勇者「君こそが、僕を救ってくれるんだ」【後編】back

勇者「君こそが、僕を救ってくれるんだ」【後編】


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2:
26
橋を渡りきった先には白銀の世界があった。吹雪は視界を遮り、体温を奪う。
勇者は赤黒いマントに包んだ僧侶を抱えながら、北の大陸を踏む。
足元の雪は冷たくまとわりついてくる。そこには悪意を感じることができた。
全てが意思を持って、自分の行く先を遮ろうとしているように見える。
東に向かって数時間歩いたところで、小さなピラミッド型の影が見えた。
近づいてみると、それは簡易型とも呼べるようなテントだった。
勇者はそこへ身を滑り込ませ、僧侶を脇に置いて、倒れこむように身を投げる。
内部は、人間ふたりが寝転べば足の踏み場が失くなってしまうほどの広さだった。
漫然と見回すと、隅のほうにはカンテラや鉄の鍋、
火を起こすための石が無造作に転がっている。
それ以外にはものといえるようなものはない。
ほんとうに眠るためだけの簡易テントなのだろう。
手足を伸ばすと、関節に冷気が流れ込んでくるような感覚に襲われる。
手足を折りたたんで身を丸め、テント内の暗闇に目を向ける。
身体が夜の闇に飲み込まれていくような気がした。
723:
「寒いな」と影が言った。「こんな雪ははじめてだよ。砂嵐みたいだ」
「そうだな」と勇者は言った。「僕は砂嵐を見たことはないけどな」
「僕だってそうさ。僕はきみで、きみは僕なんだからな」
「分かってる」
「分かってるならいいんだ。
僕を否定するというのは、自分自身を否定するのと同じだからな。
たとえ僕が過去の弱いきみであろうと、それはやっぱりきみ自身なんだ」
影は笑った。
「こう寒くて寂しいと、お腹が減ってくるよな。
お腹が減ると苛々するし、眠れないんだよな」
「そうだな」
たしかに空腹感と孤独感が、瞼を軽くしているように感じられる。
自分自身に苛々もしている。ただ、それ以上に寒くてどうしようもなかった。
関節は折りたたまれたまま、凍りついてしまったかのようだ。
「なあ。外に行かないか?」
724:
「外」勇者は目を見開き、テントの布越しに外の闇を凝視する。
耳を澄まさなくても、空気を切り裂くような鋭い風の音と、
テントに叩きつける雪の弾けるような音が聞こえる。
見なくても、テントの外では悪意を持った吹雪が跋扈しているのが分かる。
「外に出てどうするのさ。僕に死ねっていうのか?」
「あのな、言わなくても分かっていると思うけど、きみが死んだら僕も死ぬんだ。
きみは死にたがっているのかもしれないけど、僕はまだ死にたくはないんだ。
僕はきみに生きていてほしい。だからこそ外へ行くんだ。
もしかすると、小さなウサギなんかがそこらにいるかもしれない」
「一日くらい、何も食べなくたって死にはしないさ」
「吹雪が一日で止むだなんて誰が言った?
吹雪が何日も続いてみろ。きみはどんどん弱っていく。もちろん僕もだ。
そしたら外に行くどころか、もう歩くこともできなくなるかもしれない。
体力がある今のうちに動いて、腹をふくれさせるんだ」
「腹が減っても死にはしないし、僕は歩くことができる」
「いいや、できないね。きみは人間なんだから」
「どうだか」勇者は吹き出した。
725:
「きみは人間だ」と影は言う。
「きみの内側を満たしている黒い煙はきみを前に動かすための原動力にはならない。
今のきみが魔王を討つのに必要なのは、充分な睡眠と食事だ。
彼女も言ってただろう、“いっぱい寝て、お腹いっぱいになってからが始まりだ”ってさ。
“そこがゼロなんだよ”。
もっと冷静になれ。炎を見失ったからといって、うろたえちゃだめだ」
「見失ってなんかいない」勇者は赤黒いマントに目を向ける。「炎はそこにある」
「冷たくて光を放たない炎なんて、炎じゃない。あんなものは氷と同じだ。
きみが炎で、あれは氷だ。でもきみは氷に飲み込まれかけている。
炎が氷に負けるなんて、聞いたことがないのにな」
「僕は炎じゃない」
「そうだな。きみは光だ。ただの光だ。
だからきみの足元に僕みたいな大きな影が生まれるのは当然のことだ。
……それで結局、外には行かないのかい?」
「今は行かない。ものすごく身体が重くて、眠いんだ」
「じゃあ眠るといい。僕はきみが死なないように祈ってるよ。おやすみ」
726:
翌日も吹雪だった。翌々日も吹雪だった。その次の日も吹雪だった。
勇者は身を折りたたみ、テントのなかでうずくまっていた。
四日間なにも口にしていないとなると、さすがに腹は空っぽの悲鳴を上げる。
「だから僕は言ったんだ」と影は言う。
たしかに影の言うとおり、身体から自由はゆっくりと奪われていった。
関節はほとんど凍りついたような感覚だ。
視界はかすみ、歪んでいる。目からは何かの栓が抜けたみたいに涙が溢れている。
思考は回り続ける。過去に想いを馳せ、暗い未来を想う。
そして終わりの先のことを夢想する。
727:
「今なら間に合う。早く外に行け。
とりあえず雪を集めてこい。鉄の鍋にぶち込んで、湯を沸かせ。
身体を暖めろ。いいか、死ぬんじゃないぞ、歩くんだ。
考えるのを止めるな。お前は勇者なんだろう?
前にも言ったけどな、お前は俺よりも強いんだ。
もっと自信を持て。お前は死んじゃだめなんだ」
勇者は言うとおりにテントから這い出て、雪をかき集めてまたテント内に戻る。
集めた雪を鍋につめて、魔術の炎で湯を沸かしてそれを飲んだ。
凍りついた身体の芯はほぐれ、吐き出した呼気が白く染まる。空腹を強く感じる。
「お腹が減ったね? 寒くて悲しくて寂しいね?
分かるよ。わたしはきみのお姉さんだからね。
今のわたしじゃあきみを温めることはできないけれど、
ほかの方法できみを救うことができる」
勇者は声に耳を傾ける。でも声はそれっきり止んだ。吹雪の音だけが聞こえる。
赤黒いマントに目を向ける。
腹が鳴った。喉が鳴った。涎が沸いてくる。身体が震える。
728:
「好きなようにすればいい」と影は言った。
「それを実行することできみの内側には変化が起こる。
良くも悪くも、とても大きな変化だ。
それはきみを救うかもしれないし、破滅させるかもしれない。
でもな、考え方を変えてみてくれ。彼女を自分の内側に閉じ込めるんだと。
きみと彼女はほんとうの意味でひとつになるというふうに。
きみがそれを望むのならそうすればいい。僕に有無を言う権利はない。
僕はきみであることを放棄したんだ。僕はもうきみじゃない。
きみ自身が選ぶんだ。それは全て正解になる」
勇者は力を振り絞って手を伸ばす。
729:

二本の足で地面を踏み、テントの外に出る。
吹雪は止んでいた。朝である筈なのに、空は夜のように暗い。
冷たい雪の感触は、勇者の身体を震わせる。震える身体を引きずり、歩く。
十時間も進むと、またテントがあった。勇者はそこに身を隠すように入り込む。
なかには鉄の鍋があった。雪をつめ、湯を沸かし、喉を潤す。
腕に伸し掛かる罪の重さを測る。ゆっくりと軽くなってきている。
翌日も翌々日も歩いた。天気は曇りだった。
簡易テントはいくつもあった。どれも大きさは似たり寄ったりだった。
中身も同じだ。テントを見つける度に鍋に雪をつめて、
湯を沸かして飲んで、白く長い息を吐き出した。
湿っぽくて熱い空気が喉を通り抜ける。そこには不思議な心地よさがあった。
そして罪の重さを測る。それはやがてゼロになった。
思考を停止させて、足を動かす。それはさほど難しいことではなかった。
一度始めてしまえば、あとは勝手に足が動いてくれた。そうして勇者は前に進んだ。
730:
大陸をはじめて踏んだ日から数十日が経った。
景色はほとんど何も変わらない。変わっていくのは自分だけだ。
大きなものを失って手に入れた満腹感は、すぐに消えていった。
また空腹感が湧き上がり、全身を覆う。寒さや孤独を強く感じる。寂しくて、悲しかった。
勇者は自分自身が弱っていくのをただ見ていることしかできない。
どうすればいいのかが分からない。どうすればここから出ることができる?
顔を上げる。滲む視界に空が映る。
黒々とした雲が不気味に立ち込めており、辺りを照らすものは何もない。
足もとに広がっているはずの真っ白な雪でさえも、黒色にしか見えない。
まるで泥沼のなかを歩いているような錯覚に陥る。
それからしばらくすると、大きな影のようなものが見えた。
赤黒いマントに身を包み、早足でその影を目指して歩く。
731:
影の正体は、木造の家屋だった。
他にも十ほど、同じような家が円を描くように並んでいる。
おそらくここが、ひとつ眼の怪物の言っていた廃村なのだろう。
どこの家屋にもひとの気配や温かみはない。
勇者は家と家の隙間から円のなかに入り込む。
見えない壁を通り抜けたような気がした。
魔術の村の“膜”のようなものが、ここにはあるのかもしれない。
しばらく円の中心に向かって歩くと、また影が見えた。小さな影だ。
歩く度を上げる。
円の中心と思しき場所には小さな岩があり、その上に誰かが座っていた。
小さな影の正体は人間だった。勇者は目を細めて凝視する。
732:
そのひとは、夜に溶けこむような真っ黒なローブの上に、二重にマントを羽織っていた。
鍔の長いとんがり帽子からは、流れ落ちるように長くまっすぐな栗色の髪が覗いている。
その姿はおとぎ話に登場する魔女を思わせた。
ローブの袖から覗くほっそりとした手首には張りがあったが、乾いているように見えた。
どうやら女のひとらしいが、杖を抱きしめるようにして
岩の上に座り込み俯いているので、顔が見えない。歳は分からない。
ひとつ眼の怪物が言っていたのは、彼女のことなのだろう。
七年間ずっとひとりで、門が開くのを待っているひとというのは。
733:
ちらちらと雪が降り始めた。夜の闇は濃さを増したようだ。
勇者は距離を開けて、彼女の前に立つ。
彼女の栗色の髪が冷たい風に揺れた。表情は暗くてよく見えない。
しかし、表情や年齢はどうでも良かった。
そこにひとがいるという事実が、勇者の胸を熱くさせた。
人間など、もう何十日も見ていなかった。
目の前の人間こそが僕を救ってくれるんだろう、と思う。
ゆっくりと前に手を伸ばす。手は汚れていた。黒ずんだ血がこびりついている。
その時、彼女の頭上に巨大な光の球が現れた。その輝きは太陽を思わせた。
大地を平等に照らす、大きな光だ。しかし、そこに温かみはなかった。
冷たい光は勇者の身を照らし、足元に影を落とす。影は遥か背後まで伸びている。
「すごいや」と影は言った。「眩しいよ」
あまりの眩しさに怯みながら、手で目を覆うようにする。震える声を絞り出す。
「……あなたは誰?」
「……わたしは」彼女はゆっくりと顔を上げながら言った。「わたしは、魔女」
734:
勇者はもう一度、魔女と名乗る女に目を向ける。
顔立ちは、子どもっぽいかわいらしさの残る、二十代の中頃のように見える。
しかし、彼女の目には炎が灯っていなかった。そこに子どもらしさは感じられなかった。
海の底や、今の空をそのまま瞳に埋め込んだみたいな、先の見通せない闇がある。
それはまるで、鏡に映った自分の目を見ているように思えた。
彼女の目は語りかけてくる。「わたしは独りだ」と。
勇者の目は言う。「僕は独りだ」と。
735:

長い夜は始まる。
737:
27
一晩中叫んでもユーシャは戻ってこない。窓からは頼りない光が射している。
何かが変わっても、朝はいつもと同じようにやってくるのだ。
たとえ誰かが死んでも、朝は来る。
魔法使いは眠ることができず、暖炉の前に座り込んでいた。
身体中を気怠い感覚に支配されている。
瞼が重い。目が痛い。頬には涙がこびりついている。
口のなかは乾いている。喉が焼けつく。身体は火照っている。吐息も熱い。
暖炉の前でユーシャのマントに包まり、それに顔を埋める。
マントからはもう彼のぬくもりがほとんど失われている。
でも香りを感じることができた。大きく息を吸い込み、下腹部へ手を伸ばす。
マントを噛み、目を瞑る。瞼の裏に彼の身体を想い描き、ぬくもりと感触を思い出す。
瞼の裏の彼は手を伸ばす。幻の手が身体を這う。
唇を舐める。口づけの感触を思い出す。
顔が火照る。下腹部は熱く湿る。細い指は性器をなぞる。腰はちいさく揺れる。
噛む力は強まる。汗が浮く。涙が浮く。大きな感情の濁流が生まれる。
流れはぶつかり合って渦を生む。
738:
抱いてほしい、と想う。今だけはここにいて、この身体を彼に委ねていたい。
次に目が醒めたとき、彼が隣にいてほしい。
手を伸ばせば届く場所に、ぬくもりがほしい。
炎のぬくもりなんていらない。そんなものがなくたって、
わたしの手を握ってくれる大きな手があればそれでいいのに。
幻の大きな手がゆっくりと性器を撫でる。
彼の手のひらは乾いていて、ごつごつとしていた。
乾いた指はなかに入り込む。壊れ物を扱うような手付きで、指は内側を出入りする。
ちいさく声が漏れる。でも誰にもその声は聞こえない。
瞼の裏には、二日前の彼との性交の場面が浮かぶ。
主観ではなく、第三者目線でそれは見える。
魔法使いはユーシャのそれを咥えながら、性器に舌が這う感触を思い出す。
腰はちいさく揺れる。吐き出された精を喉の奥に送り、小さな絶頂を迎える。
一瞬だけ身体から力が抜けたが、それはすぐに戻ってくる。
彼のそれを性器で咥え、腰を振る。たとえどちらが果てようと止めるつもりはなかった。
このままふたりで死んでしまえばいい、とその時は思っていたのを思い出す。
今は、このままひとりで死んでしまえばいいという考えが脳を掠めた。
739:
瞼の裏のユーシャはもう一度射精する。
内側に熱い何かが込み上げてくるのを感じた。
魔法使いも絶頂を迎える。身体から力が抜け、ユーシャに向かって倒れこむ。
大きな腕が身体を包み、大きな手が背中にまわされる。
そのまま腰を振り続ける。艶かしい音は彼を固く、熱くする。
数えきれないほどの頂きを味わうと、意識がゆっくりと遠のいていくのを感じた。
ぼやける視界で、必死に彼の目を探した。見つけ出した彼の目はどこか淋しげだった。
身体から力がなくなった瞼の裏の魔法使いはそのまま眠る――
自分の指で絶頂を迎えた魔法使いは、頭の中が白くなっていくのを感じた。
瞼の裏の幻想は消える。目をゆっくりと開き、その場にへたり込む。
吐き出した息は熱かった。
740:
彼はここにいない。暖炉のなかの薪がぱちぱちと音をたて、雪が窓を優しく叩く。
でも足音はない。今日も彼は帰ってこない。そういう予感がした。
棘の付いた茎で胸を締め付けられるような感覚に落ちる。
目を瞑る。彼の事以外、何もかもを忘れてしまいたかった。
勇者や魔王なんてどうでもいい。世界やその平和なんてどうでもいい。
誰かがどこかで死んでいるとか、そんなこともどうでもいい。
隣に彼がいないことには何も始まらないのに、と思う。
瞼の裏に見えた世界から色が失われていく。
魔法使いの内側の世界は、ゆっくりと滅んでいった。
意識は自分の深みに落ちる。
真っ暗な、光のない世界に落ちるような気分だった。そこに救いは見えない。
741:
ユーシャが門をくぐってから三日が経った。
彼は戻ってこない。魔法使いはひとりだった。
気怠い感覚が身体から抜けない。
胃は空っぽで軽いのに、身体はどんどん重くなっていった。
ああ、胃が空っぽだからか、と思い当たる。いったいわたしは何をしているんだろう?
とても寒い。暖炉には白黒になった薪が転がっている。炎は灯っていない。
ユーシャのマントからは完全に彼のぬくもりが失われていた。
マントにあるのは魔法使い自身のぬくもりだった。
細い足で立ち上がり、ふらふらと歩く。家中を見回す。食べ物はない。
あるのはカビの生えた硬すぎるパンのようなものだけだった。
それは道端に転がっている石のように見えた。
道端に転がる石のように、いろんなものが家中に転がっていた。
錆びた鉄鍋、壊れたカンテラ、破れたカーテン、
脚の折れた机と椅子、引き裂かれた毛布、髪の毛と人骨。
それらには価値を見出すことができなかった。
ほんとうに道端に転がる石のようだった。
すべて蹴飛ばして、綺麗にしてやろうかと考えたが、どうでもよくなって止めた。
742:
暖炉の家(魔法使いはこの家をそう呼ぶことにした)から出て、
右隣に見える家に向かう。
鍵はかかっていなかったので、そのまま足を踏み入れる。
ここも暖炉の家と同じように荒れていた。
床には古い血がこびりついていた。黒ずんだ床は不気味に見える。
踵を返し、もう一軒隣の家に向かう。今までの二軒より、すこし大きな建物だ。
そこもやはり鍵はかかっていなかった。ドアを開けてなかに入る。
ドアは背後で大きな音を鳴らして閉まった。
目の前には薄暗く長い廊下が続いていて、その左右の壁には
またドアが等間隔で付けられている。右に四つ、左に四つだ。
右側の一番手前のドアを開け、なかに入った。
そこは小さな部屋で、壁を覆うようにして本棚が配置されていた。
本棚には隙間なく本が詰め込まれている。
その光景は故郷の村の図書館を回想させた。
図書館とは呼んでいるが、あそこもここもさして変わらない。
743:
故郷の村の図書館というのは、誰も使っていない建物に本棚を詰めて、
そこに本を詰めただけのものだった。
ふつうの家よりも本がたくさんある家と呼んだほうが分かりやすいかもしれない。
村の図書館の部屋のひとつには長細い机があって、椅子が八つあった。
ユーシャはいつも一番角の椅子に座り、魔法使いはいつもその隣に座った。
図書館の利用者は皆無と言っていいほどだった。
あそこはわたし達だけの空間だった、と思う。
部屋から出て、向かいの戸を開けた。
正面には長細い机と六つの椅子があって、奥に暖炉が見える。
ほかの部屋も見まわってみた。残った六つの部屋は最初の部屋と同じように、
村の図書館を回想させる光景だった。
しかし、知識で食欲が満たされるわけではない。
食べ物らしきものはひとつも見当たらない。
そもそも、何年も放置された廃村に食料があったところで、
それを食べることができるのだろうか?
できる。ただし、身体がどうなるかは分からない。
腹を下したり、嘔吐が止まらなくなるかもしれない。
その場合は結局空腹感は増すだろう。
今の状況と比較すれば、そんなことはべつにどうってことはない。
744:
覚束ない足取りで、また外に出る。
いったいどれだけの時間が経ったのか、魔法使いには想像もつかなかった。
もう何百年もこうしているのではないかという錯覚に陥る。
空腹と暗い空は感覚を狂わせていく。
遠くに、大きな動物が見えた。それは熊のようにも見えたし、人間のようにも見えた。
べつに熊でも人間でも、どうでも良かった。
魔法使いはぼんやりと口のなかで呪文をつぶやき、
その大きな動物の頭上に、氷でできたギロチンを作り上げた。
ギロチンはほとんどまもなく振り下ろされ、その動物の身体を二つに割った。
雪景色のなかの血だまりは、草原にぽつりと咲く
花のように淋しげな存在感を放っていた。
近寄ってみると、それは人間ではなく、熊だったことが分かる。
魔法使いは二つになった熊をさらにばらばらにしてから、暖炉の家に持ち帰った。
何も考えずに軽く焼いた熊の肉にしゃぶりつき、咀嚼し、喉を通し、胃に送った。
粘着く肉は決して美味とは言いがたかったが、
それが喉を通り抜ける感触には不思議な心地よさがあった。
空腹感は消えて、すこしだけ気分は浮上する。
それでも最低の気分であることには違いなかった。
この世でもっとも自分が不幸なのではないかという根拠もない考えが脳をかすめる。
おそらくそんなことはないのだろうが、そう思わずにはいられなかった。
魔法使いにとって、ユーシャが居なくなるというのは
考えうる限りでは最低の出来事だった。
死ぬことと同意義か、死以上に悲惨なものだった。
745:
自分が酷くちっぽけな存在に見えてくる。
元からそうだったけど、今更になってそれに気づいただけなのかも。
わたしひとりでは最愛の人間を引き止めることもできない。
そう、わたしはひとりじゃあ何もできない。
湯を沸かし、それを飲んだ。白湯は落ち着きを取り戻させた。
頭が冷め、自分の置かれた状況が鮮明に見える。
魔法使いは図書館(先程の建物をそう呼ぶことにした)に向かった。
左側の一番手前のドアを開き、なかに入る。
暖炉に火を付けて、ほかの部屋から本を何冊か抜き取って戻ってくる。
角の席をひとつ開けて、その隣に座った。
そして本の頁を捲る。書かれた文字をゆっくりと目で追う。
その様にして魔法使いは孤独を忘れ去ろうとした。
明日には彼がきっと戻ってくると言い聞かせて、
暖炉のぬくもりに彼のぬくもりを重ね、黙々と生きた。
746:
ユーシャが門をくぐってから七年が経った。
彼は戻ってこない。魔法使いはひとりだった。
気がつけばもう二四歳だった。身体はすこし大きくなった。
心は凍りついたまま、成長しなくなった。
果たしてそれがいいことなのか悪いことなのかは判別できない。
心が成長することで彼の存在が褪せてしまうのなら、
もう一生このままでもいい、と思う。
変わっていくものはあるが、変わらないものもある。
身体が変化しても、心とこの廃村は何も変わりやしない。
一日たりとも彼のことを考えない日はなかった。
記憶は薄れるどころか、どんどん濃くなっていく。
身体も心も彼を求めていた。
暖炉の炎では完全に身体が温まることはないし、魔法使いの指は酷く細い。
それでも暖炉の前で自分を慰めないわけにはいかなかった。
ぶつける場所のない想いはそうして吐き出すしかなかった。
747:
その日も暖炉の前でマントを噛んで、小さな頂きを迎えた。
長い息を吐き出して壁に凭れ掛かり、自分の身体を眺める。
一七歳の頃と比べると、すこしだけ身体が大きくなった。
髪もかなり伸びた。指がやけに細く見える。
胸はすこし大きくなった。平均よりもすこし小さいくらいだろうか、と思う。
顔立ちはどうだろう。大人びて見えているだろうか。
彼が今のわたしを見たら何と言うだろう?
窓の外には夜の帳が降りていた。彼が戻ってくる気配はない。匂いも足音もない。
今日も図書館に行こうか、とぼんやりと思った。でも止めた。
今日だけは何故か、胸がざわざわとしていた。
暗く大きな草原に冷たい突風が吹いているような、不穏な空気が胸を満たす。
何かが起こるという予感があった。そこには運命的な何かを感じた。
彼が勇者に選ばれたのと同じように、それは最初から決まっていたのかもしれない。
748:
魔法使いは外に出る。
空気は冷たい。足元も冷たい。周りには冷たいものしかなかった。
円型に並ぶ家の中心にある石に座り、それを待つ。寒い。寂しい。
杖を抱く。帽子を深くかぶる。伸びた髪は地面に付きそうだった。
弱い風が吹き、髪を揺らした。
そしてそれは訪れる。
亡霊が闇から湧き上がるように、その少年は現れた。
赤黒いマントに包まりながら、こちらに近づいてくる。
ユーシャではない。そのことは魔法使いを酷く失望させ、
再び地獄に落ちるような感覚に陥らせる。
彼でないならもう用はなかった。
七年ぶりに人間に会ったというのに、これといった感情は湧いてこない。
むしろ期待は失われていった。様々なものが失われて、さらに今また失われた。
749:
魔法使いは魔術の光で辺りを照らした。
目の前の少年は眩しさに目を覆うように手をかざして言う。
「……あなたは誰?」
「……わたしは」
わたしは、わたしは誰? どうすればわたしはわたしでいられる?
目の前の少年は良くも悪くも変化をもたらすだろうと、直感が告げている。
でもこの子にはここにいてほしくなかった。
ここが自分と彼の場所のように思えてきたからだ。
彼は約束をしてくれた。誰もいないところで、ふたりきりで暮らす、と。
ここには誰もいない。この廃村こそが望んでいた場所のように思えた。
ここがわたしの終着駅だ。
魔法使いは顔を上げて言う。「わたしは、魔女」
そうすることで、少年が遠ざかっていくことに期待した。
何かに期待するのは久しぶりだった。
でも薄々感づいていた。期待はことごとく裏切られるのだ。
規則が破られるのと同じように、期待は裏切られる。
750:
目の前の少年は虚ろな目を持っていて、酷くやつれているように見えた。
歳は一七とか一八とかそこらだろう。
短い髪は汚れている。手も汚れている。顔も汚れている。
少年は汚れきっていた。目は濁り、そこに光を見出すことができない。
わたしと同じだ、と魔法使いは思った。わたしもこの少年も、独りだ。
「きみは何しにここへ来たの」と魔法使いは冷たく訊ねた。
少年はすこし間を開けて言う。「魔王を殺しに来た」
「ほんとうに言ってるの?」
内心ですこし驚いた。が、表情に出るほどではなかった。
「ほんとうだよ。そうでなかったら、こんなところには来ない」
「でも、わたしはここにいるわ」
「あなたは“門”が開くのを待ってるんだろう。七年も」
「どうして」魔法使いは石から腰を上げた。「どうして知ってるの」
751:
「知り合いに聞いたんだ。すごく目のいい知り合い。
僕の友人を殺したんだ、そいつ。信じられないよ」
少年は淡々と言った。「ほんとうに、信じられない」
とくべつ浮き出た感情はないように見えた。
落ち着いている、というよりは、諦めている。
物事に冷め切っている。目が凍りついているのだ。
「知り合いって、誰」と魔法使いは訊ねる。
「西の大陸の北端に、大きな塔があるだろう」
「知ってる」おそらく、故郷の村の北に見えた塔のことだろう。
「その塔の上には怪物がいるんだ。正確に言うと、いたんだ。大きな目を持った怪物が」
「……そいつがどうかしたの?」
「そいつが教えてくれたんだ。あなたがここで七年間、“門”が開くのを待ってるって」
「その怪物が喋って教えてくれたっていうの?」
「信じてくれないならいいさ」
752:
「……正確には」と魔法使いは言う。
「あるひとが“門”から帰ってくるのを待ってるの」
「大事なひとなんだね」
「そう。とても大事なひと」
「そっか」少年は弱々しく微笑んだ。
「ねえ」魔法使いは歩き始める。
「もうすこし詳しく話を聞かせてもらえないかしら」
少年はうなずいた。
753:

図書館に足を踏み入れ、廊下左側の一番手前の部屋に入った。
暖炉に火をともして、少年を座らせる。魔法使いも正面に腰掛ける。
少年は顔についた雪を手で拭う。
手も顔も、血で酷く汚れていた。特に口周りが酷かった。
おそらく、ウサギや熊の肉をそのまま食べたのだろう。
そして血を拭うということに気がまわらないほどに参っているのだろう。
白湯を差し出す。「こんなものしかないけど、ゆっくりして」と魔法使いが言うと、
少年はコップを包み込むようにして掴み、「ありがとう」と言った。
じっと少年の顔を見る。「……ねえ。わたし達、どこかで会ったことがあるかしら」
「分からない」少年は顔を上げて、こちらの目を見る。
「でも……どこかで会ったことがあるかもしれない」
「そっか」
754:
沈黙が空間を埋める。空を切る風の音、暖炉のなかで何かが弾ける音、
窓がちいさく揺れる音、部屋にある音はそれらしかなかった。
しばらくして魔法使いは訊ねる。
「それで、きみはどこから、何のためにここへ来たの?」
「東の大陸の小さな村から南の大陸へ、
それから西の大陸を渡ってここへ来た。魔王を倒すために」
「ひとりで?」
少年は黙って首を振った。「僕を含めて三人」
「ほかのふたりは」
「死んだ」と少年があまりにも淡々と言うので、
恐怖に近い感情が湧き上がってくる。
755:
「死んだ」と魔法使いは繰り返す。
もしかすると、わたし達の置かれた境遇は似ているのかもしれない、と思う。
「殺されたんだ。ひとりは蜘蛛の巣の骸骨に。
ひとりはさっき言った大きな目の怪物に」
「蜘蛛の巣というと、南の大陸の」
「そう。電気を吐く蜘蛛がいる、あの洞窟」
「……わたしの友人もあそこで死んだわ」魔法使いは回想する。
「わたしも、わたしを含め三人で旅をしていたの。
きみと同じように、魔王を倒すために」
「どうして魔王を」少年の目がすこし揺れた。
「“門”をくぐった彼が勇者だからよ。わたしは彼に付いていっただけ。
でもね、多分彼は本物ではないの」
「どういうこと?」
756:
「西の大陸に、くだらない御伽噺があるの。
星形の痣を持った勇者が云々、みたいなね。
彼の手の甲にもあるの、星形の痣が。それだけ。
痣があるからって、それだけで勇者なんておかしいわよ。
それに、あの痣はわたしが……」魔法使いは続きを言いかけて止めた。
そんなことを話したって、彼は戻ってこない。
魔法使いは首を振ってから続ける。
「それで、どうしてきみが魔王を倒す必要があるの?
べつに倒すとしても、きみが倒す必要はないんじゃないかしら」
「僕は勇者だから、僕が殺さなきゃだめなんだ」
「勇者?」魔法使いは驚いて言った。「きみが?」
少年――勇者はうなずいた。
「嘘みたいだけど、ほんとうなんだと思う。僕にもよく分からない。
でも“門”が開けば僕は勇者だってことになる」
「どういうこと?」
「“門”は勇者がいないと開かないんだ。大きな目の怪物はそう言ってた」
「じゃあ、彼が門をくぐれたのは?」
「あなたの言う“彼”が勇者だから、ということになると思う」
757:
「“門”が閉じたのは、彼が、勇者が向こうに行ったから、ということ?」
「そういうことなんだろうね。
勇者がふたり居るということについては何も分からないけれど」
魔法使いは椅子に深く凭れて、長い息を吐き出した。すこし混乱していたが、
薄暗い視界に一筋の光明を見出したような気分だった。
もしかすると、“門”をくぐることができるかもしれない。
目の前の少年こそが“門”を開き、今の状況をひっくり返す鍵なのだ。
「“門”はどこにあるの」と勇者は訊ねる。「廃村の金鉱にあるらしいんだけど」
「ここからすこし歩いたところに洞窟があるわ。
たくさんの金が眠った洞窟よ。その一番奥」
「連れて行ってくれないかな」と勇者は言う。
「確かめておきたいんだ、僕がほんとうに勇者なのか」
「分かった」
758:
魔法使いと勇者は立ち上がり、二枚のドアをくぐる。
外では皮膚を貫かんばかりの冷たさの風が吹いていた。
その風は何かを歓迎しているように感じられたし、
行く手を阻もうとしているようにも感じられた。
円型に並んだ家々の中心の岩から北へすこし歩いたところで、
壁をくりぬいたような大きく暗い穴が姿を見せる。
吸い込まれるように洞窟の中へ入る。魔法使いは魔術の光で辺りを照らす。
この洞窟に入るのは三日ぶりだった。
壁のかたちや足元のレールの曲がり具合などは、ほとんど覚えている。
週に一回はここを覗きにいくようにしていたのだ。
しかし結局、彼は七年経っても戻ってはこなかった。
759:
十数分歩いたところで突き当りに辿り着く。
“門”は七年前と同じように、開いていた。
そこから流れ出る異質な空気は、魔法使いを酷く高揚させた。
身体が熱くなり、肌が粟立つ。
心臓が、自分とはべつの生物のように思えるほどに跳ねる。
「あれが、“門”」と勇者は言った。
「そう」と魔法使いは震える声で言った。
十秒ほど“門“を眺めた勇者は踵を返し、歩き始める。
「どこへ行くの?」と魔法使いは勇者の背中に言った。
「さっきの家で、すこし眠りたいんだ。それに、準備がいる」
「心の準備とか」と魔法使いが言うと、「そう」と勇者は言った。
760:

図書館の暖炉がある部屋まで戻ってきた。
魔法使いと勇者は暖炉の前に座り込む。勇者との間には絶妙な距離がある。
お互いの領域に侵入するほど近くもなければ、
手を伸ばしても届かないほど遠くもない。
ちょうどいい隙間があった。それは魔法使いの気分をすこし楽にした。
しばらくお互いに無言で炎を見つめていると、
勇者は小さな袋を取り出して、中身をひっくり返した。
袋から出てきたのはナイフと数枚の金貨、指輪、髪留めだった。
小さなおもちゃ箱をひっくり返したみたいだ。
「それは何?」と魔法使いは訊ねる。
「大きな目の怪物に殺された子の持ち物」と勇者は言った。
「女の子だったの?」
「そう」勇者は髪留めを掴んで、暖炉に投げ入れた。
魔法使いは黙ってそれを見守った。
761:
勇者は続けて、金貨を一枚掴んだ。それも暖炉のなかに投げた。
「彼女は金貨をお守りにしてたんだ。僕にも一枚くれた。
“それがきみを守ってくれる”って言ってさ」
魔法使いは勇者の横顔を眺める。
暖炉の炎に照らされた表情は、すこし翳っているように見えた。
“彼女”の話になった途端、淡々としていた語気にも悲愴感が入り交じった。
「大切なひとだったのね」と魔法使いが言うと、勇者はちいさくうなずいた。
そして今度はナイフを掴んで言う。
「このナイフも、彼女のお守りだったんだ。お守りというか、護身用のナイフ。
でも結局は髪を切ることにしか使わなかった。綺麗な髪だったのに、
いきなり首から下の髪をばっさり切り落としたんだ。びっくりしたよ」
勇者はナイフを脇にそっと置いて、金貨を掴んで投げた。
金貨は暖炉に向かって放物線を描いて落ちた。
勇者は、今度は指輪を掴んだ。
「この指輪は、蜘蛛の巣の骸骨が嵌めてた指輪だ。
彼女が骸骨の腕をふっ飛ばした時に拾った。
僕のもうひとりの友達を殺した、あの骸骨のものだ」
762:
指輪に目を向ける。見覚えのある、金の指輪だった。
蜘蛛の巣の、骸骨が嵌めていた?
妙な興奮が湧き上がってくるのと同時に、ひどい罪悪感がこみ上げてくる。
魔法使いは訊ねる。
「ねえ、その指輪を嵌めてた骸骨の近くに、大きな剣がなかった?」
「あったよ」勇者は魔法使いに目を向ける。
「骸骨が大きな剣で攻撃してきたんだ。魔術も使える」
煙のように曖昧な仮説は、やがてかたちを持った疑いに変わる。
「もしかすると、その指輪はわたしのものかもしれない」
「どういうこと?」
763:
「さっき言った“蜘蛛の巣で死んだ友人”ってのが、たぶんそいつだと思う。
その、骸骨。わたしはそいつに指輪を預けたの。金の指輪を」
「骸骨はどうして動くことができたの? ただの人間の骨だったのに」
「あいつはもしかすると、人間じゃなかったのかも」
「どうしてそう思うの」
「分からないけど、なんとなく」
「じゃあ、つまり」と勇者は声を低くして言った。
「あなたの仲間に僕の仲間は殺されたということ?」
「……ごめんなさい」魔法使いは勇者の目を見ることができなかった。
自分が罪を犯したような気分に陥る。
「……いや、もういいんだ。あなたは悪くないし、それにもう、終わったことだから」
勇者は指輪を魔法使いに差し出した。「……これ、返すよ」
「ありがとう」魔法使いは指輪を受け取り、左手の薬指に嵌めた。
懐かしい感触だった。今でもぴったりと指に合う。
「ほらね」と誰かが言った。「約束は守りましたよ。ひとつだけですけどね」
764:
「ねえ」と勇者は言う。「触ってもいいかな」
「わたしを?」と魔法使いは訝しげに言う。
「手だけでいい。お願いできないかな」
「分かった」魔法使いは手のひらを上に向けて、手を差し出した。
勇者はそこへ手を重ねるように置いた。「冷たいね」
「ずっとひとりだったもの」
「握ってもいいかな」
「お願いするわ」
ごつごつとした指が魔法使いの手を優しく包む。
それはユーシャの手を回想させた。
目を瞑ると、彼がそこにいるように感じられる。
目の前の少年は、弱くなった時の彼にすこし似ている。
「ありがとう」と勇者は言って、目を閉じた。
「こちらこそ」と魔法使いは言い、手を握り返した。
勇者の手は大きく、とても冷たかった。
765:
28
この魔女と名乗る女の仲間が、戦士を殺した?
勇者の腸は煮えくり返ったが、一瞬で冷めた。
このひとを責めたところで、誰かが救われるわけではない。
悪い人は誰もいないんだよ、と自分に言い聞かせる。
しばらくすると、自分がこの世界でもっとも無力で、
もっとも使えない人間のように見えてくる。
「きみは無力で、使えない人間なんだ」と影は言う。
「きみはこの世界中で、もっとも不要な存在なんだ」
どうだろう。ほんとうにそうなのだろうか?
分からない。頭と身体が疲弊しきっていて、何も考えることができない。
ぼんやりとした薄い膜のようなものに、意識や思考、視界が覆われている。
勇者は魔法使いの手を握りながら、目を閉じる。
頭のなかはゆっくりと綺麗になってゆく。
766:
彼女の手はとても冷たかった。その手は僧侶のことを思い出させてくれる。
白い肌、細い指、長い髪、やわらかい身体、性交。
このまま眠れば、僧侶の夢を見ることができるような気がした。
そう感じると、早く眠ってしまいたかった。
一刻も早く、瞼の裏から目を逸らして彼女に逢いたかった。
しかし、なかなか眠ることができない。
勇者は“門”を見つけたことにすくなからず興奮を覚えていた。
心臓は激しく脈打ち、気分が昂ぶっている。
久しぶりにひとに触れたことで、わだかまりのようなものがすこしほぐれた。
気分がいい。暖炉の熱で身体が火照る。意識は沈まない。
「眠れないかしら」と魔法使いは言った。「ひとりのほうが落ち着く?」
「いいや。このままでいい。手を握ったまま、ここにいてほしい」と勇者は答えた。
767:
「そう」魔法使いはすこし間を開けてから言う。
「ねえ、もしきみがよければなんだけど」
「何」
「後ろから抱きついてもいいかしら」
「どうして?」
「きみを見てると、あいつを思い出すの。門をくぐった、彼。ちょっと似てるかも」
「へえ」
「どう? 嫌なら嫌って言って」
「ありがとう。お願いするよ」
魔法使いは握っていた手を離した。それから勇者の背中に密着して、腕をまわした。
耳元に、熱く長い息が吐き出される。身体は優しく締め付けられる。
首筋に髪が触れてくすぐったい。
「すごく落ち着く」と魔法使いは言った。
768:
勇者は黙っていた。声を出すべきではない、と思う。
魔法使いは自分という存在を媒介に、
門をくぐったという彼のことを回想しているのだろう。
決して自分が必要とされているわけではないというのは理解していた。
百のうちのひとつが似ていればいいのだ。類似点がひとつでも見つかれば、
門をくぐった彼のすべてをそこに重ねることができる。
でも声と見た目はどうしても重ねることはできない。
だから彼女は顔を見ないために、後ろから抱きついた。
彼女のことを思うなら声を出すべきではない、と思った。
「みんなそうだ」と影は言う。
「みんな、きみという空っぽの容れ物に誰かの面影を見るんだ。
彼女だってそうだった。彼女はきみに、戦士の影を入れた。
彼女はきみに“酷いこと”をした。この魔女と名乗る女だってそうだ。
きみはいったい誰なんだろう?
きみは門をくぐった彼ではないし、彼女の好いていたあいつでもない。
でもきみのなかにはそのふたつの影がある。
そしてきみという存在は今、誰からも求められていない。
でもきみはこうして誰かから抱きしめられている。
きみはどう足掻いてもきみ自身になることができない。
他の何者になることもできない。
だったら、いったいきみは何なんだろう? 何が本物のきみなんだ?」
769:
勇者は影の言葉に耳を貸さなかった。
たとえいいように利用されているのだと分かってはいても、
魔法使いの頼みを断る理由はなかった。
勇者もすくなからず、誰かのぬくもりを求めていた。
魔法使いの身体は勇者をさらに熱くし、昂ぶらせた。
甘い香りが鼻腔をくすぐり、柔らかく小さな胸が背中を押す。
長くさらさらとした髪が首筋を撫で、熱い吐息が耳にかかる。
魔法使いの手が身体を舐め回すように這う。
それはやがて下腹部へ侵入してくる。
「声は出さないで」と耳元で魔法使いはささやく。「好きなようにさせて」
勇者はちいさくうなずいた。その返事を待っていたという素振りも見せずに、
彼女の手は勇者の硬くなったそれに触れる。それは細い指で、優しく包まれる。
冷たかったはずの彼女の手はすこしだけあたたかみを取り戻していた。
770:
耳にかかる息はさらに熱くなった。勇者のそれと同じくらい熱くなった。
包み込むようにそれは優しく撫で回される。細い指で締め付けられる。
快楽の波が腰辺りに押し寄せてくるのを感じた。
「どう?」と魔法使いは耳元でささやく。「気持ちいい?」
勇者はうなずく。その直後に、魔法使いは耳にくちづけをした。
彼女の舌が耳を舐めまわす。反射的に鳥肌が立った。
でもしばらくすると鳥肌は収まり、熱い息と舌が心地よく感じられるようになった。
その間にも硬く熱く屹立するそれは細い指で締め付けられ、優しく撫で回される。
まもなく勇者は精を吐き出す。彼女は手の動きを止め、それを受け止めた。
「勝手なことしてごめんね」と魔法使いが言った。
「いいや、ありがとう」と勇者は礼儀的に言った。
勝手なことをされたのは事実だが、すこし気分が良くなったのも事実だった。
魔法使いは勇者のズボンの中から精液まみれの手を取り出し、床で拭った。
そしてもう一度勇者の身体を後ろから包み込むように手をまわした。
目を閉じると、意識は簡単に暗黒面に落ちた。
771:

僧侶の夢を見ることはできなかった。勇者は目を開き、長く息を吐き出した。
目の前の暖炉には火がある。魔法使いの姿は見当たらない。
もしかすると、すでに門をくぐったのかもしれない、
というふうに考えていると、背後で足音がした。
振り返ると、黒いローブを着た、髪の長い女が立っていた。
彼女は湯気の立ち上る木のコップをふたつ持っていた。
こちらに歩み寄り、隣に座った。カップのひとつをこちらに差し出す。
それを受け取る。「ありがとう」中身は白湯だった。
「よく眠れたみたいね」
「おかげさまでね」
772:
魔法使いは力なく微笑み、「覚悟が決まったら行きましょう」と言う。
「わたしも一緒に行くわ」
「覚悟は決まってるよ。もう後戻りはできない」
「そっか。……でも、もしかすると魔王はもう死んでるかもね。
彼が魔王を倒したかも。でも戻り方がわからないとか。
あいつ、ものすごく馬鹿だから」
「そうだったらいいんだけどね」勇者は弱々しく微笑んだ。
「これを飲み終わったら、すぐに門をくぐるよ」
「分かった」
773:
時間を掛けて白湯を飲み、空になったコップを脇に置いて立ち上がる。
魔法使いは暖炉の火を消し、歩き始める。まっすぐに洞窟へ向かう。
洞窟をまっすぐに進み、“門”の前に立つ。そして門へ手を伸ばす。
身体が大きく歪むような感覚に陥りながら、意識が遠のいていくのを感じた。
まるで今から何か他の生物に生まれ変わるみたいだ、と勇者はぼんやりと思った。
そして意識は暗転する。表裏が――世界がひっくり返るような感覚があった。
775:
29
腕が曲がる。脚が折れる。身体がねじれる。内蔵が圧縮される。
でも痛みはない。実際に腕や脚が曲がっているわけではない。
そういう風に見えるだけだ。そういう風に感じるだけだ。
大丈夫。ユーシャは自分に言い聞かせる。絶対に大丈夫だ。
何もかもが歪んで見える。
門のなかは、すべての色の絵の具を中途半端にかき混ぜて
水のなかにぶちまけたような毒々しい色をしていた。
胎動するように周囲の色は蠢く。そこには地面もなければ空もない。
壁も天井も道もない。身体は浮いている。何か大きな流れに運ばれている。
時間がゆっくりと流れている。どうしてかは分からないけど、そう感じることができた。
ユーシャは魔法使いのことを想う。そしてすこしだけ後悔をした。
もっと言うべきことはあったはずなのに。
776:
目を閉じ、昨夜の性交を思い返す。
彼女は今までにないほどに激しく身体を求めてきた。
決してそれが不満だということではないが、
なんだか絡まった糸が胸のうちに引っかかっているような感覚がある。
ほんとうにあれで良かったのだろうか? と思う。
もっと彼女の意見を汲み取ってやるべきではなかっただろうか?
きっと怒っているに違いない。帰ったらなんて言われるだろう?
いいや、これでいいんだ。すぐに戻って謝れば、ぜんぶ解決するんだ。
何も悩む必要はない。俺は、まっすぐやればいい。
魔王を倒して帰る。それだけでいい。シンプルに行こうぜ。
そんな考え事をしていると、突然、身体が何かにぶつかった。
目を開く。周囲の毒々しい色は消え失せていた。門を抜けたのだ。
ここはどこだ? と思うのとほとんど同時に、身体が地面に叩きつけられた。
鈍い痛みが肩に走る。身体が自分のものではないような感覚に陥る。
それほど身体が重く感じられた。
777:
冷たく湿った地面にへばりつきながら、頭を動かして周囲を見渡す。
暗い空があって、周りには木がある。
森の中のようだ。空には月があって、星もある。ふつうの夜空だった。
どこかで何かが鳴いた。直後に巨大な鳥が羽ばたく音が聞こえた。
狼の遠吠えのような声が聞こえた。
ひとの気配はない。緑のむせ返るような匂いがする。
空気には何か穏やかでないものが漂っている。
薄暗い森と不気味な音は、ユーシャの不安を煽った。
腕で地面を押し、身体を起こす。どこを見ても木がある。
木の隙間には暗闇がある。薄暗い森だ。
いったいどこに向かえばいいのだろう? と
ユーシャは一瞬だけ考えたが、すぐに立ち上がって歩き始めた。
考えても無駄だ。今までずっとそうだったじゃないか。
778:
薄暗い森は、一〇分ほど歩いても薄暗い森だった。
気温の変化もない。暑くも寒くもない、適温だった。
辺りを漫然と眺めながら、
ここは俺達がいた世界とはべつの世界なのだろうか? と思う。
たしかに見たことのない植物はたくさん見える。
でも、ただ見たことがないだけなのかもしれないだけで、
向こうにもあったのかもしれない。
べつに植物に関しての知識に長けているわけではないから分からない。
ここに魔王が居るという根拠は何もないが、
直感は魔王はこの先に居るとささやいている。
ユーシャはそれを信じることにした。それを信じることしかできなかった。
いま信じられるのは自分だけだ。導いてくれる魔法使いはいない。
空っぽの手を冷たい夜風が通り抜けた。
779:
しばらく木の間を縫うようにして進んだ。
三十分ほどが経ったところで、ひらけたところに出た。
暗闇に目を凝らす。
目に飛び込んできたのは、廃棄されたと思われる石の建造物だった。
遺跡、という言葉が頭を過る。それは小さな城を思わせる出で立ちだった。
しかし、風雨に晒されてきたせいなのか、
それとも何かの意思による破壊行為のせいなのか、大部分が壊れていた。
天井にはぽっかりと穴が開き、壁にも巨大な穴が開いていた。
残骸のようだった。辺りには煉瓦ほどの大きさの石が無数に転がっている。
恐る恐るなかに入ってみる。当たり前だが、暗かった。
どこにも灯りはないし、自分で灯りを作ることもできない。
ひとりでは辺りを照らして建物を観察することもできやしない。
いったい俺には何ができるっていうんだ?
780:
しばらくすると目が慣れて、かろうじて内部の様子を把握することができた。
やはり内部も外部と同じように荒れていた。
奇妙なかたちをした木の家具のようなものはすべて地面に倒れ伏せ、
石の床には何かの本が引き裂かれたのか、
大量の紙が絨毯のように敷き詰められている。
二階に続いていたはずの階段は崩れ、天井からは月の光が射していた。
崩れ去った二階への階段の脇には、もう一つ階段があった。地下に続く階段だ。
でも降りようとは思えなかった。先はあまりにも暗すぎる。そのまま進めば、
闇にすっぽりと飲み込まれてしまうような気がした。
身体が闇に溶けて、もう戻ってこれないような気がした。
その暗さは井戸や沼を思わせた。反射的に身体が震えた。本能的に恐怖を感じた。
781:
ユーシャは、月の光が射しこんでくる一番明るい場所で座り込んだ。
周りに散らばった紙に目を向けてみたが、
何が書かれているのかはさっぱり分からなかった。
分からないことばっかりだ、と思う。
どうすればいい。暗い森は心の湖に張った氷を砕き、小さなさざなみを起こす。
湖の底から、不安と懐疑が気泡のように浮かび上がってくる。
でもそれは気泡のように水面へ姿を見せるのと同時に割れて消えた。
目を閉じて、聴覚を研ぎ澄ませる。風の音が聞こえる。
風で葉が揺れて、こすれる音が聞こえる。
羽ばたく音、吠える声、さまざまな音があらゆる方向から湧き上がってくる。
自分がこの世界の中心に居るような錯覚に陥る。
782:
その時、かなり近くで何かが吠えた。犬とか狼とか、そういう類のものだろう。
ユーシャは低く身構え、壁の大きな穴からそっと外を覗き見た。
遠くに、小さな影があった。影は三つあって、それぞれかたちが違う。
ひとつは三メートルはありそうな巨大なもので、ひとつは犬ほどの大きさだ。
残りのひとつは大きな犬のようなかたちをしていたが、
それは巨大な影から伸びた腕に潰された。甲高い鳴き声が静かな森に響いた。
どうすればいい。ユーシャは考えた。でも止めた。
とりあえず、その場から飛び出した。
剣を引き抜き、駆け足で影の方へ向かう。この森が弱肉強食の世界であるとか、
人間と他の動物は相容れないだとか、そんなことは気にならなかった。
ユーシャを突き動かしたのは、使命感と“なんとなく”という思いだった。
こうすることで前に進めるような気がした。
近づいてみると、影の正体をはっきりと捉えることができた。
三メートルほどの影は、大きな熊のような姿をしていた。
でもそれは熊ではなかった。それには腕が四本あった。
人間でいう肩甲骨のある辺りから、二本の太く長い毛むくじゃらの腕が飛び出している。
そのうちのひとつは血で真っ赤に染まっていた。
783:
隣に目を向けると、前脚と後ろ足の間をつぶされた狼のような怪物が横たわっていた。
先ほど潰された影だろう。もう一つの影も、狼のような姿をした怪物だった。
潰れたものより一回りちいさい。二体は親子だったのだろうか。
ユーシャは二体の怪物の間に割り込んだ。
どちらも逃げ出さなかった。ちらりと狼の方に目をやる。
狼は悲しげな目でこちらを見た。そこに怪物の面影は感じられなかった。
親を失くした子と同じだった。ユーシャは何故かそれを見捨てることができなかった。
剣を引き抜き、構える。熊の怪物は低い声で唸った。
直後に、二本の腕がこちらに振り下ろされた。
軽く身体を捻って躱す。腕は勢いよく地面にぶつかって、土埃を巻き上げた。
その隙に怪物の脇に入り、腕の付け根を切り上げる。
噴水のように血が地面に向かって噴き出し、怪物は絶叫した。
絶叫と共鳴するように森からたくさんのちいさな鳥が飛び立ち、耳障りな音をたてた。
784:
熊の怪物は怒りを目に滲ませながらこちらを睨んだ。
それからもう一度腕を振り下ろした。
脇に避けて、もう一度脇の辺りを、今度は深く切った。
腕はじょうろみたいに血を地面に撒きながら、落ちた。
再び絶叫が響いた。ユーシャはそれを無視して、剣を構える。
そこで、子ども狼が熊の怪物の喉に噛み付いた。
当然、熊は暴れた。首に生えた黒い毛に血が滲んでいく。
熊がその場をのたうちまわろうと、子ども狼の怪物は喉にしがみつき続けた。
やがて熊は力を徐々に失い、抵抗の力を弱めた。
785:
ユーシャはそこで熊に飛び乗って、腹を裂いた。
辺りは血の海と呼んでも差し支えないような光景だった。
そしてユーシャ自身はその血の海を泳いだみたいに汚れた。
子ども狼が裂いた腹から腸を引きずり出して、噛みちぎった。
血の海はさらに広がる。熊はまもなくちいさく身体を震わせ、絶命した。
どうってことはない。こっちの怪物にも俺の剣は通用する。
ユーシャは手応えを感じながら、熊の怪物の死骸からすこし離れた場所に座った。
死骸の脇にはもうひとつの死骸がある。
子ども狼はそのもう一つの死骸に歩み寄り、ちいさく鳴いた。
それは同情を誘う光景だった。
あの狼の怪物にも親が、もしくは慕っている仲間がいたのだ。
でも殺された。あいつはそれを悲しんでいる。でもどうすることもできない。
もうあれは親ではなく、ただの肉のかたまりにすぎない。
子ども狼は途方にくれたように、死骸の脇で佇んでいた。
導いてくれるものを失ったのだ、迷うのは当然だろう。
ユーシャにはそれが他人事には思えなかった。
いったいどうすればあいつの力になれるだろう? と真剣に考え始める始末だった。
786:
「なあ」とユーシャはとりあえず語りかけた。
「悲しいのはわかるけど、ここでずっとこうしてたらお前も死んじゃうぞ」
子ども狼はこちらを見る。今にも涙を流して叫びだしそうな目をしていた。
それからゆっくりとこちらに歩を進めた。
身体が密着するほど近づいてきた子ども狼は
ユーシャの目を見ながら、ちいさく鳴いた。
「なんて言ってるか分からないよ。どうすればいいのかも分からないし、
俺に何ができるのかも分からない」
ユーシャは子ども狼の頭を撫でた。手も子ども狼も、血で汚れていた。
子ども狼は空に向かって遠吠えをした。
耳を劈くような声だった。そして心を揺さぶる叫びだった。
心の底から悲しんでいるように聞こえた。
その叫びは夜空に響き、森の闇に飲み込まれた。
子ども狼はしばらく鳴き続けた。
ユーシャは隣で黙ってそれを聞いていた。そうすることしかできなかった。
787:
五分ほどが経ったところで、背後の草むらが揺れた。
振り返ると、ふたつの光点が見えた。
目を凝らして観察すると、それは怪物の目だった。
遠吠えを聞いて、ここへやって来たのだろう。
ユーシャは立ち上がって剣を構える。
怪物はのっそりと、草むらから出てきた。
また熊のような怪物だった。腕も四本ある。
一体なら、と思った矢先、もう八つほどの光点がユーシャの目に飛び込んできた。
熊の怪物が五体も現れた。ユーシャはすこしずつ後ずさり、剣を鞘に収めた。
熊たちは距離をじりじりと詰めてくる。袋小路に追い込まれたような危機感を感じた。
でもここは袋小路ではなく、(おそらく)巨大な森のど真ん中なのだ。
逃げる道は数えきれないほどある。
788:
ユーシャは子ども狼を抱きかかえて、振り返って駈け出した。
背後では無数の足が湿った地面を蹴る音が鳴った。
背中にナイフを突き立てられたような気分だ。。
それほど暴力的な感情が背中に向かって放たれている。
殺された熊にも仲間や家族がいたのだ、とユーシャは思う。
俺達もあいつらも何も違うことなんてない。
振り返らずに、足を動かした。
いったい俺は何をしているんだ? と一瞬だけ疑問に思ったが、
それについて深く考慮している暇はなかった。必死で逃げた。
腕のなかで子ども狼は大きな声で鳴いた。
背後の足音が増えた気がした。気のせいかもしれない。
でもいちいちそんなことを確認している暇はなかった。
789:

背後の足音が聞こえなくなった。
ユーシャはその場に転がるように倒れこんだ。
足元には大量の枯れ葉があった。悪くない寝心地だった。
枯れ葉は火照った身体から適度に体温を奪っていった。
子ども狼がちいさな声で鳴いた。
ユーシャは手を離し、子ども狼を自由にしてやった。
完全な自由だ。それは目的地も道標もない砂漠に放り投げられたのと同じだった。
どこにだって行くことはできる。でもどこにも辿り着くことはない。
孤独なまま、いずれやってくる穏やかな死を歩きながら待つだけだ。
そしてまた自由になる。
「お前、これからどうするんだ」と
ユーシャは子ども狼の目を覗きこんで言った。
当たり前だが、子ども狼は何も言わなかった。ただユーシャの目を見つめ返した。
その目には喪失感のようなものを感じることができた。
そして微かな希望の光を見るような、淡い期待があった。
790:
ユーシャはため息を吐いて、近くの木に凭れかかった。目を閉じて、耳を済ませる。
風の音、葉のこすれ合う音、鳥の声、羽ばたき――特に異常はないように思えた。
“変化がない”。それはユーシャを不安にさせる。
永遠にこの森を彷徨うことになるんじゃないかと、そんな予感がした。
「なあ。この森の出口はどこなんだ? どれくらい広いんだ? ここ」
子ども狼は首を傾げた。「わからないよ」と言っているように見えた。
「だよな」ユーシャは微笑んだ。「どうしたもんか」
ここはどこで、今がどれくらいの時間なのか、さっぱり分からない。
導いてくれる光がほしい、と切実に感じた。
791:
魔法使い、と思う。彼女の光と炎が、ぬくもりがほしい。
できることなら彼女の身体と心もここにあってほしい、と強く思った。
自分が置いてきたのに、いったい俺は何を思っているんだろう。
今は耐えるんだ、と自分に言い聞かせる。
帰ったら心置きなく甘えればいいじゃないか。
暗い森はユーシャをすくなからず寂しくさせた。
大剣使いが帰ってこなくて、魔法使いが目を覚まさなかった三日間を思い出す。
もっとも孤独だと感じた日だ。
覚めない悪夢のなかから救い出してくれたのは魔法使いだった。
でも彼女は今ここにいない。
周囲の闇に身体を潰されるような気がしてくる。俺は独りだ、と思う。
真っ暗な場所に居る。誰も手を握ってくれない、深い闇のなかに居る。
俺はひとりじゃあ何もできないのに、どうして――
792:
頬を生温かい湿った何かが這った。驚いて横を見る。
子ども狼が舌をちろちろと覗かせながら、こちらを心配そうに見ていた。
頬の皮膚にひびが入ったような感覚がする。
どうやら子ども狼が頬を舐めたらしい。
「なに」とユーシャは言った。「俺はおいしくないぞ」
子ども狼は「分かってるよ」とでも言うように短く吠えた。そして歩き始める。
その背中は言う。「ついてきて」と。ユーシャには確かに聞こえた。
「付いて行けばいいの?」
子ども狼は再び短く吠えた。ユーシャはちいさな背中を追うように歩き始める。
793:
おそらく二時間ほど歩いただろう。またひらけた場所に出た。
廃墟のような建物はない。ただのひらけた円型の空間だった。
周りには深い緑が生い茂っていて、頭上では夜が地上を見下ろしている。
相変わらず変化と呼べるほどの変化はない。
そこで、すこし先を歩いていた子ども狼は足を止めた。
ユーシャも立ち止まる。「どうした?」
子ども狼は前を向いたままちいさく吠えた。視線の先にあるのは茂みだった。
視線の先でなくても周囲には茂みと木と隙間の暗闇があるだけだ。
子ども狼は吠え続けた。
しばらくすると、がさがさと乾いた音をたてて茂みが揺れた。
目を凝らして見ていると、茂みを割くようにして
大きな狼のような怪物がのっそりと歩み出てきた。
体長は二メートルはあるだろう。目は鋭い光を放っており、全身の毛は白かった。
大人狼は品定めでもするみたいにユーシャを睨みつけた。
ユーシャは黙って見つめ返した。
間に立っていた子ども狼は、大人狼に向かって吠えた。
何かを説明しているみたいに見える。
すると、大人狼の背後からもう一体狼の怪物が現れた。
大人狼は二体になった、と思ったすぐ後に、もう一体狼が出てきた。
ユーシャは内心ですこし驚いていると、茂みからはぞろぞろと、
まるでありの行列みたいな数の狼が現れた。
794:
もしかして、拙いんじゃないか? 食われる?
逃げ出したほうがいいのかもしれない、と思ったが、後ろを向いても狼だらけだった。
ユーシャを中心点に円を描くように狼が立っている。どれも真っ白な毛を持っていた。
四方八方から鋭い視線がとんでくる。身体が穴だらけになりそうだ。
子ども狼は吠え続けた。大人狼はこちらを睨み続けた。それは一〇分くらい続いた。
ユーシャは黙ってその場に立ち尽くしていた。ほかにどうしようもなかった。
一匹たりとも襲い掛かってくるものはいなかったし、逃げ出すものもいなかった。
ただ鉄の柵のように冷たく佇みながら、無音の重圧を与えていた。
彼らは“ここから動くな”と目で訴えかけてきているのだ。
やがて子ども狼の鳴き声は止む。
大人狼たちはそれから一〇秒ほど固まっていたが、やがて離散していった。
残ったのはユーシャと子ども狼と、最初に現れた大人狼だけになった。
大人狼は低い声で短く吠えて、草むらのなかに姿を消した。
子ども狼もユーシャに向かって一度吠えて、あとに続いた。
ユーシャは二体に付いていくことにした。「ついて来い」と言われたような気がした。
795:
もう何時間も歩いた。五時間とか六時間が経っているはずだ。
しかし空はいつまで経っても暗いままだった。
森の景色も変わらない。周囲には木と闇があるだけだ。
足がすこし痛み始めた。決して足場は安定しているわけではなかったし、
門をくぐる前にもかなりの距離を歩いたのだ。脚に疲労が蓄積していくのを感じた。
筋肉が強張り、筋が裂けるような痛みがある。
二体の狼にはそんなことは関係無いようで、こちらに目を向けることもない。
「ちょ、ちょっと待って」とユーシャは言った。
こむら返りが起きた。痛みに顔を顰めながら、その場に座り込んだ。
枯れ葉が乾いた音をたてた。そこでようやく二体の狼はこちらに振り返った。
ユーシャは大人狼に向かって笑ってみせた。特に意味はなかったが、笑った。
子ども狼がこちらに歩み寄る。そして大人狼に向かって一度吠えた。
大人狼はこちらをじっと睨んでいた。
「もうちょっと待って」とユーシャは言う。
伝わっているのかは分からなかったが、そうするしかなかった。
796:
大人狼は鼻で息を吐き、ユーシャの服の襟辺りを噛んだ。
なにをするんだ? とユーシャは思った。そしたら上に放り投げられた。
五メートルくらい飛んだ気がした。それは新鮮な光景だった。
心地よさと恐怖が混在する奇妙な感情が湧いた。それも新鮮なことだった。
上に飛んだから、下に落ちる。門の先でもそんな規則は変わらないらしい。
ユーシャは飛んだ時の倍くらいのさで落ちた。でも地面にはぶつからなかった。
大人狼が背中で受け止めてくれた。
彼(もしくは彼女。性別はわからない)の背中はあたたかく、ふわふわとしていた。
大きな草原で横たわっているような心地よさがあったが、強い獣の匂いがした。
ユーシャは大人狼に跨るように体制を整える。
「乗せてくれるの?」と訊ねると、大人狼は鼻を鳴らした。
「仕方なく乗せてやる」とでも言っているのだろうか。
怒った時の魔法使いみたいだ、と微笑ましく思った。
「ありがとう」とユーシャは言った。
大人狼はちいさく吠えて走り始めた。子ども狼も続いた。
頬をうつ夜風は心地よく感じられた。
まるで自分が四本足で走る獣になったような気分だった。
797:

