後輩「わたしは、待ってるんですからね」【後編】back

後輩「わたしは、待ってるんですからね」【後編】


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8:

 目をさました。
 ここはどこだ? と考える。そしてすぐに気付く。自分の部屋だ。そのベッドの上だった。
 時間は何時だろう? でも時計がない。俺は起き上がってカーテンを開けた。
 
 明け方頃のようだ。東の空から赤い光がゆるく広がっている。
 俺はデスクの上に置いていた携帯を手に取って時間を確かめた。四時半。朝の四時半だ。
 手足が自分のものじゃないような、そんな奇妙な感覚がある。
 たぶん夢のせいだろう。どんな夢を見たのかは、もう思い出せないけれど。
 どんな夢を見たんだっけ? そう考えてみる。でも無駄だった。 
 夢というのはそういうものだ。思い出そうとしても輪郭くらいしかつかめない。
 その輪郭さえも徐々につかめなくなっていく。ひどいときには夢を見たことすら忘れてしまう。
 でも、夢はあくまで夢でしかない。夢が現実に与えうる影響なんてたかが知れている。
 俺は溜め息をついてから顔を洗いに部屋を出た。
 
 扉を開けるとき、奇妙な感覚が俺を襲った。扉は難なく開いた。だからといってどうということでもない。
 それは単なる日常の一部でしかなかった。ささやかな日常的事実。
439:

 土曜日だった。考えてみれば自然なことだ。金曜の次は土曜だと決まってる。
 そして土曜と言えば、従妹が帰ると言っていた日だ。
 そう考えてみれば、昨日そのような会話を誰かとしたような気がする。
 さて、と俺は思った。何をすればいいだろう? 何も思いつかない。
 いつもそうだ。手持無沙汰で居場所がない。でも、そんなことを今考えたところでどうしようもない。
 俺はしばらくぼんやりと考え込んでいた。
 ふと、さっきまで見ていた夢のことを思い出す。その内容が妙に気にかかった。
 とはいえ、もちろん内容自体は覚えていない。なんとなく気がかりな夢だった気がしたのだ。
 結局俺は二時間あまり自室のベッドで寝転がりながら、その夢の内容を思い出そうとしていた。
 もちろん、夢の内容が思い出せたりはしなかった。
 六時を過ぎると父や妹も起床し、家の中に物音が起こり始める。
 
 いつも通りの土曜の朝だ。
440:

 従妹が起きてきたのは八時を過ぎてからだった。
 
 眠そうに目をこすりながら、すっかり見慣れた寝間着姿のままリビングに降りてくる。
 リビングにいたのは俺と妹だけで、父は昇格試験の勉強があるとかで部屋に篭もってしまった。
 すっかり過ごしやすくなった秋の涼しさの中、俺と妹はリビングでほうじ茶を啜りながら旅番組を眺めていた。
「……」
 従妹は何か物言いたげな目で俺と妹の方を見た。
 そのまま放っておくのも落ち着かないので、
「おまえもせんべい食う?」
 と声を掛けると、眠たげなじとっとした目を俺たちに向けた。
「……じじばばみたい」
「……」
 戦わずして負けたような気分になった。
441:
 それでも従妹はパジャマ姿のまま俺たちの傍に座り、一緒にせんべいをかじりはじめた。
「今日で帰るんだろ?」
 わざと、さらりと聞き流せるような軽い調子で、そう訊ねた。
「うん。おにいちゃんを寂しがらせて悪いけど」
 従妹のその言葉に、一瞬、見透かされたような気持ちになったが、そういえば昨日の夜、そんな会話をしたのだった。
 
 結局、俺はこいつの事情というのを、聞くことはできないんだろう。
 それは俺のためでもあったけれど、それでもやっぱり、こいつだって話したいわけではないのだ。
「一緒に暮らして分かったんだけどさ」
「ん?」
「おにいちゃん、生活力ないね。彼女できないよ」
「……おまえ、思ったこと全部言っちゃうの、やめた方いいぞ。友達できないから」
 軽口に対して軽口で返すと、従妹はちょっと傷ついたような顔になった。
 俺はその表情の変化に驚いた。焦りはきっと顔に出た。
 従妹がそれに気付かないわけはなくて、だから彼女は、取り繕うみたいにへたくそな笑みをたたえる。
 それからごまかすみたいに、「うん。気を付ける」と頷いた。
442:
「でも、おにいちゃんも、もうちょっとがんばった方いいよ」
「……うん」
「いつまでもちえこに頼りっきりじゃ情けないよ」
「……」
 妹は、はらはらしたような目で俺と従妹の顔を交互に見た後、間をとるみたいにほうじ茶を啜った。
「ちえこも」、と従妹は言った。
「兄離れしなきゃね」
 その言葉の意味が、俺はちょっとつかめなかった。
 だからそのときは、ちょっとしたからかいなんだろうと思って聞き流してしまったんだけど。
 あとになって考えてると、その言葉に対する妹の答えは、奇妙な真剣みを帯びていた気がする。
「……うん」
 とても、短いものだったけれど。
443:

 九時過ぎには従妹も着替えて身だしなみを整えていた。
「荷物は?」
「昨日のうちにまとめといた。もともとそんなに量ないし」
 本当に今日、帰るらしい。いまいち実感できない。
「何時?」
「正午過ぎに、おじさんに車で駅まで送ってってもらうことになってる」
 あと三時間。
 あっという間のようで、待つとなると長い時間だ。
 
 従妹はどこか落ち着かない様子で家の中のあちこちを眺めている。
 その様子があまりに忙しいので、俺はちょっと呆れた。
「落ち着けよ」
「……あ、うん」
 
 まだ、気持ちが落ち着かないらしい。
444:
 そう長い期間じゃなかった。……いや、どころか、せいぜい一週間程度。
「うーん、でも仕方ないよね。落ち着かないんだもん」
 最終的にはそんな感じで開き直り始めた。妹は何も言わずにテレビを見ている。
「手持無沙汰だなあ」
 そう言いながら、従妹は髪を指先でくるくる伸ばし始めた。
 よく女子がやっているのを見かけるけど、あれ何をしてるんだろう。枝毛でも探してるんだろうか。
「あ、そうだ。おにいちゃん、あのさ」
 
 急に楽しいことを思い付いたというように、従妹はこっちを見た。
「なに?」
「ちょっとクイズね。"手持無沙汰"って、男だと思う? 女だと思う?」
「……は?」
「なぞなぞ」
「……いや、なに、それ?」
445:
「だから、なぞなぞ。クイズ。どう、分かる?」
「……いや、手持無沙汰は、男でも女でもないから」
「あのね、おにいちゃん。そんなの分かってるの。パンはパンでも食べられないパンは?」
「……ぱんつ?」
「……おにいちゃん、そこ普通、フライパンだから」
「……」
 思わぬところで恥をさらしてしまった。
 従妹はこほんと咳払いをする。俺は据わりの悪さをごまかすみたいに頭を掻いた。
「ていうかおにいちゃんはパンツ食べそう」
「おまえの中の俺のイメージどうなってんの?」
 とにかく、と従妹は強い調子で話を戻した。
446:
「フライパンがパンじゃないことなんてみんな知ってるでしょ? つまり、そういうなぞなぞ」
「いや、でも、手持無沙汰が男か女かなんて、知らないし」
「だーかーら、なぞなぞなの。ちょっと考えれば分かるよ」
 結局俺は、そのなぞなぞの答えが分からなかった。
 そもそも真面目に考える気もなかったのだ。
 従妹は俺が真面目に取り合わないのを不服がっていたようだけど、気にしないことにした。
 結局会話もそこで途切れて、リビングにはテレビの音しかしなくなった。
 テレビの音はどことなく空疎な響きを伴ってる。いつでも。
 
 それはきっと、一方通行だからだろう。
 じゃあ、もしかしたら、俺の生活の中で、空疎に思える他のものも、ひょっとしたら、一方通行なのかもしれない。
「あーあ」
 と従妹は溜め息をついた。まだ十時にもならない。時間はまだまだある。
447:
「ねえ、おにいちゃん。ちょっとこの辺り歩いてみたいんだけど、一緒に来てくれない?」
 よっぽど退屈なのか、そんなことまで言い出す始末だった。
「歩いてみたいって、散歩?」
「うん。ちえこもどう?」
「……え?」
 きょとんとした顔。それまで何かを考え込んでいた様子の妹は、すぐに会話の流れに気が付いて、
「わたしはいいや」
 と笑った。どこか弱々しく。その様子を怪訝に思いながらも、問い詰める気にはなれない。
「それじゃ、行こうか」
「……俺、まだ行くなんて言ってないけど」
「でも、来てくれるでしょう?」
「……」
 自信の根拠が知りたかったが、結局俺は散歩に付き合うことにした。あながち的外れな自信でもないのかもしれない。
448:

 何があるというわけではない。
 つまらない街並み。どこにでもあるような、ありがちな住宅街。
 どこか圧迫されるような、狭くて入り組んだ道路。家々を囲うような灌木と石塀。
 そうした狭い道路を、俺たち二人は並んで歩いた。
 よく子供たちが道路で遊んでいるから、見通しの悪いこの道路を通る車は、いつもゆっくりと走る。
 不思議と俺には、そんなふうに誰かと遊んだような記憶がない。
 それだけではなく、子供時代の記憶はとても曖昧だ。
 ……いや、違う。少しだけ覚えていることもある。
 住宅街の中央にはちょっとした広さの公園があった。
 
 どこからともなくたくさんの猫が集まり始める公園。
 ブランコがあって、滑り台がある。雲梯があって、シーソーがある。
 鉄棒があって、砂場もある。
 砂場……。
「どうしたの?」
 砂場で……俺は、誰かと……。
 でも……彼女は……。
 
449:
「……あ」
 不意によぎる記憶があったけれど、たぶんそれは違う。
「どうしたの、おにいちゃん」
「……いや。気のせいだった」
 従妹は怪訝そうな顔をしていたけれど、深く追求してこなかった。
 そうだな、と俺は思った。
 俺には小学校時代、友達と呼べる相手なんていなかった。
 それでも、この公園で、小学生の頃、ひとりだけ、一緒に遊んだ子がいた。
 でもその子はいなくなった。転校した。引っ越したのだ。
 誰だっけ? 昔は結構ショックだった。毎日のように顔を合わせてた。
 でもいなくなってしまった。当たり前だ。子供じみた約束なんていずれは忘れ去られる運命にある。
「ずっと一緒」はありえない。生き続ける以上は、いずれ何らかの形で終わりが来ることになる。
 俺たちは「誰かがいる」ということに適応し、その誰かがいなくなれば今度は「誰かがいなくなる」ということに適応する。
 人々が俺の部屋に現れる。やがて去っていく。それが繰り返される。そのたびに俺は心を軋ませながら適応する。
 宿命。
450:
「昔からさ」
 不意に、従妹は口を開いた。
「わたし、嫌いだったの。わたしが住んでいる街のことが」
 真剣な表情。
「それでね、この辺りに憧れてたんだ。子供っぽいって自分でも思うけど」
「うん」
 頷いたのは、相槌を打っただけではなく、ささやかな共感をこめてだった。
 もちろん、この街が好きなわけじゃない。
 俺も、この街が嫌いだった。だから、彼女の言いたいことは、よく分かるような気がした。
「住んでる家が、たとえば、二十メートルずれた場所にあるだけでさ、人生ってまるっきり変わっちゃうんだろうね」
 今度は何も言わずに頷く。
「だから、あんな街じゃなければってずっと思ってた」
451:
「……今は?」
 そう問いかけると、従妹は困ったように笑った。
「今も」
「……」
「でも、今は、ちょっと違う。嫌いだよ、あんな街。でもね、結局わたしはあそこにいるしかないんだ」
「……そんなこと、ない、かもしれない」
「うん。そうかもしれない。でも、今のところは、っていう意味」
「……」
「あの街が嫌なら、わたしはわたし自身の力で、あの街を出ないといけない」
 従妹はそれだけ言うと黙り込んでしまった。俺は返す言葉を失った。
 何を言えると言うんだろう。彼女の中で話は終わってしまっているのだ。そこに俺が介入する隙間なんてない。
452:
「まあ、つまり、その……」
 何かを上手に言いたいのだけれど、上手く言えない、というような、そんな表情。
 だから俺は当てずっぽうで、
「“理由も分らずに押付けられたものを大人しく受取って、理由も分らずに生きて行くのが、我々生きもののさだめだ”」
 そう言ってみた。
「……うーん。うん、まあ、そういうこと、なのかも」
 それでも何か納得しかねたような顔つきで、従妹はこちらをじとっと睨んだ。
「ね、それなんかの受け売り?」
「山月記」
「よく覚えてるね」
「言いたいことを言いたいときにちゃんと言えるように、気に入った言葉は覚えておくんだよ」
「それって、なんか、かっこわるい」
「そう? でも、便利だよ。とっさに何かを訊かれたときに、自分がちゃんと答えられるから」
453:
「人の言葉でしょう?」
「共感できない言葉なら使ったりしない。自分の思考を言い当てていると感じるから引用するんだ。
 俺たちに言葉は難しすぎる道具だよ。いろんな人がいろんな言葉や文章を残すけど、そんなに普遍性はない。
 だから、上手に言葉を操れる人に、自分の気持ちを代弁してもらうんだ。事実や現象は言語化すると矮小化するから。 
 そういう意味では、小説を読んだり文章を読んだりっていうのは、すごく実用的で、実際的なことだよ」
 従妹はしばらく俺の言葉について考えようとしていたみたいだけれど、やがて諦めたようだった。
 俺は言葉を使うのが上手じゃない。だからいつも、言いたいことがうまく伝えられない。
 だからときどき、大事なことを訊かれたときだけは、ちゃんと答えられるように。
 自分の気持ちを表してくれる言葉を、あらかじめ借りておく。
「……他にも、いろいろあるの?」
 うーん、と俺は考え込んだ。とっさには何も思いつかなかった。
「でもそれって、自分で説明しようとするのをやめるってことでしょ?」
「どうだろう」
 実際、自分でもよくわからなかった。とっさに口からショーペンハウエルの「読書について」の一節が出てきそうだった。
「読書は、他人にものを考えてもらうことである」。それだってショーペンハウエルの考えたことだ。俺の考えたことじゃない。
454:
「……ま、いいか」
 従妹はそんなことを言った。そこで切り上げてくれてよかった。それ以上話をするのは面倒だった。
 
「……さっきのなぞなぞだけど」
 
 俺は話題を切り替えるために、その話をした。
「答え、いったいなんなんだ?」
「あ、うん。問題、覚えてる?」
「……手持無沙汰が、男か女か?」
「うん。女なんだよね」
「……なんで?」
「あー、えっと。手持無沙汰って三回言って?」
「手持無沙汰、手持無沙汰、手持無沙汰」
455:
「もっとひらがなっぽく」
 ……ひらがなっぽいってなんだ? 
 それでも言われた通り、もう一度繰り返す。
「てもちぶさた、てもちぶさた、てもちぶさた」
「ても、ちぶさた」
「……ても、ちぶさ、た?」
「うん、だから女性」
「……その心は?」
「ちぶさ(乳房)があります」
「女子高生の発想じゃねーぞ」
「自分で出題しておいてなんだけど、不安になってきた。乳房があるからといって女性と言い切れるんだろうか?」
「なぜそこで無駄に悩むんだ……」
「無駄に悩んでこそ、青春だから?」
 なぜ疑問形。
456:
「いや、まあ、それはともかく、乳房があるからといって女性だとは言い切れないよね」
「……そう、か?」
「うん。それに、乳房がないからと言って、女性じゃないとも言い切れないよね」
「そうだな」
「……いま即答だったけど、どこ見て言った?」
「何の話だろう」
「……まあ、いいけど」
 従妹はそこでひとつ溜め息をついた。土曜の朝、家並みはひどく静かだった。
 少しの間、黙りこんだまま歩いていたけれど、結局従妹は再び口を開いた。俺にはなんとなくそうなることが分かっていた。
「乳房があるから女性なのか。女性だから乳房があるのか」
「……」
「……なんで呆れた顔をするの?」
「呆れてるからだと思う」
460:

 散歩から戻る途中、従妹はずっと何かを言いたげにしていた。
 訊ねるべきか、訊ねないべきか、俺はずっとそれを考えていた。
 彼女は来たときと同じ踵の高い夏物のサンダルを履いていた。
 歩くたびに踵がカン、カン、と小高い音を立てている。
 それはちょうどノックの音みたいに聞こえた。
 
 彼女は俺の隣を歩いている。目も合わせないで何も言わずに。カン、カンという音が続く。
 
 空はいつの間にか曇り始めていた。
 俺は歩き続けることに少しうんざりしていた。
「そろそろ戻ろう」
 従妹は少し間を置いてから、うん、と小さく頷いた。
 空は白く、雲は暗かった。景色はすべてが薄い光を纏っているように見えた。
 水彩画の中の世界。鈍い景色。
461:
「あのさ、文章を読むことについては、さっきの話で納得したんだけど」
 不意に、従妹は口を開いた。
「じゃあ、書くことは、どうなの? 書くことには、どんな意味があるの?」
 その問いかけに、俺は言葉を失った。
 その答えを、俺は持っていなかったのだ。
「……自己満足」
 と俺は答えてみた。結局はそこなのだ。
「……そう、なの?」
「うん。いろんな文章がある。自己充足、他者充足、思考の整理。でもどれも根源は同じだよ。
 ただ方向性が違うだけだ。他人を満足させたい、と思う奴は、他人を満足させたいという自分の欲望を満たしている。
 そうじゃなくて、作家やコピーライターなんかは金の為に書くかもしれない。それだって自分の生活の充足のためだ」
 答えながら、俺はたとえようのない不安を感じていた。そうなんだろうか?
 きっと俺は文章を書くことに幻想を見すぎている。
462:
「おにいちゃん、わたしって、女の子?」
 しばらく押し黙ったかと思うと、ふたたび口を開き、従妹は、突然、本当に突然、そんなことを言い始めた。
「……なんだよ、急に?」
「いいから答えて」
 
