのけぞる。
 手を引いてきた方が、つないだままの手をぶらぶら揺すって不平をあらわにした。
「じゃあわたしは?」
「……赤ちゃん」
「いや!」
 と首を振る。つないだままの手をぶんぶん振り回した。チビは痛かったが、何も言わなかった。
「じゃあ、だんなさま?」
「……いや! お嫁さんがいい」
「うーん」
 待っていた方は腕を組んで考え込む。
 やがて名案が浮かんだとばかりに手を打ち鳴らし、満面の笑みでこう言った。
912:
「じゃあ、ふたりともお嫁さんでいいね」
「……ふたりとも、お嫁さん?」
「うん」
 手を引いていた方は、「どうなのかなぁ」という顔をしていたが、結局頷いた。
 ふたりはチビに目を向ける。
 チビはここに来てようやく口を開いた。
「そんなの、おかしいよ」
 と彼は言う。待っていた方が怒ったように言う。
「おかしくないよ!」
 黙っておけばいいものを、チビは反論した。
「おかしいよ。そんなの。お嫁さんは、ひとりだけだよ」
「誰が決めたの?」
 女の子は駄々をこねる。
913:
「誰って、そうなってるんだよ」
「だから、そうなってるって、誰が決めたの?」
 チビは黙る。そんなのは彼だって知らなかった。でもそうなってるのだ。そういうことになってる。
「じゃあ、わたしも決める。ふたりともお嫁さんでいいって。それでいいよね?」
 待っていた方が手を引いた方に同意を求める。気圧されたように。手を引いた方が頷いた。
 待っていた方は頷き返す。
「ほら、いいって。じゃあ、きまり!」
 決まったようだった。チビは呆れて溜め息をつく。
 でも、だって、そんなの“いびつ”だ。上手く行きっこない。
 たかだか遊びで、何をそんなに真剣になっているんだろうとチビは思う。
 それでも考えてしまう。
 そのことが原因で自分の身に起こったことを、曖昧ながらも理解していたからだろう。 
 蛙の子は蛙。
914:
 とはいえ。
「それじゃ、だんなさま。ごはんにしますか? それともお風呂になさいますか?」
「……どうして“けいご”なの?」
「お嫁さんは、だんなさまには“けいご”なんです」
 女の子たちは楽しそうにしていたので、まあいいのかもしれないとチビは思った。
 そしてたぶん、俺たちは過去の地続きに生きている。
 待っていた方のうさんくさい敬語を聞き流しながら、手を引いてきた方の顔を覗き見る。
 モンシロチョウが彼女の周囲を舞う。
 楽しそうに笑っている。
 
 でも、これは所詮夢なのだ。あくまでも。
 夢が終わる。 
 俺の意識は真っ暗で無時間的な場所に沈んでいく。
 夢の余韻に浸ったまま、静かに眠りたい。
924:
 目がさめる。
 
 背中に何かが乗せられる。振り向いた。
「わ」
 妹がいる。
 急に振り返ったせいか、面食らった顔をしていた。
「おと」
 彼女は驚いて手に持っていた毛布を床に落とした。
 何かを言うより先に、まず安堵した。なぜか。
 
 黙ったままでいると、彼女は気まずげに視線を落とした。
925:
「おかえり」
「……ただいま」
「どこ行ってたの?」
「友達と会ってきた」
「あ、そう」
 俺はなんと答えるべきか迷って、結局何も言わなかった。
 妹はぽつりと言う。
「今日は帰ってこないと思ってた」
「なんで?」
「……なんとなく」
926:
 ……いや、「なんで」も何も。
 イブの日にふたりで会うって言ったら、そういう話になる、のか?
 少し突飛と言う気もするが、詳しい説明は省いていたような気がするし。
 いや、やっぱり突飛だろう。
「なにかあった?」
 と妹は言う。
「お前こそ、いきなり出かけて何かあったのか」
「……べつに。こんな日にひとりで家にいたくなかっただけ」
 俺はもうちょっとこいつのことを考えてやるべきなのだろう。
927:
「……落ち込んでる?」
 どうして分かってしまうのか。
 言うまでもなく、俺が分かりやすいのだろうけど。
 さんざんこれまで取り繕ってきて、疲れ切って、隠すのをやめたせいもあるのだろうけど。
 折れそうになる。
「ビビってんの」
 と俺は答えた。妹は首をかしげる。
「何の話?」
「べつに。なんというかね、どうにかしなきゃと思っても、どうすればいいか分からないんだよ」
 妹は「ふうん」という顔をした。
928:
 俺は少し気まずい。
「ねえ、不誠実なのと無責任なのだったら、どっちがマシだと思う?」
「……さあ?」
 俺はダイニングテーブルに置きっぱなしにされていたマグカップの中を覗く。
 すっかり冷え切ったコーヒー。時計を見るが、そんなに時間は経っていなかった。
「コーヒー飲む?」
「ケーキ食べたい」
 
 会話が成立していない。
「買いに行くか」
 と俺は立ち上がる。とはいえ近場にケーキ屋なんてないし、あっても閉まっているだろう。
 だからコンビニだ。売れ残ってるかどうか、微妙に不安はあるのだが。
929:
 上着を羽織って家を出る。妹は何も言わずについてきた。
 
 夜道を歩く。ぼんやり。ふたりで。なんだかひどく現実味がない。
 こんなことをしていていいのだろうか。
 俺にはもっと考えなければならないことや、やらなければならないことがある気がする。
 それもたくさん。具体的には思い出せないけれど、そういうものが確かにあった気がするのだ。
 コンビニには先輩がいた。彼女のうしろには茶髪がいる。
 俺は隠れようかと思ったが、その前に先輩に見つかった。
「どうしたの、デート?」
 彼女のからかいに俺は、
「まさか」
 と返す。その返事は、少し真剣すぎたかもしれない。
「ていうか、先輩、イブに弟と一緒って」
「そっちだって妹と一緒じゃん」
 まぁそうなのだが。
930:
 茶髪は俺に何も言ってこなかった。アキから何も聞いていないのかもしれない。
 というより、聞いていないだろう。おそらく。
 コンビニの店内は、時間のせいもあるのだろうが、結構混み合っていた。
 男女の客は少しだけで、同性同士の集まりの方が多いらしい。
「なんか考え事してんの?」
 先輩にまで言われる。そんなに分かりやすいのか。それとも疲れてるのか。
 正直言って、もともとこういう人間なのだけれど。誰かと一緒に居ても、ずっと何か別のことを考えているような。
 最近、やたら見透かされる。
 良い傾向なのか、悪い傾向なのか。
「ま、あんまり悩みすぎない方がいいよ」
 
 そこで彼女はにやりと笑って、
「イブなんだからね」
 からかうようにささやいた。
931:
 デザート用の棚には二個入りのショートケーキがおいてあった。
 チョコレートケーキとチーズケーキもあったのだが、こういうのは雰囲気先行だろう。
 他にも何かを買おうかと思ったが、気分が乗らなかったし、妹も何も言わなかった。
 店を早々に出て、家路につく。
 妹は俺の左隣を歩いている。ぼんやり空を見上げると、妙に星がくっきり見えた。
 今日あたり世界が終わるのかもしれない。
 そういうことを大真面目に考える。
「兄さん」
 と妹が言う。
「荷物、右手で持って」
「はあ?」
「いいから」
 従う。
「んしょ」
 と、彼女が俺の手を取った。
「……ああ?」
 混乱した。
932:
「……なぜ手を繋ぐ」
「気にしないで。別に理由はないから」
 と、彼女はいつもより弾んだ声で言う。
 俺は戸惑う。
 こんなことをしていていいのだろうか。
 俺はもっと考えなければならないことがあるのだ。
 幼馴染のことだって、ちゃんと話をして、何かの結論を出したいと思っている。
 
 それなのに、こんなことをしていていいのか?
 ……思いつつも、悪い気はそんなにしなかったので、振りほどく気にはなれない。
 結局俺は不誠実な人間なのだ。
 手の感触は冷たかった。それは徐々に俺の体温を奪っていく。
 静かに温度が均されていく。こわばっていた手のひらの感触が、溶けるように変化していく。
 何をやっているんだ。俺は。
933:
「兄さん」
 
 と彼女は言う。
 不安そうな顔をしている。何故そんな顔をするのか、俺には分からない。
「あの人と、付き合うの?」
「……お前な」
 俺は溜め息をつく。
 ついてから、考える。
 どうなんだ?
 俺はあいつとどうなりたいんだ?
「付き合うといいよ。きっと、普通にうまくいくと思うよ」
「そうかい」
 俺は自棄になったような気持ちで返事をした。俺は不快そうな顔をしているだろうか。
 今日だってまったくと言っていいほど意思疎通がままならなかったのだが。あれで上手くいくというのか。
 よりにもよってこいつに、そんなことを言われたくはない。
934:
 不意に妹の手のひらから力が抜けて、離れていきそうになった。俺は咄嗟にそれを握る。
 妹は驚いたようにこちらを見上げた。俺は視線を逸らす。
 何をやってるんだ。
「なんで握るの?」
「なんで離すんだ?」
 堂々巡り。
「繋いでる方が変だよ」
「そうだけど」
 そうなんだけど。
935:
 言葉が途切れる。俺は手を放した。
 妹は何かを言いたげにしていたが、そのまま手を下ろしてぶらぶらと揺する。
 公園を通り過ぎるとき、不意に何かの気配を感じた。物音。
 
 妙に気になって、追いかける。
 よくよく考えたら、こんな日のこんな時間に、変な場所に入り込むべきではなかったのだけれど。
 まぁ、気になったもんはしょうがない。
 ベンチの近くに動く影があった。最初はなんだか分からなかったが、よく見ると犬らしい。
 犬。
「……あれ、この犬」
「予知犬だ、予知犬」
 変な呼び方だった。よちいぬ。
「飼い主はどうしたんだろう」
「近くにいるんじゃない?」
 こんな時間に?
936:
 俺はしゃがみこんで犬の頭を撫でた。いったいどうしてこんなところにいるのか知らないが、寒くはないのか。
 犬は俺の頬をぺろりと舐めた。ざらついた舌の感触。
「なんだ、こいつは」
「また占ってもらう?」
「何を?」
「なんか」
 なんだそれは。
 どうでもいいや、未来とか。
 俺は立ち上がって、服の肩で頬をぬぐった。
 犬は俺の足に頭をこすりつけてくる。
「なつかれてるね」
「なんでだろう」
 動物に好かれるタイプではないのだが。
937:
 しばらくすると飽きてしまったのか、犬は公園を走り去ってしまった。
 俺は溜め息をついてベンチに腰を下ろす。
「なんだったんだろう」
 妹が呟く。俺は肩をすくめた。
 今日はいろいろなことがあって疲れた。一日で三日分くらい動いた。
 もう眠い。
 ぼんやり空を見上げると、やっぱり星がきれいだ。異様に。なんでだろう。
 なんでだろうもなにも、別に何か理由があるわけではないんだろうけど。
 俺は立ち上がろうとして、妹が俺の目の前に立っていることに気付いた。
「なに?」
 訊ねると、彼女は息苦しいような顔をする。
「……なに?」
 その表情に切迫したものを感じて、俺はもう一度訊ねる。
938:
「ごめんね」
 と彼女は謝った。
「なにが」
 と訊ねようとしたが、できなかった。
 塞がれた。
 口。
 俺の頭は一瞬で機能停止したけれど、不思議と何が起こったのかははっきりとわかった。
 ゼロ距離にある顔だとか、咄嗟に吸い込んだ鼻からの息にまぎれこんだ匂いとか、そういうものは後から気付いたもので。
 まず最初に、状況を理解していた。
 ふたたび正常な距離感を取り戻す。俺は自分の呼吸が止まっていたことに気付いた。
 妹は視線を下ろしている。叱られる前の子供みたいな顔。 
 泣き出しそうな目をしていた。
「……なんでキスした」
 何を言えばいいかわからず、まぬけなことを言ってしまう。
939:
 妹は取り繕うように言った。
「だから、ごめんねって言ったでしょ」
「いや、そういう話じゃない」
 ていうかあれは予告だったのか。
 本当に、何の言い訳にもなってない。
「いいでしょべつに!」
 と妹は怒鳴った。
 俺は気圧される。
 気圧されて、思う。
 逆ギレだよこれ。
 よくねーよ。ぜんぜんよくねーよ。
940:
「兄さんが悪い!」
「……なぜ俺」
「兄さんが、えっと……なんだろう」
 考えてから喋りましょう。
「兄さんが胸をさわったりするから悪い!」
 それは確かに悪かったけど。
 なんなのだこの状況は。
 唐突すぎて意味が分からない。
 意味が分からない。
941:
「わたしを混乱させてばっかりの兄さんが悪い!」
「……待て。心当たりがない」
 本当にない。
「思わせぶりなことばっかりいって、期待させたり、そのくせ妙なところで距離をおきたがったり」
 それはそのまんま、俺が彼女に感じていた印象と同じだった。
 が、なぜ今、ここでこうなる?
「意味がわかんない」
 俺にも分からない。
「……何言ってるの、わたし」
 俺にも分からない。
 
「なんかもうやだ。泣きそう」
 だから、なんで。
 もう意味が分からない。本当に。なにこの状況。
942:
「もうやだ! 帰る!」
 なかば叫ぶようにして、妹は公園から出て行った。その姿がさっきの犬にダブる。
 ……まさかこの姿を予知していたわけではないだろうと思いたい。
「おい、ケーキどうするんだよ!」
 俺が状況にあっていない疑問を投げかけると、妹は少し悩んだように唸って、
「冷蔵庫いれといて!」
 大声で返事をした。
 公園にひとり残された俺は、とりあえずベンチから立ち上がる。
 なんていう日だ。
 不意に出た溜め息が、白く染まって立ちのぼる。
 
