勇者「君こそが、僕を救ってくれるんだ」back

勇者「君こそが、僕を救ってくれるんだ」


続き・詳細・画像をみる

1:

「いい天気だ」と左隣を歩く戦士は、腰に携えた剣に手を置きながら言った。
勇者は空を見上げる。たしかにいい天気だ。
青く澄み渡るとか、そういう在り来りな表現が似合う、そんな空だ。
鮮やかな青に混ざって、筆で描いたようなやわらかい輪郭を持った雲がところどころに見える。
どこにでもあるような、晴れた昼頃の空だ。
今までに見てきた空と何ら変わりはないのだが、勇者の目にはその青空が新鮮に見えた。
それは今、彼が勇者という場所に立っているからなのかもしれない。
立つ位置が変わると、見えるものも変わるのだ。空だってそうだ。
今までは故郷のちいさな農村から見上げていたちいさな空は、今はとても大きく見える。
「たしかに」と右隣を歩く僧侶は、大きく深呼吸した。「いい天気だ」
たしかにいい天気だ、と勇者はもう一度思った。そしてもう一度空を見上げる。
青空には天気の変化だけではなく、平和の象徴のようなものを感じることができた。
だからこそ“ほんとうに魔王なんているのだろうか?”と思わずにはいられない。
でも彼は勇者なのだ。どこに存在するのかも分からない魔王を討つために
歩かなければならない。それは東の国王直々の頼みであった。
元スレ
SS深夜VIP
勇者「君こそが、僕を救ってくれるんだ」
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/internet/14562/1384517301/
http://rank.i2i.jp/"> src="http://rc7.i2i.jp/bin/img/i2i_pr2.gif" alt="アクセスランキング" border="0" />
http://rank.i2i.jp/" target="_blank">アクセスランキング

 
2:
一国の主に「あなたが勇者だ」と言われた時は、内臓が口から零れ落ちそうになった。
果たして彼が勇者だということは最初から決まっていたのか、
それとも彼は抽選か何かで勇者に選ばれたのか、本人には何も分からない。
とにかく王は「あなたが勇者だ」と言うのだから、きっとそうなのだろう。
勇者という存在はおとぎ話のなかだけの存在だと思っていたから、その言葉は彼を激しくを混乱させた。
子供の頃はよく絵本で見たり、ごっこ遊びで演じたりしたものだったのに、僕が本物の勇者だって?
国の主の言葉に反論することが何を意味するのかということは、
ちいさな農村に住んでいた彼にも理解できた。
「あなたが勇者で、あなたに魔王を討っていただきたい」と頼まれたのなら、それに従うしかないのだ。
「旅日和だな、勇者様?」と戦士はからかうように言った。
「やめてくれ」と勇者は言う。「勇者って言われると、ものすごくこそばゆいんだ」
戦士は笑った。「まあしかし、お前が勇者かあ。似合わんなあ」
「まだ言うか? きょう何回目だよ。
べつに僕だってなりたくて勇者になったわけじゃないのに」
「でも、たしかに似合わないよねえ」と僧侶も笑った。
「そんなに似合わないかな」
戦士はうなずく。「お前は昔から泣き虫なやつだったからなあ」
「それは関係ないと思う」と勇者はふくれて言った。
たしかに泣き虫であったという自覚はあるが、他人に言われるとすこし腹が立った。
3:
「そうそう」と僧侶はうなずく。「泣き虫はもう治ったもんね?」
「そうだね」と勇者はつぶやくように言った。
泣き虫は治ったという自覚もあるが、改めて言われるとすこしはずかしかった。
彼女に言われるとなおさらだ。
穏やかな風が、足元から地平線にまで広がるだだっ広い草原を撫でた。
風は僧侶の長く艶のある黒髪をふわりとなびかせ、甘い香りを勇者の鼻に運んだ。
勇者はその香りに誘われるように、彼女に目を向ける。
彼女は白い半袖のローブのような服を着ている。丈は膝辺りまでしかない。
それなりに肌の露出の多い、旅のお供にはすこし心細い服装だ。
「なあに?」と僧侶は勇者に微笑みかける。「どしたの?」
「なんでもない」と勇者は言い、戦士の方に目を向ける。
彼は汚れた白い布の服の上に、申しわけ程度に金属施されたが皮の胸当てを着けていた。
深い森のような色をしたズボンには、つぎはぎのように何かの動物の皮が縫い合わせられてある。
肘にも皮のプロテクターのようなものが見える。彼は用心深いのだ。
「なんだ。じろじろ見て」と戦士は言う。「どうした?」
「ふたりはさ、どうして僕についてきてくれたの?」と勇者は訊ねた。
「そりゃあ、お前が心配だからだよ」と戦士は笑った。
「そう。きみが心配だからだ」と僧侶も笑った。
4:
三人は故郷のちいさな農村で生まれて育った。
彼らは小さな頃からの友人で、もはや家族や兄妹のようなものだった。
勇者から見れば、戦士は兄で僧侶は姉のようなものだ
(戦士は勇者よりもふたつ年上。僧侶はひとつ年上)。
村には歳の近い人間は彼らしかいなかった。仲良くなるのは必然とも言えるかもしれない。
王に会いに行く時もふたりは付き合ってくれたし、こうして旅に出た今も隣に居てくれている。
勇者はそれがとても幸せなことに思えた。ただ、すこし申しわけなくも感じた。
これは自分自身の問題であり、ふたりを巻き込むことはないはずなのだ。
しかし、ひとりでは心細いのもまた事実だった。
おそらくふたりはそれを察してくれているのだろう、と勇者は思った。
5:
「しかしまあ」と僧侶は大きく伸びをした。「なんにもないね」
「ほんとうにな」戦士は引きつった笑みを浮かべた。「びっくりするくらいなんにもないな」
勇者は眼前に広がる草原を眺める。
そこにはたしかに緑以外には何も見当たらない。“怪物”の姿もない。
唯一見える草以外のものは、遥か背後にある巨大な東の王国城下町だけだ。
あそこを発ってからもう二週間は経ったはずなのに、大して進んでいないような錯覚に陥る。
そうすると、改めて自分たちの立っているこの“東の大陸”が巨大であるということを実感させられる。
村の外に出たことがほとんどなかったから、そう感じるのははじめての事だった。
そしてこの草原がこの大陸の大部分を占めているのだ。そう思うとうんざりした。
他の大陸に住むものからは、緑の大陸だとか言われているようだ。
魔王がどこにいるのかなんて知るはずもない彼らはとりあえず、目的地を南の大陸に決めていた。
そのためには、まずこの大陸を南下して港を目指し、そこから船に乗る必要がある。
しかし海は未だに見えない。
6:
この日も三人は、陽が落ちるまで歩き、野営をした。
僧侶は炎の魔法をすこし扱えるので、火に困ることはない。
ただ、勇者は足元に広がるむせ返るような緑の香りが苦手だった。おかげでゆっくり眠れやしない。
勇者は勢いよく上体を起こした。どこかで何かが鳴いている。周囲は夜の暗闇に閉ざされていた。
右隣には寝息を立ててぐっすりと眠る戦士がいる。
そこまでぐっすりと眠れるものかと、勇者は羨ましく思った。
僧侶はどこだ? 辺りを見回してみると、すこし離れたところに座り込んでいるのが見えた。
勇者は僧侶に歩み寄り、隣に腰を下ろしてから、「寝ないの?」と訊ねた。
僧侶は、「ううん。ちゃんと寝るよ。星が綺麗だったから、それを眺めてたの」とゆっくりと言った。
「星?」勇者は空を見上げた。黒い空にはぽつぽつと、星が弱々しい光を草原に投げかけている。
「綺麗だよね」
「そうかな」勇者は素直な感想を言った。
もっと強く、数え切れないほどの星が輝いていれば、綺麗だねと言えたのかもしれない。
しかし、そんなものよりも目の前の黒い艶のある髪のほうが綺麗に見えた。
目の前の白い肌も微笑みも、とても綺麗なものに見えた。
7:
「昔さ、村に旅をしてる人が来たことがあったよね」僧侶はぽつりと言った。
「ああ、あったね。僕らが一〇歳の頃だっけ」昔、故郷の村に旅人が訪れたことがあった。
そのときは馬小屋の掃除を手伝ってもらったんだったか。いい人だった。
「わたしは一一歳だったけどね。あいつは一二歳」“あいつ”というのは、戦士のことだろう。
「そうか。ときどき、君のほうが年上だってことを忘れそうになるよ」勇者は笑った。
「それで、それがどうかしたの?」
「いやあ、あのときは旅に出ることになるなんて、思いもしなかったよねえ」僧侶は笑った。
「確かに」勇者も笑った。
ふたりは黙って、空を見上げた。悪くない時間だった。
しばらくそうしてから、勇者は重くなった瞼を下ろした。
8:

「そろそろ行きましょうか。ユーシャ様」と魔法使いは立ち上がって言った。
左手に嵌めた金の指輪が、夕陽を反射してきらりと光った。
「なんか馬鹿にしてないか?」
ユーシャは地面に寝転がったまま、眩しさに目を細めて言った。
この角度からだと、魔法使いのスカートの中身が見えそうになる。
なので、黙ってそのまま眺めておくことにした。
空と丘を橙色に染めながら、地平線へ溶けるように太陽が消えかかっている。
丘を撫でる風が魔法使いの栗色の髪をゆるやかに浮かせ、きらきらと輝く。
スカートの中身はなかなか見えない。
ユーシャと魔法使いは、西の大陸の中央辺りにある“星見の丘”にいた。
丘の天辺には、一本の木がぽつりと立っている。星見の丘とは言っても、もちろん夜しか星空は拝めない。
では何故そういう名前なのか。生まれたときからこの辺りに住んでいたユーシャも魔法使いも知らなかった。
9:
「それに、そろそろ行くって、もう夜じゃないか。どこに行くんだよ」ユーシャは体勢を変えずに続けた。
「あったかいベッドの上に行くに決まってるじゃないの」
「今からまた西の王国に帰るのかよ。それじゃあ、いつまで経っても先に進めないだろ。
それに、これからは嫌というほど野宿をすることになるだろうから、今のうちに慣れといたほうがいいんじゃないか?」
「それは一理あるけど……」
「嫌ならべつに無理して付いてこなくてもいいんだぞ」
「わかった、わかりましたよ。野宿でいいですよ」魔法使いはふくれた。
小高い丘からは周囲を見渡すことができた。南には小さな港町と、塔が見える。
東西には草原が広がっていて、小さな村が点在している。遠くには海が望めた。
北には西の王国のシンボルでもある、大きな石の城が窺える。
この西の大陸で最も大きな町は、ひときわ大きな存在感を醸し出していた。
あの城で勇者になってから三日が経った。
勇者や魔王なんてものは未だに半信半疑だが、一国の主に「行け」と言われたなら、行くしかない。
しがない農民だったユーシャには、この広い世界で何が起こっているかなんて
ほとんど理解できていないが、とにかく今は魔王とやらを探すしかないのだ。
10:
勇者と魔王。まるで子どもに聞かせる御伽噺のようだ。お偉いさんの口からそんなことを聞いたときは
“もしかしてこいつは馬鹿なんじゃないのか”と微笑ましく思ったものだが、
「お前が勇者だ」と言われたときは、開いた口が塞がらなかった。
しかし、あれは嫌な国王だった。いくら王だからといって、頬杖をついて脚を組み、顎に蓄えた髭を撫でながら
人にお願いをするのはいかがなものかと思う。もちろん、そんなことは言えなかった。
仮にも一国の主なのだし、深い皺を刻んだ顔には有無を言わせない気迫があった。
回想するだけで、ため息がこぼれる。
「どしたの。ため息なんて吐いて」と魔法使いは言った。
「いや、お前のスカートが捲れないかなと思って」
魔法使いは「殺す」と穏やかではない言葉をつぶやき、杖の先端でユーシャの額を小突いた。
「痛い痛い痛い。冗談だって。あの国の王様のことを思い出したら、ちょっと苛々しただけだって!」
「ふうん」
11:
「杖を退けてくれ! 痛い、痛いって! やめろ暴力女! お前それでも魔法使いか!」
ユーシャは叫んだ。
その直後に魔法使いの背後に小さな火球が三つ現れた。
炎に照らされた魔法使いの顔には、かわいらしい笑顔が浮かんでいる。
「ごめんなさい」とユーシャが謝ると杖は退けられ、炎は消えた。
「よろしい」魔法使いは隣に座り込んだ。甘い匂いがする。
どうやら死なずに済んだらしい。ほっとして空を見上げた。
陽は完全に姿を隠し、薄暗いそこには、いくつかの星が散っている。
いつの間にこんな時間が経っていたのだろう。
12:
「今日はここで野営だな」とユーシャが言うと、「そうね」と素っ気ないお言葉が返ってきた。
「そういえばお前、短いスカート穿いてるけど寒くないのか?」
「寒いけど、魔術があるから大丈夫よ」と魔法使いは言ったが、丘を這う夜風は決して暖かいものではない。
魔法使いは身体をぶるりと震わせた。大丈夫なようには見えない。
「俺のマント貸そうか? マント被ればすこしはマシになるだろ」
ユーシャは薄汚れた紺のマントを魔法使いに差し出した。
「やだ。それ、あんたの匂いがするじゃないの」
「俺の匂いが嫌だってか?」そんなに臭うだろうか。
「べつにそうは言ってないけど? 何、わたしにそれ使ってほしいの?」
「べつにそうは言ってないだろ。お前が寒そうだから心配してやってるんだよ」
「ふうん。じゃあ、ありがたく使わせてもらおうかな」魔法使いはマントを受け取り、自身の膝にかけた。
それから身体を倒して、ユーシャの隣に寝そべった。「おー。星が綺麗だ」
13:
ユーシャも空を見上げた。確かに綺麗な星空だった。
紺碧を背景に、あちこちに散りばめられた星が、鋭い光を放つ月に負けないほど輝いている。
視界の端で星が尾を引き、消えた。魔法使いは気付いただろうか。
「“星見の丘”って、こういうことだったのかな」ユーシャは言った。
「かもね」魔法使いは呟くと、「そういえば、昔ここで約束をしたわよね」と続ける。
「そうだったか?」
「まあ、あんたのことだから忘れてるとは思ってたわよ。ほら、丘に立ってる木に書いたじゃないの」
丘に立ってる木に書いた? あの、丘の天辺の木か? 何を書いた?
思い出せない。いったい何年前の話をしているんだ?
ユーシャが黙り込んで回想していると、魔法使いは、やや怒りを滲ませながら「もういい」と言った。
「べつに確認しに行かなくていいから。どうせもう消えてるだろうし。思い出せたら言ってね」
「ごめん」ユーシャが謝っても、返事はなかった。
14:
ユーシャと魔法使いは昔からずっといっしょだった。
故郷の村は小さく、同い年の人間はほとんどいなかったので、同い年のふたりは自然と仲良くなった。
何をするにもふたりはいっしょだった。何度もいっしょに怪物を打ち負かしたし、
剣と魔法のどちらが強いかを確かめるために、一戦交えたこともあった。
約束なんてものは、数え切れないほどしたような気がする。
一七年の月日の中から数秒だけを思い出すというのは、なかなか難しい。
約束って、何だ? 訊くに訊けなかった。
しばらく無言で空を眺めていると、魔法使いは口を開いた。
「それにしても、あんたが勇者だなんてねえ」
「つまんない冗談だよな。星型の痣があるだけで勇者扱いだなんてさ」
ユーシャは空に手をかざした。手の甲には、かろうじて星の形に見えなくもない不細工な形の痣がある。
「星型の痣?」魔法使いは驚いた様子で言った。
「西の王国には、星型の痣がある人間が勇者だって御伽噺があるんだってさ」
「……ふうん」
「どうした。何か知ってるのか?」
「ううん、なんでもない」魔法使いはマントを頭から被った。
「そうか」ユーシャはそのまま瞼を閉じた。甘い香りが漂う。星の残光が瞼の裏で瞬いている。
その日は、なかなか眠ることができなかった。
17:

「なあ。あれ、村じゃないか?」戦士は言った。
続いて、「おお?」と勇者、「おー!」と僧侶が声を上げた。
戦士の視線の先を見てみると、岩と木と堀に囲まれた場所に
民家の集まりらしきものが見えた。ちらほらと人影も窺える。
「やー、長かったねえ」僧侶は長い息を吐いた。嬉しげな表情を浮かべている。
「なにもう魔王を倒して凱旋するみたいな気分になってるんだよ」戦士は笑った。
草原をさまよって何日が経ったのだろう。勇者たちは、ようやく村に辿り着けそうだった。
しかし、この大陸の最終目的地はあくまで港町なので、ここは通過点に過ぎない。
それでも勇者一行にとっては、喜ばしい進歩だった。
18:
村に辿り着いたのは、発見から約一時間後のことだった。
「明るいうちに着いて良かったね」と僧侶は微笑む。
三人は疲弊した身体で村に入ろうとした。
そのとき、村民と思しき少女に声をかけられた。
「止まりなさい」その少女は少女らしからぬ口調で言った。
ぶかぶかの紅いローブを纏い、背丈と同じほどの長さの杖を携えている。
「や。俺たちは怪しいもんじゃないんだ」と戦士が言った。
「怪しいひとは真っ先にそう言います」
「ん。確かに」僧侶が口を挟んだ。
「目的は何ですか?」と少女は言った。
「目的って……。ちょっと身体を休ませてほしいかなあと思って。旅で疲れてるんだ」
「なぜ旅をしているんですか?」
「まお」戦士が言いかけたとき、勇者は急いで口をはさんだ。
「東の国王のお使いで、南の大陸に行かなくちゃならないんだよ。
それで港を目指してるんだけど、もう何日も草原をさまよってて、へとへとなんだ」
19:
「東の国王……」少女の表情は曇った。
「だめかな?」僧侶は微笑みかけた。
「……長に訊いてきます。すこし、ここで待っててください」
少女は踵を返し、村で最も大きな建物の中に消えた。
村には二〇ほどの建物が窺える。どれも平べったい円錐のような姿をしていた。
平べったいとは言っても、勇者たちの身長の二倍ほどの高さがある。
歩き回る村民の視線が三人に突き刺さる。
色こそ違えど、男性も女性も、皆が同じようなローブを纏っていた。
20:
「なあ。なんで魔王を倒すために旅をしてるって言わなかったんだ?」
戦士は声を落とし、素直な疑問を口に出した。
「そんなの信じてもらえないだろう。もし信じてもらえたとしても、
それはそれで相手を不安がらせてしまうんじゃないかな」
勇者が言うと、「だね」と僧侶が頷いた。
「何を話してるんですか?」先程の少女が戻ってきた。
ぶかぶかのローブを引き摺るその姿は、見た目よりも幼い印象を他人に与える。
見た目もそれなりに幼く見える。一〇歳かそこらだろうか。
ただ、口調だけはやけに大人びている。
「いや、なんでもない」と戦士が胡散臭い笑みを浮かべながら言った。
「怪しい話をしてたひとは皆そう言うんですよ。
まあ、何でもいいです。話は後で聞きます。
とりあえず今から“膜”を剥がすので、わたしに付いてきてください」
少女は杖で地面を軽く突いた。
「膜?」「膜って何?」「膜ってなんだ?」三人はほとんど同時に言った。
21:
「膜というのは所謂、魔術の障壁です。結界だとか呼んだりするひともいますね。
わたし達は、この村を覆っているドーム状の魔術の障壁のことを“膜”と呼んでいます」
少女は踵を返し、ふたたび村でいちばん大きな建物に歩き始めた。
「今、その膜は剥がれてるの?」と僧侶。
少女は振り返らずに、「はい」と答えた。「なので、入ってきてください」
勇者たち三人は少女の後に付いて歩いた。
足元には“膜”の外と同じように短い草が茂っている。
村内を見渡してみると、やはりどこもかしこも円錐の建物だらけで、
紺や紅のローブを纏っている人々がこちらをじろじろと見ている。
余所者というのは、どこでもこういう扱いを受けるものなのだろうか。
勇者は回想する。確かに、故郷の村でも余所者が訪ねてきたときは、
あまり歓迎されているようではなかった。
22:
しばらく歩くと少女は立ち止まり、「入ってください」と言った。
正面には、この村でいちばん大きな建物がある。
潰れた台形のような形をした建物は、円錐型の建物の二倍ほどの横幅があった。
暖簾のように垂れた布を払い、少女はその潰れた台形の中に入った。
勇者たちも後に続く。
真っ先に目に入ってきたのは、正面に座っている老婆の姿だった。
黒いローブを羽織っていて、大きな帽子を被っている。
枯れ木の枝のように痩せた細い腕。灰に染まった長い髪。
その姿は御伽噺に出てくる魔女のように見えた。
「この方々です」と少女は相変わらずの口調で言った。
勇者たちは各々に簡単な挨拶と一瞥を終えると、老婆が顔を上げた。
そして、少女のような笑みを浮かべながら口を開いた。
「ようこそ旅のひと。ここは魔術の村です」
「魔術の村」勇者が復唱する。
23:
「そう。そして私がこの村の長です。どうぞ、ゆっくりと旅の疲れを癒してください」
「いいんですか」少女は表情を歪める。
「ええ」長はふたたび少女のような笑みを見せた。
「あなたの家で休んでもらっては? ひとりは寂しいでしょう」
少女は曇った表情を滲ませながら、「わかりました」と呟いた。
24:
円錐の中身は、四人が寝転んでもそれなりに余裕のある広さだった。
ベッドはひとつしかなかったが、野営よりは何十倍も寛げそうだ。
天辺には光を放つ小さな球体が浮かんでいる。
僧侶はそれを指差しながら、「あれは魔術なの?」と訊くと、
少女は「そうです」と素っ気ない返事をした。
「その堅苦しい喋り方、止めてもいいんだぞ?」戦士が言った。
「わたしはこれが普通なんです」
「ふうん。ちなみに、歳は?」
「失礼なひとですね。一〇歳ですよ」
「しっかりしてるんだねえ。偉い」と僧侶が笑顔で言った。
「ええ、まあ。母が亡くなってしまったので」
円錐の中の温度が下がったような気がした。
25:
しばらくの沈黙の後、「なんだって?」と戦士が言った。
「母が亡くなったんです」
「お父さんは?」僧侶が口を挟む。
少女はかぶりを振った。
「父に会ったことはないです。母は南の第二王国の兵士に殺害されました」
「南の第二王国?」
「はい。南の大陸には、第一王国と第二王国のふたつの国があります。
東に第二王国、間に大きな川を挟んで西に第一王国です。存じ上げませんか?」
三人は仲良くかぶりを振った。
僧侶は続ける。
「どうしてお母さんは南の第二王国の兵士に、その……殺されちゃったの?」
「この村の東に、呪術の村があります。三年ほど前の話です。母はそこに用事がありました。
しかし、運の悪いことに、そこに兵士が攻め込んできたんです。
その結果、呪術の村の呪術師は全滅し、村は滅びました。それだけです」
26:
「どうして呪術の村は襲撃されたの?」
「わかりません。ただ、南の第二王国が呪術を恐れていたという噂があります」
「ところで、呪術ってなんなんだ?」戦士が口を挟む。
「魔術よりも強大な魔法みたいなものです。大破壊を実行したり、ひとを蘇生させたり、
怪物を意のままに操る術などがあったそうです。第二王国はそれが怖かったのでしょう」
どうにも信じがたい話だったが、妙な説得力があるように思える。
勇者は盗み見をするように眼球だけをじろりと動かした。
視界に入り込んだのは、潤んだ大きな目だった。
その大きな目で、この娘は何を見てきたのだろう。
そして、これから何を見ていくのだろうか。
目の前に座り込む小さな魔術師の境遇を想うと、何も言うことができなかった。
きっとこの娘は、これからもひとりで生きていくのだろう。
27:
「大変だったんだね」僧侶は少女を抱きしめた。
「そうなんです」少女は素直に言った。「それにわたし、ものすごく寂しいんです」
「今日はわたしといっしょに寝よう。ね?」
僧侶が言うと、少女は頬を濡らしながら「うん、うん」と大きく頭を縦に振った。
「どうやら、俺たちは地べたで寝ることになったらしいな」戦士が言った。
「まあ、仕方ないんじゃないかな」勇者はその場に寝転がった。
薄暗くなっていく部屋を漫然と眺めながら思う。
大陸間で揉めているのに、魔王を倒したところで世界に平和は訪れるのだろうか。
僕らがやろうとしていることに、いったい何の意味があるんだろう。
魔王なんてものが存在しなくても、この世界は糞まみれなんじゃないのか?
勇者の頭の中の懐疑に答える声はなかった。
28:

「魔術というのは、ある程度の素養、もしくは
生まれ持った僅かな才能のどちらかがあれば、習得は容易です」
「つまり俺には素養も無ければ才能も無いってことか」
「確かに才能はありませんが、それは先天的なものが無いというだけです。
知識なんてものは後からいくらでも頭に叩き込めます。
叩き込んだ知識を正しく理解することができれば、あなたにも魔術が使えるようになりますよ」
少女は歳相応の可愛らしい笑みを浮かべた。
「なあ、見てくれよ。俺、一〇歳の女の子になぐさめられてるぜ」戦士が笑った。
「いや、馬鹿にされてるんじゃないの?」僧侶も笑った。
「だね」勇者も笑った。
29:
村に辿り着いた翌日、勇者たち三人は少女から魔術を教わることになった。
長である老婆が言うには、「あの娘は、この村でいちばんの才能を持っている」だそうだ。
「その才能のせいで、あの娘は村に上手く馴染めないんです」とも言っていた。
勇者には、誰もが羨むようなものを持って生まれたのに、
周りの人間と上手く関わることができないということが、理解し難かった。
考えていると、「じゃあ、あの娘に魔術を教えてもらおうぜ」と戦士が言った。
炎や光、それに傷を癒す術を扱うことができれば、旅も多少は楽なものになるだろう。
そう思うと異論は特に無かった。いつもなら口を挟んでいたであろう僧侶も黙っていた。
ベッドでぐっすりでその場にはいなかったのだから、当たり前だ。
少女と僧侶が円錐から姿を現したのは、昼頃のことだ。
ふたりは仲良く手を繋ぎ、目を擦り、欠伸を漏らした。
「よくそんなに寝られるもんだな」と戦士が笑うと、
「いっぱいお話したもんね」と僧侶が少女を見て笑った。
少女の顔にも笑顔が浮かんでいた。
どうやら、夜通し話し合っていたらしい。
ひとというのは一晩でそこまで変わるものだろうかと思ったが、
少女の笑顔を見ていると、勇者の顔も自然と綻んだ。
30:
「やっぱり俺には、魔術とかそういうのは合わないな」戦士は言った。
「わたしがみっちり教えてあげますよ」少女は微笑んだ。
「自分に膜を張るくらいなら、誰にでもできます。
“膜”が使えれば、怪物から受ける被害を減らすこともできますし、
旅をするなら覚えておいて損はないですよ」
「できなかったりして」僧侶が吹き出した。
「ありそうだね」勇者も吹き出した。
戦士は疑わしげな表情を滲ませながら、
「ほんとうに俺でもできるのか?」と少女に訊く。
少女は、「できます。できないとしたら、
きっとあなたにはそういう才能があるんですよ」と答えた。
「そういう才能ってなんだよ」
「お天道様がエネルギーをくれないとか、精霊様に嫌われてるとか、そういう才能です」
31:
少女は、太陽の光に含まれていたり、大気中に拡散している
“それ”(この村の魔術師は“粒”と呼んでいる)を
体内に取り込み、エネルギーとして練るのだという。
エネルギー生成は、ある程度の才能を持っていれば、
誰もが無意識のうちに行っていることらしい。
そして、ひとには各々に得意とする魔術があるとも言っていた。
勇者は氷の魔術、僧侶は癒しと光の魔術といったところだそうだ。
御伽噺の勇者は光や雷が得意だったはずだが、まあいいか。
得意不得意が発生するのは、精霊という要因があるらしい。
たとえば、炎の精霊に愛されていれば、炎を操る魔術が得意
(精霊の力を借りて消費するエネルギーを抑えたり、
炎の威力を増幅させたりする)という、単純な構造だ。
もちろん、すべての精霊に愛されているようなひとも存在する。この少女のように。
たとえ精霊に愛されていなくとも、金を身に着けることにより、
ある程度はエネルギー節約や威力の増幅を行える。
「ほんとうなのか嘘なのかは知りませんが、昔から言われているようです」
だから魔術師は皆、金の指輪等のアクセサリーを身に着けている。
べつに、得意とする属性の魔術以外は全く扱えないというわけではない。
僧侶は炎や雷の魔術を多少は扱えるし、
勇者も少女から光の魔術と癒しの魔術、そして“膜”を教えてもらった。
教わったのは基本的なことや、簡単な魔術のみだった。
ある一定のラインを超えるためには膨大な年月が必要だったり、
やはり才能が必要だったりするらしい。
32:
戦士は肩を落とす。「才能があるって言われてこんなにも嬉しくないのは初めてだ」
「やっぱり剣がいちばんお似合いだね」僧侶が笑った。
「“膜”は簡単な術ですが、とても応用が利く術でもあります。
身体に纏わせるのはもちろん、剣に付与させたり、
膜の内側に怪物を閉じ込めたり、使い方は何通りもありますよ。
怪物を閉じ込めるにはそれなりの力が必要ですが、
あなたの剣があれば怪物の動きを封じる必要はないでしょう」
「おだてるのが上手いな、お嬢ちゃん」戦士は脹れた。
「世渡りが上手くいく術ですよ」と言って少女は破顔した。
勇者たちは二日に渡って少女から魔術を習った。
おかげで戦士も膜を使えるようになった。
33:

村に滞在して三日目の夜。
勇者は寝付けずに、ひんやりとした石の上に座り込み、星空を眺めていた。
得体の知れない罪悪感に苛まれて、睡眠どころではない。
少女と仲良くなれたのは喜ぶべきことだと思う。
僧侶は彼女を受け入れ、癒した。
戦士の存在は、結果的に少女に大きな自信を与えたのだろう。
そして三人は魔術を学ぶことができた。
しかし目的は、あくまで魔王を討つこと。
早いところ、この村からは離れなければならない。
それは少女と別れるということでもある。
結果、少女をひとりに戻してしまうことになってしまう。
仕方のないことなんだと自らに言い聞かせるも、どこか気分が優れなかった。
やはり、あまり深く関わるのは止めておいたほうがよかったのかもしれない。
どちらにとっても、別れが惜しくなるだけだ。
でも、仕方ない。仕方のないことなんだ。
勇者はため息を吐いた。少女の境遇を想うと、そうせずにはいられない。
34:
「こんなところにいたんですね」背後から可愛らしい声が聞こえた。
振り返ると、ぶかぶかのローブを羽織りながら
大きな欠伸をこぼす少女の姿が目に映った。
勇者は「眠れなくてね」と、弱々しく微笑んだ。
「なら、ちょうど良かった。わたしの話し相手になってくださいよ」
一昨日は僧侶、昨日は戦士と夜通し話をしたらしいので、今日は勇者ということらしい。
少女は勇者の隣に腰掛け、
「聞きましたよ。あなた、泣き虫らしいですね」と続けてから笑った。
「誰から聞いた?」
「ふたりとも言ってましたよ」
勇者はため息を吐いた。「泣き虫は、もう治ったんだよ」
「そうなんですか? でも、ふたりとも心配してましたよ。
“泣き虫の勇者が魔王を倒せるのかなあ”って」
「勇者、ねえ」どうやら、ふたりは耐え切れなくて喋ったらしい。
おどけた雰囲気を纏っていた戦士も、やんわりとしていた僧侶も、
やはり不安を抱えていたのだろう。内側に閉じ込められたものは、外に出たがる。
抱いた不安や恐怖は、どうしても誰かに吐き出したいものだ。
勇者は続ける。「そもそも、ほんとうに魔王なんてものがいるのかが、未だに疑問だよ」
35:
「どうなんでしょうね」少女は視線を頭上へ向けた。
見上げた夜空には欠けた月といっしょに、ぽつぽつと星が瞬いている。
「御伽噺のように、空が暗黒に覆われたりはしてないですし」
「地上に怪物が犇いているってわけでもないし」
「巨大な怪物も見当たらないですね」
「東の王様は何も教えてくれなかったし。
僕の目を通して見れば、世界は平和そのものに見えるんだけどね」
「巨視的に見れば世界は平和かもしれませんが、
微視的に見れば、そんなことはないと思います。
仮令、世界は平和だとしても、決して幸せではないんですよ」
少女の表情は曇った。呪術の村の襲撃の件を思い返しているのだろう。
ほんとうに世界が平和だったなら、彼女の母も死なずに済んだのだろうか。
「魔王がいると仮定して、その魔王を倒せば、世界は幸せになるのかな」
「きっと、なりますよ」
「そうだったらいいんだけどなあ」
勇者には少女の言葉が、なぐさめのように聞こえた。
あらゆるものを映してきた純粋な大きな瞳は、どこか悲しげに見えた。
36:
しばらくの間、沈黙がふたりの間にこだました。風が原っぱを撫で、空を切る。
音が“膜”の内側を満たし、耳をくすぐる。
こんな時間も、もうすぐ終わる。終わってしまうのだ。ここは通過点のひとつなのだから。
「だんまりですけど、寝ちゃ駄目ですよ。聞きたいことはまだまだあります」少女は言う。
「あなたは、あの娘のこと好きなんですか?」
「は?」勇者は素っ頓狂な声を上げた。あの娘というのは僧侶のことだろう。
「どうなんですか?」少女は勇者の顔を覗き込む。
「どうなんですかって……」勇者の頬は仄かに紅潮した。
「赤くなってますよ。あなた、すぐに赤くなるらしいですね。ふたりが言ってましたよ」
「あのふたりはなんでも喋るんだな……」
「で、どうなんですか?」
「……楽しそうだね」
「すごく楽しいです。で、どうなんですか?」少女は大きな瞳を輝かせた。
「どうなんだろう」と、勇者は誤魔化した。
37:
「あのお兄さんと同じこと言ってますよ」
「あのお兄さんって、あの脳筋男?」
今の言葉を戦士が聞いたら、なんて言うだろうか。
「そうです」
どうやら、戦士にも同じ質問をしたらしい。「あいつは、なんて言ってた?」
「それは秘密です」少女は人差し指で唇を押さえた。
そして、「で、どうなんですか?」と続ける。どうやら、もう逃れられないらしい。
「まあ……、好きなのは好きだけどさ……」勇者は頭を掻いた。
「でも、べつに独り占めしたいとか、そういうんじゃないんだ」
「どういうことですか?」
38:
「ふたりから聞いたかもしれないけど、僕ら三人はいつもいっしょでさ、
兄妹みたいなもんなんだ。今でもそうさ。
僕から見れば、ふたりは大事な友達でもあるし、優しい兄や姉みたいなもんだったりもする。
君も知ってるだろうけど、あのふたりといるのは、ほんとうに楽しいんだ。だから、好きだ」
「……なんか、羨ましいです」少女は、ぽつりと言った。
しまった、と思った。勇者は、それ以上何も言わなかった。
「わたしにも友達やきょうだいがいれば、こんなことにはならなかったのかなあ」
“こんなこと”とは、いったい何のことなんだろう。
母親が亡くなってしまったこと? ひとりぼっちで生きていくこと?
勇者は何も言わなかった。
ふたたび、ふたりの隙間に沈黙が生まれた。
39:
しかし、それはすぐに少女の声で破られた。
「はあ。なんか暗くなっちゃいましたね。ごめんなさい」
そう言ってから「ふう」と一呼吸置き、
「で、ほんとうのところはどうなんですか?」と話を再開した。
「なにが?」
「ほんとうに独り占めしたくないんですか?」
少女の目からは眩い好奇心が溢れ出している。
勇者は怯んだ。顔が熱くなる。「言わなくちゃ駄目なの? それ」
「言わないとあなたを魔術で拘束するって言ったら、言ってくれますか?」
少女は妖艶な笑みを浮かべた。
月に青白く照らされたその顔を見た勇者は、思わずどきりとした。
「わかった。言う。言うよ」
「あなたが話のわかるひとで良かったです。で、どうなんですか?」
勇者は周囲に人影が見当たらないか確認した。
人影どころか、怪物や虫の気配すら無いように感じられる。
膜の中というのは、そういうものなのだろうか。
40:
「どうなんですか?」と少女は急かす。
勇者は黙って頭を掻いた。
僕はどうしてこんな小さい子に脅されているんだっけ。
僕はどうしてここにいるんだっけ。
「三、二、一……」少女は背丈ほどの長さの杖を持ち上げながら言う。
「独り占め……したい。と思う」勇者の顔は真っ赤になった。
「やっぱり?」と少女は満足げに笑った。
41:
「ふたりには言わないでくれよ」
「大丈夫です。わたしは口が堅いですからね」
「どうだか」勇者は笑う。そして間を空けてから、
「ところでさ、僕らがそろそろこの村を出るって言ったら、どうする?」と訊いた。
少女は「どうもしませんよ。仕方のないことなんですから」と地面を見ながら呟いた。
「ごめんよ」
「謝ることはないです。それぞれが元に戻るってだけの話ですからね」
「君は強いね」
「わたしは強いですよ。ただ、ものすごく寂しいですけどね」
少女は杖を抱きしめた。その姿は、とても小さなものに見えた。
「ほんとうに寂しいんですよ。だから魔王を倒したら、
みんなでわたしに会いに来てくださいね」
「うん。分かった。約束する」
42:
「絶対ですよ。忘れちゃ駄目ですよ」少女はやわらかい目線を勇者に送った。
「大丈夫。たとえ僕が忘れたとしても、あのふたりは絶対に忘れないよ」
「そこはあなたが“絶対に忘れない”って言うところじゃないんですか?」
ふたりは顔を見合わせて笑った。
「いつ村を発つんですか?」と少女は言った。
「わからない。決められないよ」
「リーダーがそんなのでどうするんですか」少女は呆れ気味だ。
「僕はリーダーではないよ」
「でも、ふたりとも言ってましたよ。
村を出る日を決めるのはあなたに任せるって」
「あいつら、僕に押し付けやがったな」
「で、どうするんですか?」
43:
勇者はすこし間を空けてから言う。
「明日にでも出たほうがいいんだろうけど、
なんか、後ろ髪を引かれるというか、名残惜しいというか」
「それは、わたしと離れたくないってことですか?」
「そういうことになるのかな」
少女は一呼吸置いて、「じゃあ、明日出発してください」と言った。
「明日か。突然だね」
「はい。それ以上ここにいられると、出発の日に崩れちゃいそうですから」
「そっか」と勇者は微笑む。
「だから、今日は早く寝ましょう」
少女は勇者の手を引いて、戦士と僧侶が眠る円錐に向かって歩きだした。
小さな手は柔らかくて、あたたかい。
「あ、そうだ」しかし、少女はすぐに立ち止まる。そして、勇者のほうに振り返り、
「泣き虫で赤い顔の勇者に、おまじないをかけてあげましょう」と言った。
「おまじない?」
「“あなたの旅が良い旅になりますように”っておまじないです」
少女は大きな杖で勇者の頭を軽く叩いて言った。そして、目を瞑った。
「あなたの旅が、なにかを失う旅にならず、なにかを手に入れる旅になりますように」
44:

朝露のへばりついた芝を踏むと、間抜けな音がドーム状の”膜”の内側に響いた。
空は、ようやく白んできたところだ。円錐が薄い影を落としている。
大気には湿り気が混じっていて、大きくそれを吸い込むと、むせた。
勇者たち三人は人気のない村の入り口に立っていた。
あまりにも人の気配が感じられないので、村自体が眠っているように感じられる。
三人のほかには、人影はふたつしか見当たらない。
「お気をつけて。旅のひと」腰をほぼ直角に曲げた老婆――長がそう言うと、
「ありがとうございました」と僧侶が答えた。
「約束、忘れてないですよね」少女は言った。昨夜よりも、声のトーンが低い。
「さすがに一晩では忘れないって」勇者は笑った。
45:
「約束ってなんだ?」戦士が口を挟む。
「魔王を倒したら、みんなでここに帰ってくるんだ」
「なんだ、そんなことか」
「そんなこととはなんですか。
まだまだ話したいことはあるんです。さっさと帰ってきてくださいよ」
「分かってるって。俺たち三人いれば、魔王なんて敵じゃないって。
さっさと倒して、さっさと帰ってくるよ。そしたら、また俺に魔術を教えてくれよ」
「はい。あなたには、みっちりと教えてあげますよ」
「手厳しいな」
「わたしにも教えてね」僧侶は笑った。
「うん、待ってますよ。だから、早く帰ってきてね」
少女は言い終えると俯いて、黙り込んだ。
46:
「約束ってなんだ?」戦士が口を挟む。
「魔王を倒したら、みんなでここに帰ってくるんだ」
「なんだ、そんなことか」
「そんなこととはなんですか。
まだまだ話したいことはあるんです。さっさと帰ってきてくださいよ」
「分かってるって。俺たち三人いれば、魔王なんて敵じゃないって。
さっさと倒して、さっさと帰ってくるよ。そしたら、また俺に魔術を教えてくれよ」
「はい。あなたには、みっちりと教えてあげますよ」
「手厳しいな」
「わたしにも教えてね」僧侶は笑った。
「うん、待ってますよ。だから、早く帰ってきてね」
少女は言い終えると俯いて、黙り込んだ。
47:
何も言えなかった。おそらく、旅は長いものになる。それに、生きて帰れるとは限らない。
志半ばで果ててしまうかもしれないし、魔王にあっさりやられてしまうかもしれない。
その場合、勇者たちの想いがどうであろうと、結果的に少女を裏切ることになってしまう。
ほんとうにこれでよかったのか?
安易に約束したのを、勇者はすこしだけ後悔した。
戦士と僧侶は、どう感じているんだろう。ふと思い、ふたりの表情を覗いた。
どれも同じような顔をしている。それは決して明るいものではなかった。
おそらく、僕自身もこんな顔をしているんだろうなと、勇者は内心で苦笑いをこぼした。
そのまま何も言わず踵を返し、“膜”の外側に出た。
目指すは南の港町だ。いったい、今度は何日かかるだろうか。
一度だけ振り返ると、少女が“膜”の内側で崩れているのが見えた。
少女は震えた声で「またね」と呟き、俯いたまま手を振る。
「またな」と勇者が返すと、続いて僧侶が、
「また会いに来るからね」と言った。
次いで戦士が、「約束は守るから、泣くなって」と微笑を見せる。
少女は大きく頷いて、小さく手を振る。
三人は、それを背にふたたび南下を再開した。
48:

頭上には、数十日前に星見の丘で見たものと似たような星の海がある。
月は消えてしまいそうなほどに、ひょろ長い。
背後にはうんざりするほどの暗緑、眼前には大きな門。
門の奥には、眠った町がある。ひとの気配はほとんど感じられない。
西の大陸の港町に着いたのは、星見の丘を出てから数十日目の夜のことだ。
うんざりするほどの数の怪物たちを蹴散らし、ようやく辿り着いた。
おかげで、ユーシャと魔法使いの気力は限界が近かった。
「やっと着いた」魔法使いは笑みを堪えながら、ため息をこぼした。
「嬉しそうだな」ユーシャは笑いながら言った。
49:
「当たり前じゃないの。ベッドにお風呂。嬉しいに決まってるじゃない」
「ベッドは確かに嬉しいけど、風呂。
風呂ねえ……。風呂の何がそんなにいいんだか」
「あんた、お風呂嫌いなの?」
「あんまり好きじゃないかな。
俺にはそういう豪勢な文化とか風習は合わない」
「きたない」魔法使いは鼻をつまんで、ユーシャを扇いだ。
「俺のマント羽織りながら言うことじゃないよな、それ」
「それとこれとは話がべつなの。ほら、さっさと町の宿屋に行く」
魔法使いは軽やかな足取りで門をくぐり、眠っている町に足を踏み入れた。
羽織っている汚い紺のマントがふわりと浮いた。ユーシャも後に続く。
50:
門をくぐった先は広場だった。目の前に大きな松明が一本立っており、
天辺でぽつりと灯る炎がやけに眩しく見えた。
その松明を中心点に一定の距離をとって、建物が円形に並んでいる。
町の建物は全体的に木造のものが多く、どれも角ばっていた。
ところどころに石造りの建物があるが、片手で数えられるほどしかない。
広場の左手には、住宅らしき建物が密集している。
右手には小さな石垣と階段があり、向こう側に港と海が望める。
ここからでも大きな船が二隻停泊しているのが窺えた。
船の隣には灯台があり、天辺からは眩い光が海に放たれている。
「あの光は魔術か?」ユーシャは訊いた。
「そうでしょうね。松明の炎であんなに強い光は出せないでしょうし」
「ふうん。やっぱり魔術って便利だよなあ」
「教えてあげようか?」
「俺にも使えるのか?」
51:
「簡単な魔術なら誰でも扱えるわよ。使えないひとのほうが珍しいくらい」
「へえ。じゃあ、傷を治す魔術を教えてくれよ」
「あんたには怪物を蹴散らす魔術のほうが似合ってると思うけど、どうして癒しの魔術?」
「お前に傷の手当てをされるのが嫌だからだよ」
「なんでよ」魔法使いは凄んだ目でユーシャを睨んだ。
「なんか申しわけないというか、なんというか」ユーシャは頭を掻く。
「何、今更そんなこと気にしてたの?」魔法使いは呆れを隠さずに言った。
「悪いかよ」ユーシャは唇を尖らせた。
「ふうん。じゃあ、あんたには絶対に癒しの魔術だけは教えてやらない」
「お前、性格悪いな」
ユーシャが言うと、「何とでも言え」と魔法使いは笑った。
52:
潮の香りが混じる夜の町を、ふたりは駄弁りながら歩く(迷惑極まりない)。
波の音とふたつの足音が、石畳に染みる。
慣れない匂いのせいなのか、いよいよこの大陸ともお別れだという
事実がそうさせているのか、ユーシャの胸は早鐘を打っている。
そして、どうやら魔法使いの疲労は限界のラインを超えたらしい。
ゆっくりと回りながら、ふらふらと歩くという奇行を始めた。
表情は笑顔なのが、なおさら気味の悪さを引き立たせている。
ユーシャはすこし心配になった。こいつ、大丈夫なのか?
宿屋は程無く見つかった。広場を円形に囲む建物のひとつが、それだった。
焦げ茶色に塗られた木製のドアの隙間から、微かな光が漏れている。
軽く戸を叩いて中に入った。正面のカウンターの向こう、小さな蝋燭に炎が灯っており、
眠そうな顔をした宿の主人が椅子に座っていた。
ふっくらとした体躯によく似合う脂ぎった肌が、てかてかと照らし出されている。
主人はふたりを見つけると、寝ぼけ眼を擦りながら
怪しい呂律で「いらっしゃい」と言った。こいつ、大丈夫なのか?
53:
「部屋を借りたい」という旨を伝え、決して高額とは言えない代金を渡すと、
主人はのろのろと階段を上り、二階の奥の部屋に案内してくれた。
あまりに眠そうなので、なんだか、すこし悪いことをしてしまったような気分になる。
「ごゆっくりどうぞ」主人は大きな欠伸を残し、ゆっくりとドアを閉める。
そういうところに気を遣う辺りは、さすがだなと感心させられた。
ざっと見渡してみると、部屋は小さなものだった。
せっかく泊まるのなら大きな方がいいとは思うが、贅沢は言ってられない。
ドアをくぐると細い通路があり、奥にはベッドがふたつ並んでいた。
細い通路の脇に、風呂と思しき小さな部屋がある。
しかし、そこにはわき目も振らず、魔法使いは奥の部屋に向かった。
「はあ。ベッドよ、ベッド」魔法使いはベッドに飛び込んだ。
「そこまで嬉しいか」ユーシャが言うと、
魔法使いは頬を染め、無邪気な笑みを見せた。思わずどきりとさせられる。
ユーシャはそんな自分を誤魔化すように、「風呂には入らないのかよ」と訊いた。
54:
「お風呂は、入る。でも、眠い」
「じゃあどうするんだよ」
「入る。だからわたしをお風呂まで連れてってよ……。ねえ……」
魔法使いの目はほとんど閉じかけていた。
「お前って、疲れると別人みたいになるよな」
「そうかなあ……」
「やたらと甘ったるい喋り方になるというか、子どもみたいになるというか」
「甘えたい年頃なのよ……」
いや、お前もう一七だろうに、と言いかけて止めた。
魔法使いは寝息を立て始めている。
布団と間違えて薄汚れたマントに包まるほどには疲れていたようだ。
ユーシャは魔法使いの眠る脇に腰掛けた。
その華奢な身体と、幸せそうな顔を見ながら、考える。
55:
こいつを連れてきて、ほんとうに良かったのだろうか。
確かに、魔術は頼りになる。
怪物を蹴散らすのにも、傷を癒すのにも、魔術というのはとても効果的だ。
いてもらわなければ困るというのが正直なところだった。
しかし、無意味な冒険になるかもしれないのに、
無関係の人間を巻き込んでいいものだろうか。
彼女に大きな怪我を負わせてしまった場合、俺はどうすればいいんだろう?
綺麗な身体に傷が付いているのを想像するだけで、気分は落ち込んでいった。
そうなってしまわないように踏ん張ればいいだけの話なのだが、
相手が魔王なら、そう上手くいくものだろうか。
この先には、見たことのない怪物が溢れているのだろうし。
やはりこの辺りで置いていくのが正解なのかもしれない。……
ユーシャはベッドに身を放り投げた。
意識はぼんやりとして、思考が働かない。
もう止めだ。いっしょに、行けるところまで行ってやろうじゃないか。
なあ? 俺たちは誰にも負けやしないもんな。
隣で眠る無防備な魔法使いの顔を見ていると、知らぬ間に微睡んでいた。
56:

目覚めの第一声は、「なんであんたがわたしの隣で寝てるのよ」というものだった。
次いで律儀に杖で腹を突かれた。痛みのあまり、意識がしっかりと覚醒した。
元気になるとこれだ。もうちょっと魔法使いらしく、スマートに起こせないものだろうか。
「昨日の夜の可愛らしいお前はどうしたんだよ……」
ユーシャは腹を押さえて呻いた。
「な、なによ。それ」魔法使いは赤面した。
「おうおう……。とぼけちゃって」
魔法使いは真っ赤な顔で「殺す」と呟く。直後に腹を突かれた。
吐息と共に、「ぐえ」という間抜けな声が漏れる。
「な、何。あんた、わ、わたしに何かしたの?」
「何かしてるのはお前だろ……」ユーシャは腹を押さえ、呻いた。
「ほんの数時間前のことなのに、憶えてないのかよ……」
「だ、だから、その数時間前に何があったかって訊いてんのよ!」
「お前が疲れてて、子どもみたいだったってだけだろうが……」
「そ、そう? ふうん……」
57:
何か形容しがたい空気が、無言のふたりの間を漂っている。
俺は何か悪いことをしただろうか? ユーシャは考えたが、心当たりはなかった。
いや、同じベッドで寝てしまったのはさすがに拙かったかもしれない。
しばらくベッドに並んで座り込んでいると
魔法使いは立ち上がって、入り口のドアの方に向かった。
「どこ行くんだ?」ユーシャが訊いた。
「お風呂」とわかりやすく素っ気ない返事が返ってくる。
「そうか。結局、昨日は入らなかったもんな」
ユーシャがそう言うと、魔法使いの動きが止まった。
こちらに背を向け、何かを考え込んでいるらしい。
「おい、どうした。大丈夫か?」
ユーシャが声をかけると、振り返ってこちらに歩み寄ってきた。
顔が赤かった。怒りがそうさせているのか、恥ずかしくてそうなっているのかの
区別はつかない。ただ、嫌な予感がした。
58:
「な、なんですか」ユーシャは恐る恐る言った。
「……思い出した」
魔法使いは呟き、その小さな拳でユーシャの腹を突いた。
どうやら、昨晩の記憶が戻ったらしい。なのに、殴られた。
「そ、そりゃ良かった……」呻かずにはいられない。
どうして殴られたのかが全く理解できない。
何が楽しくて朝っぱらから三発も腹を突かれなければならないのか。悲しくなる。
「……お風呂入ってくるけど、覗かないでね」
魔法使いは背を向けて言った。足元がふらふらとしている。
「お、おう……。俺はちょっとそこらを散歩してくる……」
「そう……。いってらっしゃい」
言い残して、魔法使いは浴室に消えた。
59:
ユーシャは腹を押さえながら、足を引き摺るようにして部屋から出た。
芳しい香りが鼻をくすぐる。一階からは、賑やかな声が聞こえる。
宿屋には、ひとの気配が溢れていた。
廊下を渡り、階段を下り、宿のドアを開けようとしたところで、
「昨夜はお楽しみでしたね」と主人に声をかけられた。
「誤解を招くようなことを言わないでくれ」
「すいません。同室に泊まった男女には言うことになってるんです」
「どんなマニュアルだよ。アホか。それに、俺とあいつはそういうんじゃない」
「そうなんですか。じゃあ、昨夜はお楽しみじゃなかったんですね」
少なくとも、それは客にかける言葉ではないだろうと
内心でぼやいたが、無視することにした。ため息がこぼれる。
村の外には、変わったやつがいっぱいいるもんだ。
60:
ドアをくぐると、潮風がユーシャの短い黒髪を撫でた。
足元に敷き詰められた白い石が、陽光をはじいてきらきらと光っている。
思いっきり空気を吸い込むと、突かれた腹辺りに沁みるような痛みを感じた。
とりあえず海を見に行くことにした。
広場から出て、階段を下る。すると、市場のような場所に出た。
ふくよかな商人、たくましい水夫、海を見る老人。
さまざまなひとがそこを行き交っていた。
それぞれの声は混じりあい、ノイズのように港を覆う。
皆の表情はどれも明るい。朝の町は活気に溢れている。
そこから、並んだ大きな木箱の間を縫うように
しばらく歩くと、停泊した船の姿が間近になった。
息を深く吸う。潮の匂いを強く感じる。初めて聞いた、波の寄せる音と返す音。
海面に反射する光は、とても綺麗で眩しい。
遠くから海を眺めたことは腐るほどあったが、間近で見るのは初めてだった。
もちろん、船だってそうだ。
停泊している木造船は、今まで見てきたどんな建物よりも大きく見えた。
あれに乗って南の大陸に行くのかと思うと、気分は自然と高揚した。
あいつが見たら、なんて言うだろうな。
61:
「旅のお方ですか?」背後から声が聞こえた。落ち着いた声だ。
振り返ると、大きな剣を背負った二〇代中頃と思しき男が、そこに立っていた。
傷ひとつない整った顔からは、温和な雰囲気が滲み出ている。
ぼろぼろのマントの下には鎧を着ず、何重かに布の服を纏っているらしい。
「そうだけど、あんたは誰なんだ」ユーシャは不躾に言った。
「失礼。私は所謂、傭兵とかいう類のものです。雇われですよ」
「ふうん」とユーシャは素っ気ない返事をした。
目の前の男の背負った剣に目を奪われていたので、そうすることしかできなかった。
あんな大きな剣は、見たことがない。
男の背丈はユーシャよりも頭ひとつ大きかったが、
刀身の長さはユーシャの背丈とほとんど変わらない。
幅もかなりのものだ。
ユーシャが腰に提げている鉄製の剣よりも、三倍ほど大きい。
ああいうのを、大剣と呼ぶのだろうか。
ならばこいつは、大剣使いといったところか。
「で、その雇われが俺になんの用なんだ?」
62:
「なんの用って、仕事の話をしに来たに決まってるじゃないですか」
大剣使いは笑った。「私を雇いませんか?」
「なんで俺なんだよ。金はないぞ」
「私は、べつにお金がほしいわけではないんです。
そりゃあ、多少は欲しいですけどね。ちょっとでいいんですよ」
「じゃあ、何が目的なんだ?」ユーシャは訝しげな視線を送った。
なんなんだ、こいつは。怪しむなというほうが無理な話だ。
「あなたにも分かると思うんですが、一人旅って寂しいでしょう?」
「まあな」体験したことは無いが、おそらくそうなのだろうとは容易に想像できる。
「そういうことです」
「つまり、いっしょに旅をするやつを探していると、そういうことか?」
「そういうことです」
63:
「べつに俺じゃなくてもいいんじゃないのか?」
「いえいえ」大剣使いは首を振る。
「キャラバンや海賊に混じるのは、あまり好きじゃないんですよ」
「どうして?」
「息苦しいんですよね、男ばっかりで。
でも、あなたには女性のお連れさんがいるでしょう?」
「なんで知ってるんだよ」
「あなたからは女性の匂いがしますからね」大剣使いは鼻をひくつかせた。
「気持ち悪いやつだな、あんた」ユーシャは引き攣った笑みをこぼした。
「心外ですね。で、どうですか? 雇ってくれますか?」
「今の会話の流れで雇ってもらえると思うか?」
大剣使いは笑顔で「はい」と言った。
64:
ユーシャは思案する。
大きな戦力にはなるのだろうが、果たしてこいつは信用に値する人間なのか。
明らかに変人ではあるが、明らかな悪人というわけではないように見える。
だからといって、根っからの善人という風には見えない。
素性もほとんど知らぬ人間を、そう易々と受け入れるのは拙いのではないか。
こいつが裏切った場合、何を失うことになる?
今のユーシャにとって失って困るものといえば、魔法使いくらいしかいない。
こいつが裏切って、魔法使いを連れていく可能性は?
裏切ったと仮定した場合、ほぼ百パーセント連れていかれるだろう。もしくは、強姦か。
そんな気がした。こいつならやりかねない。何と言っても、変人だし。
でも、魔法使いなら大丈夫かもしれない。いやいや、それはどうだろう。
「お前は信用できる人間なのか?」ユーシャは訊いた。
65:
「そんなこと本人に訊いても仕方ないでしょうに。
でも一応答えておくと、私は約束だけは守りますよ。
私みたいなものにとって信用は、とても重要なものですからね」
「そうか。……とりあえず、もうひとりにも訊いてみるとするよ」
ユーシャは振り返って、宿の方を見た。
「もうひとりというのは、お連れの女性?」
「そう。あの暴力女」ユーシャは腹をさすった。
「ほう。暴力女」
「そうなんだよ、魔法使いのくせに。今朝も殴られたんだ。三回もだぜ?」
大剣使いは吹き出した。「あなたが何かしたんじゃないんですか?」
「まあ、確かにあいつと同じベッドで眠っちまったのは拙かっただろうけどさ」
「ほほう、同じベッドでねえ……。お連れさんは美人なんですか?」
「まあ、不細工ではないな」
ユーシャの目を通して見ると、どちらかというとあれは美人に分類される。
「あれですか?」大剣使いは市場の方を指差して言った。
向けられた指の先を見てみると、
真っ直ぐこちらに向かってくる女性の姿があった。
66:
「ああ、あれだ」魔法使いだ。何か穏やかではない雰囲気を纏っている。
歩く度が早くて、人ごみの中でもすこし浮いている。
「美人じゃないですか。でも、なんか苛々してませんか? 彼女」
「してるな」背筋に冷たいものが走った。
魔法使いはスピードを緩めずに、ひたすら歩く。
そしてユーシャの前で立ち止まり、例の如く腹に拳を埋めた。
吐息と共に、「ふぐう」という間抜けな声が漏れる。
「なんで……」ユーシャは呻いた。
「なんなのよ、あの宿の主人は! 信じられない!」
魔法使いは真っ赤な顔でがなる。ご立腹らしい。
あの糞野郎。こいつにも言いやがったな。「俺は関係ないだろうが……」
「なるほど。暴力女だ」大剣使いは吹き出した。
67:
「で、あんたは誰なのよ」
しばらくすると、魔法使いは大剣使いに向かって不躾に言った。
苛々は治まっていないらしい。
「ふたり揃ってこの強気な感じ、いいですね、嫌いじゃないですよ。
ええと、私は所謂、傭兵とか雇われとか言われる類のものです」
「ふうん。で、こいつになんの用なのよ」
「雇ってもらおうかと思いまして」
「お金はないわよ」
「さっき聞きました」
「じゃあ、なんでこんなやつに拘るの?」
「こんなやつとは何だ」ユーシャは思わず口を挟んだ。
「さっきも言いましたが、キャラバンや海賊に混じるのは嫌いなんです。男ばっかりですからね」
大剣使いが言った。
「何。つまり、わたしがいるからこいつに拘ってるわけ?」
「そういうことです。私の目当てはあなたというわけです」
「ふうん」と魔法使いは興味なさそうに言った。
68:
「気をつけろよ。こいつ、女の匂いを嗅ぎ分けられる変態だぞ」ユーシャが口を挟む。
「やだ、気持ち悪い」魔法使いはユーシャの後ろに隠れた。
「心外ですね。私は常人よりもすこし鼻が利くというだけですよ。
まあ、特に女性の匂いに敏感ではありますがね。
で、どうですか? 雇ってくれますか?」
「この話の流れで雇ってもらえると思う?」と魔法使いは言う。
大剣使いは笑顔で、「もちろん」と答えた。
69:
「どうする?」ユーシャは魔法使いに視線を送る。
魔法使いはユーシャだけに聞こえるような声量で、「でも、鼻が利くって便利そうね」と言った。
しかし、大剣使いはそれを聞き逃さなかったらしい、「でしょう?」と微笑んだ。
「それに、頼りになりそうな剣背負ってるじゃないの」「でしょう?」
「でも、雇うって言ったらお金取るんでしょう?」魔法使いは続ける。
「べつに、お金はちょっとでいいんです」
「あんたの言う“ちょっと”と、わたしたちの思ってる“ちょっと”が一致すればいいんだけどね」
「ほんのちょっとでいいんです。
なんなら、金貨一枚でも構いませんよ。私を雇いませんか?」
「ふうん……。それなら、わたしはべつにいいけど、あんたは?」
「お前がいいって言うんなら、俺はべつにいいけど」
「決まりですね」大剣使いの顔は緩んだ。
70:
「でも、ひとつだけ頼みがある」
ユーシャは魔法使いを指差して、「こいつには手を出すなよ」と続けた。
大剣使いは頷き、「私にはくだらない拘りがあるんです」と笑顔で続ける。
「私は雇い主と、必ずひとつ約束をするんです。
拘りというか、信用のためでもあるんですがね。
まあ、どちらかというと拘りという意味合いの方が強いです。もはや習慣ですよ」
「じゃあ、こいつには手を出すな。これが約束だ」と、ユーシャ。
「わかってますよ」
大剣使いは笑顔のままで、魔法使いに向かって
「あなたともひとつ約束をします。どうしますか?」と続ける。
「……わたしとこいつを、死んでも守れ」魔法使いはぼそぼそと答えた。
「任せてください」大剣使いは破顔した。
「私は、約束だけは絶対に守る男ですからね」
71:
同日の昼過ぎ。三人は質素な昼食をとってから、南の大陸行きの船に乗り込んだ。
船内には、他にも何人ものひとの姿が窺えたが、女性の姿はほとんど無かった。
重々しい錨が鈍い音を響かせながら、水面から姿を見せる。
大きな帆をぴんと張らせる強い潮風が吹く。
甲板では水夫たちが声を張り上げている。まもなく船は出港した。
しかし出港から数時間経っても、南の大陸は見えない。
到着には、ほとんどまるごと一日を要するらしい。
それは長いのか短いのか、魔法使いには区別がつかなかった。
ユーシャはまだ見ぬ大陸に想いを馳せながら海を眺めていたが、
あまりにも風景が代わり映えしないので、うんざりし始めているらしい。
そしてどうやら、彼は船に弱いらしいことが判明した。
やがて真っ青な顔をしながら、おぼつかない足取りで船内の個室に帰っていった。
魔法使いと大剣使いはそれを無視し、甲板に居座った。
72:
「彼、船に弱いんですね」と大剣使いが言う。
「らしいわね」と魔法使いは笑った。
あいつにそんな弱点があったとは。後でからかってやろう。
「“らしい”って、知らなかったんですか?」
「知らないわよ。わたしたち、船に乗るのは初めてなんだから」
魔法使いも自分の気分が多少浮ついているのを自覚していた。
おそらく、ユーシャもそうなんだろう。今は違うのかもしれないが。
「へえ。じゃあ、今までずっと西の大陸に?」
「そう。北のほうにある小さな村にずっと住んでたの。
田舎者なのよ、わたしたち」
「失礼ですが、おいくつですか?」大剣使いは微笑んだ。
愛想笑いというのだろうか、胡散臭い笑みだった。
「ほんと失礼ね、あんた。一七よ」
73:
「なんだかんだ言って答えてくれるんですね」
大剣使いは魔法使いの全身を眺めながら続ける。
「一七、一七ですか。若いですねえ。彼も同い年ですか?」
「そう」
「ふたりはどういうご関係で?」
「同じ村の幼馴染ってところかな。まあ、腐れ縁よ」
「ほう。どうして旅をしているんです?」
「世の中いろいろあるのよ」
さすがに、魔王を討つためだとは言えなかった。
「ほほう。駆け落ちとかですか?」
「殺す」魔法使いは赤面しながら、大剣使いの腹に拳を埋めた。
74:
大剣使いは呻いた。
「違うんですか……。てっきり、その左手の金の指輪は婚約指……」
「死ね」大剣使いの言葉は遮られた。
先程と同じ部位に、ふたたび拳が刺さる。
「金は魔術の威力を増幅させるの。だから身に着けてるだけよ」
「随分と暴力的な言葉を吐く魔法使いですね……。
それに、二度も殴らなくても……」大剣使いは呻く。
「魔法使いが暴力的で何が悪いのよ」
「魔法使いってもっと知的なイメージがありましたけど、違うんですか?
いや、べつにあなたが知的に見えないと言っているわけではないんですよ?」
「そんなの、ひとによるでしょ。
攻撃のための魔術なんて、わたしに言わせればそれは立派な暴力よ。
だから、べつに暴力的な魔法使いがいたって不思議なことはないんじゃないの?」
「なに開き直ってるんですか。
あなた、女の子じゃないですか。もうちょっとお淑やかに……」
「ねえ、あれは何?」魔法使いは大剣使いの言葉を無視して言った。
視線の向こうには、延々と広がる海原にぽつりと建つ小さな塔が見える。
75:
「自由なひとですね……」大剣使いは息を吐き、視線を滑らせた。
「ええと、あれは塔ですね」
「アホ。そんなの見れば分かるわよ。田舎者だからって馬鹿にしすぎでしょ。
あの塔は何のためにあそこにあるのかって訊いてんのよ」
「知りませんよ。でも、南の大陸にはあの塔に纏わる御伽噺がありますよ」
「ふうん。どんな?」
「まあ、まずは説明をさせてくださいよ」大剣使いは咳払いをして続ける。
「ええとですね、あの塔は、五本のうちの一本なんです。
世界には、あれと同じ塔があと四本存在します。
今見えているのは、世界のど真ん中の塔で、あとの四本は
西の大陸の北端と南端、東の大陸の北端と南端それぞれに一本ずつです。
それで、御伽噺というのは、その五本の塔で空が落ちてこないように支えているだとか、
塔の天辺には人間を監視する神様がいるとか、そんなくだらない話ですよ。
空を支える柱だとか、監視のための目だとか、ほんとうに子どもに聞かせる御伽噺です」
「ふうん」確かに、故郷の村の遥か北にも、薄っすらと塔が窺えた。
おそらく、あれは西の大陸の北端の塔だったのだろう。
しかし、御伽噺だと言われても、自分たちの境遇を思うと危うく信じてしまいそうになる。
なんと言っても、彼女は御伽噺の勇者様に同行しているのだから。
76:
「ご存知ありませんか?」
「なによ。悪い?」魔法使いは脹れた。
「いじけちゃって、可愛らしい。大丈夫ですよ。
私が手取り足取り、いろいろと教えてあげましょう」
大剣使いの腹部に蹴りが刺さった。
78:

「んん、久しぶりの陸地だねえ」僧侶は長い息を吐きながら、伸びをした。
長い髪が潮風に靡く。露出した脚は健康的な肌色をしている。
ときどき漏れる何とも婀娜っぽい声が、心臓を叩くようだ。
「なに見惚れてんだよ」戦士は勇者の肩を叩いて笑った。
「うるさいな」勇者は頬を薄く染めながら、威嚇するように歯を見せて言った。
勇者たちが南の大陸の玄関口のひとつである東側の港町に降り立ったのは、
魔術の村を出発してから数十日後のことだった。
村を南下して港に辿り着くまで、約二週間を要した。
そこから船に三日ほど揺られ、ようやく今に至る。
不慣れな船上での三日間は、三人にとってはそれなりに苦痛を伴うものだった。
しかし、開放されて安堵したのも束の間で、
今度は未だに足元が揺れてるような、奇妙な感覚に襲われる。
初めて乗ったが、船というのは恐ろしいものだ。
勇者はしみじみ思った。できることなら、もうお世話にはなりたくないところだ。
79:
「さあ、ここからどうしようか」戦士が言った。
「んんー……。今日は船旅で疲れてるし、とりあえず宿でゆっくりしようよ」
僧侶は大きな欠伸を漏らした。
「そうしようよ。もう陽も落ちかけてる」勇者は空を見上げながら言った。
紅い空には、夜の気配が漂い始めている。
「そうするか。なら、さっさと宿屋を探すとしよう」
戦士の後に続き、勇者と僧侶も歩き出した。
脚をのろのろと動かしながら漫然と辺りを見渡してみると、
どうやらこの港町はかなり大きな町らしいことが分かる。
勇者たちが乗ってきた船の他にも巨大な船が三隻、停泊している。
それらから大量の木箱が、水夫たちにより下ろされてるのが見えた。
足元は、どこもかしこも真っ白な石が張られている。
真っ白な階段の上に見える建物も、白塗りのものが多い。
しかし今は夕陽に染められて、ほとんどが橙色だ。
おそらく朝と昼には、町は真っ白になるのだろう。
そう思うと、迫力のある大きな船のむき出しの木の色が、
酷く不恰好なものに見えてしまう。
80:
真っ白な階段を上ると、広場のような場所に出た。
小高い建物に囲まれた広場は、綺麗な六角形をしていた。
中心から半径数メートルにかけて円形に芝が茂っており、
そこに不気味な石像が据えられている。高さは三メートルほどだ。
それぞれの角からは細い通路が伸びていて、どことなく蜘蛛の巣を連想させる。
辺の部分には、武具屋や道具屋が並んでいる。
「なんだろう、あれ」僧侶の目線の先には、不気味な石像が見える。
「竜……ではないよな。なんだありゃ」戦士は眉を顰めた。
確かに、それは御伽噺に登場するような竜の頭を持っていた。
但し、目は陥没していて真っ黒だ。
そして胴体は、明らかに竜のそれではなかった。
どう見ても、連なった山のようにしか見えない。
そこには手足や翼、尻尾は見当たらない。表面は全体的にごつごつとしている。
鱗、もしくは草木等の質感を表現したかったのだろうか。
山の天辺に近い場所から、竜の頭は飛び出している。
その姿は酷くアンバランスな印象を与える。紅く照らされた歪な容貌の石像は、
生物的な気配を微塵も漂わせず、ただ広場の真ん中で異質な存在感を放っていた。
どう見ても場違いに見えるが、広場を行き交う人々は気にも留めない。
81:
「あれかな。“頭は彫ったけど、身体も彫るのはめんどくさいから
このままでいいや”って思っちゃったのかな」勇者は適当なことを言った。
「つまり、この石像は完成形ではない。たぶん、そうだ」
「なんだそりゃ」
「石工は儲からないからね。もしかしたら、途中で逃げちゃったのかも」
僧侶も適当なことを言った。
「儲からないのか」
「いや、知らない。適当に言っただけ」
「なんだそりゃ」
82:
三人は石像に近付かないように辺に沿って歩き、細い通路のひとつに入った。
周囲の建物が高いおかげで、通路は薄暗い。
長く細く暗い通路を抜けると、ふたたび六角形の広場のような場所に出た。
先程の場所と比べると六角形の面積はいくらか小さいが、
それぞれの角からは、やはり細い通路がどこかに伸びている。
戦士があからさまに不満の色を浮かべながら、
「また六角形かよ。ややこしい町だな」と言うと、
僧侶は「ややこしいけど、面白いね」と笑った。
結局、どの通路を通っても先にあるのは六角形だった。
うんざりしながらも彷徨っていると、仕舞いには
最初の不気味な石像がある広場に戻ってきてしまった。
83:
「結局、宿屋はどこなんだ」戦士は肩を落とした。
「誰かに訊いてみる?」僧侶はくたびれた表情を浮かべている。
「それがいちばん手っ取り早いかもね……」
勇者が言うと、僧侶が適当にそこらの通行人を捕まえに行った。
僧侶に捕まったのは、買い物帰りと思しき、(推定)四十代の女性だった。
何を話しているのかは知らないが、やたらと話が長い。
しばらく遠くからそれを眺めていると、四十女は真正面を指した。
指の先の方向を見てみると、大きく宿屋と書かれている建物があった。
「あれか」
「あれだな」
「あれだって」戻ってきた僧侶が言った。
84:
「おう。知ってる。まさか、最初の広場にあったとは」
「僕らは、ものすごく時間を無駄にしてたみたいだね」
どうして気付かなかったんだろう。勇者は自分自身に呆れた。
「この調子だと、目の前に魔王がいても通り過ぎそうだな」
「あれだよ。わたし達、船旅で疲れてるからね。
仕方ないよ。今日はゆっくり休もう」僧侶は目を瞑って頷いた。
85:

宿の主に案内された部屋は、小さなものだった。
小さいとは言ってもベッドは四つあるし、テーブルと椅子を置く余裕もある。
ただ、それらが部屋のスペースのほとんどを占めているので、狭く感じられる。
窓はひとつしかなく、どこか息苦しさを感じた。
もうひとつあれば多少は開放感が出たのかもしれないが、贅沢は言っていられない。
「さあ、とりあえず、ここからどこに向かうか決めておこうぜ」
戦士は腰に提げた剣をベッドに放り投げ、自身もその隣に腰掛けた。
「とは言っても、僕らはこの大陸のことを何も知らないわけだし、どうするんだ?」
勇者も腰の剣をベッドに放り投げ、
テーブルを囲うように並べられた椅子のひとつに腰を下ろした。
「仮にも世界を救う旅をしている筈なのに、行き当たりばったりすぎるよね、わたし達」
僧侶も椅子に座った。
「行き当たりばったりなのは認めるけど、
魔王を討つのと世界を救うのはちょっと違うんじゃないか?」
「でも、御伽噺だと魔王の消滅は結果的に世界の平和に繋がってるよ?
みんな仲良くなって魔王に立ち向かってたし」
86:
「あれは仲良くなったというか、共通の敵を見つけたことにより
皆が“とりあえず”団結したってだけなんじゃないか?
世界がひとつになったとか言っても、そんなの魔王が死ぬまでしか続かない。
魔王が死んだら元通りだ」
「夢が無いねえ」僧侶はため息を吐いた。
「俺は現実主義なんだよ。それに、今は魔王が存在するなんて誰も信じちゃいない。
こいつが勇者だって言っても、誰も信じないさ。団結も糞もないぜ。
それどころか、大きな国が小さな村を滅ぼしてるんだ。平和なんて、ずっと遠いところにある」
「まあ、ねえ……」僧侶の表情は曇った。
戦士の言う“大きな国”というのは、おそらく南の第二王国のことなのだろう。
そして“小さな村”は、呪術の村のことだろう。
「で、結局どうするのさ」勇者はぽつりと言った。
口論が終わるのを待っていたが、なんだか重々しい空気が漂っている。
黙っていた方が良かっただろうか。なかなか返事をしてくれないので、不安になる。
「……どうしようか?」
「……まずは地図が欲しいところだよね。このままじゃ、なんにも分かんないし」
戦士と僧侶は弱々しく微笑んだ。
87:
「地図なら、そこに貼ってあるみたいだよ」
向かって右手に視線を向けると、黒ずんだ壁に貼られた小さな地図が見える。
僧侶は立ち上がり、それを無理矢理引き剥がしてテーブルの上に広げた。
そして、ふたたび椅子に腰を下ろした。戦士もこちらに来た。
地図は南の大陸のものだった。大陸は東西に細長い形をしていて、
中心にはそれを真っ二つに切断するように南北に川が流れている。
西の端のほうと東の端のほうに港町があるようで、今勇者たちがいるのは東側だ。
そして、ここからもっとも近い町は、西にある第二王国らしい。
「……ここからだと、第二王国がいちばん近いみたいだな」
しばらくの沈黙の後、戦士が言った。
「第二王国、ねえ」
『母は南の第二王国の兵士に殺害されました』
『仮令、世界は平和だとしても、決して幸せではないんですよ』
勇者の頭の内側では、数十日前に会った少女の声が響いていた。
そのおかげで、気分はあまり優れなかった。
他のふたりも、似たような表情を浮かべている。
88:
「いろいろと思うことはあるだろうが、行っておいて損はないだろう」
「だね。魔王についての手掛かりも欲しいところだし」
「確かに手掛かりは欲しいけど、どうやって集める?」と勇者は言った。
「ううん、“魔王の居場所を知ってますか”って
そこらのひとに訊くわけにはいかないよなあ」戦士は言った。
「第二王国の王様に訊いてみれば? 何か知ってるかも」と僧侶。
「それはちょっと……。僕らは、あくまで暗躍すべきだよ」
「勇者御一行なのにな」
「御伽噺とは違うんだよ」
御伽噺の勇者は、立ち寄る町で皆から歓迎されるような旅をしていた。
魔王を打ち倒すために――どこに向かっていたんだったか?
「そういえば、御伽噺の勇者って、どこに向かって旅をしてたんだ?」
89:
「そりゃあ、魔王のいるところだろ」
「いや、だからそれはどこなんだって話じゃないか。
もしかしたら、御伽噺に何か手掛かりがあるかも」
「御伽噺をあてにするのか?」
「仕方ないだろ。他に有力な情報は全く無いんだし。
それに、言ってしまえば僕――勇者だって
御伽噺の存在なんだ。すこしはあてになると思う。
もしかしたら、この大陸の御伽噺には、魔王の居場所が語られてるかもしれない。
それが嘘か本当かは分からないけどね。でも、情報が無いよりはマシじゃないかな」
「なるほど。面白いね」
「まあ、無いよりはマシか……?」
「さすがリーダー。いいこと言うね」僧侶は勇者の頭を撫でた。
勇者は緩む頬をなんとか隠そうとしたが、結局綻んでしまった。
90:

三日後、勇者たち三人は港町を出立し、西へ向かって歩き始めた。
道は石で舗装されており、ときどき馬車とすれ違う。
地図を見る限り、どうやらこの道は、第二王国と港町を一直線で結んでいるようだ。
「勝手に地図持って来ちゃったけど、大丈夫なのかなあ」
勇者が言った。
「大丈夫。後で謝っておけばいいって」僧侶が笑う。
“後”って、いったいいつになるのだろう。
「そうそう。べつにいいじゃないか、地図くらい。
そんなことより、周りをよく見ておけよ」
「分かってるって」
勇者たちは何かを探すように、視線を忙しなく動かす。
「この辺りは暑いな」「お風呂に入りたいね」口も動かす。
91:
三人は、怪物の存在を危惧していた。
この大陸の怪物は、もしかすると今までに見たことのないようなものかもしれない。
その場合、勝てるとは限らないのだ。戦いはできれば避けたいところだった。
故郷の村にいたときは三人でよく怪物を退治したが、
この大陸で今まで培ったものは通用するのだろうか。
駄目だと思った場合は、すぐに逃げればいい。
勇者は思う。怪物が現れた場合、何がなんでも僧侶だけは守らなければならない。
おそらく、戦士もそう思っているはずだ。
「あ。あれ」数十分歩いたところで、僧侶は前方を指差した。
遠くで、怪物と思しきものに襲われている馬車が見える。
結局、怪物との遭遇は予測していたものとは違う形で訪れた。
戦いはできるだけ避けたいといっても、
そういうわけにはいかない場合もある。あれは避けられない。
「行くぞ」戦士は強く地面を蹴って駆け出した。
勇者は「わかってる」と答え、
急いで僧侶に「君はどこかに隠れてて」と伝える。
返事は待たず、そのまま戦士の後に続いた。
92:
怪物の全長は三メートル程だった。
カマキリのような上半身を持ち、蛇のような下半身を持っている。
細い脚が二本だけ生えていて、それらと下半身の三点で身体を支えているらしい。
見たことのない怪物だ。
数は三体で、色は灰色。表面は乾いていて、亀裂が走っている。
ひと目見ると、まるで岩のような身体をしているが、頑丈であるようには見えない。
むしろ脆いのではないかという印象を受けた。
「大丈夫ですか?」勇者は真っ先に馬車の脇に倒れていたひとのもとへ向かった。
おそらく三十代の男性。頭を軽く切ったらしく、血が滴っている。
馬もその場に倒れていた。大した外傷は見当たらない。頭でも打ったのだろうか。
カマキリたちは倒れこむふたり(ひとりと一匹)をよそに、
馬車に積まれた荷物を漁っている。目的は荷物のようだ。
「私は大丈夫だが、荷物が……」男は呟くように言った。
こんな目に遭っても荷物の心配ができるとは。勇者には俄かに信じ難かった。
93:
男をその場にそっと寝かせ、振り返る。
そのとき、空気を切り裂くような、甲高い悲鳴が聞こえた。
見てみると、一体のカマキリの(おそらく)目の部分に、剣が突き刺さっている。
残り二体のカマキリは何が起こっているのかが
理解できないのか、首を傾げながらこちらを見ている。
今がチャンスなのかもしれない。勇者は地面を蹴り、腰の剣を引き抜いた。
「脚を狙ってくれ!」戦士が言った。
言われたとおりに、目に剣が突き刺さったカマキリの足を裂いた。
ぶちぶちと、何かを引きちぎるような感覚が手のひらに伝わる。
脆いどころか、見た目からは想像もつかないほど柔らかい。
カマキリはバランスを崩し、頭から崩れたが、鎌の部分でなんとか身体を支える。
そこで戦士は飛び上がり、その目の剣を力任せに蹴った。
刃は目を抉り、黄色っぽい体液を辺りに撒き散らした。
ふたたび甲高い悲鳴が耳を劈く。
あまりに不快な音だったので、思わず表情が歪む。
その辺りで、ようやく他二体のカマキリたちが異変に気付いたようだ。
二体は鎌を振り上げ、威嚇するように鳴いた。
94:
「おい。あいつら、こっちに気付いたぞ。やばいんじゃないか?」
戦士はのた打ち回るカマキリを放って言う。剣は目に刺さったままだ。
「わかってる。やばいと思うんなら、早くそいつをなんとかしてくれよ!」
勇者は一刻も早くここから逃げ出したかった。
二体のカマキリは、こちらに向かってくる。このままじゃ拙い。
勇者は口の中で、もごもごと呪文を呟いた。
呟き終わると同時に地面から氷の槍が現れ、二体のカマキリの足を貫く。
魔術の村で、あの少女に教わった魔術だ。
しばらくはこれで足止めができるだろう。
と思った矢先、カマキリたちは鎌で氷の槍を殴り始めた。大した時間は稼げそうにない。
これは、氷の槍で一体を確実にしとめておいたほうが良かったか?
しかし、エネルギーはすでに空っぽに近い。
たったこれだけで、ここまでエネルギーを消費するとは思わなかった。
判断を誤ってしまったか? いや、後悔しても仕方ない。
氷の槍が破壊される前に、カマキリの頭を落としてやればいい。勇者は駆け出した。
95:
カマキリは勇者の姿を捉えると氷の槍を無視し、何かを追い払うように鎌を振り回した。
これでは近寄ることができない。しかし、氷の槍の崩壊は近い。
今しかないのに。勇者は迷ったが、すぐにカマキリの懐に潜り込もうとした。
鎌の切れ味は相当のものだろう。当たれば即死と考えてもいい。
カマキリは突っ込んでくる勇者を見ると、鎌を振り下ろす。
大したさではなかったので、跳んで避けた。
想定外の反応だったが、それは結果的にこちらに有利な状況を作り出した。
懐に潜り込み、先程と同じように足を裂く。
カマキリは頭を垂れるが、鎌で身体を支える。
勇者はそのカマキリの頭の付け根目掛けて、力任せに剣を振り下ろした。
頭は音もなく地面に落ち、その場をごろごろと転がる。
まもなく切断面から体液が噴出し、勇者の身体を黄色く染める。
カマキリは身体を小刻みに震わせ、やがて動かなくなった。絶命したようだ。
「おい! 後ろ!」戦士の声が聞こえた。
96:
後ろと言われたが、思わず声のほうを向いてしまった。
全身黄色の戦士の背後には、頭がぐちゃぐちゃになったカマキリの死骸が転がっていた。
そして、言われたとおりに背後を見る。そこには鎌を振り上げたカマキリがいた。
陽光を反射する鋭い鎌は、死を予感させた。
一体をしとめたことで油断していた。もう一体が残っていた。
氷の槍はすでに粉砕されている。これは、拙い。
カマキリはそれを振り下ろす。
勇者は咄嗟に剣で受け止めようとしたが、不可能なのは明らかだった。
鎌の大きさは、剣の二倍も三倍もある。お互いの筋力も違う。
それでも、今の勇者にできるのは、目を閉じて剣を構えることだけだった。
97:
迫る死の瞬間。それは刹那のようにも永劫のようにも感じられる。
しかし、どれだけ待ってもそれは訪れなかった。
ゆっくりと目を開くと、カマキリは、まだそこにいた。
但し、あるはずの場所に鎌はなかった。
鎌部分は付け根から切断されている。両方ともが足元に落ちている。
代わりに、そこには氷の槍があった。どうやら、氷の槍が付け根を裂いたらしい。
氷の槍があるのは、そこだけではなかった。胴体に一本、足にも一本ずつ、刺さっていた。
おかげで身動きが取れないようだ。
「ほんと、君はわたしがいないと駄目だねえ」
背後から聞こえる、僧侶の声。
なるほど。これは彼女の魔術か。
98:
「悪いね……」勇者はほっと息を吐いた。
「どっちが止めを刺す?」
「君に譲るよ」
「そっか」僧侶は口の中で、呪文を呟く。
地面から発生した氷の槍はカマキリの頭を貫いた。
垂れた体液は、勇者の頭にすべて落ちてきた。
99:
「助かりました。ありがとうございます」馬車の男は頭を下げた。
荷物の被害はそれなりだったが、首を括るほどではなかったらしい。
馬も意識を取り戻した。
「いえいえ、べつにこれくらい」と答えたのは僧侶だ。
どちらも鼻を摘まんでいる。
「なあ。俺、そんなに臭いか?」戦士は鼻をひくつかせた。
「くさい」僧侶は後ずさった。
「臭いってさ」勇者が笑う。
「君も」僧侶は更に後ずさった。
その一言は、カマキリの攻撃よりも大きな(精神的)ダメージを与えてくれた。
勇者本人は慣れたのか、それとも鼻が曲がってしまったのか、
匂いはまったく気にならない。ただ粘性の体液が服に絡みついて、気色が悪いだけだ。
100:
「ところで、皆さんはどちらへ?」馬車の男が言った。
「第二王国までです」と僧侶が答えた。
「なら、乗っていきませんか? 私も第二王国に向かう途中でして」
「いいんですか?」僧侶は目を輝かせた。
「ほんとうにいいのかよ」戦士が口を挟んだ。
「ええ。恩人ですし。……その、ここからすこし進んだところに
水場があるんですが、そこで綺麗にしてもらえれば」
「じゃあ、わたしは今から乗せてもらっていいかな?」
「どうぞどうぞ」
僧侶は馬車に乗り込み、男も馬の手綱を握る。馬はゆっくりと歩き始めた。
勇者と戦士はすこし距離を置いて、後に続いた。
「なんなんだろう。この複雑な気持ち」
「命を賭けて戦ったのに、この扱いは酷いよな」
勇者と戦士が愚痴っていると、馬車の後ろから僧侶がひょっこりと顔を出した。
そして、「だって臭いもん。しょうがないよ」と鼻を摘まみながら笑った。
101:

「なんか、この辺りの怪物、異様に弱くないか?」
ユーシャは体長三メートルほどの巨大なムカデのような怪物を、剣で真っ二つに切り裂いた。
黄色っぽい体液が飛び散り、周囲に異臭が立ち込める。
「確かに弱いけど、蟲ばっかり。気持ち悪い」
魔法使いは鼻を摘まみながら口の中で素早く呪文を唱え、百足の死体を焼き払った。
「南の大陸は、蟲の楽園でもありますからね。
しかし、ここまで蟲が弱体化するのはすこしおかしいです」
大剣使いは自慢の大剣を軽々と振り回し、こびり付いた体液を払う。
そして、ふたたびそれを背負った。
102:
まるごと一日船に揺られ、南の大陸に降り立ったユーシャたちは、
港町を出て、そこから東にある第一王国に向かっていた。
かれこれ二週間近くは歩いているが、なかなか城下町は見えてこない。
そしてどうやら、第一王国と港町の間には、大きな森林が広がっているらしい。
足元には植物の根が太いものから細いものまで、これでもかと張り巡らされている。
苔や木の葉が一帯を緑に染め上げ、枝から垂れた蔓や木に巻きつく蔦が眼前を遮る。
頭上は茂った葉っぱに覆われていて、陽の光はほとんど届かない。
木の模様が、ときどき怪物の顔のように見えて、ぞっとする。
魔法使いの魔術の光がなければ、この森林を抜けるのは困難だっただろう。
精神的な面もあるが、いくら蟲が弱いといっても不意打ちを喰らうのは拙い。
光がなければ、今頃三人はお陀仏だったかもしれない。
ユーシャは、ほっと息を吐いた。
103:
「“弱体化”って、ここの蟲はもっと強かったの?」魔法使いは鼻を摘まんだまま言った。
「ええ。少なくとも、今よりは」大剣使いも鼻を摘まんだ。「何かあったんでしょうか」
「知らないわよ。わたし達にとっては好都合だし、べつに何だっていいわ」
「そうそう」ユーシャは頷いた。異臭が鼻腔を突く。「うわ、くっせえ」
「ほら、さっさとこんな場所から抜け出しましょう。鼻が曲がるわ」
魔法使いはユーシャの手首を掴んで歩き出した。
ユーシャは足元の根に足を取られ、転びそうになったが、何とか持ち堪える。
「すこし気になりますが、まあ、確かに好都合ではありますね」
大剣使いはふたりの後に続いた。
104:
三人は、ひたすら東(と思われる方向)に歩き続けた。
どこまで歩いても景色は変わらず、
視界は魔術の光で照らされた粘り気のある緑に覆われている。
ほんとうに進んでいるのかと不安になる。
景色が変わらなければ、匂いも変わらない。
鼻腔を刺すのは青々とした匂いと、倒した蟲の体液の匂いのみだ。
しばらくすると匂いには慣れた。
そして、それらの不快な要素に加え、蛆のように湧く蟲が襲来する。
大きなムカデにハサミムシ。蛭やミミズなんかもいた。
どれも知っているものよりも比べ物にならないほど巨大で、
ほとんどのものがユーシャたちの身長を一メートルほど上回っていた。
ただ、蜂の体長は一メートルほどだった。針は数十センチあった。
先程も言っていたように、確かにどれも強くはないが、
何度も出てこられるとさすがにユーシャたちの体力も徐々に擦り切れていった。
肉体的にも、精神的にも、限界が近付いていた。
特に、魔法使いの消耗は著しいものだった。陽の光が届かない場所で
魔術を使い続けるのは、おそらく相当なエネルギーを消耗するのだろう。
目が虚ろで、足元は覚束ない。それでも魔術の光を消そうとはしなかった。
105:
数時間森林を彷徨ったところで、すこし開けた場所に出た。
この辺りは大きな根が少なく、地面はほとんど水平だ。
開けた木々の隙間から射す光は、なんとも心細いものだった。
見上げてみると、ひょろ長い月が見えた。
どうやら、一日中この森林を彷徨っていたらしい。
「もう夜だ。今日はこの辺りで休もう」ユーシャが言った。
「そうですね。できることなら一日でこの森林からは
抜け出したかったんですが、彼女の体力が心配です」
「ごめんね」魔法使いは虚ろな目をしていて、
露出した脚には、いくつかの切り傷が走っている。
「大丈夫か?」
「大丈夫じゃないかも」魔法使いは弱々しく微笑んだ。
106:
「彼女、いつもより雰囲気が柔らかいですね。ちょっと新鮮です」
「疲れてるだけだ。こいつは疲れると子どもみたいになるんだよ」
「ほほう。可愛らしいですね」
「もう駄目かも……」魔法使いは目を閉じ、正面からユーシャに凭れかかった。
魔術の光が消え、青白い月光のみが辺りを照らす。
ほとんど何も見えない。今、蟲に襲われたら、ひとたまりもない。
「明かりが消えちまった。どうする?」
ユーシャは魔法使いを抱きかかえながら言う。
107:
「仕方ないですね」
大剣使いは口の中でもごもごと短い呪文を呟き、光の球体を出現させた。
魔法使いのものよりもすこし小さいが、
それでも光源としての役割を果たすには十分な大きさだ。
「お前、魔術使えたのかよ。なんで今まで使わなかったんだ」
「いざというときに私が消耗していたら拙いかもしれないでしょう。
森林には何がいるか分からないですからね。
それに、私は魔術を長時間使えるわけではありません」
「だからって、こいつがこんなになるまで放っておくのはどうなんだ」
ユーシャは凄んだ目で大剣使いを睨んだ。右拳に力が入る。
「彼女がぼろぼろになって苛々するのは分かりますが、
落ち着いてください。今はゆっくり身体を休めましょう」
「……はあ。そうだな……」
ユーシャはその場に魔法使いを寝かせ、その隣に腰を下ろした。
「あんたのその、いちいち正論を吐くところが気に入らない」
「すいません」大剣使いはこれっぽっちも悪びれた様子を見せずに言うと、
ユーシャの隣に座った。そして、周囲に落ちた枝をかき集め始める。
108:
「なにしてんだ?」
「火を着けようと思いまして」
「炎の魔術も使えるのか?」
「ほんの少しなら、癒しの魔術も使えますよ」
大剣使いはもごもごと呪文を呟き、かき集めた枝葉に炎を灯した。
同時に、光の球が姿を消す。
「なら、あいつの脚を治してやってくれよ」
「分かってますよ。あ、触ってもいいですか? 彼女の脚」
「殴るぞ」
「冗談ですよ。でも、私程度の術では、跡が残るかもしれないですよ」
「でも、こんなところで傷を放っておくのも拙いだろ。変な病気に罹っちまうかも」
「そうですね。わかりました」大剣使いは魔法使いの脚に手を伸ばした。
ユーシャはそれを思いっきり引っ叩いた。
「こいつには触るなよ。触らなくても治療はできるだろ」
109:
「分かってますって」大剣使いは苦笑いを浮かべ、もごもごと呪文を唱えた。
まもなく魔法使いの脚の傷が塞がる。薄っすらとだが、やはり跡は残っている。
「やっぱり残ってしまいました、跡。私、後で殴られるんでしょうかね?」
「いや、ほとんど見えないし大丈夫だと思う。
お前が余計なことを言わない限りは、たぶん殴られない」
「なら、殴られるんでしょうね。本望です」
ユーシャは無視して言う。「あと、頼みがあるんだけど」
「なんです?」
「俺にも癒しの魔術を教えてくれよ」
「彼女に教えてもらえばいいじゃないですか」
「教えてくれないんだ」
「どうして?」
「わからん。とにかく、教えてほしいんだ。癒しの魔術だけでいいからさ」
大剣使いは微笑む。「まあ、暇があるときに教えますよ」
「ありがとう。こいつには内緒にしといてくれよ。怒られるから」
「わかってますって」
110:
ユーシャは隣に横たわった魔法使いに視線を滑らせた。
静かに寝息をたて、呼吸の度に小さな胸が上下している。どうやら、大丈夫そうだ。
ほっと息を吐くのと同時に、身体の底から疲れが鉄砲水のように押し寄せてきた。
瞬時に瞼が重さを増す。
「いやあ、ほんとうに綺麗な脚ですね」
ユーシャは返事をせず、黙って魔法使いの脚にぼろぼろのマントを引っ掛けた。
「過保護ですねえ」
「お前が変態だから余計にだ……」ユーシャの意識は閉じかけていた。
「お疲れですね。寝ててください。私が見張りをしておきますから」
「こいつに触るなよ……約束だ」
「わかってますって。あと、寝ちゃう前に訊きたいことがあるんですが」
「なに」
111:
「あなた達は、どうして旅をしているんです?」
「いろいろあるんだよ」
「駆け落ちとかですか?」
「……ちょっと違うかな」
「ちょっと、ですか。そういえば、あなたは怒らないんですね。
彼女にも同じことを言ったら殴られましたよ」大剣使いは腹を押さえて笑った。
「故郷の村で何回もそんな風にからかわれたんだ。
“お前らはずっといっしょにいるよな”って。……もう慣れたもんだ」
「へえ」大剣使いは気味の悪い笑みを浮かべた。「村は好きですか?」
「あんまり好きじゃないかな」とユーシャは言った。
「魔王を倒したら、いっしょにどこかへ行くんだ……。
俺たちは、ずっといっしょだからな。今までも、これからも……」
ユーシャの意識は深いところに沈んだ。
112:

目には白んできた空と、微かに月が映っている。
耳に届くのは、ぱちぱちと木の枝が弾けるような音。
鼻を刺すのは緑の匂いと、この世のものとは思えない異臭。
おかげで、魔法使いの意識はしっかりと覚醒状態に引きずり出された。
上体を起こし、辺りを見渡す。隣にはユーシャが寝転がっている。
軽く頬を抓ってみたが、起きる気配はない。ぐっすりのようだ。
すこし離れたところに、頼りない炎が見えた。誰がどうやって火を灯したのだろうか。
そして、大剣使いの姿が見当たらない。
しかし、しばらくきょろきょろと周囲を眺めていると、向こうから歩いてくるのが見えた。
113:
「お目覚めですね。おはようございます」と大剣使いは言う。
「あんた、どこ行ってたのよ」
「怪物の死骸をすこし離れたところに運んでました。
起きたときに真っ二つになったナメクジが近くに転がってたら嫌でしょう?」
「匂いはしっかりと残ってるけどね」魔法使いは鼻を摘まんだ。
「それは我慢してください」大剣使いは大きな欠伸をこぼした。
「眠そうね。ずっと起きてたの?」
「あなたたちが寝てしまったので、
私が見張りをするしかないでしょう。おかげでくたくたですよ」
「そう。ありがと。傷が治ってるけど、これもあんた?」
「そうです。でも、すいません。跡が残ってしまいました」
「べつにいいわよ、これくらい。そんなことより、魔術が使えるのね、あんた」
「すこしなら、ね。あなたには敵いません」
「どうだか」
114:
「あなたなら、この程度なら傷跡なんて残さず治療できたでしょう」
「そうね」魔法使いの目を通して見ると、
確かに大剣使いの魔術はすこし頼りないものだった。太ももに、薄っすらと跡が見える。
「話は変わりますが、あなたのボーイフレンド、疲れると苛々するようですね」
大剣使いの表情が、あからさまに明るいものに変わった。
「子どもみたいでしょ」魔法使いはユーシャの頬をつついた。
「いやいや、怖かったですよ。あなたに触るなと、
閉じかかった細い目で睨まれましたからねえ」
「ふうん……」魔法使いは気の無いふりをした。
「あと、そのときに“魔王を倒したら”と彼が言ってたんですが、どういうことでしょうか?」
「言っちゃったのね、この馬鹿」いずればれるだろうとは思っていたが、こうも早いとは。
思いっきりユーシャの頬を抓ってやると、苦悶の表情が浮かんだ。
「魔王って、御伽噺に出てくるあれですよね?」
「そうね」できれば言いたくなかったが、
大剣使いには隠し通せるような気がしないので、素直に肯定した。
「もう一度訊きますけど、あなたたちはどうして旅をしているんです?」
一呼吸置いてから、魔法使いは言った。
「そりゃあ、魔王を倒すために決まってるじゃないの。こいつはユーシャ様なんだから」
115:
「彼が、御伽噺の勇者ですか」大剣使いは鼻で笑った。
「べつに信じてもらわなくてもいいわ。わたし達も半分くらいは信じてないし」
「じゃあ、どうして?」
「田舎者は王様には逆らえないのよ」
「魔王討伐は王様の命令なんですか?」
「そう。西の国王様ね。こいつが言うには嫌な奴らしいけど。まあ、確かに
いきなりわたし達を呼び出したかと思えば、“行け”だなんて非常識にも程があるわ」
「……ほんとうなんですか?」大剣使いは半信半疑のようだ。
それもそうだ。普通なら頭のおかしい奴だと弾かれるようなことを
真面目に話すものだから、対応に困っているのだろう。
「だから、べつに信じてくれなくてもいいの。でも、一応言っておくと、ほんとうよ」
魔法使いはため息を吐いた。しかし、これで大剣使いに訊きたいことが訊ける。
「で、あんたに訊きたいことがふたつあるんだけど」
「なんです?」
「魔王の居場所と、“あれ”について」
「“あれ”って、なんですか?」
116:
「知らないわよ。知らないから訊いてるんじゃないの。
王様は“あれ”の動かし方を知りたくて仕方ないみたいよ」
「王様が、ねえ……。でも、“あれ”だけじゃ何も分からないですよ」
「まあ、そうよね……。じゃあ、魔王の居場所は知ってる?」
「御伽噺の存在がこの世界にいるわけがないでしょう」
「じゃあ、これは何なのよ」魔法使いはユーシャの頬を突いた。
「なんで御伽噺の存在がわたしの隣で寝てるのよ」
「そう言われましても……。困りましたねえ」
「なんでもいいの。御伽噺では魔王がどこから現れたとか、そんなのでもいいの」
「……御伽噺の魔王は、北の大陸にある“門”から現れたと言われてますよ。
これは南の大陸の御伽噺です。……あくまで、御伽噺ですからね」
大剣使いは表情を歪めながら言った。
「北、北ね。ありがとう」魔法使いは唇の端を歪めた。
117:
「もしかして、北に向かうつもりですか?」
「そうね。これからは北の大陸を目指すわ。それしか手掛かりが無いもの。
世界を反時計回りに一周することになりそうだけど、
もちろんあんたにも付いて来てもらうわよ」
大剣使いは苦笑した。「もちろんですよ。目的なんて、なんでもいいです。
お金を受け取ったからには、いいと言われるまでは付いて行きますよ」
「報酬は三倍にしといてあげる」
「それでも金貨三枚ですけどね。薬草も買えやしませんよ」
「こいつに声をかけたのが運の尽きね」
「ですね。まさか、彼が勇者様だったとはねえ」
大剣使いは大きな欠伸を吐いた。そして、その場に身体を倒した。
「さて、私もすこし眠らせていただくとします。
何かあったら、得意の暴力で叩き起こしてくださいね」
「うん。おやすみ」
ごろりとその場に寝転がる大剣使いを横目に、魔法使いは膝を抱えながら座り込んだ。
そして、炎とにらめっこをする。ぱちぱちと、何かが弾けさせるような音を発し、枝は燻る。
揺らめく炎。それはまるで、そこだけが森とはべつの空間になってしまったように錯覚させる。
風に揺れた木々の葉が、乾いた声をあげた。隣で眠るユーシャ様は目を醒まさない。
それらは魔法使いに、ひとりだということを強く意識させる。
118:
もしも今、怪物が現れた場合、自分ひとりで何とかなるだろうか?
ふたりを守ることができるだろうか?
確かに蟲は強敵というほどではないが、ひとりではすこし不安だ。
ユーシャを起こしておこうか?
いや、彼も疲れているだろうし、このまま放っておくほうがいいか。
しかし、森のど真ん中にぽつりと座っているのも寂しいものだ。
冷たい風が木々を揺する。自然と、膝を抱える腕に力が入る。
起きていてほしい。そう思う。
できることなら、隣に座っていてほしいというのが正直なところだった。
隣を見たときに、自分の顔と同じ高さに誰かの顔があってほしい。
魔法使いは自身が寂しがりであることを、薄々自覚し始めていた。
語気が荒かったりするのは、それの裏返しなのかもしれない、と
適当な自己分析をしてみたりした。ほんとうのところは分からない。
もしかすると、全くべつの理由があるのかもしれないし、
理由なんて存在しないのかもしれない。
119:
素直で、女らしくありたいとは思う。甘えたい、とも。
しかし、今更いきなり素直になるのも、それはそれで恥ずかしかった。
胸の内側では、輪郭を持たない煙のような意思や感情が揺れている。
それのほんとうの姿は、今の自分の頭では捉えられない。
結局、何も分からない。だから、誰かに導いてもらいたい。
誰か、というのは、できることなら彼であってほしい。
どこかへ連れ去ってほしい。たとえば、手を繋いで、ふたりで誰もいないような、
勇者も魔王も存在しないような場所へ行けたなら――そんな安っぽいことを夢想した。
いずれはひとりで立たなければならない、ということは理解しているつもりだった。
しかし、隣に彼がいない光景が、まったくイメージできない。
表面では理解しているが、もっと深いところでは、実際にひとりになることを拒んでいる。
脳だけは先に進んでいるが、こころと身体が置いてけぼりをくらっているような感覚だった。
120:
旅に出ていなかったら、わたしはどうなっていただろうか?
一生を村で過ごしたのだろうか?
何も分からなかった。炎も木々も精霊も、答えてはくれない。
ユーシャの頭に手を置いた。もともと大して大人びているわけでもないが、
目を閉じて間抜けに口を開くその顔は、いつもよりさらに幼いものに見える。
そのまま乱暴に頭を撫で、髪をくしゃくしゃにしてやった。
「わたし達、これからどうなるのかな」魔法使いは誰に対するわけでもなく呟く。
ユーシャは答えてくれない。でも、彼なら答えを知っているような気がした。
わざわざ起こしてまで訊こうとは思わないが。
炎を見つめながら静かな孤独に耐えていると、空は朝の表情を見せ始めた。
結局、心配は杞憂に終わり、夜は明けた。
121:
大森林の出口は、休憩したポイントからほんの数キロメートルほどの場所にあった。
もうすこし頑張っていれば、一日でここからは抜け出せたということになる。
鬱蒼とした森から陽だまりのような場所に出たユーシャたちは、
自然の光の眩しさに目を細めた。
そこからしばらく砂漠のような場所を歩くと、それは見えてきた。
砂の海に聳える大きな壁は蜃気楼のように揺らぎ、
その向こう側に大きな石造りの城が見えた。
壁に囲われている面積は、かなり大きい。
王国と呼ぶには相応しい出で立ちだった。
「着いた?」魔法使いは口元に笑みを浮かべた。
「着いたか?」
「着きましたね。あれが第一王国です」と大剣使いは言った。
124:

高い外壁に囲まれた町の中心には、大きな城が見えた。
壁は六角形になるように配置されている。
第二王国城下町の構造は、まさに蜘蛛の巣を思わせる。
中心からはそれぞれの角に向けて大きな通りが存在しており、
それぞれの通りを繋ぐように、間には等間隔で薄暗く細い通路がある。
「ここが、第二王国」と僧侶は呟く。
「普通の国に見えるね」大きな通りには、たくさんのひとが行き交っている。
「当たり前だろ。悪さをするのは国じゃなくて、ひとなんだから」
戦士が言った。
「なるほど」と勇者は頷く。
「でも何があるか分からないから、
念のためにお前は俺かリーダーから離れないようにしろよ」
「りょーかい」僧侶は不恰好な敬礼をした。
「でも、わたしはリーダーがいちばん心配だよ」
「だから、僕はリーダーじゃないって」
「女に心配されてることについてはノータッチなのかよ」
125:
「カマキリの件を思うと、何も言い返せないよ」勇者は肩を落とした。
「ああ。カマキリ。あれはやばかったな。俺もひやひやしたぜ」
「わたしがいて良かったね、リーダー」僧侶は勇者の頭を撫でた。
勇者は脹れながら、「そうだね」と言った。情けなくて仕方なかった。
「やめてやれよ。リーダー泣きそうになってるぞ」
「なってない」勇者は語気を強めた。
「あ。ごめん……」
「いや。だから、泣かないって」
しばらくの沈黙の後、「そうだね」と僧侶は笑った。
そして、ふたたび頭を撫で、「泣き虫はもう治ったもんね」と続ける。
勇者は酷く赤面した。
126:
「はいはい」戦士は手を叩いた。「いちゃいちゃしてるとこ悪いけど、
そういうのはベッドの上でしてくれ。そういうわけで、宿屋を探そう」
「だね。もう夜だし、さっさと探しちゃおう。続きはそこでしよう」
僧侶は適当な通行人を捕まえにいった。同じ轍は踏まぬということなのだろう。
この城下町は、港町ほどややこしくはないが、幾分大きい。
ぶらぶらと歩き回っていては、きっと夜が明けてしまう。
続きって、何なんだろう。勇者の頭の中は、そのことでいっぱいだった。
また頭を撫でてもらえるのだろうか。それとも――
顔が熱くなる。胸の内側が、ふわふわとしている。
戦士は勇者の肩を叩いて言う。
「リーダーも男の子だからな、期待する気持ちは分かる。
でも、俺が同じ部屋にいるってことを忘れないでくれ。
それと、あいつはからかうのが上手い」
「わかってる。わかってるって」
勇者は自分に言い聞かせるように頷いた。
127:
翌日の朝。宿の一室の窓から射す光は、力強いものだった。
勇者と戦士はベッドに腰掛けながら、寝ぼけ眼を擦っていた。
僧侶は風呂場に行ってしまったので、ここにはいない。
行ってしまったといっても、風呂場は隣だ。
壁一枚を挟んだ向こう側から、鼻唄が聞こえてくる。
「ああ」戦士は大きな欠伸をしながら言う。
「情報収集だが、三人で固まって行くか
二手に分かれていくか、どっちにする?」
勇者もつられて大きな欠伸をこぼした。
「二手に分かれたほうが効率はいいのかもしれないけど、
御伽噺なんていくつもあるわけじゃないだろう。
それに、三人でいた方が安全だし、三人で固まって行こう」
「それでいいのか?」
「べつにいいと思うけど」
128:
「ほんとうに?」戦士は口元に笑みを浮かべた。
「なんだよ。何が言いたいのさ」
「あいつとふたりきりになれるチャンスだぞ?」
「余計なお世話だ」
「顔が赤いぞ。ほんとうにお前はすぐに赤くなるよな」
「うるさい」
「ほんとうはふたりで行きたいんだろ?」
「まあ、こんな場所じゃなければ……。
でも、やっぱり僕ひとりだと頼りないと思われてるだろうし、三人で行こう」
カマキリの件が頭にこびりついて離れない。思い出すと、気分が沈む。
「もっと自信を持て。応援してやる。お前は俺よりも強いんだ」
勇者は頭を抱えて、ため息を吐いた。俺よりも強いだって? 何の冗談だ。
なぐさめにしても、もっと何か他にあるんじゃないか? 勇者は更に落ち込んだ。
129:
「はあ。さっぱりした……あれ。どうしたの、リーダー」
僧侶が風呂から戻ってきた。
「もうリーダーって呼ばないでくれ……」
「リーダーは酷く落ち込んでる。
カマキリの件で自信喪失しかけている。
でも、お前が頭を撫でれば治る」
戦士は何かを読み上げるように淡々と言った。
僧侶は黙って勇者の隣に座った。
石鹸の匂いか、それとも彼女の匂いなのかは
わからないが、甘い香りが鼻腔をくすぐる。
そして彼女は勇者の頭を撫でる。「大丈夫、自信を持って。君は強いよ。
それに、これからもっと強くなる。そしたら、わたしを守ってね」
恥ずかしさと情けなさがぐちゃぐちゃになって、勇者の顔は真っ赤になった。
それを見た戦士は堪えきれなくなって吹き出した。
130:
結局、三人で町を回ることになった。
宿屋から出ると、強い日差しに目を襲われた。
左右にはどこまでも道が続いている。
ひとの通りもかなり多い。
それもそのはずであって、第二王国城下町は
この南の大陸でもっとも大きな町なのだ。ここ何年かで、大きな成長を遂げたらしい。
そして、宿屋のあったここは第三大通りと呼ばれているらしい。
大通りにはそれぞれ番号があり、城の正面が一番、
そこから時計回りで順番に二番、三番と呼ばれていると宿の主から聞いた。
三番は商業区、五番は工業区だとかなんとか。一、二、六番は主に居住区だとか。
四番にはあまり近寄らない方がいいだとかなんとか。
とにかく適当な説明だった。
とりあえず、まるごと一日を情報収集に費やすことにした。
しかしお昼を過ぎた頃からは、誰に話を訊いても
似たような返事しか返ってこなくなった。
なので、この辺りの情勢や歴史についてなどを訊いて回った。
気付けば辺りは暗くなってきていた。
「いろんなことがわかったね」
僧侶は地図を裏側に広げた。
そこには、聞いたことがまとめられていた。
131:
?御伽噺の魔王は、北の果てにある“門”から現れた。
?五つの塔には、番人がいるという御伽噺がある。
?この大陸に神様が眠っているという御伽噺がある。
?第一王国は疫病の蔓延により、数年前に滅んでしまった。
?数年前から、第二王国付近の怪物が弱っている。
?呪術の村のことについては、みんな何も知らない。
?王様は怖い顔をしているが、国民想いの良い王様。
?第三大通りの城に近い辺りに、美味しい食堂がある。
「役に立ちそうな情報は、こんなところかな」
「最後のは何だよ」
「たまには美味しいものでも食べてゆっくりしようと思って」
僧侶は微笑んで頭を掻いた。「だから今から行こう」
132:
勇者たちは城のほうに向かって歩き始めた。
もう陽は沈んでいるのにも関わらず、ひとの通りは未だに多い。
小さなガラスの内側で灯る炎が、仄かに道を照らす。
結局、危惧していたようなことは何も起こらなかった。
幸せなのかはさておき、この国は平和なのだ。
十分ほど歩くと、食堂は見えてきた。
宿屋ほどではないが、それなりに大きい。繁盛しているのだろう。
戸を軽く押し、中に入る。途端に芳しい匂いが鼻を喜ばせた。
店内は大いに賑わっていた。
老若男女、あらゆるひとがそこに座って食事を取っている。
戦士は嬉しそうな面持ちで、空いている椅子に腰掛けた。
適当に注文を済ませると、僧侶は地図をテーブル上に広げた。
「さて、適当に整理して、今後の予定でも決めよう」
「だな」戦士は裏返しの地図に目を通す。
「?を信用するなら、これからの目的地は北の大陸になるのか」
「そういうことだね」勇者も目を通す。
「北の大陸には、どうやって行くんだ?」
133:
「南の大陸を横断したあと、船に乗って西の大陸へ。
東西の大陸からは北の大陸に向かって大きな石橋が
伸びているから、それを通っていけばいいだろう」
「結局、世界を時計回りにぐるっと回ることになるんだよね」僧侶は笑う。
「ただ、北の大陸はひとが住むのに適した環境じゃないんだよね。
きっと寒いんだろうなあ」
北の大陸は、雪に閉ざされた大陸だと聞く。
辺りの海には氷が漂っていて、船はほとんど使い物にならない。
なので、苦労してわざわざ巨大な石橋を架けたらしい。
死ぬ思いで作り上げた橋は、凍てつく大地に繋げられた。
ひとが生きていくのには厳しい場所に。
いったい、橋を通った人間はいくらぐらいいるのだろう?
そんなところに、ほんとうに“門”と呼ばれるものがあるのだろうか?
「しかし、当てはそれしかないんだ。とりあえずは向かうしかない」
「そうだね」勇者はふたたび裏返しの地図を見る。
「?の五つの塔って、何?」
134:
「ほら。船で見たじゃないか、海のど真ん中に立ってる塔。
それに、村の北にも薄っすらと見えただろう?」と、戦士。
「ああ。あの塔」
村のずっと北に、大きな塔が薄っすらと見えたのを思い出す。
海に立ってたのとあれは同じものだったのか。
「その塔に、番人?」
「そういう御伽噺があるんだって。
あとは、その五本の塔が空を支えてるとか、云々」
「ふうん」と素っ気なく返し、地図に目を落とす。
「?は何なんだ。神様?」戦士が言った。
「うん。この大陸のどこかに、神様がいるんだって。
ほら、港町でへんな石像を見たでしょ? あれが神様なんだって」
「あれが神様だって? 悪魔って言われた方がしっくりくるぜ」
「じゃあ、あの石像はあれで完成形だったの?」
でこぼこの山にくっついた、竜の頭――奇妙な石像の姿が頭の中で再生された。
「らしいよ。石工が逃げ出したわけでもないみたい」
135:
あれが神様の姿だとは、俄かに信じ難い。
戦士の言うとおり、悪魔と言われたほうがしっくりくる。
もしくは怪物と呼んだほうが、断然納得できる。
「で、?」と戦士が言った。
「うん」僧侶の表情が強張った。
「第一王国っていうと、この大陸でふたつ目に大きな国じゃないのか?」
第一王国は、大陸の中心を流れる川の西にある大国だ。
「数年前は、いちばん大きな国だったみたいだね。
だけど、滅んだ。国民はみんな死んじゃったって。
疫病については、この国のひとも詳しくは知らないみたい」
「その疫病って、魔術じゃ治らなかったの?」
「病気っていうのは、魔術じゃどうにもならないんだよ」
僧侶は唇を噛んだ。
沈黙。
136:
「この話は置いておこう。次。?」戦士が口火を切った。
「第二王国付近の怪物が弱体化……ねえ」
勇者はため息を吐いた。
情けない。弱体化した怪物に殺されそうになったっていうのか。
「はい、この話は終わり。次。?」
僧侶が勇者の頭を撫でながら、先を促す。
「?。これは……つまり、呪術の村の襲撃は
国の王により秘密裏に行われた、と」戦士は頬杖を突いた。
「だね。これじゃあ襲撃の目的もわからないよ」
「王様に直接訊けばわかるんだろうが……」
「まあ、そういうわけにはいかないよね」
「次、?。これは……どうでもいいか」
戦士が背凭れに身体を預けると、僧侶は地図を畳んだ。
137:
まもなく料理は運ばれてきた。どれも食欲を湧かせる香りだった。
戦士は一心不乱にそれらを頬張った。
木の実ばかり食べていたので、肉や魚を口に入れるのは久しぶりだ。
戦士ががっつくのもわかる。それに、彼は大食らいなのだ。
僧侶もひとくち頬張ると、表情を緩めた。
勇者も続こうとしたが、どうも指が動かない。
「どうしたの?」僧侶が言った。
「僕は、これから大丈夫なのかな……」
脳裏に居座るのは、カマキリに殺されそうになったときのことだった。
138:
「大丈夫、わたしたちがいるよ。それに、君は強い」僧侶は勇者の頭に手を置いた。
「でも、君はもっと強くならないとね。まずはあいつを追い越そう。
だから、今日はとりあえずお腹いっぱい食べよう。あいつ以上に食べてやろう。
それでお腹いっぱいになったら、わたしといっしょにどうやって強くなるか考えよう」
僧侶が言い終える頃には、勇者の髪はくしゃくしゃになっていた。
「……うん。そうだね」
勇者は深呼吸してから、テーブル上の食べ物に手を伸ばした。
どれも美味で、自然と手は動く。
そのまま何も考えず、戦士に負けじと食べ続けた。
おかげで、その夜は酷い吐き気に苛まれることになった。
それは強くなるなんてことを忘れてしまいそうになるほどには酷いものだった。
139:

「どうして勝てなかったと思う?」
戦士は木の枝の先を勇者に向けながら言った。
勇者は暑さの中で尻餅をつきながら、ただ向けられた枝の先を見つめていた。
また勝てなかった。これが真剣なら、死んでいた。
また命を落とすところだった。
町に滞在して三日目の昼。
ふたりは太陽が照りつける中、宿屋の裏の小さな庭で手合わせをしていた。
木陰では僧侶が座り込みながら、ふたりの戦いをじっと眺めている。
窓からは数人の宿泊者が見物している。
見られたくないというのが正直なところだったが、
怒鳴って追い払うわけにもいかない。
140:
「お前はすこしでも相手よりも有利だと思うと、力が抜けるんだ。
それまで張っていた糸が急にほぐれるみたいに、だらけちゃうんだ。
そこに隙ができる。これがお前の悪い癖だ」
戦士は言いながら、勇者に手を差し伸べた。
勇者は手を取り、起き上がる。そして回想する。
確かにカマキリに殺されそうになったとき、力が抜けていた。
それは単純に筋力であったり集中力であったり、注意力でもあったりする。
カマキリを一体倒したことに、舞い上がっていた。
そこへ、鎌は滑り込もうとした。
確かに、戦士の言うとおりなのかもしれない。
これは悪癖だ。何も言い返せなかった。
「厄介な癖だぞ、これは」
「ごめん」勇者は首を垂れた。
141:
戦士は勇者の頭を撫でた。
「謝らなくてもいい。癖のひとつやふたつ、誰にだってある。
それに、お前はひとりじゃないんだ。
危なくなったらすぐに助けてやるから、変に気張らずに動けばいい」
「うん……」
「いいか。俺とこうやってチャンバラごっこするのと
実際に怪物と戦うのは、全く別のことだと思え。
これは戦いじゃなくて、確認だ。お前の弱点の、確認だ。
忘れるなよ。お前には弱点がある。もちろん、俺にもある。
でも弱点があるからって、お前自身は弱いわけじゃないんだ。
ひとりで怪物を倒せる。同じ怪物なら、俺よりも早く倒せるんだ。
お前は十分強い。だから、もっと自信を持て。
自信と自分への理解があれば、俺なんてすぐに超えられる。
いずれは俺なんて、お前の足元にすら及ばなくなる。それくらい強いんだ」
「そうなのかな……」
勇者には、戦士の言い分が素直に飲み込めなかった。
「だから、自信を持てって」戦士は笑って、勇者の髪をくしゃくしゃにした。
「さあ、今日はここらでお仕舞いだ。飯を食おうぜ。
明日は出発だから、今日はゆっくりするんだろ?」
「……うん」
142:
勇者は踵を返す。戦士は、さっさと宿に戻っていった。
食事となると、彼の動く早さはいつもの
三倍ほどになっているんじゃないかと錯覚する。
目の前に肉を吊るしていれば、彼に敵うものはいなくなるんじゃないだろうか。
周囲を見渡すと、窓から顔を出すひとの姿がいくらか見えた。
その中のひとりと目が合うと、小さく拍手をしてもらった。
顔が綻んで、赤くなる。それを隠すように一瞥をした。
木陰のほうを見ると、僧侶がこちらに小さく手を振った。
勇者は急いでそちらに向かった。
「あいつはどこに行っちゃったの?」
僧侶は腰を上げ、尻をはたいた。
「昼飯だってさ」
143:
「なるほど。だから動くのが早かったんだね」
僧侶は呆れ顔で言った。
「じゃあ、わたし達も食べにいこうか」
「うん」
そのとき、高い指笛の音が聞こえた。
どうやら、宿屋の観客のひとりが吹いたらしい。
窓の方へ視線を向けると、高で拍手するおっさんが、
こちらを見て薄ら笑いを浮かべていた。
拍手はあまりにすぎて、音が鳴っていない(というか両手が触れ合っていない)。
何か勘違いされているような気がする。
勇者は赤面して、急いで宿へ走った。また指笛が聞こえた。
144:
宿は二階建てで、一階のカウンターの隣の大きなスペースには
丸いテーブルと椅子がいくつも並んでいる。そこで食事を取れるようだ。
ならば、お昼時ともなれば一階は客で溢れているのでは、
と思っていたが、予想に反して空いていた。
勇者と僧侶は、先に椅子に座っていていた戦士の隣に腰掛け、
適当に注文を済ませた。まもなく料理は運ばれてきたが、
以前に出向いた食堂のものと比べると、聊か貧相に見えた。
味も、食べられないというほどではないといった程度のものだった。
可もなく不可もなく、といったところだ。
しかし贅沢は言っていられない。
胃に入れば同じと自らに言い聞かせ、咀嚼し、胃へ送った。
べつに不味くはないが、吐くほど食べた食堂の料理がすこし恋しくなった。
「ちょっと思ったことがあるんだけど、いいかな?」
しばらくすると、僧侶がパンを齧りながら言った。
「どうぞ」と肉を頬張りながら答える戦士。
それを無視し、僧侶は勇者の方を向いた。
「な、なに?」勇者の顔が仄かに赤くなる。
145:
「あのね、わざとではないと思うんだけど、
たぶん君は相手よりも優位にあると思うと、力を抜いちゃうんだよね。
そのときまで凍ってた氷がいきなり溶けちゃうみたいに、だらけちゃうの。
これがきっと駄目なんだよ」言い終えると、僧侶はパンを齧った。
戦士が笑う。「だってさ、リーダー」
「さっきも似たようなことを言われたよ。ふたりとも、よく見てるんだね」
「まあな。俺は、お前のことならなんでもわかるぞ」
「まあね。わたしは、君のことならなんでもわかるよ」
ふたりはほとんど同時に言った。そして顔を見合わせた。
「なんだよ。真似すんなよ」
「いやいや。それはこっちの台詞だよ」
「いやいやいや。俺のほうが早かったろ」
「いやいやいやいや。わたしの方が早かったよ」
「いやいやいやいやいや」
「仲良いね」勇者はスープを啜った。
146:
「まあ、それは否定しない」僧侶はパンを齧る。
「まあ、俺たちは兄妹みたいなもんだからな」
「わたし達は三人できょうだいみたいなもんだからね」
「だから困ったら俺たちを頼れ、弟よ」
「うん。頼りにしてるよ、お兄ちゃん」
「いざそう呼ばれると、なんかこそばゆいな」
「言うのも恥ずかしいよ」
「あれ、わたしは頼ってくれないの?」
147:
「リーダーは複雑な時期なんだ。ひとりで歩こうとしてるんだ。
一人前に、人間らしく、男らしく、勇者のように、お前を守るために、だ。
だからお前に寄りかかるのは、ちょっと抵抗があるんだ」
戦士は何かを読み上げるように淡々と言った。
「そうなの? 抵抗あるの?」
「そんなことないよ。お姉ちゃんも頼りにしてるよ」
「リーダー。無理して言わなくてもいい。顔が真っ赤だぞ」
「赤くない」勇者は顔を伏せた。
「ほら、弟くん拗ねちゃったよ。お兄ちゃんは余計なこと言わないで」
僧侶は勇者の頭を撫でた。
「うわあ。すげえこそばゆい」戦士は身震いした。
「と、そろそろ茶番は止めにして飯を食おうぜ。冷めちまう」
「だね」ふたたび僧侶はパンを齧る。彼女はパンが好きなのだ。
148:
翌日の朝。勇者たちは巨大な壁を内側から見上げて、目を細めた。
第三大通りは相変わらずの賑わいで、
温かい風があらゆるひとの声を耳に運ぶ。
「さあ。また長い旅が始まるぞ」
戦士は歯を見せて笑った。
「だな。次の目的地は西の港町。で、まずは“蜘蛛の巣”を潜ると」
蜘蛛の巣というのは、この町と大陸中心の川との間にある洞窟の渾名らしい。
由来はその名の通り、洞窟に蜘蛛が住んでいるからだと聞いた。
「蜘蛛の巣……ねえ」僧侶の表情が曇った。
「どうしたの。大丈夫?」
「知ってるかリーダー」戦士は嬉しそうに言う。
「お姉ちゃんはこの世でいちばん蜘蛛が嫌いなんだ。
だから、しっかり守ってやれよ」
「そうなんだ。頑張るよ」
「頼むよリーダー……」
勇者たちは、きょうだいのようにくっついて歩き始めた。
外壁を潜り、ふと振り返ると、どこかから大きな指笛の音が聞こえた。
149:

高いところで照る太陽は、強い日差しを地上に投げかけている。
曲がりくねった外壁に囲われた第一王国城下町は、非常に大きな町だった。
中心には大きな城があり、周囲には水の張った堀がある。
外壁に近い場所の地面は砂がむき出しだったが、
内側へ向かうと知らぬ間に足元は石畳に変わっていた。
しかし、どこを歩いていても、ひとの姿は疎らだった。
「随分とひとの姿が少ないわね」魔法使いは辺りを見渡して言った。
大通りと思しき幅の広い道は閑散としていて、
どことなく寂れた空気が漂っている。
「なあ。ここって、この大陸でいちばん大きな町なんだよな?」
ユーシャも視線を巡らせる。町には建物が乱立している。
通りの両脇にも建物が綺麗な列を作っていて、どの壁もほとんど汚れていない。
あまりに綺麗なので、思わず肌が粟立った。気味が悪い。
大剣使いは顎に手を当て、
「そうなんですが、これはおかしいですね。ひとが少なすぎる」と言った。
「以前に来たときは、もっと賑わっていたんですがね」
150:
「へえ。あんた、ここにも来たことがあるんだ」
魔法使いが興味なさげに言う。
「“ここまで”は何度も来ていますよ。
しかし、お恥ずかしながら、ここから東には行ったことがありません」
「ふうん。あんたも大したことないのね」
「私もまだまだ世間知らずの未熟者ですからね。
知ってると思いますが、私はまだ二十代なんです。
雇われなんて始めたのも、ほんの二、三年前ですよ」
ユーシャが欠伸をこぼしながら訊く。「なんで雇われになったんだ?」
「そのことについては、また機会があれば話すとしましょう。
知っていると思いますが、世の中いろいろあるんですよ」
大剣使いは空を見上げ、眩しさに目を細める。
「さて、宿に行くのはまだ早いですし、御二人はこの町を散策してみては?」
「お前はどこに行くんだよ」
「私は、すこしこの町のことを調べようかと。
何かおかしいです。異常といってもいいほどに、ひとが少ない」
「というのは建前で、ほんとうは女を引っ掛けに行くんじゃないの?」
魔法使いが粘り気のある視線を送ると、
大剣使いはしばらくの沈黙の後、「それもありですね」と笑った。
151:
結局、夜になるまでは別行動を取ることになった。
宿屋で合流しましょう、と大剣使いは言ったが、
ユーシャたちが宿の場所など知るはずがなかった。
なので宿屋の場所を訊くと、大剣使いは
「御二人で手を繋ぎながら、夜までゆっくり探してくださいよ」と、笑顔で答えた。
おかげで、魔法使いの杖(凶器)が彼の腹にめり込みそうになった。
なんとかそれを阻止し、彼女を宥め終わるころには、大きな剣は視界から消えていた。
「どうする?」ユーシャは半ば途方に暮れる。
まだ昼にもなっていない。夜には程遠い。
そして、太陽がいつもの五割り増しで熱を放射しているのではと思うほど暑い。
石畳の上にいると、身を焼かれるようだ。
しかし、閑散とした大通りを通り抜ける乾いた風は、どこか冷たさを感じる。
それに、何か物足りない。いつもの風とは違うような気がした。
「どうするって、宿を探すしかないじゃないの」
魔法使いは歩き始める。ユーシャも隣に付いて歩き始める。
152:
町を眺めるついでに宿屋を探してみるが、それらしいものは見当たらない。
それどころか、乱立する建物はどれも似たような色と形をしていて、
ほんとうに進んでいるのかと不安にさせられる。
細い路地も小奇麗で、葉っぱの一枚も落ちていない。
路地を抜けるとふたたび大きな道に出た。
しかし、そこにも似たような風景が続いていた。
そもそも、大陸でいちばんの町を当てもなく彷徨うというのは
間違っているのではないだろうか、という考えが脳裏を掠めた。
このままだと大剣使いの言うとおり、ほんとうに夜まで探すことになりかねない。
誰かに尋ねるのがもっとも手っ取り早いのだろうが、
しばらく歩いていると人影はゼロになった。
通りに響くのはふたり分の足音と、肌を刺す風の音だけになる。
153:
「そういえば、ふたりで歩くのって久しぶりよね」と
魔法使いは正面を向いたまま呟く。
「そうだな」と、ユーシャも隣を見ずに答える。
「やっぱり、こっちのほうが落ち着く」
「いつも通りって感じだよな」
「そうね」
「あいつがいると、どうも落ち着かないんだよなあ」
「わかる」魔法使いは目を瞑って頷いた。「夜もぐっすり眠れないわ」
「お前、いつも快眠じゃないか」
「そう見えるだけよ」
154:
「いや、それはお前の寝覚めが悪いだけだ。昔からそうだ。
それに、お前はいつもにやにやしながら寝てるぞ。こんな風に」
ユーシャは目を瞑って笑った。「何か良い夢でも見てるのか?」
「ふうん」魔法使いはユーシャの手首を掴んだ。
「……つまり、あんたはわたしが寝た後、
いつもわたしの寝顔を眺めてるってわけね」
「いや、ちょっと待ってくれ。違うんだ。誤解しないでほしい。
俺は、あいつがお前にちょっかい出さないか心配だから見張ってるんだって。
それでついでに見ちゃうだけなんだって。はい、ごめんなさい。殴らないで」
「殴らない。殴らないから、離れようとするな。こっち来い。隣にいなさいよ」
魔法使いは掴んだ手首を捻って、引っ張った。
そうなると、ユーシャは彼女に寄りかからないわけにはいかない。
「……重たい」魔法使いは寄りかかるユーシャを肩で押し返した。
「食べすぎよ」
「お前は軽すぎる。食べなさすぎだ」
「……何そのわたしの体重を知ってるような口ぶりは」
「……まあ、きのう一回抱えたしな」
「え」魔法使いは赤面した。
155:
「いや、待て。早とちりしないでくれ。べつに寝込みを襲ったとかじゃないんだ。
ほら。お前、きのうの夜、気を失って倒れただろ。
俺が抱えなかったらお前は地面に顔からぶつかってたわけで……」
「わかった。わかったから。殴らないし、手首も捻らないから」
「それを聞いても安心できないのがお前なんだ」
ユーシャは言う。それから咳払いをして、
「まあとにかく、お前はもっと食って体力を付けたほうがいい」と続ける。
「食べた分は魔術のためのエネルギーで消費しちゃうの。
身体に回す余裕なんて、ほとんどないわ」
「今以上に食べればいい」
「吐く」魔法使いは舌を出して言った。
「大丈夫だ。お前は吐かない」
「何を根拠に言ってるのよ」
「俺にはわかるんだよ。お前は大丈夫だ」
156:
「……まあ、確かに今以上に食べれば多少は余裕ができるでしょうけど」
「けど?」
「吐く」魔法使いは眉間に皺を寄せ、舌を出して言った。
「大丈夫だ。責任は俺がとる」
「そのときはあんたの顔面をゲロ塗れにしてやるわ」
「それはちょっと」ユーシャは苦笑いを浮かべた。
157:
やがて宿は発見される。
そのころになると、ふたりの脚は棒切れに
なってしまいそうなほどにくたびれていた。
しかし、脚以上に胃が悲鳴をあげている。
空っぽの悲鳴だ。なにしろ、昼食をとっていないのだ。
空のほとんどは未だに透き通るような青色をしていて、
ところどころに絵の具で描いたような白と灰の雲が浮かんでいる。
それらに混じって、薄っすらと月が窺えた。
遠く低いところでは太陽が周囲を紅く染め始める。
日没までは、あと三、四時間といったところだろう。
魔法使いは宿と空を交互に見ながら言う。
「もう夕方じゃないの。はあ、疲れた。お腹すいた」
ユーシャは言う。
「どうする? もう宿で飯食ってゆっくりするか?」
見たところ、彼女はお疲れのようだ。
隣でふらふらと身体を揺らしている。
口は笑っているが、目は笑っていない。
「そうしましょうよ」
魔法使いは覚束ない足取りですこし進み、宿の戸を叩いた。
叩きながら、体重をかけて開く。戸は間抜けな音を鳴らして、ゆっくりと開く。
彼女はそこへ消える。ユーシャは半ば呆れながら後に続く。
158:
戸が嫌な音を鳴らして閉まる。
音は宿の空気を振動させる。カウンター奥で灯った炎が揺れた。
正面のカウンターには、虚ろな目をした、
禿げ上がった男性が立っている。
屋内に入っても、気温の変化はほとんど感じられない。
外と同じくらいか、それよりも少し暑いくらいだ。
ほんとうにここは宿屋なのだろうか。
魔法使いはゆっくり、ふらふらと歩き始める。
足音だけが耳に響く。他にひとはいないのだろうか?
ユーシャもカウンターに向かう。
禿げた男は、ただ中空を見つめている。
魔法使いは立ち止まる。ユーシャも隣で足を止める。
禿げた男は反応を示さない。
「あの」と、魔法使いがおどおどと口を開く。
禿げた男は反応を示さない。
「すいません」とユーシャが語気を強めて言う。
禿げた男の眼球が不自然に動いた。上下に動き、右に、左に、左に、左。
やがて焦点が合わさり、「は、はい」と高い声をあげる。
思っていたよりも可愛らしい声をしていた。
159:
「大丈夫か?」ユーシャは半ば呆れ、半ば心配して言った。
「す、すいません」禿げた男は頭を下げる。
眼前に晒された頭皮は、眩しくも何ともなかった。
肌に艶がない。それに、顔色が優れない。
宿の灯りが少ないからそう見えるだけなのかもしれないが、
ユーシャは何かべつの理由があると確信に近い感情を持っていた。
「なあ。あんたもこの町も、ちょっとおかしいぞ」
禿げた男は目を見開く。
「あなた達、この町のひとではないんですね。旅人ですか?」
頷き、肯定する。
「早くこの町からは出たほうがいいです。
今すぐにとは言いませんが、なるべく早く」
「どうして?」
「……この町では、数年前からおかしな病気が流行っているんです。
おそらく、私も罹っているんだと思います」禿げた男は視線を落とす。
「病気?」ユーシャは眉間に皺を寄せる。「どんな病気?」
160:
禿げた男は頭を押さえ、呻く。そして目を擦り、口を開く。
「何と申し上げたらいいのでしょうか……とにかく、無気力になるんです。
一日ごとに精神がゆっくりと削がれて、やがて動けなくなるんです。
食べ物も食べなくなって、何人ものひとがそのまま亡くなりました。
ここで働いていた仲間も、友人も、妻も、子どもも。
……きっと私も、このまま動けなくなるんでしょうね」
「だから、町にはひとがほとんどいなかったのか?」
「ええ……おそらく、そうなんでしょうね。
しかし最近は外の空気をほとんど吸っていませんから、
詳しいことはわかりません。申しわけありません……」
かける言葉はもう見当たらなかった。
早く彼の前から消え去りたい、と思った。
161:
部屋を借りたいという旨を伝え、食事はどこで取れるかを訊いた。
どうやら食事はここで取れるらしいので、
早足で向かって左側に備え付けられたドアを開いた。
そこで魔法使いがいないことに気付く。
踵を返し、ふたたびドアを開け放つと、
立ったまま眠っている魔法使いの姿が見えた。
ユーシャは彼女の手を掴み、三度ドアを開け、食堂へ入る。
食堂には十メートルほどの長いテーブルが四つ並んでいて、
その脇にテーブルの何十倍もの数の椅子が見えた。
以前は、多くのひとがここを訪れたのだろう。しかし、今は見る影もない。
ガラスの内の炎が寂しげに光っているだけで、ひとの影はひとつも無かった。
「おい。起きろ。大丈夫か?」
ユーシャは魔法使いの頬を軽く叩く。
なかなか起きないので、徐々に力を強める。
まさか、もう病気に罹ったんじゃないだろうな。
162:
しばらくすると彼女の顔が歪む。ユーシャは、「起きろ。飯だぞ」と言った。
魔法使いは目を開いた。寝ぼけ眼で、「ごはん」と呟く。
「よかった。へんな病気に罹ったんじゃなかったんだな」
ユーシャはほっと息を吐いた。空腹感が込み上げてくる。
「……なんで病気に罹ってると思ったのよ」
魔法使いは目を擦りながら、近くの椅子に腰掛けた。
ユーシャも隣に座る。「そりゃあ、あんな話聞いたら心配になるだろ」
「……あんな話って、どんな話?」
「聞いてなかったのか?」
「……たぶん。寝てたみたい」
魔法使いは照れ隠しのような笑みを見せた。
「お疲れのようですね。早く料理を作ってきますので、少々お待ちを」
背後で声がした。
振り返ると、さっきの禿げた男がそこに立っていた。
「あんたが作るのか?」ユーシャは心配して言った。
163:
「ええ。この宿には、もう私しかいませんから」禿げた男は首を垂れた。
「しかし、私も昔は料理で腕を揮ったものです。
食べられないという事はないはずですよ」
「そうか。悪いな」
「いえいえ。大事なお客様ですから。
それに、久しぶりの会話も楽しいものです。元気が出ますよ」
「怪我だけしないようにしてくれよ」
「大丈夫ですよ」
禿げた男は厨房と思しき場所へ姿を消した。
食堂は静まり返る。音という音が消える。
164:
「……ねえ」魔法使いは重い瞼を下ろさないように震わせながら言う。
「あのひと、この宿には私しかいないって……」
「お前、ほんとうに何も聞いてなかったんだな」
ユーシャは空腹と疲労で、すこし苛々していた。
「……ごめん」
「なんで謝るんだよ。……べつに怒ってないって」
「うん……」
魔法使いは視線を落とし、両脚をばたばたと忙しなく動かし始めた。
ユーシャは小さくため息を吐き、
「この町では、へんな病気が流行ってるんだってさ」と言った。
「……その病気に罹ると身体に力が入らなくなって、
そのうち動けなくなって、食べ物も食べられなくなって、死ぬんだって」
「流行ってるって……つまり、みんな病気だから、町が静かなの?」
ユーシャは首肯する。
「だから、明日にはここを出よう。あのひとも、そうしたほうがいいって」
165:
魔法使いは頷いた。そしてふたたび両脚を動かす作業に戻る。
ふたりは漫然と中空を見つめながら、ひたすら待った。
十数分後、戸が開く音が響く。途端に芳しい香りが食堂を満たす。
自然と喉が鳴り、涎が湧いてくる。
禿げた男はふたりの前に皿を並べる。どの皿にもぬくもりがある。
魔法使いは待ちきれなかったのか、さっさと手を伸ばして
その中のひとつを口の中に放り込んだ。
そして咀嚼してから、「おいしい」と頬を緩めた。
ユーシャも後に続く。久しぶりに木の実以外のものを食べた。
自然と頬が綻ぶ。次々と料理に手が伸びる。どれも美味だった。
「気に入ってもらえたようでなによりです」
禿げた男はにこにこしながらふたりの正面に腰掛けた。
「あんたもちょっと元気になったみたいで嬉しいよ」
「旅の話を聞かせてもらえると、もっと元気になれます」
「そうか。……なら、ちょっとだけ話そうかな」
166:
ユーシャは口に食べ物を詰めながら、滔々と話し始める。
ふたりが東の大陸の小さな村から来たこと。
彼女とは幼馴染であること。丘で星を見たこと。
港で変人に出会って、そいつと旅をしていること。
船で吐きそうになったこと。大森林を歩いたこと。
蟲の体液が異臭を放つこと。とにかくなんでも話した。
魔法使いも相槌を打って、ところどころに訂正を加えた。
旅の理由については話さなかった。禿げた男もそれを訊きはしなかった。
ただ、笑みを浮かべて話を聞いてくれていた。
「楽しそうですね。しかし、旅は大変でしょう?」禿げた男は言う。
「そう。ベッドとお風呂がないのがつらいのよねえ……」
禿げた男は笑った。「女の子にはつらいものがあるでしょうね。
代金は結構ですから、今日はゆっくりしていって下さいよ」
「え? いいの?」魔法使いは閉じかかった目を見開いた。
「ええ、どうぞ。お金も大事ですが、私はここを訪れるひと達から
話を聞かせてもらうのが好きなんです。今日は久しぶりに話が聞けて
楽しかったですよ。私が宿をしているのには、そういう理由もあるんです」
「面白いひとだな、あんた」
「そう言ってもらえると嬉しいです。汚い建物ですが、ゆっくりしていって下さいね」
167:
食事を終えてから食堂から出た。
窓の外は綺麗な橙色に染まっている。まだ陽は沈んでいないようだ。
禿げた男に案内されて廊下を渡る。廊下には絵がいくつも飾られていた。
青空。夕焼け。城。海。砂漠。森林。火山。怪物。
「これらの絵は、私が描いたんですよ」と彼は言う。
手先が器用だとも言っていた。自慢げだった。
確かに、どれもよく出来たものだった。
絵の知識が皆無に等しいユーシャにも、それらの美しさは感じ取ることができた。
並べられた絵を眺めていると、奇妙な絵に目を奪われた。
木の生い茂る大きな山から、竜の頭のようなものが飛び出している絵だ。
何かの怪物の絵のように見える。
「これは何だ?」ユーシャが言った。
「これは、この大陸の神様です」
「神様?」こんなものが神様だって? どう見ても怪物じゃないか。
喉まで出掛かった言葉は、唾といっしょに胃に送った。
「ええ。御伽噺の神様です。この大陸のどこかにいるそうですよ」
「ふうん」
「この町がこんなになっても姿すら見せてくれない、薄情な神様ですよ」
禿げた男は視線を落として小さく笑った。
168:
案内されたのは、この宿でいちばん大きな部屋だった。
ベッドが四つとテーブルがふたつ。椅子は八つほどあり、窓が三箇所。
箪笥や本棚も置いてあるが、それでもまだ余裕はある。
禿げた男は戸を開けたまま言う。
「ごゆっくりどうぞ。明日の朝食のときにでも、また話を聞かせてください」
「ん。わかった。……ああ、そういえば、夜になったらさっき話した
港で会った変態が来るから。でっかい剣を背負ってるやつ」
「大きな剣ですか……わかりました。この部屋に案内しますか?」
「そうしといてくれ」
「わかりました」
禿げた男の声に重なるように、軋んだ戸は不快な音を鳴らして閉まった。
169:
音が消え、不気味な静けさが部屋に充満する。
ぬるい空気は、この町の置かれた境遇を思い返させた。
ひとのいない大通り。流れる冷たい風。生活感の無い町の風貌。
足りないのは、ひとの姿とぬくもり。
かつては大陸でもっとも栄えた町は、病により滅びようとしている。
ユーシャにはそれが、他人事のように思えなかった。
どうにかしてやりたいとは思っても、出来ることは何もない。
彼に唯一出来ることは、魔王を討つことだけだ。
魔王を討つことで、この国が救われるのかどうかはわからない。
病と魔王は関係が無いという可能性もあるが、
何かが繋がっているような気がする。
根拠は無いが、そう思った。そう信じたいだけなのかもしれない。
170:
しかし、仮に魔王が消え失せて、病が去ったとしても、
この町は手遅れなのかもしれない。町は既に瀕死の状態のように見える。
おそらく、魔王と邂逅するまでに町は死んでしまう。
この国の王様は、いったいどうしているのだろう?
何も知らないなんてことはない筈だ。
ならば姿を見せて、国民を励ましてやるのが王様としての務めではないのか?
それとも、すでに病に侵されてしまったのだろうか?
結局、病気については、誰も何もわからないのだろうか?
このままだと、この町はほぼ間違い無く地図から消滅する。
いずれは人々の記憶からも消える。存在などなかった事になってしまう。
曲がりくねった壁も、城も、この宿も、あの禿げた男も、みんなだ。
どうにかできないものか――
どうにもならないものだ。ユーシャは自身の非力と無知を悔やんだ。
しかし、それらの葛藤は眠気に上塗りされる。
明日のことで精一杯なのに、ずっと未来のことなど考えていられない。
そんなことをしていたら、頭が爆発しそうになる。
171:
脳を揺すり、頭を空っぽにする。空っぽの頭に、眠気が流れ込んでくる。
「腹が膨れたら眠たくなってきた……」
ユーシャはベッドに腰掛け、大きな欠伸を吐いた。
「んん……眠い」魔法使いは隣に寝転がった。
拙い。このまま寝てしまうと、翌朝は腹に拳が刺さってしまう。
ユーシャは隣のベッドに移動した。しかし、魔法使いはほとんど目を閉じながら
ふらふらと歩き、ふたたびユーシャの隣に寝転んだ。
「……なんでこっち来るんだよ」
「なんか、ここ怖い……」
「俺はお前が怖いよ」
魔法使いはユーシャの手を掴んだ。「これで逃げられない」
「……そうだな」ユーシャは平静を装いながら、小さな手を握り返した。
皮膚がゆっくりと焼けるような感覚に襲われ、唇が乾く。
「でも確かに、ここはおかしなところだよな。俺もちょっと怖い」
172:
「ふうん。……じゃあ、何かあったら助けてあげる」
「どうも」
「だから、あんたもわたしに何かあったら助けてね」
「うん。わかってるって。当たり前だろ」
ユーシャは微笑んだが、頭が睡魔の重さにより、がくんと下方へ落ちる。
反射的に頭を動かし、もとの高さに戻す。
「大丈夫?」
「うん、らいじょうぶだ……うん? だいじょおう」舌が回らない。瞼が重い。
「頼りない」魔法使いは歯を見せて薄く笑った。
そしてまもなく重くなった瞼を下ろし、静かに寝息を立て始めた。
173:
ユーシャも隣に寝転んだ。手が繋がったままなので、逃げられない。
べつに逃げたいとは思わないが、明日の朝がすこし怖い。
しかし、腹へのパンチ一発と引き換えに、
至近距離で彼女の顔を拝めるのは安上がりなのかもしれない。
今のうちに目に焼き付けておこう、とユーシャは自分に言い聞かせた。
さらさらとした長い栗色の髪が、彼女の顔にかかっている。
息を吐く度に揺れて、また顔にへばりつく。
微笑ましく思ったが、なんだか邪魔そうなので、
空いた手で頬に触れて払い除けてやった。
頬はとても柔らかい。もっと触れていたいと思わずにはいられなかった。
ユーシャは彼女の頬に手を添える。手のひらを人肌のぬくもりが撫でる。
今までこんな風に触れたことがなかったからなのか、
彼女はとても脆いもののように思える。
柔らかくて、細くて、脆い、普通の女の子に見える。
174:
そのまま頬に手を添えていると、魔法使いの眉間に皺が寄った。
拙い。やり過ぎた。起こしてしまったか?
ぼんやりする頭で思うが、結局、頬から手を除けなかった。
すぐに魔法使いの表情は穏やかなものに戻った。
どうやら、起きてはいないらしい。ほっと息を吐く。
そのまま穏やかな彼女の顔を眺める。
しばらくすると、微笑み始める。それは救いのように見えた。
なにがそんなに嬉しいんだろう。いったいどんな夢を見ているんだ?
ユーシャは頭の中で問いかける。返事は無い。
ただ彼女は微笑む。唇を小さく歪め、子どものような笑みを浮かべる。
まるで怖いものなど何も無いという風に、無防備に眠る。
それはユーシャの深いところに沈んでいた何かを突いて揺らす。
175:
頬に置いた手の親指で、彼女の下唇に触れる。
湿った唇は、頬とは比べ物にならないほど柔らかい。
今までに触れたどんなものよりも柔らかくて、あたたかい。
吐息が親指を覆う。彼女は目を醒まさない。
そのまま手を添えて、黙って彼女の顔を眺めた。
しばらくすると、何かものすごく悪いことをしているような気分になってくる。
彼女は小さく呻き、目を開く。
細く開かれた目は、意識があることをユーシャに理解させる。
拙い。やり過ぎた。起こしてしまった。
でも、離れようとは思えなかった。手を離すのがめんどくさかった。
それに目も閉じかけていて、頭が上手く回らなかった。
目が合う。魔法使いはユーシャの目を凝視する。
ユーシャも彼女の目から視線を外さなかった。
「……なにしてるの」魔法使いは怪しい呂律で言った。
「ごめんなさい……つい、出来心で」
「……そう」
魔法使いは唇に添えられた親指を舐めた。
手に痺れるような感覚が走る。思わず目を見開いた。
176:
「……なにしてんだ」
「……つい、出来心で」
魔法使いは添えられた親指を咥え、軽く噛んだ。
指が熱い唾液で覆われる。そして、ふたたびそこを舌が這う。
それは一分近く続いた。やがて、吐息が熱いものに変わり始める。
「……あんたの手、大きくて、あったかい」魔法使いは舌を出して言った。
「でも、ざらざらしてて、苦くて、硬い」
「……汚いから止めとけって」
ユーシャは目を泳がせながら、乾いた唇を舐めた。
「……いや?」
「い、嫌じゃないけどさ……」
「そう」魔法使いは妖艶に笑い、ゆっくりと目を閉じた。
ふたたび寝息をたて、小さな胸を上下させる。
177:
訳がわからない。ユーシャは混乱していた。怒鳴られなかった。殴られなかった。
それだけでもおかしいのに、これはどういうことなんだろう。
混乱していたのは確かだが、同時にとてもいい気分だった。
息をしながら水中を漂っているような、
内側が宙に浮いているような、とにかく感じたことのないようなものだった。
まるで全身が液体に変わっていくように、身体の力が抜けていく。
瞼が鉛に変わっているように感じる。
下りていく瞼の隙間から最後に見えたのは、喜色満面の彼女だった。
178:

ユーシャは目を覚ます。視界の端で、蝋燭に灯った炎が揺れた。
眠気が尋常ではないものだったので、
寝転んだまま潰れそうな眼球を動かし、窓の外を眺める。
暗い。空は真っ黒だった。どう見ても朝ではない。星が見える。月も見える。
おそらく、日付が変わったばかりなのだろう。
いつもよりも早く寝たことで、リズムが狂ってしまったのだろうか。
久しぶりにこんなに黒い空を見た。
のろのろと身体を起こす。手は魔法使いと繋がったままだった。
軽く振ると、指は解けた。
「数時間前はお楽しみだったんですか?」
左側の鼓膜を揺する男の声。爽やかなのだが、好きになれない声。
179:
ゆっくりと頭だけを左側に向けると、今までに見たことがないほど
気持ち悪い笑顔の大剣使いが映った。
そこまでされると気持ち悪いを通り越して、むしろ清々しかった。
普段なら苛々したのだろうが、眠気のせいなのか、恥ずかしい。顔が熱くなる。
曇る頭の中に、細い目をした魔法使いの顔が浮かぶ。
柔らかい頬と唇。熱い吐息と唾液。
あれは、夢? 夢じゃない? 幻覚? 妄想?
夢というにはあまりにも生々しく回想できてしまう。
あれが夢じゃないというなら、おそらく彼女は寝ぼけていたのだろう。
「おお、否定しなんですか?」
大剣使いは破顔しながら、向かいのベッドに腰掛けた。
そしてそのままの表情で拍手をする。「おめでとうございます」
「……違うからな。お前が思ってるようなことは何も起こってないからな」
「ほんとうですか? 顔が赤いですよ?」
「うるさい。なんにもないって」
180:
「まあ、確かにベッドは全く汚れていないですしね……。
でも、私が思っているようなことは起こってなくても、何かあったんでしょう?
私にはわかりますよ。ふたりとも嬉しそうな顔して寝てました。
それに、手とか繋いじゃったりしてましたし」大剣使いは最後に吹き出した。
「大したことじゃないって」
「ほほう。やはりあったんですね。それは是非とも詳しく……」
「言わないぞ。聞きたいならこいつに訊いてくれ」
ユーシャは魔法使いの頭に手を置いた。
「私に死ねって言うんですか?」大剣使いは笑った。
「ああ。半殺しにされちまえ」ユーシャも笑う。
そして思い出したように、「で、この町の病気についてわかったのか?」と訊いた。
「すでにこの町に疫病が蔓延ってるという事は知っているんですね」
ユーシャは頷く。「宿のおっさんから聞いた」
181:
「疫病については、症状以外はほとんど何もわかりませんでした。
症状については、もうご存知でしょう」
脳裏に過ぎるのは、虚ろな目をした禿げた男。
町には、あんなものが数え切れないほど犇いているのかと思うと、
ふわふわとした風船のような気分は破裂して消え失せ、
鉛のように重いものが胸の内に居座り始める。
「ほかにわかったのは、病気の流行は数年前からだとか、
王様は何かを隠してるだとか、そんなことです。
あとは生気の無い酒場の酔っ払い達から聞いた愚痴ばかりですよ」
「王様が隠し事をしてるって、どういうことだ?」
「聞いた話では、この国の王様は病的に用心深いんだとか。
外に出るときには、護衛の兵が彼の周囲を何重にも覆うそうです。
他にも、小さな物音に怯えて、それの正体を突き止めないと
気が気ではないんだとか。
で、酒場の酔っ払いが言うには、“あれは何かを隠してるやつの挙動だ”とか
“あいつは秘密が漏れるのを怖がってるに違いない”だとか何とか」
「身も蓋もないな」
「ですね。酔っ払いはこの世で信用してはいけないもののひとつです。
――それで、病気が流行り始めると、
王様は城から全く出てこなくなったそうです」
182:
「……確かに病気は怖いけど、それは王様としてはどうかと思うな」
「そうですね。王には、やるべきことがたくさんあります。
でも、彼はそれを放棄して、国を捨てようとしています。
彼はこの国を滅ぼしたいのかもしれませんね。
今のこの国の形相は、王の意思だとも受け取れます」
そんなことはない筈だ。そんなことはあってはならない。
滅ぼしたいだなんて、思っている筈がない。何か理由があるはずだ。
王様というのは、国と民のことを誰よりも想うひとではないのか?
(嫌なやつだったけれども)東の国王だって、誰よりも自国の民を愛している筈だ。
現に、東の王国の民は、みんな笑顔だったではないか。
しかし、この国の王は姿を現さない。笑顔など微塵も見当たらない。
何か理由があるはずなんだ。ユーシャは自分を必死に納得させようとする。
王はすでに死んでしまったという可能性だってある。
それならば姿を見せないのにも合点がいく。
しかし、死んでしまったのなら、この国はどうなる?
新しい王を迎えられるような状態ではないように見える。
王様って、何だ? 何が正解で、何が間違いなんだ?
俺は何をすればいい? 俺には何が出来る?
ユーシャには何もわからなかった。
183:
大剣使いはしばらくの沈黙を破って言う。
「……もしかすると、王様は病の原因を知っているのではないか、と私は思うんです。
それを隠したい、あるいは知られてはいけないから篭城しているのでは、と。
今更国民に知れ渡っても、どうして黙っていたと責められるだけでしょう。
だから姿を見せない、あるいは見せられない」
「どうしてそう思うんだ?」
「疑わずにはいられない性格でして」大剣使いは微笑む。
「でも、そう考えれば王様の行動にも納得できます」
「でも」
「王としては最低ですが、彼もひとです。恐怖には勝てないものです。
肝心なときは理性ではなく、結局本能に従うようになってるんです。
それに、おそらく彼は身を守るすべを知らないんでしょう。
殻に籠るか、遠くに逃げるかくらいしか。可哀想なひとです」
大剣使いの目にユーシャの顔が映る。
それは普段とは比べ物にならないほどに暗いものだった。
軽くため息を吐き、なぐさめを込めて「……まあ、全部たとえばの話です。
もしかすると、王は死んでしまったのかもしれませんよ」と軽い後付をした。
ユーシャの表情は晴れなかった。
184:
大剣使いは続ける。
「怖い顔しないでくださいよ。この国のことは、
私たちには何の関係もないじゃないですか」
「それはそうだけど……なんか気分が悪いんだよな」
「できる事なら国を救いたい、とでも思ってるんですか?」
ユーシャは頷く。「馬鹿みたいだけどな」
大剣使いは微笑んだ。
「さすがは勇者様。カッコイイこと言うじゃないですか。
でも、憶えておいた方がいいです。
世の中には、どうにもならないことがあるんですよ。
仮令、あなたが御伽噺の勇者だとしてもね」
ユーシャは重い瞼をこじ開け、大剣使いに訝しげな視線をぶつけた。
「……なんで俺が勇者だって知ってるんだ?」
185:
「あなたが寝ぼけて言ったんじゃないですか。“魔王を倒したら”って。
それで彼女に確認したら、全部教えてくれましたよ。旅の理由も、目的地も。
全部信じたわけじゃないんですけどね」
「……そうか」ユーシャの瞼はふたたび重さを増す。
あまりの重さに、ベッドに寝転がった。
「……まあ、どっちにしろ、ここに留まるのは明日の朝までです。
私たちに出来ることは何もありません」大剣使いはベッドに寝転がる。
「それでこの町の話に戻しますが、この町に蔓延っている“これ”は、
病気ではないのではないかと、私は思うんです」
「……病気じゃない? じゃあ、何なんだ?」
186:
「さっぱりわかりません。でも、これが病だと仮定すると、
肉体的なものというよりは、精神的なものだと思うんです。
精神病は伝染するそうですが、
国を丸ごとひとつ駄目にしてしまうような事が起こりうるものなんでしょうか?
どうも私には納得がいきません。しかも、直接の死因は病気ではなく、
身動きが取れなくなることによる飢餓が多いようですし、何か違和感があります」
確かに禿げた男も、“食べ物も食べなくなって、何人ものひとがそのまま死んだ”
という風な事を言っていたような気がする。
「まあ、全てただの推測です。
ほんとうのことは、いずれ嫌でもわかるんじゃないでしょうか。
あなたの旅は、きっとそういうものになるはずです」
大剣使いは言い残し、目を閉じた。
ユーシャも魔法使いの手をそっと握りなおして、瞼を下ろした。
187:

魔法使いは目を覚ました。朝のはずなのだが、窓の外は薄暗い。
天気はあまりよろしくないようだ。
これでは太陽から貰えるエネルギーが半減してしまう。
しかし、灼熱の日差しが厚い雲に遮られているおかげで、
昨日よりも涼しく感じられる。彼女としては、そちらの方が嬉しかった。
この大陸は暑くて堪らない。汗がべたついて、気持ち悪い。
それに、エネルギーなんてどうにでもなる。
上体を起こし、隣を見るとユーシャが眠っている。
お互いの指が微かに触れ合っていた。
ほぼ反射的に握り拳を作ろうとするが、それよりも早く顔が赤みを帯びた。
脳裏には昨夜の出来事が鮮明に再生される。ますます顔が熱くなった。
188:
どうしてあんなことをしたんだろう。
悪い気分では無かったが、恥ずかしくてどうしようもない。
疲れていたり眠くなったりすると、どうもよくわからなくなる。
あれは所謂、ほんとうの自分なのだろうか。
それとも、そのときにだけ現れる、隠れていたものなのだろうか。
はたまた、自分の意思とは何かべつのものなのか。
どうでもいいことなのだろうが、どうでもいいで済ませたくはなかった。
魔法使いは昨晩の出来事をふたたび回想する。
手を握ったまますこし眠って、ゆっくりと目を開けたら
ユーシャの顔が目の前にあって、頬に大きな手が被さってて、
わたしが喋ると彼は目を泳がせて、
そしたらすごく気分が良くなって――
「そんなに嬉しそうな顔しちゃって、昨夜はよほど楽しかったんですね」
鼓膜を揺する男の声。
魔法使いは身体をびくりと震わせた。
ゆっくりと顔を声のほうに向けると、隣のベッドに腰掛けながら
歯を見せて笑う大剣使いの姿があった。
189:
「……おはよう」
魔法使いは真っ赤な顔で、威嚇するように歯を見せて言った。
そして立ち上がり、大剣使いの脇を通り抜け、早足で風呂へ向かう。
「あれ、殴らないんですか?」
「……今日は気分がいいの。でも、黙ってないと殴るわよ」
「ほほう。気分がいい、ですか。じゃあ、私といっしょにお風呂でもどうです?」
「死ね」と魔法使いは足を止めずに言う。
「冗談ですよ」と大剣使いは笑う。
風呂の戸は高く鳴いて、勢いよく閉まった。
「気分がいい、ですって。聞きましたか? ユーシャ様」
返事は無かった。
190:
魔法使いが風呂から戻るころには、ユーシャも目を覚ましていた。
三人は部屋から出て、絵の飾られた廊下を欠伸を吐きながら渡る。
食堂のドアをゆっくりと開けると、禿げた男が椅子に座りながら
中空を見つめているのを見つけた。
ゆっくりと近寄って声をかけても、反応は無い。
昨晩から、ずっとここで座っていたのだろうか。
目を覗き込んでみると、吸い込まれてしまいそうなほどの黒さだった。
そこに光は無かった。生気があまり感じられない。
ほんとうに生きているのかと不安になる。
「おい、起きろ」ユーシャは禿げた男に声をかけ、頬を軽く叩く。
禿げた男は反応を示さない。
「大丈夫?」魔法使いはユーシャが叩いているのと逆側の頬を叩く。
禿げた男の眼球がゆっくりと動き始めた。
上に、下に、右に、左に、左に、左に、左。
やがて焦点が合わさると禿げた男は身体をびくりと震わせ、
「は、はい」と間抜けな声を上げた。
191:
「大丈夫ですか?」大剣使いが後ろで言った。
「……ああ、私は、また」禿げた男は眉間に皺を寄せて、硬く目を閉じた。
そのまま頭を押さえて、揺する。
「すみません。すぐに朝食をお持ちしますので……」
「無理しなくてもいいのよ」と、魔法使い。
「いえ、大丈夫です。あなた達を見送るまでは踏ん張りますよ」
禿げた男は立ち上がり、厨房へ続いているものと思しき扉へ向かう。
しかし、扉の前で立ち止まった。
また病気の仕業かと思った矢先、身体を反転させてこちらを見る。
そして大剣使いに向かって、
「そういえばあなた、ここに何回か来てくれてますよね?」と訊いた。
大剣使いは「はい。憶えててくれたんですね」と微笑んだ。
「それはもう、そんな大きな剣を背負ってる方は、あなたくらいしかいないでしょう。
それに、何年か前に話を聞かせてもらいましたしね。また聞かせてくださいよ」
「もちろんですよ」
192:
禿げた男は笑顔で扉の向こうに消える。
食堂には小鳥のさえずりだけが響く。
やがてユーシャは言う。「顔が広いんだな」
大剣使いは「広いのは剣の顔みたいですね」と苦笑いをこぼした。
「私の顔は誰も憶えてはくれないみたいです」
「綺麗な顔してるのに、それよりも剣が目立ちすぎなのよ、あんた」
魔法使いが言う。「だから女が引っ掛からないのよ」
「嬉しいこと言ってくれますね」と大剣使いは笑った。
魔法使いは「ふん」と鼻を鳴らして、椅子に腰掛けた。
ユーシャもふたつ隣に座る。
大剣使いはふたりの間に立ち、ふたりの顔を交互に眺めながら、
「なんで間を空けて座ってるんですか?
いつもみたいに隣同士に座っていちゃいちゃすればいいのに」と言った。
沈黙。
「複雑な時期なんですね。倦怠期ってやつですか? 私にはよくわからないです」
大剣使いはふたりの間に腰掛けた。
193:
それからほとんど時間も経たないうちに、簡素な朝食が運ばれてきた。
禿げた男も向かいに腰掛けて、四人で
もそもそとパンを頬張りながら、旅の話をする。
魔法使いは大剣使いの昔話が聞けるんじゃないかとすこし期待していたが、
結局彼は港で出会ったときから今までの話しかしなかった。
内容もユーシャと魔法使いのことばかりで、すこし恥ずかしくなる。
彼自身の事については、まったく触れなかった。
そういえば、と魔法使いは思う。
出会ってから今まで、大剣使いは自身の話をほとんどしていない。
ユーシャがどうして雇われになったのかと訊いたときも、はぐらかされた。
語りたくないような不幸があったのだろうか。
それとも、ただ長々と話すのが面倒なのか。それとも、彼は何かを隠してる?
「旅は楽しいですか?」と禿げた男は訊いた。
大剣使いは笑顔で、「それはもう」と答える。「今まででいちばん楽しい旅です」
「ほんとうかよ」とユーシャが笑顔で肘で大剣使いを突く。
「ほんとうですよ」と大剣使いは肘で突き返した。
194:
魔法使いは思わず小さく綻んだ。そのまま肘で思いっきり大剣使いを突いて、
「わたし達の話はもういいから、あんたの話を聞かせなさいよ」と言った。
「そうだ」とユーシャが言う。「結局、お前はなんで雇われになったんだよ」
「それは是非私も聞きたいですね」と禿げた男も耳を傾ける。
「話さないとだめですか?」
「だめ」
大剣使いはため息を吐く。「べつに、これといった理由はないですよ。
ただ、私に残った数少ない道のうちのひとつがこれで、
私がそれを選んだというだけの話です。
何か大きな野望とか夢があるわけではありません。
生きるために仕方なく、ってやつです。
でも、あなた達と旅をするのはほんとうに楽しいんですよ」
「いろいろあるんですね」と禿げた男は言う。
「いろいろあるんですよ」と大剣使いは返す。
「でも、大体の事はどうにでもなるんです。私の先生がよく言っていました」
「先生?」
「そう。先生です。私の、人間の先生です」
大剣使いは目を瞑った。「懐かしいです」
195:
「ふうん」と魔法使い。「あんたはどこの出身なの?」
大剣使いは目を瞑ったまま、「どこなんでしょうね」と言った。
「わからないのか?」と、ユーシャ。
「わからないです。ただ先生に拾われたのは、
西の大陸の端っこの方でしたね」大剣使いは目を細く開く。
「拾われた、ですか」禿げた男は視線を落として言った。
「砂浜に転がっていた、と先生は言ってました。私が五歳か六歳の頃です」
「あんたも大変なのね」
「そうですね。人並みには苦労してきたつもりです」
大剣使いは椅子から立ち上がった。そして食堂の出口に向かう。
「でも、どうにでもなるんですよ」
196:
「雇われにならなかったら、あなたは何になっていましたか?」と
禿げた男は遠ざかる背中に声をかけた。
大剣使いは振り返らずにすこし考えた後、「パン屋さんですかね?」と答えた。
意味がわからなかった。彼はそのまま食堂から出ていった。
「相変わらず、よくわからないひとです」禿げた男が笑う。
「確かに」魔法使いは頷く。「なに考えてるのかさっぱりわからないわ」
「確かに」ユーシャも頷いた。「よくわからん」
197:
パンで腹を満たしたユーシャと魔法使いは、宿の外へ出た。
外気は乾いた熱を持っていた。
太陽が厚い雲で覆われていても、西の大陸と比べるとかなりの暑さだった。
「さあ、そろそろ行きましょうか」先に外で待っていた大剣使いは言う。
「第二王国まではかなり距離がありますけど、我慢してくださいね」
「何、わたしに言ってるの?」魔法使いは言った。
「あなた以外に誰がいるんですか」
「第二王国というと、東に向かうんですね」
禿げた男はふたりの間に割って入る。
「大陸中央の橋を渡って、“蜘蛛の巣”を抜ければ第二王国です。
でも、“蜘蛛の巣”は気を付けて通ってくださいね」
「蜘蛛の巣に気を付けることなんかあるのか?」と、ユーシャ。
「“蜘蛛の巣”というのは、第二王国付近にある洞窟の渾名です」と
禿げた男が補足する。「名前のとおり、蜘蛛がうようよいるらしいですよ」
「ふうん」魔法使いは首を傾げながら言う。
「まあ、みんな焼いちゃえばいいわ」
「頼もしいですねえ」
198:
「じゃあ、そろそろ行くよ」
ユーシャは振り返り、歩き始めた。魔法使いも後に続く。
禿げた男は「また来てくださいね」と言った。
魔法使いの内側は、何かで引っ掻かれたような複雑な気分に陥った。
次に来たとき、この国は存在していて、彼は生きているのだろうか?
わたし達は、戻ってこられるのだろうか?
魔法使いの内心を無視し、彼は言う。
「次に来てくれたとき、あなたたちに見せたいものがあるんです」
「見せたいもの? なんですか?」
「それは秘密です」と禿げた男は笑う。「だから、また来てくださいね」
「うん」魔法使いは微笑んだ。
三人はふたたび歩き始める。進みながら、手を振った。
大きな町の中でひとり、手を振り返す男の姿は、とても小さなものに見えた。
200:

痺れて、焼ける。
痛い。
痛い痛い痛い痛い痛い。
抉られる。擦り切れる。削がれる。
吸い込めない。
吐き出せない。
何も感じない。
動けない。進めない。
無限の中に囚われてしまった。
201:

蜘蛛の巣と呼ばれる洞窟は、じめじめとした場所だった。
外よりも空気が冷たく、湿っぽい。
暑さに関してはマシだったが、あまり長居したい場所ではないのは確かだった。
ぽっかりと開いた穴から入ってすぐの通路の幅は五メートルほどあって、
高さも三メートルほどあった。足元は小さな凹凸がある程度で、ほとんど平らだった。
歩くのには苦労しないが、すこし息苦しさを感じる。
壁が迫ってくるのではないかという、根拠もない幻想が脳を掠めた。
洞窟の入り口から数十メートルまでは外の光が射していたが、
やがて届かなくなる。しかし、洞窟の中はまだ明るい。
誰かが光の魔術を使っているわけでもないようだ。
「なんだ、これ」と戦士は見上げる。
202:
勇者と僧侶も視線を上げる。
低い天井は淡く発光する植物らしきものにびっしりと覆われていた。
「苔?」と僧侶は言う。
「茸みたいなのも見えるね」と勇者は言った。「どうして光ってるんだろう」
「そういう植物なんだろ。俺にはよくわからないけど。
まあ、なんだっていいさ。エネルギーを使わないで進めるんなら、それは好都合だ。
蜘蛛が出てきたときのために、体力は置いておいた方がいい。
どうせ馬鹿みたいにでかい蜘蛛だろうからな」
「そうだね……」僧侶は青い顔で言った。
「まだ蜘蛛どころか蜘蛛の巣すら拝んでないのに、顔がすごいぞ」
「そうかな……」
「蜘蛛が出てきても倒れないでくれよ」戦士は笑う。
「大丈夫……たぶん」僧侶は無理やり笑みを作った。
203:
しばらく歩くと、光る苔は足元にまで広がってきた。
道もだんだんとぐねぐねと曲がり始め、急勾配の通路も見える。
ほとんど垂直に続く道などもあったが、肝心の蜘蛛の姿はどこにも見当たらなかった。
どこかに隠れているのだろうか。
それとも、獲物が巣にかかるのを息を潜めながらじっと見つめているのか。
しかし、蜘蛛どころか蜘蛛の巣の姿すら見当たらない。
ほんとうにここには蜘蛛がいるのだろうか。
突然、僧侶は絶叫する。
勇者は鼓膜が吹っ飛んでしまうのではないかと不安になった。
僧侶は叫び続ける。勇者の耳元で叫び続ける。
でも抱きついてはくれなかった。もっと頼ってくれてもいいのに。
「蜘蛛か?」戦士はゆっくりと剣を引き抜く。
もし洞窟のどこかに蜘蛛がいたのなら、間違いなくこちらの存在を伝えてしまっただろう。
204:
「あれ、あれ……」僧侶は青褪めた顔で小さな脇道を指差した。
小さいといっても、幅も高さも二、三メートルはある。
そこには確かに蜘蛛らしきものの姿があった。
体長は一メートルほどだろう。脚は四本しかなく、全身は蛍光色の毛で覆われている。
頭と思しき場所にはつぶらな瞳が十ほどあって、口元が忙しなく蠢いていた。
蜘蛛の目は勇者たちを確実に捉えていた。
しかし、そのまま穴の奥に吸い込まれるように消えた。
「逃げちまったぞ」戦士は剣を鞘に収める。
「不利だと思ったのかな。向こうは一体だけだったみたいだし」
「かもな。俺たちが蜘蛛の巣に引っ掛かったら、うじゃうじゃ出てきたりして」
「もうやめて……」僧侶の顔は真っ青を通り越して真っ赤になっていた。
目が潤んでいるように見える。「もうやだ……」
205:
勇者は無視して言う。「なあ、ところで、ここの出口ってどこなんだろう」
「さあ。でも、そのうち見つかるだろ。一日もあれば抜けられるさ」と戦士は答える。
「早めに見つけようね……」僧侶は勇者の肩に手を置いて、体重をかける。
「一日もこんなところにいたら、わたしおかしくなっちゃうよ……」
僧侶の脚は震えていて、立っているのがやっとのように見えた。
206:

声が聞こえる。女の声。
でも、彼女の声じゃない。
足音が伝わってくる。三人。
ふたりじゃない。
誰も通さない。
怪物も蟲も蜘蛛も人間も、
誰も通してはならない。
約束したから。
約束したから。
207:

水の滴る音が、どこからともなく湧いてくる。
道は勇者たちを締め上げるように狭まっていく。息苦しくて、気分が悪い。
苔が肌を撫で、岩肌が皮膚を擦る。
それでも蜘蛛の巣に引っ掛かるよりは
こちらの方がマシと考えれば、大したことではない。
あの大きさの蜘蛛なら、巣も相当な大きさだろう。
頭の中にある普通の蜘蛛の巣とは別物のはずだ。
巣に引っ掛かったら最後、蜘蛛の餌食になってしまうかもしれない。
考えただけでもおぞましい。
しかし、一時間ほど進んでも蜘蛛の巣はまったく見当たらない。
蜘蛛も、先程遭遇した一匹を除き、まだ見ていない。
聞いた話では、ここには蜘蛛が犇いているはずなのに、これはどういうことなんだろう。
208:
蜘蛛が出ないとわかると、僧侶も落ち着きを取り戻した。勇者は息を吐く。
ほっとしたような、がっかりしたような、その隙間くらいのため息だった。
しかし、蟲が襲ってこないのなら、それは好都合であった。
洞窟を抜けても、先はまだ長い。
無駄な体力は使うべきではない。先では何が起こるかわからない。
突然、僧侶が悲鳴を上げる。「ひっ」という小さなものだったが、
洞窟の岩肌に反響して勇者たちの耳を揺らした後、暗闇に飲まれた。
この“蜘蛛の巣”は異常と言ってもいいほどに音がよく通る。気がする。
「どうした? 蜘蛛か?」戦士が剣に手を添えて言った。
「違う……あれ」僧侶は前方の暗闇を指差した。
209:
目を凝らしてみると、暗闇に白っぽい何かが見える。
ゆっくりと近付いてみると、それは人の頭だった。
肉も毛もない、白骨だった。辺りには他の箇所の骨が散らばっている。
「……蜘蛛の仕業かな」勇者は息を呑んだ。
「かもな。もしかすると、他にも何かがいるのかも。
俺たちもこうならないように、用心深く進まないとな」
「うん……」僧侶は目を瞑った。
勇者は散った骨を眺める。
白骨遺体は初めて見たが、頭蓋骨以外は別段恐ろしいという風には見えない。
生気のない白いそれは、石のようにも感じられる。そこらに転がる、石と同じ。
素人目で見ると、骨はどれも綺麗な状態に見える。
まるで肉だけをしゃぶり尽くして、骨は捨てられてしまったような印象を受けた。
おそらく、こんな場所にいるからそんな考えが浮かんだのだろう。
しかし、骨はそれほど綺麗だった。あまり時間は経っていないようにも見える。
背筋に何か冷たいものが流れる。
もしかするとここは、とんでもなく危険な場所なのではないか?
210:
僧侶は目をゆっくりと開く。そして呪文を呟き、小さな光の玉を出現させる。
弱い光が辺りを照らす。骨の周囲の壁は、真っ黒だった。
ちょうど骨の辺りだけが、焦げて黒に染まっている。
そこが暗いのは、苔が焼かれて消え去ってしまったからなのだろう。
「なんだ? ここの蜘蛛は、火でも噴くのか?」戦士は眉を顰める。
「もしくは蜘蛛ではない何かが、とか」
「……蜘蛛以外にも注意した方がいいかもね」
僧侶は呪文を呟く。三人は頑丈な“膜”に覆われた。
211:
しばらく細い通路を歩くと、今度はだだっ広い通路に突き当たった。
天井が高い。五、六メートルはあるだろう。幅も十メートルはある。
見上げると、苔やら茸やらがびっしりと生えている。
どれも淡く輝き、洞窟内を黄色や黄緑、青に染める。
綺麗なのだが、非現実的で恐ろしく見えた。
この世の光景ではないように思える。
「すこし休憩しよう。暑い」戦士が言う。額と鼻の頭には粒が浮いている。
「確かに暑い」勇者は湿った岩肌に腰を降ろした。
細い通路は蒸し暑くて仕方なかったが、ここは随分と涼しい。
どこかからは、水の落ちる音が聞こえる。小さな滝でもあるのだろうか。
212:
僧侶も腰を下ろし、天井を見上げながら息を吐いた。
「わたし達、ここから出られるよね?」
「たぶんな」と戦士が笑った。
「結構深いところまで潜ったみたいだけど、
この道が正解なのかもわからないんだよね」と、勇者。
「まだ半分も来てなかったりして」自分で言っておいて、ぞっとする。
「ほんとうに行き当たりばったりだよね、わたし達」
僧侶は首を垂れて、長いため息を吐いた。
「もっとこう、綿密な計画を練ってさあ……」
「リーダー、お姉ちゃんが計画を練れってさ」
「そんなこと言われても……」
洞窟の地図もないし、どんな怪物がいるのかも知らない。
どうにもならない。「どうにもならないよ」
213:
「だよな。どうにもならんさ。でも死なずに歩けば、いずれ出られる。
それでいいだろ。“死ぬな、歩け計画”だ」
戦士は満足げな表情を浮かべる。
「お兄ちゃんは、ほんとうに行き当たりばったりだよね……」
「ぬううぇえええいぃああ」と戦士が奇妙な声を上げた。
「その呼ばれ方、最高に気持ち悪い」
「お兄ちゃんは酷いね。妹はすごく悲しいよ……」
僧侶は悲しい素振りを微塵も見せずに言った。
「うわあ……寒くなってきた。早くここから出ようぜ」
戦士は立ち上がり、せかせかと歩き始めた。
ほとんど休憩は出来ていないが、勇者と僧侶も後に続いた。
214:

足音が近付いてくる。
三人分の、人間の足音。
身体が軽い。服が重い。
剣が異常に重い。
でも立たなければならない。
約束したから。
約束したから。
215:

大きな通路を抜けると、開けた場所に出た。
高さは何十メートルもあり、半径五十メートルほどの円形の空間で、
いくつかの通路がここに繋がっているようだ。
ざっと見渡しただけでも、小さな穴が七つは見えた。
一箇所にだけ大きな岩がいくつか重なっている。
崩れて上から降ってきたのだろうか。
見上げると高い天井にはぽっかりと穴が開いていて、そこから陽光が射していた。
この辺りに苔や茸は見当たらない。壁も床も、どこも真っ黒だった。
あちこちに数え切れないほど骨が散らばっていて、
今までの場所とは異質な空気が漂っている。
「なんだ、ここ」戦士は呟く。
「なんか怖いね」僧侶は眉を顰める。
216:
前方に、大きな石のようなものに凭れかかっている人影があった。
しかし、目を凝らして見てみると、それはひとではなく、
何重にも布の服を纏った、ただの骸骨だった。
骸骨の後ろにあるのも石ではないようだ。取っ手があって、刃の部分がある。
どうやらあれは大きな剣らしい。錆びてぼろぼろになった大きな剣は、
刃物というよりは鈍器というほうがしっくりくる。
どっちにしろ、ここには相応しくないように見えた。
ものと呼べるようなものは、それらしか見当たらない。
他にあるのは、床に散らばった無数の骨のみだ。
ここは、いったい何なのだろう。
217:
「でかい剣だな。こんなの見たことないぞ」
戦士は感心したように口を丸く開けた。
「この骸骨、生きてた頃はすごいやつだったのかもな」
「そのすごいやつが骸骨になっちゃうくらいにすごいやつが、ここにはいるのかも」
勇者は言う。「……ここは拙いんじゃないのかな。すごく嫌な予感がする」
「うん」と僧侶は頷いた。「ここには何かがいる」
「じゃあ、俺たちも骨にならないうちに通り抜けちまおうぜ」
戦士は壁伝いに歩き始める。ふたりも後に続く。
焦げた黒い壁はすべすべとした触り心地で、手を黒く染める。
感触は悪くないのだが、背筋がぞっとする。ここで何があった?
頭の中に、黒い煙のような疑問が充満していく。
足音が骨に響く。何かが低い音で鳴いた。風の音だった。
しかし、勇者の内側は焼かれるような焦りに襲われる。
背中に嫌な空気が刺す。骨が転がる軽い音が聞こえる。
たまらなくなって、振り返った。勇者は思わず自分の目を疑った。
218:
「どうしたの?」と言い、僧侶も振り返る。
僧侶の目に映ったのは、布の服を着た骸骨の姿だった。
動かないはずの骸骨はゆっくりと立ち上がり、凭れていた剣を掴み、引き抜く。
剣の長さは骸骨の丈ほどあった。柄を含めて、全長は一・八メートルほどだろう。
幅も勇者や戦士が持っているものの三倍はある。
どこからそんなものを持ち上げる力が湧いてくるのかと疑問に思う暇もなく、
骸骨は地面を蹴ってこちらに突進してきた。
勇者は大声で戦士の名を呼び、剣を引き抜いて構える。
僧侶は三人に素早く“膜”を張り、脇に転がるようにして逃げた。
骸骨は向かってくる。勇者の背筋に冷たいものが流れる。
あの剣を受け止めるのは不可能だ。
あんなもの、まともに受けたら骨が粉々になってしまう。
219:
骸骨は勇者の前で振りかぶり、剣を振り下ろした。
まるで木の枝を振り回しているかのような、軽い動作だった。
勇者は脇に転がって、それをなんとか避ける。大きな剣は足元の岩肌に激突する。
高い音が響き、黒い地面に亀裂が走った。
砂埃の混じった風が頬を撫で、岩の崩れる轟音が鼓膜と身体を揺らす。
音が止むと、骸骨の纏った布が風に靡き、ぱたぱたと可愛げな音をたてた。
そして剣をふたたび持ち上げ、真っ黒な空洞でこちらを睨んだ。
そこにあるはずの目は、もちろん無かった。どんな感情も読み取ることは出来ない。
あるいは、あれには感情など存在しないのかもしれない。
「なんなんだ、こいつ」戦士は引き攣った笑みを浮かべて、剣を構えた。
「元人間じゃなくて、怪物だったのか」
骸骨は足を止め、顎を小刻みに揺らしている。
何か言っているのだろうか。何も聞こえない。
「怪物……なんだろうね」勇者は身体が震えるのを感じた。
ただでさえ大きな剣なのに、岩を砕くほどの力で
叩きつけたら、人間など間違いなく即死だ。
受け止めてはいけない。戦ってはいけない。逃げなければならない。
本能がそう告げている。逃げるべきだ。
しかし、道は七つもある。正解の道はどれだ?
間違って行き止まりに進んでしまった場合、待っているのは確実な死。
ここは一度引き返すべきだろうか? 今できるのはそれくらいしかない。
220:
「どうする?」と戦士は勇者に問いかける。
「一回、戻った方がいいかも」と咄嗟に勇者は答えた。
「追ってくるんじゃないか?」と言い、戦士は剣を強く握る。
「いつまでも逃げてたら、狭い通路で間違いなくやられちまうぞ」
「じゃあ、どうするんだよ」
「倒せばいい」と戦士は言う。
「こっちは三人なんだ。あの剣に当たらなければ何とかなる。
それに、もしやばいと思ったらお前らだけでも逃げればいい」
「馬鹿なこと言わないで」と僧侶が言う。
「みんなでここから出るんだよ。死ぬな歩けって言ってたじゃないの」
「そうだな」戦士は笑う。「じゃあ、さっさとあいつをぶっ壊して、先へ行こうぜ」
「はあ。……了解」勇者は無理やり微笑んで、強く剣を握った。
「頼りにしてるぜ、リーダー」
「頑張るよ」
「わたしもいるってこと、忘れないでね。お兄ちゃん」
「わかってるって」
戦士は苦笑いを浮かべながら、僧侶に向かって中指を立てた手を突き出した。
僧侶も笑顔で中指を立てた手を突き返した。
221:
戦士は両手で剣を握り締め、骸骨へ突進する。
勇者も後に続いた。
骸骨は顎を小刻みに揺らし、かちかちと音を立てる。
それは笑っているようにも泣いているようにも見えた。
楽しんでいるのか、悲しんでいるのか、それとも何かのサインなのか、
意味など存在しないのか、何もわからない。とにかく不気味だった。
戦士は剣を力任せに骸骨に向かって振り下ろす。
骸骨は巨大な剣を軽々と持ち上げ、攻撃を受け止める。
かちかちと二本の剣が擦れ合うような音をたてるが、どちらも動かない。
戦士の力も相当なものだった。
もしかすると、骸骨の身体には強烈な一撃を凌ぐために
踏ん張るだけの機能が、備わっていないのかもしれない。
しかし、あれだけ大きな剣を軽々と振り回せるのに、
腕力は戦士の攻撃を防ぐのが精一杯という事はないだろう。
あれは人間ではない。動く骸骨――怪物だ。人間の身体とは違う。
いったいどうやって剣を持ち上げているのかといえば、
あれが怪物だからだとしか答えられない。
222:
勇者は追撃を狙い、突進する。骸骨の空洞はすぐに勇者を捉えた。
真っ黒の目を見つめ返すと、吸い込まれそうになる。
骸骨は攻撃を受け止めたまま、戦士の腹を蹴る。
戦士の身体は数メートル先に吹っ飛んだ。
この怪物の細い身体のどこから、そんな力が湧いてくるというのだろう。
骸骨は自由になる。しかし戦士に追撃はせず、剣を構えなおし、こちらに向き直った。
構わず勇者は突進し、切り上げで骨を砕こうと試みる。
だが、やはり大きな剣で受け止められてしまう。
骸骨が剣を振ると、簡単に弾かれてしまった。
勇者の身体はゆるやかに宙を舞い、地面に叩きつけられた。
「大丈夫?」と僧侶は叫んだ。
223:
「大丈夫じゃねえよ……」戦士が呻きながら立ち上がった。「吐きそうだ……」
「大丈夫ではないかな……」勇者も起き上がる。「痛い……」
僧侶は口の中で、素早く癒しの呪文を唱えた。
ふたりの身体から、大きな痛みは取り除かれる。
しかし、身体の内側がずきずきと痛む。
そんなことを僧侶に訴える間も無く、
骸骨は地面を蹴り、ふたたびこちらに向かってきた。
「来たぞ」と、戦士。「わかってる」と勇者が答えた。
ふたりの背後で僧侶が呪文を呟く。
五つの小さな炎の球が現れ、黒い壁を照らす。手の鳴る音が聞こえた。
炎が骸骨に向かって真っ直ぐ、放たれた矢のように飛んだ。
骸骨は構わずに突っ込んでくる。炎は骸骨にぶつかる直前で爆ぜる。
あれが普通の骨なら、今の爆発で粉微塵になるはずだ。
彼女の魔術は相当な威力を持っている。
しかし、勇者は剣を鞘には納めなかった。それどころか手に力が入り、汗が滲む。
あれは普通の骨ではないし、普通の怪物でもないように見える。
爆風により巻き上げられた砂が、煙となって視界を遮る。
骸骨からのサインは無い。勇者は力を少しずつ抜く。
224:
視界が晴れ始める。薄く舞う砂の向こうに、大きな影が見えた。
金属がかち合うような音が響き、かたかたと不気味な音が鳴る。
生きている。骨は砕けていないし、死んでもいない。
勇者は目を凝らす。骸骨は二本の脚で立ち、煙の向こうにいた。
巨大な剣の表面は焦げている。ほかに変化は見受けられない。
炎は防がれてしまったらしい。ふたたび剣を強く握る。
「うそ、無傷?」僧侶は引き攣った笑みを浮かべた。「信じられない」
骸骨は顎を大きく揺らす。なにかを言っているのだろうか。なにもわからない。
そもそも、その行動に意味など存在するのだろうか。
しかし、直後に骸骨の背後に小さな炎の球が三つ現れる。
「うそ」と僧侶は思わず呟いた。表情から余裕は消えた。「魔術?」
225:
聞き馴染みのない高い音が洞窟に響く。
炎は勇者と戦士の間を通り抜け、僧侶に向かって矢のように飛んだ。
勇者は彼女を大声で呼ぶ。戦士は「避けろ!」と叫んだ。
「無茶言わないでよ!」
僧侶は素早く呪文を呟く。
しかし炎は彼女の前で膨らみ、赤みを増し、輝き、破裂した。
熱風が頬を叩き、砂を巻き上げる。咄嗟に手で顔を覆った。
「糞!」と戦士は舌打ちをして、骸骨に向かって走り出した。
どうなってる。どうなってるんだ? 魔術を扱う怪物がいるだなんて、信じられない。
あの怪物はなんなんだ? どうすればあれを倒せる?
いや、そんなことよりも、彼女――僧侶はどうなった?
226:
勇者は立ち込める煙を払いながら、僧侶を呼ぶ。「大丈夫!?」
まもなく煙の中から「大丈夫じゃない」と、か細い声が聞こえた。
勇者は胸を撫で下ろした。彼女は死んでいなかった。
煙を掻き分け、急いで僧侶に駆け寄る。
僧侶の頭からは血が滴っていた。脚にはいくつかの擦り傷が見える。
「大丈夫?」と勇者は青い顔で言った。
「だから、大丈夫じゃないって……」と僧侶は笑う。足元が震えている。
「……“膜”が無かったら死んでたかも。あの子に感謝しなきゃね」
煙の向こうから、金属のかち合う音が聞こえてくる。戦士が骸骨と戦っている。
音は鳴り止まない。それは戦士が生きている証明のはずなのだが、
勇者の胸は鉛が詰まったように重い。
やがて煙は強い風により晴れた。
その風に飛ばされるように、隣に戦士が転がってきた。
皮の鎧に申しわけ程度に施された金属が焦げて、すこし変形している。
「大丈夫?」と僧侶が訊くと、「大丈夫じゃない」と即答した。
熱の混じった風は骸骨の魔術によって生まれたもののようだ。
炎が破裂したことにより生まれた爆風だろう。
227:
骸骨はこちらに向かって来ず、その場でただ顎を揺らしている。
かちかち、かちかちと、嫌な音が洞窟に反響する。
その姿は笑っているように見えた。
追い詰められていく三人を見ているのが楽しいのだろうか。
「剣だけならなんとかなるかもしれないけど、魔術が厄介だ」
戦士の表情は暗い。「やばいかも。あれは普通じゃない」
「すごく拙いと思う」勇者は僧侶のほうをちらりと見る。
癒しの魔術で傷は塞がっているが、脚が震えていた。戦えるような状態ではない。
「すごく拙いね」と僧侶は言う。恐怖からか、口元には笑みが浮かんでいる。
脚の震えは止まらない。「ねえ」と彼女は勇者に囁く。
「……ちょっと肩借りてもいいかな。
拙いと思ったらわたしを突き放して逃げてもいいからさ」
勇者は黙って彼女を支え、手を強く握った。「みんなでここから出るんだよ」
「そう。三人でな」戦士は低い声で言う。「でも、どうすればいい?」
228:
「一回逃げよう。引き返すんだ」と勇者はふたたび提案する。
「このままじゃだめだ」
「今はそれしかないみたいだな」今度は戦士もすぐに頷いてくれた。
「……逃げても叩き潰されそうだけどな」
確かに戦士の言うとおり、骸骨が追ってきたら間違いなく全滅してしまう。
しかし、このままでも間違いなく全滅は免れられない。
とにかく今は逃げて、時間を稼ぐしかない。僧侶の心的ダメージが心配だ。
もしかすると、安全な道はもう残されていないのかもしれない。
骸骨に見つかったのが運の尽きだったのかもしれない。
三人でここを出るのは不可能なのかもしれない。……
229:
どうすればいい? どうすればここから三人で生きて出られる?
勇者の頭は焦りと恐怖に蝕まれる。
それを煽るように、「あれ」と僧侶は暗い声で呟いた。
「あれ?」勇者は僧侶の視線の先を見る。笑う骸骨が見える。
その背後に、壁を這いずり回る数匹の蜘蛛の姿が見えた。
「最悪だ」戦士は頭を掻き毟った。「さっさと逃げるぞ」
「うん」と勇者は頷く。
しかし、骸骨は何かに弾かれたように、巨大な剣を構えてふたたび向かってきた。
蜘蛛は未だに黒い壁を這いずり回っている。
ゆっくりとこちらと距離を詰めているようにも見える。
「わたしを置いて逃げて」と僧侶は呟く。勇者は踵を返し、僧侶を抱きかかえて走った。
背後からおぞましい殺気が迫ってくる。見えなくても感じ取れた。
誰かが欠けるなら死んだほうがマシだ、と勇者は思う。
でも、いるかもわからない御伽噺の存在のために命を賭けるべきではない。
それに、なによりも死にたくない。こんなところで死んでる場合ではない。
230:
必死で仄暗い道を目指して走った。
背後で高い音が鳴り、空気を振動させる。直後に風と石が背中に叩きつける。
骸骨が剣を振り下ろしたのだ。でも、あたらなかった。
視線を後ろへやると、戦士が剣を構えながら骸骨の前に立っていた。
「受け止められるもんだな……」戦士は呻く。
声からは苦痛が漏れ出していた。
「後ろには気を付けろよ、リーダー」
「ごめん」と勇者は呟いて立ち止まり、
骸骨を睨みながら、「早く逃げよう」と続けた。
「……わかってるって」
骸骨はかたかたと、空っぽの骨がかち合う音を鳴らす。
魔術の詠唱か? あれの魔術を“膜”で受けきれるか?
いや、今のうちに仕留めるというのも手か? ……
そのとき、骸骨の背後で閃光が炸裂した。
青白い光だった。それは雷のように見えた。
骸骨は振り返る。どうやら、骸骨の魔術ではないようだ。
「今度はなんだ」戦士はくたびれた様子で言った。
231:
「蜘蛛、蜘蛛」と僧侶は呟く。「いま、蜘蛛が雷を吐いた」
「蜘蛛が雷?」勇者は壁を這う蜘蛛に目を向ける。
どれも蛍光色の毛は逆立っていて、どれも骸骨を凝視している。
怒っているのだろうか。
何匹かの蜘蛛は身体を小さく震わせる。
一メートル程の身体の上に、三〇センチメートル程の青白く発光する球体が現れた。
蜘蛛は蠢く口から空気を吐き出すような声で鳴いた。
球体から骸骨に向けて、雷が落ちる。
しかし、どれも命中しない。ある程度しか制御できないのだろうか。
こちらに雷は落ちてこない。「もしかすると、今がチャンスなのかも」
勇者は僧侶を抱えたまま、ゆっくりと後退し始める。
「みたいだな」戦士もじりじりと後ずさる。「住処を荒らされて怒ってんのかも」
「いい蜘蛛だ」と僧侶は言い、小さく呪文を唱える。
勇者の頭上にふたつの炎の球が現れた。
僧侶は骸骨に向けて、中指を立てた手を突きつけた。
232:
炎は骸骨に向かって直進し、ぶつかる寸前で破裂する。
今度は命中した。骸骨の左腕部分の骨が吹き飛んだ。
「ざまあみろ」と、僧侶は中指を立てたまま親指も立てた。
白い欠片が周囲に飛び散る。
それに混じって、錆びた指輪らしきものがこちらに飛んできた。
勇者は後退しながら、それをそっと拾い上げる。「なんだ、これ」
「怪物が一丁前に指輪なんか嵌めてたのか」
「みたいだね」と僧侶は言い、青い顔をしながら
「粉々にしてやりたい」と強がりを吐いた。
「抱えられながらなに言ってんだ。今は逃げるんだよ」
骸骨はこちらを睨む。苛立っているのだろうか。
こちらに向かってくる――と身構えたが、
すぐに骸骨の脇に粘つく糸が放たれる。蜘蛛のものだ。
蜘蛛は雷を纏い、糸を伝いながらゆっくりと骸骨に進んでいく。
それは光に群がる虫や、餌を見つけた怪物のように見えた。
「早く行くぞ。死ぬな、走れ!」戦士は叫んだ。
勇者たちは暗い通路を遡り始める。
背後で青白い閃光が炸裂した。振り返らずに、必死で駆けた。
233:

粘つく蜘蛛の糸。
迸る青白い雷。
痺れて、焼ける。
蜘蛛はふたたび私の邪魔をする。
蜘蛛はふたたび私を殺そうとする。
ああ、三人組を見失ってしまった。
こいつらがいなければ。
こいつらがいなければ。
殺してやる。殺してやる。
約束したから。
約束したから――
234:

「どうしたらあそこを通り抜けられる?」
勇者は息を切らしながら、僧侶をそっと地面に降ろした。
喉が焼け付く。腕が悲鳴をあげている。
頭上では苔やら茸やらが不気味に瞬いている。
どこかから、水の滴る音が聞こえてくる。
一度休憩したポイントだ。道幅が広くて、天井も高い。
流れる冷たい空気は勇者たちに少量の落ち着きを取り戻させた。
しばらくすると、「いいアイデアがある」と戦士が言った。
「“いいアイデアがある”とか言う奴に限ってろくでもないアイデアを提案するんだよ」
僧侶は戦士を睨んだ。「どうせ、“俺を置いて先に行け”とか言うんでしょ?」
「よくわかったな」
「馬鹿なこと言わないでくれ」
「ほんとうに、馬鹿なこと言わないでよ」
「じゃあ、どうするんだ」
「それは……どうにかするんだよ」
「……」勇者は口を閉ざす。
良案は浮かんでこない。時間がないかもしれないのに。
235:
戦士は言う。「……だから、俺がちょっとの間あいつを止めるから、
お前らは正解の道を探すんだ。もしくは俺とお前であいつを倒す」
「……倒せるのか?」
「倒せる」と戦士は頷いた。
「その心は?」と、僧侶。
「俺ならあいつの剣を受け止められる。
だから、その隙にリーダーがうまいことやればいい」
「うまいことって。また適当な計画かよ」
「いいや。お前なら大丈夫だ。
それに、あいつは腕が一本吹っ飛んでるんだ。こっちが有利だ」
「でも、あいつには魔術がある」勇者は頭を掻いた。
「それに、蜘蛛もいる。あいつらはみんな怪物で、僕らの味方じゃない。
いつ襲ってくるかわからないんだよ」
「でも、やるしかないんだ。もう時間はない」
僧侶は立ち上がる。「そう……やるしかないよね」
236:
「歩ける?」と勇者は訊く。
僧侶は「もう大丈夫」と答えた。「絶対に三人で出るんだからね」
「ああ。わかってるって」戦士は険しい顔で頷いた。「……わかってる」
どこかから、かちかち、かち、と不規則な音が聞こえてくる。
それはゆっくりと、確実にこちらに近付いてきている。
猶予はほとんど残されていない。
「来るぞ」
大きな通路に木の枝が転がるような、軽い音が響く。
目の前の暗闇から、またべつの気味の悪い音が湧いてくる。
骸骨は、すぐそこまで来ている。この暗闇の向こうにいる。
僧侶は呪文を呟き、全員に膜を纏わせる。
「そろそろエネルギーが拙いけれど、死んじゃったらごめんね」
「大丈夫。お前は死なない」戦士は剣を強く握る。「絶対に死なせるもんか」
237:
闇の底から湧きあがるように、骸骨の姿はゆっくりと視界へ入り込んでくる。
片腕の骨は無い。頭の半分が吹っ飛んでいる。
剣も焦げていたり、欠けていたりしている。蜘蛛にやられたのだろうか。
その姿は、まさに怪物という言葉に相応しい形相だった。
しかし、今の勇者たちからすると、死神というのがもっともしっくり来た。
死神は片手で剣を持ち上げながら、ゆっくりと歩く。
「いいか」と戦士は口を開く。「もし蜘蛛が来たら、俺があいつを止めてる間に、
お前らは脇を通り抜けてさっきの黒い壁の場所に向かえ」
「やめてくれ」と勇者は語気を強めて言った。
戦士はそれを無視し、続ける。
「あの黒い壁の場所に、大きな岩が重なってる箇所があっただろ。
あれを魔術で吹っ飛ばせ。あの奥がたぶん出口だ。
岩の隙間から苔の光が見えたし、気持ち悪い風も吹いてきてた。
それでたぶん、こいつはそれを隠そうとしてる」
「ねえ」と僧侶は不安げな声で言った。
「蜘蛛が来たら、な。来ないように祈っててくれ。俺も祈ってる」
238:
蜘蛛が全滅しない限り、間違いなく蜘蛛はここを嗅ぎつけるはずだ。
その場合、こちらの全滅は免れないと考えてもいい。
但し、それは戦士が囮にならなかった場合の話だ。
戦士がここで蜘蛛と骸骨の相手をするのなら、
勇者と僧侶の生存確率は跳ね上がる。
しかし、戦士が生きて戻ってくる確率はゼロになるといってもいい。……
「信じてくれよ、俺は死なないって」戦士は言う。
「もっと頼ってくれ。俺はお前らに頼られるのが生きがいなんだ」
「なんだよ、それ」
「かっこいいだろ?」
「全然」
「そうか」
239:
骸骨は迫ってくる。戦士の前で巨大な剣を掲げ、振り下ろした。
戦士は両手で剣を掴み、それを受け止めた。高い音が通路に鳴り響く。
身体に骨や剣よりも遥かに重いものが圧し掛かる。
思わず呻き声が漏れた。
勇者は目の前の異常な光景に目を奪われながらも、
剣を構えて骸骨の懐へ向かう。
骸骨は巨大な剣で、戦士の剣を折り、肉を断とうとする。
しかし、お互いに動かない。
やがて骸骨の頭上に光の球が現れる。
それは小さなものだったが、徐々に明るみを増し、膨らみ始める。
「目を閉じて!」と僧侶は叫んだ。
勇者は咄嗟に目を瞑る。視界は暗闇から、薄っすらと白く変化する。
瞼の向こうで、光が爆発したのがわかった。
240:
目を開くのと同時に、身体が吹き飛ぶような衝撃に襲われる。
しばらく宙に浮いたような感覚に陥った後、背中に激痛が走る。
吹き飛ばされた。瞬時に理解できた。戦士が隣を転がっている。
地面を転がる勇者たちと入れ替わるように、
僧侶のもとから炎の球が骸骨へ向かう。
まもなく炎は骸骨の前で破裂した。
しかし、やはり骸骨は無傷だった。
剣から煙が立ち昇っているのを見ている限り、また防御されてしまったらしい。
「だめだ」と戦士は地面に這いつくばりながら言った。
「まだ、わからないだろ……」勇者は立ち上がる。「みんなで出るんだろ」
「でも、もう……」僧侶は恐怖からか、呼吸のペースが狂っていた。
エネルギーの限界も近いようだ。
「だめなんだ」戦士は天井を指差した。
241:
勇者は視線を上げる。見覚えのある不気味な輝きが見える。
あれは、蜘蛛の目。ぎょろぎょろと蠢くその数は、百を超えている。
天井には蜘蛛が二〇匹は見えた。
「蜘蛛が来ちまった」戦士は立ち上がって言う。
「このままだとみんな死んじまう」
「嘘だろ」
頭上で、青白い光が広がり始める。
雷光は洞窟の凹凸を不気味に照らし出す。
勇者は、ただそれを眺めているしかなかった。
242:
「行け」
考えろ。生き残る方法だ。違う。そうじゃない。全員で生き残る方法だ。
「走れ」
どうすればいい? 蜘蛛を倒す? どうやって? 骸骨を倒す? どうやって?
「早く」
「やめろ……黙っててくれ。今考えてるんだよ……糞」
「行け!」
「……」
「早く!」
「……糞が」
「死ぬな、走れ!」戦士は骸骨へ突進する。
243:
「……絶対に戻れよ。やばいと思ったら逃げろよ。絶対に死ぬなよ。
死んだら許さないからな!」勇者と僧侶も戦士の後に続く。
「俺が死ぬかよ。死ぬわけないだろ」
「わかってる! わかってるよ! ああ、糞……! 糞が……」
勇者の声は震えた。これから起ころうとしている事態を理解したくなかった。
「絶対に追いつくんだよ。帰ってこなかったら承知しないからね」
「わかってる。おいリーダー、そいつを頼んだぞ! 約束だ!」
洞窟全体に言葉にならない絶叫が響く。剣がぶつかり合う音が隣で鳴った。
勇者と僧侶は死に物狂いで足を動かした。
背後で青白い閃光が炸裂し、轟音が響く。
ふたりは振り返らずに、ふたたび暗い道に飛び込んだ。
何かの壊れる音がした。それは外側からも聞こえたし、内側からも聞こえた。
それはいくつも聞こえた。
244:
10
「数が多いな」ユーシャは蜘蛛の脚を切り裂く。
脚が三本になった蜘蛛はその場から逃げようと試みたが、
すぐに大剣使いの巨大な剣で叩き潰されてしまう。
緑っぽい液体が飛び散る。まもなく異臭が立ち込めてくる。
魔法使いは鼻を摘まみながら呪文を呟き、潰れた蜘蛛を火葬してやった。
「それに、くさい」と魔法使いは眉間に皺を寄せた。
「あんた、鼻が利くのによく平気でいられるわね」
「慣れたものですよ、こんなもの」大剣使いは鼻を摘まんで笑った。
245:
第一王国を出立したユーシャたち三人は、数十日かけて“蜘蛛の巣”に辿り着いた。
宿の禿げた男が言っていたとおり、洞窟には蜘蛛がうようよいた。
ただ、それらはユーシャの知る蜘蛛とはすこし異なったものだった。
大きさは尋常ではないほど大きいし、脚は四本しかないし、雷を吐く。
どう考えても、あれは蜘蛛の形をした怪物だった。
洞窟自体も奇妙なものだ。光る苔に、光る茸。
蜘蛛も十分におぞましいが、なによりも青や緑に発光する植物の存在が恐ろしかった。
照らされた壁に、凹凸によって模様が浮き出るのだが、それもまた恐ろしい。
現在、ユーシャたちは洞窟内の広い通路を歩いていた。
幅は四、五メートルあるし、高さも同じくらいある。
苔が道を照らしているおかげで、光の魔術を使う必要もない。
蜘蛛以外に、特に不便であることはなかった。
空気も冷たくて、外よりも涼しい。ただ、湿気がすこし気になる程度だ。
246:
「ねえ。なにか話をしてよ」と魔法使いは唐突に言った。
「また無茶振りですね」大剣使いは巨大な剣を背負い直して薄く笑った。
「黙って歩くのもつまらないじゃないの。ねえ?」
「そうだな」とユーシャは適当な返事をした。
「ほら」
「いや、今のユーシャ様の返事は、“べつにお前の話なんかどうでもいいけど、
話すんならちょっと聞いてやろうかな。どうせ暇だし”みたいな返事でしたよ」
「そんなことないって。ねえ?」
「そうだな」
「ほら」
247:
「相変わらず息ぴったりですね。あなたたちには敵いませんよ」
大剣使いは肩を落として笑った。「なにを話しましょうか」
「なんでもいいわ。話したいことを話して頂戴」魔法使いは言った。
「急に話をしろといわれましても……難しいですねえ」大剣使いは唸る。
「お前の昔話が聞きたいな」とユーシャが言った。
「私の昔話ですか」大剣使いは表情を歪める。
「話したくないんならいいけど」
「……わかりました」大剣使いの表情が、すこし翳ったような気がした。
「でも、あんまり面白い話じゃないですよ」
248:

第一王国で、“私が五、六歳のころ、西の大陸の端っこの砂浜で
先生に拾われた”というのは話しましたね。
私には、それ以前の記憶はありません。
親の顔も知らないし、どこから来たのかもわかりません。
だから、私を拾ってくれた先生は、親のようなものなんです。
どうして先生と呼ぶのか、ですか? それは彼が学校の先生だからです。
剣の先生ではなく、学校の先生です。
ちなみに言っておくと、彼は筋骨隆々の男ではなく、よぼよぼのお爺さんですよ。
私が先生と過ごしたのは、西の大陸の北西にある、小さな漁村でした。
海沿いの、ほんとうに小さな村です。
男は皆、早朝から日没まで海に漁へ行くんです。
女は皆、村で男の帰りを待つんです。
子どもは学校へ通い、老人は懐かしむように海を眺めるのです。
先生はそんな村で、小さな学校の教師をしていました。
二、三〇人ほどの子どもたちに、いろいろなことを教えていました。
249:
彼は早朝の海岸を散歩するのが趣味でした。
その日もいつものように散歩していた彼は、砂浜で私を見つけます。
すると、私を抱えてすぐに家へ戻ったそうです。
彼はひとりで小さな家に住んでいました。奥さんは先立たれたのだとか。
寂しかったせいもあるのかもしれませんが、私が何も憶えていないと話すと、
すぐに「ここで生きなさい」と言ってくれました。
先生は優しい人でした。でも、村の人間はそういう風にはいきません。
私は、余所者なのですから。
あなたたちにもわかるでしょう。小さな村の人間というのは、
村の中だけで人間関係を完成させようとします。意味もなく外の人間を嫌うのです。
“昔からそうだった”と、思考を停止させて言い張るんです。
あなたたちの村に余所者が来たとき、
おそらくそれを歓迎するものは少なかったでしょう。
もちろん、私も村に歓迎される存在ではありませんでした。
外を歩けば、刃物のような視線が飛んでくるのです。
でも、当時の私は何も理解していませんでした。馬鹿でしたからね。
どうしてみんなこっちを見るんだ? と、首を傾げていただけです。
250:
やがて私は学校へ通うことになります。
もちろん孤立します。誰からも相手にされません。
皆が皆、虫の死骸を見るような目で私を見るのです。
子どもというのは残酷ですね。味方は先生だけでした。
私が九歳か一〇歳のころです。その日は、いつものように晴れた日でした。
私もいつものように学校で過ごしていました。いつものように、ね。
しかし、その日はちょっとした事件が起こってしまいました。
誰かが言い放った一言で、私の中の何かが爆発してしまったのです。
ほんとうにくだらない一言です。でも、私はだめでした。
感情を抑えられなかったんです。思えば、私は子どもでした。
251:
しかし、その日はちょっとした事件が起こってしまいました。
誰かが言い放った一言で、私の中の何かが爆発してしまったのです。
ほんとうにくだらない一言です。でも、だめでした。
感情を抑えられなかったんです。思えば、私は子どもでした。
内側に溜まっていた不満や不一致、失望や憤怒が、破壊衝動に姿を変えます。
私はその“誰か”の顔をぐちゃぐちゃになるまで殴り続けました。
ほんとうに、ぐちゃぐちゃにしてやりました。鼻も目も歯も口も潰してやりました。
でも、それだけじゃ足りないんです。
染み付いたものは、そんな小さなことでは消えないんです。
あなたたちにはわからないでしょうが、限界が来ると、
自分が何をしているのかがわからなくなるんです。
その“誰か”から血が噴き出しても関係ありません。
悲鳴をあげても、骨の砕ける音がしても、知ったことではありません。
たぶん、そのときの私はそいつを殺してやるつもりだったんでしょう。
きっと、殺しても、バラバラに切り裂いても足りなかったでしょうけど。
結局、誰だったんでしょうね、あれ。今となってはどうでもいいですが。
252:
私を止めるものは誰もいませんでした。
その“誰か”は、ほかの誰かが自分の身を危険に曝してまで
救う価値のある人間ではなかったのでしょうか。
それとも、みんな私が怖かったのでしょうか。
私は馬乗りになって、その顔を叩き潰そうとします。
しかし、しばらくすると先生が駆けつけてきます。
もちろん私は怒られます。でも、さっきも言ったとおり、私は馬鹿だったんです。
どうして怒られてるのかが理解できませんでした。
もしかすると、自分が悪いと認めたくなかっただけだったのかも。
その日は学校が終わってからすぐ、先生に連れられて
“誰か”の家に謝りに行きました。“誰か”は死んでいませんでした。
非常に残念なことに、生きていました。
253:
私は“誰か”の母親にこれでもかと罵声を浴びせられ、
父親からは何度も殴られました。
もちろん、どうしてなのかは理解できていませんでした。
とても苛々したのを憶えています。殺してやりたいほどには苛々してました。
でも、先生は必死に頭を下げました。もう、なにがなんだか。
わけがわかりませんでしたね。
“誰か”の母親はひたすら、常識がどうだの、
“これ”は人間として終わっているだのと怒鳴り散らしました。
常識って、なんなんでしょう。人間らしさって、なんなんでしょう。
私には未だにわかりません。
家に戻ってから、先生は何度も私に謝りました。
もちろん、私には意味がわかりませんでした。
先生はとても後悔していました。
どうしてこいつにもっと大事なことを教えてやらなかったんだ、と。
でも、それは遅すぎました。私は大事なものを失った後でした。
先生の言う大事なものとは“信頼”とか“信用”とかいうものでした。
254:
その日から先生は私を登校させず、夜になってからいろんな事を教えます。
言葉遣いから笑い方まで、赤子を育てるようなものだったのでしょう。
私は先生の言葉を必死に憶えました。
先生の悲しむ姿を見るのだけは、嫌だったからです。
ちなみにこの話し方は、先生から教わったものです。
どうです、完璧でしょう? 必死だったんですよ、ほんとうに。
255:
時間は過ぎ、私は一四歳になります。
以前あなたにも言われたとおり、私は昔から「顔は綺麗」だったんです。
先生の真似をして海岸を散歩していると、何も知らない馬鹿な女の子が寄ってきます。
とてもいい匂いがするんですよね、女の子って。
私は優しくて敵意のない匂いが、たまらなく気に入りました。今でも好きです。
でも、女はこの世で信用してはいけないもののひとつです。
その頃くらいからでしょうか。
私は自分の腕力が、普通とは違うという事に気付きます。
異常だったんです。やがて女の子も離れていきます。
村を歩けば、化け物と言われました。女は悲鳴をあげて逃げていきます。
怪物が現れた、と。
私は教わったとおり、破壊衝動を必死に堪えながら先生の家へ戻ります。
家の外からは、村から出ていけという怒号が毎日のように飛んできます。
でも、先生だけは私の味方でした。先生は私に、たくさんのことを教えてくれました。
生きていくためのことを、すべて教えてくれました。
256:
家の外からは、村から出ていけという怒号が毎日のように飛んできます。
でも、先生だけは私の味方でした。先生は私に、たくさんのことを教えてくれました。
生きていくためのことを、すべて教えてくれました。
しかし、それも私が一六歳になるまでの話です。あれはとても寒い日の早朝でした。
先生はいつまで経っても起きてきません。
私がいくら呼んでも返事をしてもらえないんです。
信じられませんでした。先生は死んでしまったのです。
嘘のようですが、私は悲しみました。ほんとうですよ。
初めて悲しんだのだと思います。
先生は私の唯一の味方で、友達だったんです。
私はその日のうちに村を出ました。
もう、あの場所に居場所はありませんでしたし、未練もありませんでした。
最後に火でも放ってやればよかったかもしれませんね。
257:
その後もいろいろありました。
鍛冶屋で働きながら剣を作ったり、小さな魔術師から魔術を習ったり、
誰かから頼まれて怪物を退治したり、パン屋で働きながらパンを齧ったりしてました。
特にパン屋で働くのは楽しかったです。まあ、女の子が居たからなんですけどね。
私にも甘酸っぱい思い出のひとつくらいはあります。
でも、どれも私の居場所ではありませんでした。
それで数年前、私は傭兵になりました。
信頼という曖昧なものが、お金として視覚化されるのです。
このシステム、わかりやすくて私は好きです。
やがて、私は港であなたたちを見つけます。
そしてあなたたちとの旅は、とても楽しいものになるのでした。
めでたし、めでたし。
258:

大剣使いは笑顔を浮かべる。「どうです。面白かったですか?」
「ぜんぜん」魔法使いは寂しげな目をしながら言った。
「へんなこと訊いて悪かった」
ユーシャは大剣使いのほうを見ずに言う。「ごめん」
「どうしたんです。つまらない話だったなら、
いつもみたいに鼻で笑ってくれていいんですよ。
“つまんねえ、さっさと死ね”って、笑い飛ばしてくださいよ」
ふたりは何も言わなかった。
「立ち止まらなければ、どうにでもなるんです」
やがて、大剣使いは光る苔を見上げながら言う。
「進むべき道は曲がりくねっているし、そこを照らす明かりも
壊れていたり眩しすぎたりします。でも、生きて歩いていればどうにでもなるんです。
先生が言っていたんです、間違いありません」
262:
しばらく歩き続けると、広い空間に出た。
高さは歩いてきた通路とほとんど変わらない。
天井にはびっしりと苔と茸が生えていて、
どれも足元と壁を不気味に照らし出している。
どこかから、大量の水が岩にぶつかるような音が聞こえてくる。
近くに滝でもあるのだろうか。やけに涼しかった。
「ちょっと休憩しましょうか?」と大剣使いは涼しい顔で言った。
「なに、わたしに言ってるの?」
魔法使いは額に粒のような汗を浮かべながら言った。
「しんどいなら言えよ」と、ユーシャ。「倒れられても困るからな」
「……しんどい」魔法使いは仄かに顔を赤らめた。「休憩したい」
263:
「ふふん」大剣使いは満足げに笑った。そして、その場に腰を下ろした。
「なに」
「いやあ、かわいいなあって」
「そう、ありがとう」魔法使いは大剣使いの隣に座り込んだ。
「あれ、怒らないんですね。いつもなら気持ち悪いって言われてるところですよ」
「疲れてるの」
「そうですか」
264:
ユーシャは黙ってふたりを眺めていた。なんだか話しかけづらかった。
余計なことを尋ねてしまったと、ユーシャはひどく後悔していた。
大剣使いという人間の見え方が変わってしまった。
話を聞いてみると恐ろしいやつにも思えるし、かわいそうなやつにも思える。
なんて声をかければいいのかがわからない。
「どうしたんです。ユーシャ様も座ってくださいよ」大剣使いは笑顔で言う。
ユーシャははっとして顔を上げる。「うん」と、頷いて魔法使いの隣に座った。
「なんだか、元気がないですね」
「あんたの話を聞いて落ち込んでんのよ」魔法使いは言う。
「こいつはちっちゃいことで落ち込むの。
わたしに癒しの魔術を使ってもらうのが申しわけないとか、
そんなつまんない事を気にするやつなのよ」
「なるほど。それで私から癒しの魔術を……」
大剣使いは小さく呟いて、笑いを堪えながら続けた。
「そういえば、第一王国の人を助けてやりたいとか、
そんなことを言ったときも暗い顔してましたね。
意外と他人想いなんですね、ユーシャ様。かわいらしい」
265:
「うるさい」ユーシャは頭を掻きながら言う。「さっきはへんなこと訊いてごめん」
「まだ言ってる」魔法使いは呆れた。
「べつにいいんですよ。わたしが話したかったんですから。
それに、ちょっとくらい私のことも知ってもらいたかったですからね。
普段はこんなこと話さないんですよ。あなた達は特別です」
「うん、ありがとう」ユーシャは嬉しくなった。
すこしは信用してくれているのだろうと思うと、顔が綻ぶ。
彼の居場所になれるのなら、それはいいことだと感じた。
「なにか訊きたいことがあるのなら、答えますよ」と大剣使いは続ける。
「いや、もう大丈夫。悪かったよ」
「そうですか」
三人はしばらく天井で瞬く苔と茸を眺めていた。
涼しい空気は火照った身体を冷やしてくれる。
どこかから水の音が聞こえてくる。蜘蛛の気配はない。
なんだか、心地良い時間だった。
266:
「いい匂いがしますね」と、突然大剣使いが言った。
「そうだな」とユーシャは答える。
「いい匂い?」魔法使いは首を傾げて、鼻をひくつかせる。「どんな匂い?」
「優しくて、敵意のない匂いです」
「それって、もしかして」魔法使いは汚いマントに包まって、ふたりを交互に睨む。
「わたしの匂い?」
「え? どうなんですか? ユーシャ様」
「え? なんで俺に押し付けるんだよ? おかしいだろ?」
「最低」魔法使いはユーシャの顔をじっと睨んだ。
ユーシャは引き攣った笑みを浮かべながらそれを見つめ返した。
頬が赤い。怒りからか恥ずかしさからか、唇が震えている。とても嫌な予感がした。
「し、仕方ないだろ。だって、いい匂いがするんだから……」
ユーシャはしどろもどろに言い訳をする。
最後まで言ってから、これは言い訳になっていないと気付く。
「……汗かいてるのに、ひとの匂いを嗅がないでよ」
魔法使いはマントに顔を埋めた。「恥ずかしい……」
「あれ、怒らないんですね。めずらしい」大剣使いは嬉しそうに笑う。
「今日はいつもの五〇〇倍くらいかわいいですよ。どうしたんです?」
267:
魔法使いは首を振り、マントに顔を擦りつけた。
「……わたしがいつも怒ってると思ったら大間違いよ」
「……あれだよ。たぶん、お前に気を使ってるんだよ」ユーシャは言う。
「あんな話を聞いた後だから、殴るのはやめておこうとか思ってるんだよ」
「そうなんですか?」
魔法使いはマントに顔を埋めたまま、無言で小さく頷いた。
「ほら」
「あなた達は変わってますね。それなのに、似たもの同士です」
大剣使いは小さく笑う。
「ふたりとも優しくて、私は好きですよ。それに、とても羨ましいです」
268:
「羨ましい? なにが?」
「ふたりの間にあるものの大きさです。信頼とか、そういうものです。
つまるところ、あなた達の仲の良さが羨ましいです」
「そうか」
「ほかにも愛とかね、そういうよくわからないものが超羨ましいです。
あなた達の間には、眩しいくらいに愛的な何かが迸ってますよ。
ベッド上のパフォーマンスが終わって、
その愛的な何かが残っていたとしたら、私にもちょっと分けてくださいね」
「黙れ」魔法使いはマントに顔を埋めたまま言う。「やっぱりお前死ね」
「ありがとうございます」大剣使いは破顔した。
269:
ふたたび心地良い沈黙が訪れる。
それから三人はほとんど話し合わず、その場でたっぷり身体を休めた。
やがて魔法使いは立ち上がり、黙って歩き始める。
男たちも、それを追いかけるように歩き出す。
眼前で大口を開けて待っている道は、真っ暗だった。
ごつごつとしていて、明かりは灯っていない。
冥府の底へ続くような深淵のように見える。
深淵の果てでは、青白い光が輝いている。
それは救いなのか、拒絶なのか、今のユーシャには何もわからなかった。
270:

急勾配の坂になった通路を走り抜けると、大きな空間に突き当たった。
半径五十メートルほどの円形の空間で、
通ってきた道以外にもいくつかの通路が見える。
小さな穴が七つは見えた。ぜんぶ道なのだろう。
背後からは蜘蛛が迫ってきている。轟音が鳴り、青白い火花が炸裂する。
魔法使いは呪文を唱え、魔術の障壁でそれを受け止める。
表情には苦痛が滲んでいる。
どうやら、雷を打ち消すのには相当なエネルギーを消費するらしい。
早めに蜘蛛を蹴散らしてしまおうと、ユーシャは駆け出そうとした。
しかし、「待ってください」と大剣使いに止められる。
「全員できるだけ下がってください」
「なんで。このままだと拙いだろ」
「だからこそです」大剣使いは通路の出口辺りの天井を指差して、
魔法使いに向かって続ける。「あの辺りを魔術の炎で崩してください」
「わかった」と魔法使いは頷き、素早く呪文を詠唱する。
彼女の背後に七つの小さな炎の球が現れた。
271:
かん、と間抜けな音が広い空間に響き渡る。杖で地面を突いた音だ。
それを合図に、炎は上昇し、破裂し、頭上の岩盤を破壊する。
空気が揺れ、天井からは大きな岩が大量に降ってくる。
地面に衝突する岩は、大きな音を鳴らし、砂埃を巻き上げる。
蜘蛛の大群は岩の向こうの通路に閉じ込められた。
しかし、一体の蜘蛛がこちらにはみ出していた。
四の脚のうちの一本を岩と地面にすり潰され、
奇声をあげながらのた打ち回っている。
蜘蛛はこちらに十ほどの目を向け、青白い球体を作り始める。
ユーシャはそれに歩み寄り、目を蹴った。
奇声が洞窟に反響する。耳を劈くその声を無視し、剣を振り下ろす。
蜘蛛はふたつに裂かれた身体から粘ついた体液を吐き出しながら、絶命する。
青白い球体も徐々に光を失い、まもなく跡形もなく消滅した。
272:
「これですこしは時間が稼げるでしょう」大剣使いは言う。
「なるほど」とユーシャは異臭に顔をしかめながら言う。
「道を塞げばよかったんだな」
「でも、ここは蜘蛛の庭みたいなものです。
なので、いずれ他の道から回り込まれてしまいます。なので、早く進みましょう」
「そうね」魔法使いは額に汗を浮かべながら言った。
「もう後戻りできなくなっちゃったし」
「でも、どれが正解なんだ?」
ユーシャは辺りを見渡す。ここも不気味に輝く苔や茸が壁を覆っていた。
ただ、先程の炎の爆発で開いた穴から
外光が射しているおかげで、今までの場所よりもずっと明るい。
見上げると、かなり高いところに開いた穴から青い空が見える。
すこし目線をずらし、天井に目を向けると、そこには大きな蜘蛛がいた。
273:
「なんだあれ」と思わず声が間抜けな漏れた。
今までの蜘蛛もかなりの大きさだったが、
頭上のそれは今までと比べ物にならないほどの巨大さだった。
全長は五〇メートルを超えている。先程の蜘蛛の五〇倍以上の大きさということになる。
鋭い鉤爪のようなものが脚の先端にあり、全身は蛍光色の毛で覆われている。
今までのとほとんど同じ形態をしているが、
唯一違うものがあった。腹が異常に膨らんでいる。
剣で突いたら破裂してしまうんじゃないかと思うほどに張っていた。風船のようだ。
「どうしたの」と魔法使いは言い、天井を見上げる。
まもなく隣から、「なにあれ」という間抜けな声が聞こえた。
「蜘蛛ですね」と大剣使いは答えた。
「メスのようです。女王蜘蛛といったところですかね」
「なに余裕ぶっこいてんのよ」
274:
女王蜘蛛は巨大な鉤爪を天井の岩から引き剥がし、重力に身をゆだねる。
宙で体を翻し、まもなく広い空間のど真ん中に、大きな音をたてて着地した。
埃が舞い上がる。
今までのとは違うというのは一目瞭然だった。
目でも肌でも本能でも感じ取れた。
こいつがこの巣のボスなのだろう、とユーシャは即座に理解した。
すべてが巨大化したその身体は、嫌でも細部までを見せ付けてくれる。
口内は粘性の涎のようなもので覆われていて、
円を描くように配置されたいくつもの小さな突起が蠢いている。
全身の蛍光色の毛は細くて短い。毛の下には、土のような茶色の肌が見える。
あとから接合したように不自然な大きさの腹には毛がほとんど生えておらず、
なにか大きな筋がいくつも通っている。
それは時々、大きく脈動する。生理的な嫌悪感を催さずにはいられなかった。
十の真っ黒な眼球は三人を映している。
今までの蜘蛛とは違い、その目に感情を読み取ることが出来た。
それは炎が揺れるように、黒い目に光を灯している。正体は怒りだった。
275:
女王蜘蛛は身体を震わせた。洞窟に入ってから、何度も見た光景だ。
この後、蜘蛛の頭上に青白い球体が現れ、雷が放たれる。
全長一メートルの蜘蛛の生み出す球体のサイズは
直径三〇センチメートルほどのものだった。
魔法使いはほとんど反射的に杖を構える。
女王蜘蛛の数メートル頭上に青白い球体が現れる。
しかし、大きさは今まで見たものとは比べ物にならない。
直径は二〇メートルに達しそうな巨大さだった。
ぱちぱちと、何かが破裂するような小さな音が連続して聞こえてくる。
宙に紫色の筋が見えた。雷だ。
「なにあれ」魔法使いは身体を震わせた。口元が歪んでいる。
「あれを受け止めろっていうの?」
「通路に逃げ込むという手もあります」大剣使いはゆっくりと後ずさる。
「小さい蜘蛛がうじゃうじゃいるかもしれないぞ」ユーシャは剣を構える。
この空間には今、七つの逃げ道がある。
しかし、すべてが出口に繋がっているとは限らない。
行き止まりや巣にぶち当たる可能性もある。
もちろんユーシャの言ったとおり、蜘蛛の大群にぶち当たる可能性だって存在する。
276:
「しかし、このままだと彼女のエネルギーが擦り切れてしまいます。
あんなものを何度も受け止めたら、間違いなく倒れてしまいますよ。
ユーシャ様もそれは嫌でしょう? 小さな蜘蛛なら私たちでなんとかできます。
でも、おそらくあれはそういう風にはいかないと思います」
視界に、困り果てた顔で、なにかに縋るような目をしながら
こちらを見つめる魔法使いが映る。
一メートルサイズの蜘蛛の雷を受け止めるのですら
かなりのエネルギーを消費するのに、
その五〇倍以上の力で攻撃された場合、魔法使いはどうなる?
ユーシャにでもそれくらいのことは理解できる。
大剣使いの言うとおり、選択肢は逃げることしかなかった。
もう時間はほとんどない。逆に言えば、すこしならある。
具体的に言うならば、一撃だけを浴びせられる僅かな時間がある。
しかし、渾身の一撃でも女王蜘蛛を倒せるとは思えない。
倒せなかった場合、全滅は免れられない。
ユーシャは剣を鞘に収め、後退する。背後にあるのは岩で塞がれた通路だ。
壁沿いに十メートルほど走れば、隣の通路に入ることができる。
「逃げろ」とユーシャは隣の通路を指差して叫んだ。
それを合図に、他のふたりは駆け出す。
ユーシャも後を追って、暗い通路に飛び込んだ。背後で青白い閃光が迸った。
277:
「なによあれ!」と隣を歩く魔法使いは息を切らしながら怒鳴った。
誰も返事はしなかった。
三人が飛び込んだ通路は、かなり狭かった。
幅も高さも二メートルほどしかない。息苦しくて、暑い。
苔や茸のおかげで明るいのが唯一の救いだった。
しかし、しばらく進むと行き止まりにぶつかった。
大剣使いは振り返り、「どうします?」と問いかける。
「どうしますって、戻るしかないじゃないの」魔法使いは苛立たしげに言った。
「それはそうですが、そこからどうするのかは考えないといけないでしょう。
やり過ごす、もしくは倒す。どっちにしても何か案が必要になってきます」
「倒せるのか?」ユーシャが言う。
「わかりません」大剣使いは目を瞑った。
「やり過ごす方法を考えたほうがよさそうね」
「できることならそれがいちばんですね」
278:
「じゃあ、さっきみたいに雷が落ちてくる前にべつの道にいけばいいじゃないか。
それなら、そのうち正解の道が見つかるだろ」ユーシャは言う。
「先程は運が良かっただけです。
たまたまべつの道が近くにあったから、無事にここに飛び込めました。
わかっていると思いますが、あの女王蜘蛛がいる場所には、
さっき塞いだものを除いて道が七つあります。
しかし、ここ以外の六つの道は、かなり離れたところにありました」
「……つまり、ここからだと他の道に辿り着く前に、
あのバカでかい蜘蛛の雷で黒焦げってわけね」
魔法使いはため息を吐いた。「どうするのよ」
「あの雷、魔術の障壁で受け止められませんか?」
魔法使いは眉間に皺を寄せて言う。
「一度だけならなんとかなるかもしれないとは思うけど、
やってみないことにはなんとも言えないわ。あの大きさは反則よ」
「そうですか……一度攻撃をやり過ごして、
その隙に通り抜けるというのはだめですね。
そんな危ない賭けに出るわけにはいかないです」
279:
「雷の放出を止めるってのは?」ユーシャが言う。
「あの蜘蛛の腹、突いたら破裂しそうなくらいに張ってたぞ。
脚と比べると、かなり柔らかそうだった。
そこを切って怯ませて、その隙に通り抜けるってのは?」
「……もしかすると、ショックで雷を放出する可能性もありますが、
試してみる価値はあるかもしれませんね」大剣使いは頷く。
「しかし、通用するのは一回きりでしょう。あれも馬鹿ではないはずです。
二度目からは、なにか対策を立ててくるでしょう。
まあ、一回で正解の道を見つけられたらその心配は必要ないんですがね」
「次のが正解の道じゃなかったらどうするの?」と、魔法使い。
「その場合は、次のアイデアを考えなければならないですね」
「光であいつの目を眩ませるってのはどう? もしくは潰す」
「蜘蛛は目よりも音を頼りにしています。なので目が見えなくても
私たちが部屋に入ってきたと分かりますし、そこで雷を放つことも可能なはずです」
280:
「じゃあ耳を潰せば」とユーシャ。
「蜘蛛に耳はないです」
「意味が分からない。だったらなんで聞こえるんだよ」
「蜘蛛には耳の代わりに聴毛というものが脚にあるんです。
身体のちいさなくぼみからは地面の振動を感じることもできます」
「じゃあ何、歩いたら音と地面の揺れでばれるってこと?」と魔法使い。
「どうですかね。そこまでは知りません」
大剣使いがそう言うとほとんど同時に、道の奥に青白い光が見えた。
雷だ。しかし、それはこちらに届く前に消えた。
281:
ユーシャは剣を構え、目を細める。
歩いてきた道のずっと奥に、蛍のように淡く光るものが覗える。
あの色には見覚えがある。蜘蛛だというのはすぐにわかった。
それも一体ではない。他のふたりもすぐに気がついた。
魔法使いは呪文を唱え、杖を構える。
正面に七つの炎の球が現れ、円を描くように回転し始める。
「ちょっと熱いかもしれないけど、我慢してね」
彼女はそう言うと、杖で軽く地面を突いた。
直後に七つの炎の球がぶつかり合い、ひとつの巨大な炎の球に姿を変えた。
それはまるで太陽のように見えた。
もう一度彼女が杖で地面を突くと、
通路を埋めるほどの熱線が炎の球から打ち出された。
焼かれる蜘蛛の断末魔が聞こえてくるが、それはすぐに炎で上塗りされる。
やがて炎は消える。通路に残ったのは焦げた黒い壁と、
焼き切れずに千切れた蜘蛛の脚だけだった。苔や茸はすべて焼けたようだ。
魔術というのは暴力的なものなのだと改めて思い知らされる。
282:
「なあ」ユーシャは剣を収める。
「今の魔術で女王蜘蛛を倒せるんじゃないか?」
「試してみる価値はありそうですね」
「無理。相手は五〇メートルを軽く超えてるのよ。
わたしが撃てる熱線の太さは限界でも三メートルくらいよ」
「十分だと思うんですが」大剣使いは引きつった笑みを浮かべる。
「一回では倒せないでしょ。これだとせいぜい脚一本を撃ち抜くくらいね。
そもそもこれは何回も使えるような魔術じゃない」
魔法使いは息を切らし、赤い顔で言った。「それにもう、ちょっとしんどいの」
「そうですか。それはすみません」
三人はふたたび女王蜘蛛の待ち受ける広い空間へ向かった。
283:
ユーシャたちは広い空間の手前で立ち止まる。
女王蜘蛛は、まだ中心に居座っていた。
真っ暗になった空間で、淡く光を放っている。
どうやら最初の雷の放出で苔や茸はすべて焼け、壁も黒焦げになってしまったらしい。
「どこに道があるかがわかりにくいな」と、ユーシャ。
「蜘蛛の向こう側に一つ、左奥に三つ、右奥に二つですね」大剣使いが言う。
「一番近いのは右側の道です。まあ、それでも
直線距離で五〇メートルほどの距離がありそうです」
「くても七秒くらいはかかっちまうのか」
「でもこの距離なら、必死で走ればなんとかなるかもしれませんね。
ただ、蜘蛛の脚で引っかかれてしまう可能性があります。」
「引っかかれる?」ユーシャは眉間に皺を寄せる。
「女王蜘蛛が脚をぶん回したら、わたし達は薙ぎ払われるってことでしょ。
あいつの脚はかなり長いもの」魔法使いは息を切らして言う。
「その場合はどうするんだ?」
「私に任せて下さいよ」
「任せろって、あの巨体をどうやってなんとかするのよ。大丈夫なの?」
284:
「さっき話したじゃないですか。私の腕力は異常なんですよ」
大剣使いは笑う。「信じてください。私は約束だけは絶対に守る男です。
最初に約束したじゃないですか。私は死んでもあなた達ふたりを守る、って」 
「……わかった」
「よし」ユーシャは剣を鞘から抜いた。「じゃあ行くか」
魔法使いは口の中で光の魔術を詠唱した。
すぐに光が灯る。それを合図に、三人は道を飛び出した。
女王蜘蛛は即座に反応し、天井近くに青白い球体を生成する。
それは部屋中を綺麗な青色に照らしだす。
しかし、そんなものに目を奪われている場合ではない。
三人は死に物狂いで脚を回し続けた。
次の道まであと二〇メートルほどのポイントで、蜘蛛は動いた。
このままでは逃げられると思ったのか、勢いよく脚を地面に叩きつけ、
こちらに向かって引きずるように地面を薙ぐ。巨大な脚は倒れた大樹を連想させる。
それは砂埃を巻き上げながらユーシャたちを潰そうとしている。
大剣使いが前に出る。
必死に走っているはずのユーシャよりも、二、三倍はいように見えた。
285:
「そのまま走りつづけてください!」と彼は叫び、
巨大な剣を地面に引きずりながら走る。
脚は度を緩めることなく向かってくる。
脚との距離が五メートルほどになったとき、
大剣使いは立ち止まり、巨大な剣に力を込めた。
脚は地鳴りのような音を響かせ、近づいてくる。
頭上では雷が瞬き始める。それらは小規模な世界の終わりのような光景だった。
大剣使いは飢えた怪物のような低い唸り声を上げて、大樹のような脚を切り上げた。
岩同士がぶつかり合うような、鈍い音が響く。蜘蛛の脚は千切れなかった。
産毛のような毛に守られていた皮膚は、まるで岩のような硬さだった。
しかし、蜘蛛は高い悲鳴を上げた。
大剣使いの切り上げにより、脚は地面から数メートル浮いた。
それに、硬い皮膚もすこし抉れているのが見える。
傷口からは吹き出す緑色の体液が、雨のように降ってくる。
286:
「うそ」魔法使いは思わず目を丸くして言った。
「あの脚を持ち上げたの? 信じられない」
「早く、行ってください!」大剣使いは走りながら言う。
「なんなの、あんた?」魔法使いも走る。
「ただの、化け物、です、よ!」大剣使いは一足先に次の道に飛び込んだ。
ユーシャと魔法使いも後を追うように飛び込んだ。背後で、青白い閃光が炸裂した。
287:
飛び込んだ先にあったのは、緩やかな勾配の下り坂だった。
足がもつれて、ユーシャは肩を地面にぶつける。そのままの勢いで転がり落ちた。
結局、全身を強く打ってしまった。うめき声が漏れる。でも、生きている。
寝転がったままぼんやりとする頭を働かせ、周囲の状況を把握を試みる。
わかったのは、ユーシャ以外のふたりがちゃんと着地できたことと、
天井にいくつかの苔と茸があることだけだった。
しばらくすると、魔法使いが「ほんとうに、異常ね」と微笑みながら言った。
息をするたびに肩と胸を動かすその姿は、つらそうに見える。
頬は薄く紅潮していて、額は汗まみれだった。栗色の髪が顔にへばりついている。
「……だから、言ったじゃないですか」大剣使いも、めずらしく息が上がっていた。
額にも汗が見える。ただ、顔だけはいつもの涼しいものだった。
「でも、助かった」ユーシャは汗と泥で染まった顔で笑う。「ありがとう」
288:
「ユーシャ様にそう言ってもらえると、とても嬉しいですね」
大剣使いは歯を見せた。「やっぱりあなた達に付いてきてよかった」
「こんな状況でなに言ってんのよ」魔法使いは歯を見せて笑った。
「あなただって笑ってるじゃないですか」
「これは、あれよ。あんたが剣を振るとき、へんな声を出したせいよ。
なによ、あの唸り声。おっさんみたいじゃないの」
「お恥ずかしい」大剣使いは振り返り、ユーシャに手を差し伸べる。
「立てますか?」
ユーシャはそれを握り返して、立ち上がる。「うん、大丈夫だ」
喋ると口の中に砂利が入り込んだので、唾といっしょに吐き出した。
「なに、その顔。泥まみれじゃないの」魔法使いは吹き出した。「きたない」
「ほっとけ」
大剣使いは微笑む。「さあ、行きましょう」
289:
今度の道は、幅が五メートルほどあった。
高さは先ほどと変わらず、二メートルほどだった。
苔や茸は壁一面にびっしりと生い茂っている。目がちかちかしてくる。
道は複雑に曲がりくねっていた。当たり前のように、急勾配の坂道もあった。
蜘蛛の姿はない。
ユーシャたちはここが出口であることを祈って、ひたすら歩を進めた。
しばらく歩いたところで、三人は立ち止まる。
どうやら、この先には広い空間があるらしい。
大剣使いは小声で「止まってください」と言った。
「どうしたの?」と魔法使い。
「外れでした」大剣使いは壁に凭れてため息を吐いた。
「女王蜘蛛の部屋に戻ってきてしまいました。ここはさっき入った道の隣のようです。
どうやら、右側のふたつの道は繋がっていたようですね」
290:
「残る道は四つか」ユーシャは長く息を吐く。「どうする?」
「今度はいちばん近い道でも直線距離で七〇メートルほど離れています。
おそらく、普通に走り抜けるだけでは間に合いません。雷でお陀仏です」
「腹を叩いて即離脱、で間に合うかな?」
「それで雷が収まれば大丈夫ですが、
攻撃のショックで雷が放出されたときが心配です。
しかし、おそらく生成が中断されて放出されるので、
最大出力の放電ではないでしょう。なので……」
大剣使いは魔法使いにちらりと目を向ける。
「もしかすると、わたしの魔術の障壁で耐えられる“かもしれない”ってことね」
「そういうことです。いちおう全員に、
ある程度の強度を持った壁を張っておいてください」
「了解」魔法使いは詠唱する。三人は薄い膜のようなものに覆われた。
「で、誰が叩きに行くの?」
「私が行きますよ」「俺が行く」
ユーシャと大剣使いはお互いの声に被せて言った。
291:
「どっちなの」
「だから、俺が行くって」
「ユーシャ様」大剣使いはユーシャの肩に手を置いた。
「“こいつに申し訳ないから今度は俺がやる”だなんて、
余計なことは考えないでください」
「そんなんじゃない」
「じゃあ、なんなんです」
「それは」答えられなかった。図星だった。
「危険なことは私に押し付けてくれればいいんです。
申し訳ないと思ってくれているのは嬉しいんですが、
あなたは生き残って、魔王を倒すことだけを考えていればいいんです。
もし女王蜘蛛が脚を振り回しても、私なら大丈夫です。死にはしませんよ。
……それに、ユーシャ様の剣は小さすぎますからね。期待できません」
大剣使いは微笑んだ。
「……それもそうだな」
ユーシャは弱々しく笑い、頭を掻きながらため息を吐いた。
「勇者って、いったいなんなんだろうな。
世界を救うような力を持ってるんじゃなかったのかよ」
292:
「さあ、なんなんでしょうね。でも、少なくとも
あなたは私の持っていない武器を持ってますよ」
「武器かよ」
「剣のことではないですよ。……たとえば、私には腕力という武器があります。
私にはこれしかないんです。でもあなたは違うんです。
ユーシャ様は、もっとたくさんの武器を持っているんです。
確かに力はあるとは言えませんが、力と強さはイコールではありません。
あなたは強いんです」
「ふうん」ユーシャは眼前の暗闇を見据える。
そこには淡く浮き出た女王蜘蛛のシルエットが見える。「よくわからない」
「いずれわかります」大剣使いは道と女王蜘蛛の部屋の境界に立つ。
「さあ、行きましょうか」
「いつでもどうぞ」魔法使いは杖を構える。
293:
まもなくふたつの光の球を出現させ、三人は道から飛び出した。
大剣使いはわき目もふらずに、女王蜘蛛に直進する。
ユーシャと魔法使いは次の道へ一目散に向かう。
部屋が青白く染まる。充電が始まった。
もう十秒もしないうちに、部屋は雷で埋め尽くされる。
女王蜘蛛は向かってくる大剣使いの姿を捉える。
それを捕らえてやろうと、禍々しささえ感じられる口内から粘つく糸を放った。
しかし、簡単に避けられてしまう。
大剣使いはそのまま蜘蛛の脇に潜り込み、腹を狙う。
そして先ほど脚を裂いたのと同じように切り上げる。
脈動する管は簡単に引き裂かれて、緑の体液を吹き出した。
身体が緑に染まった。
女王蜘蛛は絶叫する。あまりに高い音で鳴くので、ほとんど聞こえてこない。
まもなく身体全体で怒りを表現するかのように脚先で地面を何度も突いた。
放電は起きない。代わりに小さな地震が起こるが、大剣使いは無視して離脱した。
294:
ユーシャと魔法使いは次の道まであとすこしというところで、
思わず脚を止めてしまった。道から、数十にも及ぶ蜘蛛が現れたのだ。
しかし、このまま立ち止まると拙い。
一瞬ほどためらったが、ふたりはすぐに走り始める。
蜘蛛は身体を震わせ、発光する小さな球体をいくつも生成し始める。
「どけ! 糞が!」ユーシャは剣に力を込め、蜘蛛の大群を薙ぎ払った。
肉が引き裂かれ、そこから飛び出した体液が水たまりのように地面を覆っていく。
蜘蛛の断末魔が響く。異臭が立ち込めてくる。どうでもよかった。
このままだと時間が無いかもしれない。まだ蜘蛛は半分以上残っている。
小さな球体の出現から二秒ほどで、蜘蛛は一斉に細い雷を放った。
「止まるな! 進め!」と魔法使いは叫び、
ユーシャの目の前に魔術の障壁を作り出し、雷を受け止める。
受け止めながら、詠唱する。次に現れたのは、二本の炎の槍だった。
赤く光る槍はまもなくその場から射出され、蜘蛛の身体を貫き、内側から焼く。
まだ蜘蛛は残っている。
残っている蜘蛛は、先ほどの細い雷よりも強力なものをぶつけてきた。
ユーシャは構わず走る。魔術の障壁で覆われた剣で、それらを受け流す。
蜘蛛との距離がほとんどゼロになったとき、ユーシャは力の限り剣を振るった。
その一閃は何匹もの蜘蛛の身体をふたつに切り裂いた。
295:
蜘蛛は全滅した。と、思った矢先、魔法使いの目に、何かの影が映った。
それは天井から真っ直ぐ、ユーシャを目指して降ってくる。
蜘蛛だ。魔法使いは言葉になっていない、絶叫のような声をあげる。
ユーシャは絶叫の中に聞こえた僅かな言葉を頼りに、目を頭上に向ける。
蜘蛛はもう目と鼻の先に迫っていた。剣に力を込めるが、間に合わない。
そのとき、脇から大剣使いが視界に飛び込んできた。
跳び上がった彼は最後の蜘蛛を手で引っ張り、地面に叩きつける。
そして追い打ちをかけるように、巨大な剣でそれを叩き潰した。
「ありがとう」とユーシャは息を切らして言った。脚は止めない。
「拙いです」大剣使いは暗い顔で言う。脚は止めない。
「怯ませられませんでしたし、中途半端な雷の放出も引き起こせませんでした」
「あんたはよくやったわよ」魔法使いは言う。脚は止めない。
「あとはわたしにまかせなさい。一回くらいなら受け止められる、たぶん」
「すいません、お願いします。信じてますよ」
296:
視界が青白く染まる。三人は立ち止まる。魔法使いは素早く詠唱をする。
三人はドーム状の頑丈な魔術の障壁に閉じ込められた。
それから瞬く間もなく、障壁に紫や青の雷が激突した。
女の悲鳴のような異常な音を響かせて、障壁は軋みながらも三人を守る。
魔法使いは歯を食いしばりながら、苦しそうに声を漏らす。
全身から汗が滴っている。顔は真っ赤だった。
ユーシャと大剣使いは見守るしかなかった。早く終われと祈ることしかできなかった。
五秒ほどで放電は止んだ。。
小さな蜘蛛の五〇倍の力を受け止めた魔法使いは、その場に倒れこんだ。
「大丈夫か!?」ユーシャは彼女に声をかける。
「いいから、わたしを抱えて早く行きなさいよ……」魔法使いは弱々しく微笑む。
しばらく(といっても二、三秒だ)すると女王蜘蛛は身体を震わせ、
ふたたび大きな青白い球体に電気を貯めこむ。ユーシャは彼女を抱え、走りだす。
そして暗闇にぶつかるように、暗い道に飛び込んだ。
297:
「ここが正解の道でないと、そろそろ拙いですね」
「うん」と、ユーシャは頷く。
抱えられた魔法使いは「ごめんね」と言った。
「どうして謝るんです」
「わたしすぐにバテちゃうから、足引っ張ってるような気がして」と
魔法使いは言い、弱々しく微笑んだ。
「いや、そんなことないよ。お前はすごい。
お前がいなかったら、俺たちはもう死んでたんだ」ユーシャが言う。
「そうですよ。謝ることはないんです。もっと自信を持ってください。
あなたの魔術は素晴らしいものなんですから。
暴力的でもあり、母性的でもある。私はとても頼りにしていますよ」
「そう……それならよかった」
298:
「お前はすごい魔法使いなんだ。でも、俺は違う」ユーシャは頭を垂れた。
「結局、いちばん足を引っ張ってるのは俺だよ」
「そんなことはありませんよ」「そんなことない」
大剣使いと魔法使いは同時に言う。
「なんだよ」
「たしかにあんたは魔術も使えないし、こいつみたいな腕力もないけど、
わたし達には無いふしぎな力を持ってるのよ」
「安っぽい表現だな。ふしぎな力って、具体的になんなんだよ」
「……それは」魔法使いはユーシャの目を見つめながら、
もどかしそうに口を動かした。「その……」
「答えられないんじゃないか」
「違いますよ、ユーシャ様」大剣使いが割って入る。
「彼女、恥ずかしくて言えないんですよ。
私たちはユーシャ様といると、元気が出るんです。
力が湧いてくるといいますか、なにが相手であろうと負ける気がしなくなるんです」
「それは俺の力じゃない」ユーシャは首を振る。
299:
「いいえ、これはあなたの力です。
そしておそらく、数あるうちの最大の武器です」
大剣使いはそう言い、
「言い方は悪いかもしれませんが、あなたは生きていてくれればいいんです。
勇者とは希望であり、私たちの行く先の暗闇を照らす唯一の光――でしょう?」と
魔法使いに微笑みかけた。
魔法使いは小さく頷いて言う。
「それに、あんたは弱いわけじゃない。十分に強い。ただ、わたし達が強すぎるのよ」
「なんだよ、それ」ユーシャは笑った。
「自信を失ってはいけませんよ、ユーシャ様。
自信の喪失から人間の崩壊は始まるのです」
「うん」ユーシャは頷く。「わかった」
「じゃあ、さっさと魔王を倒しに行きましょう」
30

続き・詳細・画像をみる


韓国人「国籍で差別がある。日本のルールを押し付けないで」 中国人「外国人として不便は感じない」

【韓国】日本の集団的自衛権、韓国の同意が必要…韓国国会、決議採択[12/20]

「機動警察パトレイバー」の実写版『THE NEXT GENERATION -PATLABOR-』の特報映像が公開される!!

「あれは1年前のこと…」←最もかっこよく言った奴が優勝

【経済】マクドナルド 利益半減の驚愕

誕生日おめでとう。旅館予約したから温泉いこう

スフィアに一人だけ美人がいまーすwwwwwwwww

ニコニコの歌い手(笑)叩いてる奴wwwwwwwwwwwwww

おっぱいを机に置いて座る女wwww

TOKIOってよく歌って踊れる農家って言われてるけど

第150回芥川賞・直木賞候補作発表!いとうせいこう、万城目学らがノミネート

【画像】Amazonにバラバラ死体売ってる:(;゙゚'ω゚'):

back 過去ログ 削除依頼&連絡先