 彼女の表情には、感情が付与されていなかった。
 あるいは、俺がそれを見つけ出せないだけなのかもしれない。
「女だよ。そうだろ?」
「胸はないのに?」
「……その話、まだ引っ張るのか?」
「真剣に、訊いてる」
「……」
 本当に真剣な顔をしていたので、俺はちょっと戸惑ってしまった。
463:
「女だよ」と俺はもう一度答えた。
「……うん」
 少し、声が震えているように聞こえた。俺の声も、従妹の声も。
 
「あの」
 何かを言いあぐねるような態度。靴音は絶えず俺の耳に届き続ける。声は震えていた。
「今から、わたし、余計なことを言う、かも」
 不安そうな声音。震えている。
「なに?」
「わたし、女の子だよね?」
「うん」
「胸はないけど」
「……俺が悪かったよ」
「そういう意味じゃなくて……」
464:
 つまりね、と従妹は話し始めた。
「わたしが女性であるための条件って、なんなんだろう?」
「……どういう意味?」
「条件」と彼女は繰り返した。俺はとっさに肉体的な要因を挙げようとしたが、たぶんそういう話ではないのだろう。
「たとえばわたしの今の人格を、そっくりそのまま、その辺の男の人に移し替えるとするでしょう?
 そのときわたしの肉体はたしかに男の人だよね。でも、じゃあ、わたしの人格は?」
「実際に女性として生活した記憶がある以上、人格は女性なんじゃないか」
 人格。人格に性別があるというのは、考えたことのないことだった。
「じゃあ、わたしの肉体にある日突然、どこかの男の人の人格が入ったとしたら? 
 そのときおにいちゃんは、わたしを男だと思う? 女だと思う?」
「……理屈上、男にならないとおかしいけど、女だと思うだろうな」
「……女、っていうか、"わたし"だと思うよね?」
「そうだな。おまえが変なことを言い出したって思う。……つまり、何が言いたい?」
「わたしがわたしであるための条件って、なんだろうね?」
「……」
465:
「肉体は"わたし"だけど、それは"わたし"じゃない」
「現実では、人の精神は人の肉体を離れたりしない」
「思考実験、みたいなもんだよ。もし別人の人格がわたしの肉体に宿ったとしても、それはわたしじゃない。
 だとすると、わたしがわたしであるための条件ってなに?」
「連続性」と俺は答えた。従妹はすこしつまらなそうな顔をした。俺は気にせずに話を続ける。
「もしくは文脈。それまでの記憶の堆積。そういうものだろう」
「じゃあ、まるっきりの記憶喪失になったら、それはもうまるっきりの別人ってこと?」
「社会的には同一人物として扱われるだろうけど、精神的には違う人物じゃないか」
 ふうん、と従妹は溜め息を漏らした。どうでもよさそうだった。
「じゃあ、そうした連続性さえ保たれていれば、社会的にはともかく、精神的には同一人物になり得るってこと?」
「まあ、そうじゃないか。もっととんでもない可能性は除いて、だけど」
「とんでもない可能性って?」
466:
「たとえば、俺がある朝目覚めると、同じ学校のクラスメイトBくんになっていた。
 俺はBくんの家で目覚め、Bくんの制服を来て学校に行き、Bくんの席に着く。 
 そして本当の俺の身体の方にBくんの精神が宿っているのではないかと考える。
 けれど、実際に俺の肉体と会話をしてみると、まるで俺とそっくりな喋り方、そっくりな態度、そっくりな考え方をしている」
 
 俺は途中で自分の話していることにうんざりした。
 
「このとき、俺は自分の記憶にある通り"俺"なのか。
 それとも、エラーを起こし混乱したBくんの精神が、自分を"俺"の人格だと錯覚しているのか、確認のしようがない」
「……?」
 案の定、従妹は首をかしげた。俺は溜め息をついた。
「その話はいいよ。それで、続きは?」
「あ、うん。つまりね、連続性、文脈が保たれていれば、それは同一の人格として扱ってもかまわない、という話だったよね?」
「……うん」
「だとすると、わたしは乳房がなかろうと、肉体的に男性であろうと、精神は女性であり続けることができるってことでしょう?」
「まあ、そうなる」
 ……なぜ乳房にそこまでこだわるのかは分からないけれど。
467:
「つまり、わたしが言いたいのは……」
「……言いたいのは?」
「……なんだっけ」
「……」
 ここは呆れてもいいところだろう。
「あ、そう。つまりね、ある事実が事実であるために必要な条件って、結構曖昧だと思うんだよ」
「……うん。それが?」
「それって、どんなことだって同じでさ」
「うん」
「たとえば、その、家族、とか」
 カン、カン、と足音は鳴り響く。辺りはいつになく静かで、その音はとてもよく響いた。
 頭が少しだけ痛かった。脈動するような鈍い痛み。
468:
「つまり、わたしが言いたいのはね……」
「無理するな、って?」
 俺が訊ねると、従妹はちょっとだけ足を止めた。
 それから顔を俯けて、立ち止まったまま、小さな声で呟く。
「……うん」
「みんなそう言うんだ」
「それだけ、みんなに心配されてるってことでしょ?」
 足音だけが響いている。空は白くて、通りは静かで、たぶん世界中から人がいなくなったらこんな感じだろうと思う。
 それは心地良い想像だった。旅行で観光地なんかに行くことがあると、いつも人込みにうんざりする。
 どこかの山にどこかの修験者だか俳人だかが登ったという山道があって、そこに行ったことがある。
 パンフレットによれば古式ゆかしい建築物と自然の美しさが売りらしかった。
 勾配はきつく足元は不安定だった。にもかかわらず人込みは水の流れみたいにうねり続ける。
 足を休めれば邪魔になるし、急ごうにも人が邪魔で進めない。人に縛られているのだ。
 山道の途中には立て看板があり、その道を昇った俳人が残した俳句が書かれていた。
 それは山道の途中、疲れの中で野花を見たときの安らぎを詠んだささやかな俳句だった。
 人の流れは立て看板の前でも止まらなかった。俺はその倒錯に吐き気を催した。
469:
「顔に出てるってことか」
「……顔に出すなってことじゃ、ない、よ」
 どうしてか、従妹の声は震えていた。
 怯えているんだろうか。でも、何に?
「ほんとはわたしが言うことじゃないんだけど、きっとわたし以外は、誰も言わないだろうから。
 おにいちゃんはなんだか、無理をしてまで、誰かの役に立とうとしてるように見えたんだ。ずっと前から。
 でも最近は、なんだか、燃料が切れたみたいに、すごく、つらそうな感じがする」
「……どうだろう」
「いろんなことに、疲れちゃったみたいにさ。そんなふうに見えるんだよ」
「……」
「おにいちゃんはさ、何もしないでいるのが怖いんだよ。何もしないでいて、呆れられたり、諦められたりするのが怖いんだ」
「違うよ」
「違わない。だから必死になって、誰かにとって有用な自分であろうとするんでしょう? 
 そうして勝手に頑張って、勝手に疲れて、勝手に落ち込んでるんでしょう?
 そういう態度が、周りの人を余計に疲れさせて、そのことにも自分で気付いてる。でも自分じゃ直せない。違うの?」
470:
「違う。俺は……」
「なに?」
「俺は……ただ……」
 従妹は、俺の言葉の続きを待った。でも続きなんて思いつかなかった。
 彼女の言葉は丸っきり正しかった。否定のしようなんてなかった。
 この街が嫌いだった。ずっと前から。違和感があった。耐えきれない不快感があった。
 この街にいるという事実が耐え難かった。この街にいるしかないという事実が不安だった。
 
 でも、本当は知っていた。それは、街に対する気持ちではなかった。
 俺は自分自身が嫌で嫌で仕方なかったのだ。
 いや、その言い方は正確じゃない。自分自身が嫌だったのではない。
 
 それは他者に対する恐れだった。
 俺がもっと頭が良く、落ち着きがあって、よく気が付き、運動もでき、人好きのする人間だったなら、と。
 他人にそう思われるのが怖かった。
 自分が「この程度」であることに対して、自分自身では納得していた。それが相応だ、と。
 でも、他人からもし、「こいつがこうじゃなかったら」と思われていたらと思うと、おそろしかった。
471:
「……そうだな」
 と俺は言った。従妹の言うことは否定のしようがない。事実俺は、そのように考えていた。
 彼女は少しの間考え込んでしまった。俺は何も言わずに続きを待った。
「おにいちゃんは、無理をして、誰かの役に立とうとか、しなくてもいいんだよ。
 そんなことしなくたって、おにいちゃんの居場所はちゃんとあるんだよ」
 従妹はそう言ってから、唇を強く噛んでいた。後悔していたのかもしれない。
 
「そうかもしれない」
 と俺は言った。半分くらい聞き流していた。
 カン、カン、という靴の音。それが少し煩わしく思えてきた。
「もっと俺が、良い息子で、良い兄貴で、良い従兄だったらよかったんだよ。頼りがいがあって、芯があって……。
 だから、そういうふうになりたかったんだよな。なろうとしてみたんだ。でも、すればするほど、嫌になった」
「おにいちゃんは、がんばってたよ」
「そうかもしれない。……違うな。そうじゃない。がんばったかどうかは、この際関係ないんだ。
 他人がどう思うかは関係ないんだよ。俺が俺を許せないんだ。役立たずの自分が嫌で嫌で仕方ないんだ」
472:
「どうして?」
「果たすべき責任を果たせない奴に、居場所なんてない」
「責任なんて……」
「ある。あるんだよ。俺はそれを果たさずにいるんだ。だからきっと、いつか見放されてしまう」
「……誰に?」
 
 その質問の答えは、すぐには浮かばなかった。
「おじさんも、ちえこも、そんなこと考えてないと思う。おにいちゃんがどんな人間でも、見放したりしない。
 そうでしょう? だって家族でしょう?」
「違うよ。果たすべき責任を果たせない奴は家族なんかじゃない。家族である資格がない。
 だから役立たずな俺には、あの家にいる資格がないんだ。俺は役に立たないと……」
「……」
「……だって、そうじゃないと、おかしいだろ。父さんと母さんが同列なんて」
「……え?」
「……でも、なんだか、すごく疲れるんだ。おまえの言う通りだよ。
 自分には、人間としての部品が欠けているような気がするんだ。こんな話をすると面倒だって思うか? 
 でも俺は言わずにはいられないんだ。俺は、母さんのことが好きだったんだよ。もうろくに覚えてもいないのにさ」
473:
 もう従妹は何も言わなかった。足音はいつのまにかすごく小さくなっていた。
「雨が降りそうだな」
 俺がそう言うと、彼女も空を見上げた。灰色の空が静かに垂れこめている。
 どことなく、空気も澱んでいるような、そんな気がした。
 少しの沈黙のあと、従妹が不意に、とても小さな声で、ささやくように、
「それでも、おにいちゃんがそんな顔をしてるの、嫌だよ、わたしは」
 そんなことを言ったけれど、それも、それだけと言ってしまえばそれだけのことだ。
 だって彼女はいなくなってしまうんだから。
 家に着くまで、俺たちは何の言葉も交わさなかった。
 従妹は落ち込んでしまったようだったけれど、俺にはその理由が分からなかったし、そうである以上放っておく以外に方法がなかった。
 
 少し無責任だと言う気もしたけれど、だからといって何かを言う方がよほど無責任だという気もした。 
 どうせ俺は彼女の望むようになんてできやしないのだ。
 家に帰ると十時を過ぎていて、見計らったように細かな雨が降り始めた。
 従妹は正午過ぎに少しの荷物だけを持って、父の車に乗せられて駅へと向かって行った。
 
 俺たちはささやかな別れの挨拶だけを交わした。それ以上、特に言うべき言葉はなかった。
 従妹が車に乗るとき、例のサンダルの踵がアスファルトと鳴る音は、とてもささやかだった。
 雨の中で、その音は本当にちいさく聞こえた。
 そして従妹が車に乗ると、それ以上は本当に聞こえなくなってしまった。
 そのようにして従妹は俺の家を去った。当然のことだから、当然のように去って行った。
479:

 家の中には俺と妹の二人しかいなかった。
 空は真っ暗だった。雨は段々と激しくなり、降り始めてから十数分経った今ではほとんど大雨と言っていいくらいまで強まっていた。
 雲が暗い。台風のときみたいに。
 さて、と俺は思った。ごく普通の土曜の正午過ぎだ。何かやることはあるだろうか。
 なぜだかわからないけれど、俺は寂しさをほとんど感じていなかった。
 昨夜はたしかに感じた、切ないようなあの感覚を、今朝はなぜか、まったくと言っていいほど感じない。
 
 今あるのは、ただ、なんとなくの、空虚感。あるいは、徒労感。
 妹はリビングのソファの上でクッションを抱え込んで座っていた。
 テレビは消えていた。だからもう、この家には音を発するものが何もない。
 窓の外の雨音以外には、掛け時計の音が微かに響いているだけだ。
 どうしてだろう?
 何か用事があるときをべつにすると、妹とはろくに話がはずまない。
 俺たちふたりは共通の話題というものをもたなかった。家族内のことは暗黙の了解の方が多い。
 家の外のことはお互い話題にしない。趣味も興味の対象も違うから、話が合わない。
 兄妹なんてそんなものだ、と言われれば、そうだという気もするのだけれど。
 でも、俺たちの場合は、そうした単純な会話のなさというものとは、どこか違うような気がする。
480:
 雨の音。ずっと続いている。黒い雲と細かな雨。染み入るような冷たい空気。
 なんだか、いやに肌寒い。身震いするほどに。
「帰っちゃったね」
 長い沈黙の後、意図せず口から漏れだしたような、流れるような声音で、妹が呟いた。
 その声は、感情というものが欠落しているように響いた。どことなく虚ろで、空々しい。
 
「寂しい?」と俺は訊いた。
「うん」、と妹は一度頷いたけれど、少し考え込んでから静かに首を横に振った。
「……ううん。そんなには」
 きっと、そっちが本心なんだろう。なんとなくそう思った。
 
「ほっとした?」
 今度はそう訊ねてみた。妹は少し驚いたような顔になった。
 それから「どうして?」と訊き返してくる。
「なんとなく」と俺は答えた。なんとなくそうじゃないかと思っただけだ。
 従妹と過ごすのは楽しいことだった。そう思う。
 でも、彼女が去ったのだということを実感したとき、俺は奇妙な感情が浮かび上がるのを感じた。
 安堵。俺は彼女がいなくなったことに、かすかに安堵を感じたのだ。
481:
「……うん」
 しばらくあと、妹は溜め息のようなかすかな声で、そう囁いた。
 あまりにも小さな声だったから、俺は最初、それがさっきまでの会話の続きだとは気付けなかった。
 
 雨樋を伝って大きくなった雨の雫が、軒先にトン、と音を立てて落ちた。
「嫌だった?」
 不意に。
 妹はそんなことを言った。あまりの脈絡のなさに、俺はとっさに反応できなかった。
「何が?」
「……わたしが、家事するの」
 彼女は言葉を重ねたけれど、俺はうまく理解できなかった。
 
「どういう意味?」
 妹は、それきり再び黙り込んでしまった。
 俺は続きを待ったけれど、何かを言い出す気配はない。
482:
「べつに、嫌じゃないよ」
 話はよく理解できなかったけれど、俺はそう答えた。
 額面通りに質問を受け取るなら、答えはそうとしかならない。
「本当は、お兄ちゃんが家事をしたかったんじゃないか、って」
「え?」
「最近、そう思ってた」
「……どういう意味?」
「わたしが家事をすることで、お兄ちゃんの居心地が悪くなってるんじゃないかって、思った」
「……いや、そんなことは、ないけど」
「本当に?」
 本当に、と答えようとしたけれど、質問を重ねられると、本当だ、と言い切れるほどの自信はなかった。
 間接的には、それは事実かもしれない。
 俺が答えに詰まったのを、妹ははっきりと感じ取ったのだと思う。なんとなくそんな気がした。
483:
「ときどき、わたしも変だって思うんだよ」
「……なにが?」
「自分が、家事をしてること。もちろん、好きでやってるんだけど」
「熱心にやりすぎてる、ってこと?」
「……うん」
「まあ、熱を出しても晩飯つくろうとするくらいだもんな」
 俺のからかいに、妹はくすりとも笑わなかった。
 後悔がじわじわと腹の底から昇ってくる。俺はそのことをあまり考えないようにした。
「自分でもね、おかしいって思うんだ。さすがに。普通にやる分にはともかく……。
 でも、何かしてないと不安になるの。ほとんど強迫観念みたいに、しなきゃいけないって思うの」
「……」
 
 あるいは、それは俺と同じことなのかもしれない。
 ひょっとしたら、俺よりももっと根深いのかもしれない。
484:
 あの霧の日、一番大きなダメージを受けたのは、まちがいなくこいつだろう。
 いや、そもそもの話、それ以前から、俺たちの家はとっくに破綻していた。
 両親は顔を合わせれば喧嘩を繰り返していた。
 父親はろくに帰ってこなくなった。
 母親は口を開けば不機嫌さを隠そうともせずに愚痴をこぼした。
 妹はそんな中で、必死に家族を繋ぎとめようとしていたのかもしれない。
 勉強もそつなくこなして、母親の手伝いを積極的にして。
 俺には、その妹の態度が媚びているようにしか見えなくて。
 だからあの頃、俺は妹とろくに話もしなかった。
 