 どうすりゃいいんだ、これは。
957:
 家に戻ると、妹は自分の部屋に閉じこもっているようだった。
 
「おーい」
 と声を掛けると、
「ほっといて!」
 と声が帰ってくる。無視されない分、いつかよりはマシだと言えるのだが。
 仕方ないので放っておく。俺はケーキを冷蔵庫に突っ込んで自室に戻った。
 机に置きっぱなしだった携帯を開くと着信があった。
 アキ。
 無視する。かけ直す理由がない。
958:
 俺は何かを考えようとして、やめた。
 妹の考えていることはさっぱり分からない。……などと言っていられる状況ではない。
 考えなくても分かる。というと自惚れめいて聞こえるが。
 どうも、奴は俺のことを好きなのではないか。
 という想像をして赤面。なんだその発想は。薄ら寒い。
 よくよく考えるのだ、どうせからかわれているだけだ。
 ……からかうだけであんなことをするような妹だとは思いたくないわけだが。
 
 いやしかし、あの年のおなごは何をしでかすか分からないことがある(おなごて)。
「うーむ」
 結局考えている自分自身に気付き、溜め息をつく。
959:
 さて、と俺は考える。
 ここにきて、気付かざるを得ない。
 どうも俺が問題にしていたのは、彼女の意思なんかじゃなかったらしい。
 たとえばここで、俺が妹の部屋のドアを叩いて。
「お前が好きだ!」と叫んだら、それで話が終わるのか。
 なんとも言い難い話だ。
 それじゃ足りない。どう考えても。
 
 何が、かは分からないけれど、それじゃ全然足りないのだ。
 それにしても、どうしてこのタイミングで、幼馴染の顔が頭をよぎったりするんだろう?
960:
 少なくとも、幼馴染との関係をどうにかしてからでないと、他のことをどうこうする気にはなれない。 
 でも、幼馴染との関係を修復したうえで他のこと――妹とのことをどうこうするなんて、できるのか。
 もっと言えば、いいかげん、自覚してもいい頃だろう。自分の不誠実さを。
 考えているとわけがわからなくなってきたので、もう一度妹の部屋のドアを叩いた。
「もしもし」
「ほっといてってば!」
「ほっとけるかよ!」
 と俺は口先だけで聞こえのいいことを言った。妹は息を呑んだようだった。
 ……その場の勢いだけの言葉だったのだが。
「さっきまで、ほっといたくせに」
 どうやら感心されたわけではないらしい。
961:
「何の話か分からないな」
「あなたの耳は飾りですか」
「高性能なんだよ。都合の悪いことは勝手に聞き流してくれんの」
 扉越しに、妹の溜め息が聞こえた。
「なんでこんな人を好きになったんだろう」
「聞こえるように言うなよ、二重の意味で」
 俺は割と戸惑う。
「……なあ、俺のこと好きなの?」
 と俺は言った。我ながらアホみたいな台詞だった。
962:
 妹は今度こそ息を呑んだようだった。
「……いや」
「あ、違うんだ」
「というわけでもなく」
「え、どっち?」
「……うるさいばーか!」
 ……えー。
「仮に好きだとしたらなんだっていうの! なんか迷惑でも掛かるの! ほっといて!」
 支離滅裂という言葉は、おそらくこういう状況に向けて使われるのだろう。
963:
「……迷惑は、掛かるかもしれないけど」
 妹はつぶやく。
 ヒートアップしたと思うと、急に落着きを取り戻したり、妙に不安そうな声を出したり。
 こんなに極端な感情の変化を見せる奴だったか。
 ……いや、そういう奴だったけど。
 最近じゃ、珍しい。
「でも、ほっといて。もう、あとは大丈夫だから。もう知らないふり、できるから」
「……どういう意味?」
「今日が終わったらいつも通りにするから。もう動揺したりしないから」
964:
 どうせ、と妹はつぶやく。
「どうやったって、上手くいきっこないんだから」
 俺は戸惑う。何をどういえばいいのか分からない。
 問題は、当人同士の意思なんかじゃない。らしい。
 その言葉に、じくりと胸が痛んだ。
“あなたはね、どうせ――”
“あんたなんて、どうせ――”
 頭に響いたアキの声が、誰かのものとダブる。
 気付かないふりをした。
“どうせ……”
 今日の夕方きいた、幼馴染の声。
 
 どうせ、どうせ、どうせ。
“どうせ俺は嫌われものだよ”
 ――耳鳴り。
965:
 俺は、根本的に、自分という人間に対して信頼を置いていないのではないか。
 
 だからこんなふうになるのではないか。
 どんなことだって、上手くいかない可能性なんてある。
 条件の悪さを、努力をしない理由にすることはできない。
 
 でも、俺は諦めている。あらかじめ諦めている。
 それこそあらゆることを。
 軽蔑を恐れて口を噤んだ。
 でも、もうやめるべきなのかもしれない。
 いいかげん。
「俺はさ」
966:
 口を開く。震えている。でもそんなのは当たり前のことなのだ。
 当たり前のことを恐れて、逃げていると、そのうちいろいろなしっぺ返しを食らう。
 今日のように。
「お前が好きだよ」
 と言った。
 それを聴いて、妹が何を思うのかは知らない。
「でも」と続ける。
 この言葉も、彼女の感情に何かの変化をくわえるだろう。
「お前と今すぐどうこうなろうとは、思えないんだ。ぜんぜん、思えない」
「それは、わたしを女として見れないってこと?」
 妹の声も、震えている。俺の声の震えは反対にとれていく。
967:
「違う。そうじゃない。俺にとってお前は妹であると同時に女だから、見れないとか、どっちが先とか、ないんだ」
「どういう意味?」
「聞かない方がいい。けっこうすごいこと考えてるから」
「……なにそれ」
「とにかく感情の問題じゃないんだ。俺はさ」
「……うん」
「経済的に自立できてないから」
「……」
 妹は一拍おいて、
「はあ?」
 と声を裏返した。
968:
 
「今のままじゃお前と一緒になったところで、ダメになるだけだって思う」
「一緒になるって」
 妹は戸惑うように言った。
「準備ができてない。まったく」
「準備って……ねえ、兄さん。兄さんの頭の中はいったいどうなってるの?」
 
 その言い方だと、俺の頭がおかしいみたいだ。
 ……いや、おかしいのか。うん。おかしいのだ。
「だからだ。俺が大人になって、経済的に自立して、妹ひとりくらい抱え込んでも大丈夫なくらい成長するまで待ってくれ」
「……あのさ、本当に、何を言っているの。というか、そういう台詞って絶対、立場が逆」
「逆?」
「こっちが、わたしが大人になるまで待っててって言う方でしょう」
「少女マンガでもあるまいし」
「……腹立つ、この人」
969:
 妹は少し苛立ったような声をあげた。
「ていうか、誰も兄さんに甲斐性なんて期待してない!」
「……ひどいこと言うなよ。心が折れたらどうするんだよ」
「とっくに屈折しきってるじゃん」
 そりゃそうなんだけど。
「意味わかんない。好きだっていったり、今は駄目だって言ったり」
「結構シンプルだと思うんだけど」
「……どこか?」
 妹は鼻白んだように言う。
970:
「……いや、シンプルだったんだよ。で、だ」
「……“で”、って、なに?」
「ずっとこれまで、そんなことを考えていてだ。だからってそんなもん待ってられるかという気持ちもあってだな」
「……うん」
「何も言わずに大人になって、誰かのものになるくらいだったら、いっそ今のうちに押し倒してしまおうかとか」
「……なにいってんの」
 さすがに呆れた様子だった。
「そんなふうに考えていたわけだ、俺は」
 
 これで軽蔑されたところで仕方ない。妹は何も言わなかった。
「……のだが」
「“だが”? だがって、なに。まだ何かあるの?」
 妹は疲れ切ったように言う。
971:
「まともに生きることに対してのあこがれも、ないではない」
「まとも、って?」
「普通に生きること」
「……それは、たとえば、あの人と付き合って、ごく平凡な恋愛をしたり、ということ?」
「ということ」
 俺は正直に言った。
「世間と折り合いなんてつけてたまるか、という気持ちもあるし、どうにか折り合ってやっていきたい、という気持ちもある」
 妹は返事をしない。結局、そのあたりは俺の感情の問題でしかない。
 誰かに無条件で嫌われるような選択を取るのが怖い。
 見ず知らずの人間に軽蔑されるような生き方を選ぶのが怖い。
 ……もちろん、そんなのは被害妄想なのかもしれないけど。
972:
「で、だ」
「まだあるの?」
「まだある。ここから先が、割と大事な話」
 俺は覚悟を決める。
「あいついるじゃん、あいつ」
「……あいつって、あの」
「そう、あいつ」
「内縁の妻気取りでいつも敬語の人?」
「……いや、まあ敬語であってるけど」
 内縁の妻気取りって。
「俺な、あいつのことも好きかもしれん」
「……」
 世界が静止した。
973:
 一瞬後、
「は」
 妹は息を漏らし、
 
「は、あああ?」
 と心底信じられないことを訊いたような声をあげた。
「え、ちょっとまって。意味が分からない」
「うん。まぁそうな」
 そりゃそうなるんだけど。
「待って。“も”って何? ちょっと予想外だった。“も”ってなに?」
「だから、お前も、あいつも」
「意味が分からない」
 俺もよく分かっていない。
974:
「……意味が分からない」
 二回言った。
「怒ってる?」
「呆れてる。逆の立場ならどういう気持ち?」
「死にたくなるね」
「……考えてよ、ちょっとは」
 拗ねたように妹は言った。
「仕方ないんだ。お前と一緒になるためなら、世間体なんてどうでもいいやって思ってたから」
「……すごいこと言ってるけど、それで?」
「世の中になんて折り合わなくてもいいやって思ってたら、二股もありかなって」
「最っ低」
「うん」
 自覚は割とあるが、何の救いにもならない。
975:
「なにそれ」
 ……いや、うん。
 しかたない。とりあえず今は、それが正直な気持ちなのだ。
 それを踏まえた上でどうにかしないと、俺はまた沈んでしまう。
「だから、今は無理なんだって」
「……なにそれ」
 また二回言った。
「だって、お前嫌だろ、そんなの」
「それ、どういう意味?」
「だから、そういう無茶苦茶で曖昧なのは」
「……うーん」
 
 俺は、幼馴染にあんな顔をさせたまま、自分の願望をどうこうしたいなんて思わない。
 何をしても彼女の顔が頭をよぎるようになってしまうだろう。
 そんなことじゃダメなのだ。
976:
「別に嫌じゃないかも」
「……ああ?」
「いや、うん。もともと、そういう関係だったような、気がする」
「……何の話?」
「だって、あの人でしょ?」
 あの人、と他人事のような言葉で言いつつも、妹の言葉は幼馴染に心を許しているように聞こえる。
「もともとわたしとあの人は、兄さんを共有してたところがあるから」
「共有って、なんすか」
 いつの間に俺をシェアしていたというのか。
977:
「そりゃ、兄さんが他の女の人にも手を出すって言うならいやだけど」
 すっかり恋人みたいな言い草だ。……俺が言うことじゃないか。
「でも、べつにあの人なら……仕方ない」
「仕方ないって何?」
「というか、納得もいくというか」
 話が想定外の方向に転がり始めた。
「ていうか、あのさ」
「なに?」
「いいかげん、部屋に入ってもいい?」
「……恥ずかしいからだめ」
 なんとも。
978:
「まぁ、あの人の方の気持ちもあるけど」
『わたしとしては一向にかまわないんだけどね』とでも言いたげだった。
 
「お前、ホントにそれでいいの?」
「……だって、折り合わないんでしょ?」
「……いや、ううん。もうちょっとがんばれば、あるいは」
「嫌だよ。折り合いすぎてわたしが兄さんと一緒にいられなくなるかもしれないし」
「だからって、無理だろ、さすがに」
 将来的なことも考えて。あるいは現実問題として。
 二股なんて。……現実にしている奴は結構いそうだけど。
979:
「じゃあ、今は保留でいいじゃん」
 と妹は言った。
「……なにが」
「今すぐじゃなくても、いいじゃん。別に。兄さんはじっくり選ぶといいよ。上から目線で」
「……なにそれ」
「だってわたしは妹だもん」
 妹は少し拗ねたように言った。
「その気になれば、一生だって付きまとえるんだ」
 怖いことを言う奴だ。
 引き伸ばしていいのか。そんな都合のいい話でいいのか。
 
「だって、兄さんにはまだ甲斐性がないから。どうせ今すぐにどうこうになんてなれないよ」
「……割と傷つくことを言うね」
 また『どうせ』って言った。正しいけど。
 俺は溜め息をつく。
980:
「ねえ、兄さん。わたしは兄さんがどんな選択をしようと受け入れてあげる。わたしを選ばないとき以外は」
 ……それ、受け入れてないじゃん。「どんな選択でも」じゃないじゃん。
 つまり、仮に二股しようが許す、って言ってるのか?
 どうなんだそれ。俺が反対の立場だったら、絶対に受け入れられないだろう。
 こんなに、俺にとって都合がよく話が進んでいいのか?
 世間になんて折り合わない。
 他人の目なんて気にしない。
 そこはそれでいい。迷いはあるけど、そうすることが許されるなら。
 俺が優先するのは常に、世間体なんかより、笑顔でいてほしい人の気持ちだけなのだ。
 それ以外なんて別になくたってかまわないのだ。
 だからこそ、よく考えなくてはならないんだけれど。
981:
 彼女の言葉を訊いていると、考えるのをやめてしまいたくなる。
 もう甘えていいんじゃないかという気がする。
 世間体なんて、守った方が生きていくために便利というだけだ。世間体のために生きているわけじゃない。
「……じゃあ、今は保留だ」
 と俺は言った。
「うん」
 と妹は頷く。心なし嬉しそうに聞こえるのはどうしてなのだろう。結論は、ひどく曖昧なものだと思うんだけれど。
 気分が高揚しているのは、相手の気持ちがわかったからか?
 