大人狼は三〇分ほど走ってから立ち止まった。
ほぼ意識が閉じかけていたユーシャは、
あまりに突然の出来事にバランスを崩し、背中から落ちそうになった。
なんとか踏ん張って、何事かと顔を上げる。
森がそこで終わっていた。
先に見えるのは、大きな草原を割くような石畳の道だった。
道の脇には石造りの塔(背は低い)や柱が立っている。
大きなドーム状の石の家のようなものもあった。
“景色が変わった”。ユーシャは嬉しくなった。
狭い視界が一気にひらけたような気分だった。“前に進んだ”。
遠くには光が見えた。大きな光だ。あるいはたくさんの光だ。
遠目で見てもそこに町があるというのが分かった。
ユーシャは大人狼の背中から飛び降りて、彼(もしくは彼女)に向き直る。
「ありがとう」とユーシャは言って、大人狼の顎を撫でた。「助かったよ」
大人狼は気持よさそうに目を細めたあと、べろりとユーシャの顔を舐めた。
よだれまみれのユーシャが引きつった笑みを浮かべると、
子ども狼は嬉しそうに吠えた。
そしてユーシャは光の方へ、狼たちは暗い森へと向かった。
すべては向かうべき場所に向かっていた。
798:
30
毒々しい色は生理的な嫌悪感を湧かせた。胃の中が撹拌される。
頭の中もぐちゃぐちゃになっているみたいな感覚がある。
魔法使いは“門”から飛び出して地面に叩きつけられ、数メートル転がった。
鈍い痛みのなかで体制を立て直そうと試みたが、
うずくまってすこし吐くことしかできなかった。
あらかた胃がすっきりしてから、大きく息を吸い込んだ。吐瀉物の苦い味がした。
でも緑の匂いと冷たい空気は落ち着きを与えてくれた。
口を拭って、尻もちをついて辺りを眺める。
暗い森だった。どこを見ても薄暗かった。
唯一の光と呼べるのは頭上で瞬く星と月だけだった。糸のように頼りない光だ。
「大丈夫?」と背後から声を掛けられた。
振り返ると、そこには少年――勇者が立っていた。「立てる?」
「大丈夫」と魔法使いは言って立ち上がり、尻を叩いた。
「こういうことには慣れてるから」
799:
魔術の光で辺りを照らし、目が慣れてから周囲を見渡す。
見たことのない植物がそこらに生い茂っていた。
どれも廃村の図書館で読んだ図鑑には載っていなかったはずだ。
村の図書館で読んだものにも載っていなかっただろう。
旅の途中で見たどの植物とも合致しない。
間違いない、と魔法使いは思う。
間違いなくここはわたし達がいた世界とはべつの世界だ。
「それで、どこへ向かえばいいのかしら」魔法使いは腰に手をあてて言った。
どこにも目印になるようなものは見当たらない。
「たぶん」勇者は魔法使いから向かって右側を指さした。「あっちだ」
「どうしてそう思うの?」
「さあ。どうしてだろう。直感かな」勇者は歩き始める。
魔法使いは呆れてため息を吐いた。
その後すぐに昔のことを思い出して、口元が緩んだ。
勇者というのは、どうしてどいつもこいつも直感を頼りにするのだろう?
でも頼れるものはほかになかった。
それに、歩かないことには先に進むことができないのだ。
800:
魔法使いは勇者を追うように歩き始めた。足元の草が乾いた音をたてる。
それに呼応するように、どこかで何かが羽ばたく音がした。
間違いなく、この森には数えきれないほどの怪物が跋扈しているはずだ。
念の為に、魔術の障壁を張っておくべきだろう。
魔法使いは呪文をつぶやき、ふたりを魔術の障壁で覆った。
勇者は立ち止まってから振り返り、「これは?」と訊ねた。
「魔術の障壁」と魔法使いは答える。「念の為にね」
「“膜”か」と勇者はつぶやいた。
魔法使いにはその言葉の意味が分からなかった。
801:
三〇分ほど歩いたところで、急に視界がひらけた。
そこで森が一度途切れたようになっている。広場のようだ。
そこには石造りの廃墟のような建物があった。
天井も壁も崩れていて、全体的にも酷く劣化している。
人工物なのは間違いなかったが、ほとんど自然と同化していると言ってもいい。
魔術の光で照らしてみると、表面の石は緑の苔でびっしりと覆われていた。
壁に開いた穴から内部に足を踏み入れる。
石の床には絨毯のように、古びた紙が敷き詰められていた。
古紙には文字のようなものが書かれていたが、読むことはできなかった。
見たことのない文字だ。
辺りには家具や食器のようなものが転げていた。
綺麗な曲線を持った椅子や、細かい模様の刻まれたカップなど、
酷く汚れていたがそれらは単純な家具や食器としての機能と
芸術性を併せ持っているように見えた。見るも良し、使うも良しといったところだ。
802:
さらに奥に進むと、二階へ続く階段があった。が、それは途中で崩れていた。
天井があったはずの場所からは月光が射している。
月光は脇にあった地下への階段を照らしている。
魔術の光で地下への階段を照らしながら下る。
背後からは勇者が付いてくる。ふたり分の足音が響く。
地下にあったのは牢獄だった。
階段を下った先には長く細い通路があり、左右には鉄格子がある。
しかし鉄格子のほとんどは変形していた。どれも大きく歪んでいたのだ。
まるでなかに閉じ込められていた“何か”が格子をねじ曲げて外に出たみたいに。
檻は全部で八つに区切られていた。そのうちの五つが壊れている。
残りの三つは空っぽの胃みたいに綺麗だった。
803:
奥は行き止まりになっていた。大したものはなかった。
もう用はないから出ようと踵を返したところで、
魔法使いは檻の中を凝視しながら立ちすくむ勇者に気がついた。
近くに歩み寄り、「どうしたの?」と訊ねる。
「なんでもないよ」と勇者は答えて、すぐに階段を上がった。
どうしたんだろう、と魔法使いは思い、勇者が見ていた檻の中を見る。
大きく歪んだ格子の向こうには石の床と壁がある。
ふつうの壁と床だ。ただ、左側の壁が大きくへこんでいた。
大きな手形がついたみたいに、壁が変形している。
よく見てみると、その巨大な手形には指が六本分あるようだ。
確かに不思議な光景だった。しかしそれ以外に変わったことはない。
いったいあの子は何を見ていたのだろう?
804:
魔法使いは階段を上って、勇者とともに廃墟をあとにした。
空も森も、相変わらず暗い。
ユーシャは――彼はひとりで、灯りも持たずにこの森を歩いたのだろうか。
そう思うと、怒りや心配よりも先に、とても申し訳ない気持ちが湧き上がってきた。
わたしが彼の進む道を照らすべきなのに、と思う。
何がなんでも付いていかなければならなかったのに、
わたしが眠りこけている間に彼は行ってしまった。
それからまた数時間歩いたところで広場のような場所に出た。
そこには廃墟のようなものはなかったが、湖があった。真っ黒の湖だ。
波や波紋はいっさいなく、魔術の光で照らしても反射することはない。
輪郭は歪なかたちをしていて、それほど大きくはなかった。
湖の中を覗きこんでみると、そこには大量の生物がうごめいていた。
ひとのかたちをしたものもいれば、犬や熊みたいなものもいたし、
虫や魚、竜みたいなものも見えた。
そして強いエネルギーを感じた。引力のようなものだ。
805:
ふたりはそこを通り過ぎ、黙々と歩いた。
歩き始めて一〇時間を過ぎた頃になると、森は終わった。
眼前に広い草原と、石畳の道が現れたのだ。
道の脇には石柱や石の塔が並んでいた。
そして遠くには光が見えた。おそらく、そこに町があるのだろう。
勇者の直感とは案外あてになるのかもしれない。
ふたりは光に向かって歩き始める。
光に吸い寄せられる蛾のようだ、と魔法使いは思った。
空を見上げると、まだ夜の暗さが残っている。
一〇時間経っても空は夜の表情を残したままだった。
でもそんなことはどうでも良かった。
長い夜なんて、べつに今に始まったことではないのだから。
何かがおかしくなったって、べつにわたしはまっすぐやればいい、と強く思った。
進むべき道が曲がりくねっていようと真っ暗であろうと、まっすぐに進めばいい。
そうすれば彼に辿り着く。彼以外のことなんて、後になってゆっくりと考えればいい。
彼と一緒に、じっくりと話し合えばいい。
806:
31
ようやく町までの距離が百メートルほどになった。
こちらに来てからはすでに一二時間以上は経過しているはずだ。
でも空は暗いままだ。
もしかすると、このまま永遠に夜が続くのではないか、とユーシャは思った。
町は低い壁で覆われていた。
怪物の侵入を防ぐための壁というよりは、ただの目印みたいだった。
低い壁の向こうは、今まで歩いてきた
暗い草原とはべつの空間みたいに眩かった。
太鼓の音のような低くずしりと来る音が虚空に響いた。その音は雷を思わせた。
しゃらしゃらと、鈴がなるような音が聞こえた。その音は雨を思わせた。
遠くからは綺麗な唄声が聞こえる。その声は穏やかな風を思わせた。
ユーシャは町の前に立って、しばらくそれらの音に耳を傾けていた。
目を閉じると、故郷の村の景色が見えた。
それはとても懐かしく、色づいたものだった。
807:
「おなちすおど」と誰かが言った。
目を開くと、正面の壁を挟んで髪の長い女性が立っていた。
黒いワンピースを着ていて、ほかは何も着けていなかった。
靴もアクセサリーもない。下着はわからない。着けてなかったらいいのにな。
人間だ、とユーシャは思ったが、違った。
限りなく人間に近い姿をしていたが、耳のかたちがすこし変だった。
耳が“ぴん”と尖っている。大きさも人間と比べると大きい。
しかしそれ以外には何もおかしいところはなかった。
そうだ。目の前に立っているのは、二〇歳ほどのただの女の人だ。
耳のかたちが変わっているだけだ。いや、どうなのだろう。
ユーシャには彼女が怪物なのか人間なのかの区別がつかなかった。
「うおいせでぃうまさうぉこす」と女は続けた。優しい声だった。「えでぃお」
「はい?」とユーシャは言った。「今なんて言ったの?」
808:
「えら」と女は首を傾げて言う。「もしかして、こっちの言葉で喋ってるの?
ねえ。わたしの言っていることの意味が理解できたら頷いて。二回ね」
ユーシャは言われたとおりに二回うなずいた。
すると女は納得したようで、嬉しそうに三回うなずいた。
「うん。やっぱりそうだ。でも今時こんな古い言葉で喋る子はめずらしいよ?」
「そうなんだ」とユーシャは言った。
この女はいったい何のことを言っているのだろう。
「うん。めずらしい。君みたいに若い子は特に」女は微笑んだ。
「まあ、なんだっていいや。そんなこと、今日はどうでもいいよね。
今日はまだお祭りの二日目なんだし、細かいことなんか気にしてられないよね。
もっと楽しまなきゃ」
「そうそう」とユーシャは言った。今日はお祭りの二日目?
「君もこっちに来なよ。そっちは寒いでしょ?」
「うん」ユーシャは低い壁を跨いで、町に踏み入った。
壁の内側に入った瞬間に、身体が温かい空気で包まれた。
809:
町は東の王国とか西の王国の城下町と同じくらい大きく、
同じくらいかそれ以上に賑わっていた。
階段の多い複雑な地形で、足元には川が流れていた。
川の水面は光を反射しながらゆらゆらと揺れている。
遠くには大きな城があった。
城だけは喧騒から除外されたようにひっそりと佇んでいる。
それ以外はどこを見ても光と笑顔があった。
町全体が金色に輝いているように見える。
「君もひとりなの?」と女は言った。
「そうなんだよ」とユーシャは言った。
「寂しくない?」
「たぶん、すごく寂しい」
町は賑わっているが、自分の周りだけが空間とのつながりを
拒絶しているような感覚がある。
自分の纏っている空気が、周囲に溶け込まないのだ。
810:
「よし」と女は笑った。「いっしょに行こう」
「どこへ?」
「どこだっていいよ。とりあえず何か食べよう。お腹減ってるでしょ?
お腹が減ってるときは孤独を強く意識しちゃうんだよ」女は歩き始めた。
それから振り返って言う。「うかやーふ」
「え?」
「“早く”って言ったの。うかやふ。うかやーふ!」
わけがわからないままユーシャは女の隣に並んでから歩き始める。
811:
川の上で緩やかなアーチを描く石橋を渡ると、大きな通りに出た。
大通りには多くのひと――あるいは怪物――がいた。
みんな耳がぴんと尖っていた。男も女もいた。
肌の色はばらばらだった。みんな楽しそうだった。
隣を見ると、女も楽しそうに目を細めていた。
ユーシャも自然と頬がほころんだ。
綿毛のように、そこらに淡く黄色い光を放つ球体が漂っている。
風に煽られて、高く舞い上がったり川に沈んだりした。
それは意思を持った生物のように見える。
まるでお祭りを楽しんでいるように見えるのだ。
街全体が淡く、黄色く発光しているように感じられた。
自分はそのなかにいる。黄金でできた町を歩いているような感覚がした。
でも町には金属的な冷たさはない。どこもあたたかかった。
身体が火照ってくる。おかげで感覚は鈍くなっていったが、
しっかりと何かの音が身体を揺さぶり続けた。
太鼓の音、鈴の音、唄声、人びとの喧騒。
白と黒が混ざって灰色になるように、
ユーシャの纏っていた空気は町の空気で中和された。
812:
「君、もしかして眠かったりする?」と
女は身を屈めて、こちらの目を覗きこむようにして言った。
「ちょっと眠いかも」
「お祭りの前日はよく寝なかったの?」
「うん」とユーシャは適当にうなずいた。
「それに、昨日はずっと歩いてたから疲れてるんだ。一〇時間くらい歩いてた」
「そりゃあたいへんだ」女は目を丸くしてから微笑んだ。
「どうして一〇時間も歩くことになったのかは気になるけど、
そんなことを聞いてる時間がもったいないよね。
だってお祭りは年に三日しかないんだもの。
とにかく、寝ちゃだめだよ。寝たら死ぬと思って」
「頑張ってみるよ」
「その意気だ。頑張るんだよ。わたしも眠いけど頑張るよ」
「その意気だ」とユーシャは言った。
813:
大通りの左右には、簡素な小屋が綺麗に並んでいた。
甘い香りや香ばしい香りが立ち上り、町を覆う。
小屋のひとつに目を向けてみると、ちいさな鳥を丸焼きにしたようなものがあった。
きつね色の皮が空腹感を思い出させ、腹を鳴らした。
涎が湧いてくる。門をくぐってからは何も食べていないのだ。
「あれが食べたいの?」と女は言った。
ユーシャはうなずいた。「おいしそう」
「おいしいよ。もらってきてあげる」
「ありがとう」
「ありがとう」と女は言ってから、「うおたぎら」と続けた。
「うおたぎら?」
「“ありがとう”って意味。覚えておくといい。たぶん役に立つよ」
「分かった」とユーシャは言って、「うおたぎら」と言った。
「えちさみさちうおづ」と女は言い、
駆け足で鳥の丸焼きのようなものを貰いに行った。
814:
一分もしないうちに女は戻ってきた。
ユーシャは女からそれを受け取って口に入れた。
顎の骨に何かびりびりとしたものが走るような感じがして、涎がさらに湧いてきた。
肉は柔らかく、簡単に咀嚼できた。よく噛んでから飲み込んだ。
肉はつるりと喉を通り抜けて胃に送られる。
胃のなかに何かが入ってきたと感じることができた。
謎の鳥肉を食べ終えると、女は再び歩き始めた。ユーシャも隣に並んだ。
永遠に続くような明るい通りを歩いていると、女が立ち止まってどこかへ行った。
と思ったら一分もしないうちに戻ってきた。
手には木の枝に刺さった綿のようなものを持っていた。
「それは何?」とユーシャは訊ねた。
「えまたう」と女は言った。
「えまたう?」
「わたあめともいう」と女は言った。「知らない?」
815:
「知らない。はじめて見た」
「君、相当かわってるね。
もしかして、今度はこの町の住民じゃないとか言い出すの?」
「ここだけの話をすると、俺はこの世界の住民ですらないんだ」
女は大きな目を瞬かせた。それから笑った。
「君、おもしろいね。なかなかおもしろい冗談だよ。八〇点くらい」
「うおたぎら」とユーシャは言った。「それで、その綿は何なの? 食べ物?」
「そう。食べ物。甘くておいしいんだよ」
「ほんとうに?」
「ほんとうに」と女はユーシャの口に綿を押し付けた。
816:
綿はべとべととしていた。舐めてみると、確かに甘かった。
舌に触れた部分から綿は消えていった。
口のなかに入ってきたと思ったら綿は縮んで、甘い味だけを残して消えた。
なんだこりゃ。
「食べ過ぎ」と女は言って、綿を取り上げた。
「ごめん」
「どう? おいしかった?」女は取り上げた綿を頬張りながら言った。
「甘くておいしかったよ。口のなかに入ったらすぐに消えちゃったけど」
女は笑った。「君はほんとうにおもしろいな」
817:
大通りを二〇分ほど歩くと、広場に突き当たった。
広場は円型で、円の輪郭に沿って人々(あるいは怪物たち)が並んで、
またちいさな円を作り出している。
中心では綺麗な服を着た数人の男女が踊っていた。
自分の服を見てみると、泥と黒ずんだ血で酷く汚れていた。
でも誰もそのことを咎めるものはいなかったし、
刺々しい目線を向けてくることもなかった。
「お金持ちはああやって、みんなに踊りを見せたがるんだよ」と女は言った。
「へえ」とユーシャは言う。
「でも、綺麗な踊りだと思う。それにみんなも見たくてここに来てるんだろう?」
「そう。でもわたしはそれがまた気に入らないというか、なんというか」
「もしかして、きみもあんなふうに踊りたいの?」
「どうなんだろう」と女はぼんやりと踊りを眺めながら言う。
綺麗で淋しげな目だった。「分からないよ」
「そっか」
818:
しばらくはお金持ちの踊りを眺めていた。
たしかに服装はぴかぴかとしていて、踊りからはどことなく気品が感じられた。
べつに踊りに詳しいわけではないから細かいことは分からなかったが、
見ていて落ち着くというか、心の安らぐような踊りを見るのははじめての事だった。
よどみなく流れる川のように、彼らは舞い続けた。
薄い布がふわりと、緩やかなカーブを描いた。
踊っているものも、見ているものも、純粋な楽しみに満ちていた。
ただ、隣の女だけが淋しげな目で踊りを見ていた。
その目は北の大陸での最後の夜の魔法使いを回想させた。
目を瞑る。魔法使い、と思う。あいつがこの景色を見たら、何と言うだろう?
「行こう」と隣の女が言い、踵を返して歩き始めた。
ユーシャは黙ってあとに付いていった。
819:
すこし引き返したところで、橋の脇にある階段を下った。
あまりにもひとの流れが多いので、それだけでも一苦労だった。
階段を下った先は、川だった。眩しいくらいに黄色く光る川だ。
川沿いには木のテーブルと椅子がどこまでも並べられている。
ところどころに、椅子に腰掛けて酒をあおるものがいた。
ほとんどがへべれけに見える。
顔は真っ赤だし、川に飛び込むものもいた。
大声で笑うものもいれば大声で唄うものもいた。
並んだ椅子のひとつに女は腰掛けた。ユーシャも隣に座った。
女はテーブルの上に散らばったボトルを一本掴んで呷った。
口から酒が溢れるくらいに女は酒を喉に流し込んだ。
ユーシャは黙ってそれを見ていた。
やがて女はボトルを口から離して、テーブルの上に置いた。
空っぽの音がした。
820:
「君も飲みなよ」と女は言った。
「俺はいいよ。というか、飲めないんだ」
「お酒はいいもんだよ。
わたしはお酒を飲むと嫌なことを忘れられて、正直になれるの。
でも眠くなるし、次の日は頭が割れるくらい痛くなる。
でも飲まないわけにはいかないときもある」
「何か嫌なことでもあったの?」
「分からない。でも踊りを見てるとすごくもやもやした」
女はユーシャの目を覗きこんで言う。
「わたしは今からものすごく酔っ払うけど、その時わたしは正直になるから、
酔っ払ったわたしのいうことを聞いてね。たぶんわたしは潰れて忘れちゃうけど、
それはわたしがほんとうに望んでいることだから。分かった?」
「分かった」
女は次々とボトルを開けて飲み干していった。
一本を飲み切るのに一分しかかからなかったり、四〇分以上かけたりした。
ユーシャはただそれを眺めて、女の口から紡がれる言葉に耳を傾けた。
勢いでよく分からないことを口走ることもあった
(おにいしますこぐす、と言っていた)が、ユーシャはずっと話を聞いていた。
そうすることしかできなかった。
821:
一時間で四つのボトルが空になった。女は完全にへべれけになっていた。
顔は真っ赤で、なんだか気分がよさそうだった。
女は頬杖をついて言う。
「よおし。じゃあ言いたいことを言うよ。
耳をかっぽじって聞くように。分かった?」
「分かった」
「よろしい」女は満足そうに笑った。
「君が言ったとおりだよ。わたしは踊りたい。すごく踊りたい。
分かる? 分かるよね。でもわたしは分からなかった。
おかしいよね? わたしはおかしいの。
そりゃあずっとひとりでいたもの。寂しくて気が狂っちゃいそうだったよ。
昔から思ってたの。わたしも誰かと踊りたいなあって。
誰かとお祭りに行きたいなあってね。分かる? 分かるよね。
わからないわけがないよ。君もひとりなんだから」
「分かるよ」とユーシャは言った。
822:
「うんうん。君はいい子だ。
わたしは逃げるためによくお酒を飲むけど、
それは何の解決にもならないんだよね。分かってるの。
分かってるけど、どうしても事実と向き合えないことがあるわけだ。
わたしはだめだからね。
でも君はお酒を飲まない。
どうして逃げないの? それともほかに逃げる方法があるの?
それともみんなは逃げなくて、わたしだけがおかしいの?
わたしにはわからないよ。誰も教えてくれなかったもの。
ねえ、わたしはだめだからひとりなのか、ひとりだからだめなのか、
どっちなんだろうね? わからないよね?」
「たぶん」とユーシャは言う。「ひとりだからだめなんじゃないかな」
「そうか、そうかあ。じゃあわたしは誰かといる時は、だめじゃないの?」
「ぜんぜんだめじゃないよ。
俺はきみに声を掛けられて嬉しかったし、今もたのしい」
「たまに優しい言葉をかけてくるひとって、すごくずるいよね。君みたいにさ。
でも普段誰も声を掛けてくれないとさ、それがほんとうにうれしいんだよ。
嘘だって分かっててもうれしいんだよ? だからわたしは今すごくうれしいの。
ほんとうにうれしいんだよ? 分かる? お願いだから分かってよ」
「分かるよ。それに、俺は嘘なんて言ってない」
823:
「そうそう。共感を得られるっていうのもね、すごくうれしいの」
女は口をぱくぱくさせながら涙を流し始めた。
「分かる? すごくうれしいの。すごくうれしいとはいうけれど、
ほんとうは言葉じゃ足りないくらいにうれしいの。
君がこうやってわたしに向かって頷いてくれるのがさ、うれしいわけだ。
うれしいばっかりだ。ばかみたいだよね。語彙が貧弱なんだよ、わたし。
でもうれしい。すごくうれしいしたのしい。
ほんとうは、お祭りは明日までずうっと続くんだけど、もういいや。
今日が今までで一番の日だ。
明日なんてどうでもいいよ。もうみんな死んじゃえばいいんだ」
「もしかすると、明日が今日以上にたのしい日になるかもよ」
「そうやって楽観的に考えることが出来るのって、素敵だと思うよ。
でもわたしにはそんなことできない。わたしは、できることなら眠りたくない。
分かるかな? 当たり前だけど、寝て、目を開いたら朝なんだよね。
それがものすごく悲しいの。
わたし、毎日、明日なにかいいことが起こりますようにって祈りながら寝るんだよ。
ばかみたいでしょ? それで起きたら、
なんにもないんだよなあ、これが。笑えないよ」
824:
「でもきみはずっと今までやってこれたんだろう。ひとりで」
「惰性でね。ある地点を通過した時から、世界から色は消えるんだよ。
でもある地点にたどり着くと、世界は色を取り戻す。
わたしの言いたいことは分かる?」
「分かる気がする」
「よろしい。きみはほんとうにいい子だ。
それで、わたしの世界に色が戻ってきたんだよ。今ね。たった今。
身体は熱いし、胸がどきどきするんだよ。わたしの言いたいこと、分かる?」
女は泣きじゃくりながら弱々しく微笑んだ。
「はい。これでわたしの言いたいことは終わり。
きみはもうわたしを放ってどこに行ってもいい。
わたしはひとりでいるべきなんだよ、たぶん。分かるんだよ。
もう終わりだよ。全部終わり。何もかもおしまい。
黄金の微睡みから覚めたわたしは、重荷を背負ってから終わるんだよ」
「よし」ユーシャは椅子から立ち上がって、女の手首を掴んだ。
「じゃあ踊りに行こう」
825:
「え?」と女はきょとんとして言った。「どこへ? 誰が?」
「さっきの広場で、俺ときみが踊る」
女は目を細めて笑った。長いまつ毛がきらきらと輝いて見える。
それはとても素敵な笑みだった。
「さっきの広場はだめだよ。あんなところで踊ったらわたし達、痛い目に遭っちゃうよ」
「そっか。じゃあ、どこで踊ろう?」
「ほんとうにわたしなんかと踊ってくれるの?」
「もちろん。どこで踊りたい?」
「じゃあ」女は立ち上がった。「ここで踊る」
826:
「分かった。一度も踊ったことなんてないけど、頑張ってみるよ」
「わたしだって踊ったことなんてないよ」
「でもきみのほうが踊りについては詳しいと思うから、任せるよ」
「任せるって、何を?」
「全部」とユーシャは言った。
「分かった」女はユーシャの手を握って笑った。「川に落っこちても知らないよ」
「そんなことはないって信じてるよ」
「わたしみたいなやつを信じちゃだめだよ」
「俺は信じてるよ」
「ありがと」
827:
女は微笑んでからユーシャの手を強く握って、ゆっくりと踊り始めた。
ユーシャは足がもつれそうになったが、なんとか女に合わせて動いた。
踊りというのは、実際にやるのは簡単なことではないらしかった。
見ていた時とは大違いだった。見ているだけなら簡単そうに見えたのに、
自分が踊ってみると、親の真似をする子のような動きになってしまう。
女の動きを遅れて追いかけるかたちになってしまう。
周りから見ればそれは決して綺麗な踊りではなく、不細工な踊りだっただろう。
でも女は楽しそうだった。周りの目などどうでもいいのだ、とユーシャは思う。
今、この場所が光っていればいい。
今は彼女が主役で、ほかはただの石みたいなものだ。
女は手を離して、その場でくるくると回った。
ワンピースのスカート部分がふわりと浮いた。
しばらく回ったあとに、「ほ」と言いながら手を広げて、彼女は止まった。
828:
「なんだそりゃ」とユーシャは言った。
「分かんない」と女は言って、ユーシャの手を握りなおした。
「君からはすごくいい匂いがするね」
「いい匂い。どんな?」
「おいしそうな匂い。甘いとか辛いとかそういうのじゃなくて、
もっと漠然としてる。でもおいしそう」
「分からないよ」
829:
ふたりはもう一度同じように踊った。
へたくそで不細工な踊りだったが、それは誰かの何かに響いたらしかった。
気がついたら周囲には人だかりができていた。
橋の上では欄干に沿ってひと(あるいは怪物)が並び、こちらを見下ろしている。
どこかから誰かの声が聞こえた。
指笛が聞こえた。太鼓の音や鈴の音も聞こえた。
周りの景色は輝いて見える。
目の前の女は笑っている。観客たちも楽しそうにしている。
しばらくして女はまた回った。
そして先ほどと同じように、「ほ」と言って止まった。
そこでちいさな拍手が湧いた。
女は拍手の方に目を向けると、恥かしそうにはにかんだ。
どうやら橋の上の観客には気づいていなかったらしい。
「うおたぎら」と彼女は叫んだ。
拍手が大きくなった。
誰かが川に飛び込んだ。水しぶきが光の粒のように跳ね上がった。
ユーシャは彼女に向けられた拍手のなかに
佇みながら、魔法使いのことを想っていた。
830:

女は酔いつぶれて、机に突っ伏すようにして眠った。
彼女が眠っただけで、町には活気が漲っていた。
どこを見ても光があるし、喧騒がある。
彼女だけが町から取り残されたみたいだった。
ユーシャもすこし眠ることにした。
身体が休息を求めていた。瞼が重いのだ。
一度目を閉じたら簡単に意識は閉じた。
自分の深みのなかで、魔法使いの夢を見た。
真っ暗な空間で、ただ魔法使いと言葉を交わし、身体を交えるだけの夢だった。
次に目を開いた時もお祭りは続いていた。
空は相変わらず暗いし、女はちいさく寝息をたててテーブルに突っ伏している。
いったいどれほどの時間眠っていたのかは
分からないが、身体は完全に回復していた。
夢で魔法使いに会ったからかな、と適当なことを思った。
身体が温かくて勃起しているのはたぶん夢のせいだ。
全身に力が漲っている。身体も軽く感じる。感覚は針のように研ぎ澄まされてる。
空腹感もないし、寒気みたいなものもない。完全な自分だ、と思う。
今までこんな自分に出会ったことはなかった。
831:
しばらくしてからユーシャは立ち上がって歩き始める。
彼女が目を醒ました時、彼女はひとりだ。
すこし悪いことをしているような気持ちになったが、進まなければならない。
俺には待たせているひとがいるじゃないか、と自身に言い聞かせる。
魔法使い、魔法使い。すぐに頭のなかは魔法使いのことで埋め尽くされた。
彼女の笑った顔が鮮明に見えるような気がした。早く逢って抱きしめたい、と思う。
どこへ向かえばいいのかは、おおよそ検討がついていた。
遠くに見える暗い城を見据える。誰かが呼んでいるような気がした。
ユーシャは光の大通りを目に焼き付けるようにゆっくりと歩いて、暗い城を目指す。
832:
32
町は金を散りばめたみたいにきらびやかで、森のざわめきのように賑やかだった。
中にはひとの姿も見える。と思ったが、
よく見てみると見知った人間という生物とはすこし異なるものだった。
でも大部分は同じだった。違うのは耳だけだ。
彼らの耳はみんな、ナイフの先端のように“ぴん”と尖っていた。
勇者は町を囲う低い壁を跨いで、町のなかに入った。
急に気温が上がったような気がした。
魔法使いがあとに続いて中に入ってくる。
すると彼女は感心したように、「障壁」とつぶやいた。
「障壁?」と勇者は訊ねた。
833:
「魔術の障壁」と魔法使いは言う。「見えない壁みたいなものが町を覆っているのよ。
多分、この町に温かい空気を閉じ込めるためだけの壁ね」
「怪物の侵入を防ぐためとかではないんだ?」
「違うと思う。それだったら、わたし達は障壁をくぐれなかったはずよ」
「そっか」勇者は魔術の村を覆っていたドーム状の“膜”のことを思い出す。
似たようなものだが、すこしばかり異なっているらしい。
そしてどうやら町ではお祭りが催されているらしかった。
黄色い光の球がそこらじゅうに浮き、太鼓や鈴、唄声が辺りに満ちている。
光の球は眩しいくらいに輝いていた。この町だけが昼みたいな明るさだ。
耳の尖った人々は笑い、大きな通路を川のように流れている。
大人もいれば子どももいたし、肌の黒いものもいれば白いものもいた。
834:
しばらくはあてもなく歩いてみた。
腹が減るような香りが漂っている。香ばしい香りや甘い香りがした。
気味の悪いお面を付けてはしゃぎ回っている子どもたちが脇を通り過ぎた。
誰もが楽しそうにしていた。まるで自分たちだけが
置いてけぼりを食らったような気分だった。
胸に大きな穴が空いていて、そこを温かい風が通り抜けた。
吐き気がした。
「いったい、夜はいつまで続くのかしら」と魔法使いが空を見上げてつぶやいた。
勇者も空を見上げた。町が明るすぎて、星は見えない。月だけは見える。
こちらに来てから一二時間以上は経過している筈なのに、未だに夜は続いている。
“表”と“裏”は根本的なところは違うのかもしれないが、
表面上はとても似ているように思える。
森も町も、“裏”にあってもおかしくないようなものだ。
大きく違うことなんて、空以外、今のところはない。
835:
ゆっくりと空から視線を下げていくと、暗い城が見えた。
それは昔からそこにあって、忘れ去られた大きな岩のように佇んでいた。
決して美しい姿とは言いがたかったが、胸を打つ何かを持っていた。
その城は勇者の心を揺さぶった。
内に湧き上がったのは泥水のような汚いものだった。
泥水は吐き気を湧き上がらせ、肌を粟立てた。
次に湧き上がったのは激しい高揚だった。
見えたのは旅の終わりだった。
力が湧いてくる。殺意が湧いてくる。誰かが呼んでいる。
「あそこに魔王がいるんだね」と影は言った。
「なあ。魔王を倒したら、きみはどこへ行くんだい?」
問いには答えなかった。相反するふたつの考えが燻っている。
単純なことだ。どこかへ行くか、どこにも行かないか、それだけの事だ。
惰性で生きるか、自らの意思で死ぬかのどちらかだ。
もう自分に残された意味は魔王を討つことしかなかった。
居場所もなければ行く先もない。空っぽの手は酷く汚れている。
この手の中に誰かの手があっただなんて信じられなかった。
「あの城だ」と勇者は静かに言った。「あの城に魔王がいる」
魔法使いは何も言わずに城の方を向いた。
表情からはどんな感情を読み取ることもできなかった。
さまざまな感情が彼女の顔には浮き上がっていた。
それはなんとなく、僧侶のことを想わせた。
836:
勇者は黙って歩き始めた。魔法使いが後ろから付いてくるのが分かる。
まもなく大きな川に架かった橋に着いた。川の水面では光の粒が踊っている。
川が呼吸しているみたいに見えた。
橋の脇には細い階段があって、そこから川沿いに行けるらしい。
川沿いの石畳の上には木の椅子とテーブルが並んでいる。
テーブルを囲うようにして酒を飲み交わすものが幾人もいた。
その中で、ひとりテーブルでボトルをあおる女性がいた。
椅子に深く持たれながら、右手で酒を喉に流し込むようにしていた。
口からは酒がこぼれていた。
酷く淋しげな光景だった。
背もたれに頭を乗せて空を見上げているおかげで、長い髪が地面につきそうだった。
賑わう町の中で、その女だけが置いてけぼりを食らったように見えた。
勇者は酷く胸を痛めた。その女は、僧侶にとても似ていたからだ。
837:
ゆっくりと階段を下りて、女の元に向かった。
女は生気の失われつつある目でこちらを見て、
「えらづ」と言った。「あくせづおやきなん」
勇者は黙って女を眺めていた。
ほんとうによく似ていた。でも別人であるというのは確かだった。
「この人は誰?」と背後の魔法使いは言った。「知り合い?」
勇者は首を振った。「違うけど、すごく似てるんだ。僕の友だちに」
「ああ」と女は言った。
「またこっちの言葉で話す人に会っちゃったよ。
わたしが何て言ってるか、分かる?
ちゃんと伝わってる? 伝わってたらうなずいて、二回ね」
勇者と魔法使いは二度うなずいた。
「よおし。まあ座りなさいな。ちょっとゆっくりしていこうぜ」
女は嬉しそうに言った。
「何、この人」魔法使いが訝しげに言った。
838:
勇者は黙って椅子に腰掛けた。魔法使いも隣に座った。
テーブルの上には空のボトルが散乱している。女は完全に酔っ払っていた。
女は言う。
「よおし。今からわたしは言いたいことを言うよ。聞きたくないなら逃げても良いし、
鬱陶しいと思ったら殺してくれたって構わないよ。
とにかくわたしは話したいわけだ。わたしは死んでも話し続けるよ。
わたしがこうやって話すことができるのはあとすこしだけなの。分かった?」
「分かった」と勇者は言った。
「空白の時間ってあるじゃない。
誰にも知られることのない、意味のない時間みたいなやつ。分かる?
まあべつに分からなくてもいいよ。
無駄な努力を行った時間とか、ひとりでいる時間とか、そういう時間。
でさ、有意義な時間と無意味な時間、きみの時間はどっちのほうが多いと思う?」
勇者はすこし考えてから、「無意味な時間」と答えた。
839:
「君とは気が合いそうだ」と女は言う。
「そうなんだよ。君の時間は無意味な時間のほうが多い。
でもわたしの時間は無意味な時間でしかないわけだ。
そして無意味な時間を、無意味な努力に費やしたんだよ。
こんな誰も話さないような言葉を覚えるために、ひとりでずうっと闘ったわけだ。
それで、覚えちゃったら次は何をすればいいのかが分からいんだよね。
でも考えれば分かるんだよ。
覚えた言葉を活かす方法を探せばいいんだよ。当たり前だ。
この言葉はすごく昔の言葉だから、
たとえば昔の文献を読み漁ってみるとかね、あるじゃない?
それでわたしはそのことに気付くまで何年もかかったわけだ。
空白の時間に何をしていたかなんて、何も思い出せないよ。
ほんとうに真っ白なんだ。ひとりで、真っ暗で、真っ白なんだよ。分かる?」
勇者も魔法使いも黙っていた。
840:
「そんな無意味な七〇年を送ってきたわけだけど
――ああ、今わたしは七〇歳なの。
知ってる? 七〇年間ひとりだったんだよ?
知ってるわけないよね。わたしはひとりだったんだもの。
どうせ七〇のくせに餓鬼みたいな喋り方だとか思ってるんでしょ。
知ってるかな、孤独は心を凍らせるんだよ。
そうしないと壊れちゃうからね。そこから心は前に進めなくなる。
まあ、そんなことはどうでもいいんだよ。
君たちだってどうでもいいと思ってるはずだ。
それで、ここからが本題ね。
七〇年という無意味な時間が過ぎていったんだけどね、
わたしは昨日、とても有意義な時間を過ごしたの。
それはほんの一時間くらいだったけれど、
わたしはすごく嬉しかったわけだ。分かる?
昨日ね、君たちと同じような言葉を話す男の子に会ったんだよ。
髪の短い、汚れた子。それと、手にへんなかたちの痣があったかな。
まあとにかく、その子と踊ったの。君等と同じように耳が丸かったなあ、そういや。
この世界の住人じゃないとか、おもしろいことを言うんだよ」
魔法使いは大きく目を見開いた。が、黙って女の話に耳を傾けた。昨日?
841:
「無意味な時間だと思ってた時間は、彼のおかげで
全て意味のある時間にかわったんだよ。分かる?
わたしがこの言葉を喋れなかったら、
わたしと彼は会話を交わすことなく終わっていたはずなんだよ。
あの子と踊るために七〇年間こうやって生きてきたと思うんだよね、わたしは。
昨日こそがわたしの生きている中でもっとも輝いている時間だった。
でも昨日は終わった。今日がお祭りの最後の日で、
次にわたしが眠って目を開いたら朝が来てるんだよね。
信じらんないよ。
あの子はわたしのことを信じてくれたし、わたしといっしょに歩いてくれたわけよ。
それがどういうことか、分かる? わからないよね。わからないでほしい。
わたしを世界で一番不幸なやつでいさせてよ。誇れることはそれしかないの。
わたしは世界で一番不幸で、昨日だけ世界で一番幸せだった。そう思いたいの」
深呼吸。
「――それで、町にはいろんな言葉が溢れているわけだけど、
それはどれもわたしの中には響かないの。
だって誰もわたしに声をかけているわけじゃないからね。当たり前だ。
町の言葉は心の炎を消すんだよ」
842:
女は魔法使いの方を見た。「そこの君にも、今に分かると思うよ」
「何が」と魔法使いは言う。「あなたみたいな奴に、何が分かるっていうのよ」
女は声を上げて笑った。
「“あなたみたいな奴”だってさ。君はわたしの何を知ってるっていうの?
まるでわたしと同じ奴が世に溢れてるみたいに言っちゃってさあ。
わたしはわたしだ。唯一無二なの。
分かってるよ。分かっているとも。みんなわたしのことを見下してるんでしょ?
わたしを階段か何かとでも思ってるんでしょ? 踏みつけるためにそこにあって、
誰かを引き立たせるためだけにそこにあるとでも思ってるんでしょ?
オアシスを囲う砂漠みたいにさ。わたしは邪魔者でしかないんでしょ?
でもわたしには分かるよ。
砂にしかわからないこともあるし、階段にしかわからないことだってあるんだよ。
襤褸雑巾にしかわからないこともあるし、
道端に転がる石にしかわからないこともあるんだよ。
“町の言葉は君の心の炎を消す”。
それはほんの些細なことで、君に牙をむく。わたしの予感は当たるよ?」
「でもわたしはあなたとは違う。
わたしはひとりじゃないから、そんなことで潰れたりしない」
843:
「ふうん。この子が君を救ってくれるとでもいうの?」
女は勇者の方を見て、弱々しく微笑んだ。
「うらやましいなあ。すごくうらやましいよ。すごく苛々する。激しく嫉妬しちゃうね。
愛ってやつだね。わたしだって男と寝たことはあるけど、
あいつらとわたしの間にはそんなものはなかったな。
あいつらから見ればわたしはただの道具なんだもの。
性欲を解消するためだけに彼らはわたしと寝たわけだ。
お金を貰ったから偉そうなことは言えないけどさ。
対等な関係であるみたいに言ってるけどね、
わたしは彼らの道具なんだよ。宝石とかそういうんじゃなくて、もっと汚いやつ。
宝石ってのは、綺麗なだけでちやほやされるから楽でいいよね。
なにより丁寧に扱われるしさ。性格とか胸の柔らかさとか感じやすさだとか
締め付け具合だとか、誰も文句を言わないだもの。
存在しているだけで輝くことができるんだよ。
わたしには光る石ころにしか見えないのにね。
844:
自分で言うのもなんだけど、わたしはどちらかというと綺麗な顔をしてると思うんだよね。
君と違って胸もそれなりにあるし。
でもさ、反吐に宝石を散りばめても、それの本質は反吐じゃない?
吐瀉物だとか嘔吐物だとかゲロだとか、結局は同じだよね。
たとえそれが宝石に囲われていたとしても。
多分そういうことなんだよね。物事にはふさわしい場所があるんだよ。
わたしの身体は、ほんとうはもっと愛されるものに与えられるべきだったってわけ。
わたしは光る石ころ以下。性欲を解消するための道具。
そんなのは屑籠と何も変わらないよね。
分かってるよ。わたしにはそれがお似合いだって言いたいんだね。
それとも、血反吐撒き散らして屑籠に謝れって言うのかな?
あいつらみたいに髪を掴んでわたしの頬を殴るんだ?
ねえ、あいつらおかしいんだよ。
あいつら、わたしが苦しそうにしてるのを見て性的興奮を得るんだよ。おかしいよね?
いや、わたしがおかしいのかな? ああもう、分からない。すごく苛々する。
845:
知ってる? 殴られた箇所は痣にならないでちいさく腫れて、
眠るために横になったら痛むんだよ。見えないけど確かに傷があるんだよ。
そこにはあらゆる苦痛が詰まってる。
肉体的にも精神的にも、それは苦しくて痛い。
それで目を閉じてやっと糞みたいな場所から逃げられたと思ったら、
わたしは夢のなかでも殴られるの。
苦痛は夢の中にまで侵入してくるんだよ。で、起きたらわたしはひとりだ。
そこには恐怖しかないよ。恐怖は心を支配するんだ。とても簡単に。
それは出口のない迷路で迷うみたいに簡単なことだ」
女はそこで一息吐いてから、
「まあとにかく話を戻すと、君たちは愛し合っているわけだ。違う?」と言った。
「違う」と魔法使いは言った。
「あんたの話なんてどうでもいいけれど、わたしを救うのはあの馬鹿だけよ。
あなたと踊ったその髪の短くて汚い男が、わたしを救うの。分かる?」
846:
「何を」女は腹をたてたらしい。表情が分かりやすく歪んだ。
「何を根拠にそんなことを言うの?」
「あんたと踊った男ってのは、どうせあいつに決まってるわ。
ちなみに痣は星形。それで、もともとその痣の下にはハートのかたちの痣があった。
あいつは困ってるやつを放っておけないおせっかい野郎なのよ」
「じゃあ、何……」と女は口をちいさく開いて言った。
「あの子はひとりじゃなかったってこと?」
「あいつにはわたしがいるもの。ひとりなんかじゃない」
「でもあの子、ひとりですごく寂しいって言ってた」
「わたしがいないからよ」
女は暗い目で魔法使いの目を覗きこんだ。
魔法使いの目には炎が灯っているように見えた。
「なんだ……」女は空を見上げて言う。
「結局ひとりなのはわたしだけで、わたしはひとりで浮かれてたわけだ?」
847:
「そうね。あなたは昨日、ある意味では世界でいちばん幸せなやつだった」
と魔法使いは言い、「それで、そいつはどこに行ったの?」と訊ねた。
「知らない。あの子と踊ったあとに、わたしは眠っちゃったの。
あんまりはしゃいだもんだから、疲れて。
それで目を覚ましたらあの子はもういなかった。
わたしを置いて、どこかに行っちゃった」
「あいつはいつもそうなの」と魔法使いは言い、立ち上がった。
「あいつはいつも途中で逃げるのよ。
あいつはわたしがいないと、何も出来ないんだから」
「わたしは捨てられたわけだ?」
「拾われてすらいない。あんたは道端に転がってた石と同じ。
ただ蹴られただけよ。それですこし前に進めた。
良かったじゃないの、今まで立ってた場所を振り返ることができるんだから。
もう一度、過去の自分をよく見てみればいいわ。
今もそんなに変わらないでしょうけどね」
女は机に突っ伏して、泣きじゃくり始めた。勇者は黙ってそれを見守っていた。
僧侶の面影を持つその女が求めているのは、もうひとりの勇者だった。
そして彼女が求めていたのは勇敢な戦士だった。
「きみの居場所はどこだ」と影は言った。「きみは誰を救うことができる」
848:
「自分を救えるのは、自分自身だけだ」と勇者は誰かに向かって言った。
女は顔を上げて、勇者を見た。
勇者は言う。「誰も救ってなんかくれない。生きているだけじゃ失い続ける。
生きて歩かないと、何も手に入らない。
神様なんていないし、祈ってるだけじゃだめだ」
「いいや、神様はいるよ」と女はゆっくりと言って、
こめかみの辺りを人差し指で叩いた。
「ここにいる。みんなの頭の中に、神様はいるよ。わたしの頭のなかにもいる。
気まぐれで理不尽で、とびっきり不平等なやつがね。わたし達はみんな、
頭のなかの神様に従って動いてるだけだよ。人形とか、チェスの駒みたいにね」
その声は弱々しく震えていたが、激しい怒りと恨みで満ちていた。
まるで呪詛を吐いているようだった。
勇者は黙って立ち上がって歩く。影が笑う。魔法使いが後ろからついてくる。
行く先には暗い城がある。
852:
33
長く暗い橋を渡り切ると、大きな城門にぶちあたった。
これほど大きな城門が必要な理由がユーシャには分からなかった。
いったい誰がまともにこんな門を開けられるというのだろう。
歩いてきた道を振り返ると、遠くに町の光が見えた。
太鼓や鈴の音がちいさく聞こえる。
町と城はつながっている。同じ世界にあるのだ。
それがすこし不思議な事に思えた。
軽く叩いてみると、城門は大きな音をたててゆっくりと開いた。
どうして開いたのかは分からなかったが、とにかく開いたのだ。
しかしあまりにもゆっくりと開くので、
ユーシャは待ちきれずに隙間から内に入り込んだ。
背後ではまだ門が開こうとしている。
いったいあの門にどんな意味があるというのだろう。
巨大な人間が城にはいるのかもしれない。
853:
巨大な門をくぐった先には石畳の一本道があって、
奥にちいさな両開きの戸が見えた。ここは庭のようだ。
左右には綺麗な植木が並んでいる。花壇もあったし、淡く輝く花が咲いていた。
ちいさな光の粒があちこちで飛んでいる。よく見てみると、それは虫だった。
虫の残光が、何かの模様を描いているみたいだ。
静かだった。太鼓の音など聞こえなくなった。振り返ると、門は閉じていた。
もう町の光は見えなかった。辺りには夜の暗さと自然の静けさがある。
城を見上げる。暗いので細かいところはあまり見えないが、
それほど風化しているわけでもないようだ。
窓がたくさんあって、ぽつりぽつりと灯りが見える。
何かがいるのは確かなことだった。
直感はささやいている。“魔王がここにいる”と。
854:
ちいさな戸を開けて城の中に入った。
城内はほのかに明るい。巨大な人間は見当たらない。
等間隔で燭台があって、炎がそこで揺れながら、
足元に敷かれた茶色い絨毯を照らしていた。
絨毯で靴の底を拭うようにして、前に進んだ。
すぐに階段にぶつかったので、足音を殺して上る。
踊り場には月の光が射していた。見上げると、大きなステンドグラスがあった。
左右にわかれた階段の左側を上ると、長い廊下に辿り着いた。
廊下の左右にはドアがいくつもある。
そのうちのひとつから光が漏れていたので、とりあえずそのドアの前に立った。
耳を済ませるが、音らしき音は何も聞こえない。
そっとドアを開いて中を覗きこんでみると、机に突っ伏して眠っている女がいた。
ドアをゆっくりと開けて、中に入る。ちいさな部屋だ。
暖炉があって本棚があって、書き物をする机がある。
どうやら女は書き物をしている途中に睡魔に襲われてダウンしてしまったらしい。
855:
引き返して、長い廊下を渡る。また階段があった。
登らないわけにはいかないので上った。
また左右にわかれた階段とステンドグラスがあった。今度は右側を上る。
先にあったのはダンスホールだった。
大きな柱が円型に並び、上から大きなシャンデリアが吊られていた。
明るくて、何人もの人がいた。綺麗な衣装に身を包み、男女のペアが踊っている。
汚い服を着ているのは自分だけだ。
目立つのは避けたかったので、柱の影に隠れて引き返した。
そしてさっきとは別の方の階段を上った。
そこにあったのもダンスホールだった。が、こちらは真っ暗だった。
壁の代わりに大きな窓が何枚も嵌めこまれていたが、
外の光はほとんど届かない。それに、誰もいない。
ユーシャは真っ暗なダンスホールの真ん中に立って目を瞑り、
綺麗な服を着た魔法使いと踊る自分を頭の中に思い描いた。
多分あいつは恥ずかしがる。綺麗な服は似合わないとか言うんだろうな。
それに、俺達に踊りなんてものは似合わない。
大剣使いが見たら腹を抱えて笑うだろう。間違いない。
856:
「あけづぬれてぃしなん、あたなおのこす」と誰かが言った。
ぎょっとして声の方を向くと、訝しげな表情を浮かべた女が立っていた。
「あくせづぬれてぃいく」と彼女は続けた。
「なんて言ってるのか分からないよ」とユーシャは言った。
「あら。これまたずいぶんと古臭い言葉を使うんですね」と
女は驚いたように言った。「めずらしい」
「ちょっと前にもそう言われた。かわってるって」
「確かにかわってます」と女は笑った。
「それで、あなたはこんなところで何をしているんですか」
「ええと。ここの王様に呼ばれたんだ」と
ユーシャは咄嗟に適当なことを言った。
857:
もしかすると拙いことを口走ったのではないかと
不安に駆られたが、女は「ああ」と納得したように言った。
「今日は客人が三人来るとおっしゃってましたが、あなたがそのうちのひとりですか?」
「そう」三人の客人? まあ、なんでもいい。
「王様は多分、図書館にいますよ」
「図書館?」
「はい。場所は分かりますか?」
「わからない」
女は懇切丁寧に図書館の場所を説明してくれた。「分かりましたか?」
「分かった」とユーシャは言った。「うおたぎら」
「えちさみさちうおづ」と女は言い残して、階段を下っていった。
858:
しばらくしてからユーシャも階段を下った。
一階まで、時間を掛けてゆっくりと下りた。
階段を下るごとに、感覚は研ぎ澄まされていった。
足音がやけに大きく聞こえる。暗い城でも、何もかもが鮮明に見える。
身体が熱い。鼓動は身体を揺さぶる。手にじっとりと汗が滲む。
魔王は目と鼻の先にいる。その心臓を貫くことで、全ては終わる。
そしたら俺たちは自由になれる。
もう一度、何にも縛られることなく、ゼロから始めることができる。
魔法使い、と思う。想わずにはいられなかった。
全てが終わったら、心の許すままに彼女とふたりだけで過ごすのだ。
どれだけ言葉を交わしても、唇を重ねても、
どれだけ身体を重ねても、誰も何も言わない。
ふたりだけの領域が脅かされることはない。
魔法使い、ともう一度思った。どうしても彼女のことが頭に浮かんでくる。
振り払おうと思っても、どうしても頭の中心に彼女のことが居座っている。
自分自身の芯と彼女は同化しつつあった。
信念と彼女こそが今のユーシャの芯であり、自我を支える柱であった。
859:
一階の階段の裏側を覗きこむ。そこには光の漏れる大きな戸があった。
先程の女の言うとおりなら、ここが図書館のはずだ。
軽く戸を叩いて、返事を待たずに体重をかけるようにしてゆっくりと戸を開いた。
図書館は明るかった。眩しいというほどではないが、光があった。
高い天井を支えているみたいに、壁には大量の本が押し込まれていた。
左右には大量の本棚があって、まるで迷路のように見える。
奥には二階への階段がある。二階にも本棚があった。
どこを見ても分厚い本があって、とても静かだった。
頭がくらくらとしてくる。魔法使いが見たら喜ぶだろうな、と思う。
窓に掛けられたカーテンが亡霊のようにふわりと靡いた。
温かい夜風が部屋に入り込んでくる。
顔を上げて、正面を見据える。
そこには横長の机があって、椅子が一〇ほど並んでいる。
奥には炎の灯った暖炉がある。そして椅子のひとつにはひとりの男が座っていた。
860:
男は頬杖を突きながら、分厚い本をめくっていた。
歳は四〇くらいに見える。口周りにはひげを蓄え、
目の横には薄っすらと皺が刻まれている。
そしてやはり耳は尖っている。体格は良くて、肌の色も良い。
服装も王族らしく、身体に合っている。身分相応といったところだった。
全体的には穏やかな印象を受けたが、彼が魔王であることは間違いなかった。
ここが旅の終わりなのだ。
この図書館こそが、勇者としての役目を終える場所なのだ。
ユーシャの心臓は跳ねた。
じっとその場に立っていると、魔王は本を閉じてこちらを向いた。
そしてすこしだけ微笑み、低く響く声で「ようこそ」と言った。「はじめまして。勇者殿」
861:
「どうも」とユーシャは身構えて言った。
いつでも剣を引き抜くことはできる。
「そんなに敵意をむき出しにしなくてもいいだろうに。
まあ、座って話でもしようじゃないか」
「そうだな」ユーシャは魔王の正面の椅子に腰掛けた。
「俺も、あんたに訊きたいことがあるんだ」
「何かな?」
「ここ、なんでずっと夜なんだ?」とユーシャは純粋な疑問を口にした。
「ずっとではないさ。今日で三日間続いたこの夜は終わる。
そして三日間続いた祭りも終わる。
これは祭りのための夜で、夜のための祭りだ。お互いにはお互いが必要なんだ」
「ふうん」
「町でのお祭りは、君にはどういう風に見える?」
「みんな楽しそうで良いと思うよ。すごく」
「ありがとう」魔王は笑った。「何か飲むかい? 腹は減ってないか?」
「何もいらない」
862:
「そうか」魔王は頬杖をついて言う。「とりあえず、ご苦労様。長い旅だったな」
「そうだな。すごく長い旅だった」
「どうだった? 旅は楽しかったかい?」
「そこそこ。つらいこともあったけど、大事なものを確認できたと思う」
「大事なものというと、やっぱりあのこの子の事か?
君がプレゼントしたあの帽子はなかなか似合っているな」
「なんで知ってるんだよ」
「ずっと見てたからな」と魔王は言った。
「君たちが裸で抱き合ってたことも知ってるさ。
君と彼女が好む体位とかも知ってるぞ。私には大きな目があるからな。
君たちはお互いの目を見ながら、手を繋いで性交するのが好きなんだよな。
特に彼女のほうが、すごく。微笑ましいよ」
「ストーカーかよ。気持ちわりい」
863:
魔王は歯を見せて笑った。
目尻の皺が深くなったが、子どもの笑みのように見えた。
よく笑うやつだ、と思う。
「あの子、寂しがってるぞ? 君はあの子に酷いことをしてしまったな」
「そうだな。でもあいつをあんたに会わせたくなかったんだよ。仕方ないさ」
「でも彼女はもうじきここに来るよ。そうだな……あと三時間ってところかな」
「やっぱり」とユーシャは言う。「なんとなくそんな気がしてたんだ。
どうせ俺が“門”をくぐってから、あいつはすぐに“門”をくぐったんだろ」
「いいや」魔王は嬉しそうに目を細めた。
「君はまだ一七歳だけど、彼女はもう二四歳だ。
立派――ではないかもしれないけど、もう大人だよ。
君が門をくぐってから七年間、彼女はあの凍てついた土地で君を待ち続けた」
「七年? 何を言ってるんだ? 俺が門をくぐったのは昨日だ。そうだろ?」
「ははあ。さては、“表”と“裏”で流れる時間が同じだと思っていたんだな?」
「表? 裏? 流れる時間?」
864:
「君は何も知らない。君は何も知らずに、見知らぬ女とのんきに踊っていた。
彼女が孤独や寒さと七年も闘っているあいだに、
君は温かい町で見知らぬ女と踊った。そういうことさ」
「なあ、どういうことなんだ。お願いだから教えてくれ」
「まあ焦るなよ」魔王は、ふう、と息を吐き出した。
「まずはここが“表”と呼ばれていて、君たちがいた元の世界が
“裏”と呼ばれていることを知っていてほしい。
分かるかな? ここが表。日の当たる場所だ。
そして君たちのいた汚い世界が“裏”だ。ここまではいいな?」
ユーシャはうなずいた。
865:
「表と裏では、時間の流れが違う。
それがどういうことを意味するか、分かるかな?」
ユーシャはすこし考えたが、首を横に振った。
「たとえば、“表”で一時間を過ごしたとしよう。
すると“裏”では一年が経っていることがある。
しかし、一秒しか経っていないということもある。
五〇年経ってるかもしれないし、一秒も経っていないかもしれない。
分かるかい? “表”と“裏”では、同じように時間が流れていないんだ。
決まった流れはない。ただ、時間が遡るということはないんだ。
遅かれ早かれ、時間は進む。順行はあっても逆行はない」
「つまり」とユーシャは青い顔で言った。
「俺がここで過ごした短い時間は、向こうでの七年になるってこと?」
866:
「そういうことさ。彼女はずっと君を待ってた。
七年間君のことを信じて、想い続けた。
それは簡単なことではない。それに、あの場所の環境は過酷すぎる。
でも彼女はそこで待ち続けた。
ひとりで生き続けた。自分を慰めて、身体を騙し続けた。
心が揺らぐことは一度足りともなかったはずさ。
一秒たりとも君のことを想わない時間はなかった。
そして君は今までそのことを知らなかった」
「嘘だろ。そんな」視界が滲んだ。「七年も」
「七年も待っててくれたんだ。うれしいな?」
何も言えなかった。
「もっと早く来れば良かったのに、とでも思っているのか知らないがな、
門は私の意思で開閉が行われるんだ。
君が門をくぐってすぐに、私は門を閉じた。悪いね。
門を開けっぱなしにしていると、いろいろと拙いことになるんだ。
そして向こうで七年が経った。そこでもうひとりの勇者が門に辿り着いた。
だから私は門を開けてやった。彼女はその勇者と共に門をくぐった」
「もうひとりの、勇者」
「そう。もうひとりの勇者と彼女が、
君がここに来てから数時間後に、ここへ来た」
867:
「勇者って、いったい何なんだ。どうして俺は勇者なんだ」
「その痣のせいじゃないかな」と魔王は言った。
「くだらない御伽噺の勇者にもあったんだろう? 星形の痣が。
目的はどうであれ、だから君たちの王は君を勇者としてここへ送り込んだ」
「この痣は何なんだ?」とユーシャは訊ねた。
「彼女に訊いてみるんだな」魔王は嬉しそうに言った。
「その痣は彼女が君に付けたんだから」
「あいつが? どうして? いつ? どこで?」
「それを訊いてみればいい。もしかすると、
自分の持ち物に名前を書くような感覚だったのかもしれないな?」
「どうして」ユーシャは救いを求めるような目で魔王を睨んだ。
「どうしてあいつは黙ってたんだ?」
「それも訊いてみればいい」
「……分かった」
ユーシャは目を瞑って深呼吸をした。落ち着け、落ち着け。
こんなことは全部あとで魔法使いに訊けばいい。
あいつは全部答えてくれるはずだ。
868:
「落ち着いたかな? それとも何か飲むかい?」
「いらない」ユーシャは魔王を睨んだ。
「訊きたいことがあるんだ。まずは、南の第一王国のことについて」
「ああ」魔王は笑みをこらえながら言った。
「あの国はもう滅んださ。欲に飲まれて王は死に、国も死んだ」
「あの病気は、なんなんだ。お前の仕業なのか?」
「まあ、半分は私に責任があるといってもいいだろうな。
私があの臆病な王に“贈り物”をしたんだから」
「“贈り物”って、なんだ」それは聞き覚えのある言葉だった。
第二王国の白衣の男が言っていたはずだ。
869:
「ただの巨大な怪物さ。君たちはそれを神様と呼んだ。
どこかの町にはそれを祀る石像まで作られた。
でも、その神様に南の第一王国は滅ぼされたんだ。
神様――いや、あいつは生物から生気を吸って、自分の糧にするんだ。
病気というのは、生気を吸い取られた人たちが
動けなくなった状態のことを言っているんだろう?
でもな、それは彼が生きるためには仕方ないことなんだ。
彼が生きるためには大量の犠牲がいるんだ。
君たちが家畜を喰らうようにな。そしてあんなものは“表”には必要ない」
「どうして王はそんな大事なことを黙っていたんだ」
「彼は用心深く、酷く臆病だった。病的と言ってもいい。
自分がそんなものを隠し持っていたと知れたら、国民は憤るだろう?
彼はそれを恐れた。それだけさ。彼は王としての素質が皆無だった。
間違いなく王としては君のほうが優秀だろうな」
呆れて言葉を失うしかなかった。王が自分の立場のために国を捨てた?
信じられない。意味がわからない。
870:
「ほかに訊きたいことは? 私は全てを知っているぞ。
そして君には全てを知る権利がある」
「“贈り物”の動かし方について」とユーシャはとりあえず訊ねる。
それは最初に聞くべきことだったはずだ。
今となっては、そんなことはほんとうにどうでもよかった。
でもいざとなると他に何から訊ねればいいのかが分からなくなった。
「呪術」と魔王は簡潔に答えた。
「怪物を操る呪術というものがある。君は呪術の村を知っているな?」
ユーシャはうなずく。
「あれも滅んだ。君がいない七年間で、
“裏”では多くの人間が死んだ。今も死んでいる」
「どうして滅んだんだ」
「忘れたのかい。怪物を操る術を求めていたものがいただろう」
白衣の二人組を思い出しながら、「第二王国の」とユーシャは言った。
871:
「そう。南の第二王国だ。
そこの王は国民想いの良き王という名目で通っているが、それはただの後付だ。
“国民を守りきるためには、大きな力が必要だ。
何にも屈さない強靭で巨大な力が”。彼はそう信じて疑わなかった。
彼はそういうやつだ。堅実で、自分が絶対なんだ。
私は彼に“贈り物”をやらなかった。
あれほどの大きな力は三すくみの関係であるべきだと私は判断した、
というのは建前で、巨大な怪物は元から三体しかいないんだ。
彼は絶望したみたいな顔を見せてくれたな。
レースに勝つ気でいたのに、参加すらできないんだもんな。
そりゃあがっかりするよな。
それから第二王国は、第一王国と表面上では仲良くやっていたみたいだが、
彼はどうしてもいつの日かあの“贈り物”が
自国を飲み込んでしまうのではないかという不安をぬぐいきれなかった。
そこで彼は思い付いたわけだ。あの化け物を奪って手中に収めてしまえ、と。
彼はすぐに怪物を操る方法を探らせた。そして何年もかけて呪術を見つけた。
そして彼にとっては幸いなことに、第一王国は怪物を操る術を知らなかった」
「知らなかった? だったらどうしてその怪物は、ずっとおとなしくしてたんだ」
872:
「彼らが動く必要性はどこにある」と魔王は言う。
「たとえば君は意味もなく弱いものに力を振るうのか?
意味もなく花を踏み散らすのか? おそらく違うと思うな。
君はそんなやつじゃないもんな。彼らも同じさ。
でも君たちは勘違いをしているんだ。
“怪物は悪”と思い込んでいる。人を傷めつけるのが怪物ではない。
それに君たちは彼らを怪物と一括りに呼ぶが、彼らにもちゃんと名前はある。
私から言わせてもらえば、君たちだって怪物と何も変わらないじゃないか。
食べて寝て性交する。考えて動く。考えて動かない。私も怪物も君も同じだ」
ユーシャは黙っていた。
873:
「話を戻そうか」魔王は続ける。
「まあ、第一王国は怪物を操れなかったがために、
その巨大な力に飲み込まれたわけだ。
怪物は養分を与えてくれる人間が息絶えたから、
今度は隣の森に根を伸ばした。蟲は弱り、森は枯れる。
でもそれは当然のことなんだ。生きるためには仕方ない。
それは自然の摂理に従って起きたことだ。
誰かに自らの操縦権を与えるのはおかしな事だろ」
魔王はそこで言葉を区切り、頭を掻いた。
「彼――第二王国の王は、もぬけの殻になった
第一王国の地中に眠っていた怪物を呪術で操り、
第二王国の付近に持ち帰った。戦うことなく勝利を手にしたわけだ。
彼は賢い。そこは認める。しかし思い込みが激しい。
彼は“自国だけが怪物を操ることができる”と思い込んだ。
でもそれは間違いだった。
東の王国はもっと早くから呪術の存在には気がついていた。
何も知らないのは君たちの王、西の王だけだった。
第二王国の王は、怪物を操る呪術が他に知れるのを恐れて、
呪術の村の呪術師を一掃した。
“裏”から呪術は消えた。残ったのは怪物を操る術だけだ」
874:
違う、とユーシャは思った。
呪術は残っている。あいつが全てを知っている。
ひと晩で頭に叩き込んだ膨大な知識がある。
そしておそらくあいつは、その気になれば呪術を使うこともできる。
魔法使いには間違いなく、魔法に関して生まれ持った才能がある。
それは精霊的と言ってもいいほどの才能だ。
「第二王国は著しい発展を遂げた」魔王は言う。
「巨大な怪物を操ることで、
ちいさな怪物どもだけから力を奪わせることができたんだ。
王国周辺の怪物たちはみるみる弱っていった。
結局は人間だけが衰えずに、第二王国は大陸一の国になった。
そして今に至るわけだ」
「いろいろあったんだな」
「そうだな。ほんとうにいろいろあった。
七年という月日は決して短いものではないと私は思うよ」
「要するに、俺がここに贈り物の動かし方を聞きに来た理由は、
西の王が大きな力を手に入れるため、ってことになるのか。
ただそれだけのために俺はここに来た、と。
でも、こんなところに来るまでもなく答えはあった。
俺と西の王はその横を素通りしたわけか」
875:
「そういうことだ。君は白黒の盤上で踊っていたんだ。
自分が主人公だと思い込んでいたのかもしれないけど、
君は誰かに操られてただけさ。
君は糞みたいな世界の、糞みたいな国の糞みたいに馬鹿な王のために、
糞みたいな目に遭った。どんな気分だい?」
「糞みたいな気分だ」とユーシャは言った。
魔王は声を上げて笑った。
「でも、いいじゃないか。君にはあの子がいるんだから。
待っててくれるひとがいるというのは素晴らしいことだよ。誇ってもいい事だ。
君と彼女くらいにお互いを求め合っていればな。
でも世界のどこかには孤独に耐えることに
慣れてしまった可哀想なやつがいるんだよな。
きっと彼らは、私たちから言わせてもらえば
糞みたいな気分で毎日を過ごしているんだろうな。
君みたいなやつを逆恨みしながらさ。
彼らは君以上に惨めな思いをしながら、
糞みたいに地面を這いつくばっているのさ。
どうかそのことを忘れないでくれよ」
876:
「分かってるよ。孤独が苦しいことも知ってる」
「それならいいんだ。君は物分かりがいいな。私は好きだよ、そういう奴が」
「どうも」
魔王はまた歯を見せて笑った。
「さあ、他に訊きたいことはあるかな? それとも何か飲むかい?」
「なんでも知ってるんだよな?」
「なんでも知ってるさ」
「塔の怪物」とユーシャは言う。
「あの東の大陸の塔にいた怪物。あれは何だ?」
「東の大陸の塔というと、北側の? 南側の?」
「北側」
「あれは」と魔王は宙を見て何かを考えるように言う。
「あれは見た目が不快だったろう?」
「そうだな」
877:
「だろう。だから、魔王――君にも分かるように言うならば
御伽噺の魔王――が森の奥に閉じ込めていたんだ。
彼は冷たいものだった。
君は森の廃墟を見ただろう?
ほんとうはあの地下に幽閉しておいたんだが、
彼はちょうどいい置き場所を見つけたんだ」
「裏」とユーシャは言った。
魔王は微笑んだ。
「だから表から追放して、あの塔の天辺に置いた。
尻尾を一箇所で接合した馬鹿でかい毒蛇共も、
何も語らないし何を考えているかもわからない返り血で汚れた処刑人も、
好戦的で不快な声と巨大な眼球を持ったあの人間臭い馬鹿も、
泣いて笑って叫ぶことしかできない能なしジェスターも、みんな追い出した。
邪魔だったからな。必要ないんだよ、ここには。
そして彼らはもう誰も生き残ってはいない。みんな勇者にやられた」
「俺が倒したのはあのカエルだけだけど、
もうひとりの勇者ってのは残りのやつを全部倒したの?」
「勇者はもうひとりいるだろう?」
「誰」
「君たちの大好きな、御伽噺の勇者」
878:
「あれは御伽噺だろ?」
「裏で計算すると、七〇〇年前くらいだ。彼は実在したんだよ。
御伽噺の魔王と共に。彼は御伽噺の魔王を殺して死んだ。
どちらも“喉”に飲まれて死んだ」
「喉って何だよ」
「君は森で見なかったかな、真っ黒な湖を。
あそこは“喉”と呼ばれているんだが。
黒い水たまりだとか、ブラックホールだとか呼ぶものもいる。
とにかく、そういう場所があるんだよ。
“表”で肉体が消えて、行き場を失った魂がそこへ向かうのさ。
そしてその魂はふたたび肉体を取り戻すことができる」
「生き返ることができるってこと?」
魔王はうなずいた。「喉から這い上がることができればね」
「難しいんだ?」
「難しいなんてものじゃないさ。不可能に近い。
ただ、這い上がるだけの力があればもちろん這い上がれる。
私や御伽噺の魔王のように」
「でも御伽噺の魔王は這い上がれなかったんだろ」
879:
「そう。あの勇者が自らの意思で喉に飛び込んで、魔王を湖の底へ沈めた。
いったい、何が彼をそこまでさせたんだろうな。私にはわからないよ」
「あんたにもわからないことがあるんだ?」
「まあね」魔王は笑った。「なあ、死ぬってのはどういうことだと思う?」
「さあね。死んだことがないからわからないよ」
魔王は長い息を吐いた。それはため息のようにも聞こえた。
「死を体験した魂は、どれほど強くなると思う?」
「すごく強くなるんじゃないの? よく分からないけど」
「そのとおり。すごく強くなる。死ぬことに耐えることすらが可能になる」
「意味が分からない」
「死んで、喉から這い上がってみれば分かるさ」
「勘弁してくれよ」
880:
魔王はまた笑った。「ほかに訊きたいことは?」
「俺があんたを倒すってことは、正しいことなのか?」
「正しいか正しくないか、それを決めるのは君だ。君は勇者で、私は魔王。
君は表に破滅をもたらして、私は裏に破滅をもたらす。
お互いの世界は崩れつつある。君は今、何をするべきか分かるだろう?」
ユーシャはうなずいた。「なんとなくね」
「それが正解だ。君が思ったことは全て正解だ。
君はただ、まっすぐにやればいい」
立ち上がり、ゆっくりと剣を引き抜く。
背後で椅子が倒れた。乾いた音が図書館に響いた。
「このままだとあっちが拙いってことなら、俺はやるよ。個人的な恨みもあるし」
「君にやれるかな?」
「分からないけど、やるしかないんだろ」
「勇者らしくない台詞だな」
881:
ユーシャは弱々しく笑った。
「だって俺はひとりじゃ何もできないからな。
身体には今までにないくらい力が漲ってるのに、
胸の真ん中に大事な部分が足りてないんだ。
だから多分、俺はあんたに勝てない気がする」
「そんなことは、やってみなきゃ分からないだろ」
「そうだな」とユーシャは言った。「いいこと言うね」
「ありがとう」魔王は目を瞑って、口元をゆるめて笑った。
「なあ、私たちが魔王と勇者じゃなかったら、どういう関係になれただろう?」
「けっこう仲良くなれたんじゃないかなと思うよ、俺はね」
「私もそう思うよ」と魔王は言った。
882:
34
橋を歩いていると、背後の町の光が弱まっていくのが分かった。
灯りが消えて、声も止んでゆく。
唄声も太鼓の音も鈴の音も聞こえなくなった。
祭りは終わり、町は眠りにつこうとしている。
でも城だけは例外だった。
城内では静かに何者かが踊り、飲み、語り合っていた。
勇者の耳には何も届いていないようだ。魔法使いにはそれが分かる。
階段の上からは賑やかな声が聞こえてくる。
わたし達の向かうべき場所はあんな綺麗なところではない、と魔法使いは思う。
誰かが呼んでいるような気がした。助けを求められている気がした。
その先には彼がいる気がした。
いつだって進むべき道の最後には、彼がいるのだ。
それは行き止まりにぶち当たるのと似ているが、
そこにたどり着かないことにはどこに行くこともできない。
行き止まりとは言っても、それは自分を受け止めてくれる壁であるように思えた。
温かく、大きな、不思議な壁だ。
883:
この扉の向こうに、その不思議な壁がある。
直感はそう囁いていた。間違いない、と魔法使いは思った。
目を閉じて、深く呼吸する。身体が震えた。
寒くはない。怖くもない。身体は熱い。手に汗が滲む。
もう一度あいつに会うことができる、と想う。
長い旅は終わり、わたし達はゼロからやり直すことができる。
早く言葉をかわして、手を握って、唇を重ねて、身体を交えたかった。
身体の内側が沸騰したみたいだった。
精神は昂ぶっているし、視界はぼんやりとするし、何がなんだか分からなかった。
彼が門をくぐったのが七年前で、昨日あの女と踊ったとか、
そんなことはどうでも良かった。
とにかく彼に会いたかった。頭の中にはそのことしかなかった。
勇者だとか魔王だとか、世界の平和だとか、どうでも良かった。
魔法使いは目を開き、扉に手を添えた。そしてゆっくりと開いた。
884:
「ようこそ」と誰かが言った。
「殺してやる」と背後で勇者が言った。
887:
35
テーブルに足を掛けて蹴る。
前へ飛び出し、魔王の顔面目掛けて剣を振る。
当たり前のように剣は魔王の肉を切り裂く直前で止まった。魔王は笑った。
ユーシャは表情を歪めて、「魔術の障壁」とつぶやいた。
「呪術の障壁だ」と魔王はからかうように言った。
「君は魔術も呪術も使えないんだったか?」
「知ってるくせに」
888:
軽くテーブルを蹴って、床に下りる。それからテーブルを蹴飛ばしてひっくり返す。
魔王の座っていた辺りだけが炎に包まれて、長いテーブルは真っ二つになる。
可哀想なテーブル、と思っている暇はなかった。
脇から青い炎の槍が三本飛んできた。
それは矢を思わせる俊敏さと殺傷性を持っているように見えた。
本能が何かを叫び、身体が自然と動いた。地面を這うように転がって、槍を躱す。
炎の槍は壁の棚に押し込まれた本にぶつかる直前で完全に消えた。
はじめからそんなものはなかったみたいに。
魔王は相変わらず安っぽい椅子に座っていた。
腕と脚を組んで、こちらを見下ろすように顔を傾けている。
889:
「余裕だな」とユーシャは言った。
「君とまともに殴り合ったら勝てないかもしれないからな」と魔王は笑顔で言った。
「私も歳なんだよ。分かるだろ? 私は魔法を頼ることにするよ。
君がこの壁を壊せたら、君の勝ちだ」
「分かりやすくていいね」
床を蹴り、魔王に向かって突進する。
魔王は椅子に腰掛けたまま、指先で宙に円を描いた。
その直後、背後に黒い球体が現れた。
黒い球体というよりは、黒い穴のようなものだ。
身体がそこへ引き寄せられるのを感じた。
前へ進めない。その場で踏ん張るのが精一杯だった。
「必死だな」と魔王は言った。
「うっせえ必死で何が悪い」
890:
地団駄を踏む子どものように足を大きく動かす。
思いっきり床を踏みつけて前に進む。
その都度、ばん、ばん、と大きな音が鳴る。
ゆっくりと前に進んでいるが、魔王まではすこし遠い。
「おお、すごいな」と魔王はどうでもよさそうに言った。
「もっと褒めてくれてもいいんだぜ」
魔王は無言で微笑む。脇に青い炎の槍が現れる。
ユーシャが引きつった笑みを浮かべるのと同時に、槍はその場から放たれた。
避けようと思い、床から足を剥がした。身体が浮いて、黒い穴に引き寄せられる。
黒い穴から大きな手が伸びてきて、背中を掴まれたような感覚だった。
あるいは嵐の中に放り出された赤ん坊のような気分だった。
とにかく自分が果てしなく無力に思えた。でも実際にそうなのだ。
俺は無力だ。ひとりではどうしようもなく無力だ。
891:
川の流れに逆らうことのできないちいさなごみのように、
身体は黒い穴に吸い寄せられ、その穴の中心にあった黒い粒に手が触れた。
それがスイッチになっていたのか、直後に黒い穴は
今まで吸い込んだ分の空気を吐き出すみたいに破裂した。
身体が地面に叩きつけられる。身体中に鈍い痛みが走る。
特に左腕の痛みは凄まじいものだった。
痛みのあまり絶叫したくなったが、痛みのあまり声をだすことができなかった。
苦痛にあえぐことしかできなかった。釣り上げられた魚みたいだった。
「立てるかい?」と魔王は言った。
892:
ユーシャは黙って立ち上がった。
左腕がおかしな方向に曲がっているように見えたが、もう見ないことにした。
額からは血が滴っていた。呪文をつぶやき、癒やしの魔術で傷を塞いだ。
血は止まったが、跡は残った。
やっぱりこの程度の傷も完全に治せないのか、と
ユーシャは自分の才能の無さをあらためて痛感した。
「魔術が使えたのか?」と魔王は驚いたように言った。
ほんとうに驚いているように見えたが、ほんとうのところは分からない。
「まあね」とユーシャは自慢するわけでも謙遜するわけでもなく言った。
「癒やしの魔術だけだけどな。あいつに教えてもらった」
「あいつというと、彼女か?」
「いいや、違う」
「だったら誰に」
「誰だっていいだろ」
ユーシャはもう一度呪文をつぶやき、腕の痛みを和らげた。
和らげたといっても苦痛のレベルが一〇〇から九八になったというだけの話だ。
痛いことに変わりはない。
893:
「へたくそな術だな」と魔王は笑った。
「これでも必死なんだよ」ユーシャは苦痛に表情を歪めた。
「糞、痛い。こんなに痛いのは久しぶりだ」
「いつも彼女がすぐに治してくれたもんな」
左腕の骨が悲鳴を上げている。その声が聞えるようにも感じられた。
錆びた金属同士を力いっぱいこすり合わせるような音だと思う。
聞いていて気分の良いものではない。
もう一度前へ出る。痛い。怖い。身体が震えた。身体が熱い。
でも前へ出ないことには何も始まらない。
右手で剣を強く握る。重い。良くも悪くも自分の身体が別のものみたいだった。
「まだやるのか」と魔王は笑った。「もういいだろうに」
894:
黙って床を蹴って、放たれた矢のように魔王へ向かう。障害物は現れない。
魔王の脳天を目掛けて、力任せに剣を振り下ろす。
剣は障壁に阻まれる。剣と障壁の隙間からは空間を砕くような紫色の光が漏れた。
それは雷のように見える。力を込めれば込めるほど光は眩くなった。
しかし壁は壊れない。魔王は光を眺めながら笑っている。それが腹立たしい。
さらに剣へ力を込める。右腕に全体重をかけるようにして障壁を押した。
すると、障壁はすこし歪んだ。
魔王の表情も訝しむようなものに歪んだ。ユーシャの口元は思わず歪んだ。
魔王はまた指先で宙に円を描いた。
ふたたび黒い穴が現れて、身体が浮き、引き寄せられる。
剣をすぐ後ろの床に突き刺して、身体を支える。
そして右手で思いっきり障壁を殴りつけた。
拳に、皮膚が裂けて骨が砕けるような痛みが走った。
でも今できることはこれしか無かった。
魔王はいかにも不愉快であるというような顔つきでこちらを眺めていた。
ユーシャは歯を剥きながら食いしばり、障壁を殴り続ける。
895:
魔王は歯を剥いて何かをつぶやいた。
頭上に光の球が現れた。
訝しむ間もなく、そこから雷が降ってきてユーシャの胸を貫く。
死んだ、と思った。でも死ななかった。身体が痺れて動けなくなっただけだ。
足が地面から剥がされ、身体は浮き、黒い穴に引き寄せられる。
黒い穴は吸い込んだ空気を一瞬にして吐き出す。
身体が雨粒のような勢いで地面へぶつかる。
死んだ、と思った。でも死んではいなかった。身体が四散することも無かった。
でも身体が痛くて動けなくなった。身体全体に杭を打たれたみたいだった。
痛む頭をなんとか動かして、重い左腕に目を向ける。
左腕は真っ赤になっていた。星形の痣に上書きするみたいに、
綺麗で生ぬるい血がこびりついている。そこに感覚はほとんど残っていない。
それが自分の身体の一部であるようには思えない。
あとから縫い合わせた別のもののように思えた。
896:
ゆっくりと立ち上がる。が、それ以上は何もできなかった。
身体中が痛くてたまらなかった。全身に痣ができたみたいだった。
あながちそれは間違いではないのかもしれない。
痛みと恐怖で身体が震えた。視界は滲む。足元に雫が落ちる。
身体から力が抜けていく。わけの分からない笑みがこみ上げてくる。
魔法使い、と思った。助けてほしい、と願った。死にたくない。
魔法使い、ともう一度思った。死にたくない、ともう一度思った。
「なあ」と魔王は憐れむように言う。
「どうして立つんだい。いったい何が君をそこまでさせるんだ?」
「さあね」とユーシャは震える声で言った。痛い、痛い、痛い。……
もう一度前へ足を出す。
魔王は化け物でも見たような面持ちでそれをじっと見ていた。
やがてユーシャは魔王の前に立ち、剣を振るった。
障壁に弾かれ、剣は手からこぼれ落ちた。
左耳の辺りでちいさな爆発が起きた。頭の中が揺さぶられる。
耳が吹っ飛んだような気がしたが、実際はどうなのだろう。
分からない。ただ耳の辺りが熱かった。左方向から音が消えた。
897:
立っているのがめんどくさくなる。そのまま地面に倒れる。
床に敷かれた絨毯はすこし冷たかったが、寝心地が良かった。
耳と目から熱い液体が地面に向かって流れ落ち、汚い模様を絨毯に描いた。
「もう止めにしよう」と魔王は立ち上がって言った。「もう終わりだよ」
「もうちょっとだけ、頑張ってみるよ」とユーシャは誰かに向かって言った。
もう一度だけ立ち上がってみた。わりとすんなりと立ち上がれたような気がした。
今なら何でもできるような気がした。
魔王を倒すことだって、世界を救うことだってできる気がした。
頭の中は綺麗だ。とても。
空っぽで真っ白で、真ん中に魔法使いがいる。
彼女は手を伸ばして誰かの名前を呼んでいる。誰かに呼ばれた気がした。
踏ん張って歩く。地面を踏む度に、腕や耳が痛んだ。
地面が身体を揺さぶっているみたいだった。
剣を拾う。重い。剣の先にこの世界がまるごとくっついてきたような重さを感じた。
でも今なら世界でも何でも背負える気がした。
898:
頭のなかの魔法使いは叫ぶ。
何と叫んでいるのかは分からない。でも表情は悲しげだった。
何を悲しむ必要がある? とユーシャは頭のなかの彼女に語りかけた。
返事はなかった。
その叫び声は遠ざかっていく。
遠ざかるというよりは、頭の中心に向っているような感じだった。
でも声はちいさくなっていく。まるで自分から遠ざかっていくみたいに。
中心と外、自分から遠いのはどちらなのだろう。
分からない。分からないことばかりだ、と思う。
後ろからは真っ黒な水が迫ってきている。そんな気がした。
真っ黒な水はこちらを掴もうと、幾つもの腕を伸ばしてくる。
でも振り返ってみるとそんなものはひとつもない。すこし先に扉があるだけだ。
この部屋に入るためにくぐった扉だ。そこからは逃げ出すことができる。
あの扉をくぐって引き返せば、彼女に助けを求めることができる。
だめだ、と自身に言い聞かせる。それだけはだめだ。
899:
ユーシャは歩く。魔王の首に向かって剣を振る。
剣は見えない壁に阻まれ、弾かれた。
手から剣が落ちる。片方の耳に重々しい音が響き、
もう片方の耳の奥ではごぼごぼと血液が沸騰するような感覚がある。
空っぽの手に力を込めて拳を作る。
そこで魔王は何かをつぶやいた。何と言ったのかは分からなかった。
気づいた時には右腕がなかった。肩はある。
でも肘も腕も手首も手も指も爪もない。
身体から何かが流れ出ていく。視界は滲んで、狭くなっていく。
顔に何かがぶつかった。のではなく、顔が地面にぶつかった。
もう立てないような気がした。もう立てなくてもいいと思った。
無意味な時間だった。
無意味で満たされた時間は終わり、長い空白が始まる。
それは悪くないことのように思える。何にも脅かされることなく、
時間の許すままに彼女のことを考えられるのは、素敵なことに思えた。
身体の痛みは消えた。誰かが持って行ったみたいに、綺麗になくなった。
でも右肩から泥水がこぼれてるみたいに血が流れ出ていた。
汚い液体が、絨毯に汚い水たまりを作る。
それが自分の体内にあったとは思えない。
900:
「もういいだろう」と魔王は言った。「君は死ぬんだ」
ユーシャは頭だけを動かし、魔王を見る。弱々しい笑みがこみ上げてきた。
「俺は死ぬけど、負けないよ。それに多分、俺は生き返る」
魔王は呆れたように顔を顰めた。「君はどこまでおもしろいやつなんだ」
ユーシャは魔王の言葉を無視して言う。
「だってあいつが俺を助けてくれるからな。あいつこそが、俺を救ってくれるんだよ」
「君はどこまでも幸せなやつだな。それに、信じられないくらい無責任だ」
「ごめん」
「どうして謝るんだ」
「やっぱり死にたくない」
「信じられないくらい我儘だ」と魔王は呆れて言った。
「君はもう死ぬんだ。分かるだろう」
「分かる。すごく」
音が遠くなっていく。視界が狭まっていく。力が抜けていく。息が苦しい。寒い。
声が欲しい。光が欲しい。立ち上がる気力が欲しい。空気が欲しい。ぬくもりが欲しい。
901:
「なあ。最後にひとつ訊いていいかな」とユーシャはつぶやいた。
「なんだい」
「俺は、ほんとうに勇者なの?」
魔王はユーシャの脇に立つ。そして胸を踏みつけながら、「違う」と言った。
「君は勇者なんかじゃない。それに私も、魔王なんかじゃない。
君は人間のなかの君という意識で、私はエルフのなかの私という意識だ。
君は生まれた時から勇者だったのか? 違うだろう?」
「よく分からないよ」
「私と君という意識が存在するだけってことさ。
善悪も敵味方もない。勇者も魔王もない。
君は君で、私は私。勇者は勇者で、魔王は魔王。分かったかい」
「さっぱり分からん」とユーシャは笑った。
902:
魔王は足に体重を掛けた。
胸が圧迫される。
心音が遠くで聞こえる。何かが壊れる音がした。
しばらくすると音が消えた。ひとつも聞こえなくなった。
身体が氷のように冷たくなっていく。
光が消えた。沼に身体が沈むようだった。
身体がゆっくりと消えていく。
一欠片ずつパズルを壊すみたいに、身体が壊れていく。
意識は黒い水たまりに吸い込まれる。
魔法使い、と思った。
903:
36
「ようこそ」と誰かが言った。
勇者は声の主を睨んだ。身体の奥底から溶岩のようなものが噴き出すのを感じた。
それと一緒になって、底知れない開放感を覚えた。もう何も我慢することはない。
そう思うと笑みがこみ上げてきた。鎖はちぎれた。氷は砕けた。炎が灯った。
「あれが魔王だ」と影が言った。
「殺してやる」と勇者は言った。
前へ出る。立ち止まった魔法使いの脇を通る。
いい匂いがした。喜色を感じ取れるような優しい匂いだった。
「第一声が殺してやるだなんて、物騒なやつだな」と魔王は笑った。
「はじめまして。勇者殿と、かわいらしい魔法使いさん」
904:
「あいつは?」と魔法使いが背後で言った。「あの阿呆はどこ?」
「ほんの一時間前くらいに、“喉”に行ったよ」
「喉って、何」
「君は見たはずだ。森に真っ黒な湖があっただろう? あれが喉だ」と
魔王は薄く笑って言った。「ここで死んだものはそこに向かうんだ」
「しんだ」と魔法使いはつぶやいた。「誰が」
「君の勇者。短い髪で汚い服を着てて、星形の痣が手の甲にあって、
君が好きな君のことが好きな彼だよ」
「うそ」
「ほら、そこにあるじゃないか」と魔王は勇者の正面の床を指さして言った。
そこには誰かの腕が転がっている。血だまりの中に浮いたそれは
強烈な存在感を放っていたが、寂しげに見えた。
皮膚には網目状に紫の筋が浮き出ている。
決して良い光景ではなかったが、なかなか目を離せなかった。
その腕にはひとを惹きつける何かがあった。
脇には剣が転がっていた。
ところどころ刃が欠けている。長い間使われた剣なのだろう。
魔王は言う。「彼は死んだんだよ。分かるだろ?」
905:
勇者は魔法使いのことを憐れむように見る。
魔法使いは手から杖をこぼした。乾いた音が図書館に響いた。
音は幾つもの本に吸い込まれるように消えた。
表情から色が消えていくのを見て取れた。
目に灯っていた光は雫と一緒に流れ落ちる。
魔法使いは床に転がる腕に歩み寄って、脇で屈む。
それから腕を拾って抱き、頬ずりした。
顔は血で汚れた。でも彼女は腕を愛でつづけた。
頬ずりして、汚れた指を咥えた。服の中に入れて、乳房にこすりつけた。
絨毯に染み込んだ血に頬を擦りつけた。血はまだ乾いていない。
彼女の顔は酷く汚れた。口の中も血で汚れた。
その光景は静かに再開を喜んでいるように見えた。
でも別れを悲しんでいるようにも見えた。ほんとうのところは分からない。
906:
しばらくしてから魔法使いは絶叫した。
鼓膜を貫いて心を揺さぶるような絶叫だった。
ひとの泣き声というよりは獣の叫びのようなものだった。
吐き出したいものがそこには詰まっていた。
勇者にはそれを感じ取ることができた。でもどうすることもできなかった。
魔王は言う。「エンディングまで泣くんじゃない。まだ君の物語は続くんだ。
彼は死んだけど、君は生きてる。それに、彼は生き返ることができるかもしれない」
魔法使いの絶叫は続く。彼女の耳には何も届いていない。
「どういうことだ」と勇者は代わりに訊ねる。「生き返るって」
「君は見たかな、真っ黒な湖を」
「見たような気がする」
森を歩いているときに見たはずだ。真っ黒な湖の水面には波も波紋もなく、
中では無数の怪物や動物が蠢いていた。まるで生きているみたいに。
907:
「そこは喉と呼ばれている。
ブラックホールだとか、黒い水たまりだとか呼ぶものもいる。
とにかく、そういう場所があるんだ。
それで、ここで肉体を失ったものの魂は、まずそこへ向かう。
そしてそこからは這い上がることができる。
這い上がった魂は肉体を取り戻すことができる。
決して簡単なことではないが、無理だということもない。
私ならば這い上がれるだろうが、彼に這い上がることができるかは分からない。
全ては彼次第だ。意思と力があれば可能だが、どちらかが欠けるとだめだ」
魔法使いの絶叫を無視して、勇者は言う。
「“裏”で死んだひとは、そこに来ない?」
「来ない」と魔王は言い切った。
「そうか」
「ほかに質問があれば何でも訊いてくれよ。何でも教えてやる。
君は全てを知る権利と責任と義務がある」
「いらない」
剣を引き抜く。「殺してやる」と影は言った。
内側で真っ黒な炎が弾けた。身体は震えて熱くなる。
908:
「殺してやる」と勇者は言った。
「君はどうして私を殺そうとする」
「殺したいから。憎くて堪らない」
「世界の平和のためとかではなく?」
「そんなことはどうでもいい。ただ僕がお前を殺したいだけだ」
「君の友人はみんな死んだが、それは私のせいではないだろう?
八つ当たりじゃないか」
「殺してやる」と勇者は言った。
「まあいいんじゃないかな」と魔王は微笑んで言う。「人間らしくて、いいと思うよ」
909:
勇者は跳んで、魔王の顔面目掛けて剣を振った。
当然であるとでも言いたげに、魔王には“膜”が張られていた。
剣に力を込めて押す。膜は歪まない。腹立たしい。憎くて堪らない。
剣が弾かれた。もう一度顔面へ剣を振る。
その憎たらしい顔をぐちゃぐちゃにしてやりたい。
身体をばらばらにしてやりたい。内蔵を引きずり出して踏み潰してやりたい。
喉の奥に手を突っ込んで、何もかも引きずり出して握りつぶしてやりたい。
刃は魔王に届かない。もうほんの数ミリなのに届かない。
剣と魔王の間には不思議な壁があり、そこからは紫色の光が四散している。
腕が熱を帯びる。血液が沸騰したみたいだった。
喉の奥から怒りがこみ上げてくる。勇者は獣のように吠えた。
言葉で表せない感情を吐いた。
どうしても内側に閉じ込めておくことができなかった。
自分の内側には何がいる? お前は誰だ?
910:
魔王は指先で、宙に円を描く。視界の右上に、黒い穴が現れる。
身体がそこへ引き寄せられる。踏ん張ったが、身体は浮いた。
勇者は魔王を睨みながら叫んだ。「糞。糞が!」
魔王は憐れむようにこちらを見た。が、それ以上は何もしなかった。
やがて手が黒い穴の中心にあった球体に触れる。
すると、今まで吸い込んだ分の空気を一瞬で吐き出すみたいに、それは破裂した。
身体は地面に打ち付けられた。全ての毛穴を針で刺したみたいに全身が痛んだ。
脚がおかしな方向に曲がっているが、どうでもいい。
911:
勇者は剣で身体を支え、立ち上がる。そして魔王を睨む。
誰かのすすり泣く声が聞こえる。
その声に覆いかぶさるように、「君も彼も同じだ」と魔王は言った。
「御伽噺の勇者には、三人の仲間がいたよな。
彼らは七〇〇年前、御伽噺の魔王を討った。
便宜上、御伽噺の勇者と魔王と呼ぶが、彼らは実在したわけだ」
「だから何だ」と勇者は言った。
「彼らは四人でここまで来た。誰も欠けることなく、門をくぐった。
でも君にはそれができなかった。友人をふたりも失った。どうしてか分かるか?」
「僕が弱いからだ」と影は言った。
「そのとおり」と魔王は言う。「君も彼も、弱いんだ」
「黙れ」と魔法使いが言った。
912:
「彼もひとりじゃあ君を守りきることもできないし、
魔王一体を倒すこともできないんだもんな」
「黙れ」と魔法使いは言い、立ち上がった。
ゆっくりと歩き、勇者の脚に触れる。
すると脚は元に戻り、痛みが消えた。
立ち上がり、魔王に向かう魔法使いの背中を見る。
ちいさな背中だった。長い髪が歩く度に揺れる。
それは炎のゆらめきのように見えた。
静かに、でも確かに熱を持って、光を放っている。
暗く曲がりくねった道で誰かを導く大きな光のように、彼女は前に立つ。
「あいつは弱くなんかない」と魔法使いは魔王を見ながら言った。
「彼は弱いよ。君とは違って」
「黙れ!」と魔法使いが叫ぶ。
勢いよく床に杖を突くのと同時に、彼女の背後に青い炎の球が七つ現れた。
魔王はすこし驚いたように、「呪術か?」と言った。
「殺してやる」と魔法使いは震える声で言った。
「殺してやる」と、どこかで誰かが叫んだ。
914:
37
今日がその日に、今がその時になる――
915:

どっちが上で、どっちが下だ? 俺は誰で、お前は誰なんだ?
暗くて、寒い。ここはどこだ?
右腕がない。左耳がない。
左腕もない。でも左手はある。星形の痣も残っている。
指はないけど、爪はある。
脚はある。足はない。指はある。爪はない。
息が苦しい。肺はある。でも皮膚はない。
考えることはできる。動くことはできない。
身体がない。でも心がどこかにある。
誰かが泣きながら、誰かの名前を呼んでいる。とても懐かしく、温かい声だ。
その声は内側で響いているようにも聞こえるし、
遥か遠くからまっすぐここに向かってきているようにも聞こえる。
それが自分のための声なのかは分からない。俺の名前って、何だ?
916:
だんだんと暗闇に目が慣れてくる。
周囲には無数の生物が真っ暗な宙を漂っていた。
全ての生物は何かが欠落している。
それは腕だったり足だったり頭だったり内蔵だったり心だったりした。
飛び出した長い臓器が絡み合って、身動きがとれなくなっているものもいた。
俺もみんなと変わらないんだろうな、と思う。
自分の身体は闇に阻まれてよく見えない。
左手が何かに触れた。
おそらく毛むくじゃらの生物だ。もさもさとしている。
何かと繋がっているということが、根を失いかけた心を安定させる。
柔らかな毛を撫でる。
今度はヘドロに触れたような感覚が手のひらを這いずりまわった。
もう一度ちゃんと触れてみる。
その生物には四本の脚があることが分かる。
でも前脚と後ろ脚の間の胴体が潰れている。
ヘドロだと思っていたのは、むき出しの血肉だった。
目を凝らしてその生物を見据える。それには見覚えがあった。
四本の腕を持った熊に叩き潰された狼のような怪物だった。
彼(あるいは彼女)は悲しげにこちらを見た。
ユーシャはそれをそっと抱き寄せた。
917:
「あの子は生きている?」と誰かが言った。
落ち着いた女性の声だった。
「生きてるよ」とユーシャは言った。
「仲間のところに合流できた」
「それなら良かった」
「それから道案内をしてもらったんだ、大人の狼と一緒に。
助かったよ。ありがとう」
「わたしに礼を言っても仕方ないでしょうに。
彼と、あの子に、直接言ってあげて。
それに、いま礼を言うのはわたしの方」
彼女はユーシャの頬を舐めた。
「あの子を助けてくれてありがとう」
918:

目を見開いて、暗闇の底を見据える。そこには無があった。
目を閉じ、暗闇の果てを見据える。そこには自分がある。
内側には誰かの胎内で眠っているような心地よさがある。
規則正しい鼓動が身体を揺らす。
でも、あたたかみはどこにも無い。
ここは酷く寒い。まるで氷にでもなったみたいだった。
もう一度目を瞑る。魔法使い、と思った。
栗色の髪。柔らかく温かい手。細い指。傷のある脚。
白い肌。ちいさな乳房。柔らかく熱い身体。優しい心。
もう一度会いたい、と思った。思わないわけにはいかなかった。
格好悪くても惨めでも、もう一度そこへ帰りたいと思った。
約束したのに。伝えたいことが数えきれないほどあるってのに。
でもどうやって? どうやって伝えればいい?
どうやってここから出ればいい?
919:
どっちが上で、どっちが下なんだ?
導いてくれる光はもう見えない場所にある。
太陽も星も炎も魔法使いも、水面の向こう側にいる。
ただ水から這い上がるだけなのに、俺にはそんなこともできないのか?
どうして? ひとりだから? 弱いから?
助けてほしい、と思う。なんて身勝手なやつなんだろう、と呆れる。
勝手にひとりで突っ走って、死んで、助けてほしいだなんて都合が良すぎる。
でも助けてほしい。死にたくない。もう一度だけ触れたい。
魔法使いは自身の内側の全てを支える大きな柱だった。
でも今は違った。彼女こそが自身の内側の全てに成り代わっていた。
魔法使いという人間こそが世界そのものなのだ。
そんなちいさな世界を救うこともできないのに、
一体俺はどんな世界を救おうとしてたっていうんだ?
返答は無い。声も無い。
920:
世界は遠ざかっていった。違う。世界から遠ざかってしまった。
自分から地面を蹴って、宙に飛び出したのだ。
さまざまなものを見誤って、身体を失くした。
世界は終わった。外の世界も内の世界も終わった。
「なあ」と影が言った。「お前の最期の場所はここなのか?」
「分からない」とユーシャは言った。
921:
「あのな、お前にはここから這い上がるだけの力があるんだ。
多分お前は知らないだろうけどな、お前は強いんだ。
力と強さはイコールじゃない。腕力が全てだなんて誰が言った?
お前は世界を救えるんだよ。どういうかたちであってもな。
世界を救う力を持っているんだよ。誰かと誰かをつなぐことができるんだ。
お前には怪物と人間をつなぐことだってできる。
まだ何も終わってない。始まってすらいない。ここはマイナスだ。
お前は今からゼロに向かうんだ。ここはまだプロローグの途中だ。
魔王だとか勇者だとか、そんな糞みたいなもんが
レールの途中にある物語なんてつまらないだろ?
“ここから先、勇者”とか、“ここから魔王まで一方通行”とか。
阿呆か。そんな道は最初から“勇者”とか“魔王”として
生まれた奴に歩かせときゃいいんだよ。
922:
お前は違う。俺も違う。俺もお前も勇者なんかじゃない。
そんな脇道を歩くのは時間の無駄だ。
お前にはやるべきことがあるだろ。
お前はちいさなひとつの世界を救えるんだよ。
俺とお前で、帰るべき場所に帰るんだ。
あるいはお前だけでも、あいつの隣に帰るんだよ。
こんな簡単なこと、すぐにできるだろ?
だってお前は強いんだから。それに、ひとりじゃない。
さあ行こうぜ」影は残された手を伸ばす。
「お前の勇者としての物語はここで終わりだ。
勇者の冒険は魔王に負けて終わったんだよ。
だからここから這い上がって、ゼロからやり直そうぜ。あいつと一緒にな」
923:
38
青い炎の球の出現と同時に、命を削るという感覚を魔法使いは理解した。
命を削るというのは、心臓を止めるようなイメージだった。
でもそれはすこし違った。むしろ心臓は激しく暴れまわった。
まるで檻に閉じ込められた獣が外に出たがるみたいに、
心臓という獣は肋骨という檻を押した。
力が抜けることも、視界が狭まることもない。
むしろ感覚は研ぎ澄まされ、力が湧いてくる。
身体が軽くなり、火照り始める。穏やかな殺意が湧いてくる。
もう振り返る必要はない。必要なものはもうこの頭の中にしかない。
目に映る景色には糞ほどの価値もない。世界を救う必要も意味もない。
あとはこの身体を燃やして魔王を殺し、彼のもとに向かう。それだけでいい。
だからもうこの身体に気を遣う必要はない。何も我慢することはない。
まっすぐにやればいい。
924:
魔法使いは杖で床を突く。乾いた音が鳴る。
それを合図に、青い炎の球はまっすぐ魔王に飛ぶ。
しかしその身体にぶつかる直前で、魔王の前に青い炎の壁が現れた。
七つの火球はそこへ飲まれて見えなくなる。やがて壁も消える。
「人間が呪術なんて使うもんじゃないぞ」と魔王は言った。
「黙れ」と魔法使いは言った。
後ろから勇者が飛び出し、魔王に突進する。
それに呪術の障壁を張り、剣に炎を灯した。
勇者は魔王に剣を振る。剣は障壁にぶつかり、雷と炎を散らした。
散った炎は雪のように見えなくもない。
そのまま何度も剣を振る。斬るというよりは殴りつけるような感じだった。
925:
呪文をつぶやき、魔王の頭上に巨大な氷柱を作り、そのまま落とした。
勇者は軽く後退し、成り行きを見守る。でも氷柱は魔王に刺さる前に溶けた。
そこに見えない炎があるみたいだった。
魔王はそのまま歩く。そして落ちていたユーシャの剣を拾う。
それは腸が煮えくり返るような光景だった。どうしてお前なんかがその剣を持つ?
それはあいつの剣だ。お前なんかが触っていいもんじゃない。
魔法使いは叫んだ。目の前に巨大な青い火球を作り、青い熱線を打ち出した。
魔王は跳んでそれを躱した。本の幾らかが焼け、跡形もなく消滅した。
壁に穴が空き、外の空気が流れ込んでくる。
「危ないな」と魔王は言う。「本が焼けてしまった」
「だから何だ」魔法使いは言う。「死ね。死ね! 殺してやる! 糞が!」
926:
魔法使いは前に飛び出す。自身に呪術の障壁を張り、拳に青い炎を灯した。
飛び上がり、背後に赤い魔術の球を作る。そしてそれを破裂させる。
爆風で身体を押して、そのままの勢いで魔王に殴りかかった。
魔王は身体を後ろに逸らし、剣で拳を受け止めた。
驚いたように目を丸め、「そんな使い方があるのか」と言った。
もう片方の手にも炎を灯して、殴りつけた。魔王の障壁は破れない。
ただ炎と雷を散らすだけで、歪みはしない。
魔法使いは歯を剥いて叫んだ。憎い。悔しい。どうして届かない?
927:
身体が押された。魔王が剣を振ったのだ。
障壁は破れなかったが、後ろに吹き飛ばされた。
何かに受け止められた。そのまま床に降ろされた。
入れ替わるように勇者は突進する。
それを追うように、青い炎の槍を射った。
勇者は身をすこし屈め、背後から飛んできた炎の槍を躱し、魔王に向かう。
炎の槍は炎の壁に阻まれる。構わず炎の壁に潜る。
身体が焼けるような熱気に包まれる。
しかしそれでも呪術の障壁は破れない。
炎の壁から飛び出し、魔王に向かって剣を振る。
それは剣で受け止められる。
魔王はこちらの足元を蹴った。体勢が崩れる。
頭上を仰ぐと、振り下ろされようとしている剣が見えた。
そこで、剣を遮るように、勇者と魔王の間に氷の壁が現れた。
勇者は床に倒れ、態勢を立て直す。
魔法使いは氷の壁に向かって、雷を撃った。氷は砕け、礫が魔王に飛ぶ。
ダメージはないと分かっていても、どうしてもぶつけたかった。
無駄なエネルギーの消耗だと分かっていても止めなかった。
全てを出し切って終わる。残るものは何もない。灰や身体も魂も残らない。
それでいい。全てに意味はない。視界が滲み、景色から色は消える。
928:
「私が憎いか」と魔王は言った。
「憎い」と魔法使いは言う。
「絶対に殺す。お前を殺すまでわたしは絶対に死なない」
「あの子を殺したことは悪かったと思う」
「悪かった? だから何?
あんたが死ねばあいつは帰ってくるの? 違うでしょう?
何、戦うのをやめろとでも言うの?
嫌。絶対に止めない。絶対に殺す」
「そんなことに何の意味がある?」
「どうして物事に意味が必要なの? 殺したいから殺して何が悪いの?
理屈っぽい奴は嫌い。お前みたいな奴はいちばん嫌い。
哲学するならひとりでしてろ。復讐の何が悪い?
お前を憎いと思って何が悪い? お前を殺すことの何が悪い?」
「何も悪くない。君が正しいと思ったことは全て正しい」
「だったら黙って死ね!」
929:
魔法使いは杖を掲げ詠唱する。
背後に現れた七つの炎の球から、細い熱線が打ち出される。
魔王の障壁にそれはぶつかる。
そのうちのひとつが障壁を貫き、腕に穴を開けた。
魔王は訝しむように自分の腕に目を向けた。
確かに貫かれている。痛みもある。血も流れ出ている。
それは数百年の長い年月の中でも、多く経験したことのないことだった。
魔法使いは思わず口元を歪めた。「殺してやる」
勇者はすかさず障壁に開いた穴に剣を引っ掛け、切り上げた。
魔王の腕、手首の辺りから肩にかけて縦に切り傷が入る。
障壁が霧状になって拡散した。
魔王は信じられないものでも見たように、目を見開いた。
930:
勇者はそのまま手首を掴んで捻り上げて、魔王の腕を斬ってちぎった。
骨を折り、肉を裂く。細い管がぴんと張り、ちぎれ、赤い液体をまき散らした。
魔王は苦痛に声を上げた。
それを無視し、勇者は切り離した腕を地面に捨てて踏みつける。
何度も踏みつけた。何かが砕ける音と、粘っこい音が響く。
そのまま跡形が失くなるまで踏みつけた。大した時間はかからなかった。
靴の裏には肉片がこびりついている。
床を踏みつけると柔らかくて心地よかった。
魔王の障壁はゆっくりと再生した。
勇者は口元の笑みを堪えることができなかった。
静かな高揚が湧き上がる。それは血を沸騰させるようだった。
身体が熱を帯びる。目頭が熱くなる。もうすこしだ。
931:
「驚いた」と魔王は表情を歪めて言った。
腕からはちいさな滝みたいに血が落ちている。
魔法使いは鼻で笑った。「どうせ呪術で再生できるんでしょ」
「私には無理だ」魔王は呪文をつぶやく。
腕の切断面は皮膚で覆われ、血は止まった。
「でも、君にならできるかもしれないな」
「あんたも大したことないのね。何が魔王よ」
「才能には勝てないのさ。君はそれを持っていて、私は持っていない。
君は精霊に愛されて、私が愛されなかっただけの話だ」
932:
魔法使いは口元に笑みを浮かべ、まっすぐに極細の青い熱線を五本撃った。
魔王は自身の右側に黒い穴を作り、熱線の軌道をねじ曲げた。
熱線は穴に消える。はじめからそんなものはなかったみたいに消えた。
「それやめろ」と魔法使いは言った。
「やめない」
魔王は残された手を力なく振った。黒い穴がこちらに飛んでくる。
逃げようと思っても、身体がそこへ吸い寄せられるせいで逃げられない。
そこへ光の球をぶつけた。しかし光は暗い穴に飲まれて消えた。
拙い。魔法使いは自身に強力な呪術の壁を張った。
心臓に締め付けられるような痛みが走る。
鼓動が早くなる。口内に鉄の味が充満する。視界がクリアになる。
迫ってくる黒い穴の中心には宝石のような黒い球が見えた。
その時、前に勇者が飛び出して、黒い球を剣で突いた。
「伏せて」というちいさな声が聞こえた。魔法使いは指示に従い身を屈める。
黒い球体は周囲の空間を歪め、破裂した。
光と青い熱線があちこちに飛び散った。
魔法使いは身を屈めていたので、強い風に曝されただけで済んだ。
が、あの子はどうなった?
933:
頭を動かし、黒い穴のあったはずの場所を見る。でも勇者に遮られて見えない。
庇ってくれたのだ。魔法使いは勇者の姿を仰ぐ。
彼の腕は不自然な方向に折れ曲がっていた。
身体にもいくつかの穴が空いている。
足元には血だまりがある。急いで癒しの魔術で傷を治す。
腕は元に戻り、穴は塞がる。破損した内蔵も再生させ、呪術の障壁を貼り直す。
すると、すぐに勇者は前に出た。傷は塞がっても痛みはまだ残っている筈だ。
背中を見送っていると、その奥で苦笑いする魔王の姿が見えた。
どうして笑う? 何がおかしい?
身体の内側から炎が噴き出すのを感じた。エネルギーの波のようなものだ。
934:
勇者は炎の塗られた剣を振り下ろす。
雷と炎が散る。刃が届かない。
剣先で障壁を押す。するとすこし窪んだ。
力を込めて押すと、呪術の障壁は破れた。
そのまま魔王の腹を貫いた。
肉を焼き、骨を焼き、絶対的な自信を燃やし、灰にする。
何もかもを奪い取ってやる。
魔王は歯を剥いた。
直後に勇者の背後、魔法使いの前方に巨大な黒い穴が現れる。
魔法使いは四枚の巨大な氷の壁を作り、
その穴を囲った。そして呪術を唱える。
勇者は魔王から剣を抜き、血のこびりついた剣をもう一度振った。
地面に絵を描くように血が飛ぶ。
魔王の腹を抉る。繊維を引きちぎっているという感覚が、心地よくてたまらなかった。
性的な快感に近い何かがこみ上げてくる。
魔王は後ろに飛んで、態勢を立て直すことにしたらしい。
すこし離れたところで傷を塞ぎ、もう一度障壁を張った。
935:
背後から魔法使いが飛び出した。と思ったが、違った。
後ろから飛び出してきたのは、いつか見た、大きな剣を持った骸骨だった。
どうしてお前がここにいる? と疑問には思わなかった。
骸骨の大剣には青い炎が灯っていた。彼女の呪術だ。
あれは味方? いいや、どうだっていい。どっちも殺してやる。
勇者は駈け出し、骸骨に続いた。
骸骨は剣を振り下ろし、魔王に叩きつける。障壁は呆気無く、粉々に砕けた。
魔王は歯を剥いて叫ぶ。骸骨の背後に黒い穴が現れる。
骸骨はそこへ吸い込まれ、吐き出された空気と一緒に地面に叩きつけられた。
骨は粉々に砕ける。ほとんど跡形は残らなかった。残ったのは大きな剣だけだ。
勇者は無防備な魔王に剣を振る。魔王はユーシャの剣でそれを止める。
しかし、勇者の剣はそこで折れてしまった。
戦士から貰った剣は輝きを失い、手からこぼれ落ちた。
それはひとつの生物の死であるとか、ひとつの世界の終焉のように見えた。
936:
魔王が剣を振り下ろす。
勇者は氷の槍を自身の手から生やし、
それを剣のように使って魔王の攻撃を止めた。
そしてもう片方の手で、懐に入れていたナイフを取り出した。
それは僧侶がお守りとして買ったナイフだった。
ナイフを魔王の腕に突き立てる。魔王はあえぎ、剣を腕から落とした。
勇者は氷の槍で魔王の喉を突こうと試みる。
が、背後に作り出された黒い穴に身体が吸い寄せられる。届かない。
魔王の手から落ちたユーシャの剣を拾い上げて、後ろに放り投げる。
身体と、地面に落ちていた大剣が、穴に吸い寄せられる。
そこで魔法使いが穴の周りをふたたび氷で覆った。吸い込みは止まる。
937:
魔法使いは前へ出る。飛んできたユーシャの剣が、地面に刺さっている。
それを引き抜き、青い炎を塗りたくった。
重い。剣がこんなに重いだなんて、知らなかった。
でもその剣は力をくれた。肉体的にも精神的にもレベルアップした。
自身に呪術の障壁を張り、身体の後ろで炎の球を破裂させる。
魔王は障壁を再生させる。
知ったことではない。魔法使いは爆風に乗って、魔王の喉に剣を突き立てる。
障壁は破れない。殺してやる。憎い。悔しい。
自分のなかの獣が叫んだ。
殺せ。殺せ!
938:
背後で次々と炎の球を破裂させた。
青い炎だろうが赤い炎だろうが透明の炎だろうが、
とにかく破裂させて身体を押した。
皮膚が裂け、骨が砕けるような気がした。
文字通り身を焼かれた。命を賭した攻撃だった。
構わない。どうせあいつはいない。この身体に価値はない。
透明な炎の爆発で、自身に纏わせた障壁が破れた。
皮膚が焼ける。背中の服が焼けた。顔の皮膚が爛れているのが分かる。
だから何だ。この身体に価値はない。
それに、どれだけ醜くてもあいつならわたしを愛してくれる。
手を握って、ここから救い出してくれる。
魔王の障壁は歪んだ。魔法使いはもう一度背後で炎を破裂させた。
背中の肉が焼け、抉られるような感覚があった。
でもそんなことは大したことではなかった。そこで魔王の障壁が破れたのだ。
魔法使いは大声で笑った。それから大声で泣きながら、魔王の喉を貫いた。
939:
魔王の目は見開かれたあと、何かを悟ったみたいに穏やかな表情を見せた。
そしてそこから光が消えた。
魔法使いは魔王から離れ、力なく崩れた。
勇者は僧侶のナイフで魔王の腹を裂いて、腸を引きずりだした。
そして床に投げつけ、何度も踏んだ。喉に手を突っ込んで、爪で抉った。
胸に何度もナイフを突き立てた。肋骨を一本ずつ丁寧に折った。
手足の骨も踏んで砕いた。眼球を引きずり出して握りつぶした。
耳を剥いで咀嚼して、生気の消えた顔に吐き出した。
もう片方の耳も剥いで咀嚼し、味わってから飲み込んだ。
そして胃の中身を全て魔王の亡骸にぶちまけた。
どれだけ魔王に感情をぶつけても衝動は収まらなかった。
こんな些細なことでは消えるわけがなかった。
940:
魔法使いは寝転びながらそれを見守っていた。
とても非現実的な光景だった。
勇者との間には見えない壁があり、
それを通して猛獣を眺めているみたいな気分だった。
立ち上がろうと思っても力が入らない。火傷を治そうにもエネルギーは空だ。
いいや、そもそも立ち上がる意味はすでにないのだ。
死者を蘇らせる呪術は、想像を遥かに超える力を身体から奪っていった。
ふたたび誰かを蘇らせれば、間違いなく身体は朽ちる。
彼は蘇り、魔法使いという意識は死ぬ。そんな事、彼は望んでいない。
魔法使いにはそれが分かる。
その力で、ユーシャを呼び戻すべきではなかっただろうか、と思う。
どうして今までそんな簡単な事を思いつかなかった?
どうしてお前はいつも、肝心な時にまともな判断ができない?
941:
視界は滲んだ。勇者の叫び声が聞こえた。手のひらには何も残っていない。
いったい、この七年にどんな意味があったというのだろう?
魔王を倒したことで、何が変わったというのだろう? 誰が救われた?
魔法使いは身体を引きずって、本棚のひとつに凭れかかった。
それからすすり泣いた。
旅は終わった。魔王は死んだ。手のひらには何も残っていない。
目に映るのは血の海。聞こえるのは獣のような叫び。覚えるのは激しい喪失感。
世界は救われた。これが世界のあるべき姿なのだろうか?
これがどこかの国の王が望んでいたことなのだろうか?
何を信じればいい? どこへ帰ればいい?
942:
これからどうしようか、と思う。これからとは、何のことだろう?
わたしは、まだ生きようなどと思っているのだろうか? 何のために?
嫌だ。もう終わらせたい。それに、呪術で命を削り過ぎた。
もう両手で数えられるほどの年数しか生きられないはずだ。
抜け殻のまま一〇年近くを過ごす。耐えきれるわけがない。
全ての柱を失った神殿が一〇年も壊れないわけがない。
魔法使いの神は失われたのに、彼女の身体という神殿が存在する意味はない。
彼女の身体の中に、彼が入ってくることはない。
触れることもない。抱かれることもない。声さえも聞こえない。
空虚な神殿に響くのは軋む音と自分の声だけだ。
今日がその日に、今がその時になる、と魔法使いは思った。
今日がわたしの最期の日、今がわたしの最期だ――
943:
魔法使いは首筋にユーシャの剣を押し当てる。
剣は温かかった。すぐ側にユーシャがいるような気がした。
とても気分がいい。殺意や怒りは消えた。今は穏やかな死がほしい。
目を瞑る。瞼の裏にユーシャが映る。彼は何かを叫んでいた。
その時、「行こう」と誰かが言った。
目を開き、顔を上げると、そこには血で汚れた勇者が立っていた。
こちらに向かって手を差し伸べている。その手は何よりも酷く汚れていた。
「どこへ」と魔法使いは訊ねる。
「“喉”。魔王をもう一度、完全に殺す」と勇者は言った。
「それに、僕は君を救うことはできないけれど、
多分、君の救世主を救うことができる」
946:
39
勇者は魔法使いに、“喉”についての説明をした。
魔法使いは首筋に剣をあて、座り込みながら、黙ってそれを聞いていた。
その表情は、長い夜が終わって
待ちに待った朝が来たみたいに明るくなっていった。
「じゃあ」と魔法使いは言う。
「彼は生き返ることができるかもしれない?」
「そう。そしておそらく、魔王はまた復活する」
魔法使いの目に光が射すのを見て取れた。
魔王の復活は大した問題ではないらしい。
もう一度彼に会えるという事実は、彼女の内側に炎を灯した。
それでいい、と思った。もう一度魔王を殺すのは、勇者の役目だ。
947:
「どうして」と魔法使いはこちらを見上げながら言う。
彼女の綺麗だった顔は、火傷と皮膚の爛れで酷いことになっていた。
服も背中部分が焼けて失くなり、真っ赤に腫れた肌が露出している。
「何?」
「どうしてもっと早く言ってくれなかったのよ」
魔法使いは涙をこぼしながら鼻を啜って、歯を見せて笑った。
それはとても綺麗でかわいらしい笑みだった。
勇者も微笑んだ。
「あの時の君には、何を言っても聞こえないような気がしたんだ」
「たぶん、聞こえなかったでしょうね」
「だろ」勇者は魔法使いに手を伸ばす。「行こう」
魔法使いはその手を掴み、立ち上がった。
948:

勇者は魔法使いに肩を貸しながら歩き、町に戻ってきた。
起きているものはひとりもいなかった。
みんな地べたやら机やら椅子やらで眠っている。
どこを見ても明るいのだが、とても静かだった。
町は眠り、川のせせらぎだけが聞こえる。
空だけは相変わらずの暗さだ。夜は未だに続いていた。
川に架かった橋を渡るときに、僧侶に似たあの女性を見つけた。
彼女は机に突っ伏して、ひとりで眠っていた。
勇者はそれを寂しげな目で見下ろした。
近寄りはしない。彼女が必要としているのは、僕なんかじゃない。
彼らが目覚めた時、この国の王はいない。
彼らはそのことをどう思うだろう。知ったことではない。
でも考えてみると、彼らから見ればこちら側こそが魔王なのかもしれない。
突然現れて、王を殺して消える。ただのアサシンだ。
勇者とは、結局何なのだろう?
949:
町を出ると、冷たい空気に身体を包まれた。血を吸った服が重く冷たい。
眼前に広がる森は獣の喉のように暗い。
飲み込まれると身体が溶けて、
帰ってこれないのではないかと思うが、そんなことはない。
足元の雑草を踏みしめ、木々の間を縫うように歩く。
身体が軽い。魔法使いを抱えていても、身体は思うように動いてくれる。
抱えていた全ての重荷は取り払われたのだ。
もう殺意や破壊衝動と決別できる。するかしないかは自分で決める。
今は穏やかな死がほしい。もうここに存在している意味はない。
自分という身体には勇者という呪いの烙印のようなものが刻まれている。
そこにしか価値はない。いいや、そこにすら価値はないのかもしれない。
ものの価値とは、何で決まるのだろう?
分からない。ここには理解不能なものがあふれている。
950:
「あれね」魔法使いは掠れた声を絞り出した。
目の前には真っ黒な湖がある。
真っ黒な穴にも見えるし、真っ黒な水溜りにも見える。
ここに魔王の意識があり、ユーシャの意識がある。
身体を失った者達は、ここで彷徨っている。
魔法使いをその場に座らせて、“喉”を覗きこむ。
それは巨大な獣の喉を思わせる暗さだった。
水中には魚がいた。熊も狼も竜も人型の何かもいた。
宝箱に詰まった宝石みたいだった。
彼らは皆、可能性を持っている。磨けば光る。でも欠けている。そんな石だ。
腕や足、心がなくとも、目がある。未来を見つめることのできる目だ。
底は見えなかった。そもそも底があるのかすらが疑問だ。
足を滑らせたら、永遠に落ち続けるのではないかと思う。
あるいはこれはトンネルのようなもので、
通り抜けた時に新たな存在に生まれ変わるとか――
951:
戦士、と思った。僧侶、と思った。
ふたりに会いに行こう、と思った。
もう重い鎧を脱いで、自由になるんだ。
何にも縛られることなく、完全な自由になるんだ。
それは鳥とか四本足の獣なって、
地面や空を縦横無尽に駆け巡るのと同じように思えた。
気分は旅に出た日の空のように澄んでいた。
空気はいつか食べた食堂のご飯みたいに美味かった。
身体は誰かと交わっている時のように熱かった。
世界は色づいていた。鼻や耳がひりひりと痛んだ。
手は酷く汚れている。でも、これこそが自分なのだ。
自分には何もない。それでいい。今から手に入れに行こうじゃないか。
失う旅は終わりだ。手に入れる旅を始めるんだ。
952:
「心は決まったかい」と影は言った。
勇者はうなずいた。
「そうか」影は笑った。「僕は迷っている」
「そうか」勇者は笑い、魔法使いの方を向いた。「頼みがあるんだ」
「何」魔法使いは掠れた声で言った。
953:
「多分」と勇者は言う。
「多分、今から僕は死ぬけれど、それは肉体的に
この世から消滅するってことだと思うんだ。
僕がいちばん怖いのはさ、忘れられることなんだ。
誰の記憶にも残らず、完全に消滅すること。
だから君には覚えていてほしい。僕という人間がいたってことを。
どんなかたちでもいい。頭のおかしい野郎がいたとか、
血も涙もない自称勇者だとか、そんなのでいいんだ。
とにかく、僕のことを君の記憶に繋ぎ止めてほしい。
誰かと繋がっていたいんだ。たとえ死んでも、僕はそうでありたい。
誰かの記憶に残るってことは素晴らしいことだ。
どんなかたちであってもね。僕はそう思う。
みんながその存在を通して、自分の何かを振り返ることができると思うんだ。
べつに僕という存在を通して君の人生を振り返れとは言わない。
ただ、たまに思い出してほしい。そうすることで僕は救われるからさ。
だから、多分、結局は――」
勇者はそこで言葉を区切り、魔法使いに微笑みかけた。
「君こそが、僕を救ってくれるんだ」
954:
勇者は僧侶のナイフを持って、湖に向かって歩く。
魔法使いはその背中を見送った。
「大丈夫」と勇者は魔法使いに背を向けて言った。「君の救世主は救うよ」
そう言い残して勇者は湖の中に消えた。
それは水に飛び込むというよりは、暗闇に溶けるみたいな感じだった。
魔法使いは黙って勇者の沈んだ場所を眺めていた。
波紋やさざなみは一切ない。鏡のように、湖はそこにあるだけだった。
魔法使いは目を瞑り、カマキリのように祈った。神には祈らない。
でも、今できる事はこれしかない。祈るものを演じることしかできない。
どうか、お願いします。わたし達を救ってください――
955:
魔法使いはゆっくりと目を開く。黒い湖の水面に、白っぽい何かが見えた。
ひとの腕だった。水中から伸びた手が、天に向かって伸ばされている。
まるで太陽でも求めているみたいだった。
でもその手は太陽を求めているわけではなかった。魔法使いにはそれが分かる。
その手は魔法使いの身体の内側に炎をもう一度灯す。
そしてあれは救いを求めている。あるいはひとのぬくもりを求めている。
わたしだけが期待に答えられる、と魔法使いは思う。
わたしこそが、彼を救ってあげられる。
もう一度、視線を刺すように手を見つめる。間違いない。
その手の甲には、不細工な星形の痣があった。
957:
40
いま向かっているのは、ほんとうに上なのだろうか?
この先には、ほんとうに光があるのだろうか?
「信じればいい」と影は言った。「それは正解になる」
ユーシャは二本の足と、残された片腕を必死で動かした。
水を掻いているような感覚はないが、進んでいるということは分かる。
怪物の隙間を縫い、ひたすらもがいてるみたいに進んだ。
958:
しばらくそうしていると、かなり遠くに小さな気泡が大量に見えた。
綿みたいだった。その綿に隠れるように、何かの生物の影がある。
それはゆっくりとこちらに向かってくる。まるで雪のようにゆっくりと降りてくる。
それの正体は人間だった。同い年くらいの男だ。
短い髪は汚れきっていて、
身体も肥溜めとか血溜まりで転がったみたいに汚れていた。
右手にはナイフを携えていたが、それも血で汚れていた。
敵? でも、耳は尖ってない。人間だ。誰?
少年はユーシャの顔を見て、まるで長い間見ていなかった仲の良い友人を
見つけた時みたいにぱっと表情を明るくして、微笑んだ。「久しぶり」
959:
「久しぶり?」とユーシャは言った。「誰?」
「もう七年前になるのかな。馬小屋の掃除、手伝ってくれてありがとう」と
少年――勇者は言った。
「え?」ユーシャは微笑んだ。「あの時の、村の男の子か?」
「そう。僕、一七歳になったんだ」
「でっかくなったな……そりゃあでかくなるわな。七年だもんな。
そっか。ほんとうに俺がここに来てから七年くらい経ってたのか」
ユーシャは笑うことしかできなかった。「でも、なんで君がこんなところに」
960:
「僕は勇者だからね」と勇者は言った。
「とは言っても、魔王を倒したのは
あなたと一緒にいた魔女みたいなひとだけど」
「魔王は死んだのか? あいつが倒した?」
勇者はうなずく。
「でも魔王は、まだこの“喉”のどこかにいる。僕はそれを沈めにいく」
「沈めるって」ユーシャは訝しむような視線を向ける。
「君はどうなるんだ」
「多分、死ぬんじゃないかな」
「そんな」
「でもおそらく、そうしないと魔王はまた復活してしまう」
「ほかに何か方法はないのか?」
「もういいんだよ。ぜんぶ終わりにするんだ。
僕は死んで、あなたは生き返る。
僕には何も残っていないけれど、あなたは違う。
この“喉”の上で、あの魔女さんは待ってるよ」
「あいつが」ユーシャは視線を上げる。「この上に」
「そう」勇者はユーシャの手を掴み、その身体を湖面に向かって放り投げた。
「だから、早く行ってあげて」
961:
ユーシャは小さな勇者を見下ろしながら、湖面に向かう。
酷く汚れただけの普通の少年にしか見えないが、
何か心に決めたことがあるらしかった。
ユーシャにはそれが見て取れた。
あの子の中には何本かの見えない柱があり、それが内側を支えている。
遠ざかる勇者をじっと眺めていると、
彼の身体から真っ黒の人間が現れた。
輪郭はぼやぼやとしていて、ほんとうに身体中真っ黒だった。
まるで影のようだった。
962:
「頼みがあるんだ」とその影は言った。
「どうかあの子のことを覚えていてくれ」
「……分かった」
「たまにでいいから、思い出してやってくれ。頼みはそれだけだ」
ユーシャはうなずいた。「君は何なんだ?」
影は笑った。
「僕は僕だ。彼が捨てた彼自身だ。僕は彼が消したかったものだ。
それは自分の弱さとか、未来に希望を抱く自分とか、そういうもんさ」
「未来に希望を抱く*自分を捨てた? どうして?」
「分からなくていい。あの子の根っこにはそういう部分があった。
でも、そういうのは捨てたつもりでも永遠に付きまとうんだ。
僕みたいに。錆や黴と一緒だ」
「でも君はあの子から離れてる」
「君を助けてやろうと思ってね」
「どうやって」
「僕の腕をやるよ。もう必要ないからな」
963:
影は自分の右腕を引きちぎって、こちらに放り投げた。
腕からは血が滴ることはない。ただ黒い煙が流れでるだけだ。
「どうすればいいんだ、これ」
ユーシャは輪郭の曖昧な腕を見ながら言った。
「繋げばいい」影は振り返った。
「どこに行くんだ?」
「あるべき場所」と影は言った。「僕にだって帰る場所くらいはあるさ」
964:

影が身体から剥がれた。お前までもが僕を見捨てるっていうのか?
勇者は思ったが、今更、怒りが湧くことはなかった。
失くすのが早いか遅いかの違いだ。どうせ全て消える。
手のひらには僧侶のナイフがある。それを強く握る。
喉の底へ向かう。周囲には何かが欠けた怪物が漂っている。
もちろん、戦士も僧侶もいない。彼らはどこへ行ったのだろう?
今から死ぬというのに、身体の中に空があるみたいに気分は涼しい。
そこには重い鎧も硬い鎖もない。
勇者という作られた偽りの幻想が、雲のように漂っているだけだ。
太陽も星も月もない。鳥も飛んでいないし、風もない。
喉の底へ、自分の深みに落ちる。
喉の底には、自分の中心には何がある?
965:
欠けた怪物の間を縫い、落ちる。
魔王はすぐに見つかった。まるではじめから会うことが決まっていたみたいに。
力なく手足を伸ばして、湖中を漂っている。ナイフに力を込める。
魔王は勇者を見つけると、微笑んだ。
魔王の胸をナイフで突いた。黒っぽい液体が、湖に溶けていく。
魔王は抵抗しなかった。成り行きを見守るように、手足を広げていた。
呪文を唱え、背後に炎の球を作り、破裂させる。
身体を押し、魔王と“喉”の底へ向かう。
「なあ」と魔王は言った。口元からも黒っぽい液体が溢れ、水に溶けていく。
空気に溶ける煙みたいだった。「どうして君は喉に飛び込んだ?」
「さあね」と勇者は言った。
「七〇〇年前の勇者もそうだった。
こうやって喉に飛び込んで、自らを犠牲にして魔王を沈めた。
私には分からないんだ。いったい何が君たちをそこまでさせる?」
「七〇〇年前の勇者と僕は違う。
彼には彼の信念や守るものがあった。僕はそう思う。
彼は世界を想い、世界のために死んだ。
でも僕は友人のために、自分のために死ぬ」
966:
「私が憎いかい?」
勇者は黙ってうなずいた。目から落ちた雫は水に溶けた。
「そうか」魔王はぼんやりと虚空を見る。「悪かった」
「僕の方こそ。もう何も分からなかったんだ。
こうすることでしか終われなかった」
「それでいいんだよ」魔王は勇者の身体を抱き寄せた。
「君は勇者で、私が魔王だ。これが物語のあるべき姿だよ。
でももしかすると、私たちは勇者と魔王という鎖に
縛られていなければ、分かり合えたんじゃないだろうか?
手を取り合ってこのまま行けたんじゃないだろうか?」
勇者は微笑んだ。「ありえないね」
魔王も笑った。「だよな」
967:
光が見えた。それは太陽や星のような光だ。
あまりに眩しすぎて、先は見えない。
おそらくあの光の向こう、あるいはあの光そのものが“喉”の底なのだろう。
そしてその光は影をもう一度生み出した。
「ただいま」と影は背後で言った。
「戻ってきてくれたんだ?」と勇者は言った。
「当たり前だろ。僕らはひとつなんだから。
僕の居場所は君の足元にしかないんだよ」影は笑う。
「さあ行こうぜ。勇者の物語はエンディングを迎えるんだ。
あの光こそが君と僕の、失う旅の終着駅だ」
968:
勇者は目を瞑る。温かい光が身体を満たした。
瞼が消える。光は目を刺す。腕が捻れて、足が折れる。
骨が砕け、内臓が溶けた。毛は燃えて、皮膚が剥がれた。
痛みはなかった。誰かの腕の中にいるというのは、気分がいい。
何もかもが心地よく感じられる。性的快感にも勝るような快感と同時に、
果てのない開放感と喪失感がこみ上げてくる。
優しいふたつの声が聞こえる。声は芯に響いて、空っぽの心を満たした。
ふたつの声は近づいてくる。名前を呼ばれている。
969:
「待たせてごめん」と勇者は言った。「今から行くよ――」
971:
41
不細工な星形の痣がある左手で水を掻く。
勇者の影から貰った右手でも水を掻く。
そうして偽物の勇者は前に進んだ。
でも今はただのひとりぼっちの人間でしかない。
勇者というしるしは背中から剥がれ落ちた。
魔王と繋がっていた見えない鎖も断ち切れた。
身体は軽い。頭のなかにはひとりの人間が居座っている。
魔法使い、とユーシャは思った。早く逢って、この腕で抱きしめてやりたい。
彼女の存在は、食事や睡眠なんかよりも多くの力をくれる。気がする。
良くも悪くも俺は単純だ、と思う。
伝えたいことがたくさんある。謝りたいこともある。
言ってほしいこともある。欲を言えば、やってほしいこともある。
972:
水面までが果てしなく遠く感じる。まるで遠ざかっていってるみたいだった。
確かに近づいてはいるが、あまりにも遠すぎる。
自分の手だけじゃ、ろくに進むことができない。
あいつの言うことはいつも正しい。
やっぱり、俺はひとりでは何もできないのか?
「ユーシャ様はひとりじゃないですけどね」と誰かが言った。
懐かしい声だった。その声は内側の湖に大きな波紋を生んだ。
皮膚がざわざわとする。過去の出来事が蘇る。
声の方向に視線をやると、思った通り、
大きな剣を持った憎たらしいほどに綺麗な顔をした男がいた。
「お前」ユーシャは口元の笑みを堪えることができなかった。
「なんでここにいるんだよ」
973:
「運命ってやつじゃないですかね?」と大剣使いは言った。
「あるいは私とユーシャ様はそういう糸で結ばれてるとか」
「そういうのも悪くないかもな」
「冗談ですよ」大剣使いは苦笑いをこぼす。
「彼女が生き返らせてくれたんです。呪術で。
まあ、すぐに死んじゃいましたけど」
「あいつがお前を生き返らせた? なんで?」
「なんとしてでも魔王を倒したかったんでしょうね。
彼女、泣きながら怒り狂ってましたよ」
「どうして」
「ユーシャ様がやられたからに決まってるじゃないですか」
「そっか」ユーシャは弱々しく微笑んだ。
「ひとを生き返らせる呪術ってさ、ものすごくエネルギーを使うんだろ?」
「そうですね」
「大丈夫なのか? あいつ」
「大丈夫といえば大丈夫ですね。今のところは」
「今のところは」
974:
「今のところはね。でも彼女、もう一〇年も生きられないと思いますよ」
「そんな馬鹿な」
「あなたのせいですよ、ユーシャ様。
彼女にはあなたしかいないんですから。
それが失くなったなら、もう彼女に心残りはないんですよ。あなたと同じように。
彼女は今、空っぽなんです。
エネルギーもないし、手を握ってくれるひとも隣にいない。
七年も待ったのに愛してた男は死んだっていうんですから、
そりゃあ底知れない喪失感と虚無感を味わったでしょうね。
彼女はまだそのふたつの空白に囚われているんです。
喪失と虚無の隙間の、無限の空白の中にいるんです。
彼女の世界の色は未だに灰色なんですよ。
あなたがいないことには彼女の世界は始まらないんです。
だから、なんとしてでもここから這い上がって、しっかりとお礼を言って、
しっかりと謝るべきです。でもきっと彼女なら許してくれますよ」
「分かった」ユーシャは言った。
975:
「無意味な五、六〇年よりも、意味のある一〇年を。
あなたのいない日よりも、あなたが隣にいる一秒を」
大剣使いはユーシャの手首を掴んで、水面に向かって泳ぎ始める。
「彼女が望むのはそういうものです。
あなたが隣にいないことには始まらないんです。
いやあ、うらやましい。ほんとうにうらやましいです。
私もそういう人間になりたかった」
水面はぐんぐんと近づいてくる。
暗い水面の向こう側に、魔法使いの姿が見えた。彼女は何かに祈っていた。
そこで、進路を遮るように怪物が立ちふさがった。
森で見た、四本の腕を持った熊のような怪物だ。
でも腕は三本しかなく、腹からは腸がとびだしている。
彼(あるいは彼女)もまた、欠けた存在だった。
大剣使いはその怪物を躱し、ユーシャを水面に向かって放り投げる。
「さあ、行ってください!」
976:
ユーシャは叫ぶ。
「お前は! またそうやって自分だけかっこつけやがって!
お前はどうするんだよ!」
「私には約束がありますからね。私は約束だけは守る男なんです」
大剣使いは笑った。「死んでもあなた達を守るって、
彼女と約束しちゃいましたからね。いちばん最初に」
「阿呆が!」
「また逢いましょうね」と大剣使いは言って、熊と格闘を始めた。
始まった格闘は子供の喧嘩みたいに幼稚な殴り合いに見えた。
心配したのが阿呆らしくなってくる。口元の笑みを堪えることができない。
もしかするとわざとそういう風に見えるようにしているのかもしれない。
あいつなら大丈夫、とユーシャは自分に言い聞かせる。
俺はやるべきことをやればいい。
977:
ユーシャは前に進む。魔法使いは祈る。欠けた怪物は宙を舞う。
もうちょっとだ。ユーシャの心の内側に湯水が湧き上がる。
それは張った氷を砕き、ぬくもりを取り戻させる。
大声で魔法使いの名前を呼んだ。彼女は祈り続けている。
手を伸ばす。水面まではもうほんの数ミリだ。
でもそこで、足元に何かが絡みつくような違和感を覚えた。
水面が遠ざかっていく。魔法使いが遠ざかっていく。
足元に目を向けると、四本の腕を持った熊がいた。
大剣使いと格闘したのとは別のやつだ。
腕はちゃんと四本ある。でも足が一本欠けている。
熊はユーシャの足首を掴み、底へ向かって引きずり込もうとしている。
978:
熊から迸る悪意は重く、水の底に沈む岩のようだ。
憎悪の塊が足に絡みついているのと同じだった。
特定の誰かに向かって向けられるような感情ではない。誰でもいいのだ。
自分以外が幸せになることを許せないというようなものが、怪物の中にもいる。
ユーシャにはそれを痛いほど感じることができた。
悪意は身体を光から遠ざける。嫌だ、とユーシャは思う。
必死で水を掻いた。でも憎悪の塊はあまりにも重い。
浮かび上がることなどできやしない。
嫌だ、とユーシャは思う。魔法使い、と思った。助けて――
979:
その時、悪意の塊は足から剥がれた。身体が軽くなる。
足元に目をやると、腹から内蔵をこぼした狼が、熊の喉に食らいついていた。
狼の目には悪意と怒りが迸っていた。
それが先程の、前脚と後ろ脚の間の血肉を
むき出しにしていた狼とは思えない。
狼はこちらにちらりと目をやった。
その目は言う。「早く行け」と。
悪意と怒りは、その瞬間だけは消えていた。
「ありがとう」とユーシャは言い、もう一度水面を目指す。
水面から手が出た。
空気に触れた部分に、皮膚が剥がれたような痛みが走った。
痛い。痛い。痛い! 誰か手を握ってくれ。助けてくれ。
俺をここから救い出してくれ!
980:
その願いに答えたみたいに、足元にふたたび悪意の塊が絡みついた。
身体はゆっくりと落ちていく。今まで消えていた重力が復活したみたいに。
嫌だ。あとすこしなんだ。あとすこしなのに。
ユーシャの心に湧いた湯水はぬくもりを失いつつあった。
ふたたび氷が張ろうとしている。
誰かが手を掴んだ。手は小さかった。手のひらは柔らかく、指は細かった。
そして何よりも感触は懐かしく、温かかった。その手を強く握り返す。
その瞬間に、身体は“喉”から一気に引きずり出された。
まるで腹から飛び出した赤ん坊みたいな気分だった。
重力が反転したみたいに、身体は空に向かって大きく飛んだ。
全身の皮膚が剥がれたような痛みを覚えた。
そりゃあ赤ん坊だって泣きたくもなるさ、とユーシャは思った。
痛みのあまり、絶叫した。
981:
42
ユーシャの手を掴み、力の限り引っ張った。
すると、彼の身体は釣り上げられた小さな魚みたいに飛び上がった。
その光景は魔法使いの内側に炎を灯し、世界に色を取り戻させた。
ユーシャは何かを叫んでいる。支離滅裂な呪文みたいだった。
気持ちいいくらいに大きな声だった。
まるで死んでなどいなかったみたいだ、と魔法使いは思う。
どうしても口元の笑みを堪えることができない。
口元が緩むのと同時に、涙腺も緩んだ。
視界は滲むが、彼だけはよく見える。
彼は一七歳の時のままだった。身体も心も一七歳だった。
でも、右腕は真っ黒だった。左耳が潰れていた。
服は着ているが、あまりにも汚れすぎている。血まみれだ。
982:
ユーシャは魔法使いを見つけると、また何かを叫んだ。
でもこちらに向かってくることはない。ただ地面に向かうだけだ。
魔法使いは必死で足を動かして、
落ちてくるユーシャの身体を抱きとめる。
重すぎて、背中から地面に倒れてしまった。
覆いかぶさるように、ユーシャも倒れた。
背中を強く地面にぶつけた。声にならない絶叫をあげた。
背中の火傷は痛覚にこれでもかと訴えかけてくる。
意識が飛んでしまいそうだ。
こんなもの、七年間ひとりだったことと比べるとどうってことはない。
でも痛いものは痛い。痛みと嬉しさで視界は潰れた。
「……だから、俺は言ったんだよ」と
ユーシャは魔法使いに覆いかぶさったまま言った。
「なんて言ったの……」と魔法使いは涙声で言った。
「“お前こそが、俺を救ってくれるんだ”って」
983:
「そんなの、一回も聞いてない……」
「魔王に言ったんだよ」
「そう」魔法使いはユーシャの身体を抱きしめた。彼の身体は大きかった。
ユーシャは魔法使いの頭を撫でた。
「でっかくなったな、お前。びっくりしたよ」
「そりゃあ七年も経ったんだもの。でっかくもなるわよ」
「そうだよな」ユーシャは笑う。
「俺のこと、七年も待っててくれたんだってな」
「うん」
「待たせてごめん」
「ほんとうに寂しかったのよ。ずっと逢いたかった」
984:
「ほんとうにごめんよ」
「ぜったいに許さない。一生かけてわたしに謝れ」
「そうする」
「あんた、すぐに戻るって言ったわよね。
ぜったいに死なないって言ったわよね。
魔王を倒すことはできるって言ったわよね。
帰ってきたらわたしのお願いを何でもひとつ聞くって言ったわよね」
「よく覚えてるな」
「あんたのことはぜんぶ覚えてる」
「ありがとう」
985:
「……お願い、言っていい?」
「うん」
「お願いだから」魔法使いは言う。
「遠くに行かないで。わたしをあんたの隣にいさせて。
それだけでいいの。わたしはそれで救われるの。
わたしにはもう、ここしか居場所がないのよ……」
頬が濡れる。涙が爛れた顔の皮膚に染みる。痛みでまた涙が出てくる。
「我儘言ってごめん……ごめんなさい。
ほんとうは全部わたしが悪いの。
その痣ね、ずっと昔にわたしがつけたの。
それがなかったらあんたはこんな目に遭わずに済んだのに。
ごめんなさい……ごめんなさい……許して……
お願いだから、嫌いにならないで……わたしをひとりにしないで……」
「ならないよ」ユーシャは魔法使いの頭をもう一度撫でた。
「嫌いになんかなるもんか。それに、お前がこの痣を
俺につけたって知っても、俺はきっとここに来てた。
お前なら分かると思うんだ。俺はそういうやつだよ。
めんどくさいやつだ。そうだろ?
俺はここに来て、死んで、お前に助けられるって、そういう風になってたんだ。
ぜんぶ最初から決まってたんだよ。だから謝ることなんてない」
「うん……」
986:
「俺からもお願いがあるんだけど、いいかな」
魔法使いはうなずいた。
「“おかえり”って言ってほしい」
「……それだけ?」
「今はそれだけでいい」
魔法使いは必死になって「おかえり」と声を絞り出した。
もう喉からは泣き声しか出てこなかった。
嬉しさと安堵と開放感が身体中を洪水のように巡った。
心の内側に炎が灯り、身体全体が熱くなる。
生き返ったみたいな感覚があった。
「ただいま」とユーシャは言った。「逢いたかったよ」
987:
暗い森に魔法使いの叫び声が響いた。
風が吹いて、木々は踊る。空で星は瞬く。
それらはふたりの再会を祝福するみたいだった。
長い夜が終わろうとしているのが分かる。朝がやってくるのだ。
世界を平等に照らす大きな光が、あとすこしでやってくる。
でもそれを拝めるかどうかは、また別の話だ。
ユーシャは地面を押して、身体を起こす。
魔法使いはもう一度それに抱きつく。
「離れないで……。もうちょっとだけ……」
「うん」ユーシャも魔法使いを抱きしめ返す。彼の手は大きく、温かい。
でも真っ黒の手はとても冷たかった。「顔と背中の火傷、すごいな」
「わたしのこと、嫌いになった……?」
「そんなことで嫌いになるわけないだろ。
お前だって、俺の左耳と右腕がなくても、
俺のことを嫌いになんかならないだろ」
「当たり前じゃないの……」
「だろ。それと同じだよ」ユーシャは頭を掻く。
「魔術で治さないのか、その火傷」
「もうエネルギーが空っぽなの。今のわたしは、ただの不細工な女よ」
988:
ユーシャが何かをつぶやいた。すると、顔と背中の痛みがすこし和らいだ。
それは下手くそではあるが、紛れも無く癒しの魔術だった。
「ありがとう……」魔法使いは囁く。喉は枯れる寸前だった。
「……癒しの魔術が使えたのね」
「下手くそでごめんよ」
「いつから使えたのよ……」
「第一王国に初めて行った時くらいからかな。
あいつに教えてもらったんだ。
でも傷はちゃんと塞がらないし、痛みも消えないんだ。
難しいよな、魔術ってさ」
「そう……。じゃあ、わたしがちゃんと教えてあげる」
「頼むよ」
「うん……。もっとわたしを頼って……」
ユーシャはうなずく。「ずっと俺のことを支えてほしい」
「うん……。もっと言って……何でも言って……ぜんぶ叶えてあげるから……」
「伝えたいことはたくさんあるんだ。
でも今は、どうやったら伝わるかが分からないんだ。
あとで、何年かけてでもぜんぶ伝えるから、
一緒にゆっくり行こう。いっぱい話をしよう」
989:
「うん」身体から力が抜ける。瞼が重い。身体が重い。
大きな鎖から解かれた開放感と安堵は、心に平穏を与えた。
そして身体は眠りを求めている。心が彼を求めるのと同じように。
周囲で何かが蠢いている。
ぼんやりとする頭を動かし、状況の把握を試みる。
近くに、数匹の怪物が見えた。白い毛に覆われた、四本足の怪物だ。
狼のように見える。やがてそれは軍隊みたいな数に増え、
魔法使いとユーシャを中心にして円を描くように並んだ。
「怪物が来た」と魔法使いは言った。身体はもう動かなかった。
「わたし達、ここで終わっちゃうのかな……せっかく逢えたのに……
嫌よ、そんなの……。死にたくない……もっと一緒にいたい……」
「終わらないよ」とユーシャは言った。「そうだよな」
990:
怪物の一体が、ユーシャの声に答えるように吠えた。
吠え声の方に目を向けると、そこには小さな狼の怪物がいた。
小さな狼はこちらに歩み寄り、ユーシャの頬を舐めた。
ユーシャは嬉しそうに目を細める。
魔法使いには、何が起こっているのかが理解できなかった。
「道案内、ありがとうな」とユーシャは言った。
小さな狼は空に向かって吠えた。
その声には喜びのようなものを感じることができた。あるいは好意のような。
やっぱり彼には不思議な力がある、と魔法使いは思った。
これこそが彼の最大の強みなのだ。
何かと何かを繋ぐことができる。怪物と人間を繋ぐことだってできる。
何匹かの狼がこちらに歩み寄り、ユーシャと魔法使いの脇にしゃがんだ。
身体が狼たちの白い毛に包まれる。
とても温かい。怪物はぬくもりを与えてくれる。
ふたりは怪物たちのぬくもりに包まれて、
幸せな時間を噛みしめるように抱き合って眠った。
2:

雨音が頭の芯を揺さぶる。意識はまどろみから引きずり出される。
魔法使いは目を開き、身体を起こした。
頭上には、空を遮るほどの葉が生い茂っていた。
そのおかげで、雨に濡れずに済んでいるようだ。
どうやらここは巨大な樹の下らしい。
隣にはユーシャが眠っている。それはとても素敵な光景だった。
頬に口づけをした。我慢できなくなって唇にも口づけをした。
彼はすこしうめいて、寝返りをうった。それも素敵な光景だった。
足元には数匹の狼の怪物たちが、身を寄せ合うように眠っている。
雨で身体が濡れてしまわないように、彼らがここへ運んでくれたのだろう。
彼らの身体は陽の光のようにぽかぽかとしていた。
3:
すこし歩いて、空を見上げる。空は厚い濃灰色の雲に覆われていた。
そこから細い雨が、木々を潤すように降ってきている。
あの町の外で眠っていた人々は今頃ずぶ濡れなんだろうな、と思った。
お祭りは終わったのだ。あの女は、またひとりで生きていくのだろうか。
細い雨が葉とぶつかり合い、空気を優しく揺らす。世界は潤いを取り戻す。
肌にも潤いが帰ってきたような気がした。
それに、身体が温かい。世界は色づいている。
雨が彼との再会を祝福してくれているようにさえ感じることができた。
すべての音がこちらに向けられた拍手のように思えてくる。
背後で小さな声がした。振り返ると、そこには小さな狼の怪物がいた。
寂しげな目でこちらを見ている。
4:
「おいで」と魔法使いは言った。
その言葉が伝わったのかどうかは分からないが、
子供狼はこちらに歩み寄ってきた。
鼻を身体にこすりつけてくる。母親に甘える子供そのものだった。
魔法使いはその頭を撫でてやった。
子供狼は気持ちよさそうに目を細めて、首を伸ばした。
「あいつを助けてくれて、ありがとうね」
当然だ、とでも言いたげに子供狼は吠えた。
魔法使いはあぐらをかいて、子供狼をそこにのせた。
子供狼は座り込み、魔法使いと一緒に空を眺めた。
5:
しばらくそうしていると、背後から「おはよう」という声が聞こえた。
魔法使いも子供狼も振り返った。
そこには真っ黒な右手を上げて笑うユーシャがいた。
真っ黒な右手の輪郭はぼやけていた。まるで煙のようだった。
子供狼は「おはよう」とでも言うみたいに短く吠えた。
「おはよう」と魔法使いは言う。
「ねえ。昨日は聞きそびれちゃったんだけど、その手、どうしちゃったの?」
「ああ」ユーシャは真っ黒な腕に目を向ける。
「本物の勇者に貰ったんだ」
6:
「本物の勇者って、あの男の子?」
「うん。あの子が俺に腕をくれて、
あのでっかい剣を持った阿呆が俺を上に投げてくれて、
その子のお母さんが俺の足を掴んだ怪物を
やっつけてくれたから、俺はここに戻ってこれた」
「そっか」魔法使いは微笑む。
「あんたはいろんな人に助けてもらえて、幸せものね」
「うん。すごく幸せだ」ユーシャは笑った。
「なあ、あの男の子さ、誰だか分かったか?
あの子、東の大陸の北の方の村で、
俺が馬小屋の掃除を手伝った時の男の子だったんだ。小柄な方」
「そうだったんだ」
だからどこかで会ったことがあったような気がしたわけだ、と思う。
七年という月日は、良くも悪くも純粋だった少年のすべてを変えてしまった。
彼はもうこの世にはいない。勇者などという不可視の鎖に繋がれたせいで。
「あの子、“喉”に飛び込む前に言ってた」魔法使いは空を見上げる。
「“僕のことを忘れないでほしい”って」
「うん」ユーシャは魔法使いの左隣に座る。「忘れないよ」
7:
魔法使いはユーシャの真っ黒の手を握った。とても冷たかった。
まるでそこだけが死んでいるみたいに冷たかった。
でも握らないわけにはいかなかった。
ユーシャは小さな手を握り返す。
「お前の手は、やわらかいし温かくて好きだ」
「ありがと。すごく嬉しい」
「うん。これからもこうやってほしい。左の耳が、もう聞こえなくてさ。
俺の右隣にいてほしいんだ。俺はお前の手を握りながら、
お前の声が聞きたい。我儘でごめんよ」
「うん。ずっとこうしてる。もう絶対に離れない」
「ありがとう」ユーシャは空に、左手を振りかざす。
「……ところでこの痣、お前がつけたって言ってたよな?」
魔法使いはびくりと身を震わせた。背中に冷たい汗が這う。
怒られる。嫌われる? どうしよう?
8:
「いつ、どこで、どうしてそんな事したんだ?」
「そ、それは……その……」
「怒らないから言ってくれ。
責めてるわけじゃない。ただ、ほんとうの事が知りたいんだ」
「わたしのこと、嫌いにならない……?」
「ならない。絶対にならない」
魔法使いは深呼吸して、覚悟を決めてから言う。
「あんた、村の図書館で、いつも寝てたでしょ……」
「うん」
「その時にわたしが魔術でつけた……わたし達が一〇歳の頃」
「なんでそんな事したんだ」
「……本で見たから」
「何の本?」
「図書館の本。おまじないの本」
「おまじない? 手の甲に、星形の痣をつけるおまじない?」
9:
「ハート型の痣」と魔法使いはつぶやく。
「でも、俺の手の甲にあるのは星型だぞ」
「……その星型の下にはハート型があるの。
でも、その時のわたしは恥ずかしくなってハート型を消した。
ハートを隠すために、上から星の痣を付け直したの」
「ふうん」ユーシャは呆れたみたいに魔法使いを見る。
「で、そのハート型の痣ってのには、どんな効果があるんだ?」
「……恋が叶うの」と魔法使いは言った。「そういうおまじない……」
「もしかして」ユーシャは呆れを隠しもせずに言った。「それだけ?」
10:
魔法使いはうなずいて、ユーシャに抱きついた。
「ごめんなさい……ごめんなさい……
あんたがこんな目に遭う必要はなかったの……
わたしが全部悪いの……ごめんなさい……何されたってかまわないから……
嫌いにだけはならないで……わたしをひとりにしないで……」
「泣くなって。怒る気にもなれないよ」ユーシャは呆れて笑う。
魔法使いを両腕で抱く。「まあ……でも多分、そういう風になってたんだよ。
お前が俺の手の甲に痣をつけるのも、最初から決まってたんだ」
「ごめんね……。ごめんね……」
「もういいんだよ。全部終わったんだから。一緒に帰ろう」
「うん……。ありがとう……」
11:
「なあ」とユーシャは子供狼に言った。「“門”に案内してくれないかな」
子供狼は寂しげな目でこちらを見た。何かを訴えかけてくるような視線だった。
そのまましばらく固まっていたが、結局は魔法使いから離れて、
先ほどまで眠っていた場所の大人狼を呼びにいった。
大人狼は威厳さえ感じられるような
のっそりとした歩みでこちらに向かい、止まる。
「“門”に行きたいんだ」とユーシャは大人狼に言った。
大人狼はすこし陰った目でこちらを見た。目には空白があった。
表情は悲しんでいるように見える。
実際にどう感じているのかは分からない。
ユーシャは空白の混じった目を凝視する。
12:
やがて大人狼は諦めたように振り返り、雨の森を歩き始める。
子供狼と一緒に、ふたりは彼(あるいは彼女)に続く。
歩き始めて一時間もしないうちに門には辿りつけた。
それは洞窟の奥で見た“門”と全く同じ姿をしていた。
一メートルほどの大きさの裂け目が、宙に刻み込まれている。
そこから流れ込んでくる空気はとても懐かしく、とても汚れていた。
それは雨に洗い落とされて、地面に染みこんでいく。
「ありがとう」とユーシャは言った。
大人狼は鼻を鳴らして、来た道を引き返した。
子供狼は留まり、その背中を見送った。
13:
「あんた、どうするの?」と魔法使いは子供狼に言う。
子供狼はこちらを見上げて、目で何かを訴えかけてくる。
「連れて行けってさ」とユーシャが言った。「一緒に来たいんだよな」
子供狼は吠えた。
「そっか」魔法使いは微笑む。
「でも、あんたにはみんながいるじゃないの」
「そうだ。お前の居場所はこっちじゃないよ」
子供狼は石のように立ち尽くしていた。目で何かを訴えかけてきている。
魔法使いには子供狼の気持ちが、すこしだけ分かるような気がした。
「行こう」ユーシャは魔法使いの手を握る。
魔法使いは手を握り返す。その手は冷たかったが、とても大きかった。
ふたりは門に飛び込む。そして元の世界に――大混乱の世界に飛び出す。
15:
43
門から吐き出されて、地面に敷かれたレールに背中をぶつけた。
身体の支配権を痛みに奪われたユーシャは、
釣り上げられた魚みたいにあえいだ。
おかげで脛をレールにぶつけた。死んだ、と思った。
でも死にはしなかった。しばらくすると痛みがぴたりと止んだ。
落ち着いて、大きく息を吸い込む。とても冷たい。喉と肺が凍りつきそうだ。
見上げると、こちらの目を心配そうに覗きこむ魔法使いの姿が見えた。
「大丈夫?」と魔法使いは言った。
「大丈夫。やっぱりお前の癒しの魔術はすごいよ。ありがとう」
手を伸ばすと、魔法使いが起き上がらせてくれた。
16:
辺りを見渡すと、見覚えのある光景がある。
足元にはレールが敷かれていて、壁には等間隔でカンテラが吊るされている。
ユーシャの口元は緩んだ。北の大陸の洞窟だ。戻ってきたのだ。
「行こう」と魔法使いは言った。こちらに向けて手を差し伸べている。
「どこへ?」とは訊かない。どこだっていいのだ。
真っ黒な右手を伸ばして握ると、握り返してくれた。
門に背を向けて、ゆっくりと歩き始める。
洞窟に響く音は二人分の足音だけだった。光は魔術の光だけだ。
でも寂しくはなかった。寒くもなかった。
17:
大人になった魔法使いの姿は、ユーシャの心を激しく揺さぶった。
背は伸びたし、髪も伸びた。
手が少し大きくなっているし、胸も少し膨らんでいる。
はじめて魔法使いと出会った時に抱いたような想いが胸の中にあった。
はじめて一緒に図書館に出かけた時みたいな高揚があった。
心臓は飢えた獣みたいに暴れていた。
身体は子供みたいに純粋な熱を帯びていた。
気付かれないように、眼球を動かして魔法使いの顔を眺める。
口元には笑みが浮かんでいるが、
顔の火傷の痕は見ているでけでも痛々しい。
どうにかしてやりたい、と思う。でも、どうすることもできない。
この火傷の痕は魔法使いでさえ消すことができなかったのだ。
魔法使いは顔をこちらに向ける。急いで目を逸らした。
「どうしたの?」と魔法使いは言った。「顔が真っ赤だけど」
「なんでもない」
「ほんとうに?」
18:
「ほんとうに」とユーシャは言う。「ちょっとどきどきしてるだけだよ」
「どうして?」
「分からないけど、今のお前を見てると、すごくどきどきするんだ」
魔法使いは微笑んだ。「そっか」
「なんかお前、柔らかくなったよな」
「柔らかい?」
「雰囲気がな。ずっと昔のお前みたいだ」
「昔のわたしは嫌い?」
「ううん。嫌いじゃないよ」
19:
「好きでもない?」
「好きだよ。すごい好き。ぜんぶ好き」
「それならいいの」魔法使いはユーシャに寄りかかった。
「これが今のわたしだから。これがほんとうのわたしなの。
ずっとわたしの深いところにいた、正直なわたし」
「そっか」
「今まで殴ったりしてごめんね。その時のわたしは多分、
深いところにいたわたし自身を受け入れられなかったの」
「そういうこともあるよ」とユーシャは言った。
頭の中に浮かぶのは、本物の勇者の身体から現れた影の事だった。
あの男の子も、自分の中に受け入れたくない部分があったのだろう。
でもそれは永遠に付きまとう、と影は言っていた。
魔法使いの内側にも、まだあの暴力的魔法使いがいるのだ。
そう思うと微笑ましかった。
20:
洞窟は終わる。目に入ったのは、
見渡すかぎりの雪と、遠くにある家々だった。
空は厚い雲に覆われており、空気はとても冷たかった。
風は頬をうつ。まるで大量の針が風に乗って刺さったみたいに頬が痛い。
「寒いな」
「暖炉のある家に行きましょ」と魔法使いは言った。
真っ直ぐ家に向かった。すぐにドアを閉める。
見覚えのない家だった。廊下があって、左右に四枚ずつのドアがある。
魔法使いに手を引かれて、左側のいちばん手前のドアを開けて、中に入る。
そこには細長い机と六つの椅子があった。
机の上には大量の本が積まれており、
その隙間からは奥に暖炉がある事が分かる。
村の図書館を思い出す光景だった。
俺はいつも端っこの椅子に座ってたな、と思った。
21:
「わたし、ここで七年間ずっと待ってたのよ」と魔法使いは言った。
ユーシャは黙って魔法使いの横顔を見た。淋しげな表情をしていた。
この家は過去のことを回想させたのだろう。胸の辺りが重くなった。
魔法使いは手を離し、歩き始める。乾いた足音が響く。
「すごく寂しかったの。ここは地獄みたいだった。
地獄よりも悲惨だったかもしれない。
何もなかったの。周りにも、内側にも。
わたしには、あんた以外には何もなかった」
ユーシャは魔法使いを追うように歩く。
魔法使いは埃をかぶった机を、指の腹で撫でた。
「朝、目が覚めたら、まずは暖炉に炎を灯すの。
部屋が温まったら、ここで本を読んでお昼まで過ごした。
他の七つの部屋には、たくさんの本があるのよ」
「村の図書館みたいだ」とユーシャは言った。
22:
魔法使いは続ける。「お昼になったら、外に出るの。
曇りだろうが吹雪だろうが、生きるためには
――もう一度あんたに逢うためには、行くしかなかった。
大事な人の事を想っているだけじゃ生きていけないの。
食べて寝ないと人は死ぬのよ。
そんな当たり前のことに気づくのに一七年もかかった。
外では食べ物を探すの。食べ物っていうと、野草とか動物とか。
見つけたら食べる。何でも食べる。ウサギや熊なんかはよく食べた。
怪物だって食べた。吐き気が止まらなくなることもあったけど、
けっこう美味しいのもいるのよ。
もちろん何も食べない日だってあった。
そんな日が三日続くこともあった」
「たいへんだ」
魔法使いはうなずく。「たいへんだった。
でもあんたの事を思い出したら、何度だって立てた」
23:
暖炉に火が灯った。魔法使いの服の背中部分は
焼けてなくなっていて、火傷した肌が見えている。
「お昼を食べたら、またここで本を読むの。
端っこにはあんたが座るから、いつも開けてあった。
夜が来れば、本を読むのを止めて、また食べ物を探した。
お昼の残りがあればそれを食べた。
ご飯を食べたら暖炉の前に座って、あんたのことを考えた。
毎日欠かさず考えた。今のわたしを見たらどう思うだろうって。
わたしが一九歳の時は一九歳のあんたのことを考えたし、
わたしが二二歳の時は二二歳のあんたのことを考えた。
考えながらあんたのマントに包まって、自分を慰めた。
そうしないと壊れちゃいそうだった。
毎日のようにやった。頭がおかしくなるくらいやった。
それは地獄の中でも、まだ満たされた時間だった。
でも足りないの。ぜんぜん足りない。
空っぽだった。七年間、空っぽだった」
「……」
24:
魔法使いは暖炉の前に立った。
「週に一回、“門”のある洞窟を見に行った。
あんたが帰ってきてないか、門が開いてないかって、
最初の方はいつも期待してた。
でも三年も四年も経てば、期待は薄れていった。苦しくて仕方なかった。
永遠にひとりなんじゃないかって、怖くて気が狂いそうだった。
そしたらやっぱり期待は裏切られ続けた。七年間、そうやって生きた。
でもそれは無駄な時間なんかじゃなかったと思う。
わたしには分からない。
無駄か無駄じゃなかったかを決めるのは、わたしじゃない。
今からあんたが、わたしに意味を与えてくれるはずなの。
空っぽの人形の内側に、炎を灯すの」
魔法使いは振り返った。長い髪がゆるやかに浮いた。
目から落ちた大きな雫が頬を伝っていた。
ユーシャは魔法使いの前に立った。
25:
「お願いします」と魔法使いは言った。
「もう一度わたしを抱いてください。
わたしの全てを感じて、あなたの全てを感じさせてください。
ずっと一緒にいてください。あなたがいない人生なんて考えられません。
あなたこそが、わたしを救うことができる唯一の人なんです。
だからお願いします。わたしをここから救い出してください」
心臓が激しく鳴った。身体全体が焼けてなくなりそうなほど熱い。
すぐにでも答えてやりたかった。でも喉には何かが詰まっていた。
脳裏に浮かぶのは、孤独な魔法使いだった。
灰色の家で、灰色の炎の前で自分を慰める、灰色の魔法使いだった。
その世界に色はない。温かみもない。淡々と灰色の世界は廻っていた。
灰色の魔法使いが目を瞑っている間だけ、世界に色は戻ってきていた。
時間と言葉の重みが胸にのしかかってくる。息が苦しくなった。
ユーシャは腕を伸ばして、魔法使いを抱き寄せた。
その身体は細く、とても温かかった。
26:
どちらも声を出せずに、そのまま暖炉の前で立ち竦んでいた。
でもそれだけで良かった。答えるまでもなかった。
魔法使いの手が、背中にまわされた。ちいさく、柔らかい手のひらだった。
ユーシャも魔法使いの背中に手をまわす。
はだけた背中の火傷に、手が触れた。
「ごめん。火傷、痛くない?」とユーシャは言った。
「うん。もう大丈夫よ」
「よかった」
魔法使いから離れ、目を覗きこむ。
魔法使いは女神のように微笑んで、目を閉じた。
ユーシャは魔法使いの唇に口づけをした。
その唇は乾いていたが、とても柔らかかった。
お互いに唇と口内の形を確かめるみたいに舌を這わせ合う。
硬くなった身体の芯がほぐれていくのが分かった。
身体が溶けてるみたいに感じられた。
でも陰茎だけは別の生物みたいに硬くなっていた。それは仕方のない事だ。
27:
服を脱いで、暖炉の前で身体を重ねた。時間をかけて、何度も性交した。
何度も絶頂に到達し、またその更に上へ昇った。
暖かな水に身体全体を包まれているような心地よさの中で、
それよりも熱い魔法使いを抱いた。声を聞き、匂いに包まれ、体温を感じた。
今までに経験したことのない性感を得るのと同時に、
同じものかそれ以上のものを与えた。
きっと同じものを得ることは二度とない。
魔法使いはとても悦んでくれた。
ユーシャの内側にも、大きなよろこびが生まれた。
でも七年の重みはそれだけではなくならなかった。
どうしてももっと彼女をよろこばせてやりたい、と思った。
人としてのよろこびや、愛されることのよろこびをもっと感じてもらいたい。
本能的なものがそうさせているところもあったし、
罪悪感がそうさせているところもあった。でもそれは間違いなく本物だった。
ユーシャの心と身体は性交によって、魔法使いの内側に様々な意味を与えた。
長く曲がりくねった道を歩き続ける意味を与え、
その心と身体の存在する意味を与えた。
28:
魔法使いは、生きていると痛いほどに感じることができた。
確かに胸の奥に痛みがあった。その痛みはどんなものよりも温かく、
喩えようのない快感をもたらした。
身体がはちきれてしまいそうだった。心はすでにはちきれていた。
飛び散った心の断片全てがユーシャを求めていた。
向かう先はそこしかなかった。
時間は大きな傷を与えたが、貰ったばかりの
様々な意味が、その傷を埋めていく。
性的快感よりも大きな何かを得ることができた。
それは決まった形がない煙のように曖昧なものだった。
でも確かに感じることができる。痛いほどに感じられる。
そしてそれは重く熱い。
ユーシャは魔法使いの中に精を放つ。
魔法使いは身体を震わせ、それを受け止めた。
ユーシャが笑うと、魔法使いも笑った。
どちらの目にも、蝋燭の先に灯る小さな炎のような光があった。
「もうちょっとだけ、繋がっていたい」と魔法使いは言った。
「うん」ユーシャは魔法使いの身体を抱きしめた。
29:

性交の後も服を着ずに、暖炉の前で座り込んでいた。
そこはとても温かかった。
目の前には炎があって、右隣には魔法使いがいる。
「おなか減った」と魔法使いは言った。
「たしかに」
身体を重ねている間は何とも思わなかったが、今は確かに空腹感がある。
足の指先から頭の天辺まで、全ての感覚が
胃の中に収まっているように思えた。
腹の中で何かが低く鳴いた。
カエルみたいだ、と思ったが、腹が鳴っただけだった。
30:
魔法使いは服を掴んで、立ち上がる。
「何か捕ってくる。あんたはここで待ってて」
「いや、俺が行くよ。外は危ないし、その服だと寒いだろ」
「大丈夫よ、魔術があるし。それに、ここらはもうわたしの庭みたいなものよ」
魔法使いはゆっくりと、ひとつずつ身体に衣類を着ける。
ユーシャはそれをぼんやりと眺めていた。
魔法使いの身体は綺麗だった。炎に照らされた肌は瑞々しい。
しばらくすると魔法使いは視線に気がつき、微笑んだ。
その微笑みは女神のようで、唯一の救いのようだった。
ユーシャの顔は熱くなる。
「どうしたの?」魔法使いは屈んだ。「顔が赤いわよ」
31:
目を覗き込まれる。甘い香りが体内に入り込み、
身体中に拡散する。心臓は激しく暴れ始めた。
今まで硬い鎖で縛られていた獣がいきなり開放されたみたいだった。
獣から送り出される血液は溶岩のように熱く、粘り気を持っていた。
「もう一度したい」とユーシャは言った。
魔法使いは微笑んで、ユーシャの頭を撫でる。
「ご飯を食べてからね」と言い残すと、部屋から出て行った。
ユーシャは服を着て、暖炉の前に縮こまる。
外側も内側も温かく、満たされていた。
32:
温かい海の中を漂っている。苦しくはない。
意識や感覚は辺りにぶちまけられて、ゆっくりと沈んでいく。
そんなイメージが脳裏に浮かんだ。
意識と感覚は、やがて海底に辿り着き、
やわらかく細やかな砂にすっぽりと包み込まれる。
流砂に飲み込まれるようで、誰かに抱きしめられるような感覚だ。
どちらにしろ、それは素晴らしいことだった。
やがて脳裏のイメージは気泡のようにはじけて消えた。
暖炉の炎が幻に思える。意識と感覚が遠いところにある気がしてくる。
まるで海の底に忘れてきたみたいだった。
自分が自分じゃないみたいに思えるし、
魔法使いが魔法使いじゃないように思えてくる。
でも紛れも無く自分は自分だし、魔法使いは魔法使いだ。
33:
自分の手のひらを眺める。
左手は血や泥で汚れている岩肌みたいだった。
手の甲には不細工な星型の痣が残っている。
右手は真っ黒だった。輪郭はぼやけている。
左手で触れてみると、雪のように冷たかった。
強く握ると、潰れた。影のような手は霧状になって拡散し、また手の形に戻った。
こんな手で魔法使いに触れていたのか、とぼんやりと思った。
悪いことをしてしまったと思ったが、なんだか恥ずかしくもなった。
顔が熱を帯びた。身体も熱くて重い。頭が痛む。
34:
ゆっくりと瞼を下ろす。足音が聞こえる。
足音は遠くから近くになり、消えた。
頬に冷たい何かがあたった。ユーシャは目を見開いて、身体を震わせた。
振り向くと、魔法使いが頬に冷たい手をあてていた。
「ただいま」と魔法使いは言った。「ウサギが捕れた」
「早かったな」
「自分の家の庭で迷うのはあんたくらいしかいないと思う」
ユーシャは笑った。魔法使いは右隣に座った。
捕ってきてくれたウサギの肉を一緒に食べる。
それは腹の底にすとんと落ちてくる。
身体はどんどん重くなっていった。全身が鉛に覆われているみたいだった。
ウサギの肉を平らげて、ぼんやりと炎を眺めていると、
腹の底に重い何かが湧き上がった。ユーシャは魔法使いに抱きつき、
ふたりは蛇のように、長い時間をかけて交わった。
35:

「わたしって、子どもが産めない身体なのかな」
魔法使いは腹をさすりながら言った。
「どうしてそう思うんだ?」とユーシャは言った。
「だって、子どもができないんだもの」
「子どもがほしいんだ?」
「わたしとあんたのね。それに、家族って憧れるでしょ。あんたは特に」
「そうだな」故郷の村の、空っぽの家を思い出す。誰もいない家だ。
両親のことは何も知らないし、祖母も逝ってしまった。
たしかに家族というものには強いあこがれがあった。
36:
「ねえ」魔法使いは言う。「子どもを産めない女って、どう思う?」
「もしかすると、俺の方に何かだめな部分があるのかもよ。
まだお前が子どもを産めない身体だって決め付けるのは早いんじゃないかな」
「そうかもしれないけど、わたしは怖い」
「何が」
「わたしが子どもを産めないって分かったら、
あんたは離れていくんじゃないかって。
子どもを作れないなんて、女としてどうなんだろうって」
「俺はずっと隣にいるって。子どもを作れなくたってお前はお前で、俺は俺だよ。
それに、べつに子どもを産めなくたって、俺たちは家族になれる」
「ありがとう」魔法使いは微笑んだ。「でももう一回頑張ってみる」
「それはつまり」
「もう一度わたしを抱いて」
37:

身体が鉛みたいだった。頭は酷く痛むし、顔が熱くて焼け落ちそうだった。
視界の端はぼやけていて、天井までの距離がわからない。
手を伸ばせば届きそうにも見えるし、ずっと向こうにあるようにも見える。
ユーシャは壊れかけたベッドの上で寝転びながら、天井を眺めていた。
首を動かすのも嫌だった。眼球を動かすのもめんどくさかった。
でも鼻水を啜るのはそうでもなかった。
吐き出した息は酷く熱い。身体は熱いが、まだぬくもりを求めていた。
魔法使いが目を覗き込み、「大丈夫?」と言った。
「らいじょおう……」
「ぜんぜん大丈夫じゃないでしょ?」
「ただの風邪だって」ユーシャは笑った。
どうりで昨日は身体が重くて熱くて、頭が痛かったわけだ。
38:
「ほっといたら死にそうなんだけど、ほんとうに大丈夫?」
「俺は死なないよ」
「そう言って一回死んだのはどこの誰よ」
「ごめん」
「昨日わたしと抱き合ってる時はあんなに元気だったのに」
「それとこれは別だ」
「そうなの?」
「そう」
「ふうん。証明できる?」
「それはつまり」
魔法使いは黙って微笑み、ベッドに潜り込んだ。
39:

そのようにして数日が過ぎた。
身体も心も完全に回復したか、それ以上の状態になった。
ある日の朝、魔法使いは暖炉の前で立ち上がり、「行こう」と言った。
「うん」ユーシャは魔法使いの手を掴み、立ち上がった。
「どこへ?」とは訊かない。向かうべき場所はたくさんある。
いま大事なのは、ここではないどこかへ行くことだった。
あとのことは、ここではないどこかに辿り着いた時に決めればいい。
すこし名残惜しくもあるが、暖炉のある図書館をあとにして、
大陸の西を目指して歩き始めた。しっかりと手を繋ぎ、
新雪に足跡を刻みながら何時間も歩き、テントで身体を休める。
次の日もその次の日も同じようにして進んだ。
40:
数十日歩くと、大きな橋が見えた。
北の大陸と西の大陸を繋ぐ、大きな石橋だ。
橋を渡りながら、遠くの空を眺める。
空は真っ暗だった。どこを見上げても闇があった。
何かの意志が太陽を覆い隠しているように思えた。
「真っ暗だな」ユーシャは遠くの空を見て言った。
「どうなってるのかしら」
歩かないことにはどうにもならないので、そのまま歩いた。
しかしいくら歩いても、空には夜が続いているみたいな暗さがあった。
橋を渡り切る頃になるとそれは見えてきた。
41:
遠くの空に、真っ黒の球体が浮かんでいた。かなり大きなものだ。
球体からは棒のようなものが一本だけ飛び出ている。
それは真っ黒に染まった太陽のようだった。
あるいはおたまじゃくしとか精子とか、限りなくゼロに近いものだ。
それの内側では、竜のような頭を持った蛇のような巨大な生物が泳いでいた。
優雅にも見えたし、不快感を撒き散らしているようにも見えた。
黒い太陽からは黒い煙があふれている。
煙は広がり、空を覆う。空の暗闇は夜の暗さではなかった。
「なんだ、あれ」ユーシャは訝しむ。
42:
「巨大な怪物が現れ」と魔法使いは言った。「空が暗黒に覆われる」
「何?」
「そしてどこかから魔王が現れ、地上は怪物で埋め尽くされる」
「なんだ、それ」
「御伽噺よ」魔法使いは杖を強く握った。
「これじゃあまるで、わたし達が魔王みたいじゃないの」
正面に目を向けると、大量の怪物が見えた。
ユーシャは刃こぼれした剣を握り、構える。魔法使いは呪文をつぶやく。
いったい、何が起こっているのだろう?
44:
44
道を照らす光は何もなかった。なければ作るしかない。
魔術の光で前を照らして歩く。人の姿はひとつもない。
あるのは枯れた自然と、数えきれないほどの怪物だけだった。
ようやく辿り着いた西の王国城下町の周りの
大きな壁は、ところどころ壊れていた。
上空にはぎゃあぎゃあと喚く怪物が何匹も飛んでいる。
でも町に危害を加えてはいない。
どうやら町には巨大な魔術の障壁が張られているようだ。
四つの入口のうちのひとつに向かう。
そこには紅いローブを着た女が立っていた。
ユーシャと同い年ぐらいの女だった。
「あなた達、そんなところで何をしているんですか?」と
紅いローブを着た女は言った。「早く入ってください」
魔法使いとユーシャは言われるままに、
西の王国の城下町に逃げるように入り込んだ。
45:
町の中では、人々が通りを闊歩していた。
まるで今の状況が当然であるとでも言いたげに歩いている。
町の人々の視線が飛んでくる。
火傷の痕と、真っ黒な腕に、視線が集まる。
自分が醜い存在であるということを思い出してしまう。
背中には大きな火傷があり、顔の皮膚はただれている。
小さな声が聞こえる。魔女だとか化け物だとか、断片的に言葉が聞こえる。
町の言葉は心に灯った炎を消そうとする。
ユーシャは魔法使いの手を強く握る。
「大丈夫。気にすんな。ほっとけばいいんだよ」
「うん」魔法使いは頷き、手を握り返す。
消えかかった心の炎はもう一度大きくなる。
46:
「こんなわけの分からないことになってるってのに、
火傷が何だってんだ。真っ黒な腕が何だってんだ。
こいつら馬鹿なんじゃないか?」
「そうね。救いようのない馬鹿だわ」
見上げると、真っ暗な空で、何匹もの巨鳥の怪物が汚い声で啼いていた。
不快な音だったが、町の人間は気にも留めない。
すさまじい適応能力だ、と呆れを通り越して感心してしまう。
「行こう」ユーシャが手を引いてくる。
「うん」魔法使いは前へ進む。
階段を上り、町の頂上を目指す。
頂上には城がある。あの城に、西の国王がいる。
言ってやりたいことがたくさんある。
言葉だけでは足りないかもしれない。
とにかく行かないことには何も変わらない。
王から全てを聞き出すのだ。
47:

城の前には警備のために、鎧を着たふたりの人間が立っていた。
城に入ろうとすると止められたので、杖で思いっきり頭を殴って通り過ぎた。
もう一人が助けを求めて叫ぼうとしたが、ユーシャに顎を殴られて気を失った。
いまさら気にする立場もない。倒れた兵士ふたりを跨ぎ、城に入る。
城に入るのは初めてだった。ユーシャは一度だけ入ったことがあるが、
魔法使いは城門の前まで来ただけだ。
入っても、これといった感情が湧き上がるわけではなかった。
べつに嬉しくも懐かしくもない。
ユーシャも過去に想いを馳せているようには見えない。
エントランスの絨毯や装飾は確かに綺麗で優雅だったが、
それらが放つ光は作られたものにしか感じられない。
太陽や星の光とは違う。
磨かれた石の光にも似ているが、それともすこし違う。
「王様って、どんな人なんだっけ?」と魔法使いは訊ねる。
「嫌なやつ」とだけユーシャは言った。
48:
城内には何人もの人がいた。どれも小綺麗な服を着ている。
汚いのは彼だけだ、と思った。
魔法使いは北の大陸の家にあった真っ黒な長いローブに着替えているので、
汚れはそれほど目立ってはいない。目立つのは顔の火傷だけだ。
でもユーシャの服は真っ赤だった。何かの血が大量にこびりついていた。
だから何だ、と思った。汚いから何だ。
魔法使いとユーシャは歩く。その歩みを止めに来るものは誰もいなかった。
その場でぼそぼそと声を漏らすみたいにして喋っていただけだ。
エントランスを通り過ぎ、階段を上る。ひたすら真っ直ぐ進むと、
大きな両開きの戸にぶちあたった。
戸の前には槍を持ったふたりの兵士が立っていた。
49:
「止まれ」と片方の兵士が言った。
「何者だ」ともう片方の兵士が言った。
「退け」と魔法使いは言った。「さっさとそこを通せ」
「だめだ」
「どうして?」
「それは言えない」
「その先に王がいるんでしょ? わたし達は彼に用があるの」
「だめだ」
「どうして?」
「どうしても」
「ふうん」
魔法使いは口の中で呪文を唱える。
ふたりの兵士に細い雷を撃ち、気絶させる。
倒れた兵士を跨ぎ、ユーシャと魔法使いは戸に手をかけて開いた。
5

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