 はっきりとしない話し方が気に入らないとか。
 いちいち人の顔色を窺っているのが不愉快だとか。
 たぶん、そういう理由で。
 だから、あの頃きっと、こいつは本当に孤独だったし、その孤独を醸成するのに、俺も一役買っていたのだ。
 ひょっとしたら今だって、その地続きなのかもしれない。
 
 そのことを考えると、俺は自分のことが、縊り殺しても飽きたらないほど憎くてたまらなく思えてくる。
485:
 強迫観念。
 だから俺は妹と話すとき、いつもどこか後ろめたく思っている。
 妹だって、心のどこかで怯えている。そういうふうに感じる。
「べつに家事をやりたいならやったってかまわないんだよ。無理なときは俺や父さんに言えばいい」
「うん」
「どんな理由でやったって、それでおまえが満足したり安心したりするなら、全然かまわない。
 無理するんじゃなければ、好きなようにやってくれてかまわない。おまえは十分すぎるくらいよくやってる」
「……」
「俺が偉そうに言うことでもないけどな。もっと手を抜いたっていいくらいだ」
「……心配、掛けてた?」
「まあ、そうだな」
「……ごめんなさい」
「謝るなよ」
「……うん」
 どうしてこいつは、いつだって何もかも自分が悪いような態度でいられるんだろう。
 そのたびに俺は、どうしようもなく不安を掻き立てられる。
486:
「だって、おまえはさ、ちょっと嫌なことがあったから夕飯をつくるのが億劫だとか、絶対に言わないだろ」
「そんなことは、ないと思うけど」
「身体がだるいから家事をやりたくないなんて、絶対に言わない」
「本当につらかったら言うよ」
「やれなかったら言う、だろ。そういうのが、心配というか、見てて怖くなるんだ」
「……怖い?」
「自分の気持ちとかを、押し殺してるみたいに見えるんだ」
「そんなこと、ない、よ」
「うん。それならいいんだよ。俺の気のせいなら、べつにさ」
 妹は何も言ってこなかった。雨樋から、また、大きな粒が、トン、と落ちる。
 ざあざあという雨の音が、家の中を支配していた。窓の外の景色は青っぽく染まっている。
 頭の中の鈍い痛みが、時折わずかに強まった。
487:
「なんていうか、余計なお世話かもしれないけどさ、家のことなんて二の次でいいんだよ。
 不機嫌なときには夕食をカップラーメンにしたってべつにいいんだ。おまえはそういうのを、とても熱心にやるから」
「……」
「やるなって言うわけじゃない。完璧にやらなくていいってことだ」
「お兄ちゃん、前に言ってたでしょう?」
 その声は、俺の言葉に対する答えではなかった。
「何かしていないと、自分が本当にここに居ていいのか、分からなくなるって。
 たぶん、それはわたしも同じなんだと思う。だから……何かをしていないと、すごく不安になる」
「……うん」
「でも、わたしがそう思って家事をしていたことは、お兄ちゃんを不安にさせてた?」
「……さっきも言ったと思うけど、そんなことはない」
「本当に?」と妹は訊ねた。
「本当に」と俺は答えた。
488:
「無理に何かをする必要はないんだよ。分かるだろ?」
「……うん」
「べつに何もしていなくたって、ここに居ちゃいけないなんてことはない。
 一日中ぼんやりとクルマサカオウムのことを考えてたってかまわない。
 もちろん何もするなってことじゃない。俺が言ってること、分かるか?」
 そう言い切ったとき、俺の心はかすかにざわついた。
 何かが違うような気がする。でも、どこがおかしいのかは分からない。
 俺の言葉に、妹は小さく頷いた。また、雨粒が落ちる音が聞こえる。何かを叩く音。
 結局そこで話は終わって、俺たち二人は父が帰ってくるまでずっと押し黙っていた。
 父が帰ってくる頃には雨は止んでいた。トントンという雨粒の音も、しばらくすると聞こえなくなった。
 それから妹は当然のように三人分の昼食の準備を始めた。
 
 俺は自分が妹に言った言葉をひとつひとつ思い出して、点検しようとした。
 でも、途中で嫌になってやめてしまった。結局俺は彼女に何ひとつ言えていないという気がする。
 たぶんその感覚は、さして間違ってもいないのだろう。
494:

 結局、土日は何もせずに過ごし、だらだらと時間だけが流れた。
 そういう日がときどきある。たぶんそう悪いことでもない。
 そうして月曜の朝がやってきた。ごく当然の、自然な流れとして。
 月曜の空は薄曇りで、太陽は霞むような雲越しに白く光っていた。
 
 その朝、俺は誰とも言葉を交わさずに家を出た。
 誰とも言葉を交わさずに教室に辿り着き、席に着いてからは誰とも言葉を交わさずにチャイムが鳴るのを待とうとした。
 そういう気分だった。
 けれど、椅子に座って数分もしないうちに、ふと屋上のことを思い出した。
 肌寒いけれど雨は降っていなかったし、外には出られるはずだ。
 幸い時間はまだ余っていた。一度思い出してしまうと、俺は屋上の様子が気になって仕方がなくなった。
 土日を挟んだからというわけでもない。何が原因なのか、俺にはよく分からない。
 妹のこと。従妹のこと。小説のこと。それから枝野のこと。
 べつに何かが起こったわけでもないのに、俺の心はひどくかき乱されている。
495:
 屋上には、案の定誰もいなかった。
 真上に灰色の空が覆いかぶさっている。雨が降り出しそうな気配があった。
 
 俺は屋上の中央に立って、辺りの様子を見回してみた。
 天気のせいだろうか? 物音らしい物音はほとんど聞こえなかった。
 学校の敷地内からも、その外からも。まだ朝の早い時間だとはいえ、ちょっと静かすぎた。
 
 耳鳴りがしそうなほどの静寂。その中では、微かな音がとても大きく聞こえる。
 ふと誰かの声が聞こえた。一瞬、声の主がどこにいるのか分からなかったが、屋上に誰かが来たわけではなかった。
 俺はフェンスに近付いてそこから下の様子をうかがった。登校してきた生徒たちが、言葉を交わしているのだ。
 聞こえたのはそれだけだった。
 扉を開く音は聞こえなかった。彼女はもう、この場所には来ないのかもしれない。
(会いたいのか?)と俺は俺に訊ねた。
 どうなんだろう。自分でもよく分からない。
 彼女と話す時間は好きだった。彼女と話すときだけは、俺は無意味に緊張せず、安らぐことができた。
 でもそれは知らなかったからだ。知ってしまった今となっては、もう以前のような感覚になることはないだろう。
 それに、会って何を話すというんだろう。俺が言えることなんてもう何もない。
 何をどうしたって、いつかはこういう結果になっていたのだと思う。
 あるいは、何か、もっと別の方法があったのかもしれない。でも、それはもう手遅れだった。
 俺は時間を無為に浪費しすぎたのだ。
496:

 昼休みと放課後にも屋上に行ったけれど、結局は徒労に終わった。
 部室に顔を出すと部員は既に全員そろっていた。みんな机に向かって何かを書いている。
 
 俺がやってきたことに気付いた部長はすぐに立ち上がり、両手を打ち鳴らして注意を引き寄せた。
「部誌の原稿、出してない人、あと三人だから」
 三人。
 出したのは、幽霊部員三人に加えて、部長。それからたぶん、シィタ派だろう。
 見てみれば、彼がノートに書いているのは奇妙な幾何学的な図柄だった。書き終えて気でも抜けたのかもしれない。
 だとすると、未提出なのは、俺と後輩、それから編入生の三人か。
 
「出す人は、遅くとも今週中か、来週の頭には出して。けっこうぎりぎりになっちゃうからさ」
「了解です」
 でも一行だって書けなかった。方法が悪いのかもしれないし、もっと根源的なところに原因があるのかもしれない。
 思考がとても混乱しているし、いろんなことが未整理のまま放置されている。
 
 このままでは意味のある文章なんて絶対に書けない。
497:
「どうして急に書けなくなったんだろうね?」
「原因に関してはともかく、さすがにこのままだと間に合いそうにないです」
「ふうん。どういうところで詰まってるの?」
 こんなふうに訊いてくる人だっただろうか。疑問に思ったけれど深くは考えず、頭の中から答えを探す。
「……展開が、思いつかない、という感じですかね」
「結末は決まってるんだったよね?」
「はい」
「ふうん。じゃあ、結末から逆算したら?」
“外に出る”が結末なのだから、“外に出る理由”があればいい。
 でもそれは……。
「好みの展開が浮かばなくて」
 シンプルに答えると、部長は考え込んだ。
498:
「う、ん……」
 部長は指先でシャープペンを弄びながら唸り声をあげる。
 その仕草はいつになく真剣そうに見えたのに、どこか子供らしい愛嬌があった。
 部長はかわいい人だ。見ていればわかる。容姿もそうだけれど、穏やかで人好きのする優しい人だ。
 そうなんだよ、と俺は思う。部長はかわいい。そこまでは分かる。
 でも、かわいいからといって、それがどうなるというわけでもなかった。
 それはリンゴが赤いのと同じ程度の情報でしかない。髪が長いとか短いとか、その程度の情報。
 
 きっと三年くらい前の俺だったら、彼女を好きになっていただろうと思う。
 でもそれは部長に限ったことじゃなくて、たとえば後輩が相手でも、編入生が相手でも同じだ。
 
 かわいいな、と思う。仕草や行動を目で追いかける。言葉を交わす。そして好意を抱く。
 俺はたぶんかなり単純な性格をしている。だからきっかけなんて必要なかった。昔は。
 今の俺には人を好きになるほどの精神的な余裕がなかった。エネルギーに余剰がないのだ。
 人を好きになるというのはすごく体力のいることだし、好きで居続けることはより一層エネルギーのいることだ。
 ……いや、違うのかもしれない。
 自分自身を分析しようとする試みは、だいたいの場合、無意識の自己欺瞞に邪魔される。
 結局は何も言っていないのと同じだ。
499:
「じゃあさ、結末を変えちゃえば?」
 部長のその声に驚いて、俺は彼女の表情を凝視していた自分に気が付いた。
 性欲。
 靄に包まれたようにぼんやりとする頭をなんとか働かせて、俺は答えを考えた。
「変える、というと……」
「具体的な部分は、きみがどう考えるかの問題だからわたしは知らないけど。
 んー。そうだなあ。すごく大雑把に言えば……」
 それからとても明るい顔で、
「殺しちゃえば?」
 と笑った。
「それらしい理由をつけて、それらしい展開を書いて、ついでにそれらしい伏線さえ張ったうえで、人が死ねばさー。
 けっこう、みんな良いように解釈してくれるよね。そういうの、分かるでしょう? 
 まあ、あとは最後に前向きっぽい結論でも出しておけば、“素人小説にしては”って枕詞つきでも褒めてもらえるよ」
 俺は彼女の口からそんな言葉が出てきたという事実に、自分でも驚くほどショックを受けていた。
 なぜだろう? 彼女は作劇上のアドバイスをしたにすぎないのに。
「……ええ、まあ。わかりますけど、でも……」
500:
 部長の指先がシャープペンをノックしている。カチカチという音が断続的に繰り返される。
 
「でも?」と彼女は首を傾げた。
「人が死ぬ話は書きたくないんです」
「……どうして?」
「……正確に言うと、人が死んで、悲しいってだけの話を書きたくないんです。
 誰かが死ぬなら、その死についてもっといろんなことを書かなきゃいけないと思う。
 そもそもそれ以前に、俺はそれについて何かを書けるほど、人の死っていうものを理解できていないと思うんです」
「ふうん」、と部長は意味ありげに何度か頷いた後、嬉しそうに笑った。
「それでももし誰かが死ぬ話を書くとしたら、きっと明るい話を書くと思います」
「たとえば?」
 俺は少し考えてから答えた。
「たとえば、破天荒で人気者だった九十歳のお婆さんが、老若男女の親戚や知人に看取られながら、老衰で大往生するような話です」
「……うーん?」
「……思いつきなので、考え込まれてもこまるんですけど」
501:
「まあともかく、人が死ぬのはナシなんだ?」
「ナシです。突然の病気や事故なんかだと最悪ですね。正直、そういう話は読んでても『それはナシだろ』って思う。
 そりゃ、現実でだって予兆や前触れなんてなく、突然人は死ぬものだって、理屈は分かるんですけど……。
 でも、そういう類の現実らしさって、フィクションとしてのリアリティとは別問題じゃないですか。
 素材や主題としてはともかく、シナリオの筋書きとしては正直どうかと思う」
「じゃあさ、異世界に行くとか、スポーツを始めるとか、友達と喧嘩して仲直りするとか、曲がり角で異性とぶつかるとかは?」
 俺は答えに窮してしまった。べつにそうした話が悪いわけじゃない。
「嫌なの?」
「……嫌っていうんじゃ、ないんですけど。はっきり言うと、そうした劇的な出来事の起こらない話を書きたいんです。
 誰も死なない。何かつらい目に遭うわけでもない。何かに激しい情熱を燃やすわけでもない。
 とにかく何も起こらないのが望ましいんです。何も起こらないのに、外に出る気がなかった人が、外に出てしまうような」
「……それ、無理じゃない?」
 部長の言葉は当たっていた。俺は今のところ、その試みを成功させたことがなかった。
 今まで書いたものには、必ず外的要因、きっかけが存在していた。
 本当なら、その「きっかけ」すらも排除して、「彼女」が外に出る話を書きたい。
 実際、三度ほど、外的要因もなく、きっかけもなく外に出る話を書いたことがあるけれど、結局それも無駄だった。
 彼女たちは、物理的には外に出ても、精神的には閉じこもったままだった。
502:
 部長はしばらく俺の言葉を反芻するように黙り込み、何かを考えているようだった。
 その仕草は小動物的で、やっぱりどこか愛らしかった。
 そして不意に、悪戯っぽい微笑をたたえて、
「よくわからないけど、でも、けっこう、具体的に思いついてるんだね?」
 そんなことを言った。
「……え?」
「絶対にやらないと決めていることがあるなら、展開は消去法で決めていくしかないでしょう?」
 そういえば、この人は年上だったな、と。
 俺は漠然と、そんなことを考えながら、その言葉を聞いた。
「それじゃ、がんばって」
 そう言うと、部長は俺に背を向けて、後輩や編入生が座っている方へと歩いて行った。
 カチカチというノックの音は遠ざかった。でも、それはべつに途切れたわけじゃなかった。たしかにこの部屋の中で続いていた。
506:

 部長の口車に乗せられてノートを開いた。実際、今なら何かを書けるような気がしたのだ。
 
 書きかけていた文章を読み直してみると、つくづく書くことが嫌になってくる。
 こんな文章はどこにも行きつかないし、行きついたところでどうにもならないというような気分だ。
 
 それでも書かないわけにはいかなかった。倫理観の問題だ。
 とにかく俺は書かなくてはならない。本当は俺自身、そのことをよく理解している。
 
 ただ単に退屈していただけだったはずの彼女の心境はやがて変貌していく。
 そこには逃れようのない彼女自身の問題が浮き彫りになり始める。
 人は自分自身が抱える本質的な部分からは、決して逃れられない。
 けれど、そうした部分が明らかになるにつれて、俺は段々とたとえようのない心細さを感じることになる。
 いつもそうだ。
 
 いくら物語の中で俺とよく似た人物を救ったところで、俺自身が救われるわけではない。
 そんなのは当たり前のことだ。
507:
 それでも俺は書こうとしてみた。俺が書き始めたのだ。書き終えないわけにはいかない。
 そんなのはあまりに無責任だし、身勝手だ。途中で放り投げることはできない。
 だから俺は書く。書いている。でも書いているうちに、自分が何を書いているのか、段々と分からなくなってくる。
 自明さが失われ、いろんなものが不鮮明になっていく。最後には何も分からないような気になる。
 今度ばかりは無理かもしれない。彼女は外に出ることができないかもしれない。
 書きながらそんなことを思う。
 
 一度そういう考えがよぎってしまうと、あとはまともに考えが回らなかった。
 でも書かなきゃいけない。そういう責任がある。
 
 ノートを閉じて一度休憩を挟むことにした。頭の中でずっと同じことがぐるぐるとまわっている。
 書こう、と思う。でも書けない。何がだめなんだろう。何かが駄目なのだ。
 部活が終わるまでに書き進められたのはたった少しだけだった。
 いっそ書けなかった方がマシと言うほど少ない量。
508:

 部活が終わった後も、何をするでもなく部室に残っていた。
 
 家には帰りたくなかった。こういう気分の日は、いつもなら屋上に行った。
 でも、もう行くわけにはいかなかった。少なくとも、彼女に対して言えることが何か思いつくまでは。
 たとえば「久し振り」だとか、あるいは「気付かなかったよ、ごめんな」だとか。
 
 無神経だろうと馬鹿げていようとなんでもいい。とにかく自分自身納得のいく言葉がほしかった。
 でも結局のところ、そんなのは無謀な試みなんだろう。
 時間は絶え間なく流れ続けているし、その勢いは決して俺のことを顧みたりはしない。
 
 誰も俺が納得するのを待っていたりはしない。
 俺は納得したかったし、未整理のまま放り出されたさまざまなものをどうにかして整理したかった。
 
 文章を書くことで起こっていることを整理できれば、もう少しマシな行動がとれるような気がした。
 でも、文章を書いている間にも時間は流れていく。俺とは無関係に物事は動いていく。
 そして取り返しがとれなくなっていく。整理しなければいけない事柄は増えていく。
 俺は身動きがとれなくなっていく。
 結局、物事を未整理のまま抱え込んで、とりあえず最善を尽くす方が、よっぽどマシな結果が生まれたのかもしれない。
509:
 額を抑えて考え込んでいると、不意に物音が聞こえて顔をあげた。
 てっきりもうみんな帰ったのかと思っていたら、後輩がまだ帰っていなかったらしい。
「帰らないの?」と俺は訊ねてみた。
「せんぱいこそ、どうしたんです?」
「……俺は、まあ、ちょっと」
「書けましたか?」
 後輩は当たり前みたいな顔でそう訊ねてきた。俺は少し苛立った。
「きみはやけに俺の小説の進捗を気にするね」
「気になってますから」
「……これが?」
 俺は片手に持っていたノートを机の上に放り出した。冗談だろ。そう思った。
「どうして?」
 