 いずれにせよ、俺にはまだ話さなくてはならない相手がいる。
 妹はああいったけれど、そんなにうまく話が運ぶわけがないのだ。
 幼馴染と話さないと、俺は他のことをどうにも動かせない。
 
 それは間違いなく俺のエゴなんだろう。
14:
 翌朝、俺はすっきりとした気持ちで目を覚ました。
 部屋の中はしんと静まり返っていて、少し肌寒い。
 床は冷たい。俺は部屋を出て、キッチンの冷蔵庫の中のレモンウォーターに口をつけた。
 どうでもいい話だが。
 
 普通の人間は、飲み物に何かの性質を見出したりしない、らしい。
 ポカリスエットに「まともさ」を、レモンウォーターに「異端さ」を、スプライト(というか炭酸)に「自暴自棄」を感じたりはしないらしい。
 
 どうでもいい話だ。
 さて、と思う。問題は時間が経てば経つほどややこしくなるものだ。
 だから、とっとと話を終わらせてしまおう。
 手段は対話だけ。結局話し合うしかない。
 振られたら拗ねて寝てよう。
15:
 まず、出かける準備をしてから、携帯に電話を掛けた。出ない。仕方ないので早々に諦める。
 俺は、暗誦して間違いがないかどうか確認してから、幼馴染の家に電話を掛けた。 
 時間は九時半。うん。まともな時間だ。
 電話には幼馴染の母が出た。俺は少し怖気づく。
 名乗ると、「ええっ!」と声をあげられた。
「ひさしぶり! 元気にしてた?」
 忘れられてるんじゃないかと思うようなことも、大人はちゃんと覚えている。
 すごく嫌だ。
「それで、あいつどうしてます?」
「あの子ならまだ寝てる」
「……あ、そうすか」
 無視されたわけではないらしい。……仮に起きていたら無視されているのだろうけど。
 それだったらいっそ着信拒否にでもすればいいじゃないか。
 半端だ。たしかにモスの言う通りなのかもしれない。
16:
「起こしてもらえます?」
「ちょっと待っててね」
 幼馴染の母はそう言って電話を保留にする。俺は溜め息をついて動きを待つ。
 妹がリビングに起き出してくる。彼女は俺を見て気まずげに俯いた。
 俺が着替えていることに気付くと、「どこかに行くの?」と言った。
「まぁね」
 と俺は答える。
「ふうん」
 と彼女は頷いた。何かを察したようだった。
 電話の向こうから声が帰ってくる。
「なんか出たくないって。変に拗ねてる」
「……はあ」
「喧嘩でもしたの?」
「ようなもんです」
「ふうん」
 と、幼馴染の母もまた、何かを察したような声を出した。
17:
「ちょっと待ってて」
 と言って、幼馴染の母はもう一度電話口から離れたようだった。
 俺は言葉の通りちょっとだけ待った。ちょっとだけ待っていると、耳に小さく口論を交わすような声が聞こえる。
「だから出たくないんだってば!」
「じゃあ自分で出てちゃんとそう言いなさい!」
 母は強し。
 やがて、幼馴染が諦めたような声音で電話に出た。
「……もしもし」
「おう。今日暇?」
「暇じゃないです。めちゃくちゃ忙しいです。今日はクリスマスですから」
 彼女は「クリスマス」を強調した。皮肉のつもりか。
18:
「そっか。じゃあ、用事があるまで時間はあるか?」
「そろそろ出ないと間に合わないんです」
「……さっきまで寝てたじゃん」
「しゃらっぷ」
 なんだというのか。
「いいですか、もうわたしは昨日までのわたしとは違うのです。いわばわたしゼロツー。ブランニューわたし」
 頭がかわいそうなことになってしまったらしい。
「そんなに思いつめていたのか……」
「……すっごく不名誉なことを考えられている気がしますが」
 冗談はひとまずおいておいて、電話を切られる前に用件を伝えねばならない。
「あのさ」
「はい?」
「今から告白しにいくから、準備しといて」
「は」
 何かすごく馬鹿にされる気がしたので、そこで電話を切った。
19:
 会話の内容を横で聞いていた妹が、聞こえよがしに溜め息をつく。
「思うんだけど、兄さんって言動だけ見るとただの勘違い男だよね」
「言動だけじゃなくて中身もそうだと思う」
「いつも思うけど、自虐、似合わないよ」
「そうすか」
 俺は溜め息をついた。今更のように緊張が襲ってくる。
「さて、じゃあ行ってくる。逃げられるとあれだし」
「かんぺき、ストーカーですね」
「……まぁ、そうな」
 俺は肩をすくめる。
20:
 外は雪が降っていた。冬の空気。街中は白くかすんで見える。
 吐く息は白くて、なんとなく心細い。
 
 "心細い"という言葉が胸にすとんと落ちる。心細いのだ。
 たった少しの距離を歩くにも、足元がおぼつかない。
 俺はちゃんと目的地まで歩いていくことができるんだろうか。
 なんだかずっとこうだ。なんとなく不安。
 ただ歩くことさえ、立ち止まることさえ上手くできている気がしない。 
 ひとりぼっちじゃ不安なのだ。
 ずっと前からこう。なんとなくだけれど。
 大丈夫なんだろうか。やっていけるんだろうか。
 それを考えるのは、あまりに馬鹿らしいという気もするのだけれど。
 というよりは、「いまさら」だという気もするのだけれど。
 まぁそんなのはどうでもいい。比較的どうでもいい。
21:
 問題は、と思って、俺は立ち止まる。
 また通り過ぎるところだった。
 幼馴染の家は城塞のように見えた。気分の問題だろう。
 インターホンを押す。
 幼馴染の母が俺を家にあげてくれた。ためらわずに靴を脱ぐ。
「部屋にいるから」
 頷くと、彼女は変な顔をした。
 後ろめたさが沸く。
 俺はなんとも思っていないふりをして彼女に頭を下げた。
 そうするほかない。
22:
 階段を昇って幼馴染の部屋に向かう。
 彼女の部屋の扉の前で、一度立ち止まる。
 と、声がした。
「入らないでください」
 なんだか昨日も似たようなことをしたんだよなぁと俺は思った。
 どうしたんだろう。最近は扉越しに話すのが流行りなのか? どうでもいいことなんだけど。
 本当に、どうでもいい。
「なんか怒ってんの?」
「そうじゃないです」
「……ふうん」
「なんでいつも通りに話すんですか」
「いや、緊張してるよ」
「……どうして?」
23:
 さて、どう話したものか。
「……」
 よくよく考えたら本当にどう話せばいいんだろう。俺はこいつとどうなりたいんだっけ。
 自分が誰を好きなのかは分かった。でも俺はふたりとどうなりたいんだ。
 まさかホントに二股か? いや、したいんならまぁそれでもいい。最低だけど。
 
 そんな状況を俺は許せるんだろうか。
 でもとりあえずそんなことを考えたって仕方ないんで、話を進めることにした。
「うちの妹がな、俺のこと好きなんだって」
「……はあ」
 幼馴染の声はそこでこわばった。まぁ、そりゃそうなるのだが、この話を先にしないことには、うまく説明がつかない。
「それで、付き合うことになったんですか?」
「うん。え、あ、いや」
「……え、どっちです?」
「なってない。なってなかった。よく考えると。別に」
 ていうか、そもそも「付き合う」って言葉自体、何か不似合な気がするが。
「……あ、そうですか」
 困ったような声だった。
24:
「で、俺もあいつが好きなんだよね」
「知ってます。見てれば分かります」
 今度は拗ねたような声。こんなに考えていることが分かりやすい奴だったっけ?
 それとも俺が、今まで見ないようにしてきただけか。何かに目隠しをされていたのか。
 心当たりはあるんだけれど。まぁ、それも今はどうでもいい。
「うん」
 けっこう突拍子もない話をしているのに、幼馴染は一切驚いたりする様子がない。
 ……おかしい。俺の認識がおかしいのか? 家族を好きになるのって社会的にまずかったんじゃないっけ?
「それで、だ」
「はい」
「お前のことも好きだ」
「……」
 息を呑んだようだった。
 追って、
「……はあ」
 理解しかねるというように、呆れた声を、彼女は漏らす。
25:
「ええ、っと」
 彼女はしばらく答えに迷っていたようだったが、やがて言葉を吐いた。
「いったい何を言ってるんです?」
 たぶん正直な感想だったろう。
「だから、言ったじゃん。告白しにいくって。したよ、俺」
「たしかに言ってましたけど。……言ってましたけど」
 俺だって頭の中で整理しきったわけではないのだ。説明を求められても困る。
 だからといって、こいつと今ここで話せなくなるのも困るのだ。
 困るというか、嫌なのだ。
26:
「つまり、きみは、何をどうするっていうんです?」
「知らん」
「……無責任な」
「俺は自分がどうなりたいのか、さっぱりわからない。でも、お前と話せなくなるのは嫌だ」
 子供の我がままみたいなことを言っていた。
 実際、子供の我がままみたいなことしか考えてないんだけど。
「お前と会えなくなるのは嫌だ」
「……あの」
「お前が好きだ!」
「下に人がいるんで大声で言わないでください!」
 叱られる。
27:
「わたしだってそりゃ、話せなくなるのは、嫌ですけど」
「……うん」
 ……それで。
 このあと、どんな話をすればいいのか。
「……ちょっと待ってください」
「はい」
「なんというか、わたし、今、怒ってもいいタイミングだと思うんです。すごく。というかですね」
「はい」
「昨日から、なんなんです? わたしを泣かせたいんですか? クリスマスの朝に電話をよこして告白するなんて言わないでください」
「実際したじゃん」
「ぬか喜びさせるなって言ってるんです。内容を考えた言い回しをしてください」
「……喜んだのか」
「分かってましたけどね。どうせろくな内容じゃないし、勘違いしたら損するだけだって。でも期待しちゃうじゃないですか。日が日だから」
 すごく真剣な説教を受けている。
28:
「ていうか、それは結局どういう意味なんですか」
 彼女はほとんど泣きそうな声で言った。
「うん。うちの妹にね、二股でもいいよって言われたんだけど」
「そんなのはどうでもいいんです」
 いや、わりとどうでもよくない話だと思う。
「……って、まさか二股かける気ですか?」
「ダメかな」
 と、もちろん冗談のつもりで言ったのだが、幼馴染は真剣に考え込んでしまったらしい。
 慌てて訂正しようとすると、部屋の中から唸り声が聞こえる。
「……待て、冗談だ」
「冗談を言っていいタイミングくらい見極めてください!」
 彼女の言葉はいつになく切実だ。
29:
「俺だって、そんなに都合の良い話になるとは思ってないし」
「……うん」
「というかたぶん、そんな状況は、俺自身が許せないというか」
 そんなのはあまりにも、ひどい。
「だから、なんとか話をつけなきゃならないんだ」
「待った」
「はい」
「やっぱり二股でもいいです」
「……はあ」
 どうしてそうなる。
30:
「待ってください。ちょっと今試算しますから」
「試算って」
「いやだって、どちらか片方を選ぶとなったら、明らかにわたしが振られ役じゃないですか!」
 いや、そんなこと言われても困る。
「……それこそホントにぬか喜びですよ」
 幼馴染の声は泣き出しそうに聞こえた。
「……好きだって言ってもらえたのに」
 俺はなんだか居心地が悪い。
32:
「お前ってさ」
「はい?」
「ホントに俺のこと好きなの?」
「……なんです、それ」
 なんというか。どう考えても。
 そこまで好かれるような人間じゃない、と思うんだけど。
「ひょっとして、今日はわたしを怒らせに来たんですか」
「そのような意図は一切ない」
「じゃあどうしてそんなことを言うんですか!」
「なんでそんなに怒ってるんだよ」
「怒らせるからですよ!」
「……そんなに怒鳴るなよ」
 怒鳴り声は苦手なのだった。
 気を取り直すように咳払いをして、幼馴染は言葉を続ける。
59:
「……あの」
「うん」
「……抱きついたりして、いいですか」
「う」
 ん、と答え切る前に、体に感触が伝わってきた。
 姿勢的に無理のある度だった。超自然的な現象としか思えない度で飛び込んできた。
 俺は彼女の背中に腕をまわして抱きしめるべきか迷って、やめておいた。
 
 不誠実な人間なりの誠実。……いや、いっそ。
 ここで彼女を抱きしめて、不誠実を貫くことこそがある種の誠実さと言えるのか?
 ここまで来て誠実でいようだなんて考えるのは、それがそもそも安全地帯に居続けたいだけの言い訳なのかもしれない。
 ――いや待て。だから今は保留なんだって。
33:
「あんまり馬鹿なこと言わないでください。それから、何度も言わせないでください」
 彼女ははっきりと言った。
「きみが好きです」
 俺は言葉を失う。思考力も失う。あらゆる判断力、価値基準さえ見失う。
 たぶん、そういうものなのだ。
 なんというか、誰かに好きと言われることは、たぶん、そういうことなのだ。
 おそろしいほどに破壊的なものなのだ。
 それまでの一切の思考を奪ってしまうものなのだ。
 と、ふと思った。思っただけ。
 なんというか、無理かもしれない。
 すごくうれしいのだ。
 うれしいぶんだけ後ろめたいのだ。
 でも手放せない。
 俺は何をどう目指せばいいんだろう?
 身動きがとれる気がしない。
 俺はもうとっくに縛られていたのかもしれない。
 あるいは、ひょっとしたら、そもそもどこかを目指す必要なんてなかったのかもしれない。
 コンパスなんて壊れたままでかまわないのかもしれない。
 そう思っただけ。
34:
「でも、やっぱり二股は、いやかも」
 と、彼女は前言を翻す。
「どうせだったら、わたしのことだけ見てほしいです」
 その声は、なんというか。
 甘かった。蕩けてた。
 頭の中身を溶かすようだった。
「だって、それってふたりきりになっても、絶対ふたりきりって感じがしないですよね。いつももう一人が気になって」
 ……別に本人たち了承のうえで二股をかけたかったわけではないんだけど。
 
