「イクラちゃん症候群」back

「イクラちゃん症候群」


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1:
 俺がはっきりと体調が悪いことを自覚したのは、なんとなく体がだるくて重い日々を経た後のある昼休み明けのことだった。
 会社にかかってきた電話の応対中に、突然、口から出る言葉がおかしくなってしまったのだ。
「ハーイ、お世話になっておりバブゥ」
「……ハイ、ハーイ順調ですよ。チャーンと仕上げますので。ハイ、ハーイ」
「それではバブ礼いたしまバブゥ」
 戸惑いながらも、なんとか取引先との電話を終える。
 すると続いてもう一本かかってきた。
「……ハーイ、お世話になっておりバブゥ」
 今度のは別の取引先からのクレームだった。
「申し訳ございません。その件につきバブバブ……いや、ふざけてなどはチャーン」
「かしこまりました。すぐに伺いバブゥ」
 口ごもってしまったので巧く言いたい事が伝えられず、相手を怒らせてしまったようだ。
元スレ
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「イクラちゃん症候群」
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4:
 取引先に赴いてクレーム処理を終えると、既に日が暮れていた。会社には直帰する旨の連絡を入れる。
 神経をすり減らしたので何か癒しが欲しい気分だった俺は、行きつけのバーの重い扉を開いた。
「いらっしゃいませ。どうぞお好きな席へ」
「ハーイ」
 顔見知りのバーテンダーが俺を出迎えてくれた。
 ログハウスを思わせる木目調の店内は、間接照明が気持ちの落ち着く暗さに調整されている。そして抑え目の音量で流れるジャズ。更に気持ちの良いサービスをするバーテンダーがいた。くつろぎを求めるには最良の場所だ。
「しばらくでしたね」
 仕事の他にもやる事があって、最近はここにもなかなか来られなかったのだ。それを説明しようとすると。
「チャーン、ハーイ」
 まただ。自分で意図しない変な口調が出てきた。取引先にいた時は大丈夫だったのに。
6:
「上海へご旅行でしたか。今は活気があって良いでしょうね」
 いや、違う。俺は旅行になんか行ってないぞ。
 このバーテンダーは客が必要とするオーダーを、さりげなく読み取って出してくれる良いサービスマンだった。謂わば察しが良すぎる。
「ご注文は?」
 まあ良い。とりあえず生ビールにするか。
「バーブゥ」
「バーボンですか? かしこまりました。今日は良いボトルがありますよ」
 うまく口から言葉が出て来ない。俺は一杯目は軽くビールからスタートするのが多い。君も知ってるはずだろう。
「飲み方は……何かで割りますか?」
 バーテンダーは白いラベルのゴツいボトルを持ち出してきて俺にオーダーを確認しにきた。
 言葉が出ないならジェスチャーだ。俺はビールが飲みたいんだ。拒否の意思を示すために首を振る。
「ロックですか?」
 違う違う。
「ストレートですね。かしこまりました」
 残念ながら俺の意思は伝わらなかった。
7:
「お待たせしました。バーボン、ストレートです」
 目の前に琥珀色の液体が入ったグラスが置かれる。俺はバーボンはツンツンした感じが苦手なのだが、出てきたものは仕方がない。
「もう手に入らない限定品の樽出し原酒バーボンですよ」
 おまけに風味も強烈でアルコール度数も高い、飲みにくいタイプだった。
 俺はそれをたっぷり小一時間かけて飲んだ。
「お次は何を?」
 またバーテンダーオーダーを聞きに来た。
 度数の高いのを飲んだので酒はいいから小休止が欲しかった。それを伝えようとすると。
「バブゥ」
「バンブーですね。かしこまりました」
 またもや俺の意思は伝わらなかった。
8:
「お待たせしました。バンブーです」
 目の前にカクテルグラスが置かれた。
 このバンブーは名前のとおり枯れた竹のような色をしている。シェリー酒とベルモットに風味を加えた辛口のカクテルだ。
 そして俺は辛口のカクテルが苦手だった。が、出てきたものは仕方がない。俺はそれをたっぷり小一時間かけて飲んだ。
「何か飲まれますか?」
 空いたグラスを目ざとく見つけたバーテンダーが、またもやオーダーを聞きに来た。
 くつろぎにやって来たバーでまでも、意志疎通が上手くいかずにイライラしてきていた。いらないよ、と少し強い口調で言おうとすると。
「ハーイ! バブゥ!」
「ハイボールですね。かしこまりました」
「ハーイ……」
 今夜は滅茶苦茶な酔い方をしそうだった。
9:
 翌日、俺は時々変な口調になりながらも、半休を取って病院へ行くと会社へ電話をかけた。
 言葉で意思表示できなくなることを予想して、筆記用具を持って地域の総合病院へ行く。受付でどこの科を受診したら良いかを質問すると、神経内科がいいだろうとのこと。