 訊ねると、後輩は一瞬、息を呑んだように見えた。その態度は妙に硬質で、不安にさせられる。
510:
「ああ、いや、やっぱりいい」
 俺がそう言ったとき、後輩の表情は目に見えて変わった。
 さっきまでの、どこか怯えたような表情から、驚いて声も出せないというようなものに。
「訊かないんですか」
「訊きたくない」
「どうして?」
「関係ないから」
 今度は彼女が苛立った。そういうふうに見えた。
 
「せんぱいの書く話は」
 俺の言葉とは無関係に、後輩は急にそんなことを言い始めた。
「つまらないです」
「……はあ」
 あまりにもまっすぐに言われたものだから、俺は呆気にとられて反応に困ってしまった。
511:
「……あ、そう?」
 結局でてきたのはそんな間抜けな反応だけで、
「はい」
 それでも後輩が真剣に頷くものだから、頭がすごく混乱した。
「でも、妙に気になったんです」
 何か、話し始めてしまった。正直あまり訊きたくなかったけれど、そんなことを言える雰囲気ではない。
 自分の書いたものと他人との関係なんて知りたくない。
「去年の文化祭、わたし、来たんですよ。そのとき、まだ受験する高校も決めてなくて。
 どこでもいいやって思ってたんですけど、その日に文芸部の部誌を見て、それで、ここにしようって思ったんです」
「へえ」
 そうだったんだ、と俺は思った。それだけだった。たいして興味も湧かない話だった。
「部誌に一通り目を通して、途中までは面白いなって思って読んでたんです。
 でも最後の最後に、すごく排他的っていうか、人を拒絶した感じの短編が載ってて……すごく不愉快になったんです」
「……ねえ、念の為に訊くけどそれって」
「せんぱいのです」
 ああ、俺のか。いや、気付いてたけど。
512:
「あの、よく分からないけど、今俺、傷ついていいところだよね?」
「はい。でも、せんぱいは傷つきませんよね?」
「……俺のことを知ってるみたいなこと言うね」
「知っていましたから」
「……」
「わたしとせんぱい、中学一緒でしたよ。知ってました?」
「……ああ、うん」
 知ったのはつい最近だけど。後輩は少し意外そうな顔になった。
「知ってたんですか。てっきり、覚えてないものだと思ってました」
 俺は何も言わずにおいた。どっちにしたって、ひとまず話が終わるのを待つしかなかった。
「正直、せんぱいのこと、あんまり好きじゃなかったです。部活だってやる気があるようには見えなかったし。
 それに、なんだか暗くて、話してると妙に緊張しましたし」
513:
 思わず溜め息が出た。「すみません」と後輩が謝る。謝るくらいなら最初から言うな。
「何を考えているのか分からなくて、ずっと、怖かったんです。せんぱいのこと」
「そうだろうね。もともとあんまり人好きのするタイプじゃないしね」
 言い訳するつもりでもないけれど、精神的に余裕のないタイミングで他人に気遣える人間なんていない。
 ところで。
 どうして俺はこんな話を訊かされてるんだろう? わざわざ訊く気にもならなかった。
 
「だから、せんぱいが部活を辞めたあとも、元々やる気がなかったから、膝を口実に辞めたんだろうって思ってたんです」
「それは……無思慮だね」
 後輩は俺の言葉に少し傷ついたようだった。俺はそういう顔が出来ていないんだろうか?
 傷ついたような顔をできないような奴が、泣きたいときに泣けないような奴が、いつだって悪役だ。
 
「傷つきましたか?」
「少しね」と俺は言った。そう言ってみると、本当に少ししか傷ついていないような気分になれた。
 言葉は意味を矮小化させる。
 泣くなと言われたから強がる癖がついて、泣かなくなったら可愛げがないと怒られた。間抜けな話だ。
 それでも泣くのはいやだったから、泣きたいときには笑うようになった。どうして笑うんだと叱られた。
 
 数年後には、悲しかろうと楽しかろうと、泣きも笑いもせずに仏頂面をしている子供の出来上がった。
 誰を責めればいいんだ?
514:
「何を考えてるか分からない人だと思ってたんです。たぶん何も考えてないんだろうなって。
 ときどき友達と一緒に騒いでるところを見かけると、本当にそんなふうに見えたんです」
「きっと本当に何も考えてなかったんだよ」
 後輩は首を横に振った。
「何も考えていない人は、あんなものを書きません」
 舌打ちをしそうになったのを堪える。今度は溜め息も出なかった。
「やっぱり部誌になんて載せるんじゃなかったな。適当に書いたのを出せばよかった。
 妙なものを出したせいで、みんな俺のことを変な目で見てる気がする。ただのバカの方がよっぽどやりやすかった」
 言いながら、俺は後輩に対して強い苛立ちを感じていた。
 おまえに俺の書いたものの何が分かるって言うんだ?
 文章から作者の人格を想像しようとする奴は信用ならない。そういう奴は文章それ自体を絶対に読まないからだ。
 
 主人公のどんな台詞だって作者の思想の投影だと解釈したがる。間抜けが他人に口出しするほど馬鹿げた話もない。
「どんな人が書いたんだろう、って思ったんです。それで名前を見たんです。
 すごく意外でした。他の人ならともかく、せんぱいがそんなものを書くなんて想像もできませんでした」
515:
「想像力の欠如だな」
「……」
「結局、自分で勝手に解釈しちゃうんだよな。目の前の相手がどんな人間か。
 明るそうに見えたら楽しい人なんだろうとか、騒いでたら空気が読めない奴だとか、暗そうに見えたら暗い奴なんだろうとかな。
 自分なりに解釈して、そこから先はもう印象が固定されるんだ。そいつが本当にどんな人間かなんて関係ない。
 だから気付けないんだ。馬鹿騒ぎをしてる奴が心の底から騒ぎを楽しんでいるとは限らないって。
 クラスで一番の人気者が家で手首を切ってるかもなんて想像さえもできないんだ。噂にでもならないかぎり」
「あの……」
「いかにも勉強しかできないような暗そうな奴が、学校の外では何かに熱中してて、その中ではそこそこ人気があって。
 しかも社交性だってあって友達だって多くて目標だってあるかもしれない。そんな仮定もできないんだ。
 だから簡単に人が死ぬんだよ。だから簡単に人を殺すんだ。俺だってそうだしおまえだってそうだよ。みんなそうなんだ」
「せんぱい……?」
「だから俺は自分のことを勝手に判断されるのが我慢ならないんだよ。俺がどういう人間かなんてどうしておまえに分かったりするんだ。
 なんでおまえに見せた顔が全部だなんて考えるんだ。でも知ってるんだよ。立場が代われば俺だってやってるんだ。
 俺だって同じことをしてる。だから俺は誰のことも責められない。俺はそのことが嫌で嫌でたまらないんだよ」
「せんぱい」
「なに?」
「……その、ごめんなさい」
516:
「いいよべつに。きみが悪いんじゃないよ。ただそういうふうに出来てるんだ」
「そうじゃなくて、無神経なことを、言ったかなって」
「ああ、うん。言ってたな。傷ついてないと思ったんだろ? なら仕方ないよ。俺だって反撃したからあいこだよ」
 後輩はまた傷ついたみたいな顔をした。俺はいいかげんうんざりしてきた。
 でも、それを不愉快に思うのは俺の都合であって彼女には関係ない。責める理由にもならない。
「わたしはただ、せんぱいの書いたものを読んで、どんな人が書いたんだろうって、興味をもったんです。
 それで、次はどんなものを書くんだろうって、気になったんです」
「不愉快だったのに?」
「……不愉快だったのは、たぶん、自分と重ねたからだと思います」
「そう。なら俺のせいじゃないな」
「……そうですね」
 それから後輩は黙り込んだ。安っぽい沈黙だった。少なくともそんなふうに感じた。
517:
「書いてくれませんか」と、長い沈黙の後、後輩は言った。
「なぜ?」と俺は訊ねた。
 もう書くことなんてできそうにない。俺は気遣う余裕を失うほどに混乱していたし、疲れていた。
 
 普段だったらこんな言い方しなかった。もっと器用にはぐらかしていた。 
 でももう無理なのだ。俺には何もできやしない。もうどうしようもないところまで来てしまったのだ。
「わたしはせんぱいの書いたものが読んでみたいんです。どんなものを書くのか、興味があるんです」
「自分と重ねたから?」
「……そう、かもしれません」
「だったら、自分で書くべきだよ。自分のことは自分で書くべきだ。本当は一人一人、個人的なものを書けばいいんだ。
 誰かの文章を読んだりせずにさ。そういうものこそ、本当は普遍的になりうるし、なるべきなんだ」
「じゃあ、わたしも書きます。だから、せんぱいも書いてください」
 交換条件にもなっていなかった。後輩は小さな声で話を続けた。
「入学してから、せんぱいと話をして、せんぱいがどういう人だったのか、知ろうとしたんです。
 でも、そうすればするほど分からなくなって、やっぱり怖いし、緊張するんです。
 本当にこの人があんなものを書いたのかって、不安になったんです」
「なあ」と俺は彼女の話を遮った。
「その話まだ続く?」
 また彼女は同じ顔をした。いいかげんうんざりしていた。彼女は少なからず傷ついていた。 
 でもそれがどうした? 俺だって傷ついてる。
518:
「……いや、違う」
 俺は拳を作って自分の額を軽く小突いた。それから溜め息をついた。
「こんな言い方がしたいわけじゃないんだ。でも、俺が書いているものは個人的なものなんだ。
 だから誰かに頼まれたって書けないし、そんなふうに書きたくもないんだ。
 それを読んできみがどう思おうと勝手だけど、感じたことを俺に押し付けるのはやめてほしい」
 その言葉は、後輩を少なからず失望させたようだった。
 でも、嘘ではなかった。
 彼女は俺の書いた文章に勝手な幻想を投影していた。
 そんなものに付き合わされるのはいやだった。すぐに嫌気がさすに決まっていた。
「でも、わたしは……」
「“わたしは”」
 と俺は繰り返した。
「それはきみの都合だ。俺とは関係ない」
 
 そこで話は終わった。後輩は何かを言いたげだったけれど、結局荷物を持って部室を出て行った。 
 酷く喉が渇いていた。溜め息をつく。肌寒い。
 
 彼女の望むようなものが書けたなら、と俺は思った。それはたぶん、すごく幸せなことだったんだろう。
524:

 後輩が去って行った後、部室に残ったまま一人で考え込んだ。
 言わなければよかった、と後悔する気持ちが大きかった。あんなことは言わないでよかった。余計なことを言った。
 言ってしまったものは仕方ない。そう割り切ろうとするけれど、無理だった。
 後悔するくらいなら最初から何も言わなければいいのだ。
 何度か溜め息をついた。強い風が窓をカタカタと鳴らした。外はもう暗くなりはじめていた。秋なのだ。
 俺は何をしているんだろう?
 高校二年生なんだぜ、と俺は思った。高校二年生なんだ。もう子供みたいに誰彼かまわず当り散らしていい歳じゃない。
 もう十七になるんだ。なんだって年下の女の子相手にあんなどうしようもないことを言えたりするんだ?
「バカだな」
 俺はそう呟いてみた。一人で。誰が聞くわけでもない。誰が言うわけでもない。何の意味もない言葉。
 でも言葉を口に出すことの意味はあった。アリバイ作りみたいなものだ。
 言葉に出すことで、『俺は後悔しているのだ』と強く自覚しようとする。
 そうすることで罪悪感を和らげようとしている。卑怯者の手口だ。
 
 あんなことを言うべきじゃなかった。いつもそんなことで後悔している。
 そういうタイプの後悔は時間が経っても薄まることがない。
 誤字みたいなものだ。だいたいの場合は手遅れになってから気付く。人に見せた後とか。
525:
 いつもは親密さすら感じる部室という空間が、ひどくよそよそしく、冷たいものに思えた。
 居心地が悪くなったので、荷物を持って帰ろうとした。空間にすら軽蔑されているような気がしている。
 部室を出るとき、机の上にシャープペンを見つけた。
 なんだか気になったので、近付いて手に取ってみる。
 部活中、部長がずっとカチカチやってた奴だ。何度か見たから、間違いない。忘れていったんだろうか。
 
 なんとはなしに、部長がやっていたようにノックしてみる。カチカチと音がする。
 けれど、芯は出てこなかった。入っていないのかと思ってひっくり返してみると、三本ほど真新しい芯が出てくる。
 先の方を見てみると原因が分かった。
 ペン先が潰れているのだ。
 つまり、もうこのペンはダメだということだ。
 何回ノックしたところで芯は出てこない。役目を果たすことができない。
 
 誰が何をやったってもう出てこない。俺は少しだけ笑ってしまった。
 可哀想に、と俺は思った。でもまあいいじゃないか。どうせ替えが効くんだ。
 部長は新しいシャープペンを買うだろう。たぶん今度はおまえより丈夫な奴を。おまえより使い勝手がいい奴を。
 だから安心して天に召されるがいい。さらば。
 俺は机の上にシャープペンを置いたあと、手のひらを合わせて数秒拝んだ。
 それから、なんだか嫌な気分になって、すぐに部室を出ることにした。
526:

 もう外は暗かったけれど、まだ帰る気にはなれなかった。
 俺は自販機で烏龍茶を買ってその場で口をつけた。喉の渇きはそれでどうにかなった。
 
 でも他のことは烏龍茶じゃどうしようもなかった。肌寒さや心細さはこの自動販売機では無理だった。
 あるいは何か特別なエピソードでもあれば、心細さくらいはなくすことができたかもしれない。
 たとえばある日の放課後、かわいい女の子とこの自動販売機の傍で楽しくおしゃべりしたとか、そういう個人的なエピソード。
 そういうものでもあれば心細さは雲散霧消し、ちょっとしたほろ苦さが胸に去来し、少しだけ満たされたかもしれない。
 とても残念なことに俺と自動販売機の間に個人的なエピソードなんてなかった。だから心は弱ったままだ。
 俺はなんだかやりきれない気持ちになって屋上へと向かった。確認だ。
 階段を昇りながら、俺は自分を励ました。人は人を傷つけずには生きられないものなんだよ、と。
 傷つけずに生きていると思ってる奴はきっと気付いていないだけなんだ。あるいはそう思いたいだけなんだ、と。
 それでも俺は頑なに反論する。それは積極的に人を傷つけていい理由にはならない、と。 
 人はできるかぎり人を傷つけないように努力するべきだし、俺にはその努力が欠けていたのだ、と。
 階段を昇りきってしまうといつものように目前に鉄扉があった。
 この扉はいつだって簡単に開く。冗談みたいに簡単に。なんでだろう、鍵が掛かっていないのだ。
 たぶん、ここには何もないからだろうな、と俺は思った。
 守るべきものも隠すべきものもここにはない。だから簡単に扉が開くんだ。
 俺はいつものように扉を開けた。やっぱり簡単に開いた。
527:

 屋上から見る空は鮮やかだった。雲は青紫で、空は橙で、夕陽は黄色。絵に描いたような光景。
 風が少し強かった。こんなところにいたら、また風邪を引いてしまうかもしれない。
 
 まあいいやと俺は思った。屋上には誰の姿もなかった。夕陽はいつになく眩しい。
 
 夕陽。
 すくなくとも、明日もがんばろうなんて気にはならなかった。だからってうんざりしたわけでもない。
 ただ、綺麗だった。でもそれだけだった。遠い世界の出来事。手の届かない場所の出来事。
 誰もいない。誰もいないっていうことは、誰にも見られてないってことだ。 
 誰にも見られてないってことは、何をしても分からないってことだ。
 ここでならなんだってできる。思う存分泣くことだってできる。
 そう思うと家までの帰り道が余計に長く感じられた。ここから動くことなんて二度とできないような気がした。
 
 俺は屋上に座り込んでじっと空を睨んだ。フェンス。隔絶されてる。向こうに手は届かない。 
 フェンスが邪魔だなあと俺は思った。空がよく見えないじゃないか。
 
 まあ、それが取り立ててどうだというわけでもなかった。べつに空が見たくてここに来たわけでもない。
528:
「おまえは彼女を傷つけたんだ」と俺は俺に向けて言ってみた。
「そしてもう二度とやり直すことはできない」
 言ってしまうと後は簡単だった。同じ言葉を頭の中で何度も唱えるだけだ。
 
 もう二度とやり直すことはできない。
 終わったことなんだ。過ぎてしまったことは変えられない。諦めて受け入れろ。
 変えられるのは「これから」のことだけだ。「これまで」のことはそのままに置き去りにするしかない。
 いつもならそう思って頭を切り替える。でも今日はなんだか、気力が萎えてしまっていた。
 それでも頭を切り替えないわけにはいかない。どうしようもないことにいつまでも縋りついているわけにはいかない。
「終わったことだ」と、今度はそう口に出してみた。マントラ。
「なにが?」と声が聞こえた。
 答えを口にしかけて、俺は振り向いた。
 枝野が立っていた。
529:

「何してるの?」と彼女は言った。
 直前に口にした言葉を忘れたみたいに自然な声音で。
 
「何をしてるように見える?」と俺は訊ねた。
 相応しい答えが見当たらなかったから、考えるのを放棄しただけだ。
「落ち込んでるみたいに見える」
「当たり」
 枝野の声は以前の通りで、彼女の態度は俺を緊張させない。
 まるで何事もなかったかのような会話。いつかも交わしたような言葉。
「誰かと喧嘩でもした?」
「ときどき、きみは魔法が使えるんじゃないかと思う時がある。千里眼で俺を見てるんじゃないかって」
 枝野はちょっと面食らったみたいな顔でこっちを見た後、心外だというふうに眉を寄せた。
「もし千里眼が使えても、あんたのことなんて絶対に見ないけどね」
 そう言ってから彼女は深い溜め息をついた。何かを諦めるような溜め息。
530:
「……ごめん。嘘かも」
 彼女はそう言って肩をすくめた。俺はその言葉をうまく理解できなかった。
「どれが?」
 その質問には答えずに、枝野は勝手に話を続ける。
「ホントのこと言うと、さっき部室の前に居たんだよ、わたし」
 
「立ち聞き?」
「人聞き悪いな。聞こえてきたの」
「部室に何か用事?」
「……部員が部室に顔を出すのに、理由が必要?」
「それが幽霊部員ならね」
 俺の言葉に、彼女は不服そうに口を歪めた。
「今日はいつもより口が回るね?」
 そうかもしれない。いつもなら考えてから言葉にするから。でも今は……。
531:
 俺はそれ以上深くは考えずに、適当に言葉を返そうとしたけれど、思いつかなかった。
「きみに謝るべき?」
 言葉に詰まるあまり、俺はそんなことを訊ねた。訊ねるべきじゃなかった。何度同じことを繰り返すんだろう。
 彼女は案の定呆れた顔になった。というより、呆れを通り越したのか、軽く笑っていた。
「それ、普通、わたしに訊く?」
 その言葉には答えずに、俺は彼女の表情の動きを観察した。俺が黙り込んだことに気付くと、彼女は笑うのをやめた。
 そして真剣な顔で口を開く。
「何について?」
「覚えていなかったこと」
「だと思ったけど。いいよべつに」
 当たり前みたいな顔をしていた。
532:
「だってそれ、いまさらなんだもん。それに、覚えてなかったのはべつにあんたの責任じゃないでしょ。
 そりゃショックだったけど、だからってあんたを責めるのは違うでしょう?
 そんなのは、もうわたしは一年以上前に通り過ぎたし、とっくに納得してたんだよ」
「そう、なんだ」
 そうだったなら。
 なんで彼女は、しばらく屋上に来なかったんだ? あんなふうに逃げ出したんだ?
 彼女は嘘をついていた。それは俺にも分かった。
 長い沈黙が流れた。風が冷たかった。どうしてこんなに肌寒いんだろう。
 
 やがて、何かを決心するみたいに息を呑んだあと、彼女はまた口を開いた。
「なんで書くって言わなかったの?」
「何の話?」
「さっきの、部室での話」
「……なんでって、どういうこと?」
「あんたは、誰かに必要とされたかったんじゃないの?」
533:
 俺は枝野の顔をじっと見つめた。彼女も負けじと俺の顔を見た。でも結局、目を逸らしたのは枝野が先だった。
 必要とされたかった、のだろうか、俺は。
 よくわからない。そんなふうに逃げ出そうとする俺の思考を、
「失望されるのが怖かった?」
 
 枝野の一言が捕らえた。彼女は本当に、魔法が使えるのだという気がした。
「そうだね」
 俺は軽く溜め息をついてから肯定した。肯定してしまうと多少楽になった。
 それは事実だった。
"事実に怯える必要はない。"と俺は唱えた。コインロッカー・ベイビーズ。
"ただ認めて何日間か泣けば良かったのだ。"
「臆病者」と枝野は言った。その言葉はいくらか俺を傷つけたけれど、だからといって反論があるわけでもない。
 俺は少し考えてから、枝野の顔をもう一度見つめた。彼女は少し怯んだ。
「ねえ、きみのこと、好きだったって言ったら信じる?」
「うそ」と彼女は言った。鼻で笑うように。それでもどこかしら、隠しきれない動揺が漏れ出たような笑い方。
 こんな悪趣味な嘘を誰がつくだろう。
534:
「中学のとき、俺のことを好きだと言ってくれる人は一人しかいなかった。
 ひょっとしたら、一人いたというだけでも、十分すぎるくらい幸福なのかもしれない」
「そうだよ。存分に後悔したまえ」
 
 冗談めかして笑いながら、彼女は俺の言葉の続きを待っていた。目は合わせてくれなかった。
「本当は縋りつきたいくらい嬉しかったんだ。でもそれと同じくらい怖かった。
 だって俺たちはろくに話したこともなかったし、きみは俺のことをほとんど何も知らなかった。違う?」
 彼女は少し考え込んだ。
「……まあ、たしかに。所属している部活とクラスと、あとはおおまかなイメージくらいしか」
「どうせ失望させるだけだって思ったんだ。俺だってきみのことはほとんど何も知らなかったしね。
 だって俺は俺という人間のろくでもない部分をよく知っているし、きみはそれについてほとんど何も知らなかった」
「自虐的」と彼女は笑った。
「事実」と俺は答えた。
「だから振ったの?」
「そう、だと思う。とても後悔した。二週間くらいきみのことが頭から離れなかった」
535:
「嘘だ」
「本当に。といっても、今はその内容をほとんど覚えてないけど。俺はそれからきみのことについてある程度調べた。
 どんな部活に入っていて、どんな友達と付き合っているのか。調べたというより観察したという方が近いか。
 気付くと目で追いかけてた。俺はその時期、毎日みたいにきみのことを考えてた。たぶん好きだった」
「……」
「手放してから惜しくなるタイプなんだよな、きっと」
「最低」
 と彼女は笑った。軽蔑したというよりは、理解しかねるというふうに。
「きみにそのことを話すべきなんじゃないかと考えることもあったよ。
 俺もきみのことが好きなのかもしれないって。そうすれば何か変わるかもしれないと思った。
 でも結局、俺はそういうことができないんだよな」
「そういうのって?」
「誰かを好きになったとしても、その気持ちをどう取り扱っていいのか分からないんだ。
 誰かを好きになる。好きだと告げる。両想いだと知って、付き合って。そのあとはどうなるんだ?
 一緒に話をして、デートして、ひょっとしたら卒業しても付き合っていたりして、大人になって、上手くすれば結婚でもするかもしれない。
 結婚して子供を産んで、子供を育てて……」
「……」
「それでどうなる?」
536:
「そんなに先のことまで、普通、考えないよね」
 彼女は真剣な声音でそう言うと、遠くの空をじっと睨んだ。
「でも」と俺は言った。
「俺は考えるんだ。考えずにはいられない」
 彼女は正しい。俺は臆病者だ。
「結局きみが知る通り、俺がきみに何かを告げることはなかった。
 自分の中で終わったことにしてしまうと、何もなかったみたいにすぐきみのことも忘れられた。
 あとはほろ苦い思い出だけが残った。そんなものでもないよりはましだと思った」
「最低」と彼女は繰り返した。ちょっとつらそうだった。
 それでも俺は、今とても正直に話をしている。
 ……ひょっとしたら、つらい事実を話す正直者よりも、素敵な作り話を語るうそつきの方が付き合いやすいかもしれない。
「失望されるのが怖かったの?」
「きっときみは俺のことなんてすぐに嫌になっただろうと思う」
「どうして?」
537:
「きみは俺にまともな人間であることを望んだと思う。
 理想化されないまでも、少なくとも恥じるところのない人間であることを望んだと思う。
 反対に俺は、きみに無条件の好意を望んだだろう。何をしても許してくれるような、そんな都合のいい存在であることを望んだ」
 俺は話しているうちに段々と嫌な気持ちになってきた。
「そんなのまともな恋愛なんて呼べるか?」
「……まともな恋愛ってなんだろう?」
 その答えを俺は知らない。でも、少なくともそういうものは「まとも」とは呼べない、と思った。
「俺は人を好きになれるような人間じゃないんだろうな。
 たとえば俺が望むのは"安心"であって、"安心させてくれるような誰か"であって、特定の誰かじゃない。
 俺を安心させてくれるなら誰だっていい。きみだってかまわないけど他の誰かでもかまわない。
 要するに俺がほしいのは抱き枕とか、赤ん坊のおしゃぶりみたいなものなんだ」
 なんでこんな話をしているんだっけ?
「ものすごくリアルな人型の機械が、俺に愛情を抱いている"ふり"をしてくれるのが一番都合がいい。 
 生きている人間が相手だと不安になってくるから。結局魂の有無だって関係ないんだ」
 彼女は黙り込んでしまった。
「でも、そんなことを考えて、そんなことを人に求めれば、いつか気付かれて軽蔑されるに決まっている。
 だから、誰ともどうにもなれない。とにかく俺は、人との関係というものをどう発展させていけばいいのか分からないんだ。
 停滞している状態に安心を抱く。
 きっとだからこそ、高校に入ってから一年以上、きみと一緒にいられた。名前を知ろうとすることもなく」
538:
 枝野は黙り込んだまま夕陽を睨んでいた。空は暗い。風は強い。夜が近付いている。
「小説は」と、彼女はふたたび口を開いた。
「書かないの?」
 俺は首を横に振った。
「分からない」
「失望されるのが怖い?」
「どうだろう。それもあると思う」
「面倒な奴」と彼女は言う。俺は少しだけ笑った。
 俺は、一生このようにして生きるほかないのかもしれない。
「でも、きっと書くよ。いつかは。誰かに見せるかは、別の話だけど」
「ほんとは今でも好きだったんだよ」
 彼女は唐突に、そんなことを言った。一瞬、何の話なのか分からなかった。
539:
「なんでかはもう分からない。たぶん落とし穴みたいなものなんだよね。
 一度落ちたら抜け出せない。そんな感じなんだと思う。よくわからないけど」
 俺は何も言わなかった。
「でも、わたしはきっと"あなた"が求めているものを与えられないし、他の誰にもそんなことはできないって思う」
「そうだろうね」と俺は物わかりのいい子供みたいに頷いた。本当は今すぐにでも話をやめてほしかった。
「それでも本当なら、努力くらいはしたかったけど、中途半端に期待するのは、お互いつらいだけだもんね」
「うん」
「わたしが望むのは……望むとしたら、それはもっと普通の恋愛なんだよ、きっと。
 だからわたしは、今度はもっと普通の人を好きになると思う。普通に落ち込んだり普通にはしゃいだりする人を。
 そんなに簡単に切り替えられるかは、ちょっと自信ないけど、でも、わたしだってもう疲れたんだよ」
「……」
「だから、これでおしまい」
 おしまい、と、彼女は言った。
540:
「ねえ、ひとつだけ訊いてもいい?」と俺は訊ねた。
 ずっと前から気になっていたのだけれど、この言葉、それ自体がひとつの質問だよな。
 どうでもいいことを考えて気分を切り替えようとした。
「なに?」と彼女は首を傾げた。
「きみは前、学生同士の恋愛に興味なんてないって言ってなかった?」
「よくそんなこと覚えてるね。それ、あてつけみたいなものだったんだよ」
「意味がない、みたいなことも言っていたよね?」
 彼女は肩をすくめた。
「意味がなくて何がいけないの?」
 たぶんそこが俺と彼女の決定的な違いなんだと思うけれど、確信はできない。
 俺はそれ以上考えることをやめてしまったからだ。本心では、彼女は無意味だとも思っていないのかもしれない。
 何かしらの意味はあるのだと考えているのかもしれない。今だったら、その考えに同意できそうだった。
 意味があるにしても、結局俺には、怖くてそんなことはできそうにないけれど。
 彼女が屋上を去り、俺はひとり置き去りにされた。扉の閉まる音の後には、風の声しか残らなかった。
 このようにして俺はひとりぼっちになった。
545:

 取り残された俺はひとりでぼんやりと夕陽を眺めた。それから長い長い溜め息をつく。
 風が凍てついたように冷たく、夕闇がタチの悪い冗談みたいに街を覆い始めていた。
 枝野は行ってしまった。それは事実だ。
 悲しいか、と俺は俺に訊ねる。
 悲しい、と俺は答える。そう、俺は悲しいんだ。でもそれだけのことだった。
 さて、と俺は考える。頭を切り替えなければ。
 さて。さてさてさてさてさてさて……。
 俺は何をすればいい?
 決まっている。帰ればいい。もうここですべきことなんて何ひとつないんだから。
 
 そう思ってから俺は急に悲しくなった。本当に悲しかった。涙が出そうなくらいだった。
 すぐにでも校舎に入って枝野の姿を探そうかとも思った。
 追いかけて何かを言うべきだという気もした。でも何を言えばいいのか分からなかった。
 いったい何が起こったんだ? そう自分に問いかける。俺の身にいったい何が起こっているんだ? 
 これはいつまで繰り返されるんだ? どんなことが起こればこの状況から抜け出すことができるんだ?
 でも答えなんてどこからも帰ってこなかった。
546:
「さて」と俺は口に出してみた。
「帰ろう」
 
 でも体はなかなか動かなかった。
 頭の中で何度か念じてみる。帰れ。帰るんだよ。もうここでやることなんてないんだ。
 ここにはもう何もない。
 
 とはいえ、そもそも最初からなかったのだけれど。
「帰ろう」
 もう一度そう口に出してから、俺は屋上を後にした。
 校舎の中には人の気配もろくになかった。物音さえしない。静まり返っている。
 
 俺は屋上から昇降口に向かうまでに間、誰とも出会わなかった。誰ともすれ違わなかった。
 きっともうこの学校には誰も残っていないんだろうな、と、そんな非現実的な妄想が頭をよぎる。
 みんなどこに行ったんだ?
 いや、決まってる。帰ったんだ。俺は何をバカなことを考えてるんだろう。
 でもどこに? みんなどこに帰ったんだ?
547:
 校門を出てから、自分がどこに向かって歩いているのか分からなくなってしまった。
 家に帰ろうとしている。でも、家に帰るまでの道筋が思い出せなくなってしまった。
 
 たしかに記憶の中にあるはずなのに、どこをどう進めば家に帰れるのか、分からない。
 起きていることのすべてが現実じゃないみたいだった。
 馬鹿げているし、現実的じゃない。まるで夢の中にいるみたいな気分だ。
 でも、全部紛れもなく起きたことだ。みんないなくなって、俺は今一人だ。それが確かな現実なんだ。
 そう思ったら、どこにも帰る場所なんてないような気がした。
 だから、校門を出てすぐにビィ派に声を掛けられたとき、俺は本当に驚いたのだ。
「よう」と彼は平然とした顔で言った。いつものような顔で。
「ああ」と俺は呆然と声を返した。不思議と彼も俺のそんな態度を気に掛けず、傍へと駆け寄ってくる。
「誰かを待ってたのか?」
 やっとの思いで口から出せたのは、そんな疑問だった。
「べつにそういうわけでもないんだけど。ちょっとね、暇だったから」
548:
 ビィ派は肩をすくめると、「帰ろうぜ」と俺を促した。俺は何も言わずに彼の歩みに従う。
「部活の調子は?」
 彼は夕陽を睨みながらそう訊ねてきた。俺はその堂々とした態度にちょっと戸惑った。
「そんなに進んでないよ」
 俺が答えると、彼は少し笑った。
「文化祭間に合うの?」
「どうだろう。いざとなれば間に合わなくていいから」
「ふうん」
 それから彼は、シィタ派の奴が編入生と付き合いはじめたらしいという話を俺にした。
 半ば予想していたことでもあったけれど、それをビィ派が知っていたということに、少し驚く。
 そして、自分がそれにまったく気付かなかったという事実に、少し愕然とした。
 
「あいつはいつもそうだよな。女なんて興味ないってふりして、一番手が早いんだ」
 ビィ派はどことなく楽しそうだった。素直な奴だ。嫉妬とかそういうものと縁遠い。
 祝福すべき時に祝福できる奴。良い奴だ。
549:
「どっか寄っていかねえ?」
 ビィ派がそんなことを言うので、俺たちは二人で商店街まで歩いていくことにした。
 大通りには美味いものを安価で売る店がたくさんあって、だからうちの学生は帰りに商店街に寄っていくことが多い。
 今日は寒いからタイヤキな、と目的地を勝手に決めてしまうと、ビィ派はさっさと歩き出した。
「最近急に冷えるようになったよな」
 とか言いながら、彼は買ったタイヤキをかじりながら歩く。
「夕飯食べられなくなるぞ」
 と俺が常識人みたいなことを言うと、
「いいんだよ。うち夕飯ないから」
 などとよく分からないことを言う。冗談を言っているようにも見えないので、本当のことなのかもしれない。
 それでこっちがちょっと神妙な気分になっていると、今度は思いついたような顔で、
「バッティングセンター行こうぜ」
 なんて言い出す。満面の笑み。
「なんで?」
「俺が打つから」
550:
 答えになっていなかったけれど、俺たちは商店街から結構歩いた位置にある町はずれのバッティングセンターまで歩いた。
 秋空の下でタイヤキを食べながら男二人で歩いていると、妙なことばかり考えてしまう。将来のこととか。
 バッティングセンターには、ほとんどいつも利用者が誰もいない。
 けれど、その日はなぜか、なんとなく人類が忽然と消えた世界のバッティングセンターみたいに見えた。 
 俺は建物の中からビィ派がバッドを構える姿を眺めた。
 