「誰にはばかることなくふたりきりでいちゃいちゃしたいじゃないですか!」
 ……何言ってるんだろうこいつは。と思っていないとまずい。
 衝動が。
 俺の理性は衝動が高ぶるごとに高くそびえていく。
 もっと軽薄で刹那的な人間になりたい(現状棚上げ)。
35:
「……保留だ」
「はい?」
「今は無理だ。正常な判断ができない。絶対、できない。無理」
「……わたしに都合の良い判断なら、正常じゃなくたってかまいませんよ?」
 だから。
 こいつも妹も、いったい何を考えてるんだ。
 おかしい。絶対おかしい。俺が言うのもなんだけど。
 ……ホントになんだけど。
「ドアを開けてもいい?」
「……だ、だめですよ」
 なんかどもってる。
「分かった、開けない」
「それがいいです」
 俺はドアを開けた。
36:
「な……!」
 幼馴染が目を見開いてこちらを見た。扉に向かい合って、体育座りしている。
「……んで、開けるんですか!」
「鍵がしまってなかったから」
「しまってなければ開けていいんですか!」
「ダメって言われなかった」
「言いましたよ!」
「そうだっけ」
 俺は知らんぷりした。
 てっきりパジャマ姿だと思っていたのだが(そう思っていながらドアを開けたのは我ながらひどい)。
 普通に着替えてる。 
 というか、割合おめかし状態?
「……着替えてるじゃん」
「どうして残念そうなんですか!」
 普通に残念だろう。
 ……いや、おかしい。俺の頭が。たぶん上手く回ってない。カムバック理性。
 たぶん高いだけでハリボテだった俺の理性。
37:
「……なんで着替えてるの?」
「だから、どうして残念そうなんですか。……というか、きみが言ったんですよ、準備しておけって」
「言わなきゃよかった」
「意味が分かりません……」
 頭が疲れている。
 昨日からいろいろあったしなぁ、なんてぼんやり考える。
 いろんなことが頭を巡った。アキの言葉とか、その他もろもろ。あの灰皿のこととか、父親のこととか。
 でもそんなものは今はどうでもよかった。本当のことを言うといつだってどうでもよかった。なんとなく振り払えなかっただけで。
 俺はこいつが好きで妹が好きでどうしたって気持ちがおさまらないんだ。そこは仕方ないんだ。誰にも変えられない。
 
 考え事をしながら、じっと彼女の姿を見つめていた。
 幼馴染は最初、まだ文句を言いたげにしていたが、徐々に表情が歪んでいく。
 
 泣き出しそうな顔をしていた。
38:
「……あの」
「うん」
「ホントに、わたしのこと、好きって言いました?」
「うん」
「聞き間違いではなく?」
「うん」
「実はうそでした、とか、そういうのでは……」
「そういうのではなくて」
 俺は一拍おいて告げた。
「好きだって言った」
39:
 小柄だから、彼女の身体は俺の胸の内側にすっぽり収まった。
 仕方ないや、と俺は思う。後ろから手を回して、俺は彼女の頭を撫でた。
 こんな状況、こんな状態で、なんらかの形で気持ちを返さないというのは、どう考えても卑怯だった。
 俺が彼女を好きだと言うのは事実なのだ。 
 俺は諦めたような気持ちだった。だってどうしようもない。仕方ない。
 こんな女の子を前にして、頭がうまく回る奴がいるわけがない。
 昔からずっとこうだ。
 こいつはいつだって、俺の思考力を奪っていく。
 何をしたっていいような気分だった。
 世界中を敵にまわしたってうまいこと逃げ切れそうな気分だ。
40:
 今なら何をしたって楽しめそうな気がする。 
 でも、今はまだ保留だ。……考えてみれば、それってすごく俺に都合の良い状況じゃないか?
 俺は溜め息をつく。でもいい。仕方ない。他の手段を選べる奴がいるか?
 いない。
 いや、いるかもしれないけど、俺にはできなかったのだ。そうだそうだ。口だけなら誰だって好き勝手言えるんだ。
 俺は溜め息をつく。仕方ないや、という気持ち。だって俺はこういう人間なのだ。
「……あの」
「はい」
「……キスしていいですか」
 ……。
 さすがにそれは待て。
66:
 不意に携帯の着信音が聞こえた。俺は息を呑む。幼馴染が俺の腕の中で、ごそごそと身じろぎした。
「わたしのです」
 と彼女は言う。俺は少しだけほっとした。
 俺が距離を置くと、幼馴染は気まずそうにこちらを見上げる。俺は目を逸らした。
 どうやらメールだったらしい。ディスプレイを眺めながら、彼女は何度かボタンを押した。
「……ん」
 と、顔をしかめる。
「誰から?」
「みーからです」
「……ああ」
67:
「いや、なんというか」
「なに?」
「タカヤくんと正式に付き合うことになったそうです」
「……なにそれ」
 俺は溜め息をついた。
 思わずディスプレイを覗き見ると、確かにそのような内容の文面だった。
 幼馴染が返信画面を呼び出した。
『( ゚Д゚).....』
 だからなんなの、この顔文字。
68:
 そう間を置かず、タカヤから俺に連絡が来た。
 詳しい話を聞きたいような気もしたし、聞きたくないような気もした。
 
 そう思って無反応でいようとしたのだが、なぜだかあちらから会えないかと言われる。
 なぜ今日。仮にもクリスマスなのに。
「……みーの方も、同じこと言ってます」
「ばらばらに誘ってきてるんだよな、これ」
「ですよね、たぶん」
 うーん、と俺は悩んだ。めんどくさい。正直それどころじゃない。
 
「どうします?」
 と幼馴染が訊ねる。俺は肩を竦めた。
「どうしたい?」
 俺の質問に、彼女は拗ねたように俯いた。
 やがて幼馴染が長い溜め息をつく。部屋の空気が変わった気がした。
「今日のところは、どうせ保留らしいですし、話はここで終わりにしましょうか」
 皮肉っぽくこちらを見る。俺は目を逸らした。
69:
「でも、それって結局のところ、これまで通りってことですよね?」
「……そう、なるね」
 俺は気まずい。
「しかも可能性としては、やっぱりこの話なし、となってあっさりわたしが振られるかもしれないと」
「そんなことは……」
「ないんですか?」
 俺は押し黙る。即座に否定できないのは、自分の行動がもたらす結果を想像するのがあまりに簡単だからだ。
「ない」
 でも答えた。無責任だったけど、仕方ない。
 仕方ない。
70:
「さて、それじゃ、俺は帰る」
「ところで」
 と幼馴染は言う。俺は面食らった。
「きみの判断が保留でも、わたしがどういう行動を取るかは、わたしの勝手ですよね?」
「まあ、そうな。俺が偉そうに保留にしている間に、俺のことを嫌いになったってかまわない」
 悲しいけど。
 
「なるほど」
 しばらく神妙な表情で考え込んでから、彼女はぱっと表情を明るくした。
「つまり、きみがあれこれ悩んでる間にうまいこと誘惑して、わたしなしじゃいられないようにしてあげればいいわけですね」
「……何の話?」
71:
「分かりました。そういうの得意です。あっというまにべたぼれですよ」
 と彼女は俺を指差して、
「めろめろですよ!」
 宣言した。
「お前、たぶん一回寝た方がいいよ」
「……自分でもそんな気がしてます」
 疲れてるんだろう。
 俺が部屋を出ると、彼女もいっしょについてきた。
「送ってきます」
「別にいいのに」
「玄関までですから」
72:
 帰り際、リビングから顔を出した幼馴染の母に軽く挨拶する。
「話は終わったの?」
「ええ、まあ」
 俺は曖昧に答える。
「ふうん」
 と彼女は意味ありげに頷いた。
「そ。まぁ、よろしくね」
 と彼女は言った。『よろしくね』。俺は頭の中で反復する。
 どう答えればいいのだろう? でもどう答えたって同じことなのだ。
 どれだけ言葉の上で気を遣ったところで俺がやろうとしていることの言い訳にはならない。
 もし何か認められようとするなら、それは行動の上でしか示せないものなのだ。
 だから、
「――はい」
 と短く答えた。俺は別に誰かを不幸にしたいなんて願っているわけではない。
 誰かが不幸になったってかまわないと思っているわけでもない。
 俺は真面目でもないし、人のことなんて考えられない。
 でも、それでも、一生懸命にはなるべきなんだろう。それ以外に手立てがない。
 
 もちろんそんなのは、今のところ、ただ先走っただけの考えなんだけど。
 幼馴染は外までついてきて、玄関先で俺を見送った。
「それじゃ、また」
 
 と彼女は言う。
 次があるのはいいことだ。たぶん。きっと。
73:
 タカヤとの待ち合わせ場所は近所のファミレスだった。その場には、既にタカヤと、モスがいた。 
 俺がモスの隣に腰を下ろすと、タカヤは緊張した面持ちで姿勢を正した。
「……いや、うん」
 タカヤは最初に、そんな声をあげた。いったいなんなんだろう。言いたいことがあるならさっさと言っちまえばいいのに。
「このたび、なんというかその」
「付き合うことになったんだろ?」
「……うん」
「それで、なんで俺たちを呼び出したりしたんだ?」
 モスが訊ねる。げんなりしていた。なんでかは知らない。街がクリスマスムードだからか。
74:
「一応、ふたりには協力してもらったし――」
「したっけ?」
 モスが首をかしげる。俺が応じた。
「してないな」
「――一応、報告しておこう、と」
 タカヤは困ったような顔をしていた。
「それでなくても、先輩のこととか、いろいろ相談に乗ってもらったし」
「たいして役には立てなかったけどな」
 俺が言った。モスが神妙に頷く。
「まぁ、勝手に引っ掻き回した感じはするよな」
「さっきからうるさいな! 感謝してるんだから素直に受け取っておけ!」
 タカヤが吼えた。実際、感謝されるようなことなんてなにひとつしていないわけだけれど。
75:
「そう思うならドリンクバーおごってくれ。喉が渇いて仕方ない」
「俺にも。……ところで。おい、マック」
 久々にそのあだ名で呼ばれた気がした。モスはメニューを開きながらこちらに声を掛けた。
「お前の方はどうなったんだよ?」
「どうって?」
「なんか、話ついたのか?」
「いや、何も」
「……あ、そう」
 話が終わってしまった。
76:
 俺たちはその場で朝食を取ることにした。俺とモスは適度にタカヤをからかいながら話をした。
 モスは俺のことについて何かを問い詰めようとはしなかったが、何かがあったらしいことを察してはいるだろう。
 そういう奴なのだ。
「さて、この後どうする?」
 腹ごしらえを終えて、俺たち三人は時間を持て余した。
 タカヤの話は最初の十分で終わってしまったし、どうやら三人とも予定はないらしい。
「どこかに行きたい気分でもないんだよな」
 モスが俺を見た。
「……俺んち?」
「ダメか?」
 別にいいんだけど。……いいんだけど。
 なんか、こう、そういうごく平凡な学生っぽい日常を送ると、今の状況を忘れてしまいそうだ。
77:
 結局、コンビニで食料を調達して、そのまま俺の家に集まることになった。 
 ジュースは適当に買った。ジュースはジュースであって、そこにそれ以上の意味を見出す必要はない。
 ごくあたりまえのことだ。飲みたいときに飲みたいものを飲めばいい。
 家につく。妹はコタツで旅番組を見ていた。
 一瞬警戒した表情を見せたが、モスがいることに気付くと安堵したように表情を緩める。
 まぁ、モスは何度もうちに来ているし。
「妹ちゃんもゲームする?」
「はい」
 
 ちょうど四人。パーティゲームには最適な人数である。
 昼過ぎまでスマブラで盛り上がる。
 でも飽きる。
「中学のときはさ、一日中やったって平気だったんだけどな」
 
 モスがぼやいた。俺たちも歳をとったんだろうか。
「どっかいく?」
「って気分でもないしなぁ」
78:
 仕方ないので、他のゲームをすることにする。せっかくなので小学生時代に流行ったハードを持ち出した。
 ソフトもハードも押し入れにしまいこんでいた。
 起動するか分からないが、それも一興だろう。
 パーティゲームはろくなものがなかったので、昔楽しんだRPGを誰かがプレイするのを見ることにした。
 モスが線を繋いでいる間、タカヤはにやついてジュースを飲んでいた。
「どうした。ファンタで酔っ払ったか」
「んや、別に」
 機嫌よさそうににやにやしている。俺は呆れる。
「彼女ができて、ご機嫌か?」
「それもある」
 タカヤは大真面目に頷く。
「こういうふうに、休みを誰かの家で過ごすってさ、俺、めちゃくちゃ久し振りなんだよね」
 そうかよ、と俺は呆れる。なんだか申し訳ない気持ちにすらなる。
79:
 不意に家の電話が鳴った。
 妹と目が合う。俺がさきに立ち上がった。
 受話器を取る。
「もしもし」
「もしもし」
 と応答があった。
「昨日ぶりだね」
 俺は舌打ちした。
「なんだって家の電話に掛けようなんて思ったんだ?」
「あなた以外の人が出るかと思って」
「悪趣味な奴」
 知ってたけど。
80:
「どうだった?」とアキは言う。モスが言うのと同じような言葉なのに、こいつが言うとひどくいびつに聞こえる。
「どうせダメだったでしょう?」とでも言いたげな声。
「何の話?」と俺はとぼける。自分でもごまかしにしかならないと気付いていた。
「いいかげん気付いたでしょ。あなたには無理なんだって。結局そういう人間なんだよ」
「ああ、そうか」
「分かってるんでしょ、本当のところ。今度だってどうせ長続きしないんだって」
「へえ、そうなんだ。初めて聞いたな、その話」
「だってあなたは、本当のところ自分の気持ちを信じてなんていないんでしょ? だから真正面から向き合うこともできない」
「うん。そうだよな。そういえば。そうだろうとは思ってたんだけど」
「所詮、嫌われ者なんだよ。あなたも、わたしも。それ以外の道なんてないって、感じない?」
「ああ、分かるよ」
「――ねえ、その適当な相槌、すごく不快。やめてくれない?」
「うるせえな」
81:
 アキは溜め息をついた。
「そっちは賑やかだね。誰かと一緒なの?」
「別に。いつも通りだよ。そっちは静かだな」
「ひとりぼっちだもん」とアキは言う。
「でも結局、あなただって似たようなものでしょ? 誰かと一緒にいても、ずっとひとりぼっち。人を信じてない」
「おいおい、勝手な想像で話を進めるなよ」
「だってあなたはそういう人間だもん。そんな人間が誰かを幸せにしたりできると思う?」
「さあね」
 俺はうそぶく。
「あなたは結局不誠実で、無神経で、無責任で、適当に他人の考えをかき乱して、自分の都合の良いように解釈することしかできない」
 そういう人間なんだよ、とアキは言う。まぁそうかもしれない。
「それで」と俺は言った。
「用事がないなら切るけど?」
 アキは笑った。
82:
「ねえ、でも結局、あなたにも分かるときが来るよ。わたしの言っていることが正しかったって」
「なにそれ」
「結局ね、そういうふうにできてるの。だってあなたはすごく、いびつだもん」
「……そういうさ、なんつーの。肥大した妄想を他人に投影したり、カテゴライズしたりさ」
「なに?」
「ばかみたいだから、やめた方がいいよ」
 アキは何も言わなかった。
 代わりに鼻で笑う。俺は鼻で笑われたらしい。
「でも、覚えておいて。ひとつだけ。あなたに、普通に誰かを幸せにするなんて不可能なんだって」
 アキはこれで最後だとでも言いたげにまくしたてた。
「あなたにそんな判断は不可能なんだって。あなたはそういう人間なんだって。あなたといたって、誰も幸せになんか――」
 ――音が途切れた。
83:
 怪訝に思って部屋を見回す。モスがコンセントをいじっていた。
 モスがこちらの視線に気付いて、顔をあげる。そして自分の手元を見た。
「あ、やべ。抜いちゃった。悪い」
 ぽかんとした。こいつはなんてことをするんだろう。
 俺はそのあと腹を抱えて笑った。妹がきょとんとした表情でこちらを見ている。
 その後、俺たちはタカヤがRPGをプレイするのをずっと眺めていた。二時過ぎまでそれは続いた。
 途中でモスが立ち上がった時、ハードに接触した衝撃で画面が硬直。そこで完全にゲームは終わった。
 そこでやる気を失い、しばらくだらだらしていたが、やがてモスとタカヤが帰る準備を始めた。
 どうせ休みはまだあるのだ。
95:
 モスとタカヤが帰路につき、家には俺と妹がふたりきりになった。
 俺は気まずい。なぜか。いや、なぜかというか気まずくて当たり前と言う気もするのだが気まずい。
 なんせ昨日さんざんこいつに向かってとんでもないことを言ったのだ。
 