 午前中なのにどこか薄暗い、重い空気に包まれた朝の総合病院。非常に長い時間を待たされ、検査と診察を受ける。
「検査の結果ですが、特に異常は認められませんね」
 正午近くに全ての検査が終わると、担当医師が血液検査とレントゲン撮影の結果をそう伝えてきた。
「CTでは頭部に影は見られません。血液の数値は……」
 俺と同年代か少し年上に見える医師は、アルファベットと数字が印刷された血液検査の結果らしき紙について説明をしてくる。
「数値はいずれも正常の範囲内です。ここまでよろしいでしょうか」
「チャーン、実際に困ってるバブ。病気じゃないんですか?」
「異常が見られない以上はなんとも……敢えて言うなら、サザエさんに出てくるイクラちゃんみたいな喋り方になる症状ですから……」
「敢えて言うなら?」
 目の前の人物は、考えをまとめるように少し黙った後に口を開く。
「イクラちゃん症候群」
 医師は真顔でそう言った。
10:
 結局原因は不明で、具合が悪くなったらすぐに来てください、と言われて病院を後にした。
「イクラちゃん症候群って……そんなバカな病気あるのかよ」
 仕事が終わると真っ直ぐ帰宅し、似たような病気があるかどうかをインターネットで調べてみる。
 いくつかのキーワードを検索した結果、外傷やイクラちゃん語以外自覚症状の無い俺に、当てはまりそうなものは無かった。
「俺、一生イクラチャーンなのかな……」
 そういえばサザエさんのアニメのイクラちゃんは、ずっとハーイ、チャーン、バブの3つの言葉しか喋っていない。イクラちゃんの声優は、言葉を伝えられないもどかしさに心が折れたりしないんだろうか。
 そう思って検索エンジンで調べると、その人はリカちゃんやカオリちゃんも担当しているのが解った。まあいちいち苦しんでいたら声優なんかできないだろう。
 しかしそれは、俺の悩みを解決してくれるものが何もない、ということが解っただけでもあった。
 キーンコーン。
 どれくらい時間が経っただろう。誰かが家に訪ねて来たようだ。
12:
「来ちゃった」
 訪問者は俺の彼女だった。
 付き合って1年、そろそろ同棲からの結婚をと考えている。最近仕事以外に忙しかったのも、彼女との同棲に必要なものを調べたり揃えたりしていたからだ。
「何やってたの? 仕事?」
 部屋に上がった彼女は、起動させたままの俺のパソコンを見て聞いてきた。
 調べていた俺の今の症状について、どう伝えるべきか迷っていると。
「あー、エロ動画? ちょっと見せなさいっ」
 見当外れの事を言いながら、モニターを覗きこんだ。
「……何これ? イクラちゃん?」
「うん……」
「イクラちゃんのエロ動画か……私たち、いろいろ話し合う必要がありそうね」
「違うバブ!」
「あはははっ。冗談冗談。何なりきってるの」
 面白がっている彼女を前にして、俺は覚悟を決めて自分の症状について話すことにした。
13:
 彼女は最初、俺がふざけているものと思って薄ら笑いを浮かべながら話を聞いていた。しかし話が長くなるにつれて真剣に耳を傾けるようになっていた。
「そっか。脳に血栓とか出来ると、話したり聞いたりするのに支障が出るって聞いたことはあるけど……」
 勿論その可能性も考えた。が、今日の検査では異常は見付からなかった。病院に行ったことも話した。
「病院を変えたりして精密検査を受けるのも考えた方がいいかもね」
 と、俺のためにこれからのことを考えてくれる。
 ――もしその手の病気であったなら、治るまで時間が必要だ。結婚も考えている彼女に手間をかけさせたりしたくはない。
 俺は頭の中で少し言葉を整理しながら、これから2人の関係をどうしようかと切り出した。
「馬鹿なの? 大事な人のことなら、私も一緒に悩んだり考えたりするに決まってるじゃない」
 そう言うと彼女は、俺の手を握ってこれからも一緒にいると約束してくれた。
 そして風呂を沸かして入った後、彼女の作ってくれた晩飯を2人一緒に食べ、一緒にベッドに入った。
15:
「電気消して」
「ハーイ」
 シーツにくるまると、彼女の胸に手を伸ばす。彼女はそのまままされるがままになっていた。これはOKのサインだ。
「はあ……んっ」
「バブゥ」
 反応を確かめながら、顔や首にキスを浴びせていく。
「あっ……やんっ」
「ジュルルッ……チャーンチャーン」
 胸元を広げてバストを揉んでこねくり回す。そしてわざと音を立てて乳首に吸い付く。
「……赤ちゃんみたいね」
「ハーイー!」
16:
 彼女はわざと音を立てられたり、言葉ではっきりと責められるのが好きなのだ。
 今日はおっぱいを執拗に愛撫する。いやおっぱいだけしか目に入らない。おっぱい最高。
「もうっ……胸はいいからこっちも……っ」
「バーブゥ……」
 おっぱいから引き剥がされて下半身に触れるように促される。仕方なく甘い香りのおっぱいから、ゴルゴンゾーラの香りのする彼女の陰部に口付けする場所を移した。