 彼は当てるたびに大袈裟に喜んで、外すたびに大袈裟に怒っていた。
 俺はその姿がなんだかおかしくて、彼が外すたびに笑い声をあげた。
 
 建物の中に戻ってくるなり、彼は充実したような溜め息をついて、
 
「やっぱ無理だな。俺に甲子園は」
 
 真剣な顔でそう言った。
 そうかと思うと今度は建物内にぽつんと置かれたUFOキャッチャーに目を留める。
「どうすっかなー、いいのねえな」
 と言いながらも、景品のぬいぐるみをいろんな角度から睨み始めた。
551:
 彼がそうしている間、俺は自動販売機でジュースを買って飲んでいた。
 ビィ派それを目ざとく見つけると、今度は、
「あ、俺にも」
 なんてことを言い始める。
「自分で買え」
「おごって?」
 俺が首を横に振ると、ビィ派は一人で勝手に笑い始めた。
 その笑い声がなかなか止まなかったから、なんだか俺までおかしくなって、腹が痛くなるまで笑い合った。
 傍から見たら頭がおかしくなったようにでも見えたかもしれない。
 ひとしきり笑った後、彼は急に真剣な顔になるとUFOキャッチャーに向かった。
 その中から、たいしてかわいくもない何かのキャラクターのぬいぐるみに狙いをつけて、硬貨を入れた。
「おまえさ、最近なんかあった?」
 ビィ派は、クレーンの方をじっと睨んだままそう言った。
 その声があまりにも自然すぎて、俺は一瞬何を言われたのか分からなかった。
552:
「なんかって?」
「なんか」
「まあ、あるよ。いろいろある。人生だからね」
「人生?」
 彼はそこでちょっと首を傾げて、一拍おいてから小さく笑い、クレーンを降下させた。
「まあ、そうな。人生だもんな。……ああ、くそ!」
 クレーンはぬいぐるみの身体を器用に掴んだけれど、力が足らず掴めなかった。
「そっちは?」と俺は訊ねた。
「たいしたことはないな。割と良いことしてる」
「良いことって?」
「こないだ、コンビニで会ったトラックの運転手に道教えてあげた。
 あと、商店街で泣いてた迷子を親と会わせてやったり、それから小学生のエロ本発掘を手伝ったり。まあいろいろだ」
 どうよ、という顔をされたので、頷いておく。
 ビィ派は俺の頷きを確認してから満足そうに笑い、もう一度硬貨を突っ込んだ。
553:
「友達を大勢作ろうって気にはならないけどさ、見ず知らずの人と話したりするのは楽しいんだよな。
 このあいだ、なんかよさそうなスーツ着た外人のオッサンと世間話したりしたし」
「どこで会ったんだよ、そんな人と?」
「コンビニ。いろんな人がいるもんだぜ。この辺りに日帰りで行けるニッポンの観光地、ありませんかって訊かれた」
「なんて答えた?」
「このへん、何もないんですよ、って。本当になんもないしな。オッサン苦笑いしてた」
 妥当な答えだった。
「あーあ。全然とれねえ」
「へたくそ」
「おまえね、やってみ? これ。絶対とれねえから」
 俺は立ち上がって財布を取りだし、ビィ派に代わって硬貨を突っ込んだ。
554:
 不意に、今言っておかないといけない気がして、俺はビィ派に向けて言葉を投げた。
「あのさ、俺……」
「なに?」
「UFOキャッチャーやるの初めてだわ」
「……それでよく人にへたくそとか言えたな、おい。俺じゃなかったら殴られてるぞ」
「これで取れたらかっこいいよな」
「まあ、すげーかも」
 ビィ派はどうでもよさそうに機体から離れると、自販機でスポーツドリンクを買った。
 俺は少し緊張しながらボタンを操作する。
「……なあ」
 と俺はビィ派に声を掛けた。
「なに?」
「取れたよ」
「……おまえすげえな」
555:
 俺たち二人はそれから何も言わずに傍に置かれていたベンチに並んで座った。
 外はもうほとんど真っ暗になっていた。
「なんで……」
「ん?」
「なんで、何かあったって思った?」
 長い沈黙の後、俺がそう訊ねると、彼は少し間を置いてから、手に持っていたスポーツドリンクを喉を鳴らして飲んだ。
「何の話?」
「さっきの話」
 
 ああ、と彼は頷いた。
「見てればだいたい分かる」
「みんなにそう言われる。俺ってそんなに分かりやすいかな」
556:
「そうでもないんじゃない? 身近にいる奴は気付くだろうけど……」
「それ、分かりやすいってことだろ」
「あ、そうか」
 俺は景品のぬいぐるみを掴んで感触を楽しんだ。なかなかにふかふかだ。
 ビィ派は大きなあくびをしてから言葉を続けた。
「まあ、前にも、おまえが似たような顔をしてたことがあったから」
「前って?」
「高橋君のとき」
「誰だよ高橋」
「おまえ、本気で言ってる?」
557:
「……いや、高橋って言われても、大勢いるし、漠然としすぎ」
「だから、ほら。中二の冬頃におまえと喧嘩して……」
「……あー」
「それからずっとおまえを目の仇にしてた高橋君」
「……あの高橋君か」
「そう、あの高橋君。野球部補欠で吹奏楽部の柳瀬ミカと付き合ってた」
「柳瀬ミカ、男を見る目だけはなかったよなあ」
「俺たちが言えたことじゃないけどな」
「で、その高橋君のときと、今の俺がどうしたって?」
「似た顔してる。だから、またなんかやらかしたんじゃないかと思って」
「やらかしたって、いや、俺あのときだって一方的に被害者だぞ」
「いや、知らないけどさ」
558:
「まあ聞けよ。あの、なんだっけ、高橋君? あいつがさ、人が膝やって落ち込んでるところにさ……。
“部活サボれてよかったじゃん”とか言ってきたわけ。最初は、そりゃ笑ってごまかしてたけど……。
 何度も何度も言われたら、こっちだって我慢できなくなるだろ。だからつい……」
「つい?」
「『万年ベンチは他の部のこと考える余裕があっていいね』、と、皮肉をこぼして……」
「……」
「そしたら、殴り掛かってくるじゃん?」
「……いろいろ言いたいことはあるけど、まずおまえもずっとベンチだったじゃねえか」
「頭に血が昇ってたときの言葉に整合性を求められても困る」
「……まあとにかく、高橋君のことはおいといて、だよ」
 ビィ派は強い調子で話を遮ると、一瞬真剣な顔になりかけて、すぐそれを崩した。
「……何の話してたのか忘れた。まあ元気出せ」
 そこで話が終わってしまって、俺は少し笑った。
 そうしてから、元気出せ、という言葉を受けて、落ち込んでいた理由を思い出して、ちょっと暗い気持ちになる。
559:
「俺が間違ってるのかな?」
 
 そう訊ねると、ビィ派はまたスポーツドリンクに口をつけてから、神妙な声で、
「君の選んだ道に間違いなどない。ただ選んだ道があるだけだ」
 と言った。
「何の台詞?」と俺は訊いた。
「オウガバトル64」とビィ派は笑った。そして、また真面目な顔になる。
「間違いかどうかっていうのは重要じゃないよ。肝心なのは自分がどうしたいかだろ?」
「似たようなこと、最近言われたな」
「ふうん。なんて答えた?」
「忘れた」
 本当に忘れてしまった。あるいは、答えなかったのかもしれない。
560:
 ビィ派は溜め息をついて、年寄りめいた遠い目をして言葉を続けた。
「でも、そうだな。べつに何が間違いってことはないんだと思う。それが人生ですよ」
「……人生ね」
 俺が笑うと、ビィ派も笑った。
「いろんな生き方をする奴がいるけど、みんな死ぬ。みんないろんな死に方をする。
 どんな生き方も死に方もその中のひとつってだけだよ。そうだろ? どれかひとつだけが間違いってこともない。
 だから、やりたいようにやるのが一番だよ。問題は……いつもやりたいようにやれるとは限らないってことだな」
 俺は少し感心していた。
 ひょっとして俺は、失うことに対して臆病になりすぎたのかもしれない。
「結局、いつかは死ぬ」
 俺はためしにそう呟いてみた。ビィ派は深く頷いた。
「そう。みんないつかは死ぬ。なのになんでか要らない苦労を背負い込んでまで、何かを手に入れようとする。
 それだってべつに悪くない。そうだろ? もし何もいらないって言うなら、なにかに手を伸ばす必要なんてない。 
 でも、もし何かが欲しいなら、手を伸ばすべきだと思わないか? もしも羨ましいなら。
 他の奴が楽しそうにしているのを、指をくわえて眺めているだけでいるよりは、その方が少しはマシだろ?」
「確かに」と俺は真剣に頷いた。
561:
 それから短い沈黙が落ちた。悪くない沈黙だった。外はもう真っ暗だ。
 
 不意に、ビィ派は立ち上がって、酔っ払いみたいなにやけ顔で、「花に嵐のたとえもあるぞ」と呟いた。
「さよならだけが人生だ」と俺は大声で続けた。
 そして互いが手に持っていたペットボトルを打ち鳴らして乾杯する。
 
 俺たちは意味もなく笑い合ったあと、いいかげん家に帰ることにして、ゴミを捨ててバッティングセンターを出た。
 景品のぬいぐるみはビィ派に押し付けようとしたのだけれど、なぜか拒否された。
 
 結局家に持ち帰ると、妹がなぜだか激しい反応を示したのであげることにした。
 異様な喜びを示しながらも、帰りが遅かったことについて心配そうに訊ねてくる妹に、俺は自然に答えることができた。
「バッティングセンター行ってきた」
「……なんで?」
「息抜き」と俺は答えた。
568:

 夕食をとったあと、俺は一人で部屋に戻った。
 
 眩暈がしそうなほどの全能感があった。自覚できるくらいに。あるいは本当に酔っていたのかもしれない。
 今なら書ける、と思った。今なら何だって書ける。
 誰のためのものだって書ける。誰かを楽しませることだってできる。それを望むことができる。
 俺は今、人を心から楽しませることができる。そういう心境だった。
 
 そしてノートを開いた。俺は今初めて「彼女は退屈していた。」から始まらない文章を書いている。
 書き出しの一行目は迷いなくスラスラと掛けた。
 テンポもリズムも言葉の配置も句読点の位置も問題ない。
 
 一行目はごく当たり前のような流れで二行目へと繋がった。二行目は当たり前のように展開の幅を広くしてくれた。
 頭の中で書いた文章を読み、ここは違う、と修正を加える。
「当たり」じゃダメだ。「正解」がいい。駄目な部分に気付いても、すぐに代案が浮かんだし、適切な語だってすぐに思いついた。
 今なら本当になんでもできる。そう強く思った。
569:
 腕が自分の腕じゃないみたいに簡単に動いた。
 今まで俺の体を何かが縛り付けていて、それが一気に解き放たれたみたいな気分。
 よく分からない昂揚感。ほとんど暴走するような感覚。
 
 俺は今書いている。いつもよりずっと自由に。頭を熱くして。
 書き終えてみるとそれは千五百字ほどのショートショートだった。
 ストーリーの展開にもほとんど悩まなかった。
 本当に起こったことみたいに思えた。
 それは本当に起こったことで、ひょっとしたら俺は、記憶を書き起こすように書いただけなのかもしれないと思えるほど。
 
 俺は書き終えたものを読み返してみた。短い。でも悪くない。
 文章の読み心地も悪くない。テンポはいいけれど書き崩しているわけでもない。細部は丁寧だ。
 面白かった。自分で読んでクスクス笑えるくらいだった。
 ただの文章だ。俺が求めた、何も起こらない、にもかかわらず面白い、そんな文章だった。
 展開やストーリーではなく、語感や言葉の並びによっておかしさを掻き立てる手法。
 でも、と俺は思った。
 いったい誰が、これを読むんだ?
 熱はそこですっと冷めた。
570:
 俺は書きあげた文章をもう一度読み返す。別に悪くない。
 でも、そのノートの前のページには、まだ部屋の中から出ることのできていない「彼女」の姿があった。
 俺の書く文章は、いつだって「彼女」のためにあるべきなのだ。
 俺は何を書いたんだ? そう思った。
 たしかにこ人を喜ばせるかもしれない。
 すくなくとも、いつも書いているものよりは、楽しんでくれる人は多いかもしれない。
 でもそこに「彼女」の姿はなかった。
 厳密に言えばたしかに存在してはいる。
 そういう意味では、これも俺が書いた文章だと言える。
 
「次」に何かを書くのなら、こういう形だってかまわないかもしれない。
 でも「今」はダメだ。
 俺は「彼女」を外に出さないといけない。
 一度書き始めたものを放り投げることは絶対にできない。
 べつに他の物を先に書き上げたってかまわない。
 けれど、いつかは、絶対に、書き上げないといけない。
571:
 溜め息が出た。それから額を抑えて考える。
 
 そうなんだよな、と俺は一人で頷いた。
 いつかは書き上げなきゃいけないんだ。だって俺はもう書き始めているんだから。
 書きたくないとか、書けないとか言うなら、べつに書かなくてもいい。
 けれど、書き始めたものにだけは、責任を取らなきゃいけない。絶対に。
 
 途中で投げ出すことだけは、絶対にできない。
 
 おまえは絶対に死ぬなよ、と俺は俺に言った。
 おまえは絶対に誰かを置き去りにしたりするな。
 それから今日一日の記憶を洗いざらい確認してみた。
 誰とどんな会話をしたのか、すべて思い出そうとする。
 けれど、会話の内容のほとんどを、俺は覚えていなかった。
 俺が覚えているのはぼんやりとした印象だけだった。
 シィタ派と編入生が付き合い始めたとビィ派が言っていた。それ以外はほとんど曖昧になっていた。
572:
 俺は今日も自己完結的で排斥的だった。
 みんな俺のドアをいつものようにノックした。ある者は激しく、ある者はささやかに。
 俺はそれらをひとつひとつ丁寧に断っていった。
 でも本当にそうだったんだろうか。
 それだけだっただろうか。
 不意に、ノックの音が聞こえた。最初は幻聴だと思った。
 でも、それは現実の音だった。それは現実に存在する音だった。
「なに?」と俺は訊ねた。
「電話」と妹の声が答えた。
 俺は立ち上がって扉を開けた。妹はどことなく落ち着かなさそうな顔で電話の子機を握っていた。
 それを受け取り、耳に当てる。
「もしもし?」と俺は言った。
「おー、元気?」と叔母が言った。
573:
「ああ」
 
「なに? 元気ないなあ」
「あ、いや……」
「あ、そう。手紙読んだよ。古風な奴だね、今時。写真ありがとね」
「うん」
「最近どう? 料理は上達した?」
 俺はちらりと妹の方を見てから、結局その質問に答えた
「いや。あんまり」
「生まれ変わるんじゃなかったの?」
「サナギが蝶になるには、けっこうなエネルギーがいるものなんだよ。……いや、知らないけど」
「サナギか、あんたは」
「羽化できるといいよね」
「自分で言うなよ。無責任な奴だなあ」
 叔母の呆れたような声に、俺はなんとなく安心した。
574:
「娘がそっちで迷惑かけなかった?」
「俺は何もしてないから」
「そうなの? 帰ってきたとき、なんかふてくされた顔してたから、何かあったのかなって思ったけど」
「……あー」
「ま、食って寝たら治ったみたいだったけど」
「……あ、そう」
「まあでも、行く前よりは元気になったみたいだから安心して?」
「そう、なんだ」
「ていうか、行く前とは別のことが気がかりになったみたいな感じだったけど」
「……」
 俺のことじゃないよな? と思うものの、なぜか自信が持てなくて言葉を返せなかった。
575:
「声が暗い気がするけど、なにかあった?」
「え?」
 訊ねられて、言葉に詰まる。
「いや、まあ、なんていうか、いろいろ?」
「ふーん」とどうでもよさそうに溜め息を漏らしてから、叔母はちょっと笑った。
「あんまり考え込んじゃダメだからね、あんたの場合。
 頭悪いくせに考え込んだってろくなことにならないんだから」
「……あ、うん」
 普通にひどい。
「いや、それでもさ、考えずにはいられないときってあるじゃないか」
 叔母はちょっと考え込んだようだった。
「そういうときは、ひとりにならないこと。誰でもいいから、誰かの近くにいって、なんでもいいから話をすること。
 ひとりでも平気って言う人ならともかく、あんたはそうじゃないでしょう?」
「まあ、たぶん。……でも」
576:
「余計なことは考えないでいいから、とにかくわたしの言う通りにしなさい」
 叔母の声音は真剣なものに変わっていた。
「あんたはたぶん、ひとりで居ることに慣れ過ぎたんだよ」
「……どういう意味?」
「そういうのは、分からない人には一生分からないけど、でも、分かる人には分かってしまうものなんだ。
 だからわたしにはそれが、まあ、そこそこ……理解できる。分かっちゃうんだよ」
 だから、と叔母は言う。
「だから、もし自分が"そこ"にもう一度落ちてしまいそうだと気付いたら、絶対に誰かと話をすること。
 話して、"そこ"を矮小化させること。言っていること、分かる?」
「まあ、分かるよ」
「もちろんこれは命令じゃなくて……もし"そこ"がもう嫌だと思ったら、の話」
「……うん。分かってる。ありがとう」
577:
 叔母は溜め息をついて、沈黙を置いた。俺には居心地のいい沈黙だった。
 けれど不意に、何かの話し声と、がさごそという物音が電話口から聞こえた。
「……あ」
 
 というささやかな声。
「……えっと、もしもし? おにいちゃん?」
 従妹だった。
「ああ、うん」
「うん……」
 最後にどんな話をしたのかが、よく思い出せなかった。ほんの少し前まで一緒に暮らしていたはずなのに。
 ほんの少し前というか、まだ三日と経っていないはずだ。
「元気?」
 従妹はごまかし笑いを漏らすみたいにそう訊ねてくる。俺は「まあね」と曖昧に頷いた。
「そっか。……うん」
「うん。……そっちは?」
578:
「わたし? わたしは、べつに、普通かな」
「普通?」
「うん。割と、普通。今のところ」
 どう考えても、三日前まで顔を合わせていた相手との会話じゃない。
 俺はすこし嫌な気分になった。
 