 こちらの態度など気にも留めていないように、妹はこたつにもぐっている。
 うーん。
 
「……ねえ」
 と、不意に妹が声をあげる。
「なに?」
「報告、してくれてもいいよ」
「……報告?」
「今朝のこと」
「えーっと……」
「正気?」
 いきなり正気を疑われた。
96:
「あの人と話してきたんでしょ? どうだったの?」
「……うーん」
 どう、と言われても。どう答えればいいのか。
 えーっと。
「……保留?」
「……上手くいったんだ」
 
 不機嫌そうに、妹は溜め息をついた。
「なにやら不穏なご様子ですが」
「そりゃあね、別にそれでもいいって言ったけど、それとこれとはやっぱり話が別だったりするの」
"どれ"と"どれ"の話だろう。
97:
「無理だろ、常識で考えろよ」
 なぜ俺が諭す側になっているんだろう。妹はどっちでもよさそうな顔をしていた。
「常識、きらい。いやなことばっかり言うから」
 分かるけど。
「じゃあ、どっちかを選べるの?」
「…………」
 待て。ここで口籠ったらだめだ。完全にダメな人間だ。
 現状だって二人の弱みに付け込んでるようなところはあるのに、ここで黙ったらだめだ。
 どっちも、がダメなら、どっちかを選ばなければ。偉そうに。傲岸不遜に。
「どうなの?」
「…………」
 選べませんでした。
98:
 俺って駄目人間だったのか、そうだったのかー。
 溜め息。
 妹はむすっとした。
「なんでわたしって言わないの?」
「なんででしょうねー」
 二週間前なら間違いなかったんですけどねー。
 茶髪が言ってた。男心と秋の空って。
 ……俺が言ったんだっけ?
「……わたしじゃないんなら、二股しかないじゃん」
 すごい、この子いま、ナチュラルに自分を選ばないという選択肢を無視した。 
 俺の頭にもなかったけれど。
「……いや、でもさあ、そんなの」
「無理だって思う?」
99:
 妹は真面目な顔で言った。
「逆に訊くけど、そんなの上手くいくって思う?」
 幼馴染はいやだって言ってた。
「分かんない」
 そりゃそうだろう。俺だって分からない。でも無理だろうそんなの。
 どうやったって上手くいきっこないんだ。構造からしていびつなんだ。
 そんなことで成立する関係なんてあるわけない。あったところで社会で生き残れるわけがないのだ。
 そんなものは。
「でも、じゃあ」
 どうせ、すぐに破綻する。
「他にどうするつもりなの?」
「――――」
 
 結局、そういう話になるのだけれど。
100:
「そんなの……」
 そんなの、なんだって言うんだろう。どうなんだよ、と俺は思う。 
 おいおい、どうする気だ? あれもこれもダメじゃあ話にならないのだ。
 
 どうなんだ。どうするのだ。俺は何も考えていないのか?
 ひょっとして俺が今やってることは、結局アキとのことの再現なんじゃないか?
 本当のところアキの言う通りなんじゃないか?
 いつか茶髪が言ったように、俺は人の気持ちを弄んでるだけじゃないのか?
 今更のように思う。結局俺は、何も変わっていないじゃないか。
 芯の部分じゃ相変わらず、人を拗ねて腐って人を見下しているだけなんじゃないか。
 結局あれは、状況に応じた自分の感情の変化なんかじゃなくて。
 俺自身の人間性だったんじゃないのか?
「兄さんは――」
 と、妹は言う。
 
「自信がないんだね」
「……は?」
 意外な言葉だった。
101:
「結局、そうじゃないの? 自分に自信がないんでしょ?」
「なんでそういう話になるのか、よく分からないんだけど」
「自分の気持ちに自信が持てないんだ」
「……おい、人の話を聞こう」
「心変わりするのが怖いんでしょ」
「……"されるのが"、じゃなくて?」
「"されるのも"」
 要領を得ない。何の話をしているんだろう。
「兄さんは本当のところ、わたしの気持ちを信じてないんでしょ」
 大真面目な顔で、妹は言った。
 ――誰かと一緒にいても、ずっとひとりぼっち。人を信じてない。
「いつか絶対に、心が離れるに決まってるって思ってるんだ」
「……そんなことは」
 ないとは言い切れない。
102:
 いや、普通そうじゃないのか?
 感情なんて、本人でさえ確約できるものじゃない。
 今がどうだとしても、未来までは分からない。
 
 だから、「今」確かな気持ちだけに従いたいと、俺は思っているのだけれど。
 
「自分なんかが、誰かに好かれ続けるわけがないって思ってるんだよ、兄さんは」
「……否定は、できないけど」
 なぜだか急に、アキみたいなことを言い出している。
 俺はこれをどう受け止めればいいんだろう。
「でもそんなの当たり前のことだろ。お前は今何歳だよ。十代のちょうど半ばか」
「それが?」
「一時の気の迷いなんていうのはな、そのときどうであったとしても、あとからじゃないと気付けないもんだろう」
「一時の気の迷いだって言いたいわけ?」
 ――そうだ。根本的には。
 こいつの言葉は正しい。俺はこいつの気持ちを信用してない。ひとかけらさえも。
 こんなのは一時の気の迷いにすぎない。すぐに心変わりするはずだ。
 だからいまのうちに、こいつが妙な考えに浮かされている間に既成事実を作ってしまおうと――俺は目論んでいるのかもしれない。
 そうすることにたいしても躊躇いがあるから、いまだに迷っているだけで。
 結局そういう人間性なのだ。言い逃れのしようもなく。
104:
「……ふうん」
 と心底不快そうに、妹は眉をひそめた。
「ねえ、わたし怒ってる。なんでか分かる?」
 俺は口を噤む。……俺の態度が曖昧だから? 行動原理が卑怯だから? 言い訳じみているから?
「兄さん、わたしの気持ちを侮らないで。ちょっと多感な思春期に教師に憧れてるような、そんな程度のものと一緒にしないで」
 人から見たらおんなじだよ。
 ……と、このタイミングで言ったらさすがに怒られそうだ。
「兄さんに対するわたしの気持ちはね、もう人格の一部なの。わたし自身の一部なの。それは決して消えたりなくなったりしないの。絶対に」
 やけにはっきりと、彼女は言う。その言葉をきいて、俺の中の不安は一層掻き立てられた。
「今現在どれだけそう思っていても、やっぱりいつかは消え失せてしまうかもしれない、そういう気持ちごと」
 彼女は柳眉を逆立てる。俺は溜め息をつく。こんなことを言いたいわけじゃないのだ、本当は。
105:
 彼女はゆっくりとコタツから抜け出して、ソファに座りなおした。
 俺は立ち上がってコーヒーを入れる。
「だからためらってるんだ?」
 ぽつりと、彼女は言う。
「どうせいつかは冷める気持ちなのに、いろんなリスクを負うのはバカらしいって」
「そこまでは言ってない」
 ……たしかに、似たような考えは抱いているけど。
 だって彼女はまだ中学生で、俺はまだ高一だ。
 そんな人間が、未来のことまでしっかり見通せたりするだろうか?
 まだ結論を出すには早すぎる。
 こんなふうに考えるのはおかしいだろうか? 
 また彼女を傷つけている。
106:
「……一時の気の迷いなんかじゃないよ」
「そう思ってるだけかもしれない。お前はまだ子供だし、俺もまだ子供だ」
「じゃあ、大人になったら分かるの? 一時の気の迷いなんかじゃないって。あらかじめそういう判断がつくようになるの?」
「ならないだろうね、たぶん」
「それじゃあ」
 泣き出しそうな顔だった。
「どうしようもないよ。兄さんが言ってることはおかしい」
「そうかもしれない。でも、仮にこれが本当に一時の気の迷いだったら?」
 
 たとえばここで彼女を俺が抱いたとして、あとから彼女が、俺への気持ちなんて全然なんでもなかった、ただの気の迷いだったと気付いたら。
 そうしたとき、事実は決してなかったことにはならない。
「俺の存在がお前の未来を塞ぐ結果になるかもしれない」
107:
 妹は少しの間口を閉ざしていたが、やがて怒りを押し殺したように震えた声で呟いた。
「兄さんは何も分かってない」
 そうかもしれない。
「一時の気の迷いなんて言ってたら、そんなのどんな環境のどんな関係の人だって同じだよ。誰の気持ちも信じられなくなる」
 それもそうかもしれない。
「わたしは兄さんが好きだって言ってるの! どうして信じないの?」
 別に信じてないわけじゃない。
 いつかなくなるんじゃないかと懸念しているだけだ。
 ……ああ、まぁそれを、ある意味疑っているというのかもしれない。
 ――誰かと一緒にいても、ずっとひとりぼっち。人を信じてない。
 ――そんな人間が誰かを幸せにしたりできると思う?
 たしかに俺の言葉は誰かを傷つけてばかりかもしれない。
 結局、そういう人間性なのかもな、と思ったところで、
108:
「ていうか!」
 と妹は怒鳴った。沈黙とか雰囲気とか、その他もろもろのいろんなものを引き裂くような声だった。
 俺の鼓膜が震えて、それまで俺を覆っていた、なんというか、諦念めいた考えが吹き飛ばされる。
 俺の心は空っぽになる。そこに彼女が大声で何かを注ぎ始める。
「いまさらわたしのことを気遣ってるふりなんてしないで! だったらなんで胸をさわったりしたわけ?」
 ……。
 ……あ、うん。それを言われると困るんだけどね。
「そんなふうに言うくらいなら、わたしのことなんてなんとも思ってないふうに演技しててよ。中途半端はやめて」
「……うーん」
 まぁ、たしかにそういう話になるんだけど。
「わたしは兄さんが好きだって言ってるの。べつに二股されようがいいの」
 いいのか。
「兄さんと一緒にいられない未来なんて、わたしは最初からいらないの!」
 ……なんだそれ。
109:
「それ以外の未来なんてわたしには何の価値もないの。ぜんぜん。これっぽっちも」
 妹はそう言い切って、近くにあったクッションに顔を埋めた。
 俺は何を言い返すべきなんだろう?
「そのくらい兄さんが好きなの。信じないだろうけど、どうせ疑うだろうけど……そのくらいの存在なの、わたしにとっては!」
 俺は息を呑んで、溜め息をついた。
「俺もお前が好きだよ」
 と俺は言ったが、たぶん妹にはごまかしのように聞こえただろう。何かを言われる前に言葉を続けた。
「でも、だから、待ってくれって言った。俺が経済的に自立するまでって」
 そのくらいの期間、彼女が俺を好きで居続けてくれるなら、俺はきっと彼女の気持ちを信じられる気がした。
「だから、誰も兄さんに甲斐性なんて期待してないってば!」
 ……それはそれで嫌なんだけど。
110:
 俺の中でも、とっくに結論は出てる。俺が口にしているのは全部ごまかした。
 俺が気にしていることはもっと他にある。
 そんなものより感情を優先して行動してしまっている。それは自分でも分かっている。
 理屈の上でどれだけ考えているふうを装っても無駄なのだ。
「兄さんは、自分は経済的に自立してないからダメなんだって言った」
「……言ったっけ?」
「言った。つまり兄さん的には、経済的に余裕さえあれば、義理の妹に手を出してもオッケーってことなんだ」
「……なんだろ、すげえ人聞き悪い」
「そう言ってたもん! 決めた。だったら兄さんは、好きにうだうだ考えてればいいんだ!」
「なにそれ」
「じゃあわたしは、ちゃんと兄さんが自立するまで待ってるよ。それでいいんでしょ?」
「……理屈の上では」
 