「いいっ! ……もっとぉ」
「ちゅるるるっ……ハーイハーイ!」
 性感帯は把握している。今日も濡れるのは早かった。
「いい……そろそろきて……」
「チャーン!」
 そして俺は勢い良く彼女の中に侵入した。
17:
「あっあっあんっ」
「バブバブバーブゥ!」
 彼女は少しMの気が有るのか、荒々しく扱われるのが好きなようだ。
「いいっ! いいーっ!」
「ハイハイハイハイハーイ!」
 後ろから責めていた体勢を向かい合う形に直し、動きをめて終盤戦に備えた。
「もっともっとぉーッ!」
「ハーイー!」
 彼女の腰の動きを合わせる。そろそろフィニッシュだ。
「きてぇ──っ!」
「チャ──ン──っ!」
 果てた後は2人とも早々に眠りについた。
18:
 翌朝、俺が目を覚ますと彼女が横に居ない。
 朝食でも作っているのかと思い、のそのそと起き上がって洗面所で顔を洗った後にリビングへ行くと、テーブルの上に手紙が置いてある。
 そこにはこう書かれていた。
『ごめんなさい。エッチの時までイクラちゃんな人とはやっぱり付き合えません。別れてください』
 俺は慌てて彼女に電話をかけた。が、既に着信拒否にされていた。メールも同じで、送信しても直ぐに帰ってきてしまった。
 ――病気かもしれない俺に付き合いきれないならまだしも、まさかこんなことになるとは思ってもみなかった。
 最悪な朝だ。窓から射し込む光が目に痛い。俺はリビングの椅子に腰掛けて、起き抜けより更に重くなった頭を抱えた。
「はあーっ……うッ!?」
 しばらくそうしていると、突然、頭痛が襲ってきた。一連の症状のせいだろうか。
 具合が悪くなったらすぐに来てください、という医師の言葉を思い出した俺は、救急車を呼ぶことにした。
21:
「はい119番です。救急ですか、消防ですか?」
 キリキリと差し込む痛みを頭に感じながら、救急と俺は言った。
「バーブバーブ!」
 つもりだった。
「もしもし!? こちらは119番ですが、救急ですか、消防ですかっ!?」
 ますます酷くなる頭痛と共に吐き気まで覚えてきた。救急と改めて言う。
「ハーイハーイッ!」
 はずだったのだが。
「なんだイタズラか」
 無情にも電話を切られてしまった。
 このままでは埒があかないと悟った俺は、筆記用具を持って家の外に転がり出る。そして最初に会った隣人に『救急車を呼んでください。激しい頭痛がするのですが上手く喋れません』という文字を書いてみせた。
24:
 瞼を開けると白い天井があった。
 やがてぼんやりした頭が回転を始めると、俺はどうやらどこかのベッドに寝かされているらしいことが解る。
「あら、気がつきましたねー」
 白い服を着た女性が俺のベッドに顔を覗かせた。服装からするとどうやら看護士らしい。ここは病院だろうか。
「あの、ここはどこですか……」
「ここは病院ですよー。あなたは救急車で運ばれて来た後に、気を失って3日間も寝てたんですよー」
 俺が神経内科を受診した総合病院だった。気を失った時のことは良く覚えていないが、どうやら俺は助かったようだ。
「具合はどうですか?」
「はい……まあまあでーす」
「良かった。今、先生呼んできますね」
 そう言って去った看護士は、しばらくすると神経内科の担当医師を連れて戻ってきた。
25:
「MRIで詳しく検査したところ、血栓が神経を圧迫していました。血栓を取り除く処置をしたのでもう大丈夫かと」
 医師はノートパソコンで検査と処置の結果の画像を俺に見せながら語りかけてきた。確かにさっきからの俺の言葉には、ハーイ、チャーン、バブは出てこない。
「やっぱり悪いところがあったんですかー」
「見付けられなくて申し訳ありません」
 医師は頭を下げてきた。
「いえ……それより普通に喋れるようになって良かったでーす」
 俺はそう言ってみせた。大変だったし失ったものもあったが、悪いところが治ればそれで良いかとも思う。
「ちょっとトイレに行きたいデス」
「はいはい。気を付けてくださいねー」
 ほっとすると何故か尿意を覚えた。その事を告げて看護士に介添えしてもらいながら、俺はベッドから立ち上がって靴を履いて歩き出した。
26:
 すると。
 すっぴょろぽろりん。
 何やら間の抜けた音が足下から聞こえてきた。俺はもう一歩足を進める。
 すっぴょろぽろりん。
 どうやら俺の足音が間抜けな音の原因のようだ。
「この音は何デスかー? 先生ー! 俺のイクラちゃん症候群は治ったんじゃないんデスか?」
「これは……」
 医師は考えをまとめるように少し黙った後、真顔でこう言った。
「タラちゃん症候群ですね」
─完─
27:
以上で完結です
閲覧、支援、ありがとうございました
28:
乙カレー!
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