 つまりそれは、俺が彼女とほとんど向き合っていなかったという事実を端的に示しているのだ。
「なあ、おまえがこっちにいるときにさ、俺、変なこと言ったか?」
「え? あ、うん」
「あのな、今は比較的マシな状態だから、今のうちに言いたいことを全部言っておくけど……。
 俺は別におまえを傷つけたかったわけじゃないんだ」
「……べつに、傷ついてなんて」
「聞けよ」と俺は言った。
「俺はべつにおまえを傷つけたいと思ってるわけじゃないし、暗い気持ちにさせたいと思ってるわけでもない。
 おまえに嫌われたいわけでもないんだ。そうだろ? 誰かに積極的に嫌われたい人間なんていないよ。
 いるとしても、それはよっぽどひねくれて、どうしようもなくなってしまった奴だけだ」
 従妹は返事を寄越さなかった。ただ息遣いだけが電話の向こうから聞こえた。
579:
「俺はおまえのことが好きだし、だからおまえには笑っていてほしいんだよ」
「……は?」
「えっ……」
 電話の向こうからの声と、すぐ傍で俺の様子を見ていた妹の声が重なった。
 ちょっとまずい言い方をしたなと思ったけれど、まだ言い足りなかった。
「傷つけたいわけじゃないんだ。だけど、俺はそういう気持ちをどこに持っていけばいいのか分からないんだよ。 
 叔母さんも言ってたけど、俺はきっとひとりでいることに慣れ過ぎたんだ。
 だからおまえに、余計なことを言ったかもしれない。おまえを傷つけたかもしれない。
 でも本当はそんなことしたくなかったんだ。ただ感情のセーブがきかなくて、言わなくてもいいことを言って……。
 相手を暗い感情に巻き込んでしまう、そういうときがあるんだ」
 本当は、俺が話しかけていた相手は従妹ではなかったのかもしれない。
 俺は電話の向こうに他の誰かの姿を見ていたのかもしれない。
 枝野や部長や後輩のことを。あるいは傍にいる妹のことを。
 そう思うと、自分の言葉がすごく自己愛的なものに思えていて、それ以上は苦しくて続けられなかった。
「勝手な言い分かもしれないけど、それだけは理解してほしい」
「あ、えっと、うん。……え? あ、その……」
 
 しばらく混乱したような声で、従妹は意味のない言葉を吐き出していたけれど、 
「……ごめん!」
 という声を最後に電話が切れた。
580:
 電話が切れてしまうと、自室は驚くほど静かに思えた。
 
 俺は音の途切れた子機を見下ろしながら、頭に昇った血がさっと引いてくるのを感じた。
「……好きなの?」
 部屋の入口の前に立ったままの妹が、困ったような顔でこちらを見ていた。
 俺は自分の発言を思い出してみようとしたが、よく思い出せなかった。
 よく思い出せなかったけれど、なんだかまずいことを言ったということだけは分かる。
「いや、違う」
「好きじゃないの?」
「……」
「好きじゃないのにさっきみたいなこと言ったの?」
「そうじゃなくて……」
581:
 妹は俺の方を見ないでじっと床の上を見つめていた。何かを考えているようだった。
 それからふと、どこか大人びた口調で、
「……従兄妹は、結婚できるもんね」
 従兄妹は、と。
 そんなことまで言い始める始末だった。
「だからそういうんじゃなくて」 
 妹は説明しようとした俺の手から電話の子機を奪い取ると、俺の目を見て「お幸せに」と大真面目な顔で言った。
 それからこちらに何かを言う時間も与えず、軽い足音を残して俺の部屋を出て行く。
 扉を閉める勢いはいつもより激しかった。
 取り残された俺は、電話での話の余熱と、妹の不可解な態度のせいでしばらく何も考えられなかった。
 ベッドに寝転がってしばらく天井を見つめた後、結局起き上がって机に向かってノートを開いた。
 妙に胸がモヤモヤして、上手く集中できなかった。
588:

 気付けば俺はひとりぼっちで部屋に取り残されていた。
 いつものようにノートに向けて文章を書き連ねている。
 意味のあるもの。意味のないもの。無関係なこと。雑多な組み合わせ。
 けれど、ある地点から進もうとすると、どうしてもそこから進むことができなくなってしまう。
 どうしてだろう。
 方法論。目的意識。なんだろう、何が足りないんだろう。
 
 それでも俺は書くしかなかった。書き上げるしかなかった。
「どうして?」
 と声が聞こえた。気付けばすぐ傍に誰かが立っていた。
 女だ。若い女。
「なにが?」と俺は訊ねた。
「どうして書かなきゃいけないの?」と彼女は言った。
589:
 俺はすぐに答えようとしたけれど、その理由が分からなかった。
 きっと何かの理由があったはずなのだ。でも、考えれば考えるほど、書いている意味がよくわからなくなってきた。
 俺自身、もう書きたいなんて思っていない。誰も求めていないし、誰かに求められても関係ない。
 
 結局俺には書く理由なんてない。
「大変だね」と女が言った。
「大変なんだよ」と俺は答えた。彼女は目を細めて少し笑った。俺の好きな笑い方だった。
 でも俺は本心じゃ大変だなんて少しも思っていなかった。
「書き上げてどうするの?」
「……どうするもなにもない。書いたらおしまいだよ」
「それじゃあ、部屋から出て行って、そこで終わり? その先は?」
「その先のことは、俺の責任の範疇にはない」
「無責任じゃない?」
 女の表情の動きはよくわからなかった。いろんなものが判然としない。目の前に霧でも掛かっているみたいに。
590:
「ようやく覚悟して部屋から出たら、すぐにでも交通事故に巻き込まれて死んじゃうかもしれない」
「そうかもしれない」と俺は言った。それは真実だった。
「何かを決意したからって、すべてが上手くいくはずがない」
「うん」
 女は俺の方を一瞬だけじっと見つめたあと、何かを言いたげに口を開いた。
 でも、言葉は追いかけてこない。
「いつも、自分にはマトモな人間としての部品がいくつか足りないんじゃないかって気がしてたんだ」
 俺の言葉に、女は笑った。
「なにそれ?」
「いっそ誰からも忘れ去られて、存在ごと消えてなくなってしまえたらなって思ってた」
「そう」
「そうすれば誰も悲しまないし、誰も気にしない」
 静かな溜め息が聞こえる。
591:
「悲しい?」と女は聞いた。
「たぶん」と俺は答えた。
「もうそんなことを考えるのはやめにするよ」
「どうして?」
「どうしてだろう。たぶん嫌気が差したんじゃないか」
「置き去りにするんだ?」と彼女は言った。
「置き去りにされないためだよ」
 これはきっと夢なんだろうな、と俺は思った。俺は今夢の中にいる。そして誰かと話をしている。
「じゃあお別れなんだね」
 
 確認するような声。俺はうしろめたさに囚われながら頷く。
「でもきっとあなたは後悔すると思う」
「そうかもしれない」
592:
 俺は立ち上がって扉へと近付いた。ドアノブは凍てついたように冷たい。
「絶対に、いつか、後悔すると思う」
「でもそうしないことには始まらないんだ」
「結局同じことを繰り返すんだね」
「そうした方がいいと思ったことをするだけだよ。いつだって」
「それでも、あなたがこれから置き去りにするものはあなたの一部だったものなんだよ。
 だから切り離して捨ててみたって絶対に離れられない。傍になくても、幻肢痛みたいにいつまでもジリジリと体を焦がす」
「他にやりようがないんだ」
「捨ててどうするの? 結局同じことを繰り返すだけだよ」
「分からないけど、きっともっと上手くやるよ」
「どうして?」と彼女はもう一度聞いた。
「さあ?」と俺は答えた。
593:
 でもとにかく扉を開けるしかなかった。ドアノブを捻ると、扉は簡単に開いた。
「本当に行くの?」
 彼女の声には明確な侮蔑が込められていた。それをやり返すことだってできる。
 でも俺は、彼女を軽んじるつもりはなかった。
「本当に行くんだよ」
 あるいは彼女の言う通り、後悔するだけかもしれない。
 
「うそつき」
 そんな言葉が後ろから聞こえた。でももうどうしようもない。 
 このままではいろんなものが駄目になってしまう。
 
 俺は扉を開けた。
594:

 机の上に顔をのせてうたた寝してしまっていたようだった。
 
 頭は妙にすっきりしていた。机の上には開きっぱなしだったノートが置かれている。
 俺はそこに書かれた文章を読んでみた。
「彼女は退屈していた。」から始まり、「だから彼女は出かけることにした。」で終わる文章だった。
 ようやく俺は書きあげたのだ。少なからぬ時間を犠牲にして。
 得るものは何もない。分かっていることだった。
 
 俺はただ無為なことを続けていただけだった。不毛なことを続けていただけだった。
 立ち上がり、部屋を出ることにする。喉が渇いていた。
 とにかくこれで終わったんだ、と俺は思った。
595:
 階下に降りてリビングに向かうと、灯りがついているだけで無人だった。
 なんとなくの気まぐれで、俺は流し台に置かれたままになっていた食器を洗い始めた。
 退屈なときにいつもそうするように。
 書き上げたのだ。もうすべきことは残されていなかった。残るのはいつもの日常だけ。
 達成感はない。あるのは徒労感だけだった。
 でも終わった。
 そう思うと楽になった。肩の荷がおりた。もう何も考えなくていい。
 食器を洗い終えた頃、リビングにパジャマ姿の妹が現れた。風呂上りなのか、髪をタオルで拭いている。
「やってくれたの?」
「暇だったから」
「そう。ありがとう」
 妹はそっけない調子でそう言うと、少しだけ俺の顔を見たあと、すっと視線を逸らした。
596:
 俺はその様子を見て、なんだか急にいろいろなことの辻褄が合ったような気がした。
 もちろんそれはただの錯覚なんだけど、そのときはそれが真実であるように思えたのだ。
「動物園に行きたいな」
 俺がそう言うと、妹はたいして表情も動かさずに、怪訝そうにこちらを見た。
「……急にどうしたの?」 
「行こう。今週末。行きたくない?」
「……まあ、いいけど」
 それから妹は髪を乾かした後すぐに部屋に戻ってしまった。
 俺はしばらくリビングの椅子に腰かけながら、自分自身のことだけを考えた。
 
 今ならいろんなことが上手くやれるような気がする。どんなことだって楽しめるような気がする。
 そういう手段が思い出せてきた。俺にだってそういうことをできる神経がちゃんと備わっているんだ。
 誰かに優しくしたり、誰かのことを大事にしたり、そういうことだってできるんだ。
 いろんな言葉が俺の頭の中で意味もなく鳴り響いた。
 
 俺は部屋に戻ってからもう一度ノートに向かい、新しい話を書いた。
 その話の中では、誰も部屋の中に閉じこもったりはしていなかったし、誰も外に出ようなんて考えてはいなかった。
597:

 翌朝、俺は久し振りに早起きした。洗濯物を干して三人分の弁当を作った。
 妹は驚いていたけれど、俺の作った弁当を照れくさそうに受け取っていた。どこかばつの悪そうな様子で。
 学校に行ってからは、久し振りに友人ふたりとバカ話で盛り上がった。
 それから編入生とシィタ派の恋の顛末について詳しい話をきいた。
 シィタ派は気恥ずかしそうな様子で、でもまんざらでもないように、俺たちの質問に答えてくれた。
 
 彼の話は、案の定俺の事情とはあまり関係がなかった。
 昼休みには屋上に向かったけれど、枝野の姿はなかった。
 枝野と話をしたい気分だった。でも彼女はもうここには来ないのだろう。
 
 まあ、仕方ないか、と俺は思った。いつかはこうなっていたのだ。宿命的に。
 放課後は部室に出て、清書した原稿を部長に渡した。
 部長は当たり前みたいな顔でそれを読みだして、うん、とひとつ頷いた。
「今回は二本なんだね?」と部長は言った。
「いろいろありますから」と俺は適当に答えた。部長はその言葉については何も言ってくれなかった。
 その日はそれで終わって、週末には父に車を出してもらって動物園に行った。
 クルマサカオウムは居なかった。
598:

 それから文化祭までの期間は本当にあっというまだった。
 あまりに時間の流れがすぎて、生活したという実感が持てないくらいだった。
 
 文芸部の部誌は部員全員が原稿を提出した。
 顧問はそれを自分の功績みたいに誇っていた。
 
 当日は学校のさまざまな場所に部誌を置く他に、部室の前で手渡しで配布することになった。
 これは毎年のことらしいけれど、去年だってろくに一般客は来なかった。
 
 まあ交代だし、たいした時間やるわけでもないし、座っていられる分、大変というわけでもないのだけれど。
 
 クラス発表の方は何をするのかも分からないありさまだったけれど、俺には別に役目はないらしい。
 せいぜい片付けをやらされるくらいだろう。
 あまりに非協力的すぎるので、数に入れられていなかったのかもしれない。
599:
 文化祭の三日前、部室で配布する部誌の山を眺めてぼんやりとしている部長を見かけた。
「どうしたんですか」と俺が訊ねると、彼女はちょっと困ったように笑った。
「いやあ、ほら、わたし、三年だからさ」
 それからぱらぱらと出来上がった部誌のページをめくりはじめる。
「これで引退なんだよなあって」
 俺が何も言わないでいると、彼女はちょっと寂しそうな顔になった。
「引退しても、顔出しに来ますよね?」
「あー、うん。勉強の息抜きにでもね。でもそれはやっぱりさ、今までとは違うんだよね」
 違うんだよ、と部長は繰り返した。
「いろんなものが通り過ぎていきますね」
 
「うん」
600:
「ときどき怖くなりませんか?」
 俺の質問に、部長はちょっと意外そうな顔をした。
「きみは怖いの?」
 夕陽の差し込む部室には、もう俺と彼女しかいない。
 文化祭の準備でがやがやと騒がしい校舎の中、この部室だけが別世界のように静まり返っていた。 
 
「ときどき、同じ一日がずっと繰り返されたらいいのにって思う時があるんです、俺は。楽しかった日なんて特に。
 そうすれば不安にはならないし、寂しくもならない」
「わたしがいなくなったら寂しい?」
 からかうみたいな調子で、部長は笑った。俺は笑い返そうとしたけれど、うまくいかなかった。
「俺は変化が怖いんです。自分だけが取り残されていくような気がするんですよ」
「そっか。そうかもね」
 彼女は窓の外に視線を移した。季節はもうすっかり秋だった。夏の余韻なんてほとんど存在していない。
 それからぽつりと、
「わたしも怖いよ」
 と、そうこぼした。まるで部長の声じゃないみたいに、静かで、か細い声だった。
601:
「でも、通り過ぎていくものばかりじゃないよ。傍にいなくなったからってこの世からなくなるわけでもない。
 連絡先さえ知ってれば、卒業してからだって音信不通になるわけじゃない。
 留まるものもあるし、新しくやってくるものだってある。なくなるのが怖いなら、なくさないようにしっかりと掴んでおかないとね」
 彼女はそれでもまだ、無表情に窓の外を眺め続けていた。
 まるで自分がどんな表情を取るべきか決めかねているように、俺には見えた。
「だから、はい」
 と彼女は言って。
 俺に向けて自分の携帯を突き出した。
「……メアド。交換しない?」
「……俺、メール無精ですよ」
「いいよ、わたしが一方的にメールするから。もし面倒になったら、切っていいから」
「……」
「わたし、友達少ないからさ」
602:
「俺に教えたら、きっと後悔しますよ」
「……知ったら後悔するようなアドレスなの?」
「俺は、面倒な奴ですから」
 部長は一瞬、目を丸くしたあと、くすくすと笑い始めた。
「知ってる。大丈夫」
「それと、ひとつだけ謝らなくちゃいけないことがあるんです」
「……なに?」
「俺、部長の名前、知らないんです」
「……え?」
「というか、覚えてなかったんですよ」
「……この二年間ずっと?」
「はい。ずっと部長って呼んでましたし」
603:
「いや、でも二年のときは部長じゃなかったし」
「先輩って呼んでました」
「……あ、そっか」
 そっか、と何度か部長は繰り返した。それから不意に笑いだし始める。
「そうなんだ。そうだったんだ」
「はい」
「いいよ、そんなの、気にしなくて。でもなんか、きみらしい」
 本当に楽しそうに、部長は笑った。そしてひとしきり笑ってから、ちょっと真面目な顔になって、口を開いた。
 それでも頬を緩ませながら。
「名前なんていいんだよ。きみがわたしを呼ぶ。わたしはきみがわたしを呼んでいるんだと分かる。
 それだけで十分なんだ。だから部長でも先輩でもかまわない。あだ名でもなんでもいいんだよ。
 きみがわたしを呼んでいるっていう事実だけあれば、それだけでべつにかまわないんだよ」
 俺は少し考えてから、そうかもしれない、と思った。
604:
「それでも、もう部長じゃなくなるんだから……部長って呼ぶのは、変ですよね」
「うん。でも、まあ。好きに読んでよ。あ、赤外線のデータで名前も表示されるっけ」
「……はい」
「いまさら苗字っていうのも遠いし、先輩付けっていうのも変かな」
「じゃあ、下の名前に……」
「下の名前だと、「さん」はちょっと近いかなー」
「じゃあ、下の名前に「先輩」付けですかね」
「……何を話し合ってるんだろう、わたしたちは」
 彼女はちょっと気恥ずかしそうにごまかし笑いをすると、窓の外を見ながら溜め息をついた。
 それから俺たちは赤外線で連絡先を交換した。
 部長の名前は思ったよりもずっと彼女に似合っていた。
「ねえ、ためしに一度、呼んでみてくれない?」
「え?」
「わたしの名前」
 俺は少しだけ考えてから、結局言葉として、まだ慣れない彼女の名前を呼んでみた。
 俺の声に、彼女は満足げに笑って、頷いた。
605:

 文化祭の前日、俺が家に帰ったときには時刻は夕方五時を過ぎていた。
 
 いつもより少し早いくらいだったのだけれど、家の中の空気はどこか違っていた。変だった。
 何か澱んでいる気がした。もちろん俺の第六感なんてあてにはならないので、気のせいだろうと思うことにした。
 でも違った。
 人の気配のしないリビングを抜けて、階段を昇り自室に向かう途中で、何か奇妙な音が聞こえたのだ。
 音は妹の部屋から漏れ出ていた。
 その音がなんなのか、俺には分からなかったけれど、なぜか人を不安にさせる音。
 俺はノックをした。少し待っても返事はない。それでもどうしても気になった。
 だから、扉を開けた。
 妹はベッドの上に居た。制服姿のまま。うつぶせになっている。
 音の正体はすぐに分かった。妹は泣いているのだ。
 俺は覗き見た罪悪感と気まずさから、何を言っていいのか分からなくなった。
 結局でてきた言葉は、
「ただいま」
 というどうしようもないものだった。
606:
 それでも妹は、「おかえり」と震えた声で返事を寄越して、顔をあげてくれた。
 どうかしたか、と訊こうとした。でも、訊いていいのか分からなかった。
 訊いて俺にどうにかできることなのか、分からなかった。自分が何かの役に立てるかさえ分からない。
 でも、それは俺の事情であって、彼女の事情じゃない。
 だから俺は訊いてみることにした。「どうかしたのか」と。拒絶されてもそのときはそのときだった。
 言葉は驚くほどするりと口から出てきた。
 俺の声に、妹は何を言っていいか分からないというふうに俯いた。
「悲しいのか」と俺は訊いた。妹は何も言わずに頷いた。
「何が悲しい?」と俺は続けて訊ねる。彼女は何も言ってくれなかった。出て行けとすら言われない。
 やがて、静かな声が聞こえてきた。
「真っ暗なトンネルの中をずっと歩いてる感じがする」
「トンネル?」
「とても不安定で、ぐらぐらする場所を歩いている感じ」
607:
「……何かが不安?」
「ちょっと違う」
 
 妹は軽く目元をぬぐって、呼吸を整えた。
「ときどき自分が嫌になるんだよ。わたしがわたしであるっていうことが。
 お兄ちゃんの妹で、お父さんの娘で……そういうことが、全部」
「この家が嫌い?」
「そうじゃない」
「俺が嫌い?」
「そうじゃない」
 弱々しい声。掠れるような、くずおれるような声。俺はそれ以上言葉を重ねる気になれなかった。
「わたしはたぶん、わたしを甘やかしすぎたんだよ」
「……そんなことはない」
608:
 俺は妹のところに歩み寄って、枕に顔を埋める彼女の頭を少し撫でた。
 そんなことをしている自分に嫌気が差した。いつものような自己嫌悪が、俺の心を支配する。
 でも今は、俺の気持ちなんかより、妹をどうにか楽にさせてやりたかった。
 こんな行為に意味があるのか、分からなかったけれど。
 妹はしばらくされるがままになっていたけれど、不意に腕を動かして、俺の手首を掴んだ。
 それから、俺の腕を静かに押しのけた。拒絶されたのかと思った。
 けれど、彼女の手のひらは、俺の腕を離そうとはしなかった。
 逡巡のような、躊躇のような短い時間を挟んでから、静かに手首から離れ、そっと俺の手のひらを握った。
 
「どうした?」
 と俺は訊ねた。
 
「出口が……」
「え?」
「……出口が、あったらいいよね。今あるすべての問題の、全部、全部から逃れられる場所への、出口」
609:
 思わず同意の言葉が口から出そうになって、俺は必死に唇を閉ざした。
 それから、一度深呼吸をして、
「ないよ、そんなの」と、そう答えた。
「逃げることなんてできない。俺たちはここにいるしかないんだよ。出口があるとしても、そんな奇跡みたいなものじゃないんだ」
 そう答えることが正しいことなのかどうか、俺には分からなかった。
 でも、そう答えることしかできなかった。
 妹はしばらく黙り込んでいたけれど、やがてすっと手のひらから力が抜けた。
 まるで磁力を失った磁石みたいに、彼女の手は静かに俺の手から離れていく。
「……大丈夫。ちゃんと分かってる」
 そう、彼女は静かな声で言った。
610:
「本当に大丈夫?」と俺は訊ねた。随分バカらしい言葉だと自分でも思う。
 妹はごまかすように笑った。
「お姉ちゃんも言ってた。わたしもそろそろ兄離れしないと」
「べつに兄離れなんてしなくてもいい」
 そう言うと、妹はまた泣きだしそうな顔になって、俺の方を見上げた。
 俺はすっかり混乱して、どうすればいいのか分からなくなってしまう。
 彼女は静かに俯いて、
「うん。ありがとう」
 と、そう言った。
611:
「お兄ちゃんも……」
「ん?」
「……ううん。なんでもない」
 微笑みにも、まだ涙の余韻が宿っているような気がした。
 それにあえて触れることもせず、俺は妹の部屋を出た。
 自室のベッドに鞄を放り投げてから、俺はすさまじいほどの罪悪感と無力感に襲われた。
 何かを致命的に間違ってしまったような、そんな気がした。
 俺は彼女にあんなことを言うべきではなかった。そう直感的に思う。
 それでも、ああするほかなかった。
 俺はそれ以上考えるのをやめた。そして、彼女の負担を少しでも和らげる方法について考えた。
 
 他のことはほとんど何も考えなかった。
612:

 文化祭当日はそこそこ盛況だった。
 シィタ派は編入生とまわると言うし、ビィ派は部活の方で何かがあるというので、俺には一緒に回る相手のあてがなかった。
 
 それでもいつもとは雰囲気の違う校舎を歩いているだけでも楽しいものだ。
 それに、人ごみを避けて歩いていると、思いもよらず面白い出し物に出会ったりする。
 一人で校舎の中を歩いていると、奇妙なほど他の人の様子が目に入ってきた。 
 大勢で歩く者、二人で歩く者、一人で歩く者、いろんな者がいた。
 中には柱のそばに座り込んで休んだりしている者もいた。
 でも、何はともあれ、みんなこの場にいる。
 自分たちの学年の階を見て回っていたら、途中のお化け屋敷の受付に、枝野の姿を見つけた。
 一瞬だけ目が合った気がした。でも、彼女は列に並ぶ客たちの方にすぐ視線を移したので、気のせいなのかもしれない。
 
 仕方がなく、俺はすぐにその場を離れた。
 そこら中を歩き回っているうちに、友人たちと一緒に回っていたらしい部長と遭遇する。
「楽しんでる?」と彼女は言った。
「まあ、たぶん」と俺が答えると、彼女はおかしそうに笑う。
613:
 交代の時間になってから文芸部の前に行くと、パイプ椅子に座っていたのはまたしても枝野だった。
 俺はどうしようか迷ったけれど、話しかけないわけにもいかない。
「こういうのにはちゃんと参加してるんだな」
 と、仕方なく、俺はそんなことを言った。
 枝野は少し躊躇していたけれど、やがて諦めたみたいに笑った。
「部員だから」
「さっきも受け付けやってなかった?」
「うん。付け加えれば、図書委員だからね。いつも図書室でも受け付けやってる」
「本当?」
「あんたが来たときも、一度、カウンターに居たことあるよ。貸出だってした。気付かなかった?」
「……気付かなかった」
「あんたはいろんなことを見逃しすぎたんだね」
 まったくその通りだった。
614:
「何かあった?」と、彼女はそう訊ねてきた。
「まあ、いろいろあるよ」
「そうだろうね」
「きみは?」
 彼女は口籠る。俺は少し後悔した。
「何もないよ。きっとわたしは、ずっとこのままだよ」
 
「本当に?」
「どうして?」
「いや、理由はないけど」
 彼女はどうでもよさそうな顔で辺りを見回した。
615:
「それじゃあ、わたしは行くから」
「うん。楽しんで来い」
 彼女はちょっと戸惑ったような表情になる。
「……正気?」
「……なぜ?」
「あんたらしくない」
「俺のイメージがどんなものなのか、分からないけど、まあ、変なこと言ったんなら謝るよ」
 彼女はまだ納得しかねるというような顔で、微妙に笑いながらこっちを見る。
 それからふと思い出したように口を開いた。
「ねえ、もし……」
「……なに?」
「……やっぱ、いいや」
 今度は本当に、去って行ってしまった。枝野の背中は廊下の角にあっというまに消えて、見えなくなった。
616:

 受付の仕事は暇だった。通りすがりに部誌をとっていく人はいるが、そもそも文芸部室は校舎の隅の方にある。
 人どおり自体が少ない。こう考えるともっと他の場所に陣取ればいいと思うのだが、毎年なぜか部室の前で配っている。
 退屈な時間ほど長く感じる。
 俺は一人でパイプ椅子に座ったまま、廊下の窓から見える木々に目を遣った。
 ときどき緩い風が吹いて、窓の外の梢を微かに揺らした。
 
 俺は椅子に腰かけたまま、その光景をじっと眺めていた。
 特に何も考えずに。
 けれど、不意に軽い足音が近付いてきた。そちらに目を向けると、立っていたのは従妹と妹の二人だった。
「や」
 従妹は軽く手をあげて笑った。
「来たのか」
「うん。どんな感じかと思って」
「遠いのにわざわざ?」
「愛の為せる技だよね」
「……」
 従妹の軽口はいつものことだけれど、最後に話したのが例の電話のときなので、微妙に冗談になっていなかった。
617:
「仕返し」と従妹は笑った。
「読んでもいい?」
「いいよ」
 従妹と妹は、並んで部誌を手に取った。俺はその様子をぼんやりと眺めた。
 結構な量だから、もしこの場で読み終えようとしたら、相当の時間が必要になるだろう。
「お兄ちゃんが書いたの、どれ?」
「最後の方」
 妹はあわただしくページをめくった。
 俺は少し気まずい気持ちになったけれど、だからといって読ませないというのも変な気がした。
「ながい」
 従妹は結局、そう言って読むのをやめた。
 まだ担当の時間が終わらないと教えると、二人はそのあたりを回ってくると言って去って行った。
618:
 やがて交代の時間がやってきた。次の担当はシィタ派一人のはずだったけれど、来たのは編入生と一緒だった。
 
 俺は何かを言おうと思ったけれど、何も思いつかなかったのでやめておいた。
 
 すぐに妹たちに連絡しようと思ったけれど、少し疲れている気がして、そのまま屋上へと向かった。
 きっと誰もいないだろうと思ったのだ。
 けれど、そこには先客が居た。
 鉄扉の向こうには、見慣れた後輩の後ろ姿があった。
 彼女は扉の軋む音に少し身を竦ませてから、こちらを振り返った。
「……せんぱい?」
「……うん」
「休憩ですか?」
「まあ、そんなとこ」
「なんか、久し振りですね」
 俺はあの日以降、後輩と一度も話をしていなかった。
619:
 もう十月で、だから風は冷たかった。
 衣替えの時季。そんなときに、俺と彼女は、どうしてか屋上にいる。
「こんなところで何をしてたんだ?」
 俺はそう訊ねてみた。後輩は取り繕うみたいに笑った。
「せんぱいを待ってたんです」
「……」
「……って言ったら、信じてくれますか?」
 彼女は表情を微笑のまま崩さなかった。
「だって、嘘だろ」
「はい。嘘です。だからいま、すごく戸惑ってます。どうしてこんなところに来たんですか?」
 その質問の答えを、俺は持っていなかった。外の空気を吸いたかったから、かもしれないけど。
620:
「少し話をしてもいいか」
「……どうぞ」
「待ってるって言われて、本当は嬉しかったんだ」
「……」
「でも、怖かったんだ。俺はたぶん、きみを喜ばせるようなものは書けないんだよ。 
 どんなに書こうとしてみても、何か違うような気がする」
「読みましたよ、原稿」
「……」
「片方は、やっぱりつまらなくて、もう片方は、おもしろかったです」
「そっか」
「でもわたしは、つまらない方が好きです。おもしろい方は、ちょっと、よくわかりませんでした」
「……うん」
621:
「わたしはずっと暗いトンネルの中を歩いていたような気がするんです。すごく孤独に。無自覚に。
 でも、せんぱいの文章は、わたしに自分の居る場所がどこなのか、教えてくれた気がするんです。
 何をすればいいのか。だからわたしは、せんぱいの書く話が気になって仕方なかったんです」
「きみにひどいことを言った気がする」
 彼女は首を横に振った。風が吹いて、彼女の髪が揺れた。
「わたしも、ひどいことを言いましたから」
 ごめんなさい、と彼女が先に言うので、悪かった、と俺は追いかけるみたいに謝った。
「俺もきみの書く話を読んだよ」
「……どうでしたか?」
「俺のよりずっとよく出来ていた」
「……そんなこと」
「よく出来ていたんだ」
「……ありがとうございます」
「こちらこそありがとう」
 彼女は照れくさそうに笑った。
「出口があるといいな」と俺は言った。
 彼女は何も言わずに頷く。そして俺は屋上を後にした。
 扉を閉めるとき、彼女の姿を見たけれど、動き出す様子はなかった。ただじっとそこに留まっていた。
622:

 
 文化祭は盛況で終わった。部誌は量の割には早めに全て捌けた。
 余計に作らなかったのだから当たり前かもしれない。
 
 文化祭にやってきた従妹は日帰りで帰って行った。
 彼女は何かを言いたげにしていたけれど、何も言わなかった。
 理由は分からないけれど、その日は妹もなぜか俺から離れようとしなかった。
 夕食をとるといつもは勝手に過ごしているのに、その日は俺の部屋に来てベッドの上で黙って漫画を読んでいた。
 文化祭の翌週には新部長を決めるミーティングがあって、これはあっさりとシィタ派に決まった。適任だろう。
 
 部長は最後までほがらかな笑いを崩さなかった。翌日から部室に彼女の姿はなくなった。
 放課後の屋上に、枝野は二度と現れなかった。
 それでも、学校でときどき顔を合わせたときには、言葉を交わすようになった。
 良いことなのか悪いことなのかは分からない。
623:
 いろんなことが、良い方向に回り始めていた。
 
 バイオリズムのようなものなのだろう。良い時もあれば悪い時もある。
 低調のときもあれば、冗談みたいに好調のときもある。
 でも同じところにはとどまらない。
 思い返してみれば、夏休みが終わってから文化祭までの一ヵ月ほどの間、俺の生活は暗いトンネルを歩くように陰鬱としていた。
 そしてそれは別段不思議なことでもなく、かといって特別なことでもない。
 俺という人間の内側にもともと含まれていたものが、何かの拍子にポンと顔を出したに過ぎない。
 そして、終わりがないかのように思えたトンネルもやがては途切れ、俺は明るい場所へと躍り出た。
 問題は、トンネルを抜けた先に何があるのかということだ。
624:

 文化祭が終わり、衣替えがあって、俺たちは冬服を着て学校に登校するようになった。
 文芸部は部長がいなくなったことでバランスが崩れていた。
 今までムードメーカーだった存在が抜けると、文芸部の部室はいつも静かになってしまった。
 
 そこに枝野がなぜか頻繁に顔を出すようになって、それでようやくバランスが取れている。
 かといって、もともと何かをしていた部でもないし、静かだからといって困るものでもないのだが。
 文化祭の片付けが終わってしまうと校内は以前よりもずっと静かになったように感じられた。
 うるさい場所から静かな場所に移動したときみたいに。
 その変化を嫌ったのがビィ派だった。元来お祭りごとが好きなビィ派は、静寂を嫌った。
 そして、こんなことを言い始めた。
「文化祭も終わったことだし、今度の休み、誰かんちで泊まりで遊ばない?」
 それはなかなかに魅力的な案だった。このところ三人で集まって遊ぶことはほとんどなかった。
 何よりみんな、文化祭が終わってそこそこ寂しがっていた。 
 だから、俺もシィタ派も、彼の案にすぐに乗った。
625:
 コンビニで菓子類とジュースを買い溜めて、俺の家に集まった。
 別に集まって何をする予定があったわけでもない。
 
 唯一の彼女持ちであるシィタ派をからかったあと、適当に古いゲームでもして遊ぶ。
 せいぜいそれくらいだ。
「なんかさ、夏休みが終わる頃にも、こんなことしたよな」
 俺の言葉に、ビィ派は「そうだっけ?」と首を傾げる。
「それにしても、変わり映えしないよな」
 ビィ派の言葉が妙に感傷的だったので、俺は少し驚いた。
「ときどき不安になるんだよな。自分なりに頑張ってるつもりだけどさ。
 ほんとうはずっと同じところを堂々巡りしてるだけで、全然変わってないんじゃないかって。
 必死にトンネルの中を歩いてきたつもりだけど、トンネルを抜けた先にも、また新しいトンネルがあるだけじゃないかって」
626:
 俺はその言葉にうまく答えられなかった。
 
 でも、シィタ派は違った。
「そんなことないだろ」
「……そうかな」
「まあ、気持ちは分かるけどね。ずっと同じようなことを繰り返しているような気分になるのも分かる。
 実際、俺たちの日常なんて、大半が似通ってるしね。でも、同じような日はあっても、同じ日はないよ。
 春が来て、夏が来て、秋が来て、冬が来て、その次にまた春が来るけど、その春は前の春とは違う。
 どれだけ似ているように見えても、俺たちはやっぱり進んでいるんだよ。
 そして過ぎた春は二度と来ない。どれだけ似ているように見えても、やっぱり別物なんだ」
 俺もビィ派も、何も言わなかった。するとシィタ派は勝手に話を続ける。
「だから、この当たり前に見える一日一日を、大事に過ごさなきゃいけないわけ」
 彼は得意げに、なんだか良い感じに話をまとめた。そうされると、俺たちは何も言い返せなくなってしまう。
 いつものように。だから俺たちは、なんだかわけもわからずに顔を見合わせて笑った。
 
 それから、さて、と俺は手を打ち鳴らして、二人の顔を見て、言った。
「次は何をして遊ぶ?」
627:
おしまい
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