 それでいいんだけど。
 なんだろう、この妙な怖気は。
111:
「俺は……」
「なに?」
「いや」
 またうだうだ拗ねてたのかもしれない。
「いや、あのな。俺が怖がってるのはさ、お前の心変わりとか、自分の気持ちとかじゃなくてさ」
 妹は怪訝な表情を見せた。
「なに?」
「あの、つまりだ」
「早く言って」
 妹は不機嫌になっていた。俺は大きく息を吸う。
「つまり、お前の両親――おじさんとおばさんに、どう説明すればいいかって話でさ」
「……うん?」
 きょとんとしている。
112:
「どう、って?」
「……いや、俺が手を出したりしたら、普通に、追い出されても仕方ないって言うか、どれだけ悲しませるかとか」
「……どうして?」
「どうして、って」
 態度がおかしい。
 心底不思議そうにしている。
「……兄さん、知らないかもしれないけど、子供の頃から、わたしと兄さんは結婚できるんだ、とか、そういうことをさんざんわたしに吹き込んでたの」
 と、一拍おいて、
「うちのお父さんとお母さんだから」
 言った。
「はあ?」
 俺は戸惑う。
「……え、なんで?」
「わかんないけど」
 おいおい。
113:
「そういえばたしかに、兄さんのいる前だと二人とも真面目ぶってるけど、影では普通にそういうこと言ってる」
「そういうことっていうのは」
「ちゃんと捕まえておけよって」
 うそだろ。おかしい。そんな面白キャラじゃないはずだ。おじさんとかめちゃくちゃ怖いのに。
「……まじかよ」
「ママって呼んでほしいって言ってた」
「もうやめてくれ。俺のこれまでの苦悩はなんだったんだ? アイデンティティが崩壊しそうだ。なぜか」
 でもまぁ、きっと彼らなりの冗談なんだろう。うん。本気にして手を出したりしたら普通にまずい。
 ……うん。
「問題解決!」
「いやいやいや」
 何がどう解決したというのか。
114:
「……まだ駄目なの?」
 拗ねたような顔で妹はぼやく。状況は何も変わっていない。
 俺が黙っていると、妹は溜め息をついた。
 
 仕方ないなぁ、とでも言いたげな溜め息だった。ダメな子供を甘やかすみたいな。
 俺はダメな子供か。
 ……ダメな子供だった。
「じゃあ、待っててあげる。兄さんの覚悟ができるまで」
「……なにそれ」
「わたしの方はいつだって準備万端なんだって、分かったでしょう?」
「……おかしいって、それ。絶対」
 俺はうなだれた。
「兄さん、兄さんが自分で思ってるよりも、案外、世の中の問題って少なくて小さいのかも知れないよ」
「案ずるより産むが易しってこと?」
「そうそう」
 彼女は悪戯っぽく笑った。
125:
 さて、今日は疲れたなぁと思ってベッドにもぐりこむ。
 今日という一日は長かった。本当に長かった。
 記憶を反復する。と、奇妙なことに気付く。
 いつのまにか俺の生活というものが根本からすり替わっている気がする。
 もっと言えば俺という人間を取り巻く環境すべてが。
 何もかもが肌の表面を薄く刺す針のように感じられた少し前までとは違う。
 なにが変わったのか。
 俺は少し疲れているのだろうか。
 考えようによっては、このまま保留し続ければ、俺の願望は叶い続ける。
 自分で何かを選びさえしなければ、世間に嫌われることもない。
 ただ漠然と、そういう状況に居続けることができる。
 俺は実際のところ、それを願ってもいるのだ。
126:
 現状は俺にとってとても都合がいい。ふたりとも、俺になにひとつ決断を迫っていない。
 それで。
 ――俺が感じている不安は、いったい何に起因しているのだろう?
 俺はどこかで致命的に間違ってしまった気がする。それがじわじわと日常の基盤を揺さぶっているのだ。
 ふたりのことが好きだ。
 ふたりも俺が好きだという。
 だからふたりと一緒にいたい。そうすることができる。
 それでいいのか?
 どうなのだ? その決断にはある種の致命的なひずみが潜んでいる気がする。
 具体的にどうとは言えないけれど、何かの矛盾が……あるような気がする。
 俺は溜め息をついて天井を見上げた。
127:
 きっと俺は疲れているのだ。頭がうまく回っていないのかもしれない。
 だから、なんだか暗い気持ちになっているのだろう。そうに違いない。
 いつもの悪い癖で、不安に思う気持ちを上手に消化できていないだけなのだ。
 ――兄さん、兄さんが自分で思ってるよりも、案外、世の中の問題って少なくて小さいのかも知れないよ。
 そうだ。ことさらに不安に思う必要はない。
 考えすぎるのは悪い癖だ。そんなことよりも、俺はふたりと一緒に遊んで暮らしたい。
 決断は先延ばししよう。それは決して誠実な行為ではないけれど、あくまでも先延ばしだ。
 無責任なことではない。……そう、思う。そうではないだろうか。
 ――つまり、きみがあれこれ悩んでる間にうまいこと誘惑して、わたしなしじゃいられないようにしてあげればいいわけですね。
 彼女はああいったけれど、俺にとって彼女は――彼女たちは必要不可欠な存在なのだ。 
 どう足掻いたってなくてはならない存在なのだ。そのことの、何が悪いだろう。必要なものを必要だと思うことが?
 ……この据わりの悪さはなんだろう?
 俺はまた何かを見逃してはいないだろうか?
 それとも、何かを見ないふりをしているのか?
128:
 まあいいや、と俺は思う。俺がどういう決断をしたって、そこに善悪の基準を持ち込む必要はない。
 問題は俺が何を望んでいるかなのだ。そして、それがどこまで受けいられるか、なのだ。
 
 それ以外のものさしなんて燃えるゴミの日に捨ててしまえばいい。
 そうではないだろうか?
 不意にノックの音が聞こえた。俺はなんとなく返事をしたくなかったけれど、扉は勝手に開いてしまった。
 パジャマ姿の妹が立っていた。俺が目を向けると、妹は気まずげに目を逸らした。
「なんで起きてるの?」
「起きてたら困るのか」
「……べつに」
 困るらしい。
129:
「ね、一緒に寝ていい?」
「……なにを言い出すやら」
「ほら、いいから」
 こちらの返事も聞かずに、ベッドにもぐりこんでくる。
 俺は壁際に身を寄せる。俺たちはちょうど向かい合うようにベッドの上に寝転がった。
「なにか考え事?」
「分かる?」
「割とね」
 と妹は言った。たいしたことじゃないと言いたげに。彼女がそんな顔をすると、本当にたいしたことじゃないように思える。
「わたしのこと?」
「お前のことも」
「ふうん」
 思うところもなさそうに相槌を打つと、彼女は俺の身体に顔を寄せた。
「……なに?」
「べつに」
130:
 猫のように、頭を擦りつけてくる。俺は困った。
「……キャラが違ってないか」
「うるさい、黙れ」
 言いながらも離れようとはしない。
 なんなのだ。
「どうせ嫌ってわけでもないんでしょ?」
「……そりゃ、そうなんだけど」
 こういうことをされると困るのだ。
 歯止めが利かなくなる。歯止めが利かなくなれば……言い訳が効かなくなる。
 俺の表情をちらりと見て、妹が悪戯っぽい笑みを浮かんだ。小悪魔的。
 蠱惑的とまではいかなくとも、色香のようなものを感じる。
 
 将来に期待である(現状まだまだ)。
「……なんか妙なことを考えてる顔をしてる」
 鋭い。
131:
 俺は目を背けて、また天井を眺めた。
 それからぼんやりと考え事をしていたけれど、その内容は、ふと気付くと分からなくなっていた。
 今まで自分は何を考えていたのだろうかと思った瞬間には、そのすべてが分からなくなってしまっている。
 まるで夢でも見ていたようだ。
「ね、昔もこんなふうにして、一緒に寝たことあったよね」
 顔を見ていなかったので表情は分からなかったが、楽しげな声で妹は言った。
 そうだ。たしかにこういうことがあった。俺の人生でもっとも安らかだった時間。
 
 妹が隣に居て、幼馴染が近くに居て、そういう時間。いつの間にか、そうじゃなくなっていたけれど。
 でも、今ふたたび、俺の隣には妹がいて、きっと幼馴染も近くにいる。
 
 おそらく、俺が願っていたのはあのときの安らぎを取り戻すことで……たぶん、今、それに近いものに手を伸ばしている。
 そうなのかもしれない。本当のところ、俺が抱えていた(と錯覚していた)問題なんて、たいしたものじゃないのかもしれない。
 そんなものなんてなくたって世の中はどうにでも運んでいける。なるようになるのだ。
 そりゃ、不誠実だろう。無責任かもしれない。でも俺は、ふたりと一緒にいたいのだ。
 できるものならば、モスやタカヤとも。みんなと一緒にいたいのだ。両親とだって。
132:
 逆に言えば、それ以外の人間なんてどうでもいい存在なのだ。そんな人間に嫌われたり軽蔑されたからって何なのだ?
 俺は俺の周りの人間が笑顔でいさえすればいい。そこには何の不足もない。
 俺の世界はごく狭い空間で完結できる。その程度のものでかまわない。
 ふたりがそれでかまわないと言うなら――今はこの曖昧な関係に浸ってもいい。
「またなんか考えてる?」
「べつに」
 俺の考えなんて、全部その場しのぎの思いつきた。一晩経てば忘れている。
 その程度のもので構わないのだ。
 ――そうだよな?
 俺は何の思い違いもしていない。何も忘れていない。何からも目を逸らしていない。
 そのはずだ。俺は頭の中でもう一度、自分を取り巻く状況について考えてみた。
 そしていくつかの可能性について考えた。でも、どれだけ考えようと結局同じだった。
 したいようにするしかないのだ。それ以外では、結局同じなのだ。
133:
「何か言ってよ」
 と妹が言った。
「何かって?」
「……べつに、いいんだけど。黙っていられると困る」
「そう言われてもな」
 何を言えというんだろう。
「ねえ、やっぱりまだ信じられない?」
「なにが?」
「わたしが兄さんをずっと好きだって」
「……さぁ?」
 どうなんだろう。俺は信じられているのか、信じられないのか。
 どちらにしても同じだという気がした。
134:
「あのさ」
 少し緊張したような声だった。俺の意識はぼんやりとしてきた。
 鈍麻? 鈍麻していく。何か、そういう要素があった。
「わたしさ、兄さんになら……」
 たぶん、それは甘美な麻薬のようなもので、正常な思考も、常識も、理屈も弾きとばしてしまうものなのだ。
「兄さんになら、なにされたっていいよ」
 心臓の鼓動が高鳴ったのが分かった。それはほとんど痛みに近い感覚だった。
 おいおい、こいつはいったい何を言い出してるんだ? 保留なんだって言ってるだろ。
「べつに、どこ触られても、いいし……」
 俺が答えないでいると、妹は怯えるように唸った。
「……なんか言ってよ」
 何を言えるというんだろう。
135:
 俺は妹の顔を見つめる。頬は暗くても分かるくらい紅潮していた。
 目が合うと、逸らしてなるものかと言うようにこちらを見返してくる。
「なあ、お前、本当に俺のことが好きなのか」
「……うん」
 躊躇なく、彼女は頷く。
「本当に、本当か?」
「……どうして?」
『どうして?』。たしかにどうしてだろう。俺はなぜこんなに不安を感じているんだろう。
 
「……うん」
 それでも妹は、もう一度頷いた。
136:
「兄さん」
 何かを見透かしたように、彼女は口を開いた。
 
「大丈夫だよ、なんとかなるよ」
「……そう思う?」
「きっと」
 そうかもしれない。彼女の言う通りなのかもしれない。
 どうにでも、やっていけるのかもしれない。そしてこんな悩みを、いつか忘れてしまえるのかもしれない。
 やがて思い返すときがくるのかもしれない。ああ、あのころはあんなことで悩んでいたのか、と。
 過ぎてしまえばたいした問題じゃなかったのだ、と。
 ――昔、永井荷風の『祝盃』とかいう小説を読んだことがあったなぁ、とふと思った。
 ……だからなんだっていうんだ?
137:
 俺は手を伸ばして妹の頭を撫でた。何を考えようとも、結局こういうことなのだ。
 
「……なに?」
「うん」
 心が満たされていく。
 その感触だけでいい。他のものは、いい。
 俺はただ安心していたい。そしてこの状況ほど、安心できるものは、そう多くない。
「とっとと寝て、明日どこかに出かけようか」
「どこかって?」
「どこか。どうせ休みだし」
「……うん」
 妹は何かを言いたげにしていたが、やがて瞼を閉じてこちらに身を寄せた。
 俺はその温度を感じ取ることに集中する。
138:
 俺もまた瞼を閉じた。妹の呼吸の音がすぐ傍に聞こえる。
 もう何も考えたくなかった。
 体は疲労感からか、じんわりと痺れている。
 
 いますぐにでも眠ってしまえたら、きっとものすごく気持ちいだろう。
 実際には、緊張からか、なかなか睡魔はやってこなかった。
 それでも暗闇で瞼を閉じていれば、いつの間にか眠ってしまっているものなのだ。
 妹が眠れたかどうかは知らない。少なくとも俺は、いつのまにか眠っていた。
 今までになくぐっすりと眠った。とても心地よい時間だった。
 それだけで十分じゃないか?
 眠っている間、一度だけ携帯が鳴った気がした。俺は一度瞼を開いて、たしかに携帯が鳴っていることに気付いた。
 でも、結局無視した。電話になんて出たくなかった。そんなことよりも妹の体温を少しでも長く感じていたかった。
139:
 翌朝、意識がぼんやりと目覚める。夢の中にいるような心地だった。
 妹はまだ眠っていた。俺はベッドから上半身を起こしてカーテンを開けた。
 冬の朝の日差しが部屋に差し込む。少しだけまぶしかった。
 もういちどベッドに身を沈める。うーん、と俺は唸った。あくびをひとつして、瞼を閉じる。
 そしてもう一度開けて、時計を見た。朝七時。なんだ、と俺は思う。まだ眠っていられるんだ。
 もう一度目を瞑った。日差しが瞼をさして、視界を白っぽく染めた。
 妹の寝息が聞こえる。こんな朝にこそ、世界は滅ぶべきなのだ。こんな穏やかな朝にこそ。
 ……ちょっと考えてみただけだけど。
 妹が身じろぎをする。俺はまた瞼を開けた。
「起きた?」
「……うん」
 寝惚けたような声。彼女の方もぐっすり眠れたらしい。
140:
「まだ、寝てていいよ」
 俺が言うと、妹は心地よさそうに微笑んで瞼を閉じた。
 小さく体を丸めて、こちらに寄せてくる。
 こんな朝ばかりだといい。
 ――インターホンが鳴る。
 妹がゆっくりと瞼を開く。目が合うと、「どうする?」という顔がした。
 無視しよう、と俺は瞼を閉じた。妹もそれに倣ったようだった。
 
 インターホンは鳴り止まない。
 
「……なんだろ」
 妹が体を起こした。俺はその腕をつかんで引き留める。
「……なに?」
「……いや、なんとなく」
「なんなの」
 妹は機嫌よさそうに笑った。
141:
 俺たちはベッドに戻る。そして眠る。来客は無視。
 インターホンも電話も全部無視していい。ドアがノックされても、窓に石を投げられても。
 ただここにいればいい。
 ――ドアが開く音がした。
 階下から「おじゃましまーす」と声がする。誰の声かは瞬時に分かった。
 俺は聞こえないふりをした。
 妹が俺の身体に腕を回した。……こいつもなかなかタチの悪いことを考える。拒否する気にはなれなかった。
 階段を昇る足音。近づいてくる。俺は寝ている振りをした。
 ドアがノックされた。
「もしもし」
 という言葉の二秒後には、返事を待たずに彼女はドアを開けたらしい。
「おはようございます」
 という静かな声。幼馴染がきたのだ。
142:
「……ん?」
 状況を掴みかねる、という声だった。この状況に、なんて言うんだろう、こいつは。
「……うん」
 彼女は奇妙な声音で小さく頷いた。
 幼馴染は何も言わずにベッドから布団を引きはがそうとしたらしい。俺は寒くて抵抗する。
「なんで抵抗するんですか!」
「寒い。眠い」
「いいから起きてください! 朝ですよ!」
 
 そう、朝の七時だ。休みの。つまり寝たい。
「なんで一緒に寝てるんですか!」
「……成り行き」
 幼馴染は苛立たしげに唸った。
143:
「ずるい!」
 何が?
「なんでふたりだけ!」
「……一緒に住んでるから?」
「じゃあわたしもここに住む!」
 時間が経つにつれて幼馴染の幼児化が進んでいる気がした。
 彼女は引きはがした布団を引きずって、ベッドに飛び込んだ。俺と妹が慌てて避ける。子供じゃないんだから。普通に危ない。
 
 そして布団をかけ直す。三人で布団にくるまる。幼馴染は真ん中に入った。
「……いいのかなあ、こんなんで」
 俺が呟くと、妹が変な顔をした。
「何が?」
「いや」
 上手く説明できる気がしなかったので、口を噤む。
144:
 幼馴染は目を閉じて何かを取り返そうとするみたいに俺の手を握った。
「……」
 妹がそれに気付いてむっとした視線を向けてくる。どうしろっていうのだ。
 ……ああ、こういうことか。
 とふと思ったけれど、何がこういうことなのかは全く分からなかった。
 分からないことだらけだった。でもいいや。別に。そんなに小難しい話じゃない。
 俺は体を起こして、開いている方の手で瞼を擦った。
「今日、どこかに行く?」
「……どこかって?」
「どこか」
 何も思いつかなかったけれど、とりあえず訊いてみた。
「いいですよ」
 と幼馴染は頷く。彼女が小さく手のひらに力を込めた。俺はそれを握り返す。
「……うん」
 妹もまた頷いたが、視線は繋がれた手に向かっていた。俺は何を言えばいいんだ。
145:
 結論は、先延ばしだ。
 それで何か問題があるだろうか? 少なくともこの居心地のいい状態を楽しんだって、罰はあたらない。
 いや、あたるかもしれないけど、それは俺に必要なものなのだ。
 俺にはこうする以外に方法が見つからないのだ。
 ……いや、方法はあるけれど、それは取りたくないのだ。
 だから、これでいいんじゃないか?
 幼馴染がくすくすと笑う。
「何笑ってんの?」
 訊ねるが、答えはもらえなかった。
 妹が呆れたように溜め息をつく。
 窓から差し込む日差しはどこまでも透き通っている。
 冬の朝だった。
 こんな日がずっと続けばいい。
146:
 不意に、家の電話が鳴っているのが分かった。
 俺たちは居留守を決め込む。
 寝てたってことにしよう。
 しばらくすると電話の音は途切れた。そういえば昨日、携帯が鳴っていたんだっけ。
 たしかめるのが面倒だったから放置した。
 ふと気付くと八時を過ぎていた。俺たちはベッドを抜けだす。
 
 三人でリビングに降りて、トーストを焼いて食べた。
「で、どこに出かけるんです?」
「まだ早いだろ」
「ちょっとした散歩くらいならできるじゃないですか」
 どうも、幼馴染はどこかに行きたいらしい。
147:
 まぁ、いいだろう、と俺は思う。
 どこに行くにしても、この二人が一緒ならいい。
 それでいい。
 
 俺はこいつらが好きなんだと思った。
 そう思うと、それ以外には何も必要ない気がした。
 ……本当に、そう思った。
 十時を過ぎた頃、準備を終えて、俺たちは玄関を出た。
 十二月二十六日の朝。街も目を覚まし始めていた。
 何かを忘れているような気がしたけれど、きっとどうせ大した問題ではない。
 そのはずだ。
 冬の朝の空気はしんと冷たかった。そのかわりにとても澄んでいた。
 吸い込むと気持ちがいい。街の景色も透き通って見えた。
「さて、どこに行きましょうか?」
 どこでもいい、と俺は思った。
148:
 とにかく街の方にと、俺たちは歩き出す。
 途中で公園にたどり着くと、幼馴染は勝手に走り出して中に入っていった。
 
「朝の公園って、なんだか変な感じだね」
 妹が呟く。たしかに変な感じだった。
 俺たちは自動販売機で飲み物を買った。俺はコーヒーを、幼馴染はココアを、妹は緑茶を買った。
 俺は今、このふたりに何かを言うべきなのかもしれない。
 俺が考えていること。自分が不安に思っていること。すべて。
 でも今はやめておきたい。
 いつかは口に出さなければならないだろう。でも、今のところはこれでいい。
 妹がこちらを見た。
「なんか、考えてる?」
「なにも」
 と俺は答えた。妹はふわりと笑った。
 すると空気が静かに緩んだように思えた。引き伸ばされた糸のような冬の冷たさが、柔らかな気配をまとう。
 もちろんそれは錯覚だったのだと思う。
 幼馴染がうーんと伸びをする。
「気持ちのいい、朝ですねえ」
 そう、気持ちのいい朝だった。
149:
「――ところで」
 と幼馴染は言った。何かを切り裂くみたいな声だった。
「決めました?」
 俺は溜め息をつきかけて、やめた。
「……ええと」
 妹を見ると、彼女もこちらを見ている。
 言わなきゃならないのだ、結局。
「正直な気持ちを言っていいか?」
 ふたりは頷く。
「こんなこと言ったら嫌われるかもしれないけど、どっちかを選ぶなんてできない」
 我ながら最悪の台詞だった。どこかで聞いたような台詞だ。自分がこんな言葉を吐くことになるなんて思わなかった。
 でも正直な気持ちだ。仕方ない。おそらく誰かは俺を嫌いになる。でもそれはそれで構わない。
 問題は目の前のふたりがどう思うかだ。
150:
「選ばないことを選ぶって言ったら、悲しい?」
 思っていたよりもすんなりと、その言葉は喉を通って空気を揺らした。
 静かな冬の朝、公園にその声は染み渡った。
 幼馴染と妹は、困ったような顔で目を見合わせた。
「変なこと言ってるって言うのは百も承知なんだけど」
 そしてこれは、俺なりに一生懸命考えた結果なのだ。
 どちらを失ってもダメなのだ。何かが欠けてしまったら、そこで終わってしまうのだ。
 そういう種類の問題だ。
「無理なんだ、それ以外を選ぶのは」
 ……本当は無理じゃないかもしれない。俺は自分の考えを誘導している。卑怯だし不誠実だ。
151:
 俺が黙ると、二人も黙った。長い沈黙が下りた。俺は俯く。
 ふたりが俺に背を向けて去っていくイメージが、頭の中で何度も再生された。
 不意に、
「兄さん」
 と、声が沈黙を切り裂いた。
 それは柔らかな声だったけれど、たしかな鋭さを持っていた。
 その鋭さに、俺は怯える。
 けれど彼女は、それ以上何も言わなかった。
 顔をあげる。
 妹が、こちらに手を差し出していた。
 恐々と、その手を取る。彼女は満足げに笑った。
 妹が幼馴染を見た。
 幼馴染は戸惑ったように視線をあちこちに彷徨わせる。
 やがて仕方ないとでも言いたげに溜め息をつく。彼女の息は白く染まって空に立ち上り、やがて消えた。
 彼女もまた、こちらに手を差し出す。
 俺はその手を取った。
152:
「兄さんの手、冷たい」
「ですね」
 俺は何も言わなかった。
 ただ、なんだかすごく、自分がちっぽけな存在に思えた。
 これはきっと正解ではなかったのだ。なんとなく、そう思う。
「どこに行きましょうか」
 でも、少なくとも今、俺は彼女たちと手を繋いでいて、その事実は俺をたしかに喜ばせた。 
 怖さはあるけれど。
 俺たちは並んで冬の街が歩く。
「あ、雪だ」
「……ほんとですね」
 ちらちらと、白い空から雪が降ってくる。
153:
「……こんなことを言うのもなんだけど」
 と前置きして、俺は言った。
「お前らのこと、好きだよ」
「『ら』がなければ、素直に喜んでたんですけどね」
 幼馴染は口をとがらせた。
 それ以上のことは、俺は何も言えなかった。
 たしかに不安はあるのだ。こんなやり方で上手くいくのかと。
 でもそんな不安は、どんなやり方だってあって当たり前のものなのだ。
 じゃあ、このやり方で試してみればいい。
 ひょっとしたら案外、上手くいくかもしれない。
 
 少なくとも、それを試すことが、今はできるのだ。
 それは、正解ではないかもしれないけど。
 
「だいじょうぶだよ」
 と妹が言った。幼馴染はきょとんとする。
「なんとかなるから」
 彼女はこちらを見て笑った。
 俺はうまく笑えなかったけれど、彼女がそういうと、本当にだいじょうぶだという気がした。
 
「ね」
 妹は笑う。
 幼馴染は苦笑した。
 俺は溜め息をついて、二人の手を握り返した。 
 その手のひらのぬくもり以外は、なにもいらなかった。
168:
 手のひらが弾けた。
 俺は唖然とする。
 何が起こったのか、一瞬、分からなかった。
 俺たち三人は今の今まで、冬の朝の街を手を繋いで歩いていた。
 そこには邪魔者はなかった。不安もなかった。破綻の影なんてひとつもなかった
 ただ安らかな空気だけがあった。ある意味では完成すらしていた。
 にも関わらず、幼馴染は俺の手のひらをはねのけた。
 唐突に。
 俺は驚いたけれど、彼女自身の方がもっと驚いているようだった。
 自分のとった行動が信じられないという顔をしている。
 わたしはどうしちゃったんだろう、という顔をしてている。
 息が詰まった。
169:
「……えっと、あの」
 彼女は取り繕うような笑みを浮かべたが、その笑みは何も生まなかった。
 俺たちをまとう空気は一瞬で凍てついた。寒々しい冬の冷気が急に攻撃的に肌を刺す。
 風が強くなる。雪の粒がまとわりつく。
「ごめんなさい」
 と幼馴染は言った。そこに何かを付け加えようとしたらしいが、次ぐ言葉は出てこない。
 でもきっと何を言われても同じだったと思う。彼女自身、自分が何を謝っているのか分からないだろう。
 彼女は目に見えて動揺していた。かわいそうなくらいに。
 俺はその動揺をどこか他人事のように眺めていた。
 彼女の声はガラス越しに聞くように遠くに感じられた。
 俺と妹は手を繋いだままだった。妹は何も言わなかった。
 
 気分が妙に乾いていた。
170:
「どうした?」
 と俺は訊ねた。訊ねたけれど、俺の気分がそうであるように、声もまた乾いていた。
 それでも、一応は訊ねてみなければならなかった。儀礼的に。
 そして手を差し伸べる。彼女がそれを受け取るように。
 けれど彼女は、受け取るどころか、怯えるように後ずさりをした。
「……ごめんなさい」
 
 幼馴染はその言葉を繰り返した。今度は続きがある。
「でも、なにか、これじゃだめだって気がするんです」
 俺は黙っていた。妹も黙っていた。幼馴染だけが気まずげに視線をあちこちに彷徨わせる。 
 言ってしまったからには戻れない。
 彼女はしばらく怯えたような視線をこちらに向けていたが、やがて俺に背を向けて走り去った。後ろ姿を見送る。
「いいの?」と妹が言った。
「どうなんだろう」と俺は答えた。自分ではなにひとつ分からなかった。
171:
「兄さん、また考えてる?」
「…………」
 妹は平然としている。さっきまでの親密な雰囲気は薄れてしまった。
 空気は鋭く尖っていたし、風は冷たく刺さってきた。
「わたしは、どっちでもいいよ。あの人がいても、いなくても」
 どうなんだろう?
 俺は自分が何かを振り払えたような気になっていた。
 自分が何かに向き合うことができたのだと思っていた。
 どうなんだろう?
「わたし、先に帰るから」
 妹もまた、俺に背を向けて去っていく。その態度は必要以上に冷たかった。
 よくよく考えれば当たり前の話だ。そうして俺はひとりきりで取り残された。
172:
 どうしてこんなことになったんだろうと俺は考えた。結果には何かの原因があるはずだ。
 
 やっと話がまとまりそうだと思ったのに。
 都合よく尾括されると思ったのに。
 
 結局破綻するのか?
 ポケットの中で携帯が震える。
 俺はディスプレイを見ずに電話に出る。
「よう」
 とモスは言った。
 俺は上手に返事ができなかった。
「……どうした?」
 とモスは最初に訊いた。その言葉はむしろ俺が使うべきものだったと思う。
 どうしてこいつはこんなタイミングで電話をかけてきたりするんだろう。
173:
 俺は溜め息をついて瞼を閉じる。そして朝の空気を吸い込んだ。
 何かを言うべきだという気もしたし、何かを相談すべきだと言うきもした。
 
 でも俺は半分くらい気付いていた。こうなった理由。原因。正体。
 だから、
「悪いけど、あとでかけ直す」
「は?」
 モスの声は途切れた。
 幼馴染をここから去らせたものがなんなのか。
 それは恐れとか悲しさとかではなくて、たぶん不安とか不満でもない。
 俺も妹も幼馴染も、全員ぼんやりと気付いていた。
 今の状況は、何ひとつ決定していない状態だ。曖昧なまま放置した状態だ。
 妹はそれでも(今のところは)構わないと思っているのだろう。
 そして俺は出来る限りその状態を引き延ばしたいと考えている。
 幼馴染はその状態に納得がいかなかったのかもしれない。
 だから「このままじゃダメだ」と思ったのだ。それは正しい。
174:
 俺は自分の頭がすごく回っているなと思った。さっきまでまったく何も思いつかなかったのに。
 つまり俺はわざと目を逸らしていたのだ。考えないふりをしていた。
 こうなることを見越した上で曖昧なまま放置したのだ。
 俺は何にも向き合ってなんていなかった。目を逸らしたままだった。
 俺は幼馴染が去って行った方向へと向かう。彼女を追いかけなくては、と思う。
 でも追いかけてどうするんだろう? 何を言うんだろう? その答えは思い浮かばなかった。
 道を走っている途中で茶髪とすれ違った。休みに入ってから姿を見るのは初めてだ。
 彼は俺の姿を見て一瞬顔をしかめたあと、憐れむように笑った。
 こいつはまたやってるよ、という顔だった。
 本当にそうなのだ。茶髪の言う通りだった。お手上げだ。全部こいつの言う通りだった。
175:
 携帯が鳴る。またかよ、と俺は思う。ディスプレイを見た。アキだった。
 俺は通話終了のボタンを押す。今はそんな状況じゃない。走らなきゃいけないのだ。お前もそこそこ正しかった。
 俺は結局責任を取りたくなかったのだ。
 自分が何かの責任を負うことが怖かった。
 あきらかに普通じゃない形の未来を望んで、手を伸ばしたにも関わらず、そこに生まれた責任は負おうとしなかった。
 俺は結局逃げていたのだ。
 そんな人間が誰かを幸せにできるはずがない。
 で、これからどうするのだ?
 幼馴染を見つけることはさして難しいことじゃない。そのあとどうするのだ?
 
 結局やることはこれまでと同じじゃないか? 俺はどちらかひとりになんて決められない。
 それでもどちらかに決めなければならないというなら、俺はどちらも選ばないことを選ぶだろう。
 選ばないことを選ぶ、と俺は言った。
 つまり俺は選んでいない。なにひとつ自分の手で選択していない。
176:
 自分の考えもよく分からないまま俺は彼女がいるだろうところに向かった。
 走っているうちに息切れしてきて、脇腹がじくじくと痛んだ。
 俺はなんだって走ってるんだ?
 第一だ。俺自身の願望自体、彼女たちの幸せだのさ将来だのその他さまざまなものを軽視してるってことではないのか?
 未来とかいろんなもの。そういうものを全部ぶち壊してでも俺は一緒にいたいと思ってるのだ。
 
 もちろんそれは他人に軽蔑されても仕方ない考えだし、誰かにとっては不愉快なことだろう。
 俺は彼女たちを幸せにできないけれど、彼女たちと一緒にいたいと思っている。
 それは俺にはあまりに都合のいい話だし、彼女たちにはあまりに絶望的な話なのだ。
 ――で。
 ここで「そういう人間性だから」と開き直ったら、結論は同じになってしまうのだ。
 それは全然仕方ないことなんかじゃない。
 俺が諦めるか何かしてしまえば終わる話なのだ。
 そうしたくないのに責任を負いたくないなんて卑怯だ。
 それを自覚した上で目を逸らすのはもっと卑怯だ。
177:
 つまり俺は言わなくてはならないのだ。
 彼女たちにはっきりと。
 神社についたときには頭は朦朧としていた。ここにいるという確信は持てなかった。
 見つけてほしくて隠れるのなら、彼女はきっとここにくる。
 でも、幼馴染は今でも俺に見つけてほしいと思ってくれているのだろうか?
 俺は神社に足を踏み入れる。踏み入れてから、やっぱりここに来るべきではなかった気がした。
 それは仕方ないことだ、と開き直ることもできた。
 幼馴染は前と同じようにそこにいた。
 そこで泣いていた。
178:
「……ごめんなさい」
 と彼女はもう一度謝った。
「謝るなよ」
 
 と言おうとしたが、上手く口が動かせなかった。
「わたしがおかしいんです。それでもいいって思ったはずなんです」
 でも、と彼女は続ける。
「どうしても、いつか、そのうち……」
 つまり俺は、結論を先延ばしにすることで、彼女の心境を置き去りにしていた。
 不安と期待の間に置き去りにした。
「わたしをいらなく思うんじゃないかって。だって、その方が形としてはずっとシンプルだし、理屈としても単純になるんです」
179:
「いらなくなんてならない」
 変な日本語だと俺は思った。そのまま続ける。
「ちゃんと言うべきだった。保留とか、先延ばしじゃなくて、お前らと一緒にいたいんだって」
 ただ単に一緒に居ればそれでいいというのではなく、
「選ばないことを選ぶんじゃなくて、どちらも選ぶって決めるべきだった」
 俺はバカだから、まだ怖がっていた。
 そのことを口に出したら軽蔑されると思った。
 あくまでも、いつかどちらかを選ぶという体を装わないと、嫌われてしまうと思っていた。
 その怯懦の埋め合わせが彼女に向かっていたのだ。
 嫌われたって仕方ない。
 俺が望んでいるのはそういうことだ。その怖さは俺が自分で引き受けるべきなのだ。今更だけれど。
「納得いかないかもしれないし、嫌なら嫌でもいいんだ」
 幼馴染はまだ泣いていた。たぶん俺には泣き止ませることはできないと思う。
 それでも。
180:
「わたしは、きみが好きです」
 幼馴染は泣きながら言った。
「きみも、わたしが好きなんですよね、本当に?」
「うん」
 と俺は頷いた。それは「それだけ」ではなかったけれど、嘘でもなかった。
「じゃあ」
 彼女は苦笑のような息を漏らして瞼をぬぐった。
「それでいいです」
 本当に? と訊きたかったけれど、それを聞くのは卑怯だという気がした。
181:
「でもわたしは、いつかそれ以上のものを欲しがるかもしれない。それだけじゃ満足できなくなるかもしれない」
「うん」
「そのときは、どうしますか?」
「説得する」
「……説得、するんですか」
「嫌われてもいいなんてもう言わない。いなくなられると困るんだ。どっちが欠けても」
 嫌になったらいなくなってもいいよ、なんて。
 いざとなったらお前なんていなくてもいいと言っているのと同じだった。
「それ、すごくひどいこと言ってるって、分かってます?」
「うん」
 と頷いたけれど、その彼女にとってその言葉がどれだけの意味を持つのか、俺にははっきりとは分からなかった。
 なんとなく想像できるだけ。
182:
「それでも、どうしても嫌気がさして、お前が俺のもとから去っていくなら、たぶん存分に悲しむ」
「……存分に、ですか」
「わんわん泣く。未練がましく」
 彼女は笑った。
「泣くんですか」
「泣くんだ」
「じゃあ、いなくなるわけにはいかないですね」
 心細いような声で彼女は言った。
「わたしは昔から、きみに泣かれると、どうしようもなくなるんです。泣き止ませなきゃって思うんです」
「……そうなの?」
「そうなんです」
 その微笑を最後に、会話が途切れた。俺は幼馴染に手を差し伸べる。
183:
「行こう。今の話、妹にもしなきゃならないんだ」
「……雰囲気ってもんがないですね」
「仕方ない。不公平なのはよくない」
「……うん」
 彼女は俺の手を掴んで、立ち上がった。
 ――そのままの勢いで俺の肩を掴み、口を塞いだ。
 心臓の鼓動が止まった気がした。
 感触はすぐに離れ、彼女の表情がすぐ近くに映った。
「不公平は、よくないです」
 一瞬、妹とのやりとりをどこかで見られていたのかと思ったが、違うらしい。
「でも、いまのは、妹ちゃんには内緒ですよ」
 ……今ので公平になった、とこのタイミングで言ったら、きっとすべてが台無しだ。
184:
 俺たちは手を繋いで家に帰った。彼女を連れ帰らなければならなかった。
 そして三人で話をしなければいけない。これからどうするか。俺がどうしたいのか。それを彼女たちがどう思うか。
 対話。
 幼馴染を連れて帰ると、妹は不服そうな顔をした。
「結局、きたんだ」
「だめでしたか」
「……べつに」
 上手く行く気がまったくしない会話だった。
「話があるんだけど」
「あとでいいよ」
 と妹は言った。
「それに、どっちにしろわたしの結論は変わらないから」
 彼女はそう言ったけれど、それがどういう態度を差すのかは教えてくれなかった。
185:
 妹の提案で話はうやむやになり、俺たちは何事もなかったように出かけることになった。仕切り直し。
 
 出かける直前に、俺はモスに電話を掛けた。奴はすぐに出た。
「悪いね。さっきの電話、なんだったの?」
「いや、別に大した用事じゃないんだけど。大晦日と元日って暇か?」
 暇か暇じゃないかで言ったら、まぁ暇だった。予定はない。
「どっかに泊まりで集まらない? 冬休みに入ってからやることなくてさ」
 
 悪くない提案だった。
 考えておくよ、と言って電話を切る。
186:
 電話が終わると、ふたりにせかされてすぐに出かけることにした。
 
 どちらとも手を繋がなかった。とりあえずは。
 たぶん俺にはまだ考えなければならないことがたくさんある。
 妹とももっとしっかりと話さなければならないし、幼馴染だって、決して完全には納得していないだろう。
 俺自身、まだ何か目を逸らしている部分があるかもしれない。
 でも今はこれでいい。
 とりあえず俺の態度は決まった。
 
 それは、これまでとあまり大差ない結論かもしれない。
 でもこれでいい。
 どう考えても振り払えていないし、折り合えていないけれど、でもまぁ今のところはいい。
 そのうちもうちょっと上手いやり方を考えよう。もっと現実的で地に足のついたやり方を。
 今度は保留じゃない。
187:
 さっきまで鋭かった風が穏やかに変化していく。それでも空気は相変わらず冷たかった。
「もう年末なんだよね」
 と、街の雰囲気を感じ取ってか、妹が呟く。
 その通り。そして来年が来る。正月があって、学校が始まる。
 
 そうなれば上手いことやらなくちゃならなくなる。
 俺たちは(もしこのまま上手くいったとするなら)、どのような態度で社会に臨むかを決めなくちゃいけなくなる。
 俺は不安を感じた。できるかぎり、このふたりに幸せらしきものを感じさせてやりたい、と思った。
 そんなふうに感じたのは初めてだった。どうせ幸せになんてなれっこない。諦めるしかない、と今までは思っていた。
 もちろん、実際無理かもしれない。
 それでも出来る限りはやってみたかった。
 今までみたいに、自分のダメさ加減にあぐらを掻いて開き直ってはいられない。
 俺は変わらなきゃいけないのだ。
188:
「……また考えてる」
 と妹は言った。
 じとっとした目をこちらに向けてくる。俺は視線を逸らす。逸らした先には幼馴染がいる。
 彼女と目が合うと、さっきの神社でのことが頭をよぎった。また逸らす。二人と目が合わないように視線を上向ける。
「大丈夫だよ」
 と妹がもう一度言った。その通りかもしれないし、そうじゃないかもしれない。
 でもこのままやっていくしかないのだ。俺がこのふたりと一緒にいることを望み続ける限りは。
「……うーん」
 と俺は唸った。何かを今すぐに考えるべきだと言う気がしたのだが、なかなか思いつかない。
 まぁいいや。と俺は思った。あんまり最初からあれこれ考えてると、息切れする。
 ペース配分を考えるのだ。長距離ランナーよろしく。先は長いんだから。
189:
「手、繋いでいいですか?」
 さっきふたりで帰り道を歩いた名残りか、幼馴染はいつもより甘えたがっているように見えた。
 
「いいよ」と俺が答えると、彼女はおずおずと俺の手を握る。
 反対側から妹が、何も言わずに俺の腕を取った。
 腕。
 初めてのパターン。
「うん」
 と納得したように妹が頷く。何が「うん」なのだ。神妙な顔をして。
 さて、と俺は思う。二人の顔を交互に見る。どちらも不思議な顔をしていた。
 幼馴染は照れくさそうに、妹は満足げに、微笑んでいる。
 DVDを借りたら、コンビニに寄って食べ物でも買おう。
 そして家に帰ってコタツにもぐって、三人並んで映画を観ればいい。
 
 コタツに三人入るのは少しつらいかもな、と俺は思う。
 でも、長い方の辺に三人で並んで座れば大丈夫だ。寝転がろうとしなければ、コタツの許容人数は案外多い。
 考えなければならないことは山ほどある。俺はこれから、そういった平穏な生活を自分の力で維持できるようにならなければならない。
 でも、今日のところは、とりあえず。
 先のことなんて考えずに、まったりと過ごすのも悪くないだろう。
190:
おしまい
193:
乙乙
予想外だった
もう少し見たいところ
195:

197:
おわったか
楽しませてもらった
200:
長らく乙!
楽しませて貰った、ありがとう。
208:
おっつん
次回作も根性で探す
210:
乙乙
めっちゃおもろかった。
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